2001.7.16 up

雑誌「絨毯」のこと

-京都の平野幸雄様より「絨毯」47号をお送り頂きました。平野さんとのお付き合ひは、田中克己先生が亡くなった折に追悼記を書かせて頂いた機縁よりですから、 かれこれもう8年にもなるでせうか。「絨毯」といふのは、毎号変はる淡い色合ひのレザックの表紙にくるまれた、定型封筒に収まるやうなほんの10p〜20pの小冊子なのですが、 「継続は力なり」といふ金言をこれほどつつましくも確かに示してゐる個人誌といふのも一寸みかけることはないことと思ひます。
-ことにもその恵贈を辱くするやうになってからの間に、四季・コギト・浪曼派系の最後の生き残りの詩人たちが次々と長逝するに至って、 その度にささやかながらも文芸誌では組まれない「追悼特集号」を唯一この小雑誌のみが企画し、御自身の宿痾とポケットマネーと折り合ひをつけながら独力これを敢行してこられのでした。 私は現在は独り住まひらしい平野さんの、御家族のことはもとより御自身の来歴については殆どお聞きしたことはありません。中国より復員されて後、 横浜ついで京都において映画撮影所関係のお仕事に就きながら、保田與重郎をはじめ日本浪曼派系統の作家に私淑兄事し、変はったところでは乾直恵などとも交流があったとか、 僅かなことについて存じ上げるばかりです。況や所謂「大東亜戦争」についてそれを実体験として引きずり、現代の社会に対して憂ひを示しつづける平野さんの「詩人鎮魂の志」について、 多くを語る資格のないものですけれども、かうしていつのまにやら20冊近く机上に集められた一冊一冊のまるで薄い経木のやうな冊子を眺めてをりますと、 その足取り歩みは孜々としてさながら浪曼派が潰えゆくあとに燈しつづけた送り火の点綴の如くにも思はれることです。請はれるままに自分も拙い雑文を草させて頂いたりしてゐた訳ですが、 思へば自らの詩や文章を書く動機付けも、田中先生亡き後は多くはこの「絨毯」の存在、さうして平野さんの激励によるものであったことに今更ながら思ひ至るのです。 このHPに上がってゐる文章のいくつかも「絨毯」誌上に載せて頂いたものが元になってゐます。小部数(100部!)出版の非売品ですので多くの人の目には触れないものではありませうが、 かういふ篤志家による、ある意味非常に贅澤な文学雑誌が今も戦前の抒情の遺鉢を継いで現存してゐるといふこと、 そしてかういふ文学を愛する在野の人々(平野さんに「在野」の言葉は何より相応しいと思ひます)こそが文学を本当のところで支へてゐるのだといふことを改めて思はずにはゐられません。

以下に自分の手持ちのバックナンバーについて目次を掲げます。

31號 小高根二郎追悼號 - 平成2年11月 13p
- まつ日ははるかに・蜜柑な恋いそ - -
- 略年譜 - 平野幸雄
- 小高根君のハガキ作品 回想 中河與一
- 一つのめぐり逢ひ 回想 森 亮
- 「果樹園」発刊の頃 回想 福地邦樹
- 小高根二郎の御靈に 長歌 平野幸雄
32號 - - 平成3年10月 9p
- わがシネマディクト 8 映画評 平野幸雄
- 回顧 短歌 奥村健治
- 戰後短歌詩鈔 22 批評 平野幸雄
- 黄金週間 短歌 平野幸雄
33號 淺野晃大人三回忌追悼號 - 平成4年1月 21p
- あざみ(歌集「曠原」より) 短歌 淺野晃
- 略年譜 - 平野幸雄
- 淺野も私も 中谷孝雄
- 「青墓の処女」を読む 批評 高橋渡
- 短歌 久禮田房子
- 淺野晃先生と「大菩薩峠」 回想 並木陸郎
- 清明の気 批評 近藤晴彦
- 淺野晃大人を偲びかつ時局を憂ふ 短歌 角山素天
- 淺野晃先生 回想 平光善久
- 噫-淺野晃先生 長歌 平野幸雄
34號 田中克己追悼號 - 平成4年12月 21p
- 古典・偶得・履・哀歌 田中克己
- 略年譜 - 平野幸雄
- 第一人者 回想 中河與一
- 詩人としての田中氏 批評 森 亮
- 癇性の人 批評 高橋渡
- 抑制の詩情 批評 近藤晴彦
- 田中克己を偲ぶ 回想 杉山平一
- 田中克己を悼む 回想 中嶋康博
- 第5次「四季」のこと 回想 福地邦樹
- 田中克己の御靈に 短歌 平野幸雄
35號 - - 平成5年10月 9p
- わがシネマディクト 9 映画評 平野幸雄
- あばらやのチャイコフスキー 大木実
- 戰後短歌詩鈔 23 批評 平野幸雄
- 麥と兵隊 短歌 平野幸雄
- 田中克己先生との出会ひのこと 回想 中嶋康博
36號 - - 平成6年3月 9p
- わがシネマディクト 10 映画評 平野幸雄
- 冬の朝の薔薇 新藤千恵
- 戰後短歌詩鈔 24 批評 平野幸雄
- 胃の潰瘍 短歌 平野幸雄
- 詩人田中克己その2 思ひ出すことなど 回想 中嶋康博
37號 - - 平成6年7月 13p
- わがシネマディクト 11 映画評 平野幸雄
- 浅い春 藤澤滋子
- 物故四詩歌人のこと (加藤知多雄・葛原繁・天野忠・安西均) 回想 平野幸雄
- 叉銃 短歌 平野幸雄
- 詩歌集「神聖な約束」田中克己の晩年 批評 高橋渡
- 詩人田中克己その3 思ひ出すことなど 2 回想 中嶋康博
38號 - - 平成6年12月 9p
- わがシネマディクト 12 映画評 平野幸雄
- ラマレラの男 山本祐子
- 「提灯行列せし」といふ塚本邦雄氏に 批評 平野幸雄
- 善財童子 短歌 平野幸雄
- 詩人田中克己その4 その詩について 回想 中嶋康博
39號 - - 平成7年5月 13p
- わがシネマディクト 13 映画評 平野幸雄
- 秋草・光の詩人・歳時記より 中嶋康博
- 「太平洋戰爭」と言はれる塚本邦雄氏に 批評 平野幸雄
- 七草 短歌 平野幸雄
- その詩について 2 回想 中嶋康博
40號 中河與一大人一年忌追悼號 - 平成7年12月 24p
- 『秘帖』そのほか 短歌 中河與一
- 略年譜 - 平野幸雄
- 叱られたこと 回想 糸屋鎌吉
- 悼 中河與一先生 短歌 山川京子
- 回想片々 回想 小島信一
- 「夕顔」作者を悼む 回想 久禮田房子
- 中河與一 その評価を巡って 批評 高橋渡
- 中河與一 その無冠の死 批評 佐藤悦郎
- 「天の夕顔」再読 批評 桶谷秀昭
- 短歌 池田まり子
- 中河與一大人に 短歌 平野幸雄
41號 「田中克己詩集」發刊記念號 - 平成9年7月 29p
- 虹霓・故人のこと・中島栄次郎 田中克己
- 田中克己詩篇初出総覧 - 中嶋康博
- 春夫・與重郎・克己 批評 小島信一
- 中国への郷愁 批評 高橋渡
- な忘れそ、骨がらみの詩 回想 新藤千恵
- 父 田中克己を語る 回想 田中 史
- 貴重な一冊 回想 齋藤-史
- 田中克己さんのこと 回想 福地邦樹
- 田中克己詩集を得て 回想 杉山平一
- 「田中克己詩集」と親しむ 回想 伊藤桂一
- 刊行始末記 回想 中嶋康博
- 「田中克己詩集」私感 批評 平野幸雄
42號 追悼福地邦樹氏 - 平成10年8月 13p
- わがシネマディクト 14 映画評 平野幸雄
- そうやすやすと・ハンカチ・キリストの商人・ブリタニカ 福地邦樹
- 略年譜 - 平野幸雄
- 福地邦樹氏のこと 回想 平野幸雄
- 盟三五大切 短歌 平野幸雄
- 思い出すことなど 批評 高橋渡
- 杉山平一先生のこと 批評 中嶋康博
- 「田中克己詩集」私感 2 批評 平野幸雄
43號 - - 平成11年4月 13p
- わがシネマディクト 15 映画評 平野幸雄
- 歴落 短歌 久禮田房子
- 四季派の外縁を散歩する 批評 中嶋康博
- 寒椿 短歌 平野幸雄
- 歌集「二天」を読む 批評 高橋渡
44號 - - 平成11年8月 13p
- わがシネマディクト 16 映画評 平野幸雄
- 山本祐子
- 「田中克己詩集」私感 3 批評 平野幸雄
- 風が漉く 短歌 岡田洋子
- 丹頂鶴 短歌 平野幸雄
- 四季派の外縁を散歩する 2 批評 中嶋康博
45號 - - 平成11年11月 9p
- わがシネマディクト 17 映画評 平野幸雄
- 八月雑感 短歌 持田鋼一郎
- 引野収・濱田陽子全歌集 私鈔 批評 平野幸雄
- 澤蘭子 短歌 平野幸雄
46號 安西均七年忌追悼號 - 平成12年2月 17p
- Sorry wrong number・北山・修辞の秋・東京湾の小さな話 安西均
- 略年譜 - 平野幸雄
- 美男・安西均 批評 小島信一
- 「山河」刊行の頃 回想 伊藤桂一
- 安西均の世界 批評 近藤晴彦
- 安西均さん 回想 杉山平一
- 安西均七年忌に 短歌 平野幸雄
47號 - - 平成12年8月 12p
- わがシネマディクト 18 映画評 平野幸雄
- 私の戰旅歌 短歌 伊藤桂一
- 保田典子歌集「童子」を読みて 批評 平野幸雄
- 夾竹桃 短歌 平野幸雄
- 歌語の生命力 保田典子歌集「童子」を読んで 批評 持田鋼一郎
48號 高橋渡一年忌追悼號 - 平成12年11月 20p
- 雉・日録抄・見据える人・山村遊行 高橋渡
- 略年譜 - 平野幸雄
- 高橋さんとの中国旅行 回想 伊藤桂一
- 垂直の時間 高橋渡の詩 批評 近藤晴彦
- 四季コギトの第二世代 高橋渡さんのこと 批評 中嶋康博
- 「犬の声」を読む 書評 浅野晃
- 知己を待つ 回想 比留間一成
- 高橋渡の御霊に 短歌 平野幸雄
49號 - - 平成13年3月 13p
- わがシネマディクト 19 映画評 平野幸雄
- 「山本友一全歌集」を得て 批評 平野幸雄
- 河口にて・高原台上にて・夜明け前の山道・ほか 中嶋康博
- 金甌無缺 短歌 平野幸雄
- 短歌の中の戦前・戦中・戦後 批評 持田鋼一郎
50號 乾直恵生誕百年追慕號 - 平成13年6月-20p
- 村・検温器・日記・極光・たんぽぽ 乾直恵
- 略年譜 - 平野幸雄
- 『詩人乾直恵』について 書き足りなかったこと 批評 上田周二
- 神の影 乾直恵の世界 批評 近藤晴彦
- 山霧日記 散文詩 中嶋康博
- 乾直恵さんを偲びて 短歌 平野幸雄
51號 - - 平成13年11月 13p
- わがシネマ漫歩 20 映画評 平野幸雄
- 夕月抄 持田鋼一郎
- 詩は「志」とこそ 『山本友一全歌集』再考 批評 平野幸雄
- くはだて三つ 短歌 平野幸雄
- 「コギト」と立原道造 批評 近藤晴彦
52號 『岡安恒武全集』発刊記念・追悼号 - 平成14年2月 24p
- 影・男・分列分進・白い風 岡安恒武
- 略年譜 - 平野幸雄
- 追悼・岡安恒武氏 回想 新藤千恵
- 人間の悲惨の破片 『岡安恒武全集』を読んで 批評 安水稔和
- 岡安恒武の詩と真実(追悼に代えて) 批評 朝倉勇
- 岡安恒武における詩の軌跡 批評 近藤晴彦
- 得がたき『岡安恒武全集』 批評 平野幸雄

「絨毯」発行所 612-8436 京都市伏見区深草新門丈町13-2 寿荘1


2005.8.14 up

追悼

京都の平野幸雄氏がなくなられた。日にちについてさへ今つまびらかにしない。音信が途絶して二年近くなるが、その後中村一仁様より消息を仄聞して秘かに安堵してゐたことでもあった。 追悼の意を表するとともに、茲にあらためて思ひ出されることを書いてとりとめもなく偲ぶこととしたい。
  13年前の平成4年、東京から帰郷して間もない頃にさかのぼる。「自分の雑誌でぜひ田中克己先生の追悼号を出したい、 ついては師の晩年に一番近くあった者としてあなたにも何か回想を書いてほしい。自由に、何枚でも構はないから。」との趣旨で、ある日突然、未知のひとから手紙が届いた。 電話だったかもしれない。その際自己紹介代はりに送られてきた雑誌(?)は、定型封筒に収まるやうレイアウトされた片々たる縦長のパンフレットで、であるにも拘らず、 小高根二郎、浅野晃とすでに刊行された追悼号への寄稿者が、中河與一、森亮、中谷孝雄といった錚々たる人たちであったこと。 またたった100部余りを年に1,2冊のペースですでに30号余りも出してゐるなんて、なんと息の細い長い雑誌なんだらう、と、ライフワークであるその風変はりなリトルマガジンの存在に驚いた。 そして当時「田中克己追悼」と銘打って全特集を組む気配のなかった巷の詩誌に慊らぬ思ひを抱いてゐた私は、迎へて下さるところがあるなら一度思ひの丈をすべて吐き出してみよう、 といふ気になり喜んで書かせて頂いたのだった。この寄稿は結局連載となって四回続き、以後文のみならず詩の依頼も受け、おだてられた私は、浪曼派作家および戦中派世代の不遇を切々と喞つ手紙とともに、 この奇特な非売雑誌「絨毯:じゅうたん」の寄贈に与る「若い客人」待遇となったのである(序でながらいふと、印刷所だった文童社も、かつて詩誌「果樹園」を印刷してゐた浪曼派と縁深い印刷社であった)。
  それから平野さんは、私が担当することとなった『田中克己詩集』編輯の際に、短歌をどうして収めないのか、自費で印刷するから既刊分だけでも「栞」として綴込ませて頂けないか、 と態々申し出され、詩以外を他日に期すつもりだった私の方針をゆさぶった。この御厚意に甘えることで結局、全歌集について中途半端に已んでしまった責任は、 お世話になった刊行元潮流社の八木社長が不快の意をもらされるまでもなく、全て編者の私に帰するものであって、亡き先生、御遺族のみならず平野さんにもお詫びしなくてはならぬ不明についてあらためて記しておきたい。
  しかしながらこのリトルマガジンに寄せた文章が、その後拙サイトを立ち上げる際にはコンテンツの核となったのである。二冊の詩集を出しても反応は続かず、 同人誌の参加にも意欲がもてなくなってゐた私に対して、さらなる作品を求めて下さったのも実に平野さんだけであり、寄稿詩に恥じぬものを選り抜き掲載して頂くことでピリオドを打ち、 私は自らを孤独な詩作から解放させる方途としてその後インターネットにひらかれていったのである。パソコンとは無縁の方だったが、 その際にも平野さんは「ホームページを宣伝しませう」とて「絨毯」の裏表紙に大きく紹介文を載せて下さったのだった…。
  平野さんとの通行が途絶えたのは52号を出された平成14年の春以降のことである。微々たる小額の借用と律儀な返済を何度も繰り返されるので、私がこれで終りにしませう、 今までお世話になってゐるのですから返却はお気遣ひなく、との返書を認めたからであった。古書価の暴落がはじまりいろいろな全集が安くなって古書店の店頭に出てゐると、 矢も盾もたまらなく買ってしまはれるらしかった。さりとて物に執着される風はなく、「この新刊まだ御存知ないでせう」と、浪曼派関連の恵贈本を突然送って下さったりする。 だから無心のことも、或は手紙を寄せる口実だったのかもしれない。その以前にも一度、半年ほどのブランクの後に電話で、しばらく入院してゐたことや、 「実はガンなんですけど歳だから薬で抑へてをれば平気なんです」と明るく笑って話される平野さんだったから、中村一仁さんから、その後も「絨毯」が刊行されてゐる事とともに、 平野さんが相変らず元気である様子を知らされる機会を持つやうになると、私は平野さんとの疎隔にはじめて気付くとともに、しかしむしろこれを汐に、後は新しい若い友に頼むこととして、 私はホームページで広がり始めた新しい繋がりのなかへ進んで、深刻に気遣ふこともなくなってしまった。平野さんの好きな話題について書けることが少なくなったので、 自分は用済みとなりそれでよかったのだと一人合点したのである。
  二度も直接お会ひして話し込む機会があっにも拘らず(一度は京都駅で、一度は岐阜まで来られ、山寺の庵にご案内したかと思ふ)、 家庭の事情に立ち入ることをしなかったから、御家族のことは存じ上げない。一兵卒として帰還された後、戦後は京都撮影所関係のお仕事に就かれ、 今は年金暮らしの気楽な独居であることをお聞きしたが、その遺志と蔵書の行方を知るすべは無く、 長らく「編輯中」と予告されてゐた御自身の歌集『マレオテイスの野』もどうなってしまったかわからない。先達て古書展で関西の古本屋さんから大量の詩集歌集句集が出て、 なかに私の詩集を発見したと報じて下さる方があり、もしや平野さんの蔵書では、とも案じられたが、いったい何を案じたものか理由も資格もわからぬままに、 今は御冥福をお祈りするばかりとなった。明日は毎年のやうに手紙で平野さんが不満をもらされた「大東亜戦争」の「敗戦記念日」である。


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