「夜光雲」第六巻

20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き 表紙欠(92ページ)

昭和5年8月15日 〜 昭和7年1月27日


夜光雲 巻六

 嶺丘耿太郎日記 昭和六年八月十五日
   故園にも
   苺は植ゑん
     犬買(ママ)はん

僕はもう歌が作れない!
  紀州御坊行
淡紅く 眞夏の合歓[ねむ]の 咲く見れば 湍[たぎ]つ川瀬も見えにけるかも
白波は 鰹来る瀬に 寄りゐたり 小舟 その瀬を 廻りて去りぬ
紀の國の 古き御寺の 石階(きざはし)に 竹柏[なぎ]の茂木の 蔭落ちにけり
洋(わだ)中の 阿波の雲居に 日は落ちぬ 磯の岩秀[いわほ]は 光含みぬ
白雨(ひでりあめ) 浜の小家の 鉢植の浜木綿に降り 明るかりけり     ※
  大和國原
にはか雨 峽の町を過ぎにけり いま鳥見[とみ]山に なびくその雲
古の蘇我の川原の 薄(すすき)原 合歓の淡(うす)花も ひるは咲かしむ

海の風の吹くひとときは
  一
あかねさす眞日に向かひて開きたる童女の陰[ほと]はいつくしきかも
  二
あはれあはれひるの渚の砂の上に犬の交合はさらされにけり  ※
  三
むしあつき晝なりければまがなしきほとの機構も考へざりき
  四
極楽瑠璃荘嚴の気は満ちて交合蜻蛉(つるみあきつ)は流れて行けり  ※

  悲しび
フランス語を覚えよう
日本語では
私は破産した!
  ×
日に日に描く
つまらなく描く
雲のある風景
魂のノスタルヂア!
  ×
青い空気の中に
里芋の葉がゆれるのを
じつと見つめてをられぬこころ
焦つてゐるなと我ながらあはれな──
  ×
きれいな奥さんは
人妻ゆえに
最も好ましい
奥さんお話しましよか?
  ×
朱雲(あかぐも)は山の背方(うしろ)ゆ立ち昇り崩るヽまでを我を照らせり ※
人の子の死にたるのちも大空に雲立つひるはあまた經(めぐ)らむ

私は海月[くらげ]の様な静かな生活を欲して
海の潮の苦さを好まない
これは悲劇の基である (八、一五)
  ×
かなしさや海の色を濃藍と申すなり
  ×××
冲とほく潮に浮きゐる小魚らの背すぢのいろは青くあたらし(八、一六)
  ×××
わがいのち短くあらむおぞましき死相は人に見せざらむゆめ
  ×××
銀漢(あまのがは)甚も更けたりみんなみの海よりのぼるきりがくれつヽ  ※
すヾむしのなくやちまたの夜更けなり空には銀河いと近うして

  海章       八、一−六、 八、一二−一九 今津
うねり波よせ来るひるは遠磯の白きしぶきを見つヽたのしむ
秋近しまことはれたる武庫山の麓の浜に波は寄せつつ
武庫山の草山なせる頂に三角点見ゆ気は澄みにけり
おのづからなじみしひとも来ずなりし浜にすヾ風立たむとすらむ
砂浜のかはらよもぎにかくれなくきりぎりすさへうつろふものか
残暑はいまだ強しも砂浜のきやむぷに晝は人ゐたたまれず
けふの海はくらげ夛しとふさらばさつき足にさはりしはくらげなりしよ
うねり波よせ来る浜に犬泳がしむ 疲るればわれに倚りてくるなり
海中にわれにより来る犬の眼の眞劔さにふと怖ろしくなり
腹赤き汽船は冲を行けりしがやがて轉囘(かへ)るはなにヽかあらむ
たとへば蓮華(れんぐえ)の弁(はなびら)の如くかさなれる山の相(すがた)たのしも
遠き磯に赤き旗ひるがへすは茶店なり松はうしろに連なり青し
うすくうすく軍艦が九隻ならびゐるまこと等しき間隔を保ち
軍艦は碇泊さへもかたくるし彼我の距離はかる兵ゐるならむ
武庫山の前山なせる赤はげ山かしこにはわれ行きしことあり
武庫山に秋は咲くなる植物の形はまさにわれは知るなり
波寄する川口の杭に立つ人は何釣るならむその光る魚        ※
光る魚を釣り上げし人糸をたぐり寄するその間に魚は落ちけり
わだつみの潮はまことふしぎなれ水脈光る海に向かひて坐る
海原をかゆきかくゆき船びとはまことに家をこふるものらし
海原の潮の迅きひるひるは船の航行(ゆきき)を見つヽかなしも
冲遠く帆船の檣[マスト]立ち並べり蜃気楼見むとふと思ひけり
海原にしたしく泳ぎ帰り来ればいまだも鳴るかとほき海鳴り
この海をひごと行き交ふ汽船らは笛ならしあふこころもたぬらし
日の光あまねくあれば海に向かひはあれむつくるここらの人は
わがはだにももろつこの風吹きにけりまことまくろくなり果てにけり
椰子の木を植うるカフエエあらば行きてすわらむかくてうたつくらむ
ゆふなぎさ波の唸(うな)りも深ければ率ゐる犬は海に向かひぬ
くれゆけばざんざんと鳴る波の音海風に交(まじ)りゆきつつあれば
海風はしきりに吹きて夜なりけりいそべにゐれば着物しめりつ
銀河はまことに海に落つるなり海面に近くうすくなれども
明しあかしわれらにむかひて光る星のことごとく明し海面は暗し
海原のよるしづまらばあまのがはさながら形うつすとするか
ヴエガもデネブもまことは海に光おとし海中の魚に見らるるならむ
一八○度を見るとふ魚の眼なるゆえ星座運行はたしかめをらむ
うなばらの底ひにすだく赤眼魚 夜は光のかけら集めよ
三日月は地平に近く濁り赤しわが瞳(め)に似ると自らは知る
月も日も海に沈む地に住みゐたし地(つち)に沈むは何かはかなし
われはたヾ海面を這ひて余念なし海の族らに嘲(わら)はるならむ
あはれ眞劔に海面を行かねば死ぬるなり海月の群れて行き交ひにけり
海の族相克の理を肯[うべな]ひたまひ感嘆したまひきありがたき祖父は
海月もしんけんなれば海の面を群れて行くなりわれは然らず
着物を脱いだまヽかへらぬ人間ひとりに浜は大騒ぎなり かへらざらむ海は広し
あはれあはれ何なればたはむれに海に親しみ死ぬならむ人は
いたましきむくろに取りつきなげかひし人らのこゑはいまも忘れず

 摩耶山天上寺 (八、一九)
細澤に水流るヽを見とむれば藪にかくれて白鷄遊ぶ
海州常(くさぎ)山咲く澤は深しもこのあたり蝉啼くこゑのまことに暑し
青空は山の彼方に聳え立ち日は杉の秀にあまねく照らふ       ※
摩耶やまの杉の秀立のまうへなる蒼澄空に陽はありにけり
一道の白毫光はあまねく静けき海を充ち照らしけり
幽けくも檜林の下草の花咲くみちの石段のぼる
おほぞらに凝るものもなし山草のあひだゆのぼる暑さはあれり
群松の嶺とだえして野となるは印南の國と教へられぬる
加古の島か家島かあらむとほがすむ磯の線外になほはろけきは
鳶啼きてしづかと思ふ遠島を浮べる海に見入りてあれば
秋のいろ眼にしみ入りぬなつかしき友とゆく道のみづひきの花
佛生[あ]れましヽマヤのお山に國見つつ天地所生を美しと思へり
山邃(ふか)く泉はありて落葉つみ朽ちたるまヽに動かざりけり
夏山もいまは終りか黒土の崖に咲き出るはほとヽぎすのみ
腹赤き船浮かしめしひるすぎの波なき海はにびいろに見ゆ
山下に下り来れば谷深くみあみ[水浴]する童等のこゑのみきこゆ
じんじんと蝉鳴く谷のひるさがり裸童子の体み)は光り見ゆ
くさぎ咲く澤々の水集まりて童子の丈を泳がせにけり      ※
山路の角を曲れば日向なり砂のくづれは眼にしみにけり
この一日強き光に歩み来ぬゆふがたはマヤの灯を仰ぎけり
  × 増田忠氏
わが友は兄と友とにある日の夕自(し)が墓のこと語らるヽかな
墓を建てねばと云ひて語を切りたまひぬわれはそのまへに泪ぐみゐる
折々はわが心安さふりかへり死にし子どもにすまずと思ふ
ゆうされば海風窓に吹き入りぬさみしといひていふことはなし
街の灯はくだりて海に達(とヾ)まりぬ高みの家の窓より見れば
友ら寄りひとをさびしと云ひしあと巷に出るもかなしまるかな
きみを知るひとらすべての亡きのちをおもへばわれはいらだヽしもよ
とことはのいのちときしは誰にかならむわを知る人もいつかは盡きむ
やうやくにこころおちつきぬと思ひゐしがこの海風にまたも思ひ出(づ)

 祖父重態 囘復難期 (八、二一)
祖父[おおおじ]のまなこのくぼみいやまさりいまはふたヽびたちまさヾらむ
朝夕に咳きたまひ嘆じたまひみいのちのおはり近づきにけり     ※
よきこともなくて幾年過し来つ報はれずしてゆきたまふらむ
ふたヽびは起ちまさヾらむと医師つげぬそのことにいきどほり感じてゐるも

 勉強 (中之島図書館) (八、二三)
図書館の地下室にして法律を説ける輩はそぼひげ生せり
こはだかに語り説きつヽおのがまヽに他人を説きふせむと努むるらしき
ブルジヨアの世紀終りに近き時何ぞも妻の財産を説く
かさかさのぱんをのんどに通しつヽゆくておもふに泪流れき
わぎもこをつまどふに足る代あらばと嘆かふ時は生きたくもなし   ※
ゆふぐれとなりて巷の空おほふ雲出でにけり夾竹桃の花
建築中の天守閣見ゆる橋の上に曇れる川も見つめてありき
あはれ革命近づきたれやまつぴるまルンペンがからかふプチブルのむすめ
かの垢頭破衣の群の強き眼光を思ふに足よろめかしてのがれつ
未だのこるわが感傷は夕ぐれの川面に下り流れむとする
感傷の少年は暮(ゆふ)の川ながめ海面へのあこがれを傳へようとする

 甘藷畑 (八、二四)
夕づく陽乾ける畑にさしにけり畑に薯はころがりにけり
あはあはとななめに夕陽が照らし出す薯の赤きもさびしまれけり
向日葵は畑の隅にかたむけりその本にもある裸か芋の山

 伊古麻山と春日野  能勢 三島
           いこま山 菊の香にくらがりのぼる節句かなはせを
わたる日は天つ雲路にかくろひてとほわだつみの光りたる見ゆ
夏山の花も咲かざる茂みより蝉鳴くこゑはむらがり来る
ほうせん花誰もゐぬ茶屋のうら畑ひとりはぜつヽすがれてゆくか
ほうせん花の彈ぜ実いじりつつ海見ゆるああ見ゆるとてわれらゐるなり
ひとごゑのきこゆるまだき曲りかど白き洋服の女の児現(み)ゆる
はるかなる海(わだつみ)の水脈はあらはれぬにぶく光りて舟載せてゐる
すずかぜはまつ虫草をそよがせり伊古麻の山に日はかげり来ぬ
天雲は山の頂の飛行塔にあたれば凝りぬ息吹の如し
あま雲のおほへるまだき山頂は陰惨(くらく)しなりぬ自(おの)心よる
あもり[天降]来むと友と云ひつヽかたはらの女の児にもきかすとするよ
藝妓らは聖天様にまゐりたり杉の中道のぼり来りて
おのづからさびしくなりぬ満月(もちづき)は雲を破りて出づるを見れば
ほのぼのと山河白く光らせつ大和の國を月は經(めぐ)りぬ
  楽焼  秋立つや伊古麻の山の女郎花
  春日野 小中義城
杉の樹のこずゑにありて雲乱れ月出でむとす原はかすむに
あなさびし女のことを語りつつ慕ふ女をいとふと云ふに

われら童貞は春日奥山の石佛達に
白毫酒を献じよう
それも月の明るい夜、杉を繞(めぐ)つて生物の飛び
谷の声に和して蟾蜍[ヒキガエル]の啼くときに
石佛の弥勒様は未来欣求[ごんぐ]のわれらの
眼ざしを嘉容し賜ふべく
地蔵菩薩はわれらの未だ童なることに
満足の慈愛を感じたまはう
白毫酒の盃には白い光が射し込んで
酒は煙となつて空に昇り
或は天雲と化して雨を降らせ
或は散華と化して我等の肩に積もるであらう

月かげにほのかに形顕はせる三笠の山は見るに嚴[いつ]くし
廃れたる土塀をめぐる蔦の葉にこほろぎかくれ啼きあかすらし
木の間もる月の光に菩薩どち青く照りつヽもだしたまはむ
御佛の眉(まみ)にたまれる月かげはわが見にゆかば尊からめど
  × × ×
きみをこひしといふときは
しんじつたまらずおもふなり
ことにこほろぎなくよるは
きみがふしどもおもはれて──
  ×
わがくもりたるひとみさへ
きみをこふるにかヾやきぬ
されどもそれはたまゆらに
すなはちまたもくもるなり
ふたヽびかへるさびしさは
おもはぬまへにいやまして
  ×
きみを思へば西域の
青き玉をばほしといふ
朝にゆふべにながめつつ
きみがまなことかなしまむ
  ×
まこと珊瑚のきみの唇
いまは性根もつきはてて
おとすなみだはさんさんと
眞珠のごとく光りてよ
  ×
あはれゆふべははかなけれ
おぼめくいろのをみなへし
にほひはふかしふじばかま
げに秋草はいにしへの
あてなるこひも思はせぬ
われらがこひはしのびねの
むしのこゑよりかすかなり
きみはわれをば
かへりみたまはず
  ×
あはれをみなごつみふかき
だいとこ
むかし大徳落しにき
いまわがきみはよるふかく
われを眠(ね)しめずをきたまふ
おつる地獄もあればこそ
こひのよろこびありぬべし
われはいづこにゆかばとて
その幸だにも得んやらむ
  × ×
明き星みて語りにき
としにひとよのあふせ[逢瀬]をば
たのしむひともありぬると
明き星てるよひごとに
われはなげきのまさるかな
あはれひとよや見えたまふ
  ×
千草の花もちりぬべし
啼く虫のねもたえぬべし
かくてありへ[経]ばひとよるも
なげきたえざる十二時(とき)
秋はよるこそ長けれど
花も匂はじ音もきかじ
  ×
きみがきぬには八千草の
しどろの様をえがかしめ
枝毎におく茂つゆを
したふ虫とはなりぬべし
音になききみに告げてむを  ※
  ×
秋ぎりは野に立ちこめて
あはれあはれこどもらの
こひの時たちぬ
世のをはりおのれかなしむ
  ×
虫のねにみじめなるをのこ
ひとりまどによりなげけ
月かげはきりにまどひて
その窓によらず
よるふけて風去[い]にぬ
あきらめよとて
  ×
つたの葉のかれがれと音立たば
せんなきことヽあきらめも果つべし
萩が枝につゆおきて月てるころは
あヽ こひまさるこころおのれすら
いかにせよとよ
  ×
土堤の穂すヽき茂る中
ふたりはこひをかたりにき
すヽきは枯れて折れければ
ふたりはこひを止めにけり
  ×
ふるさとのすヽきのつヽみ
きみとゆかば
あヽ きみとゆかば
うみ見ゆる丘にいたりて
うちあけむ
あヽ うちあけむわれがおもひを
   ×
小唄
赤いとんぼはゆふがたに
唐辛子畑に
さまよひて
どれがわれやらひとぢややら
  ×
ゆこかまいらんしよか[※ 行きましょうか]
盆の墓まつり
死んだ情女(をなご)を
なぐさめに
  ×
わしがむすこは他(た)に
術(じゅつ)ないが
こゑがじまんで
女郎(めろ)くどく
  ×
をどれぶんけ[分家]の
十八むすめ
をどりうまけれや
よめにとろ
  ×
盆のあくるひ地曳きあみひけば[※ 以下無し。]

 月明 (八、二八)
棕櫚の葉に 月の光は こまごまと 分れてゆれぬ ちるがごとくに
安けくも きみはこの夜を 小夜床に ふかくひそみて 眠りてあらむ
をとめ子の すこやけき寝息 思ふにぞ 淋しきものか 月と虫の音
遠街に 月の光は 射しにけり はるかに 夜行く雲はありけり
月けぶる 河内國原 里芋の 畑つらなり 夜月にあざやけし
あまのはら かそけき風は ありにけり 遠天の雲 流れつつ見ゆ
  この歌は西川とメツチエンに遣らむ

  八月二十九日 久し振りに憤ることあり 我は二十一 なり
ほうせんくわはぜよと云ひてわれらゐる
海見ゆる高みにらむねのみにけり
とうきやうもさびしき空のあるやらん
蘭の香にいしころみちをくだりけり
           右 和州生駒山補遣
中野重治に感心す
感心した以上何とかしろ
これ以上何とかなるか
  ×
  章ちやんと心ブラ
  買ひたい本(買へる本)
一九三一プロレタリア詩集     .四○[銭]
ルノアル画集           .五○
大日本思想全集 東洋思想 一、二  .四○ .八○
        東洋思想辞典   .六○
        歴史辞典     .六○
京都市古地図 藤田元春       ?
李春集             一.○○
古代社会 上、下 モルガン     .六○ 一.二○
佛蘭西革命史 クロポトキン    .六○ 一.二○
  買へぬ本
古代研究 折口信夫
日本紋章学 沢田頼輔
東方言語史叢考 新村出

  Die Ruhelose Nacht [※ 安らぎのない夜]
私の心音は大きくうねつて
私の駆ける足を追かける
私の足は受けた汚辱に眞赤になつてゐる
汚辱は私の足跡である
足跡は赭土に印してある
赭土は山の一分塊である
  ×
私は私の死後の為に歌を作る
生きてゐる中は何の役にも立たぬ歌
私の歌──あヽ みじめな
そしてほめてくれる人があると
私は死後の幸せを思ひ うれしがるまいことか
それ故私はいつまでも死ねないのだ
  ×
いつか僕は魂ののすたるじあを呼號した
それは遺傳のみちびきであり
遺傳は先祖のおどろきである
おどろきを叫ぶことの象徴たる詩は
故に魂ののすたるじあの象徴である
この三段論法は
僕に於ては正しからうか
創始者僕に於ても──
  ×××
百貨店の帽子賣場の女の子よ
僕は君に恋を感じたらうか
君は細い眉を画きうまく紅を頬にさしてゐる
ほんとに旨く
だから君は美しい お世辞でなく
僕は君に恋を感じたらうか
君は生活してゐる
獨りで立派に そしてつヽましく
僕は親から金をせびる
親は借金してゐる
誰からか僕は知らない 知りたくないのだ
そして今君に僕が恋する──
それでよいだらうか
それは最も悲惨なる滑稽だ
女の子よ 賣場の女の子よ
僕は君に恋を感じたらうか
  ×
お嬢さん
女学生のお嬢さん
毎朝バスで会ひますね
君は美しい
君は可愛いい
君は昨日「令女界」[※ 雑誌]を持つてました
僕のみつめてる眼に会ふと
君はその本を開きました
帰つてから僕は妹にその本を借りました
花ことばが書いてありました
今日君に会つた時 だから
本当のことを云ふと
僕は花ことばを期待してたのです
空色のネクタイに
黄水仙の花は調和するぢやありませんか (S.S嬢に)

[※ 三十九行にわたって新約聖書マタイ伝からの訳出抄あり。]

日はまひる
青草の野はつきて
白き雲ゆく大空の見ゆる
窓辺によりて
おるごるの音に
聖歌を唱へば
ひとりなることの淋しさに
反りみてわれは泣きけり
  ×
凌霄華咲く窓の外に
子供らの遊ぶこゑ
ぶらんこのきしり
大空にゆれる木の梢
いちじくだよと
弟がもつて来た
  ×
いつか泣きます、泣かれます、夕くれがたに丘の家、白いフエンスに見えかくれ、
女の子らが遊びます、声をそろへて唱ひます、
あヽ古い歌、賛美歌を。

[※ 八行にわたって新約聖書使徒行伝からの訳出抄あり。]

 九月一日 我家の樹木
棕櫚 三二 栂[つが] 三 松 二 樫 一二
冬青[そよご] 三 扇骨木[にわとこ]
二 杉 八 夏蜜柑 三
桜桃 一 椿 七 楠 三 柿 一
木槲 七 梧桐 六 八角金盤[やつで] 三 無花果 一
ウバメガシ 六 樗[おうち] 二 青木 一 高野槙 五
椋 二 桐 一 山梔子[さんざし] 五 枇杷 二
櫻 一 南天木 四 槐[えんじゅ] 二 柘榴 一
茶梅[さざんか]三 金木犀 二 楓 三 檜 二
櫨[はぜ] 三 桃 二 不明 四          計一四〇

 九月二日
大佐渡の名も無き寺のあすなろう(湯原)
蝉死にて花無き杉の相(かたち)かな
おそ夏の木の花開く暑さかな(湯原)

高架線を
長く貨車牽きてゆく
機関車の壮さ
  ×
動くものを
凝視めるに
寂しさの湧くことを知る
  ×
汽車の煙
淡くなりて
その長々と
汽笛鳴らすを
聞けり
  ×
夾竹桃は
さかりの長い花
散らぬ花
秋づく日の空
木梢の先にのこる花
  ×
別れのかなしさは
夾竹桃の塀路を通り
港へ下りていつた午過
  ×
晝に
白い雲の立つたあたり
夕ぐれては
星座の動かざる相
  ×
涙脆うも
秋早い巷をゆき
何気なく見上げて
見えた星座の姿(なり)
  ×
秋になつて
初めて實る蕃茄(トマトオ)
祖父の命は
やうやく保つたまヽ
  ×
白亞の建物に
歪んだ光線
秋だつたと
しみじみ
呟くはわたし
  ×
手帛の白さが
うれしくも秋

人間が如何に期節[ママ]に制約されるかは今年と去年の僕の休み中の行ひ、
考へを比較して見るがよい。僕は燕にもなれようし、春になれば必ず咲く草木にもなれる。
  関口に一句
  淋しさや楠の朽木の小蘖(コヒコバエ)
  廣重の松の並木に鴉哉
  西垣に
  蝉の声しばしとだえてひるね哉
鴎鳴く港を出でば夕日かな
カラカラと物のひヾきに出船かな
時雨るるや別れも告げぬ出船哉
  石段は四百段目の海の色
  天の川夜明け御山を下るとき
  峰の杉に明星落ちて夜明哉
渋柿の不作も惜しむ初秋かな
秋浅きつめきり草に夕日かな
末生の絲瓜みつけし秋暑し
  × × ×
 感傷
どなたさまにも
ごめいわくではございませうが
手前さびしうなれば
手紙を書くのが 癖でござります
   忘れじの誓ひ日記にのこりけり

お天守に沈む夕陽や街も暮れ (九月三日)
稲田見渡すお城にのこる夕日かな
くびかくす扇になほも残暑かな

  増田正元君の遺影を受け取る
時の忘却作業は
君と僕との思ひ出に
秋づく日の斜めな光を
射しこんでゐる
  ×
わかれ──
そしてそのまヽに
僕達は歩み去り
今焦燥を感じるのは僕だけだらうか
  ×
長く長く汽笛を鳴らし
前の海峡をゆく汽船
ゆうぐれはこの花壇の
ヂキタリスの枯葉にもあつた
  ×
鉢伏山の傾斜が
今となつては鮮かな
我々のラストシーンを画き出し
海は静かに光るばかり

Mein Erl ser,Jesu Christ,
Hilf mir,wenn mir zu helfenist!
Liege ich tief auch im S nderschlamm,
Bin ich dein Kind doch, o Gottes Lamm!
救ひ主 エス キリストよ
御心あらば 救ひたまへ
罪業の沼ふかく横たはるとも
われは主の子 の仔羊なれば
[※ 以下、聖書より独文の十六行抄出あり。]

[※ 蕪村句集より九十五句抄出あり。]
蝙蝠の啼く音あやしき夕かな

 九月五日夜  伊藤氏方
眠れざりし朝のおどろきに目高の小さヽとそのなま臭さとを感ぜり
掌に跳ねるこの生臭き生命が耐[たま]らずにくたらしくなる
生臭くなつて死ぬる目高を思へば無所畏[ママ]の心終に無からん
夜中に口笛吹く音長くつヾくを聞きしが犬も口笛吹くなるか

 九月六日 清徳保男、友眞久衞
飽和の状態にある大気を擾[どよも]す風が吹いてまつ青なのつぱら
嵐の先駆はげしきにたなびきもえさかる炎の遠きにあり
百日草の朱の色も嵐の前の青い大気にもの凄く冴える

九月七日 宝塚 京阪商業 十一 × 十三 [※ 野球スコアあり]
     ミス日本某嬢を見る
日の当るなだら斜面を持つ山のめぐる球場の空は澄みたり
寫生する女の子あり空青くとんぼとびつヽこころぐく[憂鬱]てゐる
種子となりし待宵草の野つ原にひる啼く虫をなき止ましゐる
川原によもぎ叢[むらが]り石白し鮎のぼりつヽ漁らるらむ
  増田正元
一年(ひととせ)をみじかしと云ふはむすこやけくありし君だに見えざるものを
めぐらせる青菅山のまん中に球争ひし去年のいまごろ
秋風にみだれたなびくぽぷらの木きみがおもわは今も目にあり

  「間諜X27」(DISHONORED) 金崎忠彦君、公楽座 九月八日
      Dir. JOSEF STERNBERG
      X27. MARLENE DIETRICH
      KLANOV. VICTER MCRAGREN
刑場の装ひは成りて雪深し足音重く兵等ゆきけり
悲しくも石壁にひヾく楽の音にニヒルみだるる稚心もありき
ある朝の雪深き獄庭に倒れし女も数夛くなり戰ひは止めり
泣くなかれきみがなみだのあふるヽを見るわれがまさに死ぬべきなれば
おのづから女心のかなしさにこふまじきこひするを咎めむか
われはスターンバークの計にかヽりて口惜しくも泪ながせりまさに悲しく
はるばると音楽のねぞひヾきくる牢獄にとヾく暁の光り
かよわきをみなころせし十人の若き兵士は悔い悲しむか
すなほに泣きて死ぬとも咎めぬに冷く笑ひて逝きしせ[兄]はも
せんなき自嘲に東洋の白磁の壷破りて見て更に悲しき
冷かに鬢[びん]に落つる毛をかき上げてさらばここをと胸を指すなり
あまり冷し冷しと云ひて泪流しつヽあはれこの映画はさびしけれ
ひとりで行く途に夛くの人の生活を持込んだことの結果と知る
ともに生きむと云ひしわれはもきみうたむ號令せよといな[否]あた[与]ふまじ
ともに生きむと云ひしわれなればきみ死なむこのあさあけに死なむとすらむ
戸外には探照燈の光あかしいきどほる眼もせんなくは見ゆ
たはれめと向かふ牢部屋の窓の外わが飛行機はいまも来れり
あるは明るくあるひはくらしわが朋らのくにより来る飛行機の爆音
かなしきは遍照光のきゆる見つヽちヽはヽのくにヽわかれいづるも

  大阪を去る 九月十日 松浦宅
吹田の驛を出づれば群松の丘の彼方に陽は落ちむとす
赤々と陽はうらがなしくおちにけりわれはひもじくて車窓によれり
ちヽはヽのくににわかれてゆくをのこ西に入る陽を見るべしやまた
海州常山(くさぎ)咲く白々と咲く夕あかりほのかに見つヽ汽車に吾はゐつ
はつはつに白萩咲ける山崎の驛のあたりの夕空の蒼さ
  ×東大阪のスラム
高架線のガードの下にむしあつき夕方頃を眠る人々
うす汚き足のうらをば見せてゐるむしろにいねし男死ぬべし
夕方ガードの堅き柱にもたれ男食みゐるべんとう白し
生きのかたさ[難さ]をひとびと説きついたづらに説くにまされるこの人らの相(さま)
蓆[むしろ]の上に頭よせつヽ眠りゐる二人かならずしも仲善きにあらじ
  ×女工さん
たからかに笑ひつヽゆく蒼白き女工の群に嘔吐もよほす
ブルジヨアの世紀つきればこれやこのかヽる女らつきむとすらむ
みんなみんなきちんと装ひをつくろひて仲よく暮せる時来れかし
プチブルのイデオロギーはわるけれどさもあるべしとわれは予期(のぞ)むに

  十一日 西垣氏宅 林氏、岡本正徳氏、福井敏夫氏、野田氏
秋浅き鳴滝山の片岡に青毬見えてさらにかなしも
雜木生の片岡中の栗の木はその青毬[あおいが]にしるくしあれよ
ゆうされば愛宕比叡の灯も見えて風来るところ酔泣く主人(あるじ)

  十二日 岡本、福井氏を送る
            萬年筆出にくし 出にくし 出にくし
 博物館
Turfan[トルファン]の佛様達見にゆけりその眉の長さいまも覚ゆる
冷き石の像なれど口鬚のねじれゐたるがなつかしく見ゆ
  豊國神社、方広寺、清水寺、八阪神社、北野天満宮、平野神社、金閣寺
うれひつヽわが見にゆきし銀閣といづれととはヾ銀閣われは
巨きなる鯉ゐて菱の花白き水面にうかび揺がせてゐる
亀游ぐ池の向ふは衣笠山後水尾帝は眞佛かけましき
春すぎて夏来にけりと見そなはしヽ豪放濶達の帝にませし
林間に泉はありて青苔を傳ふ細水光りては見ゆ
  嵯峨の夜
虫啼きて家をめぐりぬつぶさにきけばおのもおのもに声ことなれる

憂鬱──
それはまだ持つたことのない恋人の死を思ひ
死んだ父母のことを思ひ──
所詮持たぬものに対する悲しみであらう

憂鬱──
それは暗い北海の波打つ渚に
胃痛の胸を抑へて未だ来ぬ原稿料を
焦り待つことであらう

わが憂鬱は──
チヤイコウスキイのメランコリツクシンフオニイをひく
モデレフスキイのラヂオに完全なる結実をとげ
いま嵯峨の野の奥なる落柿舎に死なむと思ふ
  青柿よ落ちなば落ちね石の苔
  蔦まとふ松もありけり紅葉ゆかし
  奥嵯峨の禪寺通はぬ路もあれ
  鹿啼けよいづれ丹波は山どころ

  十三日 西垣氏と 青い鳥ブルフリンク−蠶神社−太泰広隆寺−嵐山大悲閣−虚空蔵菩薩−    ※
松尾神社−梅宮神社−嵯峨天龍寺−清涼寺−大覚寺−車折神社
  広隆寺弥勒菩薩
年久しく拝みまつらむと思へりしみろくぼさつにあひ奉る
ほヽづえをつきてよるひるものおもひにこやかにしてまします佛
  大悲閣
枯れ橡に蔦まつはれる青さかな
ひるすぎや水浴みの音谷にあり
みんみんの石段のぼり大悲閣
名所よはるかに見ゆる比枝の山
みづひきははつか[わずか]に紅し秋の蝉
空青々峽の水は光り出で
赤松の幹光りゐる向ふ山
心中はかの山なりき谷ふかし
常夜燈つきなむころやほとヽぎす
みざくらは鳥にくはれて秋来る
  嵯峨天龍寺
林泉(しまやま)の池の向ふの茂りふかし木深く水は光り落ちつヽ
水草の黄なる花咲く禪寺のお池にひるの日はかげりけり
しまやまをめぐる林のこぐらきに禪僧ゆくを見よといひぬる
  清涼寺
西山の釈迦の御堂をと[求]めくれば二層の塔の瓦青かりき
楼門の傍に松は茂りけれいづこに啼くかその蝉どもは
子守遊ぶ寺の境内広ければ松いく本を植ゑ生はしけむ
  京都を去る 十四日夜
  植物園其他
カンナ咲くまひるの園にふみ入れば炎になれる生命も思へ
眞赤にまんじゆさげ早や咲くを見しまなこいまサルビヤの花を諦観す
百日紅咲かしめし庭深からむあで人すむとわれは知りたり
麗人はとつぎのよそひなれりとふあかく咲きたる花も痛けれ
  洛北白川
頂に家建ちゐたる吉田山愁の眼に松は見えつヽ
茶人となり枯れし生命も終らむかいのちさびしとは言に云ひかねつ
よるもひるもたゆまず水の流るヽにその中に咲く青藻の花は
  萍水相逢   民國留学生某君 年二十一才 河北省人 明大生 籠球選手
北平[ペーピン ※北京]より来りしきみは眉ひろしはろかに遠き支那を語るも
うきぐさは水に流れて咲きゐたりその花のいろ黄いろといふか
別れ果て余情なかりしきみ思ふに蒼き帝都のそらのくれいろ
民國の歴史研めむといふ君は共匪[共産党]を恐れのヽしるとする

  十五日
茅ケ崎の朝凪海は並松の上に見えたり花咲かぬ野は
大山の頂にかヽる朝雲をいつはれむかと民國人見つ
異邦の名知らぬ山にゐる雲のあはきうれひはとはに忘れざらむ
あはれ蒼き朝の稲田は広ければ人ゐて見ゆるが甚だ小さし
  × 松田明、肥下恒夫、石山正一、船越章諸氏
さびしさやかへりきし庭のこヽだにもカンナ赤々さかりならずや
カンナの花の巨きくなるを畏れゐるこれのこころは誰にも語らず
かへり来し宿に一本の朱実つくる樹ありしを知りぬかなしきこころ

  十六日 無為
秋雨は百日紅[サルスベリ]の遅花に降るとは見えず外に出れば濡れぬ
杉林に音なくしぶき雨ふりぬそこはかとなき白き花咲き
むかしむかし百日紅咲きし屋敷もちわが祖父は煙草のみゐき
むかしむかし白壁めぐらす邸にゐてわが祖父は小作米積みき
むさしのを開拓きし昔思ほゆれ神輿ゆりつヽ児等が群るれば
関東は子供さへ心荒しとおもふあはれ神輿はとほくゆれつヽ
まじめに太鼓叩きてまつぴるま人ゐるなればわれも歌つくれ

  十七日 新宿 章氏と
かの子らやおのもおのもに夫を得て安寝せむころわれは泣かなむ
ねむりぐすりのみつヽいねむさびしさのきはまれる夜には何を思はむ
  ×
美しきをとめを見しが巷にて かヽはりなきかこのおとめらは
美しきをとめのころ[子等]が夫とりて交合せむを思ふに耐えず
  ×
おぼほしく空は曇れり虫なきて白紫微花ゆれつヽは見ゆ
すたれたる絢爛さおもふさかりすぎし白さるすべりに風は吹きつヽ
  ×
嫉妬といふこころを
素直に表し得ぬものか
自らは恥ぢを感じて
何とも為やうもなく
全身を熱くする ほんとにあつく
人はこれをさげすみの目もて見る
殊に勝利者の目は
嫉妬する人を死なしむるに足る
故にわれわれはひそかに
爛々たる眼もて幸福者を
物の隅より凝視め
大きく息を吐いて悲しく悲しく
蒼暗き洞穴に隠らうとする
  ×
芭蕉葉やででむし蒼き夕ぐれは
  ×
ゆるやかに物云ふ人をにくみけりひそかににくみいかにすべきぞ
横面をはりつけやうとも耐えてゐむこの人にはわれ負けると思ふ

  十八日 章氏と三越へ。 保田、松田。
  十九日 大学 「支那と戰爭」
かなしきは営々とわれら築きたる格納庫破壊の東洋飛行機
さげすみの眼もてわれらを見てゐたる東洋をとめ姦せむいまは
東洋の神経質なる奴輩(ヤツバラ)に民國の爆彈をぶつヽけるべし
この日頃にくみ重なりし東洋人(トンヤンジン)北陵に屯し火を焼けり見ゆ
黄沙飛ぶわれらが郷土に入り来り銃剣の穂を閃めかす東洋人
東洋兵らつぱ吹きつヽ来りけり牛車蔵めよ木犀の家
東洋兵の銃剣の穂は光りたりかの地平まで広し國原
莎草(すげ)生ふる牧に入りつヽ東洋兵銃組みゐるを童らおびえ見る
ごうごうと夜ふかく鉄橋わたりゆきし急行列車に爆弾打つわれは
わが友のわがかたはらにこゑひそめ口火切りゐる見つヽかなしも
がう然と鉄道線路とびちりぬ広原の牛馬こゑあげて逃ぐ
ひろしひろしわがくにはらにけふもかも入り来る東洋兵一隊また一隊
紅くあかくはげいとう見ゆる支那民家のをとめを見つヽ行軍するかなしさ
このをとめら屠らむと思ひとほくおつる入日を見て夕げ炊かなむ
よるふけて牛馬そばにより来りけもののにほひすふるさとかなし
この野原にしげく生ひたる莎草群に支那の民かくれいく日くらさむ

  二十日 日えう[日曜] 丸来 早明二囘 六A−五 明大勝   慶立二囘 三−○ 立教勝
  二十一日 早明三囘 六−四 明大勝
       今来、保田、松田、藤田、天野、肥下、澤井、長野
  十一半頃激震アリ 向ケ岡弥生町三番地ナル園ノ下宿ニテ遭遇ス
地震[なゐ]ふりてものおと雜然と起こりたりおのづから生死の域に心至りぬ
三味の音聞えずなりしに思ひつきしはなゐやみてのちはるかとおもへ
窓の外に見ゆる二階家のゆるヽ見て死ぬべき期と思ひし瞬間もありき
棚の上の植木鉢をどりゐたりしが地震やみてのちしづけくは見ゆ
  ×
ひいやりと煉瓦造の学館の棟より秋の空がのぞけり
カンカンと石打つ音の澄みにけりま上の空に煙流れぬ
巨くも時計塔は空につきたちぬま上さしゐるその時針いま
ほのぼのと味噌汁のにほひながれたり朝啼く虫に地震はふりたれ
菊の花のつめたき感じにわがこころおのづからなる秋に至るも

  二十三日 同窓会 緑会委員の事に関して也 スパイ二人
  二十四日 秋季皇靈祭 増田の記念帖「夕映え」来る
       菊池眞一郎、丸三 二科展 章氏と
  二十五[日]お腹が空いた 学内の空気急迫

われを養ひたまふに
わがははは山羊の乳をもて
なしたまひけむ
ものに怖ぢ易く奔り易き
赤き眼をせる子どもとなりぬ
  ×
あはれ おぼろなる
秋のも中の月かげに
かすかにもきみは倚りたまふ
まことふがひなきわれにもあるよ
月の照らす木々の葉より
なほ蒼ざめをののきて
終に白きみ手に指だにも
觸れざりけるを
  ×
などわれは恋ひむな
きみを──
まことわが君は
心うるはしく 眉清き
この世の中なる
花の如し
われは襤褸[らんる]をさげて
垢髮巷をさまよふ
かたゐの群よりも
せむかひなし
   松田明氏、保田與重郎氏
  二十六日 「西康問題」を買ふ
  二十七日 早帝戰 十一−五 帝大勝ち
わたる日は雲の流らふ間にありぬ夜更けの月の如くは見ゆる
まひるまに日を仰ぎしが眼くらまず地(つち)はかげりとなりにけり
白紫微花衰へて秋 暑き青き空に富士の方雲旋る
雲のめぐる武蔵の江戸のさるすべり秋なればおとろふものかまなに見えつつ

  二十八日
夕ぐれてくれのこる不二の山
いつまでもいつまでも西の空に
何だか女の子を思ふてる夕ぐれ
  ×
淡青の空に
煙をのぼらす煙突があり
雜音を刻みこむ
汽車があり
蒼茫と広がる地は
  ×
われは
夕ぐれのいつもの寂しさに
屋根の形をした富士山を
眺めつつ
中央線の驛に
煙草をくゆらす

  二十九日
銀杏の實落ちる
午過ぎの大風
雲はゆきめぐり疾し 疾し
西空はやヽ開けて
淡青き空の地
やがて銀杏の實の臭ひ──
VAGINAに似ると
清徳保男が云ふたか
云はなんだか

  三十日 東洋史学會
ひえびえとくれかヽるそらは身に冴みぬ気球するりと下ろされにつつ
時計塔のくれのこる空はさむざむしみのる樹あるはかなしと思ひ
ぎんなんの樹の下をとほりゆふぐれの帝都のこゑにかへらなわれは
お茶の水の谷間はふかし神田川流れつつ見す生計(なりはひ)びとを
歌つくり止めむと思ひ止めよと云はれ菊賣る街を帰り来りつ
うすぐもる空にとぶものありにけりガスタンクに人のぼりてゐたり
いつもいつも少年の頃おそれにしいまもおそるる夕ぐれのこころ
  ×
愁來らば野丘(のづかさ)に
攀(のぼ)りて國見せむずらむ
あヽ蒼茫と暮れかヽる地平にのぼれ
夕月も ちろりちろりと消え光る
夕づつ(星)もあれ 穂芒は音に   ※
いろをこめなびくべし
遠嶺はなほも暮れのこり
淋しき夕の物の音を
つれなく反響(こだま)しとよもさな
わが十八の口笛も

  一日 上念の省さんと銀ぶら 本宮君逮捕されたとの噂あり
  二日 章氏と白十字 同窓会 脱退のことヽなる
もの怖ぢの眼の光弱きひとらあつまりよわき物の云ひ方
するどければ若ければわれらうべなはずかの一團(かたまり)はやすきにあらじ
二十の年のわかさに革命の朝を語らぬそはまことか
  本宮氏逃れたらしい 富山はたしかに捕はれた 久保も一応連行された相
  帰れば丸来てゐる 松田と三人ではなし   ※

  三日 奥澤九品佛
百日紅が咲いてた
九品佛は金々と光つて
葬式
白い柩をかついで       ※
栂の木蔭で泣いてゐた母娘
  ×
果敢なきものをこふまじき
われはほのほとなりはてヽ
百日草の畑に立つ       ※
とべとべとんぼ 秋なれば
  ×
をみなごをこふるあまりに
わだ中の伊豆の大島
わたりゆき 燃ゆる山見む
秋の光に
  ×
椿の葉いや黒みつヽ秋ふかき朝の泉のあたりしづけし
   童骸未焼
さるすべり木梢(こずゑ)となりて咲くなればほそぼそのぼれ秋の煙は
そら高く啼きつヽ鳥のゆく見れば人焼くけむもそこまで昇る
裏山は墓原となりて ゆくりなく人燃えゐたるひるにありけり
どんぐりはこの墓原にもありにけり葬列はいましづかに來たる
  ×
かなしきひとひるをさびしく人々にまもられてゆく杉の墓群に
栂の樹のこずゑに鳴きし鳥ありきこのもとふかくなげかふわれは
かくし妻われにしあれば百日紅 紅きもとゆく葬列を遠く見やりてせんなきろかも

  恩師財津愛象先生四日逝去さる [※ 新聞の事故記事切貼あり。]
  七日告別式あり 遥に拝す
温容永久に帰らず
秋の雨ふるやわだちに枯落葉
柿みのる山田に葬列のぼれ
しづしづとゆく葬列に喪主もあり
  熱高き夕となりて冷き雲
  林に坐して琴きく夕の落葉かな
大学のマロニエ黄葉すること早し
反動の嵐吹き荒ぶなればか
  スパイは紙屑ひろひとなり
  金崎忠彦は故郷にかへらむ

  八日 丸三郎 松田明  明とビール呑みに
  九日
年月──
それは灰色の髪の毛と   ※
皺ばんだ手とを表す
悪意ある嘲笑
そして墓穴
  × × × ×
富士が見えた今日は
雨が晴れてカラツとした空の
深さ──長くはつヾかなかつたが

  十日 薄井敏夫君 服部より来信
新井薬師
  時雨るヽや梢にありて虚栗(みなしぐり)
  膝たんだき[抱き]またや仮寝の落葉哉
秋 こすもすの花美しき
  晦冥に生(あ)るる児ありや

  カルルのヨハンナに与ふる文
ヨハンナ、ヨハンナ、汝(おまへ)の眼はりうのひげ[※ 植物名]の實よりも青い。
ヨハンナよ、汝のくちびるの紅さを果物の切り口にたとへよう。
ヨハンナ、汝の髪はダーリヤよりも輝き遠く沈む日よりも金である。
ヨハンナ、汝のみ陰(ほと)は枯草の匂ひよりもすがしく銀杏の臭さよりも好ましい。
ヨハンナ、汝の乳房は無花果の葉つぱのにほひがする。觸れると薄荷よりもきつく
 僕の皮膚を刺激して僕は歓喜で飛上がつて了ふ。
ヨハンナ、おまへの手はとかげの指よりも軟く自由自在で海星の觸手よりも魅力がある。
ヨハンナ、おまへの足の趾(ゆび)はばらもんじんの根よりも相が良くて星のやうな爪を
 一つ一つに具へてゐるのが神妙不思議に有難い。     ※
ヨハンナ、おまへの巻毛は東邦の棕櫚の葉よりも 、嚴に知慧の殿堂のありかを示す。
ヨハンナ、おまへの耳はみやまうすゆきさうだ。雪の中に咲く一群のうす花だ。
ヨハンナ、ヨハンナ、おまへの言葉は銀の連る嶺より出る月の如く
 四辺のものをひヾかせ共鳴させる七絃琴だ。
ヨハンナよ、そしてお前の便りだけはわたしを悲しませ、悩ませる悪魔の手品だ。

  十二日 硬友会野球 LEFT ×弘前 一四−○
  十三日 生島栄治君来訪
  十四日 生島、保田、松田、長野、紅松、杉浦、本宮、山本 帝立戰 二−一
富士の嶺に光れる雲はめぐりゆきおのれさびしく久しくてゐる
不二のねにかヽれる雲は動かざり眼の下の街の電車小さし
高空にとんびまはせつ不二のねに至る平野の人間の営み
伊豆の海より起れる雲はつらなりて光りつヽ動く武蔵野をめぐり
はるかなる國會議事堂にさす光 小く光りまひるとなれり
宮城の松山のあたり雲動くに長々ととよもすまひるの號笛
秩父嶺の武甲の山にゐる雲の山とかヽはりはなれぬがかなし
遠々しき峽より起る雲の群人間とあるをかなしみつヽ見る
銀杏の梢ゆるがす風ありぬアドバルーンも靡かせにつヽ
海へ吹く風に気球はなびきゐぬ洲崎のあたり船は見えつヽ
にぶくにぶく光れる海に巨いなる街の煙は垂れて低けれ

  十五日 帝立戰
  ひるの図書館であんまり大人臭い話をきいた。 夕方、丸、本宮と神宮苑を散歩。
ゆう月はなヽめに西に下りつヽそこはかとなき木犀の香も
ゆうもやはなびきて芝にふりにけりわれらがいのち短くあらむ
花の咲く園にふみ入り秋ふかき夕となればかなしみかたる
ちヽはヽのにくきをかたり時たけぬ革命ののちはかヽはらざらむよ
ゆうさればしみじみ光りゆく雲にまぎれずあるは星にあるらし
淡ければゆうべの星をかなしみぬ かくてすぎゆくわれらの時も

  十六日 無為 松浦とこ、保田と
  十七日 早慶一囘戰 雨で中止 國原を買ふ
  十八日 同 二−一 早勝
永遠の女性は
モナリザにとヾめをさす
かすかにほヽ笑みもの云はず
右手には紫の花をつみ
左手には幼児の手を握る
母性愛と美に対する愛の象徴
現実を忘れぬがそのために
理想を捨てはしない
背後には伊太利亜の空が蒼々として広がり
野草の咲く丘を越えては
光る湖が見え 揺れる樹には
實がうれてゐる
モナリザは永遠の女性で
やさしいやさしい僕のこひ人である
  ×
荒城自蕭索  おのづからさびしきものか
萬里山河空  山河も空しくそびゆ もののふの
天高秋日迥  古き城あと いま秋なれば
[口+寮]唳聞歸鴻 そら高く日はゆきめぐり
寒塘映衰草  雁が音をきヽつヽゐれば泪さしぐむ
高館落疎桐  池のみぎはに生ふ草も枯れがれて
臨比歳方晏  高き館の前に生ふ梧桐の葉も
顧景詠悲翁  日々に落ち いまはまばらとなりにけり
故人不可見  年老けたれば少年の感傷は身にあらねども
寂寞平林東  つもるよはひ[歳]はなほかなし さりにしひともなつかしし
   王維

  十九日
しみじみと眼下の街の屋根瓦ぬれつヽ光る秋雨の日は
大いなる憤ありてゐる耳に上野の鐘は通ひ来りぬ
銀杏も落ちつくしけむ秋雨のしみじみと降り冷き手足
あなつめたききみの手足と寄りゆかばほヽと笑へよわれがをとめは
幼な妻と秋雨のふる一日はカンナの花の衰へかたれ
  × ×
嘆けとて片われ月はかたぶきぬかの川岸に水よせゐむか
あきらけく川面にゆらぐ光あり瀬音にまぎれなくはこほろぎ
月かげに川上の山おぼろめき川堤みち誰か来る見ゆ
川霧はどてのぽぷらの梢までのぼりまつはり月に光るも
わがこひしきみがふるさと家々の瓦をぬらし月の光(かげ)てるこのよるを
きみはふしどにさめたまへ さらばにはべになくむしはせつなきわれのこひごころ ねに立てヽこそ啼くと聞け
  ×
幽(しづ)けき光に燃えて茸達の輪舞
篁中はてしないざわめき
植物質の醗酵 水分は霧となる
月光がさして来たぞ
今となつてすましても駄目だ
白い菌糸がお尻にくつヽいてるのやら
外套の破けたのやら
いやはや何たるていたらく──
顎の長いおぢいさん おだまりな
夜は長いしお腹はくちいし
さあさもう一おどり 一おどり
  ×
あきらめた人をあきらめかねる──
一年前のいまごろだ
月の光の下をさまよふた
収穫で忙しい野原をうろついた
山茶花が紙屑の様に咲いてゐた
紅い漆の葉 もみぢの葉
秋はなつかしくほヽえんで僕を迎へた
今は百里の山川をへだてヽ
仙薬の救けでも借りなければ
一目あふよしさへもない
せめておもかげかよふ人をもとめて
古いソフト の下から眼を光らせよう

  十月二十一日  [※ 巻四のストライキの一件の話の続き] (耿太郎の讀書會を開いてくれるといふ山鉄、湯原に呼びかける) 耿太郎は一九三一年十月二十一日の夜半の寝覚こころやるせなきまヽに
一九三○年十一月二十五日の事件(それを嘗つて「起たなかつた話」として前半を記した)を叙する。元より一年に近い「時」は或部分を除く外は記憶を甚だうすれしめ、
記事も従つて不正確となるのであるが、事件の中心近くゐて種々のことを見聞した点に於て耿太郎の記事も又後世に残すべきである。讀者この心理を諒とせられよ。
 扨十一月二十六日午後四時、学校側の回答に誠意なきを認め、今後の行動に関してのクラスの態度をきめるために一先ず解散することにした。この際、 分宿所を定め連絡委員を出すことにしたのは甚だ統制あるやり方であつた。耿太郎らの文三乙は寮の集会所楼上であつた。 これは寮中最良のところでリーダーの位置にあつたわれらに与へられた名誉とも云はねばならぬ。併し乍らこれより先、理三甲生全部は前日既にストライキ等に類似する行動一切を否定し、 全部(庭球の松山、蹴球の田島等の極少数を残し)この生徒大會に加はらなかつたのであり、又文一甲は、耿太郎らが後輩である遅川一派も同様な態度で、之も級中の半ばを占めた。 かくて連絡委員も後日の責任を逃れるためクラスの席順により三四名を出し、以て中央部との連絡を計ることにしたが、この中央部たるや実は俣野理事一人であつたとは後に判明したが、 これこそこのストライキの敗れた最大原因で、これ又耿太郎ら文三乙クラスの恥辱責任であらねばならぬ。尚、連絡委員もかくしても尚はかばかしからず、 殊に席順の始より出せし委員は成績優秀のもの計りにて、学校のためを思ふより外事を知らざれば統制上に欠陥の生じたも計り難い。
 これより先警備隊なるもの組織され、隊長として文三乙の川本が当つた。川本はストライキに対する態度ははつきりせざりしも隊長として中々功労があつた。警備隊は各處の校門を守り、 急を聞いて馳せよする父母達の心配をなだめ事情を諒せしめるべきであつたが、徒に面會を謝絶する計りであつたのは少々遺憾である。然しこれもむりからぬことで、 後に話す玉眞判事の周章振りに照らしても周章したる父兄には何の理屈も徹らかつたに相違ない。現に耿太郎が校門附近を遊びゐるさい中年の洋装婦人あり、不二原なるものに面會を求めて止まない。 生徒大會中なることを以て止めてもきヽ入れぬ、遂には泣いてそこに蹲るといふわけであつたが、何らの恐れありてかくするか耿太郎らに分からなかつた。耿太郎は親しくその婦人 に理を説いたつもりである。                         ※  四時半五時の更に至り、日は暮れんとした。耿太郎は八つ手の花のほんのり白い中庭で同級生に呼びとめられた。それは梅下[※ 松下武雄]である。 梅下は哲学会を牛耳る一人で、R火の同人でもあり急進派としてしられてゐた。彼によつてストライキ中止の提議がなされたのである。 その意見は、「勝敗は既に決した、客観的に見るに全校生徒の熱甚ど揚がらぬ。この寒空にあつてこの後数日のストライキをなすも最後は知れきつてゐる。徒なる處分と果敢なき惨敗である。 これはこれまでの高校ストライキの轍をふむにすぎぬ。われらはこの際学校側の休学三日発表にその周章振りを発見しこれを一の功として業に就かう。而してその間交渉をつづけ、 再度三度の蜂気をなさん」との要旨であつた。これには湯原、中野等の急進派も賛成し、海老沢、永島は何か不賛成の如き点もあつたが、何ら云ふところはなかつた。  こヽに於て今迄沈黙しつヽ事態を「冷静」に観てゐたる杉浦、横川、山崎、本田等の運動部派はこぞつてその然ることをのべ、文三乙は二年以来の暗  ※ 闘を解いてこヽに左右両派の一致を見るに到つたかと思はれたが、耿太郎は右翼に属するものであり、理屈も何も分からなかつた。最初この提議を梅下に聞いた時、 何故か奇異の感を受けた。然し考へれば尤も至極であると見て大賛成の意を表したのである。  こヽに文三乙の議論はまとまり、この提議を他クラスにも支持さすべく文三甲、文二甲へは湯原が出かけた。耿太郎らはこの後、寮集會所に集まり今後の處置、 即ちストライキ中止後の處置に関し相談した。この際先輩小松(籠球)来り、我等のストライキ中止を聞き大に驚き、先輩に任せてつづけよと云つたが、 此の際組総代東山の返答はクラスの態度を表した。先輩の案を見せられずに無條件で一任することは出来ぬ。ストライキ中止は既にクラス案となつてゐる。 これに代はるべき前後策もあればとも角として、この際止むを得ぬと信ずる。これが返答であつた。この時小松先輩は返答もなかつたのは彼が京大先輩としての位置不明であつたヽめで、 先輩の行動遅かりしことも責めらるべきであらう。  あヽ、われらがストライキは遂に敗るべきであつた。元よりクラス中には之を以て敗れたとせず、学校側の裏をかくものと考へんとした手合もあるが(例へば横川)、 併し矢張りこれは論丈にすぎなかつたのである。われら文三乙の前者は書斎派であり、後者は完全なる反動であり、中間に立つ耿太郎は事機に際して事宜を知らぬ阿呆であつた。
 湯原の提議は文三甲、文二甲に容れられ、今回の事件の原因クラス文二甲が容れた以上、甚だよい形勢となつた。ことにリーダーの位置にある三クラスの一致は誠にわれらの提議の前途を示すものと思はれた。 大會再開は八時と決められたが、それに至る迄の間に父兄の数は増し、無理に連れ帰られた学生も一人二人はあつたらうし、警備隊との交渉も不円滑であつたらう。
 七時すぎであつたか、スパイ、スパイの声が校内にひヾきわたつた。この際、耿太郎らは窓よりのぞかんとしたがクラス中窓よりのぞけば本部がわかる、と注意するものあり、 中に中野、次田の如きは手帳を破き卓上に燃したの何の意味かはつきりせず、狼狽の極を示したものであつた。スパイに指紋をとられたものもあるとの噂が傳はつて来た。 もう学校中をとりまかれたと放言したのは中野であつた。耿太郎は別に恐れるところもなく喜んでゐたところ、暫くして横川入り来り玉眞[※ 友真久衛]をまねき、耿太郎もよらしめ、 スパイと間ちがはれたのはどうも玉眞の父らしい、といふのである。玉眞はわれと部を同じくしてゐる。然し今出てゆけば父は直に連れ帰り、そのため裏切りの汚名を蒙ることを恐れ耿太郎に嘱した。 耿太郎も愛する友のため外に出ることヽし、南門より出でその人を探したが見当らぬ。遂に正門前に至り會ふことを得た。微醺を帯びた老紳士であつた。 耿太郎は問ふに玉眞を知れるかを以てしたが、老紳士知らぬといひ、その言辞甚だ嚴とし且つ不遜であつた。耿太郎なほも辞を低くして暗所に誘つた。これは何のためであるか。 今より考ふるに後に寮報にのせられし玉眞判事愛児奪収の件は此の誤解であらう。玉眞は父判事に会はなかつたのである。
 判事はわれに住所と姓名を訊ね、之を手帳に書きつけ甚だ威嚇するの様あつたのち、この事件の後を操る「魔の手」を説き、耿太郎にも帰宅せんことを勧めたのである。 耿太郎は横川と共にこもごも事態を話しその帰宅せられんことを説いたが、老判事頑として動かず、只八時過ぎの集会の結果を聞かむと云つた。
 耿太郎がクラス會に帰つた時、既にクラスの議は確定しストライキは完全に中止となるべくその理由書なるものも出来てゐた。それは甚だ簡單不明瞭なるものであつた。
 かくて八時の大会は開かれたのである。書斎派の誤謬と反動派の勝利の中に。反動派はこの時今迄と違つて意気揚々としてゐたであらうことヽ思はれる。大会劈頭、提案は提出された。 満場寂として声なく迎へた。文三甲これに賛し、文二甲之に次いだ。然るにこの時文二乙起つて堂々と之に反対し、之を卑怯と呼び、裏切りとなした。 始め三クラスの動議に際しては沈黙を以つて迎へた場は湧きかへり、卑怯者、裏切り、のこゑ充ちた。
 茲に於て文三乙は理事が発言を求め、提案理由を説明せんことを要求して許された。この時総代海老澤は喉乾れて声出でず、先の動議の際も副総代東山をしてよましめたほど故、 この度は中野及耿太郎、横川の三人に頼むことにした。耿太郎は正と拝する議論のため勇躍してはじめて公会の席で弁を振ふ  ※
ことを諾したのである。中野は先づ起つて、理由を説明したがその言甚だ不遜、「わかるか、これ丈はわかるやろ」の語は奇異の感を与へ、且つ云ふことも正鵠を欠いた。 これが皆の心証をわるくしたと思はれる、次でも早文三乙に対する冷い空気の中に耿太郎は壇上に立たされ、痩躯何を述べたか今は正確に覚えぬ。只かくてはも早事足つた。 これ以上やるは不可能であり、敗北である。後に力を養はうと云つた際、それが今わかつたのかとの語文二乙辺りから飛んで耿太郎を射た。 耿太郎は後になつてこの傷を子細に検めたのである。人気者耿太郎の弁も誰をも動かさなかつたと思はれた。次いで横川は立つて説いた。 その言や無茶といふべくあまりと云へばあまりだつたと後に文二甲文二乙の連中から聞いた。父兄の心配のこと迄云つたのである。これが後の横川スパイ説、東山反動説の起りであらう。 勿論耿太郎も反動と云はれたであらう。われは之を人に聞いたことはない。
 がうがうの反対はこの時起つた。他人の気勢落ちたと見てのヽしるには元気がつく。文三乙汚し、卑怯なり、断じてストライキに入れとの語とび、 わがクラスでも高柿[※高垣]の如きは寮中にあつて之に入つた。蒼白なる耿太郎が彼を連れ来つて、その組(クラス)案にして一致して推すべきことを説いたのは、 言葉甚だ過ぎて傍観者のなほも覚ゆるところであらう。理三丙のわが中学の同輩大和[※ 倭]は「他を躍らしてをいて今更やめろとは何事か」とつめよつた。 この言葉甚だ賣名的であつたが又然らん。しかし躍れと云つても躍らなかつた輩の数、殆ど全部であつたのを他は知るか。文三乙中の中心のみが知つてゐたのである。 併しこの時梅下、湯原等は誤算と考へた。それほどわれらに対する反対の声はきつかつた。俣野理事もこの声に、勇み立ち再びやらんとの気配を見せ、文三甲、 文二甲は態度を一変し文三乙のみ孤立した。然しあく迄投票を叫んで止まなかつたのは何故か? 梅下  ※らは後で客観的情勢さへゆるせばやつてもよかつたではないかと泣いたのも之に原因する。
 かくて投票となり、之はクラス別に行はれた。この時ストライキ決行に賛して全級殆ど一致したのは文二甲、文二乙位であつたらう。決行の声もつとも高かつた理一乙山上のクラスの如きは殆どなく、 理二乙でも理三乙丙でも半に充たなかつた。併しその理由に曰く、リーダー達がかくある上は何うしてストライキ等が出来やうかと。蓋しわれらは推し上げられてリーダーになつたのである。 事件の動議はわれらにない。三年の文科との責任がずつと後に僕等の胸に来た。一校文化の指導的地位を保つて来たとの自信は、この時猛然として起つた。さるが故に客観的情勢にも思ひを致したのである。
 投票の結果は三分の一位で決行は葬られ、光輝あるわれらがストライキも終つた。学校の休校は 二日ある。われらはこの間に何をしようといふのか。
耿太郎は本田らとともに小い蒲団を引つぱりあつて寝ねた。然り眠られたのである。涙を拭つてこの無念を忘れまいと河上の言やよし、然りわれらは眠つたのである。
 解團式は翌日三時からだつたか。思ひもかけず文二乙の矢部立つて讀み出した長文の文三乙に対する不信任状。長い長い針を植ゑつけたことば文は旨く、よみ手も旨かつた。 泣いて之に抗弁しようとした海老澤は理事にさへぎられた。かくてこの手紙は全校の拍手を以て迎へられた。われらは呆然とねむり足らぬ夜の名残をとヾめたをしてゐたのである。 これほど無念だつたことはないと泣き崩れた海老澤と、尚も自分等の正しさを疑はなかつた杉浦、本田のやから、僕は漸くこの頃から疑ひ始めたのである。湯原と何か云ひあつたと思ふが。
 ダラ幹山内、松下を東京から迎へて、犠牲者防止運動のあつたことはも早云ふに耐へぬ。云ふべき理由もなからう。かくてわれらは敗れ而かも尚知らなかつたのである。 このストライキにかヽる反動的役割をつとめたことはこのヽちの革命運動に際する耿太郎のちうちよの前兆となるであらう。
耿太郎の讀書會も山鉄よ、むいみであるべきだ。ゆはらよ、阿呆に話しを説くのは止せ。こののちわれは湯原、ツネヲと仲好くなりしばしば無念を語りあつた。こののち級は仲好くなり、 左翼は暫時右翼に接近した。中野、濱田は没落したと噂され、之によつて右翼の好感をいく分取り返したのである。海老澤は未だに喉を快くせぬ。 喉頭結核で死期も早定まつてゐるとも云ふことである。医師の宣告に際し小刀を持つて暴れたとも云ふ。

  十月二十一日 秋日好々
楡の木の並木も秋の日は射しぬ張物板をたてかけてある
あの丘の何かいろづく雜木林大根畑の見透しきヽぬ
富士さへぎる林起伏しはるかなり雲立ちうごかぬ空見えゐたり

何かはかなき 秋の空
紅き實をつけ樹はありぬ
鳥小鳥ひもじうて
毒と知りつヽ食ふならむ

何かはかなき 秋の花   ※
その黄金色(きんいろ)は大空の
ますみのいろにこびるなる
すがれて種子を地にはじけ

何かはかなき 秋の人   ※
実りは小田に深ければ
煙管に火つけうちながむ
遠國に立つ雲ひとつ

情痴の徒浅間の岳は見えずけり
竹林に寒月かヽり夜鳴き鳥

  十月二十五日 日曜 石神井池へ
ゆけばゆけばむさしのくにの大根の畑さみしく日は下るなり
くちなは[蛇]のゐたる沼べり咲きてある秋蓼の花にとんぼかヽはり
音たてて流るる水に草生ひぬ河骨[コウホネ]の花一つあるかも
桑畑となれる小丘の向ふ側家あり何か紅葉づる樹植ゑ
山茶花咲くみちべの塚にたちどまり山茶花見れば愁ひは止まず
大根の青葉のいろにこころひかれながくあゆみつその葉の青に
森めぐる畑のすみは森きれてそこにくだるか秋の夕日は
とほく鳴る汽笛の音は聞こえ来ぬ森にみのるはむらさきしきぶ
この紫の實つけし樹の傍ひととほり何云ひゆきし名知らずとか云ひし
石神の祠に至るみち細し くちなは遊びわれに見られつ
石神の森をつくれる杉の樹の尖り葉くろし は来向かふ
大根の畑のみちに日はかげりかへりたしと思ふふるさとはなし
ふるさとの河内の野みちゆきゆかばこひしき人の門に至るに

  十月二十八日 窓
         A Madomoiselle Shun Kashiwai
わが窓に椿咲きぬと教へ来しとつぐに近き十九の乙女
       × A Mousieur M. Masuda
病院の夜の窓辺にきりせまり海の軍艦の光とけつヽ
       × A Madomoiselle M.M.
あるときの神のすさびにおどろきぬこれぞ久しくゆめみしをとめ
  ×
われは友の凡てを捨てよう われは心貧しくして人を容れがたし
人も心貧しくしてわれを容れがたし
われ心鬱して石蕗[つわぶき]の花を視入るときひとは處女をかたり
われ青空に涙をとかせば他遠き革命の日をあざわらふ
知らず石蕗の黄花と處女といづれか美しき
知らず青空と革命の日と何れか遠き
  ×
あるひ、まはりのひとがみんなすげなかつたので
あきらめたをとめのこひをおもひだした
あるひ、まはりのひとがあまりやさしかつたので
わたしはなくのをわすれ からからうちわらつた
するとおほぞらにあつて あのひとみが
つめたくわたしをさげすみみました          ※
きづけばあまりにもすみとほつたあきのそらでした
ふじのやまにくもがのぼつてゐました

  山里は石ふむ坂の野菊かな
僕は何か泣きさうになつて昧爽の本郷通りを行きます
冷い風が僕のレインコオトを吹きまくり
僕の細い足はズボンの上からもよく見えます
向ふから来る女の子に恥かしいので
僕はテレ臭さをかくすために笑ひます
女の子は怪訝さうに通り過ぎます
あヽもう大学につきました こヽでも僕は自分の弱みをかくすために
お世辞をふりまかねばなりません
僕は喜劇俳優ほどよくしやべり
悲劇俳優の様に表情をいたします
  ×
されどよふけの十二時(とき)
時打つ音をかぞへつヽ十一うちて眠(ね)に入らば
こころふるへてうれしからむ
  ×
見渡せどげに幸多きひとやある
げに幸もたぬ人やある
  ×
なにか泣きつヽゐたりけり 雲も動かぬまひる時
冷たき水に背のいろの緋を浮せつヽもだしゐる
鯉もつまどふ時ありて さほどすげなく拒まれて
わけさへ知らにと云ひつヽも その巨いなる眼を開き
水の外なる雲みつめ げに虚ろとぞ呟くか
  ×
つはぶきやさびしきいろと云ひつべし
つはぶきの莖のすがたや水の上
  ×
まろねして炭火の烹[に]ゆる音聞きぬ
ま冬つき鉄もとけなむ寒さかな
動かざる蝿見つけたるさむさかな
今年柿みのらでくれぬ夕日赤し
  ×
秋風や大野をめぐる山くれぬ 蓋し俗体か?
菊の香やみちべの家の観音経

  十月二十九日 小石川植物園
叢林の一もと高き青樹なり鳥来てむれぬとび又とまり
叢林に赤き實つけし一もとの木の名見て来ぬ今は忘れし
まるめろは目立ずその實つけゐたり波斯[ハレ ※ペルシア]トルキスタンの産と書かれつ
まるめろは沙漠より来り東の國に棘ある藪つくりゐる
わが祖ら生きゐし時に甘藷つくりし昆陽先生の碑はなつかしき
ひるひそか動物の檻の前に来ぬ小鳥ら鳴きてわれをおそるる
猿のむれの狡しきわざも見てゐたり人間の児はなほぞさかしき
銀すヽきかヾやきその穂なびかせり富士見えぬ空はその上に垂れ
どんよりと曇れるそらの下にしてつみかさなれる家々はあり

  十月三十日 本宮清見と丸の風邪見舞いに
さやさやとなびくすヽきの穂を見せてかの草丘に日はあつまれり
草丘にひるすぎて草刈るひと入りぬすヽきのしげりふかしと云はむ
虫どもは鳴きつヽゐたり野の凹地(くぼ)に紅葉づる樹々は囲り生ひぬ
風邪ひきで臥てゐる丸の声太し柿もちゆきて食はしめにけり
兄貴のかへりけふはおそからむ遊びゆけと弟なれば言葉いぢまし

  十月三十一日 雪吉千代治氏送別會
碁敵はにくさも憎しなつかしく

  十一月一日 高尾山に遠足 池内宏博士  浅川−高尾山−小佛峠−與瀬
たたなはる群山はあれどそが上の富士の高嶺は相具(すがたとヽの)へる
丹澤の群嶺しづもりそびえたり巨いなるさびしさそこにはあれり
丹澤のしづけき山群そびゆる空に鳶まひ立ちてしばらくはゐる
相模灘くもりて光らぬ海なりき江の島を師に教へまゐらす
  ×
北面となりてわけ入るは落葉松の林なりけり秋深きひる     ※
落葉松はもみぢて地にこぼれちるその葉の上をふみゆくわれら
落葉松の林を出でて瞰はるかす野洲の山ははるけくは見ゆ
落葉松の林道をゆきくまざさのしげりに山の邃[ふか]きを思ふ
  ×
川の音高くきこゆるたまゆらに紅葉めでます師の言はあり
夕ぐれて峽の町に下り立ちぬ子供らむれて球抛げてゐぬ
夕ぐれの峽のくるること迅し自働車の燈は遠くより来ぬ
夕ぐれの峽の西にくれのこる朱雲に光る桑の秀先は
夕ぐれに河成段丘の桑畑の下の道ゆき光る雲見つ
  ×
暮れがたの紅葉つめたし山川のかそけき音も耳にとヾめつ
いつしかにうろこ雲空にたなびけりはぜもみぢ誰かみちにすてつヽ
折り来りし紅葉の枝を捨てにけり林道を来て長きなりけり
  ×
高尾山の嶺の上にありて見のはるか甲武信の岳に何時雪ふらむ
大菩薩峠をきけばあなたなり武州澤井の里は何れに
相模川峽に白く光りたり嶺より見れば峽はくらし
くれゆけば街道ばたの杉の木に閻浮檀金[えんぶだごん]の佛出(い)で坐(いま)す
天狗らの跳梁すとふ高雄山下り立ちあふぐくらき峽に

  十一月五日 薄井君トアテネフランセヘ
  十一月七日 革命記念日
大デモ 髪の毛を引つぱられて検束されて行つた兄弟
  ×
斎藤茂吉の信濃路の歌は
ぼくを喜ばしめる
それと同じ程度に
警察と結び附いた醜い学校組織が
ぼくを憤らしめる
あヽ いつの時代にか
輝く叡智の眼ざしを持つた若人が
髪の毛を握られて耳を引つぱられて
引きずられて行くと云ふことが容認されるか
ぼくの感傷は幼けれども
資本主義社會の断末魔の悪を
冷たく看過せる人はないはずだ
兄弟よ 傲然とそびゆる時計塔の
内部にかヽる獸の巣喰つてゐた時代を
憎しみを以て語り合ふ日 過ぎ去つたことヽして
語る日──それは僕らプロレタリアートの社會である
  ×
  FLEUR DUMAL
悪の華
それは裏街に咲くものではない
どんな汚い街にも。
美しい曼珠沙華が咲くとても
それは資本主義社會機構の矛盾の現れで
毒々しい色はありながら
人を醇乎たらしめる匂りはない
赤い華は咲くとても
その基をなした葉はも早見るを得ぬ
地下に膨れた球根は
蓄積され集中された資本だ
それから咲くメカニズムの花
暴力の花 独占の花 独裁の花
凡ゆる反感をこの花に感じ
こころ疲れてわれわれは野の路をゆく

  十一月八日 保田、慶明ラグビー
  十一月九日 紅葉と体と
日本(にっぽん)の紅葉(もみづ)る樹々とわが愁ひいづれか夛き秋深きとき
にれの樹の葉のちるくれはかへりぢ[帰途]をしづまりてゆくものヽ音(ね)をきき
はかなしや日本の秋の草原にもみづるはぜのまじり立つこと
わがうれひひそかにみつめおのれ嘲笑(わら)ふわらはねばならぬこのうれひかも
きり降(お)りるよるよるは思ふ血を咯(は)きていのちおとろへゆきし子ろが眼
裏山に夜ごと啼く鳥こゑあやし細るわが腕見ては耐ええず
杉林(さんりん)によるわが住めば友送り出でヽおどろくきりのふかきを
參星(しんせい[※オリオン])は東に昇りゐたりけりひそかなるうれひ保ちてをらむ
杉林の隣にありて一群のもみづる樹々は愛(かな)しみ耐えず
むかで落つる音とも聞かむむさしのの林にふかくおこるものの音(ね)
かそけくも葉つもる路をふみ来りかへりみすればゆふべ霧降(お)り
落葉焚く匂ひは流れ来りけりかそけきながらそのしるけさは
一鳥は梢にありて啼きゐしが葉の散るくれに飛び去りにけり
愁ひつヽ野にひろがれる大都(だいと)瞰ればゆふべの煙くらく蔽へる

  十一月十二日
朝なればひと見捨てたる山羊の檻来てぞわがみるやぎのみほとを
学内の樹々のうつろふ様見ればいま散る葉ありわがまなかひに
楡の木のうつろふ構内(くるわ)石おこすのみ音たえずはたらかぬ身は
橡の樹はいつかすがれし朝の間の林泉(しま)にちりこむ何の木の葉か
ものおとのするどくひヾく朝をゐて林泉およぐ鯉赤しと見をり
  ×
くれはてし帰りみちゆき星光る空に朴の樹散りしを知るも
霧ふかきかの河岸を思ひつヽひるげを食むにひとりひるげを
  ×
時に見てふとおどろきぬはぜ紅葉この紅さをばいつか見たりき
幼子のわれなりしときこの紅の帽子よろこび着しにありけむ

  中野重治の云ふ如く、われらはかすかなものをかすかなものをと追ひすぎる。
  けれどもわれらの教育(何とわらふべき)は、これ以上のものを作らしめぬのだ

  十一月十七日
きり雨にけぶるニコライ堂見ゆるお茶の水ばしをけふも渡りつ
きり雨に下ろされぬ気球ありにけり電車ゆきかふ音たえにけり
  ×モロツコといふ穴     津田
棕櫚の樹やひともと明る雲往来(ゆきヽ)
きり雨にけぶらぬ花もあれ故園には
  ×本郷通り
女人受胎の型けふも巷にさらされ
まことその女陰さびしうてならぬなり
  ×われ
われは鱶の牙なりわれは荊の棘なり
われは啄木鳥の嘴なり
  ×また
われは水晶なり己れ寂しければ
虚しくむなしきかな
  ×おまへ
おまへはわが認識の外に立つ第四次元界
そこにあつてはわが像も如何なる像にあらむ
これこそ畏しく敬しきものヽ最なれ
  ×一九三一年
いくさはじまると覚えた明くる日
新聞に現れたは同じいくさはじまるの謎とき
扨て われはこおひいをのみブハーリンひもどかむ

  十一月十九日 肥田、天野と三越で
私は見た
上品な中年の男を
その人は詩人のやさしい眼と
やせた体と
古ぼけた外套と
曲つて細いズボンとを持つてゐた
失業してから何ケ月になるのだらうか
入口のボーイの蔑すむ眼に送られて
彼は賣場の方へ
蹌踉と歩いてゆく
彼はライオンのゐる入口を
けふも夕ぐれ出てゆき
帰つた家で
職のない淋しさを喞[かこ]つに
けんどんな妻を持つであらう
(或は子供達をも)
私は彼を見たゆえに
すつかり淋しくなつて
階上に昇つてゆき
瞰下すと曇る日の大都會は
咆吼し渦巻き
煙と埃とを空にあげてゐた
大きな建物が方々の空に
くつきりと白くそびえてゐた
いつの間にか
職のない人達が集まり昇つて
四方を瞰下してた
痩せた子守が泣く子を揺すつてゐた
  ×
高空よ鳥渡る雲に断目(キレメ)あれ
むなしくてやがて雲出る空の隈
一抹の雲残りつヽゆうぐるる
  ×
赤き實にとんぼよぎらす風吹かな
さびしさは樫の葉ちらぬかしの森
小春日の梅の樹に咲く花小さし
     後日ノタメニ 偶然ニ俳諧七部集ヲ開ケバ
      曠野集巻四 濃州芦夕
         淋しさは橿の實落るね覚かな

  十一月二十五日 佐々木恒清教授急死さる [※「大軌電車衝突」の新聞記事の切貼有り]
はかなさやこよひすぎなば花散らむ
誰か見しまんじゆさげちるひとときを
枯れ原に鳥落ち時雨ふり出でヽ
虫なきやみいづこあてどのやみをゆく
冬来るや枯山丸き峽ゆき
わかれ路や白雲なびく山見つヽ
うづみ火に弥勒坐像を仰ぎゐて
こもりゐむ病雁おつる沼ちかし

  十一月二十八日 今井の祖父重態との報来る
  春過賀遂員外菜園  王維
前年槿籬故  こぞのまがきはくちはてヽ
新作薬欄成  まとふつるくさ枯れにけり
香草為君子  薬草の香は園にみち
名花是長卿  いろとりどりの花の彩
水穿磐石透  いはにとばしる細水(さヽみづ)の
藤繋古松生  光れるかげもあるところ
書畏開厨走  みどり色こき松が枝に
來蒙倒履迎  ゆかり紫ふぢのはな
蔗漿菰米飯  からむとみしにあるじびと
蒟醤露葵羹  まち設けいれつくづくし
頗識灌園意  つくすこころのかずかずは
於陵不自輕  つくしの米やむつの魚
       希待一陽來復期
       梅馨早夜床馥馥

  十一月二十九日 古川氏令妹帰郷さる
もみぢばのながらふ水や碧しあをし 不二が嶺にくもなびくとぞ告げて来ね
  白雲無盡時
この日頃満州に兵夛く発ち北辺餓ゆと人告ぐるなり
へいたいの親子飢寒に困しむにふらんす語きヽにけふも通ひつ

  十二月一日 近事雜詠
もの暗にしやれかうべの眼光りたり風吼る夜をおそく帰り来
朴の樹の枯れ枝の尖(ほ)を風すぎぬもろ木鳴りつヽ光りてゐたり
枯梢風わたりつヽなびかひぬその秀の先に星空ありぬ
まなかひに紅葉おとろふ森ありぬ鉄路は光りひたのびてゐつ
冬に入るこころもさびしも鉄道のレールの光みつめてあれば
あるあさを混血児の眼のうすあをきをさむしと見つヽわれはゐたりぬ
あるあさにふと女の児愛しとおもひ不二見ゆる駅の廊壇にゐつ
  ×新しき友 鈴木朝英、吉田金一君
ばりけえどきづかむ朝の寒さおもひ街行く朝もあまたとなりぬ

[※ 半ページの破れあり。「その一」欠]
  その二
いつか飛行機狙撃の防塞と
なるといふ大学図書館の
樓上に昇る
初冬の風は快く冷い
遠い上州甘楽郡の山が
冷たく凝つて光つてゐる [※ 半ページの破れあり。]
  その三
柊が匂ふ
かすかな匂ひに
ここは静かな墓地で
上田敏先生も眠つてゐる
むかしの人はのんきだつたな
  その四
けふ初めて
大川を東に渡り
叫喚する機械の音をきき
浮動する煙の團りを見た
それから一銭蒸汽にのりにゆく
ぽんぽんと音をたてヽ
船がやつて来ると
毒消し賣りの女が下りた
娼婦が下りた
女衒が下りた
僕達はその代りに乗つて
川を西に渡り
芝居を見に行つた (四日)

  十二月十四日
新しい外套をこさへた
僕は鬪士としての資格をもたぬ
松本善海は文学部学友会委員となつた
連絡を断つたレポの罪
  ×
愁はつきじ、いく世にも
かなしき人妻
こひしきをとめ
  ×
軍人慰問会
帝大丈で一九○○円近く
  ×
愁はつきじ、いく重にも

  十二月十六日 船越の小父急死の報あり 小光小母と朝十時東京を発つ
ふゆしぐれしとしとと降り宮城の暗き松群ぬれつヽは見ゆ
おほろかにひとのいのちを観ゐしときしたしきひとのいのち死にます
美しき乙女と下る西の旅故國なまりもなつかしきかな
枯れ葉まとふくぬぎ生(ふ)寒き峽ゆき箱根より降る雨に遭ひぬる
高空に輝く雪の富士ありぬ西ゆく旅の午はすぎたり
川のさヾれ磧のさむけさよ川上の山ときのま青し
海のくもりて暗き沖に立つ波頭白しその白さはも
音もなくくだけてゐたる 海の波にこころはいやさびしもよ
ひるすぎて白銀の山現れぬそのはろけさに泪わし[走]りつ
伊吹嶺のふもとのあたりよるくらし死なねばならぬわがいのちさへ
おのづから雪空かぎる夜の山のまろさ見えつつこころおちゐず
  ×
極月(しはす)空こごりてあれや風ふけばむれゆく鳥はつばさをならし
なげきつつみはふり仕[つか]ふともがらの泪もこほるそのさびしさは
冬の野の枯れ生に眠る獸がそのまま死なば何ぼうかなしも
  ×祖父も既にみまかりあり
冬の日のうすき光はおほちちのにごれるまなにいまはさヽざらむ
おのづから冬至る気におほちちはまなこつぶりて死にたまひしか
ねもごろにやまひおさへてさとしましヽかの秋の日がわかれとなりぬ
おほちちのつひのつかへ[終の仕え]と百万遍じゆずまさぐるも眠さをこらへ

  十二月二十日 松浦悦郎 藤井寺
あヽ むかし わが
こひにこころもし[痴]れはてヽ
ゆきしとき見し青鴨は
いまもしづけく眠りゐて
その頸蒼く光るなり
暗き水面(みのも)に風ふけば
眠れる鴨もうごくなり
あきらめ果てし恋なれど
冬来し日よりわが胸に
ひそかに還り又去らず
いま鴨によせ心述ぶ
  ×
近く刈入れの済んだ田に
蠶豆の芽の列り
その向ふに藁鳰
やヽ遠く櫟の落葉林
古塚へわたる鳥
白壁の家ある聚落(ムラ)
遠く赤ちやけた山脉
なほはるかにおほぞら──その寒さ さみしさ
  ×
N0ELは淋しや
エス様信ぜぬわがともがらに
何のめぐみがありませう
雪空は重たく
わがいたむ頭(かうべ)にかぶさり
いそがしく人々は
ゆききすれどなまけものヽ
われはゆく所もなく
足取りも重くさまよふ
まつ青な葉をもつひひらぎに
あれほど赤い實をならせるとは
エス様もよくよくのおしうち
われならあヽはするまいに
エス様涜す語のかずかず
もつたいなくも吐(つ)いたあげく
どこで酔ふたやらもつれ足
かへる野路の夜空を仰げば
あれあれ雪空きれて──
みちかひの星──さびしやとは
云はせぬぞ いはせぬぞ
  ×
  十二月二十四日 友眞、本位田、松浦とドンバル 鬼澤の追悼文書く
木の葉ちり空さす枝に鳥も來よ
十字路なる石標(しるべ)苔むす日数へて
あはれさやみのむしけふも動かずて
長き夜に凍りあまるや諏訪の湖
故國(くに)出でむ山茶花夛き家の数

  十二月二十五日 西川英夫
ぶはありんよみでぼおりんよむともこの友にわれねたまれであらむ
をみな抱くすべは云はざらむ世の中の重大(おほい)なる機会に際会すわれは

  十二月二十六日 再上京
松の間にいまあかあかと唐辛子ほすてふところ三河の國は
行先をまじめにおもへば泪出づゆで卵をば食はざりにけり
あはれなる道化となりてわが出でば棕櫚の木は箒とならむ松の木は何(な)に

  十二月二十七日 京大 二十二−六 東大 ラグビー 川久保悌郎君
  十二月三十日 九大 十九−十六 東大 村山高、池田栄一、川久保悌郎君

昭和七年
  一月一日 他郷迎春
あはきうれひひたひにあれや武蔵野の麥一寸にしもふりし朝
一すぢの雲空にありさみしけば街道たどりひとにまじりつ
禮[いや]かはすひともなければ霜柱ふみさく路に眼据えてむ
この國の春は家々ひとこもりたのしからむよわらふこゑすも
  ×
われをとめ[乙女]にし生[あ]れましかば
黒髪ながくひとみ美(よ)き乙女にあらむ
情濃くこころ細かのをみなにあらむ
さてわれ歌をうたふとき
そのこゑひとを酔はすべし
われはその美しさもて万人のこひ人となり
ひとりのこひ人のために命を終らむ

  一月二日 井倉和雄氏
麻布のや霞町なる邸より眺むれば木夛し美しき東京
初春のかすむ木立のむらさきにかの君の衣おもひいづれば
はろばろに笛ぞきこゆるおるごるのはたとやみたる道をゆきこば
山茶花のま白き花に日かげさしひるふかしとおもふ深き息つき
ともどちのいのち永かれちヽはヽに幸夛くあれわれ死なざらむ
山手線よりうすがすむ山見えてゐし新年の東京にはじめてゐたる
青山のちまたをゆけばたまさかに想ふ正元をまた想ひ出ぬる

  一月三日 同大 十−二十一 早大 古川氏、柏井俊子嬢と
       銀座で京大ラグビーに会ふ 藤枝、江馬、和気
  一月四日 三高○−百三KO 薄井君
  一月五日
二つの山脈が低夷して
互いに倚り合つたところ
そこには湖があつて
きれいな水をたヽへてゐる
水はかぐはしい匂をもち
水芭蕉の花を咲かしてゐる
湖をめぐつて
潅木林
そこでは鳥が啼き
それが啼き止めば
静けさが残る
僕はある日そこに迷ひこみ
深く息づいてその香気を吸ひ
岸辺にかけより水にくちをよせると
僕のうす紫のくちひげに
水芭蕉の花心がふれて
僕のくち髭は黄色く染まる
僕の息吹は
まはりの山々に到り
静かに反響(こだま)して
湖の中心に渦巻き収る
もう一度ゆきたいあの湖辺に
  ×
ながれの岸のひともとは
にほひゆかしきすみれ草
はかなく咲いてすぐ凋む
恋の思ひのすみれ草
  ×
流眄[ながしめ]うつくしき女ひとり
言葉うるはしき男ひとり
ともに歩かば
ねたましき

  正月七日以后、体悪く夢見ること多し。 その夢。
  七日
 練習をすましてくれ方、部の室(ヘヤ)へ入るとうすくらがりにうつぶせになつてゐ
るユニフオーム姿がある。やせた小さな肩、増田正元らしい。「おいしんどいか」
と云つて頭をもつてひきおこすとその顔は骸骨だつた。
 僕はがんばれがんばれと云ひ乍ら逃げ出したが、それでは許してもらへさうもない
のでかんにんと呼號した。かかるかなしく荒涼(スズロ)なる夢も見る。凝れる空の下で
死んだ増田正元に光栄あれ。
  八日
 僕は日本のKAISERと裸で舟にのつてゐる。夏の水浴み時らしい。KAISER
はごま白の の大きな上品な紳士である。僕は彼の関心を相当ひいたらしい。突然彼は
他の舟に用事があるとて泳いで行つた。僕達は船を止めて待つてゐる。そこへペニスを
表した男が泳いでくる。その男は魚を採つてゐると称する。僕はその青白い太いペニス
が気になる。KAISERが帰つて来て訓示をする。僕らはその時もう陸に整列してゐ
る。僕は列び方がわるいとてひどく叱られる。
(この日、晝、李昌善の爆弾KAISERをおそふ)
  九日
僕は高等学校の生徒である。僕達は重大な協議をしてゐる。全校生徒が集まつてゐる。
右せんか左せんかをはかると右、左の声がおこる。やがて一つの悲壮なる叫びが「右は
運動部の主将だけだ」と叫ぶ。すると右翼打倒の声が泡のやうに立つて来る。僕は今よ
り生徒大会に入ると議長にならうとする。よこに保田がゐてこれを止める。その前に
僕らは何らかの策謀を持つてゐたらしい。時機早しと叱られたのである。僕が坐つて二
年生の藤原が議長となり、僕は保田に詫びる。

  八日 [※ 以下ページ中途に破れあり。]
  十日
咳すれば喉いたむゆゑ浅田飴こころをさなくのみてねむるも
富士山の見えゐし夕を通ひゆき
  × 本郷通りに十一時をすぎると天使出る。
十七日
  感ずる所之あり
  冗費は止めむ
  めの子のこと忘れむ
おれは──
不平を云ふまい
おれは下積みになれてゐる
おれは案外さびしさに耐へる男だ
すぐわんわん声を出す代り
その痛さに慣れる

[※ 以下ページ中途に破れあり。]
おれは未だに文芸に執着をもち
しかもその型の古さ
けれどおれは匡四郎の驕慢を
快くは思はぬ
おれの仲間の湯原冬美をはじめ
誰がそれを知らないか?
おまへはおれらを理解せぬ
二つの魂をもたぬ人間が何時ゐたか
おまへ自身がろまんていつくでなければ
何故おまへはそんなに忙しく立廻るか?
おれは以後沈黙を守る
匡四郎らのゐるところでは
  × ×
  COGITO(コギート)
おれ達が花を見るとき、その花のまはりの葉つぱも眼に入る。
その花はおれ達の意識の中にある。(以下不明)[※ママ]
その葉は俺達の意識の中に潜在する。
意識の中に顕在する花をおれ達はコギトの対象と呼ぶ。

  一月二十一日 原始の始原
蜥蝎[とかげ、さそり]の族は
羚鹿[かもしか]の族と相争ひ
いつか地平の彼方の
彼の族の住地へと
侵入すべき日を夢みてゐた
凶日が照り
野にみのるくだものは凋みおち
獸の群は何こへか遁走して影を見せぬ
蜥蝎の族は
北を目指して大挙する──
あすこには敵と食物がある──
そして実らぬ草野に残つたは
蜥蝎の動物柱(とーてむぽーる)ばかり
雲をさす柱
地を貫く柱
敵と食物を索めて
移住した族は再び帰らぬ
月は
星は
幾たびこの柱をめぐり
柱の基幹を食ひあらす虫があり
蜥蝎の体色を彩る
顔料の凡て脱落した時
月と
星との
下に立ち
不覚の涙は蜥蝎の眼から流れた

八脩の宮ふみならす時雨空
昭王の塚秋の日をあばかるる
東洋史同好会にて 一月二十六日 岡部長章君に献ぜん

一月二十七日 橋本勇君
臘梅のすたれし園に咲く見つつ春来む期をともに語りし
北の風この大野をばわたらへばあるひわれにもおもて吹きたり
北風のわれがほほべを吹くときはわらはんとして眼のなけて来る


朝鮮の友 趙君
君の 肋骨がすいて見えるやせたわき腹を
かつて僕たちは淋しがつたが
いま僕たちもそれほどやせて了つた
趙君
君の顔が困しみのため歪んでゐることを
かつて僕達はその利己的な美しさ好きから
嘲りわらつたが
今僕たちも笑はうとする顔の
しらずしらず歪んで来るのを何としやうもない
趙君
君の服はぼろぼろだつた [※ 以下破れの為、不詳。]

 二
兵隊さんの出征が勇ましいと云ふので
停車場まで見に行つた
旗を立てて人達が見送つてゐた
兵隊さんはテレて他見しながら
お互い同志はなししてゐた
旗を北風が吹いて
発車時刻はまだ来ない
村長さんが帽子を飛ばした
その帽子には入場券が挟んであつた
僕達はもう一つの客車(ハコ)を見に行つた [※ 以下破れの為、不詳。]

このひるまくぬぎ林の疎林ごしましろき富士のみねあらはれぬ
もの云はずありける時にすゐせんくわほのかにほふとわれは知りたり
むさしののふじ見ゆる野に 立ちて丸三郎の鬚は長(た)けむか
こもりゐ[井]の湯のわく音はかすけしとまひるのゆめにいまかい[入]りぬる
かなしきや二十有五のますらをの木枯しやむ間音讀するか
をのこさびたたかひせむとおもへどもたらちねもへばとごころはかなし
  × M.M
藁鳰のつらなれる野はとほく聞け雪まだあさきいこま山見ゆ
(第6巻終り)


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