収穫回顧投稿者:やす 投稿日:2012年12月30日(日)22時05分38秒 |
今年は私生活に於いて、まことにめまぐるしい一年でありました。 来年は引き続き、人生の一区切りをつける一年となりさうです。 独坐聴啼鳥 独坐 鳥の啼くを聴き 関門謝世嘩 門を関ざして世嘩を謝す 南窓無一事 南窓 一事なく 閑写水仙花 閑かに写す 水仙花 年末年始は夏目漱石みたいな心境で閑居読書にいそしめたらいいのですが、 毎日老犬の下の世話に奔走する我が家では 独坐聴啼犬 独坐 犬の啼くを聴き 隣門謝臭禍 隣門 臭禍を謝す 南窓有一事 南窓 一事有り 閑瀉水洗禍 閑かに瀉ぐ 水洗の禍 といった感じでせうか(笑)。世話中に腰を痛め、万事億劫の寝正月となりさうです。 みなさまよいお年を。 本年のおもな収集品は以下の通り 掛軸: 原采蘋、服部擔風、頼三樹三郎、村瀬太乙、村瀬秋水、梁川星巌 色紙: 村瀬藤城、村瀬雪峡 折帳: 篠崎小竹、江馬金粟 写本:『行余堂近稿・述古斎詩稾』石井彭、『種邨親子筆』種邨恭節 和本:『高山竹枝』森春涛、『攝西六家詩鈔(含後藤松陰詩鈔)』、 『静軒百詩』寺門静軒、『松塘小稿』鈴木松塘、『清狂詩鈔』月性 『問鶴園遺稿』戸田葆堂、『鳳陽遺稿』神山鳳陽、『柳橋新誌』成島柳北、 『珮川詩鈔』草場珮川、『艮齋文略』『遊豆記勝・東省續録』安積艮齋 詩集など: 『生れた家』木下夕爾 『人間山岸外史』池内規行 『人間キリスト記』『眠られぬ夜の詩論』『煉獄の表情』山岸外史 『花とまごころ(増補活版)』竹内てるよ 『松村みね子訳詩集』 『音楽に就て』上林猷夫 『天地の間』藤原定 『干戈永言』『寒柝』『朝菜集』『覊旅十歳』『一点鐘』三好達治 『母』半井康次郎 『詩と詩人詩集』淺井十三郎 編 『鉄斎研究』本巻65冊 小高根太郎 (図書館納品) 『富岡鉄斎 仙境の書』野中吟雪 といったところ。 変ったものでは学生時代から敬愛する畑正憲先生の初版本とか(笑)。 しめて20万円ほどの購入は、他に耆むものもない自分として今年も分相応の散財でした。 |
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『人間山岸外史』投稿者:やす 投稿日:2012年12月10日(月)00時23分5秒 |
これまで掲示板でも同人誌「北方人」における連載を逐次御紹介して参りました池内規行様より、さきの『評伝・山岸外史』(万有企画 1985)を補筆して、新たにそれら“山岸外史人脈”に関する項目を連結させた新刊『人間山岸外史』(水声社
2012)の御寄贈を賜りました。不意打ちにも近い此度の刊行には爽快な驚きを感じ、もとより内容については既に読んだものである筈にも拘らず、装幀も瀟洒に一新され、近来の物忘れも手伝って却って最初から読ませて頂く楽しみを新たにしてをります。特筆すべきは、山岸外史をめぐっては私淑する一人者を譲らない下平尾直氏が編集の一切を担はれたといふこと。装釘もハイセンスな仕上がりに一新され、ことにも前著には無かった貴重な写真資料群は、太宰治研究者ならずとも必見とするところでありませう。 合せて今回著者よりは『眠られぬ夜の詩論』『人間キリスト記』の御恵投にも与り、恐悦至極の有様です。急遽思ひ立ち古書店に発注した『煉獄の表情』とともに御著の理解に資する(あ、それは反対ですね 笑)これら原典につきましては、いづれ年末年始にでもゆっくり読書の時間をつくって臨むこととして、まづはここにても刊行のお慶びかたがた篤く感謝を申し上げる次第です。 ありがたうございました。 |
『感泣亭秋報』7号投稿者:やす 投稿日:2012年12月10日(月)00時11分57秒 |
(無題)投稿者:やす 投稿日:2012年12月10日(月)00時06分15秒 |
石塚邦男様 おしさしぶりです。とても穏やかな古典修養の場と化してをります(笑)。 さても皆様よりの頂きものが其の儘となってをり、それぞれ私信にては御礼申し上げて参りましたものの(杉本深由起様、手皮小四郎様、ありがたうございました。)、とりわけて大切な2冊について御紹介が遅れてをります。 出張や日々の雑事に忙殺されてをりましたが、これ以上の延引は許されず、御周知頂くため一旦上記刊行の御報告まで申し上げます。 |
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篠崎小竹手蹟法帖投稿者:やす 投稿日:2012年11月13日(火)22時44分7秒 |
ところでオークションは欲しいものが出るたびに入会を繰り返して未だ縁が切れてをりません(見なきゃいいんです。苦笑)。このたび落札したのは篠崎小竹の手蹟法帖。さきに頼山陽と後藤松陰の自筆ものを入手してゐましたから、山陽の親友であり、松陰の義父であり、また我が家の書斎に挂けられた「黄巒書屋」扁額を揮毫された小竹翁のものとあっては、見過ごすことはできませんでした。無事落札に安堵。而して何が書かれてゐるのかも、小山正孝先生の訳文に助けられてをります。けだし一昔前なら入手方法も要脚も儘ならなかった、全国各地にお蔵入りとなってゐた旧世代の精神遺産たるお宝書蹟が、前述したところの継承断絶の末に、かうして貧乏収集家の許に再編されて一同に会することにもまた感慨を少なしとしません。詩人の訳とともに紹介致します。 「丹青引」 ―贈曹将軍霸― 杜甫 [ : ]は[原作:書帖]の異同を示す。 將軍魏武之子孫 於今為庶為青門 英雄割據雖已矣 文[采:彩]風流今尚存 學書初學衛夫人 但恨無過王右軍 丹青不知老將至 富貴於我如浮雲 開元之中常引見 承恩數上南熏殿 凌煙功臣少顏色 將軍下筆開生面 良相頭上進賢冠 猛將腰間大羽箭 褒公鄂公毛髮動 英姿颯爽[猶:來]酣戰 先帝[御:天]馬玉花驄 畫工如山貌不同 是日牽來赤墀下 迥立閶闔生長風 詔謂將軍拂絹素 意匠慘淡經營中 斯須九重真龍出 一洗萬古凡馬空 玉花卻在御榻上 榻上庭前屹相向 至尊含笑催賜金 圉人太僕皆惆悵 弟子韓幹早入室 亦能畫馬窮殊相 幹惟畫肉不畫骨 忍使驊騮氣凋喪 將軍畫善蓋有神 [偶:必]逢佳士亦寫真 即今漂泊干戈際 屢貌尋常行路人 塗窮[反:返]遭俗眼白 世上未有如公貧 但看古來盛名下 終日坎壈纏其身 絵画をうたう 将軍は魏の武帝曹操の子孫だ 現在は庶民だがもともとは名門の出なのだ 英雄割拠した時代はすぎ去ってしまったが 曹氏一門の文学芸術にすぐれた気風はなおつたわっている 書を学んで初め衛夫人の書風を学んだ 王右軍にかなわないのがただ残念だというまでになった 絵画の道に入っては年をとるのも気づかないほどだった そうした身にとって富や貴い位は空にうかぶ雲のように関係ないものだった 開元の頃にはいつも天子にお目にかかり その恩寵をうけて何度も南薫殿に参上した 凌煙閣の功臣たちの肖像が年月に色あせていたのが 将軍がそれに筆を加えると生き生きとよみがえった 名宰相が頭上にいただいている進賢冠 勇猛な将軍の腰のあたりの大羽箭 褒国公や鄂国公の毛髪は動いている その姿は颯爽として戦いのまっただ中からいま来たばかり 先帝の御乗馬の玉花驄は 画工が何人も山のようにたくさん描いたがなかなか似ない この日赤くぬった階の所までひきつれて来た はるか彼方宮門に立つとさっと一陣の風がまきおこった 将軍に対して写生するようにとの天子のお言葉があった 構図をいろいろに苦心して考えて工夫していたが あっという間に宮中にまことの竜馬が出現した 古来描かれて来た平凡な馬の姿なんかさっと洗い去った 玉花驄はいまやかえって天子の腰かけの上の方にいる 腰かけの上の方と庭前の方とそれぞれさっと立って向かいあっている 天子はにっこりとしてほうびの金をやれとおっしゃっている 馬のかかりの役人たちは皆このありさまにびっくりした 将軍の弟子の韓幹は早くから技法を極めていた そして馬を描いてもまたなかなかみごとなものであった ただ韓幹の場合はその形を描いてもまだ本当の精神は描けなかった 素晴しい馬が意気あがらずに描かれてしまうのはなんともやりきれない 将軍の描く絵には精神がこもっている 立派な人物の場合にはそれこそ真実の姿をうつし出すだろう いま戦乱の世にあってあちこちとさすらっているので しばしば平凡なつまらない行きずりの人を描いている 行きづまって困っている人間は世俗の人からは白眼視される 世間には将軍のように貧しい暮しの人もないようだ そこに見るものは昔から名声のある芸術家は 志を得ず不遇の境涯を送る運命にまとわりつかれているということだ 七言古詩。成都での作。原題は「丹青引」で、丹青は絵画に用いる赤や青たどの顔料からひいては絵画そのものをさし、引は曲調の一種でうたの意。したがって「絵画のうた」の意である。この詩には原注が付されており、「曹将軍覇に贈る」という。左武衛将軍の曹覇の画いた絵の絶妙さと、しかしそれが世上充分に遇されていないことをうたった作品。 唐の張彦遠の『歴代名画記』巻九に「曹覇は魏の曹髦(曹操の曽孫)の子孫である。髦の画は後代に称えられている。覇は開元中にすでに有名になり、天宝末には天子の命で御馬や功臣をえがいた。官は左武衛将軍までのぼった」と記されている。しかし、天宝の末年には罪を得て、官籍を削られ庶人に貶されたと伝えられる。詩のなかにも曹覇の事跡はうたわれており、他にも曹覇の絵をうたった作品があり(「韋諷録事の宅にて曹将軍の画馬の図を観る引」)、曹覇の絵は杜甫に大きな感銘を与えていることがわかる。 この詩は『唐詩選』にも採られていて古くから名高く、傑作の一つである。【小山正孝】 |
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「杉山平一追悼号」その3 『季刊びーぐる』第17号投稿者:やす 投稿日:2012年11月 3日(土)22時39分6秒 |
「杉山平一追悼号」その2 『季』97号投稿者:やす 投稿日:2012年10月21日(日)02時36分17秒 |
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詩人がいつでも、どこでも自分の旧作を見ることができたら。投稿者:日野 投稿日:2012年 9月25日(火)15時23分18秒 |
本がいつ手に入るかは、運や縁など人智では謀りがたいものがありますから、お気になさらないで下さい。このように画像などを公開して下さること、ありがたく思っております。 詩人がいつでも、どこでも自分の作品を見ることができたら……新鮮な喜びを得るか、「こんなものを書いたのか」と頭が痛くなるか、悲喜こもごもかもしれませんね(笑) |
御礼投稿者:やす 投稿日:2012年 9月24日(月)20時57分29秒 |
日野俊彦先生、早速の御教示ありがたうございました。 自分でも“古本の女神”の再臨(?)を実感してをります此頃でございます。幸運はせめても画像を公開することで、著者の遺志ともども世間に返して参りたいと存じます。今後(これまでもですが)複本を集めるつもりはございません、何卒ご了解いただけましたら幸甚です。 以前もふれましたが、「日本古書通信」(2011年12月号)に、宮城県図書館の和本群が博物館に移管される話について、館員の方からの報告記事がございました。先日も職場の学芸員の方と意見交換することがあったのですが、江戸時代の刊本をコピー・スキャンにかけることを古文書と同列にみなし禁ずる博物館の立場と、可能な限り利用促進を図らうとする図書館の立場とでは、和本に対する立ち位置が全く異なるもののやうです。私は、和本を読める人材が絶えようとしてゐる現在、それらを読み下して後世に遺す作業が日本読書界の喫緊の課題ではないかと思ってをります。和本はノドを圧してスキャナーの微弱な光線に当てた位では傷みませんし、公開サーバーの環境さへあれば特段の「予算」など必要ないのです。何より世に行はれることを願って公刊された著作物の原姿を、研究現場の方々だけでなく広く在野の篤志家も自由に閲覧できる環境を整備してゆくこと。研究に先立ち、著者たる江戸時代の先賢に対する礼儀と心がけたく思ひます。 といふことで取り急ぎ画像のみですが、星巌門下の雋鋭詩人たちの最初期の詩集、『枕山詩鈔(嘉永版)』『湖山楼詩鈔(嘉永版)』『松塘小稿』も合せて今回upいたしました。後年の明治定稿版との異同など、興味深いところも多々あるのではないかと思ひます。さきに記したタブレットに全ページの画像を入れて持ち運んでゐますが、原本を傷めず、老眼を気にせず、どこでも楽しめるので重宝です。当年の詩人が液晶画面上に指で自在に拡大される自分の詩集をみたら吃驚するでせうね。 |
『高山竹枝』の評者について投稿者:日野 投稿日:2012年 9月24日(月)12時19分2秒 |
もしかすると、それは和○会の金●堂書店からの購入ですか?とすれば、外れても悔しく……やっぱり悔しいかな(苦笑)袋もあり、美本のようですね。 『高山竹枝』の評者についてですが、島木公は家里松オ(島=オ、木公=松)、精所は春濤の弟の渡辺精所です。以上、ご報告まで。 |
『高山竹枝』投稿者:やす 投稿日:2012年 9月23日(日)01時16分54秒 |
待ちに待った郷土漢詩集の稀覯袖珍本にして森春濤の処女詩集『高山竹枝:たかやまちくし』(慶応2年跋)が到着。全頁の画像を公開しましたので御利用下さい。早速私も南山大学の先生方によって書き下された詳細な注解を片手に、さらにタブレットにとりこんだ画像を拡大表示したりして、三者を見比べながら楽しんでゐるところです。 疾風怒濤の幕末の世にこんな小粋でささやかな竹枝詩集を、最早老境にさしかかった自身の遅すぎる処女詩集として、地方で自家出版した詩人の心境や如何。序跋も誰にも依頼せず、巻頭は一番弟子である能書家永坂石埭に、かつて飛騨高山に赴任してゐた先輩詩人館柳湾の詩を代書させてゐます。わづかな余白に藤井竹外、遠山雲如、鷲津毅堂ら先輩友人による鼇頭評もあり(木公と精所は誰でせう)、我が蔵書中では一番小さなお宝本となりました。 また同時に、森春濤と同門下である鱸松塘(鈴木彦之)の処女詩集も入手。春濤より4歳後輩ですが、こちらの『松塘小稿』は遡ること20年の天保14年、若干二十歳の記念に刊行された少年詩集です。とはいっても序跋は、竹内雲濤、大槻磐溪、菊池五山、大沼枕山、生方鼎齋と本冊の1/4を占めて重々しく、挿画の書斎も…見た感じぢゃこっちの方が御隠居さんみたいなんですがね(笑)。もちろん稀覯書に相違なく、同様に画像をupしたいと思ひます。お待ちください。 |
近況 ―富岡鉄斎関係投稿者:やす 投稿日:2012年 9月18日(火)12時17分11秒 |
ツイッターではチョコチョコ呟いてをりましたが、こちらは久しぶりの更新。 富岡鉄斎研究家の野中吟雪先生に、仕事上でしたが新潟の御自宅まで御挨拶に伺ひ、コギト同人でもあった小高根太郎氏の話を伺ったり、また鉄斎翁遺墨コレクションの一部を拝見させて頂きました(写真は鉄斎書き入れ旧蔵書の一冊)。出張から帰還すれば『鉄斎研究』65 冊版の揃ひを、古書肆から破格値で図書館に納入することを得て喜んでゐるところ。いふまでもなく『鉄斎研究』は、膨大な画賛釈文を小高根氏が集成された唯一の基本文献です。 折しも中国・韓国では反日運動が激化してをります。これからの日本の在り方(姿勢)を考へ直す意味でも、漢文学・尊王精神の両つながらを重んじた“儒者”鉄斎翁の存在といふのは、日本が物欲一辺倒から精神的に復帰しなくてはならぬといふ切実な課題に向かふ際、人倫の位相を戦前の政治体制に廻らすのではなく、幕末の尊王攘夷運動にまで遡り、日本の国柄として一本筋を通しながら考へ直してゆく必要があるのだといふことを、強く感じさせてくれます。 さて、日常生活不如意になりつつある家族の世話に追はれ、正直どこにも出かけたいとも思へず、かといって本も読めず、「三日書を読まざれば、面目憎むべく語言味なきを覚ゆ」ることをつくづくと実感。「行ひて余力あらばすなはち以て文を学べ」などと言ひ訳に終始するこの頃です。とまれ前の漢詩集のみ、やうやくスキャン致しましたので、出来損ひの書き下しとともにup乞正、何卒よろしくお願ひを申し上げます。 此の冊、今は得る可からず也。 浜地庸山、名は任重、伊勢の人なり。元人を法として峯巒 林壑、清疎にして澹蕩。釧雲泉とほぼ同格なり。 画乗要略 著者は書を読むも博からず。其の摘録する所の書、 誤りて大いに順序を欠して未だ要領を得ざる所有り。 余、深く惜しむ。 鉄道人妄記。 |
写本詩集二冊投稿者:やす 投稿日:2012年 7月19日(木)19時53分36秒 |
写本詩集を2冊入手した。世に一冊きりしかない近世の個人詩集を手にするのは初めてである。 著者は森春濤の門下だった石井梧岡【弘化4年7月27日(1847)−明治37年5月29(1904)】といふ医師。明治4年、五等医として出仕、書籍出納の仕事を経てその後愛知医学校の教官などをつとめたといふ※。名を彭、字を鏗期、希腎、通称は栄三、梧岡は号である。父は石井隆庵といひ、西洋医学黎明期の医制改革にも関った尾張藩医の家柄。 この2冊「述古斎詩稾」「行余堂近稿」は弘化4年 (1847)の生年からすればそれぞれ、18才、33才時のときに清書されたもの思はれるが、当初は号を梅圃、居処も述古齋と自称してゐたやうである。巻頭の永坂裒卿宅といふのは、同門の2年年長だった永坂石埭のことであらうか。永坂はのちにお玉が池の星巌旧宅を発見してそこに住まふ素封家であるが、裒卿なる字も初見である。なほ調査中、いづれサイトに画像公開の上、翻刻しますのでお楽しみに。 |
ありがとうございます。投稿者:服部剛 投稿日:2012年 7月13日(金)06時20分30秒 |
こんにちは。四季の詩人のこころの原質を吸収し、学びながら、僕も詩を書いてゆきたいです。日本の詩人の回帰する原点のような気がします。「ストーブ」は杉山平一先生らしい詩で、今の僕の日常の心情にも重なり、励まされました。 http://6426.teacup.com/cogito/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fpoetrytheater.blog110.fc2.com%2F |
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「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第17回 死よ!来たることの何ぞ遅々たる投稿者:やす 投稿日:2012年 4月15日(日)02時11分55秒 |
さて、前後しましたが、手皮小四郎様よりは『菱』177号を御寄贈頂いてをります。わたくし事にかまけて未だ御礼状を認めてをりませんが、紹介を先にさせて頂きます。 今回の「荘原照子聞書き」は、「兄の庇護の元に、母とギリギリの生活を送っていた」昭和十年代の横浜六角堂在居時代が描写されてゐますが、貧乏には貧乏の上をゆく輩がゐるもので、キーパーソンとして何と稲垣足穂が登場します。同類と呼んでは叱られさうですが、けだし荘原照子のポエジーが、政治的な色合ひを帯びることは否定しつつも、何かに妥協することは頑なに拒み通す性質にあったことを、タルホを褒めちぎる聞書きの様子がよく語ってゐるやうな気もしたことです。そして彼女が稲垣足穂や、北園克衛の「VOU」から離脱した岩本修蔵、山田有勝らと拠った「詩とコント」〜「カルトブランシュ」といふ雑誌のことが紹介されてゐるのですが、こちらも初出であります。特筆すべきはここで展開される「コント」といふジャンルなのですが、もちろん現代のコント――戦後ストリップ劇場の幕合に誕生し、テレビ番組とともに成長した今日の「芸人コント」とは関係がありません。雑誌を支へた澤渡恒(1916-1951)をはじめとする立教大学出身の詩人達は、最初にこの文芸コンセプトを誌名にも付して旗揚げをし、やがて「ブランシュ:白」といふ、当時すでに使ひ古されたのではないかとも思はれる言葉を選び、これまたいくぶんバタ臭さを感じさせる表紙デザインでもって雑誌の一新を図ったやうです。謂はば一時代前のモダニズムやナンセンス文芸の系譜上にあって、軽薄文化が失速しつつあった1930年代の後半、自覚的にポエジーを寸劇の中に閉じ込めたオチ無しファンタジーを、「コント」と呼んで制作し続けた訳ですが、果たしてそれがエコールとして「戦争前夜のシュルリアリズム」と呼び得る社会的な韜晦であったのかどうかといふことは、同人各人に当るべきでせうし、前衛音痴の私にはちょっと分かりかねるところであります。荘原照子は、タルホの「一千一秒物語」の書割りテイストを有した「家」といふ「コント」を遺してをり、これは次回の連載でも触れられると思ふのですが、雑誌の精粋は、戦争で刊行できなかった『薔薇園傳説:カルト・ブランシュ コント集』(1986年,澤渡恒編,デカドクラブ(山田有勝方),197p,21cm)の中に、それから雑誌の中心にあった澤渡恒の遺稿作品集『エクランの雲』(2002年,郡淳一郎編,ギャラリーイヴ,29p,30cm,付録つき)といふ限定版冊子において、さきの「家」などとともに読むことができます。なので次号刊行までに是非予習いたしませう(「ムハハハ※。」笑;)。付録の当事者による対談集(聞き手・構成:内堀弘)も貴重だと思ひます。 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。 連載第十七回 「モダニズム詩人 荘原照子聞書」 死よ!来たることの何ぞ遅々たる――横浜市神奈川区六角橋金子町 『菱』177号 2012.3, 37-43p ※「ムハハハ。」は、荘原照子が文末に用ゐた常套句の一つの由。 |
はなぐもり投稿者:やす 投稿日:2012年 4月14日(土)20時17分17秒 |
御住職さま いつぞやはメールにてレファレンスをありがたうございました。 「庄原篁墩」、名は懿、字は彜卿、通称文助。周防の人、安政中江戸に住む。別号に柳暗。 以前「山田鼎石」を紹介した際、高々200年余で「先生」も無縁仏にされてしまふ現今の日本に長大息したことでしたが、東京の一等地にあるお寺が、公的指定に拘らず先賢の塋域を手厚く保全されてをられる姿勢に脱帽感嘆いたしました。以前(2009年)お送り頂いた写真と情報をここに紹介させて下さいませ。 左:墓碑面欠損 明治15年8月31日没 (明治17年荘原和氏建立) 中央: 篁墩先生(庄原篁墩)之墓 文久元年10月17日没 右:荘原和氏 明治31年6月10日没 御案内をありがたうございました。 折から桜も満開で美しいお花見もできるのではないでせうか。 庄原篁墩のものではありませんが、自蔵の掛軸より一幅紹介。 一池春水[岩]生煙 多少山櫻靜言眠 漠漠濃陰未成雨 慈雲閣畔養花天 詩佛老人 一池の春水、[岩?]、煙を生ず 多少(多く)の山桜、静かに言(ここ)に眠る 漠漠たる濃陰(曇天)、未だ雨を成さず 慈雲閣畔、養花天(花曇り) 詩佛老人 解読訓読御教示を待ちます。「慈雲閣」は増上寺でせうか。昔、池があったことを知りません。お寺の桜だから殊更「山桜」と掛けてゐるんでせう。 |
荘原家墓碑投稿者:一行院 住職 投稿日:2012年 4月14日(土)12時46分24秒 |
当山に荘原篁墩師の墓碑がございます。なぜ当山にあるのかは不明ですが、当サイトをご覧の方でご興味があれば是非ご参拝ください。
http://6426.teacup.com/cogito/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.ichigyo-in.jp%2F |
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『漢詩人岡本黄石の生涯』投稿者:やす 投稿日:2012年 3月25日(日)22時14分9秒 |
感謝投稿者:松田 投稿日:2012年 3月15日(木)10時56分54秒 |
山鶏の早速の更新、まことに有難うございました。 戯句のお返し。山鶏やせっつかれずとも素早くて。 |
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「朔」173号 坂口昌明追悼号投稿者:やす 投稿日:2012年 2月29日(水)00時47分21秒 |
圓子哲雄様より「朔」173号をお送り頂きました。同封の挨拶状を一読、なにはさておいても御病気の件、御養生専一のこと切にお祈り申し上げます。と同時に後記にありました『村次郎全詩集』刊行のことも初耳にして、こちらはお慶び申し上げる次第。八戸市内の書店でのみ取次いでゐるといふことですが、地元だけで700部の初版を瞬く間に売り切った由。検索したら昨年は刊行に合はせて回顧展も行はれてゐたんですね。 さて今号は昨秋亡くなった坂口昌明氏の追悼号です。東京生まれの坂口氏が、親友小山正孝の青春の地であったことをきっかけに南部の文学や津軽の民俗学に惹かれ、青森県に宿縁を結んでいったこと。その博識と述志に対して寄せられた賛嘆は、お会ひする機会のなかった私もまた同じくするところであり、あらためて『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を読んだ時に感じた、ただならぬ読後感──博覧強記のすさまじさを思ひ出しました。本邦初の小山正孝論がいきなり単行本で現れたこともさりながら、友情に託けることなく対象を客観視し、意表に出た類比隠喩には立ちくらみさへ催したこと。氏のもどかしげな探究心が進取の気性を以て常に埋もれたものを世に出したいといふ奇特な使命感に向ふとき、時間はどれだけあっても足りることなどなかったと誰しも思はれたのも宜也哉でありませう。 巻頭には小山正孝ご子息正見様の追悼文が掲げられてゐます。今後の「感泣亭」諸活動に与へる影響が心配されるところですが、坂口氏のお人柄を詩人小山正孝との関りに於いて身近なところから述べることができるのが、正見様と御母堂だけであるのも確かです。 坂口さんの著書『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を執筆するにあたって彼は正孝に一言も聞かなかったと言う。また、本を受け取った正孝の方もニヤリと笑っただけだったらしい。」 2p 「万事用意周到であった」といふ、かけがへのない支柱を失った活動の行方を、ブログ更新とともに見守りたく思ひます。 そして圓子様の回想。「朔」誌との関りに於いては、「眼光鋭く、一目で私は見破られたと思った。」といふ、この稀代の祖述者との交流を、師匠である詩人村次郎顕彰の思ひに絡めて活写されてゐますが、特に師の日本語学説については、自ら世に問ふ事のなかったのを惜しみながら、外国語のひとつも自家薬籠中の物にした上で、斯界の現状を鑑みながら論旨を構築してゆくものでなければ、およそ新学説など認められることなどないことを、弟子である圓子様に対して一夜の席上、釘を刺されたといふ一節が興味深いです。坂口氏とは正反対の気質を有しながら(今回のエッセイもロマン派よろしく寄り道がまことに楽しい)、かかるエピソードを敢へて示された圓子様にも、私は贔屓の引き倒しではない先師に対する思ひを強く感じます。さうして隠遁者の自己抑制が永きに過ぎて自己防御に変じてしまった詩人の無念を晴らす為、あくまで地方にあって心を砕き続けてきた圓子様を、坂口氏のこれまでの小山正孝に対する顕彰営為が、形を以て無言で励まし続けて来たのは確かなのです。三者三様ですが、進取の気性が世に報ゐられること尠かったのは一緒なのであって、もし坂口式の比較手法で、村次郎の学的側面が解説されることがあったらどんな眺望が拓けたことでせう。圓子様も頼りにし、全詩集刊行でやうやく詩人にもスポットライトがあたるやうになった矢先の氏の訃報が悔やまれてなりません。御冥福をお祈り申し上げます。 ここにても寄贈の御礼を申し上げます。ありがたうございました。 |
(無題)投稿者:やす 投稿日:2012年 2月20日(月)12時44分3秒 |
先日、拙サイトの旧い文章を読み返して下さってゐるといふ有難いお便りを頂き恐縮した。久しぶりに自分でも読み返してみたのだが、稚拙な字句行文に手を入れずには居れなくなり、古いところは改稿に等しいものとなってしまった。掲示板の過去ログばかりは、交信記録なのでどんなに恥かしくとも削除をふくめ手を入れることはしないが、まことにこの十年余、自らの文章の変ったところ、相も変らぬところを前にして、あきれたりあきらめたりしてゐる。 |
詩集『生れた家』投稿者:やす 投稿日:2012年 2月12日(日)18時18分18秒 |
極美の「笛を吹く人」が、片々たる「昔の歌」を、造りが壊れた「田舎の食卓」で披露する。――これがあこがれてゐた「生れた家」だ。「晩夏」の夢の続きを見るがよいと…。 といふことで(笑)、半ばは手にすることを諦めてゐた稀覯本の一冊、木下夕爾の第二詩集『生れた家』(昭和15年刊)が抽選の結果、我が家に到着した。古書展には果たして何人の希望者があったらうか。幸運と、売って下さった古本屋さんにあらためて感謝申し上げます。 戦前に処女詩集を刊行して、一旦名声を確立したのちに、さらにそれらを上回る境地を拓いて戦後大成した抒情詩人は、と問はれれば、私はまず木下夕爾、そして蔵原伸二郎ふたりの名を以て指を屈することにしてゐる。もっとも蔵原伸二郎は、淺野晃や伊福部隆彦らと同様、大東亜戦争に惨敗して落魄の果てに詩人として“目明き”となった別格であり、老残の境地であることを考へるなら、木下夕爾は当時まだ三十の若者だったにも拘らず、戦後現代詩の外連味(けれんみ) を帯びることなく、青春のアンニュイを誠実に歌ひ続けた詩人であり、中央詩壇からは距って、生前に再びその名がのぼることはなかった。彼の詩を読み詩を書きたくなった私のやうな後学にとっては、それがまことに口惜しくも、またこよなく尊い師表とも映ったものである。 続いて指を屈すべき詩人の一人、杉山平一が百歳を前にして今なほ新刊詩集を世に問ふ現役であることを考へると、木下夕爾はたった6日しか誕生日が違はないにも拘らず、半分の五十年を一期として病に仆れてをり、不運は際だって見える。もちろん、更にそのまた半分の二十五歳で死んでしまった立原道造も、彼らと同じ大正三年生まれであってみれば、半世紀の生涯を「早世」と呼ぶことは憚られもするのだが、立原道造がその人なりの完全燃焼を感じさせ、大戦勃発前に散ったのに比して、立原の死後活躍を始めた木下夕爾は、戦中戦後の苦難の時代を聊かも抒情の節を枉げることがなかった。さうして詩の中に人生の完熟を手にしつつあった詩人であり、さてこれからどのやうに枯れてゆくのかを見届けたかった、否、ただ、もっと長生きして頂いて謦咳に接することができたら、拙詩集にもきっと一言なりの叱咤激励を頂けたんぢゃないだらうかと、さう勝手に思ひ込んでゐた最上壇の詩人なのであった。今おなじく五十歳を迎へ、変らぬ気持ちで恥ずかしげもなく書くことができる自分がをかしい程である。 雑誌「四季」の同人であった同世代の杉山平一や大木実が、しばしばエコールとしての「四季派詩人」の端っこに位置する特殊性を以て外部から称揚せられてきたのとは異なり、彼は戦前の「四季」には一度きり寄稿しただけだったにも拘らず、むしろ「四季派」と呼ばれる抒情精神の本道を歩んだ人物であった。立原道造なきあとの、抒情詩人列伝中、最後に現れた真の実力者として、第四次の「四季」復刊(昭和42年)に際しても、もしそれがあと数年早かったなら、丸山薫をして必ずや三顧之礼を執って迎へられたに違ひない、といふのがわが詩人に対する偽らざる見解である。余談ながら“列伝”のしんがりには、別に、水や風の如き味はひのする「郷土詩」を書いた詩人、北園克衛、八十島・一瀬の両「稔」たちも挙げておきたい。(一瀬翁の決定版詩集『故園小景詩鈔』については特に広報したく特記します。) とまれ堀辰雄の周りに集まった雑誌「四季」の後輩人脈にあって、多くの若者達が大日本帝国の崩壊に伴ひ、却って「四季派」と呼ばれる気圏(危険)から遠ざからなくては己の詩のレーゾンデートルを保つことができなかった事情については、さきに第二世代である詩人小山正孝を引き合いに出してささやかなノートを試みてみたので、御覧頂ければ幸ひである。 木下夕爾は、詩的出発を「若草」投稿欄の堀口大学選に負ってゐる。上京時には持ち前の気後れが祟って師の門を敲けなかったとのことだが、また強面の三好達治が門番を務める「四季」誌上の「燈火言」に投稿することも、敷居が高く耐へ難かったやうだ。いったいに当時は、大正時代の口語詩の黎明期に一斉にデビューした先輩詩人達が、一人一冊主宰誌をもち「お山の大将」を決め込むことが謂はば詩壇のステータスになってゐた時代である。彼は早稲田から転学した先の関係からだらう、名古屋の詩人梶浦正之を頼って「詩文学研究」といふ詩誌に身を投じたのであった。そして「鳶が鷹を産んだ」といったら語弊があるけれども、そこから世に送り出した処女詩集『田舎の食卓』が、文藝汎論賞を受賞する。昭和14年10月の出版であり、3 月に死んだ立原道造には寄贈されなかった。(もっとも含羞と自負ゆゑに、それ以前にも「四季」の誰とも交通はなかったやうであるが。) さうして以後、家業(薬局)のために東京で文学修行する夢を断ち、不本意ながら地方に逼塞させられた彼は、ために戦災に遭ふことなく、また羸弱ゆゑに、銃をとることもなく戦争をやり過ごすことができた。前半生の道行きは、まこと「人間万事塞翁馬」を思はせるものがある。そして戦後にせよ、「四季」にコミットしてゐなかったからこそ、却って正統派の抒情詩人であり続けることができたのだとも云へ、果たして身に覚えのない「四季派」の名を以て指さされることに当惑することともなったのである。謂はば彼は、「四季派」といふ言葉が固有の誌名から解き放たれ、(「日本浪曼派」同様、)成心を以て一種のエコールとして敷衍認識(指弾)される際にも、最もわかりやすい指標となったのであった。 しかし同時に、宮澤賢治や立原道造をはじめ多くの一流近代詩人が志向した仮構の原風景が、憧憬的な北方的なそれであったのに対して、彼が詩情を仮託したふるさとが、瀬戸内の温順な気候のもとで優しい諦念が低徊する、非北方的な色合ひの強いものであったこと、これなどは不運であるよりか、むしろ東日本に傾きがちだった日本の抒情風土の地勢上の平衡を中心に戻すにあたって、微力ながら寄与したのではないか、さう肯定的に考へられもするのである。これは日本にあって経験された昭和初期モダニズムの下、京都・大阪・神戸の都市生活者詩人たちによっては、未だ充分には為し遂げられることのなかった宿題であったといっていい。これが、木下夕爾や渡辺修三ら、「四季」同人以外の、モダニズムの洗礼を受けた、都落ちした田舎住みの抒情詩人達によって、エキゾチズムから一切借りものをせずになされたといふところに、特筆に値するものがある。私はひとり勝手にさう思ってゐる。 江戸時代の漢詩においては文化的に顕著だった、京都・長崎を磁力源とする西日本方向への憧憬が、明治新体詩が興って失はれて以来、形を変じてふたたび詩の現場で、自らの故郷の自然に対してはたらき、読者を惹きつけるやうになったことを、東海地方在住の自分は特段の感慨をもって歓迎する。「日本の口語伝統抒情詩史上に起こった最後のエポック」と、さうまで云ったら大袈裟にすぎるか(笑)。まあ、それくらゐ木下夕爾の、詩と、仄聞される人となりが私は好きなのである。 以上、詩人をめぐっての印象を『生れた家』落掌の喜びを利用して一筆してみた。「生家訪問記」の隣に供へておきたい。
追伸1:この稀覯本を手にした感謝の念を表すべく(?)、代りに、没後新編された児童詩集『ひばりのす』を図書館に寄贈した。世知辛い改革で疲弊しきった教育現場にすすんで身を置かうとしてゐる学生に、ぜひ読んでほしいと思ってゐます。 追伸2:また日本中の図書館に所蔵のない彼の第4詩集『晩夏』(和装限定75部)の、書影と奥付の画像をサイト上に公開したいので、どなたか奇特な所蔵者がみえたら送って下さらないだらうか。と、やはりこの機会に呼びかけてみることにします。 |
蔵書印投稿者:やす 投稿日:2012年 2月 7日(火)22時40分19秒 |
『山川弘至書簡集 新版』投稿者:やす 投稿日:2012年 1月25日(水)09時00分48秒 |
さて新潟出張からの帰途、東京で途中下車して神保町にて一泊。翌朝、靖国神社に参拝してきました。今年は「山本五十六」の映画を観たこともあり、出張がてら長岡では山本五十六記念館や長岡高校記念資料館などを訪ね、余勢をかっての、でもないですが、実はわたくし、これまで戦争詩について考へたり書いたりしてきたものの(さうして八年間も東京に居ったにも拘らず)靖国神社に足を運んだことがなかったので、意を決して向かったのでありました(恥)。遊就館も初めて見学し、戦歿将兵の遺品遺書に圧倒され、遺影が四方の壁を埋め尽くしてゐるフロアでは、名簿を繰って故郷の詩人山川弘至(やまかわひろし)を、硫黄島で有名な栗林中将の遺影の隣に探し当てて、喜んでゐたのでした。 ところがです。その晩、東京から帰ってきたら郵便が届いてをり、中から出てきたのは一冊の本。ひもとけば吃驚『山川弘至書簡集』。唇を引きしめて正面を見据える詩人の尊顔と再び対することとなった御縁に、茫然となった次第。 それは詩人を精神的支柱に据えて活動を続けてゐる和歌結社「桃の会」が最初に刊行した書目で、久しく絶版になったまま一番復刊が希望されてゐた本であり、同装丁でその後、遺稿歌集『山川の音』・遺稿詩集『こだま』・『山川弘至遺文集』の三冊が出版されてゐますが、なんといっても詩人が戦争終結の4日前に戦死したことを踏まへ、未亡人となるべき山川京子氏へ書き綴られたこの本におけるドキュメントには胸にこみ上げるものを覚えずにはゐられず、跋文にも記されてゐますが、『書簡集』一冊が、まるまる相聞と述志の二色に染め抜かれた一篇の長編詩であることについて、いみじき思ひを新たにしたのです。 ドイツロマン派に詩人の告白・手紙が重要な位置を占めるのと同様、日本浪曼派にこの一冊を持ったことを、はたして文学史上の「幸ひ」とすべきなのか。かくも気高き精神に貫かれた恋文が、青年詩人ならではの全人的なロマン派精神開陳の所産であるのは理解できるとして、しかし優しさと正しさはもとより、憤りや焦り、さらには気負ひすらも読む者の心を痛ましく打つ、その「理由」を思っては今に至っても粛然とならざるを得ず、これを一人でも多くの若い人に読んでもらひたいとの思ひを、戦争を知らぬ世代の私も同じくするのであります。何故ならこの、遺書になるかもしれぬ覚悟を以て書き継がれた、これらの手紙の束から受けた感動を「傑作」と呼ぶことを厳しく躊躇はせる歴史の端っこに、私たちが今もって生きてゐるといふこと、その再確認は全ての日本人の責務と考へるからであります。 今回は上記の偶然も手伝って少々興奮気味の紹介ですが、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。 『山川弘至書簡集 新版』 2011年,山川弘至記念館刊, 355p,17.5cm並製カバー 希望者は「桃の会」まで送料込1300円を送金のこと。振替口座00150-1-82826 付記: 新旧『書簡集』を閲してみましたが、新たに一通が追加された以外は、内容に差障る訂正はありません。追加一通は拙サイト上で紹介させて頂きますので、すでに旧版をお持ちの方には、新版の購入をお勧めするとともに、旧版にも添付して頂ければと思ひます。 |
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第16回 『日本詩壇』の頃投稿者:やす 投稿日:2012年 1月23日(月)10時13分46秒 |
手皮小四郎様より『菱』176号を御寄贈頂いた。荘原照子の聞書きは、今回と次回にかけて戦前におけるモダニズム受難の時代が対象となる予定である。詩人に於いて因をなした『日本詩壇』といふ詩誌が、そもそも荘原照子といふ詩人を迎へるだけの器が無かったことは、『椎の木』なき後ここへ身を投じた彼女自身すでに承知のことではなかったか、とも思ったものである。 といふのは、詩壇の公器的存在『文藝汎論』からのオファーはともかく、彼女がハイブロウなモダニズム詩誌であった『新領土』もしくは『VOU』、あるひは『四季』のやうな知的なエコールの香り立つ在京雑誌にどうして参加しなかった(または呼ばれなかった)のか。才気煥発にして気丈な一方、プライド高く臆病な性格が、羸弱な彼女をして近所の雑誌の門を敲くことを躊躇はせたのではなかったか。横浜に住みながら大阪のアンデパンダン的性格の強い『日本詩壇』に拠り、さらに「秘密出版みたいなあっちこっち」の地方詩誌にこそこそ寄稿してゐた事情が気になる。つまり官憲にチェックされ、監視されるまでに至った経緯にこそ、彼女の詩人としての自恃をみるべきではないのか。手皮さんの丹念な発表誌探索から、私はそのやうな詩人の業を感じるのだった。 もちろん「神戸詩人事件」と同様、それは当局による過剰な猜疑心による民心介入であったが、しかし詩人としての彼女の存在が、在京の詩誌編集者にはどう映ってゐたのか、そして彼女自身、ルサンチマンを溜めこんだ時代の病変の深刻さを、芸術至上主義の立場から甘く見てゐた節がありはしなかったか。 以前拙ブログで紹介した兼子蘭子も、仲間内の雑談を通報され、憲兵に引っ張られ一時収監されてゐる。当時散文で自分の意見を書かうとする程の女性は「報国もの」が依頼される程度にすでに社会的に著名か裕福でなくては、詩だらうがエッセイだらうが、内容に拘らず、書かずもがなのことを書く生意気な女として、(官憲といふより)国民全員によって監視・制裁の対象にあったこと。女監視員から「毒殺」されぬやう唆されて町から退避する(追ひ出される)までに、裏目裏目の結果を出してきた背景には、たとい政治的信念の持主でなくとも、手法として韜晦を事とするモダニズム詩が因縁をつけられることが十分に予想されながら、発表誌の質を落としてもそれを書き続けなくては居られなかった詩人自身のルサンチマンを当然みるべきであらうと思ふ。彼女の詩風はこれまでの経歴の中で幾度も変遷してゐるが、すべて自身の生活上の必然と詩史的状況が結びついてをり、しかし今度ばかりは他のモダニズム詩人のやうに外的必然(戦争詩) とは縁を切り、筆を折った。それが不遇なりにも、彼女が無名詩人の側にあった幸ひと同時に、クリスチャンとしての節操を完うする幸せを体現するものであったことは、彼女のために一筆すべきであらうと思ふ。 ここから以降、発表文献が途絶える時代は、まさに聞き書きをされた手皮さんにしか書くことができぬ(尤もすでにこれまでもさうでしたが)独壇場であり、資料云々よりも、詩人を料理する手皮さんならではの運筆に期待したいところ。たのしみです。 新潟出張で一週間留守にし、紹介が遅れました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。 |
先師廿年忌投稿者:やす 投稿日:2012年 1月15日(日)20時03分12秒 |
田中克己(たなかかつみ)1911-1992 詩人、東洋史学者。「四季」「コギト」編輯同人。 【田中克己先生との写真】1989.02.24 先生と一緒に撮った写真はこれ一枚しかない。長男御夫婦と同居するべく自宅を改築することになり、同じ町内の二階家を借りて移られると、半年ほど蔵書を段ボールに詰めたまま奥様と二人で生活してをられた。処女詩集をお持ちしたのも思へばこの家である。先生は着た切り雀で入歯を外し風采上がらず、私も柄にもない赤い色を着てパーマなんかあててゐる。蜜柑箱をバックに甚だ体裁の悪い一葉であるが、この日来訪された久米健寿氏(平田内蔵吉研究者)がカメラをお持ちだったお陰で、悠紀子夫人とも三人同席の写真が遺されることとなった。思ひ出深いわが宝物である。 |
謹賀新年投稿者:やす 投稿日:2012年 1月 1日(日)00時25分23秒 |
この正月は逼塞せる毎日。頭の回らぬ時には小難しい本に齧りつくより、香華灯明に向かって一炷の間、お経を唱へるに如かずと、または正月らしく「百人一首」のくづし字の読み当てなどして過ごしをりました。国情・公私生活ともに一陽来復を祈念。今年もよろしくお願ひを申し上げます。 大晦日に中村一仁様よりおたより拝承。お心遣ひをありがたうございました。 |