(2016.01.29up / 2016.01.31update) Back
「モダン小説集」とありますが、文学ジャンルとして行はれてゐた区分に従へば、これらは当時「コント」と呼ばれてゐたやうです。 もちろん55号やドリフとは関係ありません(笑)。軽快さを信条とする、ウィットを利かせたハイブロウな散文。 本冊には(凡例に区分けの意図は書かれてゐませんが)@ABCDの5区分に分けられて収められてゐます。
発表誌の性格にもよりますが、概して明確なオチがある短篇の方が読みやすく、比較的長い作品は実験的意図も手伝って文意・文脈が追ひ辛かったりします。 といふか一々ブランド固有名詞や外国語に拘泥するより、戦前エスプリの香気を感知することを愉しむのが正しい読み方だったりするかもしれません。なるほど、 センテンスをコラージュすれば、そのまま詩人が得意としたモダニズム詩の一節に昇華しさうな、お洒落で素敵な素材集――。 試みに何の気なしに広げたページから、適当に文章を拾ってつなげてみましょうか。
「葉桜に降る雨の美しさは」「ひどく彼女を狼狽させた」
「青年の挨拶は」「肉親から来る愛想に似てゐるのでした」 (108ページより)
おお。なんだか私好みの詩ができました(笑)。
実際、架空の付け合ひが行はれてゐる作品もあったりします。
コントの先駆者、稲垣足穂の科学的ディレッタンティズムに比すれば、同じモダンでも北園克衛の感性は随分とお洒落で化粧品の香りがし、 主人公の青年もおしなべてアンニュイ、時を同じくしてモダニズムを提唱した春山行夫の詩に登場する思春期の少年「恒君:つねし君」が、不良に成長しちゃった感じ。 しかし詩作に於ける親和性が一番高いのは、やはりマダムブランシュの盟友、岩本修蔵でありましょうか。
実験に偏した本業の詩作において、極度の抑制的・捨象的態度で臨んだ結果、引き換へに溜まるべくして溜まった残りの副産物を、 特売セールスにして吐き出した感もあります。当時の北園克衛の代表詩集『火の菫』を装釘した東郷青児が、やはり戦前に連載してゐた「読売サンデー漫画」、 あれと位相を同じくするものといってもいいでしょう。
本書のタイトル「白昼のスカイスクレエパア(摩天楼)」は、本書の67ページに出て来る言葉からとられて ゐるやうですが、昭和初期の都会のモダニズムの象徴として採用されたと思しく、たしかに東郷青児が描くさきのイラストにはピッタリな意匠ですが、 今回の作品集全体から感じられる抒情的な「白のイメージ」には、むしろほかの幾つかの作品に登場する、軽井沢高原や片瀬海岸といった避暑地の自然とからむシンボルを使用した方が、 より似つかはしい感じが私にはしました。
さて戦争の時代に入るにあたり、詩人はこれら有閑ワールドを封印して、枯淡な「郷土詩」の世界へと隠遁します。作品が途絶する昭和14年にもっとも旺盛な発表がみられること、 ここには何らかの事件が存在しなければならないわけですが、私は北園克衛の詩業において、村野四郎が「スキャンダル」と呼んだ、四季派的な郷土詩を愛着する変り者ですから、 その転身にあまり否定的な意味づけをするつもりもありません。
ただ、食べるために書く必要のなかったディレッタントの彼をして「黒歴史」と呼ばしむる作品があるとすれば、それは一連の「郷土詩」より、 むしろ内容的にはこれら作品群の一部にみられる平俗的な饒舌性を指すのではないか、それだからこそ彼の愛読者には楽屋内を覗き得たやうな「ニヤニヤ感」を味はへる、 堪へられぬテキストとなったのではあるまいか、と、そのやうにも思ったことでした。
本書に対する相応しい評価は、モダニズム詩の愛読者に譲ります。プレス・ビブリオマーヌのコレクションシリーズのやうに、一篇一篇をバラバラ単独に印刷しても、 面白い企画になったかも知れません。まづは本冊に余計な解説を付することを嫌った編者が語る「刊行逸話」を俟つところではないでしょうか。