『蝶の生活』 附:『ナチス詩集』※
フリードリヒ・シュナック 岡田朝雄訳 1993 岩波文庫 赤461-1 \720(絶版)
おちついて読書の出来るのは週末だけである。
さういふ贅沢な時間にそれにふさはしい本を一冊きり選んで、水槽をしずかにめぐる水の音をききながら、ひがな青空の一日を家居読書してつぶしてしまふのもわるくない。
なんかしらんぼくも歳をとったものだ。
ドイツ浪漫派直系のこよなく詩的な散文集「蝶の生活」は10年ほど前に出された岩波文庫だが、今では絶版になってしまってゐるやうである。著者は詩人のフリードリヒ・シュナック(1888-1977)、
日本でこのひとの詩作品を読まうとすればあの悪名高き『ナチス詩集』(昭和16年)によるほかはないのだが、
虚心にこの本をひもとけばそれが全くの誤解であることがわかるであらう。たとへば海外で仮に「八紘一宇詩集」なるアンソロジーが出版されたとして、
巻頭に立原道造の詩篇が掲げられてあるのと同じやうな待遇を、彼は日本においてこの詩集の名前のもとで早々に受けてしまったのである※。
渡り鳥 フリードリヒ・シュナック (富士川英郎訳)
私は見る 寥しい海が氷結する
北国のはてから 雲のやうな鳥の群が旅立つのを
私は聞く 森の中で荒涼たる風が吹きすさぶ時
雲のやうな鳥の群が 騒めき渡るのを
わが家の上空高く
世界のはてまで靡いてゆく 鳥の旗
金色(コンジキ)の神々が潮をあびる
南国の海辺に向かって それは会釈し それは棚びく
まきあがる霧と 燃える秋の焚火と
最後の果実はもぎとられ
地床は荒涼として
もはや さすらひの旅人もない
私は見る 雲のやうな鳥の群が大波のやうにうねってゆくのを
北から南へ 空に張られた鳥達の弧線
森を越え うらさびた丘を越え いっぱいに拡げられた
亡霊のやうな 黒い 巨大な翼よ
夕べ 空から落ちてくる その騒めきは
ひとの心にしのばせる 偉大な民族移動の伝説を
しかし本国での評価にならって岩波書店もたうとうヘッセと同列にこの詩人を評価するやうになったとみえる、嬉しい限りだが、
肝心の「詩集」がまだどこからも訳出されてゐないのがドイツ語とは無縁の衆生にあっての望蜀であらうか。売れるものとも思はれないが、
久しく個人詩集の無かったメーリケのやうに、どこかの篤志家の独文少壮学者によって自費(慈悲?)出版して頂けることを願ってゐる。
本書はファーブル昆虫記のやうな青帯ではなく、赤帯の岩波文庫で出されてゐることが物語るやうに、
今日から観れば(おそらくは当時にあっても)自然科学的な報告集といふより自然を愛する詩人の目で描いた全くの詩的散文集であって、
位置からすると串田孫一氏の博物誌にも類似してゐるやうだが、さらに踏み込みもう少し詩的に縦横で、手触りでいへば世代的に尾崎喜八の散文に近いものが感じられる。
もっともさういふ戦前ドイツの文章にある感触なり香りを、訳者である岡田朝雄氏がまことによく写しとってをられるといふことに尽きるのだらう。名訳とおもふ。
ただし挿画が残念なことに白黒であるから、美しい蝶の描写もなにやら蛾について記してゐるやうでどうもいけない
(もっとも蛾についての描写もそれなりにあるひは蝶以上に低回した魅力を私達に味ははせてくれるのだが)。この古き良き昆虫少年達の世界に浸りきるためにはここはひとつ、
わが国のにとってもひと時代の権威であった保育社の「原色蝶類図鑑」を用意して傍らに開いておきたいところだ。
最新の写真版ではなく、今では少年達に見向きもされず古本屋の片隅で眠ってゐるやうな「原色」の名も重々しいこの旧版図鑑であるからこそ、本編に挿入された細密画、
おそらくは「ヴュルツブルクのガラス屋の親方」が描いた精密画となじんで、詩人の魅惑的な文章を堪能する上での一層の相乗効果をもたらすものに違ひない。
コヒオドシは、その緑色の血の中に壮大な地球創生時代の記憶をもち続けている蝶のひとつである。コヒオドシは氷河時代とその短い夏を忘れることができない。
今でもまだコヒオドシは、早ばやと冬ごもりの用意をする習慣がある。
暖かさの不足や餌の欠乏のためにせかされなくても、コヒオドシは八月の初めにはもう、冬ごもりの場所へ引っ越して行く。(「コヒオドシ」より)
シュナックの蝶に関する本はもう一冊出てゐて、そちらは現在注文中である。保育社の蛾の図鑑もどこかで安くみかけたら入手するつもりだ。 チョコエッグに熱中する甥っ子どもに詩の世界を垣間見せてやるのもこの辺から「悪魔のおぢちゃん」が囁きかけてやったら案外面白いかもしれない(2001/12/16)。
※『ナチス詩集』 神保光太郎編 -- ぐろりあ・そさえて, 1941.2, 390,14p.
この詩集は内容からいへば、たしかにドイツ版の『四季詩集』『コギト詩集』とでも呼ぶべき詩集です。実際のところ私は購入当時、
あまりにタイトルがまがまがしいので並製の表紙を破り捨て、中身を中央公論社版『日本の詩歌』の表紙と取替へて、
『1941ドイツ民族抒情詩集』と丁寧にもロットリングペンで書いた子持縞付き題簽を背に貼り付け保存してゐた位です、ここまでやるひとはおらんでせう 笑。
現在は本職の製本屋に再度製本し直してもらって原題に復したものの、歴史的資料に対して実につまらんことをしたと後悔しきりなんですが苦笑、
つまりは立原道造や伊東静雄の詩が好きならば、惹かれるのが当然みたいな雰囲気が漂ってゐる詩集なのです。
出版は昭和"16年だし、また芳賀檀氏は出版に関ってゐませんが、逆にさういふ訳文にあらはれる気分は当時の抒情詩共通のものであり、
たとへば立原道造がナチスの本質を知らぬまま「共同体の営為」といふ夢をドイツロマン派の延長線上に描いて詩的共感に浸ってゐたといふことはあったかもしれない。また、
たしか映画の「シンドラーのリスト」だったか、ドイツの少年が美しいテノールで突然ひとり歌ひ始める印象的なシーンがありましたが、伊東静雄の日記にも、
これに似たやうな昂然たるシーンに出くはして訳もなく街なかで「感動」するなんて記述が出てきます。映画ではそれを不気味なファシズムの「前兆」として映してゐましたが、
決して「原因」ではないのです。『ナチス詩集』にはこの、映画の少年がうたふ歌のやうな、穢れを峻拒する調子が流れてゐます。
さきの伊東静雄を例にとれば「燕」の詩にみるやうな“単調に するどく 翳りなき”…平明を志向する実は神経質な抒情…観かた(観るひとの品性)によっては確かに「つまらん」かもしれませんね。
ともあれ巻頭を飾るフリードリヒ・シュナック自体、ナチスに迫害されてる詩人な訳ですから、
タイトルをもって本の内容を否定することだけは(軽率に付した責任は措くとして)とにかく一寸をかしな訳であります。(2005/11/01 update)