も どる
2003年12月 日録掲示板 過去ログ

よいお年を  投稿者:やす  投稿日:12月31日 (水)18時42分34秒

 本夕帰宅、ごん太の散歩、年越し蕎麦もつくって食べて、眠い眼をこすりながら新年を待 つばかりとなりました。
 年末Salon De 書痴忘年会では、語気鍛隊長・人魚の嘆き様(『帆・ランプ・鴎』お譲り頂きありがたうございました!)ほかSalonの皆様に、ことにも上京翌日以降、連 日の心尽くしの款待を辱けなく致しました葵の家さま・りょくちゃん様(お世話になったばかりか書庫御開帳ならびに数々の秘蔵詩集のお土産まで!)さうして 風さまには、お世話になりっぱなしで恐縮至極感謝に堪へません。ここに篤く御礼申し上げます。忘れられない想ひ出をありがたうございました。

『朔』152号 投稿者:やす  投稿日:12月23日(火)22時14分2秒

 八戸の圓子哲雄様より『朔』152号を御送り頂いた。巻頭写真刷ページに「府」なる戦 前弘前で発行された雑誌が 一冊紹介されてゐて興味深い。目次の名前31人中知ってる名前は一戸玲太郎と草飼稔だけだが、昭和9年の発行時期に相応しく、みな椎の木のアンデパンダン アンソロジー『詩抄』に載っててをかしくないやうなもの。有難うございました。

 さてこの年末、とある高名な詩集蔵書家宅への書庫潜入を計画中です(笑)。といっても天空の城ラピュタ(人魚の嘆き様宅)ではありません。しかし私に とってはむしろ今回の探訪こそ、目録で古書価を捻られ続けて手が出なかった中堅詩人の詩集たちとの遭遇を約束する眼福の機会となる筈です。楽しみだな〜。 宜しくお願ひを申し上げます。
編集済

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『下谷叢話』大沼竹溪と鷲津幽林 投稿者:やす  投稿日:12月23日(火)13時56分46 秒

 例の100円で買った『五山堂詩話』の端本が、『下谷叢話』のなかで荷風が言及してゐ る箇所を偶々含んでゐるので、全文をここに引いてみた(巻九21-22丁)。もっとも伝記箇所は鷲津松隠の撰んだ行状の方が精しく、これは既に『下谷叢 話』に収められてある。

 竹溪、源(行状には藤原)の典、字は伯經、尾張の人。今、幕府に給仕す。傲骨峻[山+曾]、詩を論ずること尤も精厳。人多く指摘を蒙る。余、騒壇に相逢 ふ毎に、隠として一敵国の如し。
 「晩春書懐」に云ふ。
千章[あや]樹緑なり郭の西東  九十の韶光、弾指の中 [九十春光]
蝸壁の字の霑ふ楡莢の雨  燕梁の泥の落る楝花[おうち]の風
丹砂[顔料]骨を換ふる原、術なく  白髪、人においてまた公ならず
物理推し来って深く自ら悟る  行蔵[進退]将に信天翁に学ばんとす
「鞠塢」に云ふ。(鞠塢=芸妓の名?この詩判ぜず)
鞠塢、春を蔵して春なほ妍なり  都人士女、興相牽く
山林の経済、今汝を推す  また牡丹を役して酒銭を租す
 「夏日即興」に云ふ。
爐香消し尽くして日、年の如し  閧ノ凉窓に倚りて午眠を試む
夢裏恍として山雨の過ぎるを聞く  覚め来たれば庭樹、鳴蝉有り
 真に老手なり。

 竹溪、手づからその先人幽林翁の遺藁を[あつ]む。また余に示すに一斑の美を以ってす。
 「望湖亭」云ふ。
山を(けづり)て驛路を通す  頂上旗亭を着く
客子の愁、将に散ぜんとす  行人、眼頓に醒む
雲帆、千影白く  螺頭[島影]、一痕青し
いかんともするなし前程の遠を  怱々また此に経ふ
 その「偶作」に云ふ。
骨相原と応に隠淪[隠者]と作るべきに  誤って丘壑[故郷]を離れて城[イン]に住す
漠然随處、吾、我を忘れ  弁ぜず、山雲と市塵と
 真に道を見るの言。翁、初め京に入り芥(川)丹邱を師とす。丹邱亡する日、貧にして葬資なければ翁、乃ちを[タク(財袋)]を傾けて匍匐して之を救ふ。 以って“麦舟の義”を完うす。京人今に至って之を美とす。その郷里に在るや、環舎みな種えるに松を以ってす。扁して「萬松」と曰く。集中、萬松亭の詩有 り。寛政戊午(10年)を以って歿す。寿七十三と云ふ。
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大名古屋古本市 投稿者:やす  投稿日:12月22日(月)23時11分3秒

 来年の正月早々、JR名古屋駅で“名古屋最大の古書展”が開かれるらしい。 (1/9〜1/12 於セントラルタワーズ12F)くじらさんも参加の目録を本日落手。
 ふーん。名古屋詩人の項で以前1〜3輯を紹介した『戦艦献 納はがき』(亀山巌画)は全部で6輯まで出てゐたんですね(永楽屋 \60.000)。ほかの本屋さんからも戦前の詩集が結構出品されてるけど、高すぎてここで紹介できる本がないのは残念。
 江戸漢詩関係では、梁川星巌(山星書店 \35.000)、斉藤拙堂(天満堂 \10.000)といった書幅が。これなら僕の手にも届きさう(いかんいかん 笑)。でも会場に行ってまだ吊ってあったら“アイフル”の音楽が流れさうで 恐い。他には『太乙堂詩鈔』の初版がまた出てました。“元表紙 外袋付”といふんだから綺麗なんだらう。今回はこれを思ひきって注文(溜息)です。

岩波文庫『下谷叢話』 投稿者:やす  投稿日:12月21日(日)21時40分8秒

 岩波文庫『下谷叢話』読了。尤も最後の明治以降の項は語義に拘らず流した。
 一読、解説云ふところの鴎外の史伝に引き較べて云々、なんてことは辞書片手の修養初学者には関係がない。しかし『頼山陽とその時代』や『北條霞亭』とは 異なり、時代を四半世紀下って維新をまたぐ評伝ともなれば、血腥い“天誅”の歴史も避けて通られぬ。若い日に新撰組三部作を愛読してゐた自分も、めっきり 文弱の側に感情移入するところが多く、星巌の末路は知ってゐたが、今回初見の藤森天山、家里松濤の非業の死について目を瞠ったことである。安政の大獄の たった十年後に、尾張徳川家で全く逆の粛清が行はれたことも知らなかった。蓋しかういふ史伝は途中後半から「死んだ死んだ死んだ」と素気なく叙述が続くと ころが真骨頂なんだらうが、今回それならひとつの時代の終末感と相俟って、カタストロフィーらしくもっと色気(読者へのサービス精神)を出して書いたらど うなってゐたらう。作品のなかで最も心惹いたのは、類比する時代に対する荷風の慨嘆と、沈山および毅堂の人品に関する報告の箇所であったのだから。

 それにしてもあの解説の締めも何だらうね。「作者が書かなかったことを、解説者が書くわけにはいかない」。正確には「作者が書くつもりのなかったこと を、」なんだらうが、「作者が書きたくなかったことを、解説者が」思はせぶりに示してだけ見せる、なんてのもどうなんだか。恰も荷風が外祖父である鷲津毅 堂の逸話として引いた「こういうても皆には分かるまい」といふ口癖さながら後味が悪い。

「昧爽」第3号 投稿者:やす  投稿日:12月18日(木)21時48分37 秒

 中村一仁さまより同人誌「昧爽」第3号拝受。ありがたうございました。今月は中村さん の「浅野晃論」が休載で残念でしたが、次号特集はなんと「日本浪曼派」とか。早速同封のアンケートに回答致しました。今号では二宮佳景氏の文章を興味深く 拝読。
 また巻末に川村二郎氏の評論『イロニアの大和』(講談社, 269p,2003.11)の刊行案内あり。“保田与重郎をめぐる大和文学紀行”か。知らなかったなー、買お。

うるるん『宮澤賢治全集』 投稿者:やす  投稿日:12月17日(水)23時24分3秒

 何を血迷ったか『宮澤賢治全集』を購入。
 本当は文圃堂書店の3巻版が欲しいのですが、合同目録に出たのを外したのを最後に、とんとお目に掛からなくなりました(その後出た全集見本も外しまして ん)。
 で、○に“賢さ”の筑摩から出た最初の全集を注文したんですが、これがなんと研究付12冊の揃ひで2500円なんだから驚きです。態々荷造り郵送して頂 いた本屋さんこそいい迷惑ですが、着いてみたらば帯カバー月報付きの美本でまた感激。
 ただこの版、「銀河鉄道の夜」のラストでうるうるくる“カンパネルラの水難シーン”がない(!)のね。ま、いいか。
 で、今まで持ってた“新修版”の童話の巻を甥っ子にあげたんだけど…「あっ、さう。興味ない?」
いまどきのゲームっ子だからね。

 二転三転“うるうる”してるうちに、もう何の涙かわかんなくなってきました(T∀T )
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『果樹園』のなぞ(つづ き) 投稿者:やす   投稿日:12月15日(月)21時25分12秒

 ほんとに謎ですねぇ。先生の人魂にレクチュアしてもらはないと埒あきません。
 ただ、この雑誌は差し上げる段になってその人のために書き込んだものではなく、発行されるたびに送られてくる何部かには、全てその都度朱を入れて直して いったものなのではないかと思ふのですね。訂正の仕方が手許の先生所蔵誌(記事のコピー)と全く同じです。だからあと1〜2組、同じものがある可能性もあ るとみていいんぢゃないでせうか。それから先生は割と大切にしてるものでも第一印象で「易々と新しい人に進呈したり」しちゃふ人です。で、付き合ふほどに 段々六ケ敷くなってきて“峠”を越すとやうやく“知己”なんです(笑)。なんせ初対面の山口書店さんがきて、可哀想だからって『四季』の復刻あげちゃった らしいですね。相手は古本屋なのに。ホントかな。
(これは書斎に『コギト』の復刻はあるのにどうして『四季』の復刻がないのですか、と尋ねて知ったことです。)

なるほど 投稿者:サーニン  投稿日:12月15日(月)01時08分 5秒

入魂のレクチュア、ありがとうございます。
なるほど、説得力あります。ただ例の朱書きはわりとマメに(ペンを変えて?)書き込まれていたように思いますが、それを易々と新しい人に進呈したりするも のでしょうか。だとすると旧蔵者はよほど田中克己の信頼を得た人? それとも詩人自身がわりとフランクな人だったのでしょうか。

このようなことを伺ったのはけっして興味本位ではなく、田中自身の朱が入った貴重な資料のようだからこそなのですが、しっかしこういうことの調べをつける のって(プライバシーのこともあるでしょうし)難しいですね……。
ほんとに、天上の詩人はいま下界の騒々しさを、何と思っていることでしょう。

>富士馬
そうでしたか! わたしはまた勝手な思い込みから「修平」が本名で、「富士馬」が筆名だとばかり思っていました。そんなロマンチックな由来があったとは。 あやうくどこかに書いてしまうところでした。「序でながら」とはいえ、ご教示ありがとうございました。


『果樹園』のなぞ 投稿者:やす  投稿日:12月14日(日)22時20分3秒

>「なぜ福地邦樹旧蔵ぶんに田中克己の朱書きが入っているのか」

 たしかに福地邦樹旧蔵書であれば、福地さん自身の掲載分にも何らかの訂正がみられてをかしくない筈なのに、それがみられない。そして何より福地さん御自 身の掲載分が揃ってない。訂正は福地さんに限らず他のだれの掲載箇所にも入ってゐないのである。これらのことに気づいた私は(今頃気づいてどうする)、朱 が入ってゐる・ゐないの分かれ目について仔細に注目してみた。つまり昭和41年の122号までには朱書きが入ってゐるのに、123号以降には全く入ってゐ ない。すると普通に考へられることは、田中先生は何部か揃ひを持ってゐたはずであり、それを123号以降に『果樹園』もしくは自分に関係するやうになった ひとに譲ったのではないか、といふ推論である。123号に新たに書いてゐるひとは今井茂助といふ人だが、今井茂雄といふひとが以前に書いてゐるのは同一人 物だらうから当てはまらない。それに同人にBNをあげるのなら、当時果樹園発行所だった小高根さん宅から送るはずではあるまいか。結局私が落ち着いた推理 といふのは、123号以降に購読するやうになった人で、大学関係で田中克己と親しくなった人。彼にそれまでのBNの端本をさしあげたのではないか。そのひ とはその後関西に移り住み、そこで亡くなった。教へ子かもしれないし、教員仲間かもしれない。しかし一緒に挟み込まれてゐた、外務省情報文化局発行「国際 問題資料 米国における対日世論」といふパンフレットから女性であった公算は小さい。朱書きの分かれ目が四月といふ新学期にあたってゐるのでことさらさう 思ったんですが、サーニン様、如何でございませう。といふか、先生。私のつたない結論、当たってますか?

 序でながら“林修平”の名前について。“修平”は処女作品集『誕生日』にもクレジットされてゐますが、ペンネームではありません。なら“富士馬”がペン ネームかといふとそれはやはり本名。母刀自が出産前、馬が富士山上空を翔る夢を見たことから名付けられたものの、易者に「総画数が豊臣秀吉と同じで名前負 けする」といはれ、大学入学の頃まで公的には“修平”を名乗ったのださう(前述碓井雄一氏編年譜稿より)。因みにうちの職場の専務さんも“富士馬”です (笑)。かっこいい名前ですねぇ。いつだったか先生と名前の話してて、ぼくの名前は先生から「字面が硬いね」といはれ、悄気ちゃった想ひ出がありますです ね。
編集済

こちらこそ 投稿者:サーニン  投稿日:12月14日(日)11時32分 30秒

やす様
こちらこそ全揃いではなく、しかも見るからに情念の詰まった『果樹園』を愚生の購入価格で引き取っていただいたばかりか、『夜行雲』までいただいてしま い、一昨日はこの大きい本に齧りつきながら就寝したことでした。ありがとうございました。
『果樹園』のほうは、わたしが持っていてもその意味がわからぬまま死蔵されたはずですので、ようやくあるべきところに収まった、という感じでしょうか。と はいえ、なぜ福地邦樹旧蔵ぶんに田中克己の朱書きが入っているのかなど、なんだかその辺の事情は外野にはよくわかりませんので、またレクチュアしてやって ください。

林富士馬で思い出しましたが、わたしの山岸外史『芥川龍之介』は「恵存/林修平様」と署名されています。林修平(=富士馬)はこの当時山岸に私淑してい て、かれの詩集『受胎告示』にも山岸の序文が収められていますね(この詩集はとてもいいものです)。この『芥川龍之介』を(またまた)田村書店で入手した のはもう10年近く前のことではないかと思いますが、そのときはまだ林が存命中だったので、ちょっと複雑な気持ちになったことを思い出しました。


雑誌三題+?  投稿者:やす  投稿日:12月13日(土)21時03分55 秒

 林富士馬に関する詳細な年譜をおさめた同人誌「資料と試論」第一号(24p, 編集発行;資料と試論の会2003.11)を、編者の碓井雄一様よりお送り頂いた。碓井氏は、わが田中先生との関係のやうに、林富士馬再晩年の謦咳に接し たお弟子さん。以前にもふれましたが、林富士馬(1914-2001)といへば、太宰治、伊東静雄、三島由紀夫らと親密な交流がありながらも、自らは一代 のディレッタントを貫き通し、“ロマン派で候”の死を免れ得た生き証人みたいな人な訳ですが、さて碓井氏の許には130通にものぼる、遺言とでもいふべき 詩人からの書簡が遺されてゐるんださう。そこに認められた、文学に向かふ“居住まひ”とでも申しませうか、端座精神の様相・在り処を、2号以降に是非とも 紹介して頂きたいものですね。
なにとぞ御健筆をお祈り申し上げます。

 つづいて関西四季の会の矢野敏行様よりは「杉山平一講演集」(52p,四季派学会論集別冊2003.11)を近況報告と共に。これは冊子ながらりっぱな 特集号です。先生が身の周りを語った、その詩さながらに明快な講演録は言はずもがなですが、併録された矢野氏はじめ、紫野京子、小林重樹諸氏の月旦も、虚 飾のない素直な心情の発露が、いつもの同人誌上の作品より素敵に凝ってゐるやうに思はれました。中でくしくも小林氏が「杉山平一氏の一番の生徒であると自 任されるひとたち」のことを「残念」云々と書いてをられますが、正しくは「残念」ではなくて「悔しい」といふ気持なんでせうね。さう思はせる杉山先生の気 配りの交際術は、あるひは御自身が劣等感を抱くといふ「四季派」直系の立原道造の衣鉢を継いだものとも云へはせまいか……他の人には見せない心を自分だけ にスッと提示してくれたやうに思はせてくれるといふのは、他でもない、飾らぬ“人徳”と、矢野氏も言及するところの“記憶力”のなせるわざだと私は思って ゐます。自分でも忘れてゐたやうな些細な思ひ出をきりだされたら、大抵の後進は「ああ、私なんぞのことをそんなにも記憶に留めて下さったのか!」と、自ら 顧みて感激すること必定です。杉山平一氏の一番の生徒は誰か。おそらくそれは先生所蔵の『四季』の揃ひを、遺言でまるまる譲って頂いたひとでせうね。

 さて私のところには先日、『四季』ではなく『果樹園』がまとまって送られて参りました。譲って頂いたのはなんと「Salon de 書痴」掲示板で知り合ったサーニン様(!)。またしてもSalon経由の御縁でありますが、これ、田中先生の連載記事に先生自身の朱が入ってゐるとて、当 初は「すわ、先生旧蔵品か!」と色めいたんですが、どうやら現物を確認するに、田中先生と編輯も共にされた福地邦樹さん旧蔵にかかる遺品ではないのかとい ふ思ひが。文学を憎む家人により二束三文で売り払はれたものかもしれず、サーニン様の御厚意の背後にはなにやら無念の思ひで亡くなられた福地さんのオーラ まで感じた次第であります。手許にある、これまた平光善久氏旧蔵の端本とあはせると、『果樹園』はこれで8割方が揃ってしまひました……サーニン様、本当 にありがたうございます。

 最後に慌しい来訪となりまして申し訳ございませんでしたが、大輔さま。栗間久の戦後の詩集『独楽』、ならびにBOOK OFFで\300だったといふ一橋大学教授の遺稿詩集『太田可夫詩集』の御土産、まことに忝く御礼申し上げます。どうしてどうして\300の代物なんか ぢゃあございませんでしたよ、これは。

“愚かさを生きねばならぬ
 自分をいつまでも
 責めていられぬ”

その通りでございます。