序 < 背を向けた田中克己 >

                         杉山平一

 

 三好達治、丸山薫、堀辰雄編輯と銘うった「四季」に関係させて貰った私にとって、

最初からの同人田中克己は、立原、津村と同じく、年齢的に近く、大阪高等学校出身

ということもあって、心の中でとくに親近し畏敬していた詩人だった。

 すでに和紙和綴ぢの詩集「西康省」一巻によって声名たかく、そのDichtung und Wahrheit

とサブタイトルされた「西康省」の詩篇の

「彼等の土地は129、700、000、000、000、000億元」

と書いたり、

「彼等は壮年に百斤の荷を負つて百五十里を一日にゆき、七十歳を過ぎると四十里しかゆけぬ、

驢馬や牛や馬は二百斤を背負ひ、驢馬は百五十里、牛は八十里を行く」

と、数字を詩句のように美しく使い、また

「彼等は天をラン、地をサと云ひ、父をバア母をマアと呼ぶ、彼等は紅教を信じては蓮花祖師を拝する、

彼等は黄教を信じては釈迦牟尼を拝する、彼等は黒教を信じては丹巴喜饒を拝する」

という風な、即物的な語句の凛々と鳴らして展開する口語詩の新らしさに魅了されていた。

 さらに「四季」誌上には「鳶」という詩も発表されていた。

 

 俺は飛ぶ

 日はすでに傾き風が強い

 感情が昂ぶって弧が旨く画けない

 冷い虚空で

 俺はひとり言をいひ

 涙を流して

 獲物にまつすぐに堕ちかかる

 

こういう詩篇に心境も伺われたが、詩集「西康省」にある学識と、べたべたするものを削ぎと

ったポキポキとした骨っぽさは、当時、萩原朔太郎の話を聞くパノンスという「四季」の会で、

はじめて接した田中克己の風貌そのままであった。肉を削ぎとつた様に瘠せて細く、首筋をす

っくと立てて、清爽だった。

 戦前の秀れたアンソロジーの一つに「山雅房」の「現代詩人集」六巻があるが、その「田中克

己集」の巻頭写真を見たとき、田中克己の真骨頂を見る思いがして、何だか嬉しかった。

 芭蕉の「こちら向け我もさびしき秋の暮」という句に添えた雲竹という人の後むきの肖像画

があるそうだが、田中克己も、ベンチに腰かけた後姿を掲げていたのだった。

 出身の大阪を痛罵して、

 

 「窓の数の少いのは小判が逃げぬためだ」

 「小く欠伸し帳簿を閉ぢて何かうまい物を食ひにゆく」

 「詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ」 (「故郷へ詩人が帰ったときの歌」より)

 

などと、世間に背を向け、自己韜晦の皮肉に終始し、絹介だった姿勢なのである。

後年、私は偶々、田中さんの勤める女子大の非常勤に呼ばれて、親しく話すようになったが、

皮肉屋は皮肉屋ながら、心やさしく、当時の女子学生は卒業後も非常になつかしんでいたようである。

 しかし、やはり、「四季」の第四次が丸山薫の手で再刊されたのち、亡き阪本越郎の追悼式で、

思い出を語った講演の時間を少し縮めてくれ、といわれたのに憤慨したり、晩年、保田與重郎の追

悼祭が京都で行われたのを

「俺が東京に居るのに、何故、東京でやらないんだ」と私にいわれたりした。

 第四次の「四季」は途中で脱退し、丸山薫さんが亡くなったあと、「四季」の真正の後継者は自

分だという思いで、第五次の「四季」を、自分の金で発行された。その誘いが強引であったので私

は辞退して、「杉山を見損なった」と叱られたが、おのずから第五次「四季」の同人は「コギト」

色に近いものになった。

 もともと「コギト」という大阪高等学校出身者による雑誌に、佐賀高等学校出身の伊東静雄を見

出し、「コギト」に誘ったのも田中克己だった。

 保田與重郎は田中克己に刮目し、その詩心に触れており、蓮田善明も、やはり田中克己の詩に触

発されて戦地より詩を送っている。

 その狷介は、狷介の人が多くそうであるように、純粋、潔癖すぎるためなのである。

 その口語詩に果した仕事は、ずば抜けたものと思うが、昭和詩集成などの詩華集に、近ごろは、

その名が抜けているのを見て、「四季」否定の時代の流れの故とはいえ、こころ痛んだ。昭和の六十

年の詩を語るのに田中克己を逸することはできないだろう。

 ところが、その晩年に、田中克己が最も愛し、心を許した若い抒情詩人中嶋康博氏が現れたことは、

何よりの喜びだった。

 中嶋氏は、汚濁の現代には珍しい美しい抒情詩を書く人である一方、田中氏の周辺の「コギト」

「四季」「日本浪曼派」への研究にも造詣ふかく、若いに似ず新仮名遣いを拒否するなど筋金入り

の研究者であり、田中氏への傾倒は並々ではない。

 田中さんは生前全詩集を持とうとしなかったが、今回公表してくれる日記によって、その美しい

言葉が生まれた秘密を知ることができる。そのモタニズムからハイネや中国詩への教養など、全貌

もいずれ明らかになる日がくることであろう。

 田中克己を崇拝する者の一人として、この出版は喜びに耐えない。

 

 


 

 

   跋                (中嶋康博)

 

 私が先生に親しくして頂いたのはわずか晩年の五年間に過ぎない。その間のゆきさつは別の機会

にも書いたが、伝へ切れぬやうな思ひが今も心に残つてゐる。

 御宅に伺へば必ず奥様の手料理をふるまはれ、帰りには祖父母のやうに細々したものを持たせて

帰して下さつた。キリスト教徒になりなさいと云はれたことはなかったが、一緒に歌を歌はうとか、

嫁さんを世話したいんだがなあといふのが時々出て私をどぎまぎさせた。

 この資料にしても先生が見守る中、私がのら犬のやうな嗅覚で押入れに隠してあったのを引っ張

り出してきて、せがんで複写と編輯の許可とを取りつけたものである。しかし人の日記を暴露する

ことが、果たして恩返しと呼べる行為となつたのかどうか。

 ただこの一冊を作り上げる過程で、自分自身の問題として、忘れかけてゐた詩に向かふ新たな姿勢

を築き得たやうには感じてゐる。さうして先生夫妻も約束の国から、私が悪戯つぽく口に出して誓つ

てゐた約束のひとつをともあれ果たし遂げたことを、苦笑をもつて許して下さつてゐるやうにも思ふ。

その償ひとして、まもなく念願の「全詩集」が上梓される運びである。無論こちらは御遺族の尽力な

しに叶ふものでなかつたことは言を俟たない。

 最後に阪神大震災の後始末に多忙な中、杉山平一先生よりは一文を賜りこれを巻頭に掲げることが

できたことを、ここに深甚の謝意とともに最高の喜びとして顕させて頂きます。

 

1995年5月27日     編者識す

 


文学館へ戻る
 

ホームページへ戻る