藤澤清造貧困小説集
勝井隆則編 2001 亀鳴屋(金沢)版 500部限定 \2.800
金沢勝井隆則さんの自費出版第二弾。亀鳴屋より郵送されてきた「藤澤清造貧困小説集」(2001年4月刊行。市販本無し限定500部)である。 PRにあるやうに、まことに暗い、金策に行き詰った境遇ばかりを綴った短編私小説をあつめたもので、といふかさういふものしか書いてゐなかった作家らしく、 あっけらかんとした人物が一人も出てこないのに変に感心したりしたのである。言ひ訳と怒りと絶望感。 自業自得の溜息でもって埋め尽くされたやうな文章が本文の2/3を占め、のこりの1/3もの分量を使ひ、当時の月旦などをめぐって作者のひととなり、 そしてその異様な「死」が詳細に語られてゐる。単なる短編小説集としてではなく「貧困小説集」と銘打ったところ、つまり表紙・扉につげ義春の挿画を配し、 巻末に「清造がいた場所」と題して風景写真を付することによって、(前にも書いたが)まるで「ガロ」の文藝特別号(そんなものあるのかな)のやうな読後感を釀し出してゐるところが、 この本の眼目であり、事実おもしろかった(序でにいふと装釘の染布はつげ作品の女性が身にする着物を思はせ、写真は荒木惟経のガロでの連載を髣髴させた)。 今回かうして作品ONLYの真価を問ふといふより、一種イメージ作りのために「いぢくられ」もしながら、この藤澤清造といふ作家、先輩にも後進にも薄く、 孤り都会の寒空の下に野垂れ死んだままぽつねんと文学史上に忘れ去られようとしてゐるのを、かうして郷土の篤志家の手によって今日なほ愛惜に足る伝説として回顧されるといふのは、 やはり地方作家、「故郷」を持った者の幸せには違ひあるまいと思はれたのだった。ぼくは小説をあまり読まないので作品を委しく論ずることはできないが、 随所にみられる譬喩のレトリックは実感がこもってゐて大変面白いと思って読んだ。試みに引けば、借金を断られた相手を前にして「熟んだ柿がつぶれたともいはずに、ただ黙ってゐた」と絶望感に打ちひしがれ、 そのまま挨拶もせずに表通りに飛び出して「そこへ出てきたのは自分なのか、それともそれは他人なのか(略)知らぬ他国の通りででもあるやうに思はれてならなかった。」と現実遊離の状態に襲はれるなど、 体験者でなくては書けない「詩句」である。友人のあてこすりについて「下等なビーフの繊維のやうになってこころの奥歯に挾まった。だから彼は、小楊子のやうに、 調子の先もとがった詞附でもって言った。」などと表現したのも面白い。さうしてどん詰りの状態を「蜂の巣をつきこはしでもしたやうになってきた」 「生きてゐるとは名のみで本当は開ききった肉眼もどうやう」「ただ単に息のだしいればかりをしてゐる人間」等と投げやりに表現してそのまま終ってゐるものも少なくないのだが、 短編にしてオチがないのもかうした編輯意図のもとでは愛嬌であらう。ただ貧乏話に漂うべき哀感といふ点では、それが他人の金を揚屋で使ひ果たしてしまった男の話であったり、 子どもが増へたのを癌種に喩へたりと、つまるところだらしない身勝手な男の心情をドロドロと書き連ねてゐるのは、余裕無い切迫感は伝はってきても、 例へばつげ義春の挿画から期待するやうな「人生」に対する諦念や、自らの戯画化を今一歩意識的に打ち出さうとする意図をここから読み取ることはできなかった。もしそういふ、 一抹の救ひが作品を彩るやうなものを書けたなら彼は死ぬことはなかったらうし、むしろのっぴきならぬ心情にのみ拘泥したこれらの貧乏談は「ねづみ男の告白」であるのかもしれぬ。 さうだ。さうと決めてしまって、さて舞台の大方は下町、藤澤清造が貧乏暮らしを営んでゐたのも根津界隈であるといふのが興味深い。何を隠そう私自身、 「鬼太郎夜話」の「ねこや」の影響から、大学卒業後の東京暮らしの第一歩を根津2丁目のしもた屋の二階の一室から始めてしまったほどの似非陋巷趣味の男である。 路地の井戸や戦前からある建て込んだ町並みなどには、都会人が大自然を眺めて嘆ずるのと同じ、それを裏返したやうな地方人独特の生活とは遊離した観察者としての愛着があり、 「ああ、あの下宿の裏にあった古い木造アパート(名前失念)や、寺の築地の路地なんかを彼もまた見て歩んだんだろうなァ」などと思ひながら読んでゐると、同じく都会に憧れ、 歌舞伎・久保田万太郎といったキーワードを持つ彼の操る東京の言葉、江戸っ子弁それぞれのセリフ回しにも味はひが増すといふものである。一体にここには故郷金沢のほんの片鱗さへも描かれてゐないのだ。 つまりは故郷を捨てて都会で一旗揚げてやらうとやってきた田舎者が、史上最悪の不況のなかで落伍者にならうとしてゐる、その記録だけなのであるが、 彼は都落ちすることを考へなかったのだらうか。さすればもうあとは小説の中でのやうに泥棒になるのを覚悟するか、 はたまた現実通り気が違って公園で凍死するしきゃ道はないではないか。さういふ嫌な側面を、これらの作品は同じく都会からの落伍者の私に対して訴へてきたのである。 「ふるさとはとほきにありておもふもの」をそのままに奉じた彼にあっては、終語の「とほき都にかへらばや」といふイロニーによってなんとか息を継いでゐた詩人犀星の処世術はなかったのだらうか。
PS
当時の言葉で不明なものがふたつ。「ぐれはま」98P 「トン」231P って何??
羽咋には岡部姓が多いものか、偶然私の大学時代に同姓の友人があった。
亀鳴屋へのお問い合わせはこちらまで。
http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/