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『杉原一司歌集』

杉原一司, 杉原令子著 2020.3 杉原一司歌集刊行会刊行 
119p,19cm 並製  ISBN:9784908256301


 同人誌『菱』の寄贈を忝くしてをります手皮小四郎様の御縁をもって、鳥取大学の岡村知子先生より『杉原一司歌集』ならびに全集に向けての準備稿となる抜刷を頂きました。

かつて我身をゆさぶりし激情のかへりくる日は虹かかりをれ

うろこ雲のびゆく夏の陽ざかりに花はま白く咲くをおそれず

薄いコップの縁に残せる指紋など忘れて夏の陽ざかりを野を

時計など持たないわれは辞典とか地図とかを読み楽しく過す

倒れたるときに掴めるすなくづに何の因縁(えにし)をもとめむとする

霧のふる夜燈が淡く近寄りて照らし出さむ幸ひもなく

秋逝くとかわきたる掌をすりあはせ失ひしものの数を思へり

沈黙のたのしさを知りそばに居るひとよあなたをしんじつ愛す

鉄材を運べるらしき響音になぶられてゐし昼のまどろみ

淪落のはてに思へばはれやかにむかしは旗をたてて進みき

往く雲のとだへしときにかへりたる愁ひは次の雲にそがれき

天金のちりをつぶさにぬぐひゐてふとみだらなる回想湧きぬ

 短歌の歴史にも鑑賞にも疎い人間ですが、青春の徒労・喪失感・カタルシスを刻んだ澄明な抒情と、一転して塚本邦雄と知り合った後の「抒情性を裏切る生命体や無機物をこれでもかと仮構する」モダニズムのパッションとの懸隔にいたく驚かされました。
 そして岡村先生による巻末解説を興味深く拝読。歌人晩年の実験的な方法論についての説明は私などには難しいものでしたが、当時の歌壇状況は初心者にも得心のゆくものでした。

 先日、俵万智の『サラダ記念日』の「サラダ」が実は「唐揚げ」だったことが作者から暴露されて話題になりましたが、戦前アララギ派の写生至上主義において、事象が実在しない作歌は事実無根と全否定されかねかった由。
 杉原はもちろんこれに異を唱へ、そのやうな写生至上主義の果てに将来したものこそ、建前を絶対視した戦争中の軍部発表や現神人論に対する国民の面従腹背的な嘘の横行と同罪の関係ではなかったかと批判します。

 そして一方、戦後文芸界を賑はせた「第二芸術論」に対しては、旧態然と批判され定型を、厳しい覚悟のもとに擁護するといふスタンスで臨みます。
 杉原の持論にして自誡とは、定型俳句の創作者に「自ら表現の自由を抑制することで、言語化し得ないものへの断念に裏打ちされた内容と技術を追求する意志」を求めるものでした。それを「積極的な謙虚さ」と表したあたり、なにかしら伊東静雄や田中克己ら、戦前『コギト』的なロマンチシズムが想起されてなりませんでした。

 また杉原が説いた戦後(文芸)世界の見取り図も興味深いものでした。つまり「肉体文学(セックスへのセンチメンタリズム)」と「ダンス・野球・プラグマチズム(科学に対するセンチメンタリズム)・ヴギウギに代表される世界」に対して、「人民短歌(社会に関するセンチメンタリズム)」と「モスクワ直通の世界」があって、お互ひ鬩ぎ合ってゐるのだといふのです。
 そしてこれら二者とは次元を異にする「第三の世界」が語られるのですが、この「第三の世界」については、彼の師であった前川佐美雄の盟友保田與重郎が祈念した世界、すなはち「アメリカニズムと共産主義とを一挙に倒す」ために、米作りを基とする日本独自の国柄の意義を標榜した「絶対平和論」の世界を私は想起しました。杉原と前川佐美雄との関係、そして三者ともに奈良盆地に住んでゐたことからして、何かしら保田與重郎に対しても言及がなかったか訊ねてみたい。

 ただしかし、日本は保田與重郎が祈念した世界とは真逆の方向へ舵をきって復興してゆき、またその反動として社会運動も激しく起こってゐた訳で、 杉原は地図上のどこにも存在しないこの「第三の世界」を主題として歌ふことの非も悟った上で、その先を探るべく「抒情性を裏切る生命体や無機物をこれでもかと仮構することで」ヒューマニズムを触知せんとしたのだと岡村先生は語ります。さて斯様なモダニズムの「メトード(方法論)」の先に待ってゐたものは何であったのでしょうか。
 このあたり、シュールレアリズム音痴の私には解し難く、それが全人的な意味でのヒューマニズム探求であったとしても、美(欲望)への衝動と自制心とがあらがふ、矛盾を含んだロマンチシズムに向かふことになったやうにも思はれます。それは「病に臥した(57p)」とある彼が何故どのやうにして亡くなったか、年譜をみても釈然としないことからも予感してみたことです。 

 全集の刊行が待たれます。

【付記1】
末尾の住川英明先生による揮毫と卓見のコメントも愉しく拝見しました。「畑のべのあらはに黒き岩ひとつ巨大なるものはかくいたましき」
 とりのぞかれるべき岩がそのままなのは、おそらく地下深くから突き出た岩根であって、その見えない巨大さを黒々と想像して「いたましき」としたやうにも思ひました。

【付記2】
また『オレンヂ』には、田中克己が東京に転居後、関西の前川・保田情報をもたらしてくれるようなる宮崎智恵が早くから同人だったとあって(8p)驚いてゐます。東京では永らく西武デパートに勤めてをられたやうですが「田中克己日記」では「早川」とも「智慧」とも表記されてゐて、歌壇人脈に疎い私には正確な身上が分かりません。どなたか詳しい方に御教示を請ひたいところです。

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