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『伊澤蘭軒』(前半) 新書版『鴎外選集』第七巻

 年末にも書きましたが森鴎外の『伊澤蘭軒』と格闘中。漸く半分を読み了へたところです。チャンペラ(『鴎外歴史文学集』岩波書店)を片手に、小型の選集本へ直接ペンで脚註や字訓を書込みをしながら、 文中に引かれる『黄葉夕陽村舎詩』や『五山堂詩話』の原本を一々披いちゃ、フムフムしてるんだから捗がいきません。これまでに『渋江抽斎』『北条霞亭』と短い順番に読み進み、 今回はかつて途中断念した主峰(?)への再挑戦なのですが、世評聞くところによると、むしろ口碑の多い後半の方が面白いといふから、前回は未だ眺望の開く手前で引き返してしまったのかもしれません。 いやむしろ「感慨」といった方がいいのかな。

 鴎外のこれら「史伝」と呼ばれる作品群の評価については、賛否の両論があるやうです。世代を亙り人物の事績を、交游歴とともに編年体で辿ってゐるのですが、 製作目的には近代人森鴎外ならではの小説家らしい興味もある筈なのに、方法としては時世に背を向けたやうな叙事に徹し、とりわけ文献の抄出に拠るところが多いのです。 これは浩瀚な史伝を単なる「抜書き」に過ぎないと酷評する際の理由の一つになってゐるやうですが、念頭には近世文人の「随筆」の手法もあったのでせうか。さらにこれが新聞連載ものであったことから、 日に新しい情報協力者が現れて、編年体ではあるものの、お話はどしどし傍道に首を突っ込んでゆきます。此度の『伊澤蘭軒』においてそれが顕著で、 前半部で甚だしきに及んだのは北條霞亭を語る条りでした。実に連載13回分を費やす熱の入れ様で、なほ「読者の寛宥を乞う」も、結局後日べつに連載を立ち上げるに至ります。 もとより地図も持たずにあとを随いてゆく読者は、この浩瀚な読み物の筋を「読破」すること自体には意味がないことを、早々に身を以て悟るのでせう。 作品の眼目は江戸時代末期の文人たちの交歓の表情、彼らが事とした風流生活を些事に亙って愛惜することそのことに尽きるのですから。ただし主人公蘭軒そのひとに向かふ鴎外の顔は、 何とは無しに両つあるやうにも感じられます。つまり篤実な学究肌といふ性情を善しとしながら、抄出される詩句から仄見える眼差しは、もう一歩踏み込んで彼の隠遁志向と愛書の癖に、 より多く楽しげに注がれてゐるやうに思はれてならないのです。一体に主人公が棲む平穏な世界を世事を以て掻擾する脇役たちの活躍(?)により、鴎外の史伝は小説的な側面を顕し、 活き活きと輝いてくる訳ですが、地味な主人公蘭軒を描くにあってさへ、淡彩ながらやはりさうした部分に人物的魅力が披露されてゐるやうに思ひます。前半部のなかで、 愛書家ならびに書痴にとっての一番の読み処は「その百八十一」でせうか。少し長いですが漢文部分を読み下し、さらに若干手を加へたものを挙げてみます。

その百八十一

 蘭軒は此年文政十年(1827)十二月三日に影抄(手写せる)元板『千金翼方』に跋して、偶(たまたま)書の銓択に論及した。其の言や、頗る傾聴するに堪へたるものがある。

 

蘭軒の曰く、「書を蔵するは宜しく銓択に務むべくして、始めて識見あると為す也。而して銓択に二派あり。逸書を好み、奇文を愛し、世の絶えて少なき所のものは兎園冊、 稗史と雖も必ず捜して之を得る、是れ好事蔵家の銓択する所也。其の蔵する所は緊要必読の書を過ぎず、然れども皆な古刻・旧鈔にして、真本を審定して之を蔵す、 是れ正学蔵家の銓択する所也。之を要するに醇醨(酒の濃淡)の別ありと雖も、識見あるにあらざれば、則ち銓択を為すあたはず。」 蘭軒は八十九年前に於て此言をなした。 然るに今の蔵家を観るに二派は猶ほ劃然として分れてゐる。

方今、校刻の業盛んに興つて、某会某社と称するもの指僂(かがな)ふる(指おり数へる)に遑あらざる程である。若し貲を投じ盟に加はつてゐたら、立どころに希覯の書、 万巻を致さむことも、或は難きことを必(ひつ)とせぬであらう。

独り奈何せむ、彼の諸会社は皆な正学と好事との二派を一網打尽せむと欲してゐる。世間好事者の多いことは、到底正学者の比ではない。それ故に会社が校刻書目を銓択するときに、 好事者の好に投ずるものが十の八九に居る。その甚しきに至つては初め正学者の用をなすもの一二部を出して、後全く継刊せざるにさへ至る。洵に惜しむべきことの甚だしきである。

 わたくしの如きは戯曲小説の善本を相応に尊重するものである。多少の好事趣味をも解するものである。しかし書を求むるには自ら緩急がある。 限ある財を以て限なき書を買ふことは出来ない。矧や月ごとに数十金を捐てて無用の淫書を買ふは、わたくしの能く耐ふる所でない。

 且つ啻に兎園稗史を排すべしとなすのみでは無い。史伝を集刊すると称して、絵入軍記を収め、地誌を彙刻すると称して名所図絵を収むるが如きも、 わたくしは其の意の在る所を解するに苦む。書を買つて研鑽の用に供せむと欲する少数者は、遂に書を買つて娯楽の具となさむと欲する多数者の凌虐に遭ふことを免れぬのであらうか。

 設(も)し此に一会社の興るあつて、正学一派のために校刻の業に従事し、毫も好事派を目中に置かなかつたら、崇文盛化の余沢は方に纔に社会に被及するであらう。

 仄かに聞けば、頃日暴富の人があつて、一博士の書を刊せむがために数万金を捐てたさうである。わたくしは其書の善悪を知らぬが、要するに一家言である。 これに反して経史子集の当に刻すべくして未だ刻せられざるものは、その幾何なるを知らない。

 世に伝ふる所の松崎慊堂天保十三年の上書(松崎慊堂板行書籍意見書)がある。安井息軒のこれに跋するを見れば、当時徳川家斉の美挙は俗吏・賈豎(俗商人)の誤る所となつたらしい。

「潜(ひそ)かに四方に聴くに、刻する所は率ね誤本俗籍。所謂盛典は(俗吏の銓択にかかる「善本」は)。半ば賈豎の射利の挙たり。」

そして慊堂の刻せむと欲した五経、三史、李善註文選、杜氏通典だに、今に迨(いた)つて未だ善本の刻せらるるを見ぬのである。

「今、此の(慊堂の刻せむと欲した)十余種は、半ばは秘府(幕府紅葉山文庫)に蔵せらる。固より人間(ジンカン)の窺ひ得る所にあらず。 而して其の侯国(大名諸国)及び人家僧院に存するものも、地に遠近あり人に繁閧りて、苟くも梓して之を広めずんば、其れ之を目覩する者、能く幾人か。 則ち存すると雖も猶ほ亡きがごときのみ。」

 世遷り時易(かは)つて、楓山文庫は内閣文庫となり、政府と自治体と競つて図書館を起しても、市に善本なきことは今猶ほ古のごとくである。

 「二派」は、古典の善本があらかた復刻せられた現代において、なほ「稀覯本派」と「名著全集派」と形を変へ、 古書価暴落の秋にあって「稀覯本派」に軍配が上がったままであると類比して差し支へないでせうか。いわんやさらに細分化して存するものかもしれません。 つまり稀覯の初版本も「名詩集」を漁るか「無名詩人」を討ねるべきか。拙サイトの領分は、どうやら鴎外が眉を顰める「誤る所」のさらに「誤る所」のやうであります(苦笑)。

 とまれ、この本が舞台とする儒教を背景とした漢詩文の文化圏が、現在の読者たる私には刊行時の読者達とは別の意味を持って重要であり、 明治時代において既に「陳腐」とされた文化が、今や「不可解」となりつつあらうとしてゐることが残念でなりません。文化の断絶はすなはち歴史の断絶であって、 只今の日本の歴史の断絶を解くために、昨今、戦前は当たり前だった倫理観の復権が話題に上るやうになりましたが、そのためにはさきの敗戦による断絶と同時に、 もうひとつその前にあった明治維新の断絶にも立ち返って、東アジア全体の視点に立った「歴史の鬱屈」をほぐす必要があるやうに、私は考へてをります。しかしながら、 戦前抒情詩人の顕彰を行ってきたこのホームページに、あるといへばあるかもしれない唯一の倫理的な性格として、これを江戸時代の漢詩人にまで敷衍させるには、 未だ余りにも素養が足りないことを、改めてこの本は教へてくれるやうに思ふのでした(後半へつづく)。

(2008.02.04up / 2008.0207update)

『伊澤蘭軒』(後半) 新書版『鴎外選集』第八巻

 後半はそれまでお話の色添役を務めてゐた頼山陽が死ぬと、池田一族の話が池田京水の死と共に語り起こされて、前半の北條霞亭の時と同様、 巨大な迂回路をつくって読者を呼び込みます。迷路を蝨潰しに辿って結局もとの処まで戻ってくるのですが、殊に入り組んだ宗家・分家を弁ずる条りなど家系図を傍らにしても解りづらく、 因果を噛んで含むやうに音読すれば、まま口調が「大滝修治調」になるのを禁じ得ませんでした(金田一耕助ですか 笑)。
 袋小路をふんだんに道草するのが目的とさへ思はれる史伝のかかる叙法ですが、(渋過ぎるにせよ)趣くままに本筋を外れたがる「ロマン派小説」ならではの特徴だと、 肚を括って付き合ふまでのことです。全編を通じて不取敢、書家の小島成斎と校讐家の小島宝素(春庵)が別人であることや、飯田休庵(蘭軒岳父)と、 飯田安石(榛軒の妻志保の連れ子)は親戚でもなんでもない。といふことは分ったです(ため息)[※下図参照]。

 なるほど話が進めば進むほど、蓄積される人物関係は複雑になる訳ですが、しかしその分、時代が下れば生き証人から提供される逸話も「伝聞」から「実見」に基づいたものになり、 叙述はより具体的に、親しみも増して、さらに漢詩も分り易いものに変ってゆきます。小説としての楽しさは、却って稜線の眺望を得た如く、評家が云ふとほり後半に倍化します。 『渋江抽斎』で記憶に残る人々も頻出すれば、二冊は糾って伸びてゆく一本の縄のやうにも喩へられませう。ただしあんまり安心してゐるとそれまで漢方の専門用語をいい加減に解釈してきたツケがまはってきて、 卒然として躓きます(「その324」)。医事史には一切蓋をして読み飛ばしてもいいのですが『鴎外歴史文学集』の注釈でも分りづらかった所を一寸調べてみました。

●『医学入門』は、明代(1575)李梃(健斎と号)編、元和3年(1617)古林見宜が加点本を刊行。「陰隲」の項目は首巻に見ゆ。
●『医学正伝』は、明代(1515)、虞搏(天民と号)編、永禄12年(1569)曲直瀬道三が加点本を刊行。
●曲直瀬 道三(永正4年1507年-文禄3年1594年)は日本医学中興の祖。道三は号。字は一渓、地下家の公家である今大路家の祖。
●医聖・李杲(りこう)、字は明元、晩年には東垣と号した(1180年- 1251年)
●医聖・朱震亨、字は彦修、義烏の丹渓に住み丹渓先生とも呼ばれた(1281年- 1358年)
●張仲景 張機(150年? - 219年)は後漢の官僚で医師(仲景は字)。『傷寒雑病論』(「傷寒論」「金匱要略方論」)を著す。
●黄帝内経は、最古の漢方医学書。王冰の編纂した素問と霊枢が残存。黄帝が岐伯ら学者に日常の疑問を問うたところから素問と呼ばれ、霊枢は鍼経の別名とされ(素問が基礎理論とすれば)実践的、技術的。
●井上 金峨(享保17年1732年-天明4年1784年)折衷学を大成、蘐園学派(徂徠学)を批判。宋詩流行の先駆。
  医学塾である躋寿館を講義の場としたことから、医師の間に折衷学(考証学)が広まっていった。親友六如上人、門弟亀田鵬斎、山本北山。

 これを要するに当時の「儒学・医学・詩学」の世界で、理論的な「朱子学・素問学・蘐園詩派」の守旧派と、実地的な「古学・古医方・聖霊詩派」の新勢力が、 それぞれ棋峙して居たといふ図式で足りませうか。しかもさうした潮流の対立も、明治に入って西洋の「哲学・医学・新体詩」に根刮ぎとって代られてしまふ訳です。 要路のお抱へ医師だった伊沢家ですが、四代にわたる当主(父信階、蘭軒、子[榛軒・柏軒]兄弟、孫[棠軒・磐安])について云へば、書物の考証学に意を傾けた主人公蘭軒は、 さすがに鴎外が尊敬を傾けるだけあって、医者として保守的ではあっても固陋の人物には描かれてゐません。冢子榛軒も、愛書癖はないが同様に清廉実直の人柄を強調されてゐます。 その養子の棠軒となると、もう著者と同時代をともする末裔として、故人ではあるものの人となりについて筆は下されてゐません。すでにして幕末の騒擾とともに小説の終盤は、 江戸・明治の人たち・制度の交雑・交代してゆく態が、素気ない日記の記述を通して、眺望の稜線から一気に急降下といった感じです。函館戦争に駆りだされるものの、 棠軒は漢方医の時代遅れを申し渡され、海を隔てた青森で悚然と待機。北海道平定の後は棲みなれた東京から主君の封地福山へと放り出されます。呆気にとられてゐる間に、 あれよあれよといった感じで、最初は漢方医としての、次には武士としての威信がなし崩しに崩されてゆきます。その様子がまるで落日を急ぐもののやうに、 坦々と叙事をもって突き放すやうに描かれてゆくのです。

 予兆はすでに、将軍家茂に扈随して京都に客死した伊沢柏軒について、弟子の一人が「先生は玉砕すべき運命を有した人である」と評した言葉にあったといっていいでせう。 そして小説が小説として面白いのも物語に波風が立つ部分であるのは仕方ないことで、さきの『渋江抽斎』で矢島優善が取り上げられたのと同じく今回も「主人公の次男」であるこの柏軒といふ豪胆な人物が、 前半の頼山陽に代り後半では花のある人物としてお話に彩りを放つことになります(もうひとり、両著をつなぐトリックスターとして森枳園がゐますが)。 さうして史伝に論賛や総評は要せないと嘯いたものの、鴎外は、編年体で語れなかった柏軒の逸話を紹介する条りで、図らずも、 その後一族がたどるであらう運命を前にした一個象徴的な人物の「立ち姿」を、小説的な角度から見せてくれたやうな気がします。
 さらに云へば、人となりを大いに異とするものの、漢方医学の旗色が日に日に悪くなってゆく現状を一切認めようとせず、自身は最高位を極めて往生をとげたところの、 この後半の中心人物伊沢柏軒の最期といふのが、まさしく後世「脚気論争」で没後に非難を浴びることとなった著者森鴎外そのひとを自ら写し、われ知らずに諷してゐるやうにも観ぜられ、 これは今日的読後感でありながら寔に皮肉に思ったことであります。是の事これまで誰かが論ってゐたかどうかは知りません。

 をはりに。蜿蜒と蛇行して終った連載の最後の三回を、作品に対する弁明に充てたのは、(これが新聞誌上の読み物だったからでありませうが)正に蛇足の感があります。 鴎外は「わたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。」との有名な言葉を残して擱筆してゐますが、当時の新聞をすらすら読める「常識」といふのがすでに、 今の世からすれば充分「学殖」を具へてゐる訳で(笑)、これを引いて鴎外の高踏ぶりを論じたところで何だか空しい気がします。 読後感は他にもいろいろありましたが(とくに渋江抽斎と時を同じくして流行したコレラで死んだのに、志士に対して偸いからなのか、梁川星巌の最後について今度も一言も記されてゐないのはさびしかったです。)、 不取敢(わたくしのためには、)新書版『鴎外選集(第七巻・第八巻)』二冊への書込みを通じて、携帯に便利な「江戸漢詩のための教養手帳」が完成したといふ即物的な悦びを記し、 今回の充実した読書の感想に替へたいと思ひます。

※『鴎外歴史文学集』系図に書き足したもの(クリックして拡大)

系図

『伊澤蘭軒』細目

その一          蘭軒事蹟埋没の一面
その二          既出蘭軒伝
その三          立伝の態度、伊沢総宗家
その四          宗家伊沢分立の情実
その五          総宗家伊沢の成行
その六          総宗家伊沢の墓
その七          宗家伊沢の粗右信と二世信政と
その八          菓子師大久保主水、宗家伊沢三世信栄
その九          宗家伊沢四世信階と分家創立
その十          宗家伊沢の成行、蘭軒の生誕と修学
その十一         叢桂杜の学統
その十二         蘭軒の同窓、蘭軒医学の師と本草の師
その十三         信階福山城主阿部正倫に仕ふ、頼山陽の江戸遊学
その十四         山陽伊沢氏寄寓の考証
その十五         山陽伊沢氏寄寓の考証
その十六         山陽伊沢氏寄寓の考証
その十七         病源侯論
その十八         山陽寄寓当時伊沢狩谷二氏の雰囲気
その十九         吉田篁暾、狩谷棭斎の家世
その二十         山陽の屏禁、姦斎詩集
その二十一       蘭軒の名字
その二十二       蘭軒脚疾の萌芽、享和二年向島及墨田川遊、享和三年の二遊と浅草太郎稲荷
その二十三       蘭軒と伴粲堂と、蘭軒の妻と子女と
その二十四       阿部正精と蘭軒と、伊沢氏の家計、菅茶山と蘭軒並犬塚印南
その二十五       茶山の常陸紀行並墨田舟遊
その二十六       茶山と蘭軒との交通
その二十七       茶山蘭軒の観月、嫡子榛軒生、茶山の西帰
その二十八       文化二年元旦の詩、茶山の書牘、蘭軒の側室
その二十九       二子常三郎生、蘭軒の長崎旅行
その三十         長崎旅行の第二・三・四日
その三十一       長崎旅行の第五・六日
その三十二       長崎旅行の第七・八日
その三十三       長崎旅行の第九日
その三十四       長崎旅行の第十・十一・十二・十三日
その三十五       長崎旅行の第十四・十五日
その三十六       長崎旅行の第十六・十七日
その三十七       長崎族行の第十七・十八日、大販淹留
その三十八       長崎旅行の第二十一・二十二日
その三十九       長崎旅行の第二十三・二十四・二十五・二十六・二十七日
その四十         長崎旅行の第二十八日、茶山訪問
その四十一       蘭軒往訪時菅氏の雰囲気、江戸真光寺の縁日
その四十二       長崎旅行の第二十九・三十日、第三十一日頼氏訪問
その四十三       頼春水・山陽と蘭軒と
その四十四       長崎旅行の第三十二・三十三日
その四十五       長崎旅行の第三十四・三十五日
その四十六       長崎旅行の第三十六・三十七日
その四十七       長埼旅行の第三十八・三十九・四十日
その四十八       長崎旅行の第四十一日
その四十九       長崎旅行の第四十二・四十三・四十四日
その五十         長崎旅行の第四十五日、第四十六日長崎著
その五十一       長崎に於ける蘭軒、石崎鳳嶺、母曾能歿
その五十二       長崎に於ける蘭軒、明倫堂の釈奠、向井元仲
その五十三       長崎に於ける蘭軒の交友、父信階歿
その五十四       蘭軒帰家時の考証、文化五年の春遊と移居
その五十五       墨田川の納涼、蘭軒詠蘭草詩、蘭軒病臥
その五十六       文化六年飯田休庵七十賀、三月草堂集、蘭軒移居、泉豊洲の死
その五十七       石田梧堂、三男柏軒生、蘭軒の脚疾
その五十八       蘭軒に与へた茶山の書牘
その五十九       茶山書中の人物、犬塚印南其他
その六十         茶山書中の人物、頼山陽と頼竹里と
その六十一       茶山書中の人物、茶山弟恥庵、文化八年蘭軒の動静
その六十二       頼氏の動静、文化九年二女生、飯田休庵の死
その六十三       文化十年病中の蘭軒、戦国策並白氏文集
その六十四       今川槐庵に与へた茶山の書牘
その六十五       蘭軒に与へた茶山の書牘
その六十六       茶山書中の事項、蘭軒と茶山との交通、黄葉夕陽村舎集、蠣崎波響
その六十七       巣鴨の造菊、秋冬蘭軒の足
その六十八       犬塚印南の死、伊沢氏家計、蘭軒文化十一年迎歳
その六十九       蘭軒足疾少治、常三郎、三女生
その七十         茶山の東役、江戸に於ける茶山
その七十一       茶山と伊沢氏
その七十二       茶山の伊沢氏訪問、山本去害、茶山の交友
その七十三       頼氏の動静、文化十二年元旦の蘭軒茶山の
その七十四       豆日草堂集、茶山の伊沢氏訪問、茶山西帰の同行者
その七十五       茶山蘭軒の袂別、茶山西帰の旅程
その七十六       劉夢沢、蘭軒の移居
その七十七       「公宴不陪朝不坐」、蘭軒の居宅
その七十八       蘭軒に与へた茶山の書牘
その七十九       茶山書中の人物、北条霞亭
その八十         茶山書中の人物、平田豊と伊沢氏の人々
その八十一       茶山と市河寛斎父子と、蘭軒に与へた茶山の書牘
その八十二       驥?日記中茶山西帰の行程
その八十三       茶山書中の人物、蘭軒表医師遷任、頼氏の動静
その八十四       文化十三年頼春水歿、蘭軒の療病、太田孟昌
その八十五       飯田杏庵の死、蘭軒医術申合会頭就任
その八十六       蘭軒と釈混外と、茶山の蘭人評
その八十七       池田錦橋の死、池田氏の墓
その八十八       池田京水
その八十九       池田錦橋の享年
その九十         池田錦橋の墓
その九十一       小島宝素、蘭軒に与へた茶山の書牘
その九十二       茶山書中の事項、豆日草堂集、蘭軒芭蕉を得
その九十三       茶山七十賀、蘭軒に与へた茶山の書牘
その九十四       蘭軒に与へた茶山の書牘
その九十五       茶山書中の事項、狩谷棭斎、論語 集解、松崎慊堂
その九十六       茶山書中の事項、朝顔の流行
その九十七       茶山書中の事項、茶山戯謹、釈混外、岡本豊洲
その九十八       茶山書中の事項、田内月堂、劉梅泉
その九十九       茶山書中の事項、劉梅泉
その百          茶山書中の事項、劉梅泉
その百一         茶山書中の事項、劉梅泉と田能村竹田
その百二         茶山書中の事項並蘭軒移居、蘭軒作蘇沈良方跋
その百三         庶子良吉夭折、蘭軒医範書写、大田南畝七十賀
その百四         長谷川雪旦、菅頼二氏の動静、文政二年草堂小集
その百五         蘭軒夏秋の詩、蘭軒儒医兼任、宗家伊沢信美歿
その百六         文政三年元旦の詩、蘭軒作儒門事親跋、女子順生、茶山尺蹟断片
その百七         蘭軒作医心方跋、医心方の沿革
その百八         鈴木宜山
その百九         馬屋原周迪
その百十         黒田家未亡人幸子の死と蘭軒姉幾勢
その百十一       茶山書牘の断片、文政四年伊沢氏家計
その百十二       榛軒柏軒の従学、狩谷棭斎の西遊
その百十三       棭斎の西遊
その百十四       蘭軒に寄せた棭斎旅中の書牘
その百十五       棭斎書中の事項、福井榕亭
その百十六       棭斎書中の事項、真野松宇
その百十七       棭斎書中の事項、一切経音義
その百十八       棭斎書中の事項、 一切経音義、論語義疏及黄帝内経、棭斎 旅中の動静、茶山の書牘 その百十九       北条霞亭の婚姻
その百二十       霞亭の婚姻
その百二十一      霞亭の仕官と東徙
その百二十二      霞亭の新居
その百二十三      霞亭に与へた茶山の書牘
その百二十四      棭斎旅中の動静
その百二十五      榛軒阿部侯賜謁、蘭軒墨田川の遊、本草家蘭軒
その百二十六      蘭軒秋七草詩、百花園、阿部家及菅頼小島三氏の動静
その百二十七      文政五年元旦詩、蘭軒向島の遊、蘭軒に与へた茶山の書牘
その百二十八      茶山書中の事項、蘭軒春夏の詩
その百二十九      伊沢氏家計、熊坂磐谷
その百三十       榛軒の任官と柏軒、蘭軒の起居、茶山と波響と
その亘二十一      甲子舟遊の端緒、文政六年元旦の詩、蘭軒作元板千金方跋
その百三十二      元板千金方の沿革
その百三十三      蘭軒に与へた茶山の書牘
その百三十四      屋代弘賢、大田南畝、女子順夭、阿部正精違例
その百三十五      阿部正精の解綬
その百三十六      蘭軒に与へた茶山の書牘、霞亭妻敬
その百三十七      霞亭の死因、未亡人敬西帰の旅途
その百三十八      霞亭歿後
その百三十九      北条氏家世
その百四十       霞亭の修学
その百四十一      霞亭の修学
その百四十二      霞亭の北遊
その百四十三      霞亭の歴遊並南帰
その百四十四      霞亭の広岡文台訪問
その百四十五      霞亭の林崎生活
その百四十六      霞亭嵯峨生活の初期
その百四十七      霞亭嵯峨生活の中期
その百四十八      霞亭嵯峨生活の後期
その百四十九      霞亭の京都住居
その百五十       霞亭の備後行
その百五十一      柏軒の古銭蒐集
その百五十二      蘭軒の刻弘安本孝経跋
その百五十三      孝経の沿革
その百五十四      森枳園の入門
その百五十五      蘭軒の避暑旅行
その百五十六      蘭軒の松平露姫遺墨題詩
その百五十七      霞亭一週忌と茶山の書牘
その百五十八      茶山書中の事項、霞亭の女
その百五十九      茶山書中の事項、亀田鵬斎
その百六十       茶山詩集の刊刻と茶山の病症
その百六十一      霞亭の遺事追記
その百六十二      霞亭東徙の考証
その百六十三      本草経の沿革
その百六十四      本草経の沿革
その百六十五      阿部家世子の慶事と弘安本孝経の刻成
その百六十六      余語古庵
その百六十七      茶山椋湖舟遊の回顧
その百六十八      森島樸忠
その百六十九      蘭軒の吉野桜移植
その百七十       茶山の書牘
その百七十一      阿部侯蘭軒にゴロフクレンの服を賜ふ
その百七十二      蘭軒の芳桜歌と諸家の題詠
その百七十三      中蔵経考
その百七十四      活人指掌方考、亀田鵬斎市野迷庵歿
その百七十五      茶山の書牘
その百七十六      榛軒の新婦
その百七十七      茶山八十の誕辰
その百七十八      門田朴斎
その百七十九      茶山の死
その百八十       元槧千金翼方考
その百八十一      書籍の銓択
その百八十二      柏軒の立志
その百八十三      柏軒の立志
その百八十四      門人の蘭軒医話著録
その百八十五      山室子彦
その百八十六      幼女万知歿、蘭軒平素の身辺
その百八十七      蘭軒の死
その百八十八      蘭軒の逸事
その百八十九      蘭軒の逸事
その百九十       蘭軒の近視
その百九十一      蘭軒の飼猫
その百九十二      蘭軒の潔癖
その百九十三      蘭軒の筆蹟
その百九十四      蘭門の五哲
その百九十五      宋版明堂鍼灸経、荏薇問答
その百九十六      荏薇問答の合作柬牘
その百九十七      柏軒の機智
その百九十八      福山の人物評
その百九十九      頼氏の動静、柏軒と慊堂との対面
その二百         石経山房
その二百一       榛軒の後妻
その二百二       飯田氏の素性
その二百三       錦小路家の事
その二百四       頼山陽の死
その二百五       山陽終焉時の問題
その二百六       山陽の終焉と関藤藤陰
その二百七       関藤藤陰
その二百八       関藤藤陰
その二百九       山陽未亡人里恵
その二百十       未亡人里恵
その二百十一      未亡人里恵
その二百十二      頼杏坪の死
その二百十三      狩谷棭斎の死
その二百十四      棭斎の子
その二百十五      棭斎の妻
その二百十六      柏軒の婚姻
その二百十七      柏軒の女柏の初節句
その二百十八      池田京水の死
その二百十九      池田氏の成行
その二百二十      池田氏の成行
その二百二十一    池田氏文書
その二百二十二    池田氏文書
その二百二十三    池田錦橋伝
その二百二十四    池田錦橋伝
その二百二十五    池田錦橋伝
その二百二十六    池田錦橋伝
その二百二十七    池田玄俊伝
その二百二十八    池田玄俊伝
その二百二十九    池田玄俊伝
その二百三十      池田玄俊伝
その二百三十一    池田京水伝
その二百三十二    池田京水伝
その二百三十三    池田京水伝
その二百三十四    池田京水伝
その二百三十五    池田京水伝
その二百三十六    池田京水伝
その二百三十七    池田京水伝
その二百三十八    池田氏系譜の来歴
その二百三十九    池田氏系譜の来歴
その二百四十      黄檗山錦橋碑
その二百四十一    池田氏の現在
その二百四十二    榛軒主催の尚歯会
その二百四十三    松崎廉堂
その二百四十四    阿部侯森枳園を追ふ
その二百四十五    柏軒剃髪
その二百四十六    信階三十三回忌、榛軒古文孝経を神宮文庫に蔵む
その二百四十七    榛軒躋寿館講師拝命、信階筮仕記念会
その二百四十八    関藤藤陰の覆検
その二百四十九    関藤藤陰の覆検
その二百五十      榛軒本所、中川に遊ぶ
その二百五十一    蘭軒十七回忌法会
その二百五十二    榛軒箱根に遊ぶ
その二百五十三    榛軒箱根に遊ぶ
その二百五十四    榛軒御目見医師となる
その二百五十五    柏軒医学館医書彫刻取扱手伝拝命
その二百五十六    森枳園の阿部家帰参
その二百五十七    小島宝素歿、榛軒の日光山遊
その二百五十八    蘭軒の姉正宗院八十賀
その二百五十九    正宗院歿
その二百六十      柏軒躋寿館講師拝命
その二百六十一    榛軒の死
その二百六十二    榛軒の葬儀
その二百六十三    榛軒等の観劇
その二百六十四    榛軒等の観劇
その二百六十五    榛軒等の観劇
その二百六十六    榛軒時代の年中行事
その二百六十七    榛軒時代の年中行事
その二百六十八    榛軒の敬神礼仏
その二百六十九    榛軒の講学
その二百七十      榛軒の医業
その二百七十一    榛軒の医治
その二百七十二    榛軒の交友知人、森枳園、渋江抽斎、混外上人
その二百七十三    榛軒の交友知人、村片相覧、同周覧
その二百七十四    榛軒の門人、清川安策、柴田常庵
その二百七十五    榛軒の門人、石川貞白、渋江垣善、須川隆白
その二百七十六    榛軒の門人、渡辺昌盈、飯田安石、坂上玄丈
その二百七十七    榛軒の資性
その二百七十八    榛軒の資性
その二百七十九    榛軒の植物愛好
その二百八十      榛軒の飲饌
その二百八十一    榛軒詩存
その二百八十二    棠軒の阿部家侍医任官
その二百八十三    伊沢氏の茶番
その二百八十四    伊沢氏の茶番
その二百八十五    伊沢氏の茶番
その二百八十六    茶番の由来
その二百八十七    森枳園躋寿館講師拝命、江戸大地震
その二百八十八    柏軒妻狩谷氏の地震記
その二百八十九    狩谷氏の地震記
その二百九十      狩谷氏の地震記
その二百九十一    松田道夫
その二百九十二    幕医柴田氏事蹟
その二百九十三    柏軒の阿部家侍医任命
その二百九十四    蘭軒医談校刻
その二百九十五    蘭軒医談と楸字
その二百九十六    狩谷懐之歿
その二百九十七    阿部正弘の卒去と柏軒
その二百九十八    阿部正弘の卒去と柏軒
その二百九十九    阿部正弘の蘭医方排斥
その三百         榛軒の蘭医方排斥
その三百一       榛軒の蘭医方排斥
その三百二       阿部正弘卒去に対する浮説
その三百三       伊沢氏に対する浮説
その三百四       柏軒御目見医師となる
その三百五       柏軒妻狩谷氏の死
その三百六       渋江抽斎の死、森枳園御目見医師となる
その三百七       柏軒幕府奥詰医師拝命
その三百八       柏軒の新居
その三百九       葉軒阿部家奥医師任命
その三百十       柏軒奥医師に進み法眼に叙す
その三百十一      石塚豊芥子の死、柏軒女洲の死
その三百十二      塩田良三
その三百十三      将軍家茂の上洛
その三百十四      将軍家茂の上洛
その三百十五      将軍家茂の上洛
その三百十六      将軍家茂の上洛
その三百十七      将軍家茂の上洛
その三百十八      将軍家茂の上洛
その三百十九      将軍家茂の上洛
その三百二十      将軍家茂の上洛、柏軒の死
その三百二十一    柏軒の死
その三百二十二    柏軒の死、其学風
その三百二十三    柏軒の学風
その三百二十四    柏軒の学風、処方、病家、相貌
その三百二十五    柏軒の近視、癖好
その三百二十六    柏軒の敬神
その三百二十七    柏軒の門人、清川氏
その三百二十八    柏軒の門人、清川氏
その三百二十九    柏軒の門人、清川氏
その三百三十      柏軒の門人、志村氏
その三百三十一    柏軒の門人、志村氏
その三百三十二    柏軒の門人、志村氏
その三百三十三    柏軒の門人、塩田並松田氏
その三百三十四    柏軒の門人、松田氏、岡西氏、其他
その三百三十五    長州征伐
その三百三十六    王政維新
その三百三十七    箱館役、福山より靹へ
その三百三十八    箱館役、靹より箱館へ、箱館より青森へ、油川村
その三百三十九    箱館役、油川村冬営
その三百四十      箱館役、油川村冬営、新年
その三百四十一    箱館役、油川村舎営、温湯村行、弘前行
その三百四十二    箱館役、江刺の戦、二股木古内の戦、五稜廓
その三百四十三    箱館役、五稜廓陥落、東京を経て福山へ凱旋
その三百四十四    故旧の懽迎、藩医、世録
その三百四十五    棠軒吉津村永住
その三百四十六    棠軒女長の縁談
その三百四十七    藤陰称関藤氏、枳園上京、狩谷矩之移居
その三百四十八    棠軒入京、代枳園
その三百四十九    津山碧山の父祖昆弟
その三百五十      津山碧山、枳園の西帰、磐安静岡の居
その三百五十一    大久保主水、棠軒の掩京、鳥居坂伊沢氏、矢島優善
その三百五十二    棠軒と津山父子と福山に赴く
その三百五十三    棠軒の罷免、道号を通称とす、讃岐行
その三百五十四    藤陰の子と枳園の子との死、約之の女婿
その三百五十五    枳園養孫の嗣家、枳園の吉野行
その三百五十六    岡待蔵称寛斎、枳園寛斎及磐入京
その三百五十七    磐挙家入京、寓于鳥居坂宗家、宗家養信平為子
その三百五十八    碧山の父の死
その三百五十九    長適津山碧山
その三百六十      門田朴斎と渡辺樵山との死
その三百六十一    棠軒藤陰の贈答、東京繁昌記
その三百六十二    東京繁昌記評
その三百六十三    棠軒奉還家禄、枳園刻蘭軒遺稿成
その三百六十四    棠軒子季男、枳園著伊呂波字原考、棠軒姫路鳥取行
その三百六十五    枳園寄書棠軒
その三百六十六    枳園維新後の経歴、狩谷氏移居、矩之と従之と
その三百六十七    棠軒の死
その三百六十八    現存せる蘭軒の裔孫
その三百六十九    伝記の客観叙法
その三百七十      立伝附載系族、文長倦人
その三百七十一    歴史を排斥する時代傾向


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