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詩歌に救われた人びと

『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』

2015.11.25 風詠社刊 小山田 隆明 著

19.5cm 上製カバー 157,5p 1500円+税


 岐阜大学名誉教授の小山田隆明先生より新著 『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』の御恵送に与りました。“入門”と謳ってあるとほり、前著『詩歌療法』で詳述された理論と適用について、 本書では「読むことによって救はれる詩」と「書くことによって救はれる詩」を区別して、それぞれの事例と技法とにしぼった具体的な紹介がなされてゐます。

 前著は臨床研究者を念頭に執筆され、症例ごとの報告においても学術論文の体裁を有した専門書の一冊に仕上がってゐましたが、読み物としてはむしろ前半の導入部、 アリストテレスやユング、フロイトといった詩学的・心理学的アプローチから説き起こされた詩の原理や、現代詩の一人者である大岡信が自ら明らかにした作品の制作過程に寄り沿って試みた考察などに、 私自身の詩人的興味は注がれ、現代詩生成の内幕を垣間見た思ひをもって読んだものでした。このたびの本の中では、
「心理臨床の場だけでなく、学校教育の場でも、そして自分自身のセルフケアのためにも用いることが出来る」入門書としての性格が強く打ち出されてゐます。

 すなはち前半には、表題となった「詩歌に救われた人びと」として、
 1.独房の囚人が読んだ詩 カール・アップチャーチの事例
 2.抑うつ状態を救った詩 ジョン・スチュアート・ミルの事例
 3.会話を回復させた連詩 物言わぬベンの事例
 4.ホームレスの生活を支えた短歌 公田耕一の事例
 5.病苦を耐えさせた短歌 鶴見和子の事例

 の報告がならび、全ページの半分が費やされてゐるのですが、独房で出会った詩集をきっかけに犯罪人生から見事な脱却と転身をとげた社会活動家アップチャーチ(Carl Upchurch1950–2003)をはじめとする、 詩を読むことで、また詩を書くことで(あるひは詩で応答することにより)閉ざされた心が開かれ、「カタルシス」と「認知的変容」により前向きに人生に向かふに至ったひとびとの話が、 心理学者の視点からやさしく語られてをります。
 それぞれに興味深いエピソードですが、ひところ朝日新聞の投稿歌壇をにぎはせたホームレス歌人公田耕一の謎の消息については、時系列にならべられた投稿歌の分析が、 逆に彼のホームレスとしての実在を実証するやうな形で指摘され得る結果に注目しました。

 後半では、実際に詩をひとに処方する際の手引きが、読み・書き別に語られてゐます。「詩を読むための技法」として挙げられたのは17編の現代詩。「詩を書くための技法」では現代詩、 俳句、短歌など「詩形」ごとにその特徴と処方上の注意とが挙げられてゐます。

 とりわけ特に前著にはなかった「詩を読むための技法」のなかで紹介されてゐる詩の数々は――さうしたセルフ・ケアの視点から詩歌といふものに接することのなかった私にとって新鮮で、 ほとんど初耳に属する17編でしたが、あるひは現代詩に対する「認知的変容」を私にも、少しはもたらしたかもしれません(笑)。
 ただしせっかく挙げられた詩ですが、著作権を慮って本文に全詩が紹介されてゐないのが残念です。下記※にネット上で読めるやうリンクを掲げましたので御参照ください。 またマリー・E.フライの「千の風になって」は、作曲された歌が日本でも有名になりましたが、オリジナルの原詩から起こされた著者自身の訳があり、素晴らしいのでここに掲げさせていただきます。

「千の風になって(オリジナル版) 」
                       マリー・E.フライ(小山田隆明訳)

私のお墓の前に立たないで下さい、
そして悲しまないで下さい。
私はそこにはいません、私は死んではいません。

私は吹きわたる千の風の中にいます
私は静かに降る雪
私はやさしい雨
私は実りを迎えた麦畑

私は朝の静けさの中にいます
私は弧を描いて飛ぶ美しい鳥の
優雅な飛翔の中にいます
私は夜の星の輝き

私は咲く花の中にいます
私は静かな部屋の中にいます
私はさえずる鳥
私は愛らしいものの中にいます

私のお墓の前に立たないで下さい、
そして泣かないで下さい。
私はそこにいません、私は死んではいません。

 さて「詩を書くための技法」の方ですが、現在小学校の教育現場では「俳句教育」の指導が行はれてゐるとか。これはその手引きとして、 さらに連句や冠句といった(付け合ひ)による他者との対話・グループ交流へと応用をひろげたり、または短歌、五行歌からさらに現代詩へと自己表現・自己探求の筋道へと導いてあげる際の「指針」として、 活用することもできさうにも思はれたことでした。
 ここに「指針」といったのは、この「詩歌療法」、場合によっては相応しくないタイプの詩や、被処方者との組み合はせもあるとのことで、教育の場はともかく文学の場では、 むしろさうした毒――破滅に自ら堕ちてゆく詩人に自らを重ね、帰ってこれないカタルシスと心中しかねぬ際どいところに魅力といふか、業といふか、 究極の「認知的変容」があったりするので大変です。
 けだし詩人でもゲーテは「ウェルテル」において、メーリケは「画家ノルテン」において、森鴎外は「舞姫」において悲恋の絶望に主人公を蹴落とし、 現実の自分はのうのうと生き抜くことができたともいはれてゐる訳で、宮澤賢治や新美南吉の童話体験を挙げるまでもなく、「詩歌療法」と同様に、 読み・書きについて「散文療法」といふセルフ・ケアの可能性もあるかもしれぬと思った次第です。

 ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。(2015.12.07)

目次

はじめに

第一章 詩歌に救われた人びとの事例

 1.独房の囚人が読んだ詩 カール・アップチャーチの事例
 2.抑うつ状態を救った詩 ジョン・スチュアート・ミルの事例
 3.会話を回復させた連詩 物言わぬベンの事例
 4.ホームレスの生活を支えた短歌 公田耕一の事例
 5.病苦を耐えさせた短歌 鶴見和子の事例

第二章 詩歌療法の技法

 1.詩歌療法とは何か

 2.詩を読むための技法
  (1)詩を読むとは
  (2)「読む」詩の特徴
  (3)処方される詩の例 ※参照
  (4)詩を読む技法

 3.詩を書くための技法
  (1)詩(現代詩)
  (2)五行歌
  (3)連詩
  (4)俳句
  (5)冠句
  (6)連句
  (7)短歌

あとがき
引用文献

※参照  詩を読むための技法
  (3)処方される詩の例

@長田弘「立ちどまる」

Aホイットマン「私はルイジアナで一本の槲の木の育つのを見た」(有島武郎訳)

私はルイジアナで一本の槲(かしわ)の木の育つのを見た、
全く孤独にもの木は立って、枝から苔がさがってゐた、
一人の伴侶もなくそこに桝は育って、言葉の如く、歓ばしげな
 暗緑の葉を吐いてゐた、
而してそれは節くれ立って、誇りがで、頼丈で、私自身を見る思ひをさせた、
けれども槲はそこに孤独に立って、近くには伴侶もなく、愛人もなく、
 言葉の如く、歓ばしげな葉を吐くことが出来るのかと私は不思議だ――
 何故なら私にはそれが出来ないと知ってゐるから、
而して私は幾枚かの葉のついた一枝を折り敢ってそれに小さな苔をからみつけ、
 持って帰って――部塵の中の眼のとどく所へ置いて見た、
それは私自身の愛する友等の思ひ出のためだとおもふ必要はなかつた、
(何故なら私は近頃その友等の上の外は考えてゐないと信ずるから)
それでもその枝は私に不思議な思ひ出として残ってゐる、――それは私に
 男々しい愛を考へさせるから、
而かもあの槲の木はルイジアナの渺茫とした平地の上に、孤独で、輝き、
 近くには伴僧も愛人もなくて、生ある限り、言葉の如く、
 歓ばしげな葉を吐くけれども、
 私には何としてもその真似は出來ない。

B与謝野晶子「森の大樹」
C無名兵士の詩「悩める人々への銘」
D工藤直子「こころ」
E作者不詳の詩「手紙 親愛なる子どもたちへ」
Fサムエル・ウルマン「青春」
G茨木のり子「倚りかからず」
Hエドマンド・ウォラー「老齢」
Iマリー・E.フライ「千の風になって」
J長田弘「花を持って、会いに行く」
K永瀬清子「悲しめる友よ」

L草壁焔太「こんなに さびしいのは」
こんなに
寂しいのは
私が私だからだ
これは
壊せない

M工藤直子「花」
わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない

ならば ここに
花を植えよう

N永瀬清子「挫折する」
O工藤直子「あいたくて」
P吉野弘「祝婚花」


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