(2022.03.13up / update) Back


【参考文献】 萩原葉子『父・萩原朔太郎』より


  訪客

 この年に入って、三度目の大雪が降った寒い日のことであった。二階の書斎からごとごとと、父のさせる音がしてくるだけで、家の外も内も静まりかえっていた。
 祖母は女中を連れてどこかへでかけていたので、家の中は、いやにがらんとして寂しかった。
 祖母の声は大きくて、家中に響くような地声で、絶えず何かしゃべっていたから、祖母一人いるといないでは、昼と夜の差があった。勝気でわがままであったが、その反面涙もろい一面もあり、私はこの祖母に十歳の時から育ててもらったので、いわば母がわりの人であった。
「子供が六人もいるのに、孫の世話までこの年になってさせられちゃやりきれない」と祖母は、機嫌が悪い時よく私にいった。けれど私は、祖母に冷たくされると、いっそうすねてまつわりついていった。
 父は、気の強い祖母のわがままや、冷たさなどにずいぶん頭を悩ましていたらしかったが、たいていのことは、見て見ぬふりをしているのが、私にもわかっていた。
「雪がこんなに降ってきたのに、どこに行ったのかしら?」と、思っていると、玄関で「ごめん下さい」とお客さまの声がした。
 こんな雪の日にどなたかしらと思って、私はドアーの鍵を開けた。すると、オーバーにいっぱい雪をつけた二人の青年が立っていた。
 私は極端な恥ずかしがりやだったので、板の間に立ったまま、名前も聞けないでいると、ハンチングをかぶった背のとても高い方の人が、「お父さん、いますか?」と、笑い顔で明かるくいって、二枚の名刺を私に差し出した。「はい」やっとそれだけいうと、私は急いで二階の父の書斎へ行った。
父は、鉄色の紬の着物に三尺を腰のあたりに無造作にたらして、机に向かっていた。私は「お客さま・・・・・・」といって、名刺を机に置くと、くすんだような顔を急に明るく変えて、Gペンを原稿用紙の上に置くと、「辻野君も一緒か?」と、そのまますぐ出迎えに下りた。
 父は晩年に、保田与重郎さんや辻野久憲さんと、ずいぶん親しくしていて家にもよく来られたので、二人の名前は前から、たびたび聞いていたが、私は父のお客さまには、よほどのことがないと出ていかなかったので、この日お会いしたのが初めてだった。
 私は、お客さまにお茶を持って行くのが何よりいやだったが、思いきって応接間に入っていった。
 こんな雪の日に、しかも思いがけないお客さまなので、父はすっかり喜びを顔に出して、敷島をおいしそうにのみながら、にこにこと談笑していたが、私が入って来たのに気がつくと、ちょっと話をやめて二人に「長女です」と紹介した。それから私には、「保田君と辻野君だよ」と立っている私の顔を見ながらいった。二人は椅子からわざわざ立っておじぎをされた。私はもう恥ずかしさで、ぴょこんと頭を下げただけだったが、二人はゆっくりとおじぎをしているので、困ってしまって、真赤になった顔をうわずった頭で意識した時だった。
「葉子のおじぎは早すぎるよ」と、父はちょっと口をとがらせたように、珍らしく私をたしなめた。
 私はいっそう赤くなりながら、おじぎのやりなおしをすると、急いで立ち去ろうとした時、父は何を思ったか、「葉子、サイン頼みたいなら、してもらいなさい」と、こんどは笑いかけながら私にいった。私はびっくりした。
 そのころ、叔父に当った佐藤惣之助さんは、とても気さくな人で、当時、女学生の間でサインが流行していたので、方々へ旅行に行くたびに、東海林太郎、古賀政男、勝太郎などの歌手や作曲家のサインを集めて、みやげにしては私を喜ばせてくれたからであった。だが、私の家にいらっしゃるお客さまは、当時の私のサイン熱に適さない方たちばかりなので、いままで一度もしてもらったことはなかった。だから父が、せっかく私のためにいってくれても、あまりうれしくなかった。それより一刻も早く逃げ出したいので、困ってもじもじしていると、
「じゃ、これに書きましょうか?」と保田さんは、ポケットから小さい紺の表紙の手帳を出し、万年筆を背広の胸ポケットから抜いて、隣りの辻野さんに渡した。辻野さんは、少してれくさそうにためらったあと、すらすらと書いて保田さんに返した。
 保田さんはちょっとペンを動かし、すぐに、
「これでいいですか?」といって、そして、手帳ごと、「あげますよ」と、差し出した。
 私はまたぴょこんとおじぎをすると、赤くなって大急ぎでとび出したのだった。
 自分の部屋に入って、落ち着いてからよく見ると、手帳の真中に「保田与重郎」と、くずした逹筆で書いてあり、並べて隅の方に「辻野久憲」と、少しななめにほそい楷書でしたためてあった。
 辻野さんは繊細な感じの方だと思った。そして、その字にまで病弱そうな神経の細かいものを感じて、私は手帳を大切にしまった。
 まもなくがやがやと廊下の方で音がして、祖母の話し声がした。やっと帰ってきたのだった。
「遅かったわね、お客さまよ」というと、お客さまの時には、いつもするちょっとにがい表情をして、
「どなただね?」といった。父がその時、応接間から出てくると、早口に、
「保田君と辻野君が見えている。すまないけど寒いから、すぐお酒の用意してくれ」と、遠慮がちにいった。
 祖母は、朔太郎、朔太郎と六人の子供のうち、長男の父を特に愛していたが、父の親しくしている人には、まるで関心がなく、冷たくてお客嫌いであった。
 そのために父は間に入って、何かにつけてずいぶん神経を使うのだった。
「あいにく今日は何もないけどね」と、祖母はいつも父のお客さまの時に見せる無関心な態度で、父の神経を無視したように、そんぶり(無愛想)にいう。
 父は目をぎょろっとさせるようにして、「あるものでいいから、早く頼むよ」と、いって、また応接間へ行った。祖母はゆっくりふだん着に着替えると、仕方なく台所で女中に文句などいいながら、こしらえた酢のものや、オムレツに筋子やからすみなどのつまみに、お燗したお銚子を私が持っていくと、レンガを積んだマントルピースのガスの火がすっかり赤く燃えて、ガスの匂いとタバコの煙のまざった、来客の時特有の楽しい空気が充ちていた。
 東洋的な父の好みで造った応接間には「猫町」の表紙が額に入れてあり、古道具屋から、父がわざわざ見つけてきた自慢の、十七世紀を思わせる古風なランプが、赤い支那ふうな台に置かれてあった。父は古いランプが特に好きだった。そして厚手の、えんじのカーテンが東の窓には引いてあり、その合わさり目から雪が窓枠にぴったりと吸いつくように、重なっているのが見えた。
 父は時々応接間から出て来ては、祖母に「もっと酒たのむよ」「あれはもうないのか?」「すまないが何々を作ってくれ」などと、何度も遠慮がちにいいに来たりしていた。
 私は炬燵に入って、祖母の買ってきたものを見たりしていた。たいして入用でもないのに、つまらない日常品を安いからと、たくさん買い込んできてそれを家に帰って、ゆっくり眺めるのが好きな祖母も、今夜はもうだいぶ疲れているとみえ、私に肩を揉ませたりして、あまり元気がなかった。
 時々応接間の方を気にしては、老眼鏡をはずして時計を見ていた。
 十一時近く、父が応接間から出て来た。襖を開けて祖母の顔を見ると、すまなそうに「今夜は、遅くなったから、泊めてあげてくれ」と、気弱くいった。
「何?泊まるって?」祖母は、明らかにいやな顔をした。
「話し込んでいるうちにすっかり大雪になってしまった」父は祖母の前に坐って機嫌をそこね父ないように哀願するようにいった。
 しかし、祖母は、
「もう疲れたから、寝ようと思っていたのに」と、ぷりぷりしていった。
「離れに寝床を頼むよ」
 父は、すぐには承知しそうもない祖母に両手を骨ばった膝の上に力を入れて置いていった。肩はいっそうとがっていた。そして、タバコをちょっと吸うと、
「辻野君は身体も悪いし、おっかさん、頼むよ」父は、いっそう真剣になっていった。が、このことばが、いっそう悪い結果になってしまった。祖母は、結核をこのうえなく恐れていたのだった。
「たいした雪じゃないし、まだ電車もあるし、今夜は帰ってもらっておくれ」
 祖母は父のことばに、自分の反対をいっそう強くしたように、はっきりいった。祖母のこのかたくなさには、父は、いつも勝てないことを前から知っていた。私は横から、「一晩ぐらいいいじないの」と口をだすと、
「葉子なんかだまっていなさい」と、さらにかっとなってしまった。
 父はもう不愉快でたまらない、というふうに、傷悴した顔に、しわをたくさん寄せて、祖母の方を見ると、そのまま何もいわないで、部屋を出て行ってしまった。
 しばらくして、玄関でお客さまが帰るらしい声がした。オーバーを着た二人は玄関にもう立っていた。
「じゃ、だめだったら、すぐ引き返してきたまえ」と、父ははっきり幾度も念を押すようにいった。
 保田さんが右手でドアーをちょっと開けたとたん、膝までも埋もれてしまうと思われるほど、深くつもった雪が、おそい冬の夜を無気味に明るくし、 綿を散らばしたような横降りのかたまりがいくつも、オーバーや、肩に降りかかってきた。
 ひと足あとから辻野さんが玄関に出た。その時、辻野さんの痩せた身体が、なんだか雪で折れそうに見えた。
「大丈夫かしら?」
 私がいうと、父はそれには答えないで、しばらく玄関で見送ったままの、暗い表情で立っていたが、祖母の所へ行き、
「こんな大雪の晩に病身の人を帰すなんて、おっかさんはひどいよ」父はいつになく祖母をなじるように強い調子でいった。けれど、何といわれても、 祖母はがんとしてさっきから同じ新聞を読んでばかりいた。
 炬燵の嫌いな父は、少し離れた所に灰皿を置いて、その前にきちんと坐って、
「途中で引き返して来ればいいがな」
「駅までは、とても行かれないだろう」
 などと、敷島の吸口をやけにくちゃくちゃ噛みながら、二人を案じていた。三十分ぐらいそうして、祖母と父との対立のような時間が過ぎると、玄関をたたく音がした。父はいち早く聞きつけて、出て行った。
「やっと駅まで行ったんですが、電車が不通なんです」
 保田さんの張りのある声がした。
「でも、よく帰ってこられたな」
 父は二人に申しわけなさそうにいった。二人はそれぞれ、ズボンやオーバーの裾についた雪を、玄関のたたきにバタバタ落した。さしてきた黒い洋傘には重そうに雪がへばりついていた。
「こんな大雪は何年ぶりだろう。今年はよく雪の降る年だな」
「今夜はいつもよりひどい降りかただな」などとにぎやかに口々にいっていた。
 父は、応接間のマントルピースの傍に二人を坐らせると、急ぎ足で祖母の所へ行った。
「やっぱりだめだったじゃないか、すぐにお座敷に二人の寝床の用意をしてくれ」と強くいうと、
「お座敷にかい?あの部屋はあたしが時々寝るのだからだめだよ」
 祖母は結核の人をこんなふうに恐れていたのだった。いつも父の所へ見える胸の悪い人は、父にとりつがないで帰してしまうことがあって、あとで「またおっかさんはそんなことをする。彼には僕はとっても会いたかったのだ!」などといつもと違って祖母に文句をいうことがよくあった。祖母は、 まるで小さい子供にいうように「咳がかからないようにおしよ」とか、「向かい合って坐ってはいけないよ」などと、注意していたが、そんなことをいくらいっても父は「馬の耳に念仏」だった。
「じゃ辻野君は僕のベッドに寝てもらおう」
 父がいうと、祖母は金縁の老眼鏡をはずして、父をぐっとにらんだ。
「そんなことをしたら、朔太郎に感染ってしまうじゃないか」
 祖母は父にまかしておいたら、もう何をされるかわからないというふうに、きっと立ち上った。女中は機嫌をそこねては大変とばかり、手早く蒲団を、祖母のいうなりに運んだ。
 離れの座敷に一人分の床の用意ができると、こんどは応接間に、また一人分の蒲団を敷くようにいいつけた。
 三人は、いきなり蒲団が持ち込まれたので、びっくりして椅子から立ち上った。女中に椅子をかたづけさすと、祖母が「つごうで一人はここでやすんで下さい」と、辻野さんにはっきりいった。
 この時、父は思いがけない驚きと困惑とで、すぐにはことばも出なかったらしい。そして、どもるように、しかもはっきり怒りを込めて、
「こんなところに寝られるものか!二階の僕のベッドに寝てもらってくれ!」と、ぎょっとするほど真剣な面持ちで祖母の顔を正面から見ていった。 が、そういう父にはいっこうかまわず、アッという早さで、祖母は蒲団をのべてしまった。それを待っているように、
「じゃ遠慮なくここでやすませていただきます」
 辻野さんはごく自然に、そして静かな口調で祖母にそういった。
 その夜、保田さんは離れのお座敷に、辻野さんは応接間には二階のベッドにと、それぞれ別々にやすんだ。祖母は庭のある居間に、そして私は子供部屋のベッドに横になった。
 私のいるすぐ上の二階からは「かたこと」という、父の眠れないでいるらしい音がいつまでも続いていた。
 私はなかなか眠られなかったので、起きて雨戸を開けると、暗い空から際限なく白く光った雪が落ちていた。
 外は静かな音のない世界だった。だが、私の心は静かでなかった。
 あんなに上機嫌だったさっきは、私まで喜ばせてくれようと「サインをたのみなさい」などと、珍らしいことをいう父だったのに、その父をどんなに暗くしてしまったことか。父なら、自分は板の間に一晩中立っていたって、お客さまは蒲団に寝かせる人だのに、一家の権力を握っている祖母の、どんな行為にも、思うようにならないのだった。
 もしかすると、二人とも今夜家へ来られたことさえ後悔していられるかもしれないと思った。
「父をひどい人と思ったかもしれない」
 父は祖母のことなど、一言だってもらしてないにきまっている。私が、母がわりの祖母に突き放されるのはこうした祖母の性格が顔を出す時だった。
 庭のぼんやりした街燈の光の中に、まるで羽虫のように、一か所に集まっては、落ちる雪をいつまでも見ていた。
 昭和十一年二月二十六日のことであった。二・二六事件のあった夜のことでもあり、この夜は、心にかかるこんなできごとのあった日だった。


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