「夜光雲」第一巻 第1巻 昭和4年2月11日 ~ 昭和4年12月31日 20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(65ページ) p1 夜光雲  くれはてし空の  一角あかあかと  夜光雲ゆき  讃仰す吾は        田中克己   序文 青春は過ぎ行きながら夛くの人達に 饒舌と憂鬱の相反した二傾向を与へる 饒舌の中に私は夛くの物を知つてゆき 憂鬱に囲まれて私は考へてきた 私の血の中のこの二要素が去り来る度に 私の青春が燃焼してゆくのを明(あきらか)に知りながらも それは如何ともしがたい勢力(ちから)である 此の力に抑されて私は歌ひ考ふ 歌ふ所は私の眼にうつヽた 否 私の心をさわがした物の すべてヾあり 思ふ所は私の心に觸れた物である 饒舌を代表するものが必ずしも歌でなく 憂鬱を代表するものが必ずしも思考でない 私はただ 声の出るときにはその声のあらん限り歌ひ 然らざる時は深い思考の淵に沈む 此の二つは私にとつてあらゆる楽しみの凡てヾあり 此の二つに影響せざる所の物は私にとつて何物でもない 命なりけりと歌つた昔の詩人よ 私も歌はして貰はう 考へさしてもらはう 命のはてを! また命のはじめを!  四.八.一九   友ニ 僕ノ遺産ハコレヨリ外ニナイダラウ。                   嶺丘耿太郎。 奈良行 (十四首ノ中) 生駒山吾が越え行けば水車をやみひまなく峡にめぐれる 春浅み梅まだ咲かず山寺はひよどり鳴けど静かなるかも 鳥居の上に石をのせれば幸ありと男三人(×)競ひ投ぐるも                   (×)丸大人(うし)、本宮朝臣(あそん)ト僕                          ※丸三郎、本宮(中野)清見。共に大阪高校の「炫火 かぎろひ」同人。 これやこの春日の野辺に春浅の風に吹かれてつみし竹柏(なぎ)の芽 山焼を見むとつどへる人あまたそが中にして尿(いばり)する人                  四.二.一一   百舌鳥耳原(二十四首ノ中) 踏みつけしすヾめのえんどう青くしてほのにその香は匂ひたるかも 百舌鳥耳原南の陵に程近く榊の花は咲きてありけり 野茨のたわヽの枝に唐鶸(とうまる)は鳴きてとべども青芽ついばまず なにがしの命(みこと)のみ墓のぼり立てば榊の花は盛なりけり みさヽぎに咲ける椿はめぐらせる堀辺に赤くこぼれてゐるも     同行丸大人        四.三.二七 生駒行 水車小屋のぞけば人の気配なし水車は臼の藥搗きをり 水車小屋筧の水のこぼれどにうばゆりの葉はむらがりゆるヽ                 四.四.二一 颱風來 颱(かぜ)吹きてポプラの若芽片なびきしつヽさやげるあはれとは見つ                 四.四.二一 奉迎天皇行幸作歌(十一首ノ中) ツネニ ミシ アベノノ ハラモ オホギミノ イデマシドコロト キケバカシコキ 常尓見四阿倍野之原毛大君乃行幸處戸聞者畏古幾 オホギミノ ミココロヒロミ ロツピヤクノ ナカノ ヒトリト ワガサチナカユ 大王之御心廣見六百乃中乃一人戸吾幸泣可由 オホギミノ イデマシアレバ ウツシミノ イノチシマシハ ココロニカケム 大王乃行幸有禮波現身乃命暫者心尓可計武 オホギミハ カミニシ マセバ ウツセミノ マナコツブレテ ミカホ ミガテム 大王者神尓四座世波空蝉乃眼津分禮天龍顔見難天武 ツガノキノ イヤツギツギニ ツタヘテム アベノノハラハ イデマシドコロ 樛乃木乃弥継二尓傳天武阿倍野乃原者行幸處                 四.四.二一 野茨の花(十首ノ中) 木屑浮き水草生ひし古池におほひかぶさり野茨の咲く 野茨の花枝よしなし古池に浮萍(うきくさ)生ひて影もうつらず 野いばらの花枝たわみて古池におほひかぶさり水に漬かむとす                 四.五.一六 あかしあの花(六首ノ中) 川の辺のアカシア並木眞白に房の花咲き朝風わたる 朝風にアカシアの花ゆらぎつヽ水かれがれの川にうつれる 今朝の雨にアカシアの花ぬれくだち(傾ち)その花あまた泥川に流る                 四.五.一七 生駒行(三首ノ中) 伊賀伊勢につヾく山脉上高く晝の月あり悲しき色に 烏、烏、二三十羽の一群がまひるの月に円を描いてとべり                 四.五.一九 播磨野(八首ノ中) はりまぬをはるばる来ればはりまなだ海のそぎへ(遠方)に白き雲立つ ともしびの明石の大門のさヾれ波、波のあなたに淡路島見ゆ 曇り空低く垂れたりはりま灘 海のあなたの島山見えず 球場のまはりの家の瓦屋根つゆばれの陽にまぶしく光る かすかに木々を吹く風プラタンの葉裏の白が目に痛く見ゆ はりまぬにうれ麥刈ると乙女らの野のをちこちにむれたるが見ゆ たそがれのはりま大野に煙立つはりま少女が麥焼くらしき                 四.六.一三 木蓮花 よべ(昨晩)白と見し木蓮華此の朝は末赤ばみてまさに散らむとす つゆぐもり枝の高處(たかど)の木蓮花空に大きうさゆらいでをり 梅雨のあめすでにすぎたれ川の辺の木蓮の花未だ咲きつぐ 木蓮の花の咲きつぎ永くして今年の梅雨もすでにすぎたり 百日紅(三首ノ中) 朝の間の斜日に照る百日紅虻しべに来て花粉をちらす トマト 祖父(おほちち)にトマト貰つて帰る道茂る木の葉に照る赤トマト 京都行(三十二首ノ中) 篁の間の坂道白シヤツの男自轉車押してのぼれる 篁に白シヤツはすでに隠れたれ竹のそよげばチラチラ見ゆる なだらかの青き傾斜に赤牛が尻尾振りつヽ草食める見ゆ 篁を電車はすでにすぎたれど竹のそよぎの尚も聞ゆる はろばろし丹波境の緑嶺の彼方の空に雲の峰立つ 雨あとの竹の林に立つもやの中を細々道のかよへる (以上 新京阪電車中) 雨上り木々の枝葉ゆしたたれる滴の下にゆるヽ貸ボート 小倉山峯の間より立つ霧の動き迅しも今し山はなる(離る) 夕霧の動きを迅み小倉山峯のことごとあらはれにけり (以上 嵐山) 瓦屋根にま日照あつき此のひるを何れの木にか蝉鳴きやまず 雷の音の止める間にして蝉一つ前の林に鳴きうつる見ゆ 雷の音の高き晝過黄糸瓜の葉は強き陽に萎れてゐるも 雷の音の止める間にして街道を自動車喇叭ならしてゆけり 夕立の雨降り出でぬ風強み小鳥彼方此方(おちこち)とび迷ふ見ゆ 雨止みてしばしの後の強(こわ)陽照り向つ尾の上(むかつおのえ)に光るトタン屋根 雷の未だ止まざり階下でする落雷話友と聞きをり のいばらの垂枝(たるえ)あやなし黄濁りの水に押されて猶もはねかへる (以上西垣宅)                  四.七.二七.及 二八 高石濱(一九首ノ中) 夕暮の黝波の山わが前の山の向ふに人泳ぎをり ボート漕ぎ沖に来にけりはるかなる磯辺の茶屋に旗ひるがへる うねり波いく重の彼方磯つ辺に茶店の赤き旗ひるがへる うねり波こぐ手止むれば舟のせて磯に走れどなほ遠き磯 沖にして山の彼方に白雲の起るわびしと漕ぐ手とヾめつ 白雲の起るわびしとわが友と声をそろへて歌ふ俗謡 こヽにしてわびしきものか水くらげこみどりなみに身をひそめ居り 雲たえてしばらく浜に直日(なおび)の照り沖にボートかヾやくが見ゆ 雲迅し ま日のかげりの沖辺より磯に進みて黒波来る わが足をやく一丁の焼砂のこヽにかしこに浜ごうの咲く                  四.八.五.及 六 落陽[いりひ](八首ノ中) 此の夕沈まむとする陽を見たり今が沈むと待てる焦しさ 赤々と沈まむとする陽は我の眼をその晝の如痛めざりけり 道傍に親子五人が小手かざし落陽を眺むそをもわ(我)は見つ 此の夕明日も昇らむ此の日子とあれ(我)の思ひて見るならなくに 西山に陽は沈みけれためをきし息はと吐きて復(また)西を見ず                  四.八.九 Z伯號來(九首ノ中) ※ドイツ飛行船 ツェッペリン号 Z[ツエ]伯号来る喜び独乙人等歌ふ國歌の強きひびきは 歌声の強きひヾきに愛國の情[こころ]こもると吾がきヽてをり 夕闇の着陸場に独乙人おどり叫びてよろこべる見ゆ 男やも雄々し健しと海山の二千里越えて駆けり来しはや 独乙人らわが海相の長々し歓迎の辞に足ずりしてけむ (ラヂオを聞きて)                 四.八.一九 大和行(同行保田與重郎君) 足痛のわれに何ぞも幾曲り道にしらじら埃なびかふ (大野-榛原) 向(むか)つ山の茂みに赤き花海州常[はなくさぎ]山花の中より雀飛び来る (保田ノ家) 崖の上の白さるすべり曇り空に枝の高處の花のけざやかさ ( 〃 ) 朝日さす丘辺の道に蜻蛉どもあまたむれとび翅かヾやけり 蜻蛉どもむれとぶ坂を一匹の荷馬下り来てあきつ飛び散る (初瀬-榛原) くらはしの山の頂もやかヽりそのもやの上に朝日子照らふ ( 〃 ) 今すぎし小き登りが村境家毎の標札のぞきて知りし ( 〃 ) おきつもの名張の山はわが通ふ道のきはみか雲立ちのぼる (大野-榛原) 木標[たてふだ]にそれと眺むる赤人の墓のあたりに白雲なびく (〃 ) 川の上にかたむき咲ける花くさぎ咲きの盛としづもりかへる (以下室生道) やうやくに咲き揃はんとする崖下の花虎杖(はないたどり)に時雨しぶき来 山角をまはりしわれに山の雨しぶきかヽりて眼鏡曇らす 幾重山縫ひ込(ママ)しわれぞ今こヽに室生大寺あらはれわたる 杉むらの葉もれうす陽は竹煮草(ママ)の大き葉の上に照りかげりせり 室生山繁木が下の橡の木の稚木愛し(わかぎ いとし)も陽光ともしみ たまきはる命かなしと室生山繁木が下の七葉[とち]稚木見つ 向ふ岸にまだ咲き残る花ねむの色いちじるし後の杉に いくまがり道を亘りて今ここにわが見る塔のあやのしづもり ちはやぶる神の藝術[たくみ]か向つ山峯とそら立つ石の柱は 向つ峯[を]をなせる巖は神業か石の柱とひヾわれゐるも 山峽は往来ともしか(ゆきき乏しか)来る途中すてし葡萄のなほもおちゐる 材木岩並み立つ川の辺の道をはるばる来たれ尚たてる岩 下草の羊歯のぬれ葉のもつ光此の杉山にみちそよぐ見ゆ 白日[まひる]風芦むらわたり芦の葉の葉毎に反射[かへ]す光の痛さ 對岸の大き石佛足痛の豆をさすりて友と見てをり (以下大野寺石佛) 河幅のやヽ広ければ石佛の尊き相もわれ知りがてし 絵葉書に今見るみ顔石佛は尊き相におはしましけり 今更に尊む心對岸はなほ広ければみ顔見難(みが)てぬ 並み立たすみ佛の前に佛相を具せざるわれの嘆いてをヽり (以下於帝室博物館) 並み立たすみ佛の数夛けれどそよろ動かぬ数のさびしさ 蔦青き築地の中の葉櫻の幹に鳴きしく蝉がゐる見ゆ (以下新薬師寺) 新薬師寺の門外蔦青き築地の間に道曲る見ゆ                  四.八.一五 追加 わが友と甜瓜(まくわ)剥きゐる前の道自動車埃立ててすぎけり (大野-榛原) 自動車の埃おほふと剥きかけのまくわにのせし指の黒さは 桑畑に雀とび来て二羽雀とまらんとして枝をゆるがす 枝のゆれやヽ大きければ雀どもおのれおどろきてまたもとび去る 陽あたりの乏しき道に幽かなる光と見えし煎秋蘿(せんのう)の花 御佛はうごきたまはずうつそみの我の吐息はしるけきものか み佛はあまたおはせど此の室(むろ)に生命生けるは友と吾のみ 向つ山峰[を]の上に白き雲わたると見れば峽に時雨降り来る 杉の木の繁葉をとほす陽の光われが眼[まなこ]に冴みてさびしも 塔[あらヽぎ]の九輪の空を白雲は迅く動きて杉に隠れぬ 國境[くにはて]はすでに近しもおきつもの名張の山に雲なびく見ゆ 國境の山脈の上雲なびきわが行く道はきはまらむとす 杉山をさやがしとほる俄か風九輪の鈴のゆらげるが見ゆ  N君(※不詳)、歌論を書くと云つたけれど修養をつまぬ僕にろくなものがかけるはずはない。 手をつけやうとする度に己が不用意を知る。幾度かのためらひの後にやうやくこんなものをかいて見ようかと思つた。書いてある事は現在の僕の考へてゐる未だ幼稚なことであり、 愚かなドグマもさぞ夛いだらう。どうか文章の終に必ず「・・・と思ふねん」といふ言葉がついてゐるつもりでよんでくれたまへ。 一、與謝野晶子の歌を評す 改造文庫は僕等貧書生にとつていいことをしてくれた。いつもならば普通の本よりもぜいたくで高い歌集を、沢山自分のものとすることが出来る。 この文庫によつて新に得た與謝野晶子の歌に對する僕の感は、或は晶子が好きな君によいかもしれぬ。  晶子は云ふ迄もなく明星派の女王であり、寛以上にその歌風を代表するものと見られる。明星派の歌風は赤彦に云はせると「官能的」なさうであるが、 僕はこれに「象徴的」の言葉をつけて官象派と目することにする。赤彦の云へる官能的とは(初から見てゆけば) 何となく君にまたるヽ心地して出でにし花野の夕月夜かな 恋はるとやすまじきものヽ物懲に乱れはてヽし髪にやはあらぬ 相人よ愛慾せちに面やせて美しき子によきことを云へ 等いくらも出て来ます。これらの歌は感傷的な女学生向の官能をそそる言葉をつらねたもので、一讀の際はともかく、いつまでも人を惹きつけては行きません。 誰しもが一度はとほるセンチメンタリズムの世界に於てのみ通用する歌ではないだらうか。まつすぐに云へとならば永久的生命を具せざることばの遊戯だ。 うたは心に感じたことをうたふものではなく、心の奥底にある事を歌ふものです。心の奥底にあるものとは、かつては五感によつて心に侵入したものヽ中いつまでも外に出てゆかず、 心そのものと化したものヽ事です。  雲の美しさを見て感じた人の心に、その雲の美しさがとけこんだ時歌がうまれるのです。この眞情のあらはれを私は不幸にしてそれらの歌に見ることが出来ません。 君、冗談云ふな、こんなに情熱のこもつた歌はないぜとおつしやるならば、そんなら晶子さんに情熱があつたかどうか証明出来ますかと尋ねましやう。 平安朝時代の歌人の中にはこんな歌が沢山あるのを知つてゐる僕は、たとへこれが晶子さんの情から出たものと云ふことを承認しても、それは歌であるといふことの承認だけで、 よい歌であるといふことにはなりません。  次に象徴的(或はこれは僕丈かもしれぬが)と云ふ所以は、叙景または抒情の際に、 の如き・の如く・に等しく・のここちして・と見し・のさまに・と思ふ・に似たる・よりも等の象徴的助詞が五首に一つは必ず出てくるのです。  象徴はこれ丈ではありませぬ。赤城山を上野の野にそびえる肩と見たてたり、或は河の水を天竺の流沙にゆくやと疑つたり、こんな例は数ふるに限ありません。 これで見ると晶子の歌の殆どが、その象徴的の言ばの中に含まれるのです。 そこで象徴的短歌の可否ですが、感情を表す場合に象徴するはその象徴の否なる場合は勿論、 よい場合も強さをうすめるものです。これが度を過ぎるときは「何だ、学問を見せつけにして」となります。晶子の如きは明かにこの弊に陷つてゐます。私達はもつと物をすなほに見たいのです。 空の色を瑠璃にたとへなくとも「青い空」丈で少くとも空の美しさを知る人には心持がピタリと来ます。「百丈の下」といはなくても、もつといヽことばがあるでせう。 やたらに漢文的の言ばをまぜるほどいやなことはありませんから。  晶子のもう一つの欠点は小主観句の多いことです。客観の歌に對し、主観の歌があることは不思議はありませんが、小主観におちゐり易いのが困ります。 これが主観歌のむつかしいわけです。徒にかなしいとかうれしい、こヽちよい、いやだなどヽいふ言葉を使ふ時にはその歌は独りよがりになります。 秋の風が吹いてかなしいといふ歌があつたとすれば、人は先づ月並と見ます。こういへばおれは自分のために歌を作るのだと云はれるかもしれませんが、人に見せられないものがどうしてうたでせうか。 大体、主観的官能的形容詞は並大抵で使ふものではありません。これは万葉集などを見てもわかります。もうこらへきれないときに出すことばなのです。 この時に出来た歌が主観歌のいヽものなのです。  あまり晶子の悪口云ひすぎたやうな気がしますが、これは要するに明星派の遊戯的(己の感情をも弄ぶ)の歌に對する考へ方を排したのです。今いつたきらひのない晶子の歌を挙げてみませう。 かはせみや前の流のつぶら石つぶつぶかわき冬の日の来ぬ 象を降り駱駝をくだり母とよびその一人だに走りこよかし うら悲し北の信濃の高原の明星の湯にわがあることも 海鳴るやホテルの庭の芝草のつくる所はきりぎしにして  これらの歌のもつ高いしらべはさすがにと思はせます。二、三番目の歌の主観句は、こらへきれなくなつた悲鳴と思ひます。 その他の客観歌はよむ人にさびしといはずしてさびしさを感ぜしめ、或は・・・或は・・・とよむ人の心のままに思はしめます。これが客観歌の使命なのです。 二、小主観歌  前の晶子の事で小主観といひました。これを説明します。島木赤彦の言葉をかりますと  「うれしい」、「かなしい」、「なつかしい」などいふ種類の詞は個々感情の実際活動から抽象された概念である。 それを感情の直接表現と思ふのはまちがつてゐる。感情とは心が事と物とに對して活動する一種の状態である。心と 事物との互に交渉する状態をそのままに現すのが感情の直接表現である。(中略)(※しかし)かヽる種類の詞は心 の活動の様々の場合を著し得べき普汎(普遍)的な詞であるだけ感情活動に對し表現の直接性を失ふ傾がある。 先ず大体これでつきるだらうと思ひます。これを実例によつて見るとよくわかります。 人々と霧をへだてヽ立つこともさびしき山の夕まぐれかな 晶子 罌粟畑の向ふに湖の光りたる信濃の國に目覚めたるかも 茂吉  晶子のこの歌は、恐らく彼女の歌の中でも傑作の中に入るべきものと思はれます。如何にもさびしい情景でせう。しかしこちらの感情のあらはれをまたないで、 向ふからさびしいと云つてこられた時、私達はさやうですかと云つて引下がるより仕方がありません。茂吉の歌の中にも茂吉のゐることがわかる主観句があります。 しかしここではよむ私達は皆茂吉になつて了ひます。そして信濃高原にめざめた人間として、悲傷的人間はかなしさを、楽天家はすがすがしさとかいろいろ感じるでせう。 それは別に茂吉の思つたのと変つてゐても一向差支へない。茂吉自身ですらその時の感を忘れて了つた時には、 この歌によつて或はちがつた考へ方をするかもしれぬのですから──要するに、私達は後の歌によつて深さを知ります。これは換言すれば心の中枢にぴつたり来るといふことになります。  またこんな歌があります。 星のゐる夜空の下にあかあかとははそばの母はもえてゆきけり   此の歌の境地を考へれば、茂吉はきつと泣いてゐたにちがひありません──悲しさに。けれどもここにはかなしいといふことばがありません。 でも「こいつは母が死んだのに悲しくないのか」と思ふ人はまあないでせう。私はこんな歌に、及びこんな歌を作る人に頭を下げずにはゐられません。 哀れなる蚊帳つり草よ幼児の手にも二つに引裂かるかな  寛の歌です。こんな些細なことでも哀れといふ彼の見識をうたがふより先に、私達はこれのもう一寸した言ばの遊戯にすぎないことを見破ります。 寛氏はもし自分の最愛の妻晶子が死んだらどんな歌をつくるだらうかと思はされます。  赤彦は子供の死んだときには一年半もその挽歌をつくることが出来ませんでした。やヽもすれば小感傷に陷らうとしたからです。子供が死んで悲しい、 これでは歌になりません。却て面白くもなります。しかしアラヽギやその他昔からの大歌人たちは、小主観のかなしいなんて詞を使はなかつたかと云へばそれは、 ここにして心いたいたしまながひに迫れる山に雪積もる見ゆ 茂吉 ふるさとの春の夕のなぎさ道牛ゐて牛のにほひ愛しも 千樫  などの歌もある。要は詞の心の中枢に浸み入る力をもたす丈の実力がなければだめであるといふのです。  大体、うれしい、かなしいといふ詞は子供や婦女の詞であつて、それもふだんにつかふ詞です。悲しさやうれしさの極には声が出ないのが普通でせう。歌だつてそのとほりです。 三、含蓄の事  先刻も一寸書いたが、歌には深さがなければ駄目です。 霧の夜のあはれなりける月に似て青くくもれるいたどりの花  また晶子を槍玉にあげましたが有名だしわかり易いですから。  この歌は虎杖を知らぬ人にはともかく知つてゐる人間には、フンあの虎杖のことをうまく形容したな位ですんで了ふ歌です。こんな歌を形而下の歌といひます。 もうこれ以上に何の包含するところもないからです。 養魚池の梅雨深みかもしつとりと岸の無花果葉をひたしたり 憲吉  これは一寸見るとそれ丈の歌です。しかし無花果を知つてゐる人々にとつて、いつか見たことのある人々にとつて、殊にこの境地にひとしいものを見た人々にとつて、 その時の感境を再び呼びおこすに違ない。前の歌では晶子さんが何から何までいつてくれてるのです。いやおれは月に似てると思はぬといへば了ひだし、 あはれなりける霧の夜の月を見たことのない人々にも味ふことは不可能となります。プロバビリテイ(妥当性)が少くなるのです。あの歌をよい歌と思ふ人にとつては大分沢山の條件がゐるのです。 後のほうは自分の見たままをよむでゐます。さあどうぞ味つてくれろと投げ出してゐるのです。そして自分も何度も何度もかみしめてゐる歌です。これを含蓄ある歌といひます。  この頃気のついたことですが、俳句にはほとんどあはれ、なんて言葉は使ひません。形が短いからよけいな詞の余地がなくなつたからでせう。それで大抵の人は俳句の方をむつかしがるやうです。 判じ物のやうだなどヽいふ人がよくあります。歌は夛少形が長いだけいらぬ詞も入れてブツコハシにすることが夛いやうです。ここらは少し考へねばならぬと思ひます。  含蓄ある歌の例を少しあげて見ましやう。 夕渚もの云はぬ牛つかれ来てもはら頸をあらはれにけり(茂吉) おのづからうらがるヽ野に鳥おちて啼かざりしかも入日赤きに かヾやける一すぢのみちはるけくてかうかうと風吹きてゆきけり まんまんと重くくもれる夕べの川にぶく時なくわがまへにうごく(利玄) 船着場とかヽりし船とま日のもとにあひかヽはれりこのかヽはりを こんな歌がいはゆる象徴歌であらう。茂吉は云つてゐる。冩生の極致が象徴であると。実際只物事をうつしたに過ぎないものでも(前の五首なんかもさうだらう)、 その中にこもる作者の生命のうごきが何となく看取されるやうに思はれる──これが象徴歌なのであらうと思ふ。しかし一図に象徴の名をかぶせるのは何かと思はれる。 よく見ればよい歌のどれもがそれにあたらぬのはないのだから。 四、自分の好悪する歌  今迄書いて来てつくづく自分の頭の空虚なのに愛想をつかした。筋のはつきりせぬ理屈を云つてゐては自分のためにもなりませんから、これから具体的に少し諸名家の歌の批評をしてみます。 偶然あけた頁から五首位づつやることにします。 A、古泉千樫氏(改造文庫、川のほとり六二頁) ○ひえびえとさ霧しみふる停車場にわが降り立ちぬ暁は遠かり 実相直入の境地に近いものと思ひます。 ○ともしびを消してあゆめば明近く白く大きく霧動く見ゆ 前の歌と同じく実相に直入してゐる。大きなものヽまへにひれ伏す作者の敬虔な心が見える。 △霧晴るる木立の上にうす藍の富士は大きく夜は明けにけり 今迄云つて来たイデオロギーの方面には矛盾しないけれど、調の方が少しゴツゴツしてゐるやうだ。 △山頂にたなびく雲の一片は垂氷の如くかヽりてあるかも 垂氷の如くと云つただけでひどく感興がうすめられる。割合に新しさのない歌である。 △富士のねをはなりしさ霧片よりに大戸をなしてそば立てりけり 前に同じ。 B、斎藤茂吉氏(改造文庫、朝の螢七六頁) △日の光班にもりてうら悲し山蠶は未だ小さかりけり 茂吉の歌には時々こんなのがある。悪い一面だと思ふ。このうら悲しは母の死にあひてのそれだけれども、蠶の事を必然性な「さげ」(※オチ)に云ひだしたため、それと知るには非常に手数がかかる。 ○葬り道すかんぽの葉ほヽけつヽ葬り道べにちりにけらずや※ 絶唱。哀しみのきはみの歌である。 ○おきな草口あかく咲く野の道に光り流れてわれら行きつも 前の歌と同じ境地を同じ感じで唱つてゐる。共に賛辞を惜まぬ。首うなだれた作者の姿そのままの歌である。 △わが母を焼かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし 前二首に比すれば劣る。余裕を見せてゐるからだらう。 ○星のゐる夜空の下に赤々とははそばの母は燃えゆきにけり 一讀、心を打つ歌である。恐らく永久に残る歌であらう。客観の中にひそまる主観の強さを見よ。 C、木下利玄氏(改造文庫、立春三四頁) ○木の花の散るに梢を見上げたりその花の香かすかにするも よい歌だと思ひます。よい歌にはアラヽギだの心の花だの派の区別なしに感心さヽれます。 ○向ふ山の大きな斜面かしこには百合咲いてをりはるかなるかも 利玄は詞の使ひ方が自由なのが特徴です。「大きな」などは口語でせう。そしてちつともチグハグにならぬのを感心します。この歌もいヽ歌だけれど、 五句が切つてつけたやうな気がしないこともないのが疵です。 ○山の下湖のすぐそばに灯をとぼしこの村の家はよりそへるかも これも利玄の特徴をよく表した歌です。第五句の適当さにおどろかされます。 ○夕川のたぎちの寒さ磐床に息をひそめてわれ立ちにけり こんな歌アラヽギと一寸も相違がないものでせう。要は皆同じものです。いい歌だと思ひます。只一寸感じが(換言すれば迫り方が)にぶいやうにも思ふ。 △生一本に夜を日につぎて山河のたぎちのとよみとヾまらぬかも これは利玄の弱点を表してます。彼の長所である詞の自由さがまた(しかも)短所ともなつてゐるのです。二句以下の荘長(重)さに対し、 口語併も半濁音と促音とを有してゐるものを持つて来たのはたしかに失敗です。 D、與謝野晶子氏(改造文庫、人間往来一○五頁) ○溪川は雨ににごらずくれ竹の青き色すれ百尺の下 晶子にめずらしい、いヽ客観歌なのですがやはりその特徴の象徴趣味を出してゐます。「百尺の下」がそれです。切角実景をまざまざと画き出してをきながら、 なぜわざわざ百尺の下なんてそぐはない句をもつて来たのでせうか。病こうこうに入るとでも云ひませうか。 ○日の暮の明星嶽の山風に少し萎れし恋心かな 相かはらずその弱点を表してゐるけれども、まづいヽ歌の中でせうね。しかしこんな歌は今のプロ短歌などからは一番睨まれるものだし、少し萎れしこひ心とは遊戯的だぞと僕でも云ひたくなります。 △涙をばうけんと思ふさましたりいとあさましや水晶の盆 一寸もわからぬ歌です。三句の主語が盆か、主人公か、晶子なるが故にわからなくなります。あさましやも厭です。擬人なんて法はもう過ぎていヽはずです。 △紫苑咲くわが心より上りたる煙の如きうす色をして 此んなのをある人達は佛蘭西象徴詩のおもかげがあるとか、塁を摩すとか云つてよろこびの涙を催すのでせうが、 大体象徴(晶子らのですよ)てものを感情の正しい表現と見てゐない私にとつては嬉しいものではない。但し象徴詩にも色々あつて前にあげた茂吉らのや 枯枝に烏のとまりけり秋の暮 芭蕉 庭前に白く咲きたる椿かな 鬼貫 などは、冩生の極致、詩の極致でほんたうのいい歌や詩、句は皆この域に入つて了ふのだからそれは別です。  また佛蘭西象徴詩としてのマラルメやヱルフアーレンの鷺の歌等も厭ではない。しかしそれは詩であるからゆるさるべき冗長をも見逃したので、短い三十一字の中に、 前に云つた「如く」「に似て」etcを使つてやつて来られるとかなはないのです。やはり象徴詩としては日本の俳句や歌にあらはれた客観の中にあらはす法がよいものだと思ひます。 E、窪田空穂氏(改造文庫、槻の木七○頁) △過ぎにしは殆忘れて生くる身に忘勿草の花咲きにけり わすれな草の紫にかへり見る人ならばよし、忘勿草の名にならば晶子の流で好きにはなれません。 △忘れしを今はうれしとすならねど忘れずあらば生くべしや身は くどくど云つてゐるのが厭。それに強い感情を云つてゐて軽薄に聞こえるのなど駄目。 ○岡の上の並木の椿春風に暗き光となりてみだるヽ 四句が少しいやだけれど、わりにスツキリした歌。「春風」は「吹く風」と改めた方がいヽと思ひます。 △春の風吹きや過ぎゆく麥畑青き光のこヽには落つる 場景を想出さしめるには一寸ヒマがかヽる。やヽこしい歌ひ方である。 ○人いれぬ廃園の奥に春の草青く繁りて皆花もてり 実相直入に近し。或ひは作者は象徴歌として作つたのかもしれない。 F、土岐善麿氏(改造文庫、空を仰ぐ八三頁) ○暁の光しらめる蚊帳の中息絶えぬるはわれの父なる いい歌だけれど少し余裕の見えるのは。 ○なきがらを莚の上に長々とうつし一時に涙あふれき 同前 △蚊帳ぬちにひくき机を入れさせて病む母が焚く香のさびしさ わかりにくい歌です。 △英語をおそはりにもいつか来ずなりし甥が彫りたる猿田彦の面 これは説明です。こんなのを詞書にするといヽのに。殊に次の歌の。 △なまけものとたヾ一概に責めたりし甥が彫りたる面のたくみさ 終のたくみさでこれもお話になつて了つた。何とか云ひやうがあらうに。 G、中村憲吉氏(改造文庫、松の芽一一四頁) ○おほヽしく曇りて暑し眼の前の大き向日葵花はゆすれず 実相観入の歌。暑さそのものを表してゐますね。 △曇り影すでに深かけば日まはりの大輪の花は傾きにけり 前の歌にくらべると劣る。迫る力がない。 ○あからびく大日まはりの下に立ち息づきあます深きくもりを ○くもりたる四辺をきけばひまはりの花芯にうなる山蜂のおと どちらもいい歌である。曇り日の圧力をそのまヽにもつて讀者にせまつて来る。 △ちまたより埃匂ひて流れたり曇りの深き此の庭ぬちに 此の歌も寫生であるから幾分かは心を惹かれるが、調べが少し低いのか、も一つ迫る力がない。次の頁の二首も実にいヽ歌です。 秋來(十三首ノ中) 散髪の後に頭を洗ふ水沁みて冷たし秋に入れるなり 國境[くにはて]の青峯の上にゐる雲の白さ眼に沁む秋に入れるなり 雑草[くさ]少し生ひしグランド一杯の秋陽の下にわが友らをり 久々に手に取る球の重さ輕み投ぐれば漂ふ秋陽光[あきび]の中を 唐黍の赤毛垂れ出づひそやかにその毛動かす風光もち 吾友の打ちシ眞球は大空の光の中に消えにけるかも 遠方を電車の通ふ音きこえやヽに弱れど中々消えぬ コーナーを曲りし友の白シヤツの光閃きわれに近づく 里芋の大き葉の上の葉脈の作れる陰影[かげ]は遠いちじろし                  四、九、三 光の中にゐるもの(四、九、五) ◇赤い星 船に乗つてゐるのです 夜、泣き出しさうな空です そして── その空のどつかに雲の穴があつて そこから星が──赤い、まつかな─── 覗いてゐるのです 波に光が映つてゐるのです そしたら皆さんはどうしますか 君自身はだつて? それがわからないからきいてゐるのですよ ◇栗の花 坂道を登る時 道傍の栗の花を 杖でなぐつたら匂つた 坂道を歸る時 栗の花は夕暮のしめつぽい空気に ひとりで匂つてた ◇道 星のきれいな晩でした 櫟林を通つてゐたのでした、僕は 櫟の葉の間からチカチカ星が光つてました 長い長い櫟林です。道です だからお星様の聲が聞えたのです 「今晩は」「あヽ今晩は」 此の挨拶がいつまでもつヾくのです 僕は退屈して思はずあくびをしました──何と失礼な 禮儀深いお星様達は挨拶を止めて怒つた様な光を送つて来ました 「十万もゐるんだからね」と云つてる聲もしました 僕は自棄[やけ]になつて 「それに道も長いからね」と云つてやりました ◇でヾむし のいばらのやぶに でヾむしゐき のいばらのはの あをきひかりに でヾむしの觸角は青かりき でヾむしは うたひゐき ──あはれそは 何のうたぞも 問はで止みにき ◇月の夜風 月のよる ぷらたぬすの蔭に 女の子が泣いてゐたよ 青い光が 葉のまを漏れて 女の子の項[うなじ]が 白かつたよ 風が吹いて通つたよ ぷらたぬすの葉を さらさら鳴らして── 女の子は おや ゐなかつたよ ◇夜霧 白々と夜の霧流れ 川の辺の柳病葉[わくらは] ひそやかに散れり 霧中[ぬち]に人聲きこゆ 聲高に何をか語る 漸々[やヽやヽ]に遠し 物音は止みぬ 夜霧は消えぬ 見よ 柳の下に乞食[かたゐ]をり寝[いね]て ◇窓辺にて (四、九、七) 窓から眺めると 遠い山があるのです 山の上には眞白な雲が いつもなびいてゐるのです 人間の生命といふものがしみじみと考へられるのです 窓から覗くと 夜空に星が見えるのです あまのがは 星の群集した銀河は 南天に直角に落ちてゐます 宇宙を支配する巨きなものを感じるのです 窓辺に坐つてると 向ふの道を赤い日傘が通ります 並木の間を見えかくれするのです 傘の持主の美しさはわからないけれど 自分の心の動きを感知するのです ◇蜩 (四、九、八) かなし、かなし、かなし 長き夏の日を なきつヾけしひぐらしのこゑは早や去りぬ まどの外を黍の葉ゆるヽに 青空を小鳥わたるに こヽろ心は ひぐらしを去りし はた── ◇かすかなるもの (四、九、九) 曠野を歩みぬ 幽かなる生命ゐて 息のかぎり歌ふ われ近づけば 歌は止みぬ な怪しみそ われも亦 幽かなる生命の現はれなれば ◇同じく 夕暮の野の上 白々と煙立ち 風吹くに横になびかふ 煙の中に 童子等[わらはべら]ゐて 蜻蛉追ふ 知らじやな 汝[なれ]がさだめを ◇短唱 一、 こころしづむよあきののは すヽきほにでて日に光る 二、 ママ ふかい空いの 様が眼かやママ 三、 晴れた山には程遠し せめて堤のむれすすき 銀の穂先の空の色 秋草 (四、九、九) はつはつに山茶花つぼみつけいでぬ此の朝々の手足の寒さ はつはつにあらはれそめし山茶花の堅き蕾に露おける見ゆ 萩のうれ花咲き出でぬ此の頃の朝の寒さを思[も]ひてわが見つ かもめ (四、九、一○) 夕暮のしヾまの中をつばくらめ池面をわたり南[みんなみ]に去る しろじろとつばさ見せつヽかもめどりこの池の面をとびふるまへり ゆふぐれの池面をとびしかもめどり夜となれヽば一匹もゐず かもめどりいづくゆくらむ一時の後の池面に一匹もゐず 与謝寅が画きし屏風を置ける部屋にわれら野球を語りてゐたり 屏風ぬちの俳仙の顔の尊さに見の呆[ほヽ]けつヽなほも見てゐる (伊藤氏宅にて) 鳶 (四、九、一一) 男らがボールひたすら投ぐる時ひがしの空にくもわきゐたり おほ空を舞へる鳶[とんび]はみはヾたきはヾたきてのちまたせざりけり 羽うらの白きとんびは大空をはねうごかさず舞ひゐたりけり 八重雲のおのおのの持つ色彩[どり]の田川にうつりゆらぎゐる見ゆ (四帝大戦の日) 甲子園及其附近、 伊藤、村山、小林、丸、門野、山田の諸氏と共にあり ほのぼのと野のをちこちにけむり立ち武庫の山脉やヽ暮れむとす                (四、九、一二) 校庭 (四、九、一二) 人のゐぬテニスコートにかげおとしテニスネツトは張られたりけり ヒマラヤ杉のこまかくゆれる影の下 水道の水たえずこぼれをり 木の蔭の水道端に痰壺のいくつも並び水たヽへゐる たえずおつる水道のしづく痰壺にたヽへし水の面ゆるがす ことごとく莢実[さや]となれりし合歓の木の木ぬれに一つ花残りをり 二重虹 (四、九、一二) 二重虹立ちゐたりけりその下に白壁の家照りゐたりけり 二重虹空にある時夾竹桃梢に花が咲き残りゐたり 大空の曇りに立てる二重虹はじまるところ壁照れりけり 眞球 (四、九、一五) 外野囲むポプラの秀末風わたり光みだれてそよぎゐる見ゆ 山の際[は]の空の青さに白たまの眞球かけりてたふとかりけり (於宝塚球場) 迫る力 (四、九、一七) 窓から見ると南のはてに 天の河が美しい瀧となつて流れ落ちてゐる (あヽ今夜もポプラがそよいでるよ) 天の河を形成[づく]る幾億の発行体は 気ぜはしく、切なく息づき息づきしてゐる (あ、星が飛んだ) 天の河の所々には眞黒な裂罅[われめ]があつて 無気味な静けさを湛へてる (水夫達は石炭袋と呼ぶさうな) 何といふ存在だらう 遠くから迫る力をもつてゐる此の密集は (あヽ僕は小ぽけな人間だ) ポプラがゆれる、ゆれる 銀河[あまのがは]はいつまでも気ぜはしく息づいてゐる (恐らく永久に、さうだ永久に) 息苦しくなつて来た、窓を閉めよう 此の圧力に耐へることは不可能だ (硝子戸越しに──やはり光つてるよ、息づいてるよ) 巷 (四、九、一二)  十八だつた私は無鉄砲にも養父[おやぢ]と一寸した口論の末、汽車賃にやうやくの金を持つて家をとび出して大阪へ来ました。勿論行先の目当なんかないのですが、 何となく大阪といふ所に心を惹かれたのでした。大阪に着いた私は(否、もう汽車が箱根をすぎる頃からなのでしたが)今更に自分の無分別に気がついて後悔しました。  今見る大阪の街は、心の中に画いて来たものとは違つて黒い汚いみじめな街でした。しかしそれだと云つてあの冷酷な父の許へ帰るのも少し厭でした。 (またその帰りの汽車賃さへないのです)私は私の只一人の大阪にゐる知人の住居をうろうろと探しました。 それはある停車場近くの裏街にありました。 うす汚れた格子のついた半ば潰れたやうな家でした。「ごめんなさい」と案内を乞ふてあける戸はガタガタとひどい音を立てました。 薄暗い土間に入ると汚い子供が三四人一度に飛出してきました。 そして口々に「お客さん」と呼び立てるのでした。おかみさんが出て来ました。随分困つてゐると見えて殆どボロのやうな着物を着てゐました。おかみさんは併し丁寧に来意を聞いたのち、 「宅[うち]は晩方帰つて来ますさかい」と云つてくれました。私は又明るい外の通に出、日暮までの数時間を見知らぬ人ばかりが沢山うろうろしてゐる心斎橋すぢを散歩しました。 すべてが泣きたいやうな心地でした。殊にあの健次さんの家のことが。併し夕方になつて通に電燈がつき出しはじめると、何とも云へぬ寂しさにおそはれて私はあのみじめな家へと足を向けました。  再び訪れたその家には、もう主人の健次さんが帰つてゐて、小さいながらも牛鍋を用意してくれてありました。私はやかましい子供等と一しよにそれを囲んで、 久し振に昔にかはらぬ健次さんの声を聞きました。しかしその顔のかはつたことは──爺むさく、貧乏くさく──。 健次さんは私の話を要所要所でうなづきながらきいてくれました。 そして貴方[あんた]のつらいことはようわかつてゐるけれども、世の中はさうしたものだ、どこへ行つても同じものだ、も一度辛抱して家へ帰りなさいと懇々と云つてくれました。 私はその誠意のあふれた言葉に何の理屈もいへなくなつて了ひました。帰りの汽車賃のない事を話すと、健次さんは実は私も今職を失つて困つてゐる、 もう貯へた金も無くなつたので毎日職を探して歩いてるのさ、と云つて少しくらい顔をしましたが、翌朝晩く眼を覚ました私の枕許にはお金が置いてあつて、 健次さんはもう就職口を探しに出て行つてました。 おかみさんにお礼を述べ、健次さんには何れ帰つたら何とか御挨拶申上げますと傳言して貰ふことにして、私は梅田行の電車にのりました。 切符を買はうとすると財布がない、あのお金を入れた財布が。私は此の瞬間、大地がめり込むやうな気がしました。 車掌に色々わけを話して下してもらひ、もしやと健次さんの家へひつ返しました。 しかしやはり確に私が持つて出たのでした。ふらふらと外へ出た私は郵便局へゆきました。何をしに?家へ電報を打たうと思つたのです。そして頼信紙を貰つたとき、 その電報を打つ金もないのにきがつきました。もう健次さんにも厄介をかけたくない。又お金を借りて電報を打つたところで、あの冷酷な養父が果たして一文の金を送つてくれるかも疑問でした。  私は頼信紙を握りしめたまヽさまよひ出ました。いくら歩いたか知りませんが、向ふから亡くなつた親友のNに似た学生の来るのに出会ひました。 何故だか知らぬが話して見たらどうにかなるやうな気がして、私は「君、君」と呼び掛けて、何度も何度も吃りながら実情を打明けました。激しい恥かしさと屈辱が心にわいて来たのですが、 口はそれにかまはずどんどんしやべつてゆきました。長く熱心に私はしやべつたのでした。そしてその答は「意気地のない男だね」の一言でした。彼は後も振向かないで去りました。 私はカツとするとすぐ後を追ひました。彼はそれも知らないやうに両側に倉庫のある通に曲つてゆきました。 私は彼に追付いても一度頼みましたがやはり返されるものは傲慢な言葉でした。 私は思はず拳を振上げました。彼は「ドロボー」とどなりながらバタバタ逃げ出しました。私はもう夢中になつて、彼におひすがり引ずり倒しました。彼のポケットから財布がはみ出してゐました。 私はそれに目がとまると半ばむ中で拾ひ一散に逃げてしまひました。 私がこんな人間になつたのはこの時からです。で、今もこの人間に対し深い深い憎悪を抱いてゐます。或は得手勝手かもしれませんが。 道 (四、九、一九) 澄み徹つた空がきはまつて やまなみ それよりも更に濃い山脉につヾくところまで 此の道はつヾゐてゐるのだ 秋陽に照らされてまつ白な道だ この道に沿つて流れる川の 堤のところどころには薄がしげり その白い穂を颯爽となびかしてゐる ここに私は秋の風脚の白さを感ずる 道の片側には廃庭があり ところどころの萩の叢は もう紅い蕾をつけてゐる 飛石の上に 背の青紫に光る蜥蜴が 長々と陽を浴びてゐる 白い柵にからむ蔦の葉が 美しい寄木細工となつてゐる 私は此の庭をも見すてヽ 進まなければならぬ 前方の青い青い空を 山脉まで此の道がつヾいてゐるからだ 道がだんだん低くなつて 河の面に近くなつた (たで) 岸の花蓼にとまつてゐた むぎがらとんぼが すいと飛びはなれた 花蓼の穂がいつまでも ゆらゆらゆれてゐる その根本の水に やごがゐて まもなく出る世の中の どんなだかを夢みてる (夢を見るにはあまりにも醜い姿だけれども) ひかり 白々と陽光に充ちた此の道の眞中に 堆く馬糞がこぼれてゐる その大膽さに驚きながら 避けてとほるときその中に こがねむしの羽音をきいた ああ、何にも、どこにも 生命と陽光のあふれた此の道を いつまで、どこまで私は歩まねばならぬのだらう 己の生命のはかなさとあじきなさを知る私には あまりにも耐へがたい此の道だのに 此の陽光と生命にみちた道だのに 大阪風物詩 一、 まひる日の光の中に 泥にごりの水 ゆたにたゆたひ カフェエの電燈も 白日の陽に見れば儚げな 濁り水を通ふ快速艇の 立てた波は 貸ボートの船腹を ひたひたと打つて 一町向ふに消えたその艇[ふね]の とんとんと鼓動する エンヂンの音がいつまでも絶えぬ 河岸をめぐつて 並び立つ料理屋の三階には ものうげの三味の音[ね]が いつまでも いつまでも── もの皆の饐えたるところ もの皆の頽れしところ 廃頽の堀を充すは 泥濁り水 かにかくに悲しきものは まひるび 白日光の道噸堀よ (四、九、一九) 飛行機 (四、九、二二) 飛行機のプロペラの音たえたりとわが見上ぐるに宙返へりゐる 秋空はすみとほりたり飛行機のとべる高さを低しと思[も]ひぬ 大阪風物詩 (HYSK君(※ 不詳)に呈す) 二、 聳えたつ五重の塔の 秀末[ほずゑ]の空は青々と晴れたるに 何すればあまたの人 此の舗道[いしみち]をむれ歩める 道傍に並[な]み坐[ゐ]たる 經木書師[きやうぎかき]の列は 白癩[びやくらい]の乞食[かたゐ]に似て わが夫[つま]の わが愛し子の 戒名書かす男[をとこ]女の 眼に涙なき 又數多の小店ありて 果物 剃刀 箸 玩具 菓子 及びありとある 安値のもの並べたる 御堂には誦經の音充ち 有難き伽羅沈香[からじんこう]の香は 堂外[どうのと]の人群に及べれども 本尊の御眼に貪婪の相ある はた人泥雜[ごみ]に 迷子ありの札立ちて 小さき童の頬黒くなるまで 泣けど いなけど いつまでも答ゆる人なく 白髪の老嫗[おうな]哀れと呟くなる 日毎には豆食ひ飽かず 人の手に飛び来たる鳩の群れ 白々と堂の屋根に糞しゐる また更に怪しきは 占師[うらなひ]の貧しき姿 人毎の宿世説く書賣ると 声挙げて説けるを その息の仄[ほの]酒の香にも 眞実[まこと]かと老幼の耳かたむけたる かしこには怪しげの布張りし中 宿縁めきたる化相[けさう]の 蠢くと口赤き婦女[をみな]の 黄色き声して説ける はた支那人の手品使 鼻口より蛇[くちなは]の頭尾[かしらを]出し 二裂[ふたまた]の舌赤々と 流れたるうたて(※おびただしい)涎は 長々とつヾきたる 又不可思議の萬華鏡[ひやくめがね] 視界一面[まのあたり]に化[あや]しき姿(夷[ゑびす]三郎の面に玩具の馬にのりたり) まひる日の中におどりおどる 仮面[めん]の中[ぬち]の顔のよし泣かむとも 表面[うはつら]のおもしろさに人々笑ふ あヽかくも空の青きが下 安髪油[あぶら]と体の臭 ひたぶるに充ちたるところ こヽ 人皆は老いたるか幼けなきか 壮者[わかもの]のあらぬところ こヽ (たまたまに艶[あで]めきたる女の来るは 盲[めしひ]にてしが母に手を牽かれたり) 眞実に下界[したつよ]の心地こそすれ 淫婪と貪慾と嘘言[まがごと]と おほよその罪にみちたれば かヽる時塔[あららぎ]の九輪の光 おどろなる白衣のものたちて まがつみのことば叫ぶと見えて はた消えたる さてはまた一群の大邪鬼[まがつみ]地の上をゆきかふ ──即 熊鷹眼 掏摸[ちぼ (※スリ)] 人の身なすかまいたち 人ごみを足疾[ど]手早に ぬひ走る (あやしさにみちたるところ あやしさにみちたる日 彼岸会の天王寺)                 (四、九、二四) 葛城行 (四、九、二三) 疲れ来て見る眼に青き松虫草こヽの日向に咲き乱れたり 赤々と曼珠沙華咲く田川べをいつまでつヾくわれらの道か 夕蔭の蜜柑畑に実[な]る蜜柑まだ青くして葉とまぎれたり 夕畑にたわヽになれる青蜜柑こき表皮[うはかは]に光り含[ふヽ]みつ 山かげの細渓川の岸おほひ胡蝶花[しやが]の厚葉はむらがれるかも 向つ尾の斜面をおほふ檜[ひ]の若葉茂み深みて青波をなす 稚檜(わかひのき)しげりしげれる林中道のくらさに水流れたり ここにして眼下に低きかむなびのうねび松山田中に立てり 草山をなせる頂はろばろし雲洩れ陽照りいよヽはるかなる 近つべの黒山の彼方山頂の草山に照る雲もれ陽かも 田の中を今来し道の白々とますぐに走りとほくつヾく見ゆ 楠の茂りも深き神の杜われらのみけり神の美し水 かむなびのかみのみもりの楠の葉蔭にのみしうまし水かも はろばろと谷をへだてヽわが見やる金剛山を雲おほひたり この道は今は高みに至るらし谷川の音いやとほざかる 萩の花尾花むれたつ高原の秋のこヽろに泣かまくしをり 下界[した]おほふうすもやの中長々と光かすかに石川流る 眞暗き檜林を歩むとき人殺さむとひそかに思へり 青栗のいが夛き道わが友のざうりの足をり危ぶみにけり※ 栗の樹のことごと毬となれる枝に一房残る栗の白花 山頂の草原の中細々と人通ひ来ぬ道のつヾけり 蛇[くちなは]は友の杖先尾振りつヽやヽに滑りて穴にかくれたり つかれ来て山のふもとにかへり見るかづらき山は夕霧らひせり 高原の秋の風情[こころ]に浸る時松虫草に虻ゐたりけり    同行に村山高氏、丸三郎大人、本宮清見大人、小林正蔵君、豊田久男君、増田正元サン。 曼珠沙華 (四、九、二六) 一 さてもまつかな花の色 眞実毒をこめたれば さてもあやしき花の色 轢死女の傷の色 二 赤々と彼岸花の咲く野道を 眩暈を感じてあるいたよ 僕は いつか誰かヾ死んだ時 枕許に 咲いてゐた花だつたことを意識して 眼をつぶつて歩いたけれど 眼の裏[うち]までその赤さが沁みこむんだつたよ 三 しびとばな 子供は死人花と呼ぶ そしてその花の莖で 首飾を作る ダーリヤ (四、九、二六) 天竺牡丹[ダーリヤ]と呟いて さて眺めると ゆらゆらとゆれてゐた花だつたよ コスモスの垣 (四、九、二八) コスモスの花垣の中に 僕がゐて 垣の外を通つたのは きれいな女の子だつた 女の子の頬には コスモスの色が映つてゐた (夛分僕にも)そして 二人は恋をしなかつたのです 攀葛城山而作歌四首並短歌 (四、九、二九) 空晴の、秋の一日を、吾友と、集ひい群れて、弥高[いやたか]の、葛木山に、攀らむと、 河内の國の、野の道を、はるばる来れば、路の辺に、曼珠沙華咲き垣内に、柿は実れり、 美しと、思ひて歩めば、足引の、山路に入りぬ、溪川の、流を渡り、奥深き、林を過ぎて、 久方の、天の久米橋、登り立ち、遠見放[さ]くれば、近つ辺の、黒山の彼方、頂の、 草原に照る、雲洩陽、見の尊くて、涙流れき 反歌 葛木の山を高みか萱原をなせる頂片日でりせり 金色の大日の光 頂の草原にます仰ぎ見放[さ]けし 久米橋を、後にのこして、我等行く、道は高みに、登りゆき、清谷川の、水の音も、 聞えずなりぬ、道の辺の、草原の上は、はぎが花、尾花のぢぎく、咲きみだれ、空の光に、 耿々と、い照り輝き、吹き渡る、風の穂先に、さうさうと、響き靡かひ、秋の気の、 満ちに満ちたれ、青空の、高きを仰ぎ、白雲の、白きに嘆き、種々[くさぐさ]の、 花の姿を、目も離[か]れず、眺めてゆけば、心たぬしも 反歌 高原にあきの風吹き薄穂の白きなびかし流れゆく見ゆ 長々し、道を亘れば、頂も、間近になりぬ、疲れたる、足をふるひて、岩がねの、 こヾしき道を、踏み平し、峻[さか]しきなぞへ、うちのぼり、葛木山の、頂に、 着きてし見れば、あなあはれ、大和大野は、久方の、天の霧立ち、畝火山、 かすかに見えど、三諸(みもろ)つく、三輪の神山、巻向(まきむく)の、檜原も見えず、 河内野は、もや立ちこめて、茅渟(ちぬ)の海、漁り小舟の、かすかにも、 見むすべもなく、將た谷の、彼方の神山、金剛も、雲立ち渡る、あやなしの雲 ※ 反歌 千早振る神の怒かこヽにして國見をすれば雲立ち隠す あぢさゐの、さゐさゐ沈み、山峽(やまかい)の、道を下りて、夕暮の、大和の國に、 降り立ちて、振り仰け見れば、葛木の、山の頂、はろばろと、夕霧ひせり、草枕、 旅の情は、身に沁みて、金木犀の、花の香に、思ひぞ偲ぶ、その故郷を 反歌 こヽにして心がなしも夕かげに金木犀のかほりみちたり 曼珠沙華 (四、一○、三) 昔の花のまんじゆさげ 今年も赤く咲きたりと わが幼友つげて来よ 曼珠沙華折りその色に 幼きこひを思ふ日の 心いたしと告げて来よ 木犀の香 (四、一○、一五) もくせいの香[かほり]うするとわが見るに本の黒土に花ちりしけり もくせいの香うすれぬこのよひの月の光はすみきはまらず 信太山ニ秋季演習 (四、一○、一二、一三) なみすヽき穂に出でにける高原の果の山脈雲なびく見ゆ 高原の果の山辺になびく雲うすじろくして山襞[ひだ]すきて見ゆ 芒穂の稚穂の上に風わたりなびく穂先に紅を含[ふふ]めり 唐辛の細葉がくれに赤き實はみのりたれ花いまだもさける 熟れうれし黄金稲田の畦畑に里芋の葉のゆれのしるしも ひむがしの村の家々白々と壁光る見えわれら倦みたり 松林の朝のしめりのすがしもよ木の下笹に茸ひそみつヽ ゆふあかりのこり長しも薄根にのこる雨水白々と見ゆ 夕明り未だも白し谷間[あひ]の池の面のほの明く見ゆ ※ 菊賣 (四、一○、一八) 手の尖端[さき]につめたさ感じ歩きゐて菊賣る人に会ひにけるかも 籠に入れし菊の花株濃緑の葉の上にしるき朝の露かも 月影 (四、一○、一八) 月かげの映り冷しポプラの木枝動かさずしずまりゐるも 露じめり冷き瓦屋根に立ち望遠鏡に月を見てをり 月ぬちの兎の姿くろぐろと望遠鏡[めがね]にうつり更けぬ此夜は 向ひ家の屋根の露霜さはならし(※ちがいない)この月かげにぬれぬれて見ゆ 満月の空に照れヽば生駒山やまの輪郭[かぎり]の明らかに見ゆ 満月の光くまなしはろばろとみなみの山の夜ながら見ゆる 満月の光寒しと見ゐる時屍を焼く臭ひ通ひ來ぬ 村端[むらはて]の死人焼場[しびとやきば]に煙立ち此の月空に登りてあらむ 月光の明るき今宵ものかげにいとヾの虫の鳴きひそみゐる 明星[あかぼし]の光痛しとこれの戸をとざしてわれは寢ねにけるかも 星空 (四、一○、二三) 銀[しろがね]のたまのみすまる昴ぼし東の空にこよひのぼれり すばる星六つ連(こぞ)りてこの秋の澄めるみ空にのぼりけるかも 人のこのわれの東をみけるときすばるのほしは昇りたりけり 生駒ねの北の傾斜[なぞへ]にかたわれの月は眞赤くかヽりけるかも 邪事[まがごと]のまへのしらせと紅き月山のなぞへにゐたりけるかも 高空にあんどろめだの光ありあめの夜霧にいきづき深し 人間の測りの果ての遠さより来れるものぞこれの光は あかしあかし東の空に照る星の光の色に情 熱[ほとほ]る  東の空に昇る昴、アルデバラン、はてはあんどろめだの星雲を見むと、望遠鏡[めがね]をもちて ひたすらにながむれば、昴なす六連星はしろがねの連珠の如く、あんどろめだの星雲はあやしき人魂の色に似たり。  さてあるでばらんのあかきいろに、こヽろいきどほろしとまでながむるときとなり、ちかくのひといへのへ(家の上)にひと立つとさわぐめる。  をかしともをかし。あやしともあやし。さてもかヽるおもむきひとたびにして、たちまちはなれたるぞこヽろう(憂)き。 星見ると屋根の頂わが立てばおぞ隣人怪しみにけり 星空の空の光にわがすがたさやかに見えし人さわぐなり 丈夫(ますらお)のわれの背高し屋根の上に怪相立てりと人おどろける 人々のこヽろ騒がせますらをのわれは見呆うけつこの星空を 雲の動き (四、一○、二六) 鬱々[おほおほ]に垂れたる空よソリダゴ(※不詳)の花のゆらぎはしばしもやまず 敵のせるトライ(TRY)口惜しと目をそらしわが見る空に雲行き早し(対商大戦)※ 魚座[ピスセス]の賦[うた] (四、一○、二四) 冷々と秋の気が人の身に迫り 白楊[ぽぷら]の木が葉を落しそめるころ 空の南にかヽるのは 北の魚星座である 光の薄いこの星の集りは 水の美しい池の底 落葉の散りたまつた中を 背の色もうすく、ひるがへり 閃めく小さい魚を思はしめる その池は山の奥にあつて 平常は人の来ない寂しい池だ けれど、見ろ、東の空を 血の様に眞紅い月が登らうとしてゐるだらう 彼こそは只一人の此の池の訪問者 でも悲しいことには 人に慣れないこの魚達は 彼が近くへ来たときには 底の落葉の堆積の中へと 一匹づヽ姿を隠して了ふのだ 月は青い顔をして 池を廻り 好意を裏切られたものヽ寂しさに 顔を引歪めてゐる さうして彼が足音を消したとき 又もや魚達は ぽつりぽつりと姿を顕はすのだ 可哀想な魚達 そしてそれにもまして可哀想な月 月こそは永久に孤独であり 魚こそは永久に愚かである 焚火 (四、一○、三一) 湿り深き此の夕暮を赤々と焚火もやして人ゐたりけり 仄ぐらき空に羽虫の飛交へる此の夕暮に火はもえゐたり 焚火燃[も]す人ことごとく背きゐてたき火は独りもえゐたりけり 長塚節の「土」を讀みて感あり作る (四、一一、二) 母さん 母さん 畑の隅 青い陶器の壷の中 母さん 母さん 畑の隅 苗代胡頽子[なはしろぐみ]の木の根もと 母さん 母さん 壷の中 ぐみの細根が垂下る 母さん 母さん 私の 白い帷子朽ちました 母さん 母さん ぐみの花 青く咲いたを御存じか 「末句の二句はうまいね」Y※ 保田與重郎の書き込み こすもす (四、一一、四) こすもすの花の盛はすぎにけり花の小さきを従妹は挿[かざ]す おそ秋の空の冷さこすもすの花は小さくなりにけるかも 記念祭の人出を夛みほこり立つ校庭に咲けりあきにれのはな (商大記念祭一一、三) 川霧 (四、一一、八) 川霧はたかくのぼらず地にはひて赤きともしのゆれて行くなり きり這へるこの浅宵を人行かずともしび一つ遠くある見ゆ 街中[ぬち]をきり低くはひ丈小[ち]さき嫗[おうな]が二人もだし歩けり おうな二人ともしびさげて我がまへをさらばひゆくに心いきどほる わがまへをあるく嫗をぬかんとしさげたるともしにてらされにけり 嫗二人後となりけり何ごとかきりにかくれてもの云ひにけり こころ怖ぢ足をはやめて歩き去りかへりみすればともしゆれゐる 老嫗らの歩みあやぶし提灯のひかりのゆれはつゆさだまらず 幽庭 (四、一一、八) 南天木[なんてん]のくきにつきたるしろだにのかずおびたヾしなにかおそるヽ なんてんにつける白蝨とらずして日をへにしかばそが子を産めり やむなくて殺す親だにをよび(指)もてはぢけばつちにおちて音せず 土におちてまた動かざりしろだにの生命かなしみ取ることを止めつ 白だにの卵かへりて生(あ)れ出づる子だにの数はいかにせむとぞ ◇ わが庭のしぶかきの樹に実れる果の赤きをめでヽこの日ごろ經ぬ 渋柿としれヽどあかしかきの実の色にくはむときによぢのぼる 枝先になれる柿のみとらむとししばしためらふなんのこヽろぞも 木の下にしぶかきをくひそのしぶに口ゆがめたれつひにくひつくす 口中のかきの渋みははなはだし柿のおちばに唾きしばしばす ◇ こぬかあめとなりの煙低くはひ棕櫚の半ばにはひまつはれり あさじめり煙昇らず隣家の乾魚やく香はこヽまで來る 厦門[あもい]の港 (四、一一、一五)     南蛮広記を讀みてわが心は神父ども來りし南をおもふ     ろーまんていつくな夢の詩をおもふのである われは懐ふ 南[みんなみ]の厦門の港 眞夏日の光溢れたるところ 白き家々並びたち 石壁に緑波ひたひた迫る   あヽ厦門   ひかりの港   南の港 港端れの磯辺には 世にもあえかなる紅き花 白き花 彩々[とりどり]に咲き乱れ珍らしき 伽留羅の鳥歌ひとぶ   あヽ厦門   南の港   ひかりのみなと さてまた夜の空には 黒々と寄来る大濤の丘 かすかにも夜光[やから]の虫のひかりにまぎれて 南十字[さざんくるす]の星照らすなり 此の時なれや 鐘樓の上 黒衣の神父[ぱーてる]熱き情に あな尊と、わが主ぜすす(イエス)のきみのみしるしと禮拝す   あヽ厦門   かみのみなと   みなみのみなと あかねさす晝となれれば 海に向へる窓ことごとく開き 窓ごとに乙女ゐてものぬひつヽ うたふ唱 えぞしらぬ 窓辺なる籠の中 羽美しきおうむ鳥語り 色の海風さやさやと吹き入るなり   あヽ厦門   こひのみなと   南のみなと われは又想ふ かの街の 家の壁毎に這ふ 縷紅草の紅き花の かなしさを かくして あヽわが夢は よごとよごとにかよふなり ああ あもい かなしきみなと わがあこがれぞ ぱらいぞう(※パラダイス) 曲馬團[さーかす]の歌 (四、一一、一六)   (道化うたふなり)   松竹座にヂヤーネツト・ゲーナーの「くりすちな」を見る。   さーかすの場あり。まづそこで作つたといふもの。 これなるは こすもす曲馬團 宇宙の果から はてまでも 旅して歩く曲馬團 至る所でもてはやされる さあさ お入り みて おかへり さても一座の花形は 銀鞍白馬の王子様 すべての女子にちやほやされる 「眞理」のわかもの 永久[とは]なる若さ さあさ お入り ほれこみなされ さてまた一座の女王様[くいーん]は 眞赤な帽子に緑の上衣 うす紅しよーる(ショール)のはでやかさにも 一脉たヽへたしとやかさ 常しへをとめ 詩[ぽえーとり] さあさ お入り みとれて おかへり 「眞理」の王子の手下となつて 曲乗 曲藝 いろさまざまの 技[たくみ]を見せるはそれそこに ずらりと並んだ若者達よ 哲学[ふいろそふい] 科学[しあんす]二組になり さあさ いろいろ はじまり はじまり さあさ踊れや おどり子達よ 青い上衣にうす紅つけて 靴音かろく りずむのだんす おどれ おどれや 踊子達よ 青い上衣にちかちかするは 浮気男子の熱情[なさけ]の先よ 何をくよくよ 踊子達よ かあい男とわかれを惜みや 山の烏が啼くさうな おどれ おどれや 踊子達よ 「光」のおどりこ 「音」のおどりこ 「色」のおどりこ 「香」のおどりこ 「語[ことば]」のしらべに 調子あはせて 靴音かろく おどれや おどれ さてさて一座の御見物衆 下手な踊にお飽きがござりや おのりなされや廻轉木馬 まはりまはつておめヽがまへば お降りなされよ そりやそこが お前様らの 運命[さだめ]のありか のらしやれ のらしやれ 廻轉木馬 運命の木馬 神妙不思議の さても今夜の入りの無さ 運命のあらはし怖いとか 眞理のあらはれいやとてか 詩[ぽえーとり]も気に召さぬ やれやれ不入りの曲馬團 入りがなければ女も酒も 縁切 すつちよん やんれやれ まづまづ休まう くたびれた 晩秋の四辺 (四、一一、一五) 霜降りて寒くしなれり庭隅の楓もみぢぬわが知らぬ間に 朝々を寒しと思ひてわがをれば庭すみのかへで紅葉[もみぢ]てゐたり にはすみにかへでもみぢて居たりけり秋深しとぞおどろきぬ我 柊の白き花々霧に匂ひ今年の秋もまたゆかむとす ひヽらぎの上枝実となりしづえには白き花咲きまさに散らむとす 町を這ふきりは昇りてあまづたふ太陽の面ながれゐるなり 天傳ふ朝日の光うするヽに見れば流らふ空の高霧 あかしあの並木色づきはらはらとひそかに鳴りて葉を落すなり あかしあの落葉しき降るその中を自轉車のりて人来たりけり 噫 森博元君 (四、一一、一八)  森博元君。京都の人。野球部員にして左翼を守り、対抗試合に安打二本を放ち勝因を作りたり。君は資性淳朴、純情の人にして、後輩を懐ふこと篤く、君が勧誘により入部せし余の如きも、 常に君の理解と同情に慰められて委員の職に居るを得たり。對校試合数週間前、胸部に疼痛を感じ、一時帰宅して加療し、稍康きを得たるものの如く對校試合には平日の如く元気に活躍したり。 夏休初に当り再び症を発したるものヽ如く、又全快の後、二学期始と共に再発し、遂に悲報の原因となりたるは吾等の等しく傷む所、心に忍びざる所なり。  君の性、沈思、粗放なる部の空気に全くは一致し得ざるものありしが如く、尚或る精神的煩悶あり。常に意を一に野球にのみ注心を得ざるを己に苦しみ、人に謝しゐたりき。 今にして思ふ。君が遊撃又は外野を守備し失[ミス]をせる際の、我等の言の不孝なりしを。是亦君をして病の餌となす一原因たらざりしか。併れども君は怒らず、悲しまず、 常に愉快に気持よく我等を導きたり。部員にして、一人の君が罵言を知れるものなく、一人の叱責を受けしものなし。我等はその春風の如き人格に甘えし所無きやを省みて、 深く憾むるものなり。  ああ森君。我等の兄に対する態度には幾他の許すべからざる点がありしにも拘らず、莞爾として受けて呉れた兄。ほんとうの親しみを以て語る事の出来た兄。文筆を以て敬はれた兄。 兄の幾夛の思出は、永久に我等の胸中に生きるであらう。冥せよ、悟せよ。併れども我等かの元気なりし兄の死したりてふ言を、誠に信ずべくして信じ得ざるを悲しむ。  嗚呼、森君、森君。出来得べくんば今一度生き還つて呉れ給へ。君は死ぬには余りに惜しい美しき心の持ち主なりし。森君、君はほんたうに死んだのではないのではないか。 僕丈が夢、恐ろしい悪夢を見てゐるのではなからうか。森君、森君。君の面影は余りにもはつきりしすぎてゐる。森君、森君。あヽ気が狂ひさうだ。乱文も乱筆も心のまヽを表すことは出来ぬ。 悼 森博元君 (四、一一、一七、一八、一九) 丹波[たには]やまとほつらなりてうらがなし森博元は今はあらずけり (於新京阪電車 一七) 何しかもはるばる来けむ京の街夜霧をりゐて君在まさぬに (京の街) ちヽのみの嚴父[ちち]の御顔にありし日の君がおもかげかよへるものを (君[み]が)棺の前にぬかづきまなにみつるなみだこらへておとさヾらむとす 両親[かぞいろ]の悲嘆[なげき]おもほえわが涙かくさむとすれ隠さふべしや 君がみ名かはりたれかもまなに満つる涙にわれはさだにみがてき 何しかもわれは来にけむみ柩にのれる学帽たえてながめえむ ある時はわが手に觸れし学帽ぞ柩の上にまさにおかれたり 学帽の徽章の光まなかひに涙あふれて見ゆといはなくに 森博元今はあらずの嘘言[たはごと]をまさに此の目でみるがかなしさ 君がからだひつぎの中に入りたれ死して入れるとわがもはなくに いとし子を失ひたまひし慈母[はは]のなげき人の子われやいかでみすごさむ 銀閣への道の暗さよしみじみとひとのいのちをこほしみにけり (國行氏を訪ねて) 比叡の山につらなりのぼるともしびのひかりかなしとふたヽびはみず 暁の巷は寒し君が棺柩車にうつり今いでむとす (霊柩を見送る) うつそみの君がからだは此の行にふたヽびみざらむたへがてぬかも すこやかにありし君なれやこのちさき柩の中にいまはおさまりつ いつしかに忘れてもへやおそあきの京の街ゆく靈柩自動車[くるま]のひヾき おもおもと空は低しもこぬかあめ君が車にふりにけらずや 君がむくろ燃すとふところ鳥辺山けふよりのちはみのたへめやも 今日よりはなどみすごさむ大路行く君が車に似たる靈柩車を こさめ降る京のちまたを行きしかばあはれましろに山茶花ちれり (川勝氏を訪ねて) つちの上にましろにちれり山茶花はかなしきはなとみてすぎにけり 雲のゆき南に疾し幻にきみがすがたのみえにけらずや (洛西にて) かくのみにありけるものを友もわれも命のはてはかたらざりしか すヽきほはほヽけにけりなひとみなのわびしむふゆはいまかきむかふ 芒ほにあたる日ざしをつめたしとまなことぢたり光の中に 白き日に眼とづれば君が影かたちとヽのはずあらはれきたる 午すぎて時雨やみたりわが友のむくろは遂にもえはてにけむ さよどこにこらへかねたり君がおもわものいはずしてありありと見ゆ (夜床に入りて 一八) 何しかもこヽろたへむやありしひの君がおもかげさながらに見ゆ 現[うつつ]にはふたヽびあはじあはじとぞまさに思へば身もふるふがに 面影ときみはなりけりしかなればそのおもかげになみだながるる (追想一九) 弔 森博元兄 (四、一一、二○) 野球部の弔文、小竹迚(とて)も作れないといふので丸と僕と二人各々作つたが、丸が讀む事になつたので、書いたものが讀むのがよいことになつた。僕は此の弔文を、 それで葬式の日に胸の中で誦してゐた。 森博元兄  「あなたが死んだ」といふ言葉を私達は未だに信じられない。 丈夫な体をユニフオームにつヽんでグランドを走り、又安打をかつとばしたあなた、一緒に愉快に語り合つたあなた、 それは皆ほんとうの現実の事ではなかつたか。あの目、あの口、僕等が現に見たそれの持主ではなかつたか。僕等はどうしても此の世界をはなれたあなたを考へることは出来ない。 でもあなたは死んだのださうな、あヽ思へば短いあなたのいのちとそして僕等との交りだつた。短い生命の間にもあなたはあなたの天分で出来るだけ美[い]い事をなし、 思ふ存分味はれたかもしれない。しかし僕等との交り、野球部の集りではどれだけあなたは悩んだことだらう。  僕等は謝する。すまなかつた、森君。あなたはずゐ分苦しんでくれたね。グランドでの肉体的につらい練習、これはあなたの死因となつた。それから苦しさをこらへてがんばつたこと。 これもあなたの死因でなくて何であらう。その中でもあなたは笑つてゐてくれた。つらいことがあつてもその僕等に怒らなかつた。かういふあなたのつらさを知りながらも、 僕等は何らあなたのためになすところがなかつた。それもあなたのいのちの長くながくつヾくであらうことを十分に信じてゐたからではあつた。かうまで短い命であつたとならば、 あなたのためにも、御両親のためにも、あヽ、もう云つても何にもならない。併しあなたの死は僕等に何といふ敬虔さを与へることだらう。 この敬虔さはいつまでもいつまでも大高野球部と共につたはつて行つて、その中にあなたは生きてゆくであらう。森君、あなたの生命は永久である。  しかしあヽ、あなたはもう僕等の追憶の中でしか生きられぬ人となつたのだ。あの対校試合にヒツト二本をとばした人、酒を自慢にした人、心のきれいだつた人、すなほだつた人、 怒りをみせたことのなかつた人、ボールの速さをほこつた人、それらが皆此の世界の中に起こつたことであつたのに。僕等はやはりあなたの死を信じ得ない。 僕等はいつまでもいつまでもあなたのかへつて来る日を待ちながら、その日まであなたをおもひおもかげにしのんでゆくのだ。  でも、何といふさびしいことだらう。寒いさびしい冬が来るといふのに、あヽ森君、御両親のなげき、洋々たる前途、そして僕等のかなしみ、さうしたものがもし霊にわかるとならば、 もう一度かへつて来てくれたまへ。男らしくない愚痴なのぞみではあるけれど。 伏して顔前に彷彿する君がおもかげにお願ひする。 たまゆらをわがまなかひに入り来り直に去れどしるきおもかげ (グランドにて) この土にまた立たざらむ君ゆえに心かなしみこの土をながむ まぼろしに君がおもかげこの土にボール投ぐ見ゆさながらに見ゆ 君が魂あり通ひつヽ此の地に今日も遊ばむ吾には見えなくに わがまへに並びゐませるみはらから(親類)ことごとく泣けばわれも泣きたり (葬の日に) 君が友のかぎりつどひて泣きしとき堂の外には小雨降りたり 冬来 (四、一一、二七) 一 友よ手を握りあつて眠らう せめて残つたわれわれまでもが離れ去らないやうに   君は手を握ることによつて死をさけうると思ふのか   此の世はもつと頼りないものだよ 友よそこまで云はないでくれたまへ そしてともかく 手を握りあつて眠らうではないか (森の死後、部員の人に寄す) 二 冬は野に来て 菊の花弁を凋ました 女は襟巻をまいて 首のあざをかくす 僕は黄色い顔をして 極光[オーロラ]の夢を見る 三 憂鬱耐へ難くして 戸外[そと]を歩めば 収穫[とりいれ]の時季[とき]なり 人々悉く稲を扱ふ 他人の働けるを見ては わが腐りたる胃の腑 疼き始むるなり ああ懶惰の血は わが体内に遍し 東山 (四、一一、二一) ひとひとりはふりてのちのあとつかれ電車に乗りて東山に到る 知恩院の大き甍よわが眼の下にあれどもいよヽ巨きくし見ゆ 清水の裏杉山の蔭斜面羊歯の瑞葉はおほひ茂れり 裏山のなぞへ一帯を羊歯の大葉おほひ下りて道に迫れり 夛羅の木は白くなれりけり杉山も霜洩るらむと道を登るも 眼下の谷を埋むるもみぢばの下びの道を人行くおとす (清水) やヽにして人は見えたりもみぢ葉の下照る道にふさはしからぬ 清水の音羽の瀧の名はよけれかけひを傳ひおつる細水 紅葉[もみぢば]の下の流にうすき濃きもみぢしづみて流動かず 雨霧はこの杉山の杉幹にしづくとなりて光ながるヽ 冬來 (四、一一、二八) 夕暮の小庭に立ちて梧桐の枯はをもやし心しづまる 蒼桐のかれ葉柄はもゆる時音をたつなりかすけきものか あをぎりの枯葉の焚火けむり立ち白さヾんくわの枝にまつはる 山茶花は夕の闇にさだかなり風おちたれやさゆらぎもせず 山茶花の白花のもつ明るさは此の夕庭に君臨しゐる 初冬の空のなごみのさ中より鳥一つ出で視野を横ぎれり ※ 陽の光あまねきみちの白ひかりくもの糸ひとつ見えて消えたり 夕空はなごみにけりな棕櫚の木の葉がひに見ゆる星影のさえ 憤怒 (四、一二、七)  本宮清見君を理事にしやうと推したが、宣傳の下手と文二甲の不熱心の為に一二○対七○で大敗した。懦子[だし(※小心者)]俣野を理事としたのは、 学校側にも悲しむべきだけれど、仕方がない。皆が本宮を知らないのがわるいのだ。 朝庭のひひらぎ苗に見入りゐてこの静けさに死なむとぞ思ふ 都會[まち]の囂音[おと]田舎の家の庭にゐて何かおさるヽ心にきヽし まちのおと大き壓力[ちから]と迫り來ぬ此のあさ庭にひそまりゐれば 都會のおとつばらにきけば往きかよふ電車の笛の音もまじれり 都會の音の持てる力は二百万の人間の呼吸のもてる力か まちのおとたえずひヾきてつきざりと八角金盤[やつで]の花を見つめてゐるも まちの音耳にきヽゐて目に見ゆる柊苗をゆらぐとぞ思ふ 大いなる心の怒耐へ難く活山茶花の香[かほり]を嗅ぐも 花絶えて入りしことなきはなづヽに花を活くるも怒の仕業 友よ 悲しむな 象牙の塔を出たのは 他人のためにとではないか 再びあの塔へ帰らうよ 塔は月の光にぬれてゐる 安息がそこに待つてゐる 己達はそこで 又生命と詩を語らうではないか  塀外[へいのと]の樹の赤き果[み]は近づけば蔓すがれたる烏瓜の實 懐疑 (四、十二、十四) 此の樫の大木の根元に 子供の幾年を過して 私は夛くの旅人を見た その中で最も忘れ難いのは 破れ馬車を馳けらして 光明の市(と彼は云ふ)へ 去つて行つた彼 私は子供心にも もしや彼の破れ馬車が 光明への障碍となりはしまいかと 疑つたのだつた 童心を失つた此頃の私には 彼の破れ馬車が 市へ行き着いたかどうかまでも 疑はしくなつて来てゐる 併し市までの荒野を 車をのりすてて歩く彼 或は心屈して途にうづくまる彼を 思ふは耐へ難いことではある 小春の暖さ (四、一二、一九)  五十年に一度といふ今年の小春の暖さだつた。その長さもずゐぶんつヾいて十一月の終から、十二月の半過まであつた。 十二月の初といふに此のぬくさたんぽぽの花を道にみつけたり (帝塚山) きまぐれのぬくさにのびし豆の芽はつヾきて来る霜に枯れるとか 方々に櫻咲くとふあたヽかさおそれ心にありがたがるも 山茶花 (四、一二、二三) さヾんくわの植込中のくろ土はおち花びらにいよヽ黒しも 山茶花のはやく落ちたる花片はやヽくたされて黄に染りゐる 山茶花は盛過ぎしかつちのへに落てる花片かさなり満てり 山茶花のおちはなびらにみちてれるこヽの細路来む人もかも 童子と野火 (四、一二、二四) 夕ぐれの枯野の上に赤々と野火をもやして童[こ]等ゐたりけり 赤々と野火のほのほの靡く後童子等叫びしたがへる見ゆ あかあかと野火は盛りになれりけりほのほの中に童子等はゐる 童子等は危ぶみ心つきにけむ上衣をぬいで炎[ほ]を叩きゐる 野火消えぬ焚火のすすを童子等は叩[はた]きおとして上衣着てゐる 除夜 (四、一二、三一) ゆふあかり冬木の梢にしろじろと雲かヽりゐて動かざる見ゆ ほのぼのと心うれひて大年の夜空ながめてゐたりけるかも おほどしの夜を深みて一つ星雲のきれまに照れる寂しさ 魍魎[すだま]など荒ぶる夜てふおほどしの夜空曇りて重たきものか (第1巻終り) 「夜光雲」第二巻 第二巻 昭和5年1月1日 ~ 昭和5年6月12日 20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(103ページ) 新春吟行 (五、一、一)   父と共に南和の九帝陵に至る。天気晴朗、暖かにして新年にふさはしき日なりけり  神武天皇畝傍山東北陵 神武の帝のみさヽぎ木を繁み百千鳥どもこもらひ鳴けり 何の鳥かこもらひなけり畏みに畏こみまつり吾は禮拝す  綏靖天皇桃花鳥田岡上陵 桑畑の傍への道をゆきしかば雀おどろきとび立ちにけり 雀どもおどろき立てど桑の枝を移(ゆつ)れるのみに畑は離れず 畝傍山山を低みて頂に社立てるが明らかに見ゆ  安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵 ほこすぎの立ちは静けし道の辺の安寧陵をおろがみまつる  懿徳[いとく]天皇畝傍山南繊沙溪上陵  橿原神宮  身狭桃花鳥上陵宣化天皇 みさヽぎにまうでし帰るさ藪中に尿(しと)せむとすればやぶ柑子の實 めん竹の秀先のゆれのかそけきみち荷物を負ひて乙女来るも 高木なす淡紅(とき)山茶花は屋根の上にその淡紅花を落してゐるも 淡紅色の山茶花屋根におちたまり屋根の傾斜を滑らずにゐる 淡紅色の山茶花美しと見呆(ほ)るればその下つべに南天の朱実(あけみ) 南天の朱実さはさは塀の外(と)に垂れ出で道にかぶさりゐるも 葛木の深(ふか)山襞に炭焼の煙うもりてのぼらざる見ゆ 裸木となれる櫟の林ごし天の香久山見えわたりけり 久方の天の香久山落葉せる林の彼方に見えて低しも  孝元天皇剱池島上陵 陵の繁樹の隙ゆ堀の水かぐろに光り波立てる見ゆ 剱のみ池の水にかいつぶり一つゐると見れば又一つ見ゆ かいつぶり池に浮きゐて水潜り遊べるなれどその場動かぬ 日は今しかげりとなりぬ岨道をさむざむしとぞ思ひ初めけり やヽやヽに雲は過ぎたれ遠方[おちかた]の家の白壁光り出でぬる みはかせの剱の池の水へだて光れる生物さむしとぞ思ふ さみしらと云はヾ過ぐべし白々と倉梯山に雪つもる見ゆ 雪おける山の空には元日の日子あたヽかく照りゐたりけり  天武、持統天皇檜隈大内陵 ひようひようと凧のあがれる空の色和みきはまりたふときものか ひようひようと凧は揚がれり大空の澄みのとほりにその色しるし 細き路まがりくねりて檜隈[ひのくま]の大内陵に登り至れり 日かげりて風出で来るさうさうと陵樹とよみて烏とぶなり 陵の枯高松に烏ゐて一度飛立ちまた止まりけり 陵にのぼる坂道のぼりゐて烏飛べるを同じ高さに見き 此處の野は雲の蔭なれ遠山の葛木山は襞々光る  文武天皇桧前安古岡陵 みかんなれる丘を越ゆれば文武陵繁木はろばろ見えそめにけり 我が行手さへぎる山の南の南淵山は二上をなす 野の道を来りて長し遠方に日の丸揚げし村の見ゆるも 消防の出初なりけり学校の庭に高々水噴騰(あがる)るなり               白々水噴き騰る  欽明天皇檜隈坂合陵 越の岡眞弓の丘び我がゆけばうねび青山見えがくれすも  岡宮天皇の陵にまゐらず 舎人等が泣(なみだ)なきつヽ作りけむ皇子のみ墓にまゐらず帰る 南の佐太の丘辺の陵を心こほしく思ひつヽ帰る 楢の木は葉枯れつくせど木を離(か)れず梢さやさや音立つるなり 斑雪 (五、一、三 於花園運動場) きその夜降りにけらしも生駒山なぞへはだらに雪降れる見ゆ 大空と地を劃(かぎ)れる雪の線一筋にしてしみじみ白し 斑雪未だも消えず山の尾根につもり日を経て根雪となるか 雪雲は低く下りて生駒山尾根すれずれに南に走る 雲の動き眼に見えて疾し末端は今南に山を離るヽ その日 その日 小夜更けて尿に起き出での木の梢に高く星光る見つ (一月五日、保田来る) 小夜更けて庭木の梢吹き通る嵐に衝(あた)り吼(たけ)るを聞けり 夜更けて歸り道べに風寒ししみじみ思ふ命なりけり (一月五日、始業) しみじみと命かなしみよるふかくかぜさむきみちたどるなりけり 雪明りあかかりければ夕畑の畝のつらなり果までさだか (一月十一日雪降る) 雪つもりうれしかればか男の児暮れし道べに雪釣りゐるも 溶雪の水気(みずけ)昇りて此の宵の月は朧に曇りたりけり (一月十三日) 畑葱の秀立ち鋭(と)けれやしろがねの雪の大野に青條(すぢ)をなす (一月十五日) 冬日かげ (五、一、二二) 鷄のこゑのかそけき朝にして白水仙花開きたりけり 吾弟(わおと)らと焚火もしつヽ水仙の一つ花咲ける寒しと見たり 朝日子のなヽめに射せる水仙の一つ花の色はさむざむしもよ 野の上をつぐみむれとびわたるとき高圧線をよぎりたりける 高圧線の電柱のつらなりはるけくて野のはたてにも絶えずありけり 冬野には藁鳰[わらにお]ありて夛ければ遠くのものはかげりにありけり ※ 友眞のL、L[※ LOST LOVE]をかなしむ (五、一、二二) 友よ野の高みに行きて角笛(くだ)を吹くべし 併らば群れ咲ける野いばらは 處女子のほヽゑみを汝に送らむ 子どもらよ、晝顔咲きぬ、瓜むかん──ばせを(※芭蕉) 青葱 (五、一、一五) 大雪が降つて野も道も一面に眞白だ 下駄の歯に挾まる雪に苦しみながら 僕は道を來る そしてドキツとして立止る 一面の白さの中に これはまた何といふ 生々とした青さだらう 葱畑だ 僕はその青さに生命とその燃焼する熱を感じ わけもなく嬉しくて立つてゐたのである 雪明り (五、一、一三) 雪の積もつた夜遅く僕は家への道を辿る その道の明るさよ 雪明り こんなに遅く遠くの村──それは僕の村──が はつきりと見え それから長い長い畑の畝が その終りまで見えるのだ 青い焔 (五、一、一六) 南の空にはオリオン星座が來てゐる 參星の連りは東西の方向を示し 屋根の棟と平行である (そんなことはどうでもいヽ) 見ろ オリオンの星雲を 青く青く燃え上りもえあがるそれの焔を 焔の色は冷たい青だけれども 石炭ガスの完全燃焼状態も青い焔だつたね 僕は彼に天上の不平者を想ひ 星占に依つて兵革[※ 戦争]を知つた古の支那人の心を 如実に感ずるのである カノープス (五、一、一六) 南の地平線下の見えない星 南極老人星カノープス 僕の心を惹きつけることこれに若くはない 何故(バルーム)? 見えないからだ 同じ理由で僕は毎夜棕櫚樹下に 未だ見ぬ麗人の貌を想ひ画くのである 寂 (五、二、二) 寂しさや南天の實は虫つかず さびしさや丹波山残す雲の色 さびしさや北山時雨庭に満てり (西垣君をおもひて) 白々と道が光れば飛ぶすずめ 青木の實今日は根本に三つ落ち (庭にゐて) うれしけれ雲がとぶとき地にもかげ くらやみに流は見えね水の音 (五、二、八) またもまた死なむ心につかれける 夢の白椿 (五、二、八)    一日、夢に御母を見る。別れ奉りてより十幾年。面影ははろかにとほくなりにけり。    夢さめてのちあまりの悲しさに作れる歌五首。 一、かあさんと呼べど   返らず   後影霧にかくれて   行きたまふなり 二、御母の影を   求めてゆきしみちに   白く咲けるは   何の花ぞも 三、道の隈に   花咲けりしが   かなしけば   頭うなだれさだかには見ず 四、しろつばき   葉隠りにして   咲きたるは   はヽのみおもに似たりとぞ思ふ 五、御母の御声   聞かざる幾年ぞ   庭に咲けるは   白玉椿 野火のあとの灰の下には (二、四) 青草の 早萌え出でて青かりにけり 早春の下萌草は 枯草に 野火盛るとき な燃えそと思ふ 百舌鳥を病床に聞く (一、二五) いたづきの床にいねたるわが耳にもずはきこゆれ姿見えずかも 百舌鳥のこゑ高くなりぬるわが庭の椋の木末に今か来ぬらむ やヽにして飛び去りにけむもずのこゑはろかにきこえやがてやみつも 百舌鳥聲到床中 其姿不見高或低 高而懷停於庭樹 低者悲去我近辺 新谷君を訪ねて不在なりしかば待てるとき (五、二、一二) 久しぶりに歌をかたらむ久しぶりに御画ながめむとわれはきたらし もみぢばのすぎしかたらむときたれども君遊行してかへりまさぬに 待つことしばしになりぬまたの日に心のこして今はまからむ  君の室に永島君の遺影を見る むかしむかし君とかたりしことの葉はすべて忘れぬ君は忘れず 人間の心かなしく信濃の山の雪に入り命たえけむ涙ながるも  そののち新谷君かへり来り歓談す 月夜の酔漢(よひどれ) (小林正三に)  二、一○夜、北村にて野球部送別会をなす 月はてるてる街の上 青い光の石だヽみ をどろ踊ろと出て来たが 足はもつれるからだはほてる 月は三角 街は坂 青い大気の海の中 泳ぐわたしにつきあたる 女(ひと)のまなざし眞珠の光 雪と山と (五、二、一一) 今津の英雄叔父を訪ぬ。盲膓炎なり。 青ぞらに頂の雪かヾよへば西方浄土尊しと思ふ はろばろと山のいたヾき遠くして雪は光れり日は雲を洩り いりつ日は山にかくれて山の襞くろき中より煙たちのぼる ゆふさりの山襞くろし頂につもれる雪はまだくれざるに みちのゆくてにたヾにむbへる武庫山ゆ風は来りぬ此の夕ぐれを 病める叔父を助けて風呂に入れしことちのしたしさをいたく感ぜしむ 増田正元 (五、二、一七) 菊池君に聞く。彼は去る寮の送別会で泣き、一座を感動せしめたと。(菊池は僕に似てるといふ) 増田君。 君は知つてゐるだらう。 純情は年と共に去りゆき、egoの波は年毎に人に食ひ入ると人の云ふのを。 今僕はこの定理の験証者(ママ)として再びこの語を君に思起さしめる。 誠に君の有する純情は美しく愛すべく、 例へば 樹の根に咲く水仙の花の如しである。 けれども僕はこの純情の花が水仙の花の如く、 時至れば凋むであらうことを期するを欲せない。 故に僕は断然君に告げる。 君の純情をして永久のものたらしめよ。 君が周囲の雜草にふるヽなかれ。 雜草を刈る役は僕が引き受けよう。(否、誰か適任者はゐないか?) 菊池眞一君に別を告ぐ (五、二、一七) もろもろのこと嘆きつヽ冬の夜にのみしコヽアの香は高かりき 君とともにコヽアのみつヽかたりけるまどゐのよるは幾夜なりけむ 陽光さす道に立つ我(あ)をとりたりし君の寫眞は顯像(あら)はれざりき 君とともに歩みし道にコスモスの花咲けりしを未だ忘れず 君といふ友もてることなまけものヽ吾のなまけを少し輕からしむ 寛(おほ)らかにわれがたわけをゆるしける人の一人に別れむとする 心斎橋筋を歩きて (五、二、一九) 小林、豊田と。 自己嫌悪はげしき時にまちあるきわが身しばしばふりかへり見つ あかあかと陽の沈むときわれがみを心ふかくもいとひたりけり (大丸にて) ゆふさりのけむりおほへる街のをち陽はしづまむと下るなりけり (同) 映画(シネマ)の恋も羨(とも)しくなれりかくばかりわれが心は人をこふるか (明治屋) しみじみとおのれをにくみあるくときさびしきところ心斎橋筋は 山にゆきて感ずるさびしさをゆふぐれの人のぞめきの中にゐてする かき舟ゆけむりは出でてほのじろく川面になびき夜とならんとす (戒橋) 此のとほりゆきかよひつヽ年をへてサラリーマンとわれはなるらしき かくのみにかなしかりしかゆふぐれを街にゆきかふ電車のふえは SLOGAN OF FEMINISM FEMINISTハBUS又ハ電車ニ於テ女性ニ席ヲユヅルベシ。 (FEMINISTノ顔面筋ハ絶エザル緊張ニ硬直シテヰル) FEMINISTハ女ノ顔又ハ体又ハ四肢ヲ見ルベカラズ。 (FEMINIST曰ク、「何ダツテ世ノ中ハコンナニ女ガ夛イノダラウ?」) 陽炎(一)  しみじみと春らしくなつた。方々で梅が咲いたといふ。反対にスキーの話をするものもある。  でも野原の土筆、蕗の薹、やはり僕の一番好きな早春の気候になつたのだ。もうすぐ試験がす  めば生駒山か六甲へでもゆかう。 (五、二、二三) かぎろひの野中にいねてのヽ果ゆ飛行機くるを見まもつてゐる (一九) 飛行機はわがまつかうをよこぎりてつばさ閃めかすその瞬間を あたヽかき光よろこびのに出でてかれふ[枯れ生]のなかにつくし見出でつ (二三) このぬくさかりそめのものと思ひしが土筆を見れば春去りにけり 方々に梅はさきけむとほくもりあたヽかき野に出でて思へる はこべらは花をたもちぬいづくにかひばりひそみてなく日となりぬ 庭石の苔とは赤しおちつばき うつぶせに椿の花はおちにけり WEISSE HOELLE[※白い地獄] (五、二、二一)  弁天座デ此ノ映画ヲ見タ。從来ノ山獄映画ノ中デ一番好イモノダサウデアル。  成程雪崩、峯ト雪、雲、夜ノ月、学生ガ雪崩ニ埋メラレル所、博士ノ死ンデ  ヰル所ナドズヰ分ヨイ。ソノ割ニSTORYハハツキリセヌト思ツタ。  ソレデ歌モソノ方面ノハ出来ナイ。出来テモワルイ。 南風みねにきたれば峰の雪ゆるび[緩び]くづれて雪崩となるも ゆきなだれとヾろとなりてピツ、パリの斜面を下り人を殺すも pitz・pal の峯に照る月おしかくし雲は流れぬ峯はくもるも たまきはる若き命のたへがたく来りし子等は雪崩に死にき ゆきなだれ迫るを仰ぐたまゆらはいのちしみじみかなしみにけむ 救助隊のかざす炬火(かがり)のもゆる炎(ほ)をふもとの里に人々ながむ 峯の火はつらなりうごきはろばろし昨日も今日も人は帰らず しろがねのつらヽよそへる雪の洞に人はねむれり洞一ぱいの聖光(ひかり)※ 雪ぬちにとはにねむりてかへらざるひとのむくろはとめずともよし EIN HIMMELISCHES DRAMA[※天の話](五、三、三)  此頃の星空を眺めると、ほんとうに心を動かされて痛いやうな気がする。  天界一の明星、天狼、參星、それに西空には昴が。そこでこんなひまな想を練つてみた。    「この詩はうまいです(F)」[※湯原冬美(保田與重郎)による書き込み] 將軍參は刃を女の胸に擬(ママ)てた。 彼の眼は赤く 刃は蒼い焔を発する利刃である。 俺はお前を殺すとその眼は語る。 女は苦しく身を顫はせ、 やがて滂沱たる涙が頬を打つた。 夫よ。私を殺しなさるとか。 えヽ、死にませう。けれど・・・・。 女は夫の背後に二児を認めたのだ。 忽ち女の心に母がよみがへる。それを通じての生への欣求。 女は激しく体(み)をゆすり、否と答へた。 二児(ふたり)がこちらへかけて來る。女は手をのべた。 でも夫は無情である。否、忠義のためにである。 刃は迫る。女は逃げた。涙の眼と蒼白な顔は、母と妻の葛藤を語る。 さうして二人の後からは泣きながらいたいけな子供が追掛ける。 こけつまろびつ。 ──かうして皆、舞台を去った。──朦月夜となりにけるだ。 參  ORION座 女昴 SUBARU(PLEJADEN) 双児 GEMINI座 陽炎(二) (五、三、七) 到るところ椿の枝に一杯に花咲く春となりにけるかも わが方にむかひてさけるべにつばきしべの黄色はあざやけきかも べに椿一番はじめ咲きたるは早やおちにけり青苔の上に べにつばき苔のつきたる庭石におちてしみじみ赤かりにけり 寒き間たまご生まざりしめんどりらまた生み出しぬ春となれヽば 蕗の薹も雜草の芽ももえにけり土をながめて一時をくらす 臘梅(ろうばい)は散りにけりとふ迎春梅は今をさかりと咲きにたらずや 南天の実は黒ずみぬ樫の木も葉落としそめぬみ はつきて わが庭の朱実つけたる木の名前しらざるまヽに實は落ちそめぬ 閑日庭を掃く (五、三、一二) 庭の樹のこずゑをわたるかぜのおとたえてはきこゆ唱をおもふも 木斛[もっこく]とかしのおちばをはきあつむ常磐木なれば葉のいろぞ濃き 煙突の掃除をせむと屋根にのぼりいらかの彼方にいこま山見つ かそかにいのち生けらむ倉屋根の棟につくなる青苔のごと 枝さきの夏みかんの實屋根にゐてわれはもぐなりやねよりは下 此のむらはにれの高木の夛くある今日をはじめて屋根にのぼれり 下よりはやはらかに見ゆるかや屋根もかやの莖なれば足を傷けつ 落ちる將星(二幕二場) (五、三、一二)[※この一行のみ] The Time of Love of Love (5、3、18) Otome-ra no yasashiki Kotoba hori(欲り)shitsutsu Kyohmo chimata ni ide-ni-keru-kamo! Tawaketaru Uta o tsukuru mo Otomego no Kokoro horisuru Aware to omoe! Akarabiku Otome ohkedo yase-otoko Ware ni koisuru Hito wa ara-zu-mo! Naniwa otome Kazu wa Iku-tari,Hitori dani Ware wo omou ga naki-zo sabishiki! Machi o yuki,Yama-kawa wo nagame Sora wo miru-toki Koishiki monoka Otome-go hitori! Hana o miru mo Otome o omoi,Uta o kikumo Otome o omou Tawake-o(男) ware wa! Yohyakuni Koi-uta tsukuru Yase-otoko Mukashi no Ware wa warai-tari-shika! 春 (五、三、二二) 春の風だよ、みなみ風 どこかでなにかヾ匂つてる あヽ沈丁だ、沈丁花 春の月だよ、おぼろ月 どこかで何かヾ鳴つてゐる あヽ波の音、春の海 春の空だよ、うすぐもり どこかでなにかヾうたつてる あヽひばりだよ、畑の空 春の山だよ、みどりやま どこかで何かヾもえてゐる あヽ山焼だ、 草だ 友Tに (五、参、二十二) 此の年月を夢みて來た たつた一つの望である 一杯(ひとつき)のコヽアのかくばかり 苦かつたことが今私を悲しませてゐる 夢とあこがれのそれは 甘いほのかな匂りのあるのみもの そしてその気(アトモスフエア)の中では 私はいつまでも不快を感じなかつた 今私の胸を充すは ひたすらな後悔である 私は遠き昔、バベルの塔を築かんとした人々 又すべてを黄金となさんとの夢を 実行にうつしたマイダス王を 限りなく卑しめる 私達人間が自分の悪を 他(ひと)の中に見出すときに常になす如く    × × × あヽ私は又更に夢を探さなければならない 大洋星(オセアニア※冥王星)発見さる (五、三、一六)  即その頌歌 庭松の細葉のはがひ一つ星 鋭(と)く光れるは空清みかも 春を歩く (五、三、二五)  妹の卒業式の日、心屈して長瀬川を遡る。 あまぎらふ光あふれて春ばたにあねもねのはなさきにけるかも 小川のむかうの畑のあねもねはあざやけきかも歩みをとヾめみつめたりけり しねらりあ(シネラリア)のくれなゐのはなのもつ光ひかりつよければたえがたしと思ふ 中学の古き建物の中庭にこぶしは咲きぬ花は白きかも はるあさみ葉いまだ出でざるこぶしの木裸の枝に花みちさけり 川ばたのたんぽヽの花凝視(みつめ)ゐる人をしみじみながめて行けり 枳殻(からたち)の垣根のよこをとほるとき萌えなむとするその芽を見たり 春鳥のこゑをこほしみ川ぞひを二時(ふたとき)きたれなほも行かむとす 橋の上よ流れを見るも水をきよみ底砂も見ゆ魚はゐざりけり 橋の上よ流をみつむるわれのうしろ自轉車の人とまる気配すも 流れのうはびの波にさす陽光(ひかり)川底にうつり常にうごきゐる 葛木も二上山もかすみたれ川はながれて西にゆくなり 川上の二上山をかなしと思ふわが足もとを川は流るヽも   × × 墓垣の茱萸の木の実は熟れたれど人とらずして地におつらめか 墓垣のぐみの朱実を手にとりしが食ひはえ食はず他人(ひとも)さなりけむ 落ちる將星(二幕二場) 人物 汪林塘 將軍   四十四、五才 李行七 部下の兵 二十七、八才 その妻      二十才 幕僚一、二、三 兵卒一、二、三 其他大勢   時 支那近古乱世   處 中部支那、平野中の陣営 第一幕 秋、陣営の外で李とその妻とが坐して話してゐる。敵営の炫火がほのかに見える。 妻、そんないろいろの眼にあつてきましたの。でも今かうしてあなたとお話してゐると   皆とほい昔のことの様に思はれますわ。けれどやはり思出すとつらかつたことですのね。   もう私には二度とそんなめにはあふ元気がありませんわ。ねえ、いつまでもかうして、   あなたのおそばにゐられる工夫はないでせうか。 李、わたしもお前とは別れたくない。殊に今の話の様に苦しいめをしてきたとあつてはよけい帰されない。   併し私は一兵卒だ。將軍でさへ女を召しつれてゐられないのだから。お前と一しよにゐることは、   徒に物笑と同僚の反感の種となるばかりだ。困つたなあ。 妻、將軍様にお願ひしたら何うでせうか。大変お情深い方ださうですのね。実は私、   先刻お目にかヽりましたの。いろいろ私の事を副官の方におきヽなさつてた様子ですわ。 李、うむ。(考へこむ)  兵一、二、三出で来る。 兵一、李君、將軍の急なお呼びだ。 李、何、將軍が。(妻の方へうなづいて)お前のことかもしれないなあ [※この文章ここで終わり。] 歸郷 (五、四、七)  増田と松竹座で見るUFA映画[※ドイツ、ウーファ社] 流土風吹來蕭々 寢虜屋聞朋虜歌 聲如哭愀々迫耳 將泣聲不発 涙雖溢不流 郷遥妻子影將薄 情愈厚豈可耐乎[あにたえるべけんや] ふるさとはこひしきところはしけやし妻子(めこ)のゐるところ よひよひの夢にみえきて豈たへめやも ともどちのうたはかなしもなつかしのふるさとさりていく年經ぬる 故郷はかへらざらめやもしらくものたなびけるかたはるかなれども × × × 我家はなにとなけれどうつしみの心しづまりい[居]の安きところ ※ 久々にかへれる家のわが室にかはづを聞くも春闌[た]けなむか 仲春 (五、四、八)  合宿で球を追つてゐるまにいつしか春は盛となり、梅も桃も散り、桜の季節になつた。  木の芽が立つ。菜の花が咲く。なにかしらないが淡い愁が心にひそんではなれない。 木の芽の匂ひ風にまじりて來るよるは虎杖[いたどり]もてる人と乗りあはす (電車中所見) つヽじさへ咲きにけらしな乗合の人のみやげのかざしに見るも 水ぬるむ小田に集り鳴く蛙畔(くろ)にはよらず声はとほしも 田のまん中につどひてなけるかはづ子ら姿は見えね水ゆらぐところ ほのぼのとうれひわくときかはづ子のすだく声さへかなしと思ふ いぶ かはづ子らおのが妻よび鳴くこゑもさびしとおもふ心悒鬱せみ 青春のうれひはこれか春の空何か流るを仰いで止まず 西風(にし)ふけば臭ひはげしき溝川の岸のきんぽうげ花繁(し)みもてり 諸木ども芽をふきたればわが庭はくらくさびしくなりにけるかも 蛙らが冬眠ゆさめてぬけ出でし穴夛き野によめなつむ人 わかき日もつひにはすぎむ櫻咲くみちをあるけばその匂ひすも 幼なごひ思ひもいづるそらまめの花はさかりとなりにけらずや (Fさんに) 緑の風景(DIE GRUENE LANDSCHAFT)一九三○、四、一四 古庭の隅々まで草木が芽をふき 庭はくらい幽かな光のすみかとなつた ライネ バツセル※ 私の持つ純水(ライネバッセル[※Reine Wasser(独)])の杯も 何時の間にか濃い緑色に変つて了つた それはその上にかぐはしい匂をたてる 僕はそれを飲んだのだつた   苦い味だつた その液体が胃を通り膓を通つて行く進行状態がはつきりわかつた 膓を通るには随分長くかヽつたが その苦みは少しも吸収せられなかつたらしい 何故かなら僕を構成する有機体は その液体の排泄と共に また元のだらけたものに止つてゐることがわかつたから それにしても此の緑の風景は秋までつヾくんだつたなあ 花々に奉る頌歌 (一九三○、四、一四)  花を愛すること、れみ、どう、ぐうるもん[※Remy de Gourmont 仏詩人]と何れぞや。  詩は・・・・それそれ勿言、勿言。    「此もおもしろい (F)」[※湯原冬美(保田與重郎)による書き込み] 矢車草は英吉利の娘さん。つんとすましてスカートに風があたるぢやござんせんか。 山吹の花は黄泉の國の王女。くらい顔をしてお父さんの邪慳が気に掛かる。[※大國主神のこと] はこべ。 小つちやな娘さん。お米を買ひにまゐります。アラア、困つた、銀貨(おかね)をおとした。泣いてる、泣いてる。 たんぽヽ。私のことぢやないでせう。私は金貨。 萱(すげ)。俗なことは云はない、奥山の仙人だ。 辛夷。  白靴を木の枝に引つかけた。女学校の生徒さんが体操の時間に。 菜の花。 田舎育ちだけれど情の厚いことでは負けないよ。 椿。   お嬢さん、ホーゼ[Hose パンツ]がおちました。 青木。  べらんめえ、そんなお嬢さんがあるもんか。大方女工かなんぞだらう。 紫雲英[げんげ]。あらまあひどい、口の悪い職工奴。 菫。   お嬢さんて私のことよ。摘草してるのだもの。 つヽじ。 あヽ、よつたよつた。(まあ毛むくじやらな足だこと!)      何いつてやがんでい。先祖代々だ。 チユーリツプ。又乱暴な人が来たわ。あつちへ逃げませう。 ヒヤシンス。面白いわ。見てませうよ。 木通[あけび]。眠くなつたらこのとほり。 しやが。 まあ、往來中でねて。 櫻草。  私らあんな恥しいこと出來ませんわ。 月夜と兵隊 (四、一○) おぼろ月夜 もだし歩める一隊の兵に出会ひぬ 地の蔭を見るも  UNTI MILITARISMは遂に我全身を包む。 仲春行道 (四、一三)  石切下車。右せんか左せんか迷ふことしばし。菜の花と冷血なる高い岩の自烈馬[ジレンマ]。  高處(たかど)より瞰下する大野、遠方の菜の花畑に日はかげりたり ※ はろばろと遠[とお]菜の花に日はとヾく光こひしみ野を行かむとす 何となく人を容れざるいつ[厳]くしさ山にはありと山に行かずも 東高野街道 北風はまともに來り日は雲に入る道ばたのゆうかりの木の肌の冷さ 野崎村慈眼寺 花つヽじ蕾ふくらむ石段のかたへの芝に虻うなる音 観世音菩薩は厨子にかくれますそのかみ[当時]人に会ふよしもがな ※  傳ニ曰ク 江口君ハ中興祖ト  又、聞くならく野崎のてらはその昔し  江口の君と名のみ残れり(御詠歌) 童心はすでに吾を去りおびんずるのはげ朱の色をかなしと思ふ           [※びんずる 患部をなでて御利益がある僧侶の像。]  お染久松の墓あり。つまらない。但し眺望絶佳。              [※「お染風邪」を防ぐため、江戸時代に「久松御免」と杓子に書いて寺に奉納した。] うら山は人ごゑとほく日だまりの若草の上を黄蝶とびかふ  樓門の外は崖なり。河内野の大観言語に絶す。 鬱金櫻蒼く咲きたり若き日のうれひ心に見の安からむや 秦始皇五世の孫弓月王の子孫  (秦川勝の子孫秦氏、西島氏と改む。蓋し西土を意味せるか)※  遠つ祖たちのゐませしところ豊野村秦に到る。此の辺り会ふ所の老幼悉く顔美し。 故郷は茂みの隙に家々の白壁光りしづけきところ ふるさとは西に池あり東の丘のだんだんに家立つところ ふるさとは木々のあひまを道かよひ子供ら木かげにものいふところ ふるさとは北に丘絶え寢屋川の水やせ河原すみれ咲くところ ふるさとは桑の木畑に女の子ゐたる見えたれものいはぬところ ふるさとは村のまん中に寺ありて屋根の傾斜に苔生ふところ                     寢屋川球場に野球を見る。 高津の伎藝天女 (四、一二) 南無伎藝天三味の手上げさせたまへとか藝妓(げいこ)の奉(あ)げし提燈のある わが歌も巧くしてもらふため拝みたけれど妓藝天女に顔負けしたり 献燈に藝子の名見ゆるお社の庭の桜は今かちりつヽ 仲春吹笛 (四、一八) 日をひもすがら片岡に一人すわりて笛を吹く 笛の音は野こえ谷こえ里にいたれどこたふる人もなし   さびしさに丘を下れば夕月出でぬ その夜ひそかに窓を開けかの岡を眺むれば 國境の高峯につヾく若草の斜面を わが笛の音のかよひ行く見ゆ   行きゆきていづちにとまるらむ、そは あはれ、そは日をへてまたもわが胸にかへらむものか 自嘲 (五、四、二三) おほろかに春陽さすとも蕗の葉の下びはこべにそヽぐともへや 青葉青葉それにさす陽はかなしかも夏近づけば反射強からむ ※ 何ごとも云はんとしてやおのが身をかへりみるくせつきにけるかも  愚は酔生夢死 生きて誰か損益せん  死すとも愛惜するものなし  春日我をいつくしむとも 徒に春の逝くを嘆き悲み  嶺丘緑まじはるとも 命の終らむ日を思ひて不楽[たのしから]ず われとわがおろかをおもひ春草になげきしひとをいつかわすれむ (細川宗平に) 人生悲無知己 (五、四、二四) おくさんの指環に目をつけてゐたとて 僕の盗心を誰が知らうよ お嬢さんのひとみをぬすみヽたとて 僕のこひ心を誰が知らうぞ 橋のてすりにもたれてゐたとて 僕が死なうとしてゐるなんて誰も考へはしまい   × × 三階の教室の窓縁にすわつて 体を半分外に出してゐると もう一尺体をすべらしたら死ねるのだなと思つた 生と死とは只此の一尺だけなのだ 何かの機会に何うかした心の動きで 僕は死ねるのだと思ふといよいよ寂しい 人間の命なんて安つぽいものだなと思ふ   × × あはれこよひ しとしと しとしとと 雨降るとも 窓に倚りて嘆くもの われのほかにあらめや、われのほかに・・・・   × × 死なむとして今更に何をか恐れ 何をか気遣ふ こよひ雨降りて衣をぬらすとも 明日も着るべきものならむや ──はた、こヽにものかくことも── 杜鵑(さつきの)花の咲く頃のこと (五、四、二七) こころふかく死なむと思ひ夏山のさつきの花になみだながすも われとわをころすすべよりたやすきはなしとしりぬれ死にあへぬかも 死なむすべ夛くあることを知りたればいよヽさびしくなりにけるかも 銀閣寺に詣づ 棕櫚の木の間を鳥とびかふさつき[五月]こ[来]ば花も咲かなむ蕾なついばみ (蕪村の襖) ほのぐらき御厨子のおくど木像の眼光れりするどきろかも (義政木像) こぬか雨池にふりそヽぎ中島のさつきの花はぬれひかるかも 銀閣のはしごのうらの狛犬に心よせけむ人をかなしむ 青苔の匂ひかなしきこの庭のどうだんの花ちりそめにけり 満天星[どうだん]の花はこぼれて木の下の土につもれどいまだ白しも 羊歯の葉のゆらげるなべにほそ瀧を木の葉ながれておちにけるかも とほつ人心こめたるこの林泉(しま)はみれどあ[飽]かなくまたも来て見む 青葉の山よ風はきたりてあめしぶくとほ杉の秀はうすれたりけり 夕さればころころ蛙ひそみゐてなきやまぬところ君があたりは (國行兄に謝す) 泉林の玉藻のかげにゐる鯉のうろこの光り藻にはかくれず 六甲山─摩耶山 (五、五、四)  口語歌試作 一、体の調子(コンデイシヨン)今日はわるし   山道の曲り角毎に   木苺の花 (六甲口より登る) 二、山吹の花   日向の斜面に一杯だ   遠くから見ても山吹の花 三、煙草を吸へば   舌がひりつく   ぐみの実の赤くうれたのを口に入れてみる 四、蚋がゐて   僕につきまとつてはなれない   掌で叩きつぶせばもう血を吸つてた 五、あまつさへ人のこひしき山にして   話し相手なし   花を虐[しいた]ぐ 六、苔りんだう、萱原に咲いてる   空色に   いよいよ人をこひしくおもふ 七、不良外人が   日本の娘と話してる   やはり外人はシヤンだなと思ふ 八、あはて者の日本人は   山道で支那人バクチに   引つかヽつてる (摩耶山道) 九、支那人に金をとられて   山道を下りて行つた奴の   青い顔の色 十、金のことでは   日本人だつてやはり汚い   まるで相好が変はつて了ふ 十一、この道の曲り角まで   ぼく一人、こらへきれないで   ひとりごとを云ふ 十二、山、山、山   重なりあつて限りがない   もやの奥辺(へん)は丹波の國だな 十三、山に来てしみじみ人間が   こひしいと思ふ   向ふの山に人のゐるこゑ 十四、向ふの山の頂に気がひかれる   誰かゐて こちらに向いて   呼ぶ様にも思ふ 十五、山波の遠くのものほど   うすく見える   子供の頃の思ひ出の様に 十六、どんよりと曇つた空には   動くものなし   しみみに重き大気の圧力 十七、混血児(あいのこ)がキヤツチボールしてる   生垣の中の   うすぐらい敷石の上で (神戸上野辺) 十八、あいのこの日本語(ことば)は   正しいのだけれど──   やはりぼくにはハローといつてほしいな 此の頃の心荒びぞはげしかり教官にさへ禮(いや)はかはさず 棕櫚の花咲く此の頃を雨夛み盛すぎたり実とならざらむ やうやくに強き陽ざしよ芍薬の蕾に蟻はむれてゐにける 芍薬の蕾につどふ蟻のむれ莖の本べを登れるもある 日並(かかな)べて芍薬の花も開きたり蟻の一群はゐずなりにけり 青あらし吹きつのる午後あかしあの匂流れて教室に入る 草いきれ高き晝なり野に出でて中空の月をまろびつヽ見る 飛球(フライ)とらむと見上ぐるたまゆら澄み切れる空に晝の月ゆらぐを見たり うつしみのあきらめ心つきたればかなしき人とわかれたりけり をとめ子を一目みしまヽこひするはますらをのこのわざにあらざるか はかなきこひとわれをわらひそひとよさはこヽろいぶせくなげきあかしき 獸の臭どこからか來てむし暑きこの晝は教室に蛙をきけり 和高商と試合。九対二で敗る (五、五、一一)  青空の下に憂鬱を抱けば過ぎた日のあらゆるいやな思出がねぐらへ帰る鳥の如く  胸に帰つて來る。そのはヾたきに耐へ難く胸が痛む。 おもおもと曇る沖よりくる波の千重しくしくにこひしきわぎみ[吾君] 五月の山は若葉陽にうれあつくるし下木つヽじは紅きにすぎたり 飛べよ烏からす田にゐてものを食むたれしうなじはさびしかりけり   × 玉葱畑の畦道のすかんぽの花盛りなり南蛮更紗にさも似たりける 玉葱の葱坊主さへ出でにけり車窓の外の葱畑の青   ×  THOMAS MANNのTONIO KLEGEL(トニオ クレーケ゜ル)とはわがことにはあらずや(増田正元及其他の人に) 二つの魂相あはむとしてつひにはたさず自らなる性質(さだて)の差ゆえ (病めりける内田英成に五、一○) 青葉夛き庭に向へる部屋に寝し君は口数少なかりけり 枇杷の実の未だ青きをわは見たり床にいねたる君も見なくに   × 君が中にわれを生かさむと欲すれどしかならむとき君をいとはむ (再び増田君に)   × 五月野に麥は熟れむか野を遠く伏虎城の樹々見えにけるかも はるばると他(よそ)の地に來り友どちとあひ入れぬ心をわれは抱けり どこにゐてもしかたなきものよ球場に我(エゴ)を見出して嘆きかなしむ   × 城山の樟[くす]の大樹の下道を友と歩めり樟の匂ひす (佐々木三九一氏) 此の友の心さへわれをはなるがにこころおちつかずひたにもだまもる(ママ)   × TONIO KLEGELよ 君を想へば 我が胸は波暗きバルト海の潮騒に共鳴し 君と君が友の間のみぞをしみじみかなしいと思ふ それは本質的な深い深い裂罅であり その上に 橋を架けるはあきらめの一途しかない 友に夛くを期待することは失望の基である 何となればそれは一つの人間としての友の心の動きを無視する故に 我々の期待は常に自分の向つてゐる方向にのみある故に とにかくTONIO KLEGELよ 君を想へば 我胸にはバルト海の浪うつ音と白い飛沫のとぶのが感じられる いつも (五、五、一四) 信太山へ演習 (五、五、一六) まひる中竹の林にちるおちばひそやかにして地にふるるおと 篁[たかむら]にさせるひかりははだらなり竹の葉ちるも光りひらめき あまつ日は地にふりそそぎわれら疲る赤松の樹下に蝉のなくこゑ 演習も終りてわれらかへる道蜜柑の花の匂ひ来れる 小虫ども夛く吸ひたればいしもちさう白花開けり食虫葉(は)には未だ虫を保(も)つ ゆうぐれ (五、五、二○) ゆうぐれの理髪床(かみゆひどこ)の鏡の中に通り魔のごと人すぎゆけり うなだれて鏡の中をゆきし人今は青靄にかくれはてたり   手足の爪を剪りつヽたのしくなれり。   爪きるべき指の今少し夛からむことを希ひけるはおろかなるわざかも。  昭和五年五月二十四日 頌へられてあれ。この日、 天に栄光あり。地上には惠あり。  坂井正夫君   明治四十四年四月一日誕生   昭和五年五月二十三日午前五時三十七分永眠 二度と見られまいと思つた君の顔を、  見せて貰つた。これほど有難いことはなかつた。 君は花に包まれて静かに眠つてゐた。  ほんの眠りにすぎない様な静かな安らかな顔をして。 秀でた眉は昔のまヽ、閉ぢた眼も寮で同じ室で寢てゐた時のそれ、  そんなに静かに──。 君はお母さん寢ると云つて眼を閉ぢられたさうだつたな。   深い信仰が君をして安らかに寢しめたと語つた人もある。 それを思ひ君の顔を見た瞬間、   別離の悲しみと信をもたぬ異端の寂しさが僕を襲つた。 顔をおほひ声を耐えようとしたが鳴咽は止めかねた。   教会の門を出るともう一度、ほんとにもう一度君を見たくて耐らなくなつた。 静かに栄光に包まれた君、天國へ登つた君を。   お父さんをはじめ皆信じてゐられるのにしかも尚すヽり泣きが 堂に充ちてゐたね。白いスヰートピー、カラー、薔薇、フランス菊   聖花に包まれた君の霊柩は車に移つた。 昔、香が強くて頭が痛くなるからいやだと云つた。   花達に包まれても君はもう苦痛を訴へはしない。 君は生前より一層敬虔に一層寛大になつたのだ。   墓地で埋葬の時には僕は君の柩の上に、 白いスヰートピーを投げた。砂をふりかけるのはよした。   花は萎れてゐたけれど、正しく君の柩の上に留つた。 お母さんに挨拶された時、君の墓の上には、   隣の墓のと同じ樹──シーダーの類だ──を、 植えて欲しいと云はうと思つたが止した。   神經質な君には一層重い圧迫感をもたらすだらうから。 君は云つた 「我は誇らん、只十字架を」と。誇るものなき異端の僕は   さういふ友を持つてゐたことを或時には誇らして貰はう。 さよなら。静かに、おやすみ。   寮ではいつも僕の方が先にねたが──   × × ×  坂井君の死に依つて、僕の生活にも何等かの革命が来ようとしてゐることを感じてゐる時、 丸から、部にも大革命があつたと聞いた。  僕一人その感激のシーンから外れたことはさびしくて仕様がないが、うれしいことではある。 併しやはりさびしい。愛と平和とが永久に彼等の上にあらんことを! 坂井君の「Peacebe into you!」 平安尓にあれを思出した。僕も祈らう。苦しいにつけ、嬉しいにつけ。 さびしさは皆[みんな]の人の泣けるときわがみひとりの泣きえざること さびしさはわがおもふだけ友だちのわれのことをば気にとめぬこと   神の子にはうれひもねたみもなきものを さびしさはおのが正しさを説けるときふとかへりみてしからざるとき  (これやこの昨日のさびしさ、今日よりはすヽまむ) 大阪城懐古 (五、五、二九) 日の光かがやく午後に巨城(おおしろ)の石壁の蔦は萎れんとする 石垣のスロープはしみじみ美しもよ石間に黄色なまんねんぐさの群落 石垣の傾斜ゆるまり濠となるところ石にとりつき亀ゐたりけり 秀頼公の最期(いまわ)ちかづきぬこの城は石壁固くのがる途なし おのが身を守るとりでは今にして逃げみちふさぐすべとなりける お天守の焼くるほのほに逃げまどふ女の群も少くなりき お天守の窓よほのほの見ゆるとき秀頼母子は生害します 青濠に浮ぶかいつぶりつれ鳴けり濠ふかければこゑのはるけさ 鳰鳥[におどり]は玉藻をかづき[潜]しましのち水面にうかびこゑ鳴きいづる なヽめ陽のすみ櫓[やぐら]に赤くさせるころお城の門を兵ら出で来る 何でもなきこと (五、五、二七) あさぐもり雨降(あも)らんとするけはひあり黒衣聖女(しょうにょ)にあひ奉る (プールの聖女) 遊行すと黒衣聖女ら打ちつどひいでたつ朝の空はくもれり   × いつしかに矢車草の花咲きぬあらまし[荒まし]心おちつかなむか 六月にならんとしたり野の果の埴生丘陵に麥は実れり 公園にゆふべ来ればすヾかけの青き葉かげの実はみえずなる 初夏の風景 (五、六、八)  その一 眞晝、ひそやかに、空の雲。 南に、流れれば、風、死す。 日の、光は、しみじみと、暑く、 あかしあの木の、葉は萎れる。 誰か、遠く、ハアモニカを、吹いてる。  その二 魚は、腹を、見せて、池に、浮き上り、 石油の、臭は、風に、乗つて来る。 遠くの、路を、行く、洋傘は、 くるくると、廻つて、麥畑に、入る。 あヽ、この時、音もなく、雲は、 山の、嶺から、立ち昇る。  その三 木蓮の、梢に、花が、咲くころは、 蛇は、日毎に、皮を、脱ぐ。 まもなく、それは、木蓮の、木に、 登つて、行くであらう。  その四 梅雨前の、山脈の、緑は、妙に、 圧力を、僕に、加える。そこから、 百合の花が、毎日、街に、運ばれる。  その五 眞昼、草原に、寢て、 胸を、抑へれば、心臓の、動悸は、 遠くの、見えない、海の、潮音に、一致する。  その六 柿の花が、柿の木の、下に、散つてゐた。 見上げた、梢には、緑より、外の、何もない。 柿の花は、人に、知られずに、咲いてゐたのだ。  その七 実に、ならずに、落ちる、柘榴の、花の、 かなしさは、誰が知る。紅玉の、実は、 まもなく、人から、愛せられやう、が。  その八 毎夜、夢の、中で、蝉の、声を、聞く。 あヽ、夏だな、と、思へば、蝉は、飛んで了ふ。 昔、ポプラの、幹で、鳴いて、ゐた、蝉。  その九 蛍火 (五、六、九) 蛍火の息づき見ればいきのみのいのちもてるをさぶしとおもふ 草の葉のかげに息づくほたる火のほのこひ心かくしはたさぬ 蛍火には平安朝時代の趣味がある。蛍兵部卿宮といふ人を懐かしくおもふ。  その十 流星雨の、ふるといふ、此の頃の、 夜空は、いつも、曇つてたが、 今晩は、久し振りに、晴れて、流星を、一つ見た。 何だか、ホツとした気がする。  その十一 ものかげに青く光るは蛍の火蛇(くちなは)の火は赤かりといふ(思ひ出) わが友の永山修は蛍火と蛇の目玉に手をさへしとふ このごろはくちなはも火をともさざらむわが友もわも二十歳とはなれる  その十二 眞直な、海の、涯の、水平線を、 白帆が、むれて、ギザギザにしてる。(四階眺望)五、六、一二  ×××EPILOG×××  僕の夜光雲第二巻にも余白がなくなつた。第三巻にうつらうと思ふ。現実逃避の藝術はと近頃人から云々されることが夛い。 一番近い現実とは自分を凝視することかと思つてゐた僕の考へに撞着するこの考へ、どちらが正しいかぼくは知らない。 とにかくしかし、これまでの夜光雲はとても人間社会等の大きな目標へデジケートされたものではない。それは僕自身を知つてくれる、或は知つてくれることが出来ようところの人への贈物にすぎない。 今後の夜光雲も多分それにすぎないことヽ思ふ。 これがむいみであるとならばそれでもいヽ。永久的生命のあるなし、又、藝術であるか否かも問題でない。ぼくとしては心のすさびであり、同時にもつとまじめなことなのである。              嶺丘耿太郎  贈るべき人 親類・大江、田中、田辺、鴫野、羽衣、今津、金田、森本清、肥下、 小学先生・西角、片山、 友達・阿部成男、村田幸三 、船富光、三露久一 、 中学先生・佐藤、隅田、森中、三宮、 友達・坂井、西原、殿井、生島、倭、西川、竹島、西垣、新谷、森本、蒔田、安川、 高等学校学友・本位田、丸、本宮、友眞、増田、能勢、渡辺、細川、保田、杉浦、 文三乙全部、臼井三 、豊田、菊池、佐々木三九一、益子輝夫、國行、清 、村山、門野、川勝、       小竹、金崎、吉延、天野、前田 太郎、馬場有村、江口三五、内田、三浦、三島、 (第2巻終り) 「夜光雲」第三巻 第三巻 昭和5年6月22日 ~ 昭和5年8月8日 21cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(42ページ) p2 僕はこれをこの後僕の友となるべき人に捧げよう 序詞(プロローグ) 混沌(かおす)から飛出した一の塊、それが地球の生みの親、太陽と、 偶然になつたと考へるのは神への冒涜だ。 君はとにかくプロレタリアフオルマリズム[教条的マルクス主義]に立つといふ。 そんならぼくも態度を明かにせねばなるまい。 ぼくは僕自身を心の底までプチブルだと思つてる。モナド[単子]から成立つてるのだから仕方がない。 でと、お気の毒だが、 今年の夏は米國にでも行つて金髪のお嬢さんと遊んでこよう。 よせ、それは感情の浪費だ。言葉の浪費もつヽしめ。 さて、マルシヨン[すすめ]!同胞よ。僕は足を怪我した四頭馬車の馬だ。 すまないが他の三人で車をひいていつてくれたまへ。 すぐに帰つて來るだらうな。ここで待つてるよ。 君がかへらないと云つたつて僕は待つてる。まぐさもここにあるのだぜ。 混沌からはいつになつたら光がさすことだらう。 裏の納屋の鶏はいつまでたつても金の卵を生みやしない。 しかし向ひの娘さんはだんだんお姫様のやうに上品になる。 よせ、どこまでしみ行つた(ママ)子供の玩具。 さて一九三○年の半ばはすぎた。まだ君はこの年を誇るのか。  (主に湯原冬美に) 一九三○、六、二三 夜              ──みねおか こうたらう── 梅雨晴 (五、六、二二) 梅雨晴のひるの大地にさす光あまりに強し夏は來むかふ 大地一面から水気はのぼり大空の高どにこもりてむしあつきかも おほ空は青く晴れたれど水蒸気高空にして流るヽが見ゆ つゆの雨止みたるひるは紫陽花もすでにうつれりと眺めて通る 家を出て急に身にさす陽のあつさどこかの家に乳児(ちご)啼きやまず   × (五、六、二○) かへりみちの乗合自動車(バス)の窓より見る空に雲ひろがりて夕べは来る つゆの時今ぞ来むかふ合歓の木のこずゑうす紅くけさ咲きにけり ゆふぐれを学校の歸りおそくなれり道辺のねむはすでにねむれる 螢 (五、六、二四) PSYCHE[魂]よ、ぷしけえ、ゆふぐれ、ふらふらと、 鉄橋の下をうろついてさ、 お前の昔の持主は誰なのだい。 あの酔拂つて轢かれた爺さんだらうか。 それとも下の水に落ちて溺れ死んだ友達だらうか。 ふわり ふわりと燃え上るお前は或時には生の意義を、 失つた老人のものとも見えるし、 また廻り來る未来をひめて青白い情熱を頬に、 漲らしてゐた若人のとも思はれる。 水面近くまで下るかと見れば、 鉄橋の上まで飛び上がつて来る。 僕は何か、草をでも持つてればよかつた。※ おまへをそれにとまらして明滅する光に、 おまへの素姓を讀まうものを。 雨の夜、増田正元に (五、六、二六) 屍をふみこえ、ふみこえ、ぼくらは進むのだ。  ──それは誰のこと? あヽ、この雨の夜に 今日も紫陽花の花は萎れを増す。  あすはもう散つて了ふかもしれない。 眞青な花の中から  君の眼が僕を凝視める── あヽ、生命の躍るとき夏が來るのだよ。  大空の下、はちきれさうな体を見よ──そして、 君は静かに床にゐねばならないのだね。  でもやはり空を見る。 僕に耐へよといふのかこの苛責を。  おヽ、ゴツデム。僕はあじさゐの花になりたい。 ともかく君の体にはよくない陰雨が、  しとしとと大地にふりそヽいでる。とても明日の日の青空は、望めやしない。嗚呼。 病気になつた増田のことを考へれば、胸がキユーツと痛む。とてもひどい責任感だ。 しほしほと神戸へ帰つた後姿を可愛想に思つた。かれの純情の日も遂にすぎるのか と思つた。神戸の港。船。摩耶山。そして彼を深く深く愛してゐたことを思つた。 27th june 1930 Yuugure Kaiwo-sei(☆) Umi yori haiagari Toukuno Shima ni Tori wataru Koibito no Me Yuuyake-zora ni kagayaku to omoe Sate Akaki sono Kuchi wa Nishiyama ni iru Hi ka[入る陽か] Oh pottsurito Hi ga tsuita Yoshi naki Omoi wa, Negura e kaeru Tori no gotoku,Sareyo! shimijimi to raihai[礼拝] seyo Kemuri tatsu Atari ni Tera no Kane Kieuseru!           ──K,Mineoka── 青き夕暮 (五、六、二九) 夕さりはグラヂオラス畑に光りをり青きが中の花のさみしさ 女学校のポプラの茂りいや深みゆふべ雀ら鳴きこもるなり いり日赤くうつる早稲田(わさだ)に蛙なきしみみに鳴けば友のこひしも さみしらに夕日雲の端にせまるなり刻々にせまるその雲の端(は)に 海州常山(くさぎ)の花既に散りたりふるさとの子らのよろこぶ青実結ばな   選手制度の少年らしい感激に浸り耽り得る、不幸かつ幸福なる人間はぼくでしまひになるだらう。   反省のないものと思はれることのいやさと、どういふものかをはつきりしつてゐるうれしさが。 増田正元よ。物事を考へる勿れ。(小林正三の言ばをおもひ) 驟雨と街 (五、六、二八) 腐れ饐えた街に眞黒な雲がおそひかヽり 次の瞬間にはポツリポツリと大粒の雨がやつて来た 人々の足は早まり店頭の品物は取り片付けられた それから次に本物がやつて来た 舗道に叩きつける瀧のやうな水の落下 白いしぶきが道から立上つて 風にあふられてなびく 混乱の刻はもうすぎてゐた。人家の軒下に避難した人達は つぶやきさへなくそれを眺めてゐる まこと街は一度人間の手から離れたのだ 街にはゆきかふ人もなく──あヽ、この瞬間道を歩ける人は 英雄だ──おそらく ひつそりしたさびしさ、さういふものを久し振りに ぼくは街で見付け出した 楽天地の螺旋閣に電燈がついて のぼつてゐる人が一人もないのをふとかなしくおもつた 何處かで人が殺されてゐるといふやうな気がした 紫陽花 (五、六、三○) 一日の学(まなび)の業に身は疲れ帰り來る道のあぢさゐの花 親しき友の体の破壊(こはれ)しみじみときづかひゐるも萎れあぢさゐ ヂキタリス咲き上り上りいやはての花とはなりぬ梅雨すぎむとす    ヂキタリス=狐の手袋(フォックスグラブ)、サイラス、マアナアに出る。 須磨浦療病院 (五、七、四) 増田正元に ひそやかに病院の坂のぼりゐる身に異状なきが気の毒のごと 日ざかりの坂の暑さよ病室に患者達(ら)ひるをこもりたらむか じりじりと花園に焼きつける陽の光患者らひるをシーツほすなり 思ひしより元気なるこそうれしけれ仰向けにねたる顔の小ささ 患者等は時間を限り飯を食ひ人と話し散歩するとふ 日の照る時を動くことさへかなはぬ人らの幾百が集まつてる所だここは 自らを生存競争の敗者とは誰も思はぬ思へば癒るはずがない 海岸へ泳ぎに出掛けた患者らが帰つて来た僕よりもいヽからだ 看護婦のとつて来てくれたといふ花瓶の花を見ながら早くなほりたまへ 何よりも悲観的でないことが一番嬉しい君の全快はそこに約束されてる 沈黙安静の時間をぼくが来たヽめにきみはおしやべりしてしまつた退屈なのだ 後に何か残らねばよいと思ひ乍ら話し込んだぼくも余程不注意だつた 又血啖がでたと話した顔に恨みがないゆえわびの言葉もぼくは知らない   ×君に話さうと思つた鉢伏山の景色 敦盛そばやで買つたパンを弁当代わりに食べてゐるその金の出所は誰もしるまい もう決して本なんか賣るまいと日本橋の古本屋のおやぢの顔を思ひ出してる 敦盛の塚の大きさ御曹子なれば敗けて死んでも結構なことだ めつきりと体弱れりと思ひたりもう下山(おり)ようと考へては又のぼる あの頂までのぼらねばすまない心がある頂の向ふの空が見たいのだ 一人山にのぼる心細さ下山ようと考へ乍らのぼる 止まぬ気ゆえに きみのゐる病室の窓が見えてゐる帽子はふるまいとても見えぬだらうから 山裾を汽車つらなりてすぎゆけり窓より我を見出る人あらめや 山の中腹を鳶まふなりなヽめになれば陽光をうけて金色のつばさ とんび、とんびもう一羽松の間からまひ上る 口笛の様にかすかななきごゑ これできみと永のわかれになるやうにおもはれて山にのぼるのがさみしかつた ひとのゐぬ山の頂さびしけばきみをおもひて帽ふりにけり 鉢伏の山の頂よ君のゐる窓に向ひて帽ふりにけり やまもヽの林にもれる陽の光 零(こぼ)れやまもヽひろふなりけり 暑き日に眩暈感じてこの路のまひる一人をさびしとおもふ 鳶のまふ空とほけれどひいひよろとなくこゑかすかにきこゆるさみしさ 港から汽船が一隻出てきた 他の船は静かに浮いてゐる 山下を通ふ汽船の立つけむりながながつらなり海の面にきゆる 瀬戸をへだてヽ淡路島見ゆ母の國淡路島見ゆ船通ひゆけ とほ空は重くくもりて内海の島戸(ど)かすかに見ゆるともなき淡さ 鉢伏の山の頂の楊梅(やまもも)の実のなるときにわれは來りし 生れてから二度めにくふこれの実はまこと食ひえむかともかくも喫(く)ふも 草原をとかげあはてヽさけかくる日ざかりあつししみじみとあつし 青き丘つらなり長く眼下に低し傾斜ゆるきは播磨國原 心におもひ登りきたりし北國の丹波茂木にかくれて見えず ここからも見える病室かの室に幸ひあれと海に見入るも 高處ゆは見ゆる水脈海をゆくかの船等には知られざるらむ 海の果に汽船も通へ心ふかき悔いの心はやるすべなし   ×君にはぼくの母のことも話してみたい おんははは天にわたらふ日の如くたふときものをあたたかきものを むかしとほくはヽの呼吸したまひし淡路島まなかひに見ればいのちかなしも しみじみといのちかなしもおんははにわれがせたけを見せまつらむを ほそぼそといのちいけるを眺めませ淡路島山光ゆらぐも 小く白く汽船通ふもあはぢしまへ一人の友は病みこやり[臥]たり いつかまたおもひいでなむわれひとりあつき日ここにものおもひたりと おんはははいまは世になしうつそみのきみのいのちよしぬることなかれきゆることなかれ   ×それからぼくは神戸へ帰つて阪急に乗つた 心と身のつかれ一時に出で来り自棄生命をおもふなりけり 生命も死ねかヽる小き卑しきもののいのち生けるを恥かしとおもへ 神戸の市(まち)は山々近くせまりゐてゆふぐれがたはひとを恐れしむ 子捕者(ことり)歩け 夕くれがたは山のかげ街にみちたれば子供居ざらむ   ×阪急梅田から中の島へ行つた 英人の子供の発音を美しとおもひてゐたり西宮北口で別る この上にいまだ疲れを身に得たく西日の街をさまよふわれは 子脱いでかつぱ頭を他人に見せて歩いたきみよ笑ふなかれ目的の対象 ゆふぐれは公園で下手な野球見せ乍らこれらの人は老い行くらむか ゆふぐれはユニフオームものものしく公園に来りこれらの人は考ふることなきか いま更にインテリのかなしさは浮浪人に銭与ふるを恥かしみけり 浮浪者が目をつぶつて歩いてゐたゆえに遂に銭は与へえざりけり ゆふぐれを川岸に犬あそばす看護婦のつぶらひとみは今にきえなむ   これらのデタラメ或はセンチメンタルな作品を湯原冬美のまへにぼくは恥じる。しかし──         「冬美曰く、めつそうに、けつしてそんなに思ひません。             残念なことは あなた(みねおか)の好きな増田君を知りません」※保田與重郎書き込み   ──試験勉強その他になやまされた頭の産物── ゆふぐれはやもり硝子を這ひのぼりかはゆきかもよ腹動かしゐる 硝子戸にぴつたりとみをつけてゐるやもりの吸着肢をかわゆしとおもふ 鉢伏山 (五、七、六作) まひる山道をのぼつてゆけば 何がなしにさびしいのよ 道の果は山の頂 茂つた木がさやさやとゆれるのよ 頂の向ふの北空は青々とすみとほり 遠いあこがれの世界を思はすのよ ぼく 何してものぼらずにはすまなくて ひとり寂しみながら山道をのぼつてゐつたよ   × 遠く山裾にひろがつた病院 白い建物は南に向ひ 前には花の一杯咲いた庭がある 窓が一つあつてカーテンが上つてる 呼んで見たとてきこえぬものゆえ ぼく帽子を脱いで振つたよ これも誰か見てくれようぞと思ひ乍らも   × 淡路島と紀州の出鼻との間は ずゐ分離れてゐるのだな そのまん中に島が二つ 内海から大津への潮流には ずゐ分な邪魔だらうから 年々にこれらの島は 飲まれて行くことだらう あの島の間を汽船が通つてるだらうか   × 眞昼の寂しさは 人のゐぬ楊梅[やまもも]林 地に落ちた實を拾ひ 栗鼡のごと食はうとも 落葉わけ訪ひ来る人あらうか 先刻から食べ過ぎた 楊梅の実に ぼく 腹を毀して痛み叫ぶとも 誰も聞きつけまい しかれば ぼく楊梅の枝を折り 人のゐるところへの 土産にしようと思つたのだ   × 目を開いて逝き[し]人を思へば 大空にはつきりとおもかげ──── 眼をとぢれば痛いのだよ 強(きつ)すぎる陽がまぶたに──── ぼく せん方なくて 日に背いて笹原を ざわざわと分けて行つたよ   × あヽ誰が感傷を持つまいぞ 此の山の尾は隣の山につヾき はるばると一連の大山脈 人間の工(たくみ) 白き家山裾に這ふが ※ 中腹にさへ及ばない 何と怒鳴らうともぼくの声は 笹原にしみこみ松林に吸はれ 下界には及ぶまい その故に ぼくもう下山(おり)ないで ぼくの声を尋ねようかとも思つた   × あヽ少年の感傷を笑ふ人は 少年時代を持たなかつた人だ 中年にして感傷をもつは あまり[に]も可哀さうな嘲笑の的 ぼく ひそかに将来の 感傷精算の日をおそる 中之島公園 (五、七、七) 植込に夾竹桃の花咲きさかり浮浪人等は体だるがれる 飯を食はぬ眼には眩[まばゆ]き夾竹桃の紅の花に夏日させれば ※ 大川の水は濁れり午過ぎの空のくもりに汗ひた流る 噴水も水ふきあげざるひのひるま心たのしまずみ[身]はひた疲れ 巡航艇すぎゆきしあと岩壁に浪うちよせて音立つるなり ひたひたと岸を洗へる水の音なごりさびしも艇(ふね)ははろかなる 夾竹桃の蔭にひるねせる人のむれ麥稈 を欲しとおもへり  川田順の歌と吉江孤雁(喬松)の文とで懐かしい木の夾竹桃。  大阪の地方色を最もよく表してゐるものであらう。 生活難の老人が先日身投げせしお濠の端(はた)の夾竹桃の花 南より陽移れば來たる夏の日に夾竹桃は花開くなり   × 敗残の人の群には 遠くより流れ來た此の花が 一番相応はしいかも知れぬ しかしその花の紅の色は 数日来の空腹の身には 焦だたしさの種となる あふりかの花よ わが單衣の 汚れを凝視めるがいい 控訴院の塔 (五、七、八) 控訴院の赤煉瓦の塔に雨そそぎ鐘鳴らずして黄昏れにけり 川向ふの古い赤煉瓦の控訴院の窓のいくつかに灯(あかり)つきたり 雨そそぐ大川の面に芥流れいたくわびしき夕べとなりぬ 夕されば烏ねるとふ法院の塔のむかふの雨空のくらさ ※ しとしとと大川の上に降る雨にゆふべわびしく水堰(ダム)の灯つくも ぼく、でぃれつたんと(湯原冬美の史学研究会檄にこたへて)五、七、八 幾百の白い手が廻轉する車にしかれて 流れた血が空中に大きくイルミネーシヨンとなる 血みどろな斗争 新しい白い手入用と ぼく 少なからず心を惹かれるが ふらふらとぼくの手を差し上げようとて ぼく でぃれつたんと 何の血が出ようものか されば日毎日毎掌の運命線を眺めて ぼく ひそかに胸に食ひ下がる虫をおもふ ある花園を (五、七、一○) 夏はそれ自身の中に後に来る秋を蔵してゐる 向日葵の花の精力的な輝きには 秋の要素(エレメント)がふんだんにこもつてるとおもふ 雨の来る空に高いぽぷらの木のゆれるのは それをゆする力のしみじみとした深さを感ぜしめる 日々草 金蓮花と 何と昔臭い花ばかりだらう はるかな幼年の思ひ出が耐らなく胸を抑へる ぼく 無花果の木蔭に花園を眺めてるのである 俳句一首 (五、七、一一) 夏山や蛇を恐れし紺脚絆 仲哀天皇惠我長野西陵及河内國野中寺 (五、七、一一) ほり 大御濠(ほり)しづもり深けれやひつじ草しみみに生ひて花保ちゐる 朝涼のみささぎの木にしんしんと蝉鳴きしきり雨げはひ[気配]すも おのが身を不可斐なしとぞ思ひゐる 道べ明るきあざみの花に こ雨ふる朝を田に出て草すける人の業(なりはひ)をかそかとおもふ 葛木に朝ゐる雲の空おほひ雨(あ)も降らんときに家に帰らな みさヽぎの濠のしづけさやこぬか雨かヽる小舟に菱採れる人   ×辛國神社(藤井寺村岡ニアリ) 朝空のくもり暑くるしき道べより足ふみ入れしもりのみ   × 曇り空のみんなみに立つ白雲を暑しとおもふ道の向ふところ 葡萄山の葡萄葉の動きそよろなし害虫(むし)葉をくへるおとのきこゆる 葡萄葉に硫酸銅の結晶ありむしあつきひると歩みかねたり こもり堂ひつそりとして戸をとざす み寺さびしも中庭の苔 頭ばかり大きな弥勒菩薩像めんどうくさく拝観したり なつくさのしげく生ひたれば蚋夛きお染久松の墓所訪ふ 弥勒菩薩座(ゐま)すみ堂のかび臭さ出世(すいせ)したまふ時遠からし   × 緑松一群立つは藤井寺この埃道そこに通へる 嗚呼 竹増俊明君 (五、七、一二)   図らざりきかく急に君の追悼文をかヽんとは。   昭和五年七月十一日午後四時四十分、   深江沖にて心臓発麻痺のため永眠。 なかなかに信ずる心出でてこずおとついはきみとかたりしものを ときどきはつと気づいて愕然とする生きてゐた君がもうゐないのだ  何といふ遠さだつたらう  一昨日 否 昨日までの  君と死のへだたりは  柔和(やさ)しい 勉強もよくすれば  遊びもするいヽ友達だつた 一度きりし髪やヽのびてゐたりけりそを思ふときいきどほろしも 笑ふこと夛かりしきみなりければ かヽるかなしみもてわれらをおそはんとは 誰か知れりきや 青海に陽の燦々とふるひるをきみのいのちを死なしめしはたれ 青海に心うばはれてふたヽびはかへりこずちふ[という]きみを見む日もが ふたたびはいまは会ひ得じあまりにも早きわかれをいたまむやいたまむや 休みのためわれらはわかれき ふたヽびとあひ見むためにわれら別れたりき 何すればかねておもはむおとついの無意のわかれの永久にならむとは  今よりは海龍王にわれ恨を抱かんかな 泣けよ泣け ま夏の海に入りしまヽかへらぬころのおもかげにだに みづあみすと海に入りしまヽきみがたまついにかへらずむなしきむくろなんにせむとや  × 君にさヽぐるかなしみの詩もつい[終]の日はわれのはふり[葬]の詩とならむとや 見不可見 (五、七、一三) 竹増君よわが最後の罪を許したまへ  はかなしともはかなしや  きみがみたまとはにきよかれ  きみがむくろちにくつる[朽ちる]も  みたまそらにのぼりきよくありませ  よみがへり  復活の日まで その日まで 森博元君の墓に訪(もう)づ(翠蓮社泰譽上人務学博元和尚) みんなこぞつて泣いた日が近づくみ墓べの槙の木さへも茂りたるかも み墓辺にしきみをさヽげ水を手向けわれに出来るはこれのみと思へり きみがみを犠牲にまでしてをきながらわれらの得もの少きを恥ず すぐるもの日々にうとしとふかなしさは忘られざれどおもかげのうすさ  ×悼 竹増君 み葬りの日さへかの海きらきらとかヾよひゐたりつれなきものか おん母の嘆きの叫びいつの日かわれら忘れむ死なざらむゆめ ※  松田一郎君、橋本益太郎君逝去すと つぎつぎに人の死するを聞くときしかぼそきものか世に生けらくは つぎつぎに知る人たちは死に行くをいまさらにいきのいのちをたふとくはおもへ 増田正元よゆめ死ぬ勿れ若くして逝きてわれらを嘆かしむなかれ 對校試合松江紀行 一、車中 (五、七、一四)  九十九の隧道に弱つた。 ひる畑にきりぎりす鳴くあつくるしさ  汽車すぎゆけるたまゆらを聞く(藍本) 線路行手に大きくカーブして  赤いシグナル旅心おこる(三田[さんだ]) 小石夛き河原に群咲く月見草  晝近くして赤くしぼみたり(三田) 河原の芝につながれほしいまヽに尾ふり  草食む馬のかはゆさ(下夜久野[しもやくの]) 田んぼの畦にあざみ花夛し  遠方の山脉の上に夏雲立てり(広野) 丹波の篠山あたり小盆地  めぐる山なべて白雲おこす(篠山) 何もなき円き草山ひのまひる  もだのぼりゆく我をゆめみる(上夜久野) 何もなき草山の線かぎる空の  青きが中を雲動きゆく 何もなき円草山も のぼる人やはりあらむか  蹊(みち)つけるなり トンネルを出づれば青き波の色まなこにしみてこころさびしも 汽車とまらぬ小駅の村の花畑カンナ大きく咲けるを見たり (古市) 山間の小村の学校の運動場赤帽の児ら整列してる (古市) 震災の名残は見えて城崎の街の屋並は皆新しき (城崎) 両岸に芦群生へる円山川 海近ければ流のゆるさ (玄武洞) 日本海の青潮にさす陽の光波は光りてよせ来るかも (鐙)※ 磯の辺のいくり藻生へるあたりすら青潮めぐるをかなしとおもふ 海と隧道たがひちがひに現れて忙しきかもよろひのあたり 日本海のうしほよせくるこの港あか瓦の家かたまりゐるも この湾の防波堤なす岬角裸岩根に浪砕けたり 風あれや鈍く光りて波がしら磯の小島にきては砕くる 古しへの語かなしき湖山池めぐれる山に雲かヽるなり (湖山) 砂丘にまばらに生へる姫小松旅心すでに定まり本をよむなり はヽきねはあらはれそめし山肌にくもはかヽらずあらはなるかも (鳥取をすぎたあたり)※ 伯耆嶺のつらなり長く空かぎる此の一連[つら]の聖座たふとし 伯耆ねのそがひの空や山陽道何かあらむや雲立ちのぼる 白い雲日に光りつヽまひ上る山のそがひにこころかよふも 大山の裾野の原は低まりてきはまるはては海に入るかも 大山の裾野桑畑草を刈る乙女の家は遠からしとおもふ (赤碕) 大山の麓からつヾく赤松林じんじんと重き蝉のなき声 日本海はとほくくもりて何もなし隠岐の島深ししばらくで止めき おきの島しばしもとむれど日本海くもはろばろと何も見えざり 大山の北の斜面の岩崩(いわくえ)の眼にあらはにていくときばかり 大山のひける斜面の美しさ めかれずゐるも裾のめぐる汽車に 大山の岩崩のあたり一片(ひら)のふき雲かかる米子に近づきし ※ 安来すぎてこの汽車旅も終るともふ 棚の荷物をおろしそめたり  その二、松江の宿 互に相容れぬ心あり 今更にわがひがみ心をいとふ  城山にて 古典的(クラシカル)な観念精算の希望ありその不可能を感じゐる古城で   ×松高で練習 練習中後の山で鳴くせみのこゑきこゆるはうれしきかもよ (高校) 何事もうるさしとおもふむしあつくシヤツ一杯に汗づくなれば   ×夜、散歩 とほく来て夜の散歩さへおちつかず田舎の街とおとしめゐるも しろ堀のはすやヽにして咲きぬべしとほくわれらの来りつる時季(とき)に 八雲たついづもの國はまな下にみれどみあかぬ山川のいろ 大鳶は老松の秀ゆとび立ちてわが眼の高さにまひ来るかも 湖の面をすべる帆船ありへだてとほければうごきのろしも ※ 旅館の窓先にゆるヽめん竹の秀先うるさしと心いらだつ きりぎりす鳴くこゑしげきこの晝を球追ふ友とはなれたく思ふ  蓋し現実逃避を責めらるヽ原因か きりぎりす叢中に鳴くこゑをしげしともへば裏山の蝉のこゑもまじれる   × おれの神経の先で蝉がジンジン鳴いてる (七、一七) おれの目の中で竹やぶがゆれる おれは血管の中に緑の血をかよはす それでも俺は人並のことをせにやならぬか   × 何故おれはお前達といがみあはねばならぬか なぜおれはお前達を嘲笑せねばならぬか 又なぜおれはお前達を愛しようと力まねばならぬか バカヤラウ!   × ナイーヴといふことはがさつで利己的なことだ デリケートとは小心で利己的なことだ それ丈のちがひぢやないか いやだなあ  三、対校試合 [※対校試合についての新聞の切貼あり] 俺達は宿から 球場へのバスの中で 出陣の歌と部歌を歌つた 何だか金属性の声が出た 歌をうたつてると泣けて仕方がない 横を見ると友眞も 丸も──長いまつ毛だと思つた── 俺は俺達の感傷を 恥しがつたが或は之が ほんとかもしれんとも思つた 只何故泣かねばならぬかは 何うしてもわからなかつた   × 試合が始まつた 俺はバツト拾ひの役だ 一心になつてピンチ毎に 胸が痛くなつた 後の山で鳴いてゐた蝉の声を いつも後には思出すだらう とにかくシーソーゲームで 何度も心配さヽれた後に勝つた 十三対十一 選手達や先輩は躍つてる 俺も飛出してゆきたかつたが 止めた しかしそれにも劣らず 嬉しかつた 拍手してやつた 歌をうたつた 涙が出た これですんだと思つた 予期してゐた寂しさは感じなかつた 俺は此の野球部に更に 新しい意義を見付け得たから   × 祝勝会だ 皆子供の様に喜んでる 北村を一番嬉しいと思つた 此の気に巻込まれぬ俣野理事を 不幸に思つた 俺達の感想に次いで 新しいメンバーが 頼もしい抱負を聞かしてくれた 先輩らしい いヽ気になつた かにかくにたける心は抑へがたしこの心はもよしとゆるしゐる 自らは戰ひ得ざる体(み)の弱さかくて若き日すぎゆかむかも 友だちの喜びおどるをながめゐるおなじ心のわれならなくに 喜びの表現はそこに求(と)めずともうれしさはすでにとヾめかねつる みな人のよへる[ママ酔]おもヽち見てあればよへるまねさへしたくなるなり 友どちのよひのたはぶれおぞ[愚]なれとさかしらをしてさびしがるなきみ 眼瞑れば どうどうに             ※「Erinnerung」と書かれた紙に。 心に浮ぶ 友の顔 菅田が丘に かちどきの 歌うたひしは まざまざと われらいつとて 忘れむや 卿[きみ]が情けに 一年の 苦しみを耐へ 過しきて ここに勝利の 喜びの 涙流して 躍るなり われらいつとて 忘れむや 帰り来れば はろばろと 戰の日ぞ 思ひ出(づ)る 遠く松江の 湖の ほとりにわれら 戰ひき われらいつとて わすれむや  五、思ひ出の人々よ P 内田英成 C 能勢正元 1B 丸三郎、北村春雄 2B 高田一 3B 渡辺忠 SS 小林正三 LF 友眞久衛 CF 豊田久男 RF 三島中 Mng[マネージャー]田中克己 部長 脇坂教授 コーチャー 伊藤建次郎 ベンチコーチャー 門野正雄 先輩 國行義道 清徳保男 金崎忠彦 吉延陽治 増田正元 中島駒次郎 村山高 川勝常次郎 小竹稔 吉岡弥之助                    [※試合のレコードあり]  四、伯備線途中 暴風雨(あらし)来るけはひしるしも線路(みち)ばたの唐きびの秀はゆれてやまずも はやち風稲田わたればなびき伏すいな葉の波のやはらかさはも 向つ丘(おか)の木の葉さわぎてうらがへる葉うらの白さをしるしともへり あらし来る前の湖のくもり色や重くひかりて波たてる見ゆ 湖(うみ)ばたの松の木の葉のにぶ光りあらし来らむ空のくろさよ 古しへの民族穴居の穴夛きこの丘の辺のあぢさゐの花 太古(おほむかし)のこと思はされてゐる頭にあぢさゐの花はしるく光りたり 草山のなぞへ長々とつらなりて高しとおもふ草ばかりの山 ぽつぽつと雨ふりゐて車窓(まど)をうつ山陽道に汽車ひたむかふ 大山の西のふもとをぬひめぐる汽車にゐるなり大き山なるかな たまたまの丘のきれめに見ゆる山雲かヽる山をそれとおもへり 南瓜畑に黄色く咲けりあたりの空気おもくるしければいちじるき光り 日野川の水上のぼる汽車にゐてむかしのかたりおもほゆるかな 上石見すぐればすでに山陽道心あらたまる 雨は止まざり 高梁川[たかはしがわ]にしたがひて下る川のふちところどころに青くよどめる 百合の花畑のくまに咲きたればその山畑のなつかしきかな 雨しぶく山の林になくせみの一匹なれやなきつぎはあらず 雨中になくせみのこゑすみとほり心かたむけきいてゐるなり 川のわだ鮎つるらしも人一人立ちはゐるなりわびしともはずや  ×倉敷近くまで眠る 眼ざむれば頭おもたきひるねあと高梁川も太くなりたる やがてわかれる友をさぶしと思ひゐるこの山國の駅のきり雨 山峽の小村の家の花畑に西洋花咲くをさびしとおもふ のうぜんかづら花茂みもちて山畑の畔[くろ]の潅木にまつはれる見ゆ  ×岡山で山陽線にのりかへ (七、一八) 山間に珍しきかも三石の盆地は夛し工場の煙突 夕ぐれはいそべによせる波の色のにごりさびしく旅もお(ママ)はらな あはぢしまいはや[岩屋]燈台の灯は孤(ひと)つわれらはやがてわかれなむかも 丘の下松の木の間に墓石にいまはしきことまた思ふなり 印南野[いなみの]の丘べの墓地の夕ぐれに心おそれきと人にかたるな 夕ぐれの黒波よする音さびし友と語りてさびしがるかも 海水浴場に人一人ゐずあかあかとともしてり[照り]ゐるさびしさをしれや しばしでわかれねばならぬ旅のをはりみんな冗談をいひかはすなり  六、帰着 (七、一九) 帰来故園皆依舊。 桔梗つぼみふヽみて色に出づ旅のことどもおもひゐるかも かへりきてひとりはさびしきわがやかも友のかほかたちうかべたのしむ さびしさのひしひしくひ入るむねのあたり庭木の幹に蝉鳴きさかる 何もかも手にはつかずも旅づかれしるしとおもふ体のだるさ 目的をしとげた後の味気なさ なすべきことをみつけねばならず 生き甲斐のあり得た精進の日を思ひかへしてるあヽなにをなすべきか  山川の流のたぎち高きとき川辺百合花ゆれのしるしも  松江の思ひ出 (五、七、二一) 概念的抽象的な詩の一連を私は幾日かつヾけて書くことであらう。   その一 遠くのとほくの松江まで出かけて行つて ぼくのもてあそんだ玩具の 白ペンキの匂が鼻にしみついてとれない その感触が手にこびりついてゐる ぼくははろばろと偲んでは 湖のきりの様にしめつぽいそれらの 思ひ出のなつかしさに泣けて来るのである   その二 イデオロギー ぎごちない異國風なひヾきよりも ※ 私にはあの茫としたとりとめのない 東洋的感触の詩がこひしい あヽ何と遠いしかもなつかしいそれであらう   その三 古城の 甍 陽に 照りかへり 老松の 枝に 葉がくれて 鳥 巣をつくる 時ありて 中空を 舞ふものあり あヽ その しみじみとした 光りよ   その四 夜深く ぼくら 湖上に 舟を 漕いだ 櫂の 音の たよりなさ 行手を いづことか あヽ 嫁が島の 灯も 消えるではないか 櫂に まつはる 藻は 執念の 魔女の 腕[かいな]か ああ われら 若き 生命の かなしさを 深く 思つたではないか             松江大橋 流れよと まヽよ             和田見通ひは 船でする  その五 水郷の哀しさよ センチメンタリズムは街一杯にみちて しかも誰一人 安来節をきかしてはくれなかつた   その六 (五、七、二二) あの湖のほとりで 女達は無智のままに亡んで行く おれ達も苦しみもがきながら いづれ亡びなければなるまい なまじつかなアンテリジヤンスが おれ達の苦しみの基だ (セイチヤン、綾チヤンなる女達に)※   その七 薄暗い座敷で 飲むお茶の緑のいろ 庭のあぢさゐに降る雨は── その花の色もしつとりと落着いて あヽ沈々と夜は更ける そこの 茗荷の花に螢が居るではないか   ──Ideelle[空想の] Matsue──   その八 二つの叫びがある トシアキサン トシアキサーン 負けるものか 負けるものか 耳朶を打つ叫び 永久に忘れられない叫び   その九 まひる キラキラと 氷のかたまりが 集まり 旋回(まは)つて 昇つて 行つた きれいな 雲だなと 俺達 見てゐた  疲れた人を (七、二三) 夜遅くバスに乗つた ぢいさん(いやな奴だ)が 女車掌に話かけてる ふん八時間(労働時間か)えらいやろな 女車掌は泣いてると思つた お互にもつと強くならうと思つた  須磨海水浴場で (七、二三) 日本人といふ民族は 朗らかさのない民族だ もつともおれの腹工合の故(せゐ)かもしれぬ   その十 [松江の思い出のつづき ※抹消]   その十一 稲田を 暴風雨(あらし)の 前駆が 渡る さらさらと 靡く 稲の 葉裏の 光沢は 絹糸の やはらかさ あヽ 向ふの丘に 五加(うこぎ)の 花が ゆれてる(五、七、二四)   その十二 いであの世界があの青空より近いものとは 何うしても思はれない それかあらぬか プラトニズムの使徒達は 深い懐疑の淵に陥るか 想ひ出の世界──いであの世界──へと 自らその生を短くしたではないか 雨空から閃く微光(ジンメル)の如く 想起の微光(エリンネルンク)は来るとも [※erinnerung] 俺の乏しい感受性を如何せんだ (五、七、二四)   その十三 俺のポマードは鈴蘭の匂がする (五、七、二四)  増田正元を訪ふ (七、二三) 林の木蔭の空気青ければきみをもわをも体(み)を愛(かな)しがれり 林の中の寝台のきみと話すことなくなりし時谷間のとんび 虹 (七、二五) 夕ぐれの東の空のうすぐろさよく見つむれば虹のこりゐる やヽにしてうすらあかり東の空にいたる西空の雲うすれたるらし 夕焼の赤き光は小田の水にほのぼのうつり蛙鳴くなり 夕やけて蝉もなきごゑやめんとす大空の虹うすらみにけり 線路工夫 (七、二五) 汽関車は貨物列車を牽き来り工作場に入れば止まり笛鳴らす 貨車の連りことごとく赤土(つち)をつむ二十数台の均整の美しさ 汽車とまれば一台に工夫一人づヽ乗りて赤土の山おしくづす 赤土の山おしくづす工夫らのふりあぐるシヤベルの一斉の光 工夫らは声を出さず一斉に土くづす音の集りは高し ざくざくとしばし音あり人声なし貨車の赤土は次第になくなる 自分の車の土おろしきつたものは隣の車にうつり又もシヤベルふり上げる 皆土をおろしきつたれば列車から飛下り汽笛鳴らして汽車うごき出す これで仕事がすんだと東の空の虹見てる手拭で顔ふいてるもある 線路工夫は大方鮮人の工夫なり東の空の虹見てるなり 四高対横工戰後 (七、二七) 同感出来るとしばしばうなづいてをり戰後の四高生の南下軍の歌 コーチヤーの大学生が皆に挨拶してる何かせずにはゐられないのだ お前も一緒にと寫眞をとる場にさそはれていやだといふのか首ふつてるコーチヤー 何だか云はれて冗談に撲つてる子供みたいになつてる大学生のコーチヤー   此の人を以て國行、清徳、門野、村山を表す。 南下軍の歌の繰返し既に四回なり僕らそろそろ帰らうとする 勝つてうれし涙を流してる人々はこれから後になにをするであらうか Was wollen Sie tun? [何が彼女をそうさせたか] Das gleichen furchten Wir! [我々はその類のことを心配する] und jetzt noch wandere ich murmelnd[そして私は今もつぶやきながら、さまよう] “Was mu ich tun [“私は何をしなければならぬか と] わかきいのちたへがたくしてこのここになみだながしたるひとをなわすれそ わかきひの純情の感激よまことこの正体の何にてもあれ  はかなかりしかな はなやかなりしかなと  涙もて ふりかへりみむ日あらめ 子ら 槐[えんじゅ] (五、七、二八) 槐 花咲いて 思ひきり幽か 大空の青にまぎれて── 槐 花咲かうとも 過ぎた昔が帰らうか あはあはとした悔いのこころである 槐 青空の下 花をこぼす そこはかとなき 小さな花の雨である 寧樂の都 (五、七、二九) 寧樂の都は青丹よし 伽藍の隙を乙女達が 裳を引いて遊びたはむれた時代[とき] そして又地方では 純朴な田舎乙女が地方官の 貴族の子息[むすこ]達に従順な 愛を捧げた時代 地方の青年達は 稟々しい軍服を喜んで 防人になつて行つた時代 かく思ふは現実主義者ではある (不然乎[しからずや]、湯原冬美)        ※※ 浪漫化(ろまんていーれん)の裳は霞の如く この都を包み 貴族達の飾りとはなつたが 土民達には貴族との障壁でしかあり得ない 少数の浪漫貴人はこの壁を透して 賎しい者の生活を眺め 気まぐれな同情を送り 或は 詩歌の題材としてそれが彼等への 蔑視であることをも知らなかつた 同情は常により偉きものより、幸(であると思はれる)な者より、 劣つた、不幸な人達へ流れる 併しともかく上下共に幸福の限りであつた時代 み民われの歌は彼等の本音である(不然乎、湯原冬美)              ※※   冬美の答へ 防人に立ちし朝けの金門出に手放れ惜しみ泣きし児らはも 玉虫の厨子のまへで、一つの羽根をむしりとるため体を殺された虫どもに暗然と奈良文化の象徴を見たといつた人がありました。(奴隷と農奴の搾取の上にたつた文化!) けれども喜んで徴兵にとられているようです。やつぱり勇ましい祝福の短歌を人々は彼らに送ります。 名古屋市は九十万とかいくらかで、いとも盛大な人口百万突破の祝宴をやりました。之は記録にのつてゐると思ふ。無産党の反対は一蹴されました。九十何万の實数はあとでわかつたのですよ。 今でもその時代が幸福だつたと思つてゐられますか?  [※※に対して、このページの裏面に書き込まれた保田與重郎の返答] 帝陵の歌 (五、七、三十) 一、あヽ われ生命若ければ ここ帝陵の若草に   純情(こころ)をせめて嘆くなり わが青春の跫音の   丘の彼方に消え行くを 二、丘にまろびて仰ぎ見る かの蒼穹の星辰や   銀河連り流るとも 不動の相(すがた)ここに見む   理想(のぞみ)の途やここに見む 三、橄欖[かんらん]茂り深くとも 熟睡[うまゐ]いつまでつヾくべき   同朋[とも]よ覚醒めよ卿[きみ]や看む地平よとほくこの丘に   希望の光来れるを 四、眞理は遠く道長し 心鬱(むす)ぼれ夕暮は   丘の息吹に嘆くとも 朝の鐘の鳴る毎に   起ちて進まん新しく 夏の雨籠 (五、八、一) 雨止みをまちて鳴き出る庭の蝉そこの木の葉はまだ滴するに 黒犬の散歩 (五、八、三) 日々の務として我が家の黒犬の鎖ひきて散歩せしむるなり。 の使降りたまふにやあらむ西空の雲のいろどりいはむかたなし イスラエルにみ栄あれともろ人のさわぎしときに立ちし雲のいろ 眞球貝の持てる光沢(いろつや)にさも似たりパライゾ[天国]雲とぞいふにやあらむ 夕ぐれを大き黒犬ひき行かしむあな巨犬と人は云ふなる ゆふぐれの古街道のみちのくま犬とわれとはおしだまりたつ 道の辺のぽぷらのしげみ雨空をそがひにしたれまつくろのいろ 向ふの変電所にともる電燈(ひ)の数は夛けどてらさるる人なしに ゆふされば野も果てしなくひろがりぬとほ村の灯をもだみつめゐる とほ村に人は焼かれて煙(けむ)となる寺の鐘鳴らむきこえ来ぬかも ゆふさればいこまの山にともる灯は高みよりくるすヾしさもてり 黒犬にうすくら道をひかれ来て口笛吹けば誰か来るなり メフィストフェレスわれにかあらむ村はずれ墓地にさみしく雨ふりいづる 墓地近く犬は大便すなりけりなは[縄]もち待ちてすべなしおもふ 犬に牽かれ田圃畦道走り来て犬をかわゆしとおもふ心出づ この犬は何の能なく弱き犬見つめてあれば誰ぞこのこれは すべなきはかはたれどきの黒犬の綱ひく力姿見えねば ひたひたと草履音して田んぼ道来る人のかほなかなか見えぬ   × 朝涼は大寺の堀に咲き満てる白蓮花の上に風渡るかな お盆の日近くしなれば祖母(おほはは)とみ寺に参り蓮葉もらひ来 蓮(はちす)ばのもてる寺臭さ帰るさの電車の中に感じゐたりき おほ寺のみほりの蓮 花はちす 逝きし人どもかへりこむかも   ×  塚口克己君の百日祭 椎寺町鳳林寺であり。 三露久一郎君、阿部成男君、山田鷹夫君らが来てゐた。式後、阿部君の挨拶、主治医の病状報告、お父さんの話あり。(五、八、四) 思ふまヽに生けりしきみとふおもふまヽに生きても生けるよの中なりしか おもふまヽ生きしきみゆえかたはらにゐてはあるとききみを悪[にく]みき おほろかのかなしみとなおもひつぎつぎに知れる人逝くはさびしさのきはみ  ×高石へ海水浴にゆき村田幸君、浅井君、神志那君、船富アサ君等に会ふ。夕方浜寺の叔父の許へ遊びにゆく。   浅井君のねえさんもう子供が二人もある。浅井君の家族こそ最も夛(ママ)なものであらう。 小さかりしわれを知る人のふるきこといひ出る口は老いにけるかも  ×帰りに麦わら帽を買ふ。 これをきてわが歩くとき(モーリス)シユバリエに似たりときみよおだてる勿れ かんかん帽はシユバリエ好みパリジエンの一人となるが如きここちす 火の見半鐘 (五、八、五) 今里火事。 半鐘がきこゆるといふに話声にはかにやみてみなきく[聴く]らしも たちまちに邑[むら]はさはがしくなりにけり犬吠え出づも方々の家に 妹らは火事時の用意話しゐる女(メ)の気弱をきヽながされず 死の南極、ボージエストを観る (五、八、七) 氷日に光つて何もない陸 空に雲昇る 何もない陸の果の海 生物ゐる 群れにむれて 夏には禾本[かほん]生ゆるところあり ここに烏巣食ふ 氷少しとけてフイヨルドに捕鯨船游ぶ 澄む空に光る銀の峯 外に見る人なし 氷の上踏む靴音 夏である故郷を懐ふ 夜 南極十字星 風吼り[たけり]氷山の荒ぶ音 ペンギン群れてゐる眼下の砂原 話しかけようとて返事するものでなし ペンギンも親あつて子を育てる ここは南の果 地の盡きるところ 海辺にねころぶ海象の子や まろまろと ふかぶかとねむりふかき海象たち ハレムの主はいづこに ここから故郷は見えぬ 海のはて雲が立つぞ白雲が ゆふ方海荒れて来る 捕つた鯨の腹にあたる波 鯨の皮はいで忙し 脂肪の塊の白さ 鯨を追ふ船のエンヂン休まず 砲手舷(てすり)によつて煙草のむ ゆふ方氷山行手にゐる くれのこる日のいろその頂に   × 沙漠のまん中に塞[とりで]一つ これは又何といふむごさ 死骸ばかりの塞に陽がつれなや 沙漠の風 壁に ここに死んだ人幾人 腐れはてようとも人は来ず 沙漠を一人でとぼとぼゆく人の気の強さ 赤い夕日 あしたの来るまで夜の砂原を守るものなし ぱつと火が立つたぞ 塞がもえるぞ勇士達の骸[むくろ]が 皆な死にはてた塞は大洋の幽霊船 いつまでも黙つて立つてる 砂の山のなみ涯なくはてなくこの旅のさびしさ 里のこひしさ らくだ死んで横[よこたわ]る 大きな体のかげ土に黒く らくだの骸 遠くからも見える ふりかへりふりかへり   × かやつり草ほのかに匂つて赤とんぼ飛んでくる (五、八、八) 夕ぐれ 声なき犬をつれてる寂しさ かやつり草を引抜く 蓮の白花は とほくから見えて 夕ぐもだんだんに押しせまる 夕雲の端にまだのこる光 大空に高きさむさを思ふ × 刈られた楠の梢を見上げて 秋をおもつてる 村中にのうぜんかづら垂れる塀あつて 既に秋である × 楠の小枝 伐りおとされて 楠の匂ひである    EPILOG 偶々買つて見た井泉水句集が、 韻律に対する最後のHINTとなつて眼を開けてくれた。 今までの三十一文字型内に於る苦しき努力も、考へて見れば将来ためにはむなしきものではなかつた。 これからは勇敢にフレツシユな歌を作つてゆけるであらう。 ここで僕の夜行雲第三巻を終るのがほんとうであるが、紙の都合上もう少し書きつヾけるかもしれない。   × × × [※以下6ページ分は第4巻冒頭に写されているので省略。] (第3巻終り) 「夜光雲」第四巻 かぎろい 昭和5年8月8日 ~ 昭和5年12月25日 20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き 表紙欠(100ページ) 密 奏 君 王 知 入 月 [※ 君王ニ密奏シテ入月ヲ知ラシム] 喚 人 相 伴 洗 裙 裾 [※ 人ヲ喚ビ相ヒ伴ツテ裙裾(じゅばん)ヲ洗フ/ 王建・宮廷詩より]      湯原冬美 之為尓      嶺丘耿太郎 書 湯原にかいた歌 A 夕ぐれ (五、八、八)  一 夕ぐれ 声なき犬をつれてるさみしさ かやつり草をひきぬく  二 草の匂ほのかにして 赤とんぼ とんで来るのがわかる  三 遠くに見える蓮の花よ 夕ぐれ雲 だんだんに押しせまる  四 夕雲のはしに まだのこる光り 大空高き寒さを思ふ  五 刈られた楠の梢は秋である 見上げてる  六 むらなか 村中にのうぜんかづら咲く塀あつて 既に秋である  七 刈りおとされた楠の小枝は 楠の匂 嗅いでる B 南極を (五、八、七)  一 氷山游ぶさみしい海に 群れ群れて生物 ハレムを作る  二 夏には氷とけて そこに禾本[かほん]生ひ鳥巣食ふ磯  三 南極十字星 これは捕鯨船のエンヂン高きよるである  四 夕方 海 荒れてくる 捕つて来た鯨の腹にあたる波 C ある夜 (五、八、八)  一 月梧桐にかかつて 西瓜喰つてるぼくは いつかのよるをくりかへしてると思つた  二 槐[えんじゅ]ほろほろとちるよるは 屋根を歩く白猫の 跫音のさぶしよ その日その日 A 夜店 (五、八、七) 一すみに赤い鳳仙花の夜店の植木屋   × まはりどうろうまはつて夏休み半ばすぎたよる   × つめ将棋は大人の童心 またもむざむざとつめ得ず B 日曜 (五、八、九) 槐おほかた散つた空の 雲の高さだ 雷するは   × 遠雷ひびくひるは 庭の樹に蝉来る   × 日えう[曜]、父、弟たちをつれて山のぼり 雷の音する留守居 ※ C 西川と夜麻雀をする (五、八、一○) 月夜のりやんりやんと鉦叩いて お嫗(バア)らゐる家のぞいてとほる   × 月の暈(カサ)ある夜 電柱けぶる原の向ふに シグナル灯(ツ)いてる   × ちりりちりりと月の虫 とほのいてゆくさびしさよ みち   × 夜更けの電車 客少くて 透き見える 尾燈のこる   × 月に吼える犬がかなしも 家の中では目覚めてるかな   × すんなりと伸びてる杉の梢に 月の暈かヽる 風なしとおもふ   × 女の子ばかりの店 店じまひの埃 土間のまつくらに掃いてゐる   × 鳴き出す一匹の犬につヾいて だんだんと声の遠い犬べうべうと   × 帰れば虫わが庭にも 青蚊帳釣つてねるに   × 犬のゐる気配外にして 夜更けと月は昇るものか D 本位田君と心ぶら[※ 心斎橋の散歩] (五、八、一二) 蠣船の女は船艙で化粧すませば とんとんと梯子を昇ります              「もとの方がいいな(冬美)[※保田與重郎の書き込み]」   × ネオンサインと金魚の鱗光 匂りのこない果物の飾窓に顔をおしつけ   × おとがいのやせもさびしく やがて──ええい やがておれの青春も消えるのか E 高石町 (八、一三) 僕らむかし描いた洋館を 今 小学生が寫生してる   × 寫生してる小学生のまはりに 子供あつまつてるひるすぎだ   × 洋館のペンキははげ 木も茂つた あヽ ともだちと来た噴水もこはれたらうか   × 小学生でわかれた友の はじめてきく大人のこゑ(阿部武雄君)   × さるすべりの咲くころに このふるさとを訪ねたことを喜んでる   × 幼年(キントハイト)埋もれてる草原を 食つちまひたい   × あヽこの並木路を ぼくの幼年はかけまはり して 幾度ころんだことか   × 家々の桔梗はしぼみ これから秋が深くなるのです ぼくの心もおちつけよ F 海と墓と (八、一四) 花のない晝顔の道の果は海である   × むかしの臭ひのする聖靈会(エ) こよひ墓地に集る群のつヽましさ   × はまごう咲いた砂山くずれて 胸に虚(うつ)ろがある 夕ぐれ(その二) (五、八、一六)   × 野の果のガスタンクけむつて そのデツキにてるうすら光(ビ)よ   × 大鴉 飛び低く 田圃におりて 空車ひく馬のゆく夕ぐれ   × 送電柱の高さを見上げる ぼくと犬 向ふで小便するおやぢがある   × 隠元[いんげん]畑まで来れば小便する親父 紫のはな 古川堤街道(八、一七)   寢屋川球場へ一高三高戰を見に行く 楡の木蔭ふかく 水淀むところ 子供ら泳いで 看(ミ)てる女の洋傘   × 土手のすヽきのきれめ毎に 子供らの水浴み場がある   × 夾竹桃の根本まで水が来て 紅い花のかげに百姓家   × 青田のつヾき遠からずして 森 みんな聚落(ムラ)である   × 木蔭を出れば又炎天のみち とほく小く自轉車の子   × ひるの市場の土間に西瓜ころがり 子供はあそび大人はひるねする   × 夕方青い河原に牛ゐて 山のかげいよいよ青し   × 丘のむかふの山脈は濃い青色になつて 太鼓のおとまだ胸になつてる 鳳仙花 (五、八、一五) 鳳仙花はぜる夕ぐれは みつめると太鼓のおとがする 宇陀野のすヽき (五、八、一八) きみが時々ぼくにひらめかしてゐた細いするどいつめたさにも 君の心のなげきを見た──丸三 のことば 大和のくに宇陀の大野に 冬来ればひろらの野面 そよぐはこれ芒の枯穗 冬日うすけれど霜をとかし 芒葉の光り何ぞ鋭き 旅人のまなこに冴むは遠山 ──そはおきつもの名張の山──の 雲のいろ またこのすヽきの光り しみじみとさみしければ 夕ならずして旅宿り 西に入る日を眺むれば 思郷の心耐へがたしとふ 星座 (五、八、一九)   能勢と今津の海岸で西瓜を食ひながらのはなし 磯 南ニ向ツテ立テバ 銀ノ河(アマノガハ) 海ニ入ルトコロ曇ツテル   × 漁船ノ灯 沖ニ一ツアツテ 赤ク星ヨリモハカナシ   × アレガ蝎座 威勢ヨク巻イタ尾ヲ見ロヨ 毒ノ針ハアノヘンダ   × 蝎ノ心臓ノアンタレス 眞紅ダラウ 恋ノ星ノ感ジガスルネ   × 海豚座 小ツチヤナ星座ダガ 死ンダ友ハヨブ[※ヨブ 聖書]ノ柩ダト愛シテヰタ   × 人魂ノイロノ淡イ星達 ムカシノ熱心ニオ前ラヲ愛シタ心ヲオモツテル   × 白鳥座ハ天ノ川ニカケタ橋ダ 今ニモ飛ビサウニモ見エルダロ   × 彦星 織女トミンナ昔ノ人達ダ ソンナ時代ハモウ過ギタサウダガ   × W字形ノカシオペイア 北極星ヲ中ニシテ 北斗七星ト天秤ニナツテルノダ   × ネエ ゴラン アノ蛇遣ヒト蛇座ヲ 暑イ夏ノ夜ノ感ジソノママダラウ   × 射手(ケンタウラス)ノ弓ノ上ニガンバツテルノハ 木星ダラウカ 土星ダラウカ   × 射手ノ足ノアタリデ アマノ川ハ消エル 今夜ハ曇ツテ紀州ノ山モ見エナイ   × アノ天ノ川ヲネ 望遠鏡デ見ルト 誰ダツテ ビツクリスルゼ 人間ヲ小ク思ヒダスヨ   × アレガ皆星ナノダ 雲ノヤウニモ見エルガ 何ダカ宇宙ノ大[キ]サガボンヤリワカツテ来ル   × 摩耶ノケーブルノ灯 苦楽園ノ灯 アレラモ星座ダネ   × 雲ガウツスラ出テ来タ 神戸ノ港ニ明日ハ行カウ   × 僕ハ自分ノ感傷ガ天ニ上ツテ 星ニナルコトヲ望ンデル 増田正元 神戸ノ港 (五、八、二○) ラヂオの野球放送聞いてる患者達 楠林の木蔭の青さに   × 日向にゐてきみを青いと思つた 鉢伏山の急斜の見える花園 ※   × 僕たちの笑ひ声が患者らを焦たせないかしらん   × 君もトニオ・クレーゲルをよんだといふ トニオをやはり自分と思つたヾらうか   × 夕方病院を出て自由な気持ちになる 坂をかけ出す   × 静かな海にクロールで入つてゆく いつになつたらきみと遊べよう   × 何とはしらぬあこがれにこの波止場へきた この外國船の名 タルマを忘れまいと思つてる   × 舷側から水が落ちてる 人のこゑが上でする 外國船   × 港をめぐる灯 沖の方には少い 灯をうごかしてランチ[はしけ]が来る   × ランチの心音だんだん高く この突堤に来て曲がる   × 黙つて魚を釣つてる人 暗い海は魚で一杯になつてる   × あヽわれいつの日か魚(いさな)となりて 蒼海の底 日の目なきところに 蒼白のかばねよこたへまし わが情(こころ)とこしへにとどまりてあらむところと   × わだつみ きみを思へば洋のも中に立てる 燈台のさみしきこころたへがたし 波よせ鴎来るとも永久の契のかたきかな 明日は他(よそ)なる仇しごころ されどそれさへなからむに何をいのちとながらへむ   × 月よの海には魚 波の上に漂(うか)び 吐息つきてこゑなき歌をうたふ   × さればやみの夜は底に沈みて きそのよ 昨夜の歌のほころびつくらふかも   × 船動き出でなば 鴎とび立ちて テープは切れむ まややまのケーブルののぼり下りも やがては見えじ 白きビルデイングも小くなりて 神戸のみなと 今ははなれむ そこおもへば旅ごころ おこりて止まず 旅立ちの日よ いつか来らむ   星座連頌(その一)旗魚座 忘却の海に夕ぐれ白き波頭立ち 海の魚一つ一つとび立ちて 南の旗魚(ドラコ)星座となる 夜と共に磯波の間の 夜光虫数を増し 運命の星蝕まれて 行くはかなさや 今夜はふかく磯に風おちて 三角帆の船 静かに港に入る ──人のゐぬ 灯(あかり)なき孤独の舟よ ともづなはひとりでに下りて 椰子の根にからみつき 船虫船底より這ひ出る音のかそけさ あヽ星穹も廻轉をゆるめよこの一時を                (23th August)   星座連頌(その二)射手座 はてしなき一すぢの道さびしくて行けば いつかわれぴたごらす教團の一人となりて 天空の音楽を聴かんとのあこがれおこる かヽるとき空の一すみに雲立ちて たちまちにして空をおほふすさまじさ 胸も暗く道もくらしこの並木路を やヽにして雲晴れむとき先づ目に入るは 光黄いろき土星やどれる射手座(サギタリウス)の 衆星の聖なるいろ 凡人のあきらめに 恍惚と視覚を働かさしむ                (23th August)   星座連頌(その三)龍座(ドラゴン) 北山の松の木の間よ 雲は起りて 稲光り 雨はいまふり来る おヽ 龍星座 いづこにかあらめ                (23th August)   星座連頌(その四)銀河 秋立てばぽぷらの梢ゆれ しるく風わたり 天の川みんなみに流るるもさやけし 七夕の笹 巷に朽ちて古き人の恋 そぞろにかなしとおもふ こよひ星のいろ殊に織女光を増し 牽牛河を渡らむの望あり かの項[うなじ]長き白鳥 翼光りて伸びたり わが胸の中か 空か 長く鳴きて 飛びゆくものあり 銀河をおほふこと黒し   星座連頌(その五)蝎座 虔(つヽ)しみて南なるかの赤き星 に願ひ奉る おんみがつヽましき子 かずならぬわたくしめ このごろの空の美しさにかの好き心おこりてはなれまをさぬ まことにおそれ夛きことながらわたくしめ ひとりの乙女にこひこがれてござりまする かのくろきひとみとしろきうなじはよごとよごとの ゆめにかよひきてい[寝]もえさせまをさぬ わたくしめ浜にいでまをしておんみに祈り申すること すでにいくにち このこころひとひも離れ申さず あまつさへ まこと申すもおそれおほきことながら おんみが巻尾の 一列なるがごとき眞珠の頸かざりすら かの乙女のために 熱望いたす よるはよる ひるはまたわたる秋風に安きこころも あり申さぬ きぬずれのおとさやさやとして にほひよきかみのひとくるかと思へば ※ はや 遠くの木にある風の奴めら わたくしめが憎しみの的にてございまする せめてよなりともいねさしめたまへ 忘れさせたまへ まつ於[ママ]たつてのことには かの乙女わがものにせさせたまへとおろかもの わたくしめ いのちかけておろがみまつる                (23th August) 雜 (五、八、二十四) 遠い磯の海水浴場に 波寄る見える午後   × 夕ぐれて船 港を出て行き 防波堤に砕ける浪のしぶき   × 無花果に日くれて 家蔭に女の行水ある   × 砂浜のかはらよもぎに ばつた飛んで子供追はんとする 止(ト)める   × 病院の塔にあかりつき じつと見つめて時の過ぎるのも   × 泥臭い洫[みぞ]川に硫酸積んだ 舟の底がつかへてる   × 工場にモーターの廻轉の音 大煙突をめぐる鳶がゐる   × × 建物と建物の作る陰影(カゲ) 職工ら見えぬ工場の運轉のおと   × ×   (五、八、二十五) 電燈點くころ 白さるすべりの遠目   × 山の頂に雲おそひ来て 裾の苦楽園の灯二つ三つ   × 六甲山の峰々くつきりと 風を索(モト)めて物干台に登る   × 夕方煙を吐く煙突ある 工場のだんまり   × × 未練唱 浜も名残と来て見れば 磯にや人影ちらほらと あの子のかげは見えもせで 沖の煙もさぶしやの   × × 此の砂浜に残るもの何もなくて あヽ此の夏もゆくか 未練に泳ぐ人々の肌も吹くかや 秋の風は空の藍より来りて さうさうと遠くの山脈に衝(アタ)りに 行つてしまふ                (25th August)   星座連頌(その六)蛇遣座及蛇座 大いなる安牟羅樹[マンゴー]のもと 夜深きに焚火もやして 人集まる と見れば央[なか]に蛇遣ひ 笛の音はひいやらひよろと 哀なる蛇ぞ 踊れる楽につれて 集れる群の中「怖(こわ)し」と叫ぶ童あり 蛇が眼は今そこに向へる 二叉の舌にうつれる焚火のいろ しみじみと赤しと思ふに楽の音止みて 安牟羅果ほたりと蛇の上に落ちぬる                (27th August) 朝の月見草 (五、八、三○) 凋んだ月見草に朝雨の露ある浜へ行く道   × 曇り波の上を帆並べて来る 船の帆の濁りいろ   × うねり波来る海に泳いで 沖のあらしを思ふ   × 顔を水につけて うねりに 乗つて岸へ泳いで来る   × 溝へおちかけてるトラツクを 囲んで皆見てゐる   × 廃園のるこうさうの朱花(アカバナ) 蔓を引いて切つて来る  或る母と子と (五、九、一) 稼ぎに行く父より遅く起きることこのごろの母の責め言葉となれる 病み伏して神経の尖りいよヽ増せる母のことばは聞くに耐へえず 怠け者のわれのなまけをいふ母の言ににくしみこもれるとおもふ 愛情の何たるかを知らずひたすらに子どもを責むる母のつれなさ 怠け者のひたすらつとめなせること更に責められておこる反抗の心 階級暴露の歌はあれども愛情暴露の歌なきこといぶかしがるも 何もかも楽しくはあらず此のいく年母と子どものたヽかひなりしおもへば 事毎にひがむ母をば眞実の母にあらざる奴と子らもひがむ 朝に出て夕にかへる父上の事の様しらずたヾに子を責む ある時は家をも出んと思ひしか今は只耐へてすぎむとぞ思ふ 妹の乙女らしからぬねじけ心つくづく見れば母をにくみぬ われが身のねじけ心もかくしがたしあるはみをせめ或は母をせむ 母の叱責もだ[黙]たええずて妹の論(あげつら)ふこゑはわれを病ましむ 松の葉 (五、九、二) 松の葉は松のにほひすかへではいかに おさなごのおさなごころやとまとの實 いちじくの葉かげになりて秋づきぬ せみ死にて残暑のひかりさすところ きりぎりすおもふもあつし夏の旅 海のおとうみをはなれてきくこころ 山すその傾斜(なだれ)きはまり波ぎさ[渚]なる 頂は朝をさむしと下山(くだ)るひと 小流に水涸れて魚ゐざりけり 桑つみて秋蠶飼ふらし山ふもと 桔梗の二番咲きなる秋の空 夕鴉寺の松にゐて啼かずけり 遠島へ汽船消え行き海のおと 雷雲もいまは動かず山のそら ※     ※保田與重郎の書き込み。          室生寺    湯原冬美        しやくなんに虻とんでくるひる下り        秋近き心ひかるる佛たち        水まして白魚うごけり山しみづ        おさげゆふかみのたばねになつかしみ        みじかよの泪はなしのままにして          暑さ去らず        ゆふづヽ[夕星]をまろびつヽ見る暑さかな        消炭にのみの子とまるあつさかな          芭蕉雜爼※をかいて           ※大高校友会誌所載        短夜や笹の葉ききつ明かしけり        小(ママ)なんぼとんぼとれヽばとつて見ろ        はげとうにあからとんぼはとまらんか こほろぎ (五、九、三) こほろぎこもつて鳴いてる落葉の堆(ヤマ)を焚火する ある唱と和 (五、九、三) 唱 むさし野の宿の湯に入り貸し浴衣旅のうれしさ胸にこみあぐ   虫すだく庭のしげみのかなたより静かにもるヽ三味のうれしさ   とり島も唐津の海にゆめむすび吾を送りし舟もかへりぬ 和 三味の絲いまきれむときいなびかり   借り衣ののりのにほひぞなつかしき   ゆふぐれはなみをこはがる旅ね哉 唱 島一つ又一つ出る瀬戸の海   櫻葉のはやいろづけり夏のくれ   初盆や燈籠ながし夜の川 和 浪くれて陸(おか)のきれめや星ひとつ   けいとうは虫にくはれて夏のくれ   燈籠の川の上なるひとひかり 秋の素描   斜陽 (五、九、五) 壁にさす光のかたむきに 虫が鳴いてる   × 隠元畑の下に芋の畝 風にゆれる芋の葉 青さ 日は傾いて── 東空に月 大きく うすく 高架の汽罐車のけむり   × × 山 (五、九、六) 山の襞のふかさいちじるしく みどりに見えるではないか とほくの山が   × 墓石夛く並ぶ墓地に 光を射し乍ら日は傾くも   × 裸の男泳ぐが冷いと思はせる 秋の川 川上の山のいろ   × 遠くはなれた友もなつかしや 休暇あけの秋のここち   × 草ののびた休暇あけの日のグランド 三三伍伍の生徒のかたまり   × 夏のまの熱情はどこへ行つたか ほそい風の脚がとほる街よ   × 夜 芝居小屋の旗 風にあふられて ※ 空のくらさよ 星がある   × 人々は足を早めてあるくも 秋のかぜ 緑のネオンサインがある   × 早くもぼくは 柿の実る法隆寺への道を思はされた 中高安村服部川千塚 (五、九、七) 鷄頭と日々草の花畑 居らぬとんぼの飛ぶ様も見えて   × 片岡の塚平均(なら)されて蜜柑畑 青みかんみのり日あたりの──   × 塚の開口の前にゐて 四辺に人ゐぬをさびしがつた   × 墓穴の蓋石(フタ)の上に立てば 風通しよく煙草のけむりなびくよ   × 口を開いた塚これで五つである 奥にころがつてる小石をしみじみ見た   × 蜜柑のあひまに槙の木 實つて赤と紫 ポケツトにいくらもつめこむ童心   × 線路を造る工事大分すヽみ とろつこを押す鮮人を叱つて人間来る   × 日かげの小きみちに 玉虫色の布織つてる田舎の女(ヒト)   × 蜜柑樹の傾斜にころがつてる大石は 廃れたものヽ匂ひがする   × 塚の上半だけ開拓(ひら)かれず 雜木茂つてるもある   × 塚どころへ行くみちの萩の 蕾固く虫が鳴いてる   × 誰かに言葉でもかけられやうなら 泣き出しさうな心地で石ころみちのぼつてる   × 水の匂するとおもふと 堤の上は池であつた   × 汚い池ぶちでものあらふ女(ヒト) 道をそこへ行くとき上つて来た   × 道は石ころみちで 石ころの 丸くなつた角が無情に光る 柏原附近石川河原(五、九、七) 葡萄畑の間のみちをゆくうちに 日はかたむいて了つた   × 葡萄園もゆうぐれて 人々は帰るらし   × 川上の二上山の山隈 静もりふかく夕方が来た   × 川波のはねかへす夕日のひかり すべなくあかく川下に女がゐる   × ここに情(こころ)いきどほろしく 石を投げては投げてゐる   × 川堤のポプラが赤く染まつたひととき 恋心かくし能はずなつた   × 金剛山 葛城山 また紀伊見峠と ──わたしは抑へきれない熱情(パトス)をもつ   × 広い河原をうねつて川の流れてゆくところ 堤に牛がゐる   × 川原の白い石にまぎれて かはせみがゐる   × 川原のよもぎなつかしく 蔭にすわつて煙草をのんだ   × 鮎釣る人が私の坐つてる前で 一尾つり上げた   × あヽあの紫色の鉱物には 誘惑の觸手がある   × 河上の流のひかり ※ かちわたる人のならんで みだす  千塚補遺 金色の花の畑 遠くかヾやいて さびしいひとりの道である   × 夾竹桃咲く塀をぬけると 稲田広く 野を遥に水色の山   × だんだん畑の畦高く 白い犬来て眺めてゐる   × 塚の奥室にこもる“気”をおもひ── 開口に生ひ下る葛の蔓のきみわるさ 残暑(五、九、十一) 秋づくと名のみの残暑に 鳴く虫のこゑ   × 埃肌にべとつく暑さの中を バスにのつて帰つて来る   × 雲の名を覚えむ心起れり 夕づく日 えん側に暑く 畑の雲(五、九、十二) 秋づくや茄子すがれし畑の雲 秋立つといへども島の小さよ 負ふた子をおどして通る馬の側(ワキ) Goethe Italienische Reise  [※ ゲーテ イタリア紀行] (その一)(五、九、十二) 秋立つや南に下る旅のきり ふるさとに似たる河辺の街の鐘 (Rogensburg) 行先の空を眺めて旅やどり (Munchen) 九月の朝(五、九、十二夜) あヽ縷紅草の朱(アケ)の花に露染み 桔槹(ハネツルベ)の音きしるあしたは 口笛も輕く吹きなして川辺を行けば 学校へ行く楽しみ油然と胸にあるよ 女の児の水兵服もまつ白に ふつさりとしたお下げの髪のやはらかさ── 子供の秘かな恋心せむすべ知らず ※ 犬を苛(イジ)めんの心もちて校門をくぐる              高石小学校同窓生に贈る  伊太利亜紀行(その二、五、九、十三) 山人の祭りを着飾るあはれさよ (Brenner in Tirol) [※ チロルの峠] 國境峠(ザカヒ)となりて朝明くる イタリアへ車入らむとす下りなる 石灰岩山姿けはしきはざまみち ※ 月かげも洩れぬ木蔭や水車小屋 (Von Brenner bis Trient) [※ブレンネルからトリエントまで] 月けぶるよるの音なる水車かな 果実賣る婦(ヲンナ)来るあたり葡萄山 見かへればすぎし峽におこる雲   今私ははじめて伊太利語ばかりはなす御者を傭つた。宿屋の亭主も独乙語を話さない。   だから私は話す術を弁へねばならぬ。これから愛する國語が生きて使用語となること   を私はどんなに喜んだことだらう。 (Roveredoにて) 橄欖[オリーブ]と無花果を見入る伊太利亜に(GARDA湖) 岩崩(なだれ)のぼりて見るや秋の湖(うみ) 湖岸に遠く町あり光る屋根 夕ぐれや街のぞめきに旅ごころ(VERONA) アヴェマリアの鐘ならむとき時雨来る 葡萄潰す桶積む車急ぐみち(VICENZA) 朝露や葡萄畑の鋏のおと 南面(おもて)となりて葡萄のみのり深し 葡萄山つヾくあたりや馬車に眠る(PADUA) 果樹園の中に村あり寺の塔 見返へれば越え来し山や雪もよひ ふるさとや雪に埋れむ山の彼方(をち) 行先に尖塔見え初めヴェニスなる(VENEDIGへ) 南に見えざりし山見え来たる   私のこれらの句はゲーテ自身の見聞では決して無い筈。   私のよみながし式の通讀は、決してそれのみでは句にも何にも変じはしない故に。ゲーテには叱られることヽ思ふが。 玉田先生(五、九、十六)に遇ふ 生徒われ 気の着かざりし 先生にわが名を呼ばれおどろきにけり 小学校六年の頃に似もつかぬと思へるいまの顔見知りたまふ 先生の夏帽のよごれ目にしるく元気も衰へたまへると思ふ 先生に報ゐむ時はまだ遠し壮(わか)かりしひとも老けたまひけり 先生に学校を出でヽまだ会はぬ友を語るもさびしと思ひて クラス中そろつて此の先生に叱られし日を思ひゐる壮かりし先生 先生のお嬢さんももはや女学校ならむ家を探しに來しとのたまふ 教室の窓から(五、九、十七) 三階の教室にゐて蟲を聽く下の野原に鳴き充てるらし うつヽなく講義ききゐる味気なさきこえざりし虫聞こえくるかも 雨あとの山のはざまよ雲の片(キレ)ちぎれて空にのぼりやまずも 金剛よ和泉山脈におしうつる平たき雲は山を放(はな)れぬ 紀見峠の向ふの國の紀伊の國雲ひそみゐて雨ふれるらし とほつひと[遠つ人]おもひしことをはかなしと他國におこる雲を見てをり 二十の男にあればはかな恋こころひとつにおもひてもあらな おもひでの夏の名残と夾竹桃ちまた巷にのこるさみしさ いや日にけに朝のつゆけさまさるなり月草の花咲くころとなる  野球クラスマツチ第一回戦、理二乙に負ける 三A[アルファ]対二(九、十九) 秋空にヒツト飛ばさむとあらかじめ思ひゐたれど三振したり まつすぐにのびてゆくあたり想ひゐて今三振をして帰り来る はじめのカーヴ見のがし つり球振り直球見のがして三振となる   ×友眞 突き指 痛み疼く君が手支へゐたるとき郭公時計なりにけらずや 血に塗(あ)へし示指(ひとさしゆび)のさけ目より白き腱見ゆるを一目は見たり 秋の夜、晝、朝(五、九、二○) 垣内(かいと)には虫みち鳴きて夜ふかし楠のこずゑに星かヽりゐき 隣屋の障子明るく灯かげてり人眠るらし夜は更(くだ)ちつヽ   × 厨べのけむりこもらふ垣内の日ざし長しも朝涼にして 学校へ行かう子供の影長しのうぜんかつらに朝つゆはありて   × つゆ草にいなごつるみてとびつかむ草むら中にかたまりあるも 大空を雲のかたまり流れゆき流れてのちは何もなかりける   × 街の灯は一直線につらなりて市電走るもここより見ゆれ まつくろの屋根の囲まりつきるところ空に星ありまたヽかざるも 檻中の水鳥どもは眠りに入りベンチ空しく人ひとり座(ゐ)たり かヽはりのわれにあらめや不景気のこの世なるカフエにジヤズの音さかる いつの日か破壊(はえ)は来らむ下の市街(まち)のかふえのともしあかヽりにけり かの子らのわれが他なる男らにとつがむときもわれは泣かざらむ   × × × 嵐よ来れ あヽ嵐来らむとき われ巷に立ちて笛吹かむ 嵐の力かりて 破壊の術(わざ)行はむ 白堊の家もくだかむ 藝術の燈火も消さむ 黒き嵐のすぐる後 一握の残屑(ざんせう)ものこさヾるべし 嵐すぎなば 清き虚しき野に起ちて 口笛吹かむ 新しきもの興れと ひヾきに応じ そこより ここより 新しき生(いき)物躍り来り 新しき材集まり来り 盛り上り 組み合ひ 而して存在あり 即ち正義あり ここにわれ又何らかの不遜を怒る 破壊の嵐起こさむ 破壊の嵐来らしめむ われこそは神長津彦 猛き神 いみじき神 男さびすと吼る神 とことはに破壊を行ひ とことはにもの築かしむ 跪けよ 礼拝せよ そこなるけだもの ちりあくたの子       (鬪争に日はくれ 鬪争に身は終るとも 誰か悔いむや) 九月二十一日   午後一時頃大軌堅下[かたしも]駅下車歩いて立田道を越ゆ 埃みちわがゆきし時匂ふ花 外になければ葛とは知れり   堅上村青谷金山彦神社 溜池の水干上りし土の上に鷄あそべるが向岸に見ゆ み社のかたへのみちやのぼりゆき葡萄つむ車下り来るかも   堅上村雁夛尾畑金山媛神社 万葉人がよみしみちの立田路トマト作らむと誰か知れりし 山畑のだんだん畑の上と下話すを聞けば人死にしこと 山峽の午(ひる)はたけたり死にし人の丈夫なりしこと語りゐるかも   奈良縣生駒郡三郷村立野官幣大社龍田神社 山みちのひとりさびしき曲り角柿の實れるをぬすみくらひしか 山みちをのぼり下りてたむけ[峠]どこ目に迫りくる大和國原 果樹畑のあひまのみちのまがりみちひとひとり行きかへりこぬかも 三山はつばらに見えて低くかりけり吉野の山に雲はひそみゐる 立田山くだりて行けば牛の皮家毎に乾す村に來りし 牛の皮剥がれ干されてなまなまし家中にして鼻緒となるも   法隆寺 おぼほしくくもれる空か班鳩[いかるが]の寺の広庭に鴉下り来る あららぎ[塔]の九輪の空はくもりしづみいづこにひそみ啼ける虫かも   金堂の諸佛尊し 古代(いにしへ)の恋ひしきかもよこれのみ佛おほろかにして怒りたまはず 薬師佛の小鼻ひらきしおん顔のおほどかにしていよよたふとし 釈迦佛の天蓋にゐます天人の笙[しょう]のひヾきは誰か聞きけむ 伽陵びんが呵[かりょうびんが]来鳴かむときはいつのとき天人の笙もきこえこぬかも びんづらに結ひし天人もおはしけりむかしの子供おもほゆるがに これのみ堂にならびゐませるみ佛らもの云はさぬに涙ながれき   五重塔内の塑像を愛[いつく]しむ 涅槃(ニルワナ)につどひて泣きし阿羅漢の泣きゐる口は赤かりしかも 虫けものも来りて泣きし涅槃(ねはん)の場 像のなきがほなんとも云へず 釈尊の最後のみ教へ受くる人ともしき[羨しき]ろかもみ手にふれつヽ いつしんに口を開きて泣くらかん らかん様の口は忘られなくに   夢殿 法隆寺の勧学院の塀中の柿は未だしあまたみのりつヽ ひとりをばわれもさぶしと思ひしか女学生徒の遠足の列 夢殿のお寺の庭の奥ふかくまんじゆさげ植えしおぞ人[馬鹿者]やたれ 夢殿の六角堂や何もなしまはりきはめてしか思ひけり ことさらに歌人[うたびと]さびし門前の芝に坐(ゐ)しかば汽車におくれけり   法隆寺駅へ 堅下の山のくぼみに日はありて大和の稲田にいまだ光あり ゆうづきてさむき身にしむ次に来む汽車つくまでにまだ半時もある 一汽車をおくれし故に法隆寺の鐘をきヽけりまけおしみにあらじか   飛鳥時代 金堂──薬師如来(銅)、釈迦三尊(銅)、四天王(木)、観音(木)、天人及鳳凰(中ノ間及西ノ間天蓋)(木)、観音(玉虫厨子)(銅)、日光、月光(木)、観音、勢至(木)、 文珠普賢(木)、二臂如意輪像(銅)、誕生佛(銅)、四天王(木)、釈迦三尊(九昭侍欠)(銅)、小観音像数躯(銅) 夢殿──救世観音(木)   奈良時代 前期 金堂──橘夫人念持佛弥陀三尊(銅) 東院絵殿──夢違観音(銅)   奈良時代 本期 ※ 五重塔──塔内塑像(塑) 夢殿──行信僧都(乾漆) 食堂──日光、月光(塑)、四天王(塑) 東院傳法堂──薬師三尊(乾漆) 西円堂──薬師如来(乾漆)、九面観音(木)、薬師三尊(乾漆)、弥陀三尊(銅版押出)、薬師如来(銅) 九月二十四日 此の秋はじめてのいヽ天気。朝起きて吸ふた空気の美しさ。十一時頃家を出て保田君とこへ。 このみちを泣きつヽわれの行きしことわが忘れなば誰か知るらむ  [※初出] 枕辺に柘榴をわりておいてある弟はいま床を出でたり 柘榴ほじる指の白さよ歯の美(よ)さよ   秋篠寺 秋篠のお寺の門を入りたれば汗かわきしとわれは云ひたり 伎藝天たふとむ心おこりくる高處(たかど)におはす首かしげたまひ 五大力明王といふ 忿怒相たけなはにして眼(まなこ)よりたり あきしのヽお寺の秘佛われは見きくらきみ厨子にゐましけらずや おん秘佛は忿怒のすがたものぐらにひかるおん目をあふぎ見にけり くちなはのまきつけるみ腕ほの見えたりくらからむとまた扉(と)をあけてくれたり 帝釈のおん唇(くち)あかくとほみかど南の島も思ほゆるかも    秘佛  大元帥明王    金堂  伎藝天、五大力明王、大日如来    秘佛堂 梵天、帝釈   功皇后陵より法華寺に 丘合のまがり道べをゆくころに日の沈みゆく山のはを見き 曼珠沙華ここにもあると柿畑の向ふにもあると云ひにけらずや   法華寺 金堂のくらきをのぞき何もなしときみがいひければわれはのぞかず このみちや陵のまの曲がりみち葉みず花見ず赤かりにけり   海龍王寺 海龍王寺の築地のふるびにゐむかひて尿(しと)しにけるよひと来ぬなれば 海龍王の名をかなしみと来しみてらに何もなければひもじうなれり   不退寺 夕ぐれて稲葉の青さ身にぞ冴む不退寺の屋根は見えてゐるかも 不退寺の御堂修繕に庭せまく白萩咲くをかなしみにけり   平城宮址 奈良にて晩餐、公園を歩く。 九月二十六日、歌会アリ。友眞ニ酬[むく]ユ。 念々に女を念ひゐるなれば女のうたは作らざりけり をとめ子の世にゐるゆえに山水を美(めぐ)したぬしと思ふにあらずや 九月二十七日、浪高とラグビー、五○-○、大勝。 西原直廉に会ふ はなれゐてこひゐしともとあひあふは かたりつヽおもにのぼりくるえみもせんなし 九月二十九日 ゲーテを想ふ 伊太利亜への道は 暗くきりでしめつてゐた 闇の中に葡萄がみのつてゐたが とるべくもないものだつた 時々閃光を発して馬車が すれちがつて行つたとき 道の両側の岩角が 奇怪な相貌を示した 私はとぼとぼ歩み乍ら あこがれのヴエニス、ローマ、ミランの 崩壊を夢みてゐた 九月三十日 早朝火事あり。長瀬帝キネ撮影所なり。全焼。 星空を見れば午前の二時頃ならしほのほのヽぼるたかさを見たり おりおんもしりうすも昇りゐたりけりけむりたなびく空のかたへに 南に赤きほのほのなびく方へ暗き小路をひたかけにけり 前をゆくひとの走るに走りたりいきぐるしくなればその人も歩みぬ 赤き火の天に冲(のぼる)を見たるときわれが野性の血は湧きにけり さわがしき村の一かたまりの 屋根の向ふゆのぼる火に走りたり なみださへわきにけるかも大空に赤き煙の立ちのぼる見れば あなやと思ふに黒煙窓より吹き出しぬこの棟にも早や火は廻りしか 何もなきと思ふ棟さへ室内は赤きほのほのひたくるふ[狂う]とふ 破壊のひヾき来るをしかと感じ赤き炎を見てゐたりけり 大空に高き煙をうちめぐり鳩の番[つがい]はおどろきとべり 鳥じもの夜目や利かむかこのほのほそらに明るくはえて止まざれば 火の勢もやヽおちつきぬと思ふとき消火ホースの水はあがれり もゆるもの何もなくなりて火はゆるみぬ泣きつヽ女優(をんな)帰りけるかも 半焼の棟におしかける水の音消し止めばとて何かあらぬに 増田正元其他(九、三○)  僕の利己主義はつひにきはまり、それより、何等利益の分配を受けざる人間をば本能的に友として嫌はしく思ふまでになつた。 僕はこのことを此のガラスのやうに厚みのある秋の空の下に感じ何とも知れぬ涙をとヾめることが出来なかつた。そのうた。   一、病室 壁ニ這フ蔦ノ紅キヲ愛デヰツツソコハカトナキ時ヲ過シツ 散髪(カミヲキ)ルキミノ首筋ホソリシト退屈シツツ見テヰタリケリ 病人ノキミガ一心ニハナシカケルコトノツマラナサヲトモカクモコタヘキ 純情ト思ヒヰタリシワガ心今ハワカリキ何カ語ラム 玻璃窓ヲ開ケバ寒キ北ノ窓死ニシ森ヲバ思ヒ出シキ  [※森博元(第一巻参照)] 玻璃窓ノ外ニ見エヰル秋ノ空ガラスノ如キニゴリモアレリ 海ヲバツク[BACK]ニ高等商船ガ見エル望遠鏡(メガネ)デハ塔ノ時計ノ針モ見エルトイフ 九月ノ終ノ海ニ小舟達ムレヰル見レバ生キハカナシモ 蔦ノ葉モ色ヅク壁ニ朝日サシ君ガネムリハサメントスルカ 死ニシ友ヲナツカシム心ハテシナシ生キヰル友トイサカフ[諍う]ワレハ 関心(カカハリ)ハココニアラザリヨシトイフ君ガ容態モ今ハ何ナル カクノミニ冷ケテユキシワガ心ワレトカナシク涙出デ来ヌ 一人居ニナレシト君ガ云フコトヲソレモヨシトハワガキキニケリ 若妻ニ見舞ハレテヰルコノ患者性慾ノキザシ抑ヘガタカラン 菊ノ花、野菊ノ花、薄ノ花、虎杖ノ花 未ダ咲カヌ菊ノ花畑ウツムイテ菊ノ世話スル男ガアレリ 虎杖の咲ケル堤ニ向ヒヰテ小便(ウーリン)シケリ何カ悲シミ 薄穂ハ何ニユレテカサヤギヰヌ美(ヨ)キ少女(メトヘン)ヲワレハ隨(ツ)ケヰタリ 曲リノボル舗石道ノ段々ヲ下リテ来リシ紅ネクタイノ人 カヽルコト又瞬間(タマユラ)ノ享楽(タノシミ)ト知リハ知レドモヨカラザラメヤ 追ヒ越シテマタフリカヘルコトナカラムト思ヒシ少女ヲフリカヘリ見キ 花崗岩クダケテナリシ白砂ノ道ノヲミナハ美[ヨ]カラザラメヤ Ich kann nicht mehr die ernste Dinge  [※ 私はもう真面目なことはできない] 校友ノ葬リニ至ル女学生ヰ群レテユクハカナシクモアルカ 一首、西川英夫ニオクル(十月三日) 木犀の匂へる夜やこれの世の幸ある人らこひかたるらし 眠れぬ夜(十月四日早暁) 眠らうとの努力空しく くらがりにもがいて居れば 頭の大きな死びと来りて 床の傍に坐りわらふ その口はひるまくつたいちじくだ 腐肉の臭を嗅ぐまいと いつしんに息をつめてるしんどさ、こわさ   眠れぬままに今中博物学会誌に「ユーゼニツクス[※ 優性学]の問題」なる小論文を書く。   「きばなのばらもんじん」鎌田氏に提出。   × × 私は冷酷な収吏(みつぎとり)である 私は私の感性から凡てをしぼりとる 私は惨虐なる殺人狂である 私は私の情緒を斬刑に處する 私はいつまで生存(ながらへ)ることか (一○、四夜)※ 西原直廉に(一○、四) きみの住む町とおもひてもくせいのかをりの中をわれはゆきたり もくせいの窓よりにほふ車にゐてこの國のきはまるところを見たり みいりたる稲田の果の山のひだにひそまる雲もわれは見にけり 十月は木犀の花金に咲き海のあなたをなつかしむ月 十月のプールは寒くこれの友こころ一図に争ふを見き (対関大戦 63-51)   × (一○、五) 高き山せまれる街にちヽのみのVATER[父]とあらそふゆめをわが見き ちヽのみのVATERと争ひせむすべなきその瞬間にSPLASHしたり 授業料滞納の通知(しらせ)家に来りわがみそかごと露はれにけり いつか告げむと思ひゐたりしみそかごとあらはれたれば気は先づ晴れき Dimbalist Vaiolin Consert at Asahi-Kaikan on 6th Okt.[※ ページ上部に] 松浦、森サンに代りてよむ二首  [※ 愛々傘の絵有り] 演奏会はてヽ出で来る町角に月あかあかとのぼりたりけり ビルデイング街(まち)に灯消えて月高し都会の寂しさせまりくるかも   × × 十月六日、放課後生徒大会アリ。思フ存分暴レタリ。 おの身の傾向を全体に推しすヽめむとこれの人達争ふなりけり つくづくと考へて見れば阿呆らしからむしかおもひつヽさわぎたりけり いざともよさかしらなせそ二十とせのをのこさびしてさかしらなせそ 記念祭の寄付金の夛少を争ふからんしが[おのれの]本性は現はれにけり をぞびと[馬鹿者]よ、何か事あれば必ずに嘴を出さずして止まざるともがら 十月七日 十六夜の月は南中してゐたり生駒の峰に火星は居たり たヽかひの星は東にのぼりゐたりまあかき星と見てゐたりけり 十六夜の月の光のうつりゐる蓮池の蓮はにほひするかも 東にほのめく火星を見てゐたるいつときの間のこころわびしさよ   × × ゆるやかに目に見えぬ程に傾ける河内大野の傾斜を見たり みんなみの金剛のみね葛城山ひけるすそのはきはまりて見ゆ とほきよのすめろぎのかみのみことごとおもひてあればなつかしき野ら 秋の日はすヽきにさして牛のゆくつヽみのみちは白かりにけり 埴生[はにう]野の高き台地にけむりたち日はくれむとす河内國原   × よるふかく月の踏切こえむときまぼろしにして人屍[かばね]を見たり 十月八日 古事記を讀む(日本古代史新研究 太田亮著) 白兎ことばを知りてわにざめとあげつらひせし古しへ[いにしえ]こひしも 稚子神眠りゐませる葦船の潮のまにまに流れるところ 二つ神浮橋に立ち雲の間よ潮鳴りの音ききますところ なぎなみの めぐりますみ柱の尖[ほ]空にして雲走る見ゆ   × × × つゆじめり重きさ夜ふけ松原に癩病やみの女に会へり 曲馬團 (一○、一一、藤井寺 若林曲馬團) まはり廻つて此の土地の 暗い淋しいまちはづれ   タンタンタララと太鼓を打つが ※   旗やのぼりを吹く風ばかりよ 私やみなし児ひろはれて 太鼓につれておどるのよ   ランランラララとおどりはすれど   目にはなみだがいつぱいあるのよ 少いお客もかへつたら むしろのかげでねむるのよ   サンサンサララと夜風が吹けば   夢に太鼓がひヾいてくるのよ 秋季演習 (一○、一三、一四 於信太山) ものかげに息をひそめて立てりしか敵陣深く斥候われは やヽ一心にわれらひそまるかたはらに自轉車のひと立ちて見てゐたり うみつかれたるにともはこひをばかたるなりかなしきこころなきにしもあらず 埴生野や台地となりて金剛の山のふもとの村も見えたり 柿もみぢいろづくころか鳰鳥[におどり]は峽の池にかづき[潜水]してゐたり ものヽはなやうやく少しこのあした息白きわれを見出しにけり あさのひのなヽめにさしてしヾまふかし演習やめて草に坐(ゐ)むとす きりかよへるよぞらながめてゐしときはひとをもわをも許したりしか ゆうぐれんとして峽田の畔(くろ)われらゆきふぢばかまのはな白しと見たり 青き星ながるを見たるたまゆらよ感傷心はわれにありけり Deutschen Auslands Gastsfiele Darmst st Theater in asahikaikan um 7pm 16ten Okt [※ 海外客演 ページ上部に]  思ひ出 “ALT HEIDELBERG” 川のきりほのかにあましほつたりと城山の灯はつきにけらずや しろじろと月はたけたり馬車の音かーる[カール]はけふもよふてかへれる ほろほろとびーるにがけれかのよるのけてい[ケティ]のばらにとげありしごと ころも手にきりはおもたしものかげにけていのこひになくね[音]きこゆる 川のおとたかまりしときいとしくてかーるはわれによりにしものを 仲秋愁歩(五、一○、二二) 高井田-意岐部村御厨-新家-玉川村菱江-西之郷村中野-本庄-箕輪-東之郷村吉原-川田-加納-住道村-四條村深野南-中垣内-寺川-野崎-辻- 四條-北條-甲可村川崎-中野-岡山-豊野村小路-寢屋川村堀溝-済堂-川北-住道村大箇-住道-灰塚-北江村鴻池-楠根村橋本-今津-稲田-高井田村 此行程約七里十町     「いまもこの種のうたに喜ぶ。ボクのあはれな本音だ(F)[※保田與重郎の書き込み]」 うれひつヽみちを来れば十月のもみづる山にちかづきにけり 常磐木にもみぢばしるき秋山にひかりかげりてさむくしなれり みちなかに鴉下りゐてものは[食]めりちかづきゆけばとび立たなむか 遠方に畠打つひとを呼ぶをのこ[男子]いくたびもよびあきらめずけり まなかひのおかののぼりにいへはあり百済[くだら]王家もたえにけるかも かなしみはひとにつげむとならずまなふせてすヽきのみちをわれはゆきしか けふのごと日のかげり夛きあるひとひ親子四人は山にあそびき かなしみのすべてをおもひはてヽのちいとけなきひのたぬしびをもひき はぜの樹のもみづる家やいくつならむうれひの去らむことはおもはず 土堤の上のすヽきのみちをゆくひとら肺病やみの女のはなし たまきはるいのちもてあそぶこヽろまたおこる雲夛き日に野に出でて来し はろばろと遠つ山脉はてしなし山かげにして山はありしか 遠つ連嶺(ね)につらなる空のすみ[澄み]のいろきはまりたればわれはなきたり 妹をおもひつヽ食むべんとうのかまぼこはまづくた[炊]かれたるかも たれをかも恨むにあらむこのみちをいつよりわれはなきそめてこし 家さかり[離り]友をはなれて堤べのつりがねさうを愛しみてゐたり このくにのきはまるところあむの山[※不詳]白き建物見えにけるかも れうれうとらつぱならして兵ゆけりらつぱかなしとしりそめにしか 笙鼓ならし祭のむれのゆきしあとひとりのわれはゆきにけるかも 山のいろうすさむくしてはてしなし役の小角[※ えんのおづぬ・役の行者]にあひたてまつる 菊の花さかりのころの枚方[ひらかた]に鉛の勲章買つてもらひし さきはひのめぐしきとものともし[羨し]かもひとりなきつヽきたにみちをとる おんははとともにあそびしこともありしこれははややはりこのよのことか 野の中を汽車はかなしくすぎゆけりいづこのまちによをはつ[果つ]らむか うれひきて小学生の隊にあひせむすべもなくかなしみにけり おごりゐしエゴも折れたり十月の山のもみぢのかなしきがため  ※ 野に出でて の気配を知りしかばエゴいとほしむこころおそれり このうらみたがゆえならずいつしかにおのれかなしみゐたりけらずや このみちやむかしみかりのかた[御狩の方]のみちこれたかのみこ[惟喬親王]もうらみたまひき 十月二十六日 海軍観艦式 雨空の雲低ければ軍艦の探照燈に照らされて見ゆ 軍艦の探照燈の光芒(ほのあかり)われにかヽはりなきを思ひぬ   水兵のゐる風景 ネオンサイン明るき街に水兵らい群れて行くはたのしくもあるか ※ 水兵の眼立つて夛き夜なりけり交(かたみ)に敬礼しあふを見たり   × × ×    わが歌は終に利玄の観眼のするどさ    茂吉の現実的哀感調    赤彦の彫心鏤骨の歌に及ばずして終らむ    憲吉の重厚、千樫の光に対する敏感、白秋の詩感もなし。歌を止めんか。   今迄の作品中自ら好むものを挙げれば はりまぬをはるばる来れば播磨灘海のそぎへに白き雲立つ([昭和]四[年]、六[月]) 向つ山の茂みに赤き花くさぎ花の中より雀とび来る (四、八) 下草の羊歯のぬれ葉のもつ光この杉山にみちそよぐ見ゆ (四、八) 飛行機のぷろぺらの音たえたりとわが見上るに宙返りゐる (四、九) まつくらき檜林を歩むとき人殺さむとひそかに思へり (四、九) 手の尖端(さき)に冷さ感じ歩きゐて菊賣る人に会ひにけるかも(四、一○) 丹波山とほつならりてうら悲し森博元は今はあらずなり(四、十一) ひるすぎて時雨止みたりわが友のむくろは遂にもえはてにけむ 夛羅の木は白くなれりけり杉山も霜洩るらむとみちを登るも きまぐれのぬくさにのびし豆の芽はつヾきて来る霜にかれるとか(四、十二) ゆふあかり冬木のうれに白々と雲かヽりゐてうごかざる見ゆ ほのぼのと心うれひて大年のよ空ながめてゐたりけるかも みはかせの剱の池の水へだて光れる生駒さむしとぞ思ふ (五、二) 自己嫌悪はげしきときにまちあるきわが身しばしばふりかへり見つ (五、二) あまぎらふ光あふれて春畑にあねもねの花咲きにけるかも (五、三) 木の芽の匂ひ風にまじりて来る夜は虎杖もてる人とのりあはす (五、四) 北風はまともに来り日は雲に入るみちばたのゆうかりの木の肌の冷さ こぬか雨池にふりそそぎ中島のさつきの花はぬれひかるかも 五月野に麥はうれむか野を遠く伏虎城の樹々見えにけるかも (五、五) 女学校のぽぷらの茂りいやふかみゆふべ雀ら鳴きこもるなり (五、六) ひそやかに病院の坂のぼりゐる身に異状なきが気の毒のごと (五、七) ゆうぐれはやもり硝子をはひ上りかはゆきかもよ腹うごかしゐる  霧社蕃 蜂起※ (五、一○、二九)[※台湾高砂族の抗日反乱事件] 朝のきりやうやく動くころとなり蕃人蜂起をききにけるかも 高山のはざまにこもり何すとかたけり出しけむ山のはざまに 山峽のきりはやぶれて蕃人のをらびこだますをちこち山に 小か[ささやか]に山峽にひらく運動会阿修羅場とならむと誰か知りけむ 君が代を教へてくれし先生ら父がころすをまさめに見たり 山かひに朝はじまれば蕃屋にけむりのぼるか昨日の如く 蕃人の血にあ[塗]へし槍あかあかと山の夕日にてりにけるかも 夜の間をたき明かしたるかヾり處[ど]の土の黒さを人は見にけり 肥え太りし郡守も首を刎ねられしここにころがるいのちのいくつ ※ 蘭の花こずゑに咲きて散りゐたりいまはを人の息づきしかも この藪とあのやぶに人死にたりとのち見むひとらいひ行くらむか  蕃人に討伐隊迫る (一○、三○) 討伐隊せまれるしらせ蕃童は酋領(かしら)のもとへもたらしにけり あまかける飛行機にのり日本人草葺小屋を攻めに来るかも この蕃社亡びる時の来しことをわが悲しむをかれらは知るか 山間の世界をせばみ蕃人らもの知らずしてはふり[屠り]盡さる 蕃界の滅亡(ほろび)の時節(とき)はいまか来る蕃童らの頬はぬれにけるかも ひるの日は山辺に高し見張のこし蕃人どもはひるねせりけり 山峽に栗を食みつヽ生きしひとらはふりつくされ栗は枯れむか ものヽ花岸辺にゆれて水迅し土人のかばねながれ行きしか 銃(つヽ)のおとこの山峽にみちみちてあかヾね色の日は昇りしか 死にもの狂ひの土人のたまに討伐隊の兵は倒れきこの山かひに わが心の歌(マコーマツク[※ 歌手名])十一月一日 於松竹座  松浦悦郎 に捧ぐ 十一月(しもつき)の夜が來ればちるおちばそのはかなさに人は逝きつも うす青き夜の一間に臨終(いやはて)の文かく女はやせてゐるかも 連丘(なみおか)のはたての空に月落ちて沼地に鳥は鳴きつどひけり  あヽアイルランドよ わかき日は専心(ひとつごころ)に恋ひぬべし時期(とき)すぎぬればあきらめむとも 二十とせのわかきこころにするわざかひと妻ゆえに断念(あきら)むるとふ うつろなる眼をあげてそらながむれど少年の夢またやかへらむ 一列に並びてありし鉛の兵隊こわれつくしていく年を経む あヽ幼き日なでかなしみし犬の玩具兵隊のおもちやはいづく行きけむ 涙あふれてきみとわれ肩くみあひて 少年のゆめ語るとも 歌ふとも 青空のけむりのごとくはろばろと とほきかも はるけきかもや   × × × 少年の日はすぎてなげくこと わが頬の円みは去り むさきひげ頬に生ひたり もはや可愛からず 女のひとに可哀がられず あヽ して女をこふること──   × × × 私が子供の時 友があつた 銀の兵隊と小犬と 小犬に私はいく度ほヽづりをしたことか そして又鉛の兵隊はいく度分列し直したことか 私は大将となつて物言はぬ兵隊達を指揮した すなほな者共だつた でも好きなのときらひなのとあつた 一番好きな兵隊の足が折れた時 私は泣いた それはいつでも小隊長をさせてあつたのだ 小犬は可愛かつた 抑へると泣声が出るのだつた あヽその眼がとれて泣いたときからいく年になつたことか 十一月三日 京都 西垣、森 笑ひゐるきみが姿[遺影]の何としたことぞわれらひたすらかなしみゐるに 世に在りし日のきみが笑へる像見れば君死にしこと信じ得んかも   × 町並のはづれに青き衣笠山京もはたてに近しとおもふ 比叡山のとがり峰は空に高くして葬式後のわれら見にけり 東山に月のぼるとき歌つくれとわれに言ひしは何の云ひぞも 他の街のにぎやかさの中歩みをり活動[映画]を見に入りたしと思ひき 東山の紅葉を見むとおもへるに友の急ぎに果たさヾりけり 十一月四日 世の不景気話したかへり銀行の取付さはぎに会ひにけるかも 十一月六日 夕方藤井寺に移る 暗きかげおほふと思ひし家の庭まこと今には別れかねつも 弟妹ら並びてわれを送りし様わが利己心を恥ぢしむるに足る 十一月七日 初めて藤井寺から通学 秋の田の穂の上にきらふ朝霞今まさめにしわれは見にけり 二上の山の半ばゆのぼる日の眩ゆき光二階より見つ ※ み陵の大き体積は夜の闇に定まり見えてわを怖れしむ 十一月八日 記念祭 夜、伊藤(兄)氏の宅にて牛鍋会。 記念祭の朝[あした]そぼふるぬか雨にはりぼての虎はぬれにけらしも 破壊(はえ)このまぬ心にかなし一年生 日のいく日を虎作りせし 記念祭の校庭につどふ少女らが丹頬(にほ)をかなしみわれはさぶしえ 十一月九日 又も雨。肥下の妹二人 雨はしとしとと菩提樹の蔭に降つてゐた 葉にさらさらと鳴つてゐた 私は夢を想つてゐた 振向きもしないで旅人が 道を行つた 遠くで笛の音がした 私の夢は──今語るを欲しない ともかく私は                      [※ 以下2ページ破棄。] LIEBEを (一一、一二) 川堤とほきところに立てる木をきみが村へのしるしときヽし つゆじもは朝々にまし堤(どて)上のぽぷらの枯れむ時期は来りし 川の水光さむけく流れたり川のはたてに雪降るらむか こころひとつにおさめかねつるわがおもひ空をながめてけふもくらせし 夏の如き乱雲立つ山辺空こひ知る身には耐へがたきかも いつの日かともに歩まむとにもかくも君が眼見ずてわれはさぶしも 雜木林いろづく見ゆる電車に居りきみがこころを知るすべをほ[欲]る 秋山のもみぢのいろのあきらけくきみを見む日をわれは知らなく   × 恋人の父に会はむとこころ決めし友の頬骨あらはれしと思ふ 辱かしめられなば蹶起(たてよ)とすヽめ居りなみださしぐみわれのこころから   × きみの住むところとおもへば青山のさやけき國のいやかなしかも 國原の中つところとある村にきみがゐまさむことのかなしも   × (一一、一三) ゆうばえの光うつせる池中にうごかぬ水あり何かさびしも このくにヽ霜枯れの時来りけりわが歌想(うたごころ)既に盡きたり 学校の下駄ばき足の冷さよ丸太の上の霜とける時刻(ころ) 山峽の京都の街は寒からし大学をきめねばならぬこころをもてり 夕づきて雜木林のもみぢのいろほのかに残りさむざむしもよ 雑木もみぢ赤き林は鳥もゐよ すすきの原に虫すだくごと ※ 川のいろやヽにつめたみなげくことなにかあらうよおのれしらずも この原の果(はたて)の山のうすさむいろ まだ見ぬとものこひしきかもよ わがこひはいつか止まなむ朝じものさむきこのごろたえがたきかも 秋の田の刈り乾すなべに冬の来るおそれを感じこの日頃ゐる はるかなる将来おもへばこの冬のたヾひとりなるさびしさをおもへ おのがじしすヽまむみちのわかれどのつむじにたヽむ時はきむかふ   × 十一月十五日 高松に鴉こもりてなく晝は葡萄すがれし園を歩むも (教材園) はぜもみぢしるしとおもひいてふもみぢ明かりしくになつかしみゐる 東[ひんがし]の野中村辺の陵に鳥は去(い)にたり日はかげりつヽ くぬぎ林のかげをうつせる大池に午後(ひるすぎ)の雲過ぎにけるかも まいるよりたのみをかくる藤井寺にお香の匂ひなつかしみけり 山腹の植木畑の山茶花に日かげぬくとし人こぬひるを ほうと追へばつれて飛立つ水鳥の空に光りてさむざむしかも 稲を扱(こ)く時期(とき)を野に出で寂しかも学士になりて飯食へぬとふ み陵の濠ばたの土堤のどんぐりを採り溜めにけり少年こひしも どんぐりのみのるときくれば海べの弟の墓もこひしきろかも (追憶) この墓地にわが家の墓のなきことをかなしみにつヽ友と遊びき 秋晴の墓地に友らと遊びゐきせんだんの実はみのりたりしか せんだんに鳥きてとまる見上げつヽ空の青さをわれは見にしか すヽき穂のすがれし墓地のうらどころ無縁佛の墓はありしか 海難に死にし人らの葬り所(ど)を忌みにけるかも布ちらばれる 葛木の山の肌[はだえ]もむらさきにふじゐでら村にゆふべ来にけり 花畑にユツカ花咲きさかりなりばらのすがれをわれは見にけり 冬まけて牡丹精力(ちから)を地に蔵む何ぞも芝の青々しかも 時ありて照らす秋陽のいやかなしきみが庭には稲乾すらむか   × クラス会     会者 本位田、関口、丸、西川、山田、田村、松浦、田中、松田、友眞。 酔ひ痴れて道徳律のヽしれる友は法科に進まむとすも(DEN[※ 本位田昇]) 世の中の律(さだめ)かなしく思ふひと遠くやりぬる寂しさを語る 思ふひと遠く去る日の近づけば白き奴隷をきみは買ひしか 一生不言とかたくちかひしひめごとを今ぞ語らむきみよりたまへ ちヽのみのちヽはにくしはヽそばのはヽをあはれむしかにはあらじか 失ひしこひを忘れむすべはなしまじめなことも今はなし得む   × わが娘きみの卒業を待ちがたし止めよとちヽはかたりしといふ (MATSU[※ 松浦悦郎]) 彼女とわれの結合をにくむ母のあるかの母をわれはふかくうらまむ われらふたりとよりそひしひとわすれずと語りしとももわすれ得むかも   × 阪急に来れといへば行きて見し女の顔は赤かりしかも (NISHIN[※ 西川英夫]) 何もかも忘れてのめと愚痴深し酔ふて忘れむ性ならなくに   × 北のかた能登にのこせしをみなこひはたもあらぬか酔ひ泣けるとも (TOMO[※ 友真久衛]) 感傷(かなしみ)のあまくすつぱいたのしみにいまこのともは浸りゐるらし ひた心もりて恋ひ得むわれならずすべての女いまはこひをり 北海の波のひヾきや浜松のさわぎみだれしわがこころかも 北空は遠く晴れたりシベリヤの白き家々見えて来むかも 北空は低くくもりて北極星しづもれるかたに汽船(ふね)は行きけり   × 顔美(よ)からぬ少女をこがれしかはあれど顔美からめとなほも思ふとふ(GAN[※ 丸 三郎]) 三時前わかれしをみな思へかものみゐる酒の身には染まざり 恋ごころ一年のものときみはいふ交合せまりてはねられ[フラれ]しとふ 東にかへらむことのうれしかも凡てとわかれかへらむことの   × 家も親類も破産せしとふしかあれどデイレツタンテイズムいかにかすべき (MATSUDAME[※ 松田明]) のめど酔はぬことをあやまりしきみがあし外に出づればもつともあやぶし   × 暁翆園[※ カフェの名]に照ちやんに会ひに行きたけれど金無かりければしぶしぶ帰りき(皆) 十一月十四日 浜口首相を東京駅頭に狙撃せしものあり       テロリストの悲しき宿命も思ひつヽ宰相の車に爆弾をうつ -湯原の歌- 生眞面目一方の宰相を撃ちし青年の芝居気を思ひたのしむわれは 宰相をうつもよからむ不景気はとてもかくても去るものならねど 蒼白の宰相の顔新聞に大きく出でたり生命の瞬間(たまゆら) 宰相をうつてふことを浪漫化し友のうたふを見ればかなしも             ※※ 何時の日かテロリストたらむと決心(さだ)めつつ彈丸打つすべも未だ習はぬかも [※※に応えてページ上部に。] 「湯原冬美の弁  私の歌は炫火六号(?)九月以前のものです。浪漫化は止むを得ませんと認めます。  嶺丘が「死の犠牲」かを読んだことを考へてもう一度考へてください。  濱口を撃つた奴は私は之をテロリストの範疇に入れぬこととしました。勝手に。」 十八日 万葉地図其一[※「炫火」8号所載]かき了る 十一月十九日 小泉八雲全集を讀む 散歩 (北畠-長井-依羅-矢田-瓜破-三宅-松原) 新墾(にひはり)の道をゆきけり櫟原 切り通されし赤土のいろ 臨南寺の森の深みの幽けからむ紅葉(もみぢば)まじる常磐木のいろ 行きゆきて獨[ひとり]も何故(など)か嘆かなむきみをこふれば野に出でて来し 苗畠に鮮(あたら)しきかも花苗のみどりもえつヽ冬近きかも 再びは学校は息(サボ)らざらむ冬浅きここら畑に青葉抜かるる 浅香山浅き山の井見にゆかめど きみなきこころむなしからうよ むかしの依羅の池の古堤にすヽきほヽける見つヽかなしも 住吉(すみのえ)に難波に行かむと奈良人のこころ急[せ]きけむ難波道やこれ 大依羅の神のみ杜[もり]に入るときむかしの人をこひにけるかも 北風はこれが堤にはげしけど對岸の木のゆれは見えざり わがきみの瓜破村の道しるべぽぷら落葉は未だ盡きざる 万が一に君にあはむと来し村のむさくるしさをわれは見にけり 子供らしき心捨てかねつ北風のはげしき堤いく町を来し 埴丘の埴赤土をとり瓦焼き竃にやくを見ればかなしも 埴土を運ぶ車を牽く馬の苦しき恋をわれはするかも (二十三日) わがきみに会はぬ半月それゆえにきみがひとみもほとと忘れき 二上の山の傾斜のかや原に霜置きけむかあらはに見ゆる 大伯[おじ]の姫王(ひめみこ)恋ひしうつせみの兄背(いろせ)をこひて山登(ゆか)します 山腹の葡萄畑の葉は落ちて日だまりの土に鳥遊ぶらむ 南の空ゆく雲の感觸のそのやはらかき妹を思はめや 散文的なその日その日 文科を選ばんか法科にゆかんか 強く生きよう、しかし── 人形芝居  (文楽座、二十二日、忠臣蔵。肥下、保田、薄井、西原)   僕のひがみ心を許せ   弱いからよけい弱くなる   金が無いから浅間敷なる   泣かうとすれば笑へといふ 判官の切腹姿の凄じさ 人形と思はれず 屍の様は 起たなかつた話(高田一に話すつもりで)  耿太郎は事の始めの様子ははつきり知らぬ。何故なら彼はその発端となるべき思想善導の集会に出席してゐなかつたから。ただその日の朝、文二甲の小崎(この男が一番熱心だつた)が、 俣野理事と文三甲の間を往来してゐたことを知つてゐる。初めの二時間の授業がすむと、講堂で東大教授河合栄次 の講演があることになつてゐた。 耿太郎は物我慢の出来ぬ男だから早速御免蒙つてM[※ 森 良雄]と二人知人の家へ遊びに出かけ、午後の合同教練に間に合ふ様に帰つて来た。 所が未だ誰も講堂から出て来てゐない。ずゐ分永い講演だなと思つてゐる中、一時過ぎにMが事件を聞いて来た。 「昨日の午後五時限の終に文三甲“室 、文二甲“上武 “中道“壇辻 、理一丙“山田の五人が阿部野署に引張られた。これには学校と警察の連絡があるといふのだ」  そこで彼等は喜んで講堂の集会へ参加しに行つた。耿太郎はまた自分の物好寄[ヤジウマ]の血がいたづらをしてゐるなと思つた。入つて行つて見ると、 策動してゐるものは文二甲の連中、及び文三乙、文三甲の一部(福田、藤田)であり、アヂつてゐるのは主として理二乙の不眞面目な輩で、 それらの説明によるととても出目金[佐々木生徒課主事のあだ名]等がいけないのであるが、はつきりとは同感出来ない。その中、出目、朝生の二人が冗々しく釈明をしたので耿太郎も疳が立つて来た。 それがすむと勿体らしく提議だ。文二甲一同よりとして、 「一、吾々は今回の生徒課の言辞及態度にあきたらず欺瞞せしものと認む。  一、吾々は生徒主事佐々木喜市、伊藤朝生の両氏の辞職を要求す  一、学校側の陳謝を要求す。  一、警察に厳重なる抗議を申込むことを要求す。  一、今回の不当なる拘束に対し、警察の説明をなさしむることを要求す (保田の提案)」 以上五ケ條の採決となつた。耿太郎は保守党で、一ケ條の「欺瞞云々」に対し過度を感じ過失と認めたが、採決の結果、非常に少数で葬られた。この採決に於て、 後に反対したM、m、n、h[※ 本宮、丸、西川、本位田]等の悉くが反対表示をしなかつたことは覚えてゐて欲しい。この採決の結果、生徒大会は生徒課の欺瞞を認めたこととなつた。 その上は以下の四ケ條の通過することは明らかである。これに加ふるに、「吾々は此の要求が通るまでは授業を受けず」との條項が加はつた。耿太郎は此の大会で多くのものを見た。 例へば耿太郎の入る迄に或る人は、「先生、僕は授業が受けたいです」といつて泣いて生徒監に訴へ、「さうです、さうです」との賛成を得たとのことである。耿太郎の目撃したところでは、 「先生に対してさういふ要求をするのは果して意義があるでせうか」といつた一年生があるし、授業は断じて休まぬと頑張つた文一甲の連中、 「俺達は勉強したい。世界中を改良する勉強をしたい。こんな小い事を止めて(そして)授業を受けよう」と泣いた理科三年生もある。或は生徒課の説明中、 前の人間に隠れて野次つた理二乙生もある。此の最後の人達は学校を休むことに大賛成で提案した人達である。とにかくかヽる空気の中にあつて耿太郎等は退屈し乍ら冷静であり得た。 そして明朝、決議並に要求を校長に提出することになつて一先づ解散した。時に午後六時半であつた。この生徒大会をまじめにしなかつたことが、耿太郎等の後に非難された理由である故、 よく覚えてゐなければならぬ。  翌二十六日の朝八時に教室に集まり、講堂に入ろうとしたが案の如く閉鎖されてあつた。ゆえに予定の如く寮の食堂に集まり、ここで代表等の齎す学校の回答を待つた。此間、室、 上武、両君の演説あり、彼等の無嫌疑のため釈放されたこと、学校側のデマ等を聞き耿太郎の心も暫次生徒課の欺瞞を認め、漠然とした怒が湧いて来た。 しかし此間、竹内好(文三甲)、 小崎、其他のアヂ演説があつたにも拘らず、また、生徒課のデマがバレたにも拘らず、M、m、h、n等の顔色は依然として冷く、 耿太郎のやヽもすればもえ上がらうとする熱は直に消されるのだつた。その中に学校側の回答がきた。 (三日間の臨時休校が反省のためそれより先に発表されてゐた)。 「第一ケ條に於ては飽迄過失とし、(二)は生徒より要求すべきでない。(三)は朝生遺憾の意を表す。(四)抗議すべし。(五)に対しては“不当なる の文字を除くべし」 がそれであつた。場内には一時沈黙があつた。それは相当永かつた。この明らかな拒絶の態度に対しても、生徒等は直ちには盟休[※ 同盟休校]を叫ばなかつたのである。 然し暫時場内に咳が起り、やがて誰彼(それは常なるアヂテーターである)が起つて学校側の無理解を非難し出したが、盟休に入るとは云はなかつた。併し第六條に依れば、 要求の貫徹でないから授業を受けるわけにはゆかぬ。これ丈はわかるべき筈であつたが、耿太郎も気がつかなかつた。やがて校長の自決を迫るものが出、それは弥次的拍手に迎へられた。 かくして今夜は一晩寮に泊まることヽなり、十時から盟休の宣誓式があることヽなり、各学級は夫々別れて集團を保つことヽした。之が午後四時頃である。この間、寮歌、 野球部歌の合唱があつたが意気甚だ沈滞してゐた。[※ この続き第五巻にあり。] [同盟休校] 破れたり(十一、二十八) 肥下を訪ふ(布忍[ぬのせ]より) 刑務所のあたりに落ちし陽のいろのまあかきことを忘れずあらむ 夕ぐれ もの音のせぬ刑務所の塀そばをゆきひとりゆきけり 大根の畑の道に日は落ちて菜つぱのいろの鮮あたら)しさを見たり 拷問の楚(しもと)の音は聞えざらむ刑務所の塀側をゆき遠くの號笛をきけり 子供のとき使つたクレヨンのいろそこここにあり初冬の田んぼ道は 大根は緑 はぜは赤 夕雲のいろ 池の水 子供の頃をかなしみてゆく 街道の古びた家に燈(あかり)つき夜は来らしもまだ歩かねばならず   × (一二、一) 空想の中で私は大鷲になつて 西亜細亜のシリアへと飛んでゆく。 そこの空へと来ると下界は一面の砂原で陽が焼けつく様にあつい。 遠くの遠くの空(夛分地中海だらう)に眞白な雲が立つて静止してゐる。 この無雨の砂原の中に一の都市があつて 白い砂原に蔭を落としてゐる──クツキリと 静かとか虚ろとかの象徴の如く 私は暫くその市の上を飛ぶ。すると 私のかげもやはり砂の上に黒い線となつて映るのだ。 やがて私は囘教院の尖塔の端にとまる。 この時私の嘴は陽に輝いて純金の避雷針とも見えるだらう。 私はじつと止つてゐる。私は此の強い光に耐えられなくなつたのだ。 私が眼をつぶると日中の砂原を通つて市の門へと やつて来た駱駝のいなヽきが聞こえる。私はそのまヽ眠つて了ふ。 やがて激しい温度の変化で眼をさました私は西の涯に沈んでゆく陽を見る。 囘教寺院の鐘が足許から起こる。此時私は限りもない郷愁にはヾたきするのである。 ローレンス・チベツト、悪漢の唄 (一二、三)  At Ohashiza with Mr.Usui 高き雪かむれる山の峽 こーかしあの國 ここに美(よ)き人すめり 即ち我が母と妹 日に日に美しきれーす編めり 山賊雲雀[ひばり]われ 悪業の旅より帰れば 微笑迎へ 歓びの歌高きかな 我が妹 二十歳の若さにあれば 一日街に下りて踊る 美しき微笑(えみ)と輕き舞ぶり こーかしあに比[たぐ]ひもあらじ ここに一人の士官あり 高き位と 貴き身分もて辱しめぬ 公の面にして あはれ こーかしあの處女 恥かしめられなば生きじ 妹 蒼白の面を俯せて家に帰れば 部落の女 悉く集ひて憤り悲しむ 高原に咲きし處女百合 一輪散りしゆふべ 我は帰りて 復仇の臍[ほぞ]を堅めぬ われは自由の子 山の子 山賊雲雀 伐たでは止まじ 天にかけり地にふすとも あはれ 伐たでは止まじ   × × 君よ 行かずや 高加索[コーカシア] 雪頂ける山々に 朝日は 赤く輝きて谷間に煙のぼるなり 今諸々[もろもろ]の鳥啼きて部落(むら)に 朝の業はあり 見よ乙女らが 汲みまがふ清き水 底走る 石魚の光 君よ 行かずや 高加索 高みの牧に駒嘶(な)きて 今 中空に日は高し 日蔭に 雪は残れども 日向の土の温(ぬく)とさに 淡雪草は咲きにけり その美しさに まがふべき乙女の子らの歌声は 峽にみてり 君よ 行かずや 高加索 谷間の部落に灯はつきて 暮れ方早き渓谷に 見上る 峰の夕明り 牧に駒呼ぶ角笛の ひヾきはとほく さんたまりあ 鐘の声する 夕ぐれを いざ同輩(とも) 祈り 捧げん 高加索に幸あれと   × × 落葉松の梢に鳥啼き 啼き止んでの後は山峽には静けさ 神を恐れぬ山賊も谷間に 遠く山彦の音を怪しむ 夜更けて焚火をかこむ精悍の面わ 峽に獸奔つて空の星しばしまたヽく 永き夜を暴風(あらし)も来ぬか 今中夜 北の方 谷のさけ目に霧のさやぎ 川の音 高まり低まり幾度のヽち 夜明け──落葉松の尖端から 息が白い 霜の痛さ 霧が移れば 遠嶺の頂に赤い陽が 鳥 鳥 三羽立つて 又静か 霜の上に獸の足跡 焚火跡の狼藉 あヽ又 移らぬ情(こころ)を尋ねて 幾里の旅を今日も又 山賊の胸   × × 湯原冬美に 阿羅世伊止宇 あらせいとう 南蛮寺に咲き出すと 南蛮船が参ります 阿羅世伊止宇 あらせいとう 紫いろに咲きますと 沖に白帆が浮かびます あらせいとう あらせいとう ながさき港のはとばから けふも三隻発ちました あらせいとう あらせいとう じやがたら すまとら ぽるとがる 行けない國のなつかしや 増田正元 (一二、四)甲南病人ホームに能勢と見舞ふ たまきはるいのちの終り近しとふ鼻高くなりし横顔を見たり だだつぴろき病室の寢台(ベッド)寒しもよ窓より月光入るにあらずや 東に希望の星の輝けるこのごろの空を見ずかもあらむ 山茶花咲きつゆじも深きこのごろを細りし体耐ゆると思へや やうやうに終に進むわが友のいまはを待ちてわれら耐へようか 病院を出て夕ぐれの道ゆくわれら丈夫なりし友を語りゐる 暗い道を歩き身にせまる死の蔭に慄ふ落葉した冬木 友ひとり死なむとするを待ちうけて けの永き日をいかで過さむ 全快の暁(とき)をかたれる友の顔に死相ふかければ涙湧きくる 別れを告げ握手して出でむときわれらよりも暖かかりし君が手はも 時走[しわす]の満月近しうす暗き病室にきみを残さねばならず 喉の痛みに食べられるもの数少し明治屋のゼリー語りけるかも どうしても治らぬ君と残るわれら あきらめられるか 摩耶の山 天上寺にのぼるけーぶるの燈かなしみ神戸の街ゆく まつくらきだらだら坂を下りゐつヽ港の汽船のあかり見にけり   × × 神様があるなら癒してやつて下さい 彼はまだ何もしてゐません いヽことも悪いことも 彼はまだ子供だつたのです 女のことを思ふかい と尋ねると いいやと 答へました 大学は農科へゆくと 云ひます これが命の存續が問題である人の 関心なのです   × × 山茶花のかげに女の子が泣いてる 山茶花が咲けば霜が降る 目白が来る 山茶花の頃にきつと友を失ふ 山茶花 山茶花 何と寒い星空   × × ※※※※[※ 編者削除]が発狂したさうである(一二、五) むつヽりやの※※※※は気がちがひ急にけらけら笑ひ出せしとふ あるひは笑ひあるひは泣きつヽ小言云ふとふ正気失せたる※※※※あはれ 寒きもの背筋を這ふ この日われ友の物狂ひをきヽにけるかも 河内國原 (一二、八)   鳥散りて枯野に光る銃の音   冬川に煙草吸ひ捨て寒さ哉 午すぎの物のどよみのやヽしばししづまりあれや煙草くゆらす 物の音をちこちに起り傳ひくるこのひるの野にひとり坐れる 街道をどよめかしゆく乗合に處女(をとめ)ものれりぼろ[ボロ]のりあひに 冬畑の大根畑に日はおちて大根(だいこ)さむざむ引抜かるかも 大根の青葉の野良の地平線道とほるらし車行く見ゆ   我 日々に紫水晶の山嶽を思ふ   六稜の山角 陽を受けて   紫摩黄金の光なす 保さん曰く、お前が死んだらすぐに歌なんか焼いて了ふ 僕、 相聞の歌 ははに見せぬ 死ぬまでは 毒瓦斯ホスゲンは山査子の匂がするとふ   山査子の盛ぬくとし首くヽり   首くヽり日向の枝をよけにけり 昨日読んだ本、芥川龍之介全集 五、六   保田のオリヂナリテイを疑ふ。「古き國原」の歌の如き一寸呆然とさされた。※※※   及びバルザツク「知られざる傑作」其他五篇。 ※※※に対する保田與重郎の書き込み   「保田の弁明一つ    云ふ迄もなく「古き國原」はアララギのまね、勿論当時ボクはアララギに加わつてゐたからね。    芥川だつてうまいのは大てい茂吉や白秋のまねですよ。ボクが「川田順をかき換えてやれ」と    いつたのがわからんかなあ。コクトオがそんなことを云つたのだが。この頃の「うた」の二つ三つ    は自分のものの様な気がすんのだが(ノートの終りに少しかいたから見てくれ)」 柘榴屋敷   ざくろうをつまだちてとる手の白さ 野中寺の鐘を聞く くるりくるり日傘まはして菜の花の畑道ゆきしお染死にけり 心中のかのこの帯のなまめかしと隣人かへりて言ひにけるかも あがれ (おとめたお) 野崎舟上陸(あがれ)ば高き菜の花の香りかなしみ處女[おとめ]手[た]折りき 久松の在所田舎び晝深く桃の花挿しわらべゆきけり   ×(一二、一○) 大根干す松の枝に百舌鳥は来ぬ 廃園『炫火』戯頌(一○) 夫[そ]れおもむろに観ずれば人おのおのに調あり 湯原の感傷、三崎の艶、猛吉の清楚、鋭二の敏、厚見の慷慨、北能の可憐、佐波の官能※※ いろとりどりに好ましく、例へば、廃れし長崎の、南蛮寺の園生なる、花の色香にさも似たり。 茉莉、石竹、百合、含羞草(みもざ)、紅天竺牡丹(ダリア)、怱忘草は云はずもあれ、 昔の花のあらせいとう、あらせいとう。 称へていへば限りなし。なほおのおのに欠点(おちめ)あり。例へば湯原が茉莉の花、ひるのさかりは凋み果て、たヾゆうかげに咲くものを。昔の花のあらせいとう、 今は聖教(をしへ)もともどもに、知るひともなきその匂ひ。               「ゆうぐれだね(冬美)」※保田與重郎の書き込み ※※いずれも大高短歌同人誌「炫火 かぎろひ」のペンネーム。 湯原冬美・・・・・・・・・・・・・・・・(保田與重郎) 三崎皎(滉)・・・・・・・・・・・・(杉浦正一郎) 大東猛吉・・・・・・・・・・・・・・・・(松下武雄) 鋭二(詠二、沖崎猷之介)・・(中島栄次郎) 厚味荘吉・・・・・・・・・・・・・・・・(西川英夫) 北能梨人・・・・・・・・・・・・・・・・(友眞久衞) 佐波曼沙矢 ・・・・・・・・・・・・ (杉野裕次郎) 他に 津田清(服部正己)、山内しげる(中田英一)等が常連。 盟休、犠牲者を出さぬ由、校長声明す(一二、一二) 寒々と山にむかへる大路ゆく朝、舗石のあひまに草は素枯れたりけり めのまへの電線の空からまつすぐにおちる鳥あり枯草原に 午過ぎやひつそりと鶏(とり)しめられる 眼を病んでまひるまばゆき牡丹哉 氷とけて大根の葉流る小川かな 藤井寺界隈(一二、一二) みさヽぎに近き淋しき小山かげ帰化外人は住みわたるなり 山かげに外人の家見に来れば牡丹の園にわらがこひせり 白鶏園に遊びて冬近き外人は國を懐ふにかあらむ 壷坂へとの道しるべあり雲深き山おくの寺思ほゆるかも な泣きそときみはいへどもおほろかのかなしみにたへ涙あふるる 冬さりてたんぽヽ花咲く山原に小鳥下り立ち妻どふらしも 小鳥の秋 松にはつぐみ 群落(むら)には雀の群 壕には游ぐよ鴨が── 渡り鳥 渡り鳥 あヽあの田んぼ 山蔭の澤に細い一本足の鷺 冬は秋の次に 小鳥の来る頃から 始まります もう始業の鐘です 百舌鳥は食物の蛙が冬眠したらどうするのでせう? 雀はこぼれ籾のつきた後を? 小鳥 小鳥── 鳶が今日もお寺の松にいヽこゑで 鳴いてます 空の晴れた日です 枯れた柳にかはせみが来てます 長い尾と可愛い声の お葬式二つ(一二、一三)   塚本大六(大さん)八日 於廣島旅舎 チブス   婚約の二日前 万喜子さん悲哭 かりそめの世の中かなしつまどひを前にひかへてきみ死にたまふ 象蛇の来哭(きな)かむことは求めざりをとめなげかふ凡人の死は きみゐます國へおくれてわれもゆかめとをとめ泣きつヽいのりけるとふ 何すればわが兄(せ)死なせしと宿主を責めにけりとふをとめかなしも   城村眞助先生 十二日 於象天坂自宅・西原、金澤 口あらくわれが未来(さだめ)を予言せし師は逝きましぬわれが二十歳に 冬風のさむさを歎じひたすらに咳きしつヽ叱りたまひき   × ぼくの死 (十五日) にれの木の高にれの木のむら木立死にて坐ますは誰か佛かも ゆうぎりのわだつみおそふころなれば海去(ゆ)く兄(せ)をばとめむものかな   × ヒーターの焼けて銅(はがね)の匂ひする朝の電車のうれしもよわれは   西川、京法[※ 京大法学部]に決意す(十四日) さびしがり西川英夫が皆とはなれ京都にゆくとふさびしからうよ 苦痛月 Der Peinsmond 憂愁を欲するものは此の門をくヾれ(二十日) 恥辱と屈従を見むとするものは此の門をくヾれ 死に近き生を見るを欲するものは此の門をくヾれ 微笑もてくヾれ 泣きつヽ出で来るべし この門の中に悪の華咲けり 偽善の花咲けり 饐えた喜びを欲するものはこの中に入るべし 罪を犯さんとする者入るべし 罪をあがなはんとするものも入れ 焦慮をもてるもの入るべし この園中に悪の華咲けり 冷笑の華咲けり 悪罵を欲するものは来れ 哀悼の児は来れ 服喪の女は来れ 慷慨を好むものは来れ 欺瞞を喜ぶものは来れ この亭中に悪の華咲けり 死腐爛花咲けり                 ──Yに── 時走月をはりに近くあはき愁しみ空静かなるこのひるにして 首青き鴨の羽色の夕光り光り消えつヽ眠りに入るか ひかり 鴨の の光澤かヾやき向岸遊べる様をたのしといはむ ひるすぎの葛木山に迫る雲地物(つちを)なびかし風過ぎにけり 小春日のぬくみ背中にあつまれり少年の恋讀みにけるかも 薄生のすヽきかこめる池中にまひるひそかに鳥来りけり 花皆のすがれかなしも園にひとつユツカ花咲き虻来る見れば 草原にまろべるわれにうるさしと小き羽虫をころしけるかも 暖き野をなつかしみ少女らが出で遊ぶ見ればわがこひ思ほゆ こひ人にまたあはざらむ知らさヾらむ恋の果かたる書よみにけり 雲ひくヽ地を包めるまひるなりまゆみ実れりその赤き実を (植物園) 植物園のかきのどんぐりかなしかも埃まみれのどんぐりなるかも 赤々と猩々木の鉢植ゑの温室にある外より見つヽ シクラメンの咲くころとなりうらがなし知り合ひの人誰か病みゐき どんよりと空うごかざる街にゐてもの乞ひのこころわれは思へり またたちかへる水無月のなげきを誰に語るべき 沙羅のみずえに花さけばかなしき人の目ぞ見ゆる   新浪漫派を樹立すべし 一度おれの憎んだ君が 今度は俺を憎む ありさうな事だ さうなければならぬことだ 時走の幻想(一二、二二及ビ二五) PROLOG エルネストシモンましろく消えし辺に(鯨汐ふく)この洋は モロツコに行きたきあまりアンリーは親の金盗りにげにけらずや アンリーは船着場にてとらへらる 親不孝めと母泣きにけり アンリーの家に帰りて五六日 心おちつかずものも食はずゐる 室にこもりアンリーのさま静すぐ[静かすぎる]母はぬすみ見気は絶えにけり もろつこの風吹く窓に向かひつつアンリーくびれいきはてヽゐる アンリーの汚れし襟(からー)に食ひ入りし縄に南風(みなみ)は ふれにけるかも アンリーの死顔青し小庭なるアフリカの木は茂りたりけり アンリーよ生きの中にこそモロツコの風香はしと云はましをわれは アンリーは諾(うべ)なはざらむ 生きのまの快きこと即ちつねによしとて アンリーの墓に咲く花まつ赤なるモロツコの花時じくの花 アンリーが死んでいく年ふらんすの少年の眼は今も南に 半人半馬(ケンタウルス)かたむくよふけアンリーの墓處に立てり友どちわれら 南の楽園(パラデイソ)にゆく時たちぬ君が墓辺に花もちかへらむ EPILOG エルネストシモンま白く南に消え果てむとき君は泣くらむ 偶想   時走の忙しい最中にもこんな閑なことを考へるから   お金を失くするのだよ きみならで誰にか見せむわがこころの花 かりそめの他(あだ)つ女に手折られしこころう[憂]や 手折られて手折られてたヾに道辺にすてられにけり   × × 僕は即興詩人になれる、と思ふ ツネヲ[※ 肥下恒夫]曰く 困ったら命にかけて助けてやる   × × ツネヲの為にバラーデンを訳すべい。   × × 電気時計の針の動きの見ゆる如 月は落ちゆく時走の空に マント吹く風の寒さよ冬風にネオンサインは青すぎないか ネオンサインあまり冷しもゆる火はほのほをもちてまた消ゆるものを あの月の眉持つをみなこひしたひ死なばよからむかなしけれども 雨後の林に生ふる茸のごと低き町並みにビルデングそびゆ この窓から向ふの窓へ手帛ふり手帛ふりつヽあそびたいな 暗色の空をバツクにビルデング白きを見ればおの泣かれくる   歌人はなぜ悲しかなしと云ふならむ   (たのしたのしとまた云ふてるよ)   かなしさに凡そならよろこびこもる   × × × よるひるをたえまもなしにまはるともヴエンチレーターにみヽかたむけぬ   傷ついたろばは傷ついたうまに勝る   × × × 旗立てる門並さむし雪のこる葛木山に陽はうすづきぬ (大正天皇五年祭)   × × × 廃園のふきあげに水は出でざりけり おもかげびとの影うつしけり (ヴエルレーヌをおもひて) 巴里市役所の戸籍係が大詩人のヴエルレーヌなりしかなしといはむ 職業をはなれしのちのヴエルレーヌいよヽかなしくなりにけるかも 普佛戰爭に鉄砲かつぎてヴエルレーヌその重たさに耐へざりしとふ   × × × 年暮れむ 雲ひとひらの 空のはて (夜光雲第四巻了に) 来年も花咲かさうぞ れんげさう れんげさう水にこぼれて咲けるかや 謹みてツネヲ・冬美に献ず ※〈保田、田中と一緒に野中寺の弥勒菩薩を見た。〉肥下恒夫コギトメモ:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 140pより ※ 以下、巻末に保田與重郎による書き込み。 「お礼と云ひわけをかねて(湯原冬美)── 嶺丘にものをいふ                      ※(良心の問題になるからなあ)[※ さらに後から書き足した部分。]   わたる日の光寂しもおしなべて紅葉衰ふ古國原(ふるくにはら)に(赤彦)   わたる日の影淡くしておとろへり牛列びゆく古き國原(生[小生])   山のひざかげおほろかにきりふかしもみじおとろふ太古のよそひ(生)   前樓日登眺流歳暗蹉 坐厨准南守秋山紅樹多(韋蘚州[※ 中唐の詩人])                          昭和四年九月  こんだけ並べるとわかるのだが、ボクはちやんと赤彦と芥川全集を並べて真似たので、これは意識的にしたわけである。 その頃ボクはアララギの会員であり七つ八つ歌を出して三つ位のせてもらつてゐたのである。  だからオリヂナリテーをいはれたら止むを得ない。それから僕は芥川の真似はさかんにした。之は君にも西川[※ 西川英夫]にも何べんもいつた筈だ。だが、 茂吉や白秋や勇なんか皆芥川によつて洗練されたとその頃思つたからだ。だから僕はどつかのノートへ芥川が彼のまねの対象をいちいち書いておいたのだが、それを今捜すとない。 芭蕉だつて芥川によつて大いに理解されたと思ふ、だから僕の芭蕉論[※ 論文「芭蕉雑爼」]だつて、僕らの立場から芭蕉の型を拡げた位だつた。「衆道」にしても。 (たヾ芥川の知らないことを僕は一つだけ他の本から見つけたのだから、この篇は「雑爼」の中へ加えただけだが)、 佐々木喜市さん[※ 生徒課主事]が中田に「保田の校友會雜誌の論文や思想の論文は一つの見方だ、だが今ではあんな見方がゆるされてないから、せぬ方がいい」といつたそうだが、 この論文とは芭蕉のことだらうかと考へてゐる。  君が夜光雲第三を終るときの気持ちをボクも炫火の七号位からもつている(挽歌だけは別)。それでボクは校友会誌十一号[に]短歌をのせて、 炫火十号に「短歌はどこへゆく?」といふエツセイを書いた。例の校友会誌にのせるといつた「広告」はやつぱりそこから出ている。これは原稿で見せる。 校友会の方は前川の模倣だといはれる奴が少しあるかもしれないが、それはボクがわざと考へてしたのだといつておく。(このことも「炫火」のエツセイにかいておいた。)  津田清はボクの「炫火」九号の「怖ろしき理知」のことを少し云つてくれたのだが、それは友情からの割引がいふとして、その中の三四には今でも愛情をもつてゐる。 感覚とか象徴とか、写生とか、歌謡とか、童心とか、そんなものをすべて否定しゆく気だ。この考へに元気を与へてくれるのは肥下恒夫である。 それから校友会誌十一号がもし出たら僕の「詩」をよんでくれ。これも本当は詩の形をかりた芸術論なんだが──もうボクも人のまねをよそうと考へてゐる。 ところで僕の芸術論はまねがなくては新しい傑作が生れないのだ。この意味で僕はまねをする。このことをコクトオは「傑作への抗議」といつた。 ヘエゲリアンやマルキストは「弁証法」といふだらう。たとへば君の川田のまねだね。アララギのまねをした利玄だ。ボクのオリヂナリテイを本当に観[ママ]して、 こんなものをいふのだが、僕も皆が皆模倣ではないのだがなア。しかしおかげで少し感動したし考へをまとめられた。勿論此は昨年の十月頃から丁度考へていたんだが。 ──こんなことを書いてもぼくをあはれがることはよしてくれ。これでいい。だがボクも芥川の他にそう種本をもつていないよ。 勿論之から古い「歌らしいもの」なぞを作る位堕落してはゆくまい。ボクは君の歌は尊敬している。 だからボクは君が東京へいつて詩歌をやることを極力進める。うそだと思ふなら肥下にでもきけ。肥下もきつと進めようと思ふ。 肥下がボクに小説を書けといふ様に、君にもきつといふにちがいないと思ふ。  これで少しホツトした。君がボクを淋しがらせまいとシて改めていふことは不要だ。ボクの芸術論では文学のグループではドヤシつける方が好ましい礼儀だ。しかし、 赤彦のこれらの歌は代表作だから誰でも(特に君なぞ)知つていただらうと思つたのだがなあ。  だが赤彦のことだが、君ならこんなのをどう考へる(「高つき」の如きは自他共に許した代表作である)。    石走る垂水の上の早蕨のもえいづる春となりにけるかも(万葉集)    高つきの木づえにありて頬白のさえづる春となりにけるかも(赤彦)    八雲たつ出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ(万葉集)    打日さす都少女の黒髪は隅田川べの上になづさふ(赤彦)        (附記)出雲は辰見利文のいふところによると、桜井から初雲へゆく途中にある(現存す)部落ならんと。(君の万葉地図のために附記す) だがもう僕の模倣時代は終つてゐる、と考へる。之から本當の「模倣」を初[ママ]める。おヽきに、ありがと。」 (第4巻終り) 「夜光雲」第五巻 昭和6年1月1日 ~ 昭和6年7月31日   20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(113ページ) 夜光雲 巻五 昭和六年 またたちかへるみな月の うれひを誰にかたるべき 沙羅のみづ枝に花さけば こひしきひとの眼ぞ見ゆる               嶺丘耿太郎 夜光雲は巻三巻、巻四に於て明らかに日記の体をとり、従つて讀みにくいものすらあげてゐる。 これは堕落であるかもしれないがだらだらと散文を書くのはつらいから仕方がない。 もしこれをいつか見るひとがあればそのつもりでよんでほしい。 昭和六年一月一日 元日やチヤリネの笛のふきもよひ 雪ふヾく社頭にあそぶ子狗かな  ※   親るゐ 全田[まった]のきみ子叔母 きみは車にわ[我]はその膝に紀の川の橋をわたりてむかしゆきけり 高の山のぼりのぼりて石標の里程かぞへしむかしなつかし たかのやまみつ秀の墓は縛られたりひとりでにひヾわれてくるとふ  ※ 諸侯(だいめう)の墓の大さを小僧語り子供のわれは聞きゐたりけり たかの山おくふかくきて無明の井ひるも星うつすくらさを見きや たかの山杉の林の中にして玉川の水乏しかりけり たかの山に朝のつとめの鐘鳴ればお山はさびし僧集ひこもる   全田の敦子、全田のすみ子曰く、モトチヤンとセツチヤン   全田の元子と節子 肥下恒夫 全田忠蔵 夜中過ぎてよひしれもどる叔父なればその云ふ事はきかずともよし                     (右ツネヲ[肥下恒夫]曰く)   肥下でとまる さむしらや野路はるかにひとゆきて小川をわたるいまかそやかに あかあかと日の丸の旗てりゐたれ雪もよひくる元日の空 鉄橋に電車かヽればさむざむと青淵に雪ふりこめる見ゆ 一月二日 松浦悦郎君 西川英夫君 友眞久衞君 中橋吉長君 親るゐ 今井俊一  こころさへ弱りたまふにやあらむ年のほぎことばにかけていはむとおもふ むかしからの口調でさとすおほちちのまなこのくぼみさらにしるしも 一月三日 親るゐ 上念政七 父と いたづらにロシヤのわる口やめなされいヽ(gute)年よりとわれはおもふに 西尾鈴木は社会主義者ならず民主々義者なり 上念省三郎 KO[慶応]二年政治科 上念さと おほはヽの妹なればわかき日のおほはヽ思へてなつかし 平戸松三郎 ちヽよりは二つ年下で家あらず 貞二の父 岡島正三郎 岡島みね      [※ 親類系図の走り書あり。]   × × 増田正元 十二月三十一日に洗礼を受けた由   まひる大洋(わだつみ)のも中から   聖霊が泡をなしてわき上り   そらの虚無にとけちつて了ふ   あとにはしばらく波がさはぐが   やがてもとの静けさ けれどあヽ   そらのいろをうつすではないか わがとものいまはちかヽらむ天つ國かど[門]ひらきたてむかひよそへる いにしへの勇士らがゆきし天國[ワ゛ルハラ]かこどもの遊ぶさいの河原か どんよりと曇れる沼にひる近く魚浮きくる水藻の上に どんよりと眼にごりてゐたりけれもはや見ざらむとかなしみわ[別]かる のせ[能勢] 田中義郎 のせ孝 小泉しづ、とし 一月四日   短冊に小雪かいたるま かな            (右相聞の歌) 一月五日 上念省三郎さん 森本春一さん 熊田君 のせ君   徹夜して東あからむひもじさよ   埋み[うずみ]火も消えなむころのとりのこゑ 一月六日 森本清   おとうとよ いま赤い陽がのぼる   暁の楽を鳥が奏する   きみ足どりもかろく林に入れば   露をふくむ花がむかへるだらう   おとうとよ いまきみのこころにも   朝日はのぼりつゆのこぼれるのを感ずるか お正月はハロルドロイドかあい相に走りつきあたりころげまはるよ ハロルドロイド摩天楼の窓にぶらさがりもがくのを見ておまへは笑つた 高らかに声あげてわらふおまへのかはいさロイドそれほどおもしろ   南天に鳥きてとまるひそけさや   南天や赤らほにほふ子のわかさ   × × ×   上念の省ちやんに 正月の水冷しやわたし待つひとのかざしの紅ばらの花 水匂ふ川口をゆきをみなとあひ舟発(い)でたつをきみは見にける 石炭積み船は出てゆく向ふ岸のタンクにうするひるすぎのひかり 川口に汽笛こだまし船でてゆく水の匂ひとおとヽするかな   × × ×   きよしに どんよりと海はにごりてゐたりけれ川口に水ひたうごきけり おほらかにもやはひのぼる海面にいま船々は燈をともしけり 海よ きりはのぼりてまや山のけーぶるの灯よ うるみにけりな なくなかれゆうぐれ来ると誰か死ぬ誰か死ぬるに生れる子ある 日の丸の旗ひるがへれ海港をとよ[響]がして入る外國のふね 一月七日 一月八日 始業 三浦、のせ、伊藤さん 一月九日 松浦、中島、ドンバル [※ 喫茶店] 一月十日 雪原 悲しみの白い息吐きのはらゆく車の跡の氷をふみに 大原にふヾき止めば日光さす烏はしばらく土を探さう 悲しみを和げやうに街に出るに白いカラーをさがさねばならず あきらかにこの石像は歪みゐる歪めるまヽにせむすべもなし やもり[いもり]は腹赤けれど冷血動物なれば冬原にそのむくろさらさず 植物が青いからとて都会(まち)中に賣る人あるを君は知るかよ この藪に赤い実つけた潅木がある わなかけにゆくたびに見てゐる 植物の常緑葉光るこのみちは君と歩かう名をつけてゆかう ふざけ好きの人間がゐてひとごみで泣いて見せてるそれも見にゆけ(ツネヲに) かたわものヽたつた一本の足を轢き折つたれば電車はゆれず 夏くればとんぼ眼玉を光らさういま碧い眼はみがかれてゐる   [前川]佐美雄ばり 悲しみを圧搾しようとする大空の重さを感じねころんでゐる  ヴエルレーヌ (六、一、一二) 素盞嗚[すさのお]の尊は 蓬々たる頭で 出雲の國を行かれました その頃は大山が噴火してゐました 湖ばたに蒲が生えてゐました   × 奇稲田[くしなだ]姫は朝鮮服を着て 川ばたで泣いてをられました 百合の花が流れてゐました   × 野火が盛りです 大國主尊が野中に立つておいでヾす 兎や野鼠や あらゆる野獸が まはりに集まつてゐます   × はるけくはるけく水平線から 陸がゆれ乍ら近づいてきます 海の波がだんだん荒くなつてきます 空は眞青な日和です 白い波頭 津野主尊の髪(かみのけ)   × 月は炎ともえ上る 沙漠に魚が跳ねまはる 椰子の梢に噴水(ふきあげ)が あヽ大空のいなびかり ぐろきしにあ[※ 花の名]の結晶水   × × 大寺の甍に鳥とまり ひるの暑さに気絶する 雲が走る空を もう見えない 防火線が破裂して 星のかけらが散つて来た   × × 茉莉の花も咲きました ひきがへる出るゆうぐれは いろいろの匂が固まつてる   × × 華やかに はなやかに をんな泣くこゑ シヤギリ[ひょうし木]の音ひとしきり 眼 目玉 ヨウ[※ 不詳] 大理石の柱   × × はろけきにをみな思へば 緞帳に白い月出る 孔雀の羽のきらきら光りよ   × × 亡びる民族の只ひとりよ 煙管   × × むかしむかしのものがたりは すとーぶのかげで話すことで 棚の石像が泣くとは あるちゆーるらんぼおの死ぬまへ   × × ひそやかに 人々の逢ふよるは 地球の裏側の寒さ 山々が結晶する   × × 静脈が破れて── あヽ ころんびいぬのすヽり泣き 籠で白孔雀のはヾたき 冷い音だね 琥珀の環は × × あるときの きまぐれゆえにひとをこひ── こはれしひとはいかにすべきぞ   × 神經がいたむといへば そらをゆく雲の早さを測れ   × むらさめよ ヴエンチレーターひるもよるも やすまぬほどの根気ももてよ   × 云ふほどに思はぬをんなを 話すなかれ こひ死ねといふおれにはあらず   × なぐれ なぐれ わさびの匂ひしてゐるぞ こころいらだつまよなかすぎに   × お酒のむ子供悲しと いふおまへ のまぬ子供はうれしいといふか 夢の戰爭 (一、一三)   一 兵等集りて日々に街を焼けりしが、炎の中より不死鳥生れるを知らざりき。 されば火は燃えつヾき遂にかの白亜の殿堂に及ぶ。 火を防ぐものあらざりき。火を恐るるものあらざりき。かしこここに一群、炎のいろの鮮けさを嘆じたりけりき。   二 混凝土[コンクリート]の林にながながとこだまする拳銃のひびき。 うつろなる館にひとり居れば胸にこたへてならぬなり。 ここにこもりて日(ケ)の幾日、さあれ糧は未だにあり、眠らむ。 眼覚めむ時は銃剱の光の下ならむとも。 あヽ、うつろなる拳銃のひびき。 一月一三日 「西部戰線異状なし」を観る 峽田は雪かもつもる鮮しき青菜の凋れけふも復(なほ)らず 流れゐるこの河すらも凍らなむ愁とヾまるときのしるしに まつ白な壁に頭をうちつけて もがかずに死ねばたのしいものか たましひのあるなし語るよるなりけりくらきにおびゆそを信ぜねど ひとびとの死にゆくときはまつ先に死んで見せるがいとよかるべし   × 十八の若さのゆえに拳銃をもちて巷にけふも出にける いのちと死といまだ思はねどてのひらの銃の冷さにおのヽかれぬる たまきはるいのち捨て出す義務(つとめ)なきをみなうらやむいのちおしければ 戰ひのらつぱは町になりひヾき昨日も今日も兵発ちゆけり 若き兵らえまひつヽゆく様見れば涙ながるるそのえまひゆえ   × 市街戰いまは終れよこれ以上いのちつひやすべき仕事にあらず 革命の兵士のひとりとわれなりて後悔の涙いま流しをり 革命の成就する日は来るともいのち死ぬべきわざ減らざらむ いのちをしいのちをしけば街に出てピストル買ひぬいのちなぐさ[慰]に   × 雲低く地におりくるひるすぎはそれ彈丸[だま]に死ぬひと夛からむ かいぜる[Keiser]の野心もいまは恨まないこれほど惜しいいのち恨めば 一月十三日午后三時四十五分 増田正元天國を信じて永眠す 一月十四日神戸友愛教会にて午后四時半より葬儀   棺をかく[舁く※かつぐ] 西空にくもひろがるを見てゐつヽきみの葬りを終へにけるかも きみゆきしパラデイソ[天国]いづこさむぞらの雲のかなたに姿見ゆるも うつしよのからだらんを[乱壊]に近づけば唇いろどりしひとはありける そらのいろうすあをくしてきはみなしきみをはふらむ日なりけりけふ[今日] かなしみとくい[悔い]つきるときまたなからむここよわかれてつひに会ひ得ず みはふりの教会の窓のそとゆきし白猫のすがたわすれざらむよ 春日野の墓地にゆうかぜ吹きいたりきみとわかれるときいたりけり 天女らは散華[さんげ]をふらし聖楽(がく)おこるきよく生きたるおとうとのため 死にいたるまでかなしきことばもてよびかけずいまひそやかにくりかへすとも おとうともなるべくなりし海港はよるの灯ともしひろがりてある 大いなる夜空よ星よその下に海港さびしよ灯つらねもてど 海港をゆきしにほへるをとめ子のひとりを思はず死にけむものを どんぐりの生垣めぐる墓どころ変化来らずきみきよければ みひつぎの足の方かきし[舁きし]兄さんとわれそれゆえかろしと思はざりけり むこ[武庫]山の遠ねのいろをかたりつヽきみがはふりにいたりけるかも みはふりをおへはてしかば巷にゆきそこになかむとせしともあはれ くらがりに棺の白さぞ浮びける歌をうたふはきみがためならず 一月十六日 コーラス聨盟第一回大会 於朝日会館 一月十七日 肥下と保田とこへ 大和に来て雪まだ凍[い]てる葛木の山のうら側をさみしみにけり 三輪山の尾の間の谷や樫の木のもとに据えたりこの石佛 石佛二尊いませばおのづから見比べてゐるかしこけれども(弥勒、地蔵) 裏山に柴かく女ありけれど人とほしとはおもひゐたりき 羊歯の葉の成熟(みの)れる見ればいまなむよみ冬はつきて春来るらし さむざむととほねろ[遠嶺]光るひるごろを溢れしといふ川わたるかも 堤の芝草の間ゆくときに泣きさうになるをこらへてゐたり 石佛の苔むす見ればはろばろと造りしむかし思はれるかな いのちあるくも[蜘蛛]ゐていのちかくせるを三人よりて見出しにけり おのが身の卑屈(あたじけなさ)はすでにかくれなしあはれまれつヽ生きのながさよ ひとびとはしづまりたれば夜更けとおもふ炬燵おきたる部屋のさむさも 遠方に尖(とん)がつた山がひとつある 何といふ山か行つて見てこよう 椿市[つばいち]は亡びにければ金屋[かなや]なる石佛は風にさらされたまふ 樫の木にもたらせたまふ佛達 涅槃おもへてたふときろかも 樫の木や風わたれども幹うごかず佛二体をよらしめにけり 夏みかんの光る木あれり往来に見て空の光るに見比べにけり 吉野山西行こもるかそけさを偲びつヽゐるものいはぬまは ※〈田中と一緒に桜井の保田の家へ行く。〉肥下恒夫コギトメモ:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 140pより 海王星 (一、一七、二○) < 空 > 一 軽気球あがれる空のすみ[澄み]いろにもののかよひは眼に見えくるも   軽気球の繋索きれよおくふかきそらのまん中にくひ入らむため   × 二 春空のあんどろめだの星こひし魚族もねむるふゆ空のもと   太陽のてるうち側に星らきてこよひの雲にかくされにける   薔薇の花天より降りて来るなりひろひにゆかうひとひろはねど   × 三 聖楽の空にきえはて夜いたりぬ白猫走り眼にふれにけり   ふき上げはのぼりてそらにいたらむずいましよしよ[シヨシヨ]とやぶになびけど   × 四 ぼんやりとものおしうごくはる空はげんげの花を咲かしめにけり < 海 > 一 桟橋を船員こつちへ来るなりぼくらは船の名を見にゆかう   ともだちが死んだればとて海港の埠頭に来り魚見にけり   桟ばしの海をおよげる魚らの斑(しま)は水面にいつぱいになる   × 二 どんよりと沖が曇つてゐるなれば露台の椅子に誰も来ないぞ   断岸のホテルの白さ曇り日の沖ゆく汽船は笛止まずならす   × 三 海ばたの癲狂院の桟橋に狂人船の着く時設けぬ   狂人らのこゑもきこゆ早くも紫いろの船は来りし × 四 地図なれば太平洋は青かりけり赤き航路に目をおしあてぬ   × 五 港町の十字路(つむじ)はかなしひるすぎは波立てる海見えてくるかも   白波をふきあげる海へゆくみちにきつとひとゐるふしぎでならぬ   × 六 わが室は三方の壁に画をかけて海きく窓はあけておかうよ   にんげんら死にゆく時は時計塔に鴎つどひて啼かんとすらむ < ふるさと > 一 ふるさとに夏雨立てば松原に自分はくはぬきのこ[茸]とりけり   × 二 三大星しづしづのぼりわがともの別荘の杉にとどまりにけり   葬禮(さうれん)の山菓子もらうたこと恥ぢてざくろ咲く家にひる中かへらず   × 三 ゆうさればくちなしの花匂ひ咲くかはづのたぐひ青く光り出る   村中でも螢草生ふ庭なれば螢来る夜をわれは待ちけり   古井戸に鮒逃がしめてこころをし[惜し]のぞきにゆくがならひ[習慣]となれり   爬虫類の卵をかへすおそろしさ蛇(くちなは)ならばどうしようとぞ 神戸港 (一、二○)   増田正元追悼會、元町の鈴蘭燈よ 日のくれはなかなかこないぞあの塔の硝子の中に誰がうごいてる 方々の時計塔の文字がはつきりと見えなくなつてやつと海のくれ 巻雲のとびちる空のさむきくれこだまながうて上海丸の出港(で) 川崎の煙突のむかうにおちるときまつぷたつになりし赤き陽はも ひそびそと船側をとほりぼくゆくにマストの上を鳶まつてゐる 山々の冷さが身にしみこんでフランスの旗おろすを見てる 海いつぱいに腹赤き船浮かびゐて煙吐く見ればたたかひ思ほゆ きらきらと空広く光る十字架のとうとさゆえに涙ぐみしか 海波の暗さを見ればおそれにきさほどさびしくてわれはゐにけり (魚) ふゆ海はうしほにほはずひた流るいろくずどももねむりふかけれ 魚等の冬眠のさま見にゆかんいのちのちからうすきこころに ゆにおんじやつくひるがへす商館(みせ)の碧眼の児横笛吹けよ自轉車やめて いつまでもこんくりいとの林あるにつれなくさむく陽はうごきけり 方々の時計塔だけ日がのこるそのたまゆらはかなしいものを べうべうと日本の笛吹きならしゆかば笑はむ碧眼の子らかなし すずらん燈あかるけれども他(よそ)のまちなればあつもり草を買はむと思ふ おれの血に浪費癖あるあつもり草みんな買占める貪欲心ある きれいな女(ひと)がつれ立つてあるくこの街でわがはづかしさは猩々木[※ ポインセチア]となる   春の花 フリーヂヤーよ フリーヂヤー 飾窓の中に咲いてゐた 女の児が眺めて行つて了つた 匂ひもしないフリーヂヤーよ もつとも寒い日だつたが── ひとはしらない 春の海のまん中におまへが一杯咲く島のあることを その近くをとほる凡ての船を ※ 恍惚たらしめる匂りの高い島のことを おれは知つてゐる それゆえ青い顔をして飾窓の硝子に 顔をおしつける (一、二六) 紫でふちとつたしねらりや[サイネリア] びろうどの外套着たれいでい[Lady]に似て 頭痛のやうな恋心を感ぜしめる (同じく) わがとものつねを[※ 肥下恒夫]すいすにゆくときはさくらさうさけそのあしあとに 岩角にかもしかとべばかなしかもぷりむら[桜草]の花ちりにけるかも あるぷすの高みに咲けるぷりむらはきりにぬれつヽ日をこひにけり 「最後の中隊」 JOEMAY, KONRAD VEIDT (一、二九) 唖唖と啼く鴉に石を投げうてよ戰友(とも)の眼を啄(く)ひもちにけり 死屍[しかばね]は日に日に腐れゆくらしも戰は[果]つる日はいつならむ 沼深きこの國原に死にゆかば月の出毎にひと嘆かむを 沼中にうつぶせに死にしひとゆえに地(つち)のはたてにひと泣きにけり ふらんすの兵たいの彈丸[たま]ともを斃(たほ)すわがうつたまもひところせしや 勇ましきわが隊兵はすべて死に果てたるのちに戰は止まむ わがこころ嘆かひやまずしかなれど死なずば止まじ占星(ほし)に見えけり 風車小止まずめぐるこの小屋はわが十三のおくつき[墓地]どころ 女の児ひとりゐにけりそが瞳われらとともに眠るものならず この小屋の持主たちは去りゆきぬ沼地をめぐりもはやひとゐず よるふけてどよみ通るを感じゐるねむれぬよるは早やも明けかし 馬車のおと遠くに去るをききゐたり大の男はなぜ泣かれぬか 馬車の音最後にきこえ風来る沼地に鳥はひとこゑ鳴きし 死にてのち六馬(りくめ)の葬車なにせむにいのちのをはりいま頌(たた)へなむ 曉(あけ)近く女(むすめ)かへりて来りけりともに死なむとやがて云ひけり いのち惜しやがて去(い)なむと泣きしともそがゆえかなしともに死にせば 蓬々と枯木に風は吹き去(い)にぬやがていのちの時来らむず もののおと風にこもりて曉(あけ)をくる生命知りせば寢(い)ねずになりし 紅きばらかざしにしたる處女子[おとめご]の銃にたほれし兵ひとり いやはての彈丸うつ音のよはさかも頭を越して遠くとびにき かなしきはひとに勝れりこのかなしきひとびと死なすわがことのは[言葉]は 援軍は遂に来らずわれら十三人すべて死ねとよつひに死ねとよ 激しかりいくさにのこりしわがいのちいまはのがれず愛(かな)しきろかも 月いでぬよるのふかさよ地平(ちのはて)をひそびそとゆくわれがいのちは わが國も亡びしといふしかすがに涙見せざらむ國はわれなれば 傷ける人馬つぎつぎ倒れゆくぷろしあ[プロシア]の國いまは囘復(かへ)らず 集まれのらつぱひヾけりいくたびか十三人にいまはもう増えず 連丘のはたてのかぎり来れかし死骸(しかばね)の魂かへり召集(あつ)まれ あヽわれら百二十人もて戰ひきいま十三人を数へおはりき 鴉啼く十三啼きてなきやめぬわれらが棺はいづくにかある 戰ひの後の大地に霧ふかし死屍のまに呼吸あるわれは 傳令は霧を衝きつヽ来りけりここにと呼べど探しかねたり 隊長の広きひたひに青筋のにじむをみれば命迫れり MAR NOSTRUM (二、三) 銅色の半魚神(とりとん)の躰に藻はからみ小魚その中にひそんでゐる 半魚 岩にあがつて体を乾かす海の雲うごかぬひるすぎ 海の匂この山中にするよと見れば峽湾に寄するは潮青けれ 半魚 うごかずつヽきに来る小魚のうす赤いくちばし 地中海に噴出する溶岩の尖端から今も烟ぞのぼれ 煙のぼる火山島に人ゐて耕すを努むあくまでも噴火来れど 橄欖[オリーブ]と棕櫚の西班牙[スペイン]王家の御成り海の離宮にいま 来れ来れ独立の謀(はかり)めぐらさん今日は山にけむりのぼらず かすてらの女王に恋すればやいまだに文来らず燈台にのぼる 古代の都市に女が来たれば白い柱こひしうて話しかける 蔓草まとふ垣のペンキに女達のほのわらひ海の見える高み 人間のいのち脅かす人間の群ひそかに迫つてくる黒い影わらつてる 珠玉まとふも女なればおれに依らうといふかなしいのぞみになげく 珠玉保ちたければ間諜[スパイ]ともなりしわれが言きヽしは何の故かしらん つひにぼくも人魚の餌となりばらばらの肢体を沖の岩ほにさらす 性慾(せっくす)の姿態おぞましこのゆふべ暗室に膠[にかわ]流れてゐたり 三角帆はつた船ゆく海原にまつすぐに筋つけてゐるなり サイン求められしままに [※ 寄せ書きのこと]  保田與重郎(湯原冬美) 水にもぐつたおまへの 足のうらだけが見えるまつ白な 水族館のがらすの中をかなしいおまへの 足がひらめくを見てる  長野敏一(高山茂) 丘の上の一本松にひるすぎは 白い鳩が一羽来て啼き出す  松下武雄(大東猛吉) ひのくれはなかなか来ないぞ あの塔のがらすの中に誰かうごいてる  丸三郎 とほくのとほくの松江まで行つてぼく達の弄んだおもちやの感触が 手にこびりついてる その白いペンキの匂ひがいつまでもとれない  西川英夫 君のゆく西のみやこは川仄白くひと暖かき詩のみやこ女のみやこ そこおきて見も知らぬ他國へわれはゆく 何故かとおもふ わするヽなかれわすれじのちかひはかたくとけずとも のぞみはつ ひにときがたし  鎌田正美 白雨未霽  [※ 白雨いまだ晴れず]  紀畑揚嵐(藤田久一) 天之蒼々夫正色邪(荘子逍遥遊) [※ 天の蒼々なる それ正色か]  松田明 晝顔は瓜や茄子の花鬘(かづら)  紅松一雄 玻璃の海に波立ち天使ら笛吹けよ  井上參 漱石の猫に似たりやきみがまみ 善泳者善溺可懼水 [※ よく泳ぐものはよく溺れ水をおそるべし] 火日干や茶椀に蝿は溺れけり  岩村一 花の咲く幽けき森に鳥遊ぶしかあそばうよおれとおまへは 武蔵野のくぬぎ林の倒木に腰かけてきみの恋をきかうよ 風吹けば木末にさわぐよ音楽のいみじきことをおれはしらねど  東龍吉(俣野博夫) やせ鴉啼けば誰かヾ死ぬるなりおれの屋根には昨日啼いたぞ 君の肋骨はクスリの匂ひがする ツネヲ おれの胃の腑は腐つた乾酪(けーぜ ※チーズ)の臭がする おれの歯齦[はぐき]は膿んで毎朝出血する おれの鼻はぶくぶくで嗅覚を殆ど有しない おれの直膓は破れてゐる おれの鎖骨は下垂してゐる おれの脛骨の曲がり工合を見ろよ おれの顎は人一倍尖つてゐる おれの歯は人間をかむに適してゐる おれの体臭は友を却ける かくておれは造物主へのたへまなき反抗と屈服に うみ疲れて了つた おれは今尚精神的には 彼といがみ合つてるが体力はもういふ事を利かない そこで しやうことなしに休戰の状態だ むかうだつて全くは信用 はしまいがこつちが黙つてりや 何あに事を荒立てはしない                    一九三一、二、七  奈破翁[ナポレオン]をよむ (其作之八、一九三一、二、八) たのみにした将軍等も背き、巴里の市は降伏し、僅かの兵の半ばが敵にかこまれて了つた 時になつてはじめて奈破翁は自分の星を導いた。すヽりなきで一杯の軍隊に別れを告げる とき、彼はかういつた。名誉ある自分の戰史を書かうと。しかしエルバの島に来て海の白 波を見たとき、幼時の彼の望遠の心はまたも再現した。運命の星は又もや彼の上に君臨し はじめた。ナポレオンは栄々と島の建設事業につとめ、よるは地図を開いて果てしない空 想に耽り、彼のために死ぬ勇敢な軍隊を想ふ。この時彼が涙を流してゐたとなら僕はどん なに彼を愛慕したであらう。   × 落目の悲哀をナポレオンほど具体的に示してくれるものはない。もがけばもがくほどずん ずん目に見えて落ちてゆく。果てしない古沼の底である。昨日はヨーロツパの帝王、今日 はフランス王、明日は流刑囚ボナパルト。しかも彼は泣かない。   × ランヌ元帥を僕はナポレオンよりも愛する。勇敢さ等に於てはネーらに劣るかも知れぬが、 自尊心の強いナポレオンの只一人の「お まへ」といふ呼びかけ手であつたこと、童顔、没落の前に死んだらしいのが何よりもうれ しい。ネー、ベルチエーのかあいさうなこと。   × しかしベルチエーも好きだ。ベルリンでロシヤ兵の行進を見て発狂死したとは案外良心の ある弱い男だ。 野球部送別会 (二、一○)   内田英成 おまへの性慾は魚である。 なまぐさい匂ひがするぞ いちじくをおしつぶせとは誰がいふたか まつ蒼な性慾が流れて行つたならお前は少女をもう嫌ひ出す   三浦治 おまへの性慾は船である。 をんならが浴みにゆけば町中に犬がいつぴき急にやせ出す 推進機(スクリュー)のかきみだすうみは 赤茶けてる禿山かこむおまへの海だ   能勢正元 おまへの性慾は猫である。 人形の足の白さを語るとも おまへ人形をもつてぬなれば ポンポンとピアノふみならす白猫を叱れとおれがいつておいたぞ   丸三郎 おまへの性慾はこぶしの花である。 ふみにじれつぶしてしまへ凋れ花 しもやけの足がかゆくてゆかぬ はらはらと気をもみながら子供見てる 電車線路に遊ぶ子供を(コイツハ下手ダナ、ワレナガラ)   小林正三 おまへの性慾は鼠である。 まよ中は明日まで来ない 油火のひかりさゆらぐむかしのをとこ ふたヽびは見まいとおもふ女のかほ向ふから見にくればどうする   友眞久衞 おまへの性慾は茶である。 とんとんと太鼓ならしてゆけりしがなんでおまへにかヽはりあらう まつ白なまつ白な猫を飼つてるとひそかによるは女に化ける   三島中 おまへの性慾は竹である。 雪深きお山のおくのたけのこはめん竹なれば人に食はれず どんよりと眼をすえて物云へばたましひの逃げるけはいしないか   × × ×   肥下恒夫の性慾は犬である。或は夜。(二、一四) 尾をふめば鳴けよ日ぐれの蒼い犬横町路地は暗いといへば 性慾の起り来る時尾を垂れてそれでおまへを雄といへるか   服部正己の性慾は鶏である ひるすぎて庭の籾殻しめり含むこの山原にもの音はせず 泉水の鯉はねあがる物音におまへ鳴き出す透る声かな 潤々と氷雨ふりしく街ゆけば女犯欲してしばしも止まず おとといの雪は氷雨にとけにけり念々に止まぬ邪念を持たる うどんそば運んでくれしお雪さへ男と寝るか氷雨降る夜を 細ければとからかひはねし白妙のお雪かなしや賣られにけらし この頃はかなしむことも夛からむあの赤ら頬も今は褪せきや 世の中のわるければせんなしとあきらめ男抱いて寝るかおまへは 獸である男をにくみつねにをれよ頽れて了ふ体をもてば   × きんきんと高嶺は雪に映(かヾよ)へり厭離穢土心もたぬにあらず 憧憬のこころとヾまりぬ 朝々をまなかひに見る大峯[ね]ろの凍(い)て 二上の焼け茅原に雪つみて昨日も今日も解けずば見ゆる さくさくと雪積む中をゆきにけりおのれかなしむこころもきえて   × × ×さいかちの実の鳴る冬空 -東京- ×坂の上から馬の下りてくる -東京- ×宮城の濠に鴨死ぬ -東京- ×近衞兵の赤ズボン -東京- ×本郷の高台からは富士が見える -東京- ×労働歌も聞こえよ 煙 -東京- ×丸ビルの燈 自動車来る -東京- ×角帽巡査に尾行さる -東京- ×女 投げキス カジノフオーリー[※ 浅草喜劇芝居] -東京- ×不良少年 公爵令嬢 -東京- ×KO-BOY 文化学院 バカ! ×一高生靴をはく -東京- RennのKriegをよむ。二月十二日於肥下。 同日支那料理食べる。全田。   × × × 増田正元を偲ぶ あヽ帝陵のわかみどり野にはかぎろひうらうらや 雲雀も空にたはむれてわかくさは日にむれにけり われらわかうど球うつわざにひるのひとひをくらしはて 夜となれヽばおぼろ月ほんのりてらすそのひかり きみわかかりき あヽいへどせんなしいまはたヾ野にみちかほる わかくさにきみをおもひてなげかんかむねせまりくるよひよひを   × 若草のむつとする匂の中で野球をした。   すヾめのえんどう、からすのえんどう、たんぽヽ、げんげ。 日は暖かに照つてゐた。お腹を空かせたね。   すいば、水芹、つばな、ぎしぎし。 よるは進軍の歌を歌つてサルタンへ行つた。   日出づる國の丈夫が今戰に出でてゆく。 春の踊のうたもきみはとうとうおぼえて了つた。   さくら、さくら、花は西から東から。 久米皇子埴生山墓 (二、一五) 原は羊歯の茂りもあさくしてうごくものなきひろらのさむし 松原にみ子の御墓を訪[と]めくれば冬日をかくす雲動きけり まんまんとにごりし水をたヽえたる山原の池に鴨はねむれり 埴生山ひるふかくしてひとかよはぬ道をゆきゆくわれと犬とは 群松の木末うごかぬしづけさやとほくのとよみいまはやみたり 蓬々と陵原に雲うごきとほ山の雪いまはひからず かつらぎの潅木林に雪つみてどんより光るにひたむかひけり 哀歌 (二、二二) まつ白な花に包まれねむりゐしひとのむくろはそらに求めむ 蒼々とひろがれるそら見つめてあり誰のまなこかかヾやきいづる 千年後きみが壙口[はかあな]くづれかしくちぬむくろにひとおどろかむ 青山のちらばひ立てる國原はわがかなしきがおくつきどころ みじかきはわが世なりけりここのたび[九度]生れてまたも冥にいるべし ゆうぐれは彼蒼[青空]仰げ北山の松の木ぬれに風しづまれば 飜々[はんはん]と幡[はた]ほこ立てヽ並みゆけばわれのはふり[葬り]もたのしとおもふ をとめらはなみだをぬぐひ仕まつれいま大君のはふりいでます おほぞらのあんどろめだ座落ちも来ねきみのひとみをひらかせむため 梅咲く フリージヤ咲く プリムラマラコイデス咲く プリムラシネンシス咲く 清徳保男氏を訪ねる、不在 (二、二四) きみプラトンにならうとき ふかい青空とポプラの木 ゆうかりは葉をおとさぬ 冬にも オスカア・ワイルドとなりて 恥廉の獄に沈むはよせ 夕日影 淡らうすらと 首たれて われらは行かう みちのくのいはがきぬまのかきつばたいはねばこそあれこひしきものを 梅咲くや小家のひるに楽の音 (二、二七)  恋は感情である。道徳は感情である。    中之島公園で自轉車の丁稚につきあたり、バカといつて了ふ。    僕自身をえらく思ふ日は近頃決してない。時々かはいく思ふ。    西川の僕を思ふ程度に。なに芝居気の夛い阿呆さ。 うつうつとひるをねむれる小馬らのまぐさにはるのかげろふたてり ひるのひのひかりあからみながながと首出してゐる馬もありけり   入学試験に落ちるなら。                        ※ かるもちんの味がにがいかためしたろ(それほど小心にもあらず) 関大で田舎つぺいをひやかすべい。人間をけいべつするくせまたおころう。 バイブルの雲 (抜粋、三、一) [※ 聖書より雲の記述ある十五の文章を2頁にわたり抄出。略。] 三月三日、1高等学校試驗終。2学校の晝餐。 3ドンバル、千壽堂(松浦、本位田)。4夜、鯖鮓、嘔吐。 1、2、骼々[かくかく]と構成作用、濫生、擬受胎期     今、潮、山の力、月、溺す     あはれさやあななす[パイナップル]を剥ぎ老いにけり     もろもろの罪すぎさりて浴[ゆあみ]みかな 3、  学校終りを告げ     喫茶に味気なし     出目金[佐々木生徒監]に憐れを感じ     女の児に笑はる 4、  保田の云ひ方をかれば     魚族の皮膚の感触は青白く彼ら     胃液中で産卵し始めたゆえ     各個体は忽ち生命の洪水に溢りあふれて     俺を悩ます 海の水はここまで差引して来た     又も生ぬるい感触に黄民族を厭ふ     かくておれの受胎は午後二時に終つたのである 三月五日 娼婦らの若きを見しが三月の嘆きなりとはひとに知らゆな かくかくと水禽鳴きてききにけり風吹く昼はいまぞめぐれる 外國人のこころとなりてはるあはき巷をゆけば何ぞかなしも ちんばの児まひるながらに道ゆけば日本の國も場末と思ふ 革命の時期とはなりてこのひるまものにおびえて木の芽を嗅げる 日本の生[ママ]文明もかなしけれ壁はげにける映画のくには 横町の女笑ふを見たりしがそぼひげ生やすわがためならじ マントを抑へ風にむかひてゆくときは泪出るほど金の欲しけれ  保田がよめといふからに 桜草買ひてうれしもわざわざと空ふりあふぎ星をたづぬる 猫とらへをすかめすかを訊ねしも こはかりそめのことならず をんなのゐぬ世界なければ女のまへで芝居うつともきみわらふまじ   × × × 植物を愛して愛していまはもう風吹く街は歩けない 朱い実をつけた樹が青空に立てばこれは幻想でないかと疑ふぞ こんな日に動物をいぢめようと云ひ出してもそれは本気か自らも知らぬ 霧が地平になびいてほの白いおれはおまへ[※ 肥下恒夫]の妹を貰はうとおもふ── おれ以外のおれだつたら 中央公論、改造三月号、静かなる羅列(横光利一) ひそやかに葉緑素採る○○○○○[ママ] 玻璃玉に鳥しのびいる○○○○○[ママ]  三月六日 藤井寺村野中-應 天皇陵-仲姫皇后陵 あづさゆみ春は浅けど山原の梅咲くところにひばりをきけり はこねうつぎいまだ芽ぶかぬこのひるのあたヽかければ春愁あるかな  方々に梅の花咲く日和 みさヽぎに群鳥どもは飛び集いよるひるなきてあかすものらし みさヽぎの堤の苔の青いろの目にこころよう春空に立つ おほ空に雲は流れてゐたりしが目の晶液のきずかと見たり おほおほと水気のぼれる春空にきみがたましひけふは降り来ね 正元にも一度会へば何云はむ ごぶさたや梅咲くひるの佛たち 三月七日 われもまた陰陽師となり壇築き北斗の星の恵愛(めぐみ)こふべし よひよひに白狐つかひてかの女(ひと)に文を参らすおもかげびとに 北斗星没落(しづ)めるのちは新しき南極星にむかひすわらむ 弓をもてわれを狙えるひとありてこよひも天にこちむける見ゆ  ゲーテのフアウスト、タツソー、ゲツツ、エグモント(世界戯曲全集十一巻) 陪塚[ばいちょう]をまひるひそかに掘りてをりかつかつと鳴りて石人の剱 けだものヽ顔もてる石像あらはれぬむかしのひとのこころはいかに  タツソー ゆうだちやたちまちくらき生姜の葉 わがこころいきどほりなくこころなく  ゲツツ あまりに古きこの正直な男 仇敵にも愛され チゴイネルの群れに飛び込んで忽ちここをも修羅の巷にしてしまふ 善意の塊 悪意の的   おもだかにひるすぎの小魚(ざこ)よりにけり   西風に花まひも来ね夕まぐれ むらさめはこの杉かげを残しけり 桜草よし 藤井寺を去るに当りて (八日) 遠ね[嶺]ろにひるすぎて雪輝[かが]よへり遠くにゆくといまは出でなば あたたかきはるのひかりに菩薩おはすみ寺の梅もさかりなるかな  春のおどり (一○) 歌姫とならばぷりまどんなとなるべし 長袖もて舞ふべし てなあ[テナー]となりてうたうたふべしたからかに ひとりうたふべし はるのうたうたふべし 東邦の閨房(はれむ)をおもへば この乙女らの脚の太さよ 髪につけたしくらめんの匂ひが 舞ひにひろがらば 波斯[ペルシャ]の國、沙羅族の國、大食[サラセン]の國では王様おひるね   東邦 東の方には棕櫚で葺いた家がある。 店舗では香油、砂金、水晶、生絹等の珍しいものを並べるさうな。 東の方では十字の星が見られるとさ。 異境徒達を照して── 東の方では物云ふ沙がある。歌うたふ芦がある。 驢馬には角があり、翼ある蛇がゐる。 東の方では幻影(いめーじ)の都市がある。 朝日に輝く尖塔を探ねて夕方まで迷ふとさ。 東の方の沙漠には古代の都市が眠つてる。 生き残つた人民はエヂプト語をはなし、みいらを作つてゐる。 いつかその人達が迷ひ出て来るさうだ。 淨い美しい姿をしてゐるんだとよ、お金なんか知らないのだと。 東の方はいま何が起つてゐるだらう。 あの雲の辺だね、眞珠色の夕雲だ。教主(かりふ)様がいま、 お晝寢から覚めて、椰子の林で晩餐さね。 ほら、あらびあ幻想曲、よせよ、あれはこちとらのことぢやないよ。  東京へ 十二日朝七時半大阪発 さくら  十九日夕五時半大阪着 つばめ しらしらとよのあけるとききみが見し浜名の湖をひるわたるかな みづうみはあいいろのみづたたえたり比良やまの雪ぞここに白きは ひたすらに心おちつかぬ旅をしぬここは豊橋外れ赤松の山原 北國へ向はむ汽車は笛鳴らしいま春の雪降り出でにけり 北國の木の本沢におおはヽと共に下りたりと友は語りし いぶき山さしも知らざりき白々と雪つむ山の寒からむとは 旅心となりて見呆くるこの峡にむかしの人はいのち強せし 富士の山これは夢かとおどろけり雲にまつはり暗空に立つ するがの海によせて砕くる浪のいろの青かりしかないまのこころにも 富士の峯の傾斜の尖り辿りつヽやがてさびしとわれは云ひ出つ むかしむかし海道下り斬られけるひとにも似たりわれがこころは みちのくにわれは行かむよこの旅を東京にしも終らむと思はず 果樹園に白々と咲く花ありてたそがれ近き陽となりにけり 夕近くなりぬといひて物音の深くわき来る町に下り立つ  『春』プドフキン (一七) ふるさとのタンポポの花をこひしみつヽ さんらんとふりそそぐ映画の光に見いれば となりにゐる保田もほつと息をしてゐた おたまじやくしが生れていまだ声も出ぬに おれとおまへは一ぱしな気で水に浮かんでるのだね 椿の咲く東京をおれはきのふいちんち歩きまはり 美しい東京コトバの子供を聞いた こんなこころはいつまでもてるかしら 黄色いつばきのしべだよ 蜂も飛んででる やがてマロニヱが大学に咲き出せば夏だ 憂うつな顔をして俺は荷造りをしよう ろしあでは復活祭の鐘── これはすたれた童心で東京でも神田のニコライ堂 おれは涙をいつぱいためて女の子の踊りまはるロシアの 体育祭を禮讃しよう 日本で誰が理科以外で植物の画をかいたか? あヽ植物  赤い鳥 赤い雲 赤い魚 赤い犬       [※ 以下3行ほど破いて破棄。]   富士 下宿の窓から見た不二は 煙草の煙よりは少し濃い 小日向台の向ふから覗いて── あヽ退屈な。熱が余り高いので 崖の向ふの犬を呼んで見ると それでも尾をふるから感心だ── この景色は夜になると 不二がかくれてウルンダ灯が方々につき出す 女の眼だ。芽を吹かぬ木に星がかかり 西片町にはあの温和な博士が今夜も御勉強だ となりでは又革命の話、あヽ諄々と 赤い陽がまはるまはる 不二が明日も見えるだらうか?  歪んだ車輪 東京を去るかなしみは落第を恐れるこころときみに語りき DornierX=DO.X 不忍池の向ふ岸には 近代摩天楼が並び立ち 輕気球の游んでゐるのを見たとき ハツトリよ あヽ 東京だね とおれは叫んだよ それは幻影の実体であるか? あつたか? かすみ立つ春の[野]に出でてわがをとめむかしつくしをつみにけるかな わがをとめあかきはをりをなつかしとめにたちにけるむかしいづこに   × つヽゐづつ[※ 枕詞]をさなともだち学校を出づる日にあたり沈丁の咲く このとしも沈丁咲くべくなりにけりをとめをおもふちまたのほこり やまもとのはるのかすみのおほおほにわれらのこひもすぎにけるかな 秀才の名まへも去りてことしここにわれ老いむとすをとめらいかに   × 沈丁はね 東洋人の匂ひだよ 舞姫たちのコスチユーム 色はなやかさはないけれど おれとおまへの初恋に この花の香がしのびいり いついつまでも忘れない 沈丁咲けば思ひ出す 頭が重くなるのだよ 沈丁 沈丁 むかしの花 むらさきいろのむ-か-しの花   × こころじく[ママ]沈丁匂ふ夕ぐれに 鳥啼かず木の枝かへる夕ぐれに むかしのこひをかたりにき   × けものめくわれらがこひは Polo Nostro Pulano Mores Ostero Kosmiro Poccici 何人かの執念の凝り 断ち切らんとするに あヽ又しても心のこり ゆきつかへりつふるさとのさいかち坂の うすらあかりに何ものかうごめくごとく あヽ又しても心のこり   ×× 邪念の淵に沈みはてしわれ きみを思はむことも恥(やさ)しや ゆうぐれはしづかにはひより なぐさめのこと云へどもそれさへに 吾が罪責むるものならずや 瑞香[沈丁花]の花の きみがまみに似たれば このはるのよひわれ死につべし   ×× ふえふきて青いゆうぐれ 女の子 自轉車にのり黒い小悪魔 淫れ言(ざれごと)云へば その子 うすら笑むと見た 自轉車は片輪 女の子の衣裳は まつ黒になつて了つた おれは嫉妬で身がもえて── 春雷やコーヒーの夢破りけり 春雷やはつかに麦の青しつゆ 春雷や不二を気づかふ出水川 あねもねの机上にあるや春の雷 むかしむかしの物語めき春雷鳴り           (二、二) まちかぬる女の便りかさにあらず 東京とそれを気にして春一日 東京に女もゐたり花も咲いたり からたちやめぶきあやふき蝶のえさ それとても亡からむのちよ鴬茶   ×× 赤き魚石間(いはま)に躍るに目も眩(く)れて 再びを尋(と)めむとせしがはやあらず 石(いは)おこし泥をさぐりて求むれば 黒腹のぬるぬる魚の鯰ぞ睨む 赤き魚つひに発見(みい)でず淵なさぬ この浅沼のいづくにか かはかくれたる 幼き日の思ひ出にそことなくかよふいまのこひかな 四月二日 美しき児を見たりければ 悲しうて── 若いと笑ふ人達のことも顧みず 後をつけたれば 蔦の芽も未だ出でざるフエンス床しき 館にぞ入りたまふる 四月のかなしみはさてピアノの 鍵となりてきんきんと鳴り出で 九官鳥を飛ばせたり 紫色の花咲きて春空に一抹の 煙のぼらす これはむかしのことであるか?   ×× やはらかきばらの芽ぶきのにのほヽ[丹の頬]のをとめのころにいまぞこひまさる いこふとかい ちまたをゆけばをみなごのまなこもいよヽひかずなりぬる こーひーの味なきことをいつよりか感じながらに飲みて来しかも 別れ近き巷を思へば洋装のうるとらもが(モダンガール)の眉びき思ほゆ   ××  ツネヲに あづさ弓、春早きとき、語れらし、野の花は、きみによりしか、 園の花は、きみかへりみず、白象の、感覚に似る、女買ひ、 [※ 破れの為不詳。]きまなび、われはなせりと、童貞(びるぜん)の、われにほこらふ [※ 破れの為不詳。]日の野の、花を見るべし、手折りつる、色香は、いまものこれり や、春深き、園に入るべし、美しき、魂らが眉なす、花毎に、 虫ぞとびかふ、いまさらに、何ぞも手をば、さへむ[ママ]とせんや  反歌 春たけばいまも夢見る花の香の深き道ゆき疲れしこころ 心ふかく女犯をいとふわれなればまりあ坐像を買ひて来にけり つねをつねを世のつねびとのなすことをせしかばいよヽきみを愛せむ   ××× むかし死を思つたころに一人憎んでゐた子があつた。その子はいま、地ふかくねむつてゐて、 夢に訪れてくれる。涙をながし手をにぎれば、暖かい手だ。だもんだからおれは彼の死んで るといふことを忘れて又、喧[いさ]かひをして了ふ。地をはねのけて出て来てくれてるのに。 けれど土の臭がするんだねえ。 三浦治 (四、四) 海港の夕の星の明らかにわれはこひむな赤らをとめを 人葬るゆうべもすでに女犯思ふたはけしこころ君は知れりや あめりかの水兵達の並びゆく埠頭場も今は見ることを得ず 黒々と銀河たちきる汽船の煙もなつかしき 千早ぶる のみ代よりうつせみのをとこはあからびくをとめを恋し をとめごはをとこをしたひつまどふものぞいまだきかぬをのこどち こひしたふはなつかしきをさむ[ママ]なれどもいかにかすべきいかにしうべきをとこなるわれは 衆道は元禄衆の姿かな。 黒船もいまは入らぬ古港。 ながさきにきみゐると便りつきにけり。 別れ路や定家葛のしどろかな。 春深く咲かぬ木もなき山路かな。 南蛮へ行きたきころや棕櫚の花。 蘇鉄生ふ寺門くヾるや春の月。 しらじらやよのあけるとき梅の花 むかし思ふ古寺の軒に燕かな。 いつとてか君を忘れき旅寢永し。   僕はもう歌が作れない (六) 繁縷(はこべ)の茂りふかい 春もたけておたまじやくしの生れるころは   × おたまじやくしの尾びれうすくて すきとほる山の池間に弟と見つ   × まつ白なこぶしの花のおとろへに 別れ (四、一○、九時三○分)   ツネヲにかく(前掲訂) わかれ路は定家かづらのしどろかな 衆道は元禄衆の昔にて 君が行かば咲かぬ木もなき山路かな  夜明け (四、一一) するが路の江尾の町の朝あけはつむじにひとのひとり立ちゐき 河原は海にそヽがむとしてひろがれり麥生[植]うるひとありにけるかも 梨の花方々に咲く湘南の濁れる海は見えてゐたりき むしあつく車窓もあけむと思ふとき富士の頂吹雪せる見き あかつきの海の渚におり立ちて船いださむとひとはとよみし 菜の花はこぼれて土に咲きにけり草木瓜[くさぼけ]もさくこの土黒し せんせんと水は流れる山小川うばゆりむれて生ふがかなしさ 六月のうばゆりの花いまだ見ず青臭きかも芽出しその葉は 春浅き植物どもの咲く見れば泪出るほどわれはかなしき 吹雪せる不二の高嶺のさびしさを御殿場の杉達観(みとり)けらしも                           [※不詳]L 湯原冬美  東京の印象 (四、一三) 西川に 木の花の夛い東都の首府は ゆうぐれ方に喧燥をひと度しづめ けうけうとやがて汽笛を鳴せば いづこにか花ちらす風のある   × × 杉の林に踏み入れば帝都とも覚えね やがて黄雀の風にひとびとぞなくなる   × × 金の冠はけふ拾ふべし あした古典の輝きに空は赤くたヾる[爛れる]べし   × × ここにまた泪おとすと友ぞ書き来る むかしの夜は青魚の鱗光か 閃きて消ゆる怨恨の結光か そこ知らぬ春の夜空に彗星ぞとヾまれる   × × 小刀をのみてさまよへば他國の巷 ここに泪おとす 白堊の館のかげにやもりうごめき 何とも知れぬ畏れ やがて脇腹は眞赤に血ぬられる   × × 廣重のお濠にボート漕ぐ女あり 土手のたんぽぽのほヽけちるひるに いかにものうく電車のゆきかひゆきかふか 新宿松竹座 イワンモジユヒン ベテイアーマン 白魔 十二日 室生犀星 鳥雀集 十三日 十四日 夕雲を省線電車に見たりければ この二三日山を見ざりしことの永かりしと感ず   ×アサクサ・カジノ・フオーリー をんなの子こひしいとて巷をあるけば何と裸のこれは子供である 成熟しきらぬ女の子の手足は好ましいと云へば 美泪するか   × 街頭に草花賣る子 草花を賣切る時はさびしからうよ カフエエの灯も見たくなし女の子欲しくなるとき眼の前にゐる   × たんぽぽの堤の上にまろびゐて羊になりしとふと怪しみき 東京は輕気球浮く空夛しこの感覚をわれは愛する いつか夢に見た輕気球の銀色もいまはこのましい空に浮き出る   × 木の花のちりくる梢けふ見ねば一日街にゐたとは知りき 木の花は暗に匂へりくらやみに水の流れる光と云ふか   ×  大森 (十二日) ひるまへの藝妓はかなしべんべんとものうく三味をもてあそぶかな 大森の停車場の崖の木苺はいま咲きにけり旅なるわれは  お茶の水橋 (十五日) まんまるく陽は沈むときニコライの尖塔の形式語りつヽゆく 誰人も感じることかニコライの辺の夕陽ものさびしけれ 女のぼり来るニコライ坂の曲がりかな螺旋塔ゆく四月のうれひ ゆうぐれのくらきちまたのところどころ白堊の樓は蒼くそびゆる むさしのヽ地平も見えず春もやのいまふかきときゆうひは下る こころふかくなげけとならばゆうもやにニコライの鐘鳴りも出づべし たわやめを買ふすべかたるこの友にわれは軽蔑されたくなし  十五日 L 三浦治  十六日 L 西川英夫、能勢正元、湯原冬美 始めて授業を受ける(十六日)西洋史概説(村山教授)  松浦悦郎に会つたかへり(一六日) 竹の花咲かぬか知らと星明き夜空眺めて篁[たかむら]道ゆく われとわが跫音をきく野つ原に星座はぐいとずりおちにけり まよ中の野原に向ひ尿をするけだものどもは吼え出でにけり わが族はいまははるかにねむりゐる安けき感じに星空をゆく よもすがら眼にいたさ感じをり目覚むれば椿の紅く咲きたる よもすがらわれが眼を刺激せし椿の花は戸外にむらがれり  冬美を迎へるまでは(十七日) 午后四時四○分さくら  お茶の水 L 西川英夫、三島中 聖堂に人ものぼらぬひるまへのうすにび空に鳥むらがれり どんよりとお堀の水は匂ひけり夏来るときかなしくならむ 木の芽みなかすかににほふ東都の郊外をゆけばいやにかなしき  大学 お茶の水 たんぽぽは女高師外の堤にていまだほほけぬ女(ひと)出で入らず  お堀端 まんまんと水をたヽえる策建てしむかしお江戸の城築(つ)きし人 柳芽ぶくお濠のはたの電車道クローデル去りていく年ならむ 東都の帝の城のお濠にはおたまじやくしも生れぬなるかも    ※  白木屋(銀座)、三越(室町) こまくさは介われ[双葉]なれば問はれしに名を答へ得ずいまぞ答へ得 もろもろの山草採りて植えおきしひとなつかしむ山なつかしむ 晩春のつヽじの花もかなしけれ植物の族ここにつきにけり 勿忘草買ひおくらむ人あれな どの女学かにひとりはゐるらむ   晩春やわれもむかしは美少年(一茶に倣ひて松浦に負ふ)   少年もこひしきころや百合の花   山草は巷に咲けば買はれけり   碧い瞳がかなしくならば龍膽花[りんどう]   青海に盲亀漂ひ晝の月        保田来る 十九日 菊池眞一君と荒川堤を散歩 瀧野川の汚き街を出外れて筑波の山を見出でけるかも   × 荒川堤   桜咲く荒川堤は汚けど   河原に草は咲かねども  ※ ゆく春は荒川土手の花霞 かすみに青しつくばねのいろ つくばねのおてもこのもに桜咲きこの春風に散りにけるかも あづさゆみ春はゆくゆえさみしらに川下る船目もて送れる もの思はずひたに眺めば東京の郊外にあることすでにはかなし これはさびしさであるか。いないな、さびしさではない。 さびしいことはない。いのちいきて何のさびしさか。   × けれども草の花の咲き、木の芽ぶきのかすかな匂を立てるとき、おまへはいつも暗い顔をする。 それは淋しさであり、ゆううつではないか。 いないな、淋しさではない。ゆううつでもない。これはお芝居である。お能と同じく舞台に上がれば僕は面をつける。 それがいけないのだよ。誰もがそのお芝居を見破つてくれはしない。見破つてもらふ必要なんかありはしない。君はぼくがこののーとにかくことも、ほんとだと思つてゐたのか。   こ春かなしや紙治に惚れて紙治かなしやこ春にほれて。[※紙屋治平 近松の心中天の網島]   何がかなしや相ぼれならば。やれ相ぼれなればかなしとよ。 二十日 JOUS MOUS PROMNE! [※ つかれはてた!]   1、芝公園、増上寺 品川の海の見えくる築山は 西向地蔵坐ますところ うつうつと春のゆくことかなしみに うこんざくらを見にゆきにけり 品川のお台場見てる夕ぐれに 汽船の出てゆく あヽさびしいな 海彼岸のメリケン波止場まだ見ねば 品川台場に波よる夕べ 房州の津は見えずけり うすらびく汽船(ふね)の煙か花咲く陸か 埃立つ芝公園はつまらねど 愁ひてゆきし君思ふかな   2、金地院 金地院に夕方となりて女の子縄飛びにつどふ 桜散るかな   3、オランダ公使館 オランダの旗を見るなら赤椿咲くこの庭にまたも来るべし オランダの國旗は既に下ろしあり 花ちるくれのしづかなる館   4、JOAK [※東京放送局] 空中に電波ひろがるをたしかに見るぼくは 近代電気学習ひしなれば 送電柱の高さに既に力を感ず これは近代的だたしかに  [※ 破れによる抹消あり。]   × 赤煉瓦の國に来て緑青の浮いたドームを見てるとふしぎな圧迫を感ずる これはおれの父祖のおどろきの遺傳である   × 王侯の子孫と机を並べて勉強 秦氏の子孫である俺に何の卑屈さがあらう あのビルデイングの朗らかなクリーム色に 王侯が何の関与 秦は封建制度を破壊した   × 智利の國に来しと思ひき霞ケ関の七葉樹(とち)の並木は今ぞ芽ぶきぬ   6、桜田門 三月の上巳の節句雪降らば又も直弼ここに殺されむ 雪の降るしんしんと降りこむ青濠に忠弥の石は今も沈める [※ 丸橋忠弥] ゆく春はお濠の端の植物の花のほほけにひとぞなげかむ 濠向ふのお城の上に番兵は退屈しつヽわれを見てゐる むらさきの夕焼け雲は陽を示し桜田門にわれはゐるなり 濠端の柳の芽ぶきやはらかしおほりに沿ひて電車曲がれる 埃立て自動車は既に去(い)ににけり霞む柳の並木の長さ まつ青な濠端の草に春たけて戸閉(ざ)せる館お城にはある 新議會のドームの姿雄々しけれ陽のくれ方に果なくかなし   7、参謀本部 江州彦根の城主井伊掃部頭のお邸は今も変らず戰を謀る 山吹の咲く夕庭に物思ひ人な立ちそね泪おの湧かめ 山吹の咲くやぶ蔭の庭たづみ光りてゆくは春の小魚か 山吹の咲くころとなりころころの蛙の小田もこほしきものを 山吹の花にかあらむ向岸の木のくれにしてしみじみ光るは。   一鳥無啼山更幽 木のくれはしじになりけり鳥啼かぬみ山は更にさびしくもあらむ                         L 丸 富士山の見える原つぱ (四、二二) あはきうれひにこころつかれて富士見ゆるはらつぱをゆく雨あとの土 さつきさし[ママ]林の奥のわが宿はいつしかよしと思ひけるかな 杉の林の中にしてすみれの花も咲きにけり くぬぎの花の咲くころは下草をなす杜鵑[ホトトギス] 花のあはいさびしさ おもふゆえ 今日も探(と)めきて ね[根] こじたり 生けおきし花瓶の水仙匂ひうせて今日山草を加へ入れたり 竹林の三日月 (四、二三) 丸三郎と会ふ 家に来る 話 話 新宿明菓 王摩詰[夕暮れ]琴彈く夜こそ竹林に細き月出で曉(あけ)に落ちけむ 三日月の鋭き光西にあり黒き竹林に筍のびむよる 丸三郎とひるま見たりし竹の子は三日月の夜にずんとのびけらし  花火を上げようと子供らが云ふよるは  東京の空は深海のやうな深い色となつて  深大寺の佛様の御顔に反射すると云ふ  くぬぎの房のたれ下るこの頃のよるは  淡いよるの雲に東京の灯がうつヽて  深く深く息づけば  あヽ、あの木蔭に咲くは山吹の花、日本の杜鵑の花も   ×  抒情詩を作らなかつた子供は僕一人  大人で抒情詩を作る人もある  植物の可愛さに三越に行つた子供は  果して女の子を愛しないであらうか       ソフキノ春を見よ   × × あづさ弓春は早けど青壁に弥勒菩薩の像をかけてうれしき 清 うれしきは弥勒菩薩のおん眼われが女犯を目守りたまへる 「死」 おまへはおれの手許でもおまへのいのちを誇るのか。 「生」 ええ、さうなのです。私はいのちを誇りながら今迄すごして来ました。     だからそれを失つた今となつては、その輝かしい追憶に耽けることが、許されると思ふのです。 「死」 おまへはおれの領土には輝[か]しいなんて言葉が通用しない、     永遠の泥沼しかないことを忘れたのか。 「生」 ええ、それ故に地上にあつて、あれほど光り輝いた生命と云ふものが、     よけいに尊いのです。それはあすこではいくらもころがつてゐるものです。     だあれもそれの尊いつてことを知りません。私だけがそれを知り得たのでした。 「死」 おまへは忘却の河を渡らなかつたと見える。 「生」 忘却の河。いかにもそれは渡りました。でもそれを渡つたことをさへ覚えてゐる     私がいのちのことを覚えてゐたつて何で不思議なことがありませう。忘却の河で     私は夛くの事を洗ひ流した様に思ひます。しかし或は何も減らしはしなかつたかも知れません。それほど私のいのちは尊いものでした。ありがたいものでした。     いのちがあつたつてこと、これだけは忘却の河でも忘れさせはしないはずでせう。     でなければ貴方のあるつてこと、あなたの畏るべきことそれ自身が意味をなさなくなるではありませんか。 「死」 おまへはおれを小賢くも見ぬいた。しかし何故おれは畏るべきなのだ。そのわけを云へ。 「生」 あなたは地上ではずゐ分恐れられてゐます。これは私のいふ畏れるとはちがつた意味なのです。地上の人はあなたの手下を幻想します。 あなたの手を骸骨の手だと想像します。あなたは蝙蝠の翼をもつて、引潮時に家々を廻られるとしてゐます。 「死」 おれのことを何とおまへ達が想像しようとそれは勝手だ。しかしこれはたしかにおれの冒涜になりはしないかな。 「生」 いヽえ、さうはなりません。只彼等はさう想像することによつて自分の悪を一つ増す丈なのです。※ 「死」 何故さういふ言葉をお前は使ふのだ。その言葉は俺に不愉快を感じさせる。     それはたしかに生命の範囲に入るものだ。 「生」 私はそれも知つてゐます。とにかく私は他の地上の人達の様にはあなたを想像しませんでした。私はあなたを知り得たのでした。たしかに。生命を知ると同時に。     私は貴方を地下の神とは信じませんでした。あなたはあの雲の上にいらつしやると思つてゐました。そしてそこで私は今あなたにお会ひしてゐるのです。 「死」 さうだ。そしておまへは雲の上がおまへの想像してゐたやうな光り輝くところではなくてじめじめした泥沼だつたつてことを今初めて知つたのか。 「生」 ええ、あなたの推測は大体合つてゐます。しかし私はろまんていすととしていつも考へてをりました。あの光り輝く雲の上は或は最も光の乏しいところではないかと。     何故なら光を最も要しないところからは最も夛くの反射があるわけですから。 「死」 その光を反射と見破つたところはさすがだ。成程、ここにゐて不満足なことは、自分の光を持たないこと丈位のものだ。勿論おれには光はいらない。 おまへ達にだつて与へる必要はありはしない。でも見せかけ丈におはることは空虚なひびきとなつて、この穹隆にはねかへるからな。 「生」 ええ。 [※ 以下未完。] よはね傳に海の魚もえす様のこころまかせとなりしと云へる。 おん君はわれを見捨てヽゆきまさむ空しく海に嘆き入るべし。   鴎とべとべ波立つ洋に   けふは海龍空に至らむ   さヾえの殻もとけぬべし 冗談をまじめな話にまぜるのが僕のくせだと云つたひと感じた人は外にもある  小林正三、三浦治、久保健太郎、西川英夫、最後に柏井俊子嬢 こひしいは肥下の妹元子なれ三千世界をさがすとも 無間地獄に陥つるとも契らでやまぬすきごごろ (おい、冗談をほんまにするな。今日は丸に大阪弁を使はしてうれしかつた) 夢 (二二-二四)   第一の夢 私は處女(をとめ)を抱き、霧の夜の木犀の花の様な その唇に接吻(キス)した。處女は体を横向けて泣きに泣いた。   第二の夢 私は結婚式に列席せねばならない。私は花婿であるから。 小い私の花嫁は指輪のはめ方を私にきいてる。 私は私の第一哲学をしやべくつて、 次の間の小いベツドをぬすみ見る。   第三の夢 私は可愛い馬を持つてゐた。鬣[たてがみ]のいヽ、眼のやさしい馬で、 私が拍車をあてるとぐんぐん馳けだす。 馬にのるのはたやすいなと思つた。私はまだそのやさしい眼を覚えてゐる。   第四の夢 私は小い棺を用意した。私の花嫁は死んだのだ。 棺に入れると隙間を花でつめた。それから川へ持つて行つて 小い舟にのせて流した。 青い葬旗と笛を吹く伶人の群がそれを追つて川岸を下つて行つた。 私は私の花嫁をも一度見られるかと家へ引返した。(二六日)  芦間をわけて私は笛を探した。  芦のざわめきは私の笛であつた。  蟹の這ふ泥の上には蟹の足跡があつた。  夕ぐれ方は潮が引いて泡立つ音がした。  芦は潮と潮のあひまに延びて行つた。(二十六日)  筍をぬすみに来るや月の夜  菫咲く竹のおちばはふかくして  山吹も深しと谿を遡る  階[きざはし]や落花ちりくる空にまで  あはれさはくぬぎの花の短くて  もみの木の芽立ちもあはし潮のいろ(一首、イタリア) このゆうべせんだんの実をくひつくし小鳥は空に散りゆきにけり ことりらのとびかふ空に陽のいろのひろがりつくし天雲となる ちヽぶね[秩父嶺]をけふは見しかば見なれ来し山の姿をなつかしむかな [※シュトルムの原詩“ハープ弾きの娘の歌 他一篇(不詳)抄出。次はその一篇の訳。] 並み伏せる青丘のあなた 角笛吹きて牧人ぞ住む あヽ 希望抱きて牧人ぞ住む 陽の出づる朝となれば 小屋の外に紅き芥子咲き 夕べ羊を追ひて帰れば 十六夜 薔薇ぞほの白し かくても尚希望もちて 牧人は出で入る 誰ぞや訪めこな 麗人(あでしびと) かくて年ぬ 牧人は額皺だみ 髮はた白し 年ごろの希望はいまし 朽ちぬるか 否 さにあらず 山深く訪めも来よかし あでしびと 僕の冗談をほんとにする奴がある。 ここに書くことも正気でないことを知れよ。   晝の月盲亀浮木に会ひにけり 量を見ろよ。 二十七日 毎年杜鵑花[ホトトギス]の咲く頃にはゆううつになる。どの木も皆新芽を出して、 それが精力的な気を吐きかけるのだ。おまけに下草のさつきの花の紅さ。昨年は僕はふかく死を思ふて京都の國行を尋ねた。銀閣の雨がよくて、死ぬのがいやになつた。 國行の慰めも力をつけてくれた。僕はこの時以来國行を忘れない。いつまでも忘れまい。 そして今年もさつきが咲く。前のくぬぎ林に房の花が咲く。陽の光が白い。 死んだ増田が羨しい。可哀さうな増田が羨しい。 生きてゐる甲斐がない。死ぬのは一層辛い。植物が憎いのだ。可愛いからよけい憎いのだ。省線から見る代々木の土堤のさつきの花、大学のさつきの花、そして宿の前のさつきの花。   本位田よ、   冗談の好きな二人は別れてから   お互につまらない顔をしてゐる   俺達はかざることがなかつた   かくすこともなかつた   むやみとお前にくつヽいてゐたかつた 衆道はいやだけれど女犯もそれに劣らず厭である。 肉親はいとはしく醜さが目につく。他人は愛しても見むいてくれない。 ソクラテスの苦手は妻であつた。おれも夛分そんなことだらう。 美少年に生まれてゐたらもう少しおれは悟つてゐたらう。 体が強ければもつと押しが強くなつてたらう。 早く故郷を出ればよかつたのだ。いつのまにかおれは自分のことを告げるくせが付いた。 人の悪口を云ふには神經の柱が要る。おれはそれなしで敢て悪口を吐く。 おれを愛してくれる奴は軽蔑してやる。俺を憎む奴は殺してやる。 おれは王様に生れてくればよかつたに、どうしてもこれは間ちがつてる。 あヽピアノの鍵盤を叩きこはすまでにどれ丈の騒音があることか。 社会の新しさはその瞬間々々にある。革命は早く来るべきである。 近代弁証法は唯物論であるから、僕等ロマンテイストは時には困惑して見る。   波止場に舟の着く如く。   女は結婚を目指してゐる。   それを恐れて見るけれども、   他に救ひを持たないのが彼等だ。   しみじみと可愛さうだ。   おれはフラウを愛してやる。 巷に雨の降る如くわが心にも雨が降る(ジヤン モレアス)。 まことに雨は降る。キネマのフイルムに降る雨は光り注いで 瞬時も止まぬ。余計な知慧と必要な無智に囲まれた おれの心には後悔の雨が小止みもない。つまらぬ歌も作りあまた もう作れても月並みだ。小説を書くにも懸賞金が目についてならぬ。 あヽ雨だ。しみじみと雨。日照り雨。   二十八日(火)肥下に逢ふ。 僕は保田と肥下と服部とで銀座を歩いた。服部は親父から送つてもらつた五十円を持つて服を作りに行つた。五十円以下の服は無かつた。服部は六十四円の服にした。 外に出ると僕は保田をつヽいてシヤボテンの花を見せてやつた。保田はホンマカと云つておどろいた。 肥下は珍シイなと云つて見に行つた。僕は保田にウタを作れと云つた。保田はオマヘコソと云やがつた。俺は気に入つてカラカラ笑つてやつた。  XとYとZを足して2でわる。  これに意味があるか、けだものめ。   ×  このごろは人が殺したくとならぬゆえ、  小刀等は家へおいて出。   ×  世の中でいちばんえらい奴をころし、  おれはゆうゆうと首をかつきる。   ×  ブルジヨアの世紀も遂に、  今日となり、哀れみじめな人間を廃す。   ×  カオカオと鏡を見ては笑ひたり。  頬のほヽけは遂にかくせず。 武蔵野の杉の林に月出でヽ天心近しいまか仰がな 遠煙る武蔵の國の杉原に月かげさヽば何か生れ出る 精霊の活動の様想ひえがき楽しかりければひとに告げたり わが頭の変調もすでにおのれ知る 人ゐぬところがこわくてならねば 二十九日(水) 丸の家へ麻雀しに。 頬白はすでになきやみ夕せまり にさむさは来りけるかな 頬白の高鳴く小田にゐ向ひてこ雨ふる にすでに時すごしつる 麥畑の向ふの小田にころろころろ蛙のこゑのしげきよひなり 細雨(こぬかあめ)武蔵の木々にしげくして若葉のかほり今日は至らず 三十日(木) 丸と散歩。 秩父嶺ははるかに見えて山襞に雪残れるも見ゆる日を遊ぶ 夛摩河の河原の石をひろひ上げ水に投げいれけふはすめりとす すべろぎのふるきときより開き来し武蔵の國は未だ原なく 植物をいくたびもとり捨てにしがかなしむなりと友も思はず 革命の女闘士の入れりとふ狂病院にひるはこゑせず 看ご婦に女の狂者みちびかれ春のかき園にいま歩み入る 狂者らが入りこもる杉の林中まひるはたけて鳥鳴き入れる 植物のおのおの咲ける林に入り幼年の性慾語り久しも 郷愁はいづくにかある西の方はるばる嶺は重なり見ゆに 丘の上の松のふもとに昇りけり風つよしといひ雲を見にける あまづたふ日は雲を入り松風をふかしといひて丘を下るかな 血のいろより紅きつヽじの花藪はこの青空にいよヽ鮮[さや]けし むさしなる大國魂のみ社の けやき並木は緑なす 光はだらにもれ来る 道の果てまでかよふ人なし 春ふかき雜木林の下草にゆるる光をこよなく愛す 植物の幽けき花の光りゐる林のためにこの國をはなれむらむ  メーデー 胸一杯に迫り来る やせおとろへた老車掌はもはや労働歌も歌へない   × まつ青な女の群がゆく そのかなしいメーデーの歌に泣いた 泣いた   × これがおれの詩望[ママ]する革命の原動力か 搾取しつくされた青い群   × あご紐をかけた黒い服を満載したトラツクに あらゆる憎悪の光が投げかけられる   × アヂ利かず空しくおれの目の前で 二人の学生が捕へられる   × 團結をと叫んだ瞬間 サツと逃げのいたこのルンペンの奴等   × かれの特兆のある顔は 口惜しさでゆがんでゐる これこそこの世紀だ   × 春ふかき上野の山にはメーデーのぞめきの後にちる花もなし メーデーの帰りにお山の石段を下りゆく群のつかれのしるさ 階級の戰ひをおもひふとさびし かの階級はいまひるねせむ 橡の芽のほころびそめし上野山ふかきいかりに人集りつ 大空に近代気球けふも昇りメーデー見むとわれもゆきたり メーデーを見むと集へる人々を監視巡査の無精鬚もさびし のどに布まきし巡査がゐたりしと友かたりしもさびしき五月 五月二日 上野博物館へ保田と 夏の光すでに来れり噴上げの向ふの路を女学生むれ来 噴上げは高くのぼらずさつき咲く芝生の子供エプロン白し ゆりの木とわれが教へし樹の芽立ちやはらかにして水滴を落す やうやくに空も澄み来てクローバの丘に画を描く人の出るひる   肥下とFRAU およめ迎へしツネヲつまらずなりにけりしばしばにして術(て)を使ふなり ことさらにゐばつて見せるヒゲツネヲよめ迎へよとすヽめざらましを ツネヲのFRAU普通の女でありしこと少し喜ぶだれの にも おれが恋してるとハツトリマサミ云ひけらしその子の顔を夜更けて見ぬ   × ×   武蔵野補遺 むさしのに小さな家を作り上げし丸の兄貴は負けず気なれば むさし野の小さな家に住ひして己れ楽しむ凡人の一人 ころころの蛙のこゑも賞(め)でざらむ人裁くことを常とする人 かくて われらいよよ楽しまむ生きゆくことはつまらぬなれば 青葉せるけやき並木はやうやくつきて白きみちなり何かうれふる   井の頭 女の子からかひて見しがかへりてはさびしさをますことヽなりしか 井の頭をつまらぬと丸は云ひしかど杉の並木に女らゐしよ 五月三日 保田来ル。荻窪マデ散歩。俊子嬢曰ク、圧迫感ヲ感ズル顔ト。 L 父ニ 五月四日 西原、金澤ト 楽坂散歩。既ニ距離遠シ。L 西垣 日本人デアル事ヲシミジミ感ズルノハ 電車ノ中デ女ノ児ヲ見ルトキデ 珍シゲニ色ンナ男ガ傍ヘ寄ルカラ 勿論僕モ注目ノ眼ハ放タヌ 僕ハ年中恋ヲシテ 年中失恋計リダ 之デ得恋シタラソレコソ死ンデ了フ   × × 岡部テ奴ハイケ好カネエ。 六日 「不滅の放浪者」本郷座。 章さん来る。 七日 風邪。   七葉樹のことをマロニエと云ふ。 大学のマロニエ並木芽吹きそろひ青きが下をいつかも通る 佛蘭西にゆきたしと云ひし友達はマロニエの下背広でゆけよ まつ四角なビルデイングの角々が、 急に尖り、我々を押しつける。 これは圧迫だ。彈圧だ。 我々は胸を膨らせあらん限りの声をしぼる。すれば、 深い四角な谷間の方々に 窓を開けて我々を見る眼がある。 それは漸次増えるであらう。   × × × 山に昇りたいとぼくは独り言。 杉の梢に雲がかヽつてゐる。 平地のここには暑い日ざし。 しかし明るさ──それ丈。 あのきびしいカオスは見られない。   × × × かつて文化の栄えた地方は、 今は荒廃して、 裸の山背に陽がたまつてる。 今昇つて来た分水嶺の片側は、 紅葉で彩られてゐたに、 ここははかない墟ばかり。 鳶が舞つてゐる。   × × × 山を行けばつきぬ野草の朱実かな   内海 珊といふ名は如何? 海は今日も陸に向つて咆吼し、膨れる。 微生物の作業はこの間に着々と進行し、 やがて深海は白浪を噴き上げる浅瀬となり、 淡紅、眞紅、紫、白、とりどりの海樹。 浪はざんざんと鳴るのだ、ここでは。 鴎の巣がやがて出来よう。(七日深更)   × × 海はけふも荒れたり水膨れの死屍浮かせ覆船帰る はろばろと沖の浅瀬よ立つ鳥は陸にはよらず日もくるるがに 沖つべの小島の磯に小き舟波にゆられてけふもある見ゆ 沖の辺の小島は椿しヾに咲き家一軒にもの乾せる見ゆ 青淵に魚族ひらめくこの海に人沈めるをたしかに信ず 海に水 住むと思ひしが海行かぬわが理由とせよ 青浪にけふも漂ふ海の藻の何處の岸に流れ果つらむ   × × マロニエの並木の道の舗石の光もいたし白雲高し 丘の上の時計台の向ふに雲立てばこの の丘いまは忘れじ   × ×   無為の日、四五日。今日は五月十三日。 駿河台下の深き谷間には、 深海魚にも似た黒い電車が通る。 その腹の中に呑吐される一人がおれだ。 その胃液におれは全く体を悪くして了つた。 銀杏の並木が日にまし暗い。 おれはひそかに人を恐れる様になつた。   × × 深い深い緑の茂りとなつた。 植物の王国に僕はゐて、 一番高い梢に石を抛り上げる。 その木は手をも差し伸べず、 そ知らぬ顔をしてゐる。   × × 宝永山が失くなつたといふ噂が、 ほんとうであればと願つたのは、 ぼく一人ではない。 日本一の不二山に関してもさうだ。 まして古い形式美の朝廷なんか、 吹つとんぢやへ。   × × 月給の話をするのはぼくぢやありませんまりあ様 五月十四日 服部を呼んで来る。 大学、街に野球盛なり。 大学生の野球ほどつまらぬものない保田の云ふとほり。 大学はルンペンに非んば左翼インテリである。 後者は前者の二十分の一位。嘆かはしい限りだ。 西寛今日出獄、親父につれられて大阪へ帰る。 夜、見る桐の花、街燈の光に白し。 桐の花、夜も咲いて乏しい星。 青い青い森のしげみに光れよ鳥の羽。 いつかお伽噺の夜となつて夜鴬(ナハテイガル)。 こんぴらの宵宮はいつか知り、船のにほひ。 むかしの女の人来る路に木の葉は繁み。 お墓に参らう、苔が深いときに。 闘士、闘志。 このごろはいつも桐咲く梢を見る。 雲がかヽれば一層鮮やかだ。 紫の花てものは余り他にあるまい。 京都の大学へ行つてたら。 きれいな女の児に逢ひたい。        學難成。 めぐりあひ、それも昔か、今は今、誰にか逢はむ。 黒いちゆりぱ まろにおんと まかろに  五月十二日にヨセフ・フオン・スターンバークの「モロツコ」を見たこと忘れてた。           マルレネ・デイートリツヒ。ゲーリー・クーパー。 説明 塞外の地は沙漠にして蓬々と吹く風にかすかに生ふる植物あり。 牛馬の一群に鬣吹かるるあり。兵等喇叭吹きて行けば飛び散り逃げる。女等の啜泣き。 漢の圏外の地にも路はあり、 和闡珠[ほうたん]を出せば漢賈[かんか]通ふ。 初めて見る青海のいろ、雲の中の嶺。 沙漠の牛羊は人を恐れず、 横はつて幾日か知ら遂に骸は道標となる。      蒲梢之馬歌  史記武帝伐大宛得千 里馬名蒲梢作此歌 天馬徠兮従西極。經萬里兮帰有徳。承靈威兮降外國。渉流沙兮四夷服。  五月十七日 慶明帝立戰を観る。 かく深き谷間に軍のこゑひヾき 武士の矢音はしげし 白雲のいゆきかくろふ峯の間の ま日のわたろひいま年に近し こころふかく倦みつかれ 木のかげにやすらへばとて 流れくる矢の雨は防ぐすべなし 友どちも傷き斃れ わが馬も足折り伏しぬ 炎熱の谷間の沙に けだものの肉(そじし)の腐(くだ)ちはうはうと ひろがりゆけばいまは耐えず 死屍の谷はかくて生けるもの一人残さず 月讀の光の知ろす國とはなりぬ かはず鳴くむさしのくにのくぬぎ原にすヾらん咲かば この國の毛ざはり剛き乙女子もわれになびかむ かくなれば都の中の峽なす深き谷間を朝夕に いゆきかよひて死骸(しかばね)のひからびはてし大学にまなびまなべど なにかよからむ   反歌             詠遣大東猛吉 銀杏の並木はあれどいつもいつも美し良しと賞むる人なし みんなみの嶺丘耿は箱根山 いゆきこえゆき 宝永の山も消えざる富士の根を ながむる野良に 今は住みかなしき愛事(かなしみごと)もせざりしと 西の都を 怨み思ふにほとほとヽ悔しさに身も消えぬべし感傷心 も果てぬべし 今はたはれ歌(か)つくらざらまし   反歌              詠遣中島詠二 たわけたる歌つくりつヽ頬ほそりわがこひのときすぎさりにけり かくのみにきみが嘆かば東にわが来しことを悔(くや)しまむ かくなるは宿世のさだめいまさらに嘆くとてしも 西なる京の都は五月雨の暗き光にとびかはす つばさの群も森かげの幽けき花も細みちも み寺も神の杜 林なべてよろしきももしきのふるき こころのなかどころきみがまなびによからむと思ふ   反歌              詠遣西川英夫 かはず鳴く北白川の坂路をい泣きさちりて[泣き叫んで]昇る子見しや 大原や八瀬や鞍馬やさびしさはとてもかくてもつきぬふるさと 小雨降る五條のはしにゆき立ちてあめの晴れ間を眺むれば 都をめぐる山々はうすヾみいろかむらさきかそのいろのこと語りつげ来よ   反歌              詠遣本位田昇 うつくしきみやこ乙女の一人二人われに残しな旅のなぐさに 江東はけふも雨降る 河ぎりの凝ごりてなれるかうらめしとなく人々の泪つもるか   反歌              詠遣友眞久衞 いまさらにいんてりのぐちやめなされここは上野かメーデーの歌 五月十八日 深溪や毒だみの簇(ぞう)色濃(ご)とよ 見上ぐるや今日もかはらぬ桐の花 しんしんと植物の呼吸ふかくしてここの林に人疲れたる も早時はまよ中なればひたひたと足音かよひ消えゆくが聞ゆ むかし見し山花もいまは枯れつきしかの山原のきりはたしげし エミイル、ヤニングス「嘆きの天使」ハインリワヒマン原作 たはれめに恋ふはすべなし── の声 五月二十日 章ちやんら帰る。東洋史座談会、一円八十銭   ※ 1、くぬぎ 植物連頌の一   くぬぎの林には不思議がある   小鳥が夛くかくれてゐる   若葉は五月の蒼空に光を以て呼びかける   短い花期にも拘らずもう殻斗実が用意されてる   空をゆく毛糸のやうな雲からの光が答信する   くぬぎ林の外でぼくは人生を半分まじめに考へる   くぬぎ林にはきんらんが咲く   ぼくの机の上にあるのがそれだ 2、杉   杉は昔の石炭紀の力でぼく達に迫る   眞率な迫力 のび切つた把握力   杉はまじめに思案し やがてまじめに咆吼する   月の夜はいよいよ黒くなる   光は凡て吸ひ取つて反ねかへさない   杉は男である 田舎者である 3、百合   これはお俊ちやんの好きな花である   こいつはばかにおすましで   おしやべりな女である   女にとつてはすますこととしやべることヽは同じことだ   静かな園に咲いてはまはりをかきみだし   暗い林に咲いては自分のおしやべりで見つけ出される   欺瞞の花で虚栄の実を結びやがて誘惑の根を太らす   こいつは始終厄介者だ 4、星のある夜に咲く花   おれがかう云ひ出すと   皆の花が乙にとりすまして   自分こそてな顔をする   誰がそんな奴に目をつけるものか   星のある夜に咲く花は   暗夜には咲かない利巧さをもち   晝には萎れるやさしさをももつ   泣いた様な顔もするが笑ふ時には美しい   (泣顔がきれいだと云ふ奴もあるが)   星を見つめては叩きおとさずにはすまぬ奴さ   それと云ふのも星がだらしないからよ 五月二十三日 5、グロキシニア  植物連頌の五   女王様 今日は霜月の十五日でござゐますげな   成程 宮庭の花も盛りだわの   一寸 王様 お気晴らしに出てごらん遊ばせ   朕(まろ)は胸がわるくてならぬ 何れその花のかげんにてもあらう 6、葱   パリー郊外の玉葱畑には   赤い革命旗がひるがへり   ヴエルサイユ行きの内儀連が通る   けふも王様は狩で留守だつてな   葱坊主のあるこの頃は玉葱も不味い   赤い旗の列 葬式のやうな歌の声   うすよごれた女の群   玉葱の花はけふも根莖をやせさせては咲いてゐた   (中野重治がんばれ)  共産黨事件解禁は一昨日にてありし 遠く眺めると丘の上の都会は 雲の如くその尖塔をそびえさせ けふも悲しげに笛を鳴らす 夕暮の前に── 夕陽はその丘の向ふに落ち まつ黒に都会の外形を刻み出す その瞬間である 笛の鳴り出すのは 夕暮の前の── 僕等は麥畑に立ち お互ひに恥かしがり 頭を垂れてゐた 今日もあの笛は鳴り しかも夜明はまだ遠い まだ遠い── やがて夕暗はしのび来り 僕らと都会との 間に厚い帷[とばり]を下ろす このくらやみに夛くのものがとけてゐる ひそかに流れよるものを感ず── ぼく達は腕を組んで歩く 夜の鳥が脅かされたやうに鳴く 牛乳の匂がする 枯草の匂がする 夜明は遠い── 今ぼく達の立つてゐるのはどこか知らん 夜雲をてらす ほのかな光があり 惨々たる風が吹いてゐる 夜は正に半かな── もう一度都会は汽笛を鳴らす 悲しげに また雄々しげに それを鳴らしてゐる人間をぼく達は感じる それは仲間だ── 五月二十四日 丸と散歩 朴の樹の大葉をしるしと思ひしがけふ見上げしに蕾立ちゐつ 大学のマロニヱの花咲きたりと友が云ひけば明日は去(い)て見な 幽けき林に咲けば白妙のふたりしづかの花も折らざり 雪頂く富士見ゆる西の空ありて武蔵の國は青葉そろひぬ 五月二十五日 服部とのみに  けふも不二山見ゆ  安田講堂の向ふに筑波山 時計塔あふぐひるすぎ空すみてこの巨さはかなはぬとおもふ さむざむと高空の風ふき来り晴れし時計塔の向ふにつくばね 赤城山も見ゆるむさしのくにの晴れ 高く連る地平のはるけさ まなつの白雲たつを見てゐたり何も起らぬ帝都のひるすぎ 五月二十六日 増田の兄さんから便り。増田はぼく達を怨んでゐなかつたさう。 五月二十七日 菊池とこで麻雀 おぼろ月木魅めく夜のものの花   × × 深夜 生物の如き 二眼車あり 追躡[ついじょう]し 肉迫し 横より まつかうより あらゆる角度もて脅し 来り 去る まこと 止まるに音なく 光る路を辷[すべ]り来る この冷血なる機械を破壊すべし   × × われは中年のおぞましき性慾に脅かされ いま月に向ひて咆吼する野獸と化し 再び転じては沙上に匍匐する二足獸となる 月は哀傷の眼 却りて冷たく 沙は熱つぽく吾が腹を押しつけ押しつけ ここに 永劫の烙印を印しづけぬ われは罪を負ひたればかのなざれ[ナザレ]の聖者の如く 淨き血もて十字架の死もて之をあがなはんとせしに 汚れしわが肉は終に何人の収むるところとならむ 十字架にわれを架する労を執らむ手いづくにかある われは咆吼す われは哀傷し 沙上に反側し転々す われは醜し われはおぞまし われとわれにも あヽ──   × × 木の花の匂ひは何に似たるらむ        かの無花果は誰か収めし 梅雨来むはいく日(か)の後か あすならめ        はこねうつぎはちらずもあらむ 枇杷の実のみのり約する五日雨        あぢさゐの花淡き日々(にちにち) はるけさやいらかのをちの夏の不二        美人涼みに川ばたに出る 大江戸の名残ゆかしや花火空        青銅の眉(まみ) 水晶の御瞳(おめ) 雲立てよ 一すじあはき國のはて        青根の空に雪とけのぼり 鬱々と森茂みこめる白い花        だんだん畑の麥の穂 光  五月二十八日 大森へ一寸 死ぬべきひと皆死にはてヽ夕食(げ)はむ   × × 大空に昇りしまヽに帰り来ぬ        二つのむくろ 氷おほひぬ 高空の空気に死臭まざりたり        いまは星雲蒼々と照れ   × × 木の葉天狗の鼻赤しや青しや 大変 大変              流星お江戸の空か埼玉か 建国会撲殺運動 朴の花咲きあつくるしき夏雲 七葉樹[とち]の葉は精虫の匂がする 通信いまするか否か高きアンテナ 崖ほりくづし人骨枯れつくしたるが二躰 高樹憂夛くけふ立昇るは埃吹き立つる風 人々集りて南岳を望むに紫雲もなどか立たむ 漫々は水の流 鴨游くはここ 日月の光重なり幽けき月に心は移る 亭々たる杉林 哀々たる蟋蟀[こおろぎ] 月明るき夜 衣織るはこの乙女嫁する時近からむ 風吹くひる馬車の去る方搖るヽ樹あり 即ち道消ゆる 古塚や麥高きこと三十尺       ※ 深溪や玉埋れて水清し 林草に伏し南をのぞむ大火近づき草の秀に光る 飢えて千里の路をゆかば一鳥の啼くに耳かすことあらむや かなしみ一時に来る とヾまれよ天なる雲 かの寒石に鳥ゐること數刻 百日紅き花ありしが今日凋み落つ 犬吼える村に入るを得ず 泪流れて止まざるを如何せん 河堤の白楊しげしもゆれやまず 川の流るるに何ぞ光夛き 泉を掬み終つて摘む一莖の野草 榛原や旅おはらな 飴牛の賣らるるくれや雨止みぬ 白雨(ひるさめ)や 紅き花 黒き花 ひぐらしの夜一声鳴くに馬車に目覚めてゐる つたかづら紅き百門くヾりゐる嬬[つま] 海鴎なく夕やけ空は海の彼方に紅し 紅し 石のたヽづまひ旧き園庭に鯉未だゐたり 堀に垂るる篁 船を操るは童ならまし 伏して青空を見ると 琅?[ろうかん]の玉を愛した支那人のことも思はれ 鳶の舞ふ関西も懐しい  右二十九日午記す 五月三十日 文科会 おぼろ月野茨白きこと千里 月の夜の杉の梢も高くして 五月三十一日 日えう[日曜] 慶帝早立戰。保田、服部来る。 煙れよ月。 六月四日 「復活」 ループ・ヴエレツ。ジヨン・ボールス。   憎ければ 紅い魚、百尺の下に泳げば人より巨なり 螺旋階段を昇りて東京市を俯瞰す にくければ桑の葉ちぎり投げて見な 紅い花 この野良に月出るは何時 玻璃窓に鳥しのびよるけはひする 口紅は小指につけてとかすもの 古寺や階の間の小草かな 古寺や燕とび出す軒垂れて 棗[なつめ]の樹もてかへりしは千年前 羅城くヾる燕より早き胡沙の風 いたいたしく玉葱を剥ぐをとめはし[ママ] 古里は裸の子らの泳ぐ水 桑畑の傍に紅きはいよヽ紅き花 春すぎたといつか云ふたか云はなんだか 六月六日 ぐみの実を巷にうるが六月なり おさなごはさくらんぼうに歯を染めぬ ふるさとにいちじくの葉は茂らむよ きみが園に白杜若百合[しろかきつばた]の花 故園の花みな月の日は光れ光れ 招搖は星の名なりいづくに光(て)るやらん[※ 北斗中の一星] ひじりばしを嘆きつかれてゆく女(ひと)の 日傘の色はあせむとすらむ なつめの実血のにじみたる指に喫(す)ふ        甘棗有荊棘 甘瓜有蔕   首赤き螢のころは白秋の思ひ出の中の断章が身につまされて恋をせぬこのわれさへもいつしんに嘆き吐息す   きらきらの陽の強光 草の花 螢の匂 なまけ者がゐました。なまけて何もしないでお終ひに死にました。 墓には花が咲きました。木蔭のお墓ですから 毒だみの花だつたのです。これは僕の墓でせう。   毒だみの澤も過ぎれよほととぎす   新茶喫す庵に近しほとヽぎす   ふくろふは月にかくれて啼く夜かな   水の音いでゆをこむる深夜を目覚む   なでしこに虫もより来ぬ大磧(かはら)       ほとヽぎす新茶より濃き声のいろ 才麿 A Miss Shun Kashiwai A Miss Yuki Kashiwai  [※ 柏井悠紀子(後の夫人)] わたのはらなみにたヽよふも[藻]のはなのかそけきにほひあせにけらしも   海浪凋藻華 ふるさとの河内の國にあらましかば   [※ 泣菫のパロディー] いまみな月 白妙の雲めぐらせる山々に たち ひるすぎものうさに古寺の鐘ぞひヾかふ 果物(なりもの)はみのりうれつヽ香ばしき風吹き来り うまゐ(昼寝)時 ひそやかにきみがえまひは夢にこそ入れ ふるさとのうなゐ(お下げ)をとめにこひまさるこれのこころはかよひゆかまし  六月九日 「巴里の屋根の下」ルネ・クレエル 浅草大勝館  Sons les toits de Tokio [※ 東京の屋根の下] くゆれよ煙草ほそぼそと あさくさのひるは夏なれば 舗道におちる陽の光 あまりこころが強すぎる くゆれよ煙草ゆうぐれの あさくさの空見上げれば しんに泪のおちるほど 日本の空 青かつた あヽ さつきまで不忍に ぼーとを漕いだ子供らは いまは大人に成り果てヽ この舗道をねり歩く 日本人のぶかつこが けふはかなしくあさくさの ネオンラインを見てゐたら 海がここまで充ちて来た 波はパリーの空のいろ 夕くれ方の歌のいろ のぼれよ煙草ほそぼそと たのしくたのしく空に入れ 六月十一日 柘榴やその花紅しこころ痛し 柘榴は自が茂みに映ゆるいろ 紫陽花に雨ふり夕となりにけり あぢさゐや関越えゆけば湖見えて 毒だみを白しと夜の林かな 毒だみに梅雨晴れの陽はさヽずけり   梅雨時に咲く花々は一年中の他の季節の花にもましてなつかしい呼び声を持つ   今日は不図ざくろの花の朱の色にこころを奪はれた 明日は又何かの花がどつか   でつヽましやかに咲いてゐることであらう 故園にも苺は植えん犬飼はん 竹の花咲くや明るきひるの空 地震(なゐ)ふりてあやめに小魚むれてゐし 地震ふるや地平に晴るヽ秩父嶺 金魚一匹死にて小縁に蝿来る 藻の花やひそかに保つ日の光   堀割に暑い日がさし夾竹桃が咲き   家鴨が游び人々は船で往来するとは   獨り柳河丈ではない   けふしみじみと盤[たらい]に乗つてゐたかの故郷の児等をおもへば   思ひ出の詩もかけぬのかと悲し  フエニミズムのスローガン 女は男より軟い感情を持つてゐる故大切にしてやらねばならぬ 女は男より狭量である故注意して悪口等云つてやつてはならぬ 女は男より物のうごき等を厭ふことが甚しいから徒に進歩的なものの云ひ方をしてはならぬ 女は可愛さうにいろいろ心配する事が夛いからいたはり慰めてやらねばならぬ           -アホラシ- 女は表面で物を判断する故何事もはつきり底まで見せてやらねば通じないことがある 女は男より正直である故うれしがらせ等を云つてはならぬ 女は男より厚顔しい故この点寛容してやらねばならぬ 女はみすみす嘘とわかることでもくり返して云へば信じるから根気よくやらねばならぬ 女は何しても英雄崇拝的である故少々お芝居臭いことでも眞面目ぶつてやつて見せなければならぬ 女は男より理想的であるゆえその夢を破壊してやつてはならぬ 中村憲吉 林泉集を買ふ(十三日)  早K戰第一回 二A-一 K勝 一.ひとりならぬ身をかなしみてあさあけの山より来る光に立てり 二.水ちかく夏姫百合の咲くなればこの林道に涙わしり(走り)ぬ 三.山かげにひとひとりゐて草を刈るその音にさへさびしきものを 四.いまふかくひとりなることなげくかな夕近くして若葉のひかり 五.潮みてる入江の川の芦の葉のゆらぎくろみてひとは帰りぬ 六.夕あかり海上(うみがみ)にあり對岸のともしはいくつにならむすらむ 七.うつうつとひるのくもりに心いたみ大向日葵の花みつめをり 八.小夜ふかく路樹によりゐる人のある青靄ながれその葉さやぎぬ 九.よひよひにすみいろまさる夏空にすぢ引く星も人目をかれず 十.槻道に陽のとほりさしはだらなりとほくに馬のくろくゆく見ゆ 十一.かたかごの花咲くみちを曲がりけりたちまち来る製藁の匂ひ 十二.梅雨のあめひそやかにしてふり出でぬ青濠にかはずここら鳴き出(づ)る 十三.春すぎて桐の花咲く村見ゆる小田いつぱいに蛙はなくも 十四.夏ちかき港の道をゆきにけり海よりの風に路樹はなびきぬ 十五.倉庫のおくのくらきにひとはまだゐたりばつたりと風おちにけるかも 十六.みなづきの大き市街のいらかの上何かせんなきうれひはありし 十七.山峽は青田にこもる村ありて黄南瓜の花屋根に咲かしつ 十八.山ふかく來しとおもひしにたちまちに青田はありて水くむ車 十九.港町の場末に開く夜店ゆき店つきぬれば潮風しるし 二十.樹々はみな芽ぶきそろひし奈良の街大佛道に紅き傘ゆく 六月二十日 井の頭 梅雨ふかきくもりの池はかはほね[コウホネ]に 小魚のむれはあつまりにけり 藻をつつく魚のむれのおよぐおと池にみちたりひるの曇り沼(ぬ) つゆふかき杉の林にわけ入りて土のしめりをしばしば愛す   鹿蹄草[いちやく] 訓導殉職表彰の碑は日本のジツテンゲゼツをおれにおしつける   玉川上水の岸は虎杖の群   野球をしてゐた井頭学園の男性 庭球をしてゐた女性 つゆ雲を時々いづる日の光りすヽきはすでに野に茂りたり 青空が見ゆるといふに林間にまばゆきまぶたをおしひろげつヽ ひるすぎて高空にのぼる雲ありしがこれはまことに野に立つならし ぜんぜんと音立てヽ流る上水に生植(セイチョク)の群はゆれ生ふるなり                 湯原より知れるや生植なる語を 六月十九日 なりし 恒夫は下痢をしてゐた フラウは蟻を憎んでゐた おれは無為のにくさを話したが同感は得られなかつた 恒夫はドイツに行くのかなあ 服部は遂に来なかつた ヤスダは留守だつた 小説が書きたい 「偸盗」を讀む(二十日) あヽ 小説が書きたい 書けさうだ ほんとうの生活をして見たい いや恐ろしい こはがつてゐる間は小説も書けないぞ ああ 無為の一日 一日 二十一日 梅雨庭の小暗き土をおほひつヽ白木蓮の咲くを見たりぬ 枇杷むけばわれのを指[よび]も愛(は)しとおもふいとすなほにも剥けるにあらずや 偸盗を畏れしよひもみす[御簾]の間に月出るならば明けて寢ぬべかり   遠雷が鳴るならば   海に泡立つ白波の   巖に砕ける様も見む   砂原に咲くひる顔の   もの倦き様も見て來なむ 二十二日 雌犬は食慾をなくして了つた 夜月に咆える野獸になつた 毒だみの葉に熱い腹をこすりつけてると 或夜彼女は受胎を感じた   × × × 健康な食欲と單純な無智と理性なき厚顔と 虚栄と淫欲と何か勝る   × ×  はかなきはみな月のものの木かげに金色のたわわにゆれし果  はかなきはみな月の宵はやも西のはたてに落ちゆく敗頽の月 あなうたて剃りあと青き男のほヽ あなうたてうかれ女のあざみ笑ひ  稲妻やあざみのとげを照らしけり  巻雲にあらしの疾き様も見よ 人間が物を食ひ出した時ここに喜劇と悲劇が起つたと云ふ  トーマス・マンの道化者、トリスタンをよむ。 二十五日 小竹来る。「モンブランの嵐」を見る。 二十七日 保田、薄井、服部、紅松を送る。 大森氏送別宴 われは見ぬ 大いなる眼(まなこ)のありて 涙流すを われは見ぬ 大いなる虚(うつ)ろのありて 潮の充つるを われは見ぬ 大いなる巷のありて 悪逆を盡すを われ聞きぬ 美(うるは)しききみがみこゑを われ聞きぬ なつかしききみがきぬずれ われききぬ すげなくもきみがこばむと これよりわれは 耳痴[し]れぬ   ×× ×× サンチマンを愛すれば 夜おしせまる白き額付も がい[無理]にはおしのけざらまし 耳に常にある 逢ひも見もせぬ乙女のこゑも しりぞけざらむ サンチマンを愛すれば かの空を行く雲も むなしくは仰がざらまし 夜毎にかヾやく星の光も古き哲人の眼もて はづかしめざらむ   ×× ×× 乙女を抱きいぬる夜は 印度更紗 瓜哇[ジャワ]更紗 赤と黒との二色が眼(まなこ)に耳にせまり來む 乙女をおもひいぬる夜は キリコ硝子か陶器(すえもの)か 透きとほるほど身もやせて ほのほの中に生(あ)れ出でむ  二十八日 男の別れ  [※ シベリア鉄道の地図あり。] 男はいともつよきかな がたりと汽車は動き出し 甥は頭を下げにけり ひとりの叔父は とりて 高くさしあげさて見つむ その口の許 めのあたり 男はいとも強きかな 男の別れの様を見よ   × × 螢の首は赤ければ 草にひそみてゐるとても しんじつ見のがす人はなし 螢は臭し草かげに 螢のにほひこめてゐる しんじつそれもかはいけれ   × × わかるヽや雲も立て立て夏なれば わかるヽや一木にしぐる広野かな わかるヽや草百合めだつみちのくま わかるヽやにはかにきづく風のあり わかるヽやまなこにしむるきみがまみ 三十日 お茶の水で丸、小竹、本宮、松浦氏と会ふ 福永、谷村と遇ふ 血のつながりは 同型の我(エゴ)の戰ひを余儀なからしめる しのぎをけづり火花をちらす肉親の争闘 兄の眼に燃える青い炎 弟の心中には兄殺しの火がもえさかつてゐる   × × お山びらきの翌々日不二山の下を通つてわれは帰るなり あはれ白銀のアルプスは見ずとも 孤峯不二をてらす白道光は さびしさとおそれとを抱かしめん 阿倍川をわたり大井川を渡りわれは帰るなり 英雄に生れざれば何の発明もなけれど 魚のこころになりて青き流を横ぎるべし せきれいのこころになりて白き磧を横ぎるべし あはれ浜名湖も渡るべし 遠き海の波頭も見るべし 光りてゆく白き帆も見るべし 伊吹山の雪は消え、米原に吹雪は来ねども 琵琶の湖は蒼々と岸辺の樹によるべし はかなくさびしく一人の男かへるべし つまらなく夕ぐれの駅に下り立つべし   × × あぢさゐや梅雨あけの雷鳴りにけり だーりやの剪られてすがし露ながら 朝のまのたヽみに足のすずしさよ 地震ふるや呼吸かはらぬ瀕死びと 精々霊威使吾泣鳴叫喚 グラヂオラスの名を忘れけり はるかに霞む赤松の原 赤土の野に風ふきしきり 獨活の芽立ちも折りつくされぬ 温泉宿に新しき欄 川ぎりのぼる竹の高さに 小石は流れ岩はとまりぬ したヽる水に筧朽ちつヽ 鹿蹄草(いちやく)を薬師(くすし)見出でぬ 白鳩の跡とめくるや明神社 あかつき近く 意下りぬ 奥州路に馬賣りに出る 煙草の花はありやはたなし ぎやまんの甕に水仙いけぬ 和蘭丹の難破傳へ来 七月二日 帰阪 てがみ  S嬢(マドモアゼル エス)よ わたしはいまこの暗く汚い西の都に帰つて来たことを何れ丈後悔してゐることだらう。 東京にあつてわたしが煙草と話のあひまに夢みてゐた此の都は、まん中を横断して明 るく流れる水の夛い川と、それに輝き分散する虹の様な陽の光と、川岸をとりかこむ 精霊にも似たまつ白な建物の群であつた。いま、こま鼠の様に賢こさうな顔をした人 々の間に坐つてバスの窓から見る川は、うす汚い水が暑くギラギラと光り、うす汚れ た建物の影を反抗的に照りかへしてゐるので、わたしはむしやうにゆれるバスの中で 何となく焦立たしい泣きたいまでの気分になつてゐる。実のところわたしは十九年住 んで来たこの街を、一寸はなれたばかりにもう早速バスにものりちがへる。おまけに 自分の夢乃至観念まで新しいものととりちがへねばならぬことになつたのだ。  S嬢(マドモアゼル エス)よ わたしは汚い家屋の裏を通る暑くるしい郊外電車にのつて帰つて来た。家にはまつ黒 な弟達、同じくとても日本人とは思へぬ黒い醜い妹、父母等が暗い座敷に据居してゐる。 これがわたしの一族である。切つても切れぬ眷族である。わたしは久濶の挨拶よりも 先に、攻め寄せる蚊の群を防ぎ、暑さを嘆じねばならなかつた。これはあなたの御忠言 にもそむくがまことに止むを得なかつたのだ。まことにここの蚊群は人間を焦す奇妙 な個性と個数とを持つ。それは牡牛程の唸り声でわたしの蚊帳のまはりを示威しまはる のだ。おまけにその先鋒の数匹は蚊帳の中まで侵入して来た。この侵入軍の個数は林の 中の君の家よりも夛いのだよ。  S嬢(マドモアゼル エス)よ 七月五日 田辺。 船越 泊まる。 七月六日 学校。 七月八日 藤井寺。 九日夜、松浦氏。 七月十日 田辺。 十一日 田辺。 十二日 歓迎会。 十三日 対校試合。 十六-二、負。 P久保 C豊田 1B北村 2B各垣 3B天野 SS三浦 LF松本 CF三島 RF小林 SB田杉 十四日 伊藤氏。 十六-十九 小竹君。御坊行、丸と。  南紀の浜 わだなかの阿波の雲ゐに陽は落ちていまはさびしも紀の國の浜 油の如どんより光る海の瀬に船はかヽれり夕ならむとす ゆふぐらく光る海面をひつそりと船むれすべる夕のさびしさ ま夏日のねむは川辺にほの赤しせみ鳴くひるを汽車は急ぐも わだの原極(はたて)の雲はとびちりてきはまらむとする赤き陽のいろ くれゆけば峽はざまの家々のま白き壁は眼に迫り来 みんなみの紀伊の浜ゆき紅き花手折りつさても誰におくらむ 暑き日の道成寺訪ひをとめ思ふいのちをかけてこひせむをとめ 大寺の御前の堀のはすの花わがこひのごとうす紅うさく をみな子の執念は凝り蛇となるわがなく泪いまだ足らぬとよ いにしへの小竹の貌[かお]の裔[まご]の子になじみしこともなつかしきかな 咆けりたち白波よするわだつみの力を畏るねむられぬよは  ※ 泊り舟あかりをけしてゆられゐる川口におつる銀河のひかり くれそめば沖の小島によする浪いよヽ高しも鴎の巣島 かつを[鰹]よる沖の小島の瀬をまはり船が一隻いそぎくる見ゆ     夏の歌 [※ 各歌人からの抄出] 嵐あと木の葉の青のもまれたる匂ひかなしも空は晴れつヽ 千樫 谷底ゆ上ればひたに眼にせまる黒き山尾に沈む月かも 憲吉 くれぬれば芒の中に胡頽子(ぐみ)の葉のほのぼの白し星の明りに 赤彦 天の河棕櫚と棕櫚との間より幽かに白し闌(ふ)けにけらしも 白秋 横はる銀河の流れ夜はふけぬいざ寢む汝(なれ)の手の冷えしこと 薫園 塵の如初夏の雨かヽりたり麥生のなかの小き停車場 紫舟 きらきらと海は光りて磯の家松葉牡丹に晝の雨降る 信綱 青山の町蔭の田の水(み)さび田にしみじみとして雨ふりにけり 茂吉 萱原をかなしと見つる眼にいまは雨にぬれてゆく兵隊が見ゆ  忘れてゐた 七月十日 大森氏を神戸港外に送る 出で立ちは摩利支天のお山も煙れ ざんざんと降れよ泪雨 三菱のガントリクレーンの雨滴がわびしうて メリケン波止場の傳馬船 帆をかづいてござれ 雨がいとはしければ 遠雷とどろくひるを船出かな  七月二十二日 丸三郎を送る。 小竹、吉延、三島、豊田、久保集め。 出で立ちや 雲をひそかに破る月 土産は土の鳩がよからめ 瑞山に 明星かヽるよあけ方 鳴くは何鳥散るは木の花  高井田村、章君[船越章]の云ふ通り初めて歌を詠むつもりで 線香のにほひを辿りゆき見れば合む[ママ]さきかヽる村の小 五日雨に白き花咲くやぶありて燈(ひ)もれる見れば家庭(いへには)ならし 紫蔵[※ のうぜんかづら]咲く夏の家朝明けにはねつるべきしるが頻りなり  丸の言葉 いにはぬ[印旛沼]の朝明けの様見に来よと東男のこともよきかな  西男不可信 さびしさは棕櫚の花咲くにはに住みつヽ                朝々の星凋せゆくは見ざるなまけ男 緑の木群にかこまれて住む男が 街に出て電車にのると これは又奇ッ怪な人種群 まひるなれどこはうておそろしうて やがて眼を伏せ 眼を外(ソラ)せ 様々に苦心したれど この黄色妖魔の群は増々顔を歪めて 何とも眼の片隅からじはじはと攻め来るので── けふもまた死なでありしをかなしみぬかくてすぎゆく日は惜しからず 死なんとてこころつかれしあまりをば友に云ひしが呀かしまれぬ   即吟五首 金崎忠彦君に ブハリンもプレハーノフもよまずけり末世に生きるルンペンのひとり 暑ければひるねをしたり雨降れば勝負事するルンペンのひとり うつたうしき雨空の如き世の中の[※ 不詳]るべきは確(しか)と信ぜど  西角先生に 先生のゐます辺りの青田風 車窓を開けて蛙をききつ 先生の御声をきかぬ幾年をふりかへり見るにほとほとくやしき  帝塚山の辺りを散歩して坂井正夫を想ふ 夕雲は紅き光を放ちつヽ消えなむとする風情を示す はろばろと先立ちしひとら思ひつヽこの夕ぐれの蒼さ耐ええず みんなみの明き星をば語りしが地の上にありし星に似しきみ もろびとを蔽はむことが坂井君の理想でありし 福澤ばりの議論は年にしてはませてゐたり 奥歯のぬけた顔はこけてゐたが 眼の光の強さ たな雲のたな引く空を見やりつヽ未来かたりしひとはいづこに 腹巻をしよつちう外さずテニスもし英語の音讀に抑揚をつけしが   われの癇癪の種なりし 山のぼりは危険なる故せずと云ひし 火鉢は炭サンガスを出すゆえ入れぬと云ひし ラムネをのんで即座に腹をこはせし 夏山や先発隊はかの岩に  丸三郎 雨しぶく むこの山路の曲り角きみら二人の足跡のこれ 淋しさや山の曲りの羊歯のむれさやさやの音耳をはなれず うつぎ咲くむこの山路のしぶき雨乙女を愛(を)しとことに云ひ出つ   × × すヽきの秀はやも出でしとおどろけり夏の中なる秋のこころを 松原の王子の社[やしろ]楠を茂(じ)み蝉なくこゑもこもりて聞ゆ   × × 山腹に群れ立ちし家の子等さびしと今し云はなば君うべなはむ きの國の蜜柑の山のだんだんに生ひ立つ子ろをわれはこひむな 妣[はは]の國あはぢ島見ゆ阿波も見ゆこのゆふぐれはわれを死なしむ   MEINE LIEBE ゆめのひとあはきこひせしさびしさはいまたちかへるこのみのうれひ ちまたゆきをとめをみれば胸いたむわが思ふきみの瞳(め)を見まく欲り はかなきはひとのこひきく身となりてをのが身の恋ふりかへるとき あが佛弥陀菩薩も見そなはせ二十をすぎていまだ恋せず 寺々の男餓鬼の如くやせたれば恋ふる勿れとのたまふか佛   × みちのくのまヽの入江に立つ秋の風来らなばこひやめむとよ   夏やせとこたへて後は泪なり 耿太郎やせにけらしもあてどなきこひをこひするこの年ごろに 斎藤茂吉は 日本文学初まりての大文豪なりと云はヾ 諾なはむ人アララギの中にも夛くはあるまじ されど彼がフテブテシサはまことに前古無比の壮観なり 彼の主観は日本文学中の最大にして最初のものたるべし ブルジヨアの世紀もことに存在理由のありたることの証明を得む 茂吉の没落はブルジヨアジーの顛落を示す 日本ブルジヨアジーが茂吉の性慾と共に顛落したることはまことに笑ふべきかなしさなり 島木赤彦は天才なき能才なり 茂吉の天才ある能才に對比せらるる立場にあることは彼が最大不幸たり 純にして鈍なる彼の語感は現在のアララギの病弊の基をなせり 彼の主観は深み乏しく彼の努力はそのまヽに汗を歌の額ににじましてゐるなり 彼は蒼古なれど寂(サビ)をもたざるなり左千夫の茶道にさへも至らぬなり 中村憲吉は両者の中間にありと云ふべし 彼は天才にもあらず能才にもあらず 諄々として法を説き規を画す 而も彼が人稟は表はれて静なる境地を拓く 彼の林泉(集にあらず)は雨と霧に蔽はれたる築山なり 茂吉の如き人ある天地にはあらず 赤彦の如き神の作れる天地を説かず人間の作りし前栽なり 薄 桔梗を栽えし藪叢の点々とある一ケの小庭なり 古泉千樫は憲吉に似て梢々茂吉に近し 彼の歌は彼の運命を予言す 彼は模範的歌人なり 茂吉の図太さ 憲吉の鈍感さを持たず  敏にして狭なる感覚の世界に安住し 命を削りつヽ歌ふなり 彼は刻々と迫る命を歌ひしなり 沁み出でし命を吾々は見るなり 子規は歌人に非ず 彼の画が画に非りしと同じく 彼の歌も歌にならず   彼は如何にすれば歌へるかと云ふこと丈は知り乍ら遂に歌を作らざりしなり 彼の歌は恐らくは今二十年の壽を得ば 岡麓或は左千夫の寂となりて表はれしならむ 茂吉の脈々たる趣に至るには彼の教育が許さヾりしなるべし この推測は啄木の場合には異なるなり 啄木は今三年にして子規に至り 更に五年にして与謝野晶子に至りたるべし このこと固く信じて疑はず 彼の稚拙は偶々素材の独歩に蔽はれて見えざりしのみ 彼の詩感を疑ふこと切なり 左千夫は何年生きてもかのまヽならむ 彼はいよいよ骨董を集め 茶を飲むべし   禪を学んで安居すべし 遂に生観は出さぬなり 東洋趣味の本家となるべし 歌に於ては既にその域に入りたるなり 迢空と云ふ人 我は嫌ひなり その古言の選択の如何に語感に對し鈍感なるかを知るべし   或は不注意なるべし これは詩人としての致命的欠点なり 如何にかつがうとて到底許されぬことなり 素朴と粗雑とは混同すべからざることなり 彼は畢竟学者なり 詩人に非ず この点子規に似たり [※ 斎藤茂吉から抄出 十二首あり。島木赤彦から抄出 七首あり。] 二十五日 高田天神祭 二十八日 帰宅 小竹誉志夫氏  [※「植物祭」から抄出 十六首あり。](七月三十日) 老いた巫女── しぼんだ黄色い顔 衰へた眼をすえて 赤い袴の官女風なのだが 太刀 抜きもち 太鼓に合せ 舞台を動く がくがくと首をうごかせ── しかも眼は据え乍ら 太鼓は逃れた我々を尚も追かけ どろどろと泣きさうな空にひヾいてゐる   星座祭 (七月三十一日) みんなみの山脈におつる銀河(あまのがは)あなさびしさもきはまりにけり みんなみの蝎(すこうぴおん)の毒針の天に輝き秋はきむかふ 毒もてる天蝎宮のまん中に赤き星ゐる夏に生れし かさヽぎの渡せる橋も涼しけれ銀河にうすく雲出でヽ来し うつくしき天琴座をば指さしつ寄らば乙女はなびくとすらむ 海原はふけしづまりて漁火の集る方に星は流れき 六甲の山の中腹の灯火(ともしび)を星になぞへむ佳き人のあたり 山峽に八月は来てさびしもよ夕べ青田に星空おちぬ 水木咲く八月の澤のほとヽぎす星座を指して語る夜更けに はろばろし少年の日の感傷は南極星を求めて止まず 檳榔樹(びんろうじ)木の実をおとす南の海辺に出でヽ十字星見む 土人らの胡弓も今は止みにけり怪鳥叫び星明き下 黒々と熱帯林はふけしづもりしづしづと星座せり上り来る 月明き夕べぬか星消え果てヽわがこひの星のみぞ残れる つれなきはきみがこころか星明き夏川の辺に誰と出でます (第5巻終り) 「夜光雲」第六巻 20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き 表紙欠(92ページ) 昭和5年8月15日 ~ 昭和7年1月27日 夜光雲 巻六  嶺丘耿太郎日記 昭和六年八月十五日    故園にも    苺は植ゑん      犬買(ママ)はん 僕はもう歌が作れない!   紀州御坊行 淡紅く 眞夏の合歓[ねむ]の 咲く見れば 湍[たぎ]つ川瀬も見えにけるかも 白波は 鰹来る瀬に 寄りゐたり 小舟 その瀬を 廻りて去りぬ 紀の國の 古き御寺の 石階(きざはし)に 竹柏[なぎ]の茂木の 蔭落ちにけり 洋(わだ)中の 阿波の雲居に 日は落ちぬ 磯の岩秀[いわほ]は 光含みぬ 白雨(ひでりあめ) 浜の小家の 鉢植の浜木綿に降り 明るかりけり     ※   大和國原 にはか雨 峽の町を過ぎにけり いま鳥見[とみ]山に なびくその雲 古の蘇我の川原の 薄(すすき)原 合歓の淡(うす)花も ひるは咲かしむ 海の風の吹くひとときは   一 あかねさす眞日に向かひて開きたる童女の陰[ほと]はいつくしきかも   二 あはれあはれひるの渚の砂の上に犬の交合はさらされにけり  ※   三 むしあつき晝なりければまがなしきほとの機構も考へざりき   四 極楽瑠璃荘嚴の気は満ちて交合蜻蛉(つるみあきつ)は流れて行けり  ※   悲しび フランス語を覚えよう 日本語では 私は破産した!   × 日に日に描く つまらなく描く 雲のある風景 魂のノスタルヂア!   × 青い空気の中に 里芋の葉がゆれるのを じつと見つめてをられぬこころ 焦つてゐるなと我ながらあはれな──   × きれいな奥さんは 人妻ゆえに 最も好ましい 奥さんお話しましよか?   × 朱雲(あかぐも)は山の背方(うしろ)ゆ立ち昇り崩るヽまでを我を照らせり ※ 人の子の死にたるのちも大空に雲立つひるはあまた經(めぐ)らむ 私は海月[くらげ]の様な静かな生活を欲して 海の潮の苦さを好まない これは悲劇の基である (八、一五)   × かなしさや海の色を濃藍と申すなり   ××× 冲とほく潮に浮きゐる小魚らの背すぢのいろは青くあたらし(八、一六)   ××× わがいのち短くあらむおぞましき死相は人に見せざらむゆめ   ××× 銀漢(あまのがは)甚も更けたりみんなみの海よりのぼるきりがくれつヽ  ※ すヾむしのなくやちまたの夜更けなり空には銀河いと近うして   海章       八、一-六、 八、一二-一九 今津 うねり波よせ来るひるは遠磯の白きしぶきを見つヽたのしむ 秋近しまことはれたる武庫山の麓の浜に波は寄せつつ 武庫山の草山なせる頂に三角点見ゆ気は澄みにけり おのづからなじみしひとも来ずなりし浜にすヾ風立たむとすらむ 砂浜のかはらよもぎにかくれなくきりぎりすさへうつろふものか 残暑はいまだ強しも砂浜のきやむぷに晝は人ゐたたまれず けふの海はくらげ夛しとふさらばさつき足にさはりしはくらげなりしよ うねり波よせ来る浜に犬泳がしむ 疲るればわれに倚りてくるなり 海中にわれにより来る犬の眼の眞劔さにふと怖ろしくなり 腹赤き汽船は冲を行けりしがやがて轉囘(かへ)るはなにヽかあらむ たとへば蓮華(れんぐえ)の弁(はなびら)の如くかさなれる山の相(すがた)たのしも 遠き磯に赤き旗ひるがへすは茶店なり松はうしろに連なり青し うすくうすく軍艦が九隻ならびゐるまこと等しき間隔を保ち 軍艦は碇泊さへもかたくるし彼我の距離はかる兵ゐるならむ 武庫山の前山なせる赤はげ山かしこにはわれ行きしことあり 武庫山に秋は咲くなる植物の形はまさにわれは知るなり 波寄する川口の杭に立つ人は何釣るならむその光る魚        ※ 光る魚を釣り上げし人糸をたぐり寄するその間に魚は落ちけり わだつみの潮はまことふしぎなれ水脈光る海に向かひて坐る 海原をかゆきかくゆき船びとはまことに家をこふるものらし 海原の潮の迅きひるひるは船の航行(ゆきき)を見つヽかなしも 冲遠く帆船の檣[マスト]立ち並べり蜃気楼見むとふと思ひけり 海原にしたしく泳ぎ帰り来ればいまだも鳴るかとほき海鳴り この海をひごと行き交ふ汽船らは笛ならしあふこころもたぬらし 日の光あまねくあれば海に向かひはあれむつくるここらの人は わがはだにももろつこの風吹きにけりまことまくろくなり果てにけり 椰子の木を植うるカフエエあらば行きてすわらむかくてうたつくらむ ゆふなぎさ波の唸(うな)りも深ければ率ゐる犬は海に向かひぬ くれゆけばざんざんと鳴る波の音海風に交(まじ)りゆきつつあれば 海風はしきりに吹きて夜なりけりいそべにゐれば着物しめりつ 銀河はまことに海に落つるなり海面に近くうすくなれども 明しあかしわれらにむかひて光る星のことごとく明し海面は暗し 海原のよるしづまらばあまのがはさながら形うつすとするか ヴエガもデネブもまことは海に光おとし海中の魚に見らるるならむ 一八○度を見るとふ魚の眼なるゆえ星座運行はたしかめをらむ うなばらの底ひにすだく赤眼魚 夜は光のかけら集めよ 三日月は地平に近く濁り赤しわが瞳(め)に似ると自らは知る 月も日も海に沈む地に住みゐたし地(つち)に沈むは何かはかなし われはたヾ海面を這ひて余念なし海の族らに嘲(わら)はるならむ あはれ眞劔に海面を行かねば死ぬるなり海月の群れて行き交ひにけり 海の族相克の理を肯[うべな]ひたまひ感嘆したまひきありがたき祖父は 海月もしんけんなれば海の面を群れて行くなりわれは然らず 着物を脱いだまヽかへらぬ人間ひとりに浜は大騒ぎなり かへらざらむ海は広し あはれあはれ何なればたはむれに海に親しみ死ぬならむ人は いたましきむくろに取りつきなげかひし人らのこゑはいまも忘れず  摩耶山天上寺 (八、一九) 細澤に水流るヽを見とむれば藪にかくれて白鷄遊ぶ 海州常(くさぎ)山咲く澤は深しもこのあたり蝉啼くこゑのまことに暑し 青空は山の彼方に聳え立ち日は杉の秀にあまねく照らふ       ※ 摩耶やまの杉の秀立のまうへなる蒼澄空に陽はありにけり 一道の白毫光はあまねく静けき海を充ち照らしけり 幽けくも檜林の下草の花咲くみちの石段のぼる おほぞらに凝るものもなし山草のあひだゆのぼる暑さはあれり 群松の嶺とだえして野となるは印南の國と教へられぬる 加古の島か家島かあらむとほがすむ磯の線外になほはろけきは 鳶啼きてしづかと思ふ遠島を浮べる海に見入りてあれば 秋のいろ眼にしみ入りぬなつかしき友とゆく道のみづひきの花 佛生[あ]れましヽマヤのお山に國見つつ天地所生を美しと思へり 山邃(ふか)く泉はありて落葉つみ朽ちたるまヽに動かざりけり 夏山もいまは終りか黒土の崖に咲き出るはほとヽぎすのみ 腹赤き船浮かしめしひるすぎの波なき海はにびいろに見ゆ 山下に下り来れば谷深くみあみ[水浴]する童等のこゑのみきこゆ じんじんと蝉鳴く谷のひるさがり裸童子の体み)は光り見ゆ くさぎ咲く澤々の水集まりて童子の丈を泳がせにけり      ※ 山路の角を曲れば日向なり砂のくづれは眼にしみにけり この一日強き光に歩み来ぬゆふがたはマヤの灯を仰ぎけり   × 増田忠氏 わが友は兄と友とにある日の夕自(し)が墓のこと語らるヽかな 墓を建てねばと云ひて語を切りたまひぬわれはそのまへに泪ぐみゐる 折々はわが心安さふりかへり死にし子どもにすまずと思ふ ゆうされば海風窓に吹き入りぬさみしといひていふことはなし 街の灯はくだりて海に達(とヾ)まりぬ高みの家の窓より見れば 友ら寄りひとをさびしと云ひしあと巷に出るもかなしまるかな きみを知るひとらすべての亡きのちをおもへばわれはいらだヽしもよ とことはのいのちときしは誰にかならむわを知る人もいつかは盡きむ やうやくにこころおちつきぬと思ひゐしがこの海風にまたも思ひ出(づ)  祖父重態 囘復難期 (八、二一) 祖父[おおおじ]のまなこのくぼみいやまさりいまはふたヽびたちまさヾらむ 朝夕に咳きたまひ嘆じたまひみいのちのおはり近づきにけり     ※ よきこともなくて幾年過し来つ報はれずしてゆきたまふらむ ふたヽびは起ちまさヾらむと医師つげぬそのことにいきどほり感じてゐるも  勉強 (中之島図書館) (八、二三) 図書館の地下室にして法律を説ける輩はそぼひげ生せり こはだかに語り説きつヽおのがまヽに他人を説きふせむと努むるらしき ブルジヨアの世紀終りに近き時何ぞも妻の財産を説く かさかさのぱんをのんどに通しつヽゆくておもふに泪流れき わぎもこをつまどふに足る代あらばと嘆かふ時は生きたくもなし   ※ ゆふぐれとなりて巷の空おほふ雲出でにけり夾竹桃の花 建築中の天守閣見ゆる橋の上に曇れる川も見つめてありき あはれ革命近づきたれやまつぴるまルンペンがからかふプチブルのむすめ かの垢頭破衣の群の強き眼光を思ふに足よろめかしてのがれつ 未だのこるわが感傷は夕ぐれの川面に下り流れむとする 感傷の少年は暮(ゆふ)の川ながめ海面へのあこがれを傳へようとする  甘藷畑 (八、二四) 夕づく陽乾ける畑にさしにけり畑に薯はころがりにけり あはあはとななめに夕陽が照らし出す薯の赤きもさびしまれけり 向日葵は畑の隅にかたむけりその本にもある裸か芋の山  伊古麻山と春日野  能勢 三島            いこま山 菊の香にくらがりのぼる節句かなはせを わたる日は天つ雲路にかくろひてとほわだつみの光りたる見ゆ 夏山の花も咲かざる茂みより蝉鳴くこゑはむらがり来る ほうせん花誰もゐぬ茶屋のうら畑ひとりはぜつヽすがれてゆくか ほうせん花の彈ぜ実いじりつつ海見ゆるああ見ゆるとてわれらゐるなり ひとごゑのきこゆるまだき曲りかど白き洋服の女の児現(み)ゆる はるかなる海(わだつみ)の水脈はあらはれぬにぶく光りて舟載せてゐる すずかぜはまつ虫草をそよがせり伊古麻の山に日はかげり来ぬ 天雲は山の頂の飛行塔にあたれば凝りぬ息吹の如し あま雲のおほへるまだき山頂は陰惨(くらく)しなりぬ自(おの)心よる あもり[天降]来むと友と云ひつヽかたはらの女の児にもきかすとするよ 藝妓らは聖天様にまゐりたり杉の中道のぼり来りて おのづからさびしくなりぬ満月(もちづき)は雲を破りて出づるを見れば ほのぼのと山河白く光らせつ大和の國を月は經(めぐ)りぬ   楽焼  秋立つや伊古麻の山の女郎花   春日野 小中義城 杉の樹のこずゑにありて雲乱れ月出でむとす原はかすむに あなさびし女のことを語りつつ慕ふ女をいとふと云ふに われら童貞は春日奥山の石佛達に 白毫酒を献じよう それも月の明るい夜、杉を繞(めぐ)つて生物の飛び 谷の声に和して蟾蜍[ヒキガエル]の啼くときに 石佛の弥勒様は未来欣求[ごんぐ]のわれらの 眼ざしを嘉容し賜ふべく 地蔵菩薩はわれらの未だ童なることに 満足の慈愛を感じたまはう 白毫酒の盃には白い光が射し込んで 酒は煙となつて空に昇り 或は天雲と化して雨を降らせ 或は散華と化して我等の肩に積もるであらう 月かげにほのかに形顕はせる三笠の山は見るに嚴[いつ]くし 廃れたる土塀をめぐる蔦の葉にこほろぎかくれ啼きあかすらし 木の間もる月の光に菩薩どち青く照りつヽもだしたまはむ 御佛の眉(まみ)にたまれる月かげはわが見にゆかば尊からめど   × × × きみをこひしといふときは しんじつたまらずおもふなり ことにこほろぎなくよるは きみがふしどもおもはれて──   × わがくもりたるひとみさへ きみをこふるにかヾやきぬ されどもそれはたまゆらに すなはちまたもくもるなり ふたヽびかへるさびしさは おもはぬまへにいやまして   × きみを思へば西域の 青き玉をばほしといふ 朝にゆふべにながめつつ きみがまなことかなしまむ   × まこと珊瑚のきみの唇 いまは性根もつきはてて おとすなみだはさんさんと 眞珠のごとく光りてよ   × あはれゆふべははかなけれ おぼめくいろのをみなへし にほひはふかしふじばかま げに秋草はいにしへの あてなるこひも思はせぬ われらがこひはしのびねの むしのこゑよりかすかなり きみはわれをば かへりみたまはず   × あはれをみなごつみふかき だいとこ むかし大徳落しにき いまわがきみはよるふかく われを眠(ね)しめずをきたまふ おつる地獄もあればこそ こひのよろこびありぬべし われはいづこにゆかばとて その幸だにも得んやらむ   × × 明き星みて語りにき としにひとよのあふせ[逢瀬]をば たのしむひともありぬると 明き星てるよひごとに われはなげきのまさるかな あはれひとよや見えたまふ   × 千草の花もちりぬべし 啼く虫のねもたえぬべし かくてありへ[経]ばひとよるも なげきたえざる十二時(とき) 秋はよるこそ長けれど 花も匂はじ音もきかじ   × きみがきぬには八千草の しどろの様をえがかしめ 枝毎におく茂つゆを したふ虫とはなりぬべし 音になききみに告げてむを  ※   × 秋ぎりは野に立ちこめて あはれあはれこどもらの こひの時たちぬ 世のをはりおのれかなしむ   × 虫のねにみじめなるをのこ ひとりまどによりなげけ 月かげはきりにまどひて その窓によらず よるふけて風去[い]にぬ あきらめよとて   × つたの葉のかれがれと音立たば せんなきことヽあきらめも果つべし 萩が枝につゆおきて月てるころは あヽ こひまさるこころおのれすら いかにせよとよ   × 土堤の穂すヽき茂る中 ふたりはこひをかたりにき すヽきは枯れて折れければ ふたりはこひを止めにけり   × ふるさとのすヽきのつヽみ きみとゆかば あヽ きみとゆかば うみ見ゆる丘にいたりて うちあけむ あヽ うちあけむわれがおもひを    × 小唄 赤いとんぼはゆふがたに 唐辛子畑に さまよひて どれがわれやらひとぢややら   × ゆこかまいらんしよか[※ 行きましょうか] 盆の墓まつり 死んだ情女(をなご)を なぐさめに   × わしがむすこは他(た)に 術(じゅつ)ないが こゑがじまんで 女郎(めろ)くどく   × をどれぶんけ[分家]の 十八むすめ をどりうまけれや よめにとろ   × 盆のあくるひ地曳きあみひけば[※ 以下無し。]  月明 (八、二八) 棕櫚の葉に 月の光は こまごまと 分れてゆれぬ ちるがごとくに 安けくも きみはこの夜を 小夜床に ふかくひそみて 眠りてあらむ をとめ子の すこやけき寝息 思ふにぞ 淋しきものか 月と虫の音 遠街に 月の光は 射しにけり はるかに 夜行く雲はありけり 月けぶる 河内國原 里芋の 畑つらなり 夜月にあざやけし あまのはら かそけき風は ありにけり 遠天の雲 流れつつ見ゆ   この歌は西川とメツチエンに遣らむ   八月二十九日 久し振りに憤ることあり 我は二十一 なり ほうせんくわはぜよと云ひてわれらゐる 海見ゆる高みにらむねのみにけり とうきやうもさびしき空のあるやらん 蘭の香にいしころみちをくだりけり            右 和州生駒山補遣 中野重治に感心す 感心した以上何とかしろ これ以上何とかなるか   ×   章ちやんと心ブラ   買ひたい本(買へる本) 一九三一プロレタリア詩集     .四○[銭] ルノアル画集           .五○ 大日本思想全集 東洋思想 一、二  .四○ .八○         東洋思想辞典   .六○         歴史辞典     .六○ 京都市古地図 藤田元春       ? 李春集             一.○○ 古代社会 上、下 モルガン     .六○ 一.二○ 佛蘭西革命史 クロポトキン    .六○ 一.二○   買へぬ本 古代研究 折口信夫 日本紋章学 沢田頼輔 東方言語史叢考 新村出   Die Ruhelose Nacht [※ 安らぎのない夜] 私の心音は大きくうねつて 私の駆ける足を追かける 私の足は受けた汚辱に眞赤になつてゐる 汚辱は私の足跡である 足跡は赭土に印してある 赭土は山の一分塊である   × 私は私の死後の為に歌を作る 生きてゐる中は何の役にも立たぬ歌 私の歌──あヽ みじめな そしてほめてくれる人があると 私は死後の幸せを思ひ うれしがるまいことか それ故私はいつまでも死ねないのだ   × いつか僕は魂ののすたるじあを呼號した それは遺傳のみちびきであり 遺傳は先祖のおどろきである おどろきを叫ぶことの象徴たる詩は 故に魂ののすたるじあの象徴である この三段論法は 僕に於ては正しからうか 創始者僕に於ても──   ××× 百貨店の帽子賣場の女の子よ 僕は君に恋を感じたらうか 君は細い眉を画きうまく紅を頬にさしてゐる ほんとに旨く だから君は美しい お世辞でなく 僕は君に恋を感じたらうか 君は生活してゐる 獨りで立派に そしてつヽましく 僕は親から金をせびる 親は借金してゐる 誰からか僕は知らない 知りたくないのだ そして今君に僕が恋する── それでよいだらうか それは最も悲惨なる滑稽だ 女の子よ 賣場の女の子よ 僕は君に恋を感じたらうか   × お嬢さん 女学生のお嬢さん 毎朝バスで会ひますね 君は美しい 君は可愛いい 君は昨日「令女界」[※ 雑誌]を持つてました 僕のみつめてる眼に会ふと 君はその本を開きました 帰つてから僕は妹にその本を借りました 花ことばが書いてありました 今日君に会つた時 だから 本当のことを云ふと 僕は花ことばを期待してたのです 空色のネクタイに 黄水仙の花は調和するぢやありませんか (S.S嬢に) [※ 三十九行にわたって新約聖書マタイ伝からの訳出抄あり。] 日はまひる 青草の野はつきて 白き雲ゆく大空の見ゆる 窓辺によりて おるごるの音に 聖歌を唱へば ひとりなることの淋しさに 反りみてわれは泣きけり   × 凌霄華咲く窓の外に 子供らの遊ぶこゑ ぶらんこのきしり 大空にゆれる木の梢 いちじくだよと 弟がもつて来た   × いつか泣きます、泣かれます、夕くれがたに丘の家、白いフエンスに見えかくれ、 女の子らが遊びます、声をそろへて唱ひます、 あヽ古い歌、賛美歌を。 [※ 八行にわたって新約聖書使徒行伝からの訳出抄あり。]  九月一日 我家の樹木 棕櫚 三二 栂[つが] 三 松 二 樫 一二 冬青[そよご] 三 扇骨木[にわとこ] 二 杉 八 夏蜜柑 三 桜桃 一 椿 七 楠 三 柿 一 木槲 七 梧桐 六 八角金盤[やつで] 三 無花果 一 ウバメガシ 六 樗[おうち] 二 青木 一 高野槙 五 椋 二 桐 一 山梔子[さんざし] 五 枇杷 二 櫻 一 南天木 四 槐[えんじゅ] 二 柘榴 一 茶梅[さざんか]三 金木犀 二 楓 三 檜 二 櫨[はぜ] 三 桃 二 不明 四          計一四〇  九月二日 大佐渡の名も無き寺のあすなろう(湯原) 蝉死にて花無き杉の相(かたち)かな おそ夏の木の花開く暑さかな(湯原) 高架線を 長く貨車牽きてゆく 機関車の壮さ   × 動くものを 凝視めるに 寂しさの湧くことを知る   × 汽車の煙 淡くなりて その長々と 汽笛鳴らすを 聞けり   × 夾竹桃は さかりの長い花 散らぬ花 秋づく日の空 木梢の先にのこる花   × 別れのかなしさは 夾竹桃の塀路を通り 港へ下りていつた午過   × 晝に 白い雲の立つたあたり 夕ぐれては 星座の動かざる相   × 涙脆うも 秋早い巷をゆき 何気なく見上げて 見えた星座の姿(なり)   × 秋になつて 初めて實る蕃茄(トマトオ) 祖父の命は やうやく保つたまヽ   × 白亞の建物に 歪んだ光線 秋だつたと しみじみ 呟くはわたし   × 手帛の白さが うれしくも秋 人間が如何に期節[ママ]に制約されるかは今年と去年の僕の休み中の行ひ、 考へを比較して見るがよい。僕は燕にもなれようし、春になれば必ず咲く草木にもなれる。   関口に一句   淋しさや楠の朽木の小蘖(コヒコバエ)   廣重の松の並木に鴉哉   西垣に   蝉の声しばしとだえてひるね哉 鴎鳴く港を出でば夕日かな カラカラと物のひヾきに出船かな 時雨るるや別れも告げぬ出船哉   石段は四百段目の海の色   天の川夜明け御山を下るとき   峰の杉に明星落ちて夜明哉 渋柿の不作も惜しむ初秋かな 秋浅きつめきり草に夕日かな 末生の絲瓜みつけし秋暑し   × × ×  感傷 どなたさまにも ごめいわくではございませうが 手前さびしうなれば 手紙を書くのが 癖でござります    忘れじの誓ひ日記にのこりけり お天守に沈む夕陽や街も暮れ (九月三日) 稲田見渡すお城にのこる夕日かな くびかくす扇になほも残暑かな   増田正元君の遺影を受け取る 時の忘却作業は 君と僕との思ひ出に 秋づく日の斜めな光を 射しこんでゐる   × わかれ── そしてそのまヽに 僕達は歩み去り 今焦燥を感じるのは僕だけだらうか   × 長く長く汽笛を鳴らし 前の海峡をゆく汽船 ゆうぐれはこの花壇の ヂキタリスの枯葉にもあつた   × 鉢伏山の傾斜が 今となつては鮮かな 我々のラストシーンを画き出し 海は静かに光るばかり Mein Erl ser,Jesu Christ, Hilf mir,wenn mir zu helfenist! Liege ich tief auch im S nderschlamm, Bin ich dein Kind doch, o Gottes Lamm! 救ひ主 エス キリストよ 御心あらば 救ひたまへ 罪業の沼ふかく横たはるとも われは主の子 の仔羊なれば [※ 以下、聖書より独文の十六行抄出あり。] [※ 蕪村句集より九十五句抄出あり。] 蝙蝠の啼く音あやしき夕かな  九月五日夜  伊藤氏方 眠れざりし朝のおどろきに目高の小さヽとそのなま臭さとを感ぜり 掌に跳ねるこの生臭き生命が耐[たま]らずにくたらしくなる 生臭くなつて死ぬる目高を思へば無所畏[ママ]の心終に無からん 夜中に口笛吹く音長くつヾくを聞きしが犬も口笛吹くなるか  九月六日 清徳保男、友眞久衞 飽和の状態にある大気を擾[どよも]す風が吹いてまつ青なのつぱら 嵐の先駆はげしきにたなびきもえさかる炎の遠きにあり 百日草の朱の色も嵐の前の青い大気にもの凄く冴える 九月七日 宝塚 京阪商業 十一 × 十三 [※ 野球スコアあり]      ミス日本某嬢を見る 日の当るなだら斜面を持つ山のめぐる球場の空は澄みたり 寫生する女の子あり空青くとんぼとびつヽこころぐく[憂鬱]てゐる 種子となりし待宵草の野つ原にひる啼く虫をなき止ましゐる 川原によもぎ叢[むらが]り石白し鮎のぼりつヽ漁らるらむ   増田正元 一年(ひととせ)をみじかしと云ふはむすこやけくありし君だに見えざるものを めぐらせる青菅山のまん中に球争ひし去年のいまごろ 秋風にみだれたなびくぽぷらの木きみがおもわは今も目にあり   「間諜X27」(DISHONORED) 金崎忠彦君、公楽座 九月八日       Dir. JOSEF STERNBERG       X27. MARLENE DIETRICH       KLANOV. VICTER MCRAGREN 刑場の装ひは成りて雪深し足音重く兵等ゆきけり 悲しくも石壁にひヾく楽の音にニヒルみだるる稚心もありき ある朝の雪深き獄庭に倒れし女も数夛くなり戰ひは止めり 泣くなかれきみがなみだのあふるヽを見るわれがまさに死ぬべきなれば おのづから女心のかなしさにこふまじきこひするを咎めむか われはスターンバークの計にかヽりて口惜しくも泪ながせりまさに悲しく はるばると音楽のねぞひヾきくる牢獄にとヾく暁の光り かよわきをみなころせし十人の若き兵士は悔い悲しむか すなほに泣きて死ぬとも咎めぬに冷く笑ひて逝きしせ[兄]はも せんなき自嘲に東洋の白磁の壷破りて見て更に悲しき 冷かに鬢[びん]に落つる毛をかき上げてさらばここをと胸を指すなり あまり冷し冷しと云ひて泪流しつヽあはれこの映画はさびしけれ ひとりで行く途に夛くの人の生活を持込んだことの結果と知る ともに生きむと云ひしわれはもきみうたむ號令せよといな[否]あた[与]ふまじ ともに生きむと云ひしわれなればきみ死なむこのあさあけに死なむとすらむ 戸外には探照燈の光あかしいきどほる眼もせんなくは見ゆ たはれめと向かふ牢部屋の窓の外わが飛行機はいまも来れり あるは明るくあるひはくらしわが朋らのくにより来る飛行機の爆音 かなしきは遍照光のきゆる見つヽちヽはヽのくにヽわかれいづるも   大阪を去る 九月十日 松浦宅 吹田の驛を出づれば群松の丘の彼方に陽は落ちむとす 赤々と陽はうらがなしくおちにけりわれはひもじくて車窓によれり ちヽはヽのくににわかれてゆくをのこ西に入る陽を見るべしやまた 海州常山(くさぎ)咲く白々と咲く夕あかりほのかに見つヽ汽車に吾はゐつ はつはつに白萩咲ける山崎の驛のあたりの夕空の蒼さ   ×東大阪のスラム 高架線のガードの下にむしあつき夕方頃を眠る人々 うす汚き足のうらをば見せてゐるむしろにいねし男死ぬべし 夕方ガードの堅き柱にもたれ男食みゐるべんとう白し 生きのかたさ[難さ]をひとびと説きついたづらに説くにまされるこの人らの相(さま) 蓆[むしろ]の上に頭よせつヽ眠りゐる二人かならずしも仲善きにあらじ   ×女工さん たからかに笑ひつヽゆく蒼白き女工の群に嘔吐もよほす ブルジヨアの世紀つきればこれやこのかヽる女らつきむとすらむ みんなみんなきちんと装ひをつくろひて仲よく暮せる時来れかし プチブルのイデオロギーはわるけれどさもあるべしとわれは予期(のぞ)むに   十一日 西垣氏宅 林氏、岡本正徳氏、福井敏夫氏、野田氏 秋浅き鳴滝山の片岡に青毬見えてさらにかなしも 雜木生の片岡中の栗の木はその青毬[あおいが]にしるくしあれよ ゆうされば愛宕比叡の灯も見えて風来るところ酔泣く主人(あるじ)   十二日 岡本、福井氏を送る             萬年筆出にくし 出にくし 出にくし  博物館 Turfan[トルファン]の佛様達見にゆけりその眉の長さいまも覚ゆる 冷き石の像なれど口鬚のねじれゐたるがなつかしく見ゆ   豊國神社、方広寺、清水寺、八阪神社、北野天満宮、平野神社、金閣寺 うれひつヽわが見にゆきし銀閣といづれととはヾ銀閣われは 巨きなる鯉ゐて菱の花白き水面にうかび揺がせてゐる 亀游ぐ池の向ふは衣笠山後水尾帝は眞佛かけましき 春すぎて夏来にけりと見そなはしヽ豪放濶達の帝にませし 林間に泉はありて青苔を傳ふ細水光りては見ゆ   嵯峨の夜 虫啼きて家をめぐりぬつぶさにきけばおのもおのもに声ことなれる 憂鬱── それはまだ持つたことのない恋人の死を思ひ 死んだ父母のことを思ひ── 所詮持たぬものに対する悲しみであらう 憂鬱── それは暗い北海の波打つ渚に 胃痛の胸を抑へて未だ来ぬ原稿料を 焦り待つことであらう わが憂鬱は── チヤイコウスキイのメランコリツクシンフオニイをひく モデレフスキイのラヂオに完全なる結実をとげ いま嵯峨の野の奥なる落柿舎に死なむと思ふ   青柿よ落ちなば落ちね石の苔   蔦まとふ松もありけり紅葉ゆかし   奥嵯峨の禪寺通はぬ路もあれ   鹿啼けよいづれ丹波は山どころ   十三日 西垣氏と 青い鳥ブルフリンク-蠶神社-太泰広隆寺-嵐山大悲閣-虚空蔵菩薩-    ※ 松尾神社-梅宮神社-嵯峨天龍寺-清涼寺-大覚寺-車折神社   広隆寺弥勒菩薩 年久しく拝みまつらむと思へりしみろくぼさつにあひ奉る ほヽづえをつきてよるひるものおもひにこやかにしてまします佛   大悲閣 枯れ橡に蔦まつはれる青さかな ひるすぎや水浴みの音谷にあり みんみんの石段のぼり大悲閣 名所よはるかに見ゆる比枝の山 みづひきははつか[わずか]に紅し秋の蝉 空青々峽の水は光り出で 赤松の幹光りゐる向ふ山 心中はかの山なりき谷ふかし 常夜燈つきなむころやほとヽぎす みざくらは鳥にくはれて秋来る   嵯峨天龍寺 林泉(しまやま)の池の向ふの茂りふかし木深く水は光り落ちつヽ 水草の黄なる花咲く禪寺のお池にひるの日はかげりけり しまやまをめぐる林のこぐらきに禪僧ゆくを見よといひぬる   清涼寺 西山の釈迦の御堂をと[求]めくれば二層の塔の瓦青かりき 楼門の傍に松は茂りけれいづこに啼くかその蝉どもは 子守遊ぶ寺の境内広ければ松いく本を植ゑ生はしけむ   京都を去る 十四日夜   植物園其他 カンナ咲くまひるの園にふみ入れば炎になれる生命も思へ 眞赤にまんじゆさげ早や咲くを見しまなこいまサルビヤの花を諦観す 百日紅咲かしめし庭深からむあで人すむとわれは知りたり 麗人はとつぎのよそひなれりとふあかく咲きたる花も痛けれ   洛北白川 頂に家建ちゐたる吉田山愁の眼に松は見えつヽ 茶人となり枯れし生命も終らむかいのちさびしとは言に云ひかねつ よるもひるもたゆまず水の流るヽにその中に咲く青藻の花は   萍水相逢   民國留学生某君 年二十一才 河北省人 明大生 籠球選手 北平[ペーピン ※北京]より来りしきみは眉ひろしはろかに遠き支那を語るも うきぐさは水に流れて咲きゐたりその花のいろ黄いろといふか 別れ果て余情なかりしきみ思ふに蒼き帝都のそらのくれいろ 民國の歴史研めむといふ君は共匪[共産党]を恐れのヽしるとする   十五日 茅ケ崎の朝凪海は並松の上に見えたり花咲かぬ野は 大山の頂にかヽる朝雲をいつはれむかと民國人見つ 異邦の名知らぬ山にゐる雲のあはきうれひはとはに忘れざらむ あはれ蒼き朝の稲田は広ければ人ゐて見ゆるが甚だ小さし   × 松田明、肥下恒夫、石山正一、船越章諸氏 さびしさやかへりきし庭のこヽだにもカンナ赤々さかりならずや カンナの花の巨きくなるを畏れゐるこれのこころは誰にも語らず かへり来し宿に一本の朱実つくる樹ありしを知りぬかなしきこころ   十六日 無為 秋雨は百日紅[サルスベリ]の遅花に降るとは見えず外に出れば濡れぬ 杉林に音なくしぶき雨ふりぬそこはかとなき白き花咲き むかしむかし百日紅咲きし屋敷もちわが祖父は煙草のみゐき むかしむかし白壁めぐらす邸にゐてわが祖父は小作米積みき むさしのを開拓きし昔思ほゆれ神輿ゆりつヽ児等が群るれば 関東は子供さへ心荒しとおもふあはれ神輿はとほくゆれつヽ まじめに太鼓叩きてまつぴるま人ゐるなればわれも歌つくれ   十七日 新宿 章氏と かの子らやおのもおのもに夫を得て安寝せむころわれは泣かなむ ねむりぐすりのみつヽいねむさびしさのきはまれる夜には何を思はむ   × 美しきをとめを見しが巷にて かヽはりなきかこのおとめらは 美しきをとめのころ[子等]が夫とりて交合せむを思ふに耐えず   × おぼほしく空は曇れり虫なきて白紫微花ゆれつヽは見ゆ すたれたる絢爛さおもふさかりすぎし白さるすべりに風は吹きつヽ   × 嫉妬といふこころを 素直に表し得ぬものか 自らは恥ぢを感じて 何とも為やうもなく 全身を熱くする ほんとにあつく 人はこれをさげすみの目もて見る 殊に勝利者の目は 嫉妬する人を死なしむるに足る 故にわれわれはひそかに 爛々たる眼もて幸福者を 物の隅より凝視め 大きく息を吐いて悲しく悲しく 蒼暗き洞穴に隠らうとする   × 芭蕉葉やででむし蒼き夕ぐれは   × ゆるやかに物云ふ人をにくみけりひそかににくみいかにすべきぞ 横面をはりつけやうとも耐えてゐむこの人にはわれ負けると思ふ   十八日 章氏と三越へ。 保田、松田。   十九日 大学 「支那と戰爭」 かなしきは営々とわれら築きたる格納庫破壊の東洋飛行機 さげすみの眼もてわれらを見てゐたる東洋をとめ姦せむいまは 東洋の神経質なる奴輩(ヤツバラ)に民國の爆彈をぶつヽけるべし この日頃にくみ重なりし東洋人(トンヤンジン)北陵に屯し火を焼けり見ゆ 黄沙飛ぶわれらが郷土に入り来り銃剣の穂を閃めかす東洋人 東洋兵らつぱ吹きつヽ来りけり牛車蔵めよ木犀の家 東洋兵の銃剣の穂は光りたりかの地平まで広し國原 莎草(すげ)生ふる牧に入りつヽ東洋兵銃組みゐるを童らおびえ見る ごうごうと夜ふかく鉄橋わたりゆきし急行列車に爆弾打つわれは わが友のわがかたはらにこゑひそめ口火切りゐる見つヽかなしも がう然と鉄道線路とびちりぬ広原の牛馬こゑあげて逃ぐ ひろしひろしわがくにはらにけふもかも入り来る東洋兵一隊また一隊 紅くあかくはげいとう見ゆる支那民家のをとめを見つヽ行軍するかなしさ このをとめら屠らむと思ひとほくおつる入日を見て夕げ炊かなむ よるふけて牛馬そばにより来りけもののにほひすふるさとかなし この野原にしげく生ひたる莎草群に支那の民かくれいく日くらさむ   二十日 日えう[日曜] 丸来 早明二囘 六A-五 明大勝   慶立二囘 三-○ 立教勝   二十一日 早明三囘 六-四 明大勝        今来、保田、松田、藤田、天野、肥下、澤井、長野   十一半頃激震アリ 向ケ岡弥生町三番地ナル園ノ下宿ニテ遭遇ス 地震[なゐ]ふりてものおと雜然と起こりたりおのづから生死の域に心至りぬ 三味の音聞えずなりしに思ひつきしはなゐやみてのちはるかとおもへ 窓の外に見ゆる二階家のゆるヽ見て死ぬべき期と思ひし瞬間もありき 棚の上の植木鉢をどりゐたりしが地震やみてのちしづけくは見ゆ   × ひいやりと煉瓦造の学館の棟より秋の空がのぞけり カンカンと石打つ音の澄みにけりま上の空に煙流れぬ 巨くも時計塔は空につきたちぬま上さしゐるその時針いま ほのぼのと味噌汁のにほひながれたり朝啼く虫に地震はふりたれ 菊の花のつめたき感じにわがこころおのづからなる秋に至るも   二十三日 同窓会 緑会委員の事に関して也 スパイ二人   二十四日 秋季皇靈祭 増田の記念帖「夕映え」来る        菊池眞一郎、丸三 二科展 章氏と   二十五[日]お腹が空いた 学内の空気急迫 われを養ひたまふに わがははは山羊の乳をもて なしたまひけむ ものに怖ぢ易く奔り易き 赤き眼をせる子どもとなりぬ   × あはれ おぼろなる 秋のも中の月かげに かすかにもきみは倚りたまふ まことふがひなきわれにもあるよ 月の照らす木々の葉より なほ蒼ざめをののきて 終に白きみ手に指だにも 觸れざりけるを   × などわれは恋ひむな きみを── まことわが君は 心うるはしく 眉清き この世の中なる 花の如し われは襤褸[らんる]をさげて 垢髮巷をさまよふ かたゐの群よりも せむかひなし    松田明氏、保田與重郎氏   二十六日 「西康問題」を買ふ   二十七日 早帝戰 十一-五 帝大勝ち わたる日は雲の流らふ間にありぬ夜更けの月の如くは見ゆる まひるまに日を仰ぎしが眼くらまず地(つち)はかげりとなりにけり 白紫微花衰へて秋 暑き青き空に富士の方雲旋る 雲のめぐる武蔵の江戸のさるすべり秋なればおとろふものかまなに見えつつ   二十八日 夕ぐれてくれのこる不二の山 いつまでもいつまでも西の空に 何だか女の子を思ふてる夕ぐれ   × 淡青の空に 煙をのぼらす煙突があり 雜音を刻みこむ 汽車があり 蒼茫と広がる地は   × われは 夕ぐれのいつもの寂しさに 屋根の形をした富士山を 眺めつつ 中央線の驛に 煙草をくゆらす   二十九日 銀杏の實落ちる 午過ぎの大風 雲はゆきめぐり疾し 疾し 西空はやヽ開けて 淡青き空の地 やがて銀杏の實の臭ひ── VAGINAに似ると 清徳保男が云ふたか 云はなんだか   三十日 東洋史学會 ひえびえとくれかヽるそらは身に冴みぬ気球するりと下ろされにつつ 時計塔のくれのこる空はさむざむしみのる樹あるはかなしと思ひ ぎんなんの樹の下をとほりゆふぐれの帝都のこゑにかへらなわれは お茶の水の谷間はふかし神田川流れつつ見す生計(なりはひ)びとを 歌つくり止めむと思ひ止めよと云はれ菊賣る街を帰り来りつ うすぐもる空にとぶものありにけりガスタンクに人のぼりてゐたり いつもいつも少年の頃おそれにしいまもおそるる夕ぐれのこころ   × 愁來らば野丘(のづかさ)に 攀(のぼ)りて國見せむずらむ あヽ蒼茫と暮れかヽる地平にのぼれ 夕月も ちろりちろりと消え光る 夕づつ(星)もあれ 穂芒は音に   ※ いろをこめなびくべし 遠嶺はなほも暮れのこり 淋しき夕の物の音を つれなく反響(こだま)しとよもさな わが十八の口笛も   一日 上念の省さんと銀ぶら 本宮君逮捕されたとの噂あり   二日 章氏と白十字 同窓会 脱退のことヽなる もの怖ぢの眼の光弱きひとらあつまりよわき物の云ひ方 するどければ若ければわれらうべなはずかの一團(かたまり)はやすきにあらじ 二十の年のわかさに革命の朝を語らぬそはまことか   本宮氏逃れたらしい 富山はたしかに捕はれた 久保も一応連行された相   帰れば丸来てゐる 松田と三人ではなし   ※   三日 奥澤九品佛 百日紅が咲いてた 九品佛は金々と光つて 葬式 白い柩をかついで       ※ 栂の木蔭で泣いてゐた母娘   × 果敢なきものをこふまじき われはほのほとなりはてヽ 百日草の畑に立つ       ※ とべとべとんぼ 秋なれば   × をみなごをこふるあまりに わだ中の伊豆の大島 わたりゆき 燃ゆる山見む 秋の光に   × 椿の葉いや黒みつヽ秋ふかき朝の泉のあたりしづけし    童骸未焼 さるすべり木梢(こずゑ)となりて咲くなればほそぼそのぼれ秋の煙は そら高く啼きつヽ鳥のゆく見れば人焼くけむもそこまで昇る 裏山は墓原となりて ゆくりなく人燃えゐたるひるにありけり どんぐりはこの墓原にもありにけり葬列はいましづかに來たる   × かなしきひとひるをさびしく人々にまもられてゆく杉の墓群に 栂の樹のこずゑに鳴きし鳥ありきこのもとふかくなげかふわれは かくし妻われにしあれば百日紅 紅きもとゆく葬列を遠く見やりてせんなきろかも   恩師財津愛象先生四日逝去さる [※ 新聞の事故記事切貼あり。]   七日告別式あり 遥に拝す 温容永久に帰らず 秋の雨ふるやわだちに枯落葉 柿みのる山田に葬列のぼれ しづしづとゆく葬列に喪主もあり   熱高き夕となりて冷き雲   林に坐して琴きく夕の落葉かな 大学のマロニエ黄葉すること早し 反動の嵐吹き荒ぶなればか   スパイは紙屑ひろひとなり   金崎忠彦は故郷にかへらむ   八日 丸三郎 松田明  明とビール呑みに   九日 年月── それは灰色の髪の毛と   ※ 皺ばんだ手とを表す 悪意ある嘲笑 そして墓穴   × × × × 富士が見えた今日は 雨が晴れてカラツとした空の 深さ──長くはつヾかなかつたが   十日 薄井敏夫君 服部より来信 新井薬師   時雨るヽや梢にありて虚栗(みなしぐり)   膝たんだき[抱き]またや仮寝の落葉哉 秋 こすもすの花美しき   晦冥に生(あ)るる児ありや   カルルのヨハンナに与ふる文 ヨハンナ、ヨハンナ、汝(おまへ)の眼はりうのひげ[※ 植物名]の實よりも青い。 ヨハンナよ、汝のくちびるの紅さを果物の切り口にたとへよう。 ヨハンナ、汝の髪はダーリヤよりも輝き遠く沈む日よりも金である。 ヨハンナ、汝のみ陰(ほと)は枯草の匂ひよりもすがしく銀杏の臭さよりも好ましい。 ヨハンナ、汝の乳房は無花果の葉つぱのにほひがする。觸れると薄荷よりもきつく  僕の皮膚を刺激して僕は歓喜で飛上がつて了ふ。 ヨハンナ、おまへの手はとかげの指よりも軟く自由自在で海星の觸手よりも魅力がある。 ヨハンナ、おまへの足の趾(ゆび)はばらもんじんの根よりも相が良くて星のやうな爪を  一つ一つに具へてゐるのが神妙不思議に有難い。     ※ ヨハンナ、おまへの巻毛は東邦の棕櫚の葉よりも 、嚴に知慧の殿堂のありかを示す。 ヨハンナ、おまへの耳はみやまうすゆきさうだ。雪の中に咲く一群のうす花だ。 ヨハンナ、ヨハンナ、おまへの言葉は銀の連る嶺より出る月の如く  四辺のものをひヾかせ共鳴させる七絃琴だ。 ヨハンナよ、そしてお前の便りだけはわたしを悲しませ、悩ませる悪魔の手品だ。   十二日 硬友会野球 LEFT ×弘前 一四-○   十三日 生島栄治君来訪   十四日 生島、保田、松田、長野、紅松、杉浦、本宮、山本 帝立戰 二-一 富士の嶺に光れる雲はめぐりゆきおのれさびしく久しくてゐる 不二のねにかヽれる雲は動かざり眼の下の街の電車小さし 高空にとんびまはせつ不二のねに至る平野の人間の営み 伊豆の海より起れる雲はつらなりて光りつヽ動く武蔵野をめぐり はるかなる國會議事堂にさす光 小く光りまひるとなれり 宮城の松山のあたり雲動くに長々ととよもすまひるの號笛 秩父嶺の武甲の山にゐる雲の山とかヽはりはなれぬがかなし 遠々しき峽より起る雲の群人間とあるをかなしみつヽ見る 銀杏の梢ゆるがす風ありぬアドバルーンも靡かせにつヽ 海へ吹く風に気球はなびきゐぬ洲崎のあたり船は見えつヽ にぶくにぶく光れる海に巨いなる街の煙は垂れて低けれ   十五日 帝立戰   ひるの図書館であんまり大人臭い話をきいた。 夕方、丸、本宮と神宮苑を散歩。 ゆう月はなヽめに西に下りつヽそこはかとなき木犀の香も ゆうもやはなびきて芝にふりにけりわれらがいのち短くあらむ 花の咲く園にふみ入り秋ふかき夕となればかなしみかたる ちヽはヽのにくきをかたり時たけぬ革命ののちはかヽはらざらむよ ゆうさればしみじみ光りゆく雲にまぎれずあるは星にあるらし 淡ければゆうべの星をかなしみぬ かくてすぎゆくわれらの時も   十六日 無為 松浦とこ、保田と   十七日 早慶一囘戰 雨で中止 國原を買ふ   十八日 同 二-一 早勝 永遠の女性は モナリザにとヾめをさす かすかにほヽ笑みもの云はず 右手には紫の花をつみ 左手には幼児の手を握る 母性愛と美に対する愛の象徴 現実を忘れぬがそのために 理想を捨てはしない 背後には伊太利亜の空が蒼々として広がり 野草の咲く丘を越えては 光る湖が見え 揺れる樹には 實がうれてゐる モナリザは永遠の女性で やさしいやさしい僕のこひ人である   × 荒城自蕭索  おのづからさびしきものか 萬里山河空  山河も空しくそびゆ もののふの 天高秋日迥  古き城あと いま秋なれば [口+寮]唳聞歸鴻 そら高く日はゆきめぐり 寒塘映衰草  雁が音をきヽつヽゐれば泪さしぐむ 高館落疎桐  池のみぎはに生ふ草も枯れがれて 臨比歳方晏  高き館の前に生ふ梧桐の葉も 顧景詠悲翁  日々に落ち いまはまばらとなりにけり 故人不可見  年老けたれば少年の感傷は身にあらねども 寂寞平林東  つもるよはひ[歳]はなほかなし さりにしひともなつかしし    王維   十九日 しみじみと眼下の街の屋根瓦ぬれつヽ光る秋雨の日は 大いなる憤ありてゐる耳に上野の鐘は通ひ来りぬ 銀杏も落ちつくしけむ秋雨のしみじみと降り冷き手足 あなつめたききみの手足と寄りゆかばほヽと笑へよわれがをとめは 幼な妻と秋雨のふる一日はカンナの花の衰へかたれ   × × 嘆けとて片われ月はかたぶきぬかの川岸に水よせゐむか あきらけく川面にゆらぐ光あり瀬音にまぎれなくはこほろぎ 月かげに川上の山おぼろめき川堤みち誰か来る見ゆ 川霧はどてのぽぷらの梢までのぼりまつはり月に光るも わがこひしきみがふるさと家々の瓦をぬらし月の光(かげ)てるこのよるを きみはふしどにさめたまへ さらばにはべになくむしはせつなきわれのこひごころ ねに立てヽこそ啼くと聞け   × 幽(しづ)けき光に燃えて茸達の輪舞 篁中はてしないざわめき 植物質の醗酵 水分は霧となる 月光がさして来たぞ 今となつてすましても駄目だ 白い菌糸がお尻にくつヽいてるのやら 外套の破けたのやら いやはや何たるていたらく── 顎の長いおぢいさん おだまりな 夜は長いしお腹はくちいし さあさもう一おどり 一おどり   × あきらめた人をあきらめかねる── 一年前のいまごろだ 月の光の下をさまよふた 収穫で忙しい野原をうろついた 山茶花が紙屑の様に咲いてゐた 紅い漆の葉 もみぢの葉 秋はなつかしくほヽえんで僕を迎へた 今は百里の山川をへだてヽ 仙薬の救けでも借りなければ 一目あふよしさへもない せめておもかげかよふ人をもとめて 古いソフト の下から眼を光らせよう   十月二十一日  [※ 巻四のストライキの一件の話の続き] (耿太郎の讀書會を開いてくれるといふ山鉄、湯原に呼びかける) 耿太郎は一九三一年十月二十一日の夜半の寝覚こころやるせなきまヽに 一九三○年十一月二十五日の事件(それを嘗つて「起たなかつた話」として前半を記した)を叙する。元より一年に近い「時」は或部分を除く外は記憶を甚だうすれしめ、 記事も従つて不正確となるのであるが、事件の中心近くゐて種々のことを見聞した点に於て耿太郎の記事も又後世に残すべきである。讀者この心理を諒とせられよ。  扨十一月二十六日午後四時、学校側の回答に誠意なきを認め、今後の行動に関してのクラスの態度をきめるために一先ず解散することにした。この際、 分宿所を定め連絡委員を出すことにしたのは甚だ統制あるやり方であつた。耿太郎らの文三乙は寮の集会所楼上であつた。 これは寮中最良のところでリーダーの位置にあつたわれらに与へられた名誉とも云はねばならぬ。併し乍らこれより先、理三甲生全部は前日既にストライキ等に類似する行動一切を否定し、 全部(庭球の松山、蹴球の田島等の極少数を残し)この生徒大會に加はらなかつたのであり、又文一甲は、耿太郎らが後輩である遅川一派も同様な態度で、之も級中の半ばを占めた。 かくて連絡委員も後日の責任を逃れるためクラスの席順により三四名を出し、以て中央部との連絡を計ることにしたが、この中央部たるや実は俣野理事一人であつたとは後に判明したが、 これこそこのストライキの敗れた最大原因で、これ又耿太郎ら文三乙クラスの恥辱責任であらねばならぬ。尚、連絡委員もかくしても尚はかばかしからず、 殊に席順の始より出せし委員は成績優秀のもの計りにて、学校のためを思ふより外事を知らざれば統制上に欠陥の生じたも計り難い。  これより先警備隊なるもの組織され、隊長として文三乙の川本が当つた。川本はストライキに対する態度ははつきりせざりしも隊長として中々功労があつた。警備隊は各處の校門を守り、 急を聞いて馳せよする父母達の心配をなだめ事情を諒せしめるべきであつたが、徒に面會を謝絶する計りであつたのは少々遺憾である。然しこれもむりからぬことで、 後に話す玉眞判事の周章振りに照らしても周章したる父兄には何の理屈も徹らかつたに相違ない。現に耿太郎が校門附近を遊びゐるさい中年の洋装婦人あり、不二原なるものに面會を求めて止まない。 生徒大會中なることを以て止めてもきヽ入れぬ、遂には泣いてそこに蹲るといふわけであつたが、何らの恐れありてかくするか耿太郎らに分からなかつた。耿太郎は親しくその婦人 に理を説いたつもりである。                         ※  四時半五時の更に至り、日は暮れんとした。耿太郎は八つ手の花のほんのり白い中庭で同級生に呼びとめられた。それは梅下[※ 松下武雄]である。 梅下は哲学会を牛耳る一人で、炫火の同人でもあり急進派としてしられてゐた。彼によつてストライキ中止の提議がなされたのである。 その意見は、「勝敗は既に決した、客観的に見るに全校生徒の熱甚ど揚がらぬ。この寒空にあつてこの後数日のストライキをなすも最後は知れきつてゐる。徒なる處分と果敢なき惨敗である。 これはこれまでの高校ストライキの轍をふむにすぎぬ。われらはこの際学校側の休学三日発表にその周章振りを発見しこれを一の功として業に就かう。而してその間交渉をつづけ、 再度三度の蜂気をなさん」との要旨であつた。これには湯原、中野等の急進派も賛成し、海老沢、永島は何か不賛成の如き点もあつたが、何ら云ふところはなかつた。  こヽに於て今迄沈黙しつヽ事態を「冷静」に観てゐたる杉浦、横川、山崎、本田等の運動部派はこぞつてその然ることをのべ、文三乙は二年以来の暗  ※ 闘を解いてこヽに左右両派の一致を見るに到つたかと思はれたが、耿太郎は右翼に属するものであり、理屈も何も分からなかつた。最初この提議を梅下に聞いた時、 何故か奇異の感を受けた。然し考へれば尤も至極であると見て大賛成の意を表したのである。  こヽに文三乙の議論はまとまり、この提議を他クラスにも支持さすべく文三甲、文二甲へは湯原が出かけた。耿太郎らはこの後、寮集會所に集まり今後の處置、 即ちストライキ中止後の處置に関し相談した。この際先輩小松(籠球)来り、我等のストライキ中止を聞き大に驚き、先輩に任せてつづけよと云つたが、 此の際組総代東山の返答はクラスの態度を表した。先輩の案を見せられずに無條件で一任することは出来ぬ。ストライキ中止は既にクラス案となつてゐる。 これに代はるべき前後策もあればとも角として、この際止むを得ぬと信ずる。これが返答であつた。この時小松先輩は返答もなかつたのは彼が京大先輩としての位置不明であつたヽめで、 先輩の行動遅かりしことも責めらるべきであらう。  あヽ、われらがストライキは遂に敗るべきであつた。元よりクラス中には之を以て敗れたとせず、学校側の裏をかくものと考へんとした手合もあるが(例へば横川)、 併し矢張りこれは論丈にすぎなかつたのである。われら文三乙の前者は書斎派であり、後者は完全なる反動であり、中間に立つ耿太郎は事機に際して事宜を知らぬ阿呆であつた。  湯原の提議は文三甲、文二甲に容れられ、今回の事件の原因クラス文二甲が容れた以上、甚だよい形勢となつた。ことにリーダーの位置にある三クラスの一致は誠にわれらの提議の前途を示すものと思はれた。 大會再開は八時と決められたが、それに至る迄の間に父兄の数は増し、無理に連れ帰られた学生も一人二人はあつたらうし、警備隊との交渉も不円滑であつたらう。  七時すぎであつたか、スパイ、スパイの声が校内にひヾきわたつた。この際、耿太郎らは窓よりのぞかんとしたがクラス中窓よりのぞけば本部がわかる、と注意するものあり、 中に中野、次田の如きは手帳を破き卓上に燃したの何の意味かはつきりせず、狼狽の極を示したものであつた。スパイに指紋をとられたものもあるとの噂が傳はつて来た。 もう学校中をとりまかれたと放言したのは中野であつた。耿太郎は別に恐れるところもなく喜んでゐたところ、暫くして横川入り来り玉眞[※ 友真久衛]をまねき、耿太郎もよらしめ、 スパイと間ちがはれたのはどうも玉眞の父らしい、といふのである。玉眞はわれと部を同じくしてゐる。然し今出てゆけば父は直に連れ帰り、そのため裏切りの汚名を蒙ることを恐れ耿太郎に嘱した。 耿太郎も愛する友のため外に出ることヽし、南門より出でその人を探したが見当らぬ。遂に正門前に至り會ふことを得た。微醺を帯びた老紳士であつた。 耿太郎は問ふに玉眞を知れるかを以てしたが、老紳士知らぬといひ、その言辞甚だ嚴とし且つ不遜であつた。耿太郎なほも辞を低くして暗所に誘つた。これは何のためであるか。 今より考ふるに後に寮報にのせられし玉眞判事愛児奪収の件は此の誤解であらう。玉眞は父判事に会はなかつたのである。  判事はわれに住所と姓名を訊ね、之を手帳に書きつけ甚だ威嚇するの様あつたのち、この事件の後を操る「魔の手」を説き、耿太郎にも帰宅せんことを勧めたのである。 耿太郎は横川と共にこもごも事態を話しその帰宅せられんことを説いたが、老判事頑として動かず、只八時過ぎの集会の結果を聞かむと云つた。  耿太郎がクラス會に帰つた時、既にクラスの議は確定しストライキは完全に中止となるべくその理由書なるものも出来てゐた。それは甚だ簡單不明瞭なるものであつた。  かくて八時の大会は開かれたのである。書斎派の誤謬と反動派の勝利の中に。反動派はこの時今迄と違つて意気揚々としてゐたであらうことヽ思はれる。大会劈頭、提案は提出された。 満場寂として声なく迎へた。文三甲これに賛し、文二甲之に次いだ。然るにこの時文二乙起つて堂々と之に反対し、之を卑怯と呼び、裏切りとなした。 始め三クラスの動議に際しては沈黙を以つて迎へた場は湧きかへり、卑怯者、裏切り、のこゑ充ちた。  茲に於て文三乙は理事が発言を求め、提案理由を説明せんことを要求して許された。この時総代海老澤は喉乾れて声出でず、先の動議の際も副総代東山をしてよましめたほど故、 この度は中野及耿太郎、横川の三人に頼むことにした。耿太郎は正と拝する議論のため勇躍してはじめて公会の席で弁を振ふ  ※ ことを諾したのである。中野は先づ起つて、理由を説明したがその言甚だ不遜、「わかるか、これ丈はわかるやろ」の語は奇異の感を与へ、且つ云ふことも正鵠を欠いた。 これが皆の心証をわるくしたと思はれる、次でも早文三乙に対する冷い空気の中に耿太郎は壇上に立たされ、痩躯何を述べたか今は正確に覚えぬ。只かくてはも早事足つた。 これ以上やるは不可能であり、敗北である。後に力を養はうと云つた際、それが今わかつたのかとの語文二乙辺りから飛んで耿太郎を射た。 耿太郎は後になつてこの傷を子細に検めたのである。人気者耿太郎の弁も誰をも動かさなかつたと思はれた。次いで横川は立つて説いた。 その言や無茶といふべくあまりと云へばあまりだつたと後に文二甲文二乙の連中から聞いた。父兄の心配のこと迄云つたのである。これが後の横川スパイ説、東山反動説の起りであらう。 勿論耿太郎も反動と云はれたであらう。われは之を人に聞いたことはない。  がうがうの反対はこの時起つた。他人の気勢落ちたと見てのヽしるには元気がつく。文三乙汚し、卑怯なり、断じてストライキに入れとの語とび、 わがクラスでも高柿[※高垣]の如きは寮中にあつて之に入つた。蒼白なる耿太郎が彼を連れ来つて、その組(クラス)案にして一致して推すべきことを説いたのは、 言葉甚だ過ぎて傍観者のなほも覚ゆるところであらう。理三丙のわが中学の同輩大和[※ 倭]は「他を躍らしてをいて今更やめろとは何事か」とつめよつた。 この言葉甚だ賣名的であつたが又然らん。しかし躍れと云つても躍らなかつた輩の数、殆ど全部であつたのを他は知るか。文三乙中の中心のみが知つてゐたのである。 併しこの時梅下、湯原等は誤算と考へた。それほどわれらに対する反対の声はきつかつた。俣野理事もこの声に、勇み立ち再びやらんとの気配を見せ、文三甲、 文二甲は態度を一変し文三乙のみ孤立した。然しあく迄投票を叫んで止まなかつたのは何故か? 梅下  ※らは後で客観的情勢さへゆるせばやつてもよかつたではないかと泣いたのも之に原因する。  かくて投票となり、之はクラス別に行はれた。この時ストライキ決行に賛して全級殆ど一致したのは文二甲、文二乙位であつたらう。決行の声もつとも高かつた理一乙山上のクラスの如きは殆どなく、 理二乙でも理三乙丙でも半に充たなかつた。併しその理由に曰く、リーダー達がかくある上は何うしてストライキ等が出来やうかと。蓋しわれらは推し上げられてリーダーになつたのである。 事件の動議はわれらにない。三年の文科との責任がずつと後に僕等の胸に来た。一校文化の指導的地位を保つて来たとの自信は、この時猛然として起つた。さるが故に客観的情勢にも思ひを致したのである。  投票の結果は三分の一位で決行は葬られ、光輝あるわれらがストライキも終つた。学校の休校は 二日ある。われらはこの間に何をしようといふのか。 耿太郎は本田らとともに小い蒲団を引つぱりあつて寝ねた。然り眠られたのである。涙を拭つてこの無念を忘れまいと河上の言やよし、然りわれらは眠つたのである。  解團式は翌日三時からだつたか。思ひもかけず文二乙の矢部立つて讀み出した長文の文三乙に対する不信任状。長い長い針を植ゑつけたことば文は旨く、よみ手も旨かつた。 泣いて之に抗弁しようとした海老澤は理事にさへぎられた。かくてこの手紙は全校の拍手を以て迎へられた。われらは呆然とねむり足らぬ夜の名残をとヾめたをしてゐたのである。 これほど無念だつたことはないと泣き崩れた海老澤と、尚も自分等の正しさを疑はなかつた杉浦、本田のやから、僕は漸くこの頃から疑ひ始めたのである。湯原と何か云ひあつたと思ふが。  ダラ幹山内、松下を東京から迎へて、犠牲者防止運動のあつたことはも早云ふに耐へぬ。云ふべき理由もなからう。かくてわれらは敗れ而かも尚知らなかつたのである。 このストライキにかヽる反動的役割をつとめたことはこのヽちの革命運動に際する耿太郎のちうちよの前兆となるであらう。 耿太郎の讀書會も山鉄よ、むいみであるべきだ。ゆはらよ、阿呆に話しを説くのは止せ。こののちわれは湯原、ツネヲと仲好くなりしばしば無念を語りあつた。こののち級は仲好くなり、 左翼は暫時右翼に接近した。中野、濱田は没落したと噂され、之によつて右翼の好感をいく分取り返したのである。海老澤は未だに喉を快くせぬ。 喉頭結核で死期も早定まつてゐるとも云ふことである。医師の宣告に際し小刀を持つて暴れたとも云ふ。   十月二十一日 秋日好々 楡の木の並木も秋の日は射しぬ張物板をたてかけてある あの丘の何かいろづく雜木林大根畑の見透しきヽぬ 富士さへぎる林起伏しはるかなり雲立ちうごかぬ空見えゐたり 何かはかなき 秋の空 紅き實をつけ樹はありぬ 鳥小鳥ひもじうて 毒と知りつヽ食ふならむ 何かはかなき 秋の花   ※ その黄金色(きんいろ)は大空の ますみのいろにこびるなる すがれて種子を地にはじけ 何かはかなき 秋の人   ※ 実りは小田に深ければ 煙管に火つけうちながむ 遠國に立つ雲ひとつ 情痴の徒浅間の岳は見えずけり 竹林に寒月かヽり夜鳴き鳥   十月二十五日 日曜 石神井池へ ゆけばゆけばむさしのくにの大根の畑さみしく日は下るなり くちなは[蛇]のゐたる沼べり咲きてある秋蓼の花にとんぼかヽはり 音たてて流るる水に草生ひぬ河骨[コウホネ]の花一つあるかも 桑畑となれる小丘の向ふ側家あり何か紅葉づる樹植ゑ 山茶花咲くみちべの塚にたちどまり山茶花見れば愁ひは止まず 大根の青葉のいろにこころひかれながくあゆみつその葉の青に 森めぐる畑のすみは森きれてそこにくだるか秋の夕日は とほく鳴る汽笛の音は聞こえ来ぬ森にみのるはむらさきしきぶ この紫の實つけし樹の傍ひととほり何云ひゆきし名知らずとか云ひし 石神の祠に至るみち細し くちなは遊びわれに見られつ 石神の森をつくれる杉の樹の尖り葉くろし は来向かふ 大根の畑のみちに日はかげりかへりたしと思ふふるさとはなし ふるさとの河内の野みちゆきゆかばこひしき人の門に至るに   十月二十八日 窓          A Madomoiselle Shun Kashiwai わが窓に椿咲きぬと教へ来しとつぐに近き十九の乙女        × A Mousieur M. Masuda 病院の夜の窓辺にきりせまり海の軍艦の光とけつヽ        × A Madomoiselle M.M. あるときの神のすさびにおどろきぬこれぞ久しくゆめみしをとめ   × われは友の凡てを捨てよう われは心貧しくして人を容れがたし 人も心貧しくしてわれを容れがたし われ心鬱して石蕗[つわぶき]の花を視入るときひとは處女をかたり われ青空に涙をとかせば他遠き革命の日をあざわらふ 知らず石蕗の黄花と處女といづれか美しき 知らず青空と革命の日と何れか遠き   × あるひ、まはりのひとがみんなすげなかつたので あきらめたをとめのこひをおもひだした あるひ、まはりのひとがあまりやさしかつたので わたしはなくのをわすれ からからうちわらつた するとおほぞらにあつて あのひとみが つめたくわたしをさげすみみました          ※ きづけばあまりにもすみとほつたあきのそらでした ふじのやまにくもがのぼつてゐました   山里は石ふむ坂の野菊かな 僕は何か泣きさうになつて昧爽の本郷通りを行きます 冷い風が僕のレインコオトを吹きまくり 僕の細い足はズボンの上からもよく見えます 向ふから来る女の子に恥かしいので 僕はテレ臭さをかくすために笑ひます 女の子は怪訝さうに通り過ぎます あヽもう大学につきました こヽでも僕は自分の弱みをかくすために お世辞をふりまかねばなりません 僕は喜劇俳優ほどよくしやべり 悲劇俳優の様に表情をいたします   × されどよふけの十二時(とき) 時打つ音をかぞへつヽ十一うちて眠(ね)に入らば こころふるへてうれしからむ   × 見渡せどげに幸多きひとやある げに幸もたぬ人やある   × なにか泣きつヽゐたりけり 雲も動かぬまひる時 冷たき水に背のいろの緋を浮せつヽもだしゐる 鯉もつまどふ時ありて さほどすげなく拒まれて わけさへ知らにと云ひつヽも その巨いなる眼を開き 水の外なる雲みつめ げに虚ろとぞ呟くか   × つはぶきやさびしきいろと云ひつべし つはぶきの莖のすがたや水の上   × まろねして炭火の烹[に]ゆる音聞きぬ ま冬つき鉄もとけなむ寒さかな 動かざる蝿見つけたるさむさかな 今年柿みのらでくれぬ夕日赤し   × 秋風や大野をめぐる山くれぬ 蓋し俗体か? 菊の香やみちべの家の観音経   十月二十九日 小石川植物園 叢林の一もと高き青樹なり鳥来てむれぬとび又とまり 叢林に赤き實つけし一もとの木の名見て来ぬ今は忘れし まるめろは目立ずその實つけゐたり波斯[ハレ ※ペルシア]トルキスタンの産と書かれつ まるめろは沙漠より来り東の國に棘ある藪つくりゐる わが祖ら生きゐし時に甘藷つくりし昆陽先生の碑はなつかしき ひるひそか動物の檻の前に来ぬ小鳥ら鳴きてわれをおそるる 猿のむれの狡しきわざも見てゐたり人間の児はなほぞさかしき 銀すヽきかヾやきその穂なびかせり富士見えぬ空はその上に垂れ どんよりと曇れるそらの下にしてつみかさなれる家々はあり   十月三十日 本宮清見と丸の風邪見舞いに さやさやとなびくすヽきの穂を見せてかの草丘に日はあつまれり 草丘にひるすぎて草刈るひと入りぬすヽきのしげりふかしと云はむ 虫どもは鳴きつヽゐたり野の凹地(くぼ)に紅葉づる樹々は囲り生ひぬ 風邪ひきで臥てゐる丸の声太し柿もちゆきて食はしめにけり 兄貴のかへりけふはおそからむ遊びゆけと弟なれば言葉いぢまし   十月三十一日 雪吉千代治氏送別會 碁敵はにくさも憎しなつかしく   十一月一日 高尾山に遠足 池内宏博士  浅川-高尾山-小佛峠-與瀬 たたなはる群山はあれどそが上の富士の高嶺は相具(すがたとヽの)へる 丹澤の群嶺しづもりそびえたり巨いなるさびしさそこにはあれり 丹澤のしづけき山群そびゆる空に鳶まひ立ちてしばらくはゐる 相模灘くもりて光らぬ海なりき江の島を師に教へまゐらす   × 北面となりてわけ入るは落葉松の林なりけり秋深きひる     ※ 落葉松はもみぢて地にこぼれちるその葉の上をふみゆくわれら 落葉松の林を出でて瞰はるかす野洲の山ははるけくは見ゆ 落葉松の林道をゆきくまざさのしげりに山の邃[ふか]きを思ふ   × 川の音高くきこゆるたまゆらに紅葉めでます師の言はあり 夕ぐれて峽の町に下り立ちぬ子供らむれて球抛げてゐぬ 夕ぐれの峽のくるること迅し自働車の燈は遠くより来ぬ 夕ぐれの峽の西にくれのこる朱雲に光る桑の秀先は 夕ぐれに河成段丘の桑畑の下の道ゆき光る雲見つ   × 暮れがたの紅葉つめたし山川のかそけき音も耳にとヾめつ いつしかにうろこ雲空にたなびけりはぜもみぢ誰かみちにすてつヽ 折り来りし紅葉の枝を捨てにけり林道を来て長きなりけり   × 高尾山の嶺の上にありて見のはるか甲武信の岳に何時雪ふらむ 大菩薩峠をきけばあなたなり武州澤井の里は何れに 相模川峽に白く光りたり嶺より見れば峽はくらし くれゆけば街道ばたの杉の木に閻浮檀金[えんぶだごん]の佛出(い)で坐(いま)す 天狗らの跳梁すとふ高雄山下り立ちあふぐくらき峽に   十一月五日 薄井君トアテネフランセヘ   十一月七日 革命記念日 大デモ 髪の毛を引つぱられて検束されて行つた兄弟   × 斎藤茂吉の信濃路の歌は ぼくを喜ばしめる それと同じ程度に 警察と結び附いた醜い学校組織が ぼくを憤らしめる あヽ いつの時代にか 輝く叡智の眼ざしを持つた若人が 髪の毛を握られて耳を引つぱられて 引きずられて行くと云ふことが容認されるか ぼくの感傷は幼けれども 資本主義社會の断末魔の悪を 冷たく看過せる人はないはずだ 兄弟よ 傲然とそびゆる時計塔の 内部にかヽる獸の巣喰つてゐた時代を 憎しみを以て語り合ふ日 過ぎ去つたことヽして 語る日──それは僕らプロレタリアートの社會である   ×   FLEUR DUMAL 悪の華 それは裏街に咲くものではない どんな汚い街にも。 美しい曼珠沙華が咲くとても それは資本主義社會機構の矛盾の現れで 毒々しい色はありながら 人を醇乎たらしめる匂りはない 赤い華は咲くとても その基をなした葉はも早見るを得ぬ 地下に膨れた球根は 蓄積され集中された資本だ それから咲くメカニズムの花 暴力の花 独占の花 独裁の花 凡ゆる反感をこの花に感じ こころ疲れてわれわれは野の路をゆく   十一月八日 保田、慶明ラグビー   十一月九日 紅葉と体と 日本(にっぽん)の紅葉(もみづ)る樹々とわが愁ひいづれか夛き秋深きとき にれの樹の葉のちるくれはかへりぢ[帰途]をしづまりてゆくものヽ音(ね)をきき はかなしや日本の秋の草原にもみづるはぜのまじり立つこと わがうれひひそかにみつめおのれ嘲笑(わら)ふわらはねばならぬこのうれひかも きり降(お)りるよるよるは思ふ血を咯(は)きていのちおとろへゆきし子ろが眼 裏山に夜ごと啼く鳥こゑあやし細るわが腕見ては耐ええず 杉林(さんりん)によるわが住めば友送り出でヽおどろくきりのふかきを 參星(しんせい[※オリオン])は東に昇りゐたりけりひそかなるうれひ保ちてをらむ 杉林の隣にありて一群のもみづる樹々は愛(かな)しみ耐えず むかで落つる音とも聞かむむさしのの林にふかくおこるものの音(ね) かそけくも葉つもる路をふみ来りかへりみすればゆふべ霧降(お)り 落葉焚く匂ひは流れ来りけりかそけきながらそのしるけさは 一鳥は梢にありて啼きゐしが葉の散るくれに飛び去りにけり 愁ひつヽ野にひろがれる大都(だいと)瞰ればゆふべの煙くらく蔽へる   十一月十二日 朝なればひと見捨てたる山羊の檻来てぞわがみるやぎのみほとを 学内の樹々のうつろふ様見ればいま散る葉ありわがまなかひに 楡の木のうつろふ構内(くるわ)石おこすのみ音たえずはたらかぬ身は 橡の樹はいつかすがれし朝の間の林泉(しま)にちりこむ何の木の葉か ものおとのするどくひヾく朝をゐて林泉およぐ鯉赤しと見をり   × くれはてし帰りみちゆき星光る空に朴の樹散りしを知るも 霧ふかきかの河岸を思ひつヽひるげを食むにひとりひるげを   × 時に見てふとおどろきぬはぜ紅葉この紅さをばいつか見たりき 幼子のわれなりしときこの紅の帽子よろこび着しにありけむ   中野重治の云ふ如く、われらはかすかなものをかすかなものをと追ひすぎる。   けれどもわれらの教育(何とわらふべき)は、これ以上のものを作らしめぬのだ   十一月十七日 きり雨にけぶるニコライ堂見ゆるお茶の水ばしをけふも渡りつ きり雨に下ろされぬ気球ありにけり電車ゆきかふ音たえにけり   ×モロツコといふ穴     津田 棕櫚の樹やひともと明る雲往来(ゆきヽ) きり雨にけぶらぬ花もあれ故園には   ×本郷通り 女人受胎の型けふも巷にさらされ まことその女陰さびしうてならぬなり   ×われ われは鱶の牙なりわれは荊の棘なり われは啄木鳥の嘴なり   ×また われは水晶なり己れ寂しければ 虚しくむなしきかな   ×おまへ おまへはわが認識の外に立つ第四次元界 そこにあつてはわが像も如何なる像にあらむ これこそ畏しく敬しきものヽ最なれ   ×一九三一年 いくさはじまると覚えた明くる日 新聞に現れたは同じいくさはじまるの謎とき 扨て われはこおひいをのみブハーリンひもどかむ   十一月十九日 肥田、天野と三越で 私は見た 上品な中年の男を その人は詩人のやさしい眼と やせた体と 古ぼけた外套と 曲つて細いズボンとを持つてゐた 失業してから何ケ月になるのだらうか 入口のボーイの蔑すむ眼に送られて 彼は賣場の方へ 蹌踉と歩いてゆく 彼はライオンのゐる入口を けふも夕ぐれ出てゆき 帰つた家で 職のない淋しさを喞[かこ]つに けんどんな妻を持つであらう (或は子供達をも) 私は彼を見たゆえに すつかり淋しくなつて 階上に昇つてゆき 瞰下すと曇る日の大都會は 咆吼し渦巻き 煙と埃とを空にあげてゐた 大きな建物が方々の空に くつきりと白くそびえてゐた いつの間にか 職のない人達が集まり昇つて 四方を瞰下してた 痩せた子守が泣く子を揺すつてゐた   × 高空よ鳥渡る雲に断目(キレメ)あれ むなしくてやがて雲出る空の隈 一抹の雲残りつヽゆうぐるる   × 赤き實にとんぼよぎらす風吹かな さびしさは樫の葉ちらぬかしの森 小春日の梅の樹に咲く花小さし      後日ノタメニ 偶然ニ俳諧七部集ヲ開ケバ       曠野集巻四 濃州芦夕          淋しさは橿の實落るね覚かな   十一月二十五日 佐々木恒清教授急死さる [※「大軌電車衝突」の新聞記事の切貼有り] はかなさやこよひすぎなば花散らむ 誰か見しまんじゆさげちるひとときを 枯れ原に鳥落ち時雨ふり出でヽ 虫なきやみいづこあてどのやみをゆく 冬来るや枯山丸き峽ゆき わかれ路や白雲なびく山見つヽ うづみ火に弥勒坐像を仰ぎゐて こもりゐむ病雁おつる沼ちかし   十一月二十八日 今井の祖父重態との報来る   春過賀遂員外菜園  王維 前年槿籬故  こぞのまがきはくちはてヽ 新作薬欄成  まとふつるくさ枯れにけり 香草為君子  薬草の香は園にみち 名花是長卿  いろとりどりの花の彩 水穿磐石透  いはにとばしる細水(さヽみづ)の 藤繋古松生  光れるかげもあるところ 書畏開厨走  みどり色こき松が枝に 來蒙倒履迎  ゆかり紫ふぢのはな 蔗漿菰米飯  からむとみしにあるじびと 蒟醤露葵羹  まち設けいれつくづくし 頗識灌園意  つくすこころのかずかずは 於陵不自輕  つくしの米やむつの魚        希待一陽來復期        梅馨早夜床馥馥   十一月二十九日 古川氏令妹帰郷さる もみぢばのながらふ水や碧しあをし 不二が嶺にくもなびくとぞ告げて来ね   白雲無盡時 この日頃満州に兵夛く発ち北辺餓ゆと人告ぐるなり へいたいの親子飢寒に困しむにふらんす語きヽにけふも通ひつ   十二月一日 近事雜詠 もの暗にしやれかうべの眼光りたり風吼る夜をおそく帰り来 朴の樹の枯れ枝の尖(ほ)を風すぎぬもろ木鳴りつヽ光りてゐたり 枯梢風わたりつヽなびかひぬその秀の先に星空ありぬ まなかひに紅葉おとろふ森ありぬ鉄路は光りひたのびてゐつ 冬に入るこころもさびしも鉄道のレールの光みつめてあれば あるあさを混血児の眼のうすあをきをさむしと見つヽわれはゐたりぬ あるあさにふと女の児愛しとおもひ不二見ゆる駅の廊壇にゐつ   ×新しき友 鈴木朝英、吉田金一君 ばりけえどきづかむ朝の寒さおもひ街行く朝もあまたとなりぬ [※ 半ページの破れあり。「その一」欠]   その二 いつか飛行機狙撃の防塞と なるといふ大学図書館の 樓上に昇る 初冬の風は快く冷い 遠い上州甘楽郡の山が 冷たく凝つて光つてゐる [※ 半ページの破れあり。]   その三 柊が匂ふ かすかな匂ひに ここは静かな墓地で 上田敏先生も眠つてゐる むかしの人はのんきだつたな   その四 けふ初めて 大川を東に渡り 叫喚する機械の音をきき 浮動する煙の團りを見た それから一銭蒸汽にのりにゆく ぽんぽんと音をたてヽ 船がやつて来ると 毒消し賣りの女が下りた 娼婦が下りた 女衒が下りた 僕達はその代りに乗つて 川を西に渡り 芝居を見に行つた (四日)   十二月十四日 新しい外套をこさへた 僕は鬪士としての資格をもたぬ 松本善海は文学部学友会委員となつた 連絡を断つたレポの罪   × 愁はつきじ、いく世にも かなしき人妻 こひしきをとめ   × 軍人慰問会 帝大丈で一九○○円近く   × 愁はつきじ、いく重にも   十二月十六日 船越の小父急死の報あり 小光小母と朝十時東京を発つ ふゆしぐれしとしとと降り宮城の暗き松群ぬれつヽは見ゆ おほろかにひとのいのちを観ゐしときしたしきひとのいのち死にます 美しき乙女と下る西の旅故國なまりもなつかしきかな 枯れ葉まとふくぬぎ生(ふ)寒き峽ゆき箱根より降る雨に遭ひぬる 高空に輝く雪の富士ありぬ西ゆく旅の午はすぎたり 川のさヾれ磧のさむけさよ川上の山ときのま青し 海のくもりて暗き沖に立つ波頭白しその白さはも 音もなくくだけてゐたる 海の波にこころはいやさびしもよ ひるすぎて白銀の山現れぬそのはろけさに泪わし[走]りつ 伊吹嶺のふもとのあたりよるくらし死なねばならぬわがいのちさへ おのづから雪空かぎる夜の山のまろさ見えつつこころおちゐず   × 極月(しはす)空こごりてあれや風ふけばむれゆく鳥はつばさをならし なげきつつみはふり仕[つか]ふともがらの泪もこほるそのさびしさは 冬の野の枯れ生に眠る獸がそのまま死なば何ぼうかなしも   ×祖父も既にみまかりあり 冬の日のうすき光はおほちちのにごれるまなにいまはさヽざらむ おのづから冬至る気におほちちはまなこつぶりて死にたまひしか ねもごろにやまひおさへてさとしましヽかの秋の日がわかれとなりぬ おほちちのつひのつかへ[終の仕え]と百万遍じゆずまさぐるも眠さをこらへ   十二月二十日 松浦悦郎 藤井寺 あヽ むかし わが こひにこころもし[痴]れはてヽ ゆきしとき見し青鴨は いまもしづけく眠りゐて その頸蒼く光るなり 暗き水面(みのも)に風ふけば 眠れる鴨もうごくなり あきらめ果てし恋なれど 冬来し日よりわが胸に ひそかに還り又去らず いま鴨によせ心述ぶ   × 近く刈入れの済んだ田に 蠶豆の芽の列り その向ふに藁鳰 やヽ遠く櫟の落葉林 古塚へわたる鳥 白壁の家ある聚落(ムラ) 遠く赤ちやけた山脉 なほはるかにおほぞら──その寒さ さみしさ   × N0ELは淋しや エス様信ぜぬわがともがらに 何のめぐみがありませう 雪空は重たく わがいたむ頭(かうべ)にかぶさり いそがしく人々は ゆききすれどなまけものヽ われはゆく所もなく 足取りも重くさまよふ まつ青な葉をもつひひらぎに あれほど赤い實をならせるとは エス様もよくよくのおしうち われならあヽはするまいに エス様涜す語のかずかず もつたいなくも吐(つ)いたあげく どこで酔ふたやらもつれ足 かへる野路の夜空を仰げば あれあれ雪空きれて── みちかひの星──さびしやとは 云はせぬぞ いはせぬぞ   ×   十二月二十四日 友眞、本位田、松浦とドンバル 鬼澤の追悼文書く 木の葉ちり空さす枝に鳥も來よ 十字路なる石標(しるべ)苔むす日数へて あはれさやみのむしけふも動かずて 長き夜に凍りあまるや諏訪の湖 故國(くに)出でむ山茶花夛き家の数   十二月二十五日 西川英夫 ぶはありんよみでぼおりんよむともこの友にわれねたまれであらむ をみな抱くすべは云はざらむ世の中の重大(おほい)なる機会に際会すわれは   十二月二十六日 再上京 松の間にいまあかあかと唐辛子ほすてふところ三河の國は 行先をまじめにおもへば泪出づゆで卵をば食はざりにけり あはれなる道化となりてわが出でば棕櫚の木は箒とならむ松の木は何(な)に   十二月二十七日 京大 二十二-六 東大 ラグビー 川久保悌郎君   十二月三十日 九大 十九-十六 東大 村山高、池田栄一、川久保悌郎君 昭和七年   一月一日 他郷迎春 あはきうれひひたひにあれや武蔵野の麥一寸にしもふりし朝 一すぢの雲空にありさみしけば街道たどりひとにまじりつ 禮[いや]かはすひともなければ霜柱ふみさく路に眼据えてむ この國の春は家々ひとこもりたのしからむよわらふこゑすも   × われをとめ[乙女]にし生[あ]れましかば 黒髪ながくひとみ美(よ)き乙女にあらむ 情濃くこころ細かのをみなにあらむ さてわれ歌をうたふとき そのこゑひとを酔はすべし われはその美しさもて万人のこひ人となり ひとりのこひ人のために命を終らむ   一月二日 井倉和雄氏 麻布のや霞町なる邸より眺むれば木夛し美しき東京 初春のかすむ木立のむらさきにかの君の衣おもひいづれば はろばろに笛ぞきこゆるおるごるのはたとやみたる道をゆきこば 山茶花のま白き花に日かげさしひるふかしとおもふ深き息つき ともどちのいのち永かれちヽはヽに幸夛くあれわれ死なざらむ 山手線よりうすがすむ山見えてゐし新年の東京にはじめてゐたる 青山のちまたをゆけばたまさかに想ふ正元をまた想ひ出ぬる   一月三日 同大 十-二十一 早大 古川氏、柏井俊子嬢と        銀座で京大ラグビーに会ふ 藤枝、江馬、和気   一月四日 三高○-百三KO 薄井君   一月五日 二つの山脈が低夷して 互いに倚り合つたところ そこには湖があつて きれいな水をたヽへてゐる 水はかぐはしい匂をもち 水芭蕉の花を咲かしてゐる 湖をめぐつて 潅木林 そこでは鳥が啼き それが啼き止めば 静けさが残る 僕はある日そこに迷ひこみ 深く息づいてその香気を吸ひ 岸辺にかけより水にくちをよせると 僕のうす紫のくちひげに 水芭蕉の花心がふれて 僕のくち髭は黄色く染まる 僕の息吹は まはりの山々に到り 静かに反響(こだま)して 湖の中心に渦巻き収る もう一度ゆきたいあの湖辺に   × ながれの岸のひともとは にほひゆかしきすみれ草 はかなく咲いてすぐ凋む 恋の思ひのすみれ草   × 流眄[ながしめ]うつくしき女ひとり 言葉うるはしき男ひとり ともに歩かば ねたましき   正月七日以后、体悪く夢見ること多し。 その夢。   七日  練習をすましてくれ方、部の室(ヘヤ)へ入るとうすくらがりにうつぶせになつてゐ るユニフオーム姿がある。やせた小さな肩、増田正元らしい。「おいしんどいか」 と云つて頭をもつてひきおこすとその顔は骸骨だつた。  僕はがんばれがんばれと云ひ乍ら逃げ出したが、それでは許してもらへさうもない のでかんにんと呼號した。かかるかなしく荒涼(スズロ)なる夢も見る。凝れる空の下で 死んだ増田正元に光栄あれ。   八日  僕は日本のKAISERと裸で舟にのつてゐる。夏の水浴み時らしい。KAISER はごま白の の大きな上品な紳士である。僕は彼の関心を相当ひいたらしい。突然彼は 他の舟に用事があるとて泳いで行つた。僕達は船を止めて待つてゐる。そこへペニスを 表した男が泳いでくる。その男は魚を採つてゐると称する。僕はその青白い太いペニス が気になる。KAISERが帰つて来て訓示をする。僕らはその時もう陸に整列してゐ る。僕は列び方がわるいとてひどく叱られる。 (この日、晝、李昌善の爆弾KAISERをおそふ)   九日 僕は高等学校の生徒である。僕達は重大な協議をしてゐる。全校生徒が集まつてゐる。 右せんか左せんかをはかると右、左の声がおこる。やがて一つの悲壮なる叫びが「右は 運動部の主将だけだ」と叫ぶ。すると右翼打倒の声が泡のやうに立つて来る。僕は今よ り生徒大会に入ると議長にならうとする。よこに保田がゐてこれを止める。その前に 僕らは何らかの策謀を持つてゐたらしい。時機早しと叱られたのである。僕が坐つて二 年生の藤原が議長となり、僕は保田に詫びる。   八日 [※ 以下ページ中途に破れあり。]   十日 咳すれば喉いたむゆゑ浅田飴こころをさなくのみてねむるも 富士山の見えゐし夕を通ひゆき   × 本郷通りに十一時をすぎると天使出る。 十七日   感ずる所之あり   冗費は止めむ   めの子のこと忘れむ おれは── 不平を云ふまい おれは下積みになれてゐる おれは案外さびしさに耐へる男だ すぐわんわん声を出す代り その痛さに慣れる [※ 以下ページ中途に破れあり。] おれは未だに文芸に執着をもち しかもその型の古さ けれどおれは匡四郎の驕慢を 快くは思はぬ おれの仲間の湯原冬美をはじめ 誰がそれを知らないか? おまへはおれらを理解せぬ 二つの魂をもたぬ人間が何時ゐたか おまへ自身がろまんていつくでなければ 何故おまへはそんなに忙しく立廻るか? おれは以後沈黙を守る 匡四郎らのゐるところでは   × ×   COGITO(コギート) おれ達が花を見るとき、その花のまはりの葉つぱも眼に入る。 その花はおれ達の意識の中にある。(以下不明)[※ママ] その葉は俺達の意識の中に潜在する。 意識の中に顕在する花をおれ達はコギトの対象と呼ぶ。   一月二十一日 原始の始原 蜥蝎[とかげ、さそり]の族は 羚鹿[かもしか]の族と相争ひ いつか地平の彼方の 彼の族の住地へと 侵入すべき日を夢みてゐた 凶日が照り 野にみのるくだものは凋みおち 獸の群は何こへか遁走して影を見せぬ 蜥蝎の族は 北を目指して大挙する── あすこには敵と食物がある── そして実らぬ草野に残つたは 蜥蝎の動物柱(とーてむぽーる)ばかり 雲をさす柱 地を貫く柱 敵と食物を索めて 移住した族は再び帰らぬ 月は 星は 幾たびこの柱をめぐり 柱の基幹を食ひあらす虫があり 蜥蝎の体色を彩る 顔料の凡て脱落した時 月と 星との 下に立ち 不覚の涙は蜥蝎の眼から流れた 八脩の宮ふみならす時雨空 昭王の塚秋の日をあばかるる 東洋史同好会にて 一月二十六日 岡部長章君に献ぜん 一月二十七日 橋本勇君 臘梅のすたれし園に咲く見つつ春来む期をともに語りし 北の風この大野をばわたらへばあるひわれにもおもて吹きたり 北風のわれがほほべを吹くときはわらはんとして眼のなけて来る 一 朝鮮の友 趙君 君の 肋骨がすいて見えるやせたわき腹を かつて僕たちは淋しがつたが いま僕たちもそれほどやせて了つた 趙君 君の顔が困しみのため歪んでゐることを かつて僕達はその利己的な美しさ好きから 嘲りわらつたが 今僕たちも笑はうとする顔の しらずしらず歪んで来るのを何としやうもない 趙君 君の服はぼろぼろだつた [※ 以下破れの為、不詳。]  二 兵隊さんの出征が勇ましいと云ふので 停車場まで見に行つた 旗を立てて人達が見送つてゐた 兵隊さんはテレて他見しながら お互い同志はなししてゐた 旗を北風が吹いて 発車時刻はまだ来ない 村長さんが帽子を飛ばした その帽子には入場券が挟んであつた 僕達はもう一つの客車(ハコ)を見に行つた [※ 以下破れの為、不詳。] このひるまくぬぎ林の疎林ごしましろき富士のみねあらはれぬ もの云はずありける時にすゐせんくわほのかにほふとわれは知りたり むさしののふじ見ゆる野に 立ちて丸三郎の鬚は長(た)けむか こもりゐ[井]の湯のわく音はかすけしとまひるのゆめにいまかい[入]りぬる かなしきや二十有五のますらをの木枯しやむ間音讀するか をのこさびたたかひせむとおもへどもたらちねもへばとごころはかなし   × M.M 藁鳰のつらなれる野はとほく聞け雪まだあさきいこま山見ゆ (第6巻終り) 「夜光雲」第八巻 20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(184ページ) 昭和7年7月17日 ~ 昭和8年2月4日 夜光雲 巻八 田中克己 一九三二年七月十七日   七月十七日  手紙  つれなききみのこころをたよりにて御文待ちそめてより日の三日四日を経ぬればいまは耐ふべきにあらずとも思ひ乍らさても永らへたるはさりともと思ふこころのあればこそ   この望さへ盡き果てばやがて生命死にぬべし、なほしうらめしきおん心かな  うらみわびかくと告げ得むわれならず昨日の日こそさ思ひすぎし  はるかなるよそびとどちのこひがたりそこさへともしきみつれなきに  いつまでかよもぎのつゆのきりぎりすかぼそくいきむわれがこころか  はなはだも思ひしづめるさよ床にうかぶみおもはやさしきものを 鈴木兄、これは冗談でござゐます  日輪のたヾひとつなるこひゆゑにやせまさる子をわれはゆめむに  おほぞらにわがこひの星凋みたりつれなききみのまなこのいろと  きみこひしこひしとそらにしるしなばきみ見ずとてもひとあはれまむ  火の山の溶岩よりもなほあつきわがこころなれほ[秀]にはいでねど 橋本兄、これも冗談でござゐます  反動の名は保たむか   七月十八日  一枚一枚わたしのめくる骨牌にわたしはあわててひえた悒鬱の後姿を見る。 ああ、秋も近いねと友は云ふ。友も夜鳴く鳥を聞いたのであらうか。 ひるねの後にわたしはじんじんと鳴く蝉を聞く。わたしの中耳には執拗な耳鳴りがある。 わたしは子供の頃の水遊びにそれを得た。 極北のひとはけふもわが身を削るわたしを嘲つて来た。わたしに削り得る肉がまだある ことをわたしも異としてゐる。かうわたしは返事を書き、やがて破りすてる。と、紙片は 夜空に白く舞ひ上り、夜気は北に流れつつあつた。 わたしがあのひとを見たのは十八の秋であつた。空に旗が流れ、地に獸が潜んだ十八の秋であつた。 わたしはひとりの男につけねらはれてゐる。明るい所で見たときそいつは冷徹極りない顔をしてゐた。暗いところではピカピカはがねを光らすといふ奴だ。 わたしはそれ以来明るいところをよつて歩いてゐる。わたしはいつもヒタヒタいふ足音とあの冷徹な顔を見ねばならぬ。この男をわたしは愛してさへもしてきたが、 この男の属する集団の意志は、この男以上に冷徹であるらしい。わたしはいつか此の男に命令を下してゐるこゑをきいたと思つた。鋭い細いこゑであつた。それは死を後だてとする悪魔を思はせた。   二十日 けふも手紙来ず。固い約束はむなしいことばであつたのだらうか。あの女のやはらかい性質は、私をうれしがらせたにすぎないのだらうか。疑ふことをわたしは畏いとも汚いとも思ふけど。 あめつちはくだけめとてもよそびとにうつさむこころならずとも云へ あひみねばこころさぶしとうちつけにいはむ子ならずさぶしとは思へ わすれじとかたくちかひしことばだにいかヾはせむやいまはうたがはし わすれじのちかひおもへどむねにつのるこのうたがひをいかにせよとや せうそく[消息]はみじかくあれやこひしぬとたヾひとことをきかまほりすれ おほぞらにめぐみたるる日へめぐれどわが思ふひとの文得ぬさびしさ 愛(なさけ)あつくともに死にたるひとどちをうらやむ日こそきみほい[本意]なけれ たらちねのおやにもそむかむたヾひとりおもひさだめしひとゆゑといへ たらちねのおやもうらみぬしたはしききみにそむけといふはたがこと   二十一日 章君けふ帰りたるはずなれど       × 何にも自信のない身、自意志のない身。       × 人々はすべてマリア様やキリスト様のやうに背光をもつてゐる。 ひとびとは背光を触覚の様にうごかしてそれで他人と接触する。背光同志が接した時、 その時ひとははじめて相知る。   二十二日 蜩は椋の樹の梢にゐた。ゆうぐれの空は海より蒼い。さびしさが一羽の鳥になつて、ゆうひの方にとんでゆく。泥をふくむ風が吹いて来た。       × 暑さ。寒暖計が喀血した。わたしは水銀に暗示を與へる。極北の鳥を思へと。   甲斐信濃の歌 訂正 夏草に紅甘草は光りゐぬをとめとわかれ旅ゆくわれは(立川) ひるふかくいまだしぼまぬ月見草荒れし磧のそこここに咲くも(豊田) 夏雲のくもりひろごる気配あり紫陽花の にひと髪すきぬ(八王子) 小佛の隧道ちかく汽笛ならし汽車ゆくみちの夏枯草のはな(浅川) しめやかに杉の木の間にきり降りぬまひるを鳥も啼かざりにけり 嶮し峰[こごしね]のはざまに起る夏の雲みつつおもへばをとめぞはしき(甲斐鳥澤) まがなしくふたへまぶたのをとめ子を思ひつつ来ぬ甲斐の峽路(大月) あはれあはれ流離のこころ守りをれば窓辺にありて移る山河(初狩) 辻辻に山見ゆるとふ甲府の町しづかにきけば蝉しき鳴きぬ(甲府) 信玄の館のあとに乱れ咲く夏草の花も見むとおもへや あまの原くもゐにありて甲斐駒のすさべる姿見ればかなしも(日野春) 南天にかつと日のさしたちまちに現れわたる峰に雪ありき こごしこごし甲斐の大峰にけふやはたひとのぼりつつつまこふらんか(小淵澤) なつかしきひとゐるくにの東べに富士晴れ来しを誰に云ふべき 山驛に汽車とまるまを啼きてききしうぐゐすさへもかなしきものを(青柳) なみよろふ蓮華の峰の八ツ岳のふもとをめぐりわがひるたけぬ 遠天に湖のみづ光りたりここは信濃の茅がやふかき高原(はら) あえぎつつわが汽車はざまゆくときはくるしきこひをわれもおもひぬ(塩尻) この驛の構外(そと)は落葉松のまばら葉にちちろと虫の啼くひるなりき(木曽日出塩) からまつの驛に乳児抱き女降りぬすなはち汽車は動き出にけり 雨あとの濁りはふかし奈良井川いく山川を集めたりけむ(薮原) 茂山にあめのたかぎりふりにけり旅なればおもふひとのとほさを 盆ちかき山間の墓地のひとごゑは墓苔拂ふ母と娘なりし ゆふちかくなりて心もおちゐしがたぎち[滾ち]の音をきけばなとせむ(美濃中津川) くれそめば見知らぬ山の原にして光り出る星はおもかげびとを ひとこひしこひしとおもひ疲れしがまどろむひまはゆめにだに見ず       × 記憶の世界に時間の霧を降らしたまふ、天主は頌むべきかな。母を、恋人をわすれはてて 魚の如き瞳もつに到れば、われわれは主のものとなるゆゑに。   七月二十四日 杉浦正一郎に 蝿うるさしあつき厨のはつたい粉[※麦こがし] 阿羅漢のひるねの様もしばし見よ   琴唄 やちぐさの 秋にいるまの 川わたり かち[徒歩]にてゆけば 妻こひし 牡鹿の啼くも 遠からじかし 狐火の 諏訪の湖 風ふけば 白波さわぐ 沖の辺の 白帆は夫(つま)か かぢとりませる ゆうされば 槲[かしわ]の上枝の ほのしろみ きり立ちながる 空見れば あはれ女夫の恋の星見ゆ [※ 大日本史 巻之一 百十八より漢文十五行抄出。]        ※ [※ 大日本史 巻之一 百二十一より漢文七行抄出。] [※ 大日本史 巻七十六より漢文五行抄出。] [※ 大日本史 巻七十七より漢文八行抄出。] [※ 大日本史 巻八十九より漢文十二行抄出。]   七月二十五日 赫奕[かくえき]の夏の帝の日輪とわがこひごころいづれか激し 神畏れぬこころの相(さま)も夏の日のきみこひがててくるふわが身か 高天に日は輝けり棕櫚の葉のくだく光にこころふるひき 呪はしき執よ欲よとなげかへど諦め念ふわれにはあらず たへがたく夏の炎熱の風吹きぬたのしかりし日の君が息吹と 夏のまひる止まず炎天に噴上のしぶきあぐるに似たるわが執 いざ佳偶[妻]よ 大野に出でて 歌はまし 銀のかがやかの笛吹けよ 牧に遊ぶ 畜(けだもの)を呼び集め 野苺の 実を引しぼり たわみたる牝牛の乳 きみを疑ひしことの恥づかしや 日輪の大空にあるがごと 君が信(まこと)は疑ひなし   二十六日 五人會、西川英夫故意に避けたること是非もなや。    Nを ひとづまと浮名立ちたりあまの川 あまの川夜気の流るる相みせて ひとつねの相手うたてき晝の月     友眞の家にとめてもらふ   二十七日 肥下を瓜破に問ふに 星や蝶や草花を 愛するにもまして愛したひとと 少年すぎたころに再び會へば さて何ともなき笑ひにつくろふ才覚はあれど ありし日の胸の火 またも燃え出るをいかにかすべき うちあくべきこひにあらねば うちあけえむわが身にあらざれば 夏草やひともと白き百合の花 青田つヾき風の跡ある野々宮や 紅あつきながれてゐたる空の青 風ふかば崩れんものか雲の峰 またMlle M.を ふるさとの河内國原青田風しるけきさまにわがこひわたる 麥酒のみ赤ばみしわが顔みつつほほとわらひきをとめなりけば そのあしたきみがかんばせおもひ見るにさてかたなきはあはれかひなし わたしの胸をはりさいて あなたに見せると云ひたいのですが わたしの胸はこみちです 思ふあなたと 契つたあの子と ふたりの影がもつれあひ 花園の薔薇と撫子の様でせう       × ああわたしは何と馬鹿(あほう)なのでせう あなたとろくさま話したこともない あなたの顔を見たことも何度あるといふのでせう あなたを恋すると云へた義理でせうか あなたは僕(わたし)なんか認めてもゐられない (きつとさうにちがひない) これが阿呆の特権です これが阿呆の本性なのです わたしはあなたのおもかげを しつかと抱いて あなたのご婚禮の日まで失望はしますまい これが阿呆の幸福(しあはせ)です これが阿呆に似合ひです ああ阿呆の恋 阿呆で生きてゐられる世紀       × いいえ阿呆は生きてゐられない わたしは何ぼ何でもやはり恥は知つてるのです わたしはこの世紀の焦燥を感じるのです わたしは自分にもあるその焦燥を可成り軽蔑して見ます だけど軽蔑しきれない それがわたしのひとすぢの恋を妨げました ああ阿呆にも恋の出来ない世紀 鬱陶しい世紀 おかしこい[ママ]世紀       × わたしは道化の役をつとめませう 白粉も塗ります 眼のふちに紅をさし 頬を描き 鬘をかぶり 鼻をつくりつけ 大きなカラーをはめて 鶏の啼き声もいたしませう (幸せにわたしはそれが旨いのです)    ※ わたしのおどけがひどければひどいほど あなたを得てからの報ゐは大きいから わたしを苦しめたあなたを わたしは鞭うち その矯慢をいましめます 他人にはいまでもさうであれと望みつヽ わたしはあなたに従順を要求します       × あなたに献げた歌は百首にあまり あなたにさヽげた詩もたいへんな数です あなたの に泣いたことを御存じでせうか あなたを知つてから わたしは人にやさしくなりました わたしはあなたを待ちました 努力もせずにたヾ口をあけて あなたは泳ぎまはる小魚でない ああその中にがまんがしきれず わたしは釣針にくひついて 旨くにげるとまた次のにひつかかり いつもあなたを思ひ出しては わたしの無節操をあざけります だけど所詮わたしは釣針に死ぬべき魚です 香しい餌がまた眼の前にぶらさがつてます どれ ごめんをかうむつて一口食べさしてもらひませう   三十一日 また      ※   一日 章君来る Mlle M. ゆふかげにじんじん蝉は鳴き止まず夕陽黄いろき椋の梢に 槐の花おほかた散りて朝夕に涼しさおぼゆ夏おとろへぬ 一葉(ばらん)ゆらがす風涼しけばをとめおもひかすけきこころ保ちてをらむ やちまたにいでゆきぬとも物念ひなど絶えせむよつかれかへりぬ 夕縁にものかきをれば何の葉か枯れてさびしく畳に散り來 ゆうがたに黄くなる地平を視つむればきみがみこゑもかよひ來るかな 死にゆきしひとはせむなし夕雲の紅くうごける空をながむる 金蓮花永き日照りに枯れにけりわがこひすぎむときのしるしに 青雲のゆうべしづもる時たてばはるけききみにこころかよふも        ※ うつそみの因縁かなし御讀経のあひまに蝉の啼くこゑきけば  祖父を父はにくみ、僕は父をにくんだ。僕の家の天井裏をひそかに蛇が這ふことを僕は知つてゐる。白い蛇だと見たひとがある。わたしは蛇を憎む。古い輪廻をにくむ。       × 夕陽が村の家々の白壁を紅く輝かした。稲田の風は眞青だ。わたしは釦をはづす。白いシヤツに夕陽をあてるために。わたしの胸は直ぐ出血しだす。わたしは静かに釦をかける。 もつと静かに血は流れつづける。蜩(カナカナ)。わたしは口からも血を咯く。       × わたしは庭の楠の梢にのぼる。栗鼠の様にわたしの眼は光る。わたしは憧憬れて西方を見る。遠くの天守閣の鵄尾は金色だ。巷の叫喚がわたしを意識下に引戻す。 わたしは樹下に降り立つとき下駄の片方が裏向いてゐるのを発見する。わたしの跣足[はだし]に苔が触れる。       × 夕立ち前の池にわたしは影を寫す。わたしの髪はメズサの様に乱れてゐる。電閃を藻が受取る。金魚藻と松藻の区別をわたしは知つてゐる。       × 夜深く五位鷺が[去+鳥]々と啼いて飛んだ。 嵐はとうとう來ないで了つた。 遠く汽車が過ぎた。 わたしの思ふ子は遠い海岸に泊(ね)てゐる。 波の音は平野の眞中までは來ない。 五位鷺の啼く森は暗い巨きな影となつて横はつてゐる。 煙突から出る煙が白くたなびいた。 わたしはもう寝よう。   八月三日 深更 「殻」[※不詳]を書く。十二時から三時   八月五日 やうやく雨季ちかし   昨夕の散歩 巻雲は生駒山の北端につらなつてゐた 星田の山にのぼる軌道の灯 生駒の灯はまたたいてゐた わたしの連れる犬をわたしは畏れた 眼のむしやうに紅い犬と戯れたゆゑに わたしは女の友達を持たない その晝よんだレミゼラブルの 理想にとつつかれた青年達の純潔がわたしを悲しませた 饒舌な言葉の豊富な佛蘭西人が わたしを驚かした わたしは十町歩くともうつかれた 白粉花のにほひ 布施町の花火 土埃はわたしの足をかさかさにした わたしの書いた小説を破くのが可哀想でならない       × 愛は利己的であるべきだ。 愛がなければ太陽も消えるとは 太陽と愛する主体との関係を語る。 愛と愛の客体との関係はしばしば無であり得る。 太陽の消えることを提出する場合、人は太陽の存在を主観的に認容したにとどまる。 ブハーリンはそれを論理なしに実践で打ち破つた。 それを中野重治もなした。 ぼくは──愛は利己的であるべきだ。 良心の満足を外に求める時それは愛であり、これを内に求めると知になる。 世界は知と愛と、良心よりなる。 良心は世界理性である。人間の世界理性、獸の理性を僕たちは考へる必要がない。 良心は神である。神は白髪の翁でない。光り輝く王座でない。雲に坐し、雷霆を動かす絶對者でない。 神はおきてである。神は動くものである。人間社會より醸し出だされた聖なる水である。 知と愛に限界を與へ、知と愛を存在せしめる観念である。                 ※ それは存在せぬ存在である。 光が物質のちからを必要とせぬと考へられた時、神は光に近かつた。 いまはたとへるべき何もない。一は他の数字を以てたとへられるべきでない。 一は二の二分の一であるといふとき、二を二でわるといふ容易ならぬ式の含まれてゐることを 人々は発見せねばならぬ。しかも、数の存在を定義の以前に認めねばならぬ。 神を定義する時、神の限界するところを以てするならば、それは更に他の定義を必要としよう。 詩人はそれを敢てする。 神の内包をとりあげて無数に頌ふとき、神の無限大なる姿は漸次限界を近くする。無限小に近くするもそれが神の定義である。 パン、葡萄酒を神のみ名に於てすする奴輩を冷笑せよ。 我を無視するヤツバラを殺せ。理想をとつつかまへたと信ずる奴輩を啓蒙せよ。全我を以てほほえみ、生き死にの境を彷徨せよ。凡ての責任を神に帰せよ。 凡ての知と愛とをつくすべきだ。神の流るる光の中に。   八月六日 昨日久し振りに雨降る。七月十二日の驟雨以来、将に二十三日間の日照りなり。 海峡を白い汽船が通つて、その煙は崩れおちる波頭とも見えた。 わたしの登る山笹の道を、あはてて蜥蜴のかくれた方には、一本の桔梗の花が紫色にゆれてゐた。いまこそわたしは女を殺さうと煙草をなげすてた。 その煙が妙に消えやらず、縷々とたちのぼるのがわたしの決心をにぶらした。ふりかへると女はもう、頸動脈から血を噴き出してゐた。わたしの刀はまだ汚れてゐない。       × 古い生家の末裔(すえ)とわたしは秋近い夜をものがたつた。院の寵愛に與つたといふ先祖の白い顔(かんばせ)がわたしの眼前に浮かび上つた。わたしは香を所望した。 幽かなその香をきいてゐると、 先を螢が飛んだ。季節はづれのその光は人魂を連想させた。 女は御息所の美しさを尚も語つてやまなかつた。このひとも美しい。わたしの心があらはれたのだらうか、そのひとはいつか面を紅らめてゐるのだつた。   八月七日 船越章 友眞、西川、林の叔父、田村春雄   八月八日 中島を訪ねる。 七夕の笹をたてた家に案内を請ふと、可愛いい女の子が出て来て不在を告げた。女の子ののどにあせもがいたいたしかつた。       ×  八月はわたしに倦怠をもつて来た。日中の涯しない飢餓の沙漠と、ゆふぐれは隠し得ぬ疲労の海とを。まつ白な鶏の樹にゐて啼くゆめを夜にわたしはしばしば見る。 夢の断れ間の倦怠を、眠りながらもまだ感じるわたしを、ひとびとは夏の徴候と見た。       ×  海の見える露台に凌霄花を纏はせて、ヨハンナは白い扇を動かす。咽喉まで吹き通る海風をしらぬげに、九月、ああその秋はこの海港を扼殺しようともう、迫つてゐる。 灯のいろの潤ひをヨハンナは扇子で眼から隠す。海に落ちる星の様にヨハンナの十八は、急速に轉げ落ちる。       × 屍門に夾竹桃の花。 窗にペチユニアや金蓮花を咲かせて、病室はいま午後(ひるすぎ)の体温(ねつ)のさかりだ。       × Je m'ennuys [※ 憂鬱] Mlle.S. Andoh きりふかき秋のいく夜を停車場のほのけき灯(あかり)にあひ見しひとよ ある時はきみが丹の頬のやはらかさふともためさんと思ひつつゐき きみとよむ青き表紙の讀本の挿繪かなしきをりをりも經ぬ つかれつつ校門いでば駿河台に雲のこりつつゆうぐれにけり はやあしにわれ追ひ抜きてゆくきみのうしろすがたをひそかに愛でし    ※ きみとよむ佛蘭西語つひにすすまねばわが趣奇いたむをりふしもあり    ※   八月九日 本位田昇 Erotische Gedichte (Imitatis D. Horiguchi)[※ 堀口大学にならって]   一 わたしはひとりで固いクツシヨンに眠り 天の川のゆめを見ます 白く流れる乳の道を   二 歯のないおばあさんだ、あなたは 歯齦[はぐき]ではわたしの作つた料理はかみきれない マヨネーズソースはお気に召しましたか   三 小麥畑の畦にひそむ一本耳の兎よ なんとそんなにこはがつて 耳を動かすのだ 耳を染める紅は羞らひからか   四 愛の女神を産み出した 帆立貝の強靭な貝柱を頌へよ わたしの指に傷を残した 敏感な貝殻に注意せよ   五 クレオパトラこのかた 頭の尖つた毒蛇に殺されぬ女はひとりもない   六 狹いくぎられた海の上を 夏の暑さに 一組づつ男と女が泳ぎます 疲れてから飲む一口の 飲料の爽かさ 手帛で口もとを拭はねば おくさん おあがりものが知れませう 疲れが癒ればもう一泳ぎ それを拒むのは おくさん却つて失礼です 海の上では泣かうとわらはうと それは自由です 凡て波まかせとゆきませう (未定稿 [ママ])   八月十一日 丸に 海見ゆる武庫の木の間に手をとりてなげきしひとのおもかげいかに つまぐれのちるゆうぐれはをとめ子のふたへまぶたをおもふとせずや a Y.[※ Yukikoに捧げる] トマトの赤い片をもつた きり子の玻璃器にも ゆうがたは青い空がうつり ゆく雲はいろとりどりの美しさで 空をくぎります わたしの心にもひとへにきみによる心と はかない疑ひとがいりまじり はては消すことも出来ぬほど 濃い疑ひの紫いろに よるよるの眠りのくるしさを きみよ思うて文寄せたまへ       × 槐淡く咲くふるさとの家に アグネス きみを思うてゐれば 蜩の鳴くゆうぐれをかなしんだ あのころのきみの切ないこころが しみじみいとほしく 蜩も鳴けよと思へど あつくるしい油蝉また子供のよぶ松蝉が ひつきりなしに鳴くばかり── 槐はアグネス きみの庭にはなかつたね       × 薮蚊の出る暗い家に ひるも蚊取線香を立てて かなしい恋の詩をよんでゐれば いつかこの顔はかうやつれて 頬骨の尖りをきみに見せたくもなや アグネス 迫つたまた會ふ日を 待ちこがれてゐるのは自分だけではなからうね 蚊取線香の匂ひがまた一しきり そのまにもわたしはやつれるばかりだ   八月十二日 大掃除 颱風雲(あらしぐも)夜にいり西にせまり来ぬ便りよこさぬきみうたがへば 海辺にひと多く寄る海岸にゆかむと云ひてことたちしきみは きみがふみ十三四日見ぬゆゑにこころすさぶ雄あはれと見ずや 百日紅の永きさかりもすぎなむにいぎとほろしく日々をくらしつ かにかくにきみそむくごと悪しき日の来む日いかにとわれはすべきぞ をだしくも[ママ]やさしきこころのままにゐてその日つたなきわざすまじきぞ この夏はきみ思ふとに明け暮れぬつれなききみはなにのすさびに くらき雲高空に立ち風吹きぬ東の山の灯は消えむかも  あまりだとも思ふてわたしは潜然と泪を流さうとするが、意気地ない心を嘲るのは他人ばかりではない。泪さへも素直には出てこない。固い誓ひ、やさしい心づくし、 それはわたしの自惚にすぎなかつたらうか。はたは、かの人の心弱さからの口ごかし[ママ]であつたのだらうか。夏の海岸の怪しい寝苦しいゆめが純なかの人をも襲つたのだらうか。 わたしは悲劇の主人公となるにはあまりに現実的すぎる。  わたしは楽しい夢を見るにはあまりに心が細かすぎる。明日にでも便りを手にしたらわたしはすぐそれを机の上に投りだしてもうさつきまでの苦しさ等忘れて了ふのだが、 さういふ心を予感してこの日々を、郵便の時間を待つて来たのだが。       × 八月は倦怠ばかりではなかつた。はてしない孤獨と猜疑と、僕の男は腐つて了つた。八月の鰯のうろこを見よ。 黄牛(あめうし)のよだれかはかぬ埃り道 西瓜生々しき皮に蝿ゐる市場かな 疲れつつ御談義聞けば蝉涼し 安居會の外は杉なり蜩なり       × 山路来て桔梗すぐる風を愛でぬ ひともとは蝉に食はるるエニス[アカシア]かな  蒼茫と暮れかかる峰を見よ。夕べの雲は立ちのぼりつつ、憂鬱の故郷のごと少年を惹く全紅に輝く落暉を見よ。たなびく紅雲は明日への希望を指示す。   後二週日して上京せむ  ふるさとは烈しき日でりにものみな乾き、夾竹桃、百日紅、何と暑い花だらう。ダリヤはいましばらく咲くを止め、巷をゆく乙女にも美しい人達はゐない。秋草の花のごとく、 ひとびとのゆきかふ時はわたしのふるさとを去る日である。その日をとどめよ。時の過ぎることの寂しさ。   八月十三日 櫻井──奈良 たちまちにばななのにほひくと見れば車室におうなそをたうべゐる かまつかは畠の隅にあかかりき引手の山に虹たちわたり   坪井明 あをによしならのみやこのふたもとの松とことはにならびてゐませ   八月十四日 弘福院 堂裏の小池のひるはひつじぐさ浮葉しづもりその花開かす 佐々木恒清先生の墓 保田、坪井と、先生の長男望君。 先生のみ墓に手向けんと買ひし花の日々草はちりやすき花 み墓べに友のもちゆく日々草白きがこぼれつちにしるしも 先生の鼻ゆづりうけし中学生の望君ものを云はぬ子なりき   保田の元気と自信を見よ この敵手を白刃もて殺すべし利刃いづこに   八月十五日 中島栄次郎、誠太郎叔父。 わたしの頭顱(とうろ)は雲辺にぬきんで わたしの髪には一抹の霧がなびく ──懸崖のみやまうすゆきさうにかヽるやうに わたしの眼は爛々として炬のごとく わたしの脚は崩れる後からあとから形成される(「巨」-改訂)       × ゆうぐれの鐘の後で子供のわたし達が遊戯をやめたやうに 二十の過ぎるのを惜しんでわたし達は生きることを止める   八月十六日 清徳保雄、田村春雄。   八月十七日 〃 さふらんやみらぼお橋のはしたもと       × 戰爭の紅い夾竹桃 戰爭の柘榴の実 戰爭は紅玉をちりばめ 戰爭は電閃を支配する 海見ゆる丘に白堊の館たててよすがら血喀くきみがかなしき 鴎らを何の鳥よと訊ぬとももの云ふならね唖の嫗は わが容顔おとろへにけりこの秋は何のすさびに生きてあるべき                           美の廃墟   八月十九日 体温三十八度七分 熱やみてわがゐしときに西空に黄なる太陽は沈みけるかな わが疫病の熱に 白粉花の匂ひの夜── 朝顔が咲いて むしあつい朝だ 限りない混乱に 幻と現[うつつ]が立ちかはり 風は南から吹いて 耳殻にかすかな雷鳴 庭の樹を伐り倒す音が 残酷にひびいて 一日はリロオフエの歌 さびしい たのしい けふ丈の熱い生命を 額に手をあてて妹よ 試みよ その後で棺の白さを まざまざとみつめよ 臨終(つひ)の夜とおもへばかなしおもかげのくづるる後のむなしさゆゑに わがいのちかなしくなれば呻きつつねぐるしき夜をすごさんとする 友よ女(ひと)よせめて亡き名をよびつヽもひとひふたひをいねぬがにゐよ うつそみの空しき骸はほろぶともかそけき業はとヾめざらめやも つひに消えぬわが悪業にとこしへの暗をしゆかむひとかなしみて 泣きいさちおらびたけべどかへるべき吾が生(よ)にあらず寂(しづ)けくてゐむ このいのちいまいく時か在り經つつひとのおもわをせめておもへや   全田の敦子(十一才)僕を美青年と呼ぶ。               ※   観自在菩薩行 [※ 十九日より二十二日迄の体温表あり]   二十二日 白菊や港に星の墜つるころ 津田清 焼砂に烏のおりる小島かな 嶺丘耿   流行性耳下線炎 顔腫れ 顎いたみ こめかみ疲れ 暗みたり   二十四日 神戸。能勢、三浦、増田忠氏。    憶増田正元 十句 生き残る秋蝉さびし墓地の夕 海港の朗らに照りて百船や 秋の日は檣(マスト)の上のべにやんま 生き残る兄の手黒き秋ひでり 死にしひとおもへばくもるしぐれ空 甃路(いしだたみ)のぼりつおりつひととほき 帆船のくだけてゐたる磯の草 白狐(びやくこ)磯に出でて遊ぶ日風なぎぬ 乳母車に赤帽子のこりたそがれぬ 秋蠶(あきご)死にたえて音なき茅屋(わらや)かな  わたしは故友の兄に對してゐる。そのひとは黒い腕を見せつつ、生きてあることの尊さ巨きさを語つた。わたしたちのことばとあそびが、かつて友を殺したのだつた。 わたしたちは頭を垂れていまさらに生きてゐる自分を羞ぢた。まつ黒な蛾が電燈に飛んで来た。友の兄の顔にその影がさつと流れる。 忽ちに死の匂ひはわたしたちの鼻腔を襲ひ、見交はすわたしたちの面貌はもはや生の血流を留めない。 ああ、死の門は開かれた。地獄に咲く蒼き花よ。わたしたちは屍衣(きやうかたびら)の用意の無いのをはぢねばならぬ。   二十六日 大阪を去る。本位田見送つてくれた。  落魄(うらぶれ)の身悄然と荘厳の神の殿(みやゐ)を放たれしが時に金色(こんじき)の陽わが脚をよろめかし孤影巨柱の影にまじりぬ。 丹の碧(あを)の彩ふたたびそのいろを獲、わが身を嘲すむに似たり また泪してゆかむとする眼路のはてやはるかに黒き旋風(つむじ)捲きおこり巨魚(いさな)のごと砂原 (すな)をあげ紅塵(ちり)をたてそのしづもらむとする時 一塊の骸(むくろ)あばきいでて見せぬ。さてわが身 かげとともにそこにとびかよひて醜き骸と一つにあひにけるぞうたてや。       ×  軍国の尖塔は緑と白と紅の光芒を廻轉せしめ、そのあわたヾしさがわたしたちを焦燥に陥れた。夜の都会のものがなしい呼吸の刹那刹那を照し出す光芒たち。 緑の光は落着いた光を、白い光は察(さぐ)りを入れる冷い光を、紅は脅かす眼ざしを発する。その中に軍国の都會は頽然と腐れつヽ、その細胞の一つ一つを露き出す。 わたしたちはせん方なげに麥精をのみ、この一瞬の、いまだ許されてあるか偸みつつあるひとときであるかを論ずるのだつた。   三十日 関口八太郎 麻布の兵隊たちとゆきまじりけだもののにほひ嗅ぎつヽをりぬ 兵隊の汗ばみしかほに眼のあるを見つヽををりぬこころかなしみ 坂路をあがれば開く青空のすみとほる間に晩蝉のこゑ 夏ゆけば古きちまたの石垣のしみいる光になにかかなしも       × 後園の薔薇の花を 白衣のマダムに捧げると 何とはかない詩 白い時計台を 白い鳩がめぐつて飛ぶと この詩人たちは歌つたでせう センチメンタル ロマンチツク このことばの説明に あなたたちの詩は舌足らずです 蝶が夜を截り 月が羽を落し あなたたちの卓子は汚れますか a K.Kitazono, N.Inui, I.Takenaka,T.Miyoshi et moi   九月四日 コギト第六号編輯   秋、その他 池を廻り汀に立てば花菖蒲(あやめ)かな 海の空立つ雲わきて多ければ 秋動く白堊の樓に映る雲 童等の青雲呼ばふ時立ちぬ 恋死にてはてなき海の旅に入る さびしければ無花果もいでもつて来な 來ぬひとを辻にまつひる風吹きぬ 花束の龍膽もあるを贈られし 庵めぐり青栗ゆるる音すなり 白蝶死にて蟻に牽かれぬ日翳りぬ 虚しくてつつましくゐる鴿[はと]三羽 遠き丘にお題目呼ぶ家建ちぬ 海さびしとどろと鳴る日人無き磯     ★ ソオダ水をよぎる雲 葡萄にゐる蟻 睫毛には日の翳りの濃さが (ひる──夏の)     ★ ひるがほの咲く砂山にひとのぼり恋を語りし日は去りにけり 砂濱にさびしく残る家なりき乙女子つどひ歌うたひしは 薄穂のなびくがごとく波頭砕けもしるき秋さりにけり     ★ 丘の家に植木屋が入り 山茶花はもう蕾の準備をし出したに違ひない に紅い実を着ける樹が伐られた     ★ 築地の方の空の濃さ 香爐の煙より細い雲 二科展の噂 ことしも草花を描くひとがゐる     ★ 中央理化學実驗所 フラスコに熱する苛性曹達溶液 動物の皮の焦げる匂ひ わたしの魂を煮つめた透明液を お嬢さん あなたに差し上げませう ヘル ドクトオル いやらしい冗談はお止しなさいまし さて硝酸銀は感光した 春來る海市(※ 小説)(十二枚)書く。蓋し處女作なり。   九月十一日 L’Amour triste (※ 悲しい恋) いまの世も世に立つわざは知らなくにこひせむをのこしりぞけむとす なにゆゑに泣くぞと云へばわがゆゑにその母つらしといひしころはや ひとは如何につれなくとても汝とあ[吾]といとしめばよしといふにうべなふ 青山の山かげの田の穂にいでて垣ほもしげきこひとはなりぬ 泣くを止めていねよといへば寢ねにけりさめてつれなき母かしこみて   九月十二日 コギト第六号校了。関口、松田。   獨逸浪漫派頌詩     一 夜の帷はややにかかげられ 東の方ほの紅らみ まがきの上霧立ちぬ 園の鳳仙花(バルサム)におく露を見よや 絲杉(ツェダー)はた菩提樹に鳥ひそみ 朗らかに啼きわたり わがこころ疲れは去りて 新しきひとひを迎ふ 黄金の飾ある馬車に 白馬はつけられ装ひなりぬ いざ旅立たな 窗辺なる乙女の上に 幸ひの夛かれ その黒髪永く艶やかに その丹の頬 とことはに頽(おと)ろへざれ 石橋をとどろと馬車の過ぎぬとき 川の辺に釣糸たるる童ゐて 口笛吹くをききたり 誇らかの歌 天國はなれのものなれ 過ぎゆくに山川はうつり 丘のいくつかを越え わが車 游泥に入り わが馬疲れぬ かくては家にあらましを 景も変りて荒涼の 人無き磯に鳥すさび啼き 風さわぎぬ 湖に波は狂ひ 白波のひまに黒髪みだれ 妖精(エルフ)現れ われに向ひ 叫びいざなふは いつまでか きみが世ほこり いつまでか かがやかのかんばせ[顔]たのむ 玖瑰花(ハマナス)の花しぼむがごとく ながいのちしなへむときに 燭の火のつきるがごとく ながいのち消えなむときに なげくともく[悔]ゆともしかじ 永遠の美のくに 水の底にいたりて わがつまとなりたまはずや わが腕はしなやかに きみが腕まき わが胸はきみ抱くとに みちふくれむを わが歌を知りたまはずや わが踊りめでたまはずや この時見しは水底より 蒼き光らんらんと輝き その中に輪舞せるをとめを 見しが そのひとりわがこひびとに おもかげのかよふと見たり そは既に死にはてしひと そのひとの奥津城の辺の 絲杉はうなだれゐしを たちまちに天の一角 閃きしは一條の電[ママ] 妖気うせ 妖女すでになし 湖はなほもさわぎて 白波はとどろとなりぬ わが馬はおそれし様に 車牽き狂ひてゆくは いづくとか 即ちこれ 莎葉の生ふる流沙の原 地に這ふもの 地にひそむもの 怪しげの歌うたひゐしが こは見るに罪人の変化の相か 頭より悪血ながし 眼には泪あふれぬ 電はここらを打ちて ひれ伏しぬ 動かずなりぬ わが車即ち入りぬ 光明の市 三角の柱は天にそびえたつ これ東都のオベリスク 古の聖王の績 きざみしが その跡ふ[古]りて誰がよみえむ 門入れば人無き館 荒れ果てしまがきの中に ひともとの薔薇のしげみ 遅れ咲く花の色香は これぞこれ わが理想(のぞみ) 憧憬の青き花 處女の瞳もてわが魂を うばひ果てたり これ見るに泪は止まず わが求(と)めし奇(あや)の珍花 とく手折らむと手をふるに たちまちくずるその花 かひなしやもとの色香は かすかなる香ひのこりて かなしげにわれに語りつ いざきみよ もとの旅路へ 漂白の路に入りね あこがれはきみがひとよを 求めむもの たはやすく 得べきにあらず きみが見し わがかほばせは 天なるみ神 きみをして倦まざらしめと 大み心はかりませしぞ 汚辱に染みし きみが身を 魂のはなれむそのとき 天つみ國の門開かれむとき 光明赫奕と輝きいでむ わが本の性のままに そのときまでいざ出でませ 漂泊の旅の長路を 教へのままに出でゆけば 氷雨たちまち降り出でて 狼は號[おら]び 虎 奔りぬ 怖えし鹿は岩角より 深き谷間に躍りしが 啼くこゑだにも立てざりき あはれこごし峰に陽はおちむか いまゆうぐれの時 馬うつ鞭もしなへたり 氷雨に手はこごり 足は水漬きぬ 孤影悄然と峽路の 溜り水にうつれば 死の手 またわれを招き わが心臓は痛く搏ちたり そを掴まむと虚空より 荒鷲は舞ひ降り わが頭 その嘴もて喙ばむとすれば 鞭をあげてふせぐに 四体たちまち崩れて 血の雨わが身体をおほひ 羽毛はわがのんどに入りぬ 時に天眼開け われに語りぬ なれおぞ[愚]の小きものよ いのちの時来りたり その羽毛を身につけよ その爪を足につけ その嘴を その眼をながものとなし 舞ひ上りここまで到れ おぞの力をふるへかし かくすれば身は輕々と ひようひようと 氷雨をつきて舞ひのぼり 人間界を見下ろせば 神の殿(みやゐ)も人の家も わがまなしたにひろごりて 大野のはてに雲ひそみ 氷雨は止みぬ 陽はてりぬ その晩暉の消えぬ間に 一刻早くのぼらむず 野も森も いまくれはてて 陽の下るより迅くとび 天上界に到りぬれ ここは常世のくわし[美し]國 水晶の門 瑪瑙の扉 開けば瞰ゆる広らの國 名をだにしらぬ鳥啼けば 羽うるはしき虫飛びぬ 緑のしげみ深ければ その静もりに知りぬるは これこそみ神いますところ みくらの様を拝まむと 茂みを分けば白沙に 神の姿はまた無くて たヾ一輪の青薔薇 咲くと見るまに神痴[し]れて たヾ影のごと体(み)を出づるに 花心こゑあり善哉と 嚴しきこゑもゆめうつつ われ天地としづもりぬ [※ 万葉集巻一から七首抄出。] [※ 万葉集巻二から十五首抄出。] [※ 万葉集巻三から十首抄出。] [※ 万葉集巻四から二十五首抄出。] [※ 万葉集巻七から七首抄出。]   九月十七日 丸、友眞、天野、松浦、杉浦、肥下と[コギトの]配本 霖雨漸く晴れ 坂の登り降りに ちらちらと蒼空が覗き フルーツパーラの緑の室に わたしの顔貌は蒼白を極めた 疲労と困憊の秋草が わたしの脳髄に咲けば 神がみは黄昏を 心からの嗤ひに吼えたまふ       × つゆけさや龍膽の花運ばるる       × [※ 以下5行破棄。]   九月二十三日  当世無頼調 木犀よひとしめり吹く秋の風 木の草の実りはかなき葉のしたに にはたづみ乾きてあつき空の蝉       × わがものぐるひはいつの日か       × おしろいのにほひ木犀のにほひ ひるすぎのラヂオは玄冶店 つまらぬ小説でも書ければ 暢気でいいのですが むらさめにぬれて巷の女見る 赤き銭てのひらにのせ嗅いで見な 銅銭の一つ二つのこるうすさむさ 銅銭もあまさずなりしひるを眠る 酒の香や隣は菊の初花賣 秋の魚乾魚は魚のうちならず 空とぶや酒のさかなのみそさざい 衣賣らむ本賣らむ海に遠きひる 秋山の木の葉にともる灯の青さ a T.Hige 金借らむすべは知らねば紙衣[かみこ]着る   九月二十六日 中華辺境兵漸繁     戰爭   一 青服の驃騎兵たちは喇叭を鳴らして夕日の長城を出て行つた 城門の傍の泉に椿が二三輪落ちた──   二 夕陽に尾振る馬を灌ふ兵 吃飯する兵 喇叭を稽古する兵 子供がそのまはりに二三人   三 早朝屯営を出発したらしい兵が二中隊ばかり 小川の辺で憩んでゐる やがて隊長らしいのが立ち上って 中天の日にま[目]かげをして空を眺めた 中央亜細亜の鷲が舞つてゐるのだ   四 莎草の中の死骸が一躯 銃聲が一発すればつづいて反響のやうにどこからかこたへる二三発 中天の日はしばし翳る   五 炊爨[すいさん]車に烏がとまつて啼いてゐた 青服の死骸から蝶が舞い上つた   六 鴆[ちん・毒鳥の名]に遭ふた将軍は鸚鵡の籠の前で吐血した 明け方ひとびとは鸚鵡を撲殺した 鳥は羽をふるはせながら最後まで将軍の苦悶のこゑを叫んだ   十月八日 遂に晴れぬ邪念もつ身はよるふけの秋風の路をゆきにけるかな 東京の並木のみちをさみしみと酔ひつつゆきぬ木々は揺れつつ しばしだにもだしてあらば泪おちむ犬にも似つつ吠えてあるかも 竹の葉にをとめの衣はふれにけりおとなのをとめ見ればかなしも 齒をやめばこの秋風は寒けしとよるさへ更けて月傾きぬ ゆうぐれの乱れゐし雲いづべかもいたむ歯おさへ文よみにけり 街燈は青く光りてゐたりけり病む身を寄する幹のつゆけさ 鐵のてすりのさはり冷けば菊咲く秋ともなりにけるかな あかあかと花咲きたればをとめ子ら叫べるこゑは空にふれける 此の世にも生きにくくなり生業(しごと)もたぬわれらすら嘆く晝を怠けて さ夜ふけとよふけの月は陥ちゐつつしどろの足を見ては嗤ひぬ   十月十一日 保田の下宿。 槻の樹の幹白々と光りをり小路を白き猫歩みけり 秋ふかきコスモス咲ける家々にラヂオかたりぬわらべあそびぬ   十月十三日 レンズの世界を恐れよう 歪曲した脚と鼻と この世紀は細身の洋袴をはき 大きい頭のやり場に困憊してゐる       × 冬の季節は枯草と焚火 雪は吾党の家に積り 風は吾等の足をはらふ   十月十四日 保田與重郎と石神井へ 三宝寺 天人の裳裾は二本の脚を見せ その眉は長く眼は潤[ママ]く 牡丹の唐草 葡萄の蔓 梵鐘の余韻は柊の茂みにしづもり 象の牙と鼻を哄[わら]へば 「普陀落や燕の鳥もはや去にし」   石神井池 鳰[にお・かいつぶり]の巣や睡蓮咲けば隠れけり 水草に遊ぶや鳰のこゑたてて 石神の祠に寒き朱[あけ]の色 とりどりに冬の實結ぶ小藪かな 茶の花やとしよりて後見まくほし 紅葉にもなるべき相や椿の樹       × ゆるやかに大地(つち)の傾き起き伏しの武蔵の野辺は大根作りぬ 野に出でてうすらくもりを働けるひとびとを見れば勉むると思ふ       ×僕はトルストイを讀んでゐた わびしらや大根畑の立ち尿[いばり] 沼中に骸くさるる鳥獸 鶇啼きつれ立ちおちぬ森邃[ふか]し 薄野のかぼそき路は絶えもせよ 薄野の虫啼くあたり焚きつくさむ 柿の實を吊してありし土間暗し       × 僕の肋骨は洋燈をつける。宵々毎の蒼暮の時に。 僕は近づくひとびとを近視の眼で瞶める。 牡蠣にでも似たと人は云ふだらう。 僕はカメラの焦点をわざと外す。 ああ、ひとびとは凡て眼を、鋭い発光器を持つてゐる。 僕の肋骨は羞ぢて燈を消す。空の暮れ果てる時に。 カンナの花がまだ残んの光を放つ時に。僕はそれをわびしいと思ふ。   十月十五日 本日傳聞す。伊藤健二郎氏十一日三時三十分永眠し玉ふと。 悲雨の中をお酒のみにゆくも些か故人への贐けなりと。 同行丸、天野両君。  松茸や柚酸つぱくて喫ひにけり             ※  柚の香や厨にふきこむ雨冴えて  菊匂ひ佛名いふも泪なり  お供への花散るくれや新佛  喪主の衣はつかに白きゆふくれや 小竹の弟武君もいまは逝き名なしとかや           ※ 松原に球とるひまをほのえみしわらべの子ろはいづちゆきけむ   十月二十二日    Y旅行。     丸と散歩。  皀夾坂から見た神田は曇り  飯田町の汽車の煙り  靖国神社はお祭りで 桑畠の夕ぐれ迷ひ雀かな さいかちは伐られて車通ひけり 禾本[かほん]科の雜草ふみてつかれゐる   十月二十三日 霧のシレエネよ 泡沫のアフロデイテよ 生みの母親よ 甘き乳房よ 冷い白い肌膚にとりすがれば 意識の流れにその汁液は混る   十月二十四日 昨日は春山行夫氏より「文学」に執筆依頼ありき     井の頭へゆきし 蒼靄はすすきに流れまとふめり 杉浦正一郎 黄櫨[はぜ]もみぢつめたきいろに霧ふりぬ 相野忠夫  ※ ゆふみづやしろじろ光る時のさま 室 清 幹毎に鳥啼くゆふを葬りかな 松田 明 黍殻のもゆるもかなしうすけむり 後藤孝夫 秋ふかき茶の花もちる垣墻[かきね]かな 野の果の白き館のわらひごゑ 野路ふかく人住まぬ様の館かな つたもみぢ荒れたる宿のけむりかな ゆふぞらに鳥落つ木末射しにけり うきことをかたらはむひとも住みしさま 芋抜くやここは武蔵の吉祥寺 芋の葉にこよひの月はくもらなむ 細みちや友四五人にくれかかる   ★ Oh,Chanteur des rues[※ 街の小歌] 青銅の女にわたしはこひをした わたしの胸の花は夜ひらく ほつほつと音たてて そのひらくとき わたしは唇を歪めて咳[しわぶ]く わたしの胸に塩水が湧く ああ 虫のこゑ イレエヌよ おまへの青銅の眉に おまへの青銅の頬に むらさきいろの霧がふり わたしの唾液はねばつこい こん夜も星空は見えぬだらう   ★ Atlantide,(Herrin von Atlantis) わたしの脚は流沙を踏むに適し わたしの瞳は幻影(イメエジ)にまどはされることもない かやつりぐさ 莎草は日中に枯れ 弘法麥は根を千尺の地下に張る わたしの骸は砂がおほふであらう わたしの霊魂は海市の殿宮に入るであらう たヾわたしのせつない感傷は 流沙の原に 颱風の中に はかない月影を索めてやまぬ── 搖蕩とまた眩暈が襲つて来た   ★ わたしは迄北[いほく]の人民です 漢の長城はわたしを塞[さえ]ぎります わたしは紫髯緑眼の徒です わたしの笛は漢の公主を泣かしめました 公主の寢園をごぞんじですか わたしの笛は緑の芽をふきました 春を はこやなぎの澤を 新しい公主の輿[こし]を迎へに參ります 長城の南の雲をごらんなさい   ★ あはれゆふべはたヾひとり ほのけき煬[ママ]にむかひつつ    ※ ふみかくときぞたのしけれ 「きみがふむ京(みやこ)は土のしめりかな」 むらさきのくもにしにたち ふじのたかねもかくされぬ ゆふづつ[夕星]ひかれすすきのに 「秋山や茸(たけ)くさりゐて路つきぬ」 はるかにともしひかりいで 林をまとひきりたちぬ ながれてしろき野の川や 「きみがたもとちまたちまたにひるがへれ」 つきさへいでぬきみがまみ うかべるくもはきみがぬか ふたへまぶたを思ひ出(で)ば 「ゆく秋や名しらぬ花もすがれつヽ」 わかれはかなしときのまも とはにわすれじきみが言 なさけはあつくちはあつし 「ふたりしてつむじの雲をみむ日かな」   ★ やちまたの京のちまたにたちなげき山ゆ下り来る霧にゐたまへ わがをとめ雲居にありて菊の香のながるる街にわれおもふとや 音羽山陶器竃(せとものがま)にたつけむり紅葉のこずゑおほふころとか   十一月一日 英子といふ女に惚れた。     ゆふぐれ ころころと子供等は喉からラムネの玉を吐き出してゐる 木の葉のさへずりを聞く 半ば虧[か]けた金星(ヘルペルス)が坂道を駈けて降りて来る   十一月二日 ポーリンといふ女に惚れた。-深夜- 巨きな犬達がつるんでゐる 啼く声は森閑とした街に怒濤の様にひろがつて行つた       × 毎夜ここまで来ると僕は排尿する アフロデイテの様に白い情緒が一筋枯草にのびてゐる       × 參星は森林の上で見つけられる 友達は骨を生じた ああ 花は骨片のやうにカラカラと音たてる       × 肋骨のついた軍服の胸を張つて 僕も女を斬らう 城壁の様に熱い胸を剖いて 白い鳩を飛ばしてやる       × 水龍骨と蜥蜴とを 天琴宮にけあげて見よう リルリルと鳴りひヾく わたしの咳をひとりで聞く部屋の窗には 霜の花が咲いた まるでおまへが純潔かのやうに   十一月六日 竹内好氏 菊作る女に道を訪ねた 金色の実の多く実つた樹 曇り空が動いた 白い雲に日は暮れる 灰色の林がうすれる もう見えない       × ピアノをひヾかせてたのしげな館々 海は鉛のいろに動かず ガスタンクの辺に煙はのぼる 力の無い世紀 ああ たのしげだ       × 目白鳥(めじろ)来る館に早し冬の花 時雨して茶點(た)てむ友よ早も来(き)ね   十一月十日 原田満人先生と漢代漆器  棺槨[かんかく・ひつぎ]をあけると無残、若い女の骨骼が三体積み重つてゐた。その歯は雪の様に白く、臀骨はしなやかであつた。足許に漆の朱い器があつた。 開くと青銅の鏡、リボンも故のままに、掛蓋をとれば白粉、嚥脂[えんし]、(鬢油)、笄[こうがい]、櫛、白粉刷毛と銀の鈴が一ケ、女の子の可憐さを想はせた。  ああ、漢の文化は骨となり果てた。この漆器も明日となれば木乃伊[ミイラ]の如く萎へるであらう。   十一月十二日 鬼澤一男の遺稿集   十一月十四日 アダムとイヴこの方ためしのない大暴風雨の夜となつて 人つけの少い乗合に老紳士がのつてゐて 臘の様な涙が鬚まで傳つてゐた       × 鳥達は僕の窓に打ちつけられ 窓框に その羽毛が一杯につもつた 朝 僕はそれを掃いた 泪を流して       × 僕は肺臓までしみとほる咳をした           ※ 雨音が一時とぎれた──そのひまにも一度咳をした 眼の前で鬼火が螢の様にとびかうた 傘にとまれと歌つたらよかつた   十一月十五日 コギト校了 死ぬべし 忿怒相のまヽに 女の子は馬鹿なり 年老つた女は厚顔なり 愛する女なんて嘘だ 下宿をかはらう 忿怒相のままに 火鉢を抱いて詩を泣くべし         引三円六十銭也。   十一月二十七日 二、八三 運送屋(丸二) 一.○○ 改造(芙蓉堂) ○.五○ 散髪(ハイカラ軒) ○.五○ 切手(父へ) ○.○三 急須、茶碗(高島屋)○.二○ 灰皿 (〃) ○.一○ 茶瓶 (〃) ○.一○ 盆  (〃) ○.二○ 足袋 (〃) ○.二○   十一月二十八日 原稿送料(清徳氏へ) ○.一二     ※   十一月二十九日 ○.八二 引五円十二銭也。 計八円七十二銭也(十四円二十二銭也)。 切手(島へ) ○.○四 バス(阿佐ケ谷-高田寺) ○.○五 ほうじ茶四半斤(〃)○.一八 ※ バレー剃刀刃 (〃) ○.二五 仁丹ハミガキ (〃) ○.一○ スリツパ   (高島ヤ) ○.一○ ※ チリ紙    (〃) ○.一○   十一月二十七日 中野区鷺宮一丁目二六八 仙藏院に移る。 ここは阿佐ケ谷より三十分の地。窓を展れば墓地なり。   以歌代日記 鵝鳥啼くこゑきこえゐぬ南天の朱ら実枝垂る枝に向へば 墓原のしづもりふかし遠方に秩父の峰の雪光る見ゆ ゆふぐれて時雨のあめとなりにけり手足かはゆし時雨冷たければ 風呂に立つわが脚下にころべるは耳あてヽ聞くラヂオなりしか 据風呂にシヤツ脱ぎたれば寒しと思ふしぐれの雨は氷雨となりし かやぶきの庵をぬらしひそひそと時雨ふる夜をしづこころなし       × はしけやしをとめゐる家をわが去るに門に立たざりしそのをとめあはれ  ※ をとつひときのふのふたひわがひざになみだなきゐしそのをとめあはれ いとしとてわが抱くときにおのづからまなこにあふるものならしなみだは  ※       × あはれ琴抱きて 杉吹く風に彈じなば 朱実熟(な)る樹の並木道 わが庵と[求]めてをとめ来むかも   十一月二十八日 朝、電車の中でふしぎな女の子を見た。年は十五六、女学校の[?]年生なのに、疲れた敗頽的な顔をし ※ て、長い睫毛の下では瞳が憶病さうに覗いてゐる。顔に雀斑[そばかす]があつたつけ。   十一月二十九日  ヘルマフロデイテ   富士の峰に湧き立つ雲は鷺の宮の林のなかに詩とならずけり 朝日子は遠き屋並をてらしゐぬこころ足らひて縁に出でゐるも 澤向ふの福藏院の森あかく朝日の照らす朝霜けぬがに 世にひとに捨てられつつもこの森にいのち生きなばなんをか云はむ   十一月三十日 三.八九 (十三.三銭) バツト ○.○七 中国社会史(文求堂) ○.七○ 台湾の租佃( 〃 ) ○.四○       ※ インキ(丸善アテナ 三省堂) ○.二四 ノート(〃) ○.一三 飯(第一食堂) ○.一五 茶(森永、稲垣太郎、天野二君)○.五○  ※ 菓子(杉浦) ○.二○ 食費(四日分) 一.五○   十一月三十日 すがれた菊はかすかに匂ひ 夕日は篁を紅く染める 大根畑に犬が餓えてゐる [※ 梁江淹、「效院公詩」四行抄出。] [※ 陳陰鏗、「和傳郎歳暮還湘州」四行抄出。]   十二月一日 (十四○.三三)八.三三(十三二.○○) バツト ○.○七 玉子丼 ○.二五 肥下に返す 三.○○ 松井小母に返す 五.○○   十二月一日 今年の花は皆咲いて了つた わたしは陶器に夏の花を描く 澤に小鳥が陽を浴びてゐる   ★ うめもどきの朱さ 常磐木はいよいよ黝ずみ わたしの僧房は晝も燈を灯す 凍つた蛇が天井から墜ちる   十二月二日 テアトルコメデイ、戸川秋骨、松井松翁、飯島正、中村正常、太田咲太郎、岸田国士の諸氏。※ 佐々木三九一、重三、益子、池田、天野の諸兄。 竹中郁の「象牙海岸」失ふ。   十二月九日 服部とボストン。KANAMORI Blanc et Noir[※ 黒と白] 黒い三角 白い丸 かみしめれば薄荷のにほふハツカ紙を むかし かみしめかみしめ 味なくなつたを嘆いたあの心 口の中でとけてあまいチヨコレート ウイスキーの一しづくも入つて   十二月十一日     アナムネーシス         Reiner Maria Rilke et Y. Okizaki[※ 中島栄次郎] 三月 わたしは諸種の花の種子を蒔く 雲雀がなく 私は思案する わたしの死んだ母を知る老嫗が来て云ふ 「あなたのおつ母さんも花が好きだつた」と 八月 わたしはわたしの花を見る 黄や紅や藍や 太陽の日時計の文字となつて  ※ わたしは繪をかく こゑで繪を おつ母さんのいいこゑを思ひ出す   十二月 わたしは酒を酌む 荒海のやうに わたしの体内にいろんな血がわきかへり わたしは夛くの叫びをきく わたしは昂然となる 今一つが「おまへの父がさうだつた」とささやく ああ 父よ母よ 眉をひそめ こゑをふるはす ああ 灰になりたまふた 遠い御先祖様よ ああ 放蕩もののわたしの 御先祖様よ   ★ あの手はわたしの腰を纏き あの足はわたしの足を挾みました だけど聖母(マリア)様 妬忌(ねた)まないで下さい あのやせつこけたとげとげの四肢が わたしに滑つこかつたわけを御存じですか わたしは始終あなたをおもつてゐました あのいまはしい時間中   ★ 硝子の樹をへし折つて あなたの襟にさしはさまう クリスマスの日にわたしの贈物と     佐藤竹介君にあふ。詩を上げる。阿佐ケ谷へ   ★ 月は雲の下へ下りてくる わたしの冬の星たちよ わたしの部屋の蝋燭よ おまへたちはわたしより暗い わたしより 冬の外套の褪せたわたしより     ヴエーヌスの讌[うたげ] わたしのために白い卓布がしかれ わたしに銀のさじも置かれた わたしの椅子の紅い天鵞絨[ビロード] わたしは黒いネクタイをしめ おづおづその場にまかり出たが 客人達の様子におどろいて またもわたしの洞窟にとぢこもる シユミーズも穿かない貴婦人方 ズボン下一つの殿方 ああ 外は寒いのに 乞食達よりも行儀の悪い格好で 一体何のお料理だといふのだらう   ★ 固いCatelette 塩のききすぎたSarade 熊たちにでも喰べさせろ わたしの潔癖は飢をも却ける わたしが喰べたのは好奇(ものずき)でしかなかつたのだ わたしの潔癖に歯をガチガチならさせて   十二月十二日 徹夜校了   十二月十三日 高輪芳子心中 索漠とした死の曠野を あなたはひとりで行く 世紀の險しい峽を 僕もいつ心[一心]に攀ぢてゐます 月夜の雲は虹色の輪郭をもち 高くで 羊たちの様に啼きかはしてゐます 死の痩せたカサカサの手が あなたの髪の毛を掴むところを 僕はあの『紅い風車』でしたやうに フツトライトのまだ下で見てゐます   ★ 袋もあるのにまだ皮をつけてゐる蜜柑の様に こひびとがいくらあつたつて一人のシエーンハイトのなくなるのはかなしい その美しさで僕の心をくるんでおきたいのだ   ★ あなたはまだ十八です 子供です 大人染みた思案は止しなさい あなたのそのしなやかな肩で 何のやうな苦しみを擔つたとて 荷物の方がずりこける そのなめつこさをあなたは肩に持たせなさい   ★ 西方(さいほう)の黄なるゆふぐれとなりにけり秩父嶺(ちちぶね)に雲たヾよへる見ゆ 秩父山ゆふ日にかすみ死ぬひとの夛き冬の日またくれむとす きそ[昨日]のよる月におぼろと見えたりしちちぶのみねはひるもかすみぬ あかあかとすすきにかたむき日はおちぬ鴉しばしば啼きにけるかも みはしばし仙藏院にとどまりてゆふくれごろにひとをこふるも うしろより日にてらされて秩父嶺になびくうすぐもほのあかるかも   十二月十五日 《文学》[※ 雑誌]にポエジーのはじめに出る。   十二月十六日 あなたの頭で了解することを わたしは心臓で知らうとする あなたが心臓で書くことを わたしは頭で書かうとする   ★ 記憶 またけたたましくわたしの中で記憶の鸚鵡が啼く わたしの眼玉をつヽき出さうとするのは明りを求めてゐるからなのに  ※ わたしが一寸暗示を与へるとすぐ啼き止む 可哀さうなわたしの記憶 おまへのうすやみに黄金の虹をいまにかけてやるよ   ★ おまへの流れる黒髪の川 おまへの鍾乳石 おまへの鳩穴 おまへはわたしを廻(めぐ)る おまへはわたしに合流する おまへよ おまへよ 月かげの下の谿河よ   ★ 月光にてらされて 夜目にもほの白い不二の山 雪は吹雪となつて頂上の嵐に狂つてよう ここ 風呂のしまひ湯が石けんの香をなつかしく流す野原を ぼくは女の子の体温をかかへてかへつて来る   ★ 船は疲れて芦の間に纜[ともづな]をおろした 飛び立つ夜鳥 甲板のわたしの髪に霜がおりる わたしはまどろみゆめ見る 金の星が墜ちると   ★ 構橋にひとがのぼる わたしに青いコツプをもつて来る少女 《おたつしやで》──コツプには金星がとけてゐた   十二月十七日 河々の薄氷も固まつた 犬を目がけて海東青鶻[※ 鳥の名]は矢の様に墜ちる 昔の遼の天子の金冠をぼくは見つけた おまへの歯ならび──そのやうに國境の山々はみつめさされる   ★ 春ごとに公園の白梅が咲き出すと ぼくの知つてゐる囚人が牽かれてゆく 「旦那 もすこしだけ世の中を見させて下さい」 頬の汚れた子守女たちがかれの世界に来て坐る   ★ 子供たちは喉のおくまで見せて聖歌をうたふ 避雷針にとどまる星 ぼくの心臓で鐘のひびきがおさまる ベツヘルムも眠つたころ──石ころ道に霜がおりてる   ★ 星明りはぼくの影で消える かれらの指し示すは知慧か破綻か ぼくは流れる夜気に見る──虚 しづかな夜にも迷つた鳥たちがぼくの上にとまる   十二月十九日 舗道の旋風(つむじかぜ)に日はくれる 街燈の円弧に白い犬がゐる   ★ たのしく女の子は大きなリボンをつけた 蝶々だよ まあ毛蟲だわ リボンは僕の喪章となる   ★ 黎子はバラを植ゑてゐた 《どんな花が咲き出すか知れやしない》 ぼくは指を立てヽ脅すまねをする 黎子はもう泣いてゐるのだ   ★ 本郷通りをボンネツト[※ 帽子]着た女の子がゆく 眼蓋をまつ赤に泣き腫らして ぼくはシネマのビラを拾つてゐた   ★ 天花[※ 雪]は半時ばかり現[ママ]えてゐた 弟の手はひどい霜焼だ にいちやん おさかな 氷に木の葉がとぢこめられてゐた   ★ 縄飛びしてゐる女の子ら てんで縄になんかとどきはしない 逆立ちしてゐる黎子をぼくは睨めてやつた 逆さまの顔で笑つて見せる 起ち上がつても笑ひやまない にいさんの顔つたらありはしなかつたわ   ★ 玻璃のなかの匂ひ菫 紅と白と緑のボンボン 黎子 Xマスの歌をやつて見な 此の子はマリア様を信仰してゐる 子供のくせに [※ 藤沢古實の歌九十四首 計、昭和七年十二月十九日、二十日抄出。]   十二月二十二日 雪は天から素馨花(ジャスマン)の匂りをもつて来る 鐘のひびきはわたしの瞳に金の幻をくりひろげる   ★留置場 暗い光の中で蒲公英[たんぽぽ]が對になつて咲く 光を待ち受けて自ら光を放つ   ★高円寺 橄欖(オリヴイエ)の樹にわたしの幻はかヽり さぼてんの花は此の街を濶歩する 絲杉の青さ 柊の實の赤さ   ★ 金牛宮の牡牛の瞳は怒つてゐる どこの牝牛のせゐでせう       ※ 軛き[くびき]にわたしは綱をかける 水晶をつないだ念珠 その冷さ   ★ 棕櫚の樹の傍でわたしの眼は瞠(ひら)いた 生れてはじめての日の光 キラキラと泉に溢れるは生命の水       ※ 棕櫚の幹にわたしは新しい感觸を加へる(パルテマイの話)   ★ 魚たちは金の鱗をもつてゐる けふいちんちわたしの手は腥(なまぐさ)い わたしの網の大穴を天使は繕ひたまふ 窓の外から星といふ光で (旁羅[マルコポーロ]の話)   十二月二十三日 松浦帰郷、蠣の家。丸、友眞。 その朝わたしが食膳で割つた鶏子(たまご)は落日(ゆふひ)のやうに紅かつた ゆふ方わたしは隻脚を失くして運ばれて来た わたしの隻脚が淋漓と海アネモネの花を染めてゐると確信して   ★中華人大氏の失踪について  満州國瀋陽省海甸縣人、大氏をそのゆふ方までわたしは、彼が五色の蛇を呑みこんで銀色の太刀を吐き出す鮮やかな術の場面を、 海盤車[ひとで]座のフツトライトの下で固唾をのんで見まもつてゐたのだつた。  夜半ゆきつけの酒場花骨を出て来ると號外が来た。大氏の失踪について特大號の見出しで。わたしは愕然として煙管(パイプ)をおとした。 その琥珀の管は凍てついた煉瓦の上で粉微塵、わたしは不幸を生まれてはじめて感じた人の如く蹌踉とタクシーを命じた。 気がつくとわたしは外套のままアパートの自分の床にねむつてゐる自分を見出した。棒のやうにわたしの脚は痺れてゐた。多分大陸産の蝎がわたしの脚を這つたに相違ない。 わたしは今更故郷の父母たちに音信を欠かしてゐることを自責した。水道の口が口許まで延びてきた。  そこでわたしは部屋を去る。鞋子(スリッパ)が婦人用のになつてゐた。その外に何の異事があり得よう。煙管がわたしの口に戻つてゐたのだから。  わたしはいつか御濠端を歩いてゐた。足取りは確乎たるものであつた。輕気球が揚がつてゐた。空はよく晴れてビルデイングたちが其處から懸垂してゐる。 わたしは広告の文字を讀む。《大日本帝国萬歳》。 危くわたしはまたも煙管をとりおとすとこだつた。大の字が人間だ!そこから大氏が絹をとつて挨拶してゐる。太陽に絹帽がちかちか光つて眩い。大氏は一歩づつ登りつめる。 気球に觸れたと思ふ途端、足が浮いた。アツといふわたしの叫びごゑに、彼は一寸会釋してそのままの姿勢で空中へ。空気は酒精のやうに冷くなつた。 大氏はもう豆子のやうに小い。風が吹いて木の葉を散らして来た。別れの挨拶状のやうに。  わたしは又酒場花骨の人となる。緑のシエードの下で紳士達が骨牌を弄んでゐる。菫色の菫の花を裏に描いた骨牌、それが慌しくやりとりされはじめ、ひとびとは熱狂して来た。 ひとりが矢庭に自分の頭を頸から外して横へ置くと、みんながそれに倣つた。わたしは起つて行つてそれを交ぜかへし、女達にひとつづヽ分け与へた。みんな辞退する。 扉が開いてひとが入つて来た。牡丹花色の風呂敷をもつて。わたしの手が痩せたその人の手といそがしくいりまじつて、頭たちをその中にかき集める。ほろほろと卓の下にこぼれて止まない。  ふと見ると相手が大氏だつた。わたしは久濶を敍する。大氏は口に手をあてて叱つと云ふ。紳士達は緑のシエードの下で骨牌を弄んでゐる。わたしは大氏とネオンサインを消してまはる。 風呂敷から頭たちを一つ宛とり出してそれらに与へればわけはない、わたしは寂寥とわたしの影を巻く。大氏はその時横丁に入つた。以来出て来ないのだ。 號外は未だに頻発されて、わたしはその煩雑さに  ※耐へ切れない。わたしは鶏子(血のやうに紅い)でわづかに命をつなぐやうになつた。   ★怕 馬たちがひとりで街を歩いてゐる。   ★ 此の日聞きしは肥田靖三君急逝の事なり。 二十貫の巨躯、今那辺にかあらむ   ★深更に至りて小説一篇を作る。「ある訪問」と仮に名づく   十二月二十五日 けふはいちんち家にゐたり。 寒々と野良はつヾけり遠畦に嵐ふきまく土埃見ゆ 南天の実はこの寺に数夛し嵐に揺れてしづどころなし みすずかる信濃の雪の高原に柏井数男何たのしめる 気短かの田中克己のいさかひの相手となれりあはれ数男は 北風に向ひてわれはあゆみしが髪ことごとくうしろになびく ゆふぐれの寒風にゐて中学生枯れし 木の相をゑがけり 赭(あか)黄など枯れしいろのみ使ふめり万象(もの)のさびしき時のしるしと                         (仙藏院詠草)   ★ 空を天車の駆ける音がする 鼠がぼくの寝息を竊[ぬす]む 死が墓碑の文字から甦へる頃だ   ★ 空だ 漠だ 枯野をゆく水 子を孕む犬   十二月の青葉   ★ 烈しい風の中で 彼等はパンパンと空気銃をうつてゐた 鳥たちは撃たれた様な格好で 枯野に墜ちて逃げて了つた 烈しい風の中でパンパンと銃声がつづいてゐた   十二月二十七日 雲があの街をおしつける 橋の上を孕んだ女が来る 氷雨に青物が凍てついてゐる──大阪   十二月二十八日 金來る。   シユトルム     街 1857 暗い岸べに 暗い海べに 街はあり 霧は屋並を重く壓へつけ 静寂(しヾま)を破つて海が鳴る 單調(ものうげ)に街のまはりで ざわめく森もなければ 五月 たえまなく囀る鳥もゐない 渡り鵝鳥がかん高いこゑで 秋の夜を鳴いてすぎるばかり 岸べには草がなびく けれどわが心はひとへにおまへに倚る 海べの暗い街よ 若い日の魅惑(ゆめ)がいつまでも ほほえみながらおまへの上で休らふてるから おお 海辺の暗い街よ     海辺 1854 入海をいま鴎はとび たそがれははじまつた 濡れた洲の上に 夕焼がうつつてゐる 灰色の島影が 水を搏つてとび去り 島々はゆめのやうに 海霧の中に浮いてゐる わたしは泡立つ泥の 秘密ありげなこゑをきく さびしい鳥の叫び── いままでもいつもかうだつた もう一度風はそよぎ それから黙つてしまふ 沖の方からの人声が だんだんはつきりして來る     子供たち 1852     一、 わたしの膝にはいま 小つちやな奴がのつてゐて 暗がりからわたしを やさしい眼でみつめてゐる もう遊びもしない わたしの傍にゐて だれのとこへも行かうとはしない 小つちやい魂は抜け出して わたしの中へ入らうとする     二、 わたしのヘエヴエルマン わたしの小僧 お前は家中の日光だ おまへが明るい眼をひらけば 鳥は歌ひ 子供たちは笑ふ     三月の故に 1853 牡牛は柔らかい草を食べ 堅い莖は残しておく 百姓が後へついて行つて 用意ぶかくそれを刈りはじめる だから に牛小屋で 牡牛はなんとてき面に啼く の草のときに賤しんだものを 秣[まぐさ]になつたいまは消化(こな)さねばならぬ     四月 1853 いま囀つてゐるのは あれは鶇 わたしの心を動かすのは それは春 わたしに好意を表しながら 聖靈が地から上つて来るやうなここちがする 生命はゆめのやうに流れる わたしには花や葉や木のやうに思はれる     園で 1868 御用心 おみ足とお手に御用心 世にもあはれなものにふれないように いやな毛虫もふみつぶせば 美しい蝶々を殺すことになるのです     來れ 遊ばむ 1882 夏の日の雅びの讌[うたげ] 早やすぎぬ 秋風はあららに吹きぬ 春の日やはた また來なむ いま蒼ざめし日の光 地にふりそそげ── 來れ 遊ばむ 白き蝶よ あはれ石竹(なでしこ)も玖瑰(ばら)もいまはなし みそらには冷き雲のゆきめぐり かなしやな 夏の日のたのしみ早やもすぎしこと ああ來れ いまいづこ 白き蝶よ  ※     クリスマスの夜 1852 他國の街をわたしは家に残した 子供達をおもふて うれひながら歩いてゐた それはクリスマスの晩だつた どの通りにも 子供たちの声と 市場の賑ひがわきかへつてゐた わたしは人込に推されながら しやがれた声を耳にした 「おぢさん 買つてよ」 やせた手が 玩具を買つて来れとさし出した わたしはびつくりした 街燈の明りに 蒼い子供の顔が見えた 年はいくつで 男だつたらうか女だつたらうか 押されるのでわたしは識別けられなかつた ただその子の坐つてゐる石段からいつまでも その子の面のやうに疲れたこゑがきこえる 「買つてよ おぢさん」 たえまない叫びが だけど誰とて耳かすものはない そしてわたしは?──道ばたで乞食の子供と 取引するのは不格好や恥辱だつたらうか わたしの手が財布にとどくまでに こゑはわたしの背後で風に消えて了つた 然しわたしはひとりぼつちになつたとき おそれがわたしの胸をとらへた まるでわたし自身の子供があの石の上で パンを求めてゐるのに私が逃げ出したやうに     磔刑に罹りし人 1865 十字架にその苦しき四肢はかけられ 血をもて汚され 踐[いや]しめられぬ されど處女のごとく常に純きひとは 恐ろしき光景を消し去りぬ さるに自らその使徒と称するもの そを青銅(からかね)と石に型どり 寺院の暗に置き あるはまた明るき野に据えぬ かくてわれらが時に至りては 純き眼ごとにある畏怖起こりぬ 古き不敬を永遠に傳へつヽ この宥[なだ]め難き光景よ     思い出づるや 1857 思い出づるや かの春の夜に われらが部屋の窓ひらき 園を瞰下したりしとき 秘めごともありげに 暗がりに素馨花(ジャスミン)と紫丁香花(リラ)匂り[ママ]しを 星空はわれらが上にひろごりて なればいとも稚かりし ひそやかに時は過ぎしか 風しづもりゐき 千鳥のこゑ 海邉よりけざやかにひびきわたりて わが園の樹の梢のうへに もだして たそがれてゆく陸見つめき いままたもわれらに春はめぐり来ぬ いまされど故郷をわれら失ひぬ いまわれ 夜深く目ざめゐてしばしば耳とむ 風の音 帰郷のひびきつたふかと ふるさとにひとたび 家を建てむもの いかで他國に出づべしや かの方にその眼は常に向けられつ つひにひとりを止まりぬ──われらはふたり行くなれば     誕生日に 1857 よくぞ云へり 「四十而立」 四十はされど五十のはじめ 暗にゐるわが足許に 新しき朝の時あり この淵にさへひとたびは 光芒(ひかげ)さしなば われいたくおどろかめ 早も塚より風吹きぬ 秋の日の木犀草(ジャスミン)の香をもちて 寢覺め 1857 虞れ[おそ]にゆめよりわれ覺めぬ 何故しも雲雀はかく夜ふかく歌ふや 晝はすぎぬれ 暁はとほし 褥をば星影てらしたり さるをわれ いつも雲雀の歌を聞く ああ 晝のこゑ わがこころ愴[かな]し     破浪戸[はらっこ ※無頼漢] 1864 たとひ俺がまさしき破浪戸であつたとて 俺は一向なんともない 外面如菩薩 内面如夜叉 親友 それこそほんとにお咒(まじな)ひだ 左手に俺は基督[キリスト]の外套の 裾を役にも立たうかと把らまへ 右手には──どうして俺にそんな権利があるのかおまへは信じまいが 王様の黄鼬(てん)の外套をつかまへてるんだ     箴言 1864 或者は問ふ 「それから何うした」 他の者はたヾ問ふ 「本当かい」 ここに於て自由民と 奴隷との差が分れる       × 不幸より先づ 負債(しやくきん)をとりのぞき その他のことは 忍耐(こらへ)にこらへよ     眞暗 1865 来るべきものいざ来れ なが生ける中は晝なれば 外[と]つ國に出づるとも ながゐる土地はわが家なれ われはながいとしき顔(おも)を見て 未来(ゆくすゑ)の暗を見ず          ※     一 墳墓(おくつき)の古い棺の側に 新しい棺がいま置かれた その中でわが愛人から 麗はしい面貌(おもかげ)が失せてゆくのだ 棺の黒い覆布(おほひ)を 花環が全くかくしてゐる 桃金嬢(ミルテ)の嫩[わか]枝の花環と 白き紫丁香花(ライラック)の花環だ 数日前までは森で 太陽に照らされてゐたものが いまここ 地中で匂るのだ 五月の百合と山毛欅(ぶな)の青葉と 石の扉はしめられ 上にたヾ小さな格子があるばかりだ 愛する死者は 置き去られひとりでねむる 月の光にてらされて 世界が休らひに入るときに 白い花のまはりをまだ 灰色の蝶がとびまはることだらう     二 時々わたしの胸からおまへの 死以来悩ましてゐたものが退(の)く すると若い楽しかつた時のやうに も一度幸せを獲ようとの気がおこる しかしその時わたしは訊ねる 「幸せとは何だ」 おまへがわたしの許へ帰つて来て 今迄と同じやうに暮らすといふことより外の 答へをわたしは与へ得ない その時わたしはおまへを墳墓まで 運んで行つたときの朝の日を思出す そして声なくわたしの希望は睡り入り もうわたしは幸せを追はうとはしない     三 曠野に出る空気の精のやうに わたしの眼前に 不死思想がちらちら動く 遠くの蒼もやの中で それがおまへの姿になる 憧憬の精髄を疲れさす呼息(いぶき) 身を痴れさせるあこがれがわたしを襲ふ しかしわたしは身をふるひ起し おまへをめがける どの日もどの足どりもおまへに向けて     曠野の處女 1865 わたしは薔薇です 早く摘んで下さい 匂りはむなしく雨と風に曝されてます いいえ 行つて下さい うつちやつといて下さい わたしは花ではありません わたしはバラではありません わたしの上衣に風が吹かうと わたしが風をとらへようと わたしは父も母もない娘なのです     さまよひて 1879 わたしの前で あちこちで 鳥は可愛く歌ひます ああ 傷ついたわたしの足よ 鳥は可愛くうたひます わたしはいつまでもさまよひます いまはどこへ歌は行つたのでせう もう夕焼も消えました 夜が歌をしめころし 何もかもをかくしたのだ── だれにわたしの難儀を云はう 森には星もまたたかない 道もところもわからない 丘べには花が 森には花が 暗にどこまでも咲いてゐる     曠野を越えて 1875 曠野をこえてわが歩みひびき 地よりのぼる濛気ともにゆきぬ 秋は来れり 春は遠し またひとたびも幸(たの)しき時ありや 沸きのぼる濛気まはりに漂ひ 草は黒く 空は虚し ここを五月にゆきしことなかりせば 生と愛と──すぎていにしよ     一九三三年   一月一日 関口、畠山六栄門氏 元日のゆふ空のもと帰り来しわが眼のまへに大星おつる 蒼々とゆふ西空はくれやらず光りつつ星墜ちてゐたりし       ※ 元日の日かげあまねしひたすらに日輪こひてきそはゐたりき   ★ 春山行夫、菊池眞一、本位田昇 [※ここより初版の欠落個所  始]   ★ 死にたいやな   ★ 忘却(レエテ)の河を渡り果て 効(やく)なき知慧をふるひすてなば 光明赫奕の眞智に 彼岸に眼覚めなば 月桂の冠をつけ 椰子の葉を身にまとひ 身は常緑葉樹(ときはぎ)と花咲かせなば   ★ 戰爭といふは何ぞかなしき   一月二日 墓原を遠く見えたる秩父峯に吹雪すらしもたちまち曇る     東村山へゆく しろがねの雪のみねみねまなかひにもとほりをればこひしきひとも かうべ垂れわが行く道に日の丸の旗かざしたりここは家群 さみだれはこの枯芝にふりにしか丘ゆきてわがひとり思へば 山の上にはだらはだらに雪ふりていまも降るらしわれに向かひて 幾重山起伏すきはみ雲光りうれひのごとく漂ひたるも 峽路のこごり赤埴はららはららくだけてゆくもわが足ごとに ひと来(け)ねばこの丘のへに手をとりぬをとめの子ろはわが故に死なむ 少年のこころとなりて一月の冷き水に向ひゐにける 鳥鳴けば雪降ればちちはは思へばかなしといまも思ふこころか をとめ子の長引眉のいつまでかありもへぬべき生命なるかも もろともに遠天の雲仰ぎゐぬここだく鳥は啼きつつ墜ちぬ かもじもの水禽群れて雪もよふ空のもとにもたのしくゐたる はるけくもわぎへの方に弟妹らめしはむも[思]へばなみだながれつ [※ここまで初版の欠落個所  終] ひととほくはなれてくればこほしかもいさかふものとにんげんを知れど 桑の秀は天に向ひて竝みゐたりうすぐろく雲押しわたるとき にんげんら桑つくりゐる畑丘に元日のひるはうごきゐるかも いたいたしくひとを思へば北國の上野(かうづけ)のくにに雲晴れわたる ひるすぎのらぢお琴彈きなげかへるをとめのこゑにわれ死にぬべし の山にわが身ちかづく柑子など子らのかじれる街道たどり もろともに死なむと抱きいざなへばさびしく笑みていなみし子ろは あからひく晝をこほれる山蔭の田の刈株に鳥おつる見ゆ   一月三日 坪井明のFRAU孕みしといふ カアネーシヨンやスイートピーが花屋に咲いてゐる 大変明るい店だ 誰にとも無しに買つて見たい 僕の愛情を賣るために   一月四日     畏怖 熱帯林に夜吼える虎の爛々たる眼より 荒磯の尖り立ちたる岩の上に腐れてゐたる骸より 畏怖しきものいま來たり 祭りの夜の灯のもてる明るさと 夜咲く花のそこはかとなき艶やかさもち 畏怖しきものいま來れり 北方の大星達の墜つる時 大空の毛布(けぬの)の如く巻き去られ 無花果のごと 人々の黒み疫(えや)みて死ぬる時 その時よりも畏怖しきときは來れり バビロンの権威(ちから)尚(たふと)き帝王の一言もちて人民(くにたみ)ら頭を刎ねむ 並びたる臣の奴のいづれをか死の座に据えむと睨(ね)めまはす 黄金の王笏もてる手の荒べる淫慾(たはれごこち)ゆゑふるひたるさへ畏怖しく いまかわれかと待ちゐたるその畏怖よりなほ強き 畏怖は來たり 希臘(ヘレネス)の女神達 浮気ごころのけふやさしく白き腕(かひな)に抱きしめ 明日は黄泉(とこよ)に放つとふその惨酷(むごさ)より 尚強き畏怖は來れり 白癩の疫病の如くふるるともなきに いつとてか眼に見えず忍びより 屍斑のごとくわが肌膚にその跡つけて 畏怖しきものいま來れり     畏怖 父になるかも知れぬとの畏怖が太郎をふるへ上らした 母になるかも知れぬとの畏怖が花子をふるへ上らした かりそめのたはむれゆゑと太郎は呟く かりそめのたはむれゆゑと花子は怨む おれの血がおまへに生きる あなたの血がわたしに生きる 二十なのに おれは子をもつ 十六でわたしは子を産む 世間は何といふだらう 世間はひどく責めるでせう かりそめのたはむれゆゑに かりそめのたはむれゆゑに おれの父たちもさうだつた わたしの母たちもさうだつた 父たちが責めよう 母たちが責めよう その父になるかも知れぬとの畏怖が太郎をふるへ上らした その母になるかも知れぬとの畏怖が花子をふるへ上らした   一月五日 一月 屍灰は空をおほひ 壊血に似たものが行人の衣を染める 噴泉に渇してゐる虫達が溺れ 理性は悉く混乱を極めた   ★ 月の中から墜ちて来た練金術士──街の煙管(パイプ)が秘密をうらぎる 義務の観念に俺は乳鉢を割る 懸声をして 一度びの放蕩に俺の大地はめいつて了つた   ★ 毒酒は俺の身を浸す 焼けつく疼痛が臓腑でする 俺の吐瀉物は菊の花のやうに凝る 見る見る地獄はまぢかに来る 劔鬪のひびき 殺害のこゑ 俺の神經はまだ効くのか 悪魔め 毒盃を地にすてろ アネモネより紅い花が咲かう 女は呵々笑つてゐる 畜生 賣つたな 鐚[びた]銭で 青の浮いた面が見たや 臓腑を喉から俺は吐く   一月七日 わたしを軸として日が傾けば月が騰つて来た 灰より細いわたしの情緒に加はるゆふがた また邪鬼(まがつみ)の時刻(とき)が来た [口+阿 口+約 ああ]。 わたしの犯気はとめどない 面[巾+白](かつぎ)をはらふ風が吹き ※   ★ 飾紐(リュバン)の花は亡びた 理性の縄でくくしつけた獸達がわめく 灰色の悪虐の並木道 飾紐の花は亡びた   ★   一月九日 情は痴なり 他は冷なり   ★ ああいふ時に泣きごゑを立てたあなたの 不信を僕は責めませう 僕は患者です 藝語いひです 僕はあなたを苛めてあなたへの愛を表現した 馬鹿な母がゐてその場にとび入り あなたと僕の遊戯は破れました あなたの不信のすすり泣きゆゑに   ★ どんな叱責にも僕は耐えよう あなたと僕の間さへ旨くゆくなら だけどその自由を奪ふどんな者にも 僕は凡ゆる譏誚をつくしてやる ああ あの額に醜い皺のある年老つた女め あいつが君の母親でさへなければ 僕はあいつの存在を否定したい位だ   ★ あなたが医者の妻になり あなたのYungfrauhantchen[処女膜]が査檢される ふふんだ 大わらひだ 恥しらずめ 大方金ぶちの眼鏡でもかけて まだお若いのに口髭の濃い奴だらう あなたよりおつ母さんが気にいつたと 寢物語におつ母さんに云ふだらう   ★ 空にヴヱエヌスの星がゐる 今夜も大抵お天気だ 空に娘と母がゐる また縁談の話か いつになつたら娘が口説きおとされる ヴヱエヌスの星よ おまへがゐるのでわたしはおつ母さんの云ふことがきけぬ わたしの窓から一刻も早くどいとくれ はいはい畏まりました 淋しい彼奴の床でも照らしましよ   ★不信 柿の樹の虚(むな)しき枝に飛うつり千 雀ももの云はずけり 花咲かむ春來む期をはろばろときみに語りしをいまかわすれし 言こわききみが母刀自[おもとじ]いまもかもこの恋止めときみくどくかも   ★ 夕霧は澤から立ち昇つて 冷くこの寺院の梢にまとふ         ※ わたしはおまへを思つてゐる あの楽しかつた日のことごとを 恋愛のどの瞬間もが 一の試練の時に外ならないことを 知らずにゐたわたしは馬鹿だつた ひとは額からたらたらと 油汗をながして成就の門をくぐるのだ ああ 楽しかつた日々よ 愚かにくらし得た日々よ   ★ いまは神や佛をもたのまう 冒涜の罪を犯したわたしにも 神や佛はたしかに 君の母よりは親切なはづだから ああ人間の母は 額の皺とともに何と醜いことか   十二日    Yより愛の証とき来れり。この日頃安眠を得ざりき。父へ打ち明けむことを決心す。   十三日 北園氏よりマダム・ブランシユの同人たらんことを求め來る   十五日 肥下と銀座へ     岡田安之助邸を訪ふ 異郷の愁情泪ぐまし     帰来 父へ手紙を書く   ★高円寺 空に紅き満月出でしかば蛇屋の蛇も冬眠(ねむり)ひそめる みちばたの青面金剛に燈ともりぬ凍てつきし路に灯影うつして   ★ 雲が北から南へ動いてゐる 雲間で竪琴がきこえる 退屈なミユーズに退屈する   ★ 遊んでゐる雲の下で 鳥が一羽迷つてゐた 大へん努力して羽搏いて 竪琴が聞える   ★ 雲から絲が垂れ下つて 鳥はそこにくくしつけられてゐた 地面は堅く凍てついて 鳥が墜ちると怪我するから     十九日 昨日は校了。共産党記事解禁。大阪では渡辺[古+心 ※名前]が起訴されてゐる。 雪の花片をまきちらすミユーズたち 彼女等の裳は実に白い 彼女等のバスケツトから青いリボンが見えてゐる   ★ 嘆きいる海の人魚 アネモネを散らす風 月に魚達は懐胎する   ★ ひとびとは豚を追ふやうに棍棒を以てヘルクレス達を逐ひ拂つた。 噴泉をもつた庭園に火の子がぱちぱち落ちてゐる。格子にかヽる爵牀(アカンサス)のしげみ。ひとびとは いつも棍棒をもつてゐねばならぬ。死人の面にはラツクをぬれよ。   一月二十日 コギト10号出来 ゆふ方の忙しいくれいろに、電車は車輪の下に火花を散らして轣轆と構内に入つて来た。わたしの心臓がいくつもその前面に飛びこむで死ぬ。夕方のいそがしい時に。   ★ ひとは散歩にふさはしい洋杖をつき、散歩にふさはしい女をつれてゐる。わたしは鬚ののびた面を垂れて埃色の外套をきてゐる。ひとはわたしにつきあたつてすなほにわびてゆく。ああ、そのすなほさの矯慢よ。   一月二十日 こひ歌 [※ 中国の動植物の名前が列挙]   雪ふる原にまよふ鳥われのこころは様ゆゑまよふ あはでこがるるみのやるせなや南天の実の朱ほどこがれ 思ひ切る身にあらねばこの山寺に鐘もつかぬに日のくれる 誰そや恋ゆゑ身をほろぼすと ほろぼすこひもして見たや くるかくるかと様待ちかねて雪の野原をたれが來よ けさの雪原ひとさへゆかず足跡(あと)はわがみのあとばかり 雪野ながるる小河の藍のなんとあらはれたわがおもひ 雪の降る夜は傘はなもちそひとのなさけのあはゆきにぬれてゆきやれ (仙藏院閑吟集)   ★ 大砲だ 攻城砲だ 堅塞にたてこもる憎らしい奴らだ   ★ 肥下はけふ妹のことをふとも云つた。僕は思ひ出す、むかしのことを。   ★ 凍てついた心臓にあの矢がささる 雪の中に咲く雪割草 たちまち四辺は紫色にかほるのです   ★ 誰も死の旨い奴などゐはしない。僕の詩も旨くない。   一月二十六日 マダム・ブランシユの会 北園克衞、阪本越郎 、知らないひとびと、知らないお嬢さんたち。 夜ふけ時計は捻釦(ねじ)をまいてゐる 僕の思念はまだはなれぬ 畏ろしいひと達の集りに 僕は活然と身をおこす 僕の体にたれかヾのしかヽつてゐる ──僕の影かも知れない 星の光が一体どの節穴から入りこむのだらう   ★ソアレエ スヰートピーや櫻草や飾窓は大へん綺らびやかだ 花屋の店では呼吸するものを飾る わたしは本をかヽへてゐる パンの苦労は止さう 搾りとられるわたしの思惟よ こん夜だけは休らかにおやすみ 遠い風の音 電車のひヾき   ★ 僕は天井裏に凍つてゐる鼠の死骸を畏れる 僕によく似たあの眼たちはもうとつくに溶け去つて了つた ガラスの義眼(いれめ)をかれらに箝めよう 大層それは息ぐるしい   ★ 彼等は豚を屠つてゐる 間断ない叫びごゑと地を搏つ音 その塀外で僕は排尿する 僕たちもあれを食つてゐるのだ──   ★ リラの花賣りは白い建物のかげに待ち伏せしてゐた 風の吹く街角で(急に風が来るところで) リラの花をなびかせてゐた わたしは佛蘭西語の辞引の紅い華を好んでゐる リラの花賣は美しい お世辞もいひたくなる位 たヾ わたしの瞳をみつめて畏れない リラの花の匂りよ   ★ 雨だれのあひまに淫虐の帝をかぞへる わたしたちと生活と 酒池肉林をわたしたちは恐れる わたしたちの生活のために 雨だれはとぎれない   ★ 灰の様に雪が梢からおちる 花咲く春のしるしに 花咲く木々の梢から さう 屍灰の後から宝石が出る   一月二十五日のきのふはYと二週間以上ぶりに会つた。 お菓子のやうなくちびる。花のやうな女の子。 愛する。愛する。愛する。   一月二十八日 コギト 相野   一月二十九日 Yと多摩川へ 枯草に舞ふ翼の族 遠い對岸は冬の霞 白い磧の寒々とした悪意   ★ 奴等は砂利を掘り上げてゐた 奴等は俺と俺の少女を侮辱した 奴等の頬はむさくるしい 奴等の脳味噌は固陋である 奴等に俺と俺の少女は脅へる   ★ 少女の髪をふく風は草の葉をも靡かし ふたりのひそひそ話に鳥の歌がまじる 陽は松の間にかげり ふたりは蔭にゐる 蜘蛛におびへる少女をしみじみとかい抱き この時の流れるにひそやかな恥辱を感じてゐた   ★ 多摩川にさらす手作りさらさらに何ぞこの子のここだかなしき     ★ 黄金の髪 黄金の陽 烏羽玉の髪 黒耀石の瞳   一月三十一日 Yより手紙。 のおとうつし。   二月四日 身神困憊 ああ 融通の利く奴が世界に充満し 知りもしないことについて得々と喋舌り 他人の間違つた知識を受け賣りし 猥[みだ]りに自らを高しとして それ同志語りあひ 意気投合して 腹の中でもう悪口を云ひはじめ 下駄の音が消えると内では雜言する 藝術の 知性のとガキめらが吐く 青髭をそりたての男が 女の子だのと花だのと 煙草の脂くさい口からほざく 昨日三色旗をつけてゐた奴が 今日はもう黒襯衣[シャツ]党で まごまごして挨拶に困るこちとらを 投獄しようとひしめく 何の サアベルが 砲台の口は百軒長屋に向けられ ドロアースの両口はブルジヨアに向けられ 継ぎのあたつた襯衣の中で「権威」がふるへ 北風も法権も大建築の前で向きをかへる 融通が利かぬ奴はやせこけ青い顔をして お腹でも痛むかと聞かれる その筈 奴等は生理的以外の悩はもたぬのだ 仁丹以外の薬に何の信用がおけよう 背廣もネクタイも体中広告といふ奴が 大道を悠然と濶歩する 早く行きすぎれば広告の意味をなさぬ 舞台裏では出代りがまだ扮装もしてゐない まはし一つで出ようとさわぐ 頭取が芝居に出る 支配人が口上云ふ なんせ大したお芝居だ 前足の仕事を後足がふみ消す 心臓の熱気は遣尿できえる さうしたもんさ ガキめらひつこめ 金田一氏と愛奴[アイヌ] 北方の夷の國人よ すりきれた生命の草鞋よ おまへ 縄紋の衣を着て 永遠の太陽を享け 白堊の殿堂に悪魔の使の如くやつて来た おまへの唇辺の黥墨に俺は羞恥を感じる おまへの白い髭に俺は恐怖を知る         ※ 銅色の光線がおまへの周囲にとヾまつて おまへは凝視の波の中を泳ぐ 夷狄よ 夷狄よ     ★ 傷いた鹿は心臓のあたりから血を流して 泉のほとりまでくるとおづおづ四辺を見廻はした 片栗の薄紫の花のあたりに彼は口をつけて 音もたてずに水をのむとがくりとつんのめつた ふくろ角を藺草[いぐさ]の芽のやうに水から出して 彼はもう身うごきもしない 滴る血は地面をつたつて 泉の方へ滲んでゆく 泉と 泉に浸つてゐる鹿の頭を 赤くそめるのももう直ぐだ 梢では鹿の皮の斑紋のやうに 陽が照り昃[かげ]りしてゐる 春だ [※ 最終ページから反対に、4ページにわたってハイネの伝記記述。] (第8巻終り) 「日記」第九巻 (「夜光雲」改題) 21cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(127ページ) 昭和8年2月5日~昭和9年1月20日 日記(巻九) 昭和八年二月五日   わがゆきに       田中克己   二月五日 ゆきと帝劇へ「制服の處女」を見に。    捨ても果つべきこの身にあれど様ゆゑ生きて恥さらす。    ★ 梢 梢に霧が降り 二月の夜空は羊雲が通ふ わたしの雪[ママ]はわたしに牽かれ 小石の原を躓きながら随いてくる ああ この古風な處女の なよびかな眉びきを見たまへ         ※    ★ わたしはもう誰にも心を動かさない わたしに頼つて一人の処女がゐるから その子は頼りないわたしをも その子自身の全天と崇め わたしの眼の中に何かの啓示を悟らうとする わたしの前額(ひたひ)に意志の軌跡をよみとらうとする わたしは此の子ゆゑに生きてゐるのに この子はわたしゆゑに生きてゐると云ふのだ わたしはもうどんな女にも心を動かさない わたしのゆふぐれ そしてわたしの暁明(あさあけ)  二月六日 愛の花弁は果して買ひ得るものであらうか 愛を育てるものが かのミダス王の好餌であらうとも         ※ その花弁を彼はちぎつてまきすてる 彼はひどい咳をする喉頭の見える位 愛の花弁を 彼は不要だといふ    ★ アモオルは失礼な男には案外親切なものだ しばしばその扉をたヽいて押賣りをする いらないつてば 帰つちやへ アモオルはしばし泪ぐむ それから恐ろしい決意をする アモオルは食物に毒をまぜる 仇は血を咯く 頬にアネモネが咲く 鏡に顔を映して見ると眞蒼だ そこでアモオルに嘆願する アモオルは白い衣の看護婦に変装し 一寸 彼を癒してやるやうな気配を見せ それから又彼を盛り殺す その間に男が覚悟をして了つたのをも知らずに 彼はアモオルを蹴立てたと信じてゐるのだ    ★ ma neige わたしの雪よ 蒼褪める勿れ わたしはおまへに鉄剤をもつて行つてやる わたしの雪よ 慄へる勿れ わたしはおまへに貂[てん]の外套をもつて行つてやる わたしの雪よ すすり泣く勿れ わたしはおまへに戯詩(パロディ)をもつて行つてやる わたしの雪よ 疑ふ勿れ わたしはおまへに羊の心臓をもつて行つてやる わたしの雪よ おまへには何でも わたしの才能の許す限りもつて行つてやる たヾ 夢と幻がそれを可能にしてゐるのだ めざめるなかれ わたしのゆきよ  二月七日  船出した水夫は海底に紅い珊瑚のあるを見る わたしは雲の多い海港をゆき 破片になつた珊瑚たちを海の匂ひにまじへて吸つてゐる 雲は波近く降りて来てガタガタと帆網を鳴らす 鴎と波の親近さ 憂鬱の翼を搏ち    ★  八つ手の掌にわたしの幼年を見る 霙のふる夜はいまもある 風呂の湯の捨てられた匂ひ みみずの鳴きごゑを求めてゐた    ★  朝日に照らされた少女たちの胴体(トルソ) 遊動圓木をわたる叫びごゑ 焦だつ思ひで見てゐたわたしは足袋を汚して    ★ 妙正寺池の方へ散歩《ゆき》 恥だの無花果の葉つぱだの 萎れるままに委せよう ミロのヴヰナスを逆しまにして 振つて見ると塵が出た 愛の塵垢の匂ひを嗅いで 石灰のやうな顔色をして ──わたし──    ★  わたしはもう少年でない 口笛を吹く年齢でもない だのに口笛を吹いて 月の澤を歩いてゐる 失つた詩を索めて あまりの未練さに  二月九日 猫柳も咲いた    ★ わたしの春の駿馬には白い犬と の犬 尾をふつて月の出を待ち わたしの処女の愛撫を求める  二月十日 ひとびとはオルガンを悲しく奏し 肉親の柩を僕は見る 花環は萎れてその匂ひを立てる すすり泣きの中に虚構を僕は見つける 安心してゐた 悪童の自負に  二月十一日 テアトル・コメデイ   ヘラスのひとびと プラトン?菫を愛した一章 アリストテレス?先生より長い名をもつてゐる    ★ Madmmoiselle X わたしも人形を探してゐたのに あなたは先にお貰ひになつた あの黒い着物のマダム それを運命と申しませう わたしはあなたの熟してない 生命の樹によぢのぼりたいのです たとへ棘でひつかヽれようと    ★ ゆふがたの僕の熱は抛物線を描いて上昇する チユーブでこさへた胴体に 何の金属で着物をこさへませう 絶望の論理をほろにがくかみしめてゐた  二月十二日 風の吹く雪のちらつく中をYと歩いて    ★ 二月 降る粉雪はわたしの額につもる わたしのゆきもそのやうに冷い わたしに接吻するは粉雪 わたしの唇は凍りついてしまつた 風はわたしの髪を吹いて わたしの頭には黒馬が暴れ狂ふ あなたの酷さにわたしは拉しがれて わたしは額を打ちもぬきたい わたしの足は愴踉(よろ)めく あなたは腕をかしてくれない わたしは愛を求めるのに あなたは出し惜しみする わたしはわたし達の不和がかなしい 接吻もなしに 言葉もなしに わたしたちは四辻に別れる あなたは後も見ないでゆく わたしに泪が浮かんで来る 北風が眼がしらにくちづけする 枯葉がわたしに慰めをさヽやく もうあなたは影も見えない    ★レダ 醜い鳥(羽は白く 嘴は紅く 眼も紅く 趾も紅いのに) わたしの肌を抑へつける尖りづめ わたしの肩を啣(くは)へるくちばし わたしは肌が寒気だつ 鳥の翼は空気をあふり── 邃い森中にこの様な所業のあつたことを 沼は藏めてひとり波だつ 蘆の葉よ わたしは羞かしい    ★ 黄色いランプが草間に灯いてゐる 明るさはほのかだけれど わたしの爪を照らしてゐる 十二あるわたしの足の爪 ランプは羞ぢらつて消え失せる    ★ いままで讀んでゐた本の字が 突然わたしに他人となる 未知の符號をわたしは瞶め はらはらと泪を注いでゐた    ★ 本たちのかあいさ 置かれた場所にそのまヽ並んで 友達の数も増へない(尤も友だちなんて大したものではない)    ★ Schlafe meine Kleine      ※  眠れ、わがいとし子 Schlafe meine Reine         眠れ、わが純潔 Schlafe meine Eine          眠れ、わがかけがえのないものよ Schlafe ganzes Nachts        一晩中ねむるがいい。 Wohl in dem Bett          幸せはベッドの中に、 Wohl in dem Traum          幸せは夢の中に、 Schlafe wohl gesund         眠れ、幸せに、健やかに。  二月十三日 高橋匡四郎    ★ 絶望の倫理 空腹の論理 仲良く押しあつてる    ★ 空彈に倒れる人馬  二月十四日 Y、小川俊郎 風邪をひく           ※  二月十五日  二月十六日 女たちは單調に合唱(コーラス)うたひながら 磴(いしだん)をのぼり降りしてゐる 海の見える女体柱(カリアテイド)の神殿 遠く白いは海鳥かシレエネか 爵牀(アカンサス)のしげみに風がわたる  ひとりは大変かなしい  大変かなしいひとりである  何者にも代へがたいひとりである  ひとりは代へがたい何者かである 思ひ起こすはむかしの歌  石段は四百段目の海の色  いしだたみのぼりつ降りつ人遠き  二月十七日 《Y》、松本一彦 [※ 小説プロット] 1松田行一帰郷のこと 2松田行一妹二階にて嘆き云ふこと 3叔父嘆くこと 4結婚式のこと 5父方の伯父、叔父と事あること 6松田行一帰京のこと  Tホールで行一は十一すぎまで踊つてゐて、下宿に帰つたのは十 二時かつきりだつた。寒々した部屋の勉強机の上に親展の手紙が一 通のつてゐた。叔父からの手紙で、予ねから決つてゐた妹の結婚の 日どりが一週間の中に迫つたから急いで帰京するように、との旨が 簡単に書かれてあつた。何の感動もなしに讀み終ると、行一は帰り の電車の中で思ひ出してはたのしんでゐたダンサーのA子の体温を も一度味はうとした。不思議にもうそれは浮んで来なかつた。い まヽでこの手で握つてゐたあの指や掌がもう、何里とはなれた所で 何かしてゐる。そんな他愛もないことを感じてゐると、さうだ、明 日にも帰郷しなければならないのだと、せかせかした気持ちが急に し出した。行一はもう汽車にのつてゐる自分や、妹に會つてものを 云つてゐる自分の事を考へ出してゐた。結婚式を控へた妹は一寸て れ臭い存在であつた。妹自身より自分の方がもつと気恥かしい思ひ をせずにはゐられぬだらうなどと考へてゐた。  O驛につくと夕方だつた。 行一の、休暇毎に帰り、又、現在妹や弟たちの住つてゐる金井の 叔父の家はさう遠くなかつた。O市目抜きの大通りに昔のまヽの大 きな屋根を重たげに覆つて、広い間口に提灯などの吊してある全市 でも、もう一寸めづらしい造りの家だつた。汽車の旅の疲れも手傳 つて、行一は一寸閾をまたぐとき感傷的になつた。  小僧のひとりが眼敏くみとめて「おかへりやす」と云ふと、トラ ンクを引つたくる様にもつて土間を先に立つた。             ※ 未完。   二月十八日 Mr岩本修蔵。 本賣る。\4.15 風はわたしを目指してゐる 四辺には誰もゐない まつ黒な杉の森に一つ灯り 風に包まれたわたしの脚 のどを吹きとほる風の枝 わたしで向きをかへる風の川    ★  嫉妬の牙の中で彼女は眠つてゐる 月より白い牙の林 倫落の花弁が一ひらづつ彼女に咲く はてしないその数に彼女は清浄である わたし──ひそかな竊み視の男は 眼を眩まされてうづくまつてしまつた    ★  オルガン その古風な楽器の中で わたしの頭痛がはじまる なにか懐想に似たものが 天井をかけまはる 髪の毛をもつて吊り上げる 見えぬ手のたしかさ 古風な手に静脈の浮き出てゐることを確信する  二月十九日 日曜 北園克衞、岩本修蔵 サロメ風のむかしが懐かしい 菫をつんでゐたむかし 水龍骨[※不詳]を生やしたむかし  二月二十日 Y。 服部と支那語の勉強。 よふけ 疲れて帰つて来ると 鶏たちが取引されてゐた 叫びごゑをあげるのをひとは撲ちのめしてゐた ひる 鶏たちはぶらさがつてゐた 紅んべいをして    ★   二月二十二日 支那語試験あり。 Laue luft kommt blau geflossen  Fr hling Fr hling poll es sein! Eichendorff  なよ風 蒼く吹き来れり                [※ アイヘンドルフ] 春なれ まこと春ならめ  昨日の夜はまだ冷い風が吹いてゐたのに、けさ起きて見ると風は もう南風に変つてゐた。井戸に近い水仙の芽立ちが青く、風には生 ぬるい肌ざはりがあつた。わたしは例のやうに屠殺場の傍を通つて 学校へゆく。豚たちを屠ることを人々はけふもやめなかつた。豚た ちの悲鳴は、子供のだヾをこねる「イヤーン」といふこゑによく似 てゐた。その後で濡れ手拭で板を打つやうな音がする。乾鰛(ほしか) によくにた臭ひが鼻について来た。 阿部次郎さんの滞欧雜記をよむ。 プリムラ ヴエリス[※ 桜草](レナウ)    1 可愛(いと)しき花よ かくも早くも 帰りや来る 禮をたまへよ プリムラ ヴエリス 牧野の花の どれよりかそかに なれはねむれり        ※ いとしき花よ プリムラ ヴエリス なれのみききぬ めざむる春の なよきささやき         ※ 先づ誘ひしを プリムラ ヴエリス わが心にも とく咲きゐたり 愛(めぐみ)の花の どれより美(た)へに プリムラ ヴエリス    2 いとしき花よ プリムラ ヴエリス 美(あえ)かの花よ なれをば呼ばむ 信仰(まこと)の花と 空の最初(はじめ)の 黙示(しるし)を信じ 急ぎ迎へて 胸襟(むね)をひらきぬ 春は来りぬ 霜はたくらき 霧その春を またおほふとも 花よあこがれの 聖(たふと)き春の つひに来らむを なれは信じつヽ むねをひらきぬ されどひそみゐし 霜は来りて 心臓(むね)を傷(やぶ)りぬ しぼまばしぼめ 花の信仰(まこと)の 魂こそは とはに消えやらじ  二月二十三日  関々雎鳩 在河之洲 窈窕淑女 君子好逑 みさご鳥 河の洲にゐてつまどへり うるはしをとめ 貴人(うまびと)にあふ 參差[艸+行]菜 左右流之 窈窕淑女 寤寐求之 求之不得 寤寐思吸 慫哉悠哉 輾轉反側 さだめなき ぬなははかより かくよりぬ うるはしをとめ ひもすがら よすがらもとめ なびかねば 思ひてやまず あしびきの ながきよすがら いぬることなし (周南 関雎[※ 詩経]) 葛之覃兮 施于中谷 維葉萋々 黄鳥于飛 集于灌木 其鳴[口+皆]々  くづの葉は 谷に蔓延ひ しげりたり うぐひすは しげみによりて そのこゑ調(あ)へり (周南 葛覃) 采々巻耳 不盈頃筐 嗟我懷人 [穴+眞]彼周行         ※ つめどもつめどもはこべらの このこかごにもみたざるは きみをおもひてつめばこそ みちべにかごをおきすてヽ 陟彼崔嵬 我馬爬[こざとへん+貴] 我姑酌彼金罍 維以不永懷 をかにのぼれば うまつかる しばしこがねのつきくみて おもひわすれむ 陟彼高岡 我馬玄黄 我姑酌彼 維以不永傷 をかにのぼれば うま病みぬ しばし[凹+八]角[じかく]の杯くみて いたみわすれむ 陟彼砠矣 我馬 矣 我僕[やまいだれ+甫]矣 云何吁矣           ※ をかにのぼれば うまやみぬ しもべもやみぬ あはれ あはれ (周南 巻耳)  ※ 桃之夭夭 灼灼其華 之子于帰 宜其宝家 桃の稚木は そのはなさかり この娘とつがば その家のさかえ (周南 桃夭) 遵彼汝墳 伐其條枝 未見君子 [叔+心]如調飢 河のつヽみに木の枝を伐れど きみにあはねば くるしきばかり  二月二十七日 シルドクレエテ 朝方かなしいばかり 鳴る汽笛に目覚め 耳をすましてゐれば薄く消えてゆく そのひヾきに 船出の朝かとも錯覚してゐた    ★  後頭部のづきづきするのをこらへ 霙のふる渠ばたに 寒くてさむくて河豚仲間を待つてゐる  二月二十八日、三月一日 Yに会ふ。   冬と春のあはひ 寒菊やまつげの長きひとに似て おぼろ夜をまちゐき梅も咲きゐたり 下駄よごす霙止みたりお濠ばた ふきの薹霜なき里に咲くとかや 水仙の芽立ちの青も淡くして        ※ 石佛のまへは一むら黄水仙 川の藍濃くして草を埋む雪         ※ 雪の雲右に左にみちありぬ 海くれぬ白梅咲かす館(いへ)のをち  鶏の吊られし店に啼く子あり    この日頃梅にながるる野川かな  春泥    ※ 川久保悌郎 服部正己    虹  サン・ジユヌヴイエエヴ  やぶ柑子の冬が去り ふきのとうの春が来た    ★ もう野に出ても寒くない ヨハンナの頬を凍らす風もない    ★  不和の時は過ぎて 僕の顔は紅みもささう    ★  赤児の大きくなる時 僕の狂気するとき 三月四日 春は野に花を撒きちらしにやつて来た。藪かげの太郎の犬の墓を 花で飾り、そのバスケツトから一つかみの花を辺りの土にまきすて てまた行つてしまふ。太郎はゆめに春の跫あとを見る。うすらうす らと霞たちが手をつないでかくしてゐるのだつた。 × あなたのフアンムのイレエヌを私に下さい。みちばたに不思議な 乞食がゐてわたしに云ふ。昨日もけふも。明日はわたしにさうした 名をもつた妻の存在を信じさせるかも知れない! わたしは彼に赤 い銭を一握り投げてやらう。 × 紙ナプキンにおちる花びら。洋刃[ナイフ]の刃にはラグビーの烟[ママ]が映り、   ※ 蝶がこの食堂車を徘徊し出した。 × わたしは石ころをひろひ上げる。血に染みた石ころにわたしはあ のユダヤの戒(おきて)を思ひ出す。友の妻、そのまつ毛の美しさを語らぬひ とがあつたらうか。わたしは越えてはならぬ柵はよけて来た。だの にわたしはなほこの石が生ぬるく畏ろしい。わたしは旅に出なければならぬ。 × 山吹の花を咲かせ、櫻をちらし、やがて此の東の都にわたしは帰 つて来る。拳銃がわたしを殺さねば。毒薬がわたしを殺さねば。 × わたしの影をもう巻き出さう。鶏が啼いてゐる。夜更けの地震。 わたしの足おとが戸外でしてゐる。時が来たにちがひない。阿修羅の髪を玻璃にうつしてゐるわたし。 × 軍鶏(しやも)があさはやく人の家をのぞきこんで啼いてゐる。 遠くで矮鶏(ちゃぼ)の應戰の合図がきこえた。 × 次郎の手紙をまるめて捨てる。花子のてがみを文箱に蔵ひこむ。 次郎は手紙をよくよこす。花子は宛字のある手紙をたまにしかよこ さない。花子の封筒には京人形がはれぼつたい目をしてゐる。次郎 をわたしは豕(ゐのこ)と呼ぶことにした。 三月九日 試験おほかたすみたり。      コギト第十一号、肥下の「しのぶ」に泪ぐまし。 三月十二日 Yに会はぬこと一週に近ければ、ゆふべは丸、友眞とゐねし。 わたしはわたしの影のやうに ひとりの處女を愛してゐる 花の咲く野原を花をふみしだいて その子のやつて来るのを夢みた ゆめはゆめでしかあり得ない わたしはけふも雪のみちをゆく わたしの足もとにふみしだかれるのは 雪の花 氷の花 あはれ冷く そしてわたしのbien-aimee[最愛の人]のかげも まぶしい太陽の下で消えてゆく わたしはわたしの膝を抱く もう天しか瞰るものはない── ☆ ゆきぐもをてらす都会の光炎が 楡の木のうしろにあかるく── わたしは息吐く 雪みちの遠さに 丘ぞひに白い雪の積みかさなりが 雪女のしなやかさでわたしを牽く わたしは凍えるかも知れぬ 遺書(かきおき)ももたぬこん夜の中に ☆ はてしない論争のうちに 火鉢の炭はもえつき はてしない言葉の蔭に 鋭い刃の鈍るここちがする ☆ わたしの抱くのはたヾひとりのをとめ わたしのもつてゐるものはたヾひとりのひと (それはわたしが影をもつてゐるより確かで) そしてわたしが影をとらへ得ぬやうに わたしの腕の中でそのひとは他のゆめを見てゐる わたし以外のわたしの夢を── すき間のかぜがふきとほる 冷酷に 一陣の風の波で── 三月十七日 帰郷 まつげの波うちぎは ぬれた渚 潮つぽい風の吹くひるすぎ 貝殻がうちよせられる ☆ しらじらと夜の明け方 眼をひらいて見れば見知らぬ山川がはて しらず移り重つてゐる まだおぼえきらぬ景色もあつたとおどろいてゐた ☆ 老年期のなごやかさ 丘陵 牛 敗頽した古城 花の咲く傾斜 三月十九日 ゆふ日の中を父がゆく ☆ ゆふ日の中に城がある ☆ ゆふ日の中に鳥が啼いてゐる  三月二十一日 思念(パンセ)の中に森が見える 森の中に湖が見える 湖にお城が見える お城の中で僕の思念が眠る 白い着物を着てゐる    ★ 「HILFE IN DER NOT」 [※「困難の扶け」メーリケ 原詩八行抄出。] ☆  曠野をゆくのは誰だらう。雪に足跡をつけて、ああそれは私だ。 春に私の足跡から花を咲き出さすために。ああ汚辱の花かも知れぬを、お気の毒な。 三月二十二日 西川英夫  愛の菊の花をもつて来たおまへは白い着物を着てゐた。病室の窗 から私はおまへを見てゐた。おまへの足どりには健康な処女のそれ がある。私は妬んで顔をひつこめる。蘇鐵のかげにおまへは這入る。 おまへは躓く。そこは私の柩車の揺れたところだ。私の寢衣(ピジャマ) の汚点(しみ)をおまへはアルコオルだと思つてゐる。クロロフオルムだ。 一体菊の花弁はいく枚ある。おまへは不可能の可能に脅える。また私は 発熱する。赤と青の線を調和さすために。扉にゐるおまへにわたし は敷布(シーツ)の匂ひをかいでゐる    ★  天の穴からガラス戸へとどく棒。わたしの悪戯を止めささうと。 あすこらでは閑な階級が住んでゐるにちがひない。 卑劣なおべつかで私は自分を羞ぢらはねばならぬ。    ★  おひまの節は自動車で、あ、お靴は汚れたまヽで、私の室には一 輪差しもないのですから。そこで煙草一本頂きませう。 三月二十三日  布きれのちらばつてゐる巷。脚の間をすりぬける小僧。レモン水 を賣つてゐるやうな屋薹店。僕たちは眼の下に隈をこさへてゐた。 春風と芝居の幟と、本の表紙の金文字に水蒸気がしめつぽくそヽいでゐた。  ※    ★  ブロマイドから挨拶する友達ら。醜悪な横断面に顔を背けて立つ てゐる。肩の上に金モオルをのせて。彼等の愧死と私たちの飢死と。 春の花のふる空を嗅いでゐた女たち。 三月二十六日  水溜りを越えて子供が歩いてゆく。春の野茨の原を。 陽炎をつかまへた。僕たちは貝殻をとつてゐる。横眼で見た子供た ちは瞼の裏で赤い火炎になつてゐる。軽便鉄道の煙が這つて来た。    ★  ズスヘンは鳥を飼つてゐた。嘴の紅いのを二匹、 のまつ白なの を。ズスヘンは硝子瓶に入れてゐる。春の光の中で條を引いて動い てゐる。嘴に花が散つて来る。ズスヘンの花は青い。宇宙をみつめ さヽれると生意気を云つた。 ☆  音楽の漣。雪解けの澤を動いて来る。いろんな匂り。例へば椿油 バナナの皮、ゴムの焼ける匂ひ。泪ためてゐた。息ぐるしいので。 街道を葬列がゆく。屍臭がすると思つてゐた。眼ぶたをぴくぴくさせて。  ※ ☆  家鴨たちの御面相を親しく思つてゐる。僕の十年飼つた犬を盗ま れた。毛皮への反感。雲垢だらけの友だち。すべてを容赦せぬ怒り に近い嫉妬。舞台裏では月を動かしてゐる。 ☆  山焼のけむりたちゐき生花の瑞香花(ぢんちよう)しほれ、くだちつる日々。別 れはて、忘れはてたる友どちも、かげろふの間に面かげ見ゆる。 ☆  眠つてゐる私のまはりに誰かが白墨で圓を劃(か)いた。構はずに動く と漆喰の壁につきあたつた。引きかへすと泥溝があつた。鵝鳥が啼 いてるやうな。眠つてゐるわたしに温(ぬる)い手を感じた。  三月三十日 蒼蝿(うるさ)きこと夛ければ東上望ましき 瑞香花(ぢんちょうげ)咲くや此の家(や)に蚊も生(あ)れぬ 放蕩(のらくら)の身に苦くて喫す烏龍茶 よもすがら沸りゐる湯にゆめ見ゐぬ  仙蔵院主より来信あり。もつと深刻な顔をするまで云々の語ありき。 われはあまりに暢かすぎたる面わをもてるらしき。 三月十八日には中島と伊東静雄氏を訪れたり。原野栄二氏も来会しゐられぬ。  出たらめな言葉をつヾる。例へば始めの一語が出たらめであり、 その次に来る語の如きは紙に表はれてはじめて驚くべき底のものである。 春雨やわが傘はあり他(よそ)の家 茅葺の一屋(いちおく)ともすおぼろかな 春愁(はるうれひ)云ふべきもあらぬ相(かたち)して  梧桐の遅き芽立ちももどかしき 芍薬(しやくやく)は花芽をわかぬ赤にほひ    岡部曹子いかにいかに  Yの歌 たヾ一人我がたよる君つよくませな世の波風の如何に荒くも あしたゆふべ我がいのるごと神いまさば君守りませさきく正しく   こは縲泄[るいせつ]のくるしめなり。  津の國の難波の春は夢なれや早や二十年の月花を眺めし筆の彩も 描き盡くされぬ数々に(歌(か)へすがへす餘波の大津絵) 四月一日 松浦悦郎を訪ふ  眼は鶏蛋[チータン(卵)]の様に巨きくみひらかれ  こゑにはいやな不協和音がまじつてゐた  肉親の愁しみの中に彼は眠り  眠りの中にも蝕むバチルスを養つてゐる  哀歌を好まぬわたしは眼をそらしてゐた  わかれ そのかりの別れが永遠を告げるかとおそれた  天國への遅刻 何のそれが恥辱であらう 四月二日 上野芝 田村家 はるさめやさくらのつぼみかたりゐき 青芝や雲雀のとりの巣は荒れて 松の間ににびいろの海光りゐる百舌鳥耳原よあめはれをゐし[ママ] ひんがしの葛木山をうす墨にこぬか雨雲ぼかしゐるかも 古の墓原くづし石棺をほり出せしとふ松は残れり 赤土の原よはるかにながむれば峰々かすむはるとはなりけり 何となくこころいらちてゐたりけりしとしと雨は松をぬらしぬ きみませばきみとくらせばこの原の春のあしたも何かうれひむ この原にきみと小き家たてむかヽるゆめ見るときぞかなしき 四月三日 今中博物学会卒業生会 四月四日 全田家 むかつくこともあり   ※ 目上の人は詮方なしとは思へど 十年進尺寸 我們的時候児         ※ 是不得信一個図讖説      ※ 列寧指出。全世界上分成両個營塁、一辺是代表二万五千万人的統 治階級、一辺是代表十二万五千万人的被統治階級。統治階級与被統 治階級之間是絶無国界、或民族的限的。 四月七日 大東猛吉 梅、椿、しづかに咲ける山かげに君が館はありにけるかも ゆうづきのほのかに人らすみわたるさまを思ひぬ梅ちるひるを   わがゆきに ひたすらにゆふべとなればきみおもふわかきこころはすぎにけるかも 家々に白き辛夷(こぶし)の花咲けりわがひたごころうつろひにけり 春の雨あたりをぬらしそぼふるにしばしくらしぬ物思ひもせず 芍薬の芽立ちくれなゐ愛しみゐき太陽光もなごみ来し日は 生こま山春浅ければ頂きの風さむきとこのぼりゆきけり 風寒き枯草原の起き伏しのかなたにひとは歩みゆきにし 赤松の木肌さむざむななめ日のてらす時来ぬひととほみかも なげかへば雨雲くらき山原の小松の原に風わたる見ゆ     一切空。寂滅爲樂。 四月十日 森中先生 一切の思惟をとヾめよ。時の流れをとヾめむに。    ★あまた鳩のあゆむこのしづかな屋根瓦(ポオル・ヴアレリイ) わたしの記憶もあそこにある 晝顔の花が閉じ開きしてゐるところで 僕(わたし)の肉親も眠つてゐるのだ 失つた時々をみんな焦[せ]かせか拾ひまはりたい位だ 脳髄をかむ入海の波 かぼそい脚で頭を蹴る鴎たち    ★ あすこ 青銅の寺院の屋根に たえまなく刺激をもたらす樹が育ち 小学生徒たちが歌うたつてゐる 一本道を手をつないでゆく(犬の尾が切断されてゐた) 満潮のあとの泥のつぶやき 秘密 秘密 そして僕の悪業は忘れられた 四月十一日 田辺 四月十二日 誠太郎叔父 四月十三日 夜 池田徹と上京 四月十四日 夜に入つて杉並区馬橋四丁目五四二 根本氏方に入る。    新しい畳 東と南に開いた窓 本棚を置く壁あり。    ※ 薄井は「死なせる」[※コギト掲載小説]で俺を「須藤」に昇華させた。     感性の論理=破漸=半環   ヨハンナ 汽車は轟々と入つて来た(と聞いて) ヨハンナは手欄[てすり]にもたれてゐた 体の細さ 顔いろのわるさ 悪友の前にヨハンナを羞ぢた ☆ 凡ての虚栄をとり去ると ヨハンナは俺には勿体なすぎる 俺の半球では彼女は異常に美しい 口髭のうすい處女だ    ★ 罪は贖はれねばならぬ 罪には罪 花には花 咲きつヾく罪の花 地の廣さ  中島のコギト十二号の詩「神」       硝子の向ふで誰かひとり食事してゐる       ときどき皿やナイフの音をさせて  僕のほうが旨いけど、これはぬかれる。 四月十七日 長谷川巳之吉氏、辻野久憲氏、岩本修蔵氏。 おぼろ夜の櫻に灯すころとなり みなづきの若葉ゆかしきちまたかな 軽気球ひつそりと墜ち花くれぬ 鳰[にほ]啼くやこのひとゆふを命かな 松の間に衛士(えじ)の欠(あく)びと鳥のこゑ 菜の花はいづれ巷は夜の匂り 雲ゆきき白堊の雲にとどまりぬ このゆふべをとめの衣(きぬ)に花ちりし 鳴る鐘をさがすあたりや店じまひ 水草に陽炎きゆる春寒の 四月十九日 保田の手紙。GAPP。唯心的と唯物的。 甘さと甘さ、質のちがつたそれとそれ。 北園克衞氏、岩本修蔵氏。 l´enfance [※幼年] 夕陽を背景にした巨大な肖像画 凛々しい眉のあたりに閃く銀刀 祖先の血を滴らしてころがつてゐた    ★ 國定教科書のサクラ 青いオレンジエードの中に埃 蛙のゐる壁掛 四月二十一日 Y。 古本を賣ると十三円に賣れた。   ※ 魚達の氾濫で街は腥 [なまぐさ]い 苺が運ばれてゐる 急行列車で 海濱の避暑地に仔犬が生らされた 葉櫻の季節にも人は見えない    ★ 坂を馳けのぼると水が見えた ペパーミントを盛つた杯と 僕たち口髭の薄いやからは果物 成人たちは女をからかふのに忙しい 葉櫻から毛虫が膝におちる しやうことなく押し潰して── 欠伸してゐた 潔癖らしく 四月二十三日 岡田家、佐藤竹介君。 櫻の木に花が埃のやうに簇がつてゐる 水兵たちが楽器を喞へて上陸する 街の透明が倏忽[しゅっこつ]としてこはれる 四月二十四日 Yと「巴里祭」を看に[ママ] ※ Le 14 Juillet として、フランス語で革命記念日のことについて二十四行の抄出あり。出典不詳。 メルヘンの中で恋をする ジヤンとジヤンヌのたのしさ 街の上の方まで灯がともり 鬼火がふわふわ漂ふてゐる ☆ 春の雷は舗石をぬらしてゆく それから一組の俄か造りのこひびとたちを 彼等の靴の下は道が乾いたまヽなのに 赤川草夫氏 われはゆき子に邪慳なりき 四月二十六日 丸三郎 松田明 橋本勇 松本善海 鴿[はと]の来てふむわたしの記念碑 しづしづと脳髄に蛆虫が食ひ入り わたしの頭痛は永遠に置き忘れられる 蔘麻(いらくさ)が生えてゐる わたしの掌に根をおろして ☆ 美しい空よ 凝視よ わたしの瞳は天象を宿す わたしの耳はエーテルを感じる 私の魚は盲目になる ☆ ひそやかにひとびとが相談してゐた 太陽の動きがのろい午すぎを わたしの追放は逃れられぬものと思はれた 古井の端で蔓草で編んでゐた 忘却の紙屑籠を ☆ とびこえる とびこえる 頑固な白頭を      ※ とびこえる とびこえる ☆ バラ咲く五月 園匂ふ若葉 ヨツトが梢に浮かぶ ひるすぎの奏楽 テラスで子供が鬼ごつこ バラの枝が垂れる 花をつけてバルコニイから わたしのひるね 噴泉がとまるかと思はれた 梁呉均  山中雜詩   山際来煙を見る。竹中落日を窺ふ。鳥は簷上に向ひて飛び、   雲は窗裏より出づ。 同 何遜 慈姥磯   暮煙は遥岸に起り、斜日安流を照らす。一たび心を同じくして夕   を賞せば 暫く郷憂を解き去りぬ。野岸 沙と合し、連山遠霧浮    かぶ。客悲自ら已まず。江上帰舟を望む。  折楊柳歌辞    馬に上りて鞭を捉らず、反りて楊柳の枝を折り、[喋-口+足]坐して長笛を    吹き、行客の児を愁殺す。   遥かに孟津河を看るに、楊柳鬱として婆娑たり。我は是れ虜家の   児にして漢児の歌を解せず。 陳 陰   渡青草湖    洞庭春溜満ち、平湖錦帆張り、[さんずい+元]水は桃花の色。湘流は杜若の香   り、穴は茅山を去ること近く、江は巫峽に連つて長し。帯天迴碧   を澄まし、映日浮光を動かす。行舟遠樹に逗まり、渡鳥危檣に息   ふ。滔々として測るべからず。一葦[言+巨]能航。 二十七日 多摩川へ遠足。池内教授、台北の吉村君。 おそ春の八重櫻咲く梢(うれ)見ればおほによどめり土埃ぞら 蛙のこゑをちかた小田にすだくめり若葉にしづむ埃たちたり ならくぬぎうすむらさきに芽をふきぬをちべの水はかなしう光り 麥みのる四月をはりのかなしけれ魚ら血流し釣られてゐれば 魚らのをろかなる眼をみてをりぬ磧にあそぶ女(こ)らとひととき むかふ岸に水かたよりて流れたり断崖の上は草青みゐぬ 若芽だつ樹々のむらがり壯(さか)りにてかの片丘はもり上り見ゆ 木々の芽にひとしほくらき御堂ぬち金色佛(こんじきぶつ)を師に示(み)せまつる み佛ら閻浮檀金[えんぶだごん]に化現(けげん)まし佛顔(かほ)うき世めき形どられます さきおととひ邪慳にもてなしかなしきせしをとめを思ふとこに遊びし わがつひの世をともにせむをとめなり多摩の水示(さ)しちかひてし子ろ 五月四日 東洋史讀話会 白鳥、市村先生 先生は老来益々壮健でゐられる コンスタンチノーブル わたしもあすこには さう 一九○三年か四年にゐました わたしたちの父のまだ母と結婚してゐない頃 わたしたちはシネマの旅愁を思ひ浮かべてゐる ☆ 華やかに白いテーブルクロスが拡げられてゐる コオトレツトの汁で先生は髭を汚される 飛燕草やマアガレツトの蔭で先生の顔がしばらく見えない 先生は老人の咳をなさる 白い手帛がいたいたしい ☆ 東洋史 夜に和田先生。石田幹之助氏、岩井久慧氏。 池内岩先生の講演。   ※ 五月一日 メーデー見に。橋本君、岸君ら。 五月二日 春山氏より原稿依頼。 五月三日 丸遊びに来る。 五月五日 辻野久憲氏。田園交響楽(ジイド)   詩に わたしとおまへの間にはとげとげした不和がある   ※ おまへはわたしの手をはなれると 牡蠣のやうな眼でわたしを瞶めはじめる わたしには怪訝の情しか残らない ☆ わたしが把へ得たと信じてゐたものが 曉の光と共に逃げてゐる 空しい敷布の皺でわたしは悟る わたしの夜の間の自惚れの数々を 髪の毛が落ち散つてゐる 不協和音(デイソナンツ)の群をなして 暮春の碑 ゆく春やわれもむかしは美少年 五月七日 杉本一彦、小川俊郎、三浦治。      夕方松浦死すとの電報に接し帰阪す。 雪はおまへの熱つぽい額を冷やさうと降り ぼくらは小学生のやうに腕をかヽへて歩いた おまへの咳は方々にひヾくので 僕は四辺の静かさに気兼ねしてゐた それで咳を止めておまへは行つてしまつた 僕をかなしますのに残してをいて ☆ 五月の歌はたのしい 雄々しい たとへば芽吹く楠や 紅いすかんぽの花のやうに そこをおまへはさまよひ到頭逝つた 咳[しわぶき]ながらむせびながら 茫漠たる天の階段をのぼりのぼつて ☆ あけぼのの光のなかにめざめゐぬもの思ふべう[ママ]あ[吾]は残されし ひとすぢにあゆまむとしめし野の道をその足跡も消しつヽゆきぬ 華やかにひとびとはなれを哭くならばあれらをのこしゆくもうべなふ 五月八日 葬式 斎藤さんや、水泳部、原田、西野、吉長、坂ボン、ペコ、田、西川 中島、川崎、白井、松下、生島、安田栄次郎、杉野、   弔辞よみかき 五月九日 戸田氏、父。夜、上京。 月光の下に海への道がある 人の子ひとりゐない 桑の葉がぬれてゐる 五月十四日 ゆふぐれに子供たちの出てあそぶ僕の窓がある 子供たちは愛情といふ一つのことに敏感すぎて 僕の邪慳をとつくに見ぬいてゐる 僕の窓帷(カアテン)を降ろせ 僕の手帛をふることを止めよ    ★ 外で香水の匂ひがしてゐる 外にスリツパがぬぎすててある 外に出る 何も匂はない スリツパも消え失せてゐる 僕は敬虔になる 内なる神よ 外の悪魔よ 五月十六日 夜の二人での歌(エドアルド・メリケ)。松浦悦郎の思ひ出に。 女 いともなよかに 夜の風は牧をかすめ さやかに音たて若葉の森をはしりぬけぬる [※未完] 五月十七日 菜園には虹が立ち 晝の雨はアポロの額に消えて行つた ☆ 海の見える前庭の晝食(ひるげ) 尾をふる犬らと子供と 潮くさい風とを皿にのせ 母の懐ひに胸つまらせてゐた ☆ 庭は豊かな匂りもつ花々に埋れ 雪の積んでゐた庭はもうない 子供たちはかけまはる 花をふみちらし驚かせ── 大人になつた僕を欣んで見てゐる ☆☆☆ アジアの地図を指で料理つてゐる教授 多倫諾尓[ドロンノール]ここは食へるところ 戈壁[ゴビ]ここは砂利だらけ 新疆 虫が巣食つてゐる 青海 膓(はらわた)が腥[なまぐさ]い 剖分[ふわけ]は出来上がつた ナイフだ フオークだ 大きな皿だ ☆ 眼がさめると明るい晝が来てゐた  汽車のとまつた駅の外では何か紅い花をぬらす雨がふり、音なくものみ なを光らせてゐた。僕は 子に眼をおとす。ゆふべの頁のつづき。ゆふ ぎり、霧のおりてゐるプラツトフオオム、それらが疾過して行つた。雨 は大降りになりはじめたらしい。やがて海が見えてきた。 五月十九日 そのものと関係なささうにひとたちが流れてゐる わたしはそのものを知らない ただひとつのものであるらしいことが わたしを震はせる 身うちがぞくぞくする ☆ 婚禮の鐘が鳴らされ けふはじめて邸中に燈りのついたことのうれしさに 犬たちは庭園を走りまはる 子供たちは寝床へ追ひやられ 食器の音に耳をかたむける 大きな菓子を切る洋刀を羨むあまり 敷布を暑くしてゐる 素馨(ヤスミン)と接骨木(フリイデル)の花ざかりの夜なか   ※ 五月二十一日 米田巍君 まつかに眼を腫らしてゐたみんなよ 生きてゐるぼくの友だちよ 死んで了つたぼくの友だちを泣くために ここ 葬場に鳥のやうに虔(しづ)かにゐるのだね 五月二十日  今中会 美の家 小原 小川 松本 倭 僕ひとりが憎まれてゐる 永遠のままつ児 矯傲の性をかくせどもあらはれぬ 五月二十七日 ガラス戸を越して木が見える 子供たちの攀ぢてゐる木で 一面にまつ白な花が咲いてゐる ぼくは熱を病んでゐるので ゆふがたの空の冷さが快い 子供たちの歌がぼくの木をもゆすつてゐる    ★ ぼくらを呼んでゐるこゑ 會堂の尖塔にゐる鳥たちのかしら 垣ねを破つて竹の子が出てゐる まだ御用はありませぬか    ★ ヒドラはふるへてゐる 汚い水溜りもつつじの花を映すのに美しい 鯉や鮒やみな自分の場を占めて 一萬年前の哲学の書をひもどいてゐる    ★ A Fuyuji Tanaka 黎子に見せてやりたいのはわたしの田舎の館 若葉に埋れた山ふところ ラムプをともすゆふがたに鳩の啼く谿間 麥の間の街道の埃もしづもり 青い木々や草々の匂ひにつつまれて わたしの弟や妹たちが帰つて来る 向ふ脛に生傷をいつぱいこさへて 小いのから順々に蚊の多い床につく 僕はそこで黎子への手紙をかく 田舎はさびしいと    ★ 知らないひとに足をふまれた その多様な愛撫の仕方で 都會はわたしを狂はせる 鉄や鋼でくすぐつたりするのだ    ★ 植木屋がこさへて行つた庭潦[にわたずみ]を 取巻いて紫の菖蒲が咲いた 紅い鯉と黒い鰻とに 星が墜ちて来る 幸せなど 植木屋に負ふ所が甚だ多い 五月二十八日 わたしの隣には絶望が棲んでゐる わたしは庭に孤独の花を咲かしてゐる わたしは高ぶつてゐる わたしはハリネズミのやうに刺す しかしそれが何であらう わたしの針は今みな折れて了つたのだから わたしは絶望の顔を見る シヨツパイ泪が湧いて出る わたしはもうわたしを見ない 五月三十一日 村と村との間を縫つて河は流れる 蝶々が水草にとまる 蛙は棲まない 僕は橋で河と交渉を保つ 瀧川問題、東大にも。 長野の結婚。[※長野敏一]  昇降機 天鳶絨[ビロード]の階段は置き忘れられ ひとは鋼鉄製の檻を愛用する 造山作用はかくて成立するのだ ☆ 胸に蝋燭を灯すぼく ミネルヴアの祝祭のために 智慧の洞穴から梟を飛び出させ 手品はもうおしまひですか ☆ シロツコはどこから吹く あちらこちらに飛ばされる蝶よ 室々の玻璃窓毎に花鉢をおき 室内では紙屑さへ動かない ☆ 十二時が来る 杜鵑[ほととぎす]が啼く 森はひとねむり 太陽と重なるので ☆ 麥は熟る 黄金色の髪の毛と 夕陽にもえる家がある もつときつい火炎の森たちよ 子供たちが帰つて来る いろんな彩の着物着て そこで五月の祭りが終つたのだ ☆ 常緑木にまじる芽出し楓の紅へ 自動車の吹き上げる土埃の中に 虫たちが死んでゐる 六月一日  喫茶店 輕気球を浮かした空からは 石竹の花束が降り 海からは塩の瓶が来た 和蘭陀風の画縁では 絶間ない溢れを防ぎ止めてゐる さて木の葉のオレンヂエードを 人々はパイプから吸ひとつてゐる 煙草には地峽の悒鬱がこもつてゐたのだ ☆ 六月二日 坂のつき当りには薔薇の垂れ下がる蔓に一杯のバラの花 茂みでフイロメエレがないてゐる 空は驚くほど近い 饗宴がそこでもたれてゐる 六月三日  悲劇(喫茶店改作) かぢりかけの幾片かのソオセエヂ 塩の瓶に並んで石竹の壷 くすんだ銅板画の中で人が釣してゐる 凡てはテエブルクロスの線より上にある [※ 銅板画のスケッチあり。] 六月四日、五日 母妹。 妹から小遣ひを貰つた!! 六月七日 Yと。 六月八日 北園氏を訪ふ。留守。 色褪せた髪の毛もつ人のねた 寝台車はいま動く ひとびとは集つてゐる その人の生死を知りたさに 腥い潮風が吹いて来る 日はかつと凡ての上に熱い    ※ 六月十日 薔薇の鉢植を買ふ。けふは土曜、火曜日までに萎れないやうに。 六月十一日 はせを[芭蕉]の夏 ※ 寛文、延宝、天和年間として、芭蕉の俳句四句抄出。 ※ 貞享、元禄年間年間として、芭蕉の俳句四句抄出。 六月十一日   自轉車競争(イヴアン・ゴル) ※ 訳詩。 32人の世界選手! 青、白、赤の虹が 正午を照らす 廻れ! 子午線(ミリデイアン)の黒い軌道(レエル)を廻れ! 廻れ ヨーロツパとアジアとよ![ママ] あなたのためにみんなはまはる あなたのためにぼくらは祈る 時計の文字盤(カドラン) 工場の調帶(クウロア) 緑の日傘 富籤(ロテリイ)の大きな輪 まはれ まはれ 奴等のために! 最後の一周(ラウンド) 銅羅(ゴング)! 太陽は一輪車の上にさしかかつた 競技場はふるへるゴム輪のやうに ベルギー アメリカ! 太陽! まはれ ベネツト杯のために 一生懸命で 六月十五日 赤い煉瓦の建物の肩で 空は雲をちぎりちぎりしてゐる 紫陽花などの花がしめつぽい 外國人の少女が降りて来る その坂の傾斜は大したことはない × 不幸の豫感を感じない 海には親しい山には畏れる ヴエランダから見る海は歯を剥き出してゐる 僕の松林を洗つてゐる 歯が歯ブラシにあたるやうに    ★ マノン様お風邪を召しますよ いいからほうつておきつてば 薔薇の花は馨りロツシニヨル[※鶏]は啼く あの人はまだ見えない 緞帳で月がのぼる 蟾蜍[ひきがえる]を啼かす役も忙しい    ★稲垣太郎氏を見送る。藤原義江も中山正善も。 ちようど よござんした 直ぐそこに見えましたね 汽車の動いた後でお婆さんたちが云つてゐる 僕のお尻の辺りで(何にも見えはしなかつたらう位 背が低い) 送られる人 息子はおん年将に五十一才の海軍将官    ★ ユウゲントを捨てちまへ その雜事を凡て嫌悪する 後に何が残るのだ カント式の消化不良と ノヴアーリス式の小児的性慾とか。 六月十六日   時計(イヴアン・ゴル) ※ 訳詩。 時間は凡て塔からころげおちる 水晶の翼は街路でくだけ 絶望した天使 永遠の自殺 凡てのモンブランから時間は飛下りる 人間のために作られた氷のやうな永遠を 僕らは點眼器でのむのだが   毎日毎日 毎日毎日奴等は僕らをくり返し殺す 走らう 走らう! 何処へ?   毎日毎日 乗合自動車(オオトビュス)はケンタウルスのやうにセエヌを過ぎり   ※ ブリユツセに急行はきちんと七時十二分には出発する 明日の朝 ギヨロツテイーヌはオウロラの首を断り 取引所は正午に開くことだらう 地球は廻る 神様の自動車の五番目の輪なのだ 天使はむだに自殺する 暴行は不滅に残るのに   アカシア 夏は爆発する アカシアの砲彈だ 誰に投げられた? 僕を滅ぼす無数の心 億萬長者の友だち どの葉もみんな囚はれた希望 どの鳥もみんな忘れられた苦しみのかずかず ああ 歌へ 風はゆるやかに世界をゆする   アルプスの小い三部曲   1、谷 草原で 勿忘草をつむために 足をぬらすのです 李の木が その涙の菫の花で センテイメンタルにします 金髪の娘 牝牛たちがゐます 静かさ 永劫の愚かさです   2、峰 僕は紅い心臓が礫に対して撲りかかるのを感じる 僕はギンギン屋のやうにそれを開き みんなに一つづつやるのです 僕の魂の 空は 曇です       ※ 未完。 六月十七日   《文學6》           《火の鳥》山川弥千枝遺稿集 Mademoisells dioine!         ※ 神聖 Mademoisells blue-blanc-rouge!    ※ 青-白-赤[トリコロール] Mademoisells pleureuse!  Mademoisells qui rit souvent!    ※ しばしば避ける  J’aime vons! ※・I love you  Vons tes ma bienaim e ternelle!  ※ 永久の恋人  限りなく愛するそなたさま 水晶の翼を羽搏いて 天橋を辿りのぼられる方よ 虹のやうにそなたさまの足跡は輝き 汗は硝子の管のやうに光るし 吐息は六月の風のやうに匂ばしい 海が見えるでせう 泪をためたお母さまとも 十八日 見せてよ 見せてよ 蔦の葉たちは太陽を見ようと 押しあひへしあひしてゐる そこで 葱くさい噫気(げっぷ)をつきながら 閥から太陽が出て參る    ★ 私は戰さの先頭に立つ旗手なのでせうね それとも家にあつて守る門衛なのでせうか どちらもお嬢さんから遠くかけへだたるので   シンガプールにゐるやうに(イヴアン・ゴル) ※・訳詩。 感受性が足りぬので 感性的でゐませうよ それでは恋人でなければいけませぬか? 山や谷を愛するには とりでの上へ 蒲公英[たんぽぽ]つみにゆきませう 歌うたふやうな天國は まづないのです なさけやこころが足りぬので 毎日恋をせねばならぬ 恋や苦痛といふものは 新嘉波[シンガポール]でも買はれるのです 別れに泣く方には 僕は葉書を出しませう 感受性が足りぬので 感性的でゐませうよ   目覚まし時計 夜 噴水は錆ついた 煙突は葉巻のやうに燃えて跡かたもなくなつた 大聖堂(おてら)で 宝石の寝床で 天使たちは星の南京虫にかぢられる 子午線のもつれをときたくても どこに糸口があるのだらう 地球の獨樂は誰が廻はした? 空の漆喰は粉砕した 田舎へゆく道は螺旋状で 空間のどこへ向いてゐるかさへわからない 牡鷄はもうお助けを呼んでゐる           ※ 女郎屋を出しなに化粧した太陽は 大草原(プレエリイ)を千鳥足で歩いてゐる 無邪気な川は歌つてゐる 人間だけはまだいびきをかいてゐる 目覚ましの精が活動力を鈍らせたので 六月二十日 アルクイユのクラブのパアテイ     ※   a A Kondo  (※ 近藤東に)   A Mlle A.e. (※ 江間章子に) 扇はあなたの掌で馨つてゐた 素馨とそれは申します あたいはお腹を通[こわ]してるんだ 靴下に石ころが入つてゐる 軍艦かも知れない    ★ アツサンスウル[※靴]を用ひない 紳士たちは 把手(ハンドル)を廻す手は銅の匂ひがするので 手帛が墜ちてゐる ふみにじられたそれは獸のやうに醜い    ★ あたいは世間が淋しいのでお酒をのむ 一昨日から両世界評論が休刊したので ストロンボリの再噴火も昨日まで知らなかつた あたいはみんなに見棄てられた バルコンの下で月光に地中海がちぢれてゐる バグダツド・カイロ急行が月の下から出てきた 六月二十一日 辻野久憲氏 六月二十二日    水の腐つた池 それは黄楊の株に囲まれ 藻の花のあひまに睡蓮が浮かんでゐる たとへニムフがゐるとしても大変泥臭い 向ふ岸にお神の鳥居さへ見えてゐる 六月二十三日 本位田来る。 六月二十五日 Y    a tontes les meres et mers (※凡ての海と母に) 海はピアノの低音部の鍵盤 誰かが倦まず叩く 海は貝殻の鑛床 死骸になつてひとびとが運び出される 海は母への愛慕の象徴 そこで凡ての女は髪を濡らす 海への道でひとは哭く かずかずの思ひ出がみな思ひ出されるので 海には山が迫り海のいろを染める 大変青い さうして心配気だ ネプチユウンを巻く海蛇を見るのだ                          Ich wurde Vater!   A Shuzo Iwamoto (※・岩本修蔵に) この世紀は皮肉なので あなたは芭蕉をも知らない 梅雨と啼く嬰児とを 蝸牛たちが運び入れる 陋巷に花が光つて咲く頃を    ★★ 彼女は塩つぽい、塩の泉をもつてゐるので 彼女は脂粉をきらふ 天瓜粉[てんかふ]をぬるのはあせもを防ぐため      ※ それも味へば塩つぽい   六月二十七日 クラス会 神楽坂 紅谷、 橋本、山口君。   六月二十八日 川久保君 煩瑣な学問は捨てねばならぬ いつか何の本よりも櫻桃の方が美しいと思ひ始めた × 病院から子供をしよつた奥さんが出て来る 外は雨降りで高下駄の歯を鳴らして × アドニス アドニス 潅木林でこだまする 鏡は山間で澄んでゐる    ※ 時々そこを横切る人影がある 海 それも懐かしい それらが一つ となる時 帷のやうに怨恨は引かれてゆく さうして果てしない夜 が来る 六月二十九日  碧潭に釣りを垂れるわたしに  渦巻き流れる過去よ 七月一日 本位田昇来らず。 七月三日 本位田、丸。 船橋。 七月四日 國府台。   朝刊 ※・訳詩  巴里の風見鶏は鳴りひびく おお 花崗岩の大艦は そこで月が星の蝿めらを見張つてゐた・・・ 蜘蛛の巣の繋索を断つた 自由 ゴシツクの塔はバラ色の風にゆれてゐる その鐘たちは空の陶器(セトモノ)を破つてゐる 天使たちは眼をこすつてる 慄えてゐる修道院 廊下の部屋たちはこわがつてゐる カフエ・オオ・レエの熱い匂りを── キリストはズボンの釦をかける 可哀想に 起こされた一番電車は 窮屈にコルセツトでしめられた少女たちと 舞踏会の一番後の婦人たちとを待つてゐる 大きな熊がセエヌ川をかちわたる だけど燕はもう 空のフライパンで躍ねてゐる カフエピアルは眼ばたきする 大白鴉の停車場前で 階段のまはりを周つてゐる 「マタン」と「ユマニテ」新聞が 重い頭は地下鉄(メトロ)でゆれてゐる 避難所(アジュル)にでもゐるやうにそこで身体を瞶[みつ]める その瞬間に とてもちぢれた頭が (第一頁の寫眞) 刑務所の背ろで転がる 哀れな虜よ! だけど僕らの小さな麺麭はバタがついた 七月五日 七月六日 まひるユンカア機は墜ちるところを 娼婦たちに見られた 海風の吹く砂原に ユンカア機は玩具のやうに壊れてゐた しどけない女たちが集まつて来て見る 血みどろの飛行士を (彼はもう肉塊をつつんだボロと云つていい)    ★ 白鳥たちは生れてゐる あちらの沼で こちらの池で 花が咲く 地は暑い ゆふぐれ かなかなの啼く時まで 太陽は死ににゆかない    ★ 七月九日 夏 梧桐の木蔭に喞筒は錆びついた 青く塗られてゐる 街道を遠く金色の棺車がゆれてゆく 埃が噴水のやうだ    ★ 懸崖の中途に紫の花簇 筧がある つららが滴つてゐる 雲は覗いてゐる 苔生(む)す岩のあたりから    ★ 崖錐が発達してゐる 粘板岩に植物は生えない この地帯の生物として兎 雪溪に足跡をつけてゐたので 途は極まる如くして盡きない    ★ 宿の畳に のある松の種子が散つてゐる (けふ越えて来た峠では蜩が鳴いてゐた) 紫陽花の蔭で燈籠に灯が入つた 七月十一日   旅への誘ひ (l´ invitation aux voyages) 蓮池は涸き切つて 泥に人の足跡がついてゐる 鵞鳥が漁つてゐる 陸の眞珠貝などを 蛇が埃まみれになつて街道を横切つて行つた    ★ 七月十二日 汽車が止まると駅の外は落葉松林 鳶が舞つてゐる 蟋蟀が鳴いてゐる 旅情を下ろして汽車はまた動き出す    ★ 谿に白いのは あれは百合 田舎ゆゑあのやうなボンネをかぶるひとはない 風の中に蝉が啼く とても勤勉な樂手である    ★ 夜は蚊の群になつて一しきりぼくを悩ますと 入れ代つて曉がくる 雀の合唱團の午前四時 蝉ももう鳴いてゐる 鷄が目をさます ぼくの眠りはやうやく深い    ★ 熱帯植物も暑さに首垂れる そのやうなひるすぎ 雀が泉水に来てゐる 乾いた泥に その小つちやな足跡をつけに 七月十五日 七月十七日 Y、関口、丸、友眞、池田 七月十八日   雷 ケンタウルスたちがいがみ合つてゐる 蹄から火花がとび散る 吐く息は熱くるしい やがて和解をもたらす眞青な雨が降つて来る   國境 海から吹く風は腥い 帝王の玉冠と風にふかれる旗たちをなびかす 馬車などは白墨の線で止まらされる 巨大な差伸べられた腕である   象眼 窮屈に宝石たちは押しこめられてゐる 大理石の匣の外側に さてその中ではサロメたちが眠つてゐる   ※ 白い敷布や花環などを 血の宝石で象眼して   ノヴアーリス 夜の讃歌 2 朝は常に還つて来る筈のものであらうか。現世の勢力(ちから)は永久に終 らぬであらうか。邪[よこし]まの営みは夜の天上への飛来を無くして了つた。 愛の神秘の犠牲(にえ)は永久に燃えぬであらうか。光明は適確にその臨終 を迎えた、しかも夜の支配は果なく無間[ママ]である。──眠りの継續は 永遠である。聖なる眠りよ、夜の秡ひ清めしものを、この現世の日 日の行事の中に全けく幸せとならしめよ。 七月二十三日 黒い晝顔の咲き凋むところで あの歌が僕を震へあがらせる もう二度と見ない 夕曉空の下のあの影を 蜩たちの啼き止めたあとを そんな歌ごゑがぼくを取巻くのだ 七月二十七日   灰色の陸 たそがれてゆく夕曉空の雲は さびしい陸を脅かしてゐる かなしい笛をもつた男のやうに 秋は世界を通つてゆく おまへはその近づくのを知り得ない そのメロデイーもききとれない だけど 蒼く色あせる野の中に おまへはかれらを感知する (シユテフアン・ツワイク) 桔梗の咲く高原から白樺の葉書をよこす友だち 蒼ざめた弟と歩く路には露が深い フオルム・フオルム 聳える山にも襞が透きとほつて見える   春の樹木 (ツワイク) 方々の樹木はどうして蒼い 空をその梢で塞いでゐることだらう このざわざわなる緑の雲たち その間にまじるこの火花 この白いのは 暗がりからもう萌え出た鮮しい 花かしら それとも星なのだらうか 空に唇をいまつけてゐるものこそ あのさびしい冬の日の 蒼ざめてゐたものとほんたうに同じものなのだ それをぼくらは幾度もあこがれて眺めたものだ その幹が春の近づきを 示してはゐないかと 慰[や]る方もなく枯れて空つぽの桟敷を 彼等はいつも立つてゐた そしていま胸を 呼吸(いき)づきながらおせじいふ風の中でゆりうごかしてゐるものが 秋の日に 涙のやうに蒼ざめた 黄色の葉を落としてゐたものと ほんたうに同じもの 一つのものなのだ   夕暮の哀愁 (ツワイク) 夕暮の哀愁よ なりひびくもののねよ くらやみのたましひよ 青春の親友よ 夕暮の哀愁よ 慰めいふ悲痛よ── わが孤独のやさしい遊び友達よ 夕暮の哀愁よ ざわめく涼風よ── 夕暮の哀愁よ ああ おまへをわたしは感じる! 甘いものを含んだ暗い唇が いまひそやかにわたしの唇に降つて来た やはらかな腕が やさしくわたしの顔を 撫で わたしを全く もうおまへの哀愁の情に身を委ねようと まちかまへる快さに震へさす 七月二十八日 ぼくの上を草や木が覆ふ時 幾枚かの紙屑が残る それを友だちは知性のないぼろぼろのつぎ合せといひ 見知らぬ人たちはいつそ白紙のほうがましだつたと怒るだらう みんな金冠をつけ勲章を佩びて 七月二十九日 帰郷 薄井 肥下 七月三十一日 船越 伊東 中島諸氏 八月一日 いま他人らしくわたしを瞶めるこの街が わたしを生んだふるさとなのだ その証拠を邪慳な仕方でそれは見せる たとへば大きらひな幼い時の喧嘩友だちや きざな同じ語をつかふ男の姿で それからまたうるさい肉親のすがたや心づかひで以て    ★   チユーリヒ湖畔のアルプスの光 (ツワイク) この窓の框[かまち]の中に黄金の風と光に 俄かにしのびよつた姿を誰が呼んだのだらう? しづかにそれはわたしを呼ぶ そしてもうわたしは名を覚えた それは秋だ そして別れを告げようとするのだ 晝の中空にあつた峰々は いまま[間]近く己々の光のなかに輝いてゐる ああ ここでいつも同じく感じさされる明澄の中に もう過去と廃墟の一部とがあることを そしてまたも一度ひそやかにいつもの如く 夕ぐれの路を谷間へと下りてゆけばよからうと そこでは秋に夜々が早過ぎるから そしてまた西方の火が窓から迸り出る 家々の外が暗くなる前に 夏の日を胸の中に見ればよからうと    ★     あさか山蔭さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに(古歌) たそがれてくれなゐばらのにほふ園をとめは去りぬほのにかげ見ゆ をとめ子の衣のにほひとくれなゐのばらにほふそのさりゆきがてぬ ゆきずりにきみがはだへのにほひしをふとも思ひぬゆふべにあれば    ★ 八月二日 雨   冬(ツワイク) 神様に 大空高くさすらふ風の上に 枝々は凍へる腕で祈る おゆるしを おゆるしを ああ ごらん もう春の準備(よそほひ)が出来てるんだよ いま 白い悲哀の中に再び雪はふりしきるが それでも はや血の中には花が咲く ああ そなたの永劫の熱情の 春の息吹を賜へ そして鋭いふる雪を避けさせよ われらの花から。 それは花を痛ませる・・・ 八月三日 船越章氏 よすがら溪の音を聞く わたしは脈膊をおそれるゆゑに 百合の花冠を徽章にした古王朝を 血みどろの戰車が牽いて行つた すべて過去(こしかた)の雄叫びである いま鳩はわたしの手に握られてある    ★ 青い砂地に僕たちは山をきづく 巍然とそびえたそれは何より嚴しい 僕たちはユウゲント[若さ]をもう持たない 心臓は凝つた汚血の塊である 八月七日 神戸出発。 本位田、父。   ※ 台湾旅行出発 岩壁の花々 へばりついてゐる    ★ 鴎がはばたくのは夜を招くため 藁束が浮いてゐるのにとまる 燈台    ★  縹[はなだ]色の海──暮れ残る 海岸の砂地が白い すべて花 虹を発射する落陽は雲の下に    ★ 永くひく船の笛 波を切る音は勇ましい 甲板のあひびき 風に髪が 燈台 油のやうに流れる潮    ★ 海風や明石の浦に日は翳り 夏草の折れて流るる海の澳(オキ) 海の藻に別れのこころのこしけり 雲ゆききと見る間にうつる島の群 鴎どりとびうをと海めづらしき 白魚を棲ますこと海いくばくぞ 潮路やかよへるものに似しことよ 夕日かげ海に五彩をながしけり 燈台におちかヽる日のかげを見よ 雲立つや陸路汗ばむ百合の花 夏の日は潮路にくれて星いでぬ 左舷紅燈に星とびかヽる曲り舵 潮の香を浴衣にのこしねむるとす どんよりと曇るや海の魚の眼も 三十里来たりしほどは何も見ず    ※ 命なりきみがかひなは沖の底 八月八日 門司 家たちの這ひあがつてゐる山 こちらは何と雲の夛い山    ★ 海丹 鳳梨 [オンライ] 朱欒[ザボン] 街で拾つたのは西洋婦人のボンネ    ★ 雲と波とに追つかけられてランチで上陸する 江間章子が花をむしつてゐる 近藤東の水平線は大変明るい    ★ 次第に街の辻の高度の上る港町 七夕の翌日で色彩の夛い竹の枝が 色どる横町で子供が坐つて用を足してゐる アフオリズムを見つけに歩く 大変退屈である    ★ これはみづ みづなのよ 鴎はそんなことを云はない あの人の眼を見ろ 睫毛だけで他人をにらめつける (フリマ フレー グーフル グーレー ムイヤージユ ナツセル) 濃霧 傭船 瀬戸 港口 投錨 小舟 (リヴアージユ ローシエ タンペート テイエモニエ テイランドオ ヤツク) 海岸 岩礁 嵐 舵手 吃水 快走船 (フアール ナツプ クウラン アラルム シヨセー フアレーズ) 燈台 水脈 流水 警報 堤 絶壁 (マルスワン パノー ラドマレー ヴオアリエ フイヨール エカイユ) 海豚 艙口 海嘯 帆船 峽湾 貝殻 うしほ路やひねもす海の草流る 船は貧乏ぶるひをつヾけてゐる 闇の中で飛魚の幾匹を驚かせてゐることか 船尾の甲板には犬を四匹に首振る馬を二匹飼つてゐる さうしてその船尾はうるさい動揺がもつとはげしいのだ やつと見える燈がゆれてゐる すべて水平線なんて語はあり得ない ひと島はひと島送りゆふくれや ゆふくれのわだ中に船とゆきあはず ゆふけむり平き島がありにけり 日は雲に岩礁とほき水けぶり 右、壹岐、對島。 左、平戸、五島。 わだ中の道ひとすぢをゆくところ 八月九日は、晝日海路縹茫たり 夜甲板に出れば星斗闌干たり 些かsea sick気味で頭痛がする 三半規官 子供の夜啼きうるさし 八月十日 アシンコード(彭佳嶼)   基隆(キールン)島 燈台守のハナシ   基隆港 断崖と[舟+山]板(サンパン※はしけ)のむやみに夛い港 戎克[ジャンク※はしけ]もゐる 砲台が顔を出してゐる草山 八尺門といふ海峽のこちらは社寮島 赤い旗ひるがへる海水浴場 キールンから台北までは 岸壁?基隆?八堵?五堵?汐止?南港?松山?台北 羊歯類の大きな葉の見える草山 水牛と水牛使ひの少年 鵞鳥と家鴨と白鷺と台湾ガラス (白鷺は実に夛い) ホテイ葵の紫の花に木槿 双思樹 ガジユマルの気根 廟の屋根はそり反つてゐる(あまり熱いので) 本島人の家の入口には聨[れん]がかかつてゐる 總体に色彩が夛い(丹・碧) 墓が見えた 田圃の中の草生に開口して    ※ 大屯山 七星山 観音山 双思樹の並木の蔭で油賣つてゐる人たち ×北門町一三 榕樹館 夜 台北の散歩 八月十一日 台湾神社 紫色の晝顔           [※ 市内の看板言葉の抜き書き、及びおみくじの文句あり。]   動物園 鸚鵡「カステラ! カステラ!」 伽陵[歩+鳥]呵[かりょうびんが]、鶴亜目秧鶏科、雨傘蛇、台湾コブラ                 山崎克雄君と   水源地 佛桑花の花は紅い 淡水河の瞰える丘に蝉の声をきく 新沾街にゆく輕便鉄道 かつと暑い陽かげ 渇くのど 双思樹の枝を折つた   植物園 ドイツ少女が馬にのつてゐる とても下手だ すばらしく綺麗 髪の毛がふさふさゆれてゐる 瑠璃茉莉 紅茉莉 檳榔樹 大王椰子 風船かづら 椶櫚のたぐひ とても暑い植物ばかり 明菓 木瓜(モックワ※パパイヤ)    夜 尾崎秀眞翁 貝の文化 殷墟発掘の貝貨 秦の銅貨 東夷島夷(書経禹貢[しょきょううこう]) 台湾六千年史を書くと        ※ 象形文字のスケッチあり。 八月十二日 大稲堤 豚の油 汚臭 喧燥 龍の落し子が乾されてある 蛙 亀(スッポン)も 蛇の黒焼は口をあけてゐる二三十本の棒 鹿の腎 鶏の骨 海仁草 人形の首をつくる人 刺繍をする子供 錠前をこさへる職人 鞋 台湾服 賣小翁   向吉凶何事?   南方旅行! 田中克己二十三才   往東南方吉貴人有平安得財八月二十外去吉 城隍廟   謝将軍痩長 城隍翁   范将軍肥短 城隍娘々 留心火車往来 Mlle謝氏琴、M陳、王、黄、翁、康、射、鄭、張、 陳氏玉鳳 康氏純錦 支那墨 支那筆           芥子園画傳(六五銭といふ)           頸飾 支那扇 台湾酒 公鶏 米酒   花 (シユテフアン・ツワイク) 春の一番初の日の 少女たちはとてもすばらしい まだ彼女たちはそれを云ふすべを知らぬけれど 花をかざしにその髪に 冠のやうにさしてゐることを覚[ママ]つてゐるから かそかな風のヴアイオリンの音に 彼女たちは春の祈りへとさまよひ あこがれの心が彼女たちの胸に湧き それが彼女たちの蒼い夢のすがたを 夛くのあかりで吹きとばして了ふ そして凡てのものへの鈍[ママ]くさな渇望が 彼女たちの身体に一つの官能を与へる 養魚池のにぶき光もくれにけり たそがれは蚊食ふやもりも啼ける宿 夜公園で音楽を聞く 法院へ行つてる人  台湾の花には匂ひがない  老人は内地へ帰ると死ぬ  永くゐると色艶がなくなる 葬式 婚礼 法律の話    ※ 八月十三日 台南まで  茉莉の生墻、木瓜(パパイヤ)の木、バナナの林、甘蔗の畑、北部は早苗、   ※ 南部は収穫、夾竹桃の駅、鳳梨(オンライ)、パナマ にするタコの木、濁水溪、 大甲溪など露出した石原、断りたつた河岸、木生羊歯、  安平 玉簪花をもつた老嫗たち、龍眼肉たべる児どもと一しよのバス。  廃港を彩る緑珊瑚。養魚池(ギョオン)で魚が跳ねてゐる。塩田のにぶい光、 一掻きごとに光る塩の結晶。やもりが啼く、蚊を喰べに出る、垣根 にもはつてゐる。鷹を飼つてゐる主人、木麻黄の防風林、この家の 庭にも。千日草が多い。億載金城の方、電柱。含羞草の原。破れた 垣、菊面石の垣、水上警察の柱は仁と白のだんだら染。夕日が反射 する。城郭の養魚池にせまつてゐるところ、砲台。墓山。小石かと 見えるのが墓、そこにもゆふひ。七鯤 は連つてゐる。汽船の燈、 廃英國領事館、つばな、拔門がゼーランデイア城から。ユトレヒト 砦(製塩会社を見学)蘋菠(ピンポン)の果、パパイヤ、愛玉子(オーギョーチ)。 ※ 十四日  別れを泣く隣の子 西[帝+龍]殿  西望鹿耳南鯤身威靈赫濯  龍躍禹門廻大海呵護紺宮 広済殿では虎嘯き、龍吟じてゐる。 文朱殿 日龍殿と反りかへつた甍のお廟の夛い街  菩提樹(ゼーランデア)の白い葉裏。史料館の女の子いふ、城壁に気根の這つてゐ るのを台湾松と(榕樹)。パパイヤの花、檳榔しるで歯を染めてゐ る老婆(台湾では車夫が)、紫のひるがほが運河に。  こヽを出るとお葬式。花車(二○台位)子供が曳く。     奠物(女の子供がもつ五つばかり)     位牌(祖母のらしい)     喪主(麻衣で、顔をかくす)     附添ひ、腕をとる。     男の親属(白衣)     女(車にのり覆面)  泣く女もゐるらしい。 文昌星・女の子曰く。孔子様より前に文学をつくられた人。顔が みにくヽて用ひられなかつたと。 関帝廟(武廟文衡聖帝)  二輪加芝居、老役一(青衣)、二枚目(書生風銀色の服)、女(娘)  ※        乳母(女形)唇を黒く塗る、男数名、群集数人。     ※        さつきの老役[ふけやく]を描くゑかきが来てゐる。 媽祖廟(天后廟) 元の寧靖王の邸と。 お礼をもらふ。おみくじを引く。 孔子廟 開山神社 漢文台湾日々新聞  [※各々スケッチ有り] 八月十五日  台南→二水→水裡坑→水社→魚池→埔里→魚池→水社 山間ににぶき光をはなちたる湖の上を舟はゆきかふ 木瓜を庭に植ゑたる宿ゆ見れば水社大山に雲とどまれる ゆふだちの(あとの)にごりのふかしも(よ)この川に水牛曳き童もいまはゐざりけり 八月十六日  水社→水裡坑→二水→台北 巒大山の紫に向つてゐる水牛 童に追はれて草深い石段を降りてゆく水牛 自動車に轢かれる鷄、まつ黒な山羊が草の崖にゐる  水裡坑の蛮人 おまへ 自動車を畏れて橋桁につかまつた夷よ(二人)子供一男一 おまへ 斃れた紅の衣をつけた垢だらけの夷よ(三人)女一男二 おまへ 氷屋の前で矮[ちいさ]い背を見せてゐた夷よ(一人)男一  ※ 八月十七日 台湾のお盆  ※ 台の上に人形、その前に沢山のお具へもの。 (豚の肉、鷄、種んな食物、菓子) 台湾の毒蛇 雨傘節(アマガサヘビ)       飯題倩(タイワンコブラ)       亀殻花(タイワンハブ)       赤尾 (アヲヘビ)       百歩蛇(ヒヤツポダ) これらに皆擬[まが]ひがある。 釈迦頭=蕃茘枝 台湾の町には印(はんこ)屋、女の鞋子(くつ)屋、呉服屋が非常に多い。 次に生薬屋、刺繍する家、佛壇屋。   双思樹歌 みんなみの島びさすらふわが上(い)をもきみわすれずにゐませとの木ぞ  城隍廟のおみくじ(十三番) 八月十八日 福建毎颱有名(福建通志巻六十一) 八月十九日 海上のやまとの方に風ふきてすヾしき夕ももゆるこころを あまのはら星の座(くらゐ)もさまかはるみなみのくにはひとぞこひしき 檳榔の高きこずゑにかぜわたるゆふべゆふべを何ごとせうかも 八月二十日 尾崎翁 das Rendezvous im Pflausengarten [※ 植物園のランデブー] 八月二十一日 大和丸で基隆出帆。 八月二十二日 洋上。 解定邦君 新竹州竹南郡後龍三三九 陳中川君 台北州海山郡三峽庄公館後一二八ノ二 李世家君 台北州海山郡八張字八張九   長衫(てんさん) (まんごー ソロヤー ふともも ヒヨンコー おほふともも レンブ バラー ナツプ) 檬果([木+羨]仔) 蒲桃(香果) 蓮霧(輦霧)蕃石榴(拔仔・椰抜) 八月二十四日 帰阪。 西川、池田。 八月二十六日   Notes of the Topography  [※ 台湾地誌の訳]  この大いなる島は、土人自身よりは北港(パカン)またはパカンドと呼ばれ、支那人よりは大流求(タイリウキウ)(即ち大琉球。これに対し小琉球も あり。)と呼ばれ、葡人、若しくは西人(カスチリアン)よりは、その快く且つ魅力的な景状のためにイルハ・フオルモサと呼ばれ、和蘭人よりはフオルモサ島と呼ばる。(キヤンベル)  住人たちは單一なる言語でなくして数種の言語を話せり。而して彼等は王公支配者、酋長を持たず。彼等は相互に平和には暮らさず各部落は他の部落と絶えず戦闘状態にあり。  この國は夛数の美しき河流によつて横切られ、魚に富み、鹿豕、野生の山羊、兎に充ち、雉、鷓鴣(シャコ)、鳩、その他の鳥類に富めり。  この島はまた、大いなる種類の獸を有し、例へば牛、馬の如きものにして、前者は数岐に分れたる甚だ厚き角を持ちたり。これらの獸の肉は甚だ嗜きものと思はるる。 而して彼等は山岳地方に於て群れをなして見出され、土人によつてオラワングと呼ばる。また虎あり、テイネイと呼ばるヽ他の肉食獸あり。こは熊と同じ姿態なれどやヽ巨きく、 その皮より高価なり。  この國は耕墾される地、甚少きも非常に肥沃なり。樹木は概して自然生にして、その数種は果実を産し、土人によつて甚しく好まるるものなれど欧人は触るることを肯んぜず。 生姜、肉桂も見出さる。尚この国には黄金銀鉱もありと伝へられ、支那人がその地を訪れ、原鉱の一部を日本に試みに送れりと傳へらる。 予自身はこれら鉱坑を実見したることもなく、嘗て之に狂溺せし蘭人の如き興味ももたず。  蘭人貿易の歴史  台湾の最近史を参照するに、葡人、西人(ポルトガル・スペイン)のこの島に来着したるは蘭人に遥かに先立ち、しかも名称を与へゐるなり。 然れどもその何時に初めて彼等の来りしか、または何を彼等は成したりしかは明らかならず。  蘭人に先立ちて英人の来りしを主張する者あり。即ち、彼等は最大の島に城塞を築きしが、何等定かなる理由なくして彼等は不幸にも放逐されたりと。 されど彼等はこの事の起こりし年月日を指示せざる限り、吾人は之を訛談なりと思惟す。    ※  蘭人の来着に関しては、より確定的に且つ正確に語るを得。彼等が初めて支那に帆行し来りし時、その眞目的は彼の国と貿易し、日本へ持ち来すべき商品を得、 かくして葡人を圧迫せんとしたるものなり。然るに支那人は、國法を以て、外国人の入國を禁止せるを以て夛大の遅滞と困難を経験させ、これらの理由、 又他の事件の爲に彼等は初め彭湖の島に投錨したり。(漁夫群島の一にして、北緯二三度三○分の地に横り、正しく北回帰線の下に位置し、 ラモア島より二十二哩の東、台湾より十二哩離れたり)  かくして此地に到着した最初の和蘭人として知られたるは、提督Wybraud van Warwykなり。彼はパタニより一六○四年の六月二十七日、支那に向け出帆し、 颶風のため澳門に到ることを妨げられ、八月七日、彭湖の西側の良港湾に投錨したるものなり。 かくして八月二十九日には快走艇スフエラ・ムンデイも同じ颶風の大危険に曝されたる後、彼に加はれり。  ※  彼はこヽに永く、彼の本土に到るを許さヾる支那人の報告を待ちゐたり。十二月十五日に到り、彼と彼の船員とは少しも貿易することなくして彭湖を去りしが、こは一には、 かくすべきことを通辞(彼等の上陸を防ぐるため五十隻の戎克をもちて登場したる支那官吏)に勧告されしにより、一には、約束されゐし確かなる返答を受取らざりしによる。  ※  その後(一六○七年に至り)、提督コルネリス・マテリーフが支那に向け出帆し、貿易確定の希望の下にラマオ島に投錨した。然し支那人は先づ蘭人に、 彭湖へ行けばそこで戎克を遣して貿易をなさうといふことしか賛成せず、重大な契約はしたが実行しなかつた。支那人の欲するところを知つた蘭人は、 何とも欺かれることを肯んじなかつたゆゑ、この企を継續することを決心した。  そこで艦長コルネリス・ライエルスゾオンが派遣され、又も彭湖へ向つたが、これはその地の支那人と話を纏め得るかを見る爲であつた。しかし漁夫ばかりの住民は蘭人を怖れ逃亡し、 近づくことが不可能であつた。しかし遂に成功した。商人頭のヨハネ・フアン・メルデルドが平和の白旗を船尾に掲げたヨツトで遣され、我々蘭人と商議することに説伏したからである。 そして彼等が蘭人の平和以外に何等求めてゐないことを知ると、彼等はフアン・メンデルド氏に、湾内に入つて彼等の爲に説くことを勧めたので、メルデルド氏はさうした。   この会合の結果として三隻のヨツトが用意され、フアン・メルデルド氏は之を以て[さんずい+章]州?[ママ]河に航行した。 しかしこヽでも又住民たちは我々の近づくのを見て逃亡して了つた。しかし遂にフアン・メルデルド氏は支那官吏に説くを得、彼は單に貿易のために、 且つマニラの西人と支那人が貿易せざらんことを勧むるために来つたと弁じた。ここに於て支那官吏は上官に、上官よりは又皇帝に奏した上、確答を齎さんことを約束した。 しかし彼は先づ最初にフアン・メルドルド氏がこの河より出発し、かくして凡ての紛擾を避けることを要求した。而して自身は直ちに[尸+夏]門[アモイ]よりは七十哩へだたれる市、 福州へ訓令を受けにゆくことを誓つた。  この官吏は帰還すると四艘の戎克を以て使者を彭湖に遣し、その使者中には一人の甚だ慧智且弁舌巧みな人物(沈有容[オングソフイ]?)と名乗る有り、彼は我々の会議に對し、 貿易許可はもし我々が彭湖の澳より立ち去る時許されるであらう(彭湖は国王の所有なる故に)、而して国王は我々が退去せぬ中は貿易を肯んじない、 国王は自己の國に来り許可なくして港を作るやうな人間たちと協調することを是認し賜ふことは出来ぬ、と宣言した。彼は又附け加へて云ふには、 我々が台湾島にゆきそこで港を作らうとするならば、国王は何等の抗議をし賜はぬであらうと云つた。しかし我々側はこれを企てる自由をもたなかつた。 バタヴイアに於てその地位を見すてヽはならぬとの指令を得ていたので。  かくの如く効果なき支那への探検の数年を費やした後、會社は一六二二年に至り再び艦長ライエルスゾオンを支那へ派遣し、澳門を征服するか、若しくは漁夫諸島にゆき、 ここで支那との貿易の可能なか否かを見させることに決した。  彼は前者の方を企てたが成功しなかつた。そして彼は亦、火薬樽の爆発のために重傷を負つた。この時二隻の英國船がジヤツクル・フエブル氏を便乗させたフエイスフル号と共に六月二十七日、 日本に向つて出発した。而してベア号とサザン・クロス号がラモアに支那沿岸を一層精細に視察するために出発した後には、 八月の終りまでマラツカから澳門に来る船を監視するために残つてゐたホープ号と聖ニコラス号とパリカツテ号を除く他の船が六月二十九日、彭湖に向つて出帆し、 七月十日に至つて机のやうに見える最も高い島の一の背後に錠泊した。この島々の間には武装した二十隻の戎克が監視してゐた。そして漁夫もゐたがこれらは逃れ去つた。  ※  そこで彼等は抜錨して美しい湾内に入り、水深八九尋の所に至つて再び投錨した。視野にある陸は平たく石が多く、樹木が生へてゐず丈の高い草より外何も無かつた。 数少い小い泉の外には眞水も見出されず、その泉も乾燥期には幾分か褐色になつた。凡ての淡水は本土から来た。  ※  しかし一隊はどこかこの近所に定住せよとの嚴しい命令を受けてゐたので、彼等はタイワンといふ小島の近く、台湾の南端に一つの港を定めたのだが、 そこには数人の支那人が貿易のために移住してゐた。ここへ彼等はヨツトで糧食を運んだが、ここはピスカドーアからは約十二三哩はなれてゐた。しかし多大の不便を要したのは、 この港は水深十一尺にすぎず、しかも非常に屈曲してゐたので、大きな船は入ることが出来なかつた。その上このタイワン島は小さな島。云ひかへれば乾いた砂洲にすぎず、 僅に長さ一哩で台湾本土からは何半哩も離れてゐる。   七月十九日にはグロニンゲン号とベア号とが支那沿岸へ渡るために抜錨した。二十一日には本土を視、 州河の反對の側を過つた。この河は北東の側に、 その一つが柱によく似た二つの丘を持つてゐるので認め易いのだ。河のも一つの側の陸は非常に低く、南西の陽に塔に類したものがある以外は砂丘ばかりであつた。 ※・未完。  × 私は知つてゐる この半球を充す濃い液体が凡て一様に苦く鹹[しおから]いものであることを。 わたしの船を追つて来る鱶や鮫のたぐひが凡て赤子の脳髄を好んで食んできた残害の徒であることを。 また、日ねもす流れる黄金いろのねなしかづらと見えるであらう海の草が、けふは生命盡きて船の進路 を阻むことも出来ず、紺色の泡の下に踏みしだかれてゐることを。さうしていま檣の上で鴎の金切声でも つて「人が陷ちた(ア・ノンム・ア・ラ・メール)!」と叫ぶこゑごゑが同じい海の蠱[まやか]しにすぎぬことを。 私は見る ヒドラたちの緑色の群れをなして流れるのを。海底火山の噴き出した軽石の穴に小さい海老たちの棲み 入るのを。海豚や鯨の吹く潮の中で真珠や蛋白石や瑪瑙のあまたが消えてゆくのを。また遠く黄金色 の陸のやうに見える雲の向ふにかくれてゐる黄金色の陸のことを。   ※ 九月六日 捕虫網で 腐肉で 誘蛾燈で 糖蜜で わたしは虫たちを捕らへて殺す 翅をのばして死んでゐる数々の彼等を わたしは銀いろのピンセツトでつまみ上げる 玻璃の箱に入れる 青酸加里はもういらない わたしは齒痛を感じる × 緑にゆふぐれは沈む小砲台 開いた砲門には鳥が巣くひ 防風林からは風の彈丸が来る × 賢人の様に白い唾吐く荒海と 珊瑚とる蒼い内海とがくつヽいてゐる 三色旗が 椰子の梢に掲げられた 九月二十日 Y 昨日はYと新宿で邂逅し、父方のA町[阿佐ケ谷]を歩きまはる。 こぬか雨いらかをぬらしふるひるを長衫つけてゆくはたが子ぞ みんなみのパパイヤしげる園生ゆきものおもへりし子をなわすれそ わだのはらひとたびわたりたびゆきしわれがすさびもふとおもひ出ぬ 海はけふも流れてゐるだらう (海の流れることをあの旅で知つたのだが) 飛魚たち 海月たちの無数を育てては死なせ 海はけふもうねつて流れてゐるだらう その濃いインキの色の水を 船と船人を脅かすため白い歯の形にこさへ上げ 奈落の様に深い口腔をあけて 皮肉なわらひで脆弱な詩人たちを嘲るやうに 笑ひながら流れてゐるだらう もう一度遊びたい その流れる海の上で    ★ 芭蕉の林をくぐりぬけ 鳳梨の畑の畆をながれ にごりにごつてゐた[さんずい+川(いじ)]よ 椰子の木のかげに建つてゐた 朱や碧の瓦もつ家々よ 水牛を追つてゐた童よ いま北國は霧のたつ秋がきて ひ弱いわれはもう痰喘を病んでゐる 友よ 明るい太陽の下に好信を賜へ 夜ふけが酒杯の中に塵となつて浮んでゐる    ★ Uber meiner Liebe おれはおまへの誠実を愛する おれはおまへのぼんやりを愛する おれはおまへのだらしなさを愛する おまへの誠実を時々疑つてゐる おまへのぼんやりを時々わらつて見る おまへのだらしなさを時々憤つて見る おれはおまへを愛してゐる   九月二十一日 肥下のフラウ われは修羅となり わが白き歯を噛み折りたり われは渾身の力を傾け わが立つ土を押し動かしぬ われ巨いなる壁の前にたちて わが躯を打ちつけしに わが肉破れ わが骨砕けしかば われわが膝を抱きて泣きたり    ★ 秋は冷き雨となりて わが肺の臓を凍らし わが靴底を貫きて わが足を蹙[ちぢ]ませぬ われわが身の羸弱[るいじゃく]を知れば わが少女を抱き死なむことをはからむとはする 九月二十六日 晝 橋本君と植物園 夜 丸三郎  老衰した火山が、その壮年期に堆積した膨大な容積の溶岩を波の間に見てゆくこの旅は、たしかに壮嚴なものであつた。  羚羊の駆けるのをいくたびも見たが、それはアンテイロオプと呼ばれるべきものではなく、むしろ陸の飛魚とでも名づければいい。  木生羊歯の叢生した斜面を、僕は眩暈しながら、ゆくゆく太陽に絶大な信頼をもつてゐたので、時々それが霧に覆はれると死をさへも感じて恐れたのだ。 それから見た幾百の分子式の噴煙の團々を。  神々の哄笑を聞きに来た僕に、それは悪魔たちを思はしめた。僕は木生羊歯の幹もて作つた杖を捨て、四んばひになつて退却した。波の穂を一つ一つ数へながら。  ※    ★ 彼を葬るにひとびとは玻璃もて棺を製つた。  ※ さて埋める時気づいたことには 土をかぶせるなら玻璃でも何でも同じことだつた。 人々は又斜面を屍を擔つて降つた 翌日人びとは埋めた 鉛の棺に容れたひとを 絲杉を周囲に植え 湖を環らし 顔を覆つて退いた さうして彼はいまここに眠つてゐる 絲杉と湖に囲まれて    ★ 木の果を見ては喫ふをおもふ性を われは友に語り 空の碧さを恐れぬ 少女の恋かたる友は高原の秋を知らず われ薄と曼珠沙華とに万斛の涙そヽぐ 季節の情迫つて耐ふべからず    ★ 季節の菊の花を手折る 瑠璃の茉莉を忘れず ずずだまの實はささ鳴りぬ 額田女王の眉と月出で 出羽の守になるわたし 都を発つ日 灯(アーク)ともし頃 街燈の弧光かなしみ みなみなに語れば肯んじたり 陸に死ぬことを嬉しむ 紫の陰影濃きグラスあげて  ヴアレリイのことば (1)一篇の詩(ポエエム)は「知性(アンテレット)」の祝祭である筈だ。それはそれ以外のものではあり得ない。 (2)思念(パンセ)は詩句中にあつて、果実中の栄養價のやうに隠されてゐなければならない。 (3)リリズムは感嘆詞の進展である。 ※ (4)頁の上を素早く、がつがつと勝手に走り廻る眼、その眼に堪へ、且つその眼を必要とするもの。 (5)イマアジユの乱用と過剰とは、心の眼に調子(トーン)と不似合いな混雜を来す。ちらちらしすぎると反つて何も見えなくなる。 (6)作者への忠告??二つの言葉の中、つまらない方を選ぶこと。 (7)或る一つの作品は、或る内的展開を、それを公表する行為、又はそれを完成したと判断する行為によつて切断した截断面に外ならない。 (8)大いに人気に投ずるものには統計的特徴が備はる。その質は中庸。 (9)芸術家として新しさを探求することは、消滅することを探求することであるか、さもなくば、新しさといふ名目の下に、全く別個なものを探求して軽蔑を買ふことか、 その孰れかである。  (10)或る作品に就いて成される模倣は、その作品から模倣され得るものを剥ぎとる。 (11)或る芸術上の作品は(又は一般に精神上の作品は)、その存在がすでに存する他の作品を規定し、思ひ出させ、或るひは否定するか否かによつて重要である。  ※ (12)夢(レエヴ)も夢想(レエヴイ)も、必ずしも詩ではないのである。それらは詩的ではあり得る。けれども運任せに形成された表象は、偶然にのみ調和ある表象であるにすぎないのだ。 (13)詩的状態とは全く不規則で、不安定で、無意志的で果敢ないものであり、吾々は図らずもそれを捉へ、またそれを失ふのである。 九月二十七日 Yより手紙。 金木犀匂ひ初む。 九月二十九日   The Topography of Formosa   [※・台湾地誌]  1 賢人のやうに唾吐く荒海と 珊瑚とる内湾とが一線で劃されてゐる 木生羊歯の巨大な葉つぱの間に 蒼い地層の傾いてゐるのが見られた (Kielung)  2 雲が?板をおつかけてゐる 基隆[キールン]びとはむらがつて来る 起重機で馬をおろす 檳榔子の梢に旗が掲げられた 船はもう呼吸さへしない  3 北方に流れる堅固な火山彙に 地塊の意志をよみとる 曲りくねつた河の澱みで 水浴みする獸たちが現れ出す  4 双思樹植ゑた道の隈 お廟の屋根そりかへる天際 手袋の要らぬ國にトランクを預け わたしは一本の杖となつて 頭から照らす太陽に遠ざかつて行つた 十月三日 アンドレ・ジイド   l´ ecole de femme [※・女の学校] わたしは個々の生活をおくりたい わたしは引とめられてゐる 形をなさないさまざまの咒文に わたしはふるへてゐる 漠然とした傳説のために 十月三日 ジイド・プロメテ 愛する鷲のためにぼくは卓を設けた だけど鴬を愛することは一層強かつた 皿に粟を入れ 鉢に水を盛り──   ※ チチルであるぼくをとりまくのは沼の悪水ばかりゆゑ その水を得るにぼくはどんなに苦労したか! 鴬は飛び去れ 自分の好きな歌をうたつて 鷲よ来い 乾からびた肝がこヽにある ぼくは老年を知りたくない    ★ くちをあけては見るが わたしはこゑにならない叫びばかりだ わたしを取巻くものが余りはげしくしめつけるので わたしは吐く 褐色のどぶどろを 審判者がそれらを見て訝しむ いつの間にわが目の前でそれを飲んでゐたかと 彼は「内(インネン)」なる観念を全く理解しない奴だ    ★ 可憐なものに彼をえらばう 彼の唇や額を長い間愛して来たが 彼は凋ん了つた わたしは手を閉ぢ ひらきする 匂るのは過去ばかりではないのだが 十月六日 アルクイユのクラブ 城尚衞の気味わるさ 十月七日 田辺耕一郎とか云ふひと    ★わるい夜 階段を降り乍ら星とともに墜ちる 海のあげる飛沫を浴びる 木々の枝に引つかヽれる 毀れた馬車にころげこむ 車輪に巣くつてゐる鼡どもを驚かす 一散に駆け出す小妖精の車 枯葉を藉[し]いて踞まる 灣の満潮が足まで來る 月が覆ひかくしてゐた星が挨拶する 時計塔で時計が目をこする オウロラが呼ばれる 汽笛と霧とが一緒に來た    ★ 嘴をひらけ 雛鳥たち おまへたちは起ち上がる 卵殻を見すてて 曙の淡紅い光の中では 何もかもが鮮かだ 羽をつくろへ 歌へ わが命令の下に何もかもが美しい    ★ 葡萄畑の段々に籠を忘れて来た 帽子に枯葉がついてゐる 電車は揺れてむしやうに眠い 汚い足袋裏を見せて家鴨たちが寝てゐる 松葉がこぼれ落ちる 荷物棚から紐が垂れてゐる もうすぐ出発の驛だ 永い空虚な時間をもう感じ出してゐる  十月八日 菊の花を用意した ヴエエニユスの祝祭のために 風邪の藥が袋の中で鳴る 乾ききつた履物が道を横切る 落葉の艦隊 花瓶に埃が浮く水を溢へる 槲の樹に昆布を乾す 海峽を通過すると船はもう見られない 曇り日に閉ぢる花は 雨天には傘をさすように気をつけねばならぬ 熱いのみ物で膝をぬらす 尿瓶がかためて捨ててある 展覧会で鷹がとんでゐた プールに蛙の子が生れた 化学教室は蒼い 蛇が両大陸をつないでゐるが 血は体のどこからも出ない 馬にねて残夢月遠し茶の煙 ばせを ※・梁元帝 「夜々曲」「石塘瀬聽猿」「直学省愁臥」五言詩抄出。 十月九日 「文學」終刊の夕 春山行夫氏 岡本正一氏 西脇順三郎氏 堀口大学氏 近藤東氏 阿部知二氏 北村常夫氏 飯島正氏 中村喜久男氏 左河ちか氏 江間章子氏 百田宗治氏 阪本越郎氏 高岩肇氏 丸岡明氏 和木清三郎氏 酒井正平氏 岩下明男氏 合田攷氏 加藤一氏 麻生正氏 那須辰造氏 田村泰次郎氏 富士原精一氏 淀野隆三氏 岩崎良三氏 三浦逸雄氏 辻野久憲氏 etc,etc・・・ 十月十日 松下武雄に呈す三句 葵葉に霜つむ朝も近からめ やちまたを落葉ながるるさむさかな すずろなるこころ黄葉に向ひをり 青銅の馬が跳ねる 街を流れる溶岩流 血の噴水で毛が染まる 自動車は蛆虫のやうにのろい 一隊の騎兵の服装は薄汚いが 轉つた帽子(シャッポ)をひらふ手が 舗石の上をさまよふ 十月十一日 東洋詩 雲宵(オホゾラ)といふ港があつて 蕉樹に黄果が熟するとも季節は定め難い 旗を掲げて大型の戎克[ジャンク]が入つて来ると 颱風が雲を巻く 椰子の木が揺れると猿が堕ちて来る 港の外では波がまつ白だ 雪を見ぬ國ゆゑ たとへには塩をもつて来る 塩は天日で作られる それをつけた木瓜は旨い 十月十四日 丸の宅 その電車の乗客はみな眠つてゐる 開いてある窓からは寒いといふやうな風が 果物の饐ゑる香りを運んで来る 停車場では乗客の代りに燈が待つてゐる 私は腹立たしい なぜ彼等は眠り 私丈が醒めてゐなければならぬのか 私はうれしい 彼等の中に裳裾を開いて 風になぶらせてゐる種類の阿婆摺れに際会したので 車掌が窓を閉めて廻るまで   あひるとかまきり  かまきり:貴女は白い。雪より。 あひる:白いことなんか自慢にならないわ。 かまきり:わたしの見つけ出すどんな賛辞にも、その手では反對出来さうですね。 あひる:あなたおせじをおつしやつたの。 かまきり:いヽえ、どういへばほんとが嘘に聞こえないだらうかと汗をかいてゐるのです。 あひる:まあ、お上手だこと。 かまきり:・・・・・名人の発見[みつ]けだした名句をエピゴーネンたちが金言にしちやふ。 あひる:何のこと、それ? かまきり:わたしは独りごとを云ふくせがありましてね。 あひる:蔭でわる口をおつしやるなんてひどいわ。 かまきり:まともに面とむかつていふよりですか。 あひる:よくつてよ。いくらでも仰しやつて頂だい。 かまきり:さういふ風に首をくねらせてそつぽをむいた風情をわたしは好きなんだが。 あひる:どうせそうでせうよ。皮肉おつしやるもんぢやないわ。 かまきり:わたしもさうしたふうに何でも自分とむすびつける考へ 方をしたいものだ。 あひる:女つてみなさうしたものよ。 かまきり:貴女はまだいヽ方なんでせう。 あひる:えヽさう、あなたがさうでないと同じ程度に。 かまきり:わたし? あひる:ひとの云ふことが気になる位なら、自分の云ふことにもせいぜい気をおつけになつた方がいいわ。 かまきり:わたしほど反省のすぎる人間はありませんよ。 あひる:内気でね。 かまきり:大きに あひる:憶病で かまきり:さういふ風にも云へます。 あひる:まあ、押しの強い! かまきり:さう、強い様で弱く、弱気のやうで強気な。 あひる:謙遜してるやうで自家広告し、控へ目のやうでづうづうしい。  かまきり:ああいへばかういふといふ男。 あひる:ねえ、もう仲良くしませうよ。 かまきり:かけ合ひはもうおしまひですか、御退屈さま。 十月十五日 松本善海の肺病 僕は体の皮が裏がへしになるらしい 体重は十一貫を割つたかも知れぬ   ※ 41キロ もしも豚が一番美しい獸であるなら 僕は笑ふであらう 紅葉のある谿川で 体を洗ふ獸より美しいものは それを写すカメラでは断じてない 葱とさつまいもと 黄楊[つげ]の櫛にヘアピン 彼女は手入れが足らない実に不精な女だ 僕は彼女がおしやれになるまで家を建てない 白骨になつた指に霜の降りるまで 山茶花の蕾も白い 帰來故園樹木青 不似故人無旧情 枯骨悄然撫痩脛 爾今何樂保余生 十月十八日 食ひ飽きてわたしの眠る前の 一瞬にわたしは肥えてゐる自分を覚える 鼡が来てかぢる靴下の先に 銀の錘りをつけて海に沈む 山窩の群に入つて杉の果をとり貯めると 朝鮮といふ赤裸の山から成る半島が見えて来る 十月二十日 近藤東氏 春山行夫氏   旅行 ポストが佇つてゐる街角を曲り    ※ 高い山の見える通りを爪先上りに登る ミオソテイス[わすれなぐさ]を摘み 牛乳しぼりの女にくれてやると お礼にキダチハツカの一束を貰ふ 郵便脚夫のやうに家々に それを配つて歩くと道がつき当る 引かへす路は海が見え 軍艦でお祭りをしてゐる 煙が吹き流されて面白い それで環投げした子供の頃を思出す しめつぽい泪が湧いて来る 石段を下りる 駆けることは出来ない 朽ちた手すりをこはす 犬が待つてゐるので怖ろしくつて 立ち止まると莞爾として 少女が首根つこを抑へる 僕は云ふまヽに逆立ちをする 雲がきれいに七色に見え 軍艦はマストを空につきさす 黄色い菫が降つてゐる 夕刊賣りが立ち止まる リボンをほどく少女に手伝ふ ずぼん吊りがゆるむので無しやうに気味わるい 青銅貨を鑄る工場の前で別れしな 金色のチヨコレエトを三つもらつた ものもらふことの多い日だ  アルフアベツト アメンドオの實が鈴なりで いろんな玩具が欲しくなる うれしいのはお休みの旗がひらめくこと えん習の兵隊が僕んちに入つて来る 音樂は單調で眠くなる 神様がタクトを振ると 金文字の本の背皮がそろつた 釘に 子がかからない 煙が登つてゐる空まで遠い 小猫が木の上で居眠つてゐる   ※ 山茶花といふ花を教はつた シメエルの吐く火 炭より黒いのは黒檀 蝉セミと呼んだがいまは犬といふ ソバ畑を白いと云つて来た 谷川 血に似た夕焼 常に新しい先生の靴を穿き 手で歩いてゐる乞食に会ふ 扉を押すと開いたが暗い 波の背中で痒い 西まで海が拡がつてゐて 沼はこの国ではきらはれる 眠くなると帷を引く 残して来たお菓子を思ふ ハナの咲く野原をゆく人は 晝も夜もわからない 船よりも陸のほうが軟い 蛇はまだ園を廻つてゐる 堀割にミヂンコがわいた 満州へ弟を旅立たす 短いヨツトを操縦する 村に時計が無い 目に痛い風習のオ灸をすゑる 文字は動いてゐる汽車である 矢車草に蜂が来てゐる 柚のタネは苦い芯があつたね 夜まで三十二分のこつてゐるが ラム酒飲む鼻の赤いおぢいさんは死ぬ 龍を見た支那人もゐない 瑠璃草つみに家人たちは出かけた 連理の木で首つる人を見に 呂律も廻らぬお酒のみたちが来る 穽をかけたら牛がこはした   無 ピアノとマンドリンを彈いた少女は 自殺者が隣家であると直ぐ引越し 代りに子供のよく泣く夫婦が来た 夜ぴしぴし撲る音がする 屠殺者は僕も好まない すでに三十二人目の棺が出る 鬱蒼たる大木の蔭ゆゑ 祟りがあるのだとひとびとは云ふが 僕は僕の魔呪をまだ自信してゐる 十月二十四日 晝の花火や 雨のやうに落ちる木の實は 都を廻つてあるのだが 秋はこヽでは僅かにビルデイングの肩で 瀕死の息を吐くばかり タバコの展覧会では水煙草 繪画展では秋草 十月二十四日 晝の花火や  雨のやうに落ちる木の實は  都を廻つてあるのだが  秋はこヽでは僅かにビルデイングの肩で 瀕死の息を吐くばかり 凡て一様につまらない 奈々子と惠楚子の化粧するひるすぎ 空がかげつて来る   十月二十九日  ひとりでゆくと泪が出る みちづれは無い 大変センチでゐる女の子    ★ 全く參つて了つた 誰も俺の心配などして呉れぬ 俺自身も餘りしたくない    ★ やましいくちづけで慰め云ふ 夕陽の時の風のうごきは いま野菊の花の凋れる時に 黄金色の雲とともに去つて了つた 數々の追憶のにぶい翅音が わたしの夢にまで忍びこみ 夜 炎は火山のやうに心悸を起す 嘆きの中にわたしは感じる 川辺の楊柳のやうに首垂れる 敬虔な心にもたらされるいろいろな 賜物の一つさへわたしに無いと 故郷を流れる大河の仄白い光に 影をうつしてゐた形象を いまはみな忘却し切つた ゆふぎりは寺院の甍をこめ ここの高い梢につきさされ わたしの胸にまで悲鳴をもたらし すでに牢乎として抜き難い わたしの樹木の中で夜鳥[ぬえ] わたしの枯草のしげみには蛇たち それらが皆死にかけてゐる  因縁の深さを齎す手紙を 昨日の夜受取つたが 茉莉咲く 島からは音づれもなく この年は暮れ 期待すべき明日は昨日に等しい あまたのフアントオマが去来する 精靈 橋に佇み あなたさまに叫びかける日々を見る 十月三十一日 伽藍 太陽と埃の代りに沼や澤から霧が立ち 夜はあまたの月の光で照らされて尚さびしい 首垂れる絲杉の蔭ごとに 死んでゆく生物の蠢きが見える 靈は消えうせる前の微かな輝きに 病人たちの頬にアネモネの花を咲かす 遠い薔薇や菫のときを罪犯すことなしには想ひ得ぬ 藻の漂ふ湖岸に鹿の死骸がうち上げられ    ※ 山々は紅葉の装ひの中で 棺をうつ鎚の音を静かに聽く そんな夜々を犬たちはうそうそ徘徊し 屍衣や鉛のメダルをくはへて戻つて来る 背徳者の一群は襤褸[らんる]を血に汚して橋を渡り 婚禮の鐘が二人の死者の弔鐘に打ち負かされ 土星は魚座で後もどりする 參列し忘れた友人の葬列を追ふために    ★ 川は流れる 過去を忘れるために 山は巍然として全てを否定する 虚無の夜が支配するもの 終りなき消滅の一循環を見よ 十一月三日 花や少女や美しいことばかりが書きたいが 醜い心理のあらを探し出すのもむつかしい わたしなど一人前の顔はしてゐても この眼はうつろだし この心は人の幸せをそねみ 人の不幸せを祈る気持で一杯だ 花や少女や美しいことばかり書きたいのだが    ★ 岩のある地方に頭蓋骨の懸けられてゐる画 落つて来さうな額面から鴉が舞ひ上り舞ひ下りる 躓くと生命にかヽはる谷を見下して 栄光を荷つたひとが来る 禮拝する禽獸のなかにわたしがゐる 果物のたぐひを手に捧げもち 紅い頬をして わたしは咳き入る 相貌に成就の十字が現れる    ★ 太陽を一面に受けた白つぽい断崖がある 鴎の波がその裾を彩る 菊の花が開く花畑 眠つてゐる人は道をゆくゆく花を折る 覚めてゐる女がそれを髪に挿す 鴎たちは一斉に飛立つ しばらく太陽だけが断崖に残る    ★ 牛乳配達の降りて来る坂道 礫が光つて見える コスモスの咲く垣根に 僕の犬が佇ると追ふ声がする 煙の上る山から鳥たちが飛んで来た    ★ 一つの生命だけが美しい 牛乳の罎のやうに輝いて 半ば開いた唇から 凡ての啓示がやつて来る 乳白色の霧がまひるの街をおほひかくす 犬たちが吼えてゐる 扉の開く音がする中で 十一月十二日 マドモアゼル・エンマの可哀想な西洋梨にふれ 青いろの洋服きたひとととび上つておどろく   ──ゆめ──    ★ 鷄小舎と山羊の小屋の手入れに この日曜をすごす 蜜蜂は眠る 山茶花の晝を チエス指すふたりは 陽のあたる窓べりで 何時の間にか引込んだ 枯草焼くと こほろぎの翅が可哀想に焼けた パイプのやうな煙突から 煙が忙[ママ]くて日がくれる 靴を磨くのを忘れてた    ★ 雲の間からヘリコオンが見えた ガニユメイデスの斜面には 帽子と煙管が落ちてある 生意気な小僧は 夕暮の忙しい時にも帰つて来ない 雷霆の音がひとしきり 納屋の隅までいなづまが射し込む 鶏が卵を生んでゐた 青い驟雨が李の木にふつて来た 十一月十三日 のせ来る。 十一月十四日 神宮。 十一月十六日以来腹痛下痢頻々たり。 十一月十六日 近藤東 春山行夫 百田宗治氏。 十一月十七日 佐藤竹介 留守。 十一月十八日 終日臥床。ヒゲ。 十一月十九日 コギト会 十一月二十日 ユ[※ゆきこ Yと同義]、佐藤竹介 枯葉の立てる音は 紅葉の色といりまじつて ここの秋を美しくしてゐたが 華やかな着物きた人たちは 織るやうに林をゆきめぐり 廣大な枯芝の上に ふるやうに歌がひびく    ★ 鯉といふ腹びれの紅い魚が一匹 巨大な円盤の中を泳いでゐる 水の冷やかな午後に 寫眞とる女の子らの影映して 雲めぐる空が立つてゐる 紅葉せぬ木のないこの國は ギリシア風な庭園の噴泉を 押しとどめてしまつた よどんだ水に子供らの残した毬が浮く 紙屑のやうに汚い    ★ バラの木が欲しい 印度風の小徑 二列の高い玄武岩の岩壁 蛇形の水が湧く パンの樹 パンダヌス ブウラオ 島の中央の方へのぼる 益々蛮地らしい    ★  草花や木の葉や花の輝かしい混乱 蔽ひかくされた一種の高原 嶮岨な山壁が口を拡く 私の手は血みどろである ロオタスの花を切るやうに バラの木の重さのオセアニア 樅の木の囲む城廓で われらは歌を語つたが 夜ふけ 月 梅の花に落ち 夫人の額にかげりが来ると 性急の私は一番に座を立つた 彼は憎悪してわたしをみつめる まだ論破したらぬアモオルの神が その濃い眉根にぴくついてゐた 十一月二十一日 岡の上に灯がつくと 月は金星に一歩づヽ近づき 櫻の木の葉のかげで 汽車が止まる 新聞紙包みをもつて 白服の男が降りて来る 谷間の家々にも もう灯がついた 櫻で囲まれた広場は暗い アセチリンのまはりに人がゐぬ 十一月二十二日   多島海 (ARCHIPELAGUS) わたしを何がおどろかせたのだらう その夛岐の入江をわたしはふみまよひ 海月と海藻の間に神々を見出す 夕月の様に輝いた額もつ少女たち 山茶花に似た唇の貝殻たちは 眞紅の總になつてゐる舌を吐く 病気になつたわたしの友だちに 太陽の光の遍くてらすやうに 祈る瞬間だけわたしはものがなしい たのしいいろんな想ひ出が この夕あかりに 凡てかへつて来る 古代の説話のやうだ 毛むくぢやらな巨人の胸か または 古代の血にまみれた楯に似た島が わたしの前面に立ちふさがり 背後から太陽に照らされてゐる わたしの立てる波がまだ彼の足にまで及ばない 彼は様々の樹木をもつてゐて それから露き出しの肩と顱頂とをもつ わたしを取巻いて帆船がゆく わたしをとりまいてたそがれがある 凡てのものが動いてゐるが その忙しさは 帰還といふことばかりのためだ わたしは出発するのだ 多岐の入江を身をくねらせながら わたしは脂粉で粧はねばならぬほど蒼ざめてゐる 十一月二十四日 険岨な山路を駆けるには この自動車は古ぼけてゐる その中で 櫻の杖もつた暴力團が吐気をもよほす バナナの植つた傾斜を見下ろす地点では 蛇のやうに蜒[うね]つた大河は もう銀色の一流れとしか見えない 水牛がこの高地にもゐて 雲かかる山を睨んでゐる その尾の向く方で谿の声 パパイア 檳榔樹 バナナの花 木生羊歯の根元にミヤマホトトギス 水が見える 黒い木立を通して 耳環の様にキラキラ光る そこから道は下る一方で 到頭一つの村に着く トランクさげた学生は他國を見つけ さびしく暴力團に別れの挨拶し ホテルのある高地まで上つてゆく 湖では魚捕る歌がある    △ ホテルでは「いらつしやいませ」 つきあたりの欄間に蝶類の額 すべる廊下をこはがつてゐるのは 先に着いた肥大症の老婦人と 黒眼鏡をかけたその夫の教授たち 湖は山々の足を洗ふ盥 タバコをふかすと犬が現れる お茶はなかなか来ない パパイアの實がゆれてゐるがまだ青い 廊下で女中たちが押しあひしてゐる 「このお客様はなんて小いんだらう」 ホテルの晝食に三十二匹の魚たちが 無念に殺される 海抜は二千呎    △ 島の中心には雲がかかつて見えない 三角の山が方々に並んでゐる ゆうぐれになれば虹が橋かける 電力工事の堰が白い 湖をゆくボオトは蛮社を見にゆくのだが 向ふでは内地人を内心いやがつてゐる 屠るお祭りを 毎夜さされるのはいやなものだ 歌に安来節がまじつたりする こんな手段で一の民族が亡ぼされる    △ ある日僕等は歌をうたつたが 空腹のためにそれはこゑにならなかつた おまはりが来てしよつぴいて行つたが それは一番の親友だつた 鬚の生えた人間が大嫌ひの男だから 今頃は如何してるかと思つたが 彼は元気で帰つて来た 翌日からだんだん痩せ 一年たつと巫女を呼んだ 巫女は白眼のにくらしいやつだが 祈祷がはじまると友は腕を組み 体をゆさぶつて無意識になり タバコの箱やパイプを食べようとした 僕等は彼の反抗にまで それを妨げたが無駄であつた 僕等は葬儀社に棺の註文をし 低いこゑで歌をうたひながら帰つた 声は風にちぎれちぎれに浮んだ    △ 鋒杉の立つあたり みづうみは朝日の反射で鉛に光る みちは下りてゆく ひたひた波打つ渚まで 崖がある 牛がゐる 火山岩のやうに灰色な岩 病的な蘭科植物の花が 赤い色の海に沈んでゐる 花粉は波の上に浮き 昆蟲はそれを追つて飛ぶ 眠つてゐた鴎がとび立ち ぼくたちから催眠劑をとり去る   × 珊瑚礁のやうな防波堤に囲まれた街 下町のはづれに砲台がある 杭に倚り波止場のはづれに蹲るもの 水に向つて飛込む群集 の野へのあこがれが彼等を駆る 十一月二十七日 ユ、また約束を破つた! 大きく傾いた高原の横を通つて 山脉の方に近づく鉄道は 小石がレエルに横はつてゐるので停車した それは穿山甲にすぎなかつた 恙蟲[つつがむし]の潜む露ある薄の藪を ひとびとは恐れながら車中に指さす すでに濁水河は清水溪と変じ 雲を頂いた高山たちも 裾の藍だけで十分に巨い巨人ぶりを示す おお 芭蕉畑に立つ汚れた子供よ わがキヤラメルの空箱をとらまへろ それは彈丸の如く 客車の背後に疾過し去つた 機関車は最後の喘ぎをマンゴーの樹に吐きかけた 十二月二日 ユを見舞ふ。夜、佐藤、中務、野村諸氏来る。 眼のくぼみ二重瞼の少女である あれが僕の妻 僕は夫でまだ青い 晝、肥下、服部。 夜の大論戦、近隣を脅かす。 十二月九日 わたしは縞になつたシヤツを着てゐた 横腹のところを魚がくすぐつて行つた わたしの前に小石があり わたしが蹴ると轉がつた 頭痛をさせる重い雲 鈍い音楽が砂の間に起こる わたしは縞のシヤツを引裂いた すでにわたしの髪は流れてゐた    ★ 雜草の生えてゐる屋根の向ふに 帽子のやうな尖塔があり 雀たちが朝の鐘をならす 入り乱れて子供たちが集つて来る 踏切がある 彼等は足ぶみしながら列車に手をあげる 轟音が歡聲にこたへて去る 鈍くまた 鐘が鳴る ふところ手をしてひとが来た 雜草の生えてゐる屋根のところまで    ★ 枯いろの衣つけ小鳥たちは草にひそむ 舌を鳴らす蛇はゐない 小石にさす日影 鐵條が錆びてゐる 跨線橋から人々が覗く 犬が轢かれてゐる ひき肉のやうだ 空には富士 鐵路はまつ直にその方まで延びる    ★ カタバルト、カテイスム そこらあたりに神がある    ★ 白鳥のやうに浮く雲は 尻尾の方で山脈を掃く 太陽が眼をさますと もう四辺は磨かれてゐる 辻で人形遣ひが立ち 影はまだ長い 風見鶏がひヾく 遠慮なしに おかみさんが箒に叱言を云ふ 煖爐で灰がくづれた    ★ 市場で野菜がみづみづしい 舗石が濡れてゐる 自轉車がから舞ひし 牛の肋がおろされて 鉤が鳴る どこかで時計が鳴る 他に音はしない 彼女は鏡に故障を云ふ ネクタイ結ぶ僕は手さぐりで 山茶花が障子に映つてゐる ゆふべの詩はけさ醜い 食卓の上の食べ殻のやうに    ★ いつも紳士はドメステイツクで 淑女はロマンテイツクでありたいものだ そこで神様が殺される 十二月十二日 遠い海から波が来て 眠いおひるごろに山茶花が植ゑられる 庭の芝は枯れ 日蔭では土がくづれ 父達の留守をして もの皆変改すと書を讀むのに こゑをだしてよみ 悲しく思ふ 十二月十三日 櫟の木の下に楽器が棄ててある 谷一つ向ふで音楽が聞こえる 谷間を葬列がゆく 雅びやかな宴がそこここに開かれ出す    ★ にほひあらせいとうの咲く春は何時来るか 小魚の遊ぶ春は 凍豆腐を食むに悲愁の気が立つ 十二月十八日 酒井正 合田孜 江間章子 伊藤整 百田氏。 飛んで行く和蘭人の歌  あなたや、あのマドモアゼルEがゐる。かたくわたしの俗人根性をいましめになつた。わたしの根性をエラスムス大人[うし]に告げろと。 わたしの根性を海の中にたヽきこめと。わたしは海なぞ歌ひたくはない。なよなよと風になびくコルセはめた腰や、青い光を放つ花についてなど何も云ひたくない。 わたしは歌ひたい。サアベルや、くさつ[ママ]や、すべてわたしの頭をぶつものを、殊にその打つ状態に於て。するとあなたはそれを弱り切つた心の状態と云ふだらうが、 さう云はねばならん。さうであることをわたしは欲してゐるのだから。欲してないのだから。わたしはわたしのこころが判らないのではないと思つてゐる時がある。 朝、ハミガキをつかひ、手ぬぐひで顔をふく。わたしは生徒で無いから腰に提げてゐない。手ぬぐひではない、手である切られた手をぐるぐる廻して尚も助命を請ふのか、 わたしは歌ひたい。歌つてゐるのはHAINANの島の東で沈んだオランダの船について、五百五十二語で。船が沈むのだがそれが何になるのだろ。 おまへ、蝿よ、虻よ、すべて飛ぶものよ、論理もまたとぶ。とぶと悲しいおまへの眼が怒つて見つめるけれど、あなたは怒らない。すべてヾ怒るひとは三人ではないか。 父母について憎しみを歌ひたい。憎しみを歌へばよい。鉛筆をけづり、紙に白つぽいヽ手が動き出す、そら書けた。よめ、よめばおまへの卑怯な心はもう何か附け加へる。 小学校の時「卑怯」を讀めぬ先生がゐた。かんかんを着た男がゐた。犬がゐた。凡てうそうそしたものを無くしちやへばいい気持ちだろ。僕はイヒヒと笑へばいい。 すると怪物たちがゲラゲラわらひながら消えちまふのだ、気持ちがいいな。だけどイヒヒとわらへないのではないか。蒲団をかぶつてから歯をむき出して見るが声にならない。 眼が赤いから何を見てゐるのだらう、この眼は。突き出た眼、とがり眼は何もみてゐない。彼等はボール投げを見る。犬を見る。犬の子を見るのに何も見ないので、 悲しくなつちまふので悲しいと心理学で はつたが、 へたひとも眞偽は不明だと云つてイヒヒとわらつた。あのやうに笑つて見たい、 といふので笑つたらどんなに気持ちがいいだらうとみんなに云つてやりたい。ああ、云つてやりたいので耐らないけれど、何故だかこの蘭科植物は病的で、 おまへたちを惹きつけるのだと母親たちが云ひながら呼びに来る。けれど大変赤いな。死ぬ前のときのやうだつたが、僕は死んだことなどありはしないぢやないの、何を云つてゐるのだろ。 僕は死について神について何を云つて来たのだろ。イグノラビスムスといふイグノラントといふイグノラビスムはえらいのかしら。カルモチンのめば死ねるのかしら。 死ねなかつたのではないか。午前十二時から飲みはじめてゐたが、あの子は偉い。死ねなかつたのかしら、死ねと云ふ人があればいいな。皆冗談でしか云はないぢやないのだろか。 云ふのに税金がかかるのかしら。税金のことも書かねばならぬのだが書いてゐると夜が明ける。税金の長さについて尺があるのだが、尺といふものも見たことはないと云ふ。 批判を受けてゐるのであるのであるのであるので無意識が耳を動かす状態を見せにきた博士はゐないことを書く。するとゐないことがわかるだろ。馬で跳ねて行くだろ。行かぬかしら。 跳ねるかしら。何故君は答へないのだ。君は答へるのだが聞こえないのだと云ふのだろか。それがまた聞えないのだろか。さて聞きたくないことばかり云つてゐるのだと云ふのか。 云はないのか。云ふのだ。云はぬのだ。云はされてるのだ。云はされたいのか。云はされるといふのか。云ひたいのか。敬語について、俗語について、夛くのことばがあるのだ。 言語学について五時間ばかし話たい。ネグロのことばについて、オストインデイエンのオランダ人のつかふ鋤について、槍について、古臭い昔話を知つてゐるのだ。この男は青銅だつた。 十二月三十一日 「流域」 そこでは山岳地帯のやうに音樂がよく聞えて 青銅(からかね)いろの炭が賣られてゐる 馬たちが繋がれると道は通れない 砂利の上へ熊笹から蜘蛛が来て遊ぶ 日暮までそこは日があたり食物にことかかぬといふ 「 」[ママ] 葡萄酒のいろに空は染められ 汚点をなして鳥がとびかふ 遠近や高低を無視して家々が重なり合ふ 單檣船たちはもう錨泊してゐる 一九三四年 一月三日 肥下にYのこと打ち明けた。 レインボオで女たちは僕をまだおぼえてゐた。 冬の季節には友だちが親しい カリグラムの中で菓子が凍える 撲られる男は可哀想だが クリスマスが過ぎれば楽しみはない    ★ 鳶、鷹などの嘴が 私の背中を痒くする 私は眠いので休息し 夢に彼女たちに復仇する アポロの使の ある女たち 悪口より外に取柄のない天使 一月九日 「冬の日[※コギト小説]」脱稿 一月十二日 晝過ぎになると刈株の並んだ水田では 氷がひヾわれはじめる 雲雀たちが枯れいろの衣つけてその上を歩む 彼等が田圃を渡り終つて 背後をふりかへるともう氷が足跡を埋めつくしてゐる   × ズスヘンは壜に鳥を飼つてゐた お天気の日にはそれは紡車のやうに ぶんぶん唸りごゑを立てた 窓の外では樹木の枝が橈みはじめる ズスヘンは鳥を干乾しにした 一月二十日 さざ波のまヽ氷ついた湖を渡つた 僕たちは苛性曹達での投機について話した 「それは泥棒さ」 僕たちは詩句では出来るだけ潔癖であらうと欲した 目的驛の吹雪が報ぜられてゐる [※ 交友人名録(文学者以外の番地略)] 天野高明 東京市杉並区東田町 友眞久衞 大阪市天王寺区寺田町 / 本郷区向岡弥生町 弥生館 藤田久一 目黒区下目黒 三省学舎 鎌田正美 本郷区森川町 蓋平館別荘 高垣金三郎 西宮市寺前町 / 杉並区高円寺 山中信造方 山田鷹夫 大阪市東成区東桃谷町 / 本郷区森川町 若村方 山本治雄 葛飾区下小松町 / 大阪府三島郡新田村下 丸三郎 世田谷区上北沢町 / 千葉県印旛郡公津村大袋 室 清 小石川区丸山町 学生修道院 / 京都府天田郡西中筋村石原 中野清見 淀橋区上落合 / 青森県八戸市中野町 中野医院 井上[木參] 本郷区本郷 津田方 / 大阪府豊能郡箕面村桜井 原田運治 兵庫県三原郡倭文村長田 紅松一雄 杉並区大宮前 後藤孝夫 大阪市東区瓦町 相野忠雄 杉並区天沼 三田方 / 和歌山市関戸高松町 竹内好 芝区白金今里町89(高輪3764) 杉浦正一郎 日本橋区橘町4-6(浪花7080) / 神戸市下山平通 服部正己 徳島市富田浦町 長野敏一 大阪市北区中之島宗是町 薄井敏夫 芝区芝公園 古谷方 保田與重郎 奈良県桜井町 坪井明 奈良市法蓮町池ノ内 肥下恒夫 中野区池袋南 小野壽人 神戸市宮本通 菊池眞一 本郷区曙町 / chez M.Planson, 13, rue Albert-Sorel Paris France 島稔 仙台市大窪谷内 江戸方 / 和歌山市北新博労町 鈴木俊 大森区池上徳持町 旗田巍 中野区沼袋南 鈴木朝英 小石川区大門町 吉田金一 本郷区駒込曙町 大谷一声方 岩佐精一郎 淀橋区柏井 岡部長章 目黒区目黒三田 川久保悌郎 中野区千光前町 高橋匡四郎 ※無記述 羽田明 京都市上京区大宮田尻町52(西陣3700) 丹波鴻一郎 淀橋区百人町 原口武雄  ※無記述 松本善海 松山市大街道 山田静夫 杉並区天沼 八女学寮 / 福岡県八女郡羽犬塚町 山崎清一 ※無記述 式守富司 小石川区竹早町 橋本勇 滝野川区中里町 / 長野県諏訪蓼科温泉 美遊喜館 ×  春山行夫 中野区高根町 岩本修蔵 中野区池袋北 阪本越郎 麻布区飯倉 北園克衞 大森区馬込町東2-1098 / 三重県宇治山田市外朝熊村 橋本平八方 三好信子 大阪府住吉区相生通 赤川草夫 中野区沼袋南2-15 日生印刷●機 伊東静雄 大阪市西成区松原通2-15 アルクイユのクラブ 渋谷区栄通1-36 辻野久憲 杉並区馬橋2-217 安藤鶴夫 本所区吾妻橋 ×  佐々木 三九一 品川区大井金子町  ×  侫 岡蔵 大阪市西区京町堀上通 ×  道野市松 兵庫県尼崎市東御園町 トモエ薬局内 ×  松本一彦 淀橋区柏木 橋本方 ×  能勢正元 福岡市崇福寺新町 九大寮 ×  森本 孝 住吉区天王寺 安川正弥 阪急沿線曽根 森中篤美 広島県佐伯郡大竹町油見 西垣清一郎 京都市右京区鳴滝音戸山町 ×  岡田安之助 渋谷区松濤 増田忠 兵庫県武庫郡魚崎町横屋川井 内山方 松浦(悦郎)元一[※・兄] 北区天神橋筋 ×  関口八太郎 東京府下立川町本町 / 仙台市 ×  國行義道 京都市左京区下鴨中川原町 (上1843 政経書院) 門野正雄 大阪府北河内郡守口町 京阪商業内 ×  本位田昇 京都市左京区浄土寺南田町 古原方 / 北区曽根崎上 ×  畠山六栄門 麹町区丸ノ内 丸ビル三階 桜ビール内 ×  村山 高 天王寺区堂ヶ芝1 金崎忠彦 佐賀県小城町 小竹 稔 和歌山県御坊町 小林正三 大阪府泉北郡浜寺町諏訪ノ森 三島 中 本郷区菊坂町 富士見軒 ×  澤井孝子郎 大阪府北河内郡友呂岐村郡 ×  小森治廣 大阪市東区竜造寺町 ×  池田 徹 芝区三田小山町5 塩谷方 ×  中橋吉長 北区天神筋町 川畑勝蔵 京都市左京区浄土寺馬場町 山田方 杉野 祐二郎 京都市左京区吉田本町 ●田方 坂口 嘉三郎 京都市左京区浄土寺石橋町 尾崎方 ×  池内 宏 麹町区紀尾井町9 和田 清 世田谷区代田652-1 加藤 繁 杉並区和田堀町和泉396 ×  内田英成  ※無記述 大島義当 松山市持田久保筋 松本健次郎 大阪市南区日本橋 和田勇 和歌山市湊通町北 岡本博信 大阪市南区日本橋筋 竹島新三  ※無記述 村田孝三郎 大阪府泉北郡高石町南 豊田久男 大阪市此花区上福島北3丁目 生島栄治 大阪市住吉区天下茶屋 細川宗平 大阪府豊能郡豊中町桜塚 藤枝 晃 京都市左京区北白川西町64 田中亀次郎方 岡田安之助 渋谷区松濤 西川英夫 中河内郡布施町東足代 山村酉之助  ※無記述 山本信雄 住吉区北畠西2-77 千川義雄 住吉区天下茶屋 久保光男 西成区東四条 佐藤竹介 淀橋区戸塚町 名越方 鹿熊 鉄 此花区江成町 城光堂化学研究所 川村欽吾 牛込区喜久井町34 伊藤方 酒井正平 芝区三田四国町2-4 大前登与三 神戸市須磨区小寺町 本田茂光 台湾台中州大屯郡霧峰小学校 加藤 一 静岡県富士郡富士町平垣 古谷綱武 中野区昭和通1-4 檀 一雄 中野区昭和通1-4 三浦 治 世田谷区北沢 愛情●館 第九巻終り 「日記」第十巻 21cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(82ページ) 昭和9年2月13日~昭和10年2月8日 (※神よ、我とわが恋人を) Hute meine Liebe und mich (※飢えと寒さから守りたまえ) vor Hunger und Frost, o Gott! (※愛はうつろいゆくもの) Liebe ist verg nglich. (※飢えは永遠だ) Hunger sei ewig! TAGEBVCH VOL.10. 13te FEBRVAR 1934 K. TANAKA 仟玖佰參拾肆年貳月拾參日 せむ方なく愁しきこころを抱き て ん ま 外濠通ふ傳馬船を見 冷き水を見てゐしが おもひ いつしか心は大いなる愛の上に移りにき われは愛すべからぬひとを思ひ ひとはわれをかなしくしぬ われは飯を求めしが ひとびと酷くこれを拒みたり 大いなる天より何ぞも降り来らむ その日々の飯 心と腹とひもじければ ひとびとにまじらひ ふたつながら満すことを得ず たヾひとりのひとによりて共に泣きしが ちから かれにさへ権力なかりき たヾふたりして思ふらくは 地二つに割れ われらを生きて埋めよと (さいろう)※酷薄強欲のたとえ。 あるひはわれら一双の豺狼となり よそびと (くら) 巷にありて他人を喫ひのまむことを かくてわれらとげ得ぬのぞみに焦れ あなづ われは男なれば外にありて侮られ かれは女ゆゑ内にありて哭き (まがつみ) 夜臥床に入りて人間の営みのみをつくしぬ (禍津見抄) 貳月拾肆日 ★ ゆふぐれになると帰るひとびとの様に わが魂はいつか性として汝の魂を索める ★ 山腹に隠れた村々から挨拶が送られる 街は日食に忙しい 天文台へは臨時に電車が出 新聞社では新しい社員が叱られてゐる わたしは山腹の家へ帰りたい 老いた父母を慰める方法を一も 学校生活では てもらへなかつた ★ い花(一) ゲルハルト・ハウプトマン 古い山の街は燦爛と好ましく彼方へ拡がつてゐて、鏘然と重々し こしかた くそこから過去がひヾいて来る。そして微かにわがまはりには、ワルテルの歌ふ恋歌がたヾよつて来る。その時、かの高根の去年の雪 ゆふばえ まで空間は拡げられ、夕の鐘の音の翼をつけられた魂は、かの晩映の名残の光とラウリンの薔薇咲く苑へ立去つてゆく。 貳月拾七日 蒼暮 鴉が啼くと風が止み 花キヤベツの閉ぢる音がする ここ わたしの脚下に地軸は立ち わたしを中心に日が傾けば月が騰つてくる 湖水 水の中に髪の毛 かはほねの花のやうに黄金色で 昔その歌が湖水を渡つた 絲杉のかげから夕もやが立ち 暗い水の中で髪の毛は閃いた 長い夜 わたしたちの歌が空に昇り 雲のきれつぱしから星が降りた むかしむかしおぢいさんとおばあさんがあり オルゴオルに倚つて死を想つてゐた 諾否 けふの日から芳香が立ち 柱をめぐつて鳩が飛ぶ 破瓦から草が芽ぶき 死んだ神々が賭博して (ものがな) そのさいころをふる音が愁しい カリグラム 鳩やみさごの堕ちる石から 水は流れ出して 月夜は深い淵となる 少女達が游ぐ水では シヤボンがとけながら くなつて行つた 貳月拾玖日 ある麗かな朝から 羊に似た雲が躍り 地上では若草の間を魚達が下る ピアノを彈く小鳥達に 木の實が約束され 市場では株が上がり お晝に一寸休憩がある 二月二十二日 池内教授よりほめらる。 方々で梅の花の咲く午後を散歩でくらす 何が私を悲しますのだらう わたしは指を折つて見るが指は足りない だけど結局は一つのことだつたと気がつくと 白い雲は馬のやうに丘の背中を蹴つて駆けて行つた 二月二十五日 梅の花の咲く苑にも まだ枯枝のまヽの木々が入りまじり 髪の毛のやうに葉がひつかかつてゐる お婆さんのやうな鶴が歩む 脚は奇妙に細い 冷い水に映る影を見るほどの気力もなく 彼女は天を仰いで嘆く 三月五日 詩「西康省」を書く。十枚、一九○行。 ゆき子、留守の間に来る。 三月十五日 もくげや辛夷の花の間に 老いた春はさまよひ 散つた花びらを踏む足がある 雨が過ぎた後では木々は背のびし 夏を呼ぶ歌がこだまする 山峽から鮎が落ちて来る ☆ 魚の卵が海藻にあつた ロヂツクと云ふ字に似て心につヽかかり 綜々と流れる潮よ わが春の愁をとヾめたまへ ☆ おととひそれは香ばしい風で来 昨日は雪を以て中断した 黄色い小い花が咲き 鳥が来鳴く藪と繁茂し 雨の中にきらきらと耀ようた ☆ わがクセニエンを聞いた人はない 口笛のあひだに咳がまじり 静かな屋敷町の晝から ボンボン時計が拂はれる ラムプや帆船の模型や 苔の花の中にクセニエンは育ち 梢から空に向つて堕ちこんで行く われは殻を荷負つて 濕つぽい土にのたうつタニシの如くある ☆ ゆきの名を負ふ少女に われは幾夛の負債を得 蹌踉として深夜をゆき 生ぬるい風に嗚嘔し 溝ごとに唾を吐いてゐる 安らかに眠る少女と思つたが いつかやせてゆくことをゆめみた 三月十七日 こんな気持ちである。 (肥下) (保田) HのところへゆくとYが来てゐた。Yが話し手で、「Oさんが二円五十銭出したんや。そしたらみなで、もろとけもろとけ、出したものならもらつておけ、と云 ふ工合なことを云ふたんや。 Oさん苦笑しとおつたど」。それはYの科の謝恩会の時のことを云つてゐるのだが、Hはそれを「はあ、はあ」とほんとに可笑しさうに笑ひ声を立てながら聞い てゐた。 自分はその話し手と聽き手に怪訝さよりも怒りを感じてゐた。 「あんなことがほんとに可笑しいのだらうか?」 「何故、あヽした笑ひ方をするのだらうか?」 それにくつヽいて色んな批判が湧いて来た。結局その批判は皆自分に堕ちて来た。自分だつて外へゆけばあんな話に打ち興じてゐる自身を見つけるのではないか と気がつくのだ。 ちつとも物が書けなくなつた。ためしにむりに筆をとつて書いて見る。何がわたしを驚かせたのだらう その多岐の入江に踏みまよひ わたしは海月と海藻の間に神々を見た ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 書き畢ると直ぐパロデイの方が頭に来る。たとへばこんな風に。 何がわたしを苦しませるのだらう わたしの胃酸過多症はもう癒つた筈なのに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 世界中で一番汚いことばが自分の筆先から生まれて来た。自分は少くとも筆で書けるだけ潔癖な魂を持つてゐると考へてゐたのに。 (それは笑ひ事かも知れぬが、自分たちの年頃では偽善をおし通すなどいふことはできぬのだから) ものを書くことを止めることが一番いヽ。誰もかもがさう勧めてゐた。殊に群小同人誌の批評家たちが一番手ひどく思はれた。自分は田舎へ帰つて中学校の先生 をしようと考へた。 それと同時にけふ田舎の父から、当分口のありさうもないことを報じて来てゐるのを想ひ出してゐた。 お兄ちやんのヒステリー お兄ちやんのキチガヒ Sといふ女学校へ行つてゐる妹が歌ひ乍らやつて来る。そんな情景は美しい。しかし自分はそんな妹を持つてゐなかつた。 自分はむかしコオラスをやつたことがある。譜が中々讀めなかつた。第一テナーだつたが、高いところは生の声しか出なかつた。しかし快適なリズムを、自分は あれから愛し出した。 -<-<--<--<-<--<- ドイツ語の詩にはみなこのやうな強弱がある。自分は声を出してそれらを讀むのを好んだ。 ある日野原に出た。杉の木が冬の霜で赤茶けた葉をつけてゐた。 くぬぎや楢は新芽で煙つてゐた。ワツトオの画のやうだと自分の中で云つたが自分はワツトオを知らなかつた。 自分はこの頃、草花を再び愛しはじめてゐた。殊に桜草属の可憐な花たちが眼を惹いた。それらの色は皆割合に穏かで、決して気持をかきみだすことなしに引立 てヽくれるのを感じる。 そんな気持を友達等からも求めてゐたが得られなかつた。 自分には友情を云々する友達はゐたが、友情を感じさせる友達は一人しかゐなかつた。彼は田舎で画を書き乍ら、口頭文官試験の準備をしてゐた。彼に丈は椚や 楢の美しさが通じた。 自分はニイチエ的な孤独者ではなかつた。山に入る底のものよりも、常に求めて与へられぬ乞食のやうな卑しさをもつてゐた。そんな孤独は耐えやうがなかつ た。 そして皆が一人前のやうに一人歩きしてゐるのに鑑みて、自ら羞ぢ苛いなんだ。 三月十八日 梢たちは新芽で遠眼には打煙つて見える 屋根からは煙の立つ藁葺きの家 埃のやうな梅の花--鶴はゐぬ 老翁たちが畑を打ち 自轉車が眼の角を曲る ★ 林には幾夛の思惟があり 落葉たちは水溜りに沈んでゐた 鳥が音たてヽ歩き 所々に幽かに花が咲いた その實を去年の冬にみたのだが そして思惟たちはつながらなくなつた ★ 林を渡つて鐘が行つた 降るとしもない雨が蕭條とけぶり 春は遠山の夕映にだけ見えてゐた (たかむら) 夕方の風は篁に殘り しめつぽく車が列をなして通つて行つた ★ 愚な疑惑が水の面に書き記されてゐた そこでは女は井守のやうに醜く 男は狡猾な蛙のやうであつた またも不眠の夜を眠り 朝は更に濃いコオヒーの中で目覚めてゐた ★ 彼等は凡て敵である。彼女と彼とを結びつけて呼ぶだけでも忌はしい。 三月二十日 鴉の啼く朝 廣重の松から飛び立つて 汽車のゆくことは音だけでわかり 瓦の屋根の波から 鍛冶の歌が起る ×八木あき子氏、北園克衞氏、衣巻省三氏、中村喜久夫氏。 青い腦髓の中に林檎の花が咲き 私の鼻は冷い 犬のやうに チカチカと輝く五角の宝石よ (めぐ) 廻つて流れる濃い色彩の水から 滴る水滴をもつ魚たちが掘り上げられる × 暑い植物たちを通つて来た風は 炎々と燃える建物の大理石の柱に その鼻先をくつヽけて冷さうとした アカンサス属の植物をつぶすと 紫と赤の中間色の汁が滴り 私の更紗の着物を汚し 母の叱責のために準備が出来上つた 三月二十五日 大阪で 六月のバラがもう咲いた 帷を垂れた空の下で ヨツトたちは浮んで雲のやう 坂を降りてゆくのは馬 裸か身に汗ばんでゐるのだ ★ ★ 驛逓馬車の喇叭は遠い (にじ) 森ではお祭り 水仙の花が踏み躪られる 歓喜の声がこヽまで聞え 蒼白な詩人たちの椅子が動く 松脂の香が一面に漂ふ もうすぐ螢が灯をともす ★ ★ 明るいイマアジユが浮かぶ フロラとブランシユフロラの双生児 花よりも愛でにし児たち 蹄から火花 森から螢  ニユムフ 川からは水精・・・・・ ★ ★ アヅマヂノ サヤノナカヤマ ナカナカニ アヒミシヒトノ カゲゾコヒシキ アヒミテノ ノチノココニ クラブレバ ムカシハ モノヲオモハザリケリ フルサトノ ヨベノフスマニ トヒクルハ アヒミシコロノ サヤサヤノオト 三月三十一日 西川を送る。池田、中島、安田、かをる、八木 三月二十六日 西川、池田、安田。 三月二十七日 清 (浪中で)田村邸。 三月二十八日 全田、山本信雄氏、千川義雄、勢山索太郎氏、 三月三十日 久保光男。 藤村青一氏。 ああ 咽喉の奥まで見せつけて悪罵を放ちたい この腐臭を放つ大都会なるもの 原色をもつて色彩るに妙を得た獸らと あぶく 底土から湧き出すメタン瓦斯の泡たちに充ち 到る所で奇妙な言葉がかけまはつてゐる ★小間物屋の息子西田は三月一日死んだと云ふ。 ★このノートは掘り出し物である。 Des fleurs s´envola un papillon gui me fr la le menton de ses ailes, j´en eus telle frayeur gue j´ai cri . Belle compagne Rlanchefleur, voulez-vons voin une freur gue vons aimerez beancoup, je le sais, lorsgue vons la verrez. Il y a pasdefleurs pareilles dans ce pays. Venez-y, dit Clarisse, vons la conna trez certainement, car elle est de votre pays i je vonsla dounerai si vons la vonlez. (※・花から一疋の蝶が飛び立ち、羽で私の顎をくすぐった。私は吃驚して思わず声を上げた。 美しき友、ブランシュフルウルよ、その花を見たいと思う? 私には分かるが、その花を見たら君はきっと好きになるだろう、この国にこんな花はないのだから。 いらっしゃい、とクラリスが言った。この花は貴方の国のものだから 欲しければあげましょう、と。) 噴き上げは の若葉に埋れた 大理石のウヰーナスは無花果の藪のうしろ 黄金の陽の矢は果樹にとヾまり 馬車は坂路を駆け堕ちる 口笛がとほく林をゆるがせ 村々では燈火が足らない そこから一年中の賣上が稼ぎ出される 泥の中に手足は委ねられ-- お屋敷で古典的なマヅルカが舞はれてゐた 四月六日 奈良と松田明 タカマドの山は赤茶けてゐる アセビの花も陰気くさい 鹿の子は見えぬ 寒風を含んだ雲が走る おばあさん達が一列懐郷病にかヽり 女学生達は靴下をほころばす イコマのヤマから夕ぐれが来 あつちは西だとセンセイが教へてゐた ★ 彼の苑では白梅 紅梅 沈丁花 菜の花 彼の家にはめぐし児 それから口やかましい義母 その云ひなりの義父 気の利かぬお嬢さん上りの妻 一團りの義兄弟たち 彼の家の外を寒い風が吹く 彼は煙草を吹かす 家の内と外で 彼の頬から濃い髯が立ち上る ★ 春寒や鹿の子に芝生くれかヽる 馬酔木咲く原起き伏しの目にしるく 寒ければこの手がしはも見ずに来ぬ ばヾはな ひ む ろ 老嫗ひとり鼻汁うちかむも氷室社まへ ※・芭蕉「春の日」より八十二句抄出。 ※・芭蕉「曠野」より六十六句抄出。 春寒や奈良坂路にくれかかる 埃にまがふ花のかなしも シヽ 猪下り来る春日の奥に通ふみち  ソダ 在所は麋に忙しげなる 羊歯の葉に包みてかへる小魚かな 翁の面をとりおとしけり 夜叉ひとつ天竺河を渡るとふ (まさご) 砂子にまじる瑠璃ぞはかなき くしげ み匣に蚊のとび入りしゆふべかな 寢られぬまヽに歌仙寫しぬ 奈良坂やこの手がしはを教はりて 薬師はきのふ山に入りにし 御木伐るや丁々のこゑせせらぎに 短冊とれば硯もて来ぬ 苔の屏風に鞠を蹴りかくる ヨシキ 淵瀬かはりし宜寸佐保川 一本の柳の下に店開き  ウギ 茄卵子三つ蜜柑一籠 ザル 笊もつてゆがく野菜を買ひとりぬ 夕月の下(もと)畑に火を焚く 四月九日 芦屋ロツクガーデン、大江勉と。 探幽 櫻咲く溪谷をゆき 石ころの河原を見 果物を食み 鴬を藪に聞く 落葉樹は紫に芽吹き 常磐木は黒い 山角を曲れば瀬の音 崖から水が湧く 菫の葉は尖り 花は目立たない 嶮岨な小徑を攀ぢ 杉根を撫で 岩を傳つて流れを過り 崩れ落ちる砂をふんで 岩山に上る 露出した岩は風化し 海は和やかに皺より 帆は静かに滑つてゐる 少童は岩窪に立ち 予は岩秀に坐し 藥草生ふる絶壁に 佛菩薩の文字を讀んだ ※同人誌 四月十五日 「鷭」来る。 安部忠三氏を訪ね、歌集「砕氷船」頂く。※・十八句抄出あり。 四月十六日 中島、藤村、西尾氏。 遠近法 葡萄酒のいろに空は染められ 鳥たちは汚点をなしてとびかふ 單檣船が入港して 碇泊のためにいかりをおろし その時夕焼が少しばかりゆらいだ 四月二十七日 崖の下の感情 蛙は蛙の歌をうたひ 田螺の殻には櫻の花片がくつヽいてゐた そして櫻の木では毛虫が育つてゐる 蝶にはまだ早い まだ早い 五月一日 松田明来る。中島。 五月二日 詩 世界は いろで國中には旗や幟がひるがへつてゐる 瑠璃窗の中で酒を酌む男 顔色が蒼いと下婢が寄つて来る 蜘蛛の金の糸で体を縛られて 嶺から初雷と電光がやつて来る ※・芭蕉「ひさご」より五十句抄出。 五月四日 大毎でおちました。 ※・大阪毎日新聞 五月八日 私の の世界で 私は赤い 子を着る 色盲の検査にはいつも合格したが 暗がりに落ちてゐる花束の色は知らなんだ 螺状の道がそこにある 掘り取つた青い土から陶器をこさへ 空ゆく雲や鳥は水に影うつす そこでは自棄など考へやうもない ★ 此頃はノヴアーリスの翻譯で創作力が消失しました。 ★ 星は彼等の制服に 花は彼等のお顔のまん中 それは花ではありません 赤くて雄蕊があるけれど ★ おヽ 祟高な大山脈 峨々たる山襞 巍々たる峰々 これに比べてはわが胸の 肋骨の尖りなどまだまだだ ★ 歌ひませう 踊りませう ロンドがちぎれて蹄鉄の 形になるまでをどりませう 森は五月の若  サツキバナ 地には若草五月花 をどり子たちが踏むならば たのしい拍子でふむならば いつそあきらめませうから 歌ひませう をどりましよ アサギ 空は五月の淡青いろ もつともいまは夜だから その上森がふかいので 春の星さへ見えないが もうぢき螢がひをともす 幸福なんてひる間には どんな聖者も見つけない 歌ひませう 踊りませう もうさつきから茂みでは 森の楽隊百千鳥 調律試演のおまちかね 歌はハイネが春の歌 あれは敗れた恋の歌 不吉な歌などよしませう ただひとすぢにこころから 自分の歌をうたひませう 五月九日 私たちは最も正確な機械の一つとして時計を知つてゐるが、それも人が故意にすヽめたりおくらせたりするのを見た後からはもう信用することが出来ない。 エーテル 気がたちのぼる野中に 子供らといりまぢつてはねる 金貨のやうな小い花が しづかに水に流れてゆく 魚や獸やの存在が明かでない ★ ノワーリス? W・シユレーゲル ヘルデルリーン テイーク シエリング アイヘンドルフ グリム兄弟 アルニム・アヒム ブレンターノ ハイネ シユトルム レナウ 北川冬彦 北園克衞 春山行夫 三好達治 阪本越郎 上田敏雄 安西冬衛 西脇順三郎 ★ ニユムフのいざなひ 紫いろの水の中に 男は顔を浸してゐる 水には黄色い藻が咲いて 日は亭午 木の間から洩れる光が 芝生で豹の皮のやう 男は今だ顔をあげない 水も動かない 五月十日 うすい血の色の林のなかで 小鳥は啼きはヾたきしてゐる 雲は輕やかになるこゆりを動かし 時々口笛を吹く 自由な水が流れては インクのいろに染まつてしまふ ★ カミノケ 聳える岩にまとひついた髪科の植物 去来する獵科の鳥 ★ 月の無い水から這ひ上つて 爬虫類は啼く いたましく おお おれも知つてゐる挽歌のかずかずを そして墓はいつも暗い そして死に至らしめる非行が最も暗い ★天狗 夛分その背後に燦爛たる群星が在る それは暗い発光せぬ天体だ ハイエナのやうに髪をふりみだし 天空にくつヽいて遊行する それのためにわが地球は若干暗くされてるのだ ★ うづくまつてゐるハイエナを知つてゐるか 彼等は爪に毒をもつてゐる そして爪の毒が役立つより先に 弱い獲物は出血して死ぬ ★ 彼等が口をあけて歌ふとき その口腔はうす紅い --それを俺は永い間愛してきたものだ 芳ばしい微風が薄い雲をひく その奥で歌だけがいつまでも残る 世界はその方がもつと美しい ★エロスにさヽぐる 無花果のさしかはした枝の間に その茂つた葉のまへに 太陽に照らされた石竹と薔薇の花 朝露でぬらされて美しかつたが 子供たちが折る時さつと凋んだ ★鴬 上の道をゆくとき下の道で啼いた鳥 木々が花で茂つてたので その黄緑いろの皮虜を見なかつたが いまにして思へばしみじみと惜しい また 年寄つて病床にきくとき --老いた人間は口笛を吹かぬから その鳥は天使に変つて 窓の薔薇に巣くふだらう 室では石竹が馥郁と 五月十一日 の鸚鵡 堅しい岩の城でないわが心を あの秘密な力強い感情が 攻め陷すのは易い そのためわが姫は奴隷となり 敵國の王の閨房の一人となる 柘榴や巴旦杏咲く園で 捕虜の我と邂逅したとて もはや彼女はわがものでない そんな潔癖がわれら 貴族社会には免れ難いのだから ★ やはらかい樹木の葉の柔しい光に わが五月は来 くた 卯の花腐しのすヽり泣きが めぐ 一夜さわが床を廻つてゐた そしてわたしの中で小鳥が一 死んでしまつた ★ 逝つた全てのみ魂の時代を徒に 恋ひしたふまい それは予定された変改の軌道通り あすのくすんだ銀の時代を おれはこれから夢みるのだ その光が心臓には何といヽ沈静剤となることだらう 戸外では さう心臓の外一杯に硫黄の香がする ★ 灯はゆれる 歌につれて 悲しい聞きあきた歌だ 四辻では花が咲く こめかみに彈丸の跡がある男 その人は俺にボンボンをくれた 俺は眠る ゆれる灯にゆすられて プレヒストリイ ★史前 鹿や羚羊や猪や 凡てハイエナの族を狩りした 入江では蘆の花がまつ白で 船から飛び降りるとき 貝殻で足のうらを切つた ★ 渺茫たる水を先づ知り 銀色にけぶる無限の林を見た 赤系統の色を見ては獲 では休らひ 蒼で眠つた 時にわが手を噛む獸を馴したが それの胴はわれのやうに細かつた かくてわれは眠る 獸のやうに手足を折り曲げて ★ 叫喚する我孫子のこゑ わが憩ふ阿夫里まで聞ゆ ハジカミ 薑を啖ふに慣れしものわれら (ほろぼ) ハイエナの族 北方の族を殲さむと ★ 栗鼠が月の夜 鐘を鳴らした 木枯の中を院主はまた酔つて帰つて来た 翌朝早く起きた僕は 霜の上に点々の足跡を見た 獸か人かをだれが知るであらう ★佛×蘭×英戰爭 海から青銅の大砲が上つた それは西暦一八二○年の鑄造になり 弗羅曼の名匠が手になつたものである-- 軍國は冷笑してそつぽを向いた ★分水嶺 痩せた陸の背中をゆく その 脊椎骨を数へるのだ 一輪咲いた高根の花 霧たちがまた来て帷をひく 病室らしくクロロフオルムを匂はせて ★中島栄次郎に(二首) 五月雨に棕櫚さへ花の咲く頃や 葉にまぎれて青きはかなし柿の花 憂鬱のしげり通るや海のいろ 五月十二日 あの子はきつといふ 「あなたまだ信用してないの?」 または 「まあ!ひどいわ!」 だけどまるで答へを待つてたかのやうに 俺はたヽ一つの問ひに焦るのだ ★ Ich und du und du und du Zweimal zwei ist viere. Tragen Kr uze auf Kopf, Kr uze aus Papiere. Rechts herum und links herum, R ck' und Z pfe fliegen, Wenn wir alle schwindlig sind, Fall'n wir um und liegen. Purzelpatsch, wir liegen da, Patschelpruz im Grase: Wer die l ngeste Nase hat, Der f llt auf die Nase・・・ Otto Julius Bierbaum 牧羊神の逃亡 どこもかしこも に茂り色さまざまに花が咲き 正午の太陽が照らしてゐる 島の藪の人の手のとヾかぬところで パン 牧羊神は坐つて刻んでゐる にはとこのき 接骨木からたくみに 笛を刻んでこさへ にはとこのやうに細い 髯の上にのせる 上品に 低く吹き そして彼はほヽえむ これは夜なかに 湖の上で吹けば 夜中に 健気な詩人も悲しむだらう これを晝なか甘く吹けば ああ 彼等の詩人の嘆きをさませば ああ ああ ああ あはれな私 牧羊神に おれのしたことはいけなかつた 俺の眠つてゐる間には ほほえむことを 奴等は忘れてしまつたからな 低く彼は笛を吹く それはひびく まるでみづみづしい苔の間から つるつるした大きな礫の上へ 明るい泉がとばしるやうだ 青い接骨木の匂りのやうに この音曲は大空に漂ふ 一杯になごやかに そして笛の音を一人の童女が聞いた 藪で花を摘んでゐたので ひヾきが全く早く つたはつて行つたので ひとりでこヽで考へて見るには たれかヾ笛を吹いてゐる 誰がこの笛を吹いてゐるのだらう 誰もいまヽで聞いた人は こんな風には吹かなかつたし ああ 彼女は音に全く混乱され 心臓ははやく動悸をうつ きつとほんとにきれいな男が それ故うまくふけるのだが そして若い人にちがひない そこで彼女は高い岩にのぼり ひヾきをずつとつたはつて見る 藪や石や切株や いヽや なんだ ふん 笛を吹いてゐるのは山羊だ ああ 神様 何といふ格好です 茶色のかみのけ 太くてちヾれ 全く それから鼻 それから脚 曲つてんだもの ゆらゆらしつぽももつてゐる 怪つたいな二つの角 きものはだけど小い それで彼女は笑つて笑つて笑つて 涙が出るほどわらふ 牧羊神は歌から覚め そこから逃げ出す しじ いとどふかい静まにゆく 人からはなれた 人からとほい (オツトオ ユリウス ビイルバウム) ※伊東静雄 ※絵 五月十三日 中島と伊東さん。 山中常磐を見る。 花が咲き、馬が嘶き、甲冑が鳴り、槍や刀がきらめく。 藍や青の土坡、 の松は美しい。 たヾ卑俗の慘酷さが、腐肉いろの赤となつてゐる。 ★ 星よ 堕ちて来い レモンよ みのれ 北から吹く風で児が授かり 南風では黄金が来い 五月十四日 ※・梁塵秘抄 巻二より十二行抄出。 五月十五日 丸に 棕櫚咲くやひとには遠き五月晴 卯の花の垣根に海のある家や はで 棕櫚の花がなまじつかな華やかさで わが館を金でふちとりすると 五月は溢れるさびしいいろとなる 外の畑では葱がはかない坊主頭を 並べてゐるのだらう 夕日の時以外には外出しないならはしである もうし もうし 柳河ぢや 柳河ぢや 銅の鳥居を見やしやんせ 欄干橋を見やしやんせ (馭者は喇叭の音をやめて 赤い夕日に手をかざす)--白秋(柳河風俗誌) ロルグネツト 教授は柄付眼鏡をとり出す 夕日の坂下で馬が倒れてゐる アカシアよ 女の子たちが見上げて通る 石橋の下は川でない 遠くで眩い屋根がある 星辰をたヽき落とせ プラトンが見た毒人参の杯は ソクラテスの死後 彼の旅行につきまとふ 五月十八日 浪中の嘱託を命ぜられる ※浪速中学校 五月二十三日 かなしく穀物はみのり、丘陵は遠い。麥刈女たちは歌ふ。雲雀。 (ホトトギス) 室で時鳥の話をする。風が を光らす。土は眩い。 僕は哀れな黒 子をきて背中が曲つてゐる。 道がくねくねしてゐる。蚊が生れる。ああ、遠い丘陵を見る。 熱帯や少女がこひしいので 子にかくれる。 眞珠いろに山々が光る。ちかちかと眼の中に注ぐもの。 風の波、光の波、交互にやつて来て音叉のやうに鳴る。 僕のたましひはふるへる。午後だから。 鐘が鳴つて鐘が鳴つて、葬式は出ない。 六月一日 おれは遠く埃の噴水を見る 矢車草の色彩の混沌 野茨が白い花をつヾる藪かげ 白い道の上をよぎる蜥蜴の子 おれはこども等を愛し 南瓜の花を愛する なぜかしらんが泣いてゐるといふ おれは手紙を書く 腕が折れるまで おれはあのあたりに家を建てようと 夏は柘榴のチユーブから押し出される 終日おれは噴泉を見る そこここで啼く犬がゐて 晝はひと気がない いぶ おれが悒せくてゐると 掌がとほくでひるがへつてゐる 山が近い 禿げてゐて あれを思ふと海が拡がつてくる うねる波と輝く波とが アトラスの苦悩を己はすでに愛した すべての經験が己のなかで無に帰る 非有の原子を見る 神の種子が甦へると祝祭になる 六月五日 東郷元帥國葬といふ日 良寛詩集 富貴非吾事 金持ちや高官にはなりたくない 神仙不可期 神仙になれるとも思はない 満腹志願足 餓えさへせねばそれでいヽ 虚名用何爲 空しい名前なぞほしくない 一鉢到処携 どこへゆくにも鉢を一つ (ふくろ) 布嚢也相宜 布の嚢には米を入れる 時来寺門側 時々寺門の側にやつて来て 會與自動期 子供たちと会つて遊んで見る 障害何所似 一生これ以上のたのしみはない 騰々且過時 ふらふらとしばらく時間をつぶす ○ 青陽二月初 春は二月のはじめごろ 物色稍新鮮 草木の少しあをむころ 此時持鉢盂 鉢をもつて 得々游市廛 得意然と巷にゆくと 児童怱見哉 子供たちがおれを見つけ 欣然相將来 よろこんでさそつてやつて来て 要我寺門前 寺の門前でおれをとおせんぼ 携我歩遅々 おれにぶらさがるので歩けない 放盂白石上 そこで鉢を白い石の上に 掛嚢緑樹枝 ふくろを青い木にかけて 手此鬪百草 草ですまふをとらせたり 手此打毬子 手毬をついたり 我打渠且歌 おれがつくと子供らがうたひ 我歌彼打之 おれがうたつて彼らがつく 打去又打来 ついて ついて ついて 不知時刻移 時間のたつのもわからない 行人顧我咲 通行人がおれを見て苦笑して 因何其如斯 「何でまあ、そんなことをなさるのぢや」 低頭不応伊 おれはうなだれてこたへない 道得也何以 こんなことはくちでは旨く云へぬ 要値箇中意 わけを考へて見たところで 元来祇這是 もともとかうしたものなのだ おれは思ふに一生自分の家は建ちつこない そこでゆめ見ることにした あの野茨のこヽかしこに咲いた 方二百坪ほどの地所がいヽ あすこに南面の 日当りのいヽ家を建てる 児のためには子供べや ぢよちうべや 妻の化粧室 婢室 はばかり 就中湯殿と便所をきれいにし 書斎兼應接間をひろくとり まはり四面に書棚をくむ そこへ英独佛蘭支の書を積み おれはゆめのひまに讀む おれはまた家のうしろに 花をつくる園をもちたい 家の前には香気のある 花咲く木々を植ゑておきたい 秋風春風のおとづれ毎に それらが馨るのがうれしいのだ 芝草を食む牡牛の大さ 雲が彼の膚に去来してゐる 早い蝉が啼いてゐる 遠い木で 晝の星が山の上に淡い ★ みささぎのほりに水草の生ひしげりわがかなしみに夏は来りぬ ★ 彼等は歌ふがいヽ テラスについて 夫人について 転向した博士をものあはれげに ギリシアの神をも嗤ふがいヽ 六月十日 サボテンめ 空の蝿をとらへをつた (ひらた) そのとげのある偏い手で × 六月十一日 朝焼がすると晝すぎに降る おれは東の方を見て決心し 西の方を向いて唾を吐いた 黄いろい瓜が實る オーデコロンのにほひがする 六月十二日 砂 海のまん中に裸の岩山がある 鴎が夜そこに集ると 波が 鞳と岩根をゆする 鴎たちは夢みる 虚空が彼等を脅かすと 碧 潮風を吸つた時 海の薔薇園と 野菜畑を知つた-- そこでキヤベツだけが育ち 藍色のうねになつてゐる 子供たちは歓声をあげ 青い 青いと呼ぶ 鴎が降りて来て 彼等の眼を啄いた 六月十七日 僕は体が大変悪い。夜よく夢を見る。 螢 山脈は藍青の裳をひろげ 雨雲の方に靴下を見せてゐる 煙は巨人の掌のやうに ひろがつては死ににゆく 夕ぐれから物音が分離し 急行列車のやうに時が走る 墓地に緑いろの光が閃いて 両世界に橋を架けてゐる ★ 黄いろい枇杷を叩きおとす フランス菊は咲かない 印刷所の夕暮をおもふ 熱が微かに引く ★ 蘭の花をぬひつける 流沙から立ち上る都市 死人の指を折る (うまごやし) 苜蓿の香りの中で ★ 心臓よ 血管の木を生けた花瓶 中学の卒業式を思出す その木も弱つたか 眩暈の雲の中で 木々は指のやうに裂けて見せる ひヾのいつた瓶よ 色がわるいね ★ 流れよ 俺の思惟よ 詩について生死について 神や靈や青い花や イヒテイス 魚のために 彼女は啼く 獣のやうに だらしなく 流れよ 俺の思惟よ 魚のために 六月二十三日 業 息子はア・デイアドムと呟いた。父は理由も知らず憤つて撲つた。 息子はまた、ア・デイアドムと呼んだ。父は怒つて彼を殺した。そ れからア・デイアドムと呼んで泣いた。 歴史 1 くに 百合の花の土 赤児の掌のやうに 彼の中を水が流れ 彼の文學には獅子が住む 定期の氾濫のあと パピロスの間の鳥の巣は見えなくなつてゐた 歴史 2 中間の海を潮がゆき レバノンの杉は金のいろ 彼等は褐色に装ひ カルタゴの土に下り立つため 故郷の都市を見捨てヽ去る やせた女たちが後にのこり 六月二十五日 西川英夫帰つて来る。 Ich bin traurig; die Erute ist auf,Ich h re allt glich deu Meeresgroll・・・・Licht und Blume. 俺は悲しい 収穫も済み 海鳴りを終日聞く ママ 紫陽花や青きに雨の光をる × すばらしい便りをもつて来い この鈍色の世代の子に ああ 玻璃吹きとなり 灼熱の太陽界に至りたや × 無明を破らうとし身がまへ 金色の太陽にならうとした 愛は消え 雲は走つた たゆたふひまに俺は盡きる! ×三木老先生を見てゐると 老の坂手にふれてゐし花もある ×桂川先生も老いてゐる かの眉やいつより光り消えうせむ × 俺は悲しい 終日 俺の林をさまよふので (おとしあな) 穽がある 季節毎に来て 滅却の小路を見ると 愛はもう見えぬ 歴史 3 (つ) 片眼をなくした人たちに会つた。労兵会では麺麭を堆んでゐた。 ヴエルダンで一個中隊が骨に化してゐて、ワオーモンでは一個師團 が魂になつたなど。街角で鈴が鳴り、カルタがくばられてゐた。ビ ルデイング毎に憲兵が勲章の蔭に待ち伏せてゐた。このオリンピア 祭を俺は見送る。 歴史 4 ひそかにひとびとはアカンサスから立上る。影はこヽでは短い。 大理石像は皆新鮮な傷をもち、露地では盗賊が鬪つてゐる。夕焼け の方から嶺が消えた。 歴史 5 ※化石 剱歯虎を掘り出した。埃の黒い息子、痣のある娘に電話がかかる。 石炭山での逢引を思出すがよい。凡てに悪魔の翼が与へられ、皇帝 はオウステルリツツ橋で手帛を振られた。過去がぴくりと不動の姿 勢をとつた。 六月二十六日 コギト二十六 天稟 ひるの暑さ耐えがたきまヽ、百合の花手折らむと嶺に分け入りぬ。 幽邃の気の中に美女に遭ひ、花の精かと驚けば、楚々たる容姿のま まに山気の怪を説く。話中の怪より怖ろしさなほ甚だし。 魔の山 此の館は潅木帯にあり 晝中兎が園に迷ひこむ エイラン苔を採り 患者らの晝の散歩は終る 六月二十七日 西川上京。松田、(中島)安田等が送る。 歴史 6 低い草だけの生えてゐる列島 大きな骸骨をとヾめてゐる 波は彼等を洗つてゐるやう 荒天には煙つて見えぬ 昔そこに荷蘭人の館があつた 天公廟から老人が遺物をもち出し われに説明料を要求した 歴史 7 帰仁侯はいづこへ行つた 帝は? 彼に位を授けたが 今 家を暴くと衣冠だけ 祁連山を尋ねようと 青年は出発し 白髪の人がその訃報をもたらした 六月二十八日 時間 蝋の流れおちるのを見た おれは岩や玉やすべて不変のものを愛する 女の操など おれと仲好くてゐる天地がある 反映 鴎は波から飛び上り 波を嘲らうとした 波は歯がみして彼を脅かし 鴎はおそれに をうちならした 七月九日 あと二十二日也。 ゆき子 雲には氷がある それは反射して紅い おれは渇えて夕を辿る 蝉は啼く 夏の蝶は青葉に舞ふ ★また エトルリア人はアリアン人種でない けふおまへに似たひとを見た 埃が立ち 音楽が遠い 革命をもう絶望し 己は中学の教師でおへる 人毎に一生さといひながら 七月十九日 畏怖 己は遺書をかヽねばならない たとへばこの推測が虚妄のものである場合より外に逃げ途はない ひとを怨むことは一もない 死を前にして凡て愛に帰する 最も責めに任ずべきは(ゆ)に對して 凡ゆる可能な領域の思惟は 後悔(ナハロイエ)に帰一する 死まで十日間を暮し-- 詩に なるものは一つもない 世界は混乱し この世界に革命が起るか 大洪水がまきおこるといふ 絶對絶命を信じねばならぬ 永遠の春をとヾめ 残骸には土をかぶせ ひとびとよ もう顧みるな 七月二十一日 夏は猫の髄に食ひ入り 俺は腹が立つ 葉 花 莖 詩にならず 七月二十七日 本社實先生を訪問。 燈火管制。 なづきに食ひゐる虫のごとく 俺は俺の己を守るため すべて抑制干渉をいとふ 口に出さぬ間は耐え 口外するととめどない いつかこのため人命を失ふことがあらうと × 雲や花や木々を歌ふまい 潅木帯が盡きると草本帯 カド 高峰は尖つた稜が多い 人情を俺は知らぬ 非人情の郷に生れたからに ×かもめ 夏は犬を狂はせ 水につきおとす いまわれも青い水を見る 子供らが泳ぐ--狂つてゐるやうに われは羽搏き 水面をかすめ ひとはわれを食を漁るといふであらう × おれの舌を見よ 妻よ まだあれば 早晩俺は命を失ふだろ 留舌不留命 留命不留舌 (孫) 秦氏のうまごはいま報いを受ける 俺が皇帝ならよからうものを × ※戦艦 艨艟なり いま整々とすヽむは 父母なり 郷に泣けるは 飛機なり 轟然摧け墜つるは 死人なり 歯を啄き出し百穴より血を出せり × 杏や李の木が後庭に育つてゐた 郁々として馨る花をつけ 村でそんな日に花嫁が来た 杏や李の木は老いて枯れて了つた 俺は流れを見 丘を見 破瓦を見て嘆く 俺の日の花嫁の来ぬ期にめぐりあはせたことを × 彼はうたふ 何でもが種になる 八月の炎熱に汗を流して 筆とる指からも汗が出る ひとびと彼を熱情の詩人と呼ぶ × おれは岩にゐて笛を吹く 「海豚よ来い 群れて」 おれは急いてはならぬと考へた 正午に おれは羞かしいことに空腹になつた おれはせむ方なく笛を止めた 一町むかふで海豚たちが叫んだ 『いまごろ止めるなんて』 おれは彼等に飽腹したら 反吐を食はせてやらうと思ふ ※深い疑惑の時間がくる。 dann kommt tiefe Zweifel 七月二十八日 青い川がさヾ波を立てて流れてゐる 社がある 村がある わたしは何を見ても死人を考へる 雜草の中で蒸れ腐れてゐたのだ 大野の中に何も楽しいものはない 明るい花園で蝶が悲しく舞つてゐる それを弟等は網でもつて追かける 止めよ 止めよ おまへの不滅の標本箱のために ★ Ito Shizuo 僕のなす事はすべて喜劇に終る 幕がおはつても僕はまだ泣いてゐる 観客はもう笑はない 彼等は舞台のまはりを他のことを喋つて歩く 八月十五日 高きなる神の座を降り 青草の上へと臨めば 流青く 雲白く 夏の日は数夛の火花を 渾天に漲らせ いま笛の音と溶けて 人性を懐はしむ 八月二十七日 悠と訣別す。 さからひ難くわれを誘ふものを求めたり わが弱き心のゆゑにこれを外に求めたり かの愛の青き流や 希望のほの紅き峰も わが誘ひには弱かりき いまにして朝明けの夢には知りぬ 内なるわれの呼び声の 朝睡のごとく不知不識われを引き入れ 魔呪のあやしき渦巻きと身をなして ふしぎなる快さ 眩暈にわれは細く透き通りし 魂としてわが本体を見ぬ (Imitatio--Novalis) かくて尚 かの少女を愛す よそびと 夢に見ぬ かの子他人と親しくもの云ふと また死ぬと青く細りて その度にわれ泪ながし こゑあげて泣きたりし かの少女と別れむ日 夢にまた何を見るやらむ 楽しかりし日をか--その日とて無かりしものを × かのだらしなき少女 かれ 彼女はその衣をまるめてころがしゐたり かれはその身の薄き生毛の口ひげだに剃らざりき かれは頭髪汗くさく總身汗と脂の臭ひしたり かれの帯は破れ かれの 子ピンは飾玉なく かれの歩くさまは外輪にひきずり かれの平常着は汚点だらけなりき かくてかれを愛せむとし かれを叱らむか否かをわれは案じたりき 家庭持つ日 主婦としてかれは堪ふべきや その紐かれの肌着くさくにほふや 主人のわれの襯衣まろめころがさるるや 幼児の襁褓洗はずして捨てをかるるや 鍋は? 釜は? 座敷は? 庭は? 新婚幾ケ月にして本性を現すや またその日よりずるけるや われ これを案じ しかもこのだらしなき子を だらしなさ以外で愛したれば 責めむとして口ごもり 口ごもりつつ責めたり 朝明け山に登る 湯わかしに湯のにえかへるやうに シヤンシヤンと啼く蝉の坂 百合はまだ居眠つて首をふつてゐる 森から冷い空気が来る その時熱い太陽が昇る あたりの空気を一変させて もう空は一面 燃えて燃えて 黒焦げの鳥が一二 飛んでゐる 秋の気立つ 秋空や荷蘭語いまだ爲し畢へず 絲瓜の水とらぬにはやし秋の空 あはれ蚊にいねやらぬ夜や秋気入りぬ へやにゐてながるるものを首に感ず さびしければ岩木のごとき巨を愛す 旅ごころはてぬに夏休み終る教師 此の夏は柘榴みのるや妻孕むや 何事に送らむ秋ぞ薄穂出づ 寢相いぎたなし妻見しひるや秋立ちぬ 八月二十七日 千葉へ。 石山直一氏。ゆきこひしき。 (いけみ) 小い潴に波が立つ 輝くもの 小鳥たちは群れて去つてしまつた 赤い土の上に日があり おれは影を見る (腕) 長い細いかひなだと × けふ輝く青い海と 肉のある手を見た 植物がその上を覆つてゐる 熱帯の珊瑚よ 陸を造るものよ 輝くきらめく宝石のしたヽりよ けふ青い海の流れるのを見た × 忘れられたやうに 山でかぎられた峽間まで 海がふかく入込んでゐる けふそこへ手紙を書き 掌の筋をかぞへて見た × たえず海の方へ走る汽車に われ忘却の愛人を懷へり 海風や青き植物や 埃立て街道をバス走る見たり 旗たててひとのゆく 海沿ひの道よ そこらの家に何の花咲くや 世界は色の豊富さに満溢し おれの眼はきらきらと泪ながし 木かげの椅子が二脚 おれたちが坐らうためにと はしけやし君津の海や青波の上はろばろにきみ坐ます見ゆ かつしかのままの手児奈やをみな子をいとしみそめしころに生れましき うなかみ 海上のうねうね小野は芋つくりながめて見ゐれば遠くつくれる 起伏の連なる小野やところどころ低きに田あり水はしる見ゆ ひるすぎて海波やみし海原のいぶし銀いろに照りかへす見ゆ 楠の木の木蔭にありてもの云ひぬ背後の崖に虎杖生ひて ももちだる千葉や上總や青海原めぐらす大野身も青むがに 鹿野山に雲ゐたなびき晝闌けぬひざしまばゆき坂を降るも 海波はひるすぎしづみうなはらにまばゆきひかりとどまりたるも 八月二十八日 おれは巨大な潟地の太陽を見た それが地表に反射してゐるのを 二つの岐路に苦しみ 一つの目的を永久に見失つた すべて己れの原罪である ★ 夜ふけに蝉が啼く 不安は去らぬのであらうか 喇叭が遠い それは却つて悲しくひびく 夏草よ 花もたぬに身は死ぬ 九月二日 誰にも會はず。 九月八日 午後五時五分、内田校長逝去。 九月十日 堺斎場にて密葬。 九月十四日 学校にて本葬。 九月十七日 ゆより手紙。 まだ自分には明確な形象が来ない 青い桔梗の花 鳴らす釣鐘草よ その肌に自分は眠り 襞の多い夢を見る 夢--そして夜明けに静かに死ぬ × 巍々たる峰に日輪は射す 朝は山河に 草は深い田舎 きりぎりすよ ばつたよ 旅嚢でパンが爆ぜくりかへる 九月二十一日※ ※・室戸颱風 Zyklon この日頃うたてき空気学校にこもれるを感じくらしゐたりき このあした大颱風あり学校の棟いくつ倒し馳け去りゆけり みにくかる人の争この風に止まむと思ふには或るはしからざらむ みにくき争ごともことごとく己れ生かさむとの深きより来る (お) いつまでも孤り高くて處らむとぞ思へるわれもあやふきにあり 自然のあらしもあれど人間の争の輪に巻き込まれむか (しつこ) ある朝たちまちにして来る嵐それより怖し執拗き争は ※・ステファン・ゲオルゲ、「同盟の星」 抄出。 十月一日 霧雨 木々の茂みから立ち昇り 小川に注ぐ黄金の光 朝は深い霧 それは大理石と斑岩のモザイク 刻まれたむかしの姿を 幾百の矢が攻める 街 橋のアーチを見にゆく 鳥がくヾる祭壇 風よ 吹きやぶれ 鐵と石との林立 街に乞食のゐる日がない 同盟市 亞米利加の田舎のやうな小都会 (す) 街角でオペラの切符を掏られた しかし日はまだ通りをよぎらない 水に架つた橋からひとは自分の影を見ぬ 時計屋で静かに眼鏡のレンズがひらめき 椰子と薔薇で著名な市長が飾られた その日以来 この町に犯罪は失くなつて 合唱 おお ミオソテイスの聨合よ 菫やオウリキユラは忘れられて 雨はこの上で粉末になる 風車をまはす道化役は晝食を立食せねばならぬ 叫喚 多忙 水族館でさへも三色旗がひるがへる 魚は晝寝 水は性急 滴る眼藥に秋の植物が見える 實らぬ水ヒアシンスなどの種子-- クルツ・エル R 落陽は建物に反射した 銀のサアーベルが閃いた マグネシウム それは撮影用の閃光 こヽで巨大な芝居がある 世紀がそれを現像する 十月三日 ナポレオン時代の終滅 世界中に鐘が鳴りわたる リンリン リリエンクロン-- 葛のからんだ塔よ 昔馴染の月よ 馬車はしづかに動き去る 土橋のくづれた道へと 前途の心配もなげに 十月七日 伊東さん、松田、中島。 橋わたる車の遠いひびきにあらゆる星は堕ち 都会はすでに巨大なる輪轉印刷機 花賣ることに会意文字はある 傾く大廈 立直る高樓 小学校で犬を習ひ イヂメツコは画家となつた 十月八日 隅田先生、岩鼻先生。 峠 で思案する このあたりは木の花が多い いろの鳥が一面にゐて 遠くは山が据つてゐる気配 甕には薄赤い花がさされてある ほのかな光が上品に 今年の菊は荒らされて 娘たちは色が蒼ざめてゐる 戰爭よ 錦魚のゐぬ屋敷 にはたづみに陶器の鶴がある 十月十七日 ※・バッカス祭 Bacchanal 高原を去来する雲に比へよう この家鴨たちの大艦隊 水兵の吹き鳴らす嚠叭に 街では方々で火薬が爆ぜる 親類で一人の少女が 無辜の懷胎を告白した × とヾまれよ この街に薄明 菊賣る店の香--午前五時 白い霜の早く消える街角 朝日は藏ひ忘れられた國旗に 十月二十日 ゆふぐれ この都会の上に 雲がしばらく止まる そこに地図が描かれてある アジアは青く ヨーロツパは紅い そこから稲妻が来る 陸橋を遠雷のやうに のろのろと市内電車が横切る × × おれは芥と共に川を下る 一つの島に上陸する 夕焼や暁のいろを見て 高い石の階段を登ると 海も陸も限りなく広かつた × × おれは家族を持つてゐる 一つの家系 ママ その特兆として梅花形の痣を 背中に持つてゐるものたち 金貨に共通の祖先の形が彫まれてあり それを 匣の底に見出した × × 塔は都市の上に手を拡げてゐる 見えない糸が夕方手繰り寄せられる 蠢めく無数の青い蜘蛛たち 微風が通ふ河川の上で 凡ゆる影が入りまじつてゐる 死者が現れて呪ひをこめるとき 再びこの都市は廃墟となるであらうか × × 此の都市で劇場の入場券と (だかん) 中央銀行の兌換券とが相似してゐた 奇妙な類似が支配者と被支配者の間にもある 飯を食ることと 生きてゐることと 十月二十五日 航路 ミモザの生えた島を右に見 左には泥臭い洲がある中を 薄い煙を立てヽわが船はゆく 驚かされた鳥たちが羽ばたき その悲鳴の中に白い花が散るのを見た フアタ・モルガナ 多くの女体柱の聳える島 哄笑が晴れた大空からひヾく 松林では小鳥と蝉 ヴエール その上にうつすらと棚びく面紗 十月二十七日 わしは都会の眞中で榛の實を賣つてゐた 友達は公爵や仲買人になつた 榛の實では子供たちの玩具が多く出来る そしていつしかわしの影は老いて行つた ★ 皇帝がヴオーモンで云はれたことは事実となつた 彼は元帥を得 片脚を失つたまヽでゐた 彼の息は唖 彼の娘は美人 彼の孫に色盲が一人 血友病が一人 他は健康だつた 彼は瞑目する時 に恩惠を謝した 事実 彼の館ではコリー種の犬の外に不幸なものはゐなかつた それは当時ヂステンバに悩んでゐた 彼の館は今のR公園だ そしてわしは朝夕の散歩を彼の銅像の前まで行ふ ★ 卵に毛あり、鷄は三足。(荘子天地篇)※安西 衛の詩「物」の出典。 十月二十八日 新築地の「タルチユフ」を觀る。 北の海に魚がゐる。その名は鯤と呼ばれてゐるが、その大きさは 幾千里かわからない。変じて鳥になると、その名を鵬と名付ける。 鵬の背は幾千里かわからない。怒つて飛ぶときにはその翼はまるで 天一面の雲のやうである。この鳥は海の上をわたつて南の海にゆか うとしてゐる。南の海とは天地のことである。 斉諧といふ怪異な事ばかり記した本がある。その諧に云つて曰ふ には鵬が南の海に徒るときには、水三千里を撃つて、そのあふりに よつて九万里の高さに上る、そして六ケ月たつて漸く南の海に徒り 終へて休むものだといふのである。 ※第一書房より出版される「青い花」のこと。 十一月一日 長谷川氏よりオフテルデインゲン出版のハガキ来る。 ゆき子より便りなし。 十一月二日 松田と興地先生を訪問。 帰来、増田忠氏結婚の通知あり、うれし。 地上には祝祭、天には新たな祭典。 たましづめ この饗宴は同時に聖い鎭魂の歌げ 十一月四日 まだ 湖尻 かすかに動く水の雲 ヘスペルス輝くなべに ヴイラ 湖岸では明るい別荘と 山とりかぶとの花 水の香ひがして四辺に合唱がひヾきわたる 蛇 やまかがし 夏の気配をゆめ見つヽ この石の上に赤棟蛇は冷くなつた こほろぎが啼くすヾしい空 森で羊歯が鳴つてゐる 髪を洗つてゐる女が日向の水辺にゐる 流沙 ここではヘルペルスの輝く空が暑い 夕方遠くに雲のひそまるのを見送る 鳴らない風 と白の砂丘に 例へやうのない惨酷な生き方をして 獸たちが埋められる日が来る 少女について 疑ひ出すときりがない。そんなに頭を費すに價しないと知り乍ら 日々を送る。俺はひとりで鬼をこさへ、影を追ふものだ、自分の尻 尾を呑む蛇だ。しかし知ることに何の解決があらう。一の信さへも ない己。菊咲く頃はいつもかうか。仙藏院の十一月は寒く、大阪で 暑い寝床にねてゐる。ガブリエル・フオーレ。太田黒元雄。 わがをとめよもそむかじとおもへどもうたがひ夛きさがなるわれは わがをとめひとめひかじとおもへどもねたみつらみの夛きこのごろ わがをとめふみよこさざる二十日まり一月ちかくみは痩せに痩す わがをとめわがしるごとくをろかにてあやまちせじといひきれぬがに 身はとほくへなたりたれば疑へり共にある日は疑はざりき ber der Verlsehr mit Johanna Kaschiwaiina 昭和六年三月十五日頃、東京帝大文学部入学試験終了後、はじめ てその家に到り相見る。顔色わるき、されど眼あげてわれを見し少 女なりき。その眼、神経的なりしと思ひたり。 昭和七年一月頃より、漸次相親しむ。その以前には共に朝夕通学 す。われ、この少女を得むと思はざりしにはあらねど、手に入れ得 むとは思はず。この頃よりやヽに相依るものあり。 ※集会参加に係わる拘置事件。 昭和七年二月十一日、われ不慮のことあり。そのときわれを思ひ 慮りゐし旨をきヽて喜びたり。 同年三月頃より漸次交渉すヽむ。帰郷中はじめて来診あり、兄と 呼び来れり。 同年七月幾日、帰郷。その以前、小母より数回皮肉を受く。 同年九月以来、母と吾との間に立ち、泣く事夛かりき。 (かわ) 十一月、ついに吾、その家を去る。寺に入りて文をやるに渝りなきことを誓ひ来る。多摩川にゆきしもこの頃なり。妙正寺池、堀の内方面にしばしば遊歩。 八年三月、立教高女を卒業す。 八年四月、上京の際、迎へに来る。青く汚し。 五月頃、この頃しばしば家へ来るとて小母より禁足さる。 六月二十五日、はじめてKorperliche Verkehrをもつ。 夏休み中より、新宿伊セ丹の店員となる。 九月より九年三月にかけ、日曜の休日に下宿にくること夛し。 思ひ出の町として、中野、東中野、新宿、阿佐ケ谷。 九年三月二十一日、帰阪。以後八月一日まで会へず。正に四ケ月と十日なり。 八月中頃、伊セ丹をやめ、某会社に移る。 八月二十七日、決別。以後十月六日の手紙まで一月と二週足らずの文通。 十一月七日 来信。 十一月九日 丸三郎 来る。 十一月十八日 誠太郎叔父いよいよ悪し。 葡萄揉みの歌は聞こえぬか 窓を開けると寒い ヘスペルス-- お嬢さんのシーツ それは霜だ おれの紅い血 それは山々の紅葉 ★★日本古典派のために。 ギリシア人は「事物の正鵠を失したるもの、均整を失ひたる」もカイロスのを見て不快に感じた。「此の正鵠均整の感じ」「いはゆるκαιρστの感じが彼等 の文学、 芸術に於ける中心的な特徴となつてゐる。」 「就中、彼等は文藝に於ける明瞭性を尊重した。不適当な装飾にも増して晦渋を厭ふた。彼等の表現法は即物的である。」 「ゲーテが古典の特徴として挙げた純一性(アインハイト)と明瞭性(クラールハイト)とは、正に此のギリシア文学の二大特性である。」 イオニアの海には海豚が游び 春にサラミスの海岸には菫が咲く ヘラスの人々は青と菫色と すべてのいろの澄んだものを好む。 神に凡ての美を 凡ての美に神を觀 酒宴には手を叩き 葬儀には首をうな垂れた 十一月二十三日 青春 高い山に登つて俯瞰する 谷に人や馬が群つて 岩や石塊が寒い眺め 夕暮まで暮らして道を下りるに 白雲の中に迷つて了つた 建物の肩から寒い山が見え 橋を渡れば冬の風が来た この橋や町には馴染んでゐて 何処にも花など咲かぬと思ふに 日に日に愛憐の情断ち難い 黄色い絹の手帛を人に贈るために この商品券を利用しよう 十一月二十六日 悔恨 紅葉の美しい谿を見ると 俺の心には消し難い衝動がある やがて山々には雪が来るだらう ひつそりと山村は静まつてゐる 烏が街道を歩いてゐる 神秘な嚮導者 俺は休息をとるのために一軒の扉を叩く 白髪の嫗が現はれて 手眞似で入つていヽと云ふ こヽに言語の終焉はあるか 十二月四日 午後三時五十五分 誠太郎叔父死す。 首を鳳翔縣に囘らせば、旌旗晩(クレ)に明滅す。前みて寒山の重なれる に登り、屡々飲馬窟を得たり。邠郊地底に入り、涇水中に蕩潏す。 猛虎我が前に立ち、蒼崖吼えて時に裂く。菊は今秋の花を垂れ、石 は古車の轍を戴く。(北征) 日色孤戌隠れ、烏啼いて城頭に満つ。中宵車を駆つて去り、馬に 飲(ミヅカ)ふ寒塘の流れ。磊落として星月高く、蒼茫として雲霧浮かぶ。大 なる哉、乾坤の内、吾が道長く悠々たり。(発秦州) 林迴にして峽角より来り、天窄くして壁面削れり。[石奚]西王里の石、 奮怒して我れに向つて落つ。仰いで日車の傾くを看、俯しては坤軸 の弱からんことを恐る。(青陽峽) 季冬日已長、山晩半天赤、屬道多草花、江間饒奇石。(石櫃閣) 温蚊蚋集、人遠鳧鴨乱、登頓生曾陰、欹傾出高岸。(通泉駅南) ★ 朝 花咲く村道を辿り 夕方 ピアノ彈くを聞いた 蛙らが生まれ 草木が匂ひ 石がすべて赤く 白い 傾いた地塊--日の車は そこをまつしぐらに駆け降り わが苑の日まはりの花に留まつた 十二月十三日 午後六時四十分 祖父死す。享年八十四才。 十二月二十三日 着京、わが家に入る。 十二月二十八日 小母と話す。確執あり。 十二月三十一日 父、上京。 (新年を) 十年 一月一日 肥下の宅にて迎ふ。ゆと新歌舞伎。 一月五日 出京。 一月十六日 中島来る。 ヴエネチア 昔 褐色の夜に 橋辺にわれ佇んでゐた 遠くから歌が来た 黄金色の滴が ふるへる水面にしたたり落ちた ゴンドラ 燈火 音楽 恍惚と薄ら明りに漂び出た わが心 絃曲は 目に見えねど感動して ゴンドラの歌を秘かに歌ひ出た 色あやな幸福にふるへながら --たれかそれに耳を傾けただらうか・・・ (ニイチエ) 黄金虫の歌 (ヘツセン民謡) とべとべ黄金虫 お父は戰爭で おつ母は火薬島で 火薬島は燃えちやつたぞ (子供らの魔笛) てんとうむしの歌 (民謡) てんとう虫 お坐り 僕の手の上に 僕の手の上に 何ともないんだよ 何にもしやしないよ おまへのきれいな をみて きれいな 見るだけなんだよ てんとう虫とんでけ 子供がどえらく泣いてるよ てんとう虫とんでゆけ となりの子供へとんでゆけ 何ともないんだよ 何にもしやしないだよ きれいな を見るんだよ ふたつの に挨拶するんだよ 家が焼けてる 子供が泣いてる どえらい どえらい 泣いてるよ わるい蜘蛛がつかまへてる てんとう虫 とびこめよ 一月十七日 鳶 俺はとぶ 日は已に傾き 風が強い 感情が昂ぶり 弧が旨く画けぬ 冷い虚空で 俺は独り言をいひ 俺は巣をみ失ふ 一月二十日 祖父誠太郎叔父満中陰。 俺は多くの半島を知つてゐる 就中 禿山と松の實の多い半島を 二月三日 遠く家々が沈み 桃咲く園や 小波の渡しや 松風は白い 沖から人々を呼ぶ 空間ははがみし 犬は吠え 大理石の噴水池で 今見る少女は 喪服を脱がず 二月二日 橋の上で 俺はあまたの影を見る。 雨の中で川波はゆらぎ 花は咲かぬ日より 二月三日 遥かな道を来てふりかへると雲の中で 赤や の旗を立てヽ行列が行つた わしは山や谷に分け入り 懸崖に菊を見 菊はわしの眼の前で開き 懸崖は手の指のやうに裂けて見せた 突然夕星が見え わしは思はずほうと啼いた 一声啼くとあとはつヾいていく声も出た 月明かりに花花は貝殻のやう 土人たちは眠く歌つてゐる いたるところ 黄の鳥を見る 神は来てはまた往かれる ※・以下、田中家所蔵の古文書より抄出。(□・空白、※・不詳) 二月十九日朝、天満與力町大塩平八郎屋敷ニおいて、鉄砲の音ホ ンホンいたし、其門玉□□建国寺庭へ飛来り大に驚き、御屋敷へ其 趣の答ニ成候処、如何にしても不審の事成、早速加藤莊三郎殿大塩 屋敷へ罷越、今朝より鉄砲の音いたし如何の事に候哉と取次を以申 入候処、大塩よりの答に窮民救の爲に放火□□併御官へ對し□□□ 不敬の儀不致、間此段御安心被下、貴殿にも此方の味方に御付相成 □□□□□無之□□□申事故、宗三郎殿大ニ驚き早く屋敷ニ立帰り 一統評議なし、和田山府申し事故、堂島弥田方へ申来□□付、早速 弥田御官へ馳行、此店へも申来り馳付候処、最早東西の与力町中へ 鉄砲大筒等打込、大火と相成、夫より大筒弐つ車にのせ、与力町よ り引出し、壹つの車ハ天満橋南へ越へ、一つの車ハ天満中大家の□ 打込、市の側西へ行。堂嶋不残焼捨、夫よりかじ又かじ、東へ打登 りて申積りの処、難波橋迄来り候処、尼ケ崎御屋敷御門前、夫々厳 重にかため候。西へ行□□かたがた、夫故難波橋南へ渡り、能つけ ※に嶋善へ打込、嶋庄同所夫より岩城三ツ井へ打込、東堀へ渡り米 へ打込、その外、道すがら爰ト思ふ処ハ打込打込いたし、其上風 もはげしく候故、誠ニ天満上町、船場とも一時の火ト相成、恐しき 事に候。安濱川のはし迄相片付、在所ニ親類有るものは家門在所へ にげ、或ハ堺へ行、兵庫西の宮、播州辺迄も逃行。誠ニ前代未聞の 事難※筆紙御座候。 二月七日 Ich liede an Tn. 二月八日 銀の峰々 黄金の原 ドイツは青い流れに浮び サクリニヤの王 バイエルンの公 カルルスブルグのハインリヒ リンデン咲けば猫歩む 裏町 花束 地下電車 二階で造花屋 三階 洋服屋 四階 マネキンクラブ 五階で夫婦喧嘩 六階以上は雲の中 ベルリン中が花ざかり 途にカフエを立ち飲み 人に見られて散歩する フリイドリヒ ウイルヘルム三世の銅像前まで 二月十五日 薄井敏夫君。 八月、東京での予定。 1 訪問--ゆき子、肥下、松本、西川、川久保、岩佐、池内先生、 岡田氏、丸、?春山、?百田、?酒井、?饒、?北園、 ?あき氏、 会ふ人--橋本、丹波、薄井、和田先生、保田、 2 松浦悦郎遺稿集の件 3 ヲランダ語 4 東洋文庫 ※大塚。 知人録      ※住所略。 天野高明・ 赤川草夫・ 安藤鶴夫・ 淺野建夫・ 相澤等・ 生島栄治・ 池内宏 伊東静雄・ 岩本修蔵・ 岩佐精一郎・ 井上槮・ 岩佐東一郎・ 池田徹・ 石山直一・ 内田英成・ 薄井敏夫・ 江間章子・ 大河原倫夫・ 相野忠雄・ 岡部長章・ 岡田安之助・ 大前登与三・ 大江喜代造・ 加藤一・ 川村欽吾・ 北村春雄・ 柏木俊三・ 笠野半爾・ 鹿熊鉄・ 加藤繁・ 川畑勝蔵・ 金崎忠彦 川久保悌郎・ 鎌田正美・ 北村英雄・ 菊池眞一・ 北園克衞・ 饒正太郎・ 久保光男・ 國行義道・ 紅松一雄・ 近藤東・ 後藤孝夫・ 澤井孝子郎・ 酒井正平・ 佐藤竹介・ 坂口嘉三郎・ 阪本越郎・ 佐々木三九一・ 白井三郎 島稔・ 式守富司・ 小竹稔・ 小竹昌夫・ 佐藤義美・ 杉野裕二郎・ 鈴木俊・ 鈴木朝英・ 杉浦正一郎・ 清徳保雄・ 関口八太郎・ 千川義雄・ 田村春雄・ 高垣金三郎・ 竹内好・ 田中城平・ 高橋匡四郎・ 竹島新三・ 丹波鴻一郎・ 辻部政信・ 辻野久憲・ 坪井明・ 津村信夫・ 友眞久衞・ 道野市松・ 高荷圭雄・ 中橋吉長・ 中島栄次郎・ 長野敏一・ 中野清見・ 西島喜代三郎 西島誠太郎・ 西島一興・ 西垣清一郎・ 西川英夫・ 能勢正元・ 林正哉・ 羽田明・ 服部正己・ 春山行夫・ 橋本勇・ 原口武雄・ 旗田巍・ 原田運治・ 肥下恒夫・ 福田一男・ 船越章・ 藤田久一・ 古谷綱武・ 藤村青一・ 藤枝晃・ 本田茂光・ 本位田昇・ 松根実・ 丸三郎・ 金田忠造・ 松本善海・ 増田忠・ 松浦元一・ 松本一彦・ 松下武雄・ 三好信子・ 三島中・ 三浦治・ 村上菊一郎・ 村田幸三郎・ 村山高・ 室清・ 百田宗治・ 森本孝・ 森中篤美 山本信雄・ 山田鷹夫・ 山本治雄・ 保田與重郎・ 山口静夫・ 山崎清一・ 倭周蔵・ 安川正弥・ 山村酉之助・ 吉田金一・ 吉川則比古・ 和田清・ 八木あき子・ 直野栄・ 池田榮一・ 原田重雄・ 梅本吉之助・ 川崎菅雄・ 田村二郎・ 俣野博夫・ 横山薫二・ (第10巻終り) 「日記」第十一巻 その1 (「夜光雲」改題) 20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(103ページ) 昭和10年2月4日 ~ 昭和10年11月27日 Journal 4te Fev. 1935 Katumi Tanaka   三月四日  成都行 (杜甫) 翳々たり桑楡の日        我が征衣裳を照らす 我が行山川異り ※       忽ち天の一方に在り 但だ新たなる人民に逢うて   未だ故郷を見ることを卜せず 大江東に流れ去り        游子去ること日長し 曽城華屋を埋め          季冬樹木蒼たり 喧然たり名都の会        簫を吹いて笙簧を間ゆ 信に美にして與に適くことなく  身を側てヽ川梁を望む 鳥雀夜各帰り           中原杳として茫々たり 初月出でて高からず       衆星尚ほ光を争ふ 古より羈旅あり          我れ何ぞ若だ哀傷せん ※   多島海 くろづるたちは またもお前の許へ帰つて来るか? 船たちは またもおまへの岸をめがけて航海して来るか? 人みなのまちこがれるそよ風は おまへの静かな波の上を吹くか? 海豚たちは 深海からおびきだされて新しい光に背を乾かすか? イオニヤには花が咲いてゐるか 今はその時季か? 春立つごとに 生きとし生けるものの心臓が若がへり 人間の初恋と 黄金時代の追憶のよみがへるときに わたしはおまへの所へゆき 静寂の中におまへに会釈するのだ 年老いたものよ ああ 力強いものよ 恒につねにおまへは今もなほ生き存らへ おまへの山々の蔭に憩ふ。青年の腕をもつて おまへの愛らしい國をいだきしめる。しかもおまへの娘達 おまへの島々は ああ 父なるものよ 花咲く島々は少しも変りを見せぬ。 クレタはそびえ立ち ザラミスは緑に萌え 月桂樹にかすみ 光線に囲まれて 四面花咲き 成長の時季と デロスはその感激した頭をもたげ テノスとヒイオスは 紫の果実をたわヽにつけ 酔ひ恍れた丘からは チユプリアびとの飲物がわき出で カラウリアからは昔のまヽに 銀の小川が 父なるものヽ年古りた水に流れ墜ちる。 英雄の母たち 島々はことごとくいまも 年々歳々 花咲きながら生き存らへ 時としては 奈落から解き放たれた麗しいものヽひとり 夜の炎 下界の雷雨をひつとらへては 死にゆくものを おまへの胎にしづめはするが ああ 神々しいものよ おまへは永遠に生きぬくのだ おまへの暗い深淵には多くのものが浮かび また沈みしてしまつたが。 天なる神々 高きなる諸力 ひそやかなもの 遠くから 明るい晝と甘いまどろみと予感を 満ちみちた威(いづ)のうちから 感じ易い人間の頭へともたらすものさへも 昔の友どちも 変ることなくおまへとともに住み しばしばたそがれどきの アジアの山々から聖嚴の月光が射し出で 諸星の光がおまへの波の上で会ふとき おまへは天つ光に照らされて それらの彷徨ふにつれて おまへの水も移り 天なる兄弟たちの歌が その夜の歌が おまへの恋する胸にまたひヾくのだ。 それから遍照光 晝の太陽が 東洋の子 奇跡を行ふものが昇るとき 生命あるものはみな 朝毎にこの詩作者から 授けられる金色の夢の中で 営みをはじめ 悲しむ神であるおまへには 一層たのしい魔呪が授けられる。 しかもそのやさしい光でさへも 昔と同じくとことはに 汝をなつかしんで おまへの灰色のまき毛のまはりに あみ出してくれる愛のしるしの花環ほどは美しくない。 また[シ+顥]気はおまへをとりまかぬか? 汝の使者 雲はまた彼のもとから 神々の贈物 稲妻をもつて高空からおまへの所へ帰つて来ぬか? この時おまへは雲を陸に送る かくて 炎熱の岸辺では 雷雨に酔ひ恍れた森が ざざなり おまへとともに波をうち まもなく父に 呼びもどされた放浪息子のやうに 数百の小川とともに メアンデル河はその迷路を急ぎ 平野からはカイステル川 喜んでさそはれて来 長男のとしよつた 永い間かくれてゐた 莊嚴なナイルの川は 遠い連山から威風堂々と 剱の音の中のやうに 勝ちほこつていまやつて来 まちこがれた人の拡げた腕にとどくのだ。 それでもおまへは寂しげに見えるね 沈黙した夜に 巖はおまへの嘆きを聞き 翼をもつた波は天國へと しばしばおまへから人間を憤つて逃れ去る。 かつておまへを崇め 美しい神殿と都市とをもつて  ※ おまへの岸を装つた かの高貴の寵児たちが おまへと共に生きてゐないので この神聖な元素(みづ)は 感じ易い人間の心臓を 常に求めながら与へられぬのを惜しみ 英雄たちが花環に對して感じたやうに無いのを悲しむ 云つてくれよ アテネはどこにあるのだ。 聖なる岸辺の おまへの最も愛する都市(まち)は巨匠たちの骨壷(ウルネ)の上に 悲しむ神 ことごとく灰燼に帰したのか。 もしも船人が通るとき その名を呼び 偲ぶに足る 何かのしるしは残つてゐるか。 かしこでは円柱は聳え立ち 城塞の屋根より 神々のすがたが輝いたのではなかつたか かしこではあらしのやうに動く民衆の声が 市場(アゴーラ)からざわめき来 たのしげな(市の)門からは 幸多い港へと 街路は急ぎ通じてゐたのでなかつたか   三月七日 木曜会[※ 関西コギトの会]ウス井、中島、松田、伊東さん)   ハイネ 独逸 (一) 悲しい十一月のことだつた その日その日が益々暗澹となつていつた 風は木から葉を散らした そのときわたしはドイツへと旅して行つた 国境まで来たとき 胸で常ならぬ烈しい鼓動が するのを感じ その上両眼が 滴しだすやうな気さへした ドイツ語の会話を聞いたとき ふしぎな気持ちがした まるで心臓から出血して死ぬのだが それが全く気持ちよいといふのにそつくりな気がした 小さな竪琴ひきの少女が歌つてゐた 彼女は偽らぬ感情と偽りの声とで 歌つてゐたが しかもその曲に わたしはひどく動かされた [※ 未完]   三月十一日 [※ 剪燈余話(趙鸞々)より、「雲鬟」「柳眉」「檀口」「酥乳」「纎指」「香鈎」の七言絶句六篇抄出。]   三月十六日 鹿熊猛君より来書。十時一年 の号を用ゆと。 ※それに対する返信   × エルネステイイネは林檎が好き 園は石竹とバラの花盛り 月の出にはじめて蚊や蚋がとび むしあつい南の風が雨をまじへて来 一夜あけると恋花ばかり   × Horenや Musenalmanach ではずい分時間をつかつた(ゲエテ) レツシングやシルレルも少年の日には 感傷を歌つたが 年よつて固まつた ことしはミユーズたちが南へ行つてしまつたので バラや麥を見ても心を動かされない 遠い都会の轟々の音や クラリネツトやアコーデイオンが時々耳をひくが 泉の声は小さく 海の笛は大きすぎる   三月二十日 及落会議。猿芝居也。校長いやらし。 おれはしばしば白美木や 角斑岩のゆめを見た 炸裂する砲彈や 柘榴の實や 混乱した観念の世界で 原始の鳥は羽ばたき 巣をかけるのだが 琴とつてうたふ男は 友だちに似てゐないかもしれぬ   三月二十三日 高石へゆく。村田幸三郎。西角先生。    老公園 櫻の咲くひる 親子が来る ZOOでは孔雀より蛇が可愛いヽ 猿や熊は人の森林で狩されて ナンキンマメなど 鶴は啼き どぜうを食べ 正午 天丼を食べる 父は子に箸で食べさし 母は財布を出して見る 帰つてから疲れた子供は泣く 夫婦は寝てから欠伸をするなど   × 古い海は吼らぬ 松は 鼻唄。 歌うたふ小鳥はトオキイのやう 色んな香りのする野菜 ヒアシンスと薔薇と はねつるべ こはれた噴水 破れた窓。 テラスは月夜ではない 鳥は黙す 星と星と慇懃に 女の子ははね ぶらんこはわめき シーソーは逆立つ 海に松の森が歩み 山から波の羽毛が散る。   三月盡日 ケープタウンではテーブルクロス カイロでは灼熱した蒸気となり ボルネオで椰子の實 セレベスでは驟雨 マカオでは戎克にふりかヽり 上海 柳の絮[わた]となり 東京ではおたまじやくしの粘々(ネバネバ) シベリアやアラスカでは雪や氷 ロツキー山脈では樹氷となり ポポカテペテルで夜の雨 ニユーヨークぢやホテルの風呂の水 ギリシアぢやアリストフアネスの劇となる   ?(ママ) トントントントン [※ スチームの入る音] おれは二十番教室でギリシア語を聽き 十一番では東亜考古学 三十七番の大教室で眠つた しよつちゆうスチームが通つてゐて ゆりかごの歌が奏せられ 雲や風が戸外を疾走する トントン   四月六日 胃悪く眠れず。    メトロポリス おれが歌ふはギリシヤのむかし 青い地中海の岸々に小い植民市をもつた 小い母市(メトロポリス) アテネやテーベではなく 城郭嚴しく近衛兵等に護られた ブランデンブルグ辺境伯の首府でもない 「これはこれ 觸手ある大都会」 毅然として天の一角にそヽり立つ大殿堂   四月十六日 わしはその荒々しい気候を愛した アジアよ その荒々しい土壌と岩石よ わしは驃騎兵 わしは屍体を食ふ禿鷹 アジアよ わしはその血肉を貪る── わしは古い神々を その神殿とともに覆がへし 愛せられたるものの 紅い小さな手をとる この密雲の下の いろんな小さい花々よ 鴿[はと]を見 麝[じゃこうじか]を見 いろんな詩を探り 雪と氷とに閉ぢられた 茫乎たる海洋に わしは巡洋艦隊 あまたの鴎を率ゐて。 四月二十七日? 上京。ゆき子、肥下。 二十八日 丸、友眞、西川と早法、帝立戦。 二十九日 友眞とボントンへゆく。 三十日 夕、ゆき子、母と東京を立つ。 五月 一日 高師浜一二八○に転住。 二日 夜、田辺に。父母、母、城 叔父、ゆき子、正哉叔父、和田さん夫妻。 その後、新居に入る。   七月三日   雲と祭と金魚 雲は水平線で動かない 華やかな夕ぐれ 波と船との奏でる音楽 崩れる幻想──   × 短い華やかな多彩な夕ぐれ 多くの都市が埋もれる 崩れる雲の山 船の入る椰子林 弦楽器なしの音楽をもつ祭 珊瑚礁の組織──   × 形をなさない思考の群 遠く沙漠でのやうなオーボエ 石油タンク 蒸発するオアシス 駱駝の遺骸──船の龍骨のやう 羊歯 ほんとに羊にまがふ雲の出   × 金いろの巨大な魚の雲 西方に祭あり 巨人は一脚をもち 一手は義足 義眼がたの日は沈み 回教寺院の荘嚴な 悲愴な祭壇 没薬の香やくちなし 青い夕ぐれ 見えぬ海なつかしき    ×           燕支黄葉落 秋は丘をめぐり        妾望白登台 高台に立てば         海上碧雲断 海辺に雲たなびき      單于秋色來 北から秋は来るか      胡兵沙塞合 兵のゆくのが見え      漢使玉関回 旅人は帰らぬ         征客無帰日 ことしもわれひとり      空悲惠草摧   七月七日    晝 大江へ犬を貰ひに行く。 村井勇司節子夫妻。 夜  コギト大阪例会。うす井、松下、中島、四人。 晝すぎ山には霧が降つた おれは紋黄蝶と深山龍膽[みやまりんどう]とを採集した こヽからは瀧はよく見えない 蛇骨と木の葉石とを黒人から買ひ 郵便局では切手がきれてゐたが 眠る客を起こすに日くれまで待つ   ★ 高原では青葉が空に映り 少女たちはみんな同じ服をつけ オレンジとメロンの罐詰が 馬車でゆられてレツテルをとりかへ テニスコートでポンカンが投げあはれ 黒ん坊たちは庭芝に撒水してゐる 休火山の肩で日くれがちらつと覗いた   七月十二日 眠る海とゴオホの日まはりと 大戟科の植物とをゆめに見る 海は 或時はゆれて砂丘をよぢ 雲と慇懃に挨拶し 古新聞のやうに白い海鳥が とび上らされ すひつけられ 日まはりにしばしば日が翳るんだ   八月五日 露ある園を歩み 多くの花を嗅いだ 色んな花の中で 一番平凡なのが気に入つた Des Knaben Munderhorn   魔笛 駿馬に跨つた若者が   帝の御城へ馳せ向つた 駒は地に身を傾け   若者は雅やかにお辞儀をした 婦人たちには何とあでやかに 綺麗に   うるはしく見えたことぞ 彼は手に黄金の紐(バンド)の   入つた角笛をもつてゐた 金の中にちりばめてもあつた   美しい宝石が沢山と 眞珠や紅玉やらが   人々の眼をひきよせた 誰も見たことがないほど大きな   誰も見たことがない位美しい 象牙の角笛で   その上端には環が入つてゐた 銀のやうに輝いて まじり気のない金から出来た百の鐘が   深い海から齎されてついてゐる これは海の魔女の手から   帝の后に贈られたので 彼女の純潔さの誉として   また美しく賢しいために 美しい若者もいつた   「角笛の用ひ方と申しますと    あなたのお指でちよつとお抑へになれば この鐘はみんな   いヽ鳴り音をたてヽ どんな竪琴の音や   どんな女の歌でも 空で囀るどの鳥でも   海の少女たち以外には こんな拍子はとれません」   さういつて若者は山のほうへ駆けてつた 皇后の手にはこの名高い   角笛が残された その指が一寸抑へれば?   あヽ 澄んだ美しいそのひヾき                       ズルタンの姫君と花づくり。(ケルンの古い一枚刷から)  ※   希臘文学に於けるロマンテイシズムの曙光 ★芸術に現はされた(オリユンポスの)これらの神々の形は、直ちに彼らの自然神としての正体を暗示した。 彼らは自然そのものヽ具体化された表現となつた。 河の神はその形の流動的な輪郭によつて知られる。 山や森のいぶきはデイオニユーソスやそのサテユロスの行列につきまとふ。 彼らの節と瘤のある筋肉や木の葉のやうな巻髪を以て。 海は鱗ある胴と波うつ髪をもつてゐる神々によつて、 魚を手に握つたネーレーデスによつて、 又は海豚やその他の海の動物によつて表はされてゐる。 波の生命と力とは、 翼ある海馬や疾走するネーレーデスによつて描かれる。 日の出の華やかさは、 人格化された「曙」によつて描かれてゐる。 その「曙」は翼ある馬と共に波から上つて来るのである。 馬の手綱は暗赤色で 「曙」の左右には星がある。(340P-341P) ★十字軍はアレキサンドロスの亜細亜遠征の結果に驚くべくよく似た結果を齎した。 遠い国々の戸が開かれた。 鳥や、 獸や、 爬虫類や、 又、植物の標本のあらゆる種類などが蒐集された。 それは自然研究者の時代であつた。 最古の動物園がパレルモに設立された・・・・。 十六世紀にはパドウア、ピサ、ボロニアはそれぞれ公立植物園をもつてゐた。(346P-347P) ★テオクリトスの描いた牧人は・・・・ その農人らしい競技に最もふさはしい場所について、 詩で議論する。 それは野生の橄欖の樹が生え、 冷い水が落ちるところであるか、 或は槲の木や松の木がより濃い影を投げ、 蜜蜂がその巣の周りに可愛いヽうなりを立てヽゐるところであるか。(356P) ★ 「今や眠る、  山の頂も峽谷も、  岬も河床も、  黒い大地の養ふ、  あらゆる匍ふものヽ族も  小山に育つ野獸らも、  蜂の種族も、  暗い海の底の怪物も、  羽を拡げるあらゆる鳥の族も  すべて今は眠る」       アルクマン断片(373P) ★ 「あヽ、あヽ、キユプリス、  と山々がすべて云つてゐる。  さうして槲の木が答へる。  あヽ、アドーニス。  さうして河々はアプロデイーテーの悲しみを嘆き、  泉は山々の上でアドーニスを泣く」    ビオーン、アドーニス哀歌(383P) ★ 「泣け、  泣くのを聞かせてくれ、  汝、森の中の空地よ、  さうして汝、ドーリアの水よ、  泣け、  河の流れよ、  愛すべきビオーンのために。  いざ、  汝ら、 なるすべてのものよ。  嘆け。  いざ汝ら、森林よ。  彼を悲しめ、  いざ汝ら、花よ。  悲しき叢の中に萎み去れ」   モスコス、ビオーン哀歌(383P) 高い建物にのぼり 四方を眺望する こヽは夕には雲が集まり 朝は鳥たちの家となる 山川は一目で 平原は茫々としてゐる。 むかし功名を求める士が こヽで争つた 百年の後の今は 皆 野辺の土となり その塚の松柏さへも人に伐られ 塚の土は低くなつてしまひ 跡をとぶらふ人もない 魂たちはどこへ行つたか 栄華は誠に願はしいが あはれなものでもあるのだな(陶潛、迢々百尺楼) 嶮しい山は登りにくく 山頂にゐても星はとれない あヽ 輝く斑点よ 天の蟋蟀よ その心臓から涼風は来た    ☆ 人情だの義理だのは忘れたが 浮世には節季やかけとりがあり (西鶴の頃だつてあつたものだ) 詩人や学者をも用捨しない   江洲採白蘋 日暖江南春  夕なぎさ犬ゐて海に向ひけり 洞庭有帰客  子供らが砂城越すや夕の波 瀟湘逢故人  砂浜や名も無き草に風吹きぬ 故人何不返  夕凪やキヤンプの子等も外に出 春花復應晩  夕凪や動かぬ船の沖にあり 不道新知樂  夕凪や島いろいろに暮れかヽる 祇言行路遠  夕凪や 戸とろとろとくれかヽる   (柳惲江南曲) 窓の外に多くの花がある 眠い蜂の羽音がする 正午すぎると悲しくなつた 一日がかうして暮れ また他の一日が来る 湖畔の町 (シユテフアン・ツワイク)   コンスタンツ 蒼暮の時の一層増した美しさで 遠くドイツの町のはつきりした線が これはまたやさしい色調の雲に たヾ六月の夕にだけある様子で映つてゐる 湖岸の公園では暗い木の茂みから音楽 歌 「昔のうたをまだ覚えてゐるかい?」 たわヽに実つた葡萄の房の液のやうに うれしい かなしい歌が波間をしづかに流れる その時まるで懷郷病にかヽつたやうに汝(ソナタ)の心は鳴りひヾき この町もはじめて いまあせた月光に まどろみながら凭れてゐるおのが黒い シルエツトを見るのだ   幸せな一刻(ヒトトキ) (フーゴー・フオン・ホフマンシユタール) こヽに臥せてゐると まるで世界の頂上にゐるやうな気がするのだ こヽには別に家ももたず 天幕ももつてゐないのだが 人のゆきかふ路はぼくのまはりにあり 上は山々の方へ 下は海へと下つてゆく 彼等はおもひ思ひの荷をもつて来る みんな僕の生活(クラシ)を支(タス)けてるなどとはゆめにも思はないで 彼等は燈心草と草とから出来た箕(ミ)の中に 永い間食べなかつた果物を入れて来る       つづく   八月二十日 小高根二郎、伊東静雄、山村酉之助諸氏。 日が入つてから私は不幸せだ 垣根に花が咲いてる木には もう実がなつてゐる あらゆる声々が呼び立てるのは 私の収穫を促してだが もう世辞なぞ聞きたくない シムバルほど喧しくてやり切れない 日は再び昇つて垣根の上に そこで 私は満足して眠るのだが いろんな噂がゆめに迄も現れる 牛や馬の形を仮りて   ××× 波に映つて雲は形をかへる 鴎は帰る舟のやうに翼を張つて 海底に沈んだ魚を探(モト)める 止めよ 止めよ 汝の菩提のために それは雲だ しかも虚妄のものだ   ××× 『蘇鉄』といふ小説を書くべし。   月夜 (ヰルヘルム・アレント) しづかな青い森の夜に 白鳥の背にのつてゐる月桂樹の葉を見た ああ 心もそぞろになるばかりのうましい純らかな光景── 巨匠の手に神業のごと造られたか! 水は夢みごこちの深い沈黙にくちづけし 童話のやうな暗さの潮にはそよとの風もせず 月影は花咲く枝々から滴り 紅玉の色で森を染めてゐる   鹿の声 (フエルデイナント・アヱナリウス) 月夜は 山森(ベルクハルト)をこめて。 霧の中を 細い雨がしぶき 風は瀕死人の 息のやうに吹く。 突然 呻く──。 あれは鹿が啼いてゐるんだ──。 熱情をこめて呻き 叫ぶのだ。 この時すべての懸崖で木魅になつて 暗の方々で無生物たちが目を覚まし 急に 立ち上り 夜に向つて 訊ね 嘆き 元気を失ふ。   正午 (パウル・バルシユ) 闃[げき]として そよ風もない 谷は 目眩(まぶ)しい正午の日の炎に照らされてゐる 草や花や 潅木や樹は 息もせぬ夢につヽまれてゐる その時 ものうい花の野原から 急に蛇が頭をもたげる 彼は無感動に遠くをみつめる 何か向ふでこつそり動いてるかのやうに だけどそれは虚妄(まやかし)だつた 蛇は また深く頭を垂れ 正午は黙す 美しい色の野原で夢は卵をかへす それは依然として平和なのだ   少女の夢 (ハンス・ベンツマン) 彼女は坐つて忙しく刺繍しつヾけ 王様の死の悲しい唄をうたひ 散つてしまつた百合の花を唄ひ 盛りをすぎた恋の炎を唄ひ 遠く夜と風とをおかす船人を唄ひ 捨てられた少女の唄をうたふ 彼女は唄ふ──夜が来るまで・・・・ 野性の楊桃の樹が生え 冷い水の墜ちるところで 耳をすませば 都会はいろんな音樂と いろんな木々とを持つてゐる 金色に光る夏蜜柑 赤い夾竹桃など 夕日が昃り出すと 鳥がみなそれらから飛び出して この峠まで帰つて来る   九月四日    果樹園 重い雲が疾走する 園の中央で鋏が光り 美しい香気が傾斜を下る そこで取引が行はれる   九月二十四日    城ある湖のほとり ほこ杉は朝日にぬれて輝き 梅の花は古代めいた花つけ 青い貝を二つ三つ拾つた 窓を開けると灰色の並木道 のろい 生ぬるい塩風(ママ)がくる 子供たちは一斉によむ 「それは蜂か それは蜂ではない それは蛾である」  ほんとに窓の間には蜂がはさまつて唸つてゐる   九月二十七日 ある晴れた秋の朝 発動機船第三住吉丸は 五色の幟をひるがへして 初めての船出をした 村中が浜に集まつてゐた さわがしい機関の音は 次第に小くなり やがて船は倒れるほど傾いて 進路を北の方へ変へて了つた   十月二十七日 鹿は山頂に坐つてゐた 四足を折り曲げて 疲れた様子で 遠い山で稲光りがして 花苔やエイラン苔や岩角や また 彼の蹄の間にはさまつてゐる岩屑が 瞬間 しかもはつきりと輝いて見えた   △ ふたりで山頂に立つてゐた 僕たちの後影は黒く見えたらう 夕やけのする空を間もなく雲がかくし 烈しい稲妻が起つて 山々や谷々を照らし出した 僕は妻に僕の故郷を指示することが出来た   十一月二十七日    玩具風景 眼鏡橋の上から男が覗いてゐる 水の中へ落つこちさうな姿勢だが 日はまだ通りをよぎらない 地方法院の塔から郭公が飛び出し 十二度啼くとまた入つた 兵隊が河岸を徘徊してゐて 星章が遠くからも輝いて見える エプロンで手をふきふき下女が出て来る 鈍く砲声がして家並の上に雲が見えた  (つづく) 「日記」 第十一巻 その2(「夜光雲」改題) 昭和11年1月1日 ~ 昭和11年12月23日 昭和十一年一月   冬海のほとりに住む 夜更け目覚めて聞くと海は遠い紡績工場のやうだ 絶間ない轟音の間にかん高い女工たちの行儀の悪い歌が聞こえ テノールの監督たちの叱り声がまじつてゐる やヽあつて終業の汽笛 微かに声長く── いやあれは午前一時の最終航路 (幾百の船酔ひに苦しむ夢をのせて)   アツタ・トロル (ハイネ) 傲慢に抜んでた灰色の山々が四周に聳えてゐるところ 流れ墜ちる荒い河音を子守唄と聞き 夢の町のやうに 谷間に雅かなコーテレーの町が横はる バルコニーのある白い家々 そこに美しい婦人たちが立つて婉然と微笑んでゐる 婉然と微笑みながら彼女たちが瞰下してゐる 人々のごたごたと群れてゐる広場では ドウーデルザツク(バグ・パイプ)の音につれて牡熊と牝熊が踊つてゐるのだ アツタ・トロルと彼の夫人の黒いムンマが踊り手で   バスクびとたちは感心して叫び声を立てヽゐる 気取つていかめしく 荘嚴な態度で貴族アツタ・トロルは踊つてゐる が房毛の夫人には威嚴と体面が足らぬ さうとも 僕なんかもう少しで彼女がカンカン踊りをしてるのだと思ふところだつたし お臀の振り方にはグラン・シオミールを思出さされた 彼女を鎖でつないでゐる感心な熊使ひさへも その踊りの背徳性を認めてゐるやうすだ それだから彼は幾度も鞭で彼女をひつぱたくが その時黒いムンマは山々が反響(こだま)するほど吼えるのだ この熊使ひは尖り帽に六つの聖母像(マドンナ)を挿してゐるが これこそ敵の鉄砲玉や虱を防ぐに役立つんだらう 彼は肩には五色の色の祭壇の掛布をマントの代りにかけてゐ その下からピストルと短刀が覗いてる 青年の頃には僧侶であつたが 後には盗賊の隊長となつたが その二つを結合さすため最後にはドン・カルロスに仕へたのだ ドン・カルロスが円卓騎士たちと一緒に亡命し 大抵の勇士たちが 律義な手職にありつかねばならなかつた時── (シユナツプフアーンスキー氏は作家になつたが)我等が騎士は熊使ひとなり アツタ・トロルとムンマをつれて諸國を廻ることとなつたのだ かうして彼は二匹を踊らす 人々の前で 広場の中で── コーテレーの町の広場の中で縛られてアツタ・トロルが踊るのだ 嘗ては荒野の誇れる君主として 自由な山の高みに住んでゐた アツタ・トロルは人間共の中で谷間で踊る それどころか軽蔑すべき貨幣のために踊らねばならぬ   嘗ては畏怖の尊嚴にみちて 己れを世界主と思ひなしてゐた彼が    ※ 失つてしまつた森の支配権 青春時代を思ひ浮かべた時 アツタ・トロルの魂から暗い声が呟き出した フライリヒラート[※ 詩人の名]の黒いモール公のやうに 陰鬱に眺めて 太鼓の調子が狂つたとき 怒りのために旨く踊れなかつた それでも同情を得ず 哄笑だけが起つた ユリエツテさへもがバルコニーから 絶望の一踊りに笑ひを投げかけた ユリエツテの心には心情(ゲミュート)など少しもない 彼女はフランス人で外面だけで生きてゐて しかもその外面がすばらしくて魅きつける 彼女の秋波は甘い光の網で その網目にかヽるとわれわれの心は魚のやうに捕へられてしまひ たヾあがくばかりだ                                 [※ 以下未完。]   五月二十五日 暗澹と日がある。たヾ我は日を逐うて強められ、自信を持つて来る。この我の完成過程は勿論、 完成の暁にも幸福はない。世俗的にも絶對的にも。   計画 儒林外史、あるひは水滸傳の訳 ホフマンシユタール詩集訳 歴史小説、洪承疇、或は鄭成功 十二月迄に清朝と蒙古に関する論文一篇 二十四史買ひ度し [※ 自分の]詩集安くて出し度し 柚梨枝(Yulie) 登邇雄(Tonio) [※生まれてくる子の名前の案か?]   老者の夏へのあこがれ  [※ 訳詩。不詳] 最後に三月が七月とかはつてくれるなら 辛抱はしない 馬か車かに わしは席を取つて 美しい丘陵地にやつて来る そこには群れをなして大きい木 プラタナス 楡の木 楓や槲が寄り添うて立つてゐる それを見なくていくとせ經たことぞ そこでわしは馬から降りるか 馭者に云ふ 停れと そしてあてどもなしに 夏の國のおくふかくへ進んで行く こんな木々の下で休息する その梢には晝と夜とが同時にあり この家の中でのやうに日毎が まるで夜のやうに荒涼(すさ)んでゐ 夜毎が晝のやうに鉛色で待ち遠しいのとは違ふ そこではすべての生が光と輝きとであるんだ そして蔭から夜の光の幸の中へ わしは踏み入り そしてそよ風が吹きすぎるが どこにも「こんなものはみな無だ」などとの囁きはない 谷はくらくなり 家のあつたところには 燈がついた そして闇がわしに息を吹きかける しかし夜の風は死については語らない わしは墓地を通つてゆき 花ばかりが最後の光の中にゆらいでゐるのを見る その外には何にも近くには感じない もう暗くなつた 榛の藪中を 小河が流れて行つてる そしてわしは子供のやうに耳を欹[そばだ]てて しかし「こんなことは空だ」との囁きをきかない そこでわしはすばやく着物をぬいで その中へ とびこむ わしが小川と組打ちして そしてわしが頭をもたげたときには 月が出てゐる 氷のやうに冷い波から わしは半ば身を出して 滑らかな礫を陸にむかつて 遠くへなげながら月光の中に立つ 月に照らされた夏の國に 一つの影が遠くへとどく それがこの こんなに悲しげに この壁ぎはの褥に埋もれて ここでうなだれてゐる奴か? こんなに悄気こんで悲しがつて 夜明け前に 半身しやちほこばつて 朝の光に痛がつて硬直し わしら二人の間に何かが待伏せしてるのだと知つてゐる奴か? この三月の意地悪い風に こんなに苦しまされ 毎夜 眠りもやらず 自分の心臓の上で黒い手をひきつらせてゐる奴か? ああ 七月と夏の國はいづこ?   七月八日午後八時、男児分娩。 大きな眼、あくびする。大きい声で啼く。くさめする。   八月二十二日  畠中先生のフラウ逝去され、川口教会で葬儀ある旨、服部より知らせ来る。四時頃行くに電車で全田の叔母と一緒になり、円タクでゆく。まだ早く誰かれ来てゐず。 その中に大高の諸教授来る。中島、松下と並んで坐る。キリスト教の葬式はつまらず、会衆不慣れな爲、余計をかしい。 式後、本庄、興地諸先生を誘うたが成らず、服部、五十嵐、野田と六人で川口の支那料理を食ふ。五十嵐君おごる。気の毒の上不愉快。何か不道徳的な責務を感じ、カフエーをつれ廻る。 どこもつまらず帰りたくなる。その気持ち尤もみじめ也。心サイ橋のミラクルといふ所で服部珍しく怒る。皆同じ気持ち也。   八月二十三日 きのふのビールでけふは晝寝大分す。叱言大分云ふ。妹二人、建[※ 弟]来る。天沼のネエヤ、帰ることを一日延ばしたり。   九月四日 原先生と保さんの見舞にゆく。上がらず。田村へゆき、春雄君と永い話。病院内部のことを色々と聞く。外科の若い医師は皆、切りたがつてゐる由、脊髄カリエス、 丹毒などはそれ故いやがる。痔の手術、下手なものがやれば粘膜が外へ出て、一生猿股が汚れるなどと。ドリーシユの形而上学、保さんの訳あり。 自費出版でもいヽから出したいといふことになり、熊野君を帰りに訪問、考慮してもらふこととす。 朝明け山へのぼる つゆ草につゆある道 蝉は目覚め 蝶は羽うち 蛇は寝返りをうつ 高みで太陽を迎へる──歓天喜地 雪は慇懃に波を打つ 水筒で水が沸りかへる   九月五日 佐藤春夫「南方紀行」、よみ返すほど巧みなり。昨夜は水滸伝で眼をつからし、頭痛はげし。 〒・山崎清一君。   九月六日 熊野君、学校へ来られ、ドリーシユの清書をすべき由、諾否を明らかにせず。   九月八日  専修院教道居士三回忌。彰夫氏に保さんの病気を告ぐ。帰途、田村へゆき、ドリーシユ原稿もち帰る。 やはり趣味をもたぬ学問のことヽて困る。自分の仕事のことも考へると嬉しくなし。 〒・山本書店。ノヴアーリス原稿返送のことは許せ、近く十五銭のにして出すとのこと也。                                   [※ 山本文庫「ヒヤシンスと花薔薇」]   九月九日   6 死へのあこがれ  [※ ノヴアーリス「夜の讃歌」訳] 光の國をはなれて 地の懐に下りゆかむ 苦痛の狂乱とあらあらしき打撃とに 樂しき旅立ち(死への)のしるしあり 小き舸に打のりて 早くも天の岸に到り着きぬ 永劫の闇夜は頌むべきかな 永劫の眠りは頌むべきかな 晝はわれらを暖かにしてくれたるも 長き憂ひは却りてわれらを萎ましぬ 他郷の樂しみは去りゆけど 父のもと 我家へと行かまし この世にありては愛と誠を われらはいかに爲すべきや 古きは蔑[ないがし]ろにされぬ 新しきはわれらに何たるや あはれ さびしく佇ち 深く悲めり 厚く虔しく 太初を愛する者は 太初よ 諸感官が明るく 巨いなる炎となりてもえしとき 父のみ手とみ面を 人類のなほ見しりゐしとき   1   [※ ノヴアーリス「夜の讃歌」訳]  生ける者なにか、自がまはりに広ごれる空間の、なべての不思議の現象にまさりて、万象を喜ばす 光を愛せざらん──その色とその光條と弯曲と、あかつきのときの和やかの偏在とをもてる光を。  生の最奥の靈のごとく、そを小休みなき星辰の巨大世界は呼吸し、踊りつヽその青き潮の中に漂ひ── 閃々たる永劫に休らへる石、感官もてる乳を飲む植物、荒々しく燃えて様々の形したる獸も、そを呼 吸し、──就中、感覚するどき眼と飄々たる歩みと、やさしくしまれる佳音に富める唇とをもてる莊 嚴なる外来者、そを呼吸す。  地の自然の王の如く、そは勢力ことごとくを呼び来つて、様々の変形なさしめ、無限の同盟を結び、 解き、そが天つ像を地のものことごとくに懸けしむ。その顕在のみ、この世の不可思議像の莊嚴的を 啓き見せしむ。  されどわれ、光にそむき、神聖なる言語にたえたる秘密なる闇に左袒す。この世は遠く下に横はり (ふかき洞窟に沈みて)そのありか荒涼として轉た[うたた]淋しや。胸の琴線(いと)はふかき哀愁が かき鳴らす。  露の滴に身をしづめ、灰に身をまじへんとす。──思ひ出の遠き代々、若き日の希望のかずかず、 幼年の夢あまた、永き一生の短き喜びと空なりしのぞみとは、灰色の衣着て、陽の没りの後の夜の霧 のごとく来りぬ。他の空間には光がたのしき天幕を張りぬ。あどけなき信もて、彼を待ちこへるそが 子たちに、彼はかへり来ざるべきや。 かく予感にみちて心中にたちまち湧き来り、哀愁の微風を呑むは何ぞや。暗き闇よ、汝もわれらに好 みをもてりや。目に見えずしてわが魂に力強く感ぜらるる何を、汝は外套(おほひ)の下にもてるなりや。 貴き番膏、汝が手より、一束のひなげしより滴り墜つ。心情の力強き翼を汝はあげぬ。昧く物云ふす べしらに、われら動かされたるを感じ、嚴しき顔をわれたのしく驚きて見、そがやさしく虔ましくわ れに向ひて禮し、無限にもつれし母が巻毛の下に、めぐし児を示したり。この時、光りはいかにみじ めに子供らしくわれに思はれしぞ──晝との訣別のいかに喜ばしく、祝福されたるものなりしか──  されば、夜が汝の召使どもを汝より背かしめたるに依り、汝は空間の遠きに輝く球を繙き、汝が別 離の時、すでに汝の全能(汝の再帰)を告げ知らす。かの輝ける星よりも、われらはわれらの心中に 開きたる無限の眼を尊し(ヒンムリッシュ)と思ふ。かの無数の群なせるいと淡きもののどもよりも、遠く を見はるかし──光の要なくして恋するものの心情の淵をも洞見(みとほ)す──より高き空間(そら)を ことばにいへざる情念もて充す心情。── 世界の女王、神聖世界の高き豫告者、幸多き恋のみとりめ 看護婦の賞賜よ──彼女はわれに汝を送りぬ──やさしき恋人を──夜の愛らしき太陽を──今われ 覚めぬ──われは汝のものにしてわがものなれば──なれは夜を生として告げたり──われを人とな したり──わが躯をたまの熱情もてくひつくし、われをして空中にてなれと烈しく混和し、永劫に新 婚の夜をつヾかしめよ。   九月十日。 〒・羽田。四日、上海にて投函したる葉書着す。二日午後三時半発なりしとのこと也。   九月十二日   2   [※ ノヴアーリス「夜の讃歌」訳]  朝は永劫に還り来るものなりや。現世(うつしよ)の支配の力は終らぬにや。夜の天國的なる飛来を ば凶々(まがまが)しき雜務が食ひ盡しぬ。愛の秘密の犠牲は永劫に燃えざるべきや。  その時は光に配当されたりき。されど夜(闇)の支配は時間なく無間なり──睡りの継續は永劫 なり。神聖なる睡りよ──夜(闇)の祓ひ清めし者どもに、この晝の間の業のまに、しばしばに祝福 を与へよ。汝を謬りて覚り、なれが眞の闇の、かの薄明のときに、われらに同情して投ぐる蔭なる睡 りを知らぬものは愚者のみ。葡萄の房の黄金の水にゐるなれを感知せず──巴旦杏のふかしぎの油、 ひなげしの褐色の汁にゐるものとも。愚者たちは、なれこそたわやめが乳房のまはりに漂へるものと も知らず、その膝を天國となすものとも知らず──古き傳説ゆ、なが天國の門をひらきて歩み来ると も、無限の神秘の、もだせる使者たる幸夛きもの住居への鍵をもたらすとも悟り得ず。 原正朝氏と清徳氏見舞、玄関先にて帰る。それより中島を訪ねたるに、父君逝去とのことゆゑ、 寺田町の家を訪ね弔問。松下に電話し、服部を訪ねてその旨を伝ふ。夜、五時すぎ、阿倍野斎 場にゆく。その後野田君を訪ね、ドリーシユのテキスト五十嵐氏より預かりくれたるを持ち帰る。 服部、関大を又振られたる由、大高四回の上道氏が行く由。   九月十三日  父来る。午後、服部来る。ともに夕飯。畠中先生をたづねしに不在。興地先生をたづね九時ま で話す。畠中先生、旅行して今にも帰つて来る気持と奥さんのことを云はれをる由、コギト翻訳 陣強化をハツトリと語る。   九月十四日 藤岡晃死す。鶴町の自宅で告別式あり。梅田生と共に参列。五時まで三時間ほど待ち疲る。晃、 小くして眼黒く、歯出でたる線病質的生徒なりし。〒川田總七氏より「若き蛇」。「歴史研究」   九月十五日 〒江間章子氏轉居通知。彙文堂より「嘯亭雜録」一.六〇。羽田に手紙書く。   九月十六日  午後、京都にゆく。藤枝に研究室で会ひ、「台湾府史」借りてもらふ。藤枝は関大予科の講師 になる。生徒の行儀悪い由、窓の外より返事するもの有り、入室した時號呼したなど。 東洋史大辞典の原稿書き終へるまで下宿で待ち、正宗ホールにゆく。十一時前帰宅。   九月十七日 防空演習豫行。晝、中島を訪ね、碁をうち丸善にゆく。   九月十八日 南野の子供来ず。   九月十九日  國学院新理事 高畠氏、工藤氏(百舌鳥社) 新監事、井岡氏。原さん喜ぶ。昨日の評議員会で新しく入つた人間を紀主任にし、前からゐる原君 をせぬのは如何なるわけか、出来ぬやうな人間なら止めさせろと校長に云はれた由、前田さんの話也。 吉村少しあはてた旨。〒セルパン。「請海紀」製本出来。   九月十七日 日下貝塚発見十周年記念祭。中島と碁を打ち、夕食後服部を訪ね興地先生とエリーへゆく。    小い市にて ある日 手提鞄を提げて 小さい駅に降り立ち 木犀咲く練塀小路をゆき タバコやの角を曲り 濠につき当つて 一廻りし 天主の跡に登る 市は低くて一目に見渡せ 青い秋の海が穏やかに湛え 山々は静かにそのまはりを取巻き 目に見えぬ星辰の中央に 輝く太陽はその歩みをつヾけ 光を浴びて突立つ建物は 旅館観海楼と わるい案内人に指さされはしたが 市中は秋の晝を和やかに眠り 遠く紡織の煙のみが生々と 紡錘形の雲を漲らしてゐるのが見えた 手提鞄の案内記で承知したところでは            ※ こヽは百年前までは安倍大内記の御城下で わたしもその一族の貴公子と交あつたことがある 彼は当時泥酔して 電車の駅に佇つてゐたが その鼻は高くその丈はすらりとして たヾ少し猫背で人々を見下してゐた 今は宮内省の主馬寮に勤務し わたしには寒暑にも見舞さへよこさない── 案内人は頬杖ついてベンチにゐたが 長い欠伸の後 わたしの耳もとで 昔の家老筋の娘の経営する 小いカフエへ案内しようといふ 城壁を攀ぢ降りて タバコやの角を折れ 練塀小路をゆけば 小い駅前で彼女は 夜の待機の姿勢を 二階の四畳半で專心してゐたのが 訪なひを聞いてトントンと降りて来 店の隅に囲つてゐた中学生たちの頭を撫で 私たちにしづかに会釈を与へたが チリメン皺のかげから 中学生たちのふかす 安い煙草の煙が立ちのぼり かうして日が暮れるかと私は途方に迷つた    帝政時代の追憶 人々は帝政時代をともすれば讃美し 今の共和政をプロパガンダにすぎぬといふが 老いたわたしから見ればそれは謬りである  [※ 未完]   十一月六日 精神文化講習で、平泉スマシの悲憤慷慨を聞く。 敵の陣営を覗くのは良いものだ タンポポ帝国でも方々に そのためスパイを派遣してゐる 教授は壯んに清貧を説いたが 彼の棒給はいくら位あるか 彼はこの講演でいくら銭をかせぐか 彼の祖先は義貞を蒔島で殺した 平泉寺の悪僧の一人ではないか 彼は若年で博士の学位を得 しかも尚野心にみちみちてゐるが 更に若く更に貧しい小学教員共に 何の忠君愛國を強要する権利ありや 彼は低声に しかもりつぱな声で 壇下をにらみ付け 盛んな拍手で なで肩をゆすぶつて降壇してゆく ホフマンシユタール    旅のうた われらを呑まうと水は墜ちて来る われらを打たうと岩は轉がつて来る 鳥は力強いはばたきで われらを攫み去らうとかヽつて来る しかし下方には土地がある 果実は見わたすかぎり 齡ひ[よわい]をもたぬ湖に影を映してゐる 大理石の額(ヒタヒ)と井戸の縁とが 花咲く野から聳(タ)つてゐて そよ風が吹いてゐる 春近きころ 春風が 裸の並木道を吹いてゐる その風の中に ふしぎなものがある 涙のあるところでは 彼は体をゆすぶり みだれた髪の毛には 身をかヾめた 彼はアカシアの花を ゆすり落し 呼吸づき乍らもえ立つ 四肢をひやした 笑つてゐる唇に 彼は手を觸へ やはらかく萌え立つ 草原をくまなく搜しまはつた 笛の中をすヽりなく 叫びとなつてすべりぬけ たそがるる赤色に 飛び去つた ひそひそ声のする部屋は もだして吹きとほり 懸ラムプのうすらあかりを おじぎして消してつた 裸の並木路を 春風が吹いてゐる ふしぎなものが その風の中にある 高低ない裸の 並木路を その風は蒼い影を 追ひまくつて吹く そして彼が来たところから 匂りを 昨夜来 彼がもつて来た    ※   十二月二十三日 独乙文学と私。  もし僕が、ペンクラブの使節としてでも南米あたりのある國へゆく、するとどこかの國と同じやうに早速新聞記者がやつて来て、インターヴユーをとる、 彼はやはりどこかの國の新聞記者のやうに、文学、就中、ドイツ文学については何も知らないに違ひないから、僕は昂然且つ悠然と答へるだらう。 「何故ドイツ文学が一番好きなのか」 「それは他の文学を知らないからさ。僕はイギリス文学もロシア文学もペルシア文学も、更に甚しくは日本文学についても殆ど知らないからだ。 知のないところに愛はないといふことわざを知つてゐるだらう。もし僕がも少し不正直なら、僕がドイツ文学を愛するのはその中に現れる理智であるとか、或ひは樅の木であるとか、 青いバラの茂みになく夜鴬の歌であるとかが好きであるからだといふのだが」 「では、ドイツ文学では何といふ作家と何といふ作品とを愛するか」 「先づゲエテのフアウスト。シラーのある種の作品。最近の作家ではカロツサ云々」 「今後どういふ方面で活動されるつもりか」 「ドイツ文学の正しい紹介を行ひ度い。幸ひ日独協定もあることだし、大使館あたりが中心になつて、かういふ事業を援助発展さしてくれればいヽと思ふのだが。 ともかくドイツ文学と日本文学の相似性、いひかへれば両國民性の近似点を求めて、日独親善の基点とする必要があると考へてゐて、この仕事にこそ男子が一生をかけてもいヽと考へる云々」 (つづく) 「日記」 第十一巻 その3(「夜光雲」改題) 昭和12年2月22日 ~ 昭和12年12月21日 昭和十二年   二月二十二日 塚口三郎博士逝去の由。    塚口克己の思ひ出 かつて海辺の小学校で 「克己同志だね」といつた友だちは その後肺を病んで死んだ── 俺はある日彼に再会しようと思つた 医科大学の標本室に彼を訪ねると 彼はその骸骨の顎骨を開いて 奥まつた眼窩に微笑を浮かべてゐたが 骨々の継目からは 少し錆の来た銀色の針金が見えた 父博士は「私もいつかここに骨を並べます」 といひ 老人の笑いを浮かべた口もとが ほんとによく似てゐられるので悲しくなつた   三月十九日 及落会議。 陰山(一ニ大青山ト云フ)ノ北麓 百靈廟又ハ四子部落ノ辺リニ (事件ノ性質上今ハ詳[つまびらか]ニスルヲ得ナイ) 彼ノ率ヰテヰタ蒙古兵ノ一部隊ハ 突如トシテ兵変ヲ起シタ (尤モ蒙古人将校ハ既ニ三四日前ヨリ逃亡シ畢リ  紅イ傳單ヲ見受ケタ事モ一再デハナカツタガ) 彼ハ兵営カラ数町ノ 砂地ノ上ニ立タサレ 目カクシヲサレテ銃殺サレタ ソノ後 彼ノ制服ト軍帽トハ 彼ノ従卒ノ有ニ帰シ 彼ノ肉ト骨トハ 蒙古犬ドモガ食ヒ盡シ 彼ノ日来愛読シタ松陰全集ノミガ      ※ 砂漠ノ間ニ残ツテヰタト云フ   × 一日春風吹き盡くして 夜 厠に立てば砂塵縁を埋めたり わがこの家に住むも一年に近く 蝸牛の居中 黴埃堆く[うずたかく]なりたり 如かじ一巻の書を携へて 松岳梅林の間に逍遥せんには   六月十四日    支那の皇帝曰く 萬物の中央に 天子 朕(われ)住まひたり 朕が妃 朕が樹木 朕が畜 朕が泉水を 第一の城壁囲みたり そが下にわが祖宗眠れり 王者に相應しく 自が剱佩[は]き 自が冠を頭に戴きて 彼等墓窖の棺の中に住めり 地の深奥に至るまで 朕の玉歩は鳴り響かす 朕の玉座 朕の緑の足台より黙して 等分されたる流れ 東西南北へ 廣大なる地 朕が園を潅(うるほ)さんと流れ行く ここに朕が畜の 黒き眼 色様々の翼 影映し 外にては様々の都邑 灰色の城壁 密林 数夛の國民の面映れり 綺羅星の如き朕が貴族輩は 朕が囲りに住みて 朕が 彼等の各々が朕の下に来たりし時に因みて      ※ 賜ひたる名を持ち 朕が贈りし妻を持ち 一群のその子どもを持ちたり この地上の凡ての貴族の 眼 丈 唇は朕が作りき 園丁が花作れると同じく また外城との間には 朕が騎士なる民 朕が農夫なる民住めり 新しき城壁ありて その外に更に かの征服されし民 愈々愚鈍なる氣質の民 最後の城壁にして 朕が國土と 朕を囲める海に至るまで住めり   幸福なる家 打開きたる露台にて 一人の老人 オルゲル[※ 風琴]彈きつヽ天に向ひて歌ひゐたり その脚下の三和土[たたき]には 細き孫と鬚ある孫と剱術をなし   × 紫陽花の咲く縁側で 女が髪を洗つてゐる 汽車はその傍を通るとき 一声疳高い汽笛を鳴らし その時 雲間をやぶつて 日光が虹色に輝く   × 子供らは雨に退屈し切つて 鉄道唱歌を高声で歌つてゐた まもなく嫁ぐ此の家の娘が 苺を皿に盛つて現れた 誰かが庭木の葉にゐる青蛙を見つけ 金魚は水盤の中で閃(ひか)つてゐた   × 何で此の日がたのしかろ 日々は日毎に暗澹と わが死にの日は近くなり 日々は日毎に暗澹と 妻はまた子をひり出す 何で此の日がたのしかろ   × 輝きて死ぬる虫あり 六月の暗き空より 一時を 輝き出づる日に映(アタ)り 燦々としばし輝き死ぬる虫あり   × 此の日々を稚き心もてくらす わが弱き体愛(カナ)しみ 辱(ハヅカシ)めしばしわすれて す直なる 返報知らぬ心も 此の日々をしばらくくらす ああ眞晝 海の虫ども 水の面に 漂び上りて 水死人むさぼりくらふ その時ぞ 吾妹子は喘ぎて死にぬ 假なれど死(シニ)は悲しく 吾子(アガコ)さへ 先立つ勿れ   × 吾友は昨日死にたり 吾妹子は明日をばしらず その面に死相出でしと 術師らが呪言(マジゴト)聞きぬ 時も時 まひる星あり 東北(ウシトラ)の空に輝く   九月初八日  朝登校聞饗庭源吾君轉任京都市立四條商業学校。君赴任浪速中学校在昭和十年四月、 卒業大阪商大高商部直後也。其資性明朗快活雄辧而頭脳極明晰、唯憾小心翼々力迎合人意。 然交与我極深、至以爾汝今聞是報而嗟嘆耳。但浪速中学校非君子之永住之處、君之決意尤可然歟。 午後教護座談会、畢而臨五十嵐達六郎君之嚴父君葬儀於阿倍野新斎場、見大高諸先生、 其後会談与野田松下服部中島諸君、此間有大雨次雷鳴。   九月初九日 登校、無事、午後訪田村家、未亡人縷々説家計、家産概貸金而当今之時節難回収云。   九月二十三日    履歴書 一.明治四十四年八月三十一日、大阪府人西島喜代之助、兵庫縣人田中これんを両親として生る。母の家を継ぐ。 一.明治四十五年(二才) 明治天皇崩御。妹千草生る。 一.大正六年(七才) 母死す。 一.大正七年(八才) 嗣母京都府人今井しづえ来る。大阪府泉北郡高石尋常高等小学校に入学。歌枕、高師浜の地也。 一.大正十二年(十三才) 転居の爲、大阪市浪速区惠美第三小学校に轉学。 一.大正十三年(十四才) 大阪府立今宮中学校に入学。伊原宇三郎、淡徳三郎、藤沢桓夫、武田麟太郎を出したる学校也。    時に三年上級に石山直一(野上吉郎)、船越章あり。 一.昭和三年(十八才) 大阪高等学校文科乙類に入学。同級に保田與重郎、中島栄次郎、服部正己、松下武雄、松浦悦郎、松田明等あり、    ロマン的学級と称せらる。隣級文甲に杉浦正一郎、相野忠雄(若山隆)、竹内好あり。理甲に伊藤佐喜雄、    一年上の文甲に、(三浦常夫)小高根太郎ありき。教授佐々木青葉村(歴史)、財津愛象(漢文)を崇拝す。 一.昭和四年(十九才) 以後三年、野球部マネージヤーとして学業を抛擲して顧みず、詩誌「璞人」の編輯を野田又夫、奥野義兼より譲られ、    松下、中島と編輯。一月にして保田と代る。 一.昭和五年(二十才) 短歌誌「かぎろひ」を保田と創刊、編輯に当る。この頃、利玄、順に私淑す。  ※    肥下恒夫、病気休学中なりし爲この年より同級となる。この秋同盟休校あり。 一.昭和六年(二十一才) 茂吉、千樫を愛讀す。中野重治を好んで讀む。皆、保田が感化に依る。かぎろひ十号を以て編輯を中田英一に譲り、    三月卒業。四月東京帝大東洋史学科に入学。上京して柏井家に寄る。船越章と同室。この頃、盛にマルクス主義書籍を讀む。満州事変起る。 一.昭和七年(二十二才) 三月、コギトを肥下、保田と共に発刊。薄井敏夫及び前掲諸氏夛く同人たり。    この頃佐藤春雄、志賀直哉を耽讀、ハイネ、シユトルムの詩を愛して訳に努む。伊東静雄と識る。 一.昭和八年(二十三才)。松浦悦 死す。北園克衞、近藤東等のマダム・ブランシユの会員となる。    酒井正平、川村欽吾、饒正太郎と親しむ。卒業論文の爲、やや東洋史を学ぶ。 一.昭和九年(二十四才)。学成り畢つて帰郷職なし。新聞社の試験を受けたれど通らず、遂に大阪市私立浪速中学に奉職す。先輩清徳保雄の推輓による。    ノヴアーリス「ハインリヒ・フオン・オフテルデインゲン」をコギトに訳載。 一.昭和十年(二十五才)。五月、柏井悠紀子と結婚。 一.昭和十一年(二十六才)。「歴史学研究」に卒業論文の概要を「清朝の支那沿海」と題して載す。    オフテルデインゲン「青い花」と題して第一書房より発行。七月、一子史(ふびと)を挙ぐ。    「四季」同人となる。服部正己と「ザイスの子弟」を共訳、山本文庫より「ヒアシンスと花薔薇」と題して出版。 一.昭和十二年(二十七才)。正月、石浜純太郎先生に就く。清徳保雄死す。    夏、上京。佐藤春雄先生に就く。史学、文学に共に師を得たり。支那事変大に起る。   日録 終日無爲(秋季皇靈祭休日)晝寝。妻子往田辺。夜澤田君来訪。   九月二十四日 本日饗庭氏後任吉野廣氏来任。午後訪問杉浦正一郎。夜無爲。   十月一日(金)、雨降。  正午 與眞野吉之助氏諍論、左記其大体。 初我与渡部氏在図書室、眞野氏入室曰、 マ・本日職員会事由如何。 ワ・國民精神総動員之爲也。  マ・何謂総動員、若人與我金、我幹事、若不與、則我不能。 [※ もしも、お金が出ないんなら、私はやらんよ] 田・非金銭之事、要足励精職務、然猶当研鑽國民精神。 マ・我不能、我地位甚卑、我棒給料很賎。 田・勿云、勿云、卿爲教育者[※ あなたは教育者ですよ!]、何爲此言、我不忍聞斯言。 マ・我不能、我地位卑、我棒給賎。 田・卿常出斯言、再勿謂於我面前、若使我爲校長、我誓馘卿首。[※ もし私が校長だったら、あなたなんか絶対クビにしてやる] マ・願卿爲校長。 [※ ほんに。校長だったらいいのにねぇ] 田・我亦希望之久。然卿常出斯言、我不堪聞。(退去)   ・・・・・・・於教員室 マ・我等両人須退職。 [※ すべきだ] 田・何謂、我不知當退職之事由。 マ・喧嘩両成敗。 田・然則卿喧嘩再三、何嚮日不罷。[※ どうして前にやめなかったの?] マ・卿不罷乎。 [※ やめんつもりか] 田・不罷。 マ・其反日本精神甚。 田・不然。 マ・若我等両人在学校、其毒学校最甚。 田・我不認其事態。乞卿暫黙。[※ 黙ってくれんか]   十月六日(水)霽 午後四時、故田村金之助氏(金剛院義山良佑居士)五七忌也。赴彼邸、其後被招待於歩兵 八連隊南「南浦園」。席上聞、大谷集翁之談、四十年前、聘妓僅々三十銭、雲呑一杯五厘、 麥一升一銭五厘、米一升四銭五厘耳。 〒「日本歌人」十月号。   十月七日(木) 築地座主宰、友田恭助、爲工兵伍長而戦死於上海戦線之由、哀悼久之。   十月八日(金) 午後訪問中島栄次郎。囲碁五番、勝越一番也。〒川久保悌郎氏。   十月九日(土) 朝、会田村春雄君於車中。午後卒業生大江紀作君携一瓢来飲。   十月十日(日)晴 午前、與妻子[妻子と]観千草[※ 妹]婚嫁衣裳。得間訪服部正己於宅、會々長野敏一来會、聞昨日辞職 浪速時報社、創立ヒルネオン商会。書紹介状(松浦元一氏宛)   十月十一日(月)快霽 自[より]松下、野田又夫君之「デカルト」出版記念会案内状来。夜赴於皇典研究所主催講演会、  ※ 初河野省三講話、愚論可嗤、次陸軍中佐来、次電影。十一時半帰宅。   十月二十三日(土) 爲妹結婚式上京。夜十時半汽車、與田中城 、昌三二叔父及大江叔母、飲麥酒小罎一本畢酣酔。   十月二十四日(日)  午前八時半着京、直入軍人会館。少憇後訪問川久保君於阿佐ケ谷新居、小松清之近傍也。     ※ 次訪松本善海。午後二時帰館。改装朝服、列席婚禮、神式也。喜悦有餘、不覚催感涙。夕刻有披露宴。 新郎友人総代吉原飛行士、在近席、新郎諸妹亦在近傍。宴終到柏井家。   十月二十五日(月) 訪妻之祖母於松田家。午後訪問第一書房与長谷川、春山二氏会談、其後会與コギト同人(肥下、保田、薄井、小高根)及長尾君、於杉田屋印刷所。自保田聞中原中也之訃、夜出於新宿。   十月二十六日(火) 出京。先於乗車、訪西川英夫於会社、不在。列車中隣於一出征兵士、茨城縣筑波郡之人、齡三十五六才。 云有家児五人、覚責任却很重大、但願戰爭早休止云云。訣別於名古屋駅、十時着田辺之父宅。   十一月三日(水) 明治節。雨天、運動会中止。式後、開○○会於阿倍野加都良城。 会畢、訪中島栄次郎。囲碁十数番、中島常先一番之超勝也。   十一月六日(土) 文芸首都原稿「格吉図六年史」書畢、以速達便送之。    儒林外史  儒林外史は清の康煕乾隆間の人、呉敬梓の著した警世小説とも称すべきもので、此種類の支那 小説中最も傑作の名が高い。呉敬梓は安徽省全椒縣の生れで、家は代々官吏を出した名門であり、 甚だ福裕でもあったが、彼が家を嗣ぐや産を治めずして次第に家門が傾いた。此時安徽巡撫趙國 麟が才名を聞き、博学鴻詞科に薦めたが遂に赴かず、家益々貧となるや(江寧[南京])に移り、 茅屋にただ古書数十冊のみを擁して日夜自ら娯しんでゐたが、遂に五十四才にして其地に没した。 著書には此儒林外史以外に、文木山房集(詩集七巻、文集五巻)及詩説七巻がある。かやうな経 歴の人故、この小説は全く時勢を遂ひ栄達を求める讀書人階級を白眼視し、辛辣なる筆鋒を巧み な叙事の中に蔵めてゐるが、かヽる筆法は実は支那小説の常道であると云つて過言でなく、近くは 魯迅先生の小説にある諷刺の味も、この脈を引いたものではあるまいか。  この小説は程晉芳の「呉敬梓傳」に據れば、五十巻と云ひ、金和の跋では五十五巻と云ひ、天目 山樵評本では五十六巻であり、齋省堂本では六十巻といふ。蓋し傳寫益々夛きを加へて自ら差違を 爲すに至つたのであらう。自分の見た本は五十五回本であつて附 一巻がある。  この小説を紹介する動機となつたは、青木正児[まさる]先生の「支那文学概説」(昭和十年弘文 堂發行)に、李渙以来称せられてゐる「三国史」「水滸傳」「西遊記」「金瓶梅」の四大奇書に今 や「紅楼夢」及び「儒林外史」を加へて六大奇書とすべきである、と云はれてゐるのを讀み、かね がね讀了したく思つてゐたところへ、今夏佐藤春夫先生にお目にかかつた際、先生もその面白味を 激賞してをられたので、懶惰の身に鞭つてかくは略述するのである。 第一回 人生南北夛岐路、將相神仙、也要凡人做 百代興亡朝復暮、江風吹倒前朝樹」 功名富貴無憑據、費盡心情、総把流光誤 渇酒三杯況酔去、水流花謝知何處」  この一首の詩は年寄の口ぐせであつて、人生の富貴は身外の(みにつかぬ)物であることを云つてるのだが、実際は、 世人は一旦功名を見ると生命を捨てヽも之を求め、手中にした後はじめて、その味はひ蝋を噛むに似たるを知るのである。しかしこのことを昔から今に至るまで看破り得たものがあらうか。  次に紹介する人だけが只一人の例外である。  元朝の末に一人の名利に拘らぬ人が出た。姓は王、名は冕[べん]と云ひ浙江省諸曁[しょき]縣の人であつたが、七才の時父に死に別れた後は母の針仕事で村の学校に通つてゐた。 十才になるとそれもいけなくなつて隣の家の牛飼に雇はれた。この後は毎朝牛を湖の傍の野につれて出、夕方帰つて来て駄賃を貰つたが、 感心なことにはそれを他に使はないで一二ケ月すると本屋へ行つて幾冊かの古本と換へ、牛を放した後、柳の木蔭で讀むことにしてゐた。  かうした三四年たつたある日のこと、丁度黄梅(つゆ)の時に当つて天気があまり蒸暑いので、牛飼も倦く緑の草の上にねころんでゐると、たちまち黒雲が一面に覆ひかぶさり、 一陣の大雨が降つて通つた。やがて黒雲のふちから白雲があらはれ、其の雲がだんだん散つて一すぢの日光が射して湖はまつ赤になり、湖畔の山は青いのもあり紫や緑のもあり云ひやうもなく美しい。 一方木々の枝は ※すべて雨に洗はれて一しほ色がまし、湖の中の蓮の花は花びらの上に露がたまり葉の上からは露がころころと滴りおちる。  この有様を見て、王冕は画工になつてこの蓮の花を描きたいと云ふ気になり、それからは銭がたまつても本を買はないで、人にたのんで城内で臙脂[えんじ]や鉛粉の類を買つて来て貰ひ、 蓮花を描く練習をはじめた。三個月もすると、あの時の蓮の花に一つもたがはず、まるで湖からとつて来て紙にはりつけたかと見るまでの絵が出来たのである。 村の人もこれを見て銭をもつて買ひに来る人まで出て来た。王冕は其の金で母親に孝行してゐたが、これを聞きつけて買ひに来る人が縣内到るところからといふ有様になつた。  しかし王冕は官爵をも求めず、朋友をも納れず、終日戸を閉して書を讀んでゐた、が、ある日楚辞の ※図の屈原の衣冠を見て、さつそくそれに似た衣と冠を作つて、 花明柳媚の頃には牛車に母親をのせ、歌曲を唱ひ乍ら村はづれの湖辺まで行くので、子供たちが笑つて跡をつけて来ても意に介せぬといふ風であつた。  ところが一日、王冕の許へ諸曁縣の頭役(こづかひ長)で[曜‐日てき]といふのがやつて来て、知縣が王冕の絵を欲しがつてゐると云つた。 王冕は隣の主人がうるさくすヽめるもので止むを得ず承知し、二十四枚の花卉の絵を書き、上に詩を題した。知縣はそれを[曜‐日てき]から聞いて二十四両の銀子 ※を出した。 [曜‐日てき]は其の中から十二両を懐にしまひ込み、十二両を王冕に渡して画帳を持つて帰つた。  この画帳を何うするかと云ふと、此時諸曁縣の出身で前の大官であつた危素といふものが帰郷してゐて、この人の帰郷の際には天子も城外まで送られ手を握つて十数歩歩かれ、 危素が再三おことはりしてやつと轎に乗つて回られたと云ふ位であり、且は知縣の挙人試験官でもあつた。此人の機嫌を取るた  ※め当時縣内で有名であつた王冕の絵を求めたのであつた。  さて危素は此の画帳を貰ふと愛玩して手から釈かず、次の日さつそく知縣の許へ礼に来て、作者を問ひ、一度会ひ度いと云ふ有様に知縣は大に喜んで造作もないことヽ受合つた。 [曜‐日てき]が又王冕の許に遣されてその旨を伝へると、王冕は一介の農夫であるからと云つてどうしても聞かない。 [曜‐日てき]は顔色をかへて「一縣の主が一人の百姓を動せぬと云ふことがあるか」とまで云つたが聞かぬ。隣の主人が「古から滅門の[恐ろしい]知縣と云ふではないか」と云つたが聞かぬ。  そこで隣の主人が三銭二分の銀子を[曜‐日てき]に与へて帰つて旨く云つて貰ふこととしたが、此  ※由を聞いた知縣は、 「これは[虎の威を借る狐]的に[曜‐日てき]のやつが威張り散らしたもので、官吏(やくにん)を見たことのない奴が怖がつたのであらう。 自分は危素先生に受合つておいて呼べぬとあれば笑はれるであらう。仕方がないから村へ行つて呼んで来よう。知縣がわざわざ来たと聞けば大ゐばりでやつて来るかもしれぬ」。 さう考える一方、「堂々たる縣令が一人の村人に会ひに行くとは役所の奴等の笑ひ話にはならぬかしら」とも考へたが、 「先生の先日の口ぶりではよほど尊敬してをられた様子である。その上[尊きを屈して賢を教する]なら後に本にでも書いて貰へるかも知れぬ、これこそ万古千年不朽の仕業である」 と自問自答してやつて来た。 しかるに王冕はわざと親類に行つて留守であつたから、知縣はその無禮を怒つて直にも罰しようと思つたが、危素の思惑をかねてやつと耐へて帰つて行つた。 かヽる有様で王冕の身辺は甚だ危くなつた。彼は母親を隣の主人に頼んで山東省の済南[さいなん]府に来て、こヽで画を描いて賣り生活を立てヽゐる中、 黄河の堤が決(き)れて沢山の被難民がやつて来た。 これを見て王冕は天下の将に乱れんとするを知つて故郷に還つたが、時に危素も朝廷へ還り知縣も栄転した後であつたから、無事に家に戻つて母親に孝行を盡す中、 六年たつて母親が死んだ。その後三年の喪に服したが、一年たたぬ中に天下が大に乱れ、浙江には方國珍が據り、蘇州には張士誠、湖広には陳友諒が據つたがすべて天下の主ではなかつた。 たヾ明の太祖朱元璋は[シ+除]陽に兵を起し、金陵を得て呉王と称したが、これこそ王者の帥(いくさ) ※であつて、忽ちに方國珍を破つて浙江を取つたから、 おかげで町も村も騒ぎなしですんでしまつた。  ある日の午ごろ、王冕が母親の墓の掃除を終へて帰つて来ると、十幾騎の軍人が村へ入つて来た。 頭立つた一人は頭に武巾を戴き、身に困花戦袍[じんばおり]を穿(き)、色白で美しく眞に王者に相応はしい人であつたが、馬を下りて王冕に、 「こヽが王先生の御宅でせうか」 と尋ね、王冕が 「わたしが王冕で、こヽが家です」 と云ふと、 「これは甚だ有がたい。特にお目にかかり度くて參つたのです」 と云ひ、馬をつながせて家の裏に入り王冕の問ひに答へて朱元璋と名乗り、方國珍を平らげた序に先生に会ひに来たので、浙人の心を服する法は如何と問うた。 王冕は、仁義を以て服すれば何人か服せざらんと答へ、之には元璋も感服して嘆息した。その日は日暮まで談じて朱元璋は帰り去つたが、その後数年ならずして天下を平定し、 大明と国号を建て洪武と年号を定めた。  危素は元の臣であつたが既に明に降つて重く用ひられてゐたが、自ら尊大に構へたために太祖の怒 ※に触れ、和州へ左遷された。この後、禮部で官吏登用の法を定め、 三年に一度試験を行ひ、四書五経 ※を課目とし八股文で答案を書くことヽ定めた。王冕は之を聞いて悦ばずして云つた。 「これより讀書人はこの栄身の路のみを重んじて文学を軽んずるに到らう」  洪武四年の夏、王冕は夜、星を見て 「文昌星を貫索星が犯してゐる。一代の文人が厄にあふのだらう」 と云つたが、果してこの後、人の噂で朝廷では浙江の布政使司に詔を下して、王冕を官に任じようと ※してゐると云ひ、次第にやかましくなつて来たので、 遂に会稽山に遁れたが、その後半年して朝廷から咨議參軍の職を授けるとの詔をもつて大官がやつて来た。王冕はその後会稽山にあつて姓名を云はず、 ※後、病を得て世を去つた。 この人こそ一日も官にならず、栄達を欲せぬ只一人の人であつた。 第二回  さて山東省[六+兄]州[えんしゅう][シ+文]上縣[ぶんじょうけん]に薛家集[せつかしゅう]といふ村がある。 丁度成化の末年天下繁盛の頃に当つて、村の主だつた人たちが正月八日に相談のため村の寺に集まつたが、その席上、申祥甫といふ頭だつた人が云ひ出すには、 「家の子供も大きくなつたので今年は先生を呼ばねばならぬが、この観音庵を学校にしたら何うだらう」 衆人(みんな)が之に賛成して 「われわれの中にも学校へゆく子供のある家が多い、ついては城内から先生を呼んで来るが好からう」 この時申祥甫の親戚で、集の総甲に任ぜられてゐる夏といふ者が云つた。 「先生なら一人ある。わたしの役所の税金取立方の顧だんな[名前]のたのんでをられた先生、周進と云ふ人で六十何歳になる。 前の知事さんが第一等に推薦されたことがあるがどうしたものかまだ学生[科挙の位]に中つてをられぬ。顧旦那の家では三ケ年来て貰つてをられたが、 昨年顧小舎人(わかだんな)が学に中りなさつた。この村の梅三相と同じに中られたわけだ。その日縣学堂から帰つて来なさる時、 小舎人は頭に方巾を戴き、身には大紅袖をつけ、知縣さんの馬小屋の馬に乗つて笛や太鼓でどんちやんやつて家の門口まで来なさる。 俺たちは役所の者と一緒に迎へて祝盃をかはしたものだ。その後で周先生をも呼んで来て顧旦那が三杯つぎなさつて、それから上座に据ゑなさつた処、先生が芝居を所望された。 その所望されたのは梁[シ+顥]八十才中状元故事であつたから顧旦那も少しいやな顔をされた。小旦那が八十になつてやつと状元に中ると思ひなさつたからだつたらうが、 その文句の中に梁の教へてゐる生徒が却つて十七、八才で状元に中るといふ唱があつて、これを聞いてはじめて喜びなさつたと云ふもんだ。もしお前さん方が先生が要るなら、 俺は周先生を呼んで来て上げよう」 みんな之に賛成した。翌日、夏総甲は果して周先生に説いて、毎年の宿舎費を十二両とし、毎日二分づつを和尚へ利賄代として、正月二十日からお寺を学堂にして学校を開くこととした。 十六日に顔あはせの宴があつて申祥甫の家に集まつた。村の新しく儒学生員に進んだ梅三相が、陪客(おしょうばん)になつて方巾をかぶつて早くからやつて来た。 午前十時頃に周先生がやつて来た。 犬の啼き声を聞いて申祥甫が迎へに出た。みんなが周の姿を見ると、頭には古い毛の帽子をかぶり、身には黒い紬の直綴[じきとつ]を着てゐたが、 右の袖と尻のところとはぼろぼろに破れてゐるといふ風であつた。 周進は梅玖を紹介されると、謙遜してどうしても拝禮をさせないものだから、梅玖は、「今日は格別です」といふがどうしても聞かない。そこでみんなが、 「年齢から云へば周先生の方が上だ。先生、ちつときまじめもいヽかげんになさい」 と云ふと、梅玖が皆の方を向き直つて 「君たちは我々の学校の規則を知らぬ。老友は小友と年を以て比べるべきでない。ただ今日は格別だから、周さんに上座についてもらはう」と云つた。 もともと明朝の士大夫は、儒学の生員を朋友と云ひ、童生を小友と云ふ。この童生が学生員となると、十何才でも老友と云ひ、学生員になれねば八十才になつても小友と云ふ。 丁度これは娘が嫁にゆく当座は「新娘」[シンニャン]といひ、後には「[女+乃]々」[ナイナイ]「太々」[タイタイ]と云つて新婚と云はないが、 もし嫁でなくて妾へゆくと、白髪になつてもまだ新娘と呼ばれると同じことである。 さて愈々、宴がはじまつて卓の上には猪頭肉や公鶏や鮮魚の肚肺肝腸の類が並べたてられ、みんなはまるで風が残雲をふき拂ふやうに食べ去るが、周進だけは一口も食べない。 そこで申祥甫がわけをきくと周進は、 「私は精進をしてゐるので」と答へた。 「これは失禮しました。どういふわけで精進をなさる」 「先年、母の病中に観音様に願を立てヽ精進にしましたので、もう幾十年になります」。 これを聞いて梅玖が云つた。 「先生が精進なさるといふので、面白い話を思出しました。先日城内の顧旦那の家で、先生のことを唱つた一字から七字までの詩を聞きました」。みんながどんな詩か聞き耳を立てた。 『[豈+犬]、秀才、吃長斎、[髟+胡]鬚満腮、経書不掲開、紙筆自己按排、明年不請我自来』 (ばか、しゅうさい、しょうじんれうりて ひげぼうぼう ほんもよまずに ふでもとらずにらいねんはよばずもまいりやせう) この詩は[※ 以下欠]  菓子を吃ひ終り、又一わたり酒盃を廻してから、燈火のつく頃になつて梅玖や村人たちは帰つて行つた。 申祥甫だけは残つて宿の世話をした。  開館のその日になると、申祥甫はみんなと共に学生をつれて来たが大小とりまぜた子供たちは先生を見ておじぎをした。みんなが帰つた後で周進は書を教へた。 夕方学生が帰つてから各家の授業料を開いて見ると、荀家だけは一銭銀貨に八分の茶代を入れてゐたが、他は三分の家もあれば四分の家もあつた。 銅貨十個ほど ※の家もあつて合はせると一ケ月の飯代には足りないが、周進は之を一まとめにして和尚へ預け、後で清算することとした。 子供たちは馬鹿な牛と同じく一寸目を放すとそとへ出て、瓦や石を投げ飛ばしたり、球を蹴つたりして毎日いたづらを止めない。周進は天性を抑へて坐つて教へた。  覚えず二ケ月たつて気候が次第に暖かくなつた。周進は晝飯を吃ひ終つて裏門を開けて出、河岸を眺めた。 村ではあるが川辺には幾つかの桃と柳の木が植つてゐて、紅と緑がまじりあつて好いながめであつた。みるみる霧のやうに細い雨が降つて来た。 周進はこれを見て門内に入つて雨中の河岸を見てゐると、煙は遠樹をこめて景色は益々美しい。この雨が段々ひどくなつて来た。 そのとき上流から一隻の船が雨を冒して下つて来たが、河岸に近づくと[※ 以下未完。]   十一月十一日(木) 登校聞知、富樫弘三氏之戦死。氏者浪速中学剱道講師。剱道六段、 ※ 性極温厚、他薄交之故不知之。午後弔問松屋町宅、有老母少女。   十一月十二日(金) 運動会。夜訪田村家。    秋の湖 僕たちは秋の半日を一緒に暮した 下り列車の三等席のきまりゆゑ 膝つきあはせて親密に 語り合うた 「北支は今は寒いでせうね 私は筑波山の北の麓の生れ 家には五人の子どもがあります 村人たちが旗を立てヽ送つてくれました 子供らゆゑ あの人たちゆゑに しつかりやらにやならんと思ひます 東京には十日居りました あの畑に白いはそばでせうか なんと唐辛子が沢山植つてますね こヽらは私の國よりずつと豊かなことですね」 汽車は轟々と鉄路を走り 午すぎて一條の鉄橋をわたる 秋の遠江の濱名の湖 日は昃り 船は向ふ引佐の細江 山々はおだやかに湖をとりまき── 兵士はじつと眼をすゑて 樂しげに云ひ出す 「いくさのおかげで珍しいとこを見ました」──   十一月二十日(土) 信州追分油屋全焼之由、今夏八月五六七、三日間逗留之処也。 今日訪問中島栄次郎。 十一月二十二日(月) 放課後、与校長教頭訪問辻先生家庭。   十一月二十三日(火) 新嘗祭休日。妻子往于吹田田中三郎宅、予同車赴京都。列席於東 洋史談話会、藤枝、今西、鴛淵諸氏。講説畢而晩餐会。羽田博士、 井上以知爲氏、岡崎博士、石浜先生、三上次男氏並予卓話。出於室 外則燈火管制。與石浜先生帰阪。書信於羽田明君。   十二月二十一日 原君と会ふ。 王國維先生 觀堂集林 巻六 ○釋史(我子「史」[ふびと]のために)   [[※]は甲骨文字のためここに表現できず]  説文解字ニ「史」ハ「事」ヲ記ス者也。「又」ニ从ヒ[したがひ]「中」ヲ持ツハ中正也。 其字古文篆文並ニ[※]ニ作リ、[※]ニ从フ(秦の泰山刻石ノ御史、大夫ノ史、説文大小、 徐ニ本皆此ノ如ク作ル)ト。古文ヲ案ズルニ中正ノ字ハ[※][※][※][※][※]ノ諸形ニ作リ、 而シテ伯仲ノ仲ハ[※]ニ作リ、[※]ニ作ル者ナシ。唯篆文始メテ[※]ニ作ル。 且ツ中正ハ無形ノ物、[※]ハ手持スベキニ非ズ。然ラバ則チ「史」ノ从フ所ノ中ハ果シテ何物ナル乎。  呉氏大澂曰ク。「史」ハ手簡ヲ執ル形ヲ象ル、ト。然レドモ[※]ト簡ノ形トハ殊ニ類セズ。 江氏永周ノ「禮疑義挙要」云フ。凡ソ官府ノ薄書ハ之ヲ「中」ト謂フ。故ニ諸官言治中、 受中小司寇断庶民獄訟之「中」ハ皆薄書ヲ謂ヒ、猶ホ今ノ案巻ノゴトキ也。此レ「中」字ノ本義。  故ニ文書ヲ掌ル者、之ヲ「史」ト謂ヒ、其字「又」ニ从ヒ「中」ニ从フ。  又ハ右手ニシテ手ヲ以テ薄書ヲ持スル也。「吏」字、「事」字皆「中」ノ字有リ。天ニ司中星有リ、 後世「治中」ノ官有ル、皆此義ヲ取ル、ト。   野原を 雲は天を翔けてゆき 風は野原を吹いてゆき 野原を母さんの 失した子が彷徨つてゆく 通りを木の葉は散つてゆき 木々では鳥が叫んでる 山を越えればどこかしらに 遠い故郷があるはずよ (ヘツセ)   エリザベート 高い空に漂んでる 白雲のやうに 白く美しくはるかな あなた エリザベート 雲はゆきさすらふけど あなたは見もしない でも暗い夜 あなたの 夢の中を通るでせう ゆき乍ら銀色に光るものゆゑ 小休みもなくあなたは その白い雲に甘い懷郷心を 感じられることでせう 永暦十一年七月 明の延平郡王 鄭成功は 艦船を率ゐて北伐の途に上つた 根據地の厦門には一族の鄭泰と宿將の洪旭とが留守をし その他の將兵はすべて出征した 厦門を出て金門島の岬を廻り 泉州湾を外れて大海に出ると 浪は急に暴く 島影は見る見る西南に小く低くなつて行つた 船内で成功は諸將と協議し 先づ興化府の黄石地方を侵掠し 別に甘輝等は涵頭地方を暴した 侵掠の結果は甚だ好成績で 三日の間に各船とも米粟が山の様に積み込まれた 清軍は手出しもしなかつた その次には福建の省城 福州の入口である関安鎭に侵入し こヽへ王秀奇を残して更に出発し 八月十二日には浙江省の台州の門戸である海門港に入ると こヽを守る清將 張捷 劉崇賢等が小癪にも発砲して来たが これにかまはず黄岩縣を攻め 守將 王戎に城下の誓をさせ 十八日には台州府を攻めた 此時 軍の威儀堂々たるを見て 台州の總兵官 李必は讃嘆し 又前任の總兵官 馬信は既に鄭成功に降つて重用されゐると聞いて 城上の旗の樹て方もうろたへた様であつたから 鄭成功は馬信を遣して招くと忽ち降参した 二十六日の開城に文官たちは府縣の戸籍簿と徴税の台帳とを献上する 係の楊英が城中の倉庫に入つて 帳簿と合して見て三千余両の銀をとり出した     十二月三十一日 盛宣懷が外債による鉄道國有を宣言し 四川の人士が夛く反抗した時は 彼は十二才で長沙の高等小学にゐたが 級友たちは盛宣懷の首を作つて之に石を投げ その一人は十一才の呂・・・といつたが 演壇に上つて 慷慨淋漓の演説をし 満座は感動して涙を流した (つづく) 「日記」(「夜光雲」改題) 第十一巻 その4 昭和13年2月1日 ~ 昭和13年12月31日 昭和十三年   二月一日 四川は古の屬漢の國 先主 劉備とその遣嘱を受けた孔明が 魏呉と鼎立して天下三分の形をなしたところ 山々は凡て此の盆地を囲繞し そこから鴉[石+龍]江 岷江 嘉陵江 沱江の諸川が平行して降りて来る 岷江がその支流の西康省から流れてくる大渡河を 入れる地は宋代以来の名邑で昔の嘉定府 今は樂山縣といふ 西に聳つて峨眉山がある 一八九一年、彼[※ 郭沫若]はこの地に生まれたといふから今年は四十五才だらう 彼が中学に居つた時 辛亥革命が勃発し 就中 四川は鉄道國有問題から巡撫端方が殺され 革命の口火の切られた地であつた 民國三年 彼は日本の福岡医科大学に遊学して 解剖学や病理学を専心に学んだ 所以は民國の民生を救ふ爲に 遅れた西洋文明を民國に輸入しよう 中でも医学こそ最もそれに適切と考えたからである 民國五年に大学付属医院の看護婦 安[口+那](アンナ)と彼は恋に陥ち 後に共に家庭をもつたのがそのひとである 但し彼は 已に四川で当時の支那に普通な如く 少年にして結婚をしてゐたことは云ふまでもない この恋愛が彼に与へたものは 彼をして文学を愛さすことを教へ 就中歌徳(ゲーテ)と雪莱(シエリイ)とを愛せしめた ミユーズがヴイーナスと同盟を結んだ時に 常に人々が爲さしめらるヽと同じく 彼は浪曼的となり 浪漫主義を愛した 彼は歌徳の恋の歌を訳し 若き維特(ヴエルテル)の悩みを訳し 雪莱がネープルス湾畔で傷みて作つたスタンザを訳し 施篤漠(シユトルム)の茵夢湖(イムメンゼー[みずうみ])さへも訳した 私はこの小説を甚しくは好まない  [※ 未完]   二月十五日 筒井薄郎と池田日呂志君。 帰宅、立原の手紙。   詩 澗[たに]まに悲しい樂を聞いた 簫[ふえ]と篳篥[しちりき]とをまじへた嫋々たるものの音 新しい墳土は積まれたか? ひとびとは掌で面を覆つて帰つて来た 涙は指の間から滴り墜ちてゐた どんな悲しみかを考へたわたしは その夜 宴で賑やかな笑声に驚かされた × 夜更け目覚めて薄暗い室中を見廻はす 子供は唇を半ばあけて睡つてをり 妻は背を向けて鼻息もさせてない 深い静けさが近隣を占めてゐる 突如として昔 少年の時分に 悲しい時出て見た 冬海の青波に 舞つてゐた寒い鴎の姿が見える 頼られることのさびしさを知らなかつたものを── 僕は声をあげて慟哭さへしたくなる   × あれは夢だつたらうか ひどいガタガタ馬車だ 道の曲角ごとに 吊りラムプの光に 崖にクリーム色の花々が咲いて その蘂の中にクリーム色の蛾たちが 聚つてゐたと見たことは── わたしがさう語り出した時 若い友たちは目的地の計画を語り合ふのを止めて 気の毒さうに合図の目くばせをかはした   × その日 誰にも見とられずに行かう 寒い暗い一本道を松の木の下へ 誰がついて行けようぞ 先祖の方々も 行つた道だ ひとりで面を覆うて 悲しみか怖れか──頼りない感じのみ それを我々は寒さや暗に置き換へる   × かつて桜井から奈良へゆく汽車で 三輪山に連なる布留や高圓の山脈を わたしはさむしい思ひで見てゐた それから六年 我が姿はいよいよ細く 山脈はけふ見ても寒々しく裸だ 萬葉人は何としてこんな山々を歌つたか この冬のさびしさを夏に忘れたか 親しい人々を此の麓に埋めなんだか 奈良の停車場でわたしは身慄ひしてゐた   三月十八日 けふぼくははじめて黒龍江を見た 河の水は黒く早く流れてゐた 堤には柳が芽吹いてゐた 裸の 枯芦だけを着た河中の三角洲で (望遠鏡で眺めたとき) 金髪の兵隊が立て銃[つつ]や捧げ銃や 立ち射ちの構へをして遊んでゐた 遠くV市の空に一点黒いは 偵察機か戰鬪機か── 急降下したり上昇したりしてゐるのが見えた お祭りの前の日やうに華やかな期待はありながら 悲しい気分にあふれ 歩哨に立ちながら 君たちのことも思ひ出す お祖父様も曽祖父様もこヽでお生れになつた 高祖父様はこヽで菜種油を商つてらつしやつた 泥溝のやうな堀割の網の目の中に 黒い暗い家々がぎつしりと立ちならんでゐる 窓の数が少ないのは金貨が逃げぬ爲だ 詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ 取引所や銀行や帳場や電車の中で せかせかと鼻音の夛い異國語がはなされてゐて 公園や街路の樹木は皆枯れてしまふ 詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ 曽祖父様は俳句をお作りになつたが そのため紀州通ひの船貿易で大分損をなさつた 角帯をした番頭は少なくなつたかはり 人々は頭髪をきれいに手入し サンデー毎日や 競馬の雜誌を抱へて朝晝往来する 空は終日暗く 夕日のときだけ町はちよつと明るくなる 算盤の音が止み 人々はペンを耳にはさんで小さく欠伸する しかし堀割から夕もやが立ち出すと 家々は戸を閉めて 一日の決算がひそやかに行はれる そして父が子にさとす 詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ   Sのこと 彼と僕とが知合になつたのは、高等学校の野球部のことからである。体の弱い僕は勿論選手になれなかつたが、マネージヤーに任ぜられた。彼は僕の前々任のマネージヤーであつて、 第二投手を兼ねてゐたこともあつた。そこで大学へ入つてからも毎日練習を監督しに来てくれた。もう一人同期のキヤツチヤーをしてゐたKも毎日来て、此二人を我々は先輩として尊敬し同時に大に煙たがつた。 かうして二年経つて僕は東京の大学に入つた。彼はその後も一年程高等学校へ練習を見に行つてくれてゐたらしいが、僕は全く部から遠のいた。しかし休毎に帰ると殆ど例外なしに彼を訪れた。 彼は大学院へ通つて相変らず哲学を勉強し、かたはら禪学を修め、易を学び、碁を打ち──といふ風に夛方面な暢気なくらし方をしてゐた。こんなことが出来たのは、彼は両親はあつたが、 高校時代から家庭教師として入り込んでゐたT家といふのが一家そろつて善い人で、裕福な気前のいヽ生活をしてゐる処へ、彼の親切な正直な気持ちが理解されると、 教師としてでなく子供の兄として扱ふやうになつてゐたからであつた。彼は何時も書棚にレクラム文庫や一切経や哲学の部厚い書籍類を並べてゐたし、相談事には適切な忠告を与へてくれ、 場合に依つては親切に実際上の世話をしてくれるのだつた。僕は彼のゐるT家に宿つたことも幾度もあり、碁も並べ方丈は教はつた。大学を卒業する年、僕は休みに例の如く彼を訪れ、 卒業後の方針を問うた。といつてあれこれとすることがあつてどれをしようかと云ふやうな、贅沢ではなくつて卒業後どうなるかと聞いたのだつた。彼自身は三年間大学院でくらした後、 その年の九月頃からN中学に就職してゐた。但し哲学を学んだ因果とて、教員の口のあくまで書記をやらされてゐた。 彼は筮竹[ぜいちく]をとつて型通り卜つて云つた、 「きつと口があるから心配するな」。 僕は半心軽蔑し乍らもその卦には気を好くした。ところが三月卒業すると就職口はない、入社  ※試験には落第する、僕はすつかり意気沮喪した。 卒業論文の成績がいヽらしいから大学院におさまつて、末は大学教授をゆめ見てもいヽわけだつたが、これは父のやせ脛で到底出来ぬことであつた。   四月四日~六日 大江紀作と紀州旅行。 紀の國の日高の海岸をつたつて、皇子の御歌で有名ないくつかの浦曲や峠をすぎて南部(ミナベ)に着く。その町を出はづれると鹿島神社がある。老松の鬱蒼と茂つた神々しい社で、 その境内には表示があつて「鹿島は大神の神遊び給ふ地にして、就中東神山は千古斧鉞を入れぬ地なれば云々」と記されてゐる。 小手をかざして眺めると蒼靄模糊たる中に二つの神山が並んで見える。 夕陽は海いつぱいになつて沈んで行つた 島はもう霞んではつきりは見えぬが あの木立は亜熱帯性の樟や椎や樫や 常緑蔦が密生して晝もなほ暗いのだらう 大海に面した側には桜や椿や藤が 海の青と対照した美しさをもつてゐるだらう そこで火をともして神々が髯垂れて 遊び給ふ姿を神鹿たちが觀てゐるのだらう 宿について夜になると風のまにまに 波の音と笙篳篥[ひちりき]の音を聞いたと思つた [※ 中皇命往于紀伊温泉之時御歌 他六首抄出。] 春の風景には夏の徴候がある 紀の國の金色の柑子は暖かい雨に濡れて光つてゐた 海は青く夢の中にまで輝いてゐた ──それほど明るい雨だつた 峠の村で蘇鉄の花を見た 浜木綿は村役場の前に植えられてゐた計り 西南に開いた灘に桜が散りかヽり 古い祠の扉に戦勝祈願の札を貼り 恐らく彼等は山畑を捨ててしまつたらう 妻を連れて来べき旅のさびしさは 夜 絃声湧くが如き田舎町に眠つてゐた 夕日は華やかに沈んで行つた 飛石のやうに見えてゐた岩礁を潮がかくした 島はむらさきの霞が立ち罩めた 樟や椎や白橿や竹柏(なぎ)の木立の中の 常緑藤(キヅタ)や藤蘰(フジカヅラ)が茂く垂れ下つた地面で 大海に面した側には桜や椿や藤が 海の青と対照した美しさをもつてゐるだらう 篝を焚いて神々が遊びたまふ時と 若い神々は笛吹き篳篥を奏(かな)で 老いた神は髯撫でて何思ひたまふぞ 麋鹿[なれじか]は足を傍へに坐り聞いてをり 鳩たちは枝々に眼とぢてゐた   五月十六日    A Mme.M. どんなに愁しい時だつて 恋歌なんぞ歌ふまい さう思つて十一年すごして来た 歌はだけどみんな恋歌だつた 僕の顔は黄ばんで 目尻に皺が寄つた そしてけふ途中で人妻になつた 彼の女を見かけた 牛肉と葱をもつて 帰るところだつた 彼の女は僕を見 僕はその顔をみつめた 御丈夫ですか 旦那さんは立派な方ですか 犬や猫や小鳥を飼つておいでですか・・・ 僕は色んな思ひをこめて その顔をみつめた それから行き過ぎて 煙草に火をつけて 妙に手がぶるぶるふるへるのを知つた   五月二十日 五月来たれり わが蒔きし諸々の花 開きたり さなり わが蒔きしを忘れたる花さへ── 垣根には蔓薔薇 池に花菖蒲── 我が家は花やぎ 久々に 家ぬちに笑声起るごとき心地す 厨には金色の酒満てし瓶に   七月十一日 夕頃、校長を訪問、辞意を告ぐ。快然として?承諾されき。我への反感の強さも露はなり。 尚ほ「どなたかと衝突されたのか」との質問あり。馬鹿にしてゐる。村田幸三郎を訪ね碁を打つ。三連勝。小宮豊隆「夏目漱石」をよむ。身にひき比べて興ふかし。  俳句 夕立のすぎたるあとや青臭き 向日葵や家々毎に水を打つ   夏夕 蚊の声の燈消せば昂(たか)くなりしかな 百日紅まだ見ぬ夏や旅を恋ふ 猫の子の夜啼きや妻は眠りをり 四つ角に樂隊ゐたる暑さかな 田を植えしあと蛙らを聞くばかり 祭彼方此方 生徒(こ)らこの日頃遅刻がち 晝顔や夏を泳がぬ二三年 蜘蛛の巣にわが家わびしくなりにける 桐の花高く咲く道ありしかな   憶阿佐ケ谷   七月十二日 放課後、本橋謙一氏を見舞ふ。省線を灘まで乗越し水の実況を偶見、澤井孝子郎氏に駅に  ※ て邂逅、帝大出そこにても憎まれるヽ由本山に引返し本橋邸に到る。会談半刻魂の触るヽものを感じたり。 芦屋に大江叔母を問ふ、不在。田辺の父宅に至る。夜、杉浦宅にて西鶴輪講会の送別会あり。 会者、岩渊悦太郎、岡本新太郎、吉永孝雄、川崎鉄太郎、島居清諸氏、杉浦、予。  駄句(杉浦の言) 驟雨や蝶ども何の草の蔭 白蝶の翅もぐほどに風の吹く ラムネなどの罎の数よむ残暑かな 青胡瓜朝の間の涼しさよ 厨べに飯饐ゑゐたる暑さかな 猫の子の四匹生れし暑さかな   七月十三日 放課後、小川、島居二子来訪、小川子カフス釦を贈らる。 夜、防火演習。酒井賢先生に上京を告げ参らす。   七月十四日  石浜大壷先生訪問、上京を告げ参らす。原栄之助子の神経衰弱について憂慮さる。 他人よりトリツペル[※ 淋病]と思はれゐざるかといふことが強迫観念になりをる由。 君が逃げはせぬかとて方々口を探したがむだなりし由申さるる。  興地実英、本庄実両先生に留訣申上ぐ。 別れ路や今年はじめの蝉を聞く 夕方の簾吹きゐし青田風 (吾加大壷)先生の眉いつまでも太かれと   七月十五日 金截千生来る。雨月物語を留別の資に充つ。 「コギトに「始皇帝の末裔」二十七枚を送る。思へば一昨年の稿なり。 」 建[※ 弟]来る。海水浴場に行く間に村田幸三郎君来り本日不在の由名刺置きあり。 夜、田村春雄君を訪ふ。   七月十六日 七時より橿原神宮外苑の勤労奉仕。皈途、大鉄にて片山寫眞館。 板井、金川三氏及び谷口君と会食。 ここ橿原の大宮居近く 炎天は熱の爲 曇りに近く 草の香却つて馨ばしかりき 三山は昔に変らねど 人の心うつろふまヽに あらくさはら 荒れし地の雜草掃ひ 土均(なら)し 畚(もっこ)もちゆき この世をば いかで昔にかへさむと 我思ふとき手に力無き     松村一生[※ 生徒]曰く、 師は体裁に来とる   七月十七日 日曜、父、大[ひろし※弟]来る。学校へ採点もち行く。高見氏を問ふ。帰宅して 中島が澤田君宅に居るを追ひゆき、夜九時まで話す。此間母も来る。   七月十八日 朝、浪中の水練場を問はんとし、吉野氏と途中に会ふ。上原氏、母上危篤の爲本日の帰郷の由。午後亀井、荒井生来り算盤す。野球部生より辞職の話聞きし由、 松根の饒舌の故ならん。夜、野田又夫氏来訪、書籍を返却の爲。浜寺に卒業生式田の家あり。会つて石田義巳の死を聞く。   七月十九日 肥下より来書、「始皇帝」愉快に読みし由。吉野氏を訪へる間に園克己氏来訪。 二十分許して帰るとの事。一時頃、園氏再訪。 七月二十日 登校、通知薄発送。全田家へ行く。夜、伊東氏と安西冬衛氏を訪ふ。   ※   七月二十一日 ○○会[ママ]の送別会。その前に職員生徒に別辞を述ぶ。校長の挨拶中々巧みなりし。 送別会前に長池クラブにて撞球十数次。 ○○会員(欠席、上原、本橋二氏)松根、松井、金川、原、楠田、山本、小川、      島居、今、吉野、横山の十一氏。   七月二十二日 朝より荷物発送。午後コギトの会、矢倉ずしにて。伊東、中島、杉浦、坪井は奈良より会す。 会後、寄書の扇を貰ふ。 金鳳昊、島居氏此間来訪。   七月二十三日 田辺に昨夜は泊り、清徳家、今井祖母、服部、杉浦を歴訪。服部は昨日二時間遅刻の爲会へず、夫人懐妊とのこと。夜金川君を訪ひ談話数時、外に出て池田勉氏(文芸文化同人、今宮中学)に会ふ。   七月二十四日 朝、松下を石橋の病院に見舞ひ、令兄夫妻とも邂逅、小西君来合せゐたり。京都にて藤枝に会ふ。羽田博士邸を訪ひ明君母君に会ふ。今西春秋氏を泉湧寺内の家に訪ひしも不在。   ※ 夜九時半、尼崎の婦宅を訪ひしゆき子、史と京都駅に会し一路東上。   七月二十五日 七時半、東京着。阿佐ケ谷の祖母を見舞ふ。船越夫妻来合せゐたり。十時、肥下を訪ふ。 夜、天沼に入る。   七月二十六日 午後、肥下を訪ひコギト八月号の校正をし、松本善海君を訪ひ、共に新宿へ出づ。 はじめて特保喫茶店なるものに入る。川久保君不在。   七月二十七日 コギト校了。小高根、薄井二君も来る。銀座ニユートーキヨーにて夕飲。橋善にて飯を食ふ。   七月二十八日 午前中、本の包を解く、退職挨拶書を印刷に附す。二時半東洋文庫に和田教授を訪ふ。 岩井主事にも面会。共に退職の無謀をたしなめらる。金沢良雄君は川久保君と同所(国際文化振興会)に勤めゐられ、同道して文庫に来る。松本、川久保二君と新宿に下車。 松本君宅にて「清鑑易知 」を受取りて帰宅。川久保君の恵与したまふ所也。 船越君より「陣中の竪琴」借し賜はる。  先生に叱られゐたる暑さかな  書(フミ)はみなかびてをりたる暑さかな   七月二十九日 午後、東洋文庫にて「清朝寔録」、「康煕盛学通志」を見る。後者は同文庫地方志目録には康キ二十二年、初修のものの如く記しあれど、見るに続修(五十年)なり。 帰途駒込駅にて兵士の列車にて出征しゆくを見、手帛をふりたるは我のみなりき。 川久保君宅に寄り、「清史稿杜臻傳」を寫す。   七月三十日 午後、肥下を訪ふ。コギト出来しをれり、伴ひて家に帰り来り薄井を待つ。程なく来つて 俄かに明日結婚する故二人を招待するとの由、二人呆然たり。夕食の後帰る。 本日中島より来書。   三句中島へ 祇園会を旅にて見たる暑さかな 凌霽花 高く咲きたる暑さかな      ※ かなかなの降る程なくがわれの家   七月盡日 薄井の結婚式に臨む。新婦は岸川氏政江嬢なり。媒酌は会社の若手の重役らしく、我々友人は上座に坐らされたるに恐縮す。席上薄井の無口を軽く非難する人あり。 生島某嬢祝婚歌を歌ふ、後に来りて我に挨拶す。長野、肥下と三人にて新宿に下車、長野漢口陥落後の國内騒擾の豫想を説く。肥下と赤川草夫氏の古書肆を訪ひ、 「西園寺公と湘南先生」を索め来る。些か開店祝賀の心算也。           ※ 帰宅後、ゆき子前途を心細しとてか落涙す。   八月一日 三好達治氏より葉書、勇ましとて賞め来らる。昨日今日にて退職挨拶状約百枚発送し畢る。 午後東洋文庫にて「吉林通志」(光緒十八年)を閲讀。夜、ゆき子、史と駒込叔父宅を訪ふ。   八月二日 午後、東洋文庫、昨日のつヾきを閲讀。和田先生、階上より莞爾として会釈せられたり。 帰途、川久保君を家に伴ふ。夜、肥下を訪ふ。詩集、杉田屋見積りにては二百五六十円とのこと也。本日立原氏より来書。室生犀星氏るす宅にて病臥中とのこと。 他に定野弟君、田中太一郎より来書。   八月三日 ゆき子、川北病院を訪ふ。子宮外妊娠かと云ふ。   八月四日 妊娠に非ずとの診断也。夜、肥下来る。百五十円位にて詩集出し得る由。本日午後、日華生命に坂本氏を訪ふ。就職の件なり。   八月五日 薄井君を家に新婚祝ひの爲、訪ふ筈なりしに手違續出、果さず。 五時立原道造君と新宿に会ふ。堀辰雄氏昨夏、軽井沢に会ひし加藤氏[※ 加藤多恵氏]と結婚されし由。夜、肥下宅を訪問。ゆき子やはり妊娠にて流産せし也。   八月六日 午後、文庫。上野図書館を訪ふ。 G.E.Harvey及び Phayreの「ビルマ史」閲讀。及び「日露戰史」。   八月七日 日曜、午後中野映画劇場に「乙女の湖」と「ブルースを吸ふ女」を見る。前者にてエリツク病みて料理女の褥に眠る時、女のシユミーズ一つになる場面、慄ふほど扇情的なりき。   八月八日 午後、日華生命に阪本氏[※ 阪本越郎?]と会ひ、大久保の帝国第一女学校の校長増田悟策氏を問ふ。仝校にては講師一時間一円にならず、専任も五六十銭の割なる由、驚き入る。   八月九日 三越、青木陽生氏夛忙らしく働けるを見ゆ。丸善、○○会[ママ]の餞別なる切手にて記念品を購はんとせしがかなはず。フイルモン、薄井氏を訪ね、結婚祝ひを渡す。 三河屋にて晝食。京拓兒、長野氏を問ひ会談。日比谷図書館にて「日露戰爭実記」をよむ。  鴎外と同じき八幡丸にて田山花袋、博文館の役軍記者として渡れり。 三等船艙にて汚穢  ※と臭気に悩みしを記す。  長山列島にて三笠[※軍艦]よりランチ来りて奥司令官をのせゆきしとありて鴎外とそです。 敵襲ととりちがへし椿事の際は軍医部と共にゐたる筈なるに記さず。  肖金山は金州東南の高さ三百米の独立高地なり。倒れし旗手は第一師団の第一連隊か、五人の旗手を代へたりき。  南山の尖頭せしはわが第四師団の第八連隊なり。午後七時半に山頂に至りしも肖金山よりよく見えしなり。  第四師団の悪評は日清戰役の際にはじまりし如し。その原因は不明なるも、出動の期おそく休戦となりて特功をあげ得ざりしにもよるならん。 此役師団の中堅将校悪評を取り返さんと殊死して戦ひし旨、同記に見えたり。 夜、肥下を一家にて訪問。赤川書店を訪れ、製本の相談を決む。 「欽定史記」(光緒図書集成本)を二円半にて購ひ帰る。此日、羽田ブリユージユより便りあり、青雲の志を捨る勿れ云々。   八月十日 終日家にあり、漢文中の清語のカード二百枚を作成す。   八月十一日 阿佐ケ谷の家を問ひ、履歴書一通を托す。文庫にて「八旗氏族通譜」を閲す。馬佳氏は満洲の名族なり。五時、池田春三氏と会ふ。 午後十一時汽車にて見送る。餞別を贈られ稍々迷惑をかけたり。昨日は野田又夫氏より「習慣論(ラヴエツクン)」を、本日は立野保男氏より、「戰爭と資本主義」を贈らる。 所謂福徳ありか。帰宅、本庄先生より、御餞別届きゐたり。   八月十二日 終日家居。夜、肥下を訪ふ。   八月十三日 終日家居。   八月十五日 千草[※ 妹]を訪ふ。   八月十八日 安田生命に三橋氏を訪ひ、就職を依頼す。丸善にて「井上支那語辞典」を、文求堂にて郭沫若「創造一○年」を購ふ。   八月十九日 肥下を夜訪問。   八月二十日 川久保氏を訪問。及川「満洲通志」借り来る。   八月二十一日 小高根、薄井を肥下と共に訪ふ。夜、小高根、肥下三人にて月島へ涼みにゆく。   八月二十二日 肥下来りて中島の入営を告ぐ。詩集の原稿出来。   留別  君のこり我がゆく夏の夜なりしに  目に沁みて巷の秋の風のいろ  秋草に旗たれゐたる門出かな  この秋もさびしき秋と申すなり 先の日 立野保男(在菅 )に  山路ゆけばたヾ桔梗の蒼からん また立原道造に(在追分)  秋草の早や蓬々と山の宿   八月二十三日 肥下を訊ね、原稿もちて杉田屋に行く。午後東洋文庫、「八旗通志」及「満洲実録」をよむ。 鈴木俊、川久保悌郎二氏に会ふ。途中省線電車にて杉山元治郎、麻生久の二人を見る。 風采宜しき人々なり。   八月二十四日 本郷東片町「一叡舎」[※ 印刷所]に詩集の原稿を渡す。長野、小高根、肥下と、中島に贈るべき日の丸に署名す。   此の秋はゴビの沙漠に旗立てよ 肥下   我が喚ばふ萬歳載せよ秋の風  僕   すめろぎの の軍[いくさ]に海越えて遠征く君はまさきくありこそ 小高根   八月二十五日 東洋文庫にて松本善海に会ふ。   八月二十六日 目黒緑ケ丘の近藤信一氏を訪ふ、田中三郎氏の叔父なり。就職の件。津村信夫氏を訪ふ、留守なり。夜、大阪より佐渡旅行の途次東京に立寄りたる小川浩氏を案内す。   八月二十七日 青木徳一郎氏の手引きにて東亜研究所の穂積永頼氏に面会。東洋(学科) 史よりはやはり三人入所しをる由なり。コギト校了、保田、詩集の広告を巧みに書きくれゐたり。   八月二十八日 午前中三橋孝氏を訪問、海軍省山本次官に電話かけて貰ふことヽす。午後肥下宅を訪ひ、[※詩集]発送用状袋の表書きをなす。   八月二十九日 夜、肥下を訪ふ、保田来り会ふ。肥下は明日、保田は明後日、中島を送る爲西下。此日コギト出来。   八月三十日 夜、松隈医学博士を青木徳一郎氏と訪ふ。東亜研究所、池田大佐に紹介を頼む爲なり。  ※陸相秘書官赤松少佐の名刺を貰ふ。   八月三十一日 午後、企畫院に池田大佐を訪ふ。偶々わが履歴書来る。大佐見て「学校の先生か!一度本人を呼んで詮衡することに致しませうか! 」 と、意味ありげに嗤ふ。何ぞ計らん、これわが履歴書なりしかば大喝して 「かう方々へ頼んでは駄目ぢやないか」 と。われも憤慨し応酬す。とも角詮衡の列に入るを得。                        [※ 東亜研究所をめぐる人脈相関図有り]   九月一日 文庫にて松本と会ひ共に丹波鴻一郎を訪ふ。新婦を見んが爲なり。   九月二日 東京建物会社に西川を訪ひしも三度目の留守。隣の槇町ビルの平凡社に青木富太郎氏を訪ふ。 あはれわが秋こそ来つれ この秋は何にすぎゆく秋なるぞ   夏中蝉は啼いた 声のあるたけ樂しげに   空は澄み 夏の花はすべて衰へた   蝉は狼狽へた さうして眼を据ゑた   ある夜 天来の智慧が囁いた   身のなる果を 暗い夜の蔭を   蝉はもう眼をとぢて木の根に蹲つた おれのまはりに張りまはした此の縄を とびこへる とびこえる 笑つてとびこえる それは弱い それは低い 断るか とびこえるか 觸れるのはいやだ それは恥辱を齎すから とびこへる とびこえる 笑つてとびこえる        [※ 「星[※不詳]勝覧」より靈山を抄出。(漢文及漢詩十行)]   九月三日 文庫にて和田教授に会ひ、東亜研究所の件をお話す。先生もしきりに大学の権威の陥ちしを嘆かる。此日、「蒙古源流」(漢文)と「[※不詳]珂支那通志」購ふ。   九月四日(日)  午前八時、杉浦より来電。十時阿佐ケ谷駅にて会ひ、西川英夫宅を訪ふに留守。  それより伊藤松宇先生のお宅を訪問、地は小石川関口台の中腹にして旧芭蕉庵の跡なり。 先生钁鑠たること驚くに耐えたり。建部涼袋を愛し、夛くその作を集めらると云ふに所望してその「威振八紘図」等を覽る。 保田が涼袋論[※ 「戴冠詩人の御一人者」所収]をよみて感心 ※されをりし由。 それより御案内にて芭蕉庵の跡を見る。毎日、雉、数双の来り遊ぶとふ橋を渡り、 井泉の配置うるはしき俳句の季題にありとある野の花もて埋めつくしたる庭の有様面白し。先生の句碑もありて 「眞中に富士聳えたり春の園」 とよまる。先生感心癖あり。又、警句を連発さるヽも中に忘れざりしは、前日の颱風に折れし竹を見て夛くの中にこの竹の折れるのは運命かと嗟嘆されしこと也。 この庵もと田中光顕伯の邸地なりしも今は講談社長、野間清治の有に帰す。    ※  野間氏、先生の俳句の書、万巻を購ひ、先生百年の後までは之は委託しをくとのためにこの宅を建てしとなり。田紳にしては珍しきことかな。  杉浦と別れ、佐藤春雄先生を訪ひしにマスラオ、「お父さんの出発は十四日」とのことに面会を求むれば、先生出迎へらる。 「お忙しくなきや」と問へば「別に忙しくもなけれど先客なり」とのことに匆慌辞し去る。醜態自ら嗤ふべし。  帰宅、肥下、中島より来信。中島の即日帰郷を報ず、当然事なり。午後十時、杉浦と再び新宿に遇ひ、共に國立の杉浦叔父別墅にゆき泊る。 この夜、杉浦の句、  月清き大和島根を船出して 枕頭に漂ふ。夜半二時に目ざむる。本位田、丸を夢みたり。   九月五日(月) 新宿にて杉浦と訣れ、目黒の近藤信一氏を訪ふ。それより田園調布の青木家を訪ひ、二時半、安形英雄と会ひ、家に伴ひ帰る。八時まで語る。 近藤翁の話に、松竹日活等にては大学出を一○円にて見習三ケ月の後必ず退社さす。浅草に殺人請負業あり、眠らすは六十円、半死半生は四十円、打毀しはルンペンによれば十銭なり。 又前東京商工会議所会頭、藤田謙一はモーニングのまヽ引くりかへるが得意の暴力団なりしと。日本よ如何なる! 昨日今日兵ら流せし血の如く もののふの流血のいろと 佛桑花 紅く眞紅く咲きし岡の辺 木々は皆梢ゆれたり これやこれ颱の跫跡 はらはらに雀鳥は枝移り わが見たる眼路の末にし 帰り来 渡洋爆撃機 かの大佐猛き眼もちて いく人の人を殺せし わが胸の羊血ゆらぐ   九月六日 本日は八方を馳せ廻りたり。これもわが心から。 一叡舎(九時)──文庫(九.三○)──美術研究所(十一.五○)──企畫院(○.三○) ──安田生命(一.三○)──日本フイルモン跡(二.○○)──小高根太郎(三.○○) ──薄井(五.○○)──川久保(七.三○)──松本(八.○○) けふ「西康省」の初稿出ではじむ。企畫院で会ひし小西大佐は、先日池田大佐に履歴書取次ぎくれし蓬髪黒面肥満型の男なり。沼田鞆雄氏、東亜研究所に入りし由。   九月七日 午前中平凡社の原稿を書く。正午肥下を訪ひしも未だ帰宅せず。 小高根を研究所に問ふて陸恢、鎭江派、曹霑につきて調ぶるも不明帝国図書館にて陸恢のみやヽ要を得たり。図書館入りの連中の貧相なのと、館員の横柄なのとに情無く感ず。   九月八日(木) 文庫に行き松本とニユースを見る。五時半、来庫の立野保男を迎へ幸島、倉辻の二氏と歓迎宴を新宿にて。後、玉を突く。   九月九日(金) 夜、立野を案内し、家に泊まらしむ。   九月十日(土) 立野を帝大につれゆき、神田にて玉突き。三時東京駅に見送る。肥下来る。   九月十一日(日) 退職手当来る、一五○円。○○会愈々解散の由、腑甲斐なきことかな。夜、肥下を訪ふて猥談す。   九月十二日(月) 〒中島。本日より燈火管制。島居君、出征の由。肥下を訪ふ。妹節子嬢、僕の詩集所望の由。   九月十三日(火) 〒伊東、松根、松井。肥下と印刷屋一叡舎に行く。詩集の内金四十円を渡す。武蔵野館にて  ※「舞踏会の手帖」を見る。   九月十四日(水) 立原道造より昨夜速達あり。その指定に任せ四季社に行き、日下部雄一、津村信夫二氏と初めて対面す。立原は明日岩手へゆく由。 二氏と別れ、送別に中村屋にて支那鏝頭を食ふも可笑。留守中、沢田直也訪ね来りしに付き、電話して明日行くことを約す。   九月十五日(木) 肥下と連れ立ちて保田の新居を訪ふ。堂々たる家なれど妻君居るや居らずや紹介せねば変なことなり。「戴冠詩人」を東京堂より出すとの由。 印刷屋にゆき校正の間に沢田を朝栄館に訪ふ。大学の入学試験の際わがゐし下宿なり。印刷屋に引きかへせば既に五時、 間もなく燈火管制にて乗物動かず、富士神社前まで来れば絶対に歩行を止めらる。抗議せし青年、警察へ引張られたるを見て動けず。 遂に二時間を立往生し満蒙研究会はゆけずなる。 この日詩集校了す。   九月十六日(金) クレオパトラ三十一枚にて一先づ今月分とす。肥下を訪へば留守赤川氏の店にて多和氏と待合せ、京橋の紙店にゆく。 思ひ設けし紺碧色[※ 詩集の表紙]なく、止むを得ず鉄色の鳥の子紙とす。一冊につき四銭の品なり。次で杉田屋にゆき広告の紙型とらしむ。 新宿にてニユース映画を見、川久保君を訪ね昨日の詫を云ふ。藤沢桓夫氏、わが上京を小説書く爲と猜し居られるとか。 遠雷の如く殷々と轟き 我友中尉小寺範輝の柩車来りぬ 死者に敬礼せよ 十月の初咲の菊の花だに萎れたり ・・・・・・・・・・・・・・   ★ わが上に日々美しき空展け 鳥は飛び 君笑まふ 海原の微かなるとよめきの 朝に夕にわれ聞く   九月十七日(土) コギトの会開かんとす。定刻、肥下、長野来るも薄井、小高根来らず一時間して保田来る。 その間、萩原朔太郎氏颯々と眼下の道をゆくを見る。保田の話に、芳賀檀の家にさる人ゆき「四季」を借りたるに、神保の詩のみ直してありしと。 コギトの改組を保田云ふ。肥下は喜ばぬ様なりしが、新同人として名あがりしは大山定一、芳賀、立原、桑原、亀井、中谷などの諸氏。   [※ 尖閣列島の話]  彭佳嶼(ピエンカアスウ)──基隆港外の北東にありて三島嶼あり、一を彭──又は草莱嶼(ツアウライ)といひ、欧米人の所謂アジンコルト(Agincourt)島即ち是にして、 キールとの鼻頭角を去る三十浬三六、周囲一里三丁とす。  一を棉鼻嶼(ビエヌホエ)又鳥嶼(チヤウ)といひ、欧米人の所謂クラグ(Crag)島にしして、鼻頭角を距る二十三浬二二、周囲二十町、 一を花瓶嶼(ポエパタ)といひ欧米人の所謂ピンナクル(Pinacle)島、 鼻頭角を距る一七浬一三、周囲六町。この島々につき最初に踏査したのは西暦一八六六年六月、 英国軍艦サアペントの支那海を回航する途次、棉花嶼の附近水深九尋の所に投錨し、艦長ブロツク少佐が三島の位置形勢を測定したるを最初とし、 アジンコルト・・・の名を附したるも此時にして、之を翌年刊行の英國海軍海図に記せり。  彭佳嶼といふ所以は「此嶼、幽邃不泥俗塵、可以静養神気、如古昔老彭祖、住居佳景壽山」といひ、草莱嶼は「遍山皆草芥、如入無人之境、亦彷彿仙家蓬莱」といふ。 アジンコールトといふ名は、原と[もと]と佛國のパスデカライス地方に属する一村落の名にして、西暦一四一四年、英王ヘンリー五世の佛國と交戦せる時占領せる地に係る。  第二嶼の棉花嶼といふは、日本水路誌に「鳥類は沖縄人の所謂白イソナ、黒イソナの類にして、その多数なる殆ど計算すべからず」といへる如く、夏秋の季節に至りて、 此の鳥群の渡来のために、島面を覆はれ、一斉に飛揚する状、恰も棉花の風に舞ふに似たるに因みたり。淡水廳志にも「海鳥育卵於此、南風恬時、土人駕小舟、往拾曰得数斗」といへり。  クラグ島といふは巉岩[ざんがん]島の義なり。  第三島の花瓶嶼といふは、孤立せる尖形の岩石より成れる形状に出で、ピンナクル島といへる名も尖閣島の義なり。   九月十八日(日) 西川午前中来る。金鳳昊来る。松本を訪ね、赤川氏を訪ぬ。印刷出来しにより製本につき依頼の爲也。この日調べし結果、コギトの会の案内発送を忘れしと判明。 ゆき子本日青木宅訪問、千草[※ 妹]の見舞の爲。   九月十九日(月) 詩集の印刷出来につき、印刷所、製本所、肥下宅を数次往復す。その出来に不満あり。   九月二十日(火) 本日も肥下と詩集のことに拘[かかずら]ふ。印刷所本郷片町一叡舎を訪ね、難詰す。その難点次の如し。 1、紙ハ横紙ヲ使用セル事 [※ 紙目が横で皺がよる事] 2、紙ノ色合様々ナル事 3、厚キニスギテ不体裁ナリ      コレラハ独断ニテ紙ヲキメシタメ 4、版ノ位置上スギ且ツ中ヘ寄リスギタリ 5、墨色ウスク、且ツ不揃ヒナリ 6、段チガヒ甚シ 7、二五○部ノ分シカ用意シアラズetc.      種々弁明してきかず、物分れにて帰る。   九月二十一日(水) 「漢文史料中に現れたる清語」半ピラ五十枚を書く。午後、阿佐ケ谷の祖母を見舞ふ。   九月二十二日(木) 午前中、肥下と製本屋にゆく。午後、松本(※松本善海)と文庫に行き、和田先生(※和田清)に論文をわたす。留守中、大阪の池田日呂志君来訪。詩集(※『夜への歌』)置き行くとのことに明朝反対に訪れる旨電報す。 本日早朝東亜研究所の穂積氏を訪ねしに生命保険屋と出会ひの最中。その後、立話にて入所の件断らる。そのとき口中に飯を含みゐたるがいやなりしのみ。 昔、周公、哺を吐いて士を見しとは異なり、平将門飯を含んで田原秀卿に軽蔑されしたぐひか。       ※   九月二十三日(金) 宮崎丈二氏宅なる池田君を訪ふ。宮崎氏は春陽会の画を能くする人。美しい画夛く見せらる、江戸前の上品なる人なり。 それより▲池田氏を伴ひ製本屋にて詩集十部受取り、一部を▲宮崎氏にと託す。▲川久保君の留守宅を訪ひ、本日の例会欠席を断る旨の手紙と詩集一部とを託す。 [※ ▲ 詩集寄贈先の印し] 六時より四季の会。三好氏、宇野千代とあり、紹介せらる、美人なり。詩集を▲神西、▲津村、▲神保、▲丸山、▲阪本、▲日下部(※日下部雄一)、▲三好の七氏に渡す (計十冊)。室生、萩原両先生も来会。 萩原さん、佐藤春雄、堀口、日夏の三氏は「怒りつぽの三すくみ」なる由、くだを巻く。 閉会後、三好氏につれられて新橋の久兵衛なる店にて河上徹太郎、佐藤信衛、文学界編輯X氏にあふ。佐藤氏、内藤湖南先生をほめゐたるは感心。   九月二十四日(土) 秋季皇靈祭。午前、祖母を見舞ひ、肥下を訪ぬ。熱河なる眞田雅男氏より注文の爲替つきゐたり。 川久保を訪ね、帰宅、晝寝す。途上萩原先生夫妻来り、先生近よればそつぽ向く。   九月二十五日(日) 「東洋史研究」へ書評25×10、八枚送る。夜、肥下と製本屋へゆき十八冊受取りて帰る。   九月二十六日(月) 朝、詩集発送。▲中島(※中島栄次郎)、▲野田(※野田又夫)、▲本庄(※本庄実)、▲興地(※興地実英)、▲五十嵐(※五十嵐達六郎)、▲立野(※立野保男)、▲服部(※服部正己)、▲杉浦(※杉浦正一郎)、▲伊東(※伊東静雄)、▲松下(※松下武雄)。 肥下を訪ね、満州承徳の眞田雅男氏に詩集発送、この送料四十五銭なり。他に東京堂の注文一冊。 保田を訪ね▲詩集十冊を託す。「戴冠詩人の御一人者」を貰ひて帰る。 本日「新日本」の編輯会議の由。紙上出版記念会には保田より萩原、中河の二氏に頼みくるヽ由。僕よりは三好、津村、立原、神保、阪本、草野心 、百田宗治あたりに頼むが良からんと也。 ▲中河、▲萩原、▲百田、▲室生、▲船越(※船越章)、▲相野(※相野忠雄)、▲坪井明、七冊。 ▲赤川氏に手渡し一冊。合計二十八冊。 ▲小高根二郎▲安西冬衛 死者に敬礼せよ 殷々と遠雷の如く轟き 我友 歩兵中尉小寺範輝が柩車来れり 初咲の菊 遅咲きのダリアみな白くして愁ひたり 去年の夏 故里を立ち 山西は重畳たる山國 幾何(いくばく)の敵や打ちけん 雪や分けけん 閻錫山が作りしめし罌粟畑や見けん 一ひらの便りだに寄せず 五月青葉のひるさがり 山國の山西を出で河南省博愛縣の戰鬪に 尖兵の長にはありき チエコ機銃 篁より火を吐くに突撃し 田の畦に倒る 二十七才なりき 初咲の菊 遅咲きのダリアみな白くして愁ひたり 我友 歩兵中尉小寺範輝が柩車去れり 殷々と遠雷の如く轟き 死者に敬礼せよ   九月二十七日(火) ▲石浜先生、▲藤沢桓夫氏、▲小高根次郎君、三冊。計參拾壹冊。 コギトの校了に杉田屋にゆく。保田、小高根[※ 太郎]も来る。 「小高根太郎」中河与一氏の「天の夕顔」をよみ感激す。 第一書房訪ねしも春山氏留守。▲長谷川(※長谷川巳之吉)、▲春山(※春山行夫)。 史、午前二時頃目覚めて吐きし爲、睡眠不足。   九月二十八日(水) 史、本日も病気。午後印刷屋にゆき検印押す。午前中、中央公論社の入社試験を神田YMCAにて受く。二百名近き志願者ありし中百名程の受験と見ゆ。試験問題中、詩あり、出塞行。   春海長雲暗雪山 孤城遥望玉門関   黄沙百戰穿金甲 不破樓蘭終不還 夜、肥下来りて 神田の井田書店より注文ありしとて代金を呉れる。   九月二十九日(木) 午前中「詩集西康省あとがき」20×10、十三枚を書く。肥下宅にて寄贈の表書す。四九冊なり。製本代意外に高きに不快を感ず。 文庫にて松本に会ふ。夜、祖母危篤につき見舞ふ。 船越章、甲府より来る。十二時帰宅す。史、本日は回復。   九月三十日(金) 阿佐ケ谷を見舞ひ、船越と肥下を訪ぬ。製本屋に二十三円八拾六銭支拂ふ。赤川氏[※草夫 古書店主]に本六円を賣る。 夜、川久保君を訪ね、満洲史研究会に行くつもりなりしをすつぽかされ些か憤慨す。   十月一日(土) 阿佐ケ谷を見舞ひ、肥下を訪ぬ。▲松本善海に詩集を贈り、漢書借り来る。王昭君を書かんが爲。肥下の妹▲節子嬢に詩集贈る。  前漢書巻九元帝紀、仝巻九十四匈奴傳、後漢書巻百十九南匈奴傳、  西京雑記→歴代名画記、文選、李白楽府、唐物語、大鏡、和漢朗詠集   十月二日(日) 中央公論社の筆記に通りし旨。阿佐ケ谷を見舞ふ。▲長野(※長野敏一)を訪ね、詩集を贈る。肥下を訪ね、詩集の礼状を受取る。 中に嬉しきは日夏耿之介氏。「寒鳥」「多島海」「植木屋」の三詩をほめ来らる。斎藤茂吉氏よりも礼状あり。   十月三日(月) 酒井正平、▲加藤一、二氏に詩集贈る。共にマダム・ブランシユの盟友たりき。 ▲草野心平氏を訪ひ詩集を贈り、▲鹿熊猛の分を託す。     十月四日(火) 章君、甲府へ帰りし後、午後五時三十分、外祖母松田もと女(通称みね)死したまふ。行年八十七才。   十月五日(水) 風邪気味なり。   十月六日(木) 午前中に中央公論社に赴き人物試験を受く。試験委員我名を知りゐし爲第一次通り、体格検査を受く。体重四○.○瓩、胸囲六九.四cm、身長一六四.四cmなりき。 第二次は島中雄作[※ 中央公論社社長。]の親ら[みずから]行ふところ。体の悪しきを云ひて暗に不合格を諷す。 第一次のときコギトを止めるべき旨を暗々に諾せし如きことヽなり、何れにしても入社は不可能なり。この夜、通夜。   十月七日(金) 葬儀。集りしもの、大体左の如し。 ゆき子の礼服大阪より来ず。章君の所謂「天沼氏」より大分ひどく云はる。                [※ 家系図あり、船越章は田中悠紀子と従兄妹にあたる。] 夜、三上次男、川久保悌郎二氏と、目白の桜井芳明君の家にて「二十二史剳記」をよむ。 諸氏の漢文を讀む力の乏しきには一驚を喫す。これ我が徒らなる誇負に非ず。三上氏の如き、かヽる文にかヽるよみをなすかとの感ありき。   十月八日(土) 午後、章君と肥下を訪ぬ。詩集一冊注文あり、これにて四冊。保田を三人にて訪ぬ。 中河与一氏、文化学院にて予の詩朗讀せしに、よめば[※音読すれば]却つて良くなかりしと云はるヽ由。   十月九日(日) 午前中、祖母初七日法事、勇喜一氏及章君を見送り帰れば長尾良[ながおはじめ]来りし由。 安形次いで来り五時まで話ゆく。肥下を訪ひ、十六氏に発送の表書す。帰れば長尾また来りし由。次いで就床後、肥下来つて松下武雄の死を報ぜし服部よりの電報を示す。 連れ立つて保田宅へゆき、種々協議、肥下明朝下阪のことヽなる。     ※   去りがてに別れ来ぬれどかくのみに早き命を思はざりけり   十月十日(月) 午前中松下宅へ弔電打つ。照合電報は三分一割増なれどたしかなる由。 パリーの桑原氏に詩集贈る二十四銭。[※ 送料]逸見猶吉氏(大連)九銭。 午後、長尾良氏来る。卒業論文に徽宗皇帝を書く由、本三冊を貸す。東洋文庫にて佐藤龍児氏と話す、春雄先生明日帰京の由。 駒込の叔母に会ふ。沢田直也にあふ。君は好痛症なりと云ふに肯ふ。 けふ小高根に電ワ、薄井に速達にて松下の死報ぜしむ。長野は勤先よしたとてゐず半信半疑也。中島より来信、松下数日の中ならんとのハガキを九日に出してゐるのも哀れ也。   十月十一日(火) けふ長野より来信、昨日出にて雑誌の原稿催促なり。電話をかけし処やめしとは嘘なり。 文庫にて善海に会ふ。龍児氏けふ見えざりしは[※春夫を]出迎への爲ならん。和田先生に会ふに、「文庫」は日本中最も満洲語の文献多くその整理者必要なり、 君ほんとに出来るならばと仰せあり。小高根を訪ひ、保田の[※結婚]祝ひを三円づヽときめ、十六日五時新宿に集合と決めたり。 帰宅、千草男子安産の電報来ゐたれば見舞ひにゆく。途、駒込の叔父夫婦とつれになる。思ひの外に元気なり。 本日肥下るす宅を訪ひ、注文東京堂より二冊ありしと、夫婦喧嘩の話とをきく。   十月十二日(水) 悠紀子、千草の見舞ひにゆく。近藤信一氏を訪ひ、先日の礼をのべ文庫にゆき善海に会ふ。   十月十三日(木) 文庫にて和田先生に会ひ、満洲語文献整理係お願ひす。岩井主事に話しおかんとのこと。 五時二十分、悠紀子と母を東京駅に迎ふ。 青木氏夫妻も出迎へたり。四人にて病院にゆき、母は青木泊りと決む。帰宅の途、肥下留守宅を見舞ふ。詩集注文一冊あり。日本文学の会(文芸文化)より原稿依頼。   十月十四日(金) 十二時半、丸ビルにて母より宮田美樹氏を紹介され関東商業学校の水野勝清氏を訪ふ。 就職を依頼す。神西清氏より来信。珍しき語学と教授の紹介あらばとのこと。   十月十五日(土) 文庫にゆく。善海と会ふ。夜、冷雨の中を川久保氏と三上氏宅の研究会にゆく、三人のみ。 東中野の饒君の裏なり。豊かに美しく暮しゐらるヽに羨まし。高橋匡四郎、建国大学の助教授となりし由。   十月十六日(日)  保田の結婚披露宴。肥下のフラウを誘ひゆく。 来会者 佐藤春夫、萩原朔太郎、倉田百三、中河与一、仝幹子、川端康成、林房夫夫人、     外村繁、亀井勝一郎夫妻、神保光太郎、木山捷平、蔵原伸二郎、平林英子、若林つや、     藤田徳太郎、肥下夫人、小高根、薄井、長野。   十月十七日(月) 午前中阿佐ケ谷にゆき、父母と会ふ。吹田の姉夫婦を見送る。風邪気味。   十月十八日(火) 風邪の爲一日籠居。クレオパトラのつヾきを書く、十枚書きて十六枚となる。 夜、母来る。明夜帰阪の由。 まだしばらく骨は薔薇色に燃えてゐたが まもなく冷えて白くなつた これは肩胛骨 これは下顎骨 (長い木箸で)指さすと骨たちはめのまへで 幻のやうにくづれてしまつた 室ぢうがムンムン骨の臭ひがし 生きてゐる我々は咳をした   十月十九日(水) 靖國神社臨時大祭。昨夜父来る。午前中、史をつれて肥下の宅へ原稿をとりにゆく。 午後保田を訪れ、コギトの編輯をなす。中河与一氏の詩集評あり、保田の評も親切なり。 松下の令嫂より、臨終数刻の模様をしるしたる手紙来りてゐる。松本善海を訪ふ。   十月二十日(木) 原稿を杉田屋に持参す。時間半端なる爲、新宿にてニユースを見る。寒気せし爲帰宅。昨夜より史、吐瀉下痢をなす。   十月二十一日(金) 午後、文庫へ行く。善海来てゐず。「綏乗」を見るに王昭君の墓と伝ふるもの二つありと。 日本にも鹿島社東、太平洋岸の砂丘に王昭君の墓あり、何の意ならん。本日午前中は暴風。広東陥落。   清代奴隷考 1.奴隷の定義   奴隷を表す語 奴婢 奴僕 世僕 諸申 哈々珠色等 2.奴隷の身分   a.獲得   イ、明代よりの連続 ロ、軍事上の捕虜 ハ、刑罰 ニ、賣身   b.離脱   イ、清初の科挙、その他 ロ、買身 3.奴隷の社会的地位   刑罰の不公平、生活上の差別待遇、子孫の科挙に対する束縛。   職務・軍事に用ゐられし例 控馬奴 Kutule? 嘯亭雑録   農事 仝  家奴の諸用 仝 4.奴隷の解放   十月二十二日(土) 午前中、肥下宅へゆく。中島、松田の記念文あり。立野の弟より詩集注文あり。青木へ御祝持ちゆき、父の荷物発送の手続済ませ、日銀[※ 父の勤務先。]へゆき切符を言付ける。 今夜帰阪の由。文庫にて善海に会ふ。 やはり僕より風邪を伝染されし由。今夜満洲史研究会なるも、冷雨ふりしきる爲さぼる。 田中氏宅の碁会にゆく、皆僕と良い勝負の下手。   十月二十三日(日) 午後、酒井正平に新宿に会ふ。故西崎晋氏、「星座」に僕のことを書いた小説[※ 不詳。]のせてゐた由。 正 、今もまだ日大芸術科にありてシナリオ勉強す。留守中保田来て眞田の「雁」おきゆく。   十月二十四日(月) 朝、肥下宅へゆく。注文二冊あり。津村信夫を訪ひて「軍艦茉莉」を借る。連立ちて丸山薫氏を訪ふ。萩原さん中野に轉居せし由。 保田を訪ふ。亀井勝一郎、林房雄を訪ひしとき、林、僕の「俺は悪魔を-」中の人物をやらねばならんと云ひゐし由。 [※保田氏を]池谷賞候補に河上、三好、林の三氏推薦するだらうとのこと。 夜、小高根と銀座で会ひ、熊谷法律事務所を訪ひチユーター[※ 家庭教師]の相談決む。相手は中大予科生、野附一郎君。   十月二十五日(火) 文庫にゆくにだれもをらず。夕方二時間、御茶水文化アパートにてドイツ語教ふ。   十月二十六日(水) 肥下宅を訪ふ。保田、立原に速達を出す。羽田より帰朝の挨拶あり。   十月二十七日(木) コギト校了、保田と小高根[※ 太郎]と立原と集る。百十頁となる。漢口陥落祝賀の爲、宮城前に至り、銀座にてビールのむ。   十月二十八日(金) 朝、杉田屋へ扉の凸版もちゆき、夜は御茶水へドイツ語 へにゆく。   十月二十九日(土) 午前中、文庫にて支那海の海賊につき調ぶ。晝食時沢田を訪ぬ。 午後、和田先生に会ふ。満洲語の件おくれる由。自分でたのめば早くなるかもしれぬとのこと也。 善海と六義園を見、肥下を訪ぬれば中島と共に本朝帰京、保田宅にある由、訪ねゆきて話す。松下の追悼号のこと也。 斉藤茂吉氏、アラヽギに僕の詩集の評のせゐらるヽ由、中河与一氏より報せ来らる。   十月三十日(日) 中島訪ね来る。共に長野を訪ぬる途中、アララギを見しに、有明光太郎にも見られぬ詩ありとの過襃の辞あり。三人にて新宿に出、散歩して帰る。   十月三十一日(月) 文庫にゆき、野附生を教へてのち、銀座資生堂にて保田、肥下、小高根、長の、薄井、俣野と集り、中島の歓迎会をミユンヘンにて行ふ。すべて麥酒一盃にて陶然たり。   十一月一日(火) 午後、中島を阿佐ケ谷の家に伴ひゆき碁二盤打つ、一勝一敗也。新宿に出てニユース映画を見る。  ※   十一月二日(水) 中島を案内して沢田、末永に会はしめし後文庫にて一時間讀書。 島稔より昨日来信、茂吉先生の文よみ詩集欲しとなり。松本善海より旗田巍氏、夫人喉頭結核のため死目に会ひに帰郷さると聞く、同情の念禁じ得ず。夕方ドイツ語教ふ 。 「東洋史研究四の一」届く。我がブツク・レヴヰウあり。   一 いまぞアジアの朝あけて 朔風膚をつんざけど 東天紅を拝しては 一声高きいななきに 全軍の士気天を衝く   二 名も拒馬河(がは)の夕まぐれ すねを没する泥濘に 重き砲車を引きなづみ 手綱をとりしわが見れば なれが眼(まなこ)も泣きゐたり   三 南京城外ひともとの 柳色濃き下かげに さばへ[蝿]を追ふと尾をふりつ まなこをとぢし汝がゆめに 富士は故郷は入りにしや   四 [※ 無し。]   五 昨日負傷の我のせて 運びし馬も傷つきぬ 今はに何を望みけむ 至仁至愛の大君の 日本の國に生れ来て   六 この幸得しを喜べと 我が撫づれば眼を瞑ぢぬ 青馬[あお]よ眠れよ汝が墓に 戦火の煙消えん暁(とき) 東洋平和の花植ゑん   十一月三日(木) 肥下、中島と保田を訪ふ。小高根も来り会し、野附の十月分謝礼をことづかりをる。この日夜より憂鬱となる。   十一月四日(金) 中島を案内して二重橋、明治神宮へゆき新宿にて夜食。本郷にゆき、八時半の汽車にて帰らす。 保田東京駅へ来ゐる。この日、終日不安なる心悸あり。   今月の原稿左の如し。 1.コギト(二十日)十五枚。 十三枚スミ。 [※ 送付済の意] 2.四季(仝)。 スミ。 3.文芸文化(十日)三枚。 四枚スミ。 4.新日本(七日)三十枚。 三十二枚スミ。 5.文芸汎論(十五日)詩。 スミ 6.不確定性ペーパー(十日)十枚。六枚スミ。 7.あけぼの(十一日)六枚、随筆。 スミ。   十一月五日(土) 野附生を教へにゆく。   十一月六日(日) 松田祖母の五七日にて忌明く。午後、小高根と中河与一氏を訪問蔦美しき松一本あり。   十一月七日(月) 「新日本」原稿を書上げ保田に渡し(「海賊の系譜」三十二枚)肥下より五冊分五.二五円受取る。 野附生を教へ、夜「天の夕顔」出版記念会に出席。   十一月八日(火) 肥下を訪ね、長尾良君に会ひ玉を突く。二十の腕前なり。夜、松本と川久保を訪問。   十一月九日(水) 疲れてゐたり。四季社に日下部氏を訪ふも不在。米式蹴球なるものをはじめて見る、面白し。 夜、野附生を教ふ。   十一月十日(木) 中河与一氏より速達にて「あけぼの」なる雑誌の原稿を依頼さる。「ドイツの軍歌」六枚送る。 肥下を訪ねしに詩集七冊賣れゐたり(通計二十八冊)。十一冊分、十五円十銭受取る。   十一月十一日(金) 野附生を教ふ。帰途、 神田を歩き、西川を訪ねしに不在。   十一月十二日(土) 「不確定性ペーパー」に六枚。「天の夕顔」批評なり。肥下と保田を訪ひ、明日の打合せなす。   十一月十三日(日)  夕五時より西康省出版記念会。 肥下と連立ちてゆく。定刻より長尾良、池沢茂、岩佐東一郎、亀井勝一郎、藏原伸二郎、佐藤春雄先生、岡本かの子女史、田中冬二、丸山薫、立原道造、 増田晃の諸氏来会せられしに、同人側より保田まだ来らず。座白け、佐藤先生忙しとてせかさるヽに身のちヾこまる思ひす。  止むなく七時十分より開会。津村信夫、神保光太郎、若林つやの諸氏も来られ、次で宇野浩二氏来られ、最後に中河与一氏と共に保田来る。七時半なり。  テーブルスピーチに佐藤先生「田中君の詩は脆弱なことばに剛き魂ある」旨、くはしくは覚えず。 岩佐東一郎曰く「もつと椅子にデーンとかけてゐる人かと思つた」、けだし適評也。 閉会後、長野来る。   十一月十四日(月) 肥下をたづね、共に 神田へゆく。野附生を教ふ。   十一月十五日(火) 夜、松本善海をたづね、快談数刻、夕方川久保君来り、会の流れしを報ぜらる。 中河与一氏より、「若草」などに推薦すべければ詩一二篇送りおかれよとのこと。   十一月十六日(水) 午前中、赤川草夫氏を呼び、本八円を賣る。肥下来つて「文芸」の原稿依頼状をもち来る。 午後、立原、津村、神保、日下部の諸氏と、日動画廊にて四季の編輯会。野附生を教へし後、 赤坂清水公園にて「詩の会」発会式。草野心平の肝煎[きもいり]なり。 高橋新吉、山岸外史佐藤一英、菊岡久利、伊豆公夫の諸氏をはじめて見る。阪本、丸山の二氏も来り会す。   十一月十七日(木) 肥下を訪問、越前三國女学校の城越健次郎氏より注文あり。残部僅かに四十八冊の由。 「文学界」十二月号に井伏、三好の二氏、ペシミツクなればとほめゐたり。午後、藤枝晃  ※を訪ひしも不在。夜、川久保来り、羽田の歓迎会の手筈決まる。 1.中河さん(若草?) 2.文芸 十一月末日、詩二頁。スミ。 3.四季 十二月十日、詩。 4.こおとろ 十一月末日、詩。スミ。   十一月十八日(金) 肥下と保田を訪ぬ。座に藏原伸二郎氏あり、談数刻に及ぶ。 5.三田文学 三枚。保田の本の批評。二十一日迄。スミ。 野附生不在にて、沢田を訪ひ、七時半、新宿に松本、川久保と会し、羽田明の歓迎会をなす。 途にて羽田の母君、野谷君に会ふ。妹君(野谷君夫人)女子安産の由。羽田はフランス人の如くなりをる。口をつくは痛辣なる皮肉譏刺の語なれば我以外は当り難し。 東亜研究所に入ることヽ内定するも、東洋文庫の方が宜からんとすすめおきたり。十二時散会。   十一月十九日(土) 歴史研究大会に出席、浦和より山崎清一君来りて会ふ。任官は年末、結婚せしも細君、人工流産にて帰国中とのこと。 鈴木俊氏、文芸春秋の池島信氏より僕の詩集のことを聞いた由、藤枝マルコ・ポーロの話す。   十一月二十日(日) 肥下を訪ねゐる際、村上菊一郎氏あとを追ひ来る。共に井伏鱒二、青柳瑞穂氏宅を訪ねしも留守。日夏耿之介氏に会ひ、再び井伏鱒二氏を訪ねピノチオにて飲み、僕は別れて帰る。 身延講の仲間入りをして登山する話、最も面白かりし。   十一月二十一日(月) 肥下、松本を訪ね新宿で映画を見、野附を教へ、帰途、川久保君を訪ぬ。神西氏より返書。 穂積氏に宜しく断りおくとのことなり。 大江、上京したるも宛名誤記の爲速達二日後につきたれば会へず。本日「三田文学」に三枚送る。   十一月二十二日(火) 長尾と玉を突く。夜、川久保、松本と、故岩佐君の宅を訪ぬ。満三年の命日なり。   十一月二十三日(水) 朝、コギトの原稿を肥下の許へ届けし(十三枚)。留守中に原栄之助氏来訪、急ぎ帰り、話をる中、長尾良、池沢茂二君来る。池沢君に宇野浩二氏のハガキを与ふ。 原氏を善隣協会に案内、次で神田銀座を歩きて別る。   十一月二十四日(木) 九時、御茶水に原氏と待合せ、文求堂、大学を案内し、石田幹之助氏に会ふ。   ※ その後、原君、神経苛立ちて手に負へず博物館にゆきて別る、今夜帰阪の由。小高根と会ふ。 野附生を教へて帰宅。 6.日本歌人 十二月五日。 7.いのち ビルマに於ける明の永暦帝。(止め) 8.コギト クレオパトラ 一五日。 (完結)   十一月二十五日(金) 肥下を訪ねしも留守。保田を訪ね、忘れし帽子をとりかへし、野附生を教ふ。 今年度著作目録(印刷月日による) 東洋史之部 [※ 略。] 文学の部  [※ 略。]   十一月二十六日(土) 肥下を訪ね帰り来れば、村上菊一郎氏より本日差支へあり、日夏氏訪問を明日にせんといひ来る。杉田屋に松下の絶筆をもち行き、銅板をとらしめ校正をなす。 丸山薫氏を訪ねしに、座に稲垣足穂氏あり、吃りなれば物を急きこみて云ふくせあり。大阪生れの由。他に塚山勇三氏。   十一月二十七日(日) 9.「セルパン」より原稿依頼スミ。「一年有半を歌ふ」と題して「アルバイト・デイーンスト※」と「渡洋爆撃」を送るべし。     ※勤労奉仕隊 掲載誌未確認 本日校正に杉田屋にゆく。薄井、肥下、保田会す。防空訓練の爲日没にて帰る。 10.日本詩壇より原稿依頼。スミ   十一月二十八日(月) 本日も校正、肥下と二人のみ。校了して野附生を教ふ。○○○○ [※ 編者削除]君より問責状来る。 二十三日夜、遺精してザーメンの臭気をまとひたる我の憂鬱なるは当然なるに残酷なりしよ、と云ふ。神経衰弱の兆しや著し。   十一月二十九日(火) 1.「三田文学」二月号に原稿エツセイ二十枚、締切十二月二十日、依頼し来る。王昭君説話をかくべし。 「日本詩壇」に小寺中尉哀歌再録を送る。第三節「五月青葉のひるさがり」を朝まだきと訂正す。拙けれど致し方なし。 亀井勝一郎氏を訪ふ。東京も仕事の大小できめず好悪できめるかと云ふに笑つて肯ふ。 保田は岡本かの子氏にも嫌はれゐる由。「文学界」にては小林秀雄に皆遠慮してゐる由。 鈴木俊氏を訪ひしも留守。   十一月三十日(水) 肥下を訪ね、野附生を教ふ。本日「文芸」「こおとろ」の原稿を送る。   十二月一日(木) 善福寺池へ散歩。夜、肥下、小高根来る。小高根、野附の謝礼を持参す。ピノチオに案内す。   十二月二日(金) 肥下と新宿にて会ふ。野附生を教ふ。 山々には早い雪が見えてゐた その日は寒い空の日だつた その上ひどい風が吹いてゐた 桑の枝に 雀の羽に風が吹いてゐた 天幕をハタハタ風があふつて吹いてゐた 村長や知事代理や警察署長などの 演説はむなしく空に消えて行つた その日はひどい風の日であつた   十二月三日(土) 阿佐ケ谷の幸叔母を見舞ふ。肥下、赤川書店を訪問。 今年の菊の美しさ 澗に張つたる薄氷 年々同じしきたりと 思へど寒し年の暮れ それに一入[ひとしお]飯櫃の 乏しき様が気にかヽる 鳥が棲むからか林は物音がする 猿や狐も下草に尿するか 葉落ち盡くして路あらはれたり 古い神殿の屋根に枯松葉が散りしいてゐた。 海の方に降る石段の両側に 鬱金桜が蒼く咲いてゐた 石段を登つて来る少女とすれちがうた 春は人をかなしうして歌つくらすか   十二月四日(日) 正午、松本善海訪問し来る、五時まで話す。夜、中河与一氏を訪ねしに留守なり、幹子夫人と話す。「新日本」十二月号発行さる。帰宅。 2.「むらさき」二月号、十二月十五日、二枚まで。 他に立野君より来信。   十二月五日(月) 午すぎに大江紀作と御茶の水に会し、浅草、向島、銀座を案内。 マルクスかぶれのデカダン的少年にして救ひがたし。   十二月六日(火) 保田を訪ね、野附生を教ふ。十五日まで休みとなる。文化アパートのグリルで晩食を食べさしてくれたり。長尾良来り、炬燵より火事を出せしとて五円の借金を申込む。   十二月七日(水) 肥下より詩集代金十八円六十四銭を受取る。夜、新宿ヱルテルに西川英夫、肥下と三人会し、「たる平」にて呑む。巴里の桑原武夫氏より詩集受取つた旨、来信。   十二月八日(木) 宿酔気味。薬師寺衛君、松下聿好さんから来信。長尾良来り、金を返さうと云ふ。 夜、松本を訪ねしも留守。    公園で その片隅の一寸した動物園になつてゐるあたりには夜が迫つてゐた さつきまで陽のあたり 子供たちの騒いでゐた築山は もう蒼くなり誰もゐなくなつた 私は待ちくたびれて坐つてゐた 突然夕かげの檻の中から 鳥がケツケツケツケツと鳴き出した するとあちこちで呼びかはす 見上げると落ち葉した槐の梢に 夕月が眉のやうに細く白い 私は待ちくたびれて それでも坐つてゐた わたしの上に霜がおくまで と 頑くなな決心をしながら坐つてゐた 夕月はまるでわたしの眉のやうに神経質に見えた   十二月九日(金) 保田、透谷賞を貰ひし旨、新聞で見、肥下を訪ね祝日に行く。 途中赤川に会ひ、詩集の帙※出来上りしを受取る。   [※「詩集西康省」著者本用帙 中河与一題簽、小高根太郎挿画] 西康省  西康省 保田の家にて「蒙疆」と「新日本」十二月号とを受取る。それより浦和にゆき、山崎清一君を訪ね一泊す。 山崎、当時フラウを故郷に帰し大に淋しがりをる。人工流産のあと、肺浸潤を病まれゐる由。 玉を突き、うなぎを御馳走になる。   十二月十日(土) 正午、山崎に別れ、神保光太郎の家を訪ねしも不在。黄塵大に起こるを以て、止めて帰宅。 長与善郎先生より来信。中島より松下追悼号の文誉め来る。   十二月十一日(日) 肥下を訪ね、川久保を訪ねしに来客中。松本を訪ねしに不在。旗田さんのフラウついに逝去の由。 夜、さばの中毒にて苦し。    ※ 村上菊一郎氏と日夏耿之介氏を訪問。紅樓夢を訳せよと勧めらる。   十二月十二日(月) 終日臥床、四季の原稿を送る。   十二月十三日(火) 臥床、コギトの原稿、クレオパトラ十五枚を書く。   十二月十四日(水) クレオパトラ三十二枚にて完結さす。肥下来る。中河さんより満洲の雑誌に詩を送れとの速達来る。(12.)   十二月十五日(木)    温室の会話 はじめに白い花辨に紫や紅のふちどりのあるシネラリアがいひました。 「わたしたちは世界を美しくいろどるために生れて来たのよ」 次に白い花辨の底がちよつと黄色いフリージアの花がいひました。 「いヽえ、わたしたちのかほりで包むためによ」 うす紅色の西洋桜草がまたも抗議を申込みました。 「いヽえ、わたしたちは春を告げに来たのよ」 色のバナナの木やフエニツクスやゴムの木が、黙つてこの会話に耳を傾けてゐました。 僕はいい気持で室の外へ出ました。 ピユーツ、ああ、何てひどい風でせう。一面の枯野原に北風が吹いてます。 外套の襟を立てながら僕は呟きました。 「世界が美しいだの、かほりが良いだの、春が来ただのは、この枯野原につヽましい蒲公英や 菫が咲くまで信じないことにしよう」 いつてから温室のお嬢さんたちにちよつと悪いやうな気がしました。    コンドル機の教訓 (12.)[※ 掲載誌未確認 拾遺詩篇] ベルリンを発してから翼を張りつヾけてそれは飛んで来た 地中海の青い波の上を ダマスクスの廃墟の上を その翼の影は一瞬にして飛び去つた 獅子のゐるイランの沙漠 虎の吼える印度の叢林をこえ ハノイから支那海を渡り 美しい台湾島を左手に見て 飛石のやうに連なる琉球列島の上をとび移り 二つの晝と一つの夜の後 また一つの夜に出会して 尾燈と翼燈をつけて翔けて来た ゲルマンの知性と意志とが アジアに日本に一つの教訓を齎した それから親しげな明るい表情と 大きな手の握手とをもつて 日本に友情をもたらし その返報に 人形や刀剱や 美しいキモノやを贈られ 再び大きな翼を張つて出発したとき 誰が豫感したらう カヴイテ海岸の遭難を 人形や着物は波に打たれて駄目になつたらう 人々は声をのんで云はないが 心の中にさらに大きな教訓をもつた 人間の業は最高の知性と意志とを以てしても 明日を いな次の瞬間を知らない と    孝感の戦 嘉慶の帝の御代の初 丙辰の夏なりき われ罪被りて烏魯木斎より召し還されしに 湖北に白蓮教匪多く起りて 官軍しばしば敗れしと聞召し 命ずるに代りて伐つを以てしたまふ われ感激して湖北に赴き 当陽に湖広総督畢[シ+元]と会せしに 兵わづかに五百人に足らざりき 幸ひに陜西の總兵官徳光が 三千人を率ゐて来り会するにあひ 鼓励してゆくこと数日 楊鎭に至りしが民すべて逃れ去つて 街市空闃(げき)なりき 廣水橋を守りつヽ 鼓を鳴し角を吹いて誘へば 果して賊 蜂湧して攻め来り われが地の険を擁して守りしに会ひ 殺傷多くして逃れ去りき この時 賊互ひに顧みて云ふ われら官軍と戦ふことしばしばなるに 未だ声を聞いて逃れざる者あらざりき 此の番の将はこれ誰なるぞ 嗣いで予が名を聞いて歔欷して云ふ 「此の老爺果して恙[つつが]なくありしよ われが命はこヽに蹇まらん」と 次日 賊道上の北山に據る 徳光我に戦ひ請ひて休まず 我れ危みつヽ千人を与へしに   賊の火鎗驟かに発して進むことを得ず 我れ間道板に赴きしに畦間に累々と朽ちたるはこれ 保将軍の敗卒の骸なり たまたま黄金廟側に 二百人の兵が戦疲れて三々五々兵糧喫しゐたるを見出しかば これを呼集めて慰めるに善言を以てし 戦はんと云ふに すべて予が名を聞くや踴躍して戦はんと乞ひ 旗を展げ笳を鳴らして以てすヽむ 賊互ひに相践(ふ)んで伏兵至るといひ まさに潰れんとせしとき賊中の紅巾の者 大声あげて驚く勿れと云ひ 大砲を以て防がんといふ これを聞いて我軍 披靡の気配ありしかば我れ誑りて云ふ おそるヽことなし 砲は炸れてすでに用に立たぬものを と 我兵煙を突いて撃ちすヽみ 敵の営を奪ひ火を放ちしかば 火光燎々と陣を照らしたりき                    ※ 賊これより恐れて城門を守りて出でず これをも一日 大風霾(つちふ) らす日に風上より火を放ち陥し入れぬ         ※   この火三日まで止まざりしが焦骨中より賊首及骸尸を取り出でぬ 捷聞 上に至りしかば大に御感あり 軽車部尉の爵を賜りしが これより将軍 永保に永き怨みをむすびぬ   十二月十六日(金) 長尾良来り、共に玉を突く。夕方阿佐ケ谷へ行く。   十二月十七日(土) 午後文庫にゆき川久保、松本に会ふ。鈴木俊氏より月曜に履歴書持参し来るべき由ことづけあり。松本は東亜研究所の手にて、 東方文化嘱託として月俸百二十円以上にて二年間研究のことヽ決定。他に三上、須藤、石瀬、村上の四君も同じといふ。 羨しといふ気以外なる自己嫌悪を感ず。小高根、留守中二回来訪の由、明日「いのち」の編輯者に紹介しくれる爲なり。 夜肥下を訪ひ、二十二円受取る。六十六冊、うれし也。石丸某君来会。   十二月十八日(日) 午前中「王昭君の悲劇」を書くこと七枚半。午後阿佐ケ谷に船越章君を誘ひ肥下を訪ね、新宿にて「いのち」の編輯者瀧氏に小高根より紹介さる。長野も共なり。 津田左右吉批判を書けとの旨なり。 七時よりヱルテルに「学芸展望」誌の同人諸氏と会ふ、皆むだなることばかり。   十二月十九日(月) 履歴書を持参して研究室に鈴木俊氏を訪ね、吉川美都雄君に紹介さる。君は帝國書院社長守屋荒美雄氏の四男、昭和十年入学の東洋史学士なり、 今度副手となるため法政中学を止  ※すにつき後登に推されし也。同君の案内にて令兄新社長に会ひにゆく。 夜、松本、川久保を訪問。   十二月二十日(火) 午前中「王昭君」を書き了り、「ごぎやう」誌に二枚の散文詩「広東の塔」を書く。 肥下を訪ねてのち、山崎清一に新宿であひ、共に食事。日比谷劇場でキネマを見、すしを食ひ、松本、川久保と会してギンザのフエザーにゆく。 3.学芸展望 十二月二十三日 詩 4.いのち 一月七日 詩 郭沫若を書きたし。   十二月二十一日(水) 阿佐ケ谷へゆき、夜、三上氏を訪ねしに風邪にて会はず、今日の会の中止は速達にて報ぜしとのこと、冷雨中を帰る。川久保も留守中報せに来てくれし由。   十二月二十二日(木) 雨、後、晴れしゆゑに肥下を訪ね、高円寺を散歩す。夜、肥下来りて校正を持参。   十二月二十三日(金) 午前中「学芸展望」に詩を送る。肥下を訪ひコギトの詩の原稿をわたし、阿佐ケ谷にゆき、夕方より鈴木俊氏を訪ひしに留守。夜、田中氏と囲碁。   十二月二十四日(土) コギトの校正、肥下、小高根、保田。保田、このごろ僕を「気がつくやうになつた」と云つてゐる由。 七時すぎ四季の忘年会に至りしに予期になし、丸山、竹村、神保、津村、日下部の五氏のみ。 帰宅せしに平田内藏吉氏[※「歴程」編集]より稿料一円来り居る。   十二月二十五日(日) 夜、鈴木俊氏を訪ねしに、東洋史の連中(横田、赤木、吉川、阿部、中村他一氏)来り、 会の最中、横、赤二氏入営の送別の由、近角氏の葬式明日の由。吉川君よりの注意にて   ※ 「文芸春秋」見しに百田氏、[※詩集西康省を]良書とて推薦されをる。松本を訪ねれば「物語東洋史」清の部、引き受けよとのこと、羽田、京都に留まるらし。 文芸(¥4.00)、文芸文化(¥5.00) 来る。   十二月二十六日(月) 川久保と近角文常氏の葬儀にゆく。   十二月二十七日(火) 肥下を訪ぬ。   十二月二十八日(水) コギト正月号出来、保田を訪ぬ、増田晃君も来会。保田の次弟入営の由。 夜、長尾良来り球突をなす。立原道造重態の由。   十二月二十九日(木) 松本を訪ね「物語東洋史」の仕事もらひ来る。川久保にバスで会ふ。 和田先生を訪ねて後、帰郷とのこと。   十二月三十日(金) 一日家にて仕事す。   十二月三十一日(土) 夕方肥下を訪ね、帰りしに、留守中松本来りて二日に帰郷の由。 (つづく) 「日記」(「夜光雲」改題) 第十一巻 その5 昭和14年1月1日 ~ 昭和14年2月25日 田中克己 詩集「西康省」出版前後の頃 [昭和14年] 一月一日(日) 午後、小高根来り、ともに肥下、保田を年賀。中河氏より7.00円。 一月二日(月) 午後、小高根と中河与一氏を訪ねしに保田も来る。夜、小高根の家にて御馳走となる。 一月三日(火) 数男と玉をつく。夜、田中賢助氏と碁を囲む。 一月四日(水) 風邪。内閣總辞職。 一月五日(木) 風邪。川久保君来る。和田先生、「田中君は小説書きに来たのではないか」と云はれし由。平沼内閣成立。   ※ 一月六日(金) 風邪。肥下、長野来る。中河氏より十円送らる。 一月七日(土) 村上菊一郎君来訪。共に小田嶽夫氏を訪ねしに、中村地平氏も来会。 本日「いのち」に「詩人の生涯」と題して郭沫若を歌ひし詩、数十行を送る。 一月八日(日) 紀之國屋に「文芸豆年鑽」を求めにゆき、川久保を訪ぬ。相見戦車隊長は伯父なれば、戦車行進を見にゆくとて共に出づ。 肥下を訪ねれば、山岸外史より「このごろ自分のもの載らぬわけを云へ」とのハガキ来たるを見る。 一月九日(月) 吉川美都雄氏を法政[中学]に訪ね、校長(水谷吉蔵)に紹介さる。後任に推薦されしなり。 鈴木俊氏を訪ね報告し、松本、肥下を訪ねしに皆、留守。 一月十日(火) 正午、就任の挨拶にゆき、午後、文庫に和田先生を訪ね、報告す。 駒込にも報告。本日「煕朝紀政」一帙を購ふ。 一月十一日(水) はじめて授業。六時間ぶつ通して苦し。肥下を訪ねしに又留守。 一月十二日(木) 「文芸文化」三月号、「学芸展望」三月号の原稿依頼。 一月十三日(金) けふ三時間目で今週授業終る。松本、肥下を訪ね閑談す。山崎、奈良に赴任のハガキ。 一月十四日(土) 四季の原稿送る。田中氏と碁を囲む、このごろ「物語東洋史」の仕事にて忙しく、しかも未だ百枚のみ(三五○枚の予定) 一月十五日(日) 夜、俣野、長野来る。肥下を訪ね、高円寺にてのむ。長野ユダヤ人問題について話す。 一月十六日(月) 肥下を訪ぬ、小高根も来る。 一月十七日(火) 家居。長尾良来り、玉を突く。 一月十八日(水) 学校。長野、夜来り、本を借りゆく。支那経済教科書を作る由。 一月十九日(木) 学校。 一月二十日(金) 三時間授業すませ、 田を歩き研究室にゆく。鈴木俊、山本達郎、青木富太郎、旗田巍氏等あり。 吉川君の辞令を託す。喫茶室にて池沢茂に会ふ。沢田直也、西川英夫二人とも留守。 一月二十一日(土) 家居。原稿書けず。 一月二十二日(日) 午前中、赤川草夫氏来訪、家庭教師の口。午後、赤川、肥下二家を訪問。夜、善見訪問。 野本憲志、陸士に入りし由。赤川氏の紹介にて某氏来る。                       ※ 一月二十三日(月) 散髪。夜、松本善海を訪問。サラリー百十円の由。丹羽、実業界に転向といふ。「むらさき」、「いのち」の稿料来る。 ※ 一月二十四日(火) 午後、市立療養所に立原道造を見舞ふ。やせて声出ず痛々し。 二十分ほどのあひだ痰を吐くこと幾度、回復覚束なきには非ずや。帰途、肥下宅に寄る。 一月二十五日(水) 学校。放課後、神田を歩き、王士禎の「池北偶談」を購ふ。 「三田文学」来る、吾を紹介して「日本浪曼派」同人といふ。 一月二十六日(木) コギトの詩書き、学校へゆきがけに印刷屋にもち行く。放課後校正。肥、保、小高根、長の、長尾、池沢。賑やかなり。 長尾、池沢と新宿にて玉を突き、出しに中村地平、若林つや、横田文子に会ふ、川貢の満洲行送別会のあとの由。 帰宅、佐藤竹介より葉書。今、北支にありと。石中象治氏より詩集。 一月二十七日(金) 学校。睡眠不足にて弱る。博物館にゆき、小高根に会ふ。図書館にて「煕朝新語」「漂流奇談集」をよむ。 一月二十八日(土) 文庫へゆき、川久保、松本と会し、丹羽の家にて晩餐をよばる。 フラウ七ケ月の身重の由。古河に入るため中央大学を止す。僕を後任に推す由。少しも有がたからねど友の情のみうれしき。 黄色く白く薔薇はいくたび花咲いたぞ 月射す園にうしろかげ見しまヽに別れしが 流るヽ雲と逝く水とむなしきものに面影かよひ 一月二十九日(日) 「学芸展望」の詩を作る、肥下を訪ぬ。 一月三十日(月) 「学生生活」のため詩を作る。赤川氏を訪ね、肥下よりコギト受取る。 一月三十一日(火) 「文芸文化」に詩を送り、長尾と玉を突く。けふより阿佐ケ谷へゆく。 二月一日(水) 学校。五十銭を落とせり。珍しきことなり。 二月二日(木) 学校。 二月三日(金) 俸給を受取り神田を歩く。ニユースを見る。 二月四日(土) 肥下を訪ね、保田の家へゆく。 二月五日(日) 善見勉及び陸士豫科なる野本憲志来る。明治神宮に詣り、帰途、川久保を訪ぬ。夜、雪ふる。 二月六日(月) 阿佐ケ谷に来る。三國干渉につき──「日本文化時報」に詩一篇。 二月七日(火) 肥下を訪ね、赤川書店にゆく。例の話こはれたり。 二月八日(水) 放課後、中原[中也]賞銓衡にゆく。立原にやらんとのこときまる。 三好、丸山、津村、神保とわれ。 われを推薦せし人、井伏、中河、萩原、安西、竹中、吉田一穂。 二月九日(木) 放課後、吉川美都夫氏を訪問。 二月十日(金) 帰宅。夜、松下のこととて肥下宅へ集る筈なりしが寒気きびしく止す。 二月十一日(土) 紀元節。夜、草野心 の「蛙」出版記念会にゆく。谷川徹三、土方定一、田村泰次郎、春山行夫、金子光晴等を見る。 会後、萩原さんを囲み、保田、山岸、高橋新吉と話す。 二月十二日(日) 風邪気味。長野来り、肥下を訪ね、川久保より「韃靼」を借り受け、松本を訪ねしに留守。 二月十三日(月) 夜、四季の中原中也賞の会にゆく。室生、竹村、堀、神保、阪本三好、外に賞金を出す人中垣氏夫妻あり。 妻氏は中原の元のフラウなる由。明日、立原を訪ねわたすこととなる。風邪甚し。 二月十四日(火) 発熱。夜には三十八度五分に上る。 二月十五日(水) 休講。 リビヤの王者 伯林[ベルリン]に来り 鬣ふるはせつヽ 綱渡る寫眞を われ映画館に見しに みなみな笑ひ われも笑ひつヽ 目に涙あふれしは何故ならん おれは「人生」といふ乗合にのつてゐる 車体を黄色くぬつたゆれのひどいバスである たえずぶつぶつ云つてゐた酔どれは引ずり降ろされ 田舎から来た青年は車に酔つて降りた 窓からの眺めはつまらない 古い街道で乾物屋のとなりに乾物屋がある 按摩按腹とそばやとが隣あつてゐる このバスの女車掌でも美人だつたら── おれは早くあいつらのやうに降りたくなつた   × 「東洋の平和のためぞ 汝が紅き血もて購ひたる 半島を清に還せ」と 馬車駆りて公使来りぬ そのカフス その手袋は白かりき 畏くも龍顔(みおも)曇らせ おほみことのらせたまひぬ 「東洋の平和のためぞ 還し与へん」── かくわれが談りしときに生徒らの眼は燃えぬ 口惜しと思ふなるべし さはあれど 美しきことばなるかな 「東洋の平和のためぞ」 ※ なれどなが まなく出でゆき ※ わが父祖は出で征ちゆきぬ このことば ※ やがて汝等も大陸の戰(いくさ)の場(には)に ※ 大御名とともに称(とな)へむ ことばにあれば       [※推敲途中] [※昭和十四年中の著作リスト。(省略)] (第11巻終り) 「夜光雲」本文 畢 肥下恒夫 コギトメモ 澤村修治氏 『敗戦日本と浪曼派の態度』 ライトハウス開港社 2015年12月刊行 より、 147-160pにわたる 田中克己の記載のある部分について、抄出させていただきました。 昭和15年3月9日 ~ 昭和17年1月18日 昭和15年3月9日 文藝文化の清水文雄氏を訪ねるため新宿駅ホームで田中と一時半待ち合せる約束あり。出かけんとする時、田中の奥さん、史ちゃん依子ちゃんとを つれて来訪、田中学校へ出たあとから清水より今日は都合悪いので明日にしてくれと葉書来た由。田中の学校へ電話かけたが話中で待たされ、かか つたときは田中かへつたあとだつたため僕にしらせに来られた由。 とにかく新宿駅へゆく。二時十分頃田中来る。学校は休みだつたのを知らずに行つたので、浦和へ行つて来たから遅くなつた由。 明日清水氏を訪ねることにして駅を出てヱルテルへ行く。田中昨夜魚にあたつたといつて青い顔をしてゐる。ヱルテルを出てかへる。 昭和15年3月10日 一時半田中来る。一緒に祖師ケ谷に清水文雄氏を訪ふ。コギトの印刷所の紹介のため。今の印刷所が用紙入手難のため思はしくないため。 帰り途小田急電車経堂で下車、二人で小高根を訪ふ。いい具合に在宅。二時間位ゐて六時頃帰る。留守中竹内好来訪。近所の神谷某を訪ねたるならん。 夜、松壽堂印刷所の松本、「山上療養館」の印刷代金の残りを受取りに来る。 昭和15年3月11日 三時前神田駅で田中と待合せ、東陽印刷所へ行く。コギトの印刷費見積り頼んでかへる。田中と一緒にぐろりあそさえてへ行く。山田新之輔尊父病気のため帰省中の由。 レインボーグリルへ入る。木山捷平、若林つやゐる。二人こちらのテーブルへ移つて来て話す。五時少し過ぎ別れて田中とつくばへ行く。分甲文乙のクラス会あるなり。 集まるもの、長野、俣野、鎌田、竹内、室、加藤、久保の九人。長野、超国家的巨大財閥論を語り、日本の即時撒兵説を主張す。十時過散会。帰途降雨しきり。 昭和15年3月13日 (前略)田中午過ぎ一寸来て帰る。一緒に出て田中、東陽印刷所見積書催促の電話をかける。 (昭和15年3月14日) 東陽印刷所から見積書来る。大へん高い。高くいつて断るつもりらしい。田中を訪ねて松壽堂印刷所を聞いてみ、 そこが駄目なら矢張り宮島印刷所にすることにする。 昭和15年3月23日 (午後6時から第2回詩人懇話会賞授賞式が産業組合中央会館講堂で催された。顔を出した肥下はそこで田中、小高根などコギトの仲間に会う。 受賞者は三好達治で、島崎藤村から商品が渡された。続いて萩原朔太郎、野口米次郎の講演があり、さらに詩の朗読がおこなわれる。 閉会後、肥下たちコギトの面々は三好達治に連れられて銀座裏の料理店へ移った。) 澤村氏の記述より 昭和15年3月29日 (『コギト』四月号の校了日であった。肥下、田中、山田新之輔が校了時メンバーであり、夕方には作業が済んだとある。) 澤村氏の記述より 昭和15年4月13日 (山岸外史『人間キリスト記』『芥川龍之介』の出版記念会(於・日比谷公園松本楼)にコギト同人保田、田中、山田と共に参会してゐる。) 澤村氏の記述より 昭和15年4月16日 (コギトの在京同人が新宿に集まった。肥下のほか、保田、田中、山田、小高根、船越章が出席者であった。ほかに長野敏一、船越友人の五味が加わっている。『コギト』百号記念号をどうするかが話題になった。「同人各自四十枚位書くといふ計画」が話された。) 澤村氏の記述より (コギト関係者との交流はさかんで、肥下恒夫は五月もほぼ連日、彼らの誰かと会っており、とりわけ田中克己、保田與重郎の名は「メモ」で頻出している。) 澤村氏の記述より 昭和15年7月11日 (同人の伊藤佐喜雄が予告なく上京する。同日夜は新宿高野で宇治にいた小高根二郎の「上京の会」が開かれることになっており、肥下は伊藤と連れ立ち参加した。 ほかの参加者は保田、田中、山田、長野、池澤茂、小高根太郎で計九人である。) 澤村氏の記述より 昭和15年8月30日 (同人の池 澤から召集されたとの報を受け、翌31日にコギト同人は急遽送別会を開いた。肥下のほか保田、田中、山田、小高根が集まった。) 澤村氏の記述より 昭和15年9月8日 (長尾良が肥下を訪問してきた。飛行学校へ配属され、その最初の外出日であった。「少し痩せてゐる」と肥下は「メモ」に点記している。 この日は田中、山 田も来たが、彼らが帰ったあと肥下は印刷所へ行っている。夜には田中克己詩集『大陸遠望』の校正ゲラを読んだ。 「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」と、好印象を記している。) 澤村氏の記述より (長野敏一の渡支出帆の日取りは9月21日に決まった。その前に会っておきたいと長野から意向を伝えられ、11日夜7時、新宿で待ち合わせることになった。保田、田中も参加する。戦場へ赴くのだからこれで最後かもしれない。深夜11時近くまで4人は話し込んでいる。)  澤村氏の記述より 昭和16年6月22日 (田中克己を留守中に訪ねた帰途、「阿佐谷六丁目の途上でヒットラー対ソ宣戦布告のラジオニュースを聞く」) 澤村氏の記述より 昭和16年10月11日 保田を訪ふ。しばらくして田中来る。コギトにつき相談あり。 澤村氏の記述より 昭和17年1月18日 日 晴 田中徴用をうけ今夕大阪へ向け出発。正午より阿佐ケ谷ピノチオで壮行会を開く。  大君のみことかしこみうた人のいまかいで立ついにしへのごと 【回顧】 スマトラ記 昭和17年回想                                                           「果樹園」昭和43年11月~昭和46年11月 (153号~189号) 連載 わたしはばかで、よく決死の覚悟をする。そのくせ妙に楽天的で、よい景色や人情のよいところでは、また来るという望みを抱いて、いいかげんにすましてしまふ。 スマ卜ラがその一つで、決死の覚悟でゆき、も一度ゆくつもりで帰って来た。しかし二十五年たったいま、わたしはもう老いて貧しく、そのうへ他にいろいろの用があって、 スマトラなどへは行けないことがわかったので、この記事を書かしてもらふこととした。 昭和17年5月25日、わたしはスマトラへゆくことにきまってゐて、決死の覚悟をしてゐた。証拠が今だにあって、一冊のノート(※未確認)の表紙裏に、 「わがスマトラにたたむ日に、この一巻を歌の友西沢大人に託す。わが帰らざる日は矢加部大人、こをふるさとに届けたまへかし」 と記してゐる。このノートはわたしのシンガポールの歌集で、最後の歌は 5月19日 鳳凰木の梢にのこる夕映えをアラブ童をつれつつぞ見る といふのである。毎日新聞の支局に紙幣交換をたのみにいって、 「朔太郎先生、十一日逝去」の記事を見たのは、このあとのことであらう。朔太郎先生の訃報でわたしは決死の覚悟をさらに強めたことを覚えてゐる。 スマトラ行のボンボン蒸気に乗り込んだのは与謝野晶子さんの亡くなられた29日であったらうか。第十〇宇和島丸といふ船で、同行は朝日新聞記者だった三木上等兵と、これも新聞記者だった永田軍属の二人であった。 乗船の手続は三木君がしてくれ、その小さいのに驚いたが、あとの祭である。マラッカ海峡に敵潜水鑑が出没するといふので、出帆は日が暮れてからであった。 二十五年たったのでよく覚えてないが、一日半かかって無事にスマトラのブラワンデリー港に着いた。途中、永田とわたしには飯が出るが、三木君は兵なので飯上げといって、 自分で炊事室までとりにゆかねばならない。三木君は慶応英文科出身の兵隊なので、それを面倒がって飯の二回や三回は食はなくても、といふ顔で寝たままでゐる、 わたしは心配して船員に金をわたし特別に持って来てもらうことにした。わたしはこんな風に他人のことを構ふ悪いくせがあり、いつも人からうるさがられるのである。 港には日本軍の爆撃のあとがあり、わたしたちの船一隻が着いただけであったが、ふしぎなことには、もう出迎へのトラックが来てゐた。 宣伝班のメダン支部の車で、軍曹以下数人が乗ってゐた。わたしたちは挨拶もそこそこにしてこれに乗り、まっすぐに南に向った。道はよいが両側は林で何もない、 三十分も走ったらうか、やっと家が見え出し、シンガポールでなじみのまっ赤なブーゲンヴィレアの花の咲いた前庭をもつ建物を見ると、 メダンはサイゴンそっくりのきれいな市だと思った。やがて宣伝班支部のゐる小さい家に入り、支部長の中尉に挨拶したあと、うながされて、宮部隊本部へ申告にいくこととなった。 宮部隊といふのは近衛師団のことで、広島、久留米の二師団とともにマレー戦線を来て、北スマトラに移駐したのだといふことである。わたしは、 身分上はこの師団司令部に配属されたので、その挨拶をしにいくのである。三木上等兵は途中で、 「僕は兵隊だし、田中さんは将校待遇だから、申告はむつかしいことになるが、まあ僕がやりませう」 といって、その通りしてくれた。 「申告いたします、陸軍上等兵三木八郎、陸軍徴員田中克己、……」 という順にやることになったのである。その通りの申告を宮部隊の参謀長の大佐にしたら、大佐はいたって丁寧に 「応召前の職業は」 とたづねられた。三木君は「朝日新聞記者であります」といひ、永田も記者だったことをいった。わたしは 「文士であります」 と答へて、あとで三木上等兵に笑はれた。「わたしは文士」というほど有名でないといふのである。しかし詩人だの、研究所員だの答へる気がしなかったのは事実で、 わたしは軍部が手数をかけて徴用するほど有名な北川冬彦、大木惇夫、神保光太郎と同じくらゐ有名な詩人、すなはち文士だと思ってゐたのである。わたしはこの時、三十一歳で、 高慢で、空ゐばりだったと思う。 このあと参謀部の将校室にも申告した。事務をとってゐた若い将枚は、すでにわたしの履歴を読んでゐたと見て、わたしに質問した。 「田中さん、高等学校はどこですか」。 「大阪高校です」 と答へると、たたみこんで更に「何回ですか」と問ふ。 「七回です」と答へると、この将校は 「わたしは十一回です」といって、みるみる敬愛の情を示した。旧制では同じ高校といふのはふしぎな位の親愛力を示し、しかも上級の方が偉いのである。  2 スマトラは世界で五番目の大きい島で、日本の本州の二倍に近い面積をもってゐる。わたしの着いたのはその東海岸州の首府メダンで、人口8万ほど、 スマトラではパレンバンに次ぐ町である。市街はオランダ人の住むところと中国人の町とに分れてゐて、わたしの部隊のあるのは、オランダ人の旧住家をとりあげた一画であり、 総督のゐた邸も近くにあって、そこには鹿が庭に放し飼ひされてゐる。シンガポールより住みよささうだと思ったのは、着いた直後のことだったが、わたしは早々に高熱を出した。 体温計ではかると41度を越えてゐた。デング熱かマラリアかとも思ったが、病名より高熱でうは言をいひはしないかと恐れた。これは正気でいったつもりだが、永田軍属に 「おれが死んだらカカアによろしく」 といったのは、自分でおぼえてゐる。永田はおどろいて、支部長の中尉に話し、中尉はすぐ平井忠治一等兵をつけて、軍病院に入院さしてくれた。軍医殿がすぐ注射をし、 平井一等兵が徹夜で看病してくれると、翌朝もう熱は35度台に下った。軍医殿(富久少尉といふ方だった)は下りすぎたと心配された様子だったが、これがわたしの平熱であることは、 わたし自身もそのころは知らなかった。 そんなわけで入院をつづけてゐる中に、面会に来た人がある。戦地で珍らしい背広で、気さくに自己紹介をして田中館秀三と仰しゃった。苗字が珍らしいので、わたしは学界の元老田中館愛橘傅士の後嗣とすぐ承知した。実はシンガポールで、ラッフルズ博物館へ図書を見たいと思って入館を申しこむと、田中館さんの指図で、軍命令により当分、軍人軍属の入館が禁止されてゐた。そんなわけでこの方がここに現はれたのは、別に意外とも思はなかったが、わたしが平熱でのうのうと入院してゐるのに気を悪くされたか、教授はわたしの目を見つめて 「田中さん、軍人軍属、ことに軍属がぼやっとしてゐてはいけませんよ。大洋丸は南方に必要な軍属を沢山のせて出港したが、軍属たちが行く先をもらしたので敵潜水艦に撃沈されましたよ。」  と叱りおへると出てゆかれた。なに今から考へると、軍の暗号はぬすまれてゐるし、現にわたしの乗った緑丸といふ、図体ばかり大きいが速度ののろい船などは門司を出てから、ずっと潜水檻にあとをつけまはされ、わたしも内心、アメリカは中々やるなと思ってゐた。 不意打ち戦争のはじめの戦果に慢心したのだといふかもしれないが、わたしはもとより日本中、あまりにアメリカを知らなすぎたのだ。 さて田中館教授のお叱りを受けてちぢこまってゐるわたしに、院長命令が伝へられた。 「服装を正して出て来い」 ということである。わたしはシンガポール以来着用してゐる半袖、膝までのカーキ服で院長室へ行った。他にも将校、下士官、兵がゐて、用は恩賜の御菓の下達であった。わたしはこの御菓をいただいて病室に帰り、ベッドの頭にそれを供へたあと、廊下へ出て嗚咽した。ありがたさと自分の働きの足りないのに対する申しわけなさとがその理由であった。 そんなことで男が泣くのかといふ人は、オリンピックで勝って泣き、負けて泣く各国選手の気持もわからないだらう。しかしわたしはそのすぐあと退院を許されると、御菓をやはり室の棚にかざり、その一部を通訳のメナンカバウ人に与へて、ありがたさを説いた。 この通訳は支部長の気に入りで、賢い顔をし、英語が話せるといふので雇はれてゐる青年であるが、わたしに反問した。 「材料は何ですか」。 日本のハクセンコウをわたしは何と説明したか、彼は不思議さうな顔をしてまた聞いた。 「材料がそんなで、民間でも作れるものなら、ありがたいのはどういふわけですか。わたしは天皇陛下がお作りになったのならともかく、あまりありがたいとは思ひませんがね。」 わたしは与へた菓子をとりかへして、どうしたらこの異民族に教へられるだらうかと煩悶した。解決は南方にゐたあひだ、つひに出なかったが、 このごろ教会で聖餐式に加はってパンと葡萄酒とをいただいてゐるので、イスラム教徒にはあるひは教へやうがあったのではないかと思ふ。 追記すると田中館教授は帰還後、東北大教授をへて、法政大学教授におなりになって、昭和26年1月29日なくなられた。明治17年生まれで64才だったといふから、わたしの父とほぼ同じ年だったが、この時は四十歳代の若さに見えた。なお父上の愛橘博士はそのあと27年5月21日に亡くなられた。95歳だったといふから学徳ともにふさはしい長寿だったわけである。近ごろ田中楠弥太教授に承はると、 「秀三教授はご養子で、仲人は父(正平博士)がいたしました」とのことである。ふしぎな御緑があったのである。 メナンカバウ人といふのはあとでわかったことだが、スマトラの民族のうち最も人口の多い、イスラム教を信じる部族である。  3 わたしの入院する前の宣伝班支部はメダンのケサワン通りが終り、黒く防空ぬりをしたアフロスと呼ばれるスマトラ東海岸州ゴム栽培協会の角を曲り、 その西側のフォール街といふのにあったが、林の中で暗くせまいからであらう、デリ川をわたり、メダン州理事官邸の西の大砲通(カノーネン)といふのに移った。 もとの持主はメダン市第一の本屋だった由である。支部長の中尉が一番いい室をとったのは当然だが、わたしは何となく入口の左側の小さい室を選んで、メダンにゐる間はここでとほした。 支部長から師団本部の命令といふので、わたしにはうれしい任務が与へられた。すなはちスマトラの民族についての概況を書けといふことである。シンガポールを出る直前、わたしが民族研究所の岡正雄氏に会って、 「スマトラへゆくなら民族を研究しろ。参考書はロープとハイネゲルデルンの共著「スマトラの民族」をよみ、あとは実地で研究するんだね」 との仰せだったので、わたしがラッフルズ博物館へ行って入場閲覧をことわられたことは前述した。今度の宿舎は本屋だったといふので、裏の小屋に積み上げてある書類を全部ひっくりかへしたが、多くはオランダ語の料理や裁縫などの家庭向きの本と小説がちょっとで、わたしは失望落胆した。しかし命令にそむくことは許されないので、わたしはアフロスへ行って見た。偶然にもここには数人のオランダ人技師がゐて、留用されてゐた(大部分は男女別々の隔離所に入れられてゐたのである)。その一人(名は忘れた)は承知したといってわたしにコーヒーを飲まし、一週間したら英語で書いてわたすといふ。わたしは喜んで礼をいひ、あとは市中を散歩して時間をすごした。 めぬきの通りは前にのべたケサワン通りで市に入った時、すぐ目についたきれいな建物はホテル・ド・ブールである。わたしはここへ悠然と入って行って午食を注文した。将官の襟章をつけた軍人が一人ゐただけで、客は他にない。昼食何ギルダーだったか、わたしはボーイから丁重に扱はれて午食をすまし、チップを払ったあと、二度とゆかないことにした。オランダ風の料理が口に合はなかったせいもあるが、軍人軍属は軍規で指定の所以外では飲食してはならないのだが、お客のないのは「オフ・リミット(※立入禁止)」(これは戦後覚へたことばである)のせいではないかと恐れたからである。 原住民との接触も同じく軍規で禁止されてゐたのであらうが、ホテル・ド・ブールのすじ向ひには立派な邸があって、門には「瑪腰第」の額をかかげ、また「欽差考察南洋各島商務大臣」の傍額もある。 わたしはおそるおそる傍門を押して、内に入り、名刺を出して主人に面会を乞うた。主人は午寝中のやうだったがわたしは快くその私室に通された。張歩善、号を公善といふ老主人は、言葉の通じないわたしをにこやかに迎へて、勲三等の日本の勲章を見せた。明治天皇に謁して賜はったといふので、北清事変のあと杉山書記生虐殺のわびに清国が特使を派した時の随員だったのだらう。「瑪腰」といふのはオランダ語のマヨール、すなわち陸軍少佐、華僑の頭目に与へられた官位で、清国の官は郵伝部参議上行走広西試用道だった由である。大富豪としてこの官を買ったのに相違ない。あとで令息の張世良といふのに紹介されたが、これはオクスフォードに留学したとかで英語が通じた。わたしは非礼をわびて匆々に退去し、あとでシンガポールで買った本を二部持参し、どちらでも好きな方を、といふと、紀昀の「烏魯木斉(※ウルムチ)雑詩」を快く選びとってくれた。紀昀は進士に首席で及第したが、罪を獲えて新疆省に流されている間にこの詩集を出したのである。楊老人はそれを知ってゐたかどうか、も一つの本の名は忘れたが、詩集を選んだところでいよいよこの老人を好いたと覚えている。 さてオランダ人の「スマトラ民族略史」は出来上った。わたしは礼に何ギルダーかをわたし、それを翻訳して、師団本部に呈出した。スマトラの民族は十余り、うち通訳をしてゐるミナンカバウ人が最も多くて150万、次は支部でボーイに使ってゐるバタック人が100万。最も熱心なイスラム教徒でオランダ人の討伐をもしばしば退けた北部のアチェー人がこれについで65万人と、ロープの本にあるが、その通りに書いてあったと思ふ。ランポン人、ガヨ人、アラス人と東部の諸島の住民、それに少数のこってゐるヴェダ系の諸民族などものこらず書いた。あとはその実測がのこるだけとなった。(実はあとで気ついたが日常に接触するのはジャバからの移民と華僑とであるが、そのことは書かなかったと思ふ。) 大砲通りの隣家は同盟通信の支局、その隣りは毎日新聞支局、朝日の支局はちょっと離れたマンガラーンにあったと思ふが、わたしはどの支局の人たちにも親切にしてもらった中で、毎日新聞の篠原局長(故人)と桐山眞君の二人と妙にうまがあって、あとでアチェー族やガヨ族の住み家につれて行ってもらった。  4 年末なんとなくせかせかした気でこれを書く。ふだんから飛躍のある筆だといふのが愚弟の批評であるが、一層ひどい文章になるだらうと思ふ。 前に書き落したが、支部移転の直後に大失敗をした。以前の建物にはあったかどうか、師団司令部の命令で、通信隊の兵隊が来て電話をつけてくれた。 わたしは永田軍属と二人でその作業を見てゐて、すんだあとも「ご苦労様」ともいはずにゐた。 やがて司令部の参課室から電話がかかった。支部長の中尉を呼び出してであるが、支部長の顔色はたちまち変った。通信兵の作業中によこにゐた軍属らしいのが、 冷笑し嘲罵をしたといふのである。わたしと永田(年末なんとなしに電話帳を繰ってゐると、25年間音信不通の彼も東京に住んでゐるといふことがわかった)のどちらかを指してゐるにちがひない。わたしは咄嗟に 「わたしが行きます」と言って師団本部へゆき、 「何かお気にさはることを言ったかもしれませんが、冷笑したり嘲ったりする気は毛頭ございませんでした」 と託びた。呼び出した参謀部の将校はわたしの後輩で、 「なんだあなただったのか」と勘弁してくれた。 わたしが文章や言語で他人を怒らしたり不愉快にするくせのあることは、日本やシンガポールでも承知してゐたが、またやったのである。このくせは今もわたしにあることを承知してゐる。 ただし救ひやうのない悪癖であることは、昭和20年に華北で兵になった時も、この「くち」のせいで撲られながら、いまだに癒らないことでわからう。 言はず書かねばよいことは知ってゐるのだが――。 スマトラの雑記帳には、先づスマトラの気候をどこかから写して来て、メダンの雨量は一、二、三月と六、七、八月とが少いことを記してゐる。 いはゆる乾期にそろそろ入ったのである。わたしは毎日、出歩いてゐる。サドと呼ばれる馬車に乗るか、歩いてで、6月20日の日付で 「このごろ昼はケサワンのチップトップへ、夜は大東亜の向ひの中国人の家へ散歩にゆくのが習ひ」だと書いてゐる。 ケサワンは前にも書いたオランダ人街の一番賑やかな通りだが、チップトップは喫茶店で、7月8日には閉店と記し、閉店のわけは主人に問ふと、 「お客はあなた一人だから」といふことであった。 将兵は軍規によって指定された店(昭和21年以後のオフ・リミットに当る)以外にゆくことを禁じられてゐるのをわたしは知らなかったのである。 大東亜といふのが、その指定の喫茶店でいつも兵で満ちてゐたが、わたしは却って行きづらかった。 将校用の偕行社といふクラブが開かれたのはも少しあとか、わたしは多分あの後輩の少尉にさそわれてその自転車のうしろに乗せてもらひ(わたしは自転車に乗れないのだ)、 行って玉を撞いた。35か40といふ最低の点であったが、撞いてゐる中に、イギリスの国歌が聞えた。わたしはすぐそれに気づいて少尉に云った時にはもう終ってゐた。 オーストラリアからのラジオ放送ででもあったらうか。 わたしはラジオの聞えた室へ行って、ジョンゴス(ボーイのこと)をなじったが、答は懸命で「そんなもの聞いたことはない」一点張りだったので、わたしが我を折るよりしかたなかった。 (わたしは今でも聞きぞこなひでないと思ってゐる)。役に立たない軍属であるが、わたしの属してゐる宣伝班といふのは、かういふたぐひの仕事をするのだと思ってゐた。 やはり六月の末にまた仕事があった。東海岸州の土侯を集めて、新聞記者が会見し、記事をとる。ついてはお前も行けといふことであった。 わたしは半袖半ズボンのカーキ服に軍刀を指して、朝日、毎日、時事通信の記者たちと東海岸州の知事官邸に行った。 定刻にあらはれたのは、スルタン、ラジャの称号をもつ東海岸州の土侯またはその子で、みな黄金の短刀を佩び、顔立ちも貴族的であった。土侯の地位や収入についての質問のあと 「大東亜戦争の意義についてどう考へるか」 といふ質問に、一等賢明な顔をした土侯が答へた。 「われわれはアジアがアジア人の手によって治められることを希望し、大東亜戦争の意義もそこにあると思ってゐる」 といふことであった。 「日本国民に訴へることがあるか」と聞かれると、デリーのスルタンの子が答へた。 「出来るだけ教育をして貰ひたいから、宜い教師を送ってもらひたい」。 わたしは日本で教師をしてゐた時の経験を思ひ出して嘆息した(今だにわたしは教育は苦手である)。 土侯たちは自分の領民の無智をいって、これはオランダ人が教育をしなかったからだといふのだった。蘭領印度には一つの大学もなく、オランダ語もなるベく教へず、 従って州の長官、分州の長官、警察署長などはみなオランダ人だったといふのである。 わたしはこの慣習が改まるのには時間がかかるだらうと嘆息した。この嘆息は日本が負けてインドネシアが独立国となる日を予知しなかったからに相違ない。 愚かなことはわたしの方がひどかったわけだが、インドネシア共和国でわたしの見たこの土侯たちがいまどうしてゐるのかは誰も教へてくれない。  5 話は前後するが、わたしは宣伝班支部の軍属四人のうち、月給が最高であった。理由はわたしが多分、最年長の上、東京帝大を出てゐたからである。 東大紛争のまだすっきりしない今、このエリート意識と待遇とにはわたし自身も考へることが多い。いくら貰ってゐたかといふと、戦地加俸を合めて410円であった。 今のいくらになるか比較の方法もない。うろ覚えでは大尉より上、少佐より下のところだった。 支部の食卓にはじめて坐った時、最高の席についた支部長は下手な英語で現地人でただ一人この食卓につくことを許されてゐたメナンカバウの通訳にいった。 「月給では田中の方が上だが、わたしがここの長なのだよ」と。 なぜそんなことをいはねばならなかったか、わたしにはわからなかったが、わたしは「その通り」と神眇な顔をしてゐた。 軍人では軍曹が一人ゐて、これがわたしのま向ひの席につく。この軍曹はわたしのメダン着任すぐ、わたしに 「兵隊で悪いやつがゐたらわたしにいって下さい、ヒドイめに会はせてやります」 と好意的にいってくれた。その兵隊は三木上等兵のほか、石川仁太郎上等兵と平井忠治一等兵、谷村泉一等兵であった。三木上等兵はちがふが、あとはなぜ宣伝班に廻されたかわけのわからない良い兵隊で、ひっそりとしてゐる。 二人の一等兵はおほむね炊事に廻ってゐたやうだが、その補助としてバタク族の青年が二人ゐて、一人だけはアブと名を覚えてゐる。そのほかにいつのまにかジャバ人の美人がゐて、 わたしはこれを支部長(口ひげをはやしてゐた)の専属だと察して、ろくに口もきかなかった。 もう一人、洗濯、掃除の女中が雇はれて来て、何族だったか。日本人の妻で子供を二人こさえたが、戦争直前に追放された夫の帰りを待ってゐるので雇ったといふことだった。 このお掃除さんにわたしはある日、大分上手になったインドネシア語で笑談をいった。自分を指して 「トヮン・チャンテー(美男の旦那)、トヮン・マニス(すばらしい且那)、トヮン・バグス(善良な旦那)」といったのである。 彼女はにっこりして、このことばをくりかへし、その後はわたしの室へやってくると、挨拶にこのことばをいうやうになった。 それはよかったが、いつからかわたしは彼女がわたしの室に花瓶をもって来て、毎朝、花を生けてくれてゐるのに気がついた。気がつくと、 わたしはすぐ、「花は好かない」と叱りつけ、彼女は悲しい顔をして、笑談をいはなくなり、次に気がつくと、軍曹の室へ花をもってゆくやうになった様子であった。 この好意はむくはれたか、わたしの埸合と同じくむくはれなかったか―。わたしは全然知ってゐない。(わたしが支部長になったころには、彼女はもうゐなくなってゐた)。 も一つ話す。支部の隣りは同盟支社でよく遊びに行ったが、さらによく遊びに行ったのはその隣りの毎日支局で、故篠原支局長と桐山眞さんの二人と妙に気が合ったからだが、 この支局に阿美といふかあいい華僑のお茶汲みがゐた。これが美人の上にとても賢い。わたしのインドネシア語で十分に意が通じるし、二氏の留守の時でも、お茶を飲ませてくれた。 この阿美がある日、わたしに女友達を紹介するからと日時を指定した。わたしは笑談かたがた「日本人を友だちにもちたい中国人のむすめさん」とデートした。 もとより阿美立会ひの上であるが、一目見てわたしは絶望した。阿美のやうに賢くなく、顔つきから見てインドネシアと華僑のあいの子で、わたしの好かないタイプだったからである。 先に述べたわたしの月給410円はシンガポールを出る直前、宣伝班の主計下士官にもみ手をして六月分を前借りしたが、その際たのんだ給与通報は一向に来ない。 近衛師団では、この書類が来なければ一文も払へないことになってゐるので、わたしはだんだん困って来たが、タバコ代だけはシンガポールへ帰るまで何とかしてゐた(毎日支局で30円借りたが返したかどうか)。 もとより金のかかる女友達どころではなかったのである。 ついでにも一つ話すと、六月から七月かに師団の慰安所が出来た。慰安所といふのは、外地へ行った兵隊ほとんどが知ってゐて話さない軍関係の設備である。 日清、日露、第一次世界大戦の時にあったかどうか、日中事変で現地人の女性を将兵が犯すのを防ぐために出来た売春施設である。 メダン市の東のはずれだったかに出来てゐるといふので、ある夜わたしは行って見た。浴衣を着た女性がゐたが、訊ねると半島の女性で、しかもわたしに偶然当った女はわたしを軍属と知ると、 「南方の軍関係の仕事をさすとの募集に応じて来て驚いた。わたしはちがふがこの中の二人は処女で、お国のためになり、お金がもうかると勇んで応募したのだ」 といふ。その「わたし」は学校へゆく子供があるが、こんな恥かしい仕事をしてゐるとはゆめにも云へないから、便りもしないといふ。わたしはその子の名と住所とを教へてもらって、 「あなたのお母さんは南方(スマトラとかメダンとか書いてはいけない)へ安着し、お国のために働いていらっしゃるから、坊やもしっかり勉強して下さい」 とハガキを書き、東京の妻へのハガキと同じく「投函」、といひたいが、実は軍曹の印をもらって、師団の郵便係りに廻した。 このハガキが着いたかどうか、わたしが二度と会ひにゆかなかったこの女性が子供と再会したかどうか、わたしにはわからない。 戦争は多くの罪を造るが、ここでもわたしに無力無恥卑怯といふ罪を犯させたのである。 つひでにいふと、この施設は午後三時?までは兵、そのあと下士官、夜は将校ならびに将校待遇に開放されてゐて、相手はかはるが女は同じ、ただし売春価格は兵が安く、 将校が高いことになってゐた。バカにもほどがあるではないか。 6 六月のおはりに毎日新聞の篠原さんから、アチェー州へ取材にゆくが同行しないか、との申し出があった。わたしは仕事がなくて困ってゐたうへ、 スマトラ民族のうち人口で三番目、熱心なイスラム教徒で、オランダ人と三十年間戦ったといふこの民族の実態が見られるといふので大喜びであった。 ただし支部長を経て近衛師団の許可がなければといふと篠原さんはさっそく渡りをつけてくれたと見え、支部長から出張命令が出た。 6月28日、わたしは刀を佩びて毎日支局の自動車に乗った。篠原、桐山二氏の護衛兼通訳といふのが交換条件で、わたしは役には立たないが、刀をもって出たのである。 出発は夕方だったか、メダンから22キロのビンジェイでは熱帯につきものの、あっといふ間の日暮となり、また22キロのパンガラン、ブランデン市を通った時はまっ暗であった。 しかし赤々と灯がついてゐるのは、石油工場で、鉄条網を張りめぐらし、歩哨がついてゐる。 ここから出る石油はそのままで自動車につかえ、航空機用にも役立つ純度の高いものだが、噴き出る量が多いのに、日本からの油槽船の来かたが少いので、海へ流してゐるといふ。 なるほど油槽もあまり見えなかった。ただしこの説明は誰から聞いたのか、篠原氏は記事にならないと早々にここを去って北へ向った。 わたしのノートにはこの夜、アチェー族の四酋長と篠原氏との会見があったことをしるし、これは記事になって内地の新聞にのり、 家族たちも「田中克己軍属が同席し」とある箇所で元気なのを知った由である。しかし場所はノートに記さず、会合した四酋長の名のみしるしている。 日本軍政下に郡長、村長の称を与へられた四酋長はみなトク、すなはちインドネシア語で「わがきみ」と呼ばれる東海岸州のラジャ(王)と匹敵する称号をもってゐた。 みな得々と日本協力を約し、特に日本軍の占領以前にオランダ人をつかまへてこれを日本軍に引き渡したことを誇る様子があった。 通訳はわたしに出来ずアチェー語の出来る軍属の人がしてくれた。終戦のころアチェー族は反乱を起し、近衛師団の討伐に先だって、この通訳は殺された由であるが、 散会のとき、アチェー族の自負の強すぎるのを愁へておいでだった。すでにこの頃から覚悟をきめておられたのだらうか。駒井通訳といひ、名は忘れたが、哀惜にたへない。 この夜の泊りは会見の行はれたロスマウエだったらう。こことシグリ、ビンジェー、バンビの四郡村の酋長が集まり、ロスマウエが丁度その中間になってゐるので、 かく推理するのだが、毎日新聞の古いのが見られれば確定する。わたしは宿屋(中国飯店)の主人にどなりつけて用意させ、ベッドに入ったがほとんど眠れなかった。 これは寝ぎはにどなったせいである。 しかし翌日わたしはいひつけてパンと卵焼きをもって来させ、自動車に乗り込んだ。咋日は夜なので気がつかなかったが、自動車の速度は時速100キロどころか、120、140となる。 平坦な舗装路だが危いと、わたしはショピール(ジャバ人?)にたびたび注意して100キロを守らせた。それでも速いので、目に見えるところ前方を横切るアチェー人はみなかけ足であった。 そんなわけですぐアチェー州の首府コタラジャに着いた。記者二人はウェ島のサバン軍港へ出かけたが、わたしは洋風のホテルで昼寝さしてもらった。 やがて二人は帰って来て軍港は紀事にならなかったといふ。元気づいたわたしは二人にたのんでアチェー族の民族学調査に同行してくれるやうにした。 案内にはコウラジャの郡長トク・ニャアレフの甥のトク・ハナフィアがついてくれた。トクは前にのベたやうに(ラジャ)なのである。 わたしのハナフィアへの注文はアチェー族の富豪と貧民それぞれの住宅に案内してくれといふことだった。この注文どほり、まづ金持の家へ案内された。 家の名を問ふと、ハナフィアはトク・ハッサンの父の家といひ、ついでハッサンの姉妹(シスター)の家といひなほした。あとの方が正しいので、アチェー族は結婚しても、 女子は両親の家にとどまって、子供もここで育て、夫は妻の家へ訪ねて来る。日本の平安時代と同じく通ひであって、かれらの厳しく守るイスラム教徒とは一致しないが、 かれらはこれだけは頑守してゐるのである。 この家のことをのべる前に、わたしは鴎外先生と同じ「発見」をした。ただし鼻糞ほじくりではない。わたしどもが自動車でゆく途中、尿意を催ほすと、 もとより車外に出て立小便をする。この風習は日本人の悪習で、スマトラにゐた間ももとより見たことがないが、路傍で向ふむきになって膝まづくやうな格好をしてゐる男たちを二、三見かけた。 そのあとが濡れてゐるのである。これはイスラム法で、はねがかかるといけないといふので、日本の女と同じ流儀でやる、といふのがショピールの説明であった。 このショピールはのちには尊敬する日本人のまねをして、立小便をして得意だったが、今どうしてゐるだらうか。 何日も命を預け、わたしのインドネシア語がよく通じたのでなつかしく思ふ。閑話休題、先をいそぐことにしよう。  7 ハッサンの妹の家へ、ハナフィアの案内で入ってゆく。入口の門は石川五右衛門の隠れてゐた門そっくりで、南の右側に男専用のベランダがある。 みな正倉院と同じく高床式である。ベランダのすぐよこに設備があって便所である。芝生を南にゆくと突当りに建物があり、これがおも家。庇のベランダ(シラサ)には左右に階段があり(正面にはない)、 ハナフィアはつかつか登って、交渉をすましたらしく、「入ってよい」といひ案内して見せる。 ベランダにもべッドが一つあり、奥に東西に拡がったスラマと呼ばれる室は何だか使用法がわからなくて、また左隅にベッドが一つ、階段を登って寝室(ジュラヤ)に入る。 寝室は三つならんでゐて、それぞれ廊下で隔たっている。また階段を上るとスラモ・リクルといひ、女部屋だといふ。ここには何も見当たらない。 ここから廊下で連ってゐる別棟へ階段を下りてまた登ると、厨があり、その左は召使の室、右は物置だときいたが、厨にゐた主婦らしい人はわれわれ一行に目もくれず、物もいはない。 ハナフィアに合図してシラサに帰ると、ベッドに腰かけた男がゐて、トングー・イスカンダーといった。「アレクサンダーの君」といふ名をもつこの男に対し、わたしは甚だ狼狽した。 「留守に無断で」と思ったからであるが、この先ほどの主婦の夫は何ら動ぜず、コタラジャの電話局員であるといった。 勤めがおはったので「通って来た」のだと気がつくには大分かかった。ハナフィアが「女主人にとついで来た人だ」と説明したからである。 母方居住制は頭でわかってゐても、実際はわたしたち父方居住制には理解しにくいものなのである。 ハナフィアは次に約束どほり、最も貧しいアチェー人の家につれて行ってくれた。前の家が柱49本だったのに対し、これは16本でいふまでもなく小さい。 垣を入ってゆくと左側に水浴(マンデー)場があり、右側に便所があり、すぐよこを小川が流れてゐる。文字通リのカワヤである。 階段を上るとすぐ右は男の待合室、次は寝室(ベッドが一台ある)もとよりここは扉があるが、あいてゐたのでまる見えである。 左と奥で家の大部分を占める主婦(同時に主人)の用いる箇所には机があって、もとより勉強用ではなく(学齢の子どもはよそに寝泊まりする)食卓である。 左(北西隅)には炉があって、これでおしまひ、家具は何も見えない。わたしはよこにゐたコタラジャの「アチェー新聞」のイスマイル・ヤコブ君の署名をもらうと 「すんだ(インドネシヤ語「スダ」)」といって退去した。不十分であるがアチェー族の家は貧富を問はず三部に分れてゐるのを知ったからである。(図は略する)。 このあともうすることがないし、わたしは昼寝をしたので、篠原、桐山二君をさそってレストランへ行って見た。バンドが奏されてゐて最上席かどうか、 一等前の席が空いてゐる。隣りに白い服を着してゐるのはいふまでもなく、サバン軍港駐在の海軍将校である。 わたしは会釈もせず並んで坐った。これも面白くないと、曲が甚だよくない(ただしわたしは音痴である)。わたしはこの時までついて来てゐた新聞記者イスマイル.ヤクブ君に質問した。 「敵国アメリカ風の曲ばかり奏するがどうしてか」。 ヤクブ君はビクッとして答えた。 「これはわたしたちの同族ハワイの曲です」。 ハワイがアメリカの一州となるまへで、ウクレレではなく合奏曲なのだが、音痴のわたしはだまって席を立った。篠原、桐山二君も同時に席を立った。 そのあとわたしは何をしたか忘れたが詩が残ってゐて、行跡を証明する。「印度洋を見る」といふ題で、スリーマン高原にてと傍題がある。 ここより見れば静かに湛へたりな印度洋 そは若きスタンフォード・ラツフルズが 新嘉坡の建設のために船をゆかしめし海 ――その市の昭南島と変らんとは夢にだも知らず またダルプケルケの大艦隊、マラッカの市を取らんため 満帆に風をはらませて急ぎしは四三〇年の昔なりき いま知るや この洋を自由自在に往来するは わが艨艟、わが輸送船のみ あだし船 なべて沈み、島蔭にひそみ隠れて 往来するたびに許されざるを―― 右手には象、虎の棲むスラワ火山聳え立ち コティヂの庭には仏桑花紅く、金鶏草黄なり 知らず吾が生きて再びここに来らんことありやなし ただわが感慨の一端を述べて 家郷遠征を懐ふに答へんとす。(※『南の星』所載詩のバリアント)  8 この詩は宣伝班に呈出して日本でどこかへ掲載された。その理由、その場所は記憶から逸した。ただ緒戦の戦果!!におこった軍属の気持がよく表はれてゐると思ふが、 この間わたしの詩の選をした福地邦樹君などきらって(或は下手クソと思って)採ってくれなかった。 日本が負け、わたしの二度とスマトラのスリーマン高原へゆけなくなるなど予想しなかった様子は実によく書けてゐると自讃する(これがわたしのいつも妻からたしなめられ、 主に乞ひいのる過失の最大のものである)。 スリーマン高原はもうアチェー族の住家でなく、ガヨ族の住地だったと思ふが、ここで偶然「アチェー語」といふわたしのノートが見つかったのでしるすと、 アチェー語では1はサトウでなく、2はインドネシア語と同じ、3はトル。4は、パート、5はリムンと少しづつちがふ。夫はラカイ、妻はビナイ、父はバ、母だけがインドネシア語と同じくマである。 ただし後の旅行でやった方言採集はこの時はせず、マースデンの「スマトラの歴史」からぬいてゐる。まだ民俗採集の用意が出来てゐなかったことが明らかである。 6月30日の泊りはタケグンのホテルである。師団参謀と同行したおかげで、駐在隊長(京都の撮影所長だった由)が現地人の楽隊を集めて歌をきかしてくれた。 その譜は「魚捕り」といふ歌で、インドネシア語だったことは写しがあって判明する。譜も略譜ながら写しとってあって、わたしのただ一つ採集したインドネシアの民謡である。 参謀と五葉か二葉か問答した松の木のことはガヨ語でダマルといふと、ただ一つ覚えたガヨ語である。 この夜の眠りは涼しくてよく眠れたが、わたしは眠る前に悪事をした。楽隊のよこにゐて通訳した青年にガヨ語の辞典があるかといひ、あすの朝もって来させる約束をした。 翌朝出発前に得々と持って来た青年にわたしはその価をきき、五円と聞いて、「オランダ人から盗んだくせに」と憤慨して(とっさによく憤る男である)、ぬけぬけと、 一、 金五円也、右正に借用仕り候 と英語で書きサインし、日付をいれた。この借用証はいまだにガヨ族の中に残ってゐると思ふ。ただし字引きの方はわたしがシンガポールを去るまへ、憲兵の検査で 「買った」といひ、「受取りは」と問はれ、 「無い」といへば、「もち帰り無用」との命で、憲兵隊に預りとなり、他の数十冊の字引きと共にその後、大本営かどこかの命令で日本に来、いま彦根の大学にあるとか聞いた。 1ページも開かなかったこのガヨ・オランダ語辞典を一度だけよんで見たいと思ふが、いまだにはたせない。 ガヨ語はも一つ記した。テロペといって女たちのかぶりもののことである。涼しいからか、それとも別の理由からか覚えはない。大原女のやうだったと思ふ。 午前中また篠原君らにたのんで民家を見せてもらった。アチェー族とちがって大家族制で、昔の飛騨の家々のやうに大きな造り、もとより高殿式で、床下にはタキギを積み、 これが多いほど金持だとのことだった。 アマン・ムハマッドの家はクケグンのブラー・ハキム村の61戸の密集した家屋の一つだが、中に入って見るとまん中が昼間の生活用、両側が寝室で、家長用の寝室以外はしきりがなく、 マットが五つ並び、奥には寒さよけのゐろりがある。マットの数からいふと十家族以土住めるやうになってゐたが、ここではいま六家族が住み、普通は八、九家族だとのことだった。 アパートの壁なしと思へばよい。ただし昼間用のところには12間のしきりがあった。 こんなことはその後、訳されたレープの「スマトラの民族」(上下巻とも昭和18年国立民族学研究所―今はない―の訳で出た)にも書いていないから、得意でしるす。 図入りだとはっきりするのだが、その必要もなからう。子どもたちや孫たちよ、わしは「来た、見た」とだけ記しておく。 家の背後には米庫が二、三棟あって蓋(ペルペ)をし、木の桶の中には精米してない籾がつまってゐた。一夫多妻婚はと聞けば、金持だけがするが、 回教徒とて四人以下との規定を守ってゐるとの答であった。 唐辛子を乾してゐるので聞くとロンボリと答へた。ゆふべの楽隊の演じた踊りはムナリといひ、表情をしてゐるが椅子を用ひて踊るタリ・クルシといふのもあり、 クルシは椅子のことだといった。 タケグン地区の人口2万9千人、内ガヨ族22,836人、インドネシア人5,384人、アラブインド人100人、華僑500人、郡長をラジャといふことアチェー地区と同じく、村長はケジランといった。 タワル湖は64平方キロ、深さ200メートルと記してゐるから、十和田湖より大きく、摩周湖より浅い。季節風テピクの吹く時には魚がとれるといふが、その魚の名をきかず、見もしなかった  9 わたしはまたメダンに帰って来た。シンガポール(昭南市)の宣伝本部から映画が来て公_で映写されたのは七月の初めだったらうか。二本あって一本は東京の風景だった。 銀座や丸ノ内の風景が映されてゐて、わたしたちはなつかしがって見てゐたが、現地人の華僑やインドネシア人は感心した時にやる舌打ちをして東京の近代都市としての姿を見てゐた。 この日以後、「東京とメダンとはどちらが大きいか」といふたぐいの愚問には悩まされなくなったから宣伝効果は十分あったが、もっとうれしいのは、 内地からの手紙類が回送されて来たことだった。妻からのたよりも来てゐて、萩原明太郎先生のお葬式に参ったとのことも書いてあった。 伊東静雄さんの令弟が来てとっていただいたといふ写真も同封してあったと思ふ。 悲しみにたへなかったのは、シンガポールを立つまへ、毎日新聞支局で見て知ってゐた故朔太郎先生のおはがきが、今ごろになって着いたことであった。 文面は簡単で、家内がお好きな酒をもって参ったお礼と「近況お察しして羡しく存じます」とのおことばとがあった。万事自由な内地にこのスマトラの果物や酒をお届けするにも、 もう幽冥界を異にしてゐるので、何ともいたしかたないと残念でならなかった。ちょうどいただいた丸山薫氏への便りに、わたしは朔太郎先生の訃報きいたとして、 わが来しはふるさとの人つつがなくまさきくあれと念じつつ来し との歌を記した。小高根太郎・二郎の両氏ならびに伊東静雄氏のたよりも同時に来た。伊東氏には わが書棚にルバイヤットのある故に君が詩集を思ふことあり のほか二首を記した。子文書房発行の「詩集夏花」の扉に森亮氏訳のルバイヤットの一節を記してあるのは、伊東さんの詩集を秘蔵してゐるひとならよく知ってゐることである。 この詩集と大山澄太氏の「日本の味」とわたしの文集「楊貴妃とクレオパトラ」とが第五回の透谷賞(この賞はこれが最後である)を受けたのはこの五月のことであって、 わたしは帰国後はじめてそれを知ったが、伊東さん大山さんと違ってわたしは従軍賞が加味されてゐると直感し、恥かしくてならなかった。 陶製の賞牌に附せられた推薦者には佐藤春夫・中河與一先生のほか、朔太郎の名も列記されてゐたかとおぼえてゐる。まことにありがたいことである。 出発前にとりまとめて肥下恒夫君に託した詩は「神軍」といふ題で、保田與重郎君の跋がつき天理時報社からやはりこの五月に出版され、スマトラへも十冊送られて来た。 受け取った日は記してないが、多分、八月頃だったらうと思ふ。 そのころのノー卜に、 「七月八日、この頃メダンに慣る。チップトップ閉店。ホテル・ド・ブール、偕行社、ホテル・グランド、アジアレストラン等あり。友に張世良、ノール、タリブ、阿美。南十字星、 宵早くすでに傾く」としるしてゐる。 チップ・トップは喫茶店で、軍指定でないので来客はわたしだけといふので閉店したのである。ホテル・ド・ブールは前にも記したメダン随一のホテル。 「グランド」や「アジア」などいふ名のホテルやレストランはもうわたしの記憶から消えてゐる。 張世良は前に述べた勲三等をもってゐるメダンの華僑の代表者張歩善の長男で、旧暦5月5日にはわたしにチマキを食ベさしてくれた。 そのあと彼がインドネシア人の愛人を連れて紹介したので、二度びっくりした。よく肥った、英語を話す好青年であったが、今どうしてゐるだらう。 ノールとタリブはともに同盟通信に雇はれてゐるインドネシア人で、わたしのインドネシア語はみるみる上達した。 市中を背広で歩き、喫茶店で同店の客と自在に話しあへるやうになったのである。同盟通信支局にはも一人華僑がゐて、その家へ遊びに行ったおぼえがあるが名は忘れた。 英語で話して「年はいくつ」と聞き、「ピッグの年だ」といふので一驚した。わたしと同じく猪の年(1911)生れだったのである。 今なほ毎日新聞に重役としておいでの枝松茂之氏が、為井さんといふ記者とシンガポールから来られ、篠原支局長と三人でさそって下さり、 ブラスタギといふ一千メートルの高原へつれて行っていただいたのは7月5日で、その夜は久しぶりに凉しいめにあった。 この高原をとりまく峯のうち、シバヤク山は活火山で、軽井沢を思はす土地だが、咲きみだれるコスモスや百日草は、戦前ここにゐた日本人の花屋さんから種子を貰った由である。 私はホテルの庭に造ってあるゴルフ・コースでクラブをふってゐて、近づいて来た日本人におどろかされた。よくおどろく男である。  10 一昨年の11月号(165号)に書いて以来やめてゐたスマトラ記をつづけて書くことになった理由は二つある。誰も読んでくれてゐないと思ったこの記録を、 春夫先生の七回忌でお会ひした庄野英二さんに「昔のことよくおぼえてますね」といはれて、読んでもらってゐるのがわかったことが一つ、 もう一つは今年八月に迎へる還暦の翁の常として思ひ出話が楽しいのである。読まない「果樹園」の読者にはまことに気の毒ながら、 小高根さんが散文をも書けと仰せられたことをいいことにして書かしてもらはう。 ブラスタギといふメダン市の避暑地のホテルの庭で、わたしは平服でざん切り頭の男が近づいて来て、突然話しかけたことばにおどろいた。その男はわたしに、 「軍属さん、あなたの知ってゐる日本の軍艦はおほかた沈みましたよ」 といったあと、くはしく聞かうとするともう見えなくなってゐた。わたしはゴルフのクラブを握ったまま、しばらく考へて「気ちがひだらう」と結論して、またクラブを握った。 わたしの知ってゐる軍艦は陸奥、長門などの旧式戦艦だけで、それもはっきりとは知らないが、三月シンガポールへの航海中、 サイゴンへ寄る途で見たわが聯合艦隊の偉容はまだおぼえてゐる。それが殆んど沈んだとは信じられなかったのは当然である。 この軍人の伝へたがったのは、多分6月5日のミッドウェー海戦の大敗であらうが、この海戦のことは南方の軍属には伝へられず、もし伝へられたとしても、 失はれた航空母艦「加賀」「蒼竜」「赤城」「飛竜」はその存在も知らず、これとともに海中に沈んだ空軍の勇士たちの損失がその後の航空戦の不利を来すことなど、 想像もできなかったらう。 この一瞬だけわたしを驚かせた軍人は、たぶん味方の敗戦を知らぬげの軍属に憤慨して、軍の機密を漏らしかけ、その危険に気づいて早々に姿をかくしたのであらう。 わたしは暖い飲物を摂取したあと、毎日新聞の自動車でまた暑いメダンに帰って来た。 メダンの宣伝班の支部から軍人の引揚げが命ぜられたのはこの直後で、わたしは残った軍属四人中の最年長者として支部長を命じられた。 同じころ毎日新聞の支局も為井さん一人となり、篠原、桐山二氏もシンガポールに帰還することとなった。二君はわたしに別れを惜しんで、化粧鞄を賜はったが、 これは長くわが家にとどまって、昭和18年、報道業務中に亡くなられた篠原氏を忘れさせなくした。 わたしは仲良しを失った上、俄かに小人数になった宣伝班支部長として、大変な苦痛を感じた。シンガポールで1ヶ月間、120人の現地人の長としてゐたときにも感じたが、 わたしは人の上に立つ柄でないのである。 わたしの部下といふことになってゐる永田君は新聞記者、も一人の某君(姓名を全く忘れた)は台湾の教員、一番若い森武二郎君は同盟通信のカメラマンから徴用されたのである。 わたしは支部長として、すべての責任は負ふかはり、永田君はマスコミ関係、某君には現地人の日本語教育、森君には師団から一週に一回支給される主食副食の受取りをたのんで、 了承してもらった(と思った)。もとより三君が兵とともに従来行ってゐた日朝・日夕の遙拝点呼などはとりやめとし、支部長の中尉の用ゐてゐた室は永田君に与へた。 永田君はわたしに一番近いと思ったし、いまも信じてゐるが、相手がわたしのことをどう考へたかはわからない。 事務室(現地人の出入する)の奧には特別の椅子が置かれてゐたが、さて九時の執務時間になると、台湾から来た某君がデンとそこに坐った。 わたしは不審でもあり不快にも感じたが、「そこは支部長の席だよ」とは、いふもいまいましく、そのままにさせておいた。 不愉快な支部長の任務が何日続いたか、シンガポールから映画班が到着した。スマトラ紹介の映画をとるといって、これも徴用の映画技師、稲垣浩邦君が長、 カメラマンの田辺良男君とインド人を父とし日本人を母とした青年(日本姓を称してゐたがこれも姓名ともに忘れた)を通訳として、 戦闘をほとんどしないで日本領土となった(とわたしは思ってゐた)沃土スマトラを内地に紹介するためにわざわざ派遣されて来たのだった。 将兵がゐなくなったので、室は十分ある。どうぞどこでもいつまでも使っていただきたいといふと、稲垣君は早速三人で、メダン市中を撮影に出かけたが、帰って来ると、 ボーイ(ジョンゴス)に命じて米飯をたかせ、市場で買って来た魚や貝で握りずしを作った。見事なもので、まぐろ、えびなど日本そっくりのタネはおほむねそろったが、 シャコだけは見つからなかった由であった。わたしはシンガポール市長の大達茂雄閣下に潰物をいただいて以来、久しぶりに日本食を食べた。 おいしいことはまちがひなかったが、わたしはふしぎに現地食に慣れるたちなので、味よりは稲垣君らの腕の方に感心して食べた  11 稲垣君にたのまれたかと思ふが、メダンのサルタンをとりに行くといふのでついていった。わたしのインドネシア語では敬語はないので、もとより通訳が交渉に当たり、 サルタンは承知して四人の妃と多くの子供たちを全部、中庭に集合させた。しかし撮影が手間どるとみるみる機嫌をわるくして、いい加減にしろ、とでもいった様子であった。 これがすむと稲垣君は駅へ行って木炭を焚いて走る汽車を撮影した。兵隊がゐないのは困ると考へたが、わたしをのせて車窓から首を出して手をふらせた。 この映画は昭和18年に東京で現像されたが、とれてゐたのはこのにせ兵隊と西海岸知事のセメント工場の視察の場面だけが、まあ写ってゐて、あとは熱帯の強い光線と、 押収したイギリスのフィルムの感度敏感とが加はって、みなまっ黒だった。稲垣君は会社の仕事だったら首だったと閉口気味だったが、それはあとの祭りで、 これから何十日か一行はスマトラを撮しに歩きまはるのである。 その第一は前に行ったブラスタギ高原へ行ってシバヤク火山の噴火を再び見て、ここのホテルに泊った。一行は運転手(ジャバ人であった)を含めて五人、 町をゆく女たちが大原女のやうにかぶり物をしてゐるので、たづねるとトゥドゥンといった。一行がここの踊りを撮影してゐる間、わたしは何となく懐郷の情に襲はれてゐた。 気候が涼しいのと、久々に日本からの便りを見、軽井沢あたりを思出してゐたのであらう。 翌日はシナブン山の裾の高原を通って、アチェー州のバンべルといふところで部隊がジャングルを開懇して稲田を作ってゐるといふのをとりにゆく。 途中サリネンバといふすすきのたぐひの風になびくところに墓標が七つ建ってゐるのを見た。これは近衛師団の北山捜索聯隊の岩崎隊がオランダ軍と戦闘して、 千名を降服させた時の戦死者の墓だったといふことだった。この墓はいまはどうなってゐるだらうか。隊長の岩崎中尉とはこの夜同宿して戦闘の様子を聞いた。 バムベルの手前に小川があって、一休みする。向ふに二人の男がゐる。わたしは近づいて一礼し、この辺りをアラス地方といふがアラス族といふのは、とたづねると、 年配の方がわたしがそのアラス族で総人口3万、二人のラジャに統治されてゐて、ブロナスとバムベルの二区に分れ、ブロナスの区長はシドゥン、 わたしはバムべルの区長ラジャ・マリブンと答へた。ラジャは前にもいった梵語系統の「王」である。 わたしは鄭重にアラス語を救へていただけないかといひ、金田一京助先生に教はったとほり、身体の各部の名を問うた。眼はマトウ、口はババ、頭はタカーと教へてくれる。 も一人の男にもいはせて少しちがったかと思ふが、二、三〇単語をひらった。 帰国後、スマトラなつかしくいろいろ本を読んだが、アラス語を一語も戴せたものはなかったので、わたしはアラス語と他のインドネシア諸語とを比較して、 「インドネシヤ諸語の身体呼称」といふ報告を書いた。生涯にただ一つのこる素人言語学である。 佐官の隊長の指揮する伐木作業を稲垣君らが撮影してゐる間に、わたしは下痢気味だったので、傍らのジャングルに入って行った。まっすぐに入って行って用をすまし、 廻れ右をしてまっすぐ帰ったつもりが、ジャングルから出られない。伐木の音も聞えないし、わたしは青くなった。 二、三〇〇メー卜ルしてやっと繁みから出られると、入ったところとは全く別の場所であった。従軍中、青くなったのはこれ一回で、 わたしが廻れ右の時ちょっと角度をちがへたのが原因だったろう。 この時の部隊の開拓地はどうなったらうか。三千メートルを越すバリサン、ウィルミナ両山脈の間を流れるラウ・アラスの谷にも一度ゆかなければわからない。 ラウはアラス語で正しくは(わたしの採集では)ラウエで「河」の意である。 8月3日、もと来た道を通ってメダンの宿舍に帰り、師団司令部は大体の旅程を書いて出張命令を受けた。二十日位の予定であったので、わたしは内地へ便りを書いた。小高根二郎氏には、 山吹の咲き出る垣根いひおこす友ある身ゆゑなかなかにたぬし と書いたが、この軍用郵便ハガキを二郎氏は今もおもちだらうか。伊東静雄さんに書いた わが書棚にルバイヤットのあるゆゑに君が詩集を思ふことあり といふ歌をかいたハガキは、堺市三国ヶ丘のお宅の焼けた時になくなったに相違ない。 翌8月4日、わたしたちは出発した。メダンの市はスマトラでタバコの栽培から発展したのである。八年から十年間の輪作で、休耕期間の最後の年にはミモザ(含羞草)を植えて地味を回復する。 このミモザをマレー語ではクチガン(猫の爪)といふ。とげがあるからだといふことだ。 このタバコ園を写したあと、一行は近衛師団が無血上陸?したタンジョン・ティラム(タンジョンは岬)に向った。無血上陸だのにとるものは何もない。 静かに打ち寄せるマラッカ海峡の波を見たあと、一行はテビン・ティンギの町を通ってシャンタルの部隊に一泊した。 一泊する前には部隊(野村聯隊といったと思ふ)の庶務に申告にゆかねばならない。その時になってわたしはあはてた。自動車の中にわたしの刀が無い。 申告には刀なしではゆけないからである。この刀はわたしが南方にゆくといって大阪のホテルに泊ってゐた時、軍から貸し与えられた長い剣が格好がわるいといふのて、 皆が刀を用意してゐると聞いて八十になる祖母が貰ってくれたのである。備前の新刀で値段はともかく祖母の情を思ってわたしは途方にくれた。  12 刀をなくしたと知った時の心境はどこにも発表できなかったが、今だにわたしの手帳に残ってゐる。 おほははがたびしつるぎを ゴム林のかたへに捨てつ 時へては探しもあへず おほははのめぐみかなしく わがさがのいきどほろしく わがつるぎあたらと思へど たれひとか佩びむつるぎぞ われおきてしらむつるぎぞ わがごとく愛でにめでつつ 鴎外先生が亡くされたのは黄金のボタン、わたしは武士の魂を失ったのである。文士であった証拠があきらかではないか。 通訳君に剣を借りてわたしは庶務班に申告にゆき、 「富部隊宣伝班某々以下四名映画撮影に参りました」といって、宿泊を許された。 宿泊の室へゆくみち暗やみで兵隊にあふと「歩調とれ」の号令のもと敬礼され、通りすぎたあと「なんだ軍属か」といふ自嘲の声が聞えた。この夜は宿室も悪く、ちょっと眠りがたかった。 翌朝は起床、点呼で起され、一行五名(自動車運転手を含む)は南に向った。途中、昼食時になると、稲垣君らは住民から雛を買ひ、簡単に首をねじり、羽をとり、焼いて副食物とした。 何もできないわたしは眼を丸くしてみてゐた。現住民が集って来たので、わたしは方言を採集した。この辺りはバタク族のトバ方言である。 地名をきくと、見取な字でウレラワン山Ⅱ村と記したのは三十才位の男であった。山はドロクである。 まもなく大きな湖水が見えだした。スマトラ一(インドネシア一?)の大湖トバ湖で、面積は琵琶湖の二倍もあり、中央のサモシル島には、バタク族の生け垣をめぐらした村のほか、 人面を石に刻んだ王の墓があると聞いた。稲垣君はここへ渡るつもりで湖岸のパラパットに泊ったが、宿舎で夕食をすますと、スイス人の経営するホテルへ散歩に(もとより自動車で)でかけた。 ここでドイツ人のボンクと名乗る87歳の老人に会ふと、わたしは乏しい金をはたいてビールを命じて飲ませ、「ドイチュラント」とドイツの旧国歌をうたった。 ボンクはドイツ語も忘れかけ、この歌はわたしについて歌ったが、その最中に階段を降りて来る美人があった。わたしと目を見あはせるとまた階上にひき返して見えなくなった。 久しぶりに聞くドイツの歌に思はず降りて来て、歌ひ手が日本人と知ると姿を隠したわけはわたしにはわかってゐるが、ここには書かないことにしよう。 この夜、わたしたちの室をおとづれたのは沼8932部隊服部隊の鷲尾忠夫伍長で、東大の経済を出た、故郷は名古屋市熱田区森後町二ノ四と聞いたが、わたしは約束したかも知れない出征家族への連格をしなかった。 鷲尾伍長の出身地でわかるやうに、このあたりから近衛師団の駐屯地でなくなって、名古屋師団の駐屯地となる。 翌日トバ湖の東岸沿ひに車を走らせ59キロのバリゲに行く。ゆふベ話で聞いた通り、村のまはりに生け垣のあることは、大和の垣内と全く同じだなと思った。 キリスト教の教会堂があり、インドネシアがほぼイスラム教なのに、このバタクだけはキリスト教の布教が成功したのは、この山中にはイスラムが入ってゐなかったからで、 これは台湾の高山族(戦争中までは高砂族)が戦後80パーセントまでキリスト教になったのとよく似てゐる。 閑話休題、パラパットで丁度ラジャ・ブンタルの葬列に出会ったが稲垣君は簡単にカメラに収めただけで、また自動車を走らせた。 わたしはブンタルの死に感動して詩を作った。「南の星」といふ戦争中の詩集(昭和19年創元社刊)をお持ちの方には用はないが、この特集は見つかれば安いが、 発行後まもなく空襲で焼けて残存部数も少い。お見つけになれば買って下さればと思ふ。とまれその詩は 湖辺 湖(うみ)の辺のバリゲの村 着飾りしバタクびと 足早に歩むなり 華やかのよそほひなれば よそめには祭のごとし たづぬれば大人の 葬りにゆくと答ふなり トバ郡の大酋ラジャ・ブンタル 死せしかばそれが葬りと 湖の辺の小高き丘に 人さはにつどひつどひて よそめには祭のごとく けふの日を葬るにありき しづかなる湖のながめよ といふので、伊東静雄の詩に似てゐるかとも思ふ。もすこし実景をいれればよかった。稲垣君のフィルムのだめだっただけに一層残念である。  13 8月7日にわたしたちはバリゲを出発してタパヌリ州の州庁のあるシボルガに向った。どういうわけかまた途中に近衛師団の部隊名をとった「宮の湯」という温泉があった。 稲垣君らがここを撮影している間に、わたしはまたバタクの身体呼称をフタ・ボラフといふ男から採集した。ここの方言ではドイツ語のアハラク卜に近い「ハ」の音がきつく感じられ、 きのふ泊ったパラパットは「足」を意味するのだと教はった。 シボロンボロンといふ所へ来るとまた温泉が道ばたにあり、これは全く屋根なしで、「洗心湯」といふ立て札が立ってゐた。石灰の沈澱が見事で温泉丘を造ってゐる。 一行は撮影をすましてから一浴した。 「温泉をなんといふか」とのわたしの質問にアエル・ハーガトといふバタク語が教へられ、パイナップル(アナナス)をホナス、卵をビラーといふ。 バナナはどことも同じくピーサンであるが、ピサウ(山刀)をラウトと採集した。 この温泉からちょっと行ったところで道路工事をしてゐる一隊を見て、たづねるとここの郡長(ダマン)イスカンデル・タンプブルンの指揮するバタク人の一隊であった。 イスカンデルの名はマレイ人にも多く、アレクサンダーの訛りである。 ここまで書いてわたしは散歩に出て、いつものくせで古本屋をのぞくと、与謝野宇智子著「むらさきぐさ」といふのを買って来た。 昭和17年5月29日に亡くなられた母君晶子女史の思ひ出にと、昭和42年に出された本である。この5月29日は、前にも書いたようにわたしがスマトラ行の舟にのりこんだ日で、 朔太郎、佐藤惣之助(5月15日逝去)とつづいて亡くなられたことは、わたしは知ってゐたやうに思ふ。白秋の亡くなったのは11月2日、東洋学のうみの祖で、 わたしの勤め先の所長だった白鳥清先生の亡くなられたのは4月1日(嫡孫芳郎教授によれば、避去は3月30日で叙勲のため、発表が4月1日となった由である)であった。 白秋をのぞくこの訃報にわたしはいよいよ意気揚った。この方たちの亡きあと国のために働くのがますます必要と思ったのだ。わたしは若くて、うぬぼれてをり、 戦果も揚りつづけ(と知らされてゐた)てゐたのである。自分でも嘘のようであるが、事実として書いておく。 わたしの父は大阪生れで、日露戦争に参加した。南山の戦(鴎外先生の「歌日記」に見え、「およづれか弱しと聞きし浪速びと先がけするをまのあたり見つ」と「また負けたか八聯隊」の評語がいつはりだったかと目を丸くされたのである)に損失した兵の補充としてであって安治川口まで乗船の途、銃を戦友にもたしたと自ら記してゐる。 昭和20年3月18日の召集で向ひの三十七聯隊(中部二十三部隊と称した)に入営した満34歳のわたしは体重39キロだったが、大阪駅まで三八銃を重がらずに運んだと比べると、 父の方が弱かったのである。戦闘にも出ず歩哨勤務で怖がってゐる弱兵のさまは「征塵」と名づける歌文集が残ってゐて、よくわかる。 父の十三回忌には写真版にでもして頒つつもりである。 藤田福夫教授の指示によれば、明治16年2月11日生れの父は金尾文淵堂発行の「小天地」といふ維誌の第2巻1号(明治34年9月発行)に西島南峯と称して「片袖」と題してのせた凰晶子のあとに歌をのせられてゐる。 二十歳に達しないで歌を作ったのである。父の遺稿一万首の中には、ここにのせた歌はないやうである。鉄幹、晶子ご夫妻と金尾さんや小林政治さんを通じて交渉のあった証拠は、 わたしの幼い時に見た手箱の中のお二方のハガキ類で証明されるが、父がわたしに語ったお二方のことは「よく喧嘩してたよ」の一語だけで、わたしは聞きかへす勇気を失った。 金尾さんの妹との交渉は写真入りの文があり、小林さんとの交渉はいまだに証人がある。ともかくこの歌人はわたしが南方にゐる様を想像して「海の彼方に」といふ詩を作り、 「赤道直下常夏の、真日はかがよふ昭南に、夜を短かみふるさとの、夢みるまなき吾子ならむ」 と歌って歌ひおへてゐる。晶子女史の病臥、逝去に際しての作がないのは、わたしと同じく緒戦の戦果の昂奮いまださめやらなかったか、 桜花のごとく歌ったつはものの死に外をなげくことをはばかったかのどちらかであらう。 いまさらではあるが、朔太郎への追悼は書いた。筆のつひでで申しわけないが、白鳥先生をはじめとする日本の頭脳や心臓の損失を、あらためて書かしていただいた。 「果樹園」以外にはさういふ場所もないので、いまにして、物に憑かれて、この雑誌の刊行を思ひ立ったことをありがたく思ふ。小高根さんとは同年、福地君もややに老いたかに思ふ。 はるかに編輯・校正・発送の労をこれまたついでにお礼申しあげる。(還暦の年5月26日記す)  14 バタクは悪評高い民族である。增渕佐平「南方圏の体臭」(昭和16年10月、誠美書閣刊)といふ大東亜戦争を予期して書かれた?本ではバタ族といふ章があって、 マンデー(水浴)が嫌ひで垢まみれで、平気で豚を食ひ、さらに犬をも好んで食ふと記されてゐる。 イスラムのメナンカバウ族やアチェー族との比較でいはれてゐるのであらうが、豚や犬を食ふのは漢人でもこの土に多く来てゐる広東人も得意なことである。 わたしの宣伝班支部で炊事をやってゐた二人の少年がこのバタクであったが、わたしたちは誰一人、これを不潔だと感ぜず、その煮炊きする料理を食ってゐた。 増淵氏はさらに老婆を木にのぼらせ、ゆさぶって落ちれば食ひ、落ちねばまだ役立つとして食はれるのを免かれる、といふ食人肉の風習を記してゐる。 これなどもなんか無根の侮蔑の記事である。 わたしが前に近衛師団に堤出した民族誌では、もとよりそんなことは記さず、バタク族の総人口145万、カロ、トバ、マンダイリンなどに分れ、カロ、 バタクはマレー族が来るまでは海岸沿ひに住んでゐた。山地に退いた今もカロ、バタクは聡明で仕事欲があり、正義感が強い。農民で米を作り、ヨーロッパ人用の野菜やジャガイモを作る。 商業を華僑と対抗して行ふ唯一の民族である。ただし米作その他の農業はおほむね婦人が行ふ。四乃至八家族が大きな家に同居してゐる云云と記した。 いまタルトンから7キロのシポホロンといふ大地でイスカンデル、クンプブルンといふ郡長の指揮で路普請をしてゐる数十人の元気な姿を見てわたしはなぜだか感動してゐた。 怠け者ばかりと思ってゐた南方民族が自発的に勤労奉仕をしてゐるのである。わたしは稲垣君らが撮影してゐるのも喜んで見てゐた。 この日(8月7日)の泊りはタパヌリ州の首府シボルガのホテルで、インド洋の見える庭の椅子に腰かけてゐる将校の中に清田少尉といふのがゐて、 わたしは有名な水泳選手だと知ってゐた。名古屋師団とともにどこに転戦したか、今も御元気でスポーツ関係の仕事をしておいでと新聞で知ってゐる。 このホテルのことだったかと思ふが、「句会をしてゐるから来い」とのことでゆくと、上等兵の水田鐐太郎さんといふのが司会をして互選をしてゐた。 わたしは批評を乞はれたが何もいへなかった。消灯時刻にでもなったのであらう、句会が了ると、水田さんは内地の妻へと句集を托された。 わたしは昭和18年になってから名古屋の奥さんへ送ると、「夫は戦死しました」といふ手紙が来た。仄暗いあかりの下、しづかに句を按じてゐた将兵はおほむね死んだかと、 わたしは悲しみをとどめ得なかった。 勝敗の如何に係らず、理由の如何に係らず、戦争をやめてほしいといふのが今のわたしの悲願である。その理由の一端はかういふところにもある。 翌日はシボルガ発、88キロのパダンシディンパン、そこから110キロのフタノパンを経て十二山といふ名の奇山を見、116キロでギンジョルといふところに来ると赤道標があった。 ジャングルの中に石標が立ってゐて梢では猿が遊んでゐた。たうとう赤道を越えたかとわたしは変に感激した。稲垣君のおかげである。 彼に誘はれなかったら、わたしは相変らずつまらない顔をして、師団司令部参課付の本荘少尉と将校クラブで球を撞くぐらゐが唯一の楽しみであったらう。 この夜の泊りはブキ、ティンギ、もとのフォート・デ・コクである。高原のホテルはインド洋岸のシボルガとちがひ涼しかった。この夜訪ねて来た中尉は中村員重といひ、 ぺンネームを中室員重といふ詩人である。この人ももう亡いと承知してゐる。何を語りあったかはもとより覚えてゐない。 翌9日は36キロのマニンジャウ湖へゆく。火口湖か陥落湖かしらベても見なかったが、水の美しい小さい湖である。稲垣君らはこのあたりに住むメナンカバウ族の子供たちに日本の歌を教へる兵隊を撮影した。 わたしはその間にこのあたりの方言を採集してゐた。よそならマタ(目)といふのをマトといひ、力バラ(頭)といふのを力バロといひ、 耳をタリゴ、髭をシ・スグイといふ時、ゴ・グが鼻にかかった。わたしにこの単語を提供した男に名を問ふと、片仮名でダトマン・チコラドと書き、 その下手くそな字は今もわたしのノートに残ってゐるが、ダトマン君は日本の兵隊とちがってインドネシア国で元気に生きてゐると思ふ。 わたしも還暦に垂んとして生きてゐる。ありがたいかな、わたしは体重38キロとこの間の体格検査で検べられ記入されたのである。  15 この日わたしはもう一ヶ所、ブト、ブサ村でもメナンカバウ語を拾ってゐる。提供者にラジャ(梵語の王)・ダト・ダンティコといふ男で、 チコラド君とちょっと違ってわたしは身体呼称ではなく太陽(マト・アリ)、月(ブラン)、里(ビンタン)、雲(アワン)、椰子の実(カランビク)といふ風な語を拾った。 たぶんマレー語でいって「ここのことばは?」といふ風に採集したのだと思ふ。メナンカバウ語が通用マレー語のもとになってゐるといふのが証拠立てられたやうで、 別に珍しいことばもなかった。 この日と翌日と、映画班は名古屋師団の演習を撮す。この師団は涼しいブキティンギ高原で、日本と同じ食糧で日本と同じ訓練を行ひ、次の戦闘に備へてゐるので、 その有様を内地に見てもらいたいといふので、稲垣君らも大変苦心したやうだが、後で試写を見ると一向にとれてゐなかった。 それにしても名古屋師団はスマトラからどこへ移ったのだらうか。わたしには調べもつかないが、この師団の移転したあと、ブキティンギの辺りには大阪師団が来て、 その将校としてここにゐた義弟は去年の12月に亡くなったが、一度もスマトラを語りあふことはなかった。 翌8月11日、わたしは48才になる小学校長からメナンカバウの民俗や歴史を聞いた。モハムマド・マクススといふ通訳がゐて、わかり易い語で話してくれるといふことだったが、 英語だったかと思ふ。スマトラの原住はバタク族で、メナンカバウはベトナム方面からあとで渡って来た。(メナンカバウといふ語の意義は三つある。)三人の兄弟から起り、 一人はトルコへゆき、一人は中国、日本へゆき、末子がメナンカバウの祖となった云々。 わたしはくはしくノートしながら、あるところでは信用しないでゐたから、今もこれを再説するにたへない。 次はメナンカバウの女系相続のことで、これは興味があったが、これまた果樹園の読渚の方には説く必要もあるまい。 8月14日には高原を下りて、インド作にのぞむパダン市の西海岸州の州庁にゆき、司政長官矢野兼三閣下に会った。元富山県知事で高校の友昌彦君の兄である。 わたしがそのことを申し上げると閣下は喜んでインダルンのセメント工場が復興してゐるからとって欲しいと云はれた。稲垣君にそのことを云ふと「撮影する」といって閣下について出てゆく。 工場の事務室にわたしは残って借りた書類を写し、それがすむと長官に倣って句を作った。長官は蓬矢と号し虚子門下なのである。撮影がすんだあと昼食をいただいたが、閣下はわたしに、 「田中君、ここにのこって教育部長にならないか。妻子も今に呼べるよ」 と仰しゃった。わたしはきっぱりお断りした。理由ははっきりしないが、異民族の土地で軍政下の居住は苦労が多くて、妻子にそれを味ははすなどは、といふのだったと思ふ。  もとよりアメリカ潜水艦の跳梁する海路はるばる妻子が来ることもまじめには考へられなかったし、わたしはうすうす日本の敗戦を予感してゐたやうに思ふ。 予感しなかったのは矢野長官が戦後、市民抑留所での責任を問はれてスマトラのメダンで獄中生活を送り、幸ひに長官は日本へ帰されたが、 同獄の東海岸州の長官以下何十名かは死刑となった。これらのことは長官の「獄中記」(潮文社)にくはしい。 わたしは物にふれ激するたちである。教育部長などの人柄ではない。長官の言葉を聞いてゐたら、たぶん帰れなかったのではないかと思ふ。 ただしこの時の応酬は一分間で、長官の苦笑で終ったのである。わたしはホッとした。 翌日もわたしはパダンにゐて、日本人の奥さんを持つウスマン氏の家にゆき、メナンカバウ語を採集した。 翌8月17日にはウンビリン炭坑を撮しに行って途中ソロクといふところで、華人の店協昌盛といふのに寄った。この店の主人の妻は熊本の人で、在留三十年、 日本語を殆ど忘れたお婆さんであった。この夜ブキティンギのホテルに帰ると、「田中徴員に」といふ電話があった。聞けば近衛師団司令部の参課部将校本荘健男少尉の声で、 「命令を逹します。宮兵団附軍嵐田中克己は至急メダンに帰還すべし。」 といふので、電話はたちまち切れてしまった。稲垣君たちに相談したがどうしようもない。尤も稲垣君たちの撮影には一向用のないわたしである。 パレンバンまで行って仲好しの北町一郎、田代継男などに逢はうとのわたしの希望は消えてしまった。あとはメダンへ帰還の方法である。軍に便があるかどうか、あす訊いてみよう。 わたしはひとまづ眠ることにした。その晚また電話があって、毎日新聞の篠原、桐山二氏が迎へにゆくとのことであった。 これでわたしの心配はなくなり、わたしは安眠した(篠原、桐山二氏は早く別れたと書いたが8月20日すぎまではまだメダンにゐたのである。訂正しておく)。  16 わたしは迎へに来た毎日新聞の篠原、桐山二氏の自動車に乗ってメダンへ帰った。来る時は長くかかった道も一日半で飛ばし、途中のことも何も覚えてゐない。 なぜメダン帰還を命ぜられたか二氏は語らなかったし、わたしも尋ねなかったが、近衛師団の管轄地をこれ以上遠く離れてパレンバンまで行くことが許されないのだと思ってゐた。 シャンタルの町まで来た時、わたしはふと思ひついて、両氏にたのみ警察に寄ってもらった。出発の時、書き忘れたが、ここのオランダ婦人の抑留地にゆき、 太っちょのおばあさんにまづ英語で、 「英語を話すか」と聞き、「ノー」と返事され、ついで 「ドイツ語話すか」と聞き、「ナイン」と返事され、 「フランス語話すか」と聞き、「ノン」とフランス語で返事され、話す気のないことがわかって、汚い小屋にとぢこめられ、 まはりを金網で張りめぐらされてゐるのをわたしは気の毒に思ふと同時に、負けるものではないと痛感したあと、近衛師団の上陸地の撮影にゆく途中、バナナを昼食とし、 人通りのない林の中の道で稲垣君とわたしは並んで小便した。 その時、刀を道傍に置いたのをふしぎに思ひ出したのである。ある筈はないと思ひながら、警察に寄り署長を呼び出して、 「刀無かったか」 と聞くと、すぐわたしの刀がとり出された。 わたしは恥かしくて礼もそこそこ刀を掘んで警察を飛び出した。自動車の中で刀を握りしめながら、わたしは考へてゐた。 皇軍の恩威はこの異民族の地に「道ニ落チタルヲ拾フナシ」まで行はれたと、いい気なものだが、わたしの気持は恥かしさから、ありがたさの方に変って行った。 宿舍に着くと、永田軍属がゐた。わたしの顔を見ると、 「自動車運転の練習をして三日目に上等兵をはねた。さした怪俄でなかったが謹慎を申し渡された」といった。 わたしは部下の監督不行届の為に呼び戻されたのである。わたしはすぐ師団本部へゆき、監督不行届のおわびをいひ、参謀から「今後気をつけるやう」と注意されてすんだ。 永田君の謹慎の間、わたしは事務室に坐ってゐた。わたしの居ない間に永田君はロハニといふ十二、三才の少女をお茶汲みに傭ってゐた。わたしのマレー語は上達して笑淡もいへる。 「ロハニ、もしもだよ、ここの役所で結婚するとなら、誰と結婚するか」、 「トアン、あなたです」。「わたしがだめなら」。 「トアン永田」。「永田がだめなら。」 「トァン小泉(台湾から来た軍属)」。それがだめなら森武二郎軍属だといふ。 わたしは吃驚した。彼女は待遇順(もしくは地位の順)にちゃんと合った答へをしてゐるのである。この少女にしてただちにそれがわかるとは。わたしはこれを植民地気質かと納得した。 永田君の役割であらうが、この宣伝班支部の仕事の一つに東海岸州の出版印刷の許可のことがある。華僑の楊さんといふ老人が甥というのをつれてやって来た。 要件は日本紀元のカレンダーを出したいので許可してくれ、といふのだった。 「まだ8月だぜ、秋にでもなってから原稿もって来い、許可する」とわたしは答へ、楊さんは納得して帰って行った。 内地で五月末に発行された「神軍」といふわたしの第三詩集が十冊送られて来た。跋文は保田與重郎が書いてゐて「大衆亜戦争を熱祷した新時代の詩集」と書いてある。 満洲事変につづく支那事変と、兄弟相ひせめぐのには反対だったが、米英との戦争は愉快だと思ったのは緒戦の大戦果のあとで、軍部がそこまでやるとは、実のところわたしは知らず、 11月8日の正午ごろ朝寝を親友に起されて戦争勃発とのことにびつくりしたのである。 これが熱祷だったらうか。しかし出発間際に集めた詩稿をたのむと、校正から出版所から皆やってくれた肥下恒夫と保田に感謝しつつ、 わたしはこの詩集を新聞社支局と近衛師団の参課部とに駆けまはった。一冊を呈した東大法科出身の本荘健男少尉は真顔で訊ねた。 「詩はなぜ行わけになってゐるのですか。」わたしは「知らない、慣習なのだ」と面倒くさがって簡単に答へた。(行わけの理由を福地君あたり明確に答へて下さればよいと思ふ)。 とまれこの詩集(題名も大東亜戦争後、わたしの作った詩の題から保田によって採られた。)がわたしの戦争加担者の一証である。 これもある日わたしと小泉と二人だけがゐるところへ面会者があった。若い少尉である。宣伝班の小泉といって訊ね、小泉が「わたしだ」と名乗ると、 本を二冊とり出してつめ寄った。この二冊の中、一冊は少尉の著したマレー語教科書、他の一冊は小泉著で、内容は全く同じなのである。これを剽窃といひ、出版法ではどうか、 著者としてはあるまじいことなのである。小泉はこの日あるを知ってか、わたしには云はず、著者も他の名としてゐたのを、少尉は調べあげて対決しに来たのである。 「あやまりなさい。それでも日本人か」。少尉は声を高めたが、小泉は終始答へない。 わたしは代って部下の監督不行届のわびをいひ、今後絶版させるといって引きあげてもらった。これまで支部長の席に坐ってゐた小泉は、これ以後はそこに座るのを止めたが、 礼もいはれなかったし、わびもしなかった。わたしも不行届で発行所にゆき絶版にするやう手続もとらなかった。南洋ぼけといって何でもルーズになるのである。もう八月も終りであった。 わたしの南洋住ひも半年にならうとしてゐたのである。  17 プアサはアラビア語のラマザンでイスラム教徒は日中は飲食しない。この一ヶ月つづいてゐたのであるが、わたしたちはあまり気がつかなかった。 宣伝班支部のイスラム教徒が通訳と女給仕のロハニの二人だけだったからかもしれない。しかし8月29日にこのロハニがジャバ料理をもって来て、けふはブカ・プアサ(お正月)だといった。 わたしは礼をいってこの御馳走をちょっと食べたあと、お祝に金をやったやうに思ふ。 その夜はメダン駅前の公園で催しがあるといふので行ってみた。インドネシア人も華僑もみな来てゐて、露店が出てゐる。例の華僑の富豪の息子張世良はインドネシア人の女をつれてゐて、 わたしにこれを恋人だと紹介した。そのあと前に述べたカレンダーのことで役所に来た楊老人がぜひお祝にといって、わたしにビール一ダースを渡した。 わたしはけちな華僑のこのしぐさに吃驚して受取り、そこらにゐた知合に配ったあと、自分もちょっと飲んだ。そのあと空腹なのに気づいて、近くにゐた新聞社の支局長に 「ビンジェイへ焼きそば(ミー・ゴリン)を食べにゆきませうや」と誘った。 支局長はたちまち賛成して車の方へ歩いた。ビンジェイはメダンから22キロ離れた町で、ここも今夜は賑ってゐるであらう。わたしのあとには支部の写真技師森武二郎君がつづき、 助手席には支局のボーイが坐った。 車は平坦な道路を時速120キロで走ってゐた。窓から入る風が快く、わたしはたちまち眠ってしまった。 目をあくと、わたしの前に三木上等兵と漫画家の松下紀久雄君とがゐた。シンガポールから来たのださうである。わたしは大喜びして 「メダンの市中を案内しよう」と松下君に申し出た。 松下君は三木上等兵と顔を見あはせ「まあまあ」といって、忽々と立ち去った。 見まはすとわたしはベッドにねてをり、枕許にはま新しいパンツが一枚おいてある(25年たって、当時のメダン軍病院の看護兵を探し出し、訊ねると、 わたしには数へ切れないほど見舞客があって、その置いて行った見舞品をわたしはみな看護の衛生兵にくばって歩いたさうである)。 わたしかパンツをはきかへると、丁度すがたを現はした宣伝班支部のジョンコス(ボーイ)のアブに 「一緒に出よう」といひ、そのまま百メー卜ルほどある芝生を横ぎって通りをゆく馬車を呼ひとめ、南にゆくことを命じ、ベラワン通りから東にある華僑の町にゆき、馬車から降り、 アブと一緒に焼きそばを食べた。熱帯の日は暮れ易くもうまっ暗になってゐた。わたしはまた馬車を呼びとめ、宣伝班支部に帰った。そこには各新聞社の人がみな集まってゐた。 わたしはふしぎに思ったが、わけがわからないので、何かいって自分の室へ入らうとすると、同盟通信社の田浦支局長が 「田中さん、病院で心配してゐるから、一度帰ったらどうですか」といった。 わたしは素直に「なるほど」といひ、たぶん田浦支局長の車に乗せられて病院へ帰った。 それが何日のことだったか、わたしにはわからない。わたしはビンジェイの手前で自動車が河原に転落し、森君と二人、入院したが外傷はなかったが、 家族のことを問はれて妻の姓名をデタラメに答へ、おかしいといふことで入院さされたのださうである。 それから数日(わたしの31回めの誕生日がその中に入ってゐる)わたしの言動は全く記憶がない。この時、診察に当られた久米軍医が三鷹市に開業しておいでのことを知って、わたしは妻と訪ねて行ったが、軍医は二十数年前の患者のことは全く忘れておいでだった。 わたしの記憶はこのあとしっかりしてゐて、わたしの病室の北側の扉が閉じられ、南側に並んだ二室に入院してゐた浅井中尉と松岡中尉とがわたしとよく話してくれるやうになった。院長の命令でわたしの看視をしてゐられるとは少しも気がつかなかった。 浅井中尉は慶応出身の将校で、ブキテマで戦死した毎日新聞記者の柳重徳氏を弔ったわたしの詩を見て、同級生だったといって喜ばれた。 さてかうして日をすごす内、9月15日にやっと退院の命令が出た。あとで聞いた話では、相変らず言動がかはってゐるとの軍医さんの意見に対し、 「いつもさうですよ」と田浦さんがいってくれて退院が許されたのださうである。この意見具申がなければわたしはいつまでも精神異常として入院したままになったらう。 ともかくわたしは早速、師団司令部へ行って参課長に退院の申告をした。 しかし実はわたしはまだ異常だった。宣伝班支局の椅子に坐って通訳と話すとき、英語が旨く出ない。通訳に 「わかるか」と訊ねると彼は「わかりません」と答へた。 それはまだよいが夜になると怖くてたまらず、室の鍵をしめ、軍刀を枕許に立ててやっと眠った。 三木上等兵に内緒でそのことをいふと、 「あんたはいま恐怖症ですよ。怖い人の前ではちゃんとしてゐるぢゃないですか」 と教へてくれた。なるほどと感心して、その夜から怖くなくなった。しかしわたしの異常はシンガポールまですぐ伝はったやうである。 北川冬彦さんの小説「悪夢」にはちゃんと、田中は「気の毒に自動車事故で頭を打ち気が変になった」と書かれてゐる。 いまでもわたしの言動は変ってゐるさうである。自動車事故のせいならよいが――。 わたしのスマトラ滞在は10月12日べラワン港乗船で柊り、同時に仕事はなにも与へられなかった。スマトラでのことで忘れてゐたことを教へてくれたのは草下英明氏で、 その昔「星座手帖」(昭和44年、社会思想社刊)に「南を思ふ」といふわたしの詩が載ってゐる。 印度洋のぞみし夜の 空ゆくは老人星(カノープス) 南十字の四つの星 ケンタウルス座 星映せし海によすがら こだませし珈排摘む唄 といふのはまちがひなく、スマトラの唄である。しかしいつ作り、どこへ発表したものやらご存じの方はお教へ願ひたい。(了) 田中克己日記 1943-1945 昭和18年 1月 1日~昭和19年12月31日  本冊画像PDF 21.1cm×16.5cm 横掛ノート(fairfield girls' school singapore exercise book)に縦書き ノート  田中家系図  昭和17年1月、陸軍徴用員の第2陣として、田中克己は、北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線の後方へ派遣され、丸一年をシンガポール、スマトラで過ごします。 (参考文献『悪夢』)  宣伝班の一人として、戦勝気分に湧き立つ現地で英字新聞の編集や映画撮影班に同行し、詩嚢を肥やして年末に帰還するのですが、 留守中に刊行された第三詩集『神軍』が版を重ねたこともあって、 帰国後は一躍戦時ジャーナリズムから原稿を依頼される「売れっ子詩人」として迎へられることになります。保田與重郎から、 帰還作家はみなお前みたいやと揶揄されたのは「南方呆け」と云ったらいいのか、神経衰弱に悩まされながら、このあと詩人はあくまでも東洋史学者として身を立てるつもりで居りました。 恩師和田清の伝手を頼り、研究機関(亜細亜研究所)に入って再び研究に没頭しようとするのですが、求められるまま時の詩人として、皇国史観にのっとった時事的な詩を書き、 新聞誌面や放送原稿に躍った活字の数々は、のちのち旧帝大の象牙の塔から排斥される理由となってしまひます。 ここに挿入された放送用原稿は以前「稀覯本の世界」管理人様が、私のために偶々古書店より入手して下さったもの。思ひがけなく手に入れた実証資料として掲げました。  詩人と東洋史学者との才覚を結合させた、のちに田中克己の文業の中心を彩ることになる中国の詩人評伝シリーズの最初の一冊『李太白』が企画されるのもこの年のことであり、戦後左翼詩人として名をなした赤木健介(赤羽尚志)がその出版を周旋し、 度々日記の中で会ってゐることなど、コギトのグループでは肥下恒夫は措いて、保田與重郎よりも竹内好と頻繁に交流を続けてゐることなどと共に、私には意外な一面でありました。  そんなさなかのことですが昭和18年9月、私生活では生涯の悲しみとなる、可愛い盛りの次男梓の突然の死が夫妻を見舞ひます。 発病の直前まで何も知ることのない日記の文字をたどりながら、ひきつけに驚いた朝から二日も経たずに子供を死に追ひやる疫痢の恐ろしさ、 いつ記されたのか後に『悲歌』に収められた詩篇「哀歌」のなかでも回想される後悔の言葉が書きつけられてゐますが、さしたる筆致の乱れはなく、 翌日以降の記録も坦々とつづられてをり、翌年夏には、今度は長女が疫痢かと入院騒ぎする一幕がありますが、何とも言へない気持にさせられたことでした。  日常生活で、銭湯、花札、散歩の連れとして頻出する筒井護郎は、戦後、住吉区長になり、長く住んだ吹田市に歴史関係の蔵書3900点が寄贈され、吹田市立図書館に筒井文庫としてまとめられてゐる人です。 詩人が神経衰弱の末に発作的に思ひ立つ旅行にも同行するほど気の置けなかった教へ子だったやうですが、やがて入営で去ります。  彼に代って頻繁に田中家に出入りするやうになるのは、南方で知り合った詩人の卵、大垣国司。彼も日記の最初から登場し、親しむに従ひ「大垣国司氏」「大垣国司君」「大垣君」「大垣」とやがて呼び捨てにされるほど詩人と近しく付き合ふ関係に至ります。実際、家族が疎開中の留守宅に彼が住んで守ったやうですが、 応召を控へて一旦は諦めた見合話が、内地勤務とわかり再度薦めるも破談した彼の出来事として、ここにはその原因か、はたまた結果としてなったのか、不吉な最初の発狂と入院のことが記されてゐます。  日記はいつ誰それとどこで会ったなどしか書いてないことが多いのですが、留意すべきはどんな呼称で認められる間柄であったのかといふことです。 呼び捨てにされてゐるのは、家族・親戚、教へ子のほかは高校時代からの気安い同年輩関係者に限られます。「コギト」同人では年嵩は先輩であるはずの伊東静雄が呼び捨てにされてゐるのですが、 一目置くライバルとして嫌な感じはしません。面白いのはさきにも記したやうに評価が変ってゆくことで、私生活に直結する身分のために「白鳥先生」が「白鳥所長」になる場合もあれば、 人柄に狎れた結果、あるひは人物評定に従って、たとへば中河與一の場合では「先生」から「中河与一氏」「中河さん」への変り様です。  この「文芸世紀」の主宰者については、戦後影山正治と対談した際にもオフレコで触れられたやうであり、影山氏が自著中に中河與一を批判する痛烈な一文を草してゐますが、 詩人が当初「天の夕顔」で抱いてゐた清廉なイメージを裏切られ、その人間性を毛嫌ひするに至ったことは私自身も直接お聞きしました。 (また戦後、そんな人間との対談に応じて本にする保田與重郎の気持がわからないとも。)日記では「文芸世紀」からの脱退を表明してゐますが、徴用中の中島健蔵に対する感情と同じく、 私生活において政治を弄する人物を嫌ったやうです。  反対には第二詩集『大陸遠望』を献じたところ叱責され、以後敬遠するやうになったといふ蓮田善明の皇国史観には、 自分のさらに上をゆく神がかりに惧れをなしたもののやうです。手紙としてではなく歌稿を彼に送り、「文芸文化」に「のるかのらぬか知らず。」などとわざわざなコメントを記したりしてゐるところに、 そんな消息が表れてゐます。  さて昭和19年に入ると、戦局は一向に好転せぬなか、箔付きの皇国詩人として相も変はらず原稿の依頼が舞ひ込む詩人には、 天狗にでもなったのか持ち前の「疳癖」が存分に発揮されることとなり、その苛立ちたるや日記を見る限りにおいて、もはや尋常ではありません。コギトの発行人で親戚筋でもある肥下恒夫や、 高校時代から東洋史学の志を同じくしてきた同僚の川久保悌郎といった、謂はば日頃一番気安く交はってきた旧友を見下すかのやうに、次々に絶交を言ひ渡し、 職場におけるスタッフ人事への不満と確執もあらわに、辞職を申し出、その研究所から壮大な叢書の出版を構想しては白鳥所長にあしらわれ、 ふたたび復職を願ったりと「躁状態」は深刻です。愛児を亡くし、千恵子を失った高村光太郎と同じく心の空ろを埋めるべく尽忠報国の没我状態に陥って行ったのかもしれません。 温厚な恩師である和田清から「田中は変った」と、周りに漏らされるだけでなく直接本人にも「君、右傾したね」と、卒業以来の変身のさまに溜息をつかれてゐる条りなどは印象的です。  もっともそれをそのまま日記に書き記してゐるといふ、客観性も同時に認められるわけであり、なかでも堀辰雄と「四季」文 化圏の存在は詩人にとって護るべき「オアシス」で在り続けてゐたやうです。先輩詩人では同じく戦争詩を書きまくってゐた三好達治から、従軍詩集『南の星』 の刊行を斡旋してもらったり、また日本歯科医学専門学校まで歯の治療に通ふついでには、当時「郷土詩」に専念中だった北園克衛を訪ねたりしてゐます。が、 その他に日記に登場するのはおしなべて若手の抒情詩人たちばかりで(薬師寺衛、小山正孝、新藤千恵子、堀口太平、塚山勇三、木村宙平、鈴木亨、山川弘 至…)、半ばは戦地にあった彼らとの交流は、所謂戦意高揚のジャーナリズムとは無縁であったやうに思はれます。堀辰雄邸で「四季」の終刊が裁定される現場 や、津村信夫の告別式に立ち会った様子は後年文章にされてゐますが、未完に終ったものの面識の無かった中原中也の選詩集の企画が青磁社であったことなどは 今回初めて知りました。  さて、この昭和19年に刊行されたのが、『李太白』の評伝と、従軍詩歌集『南の星』。  『李太白』については前年から編集に関ってきた赤羽尚志氏との縁が、刊行とともに突然切れてゆきます。 仕事として本が出来るまでは親しく付合っても、詩人赤木健介として戦時中も抵抗詩を書き続けてゐたわけですから、遠慮がなくなった時点で一旦意見の相違が表れたら蜜月から絶交に至るのは早い。 一緒に旅行に行かうと誘ってくれまでした人でしたが、思へばふしぎな邂逅です。詩人は戦後の『李太白』再版の際にも出版経緯に彼のことを書いてをり、 それは左翼抵抗詩人として生涯を貫きたかった彼にとっては、謝意といふより黒歴史の紹介になったかもしれません。この評伝はしかし類似書の未だ見当たらなかった当時、 日本評論社から19冊出された「東洋思想叢書」のなかでも武田泰淳の「司馬遷」と並んで出色の一冊であったらしく(古書肆山本書店主山本敬太郎氏談)売れゆきもよく、 戦時色もなければ戦後にも再版されることになり、後の中国詩人評伝評釈シリーズ(白居易、杜甫、蘇東坡)の雛形になりました。 (付記:戦争末期の叢書といへば、詩集では湯川弘文社からの「新詩叢書」が特筆に値しますが、田中克己は南方に派遣された神保光太郎などとともにラインナップには与ってゐません。 これを企画した紳士竹中郁からの手紙に呼び捨てで一言「いやらし」といふコメントを記してゐますが、どんな内容の手紙だったのでせう。そのうちの一冊、 律儀な田中冬二から寄贈された詩集「菽麦集」については、いつもの赤川草夫の古書肆へ売るのではなく旧友に送ってしまったことを考へ合はせるに、 やはり屈折した思ひが窺はれるのではないでせうか。)  一方の第四詩集となる『南の星』は、開戦前の作品が多くを占める第三詩集よりもむしろ『神軍』の名に相応しい内容であり、 前述したやうに三好達治の斡旋によって創元社から刊行されました。詩想の結晶度をいふなら、詩人にとってこの一冊こそ黒歴史だったに違ひありませんが、 装丁だけは色彩朗らかで愛らしく成功してゐるかと思ひます。それが編集に当った創元社社員柴野氏の長女の幼児絵であることが日記に記されてゐます。亡き次男を思ひやる感傷を、 装丁の上にそれとなく重ねたのは編集子の配慮であった可能性があります。  とまれこの『南の星』、大東亜共栄圏構想の只中にあって皇国史観を奉戴する詩人の偽りなき姿を、自身の解説をたっぷり付して戦争詩史に刻印した極め付きの一冊ですが、 その原稿をまとめるべく、開戦当初の戦捷気分・南方でのなつかしい軍属生活を偲ばうにも、すでにこの当時、日々戦地から届いてゐたのは、アメリカ軍の本格的な反攻のニュースであり、 生活を圧していたのも亡児のことだけでなく、増田晃の戦死広報、竹内好の出征といった知友をめぐる粛然たる緊迫ムードであったことが分ります。 やがて本土空襲に関する報道・警報も流れはじめ、共栄圏の成立を前提に関係諸民族の文献的研究にいそしんできた南北アジア研究所も、関係者のだれもかれもが応召しゆくなか、 もはや研究どころではなくなってゆくといふ有様でした。  前にも述べた研究所内での確執も、川久保悌郎など詩人の性格を知る旧友とは復縁も簡単だったやうですが、日記中に何度も取り沙汰される鎌田重雄や、 新人である村上正二に対する人物評が辛いのですが、当否はともかく村上氏が後年モンゴル史の碩学として大成したことを考へると、 後輩に厳しい融通の利かない皇国史観の先輩の先行きが、なんとなく暗示されるやうな気もいたします。  ともに南方に派遣された中村地平には『南の星』への序文を依頼するものの引き伸ばされ、 疎開先から送ったとの嘘に憤ってもゐますが、世故に長けた先輩作家たちが集まる文壇では当時、程度の差はあれウルトラ右翼の蓮田善明同様に敬遠されてゐた口だったかもしれません。 南方にも同じ軍属として従軍した井伏鱒二とも、その後長く阿佐ヶ谷にあって生涯縁がありませんでした。  小高根太郎と語らひ、旧友薄井敏夫のコネで(徴兵・徴用逃れのための?)工員の口を探さうとして、同じ旧友の羽田明からはたしなめられたりもしてゐます。  しかし結局肚を固めると、研究所のために資料の収集に奔走、最後まで東京に残ることを決意。町内ではただ一人残った壮丁として荻窪警防団副団長に任ぜられ、 昭和二十年の終末的な空襲生活へと突入してゆくのです。  古本資料の抱き合せ販売に怒り、和田先生に学報の出来をほめられたのにクサり、妻をしかりつけ、後輩をしかりつけ、 敷島特攻隊の出発に涙し、硫黄島の玉砕に悲憤し、中島栄次郎応召、肥下恒夫応召、堀辰雄氏また恢復困難の噂のなか、昭和20年、3月10日、 「満月の夜の如く明るい」大空襲を郊外から目撃・・・翌々日に恩師が愛弟子たちへ「あく迄生きのびよ」と宣った訓示を書きとめた条りが印象的です。  しかし帰宅した詩人にその日届いてゐたのは、召集を知らせる故郷からの一通の電報でした。  よもや35歳・体重40キロ・家族持ちで、軍属として遇せられた経歴も誇るインテリの自分に、一介の二等兵として召集令状がやって来ようとは。 このとき腸結核の疑ひのある病臥中の保田與重郎も同じく徴兵されてをり、軍事政権に批判的だった懲罰の意をこめたものと解されてゐますが、 果たして戦時中の詩人を指して亢竜と呼ぶに値するものだったかどうか。京都の両親に遺書に等しい書置き「お願ひ種々」を遺して出征。日記は3月16日を以て擱筆し、 その後、一ページの白紙をはさんで、無事帰還を果たした昭和21年2月の記事から再び書き継がれて参ります。 昭和18年 二千六百三年 1月1日 9:00ラヂオの指探いて宮城遥拝。17:00野本憲兵少尉来訪。観兵式には近騎の旗手たる予定と。「先生、南洋ぼけの徴候あり」と。19:00まで話して帰る。 この日、史、梓、依子(※長男、二男、長女)みな風邪。夜、ジャワなる田中一郎、昭南なる田代継男、スマトラなる本荘健男への三通の年賀状書く。 書信は池内宏、石浜純太郎二先生より帰還を祝すとの旨なり。(※文士徴用の第二陣として前年1月~12月、南方戦線後方に派遣) 田中克己 1月2日 10:00肥下恒夫を訪ね、14:00阿佐谷にて別る。帰途「宝庫スマトラ」と史への絵本購ふ。「宝庫スマトラ」は我がスマトラへゆく日、その地に関する唯一冊の日本書として携帯し、 いまはメダン朝日支局にある辻森民三「宝庫スマトラの全貌」の改訂本なり。この日父より来信。  男の子かへり女(め)の子とつぎてわが心傾けしことなりし安さよ  風はあれど晴れし朝かもみ祖らのみ墓掃ひてけふ年暮るる 家妹、昨冬十二月十日結婚。母二日間泣きつづけしとなり。 1月3日 朝、来信二通。一は齋藤茂吉先生より帰還を祝し、今後の仕事を励まさるる旨、一は我が征途、船中親しかりし鉄道省教師小谷秀三氏留守宅より。氏が帰還後、 八月再び比島、司令官として赴かれし由。氏が船中撮られし吾が写真(※)(口髭生やし居り)は好個の記念としていまだに掲げあり。 戦時相会ふことは難きかな。他に「文芸台湾」新春特別号、大東亜文学者大会特集なり。松風子解説の「わかれ」と題する詩、美し。午過ぎ速達にて平野義太郎先生より、 「太平洋」の昨年及び正月号、計十一冊を賜はる。この日、これを読みて二時まで眠ることを得ず。 1月4日 10:00起床。元気なし。午過ぎも松井保治君来訪。14:00頃帰去。折返し堀口太平君来訪、17:00頃退去。 本日[●]間保治君より来信。同君は昭南にて新聞協会にわがありし頃、世話になる。 1月5日 睡眠不足のため終日家居。夜、大阪中央放送局佐々木英之助氏より速達あり。 この日昼、昭南より回送の手紙。和田清先生、保田、[●]原の村田幸三郎、愛知県西尾なる石川住太郎君、及び小高根二郎の入隊挨拶なり。石川君はメダンにて上等兵として真面目なる兵なりし。 1月6日 終日家居。昼、飛行機多く飛ぶ。 1月7日 朝、大阪放送局へ朗読用の詩二篇を送る(※不詳)。けふコギトの会なれど到底出席し難きを以て、肥下宛断り状を家人に書かしむ。来信。堀口太平氏及び家父より。家父の歌。  戦捷の文字をことしも書き継がむ年のはじめのこの誓ひかも  い並びて誰者と祝ふ人の数ことしは足らず輪飾りの下  めでたしといひ交はしつつ何かしらわれはさびしゑ老いにけらしな  うれしきはわがうまざらし東よりはろばろ来とふ春のおとづれ 15:30肥下来り、17:00よりの上野翠松園なるコギトの会に出よとなり。「シンガポール攻略」の詩渡せしのみにて断る。神経衰弱(恐怖症)なること明らかなれば致方なし。 1月8日 終日家居。昼、陸軍始めのため飛行機数百台飛ぶ。昼頃、桑原武夫氏より隲蔵先生(※桑原隲蔵)の「考史遊記」を贈らる。夕方、筒井護郎(※浪花中学時代の教へ子)来る。 浪中の岡坂、吉村共に死せし由。19:30常会、いやらし。早々帰宅。筒井と24:00まで語る。 1月9日 昼過ぎ石神井に稲垣浩邦を訪ねしも不明。松本善海を訪ぬれば出勤。帰宅後、竹内好来訪。「賽金花」を持参。長尾良より来信。 1月10日 終日家居。15:00白鳥清先生来宅され、研究所をつづくべしとなり。本日来信、竹中郁より。いやらし(※おそらくは湯川弘文社にて竹中郁が企画中の新詩叢書についてか、詳細不明) 1月11日 終日家居。雨、来信JOBK。佐々木英之助氏より詩五篇(※→)を求むるなり。 詩五篇 1月12日 終日家居。午前中、柏井昇、満洲大石橋へ帰るとて挨拶に来る。平野先生に電話。十六日14:30太平洋協会で会。 1月13日 午前中家居、16:00川久保悌郎来り、今夜19:00学士会館にて第二百回東洋史読話会ありといふに、彼を誘ひてゆく。幣原坦先生の紅葉、漱石、子規の思ひ出話、面白かりし。 1月14日 午前中、小高根太郎来る。16:00頃までわが話聞きて帰る。 〒父より。夜、田代継男君の夫君より速達、妹君結婚に付き十八日以後に訪へとなり。十九日午後と決む。 1月15日 午後、山川弘至君来る(※最後の来訪)。〒 赤羽尚志氏(※赤木健介[伊豆公夫])。十九日午前中来訪との由。 夕、速達平野先生より。満鉄の会二十一日とのこと。「現代」より詩依頼あり。締切二月五日。〒父へ。田代覚一郎氏へ。 1月16日 久し振りに調髪。13:30大毎(※大阪毎日新聞)へゆき、篠原氏に相山氏撮影のガ[●]の写真託す。14:30太平洋協会へゆき「北スマトラの民族」の話をす。 平野義太郎先生、満鉄田中清次郎氏、幼方直吉、小野忍氏等、聴講中にあり。予の分すみて「ガダルカナルの民族」の話あり。この頃、野原四郎氏来る。 終了後夕飯いただき、野原、幼方氏らとお茶のみて帰る。この日、若林つや女史に会ふ。〒田中英男、杉森久英、二氏。 詩五篇 1月17日(日) 来訪者多し。小山正孝、鈴木亨、二君。稲垣浩邦君遂に来る。明日結婚式との由。堀口太平君詩集をおきて帰る。川久保夫妻、鷺宮の新居を見にの帰途立寄り、いまの家へ入らぬかと云ふ。 稲ちゃん最後まで残りの酒のみ、あす結婚といふ。 1月18日 13:00東中野日本閣での稲ちゃんの結婚式にゆく。ほんとの親戚のみ。義兄弟の約束履行されしことになるも耐らず乾杯の後退去。保田の新居を訪ふ。帰還作家すべて我のごとしとなり。 〒坂入充子氏、咲耶、藤田福夫 ―― 新谷太郎博士となりし由。 1月19日 風邪の為、田代氏へ電報打ちておことわりす。夜、報道部佐々木克己中佐のラヂオ講演を聞く。慄然。〒天川勇司より。 1月20日 午後、肥下を訪れ、即時帰宅。本日風邪やや良し。〒なし。珍し。 1月21日 朝、平野先生より電報。筒井来り、昼飯食ひて話す。17:00日比谷山翠楼の満鉄の会にゆく。わが歓迎会なり。平野先生、幼方、小野忍氏の外、信夫清三郎氏、松本、川久保。 すみて三人にてレモン茶のみ別る。けふ父より手紙。 1月22日 朝より「好逑伝」(佐藤春夫記)を読む。夜、塚山勇三君来る。風邪殆どよく、恐怖症もまた大分良し。〒なし。 詩五篇 1月23日 午前中、中尾光子氏へ手紙書き、桑原隲蔵先生の「考史遊記」読み、15:30浦和市別所東一ノ一三八五 田代覚一郎氏を訪問。次男なる継男君のこと話し、 17:00辞去。 〒谷川新之輔、中尾光子。JOBKへ断り。 1月24日(日) 15:00頃、野本憲兵来り、夕食後、本五六冊借りて帰る。軍内配給の菓子多く呉る。20:00頃筒井来り、22:00頃帰る。 〒速達ぐろりあ(※ぐろりあそさえて)より明日長尾良の会(※『地下の島』出版記念会)ある旨。昭南より廻送、田中三郎、父、美堂正義。この夜不眠。 1月25日 14:00肥下来る。長尾良の会への断りたのむ。船越章、出発まぎはには遺言めきしこと云ひし由。〒咲耶。 1月26日 終日家居。〒JOBK佐々木英之助、赤羽尚志。夜、筒井来る。〒赤羽尚志、咲耶。 1月27日 10:00稲垣浩邦を家に訪ひしに若松惣一郎氏を訪ねて不在。12:30肥下を訪ね、「スマトラにて」を渡す。帰途、「史記列伝」三冊を購ふ。〒西阪修の展覧会ある由。 夜、筒井、野上(※弘)と同伴し来る。佐々木英之助より電報。 詩五篇 1月28日 〒「新文化」「文芸世紀」より、ジョホールバールにありし江本義男氏より、今ハルピン近くにある趣。 12:30千草、子二人を連れて来る。14:00伊藤信吉氏来訪。萩原先生の全集のパンフレット原稿につきてなり。〒四季、赤木仁兵衛の会、ともに断る。 夜〒赤羽尚志氏より。三十日に来るとなり。 1月29日 終日家居。昼すぎ筒井、南京豆一缶を持来る。〒堀口太平、伊東静雄。〒伊東静雄[へ]。 1月30日 昼前、赤羽尚志氏(※赤木健介)来訪。李白伝(※日本評論社刊行)は延して貰ふ。 その著書「路程標」に野村として我のことあるを贈らる。〒新文化よりの詩依頼断る。 1月31日(日) 稲垣来る。明日富士スタヂオにて試写する由。約束す。 堀辰雄氏来訪。「橋と塔(※濱田青陵著)」贈られ、「食後の唄」返却さる。 2月1日 午後、豊島園の富士スタヂオにゆく。感光過[取]とフィルム古すぎるため映り悪し。ほぼ三分一を見終り、池袋にてしるこ、コーヒーを啜りしのち別る。夜、 筒井来る。この夜不眠。 〒田中冬二詩集(※「橡の黄葉」)。伊藤信吉氏より催促。 2月2日 昼すぎ肥下を訪ねんとゆくに途中にて長野に会ふ。大本営報道部のこと断る。赤川の店にて「暮春挿話(※佐藤春夫著)」買ふ。長野と別れんとするに丸の細君に会ふ。 十月来より肺にて臥床の由、見舞に行く。帰りて夜、筒井、餅と羽田亨「西域文明史概論」とを持参。この日より鎮静剤ブロームカリ飲む。〒赤羽氏より土岐善麿「高青邱」 1943 singapore 2月3日 夜、降雪。昼になれば冷雨。午前中、萩原さんのこと書き、伊藤信吉に送りしのち「恋愛名歌集」に皇室関係のケ処あるを見、削除を勧告の速達出す。〒赤羽尚志。 2月4日 JOBKのために詩五篇(※シンガポール攻略→)送る。夜、筒井氏と野上弘と来り、22:00頃帰る。〒森亮。 2月5日 けふ来客多し。長野先づ来り、仏語辞典もちゆく。川久保来り、羽田上京中なる故、七日の日曜会せんと云ふ。その日午前中に我より連絡とることを約す。 日塔聡氏、明日の四季の会に出席をすすめに来るを断る。 2月6日 けふは肥下を訪ねしことはじめに、都合悪く、中河与一氏も留守。小高根を訪ね新細君を見、帰宅の途、夕食に窮し、出ざる筈なりし四季の会にゆく。新藤千恵子、門口まで来る。 けふの出席者。堀(※辰雄)、丸山(※薫)、阪本越(※郎)、呉(※茂一)、森亮、津村(※信夫)、沢西(※健)、神保(※光太郎)も来る。ブロームカリ飲みて眠る。 2月7日(日) けふ川久保の処に時間をききにゆき、羽田の会にゆく筈なりしも、昨夜不眠の為、たまらず筒井を呼びて共に荻窪より乗車、塩山鉱泉にゆき安眠す。 2月8日 8:00塩山温泉を出、甲府着。市中見物の後、鱒飯を食ひ、見延線にて富士着。三島より修善寺行の軌道にのり、途中長岡下車。温泉に宿を求め安眠。 2月9日 筒井と10:00頃までに修善寺にゆき、頼家墓を見、ここより沼津までのバスにのる。一時間半かかる。15:00頃、筒井帰京。我は西下、18:00頃浜松にて下車、宿に入る。 2月10日 浜松にけふも居る筈なりしも午後天龍川まで散歩せし後、汽車に乗る。立ちつづけにてたまらず、途中下車。入館夕食。風呂、湯タンポにて熟睡。 2月11日(紀元節) けさ目覚めてより聞きしにここは岐阜に非ずして大垣なりと苦笑。八時すぎの汽車にて12:00すぎ大阪着。田辺へゆく。夜まで父帰らず。林叔父(咲耶は17:00帰宅)、建、大と祝餐。 2月12日 午前中、大阪高校にゆき、桑原(※武夫)、五十嵐(※達六郎)、野田(※又男)の諸教授と会ひしも、全田、本庄二氏には会へず。住中にゆきて伊東(※静雄)氏を呼び出し、 立野継男君(立野利夫の兄?)の店に話し、それより北畠西一丁目の本荘健男少尉の家を訪ね、祖父君母君とスマトラのことを話す。16:00地下鉄戎橋北口にて三教授と会し、 堂島の料理屋にて飽食。 その後南地の芸妓屋にて話せし後帰る。 2月13日 けふJOBKに電話せしに五篇の詩十五日に放送せざるとわかり断ることと決心。午後咲耶の夫阿野岑夫君と初対面。五の日祖父の命日とて和尚来り看経。父は丹波篠山へゆき、 我と岑夫との聴経とは奇縁なり。夜、立野君のところにて中島(※栄次郎)、伊東(※静雄)、山田(※鷹夫)、立野(※立野利男:磯花左知男)の五人にてコギト大阪の会。松田明を呼ぶを忘れし。夜、不眠。 2月14日(日) 林叔父の所にゆき向ふの話。その後、全田の叔母来る。この夜も不眠。 2月15日 10:00阪和府中より咲耶の嫁ぎ先、泉北郡北松尾村内田の河野家にゆき、15:30田辺着。16:00ここを立って京都にゆきしも羽田を訪ねられず、宿も取れず、大垣に下車せしも宿不快。 次の急行にて帰京と決め、終夜不眠。 2月16日 7:00東京着。荻窪よりトランク一ケ持ちて帰宅。昼寝、夜寝併せて十四時間位。 2月17日 13:00まではJOBKと月刊文章への断り状書きしのみ。肥下を訪ねしに演習とて二〇分の対話ののち赤川訪ねしに留守。筒井と阿佐ヶ谷を散歩して就寝。 留守中、野長瀬正夫氏来訪の由。 2月18日 坂上田村麻呂(二百五十枚)を書きしことを野長瀬氏と約す(11:00来訪)。13:00徒歩にて上石神井の稲垣君留守宅訪問、帰宅夕飯後、肥下を訪問。 21:30筒井と銭湯にゆく。本日丸山薫氏より「ヤシノミノタビ」、伊藤佐喜雄より「不知火日記」を貰ふ。保田、平田内蔵吉、辻森秀英へハガキ。朝日夕刊に松下紀久雄の二重橋結婚記あり。 2月19日 昨夜も寝にくかりし。午後荻窪へ散歩、佐藤春夫「杏の実をくれる娘」と岩村忍「蒙古の欧州遠征」を買ふ。けふはじめて昭南より便りあり、坂入喜之助君より也。 吉野弓亮も内地へ帰り居るらし。坂入君は南へゆくと也。ニューギネアでもかと。 2月20日 10:00赤羽尚志君「交響楽第九」を持ちて来る。ともに市内にゆき、先づ古田篤君の父母と話す。海苔五十枚をいただく。中央公論の藤原氏を訪ねしに留守。 毎日新聞の前で、若松惣一郎氏に会ふ。訪ねし桐山、藤原繁雄二氏ともに不在。ぐろりあにゆき「楊貴妃」二冊と「掬水譚(※佐藤春夫著)」一冊とを探る。 帰宅後伊藤佐喜雄「不知火日記」を読了。筒井と銭湯にゆく。 2月21日(日) 午前中、川久保君を訪ぬ。白鳥先生御病気との由。午後、大垣国司君来訪。松井保治君も来訪。大垣君とは昭南以来なり。バターを貰ふ。 2月22日 午前中、渡辺曠彦君来る。詩集を出せよとなり。午後、白鳥清先生(※白鳥庫吉婿)を御訪ねせしに風邪全快登[校]されしとなり。帰途回教圏研究所にゆき、 竹内(※好)、野原(※四郎)、鈴木朝英の三君と話す。ここにHurgronjeの「アチェ族(※The Achehnese)」あり。17:00頃帰宅。 2月23日 10:00より史の小学入学前予備検査、判定、力のみB、身体検査で泪しとなり。留守中肥下来り保田の所へゆきしといふに追掛けて到りしも已に居らず。六国史三冊と東洋史説苑と取りて帰る。 2月24日 昼すぎ、肥下来り、全田叔父上京、学士会館にゐるとのことに、訪ねしも不在。17:00まで神田を散歩す。アトキンソン「キルギスよりアムールへ」と羽原又吉「アイヌ社会経済史」を購ふ。 本と喫茶、食事にインフレの兆濃し。17:00叔父と会食。20:00肥下の宅へ同行、明日小金井の寮へ入る由。 2月25日 午前中、堀口太平君来訪。午後南アジア研究所にゆく。「マレー語文法」と「マレー史」と「ラッフルズ図書館書目」とを寄附す。夜に亘り二十四史講読会。 和田先生に北アジア研究所への復職御願ひす。「南北アジア学報(※北亜細亜学報、南亜細亜学報)」貰ひ帰る。寒気してアスピリンのみて臥床。 2月26日 筒井と晩餐をともにせんと云ひしに食後来る。叱責す。西川満氏「赤嵌記」受贈。信夫清三郎氏より「ラッフルズ書目」につき来信。 2月27日 伊藤佐喜雄の池谷賞「春の鼓笛」贈らる。午後肥下を訪ね、阿佐谷に散歩。留守中筒井来り、「東邦近世史 下巻」を探し来りし由。風邪やや軽快。史の教科書買ひ求む。 夕食後、川久保来り明日昼食に招待すと也。筒井も来る。 2月28日 昨夜よく眠れず。昼食に招待を受けし川久保の所へゆく。鷺宮の仙蔵院あたりを遠望して懐ふことあり。14:00帰宅。留守中、渡辺曠彦、美堂正義二君来りし由。15:00浅野忠允君来訪。 けふ来信多く、中に村田幸三郎よりの文なつかしく憐れなり。 3月1日 昼すぎ、渡辺曠彦君来る。詩集のこと断る。夜、筒井来る。「あけぼの」より原稿依頼あり断る。 3月2日 昼前、建、受験のため上京。目黒に泊る。会はず。けふ悠紀子叱責。 3月3日 午過ぎ和田賢代来る。筒井と荻窪に散歩「更生記」購ふ。夜、建来る。 3月4日 午後、肥下を訪ひしも留守。小学館の稲葉健吉君来訪。十日までに「少国民の友」に詩三篇を書くことを約す。昭南よりラジオ放送、田代継男君の声を聞く。けふ「二都物語」再読。 3月5日 堀辰雄氏を午後訪問。発熱とて臥床中なりし。仏訳漢詩と海苔三十枚とを贈る。それより中野清見君宅を訪問。この間の来訪を謝す。 夜、中野君来訪、「山の樹」同人堀田君(※堀田善衛)とやら来合わせ、23:30まで対談。 3月6日 午後、筒井来り共に荻窪、阿佐谷に散歩、「無名菓子」と増淵佐平「南方の宝庫」とを買ふ。 3月7日(日) 昨夜比較的よく眠る。朝JOBKより150.00送付。13:00頃、野本来訪。三月一日付を以て中尉に陞進とのこと。日本刀持ち帰り貰ふ(※徴用佩刀の返却か)。 夜、川久保来り対満事務局の50.00届け呉る。 3月8日 終日外出せず。昭南より廻送のハガキ、伊東静雄とスマトラ西海岸洲司長官矢野兼三閣下のとなり。昨年八月末メダンより送りしウィスキーの礼を云ひ、 書きつづく南洋日記 守宮(※やもり)鳴くの句あり。遥かなるかな。 3月9日 13:30起床、全く夜昼反対となる。丸三郎の病気を見舞ひ、赤川草夫氏を訪ねビールを御馳走になり帰宅。筒井と21:00頃まで話す。「少国民の友」の稲葉君来りし由。 夜、そのために詩三篇作る。(高円寺にて「蘭印踏破行」渋川環樹著を購ふ。) 3月10日 陸軍記念日。14:30起床。全く夜昼反対となる。終日家に閉じこもりて無為。 3月11日 午後、肥下を訪ねしも留守。けふ民族学研究二号、鴛淵一「満洲碑記考」森潤三郎「森林太郎」を購ふ.。山本治雄に送信。 3月12日 午後、南アジア研究所にゆく。16:30白鳥先生来られる。ここに明実録あり。明日より毎日之を読みにゆくこととす。帰れば昭南の西沢繁夫君より来信、なつかしや。 3月13日 南アジア研究所へ13:00にゆき、「明実録」を万暦帝より読み出す。15:30前に疲労耐え難し。16:00過ぎ帰宅。留守中筒井来りて明日帰阪を云ひし由。 けふ佐藤春夫「大東亜戦争詩集」を購ふ.。面白からず。夕飯牛鍋珍しと云ふべし。 3月14日(日) 9:30起床。睡眠不足にも慣れたり。19:00肥下を訪ねしにコギト三月号出来しゐたり。けふ父より来信。建、水産講習所の第一次に合格。十八日頃再上京との由。 本日、十二月三十一日を以て徴用解除来る。 3月15日 午後調髪。池袋までの定期券を買ひ、研究所へゆく。来信、昭南の古田篤君、及び元大高の野球部マネージャー細川宗平より。夜、コギト四月号のために詩と文章を書く。 3月16日 午後研究所へゆく。帰途学習院に清水文雄氏を訪ねしも会へず。来信、山本治雄より。 3月17日 午後研究所、白鳥先生来られ「守宮につき」お話あり。帰宅すれば建来り居る。本日池袋の某女より来信。スマトラなる兄に「楊貴妃」買ひ求めたしと也。 3月18日 14:00研究所へゆく。17:00帰宅。スマトラの斎藤武二少尉より来信。夜、古田篤君と斎藤氏に返信。「文芸文化」二十八日までに詩一篇とのこと。 「文芸文化」の蓮田(※善明)氏に歌五首送る、のるかのらぬか知らず。多田等觀「チベット」購ふ.。 3月19日 昨夜不眠のためけふは研究所休む。昼、近くの本屋にて鷹部屋福平「アイヌの生活文化」購ふ。「即興詩人」再読、涙を催すことあり。 3月20日 雨、終日家居無為。 3月21日(日) 14:00中野清見来り、ともに丸三郎を見舞にゆく。18:30辞去。けふ令女界より「海軍報道現実の云々」なる文求む、断らざるを得ず。夜、文芸世紀のために「別れの宴」を書く。 留守中、川久保来りし由。 3月22日 終日家居。小雨。夕方大阪より電報あり。建、水産講習所に合格の由。 3月23日 10:00東洋文庫にゆき榎一雄君より「蒙訳元朝秘史」貰ふ。岩井大慧氏に挨拶。東方文化学院にゆき松本善海と小話。昼食後、南アジア研究所にゆき一人明実録を見る。 夜、川久保を訪れしも留守。 3月24日 13:00研究所にゆく。白鳥先生、四月一日より出勤せぬかと云はる。わが返答拙かりし故、何となりしや知らず。岩波文庫「毛詩抄二」を購入。 16:30帰宅、父より建の在学保証人頼み来る。 3月25日 9:00川久保来りしも会はず。10:00頃より「昭南従軍記」書きはじめ、14:00来りし肥下に十六枚を渡す。「婦人日本」の野村尚吾氏より詩四月二十日までとの手紙来る。 赤川氏、来週火曜来訪の由。 3月26日 13:30研究所へゆく。三十分程、明実録を見しのち、渡瀬君と話せしのみ。夜、川久保君、対満事務局の五〇円持参し呉る。昭南より本到着せし様子とのこと。 けふ「婦人日本」に詩「わが僕婢よ」を送付。 3月27日 けふ研究所休む。朝より防空演習なれど悠紀子の労多きのみ。「新潮」の楢崎勤氏より四月六日までに詩一篇をとのこと。夜「昭南従軍記」書く。計三十七枚。 四月初め頃まで書けし。 3月28日(日) 雨、終日家居。第一書房より「国民詩」(二)送り来るを見ればわが詩「高原」巻頭にあり。新潮にとスマトラより送りしもの也。けふ新潮の為「赤色標」を書く。 3月29日 午後一時間計り昼寝す。無為、絶食なり。14:00千葉来る。林敏夫静岡高校へ入れし由。 3月30日 11:00赤羽尚志氏来訪。共に阿佐谷へゆき昼食。肥下留守宅へゆき速達受取りしに一月二十九日付け「新指導者」よりの詩依頼なり。本位田昇より来信。「神軍」見度き由。北尾鐐之助「淀川」、国訳漢文大成「詩経」を購ふ。入湯。 3月31日 明日より四月といふに寒し。家居。14:00堀口太平君来訪。16:00頃帰る。本位田昇に詩集とハガキを送る。スマトラの陸原実君にハガキ書く。従軍記四〇枚。 4月1日 11:00より学士会館にて白鳥庫吉先生追悼会あり。会者二十八名、中に和田(※清)、羽田(※亨)、鳥山(※喜一)、津田(※左右吉)、原田(※淑人) の諸先生あり。 清先生の追懐談に、乃木大将に礼楽のこと訊かれ、音楽即解散とり止めとなられし話面白し。我は速記に廻る。羽田先生に明君への御伝言御願ひす。「蘭印植物紀行」買ふ。 17:00帰宅。史、けふ入学。 4月2日 10:30研究所にゆく。12:30池袋の東京パンにて昼食。帰宅。本日和田清先生より新著「東洋史論叢」贈らる。 4月3日 神武天皇祭。戦地なる友、入営中の教へ子達に便り書く、七枚。昼、目加田誠「詩経」を赤羽氏より贈らる。三好達治氏より速達あり。近く創元社にて会ひたき由。 4月4日(日) 14:00肥下来り、校正見す。16:30建、来る。夜、警戒管制発令。 4月5日 終日家居。田村春雄より来信。昨日まで上京しゐたる由、我が帰郷も知らざりし也。警戒管制。夜、銭湯へゆく。 4月6日 午後研究所、16:00帰宅。本日も管制つづく。午前中、本[●]、筒井千尋「スマトラ」と「支那辺疆史 上」とを持ち来る。 4月7日 昨夜積雪。寒さの為けふも終日家居。石川仁太郎君より来信。結婚して製茶をゆり居る由、木村宙平君、横須賀へ転任の由。他に末吉(※栄三:教へ子)より来信。けふも警戒管制解けず。 4月8日 けふも警戒管制。11:00研究所へゆき浅野君に問ふに復籍のこと確からし。15:00帰宅、山路愛山「徳川家康」二冊、石田憲次「英国と英国人」を購ふ。 昭南より転送の倉田敬之助(薬師寺衛)の信あり。 4月9日 10:00より研究所。浅野君と民族研究所に関し話す。帰途、目白にて警報解除を告ぐる男ありし。16:30帰宅。留守中、千草来り昭南にゆく三越の人会ひたしと也。 建、外出許すは月に一日の由。丸よりハガキ、現在佐倉に帰郷療養中の由。 4月10日 10:00出勤。市古宙三君来る。午後三越へゆき、昭南にゆく人達に話す。夜、川久保を訪ね、22:00まで雑談。 4月11日(日) 昨夜就寝二時間、けふ昼寝。14:00大垣国司君来訪、16:30辞去。三好達治氏より来信、明日15:00創元社で会ひたき由。衛藤利夫「満洲夜話」購入。「民族学研究」第三号、同。 4月12日 10:00研究所。15:00創元社へゆきしも三好氏来ず、帰れば電報あり。明日に延せしと。 4月13日 10:30研究所。14:00神田にゆき江実「蒙古源流」「官場現形記 二」「荘廷鑨 明史稿」を買ふ。15:30創元社にゆき、三好氏に会ふ。 阿部知二来会、三好氏と銀座にゆき、夕飯奢らる。「神軍」推薦は三好氏なり。本位田昇より〒。 4月14日 10:30研究所にゆく。白鳥先生居らる。〒関口八太郎、企画院に帰りしこと。 4月15日 研究所を休む。〒濠北派遣といふに驚く坂入正之助氏、及び蒙古厚和の北川正明といふ人、「大陸遠望」の批評なり。 午後肥下を訪ねコギト四月号出来せるを持帰る。帰途松井保治君を伴ひ、雨となりて弱る。 4月16日 研究所にゆく。筒井、葡萄酒二瓶持ち来る。 4月17日 寒ければ休む。野長瀬正夫氏より原稿用紙送り来る。 4月18日(日) 11:00野本中尉来訪、建も来る。共に昼飯食ひて帰る。大掃除として少しく清掃。 4月19日 11:00研究所。雨。「南アジア政治交通図」を貰ひて帰る。 4月20日 11:00研究所。明実録万暦十年スミ、浅野、大原二君と目白の東京パンに寄り帰る。夜、筒井来り、阿佐谷に散歩。けふ万暦武功禄の俺答の所を読み合す。 4月21日 11:00研究所。鎌田君と話す。〒杉浦正一郎より五月二日上京の由。 4月22日 11:00研究所。16:30帰宅。帰途堀辰雄夫人に会ふ。堀氏全快の由。 4月23日 11:00研究所。スマトラの話する筈なりしも白鳥先生、病気の為取止めとなる。清国神社大祭。三郎君濠北派遣と変りし由。 4月24日 靖国神社御親拝の日。11:00肥下の許へ原稿もち行く。筒井と午後荻窪へ散歩。夜また風呂へ誘はれしも行かず。 4月25日(日) 11:00稲垣君の家へ酒もちゆく。13:00吉野清君来訪。建、来りて史を井の頭へ連れゆく。夜、筒井と銭湯へゆく。新藤千恵子より〒。会ひたき由。 4月26日 11:00研究所。14:00池袋より中野まで歩く。 4月27日 11:00研究所。14:30三越へ「マレー総攻撃」を見にゆきしも、陽生(※青木陽生)と話せしのみにて帰宅。土山夫人ありき。行きがけ省線にて和田先生とお会ひす。 赤面せしは何故なりしや、ハンティング(※帽子)のためか。〒田村春雄へ。 4月28日 11:00出勤。事なし。〒なし。 4月29日 天長節。訪人なし。筒井と阿佐ヶ谷散歩。芙蓉堂へ払ひ17.50円。「婦人日本」より三〇円送り来る。夜、筒井と銭湯へ。〒小高根二郎、蒙彊北川正明氏、 満洲江本義男氏へ。 4月30日 11:00出勤。佐口透来る。16:00より二十四史読合せ会。けふサラリ一〇〇円頂く。18:30過ぎ会終り、20:00夕飯。 5月1日 11:00研究所、電話開通「大塚二七八六」なり。「新潮」5月号来る。夜、亀井昇(※浪花中学時代の教へ子)と筒井と来る。阿佐ヶ谷散歩の後、筒井と入浴。 5月2日(日) 肥下12:00来る。13:00肥下来り校正もち来る。送り出せば山田新之輔来訪。家にて話し、エッケルマン「対話」(独文)与へ、燻製の魚貰ふ。共に高円寺にゆき、夕食にすしを食ひ、 保田を訪ねしに小高根太郎も来会しゐる。19:00共に外へ出、新宿にて保田と別れ、四谷にて喫茶店二件へゆく。山田今夜西下なり。 5月3日 9:00石田幹之助先生の御宅へ原稿依頼にゆく。ドイツ水兵に会ふ。16:30帰宅。夜、筒井と入湯、「かたくり」を食ふ。〒桑原武夫氏より「事実と創作」。 5月4日 10:30出勤。倦くてゼミナール止む。15:30退勤。新潮社より10.00、興地先生(※興地実英:大高時代恩師)より浦和高校で講演をとのこと。 5月5日 10:00出勤、昼すぎ山雅房の女来りて「野戦詩集」の原稿のこと、断る。17:00四谷見附の三河屋にて文芸世紀の会。中河先生、ジャワにゆく古沢安次郎氏、青山虎之助氏と我の四人のみ。 料理二人前を食ひ満腹。〒桑原、興地先生へ。民族学研究四号の「知母義地方の平埔族」興あり。 5月6日 11:00出勤。杉浦の宿所に電話かけしも居ず。夜、筒井を訪ぬ。けふ石浜先生より「東洋学の話」いただく。 5月7日 11:00出勤。13:00より「スマトラの民族」に就いて話す。16:30帰宅。杉浦より電報、明日電話かけよとのこと。夜、筒井と銭湯。 5月8日 杉浦に8:00電話かけしに15:00岩波小売部でとのこと。「日本外史 一、三」購ふ。午過ぎ文学報国会の巌谷氏等来り、詩の朗読せよとのことに関西訛りを云ひて断る。 肥下を誘ひしに留守。神田に出て、服部四郎氏「蒙古とその言語」買ふ。学士会館にゆき、竹内好と三人で話し、高円寺で購ひし「慈禧外紀」を竹内に与へ、夕食後、 同窓会に来りし杉森久英氏に挨拶し、竹内と帰る。阿佐ヶ谷にて肥下夫婦に会ひ、ノアムにて林檎食はしめて別る。けふ「小学生の友」より三〇円。 5月9日(日) 9:00川久保来り、史学会大会に羽田上原につき行くべとしいふ。そこへ大垣国司氏、葡萄酒一瓶持ち訪ねらる。11:00昼食後、大垣氏と御茶水にて別れ、 帝大へゆきしも昼憩時とて13:00まで待つ。市村(※瓚次郎)、和田(※清)、加藤(※繁)諸先生をはじめ、植村清二大先生も御越し、植村先生、新潟へ遊びに来よと云はる。 16:00頃より夕飯の場所探し結局四谷三河屋にて、羽田、川久保、松本と会食。別れて帰り、筒井を誘ひて入湯。一昨日中央公論の篠原氏より速達にて六月号に書くべき詩を考ふ。 5月10日 昨夜睡眠一時間のみ、9:00中央公論社に詩もちゆき、神田小川町の湯川弘文社に服部氏著(※「蒙古とその言語」)を取かへにゆき(落丁)、東亜研究所へゆき楊井克巳君と話し研究所。 15:00退所。19:30より眠る。 5月11日 11:00出所。13:00より浅野君と「万暦武功録」を読む。夜散髪入湯。〒赤羽尚志氏より。「書香」来る。 5月12日 欠勤。「昭南従軍記」のつづき五枚書きしのち、夜、肥下を訪ねしに留守。コギト五月号を取り、フラウより丸悪しと聞き、訪ねしに応答なし。赤川氏の店へ途中寄りしばらく話す。 丸のこと気になり、中野清見と訪ぬれば全快出勤の由。安心して長話しゐる中、警戒警報にあはてて帰宅。留守中、浦宮生、平川君、筒井来りし由。浦宮、土曜二時までに来れよと也。 5月13日 警報継続。けふも欠勤。昼寝し、防空壕少し掘る。夜、筒井と入湯。平川君に〒。 5月14日 出勤。岩村忍氏よりの信置きあり。本返せよと也。川久保に電話してきけばシロコゴロフの著作目録なる由、しかも三冊と。我不知焉。17:00帰宅「中国文学」最終号来る。 〒平野義太郎先生より二十五日には亜研究叢書にて「インドネシア慣習語辞典」出す相談する故来れと也。羽田よりも来信。夜、平川君再訪。ヘデイン「熱河」購ふ。 5月15日 アッツ島に敵上陸の由、不快。夜、川久保来る。岩村氏、貸したといふ由。これも不快。筒井砂糖もち来る。警報解除。文芸世紀より三円。 5月16日(日) 雨、午後、筒井来り、ぜんざい食べて帰る。終日家居。伊藤佐喜雄より〒。 5月17日 11:00出勤。16:00より二十四史の会。20:00帰宅。「婦人日本」終刊号来る。誤植三カ所。 5月18日 11:00出勤。14:00より興地先生を訪ねんとし、西荻窪に行きしに北町一郎夫妻に出会す。川邨氏邸で暫く待ち先生に断りしも漫談にてよしとのこと也。夜筒井来る。 5月19日 昨夜眠り足らず、欠勤。岩村氏に断り状。中河先生に五円同封の〒出す。夜、筒井と入湯。 5月20日 終日家居。無為。筒井と話せしのみ。 5月21日 欠勤。中河与一氏より〒。日曜に来れと。田辺東司君より近日帰還と。午後筒井と荻窪に散歩。内田吟風「古代の蒙古」再購入。筒井、日曜徴兵検査の為帰阪と。 5月22日 10:30出勤。山本五十六大将戦死の発表あり。14:30北浦和の浦和高校へゆき漫談を16:30までやり興地先生と共に帰る。夜、筒井一寸来る。 5月23日(日) 朝、川久保の家にゆきしに留守。13:30肥下来る。原稿をとりに也。「昭南従軍記」今月休むこととし、共に保田の許にゆき、萩原先生の遺影貰ひ、中河与一氏を訪ねしに留守。夜筒井来る。 5月24日 10:30出勤。点呼のこと話す中、心配多し(祖父へ問合せの〒書く。) 筒井来り明日に帰阪延ばせしと。外食券四十三枚呉れたり。〒坂入君より。 5月25日 昨夜少眠。朝悠紀子を在郷軍人分会にゆかしめしに無事。研究所より満鉄に電話し、インドネシヤadat(※慣習)研究会不参加を云ふ。午後白鳥先生来らる。第一書房より八円。 5月26日 10:00出勤。途中和田先生にお会いし共同研究をせよと云はる。16:00帰宅。月給日也。 5月27日 海軍記念日。川久保より電話。明日より秋田にゆく由。中河さんに電話せしに明日夜来るべしと也。 透谷賞 5月28日 9:30出勤。神経衰弱けふは宜し。昨夜夢で田中三郎に活を入れられし也。7:00大久保にて夕食。中河さんを訪ね、透谷賞牌(※)貰ふ。 小高根太郎、昭南での喧嘩のこと(※中島健蔵との確執)しゃべりし也。父より〒旅行届を出せし也、反対。 5月29日 10:30出勤。昼飯食ひ将棋指せしのみ。眼鏡こわれたり。 5月30日(日) 朝昼飯を兼しのち眼鏡のつるを代へにゆく。午後小山正孝君来訪。夕刻ラジオ、アッツ島我軍全滅を報ず。 5月31日 10:30出勤。16:00より二十四史読合せ会。川久保より電報にて不参の報知。19:00帰宅。 6月1日 10:30出勤。鎌田君二日欠勤、15:00帰宅。竹内より回教圏に書けと。 6月2日 11:00出勤。肥下より電話あり、赤川草夫氏の長男轢死せしを以て告別式に出よと也。一度帰宅、出席。肥下と会し15:00終了、後、肥下の家にゆき話す。 その後「回教圏」の原稿十二枚を書く。不眠。 6月3日 11:00出勤。「武功伝」を読み、回教圏を書き了ふ。川久保より電話。けさ父より〒、帰国届出し呉れし由。 6月4日 11:00出勤。13:00より渡瀬正忠君の「広州交州考」面白くなし。〒浦和の井上幸治君より中央公論を見て帰還を知りしと。 6月5日 欠勤。肥下よりコギトの会通知。引きつづいて取消。山本五十六元帥葬なり。 6月6日(日) 終日家居。伊藤の「花の宴」再読。夕方入湯。文学界七月号に掲載となりし由〒(※不詳)。 6月7日 9:30出勤。途中、新村出「南方記」スヱン・ヘディン「彷徨へる湖」購入。浅野君民族研へ大体きめし由。16:30帰宅。 6月8日 9:30出勤。15:00頃白鳥先生来る。けふより李白の続き書く気になり眠れず。 6月9日 11:00出勤。13:30退出、中野区まで歩きて疲る。 6月10日 11:00出勤。昨日竹内好より電話かかりし由。16:00退出。 6月11日 11:00出勤。浅野君明日より点呼予習の由。帰宅入湯。夜、筒井来り「切支丹家門史(※日本切支丹宗門史?)」上中持ち来る。竹内の電話は「回教圏」の挿絵につき。 6月12日 11:00出勤。昨夜不眠の為来るし。肥下宅へ寄りコギト六月号貰ひ来る。 6月13日(日) 11:00大垣国司氏来訪。まもなく建来る。大垣君と大塩君に寄書せしもソロモン方面にゆきしらしければ、あやなし(※不条理だ)。夜、筒井と入湯。荻窪に散歩。 「日本幽囚記」ゴロヴニンを筒井より貰ふ。対満の報告を出せよとの〒。 6月14日 11:00出勤。16:00より二十四史読合会。川久保と帰る。〒新藤千恵子。 6月15日 11:00出勤。新藤嬢に原稿掲載不可能の返事。夜、肥下のフラウ来る。 6月16日 11:00出勤。13:00川久保と白十字にて会ひ、文学部事務務室にゆく。研究室にゆきしに座読会に出さされ山本達郎氏と一寸、川久保と17:00阿佐ヶ谷まで共に帰る。 6月17日 欠勤。赤羽氏来訪。李白伝殆ど書き終る。夜、筒井と入湯。細川宗平東亜研究所へ入りしと〒。 6月18日 欠勤。夜、下痢。 6月19日 出勤11:30。14:00退勤。清水文雄氏を官舎に訪ぬ。夜、筒井と入湯。雑談。 6月20日(日) 朝、松井保治氏来訪、昨夜不眠にして苦し。午後筒井来り、15:00野本中尉来る。アッツ島を語り、大権侵犯を叱らる。17:00点呼予備通知来る、二十七日7:30杉並第五国民学校にて。 川久保来る。大東亜省への報告のこと。 6月21日 9:30出勤。17:00帰宅。太田七郎君の訃報昨日あり。告別式13:00までなりしも出席出来ざりしゆゑ弔問遅ればせにす。二月までとの診断が六月十九日13:50まで保ちし也。 二人の交をとりもちし高橋君はいま獄中なり。帰途、心うく亀井勝一郎氏を訪ふ。 6月22日 9:30出勤。大東亜省への届けの件にて文庫に和田先生を訪ねしも来られず、閲覧証たのみしも中々出来ず、石瀬君来りしゆゑともに本郷に出。話きくに南方での(※日本軍の)悪評ありと。 帰宅後昨年度の収入額査定三三〇円とのこと。夜、筒井と散歩。 6月23日 9:30出勤。白鳥先生来らる。12:00帝大。和田先生に大東亜省満洲事務局長今吉敏夫殿宅の届けの印頂く。先生、二十四史をも一度やらぬかと。川久保の代りなり、お断りする。 次には八月に満洲へ同行せぬかと、これもお断りする。研究所へ村上正二君入るときまりし様子、これも良くなし。川久保と文庫へゆき閲覧票もらひLoeb(※ローブ古典文庫)よむ。 17:00帰宅。メダンの齋藤少尉より来信。夜、筒井と入湯。 6月24日 9:30出勤。浅野君と将棋、帰宅後肥下を訪ねしに既に帰りゐる。従軍記つづき書く。十六枚。 6月25日 11:00出勤。白鳥先生来られ、和田先生「田中変った」と云ひをうれ(※憂ひ)し由。サラリー貰ふ。睡眠不足のため15:00帰宅。夜、筒井と入湯。 6月26日 9:30出勤。14:00帰宅。点呼の用意をす。 6月27日(日) 5:00防空演習。7:30杉並第五で点呼演習、敬礼、その他隣組の齋藤氏、川久保君の双生兄と一緒なり。17:00終了。入湯。夜、筒井来る。「文学界」七月号来る(※掲載作品不詳)。 堀口太平君糸を呉る。 6月28日 9:30出勤。15:00退出。クラス会は竹内に断りたのむ。父に点呼のことで速達出す。夜22:00まで演習、齋藤武夫氏、三原の人にして村上菊一郎君を知る由。 6月29日 10:00出勤。15:00退出。19:00より演習。中河与一氏より世紀の会報に刀のことかけと。 6月30日 欠勤。13:00肥下を訪ね、クラス会のこと聞く。19:00より演習。世紀の会報は一枚かく。 7月1日 けふより東京都となる。都長大達茂雄には昭南にて御馳走になりし事あり。 10:30出勤。17:00帰宅。留守中来りし北村旭君(昭南宣伝班撮影班)再び来り、写真画報に詩をとのこと。昭南の思ひ出話久しぶりにてたのしかりし。 夜、筒井と銭湯、けふは点呼演習休みなり。13:30弱震あり。鎌田君外へ飛び出したり。和田先生、浅野君にも田中変ったと云はれたる由。 7月2日 昨夜「文芸世紀」に「スマトラの初印象」八枚かき不眠。欠勤。夜、点呼訓話。 7月3日 11:00出勤。14:00退出。夜、筒井と入湯。 7月4日(日) 7:00より点呼査閲。分会の貯金をなす。雨はげしく寒し。夜、筒井来る。 7月5日 11:00出勤。15:30退出。夜、筒井と入湯。 7月6日 11:00出勤。北村君に電話かけしもゐず。「新亜細亜」十月号にスマトラの民族記事あり、良し。夜、「昭南忠霊塔」書く。 7月7日 11:00出勤。白鳥先生来あり、村上正二君入所のこと決定と不快。浅野君の民研行も決りしならん。夜、筒井と入湯。(二十四史の北狄の部も村上君引次ぐ由)。 「新女苑」二十日迄に詩一篇をと。陸軍美術協会に昨夜の詩贈る。 7月8日 10:00出勤。前田より電話あり、増田晃君戦死とのこと。17:00帰宅。 夕食後新聞見しに毎日新聞の篠原繁雄君(※新聞記事切貼)脳溢血にて死去とのこと。悪日なり。篠原君宅へ弔みにゆく。(16:00肥下宅へ寄りしに校了にゆきしと) 毎日新聞 7月9日 10:00出勤。14:00篠原君父君宅へゆきしに霊柩車の出る直前なり。桐山君ら見えざるは如何なりしわけや。帰途民研へゆきしに江上君の報告中、待つことしばし川久保と話しゐる中に岡、 岩村二氏外出、腹立てども仕方なし。夜、筒井と入浴。 7月10日 9:30出勤。14:00帰宅。17:00赤川草夫氏、香典返しに茶もちて来訪。20:00亀井昇生、母と来る。靴下呉る。「李白伝」を急ぐこととす。小竹文夫「近世支那経済史研究」を購ふ。 7月11日(日) 朝、松井保治君来訪。夜、中野清見君来り話す。夜いねられず「李白伝」引用の詩の訳ほとんど完了。 7月12日 欠勤。午後ひるねす。夜、赤川草夫氏を訪ね長読。「鴎外水沫集」保田「風景と歴史」「車塵集」ハラ・ダワン「成吉思汗伝」「クレオパトラ」と交換に本五冊を持参す。 赤川夫人によれば中原中也未亡人シャンタルに居られし野村大佐に再婚せし様子。 7月13日 10:00出勤。浅野君六月末退職のこととなりし由、送別会のことを決定。北村君に電話、夜、入湯。筒井「エーネイス(※アェネーイス)」二冊呉る。 7月14日 10:00出勤。村上君来る。近くのすし屋(※浅野君送別会を)断りし由。十七日にのばすこととし未持参ならば如何と問はしむ。夜、肥下を訪ねしにコギト七月号未成。 父より祖母危篤の由〒。 7月15日 防空演習11:00出勤。14:30退出。夜、早く寝る。 7月16日 防空演習11:00出勤。12:00肥下より電話あり、立野利男君(※磯花左知男)上京に付き新宿駅に来よとなり。ゆきて高野フルーツパーラーへゆけば、兄立野保男は左翼とて検挙されしため仙台に取片付にゆきしと。 又おどろきしは丙種の利男応召。海軍とのこと也。15:00の汽車にのるとて東京駅まで送り、丸ビルにゐしに防空演習やらさる。16:00頃、肥下宅へゆきコギト七月号受取りて帰る。 夜。筒井と入浴。 7月17日 7:00祖母逝去の電報来る。十九日寺にて告別式と。帰阪せざることとす。15:00より研究所にて浅野君の送別会。大原、渡瀬君ビール、野菜、ハムなど持参、20:00済む。 7月18日(日) 来客なし。〒なし。夕方、筒井と荻窪に散歩。 7月19日 10:00出勤。桐山君より電話、結婚せし由。明後二十一日16:30に毎日社へゆくこととす。17:00帰宅。〒祖母葬儀本日15:30宝国寺にて。死去は十六日9:15なり。 小高根二郎、西川満。「文学界」十月号に詩一篇八月五日まで。夜、入浴。筒井来る。「新女苑」に「山の湖」書く。 7月20日 けふにて研究所夏休みと。但し白鳥先生御存じなきなり。桐山君より二十二日に会すべしと〒。家をもち結婚せしと。夜筒井「タガログ語会話」呉る。 7月21日 終日家居。筒井、大阪へ帰る。 7月22日 11:00研究所へゆきしに当番村上君ゐず、白鳥先生より電話あり。大原君の家へゆく。 それより中央公論の篠原君を訪ねしにゐず。毎日会館で映画見しのち16:30桐山君と喫茶、夕食、喫茶、観劇、篠原君追悼の会なり。保田の「皇臣伝」貰ふ、不快。 7月23日 一日家居。夕方、小学館の加毛女史来る。「日本少女」に印度独立の詩を書けと也、断る。 7月24日 終日家居。李太白は書けず「昭南従軍記」書く。芙蓉堂「スマトラの統治・人種と経済」もち来る。 7月25日(日) 13:00大垣君来訪。八月除隊となるらし。大汐君小高根二郎に便りせしはまことらし。肥下来り原稿もちゆく。長野来り仏和辞典返しソムハルト「ユダヤ人と資本主義」呉る。 夜、高円寺へ散歩。赤川氏と話し、松井君と茶のむ。徳川義親馬「来語四週間」買ふ。 7月26日 李白伝を書くことも進まず。この日ムッソリーニ退職。 7月27日 散髪す。夜、肥下を訪ね23:00まで話す。いやいやのおしゃべりなれど、あと眠れずして弱る。 7月28日 久しぶりにて出所。渡瀬、大原二君と話しをれば川久保来る。16:00共に阿佐ヶ谷まで同行。夜、入湯。 7月29日 12:00研究所へゆき、大東亜省のため「スマトラ、マライの民族」の大要書く。15:30上野図書館、李白のため也。「立原道造全集」第三冊芙蓉堂にて買ふ。今度より現金でと女房吐く。 7月30日 午後、北町一郎君を訪ねんと西荻窪へゆきしが「民研」七月号、岩村忍「耶律楚材」を購ひて引返し高円寺散歩、帰宅。中河与一氏より何とか会作ると賛否訊ね来る、不快。 7月31日 無為。李太白書き畢へたりと数へしに二百字詰五一七枚なり。 8月1日(日) 加毛女史より〒、萩原全集入手し呉れし由。11:00野本中尉来る。「今古奇観」よむのみ。ビルマ独立す。 8月2日 肥下来りて「コギト」八月号の「従軍記」の校正。保田の再販「後鳥羽院」と旺文社の「マライ語辞典」購入。 8月3日 一日「マライ語辞典」よみて暮す。夕方阿佐ヶ谷へゆき、立原の手紙とり来る。 8月4日 点呼礼状来る、二十四日八時浪中にての由、奇縁。夜、肥下を訪ぬ。 8月5日 研究所の当番代って貰はんとて行きしに渡瀬君不見。速達す。鎌田君当番。浅野君来会す。帰れば建来り居り、夕食後、史連れゆく、大阪へと也。 研究所の帰り電車にて荒木猛(釈十三郎)と遭ふ、三月上京、病気して高円寺にゐると也。馬来宣伝班員、同船にて帰り台北の宿屋で同室す。 8月6日 終日家居。李太白書き畢る。不十分なれど致し方なし。五一六枚(二百字詰)。 8月7日 終日家居。赤羽君来るかと思ひし也。 8月8日 朝、在郷軍人分会へゆき、仰貰ふ。赤羽君、火水二日の中選べと也。父より史来らずとて悲しむと。阿佐ヶ谷へ肥下よりの本もちゆき16.59預りて帰る。 夜、高円寺に散歩。 8月9日 10:00研究所へゆきしに誰もゐず、11:30鎌田君来り渡瀬君日直代りくれさうなれば、又ハガキかく。13:30日本評論社に赤羽氏を訪問、「李太白」を渡す。 刊行は年末か。喫茶の後、帰り18:00より寝に就く。けふ父より〒、史、大阪へつきしを喜ぶ也。 8月10日 渡瀬君より速達。当番代り呉るる由、20:00より隣組常会一時間半、バカらし。 8月11日 10:30研究所。けふより当番なり。鎌田君、渡瀬君と帰り赤川氏により、明日本売ることを約束。松井保治君と散歩。肥下宅へ寄りしもコギト未成。夜、書物整理。 〒史より。留守中小学館の加毛女史よりの使、萩原全集三冊をもち呉れし。 8月12日 11:00出勤の途、松井君に会ふ。12:00出勤。15:00まで用足し、満鉄弘報課「満洲宗教誌」を購ふ。夜、松井君来しが赤川君无来。けふ「新女苑」稿料30.00 8月13日 10:30出勤せしに大原君在り「昨日われ鍵を挿したるまま帰り」と。午過ぎ手塚(※手塚隆義)、村上(※村上正二)二君来る。15:30退去。夜、赤川氏来り本、六十二円に買ひゆく。大木惇夫「海原にありて」佳し。 8月14日 10:00出勤。亀井勝一郎君の紹介によりて昭森社。宮木喜久雄君来訪。ブランド・バックハウス「西太后」を訳し呉れよと。返答留保す。和田先生にもお会ひせし由。 午過ぎ回教圏にゆき、大久保孝次先生、野原四郎氏、竹内と話し、竹内と喫茶後、帰宅。夜、肥下宅へゆき「コギト」八月号取り来る。肥下十七日帰宅の由。 8月15日 朝、近くの本屋にありしを以て武田泰淳「司馬遷」購入。「民研」八月号購入。 8月16日(日) 11:00出勤。事なし。末吉けふ来る由なれど来らず。増田晃より〒、馬来よりの廻送なれど戦死は嘘にてはなきか。嘘なるを望む。「現代」より戦ひの心の詩欲しと、バカも休み休み云へ。 8月17日 9:30出勤。大原君既にあり、昼まで雑談。午后明実録少しよみ、松宮順「暹羅(※シャム)説苑」二冊貰ひ14:00退出。留守中、末吉来りしも午、中央線にて帰阪と。 夜、川久保来訪。眠りがたし。けふ電話、宮木君明日来訪と。 8月18日 10:00出勤。渡瀬君より電報あり。けふ来ずと。午すぎ宮木君(昭森社)「西太后」の原本持参、引受く。年末までとの約束なり。 15:30帰れば数男(※義弟)天津より帰りをり土産にパイレート、ルビー・クイーン(※煙草) 一箱づつ、子らに菓子。依子、目悪し。 8月19日 10:00出勤。中島敏氏来り「殿版二十四史旧五代史」一冊借出しゆく。午後渡瀬君に引きつぎし、東京駅へゆきしも急行券は十六時まで也。夜、昭森社宮木君より速達の仮翻訳届を送り来る。 8月20日 5:00起床、二食携行にて6:40普通姫路行にのる。茶なし弁当も買へざる様子也。20:00大阪着。24:00頃眠る。 8月21日 9:00大高へ著書二冊寄附、住吉区役所へゆき、兵事課で分会の所在を訊ね、村田幸三郎の令兄に会ふ。村田、後妻見つかりし様子、分会へゆきしに明日6:30住吉小学校へ来いと。 立野利男君の留守宅を見舞ひ、昼食後断髪、阪急別館へゆきしに一人のみ知れる子ゐたり。帰りて近くの青年より点呼の心得聞きたり。史、けふ建と生駒山へゆきし。 8月22日(日) 6:30より住吉国民学校にて点呼練習。点呼小さしと呼直し、藁人形突きもやり直し。三十キロの荷揚げ一回も出来ず、最強二三十回、普通八九回なり、恥しといふ。 けふ祖母の七七日なりしがゆけざり。点呼に今中の同窓岩永俊章あり。 8月23日 10:00より中部軍の中野繁夫准尉を訊ねしに既に除隊。大化奉公会に務めゐると。朝日新聞に山田新之輔君を訪ね、父の勤先にゆき心斎橋筋を歩きて15:30帰宅。 夜、点呼の準備。「文芸読物」九月号に窪川いね子、メダンの大毎支局のことを書く。 8月24日 6:00より住吉校集合、18:00終了。ありがたし。20:00睡眠。末吉、栄三より電話あり。逢ひたしと。 8月25日 10:00浪中へゆきしに小川君滋賀県の高女、今君北海道へ転任と。田村家へゆきしに春雄、開業、婚約も成立せしと。全田にゆきしに叔父庶務課長となりしと。敦子少しきれいとなりし。 難波にて末吉、栄三に会ひ、少し話し、大阪駅にゆき明朝9:40の急行券購ひ、十合へゆきしに大江叔父留守。昌三叔父は神戸へ転任と。有為転変多し。 田中城平叔父の勤先にゆきしに北浜の野田屋にて会合と。ゆきしに野田屋は廃業してなし。藤井寺にゆき叔母久美子と話し、梨子一貫匁購いて帰り居り。和子と三人にて話し、23:00帰る。 8月26日 9:40の列車(大阪発)に乗車、大と父と送りに来る。空席多きは意外なりし。19:40東京着。阿佐ヶ谷より人力車に史と荷物をのす。 8月27日 朝、筒井来る。14:00肥下を訪ぬ。原稿まだのる由。夜、筒井、史と入浴。〒佐々木六郎帰還、東朝社会部にゐると、うれし。「大日本青年」十月号に詩をと。 中河与一氏より正成と清麻呂をと。村上菊一郎君帰国と。東大より満洲事務局の補助金につき来よと。 8月28日 朝、川久保来り満洲事務局の一〇〇円持ち呉る。四〇円加毛女史に送る。昼すぎ肥下に昭南従軍記わたす。夜、筒井と散歩、吉田東伍「大日本地名辞書 関東、 東北、北海道、琉球、台湾」呉る。ありがたし。 8月29日(日) 朝、筒井来る。「文学界」九月号、末吉〒。アッツ勇士功賞。 8月30日 〒「文芸世紀」九月号。11:00出勤。俸給貰ひ昼食。開明堂に寄り、回教圏へゆき前田直典君に増田晃追悼の詩わたす。竹内はゐず。「清史稿」購ふ。 8月31日 「文芸」九月号来る。午後、筒井と高円寺に散歩。赤川氏より原稿用紙五百枚。夜、堀口太平君来訪。 9月1日 けふより出勤。大原、渡瀬、村上の三氏。竹内好に電話かけしに土曜に来る由。15:00中島敏氏来る。19:00警戒警報。南鳥島に敵機来りし故ならし。 9月2日 10:00出勤、大原氏のみ。倦怠感甚し。午後大雨。夜、早く寝ぬ。〒「文学界」一五円。「南方情勢」より随想を六七日ごろまでに。 9月3日 大雷雨。欠勤。夜、肥下を訪ね、読者への封筒書く。 9月4日 9:30出勤。和田君、鎌田君。13:00退出、回教圏へゆき竹内(※好)と話す。シュークリーム食ひたり。夜、筒井と入湯。 9月5日(日) 午後、筒井と善福寺池へ散歩。留守中、肥下コギト校正を持ち呉る。夜、訪ねしに行違ひとなる。スマトラ宮部隊の渡辺実定君より往復速達来る。 9月6日 11:00出勤13:00より歩いて中野まで来る。夜、早く寝る。「大日本青年」に詩を送る(※不詳)。 9月7日 欠勤。一日家居、無為。 9月8日 「南洋経済」の原稿遂に書かず。「李太白」の校正来る。出勤、13:00退出。 9月9日 欠勤。中河与一氏より原稿のこと。赤羽氏より十七日に信州へ行かぬかと。夜、筒井と散歩。この日伊太利無条件降伏。 9月10日 出勤。竹内より電話あり。明日10:00池袋駅で待ち合す。浅野君、朝鮮より帰りて来る。夜、肥下を訪ふ。 9月11日 9:00池袋着、古本屋をひやかし、ラティモア(※アメリカの中国学者)購ふ。竹内と所(※不詳)にゆき一時間程話したる後、喫茶、ブランド三版と「慈禧外紀」もち来り呉れし。 新大久保で下車、新宿まで歩き三福にて昼食。夜、筒井と入湯。けふ中河与一、赤羽二氏断り、昭森社宮木君には仮翻訳届けにつき問合す。 9月12日(日) 家居。午後、木村宙平君来る。大尉になりしと。夕食して帰る。薬師寺君より〒。「李太白」 一二〇頁まで初校出る。 9月13日 出勤。都会議員選挙なれど棄権。夜、筒井と入湯。清野博士のスマトラ借りてよむ。 9月14日 出勤。浅野君、午前中来合せたり。早く退出、夜、筒井散歩にと誘ふ。 9月15日 欠勤。午後肥下を訪ねしに留守。コギト九月号出来しをりたり。陸軍美術協会より三〇円。岐阜の本多喜久子氏より西洋梨一箱。筒井、明日退京と。 9月16日 出勤。午後陸軍美術協会にゆきしに北村旭君居らず。朝日にゆきしに佐々木六郎君裁判所へ通へりとて居らず。 9月17日 出勤。「西太后」訳しそむ。平松君と17:00新宿駅で会ふ約束をせしに高橋君も来合す。泰華楼で夕食。宮木君より〒。「李太白」初校出そろひ三百頁かつ[も]りなり。 9月18日 家居。〒小川浩君。昨日けふ数男(※義弟)見合ひ二回、我に何等話なく恚ると曰ふ。 9月19日(日) 9:00より防空訓練。午後松井保治君来訪、令兄応召の由。佐々木六郎を訪ねんと牛込若松町にゆきしも平田内蔵吉君を訪ねしのみにて了る。帰宅すれば建居る。 9月20日 10:00出勤。15:00村上君の母死せしとて大原君と悔みにゆく。この日より「西太后」の訳にかかる。悪文なり。竹内好訳「小学教師倪煥之」来る。 9月21日 10:00出勤。鎌田君、文理大の講師となりしとて白鳥先生に辞任申し出でしと。「樺太原始民族の生活」を購ふ。中沢金一郎の歌集「軍靴」(※書誌未詳) 送り来る。 9月22日 昨夜23:00産気づきしとて関産婆迎へゆき泊りもらひしも無事。朝、家政婦人会。油屋、瀬戸物屋にゆき帰れば、家政婦某女来りゐる。 10:00出勤、浅野君も後に来る。14:30帰宅すれば女児13:30出生せしと(※次女弓子氏)。体重八三〇匁(※3.100g)身長四八cmと。軽 かりし。 9月23日 11:00新宿駅で退避訓練やらさる。大原君に聞けば大東亜省のため「歴史より見たる満洲の民族性」を三上、島田正郎君とやらされる由。 13:00帝大にゆきしに大東亜省の金まだ来ずと也。松本善海と話と茶。夜、肥下来る。けふ第二回の人統制発表、文科大学の召集延期なくなる。 9月24日 7:30起され、(※次男)梓、ひきつけたりとて直ちに沢本女医にかけつけ、注射せしめしのち、ひまし油を飲ましむ。11:00頃下痢。17:00再び来り、河北病院に入院せしめよと云ふ。 但し病室はなし。この夜、ゆき子と徹夜して見守りしも手おくれとは知らざりし。 9月25日 10:30までに沢本女医二度往診。直ちに豊多磨病院に入院となり、12:00自動車にて入院。渡部秀子女医により葡萄糖、カンフルの注射。酸素吸入を行ひしも効なく23:25絶命。 柏井母とわれ枕辺にあり、涙のみ。元来二十三日に下痢、二十四日朝床中に下痢ありしは吾がゆき子にかはり寝しめしにて、寝冷えを起こせしは吾なり。 沢本女医と判断、迎へにゆきしも吾、河北病院その他への入院も吾あまりすすまざりし為、力を尽くさざりき。父としては生誕後四ヶ月にして従軍、ただ頬笑む顔を覚えゐしのみ。 帰還後は梓可愛くてならず「トウチャンバカ」を云はしめ、くすぐり、高い高いし、「ポッポノオウチ」「ギンギンギラギラ」を喜びてきくに歌ひやりし也。 ゆき子分娩後は吾世話し大小便を自ら云はしめるごとく教育せしも、それのみにて死す。屍室隣りにて眠る。 9月26日(日) 10:00一旦帰宅。葬儀屋に手続や手配たのみ、16:00枕経。16:30上落合火葬場の爐に入る。おつぎ叔母、和田女史、柏井母と吾の四人のみ侍す。 泪のみ。入棺前の死顔のかはゆさたぐひなし。明日8:30骨上げと。田辺父に知らす。 9月27日 8:30骨上げ、賀代女史と柏井母と。香奠来る。二度区役所にゆき戸籍の届と配給のことを手続す。夜、亀井昇くる。日大卒業と。21:30まで話してゆく。 9月28日 10:00病院にゆき死亡診断書一通を貰ひ、消毒済の衣服持ち帰る。午後出勤。茫然たりしのみ。立原の親戚某女より〒。日本評論社の届に印。「少女の友」 十一月号に詩依頼。 重原菊井女、以前に家政婦としてありし土屋喬雄家のこと話す。   死亡診断書 田中 梓 昭和十六年九月二十五日 (死亡者ノ生年月日) 病名 疫痢 発病ノ年月日 十八年九月二十三日 死亡ノ年月日 十八年九月二十五日午後十一時二十五分 死亡ノ場所 淀橋区柏木五-一二七九 東京市立豊多磨病院   右 証明候也           医師 渡部秀子 9月29日 「李白」再校出そむ。10:00出勤。14:30退出。昼飯時、池袋にて昭南にて宣伝班にありし秋岡博に会ふ。興南錬成塾に入りて六ヶ月後また南方にゆくと。森下は既にゆきしと。 石山五郎もゆくと也。 9月30日 出勤。桐山君より電話あり。出勤の途、万年筆こわれしを直さんとせしに直ちには不可と。大場弥平氏に会ふ。尾高少佐左遷は我がせしと也。中建参謀本部に働くと。 不快のことのみ。18:00帰宅。 10月1日 開明堂へ催促にゆき、神田の本屋を見、昼飯食ひて研究所にゆく。朝、区役所に呼ばる。消毒料のこと也。重原女十五日までゐる由。 14:30高円寺をうろつきしに松井氏に会ふ。「現代」30.00 10月2日 重原女下痢のため今日より帰会。9:30出勤。万年筆修理出来、青木陽生に洋傘たのむ〒。13:00帰宅。史、風邪気味。肥下を訪ねしも留守。 10月3日(日) 午前中大雨。甘藷の配給あり。午后肥下原稿を取りに来る。山田新之輔、藤田久一等応召と。小高根二郎父弟の死を悼む詩を作れり。 保田足止め(※外出禁止?)を命ぜらると聞き、ともに訪ねしもそのことなしと。李太白集三冊もちて帰る。「大日本青年」20.00 10月4日 欠勤。けふ体重半ヶ月振りの入湯にて計りしに十一貫(※41.25 kg)也。夜、数男天津に帰る。荻窪へ散歩、ループの「スマトラの民族」上購ふ。 10月5日 10:30出勤。14:00毎日社へゆき「大日本青年」十月号のこと聞きしに未刊と。相山君と一寸話し、朝日社へゆき佐々木六郎呼出せしに福永英二君にも会ふ。 「富」はブキテインギにと。田代継男まもなく帰るらしと。三島君は仙台支局へ転じたりと。 10月6日 けさより重原女また来る。12:00過ぎ出勤。15:00退出。赤羽君よりハガキ「李太白」学問的で良しと。 10月7日 出勤。無為。山本剛、南海より〒。 10月8日 欠勤。「大日本青年」来る。「文芸世紀」より10.00。午後、梓の保険金のことで荻窪局へ行きしも不成。宵より雨。 10月9日 雨、欠勤。けふより又「西太后」を訳す。秦(※タイ)の牧野忠雄より〒。 10月10日(日) 雨、終日家居。腹立ちて耐らず、また神経衰弱か。〒父より。田中家は真言宗なる由。 10月11日 10:00出勤。13:00大学の言語学研究室にゆき柴田孝助手、服部四郎氏と話し、善海を訪ね、日本橋の日本評論社にゆきしも赤羽氏不在。銀座を歩き、 新宿より高円寺に出、すしを食ひ、赤川を訪ねしに不在。木山捷平氏に会ひ喫茶中、小田嶽夫氏を見、また喫茶。2:00帰宅。重原女けふ断る。石原道博、台大へ就職と。 10月12日 11:00出勤。渡瀬氏と将棋三番。「西太后」二章了る。17:00退出。 10月13日 不快、欠勤。東京疎散案に東大文科系、東洋文化、民研あり。照宮結婚さる。昼すぎ下痢。夜、川久保悔みに来る。帝大仙台へ移転らしと。 10月14日 欠勤。悠紀子下痢。前田医師の往診を乞ふ。 10月15日 欠勤。。悠紀子臥床。「李白」再校了る。比島独立。 10月16日 靖国神社臨時大祭。午後、史、依子と阿佐ヶ谷散歩。 10月17日(日) 神嘗祭。11:00大垣国司君来る。大塩麟太郎戦死らしと。大垣この間一日発狂して留置されしと。共に「ぴのちお」にて昼飯。肥下を訪ねしに留守。帰ればコギト十月号もち呉る。 17:00二人退去。夕方、川久保、梓にりんごもち呉る。けふ神戸の田村ふさ(松田みね祖母の異母妹)氏来れり。七十六才。 10月18日 出勤、だるし。15:00近くまで西太后。大垣君結婚のことにて相談に来る。 10月19日 出勤。朝日仙台支局の三島英雄君より〒。序であらば来れと。氏はメダン自動車事故の責任者なり。夕、筒井来る。北海道にゆきゐしと。入湯後も話す。本棚呉る。 10月20日 出勤。〒父より。咲耶男子を産みしと。〒大垣君、九月に出せし也。 10月21日 出勤。夜、筒井の所へゆき「赤蝦夷草紙」吉田東伍「地名辞典」一冊貰ふ。机も呉ると也。下痢嘔吐の気あり。〒薬師寺君より。 10月22日 〒田代継男帰還の挨拶よこす。〒大垣君へ「信の路や甲斐路に私の雲を見ん、雞啼くと告げ来し友や烏賊を食ひ、南方を語るに倦みて初霜や、石蕗の花ほととぎす啼く庭にゐる」〒南支派遣軍ほどへ詩一つ。 10月23日 欠勤。大原君より野村正良氏の電話二回と。建来る。小湊へ実習にゆきゐしと。徴兵延期なくなりしと。夜、筒井と花(※花札)。 10月24日(日) 9:00より防空演習。ゆき子出る。下痢なほる。煙草またまた飢饉なり。筒井にもらふ。 10月25日 出勤。野村正良氏に電話せしも留守。16:30帰宅すれば筒井に教育召集来りしと。「ぴのちお」にて送別の会食。後始末のこと引受く。柏井昇も満洲より帰国かなはず婚礼延期と。 21:30筒井また来り第二補充兵に編入の礼状下付のことと判明、帰阪取止むと、バカらし。 10月26日 松田明(※コギト同人)、明日かあさって来訪の由。けふ研究所皆出席也。〒田代継男へ。散髪、夜、筒井と花。出勤の途、赤川に寄り「西和辞典」購ふ。 10月27日 朝だるくてたまらず欠勤。松田来らず、筒井と夜ハナ。 10月28日 出勤。大原君、研究所へMP(※憲兵)たづね来りし由、抗日文書に和田久誌君もその名のれりと、詳細不明。今月より昇給スラトス・ドア・プルとなる(※不詳)。松田電話。 17:00新宿にてあひ、すしを阿佐ヶ谷にて食ひしのち、肥下の家へゆく。コギト六〇ポンド、三二頁なら三〇〇部と。中河与一氏より(※文芸世紀と)合併如何と。 二十九日出発の内。桑原武夫東北大へ助教授と。夜、眠りがたし。 10月29日 11:00出勤。渡瀬君のみ。「北ア学報」初校二十三頁のみ出る。13:00新宿駅にて筒井を待ち、14:30の塩尻行にのり17:00塩山着。塩山ホテルに一泊。 10月30日 9:00塩山発、甲府にて食をとりしのち11:30の汽車にのり下諏訪丸屋旅館に一泊。 10月31日(日) 9:50の汽車にのり15:30帰宅。留守中、伊東の詩集「春のいそぎ」着。城大学報、帝大新聞より原稿依頼。帰途、荻窪にて江口三五に会ふ。 11月1日 9:30出勤。このごろ煙草キキンなり。白鳥先生と三四ヶ月振りにて会ふ。けふより女事務員松沢嬢来るがため也。民族の件の主任を命ぜらる。北亜学報三号の原稿も集めよと也。 赤羽君より電話、明日訪ねることとす。帰途、赤川氏に寄り「主婦の友」を入手。 11月2日 9:30出勤。15:30帝大にゆき言語学研究室より凌純声の本とり来る。赤羽氏を訪ね、喫茶。中河与一、亀井勝一郎など(※大東塾の野村辰夫らに) 撲られしと。 11月3日 明治節。史にコプラ菓子配給。村上嘉實「陶淵明」購ふ。楊井克己訳の「新疆紀遊」贈らる。岐阜の本多喜久子嬢より松茸一籠贈らる。 11月4日 9:30出勤。村上(※正二)君来りしゆゑ毎日出勤すべしと云ふ。千葉嬢より電話二三日中に訪ぬと也。石田幹之助氏よりも電話。史、扁桃腺炎。佐藤春夫「支那文学選」購ひ帰りしによまず。 11月5日 カワレスキー(※Kowalewski)の蒙古語辞典を研究所で購入。千葉嬢来る。周作の裔にして、立原道造の翠軒杏所の子孫なることは疑はしといひて系図贈る。 夜、筒井久しぶりに来り花。赤羽君より慰め。 11月6日 10:00出勤。研究所も防空準備すべしと。民研は国立の商大へと。本多嬢に「風立ちぬ」と「旅人椰子」を贈りて返礼とす。 11月7日(日) 無為。昇来りて連絡船の苦を云ふ。空家を伊藤に貸すやも知れずと。玉子女史の言。 11月8日 11:00出勤。眠し。三好達治氏に「陶淵明」贈る。新潮しめ切となりて断る。 11月9日 欠勤。文芸より今年中の傑作を問はれ大木惇夫を以て答ふ。夕方入湯。夜、筒井と花。 11月10日 欠勤。無為。本多喜久子氏より〒。 11月11日 羽田けふ上京。会ひたしと。夜、大垣君来訪。結婚談順調と。 11月12日 池内先生宅の羽田に電話せしに明日回教談話会のため上京と。研究所、構内のアメリカ研究所と交換を云はる。梓四十九日。佐藤春夫「山田長政」購入。夜、筒井とビールのむ。 11月13日 出勤。浅野君来り、北亜学報三号の原稿のこと話す。午後羽田と外務省にて会ふ。竹内の天方典麗の話きき、民研にゆき川久保と連絡。岩村、佐口(※透)と会ひしも具合悪し。 17:00円タクにて帝大にゆき松本と四人にて鉢の木に会食。20:00ごろ散会。石浜先生奥さんよりの話にて、田中神経衰弱らしと云はれをる由。帰宅 「李太白」出版延期とのこと。 11月14日(日) 15:00川久保の許へ香奠返しにフロシキもちゆき、帰宅すれば筒井来る。共に荻窪に散歩。田村春雄十月二十日結婚の由〒。五日以来四次に亘りブーゲンビル島航空戦。 11月15日 出勤。下痢の気味なり。二十四史の会あり。18:00玉子叔母、夕飯に招く。不承にてゆきたり。十八日去京と。新京へ一家移転なり。ゆき子呼びに来りて帰れば堀口太平君来訪しゐる。 静岡県富士宮より所要ありて帰京と。筒井来りて花、疲る。 11月16日 出勤の途、外村茂氏(※外村繁)に会ふ。中谷孝雄ニューギニア方面にある由。けふより研究所に三村君勤むることとなる。14:30白鳥先生来らる。 11月17日 出勤。夜、筒井来れど会はず。第五次ブーゲンビル島航空戦発表。 11月18日 11月18日 白鳥芳郎君結婚披露、二十五日上野精養軒でと。大原君と祝物につき相談す。本多嬢より柿一箱来る。(※この日の写真あり。) 11月19日 白鳥家への祝物の件につき紛々。けふ増田晃君の公葬。研究室助手、泉康順君来ての話に前田直典君、松葉杖にて研究室へ来しと。 11月20日 白鳥家への祝物20.00を大原、渡瀬君に渡してたのむ、鎌田君止めたしと。午後三越にゆき(※青木)陽生に会へば、河野岑夫応召と(帰宅父より〒之を報ず。 長男の名登夫と)、子の出産祝の品25.00を調へたり。15.00と衣料切符四十五点負担のこととす。 11月21日(日) 〒なし。千草来りビール二本と金、衣料切符をもち帰る。丸山佶、漢日領事と。 11月22日 防空演習日。白鳥家への祝に漆器買ひしと。 11月23日 新嘗祭。終日家居。 11月24日 出勤。無為。竹内より電話、杉浦(※正一郎)上京につき明日16:00学士会館へと。肥下にも速達す。 11月25日 出勤。15:00より学士会館にゆき、16:30杉浦来る。竹内、肥下と四人にて夕食。我殆ど物言はず。田辺東司君、既に七月帰還。都廰に勤むと。 11月26日 防空演習休み、14:00より上野精養軒にゆき白鳥芳郎君と(建畠)房子氏との披露宴に列す。市村、池内、加藤、和田諸先生、跡見女史、北村西望氏など列席。 帰れば大崎實より電報来をり、会ひたしと。「蒙古法の根本原理」「北京案内記」購入。 11月27日 防空訓練。大崎に連絡せんと電話せしにゐず。〒父。「交通東亜」の北條誠氏(元月刊中山同人)より詩一を十二月十日までにと。 11月28日(日) 無為。大崎よりハガキ。十月帰国、東京詰めと。「少女の友」より20.00。 11月29日 大崎に連絡とりしに午来よと。白鳥和田二家何れも次男君出征とて餞別の話あり。台銀を訪ね、大崎君と丸ビルにて喫茶、昼食。交通東亜を訪ねしに北條君留守。 毎日に田代継男を訪ぬれば、長野県へ出張中と。帰途、赤川氏を訪ね夕食。夜、赤川氏来りてボロ本67.50で引取る。出勤の途、亀井勝一郎に会ひしに中谷、蓮田出征のこと実なり。 けふ見しニュース(※リンク)にケダー州の秦移譲、民泣き助川州長官も泣く。 11月30日 出勤。昨日、白鳥先生来られしと。柴田裕君より電話ありたりと。14:00和田先生邸へ御餞別もちゆく。帰途、稲葉岩吉「満洲発達史」「満洲国史通論」服部宇之吉「清国通考」二冊、 「本草和名」民研十一月号購ふ。依子、朝より発熱臥床。 12月1日 発熱臥床。南医師の来診乞ひしに扁桃腺炎と。丸三郎夫人来訪。十月応召、いま広東方面と。柿呉る。この日熱四〇度終日うとうとす。 12月2日 同じ。 12月3日 下熱。 12月4日 無熱。けふは研究所の引越しなれど欠勤す。 12月5日(日) 無熱。中野清見を訪ね、帰れば大垣国司君来訪。疲れてだるし。ブーゲンビル第六次航空戦発表。 12月6日 定期を買ふ。五号館の新しき所にゆき整理にすごす。石田氏の校正未だ来らず。和田先生次男入営。白鳥先生二男は即日帰郷と。夜、筒井とハナ。マーシャル島航空戦発表。 12月7日 雨、欠勤。「西太后」訳す。 12月8日 出勤。中野駅にて防空訓練に会ふ。新所寒冷なればすぐ帰宅。 12月9日 出勤前「交通東亜」に詩を送る「南を懐ふ」。稲葉岩吉「光海君時代の満鮮関係」と鳥山喜一「支那・支那人」購ふ。午後、石田幹之助氏のところへ校正とりにゆく。 桑田六郎氏博士となる由。夜、筒井と花。 12月10日 13:00白鳥先生来られ「歴史上より見たる民族の特性」に対する大東亜省の希望、印刷物渡さる。今夜は筒井来ず。 12月11日 石田先生来られず。〒羽田明へ。東中野に下車、「満洲夜話」購ひしに重複なり。 12月12日(日) 松井保治氏来訪。川久保来り対満の二五〇円呉る。建来り二十五日に学校すむと帰阪と。野本憲兵来り、十五日地方へ出ると。夕食出して帰らす。河野岑夫より挨拶。 12月13日 出勤。石田先生風邪と。大東亜省の注意。三上、渡辺、手塚、島田雄次郎、市古の五君に送る辞令一月十日。大崎に電話す、今週末に会ふと。 12月14日 出勤。事なし。「少国民文化」二月号より依頼(二十日まで)。 12月15日 出勤。赤羽君より電話、明日共に長与善郎氏を訪はんと。 12月16日 出勤。校正一寸やりしのみ。15:00日本評論社にゆく。「李太白」は一月か三月と。総合雑誌にてのこるは公論、文芸春秋、改造と。長与氏を訪ねて話きく。蘇東坡書くと。 正月、露伴翁と李・杜・王維・芭蕉につき座談と。18:00辞去(甥岩永氏はクアラルンプールにをり、今年人心険悪なりしと)(先日石田先生と会あり、中 国文化協議会とか、 周作人文化部長はよけれど東京の代表者矢代奉雄。加藤繁先生の話あり)。帰宅。増田晃追悼の「狼煙」来る。伊東静雄より我の詩を愛せし也。 12月17日 出勤。用なし。13:00池袋にてラム「帖木児(※チムール)」岩波文庫「護持院原の敵討」買ひ、本郷にゆき文学部事務室の児玉氏に謝礼三〇円わたし、服 部四郎氏に北亜学報三号の原稿たのむ。 柴田君より「清朝実録」と「清文虚字指南編」返却を受く。我自らは忘れゐし也。佐口の仲言にて蒙古辞典中止となりゐる由。本郷を散歩。「台湾の蕃族」購ふ。 17:00より東洋史談話会。加藤先生のみ。和田君と帰る。(浅野君の話つまらず。)留守中、千草、筒井来りし由。駒込の叔母またまた狂乱と。 12月18日 出勤。月給貰ふ。来週より早出当番を決め、我は月曜。13:00本郷にゆき「瀋陽日記」、神田にゆき「大唐西域記」「二十年目睹之怪現状」「蒙古風俗志」 「蒙古人の友となりて」を内山にて、 「乾隆帝伝」「黒龍江述略」「清開国史料考」を山本にて購ふ。計四十円ほどなり。(留守中、筒井久し振りに来りし由。)電車にて関口啓太郎(大高六文甲) に会ふ。 12月19日(日) 丸の家を訪ねんとせしも本屋休みのため手土産なしとて取止む。筒井来る。小山正孝、鈴木亨来訪。史、風邪にて臥床。 12月20日 当番なる為、急ぎしも9:30すぎゆけば大原君既にあり。10:30石田幹之助氏を訪ね校正取り来り、13:00開明堂にゆき校正わたす。小学館に加毛女史を訪ね萩原全集第五冊を受取る。 岩波祐則氏来合せたり。風邪のため早く帰宅。マキン・タワラの海軍部隊四五〇〇名全滅(うち軍属一五〇〇名)。 12月21日 風邪のため欠勤せしも13:00高円寺にゆき配給の麦、傘求め、丸の諸子へ贈物の本を探せしもなし。 赤川にゆき小山松吉「名判官物語」西本白川「康煕帝伝(※康煕大帝)」幣原坦「南方文化の建設へ」購ふ。 松井君はじめて梓の話せし由。 12月22日 出勤。国際文化振興会図書室にゆき、石田氏の校正のこと了。ボーナス貰ひ、神田にゆき「蒙露日辞典」「蒙古史記」「ブリヤート蒙古民族史」「パラワン語彙」「アミ語彙」 「満洲近代史」を購ふ。これに先立ち池袋にて佐藤春夫「霧社」「随縁小記」購ふ。この五日間に読書費一〇〇円。「少国民文化」より電報にて催告。 12月23日 昨夜不眠。「少国民文化」に断りの速達す。「文学界」二月号に詩、正月八日までにと。欠勤、無為。 12月24日 徴兵年齢二十歳に低下。13:00出勤。紙出処なしと。植村清二氏より来信。平松君に電話かけ播磨氏の原稿送る。「江南春」「蕪村句集」「北アジア諸言語」購ふ。 12月25日 大正天皇祭。10:30丸の留守宅を訪ねしも留守。高円寺阿佐ヶ谷にて石原「鄭成功」「魏晋南北朝通史」「欧米における東洋史学研究」購ふ。留守中肥下来りし由にて保田「南山踏雲録」持ち来る。 午後松井保治君、赤川の使として酒一升もちゆく。けふ正月の餅突き呉る。 12月26日(日) 無為、無客、無〒。 12月27日 出勤。浅野君来てゐる。村上と当直代り一月七・八・十となる。大崎に電話かけ明日17:00台銀を訪ぬることとす。本日、丸(光子)夫人よりハガキ、本の礼状。丸よりまだ便り来ずと。 本日よりタバコ価上、1.5倍となる、禁煙せん。 12月28日 14:00出て新大久保にゆきしも見つからざりし「蒙古語四週間」神田で偶然見つかる。17:00大崎實と東京会館にて会食。うまかりし。それより銀座一平にてまた食ひしもまづし。 山手線にのりしつもりが京浜線にて蒲田までゆきて引返す。 12月29日 休暇、無為。 12月30日 平野義太郎氏より「北支村落の基礎要素としての宗族及び村廟」抜刷いただく。「新潮」より二月号に雑記十枚(一月十日まで)と。午后散髪。 12月31日 凶年尽日。筒井より帰郷したりと。も一度上京の様子なり。夕方入湯。帰りに土屋智雄氏より帰宅の加藤君に会ひ、堀辰雄夫人病気なりしと聞く。 咲耶より河野岑夫スマトラへゆくにつき様子しらせよと云ひ来る。けふより禁煙やぶる。 昭和19年 1月1日 終日家居。「北アジア諸民族に於けるレヴィレート婚について」を書き改むることとす。 (※未亡人が亡夫の兄弟と再婚する習慣) 1月2日(日) 事無し。15:30荻窪にゆき岡田謙「未開社会における家族」買ふ。 1月3日 荻窪にゆきしも駄目。14:00加毛女史「萩原全集」二冊もち来る。15:00荻窪にゆき「高砂族調査報告」三冊購ふ。 1月4日 肥下を訪ひしも棟方志功を訪れしとて留守、奥さんに餅御馳走になりて帰る。途中、長野に会ひ、つれ帰る。17:00近く帰る。 1月5日 事なし。今年になりてまた不眠つづく。 1月6日 昨夜も不眠。連続五日間なり。雪降り積みゐたり。午後、健来る。今年徴兵検査と。河野よりのかき餅、陛下の葡萄酒二瓶もち呉る。 1月7日 昨夜は一時すぎより寝し模様。12:00研究所。三村、渡瀬二氏と話す。手塚君も来る。筒井、夜来り、二月ジャワへゆくと。〒中支の亀井昇より。 1月8日 昨夜は三時すぎに寝、7:30起床。研究所日直。校正多く来る。14:30阿佐ヶ谷にて参謀本部の地図買ひ帰る。羽田より「支那周辺史」下呉る。 1月9日(日) 11:00松井保治君、11:30村上菊一郎君来訪。12:45新宿にゆき、新藤千恵氏と会ひ、15:00山本元帥の義弟三橋君と会ひ、18:00帰宅。 留守中来りし大垣国司君、18:00再来。結婚話きまりしと。21:00帰る。 1月10日 9:30出勤。明日山一書房へゆく約束す。15:30帰宅。筒井18:00に来り、21:30の汽車で帰阪と。別杯のみ。 1月11日 〒末吉、楢崎勤。12:00出勤。13:00神田山一書房へゆき、あと神田散歩。「昭南スマトラ建設戦記」「黒龍江外記」「元史譯文証補」「樺太アイヌの住居」買ふ。 1月12日 欠勤。午後、肥下を訪ね、赤川にゆき、本三冊売り、史学雑誌二冊と「蒙古事情概要」を求めて帰る。 1月13日 〒羽田、彙文堂。後者へ送金す。12:00出勤。寒し。「日出づる國と日暮るる処」買ふ。 1月14日 欠勤。〒なし。暖かければ15:00入湯。新年はじめてなり。 1月15日 12:00出勤。村上の仙台土産ほし柿食ふ。西荻窪にゆき田代継男の家たづねあてしも留守。興地先生(※興地実英)にドイツ語聞き、中原稔生君来合はす。 1月16日(日) 〒父。山田廸孝氏。10:30川久保を訪ねしも鎌倉へゆきしと。寒し。 1月17日 9:00出勤。二十四史の会に来し渡辺氏、三上氏に民族のこと云ふ。三上氏二月末、渡辺氏一月末と。川久保、和田先生ににはとりもちゆかんと。 1月18日 12:00出勤。白鳥先生来らる。民族の方を急ぐと也。夜、柏井叔母の話におつぎ伯母けふ2:00死去、狭心症と。おこう伯母と二人、神戸の勇喜一氏宅へゆくと也。 1月19日 欠勤。昼、千草来る。他に事なし。寒し。 1月20日 「交通東亜」より20.00送ると〒。雑誌は来ず。ゆき子警察へ来をもらひにゆく。これで四回目とか(※不詳)。欠勤、無事。 1月21日 欠勤、無事。みかんの配給食ひしのみ。 1月22日 11:30出勤、無事。寒し。帰途、阿佐谷へゆき松田つぎ伯母の骨を拝む。船越こせん小母来りをり。 1月23日(日) 朝よりレヴィレート書く。16:00新藤(※千恵子)嬢来訪。夜、阿佐ヶ谷にてつぎ伯母の追夜に当たる会。すし食ひて帰る。靴ずれ痛し。 1月24日 日直ゆゑ9:30出勤。16:00退出。新藤嬢より電話あり。明日会ひたしと。 1月25日 雨、欠勤。足痛く外出できず。昨年来し「東洋史研究」見本もよみ了へ、無事。 1月26日 欠勤。「交通東亜」一月号来る。詩わるくなし。夜、木村宙平大尉来訪。南京豆呉る。 1月27日 和服にて出勤すれば大原利貞君応召と。同君は庶務のこと切り廻しゐしにより困る。明後日送別会ときまる。帰途、岩村「十三世紀東西交渉史序説」、 松田・小林「乾燥アジア文化史論」購入。 1月28日 出勤。池袋にて稲葉・瀬川「紅頭嶼」購ふ。鎌田、三村君来る。渡瀬君と大原家にゆき挨拶す。帰途、大原君に邂逅。新宿にて渡瀬君と別る。 〒赤羽君より「李太白」のカヴァーに照夜白の絵を用ゐしと。 1月29日 出勤。北亜学報の校正刷持参。12:00銀座柳小路「山茶寮」にゆく。大原君の送別会なり。同級生、研究所員浅野君と総勢十三名。大原君、軍人の子なれば何ともなしと。 「星槎勝覽」「瀛涯勝覧」の原稿預る。民族の特性の原稿も預る。14:00散会。新宿の某店で渡瀬、和田君らと喫茶。渡瀬君と阿佐ヶ谷まで同行。 21:30出発を送る筈なりしも不眠のため中止す。けふ銀座近藤にて瀧川政次郎「満支史説史話」、鳥山喜一「満鮮文化史観」購ひ、池袋にて「宝物集」購ひし。 1月30日(日) 小雨、終日家居。「交通東亜」より20.00来る。 1月31日 当番。松沢女史けふより出勤。大原君、土曜の出発まぎはに学報のこと心配し手段を考へたりと。三村君にやらし。予は出版会(※日本出版会)にゆきしも熊谷孝君ゐず、 小山正孝君に会へば「四季」廃刊の由。六日堀邸に集まると。帰途、新宿紀伊国屋にてウィルキンソン「マレー語英語辞典」購ふ。 出版会にて昭森社の宮木君に遭ひしが伊藤書店と合併、「西太后」は出す由。マーシャルに敵来艦と。 2月1日 出勤。出版会より電話あり学報送付の要なしと。寒き風吹く。早く帰宅。池袋にて太田正雄「日本切支丹史鈔」を買ふ。 2月2日 出勤、無為。夜、川久保来り、雞を和田先生へもちゆくと。「民研」のため6.00わたす。「新潮」二月号来る。「スマトラ雑記」わづか三頁となる。 2月3日 雪降る。欠勤。〒末吉より。林檎四十ケ買ふ。卵五ケ配給。マーシャルのこと未だ発表なし。 2月4日 雨。欠勤。豆腐、チリ紙の配給。 2月5日 出勤。校正をし、14:00退出。赤川君の所により、「支那回教史」「蒙古3 歌史」を買ひ、原稿用紙印刷のことをたのむ。肥下の家による。「コギト」廃止の達しは来ぬ由。 17:00帰宅。本日マーシャル諸島の敵上陸はじめて発表あり。クェゼリン、ルオットの2ケ所に上陸と。 2月6日(日) 堀辰雄氏を訪ぬ。塚山(※勇三)、鈴木(※亨)、小山(※正孝)の三君も来る。吉満義彦氏来会す。津村信夫、副腎の病気にて回復覚束なしと。塚山君来り、 17:00去る。けふ「四季なきくに」を四季終刊号のため渡す。 2月7日 出勤。13:00渡瀬君と出版界へ。熊谷孝君、山田準氏、曽木氏来会し、さながら法中時代の如し。開明堂へゆきしのち、出版会へ引返し熊谷、山田二氏と学士会館にて夕食。憂鬱のかず。 2月8日 けふは悒鬱少し。民族の予定をなす。熊谷君を日曜に招待するハガキ出す。 2月9日 11:30出勤。14:00東洋文庫へゆきしも寒し。浅野忠允君と一寸話せしのち帰る。矢野仁一「満洲国歴史」購ふ。「民研」十二月号来る。「改造」四月より時局雑誌となるとの挨拶状。 2月10日 出勤。熊谷君に電話せしに日曜来ずと。14:00文庫にゆき青木富太郎に会ひしに竹内好出征と。榎、白鳥芳郎、二君に民族の原稿たのむ。帰りの電車で前田直典君に会ひし。 平松奉老、善隣協会やめて海軍軍属になりしは青木浅野二君の言、合ふ。 2月11日 紀元節。来客なし。14:00肥下を訪ひしに外出。赤川氏を問ひしに旅行。肥下今さきここへ来りし由。丸の家へゆかんとせし途中にて奥さんに会ふ。上海南原より便あり。 広東へは近々出発らし。子供を思ふ。夜直を免ぜらると。帰りて配給の菓子食ふ。肉も配給なり。 2月12日 10:00出勤。石田、三村の二君のみ。両君帰りしのち一時間ほどして帰る。けふ回教圏に電話せしに竹内応召は事実なり。夕方、健来り、ノート二冊呉る。 大は大高を受くる由。「文学界」の立野女史より速達、詩は三月号にのる由。 2月13日(日) 来客なし。ほし柿、めりけん粉入る。久し振りにて入浴。 2月14日 出勤。民族の村上、鎌田、大原三君の原稿をみる。原稿用紙の紙とりに来りしを以てわたす。帰途、和田先生に会ふ。「大分元気になりし」と云へば「まだそんなか」と云はる。 帰宅の途、赤川により「日本研究」三冊もち帰る。 2月15日 出勤。14:00渡瀬、大原、村上、鎌田の四君の原稿もち開明堂にゆく途中、出版会により届書強要して受取らしむ。開明、三月中にやる由。実績になればと。 山本にゆき「ギリヤーク語」、小島武男「蒙古語辞典」購ふ。岩村忍あり、この頃お体はいかがと。帰途の電車にて楊井克巳君に会ふ。 2月16日 帝大にゆく途中、和田先生に会ふ。服部四郎氏の原稿はだめらし。善海ゐず、文庫にゆき「盧龍塞略」見る。雪ふり寒し。夜、常会、ゆき子出る。疎開は三郎留守宅のみと。 2月17日 出勤。十五日ガスつけぱなしにして危く失火の所と。14:00学習院に渡瀬氏と白鳥先生を訪ねしも欠勤。お宅へ伺ひ色々打合せす。帰途、竹内留守宅を訪ひ隊名を訊く。 中支にあり齋藤久雄君と同じと。原宿で下りしに宮坂長安君に会ふ。前田直典君を訪ね、北亜学報の原稿もらひ、民族のを頼む。 夕刊に南北アジア(※学報)合併のこと載す。齋藤裕夫入営中病死の便あり。本位田、広東に転勤。 2月18日 出勤。寒し。トラック諸島に敵来襲。竹内、本位田に〒。 2月19日 昨夜雪降る。11:00出勤。徴用の件、大東亜省嘱託と書きて宜しきらしと。14:00、石田君と文庫へ。川久保、渡瀬二君も来会。「南方の国めぐり」「南方熱帯の植物概観」購入。 2月20日(日) 〒羽田より締切延してくれと。15:00肥下来る。コギトの原稿ことはる。 2月21日 当番、早く出勤。13:00文庫に向ふ。「スマトラ」購入。「蒙古のシヴィレート」殆ど終る。〒田中三郎、小高根二郎より。 2月22日 出勤。出版会により又々届送り返し来る。前田直典君来る。四月末までに民族のことたのむ。文庫へ行く星斌夫に会ふ。〒藤森達夫氏より転居通知。 「洪牙利語(※ハンガリー語)小辞典」買ふ。 2月23日 出勤。東洋史談話会の鎌田君の話ゆかず。〒藤森達夫氏へ。 2月24日 欠勤。雨。論文の蒙古書き了へ、ツングース半ばまで。二〇〇枚位か。 2月25日 出勤。南北亜細亜学報、情報局にては廃刊と決定と。文庫、神田にゆき「世界の言葉」、パーカー「韃靼一千年史」「タガログ語語彙」「金帳汗国史」買ふ。 ルオット、クェゼリンにて軍人四千五百名、軍属二千名全滅。大尉音羽侯爵戦死さると発表(二月六日)。 2月26日 朝刊に決戦態勢のこと出づ。試合、高級演劇禁止。官庁外郭団体の事業停止と。13:00文庫にゆき渡瀬君と会へば山本達郎氏「星槎瀛涯」の校訂本出版を計画すと。 また研究所の決戦体制につき述ぶ。15:00神田にゆき山本にて「明元清系通紀」買ふ。25.00也。夜、林敏夫来り話す。 2月27日(日) 〒楢崎勤氏よりと新潮社より二十五円と同時着。桑原・野田共訳「デカルト」来る。14:00松井保治君来り話中、三月一日まで警戒管制と。高円寺へゆきしも本なし。 留守中大垣国司君来りし由、防空壕浅しと云はる。 2月28日 当番出勤。二十四史の会取止め。ラヂオでグァム島その他へ敵来襲の発表。父より〒、大、大高、皇學館、国学院受験と。国学院のため四、五、六上京と。 2月29日 昨夜咳甚しかりし。欠勤せんと思ひしが白鳥先生との連絡のためゆきしに、明日来よと。読売新聞の柳沢三郎氏より「国民の奮起を促す」詩呉れと電話あり断る。 松本徳治氏に電話せしに原稿用紙費二十五円位と。留守中、下坂禎一君来訪と。結核のため除隊なり。 3月1日 10:00下坂君来訪。咳し痩せゐたり。軍曹となりしと。12:00ゆきしに和田君のみ。松沢女史やがて来り南京豆呉る。14:00渡瀬君来り、ともに学習院に白鳥先生を訪ぬ。 東亜民族摘要を作る計画のぶ。けふ大原君留守宅より電話、岡山に疎開と。けふ千歳書房より十四円、名詩選集の稿料と。 3月2日 春めく。12:00出勤。和田久徳氏のみ居り、疎開を兼ねて茅ヶ崎に転居し研究所も止むと。手塚君来る。「ジャワ人種考」購ふ。人種学にして買損ねなり。 3月3日 出勤。村上、鎌田君二名不快なり。「ジャワ人種考」を研究所に渡し、松枝茂夫訳「模糊集」購ふ。同盟年鑑ぬすみ見しに詩人、名簿より除かる。 3月4日 出勤。和田、石田二君と松沢嬢、昨夜大東亜民族提要の案書くため睡眠不足なり。大原君留守宅へ本もちゆく。阿佐ヶ谷にて「蒙古提要」「大黄河」購入。 3月5日(日) 大雪。昨夜「北スマトラ諸族の身体呼称」二十七枚書き、眠りしは三時頃か。覚むれば十二時前なり。「文学界」三月号来る、マキン・タラワまでしか書きをらず、 時おそきと神保を大文字にせるを見て不快なり。14:00、大、来る。明日の国史にて試験終ると。17:30帰る。「歴史上より見たる満洲族の特性」書く。 田村治雄より〒、一月応召○○にゆくと。下関よりの便りらし。 よき友はみな兵となりたたかふを思ひていかる内地のやつに 3月6日 当番出勤。大雪積りゐる。17:00すぎ大みかん二十もち来る。「北スマトラの身体呼称」のため、タガログ、アミ、パラワン三語をしらぶ。所得税申告を三一六円とす。 3月7日 大、昨夜泊まる。12:00出勤。白鳥先生来られず。西亜とメラネシヤ等ふえしため人の割合に変更す。昨夜、従軍詩歌集「南の星」の原稿半ば書き、けふ大体終る。 3月8日 出勤。14:00和田先生をお訪ねす。大原君の還せし原稿のこと、学報のことなどいろいろ伺ひを立つ。師恩のありがたさを思ひ、夜おそくまで眠れず。「身体呼称」殆ど了。 3月9日 出勤。手塚君来り「民族の特性」の原稿呉る。和田先生の「侏儒考」渡瀬君に手交。松本に電話かけしに原稿用紙月曜出来と。宮木喜久雄より電話「西太后」の原稿見せてくれと。 明日十時まで来訪と。その後失念、明日十時までに出勤を約す。帰途、ベルナツィーク「大東亜の原住民族」購ふ。良き本らし。夜、宮木君への手紙。 詩集の原稿(解説のみ未完)を書き、「身体呼称」を了ふ。四十三枚けふ数十日振りに入浴し体重を計りしに三十九キロなり。我が生涯のレコード(※最軽量) といふ。 3月10日 10:00に出勤。(※伊藤書店)宮木君より電話あり。原稿一週間貸せ、会議には通すとなり。服部四郎氏を帝大に訪ねしに閉鎖、善海に会ひ、民族の特性たのむ。 下落合の服部邸を訪ひしに、断りのハガキ出せしと。四月か五月に入りてなら出来る由。目白の本屋にブリタニカ九版あるを見、値を問へば本棚ともに二五〇円と。 山本實彦「満鮮」買ふ。 〒父、大より。大高第一次通り国学院は止めると也。「書香」十一・十二月号来る。布村一夫君、レヴィレートに非ずスナハーチェストヴォ(※早婚慣習)と、 誤りなり。 大垣国司君、求婚して断られしらし、良き詩書きて送り来れり。本日雨。先日来の大勝利はデマなることほぼ確実。 3月11日 11:00出勤。渡瀬君、三村君、松沢嬢のみ。手塚君の原稿を校し、16:00退出。「満洲族の特性」ほぼ成案を得たり。 3月12日(日) 11:00出勤。松井保治君来訪。詩集原稿了。赤川氏へ本売りにゆきしも留守、預け置く。肥下留守中来り、同人雑誌中、残るは「文芸世紀」と「文芸日本」 の二誌と。 コギトの世紀合併断ると。けふ松井君、春夫の「一吟双涙抄」見せびらかす。「詩集」の原稿了る。 3月13日 当番にて早く出勤。白鳥先生も来られず。二十四史の会とて和田先生見え「北亜学報」三号のトップをお頼みせしに諾さる、ありがたし。二十一日満洲へ飛行機で出発、 四月初、帰来さると。帰来、歯科医にゆき民族の原稿書きしも、いま五十枚。二十二時。 3月14日 昨夜小眠、けふだるし。13:00退出。創元社にゆき原稿わたし赤川君による、十六円余。辻善之助「人物論叢」購ひ、阿佐ヶ谷駅にて本多喜久子よりの野菜さげて帰る。 歯科医にゆきしに左奥歯の神経殺すとて痛く、22:00まで苦悶。原稿書けず。民研一月号来る、つまらず。 3月15日 欠勤。民族かきつづけ中間、肥下を訪ぬ。コギト文芸世紀合併ことわりやれるだけつづける由。帰来、水田、大垣、薬師寺の原稿送り、民族かく。 3月16日 午前中、民族了、一三三枚。研究所へゆく。石田君九十枚、編輯了へし頃、白鳥先生来らる。四月一日より女子学習院出の人来ると。他へたのむ原稿一頁五円にせよと。 手塚君の入所も決まりしらし。疲労困憊す。原稿用紙月曜に石田君とりゆき呉ると。 3月17日 けふは慰労休暇とす。「レヴィレート」明日一日にて終らん。他に事なし。〒三好達治氏へ。 3月18日 出勤。雨。和田久徳君応召と。文庫へゆきしも和田先生も来られず。14:30お宅へ伺ひ奥様に御挨拶申上ぐ。昨日村役場より通知、今朝入営と。筒井護郎、 肺炎のためジャバへゆけず、大阪商船の本社勤めと〒。「レヴィレート」すむ一八六枚。夕方より雪となる。〒薬師寺へ。 3月19日(日) 13:00木村繁喜君来り、14:30帰る。リルケの詩集三冊を与ふ。もち菓子呉れし礼なり。〒筒井へ。日本評論社より印紙五千枚来る。 3月20日 8:00出宅。原稿紙のため松本徳治君を訪ひ、当番出勤。鎌田来り変なり。石田君原稿用紙とり来る。15:00大原君のところへ私物もちゆき、帰宅。 けふ臨川(※京都古書店)より「大金国志」「岑嘉州集」来る(6.50、11.80)。遼海双書三六〇円と。 3月21日 春季皇霊祭。赤川草夫氏に本16.30売る。「東洋学叢論」買ふ。健、留守中に来りゐる。大、落ちたることほぼ確実。 3月22日 出勤11:00。鎌田外一名の原稿来了。研究室へゆきキャンベルを借る。バッデリーはなし。善海を訪ひ、五月十五日までに特性たのむ。文求堂へゆき、広東語、スペイン語、馬来語、 上海語の手引買ふ。夜、キャンベル三頁ほど訳しそむ。 3月23日 出勤12:00。昨夜キャンベル四頁訳し眠れずだるし。民族の出版企画届書く。赤羽君、明日17:00来ると。法政中学にて教へし生徒三名来り話す。 (けふ出勤途、熊谷君のもとへブドウ酒一瓶もちゆく。) 〒矢口力一、松井君「一吟双涙抄」くれると。赤羽君「李太白」四月中頃出来と。和田先生、飛行機の都合にて満洲行やめられしと。 3月24日 欠勤。依子昨日より発熱。10:00赤川君、梓への供物もち呉る。けふ近くの南博士、前田医師の診断を受く。キャムベル訳し、17:00来りし赤羽君と晩餐、 放談し「李太白」の見本一冊受取る。19:30依子、熱四〇度といふに赤羽君を送り出し前田医院にゆきしに不在、南博士を迎へ熱を計れば三六度余と。服薬せしむ。 3月25日 出勤11:00。赤羽君、昨日帽子忘れゆきしに電話して月曜もちゆくこととす。和田先生に電話せしに「開元の故地と毛憐」を書かると。企劃届書く。浅野君より電話あり。 北京へゆくと。原稿置きてゆかしむ。13:50手塚君、白鳥先生、月給貰ひ編輯手数料10.00いただく。四月より手塚、前田、河原、女子四人入所と。 16:00まで北アジアのワリ付し、開明堂へゆく。「民族の特性」三十日までに見本出来をたのむ。山本にゆきルブルク、内藤湖南「清朝史通論」「支那宗教史」買ふ。 帰途人形と本とを買ふ。依子ほとんど全快らし。〒小高根二郎。 3月26日(日) 10:00松井保治君来り、佐藤春夫「一吟双涙抄」ゆづる(3.80)。昼食ののち去る。〒⇔荒井平次郎。國民服五十円で出来る由。臨川に9.00送り、 遼海双書注文す。 3月27日 悠紀子叱る。13:00日本評論社にゆき三〇〇円受取り、神田巌松堂にゆき大喧嘩して蕃族調査報告書取る、一五〇円。研究所にゆき村上叱り、16:00お出での和田先生に原稿御願ひし、 高円寺にてバッチエーラー「アイヌ辞典」(15.60)、ピッタール「人種学 四冊」(7.00)購ふ。中村地平、田代、佐々木の三君に詩集の序文たのむ。 3月28日 雨、欠勤。スマトラの民族をしらぶ。田村よしの〒、春雄満洲へゆきし也。研究所を止むることを和田先生に申上げんと決意す。 3月29日 12:00出勤。渡瀬君に辞職のこと云ふ。田代継男序文のこと快諾す。 3月30日 当番、創元社に電話せしに柴野君出版のことにつき伺ひたしと。四月三日来よとハガキ。渡瀬君12:30来り、文庫へゆき和田先生に辞職申上ぐ。佐々木六郎を問ひしに新婚旅行中。 平田内蔵吉を訪ひ閉口せしむ。加藤先生「支那経済史概論」「イラク史」「東部ソ領の全貌」を購ふ。 3月31日 11:00出勤。〒田代君に速達、熊谷孝に本返せと。石田君原稿呉る。14:30開明堂に民族の見本出来せしを以て石田君とゆき、別れて白鳥先生宅を問ひ 辞意申上ぐ。了解されし模様なり。 〒父より大、皇學館入学と。中村地平君、序文考慮と。千草、小田嶽夫君貸せし本送ると。だんだん事滑らかにゆく。この日鎌田君われと同歳と判明、馬鹿らし。 4月1日 9:00出所。鎌田君を除く全員来り、新しき人として河原君来る。松沢嬢、手提鞄を盗まる。文庫へゆき前田君に会ふ。和田先生来られずお宅を訪ねしに行き違ひか。けふ村上正二を叱りたり。 4月2日(日) 雨、17:00大雨を侵し田代君の家にゆきしに留守、但し序文は明日妹君にもて来さすこととしをれり、とりて帰る。けさ俊子姉、撲りて説服せしむ。創元社の柴野より明日来れずとの速達。 4月3日 神武天皇祭。昨夜停電中なりしため未完の田代君の文書を改む。10:00大垣国司君来り、聞けば六ケ月にして再応召と。大垣君の画と手紙と自己の歌集とを預け置く。 共に肥下の家にゆき論じ、「うた日記」と伴信友全集4冊と交換。20:00伊藤と肥下来る。 4月4日 9:00出勤。原稿用紙二千枚入手と。佐々木六郎氏に電話せしもいまだ欠勤。川久保より電話あり、大東亜省の金受取りしと。13:30白鳥先生来られ、名誉研究員に任ぜらる。 佐々木女史けふより出勤と。前田君に蒙語三合便覧のこと説明、わが思ふこと殆ど成る。17:30肥下宅によりしに留守。「南方随筆」購ふ。比島の薬師寺君より〒。 川久保、夜来り二〇〇円もち呉る、脅かして帰らす。 4月5日 12:30出勤。「ツラン民族圏」購ふ。原稿用紙二千枚20.00、研究所の南北叢書として二十四冊を考ふ。大垣国司君の恋人小松京子氏より電話。 創元社にゆき柴野君と話し田代君の跋渡す。「桎梏の印度」購ふ。18:00小松氏来り、大垣君昨日家を訪ね、話解消を申込みしと。美くし。 (南) 瀛涯勝覧(全員) 東西洋考 星槎勝覧 ビサヤ語辞典 (※フィリピン) 諸蕃史(白鳥) 眞臘風土記 (※カンボジア) 蕃書(全) 蘭人治下の台湾(田中) 南紹野史 嶺外代答(河原) 広東新語 島夷志略 (北) シベリヤ遊牧民族の慣習(村上) 吉林外記 柳辺紀略(田中) 三合便覧(前田) 異域録(カマ田) 松漠紀聞 西伯利(※シベリア)東偏紀要 瀋陽日記 (支) 五雑俎(三村) 清俗紀聞(三村) 4月6日 13:00出勤。途中、芙蓉堂にて「中央アジアの過去と現在」「陽高県漢墓」を購ふ。訳著のこと夫こにはなし。北アジア学報の企画届送る。松沢嬢に「マレイとマレイ群島」 「シンガポールの光」を佐々木嬢に一六二〇年日本語辞典のこと命ず。佐々木六郎に電話せしに書く由。田代継男より〒二。一には矢加部勝美スラバヤより送る砂糖にて会せんと。 ゆき子の腎盂炎大したことなからん。〒三好達治氏へ、創元社へ斡旋の礼(※「南の星」出版につき)。 4月7日 10:00出勤。三村君に五雑俎、村上君に慣習法、鎌田君に異域録借す。昨夜、三時間ほど寝しのみにて倦し。15:00和田先生をお訪ねし、亜細亜叢書の件お話す。 先生「君、右傾したね。」と。帰途、實藤(※惠秀)「明治日支文化交渉」購ふ。養徳社より「神軍」三版の〒。 地平氏より原稿承諾、二十日頃疎開と。俊子姉、岐阜より帰り来り、八日疎開と。 4月8日 9:30出勤。佐々木嬢に「西班牙語会話」貸し、ほぼ叢書の計画成る。手塚君点呼演習の為、月曜の当番代る。「スマトラの民族」未だ終らず。 4月9日(日) 雨、午前中三分刈りにす。大より「海原」送り来る。咲耶、五月節句に何かと。「南の星」に追加の二編書く。大垣へハガキ。 15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。夜23:00馬来スマトラの民族提要了る。 4月10日 手塚君に代りて当番す。村上に熊谷、武田氏への紹介書く。和田先生より電話、御原稿出来し由。浅野君よりも原稿来る。「馬来スマトラの民族」渡す。四〇枚足らず也。 14:00退去。〒竹内母上、父。赤羽君、明日ビールのみに来ると。 4月11日 12:00出勤。楊井克巳君来訪。14:00より瀛涯勝覧の読合せ会、終りて北亜の割付。17:30赤羽君来りビールのます。川相常五郎先生より来信、浪中にて山本重武君と話合へる由。 岩切房吉、日向の青島にあって何か送らんと。けふは吉日? 4月12日 11:00出勤。佐々木六郎に電話せしに速達にて送ると。北亜の割付終り、開明堂へと渡瀬君に託す。早寝。 4月13日 雨、終日家居。民族書く。しるこ食ふ。臨川より遼海叢書前金でと。反駁のハガキ書く、可嗤。 4月14日 11:00出勤。本宮清見より電話、山形へ召集と。瀛涯勝覧、読合せしのち銀座松坂屋五階の産業営団へ別れにゆく、二十日入隊と。田代を訪ねしにゐず、桐山君と喫茶。 朝日で寺崎浩に会ひし。二十日より四日間、十九時より教育訓練実施と在郷分会より達しあり。 4月15日 11:00出勤まで民族書き、出勤後15:00了。白鳥先生昨日来られ出版のこと考へてをくとの由、バカらし。手塚、渡瀬二君に後事たのみ、荷物の整理了へて帰る。 和田賀代女史に道で会ひしゆゑ歯のこと伝言たのみおく。丸光子氏よりハガキ。けふ手塚君より聞けば松岡中尉帰還しゐると。〒松岡氏ハ丸光子氏。 4月16日(日) 赤羽氏より手紙と「ラッフルズ」、養徳社の喜田聿衛氏よりあとがきをと。十四枚書く。11:00松井保治氏来る。「奉公詩集」見しとのことに共に高円寺にゆく。 赤川氏に一寸寄り帰還。小葉田淳「日本と南支那」春夫「日本文学選」「奉公詩集」買ふ。〒赤羽氏へ礼。 4月17日 13:00日本歯科へゆく。林教授に見られ歯を磨かぬからと叱らる。山本へゆき「亜細亜横断記」「満洲国境問題」買ふ。神田にてオランダ語スペイン語「四週間」買ひ、 朝日にゆき佐々木六郎に跋文たのむ。大本営で検閲のためと。 4月18日 11:50研究所にゆき、昼飯後「瀛涯勝覧」を読む。「諸民族の特性」一出来。15:30白鳥先生来られ、鎌田君を嘱託に変ふと。17:00すぎまで居られ空腹耐へ難し。 けふ「馬来編年史」購入。出勤前堀辰雄氏の許へ見舞にミルク一缶もち行きたり。史、南博士に相談せしに休学の必要もなからんと。 〒羽田、肥下、佐々木六郎へ。「東洋史研究」八の五・六来る。 4月19日 雨、終日家居。父より大に祝として衣料切符呉れよと。馬来に移入せる文物を言語上より見んとの志起る。大塚訓導に史の鍛練こらへられたしとの手紙書き、明日より登校せしむることとす。 〒羽田へ。明実録抄の事たのむ。 4月20日 9:30赤川氏に本20.00売り、10:30日本歯科にゆき北園克衞に会ひ、林教授より施術、次回は二十五日十四時に来よと。小学館に賀毛(加毛)女史訪ねしに辞職と。 朔太郎全集一冊とり、開明堂に寄り中村地平君を訪ぬ。女子生まれ、弓子と名付けし由。跋文日向に帰りてのち送ると。神保は君の弁護してゐたと井伏云ひ居ると、ウソ吐け。 帰りに井の頭線にて榎君に会ひ、前田君を訪ね「島夷志略」借り、葡萄酒飲みて帰り、夕食後直ちに郷軍の訓練、22:00まで。松岡中尉より〒。スマトラ同じく恋しと也。 浅井中尉も帰れりと。 4月21日 〒浅井中尉、彙文堂、父へ。11:30研究所へゆく。「瀛涯勝覧」読合せ。山本にて「三雲籌俎考」を買ひ、他にて「蒙古土産」購ふ。夜、健来る。〒大より。 4月22日 〒加毛稲子氏へ。昼すぎ散歩にゆき阿佐ヶ谷の本屋で岩波文庫「日本書紀」見つけ買はんとせしに抱き合せと。叱りつけたれど買はず。 古本屋にてジョンストン「禁苑の黎明」買ふ。語訳だらけなり。船越耐をも説教す。左奥歯痛し。 4月23日(日) 〒歴史学研究へ脱会、前田直典、西島大へ。9:00散歩かたがた堀氏見舞にゆく、少し良き由なれど寝たきり也、加藤君奥さんと話す。午後、蓬つみにゆく。 岩切房吉より雑魚と干切送り来る。 4月24日 〒岩切へ礼、三好氏へ礼。9:00佐々木六郎を訪ね、跋たのむ。10:30左大臼歯とその隣と抜く。北園と話もす。午后荻窪にて春夫「マルコポーロと少年達」買ふ。 15:00柴野君来り「南の星」岩波型にて一三〇頁位と。田中健助の長女離縁と。20:00大垣国司君来り、意外にも内地勤務と。 小松京子嬢との結婚すすむ(※勧む)。赤川氏来り、雑誌と「志賀重昂全集」ともちゆき貰ふ。 4月25日 靖国神社御親拝の日、皇居外より拝む。(行く道にて赤川に寄り三五円受け取る。)携帯入替の後、洋服店にゆきしも留守。「棠陽比事」「東西交通史論叢」 「福建市舶提擧司志」「日本一鑑」「東印度地方の言語の実際」購ひ「清代通史」の中、予約す、三十五円と。開明堂にゆきしに校正四十八頁まで送りしと。〒 岩切、浅井中尉会ひたしと。 4月26日 9:30日歯にゆき待つこと長し。山本へゆき「清代通史」中と鴛淵「蒙和辞典」を購ひ研究所にゆく。石田、河原の二君のみ。学報発刊の命来ると。〒歴研より一円送れと。 〒倉橋君に脱会の理由書く。 4月27日 9;30家を出、本屋にて「日本書紀」中、下買ひ、佐々木六郎氏宅に寄りしに出勤後。歯科へゆけば大体良しと。月曜まで休みなり。国民服の寸法とり桐山君を訪ねしに出勤後。 東京師団にゆき浅井正男中尉にあふ。森岡少佐は墜死と。地下鉄の少女怒鳴り、前田君を訪ね、研究所にゆけば皆々会議中。「南方熱帯の植物景観」再購入。 「蘭領東印度詳図」購ひ三村君と帰る。熊谷君宅に寄り、保田の本四冊もち帰る。けふ白鳥先生、渡瀬君に「李太白」着きし様子なり。父より〒。 京都岩倉に疎開と。丸光子、前田直典より〒。 4月28日 雨、家居。〒和田先生より「李白」の誤り三ケ処指摘いただく。父、五月半京都に疎開と。〒父へ。19:00健来り、小湊の鰯もち来て泊る。「三朝遼事実録」着く。三〇円也。 4月29日 天長節、飛行機多く飛ぶ。荻窪に散歩し帰れば松井君在り。〒桑原武夫、田代継男、咲耶、桐山眞。 4月30日(日) 9:00堀辰雄氏を見舞にゆきしにまた悪しと。〒大より「姓氏録考証」の坂上氏の部の写し。東洋史は内田吟風らし。羽田、浅井中尉。昼、雷雨、来客なく退屈す。 5月1日 〒父、山田新之輔。けふより都電乗換なしとなる。14:00歯科医専へゆき右上臼歯抜かる。神田より日本評論社にゆきしに赤羽君ゐず。帰途森本忠氏に会ひ話す。 帰れば父より「みをつくし」「即興詩人」と従軍歌集着きゐる。けふ彙文へ三一円送る。 5月2日 〒五十嵐、谷川新之輔、本多喜久子、岩切房吉等。13:30歯専にゆき北園克衛より「風土」貰ふ。赤羽君に電話せしにけふもゐず。中河与一より〒、浅野晃らに執筆禁止と。 〒谷川、新藤千恵子、桐山眞。 5月3日 養徳社より「神軍」三版延期と。13:30歯専にゆく。外科はあと一二回 と。帰途研究所にゆきしに「南亜学報」三号はだめと。 赤羽君に電話す。17:00赤羽君来訪、ビールのます。「李太白」八冊来る。土岐善麿氏もほめをられし由。けふ往路「書きくだし続十八史略」買ふ。〒養徳社へ「神軍」絶版を申し出づ。 5月4日 8:30佐々木六郎氏を起し、跋文たのみ「李太白」一冊与ふ。矢加部勝美君帰還と。歯専にゆく、明日休み土曜一回にて外科終るらし。出版会にゆき武田泰淳氏呼出す。 小山正孝にも一寸会ひたり。泰淳先生相手に放談、驚かせ、「李太白」一冊与ふ。大学にゆきしに善海欠勤。三村君と研究所にて弁当食ひ文庫へゆけば村上正二来る。 和田先生来客多く16:00頃石田幹之助氏の来合せらしところをとらへ学報廃刊の由報告。帰途、丹波鴻一郎宅に寄り、フラウに挨拶、二児となりしと。〒三好達治、福井へ疎開と。 けふ研究所の「日西辞書」はロドリゲスの「日葡辞書」の訳のこと判定。「東朝実録」を抜書す。 5月5日 朝、雨。〒赤羽尚志より権威を借るなと、バカを云へと返信。岩切房吉へ地平さん紹介。地平、大に「李太白」送る。赤川を訪ねしに十日まで米食ひに田舎へと。 夕方森本忠氏を訪ねんとせしも家不明。みくに出版社の野長瀬正夫君に出版計画につき問合す。赤羽より長与善郎氏のハガキ回送、中央線に疎開と。 5月6日 8:30熊谷孝君を訪ね「李太白」贈る。出版会止めセレベスにゆかんと云ふに止む。歯専にゆく、外科終る。山本に寄り「李太白」聞きしに売切れらし。 東研(※東亜研究所)にゆき青木富太郎君に会ひバイブル返してもらひ、「洪秀全」貰ふ。楊井克巳この間の話にて田中・神保昂しと云ひをる由。12:30帰宅。 けふ〒佐々木六郎、ミス佐々木へ。創元社より「南の星」やはり四大と(※不詳)。企劃届用紙送り来る。他に小山正孝、善海。善海は弟死亡のため四日神戸へゆきしらし。 5月7日(日) 快晴。〒野田又夫より。〒松本善海へ。午後高円寺の松井保治君を訪ね「海原にありて」を返却、コーヒー御馳走になる。村上菊一郎君宅によりしも留守。 5月8日 9:30創元社にゆき柴野君に企劃届わたす。一三〇頁位と。けふより歯の清備。パン食ひて帰宅。〒赤羽、出版社の一店員なりと恨む。 養徳社より三版中止認め次の詩集をと、バカも休み休み云へ。昼寝。 5月9日 〒なし。柴野君に内容紹介文送る。12:00文庫へゆき李朝実録見る。15:00退出。19:30健来る、静岡県吉田にゆきゐしと。 5月10日 〒研究所の佐々木氏より。14:00文庫、「李朝実録」見、16:00よりの白鳥先生の話聞かず、石田君に聞けば研究所相変らずスローモーション。 5月11日 〒彙文堂より[●]円受取りたれど内金と。聞合せ書く。税務署へ315円の申告を再びす。野長瀬より「田村丸」一万部は取止めと。14:00文庫、和田先生と一寸お話し、帰途白鳥先生に会ふ。 帰れば桐山君より電報、写真出来と。 5月12日 伊東(※静雄)、弟ビルマより帰還と。大垣君、詩のことわかりしと。12:00すぎ家を出、和田先生を訪ね久徳君のタガログ語とスペイン語の本おことづけし、 研究所の出版のことにつきお願ひす。15:00お暇まし、毎日新聞へゆき桐山君よりスマトラの写真もらひ田代継男に会ふ。十五日またまた北支中支へゆくと。 桐山君におじや御馳走となり御茶の水にて別る。 5月13日 〒伊藤佐喜雄。文芸世紀より楠公を頌ふ詩と。12:00大学にゆきしも善海居らず、和田先生に研究室でお会ひし、バッデリー二冊一万六千円と聞く。文庫にゆけば高橋君来居り。 15:00大学へ引返し、加藤繁先生の仇英「清明上河図」についてのお話聞く。比島地図、和田先生に差し上げ帰る。〒伊藤と桐山君へ。 5月14日(日) 健来る。13:00大垣君来る。ともに外出。堀辰雄氏を見舞ひしに大分良しと。赤川の近くにて大垣君と別れ、赤川店にゆき大川周明「米英東亜侵略史」 「ジャバの生活文化」「東辺道」「龍江省」等買ふ。その前芙蓉堂にゆき岩波文庫「源平盛衰記」を買はんとせしに抱き合せよと、叱れども聞かず。村上菊一郎を訪ねしに留守。 外務省に非ず大東亜省と。岡山伯母(※かう)を訪ねて帰宅。 けふ桑原武夫「回想の山々」贈らる。〒桑原、前田へ。前田は白鳥先生より三合便覧のカード佐口より取返すこと田中にたのめと云はれし由にて、断り書く。 12:30宮城君来りて「西太后」の原稿返しテキストももちゆく。伊藤書店やめしと、詮方なし。 5月15日 〒山田廸孝。13:00大学へゆきキャムベル一応返してまた借出し善海に会って話す。帰途、岡田謙「未開社会の研究」買ひゐしに堀氏の義弟加藤君に会ひお茶水まで同行、 電車中にては松沢嬢と乗合す。帰りて〒伊東静雄。中河与一氏に文芸世紀脱退を届く。〒桑原武夫へ、本の礼状なり。 5月16日 〒大垣。肥下十八日コギトの会と。東研へゆき青木富太郎に満文の訳わたす。佐口、蒙研の「蒙古大観」の仕事すと。歯専へゆき林教授の手当受け、歯の美しくなりしに自ら驚く。 砂糖一斤をお贈りす。文庫にゆき三十分ほど「李朝実録」、前田直典と帰る。佐口の白鳥先生への不平は大原君を通じて三合便覧のこと断られしと、名を貰へぬことのためなりと。 川久保けふ来をりしも話さず。夜、早寝。 5月17日 堀口太平君、北支にありと、軍属か。時々雨のため文庫へゆかず。午后荻窪へ散歩し北町一郎を訪ねんとせしに千葉へ移りしと。 5月18日 〒手塚君。13:00研究所へ寄りしにピクニック、食ふ会のことのみ。大崎より電話、昭南へまた行くとのことに土曜の会食を約す。文庫へゆき榎君に会ひ和田先生とお話す、 「君、右傾したね」と。古野清人「東亜の宗教(※大東亜の宗教文化)」真淵「国意考」購ふ。 5月19日 雨、家居。〒大、堀口太平。大、脚気にて帰阪しをりしと。内田吟風に教はれるらし。堀口太平は詩を作りどこかへのせて呉れと也。〒大へのみ。 5月20日 〒父より。衣料切符一一〇点欲しと。北村英雄叔父五月一日死、全田鶴枝氏も逝去と。二十八日京へ疎開と。大よりやはり内田吟風に習ふと。松岡正二氏。 12:00文庫へ赴き、川久保来り会せしを以て絶交申渡す。三越へゆきスマトラの地図二枚買ふ。大崎に会ひ美川きよの南方見聞記(※「南ノ旅カラ」)やり、聞けばアンボイナ行と。 別れて帰れば警戒警報発令。 5月21日(日) 細雨。〒坪井より「大和案内記」。天川勇司、満洲より中支へ転進。信州の某君より「大陸遠望」に署名をと。 夫々にハガキ書く。午后雨やむ。けふも警報続行。 5月22日 晴、〒なし。午后散歩にゆき荻窪にて「泰語」「アンナン語」徳富蘆花「聖地巡礼」買ひ、堀辰雄氏を見舞ふ、大分宜しき模様。15:00頃、警報解除。 一昨日と昨日と米機南鳥島に来りしゆゑ也。食後、阿佐ヶ谷にゆく、礼二〇円位が宜しからんと。井上紅梅「西門慶」買ふ。けふ弓子、南博士の診断では扁桃腺炎と 5月23日 〒小高根二郎「李太白」受取りし由、桐山眞君応召と。14:00歯科にゆき二〇円渡す。まだ抜くべきもの一本ありと。15:30赤坂見附にゆき桐山君を訪ねしに毎日社へと。 家で待ち16:00頃帰りしと話す。武生連隊に入る。三ヶ月らしと。六月一日入隊と。二十六日夕に別れにゆくを約す。ともに家を出、有楽町にて別れ帰れば父来をり、年寄りの愚痴。 京に疎開はよけれど大阪へ通勤すと也。大の病気は食物不足からと。三合の酒に酔ひて眠れり。健、来りしを以て話す。 5月24日 創元社より〒初校出そろふと。父10:00去る。朔太郎全集二冊来り完結。13:00創元社にゆく前に佐々木六三郎の家へ一寸寄り、同社にゆきしに無人。 明日13:00再訪を云ひおく。開明堂によりしに学報南北とも明后日位に出来と。民族3の原稿昨日出しと。文庫にゆき15:00退出。数男より電報、岡田某女の写真気に入りし様子。 5月25日 〒中村地平跋文の拒絶。信州の西沢君より謝り状。11:00千草来りしは酒二合貰ひにらし。12:30家を出、創元社にて校正もらひ、山本にゆき満洲地図買ひ、 外務省にゆきしに稲垣太郎氏永く欠勤と。朝日にゆきしに佐々木六三郎居留守をつかふ。福永英ヱ門を呼出し外務省への紹介たのむ。帰途、赤川氏に寄り「蕃 族」「中央アジア史」 「蒙古の理想」借りる、九円と。明後日来てくれる由。夜、本の整理をなす。 5月26日 〒なし。14:00文庫へゆき、15:30京橋から銀座へ歩く、「ソ聯地図」買ふ。17:00桐山眞(たかし)君の歓送会にゆき18:30退出。帰宅すれば隣組の齋藤武夫君も応召と。 挨拶にゆきしに佐賀へ来月二十日すぎに入隊と。 5月27日 雨、外出せず。創元社へ校正とあとがき送る。〒父、大、末吉、信州の某君、本着きしと。 5月28日(日) 〒なし。9:30赤川氏来り、本60.00にて買ふ。差し引き51.00なり。つづいて松井保治氏来り、ともに阿佐ヶ谷、高円寺の本屋にゆき愚本を六七冊買ふ、計10.00。 14:30村上菊一郎君を訪ひ外務省への紹介状貰ふ。映画配給社へ代り成田節男と同席と。 5月29日 9:00和田賀代女史来り、某女専の英語教師とて履歴書かかさる。室拍子(※不詳)のこと也。14:00研究所にゆき南北学報もらひて帰る。和田久徳君横浜にて待期中と。 帰途「北支のシャーマニズム」「十訓抄」「明治の御宇」購ふ。 5月30日 11:00家を出。銀座三越にゆき「大東亜地図帳」買はんとせしも好くなければ止め、村田治郎「満洲の史蹟」「南蒙の樹木図説」「満洲地名考」購ふ。 外務省にゆき村上君の紹介にて足立君に会ひ、そのまた紹介にて電信課第二室へゆき岡田尚子嬢のこと聞く。良なり。歯専にゆき昼飯ぬきにて困憊して帰る。 5月31日 〒父。二十八日に予定通り京都へ転居と。大垣君、神田佐久間町に大垣君の親戚(歯科医と)を見付けたりと。13:00研究所へゆきしも校正来り居らず、文庫へゆけば白鳥令息応召と。 けふまた本買ふ「南方民族の生態」「満洲史話」。 6月1日 〒父より、本籍移転は待てと。召集通報人を住吉区墨江中一ノ八三 柏原まん氏と決めし由。3:30文庫にゆきしに石田君、羽田の校正もち来りし。 和田先生に一寸お会ひして聞けば、久徳君まだこちらにありと。学報2号ほめられしにクサりて早々帰宅。 6月2日 〒昭南の宣伝班にゐし木下忍君(撮影班)、石川県よりまたビルマへゆくゆゑ手紙ことづけよと、西沢繁夫君へのハガキたのむ。丸三郎より。日本詩なる雑誌、 宝文館より出るらし。 第一号に詩を、と、拒む。13:30文庫へゆく。帰りに開明堂へ羽田校正もちゆく。「奉天と遼陽」買ふ、愚著。 「カバトン(※東印度諸島誌)」30.00「台湾文化志」12.50見て欲しと思ひし。プールジャー(※歴史学者・不詳)一五〇円也。 6月3日 〒富山房の東洋史辞典より原稿依頼、返事書く。13:00文庫、石田来りしも何も云はず。柴田君とらへ三合便覧のこと聞きしに佐口のカードもとれし模様。 丹波君の家へ寄れば某会社の社長らし。第二第四の土曜が休みと。研究所の移転地として狙はれしは丹波の家らし、可嗤。帰途新宿駅にてカバトンの訳売りゐるを見、 赤川氏に寄りて地平の「マライの人たち」売りとりにゆく。赤川氏徴用来しと。帰りて父と中野清見留守宅とにハガキ書く。柏井母来りて明日の数男のための見合のこと云ふ。 p4 6月4日(日) 8:00赤羽家にて岡田尚子嬢、同母上との見合、こちらより母、俊子姉とわれ出席。数男に勿体なき娘なり。10:30小高根(※太郎)を問ふ、厳父去年夏逝去と。 軍属志願のこと話し「富岡鉄斎の研究」もらひ「金瓶梅」借りて帰る。けふ日本評論社より「李太白」の印刷残り八三五円余送り来る。 6月5日 〒スマトラを撮影にゆきし松本(旧田辺)良男会ひたしと、すぐ来いと返事。「日本詩」より詩いやなら支那詩の話をと、承諾す。研究所へゆき北亜学報一冊買ひ羽田に送る(4.50+〒0.48)。 村上と文庫にゆき帰りて散歩かたがた堀辰雄氏を訪ねしに元気回復、折よく東京新聞にのりし「李太白」の桑原武夫評もらひ(※日記貼付)、江口三五を訪ね、 ガクガクと話せしに致方なしと。室清、四月一日左翼関係にて検挙さると。22:00頃帰宅。 6月6日 〒木下忍君より昭南の写真など送り来る。創元社の柴野君より組のことにて(※「南の星」の版)。木下君には返事。12:00家を出、柴野君を訪ねしも外出。 歯専にゆく前、本屋を歩き「台湾文化志 上」「史学雑誌索引」「支那近世史」買ふ。「范忠貞公集」欲しかりし。歯専にてはせいてもこふ(※急いても乞ふ)こととす、 来週水曜一〇時また抜歯と。帰途、矢野長官を訪ねて忌憚なく話す。けふ山本で聞けば武田泰淳上海にゆきし由。夜、隣組常会、[●]野なる男のいやらしさに22:00となる。 6月7日 〒五十嵐達六郎氏よりベルグソンとプロクロス(※「アリストテレスの場所論」「形而上學」)。羽田、二十三日より勤務と。その中に南方へ行くやもしれず南亜学報呉れよと也。 筒井護郎、四日入隊「李太白」もちてゆくと。文庫にゆき帰れば隣組、市野に対して囂々と。夜、スマトラより帰りし田辺良男君来訪、明日13:00日映(※日本映画社)にゆくこととす。 スマトラ写真帖のこと、その後の話などす。22:00別る。稲垣浩邦ニューブリテンまで行きしと。 6月8日 〒日本詩より十二日までにと、天川より。12:00研究所へゆき南亜学報買ひしが途中「和蘭の東印度経略概史」買ふ、良き本なり。 13:30池袋駅にて田辺(松本)良男君と豊島園の日映にゆきしに田中部長すでに本社と、新橋の本社へゆき伊東すゑ男(※伊東静雄弟)を聞けば出張中、田中氏に直接当り十三日すぎに試写し見ると。 帰途、桐山君を訪ねしに留守。もの事何もかものろし。 6月9日 13:00東日(※東京日日新聞)に矢加部勝美を訪ねしに十六日頃より出社と。金沢喜雄君を訪ね、スマトラ写真帖のこと話す。その間、満鉄を訪ね、農商省に前田福太郎を訪ね、忙しかりし。 14:00平野先生を太平洋協会に訪ねしに出征の人ありて待たさる。15:50帰宅。隣組の齋藤君に送別のブドー酒としるこのませ色々述べしが聞かれず。 けふ〒岩切より、中村地平に会ひし由。 6月10日 〒牧野正雄。壮行会は主張者の細君達の反対にて取止めとなりしと。10:00家を出、太平洋協会にゆき平野氏(※平野義太郎)に会へば、清野博士(※清野謙次)に紹介するゆゑ13:00来よと。 仕方なく散歩中、松井保治君の勤務先を見付け、ともに昼飯、別れて協会に清野博士に会ふに話少し合はず落胆す。写真預け文庫にゆき帰途、丹波宅によりしに、 電話にて連絡とりをきしにゐず、入営の弟に面会にゆきしと、帰る。夜、建来り泊る。 6月11日(日) 建、演習とて早朝出づ。〒木下忍君、大垣国司君。10:00松井保治君来る。葡萄酒飲ましむ。12:30大垣君と小松嬢来る。大垣君未だ健在らし。14:00ともに出て別れ稲垣浩邦の留守宅にゆく。 ラバウルにありしも今はヒリッピンと。妹君の写真もちて帰り、夕食後松井保治君を訪ね見せ、十四日までに返事をと云ふ。村上君を訪ねしに留守、帰途、森本忠氏に会ふ。 6月12日 〒木下忍、甘利進へ。13:30より白鳥芳郎君の送別会にゆく。おはぎと赤飯となり。国際地学協会の[●]木君に電話かけしに已に止めしと。地図帖のこと聞きしに売切、今月中旬再版と。 18:00帰れば岡田嬢、養子を考慮すと。けふ民族の特性第二輯見本もらひて帰る。誤植だらけ也。 6月13日 〒父より、村田幸三郎応召しゐる由。13:00歯専にゆきしに駄目。神田にゆき「吾妻鏡 五」買ひ、白鳥芳郎君に砲兵操典買ひ、中目黒までもちゆき竹内好宅へよりし。 写真を見しに甚しく肥えたり。帰途、石田君に会ひしに和田久徳君除隊と。松井君来り見合承諾。夜、阿佐ヶ谷へゆく。碁盤一〇〇円にて頒つと。けふは齋藤武夫君出発なれど送らず。 6月14日 〒羽田、矢野昌彦、中野清見――満洲に着く。筒井の母。小高根、羽田、村田、昭南の牧野忠雄にハガキ書く。13:00太平洋教会にゆけば講演14:00からと。 日映にゆき赤羽氏に紹介され、たのむ、今より豊島園にゆき急がすと也。伊東すゑ夫未だ千葉より帰らずと。14:00サゴ椰子の話聞く、話者は馬来語大辞典の著者武富正一氏。 南方呆けの標本也。我も慄然。15:30頃ぬけ出して帰る。 6月15日 中野清見にハガキ書き、13:00文庫へゆく。前田直典来合す。13:30和田先生に久徳君除隊の挨拶申上げしにいろいろ叱らる、論文書かぬと、多方面すぎると也。 17:00稲垣家を日曜の見合ひ承諾せしむ。折柄警戒警報発令。帰れば羽田より速達あり。六月一杯勤労奉仕、七月初め来よと、好都合なり。 6月16日 9:00ラヂオにて北九州空襲さると。防空服装にて歯専にゆき四枚目の抜歯をなし、研究所にゆきしに民族の特性未だ出来ずと。 16:30松井君の家にゆき母君に日曜のこと云ひ「与謝野晶子集」買ひて帰る。サイパンに敵上陸、小笠原に来襲と。けふ〒中村地平、(※跋文のこつ)来ぬかと御挨拶なり。 6月17日 〒羽田より速達、二十三日より奉仕と。平野義太郎氏より御挨拶、難波かず子北沢に移りしと。11:00歯専にゆきしに待たさる。12:00帰宅、13:00稲垣家にゆきしに次の日曜にしてくれと。 17:00松井君を訪ねその旨云ふ。けふも警報つづく。夜より雨。〒大崎より速達、近々南方へゆく、米詩訳してくれと。可嗤事多々。平野氏へ返事書く。 6月18日(日) 〒なし。昼寝一時間。4:00散髪にゆき堀辰雄氏を訪ぬ。近日軽井沢へ疎開すと。この間警報解除。けふ中野清見に「李太白」送る。夜21:00またまた警報。 6月19日 〒彙文堂より遼海叢書五六〇円と、断り状出す。11:00歯専、関看護婦泣きゐる。研究所にゆけばこの間の会費6.70と。大原君「李太白」見たしと。夕方警報解除。 6月20日 「呉楚春秋」に何かと窪川鶴次郎氏より、多忙を口実に断る。14:00歯専にゆく。この頃校内に紛糾あるか、不機嫌にて困る。夜、雨。カロリン群島にて海戦実戦ありしと発表。 「満洲族に於ける殉死」の材料ほぼ得たり。ただ書きてもつまらぬと思ふ。 6月21日 〒木下忍、出発と。丸三郎。草野心平より「太白道」。11:00歯専にゆく。けふにて外科すみ。研究所により先日の会費わたす。「満洲の今昔」買ふ。文庫13:30-15:30まで。 夜、赤川へゆき本売り、阿佐ヶ谷にゆき「ゴビ砂漠横断記」買ひて帰れば健、来をり、ノート三冊もち来りし成り。 6月22日 〒なし、10:30歯専にゆき最後の治療了。昼飯食ふに所なく帰宅13:00、昼食。夕方阿佐ヶ谷にゆき、幸伯母に林氏への謝礼三〇円渡す。帰途松井君に会ひ家に帰りて話す。 本夜常会なれど出席せず。 6月23日 〒大、東洋史談話会二十八日、中山八郎氏の話と。桐山眞入隊の挨拶。12:00文庫へゆき清実録と李朝実録。この二日程悒せし。けふマーシャル海戦(十九、二十日)の発表あり。 6月24日 〒日本評論社より送本の代価支払へと。こはすでに天引きされしもの也。12:00家を出、文庫にゆき帰途、丹波鴻一郎を訪ひ、夕飯馳走さる。20:30帰宅。防空訓練中なり。 けふ18:00稲垣君の父来り、美津子氏化粧品にて顔腫れ明日の見合不能と。 6月25日(日) 8:00すぎ松井君を訪ね、見合延期のこと云ひ、阿佐ヶ谷にて満洲国の地図二枚買ひて帰る。〒末吉と北支の堀口太平とより。食欲多くものうし。 6月26日 〒窪川鶴次郎氏より。堀口太平へ。13:00文庫にゆき15:30退出。けふより「女眞満洲族に於ける殉死の風習」書きはじむ。 6月27日 〒田辺良男君、桐山美代子。13:00文庫、和田先生けふ満洲へ飛行機で行かれし由。16:00矢野閣下をお訪ねせしもお留守。佐々木六郎の家を訪ふ。 6月28日 〒服部正雄、水戸航空隊より、瀧川慶次郎北支で戦死と。文庫へゆきしのち東洋史談話会で中山八郎氏「清朝八旗」の話聞く、つまらず。和田久徳君に会ひし。 善海と池袋まで同行、川久保には本のことで怨むと云ひし由。帰宅夕食後川久保宅にゆき心情語る。帰れば津村秀夫氏より信夫二十七日二時五分死、三十日十四時葬儀と。 6月29日 8:30堀辰雄氏を津村信夫葬儀のことで訪ねしに二十一日より軽井沢と。矢野閣下を訪ね映画のことを報告し、昌彦東部十部隊に七日入隊と聞く。池袋へゆき扇買ひ、 民族の特性五部づつ貰ひ、昼飯食ひて文庫にゆく。デューアルドの地図写すことをもはじむ。和田先生見えしにレヴィレートのこと訊ねらる、戦局悲観論を行ふ。前田君と帰る。 〒江口三五、転居のこと、父、文芸世紀来しが脱退のこと記さず。 6月30日 〒日本詩の花村君より七月五日までにと。11:00文庫、昼食時、星斌夫と話し、13:16東京駅発の横須賀行に乗り北鎌倉下車、津村信夫の告別式に赴く。 室生、川端、茅野蕭々、佐藤信衛、丸山薫等会葬者少数。秀夫君夫妻信夫君夫人に挨拶、遺児は弥生といふらし。17:20頃別れ、雪ノ下の松岡正二君を訪ひ、 会談一時間、17:16(※不詳)の電車にて帰る。 7月1日 〒牧野忠雄君より。文芸世紀と牧野君に〒出す。13:00文庫へゆく。白鳥先生よりボーナス80石田君ことづかる。榎君に五体清文鑑のこと訊ねしに四十八部のみ刷りしと。 15:30神田へゆき連雅堂「台湾通史」湖南「支那古代史」矢野仁一「清朝末史研究」瀧川政次郎・某君「水師営史考」「范忠宣公集」購ふ、計五十五円。 帰れば日映より三日九時にネリマへと電報。田辺良男に電報打ちにゆき局員を叱る。 7月2日(日) 9:00松井君来る。話中、依子急変あっと前田医師につれゆきしに疫痢らしと。驚き豊多磨病院を頼む。昼頃より下熱。健来り、様子見ゐる中、甘利進君来りマレースマトラの話つづく、 病院車来らず。 7月3日 7:30甘利君と高円寺にて待合せ、9:00ネリマ日映にゆきしに田辺君の義父といま一人の人来り、待てども本社の人来らず。豊島園にて昼食後13:00より映写しそむ。 北三分一と南三分一にややうつり良き部分あるのみ。帰宅すれば依子10:00河北病院に入院と。柏井母、夜直。創元社柴野君より「南の星」再校送りしと。 7月4日 9:00警戒警報発令。折柄ゆき子と入れ代り病院に詰めをりし。午後「南の星」の校正をなし、夜、泊る。同室の赤痢患者ひどし。依子元気にて大腸カタルにすぎざるらし。 7月5日 河北病院と家との間を往復す。依子殆ど好しと。夕方警戒警報解除。夜、病院に泊る。 7月6日 昨夕食はせすぎらしく3:00より便通五回、、熱三八度五分となりしに驚く。〒大垣国司、夕方より六号室に移る、経過良好なる模様。けふ区役所にゆき帰途、京都に打電す。 サイパンの状況ますます悪き様子。 7月7日 朝、村上菊一郎のフラウ来りしに逢ふ。依子益々好し。〒「四季」終刊号(八十一号なり)。布村一夫君。東研の青木富太郎に電話し、明日午前中にゆくを約す。 「カラコルム」「蒙古近世史」購ふ。手塚君に電話し、校正送りくるるやうたのむ。但し状況悪く返事不明。 7月8日 けふ午前二時北九州に空襲ありしと。お蔭で防空演習なし。9:00東研にゆき青木富太郎に満文の訳わたす。依子いよいよ好し。〒保田。小高根二郎、中野清見へ。 米国日本人を二千万乃至三千万にすと放言。 7月9日(日) 午前中に帰宅。〒保田より自費出版「祝詞」来る。来客なし。16:00よりまた病院にゆく。布村一夫氏に「満洲族の特性」送る。 7月10日 八日分40:00病院に支払ふ。〒なし。本山桂川間「宮林藏大陸紀行」購ふ。夜、柏井母に宿直たのむ。帰宅すれば大垣国司君来合せをり21:00まで話す。この日疲る。 7月11日 朝より下痢、胃のためなり。〒矢野長官、昌彦君無事入隊と。父ごちゃごちゃと。午後笠原某氏の嬢と同室となり看護婦を共通とすることとし帰宅。 7月12日 〒民研二冊。暑きため外出せず。15:30赤川氏にゆき、本10.00売り、宮武正道「馬日辞典(※コンサイス馬來語新辞典)」「海南島」ストュテルヘイム「回教と蘭印群島」購ふ。 帰途病院によりしに依子元気。 7月13日 11:00家を出、研究所にゆきしに河原君のみ。渡瀬君肋膜の由。帰らんとせしに白鳥先生来らる。15:00松沢嬢来る、惰け明矣。和田先生満洲行きやめられしと。病院に寄る。 依子便(一)なりし由。夜、松井君来る。 7月14日 熱し。〒大より。依子午後退院。夕方阿佐ヶ谷へ礼に醤油一升もちゆく。帰り「南支紀行」買ふ。白井(松本善海の下宿せし)母子に会ふ。経理学校にゐる由。 依子の入院費用約百円。 7月15日 熱し。13:00稲垣氏へゆき、来週日曜見合と定む。16:00矢野長官を訪ねしに17:00頃帰らると。時間待ちに平田内蔵吉を訪ぬれば本日応召せしと。 17:00長官にお会ひしきけば昌彦既に朝鮮にありと。帰宅20:00、江口三五を訪ね「李太白」贈る。けふ牛込で「山家集」購ひし。 7月16日(日) 熱し。午後驟雨、夕飯後松井君の家にゆき見合のこと云ふ。山本守「満洲の珠」買ふ、拙し。 7月17日 9:00家を出、文庫にゆく。暑し。シベリヤ百科辞典を見しにⅣまでなり。夜、防空訓練とて高円寺にゆく。〒なし。 7月18日 9:00家を出、日歯にゆき金山洋服店にて国民服出来せしを取る、73.40(税共)。衣料切符40点なり。12:00より文庫。17:00サイパン全滅公表、ラヂオ演芸なし。この四日〒なし。 7月19日 〒マライ宣伝班の長沢君、北方の曹長より詩預り来りしとて送り来る。けふ文庫へゆかず。暑し。夜、荻窪へ散歩。 7月20日 ラヂオ東條内閣辞職を告ぐ。文庫9:30-15:00疲る。和田先生にお会ひせしに来年四月より開始の西洋文化の支那への影響をやれと十人の予定。 ①政治軍事、②思想、③技術、④経済社会に分つと。〒大垣君二十四日頃来ると。 7月21日 〒丸三郎、錦州辺りの病院より。台南より本田茂光。研究所よりレヴィレートの校正半ば(二十頁)。すまして持ちゆきしにベラルデ文庫疎開と。南北アジア学報一冊づつもらひて帰る。 途中、野原四郎氏に会ひ学報贈る、鈴木朝英昭南と。武者小路「狂言集」買ひ丸に送る用意し、夕飯後丸の家を見舞いにゆく。総理大臣小磯國昭。米内光政との合作。 7月22日 〒「東洋史研究」つづくと。10:00文庫、小磯内閣の発表、大達茂雄内相と。雹降る。七月の雹は天変の申(※甲申?)ならん。けふ浅野忠允、川久保に会ふ。牧野賢を見たり。 谷崎潤一郎「文章読本」買ふ。留守中稲垣の父君来り、メンスのため見合出来ずと。夜、松井君に一応解消を云ひにゆく。喜べる気配あり。大宮島(グァム)に敵上陸と。 この日寒き位なり。「日鮮文新玉篇」すむ。 7月23日(日) 大垣君11:30来る。けふ京子氏の家へゆくと。ともに家を出、別れて赤川君を訪ね本三冊売り、正親町男爵「露西亜遊記」買ひ、「萩原全集」売ることを云ふ。 15:00小高根太郎を訪ね種々話せしに意見全く同じ、電波兵器工たらんと云ふ。17:30薄井(※敏夫)を訪ねしにすぐ帰るとのことに待つ。帰来種々話し工員の口見つけんと云ふ。 けふ聞けば肥下徴用になるやもしれずと。 7月24日 10:00文庫へゆく。「露西亜遊記」よみ終る。革命のロシヤを実見せし人なり。「新東亜建設と史観」「遼律の研究」「蜻蛉日記」買ふ。夜、赤川氏来る。 コギト八頁のパンフレットとして出たり。「萩原全集」十冊32.00にて買ひ呉る。 7月25日 9:00まへ荻窪へゆきしに本やまだ開かず。文庫へゆき12:30退出、研究所へゆきしにベラルデ文庫荷造すみたり、可嗤。川久保に電話せしが岡氏不在と。 帰途また荻窪へゆきしに小倉進平氏の著はじめより扱はずと、不審。岡田巧「近世支那社会経済史」買ひて帰る。ものうし不快。夜、齋藤武夫君夫人疎開中とて挨拶に来る。 7月26日 9:30文庫へゆく。星君ゐて大学の研究所化を云ふ。14:00文学部事務室にゆきしに不在、研究室にて待つ中、和田先生来らる。松本に会ひしに夕飯のため話せず。 けふ小倉進平「朝鮮語方言の研究」買ひ得てうれし。夕方川久保を訪ね報告の打合せし、岡氏への面会の断りたのむ。 7月27日 10:00文庫。和田先生待ちしに来られず。文学部事務室にゆきしに一〇〇円はまだ残りゐたり。土曜日に書付出すこととし、松本に夕食奢りて貰ひ帰る。 日本評論社より又々送本代請求書来る。詰問状出す。 7月28日 午前中「西太后」訳す。13:00新宿駅にて長野敏一に会ひ、聞けば情報局止めて熊本県に疎開、百姓をし将来の計を立つると。二宮尊徳を読むとなり。 池袋までゆきしに李朝実録の紙挟み忘れしに気付き研究所にゆく。手塚、鎌田、石田の三君、話わからざれば詮なし。帰りてまた「西太后」。 7月29日 文学にゆく。午後和田先生来られ印いただき川久保と大学にゆきしも事務の人ゐず、預けて帰る。帰れば北亜学報の校正来ゐたり。 けふ和田先生に「西太后」(※出版斡旋)のことお願ひ[●]ぬ。牧野巽氏と雑談す。 7月30日(日) 雨、涼し。11:00大垣国司と吉野君来訪。朝、小学生全集「明治大帝」よみ感涙を催す。恰も崩御の日なり。 7月31日 日本評論社より謝り状。13:00文庫にゆく。帰りに小学生全集二冊買ふ。 8月1日 朝より文庫、八旗通志を見ることとす。15:00帝大文学部へゆき100.00貰ふ。松本と一寸話し、山本書店へゆけば主人海軍へ応召と。「ルブルグ訳書」「満洲学報第八・九」を買ふ。 開明堂へ校正持参。〒塚山勇三、海軍へ応召。満洲布村一夫氏より「民族の特性」受取りしと。夜、川久保に五〇円持参。グァム、テニヤン殆ど絶望と発表。 8月2日 10:30文庫、午後中島敏氏来りし。けふ14:00創元社の柴野氏「南の星」の三校持参、殆ど直すべき箇所なし。亜研へ校正のこと〒。 8月3日 10:00文庫。午後川久保来りし。15:30創元社へ校正持ちゆく途中、電車にて健に会ふ。〒小山正孝結婚せしと。亜研より渡瀬君母上死せしと。夜、小高根太郎来る。 8月4日 10:30文庫、村上正二、川久保来る。〒北亜の再校。吉野清。夜、警戒警報発令。「日本詩」より読物をと速達。 8月5日 けふ警報続行中につき外出せず。15:00頃解除。共同防空壕を夕食後掘り了る。無駄なること多し。 8月6日(日) 〒本位田、服部正雄、天津の池田。「日本語」二冊。15:00散髪後、小高根を訪ね囲碁二番。夕食後薄井を訪ね、工員をききしに労務手帳渡され辞職困難と。再考すべし。 8月7日 文庫へゆく途中、研究所へ寄りしに防空演習とて出られず16:00までゐたり。南北学報一冊づつ。渡瀬君より返し来りし「バタ族の社会と生活」もちて帰る。本日雨つづく。 8月8日 10:00文庫、浅野、前田二君来る。小磯首相の初演説内容なし。赤川君に寄りしも来客ありて話せず。「蒙古」に植村清二先生の文のりたるを三冊買ひて帰る。 8月9日 10:30文庫、川久保来りをる。泉井久之助氏この頃毎日来りをらる。14:00華中交通に窪川鶴次郎氏に会ひにゆきしも不在。〒渡瀬君。 h5 計画 1.女真満洲族に於ける殉死   八月三十一日スミ 2.「西太后治下の支那」(訳) 3.「蘭人治下の台湾」(訳) 4.清の太祖奴児哈赤(※ヌルハチ)の民族政策 5.杜臻の見たる台湾地図 6.シュイラー「トルキスタン」(訳) 7.シュミット「蒙古源流」(訳) 8.満洲語文法 9. 嘯亭雑録・柳辺紀略(訳) 8月10日 10:30文庫、和田先生に南亜学報よりの伝言なし。帰りて夕食後、渡瀬君を訪ねしにゐず。堀辰雄の義弟加藤俊彦君と長話す。(※稲垣太郎の訃報新聞記事切抜貼付) 8月11日 文庫、李朝実録殆どすむ。昼休み帝大にゆき善海に会ふ。朝倉純孝「蘭日辞典」買ふ。けさ南朝鮮、佐世保、八幡、山陰に敵機来ると。 8月12日 文庫、和田先生より「矮人考」預る。「八旗」写す。〒丸三郎、本着きし由。 8月13日(日) 〒台湾軍より恩賞の調査。服部(※服部正己)より「ニーベルンゲン(※ニベルンク族の厄難)」。レヴィレート校正。10:00松井君来訪、驟雨。渡瀬君より速達。 けふは終日ゐると。夜、「粤漢線南下」六枚書きしも成らず。 8月14日 文庫行の途中、新宿のプラットホームにて三島秀雄君に会ふ。軍へゆく途中と奇遇なり。小畑少将(※小畑信良)はビルマより満洲へ(※更迭)と。池袋にて下車し研究所へ寄り、 11:00文庫へゆけば渡瀬君ゐたり、話せども合はず。16:00帰宅。夜、「粤漢線南下」終る、半ビラ二十五枚。けふ塚山勇三君より〒、即日帰郷らし。 8月15日 文庫へゆく、疲れたり。15:00華中鉄道へゆきしが窪川氏ゐず。〒硲君より近日来ると。 8月16日 文庫、李朝実録、八旗満洲氏族通譜終る、定期も終る。思ひがけず和田先生も見え、帰途同車。赤川店へ寄りキング付録「明治大帝」買ふ。夜、大垣国司君来り小豆呉る。 8月17日 〒台湾文芸。昨日赤川氏へ財布忘れたらしく不快にてけふ薄井を訪ねず。ガダルカナル島に我軍残れること発表。夜、赤川氏へゆきしに果して財布ありし。 丸宅へ本六冊もちゆく。遼寧にゐると。 8月18日 〒小高根二郎、石田正憲。12:00薄井の工場へゆかんとせしに急行にのりて多摩川を越え喜多見、狛江の間を歩くこと一時間半、帰る。 8月19日 〒本位田、服部正雄、小高根二郎、薄井、田村よしの、筒井静へ。この頃食欲旺盛。仕事せず。ガダルカナルに残留部隊ありと発表。 8月20日(日) 羽田より勤労奉仕すみ病気せしと。本日中部軍に空襲ありしらし。 8月21日 昨日の空襲は関西方面、けさ10:00また空襲と。警防団員のことにて呼出しあり。夜、硲君来る。 8月22日 薄井より〒、小田急の東側なりし。二十七日三時ごろ行くとハガキ書く。夜、警防団員引受く。 8月23日 夕方赤川氏にゆきシチェグロフ「シベリア年代記」借る、11.25。薄井への発信。 8月24日 〒羽田、女子供に出来ることをやるなと工員のこと戒め来る。大。楢崎勤氏より新潮のため九月八日までに「支那詩人のこと」十五枚と。羽田と楢崎氏に〒。けふ驟雨しばしば。 8月25日 11:00甘利進君来訪。昼食後吉野弓亮を訪ねんがために世田谷、上野を歩き廻り、奥さんに会へば東北に旅行中と。21:00甘利くん泊る。 8月26日 11:00甘利君去る。長話にて疲る。その言を聞くに時局感なきに驚く。善悪を我云ふ能はず。〒筒井母、部隊名未だ分らずと。大垣国司君。けふも驟雨模様。〒大と大垣君へ。パリにて戦争。 8月27日(日) 〒服部正己、石田君。12:00家を出、喜多見の湘南製作所に薄井を訪ね、断り云ひ、小高根太郎を訪ねしに留守。けさ4:00より空襲の演習、初動訓練と。 こりて夕方より松本善海の許へ逃れんとせしに西武電車18:30まで切符売らずと。諦めて帰り、荻窪にゆき映画館に入り一〇分エノケン見て20:00帰宅。愚民に悪政、敗戦すとも当然。 8月28日 〒田村の小母さん、春雄(※治雄)中支にありと。9:00までに「日本語」十月号の原稿書く。春雄と田村へ〒。けさ隣組のオビ博士出征、残れるは予のみ。 8月29日 朝より昼すぎまでかかりて「女真満洲族に於ける殉死の風習」三十五枚書く。ふらふらとなり夕方赤川君を訪ね、借金払ひ本三冊売り、四季の見本二冊と四書集註もらひて帰る。 松井君も来合せ話せしなり。 8月30日 〒なし。無為。昨夜寝つき遅く、けさ11:00まで寝たり。「殉死」送る。 8月31日 誕生日、赤飯炊く。〒台湾本田茂光、樺太菊池正、羽田書店、大垣国司、みな暢気なること。漸く秋づく。 9月1日 〒甘利君、詩人は悲観的と。俗人の勝つことを望む。けふ東洋歴史辞典の原稿書き了ふ。「阿敏、伊桑阿、ウデヘ、エヴェンキ、オロチ(※民族名)」十一枚なり。 菊池正、羽田書店へ返信。 9月2日 〒村田幸三郎、村山高の中隊長をなす隊と、なつかしく両社に返信。「民族の特性」原稿受取り。富山房へ原稿送る。他に事なし。 9月3日(日) 〒村田の第一信、本ほしき由。午前中松井君来る。書翰の整理をなして夕方までかかる。 9月4日 羽田書店より〒。夜、小高根太郎来訪。昔より悲観的なる由。書翰の整理すみ、唐代の従軍詩人十三枚書く。 9月5日 村田幸三郎より〒。船[●]光博士になりしと。村田貞二死すと。昨夜眠り足らず。 9月6日 〒文芸世紀終刊号。津村信夫の記念冊子作ると。 けふ一日悲観す。夕、赤川氏へビール二本もちゆく、長女疎開と。 9月7日 11:00亜研へゆく。河原、石田二君と話し、昼飯後、手塚君来る。二君に復職依頼す。「民族の特性」の稿料70.00貰ふ。ローブ「スマトラの民族 下」小倉進平「国語及朝鮮語のため」 「城大史学論叢2(※京城帝国大学)」買ふ。文庫へゆき和田先生にも復職御願ひす。けふ電話してみんと。汪精衛(※汪兆銘)死せしらし。議会始め、小磯首相印度の独立を持す。 帰れば平野義太郎氏「民族政治の基本問題」、田中冬二「菽麦集」貰ひあり。日本語読本を書けと北條誠君の姉君より。 9月8日 雨、〒なし、事なし。〒田中冬二氏へ礼状。夜、大垣国司君来り、佐藤春夫「観無量寿経」「明治天皇御集」呉る。交換に「ルバイヤット」と「珊瑚集」わたす。 羽田書房より速達、来週来ると。 9月9日 〒楢崎勤氏より原稿受取、「李太白」よみしと。13:00文庫へゆく途中和田先生にお会ひす。鎌田と喧嘩せずやと白鳥先生案じゐくれる由。川久保と帰る。 妻君秋田に帰りしと。幼児体力検査に弓子体重九一六キロ位と。 9月10日(日) 服部正雄より〒。けふだるし。夜、川久保来る。必勝の念あり。 9月11日 昨夜眠れず。昼すぎ赤川氏を訪ね、ビールの空瓶とり来る。夜、雨ふる。〒平野先生へ礼状、北條静氏に問合せ。 9月12日 〒大より十五日から勤労奉仕と。雨。昨日より女真満洲族のエグゾガミー(※近親婚禁忌)の資料蒐め、けふ金代すみ。 9月13日 〒本位田より、丸、広島まで帰りしに会ひしと、鳥取へ転任と。午後、荻窪へゆき石原道博「東亜諸民族の盛衰」買ふ。つまらず、丸、留守宅へゆき帰る。ゆき子風邪。 9月14日 朝、松井君来訪。羽田書店の舟越氏来訪。十六日昼、三好氏と相談せよと。 9月15日 昨夜数男帰りたり、けさ来り話す。午、高円寺へ散歩。赤川、松井二氏を訪ひ帰る。夜、柏井にて数男の見合ひ、大体良きらし。〒木山捷平「和気清麻呂」。 9月16日 けさ岡田氏より(※結婚)承諾の返事。12:00羽田書店にゆき三好達治氏に会ひ、昼食後創元社にゆく。阿部知二来合せ上海へゆく由。雨路につき帰る。 明日結納入ると。甘利進より〒、明日来ると。 9月17日(日) 午後甘利進、塩坂保雄君を同伴し来る。南京へ行く由。村上君を訪ねランボー「酩酊船」贈る、数男結納すみし故也。二十六日挙式の予定と。 9月18日 〒大垣君より大塩麟太郎君ラバウルにて健在と。11:00創元社の柴野君来り、表紙の図、同君長女の幼児の絵をと、三十部刷る。 紙は極上質と。昼食後、赤川氏を訪ねしに二ケ年間の徴用と。「明治の御宇」上製本を買ふ。松井保治君と帰宅。 9月19日 〒満洲の布村一夫氏より。14:00警戒警報、17:3解除。夜、防空演習。 9月20日 事なし。この頃無為。 9月21日 〒大より工場へゆきしと。昼すぎ瓦斯会社来りて、一孔塞ぐ。百姓、今に東京の奴みな裸にすると云ひをると。文芸春秋より速達、戦意高揚の詩をと。 9月22日 〒大垣国司、薬師寺衛「李太白」着きしと。赤川君へ徴用の挨拶にゆく。夜、数男の婦一家(岡田志紀氏)と会食。 9月23日 秋季皇霊祭。昨日比島に大空襲ありしと。〒父より哀れなることども。甘利進よりこの間塩坂君喜びしと。15:00渡瀬君来り、復職せよ、白鳥先生、 鎌田君との衝突心配は手塚君にも云ひをらると。 荻窪近くまで送る。不快なること多し。 9月24日(日) 事なし。羽田書店と〒、二十七日女店員よこせと云ひやる。 9月25日 研究所へゆき見んと駅までゆきしに金入忘れしと判明、帰る。夜、数男に祝三十円。けふ村田幸三郎に田中冬二「菽麦集」送る。 9月26日 数男結婚式。14:00より飯田橋大松閣にて。17:00すみ、数男の友、川島君と話しつつ帰る。尚子、ワイシャツ呉る。小雨。 9月27日 〒荒井平次郎より。10:30羽田書店の阿部女史来り、詩を写す。15:00東洋史談話会にゆき周藤君(※周藤吉之)の話聞く、つまらず。善海と帰る。けふ佐口、 三上二君よりお体如何の問を受け、反撃して閉口せしむ。昨日また満洲鞍山に空襲。 9月28日 阿部女史来る。研究所へゆき石田君と白鳥邸へゆく。途中浅野君に会ひたり。復職依頼して帰る。 9月29日 阿部女史来り居る時、松井保治君来り、退職せしと。14:30研究所へゆきしにしばらくして白鳥所長来、前田直典も来る。夜、岡田家にての夜食に招かる。 9月30日 三日間少眠。〒末吉。午後文庫へゆき「盧龍塞略」よみつつ和田先生をお待ちし16:30復職の事と同時に今後のこと申上ぐ。たのみは先生のみ。 大宮(※グァム島)、テニヤンの全滅発表、大軍の指揮官は小畑英良中将と。スマトラにて世話となりし信良大佐の令兄なり。 10月1日(日) 〒薬師寺より二通。昼すぎ赤川氏を訪ねしに外出許されしと。夜、健来る。 10月2日 9:30出勤。鎌田君来り、連襟(※親戚)戦死確定と。大宮島軍属の一人なり。阿部女史来り、大垣君よりの資料見す。〒父より二通。 10月3日 9:00出勤。「瀛涯勝覧」をよみし。〒丸夫人、丸は名古屋にて止まりしらし。窪川より78.00、中支へ1ケ月ほどゆくと。興地先生と同車す。 10月4日 9:30出勤。雨、「五体清文鑑」見る。夜、松井君来り、令兄保雄君三月十九日ニューギニネアにて戦死の報ありしと。映画配給社に就職の保証人となる。 10月5日 雨、10:00出勤。無為。新潮社より44.00(-6.00)来る。速達にて「日本語」よりの催促。 10月6日 出勤前、松井君来り、契約書印紙に印求む。出勤せしも一日悒せし。帰れば大垣君より大塩麟太郎君戦死の公報ありしと。孤児にして不遇、画学生として才ありしも描かず。 兵となること二度、ラバウルにて敵爆に死せしと覚ゆ。 10月7日 豪雨一日。昨夜苦吟せし「誓ひ」を退勤後、文芸春秋社にもちゆく。不快。 10月8日(日) 母、尚子に怒る。大陸生れのため礼を知らざるによる。父より電報、健、十日豊橋の予科士校に入ると。三郎ハルク島にありと。夜、意外にも小山正孝君来り、 戦争詩集の材料なしと。 10月9日 10:00出勤。11:30文庫へゆき山本達郎氏より明字本「瀛涯勝覧」の返却を受け、善海の室に玄覧堂叢書あるを見る。子供の本三冊買って帰る。 「文芸」河出書房に移り、十一月五日までに詩一篇をと。 10月10日 〒丸と「文芸」へ。白鳥先生、昨日来られ、本買へと云はれし由。 10月11日 出勤。渡瀬君来る。帰途、「朝鮮語方言の研究 下」と「マテオリッチ」買ふ。昨日、琉球に四百機来りしと。 10月12日 午後、東洋文化研究所へゆき玄覧堂叢書の「開原図説」見る。服部宇之吉博士の嫡を見る。けふ七時より十五時まで台湾へ大空襲、十三時まで百機撃墜と。 10月13日 渡瀬君と帰る。高円寺にて「樺太アイヌ叢話」買ふ。「新潮」十月号(※「唐代の従軍詩人」所載)来る。 10月14日 風邪気味のため文庫にゆかず。「東洋史研究 一」来る。「カムチャツカの歴史」買ふ。 10月15日(日) 風邪気味のため就寝。朝、松井君来る。台湾東の海にて敵航母七撃沈と。 10月16日 当番のため風邪を押して出勤。「瀛涯勝覧」はじむ。早退。空母十一隻撃沈と。 10月17日 神嘗祭。〒中野清見夫人、中野九月末南方へ行きしらし。数男送別会とて夕食に二族会合。台湾東方戦闘継続す。 10月18日 昨夜眠り足らず。朝、散髪、また伸ばすこととす。日課やりしのみにてだるし。帰途、玉井是博「支那社会経済史研究」購ふ。風邪やや宜し。阿部女史に明後日来よと電話す。 〒保田、竹内にも李太白着きしと。大垣わび状の如し。「書香」来る。今西春秋休み。 10月19日 雨、防訓とのことにて在家。〒父、小山正孝君。防訓とり止め、雨もやみしに出勤。夜、台湾島沖航空戦の総合戦果発表、我機三五〇を失ふ。航母十九(沈十一)、戦艦二を沈めし。 米軍レイテ湾に攻撃開始。薬師寺のゐる処なり。東京新聞より二十三日までに感[●]を一枚と。 10月20日 10:00出勤、玉井と大川周明「回教概説」とを研究所にゆづる。阿部女史来る。〒丸、余病併発と。山田廸孝、三好達治。スマトラ、カーニコバルにて航母一隻撃沈と。 10月21日 数男夫妻、朝、天津へ出発。帰途、目白にて高砂族調査報告一冊買ふ7.00。〒父より。日本語十月号。けさ日本語読本の原稿五枚送る。 警視庁より十月一日付にて荻窪警防団副団長に任ぜらる。 10月22日(日) 朝、松井君来る。防火群分隊長をたのまる。午後和田先生を訪れ、小高根を訪ねしも留守。丸留守宅にて聞けば脳溢血の由。赤川留守宅にては未だ帰らずと。留守中、千葉来りしと。 10月23日 当番にて出勤せしも頭痛して中引。東京新聞に原稿もちゆく。矛盾。帰途、東亜人文学報二‐二買ふ。硲君来りて話しゆく。〒布村一夫氏。 p6 10月24日 防空演習の日。警防団の呼出ありしも行かず、一日臥床の態なり。〒富山房より10.60。 10月25日 出勤。渡瀬君来る。〒大より。 10月26日 (※東京新聞切抜「敵に詩心なし」貼付) 出勤。将棋を石田君として二回勝つ。比島にて海戦しきり也。江間章子より娘の第一師範入学のことにて問合せ来る、可嗤。 10月27日 雨、〒小高根二郎。青木陽生、三越を止め軍需会社にかはりし。夕方比島沖海空戦の総合戦果発表。 10月28日 帰途、本買ふ。「東亜民族名彙」「台大史学研究年報 5」「甘粛西蔵辺彊地帯の民族」「西洋文化の支那侵略史」「日本諸学研究報告17」。 けふ文春の鷲尾君よりこの間の詩は掲載止めた、十二月号に一篇をと、承知と答ふ(十一月八日まで)。 10月29日(日) 〒丸三郎、阿部章子氏。レーテ島に激戦つづく。夜、大垣国司君来る。金鵄(※煙草)十箱呉る。ビールのむ。 10月30日 雨、数男の登山靴穿きてゆく。二十四史外国伝の会にて十九時帰宅。 10月31日 国民登録呈出、阿部女史来る。〒住吉区役所兵事課より在郷軍への状況申告書、江間章子より。 11月1日 阿部女史来りて、するめ呉る。12:30出所、13:00空襲警報にて池袋駅にゆけば省電止まりゐる。歩行して高円寺に来れば解除。帰りて警防団の本部にゆき警防手帳もらひ、団服もらひ来る。 空襲警報の時出だすと。けふB29一機飛来せしと。〒哈爾濱(※ハルピン)南崗博物館富田良作氏よりパンフレット、大阪市住吉区役所兵事課に申告書発送。 11月2日 防空服装にて出勤。10:00警報解除。15:00退出。入湯。半月ぶりなり。 11月3日 明治節、雨。〒父。立原道造の手紙送り返し来る。 11月4日 出勤。馮承鈞「支那南洋交通史」の訳買ふ、めちゃめちゃなり。赤川君に寄りしに通勤となりしと。〒水産講習所より健の休学許す。文芸に「ますらを還る」、 文芸春秋に「我は忘れず」を書く(※未確認不詳)。 11月5日(日) 9:55警戒警報発令、防護団本部にゆく。11:00解除。〒村上成実、「盟邦評論」より詩を十一日までにと。 11月6日 当番として9:30出勤。10:00警戒警報、味方機誤認のためと。北亜学報届きしため池袋駅にゆきて研究所に届くることを頼む。〒父より、〒保田へ。 11月7日 池袋の本屋にて見付けをきし英支辞典を買ひにゆきしに売切れ、昼前北亜学報3到着。四部貰ふ。午すぎ空襲警報、15:00すぎ帰宅。二機偵察に来ると。これにて四回警報なり。 11月8日 浅野君に電話し北亜学報とりに来て貰ふ。夜、雨降り出す。〒末吉、文芸より受取。スターリンの演説に日本を挑戦国と。 11月9日 和田先生に学報もちゆく、御留守。14:30太平洋協会へゆきしも平野先生旅行中と。〒創元社より印紙3100、支払ひは翌々月五日と。文学部事務室より 「満鮮地理歴史研究報告16」取りにこよと。 11月10日 創元社へ印紙もちゆき寄贈たのむ(二十部)。他に五〇部家へと。山本にゆき「樺太土人の生活」買ひ、研究所。山本より学報買ひに来る。〒大、思想問題。 「学習日本語」より日曜の会の案内。 11月11日 帰途、赤川氏に寄り、夜の案内をなし「西洋文化の支那への影響」を貰ひ、丸屋にて「聊斎志異」買ふ。夕方、青磁社の鎌田氏来り、中原中也詩集のことを云ふ、承諾、 二〇〇頁一万部一月末まで。夜、赤川氏来りビールのむ。 11月12日(日) 落花生を掘る。「民研六月号」布村一夫氏より〒。松井君、朝来りしも会はず。汪兆銘の死発表。 11月13日 当番、9:00出勤。15:00白鳥所長来。15:30より二十四史、17:00すぎ終りて阿部女史を訪ね、三好達治への伝言たのむ。今迄の選びし詩よくなし。大家連のを集めて出すと(※不詳)。 〒健より。 11月14日 帝大へゆき善海に学報与へ「満鮮地理歴史研究報告16」を事務室で貰ひ、研究室へよりて研究所へゆく。午後「瀛涯勝覧」よみゐれば、三村、泉の二君来る。 三村君明日頃和歌山へ帰ると。川久保宅へ本もちゆき帰宅の途会ふ。けふ区役所にて聞けば転籍には謄本二部入用(一部六〇銭と)。史学雑誌に山下正太郎君 「李太白」の評載す。 11月15日 〒健へ。石田、手塚、我の三人のみ出所。郵便局へ学報発送にゆき、窓口に財布置忘れしも取りにゆけばありき。「清国時文輯要」池袋にて買ひ、阿佐ヶ谷にて「パイワン族の芸術」買ふ。 けふ研究所に「満蒙樹木図説」を引取らせし也。「東京新聞」10.00「日本語」28.00(税共)を受取る。応召せし小川浩、北支の村山高の二氏よりハガキ。 小川は中支にあり、村山隊に村田少尉あり。 11月16日 〒盟邦同志会より原稿いつでも良しと。雨の中を学報発送にゆく。「侯方域集」買ふ。 11月17日 昨日今日渡瀬君来所。満洲の布村一夫氏に学報送る。帝大にゆき護君への送本たのみ、善海の許へゆきしにゐず。けふ貸本やにて文庫本「大学集」買ふ。帝大の帰途、 御茶水の村上書店にゆき月原橙一郎の住所聞く。〒「日本語」の原稿料50.00来りしのみ。 11月18日 雨、帰途、新村出「外来語」金城「那覇方言」「外蒙共和国」「守屋世界地図」買ふ。〒吉野、詩集二冊くれと、4.00封入。善海より夜食に招待。いやいやゆく、 川久保と鼎坐なり。20:30辞去。 11月19日(日) 午後、松井保治君来る。阿佐ヶ谷にゆき「マレイシアの農業地理」買ふ。夜、銭湯へゆく。 11月20日 晴、当番。午後落合長崎局へ学報発送にゆく。二十四史の会、17:00前にすむ。この日暖し。 11月21日 雨、〒なし。13:00出勤。勝覧読合せしのみ。 11月22日 〒前田直典より、満和辞典借りたしと。14:00回教圏へ学報もちゆき宮坂好安氏と話す。高橋勝之、軍需工場へゆくと。 11月23日 新嘗祭。11:00大垣君ビールもちて来る。11:30丸夫人来り、丸の様子話す。14:00大垣君と荻窪へ散歩して別る。 11月24日 当番出勤。11:00白鳥先生コールライト(※不詳)積置のため来所。まもなく警報、コールライト積卸中に敵帰来往。15:00頃帰宅。警防団本部にゆきしも無人。 神学校その他に被弾、地鳴りせし由。この日七十機来りしと。〒大。 11月25日 11:00頃また警報。帰宅せしも事なし。〒羽田より。赤川氏にゆき夜、招く。セーリス「日本渡航記」「支那学雑草」楊廣咸「安南史」等買ふ。 11月26日(日) 9:30硲晃君来訪。煙草一二箱呉る。五十嵐達六郎応召せしと。12:00警報、一機来しと。支那語の親族呼称拾ふ。 11月27日 当番出勤。茶碗五ケこはせし。12:00空襲警報、5:30解除。石田君わが欠きし茶碗にて手を切り不快。 11月28日 久し振にて警報なし。14:30前田直典の家へ抜刷と満和辞典もちゆきしに一〇〇米先に焼けし家あり。高円寺都丸にて通航一覧八冊買ふ。60.00〒北支の堀口太平より。 11月29日 池袋にて加藤繁「絶対の忠誠」ジャイルズ「支那史」を買ふ。養徳社より「神軍」一 万部を空襲時のため出せと、断る。〒父、三村、阿部女史。 11月30日 咲耶11:30より警報、警防団本部に駈付けしも無為。雨降り寒し。神田(錦町・美土代町)日本橋茅場町方面に火災。12:00頃解除。帰りしに4:00 また来襲。 5:00解除、10:00頃まで寝、13:00出所せしに手塚、河原二君のみ。〒難波香寿より見舞。 12月1日 雨、10:00出勤。所長明日来らるる由。石田君の家の三百米まで燃えし由。焼夷弾は消止め得るらしと。〒警防団より明後日召集状。 12月2日 10:00出勤すれば白鳥先生既にあり。娘婿の疎開先を見付けるため早々退出さる。遅れて前田勝太郎君初出勤。聞けば北支にありし幼方直吉氏、入獄すと。 野原四郎、平野義太郎氏なども怪し?13:00神田にゆき、青磁社にゆけば中也詩集は延期と。企画届十日頃欲しと。「神軍」は第一期に決定しをりと。 他に保田の「日本語録」三好達治「花筐」等あり、不快。内山にゆき東亜人文学報一ノ四を見付けてうれし。他に「燕山外史」、矢野仁一「大東亜史の構想」等を買ふ。 妹母子、明後日疎開と。〒文芸春秋十二月号の30.00 12月3日(日) 〒父より、今井清一、十月二十六日頃台湾方面で戦死と、海員なり。中野富美氏、長浜准尉、硲君。12:30警防団召集にてゆきしに取止めと。重曹一袋貰ひて帰る。 岐阜県へ疎開の姪たちに玩具買ひゐる中、13:30警報発令、分団にゆき書記のことやる。区域内に死者八名。夜、隣組常会。 12月4日 4:30頃より起床。隣の疎開を見送る。当番にて出勤せんとし、財布の失くなりしに気付く。現金6.00の外、研究所の鍵と認印となり。行きしに石田君来居りて助かる。 12:00退出、分団にゆきて探せしも見付からず大踏切の交通整理仰せつかりしも失敬して帰宅。隣組へ岐阜の実家より来し銀杏食ふ。昨日二十一機撃墜と。わが見しは体当たりなりし。 12月5日 12:00出勤。前田勝太郎と話す。帰途、赤川君を見舞ふ。昨日三鷹方面に煙を見し故なり。 12月6日 〒大垣国司より。中野清見夫人と服部正雄、堀口亨(太平)へ。12:00出勤せんとせしに目白駅下車後警戒警報発令に帰宅。一機のみとて空襲警報とはならざりし。 12月7日 〒千草、柏井母、「台湾文芸」九月号。10:30出勤、14:30退出。目白にて「満洲要覧」七〇銭にて買ふ。時価一〇円の本なり。17:30警報、一二機来りしと。 12月8日 2:30警報に出動す。茨城地区に来りしと。4:00帰宅。9:30出勤の途、目白にて「朝鮮語学史」「北京誌」買ふ。12:00警戒警報、帰宅せしも事なし。 阿佐ヶ谷を見舞ひ、帰途「那珂東洋小史」2.00にて買ふ。昨日の地震(※東南海地震)は駿遠に被害あり、東海道線不通と。 12月9日 9:30出勤の途、警戒警報となりしため一時引返せしも一機のみとて再出。〒河出より「文芸」の詩30.00送りしと。(今朝3:30警戒警報に一時起床せり)。 12月10日(日) 朝、松井君来る。〒父、田中咸子。午後赤川留守宅を訪ね、帰れば硲晃君、ノートとタバコ呉る。勤労十五日にてすむと。高円寺にて「北支那の戦争地理」「南方原住民の歌謡」買ふ。 20:00敵機来襲、焼夷弾投下。 12月11日 朝、当番出勤前に齋藤町会長に会ひ昨日のいきさつ云ふ。15:00より二十四史の読合せ。今後は13:00よりとす。和田先生と話しながら帰る。夜、大垣君来りたばこ呉る。 1:00警戒警報、出ず。 12月12日 5:00また警戒警報ありし由。一家眠りしに知らず。〒丸夫人、山内四郎、硲晃、青磁社、文芸より原稿料。12:00出勤。13:00より「女真満洲族の殉死」を話し、終りて前田君の歓迎会。 大垣君より貰ひし葡萄酒に陶然たり。夜、7:30、10:00二回空襲。 12月13日 4:30来襲、昨夜来出動せず。雪降る。11:00出勤。13:00警報に帰る。三鷹方面なり。敵機の一機煙吐くを中野にて見し。 12月14日 4:30警報。〒硲君へ。13:00山内四郎より電話。兄秀三は死せしと。近日会ふ約束。青磁社へゆき企劃届(中原中也選集)を渡し、創元社へゆきしに柴野君辞職、帰国すと。 紙型とらざる中に崩せしため組直し、二十日以後出来と。〒江口三五、大分へ転任と。 12月15日 3:50警報、東部へ被弾と。警防団にて謄写版刷らさる。9:30まで寝、12:00出勤。この頃三合便覧を写す。 12月16日 昨夜は久し振りにて空襲なし。昨夜読みし富塚博士の文にて悲観す。帰途、阿佐ヶ谷の本屋に寄りしに昨日見し松下紀久雄「南を見てくれ」なし。〒村田幸三郎。 12月17日(日) 〒悠紀子へ母より。養老にて虐待され大垣にゐる由。10:30山内四郎来る。十三年振りなり。上海火薬会社にゐる由。昼食し話せしのち本田喜代治先生を訪ぬ。帰途阿佐ヶ谷に寄る。 19:00大垣国司君来る。十五日より敵ミンドロ島に上陸と。 12月18日 当番にて出勤。12:00警報。帰りしも名古屋阪神方面と。赤川、阿佐ヶ谷を訪ねて帰宅。〒大垣の母より、内容前便に同じ。昨日白鳥所長、宿直をなすべしと命ありしと。23:00警戒警報。 12月19日 11:00出勤。無事。俸給渡さる。 12月20日 0:50敵機来襲。11:00出勤、まもなく警報。白鳥所長来られ賞与100.00。〒大垣より。 12月21日 出勤。松本安雄氏来り、地図のことにつき話す。その前、学習院にゆき所長に会ひ学内に工場あるを見たり。ベルクマン「カムチャツカ紀行」松下紀久雄「南をみてくれ」 新村出「典籍雑考」太平洋協会「ニコバル島とその住民」を買ふ。夜、二回来襲。21:00のは敵機照空燈に捕はる。〒布村一夫、少国民文化 12月22日 4:00警報。10:00出勤。11:00警報。名古屋に百機来りしと。帰途「タガログ語」「新しき南方の姿マライスマトラ」買ふ。 12月23日 4:00警報。10:00出勤。けふにて休暇となりし由なり。神田にゆき「清代学術概論」「支那の家族制」千田万三「満洲文化史点描」吉川幸次郎「支那人の古典とその生活」買ふ。 和田久徳君、泉康順君に会ふ。帰途赤川氏によれば明日来る由。21:00敵一機来。〒政界往来、東京新聞、山田廸孝。 12月24日(日) 3:00-5:00敵二機来。昼、阿佐ヶ谷へゆき〒東京新聞へ速達。お幸伯母に海苔たのむ。筑紫二郎「スマトラ紀行」買ふ。松井保治君来、映画配給社へ勤め昭南係と。 夜、赤川君来り、本合計16.00、ビール一本のみゆく。 12月25日 (大正天皇祭) 3:00-5:00敵二機来。この頃空襲警報とならざるゆゑ警防団に出動せず。炬燵で待機也。昼間事なし。 12月26日 当番出勤。石田、手塚、松沢三氏出。〒大、「南の星」一 冊来る。夜、少国民文化のために詩一篇。 昨日今日我機のサイパン襲撃のためならん敵襲なし。 12月27日 当番出勤。石田君病気と一人ありしに警報。五十機来る。手塚氏と警戒せしも事なし。夜、21:00少数機来るとて町会にゆきしも事なし。 阿佐ヶ谷にて「中央アジアのトルコ語」「大東亜の教育」「日蒙会話」「東亜ソ連地誌」「タガログ語」買ふ。少国民文化に「元旦の計画」送る。 12月28日 石田君の代りに出勤。渡辺末吾、村上正二、前田勝太郎と次々に来る。15:30空襲警報。途中歩きて東京新聞に「年頭の誓ひ」届く。一機来りしを味方機誤 認のための大騒ぎなり。 〒北條誠、盟邦同志会より一月二十五日までに文十五枚をと。夜、23:12まで一、二機来る。 12月29日 白鳥所長の許へお歳暮もちゆく。研究所へゆき手塚氏と話し、帰途目白にて別技篤彦「蘭領印度」買ふ。けふ研究所より三合便覧と英馬字典とを借出す。 21:00一、二機来りて警報、町会に出動す。 12月30日 1:00、5:00と二回敵機来りしが出動せず。家中みな風邪なり。〒父より。午後散髪、三合便覧写す。 12月31日(日) 今朝、久し振りに敵機東京になし。〒山田廸孝。10:00赤川君来る。三合便覧、日すむ。岡田正紀一家、明日北京へ発すと暇乞に来る。21:30一機来。 昭和20年 1月 1日~昭和20年 3月15日 21.3cm×16.5cm 横掛ノート(fairfield girls' schoolsingapore exercise book)に縦書き   本冊画像PDF p1    田中家系図   【参考資料】 詩人大垣国司について 芳野清氏「月に招かれた男」抄(「果樹園」所載)         半自敍伝 昭和21年回想 無条件降伏~北京~天津~京都~東京 昭和20年 1月1日 敵機来週に明け初む(0:00)。5:00また来。14:00大垣国司来る。林富士馬大村に入隊と。18:00頃帰る。三合便覧を写す。けふ来りし和田統夫に松下(※松下紀久雄)の「南を見てくれ」与ふ。 1月2日 〒石田正善。三十日に全快と。事なし。 1月3日 午後阿佐谷にゆく途中、子どもにお年玉買ひやり「南方植物記」買ふ。「南の星」店頭にあり。三合便覧EIOU[U]終る。昨日大阪に初空襲ありしと。 1月4日 家居。17:00より警防団の会、明日より五日に一度宿直と。中途警報ありしも来ず。 1月5日 〒坂口安吾。黄河のこと教はりたしと。16:00創元社の柴野君来訪、日本新聞会へかはりしと。夜、警防団の当番にて町会に宿直。21:00 一機。 1月6日 5:00 一機。6:00宿直を解除。11:00まで眠る。20:00 二機来る。 1月7日(日) 5:00 一機。敵、呂宋島西方にも游動と。〒長沼静人、千島より信州へ帰還と。 1月8日 11:00創元社へゆき「万里の長城」一冊「南の星」三冊を受取る。12:00研究所、手塚、石田、鎌田、松沢、前田の諸君に一冊づつ渡す。 15:00浦和にゆき田代継男夫人を訪ねしもゐず、西荻窪へゆきしに会へず、合計三冊渡す。田代一夫漢口にありと。 1月9日 〒大垣より。父と大に一冊づつ送る。12:00(※亜細亜文化研究所を)出所。13:00手塚氏と出版会へゆく途、神田にて敵機三・八・二を見る。小山正孝に一冊を托し、 朝日にゆきしも佐々木六郎ゐず一冊托し、桐山留守宅を訪ねしに滋賀県高島町へ疎開と。桐山は高雄にありて入院中と。一冊わたし、新藤千恵子に会ひ一冊やる。口惜し、この頃悒せし。 1月10日 〒なし。12:00出所。白鳥芳郎氏に一冊わたす。浅井中尉、柳氏、大垣、芳野2、薄井に郵送。15:00白鳥所長見ゆ。比島いよいよ悪し。夜宿直、21:00 一機。 1月11日 1:00 一機。3:00 一機。12:00出勤。丹波、田辺[東]司、三島秀雄に一冊づつ。21:30 一機。 1月12日 1:50,3:00に一機づつ来し由なれど眠りて知らず。創元社にゆき三十冊受取る。寄贈二十冊は送りしと。秋山氏の話にては社持ちは売切れし由。11:00坂口安吾氏来り黄河のこと書く参考書をと。 「南の星」信州の長沼、広島の山田廸孝に一冊づつ。〒西川英夫、石田正憲。 1月13日 10:00出勤。帰途長野(※敏一)を訪ねしも留守。赤川(※草夫)君を訪ね一冊渡す。夜、常会。けふ東中野にて敷島特攻隊関中尉ら出発の[景]を見、泪流し、春山行夫氏に邂逅せり。 〒矢野[兼]三。 1月14日(日) 朝、柏井母帰京。暢気なり。〒なし。事なし。 1月15日 昨日、外宮を爆撃し奉ると。13:00より二十四史。佐々木女史、理研に勤むと。「南の星」本荘建男、和田(※清)先生、川久保(※悌郎)。長野より電話。近々熊本へ移ると。 芳野清より煙草。警防団当直。当直に警報なかりしは初めて也。〒芳野。 1月16日 10:30東大久保にて警報、阿佐谷に引返せしも解除されしを以て田浦義光君留守宅にゆきしに疎開(熊本)と。「ソ連より見たる西南アジア」「ビーハン 外郭アジアの民族と文化」買ふ。 後著は良著らし。 1月17日 5:00 一機。9:00当番出勤。無事。〒村上菊一郎、白鳥芳郎「南の星」の礼。山田廸孝、堀口亨の二兵士。11 2:00一機来。 1月18日 欠勤。〒桑原武夫、長野敏一、浅井正雄中尉。寒し。郷軍より二十三日8:00査閲召集状来る。 1月19日 京阪に敵機来と。村田幸三郎に一冊。石田君早引。13:00警報に帰りしも無用。夜「大鵬」二月号に「スマトラにて」七枚書く。〒「書香」村田。 1月20日 11:30出勤。「大鵬」原稿送る。赤川夫人乾芋もち来りしと。夜、分団宿直。無事。 1月21日(日) 〒和田先生、信州長沼氏、満洲布村一夫。無事。 1月22日 11:30出勤。14:00「蝦夷島奇觀補註」買ひ、大学へゆき和田久徳君の坊やのこと聞きしも、先生出勤の内なれば無事か。(※松本)善海に会へば明日位、家族近江長浜へ疎開と。 別れの挨拶にゆき、徒歩にて帰宅。善海に「南の星」一冊与ふ。20:00一機関東南部へ来。 1月23日 0:30一機伊豆へ来。11:00出勤。佐々木六郎に電話せしに阿野隊長いまも赤十字にありと。午前中立教大学顧問安倍賢治なる翁来り話ゆく。帰途「唐詩評註読本」買ふ。〒父。 1月24日 当番。9:00出勤。事なし。ガラクタ本売り、「狩谷棭齋」と「御堂関白記」買ふ。 1月25日 〒野田又夫。12:30より銀座「盟邦同志会」にゆきしに無人。赤十字にゆきしに阿野中佐、若松町と、そこへゆけば箱根と。佐々木六郎留守宅に寄り怨みのべ、 高円寺にて倉石武四郎「支那語発音」買ふ。夜当直。寒し。(一マイナス)六度と。 1月26日 〒堀口亨の年賀状。12:00出勤、俸給貰ふ。15:00目白にて「台湾風俗志」買ふ。22:00一機。 1月27日 0:30一機。2:00二機。10:00出勤。12:30警報に帰り、阿佐谷にて空襲警報。16:00までに七十機来る。〒中島(※栄次郎)応召せしと。三島秀雄、丹波鴻一郎、芳野。 千草(※妹)子供をつれて酒とりに来りし。23:30また一機来。 1月28日(日) 10:00、11:00一機づつ。午後荻窪にゆき「アイヌの住居」「満洲城市考」「鉄砲伝来記」買ふ。寒し。20:00大垣君来訪、保田腸結核らしと。日比谷山水楼に(※爆弾)落ちしと。22:00一機来。 1月29日 0:30一機。2:30一機。4:00警報(八丈島へと)。10:30保田を訪ねしが割合元気。2:30神田にゆきしも創元社へゆけず。 1月30日 昨日駒込千駄木町へ落ち、鴎外の旧宅焼けし模様。「清朝末路秘史」買ふ。柳重徳氏母堂より「南の星」受取りしと。夜警防団当直。 1月31日 当番出勤、14:00より白鳥所長の講演。鎌田また不快。昨日よりゆき子とのことにて禁煙、不快なり。日本評論社より「李太白」再版三千と。 2月1日 欠勤。〒父より。事なし。雪降る。 2月2日 欠勤。0:30一機。〒竹内好「魯迅」面白くなし。午後散髪1.27。寒し。20:00一機。 2月3日 欠勤。午後保田に見舞物もちゆく。夜、小山正孝君来訪。堀辰雄氏恢復困難の噂ありと。〒水田鐐太郎夫人へ。 2月4日(日) 寒し。午後堀氏のこと訊ねに加藤俊策君を訪ねしに大したことなし。軽井沢町信濃追分にありと。 2月5日 〒大(※弟)、服部正雄大分にありと。二十四史の会、和田先生来られず。川久保語らず。18:30田代継男夫人来訪。タバコ三箱呉る。夜、警防宿直、団員三名来会。昨日神戸に八十五機来と。 2月6日 11:00まで、かへりて警防団出勤記入をす。昨年中警報八十八回、今年一月は二十五回なり。12:00出勤。万年筆忘れて駄弁りしのみ。帰宅「やまと心」買ふ。 ドイツはオーデル河畔に戦ひ、比島はマニラに敵突入と。 2月7日 8:30警報。町会に出勤、二機来ると。11:00前出勤。当番当りしに手塚氏代りくれゐたりし。〒山田廸孝、硲君より「学海」一月号、「鄭和印度洋航海記」の予告あり。 2月8日 昨夜雪ふる。欠勤。三合便覧写せしのみ。 2月9日 〒丸三郎。警防団の表つけ、11:00出勤。13:15一機来と。帰途盟邦同盟会さがせしも見つからず。井出季和太「南洋と華僑」買ふ。定期買ふ。三ヶ月17.10(阿佐谷-池袋間)。 2月10日 9:00二機来。丸に「南の星」一冊。警報解除、11:00出勤して昼食。池袋駅にてまた警報。帰りて町会に詰む。九十機来り、関東北部に被弾と。水田鐐太郎上等兵夫人道子氏より〒。 昨年メダン病院にて病死と。哀れなり。21:30、23:00一機づつ。 p2 2月11日 紀元節。2:00一機。松井保治君朝来訪。11:00一機。午後荻窪にゆき久保天随「支那文学史」「ポルトガル語」買ふ。夜、当番宿直。 2月12日 8:00一機。牛込の松本安雄氏の家へ地図の催促に行く。留守。創元社へゆき印税のことを問ふ。13:30出勤。〒小山正孝、読書新聞の紹介は同君の筆と (※→)。スマトラの牧野忠雄より速達にて宣伝班へ紹介をと。19:00一機。水田道子氏へ書簡にて句集。 2月13日 当番9:30出勤。寒し。板澤武雄「天壤無窮史觀」よむ。 2月14日 3:00一機。〒荒井平次郎、高円寺の中学生。10:00二機来。11:30出勤。白鳥所長来らるとて不来。 2月15日 寒。保田にバター四半斤もち行く。創元社へゆかんとせしも13:30警報、二三機来りしらし。帰りて町会に詰む。 2月16日 7:30警報発令、一日町会に詰む。本部に来よとのことなれば行きて話す。空襲警報四度。艦載機一千機来と。わが見しは十機ほど。落つるをも見し。硫黄島に上陸企図と。〒中野富美、長野敏一。 2月17日 7:00警報。けふも、一日町会に詰む。五百機来しと。西方にヘルダイヴする二十数機を見し。町会内に硝子による負傷女ありし。夜、当直。20:45、23:25、B29一機づつ来。 2月18日(日) 2:40、B29一機来。6:00当直より帰る。午後鈴木虎雄「賦史大要」よむ、わからず。入湯。十七日の戦果発表。撃墜一〇一機、破二八機と。十六日は撃墜二七機を増し、 二日間二七五墜、七八破と。十数隻の母艦来り、機一一〇〇-一二〇〇と。その中母艦一のみ破りしなり。 2月19日 10:00神田創元社へゆき「南の星」の稿料413.58貰ふ。神田にて「高砂族調査書第五巻」汪炳焜「李太白伝」「中臣祓講義」「アイヌ関係」五冊買ふ。 13:30出勤。14:38警報、B29一〇〇機来りしなり。帰途目白にて「朝鮮史五-一」買ふ。高円寺に下車せしも無為。〒村田幸三郎、芳野清、父。 2月20日 8:00警戒警報出ず。11:00出勤、15:30所長来。語らず。昨日敵硫黄島に上陸開始。 2月21日 5:00一機。9:30当番出勤。13:00より三機来りしとて帰宅。警報解除されしため阿佐谷にて五冊買ふ。〒硲晃、平野義太郎先生より「北支の村落社会」。19:00一機。警報なし。 2月22日 雪。欠勤。硫黄島に来襲の敵艦船六百隻と。我が方如何ともなし得ざるらし。悲憤やる方なし。11:30一機来。雪積ること一尺。 2月23日 雪のため省線故障なりと。欠勤。夜警防当直。〒北町一郎、大。 2月24日 4:00一機来る。8:00警防団より出頭命令来しに行けば勤労奉仕、荻窪駅前の一軒をとりこわす。手拭一本を報酬とて貰ふ。21:00一機。 2月25日(日) 0:30一機。また雪降り出しに艦載機数百機来とて、町会に詰む。昼前一度警戒警報となり、一休みせしに午後はB29百数十機来。雪曇の上より旧市内をやりし。20:00一機来。22:00一機来。 2月26日 1:00頃一機来。7:00機動部隊来さうなりとて警報出しも解除。雪掻きし、10:30より出勤。着きしは12:00まへ、誰もゐず、12:30村上来り、石田君心配とて御茶水まで行きしに警報(こは間違ひらしと)。 「日本語発音の話」読む。本日また聞きその他にて昨日は艦載機六〇〇機、B29一三〇機被害は神田、日本橋、牛込など六区、大宮御所に落ちしと。19:00一機。23:00一機。 2月27日 10:00二機。町会へゆく。御徒町焼けしとて、午後ゆきしに吉野弓亮の家焼けゐたり。弓亮は六日前より白石に疎開しゐたりと。下谷区、神田区、半ば廃墟となりたり。 夜、大垣国司来り、佐藤春夫先生「南の星」を見、田中賢すぎると云はれしと。柏井二階へ来ると。〒水田道子より句集つきしと。 2月28日 当番。9:30出勤。午後俸給貰ひて神田にゆき「支那哺乳動物誌」「大東亜言語論」「皇朝経済文編」「禹域戦乱詩解」「朝鮮役」「明季遼事叢刊」と40.00ほど買ふ。 3月1日 昨夜大垣来りらし。13:00出勤。夜警防団当直。高山宇一来りて話す。大垣も来て泊る。副分団長淵芳雄応召と。 3月2日 雪道と昨夜の疲れのため欠勤。高山と石原本家より野菜購求。柏井母、大垣へお峯伯母と疎開決心。 3月3日 10:00出勤。帰途、赤川、船越に寄りしも無為。〒堀辰雄。東京新聞より正月の稿料35.00 3月4日(日) 8:30より空襲。百五十機のB29来り、天沼三丁目西町町会にも数発落とす。直ちに調査にゆきしも要領を得ず、負傷者一名を衛生病院に護送す。旧市内に火災起きしと。 柏井母いよいよ疎開を決心。 3月5日 0:30より十数機、一機づつ来り寝しめず。9:00石田君に代りて当番出勤。けふ穴埋めに出勤を命されしも断りし也。佐々木女史スペイン語字典返却を受く。研究所との縁は切れたり。 〒本荘正(健男父君)より詩集の受取。健男今もメダンにありと。池袋にて「支那人」買ふ。夜、赤川君見舞をかねて来り葡萄酒のむ。19:00一機来に匆々帰去。 3月6日 朝、雨。欠勤。12:00一機来。 3月7日 0:30より数機彷徨。8:00齋藤町会長来り、警防団出動を命さる。9:00より1:20まで天沼三丁目六〇〇番地の小学教員判事の家の取片付。不快なり。12:00一機、14:30出勤。 帰途松岡静雄「太平洋民族誌」、中屋健弌「フィリッピン」買ふ。後者面白し。18:00硲晃君来る。三月末入営の予定と。タバコ呉る。 (けふ留守中、青磁社来り、中也選集の原稿用紙置きゆきし、末日までと。)「南の星」与へ、歌 わが友らわが弟ら兵となり海に陸路にたたかふときぞを記す。 日の丸一旒預けゆく。明日帰阪と。夜警防当直。 3月8日 9:45三機来。12:00出勤。帰途目白の古本屋にて高橋勇次「孫文」買ふ。聞けば清朝実録は和田清先生に話し研究室に入りしと。 3月9日 12:00出勤。無為。16:00高田馬場より東中野まで散歩す。高山宇一の家へ漢和字典もちゆく。大根の礼なり。 3月10日 0:10より警報はじめ、大事なしと思ひしに、間もなく急に空襲となり、百三十機来ると。満月の夜の如く明るく、大火となる。3:30解除。一機高射砲に墜さるを見し。 石田君心許なければ9:00出勤。前田勝太郎に電話し呼ぶ。10:00一機見に来る。駒込曙町も焼けしと。石田君12:00来りて焼けずと。本日判明?せしは司法省、大東亜省、第一師団、 佐藤高女、外神田、吉原等、広範囲。正午頃までまだ燃えゐたり。お峯伯母の日歯、柏井母の日華生命ともに焼けしと。火傷の被害者あり。空襲の害、これまでになく大なり。 〒父。朝鮮の「大陸遠望」の読者。帰途、阿佐谷にて「西ニューギニアの民族」買ふ。9:30警報。 3月11日(日) 4:00警報。浅草区の避難者を引受くるとて、11:00より蚕業試験場に詰め、七十八名の収容終りしは21:00なり。途中12:50空襲警報出しが事なし。 3月12日 11:00出勤。13:00和田先生来られ、つづいて榎、三上二氏のみ。けふ省線公務以外の切符うらざりしためなり。よみ合せをやめ、主として和田先生のお話うかがふ。 あく迄生きのびよとの仰せ也。硲君へのよせ書もすみ、うれしかりし。帰れば我に召集来りをる。住吉区長の電報  三ツキ一八ヒ一三ヂ チユブ二三ブタイリンヂシヨウシユ ハイレ レイゼウ ハヤシマサヤ ワタシ クヤクシヨニテ ウンチンアトバラヒシヨウ  アテタテ イツツクカ スグヘンセヨ スミヨシクチヨウ 柏井母、大垣へゆき子つれゆかんとし、我反対せしに怒る。夜大垣と話す。20:00一機来。 3月13日 9:00区役所へゆき日の丸貰はんとせしに駄目。旅費後払証貰ひしのみ。郵便局にて住吉区長、父、林叔父へ電報打つ。研究所へゆき告げ、手塚、鎌田、石田の三君に会ふ。 大学へゆかんとせしも駄目。帰りて阿佐谷へ挨拶にゆき、丸刈りにし、警防分団本部に挨拶し、預品返却し、在郷分会にゆき、同班長に挨拶し、大垣と話す。川久保22:00頃来る。 折柄大編隊北上の情報あり。24:00頃帰る。 3月14日 昨日の大編隊は大阪をやりしと。けふは阿佐谷駅にて切符買ひ、大学へゆき「蘭人治下の台湾」返却、松本善海には会へず。西洋史研究室にて金沢俊雄副手と話す。 井上幸治病気、山上正太郎帰郷と。本郷の焼跡を見る。文求堂残りしのみ。文庫へゆき白鳥芳郎君に会ひ、学習院にゆきて白鳥所長に会ふ。梅ヶ丘の和田先生を訪ねしに御留守。 小高根太郎に会ひしに悲しむ。昼食を15:00に御馳走になり、帰れば千草夫婦あり。松井保治来り、赤川君、保田宅にて聞きしに肥下も召集(八日)と。19:00より警防団の送別会。 齋藤磯吉町会長よき人なり。赤川君待ち受け、ややしばらく話す。大垣国司君も話し、23:00頃か。明日7:00隣組の送行会、携帯品半ばのみすみ。 3月15日 6:00起き、携帯品の準備をし、朝御飯食ふ中、隣組来る。壮行の挨拶、西田卯八組長、齋藤磯吉町会長、左座藤三郎警防団長の順にすみ、7:30家を出る。 隣組の岡田謙二、若林、石原本家、送り呉れ、大垣国司君とゆく中、警報。東京駅にて改札に話し、急行[春なし]にて鹿児島行8:30に乗る。梓の骨忘れしこと思出し残念なり。 静岡地方、震害殆ど見当たらず、浜松、名古屋の爆害見ゆ。車中不愉快あり。特に軍人多く帰還、現役ともに種々語る。17:30京都着。父あたかも迎へ呉る。 急行券のこと車掌に話せしに改札口にてと。改札嬢に話し、問答の後不要となる。市電にて烏丸行にのり、上京区小山下総町四五の隠宅に入る。 史(※長男)の疎開のことは母の病気のためと判明、悠紀子以下そろひてならば可能と分り安心。全田の叔父も経過良好。十一日敦子結婚とめでたし。大阪の爆害は繁華街と。 身許調べは父してくれ、通訳官と記入されし由。 3月16日 朝、隣組の岡本赳博士の電話借り、羽田と連絡とり三高にて会ふこととし、行きしに会へず。京大研究室に行けば村上成実氏のみ。石浜先生は講師を止められしらし。 徒歩して羽田教授宅へゆけば時野谷君夫人(羽田妹)あり、電話にて羽田、父の所へ赴きしとて、夫人(池内教授令嬢)に挨拶そこそこ引返せば道にて会ふ。内藤戊申氏は五件目の隣なり。 永々と話し、15:30頃別れ、17:30頃また訪る。二女一男生ゐる。22:30まで話し、駅歩にて帰る。 3月17日 (後年書き写された便箋より) お願ひ種々 天沼の四人(編注:悠紀子夫人と子供たち依子、史、弓子)宜しく願ひます。 子供は勿論悠紀子も不平を云はぬたちゆゑ仰せに従ひますが、父上母上の老後のみとり女として御使ひ下されば幸甚と申しをりました。何卒農家の手伝ひなどとしても宜しきゆゑ、 も少し安全な処へ揃ってお移りのほど悃願いたします。ここでは天沼よりひどく老人女子供だけではカーチス・ルメーの毒手(※日本焦土化作戦)のよき餌です。 お隣近所の如く家財道具のみに汲々たる連中はいざの場合はそのため命を隕すこともあり、決してよき隣組として、 よき町会員としての救け手をする余裕などもたぬことは警防団員(二月以来三月十日荻窪警防団副部長として江東の大火に夕刊を夜目に見えゐただけです)の保証するところです。 小生けふは大分弱気を申しましたが、外で聞くとは大違ひ、マレー派遣軍とは大違ひで、中では又いろいろと面白く愉快な生活があるかもしれぬと期待してをります。 ただ敵伐って死ぬることは覚悟いたしましたがマレーでも二三見聞しました小姑の手で死ぬのは絶対いや(戦争中勇敢に戦ひ死亡との通知あり勲六等となることあり)とて情けないぐちをおきかせしました。 入隊後は見聞したことは申せませぬし、云はうとも思ひませぬ。ただ犬死だけはさして下さるな、小生のことのみでなく訴へたく気分がもやもやでこの二三日暗い顔をしてゐましたが、 云って気分がすっとしました。笑って入ります。         入隊前夜 父上様 母上様 まいる 追伸 拙著詩集と楊 貴妃とクレオパトラ、李太白(校訂ずみ)、歴史の論文、少年時代よりの日記はお預けして参ります。 史(※長男)に見せてやっていただければと存じます。 万一の時は「梓(※次男)の骨」とともに京都へ埋めていただければと存じます。梓の骨は小生不覚にも忘れ来りしため、悠紀子に持参せしめるやうお便りいただければと存じます。 嵩が大きすぎるなら一部でも結構ですが。咲耶、建、大(※異母弟妹)に会へずに行ってしまふのでしたら残念です。 面会許されたときも呼寄せはむつかしいと存じます。くれぐれも元気でと伝言願上ます。 京都へ敵襲あることは必至ですゆゑくれぐれもお体第一に。 恩師は東大文学部和田清博士。 知己は小高根太郎、羽田明の二人です。他は皆出征して頼むに由なく、もし何ぞの節にはこの人たちに相談願ひます。    昭和二十年三月十七日夜 三伸 持参の国旗は西区堀江通二-一二 硲晃君(太古東大後輩)のもので、もう焼失した家かと存じますが届けていただければ幸甚です。 田中克己日記 1946-1947 昭和21年 1月29日~昭和22年 9月25日 21.3cm×16.5cm 横掛ノート(fairfield girls' schoolsingapore exercise book)に縦書き   本冊画像PDF p1   田中家系図 【参考資料】 詩人大垣国司について 芳野清 「月に招かれた男」抄(「果樹園」所載)        『敗戦日本と浪曼派の態度』 澤村修治著、2015年ライトハウス開港社刊行         半自敍伝 昭和21年回想 無条件降伏~北京~天津~京都~東京 【昭和21年】  詩人は戦場の庭で何を見、何を感じ、どう変ったか。或ひは変らなかったのか。  昭和20年3月10日の大空襲で東京の市街地が灰燼に帰したのを見届けた詩人、田中克己はその二日後、召集の電報に接し、急遽下阪して中部23部隊に入隊。 そのまま北支に派遣され、独立警備歩兵として情報室付任務に当たり、半年後の敗戦を河北省唐県の田家荘で迎へます。軍属待遇だった3年前の文士徴用とは様変はり、 此度は一介の二等兵。戦争が終結しても、その後内戦状態に移行した中国では軍規がものを云ひ、大隊本部情報室の雑役として使はれ続けます。 脱走を試みる前に現地除隊になったのが10月。身分を隠して北京へ逃れ、天津で歯科医を手伝ってゐた義弟の許にひと冬を寄寓して、 仄聞する日本荒廃の噂には一時、中国への在住も決意したと云ふことです。  戦争中のできごとはのちに雑誌「祖国」に「老兵の記録」として、続いて「果樹園」に「半自叙伝:無条件降伏~北京~天津~東京」として連載されてゐます。 昭和20年1月の時点で敗戦を悟り、現人神(あらひとがみ)の否定にも至った詩人ですが、自らの戦争責任や、信奉した皇国史観とは何だったのかといふ思想的総括が、詩や散文において綴られることはありませんでした。 この詩人が、不満を上下人心の荒廃と不正に対してぶつけることはあっても、それを社会のシステムに向けたり、況んや共産主義へ反転するルサンチマン(怨念)を抱く体質にはなかったといふことですが、 多くの庶民の心情と同じく、報国思想をもって「大東亜の開放と共存統一のために」戦争協力を行ってきた日本人全般に共通した感慨をもって生きてゐた証拠でもなかったかと思ひます。  上記の回想連載中にも、「大東亜戦争を熱祷した」自著「神軍」の刊行経緯に触れ、「熱祷した戦争の結果が、どこまで自分に及ぶか見きはめようと思ってゐる(「半自叙伝16」)」と記し、 また未だに「愛国心と尊皇心をもってゐる」自分が世の中から取り残され、「わたしは今こそひとりなのだが、そのひとりのバカげた頑固さに、 早く転向しないと危ないぞと忠告する者はどこにもゐなかったし、もとより「やれやれ」とけしかける者もゐなかった。(同17)」と告白する詩人にとって、 日記は途絶したページから作意なく書き継がれるべきものでした。後日発表された文章を担保する原資料としてだけでなく、敗戦後の世のありさまが、 家庭人失格を自認する詩人の姿とともに正直に写されてゐるところに、資料として一貫した価値が認められると思ひます。  戦後日記は、京都の父親の許で保管されてゐたノートの続きに、義弟一家と共に帰国を果たした記録から再び綴られてゐます。ときに昭和21年2月20日、 佐世保に入港。23日、京都着。3月6日に東京の焼けずに済んだ天沼の自宅へ帰還。子らは無事でしたが、夫人は岐阜県大垣に疎開中、十二指腸虫に侵されてダウン、 代って炊事に追はれることになった詩人は、今後の方途を恩師和田清に図ります。しかし穏健思想の持主であった師にあっても公職追放の嫌疑にかかる状況にあった東洋史学界で、 職をみつけるといふことは尋常でなく、その年の帝大入試でも東洋史学科は希望者はたった二人といふ有様。戦時中の“活躍”により公職追放は避けられぬことを悟った詩人は、 教師になることをあきらめ、斡旋された外務省の仕事や、出版各社からの依頼に応じて原稿を書きまくってゐます。これらの依頼はアプレゲールが未だ登場する前のシーンにおいて、 文字に飢えてゐた一般需要によるものであったと考へるべきでありませう。さうして実に多くの出版社が立ってはつぶれするなか、 抒情詩人たちも出版活動に係り活動してゐることが日記から知られます。小山正孝の「胡桃」は一冊で終りましたが、眞鍋呉夫や日塔聡、 そして国文学者であった角川源義が堀辰雄の後ろ盾になって「四季」が再刊されます。角川書店は御存知のやうに出版企業として生き残り大成長を遂げますが、 田中克己は学者として生きる志に変はるところなく、起業家として一旗あげることや、出版人としてサラリーマン生活を送ることなどもとより眼中になかったやうです。  ただし詩に対しては、戦時中からこれに情勢的に取り組んできた“報ゐ”が、強面の思想が取り払はれたせゐで一層はっきりと顕れてきたやうな気がします。 ジャーナリズムとは縁が無く、生活者としては一介の教師としてあり続け、あくまで詩を本分として生きた伊東静雄と比べ、学者を本分と定めるも戦時中、 ジャーナリズムに持ち上げられ公的側面へと流され続けてきた田中克己の詩業の評価は、このさき大きく水をあけられることになるのです。三好達治と同様、 文語をあやつる分には美しい詩想も、新時代に語るべき口語表現に頼るとき、「個:孤独」に碇を下ろして詩作してこなかった抒情詩といふのは、 新しい民主主義の白昼光の下では一層面映く感じられてなりません。だったら中原中也や立原道造の詩なら相応しいかといったら、これは再刊「四季」が挫折した理由ともつながる、 四季派の抒情詩(もしくは詩人)と戦後世相・ジャーナリズムとの親炙性といふ、現代詩の問題として論はれることになるかもしれません。  さて、日々の生活に追はれ、とりわけ物価の高騰に音を上げた詩人は、戦災に遭ふ事の無かった京都に住む父の意見や、戦前、 天理教の管長中山正善(大高卒業生)の許で貴重書コレクションの整理にあたった杉浦正一郎からの誘ひにより、東京を引き払って西下、 天理図書館の司書研究員となることを決意します。具体的な面倒は、同じくコギト同人で天理外語学校で教鞭を執ってゐた服部正己一家がみてくれ、 難渋した住居探しも保田與重郎の口利きにより、桜井町内に来迎寺の離れがみつかります。  以後、詩人は服部・保田宅に頻繁に出入りし、物資窮乏のさなか、 日記に日常煩瑣なやりとりが物価とともに書き記されてゐるところが面白いですが、保田邸では本人より剛毅な父上と話が合ったやうで、 服部正己は気安さもあってか戦死した中島栄次郎亡きあとの将棋指しの対局相手にされてゐます(笑)。この地にありながら肥下恒夫のことが念頭にない訳がなく、 絶交以来全く話題にも上ってゐないことが異状なのですが、これは翌22年4月に詩人の方から復縁に訪ねます。  絶交といへば精神を病み、萩原朔太郎からの書簡などを預ったまま紛失させてしまった大垣国司に対する怒りは、東京を去るに当りやうやく解かれたもののやうですが、 期待された結婚が発病によって破談となり、田舎の精神病院で不遇の(不審の)死を迎へる運命については、「果樹園」に連載された芳野清氏の散文「月に招かれた男」の抄出を掲げましたのでご覧いただければと思ひます。 彼については悠紀子奥様からも、詩人の出征中隣に住み込み、空襲警報が出ると押入れに飛び込んだまま出てこないだとか、 二階の手すりを伐って薪にしてしまったとかの逸話を仄聞しましたが、日記ではこの年八月に父の訃、十二月に「発狂した」と、本人より直接報告の手紙がもたらされ、 芳野氏の回想を裏書きしてゐます。  大垣国司だけでなく、これまでに気安く交はってきた詩人たち(中島栄次郎、増田晃、薬師寺衛、山川弘至)のことごとくが戦死し、 教へ子にも文学畑へ進む者に恵まれなかったこともまた、田中克己の詩人気質を理解し、詩業を称揚する後輩が、伊東静雄のやうにはできず、 再評価にも影響したのではなかったかと思はれてなりません。  さうして“都落ち”を決意までして始めた新生活ですが、以前に較べて暮らし向きはよくなったのでせうか。いえいえ、上司に対する第一印象からして辛口に過ぎ、 不遜ともいふべき人物評を日記に洩らさずにはゐられなかった詩人です。杉浦正一郎も早々に「嫌なら辞めても構はないから」と、呼んだことを内心後悔したかもしれません。 貴重な古典籍を誇る図書館こそありましたが、田舎といって食糧に困らぬのは農家のみ。火の車の家計は、 米から野菜・タバコに至るまでの細々とした購入明細を記さずにはゐられなかった日記形式の変貌に明らかですが、不満は物質的にだけでなく、 やはり閉鎖的な環境の中で情報と交流に乏しいことがじわじわと詩人を苦しめはじめます。  目と鼻の先の近所には保田與重郎が泰然自若として構へ居るのでありますが、“田園の憂鬱”は如何ともしがたく、京都住まひの実家への帰省、 そして詩人の癇症とプライドとを承知の上で何くれと世話を焼いてくれる旧友や教へ子、とりわけ旧友である服部正己と羽田明の存在がなかったら、 さぞ孤立した精神生活を送ったのではないかと思ひやられます。  詩人はやがてこちら関西圏に残ったあたらしい仲間たちと、あたらしく雑誌を興す活動に入ってゆくことになります。キーパーソンの詩人たちはまだ現れません。 むしろ注目すべきは無聊を喞つ私生活において同僚の後輩女史たちから、機知に富み風通しの良い話をする、都会からやってきたスマートなインテリゲンチャとして詩人が人気を集め、 正に“モテ期”に入るといふことではないでせうか(笑)。日記を読む限りはとんでもない風呂嫌ひであったやうにも受け取られるので、 不思議なことではありますが(この風呂嫌ひの件については御遺族から田中家の名誉に係はるとの疑義もあり(笑)。記述の遺漏、もしくは森鴎外式の清潔を心掛けてゐたのかもしれません。)、 忘年会の飲み会がきっかけとなって、同僚の娘たちとの関係は親密度を増して参ります。 昭和21年 1月29日 天津貨物廠ニ集結。 2月15日 荷物検査スミ。塘坫にて乗船LST899号。 2月20日 佐世保早岐着。南風崎旧海浜園に入る。 2月22日 午後南風崎発。 2月23日 18:00京都着。小山下総町の父の宅へゆけば父上上京中、母、大と今井叔母とあり。 2月24日(日) 三高、京大にゆきしも無人。羽田宅を訪れ日暇なりしことを知る。羽田高槻にゆきて不在。 2月25日 羽田より電話あり。16:00訪問、御馳走になり夜、羽田博士(※羽田亨)を訪ね、今西春秋、小野勝年、江實、佐藤長等の消息を伝ふ。 2月26日 京大研究室と東方文化(※東方文化研究所)にゆき、藤村[美]、外山軍治、内田吟風、水野清一、小川茂樹(旧姓貝塚)氏等と会ふ。 2月27日 新円旧円のことにて忙し。父帰らず。 2月28日-3月3日 忘 3月4日 父帰り来る。悠紀子十二指腸回虫のため痩すと。 3月5日 朝より荷物梱包と切符買ひ(三十四円)とにて忙し。16:00父の家を出、夜行に乗る。立詰めなれど話し相手あり。 3月6日 6:50東京着。家に帰り一休みせしのち隣他に挨拶。 3月7日 雨、家居。荷物整理。本みなあり。靴二足のみ売られしと(※妻子疎開中、一家族(森氏)入り居り、そのまましばらく同居してゐた由:「果樹園」4号より)。 3月8日 寒し。煙草と米の手続すませしのち、和田先生宅まで徒歩、途中川久保宅に寄りしに消息なしと。先生在室、鎌田のことなど話され、龍野四郎来り会し、 「歴史上より見たる中国文化と東亜及び日本文化との関係」「同じく思想」の課題与へらる。3、40-7、80枚、期日五月十一日(※外務省調査部の仕事。 「君ならなんでもすぐ書けるからね」の言葉あり:「果樹園」4号より)。 3月9日 寒し。夜、齋藤磯吉町会長を訪ね、北支満洲のこと話す。二児その地にあるが故也。 3月10日(日) 朝、近処の警防団仲間に挨拶し、丸三郎を訪ね、岡山幸伯母を訪ぬ。午後、健来る。大垣をまぜて話す。外套父へと託す。この日佐伯(※好郎)「マルコポーロ」 (2.00)「亜細亜ロシヤ民族誌」(18.00)購ふ。雪降る。「中国文学復刊号」来る。(※もと竹内好編集、未帰還中に復刊:「果樹園」4号より) 3月11日 朝、史湿疹治療のため南博士にゆく。西川英夫父より来信。(※長男は長野県への集団疎開より帰還:「果樹園」4号より) 3月12日 終日家居。父、羽田、時代社、中国文学研究会へハガキ。夜、雪積る。 3月13日 終日家居。小高根太郎、松本善海へハガキ。 3月14日 午前中、荻窪へゆき子の保険とりにゆく。十年一円づつ掛けて124.00円なり、直ちに貯金(※封鎖貯金)となる。父よりハガキ、全田忠蔵叔父、六日死すと。 3月15日 午後徒歩して目黒の白鳥先生宅にゆく。千葉へゆきて不在と。竹内好の留守宅を訪ねしに(※未帰還、母上は)浦和の妹の嫁ぎ先にありと。後に那須辰造その他入りたり。 3月16日 一日家居。夕方健来る。明日切符買ひ、福井県三方湖にて実習後帰洛と。 3月17日(日) 昨日雪降る。家居。夕、青木陽生来る。 3月18日 家居。大道妙子(※)、大より便りあり。(天津での知人の夫人。消息通知を頼まれた。:「果樹園」4号より) 3月19日 雨、家居。手塚、中野清見、佐藤誠の家、内田勉の家、大塚幸太郎、小林俊文(※戦友)へハガキ出す。 3月20日 家居。無為。 3月21日 家居。父より〒。加藤繁先生六日御逝去とお宅より。宇田川隊の深井兵長、別府に店(※運動具屋:「果樹園」4号より)出すと。 けふ春季皇霊祭なれど人来ず。和田甚吉氏死すとて香奠つつむ。 3月22日 久し振りに元気。朝、北京の岡田志紀氏一家帰省(義弟の嫁の実家。除隊後一ヶ月、北京新華門内の同家に寄宿。:「果樹園」4号より)。二月十二日に貨物廠に入りし也。午後久し振りに入浴。 深井、大道妙子、大にハガキ。豊島区千早町一ノ十八 伊福部隆氏よりパンフレット。 3月23日 家居。和田先生より二十六日13:00丸ノ内ホテルへと。三十日13:30大学にて原田淑人先生引退の談話会と。夕方小松京子氏(※大垣国司の恋人)来る。大より岩波文庫の「古事記」「日本書紀」来る。 3月24日(日) 快晴、齋藤町会長来られ外套下さると。煙草の自由販売に並ぶ。小高根太郎、手塚隆義氏よりハガキ。 3月25日 亀井昇より帰還せしと。午後大学へゆきしに和田先生教授会中、善海は殆ど出勤せずらし。護雅夫君にきけば明日の会三十日に延期の様子。 山本書店へゆききけば、岩村[忍]は内閣にて今次戦争のこと書く様と、不快。 3月26日 帰還挨拶状書く。白鳥(清)、三好(達治)、杉浦(正一郎)、前田直(直典)、保田留守宅、桑原(武夫)、野田(又夫)、薄井(敏夫)、本荘(実)、本位田(昇)、服部(正己)、伊東(静雄)の諸氏。 夜、南義一博士(※医師)を訪れ閑談、我(※昭和20年)一月敗戦を云ひゐしと。 3月27日 快晴、暖し。外務省、和田先生、父より信。文芸世紀来る、山川弘至戦死と。 3月28日 無為。 3月29日 無為、散髪す(3.40)。 3月30日 12:00より外務省の会とて丸ノ内ホテルへゆく。和田先生来られず。鈴木俊、野原四郎、龍野四郎、市古宙三あり。 平野義太郎氏より挨拶さる。この夜不快(※「こやつよくも帰ってきたな」の顔二三人ありし。:「果樹園」4号より)。 3月31日(日) 家居。〒父、大、白鳥清先生。夜、停電。寒し。 4月1日 家居。[〒]母、前田直典、大道妙子、竹内好の妹君。 4月2日 〒三好達治、保田留守宅、保田天津貨物廠にありと。午後永福町の青木へ芋もちゆく。 4月3日 (神武天皇祭)陽生一家肉もち来る。小高根太郎二郎来る。二郎中支より帰りし也。昼食をともにし、阿佐ヶ谷岡山(※幸伯母宅)へゆき、堀辰雄氏のこと尋ねしに五日まで滞京と。 夜、再訪、四季再刊と。(※「四季」を角川書店より再刊する、ぜひ詩を書けといはる。:「果樹園」4号より) 4月4日 無為。 4月5日 無為。悠紀子、体悪しとて不快。 4月6日 雨、14:30青磁社の小山君(※)等来る。堀氏より(※帰還を)聞きしと。〒大塚伍長。伊東へのハガキ返送、戦災に[遭]ひし也。(※青磁社勤務は小山弘一郎だが、ここは小山正孝か) 4月7日(日) 〒選挙場入場票。けふ夫婦はじめて五百円生活の内容談りあひ慄然。ゆき子十二指腸虫(※)の有無、前田博士も自信なしと。(※疎開先岐阜県大垣にて罹患。:「果樹園」4号より)  北支那の棗林にわがいのち棄ててくべきをかへりこしはや  ひとみなのくるしむなかにわがつまとわがつみおひていとどくるしむ  つまこらをま[さ]めに見よとすめがみのかへらしまししこともくやしと 4月8日 依子入学式に10:00杉並第九へゆく。一年三組、担任志田女史。和田先生をお訪ねする途、永福町を通り千草宅による。先生御在宅にて就職のこと考慮せん。 土曜十時に元太平洋協会へ来れ。加藤(※繁)先生の幼時の絵など見せられ。二十四日追悼式ありと。 16:00小高根太郎を訪ね、夕食よばれ杜甫四冊(※「国訳漢文大成」:「果樹園」4号より)借りて帰る。〒桑原武夫。 4月9日 在宅。山内四郎(※天津時代の友人:「果樹園」4号より)、三月三十日帰国、九日頃より上京との〒。 4月10日 選挙にて学校会社休み。12:00杉並第五の投票場にゆき田辺忠男、小林元、佐々木俊雄の三氏に投ず。佐々木氏は齋藤町会長の推薦なり。みな人を知らず。 4月11日 小林俊文より〒、岡谷にあり来よと。返事かく。大塚幸太郎へもハガキ。常会に出席、女のみ。國分夫人帰京と。 4月12日 大より五月二三日頃上京と。室なき由返事す。國分節子花屋へ就職と。わが投票せし者みな落選らし。 4月13日 10:30より栄ビルへゆく。平野先生のみ。鈴木朝英、平田二君のマライ談なりしは奇縁。市古宙三も来ゐたり。会後、鈴木氏と山内四郎の所へゆきしにゐず。 山内秀三は印度独立軍裏切の責を負うて割腹と。(※山内四郎の兄の消息を鈴木氏より聞く:「果樹園」4号より) 帰りて入浴し、来りし山内と(※兄の死について)話す。東京に就職、夫人九日に分娩と。丸(※三郎宅)の二階如何と教ふ。〒中野清見、小山正孝、大道五郎。 4月14日(日) 小山正孝君、史に絵本もち来る。13:00まで話し、阿佐ヶ谷へゆき中川氏と話す。石瀬、三上氏らと同級と。加藤繁先生「始皇帝其他」買ふ。1.50。 4月15日 家居。松井盛君、帰り来る。(※天津の義弟宅「東海林歯科医院」の留守を預かった青年。:「果樹園」4号より) 悠紀子また体悪しとて不快。 4月16日 〒東洋史談話会より二十四日加藤先生の追悼会と。夕食の炊事をなす。聊斎志異訳しそむ。退屈しのぎよりうさ晴らし也。 4月17日 雨、炊事をやること前日に同じ。小高根二郎よりハガキ、宇治へゆく(※赴任)と。 4月18日 昼まで炊事。十四時頃帝大の東洋文化へゆく。善海と話せしのち鈴木俊、仁井田陞氏らの作らんとする会に出る、両頭欠席。三上次男、山本達郎、前田直典ら出席。 余、中支よりの某君と鈴木朝英氏の話の面白かりし。朝英氏にウィルキンソンの(※マレー語)辞典かし、前田に島夷志略かへす。前田、十二指腸の薬やらんと。 (今朝9:00前田幸雄博士来診、十二指腸虫検便の結果ありと。入院たのみしも返答曖昧、来診料30.葡萄糖注射20.薬代5) 4月19日 國分夫人挨拶による。國分氏は接収未了のため貨物廠にのこされしと。 〒小林俊文氏、来よ、共同通信の同志に委細きけと。本宮(※中野清見)、松本善海、芳野清。 午後買物、ハブ茶3.50、卵10.50(三ケ)、納豆二袋8.00。前田博士来らず。炊事巧みとなる。本日米27.30、十四キロ。野菜(カブ、白菜2.15)、鰤(六キレ6.30)と、配給多し。隣家の河田夫人、ホーレン草呉る。 4月20日 朝、三度前田博士を訪ひ、二三日中に空室出来の上、入ると。(※即入院できなかったのは支払い能力を疑はれたからであったことが後に判明。:「果樹園」4号より) 二女と散歩、飴(10.00)買ふ。阿佐ヶ谷にゆき古本屋和堂を探せしに見当らず。 〒大、富山房東洋史辞典中止と。服部正己、去年九月十二日復員と。 4月21日(日) 炊事巧みとなりたり。丸三郎(※東京地検検事)を弓子つれて訪へば山内に室貸すと。同情しくれしも処置なし。(※公職追放の可能性につき「大いにあり」と。:「果樹園」4号より) 共に高円寺を散歩、帰りて炊事。留守中阿佐ヶ谷より卵十ケと米一升もち来る。 〒渡辺上等兵、伊勢崎にありと。初年兵時に我に深切なりし。大、小林へハガキ。大へは笑談と思ふなと。(※不詳) 21:00山内来りて泊めてくれと。丸宅やめ荻窪の親類へゆく。米軍のドライバーとなり月給500なり、就職後二日目と。 4月22日 昼すぎ悠紀子不快を訴へ前田博士に赴きしに入院せよと。石原本家にてリヤカー借り、夕方数男(※義弟)と押しゆく。数男「誤解せぬやう」との前置にてパジャマのこと問ふ。この日看護入院。 4月23日 朝より輸血すべしとて和田経男(※悠紀子従弟 血液型О型)にたのみ12:00頃すみ、寒気ののち悠紀子やや元気となる。この日数男パジャマのことまた云ふ。 この度ははっきりと「他の物とり」となり。夜、また病院にて寝る。夕方経男与へし40.00返し来る。お幸伯母に叱られしと。 4月24日 昨日100瓦(※グラム)なりしゆゑ、いま一度すべしと云はれ柏井母と阿佐ヶ谷にゆきたのむ。 西田夫人、(※中学教師の)口あり、ゆかぬかと俊子姉に云ひしと。12:00再輸血100瓦。弓子けふより入院。 4月25日 朝、弓子の検便、虫ゐると。雨の中を子供ら飯もち来るがあはれ也。夜、千草来る。小山正孝、陽生よりハガキ。夜、悠紀子下剤かく。 4月26日 小雨、けふより又炊事もやることとす。日塔聰君来る。某書店、杜甫伝希望となり。悠紀子けふ虫下りたり。史、湿疹とて休校。 4月27日 小雨、史、湿疹ひどしとて阿佐ヶ谷井上医院へゆく。和田姉の紹介を得んとゆけば不在。(※船越)耐氏に頼む。(※夫の船越)章よりハガキ来ゐたり。 弓子本日下痢三日目、ややに衰弱するものの如し。本庄(※実)先生、小林俊文よりハガキ。聊斎訳す。 4月28日(日) 昨日、史の手当十四円と。弓子に下剤かく。絶食させしと薬のむこといやがるとのため大手数なり。赤川氏来る。高円寺三丁目にあり、肥下に会ひしと。けふ丸に会ひ我が帰りしを知ると。 昆布の佃煮呉る。隣組より見舞27.50貰ふ。聊斎つづけて訳す。 4月29日 天長節、国民学校にて君が代のみ。国旗かかげし家寥々。中村女史見舞20.00呉れしと。夜、大垣来る。病人食欲出づ。 4月30日 悠紀子また輸血すべしと。岡田一家人形もちて来る。薄井(※敏夫)来る。(※詩人の出征を知らず、帰還挨拶に驚く。:「果樹園」4号より) 父よりハガキ、百円もままならぬゆゑ(※金尾)文淵堂にでも話すべしと。入来院秀麿、松崎誠、みな天津の知合なり。 5月1日 悠紀子夕方下剤。お幸伯母見舞に来り、魚、卵呉る。千草来りまた愚痴云ふ、不快。 5月2日 昨日とけふと配給のパン少々盗まる。森の子供か、不快なり。父より手紙、文淵堂500、俊三郎(※叔父)1000円用立てくれ、健持参と。文淵堂は杜甫伝をと。悠紀子弓子ともに良好らし。 5月3日 朝、健来り、金もち来る。父にハガキ速達す(杜甫二ヶ月待て、聊斎わたすと)。店より青い花の再版斡旋をと。弓子二回目の施薬きかず。富くじ又三枚。 5月4日 小雨、悠紀子また下痢。弓子は下剤きかず。 5月5日(日) 大、田口君をつれて受験に来り泊す。永福町にゆきタバコ一箱もち帰る。赤川氏、林檎もちて見舞に来る。本売りのこと云ひ明後日と。 5月6日 永井荷風を買ひ(20円!)、茶(10)買ひタバコ紙(3)買ひ、大ににしん(10)、福神漬(5)買はしめ、聊斎志異終る。杉浦より手紙、五十嵐達六郎氏戦死、天理図書館にゆかぬかと。大ら即刻入学許すと。 5月7日 大をつれて市野氏と町会に転入の予備手続す。杉浦にたのむと速達。田口君夕方鳥取へ帰る。大22:00頃帰宅。赤川氏来らず。 けふ教師の放逐令出づ。大に聊斎志異(200×420)と金尾(※文淵堂)氏への手紙托す。けふより我家に寝る。 5月8日 堀辰雄氏原稿受取りしと。山内京都にてトランク受取しも運動靴とシーツとなかりしと。母盗りし也。大、5:30頃立つ。6:10にのり松本市外に一泊と。 買物ねぎ5.00鰯10.00葡萄糖15.00漬菜3.00。赤川氏来り、佐藤春夫外35冊もちゆく400円なり。けふより子ら家に寝しめ、炊事みなわが仕事たり。 5月9日 数男昨夜帰りしと、挨拶なきも不快。こんにゃく五ケ配給(2.25)、うなぎ蒲焼(2本10.00)、竹輪(2本9.00)買ふ。弓子堅き便するやうになりしと。 5月10日 雨、買物、乾鯡(10.00)、竹輪(2本11.00)、小松菜(7.00)、葱(10.00)、鯨の配給(5.00)。杜甫やる気になる。末吉(※栄三)、芳野、小山正孝君へハガキ。 亀井昇よりハガキ。山本剛濠北にて戦死らしと。大垣来りしに、出版関係へ転職よせと云ふ。 5月11日 買物、葡萄糖(10.00)、漬物(5.00)、鰯(6疋10.00)、竹輪(2本10.00)、配給ほうれん草(0.30)。岐阜より米着く(外套と換2升、机と2升) 〒大、父、二十五日までに詩一篇とはじめて依頼あり巌松堂。父へ、巌松堂へ。 5月12日(日) 松井保治君来る。村上菊一郎は三原の工業学校教頭と成田節男また外務省と。赤川店に佐藤春夫ありしため気付きしと。健来る。寮の生活苦しと。 病院に来し青木夫妻(永福町九四に転居)と買物に出、いわし(7本10.00)、重曹(10.00)、貝(7.50)買ひ、料理して大に食はしむ。 5月13日 雨、寒し。天候不順も甚し。俊子姉、昨夜帰りしに鯖と卵三ケもち来る。葡萄糖買ひしのみにて我出でず。弓子下剤三回目。 5月14日 戦犯裁判に清瀬博士、いはゆる戦犯の意味なきを痛論す。母、貯金より400円引出し来る。市野より干魚20.00買ひしと。 高円寺にゆき赤川に飴20.00礼にもちゆく、あとの話なし。漬物千枚漬3.50、タバコ1.60、タバコ紙3.00、「子不語」4.00買ふ。依子、遠足のため1.00もちゆく。 薪配給6.90、葡萄糖10.00、竹輪2本10.00。けふ一日にて80円費す。可怕。〒陽生。夜、大垣来る。糸配給21銭。 5月15日 阿佐ヶ谷へ漬物買ひにゆく(6.40)、岡山家へゆきしに船越章と入れちがひ也。葡萄糖10.00、葱5.00、船越の話にては越南王保大退位、共和国になりしと。 父より金尾に話にゆくと。咲耶。和田先生より二十九日外務省へ来よと。歯痛し。醤油配給三円(五合)。 5月16日 夕方歯痛どめにズルファミン二錠のみて眠りしに夜は気付かざりしも朝方より悪感、富くじ石鹸二ケ当たりし模様。 吉田茂に大命降下と。この頃共産党の人気下りし模様、実行力なければ也。主食欠配いつ来るやら不明。史、依子の遠足やめさし飴買ひて与ふ(10.00)。 魚配給3.00、夜、ズルファミン中毒収まりしにより病院にゆきて泊る。悠紀子四度目の施剤なり。 5月17日 タバコ1.62配給。杉浦より管長館長に手紙出せしと。父、保田帰り挨拶よこせしと。眞田雅男。配給魚5.00、野菜55。夜、慈恵医大学生某詩をもちて来る、意味なし。杉浦、父和田先生へハガキ。 5月18日 雨、昨夜不眠。ヘボ詩人河合峰夫のためなり。午後買物、蕪4.00、魚粉13.00、豆板10.00(三枚)。小林俊文より見舞状うれし。返事かく。教科書代二人にて1.40。 夜、乾パン配給5.90。 5月19日(日) 菓子(二袋20.00)買ひて船越を訪ひ話す。帰途、岩波新書「三民主義」二冊見付けて買ふ(20.00)。午後、大垣と高円寺にゆき赤川の店発見。鰯(10.00十三匹)買ひて帰る。 隣にもとゐし岡本氏来り、見舞として米少々、乾芋呉る。のり二帖返礼とす。柏井母、卵10ケ35.00にて買ひ来る。 ホッケ配給(三片5.00)、夏服二着(一は麻、一は綿、スマトラにて6.00にてこさへし)と誠太郎叔父の遺品のモーニング売却を母に托す。 けふ隣組常会にて米の配給今後なき故、買出に証明書与ふと云ひしとて衆議紛々。父の七日に出[せ]し手紙、検閲すみて着く。福岡の眞鍋呉夫より詩一篇50.00にて六月十日までにと。 5月20日 眞鍋に諾と。「芸苑」に詩「この頃」速達。眞田雅男、大、咲耶にハガキ。田口君来る。阿佐ヶ谷にて外食出来ざりしと。餅十六ケ呉る。 三食付185円の下宿(三畳に二人、他に米一升づつ提出、これは主人用と)。漬物(白菜二百匁7.00)、蕪(4.00八本)買ふ。夕方乾麺配給(五百匁5.00?)、蛤(2.25)。 森の娘、夜歌ひしを怒鳴り、柏井へゆけば大垣、狐鼡々々と逃れしゆゑ叱る。ともに狂気せしに非ず。 5月21日 買物、魚(十五匹10)、支那語文法(2.50)、茶(8.00)。野菜配給(1)。 外務省より速達、原稿いつかと。青磁社の鎌田来り、中也のこと云はず、出版とはならざりし、迢空と達治呉る。二百円払出の書類作る。父より山内に怒り来る。 5月22日 朝より一日中の炊事し、13:00東大にゆく途中野原四郎氏に会ふ。外務省まだと。和田先生の侏儒考聞く。先生もG項か否か論議中と(※公職追放のこと)。 本年度東洋史入学生二名、印哲の次と(下より)。仁井田(※陞)博士、守屋(※美都雄)氏と挨拶。榎君。和田久徳君。末松保和先生ならん、鈴木俊氏池内邸に写すと。 帰途省線を待つ間、万世橋にゆき石田君の家探せしも不明。支那料理(12.40)食ひて新聞二(0.30)よみて帰る。依子虱わきゐると、我も也。 この日三[屋]の三児入院。大垣、夜来りしも会はず。米とメリケン粉配給(二〇円?)。 5月23日 昨日吉田内閣成立。木村繁喜へハガキ。川久保留守宅へ、昨日ききし江上以下五名モスコーにありの放送伝へにゆく(石田幹之助氏よりと)、留守。 大垣米一升と○○(不明、あけて見ず)呉れし由、返却ときめて待つ。玉葱(10)、牡蠣(10)、魚(10)を買ふ。炊事巧となる。けふ悠紀子五回目の施剤。大垣に絶交申渡す。 5月24日 鰯一七匹(10)、葡萄糖(10)、味噌ありしかどとらず、漬物百二十匁(4.20)。池沢(※茂)よりハガキ「復員」と。夜、川久保宅へゆく、岡正雄氏松本在にと。モスコーのこと知りをる模様。 兄七十二大隊とかで順徳にゐしと。船越(※章)と一寸話し帰宅。けふ陛下食料につき放送されし、ききたてまつらず。三〇〇円引出す。塵紙(2.25)、野菜(0.85)配給。 5月25日 雨、池沢へハガキ。メリケン粉配給(5.50)、烏賊(2.25)、蕪(5.00)、鯖(7)、漬物(6)、葱(二把5.00)買ふ。富くじ(三本30.00)買ふ。夕方小松京子来り、タバコと卵六ケ呉れしと。 5月26日(日) 晴る。買物、葱2.50、折紙1.50(35枚)、竹輪9(二本)。 文化新聞来り随筆二十九日午前中にと諾す。法政中学[の]水谷吉蔵校長死せしと。熊谷孝大午田にありと。鰤配給(6.00)。服部(※正己)より手紙 「(天理図書館の給料)五〇〇位にていかが、家はいま無し」と。父より金尾「聊斎志異」諾と。あとたのむと。大。川崎市溝ノ口29小松京子へ礼。 5月27日 晴、買物竹輪二本(9)、こんにゃく(3)、配給醤油五合(3)。小山正孝よりハガキ。服部、父へハガキ。弓子元気となる。タバコ(2.25)。 5月28日 杉浦へハガキ。午後買物、竹輪二本(9)、鯖四匹(10)、玉葱(5)、漬物(7.35)。赤川氏を訪ねしに佐藤春夫多く残りゐる。文化新聞はその紹介らし。配給漬菜(2.25)。 高円寺にて古野清人「高砂族の祭儀生活」買ふ。新本なれば9.50珍し。母より米五合(285)、卵一〇ケ(35)買ふ。 後日は知らず、栄養失調この頃多しと也。夕方「北京の秋」二枚半書き了ふ。 5月29日 蕪(6)、煙草巻紙(3)買ふ。9け00船越来り話す中「文化新聞」り印南寛来り原稿もちゆく。14け00外務省にゆき、和田先生を中心に打合せ会。鈴木俊、増井(※経夫)、兵頭、●、 宮谷、市古(※宙三)、龍野(※四郎)、中村治兵衛、野原四郎、板野長八の諸氏。聞けば池内先生去年三回憲兵隊に引曳られしと。六月十一日再び会合と。帰途、市古と茶のむ20.00。 山内を訪ねしに腫物出来しと。佐々木六郎不在、毎日にゆけば桐山意外にも復員、台湾にありしと。今東中野に四畳半50にて借ると。魚粉配給2.60。夜、大垣わびに来しも不解。 5月30日 晴、山内四郎よりハガキ。缶詰配給(13.50)。こんにゃく(6)買ふ。この頃昼寝盛んにす。 5月31日 朝、大垣来りしも会はず。買物干魚(10十七枚)、漬物(7)。本屋に愚本並ぶを見る。前田医院の書生氏に「元禄快挙録」三冊贈る。〒小山正孝、芳野清、千草、松崎進「東京に来りし」と。 配給ホッケ(7.50)、野菜(2)。悠紀子と喧ふ。О型(※悠紀子血液型)をいとふ。 6月1日 朝再び大垣来る、会はず。昼より家にて食ふ。鯖(10)、葱(10)、高円寺にゆき「今昔物語」(50)、「青い鳥」(5.80)、史に買ひ与ふ。けふ大垣より便あり、 夏衣二(250づつ)、モーニング(500)売れる由。夜、大垣来り、高円寺の寮へ移ると。前に来し林不二馬(※富士馬)、稲葉健吉の便わたす。ともに出版のこと也。 けふ史の後援会費五円わたす。隣組にありし齋藤武夫復員して挨拶「南支にありし」と、「村上菊一郎、三原の図書館長と」。 6月2日(日) 健来る。六日より休暇と。買物烏賊(10)、蜜柑(10八ケ)、「乾魚闇市より姿消す(マチガヒ)」。町会長、必需品購入会切符呉る。 6月3日 朝「聊斎」、午後「杜甫」書く。買物、こんにゃく(6)、ぶり(二片10)、干魚(二五片10)、漬物(7)、だしぢゃこ(10)。配給野菜(2.75)。保田、大よりハガキ。大垣来り、別れに塩呉る。 萩原さんの「蕪村(※郷愁の詩人与謝蕪村)」与ふ。けふ悠紀子第六回の施剤。夕方より雨、入浴史とす。 6月4日 時代社よりハガキ。「青い花」止めて詩集と。健来り、明日帰洛または埼玉にゆき六日と。200円渡して主食たのむ。けふ久々に米配給ありしが二キロ半(5.88)のみ、 今月より一人三合五勺と。ゆであづき(2.50)配給。タバコ目当に富くじ買ふ。夕方より雨止む。「杜甫」書く。「聊斎」明日にて巻三終へんとす。健の話にては「河野岑夫帰来」と。 6月5日 昨夜半にて「聊斎」終ふ。大より手紙、六月八日より休ゆゑ業取止めと。雨間買物、漬物(7)、葱(10)、キャベツ(11)、あじ(十片10)、ぶり(二片10)。柏井母、 岡山伯母を通じ70円の米三升入手しくれしと。 6月6日 天理図書館富永(※牧太)氏より書簡、「月給450位、間は服部(※正己)世話す。一度来り話すべし」と。健来る、食料買へざりしと。「聊斎」と手紙を托す。 池沢来り話す。鄭州にありしと。旺文社へ復職と。立野弟(※立野利男=磯花左知男:戦死)まだ帰らず、比島と。飯食ひ泊る。タバコ二十日分配給(2.25)。魚(3.00)。母バター(半ポンド100)。 6月7日 池沢7:00帰る。「杜甫」に惹かる。買物キャベツ(10)、漬物(7)、ジャコ(15)。富永氏に返事速達す。和田先生に話してのち十三、四日頃ゆくと。 買物の留守に印南寛来り、文化新聞十一号おきゆく、「北京の秋」のる。詩、九日か十日にと。依子十二指腸わるき様子、史の疥癬はおほむね全快。 6月8日 山内四郎来る。服部に速達す。依子八回目の施剤。うるめ十一枚(10)。昼ね久し振りにす。米尽き金尽きかく。 6月9日(日) 来客なし。買物(うるめ十四枚10)、あじ干(二枚20)、ふくらし粉(12)、あめ(10)、甘柿末(二ケ4)、漬物(7)、母より卵(十ケ40)、配給野菜と梅干(2.40)、計100に近し、慄然。 外務省のことに係る。野田又夫よりハガキ、五十嵐氏、満洲国の金州(錦?)にて去年六月戦病死と。肺らし(※後記★馬に蹴られし也)。保田、野田、松崎、小山、杉浦へハガキ。 6月10日 堀辰雄氏よりハガキ。メリケン粉八キロ配給(14.35五日分と)。大垣来り米若干、タバコ呉る。印南寛来り、詩わたす「麦」。夜、阿佐ヶ谷へゆき船越こせん小母と話す。 ジャム二瓶井上医師への礼にと(30)。切符のことたのむ。十二日三井新館本社五階秘書宅へと。 6月11日 外務省の会とてあはてる。12:00ゆきしに和田先生あり、G項は免れたまひしと。野原氏より聞けば橋川氏の話にて周作人銭稲孫とらはると。 あじ(10)、漬物買ひて帰れば服部よりハガキ「富永館長、月末に上京」と。あはてて阿佐谷にことはりにゆく。井上医院へ149(中封[●]124)とジャム一瓶わたす。煙管買ふ。 6月12日 牧径太郎よりハガキ、未知の人なるに知れる如く記す、不審。夕方俣野博夫来る。ジャバにありしが降伏時スマトラ、ブキティンギなりしと。処女なくなりしと。けふ昼寝す。 夜、大垣来る。悠紀子けふはじめて入浴、計りしに九[貫]100匁と。退院近くなりしはよけれど金に困る。服部に速達、富永氏を東京にて待つ旨。魚配給(5)、サッカリン(3g1)。 6月13日 晴あつし。父へ速達、2000借用申込む。大垣より金来りし由。野菜配給大根四本(3.25)。悠紀子けふ駅まで買物にゆきしと。蚊帳吊りそむ。豆板(一ケ10)。 6月14日 悠紀子、弓子、便検査せしに虫ゐずと(悠三回、弓二回)。弓子笑ひ出したり。入浴。健より50送り返し来る。大より手紙。明日東洋史談話会と。夕方山田新之輔来る。用事で上京と。 奈良は食料に事欠かずと。入浴す。杜甫四十八歳。夜、大垣来り辞職申出でしと。 6月15日 昨夜眠り不足、大垣にて売りし1000中、米三升(210)、バター(100)、ビタカルス(20)、その他引き550のみ受取る。お加代(※賀代)女史にメリケン粉一貫(160)、重曹百匁(50)たのむ。 悠、検便四回虫見付からずと、弓子はあやしと。大の学友、田口君来り、国大の保証人を頼まる。 6月16日(日) 佐藤誠よりハガキ「天津より帰りし」と。配給、魚(4.35)。富くじ一本当る(10)。麦一升35にて母わけ呉ると。夕方より雨ふる。 6月17日 雨朝に止む。亀井昇より手紙、新井平治郎帰りしと。悠紀子弓子また施剤。菓子買ひて二児に頒つ(10)。夕方富永牧太氏より電報来り、来いと。 折柄来し船越章とつれ立ち阿佐ヶ谷へゆき賀代女史に切符たのむ。 6月18日 12:00三井本社にゆき賀代女史にきけば切符明日と。引返しの途、藤森逹夫詩を訪ひしもゐず。昭南にて同居せし元三井バタビヤ支店長。買物、燐寸スリ(四枚1.00)。暑し。 悠紀子、弓子けふ家で寝る。史、疥癬の治療費50.00請求されしもまだなほらず。計400。九州の眞鍋哲夫(※呉夫)より原稿依頼の電報。 6月19日 9:30三井本社にゆき和田一夫名義の証明書貰ひ、日本橋京橋銀座の焼跡を通りて日劇ビルの東亜交通公社にて丹波市(※たんばいち:現天理市)までの切符買ふ(往復74.00)。 一旦家に引返し20:00出、東京駅の地下道にて22:40まで待つ。知らずして最先端に入りたるため坐れ、北支にゐし衛生兵出身と話し握飯もらふ。 6月20日  静岡浜松間のみ眠る、暑し。岐阜にて羊羹二本(10)買ふ。12:00京都着、父宅に入り丹波市に電報、羽田へ速達。父17:30帰り1000のみある模様。金尾にゆき話す。聊斎は駄目。500は杜甫のとなりと。 6月21日 9:00出発、11:00丹波市につき外語にゆき服部(※正己)に会ふ。笠井信夫あり。13:00富永館長に会ふ。「幹部会にてきまる故、履歴書出せ、結果は一週間後電報で」と。 赴任手当だしたくなしと。東京本部長への添書もらひ、書庫見る。清明両実録あり。矢野博士の書二十五万円で入りしと。服部の家にゆきアパートを見る。 その他に鈴木氏の借りし二階屋ありと。配給などなし。近在の農家で馬鈴薯野菜買ふと(一貫目馬鈴薯25-30)。不快。「中山管長好色なる非人なり。富永は俗小」。 怏々として22:00京都へかへる。(羽田より電話ありしと。外語長古野清人と養徳社へゆき庄野誠一に会ひしに「独逸」出すと。) 6月22日 天理へ履歴書、九州の眞鍋に詩「教訓」送る。10:30羽田を訪ね相談せしに「先づゆけ」と。昼飯馳走となる。石浜先生、本出せと。北京、今西春秋残りし。 (一昨夜市電にて動物学の梅棹君に会ひ、今西錦司、江実帰りしと聞きし) 佐藤長も帰り小野勝年も帰りしと。 15:00帰宅、夜、帰りし父にきけば1000もなしと(俊三郎叔父には会へず)。憤慨し落胆す。 6月23日(日) 父200くれ、母大みな10:00出てゆく、健のみ残る。13:00頃家を出、来合せし長岡行に乗り米原下車、浜松行にのり、元海軍将校と話す。いま引揚船に徴用と、相通ずるものあり。 大垣下車、駅前にて(二杯4)、寒天(1)、煙草(五本5)、羊羹(二本20)、茶屋の親父も十二指腸となりしと。19:30東京行に乗る。混み合ひて喧嘩、同席と話す、不眠。 6月24日 朝5:30東京着、帰れば田中三郎帰還。昼寝し、前田博士に酒贈り、薬の収支受く。万年筆買ふ(19.30)(5.00づつの分割払了承)。羽田より葉書来てゐる。行違となりし也。 夜、三郎の帰還祝、日本人の優秀性を云ふ。我と反対なれど今にかはらん。 6月25日 朝寝して起きれば昼飯。〒杉浦、俸給少きゆゑ如何にと。齋藤一夫より原稿依頼。 昼すぎ赤川店にゆけば本売れずと、我売りし十冊あり。タバコ金鵄闇市にて買ふ(11)。夜、和田賀代女史に礼として靴下もちゆく。船越と話し22:00帰る。 6月26日 赤川氏11:00帝大生二人つれ来る、同人雑誌出すとなり。ノート四冊と絵本呉る。米配給(二合五勺)。午後神田へレクラム文庫売りにゆきしに星五八にて初め160、次120、 止めて東亜海上に杉崎進君たづね茶のみ(10)別れ、本郷にゆけば50と。くさりて帰る。 6月27日 終日家居。杜甫整理す。健に「来い」と電報打つ。夜、大垣来り着物二枚托す。小松京子への礼も托す。 6月28日 終日家居。千草来る。健より電報「三〇日発つ」となり。杜甫書く。夜、山内来り、編上げとシーツともちゆく。 6月29日 羽田よりハガキ、藤枝天理を拒みしは帰らざりしがためと。前田博士退院すべしと。 6月30日(日) 朝、天理より電報来る。「即刻赴任すべし」と。和田先生をお訪ねし伺ひしに「ゆくも可」と。小高根太郎を訪ね、告げしに哲学書三冊売りて150餞別に呉る。 7月1日 朝、大来る。午後渋谷へゆき影山正治訪ね、保田の消息聞く。帰途赤川氏訪ね、全快祝に火鉢与ふこと云ひ、煙草ピース(17)買ひ(本日よりタバコ値上、ピース10、コロナ15)、 丸を訪ぬ。帰りて船越、岡山家へ挨拶す。明後日夜、和田[統]夫と三人淡路へゆくと。 7月2日 午前中、外務省書き二十枚となる。白鳥先生を訪ねしに留守。天理教東京大教会へゆきしに誰もゐず。毎日に桐山眞を訪ね、あと[借]すべしと云ひてかへれば駄目とわかる。 齋藤磯吉氏と南博士に挨拶す。 7月3日 午前中桐山君来り、平身低頭してあやまり鳥打帽与ふ。駅より健帰り、切符駄目とのことに、正平桐山君と出、外務省にゆき原稿(二十六枚)渡し、太平洋協会によりしに平野先生あらず。 ツーリストビューローにゆけば駄目。東京駅にて水産講習所嘱託として切符買ひ、疲れて帰宅。梱包二ケもちて阿佐ヶ谷駅へゆき手荷物扱ひたのみしに一ケ重過ぎ梱包し直す。 夕方桐山君夫婦連れにて来り、洋服箪笥約束す。稲垣浩邦無事かへりゐる由。 7月4日 赤川氏来り餞別に30円呉る。ひんがしの同志三人来り、影山氏よりの手紙と500呉り、家具と本一切委托ときまる。十日過ぎに取りに来る由。 午後、文化新聞来り、さきの文(三枚)の原稿料150呉れ、西太后のこと連載せよと。三枚明日までと。共に茶のみて別れ(途中で煙草15にて買ふ)、池内先生をお訪ねし、御元気なるを見、 天理へ「六日赴任」のウナ電(6)打ち、川久保孝雄氏に邂ひ挨拶し、煙草屋にて五十本(20)貰ひ、岡田志紀氏へ別れを告げ、原稿書き了ふ。 7月5日 不眠。4:00家を出、5:30発の大阪ゆきに乗る。向ひに寒川光太郎氏の弟、台湾霧社の佐塚警部の女なる歌手さわ子(※佐塚佐和子)あり、長浜へゆくと話しつつゆく。一時間延着して19:00京都着。 7月6日 天理にゆき、服部の所にゆけば五日、徳島へ帰郷せしと。奥さんと話し図書館にゆけば、館長宇治へ、新井とし女史と話せしのみにて、養徳社にて生駒氏と話し、 北京より帰りし田中治郎と会ひ、服部宅に帰り、手続群長にたのみ、管財課にゆきしにアパートも駄目と(住宅は田中治郎きまりしと)。帰洛の途、館長に会ひ、 管長の部屋にゆき群象と話し、要領を得ずして富田和一郎の子なる京大生と帰る。 7月7日(日) 朝、羽田を訪ねSchuyler「Turkistan」二冊わたし薬のこと頼み、帰宅後今井祖母に礼にゆき俊三郎叔父に会ふ。夜、岡本赳博士と話す、崇米論なり。 7月8日 戸迷ひして11:00出勤。亜細亜文化研究所との顔合せ。すみて屋探しせしも駄目。服部宅にて泊る。 7月9日 8:00富永氏と中山管長訪ねしも会へず。夕方ゆきて風呂と飯とふるまはれしが家は駄目と。服部宅にて泊る。 7月10日 8:00出勤。はじめて教祖に拝礼す。書庫を見廻りしのち布留にゆきしも家なし。午後、保田を訪ね、家たのむ。11:30帰洛。 7月11日 午前中「西太后」三枚書き、文化新聞に送る。依子にも[●]土産。午後煙草買ひに出て羽田を訪ね、薬のこときけば弟には通ぜじと。16:00帰り晩飯食ひ、 父に腹立て(食料のことにて世話出来ずと)、奈良へゆき坪井家に泊る。家、心がくと(※心掛けると)。 7月12日 坪井(※明)に紹介の名刺もらひ檪本(※いちのもと)、極楽寺なる中島(※栄次郎)の妻明子女史に会ひ、様子を聞けば未だ便りなしと。隊本部の通訳をすと。 マラリヤ入院中の便りありしが一回のみ(十九年十一月)、家のことたのみて服部に帰り、夕方富永氏を訪ね、書誌学の講義聞く。服部夫人馬鈴薯一メ目18円の五貫、 煙草7.50(十五日分)、米麦(13円にて十キロ足らず)など買ひ呉る。下駄15円、草履10円買ひ、富永氏へ飴10円。 7月13日 8:00出勤せしに大掃除。服部宅へ帰りしのち生駒藤雄に家ことはりにゆく。十五畳の大広間にして襖なく50円と。夕方、京へ帰り馬鈴薯二貫目与ふ。 7月14日(日) 京都をたち奈良へゆき前川佐美雄を訪ひしに吉村正一郎に会ふ。香橙短歌会に出席、ともに喋る。臼井喜之助、堀内民一あり。堀内は漢口にゐしと。 18:00出て谷川新之輔を訪ひしに大峰へゆきて不在。家たのみて帰れば服部帰宅しあり、22:00まで話す。 7月15日 けふより須賀文[帝]にかかりタイプ一枚のみ打つ。夕方散歩に出、うちわ買ひ、氷水のむ。夜、杜甫五枚かく。 7月16日 炎暑。けふはタイプ五枚うつ。保田を訪ぬるつもりを止む。悠紀子にハガキ。齋藤吉郎より手紙。 7月17日 炎暑。図書館に蒙疆がへりの人来る。タイプ六枚うつ。16:30の汽車にて桜井にゆき保田に畑で会ひ、家のことききしも駄目。 23:00帰ればゆき子より手紙、医療費2300円、文化新聞原稿とりに来ざりしと。金送れと。大垣国司来ざりし、桐山も来ずと。ALAS! 7月18日 タイプ次第に旨くなる。服部と杣ノ内へ家さがしにゆきしも駄目。帰れば大来り居り、レクラムの100もち来りしなり。馬鈴薯二貫わたし帰す。けふ管財部長来り、 トタンの家の堂かふにつき入れと。中島の舅、極楽寺の仲人せし人の二階など、家さがしに疲る。服部夫人の労、謝するに余あり。 7月19日 出勤すれば館長、今月は本俸の日割のみと。服部と管長の許ゆく筈なりしも行違ひとなる。22:30帰洛すれば悠紀子の衣1500に売れ、大、古本代の残り100渡す。一安心なり。 「龍宮」の齋藤へ詩[●]篇(梓哀歌)、龍善記(聊斎志異)送ると。小林俊文へ。 7月20日 1500電報為替(為替料35)悠紀子へ速達。自力で来れと。羽田を訪ひしに薬駄目と。馬鈴薯一貫与へ1100託さる。午後三條へゆき丸善、大学そろばんやへゆく、最後の返事よかりし。 チモール探しあて10瓦50、ナフタリンは多くあり5で百匁買ひし。ポターニン「西北蒙古誌」(17)、バター1/4ポンド(22)買ふ。疥癬の薬タペシリン(10)買ふ。 7月21日(日) 10:00家を出、坪井明を尋ねしに観劇と。前川を訪ね谷川新之輔を訪ふ。家さがしみな駄目。吉村正一郎来り会し、ともに話し喫茶店へゆき(荷鳳)、 20:30服部宅へ帰る。谷川は昨日服部宅へ来りし由、留守中保田に電話かけしに寺の部屋あきしと。 7月22日 午前中出勤、午後保田を訪れ、桜井九七六来迎寺、木村了慶氏の二部屋見にゆく。夜食保田父子、木村師とともにす。保田の父君(※板倉)槌三郎氏子に似て毅き人なり。22:30服部宅に帰る。 7月23日 服部夫人、昨夜より義弟中山勝治君のところに泊り、朝食炊事をなす。月給本俸のみ143.00と京都出張手当14を貰ふ。夕方谷川新之輔来る。桐山眞よりハガキ、 悠紀子洋服箪笥600と云ひ買はざりしと、赤面。電報二五ヒカヘルと打つ。 7月24日 出勤、はじめての日直勤めしのち、服部夫人に夕食せかし18:09の奈良行にのり京都行にのりかへ21:00帰洛。前川より会ひたしと。 7月25日 3:00起床、弁当もち父より100借り、徒歩にて京都駅着、5:22東京行に乗る。坐れたり。18:30東京着。帰宅。きけば桐山夫人はじめより断りしと。大垣国司、金もち来らず、外務省も未だと。 7月26日 午後荷造りし、駅へもち行かんとせしに大垣来り、500(衣物二枚)渡す。前田博士に500払ひ、弓子の分すみたり。洋服箪笥500にて引取りゆく。 夜、阿佐ヶ谷へゆきメリケン粉代払ひ米一升(70)買ひ受け来る。タバコ光15。 7月27日 下痢してだるし。午後齋藤吉郎のところへ聊斎の三篇(200×63)もちゆき、夜、赤川氏へ火鉢もちゆく。千草来りてまた不平云ふ。 7月28日(日) 齋藤吉郎来る。原稿多く集まる模様。(※青木)陽生メリケン粉買ひに来る。コーンビーフの配給あり(四人分にて24円)。本を小包にし郵便にて送らんとす。 筒井(※護郎)よりハガキ、帰還せしと、めでたし。角川書店より速達「四季」第3号のこと、杜甫を出したしと。堀辰雄氏病気と。午後赤川氏に別れにゆき麦酒のまさる。 丸宅へゆきしに留守、飴呉る。堀辰雄氏の義弟加藤俊彦を訪ひしに留守、船越と話し夕食御馳走となる。包紙39.50、組15.00にて本とノートの一部二十個に梱包す。 7月29日 朝、梱包の目方四キロ以下のもの十五個阿佐ヶ谷北通郵便局へもちゆく。本人出にては不可と云ふに書直して出す。一ケ4円、みなにて60円なり。 帰りて四キロ以上のもの梱包し直せば七ケとなる。三郎兄手伝ひてチヂキ二ケ造る。 7月30日 昨夜より朝にかけて悠紀子台所に置き忘れしハンドバックの中の千円盗まれ、赤飯にナフタリン入れあり、交番に届け出、調査に来る。8:00切符買ひのため点呼にゆき、 9:00悠紀子両児をつれて買ひ来る。隣嬢、歌うたふを叱る。隣の細君交番に呼ばれ内済にすべしと云はれしと。ガラクタ売りて320円、時計100円、姉より200円返済と別置の400円とにて900円になると。 杉並本局へゆき小包七ケ出す(28)。米軍検閲あればいつ着くや不明と。橋本氏にてリヤカー借り手荷物二ケ阿佐ヶ谷まで運ぶ(配達料8)。文化新聞の古賀君来り、西太后たのむと。 詩と(一)とのりしを置きゆく。荻窪署にゆき切符延期のことたのまんとせしに必要なしと。空室のことのみに拘はる。夜、丸三郎を訪ねて懇談、池田徹、細君に死なれしと、 [●]林にゆきしと。タバコ「コロナ」昨日あたりより自由販売となりし。三郎兄、今西春秋と中学同級と判明。 7月31日 朝梱包、11:00荻窪署の刑事二名来り、悠紀子より調書とる。丸あとより来る。「官場現形記」その他与ふ。あとにて近くの神田豊年邸に同日盗入り自転車盗みしに、 前日古城古物店来りしときき考へ変りしも、又のちにて考へれば我方はあとのこと也。訂正、手紙にかきて柏井に托す。荷物阿佐ヶ谷駅へもちゆきしに受取らず。 梱包不完全と也、憤慨して帰り、大野運送店に托す。計七ケとなる、90位となり。大垣国司手伝い呉る。大垣の絵二枚托す。18時すぎ家を出づ。角の[●]川のタバコ店のぞみ呉る。 俊子姉、尚子、母駅まで送る。三郎兄東京駅まで送り呉る。急行券ヤミにて買ひ(一枚30、三枚)、21:40のに乗る。満員にてトランク上に坐る。 8月1日 9:00京都着。荷物重く赤帽にたのみて10とらる。昼寝後めし食ひ夕方羽田を訪ふ。留守中チモール30g、ナフタリン10gとカプセルと呉れし礼にソーセージ一缶もちゆく。 羽田博士入浴に来られ、若城久治郎天理図書館にダメかと問はる。21:30辞去。 8月2日 10:00家を出、桜井にゆき保田家にゆき缶詰ソーセージお礼にす。父上と来迎寺に挨拶にゆきしに大黒(※住職夫人)出でず、荷物二ケ、本包十五ケすでにつきあり。 17:00服部留守宅にゆき夕食御馳走になり22:30帰宅。桜井も闇市すでになし。服部夫人玉葱買ひ呉れしのみ。 8月3日 雨、家居。昼寝す。留守中亀井昇と大塚幸太郎とより来し。はがき今日はじめて見る。夜、影山正治、亀井昇にハガキ。 8月4日(日) 母に叱らる。午後四人連れにて羽田を訪問、帰途、我のみウスヰ書房を訪ぬれば前川佐美雄あり。帰宅後のり瓶詰(9.51、6.04)、鯨干肉(100匁28)を買ふ。 タバコ出町にて「きんし」12円。 8月5日 5:30起床、奈良電にて天理にゆき服部夫人より配給の米(40%)と素麺(二束)と受取る。大麦50円にてある由なり。明日遊びに来よ迎へに来ると約束す。 10:00来迎寺にゆき昼食後梱包解く、本包み20ケのみ来ゐたり。健、15:00帰る。米一升二合程与ふ。保田宅へゆき茶一ケと糠と貰ふ。 夕立。富くじ買ひ、タバコ三本受く。大塚幸太郎、小高根二郎へハガキ書く。 8月6日 7:50の汽車にて丹波市にゆき富永牧太氏に挨拶、南瓜とかき餅もらひ、服部宅までに茄子二貫(26)、胡瓜一貫(13)買ひ、南瓜与へ茄子もらふこととす。 小麦一斗買ひあり(一升50)、100円渡し、子供病気とのことにて連れ来らず、留守中、悠紀子十三日までの主食配給受けし由、隣組長への挨拶もすみし様子。 保田宅へゆき電球と南瓜と釘もらふ。和田先生へハガキ。小林俊文より手紙。小林へハガキ。 8月7日 杉浦正一郎、堀辰雄、田中三郎、岡山幸、池沢茂、竹内好へハガキ書く。13:00の汽車にて図書館へゆきしに富永、中村とあり。 本借りず「八旗通志」見、服部宅へゆき麦と茄子受取り19:09の汽車に乗りて帰宅。留守中、大来り、二七五もち来し由。 8月8日 西太后(三)書く。羽田、本庄先生、坪井へハガキ。赤川徳三郎、石浜純太郎先生、三好達治、池内宏先生、小高根太郎へハガキ。13:00図書館へゆきハワースと漢文大系借る。 服部宅へゆき100円渡し小麦一斗背負ひて帰る、重し。保田来りて手紙渡す、福岡市渡辺通三丁目南風書房より十二月末までに鉄幹晶子伝250枚をと。 諾の返事出す。(けふ30円にてタバコ五十本買ふ。) 8月9日 桑原、野田、西川、小山、笹倉、松本、末吉、笠井、堀内民一に転居の挨拶。亀井昇よりハガキ、十一日朝来ると。粉挽きに小麦一斗もちゆく。三日後出来と。疲れて家居。 午後大垣国司よりハガキ、父死すと。影山正治へのハガキ宛先不完全のため回送さる。夜、お寺にて浴賜ふ。パイプ5円にて買ふ。齋藤吉郎へ「挽歌」送る。 8月10日 大垣国司へハガキ。7:50の汽車にて丹波市へゆき図書館へゆく。「満支八旗通志」見る。帰途、乾物野菜ともに売らず。服部夫人、足に腫物出来て医師に通ふ。 雑魚わけて貰ひ玉葱もちて帰る。保田宅へ夕方ゆきしも薪採りと。 8月11日(日) 中野清見、青木陽生、山内四郎、前田直典へハガキ。午前、大来り、三輪へゆき大麦五升もちゆく。亀井昇来り昼飯食ふ。帰りしあと服部正雄、荒井平治郎来る。 夕食後、保田の畑へゆく。野菜ルートと大麦挽きのことたのむ。 8月12日 白鳥先生、手塚隆義君へハガキ。小麦粉取りにゆく。13.5キロ挽きて4円なり。大麦も押すと。午すぎ汽車に乗り遅れ帰れば保田来る。野菜の補給路うべなふ。 四季三号へ「三十年」書きしも郵便局十六時にて終り。 8月13日 主食配給日。米麦併せて57円。盆の菓子配給、不味くて食へず。朝、悠紀子保田へゆきて野菜わけて貰ふ。午後京都へゆき米二升150にて売りて帰る。鰊12.00、マッチ2.00、富くじ10.00也。 8月14日 疲れて家居。夕方麦五升押して貰ひにゆく。明日来よと。三好達治氏よりハガキ。 8月15日 保田家より野菜と薪と分けて貰ふ。午後丹波市へゆき服部夫人にタバコの配給もらひ、帰れば羽田来をり、大麦四升もちゆく。300預けゆく。 8月16日 日直とて9:00出勤。服部宅に荷物着きしと伝言あり。帰宅後保田へゆき松薪一車わけて貰ひ曳きて帰る。池内先生、末吉、荒井、堀内民一よりハガキ、末吉、加賀山、荒井と十八日に来るとて留守の電打つ。 8月17日 杜甫よみ終る。悠紀子、保田の小作にゆきて唐辛子500匁わけて貰ふ。服部夫人子供連れにて2:30来る。まもなく荷物六ケ来り、解く。18:30退去、 夜、院生に挨拶す。笠井信夫よりハガキ。 8月18日(日) 朝、満員電車にて上洛、11:00頃、河野岑夫ら来る。夕食後羽田を訪ぬれば明日帝大病院へゆき清水博士に会へと。京都へ白鳥清先生よりハガキ来あり。 8月19日 朝、散髪。11:00大学病院へゆきチモールのかけ方など教はる。その後、検便せんと。帰途薬屋にて硫酸マグネシウム(6.75)、ムルチン(17.50)買ふ。16:00出発、17:30桜井着。 小高根二郎二十三日結婚とハガキ。 8月20日 服部宅へゆき光一箱もらひ12:30帰れば、健来りてパン種とりゆきしと。筒井(※護郎)待ち居り話し且つ聞く。衝陽作戦にゆきしと。坐摩神社の渡辺宮司中隊長たりしと。 藤根より葛粉作ること覚えしと。猪穽にてとり損ねしと。六尺の鯉揚子江にてとりし。350万元の金もちゐしと。面白し。いま肝臓マラリヤに罹ると。 19:00送りかへせしのち、保田に行き父君と話す。保田と散歩、キセル買ひし。 8月21日 7:50の汽車にて丹波市へゆき、タバコ配給もらひ、茄子わけてもらひ、図書館にゆきしも館長ゐず、●史一借りて館長宅へゆき将棋さし桜井住のこと了解とす。 養徳社により聞けば佐屋正雄氏かへりしと。16:47汽車にて帰り夕食後、院住と話す。小山正孝より手紙、「胡桃」に書けと。「海南島の蘇東坡」もしくは「李太白」書かんと返答。 8月22日 出勤せしも誤りと。明日の日直と代りて貰ひしに小高根太郎来る。明日の弟の結婚式のため来りしと。ともに桜井に来り、保田にゆけば山川弘至未亡人(※山川京子)と出口王仁三郎の女とあり。 小高根夕食後宇治へゆく。松本善海よりハガキ、月末ごろ上洛すと。亀井、齋藤吉郎より。 8月23日 依子けふ施剤。俊子姉より南風書房の60円同封、盗難問題音沙汰なしと。小包代120円と。池沢茂、依子の担任信太千賀子先生より書類送らる。 手塚隆義。10:00お寺の親類なる向ひの木村先生にゆき、依子診察を受く。一日横臥して書く。柏井母より悠紀子、史へハガキ、盗難のこと音沙汰なしと。 8月24日 川久保文子、竹川時雄へハガキ。小高根太郎と末吉のハガキ、いづれも検閲にて遅く来る。夜、まき割(35)と火鉢(5)と買ふ。米麦のわれの分配給とり来る。 8月25日(日) 一日杜甫書く。羽田へハガキ。夜、保田家へゆく。矢原礼三郎、荒井平治郎のハガキ。藝苑七八月号。高祖保ビルマにて戦死と。松枝茂夫「鏡花縁の話」買ふ。 8月26日 図書館へゆかんと思ひしが止め、杜甫かく。比嘉一夫、小山正孝より詩集。 8月27日 8:00富永館長を訪ねしに多用にて俸給明日と。服部帰りしとききてゆきて話す。支那語教授来りて話す。16:30帰宅。夜、保田来り、おそくまでゐて眠し。 8月28日 8:00の汽車にてゆき俸給616(税金47.46)貰ひ、島崎会計部長に家のことにて挨拶にゆきしも不在。養徳社へゆけば部長怒れると。森於菟「森鴎外」もらひて帰る。 汽車のりおくれ電車にて迂回す。羽田より大麦より他のものをと手紙。 8月29日 8:00汽車にて丹波市にゆき10:00まで島崎会計部長に会はんとせしも駄目。手紙を托し服部夫人より乾魚(10)分けてもらひ帰る。杜甫書き、明日にて終るところまで来る。 父より手紙。竹内よりハガキ。 8月30日 家居。末吉、岡山こう伯母、本庄實先生、前田直典、影山正治氏より来信。夕方鯖売りに来る。一匹24円と。 8月31日 杜甫書き了る。200字詰492枚。夜、保田へゆく。本朝現在書目に杜甫李白なきを知る。 9月1日(日) 9:00上洛、羽田宅へゆき昼飯馳走になり三合便覧、先生宅へゆきしもなし。父宅へゆき原稿わたし、20円借り、海苔瓶詰(15)、魚(10)、とろろこぶ(16円)買ふ。韓非子10円。 衣裁もちて帰る。 9月2日 登館、館長の訓示にて一日すごす、ばからし。夜、町会の常会、布施13.00分けらる。けふより二児登校。悠、衣類売る。(セビロ500、衣350)。 9月3日 登館、三十冊ほど●●す。高地大教会長ひどき奴と山崎忠君の話。ノート買へば20円。末吉、竹内、南風書房へ受取り。 9月4日 登館、雨、事なし。〒なし。夕方米五升買ふ(85×5)。 9月5日 小山正孝にハガキ。汽車のりおくれ電車にて9:30ゆく。畑の分配あり盗難芋にて大さわぎ。日和佐教会に寺島氏訪ねしも帰郷と。服部宅へゆき夕飯食ひタバコ(24.00)買ひ、 時計借り●●をして帰れば、留守中笠井信夫君二友来しと。坪井より速達、池沢のこと。 9月6日 昼、畑作りて漬菜の種子まく。帰れば笠井信夫来り、21:30まで話す。けふ東京より雑誌四種転送、中に四季再刊号あり。けふ館にて閲書録かきそむ。 9月7日 11:30文教部へ挨拶すべしとてゆく。養徳社へゆき羽田の●出すや否や問へば出すと。服部にゆき机、その他もちて帰り、夕飯後ともに保田を訪ねしに留守。19:55にて服部帰る。 末吉、明日来ると。齋藤吉郎「斑鳩」のこと、「新生」よりハガキ回答。 9月8日(日) 家居。依子施剤。「元朝秘史」を学ぶ。羽田、堀辰雄、「新生」へハガキ。 9月9日 登館すれば石浜純太郎先生来らる。藤沢桓夫より詩一篇をとの伝言。岩村忍、先月来って図書館へ就職せんとせしと。貴重書庫はじめて見、永楽大典は蘇の部、郎の部、 蔀の部なりしを知る。東●に●ありしかな。ともに中山管長を訪れしも博物館へゆきしと。笠井信夫君と坪井を訪ね、大手前の斡旋をし、前川佐美雄に会ひて帰る。 9月10日 登館、タバコきれかけて不快。帰りて闇市にて金鵄13円にて買ふ。保田を訪ひ芋蔓もらひて帰る。小高根太郎よりハガキ。 9月11日 登館、畑に葱植う。高橋君タバコの薬呉ると。池沢よりハガキ、断り来る、坪井へその旨書く。定期96円と。岩村忍「蒙古史雑考」借出す。また才人か。月見とて夜●るより餅と団子賜はる。 9月12日 登館、研究員会、年報係となる。「来て後悔なるや」と館長問ふ。小高根太郎へハガキ。「台湾文化史説」借出す。タバコ20.00買ひに闇市へ。大地書房よりの速達、東京より回送。 9月13日 雨、午後読書会。芋食ふ。時事通信社より「太平」へ詩をと。「藝苑」の稿料130円余。青木陽生、桑原武夫より便り。堀辰雄「曠野」借出す。 9月14日 朝、床の中で「僕の畑」を「太平」のため書く。雨のため約せし服部にゆけず。「胡桃」一号来る。ラウファーの「胡桃」考のこと書かんと思ふ。笠井信夫来る。睡かりしにねられず。 夜、トルストイ「セバストポリ、高架索の囚人」などよむ。 9月15日(日) 9:00起床、東京より藷と南瓜送り来る。10:00朝食。雨のため少し待ちて京都行に出しに途中ひまどり羽田家へは15:30着。小警務180円にて渡し、夕食よばれて帰る。松本より便なしと。 清水博士会ひしと。父に一寸会ひ、きけば「杜甫」十二月頃と。前金呉れずと。 衣類多くもちパン種もちて22:00すぎ帰る。戸しめのため門に立ちて苦しむ。 9月16日 草刈りにて午前中すみ、午後は大掃除、席かはる。笠井君一寸来る。富永館長、佐々木信綱博士の本買ひに明日上京と。夜、保田宅へゆく。山内四郎よりハガキ。延岡に勤めしと。 子供八月三十一日に生れしと。 9月17日 けふより富永館長居らず。午後藷掘る。赤蕪の種蒔く。高橋君藷くれ、パン種わけよと。笠井君工芸学校へ話しに行かんかと、すすむ。夕方お寺より栗と林檎と賜はる。 石浜先生へ富永仲基のことハガキで。トルストイ「イワンの馬鹿」その他。 9月18日 一日みなサボタージュ。雨夕方あがる。予はラオス辞典うつし、柳樽字せしもむだ(※不詳)。千草より悠紀子に手紙。 9月19日 三浦久雄より帰国後夫人死せしと。北平にても会はず。有能の上等兵なりし。帰れば大、来りをり、金尾氏より200円託され来る。夜、笠井君雞もちて来る。 部●長の長男死すとて弔みにゆく。 9月20日 服部と午後訪ねることを約束す。西島寿一、寿賀子夫妻挨拶に来る。桜井へ誘へどきかず、出納の加藤女史と天理高女の同窓と。服部宅にゆき将棋し帰る。 白鳥郁郎(清先生二男?)より「饗宴」へ詩を十月二十日まで。齋藤吉郎九月末か十月来ると。竹内好、ブランド(※Bland, John Otway Percy)ありやなしやと。 9月21日 けふ整理やり、畑に種子まき、午後金瓶梅よみて帰る。大垣国司より手紙、教師の方またさる、わが毒舌こはしと。夜、疥癬の薬買ひに出、 保田にゆけば岐阜県の山川弘至の葬式にゆきしと。父君と話して帰る。 中島の留守宅に入りし安田君、樟蔭女専に代るとて挨拶に来る。●八なり。 9月22日(日) 白鳥郁郎、比嘉秀樽、竹内好、杉浦にハガキ。「爐」へハガキ。夕方より汽車にて奈良にゆき孝橋「与謝野鉄幹」20.00買ひ、坪井を訪ねしに笠井君、四条畷中へ話すと。22:00ごろ帰る。 9月23日 出勤。畑を耕す。笠井君に連絡す。午後大地書房の渡辺君来り、養徳社へゆき新雑誌に十月二十日までに詩一篇をと。渡辺君と話しつつ京へゆき下総町(※父宅)にて夕飯食はしむ。 9月24日 (秋季皇霊祭)羽田を訪ねしに、けふは来ずとハガキせしと。高橋匡四郎死せしと。三合便覧借り呉る。学海七・八号もらひ一六匁づつ配給となりし砂糖紅茶のみて佐伯富「王安石」借りて帰れば全田叔母、 スミ子を連れて松本君(従兄と)と見合しゐる。昼飯後、電球30、うに10その他もちて帰り来る。「新風」八・九号来。留守中、浪中の山本君、加賀山前後して来りしと。 9月25日 雨、風邪にて発熱、欠勤。羽田のハガキけふ着く。「三合便覧」引合せしもだめ。 9月26日 午後登館、館長ら二十三日帰りしと、物云ふはず。風邪なほらず。服部正雄よりハガキ。午前中佐藤誠(天津にありし蒙古善隣協会副参事と)来りしと。山本重武にハガキ。 鏡検の結果、虫卵見えずと。服部正雄よりハガキ。 9月27日 (記事なし) 9月28日 雨、休む。三合便覧うつす。悠紀子不快、貧のためなり。 9月29日(日) 朝、雨、休む。昼寝す。時事通信社より詩の受取り。疥癬とび火、殆どよけれど苦し。笠井君よりハガキ。ツングース語辞典50円と。 9月30日 出勤。昼まで大掃除。休み中、堀内民一、寺島兄来りしと。午後、日和佐教会へゆきしにすでに帰りしと。服部を訪ね、将棋さし桜井へ連れて帰る。 大地書房の渡辺君より電報「聊斎」くれと。羽田より電話、明日来られず、土曜にと。 10月1日 出勤。畑に人参蒔く。退勤まぎは前川佐美雄の紹介にて奈良師範の新田君来り、「子供の国」に詩一篇、十日までにと。晶子のことけふより書く気となりし。 十八日に講演すべしと中村君より。六日に伊賀上野へ遠足と。夜、入浴。 10月2日 出勤。事なし。晶子書き始む。 10月3日 早朝より弓子腹痛と。疥癬かゆし。この頃だるくて耐らず。松本善海よりハガキ。九月一日入洛せしも多忙にて会はずと。夜、入浴。 10月4日 雨、登館、訓示あり、不快。日曜遠足を断る。 10月5日 晴、13:00羽田来る。館内を案内し、養徳社にゆき生駒氏に紹介せしに出版諾と。桜井に伴ひ米二升、藷一貫もちて帰らしむ。 10月6日(日) 京都へ13:00の汽車でゆき、16:00着。父母と夕食し、洋傘もちて帰る。金尾より聊斎志異とり来り、大地書房へ郵送のこと父に托す。土産にもちゆきし柿は父食へずと、老い矣。 10月7日 出勤、不快多し。帰れば某女より慰問品貰ひしと、引揚邦人援護金800円下付の手続せよと云はれしと。「子供の国」のため詩書く。 10月8日 「子供の国」へ詩送る。佐藤誠より手紙、十一月また来ると。服部の家へゆき原稿用紙300枚与へ、下駄貰ふ。 10月9日 蘇東坡を書かんと思ふ。神戸より詩の雑誌来る。中野繁雄生きてあり。 夜、東口の寺へゆき立正大学出の住職と話す。奥さん保田と同窓と。援護手続頼む。 10月10日 富永館長、殉死とは縁起悪し、題変へよと。角川書店より150、正月号に論文を、又ハイネをくれと。堀さんの指示なり。夜、保田家へゆき父君と話す。 保田帰りてのち奈良師範の教師来り、林房雄、亀井と天皇制につき座談会をと云へり。大地書房より電報。 10月11日 雨。タバコ8円に買ふ。明実録またぬき書す。「殉死」の準備ほぼ終る。角川書店より堀さんの本。中村地平より便り、杉浦に聞きし(※帰還を)と。九州の雑誌十一月十日までに詩一と。 川久保夫人より、(※川久保悌郎)新義州にゐしが信州へ帰りゐると、意外。長男なくせしと。大地書房渡辺君、九州書房へハガキかく。  石の上(※いそのかみ)ふるきふみ読み老いなんと思ふこころもつきにけるかも  朝夕に東おもへどかへらんとおもふこころのありとは云はず 10月12日 晴る。午飯用意せずゆきて途中の関東煮屋に入りしに33円と金足りず、荷物預け服部夫人に借る。金井君と話し服部帰らずして帰る。比嘉一夫、相山眞よりハガキ。「太平」の稿料131円ほど。 10月13日(日) 疲れし上下痢し一日床にあり。昼すぎ来客、名忘る。服部に就職依頼せし保田の知人。川久保夫人に手紙。堀さん角川書店へハガキ。 10月14日 下痢を昨夜よりして困る。ズルファミン服用のためか。四季九月号二冊来る(※掲載誌)。 10月15日 出勤。丹波市は石上神宮の祭とて午後休み。服部を訪ね20円返却。帰れば大地書房渡辺君よりまた電報。 10月16日 出勤。代々木書房篠原金一氏より手紙、300送り来る。今後毎月これ位送ると。書物の売行良しと。午後掃除。下痢まだ直らず。殉死書かずして寝る。 (父よりハガキ。歌二、録之   どん底の生活(※たつき)をかこつ吾子(※あこ)きけば心晴しも堪へられなくに。   まづしさを吾子の語れどたらちねの親に甲斐性なきがすべなく   聊斎八日に送りしと。十月七日は母の命日と。) 10月17日 祭日なれど日直にて出勤。「殉死」の原稿書きしも終らず。帰れば父より手紙、母の命日の詩なり。(※リンク) 10月18日 図書館開館十六周年記念日。はじめてお手振を見、本殿に上る。茶会後、昼食。13:30より「殉死」の講演。大高の図書館勤務の硲晃君来り、正倉院へ明日ゆかぬかと。 断りて別る。明日15:30パーカー来る由、居残り命ぜらる。帰りに大島師、夕食後保田に展覧会図録わたす。二十三日保田見に来ると。大よりハガキ、本二冊送りしと。 三合便覧すむ。代々木書房の小為替五六日遅れると。 10月19日 売る本の整理さされ、午後居残りて15:30頃来る筈のパーカー待ちしも来らず。服部宅へより19:07の汽車にて帰る。古野清人、昨日の講演面白かりしと。「饗宴」へ詩「大和国原」送る。 10月20日(日) 9:00まで眠り、三食せしのみ。夜、笠井君来り、府立工芸へ話決定と。 10月21日 出勤。明日より土曜まで秋季大祭にて休みと。タイプと東京への売本の梱包。服部と駅まで帰り、京都へゆく。 10月22日 京都にて泊り、9:00散髪(6.00)し、羽田を訪ね、三合便覧返却、メリケン粉一貫匁与ふ。12:00退去、家へ寄りしのち四條へゆき彙文堂にてマルコポーロ支那訳(12)と三合便覧(50)とを買ふ。 バター半斤(50)、松茸百匁(30)、疥癬薬(5)とに月給半ばなくなる。電車延着にて帰れば17:00なり。齋藤吉郎よりハガキ。大地より電報。 10月23日 13:00の汽車にて保田と登館、展覧会と書庫見す。インキ一瓶(9)買ひ、代々木書房と大地書房へ送信。 10月24日 16:27の汽車にて服部を訪ねしに留守。蒲団とりて帰る。けふ保田家より野菜貰ふ。 10月25日 子ら運動会。走らず遊戯せすせと。昼すぎ服部夫人来る。服部金借りに実家へ帰りしと。16:20帰る。堀夫人より堀さん宜しと。大和通信書けと。(※手紙にリンク) 柏井母より悠紀子に外務省より500呉れしを、前田博士への払ひに充てしと。数男ら大垣へゆきしと。 10月26日 蘇東坡書きそむ。大へハガキ。13:00丹波市へゆき寺島氏に会ふ。帰途、檪本まで歩き、中島明子氏(※栄次郎夫人)に会ふ。18916部隊三坂隊なる中島より未だ便なく、 もと同隊に在りし人よりの書によれば中島は電波探知機の隊にあり。二十年一月ルソン島マニラより撤退、六月頃よりイバ山地にて食糧難とゲリラ戦とにて部隊概ね戦死と。 柿三ケ、蜜柑一ケ賜りて帰る。山内四郎より300円。妻子八幡にありと。 10月27日(日) けふ聖林寺にて保田、亀井の講演ありとて行かんと思ひしも止む。悠紀子をつれて忍坂へゆき遅く帰る。 10月28日 出勤。京都の寺島兄氏来り会ひ、十一月九日、本見に出張ときまる。生駒氏より新雑誌に詩をと。羽田のハガキ来る。新風九月号来る。 10月29日 出勤。芋堀りしのみ。山崎忠君よりタバコ150本配給(90円)。服部家へゆき油のことわり云ふ。風邪ひきディルタイの稿料をたのみとす。19:30帰り入浴。 大より東方文化学院目録と支那文学史第二冊送り来る。羽田と石浜先生にハガキ。 10月30日 出勤。芋掘り終る。日和佐教会へ寺島氏訪ねしに会へず、兄に会ひ靴下わたして帰る。女真民族の社会構成なる話きく。研究所員なり、呆然。 10月31日 出勤。大掃除後、芋食ひ、雨にぬれて帰途、養徳社へゆき「夜半の寝覚」わたす。亀井と前川と昨日保田に倚りしと。明日生駒宅に亀井来ると。杉浦よりハガキ。 11月1日 けふより館長と山崎君と東京出張。分類やり、姉崎博士の講演聞かず。杉浦来る。三日桜井へ来ると。帰れば齋藤吉郎来りしと、保田宅へゆき伴ひ帰る。筒井よりハガキ。 大地書房より「聊斎」受取りしと速達。角川源義より「大和通信」かけと、十五日までと速達。 11月2日 日直とて齋藤を伴ひて登館、服部を呼ぶ。満洲引揚の先業某氏(山口氏)(奉天医大予科教授)来る。文部属来る。古野清人に川久保のこと云ふ。「人間」より詩十三日までにと。 「日本詩集」より十三篇を十日までにと。 11月3日(日) 静安学社のため登館、10:00石浜先生、吉永(兄)関大教授ら十名来る。中村、杉浦と御案内。史学専攻の士なし。14:00退去。 杉浦、中村二君と話し、桜井に杉浦を伴ひ21:00の汽車を断念せしむ。服部来り夕食後帰る。保田家にゆき22:00帰宅、床にて話す。いやなら止めてもよしと。 (※詩人の苦にしない蚤に悩まされて一睡もできなかった由:「果樹園」13号より) 11月4日 登館、館長ら仙台へ村岡典嗣の本買ひにゆくと。杉浦昼までゐて急行券買ひ直し管長邸へゆく。「楊貴妃とクレオパトラ」托す。雨。混血(パプアと白人)女来り、 馬来語話せしに忘れゐたり。読書会八日と。高橋重臣君の詩稿預る。 11月5日 登館、新井女史より叱らる。中村君「伊藤仁斎」と「機関銃」賜はる。有能の士なり。午後文化会第一回。京都の新聞記者に館内を見せる。「座右宝」より二十日までに詩。 江口三五岐阜にて弁護士開業と。木村繁喜、新潟県づとめと。みな東京より回送なり。保田家より野菜賜はりしと。 11月6日 雨、正倉院へ行きしこととし、九州の書房へ「死者は怒るか」送る。「座右宝」へ諾の返事。悠紀子保田家にゆき米一升借る。 11月7日 米一升もって登館、整理数十冊す。末吉よりハガキ。伊丹の阪神商業へ就職と。夜、保田家へゆき影山正治その他二人に会ひ話し、聞く。22:30帰る。 11月8日 登館、汽車にて影山氏に会ふ。正倉院への途なり。文部事務官案内し上野に叱らる。あとで向ふあやまりてすみし。庄野君にきけば中村地平の女癩病なりしとデマす、井伏らし。 南風書房より「経過いかに」と。夕食後、弓子以外嘔吐、木村先生の診療を受く。 11月9日 9:00頃家を出、「人間」に「美しい言葉」送り、電車にて京都11:30着く。今井祖母来たまふ。寺島平八郎氏を訪ね、聞けばもと文教部にゐし湖南先生の弟子、岡崎文夫の友と。 乾吉氏(※湖南子息)いま京都図書館館長。郭沫若の子娘京大にありと。共に在支四十年の高橋氏を訪ね、聖書十五冊とリュック預りて帰る。 「百花図」は預からず。二十日過ぎ寺島氏と天理へ来ると。雨となりしも羽田を訪ね電球もらふ。池内先生の令息「はじめ」氏居られ、先生の近況話さる。21:30出去。健、帰りゐたり。 11月10日(日) 昨夜ねられず、だるし。煙草とハムと買ひにゆく。11:00頃、宝国寺住職を筆頭に全田叔母、りく叔母、丹羽みさ子来り、読経後北村叔母来る。宝国寺は昨年三月十三日焼け、 三島に住まる。茨木高女に勤む田中幸臣氏の父義臣氏を識ると。美味佳肴食ひしのちバイブル負ひて帰る。ハムお寺、医師、保田家に頒つ。 影山氏より預りし300円と鯨肉と野菜と保田くれ、九州へ河豚食ひに行くや否や、藤田徳太郎の本のこと頼むと。 11月11日 バイブル八冊もち登館、午後金田一博士の講演あれど聞かず。前川佐美雄より「香橙」に詩一篇十五日までにと。 11月12日 バイブル七冊もち登館、杉浦帰来、「楽我奇帖」書く。養徳社にゆき社員中村地平を知らぬに驚く。 11月13日 欠勤。東坡書く、二十枚位。保田家へゆく。 11月14日 出勤。14:30より服部を訪ね将棋久しぶりにてす。 11月15日 出勤。午後掃除。「柳樽」えらぶ。 11月16日 出勤。末摘花の輪講す。午後西田君と奈良へゆき、別れて前川佐美雄。二十日までよしと。中谷孝雄信州にありと。西田君呼び散髪す。「ザビエル伝」(10)買ふ。 明日お寺の後嗣三周忌と香典50。 11月17日(日) 朝よりお寺にて坊ちゃんの三回忌、午後●坊の得度式。すみて子供にと三膳賜ふ。柳樽終る。蘇東坡少しかきしのみ。 11月18日 欠勤。「海南島の蘇東坡」三十五枚ほどとなり、「座右宝」への詩とともに速達す。保田にゆき安全剃刀の刃五枚(6.80)買ひて帰る。お寺よりお供物賜はる。 夜、木村繁喜、末吉、江口三五へハガキ。 11月19日 出勤。「人間」森徳三氏より詩の受取。「子供の国」より礼状。バートン(※バートン版)にて「アラビヤンナイト」読む。 11月20日 出勤。米一升もちゆきしも仙田氏欠勤。クラウスの「Anthropophyteia」(※Dr. Freidrich S. Krauss編の民族文化史雑誌)写す。 11月21日 出勤。硲晃君来り、タバコ五十本呉る。二三日中に上京と。寺島兄氏来る。聖書三千円に負けろと富永氏の話。三村啓吉君来る。京都に住むと。和田先生病気、 後半年の命といはるると。亀井昇、齋藤吉郎より〒「香橙」一号来る。 11月22日 出勤。東伏見伯来観と、羊羹もらふ。天外(※天理外語学校)支那語三年佐々木生、奈良の安田君より雑誌ことづかり来る。和田先生へお見舞。俸給750円となる(+家族手当240円)。 11月23日 (新嘗祭)終日無為。 11月24日(日) 朝、忍坂へゆく。炭一俵80円、大根20円。帰れば引揚邦人の中谷君来り、生計調査票書けと。午後登館、A(※前記Anthropophyteia)訳し、帰りしのち志野氏宅へゆき、 中谷両従兄弟と引揚邦人の店の設計に加へらる。不快不安なれど詮なし。眠れず『オレンヂ(※『日本歌人』改称)』に「冬の夜」書く。(※同人として十月創刊号に名があるものの『オレンヂ』を通じて作品掲載は無かった) 11月25日 京都の寺島氏けふ来ると伝方ありしも見えず。稀書目録二冊、日本文化二十冊もらひ、下駄三足買ひ(12.00)、前川氏へ原稿、筒井へハガキ。帰れば角川氏より「物語と語り物」来をり。 11月26日 出勤。丹波市「厚生の家」へゆき訊ぬれば引揚者の店にあらず。館長に途にて会ひ京都へ明日ゆけと。バイブル十五冊3500ときまりしと。 養徳社の北浦女より「東亜の古代文化」わけてもらひ、日和佐教会へゆきしも会へず。図書館にて「楽我奇帖」に十篇追加す(計十三篇)。 夜、志野氏を訪ね、結果報告せしに中谷両従兄弟気が変りしと怒る。引揚者二名来り、いろいろ話す。けふは不快ならず。チャブ台分けてもらひて22:00帰る。 11月27日 出勤して買入のことにて会議あり。慶長勅版本「長恨歌」なり。未定、3500円もちて京都にゆき三條につきて煙草買へば20円、朝日支局に寄りしに吉村支局長旅行中と。 寺島氏を訪ね昼食し、共に高橋悟朗氏を訪ねて金わたし「清文彙書」と「補彙」と預り、東方文化へゆけば藤村井上二氏とも帰郷中、吉川幸次郎氏に会ふ。 ネルヴェーズなら明代の本買へと。桑原武夫氏来りしと。ウスヰ(※書房)に寄りしに旅行中、臨川(※書店)へゆき清文二冊いくらで売るかと問へば四五十円づつと。 慶長勅版本未定の旨つたへ、蘇洵「嘉祐集」6円買ひ、羽田へゆき回教書目わたし20円もらひ、夕飯よばれて帰る。桜井着22:00すぎなり。 11月28日 出勤。疲れてA十四五篇よみしのみ。南部銀行へ昼飯後ゆき745円もらふ。羽田のトルコ語バイブル250円位にて喜びて受取らる。八木女史に30円わたす。 下駄の鼻緒引揚者より十二本買ふ(12円)。帰りの汽車中にて郡山中学の秋永政孝氏より挨拶さる。歴史の先生にて先日の講演聞きしと。 柳本に住む。南風書房日本青年館事業部、堀さん、角川源義氏へハガキ。みな原稿のこと也。 11月29日 出勤。笠井君来りて話す。高田高女の堀内民一氏より信。朗読用の詩、十二月十日までにと。 11月30日 大掃除。午後、服部を訪ね将棋さす。疲れし。19:09の汽車にて帰宅。 12月1日(日) 無為。雨。飴と杓子(アルミ)無償配給。炭500匁(2.60)。 12月2日 通勤。昨日一日寝て食ひしため、胃悪し。 12月3日 通勤。午後文化会。新井とし「切支丹版の話」。南風書房より電報、蘇東坡承知とならん。不二出版、[私]より歌くれと速達(二十四日出)。 12月4日 朝の汽車にのり遅れ、13:00に乗る。仙田氏に小豆二升(160)もちゆきしのみ。安田章生氏、不二出版へハガキ。 12月5日 寒し。一昨日より冬外套。けふより手套。無為。木村繁喜よりハガキ。 12月6日 通勤。藤枝晃へ紹介状書く。養徳社より萩原先生の住所たづねに来る。前川佐美雄よりハガキ。高田高女用の詩書く。虫来ず。「太平」十一月号に「僕の畑」のれるを見る。 12月7日 出勤。アメリカ人来るとてバイブルの陳列せしめらる。服部帰郷中とて午後行場なし。米人二十名ほど来り、中山管長以下接待す。(朝、大島師の先輩の某師来り、 教●に紹介たのまれ前川氏にたのむ)。帰れば川崎菅雄より速達、明日クラス会と。原田志乃女史より不二出版社の女子供雑誌に原稿をと。保田をクラス会へ誘ひにゆきしも行かずと。 12月8日(日) 7:50の下りにて大阪へゆき10:30山本治雄宅へ着く。川崎菅雄夫妻と四人にての接待、山田鷹夫(大阪地方判事)、後藤孝夫(大朝政治部)、田村二郎(阪大理科事務員)、 鎌田正美(日銀大阪支店)等、次々に来る。本庄先生来、俣野博夫おくれて来る。牛肉をふんだんに食はせし。山本は至武部隊にて定●にありしと。16:00辞去、19:00帰宅。 12月9日 寒し。9:00頃出て高田にゆき高女の堀内氏を訪ねしに授業中、「大和の夜明け」(※未確認)托し、大鉄を経て天理にゆく。西より見し大和美し。図書館につきしは13:00。 その間、地誌目録の相談すみて中村君の説通りて大目録とすべしと。14:00より茶会。帰途、大島師に挨拶す。第四日曜に座談会すべしと。大より「スマトラ民族」なしと。 12月10日 大風、寒し。欠勤。忍坂へ悠紀子ゆき、醤油四合(16)、米一升(65)、豆一升(40)買ひ来る。一日家にゐて無為、金なし。 12月11日 出勤。新井とし女史に醤油四合届く。服部帰り来る。「不二」十二月号来る。原田寿乃女史へハガキ書く。 12月12日 出勤。館内異動。西田君司書室、山崎君事務室、前川老古義堂、山崎君怨む。日葡辞典よみあはせ会。 12月13日 出勤。元、天現中学教頭某氏の初出勤。義勇隊の教官たりしと。午後読書会。笠井君来りて薄給にて大阪につとむと。諌止す。夜、保田のところへ行き話す。池沢よりハガキ。 12月14日 出勤。土曜ゆゑ服部にゆき将棋ささんと思ひしも駄目。養徳社、大和タイムスともに留守。檪本の極楽寺へゆき、中島のこと訊ねしも消息なしと。餅もらひて帰る。 奈良の安田章生より「白珠」2。 12月15日(日) マイルズ記「シャジラット・ウル・アトラク(※書誌不詳)」よむ。堀内民一より信。お幸伯母より小包。昨日来りし柏井母よりの信にては俊子姉人工流産と、可嗤。 12月16日 出勤。此間より甘藷のこと調ぶ。午後大掃除。●●●の代りに950円貰ふ。七月昇給以来の差額なり。春夫詩集「佐久の草笛」(8.00)買ふ。夜、入浴。 12月17日 曇、寒し。大根八貫(40)買ひしと。西川英夫よりハガキ。 12月18日 8:00の汽車にのり遅れ、14:00出勤。18:30より引揚者の会。木工の人たちに援護資金貸すこときまる。機関車賠償にとられ通勤に不便とならんと。慄然。「四部備要」の三蘇の部五十冊借出す。 12月19日 出勤。寒し。和田先生よりハガキ。潰瘍より癌になるかと心配されし由。大高同窓会より調査[表]。 12月20日 出勤途上、汽車一時間ほど停車。けふ仕事しまひ也。「クーリン 支那百科事彙(※書誌不詳)」借出す。不二出版社より「小泉八雲」書けと。志野氏に印鑑証明書届く。 12月21日 4:30強震。お寺の塀倒る。墓石倒る(※昭和南海地震)。東西●なりし。汽車にのりおくれ電車不通のため天理まで歩く。天気よくて散歩なり。三輪の茶屋の隣家全壊、 織田、巻向、柳本、朝和より丹波市、館長ゐず掃除少し手伝ひてすみ、俸給790円貰ひ、山口繁雄氏と話し、大和タイムズ社へゆき田中治郎編集局長にきけば正月号のための詩らし。 二十五日頃までにと。服部宅にゆきしに一家留守。それより引返すとき山口氏に再会、仮寓の撫養詰所にゆき話す。神保光太郎と同級と。16:00すぎ辞去。帰れば桜井にも全壊あり。 近くの三軒の内二軒お寺に入ると。 12月22日(日) 齋藤吉郎よりハガキ。九州旅行にてわが稿のこと知らず。忍坂にゆき子ゆき、大豆、そら豆買ひ来る(250)。大豆一升40円×5、そら豆40円。特価油二合(6×2)。客なし、無為。 12月23日 忘年会と。汽車にのり遅れ電車でゆく。車両制限にて大混雑なり。ゆけば中山管長のため夕刻から開会と。面白からず。帰らんとせしも高橋重臣の家にて昼食もらひ、 陳列館なるものを見るなどして待つ。牛肉のすき焼なり。八木、吉田等の女の子も酒のむに驚く。管長来たる中20:00まへ退去。けふ笠井君来り、大阪へ転職決定と。 12月24日 晴、悠紀子発熱。炊事をやり蘇東坡書きそむ、八枚。困窮●●の10円[據]出、可嗤。 12月25日 曇。大和タイムズの新年号の詩 大和元旦 やまの辺にうすあかりさし 松の木のこずゑあからむ とのそとににはとりはなき のどかなるはるぞ来れる よものくにみなはらからと あつまりてよろこぶとしも けさよりとたかくうたへる 午後、丹波市へもちゆき田中治郎氏にわたし、服部にゆきしも夫婦とも留守。金井寅之助と前栽にゆき散髪せしに8円!引返して長柄まで歩き汽車にのる。 [ユロ](※不詳)30円(百匁)、ハガキ20枚買物す。 12月26日 悠紀子気分よしと思ひ干柿10ケ(20)とタバコ五十本(50)とをもちて京都へゆく。父の許へゆきしに母、悠紀子と同じく風邪にて六日病臥と。大、東京より200円預り来れり。 数男大垣にて好調と。森一家柏井の四畳半にありと。金尾文淵堂病臥、父に後事を托せしと。羽田を訪ねしに散髪にゆきしと。15:00すぎまで待ち会ふ。翻訳叢書の企画なすと。 17:00ごろまた父のところにゆけば大ゐず、炊事当番。17:30父かへり大と三人にて食事。東京より持帰りし矢野仁一、桑原隲蔵両先生の本九冊と「科挙」 (宮崎市定)をもち火鉢もらひて帰途につく。 八木以遠の切符売らず。乗継ぎたり。十万円の富くじ当りし男と同車。桜井に手代用うどん食へば10円と。夫婦にて酒とさしみに355円払ふありし。 東京より転送の鎌倉文庫よりの172円と杉森久英の「進路」への詩依頼、一月二十日までと。堀内民一の教子なる岡本和子なる女子あひたしと。 12月27日 雨、悠紀子病臥。夫婦喧嘩す。同志にはあらず詮なし。三度炊事す。いとこんにゃく10円(60匁)、かずの子六ケ(2.02)。悠紀子わが心配はインフレならんと云ふも当然か。 後世の史料に物価書きつづく日記も誤解あらんか。 12月28日 晴、風吹く。炊事相変らず。保田家にゆき一升瓶一本借る。大豆二升と引替への醤油粗悪ゆゑ農業会へゆき志野明氏にゆき、ともに役場へゆく。後にて18(規格20)の濃度と吏員来りて云ふ。 買物、昆布佃煮(14)、竹輪二本(20)、キャラメル一箱(10)。お寺より餅賜はる。杉森へ承諾のハガキ。岡本嬢に電話せしも不在。 12月29日(日) 曇、不二出版社へハガキ。172円の為替とり、お寺へ餅のお礼に飴15円。買物、こんにゃく三枚(10)、のり佃煮200匁(26)、はし十(3)、ポチ袋10枚(2)、配給もち米三升三合(18.02)、 たばこ正月特配(2.45)、つき屋にききしにもはや遅しと。餅なしの正月もよし。醤油一升とりかへてもち来る。志野明氏見舞とて来る。パンにとメリケン粉一貫300匁もちゆく。 四日の二時頃来よと。柿一棹(10)、もち粉精白代(50)、あめ(5.00)。炊事と一緒にて忙しかりし。夜、お寺へ歳暮のつもりにて100円と下駄一足もちゆく。 12月30日 悠紀子けふも悪し。保田へ餅のこと頼みにゆき明日舂けときき、帰りに障子紙十枚買ひ(10)、木村医院へ若先生の往診たのみ、帰りて買物に出、鯨肉100匁(35)、こんにゃく三枚(10)、 干柿一串(12)、酒五合配給(18)、菓子と昆布(2)。昼食後、保田家へまたゆき木村五平薬局で頓服買ひ(10)、木村医院へは明朝の診察たのみ、炊事し、障子張る。障子紙追加五枚(5)。 夜、服部来り、ディルタイの原書保田へ借りにゆくと。勝手なる男なり。 12月31日 朝、炊事後悠紀子木村先生へつれゆきしも異状みとめず注射二本と薬と賜はる。子らに柿買ひ保田へゆけば餅170ケすでに出来あり。子らにキャラメル二箱与へ保田と話して帰る。 服部天理外語の英語教師にわれゆかぬかと云ひをりし由、可嗤。市にて麩(12)、椎茸10匁(20)買ひ、百合根90匁(16.20)買ひ正月の用意ととのふ。味噌(2.15)と酢(2.60)の配給あり。 午食に餅食ひ、明日の雑煮の用意し、夜、和田先生へ「台湾島史」書きたしと返事申上ぐ。けふ「四季」来る。「三十年」のりをり。夕方より雨。 【昭和22年】  年があらたまって昭和22年、外地からの引揚げも抑留者以外は概ね終了し、フィリピンから帰ってこない中島栄次郎の戦死を確信すると(正式な広報は年末に届くのですが)、 田中克己はじめ旧コギト同人たちは早速遺稿集の出版に動き出します。中島栄次郎は天理外国語専門学校の教授でしたから、天理教関係の出版社である養徳社から出されるべきでしたが、 この時は結局実現を見ませんでした。かたや山川京子による夫君、山川弘至の遺稿詩集『やまかは』はこの春にも届けられるといふ迅速ぶりですが、 中島栄次郎の業績は、京都大学での学友でもあった野田又男氏の宿願として半世紀を隔てて1993年に無事『中島栄次郎著作選』として編集・刊行されることになりました。  またコギト同人関係では、天理図書館に勤める彼に、中山正善管長が母校の後輩でもある保田與重郎との面会斡旋を求め、 「会ひたいなら向ふからくればいいのに」と云はれて説得に苦労するさま、しびれをきらした管長が直接電話し、 さうまでして面会した彼にすっかり感服してしまふといふ不思議な一件にも触れられてゐます。保田與重郎は他にも進駐軍に戦犯容疑で呼び出された際、 羽織袴の正装で現れて、羽織紐で机を鷹揚にぽんぽん叩きながら「ノーノー」と応へる、 その人物が好感をもって受け取られ、「大和の貴族」として遇されたといふエピソードが有名ですが、詩人も頻繁に出入りした保田家ではもっぱら相対したのは父君や弟であり、 たまに話し込めばわざわざ「久々に與重郎先生と長く話す」と書き記される、それは嫌味でなく「炫火」を共に編集した同級生だった彼のその後の成長に圧倒され、 照れを隠してゐるのだと私には思はれます。  件の“田園の憂鬱”は、間借したお寺から追ひ出され、使はれなくなった隔離病舎に一時引っ越さざるを得なくなった春にはピークに達したかと思はれ、 日記の中では万事小心翼々たる館長が呼捨てにされるやうになり、当然それは挙措にも現れるのでせう、館長からは「仕事せず、勉強のみす、服装ルーズ」との注意を受け、 扱ひ辛い部下であるさまが日記からもよく感じられるやうになります。  ことにも同僚の後輩女史たちと行動をともにすることが多くなり、彼女たちの雑談相手・相談相手になってゐるうち、扱ひ辛い部下を通り越し、 私生活において起こるべくして起こるのは夫婦喧嘩であります。家計が苦しいのに珊瑚の帯締なんてどうやって入手したんでせう、 一緒に欠勤すればどこかへ旅行にでもいったかと噂されるやうになれば、まあ弁解の余地はない訳で、そのうちの一人が退職して天理から去るにあたっては、 他人が読んでも分からぬやう漢詩や符牒を使ってまでして親愛の情を日記に書き残すほどの仲(?)になってしまひます。 当時、影山正治の雑誌「不二」の編集部とやりとりが記されてるのですが、読んでゆくうちに何だか“をかしな記述”が混ざってきて、 それはつまり彼女のファーストネームを指す符牒だった訳ですが、 こんなことが心労ともなり、悠紀子夫人が年末に流産してしまった一因となったのであれば、まことに罪深い所業でもありました。 直後記された「悠紀子流産怏りしか」(12/3)の「怏り」はなんと訓むのでありませうか。  そのむかし田中先生宅に通ってゐた頃にこの日記を読んでゐれば!――とはいへ「果樹園」に連載された小説「陳夫人」を読んでロマンスの真偽を問ひ質すこともしなかったやうな朴念仁の私ですから、 おそらく読みすごしただらうとは思ひますが、ここでは田中先生が世間的な人情をとりもどして下さった証拠として、同じくこの春、 肥下恒夫との三年にわたる絶交が詩人の反省によって復され、久闊を叙するに至ったことを合せ記しておければと思ひます。  とまれ今回、天理図書館時代の解説を書くにあたり、芹沢光治良の「神の微笑」を読み、天理教なる宗教について稍しばかりの知識を得たのですが、 日記によると女性は信者でないと関係施設に就職できなかったやうです。つまりそれまで教師として男子中学生しか相手にしてこなかった皇国史観の堅物詩人が、 新興宗教の信者の同僚、知識欲に富んだ純朴な地方の娘達を相手に憂さを晴らすべく自由に話すことで何を学んだかといへば、 良家の子女に対して教鞭を執ることとなる教師生活に役立つ自信を、テクニックとともに身に着けることになったのではないか、といふのが私の推察です。  詩人の姿勢の“軟化”が文学におよぼした影響は、聊斎志異やハイネの初期抒情詩といった題材選択に端的に表れてゐると思ひますが、 児童文学の方向にはいざなはれることはなかったらしく、竹中郁とも引き続きよくありませんが、竹中郁と一緒に詩誌『詩人』を京都から発信した長江道太郎と接触があったのには意外でした。この時期、 かつてのライバルだった伊東静雄は自選詩集『反響』の編集をすすめてをり、戦後に到達した平明・明澄なる詩境の開陳を遂げてゐます。田中克己の戦後詩の結実も、 この都落ち関西暮らしの十年間の間に、戦争の影を色濃く落とすものとして書かれ、後年の第四詩集『悲歌』に収められることになります。  哀歌 あの曲り角をまがると おまへの家が見えて来る 小川のよこの木々にかこまれた家だ もうそこにはゐないのに おまへが写真でのやうに 今日もしづかにそこで笑つてゐるやうに思ふ 泣いてゐる写真か おこつてゐる写真 死ぬためにはそれらをのこすべきだ 僕はおまへのことを考へると だまされたあとのやうにくやしくなる。 昭和22年 1月1日 すまし雑煮を炊き宮城、神宮、京、東京に挨拶せしめてのち子ら学校にゆく。我ひるね、東京より皮ジャンパー着く。筒井より明日来ると電報。昼間時々雨、事なし。 「大和タイムズ」見しに、詩のりをれど(※未確認)カナ遣ひ改む。 1月2日 曇、朝、木村先生にゆかんと云ひしにゆき子きかず、お寺より子供に10円づつお年玉賜はる。10:30筒井来り衣類呉る。大阪市役所につとめ1200円余貰ふと。 三木氏来りしに住宅係とて会ひ知らぬ顔せしと。東京より小包来り、座右宝その他の雑誌いれあり、つまらず。羽田よりハガキ。養徳社の双書にブランド入ると。 小林俊文より手紙「死かマルクスか」と。三沢師、塩山、中野氏、東京へ帰りゐると。筒井送りにゆきタバコ手捲き20本(28)、菓子(もなか一ケ10、他二ケ10)。 小林、西川、吉野弓亮(進駐軍の嘱託を仙台にてやりゐしが東京にかへりしと)へ返事す。川崎へ同窓会の返事たのむ。 1月3日 年始にゆかんとする中、正午となり悠紀子を促して木村先生にゆかしむれば病臥と。志野氏に5千円貸出しの印押す。会計係と記入しあり。保田にゆき仁徳御陵の室中写真見る。 副葬品の出しものいまボストン博物館にありと初耳。〒九州詩人。 1月4日 けふの昼より悠紀子に炊事やらしむ。久し振りの快晴、蜜柑(20)食ひゐる中、富永館長年末賞与375(俸給半月分)もち来る。昼食時、大、来り金尾より500円ことづかり来る。 ともに鳥彌神社(※等彌神社)に詣り、牛肉すき焼す(肉100匁55、水菜100匁10、昆布佃煮100匁10、こんにゃく10)、やみ市にて菓子二人前20、蜜柑300匁30。柳田国男与ふ。 母もややよろしと。十日転居と。健の東京よりもち来りし周藤吉之と「蒙古及蒙古人」の二冊。 1月5日(日) 雨、悠紀子よろしきらし。一日臥床して無為。午後増野●則来る。蜜柑、餅、菓子食はしむ。 1月6日 快晴、暖し。東坡よみしのみ。夜、電気故障を停電と誤りて無為。 1月7日 曇、時々雨。坊ちゃん電気なほし呉る。パン食ふのみ。 1月8日 曇、寒し。志野夫人来る。東坡書く。齋藤吉郎へ問合せ。午後保田にゆき芋貰ふ。汽車三本となる。朝7:51のみ。 1月9日 日直とて出勤。米軍よりライフ、エスクワイヤー等来あり。帰りの汽車17:23となりしに困る。安田章生より歌集、堀内民一より賀状。 1月10日 晴、朝の中、悠紀子、忍坂の表野へ買出しにゆく。炭一貫目25、里芋一貫目25、米五升250。われ炊事●守す(キャラメル10)。四季の原稿料来る(129)。 タバコ買ふ(二〇本24)。午後東坡書く。 1月11日 雨、日直出勤。「子供の国」より稿料100。奈良の菊岡義政なる詩人よりハガキ。16:00退出。服部にゆく、中島宅へゆかざりしと。比島の残留千名足らずとなりしと、絶望か。 帰れば杉浦より手紙、この間の地震にて戸外に出しと。亀井昇、安田章生よりハガキ。けふの買物、マッチ3.5。悠紀子闇市にて甘藷買ふ。1メ目35と。 1月12日(日) よべ不眠。8:30より志野氏で会と。ゆき子ゆかしめしに事あかず、11:00われゆけば庶民金庫より人来る。課長に300円使ひしため願切なり。 いま一人入って35000はよけれど引揚証明書必要なりと。午後引揚者の会あるもゆかず。昼寝す。東坡書く。杉浦、新田左武郎、池沢茂へハガキ。進路へ「幸運児」書く。 1月13日 汽車にのり遅れ電車でゆく。午後早引し二階堂村役場へゆき引揚証明書再下付の件ほぼ判明。服部と将棋して帰り、志野氏に話し県庁出頭の件、中谷氏にたのむこととし、即預く。 天理大学となり古野清人総長になるつもりと、呵々。 1月14日 出勤。寒し。アントロポフィテイヤ(※前註「Anthropophyteia」)一冊なくなる。我不知道なれどいやなり。退館後養徳社にゆき庄野[生物]君と話せば三和君ここへ就職の話ありと。 古本屋へゆけば管長あり「春日神社興福寺」呉る。 1月15日 出勤。関書録かきつづく。「宋史通俗演義」借る。午後大掃除。すみて管長邸にゆく。柳沢保承伯来り、知事候補と。森岡二郎その他あり。 (※中山管長)われをヌルハチと呼び保田に会ひたがる。大和文学再刊の編輯同人と。保田、前川となり。三輪政会長が画策と。末吉より手紙。十二日来るつもりなりしと。 夜、田村春雄のゆめ見る。 1月16日 ゆきの汽車にて中谷君に会へば引揚証明書再下付中々むつかしと。丹波市の引揚者寮と来迎寺ととりかへせぬかと。可嗤。帰りに熊谷古書店へゆき●印のこと訊ぬ。 村田治郎「東洋の建築」買ふ(4.50)。帰りに志野氏にゆき印と天津在住証明書とを托す。 1月17日 出勤。午後読書会。すみて歌ガルタせんと。ことはりて変なりし。 1月18日 出勤。養徳社より人来りて伊東静雄のところ聞く。服部に寄りしにまだ帰らず(天外(※天理外語)の生徒、詩呉れと)。角川より堀さんの「風たちぬ」呉る。 堀内民一、末吉、不二出版より婦人雑誌●めと。小泉八雲急がすとよしと。前川より『オレンヂ』。 1月19日(日) 晴、午前中眠くて耐えず。悠紀子忍坂へゆき炭三メ目(25×3)買ひ来る。午後、岡本和子嬢来る。保田にゆき中山邸へ誘ふ。二月に行かんと。 1月20日 晴、昼まへ大高の神田力氏と硲君と来る。管長のところへゆくと。大高の名簿見る。本荘健男未帰還なり。帰りの汽車四十五分おくる。影山より不二、保田のことのす。 大垣よりハガキ、十二月に発狂せしと自ら記す。 1月21日 出勤。父死せし木村君、けふより出勤。俸給830とボーナス750ともらふ。小幡君と歩き靴直し115、茶7.50(百匁)、うどん10(二杯)、日本書紀古事記(岩波文庫)と「東大寺」とにて45。 小幡君うどんと計●おごり呉る。 1月22日 春画見にゆくこと取止めと。寒し。山崎君出勤。妻君重態とて出勤わからず。お寺演芸大会して宗教●の基金募集す。けふ旧正月也。 1月23日 出勤。この頃、八木、吉田両女史にリード教ふ。帰途中村君に寄り「覚後禅」借る。 1月24日 よべ雪降る。出勤。怠けて殆ど何もせず。(汽車にて東京に教組のスト代表としてゆく志野氏に会ふ)。杉森君よりハガキ。詩は二三月号にす。歴史物を一月末までにと。 「午前」来る。新選詩人叢書に「蘇東坡」となり居る。 1月25日 快晴、何もせず。午後歌●ひゐしに掃除命じらる。14:30服部にゆき将棋さす。留守中岡本女史来りし由。 1月26日(日) 雨、終日褥にあり。無事。 1月27日 寒し。欠勤。東坡一寸書く。 1月28日 出勤。寒し。夜、岡本女史来り、詩置きゆく。 1月29日 出勤。寒し。笠井信夫君退職の挨拶に来り、ともに古野氏に会ふ。月給一倍半となると。 1月30日 出勤。整理この二書大分やらさる。富永氏「大和文学」のことで相談す。一向はっきりせず。帰れば「子供の国」来をる。前に一度送りし由。 1月31日 大掃除。すみて宋元明本の講義館長より、次で図書館紀要のこと。小心翼々たり矣。 大和タイムズ社へゆき田中治郎に会ひしも忙しとて要領を得ず。服部にゆきしに留守。電車にのりて帰る。買出しの取締り厳し。昨日よりのゼネストと関係あるか。帰りて久し振りに入浴。 杉浦よりハガキ。五六日までに原稿欲しと。父より五十一番地に転居と。 2月1日 出勤。(マクアーサー指令にてゼネスト禁じられ汽車すきたり) 館長より保田に三日来丹いかにと管長云ひしと。昼食後高橋君につれられて瀧本の家へゆく。 舅姑(舅は元県令議員足達氏)にもてなされ、雉子もらひて帰る。丹波市より約一時間の行程。夜、保田にゆきしに保田、夫人の家(河内太田)へゆきて不在。 父君財産税の申告書かきゐる。しばらく話して帰る。齋藤吉郎よりハガキ。●鳩出ずと当然のこと也。大より東京着と。夜、あれこれ考へて眠りにくかりし。 2月2日(日) 寒し。保田よりの電話待ちゐしに来らず。15:00掛くればまだ帰らずと。管長の方へは断り云ふ。 2月3日 寒し。欠勤。東坡書かんと也。 2月4日 上高家の栢木君来る。保田の弟子にてもと橿原神宮につとむ。風強く仮病ほんものとなる。 2月5日 風寒し。欠勤三日目。保田まだ帰らず。天理へ電話かからず。大垣より手紙、発狂入院中のこと詩にす東坡あまり進まず。 2月6日 晴、久し振りに出勤。硲君一日かに来りしと。安田章生の使、批評くれるかくれぬかとうるさし。帰途養徳社による。三村啓吉つとめゐる由。大和文学のことも何だかいやなり。 帰れば父よりハガキ。金尾種次郎氏一月二十八日逝去と。(※書店の残務を)あと父やるとなり。保田帰りしと。 2月7日 晴、出勤の途、保田に寄りしに未だ起きず。ゆきて本整理やり、明日京都出張を命じらる。八木、吉田、二女史らに好かる。午後読書会。 中村君の「鶴の涙せる橋」と吉田女史の謝冰心朗読。三村君来りて挨拶す。いまの所翻訳の許可願中にて東洋叢書未定。「玄悲」のことやりをると。 帰途服部に寄り将棋さす。天理大学の企劃発表さる。付属図書館となる由。夜、保田へゆき父君と話す。志野氏復員軍人に叱られしと。保田十日か十二日天理へ来ると。 2月8日 京都出張。7:50発丹波市-平端-三條、東方文化(※京大)へつきしは十一時。吉川幸次郎氏に会ひ、井上以智為氏に会ひ、外山軍治、 藤枝晃と話し「橋●奴」もらひフ●クス「満文書籟聯合目録」借り、森[廉]三と話し、三村啓吉と百万遍にて別れ、一度父宅によりしに●雄に会ひ衣類盗まれしと。 羽田へゆきて話し、父宅に帰りて夕食。父帰り金尾の話きけば●なし。夜不眠。 2月9日(日) 9:00出発、彙文堂にゆき「清文啓蒙」20、「清語摘抄」10、「日海語集成」1.00買ひ、三條より上京。途中切符西大寺にて買ひ、つぎ八木にて降りしに買つぎ出来ず。 八木の書房にゆきてたのみ14:30帰宅、昼食す。天理にては十日午前中に保田来れと管長自ら電話にて云ひしと。保田家にゆき父君と話し夕食。けふより桜井のヤミ市消え失す。主食副食の価格統制のため也。 夜、志野氏にゆき話す。資金借れしと。東京より回送の文芸家名簿の問合、大地書房より聊斎返送すと。宮崎の文化広場より原稿料20(-1.80)。大毎より写真くれ。 子供の国より詩十日までにと。 2月10日 保田を誘ひにゆき切符なしにて歩いてゆく。富永館長に紹介。金井君に保井文庫の案内さし、10:00管長邸にゆく。生駒藤雄も来る。昼飯と酒のもてなしにて管長機嫌よかりし。揮毫す。 石の上ふるきふみどもよみゐしがわれが三十路はすぎにけらしも 石の上ふるきみちをばつたへつつ子らうまごらの代をし待たなむ 16:00辞去。養徳社に寄りて帰る。東京より雑誌類回送、「人間」「進路」「文化広場」「次原(※次元)」「海郷」「裸木」林房雄より「香妃の妹」亀井よりハガキ。茅野より手紙。 19:00より志野氏にゆき、引揚者の会、木工組合だめとなる。 2月11日 紀元節。学校にて式許可さる。保田にゆき父君に5000円の費途きく。封鎖と交換すれば二割の利息と。保田と話して帰り、午後岡本和子女史よぶ。雪もよひなり。 2月12日 出勤。管長、保田に感心せし様子、書目作れと。服部宅へゆき書く。図書館の青年組三月末総辞職と。「中国文化」より原稿依頼。 2月13日 出勤。事なし。帰りに養徳社による。子供の国へ「奈良より」送る。 2月14日 昨日けふと館長をらず。午後よりみぞれとなる。 2月15日 掃除日、10:30すむ。硲晃より電話。●●うけに上京と。養徳社へより会ふ。けふより開通の丹波市桜井間バスにのる(3.00)。中島明子へ。 2月16日(日) 朝ゆき子岡本家へゆき米三升借る。和子女史来る。忍坂にて芋40円(メ730匁)、大根三貫(15円)買ひ来る。われ無為。 2月17日 出勤。不快。 2月18日 出勤。無為。夕方雪降る。朝、汽車にて奈良へゆく保田父君に会ひし。 2月19日 朝、志野明に会ふ。御機嫌わるし。けふも夕方雪降る。 2月20日 出勤。夕方より雪となる。 2月21日 出勤。越冬資金二回目に750円貰ふ。木村繁喜、杉森久英、香川児童文化研究会よりハガキ。 2月22日 朝より作業ささる。養徳社にゆきしに「玄想(※雑誌)」まだ出来あがらず。服部にゆきしに帰郷と。バスにて帰ればハガキ多く来る。爐書房、硲晃、杉森、稲垣足穂。 今月月給税金13円と減る。 2月23日(日) 岡本和子来るといひて来ず。暖し。久しぶりにて入浴、吉田光邦へ華北吟二首書く。東坡一八〇(三分一也)枚。 2月24日 晴、漸く春らし。午後管長来り、タバコ一箱呉る。[今]日叔母より三月二日忠蔵叔父の一周忌との案内状来る。 2月25日 出勤。昨日けふと八木嬢の退職とめしもきかず?帰途日和佐教会へゆく。夜、志野宅にて五千円のこと。 2月26日 出勤。二日睡眠不足のため眠し。●上にて遊ぶ。午後富永氏のエンサイクロペジアの話つまらず。吉田嬢と話しながら帰る。群中の秋永氏(※秋永政孝)追放さるとて悲観す。 保田の先輩にして国史の教師なり。翼壮団長(※翼賛壮年団)のためと。夜、岡本嬢来る。 2月27日 欠勤。「進路」より詩の稿料300(-42)来る。大より国学院学部にゆくと。保田へゆき管長への本預る。大島師に会ひしも話さず。「進路」へ「芋の話」十四枚送る。 夜、志野氏にて五千円の話終る。 2月28日 出勤。駅にて井上嬢つれし吉田女史待ちゐる。三月十五日に来よといひやる。谷川新之輔来る。神保芳賀子供生れしと。明日よりの竹柏園叢書の講習すみ、谷川金井二君と帰る。 秋永氏に会ひ景行御陵のこと話す。 けふ女高師の生徒より礼状来る。一昨日案内せしを喜びし也。 3月1日 朝から何もせず午後吉田嬢と共に出、服部にゆき中村孝志兄弟と話し、台湾のこと聞く。「二十五絃」くれし松村教授東京にありと。楊雲萍参議となりしと。 日本語使用禁止に困りと女学生ストに「海行かば」唄ひしと。抜刷もらひて帰る。東印度会社「バタビヤ城日誌」の原本写をもち「アダト辞典」の稿大部分もつ。天理東洋学会の好き相棒なり。 藤枝より古本買はぬかと〒。「大和の芭蕉」不二に書く。400×11(※未確認)。 3月2日(日) 8:00電車にて大坂へゆき鶴橋-天王寺-阪和浅香山。全田に着きしは10:30。野田又男も来ず、次女の約婚の京大生と河村判事(今中、大高、京大)、大高生一名、 堺市役所の某氏と敦子の婿渡とのみ。法事すみて筒井来る。ともに出て上野芸の田村にゆけば進駐軍にもとの家とられ小さき家にうつり住む。安否知らざりゆゑうれし。 中支の海岸にありしと。出て野上弘を久米田に訪ね、夕飯馳走になり筒井と駅にて別れ乗かへして帰れば23:00なりし。末吉よりハガキ。藤枝春義も教師と。 3月3日 出勤。満文書目タイプにて打つ。八木嬢に大和資料をやらすこととす。塩一升配給(40)。大よりハガキ。東京にて内職さがせと。 3月4日 出勤。けふも満文書目打つ。八木氏やはり退職と。生駒藤雄ら「大和文学」の相談に来る。「東亜の衣と食」17.00買ふ。面白し。 3月5日 出勤。けふにて満文書目のタイプすむ。午後畑をやることとなりむくれる。八木吉田二嬢と散歩。夕食にはつ食べ吐瀉下痢。 3月6日 欠勤。胃臭し。雨、午後保田へゆき生駒、瀧井の二氏と大和文学の話。十一日前に女児生れしと。夜、岡本女史、芝召しつれて来り23:00頃までゐる。 3月7日 出勤。けふより漢籍の貴重書やらさる。西太后写しの「西香訳語」あり。藤枝へマルクス主義の本の断り出す。よべ不眠のため元気なし。高橋君より五万分一「奈良・桜井」貰ふ。 筒井、吉田光邦よりハガキ。 3月8日 出勤。貴重書一冊見しのみ。午後吉田君と二時間半明代小説よみ合せす。米人二名来る。管長も来る。管長夫人に久し振りに会ふ。 八木嬢退職の理由は増野君より仙田氏を介して求婚され断りしためと可笑。文化新聞より前の稿料300。筒井へハガキ。 3月9日(日) 午前中臥床、午後末吉来る。岡本姉妹来会す。安形戦死と。宮井佐久治、帝塚山に闇市たてしと。川西奎之祐新婚せしと。教師として中々巧者らし。19:00頃帰る。 お寺より食膳賜る。けふ150円一日に費ひし。 3月10日 下痢、欠勤。寒し。杉森久英より原稿受取、三月一日につきしと。 3月11日 出勤。何もせず。タバコ15円となりまだ上ると。菊芋の根十ケ入手。「午前」来る、いやらし。昨日けふと停電。志野組合より50円配給と。 3月12日 曇。八木嬢休む。帰途養徳社にゆき「玄想」創刊号とる。けふ九月十四日まで六ヶ月間の定期買ふ(120.00)。三割以上の値上なり。 3月13日 晴、八木嬢縁戚の不幸と、山崎忠君夫人死すと。服部正雄よりハガキ。七理ウラジオにありと。昼、笠井君来る。 3月14日 曇、暖し。午後読書会つまらず時間の無駄づかひ多き図書館なり。服部にゆき将棋二番さし負く。 3月15日 出勤。八木君来る。大掃除後吉田君と三人にて話す。橋本給仕に英語教へ吉田君と今古奇観よみともに帰る。けふ養徳社より稿料もらふ(税46円引254円)。煙草17円となる。 「愛知歌人」と「不二」二月号。「食後の唄」。 3月16日(日) 「子供の国」と稿料50来る。岡本嬢来る。引揚者の配給としてふる●と盆と。保田へ午後ゆきしに風邪。物価ますます高し。角川書店と羽田へハガキ書く。 3月17日 出勤前に大和農園へ保田の為、南瓜とまくわの種買ひにゆく。登館せしに館長機嫌わるし。レエブの書目写し打つ。八木吉田君と話し、帰途養徳社へ寄りしに三村君あり。 東京へゆくと。汽車に駆けゆき保田宅へ寄り種子わたす。稲垣足穂より礼状。 3月18日 出勤。貴重書三部やらされし。吉田八木二氏と話す。養徳社より富本憲吉氏のことと堀、神西両氏にと「大和文学」のこと電話。昨夜京都(※父宅)より電話ありしと。 鈴木朝英、小山正孝、前田直典へ本返せと。 3月19日 汽車におくれ電車でゆく。三村その他養徳社の連中に会ひ寄りゆきて堀さん神西さんへの手紙書く。けふ館長会議にて来ず。八木吉田二氏と話す。サッカリン2.5g分けてもらふ(65.00)。 荒井平次郎よりハガキ。 3月20日 出勤。館長二十四日より二十九日までの休みと恩きせがましく云ふ。下手な男なり。午後文化会に出ず。すみて碁、荒川氏と四番打つ。井目で三番勝つ。明日吉田八木氏来ると。夕方雨。 3月21日 (春季皇霊祭)9:00吉田八木二氏来る。雨、午後になりて晴る。三人にて家を出、われは京都へ。父の家へゆけば健、けふ岡山へゆきそれより上京と。就職農林本省または三重県と。 鞄売ることたのむ。金尾は駄目と。羽田の家へゆく、外山の代りに講師となり西域史講ずと。21:00頃まで話す。講和条約後出来る中国研究所へ入れん、三田村●雄考慮すと。父の家に泊る。 3月22日 朝、東方文化へゆけば藤村家へ朝飯食ひに、まもなく帰りて[輪]読。マルクス主義の本は石田英一郎の山本某店へ売れしと。平岡君より「支那学」の原稿のこと。吉川幸次郎氏来らず。 井上女史と一寸話し、藤村幼稚園ゆきの留守に帰る。 三條にてヤミ煙草きけばきんし35、コロナ40バカらし。京阪にのり天理に着きしは12:30。図書館にゆけばみなゐず、館長怒りゐしと。(途中電車で長女に会ふ女高師理科受けしと)  吉田女史の詰所にゆきしにゐず、養徳社瀧井氏、吉村正一郎に会ひて(※館長が「大和文学」ではなく)大和文化とせよといはれしと。 金1円となりて歩き柳本にて草疲れ秋永正孝(※秋永政孝)氏を訪ぬ。藩家老の家なり。地震にて壁こはれしまま。柳本町史を見せらる。 ●作なり。チェスターフィールド(※煙草)三本のみて帰りの汽車にのる。小荷物柳本親扱一日一ケと掲示あり、甚しきかな。帰れば入れちがひに羽田のハガキ来をる。 3月23日(日) 岡本女史一寸来り、午後詩稿見す。恋歌中々うまし。保田の畑にゆき葱もらひて帰る。途にて父君に会へば伝法のため今月末か来月初(※住居を)出よと。 3月24日 寒し。通知簿依子、史もらひて来る。二人ともに優は一、依子の方やや良し。池沢より新少年に原稿をと。父のハガキ。午後八木の笠井君訪ね、 シロコゴロフとティートフのツングース語彙みせてもらひ、ともに爐書房にゆきタバコ5.00買ひの世話してもらひ耳梨までともに歩く。雨細し。寒し。 3月25日 日直出勤せしが吉田嬢代り呉る。八木嬢も来り一日呆然。「今古奇観」よみ合す。ミカン30、タバコ20。恒清先生の「南都と西京」古本屋で見しが15円と。止む。爐書房よりハガキ。 二十八日同人来ると。 3月26日 休み、午後保田にゆきしに長尾良あり。「蘇東坡」出るや出ぬやわからずと杉浦にハガキ書く。家、父上に話せしに向ふの家貸すらし。夜、銭湯にて志野氏に会ひ話す。 3月27日 下痢、一日臥床。吉田嬢来るかと思ひしに来ず。小山正孝より杢太郎かへすと。父トランク革振りにて200円、今一つは30円とてとり止むと。昭南にて60円にて買ひし也。 3月28日 雨、下痢よし。朝、お寺に六日転居のこと云ふ。伝法すまばまた入りてもよきやうなる挨拶なりし。夜「爐」の冬木、右原二君来る。好き放題許し米とタバコと貰ふ。 「爐辺独語」わたす。「不二」来る。見れば(※執筆中止予定の)「小泉八雲」の予告あり断らん。 3月29日 曇のち晴。朝、町役場にゆき芝君に家たのみ、次いで大島氏にたのみにゆく。天理大教会にある由。「文化新聞」。 午後田原本の鏡作神社にゆきしに原正朝、吉野郡川上村西河の林業学校官舎にあり、去年五月北支より帰りしと。歩きて帰る。 3月30日(日) 出勤を命じられゐしがゆかず。昼すぎ岡本氏に立寄りしのち保田家にゆき父上と話す。隣の西島家にゆきしも息子ゐず、夕方お寺に挨拶す。あとまた来よと云はれず。 けふ嘔吐の気味あり不快。 3月31日 出勤。明日より汽車八時始業と。外高は二十一日までは休みゆゑそれに応じ十日間半日、但し午後開墾と。呆然。帰途家のことにて管長にゆきしにけふより上京と。 服部にゆき将棋二番負け、缶詰もらひ重て落第の井上嬢なぐさめにゆく吉田嬢と同車、桜井に下し、夕飯後ともに八木にゆき、 我は笠井君訪ねツングース語彙(テイトフとシロコゴロフ)借りて来る。けふ小山より「食後の唄」返却。堀内民一より六日二上山にゆかんと。 山川京子より弘至の遺稿集、齋藤より原稿返却、山田新之輔。 4月1日 出勤。タイプ打ちしのみ。午後作業バカらし。八木君来る。硲君、東京より東洋思潮五回分もち来る。青木●児一冊反し、怪訝。「爐」。 4月2日 出勤。午後また作業、吉田嬢とともに帰る。山川京子氏よりハガキ。「南北」、大島、保田二家へゆき空家なしとて帰りし留守に役場の芝君来り、隔離病舎へ入れと、面白し。 4月3日 (神武天皇祭)芝君来る。「青い花」一冊礼に贈る。月給300円と。志野、大島、保田、岡本諸家へゆく。「新少年」のため「海辺で」。 夜、和尚より呼ばれて説教受く。今後帰って来るを許す場合の注意なり。縁側にフトン干せしことその他。 4月4日 出勤。分類少しやる。午後の作業やめ養徳社によりしに三村君、伏見へ養子にゆくと。電車にての帰り(切符ツーリストビューローにて簡単に買へし)、 八木にて下り爐書房へゆき「大和神社神名考」10買ひ、葱多量に貰ふ。柏井母大垣へ来る故、ゆき子に来よと。夜、また電報「七日に来る」と。 4月5日 投票休み。午食まへ町役場にゆきしに学校と。隔離病室見にゆき悲観。投票、知事候補六人「六でなし六ぬすっとにならうとし」。 午後保田にゆき父君の云ひし小屋見る。呆然。池沢に「海辺で」送る。一日より封書一円二十銭(ハガキ五十銭)。 4月6日(日) 晴、予定通り桜井町隔離病舎へ一時転居、情なし。吉田八木二嬢手伝ひに来て呉る。可愛。昼食夕食をともにす。芳野清よりハガキ。電球四十ワット(35)。 4月7日 欠勤。よべ悠紀子と家計のこと語る。けふ忍坂へゆき大麦(70×3升)、里芋(100×2貫目)、ふすま(10×2升)、野菜(10)買ひ来る。吾呆然。 午後三輪の池田君に家たのみにゆきしも留守。知事社会党勝ち再選十五日と。 たえて来し心のいたみいえやらずわが身ひとりの米にこと欠く 明日のパン思ひわずらふことなくてイエスの如く貧しかれとや ふみをのみよむにてとくてわたらひにかく愚かとはわれさへ知らず 4月8日 出勤。十五冊分類後、ツングース語辞典。八木嬢の送別会、われ禁煙。極楽寺の藤谷氏死去と。服部にゆき明日くやみに行かんと誘ふ。 4月9日 禁煙、小雨午後やみしも畑やめ服部誘ひにゆきしに止めんと。将棋さし、話し、その現実的なるに呆れたり。 帰途、三輪に下り池田栄太郎君に家のこと云ひしに天理教管長にたのむより外なしと、バカらし。 4月10日 禁煙、出勤。午後作業。これにて半日休みなしと、バカらし。吉田嬢と退出、八木にゆき「爐」の同人のこと諾し、コンサイス英和50にて買ってもらひ帰途岡本嬢と会ふ。 堀内民一君わが家へと 4月11日 禁煙第三日、大分楽となりし。吉田君徳島へゆく。服部大坂に借家ありゆかぬかと。 4月12日 起きぬけに夫婦喧嘩、悠紀子家出す。9:00三児をつれて上洛、母と健に会ひしに大、昨日寺へ来しに天理へゆきしといはれ影山より預りし600円もちて帰りしと残念。 三児を置き丹波市へ布六千円もちて引返し服部家に泊る。午後より禁煙止めヤミ屋とならんとす。 4月13日(日) 起きて服部夫人と二軒にゆきしも値段高きらし。笠井君にゆき話し、家に帰りしに悠紀子無言にて裁縫。200わたしお寺にゆき、 大垣よりの小包受取りヤミ市にて●物30とキャラメル10服部への礼に買ひ、保田にゆき、丹波市にゆき、服部に米二升借り、京都へ帰省20:00。 手数料5円でよかりしと。大、柏井より手紙類預り来る。健、日記帖もち帰り呉る。 4月14日 奈良電の切符買ひにひまどり怒りつつ10:30天理着。奥田氏にゆき話し、図書館へゆき富永氏に「浪速三十六景」見せ仕事一寸し、14:30出。 奥田氏に一ヤール127にてわたし63吾受取り服部へゆき、中村孝志君と東洋学会の話せしに汽車におくれ夕食たべて桜井へ21:30着。甘藷70にて二貫匁買ひしと。 4月15日 欠勤。悠紀子忍坂へゆき里芋(二メ五百120円)、菜(二メ30円)。菜一メ20円、里芋一メ65円にて売りしと。われタバコ(20)買ひ、 お寺にゆき「不二」受取り、不二とアルスへ返事(75銭)し、志野夫人と話し、米の世話たのみ、午后役場へゆき芝君に会ひ浦塩の兵隊へのハガキの宛名書かさる。 引揚者(奉天)の夫人と志野夫人と来り藷食はしむ。タバコ配給(14.29)。夜、芝君と岡本嬢来訪。 4月16日 出勤。整理二十冊。スンダ語辞典をよむ。吉田嬢帰来、菊芋植う。米二升と芋もちて京都へ着。金わたし十六ヤール受取る。夕食後大と羽田を訪ぬ。 けふ近畿詩人会より十九日13:00会すと。池沢より原稿見たしと。 4月17日 朝、大と天理へゆき、先に桜井へゆかし執務。服部にゆきしに留守、奥さんと話し養徳社の吉岡君と「大和文学」のこと話す中汽車のりおくれ電車で帰る。 4月18日 悠紀子ワイシャツ310にて売る。大に食物もたし、われ大坂へ。(八木下車笠井家へよる。) 石浜先生を訪ね夕食御馳走になる。高野保兄、全田家へよく。 4月19日 朝、出がけにタバコもらひ難波にゆき溝端清の古本屋ちかし兄にことづけて返事もらふこととし、市庁にゆき筒井に会ひ大毎へ来るるとたのみ、 日銀で鎌田(※正美)に会ひ、朝日にゆきしに谷川ゐず、ブラブラ散歩し古本の高きにおどろく。富くじ引き10円か20円となる。毎日にて昼飯、へや断られ憤慨しながら朝日にゆけば谷川をり、 ペニシリンを妻に打たし六千円とられしと。十三すぎ毎日にゆけば、伊東、中野繁雄、山本信雄、小野十三郎あり。 その他大勢バカらし。伊東と話す中、筒井来りしにより外へ出(六人分だけ夕飯用意しありしと)久米田の野上家にゆき三十六景わたせしに600円呉る。 百円坐ブトンの下に置き、するめ沢山もらひて帰る。途中田村家へゆき泊る。 4月20日(日) 朝、田村母堂よりきけば意外にも夫人春雄君出征後実家へ帰りしまま離婚訴訟中と。沢田直也のところへ共にゆき依頼す。山田鷹夫弁護士となりしと。 沢田の月給650円と。伊藤の家米兵相手の淫売家となりしと。八木にて笠井君により預けしものもち帰る。小高根二郎より岡崎に転任と。 4月21日 出勤。仙田氏を通じて富永氏に桜井大教会への紹介状かかす。吉田嬢に云はすればこちらの気持通じたりと。京都にゆけば三郎叔父あり、同情し呉る。 4月22日 大掃除の為、子供帰すと。先に出発し養徳社によれば大和文学の会延びし模様。けふも月給出ず。帰途養徳社にゆけば五月二十日会と。神西氏より承諾来りしと。 丹波市駅にて子たちに会ひ服部へゆき塩辛受取り、大と五人にて桜井着。夜、米田君来り話す。 4月23日 けふ給料の一部として千円渡さる。藤沢桓夫来るとて管長室に問合せしも来ず。服部にゆき将棋一番、勝つ。帰りて富永館長の紹介状もち桜井大教会長富松氏に会ひしに室なしと。 生野中学卒業の明治四十五年生なり。 4月24日 役場に芝君に会ひにゆきしに京都行、悠紀子にきけば岡本嬢も京都行と。忍ざかにて綿二貫匁の話出来、布120にて五ヤールともち米二升(140)と麦三升(80)と芋一貫匁と交換せり。 午後吉田嬢来り、杜十娘よみ、夜、米田清治君来り、火木土にルーゲよまんと。ヴァンデ・ヴェルデ買ふ40。 4月25日 衆議院議員選挙とて休み、電車にて八木にゆき辻君(※辻研一「爐」発行者ペンネーム冬木康)に報告と礼と云い、河内松原にて肥下を訪ひ、絶交を戻し昼飯食ふ。家建て百姓すと。朝鮮全南井邑にありしと。 藤井寺にゆき三叔母と話し笑はるのみ。鹿熊鉄満洲に残り、猛(※鹿熊猛)、助●●。夕食くひて帰る。綿と米三升とにて二貫匁ゆ●し由。 ※〈午前十時半田中克己来訪、 別レタ以後ノ話ヲスル、 天理図書館ニ勤メテヰルト。午后二時前帰ル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 92pより 4月26日 久し振にて出勤。相変らず不快。午後文化会なりしが羽田博士来られしとて本もちて迎賓館にゆき吉川幸次郎、谷義孝?(独文)らの一座に会ひ、この頃いかにと云はれ返答に困る。 管長に東洋学の会と家のこと一寸話す。帰れば米田君来りて、けふの読み合せ断りしと。薮田義雄、溝端よりハガキ。二十八日一時浅香山にてと。 4月27日(日) 朝、岡本嬢と芝君宅へ行く途中会ひ、大教会の件後押したのみ、保田へゆく。午後岡本嬢来りローレライ教へ、15:30発、北畠の池沢へゆき米一升120預け夕飯御馳走になる。 辰野弟戦死と。帝塚山より電車●●車にて南野へゆき兄弟無事ときき阪堺線にて全田にゆき泊る。  4月28日 雨、13:00溝端清来り、本1200にて買ふ。大豆九合90にて頒け、溝端と同車、ナンバにゆき昌三叔父訪ねしも欠勤。地下鉄にて天王寺にゆき●●発車の汽車にて桜井帰着。 4月29日 天長節、式小学校にてあり。校長、御聖●を話せしと。朝、岡本姉妹来り、芝君来る。双思らし。夜、米田君来り、話よみ合せす。 けふ天理桜井二教会より婦人来り、室のことはり云ふ。をかし。「新憲法の話」よむ。をかし。 4月30日 志野明を町会議員に投票後、バスにて出勤すれば掃除すみ句会。富永の講評可笑し。五月豆蒔き月給残り500円もらひ(約1500四月より)、服部にゆき将棋さし、 中村君と天理東洋学の会則作り、駅にて保田に会ふ。家の近くにて宇田川隊福西隊の尾西一等兵と会ふ。天理外語を卒業せしと。中華日報に詩二編「車中」「紫禁城」書く(※未確認不詳)。 5月1日 出勤。午後草取り。秋永氏来りて雑誌見る。服部へ米二升吉田嬢に托す。夜、米田君来る、志野明当選(221票)と、祝ひ云ひに寄る。 5月2日 出勤。八木嬢久し振りに来る。名古屋の「女性短歌」の専務来り、原稿十五日までにと。午後養徳社にゆき前川、保田、生駒、[清ひ]井、富永と「大和文学」の相談。 管長より名刺貰ふ。大和国原いやいやなり。23:00帰宅。原正朝よりハガキ。 5月3日 6:56の汽車で丹波市にゆき、吉田嬢と京都へ。彙文堂にゆき「松漠紀聞」(3)、臨川にて稲葉君山「前満洲の開国と日本」(10)。吉田嬢は「白香山詩集」(50)五冊買ふ、羨し。 大、羽田の世話にて洛南中学へ800円にて就職と。羽田へ行き菊芋もらふ。帰りて咲耶夫妻と夕食。早く眠る。けふ寒し。 5月4日(日) 銀閣寺前の今井祖母宅へゆきしに俊三郎叔父不在。祖母110呉る、悲し。三條にて富くじ引き10円当る。タバコ(20)買ひ、八木へ寄り井上嬢の父母に家たのみ、 爐書房へよれば辻君居り、「爐」の原稿のこと話し耳梨より電車にて帰る。昨日、筒井と野上と来しと残念。岡本嬢来る。 5月5日 出勤。中村弟君天理東洋学の会の規約もち来る。羽田の菊芋頒つ。筒井、野上へ手紙。伊東へハガキ。帰途服部に寄る。「スカンヂナヰ゛ヤの古宗教」与ふ。 5月6日 出勤。吉田嬢より「白香山詩集」四冊(50)嬢受く。ティートフの写しと分類とやる。寺島兄氏来り話す。寿賀子いま天理へ帰りをると。寿一カリエスにて重態と。 夜、米田君来り話す。「森本二三男に小学校にて習ひし」と。けふ遠足にて依子は三輪、史は長谷へゆきしと。 5月7日 雨、出勤前ゆき子不逞、家出せしにより、子らに昼飯食はしてのちバスにて丹波市にゆき、一寸登館せしのち日和佐にゆきしに寺島一家あらず。バカらし。電車にて帰る。 5月8日 晴となる。暑し。出勤。ティートフ打ち「隆慶実録」写せしのみ。天理東洋学の会のことにて中村兄弟と話す。中村幸彦君より「春日物語」貰ふ。80円と。可驚。筒井よりハガキ。 5月9日 晴、寒し。仕事昨日に同じ。吉田嬢も面白からず。どこかへゆきたし。帰りて桜井大教会長富松夫人に家のこといひしも「駄目」と。 5月10日 出勤。吉田嬢休みて手紙よこす。日和佐寺島夫人、寿賀子をつれて来る。「寿一承知の上で修養科へ来させし」と。父の許へ伴ふこととし710円(ボーナス)もらひてのち吉田君訪ね、 服部にゆき吉田君をまた訪ねて●意寺へ。寺島母子と四人にて京へゆく。三條にて別れ父の所につけば父風邪。大、歓迎会なりしと。 5月11日(日) 9:00寺島母子来りて父と話す。寺島氏に50円托し、市電停留所にて分れ、彙文堂にゆき「東文」20、「最新支那通史」10、「チャモロ語の研究」10など買ひ、 他の本屋にて「猶太建国運動史」8買ひ、宝くじ20のタバコ五本買ひて帰る。桜井大教会にゆけば「二十三四日すぎてのち一室何とかせん」と。 5月12日 出勤。昨日より腹痛下痢。職員組合出来、仙田、山崎執行委員、荒川、中村代議員に当選。田口●彦より国大専門部卒業の挨拶。三十日に満文書籍の解題講義。 二十五日に八木、吉田二君と京都へ遠足のこと決めたり。帰りの汽車にて富松氏と一緒に成る。「漢口に居り、かの地北京官話はなせし」と。「女性短歌」へ詩「ねがひ」送る(※未確認)。 買物コロ十一ケ30、白水社露和35、ノート18。 5月13日 朝より忙し。先づ堀内民一来り、寺島喜八郎来り、外語の某教授来り、みな話しゆく。昼すぎ奈良県図書館会員来りて案内。次いで養徳社の鈴木治氏来り、 17:00すみて八木吉田二嬢と話し、帰りて米田君とルーゲ読む。けふも下痢。帰りの汽車にて話せし五條中学の坂口允男は桜井に住めり。大高九回文甲出身なり。 5月14日 出勤。けふにてわが整理せし洋書の日の寄進すむ。三村啓吉来り、羽倉啓吉となりしと。帰途中村君のもとにゆき東洋学の会のこと相談す。富永研究所長も兼ねる由、可笑。 中国の係二名位ふやせよと云ふ。馘首にはせぬと。夜、西島君の家へゆき、保田家へゆく。 5月15日 頼まれし肉もちて(100匁110円)、鈴木治のところへ寄り、ゆけば大掃除。すみて畑、ついで俳句会、不快なり。広田君と話し吉田嬢と杜十娘よみ、高橋君にゆき帰途、菜もらふ。 米田君来り葱呉る。昨日より子ら兎飼ふ。 5月16日 明日遠足と。我行かずときむ。帰途服部にゆき教員組合執行委員長服部氏へ同行、きけば「図書館への反感強くて加盟断りし」と。夕食し、寿賀子の宿所訪ねしも不明。 三村啓吉「富岡鉄斎」呉る。筒井よりハガキ「野上の名は弘」と。 5月17日 遠足にゆかず昼寝。午後志野明町会議員当選の礼に来り、「堀内女史(応援演説せしに)を党より除名、来迎寺わが家にてこりしとて後、室を貸さずと云ひし」と。 藤井寺へ袴もちゆき100円借る。23:00帰宅。 5月18日(日) 日曜なれど子ら登校、午後依子の受持中西先生家庭訪問。柳本にて天理女学家政科出なり。送り出して坂口允男を訪ね話す。 5月19日 出勤。修養科生の運動会とて西島寿賀子来り語る。午後草引。仙田、山崎二執行委員に組合の一部始終を云ふ。吉田、八木二女史に申渡す。吉田女史泣きて困る。 5月20日 出勤。吉田君、途に待伏せして機嫌好し。組合けふ総会を開くと。昼すぎ給料1540円中封領840円(四月分の封領なかりしゆゑ今月すと)。他に730円。帰れば健、来をり、金尾への400円わたす。 中国文化協会より150円。不二出版社より300円。けふ中に2700円入りたり。米田君来り、「ルーゲ止めランケやらん」と。諾す。 5月21日 出勤。組合加入を許せしと。寿賀子来る。「寿一よし。一興叔父目下東京にあり」と。田中甚幸に会ひに天理中学へゆけば中島氏(大高野球部コーチャー)あり、奇遇なり。 午後甚幸来りしかば、二三日中に桜井へ呼ぶことを云ふ。帰りに石鹸買ひ35、それもちて史の担任高橋先生の外山の宅へ訪ぬ。二先生とも美しき若きお嬢さんなり。帰途保田に寄り父君と話し、玉葱もらひて帰る。 5月22日 出勤前木下に寄り茂吉「朝の蛍」20買ふ。吉田嬢に八木嬢呼びにゆかせしが来ず。わが整理せし本大分入る。東洋学の会の広告書く。 寿賀子の話ききしとて修養科生三浦君他一人来りしかば、わが神のこと云ふ。帰途敷島詰所なる田中甚幸に会ひにゆきしも駄目。明日迎へにゆくと伝ふ。夜、米田君とランケ。 5月23日 出勤。富永より組合についての注意、可嗤。それすみて懇切丁寧にやれと云ひ中村君と対立。仙田氏より富永の気持きかされ、われ笑ふのみ。 午後またお手伝ひのことにて注意。又反駁しおく。前川氏より「桜井へ管長来し時御伺ひせよ」と云はる、親切ありがたし。帰途敷島詰所へゆきしも甚幸遠足にて帰らず。 帰りて夕食後、上より呼びに来り、ゆきて話し、保田家へゆき、帰ればすし呉れたり。 けふ杉森よりハガキと「進路」。「原稿しばし預けよ」と。和田先生へ白楽天の「送州民(※別州民?)」のこと。杉森へ諾の返事。 5月24日 出勤。八木嬢来り、誘ひしも京へゆけずと。居残りて出納手伝ふ。小幡より館長の書籍代の鞘の確証掘る(※不詳)。満文書籍の書目、 吉田君にかかし中村君のところへゆかんとせしも時間なくて途で会ふ。富永古野二氏と話せしと。 5月25日(日) 朝起きて米二升もちて京にゆき、父の家へおきしのち羽田に行けば水曜より一家上京と。研究所の方いまのところ不明と。東京の話、 先生への伝言たのみ四條にて分れ、八木にゆき笠井君に話し、爐にゆき「南洋風物誌」10買ひ、夕食よばれ、肥下にゆき、ともに瓜破の竹川にゆき、 濁酒のみて思出話し100円置きタバコ貰ひて肥下宅へゆき泊る。2時まで話す。 ※〈午后六時田中来ル、共ニ瓜破村竹川ヲ訪フ( 田中ノ戦友、 全田女中ノ弟)濁酒ノ馳走ニナル 午后十一時マデ話ス 田中ト共ニ松原ニカヘリ田中泊ル 午前三時頃マデ話ス。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93p 5月26日 6:00目覚め、粥よばれて8:00出発、藤井寺へゆき大に叔父に途で会ひ諸叔母に挨拶し、図書館へ11:30着。富永に本のこと問はれて答へ、謄写版刷り見しのみ。 加賀山来りしかば桜井へつれゆくこととし、寺島会長に会ひ寿賀子と歩き、加賀山を連れ帰宅。けふ進路社より「芋のはなし」の稿料357円(税63円ぬき)、 矢代書店より中島の「詩の論理」のこと。うれし。杉浦より新進詩人双書につき、図書館のこといつも問合せ、よべ睡眠不足にて加賀山と寝床で話す。 21:30加賀山わが話に将来のめどつきしと起きて帰る。うれし。 ※〈田中ト共ニ朝食後共ニ出 駅附近ニテ別ル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93pより 5月27日 出勤。手鏡18買ふ。仕事少しやり畑少しやり吉田君を促して満文「今古奇観」代に100円わたし買ひにやらすこととす。加賀山の戦友は名東寮長なるらし。 中村教授とともに帰り、櫟本の極楽寺にゆき中島夫人と話す。書きしもの何もなし。矢代書店へ返事。夜、米田君来り、金とキャベツと呉る。金を返す。桑原武夫よむ。 5月28日 出勤。途中わら半紙買へば百枚40円。赤彦「十年」25、煙草20円。 吉田君「今古奇観」買ひにゆきて休み。白の寄進けふにて断る。山中女史われになつく。帰途養徳社にゆき鈴木氏と話し同社の某女と駅にて話す。 「四季」第四号来る。神西清の編輯にて45円。夕方大教会にゆきしも会へず。桑原武夫、前田直典、小高根二郎へハガキ。 5月29日 出勤。東洋学の会に申込、村尾君、吉田山中二嬢、午後陳列をなし、帰途、外山「太平天国と上海」33買ひ「蒙文今古奇観」もち吉田嬢の所に寄りて帰る。 夕食後に大教会にゆき十畳の間見、六月一日移転ときめて来る。米田君来り、「明日図書館へ来ると。車貸し給はる」と。 5月30日 出勤。東洋学会に申込、信●一、崎山嬢、教授一名。米田君来る。書庫見す。三村(羽倉)君来る。「鉄斎」の礼云ふ。15:00より満文書籍の解題。疲る。 八木嬢、明後日来ると。「中華日報」に「紫禁城」のす(※未確認不詳)。香川児童文化協会より十五日までに「新中学」に詩をと(※未確認不詳)。伊東静雄より「爐」のこと諾と。 5月31日 出勤。大掃除。俳句会に出ず。管長より東洋学の会のことにて電話かかる。中村孝志に相談せしに苦労人なり、バカらし。午後服部にゆき将棋さす。 ボーナス五日にわたせと交渉中と。けふ前川老家賃のこと交渉してやると。健、東京へゆくに付き米をと大、来り一升もちゆきしと。 6月1日(日) 曇。8:00の汽車にて八木吉田二嬢来る。その前に米田君、車もち呉る。移転始めに夫婦喧嘩、折柄来し岡本嬢も立会。昼すぎ移転終り教会長への挨拶もすみ、煙草19買ひかたがた、 お寺、志野(122円受取)、八尾諸家へ挨拶。米田君の母ただの礼を云ふ。15:00押入のふとん運び、早夕たべ、三嬢とともに町に出、妙要寺、西島、保田の諸家へ挨拶。 保田の弟、玉葱呉る。「影山正治、伊勢まで来る」と。柏井母より悠紀子へハガキ。 6月2日 出勤前に鈴木治氏の許に寄り東洋学の会のこと相談し、開会延期とす。「中山管長は会長好きなり」と。大和文学に「東大寺炎上」三十枚書け、吉村を中心にせんと。吾反対す。 吉田嬢にけふも主張す。富永大阪へ出張を命ず。タバコ買ひにゆかん、明日より旅行と。八木嬢来り、詰所一日十一円位にてすと。展覧会取片附く。小畑君新井氏ともに豌豆呉る。 6月3日 出勤。中村、服部両教授と連絡とる。三村来り、富岡家へ羽倉より養子ゆかずと。鴎外「知恵袋」貰ふこととし値をきけば32円。羽仁「ミケランジェロ」買ふ、28円。 けふも大豆蒔く。養徳社より瀧井氏来り、大和文学に「東大寺炎上」十枚位と。中村幸彦、高橋重臣紹介す。夜、米田君来り大根呉る。 6月4日 大阪出張。汽車にてうねび下車、辻君にゆけば「爐」西島君に渡せしと。藤井寺にて米二升170、1000円預り、戎橋書房へゆき飛田の自宅にてロシヤ書見る。160冊にて二十万円と。 石浜先生鳥取へゆかれ留守、藤沢桓夫のところへゆけば池沢あり、「杜甫」某書店へ世話せんと。池沢とともに出、難波の十合にて昌三、 大江両叔父に会ひしのち、河内松原にゆき肥下宅で昼食。瓜破へゆく途、肥下に会ふ。竹川宅へゆき煙草100本180、帰れば9時。 けふ買ひし品、ピース40、露伴「平将門」25、「白楽天と日本文学」65、ハム30、牛肉煮25。 ※〈 午后二時半瓜破ヘ行キ、 苗代ニ水ヲ入レルタメノ板ヲコシラヘル。【中略】自転車ニテ帰途田中克己ニ阿保附近ニテ逢フ、田中留守中松原へ来訪、 瓜破ノ竹川ヲ訪フ途中。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93pより 6月5日 出勤。出張旅費15円20銭貰ひ、羽仁五郎の28円払ひ、「白楽天」買はす。昨日職員組合の報告ありしと。前川氏に土曜に来てもらふこととす。 寿賀子より電話「一興叔父帰郷して発熱」と。夜、来りし米田君に羽田への手紙托す。西島君昼来りて「爐」もち呉れしと。 6月6日 出勤。けふは金使はず。松井保治君より「母君死にし」と。帰りに八木嬢の所へ寄り月曜よりのこと頼む。(鈴木治氏より大和文学について相談)。 珊瑚の帯じめ呈上。帰りて入洛。帰途、保田家へゆき話中「影山正治明日来る」と。(寿賀子けふ来館、秋永氏来館)。 6月7日 欠勤。朝、前川老迎へにゆき中西先生に会ひ、依子の岐阜ゆき託す。前川氏と小西氏の家へ赴き、会長宅にゆき室賃50円と一品、畑少しつかひてよしときまる。 会長、尊大を装ふ。昼食たべてもらひ送り出してのち檪本にゆくつもりなりしも昼寝。構内の天外語生二人来る。夜、保田家へゆき影山氏と話す。23:00帰宅。 6月8日(日) けふ日直。一日早く詰所へゆくこととし米二升、200円と日用品ともちて出発。昼すぎ岡本和子嬢来館。駅の近くまで送りて東詰所に入る。 八木家にて晩餐いただき十一畳の室に入り、吉田嬢と鼎坐、騒ぎやめば蚊出で来って眠れず。 6月9日 東詰所より出勤。服部、安田章生来館。帰途鈴木治に会ひしに「大和文学のしめ切月末」と。夜、前川梅造老来らる。教祖の親戚にて瀧川政次郎、 芹沢光治良と知人と。夜、蚊帳つりて熟睡。この三四日、陛下西下。新聞記事に涙催す。 6月10日 東詰所より出勤。中山管長昨夜帰りしとて電話して東洋学の会発会式十二日ときむ。帰りに海苔瓶詰買ひ、石田「欧人の支那研究」35、「中国物理雑識」15買ふ。 この日710もらひし也。夕方より雨、隣室の青年、八木あき子嬢来り話す。(養徳社「大和文学」の締切十四日と。将棋さす)。 6月11日 八木、父君は池野(※岐阜県揖斐郡池田町)の人にて今西龍博士(※今西春秋父君)と同郷、奇縁なり。この頃朝夕話し天理教の大体を識る。登館すれば昨日姉崎(※正治)博士脳溢血にてたふれしとて大騒ぎ也。 三日休館となりしが来館の中山管長にきけば東洋学の会やるべしとて忙し。夕方服部、中村孝志のところへゆき相談。吉田嬢より「東洋思潮」とりかへる。 6月12日 登館、日直。東洋学必携書のプリント作る。午後の発会式に外語教授四名、学生一名、吉田、崎山、山中三嬢とかつがつ十名。管長熱心に発会の辞のぶ。18:00帰り、 来し吉田嬢と八木嬢とにて話す。和田先生よりハガキ。「東洋学関係の出版ダメ」と。小高根太郎「富岡鉄斎送る」と。 6月13日 登館前に本屋にゆき、「奈良朝時代の東大寺」23買ひ、吉田君と会ひてともにゆく。「姉崎博士、午後分家へ移らる。経過良好」と。八木家で送別宴、吉田君も同行。 八木嬢の細心感謝に耐へたり。帰途、天外生に会ひ「東洋思潮」貸し、外語の幸島教授に会ふ。東洋学会に入会申込を吉田君になせしと。 明子君をまじへ四人にて蜜豆40食ひ、タバコ(きんし20本57)買ひて帰る。多良の月収二三千円、数男帰郷の意ありと。岡田家隣組のことなどきこゆ。「不二」送り来る。 6月14日 久し振にて汽車にて登館、大掃除。茶の会。15:30吉田嬢と連立ちて名東詰所へゆき元木寮長への手紙托す。養徳社より「大和文学」の催促、「中華日報」より稿料100。 吉田君、教会長より縁談世話され帰郷と定む。七月六日よりA班休み、八月二十日までなり。帰りて熟睡。 みしはせのくににかへるとをとめ子のこころをききてわれはうべなふ 6月15日(日) 筒井、野上、八木明子など来る筈なりしも来らず。午後、岩井、中谷二生来る。岩井君英語の試験とて訊ねしに困る。細雨。 6月16日 欠勤。京都へゆく。市電1円となると。父の家へゆけば橋本叔母来る。十年振りなり。父そっくりと云ふ。三高、大学へ羽田訪ねしにあらず。 東方文化へゆき藤村に会ふ。羽田へゆき東京の話きく。池内先生元気。鈴木俊氏転居。家賃4.50と。善海、江上、三上みな夫人を働かす。三上夫婦喧嘩。 仁井田博士のみ元気。川久保のこと人話さず。きくも忘れしと。15:30辞去、帰れば19:00。けふ彙文堂より教養文庫など買ふ。 6月17日 出勤。茫然として「東大寺炎上」の史料見しのみ。帰れば角川書店より「ハイネ伝」の進行問合せ。羽田よりの葉書。ひたすらに恋をおもひてゐし年はかくくるしまずわれはありしを。 6月18日 出勤前散髪15円。館長訓示す。可笑。藷苗植う。 6月19日 出勤。山崎君、諸費組合の如き尽力す。支那錫19円一つ注文。吉田君の日記見る。 さまざまのをのこ恋していたづらにをとめの年をすごしけるはや。 帰りてハイネ書く気となる。けふ角川書店にハイネ八月末までにとハガキす。 6月20日 欠勤。悠紀子、忍坂へと思ひ弓子と行きしにあらず。三食粥、金なくて困る。麦、収穫終り馬鈴薯掘り、田植はじまる。子ら一昨日まで学校農繁期の休み。けふは職員畑の為一時間のみ。 6月21日 出勤。吉田嬢、昨日けふと休み、われとどこかへ行きしかと人云ふ。午後、高橋君の畑手伝ひ。豌豆とそら豆の取入れ。 15:00止め八木家へゆく途中服部に会ひ訪ねると云ひ、伊藤佐喜雄買ひて(23)、八木家へゆきジャガ芋御馳走になり、服部へゆけず、駅までゆけば吉田君あり、 井上嬢の家へゆきしと。三輪まで同車、帰って悠紀子に1400円渡し、忍坂へゆく留守に子ら三人つれて岡本和子氏の家へゆき話す。 6月22日(日) 午前中、西島君「炉」もち呉る。午後、吉田君来るも誘はれて岩井家で碁二番打つ。吉田君20:00帰る。けふ来迎寺の若様、毛布配給券もち来る。筒井病気にて来れざりしと。 6月23日 出勤、事多し。午後、金尾の某翁、父の名刺もちて来る。三村啓吉君来る。帰りて米二升もちて藤井寺にゆく。勉と話し、帰れば十一事半。 6月24日 桜井大教会の例祭。家賃として50と魚と●もちゆく。汽車にのりおくれ、7:52の下りにて八木にゆき炉書房で「ポナペ島」30、「パタン戦記」5買ひ、 ジャガ芋貰ひて天理にゆき、日和佐にゆきしに明日来ると。帰途、吉田嬢よりみつ豆と氷おごらる。夜、米田君来りジャガ芋、玉ねぎ呉る。岩井家へゆき老人と碁。黒にて二勝一敗。 さまざまのこと語らんと思へどもいとまなくしてひとめも恐づる。 6月25日 出勤。雑役に使はる。すみて服部にゆき将棋さし夕飯たべて帰る。組合の要求に共倒れ説ありと。意気地なし。鈴木治よりハガキ。 6月26日 欠勤。7:52の汽車にて八木下車。8:30まで待たされ京へゆき、三高にて羽田と会ひ、きけば田村博士あらずと。昼食後、佐藤長に会ひきけば、 今西のシンちゃん帰郷後一ケ月にして死せりと。哀れ。旗田氏帰国の事情もわかる。やせしと云はれし。東文にゆき貝塚、森、藤枝、外山その他の諸氏と坐談。 羽田と烏丸にてわかれ父の家にゆき、夕食後帰宅。田原本で一時下され、帰りしは二十四時前なりし。 6月27日 出勤。午前中、西島寿賀子来り色々云ふ。午後、東洋学の会の為プリント書き刷る。館長大高関係とて管長に色々頼むなと注意。 硲君、滝井氏の許へ「東洋思潮」もち来しと言づけ。雨降る。田植雨と喜ぶ者多し。 6月28日 出勤。富永に東洋学の会のこと云ふ。金一封を出せと。養徳社の吉岡君来り「大和文学」のこと、富永のこと云って断る。「東洋思潮」と「幻想」もち呉る。 午後東洋学の会、中村兄弟の外八名。「諸蕃志」やらんと。すみて吉田嬢と八木家にゆく。兄君戦死の広報あり(昭和二十年三月十日リサル州モンタルバンにてと)。 明日よしあき姉妹にて来ると。夜、岡本譲来る。岩井家に碁によばる。 6月29日(日) 8:00の汽車にて八木姉妹、吉田嬢来訪。吉田君の送別会として粗餐、午後岡本和子嬢来る。向井君の父にパーカーのペンシル修理たのみて成る。夜、外語生二名来る。 6月30日 出勤。大掃除。吉田嬢の母君よりよろしくと。パーカーペンシル吉田嬢に詩とともに餞別として贈呈。藤枝よりの伝言、守屋教授もち来る。野田又男より「近代精神素描」贈らる。 支那錫の配給あり(3ケ×19)。 出版関係の追放発表あり。官庁業者のみ。三村君来る。田中甚孝来る。吉田君と雨にぬれて帰れば駅に八木君あり、忘れしパイプと依子への衣もち来る。夜、向井、岡本、保田家をまはる。 保田「大和文学」に原稿かくと。 7月1日 出勤。職員組合の話あり。強硬に要求せよと云ふ。帰途、養徳社により保田の伝言つたふ。高橋君の呉れしササゲやる。畝傍にゆき神宮参拝。山のふもとにてアザミの花つむ。 むらさきのひともとつみてかざしにすいつの日またも会はんをとめぞ。 帰れば米田君来り休むと云ひしと。西川満より手紙。 7月2日 出勤。「武備志」抄す。帰途、名東大教会により元木寮長に加賀山のこと云ふ。けふ下り丹波市駅直前にて機関車テンプクす。死傷なし。臨時列車にて帰る。 7月3日 朝、兎二疋、狐にくはれしを知る。四月より三月にしてやや大きくなり可愛くなりし、哀れ。尾西家にゆき町会議員の兄と話し、ジャガ芋四貫(55づつ)分けて貰ふ。 ジャガ芋を昼食にし、畝傍にゆき終電にて帰る。 7月4日 出勤。三村君来る。昼まへ神田喜一郎、羽田明二客来館。管長館長ともにあらず、外語古野校長招●す。午後館内案内、汽車にのれず西大寺まで送りて帰る。 台大予科の松村先生、彦根高商の校長となられしと。 7月5日 神田先生引つづき古義堂文庫参観、館長帰りしかど冷遇なり。昼より加藤女史送別宴、吉田女史の送別を兼ぬると知る者われのみ。八木女史来り、 大教会の意見にて図書館にかへると。われ賛成。16:30まで出納やり服部にゆく。夫人、塩とタバコのブローカーとなりしと。吉田女史来りて単独かへることとなり、 明日出発せずと。宅へ来よと云ふ。22:00ごろ帰宅。東京、多良より小包と手紙。 7月6日(日) 客なく信なし。夜、入浴。保田家へゆき服部夫人の塩の話す。700俵と。 7月7日 塩のことにて天理にゆかんとせしに、けふより車貨3.5倍、天理まで8円(旧2.1円)となる。保田家へ金借りにゆき七夕の餅賜る。服部への途、 吉田嬢に井上節子嬢の日誌返すことを名東詰所にたのむ。まだ二三日ゐる模様。帰りて昼寝。夜、来迎寺の弁天の祭りと妻子ゆく。服部ら要求事項三項目拒絶されしとて寄合ゐし。 7月8日 史、誕生日。吉田女史八木女史さそひて来る。同車にて服部夫人来り、農業会。保田家へゆきて午まへ帰る。二嬢夕方までゐたりとて、かかあどの御機嫌わるし。 米田君来り、図書借出しの保証人の印押す。 7月9日 朝の汽車にて出、藤井寺にゆき肥下に寄りて帰る。 うねびやま南の尾根のふたもとのひの木となりてわれらをらまし きたうみのうしほのごとくすさまじくとどろくむねはわれのみぞ知る けふ買ひし品、ピース40、露伴「平将門」25、「白楽天と日本文学」65、ハム30、牛肉煮25。 ※〈夕食後田中克己来ル。 保田ノ田モ田植終ツタ由。 田中ト共ニ出、 藤井寺駅ニテ別レ、農具ヤニテ金属製ノ除草機ヲ買ツテカヘル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93pより 7月10日 図書館にゆく。明版「輟耕録」見しが四部叢刊の方よく、これを借出す。他に西洋●史地図、ハイネ全集二冊借る。高橋君の胡麻間引手伝ひ、 姉崎博士の看護をせる寿賀子に会ひて、明日寺島氏訪ぬることとし、八木家にゆけば兄君の遺骨二十五日帰還と。ジャガ芋ふるまはれ駅にゆけば吉田女史あり「長安の春抄」与へ三輪まで同車。 けふ西川如見の「華夷通商考」(6)買ひ、金鵄三十本(75)買ひたり。夜、岩井家にて囲碁。 けふ行きがけ新井女史の令弟スマトラ中尉の処により話きき面白かりし。アンボン人威張りしを殺せし、東海岸州、 シャク州のスルタンラヂャ(※酋長)概ね共産軍に殺されし。アチェー叛乱せしなど。 7月11日 寺島氏に会ひ、寿賀子に会ひしのち、デュッセルドルフのこと一寸調べしのち富永館長にキャンベルとシュミットを売ること●●(180)、新井女史(※経理)より月給前借(1000)。 午、高橋重臣君と出、養徳社により「大和文学」のこと断念せしめ、将棋一番。瀧本にゆきアメリカよりのココアのみ、16:00出、駅にゆけば吉田君あり。 蜜豆食ひしのち煙草もらひ詰所の手伝ひにゆき、小包一ケ作り夕飯御馳走になる。職員アパートへゆけば服部一寸あらず、吉田君、中村孝志君と話し、 瀧本の筍支へ(※不詳)、服部にて泊る。 7月12日 服部昨日より下痢と。朝起きて小学校へゆく。みな子つれてゆけば吉田君あとより来る。ともに八木家へゆき香奠供へ、9:58の天理発と約して、 八木嬢とゆけば発車まぎはに来り財布わすれしこと西大寺にて気がつき、われ引返せば某嬢届けし模様。八木家にてのジャガ芋のみにて帰宅。 吉田君よりの澱粉にてパンこしらへさせ一寸昼ね。羽田よりハガキ。風邪にて寝しと。昨日米田君来りしと。 夕方、米田君とランケ久方ぶりによみ、保田家へゆけば服部夫人あり。塩660となりしと。促して帰らしめ肥下のこと云ひて帰る。 7月13日(日) 8:00の汽車にて木幡君来り、吉田嬢無事急行にのりしと。煙草買ひに出、パンとイチゴ水奢らる(100)。昼食後、西島君来り、教科書の詩のことたづねられて困る。大食し熟睡す。 7月14日 朝、紀王堂の粉搗屋へ小麦と米(五升―500、三升―570)もちゆく。馬鈴薯より澱粉つくること覚ゆ(100匁より7,8匁のみ)。野田又男と西川英夫へハガキ。 7月15日 朝食後、昼ね。澱粉作り昼食。タバコ配給(手捲きのみにて12.10)。原正明へハガキ。眞日本社へ「勝者と敗者」(6枚)送り、つり銭なしとてハガキ買ひて帰る。 7月16日 登館、財布忘れしとて下駄屋にて気がつく。新井姉弟あらず、聞けば弟戦死にて高松へゆきしと。大掃除手伝はさる。杉浦昨日来ていま富田林にありと。八木家へゆき、 にしん受取り、下駄買ひ、服部へゆけば長女病気、服部も食快せず夫婦喧嘩す。中村孝志氏に卒業論文わたしてのち帰る。原正明の手紙もちて某氏来り、 赤川氏の紹介にて去年来しとふ塩野芳夫よりハガキ。夜、保田家へゆき聞けば塩の話打切りとわかる。 7月17日 昨日借りし金返しに登館、米田君と会ひてゆけば野田又男来る。京都に間借すと。阿部家の当主鉄太郎、三露家はぢぢばばまだ元気と。管長よりの迎への自動車にて帰りゆく。 八木家へふろしき返し、養徳社へよりソ聯より引揚げの某氏の話きき、服部にゆき昼食せしのち帰る(金井君の長男、疫痢にて入院と)。八木の爐書房によりたり。 夜、米田君来りランケ。けふ神田先生より礼状。 7月18日 家居、無為。夕方芳野清より大垣の病状報じ来る。京都吉田君へ「中国文化」送れとハガキ。米田清治君の家へゆき西瓜食ふ。 うれひつつ去りにし子ゆゑにこの日ごろわれもかなしくいひは食めども 7月19日 雨。午後にしん持ちて秋永氏へ答礼にゆきしに留守。荒川氏もあらず。柳本駅で一時間半ほど待ちて帰る。芳野兄弟へハガキ。 7月20日(日) 時々雨。郵便直接来るやうになり、「饗宴」の稿料(255)もらふ。吉野弓亮より松下、倉金、西沢みな帰りしと。吉田女史、札幌よりハガキ。すらすらゆけしと。 「火の木生ふるくにをさかりて鳥海に雪まだのこる北にゆきけり」 昼まへ高橋重臣、木幡の二君来る。何をはなせしやら。15:00頃、送り出してより雨。けふ悠紀子、保田家へゆきジャガ芋二メ匁借り来る。 7月21日 出勤の途、服部に寄り将棋四番。養徳社により「大和文学」の詩の選たのまる。高橋重臣の詩はのせずと。出勤すれば草とり終り皆一寸怒る。杉浦来しも京都へゆきしと。 俸給四千円余り貰ひしも税900、前借1000引かる、アラス。 13:00出、散髪(15)、木幡君の室へゆき加藤女史に「欧米人との交際」与ふ。寺島へ詰所のことたのむ。寿賀子哀れなり。 けふ買ひし書、矢野目「恋人におくる」(13)、「ハイネ詩集」(23)、「染色の話」(12)、「日出づる国と日くるるところ」(12)。レミントンのタイプリボン代(3本150)預かる。 吉野弓亮へハガキ。小高根太郎より「鉄斎」(高橋君に与ふ)。 7月22日 8:00汽車にて柏原(11)―藤井寺(2)。米わたす。田中の久美子来る由。大阪に出(地下鉄1.50)、筒井訪ねしに地下ホテルへ転勤と。父の勤先を大阪ビルに訪ね、 寿賀子のこと訊ねしも処置なしと。朝日に谷川新之輔訪ねしもあらず、再び市役所にて渡と松田●治郎と話し、裁判所にゆきかけてやめ、 鎌田(※正美)と一寸話し、真田本社へゆきしも無人。古本二冊もらひ溝端の本屋にて白水社ロワとミケランゼロ(羽仁)二冊にて70もらひ、田中昌三と一寸話し、 阿部野橋に出、中島の旧宅訪ね令妹と話し(姪たち成人す!)、歩きて阿部野橋に出、近鉄にて帰れば杉浦まち受けゐたり。夕食後ともに保田家にゆき23:00帰りて眠る(藤井寺にて「浮生六記」、 寺田町にて「雑草の話」(20)買ふ。)。 7月23日 杉浦と共に図書館にゆき、ティートフ久し振りにて打つ。14:30杉浦とわかれ寿賀子のところにゆきて父の言告げ、養徳社にゆき詩のことたのまれ、 16:18の汽車にて檪本の極楽寺にゆき中島朋子氏に話す。トマト賜る。吉田女史より三●十八日帰宅と。 「人これに送りてあれどただ一人見ぬ淋しさは何にいやさん」 原正明より二十三、四日頃来と。 7月24日 家居。教会の月並祭とて家賃もちゆかしむ。眞日本社の保坂不二夫より原稿受取。夜、坂口允男がりゆく。沢田直也、小高根太郎へハガキ。 7月25日 家居。「大和文学」の詩の選評と詩と書く筈なりしも駄目。筒井護郎へハガキ。大江より米三升とりゆく。 7月26日 当番登館のみち米田君と伴ふ。養徳社へ原稿わたす。職員組合より連絡あり。中村君にたのむ。午後吉岡君来り、選詩に注文つく。服部帰郷せしと。 小高根太郎の友なる中根君(天理時報社工務局長)に初めて会ふ。帰れば依子発熱して悠紀子あはてて森先生にゆけば赤痢の疑ありと。怪し。筒井へハガキ。夜、火事。 7月27日(日) 依子下熱。来客なし。無為。夜、依子また下痢発熱。 7月28日 当番出勤。日本印刷文化会とて休館。寿賀子より電話あり、上京しばらく延ばすと。生ぶし二本呉る。中村君に東京出張の意ありと云ふ。 7月29日 家居。夜、笠井信夫君来訪。水蜜桃多く呉る。依子下痢やや可。 7月30日 朝、父よりハガキ。杜甫、金尾よりとりて来しと。吉田女史より原稿。当直にてゆく。寿賀子来る。16:30帰るころ、筒井、前田直典よりハガキ。 けふ竹中郁の紹介にて高城なる詩人来る。不快なり。帰りて森ドクトルより賜りしまくわ食ふ。山田鷹夫より弁護士開業の挨拶状。 7月31日 雨。山田、伊東、父、羽田へハガキ書く。沢田直也より手紙、田村の訴訟六月一日に第一回ありしと。佐賀高校ことわり来る。 午後、藤井寺へメリケン粉五百匁と衣類もちて千三百円借りにゆく。久美子帝大出の先生ほめたり。  火木山 我們立誓了 ――永遠記着不忘! 在一個丘陵的火木樹陰児 那個小姐離去在遠国、 那個丘陵聳立、黙然的、感傷的、 那個火木樹揺動、焼山野田園一陣雨裡、 我看那個光景、連想 那個小姐的含着涙満々的眼晴。 8月1日 暑し。けふ洋服地配給とて悠紀子忙し。1188円にて買ひ来る。志野夫人いやらし。タバコ30円にて買ひ来る。夕方タバコ配給あり。 夜、保田家へゆき久々に與重郎先生と長く話す。ジャガ芋二貫目ほど呉る。タバコいま引きどきなりと。吉田女史へ手紙送る。 8月2日 朝の汽車にて檪本へゆく(乗越し出来るやうになる)。中島夫人に雑誌原稿見せてもらひ一部借る。西田君(檪枝在)の家へゆき昼飯御馳走となる。 宮城へ勤労奉仕にゆき一二、三日頃桜井に来ると。服部家にゆきコギトその他より中島の作のリスト作り、未完にて帰宅。不二へ日記送る。 8月3日(日) 来客なし。来信なし。夜、岡本家へジャガ芋返し、保田へ「琉球神道記」「神名考」「染色の話」贈り、百合の花もらひ弟君と碁六番打ちて帰る。 8月4日 原正明君より電話、ついで来る。昭和十四年より八年目なり。山西省の南にゐしと。言論自由を喜ぶ。畑作りてサラリーにてやれると。夜、保田家へゆき碁打つ。 8月5日 あすより図書館休みとて朝に汽車にてゆきハイネ全集と久美子用の本二冊借出す。養徳社に寄り、庄野君に中島の論文集のこと云ふ。東洋学双書のこときかる。 13:00電車にて帰る。夜、米田君来る。伊東より手紙、創元社より詩集出すと(※「反響」のこと)。父より「杜甫」寺島喜八郎氏の世話にて大八洲書房(※大八洲出版)へわたせばいかにと。 8月6日 朝の汽車にて服部令夫人の妹(中山勝治夫人)来り、家のことにて訴訟と。山田鷹夫に紹介状書く。引揚者に衣料その他配給。ハイネ伝二枚書く。羽田より手紙。 十日過ぎ在宅と。旗田(※巍)氏帰国せしは誤伝と。夜、保田へ油瓶もちゆく。 8月7日 朝、仕度してみな多良へゆく。われ留守番。夕、米田君来る。丸茄子500匁(15)買ふ。〒なし。 8月8日 炊事し南村輟耕録写せしのみ。服部よりハガキ。辻君来り「爐」年刊詩集の原稿もちゆく。 8月9日 炊事同じ。タバコキザミ(70)買ふ。夜、保田家へゆき碁、三弟と軍隊生活の話す。次弟東京より帰り野菜●と。帰れば妻子帰宅。借りて来し「旋風二十年」朝四時までかかりてよむ。 8月10日(日) 朝の汽車にてゆき坂口君と会ふ。けふより増発、上り12:00と下り3:30と出来たり。寿賀子に父のハガキのこと云ひ中村君にゆきしに留守。小幡君にゆけば高橋君帰来と。 加藤嬢けふ出発とのことにて待ちて挨拶し登館、1800もらひ、帰途小竹文夫「支那の自然と文化」(20)、キセル二本(7.60)買ひ、バスにて柳本にゆき荒川氏にボーナスのこと云ひ、 秋永家へゆけばジャガ芋呉る。帰りに桜井駅前にて三角くじ、金鵄10本当る。吉田氏より手紙、小学校の先生となると。 前田直典より「満和辞典」返却。中華日報より原稿料100。硲君来訪、「東洋思潮」もちくれ(そろひ)、同窓会名簿持参。夕食後保田家へゆき将棋、碁、漫談。 8月11日 硲君と8:00すぎ家を出、切符買ひて与へ京都着。羽田家につきしは11:30。麦二升とバレイショ一メとを渡し13:30頃出、野田又夫のところへゆけば叡山へゆきて留守。 東方文化にゆき藤枝(※晃)を少し待ち、村上成実氏と三人で叢書のこと、博多成象堂より出すと。「杜甫」第一次と。古本屋を歩きまはり、 「庚申外史」(10)、「三浦按針」(15)、「韃靼漂流記」(18)、「ドイツ二千年史」(20)、「大奈翁日記」(20)、「小麦の祖先」(16.5)と本買ひ、 父の家にゆけば寺島氏よりききしとて館長の不満二点、仕事せず、勉強のみす、服装ルーズと。意外なり。野田家へゆき夕食また御馳走になり、中島のことたのむ。 出てノート買へば28円。23:00帰宅。油一升460にて受取りしと。 8月12日 12:00まで寝、起きて依子つれて藤井寺にゆく。田中の叔母、大江叔母、久美子ともに依子初対面なり。帰りは門外まで見送る。肥下にゆき六反作れる様見、夕食御馳走になり帰れば21:00。 ※〈午后五時頃草苅中、田中及依子来訪。草苅ヲ止メテ家ニカヘル。中島ノ本出版ノコトニツキ長尾ヘ手紙出スコト依頼サル。午后七時田中カヘル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 94pより 8月13日 昼ねし、午後米田君とランケよみ、夜、保田家にゆく。森本一三男の詩、大和文学に話せよと。中島の本のことも不服なり、不快。 8月14日 午後「ランケ」。終りて夕食後タバコ買ひしに配給ありしと。志野氏にゆけば酔眠。悠紀子に説教す。効ありや否や。 8月15日 朝、不二書房より600、あと1200と。大、羽田、野田、不二へハガキ。羽田より松本西下と。不二よりハガキ。鯨肉より油とる(百匁60円の肉より一合余)。 夜、尾西家へ行き町会議員の兄、四郎君と話す。盆踊り各宅にてす。 8月16日 無為、〒なし。 8月17日(日) 芳野清より手紙。夕、入浴。保田へゆけば上洛。妹婿二人、中一人は(※大高)八回理甲勝田義文。 8月18日 坂口允男来訪。12:39(十日より増発の汽車にて丹波市にゆき養徳社にて「クレオパトラ」生駒氏に呈し、庄野君より「東方史論叢」(180!))もらひ、 森本一三男の詩のこと瀧井氏に話し、服部にゆきハイネ聞く。夫人一度も顔を見せず、夫婦喧嘩のためか?帰れば坂口君再訪。ハイネ「独乙浪曼派」と「ハルツ紀行」貸し賜る。 西田君より十五日に来られざる断り。 8月19日 このごろハイネ「歌の本」訳す。夜、保田家へゆき碁。 8月20日 登館、米田君とともにある。「学燈」五月号買ふ。図書館には不二の手紙来あり。八日付にて辞表出し、小学校教師となりしと。学を業とする人をともかせぎせんと。 前田直典「オリエンタリカ」創刊と。矢代書店長に道太郎(※長江道太郎)、中島の本出したしと。三上次男、俳本のこときき合せ「川久保日大三中の教師となりし」と。 八木君けふより復職。ともに吉田君に寄書。羽田へ川久保のこと。帰りぎは藤枝のハガキ、井上節子嬢の世話にて来る、「杜甫」受取りしと。極楽寺へゆき一部始終話し、米一升賜る。 8月21日 出勤。月給と家族手当ともらふ。十五級俸(1800)なりと。寿賀子呼びて注意与ふ。八木姉妹にパン賜る。帰途、茄子一メ匁(15)と飴買ふ。キザミ(75)一ケ買ふ。 8月22日 出勤。日直なり。夜、米田君来る。石川君よりキザミ頒けてもらふ(63)。藤枝、三上次男、井上節子、長江道太郎へハガキ。 8月23日 出勤。半ば休業なり。ズボンに火こげこさふ。養徳社へよる。「楊貴妃とクレオパトラ」会議に上りしと。定期おとす。散髪(35)。夜、保田家へゆく、不在。 8月24日(日) 桜井例祭。前川梅造●来訪、桜井駅に定期券拾得の掲示ありしと。17:00史、依子つれて藤井寺へゆく。依子の箸の持方われと同じことを認めたり。 杉浦、杉森久英より「文芸」編輯に代りしと。両氏へ返事。 8月25日 定期券駅にて返却受く。婦人ひろひくれしと。帰途茄子一メ買ひて帰る。弓子皮膚病。 8月26日 出勤。職員組合。天理大学の件にて会合。帰りて吉田君と大の便り見る。三上次男氏にハガキ。吉田君へハガキ。 8月27日 出勤。無為。夕立。機械南葛にす。「三輪山に金の夕立する代かな」。 8月28日 出勤。アンダマン島語を写す。高橋重臣君来る、小幡退職せんと。夕方夕立。夜、米田君来り南瓜呉る。 8月29日 出勤。無為。荒川氏と碁打つ。七目にて二敗一勝。鴎外「諸国物語」よむ。 8月30日 出勤。一旦帰りしのち、藤井寺にゆく。袴300。悠紀子の着物は2500(五分手数料)にて高島屋に預けしと。千円借りて帰る。尾西四郎に会ふ。 8月31日(日) わが誕生日、来信なし。来客なし。昼には飯炊く。 9月1日 出勤せんとせしに眩暈。朝食もとれず。浅古の中井氏、種子と南瓜売りに来る。みなにて150円以上。不二より日記。夜、保田へゆく。肥下降雨まで来ずと。 9月2日 出勤の途、だるければ鈴木氏に寄りてゆく。吉岡君来り「爐」同人の詩もちゆく。上田一夫君来りしと。鯨油480円と。中村教授来る。 弟氏東京にて竹内好、市古宙三に会ひしと。三上次男、中村治光よりハガキ。 9月3日 出勤の汽車にのりおくれ電車にてゆく。通勤時間の制限解除、館内不快いつもの如し。服部にハイネ聞きにゆく。時間後、畑三十分やり、山中晴子女史とともに帰る。中村治光にハガキ。 9月4日 出勤。朝の打合せで相変らず不快。畑三十分。八木君と帰り、文学堂にて「アッタ・トロル(20)」買ふ。夜、米田君来り「ランケ」終了。 9月5日 出勤。畑三十分。八木山中二嬢と帰る。須賀文庫おほむね終了。この頃旱天のため概ね停電。これも不快。ハイネのこと角川氏に問ふ。 9月6日 秋空となり、稲穂出そむ。停電の為、水汲み作業。みな不平。八木家にゆき父上と話す。天理教には忠君愛国なく孝のみなりしと。服部にゆく。弟、外専を退校せしと。吉田氏よりハガキ。 9月7日(日) 無為、旱天三十日と。 9月8日 出勤。事なし。畑やる。「不二」七月号。不二へハガキ。 9月9日 出勤。堀内民一氏来り、石井千鶴子君の就職のこと。寿賀子より電話、東京より電報あり。帰ると。 9月10日 館長われを呼び、女子は信者ならずば採用せずと。八木君令兄の五十日祭と。 父よりハガキ、村田幸三郎来りしと。丸亀より詩一篇をと。高橋君の畑手伝ひさつまいも賜る。 9月11日 八木君より果物返しに賜る。丸亀へ詩「このごろ」送る。 9月12日 畑に種子(大根と大阪白菜)まき、高橋君へゆきしに雨。茄子一メ(35)買ひて帰る。米田君来訪(けふ新井氏令弟に東洋学の会の話頼む)。 9月13日 出勤。「大阪日日」に小野十三郎「西康省」の詩人として我をかきゐしと山中嬢の話。定期買ふ(三ヶ月170、以前は六ヶ月120)。夜、坂口允男君さそひ保田家にゆく。 昨日けふにてレマルク「凱旋門」よむ。昭南にありし同盟支局長井上勇氏の訳なり。 9月14日(日) 無為、雨降る。不二をおもふ。 9月15日 雨、朝の中つづく。相変らず悒鬱なり。相野忠雄よりハガキ、●し。 9月16日 昨日より停電なくなる。汽車にのりおくれ前栽まで電車でゆき上田一雄君のところへゆかんとせしに途で逢ふ。話しながらゆき養徳社に寄る。角川書店危しと。 図書館相変らず不快。畑に大根芽吹く。谷川来る。八木君と帰る。不●の心云ひしと。相野へハガキ。 9月17日 出勤。八木君と二人へ不二より手紙。大掃除。研究会。 9月18日 出勤。東大東洋史の学生来る。中国革命やると。16:00ともにアパートにゆき服部夫人に聞けば鯨油と上田君とともに不評。 帰りて保田家にゆき話せば上田君を信用すべしと。さつま芋もらふ.。西島君、教科書の詩の説明を求めタバコ賜ふ。角川より「歌の本」500頁は厚すぎると。 9月19日 出勤。新井秀雄氏に会ひ、あすのことたのみ、来りし上田君に油のこと云ひしのち、木村君にきけば信用しゐると。怪訝。みな浮世絵見にゆく。われ「諸蕃志」を刷る。 9月20日 出勤。午後、東洋学の会を開く。出席者外語学生七名と教授二名、山中、八木二嬢、可厭となる。講師新井秀雄氏と中平氏、むともにスマトラの見聞を話す。 中平氏は比島、泰にもありしとて有責なる話なれどもよしなし。中山管長に久しぶりに会ふ。月給2,199円60銭もらふ。瀧口春男君より原稿受取り「学芸」幸田露伴追悼号と泉井「言語学」買ふ。 9月21日(日) 日直出勤。山中嬢の介添へ、中女学生の応接に痩る。「東洋史研究」来る。父よりハガキ。村田、西野のこと、丸坊主となる。 9月22日 出勤の途、小路へゆき上田一雄君に油のことたのみ、後にて来りしに、外語へ頒つ。二升四合五勺借りしこととなる。午後、八木山中二嬢と奈良博物館の浮世絵展へ春信を見にゆく。 すみて喫茶。前川にゆく。保田に出版承知させしと。筒井よりハガキ。 9月23日 出勤。堀内民一氏より手紙。文献学会のことにて中村君と二人、富永より相談。石浜、和田両先生をいふ。帰途、八木嬢より昨日の返礼に羊[羹]二本と葡萄ともらふ。 高橋君より藷一メ五百、唐辛子、カボチャ頒け賜る。羽田より東洋史会に来よと。吉田君より五百円封入、本買ひてくれよと。駅にて保田に会ふ。奈良の出版屋へゆくらしき。夜、米田君。 9月24日 秋季皇霊祭。一日家居。床をはなれず、ツルゲーネフよみニヒリストに近きを知る(人かわれか知らず)。羽田、吉田、角川、堀内、筒井、前田純敬(※1953年版「凱旋門」訳者)へハガキ。 9月25日 出勤。高橋君にお礼としてバター半斤、油のせわ、その他事なし。 昭和22年 9月26日~昭和22年12月31日 19.0cm×13.0cm 横掛ノートに縦書き ノート 9月26日 出勤。高橋君岳父危篤とて休み。天理大学図書館の件にて協議。長江道太郎より風邪と。けふ出勤途上、湖南「支那中世史」(22)買ひ、鈴木氏に寄る。 吉田君に送ること八木嬢にたのむ。昨日は梓の命日なりし。 くさぐさのむかしおもへばたのしまずかかる日われはよはいに生くる。 9月27日 土曜、出勤。ひる東洋史の後輩、野崎君来る。ともに14:50の汽車にて帰宅。竹内好への紹介状かき、夕食し、送りてのち保田にゆく。明日より一週間十津川へゆくと。 吉田氏へハガキ。(矢野仁一博士に会ひしに景善日記などよめと云ひしと。バカらし。和田、山本二先生、学生に評判悪しと。佐野学を演習に使用すと。バカらし。) (寺島●●に大八島洲と武田長兵●図書館へ紹介すべしと。寿賀子寿一にて家もちゐる様子と。) 9月28日(日) 史、依子つれて鳥見山へ栗拾ひにゆく。吉田嬢より手紙、漸次教師になりゆく様子。童話集送れと。堀内民一氏より五日までに詩をと。 9月29日 朝小雨。出勤。カード挿入す。田中康平の長女、田中富美子来る。甚幸の父兄會に来しと。久美子二十四日に結婚せしと。相手は商大予科出の山本の社員。二階に住むと。 眼丸く下ぶくれの21才の娘なり。石川君近く退職と。熱なく方なき青年なり。 来月五日に安西冬衛の出版記念会と。竹内好よりブランド外一冊返せと。 9月30日 途次高橋君を見舞ふ。安達隆之助氏輸血すと。午前中カード挿入、午後大掃除。すみて石川君の送別会。「大和文学」の校正来る。畑の大根消ゆ。布留へゆきしも不明。 汽車にて尾西四朗君の兄と話しつつ帰る。前田純敬よりハガキ。檀一雄来る様子。 10月1日 カード挿入。けふより8:30はじまり。帰途、酒井賢先生にあふ。外語の教授として着任。豊田の某家に下宿と。ゆう子嬢、[日ケ市]へ嫁ぎしと。西田君来る。 話すこともなし。父よりハガキ。久美子の結婚知りしと。柏井母、正月岐阜へ来ると。 10月2日 出勤。ひるまへ日野月先生来られ、ダンテ神曲記すと本見らる。酒井先生来会、生駒、管長来り会し、接待役として管長宅へゆきすき焼き食ふ中、帰れなくなる。 (※天理)時報の上野常務と話す。和楽館にて両先生と寝、酒井先生原爆を受けし話さる。奥さん毛布を投げて即死されしと。二時頃までねられず。 10月3日 朝食しをへしころと生駒氏と土木課の奥村●造((※大高)七回理甲)と来る。管長来り、大阪へゆくと。日野月先生を案内して分家たる姉崎先生に伴ひてのち登館、 昼弁当なしにてすまし●●かる。高橋君に寄り、明日芋くると。岳父やや良しと。帰れば吉田嬢と小林俊文よりハガキ。 10月4日 土曜とて八木君さそひ高橋君へ寄りしのち帰宅。配給の砂糖にてしるこ御馳走す。帰りてのち不二出版の鈴木正男君(※大東塾)来り、 夕食中米田君来り芋呉る。ともに保田家へゆきしもまだ帰らず。父上と話し帰宅。就寝まへに心うちあく。浅野晃、長谷川氏会ひしときヒがみゐし由。 降伏を肯んぜずビラまきしはこのひとびと也。(600受取る)。 10月5日(日) 鈴木君送り出してのち昼寝。小高根二郎より本。小高根、竹内、吉田、父、小林へハガキ書く。 久しぶりに一家入浴。風呂代あがりてより初めて也(3.50大人、2.00子) 10月6日 出勤。富永館長、書誌学会に意外に熱心にて神田、内藤乾吉両先生に会ひしと。来週日曜、神田先生を招くと。この前来られし時と思ひ合せて笑止なり。 酒井先生来館、辞書二冊お貸しするに苦労す、いやなところ也。帰り高橋君に寄り芋もらふ。帰れば留守に保田来り養徳社へ稿料の催促せよと。それもいやなり。 教会にて婚礼ありしとて親子残肴もらひて満腹。 10月7日 出勤まへ鈴木治氏と養徳社へ寄る。保田の前借、諾と。閲覧休み。帰り菠薐草まく。寿賀子よりハガキ、寿一出勤しゐると。 10月8日 休日(理由不明)。高田へゆき堀内民一氏に会ふ。爐書房へゆき辻君に会ふ。帰りて昼食、鳥見山へ依子つれて栗拾ひにゆき、忍坂へ出る。 10月9日 出勤。帰途、高橋君に寄り帳簿もらふ。柿やや安くなる。●300にて売りしと。 10月10日 汽車にのりおくれ電車にてゆく。貴重書庫に本棚入るとて作業。荒川氏、水菜の苗賜る。研究費その他570円もらふ。芋パーティー、 三村君来り、養徳社やめると。山本達郎、学位論文かきしと。川久保に会ひしと。帰途、八木家に傘借る。瀧口春男より詩の稿料100。 10月11日 出勤前八木家へ傘かへしにゆく。書庫に書棚入れるとておほむね作業。酒井先生と服部にゆき中村忠行君と話して帰る。石川利範、堀内民一よりハガキ。 ゆふべシロコゴルフの辞典うつしてねむれず。 10月12日(日) 昨日より停電緩和。妻子小学校へ映画見にゆく。われ神田(※喜一郎)先生迎へにゆき、書誌学会の相談を富永、中村、生駒と五人にてす。 石浜先生に館長悪感情をもつ様、実行委員七人きまり来月中旬、京都にて会と。管長宅へゆき茶のみしのみにて退去。6:28の電車にて帰らる。不快。吉田君より手紙。 10月13日 出勤。疲れてゐねむりせしのみ。新井女史不快。吉田君へハガキ。枝豆ぬきて帰る。早く寝る。 10月14日 出勤。貴重書庫の整理とて富永ヒステリーとなる。15:30よりパーティー、悋(※けち)にていやなり。枝豆多くとる。 10月15日 出勤。鈴木治氏に寄り、柿食べて話す。午前中古野氏の所へ東亜文化の板野(ばんの)正高君来り、矢野文庫の案内す。昭和十七年の法学出、(※松本)善海のこと話せし。 帰らんとせしに石上の祭とて高橋君の日直かはりていつもの汽車。 10月16日 雨、出勤。午後大掃除。二嬢と書庫、女に愛される男となりし。終りて八木君に誘はれしかどゆけず、養徳社に立寄れば亀井勝一郎来あり。柿食はせらる。 昨日まで三日間、保田と奈良にゐ、けふ桜井より来しと。中村地平、宮崎図書館長となりしと。太宰治死にかけて湯河原にありと。生駒宅の晩餐に呼ばれしが行かず。 「別るるや柿食ひながら坂の上」は中島の句なりしか。 「大和文学」の校正見せられ、稿料明後日とのことにて帰る。夜半、日記の写し不二のため書く。 ※〈午后一時瓜破へ行キコギト整理。 梱包解キ終ル。 中島原稿掲載ノ頁ヲ集メ、修三、明日桜井訪問ニ託シテ保田ヲ経テ田中ニ渡シテモラフコトニス。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 94pより 10月17日 (神嘗祭)八木君来る。昨夜眠れざれどたのし。秋祭の鳥見神社へ子らつれてゆく。昼飯御馳走す。依子の冬着作りくれ、15:50の汽車にて帰る。われ久しぶりに入浴。 夜、保田の三郎来り、誘はれてゆく。餅賜り将棋さす。保田「ハイネ」を世話すべしと。 10月18日 いやいや出発。保田家へ牧野忠雄のこと教へにゆき、気がかはり山辺道歩き景行・山守神陵に参拝、丹波市へ10:00すぎ着。所長、館長の創立記念講演すみゐし。 (※この日記念写真撮影あり) 柿食ひ昼食すませし頃、江上波夫氏現はる。西下の人みなわれを憐れむ色あるか? 山崎君とツングース語文法よみ、16:00養徳社にゆき「大和文学」稿料500金もらひ、吉岡君とアパートにゆき服部家で夕食。あす上洛を中村忠行君と約し21:00ごろ帰宅。 杉森久英氏より「文芸」一月号の詩を月末までにと。 10月19日(日) 8:00ごろ出発。米田君に寄り11:00ごろ京都着。下総町にゆけば父母あらず、祖母留守番。岡山の三郎叔父長女結婚式にゆきしと。祖母子らにパン賜ふ。 東方文化にゆき吉川幸次郎博士と羽田博士の講演きく。天津にありしとき訃報ききしペリオの追悼なり。藤枝の部屋にいこひ、佐藤長君と話す。 今西春秋より若城久治郎に便ありしと。外山氏より「中国史学入門」を頒けてもらふ(90)。(臨川にて「柳辺紀略」30、「苗荒小紀」10)。 羽田と出、喫茶。家にゆく。雨降り出す。亨先生とバス一緒なり。夕食し語りしのち下総町にゆけば大、帰りあり。祖母吐瀉。 10月20日 大とともに出、10:00桜井着。無為。雨。夕方より止む。 10月21日 欠勤。仕事もせず。吉田嬢より手紙。八木君と手紙交換せしを怒ると。ハガキ書く。「輟耕録」抄済む。 日野月先生、山本信雄よりハガキ。「鳶」朗読すと。 10月22日 出勤。殆ど仕事せず。給料貰ひ(2200+600)、靴修繕(120)、タバコ(25)、のち大高同窓会に出、瀧井氏と帰る(会費200)。北平にありし中野氏よりハガキ。 10月23日 出勤。弁当八木君もち呉る。中野氏へハガキ。枝豆とる。高橋氏に寄り藷わけてもらひ、柿もらふ。 10月24日 出勤。高橋君欠勤。午後藷掘り、吉田君より手紙。富松氏に中山管長のこと云ふ。 10月25日 出勤。畑の吉田君の豆とり終る。八木君の紹介にて阿倍女史来り、詩のこと云ふ。吾、相手にせず。新京引揚のこと云ひてはじめて相手にす。いつもの汽車にて帰る。 育生社より三島一氏の紹介にて「唐宋時代の詩人」三百枚二、三月までにと。 10月26日(日) 天理の秋季大祭。はじめ全員出勤と云ひしかど取消しとなり、われ元よりゆかず。米田君来りランケよむ。その後無事。 10月27日 昨日参拝ありしと。「未刊本」第一冊もらひ、きけば印税なしと。村田幸三郎へハガキ。曝書の相談。小雨。明日休みと急にふれあり。可嗤。 10月28日 晴、朝「マルクスか死か」を「文芸」に送る。育生社へ「唐宋の詩人」諾の返事。三島氏へ礼状。13:40の汽車にてゆかんとし、 中谷君に会へば50本85円の煙草頒けらる。駅にゆけば一時間あり。保田家へゆき父君にとタバコ托し、天理にゆき、そら豆蒔く。帰らんとすれば三村君来る。 枝豆与へともに養徳社にゆき服部家へゆき将棋さして帰る。(十一月一日より上り7:22、下り16:17との掲示) 服部にて浜田敦「古代日本語」借りてよむ。 10月29日 出勤。十一月一日より汽車時間変更、八木君お多福風邪にてすぐ帰る。本のいれかへはじまり、二号室へ矢野博士の洋書ゆく。山内四郎よりハガキ、家さがせと。 10月30日 出勤。本移動にて疲る。帰途、高橋君の小豆採り手伝ふ。山内へ返事。桜井駅で保田に会ふ。一昨日帰りしと。ハイネのこと云々。 10月31日 出勤。本移動。14:50の汽車にて帰り、久し振りにて入浴。米田君来りて大根呉る。 11月1日 けふより汽車時間変り7:22。本移動、明日欠勤のこと云ふ。八木君出勤。高橋君の畑手伝ひ柿と葱賜る。 11月2日(日) 曝書出勤と云へど来客を口実に休む。米田君来り「世界」貸し呉る。石田幹之助、オリーブは橄欖にあらず斉墩なりと。午後、岡本和子嬢来る、勤先いやなりと。 11月3日 明治節。在家無為。午後、保田にゆきしも橿原にゆき不在。 11月4日 出勤。移動やる。硲君来り、最近上京と。独仏字典のこと頼む。酒井先生来られ俸給二千円足らずで辞職せんと。養徳社へゆき瀧井氏にたのむ。書誌学会十五日京都でやると。 11月5日 けふより検書。われ中島少年と組になり歴史の部当る。酒井先生来られ本貸す。すみて八木家にゆき豆あげ柿たまひ、 高橋家にゆき畑少しやり寺尾にて岡田謙「民族学」(25)、平野「民族政治」(20)買ふ。けふ溯及分1300円もらひし。子ら遠足とて兄は信貴山、妹は柳本の長岳寺へゆきし。 吉田君より手紙。八木嬢兄とはあはずと。 11月6日 検書、わが部終る。中村君と会はず。古参ぶるが故なり。帰途、鈴木氏にゆき豆与へ、酒井先生のこと云ひしに、野田又夫に頼まんかと。意気地なし。 11月7日 昨日約束せしにより八木、山中二嬢と正倉院見にゆかんとせしに学童の日らしければ、柳本に下り秋永氏訪ねしに不在。丹波市まで歩き、 高橋君誘ひ一駅にゆけば、二嬢の外、町田君あり。五人にてゆき高橋君の尽力にて飛島園のとりなしにて裏より入場。ゆっくり見たり。戸籍帳、弾弓、借金証文など面白かりし。 ついで喫茶(五人にて125)。三月堂にゆき(100)、大仏殿に入り、高橋君と別れ昼食。春日神社参拝。15:50の汽車にて帰る。足痛し。 11月8日 閲書終りの日。鈴木氏によれば酒井先生の話未だ。服部、昼来りて聞けばあと三十円の所までこぎつけしと。 高橋君のため十日十一日耕作せんとせしに二人とも日直当りゐる。山中八木二嬢に代りてもらひ、ともに出て養徳社に寄り、中島の(※遺稿集の)話せしに諾と。 叢書外国篇八冊もらひて帰る(けふ、十三日石浜先生へ出張せよと)。 保田に寄れば明日より信州にゆくと。ハイネのこと諾されしと。 11月9日(日) 大掃除出勤とのことにて出でしも七時の汽車におくれ、米田清治君を訪ね、「モンテーニュ」やり、 坂口允男君訪ね「楊貴妃」返してもらひ九時の汽車にのりゆけば掃除すみ、薪分配を受け会食。小幡君来り、きけば兄、ホノルルを出てのち投身自殺と。 帰途、高橋君のところにゆきニヒリストといふ小幡君を説教す。 けふ職員の要求通り、来週一杯農祭休暇。 11月10日 七時の汽車にて丹波市。鈴木氏に米二升もちゆき、八木家へゆき高橋君の畑へゆく。藷掘りと牛蒡掘り。帰途、富永の家前にて瀧井氏に会ひ保田のこといふ。 ごぼう貰ひて八木家へゆき夕食。詰所に泊りしも合客ありて眠れず。 11月11日 朝、八木家を出、高橋君とまた山畑へ藷、大豆、里芋、鯉もちて帰る。また牛蒡もらふ。帰れば杉森氏よりハガキ。郵便おくれ詩二月号にならんと。 (養徳社より十五日の会のこと、石浜先生に伝へにゆくことを云ふ。) 11月12日 九時の汽車にて丹波氏にゆき、山崎君とカストレンよみ、昼食芋粥賜りてのち図書館にゆく。山中女史かはゆし。酒井先生来られ再婚のこと、 奈良の書房の太田女史来る。二十四日再び来よといひ、ともに出て富永宅、養徳社により、上り15:51にて檪本にゆき中島夫人に養徳社の(※遺稿集出版計画の)こと云ふ。 帰り、岡本和子氏に堀内君への伝言たのむ。吉田君よりハガキ。 11月13日 大阪出張とて9:00出発。上●より徒歩、大丸へゆき村田幸三郎を訪ねしに一月半北海道に出張と。梅田の地下ホテルに筒井を訪ねしに市役所と。 歩きてゆき会議中とて待たされ13:00やっと会ひともに昼飯、喫茶。養子にゆかんと思へど五万円いると。正月桜井へ来んと。 地下鉄にのりナンバにてのりかへ住吉より石浜邸を問へば神田先生より昨日連絡ありしと。三十分ほどにて辞去。河内松原の肥下を問へば麦まき。中島の原稿保田へ送りしと。 帰れば20時。無駄足多き日なりき。 11月14日 家居。煙草配給。夜、米田家へゆき保田家へゆく。保田まだ帰らず。肥下よりのコギト抜萃も来らず。父君と話して帰る。けふひる「東亜の殉死の慣習」書き了ふ。 11月15日 9:00の汽車にて出発。円町まはりの電車にてゆく。養徳社の連中と一緒になり、きけば三村君辞表呈出と。父の家にて昼食、河原町大教会にゆき14:00頃より開会。 矢野峰人博士、泉井博士、神田先生、頴原退蔵先生の外、石浜、赤松俊定二先生おくれてお越し。養徳社よりは上村六郎氏、館より富永、中村の外に新井女史炊事に来れるも可笑。 頴原、矢野先生われを知らる。楊雲萍無事と。停電の中、杉浦と出、野田又夫にゆき中島のこと頼み、下総町につれ帰りて泊める。 11月16日(日) 杉浦と家を出、野田家へ中島遺稿もちゆき羽田明を訪ねしに、速達して昨日早く田村博士の許へ来よと云ひしと。 東方史論叢の委員を養徳社より云ひしと。可怪。11時出、さがしあぐみて伏見稲荷へゆき羽倉啓吉を訪ね、茶菓ふるまはれ、子らへの土産もらひて帰り、丹波市へ出、服部を訪ね匆々帰宅。羽田速達けふ着きしと。 11月17日 出勤。研究室へ一切運びしに館長近日中にかはれと。その後許されて二号室勤務。亀井、末吉、藤枝よりハガキ。育生社より原稿用紙来る。20分早引して帰る。杉浦ゆふべ服部に泊りしと。 11月18日 矢野文庫に印捺せと、柴田、中瀬古に少年にやらす。藤枝へ原稿を井手口女史にと山中嬢にたのむ。服部来る。退館まぎは館長来りて不機嫌なり。吉田氏へ手紙。高橋君により芋もらふ。 11月19日 登館、朝から整理大分すすむ。昼、畑に豌豆まく。二女史お手伝ひ。相野忠雄来り、ともに出、養徳社により別る。 「勝者と敗者」をのせた「新日本(※眞日本)」来る。羽田より速達、二十七日来よと。 11月20日 登館、杉浦帰る。汽車にのりおくれ山中嬢と八木家へ寄る。けふ十三、十五両日の旅費(200)もらふ。 11月21日 登館、昨日より風邪。酒井先生、広師校長連れ来らる。京大哲学科の学生、野田君との連絡に来る。コギト未だ来ず。吉田君、堀内民一氏よりハガキ。 俸給貰ひしも当座にも足らず。玉葱植う(100本20円)。 11月22日 欠勤。時々小雨。ハイネ清書。父よりハガキ。 世に生くるよわきわが性わが涙かなしく吾子にわれは伝へし 11月23日(日) 山崎君来り、柿くれツングース語文法よみ終る。硲君正午来り、辞典と湖南、和田先生もち来り、パンとタバコ呉る。ありがたく気の毒なり。 ハイネ清書し終る。不満なれどいたし方なし。明日[屋●]註つけ解説書きて渡さん。 11月24日 出勤の途、鈴木氏に寄る。荒川氏玉葱苗賜ふ。午まへ典籍学会のこと、三興出版社来る。金は月末渡さんと。帰り、玉葱植え、八木嬢と話す。厚生社より手紙。 印税一割二分と。一興叔父よりハガキ。珍し。 11月25日 出勤。事なし。ハイネ注つけ終る。一興叔父へハガキ。 11月26日 出勤。山中嬢かはゆし、八木嬢にくしと思ひそむ。高橋君舅君胃癌にて医者見放せしと。(鈴木氏へ寄りてゆく)。典籍学会の披露文書く。外仕事せず。 帰りてハイネあとがき十五枚、●●にて書く。 11月27日 七時の汽車にて奈良へゆき三興へゆけば稿料一口に渡さんと。不快。 京大へゆき佐藤長君と話し喫茶にゆけばウメザオ君(※梅棹忠夫)あり。田村博士と話し、羽田来り、養徳社の吉岡君も来る。すみて東方文化へゆく。 「中国史学入門」の祝賀会なり。田村博士の推薦にて東方史論双編輯委員となりし。杜甫、博多久吉より受取あり。石浜先生の還暦記念論集の依頼状受取る。ゆき子流産。 11月28日 出勤。捺印すみたり。文化会にてソ聯の話あり、面白かりし。 11月29日 出勤。南側の部屋に代る。八木嬢を促して玉葱二百本(30)植え、同家にゆき小喫、養徳社にゆき「聊斎志異」のこと庄野君に云ふ。一月末もとこよと。 「キーツ」「呉舩録」もらふ。「長安の春抄」また買ふ。 11月30日(日) 終日無為。ただ久し振りに入浴せしのみ。厚生社と亀井末吉にハガキ。 12月1日 出勤せんとし汽車におくれ電車にてゆく。欠勤五名、なかに八木嬢あり。畑のこと靴下のことにて山崎君に怒る。三興来らず、 こちらより行かんとし大掃除すみて出れば途にて会ふ。7500受取り誓約書にはん押し、喫茶後別る。高橋君に寄りしに女児出産と不在。養徳社にゆき吉岡君と話し帰る。保田に寄り礼云ふ。 肥下より中島のヌキ刷来ずと。 けふ「中国史学入門」80円にてみつけ買ふ。安全剃刀の刃5枚15円、タバコ25円。岡本和子、某君に会ふ。往き電車にては米田君に会ひし。 12月2日 出勤。語専の芝居に明日行っても欠勤とせずと、可嗤。三村啓吉来り、退職手当3000貰ひしと。ともに出、喫茶して別る。 12月3日 出勤まへ八木嬢見舞ふ。荒川氏より飴貰ふ。「学芸」11月号買ふ。羽田と吉田ふじ子にハガキ。悠紀子流産怏りしか。 12月4日 出勤。不快。八木さん出勤、玉葱二百本植う。柿20円買ふ。 12月5日 出勤。高橋君に頼まれ柿拾ひ。すみて服部家にゆき夕食。将棋打つ。酒井先生のこと未だきまらずと。(月給と凹修綻とにて2800もらふ。) 朝の会にて富永つまらぬこと云ひ、木村、金井、仙田、中村、われより倚中改●くらふ。午後一時まで将棋さし吉岡英雄君の室にねる。(吉村正一郎、大和文学同人ことはりしと) 12月6日 朝食、服部にて食ひ、吉岡君怒る。食ひ直して苦し。9:00ともに出、養徳社により10:00出勤。午後山中嬢と玉葱植え、そら豆、えん豆蒔く。 ともに帰り小路に行きしに上田君不在。丹波市へ帰り高橋君手伝ひ、ハイネ「冬物語」買ひ(30)帰る。桜井駅にて駅夫に怒り、駅長室へゆきすみし。「不二」十一月号来る。 12月7日(日) 服部と橿原神宮にて待合せ、約束せしも来ず。肥下の新宅にゆき昼食、新米二杯食ふ。反当り供出2石6斗5升にて実収2石5斗と。 瓜破にゆき父兄に会ひコギトぬきて来る。そろはざりしは残念。 平野に出で天王寺、桃谷を経て硲君の下宿にゆき「唐詩選 上」のみもち帰る。藷一貫匁与へ、干魚もらひし。19:00帰宅。 ※〈正午過ギ田中克己来訪、コギト中島掲載原稿郵送セシモノ未着トノコト。田中ニ瓜破へ行ツテコギトヲ探シテモラフ。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 94pより 12月8日 出勤。養徳社にコギト届け、三好、伊東に便かかされ、典籍学会のことにて明日京都出張を命じらる。服部「シロコゴロフ」浅見氏より譲受けくる(200)。 聞けば昨日大鉄終点で待ちしと。まもなく中島夫人来り公報ありしと。五月イポ山地で戦死と。暗然。寺島と北八郎翁来り、きけば69才と。父よりハガキ。 帰途保田に寄る。けふ乾電池注文す。 12月9日 京都出張。7時の汽車にて丹波市、10時頃三高へゆきしに●●休みにて羽田ゐず、田村博士に会ひて「東方史論叢」のこと云ひ、野田又夫訪ねしに不在、 東方文化への途、「日本永代蔵(15)」買ひ、神田先生に会ふ。中山管長の所在●つもりせよと。明日来丹のつもりなりしか。藤枝、外山不在。 野田氏を再び訪ね、中島のこと云ひ、弁当食ひ、かぎ屋にて喫茶。臨川にて「高適与岑参(15)」、「唐五代詞選(15)」「海潮音再版(40)」買ひ羽田にゆく。 三月インフレ悪化と。●物を早くせよと。4時頃出て帰宅。雨となる。吉田君よりハガキ。 12月10日 雨、出勤。昨日の報告す。神田先生昼まへ来られ、養徳社の庄野、小牧君と相談、むつかしきことなり。八木君に「海潮音」貸す。17:21の汽車にて帰宅。 12月11日 疲れて欠勤。冬の風吹く、一日臥床。 12月12日 出勤。職員会あり、館長への要求事項きめたり、面白し。17:21の汽車となり散髪(30)。父、中野英雄よりハガキ。 12月13日 出勤。昨日よりリストのタイプ打つ。服部と極楽寺へゆき中島の通知、表書かく28枚。 公報「5月27日リサール州イポにて頭部砲弾破片創にて戦死」と。夕食いただき帰れば汽車に保田あり。父よりハガキ。 12月14日(日) 父来ず。寒し。終日臥床。無為。 12月15日 出勤。鈴木治氏へゆき話す。けふより年末の司書室あと始末とてタイプとのり付け。すみて高橋君にゆき夕食よばれ、電車にて帰る。米田君にみちで逢ひ、つれ帰り英語教ふ。 谷川、芳野、角川書店より手紙。「淀川」「醍醐宇治」買ふ。15 12月16日 出勤。司書室勤務。午後雨、東京より小包来り「饗宴」あり。 12月17日 よべ雪、三輪山うつくし。出勤。帰り17:21の汽車となり山中嬢に芥川「支那游記」20買ひて贈る。 12月18日 睡眠不足にて(同盟年鑑よみしため)遅刻。汽車にて岡本嬢に会ひしも語らず。三輪の池田君に管長のところへゆくに会ふ。遅く帰り「印度史概観30」買ひ、煙草買ひ、柿買ふ。 加茂儀一「家畜文化史」すむ。芳野、谷川へハガキ。 12月19日 出勤のまへ鈴木氏により大豆頒ち石鹸賜はる。出勤してしばらくして会議。来年早々一万円位もらへるらし。馘首の時は二ケ月前に云ひ、9ケ月-6ケ月分呉ると。 京都出張を命ぜられて神田先生のもとへゆく。藤枝に会へば世界文庫に紹介すと。杜甫やらんかと。入谷氏の案内にて神田先生のお宅へ伺ひ一万円を渡す。 帰り本屋をあるき湖南「先哲の学問」、高橋「北方諸言語概説(18)」、「町人」、「中国民衆の生活と文化」、「唐宋伝奇集」など買ひ、 四條-丹波橋-新田辺-西大寺-郡山-八木、帰宅21:00。柿食ひて寒かりし。 12月20日 出勤。大掃除すみて13:00より忘年会。酒のみて寒く伏し、ボーナス貰ひしを遺失。高橋君の茶室に泊る。風呂もらひし。 12月21日(日) 高橋君にて朝食。安達氏を見舞ひしに案外元気。高橋君図書館へゆきくれしも無しと。われゆきて給仕たちに聞きしも知らずと。館長来り、 木村君に昨日の言咎めしが無事すみし。山崎君に会ひ近々一ヶ月分出ると。八木君にゆきうどん頂く。ボーナスの件、秘密にせんと云ふ。電車にて14:30帰る。途にて父に会ふ。 今井俊三郎叔父不況千円かへすべしと。保田家へゆき父の土産わたし、茂吉「短歌写生の説」置く。影山氏、末吉よりハガキ。 12月22日 休暇、一日床にあり。保田の雑誌にと「海南島の東坡」見直す。 大和文學第一集1947.12 12月23日 7:30出発、保田にゆき父君に飛島学園のこときき、保田より養徳社への注文きき、9:00の汽車。養徳社鈴木氏を経て図書館。八木嬢に歌一首。 うれひつついにし子よりもあさゆふにえまふこの子のかなしきいまは(※憂ひつつ去にし子[吉田女史]よりも朝夕に笑まふこの子[八木女史]の愛しき今は) 昼食後出て日和佐へ寺島喜八郎氏への手紙托し、服部にゆきしも不在。中村兄弟も不在。高橋氏も不在。前川老を訪ね、みかんせんべつ賜ふ。方々で好かれしかな。 「大和文学」見しに保田われの詩を引く。(※「炉辺独語」) 12月24日 汽車におくれ電車でゆき、養徳社に依り、高橋君誘ひ鈴木氏。登館すれば中村夫人逝去と。ボーナス2300もらひて悔みにゆく。明日葬式の予定。鈴木氏に又寄りて帰る。 12月25日 中村おかず夫人葬儀とてゆき対応。管長500円の香奠、富永100円にてわれと同じ。式まへ少女かへり来りて「お母ちゃんは」といふに泪催ほす。16:00帰宅。父、前田純敬より〒。 12月26日 9:00汽車にてゆき服部で昼食。中村孝志氏より論文返却。図書館にゆき19.50もらひ菊芋掘り二女史に会ひ、小島悠馬「古代支那研究」(70)、 榊「弘法大師」買ひ電車にて八木。爐書房にて「伝教大師(25)」、長沢「時文字典」(20)買ひ、「神軍」あるを見とりて帰る。三好達治よりハガキ。坂口允男来りて柿、大豆くれしと。 12月27日 けふも暖かし。午後坂口君を訪れしも留守。保田も留守。 12月28日(日) 家居。米搗きしかど二分搗位か。12日に出し吉田君の手紙着く。 12月29日 家居。寒し。霙降る。中野博之、神田信夫、前田純敬へ返信。 12月30日 朝より餅搗。八木へゆき笠井君にシロコゴロフ返却。井上節子嬢、榛原の材木商へ嫁ぐと。吉田君思ひて哀れ。爐書房へ寄りしも辻君留守。石浜先生の本(50)買ふ。 「神軍」呉れしと。米田君来り、野菜呉る。餅、教会の人と搗き呉る。和田先生へ手紙。 12月31日 午後、西窪氏へ薪とりにゆき、やまのいも(百匁20)、柿(百匁13×3)買ふ。大掃除す。妻子多良ゆきの仕度す。教会へお歳暮。 田中克己日記 1948 昭和23年 1月 1日~昭和23年 7月22日 19.0cm×13.0cm 横掛ノートに縦書き 昭和23年   田中家系図 【昭和23年】  愛知大学教授への招聘が、図書館事務課長だった板倉鞆音(昭和28年に館長)を介して打診されたのがこの年の1月。板倉氏はリンゲルナッツほか新即物主義の紹介で有名な独文学者であり、 「四季」「コギト」への常連寄稿者でもありました。それ故に声を掛けて下さったと思しいのですが、田中克己は早速現地を訪れ、すでに教授となってゐた丸山薫にも会ってきたものの、 結局この招聘を受けず、代りに同僚の服部正己が手を挙げて豊橋へ赴くこととなります。  もしこの話を受けてゐたら、丸山薫を連盟の会長に戴いた中部日本詩壇でどのやうな活躍がみられたのか、岐阜在住の私ならでは夢想もふくらむところではあるのですが、 職場の待遇と雰囲気に嫌気がさしてゐた詩人はこのオファーに勇気づけられたのか、本格的な転職活動を、これ以降に始めることになります。  詩人にしてみれば、中京地区には弟が伊勢に、妻の義兄が大垣にゐましたが、肝心の東洋史学界には知合ひがありません。父が手紙に書いてよこしてきたやうに「戦災で焼けなかった京都こそがこれから文化の中心になる」との思ひも、多くの師友が奉職する京都大学の権威を仰いでは、眩しく肯はれたでありましょう。さうして天理図書館にて懇ろになった同僚とも別れ別れにはなりたくない(苦笑。でもこれ、日記に付せられた歌を読んでゆくとわかるのですが結構深刻です。御長女依子さんも覚えておられる“流血の夫婦喧嘩”も原因はこれだったのかもしれません…)。  板倉鞆音からは、ならば国会図書館へ行ったらどうかと手紙に書いてもらって悪い気はしません。しかしこの後、「生涯最悪」と呼ぶことになる雌伏の二年間が、 実にこの愛知大学からの招聘を断ったところから始まります。運命は皮肉です。  恰好の話相手で、何くれと生活上の世話も焼いてくれてゐたコギトの盟友、服部正己の一家が天理から去ってしまったあと、詩人は同じく高校時代からの友人で、 京大の東洋史研究室にあった羽田明の家庭へと何かにつけて足を運ぶやうになります。その父君は京大総長を定年で退いた羽田亨。東洋史学界の泰斗であり、 当時は同じく京大にあった東方文化研究所の所長でありました。一方的な関係とはいへ羽田明に温かく迎へ入れられた田中克己の、コネクションにかける期待は絶大です。 同時に桑原武夫、野田又男、外山軍治、藤枝晃など、先輩友人に事欠かぬ京都大学で催される学界の集まりにも足繁く参加しては、なけなしの金で進進堂のコーヒーを飲み、語らひます。 それは当時の田中克己にとって、同僚の恋人と語らふ「詩人の生き甲斐」とならび、生活を忘れさせてくれる「学者の生き甲斐」として、大切なひとときであったに違ひありません。  しかしながらその所為で、しわ寄せは家庭に表れ、家族が父親とともに団欒する様子などは(夫人が5人目を宿した身重の体であったことを別にしても)日記のどこを探してもみつかりません。 おとーちゃんは毎日一体どこでご飯をたべてくるのか(笑)、二、三日家を空けるのはざら、帰ってくれば機嫌の悪いこともこの時期は特に多かったに違ひなく、 昔の家庭ながらすぐに手が出る、茶碗が飛ぶ。却って浮気の相手が心配してやってきて子供らの世話をあれこれ焼いてくれる有様に、奥様の心労もって察すべきと申せましょう。 記述からは特に長男である史(ふびと)氏に対する、形で見える愛情が薄いやうに感じられます。使ひ走りにはゆかされるものの、男親らしい交感は感ぜられず、 (窮乏にあったとはいへ)家庭訪問の先生には高校大学にやるつもりの無いことを公言さへしてゐます。  さて、幸か不幸かこの夏、新制大阪大学に助教授の口があるといふ話が、京大筋の友人から舞ひ込みました。恩師和田清ほか先生方の推薦をとりつけるのですが、 上司となるべき桑田六郎教授の反応は捗々しくありません。後から考へれば、公職追放の指定こそ受けなかったものの、唯一赤色パージをのがれた官立大学の世界では、 戦争詩人の肩書を持つ学者が収まるべきポストなどなかったのでありました。  しかしいづれ京都大学ででもなんとかなると思ったのでしょうか、例の隔離病舎の借り住まひからは退去し、田中家は天理教桜井大教会の一室に移ってゐましたが、気が急くあまり、 詩人は転職先も決らぬまま、京都市は上京区、父の住む寓居近く、羽田明と同じ田尻町に借家をみつけてもらひ年末に引っ越してしまふのです。ここからがいよいよ求職苦の始まりとなりました。  「生涯最悪」の二年間には文事の方でも不運が襲ひます。先づは好評を博した『李太白』の評伝に続いて書いた幻の『杜甫伝』のこと。 200字詰492枚を昭和21年の夏には脱稿したのですが、これを父の伝手で金尾文淵堂から出すつもりが社主種次郎氏の急逝(22年1月)によって頓挫、 ふたたび老舗の博多成象堂から刊行を期すも、校正を三校まで出しながらこれまた倒産によってならず。さらに預けた原稿が有耶無耶になってしまった一件です。  田中克己の『杜甫伝』は後に昭和51年、講談社から刊行(253p)されますが、「あとがき」のなかでこの一件は「腹稿」として片づけられてしまってゐます。 そして「杜甫伝は戦後すぐの昭和21年9月英文学の泰斗齋藤勇先生が研究社からお出しになったのがある。」と「ついでに記して」あります。 日記にこの新刊について全く記録がないのは変であり、当時この既刊書についてはノーチェックで執筆がすすめられたのではないか、 そして刊行が不調に終わった後に400頁近い評伝本が、しかも畑違ひの学者から出されたことを知るに至り、原稿の書き直しを断念してしまったのではないか、私はそう思ってゐます。  もし原稿が失はれず、これを出したがってゐた角川書店や弘文堂の手で刊行されてゐたら――。この年11月に無事に刊行された聊斎志異の訳書(『狐の詩情』)の方は、 世のの活字需要に応へ、他所の出版社からも別訳が出されてゐるのですから、「詩を作るときには李白より杜甫の方が参考になることが多かった」と述懐し「性格からいうと豪放磊落な李白よりは憂鬱悲観的な杜甫の方が好みに合って」いたといふ詩人の、 常に李白の専門家として続いたその後のオファーにも、あるひは影響を与へたかもしれません。  それから前年の解説にも書きましたが、正式な戦死公報を受け、この年の3月に遺骨なき中島栄次郎の葬儀が営まれてゐます。京大同窓の野田又男と、 一番の親友だった田中克己が中心になって遺稿集の刊行を画策するも、本命の出版社であった養徳社の反応がにぶく(社員扱ひの用事を嫌ひ、企画に深入りできなかったことも一因でしょうか)、 結局刊行を見なかったのはさきに述べた通りですが、これもまた、3月に発表された保田與重郎の公職追放に絡み、彼の舞台だった「コギト」周辺にあった人たちが割を食った一例でもあったのかと、 私には思はれてなりません。天理教の真柱中山正善が保田與重郎の人物に魅せられ、創刊させた文芸雑誌「大和文学」も、編集部内部に彼を忌避する空気が生まれ、 この年に3号を出したきり立ち消えてしまひます。その結果、保田與重郎を信奉する同志が鳩合して、雑誌「祖国」の旗揚げへと向かふのは翌年の話です。  これらはしかし「コギト」の経済的パトロンだった肥下恒夫が戦後「農地解放」に遭ひ、財産である田畑の殆どを没収されることなどなければ、 何の問題もなく解決せられた筈だったに違ひありません。田中克己にとっては親戚でもあり、金持ちのボンボンとして気兼ねなく寄りかかって居られた肥下恒夫ですが、 戦後はこれをもって窮乏の緒となし、大学を中退してゐた所為で確たる職に就くことができず、育ちの良さが裏目に出て、潔すぎる世過ぎの末、 たうとう昭和37年には農薬を呷って自殺してしまひます。  この年の夏、田中克己は居易かった彼の家にふらりとやってきては、泊めてもらえなかったことを根にもち、しばらく足を遠ざけてゐるやうです。 近すぎる相手に対して構はない気風が、関西の旧制高校の同級生を母体とするコギト同人間に行はれてゐたとすれば、その中心で終始甘えてゐられたのは、 町屋出身で裕福な階級でもなかった最年少の田中克己でありましょう。素封家に生まれた肥下恒夫は、“癇性の詩人”を大人然と見守りこそすれ、 誰からも憐れまれることなど考へられなかった立場にゐた年長者です。それが一転、経済的余裕がなくなった途端、同じやうに接してくる友人が自分をぞんざいに見下してゐるもののやうに感じられてくる――。 雑誌「コギト」の刊行を実務的にも経済的にも支へたのは、偏へに彼の無償の共同の営為に掛かってゐました。友情に殉じた自負に罅が入り、「肥下さん」が自らの半生を「卑下」する境遇へと落ち込んでゆく悲劇が始まってゐました。 詳しくは評伝をご覧ください。  保田與重郎に至っては、文名を成すに従ひ、第三者が入る場での田中克己との間には鹿爪らしい垣根を築かうとするやうになったのだといへます。 すでに早い時点で、雑誌「日本浪曼派」の同人に田中克己が呼ばれなかったことは、さうした節目に起きた「事件」とも呼べるでしよう。 「かぎろひ」時代以来の、二人の間だけで確認せられてゐる友情は複雑です。この時代の日記からは、困窮する田中家をおせっかいにならぬやう見守る保田家の姿が、 また詩人も保田家に頻繁に通ひ世話を焼かれ、父上や弟君と談笑する間柄にあったこと。さうして保田與重郎を貶める言説に対しては陰日向なく感情的に敵視し、加担する様が窺はれます。  もしも中島栄次郎が生きてゐたら――。この関西日記に不在の影を大きく落としてゐるのは、やはり彼であるやうな気がしてなりません。(昭和24年につづく) 昭和23年 1月1日 二時半に起きて悠紀子炊事と裁縫、史も手伝ふ。われ寝そびりしまま眠れず。雑煮餅六つ食ひ5:30四人多良へゆく。教会の元旦会食を隣の室にきく。 午後会長宅へ挨拶の後、保田へゆき父君と保田と挨拶。御馳走になりて楽しからず。 1月2日 10:00図書館の柴田生来る。やめて大学へゆかんと。午後服部、吉岡武雄氏と来訪。保田へゆき18:30退去。胃わるし。 1月3日 文芸の稿料(500-75)来る。家居。もち茶漬食ふ。 1月4日(日) 誰も来らず。午後出、坂口允男にゆき米田清治を訪ねして汽車まち合せ、15:29の汽車にて丹波市。 服部にゆけば酒井先生(※酒井賢)あり。老年下宿の未亡人と恋愛と。吉岡君のところにゆけば夫人帰りゐる。双方にて夕食御馳走となり服部に泊る。 物さはにあるを見るて羨ましと思ふ、珍しきことかな。 1月5日 8:00の汽車にて帰来。妻子昨日帰りしと。大教会の教師の新年宴会、修養科生よりの利得につき正論出しも正月早々の問題たらずと立ち消え、吉田嬢より手紙。 1月6日 午後、肥下来る。ともに保田にゆきしも前川にゆきしと留守。帰りて酒二合振舞ふ。吉田嬢へハガキ、学問やめよと。 ※〈一月六日 火 曇。午前九時松原町役場へ行キ、農地買収令書受取。午前十時桜井ヘ赴ク。午后零時半松田家ニ着ク。松田(※松田明=坪井明))留守。田中克己ヲ桜井大教会ニ訪フ。子供達ニ数年振リニテ会フ。午后三時田中ト共ニ保田ヲ訪フ。奈良ヘ出カケテ留守。再ビ田中ノ所ニ行キ酒ヲ馳走サル。午后六時松田ノ家ニカヘル。松田丁度帰ツタ所、共ニ雑談夜十二時ニ至ル。〉 ※〈一月七日 水 曇。午前十時保田ヲ訪フ。子供達皆出テ来ル。午后三時田中ト共ニ保田ヲ訪フ。午前十一時松田方ニカヘリ昼食後、松田、セツ子(※妹)、悠紀子(※田中克己妻)ト共ニ電車ニテ瓜破ニ向フ。途中松田、岩木(※磐城)ニテ下車ス。松原帰着四時半、平野行バスナシ。止ムナク我ガ家ニセツ子、悠紀子泊ル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 82p 1月7日 無為。聊斎志ちょっとやる。 1月8日 7:00の汽車でゆき、八木嬢に会ふ。日直、することなし。俸給+五日支給と電話。中村忠行君、台湾文学の新垣君つれ来る。 八木嬢にあとたのみて15:00出、養徳社へゆき玄想と大和文学もらひ、中島のトルストイ論托す。 けふ館に伊東の「反響」と「東洋史研究」10ノ1来りをり、家に沢田より年賀状。 1月9日 入浴せしのみ。沢田へハガキ。 1月10日 無為。大食。「志異」訳す。杉浦へハガキ。 1月11日(日) 神田信夫君より返信。藤井寺へ三児つれてゆく。米一斗と小豆のこと頼まる。久美子妊娠して結婚せし様子。 「司馬遷(岡崎文夫)」、佐野学「清朝社会史」「古代日本語」買ふ。71:50 1月12日 初出勤。山中嬢とゆき、佐野学「清朝社会史」福武直「中国村落の社会生活」買ふ。午前中職員会、午後掃除、すみて服部にゆき中川浪高教授と将棋。 伊東静雄、亀井昇よりハガキ。八日弘文堂来りし由。米田君、夜来る。 1月13日 出勤。歌一首。 とらへんとすればとび立つ鳥われとつれなくいひて笑まふをとめぞ 新年宴会投票の結果、やることとなる。矢野文庫整理二年かかると申出。橋本少年飴呉る。インク25、煙草50。伊東、大江へハガキ。小西氏の娘嫁入につき祝100。 1月14日 眠く9:08の汽車にてゆく。養徳社へゆき「雨窓歌枕集」もらふ。登館、須賀文庫大分片付く。歌二首。 とみ山の北のふもとにわがすみて東の方をおもふあさひる ますらをののぞみをたちてをとめごとうたかはさむとおもふこのごろ 吉田ふじ子へハガキ。「学芸」十二月号買ふ。 1月15日 雪降る。鈴木氏にゆきお茶のみて登館、五ケ年計画なるものを承る。午後2400貰ふ。帰途文学堂にて「聊斎志異」「唐詩選」「小説戯曲新考」買ふ(225)。 時報社にて金沢庄三郎「茶」買ふ。 タバコ20(50)、和田先生よりハガキ。「東方史論叢会」のこと承知さる。 1月16日 雪降る。家居、新年会やめしなり。羽田へハガキ。 1月17日 出勤。歌二首。 山かげの小さき家にゐろり切りふたりすまへるゆめをひるみる 牧草にならびゐしときセニョーラと呼ばれしひとは忘られまじき 返し あるときにしたふをとめもいくたりの君かとおもふさがもかなしき 職員の館長への要求事項協議、つまらず。養徳社へゆきしに田坂君のこと駄目と。服部にゆき将棋して帰る。「続日本記宣命」16.5 1月18日(日) 米つきしのみ。 1月19日 出勤。佐藤誠来る。昼、玉葱押へる。明日より9:00出勤と。鈴木に寄り小豆分け(5合75)、大麦たのまる。井上節子嬢来り、京大受験用に東洋史概説借りゆく。 帰途米田家に寄り、清治君に東洋史研究会費たのむ。 1月20日 出勤。けふより9:00開始。弓子風邪。 1月21日 出勤。伐木作業。典籍学会の相談。すみて後の汽車となり養徳社による。弓子なほる。 1月22日 出勤。中村忠行君「殉死」の校正もち来る。「大和文学」の会30日14時と。保田に寄り云ひ置く。 板倉鞆音より手紙、愛知大学図書館事務館長と。霞山公の文庫五万と小倉正恒の十二、三万点あり。月給四千円位と。 1月23日 寒●の●にて九時の汽車。ゆきて須賀文庫数へしにあと16冊。八木嬢と話し、畑見、午後何もせず。4:00出て58分の電車にて京都ゆき、 羽田家へつきしは19:30。夕食たうべ可否いへず、大学のこと(※愛知大学からの招聘?)博士に問ふべしと、22:30まで話し父の所にゆく。可否いへずと。 1月24日 7:00起き、9:30弘文堂へゆく。教養文庫に杜甫くれよ、世界文庫もほしと。羽田にゆけば12時。昼食よばれ博士のところに参る。可否いはれず、すぐ断ることもなからんと。帰宅17時。 1月25日(日) 朝、八木君来り、父に叱られしと。10:00帰る。午後硲君より「蒲寿庚、唐詩選下、中国社会史研究、支那地方自治発達史」もち来る。 水曜日14:30に講演に来れと。板倉氏に履歴書と手紙書く。 1月26日 日直出勤。天理教春季大祭なり。八木君来り、父にまた叱られしと。午後山中君来り、西田君来る。山中君朝の電車おそく一緒にゆけざるを怨む。杉浦よりハガキ。北大に決まりしと。 1月27日 出勤の途、靴底にて修理(300!)。寒くて何もせず。午後給料是正会議、中村君950、われ8.50なり。吉岡君来り、三好達治に会ひにゆかんかと。帰り二女史と高橋君に寄る。 1月28日 朝、夫婦喧嘩。茶碗にて叩き出血せしに驚き子等みな泣く。止血後藤井寺にゆけば久美子女子けさ出きしと。 小豆二升わたし昼食して大高にゆく途中、住中に伊東訪ねしに(※講演会に)来る予定なりしと。●台●高校の国文教授、犬養氏、来●。マライよりの帰りの講演ききしと。 米田巍君あり、学生時代より若くなりしと。今中後輩なり。講演旨くゆかず、夕食よばれ、300もらひて帰る。 伊東、空襲の時、手をつくねて家やきしと。原因、家主との不和と、面白し。夫婦相和すと。 1月29日 朝、吉岡君のところへゆき聞きしに三好氏昨日来る筈なりしと。京都へともにゆかんと云ひしを止め、養徳社に寄り「日本の古墳墓」貰ひ、 「学芸」正月号買ひて図書館にゆけば、八木君休み二日。 ややして電話、三好氏来りありと。吉岡君と旅館にゆき、ともに養徳社にゆき浅見篤氏(外語教授、淵の弟、三好氏同級)と石上神宮に参拝。図書館によらせて案内。 三好氏に庄野誠一氏、「田中氏この頃自棄的」と云ひしと。 1月30日 出勤。須賀文庫終り、14:00より養徳社にて大和文学の会。来会せし三好氏はすぐ退座。保田、前川、吉村正一郎、鈴木治氏、まとまらず、小説特輯とせんと。 17:00和楽館にゆく。中山真柱と森末義彰(史料編纂官)。森末氏、石瀬氏よりわれのこと聞きゐしと。飲み食ひして鈴木氏に泊る。 1月31日 鈴木氏に弁当作ってもらひ出勤。大掃除。すみて養徳社に寄り、聊斎志異わたし大和神社まで参拝。檪本(※中島栄次郎宅)へ引返す。中島の遺骨、中は木札と。三月頃葬儀せんと。 諸友の手紙を見、餅もらひて帰宅。教会長夫人に真柱二月六日来たしとの意伝ふ。のちほど呼ばれ準備の都合と教議員立候補のため辞退すと。腹立つ。 2月1日(日) 雨、夕方保田家にゆき中山管長を呼べといふ。保田不在。父君、(※管長を)呼ぶもよしと。豊橋(※愛知大学)ゆきにも賛成。帰りて聊斎。 2月2日 出勤。 ふたりしてゆめみる如く坐りゐし森かげのこととはにわすれじ 聊斎志異350枚(200字詰)。とはしがき8枚。15:00養徳社にゆけば酒井先生あり。ウォルデン訳され前金請求中。庄野氏一二日後にと。がっかりす。 高橋君にゆき鈴木氏と話す。帰れば父、板倉氏、平戸禎一氏よりたより。けふ管長に手紙、六日保田家へ来るならよしと。 2月3日 出勤。昨日の憂鬱の半ばは睡眠不足らし。本四冊整理、真柱より電話、保田へゆくと。土産何にせん、富永つれゆかんかと。 帰り養徳社へより庄野氏より「孟子字義」もらひ金、明日と。いくらときかれ2000と答ふ。 けふ和田先生へ手紙、保田へより父君に伝ふ。餅食はせたまふ。 2月4日 出勤。岡本和子と本四冊整理。午後寒くして怠業。養徳社へゆき二千円もらふ。末永「池の文化」、宮崎「アジア史概説」買ふ。服部へゆき金貸さんといひしに拒む。 豊橋行に反対せしは高橋君のみ。 2月5日 出勤。矢野文庫はじむ。午後職員組合規約委員会、不快。養徳社へ寄る。「文芸」来る。ゆき子保田へ酒一升(700)もちゆきしと。 2月6日 午前中、昨日会議の内容説明。真柱より電話、三時迎へに来よと。15:30ともに出、三輪の池田君を伴ひ16:00保田着。夕飯、真柱来月結婚と。20:30退去。 羽田よりハガキ。八日粉買ひに来ると。 2月7日 出勤。土曜とて服部に夕方ゆくことを約し高橋君にも来会を促し、奈良へ散歩す。前川、金井二先生と同車なりしにはおどろきし。 早春のかすがののべにわかなつむをとめをぐなと見られてましを 18:00ごろ帰丹。服部にゆき将棋さし高橋、吉岡二君と話し、十二時すぎ寝る。 2月8日(日) 朝飯よばれ10:00バスにて桜井に帰る。沢田よりハガキ。田村春雄一万円の慰謝料出し旧臘再婚と。米田君来り、羽田の講義に学生ひとりと。 保田の順三郎君来り、水菜賜はり史の頭刈り呉る。羽田来り、東方史論叢に六、七十頁書くべしと。夕食たうべ18:00帰去。一ヶ月以上ぶりにて銭湯にゆく。 2月9日 出勤。寒し。四冊ほど整理し昼となり、硲君来訪、上京とのことにて早引し、つれ立ちて養徳社にゆく。「こひうた九首」与へ、聊斎志異の題名考へよといはれ、 「古代の精神」「たみのあゆみ」買ひしのち桜井に帰り夕食。吉田君よりハガキ。怒り来る。 2月10日 出勤。寒し。「和蘭の第二朝貢」書かんとし、オギルビよむ。明日妻子来丹とて鈴木氏に寄る。養徳社に寄る。面白からず。 2月11日 紀元節。休日。建国祭と名かはりしと。子供ら式あらず。雪降り、丹波市へゆき子ゆけず。 2月12日 出勤。不快。論文のみやる。家より●●もちゆき研究室に●●●●。羽田よりハガキ。父よりハガキ。夜、米田君独乙語習ひに来る。羽田へ書托す。平戸禎一、 深井徳司に返信。 志野へゆき子ゆき五千円放棄し文句いはれて帰り来る。いやな奴との縁切りなれどもくやし。 2月13日 欠勤。元気なし。保田へゆく。豊橋へは一度しらべにゆけと。夜、「清蘭関係」書きはじむ。うまくゆかず。 2月14日 鈴木氏に寄りてゆく。昨日職員の申入れせしと。(後で金井(※寅之助)君に聞けば受け流されしのみと)。八木君と話し、アダム・シャール伝タイプにて打ちしのみにて出、養徳社に寄れば服部あり。 「聊斎志異」「狐の抒情」ともめしと。服部にゆき将棋さして帰る。吉田嬢よりハガキ。 2月15日(日) 史に留守を命じ、妻子と丹波市にゆく。八木さん駅に迎ふ。われ図書館にゆけば藤枝より「杜甫」の校正来をり、これをなす中、午後二時となり、服部にゆく途、八木さんに会ふ。 服部にて校正をなし終へ、妻子に一汽車おくれて帰る。堀内民一氏より手紙。夜、「杜甫」のあとがき書く。350字。 2月16日 出勤。論文うまくゆかず。大掃除。14:00すぎ出て養徳社に寄りて帰る。藤枝へハガキ。 2月17日 出勤。論文ちょっと書く。けふより春めきし。正午、佐藤誠氏夫人をつれて来る。天津なつかしきはふしぎなり。 2月18日 9:00の汽車。養徳社にゆき昨夜来し田村寅蔵博士の電報見せ二十日上洛の返打ちてもらふ。八木君22日見合ひにて図書館の高橋君の日直代りしと。をかし。 中村孝志君来り、論文たのみわれのは次に廻さんと決む。 2月19日 出勤。何もせず。養徳社上田嘉成君来り、「聊斎志異」に挿絵入れんと。反対す。井上節子嬢来り、友達を図書館に入れんと。 帰れば松本善海からハガキ。愛知大学に●井あり、経済的基礎なくいや気させりと。 2月20日 9:00の汽車にて丹波市。吉岡君と京都。喜田聿衛氏と同車。田村博士、羽田、外山、外二氏と「東方史論叢」の編輯会。中村孝志君の論文も入る。善海のハガキ見せ愛大を断らんと云ふ。 19:30帰宅。「不二」正月号、「四季」五号(終刊号)、「眞日本」の稿料240。 2月21日 出勤。雨となる。「身体呼称」拾ひとり宮田民雄より「無風帯」(※詩集)に手紙つけて来る。 八木君昨日見合ひし結果、良好なりしらし。靴下やぶれゐし大阪工学部出と。 帰り雨はげしく、鈴木氏に寄り傘借る。木下にて「東光」「東洋学報」「地理と古典文化」買ふ。 史、けふ藤井寺へ小豆一升もちゆき19:00頃帰る。大も来りしと。 2月22日(日) 午すぎ家を出、保田父子に愛大行やめしと云ふ。バスにて図書館。「三国史記」借出し、鈴木氏にゆき話きく。昨夜睡眠不足のためか退屈。 17:00の汽車待ちゐしに八木君来り、三輪まで同車。ふられしため行きたしと、呆れていやになる。 帰れば妻子曲馬見られ●●しと。けふ不二出版社鈴木君、角川源義、弘文堂、松本善海へハガキ。 2月23日 寒し。欠勤。かかあ殿、金なしとて御機嫌わるし。夜、米田君雑誌かくしに来るも上らず。 2月24日 汽車におくれ電車でゆけば西大寺まで下りれず9:20天理着。バカらし。 山崎、悪口云ひをりし由、服部にゆかんと思ひしもやめて帰る。 2月25日 出勤。三十冊ほどやり、帰り八木君と散歩。服部へゆきて泊る。 吉岡君来り、「東方史論叢」にネームヴァリューとて貝塚氏にたのみにゆくと。中村孝志君のは次号に廻すと。 2月26日 10:00服部よりゆく。干藷を弁当にす。欠勤多し。けふより春めく。八木嬢に饅頭山中嬢と賜はる。乾うどん一メ匁(40×10)もちて帰る。夕方風。 けふ身体呼称メラネシヤ、ポリネシヤ。夜、来迎寺の若様来訪。話、面白し。 2月27日 出勤。三十冊以上整理了。館長帰りて土産をくばる、珍し。 校友会より500円くれる。お寺へ本貸す(ルーテル伝)。堀内君へハガキ。 2月28日 奈良県教職員ゼネストに入るに付、態度決定の投票。賛成9否3、山崎いやらし。午後教祖の墓にゆく。御陵墓をまねたり。八木君の兄の墓に詣る。 檪本にゆき中島の葬儀のこと云ふ。三月十四日と大体きまる。吉田嬢より手紙。小高根二郎より「思春の期」。春めき雨降る。「字と文」「文久二年上海日記」買ふ。 2月29日(日) 家居。父来り、豊橋やめと云へば反対もせず。夜、入湯。 3月1日 けふはまた寒し。午後大掃除。帰り二嬢とともにし八木嬢より茶菓奢りを受く。ゼネストに天理参加せずと。可嗤。 小田嶽夫より徳●貸せと。育生社より原稿催促。 3月2日 小田嶽夫と吉田嬢へハガキ。出勤。午前中矢野文庫のリスト作り●月中七十九冊と。 酒井先生来られ転任の覚悟されしと。「ウォルデン」のよみやれと。養徳社へ寄り「大和文学」の相談受け、中島の葬儀に師友へ十枚の案内書書き、出づれば服部来る。 引返し夕食御馳走となる。母上より(※中島未亡人の)再婚先の御頼み、不快なり。 野田より「啓蒙思想とヒューマニズム」。文明社より三月二十日までに詩一篇。服部正雄よりハガキ。 3月3日 出勤。畑へ出る。八木嬢たばこ呉る。帰途、鈴木氏へ寄る。馬淵東一氏来る。岡正雄氏ナチス関係にて信州住まひと。 3月4日 9時の汽車にて養徳社、庄野氏来らず。11時登館、米田清治君に和辻「ポリス的人間(※ポリス的人間の倫理学)」借りてやる。15:00出て、養徳社にゆき、 酒井先生の「ウォルデン」につき聞き、聊斎の稿料月曜頃と。服部にゆき200借る。ゆき子も西窪夫人より200借りしと。タバコ配給。税金にて百姓米を売り出し、 奈良160、大阪120となりしと。 3月5日 出勤。午後伐木作業いやなり。昨日は「王立アジア協会マレイ支部報」、けふは「セイロン支部報」――効なし――「アジア・マヨール」。 3月6日 出勤。酒井先生の「ウォルデン」一寸見る。 このごろは楽しといひて杉林笹のみちをば去りしをとめは 酒井先生にゆき原稿お返し、養徳社に寄りしも事なし。(ゆきかけ高橋君にて矢野目源一もらふ)。 3月7日(日) 朝、保田にゆく。酒代500円渡さんとせし。定●として西窪夫人にかへし、昼寝。小森佐一来る。十七年ぶりか。スマトラにゐしと。弘文堂細川隆司君より「東光」二冊、夜、米田君。 3月8日 傘を酒井先生のところへ返し、館へゆけば中谷生あり。宿題やりくれと。風呂の返礼をせよと也。 14:00養徳社へゆけば金庫しまりしと。吉岡君の斡旋にてやっと二千円貰ふ。三好達治氏来るとのことに待ちしかど来ず。 3月9日 出勤。午後共同畑作業、いやなり。すみて玉葱に山中嬢と施肥。服部へゆけば母君来りをるに匆々帰る。「学芸」出来、弘文堂細川君より蘇東坡よりも「東洋の詩精神」をと。 3月10日 出勤。2,600円もらひ、ジャガ芋植ゑ、うどん食ひ、高橋君と養徳社にゆく。三好氏来らず。 「ハイネ随想録」(30)分けてもらふ。けふ書店にて「カーリダーサ」「カーマスートラ」「大同石仏芸術論」買ひ、新生50本を二人にて買ひ、林檎二百匁(90)買ひ、 凡そ400円費す。服部にゆきしに不在。吉岡君も不在。帰り京大生と話し、腹立つ(大外語より支那文と)。郡山にて乗りかへしに服部あり。 3月11日 出勤。午後吉岡君電話。三好氏会いたしと。郡山、四海亭にゆき話す。京都へ移住と。18:00頃帰る。この頃また停電はじまる。 3月12日 出勤。三好氏の質問への返答、養徳社に托す。 3月13日 出勤。雨。はれまに養徳社にゆき「嘘の行方」もらふ。 田中幸臣は松井君上田君と同級、操行不良と。意外。 はるさめの木の間にありてものいひしをとめの子らに老いのかなしも 3月14日(日) 9:00の汽車にて檪本(※中島栄次郎慰霊祭)。野田、肥下、坪井、伊東、服部、われ。保田は遂に来らず。死にしとの実感あり。16:00肥下らと丹波市、 服部宅にゆきわれのみ泊る。(立野保男発狂せしと。松下の甥三高生と)。 ※〈三月十四日 日 雨午后霽ル。午前七時三十六分天王寺発ノ汽車ニテ大和櫟本ニ赴キ、全町極楽寺ニテノ中島栄次郎慰霊祭ニ列ス。田中克己、松田明(※坪井明)、伊東静雄、服部正己、野田又夫来ル。午后三時過ギ同寺ヲ辞シ、田中、松田ト共ニ丹波市ノ服部ノアパートニ寄ル。午后七時過ギ、松田ト二人ニテ服部方ヲ辞シ、電車ニテ橿原神宮駅ヲ経テ帰宅、午后十時。〉肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 86p 3月15日 出勤。事なし。厚生社より出版契約。気にいらず。 3月16日 高橋君に寄り、コーヒー御馳走となる。午後大掃除。三興社員来る。ハイネ校正は5月頃と。帰途、養徳社に寄る。雨。 3月17日 雨。鈴木氏に寄り、紅茶賜ふ。米ソ戦争近しと。午後三興の岡部克也君来り、ブランデス「ハイネ」もちゆく。校正4月末と。田村春雄の新夫人結婚翌日負傷せしと。 けふより語専の安南語卒来る。 吉田ふじ子、松本善海、辻(※辻研一「爐」発行者ペンネーム冬木康)より便。 3月18日 出勤。事なし。支那語科卒の語専生一人来る。吉田君、弘文堂へハガキ。丹波市桜井の逓信スト。夜、小説書く。 3月19日 出勤。春めく。給料2600貰ふ(税込3100)。帰途、「大和の垣内(40)」「吉野朝の悲歌(15)」「支那治外法権史(15)」買ふ。神田信夫、亀井昇よりハガキ。 3月20日 土曜、出勤。山中嬢とゆき、太宰「八十八夜」買ひ与へ「大友宗麟」「皇室ときりしたん」買ふ。鈴木氏により紅茶のむ。 山中嬢、山崎君再婚祝にたてあひ会より500もちゆく。おくれてゆけば年末のお説教。すみてわれ仙田氏に図書館法のことにつき念押しし館長には出勤と勉強のことを押す。 すみて掃除し、服部に会ふ。ハウフ訳すと。 とこしへにふたりはなれじかくいへばうべなひつつもたのしといひし あす上洛。「官話古今奇観(10)」「露伴蝸牛庵聯話(60)」。山中嬢にギリシャ・ローマ神話与へし。 3月21日(日) 雨、上洛止め。一日臥床。夕方、服部正雄、末吉栄三、爐書房へハガキ書き、三島一氏に厚生社のこと相談、「おしゃべり」二十枚となる。 3月22日 7:31の汽車にて奈良まで保田順三郎、森本弟とゆく。同年兵なるもふしぎ。京都へ着き、弘文堂へゆきしも細川君不在。明日再訪を約し、羽田にゆく。昼飯食ひ17:00下総町。 宮川「諸葛孔明(25)」内田「日本国民生活の発達(20)」買ふ。 3月23日 小雨。大と出て今出川まで歩く。靴500にて入りさうなり。 彙文堂にゆき佐野学二冊と蘇詩補注(20)買ひ、タバコ買ひ、東方文化にゆく。駒正明([北]川正明)あり。三月末限り帰京と。夫人弁当もち来らる。天津の知合なり。 東京にては五反田の佐藤誠のあとへ入ると。 弘文堂に電話せしに来り、蘇東坡とマルチニと諾す。藤枝と出て学生書房へゆき「大陸遠望」と「神軍」と買ふ(15円づつ)。梅棹君と今西錦司博士に喫茶店で邂逅。 「大陸遠望」の「ツングース」と「神軍」の「テムジン」に梅棹君の植物学的批評痛かりし。丹波市に電車で17:00着。山中嬢に会ふ。 留守中、堀内民一氏来り「大和文学」にと文托せしと。大高「風車」より速達。 3月24日 曇。「おしゃべり」了る、26枚。「風車」に返事。終業式、依子、佳良賞もらふ。浅古の尾西史郎の祝もちゆきしも受取らず。 保田へ堀内民一の原稿もちゆき父君に托し、15:30の汽車にて丹波市。高橋君にゆき服部にゆく。及落会議とて帰らず。吉岡君にて夕食。22:00頃帰りし服部と話して眠る。落第60人と。 3月25日 10:30朝食。図書館にゆき「杜甫」の校正疲る267頁。佐藤長氏より「東洋史研究」「アジア史概説」の書評をと。疲れて帰る。(時報社にて露伴「運命」買ふ。)  堀内民一氏よりハガキ。東京、硲君に一切托せしと。 3月26日 日直とて7:00の汽車。校正やりしのみ。佐藤誠君来り話す。帰途養徳社に寄りしも無人。 小田嶽夫より「西太后」受取りしと。文明社より詩の受取。 3月27日 松本善海と佐藤長へ返事。丹波市二十四時ストとて校正送れず。汽車にて上田一雄と会ふ。きのふ保田に泊りしと。長谷川幸男氏も。保田、彦根にゆきて不在。 29日再会合と。 養徳社にゆき杜甫の校正やりつつ金貰ふ(26×150‐税)。 高橋君に寄り、タバコ頒け図書館にて1900貰ひ(時報社にて英和辞典買ふ。)、山中嬢、八木嬢と帰るみち、服部に会ひタバコ50頒け、二嬢と本屋みしのみ。 鈴木氏にゆけば不在。タバコ50預け、うねび、八木にて笠井君。爐書房「南蛮更紗」「アジア問題講座11」「シベリアの自然と文化」とにて100円。帰れば21:30。 3月28日(日) 家居。夕方銭湯にゆく。博多へ校正おくらす。 3月29日 吉岡君来り、昼食をともにし保田にゆく。不快にて帰れば八木君来合はす。妻不在。18:00の汽車まへに帰り来る。発熱す。けふ三島一氏あとの手紙返り来る。 3月30日 臥床。「身体呼称」書く。 3月31日 同。坂口允男君来り、ジャガ芋呉る。「呼称」終る。13枚。大、夜来る。靴もち来る。(600わたす) 4月1日 大、正午去る。「呼称」藤枝にもちゆき呉る。三島一氏へいま一度手紙送る。二児始業式。中西先生退職と。桜咲く、しるこ食ふ。 4月2日 雨。北海道の中野博元よりハガキ。蘇東坡の旧稿看る。 4月3日 神武天皇祭。丹波市にゆく。雨。養徳社休み。散髪し八木家にゆき小豆二合差上ぐ。鈴木氏にゆき昼飯賜はる。郡山城址を見る。橿原にゆき神武御陵参拝。帰りて夕食後、 三輪の森本佐一を訪ね、話きく。中々良心的なり。宮田民雄君近日来訪と。けふ木下にて加藤先生「中国経済史の開拓」と「帰化動物」買ふ。 4月4日(日) 日直とて出勤。雨のため高橋君により傘借る。しることおはぎと賜ふ。齋藤忠「上代に於る大陸文化の影響」買ふ。杉村一よりハガキ。浪中の教子なり。 4月5日 出勤。「東洋語研究3」「和泉式部」買ふ。遡及分1920もらふ。養徳社にゆき服部によりしも留守。板倉鞆音より手紙。5000円位、独乙語の教師兼任をと。拒ることとせん。 4月6日 出勤の途、服部にゆき豊橋のこと云へば彼行くと。 デージー二株(30)買ひ、靴の半皮つけさし(352)て出勤。昼、デージー植う。帰途、服部来り履歴書受取り速達す。けふ田中甚●平来り、ざこ呉る。 服部独語にでも入れんと。阿郷書記長、組合にての仙田氏の不評云ふ。外語校長、堀越儀郎、教頭、女専校長たりし文教部長奥村と。 帰って歓迎会用の酒のことにて悠紀子岡本家にゆかしめしに五日程後なら750と。大毎にハイネ詩鈔の広告のり、定価100円となりゐしと。 4月7日 出勤せんとせしにカラー見付からず9:08の汽車にてゆく。三興出版部来り、挿絵の刷見す。保田のため故意におくらされし様子。すでに十部申込あり。他はなしと。帰り16時。 あけび咲くつつみをゆきてひとえだををりてわたせしをとめの子にや 服部にゆきしに不在。吉岡君にて夕食。服部に泊る。 4月8日 出勤。眠し。図書館法より資格審査なしとなりし。原案見る。前川氏の友にて天津よりの引揚岩田熊三氏を紹介される。服部に信書く。帰れば吉田ふじ子、厚生社、 堀内民一より手紙。父、芳野正よりハガキ。 4月9日 出勤前鈴木氏に寄る。昼、東方文化の連中来る。われ名を知らず顔知らぬ人ばかり。乗鞍山にて新入者歓迎会、われは甘党。服部にゆけば不在。夫人に前川氏の件たのみて帰る。 生駒藤雄氏追放。 4月10日 出勤。山中嬢と帰途文学堂にてエスカラ「支那」(35)、神谷「短篇小説(※支那短篇小説萃選)」(15)買ふ。平端まで井上嬢とゆき、京大止めて二階堂の新制中学教師となりしと、意外。 桃うつくしとながむるをとめうつくしとおのおのみればかすむやまやま 八木の笠井君訪ねティートフ返し「爐」にゆきて話して帰る。 4月11日(日) 午前中、坂口君に行き父君に将棋一番、勝つ。はじめてなり。帰れば硲君来をり桑原「考史遊記」、矢野「アロー戦記」「アヘン戦争」と東京よりの写真帖といけ呉る。 昼食、しるこ。「アジア問題講座11」贈る。 羽田、松本(18日頃上洛と)。文明社より退職「現代人」に「南」をと田宮虎彦。 板倉鞆音よりは服部よからん、われは議会図書館へゆかずやと。父、芳野正、田宮、吉田へハガキ。 4月12日 服部にゆききけば甚幸150点ありしと。ともに出て彼は幼稚園にゆき我は図書館。昼、三興来り、四五十頁分追加せよと(二十日までに)。 畑にゆきしのち仙田氏に図書館組合のこと云ひ、明日会すと決り、養徳社へゆけば日野月先生あり。浜田青陵「百済観音」二冊と「青木繁」とを買ひ、 原稿用紙もらひて帰るみち高橋氏により本渡せしため16:00にのり遅れ、17:21で帰る。 けふ山崎君一斗五升の米買ふといふ。 4月13日 出勤。図書館法のこと資格審査解決とわかり気ぬけす。よべ眠り足らず、眠し。羽田と板倉氏へハガキ。昼、ビブリアのこと、学芸三月号受取「思痛記」買ふ。 4月14日 出勤。ハイネ訳しゐたり。帰りの汽車にて養徳社の松井君とともになり傘忘失す。吉田氏よりハガキ、ハイネ訳す。甚幸通りしと服部云ひくれしにより電報打つ。 4月15日 悠紀子朝寝。忙して飯食ひ行き大掃除。すみて組合報告。委員改選執行委員にわれ9票。山崎君6票、代議員荒川氏6、金井氏6(われ又6)。支部長をも兼ぬと。 ハイネちょっとやり、八木君と帰り、鈴木氏により、養徳社に寄る。あすサラリー呉るとて無心せず。 4月16日 出勤。山中嬢休む。ハイネ訳す。サラリー本日支給は山崎君の錯覚とわかり落胆。けちなところなり。 4月17日 出勤。ハイネけふもやる。明日教祖誕生祭とて出勤せよと。 服部へと前川老よりお礼托さる。もちゆく途中服部に会ひ養徳社へゆき、ついでアパートへゆく。ダンスみなやりをると。可笑。 16:00の汽車にのりおくれ駅にて八木嬢に会へば金貸しくるるつもりなりし。高橋君にゆく。「東洋のデカメロン」といふが聊斎の訳としてまたありし。 4月18日(日) 家居。善海より電報、明朝羽田へと。羽田よりハガキ。向ふより来ると。入湯。ハイネ終る。 4月19日 代休日と也。6:50の汽車にて奈良-油阪-京都へ9:00、着けば市電ゼネスト、止むを得ず羽田まで歩けば登●、待ちゐれば善海もあらはれ(11:30)昼食して待ちゐれば羽田帰り、 いろいろ話す。村上正二結核と。東京の省線の混雑甚しと。 夕食いただき19:00出て大宮通りを南下、二条城につき当りてわかれ、三條に出ればやっと奈良近鉄の最終に間にあひし。 けふ今出川にて佐野学二冊と青木正児「抱樽酒話」とを買ひし。三島一氏よりハガキ。友達の鈴木●郎その他やめしため不快にて厚生社と手を切らん、君直接交渉せよと。 4月20日 出勤。俸給もらふ。5100円より税金960引かれ何のことなし。14:00より執行委員会。中座して帰る。育生社より手紙、三島氏縁切りしと。 4月21日 出勤。午前中のみにて午後いちれつ会と語専の創主記念会。すみて真柱の披露と。 文学堂にて矢野「ロシヤの東方政策(35)」買ひ、吉田嬢に「小島の春」買ひ、養徳社にて服部の「美しき魂」貰ひ、電車にて帰る。 芳野清より手紙、正君発狂せしと。 4月22日 育生社と吉田不二子氏にハガキ。育生社には「唐宋の詩人」拒絶せしなり。鈴木氏に寄り9:00出勤。三島一氏へハガキ。進駐軍来るとかにて16:00までゐのこる。 酒井先生に会ふ。帰丹の途なり。万年筆(110)、藤岡大英和(200)買ふ。 4月23日 鈴木氏に寄る。おくれてゆき作業手伝はず。高楠順次郎氏の本と。帰途「労働基準法」買ふ。東方学会員に推薦すと。田中きわ氏よりハガキの礼状。吉野清君にハガキ。 4月24日 出勤の途、鈴木氏に米二升もちゆく。神田先生ひるまへ来られ、ビブリアの相談。終りておもてなしせずして別る。お気の毒なり。高橋君、養徳社によりて帰る。 4月25日(日) 「アジア史概説」の批評書き出したれど成らず。ことわり状かき米田君に托しにゆく。 保田にゆきしに鳥見山へ子供つれてゆきしと。田宮虎彦よりハガキ。柏井尚子より女児惠と命名と(3月26日誕生)。 4月26日 出勤の途、鈴木氏にゆき養徳社にゆき1000もらひ本代払ふ。不快。登館。明日より館長上京と。外語にゆき服部と会ひダンス熱きく。服部委員長と話し、 帰りて昼食。富松いく子嬢と帰る。 大化歴史文庫3冊(73)、メガネのつる(80)、千草盗棒にあひ着物おほむね盗られしと、哀れ。 昭森社よりノヴァーリス「青い花」出したしと。 4月27日 出勤の途、散髪(40)。山中嬢に会ふ。10:30より執行委員会のため館員召集。杉浦来る。話しつつ女学校にゆく。教頭石崎氏は昭和8年国史卒と。 執行委員会長くなり鈴木氏に寄り夕食賜はる。帰途、松岡静雄「記紀論究」(25)買ひ、電車にて帰る。 悠紀子吐瀉。(庄野君養徳社学務ときまりしと。酒井先生、中田女史をやめ荒井女史に求婚せんと) 4月28日 9:00の汽車にて奈良三興へゆく。追加とりやめ写真四片増し、書なるべくよくし5月20日頃出さんと。4日校正とりに来り追加7500●たさんと。 館へ12:00にゆき(弁当まんぢう六ケ)、16:00退去。喫茶。服部来り「言語研究と文化史」呉る。帰れば悠紀子軽快。赤インク買ひハイネ校正すます。 4月29日 天長節。子ら式にゆく。八木、山中二嬢来る。二女をつれ五人にて鳥見山にゆく。吉田嬢によせ書。駅まで15:30の汽車に送りゆき保田の次弟、妹婿夫婦に会ひ、 みちにて養徳社の上田弥之助氏に会ひ、坂口允男に会ふ。坂口君と保田にゆき三興のこと云ふ。吉田、硲君よりハガキ。 4月30日 大掃除のため出勤。すみて組合の話。養徳社にゆきビブリアのこと、小牧、中村君の相談。滝井氏、時報社へ移ると。庄野氏専務に任じられ泣きしと。 ふたりして歩きゐしとき道にあひ われらみゐしひとを忘れじ。(某女の曰く) 畝傍のみほどは男性らしく思はれて落胆。 5月1日 出勤。坂口允男君を案内、クリスチナ・ロゼッティ研究発表のためと。12:00辻文教部長と会見。前の奥村よりきつしと。岡本久長課長とともに不快。 委員みな温和なり。鈴木氏にゆきしに不在。小幡君を訪ね、「イングリッシュ・ブレンド」もらひて帰る。 善海。「現代人」より。史学会大会は五月になしと。和田先生なほられしと。 硲君、昭森社にハガキ書く。昭森社へは「青い花」諾、「ザイスの子弟」はいかにと。 5月2日(日) 家居。昼寝。午後保田にゆけば奈良へ子供つれて遊びにゆきしと。順三郎氏と将棋す。松本善海へハガキ。 5月3日 新憲法発布とて休み。昨日よりサンマータイム、9:08の汽車にやっと間に合せ丹波市。庄野専務を訪ね、お祝ひのべ、大和文学やらぬかといはれ、 保田のことわりも云ひ、鈴木氏にやらせよと云ふ。東方史論叢は引きつづき出すと。クレオパトラ双書にて出すと。 アパートにゆき服部、金井。吉岡、中村孝志と歴訪、中村君によれば語専新校長堀越氏、宗教の自由ときしと。17:21帰る、雨。 夜、保田順三郎君来訪、安倍村の空家のこと調べてより栢木氏に云ひやらんと。弓子変調。 5月4日 サンマータイム出勤。6:54にのりゆけば新聞85銭になりてをりし。組合の報告せしかど手ごたへなし。午後組合に出て土曜の顔見せにつき相談。呆然。 邦正美舞踊会のこと責任負はさる。(三興来り校正もちゆく。金渡さず。いつ呉るかも不明、呆然。) 弓子発熱、はしかかと。 5月5日 9:08出勤。館長腎盂炎を押して出勤。五月分十三日支給と。午後作業、[団]体協約吾郷氏と改訂案。養徳社に外山軍治氏伝言もちゆく。 「大和文学」鈴木氏ときまりし模様。八木君駅に弓子へとりおひもちくる。 わがさがはかなしきさだめひとみなにあはれまれつつ老いゆくらしも 子ら明日遠足と喜ぶ。 5月6日 6:54の汽車にのりおくれ9:08まで待てず電車にてゆく。10:30より組合の報告す。反響なし。文化部長辞任のこと吾郷書記長にたのむ。 けふ電車にて井上女史と会ひ、吉田女史父君図書館に勤めたしと希望せるとなり。 吉川幸次郎「唐代の詩と散文」買ふ。いやらし。 わがをとめわれにすがりて生くるごとありと思ふ日思はざる日々。 帰途高橋君による。汽車にて養徳社松井君と会ふ。わがこひうたほむ。 けふ史、宇治へ。依子あやめヶ池へ遠足。 5月7日 9:08にて奈良三興社にゆき浅田部長より5000もらふ。(服部に1000、高橋君に100貸し、悠紀子に3500わたす)。汽車にて志野氏に会ひ、共同出資のこと云はれしも拒む。 奈良教組弱体と。谷川にゆきしに9:00-19:00まで出勤と。新村「外来語の話」(50)、「きりしたん大名(ラウレス)」、 「鐘の話」買ふ。八木君に林檎もちゆきしも山中嬢あらず、すぐ帰る。 火曜協約改定の会のとりきめす。中島駒次郎氏に会ひし(正午)。服部来り、靴(750)買はぬかと、頼みおく。富永その他幹部のかげ口ききて不快。 昭森社より「青い花」のこと「ザイスの学徒」のこと。 5月8日 出勤の途、坂口君とゆき、聞けば前に来し岸咸南知事夫人は従姉と。別れて小幡君に片栗粉もちゆき登館。館長変なり。文教部長との会見、金井君にたのみ、 出て服部執行委員長に文化部長辞任申出、小名子氏に会ひて承諾せしめ、天理時報社に瀧井氏訪ねて酒井先生の手紙(けさ貰ふ)見せて善処たのみ、電車にのれば知人多くあり。 やむなく西ノ京の佐藤誠君新居にゆきて宗教問題につき話し、(けふ薬師寺の花祭)、電車にのれば●嬢あり、ふしぎなることかな。 帰りて保田にゆき家のことだめなりしを云ふ。父君ともども共産党と認められ[ざ]れといふ、ふしぎなることかな。 5月9日(日) 板倉氏より手紙。独英語教授にと。家なしと。相野よりハガキ。13:00家を出て服部に知らせにゆきしに酒井先生来り、(※見合の為の?)写真とられゐる。 匆々辞去。16:14の汽車にて帰来。 けふ金井君にきけば昨日の文教部会見よかりしと。オプティミストとペシミストか。 5月10日 出勤の途次、鈴木氏により酒井先生「大和文学」の話。同氏も優柔不断なるにいらいらす。 登館、山崎君にきけば文教部会談よくもなしと。服部来り、愛大行に夫人反対と。十八日頃ゆくと。16:14にて帰宅。芳野清よりハガキ。昭森社森谷均、相野、外山軍治へハガキ。 5月11日 出勤。10:00より団体協約改定委員会。宗教教育を入れよといふ。12:30すみてすぐ執行委員会(吉岡君来り[ゐ]しを慰む)。三興の雑誌捌けてうなり。 16:00山中嬢と出て別れ、高橋氏にゆき燈籠を起し、夕食よばれ20:28天理を出しも八木にて名張行にのり名張までゆき駅長に証明をもらひて帰る(22:30)。 愛大より服部に電報、家みつかりしと。 5月12日 出勤の途中服部にゆく。けふ豊橋へゆくと。10:30より組合報告。団体協約改定案の起案。 谷川新之輔よりハガキ。帰りて本日貰ひしサラリー(3900)より3500かかあに渡す。留守中父来りしと、みじめなる姿せしと。かやの木君来り、家のこと心配しくれると。 (柳田國男「神道と民俗学」50)。 5月13日 出勤。三興岡部君来り、天中長田氏と浪中山本重武に紹介状書く。改訂案書き了る。帰り前川老幼孫のおくやみにゆく。 をとめたちみたりそろひてかたるへやひとりおもへるわれがこころぞ けふ山崎に聞けば、吉田君父君より履歴書はやく来ありしと。 5月14日 よべ少眠。9:08にてゆき外語にゆけば酒井先生、日大より話ありしと。三十日見会ひと。服部愛大へゆきしも駄目と。帰りて改訂案の原紙山崎八木君にやらし、眠し。 中島栄次郎夫人来り、大毎の井上氏より本出さんといひ来りしと。ニーチェの書きぬきを見す。 外山軍治、吉田不二子氏より手紙。山崎君よりズック靴250で買ふ。帰れば米田君来る。宮田民雄よりハガキ。 5月15日 出勤。大掃除。すみて館長の説教、バカらし。奈良へゆきセンチメンタル・ジャーニー見る。わが映画見るは何年目ぞ。帰り三輪の森本佐一に会ふ。昭森社よりハガキ。 5月16日(日) 雨、無為。保田の小坊主来し、史さんぱつにとゆきしがため也、のちほど二分刈にして帰る。 5月17日 出勤の途、鈴木氏により酒井先生のこと自らに担任し大和文学のこといへば激昂、不快。あとで仲直りを申し込まれたれどごまかしいやなり。弱き人か。 登館、団体協約改定案刷り、午後諸氏にはかる。宗教教育に反対となりしは意外。けふ八木嬢発熱とて欠勤。帰り「東光」(狩野君山先生追悼号)、「英語の歌」買ふ。 5月18日 「英語の歌」八木君に見舞にもちゆく。父母帰りしと。語専に東方文化の波多野氏来りしに会ふ。執行委員会にゆき、最後に団体協約改訂案、宗教教育を消すと。 服部にゆき金井君にゆき労働組合の講演駄目を云ふ。酒井先生見合の相手をつれて来られしに逃げる。中島●次郎氏に会ふ。 5月19日 出勤。山崎君と荒川氏と事務つれかはりと。けふ不快憂鬱、あすより上洛せんと思ふ。帰り米田清治君に寄る。帰りて早寝。 5月20日 出勤。電車ストやみしと。帰り山中氏と八木氏を見舞ふ。耳下腺炎なり。 5月21日 9:08の汽車にて京都行。11:34着。東方文化にゆきしに藤枝帰宅。大学にゆき佐藤長君に会へば「アジア史概説」の書評たのむと。東方文化に引返し藤枝に会ふ。 「杜甫」を博多出したしと。石浜先生10篇集まりしと。鈴木治氏のこと話し、外山氏にゆきモースの「太平天国」につき養徳社への伝言きき、「東光4」買ひ、 羽田へゆけば大学へゆきしと。野田又夫を新宅に訪ねしに結核らしく病臥と。天理のこと常識にてやむなからんと。羽田にゆき夕食。二十九日より史学会にゆかぬかと。 天理のこと問ひてみん。来年より京大へ来よと。下総町にゆき父母と話す。 5月22日 雨。藤枝へ傘もちゆく。鈴木氏の話「座右宝」のせしと。羽倉哲吉、濱野院三に会はんとせしもやめ、西の京の佐藤誠氏によりしに帰らず、服部にゆけば大学の会と。 夫人と話して帰る。外山氏より手紙。 5月23日(日) 晴。昼まで眠り、午後保田へゆき二弟と将棋。富永の手紙橋本もち来り、二十六日大和文学の会と。栢木君来りしゆゑ、家の礼いふ。保田、長谷より子をつれて帰る。 会のこと云ひ夕食をことはりて帰れば21:00。けふ硲君へ速達。マルチンマルチュ三田村君やり養徳社より出すとのこと。羽田の手紙、吉田氏のハガキ来る。 5月24日 出勤まへ鈴木氏に寄り京のこといふ。登館、ノヴァーリスやりそむ。李朝実録、佐藤誠君、京大言語学の川上君らを案内し来る。帰してより宗教教育の話。 快漢なれど頼りなきは何故ならん。図書館員に資格審査必要となりしと。15:30養徳社にゆき保田の追放とあはせて大和文学のこと森会計部長にいひ、中山正善後輩らしくなしといひしと。 庄野氏に外山氏のこといふ。杉浦よりハガキ。 5月25日 出勤。柴田よりひやかさる。11:00より執行委員会。天理教の悪口いへざるをみないふ。すみて館にかへり、服部にゆかんとせしがとり止む。帰りて保田にゆき明日のこと云ふ。 弟君にきけば追放となりしと。亀井もと。 5月26日 館長奈良へ社会教育にゆきしがわれ登館、13:00出て靴直し、養徳社へゆく。不快。前川、吉村、保田、16:00まへそろひ玄[閣]にて大和文学の会。 雑誌は養徳社まかせとなる。21:00帰宅。(けふ服部に1000借りし)。 5月27日 出勤。三興の子供、印紙もち来る。山本重武君より手紙。加賀山結婚せしと。文化会のことにて吾郷氏の許へ金井君つれゆく。檪本へゆき中島夫人に野田又夫へゆくべしといふ。 けふ偶然にも中島の戦死の日とて読経。夫人と二人にてききし。 5月28日 疲れて9:08に乗る。養徳社上田君来りて外山君のこといへば明答せよといふ。酒井先生来られしかばウォルデンのことまたいふ。養徳社日なり。ビブリカの広告状の宛名書く。 木村君われに(※女史らとの交友について?)直言す。帰途高橋君来よといひ、ゆけば豌豆呉る。 しこ名(※醜名)立ちわれはよけれどをとめらのゆくすゑおもふこのこころゆゑ 米田君来る。 5月29日 出勤。ビブリアの封筒書き了る。午後奈良へゆき三興にゆき浅田君に会ふ。支那小説をやりくれ、バルザックの「風流滑稽譚」の如きをと。帰り八木にゆき辻君に会ふ。 米田君の目方にて売りし平野「民族政治学の理論」もらふ。高木惣吉「終戦覚書」。 5月30日(日) 昼ね。午後、坂口君にgolden treasury返しにゆく。留守。帰れば硲君来る。恋愛解消せしと。八日(火)来ると。送り出して保田にゆけばみな留守。 5月31日 出勤。大掃除。すみて服部に会ひ借金のことわり云ふ。畝傍、八木の笠井君にゆけば不在。耳梨まで歩きて乗車。夜、米田君。けさ豌豆もぐ。二合半。 6月1日 出勤。10:00神田先生大谷大学の見学団をつれて来らる。中田勇次郎君あり。案内し、神田先生とビブリアの話。 昼すぎ語専にゆき佐藤君と話し、執行委員会(けふ凸凹の二級上り五ヶ月分と時間外手当とにて2202もらふ)。亀井昇よりハガキ。 6月2日 出勤。団体協約刷らさる。雨。養徳社により●の氏に酒井先生のウォルデンのこといふ。 6月3日 6:54の汽車にて京終へゆき木辻遊廓を通りぬけ谷川を訪ひ、次いで三興にゆく。稿料の中いくらかでも近日中にくれよといふ。新生(20円)を買ふ。帰りて協約を刷り、 執務規定の会。すみて養徳社。帰ればかかあどの米なしと。森本君を訪ねしに留守。坂口允男君を訪ねて話す。 6月4日 10:00出勤。ひる豌豆そら豆採り大豆蒔く。杉浦、亀井昇、昭森社へハガキ。午後団体協約のことで組合支部の会。帰り芝田義孝と。山中嬢とわれと怪しき由。 6月5日 出勤。六月分給料くり上支給のことで新井女史(※経理)不快。吾笑ふのみ。服部来り、養徳社ゲーテ再版2,000円もらひしと。畝傍にて万葉集巻十一よむ。 帰り笠井君によりしも帰らず。牧野径太郎より6月末までに詩一篇をと。 むぎみのる大和國原をとめ子とうたおもひゐるわれがさきはひ。 6月6日(日) 羽田と羽倉啓吉よりハガキ。時事通信に勤むと。午後麦刈りの手伝ひに保田の畑へゆく。 6月7日 出勤。三村啓吉、山本重武へハガキ。事なし。 6月8日 出勤(9:08の汽車)。午後執行委員会。五上位は不可能。三上位は無意味と判明。(※賃金の話) 6月9日 出勤。みな奈良の図書館講習にゆく。畑し大豆すこし蒔く。6月分給料先渡し、税金1400円には恐れ入る。芳野正よりハガキ。気犯へるふしあり。聊斎志異のこといふはふしぎ。 爐書房より感想をと。 6月10日 出勤。江幡清氏(大朝論説委員、昭和11年東大教育学出)正午来館。労組の話、資本攻勢はアメリカのさし金とて絶望的なり。 6月11日 出勤。昼、畑の玉葱とり終る。作業とてジャガ芋掘り、すみて組合の報告。 6月12日 出勤。午後養徳社へゆき服部へゆきしに京都へゆきて不在。(三興より貰ひし2500より1000服部夫人にかへす)。夫人結核初期らし。「美しき魂」3版出るらしと。 吉岡君と将棋して帰る。空梅雨にて暑し。 6月13日(日) 8:00の注文にて畝傍、藤井寺へ寄り、肥下にゆく。麦豊作なりしと。ジャガ芋とそら豆と賜りて帰る。藤井寺にて久美子の婿に会ふ。 木蔭にてきみとひもとく歌の本こひうたおおくしるしたりける。 いまさらに何をかいはむうちなびくこころよりにしこのひとときを。 吉田ふじ子君より手紙。 ※〈六月十三日 午后三時田中克己来ル。午后七時カヘル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 90p 6月14日 出勤。事なし。夕方久しぶりに雨。 6月15日 出勤。大掃除。ビブリアの相談。吉田不二子へ山中、八木二嬢と手紙。午後文教部へゆき、就業規定受取り、代議員会にて団体協約。すめば19:00。山崎君にて夕食たまひ、帰れば22:20。 6月16日 京都行の用意して出勤。瀧井氏、吉岡君、服部に会ひ、ゆきて就業規則委員会の手筈し、奈女高師の生徒の案内し、団体協約すりてゐる中、服部現はれ、 愛大ゆきを決定、奥村教頭にいふと。ふしぎ。 吉岡君に引ずられてアパートにゆき夕食。服部と将棋さし、心境きけどわからず。憂鬱。(※中山)正善は考慮させよといひしと。24:00就寝。 6月17日 8:00起き、9:08の電車にて吉岡君と上洛。三高へゆきしに羽田あらず。東洋史研究室にてとらへ、法科へゆきしもだめ、三人にて田村博士を問ひ東方史論叢の相談。 すみてまた法科へゆき磯村助教授にきけば悪口いふは不可と。 羽田邸へゆき夕食よばれ、下総町へゆき30借りて帰る。大、中学をやめて印刷をやると。最終電車にて帰宅。 6月18日 参議院補欠選挙。ゆかず。9:08の汽車にてゆき、就業規則を富永らとやる。三田村氏の満文金瓶梅のこといひしに四千円ならばと。羽田へハガキ書く。 帰り高橋氏に寄り、外語の独乙語講師となれといふ。帰り養徳社の松井氏と会ひ、きけば羽田先生の還暦記念論叢を印刷にまはせし様子なしと。 6月19日 出勤。午後服務規定委員会。小高根太郎、和田先生へ照会をと。杉浦よりハガキ。不二6月号。終日雨。 6月20日(日) 日直出勤。雨。萬葉集よむ、たへがたし。昼、大町文衛氏、庄野氏らと来る。本草の部、見す。小高根太郎を和田先生へ紹介す、東洋文庫へゆきたしと也。 この間より評判となりゐし太宰治の死体発見と。享年四十才、やはり悲し。 つま子すて梅雨ににごれる上水にしづみし友をかなしとはいふ。 6月21日 出勤。「和泉式部」八木君に与ふ。前田直典にハガキ。 けふ育友会より1800もらふ。「就業規則」と「菎崙の玉」と買ふ。帰り金井君、われと山中嬢にアイスキャンデーおごり呉る。帰ればひるすぎ服部夫人来りしと。 服部の父母(※愛大転職を)大喜びと。 6月22日 出勤。昼休み大豆まく。午後図書館で執行委員会。25ベースの三上位丸のみにて図書館もめる。その後就業規則でももめる。帰り山崎君に夕飯御馳走となり、 電車にて帰る。 6月23日 出勤。昼休み、二嬢と大豆、小豆蒔く。馬鈴薯配給と。 けふ保田へゆきしとて吉岡君寄りしと。けふ矢野文庫にダッペル見出でうれし。 6月24日 9:00より文教部と就業規則。従業員側の態度、情なし。養徳社より26日大和文学の会と。新入者(佐藤、八木二氏)歓迎会。小牧建夫先生来られ、案内す。14:30出て高橋君にゆく。 (けふ服部来り、愛大東洋史へ来よと)。帰りに養徳社へ寄る。夜、米田君来り話す。 6月25日 出勤。暑し。帰り養徳社へゆき吉岡君に明日の会のことわり云ひしにきかず。 けふ出勤の途、桜井大教会長。教授会にて天理教と共産主義とに●なきを云ふはれて閉口せしと。 芳野清、末吉よりハガキ。 6月26日 午前雨。午後古今集と吉井勇よみてのち養徳社にゆく。保田、前川、吉村そろひしは四時すぎ。大和文学の会に座談会。 夕食後高橋君にゆくつもりなりしも今村嬢送りてゆきしは23:00。服部にゆけば豊橋にゆけりと。24:30隣室にねさしてもらふ。 6月27日(日) 9:00ごろ起き朝食し、11:00高橋君にゆく。保田つれ来よと。電話して和楽館にゆき15:00まで居り、管長宅にゆき挨拶後、養徳社に寄る。 帰れば羽田より三田村「満文金瓶梅」のこと承諾と。 6月28日 9:08にて出勤。館長に三田村氏のこと云へばもち来るべしと。羽田に速達書く。小高根太郎より和田先生に会ひしに東洋文庫はすすめられず中野好夫に紹介すと云はれ、 田宮覚悟と(※不詳)。 斎田昭吉より高橋君の同人諾と。東洋史研究10ノ2(15.30)。清水幾多郎来るに会ふ。高雄以来6年目なり。けふ文教部と会見。山崎君に任せて帰る。 保田に寄る。 6月29日 出勤。9:00より服務規定のため文教部にゆく。正午経り、午後は執行委員会。三上位きかれざりしとて返上せしむ。昨日の地震は福井と。 保田に日まはりメキシコ●産なること云ひにゆきしに不在。 6月30日 昨日の文教部との相談にて図書館みな三上位と。大掃除し、八木君の妹信子嬢の宿題の相談。すみて奈良へゆかんとせしも果さず。図書館講習聞きしに眠し。明日より汽車時間変更。 7月1日 けふより6:40の汽車にてゆく。9:00より文教部にて団体協約。辻部長私立学校と天理教の特殊性強調、不快なり。13:00館へ帰る。 けふ朝三興よりハイネ(※『ハイネ詩抄』)14冊来る。三四日前に出来しと。高橋、中村、八木、山中、富永、管長、庄野、図書館に一冊づつ。硲君よりハガキ。 養徳社によれば聊斎の再校。鈴木氏へ寄る。砂糖返却さる。 7月2日 よべ辻部長しゃくに障りて眠り少し。登館後、執行委員改選を説く。館でダンスけい古はじまる。二嬢と帰り、八木にゆき辻君に会ひ、ハイネ一冊置く。 あつくだるし。前田直典よりハガキ。聊斎校了。 7月3日 登館、神田先生来られて夏期大学の講演、調子低かりし。ビブリアの相談。ダンスことはりて退館。山中、八木二嬢と外人部隊見んとせしかどだめ。氷水のみ、 電車にのり平端二階堂まで歩く。服部にゆけば不在。送別会と。夫人に(※われも)豊橋ゆきのこと云ふ。18:29の汽車にて帰る。吉田君よりするめ二十、小豆一升。 7月4日(日) 朝寝だめ。ひるねす。午後岡本姉妹来る。ハイネ与ふ。 保田にゆく。「おまへは目的なきゆゑだめ、天理にゐよ。」と。羽田よりハガキ。三田村氏、地震のため帰郷らし。 7月5日 出勤。荒川氏、駅にまち伏せ、就業規則の捺印にて土曜困りしと。書きてすむ。昼にて退出。12:40の奈良行にのり、三興へゆき2000もらふ。 喫茶、湖南「新支那論(30)」買ひ、健礼門院右京太夫集与へ、ハイネ5冊もらひしを坪井と谷川にもちゆき、18:15京終より乗りて帰る。小高根二郎豊橋へ来よと。 7月6日 出勤。野間光辰氏に会ふ。10年目なり。また少年しぶくなったねと。午後執行委員会。図書館の委員改選を云ふ、みな駭然たり。 16:30服部へゆき豊橋のこといふ。二十日すぎともにゆかんと約す。帰れば羽田より電報、八日三田村氏と来ると。 けふ富松嬢に10円借りし礼とでハイネ。夕方来りし米田君にも一冊。 7月7日 出勤。事なし。委員改選やらんとせしも欠席多くてだめ。午後図書館講習。暑かりし。 大和文學第二集1948.07 7月8日 出勤。10:30より委員改選。中村、木村二氏当選。羽田、三田村氏と満文金瓶梅もち来る。図書館を案内し、養徳社へゆき、亀井「現代人の遍歴」とシラーもらひし。 二氏を送りて西ノ京までゆき、佐藤氏に寄り、東京でのことたのむ。帰り丹波市18:29に間に合ひし。(大和文学第二号出来) 7月9日 出勤。汽車におくれ電車にてゆく。中村、木村二氏に引きつぎ。12:50にて八木、山中二嬢をつれ帰り、しるこ食はしむ。15:00の汽車にて帰りしに(※悠紀子夫人)不機嫌となる。 三興より検閲のこと。 7月10日 新井女史より1000借る。二嬢と映画、16:00帰る。夜、米田君友達つれて来る。 7月11日(日) よべ弓子発熱、心配して夜半診察のためゆきしが中途にて引返す。朝やや良し。午後東京より電報。柏井母脳溢血にて意識不明と。 ゆき子藤本氏に1000借り志野より400もらひて明日ゆくこととす。保田にゆきて帰れば三弟来り、信仰自由のこと、兄の天理との関係など話す。 7月12日 あさ雨。悠紀子出発の仕度す。7:00ともに家を出、7:40名張行にのる。西窪氏にジャガ芋もちゆく。図書館にゆき支那地志やり、 富永氏に電話して休暇ふりかはりと給料先払ひ了解。12:50にて帰り、ジャガ芋煮く。八木嬢来り、片付け呉る。服部家に泊る。 7月13日 出勤。東亜研究所の地誌を山崎君とやる。昼飯に八木さん卵賜ふ。会計より4000先払うけ、午後執行委員会。中村木村二新委員の紹介すみ、 中村君の硬論通りて弱音をいはぬこととす。15:00より文教部と団体協約の読合せ。大分うまくゆきし。服部家にて送別会、ゆき子より電報、「ハハオナジアトデンマツ」と来る。 吉岡、喜田二氏と食うべてのち吉岡家に泊る。 7月14日 9:00服部家を出、タバコ買ひしのち奈良へゆけば12:00。三興にゆきしに浅田君上京。ハイネまた3冊もらひ届る為まかし、前川氏を訪へば旅行中、 富くじ三本ひきてみな菓子。千円当る男を見たり。13:37にて関西本線名古屋行にのり、(奈良の古本屋で石原の乞師(※『明末清初日本乞師の研究』)買ふ。60.00) 16:19着。16:30の東京行にのりしも豊橋で下車、板倉氏を訪ふ。まへに一度会ひしと。藤井(※宏)の後任きまりしと。月給8月分までしかなしと。 服部気の毒なり。23:17の準急にのり、立ち通しにて寝られず。 7月15日 朝5:00東京着。柏井家に入る。母不定●ながらものいひ、倒れし時ビンにて頭より出血せしため経過やや良きらし。数男一家も来たり。昼寝して船越章に会ふ。 糖尿と結核なりと。川久保にゆけば在宅。夫人カリエスにて秋田に病臥と。雨の中帰る。お賀代さん来る。 7月16日 朝、角川へゆきしに不在。帰りて12:00、ゆき子弓子と、お幸伯母見舞にゆき、すきやき賜ふ。喘息にて苦しまれしと。出て山本書店に寄れば主人不在。 岩村忍来ると。本高し。昭森社にゆき森谷氏に会ふ。ノヴァーリス出すと。「ザイスの学徒」8月末までにと。「青い花」最終にすと。河出にゆき杉森久英に会ふ。 何か東洋文化につき書けよと。荒正人らの一派に邂ふ。「いもの話」の原稿返却を受け、和田先生をお訪ねせしに田舎へゆかれしと。神田信夫君と話す。 (※愛大の)藤井宏の後任は鈴木中正と。適材適所か。 大雨となり傘とレーンコートと貸したまはる。小高根(※太郎)にゆきて24:00まで話す。共産党と同感の様。大雨やまず泊めてもらふ。 7月17日 小田急切符売らず。神田氏にレーンコートなど返し、玉川電車にて渋谷。帰りて昼寝。赤川氏にゆきしに雨。「鴎外論校(※不詳)」「三行詩」(100)買ひ、 桃よばれ傘借りて丸(※三郎)にゆきしに弁護士開業、西川(※英夫)土建屋にて勢よく、菊坂に家建てし。本宮、村長となりし。本位田広島、本位田兄、 成城高校へ田中をといひたると。帰りて角川にゆきしもかへらず。 7月18日(日) 数男、朝5:05にのる。赤川君来り、鴎外即興詩人等にて400。他は預りてもらふ。加藤俊彦君を訪ねしに下痢にて臥床、高師教授と。堀さん発熱、 富士川英郎と話せしためと。帰り角川氏に寄りしにまだ帰らず。午飯食ひ14:00頃ゆけば在家。書斎に本多くてうれし。ハイネ伝のこと、大和だよりのこと、などうけがふ。 16:00頃柏井家を出、妻子お幸伯母さんに寄らしめ飯田橋で待ち、18:00より21:25の臨時京都行をまちて乗る。坐れたれど眠れず。 7月19日 10:30京都着。ハイネ抄もちて高桐書院の濱野氏を訪ねしも不在。13:18の奈良行にのり15:00すぎ奈良着。三興にゆき浅田部長に会ふ。16: 30の汽車にのりて桜井着。西窪夫人に寄りて重き本入り包預け、桜井大教会へ帰着。影山氏より歌集二冊、羽田より阪大へ運動せざるや。吉田不二子、田宮虎彦、伊東静雄より来信。 7月20日 9:00の汽車にて図書館へゆく。途に高橋君に寄る。岳父母瀧本にありと。給料のこりありさうとて明日来よと。館長九州へゆきしと。帰りまた高橋君に寄り午飯たまふ。 服部にゆけば愛大より家見つかったすぐ赴任せよとの電報来しと。18:00の汽車にて帰る。車中、三興の埜中君に挨拶さる。夜、米田君来る。 (けふ上田一雄に会ひて大正天皇御集のこときく) 7月21日 9:00の汽車にてゆき俸給の残り2200もらふ。税金7円となりし。12:58にのらんとせしに高橋君に誘はれてあんころ御馳走となる。八木にゆき爐書房にゆき、 小高根二郎「チカの告白」(30)買ふ。笠井君また不在。夕立ちにたびたび会ひし。 わが愛づるをとめひとびとこの山の花のごとくにふれんとはせず。 八木でライター(100)買ひてうれし。 7月22日 9:08の汽車、保田の小坊と妹婿と同車。島国通訳応援しくると也。奈良にて我のみ三條までゆき高桐濱野氏久闊を叙し、ゲーテ恋愛詩集、諾せしむ。 コーヒーまんぢう御馳走となる。京大東洋史研究室に佐藤長氏に会ひ、東方文化に神田、貝塚、外山、藤枝諸氏。羽田にゆき阪大(※就職口利き)たのむ。23:00帰宅。野田よりハガキ。 昭和23年 7月23日~昭和23年12月31日 20.4cm×14.2cm 横掛ノートに縦書き 昭和23年 7月23日 財布忘れて家を出、養徳社に寄る。図書館にゆけば山中嬢あらず。八木嬢に100円借用。 上田嘉俊来り、聊斎の挿絵さがせしも見当らず。ゲーテ借りる。八木嬢に「ザイスの学徒」清書たのむ。谷川よりハガキ。 養徳社にまたゆき「玄想」もらひ、吉岡、上田二君と喫茶。服部にゆきしに上洛。吉岡君と将棋さし100円借りて帰る。芳野清より手紙。 7月24日 12:00家を出、坂口君に寄り、13:30王寺行14:46にのりかへ柏原より道明寺、玉手山にゆく。大雷雨。 玉手ばこあけて見んとは思へどもあけてののちのくやしさを知る。 大江の叔母、けふ誕生日と。御馳走のわけ前に与る。田中家書類をわたし、写真帖預けたり。鹿熊猛の実りし「楊貴妃とクレオパトラ」(80)見付け、 叔母に譲る。久松潜一「契沖(※契沖の生涯)」(13)。肥下にゆき泊めよといへど肯はず。22:00電車にのり八木より歩きて帰る。 7月25日(日) 10:00保田家へゆく。與重郎上高家へゆきて不在。父君と話す。そーめんとパンとを賜ふ。インク買ふ(28)。夕方笠井信夫君来訪。石浜先生、藤沢桓夫への伝言托す。雨となり傘貸す。 7月26日 登館、ゲーテの詩を年代順に分類す。養徳社へゆけば京都大学印刷火災。「狐の詩情」の組版安否不明と。支那語発音辞典もらふ。 高橋君に寄り大毎に「美しき魂の告白」のこと書けるを見せらる。ハイネ詩集も売れると。帰り木村君と氷小豆を食ひ、服部へゆき話す。 けふ小高根太郎より愛大の問合せ。夜、米田君来る。小高根へハガキ書く。 7月27日 坂口君と同車。登館、三冊貸す。ゲーテ詩分類のタイプ打つ。けふ団体協約の会と。帰り松井君と同車。きけば大日本印刷の「狐」の校正無事と。 7月28日 9:00登館、八木君、史のシャツとハンケチと呉る。中村君の話にては非信者を白眼視すと、同感。ゲーテのタイプ打ち午後、図書館講習。 大阪府立図書館の三木正太郎追放となりしと。帰り高橋君に寄る。けふ上田一雄、山中嬢にに恩賜のタバコ托せし。帰って保田にゆき煙草わたし、 朝、森本次男に話せし家に巡査入ることとなりしを云ふ。(神田喜一郎先生のビブリア創刊の辞、預る。) 7月29日 12:03の汽車、12:58にて引返し三輪山に登らんとせしも禁止と。暑し。17:30帰宅。ゲーテの準備。夜、尾西家にハイネもちゆき兄君と話す。 三輪山の木の間に置きし扇をば母にことわるをとめがかなし。 いかづちの雲は名張の谷にゆきここはしづけしなどおづるきみ。 7月30日 9:10の汽車にて図書館。富永氏ビブリアの後記まちゐし、その場で書きてわたす。労働組合殆ど禁止の如くなるらし。帰り高橋君に寄り、 デュンツェルのゲーテ詩解借出し呉れしをもち帰る。養徳社による。 昨日けふ田中純子●子のハガキ来り、母(※義母)やや良きらし。 7月31日 9:10の汽車にて奈良へゆく。三興、亀井、前川にはすでに払いしと。漸く3000わたされ電車にて佐藤誠にゆき、そうめん食ひ、図書館。山中嬢日直。八木嬢もあり。 15:30出て散髪。(明日より50円とならんと)。三人にて氷小豆食ひ、服部にゆく。明日豊橋へゆくと。(けふ印度性●二冊198買ふ。) 帰れば硲君あり、夕食後イブン・バッ[トゥ]ータわたし送り出す。上田一雄へ歌五首。 8月1日(日) 弓子よべより下痢。西川英夫よりハガキ。夕方坂口允男にゆきしも来客。ゲーテ訳しはじむ。 8月2日 この頃毎日夕立。炊事を昨日けふとやる。夜、尾西家へゆき、馬鈴薯六貫(45×6)、岡山幸伯母よりハガキ。ゲーテ訳す。西川、浅田広治へハガキ。 8月3日 杉森へ「大和文学」(8.00)。赤川より手紙。『支那歴史大辞典』1500、『蒙露日大辞典』400、『明清闘記』100、バチェラー『アイヌ語』 380、その他400計2780。市手数料139。赤川手数料541と。 米田へゆきしに京都。保田まだ起きず。ゲーテ大分すすむ。 帰れば吉岡君来る。西瓜もち来り、座談会の校正もち来る。保田へ選り出し、13:30の汽車にのり、高田下車。近鉄にのりかへ國分、玉手山。石浜先生へ着きしは18:30頃、 夕食いただく。アジア・ポリグロッタをビブリアにかかるる由。 藤沢桓夫、神経痛とて会はず。笠井君より伝言すみし様子。 全田へゆけば22:00。泊れといはれ、きけば純子の結婚問題。恋愛と結婚とあやしげなことなり。相手は教師の同僚及び阪大生、二人とも一つ下の24才と。24:00すぎ就寝。 8月4日 9:00出で、大丸の江商にゆけば村田不在。市役所にゆけば筒井(※護郎)あり。15:00野上来る予定ゆゑ、いま一度来よと。日銀にゆけば鎌田「庶務課長、米買ひに日曜来る」と。 朝日へゆけば谷川「十一日来る」と。毎日の井上靖氏不在。 父の勤先の名、忘れ、大阪ビルにてさがしあぐむ。沢田直也、調停裁判所にありと。ゆけば休暇。大丸へゆき村田に会ふ。昭和十三年より十年ぶりか。頭禿げたり。 兄君三日前死せしと。満洲より妻子かへり信太山の奥に住むと。 村山高氏よび「高石へゆかん夕飯食はん」といへど拒み、市役所へゆけば野上あらず。600万円の脱税と。16:00ともに出て氷菓食ひ、大阪駅へゆく途中、忘物と走りて帰らず。 近鉄にて帰れば19:00。懐中3.00をあますのみ。「猫と鼡」「子規俳句」買ふ。「五万分一大阪東南部」買ふ(11.30)。 8月5日 9:10の汽車にてゆき養徳社、吉岡君不在。高橋君にゆき図書館にゆき5206円もらふ。八木君にパン買ひゆかしめ(5ケ50)、 佐藤誠君持参の羽田博士「西域文化史」(300)買ひ、出て氷小豆(3杯75)。 「夜の女たち」といふシネマ見て不快となり、山中嬢に上田一雄への300托し、八木嬢に怒って鈴木氏。馬鈴薯の伊語タルトゥフォロを引き、 夕立ちの中を6:29の汽車で帰る。小高根太郎より「本位田重美に紹介を」と。 8月6日 朝、小高根二郎よりハガキ。兄と文通なき様子。羽田よりハガキ。26日桑田氏に会ひ話せば貝塚、三上、須藤氏など推薦されしが未定と。 18:00家を出、父の家により羽田を訪ふ。三氏みな断りしと。和田先生の推薦必要につき頼むべしと。22:30辞去、父の許にゆく。 8月7日 9:00家を出、野田又夫を訪ね、「哲学入門」もらふ。15日にデカルト借りに来ると。藤枝を訪ね『東京夢華録』の輪講に列し『いもの話』わたし、 能田忠亮氏?より『南方草木』にサツマイモ見ゆと聞く。ジャバ原産らし。下総町へ帰り、昼食して丹波氏に出(65)、養徳社によりしのち帰宅。 8月8日(日) 米一斗用意せしが約束の鎌田来らず。午後佐藤誠君来り、18:00頃帰る。送りて保田にゆき夕食よばる。 8月9日 坪井明より服部送別会につきハガキ。12:03にて奈良へゆき、二万五千分一桜井と郡山と(※地図)買ひ、三興にゆきしに浅田君休暇。岡部君よりきけば田春雄博士となりしと。 子供うまれしと。ハイネまた二冊もらひ「くれなゐ」にわが詩「冬の夜」のりしと。●セントラルにて「ラヴ・レター」見て、 16:00の汽車にていちのもと(※檪本)中島家へゆきしにトルストイ論、井上氏(※井上靖)大阪の出版社にて断られしと。15日図書館に来て野田氏に会へといふ。 夕食よばれ米一升もらひて帰る。芝君に道にて逢ひ話きく。神経衰弱なり。 わが愛すをとめはあれどつひのこと考へあぐみせむすべしらず。 8月10日 9:00ゆき子京都へゆく。われ児三人と残る。13:30八木嬢「ザイスの学徒」の清書とタバコともち来る。16:00辞去。ゆき子18:00帰宅。母怒りゐしと。 けふゲーテの詩六七篇訳してうれし。 あたらしきこひのうたをばつくらんと古きゲーテのうたをよみゐつ。 このをとめロッテに似しやわれ知らずヴェルテルのごと若からぬわれ。 8月11日 9:10にて丹波市、石上神宮にゆき図書館で昼食。中村幸孝君を訪ね、高橋君に寄り養徳社。 服部にゆきしに不在。17日全家出発と。16:48で松井君と帰り、そーめん食はしむ。夜、八木嬢の写せし「ザイスの学徒」の漢字を仮名にす。 いそのかみふるへてすがるをとめゆゑこのさかしきも耐へむとはいふ。 8月12日 9:10にて服部、夫人疲労して不機嫌。「コギト」とり12:30奈良、谷川に15日の送別会伝へんとすれば不在。三興へゆけば15日より20日までの間に印税わたさんと。 坪井にゆけば在宅、15日の送別会のこと云ひて帰る。保田14日より津山へゆくと。夜、米田君来る。 8月13日 12:06にて丹波市。依子を八木家につれゆき、あき子女史にプールへつれて行ってもらふ。われ豆畑の草とり16:00連れ帰る。西瓜御馳走になり、まくわもらふ。 みづみづし瓜のごとくにをとめらがたかまるむねをわれは知らずも。 8月14日 ひるすぎ八木にゆき笠井君訪ねしも留守。辻君訪ねしも留守。笠井君に貸しし傘とりて帰る。小高根太郎を本位田重美に紹介する手紙書く。昭森社に「ザイスの学徒」送る(40)。 夜、保田家へゆく。お盆とてもちとそーめんと賜る。労働組合全く無駄となる法令出る。 8月15日(日) 9:10にゆき高橋君の向ひの八百屋にて西瓜2ケ(300)買ひ登館、鈴木治氏来る。 13:00服部、坪井来りしのみ、谷川来らず、野田又夫来ず。 鈴木氏にきけば「狐の詩情」11月と。服部、移転旅費くれしと。中島夫人来る(15:00)。 16:00散会。残り惜しく坪井を桜井に伴ふ。留守中、鎌田来り米五升もちゆきしと。19:00坪井帰る。 けふ上田一雄より手紙。芳野正、鎌田、硲のハガキ。 8月16日 日直、6:40の汽車にのりおくれ電車でゆく(25)。金沢庄三郎『アジア研究書目(※亞細亞研究に關する文献)』買ふ。中村君来り、館長来り。よべ野田又夫、神田力来りしと。 まもなく日野月先生とともに野田君来る。中島のこと養徳社へ伝言たのむ。佐藤誠君来る。 16:00退館。養徳社へゆけば野田君帰りしあと(桑原武夫上洛と)。『玄想』もらひて帰る。 わがのぞみ成らぬさだめと知りしころ野に咲く花の日にやくる夏。 けふ和田先生へ(※大阪大学への口利き)お願いの手紙す。 8月17日 9:10にてゆく。財布忘る。12:00出て養徳社にゆき松井君に100借る。 服部きのふ野田に会ひしと。中島への認識改めしと。可嗤。 八木へゆけば笠井君あらず、ハガキくれしと。田原本へゆけば原君あらず。帰れば夜、岡本姉妹来る。 近づきがたくわれをおそるといふきみにいきどほろしもへだておもはず。 いつはりのこころなくしてこのこころいふにつたなきわれがさがかも。 8月18日 荒川氏の日直代る。山中嬢来る。八木嬢に15:00よりあとまかす。三浦女史に本二冊かす。佐藤春夫先生藝術院会員となられし。夕方暑くて散歩。 8月19日 9:00の汽車。三興来しと。ややして再来、5000呉る。あとはまたと。芝田あす来ると。 山中嬢より葡萄酒御馳走となり、関学大の伊東嬢と話し、15:00出て養徳社にゆき、 歴談会速記の件にて鈴木治氏に不快となり、奈良へゆき陸地測量部の地図8枚(92.50)買ひ、石浜『浪華儒林伝(20)』、大町『南朝史伝(20)』、 『康煕帝伝(50)』、『善隣国宝記(20)』、『山の辺の道(30)』など買ひ、18:08の汽車にて帰る。 小高根、笠井よりハガキ。『東洋史研究』10の3。 8月20日 13:30にて芝田、沢田来る。退屈なることなり。夕方岡本家へゆき『世界歌謡集』贈る。 8月21日 12:06にて奈良。外山『岳飛と秦檜(30)』買ひ、平城の神功皇后陵に詣でる。奈良に引返し『武田信玄(30)』、『近世探険史(10)』買ひ、参謀本部の地図2枚(24)買ひ、 18:08にて帰宅。けふ不快。 8月22日(日) 家居、鎌田来らず。夕方より保田家へゆき父君にこの間のつづきものとして特殊部落教はる。牧野より『日本短歌』の稿料400、 三橋とともに同人誌『サロン文芸』加入をすすめ来る。『文芸世紀』のあとつぎなり。 8月23日 12:06にて奈良へゆき三興に云へば『第二ハイネ詩抄』出すと。原稿置き、高桐へゆき濱野氏に会ひて『独逸』見せしに難色あり。熟考をたのみ、下総町。 夕食して羽田にゆき聞けば桑田六郎氏未帰国なれど教授に内定らし。助教授置くや否や知らずとの仰せに再び(※大阪大学への口利き)推薦をお願し呉れたりと。 友情感謝に余あり。地蔵盆とて踊り方々21:30下総町に泊る。 8月24日 9:00野田又夫にゆけば養徳社中島に乗気となり、15日までに作家論の原稿をと。桑原武夫京大へ帰ること確実。服部英次郎氏名大。宇都宮清吉同と。 東方文化へゆきて養徳社と話す中、貝塚氏来会せられ「中国古代史学の発展」再版いただく。 神田先生に会ひ、信夫君「オリエンタリカ」もち来たりしと。羽倉のフラウもと東方文化にゐしと。 養徳社の上田君来合せしにより石浜先生の還暦論叢のこといふ。「狐の詩情」は10月と。ともに出てしんしん堂(※進々堂)にて茶ふるまはれ、藤枝にもらひしパン食ふ。 (そのまへ野間三郎に会ふ。「時論」の編輯) 東洋史研究室にゆき佐藤長君に会ふ。月末までに紹介文かくを約す。昨日買ひし江漢「西遊日記(30)」、曾我部「支那政治習俗論攷(35)」、 「四夷考(50)」、岡田東寧「台湾歴史考(80)」よみつつ奈良着、三興へゆきて時間つぶし、16:00の汽車にのり櫟本。中島明子女史に野田君の話つたへ18:00汽車にて帰宅。 8月25日 休暇最終日。雨。無為。 8月26日 6:40にて出勤。富永氏を教育委員に推すとのこと也。昼食後スミソニアン研究所の寄贈書目を八木嬢に打たしめ16:48にて帰る。 服部よりハガキ。島稔より手紙(岩手県にありと)。 8月27日 6:40にのれず9:10でゆく。帰り高橋君にゆき上田一雄に会ふ。大正天皇御集の金23日托せし由。山口繁雄氏に高橋君のこといひにゆき18:29にて帰る。 けふ昭森社より受取。相野よりハガキ。吉田不二子好きな人出来しと。「不二」七月号。 8月28日 6:40で出勤。森良雄、捕虜生体解剖にて死刑と新聞。 二度教育委員に関し会合。富永十二分の色気あり乍ら本部の意向で断念と決定。可嗤。 帰れば三興の埜中君ブドー持ちて来訪、「出版部長みなにきらはる」と。夕食し夕立ちやむを待ちて帰る。史、藤井寺へゆかしめしに靴は訊ねて見ん。 写真と●図は正月にと。米田君来り、教練の書多く呉る。 8月29日(日) 神田信夫君よりハガキ。鎌田午すぎ来る。藤田久一安本にありと。駅まで送り、坂口君にハイネ『ハルツ紀行』借りる。 米田君に夕方佐藤長氏へのスミソニアン研究報告のこと少し托し、保田家へゆけば父子マーヂャン。 8月30日 悠紀子ねすごして6:40にのれず欠勤。12:06にて奈良、三興へゆけば「9月1日にもち来る」と。不快な顔してやる。「我らが生涯最良の年」見て、18:13京終より帰る。 二万五千分之一「名張」買ふ(11.50)。神田信夫、服部正己、相野、芳野兄弟へハガキ。 8月31日 登館すれば大掃除日、すみて昼食。富永、新井二氏そろはる。 酒井先生服部の悪口いひをらるる由。一宝を取りのケをると。唖然。 午後、八木嬢来り、誕生日の祝に財布呉る。ともに出て高橋君に寄り、山口氏より四時間とのことをききしを伝ふ。頴原退蔵先生急逝と。中村幸彦のこと思ひて哀れ。 帰れば和田先生よりハガキ。「教授にもとも思ひしも桑田六郎博士とせし」と。「助教授の話はなかりし」と。 よべ二時半より起き、貝塚氏ほぼ読了。 9月1日 登館、三興来ず。16:00高橋君へ寄りて帰る。カカアどの悲観す。博多久吉より杜甫校正送りしと。「大和地名考」見て六●ヶ所見つけたり。 9月2日 登館、三興けふも来ず。帰りて早寝。米田君ジャガ芋玉ねぎ賜ふ会はず。 9月3日 朝、三興に電話(ナラ3819)せしに(12円)、「とりに来よ」と。放送協会へ返事出し、養徳社により『唐詩研究』と漱石もらひ、三興にて五千円とり、 地図3枚(23)、散髪(55)、タバコ(140 朝日2×40、ハピー60)。 前川(※佐美雄)にゆけば『くれなゐ』の埜中君●●あり。匆々辞去して4:25の奈良発にのる。米田君によれば妹の英語家庭教師を坂口君にたのみたしと。 漱石与へて帰る。 9月4日 小幡信男に寄り、帰米の送別会を明日ときむ。12:58にのり、橿原、八木の辻君に寄り、「大和國神名帖」またもらふ。北川冬彦の「悪夢」なる小説借る。 われのことのりをり。 とつがれぬ身となることもうけがへるこのこころゆめかへたまふなと。 9月5日(日) 9:00小幡来る。昼飯食はしめしが粗末にて恥づ。15:30送り出して保田へゆき小坊と話し、一旦帰り、夕方坂口君にゆけば家庭教師だめと。米田君にゆき伝ふ。けふ末吉よりハガキと手紙。 9月6日 和田先生へやっと礼状。出勤。二嬢に英語教ふ。山崎『ツングース語研究小史』なるもの持ち来る。帰り岩波文庫『ペルリ遠征記』買ひしに110円にて取引高税1.1円の切手呉る。 鈴木氏に会ひしに『大和文学』の詩の選をと。 9月7日 登館、定期忘れてゆく。八木嬢より100円とり、英語教へんとせしに邪魔多し。 金井、山崎、吉岡、佐藤誠、沢田と次々来る。吉岡君『大和文学』の詩稿もち来る。 9月8日 出勤。よべ睡眠不足にてねむし。この頃二嬢に英語教へゲーテ一篇づつ『李朝実録抄』などを日課とす。「わが夢の記(佐藤春夫)」買ふ(6.60)。 このをとめあまたの引く手いなまずてわれの心をさかん(※裂かん)とはす。 9月9日 出勤。八木君より100返してもらふ。まだ100ありと。タバコ二ケ(ハピー30×2)買ひしのみ。上田君、神田先生より「オリエンタリカ」預り来る。 藤枝へハガキ。篠原全一氏より2800円(総計7990の中3600既に渡せしを清算と)。 9月10日 出勤。1600ベースの0.88(引税)とて1400円余もらふ。帰途、文学堂へゆき新文庫『南山踏雲録』買ふ。羽田のアラビア語辞典、館長ことはる。ハガキ書く。篠原全一へ受取。 9月11日 出勤。教育委員に幼稚園の松本君立候補と。12:58にて八木。新村「童心録」鴎外「北條霞亭」「李花集」買ふ。19日『爐』同人来ると。帰り米田により本なかりしこと云ふ。 山の辺にふたりならびてうたうたひ日のながかれと神にいのれる。 桑原武夫、京大教授と。 9月12日(日) 雨。家居。無為。神田信夫君に礼状と110円。昨日やぶりしズボン修繕せしむ。 9月13日 出勤。博多より「杜甫」再校来る。校正して疲る。 9月14日 出勤。「杜甫」校正終る。けふ疲る。「現代日本代表作詩集」よりハガキ。 9月15日 出勤。大掃除。月給5340もらふ。雨。文学堂にて『素朴主義の民族と文明主義の社会』『頼朝為朝』買ふ(100)。12:58にて帰る。島稔、末吉よりハガキ。 9月16日 出勤。暴風雨。二嬢と英語。14:00より通勤費で組合の小委員会とてゆきしに不参のため流会。養徳社により吉岡君に聞けば、詩評書けとは金くれるためと。断る。夕方雨止む。 9月17日 出勤。事なし。帰れば留守中埜中君来り、「南の星」返しのり二瓶呉れしと。 夜、依子弓子ふたり教会長家の月見に招かる。われ早寝。 9月18日 出勤。芝田呉服店落選。図書館やめねばならぬ由。小幡、西田と来り、別れの写真とる。二十日出発と。正午中村君東京より帰る。柳本まで歩きて帰る。 わがごとくをとめとゐたる時すぎてこの土のへに眠るひとはや。 9月19日(日) 羽田より来信。「和田先生助教授ならとのハガキよこされし」と。桑田部長のところへもちゆき呉れしと。二十四、五日来丹と。 全田叔母より相談あり来よ、石浜先生夫人重態と。10:00坂口允男に本とりかへしにゆく。 14:00爐同人、森本一三男、吉川、辻三君『年刊詩集』とカボチャともちて来る。17:00まで話し保田へ森本氏とゆき、碁二番。順三郎君を家へつれ来りてのち夕食。 9月20日 出勤。村田忠兵エよりハガキ。富永氏に石浜夫人見舞のため欠勤いふ。帰り雨。高橋君に傘借り養徳社に田村博士のこといふ。 9月21日 出勤。あす米軍の講演とて大掃除しゐる。午後貸本の催促にて組合委員会に出しに昔通りなり。足達家に本預けて帰る。汽車にて松井君に会ひ吉川君のこといふ。 9月22日 欠勤。11:00の汽車にて天王寺-地下鉄-博多久吉-村田(不在)-地下鉄、大江叔母に会ふ。-市役所(筒井不在)-日銀 鎌田-渡-朝日 谷川- 大毎 井上(不在)-西日本鎔接工組合 父-商工会議所 城平叔父-筒井、家承知した500円位と-沢田-沢井(不在)-地下鉄饗庭源吾に会ふ。南千通で敗戦、ナホトカにありしと。 喫茶店ごらる(150)-創元書房「測量船」(27.50)-石浜先生上洛、藤沢桓夫に五分間面会、還暦論叢のこといふ。-上野芝 田村春雄、夫人出産のため帰郷、男児と、博士論文執筆中-岡部克也、第二ハイネ詩抄出さず、ハイネ詩抄再版と-全田おりえ叔母来会す。某生に紹介さる。不快。2:00頃就寝。 9月23日 秋分の日。渡と一寸話し、無干渉をいひ、石浜先生。印度学会の件ことはる。藤井寺にゆき叔母と昼食。勉の縁談のこと聞く。 「仏教美術」買ひ電車賃足らずなり八木下車。笠井君と辻君にゆき辻君にて10円借り帰る。 9月24日 出勤。羽田来ず。二嬢と英語。米人接待用の菓子ふるまはる。服部より電話(※来訪)。養徳社へ高橋君、佐藤君とゆく。石浜先生論叢引受しはまこと。 高橋家にて話し、酒井先生にゆき服部をのこして帰る。月収8000位と。けふ博多へ「あとがき」送る。 9月25日 出勤。服部きのふ吉岡君に泊りしと。羽田13:00まで待ちしが来ず。大和神社にゆきて長柄より乗車。明日よりバク書(※曝書)は沢田とコンビ。 木犀のにほひゆかしくこの社を去りがてにしてわれはゐたるも 9月26日(日) バク書(※曝書)とて出勤。不快。寺島弟氏に会ひしも兄来らず。米田君来りしと。 9月27日 出勤。八木嬢とバク書。京都寺島翁より返本。中野博之君よりハガキ。 わがをとめなよになよらにうちなびきひとにたよらむその日あらすな。 9月28日 出勤。バク書すみて異動、バカらし。「登呂遺跡(66)」買ふ。「金瓶梅」訳よむ。饗庭君へハガキ。 9月29日 異動。大掃除。すみて英語。14:00山中嬢をさそひ奈良。三興にて2000もらひ「ハイネ第二詩抄」返却を受け、埜中君(昨日辞表提出と)と喫茶。 「ヘプタメロン」「アテネ文庫」買ひて帰る。 9月30日 6:40にてゆき高橋君。養徳社へより木下へゆきしに店主メンソレータム二つ呉る。「西遊記」買ひ「ゲーテ恋愛詩集」約束し、9:07にて遠足、西ノ京下 車。薬師寺、唐招提寺。薬師寺の聖観音、唐招提寺の大日如来に見とれる。十五年ぶり也。五條山にゆき窯見、西ノ京に帰り窯見る。佐藤誠に会ひ話す。 帰り養徳社にゆき森君に「狐の詩情」早く出せといふ。 10月1日 日直のため出勤。芝田に午前中たのみのりくら山。午後山中嬢来らざりし為英語やめ、柿食ふ。帰り新生(※煙草)発売を見、三箱買ふ。 このこひは永くつづかむそのてだてまことよりほかありやなしやを。 10月2日 出勤。外語の川村氏来り、石浜先生論叢の交渉経過報告を受く。 中村君、奥村氏と会見。図書館教授の要求事項を考へよと。広田君英詩を訳さす。ひる山中嬢と退出、(寿岳文章の講演きかず) 八木にゆき辻君に寄りしに帰らず。 けふ神田信夫君より「旧唐書食貨志」郵送。青木富太郎「マルコポーロ」「古泉千樫歌集」買ふ。 あふ時はかならず雨降るこのゑにし泣けとはあらずみずみずし子ゆゑ 10月3日(日) 寺島●八郎氏よりハガキ。午後●崎の埜中君まで歩き千樫歌集贈る。入浴。 10月4日 出勤。木下にて「ゲーテ恋愛詩集」買ふ。藤沢桓夫へ手紙。佐藤君言語出身の桜井の人(原●君)つれ来る。小幡の送別写真出来。 10月5日 教育委員選挙とて共産党の青木康次に投票し、散髪し(45)て9:10にてゆく。展覧会の準備しをり。我に不関なるに不快。英語二冊すむ。帰途高橋君により新生三箱買ってもらふ。 けふ養徳社の上田君来り、カヴァーの図案考ふ。 10月6日 6:40の汽車にて奈良-油阪-京都(60)。彙文堂―ゆき『老乞大(100)』『奉天と遼陽(50)』買ひ波多野君に会ふ。 三高にゆき羽田と会ひ18:00を約し、谷友幸と話し、東方文化、外山軍治と話す。中村忠行君来会す。藤枝の室にゆけば佐藤誠君あり、ともに出てしんしん堂で喫茶。 羽田と会ひ田村博士にゆき話す。「阪大へ推薦すべし」と。羽田、フラウ妊娠と。同じやうなることかな。別れて野田君にゆき中島のこといひ、下総町にゆき母と会ふ。 大酒乱にてこの間、奈良にて留置されしと。 17:15の電車のり養徳社大畑君、岡本和子嬢と同車。雨。青木泰次落選らし。 10月7日 出勤。荒川氏欠勤三日。佐藤君来りて教職以外は二年を一年にして職●制にすとのことに憤慨。その後組合での話では大方減俸と。怪訝。 鈴木治氏来り、中島のこといふに憤慨。大高閥ゆゑ中々出ずとのことに腹立てし。 ビブリアの校正出てこの相談に●●しばらく。 埜中君よりハガキ。聡子よりハガキ。「岡山伯母喘息につき悠紀子十二日来よ」と也。 10月8日 職員組合報告。佐藤君来り「遼史索引」もち来る。「あす上京」と。 12:30より外語にて3791ベースの基準につき会合。すみて支那語字典のこと、図書館支部の会合のあひまにしらべささる。 10月9日 朝、館長より注意。すみてビブリアの校正。山中嬢と同車、奈良へゆき三興によりしも不在。博物館へ着任の小野勝年氏に会ひしに宿直室に一人ぐらし。家たのまれよわる。喫茶(100)。 18:08の汽車にて帰る。20:30大、来り、大手前に就職と。坪井に会ひしと奇縁。 10月10日(日) 雨。大、10:00帰る。神田信夫君より手紙。17円返し来る。15:30雨やむ。タバコ買ひに出、保田家へゆけば與重郎上高家へゆきしと。久しく会はず。 父君、順三郎君と話して帰る。野田又夫へハガキ。 10月11日 出勤。吐気す。ビブリアの校正すみ、その相談。鈴木俊氏よりビブリア呉れ、大毎より出版文化賞の問合せ。羽田博士『西域文化史』と野間光辰『西鶴新攷』とを以て答ふ。 帰り柳本にゆかんとし中西女史に会ふ。ハイネみなに見せしに「むつかし」と。 荒川氏を見舞ひしに銭湯にゆく。胃痙攣。明日出勤と。歩きて帰る。田宮虎彦氏より詩の稿料500円。但し『現代人』廃刊と。富くじ買ふ。 10月12日 出勤。杉浦より速達「十七、八日頃来る」と。八木君、弓子の虫下し呉る。夜、富田純君来る。『婦人タイムス』創刊と。 10月13日 出勤。英語やらず。執行委員改選、金井、山崎、代議員に高橋君。桜井より電話、帰りに保田にてきけば牧野径太郎と。 10月14日 出勤。ビブリアの相談、つまらず。吉岡君、京都へゆきしと。八木君また虫下し呉る。『芭蕉名句集』。昨日より朝鮮語。二十日サラリーと。 10月15日 けさ早く胃悪く9:10でゆきしに大掃除すみ、養徳社により「祇園物語」もらひし。 帰りて夕食後、尾西家へゆき話す。四郎君里帰りしゐし。冬木よりハガキ。 永遠をちかふこころにいつはりはなけれどかなしたはやすからず。 10月16日 出勤。上田君より電話。帯の文案月曜にと。瀧井氏より電話。「明日接待役に来よ」と。 中村孝志氏来り、学術会議のこと。ひるすぎ山中嬢と出て帰る。けふ鳥見神社の夜宮。 10月17日(日) 隣の癌翁よべ死せしと。11:00家を出、三輪の森本佐一をさそひにゆきしも不在。大高会に和楽館にゆけば三、四十名。知れる者少なし。五十嵐の兄、熊野啓五郎氏に挨拶せし。 16:48かへる。(葬儀すみしと)。北海道の中野氏よりハガキ。 10月18日 創立記念日(18周年と)とて9:10にてゆく。11:00より茶会、中山管長来る。やがて生島遼一、大山定一来り、二人ともわれを覚えゐたり。杉浦来り、佐藤誠来り、吉岡来り、忙し。 杉浦「阪大へ運動すべし」とすすむ。武田泰淳、北大をやめ上京せしと。夜の宴に招かれず高橋君によりて18:29にて帰来。 吉川幸次郎博士『李太白』呉れと。『不二』。弘文堂より『蘇東坡』二三月頃と。 10月19日 休日となりしが6:40にて丹波市へゆき、小幡君の家にゆき母上と話し、「安着」の手紙見る。 中村君にゆき杉浦泊りしと話し、出て別れ、養徳社にゆき上田君のため「狐の詩情」の帯書く。杉浦来りしを天理駅に送り(11:58)、12:58に乗り三輪-長谷。長谷は秋祭なりし。 田原本へゆき原正明君を訪れ、夕食御馳走受け、秋田生れの夫人を初めて紹介さる。20:30帰宅。 10月20日 出勤。組合の支部会。「●教職員以上を要求せん」と。嗤ふ。 中村孝志氏来り、本の値段きく。山本書店より書目来り、小説類注文す。尾西氏、父兄会とて来り、話し案内す。帰途、岩波文庫『平家物語 下』『東洋学報』買ふ。 弘文堂へハガキ。末吉よりハガキ。筒井より手紙、家の申込書同封す。 10月21日 筒井へたのみの手紙速達す。上野君面詰せしに泣きしと。芝田の言出しは中村君と。帰り養徳社へよりし。 10月22日 富永館長わが室へ来り、「芝田やめささん」と。職務出来ぬとのこと。中言するものありと憤慨。とも角、即時馘首に反対す。佐藤君に「遼史索引」の金(400)わたす。 10月23日 出勤。上野結局わからずと也。芝田に因果ふくめる。 午後、柳本にゆき秋永氏に神話大系とどけ、小学校に森本一三を訪ね、汽車にのりて奈良へゆき坪井を訪ねしに不帰、夫人に大のこときけど知らず。 11月末大阪へ移るとのことに小野勝年たのむ。 けふ藤枝より手紙。「博多三万円かけ(※欠け)たり、出してもよし、ゆづりてもよし」と也。 にくからずおもひし乙女とつぎさりたかまる胸しあるくに会ひたし 10月24日(日) 教会の秋季大祭とて二児つれて登館(9:10)、大豆をもぐ。四貫目となる。八木山中二嬢あり。芝田、沢田あり。 10月25日 6:40にのりおくれ9:10にてゆく。『ビブリア』の校正出る。大和文学3出しとて吉岡君より電話、鈴木氏へゆかんと。断る。 松井君帰りしにより杉浦よりの伝言す。 10月26日 雨。天理教秋季大祭とてゆかず。八木の辻君にて夕食。保田へゆき珍しくゐ合せし保田と話し、帰り来し父君と話し、20:30帰宅。 りんどうの咲きゐしみちをのぼりゆきわれらひとつとなりし一時。 10月27日 出勤。『ビブリア』再校終。日和佐へゆきしも寺島氏不在。佐藤君の本代550円受取る。鞄切れ八木氏になほしてもらふ。松井君と帰る。 10月28日 出勤。板沢武雄氏売立の本、整理す。東北大教授古田氏来館、案内す。佐藤君に150わたし、タバコもらふ。 10月29日 出勤。台北で会ひし松村一雄氏来らるとて待ちしかどだめ。芳野清よりハガキ。 10月30日 出勤。9:10の汽車でゆく。午後両嬢と英語。高橋君にゆき上田一雄氏より山羊の乳、保田へことづかりもちゆく。帰りて夕飯後ゆき将棋さす。前川より手紙。11月14日のこと。 10月31日(日) 終日床にあり。くもりて不快。前川芳郎へハガキ。 11月1日 けふより7:11と汽車時間変更。大掃除し、新井女史より1000借用。 11月2日 出勤。近々ボーナスとして溯及くれ21日に月俸わたすと。7日東洋史の会京都であると通知。和田先生を寄贈者より削除することいひに養徳社にゆく。 酒井先生の「ウォルデン」出来たり。山中嬢、小豆くる。明日8:08にて八木嬢と来ると。辻君よりハガキ。吉川君ハイネ出すと。西島君と同車せし。 11月3日 文化の日とて休業。8:30八木山中二嬢来る。山中嬢の小豆にてお萩つくり鳥見山へゆき松茸飯す。15:35にて帰る。昨日奈良市役所焼け文化祭とり止めと。夕方入浴、雨降る。 11月4日 出勤。事なし。和田先生より阪大助教授ほぼきまりしが京大に備へ羽田をたのむべしと。 けふ依子、奈良へ遠足。 11月5日 出勤。職員会中石浜先生来られ、正倉院ゆき駄目となる。高楠文庫見せ、印度学会21日ときまる。養徳社へ案内。16:48お帰り。われも汽車。八木爐書房へハガキ。 11月6日 7:10に奈良-三條、三高へゆき京大東洋史研究室へゆきしも羽田ゐず、東方文化の人文科学講演にゆけば野田君すみし処、ついで須田画伯の話あり。 休みに野田君に中島のこといふ。鈴木氏より同じく(※遺稿集刊行について)弱気の言葉ありしと。 泉井、小林[美]夫二氏の話聞き昼食。神田信夫君に会計。金井君と一緒に飯食ひ藤枝と話してのち退出。佐藤長に会ひ、羽田にゆけばをらず、 一旦父の家へゆきしのち羽田へゆき21:00まで話して帰る。 けふ小野忍氏に会ひし。大、8日より大手前に勤務と。「ハイネ」(60)。 11月7日(日) 9:00家を出て東方文化にゆき東洋史談話会の話きく。北野丈夫と羽田と面白かりし。三田村春助、田村実造、内田吟風と挨拶。 大淵君岡山より来り、玉野なる大原利貞と会ふと。硲晃来り、中村孝志来る。すみてしんしん堂にて喫茶後、硲と出て帰る。東京にて小野文夫氏と一緒の慶松君と会ひしと。 けふ管長の所へ泊ると。 11月8日 出勤の途アパートへゆき中村氏より「バタヴィヤ城日記」二冊借り、吉岡見しもゐず。 9:00小竹文夫氏来り、案内する中、貴重書庫金庫のキー動かし開けなくす。お蔭にて永楽大典の四冊をはじめて見し。 12:00正倉院へゆく。慶松君の酒徒にして中々のものおぢせぬことこの二日にて知りし。 午後大学所属の際の相談、富永教授の案立てて可嗤。 けふおきの汽車にた保田の小ボこ(※坊)と一緒になりし。石浜先生より手紙と原稿。夜、富田君来り、「女性タイムス」の巻頭言と。吉村正一郎にゆ●し●谷川への紹介文かく。 11月9日 出勤。「台湾の古地図」書く中、神田信夫君来り案内す。16:00までもてなし、帰り八木嬢より80.00借りしも中村忠行君奢りくれて困なかりし。 汽車に富田君あり保田の代りに新村出に書かすと。石浜先生へ受取。 11月10日 出勤。附属図書館対策。研究所を造る由にてその研究員となり、司書を兼ねんと。三児来り(10:30)、豆採る。6189円(税金1200、借金2000 引)貰ひ、パン買ひ小遣ひ与へ13:30行かしむ。 吉岡君来り、田村博士の伝言つたふ。帰途、養徳社へ寄り、鈴木氏より保田への伝言たのまれ不快にて断はる。吉岡君「大和文学」の詩の選料として500円渡さんとするを受けず。 無礼なる奴らばかりなり。 11月11日 出勤。大学審査委員来るとて朝から大掃除。14:00頃現はれ早々去りし。 けふより四五日、慶松君上洛。高橋君にゆかんとせしに養徳社より「狐の詩情」出来しと。十五冊もらひて帰り、高橋君で喫茶。一冊与へ木下にて鴎外「妄想」買ひ、 19:18にて京終下車、パン買ひ、坪井にゆき泊る。 11月12日 坪井とともに出る。家を小野勝年に貸すやもしれずと。博物館に小野氏を訪ねしに正倉院展終りしため帰省。散髪(50)、「ペルリ遠征記」買ひ三興へゆき「狐」一冊与ふ。 ハイネ考慮と。10:30の汽車にて宇治、16:35奈良へ帰り近鉄にのり西の京に下車せしに佐藤誠不在。 天理へつきうどん食ひ「源平盛衰記」(30)「日本古代史と神道(40)」買ひ、柿買ひ(20)、タバコ新生5ケ買ひして帰る。(宇治での喫茶128)。 けふ東京裁判の判決。東條、土肥原、広田、板垣、木村、松井、武藤の七人の絞首刑と。みな無言。 11月13日 休暇。9:30の汽車でゆき養徳社で「狐」20冊受取り、東京へゆく編輯局長に和田先生に会ふこといひ登館、14:00まで山本達郎まちしが来らず。二嬢に「狐」与へたり。 16:48にて畝傍、辻君に吉川君の出版にと中村君の「雨月物語」、高橋君のアイヘンドルフいふ。明日爐の集りと。 帰れば吉川君より使、服部よりハガキ。出版うまく行かずと、をかし。けふ「現代詩代表作詩集」そのもの来る。 11月14日(日) 午前中ひるね、午後保田にゆき「狐」与へ汽車にのり庄野誠一に会ふ。中島の許へゆくといへば桑原の後[地]で出すと。よき土産なり。中島未亡人に会ふ。 伊東恋愛をすすめしと。夕食す。古本中島の姉が売れといふと。 丹波市まで歩き、ダンスより帰りし高橋夫妻に会ひ、「狐」預け置きしをとり、木下にて「洛陽三怪記」買ひ18:29にて帰る。留守中、岡本和子来り、本返せしと。和田先生へ手紙。 11月15日 駅にて岡本姉妹に会ふ。けふより冬服。ゆけば大掃除と。中村忠行君、山本達郎氏に会ひ明日来るとの伝言。岡崎精郎なる男(京大東洋史、浪高卒)大阪図書館にあり、 進駐軍に投書し三木らを追放させしが、阪大助教授ときまりしを云ひをると。 12時出て養徳社にゆき、悪き本とりかへてもらひ天理駅にて三興の岡部君らに会ふ。八木にゆき辻君問ひしも不在。 その日より忘れずなりぬその日よりはなれずなりぬきみがおもわは。 11月16日 雨。9:00ごろ山本達郎氏来り、本熱心に見てくれしにうれし。「聊斎」一冊進呈。中村孝志君も来り話しゆく。佐藤誠「時報社中国分省新図」呉る。羽田、野田又夫へハガキ。 11月17日 晴。二嬢休暇。校正しアルバンス読む。帰途、校正もちゆき上田君に山中嬢の見合承諾せしめ、吉岡松井二君と喫茶。「大和文学」の選料500もらふ。 安藤治正君上京は月末と。松井君に吉川君への伝言たのむ。 けふ東京斎田祐吉への詩「冬」を一分間で作る。 11月18日 曇のち雨。吉田富士子嬢より手紙。和田先生と杉浦へハガキ。 養徳社へビブリアの校正のことにてゆく。上田君と山中嬢むすばんとして面倒なるにおどろく。 帰り尾西嬢に傘借り「狐」一冊与ふ。村田忠兵エ氏より21日の会の案内。「陶淵明集(49.50)」買ふ。 11月19日 雨。慶松君帰り来る。外山軍治氏よりまた養徳社へ「太平天国時代(モース)」のことよろしく頼むと。けふ「台湾の古地図」大分すすみうれし。 11月20日 晴、秋永氏来訪。月給とて7100もらふ。昼までにて奈良へゆき映画見しのち小野勝年訪へばまだ帰らず。帰りてゆき子に5500わたし風呂へゆく。 学術体制刷新委員に和田、山本両先生立候補されをる。小幡信男より手紙。大23:30来る。 11月21日(日) 大とともに9:00家を出る。史、学友と奈良図書館へゆく。11:00まへ石浜先生の一行来る、6人。昼食後、高楠文庫見す。6:10送り出す、しんどきことかな。 入谷義高氏より「狐」の礼。 会へばまし別るれば増すこひごころつもりていかにならんとすらん。 山のもり下りくる町にきみおもひたたずみゐればかなしむがごと。 11月22日 出勤。石田幹之助先生に速達して詫び状かく。午後史電報もち来り、柏井母死すと。一週間の忌引もらひ、家に帰り羽田と父へハガキし、 保田にゆき、18:55にのり丹波市へ降り、阿部八木二女史に送られて乗車。 11月23日 10:30阿佐ヶ谷着。小光母の顔見て哀れなり。やや良くなり冗談もいひ●●用ふる様になりゐしと。 昼寝後みなと会ふ。船越章、柏井昇、松田氏らと会ふ。 11月24日 よべ三時にいね、六時起き10:00より葬式。数男つひにかへらず。11:00堀の内の焼場へゆき骨上げ一時間後。俊子姉、三郎兄とわれ以外まにあはず。 雨の中帰り夕食後、角川氏を訪ひしも明後日まで不在。 ゆき子長尾良へハガキ。21:00数男着。 よべ大●に出しも急行券自由販売知らざりしと、あはれ。 11月25日 朝飯9:30ごろ食べ荻窪より八王子、早川氏訪ねしに出でしばかりと。留守居の娘さん電話かけ呉れしも駄目、下條(※下条康麿)文相の秘書いはれしも拒みをると。 娘さんわれの名知りゐし。明日の再訪を約し、吉祥寺より帝電(※井の頭線)にて永福町青木(※妹一家)にゆき昼飯食ひ、小高根(※太郎)を訪ぬれば夫人お産にて入院と。 「平福百穂」出せしと一冊呉る。 和田先生を訪ね奉ればをらる。阪大の件話さる。少し怪しき口ぶり也。土曜談話会での再会約し奉り西島寿一の家たづねまはりしに移転のあと。青木に帰り家主なる坂井君と話す。 商大出の青山学院の教師、学問好きなるまじめの青年。わが名知りゐたり。陽生22:30帰来、24:00まで話し臥床。 11月26日 千草の家を出、早川須佐雄を9:30に訪ね、待ちくれゐしと。色々話し昼飯よばれ15:30ともに出、飯田橋へゆき、お幸伯母に会ふ。案外元気にて子らに1000賜ふ。 聡子に200与へて出、山本書店にて図書館の本1350買ひわれに200。お茶の水より乗車、赤川を訪ね本110買ひ、昇の家を訪ね、玉子小母見舞ひ、 丸にゆきしに帰らず。赤川によりてのち船越にゆき、23:00まで話して帰る。 早川氏、(P.)のこと安心せよと下條氏のため云々保田に云へと。 11月27日 9:00家を出、角川氏を訪ねしにすでに出勤と。お茶の水に出、中国研究所にゆきしも誰もゐず。 昭森社に森谷氏を訪ね、土方定一もらひ、聞けば坂本越郎の原稿未だ出来ずと。近古奇観の風流篇引受く。風俗篇は入矢氏にたのみくれよと。 河出にゆき杉森久英に話すに小説のこといひ又一度作って見せよと。折柄来りし中村光男を中野好夫とまちがへ恥かく。 市電(6.00)にて大手町にて下り歩きて東京建物にゆけば、西川、丸夫人、池田徹、川崎あり。後刻を約して日本評論社に急ぎゆき編輯の某君に会ふ。甚だ不快。水曜に返事せんと。 ここより市電にて御徒町にゆき芳野弓亮を訪へば、去年11月24日心臓病で急死せしと。夫人子供パン製造す。哀れ。100子供に与へ、パンもらひて出、 東大にゆき和田久徳君、河原正博と会ひ、久徳君その中天理に来ると。松本に会ひて後刻を約し、東洋史談話会に中島敏氏の話きき、すみて森尾美都雄に養徳社のこといふ。 青山氏、白鳥長男氏、須藤氏などあり。善海と白十字にゆき茶おごられ、 別れて西川の家を訪ねまはり17:00頃帰り来りしを見れば一人。丸は野球より帰宅せし模様。22:00まで話し、土産もらひ本郷三丁目まで送らる。帰れば23:30。 11月28日(日) 8:00角川君を訪ぬ。ビーダーマンとリルケと賜ふ。四季コギト預ると。ハイネ3月末までに、李太白、杜甫考慮する様子。 堀辰雄氏のところに在りしに野村少年の訃報来り、堀氏泣きしと。足細かりしと。驚きて加藤俊策氏にゆきて聞けば、楽観的。川久保より岡氏の新築中の家を見、岩村忍のこといひ喫茶後、 別れ、田宮虎彦を訪へば夫人、堀夫人と同級生と。初対面とは思へずとの挨拶を受け、西川満にゆかず。 帰りて法事(初七日)すみて高沢叔母より柏井家は井上子爵の妾腹との確証得、15:30帰りしあと角川君のコギト四季預け、姉弟と相談、 葬儀費の四分の一(5000)分担ときめ、岡田二妹らと喫茶(遺骨分譲)。21:30就寝。 11月29日 8:00四季コギトの残りしを角川氏に届け、別れの挨拶し、リュックと風呂敷に本つめて出発、西川満を訪ね、本一冊もらひて別れ、 東京駅より12:20豊橋行にのり20:40豊橋着。 服部家にゆき板倉鞆音と将棋さす。服部夫妻眠りたがらず3時まで話ささる。 11月30日 5時半目ざめ、8:00すき焼。新聞にて丸山薫のゐることに気付き、服部家を出て東田東雲町71-1小林方に訪ぬ。夫妻ともに歓待。 10:53にのり名古屋下車(70)、近鉄にのりて(160)帰れば嚢中無一文。手紙多く来りをる、小高根二郎、羽田明、和田先生、吉川仁、山本達郎。 夜、富田君来る。明朝来よといひやる。 12月1日 富田君10:00来る。ともに出て保田にゆけばまだ帰らず。12:06にて天理、養徳社に寄り庄野君にいろいろ云ひ、登館すれば職員会。館長にいひ、 山本書店のことほぼ承諾せしめ、カードの点検やり、石田幹之助氏に返事かき、二嬢と帰りにしるこ食ひて帰り、夕食後、富田君に原稿出来たてをわたし、 保田よりの電話にゆきて早川氏の伝言つたへる。 ハガキ石浜先生。芳野清より手紙。伊東静雄(※リンク「狐の詩情」への礼状と近況)。 12月2日 7:10の汽車にのりおくれ米田清治、富田君(きのふの原稿でよしと)を訪れしのち一旦帰宅、出直して養徳社により登館、現文リスト校正やり、午、八木嬢を怒らして英語やらず。 午後雨もやう。上田嘉俊来り、月額三千円にてはいかがと。五千円は5日すぎと。山中嬢との話やや本節に入る。 PTAより2,000円もらひ、前川、中村、山崎、高橋四氏より香奠もらふ。 保田、管長を訪ふとのことにて電話往来しきり。二嬢と喫茶すまし6:48にて帰り、米田家で傘借り保田へゆけば[酒に]と在宅。せかしてゆかしめんとして帰宅。 下條氏のこと吾が名を出さんと。吾不知道。夜学●体制委員に和田、山本、服部、安倍氏をしるす。角川中のへハガキ。 12月3日 出勤。久しぶりに整理す。●よりわび状。午後中村君に奥村氏へ紹介され資格審査用紙もらふ。養徳社より2000もらふ。昨夜保田ゆきしもやう、二階堂●の某君来りて話す。 帰り上田、吉岡二君をおごり、アパートにゆき18:29の汽車にて帰る。 12月4日 出勤。44冊半日にて整理。佐藤誠に日曜夕ゆくことを約し、奈良へゆき三興へよりしも無為。小野勝年を坪井に紹介せしも、小野不快らしかりし。 京都へゆき20:00頃、羽田へ着。夕飯よばれ種々話し明日12:00再会を約し、家たたみ、22:00父の家へゆく。葬儀代5000に母怒り、千草、咲 耶(異母妹)の確執に怒る。夜、眠りがたし。内藤湖南「目睹書譚」とどきありし。 12月5日(日) 目ざめ食事せしところへ大、帰り、ややしばらくして三郎叔父現はる。叔母河中へ顛落臥床と。健、帰来、大と見舞にゆきお見舞200. 野田にゆき放談。帰途、「奉天三十年(40)」「万葉集(170)」「ソロン族の社会(70)」と買ふ。早川須佐雄氏へハガキ。午まで待ちしが羽田来らずと思ひ田村博士家を探せしも見付からず。 羽田を三高に訪ぬれば我と入れちがひに来しと。家のこと重ねてたのみ、 彙文堂へゆき「東光6」買ひ電車故障などにて17:30西ノ京、佐藤君にゆき夕食よばれ、書類の書き方教はり「ソロン族」贈りて帰れば22:00。西島君「爐」の原稿とりに来しと。 12月6日 出勤途上松井君と同車。一昨日今日にて百冊の語学書整理すみ。午後より雨。高橋君に傘借りて帰る。石浜先生よりモザイック誌の有無問合せ、なしと御返事。 12月7日 出勤の途、高橋君に傘返す。二嬢との英語3冊すむ。服部の夫人へハガキ書く。 12月8日 米大審院、反対とり上げ処刑延ぶ。けふ9:30にて登館、途次、養徳社による。 午後、長尾良の弟、上田一雄君と来訪。去月26日ソ聯より帰りしと。兄と異なりまじめなる青年。歯科医と。ソ聯話おもしろし。保田に案内し、 きけば管長S氏のこと承り、ただ呼ぶに現●なしと。羽田へハガキ。家のこと重ねて依頼す。丸山、青木、小高根太郎へハガキ。 12月9日 出勤。慶松君和歌山へゆきしと2日来らず。丹波市の玉井(?)青年来る(保田の弟子)。 桜井南小学校生徒の参観を案内す。不二出版社より300の受取と●の依頼。 けふ暖かかりし。弓子風邪発熱。きのふハイネ「浪曼派」買ふ。 12月10日 弓子の風邪に臆し12:10にてゆく。雨この頃止む。小野勝年氏来り、坪井の家へ入らんと。養徳社にゆき中谷治宇二郎「日本石器時代提要」頒けしむ。 「狐」の五千円二十日すぎと。けふ資格審査概ね書き了る。 12月11日 審査書書き了へ事務室にもちゆけば一括提出すと。玉井青年けふも来る。養徳社へゆけば五千円呉る。八木へゆき辻君に会ひ日高●●女史に紹介さる。 帰れば20:00牧野径太郎より新現実同人になれと。 12月12日(日) 9:39にて奈良へゆく。中島少年に会ひ早川氏の速達托す。坪井にゆけばひっこし最中、手伝へば小野氏のこと一応ことわると。昼食よばれ前川氏を訪ね、保田のこと話し合ひ、 小野氏を訪ね、200受取り、林[檎]屋、服部四郎「蒙古語の話(40)」「北京年中行事記(10)」「道教と中国社会」買ひ、西の京の佐藤君訪ねしに京都。 電車にて喜多聿衛女史の夫君永井君ん会ひ、きけば小野氏と田中治郎と知人と。 丹波市より16:48にて帰れば丸山薫のハガキ。羽田より家承諾せしと。15日来よと。 12月13日 出勤。羽田へ15日ゆくの電報打つ。ボーナス一ヶ月分6170(税1604引)貰ふ。佐藤君に役所の手紙のことたのむ。 帰り養徳社により編輯長にいへば、16日京都でのことやっと承知。和田先生には会へざりしと。(富永館長よそへゆくや否やさぐり入れし)。 帰途、吉岡君によばれ夕食、泊めらる。永井君も来り、よふけまで眠らしめず。 12月14日 9:00吉岡君をのこして出、うどん二杯を朝食とし(50)、パン4ケを弁当に買ひ(60)登館、分類少しやる。明日ゆくつもりなりし上田、けふゆくつもりなりし山中家、 ともにことわりいふ。(傘買ふ。60)。帰宅すればゆき子陽性、妊婦手帖もらひしと。 12月15日 いつも通り7:10にのり散髪(50)後、登館、大掃除。すまして東上の中村君に双書の指定をし(中山管長買はんといふと。)養徳社にゆき上田君にことわり云ひ、 「狐」一冊借り11:58にのり丹波橋、桓武天皇御陵に詣る。「蕪村の俳句(60.50)」買ひ与へ喫茶(170)。みよ京阪にまちがへてのりゆく。 京都着、羽田宅へ入り西田邸にゆく。炊事場なけれどいたし方なし。今夜きまらんと。夜、遅くまで話す。 12月16日 9:00起き朝食よばれ、10:00出、淀野隆三を訪ぬれば不在。弘文堂にゆき細川君にも「狐」与へ、東方文化へゆくみち、しんしん堂にてケーキとミルク(50)。 藤枝を訪ね「東洋学報」買ひ、入矢君に近古奇観のこといひ、大学にゆき佐藤長君と話し、14:30田村先生の室へゆく。 15:30ごろ養徳社安藤君と吉岡君との現はれるまへ井上智勇氏と話す。 安藤君二号は四五月に出す。三号の締切は九月にせよと。予想外なり。 17:00頃退去。家へ帰れば21:00(家のこと決らず。手金に渡せし2000も返さる)。 12月17日 出勤。午後電話かかり服部来しと。佐藤誠君とゆき会ふ。一万五千円もらひしと。帰り寄れといふ。 けふ山中嬢、依子の服作りくれ、明日父母君に会ひたしといひやる。上田君には26日約束し、西川満、西川英夫への送本たのむ。宇陀には21日にゆかんといふ。 羽田、和田先生、不二出版へハガキ。 12月18日 雪島社へ二十日ゆくとハガキ。けふ起きられず9:30にてゆく。 ひるまで金井君と話し、ひる高橋君にたてあひ会の事(※不詳)にて説教、激昂せしはふしぎなり。すみて高校に山中父君を訪ね、仲人役を承認してもらふ。 養徳社へゆけば13:00、保田すでにあり14:00玄関間にゆき管長にあふ。S氏(※下条康麿 文部大臣)よりの返事まだ来らず。15:00吉村、前川来り、東井代議士、庄野、 古野、鈴木氏と夕食。管長洲本[撫]養へゆく。[●度]前日に暴れるはをかし。20:00われ早退。 高橋君にゆき小幡母君の歳暮みかん一箱受取る。われ去りしあと中村君帰り、金井君らと相談せしと。神田信夫君よりハガキ。大、来りをる。 12月19日(日) 尾西家へもち米買ひにゆかんと思ひ、大、去りしあと寝ゐしにハガキ田村春雄より。母君心臓病とのことに見舞にゆく。身体むくみたり。夕食よばれしのち藤井寺にゆき大江に泊る。 けふ桜井駅売店にて飯塚浩二「世界史における東洋社会」買ふ。面白し。 12月20日 大江を9:00出て松原の肥下によりしに不在。一度来よといふ。博多にゆきしに不在、午後来るといひ、筒井に会ふ。家引きうけたとのこと也。 大毎にゆきしに井上(※靖)氏東京転任、大朝にゆけば谷川不在、父のところへゆきしに腹立つ。再び博多にゆきしに未だ帰らず。 (※預けた『杜甫』原稿)出すか出さぬかとの置手紙し、日本一より上六へ出、丹波市。 養徳社に松井君ゐず、図書館へゆき高橋君の原稿とり養徳社へゆき「雞」と「童話」買ひ高橋君にゆきて1000借り、16:48の汽車。 榛原(15)バス大宇陀(30)ゆけば吉川仁不在。松井君を訪へば貧乏、吉川仁、夫人の実家へゆきしことわかりゐるに電話せぬ兄に腹立てて帰宅。(最終バス19:30) 12月21日 雨。9:39にてゆき養徳社に寄れば吉永氏あり。再会を約して登館、会議中のところにゆくに、たてあひ会問題は後にまはし、忘年会やらんと。われ肯んぜず、 金井、前川氏などに止められゐる中、中村孝志君に会ひ「東方史論叢」のこといひ、原稿一先づ返却となる。 それより出でて養徳社にゆき藤枝、外語川村氏らの石浜論叢会のすむを待ち、ともに図書館にゆき上野君を罵倒してのち両氏を案内、古野家にゆく。 佐藤君と会して18:00天理駅に藤枝らを見送る。 12月22日 7:10にて本リュックに背負ひてゆく。封筒(5枚20)買ひ、小幡信男に手紙書き高橋君と同封。9:30八木家にリュック預け、 かな●●(3枚126)もちて小幡母君に歳暮の返しとなし、富永にゆき(最中10、100)、荷物とりかへし安達家に満中陰志(※香奠返し)(きざみ2ケ)もちゆき、養徳社にゆき2冊の代金(2割34)払ひ、 アパートの中村孝志氏に「バタビヤ城日記」と原稿返し、12:58にのりて桜井。 保田にゆけば東京より便りなしと。帰りて昼寝、夕方尾西氏もち米一斗もち呉る。堀内民一より詩一篇をと。神田信夫より「近代中国研究」。 12月23日 日直とてゆくに弓子つれ、先づ八木家へゆけば八木嬢風邪。弓子預け前川老へ満中陰志としてきざみ2ケ。八木家へゆきしに八木嬢、弓子つれゆくと。先に登館、 館長より昨日の返礼にみかん十ケ。八木嬢饅頭10ケ、われの堅パン、まもなく来りし山中嬢のパンとにて忘年会。 12:00ともに出て養徳社により山中嬢より親類書と写真と預りしこと上田君にいふ。上田君の父君自殺せしと。山中嬢駅にまち受け歌誌二冊買ひ呉る。人形買ひ与へ(45)て帰宅。 昼食、昼寝、羽田より電報「イヘハナシデキタ」と、うれし。雪島社より原稿の受取。 けふ朝0時東條ら七名処刑と発表。 12月24日 7:10にてゆき中村幸彦君に香奠返し(茶100)淡路へ帰りしとて留守。山崎君にゆき(きざみ2ケ70×2)、養徳社にゆき「狐」また5冊もらひ高橋君に寄り、 きのふの雪島社のハガキ見せ山中嬢にゆき三姉の職業きき、西大寺にゆけば八木君の妹信子、佐藤誠などに会ふ。京都着16:00。 西田家へゆき2,000円と大豆、「狐」わたし話きまる。夕食もらひて最終にて帰宅。 12月25日 12:06にてゆかんとし保田に寄りしにS氏より便りなしと。京都移転のこといふ(ゆき子あとで香奠返し、たばこ2ケ)。養徳社にゆけば不快。ボーナス出かりゐし。 図書館にゆき館長に会ひ、高橋君によりしに時報社のトラック利用するなら手蔓ありと。山中家にて親類のこときき、田原本下車。 川東村大安寺の上田嘉俊にゆきて泊る。この夜一晩停電。 12月26日(日) よべ5:00まで眠れず。朝9:30に起き、また話し田原本駅まで送らしめて乗車。天理にゆき日和佐の寺島氏に会ひ借間のこと承諾せしめ庄野氏と話し、 (中村幸彦氏に会ふ。)前栽下車、山中嬢父君に会ひ、帰りて眠らんとせしに富田君来り、婦人タイムズ出来上りしを見す。もち米一斗もち来しを借用。 けふ藤枝、末吉よりのハガキ見る。 12月27日 雨模様。8:00家を出、妙要寺大島師に「狐」と童話とお礼にもちゆき移転をいひ、坂口君に寄り「ハルツ紀行」返し、図書館にゆき新井女史よりボーナス(半月分3500)もらひ、 八木嬢にあす山中嬢と来よと命じ、高橋君にゆきトラックのこと頼み(明後日返事もらひゆくを)傘借りて帰る。 古本屋で岡崎文夫「支那史概説 上(80)」と小竹「現代支那史(20)」と買ふ。けふ餅出来、岡本まさ子来る。三郎兄へハガキ。 12月28日 朝、尾西家へゆき米一斗(1700)、二女よめ入り先きまりしと。帰途供出帰りの實氏に会ふ。米田君にゆき「狐」与へ京都行云ふ。リヤカー借るがためなり。 岡本家にゆきしも和子不在。政子いも不要と。 午すぎ大来り、一興叔父危篤と。八木山中二嬢来り、羽子板羽毛リボン二女に呉る。 16:00ともに出、丹波市にゆき高橋君に問へばトラックだめ。一月分給与五日支給は賛成者なかりしと。 帰途八木下車。辻君にゆく途、どぶに陥りハンティング失ふ。辻君四日頃いはば5000会社にて都合せんと。吉川君のことも考慮中と。 マッチにて探してくれ鳥打見つかる。けふ角川氏よりハガキ。 12月29日 よべ美代を思ひていとほし。 9:00起床、髭剃りてのち出発。藤井寺にもち米二升もちゆけば大江勉の祝と。可笑。 博多にゆけば養子「杜甫」出したしと。久吉翁もこの返事かき一月十日頃来よとのハガキ書きゐし。前借申込めば六日来よと。 市庁休暇になりゐるに回生病院へゆく。三階七号室に一興叔父臥し、手をにぎり喜べるが悲し。肺壊疽とはいかなる病気ならん。父、叔母、寿一あり、 ややして林叔父来る。よべ妻のこと告白し、けふ絶縁状書く。叔母われを立派といひしはいかが。叔父に握手し神に祈らんといひて帰る。林敏夫と喫茶(180)。 葉巻買ふ(75)。帰りて入浴。トラック駄目と。手荷物送りとし、六、七日頃出発と決める。 ゆき子裁縫に西窪夫人のもとへゆく。 12月30日 朝食後、下痢。終日臥床。ゆき子に説教。志野明より事業打切、二年間の利子2600余と、可嗤。俊子姉より受取、中野博之より旅行中なりしと。 けふゆき子教会に移転のこといふ。 12月31日 朝、西窪氏へ箱とりにゆき、帰りて昼ね、米田君来り、箱1ケ呉る。年越そば食ひ保田へゆけば森本一三君に会ふ。(爐新年号郵送) 神田信夫君へ手紙。 田中克己日記 1949 【昭和24年】  年明けての1月7日、次の転職先も決まらぬまま、桜井から京都への引越を決行した田中家。待遇や気風が気に入らなかったとはいへ、 天理図書館は大高以来の盟友、杉浦正一郎が昭和10年の開館以来蔵書構築の任にあたってゐた元職場です。 再発見された「曽良随行日記」が天理の綿屋文庫に無事納入に至った一件も、詩人があとしばらくここに残ってゐたらば、 少しは力になってあげられなかったか。杉浦氏が家を売りまでして資金を作り、自腹でこれを購ふなんてことはせずとも済んでゐたのでは、などと思ったりもします。  学者にとって力強い味方は頼もしきコネクションであり、文学上では肥下恒夫が「コギト」のパトロンかつ編集雑務一切を負った得難い友人であったとするなら、 田中克己にとって学問上で同様な位置にあったのは、斯界の泰斗を父親に持つ、篤実温良の友人羽田明であり、 恃みとしたところは彼をはじめとする多くの師友が勤める京都大学のコネクションでした。  引越しは羽田の口利きで同じ町内(北区田尻町)に決まりましたが、「このまま田舎に埋もれるのは嫌だ」といふ学者としての意思表示であったといへるでしょう。 天理時代には服部正己の家に入り浸ってゐた詩人でしたが、京都では数軒先にあった羽田宅、 そして同じ鴨川右岸にあった実家の下総町へと、京都駅への行き帰りに立ち寄ってゐます。  ところがかうして転居したにも拘らず、さっぱり埒が明かぬ家計状況に家族は次第に追ひ詰められてゆきます。 二月末には三女が生まれ物入りとなるものの、求職活動はされず、日記には相変らず、通勤途中に住んでゐる?恋人との逢瀬と思しき行跡やら恋歌やらが記されてゐます(笑)。 期待された『杜甫伝』の出版も、校正刷を出しながらことがうまく運びません(そしてこの老舗出版社である博多成象堂は消滅)。 よくここまで辛抱されたと思ふのですが、悠紀子夫人は「前途心細しとて」新年度に入り、たうとう泣き出してしまひます。  むごいことに詩人は中々泣かないこの妻に対しては、「泣かないな、まだ泣かないな」などと試すやうな仕儀をもって傍観してことを語ってゐるのですが、 こののちも長男の担任が家庭訪問にくれば、将来学校へやる気なしと答へたり、幼い子供らは子供らで、 何かと生活の面倒まで見てくれるおとーちゃんの浮気相手におたよりを書き出す始末です。詩人の家に出入りした人たちの伝へる、 夫人が醸す飄逸たる印象といふのは、生まれつきといふより斯くのごとき夫を持った妻の修練のたまものであったと私は思ふやうになりました。 とまれ家庭を顧みぬ詩人ですが背に腹は代られぬと、教へ子たちの伝手を頼り、私立高校や中学へ当面の口を糊するための職を探し始めます。 ところがこれがなかなかうまくゆきません。  もとより本命だった新制大阪大学の助教授の話が5月に破談します。大学準備のために下阪するキーパーソン桑田六郎博士を待ち受けるのですが、 「会ふ用なし」と釘を刺され、それでも出かけると(居留守でしょうか)今しがた出かけたばかりだったり。 当時は図書館のライバル同僚だったらしい中村幸彦には「桑田博士は不愉快な男だよ」などと水を差され、 それでも押しかけてたうとう会ふことは叶ふものの、博士からは「天理の方がいいんぢゃない?」と何ともつれない返事。 もし義理の叔父で大高教師だった全田忠蔵と桑田氏とが一高時代の同級生だったといふ誼がなかったら、さぞ居心地の悪い会談であったことでしょう。 翌年仕事が見つかった際には快く歓談に応じる反面、仄聞したところの「将来博士になれる人でなければ駄目」といふ言葉を思ひ合せるに、 やはり中村幸彦氏のいふ通りのなかなかの狸ぶりです。  この5月、実家の父親西島喜代助も、勤務する組合の解散が決まり、父子ともに路頭に迷ふ危機の迫った、 この昭和24年の誕生日(8月31日)には、「我が生涯の最悪の誕生日」と日記に記さざるを得なくなります。ことはもちろん恋愛に逃避して解決するわけもなく、 神経衰弱が昂ずるあまり、詩人は同僚一家に悩みを打ち明けて相談するうちに、心にもなかった天理教への入信さへ検討をしはじめます。 正に貧すれば鈍す、といったところでしょうか。  「大学のプロフェッサーと云はれんと三河吉田にゆきし友はも。」  京都大学のコネクションが一向に功を奏さない間、自分が招聘を断った愛知大学へと去って行った友、服部正己がドイツ語教授として自足してゐる様が羨ましくも映じます。  「風涼し丘のべによむ失恋の詩人の詩をばきみうべなはず。」  分かってはゐるのです。しかし11月3日、文化の日と改名させられた明治節に明治天皇が眠る桃山御陵へ参拝、お賽銭に金100円を投じてたうとう「号泣」します。  「くやしさにおほみささぎにこゑあげて泣きしをのこをきみは忘れじ。」  見守るのは夫人ではなかったやうでありますが(苦笑)、ここを以て天への祈りが通じたのかもしれません。ふたたび運勢が動き出します。  すなはちこれまでの日記にも何度となく出てくる教へ子の末吉栄三氏から関西大学付属高校の講師の口が、 京大の友人藤枝晃の情報により共学の短大へ昇格する彦根高等女学校教授の口が、そして最後には一番大きな話、 却って詩人を悩ませることになってしまふ名古屋大学の助教授の話が神田喜一郎博士より、共にゆかうとの直々の推薦で年の暮れに舞ひ込みます。  さて、文学の方に目を転ずるなら、田中克己が詩人として関西に新たな地歩をみつけるのがこの年であり、 詩人としては新しいスタートを切った年と云へるでしょう。  敬愛する堀辰雄の再起が覚束ないことを聞かされるものの、「四季」を通じて縁ができた角川源義からは出版の話がもちかけられ、 後年文庫版がベストセラーとなる「ハイネ恋愛詩集」の訳出がすすみます。また近所の古本屋「リアル書房」が天野忠の経営と知るや、 彼をきっかけとして京都詩人との交流も始まります。  その寄り集まりは「コルボウ詩話会」と名付けられ、天野隆一、依田義賢、城小碓、俵青芽ら、 京都を中心に多くの詩人らが集結し、岐阜県出身の山前実治が印刷を担ひました。天理からも詩人のよき援助者だった同僚の高橋重臣が参加。 小高根二郎も宇治に転勤となれば呼ばれないでは居られない。と、後の「近江詩人会」や「果樹園」メンバーの名前もやうやく日記に見出されるやうになります。  また奈良では、「大和文学」を編集する養徳社から退けられた保田與重郎が、天理とは縁を切り、 元文部省図書監修官だった前田隆一が京都で興した吉野書房(祖国社)を起点にして活動を開始。兄事する栢木喜一、奥西保、 高鳥賢司ら信奉者が集結して雑誌「祖国」を創刊します。  田中克己もこの、中央からは退けられた伝統派文芸の復興を掲げた旧日本浪曼派勢力の旗揚げに、 自らの政治的性向とは関係なく「コギト」古参の一員として参加し、遇されます。同様にして影山正治の「不二」との縁も続いてゆくのですが、 いづれもその本質に蟠ってゐる政治色には溶け込むことがありませんでした。  ただ「祖国」に関はった当事者の日記に窺はれる新事実?として興味深かったのは、 保田與重郎と田中克己の二名の共編による、世界の『名著解題辞典』がこの吉野書房で企画され、種本が収集されて編集も途中までは進んだといふこと。 教育出版社とはいへこのお二方が編輯する訳ですから、もろに評者の好みが明らかにされさうな本で、『杜甫伝』とともに実現を見たかった本でした。  それから詩人との意外な交流を知って驚いたのは、禅林文学の第一人者となられる入矢義高氏でしょうか。当時は田中家以上?の貧苦を耐え忍びながら、 明代の口語小説『今古奇観』の翻訳を昭森社へ持ち込む際の相談に乗ったり、 ともにドイツ文学にも明るく馬が合ったのか、テキストの読み合はせなんかも二人で行ってゐます。  そしてそれとは反対に、のちに近世文学研究の権威となられる中村幸彦氏が、詩人と同じ淡路出身の同庚であるにも拘らず、 そして詩人の旧友杉浦正一郎とも同じ分野の研究者として同僚であったにも拘らず、天理図書館時代には詩人と反目する立場にあったことにも驚きました。  日記を見ていけば分かるやうに、初めから悪かった訳ではないやうです。 田中克己はもとより天理には食糧難を避けるために腰掛のつもりで籍を置いただけの新参者。そのくせ理に適はないことにはたとい上司であっても平気で直諫してのける癇癪持ちであり、 一方スマートな話ぶりで女子職員の人気もさらってゆくやうな、扱ひ辛い職員です。対して中村幸彦氏は設置母体天理教の中山真柱に可愛がられて、 開館当時から蔵書構築を任ぜられ、今や副館長かつ新設された天理大学でも教鞭を執る古株の責任者。「羽田は我党なれど田中は然らず」と言はれた由ですが、宜なるかなであります。  当時図書館にあった「I」といふ、詩人が歯牙にも掛けなかった若者が、後年詩人が逝去した後になって当時を振り返る実に嫌らしい回想文を書いてゐますが、 詩人の挙措の一々を「戦犯」といふ色眼鏡でしか見られなかったらしい、この不幸な与謝野晶子研究者は、自らの左翼反戦思想の仇と見定めた「元皇国詩人」の存在自体を 物陰から憎み続けてゐたやうですが、今回当時の日記を繰ってみて、特別なにか個人的な遺恨を含められた訳でもないことを知り、呆れたことでした。 (もっとも本人が知らぬところで恨みを買ってゐたことも否定はできませんが。)  とまれ斯様な讒言に拘らず、これまで桜井から天理までの距離だったのが、京都から片道3時間近く時間をかけて通ふことになった訳ですから、 同僚には、当然近々去ってゆくつもりの人間に映ずることにはなったでしょう。図書館に高松宮が見えることになっても蚊帳の外に置かれてゐます。  そして日記の中では道化役を演じさせられる図書館長。さんざんに俗物扱ひされてゐる富永牧太郎氏ですが、詩人は何かにつけて軽蔑し、反抗の牙をむきます。 落伍者然とした詩人の余りの様子をみかねた羽田明が天理まで訪れ、「あの下でよく三年辛抱した!」と慰められたときの気持ちは如何ばかりだったことか。  もちろん館長にしてみればワンマン管長の下で働く事情もあり、さぞかしこの詩人ずぼらの圭角には中村幸彦氏と一緒に手を焼いたことであらうとは思ひ、同情も禁じ得ない訳ですが、 のちに詩人が正式に辞意を告げた際には努めて喜びを押し殺し、言葉を選ぶ様子が目に浮かぶやうなのが笑へるところです。  とまれこの人生最悪の不遇の年に一番うれしかった言葉といっては、日記に書き残された、 弟の大(ひろし)が東京で仄聞したといふ、「人間は好かねど三好以上の日本一の詩人」と井上靖が評したのを聞いたことと、 羽田明がいみじくも発してくれたこの言葉だったと思ひます。(昭和25年につづく) 昭和24年 1月 1日~昭和24年 1月 7日 20.4cm×14.2cm 横掛ノートに縦書き p1   田中家系図 昭和24年 1月1日 午前中ねたまま。午後八木嬢来る。六日夜もしくは七日に東詰所宿泊のことたのむ。明日より大垣在へゆくと。尾西家へゆき京都移住のこといふ。 實氏といろいろ話す。年賀状中島夫人。木村繁喜「風車」。 1月2日(日) 末吉(※栄三)、純子の愛人藤井より賀状。ひるまへ柴田、沢田つれて来る。弓子に小遣ひ1000呉る。失礼と思ひしがこれ大和の風習と後で保田父君より説明ありし。 早々送り出し会長にゆけば四日夜まで帰らずと。外山の宮谷君を訪ねしに不在。 保田にゆき19:00まで居り、送別の宴賜はる。中村元信の話ききし。けふ史、依子藤井寺にゆき田中大江よりそれぞれ100づつ貰ひ来りし。 1月3日 雨。無為。羽倉啓吉より賀状。ゆき子トラック3500にて七日朝七時ときめ来る。(藤本夫人の斡旋) 1月4日 9:38にて丹波市。高橋君にゆき、子供にお年玉(100)。富永氏にゆき子供にお年玉(100)。八木家にゆき六日のことわりと八日の日直たのむ。手紙置き(父君にうに80)、 高橋君の茶室で喫茶、食事。 庄野氏にゆき好学会のビラと飴ともらひ明日開業の●より5000もらふことたのみ、新井女史を訪ね、六日給料5000の前借たのみ、アパートにゆきしに無人。 帰れば留守に硲晃君と岡本和子嬢と来りし由。末吉、中島夫人へ返事。19:00富松義晴氏に挨拶。 1月5日 9:38にて丹波市。養徳社にゆきしも庄野氏ゐず。日和佐にゆき寮長に会ひて話ききいやになる。再び養徳社にゆき明日再来の手紙置き、12:58にて帰る。 陽生、下條氏より年賀。ややして速達早川氏より中山正善の16、17両日の都合問合せ。保田にゆき父君に天理へ電話してもらひ、よしとのことにウナ電す。 「ナカ・一六・七ヒヰル(80)」。 木箱西窪氏よりもち帰る。夜、八木嬢?より電話、明朝手伝ひに来ると。 1月6日 八木嬢8:30来る。荷造りたのみ、9:39にて丹波市。新井女史より5000借り、山中嬢に八日の日直たのみ、養徳社にゆき上田専務にいひて5000もらひ、大阪。 博多にて3000もらひ、市役所の筒井(※護郎)に会ひ明菓にて喫茶(140)。六月に家できると。一興叔父見舞ひ丹羽千年夫妻に会ひ、ともに出て市電。 帰れば16:30。八木嬢明朝手伝に来ると。西窪夫人と夕食。送り出して富田君にゆき選別200もらひもち米代2000わたす。岡本和子に明日のこと断る。 保田にゆけば與重郎未だ帰らず。父君選別賜る(500)。 1月7日 ゆき子3:30起き、われ5:00。朝食後用意はじむ。6:30八木嬢来る。岡本嬢7:30。トラック8:00来り、積込み終り9:00。坂口允男君送別300(ゆき子挨拶にゆきしに高丸50、岩井100)。 われと八木嬢と二女先発。9:49発にてのり替うまくゆかず巨椋にてトラック走るを見しが田尻町に着けば既にあり。 硲君も来りて待ちゐる(13:30)。 積下しすみて昼食。4000わたして返す。八木嬢父に叱らるとて14:30帰り、われ羽田にゆきタバコ買ひに出、夕食後風呂賜はり帰りてねる。 けふ西田夫人(※大家)の話にては家賃500、水道、電気払ひ、火災保険はらひ敷金六ヶ月分。一ヵ年の契約書出せと。 昭和24年 1月 8日~昭和24年12月22日 20.4cm×15.4cm 横掛ノートに縦書き p2 1月8日 起床おそく、朝食後、史を下総町にやる。大をつれ来り、ともに本棚こさへ本ややならべさせしのみ。 午後配給米18キロをとりにゆく。あと粉二日分。京洛の配給わるきためみな目を丸くす。 大帰りしあと羽田先生のお宅へ御挨拶(砂糖1.5斤)。バスの停留所にて先生宅より帰りの江上波夫氏に会ひし。野田又夫に挨拶。 帰途買物(納豆2×15、インク18、ノート49、電球45、タバコ30+25、番茶45)。夕食後、家主の西田母子に挨拶。同居山木克己氏に挨拶(バス切符10)。家賃500と敷金3000とを納めし。 1月9日(日) 床にゐる中、ゆき子と二女とを下総町にやる。羽田11:00来訪。話すうち12:30ゆき子帰り来る。父三児に100づつくれし由。 13:00家を出て伏見稲荷に羽倉啓吉を訪ねしにお詣り多く神事中と。やや話し「明日10:00来訪」と。 伏見桃山駅前の淀野隆三を訪ねしに『ハイネ冬物語』は出さずと。「ゲーテたのむ」と也。早々退去。 帰り羽田に寄れば夫人、ゆき子を案内と。ややしばらくして帰り来らる。小学校の先生へ紹介ありしと。 1月10日 史、依子、登校。羽倉啓吉君1:30来訪。みかん一箱賜はる。共に出てバス待つ中、羽田帰り来る。東方文化にゆき藤枝、森鹿三、入矢義高、貝塚茂樹の諸氏に挨拶。 羽倉君と出てしんしん堂で喫茶。後別れて研究室へゆけば佐藤長不在。田村博士邸にゆけば不在。弘文堂にゆき細川君にいひ、桑原武夫氏を訪ひ6年ぶりに対談。「三好氏東京往」と。 帰りて羽田により、夕食後またゆきて20:00帰宅。 けふ母に会ひトランクもち帰りし。夜、保田家へ挨拶のハガキ書く。 1月11日 よべ8時半にいねしが12時に目覚めてあと眠れず。6:45のバスにのりてゆき、烏丸車庫より電車。新生2ケ買ひ切符買ひしてゆけば7:54の奈良行、 天理行にて松井、上田の二君と同車。上田に桑原氏のこといひ再見を約し、靴を直して(7)登館10:05。 富永館長に常時遅刻を断り10:20の茶の時間より茶話会。小幡●年の送り来しタバコ(ラッキーストライク)と飴とチューインガムにて行ふ。 吉川仁来りて高橋君に紹介す。午後『引得』と『支那語辞典』の有無検。 保田に電話して聞けば大毎にS氏(※下条康麿文部大臣)十七、八日来と出ゐると。 やがて来し上田を待たせ富永氏にいろいろ報告し、16:00退館。聞けば上田と山中嬢と再従兄妹らし。養徳社にゆき2000もらひ、うどん食ひ(60×2) 定期買ひ(天理-京都1ヶ月935)葉巻4本買ひ、羽田によりて『満和辞典』預り帰れば20:00。夕食。 けふ坂口允男へ礼状出す。図書館へ西川英夫、西川満、中野博之、鈴木俊、石浜純太郎諸氏の信。家へはじめて末吉栄三のハガキ。休み中、小川浩の友来りしと。 1月12日 6:30のバスにのり7:00の急行にてゆけば丹波市9:07着。同車に養徳社の的場嬢あり。葉巻托し散髪(50)。図書館へ10:10着。 しばらくして職員会(外語教師との対談の件)すみて吉川仁再来。「八万円の罰金出さずにすます法」と「せん方なからん」といふ。羊羹3棹呉れたり。 午後Christian Science Monitor社への礼状の英訳すませ、『李朝実録』ちょっと写せしのみ。 高橋君に寄りてさつまいも云へば「なし」と。上田嘉俊に「明日来よ」といひ、卵うどん食ひ(60)、16:48にのりしも17:07と同効果。帰れば19:30。 夕食後、羊羹もちて羽田にゆき23:00までダベる。 けふ小川、石浜、尾西三氏へハガキ。古野清人と話し腹立ちし。京都新聞に「下條文相金沢より16日入洛、京大視察後17日下阪」と。 1月13日 上田嘉俊12:00やっと現れ、飯すませて羽田にゆく。桑原氏へ送り出し、われは同志社、上野直蔵教授と小野利秋氏に会ふ。帰ってすぐ眠る。 けふ上田君に保田への電話托せし。上田申込みすを決心。中島明子氏より手紙。丹羽正義を買ふ(35)。『東洋歴史大辞典』は値切って買ふ人ありし。 1月14日 6:20に家を出、焚火にあたり6:30の始発にのり7:07の橿原行。平端にて待つ天理行に乗れば山中嬢と同車。遥拝、大掃除に間に合ひし。 保田に電話すれば早川氏来りて奈良へゆきしと、13:00奈良駅に待つと。やがて真柱より電話、富田君保田の使者としてあり。同志社図書館の報告し、 高橋君にゆきて藷一貫五百受取り(60)、上田嘉俊に会へば桑原氏「田中はあはてもの」と云ひしと。 鴎外「独逸日記」買ひ富田君と同車。上村松園に案内すと。近鉄奈良駅にて早川氏と遇ひ、女高師にゆき聞けば17日の奈良の宿まだきまらずと。 日程聞く中はら立つ。支庁にて別れ岐阜にゆく使者泊める約束をし、家に帰りて(17:30)羽田に山崎君よりことづかりし1000と藷一貫匁とわたし、こたつ借りて帰りしが21:00まで来らず。 父、亀井よりハガキ。博多、昭森社へハガキ。不二出版社、角川へハガキ。 1月15日 9:00家を出12:00丹波市。高橋君に「松露」(150)もちゆき餅米預け、12:58の汽車にて八木。神武綏両御陵にお別れす。16:20保田家へゆき早川氏と会い、 使者買うて出、夕食後丹波市へゆく(西窪夫人に京都へ来よといふ)。本部にゆき話せば自動車以外旨くゆきさうなり。 安達家にて入浴、電話かけ23:00まで話して泊めてもらふ。 風寒きうねびの山の山ふもとふたりしをればなにをかいはむ。 神々も見そなはしませとことはにかはらぬちかひ今年もかはす。 北に去るわれをあはれみこの年をいよよさきはひあらしめたまへ。 1月16日(日) 安達家にて8:00起床、朝食●れ、茶たまひしのち10:28天理発、保田へゆけば早川君、常三郎君と出発せしあと。11:48桜井発、12:01の急行にのり丹波橋のりかへ稲荷へゆき東丸神社社務所に羽倉君を訪ね、 夫人より饗応うけ下條氏のことをいひ(今夜一燈園泊り)帰宅。 昨夕近藤君(混血。もと「胎動」編輯)来り、羽田邸の電話借りしと。坂口君より送別の長歌。和田先生、中野博之、松本、田村春雄へ転居通知。 1月17日 出勤。上田嘉俊より電車にて身許書もらふ。「鶏・農村通信」預る。慶松君、金沢の土産に佃煮呉る。 午後奈良へゆき前川にゆきしに法隆寺いつでもみられると。 女高師で(※下條文相訪問を)待つ中、新聞記者、保田訪問を教頭に問ひしにパージと答ふ。大臣着後、早川氏を教務支庁に訪ふ。近藤、富田と話し、 二人帰りしのち桜井(※文相の訪問)とりやめときまり早川氏と桜井にゆく(22:00)。保田家にゆき話し畢り、臥床せしも一睡もせず。保田夫人とはじめて話せし。 1月18日 保田夫人5:00に起きて朝食支度してくれし。われと近藤君とのみ食べ(昨夜不眠)、7:10の汽車にのる。尾西、富松などフロイラインなつかし。 (近藤君に7:17にて大阪よりオン山へ連絡) 管長宅へよりしに仮病にあらず歯齦炎らし。図書館学園図書館となるに付、明日文教部と会見と。午後職員会、 資格級を司書研究員はとり、他は「ふくらまし」せんと。文相16:00閉館前来る。中村君案内。令息秘書官高村光太郎の詩集ほしと。「智恵子抄」貸す。 「御玄関」にゆき早川氏と話す。岡本課長ゐあはす。[カ]ヤキ君もある。 17:00出て一急行おくれて帰る。羽田に養徳社の本、土産とす。 1月19日 9:07にて丹波市着。上田、松井二君と同車。文教部にゆきて大学図書館についての座談会に出、終って和楽館にゆけばカヤノ木(※栢木喜一)、 早川二君いまだ就寝と。12:00電話あり和楽館にゆき会へばS氏ほとんど中山氏と話せざりしと。ふがひなきことかな。14:00のバスにのす。明日帰京と。切符買ひやりたかりし。 帰途、山中嬢父君に会へば一つ話ありと。帰りて二嬢と出、高橋君により夫人より芋一メ目わけてもらひ帰る。羽田、来客と話さず。 1月20日 出勤。「台湾の古地図」つづき書く気となる。14:00より外語側と図書館の協議会、つまらず。16:00終り、高橋君に芋一メ目の残りもらひ、養徳社によりて帰る。小牧君と一緒なり。 京都駅にてふしぎにも早川氏と一緒となり、連●券なるもの買ひて贈る(300)。近藤君もあり、ともに駅前にて喫茶。新京極へゆき八つ橋贈り(150)、 帰れば21:00。羽田家すでに戸をしめゐる。 けふ小宮君より和田先生のお言葉きく。桑田(※六郎)先生帰られ話されて(※大阪大学)ほぼきまりしと。 1月21日 10:10出勤。よべ眠り足らず仕事殆どせず。桜井より服部正己、芳野清、沢田直也、吉川仁造の年賀状廻送。芳野、吉川へハガキ。「ビブリア」出来上がりしにつき養徳社へゆく。 山中嬢父君より明日15:00に来よとの伝言。19:00帰宅、羽田へゆき21:00帰る。 1月22日 出勤。語専購入図書のカードのタイプ打ち疲る。 帰途高橋君に寄りて時間つぶし15:00山中嬢にゆく。御馳走たまひ上田の家に喜べる様ありうれし。17:08にのり帰宅。羽田にゆき西田太一郎君と話し、 二人して送り出す。沢田直也へハガキ。 1月23日(日) 総選挙日。棄権防止の声、米軍より出る、バカらし。羽田来る。 午後野田又夫にゆきしに保田を桑原氏きらふは政治的なるゆゑと、アチコチのこといひて論理的ならざる弁には疲ると、皮肉か。 18:00まへ出て河原町三條の朝日会館にゆき三村よりもらひし券(120)にて「シベリヤ物語」を見る。原色音●映画。帰れば22:00夕食。 けふ角川氏より月末来ると。家の案内しるせしハガキ書く。「明治天皇御集」(10)。 1月24日 欠勤。11:00家を出、研究室にゆき佐藤長君と話す。菊地先生(羽田先生義弟?)は佐藤君の叔父と。旗田巍氏帰りしと。進々堂で茶のみて別れ、 東方文化にゆけば三田村泰助、橋川時雄先生あり。「中国地方志綜録」を森氏にたのみ「民族学研究」二冊わけてもらひ、「海南島の蘇東坡」あづけて出、 彙文堂にゆき「東方文化書目続(40)」を二冊と「東光7」とを買ひ、帰り羽田に寄る。 留守中、母、咲耶来り、一興叔父危篤の電報昨夜来しと。史にききにやる。 けふ松本善海よりハガキ。今西春秋より藤枝への手紙によろしくとあり。川久保、旗田氏よりハガキ。史、帰りて聞けば一興叔父昨夜23:00死せしと。 1月25日 9:00出て京都駅で八つ橋買ひ(50)、大阪へゆく。総選挙民自党の完勝、共産党二十三名。 ゆけば出棺後、やがて林叔母と久しぶりに対面、その後な[き]父子を前におきて、寿賀子の産を徳島にすべしと口切り、民叔母より悪罵されしも、やがて決る。 出て博多にゆけば父子留守。村田幸三郎の顔見しのみにて、筒井の家に泊る。母君六十一歳と。(一興叔父は五十六才なりし。) 1月26日 筒井とともに出、病院にゆき林叔父に会ふ。9:00骨上げすみて新京阪にて帰る。和田先生よりおたより、博多より(※杜甫の)校正。 羽倉より電話(けふ電話通ずる様になる)。法隆寺焚けしと。羽田にゆきペンもらひ、校正120頁す。 1月27日 出勤。新聞によれば電気ブトンより失火、法隆寺壁画みな駄目となりしと。富永館長、館員に火の気注意の訓示をなす、可笑。 ビブリア一冊とり編輯会議を開かんとのことに京都にせよといふ。タイプ打ちすぎてふらふらとなり、14:30出て養徳社にゆき上田君と話す。一時間早く帰宅。 すぐ眠る。(「西鶴本書目」出来、「不二」12月号) 1月28日 出勤。矢野文庫のロシヤ本、沢田と整理はじむ。ビブリヤのことにて神田先生にゆけと。帰り高橋君に寄り夫婦喧嘩の仲裁す。 けふ「杜甫」の校正終る。 1月29日 9:00家を出て羽田にゆき、ビブリアわたし東方文化にゆき神田先生に会ふ。二月五日(土)に京都にて会すべしと。「東洋学説林」賜はる。貝塚氏に会へば二月一日まで不在と。 座に小野勝年あり。シベリア物語見に来しと。別れて桃山にゆき、夕食後羽田へゆけば、神田先生にて会ひし西田太一郎氏またあり。 浴を賜ひて帰る。羽田先生にはじめてお会ひす。やせたねといはるも暗中のお愛想なり。 うなばらをこえてみいつ(※御稜威)をあめがした知らししみよはむかしとなりぬ。 よどぎみを座にはべらして清正を叱りしひともありけるものを。 1月30日(日) 雨、角川来るかと思ひて一日家にゐし。本立作り羽田より借りしかんなの刃をめちゃめちゃにす。昭森社よりハガキ。ヒアシンスの校正向ふでせしと。 近古奇観早くと。勝手なることかな。和田先生へ手紙。坂口允男、筒井へハガキ。 1月31日 出勤。富永氏に寄れば臥床。真柱の都合伺ひまち返事すべしと。中村君にいひて12:28に乗る。 ながひとみよしと思へどひとときを見ぬまに忘るなんのこころぞ。 桑原氏に寄りしに角川氏来りし様子なし。羽田にゆき、ウイグル語佐藤君に見せんと預る。 2月1日 出勤。真柱の都合により五日の会延期。中村忠行君に神田先生への連絡たのむ。荒川正二氏のことにて早川氏へ速達書く。谷川新之輔来り、山田姓に帰らんと。 佐藤誠ウイグル語写さんと。羽田への手紙ことづかる。三人にて出、佐藤君と乗車。西大寺にて波多野君と同車。われの図書館後任となりたきらし。 明日より二三日休むこととす。慶松君、藤枝に会ひしにやせしと心配しゐしと。旗田氏より返事、母君亡くなられしと。田村春雄よりハガキ。母君十四日亡くなり電報桜井へせしと。 2月2日 欠勤。正午欠勤せしと大、来り、博多、金呉れざりしと。健の許嫁は井倉氏の親類にて大の下宿せし家の長女と。ともに出て散髪(50)、 北白川東蔦町の薬師寺衛の家さがしにゆく。母上あり、聞けば二十年二月十日より十五日までの間にレイテ島で戦死と。写真見れば美男子なり。 わが会ひしは一度、丑年生れと。われより二つ下か。母上やや狂気らし。家は進駐軍に接収されをり。 帰ってから夕食後、羽田。 けふ(※〒)小川浩、川久保、角川氏十五日頃来ると。 2月3日 欠勤。一日臥床。角川氏へハガキ。小雨、暖かし。 2月4日 出勤。たてあひ会の今後について相談し、午後査問会。保田の友達某君(川上高校教官)来り、天理へ就職したしと。思ひ止らしめ原正朝への伝言托す。神田先生の本つまらず買ふに難色ありと。 けふ西島寿一、小幡信男、沢英三、入矢義高諸氏よりたより。山中嬢縁談いやにて三月限り退職すと、八木嬢の話。養徳社へゆき2600もらひ「狐」の印税終り。 高橋君にゆきいも貰ひて帰る。(かき餅も搗けと)。●●●による取締厳重なれど我はのがれし。羽田に寄りかんな(380)と芋とを返却。 2月5日 出勤。五六部タイプ打ちて疲る。午後西大寺。帰れば17:00、羽田に寄りて話す。けふ寒し。 2月6日(日) 寒し。亀井、藤井武司、沢英三氏へハガキ。午後、羽田来る。帰りてまた炬燵。吉田不二子より手紙、五月二十三日結婚と。 2月7日 寒し。出勤。午、山中嬢の父君来られ、上田嘉俊の話ことわらる。農事出来ざるためと。神田先生への使命ぜられ、15:00退出、 高橋夫人より芋もらひ鹿ヶ谷へゆきしも不在。電話お願ひして帰りしにより21:00までねられず。(中山管長出席のため十二日か十九、二十日の中の都合ききたしと) 2月8日 雪。神田先生を7:30お訪ねせしに十二日都合わるし。二十日の午後ならよしと。11:00登館すれば、けふ俸給でずと。沢田とロシヤ語の本、大分やり、 高橋夫人よりかき餅受取りて帰る。山中嬢けふにこにこしゐるに腹立つ。 2月9日 寒し。8:00家を出、11:00登館。職員会やりをり給料十二日と。執行委員代議員の意気地なきに嗤ひ怒る。帰り高橋君に寄りかき餅もち帰る。 保田より資格審査書(1月26日付5241号)転送。羽田にゆき東方史論叢の校正預かる。 2月10日 寒し。8:00出発、10:30養徳社へゆき森氏に会ひ、文教部にゆき岡本久長課長に会ひ、五千円借用申込めば図書館で借りよと。新井女史にいへば館長と相談3000貸す。 保田に電話すれば太田へゆきしと。帰途、高橋君より最後のかき餅受取り、帰り西大寺より乗込みし川崎菅雄と話す。伏見に移りしと。 帰れば羽田の前にて入矢義高氏に会ひ、家へつれ戻り「今古奇観」の相談す。羽田も来合せ21:00まで話す。 2月11日 はじめての紀元節なしの年。11:00養徳社へゆき上田嘉俊に来よといへば日曜と。ひる伊藤賀祐来る。十七年ぶりか。医学博士にして大阪医大に勤むと。 森一郎への紹介状書く。14:00送り出し、16:00高橋君に寄りて帰る。羽田より東方史論叢の校正。亀井昇よりハガキ。 2月12日 10:30養徳社へ校正わたし高橋家へ●ぐきわたし、俸給前借5500引いて1500受取り、帰り佐藤誠を訪ねしも留守。夜、羽田にゆき善海の校正受取る。 2月13日(日) 午まへ硲君来る。昼食後賀茂川堤を歩き恋愛譚聞く。 野田又男に至り天理図書館へのことたのむ。大徳寺前にて別るまへ堀辰雄「花あしび」買ふ(30)。帰れば羽田来る。夜、和田先生、早川君、田村春雄に手紙書く。 2月14日 出勤。二嬢にまた英語はじむ。河原町大教会への使とて14:00退出、二十日の会のこといひ、神田先生「典籍箚記」(50)買ひ、彙文堂へ寄る。何もなし。 羽田より三田村氏の校正受取る。午後雨。 2月15日 朝、上田嘉俊に会ひしも事なし。三田村氏の校正忘る。大掃除すまし石浜先生へ二十日の会の案内状書き、四先生へのとともに持ちて出る。 西大寺に国宝160点あることをはじめて知りし。夕方また粉雪。 かきちらし降り来る雪の空ながめ春待つこころ誰ぞ知るひと。 2月16日 よべ雪積む。三田村氏の校正とどけ登館。職員組合のこといひて午後おほよそ費す。委員改選、高橋、入江(※入江春行)二君。島稔よりハガキ。吉永関大教授と話す。 2月17日 出勤。14:00河原町大教会へ五千円もちゆかさる。神田先生お宅へ伺ふ。 西田(※大家)氏の次女、植竹夫人子どもつれて熊谷へ明日出発と。清ちゃんたち弓子のよき友なりし。 2月18日 出勤。「台湾の古地図」少し書く。新井女史に千五百円借用を申込む。中野博之よりハガキ。「大和文学」二十五日しめ切と。 2月19日 出勤。「台湾の古地図」すすむ。新井女史より借金、「しらとり」(※大地書房雑誌)来る。 平城にて下車、成務陵。帰って羽田にゆく。 2月20日(日) 9:30硲君来り、履歴書見す。昭森社より原稿用紙五百枚。硲君とともに11:30出て、烏丸車庫にて別れ、河原町丸太町にて黒板勝美「義経伝」(50)買ひ、大教会へゆけば先頭。 やがて庄野、神田、赤松も来る。石浜先生われに関大夜学へゆかぬかと。矢野先生「四季」を出さんと。赤松氏と市電にのりしは22:00。大徳寺より歩きて帰る。 2月21日 よべ2:30まで眠れず。欠勤。11:30昼ねよりさめ東方文化にゆき入矢君に会ひ今古奇観のこときめ(けふ昭森社よりハガキ)、研究室にゆき田村博士、 佐藤長と話し、羽田とともに帰る。 2月22日 出勤。大阪税務局より申告せよと。松井君に話せば連絡せんと。四季のこともよからんと。ベルグソン見に来しなり。慶松君三月初まで帰郷と置手紙しあり。 二十六日遡及少しくれる代り要求全面的に駄目の模様。八木の辻君(※辻研一「爐」発行者ペンネーム冬木康)よりハガキ。 2月23日 出勤。執行委員会で図書館あひかはらず硬派と呆れると。石浜先生、昨日16:00までゐられしと。16:28にのりて帰る。 2月24日 出勤。金井(※寅之助)君より、司書部怠慢と館長に中村上野二人して云ふときき、高橋、沢田に注意す。佐藤誠君、朝鮮語辞典(400)手に入れてくれたり。X氏より800借用。 夜、羽田にゆき話す。植竹夫人より挨拶状。依子の先生久保氏より書誌学の質問。 2月25日 X氏のおかげにて出勤まへ散髪(50)。「台湾の古地図」すすめ16:27にて帰る。久保先生にと書物語辞典(古典社)書誌学辞典(植村氏)もち帰る。 2月26日 7:15にのり8:27丹波市着。松井君にきけば税吏不誠意なりしと。久保先生に和田万吉と木宮泰彦借用。ビブリアル「永楽大典」の蘇東坡のところ吾やるときまる。 帰り伏見で喫茶。佐藤誠君に本代400かへし、米五升分(1000)預く。 2月27日(日) 10:30角川(※源義)君、新見夫人とともに来る。これより矢野、増田に会ひ、穎原先生の弟子たちに会ふと。昼飯ごち走す。「表現」に詩をくれと。 堀さんストレプトマイシンの効なきほどと。「四季」出してもよしと。入れかはりに大、来り学校やめ劇に専心すと。久保先生十五時頃来られともに正史のことよむ。 宿題用に本あまたいはる。羽田にゆきて帰りて夕食。法隆寺の詩つくりて疲る。 2月28日 大掃除。雪ふりていやなれど行き、養徳社吉岡君に「聖徳太子」の詩清書してわたし、12:58にて大久保-宇治。帰りて見れば女児生れゐる、一ケ月早し。 羽田夫人と山木夫人におせわになりしと。礼云ひしのち下総町に電話す。 くるしみてわがゐしときに生れし子よこのくるしみはなれにおはせじ。 みむろどの茶烟麦畑春あさみふたりしゆけどゆきがたきころ。 3月1日 6:30起床、史、炊事をやる。母、中々来ず。西田氏長女おこわ下さる。母より先に10:00産婆さん来り、あわてて湯わかす中、母来り、 きけば昨日またまた空巣ありて衣類おほむねとられしと。羽田夫人よりシッカロールと饅頭十ケと。午後巡査来りしに、(※赤ちゃんの名を)京(ミヤコ)と答ふ。 15:00大宮通へゆき納豆(18×2)、かつを(50匁48)、盥(500)買ふ。母帰るとき史に杓買ひにゆかす(50)。 不自由にこらへこらへしわが家にたらひと杓子買はしめしるぞ。 きのふ悠紀子二度失尿、経過はよきらし。西島寿一より三月初上京と。 3月2日 史、学校へゆかしめ9:30より湯沸かせしに母来らず。折良く来合せし羽田夫人の手伝ひにて湯つかはしむ。13:00家を出て佐藤誠氏にゆき夫人より米三升受取る(185)。あとはまたと。 帰れば母あり。夕食支度しくれしのち帰る。けふも吹雪。 この子らのゆくさき思ひ生くるのみやぶれしわれになんののぞみぞ。 かのひとみけふもまぶたに思へどもちちははゆゑに会ふこともなし。 ミヤコ生後満二日になれど未だ乳のまずとて心配。 3月3日 産婆さん来り、湯つかはし、聞けば小児メレナらしと。荒木先生へ紹介たのむ。午後来診、注射うちくれ、ぬくめ足らずと。下総町にゆき湯たんぽとり来る。 けふ米、粉配給とり価払ふ(6。78.50)。青木、河野、柏井、大江、全田、林、寿一へ出産通知。不快。18:00(※羽田家の)まさ子ちゃん呼びに●り、 旗田氏来るとのことにゆき北平以来三年ぶりに会ふ。中国人と伍してたのしくくらせしと。中国村落に境界なしと。同村内にては結婚せずと。 一度かへり又ゆきて入洛。すし、すき焼きよばれて22:30帰る。 ミヤコ一度乳のみしと、吐かずと。 3月4日 春暖。母来ず。金に困る。米七升精白日(17)、みかん(20)、ハピー(30)。旗田氏に抜刷送付、送り出してより昼食、下総町へゆけば母出るところ五千円出来と。 ハピー(60)買ひて夕食の用意し帰る。砂糖(250)、パン、脱脂綿、ガーゼ買ひ、羽田に返しにゆく。 夜食ののち寿一の香奠返しのバター三斤と茶とをとりに下総町へ史やる。ミヤコ宜しきらし。産婆あす来ずと。角川へハガキ。 3月5日 けふ産婆来ずとて史に炊事やらして丹波市。10:00図書館。みな佐藤誠氏よりききしとておめでたうといふに不快。ビブリアの蘇氏内伝(永[楽]大典)見しに、 宋史と穎●年表と穎●遺人伝とのままと判明とりやめとす。 かへり二嬢よりお見舞としてりんごとネープル貰ひ不快。佐藤誠氏に寄れば米二升買ひくれしも夫人二川へゆくとていそがし。深川図書館長来合せ、日本語の話す。 帰り西ノ京駅にバッグ忘れあはててとり返しにゆき京都着18:00。京阪神ストとて渋難。帰りて眠りしのみ。谷川、広岡、服部よりハガキ。けふPTAより1500円。 3月6日(日) 朝、羽田にゆき帰れば産婆来りをり明日湯つかはせんと。帰りしあとミヤコ吐血、また心配。ゆき子も●卵巣●らし。 午後散歩に出て沈従文短篇集、今古奇観、シュニッツラー戯曲集(150)、豊太閤の私的生活(50)、幇間、三人法師(※谷崎潤一郎)(40)買ひて帰る。まき(208)炭(450)届く。父来る、不快。 3月7日 雪。湯つかはし久しぶりにやってもらふ。まだ臍の緒とれず物干し竿(40)、副食物(51)、洗濯せっけん(55)買ひにゆく。 午後、出生の届せんと思ひしが産婆さんの書類出来ず、雪の中を烏丸今出川まで散歩。 けふより同居山木夫妻、二見へ帰る。お見舞に林檎五ケ賜ふ。夜、羽田へ遊びにゆく。 3月8日 10:30内海助産婦氏来る。けふにて来訪とりやめときまり謝礼1000円と。午後練炭火鉢買ふ(200配達代50)。内海氏へ1500もちゆき区役所へ出生届す。 内海氏三月一日としあるこを見られ、二月二十八日を直す。紫野衛生相談所へゆき豆区役所へゆきて了。久保先生御礼に光(※タバコ)一箱賜ふ。 夜、羽田へゆく。けふ島稔よりハガキ。岡本和子嬢より近々来たしと。 3月9日 米味噌醤油の手配をし、昼食後上賀茂分所へミヤコの寄留届。野田又男にゆけば卵十ケお祝ひに賜ふ。東方文化へゆけば吉川、桑原、貝塚諸氏列席の座談会。 入矢君、昭森社より返事なしと。出て桑原、貝塚、藤枝三氏としんしん堂にて喫茶。桑原氏と出町にて別れ古事記(30)、ゴロヴニン(60)買ひて帰る。 3月10日 出勤の途、養徳社にゆけば安藤君上京のため十二日の会不可と。「大和文学」への詩、のせると。ビブリア二冊もらひ登館。富永館長、永楽大典の儀、促す。 仙田氏、たてあひ会の祝とて100もち来りしを断る。八木嬢、兄上の五年祭とて休みゐる。山中嬢と二人への谷崎二冊もちゆかしむ。高橋君に寄り帰る。 けふ咲耶より祝とて着物。 3月11日 快晴。欠勤。羽田二児風邪と。遊びに来る。午後下総町にゆき『出張り』受取り。古本屋にゆき400、その代り幸田幸友「南と北」、ハンター「印度史」買ふ(100)。 大英百科事典(十一段)は8500と。家貨もちゆき岡本和子に電話すれば明日17:00来ると。尾西實、早川須佐雄氏よりハガキ。 3月12日 朝、弓子つれて下総町にゆく。三郎叔父在り弓子に100呉る。林叔父より一片のハガキ。 17:00服部、岡本和子二氏相ついで来訪。和子女史とまり呉る。服部、養徳社と高桐書院との印税とりに来し。高桐の負債800万円と。19:00辞去。 けふより羽田風邪。 3月13日(日) 岡本嬢に炊事たのみ10:00上賀茂神社に参拝。帰りてまた昼食。夕方より雨。 15:30岡本嬢帰る。大、来りて700もち来る。タバコ配給(160)、谷崎「聞書抄」(45) 3月14日 欠勤。羽田に湯たんぽ等返す。ゆき子けふより起床。午後、深泥池を見にゆき北大路まで歩く。 一日見ねば死ぬるおもひしうたよみし万葉少女いまはあらずも。 3月15日 小雨。午後買物にゆきしのみ。西島寿一より一日に男児生れ興蔵と命名せしと。 3月16日 8:00下総町にゆき母より2000借用、定期買ひ、11:00登館。金井君お祝ひ200賜ふ。佐藤氏の送別会、奈良公立職業安定所につとめしと。気の毒。 酒井先生来る。北野高校の野村君?を連れ来りし。「不二」「新現実(わが詩「冬」のる)」来る。俊子姉より母の夏衣送ると。 3月17日 11:00登館。前川、中村、山崎、高橋四氏よりお祝(500)。吉岡君、前川氏より托されしも谷川新之輔「ケルケゴール」を渡す。けふまた夕より雨。 3月18日 10:00登館。午前中組合のこと、高橋君に不満。大毎学芸部の某君来り、法隆寺のカンタータ作れと。藤枝の紹介なり。 午後業務会すみて「たてあひ会」のこと、中村君に不快。帰り八木君に新井家へおくやみに菓子(170)一折もちゆかす。 けふ見れば三月分俸給税込11000となるらし。帰りて夕食、羽田にゆかんとすれば向ふより来る。谷川へハガキ。 3月19日 悠紀子4:30起床、われは一睡もせざりし。7:15の急行にのれ、館の遥拝にまにあひし。俸給8494、家族手当2000地域給1050引く税金1439、 組合費45、借金2121、支部費60、計7879にて足らず、高橋より3600借りる。 河内石切。このみちは十八才のわれもゆきいままたかよふひとをこひして。 羽田に寄り、けふはじめて気付きし四月二日よりのサマータイムのこといへば笑ひしのみ。けふ新井女史より香典の返し。 3月20日(日) まだ寒し。〒なし。客なし。午後下総町にゆく途中、リアル書房にゆき訊ねれば詩人天野忠と。母に5000わたし、玉誠堂にゆき「大和古寺上代史攷」 (40)と、ランドルフ「オザルの旗」(200)買ひ、松露(13×10+箱10)買ふ。 3月21日 春分の日と。日直出勤。9:00前着。八木君来り、地誌目録やらされゐる。午後山中君来る。帰途高橋君にゆき22:30まで話し泊めてもらふ。 十八日の委員改選に入江10、高橋6、八木5票なりしと。はじめ留任を一同いひしに嘘つきしことなりと憤慨、尤もなり。中山のひなちゃんと賀陽若宮と見合せしと。 3月22日 7:30起床。朝食よばれ養徳社へ東方史論叢の会のことにて寄りしに不明。森君に会ひてきけば一応出席ことわりしと。安藤君帰来とのこと、ぜひ出席せよ、 とまれけふ中に電話せよといひおき八木。帰りて図書館、八木嬢風邪臥床を見舞ひ、お祝返しに「智恵子抄」贈る。 帰りて羽田によれば電話なしと。帰宅すれば上田来りてことわり云ひしと。羽田にまたゆきて話す。西田夫人、ゆき子掃除せぬと羽田博士夫人に云ひしと。 3月23日 朝、雪!!天理へゆくのを止め終日臥床。博多と吉岡仁とにハガキ。依子、史のあすの遠足やめしむ。けふ京(※みやこ)、体をはかれば3kg(生時500匁)。矢野峰人先生へハガキ書く。 3月24日 晴。下総町に寄りしのち天理。養徳社にゆけば東方史の会ことわりしと。図書館、富永館長にいろいろいふ。 けふ上田一雄に会へば勾田池内牧場に間ありと。(山中嬢に祝返しわたす)。直後高橋君に会へば知合と。櫟本にゆき(西田青年に会ふ)、 極楽寺(※中島栄次郎宅)にゆけば河原誠の寺にいはんと。夜、泊めてもらふ。 かすがののあしびのかげにひとめをぢふるへつつあにだかれしをとめ、まゆながきみほとけみつつあがおもふをとめのまゆにかよひますと。(会津八一「鹿鳴集」をこの夜よむ)。 あたたかき血しほながるるをとめよりみほとけこふるわれにはあらず。 このこころなににたよりてかよはせむこよひのゆめにあを見しめむと。 たたかひにいでゆきし日はくるしかりなをこふいまにまさるとはあらず。 またの代もなれとあふとぞさだめます神かほとけをこふるこのごろ。 3月25日 8:00の汽車にて丹波市、藤谷夫人の手紙もちて川原誠会計へゆけば諾と。八木君より地誌のこと記せしノートとり登館。だべりしのみ。 高橋君にゆき上田一雄君にゆきして16:48にて桜井、西窪夫人、岡本和子と会ひ保田家。保田不在、父、弟と話し泊めてもらふ。 3月26日 保田家より祝とてタバコ10ケと餅とを賜ふ。三児つれて出、飴を買ひ与へ、9:00の電車にのらんとすれば大阪行の坂口允男夫妻に会ふ。 図書館にゆき「台湾食誌」二冊とり出しところに山行の高橋君に会ふ。西大寺。帰りて夕食後羽田へゆく。 上田24日に来りしことをいふ。旗田氏立命の講師となりしとハガキ。けふ岡本嬢来り、すぐ帰りし由。 3月27日(日) 矢野峰人博士よりハガキ。角川より養徳社の方よしと。角川より雑誌「表現」。硲君来りしにより野田君にゆかす(卵12ケ)。 送りて荒木医院にゆく(250)。物干竿買ひ(50)、帰りて羽田にゆきて暮る。 3月28日 8:00家を出、佐藤誠君に行きしに不在。唐招提寺の大日如来を見(25.00)、うねびにゆき辻君に寄りしに不在。笠井君にゆき夕食御馳走となり、 りんご賜って19:00までゐる。高橋君にゆきしは20:30、夫人と話し鈴木治氏にゆきし高橋君を待ちて泊る。 3月29日 9:00安達家を出て、前川、中村幸彦二氏にお祝返しにゆき登館。慶松君あす丹波市を立つと。前川氏に代りて日直、16:00退出、 アパートにゆき金井君にゆけば妻子病む。四宮先生の診察に会ひ、お見舞おきて退出。山崎君に泊めてもらふこととし、中村孝志、吉岡二君を訪ふ。 けふ養徳社庄野常務に矢野峰人博士の意つたへしも拒まる。 3月30日 起床。朝食よばれしのち中村君にゆき基隆陸水図見せてもらひしも役に立たず。金井君に寄りしのち帰途につく。 13:00帰り宮参りの赤飯、西田、山木、羽田三家にくばらしめ野田君にももちゆく。この間丹波市にゆきしも管長に会へず。硲君の件わからずと。 帰途、天野忠に寄り会津八一「山光集」と池内先生と買ひて帰る(150)。羽田にゆけば岩村忍西洋文化研究所に来任と、不快。硲君よりハガキ。 3月31日 10:30家を出、桃山にゆき西ノ京にゆく。佐藤君不在。 うつくしきをとめのためにふねにのりあだをうちしはむかしとなりぬ。 このやまの木々ぬらさんとにはか雨ふりくるときは木の下にゆく。 4月1日 10:00まで寝、羽田にゆく。午後嵯峨の矢野峰人先生を訪ひ奉り「四季」のことを申上ぐ。〒なく金来らず。夜、「台湾の古地図」の註書く。 4月2日 午前中にて註書き終る、二百字詰百枚。羽田に東洋史研究会へもちゆき貰ふ。けふ悠紀子前途心細しとて泣く、不審。 4月3日(日) けふよりサンマータイム。10:00出て下総町へ寄り、西大寺13:00。八木の辻君にゆけば爐の会しゐる。吉川、(※高橋重臣の)アイヘンドルフ少し待てと。 女詩人湊野君と同車、上野芝へゆけば偶然にも清徳保男の十三回忌の日、婦人病臥、母堂の姉上といふ人あり。3:00まで話して眠る。(神武天皇祭ことしより廃止) 4月4日 9:00ともに出、田治米の野上(※弘)にゆけば不在、筒井も来しが妹結婚式とて早々辞去と。夫人反物たまふ。 博多へゆき(※杜甫伝の)原稿売らんといへば考へんと。鎌田に会ひ、筒井に会ひ、坪井に会ひして帰り、羽倉啓吉に夕食よばれて帰れば10:30。野田又男昨日来り、 富永より硲君に木曜の面会をいひ来りしと。 4月5日 9:30出勤。9:00とまだならずと。館長欠勤のため交渉出来ず。金井君の夫人、われの訪ねし翌日流産と。16:00退出すれば帰りても明るし。入れちがひに羽倉君より電話。 桑原氏を訪ねしに競争者なし、発令は七月頃ならんと。  4月6日 6:30のバスにのり7:15の電車、9:00まへ登館。あとより9:00始業きまりしゆゑ、安達家と川原誠会館へことわり云ふ。夜、羽田で二女に浴たまふ。 4月7日 出勤。高松宮来らるとて幹部終日会議。われこの二三日カード整理。山中嬢と同車帰る。羽倉君より電話、教務長に話せば私立高校に紹介せんと。 履歴書持参すべしと。羽田に相談すれば「さあね」とのみ。 4月8日 8:00起床、履歴書書き10:00共同通信社にゆく。羽倉君によろしくたのみてのち彙文堂。蕪村集(40)、唐招提寺(35)、南蛮帖(60)、本荘栄次郎2冊(55)、 (※伊藤) 仁斎旧蔵の「十三経註疏」(閭版)大阪の某家にある由。 東方文化にゆけば藤枝あり、野田又男を訪ぬれば珍しく不在。入矢義高氏を訪ぬれば電車賃なくて欠勤と。昭森社より返事なしと。 区役所にゆきしも上賀茂分所へゆけと。帰りて羽田へゆく。羽倉君よりまた電話、久世郡の中学にも口あるに付、返事せよと。 4月9日 出勤。高松宮のための展覧会とて大さわぎ、我不関焉。大毎より読書推薦をと。 うぐひすの鳴く森かげにかたらひしふたりのことは忘れじといふ。 4月10日(日) 起床して履歴書かき羽田へゆく。嗤ひかつ怒る。和田先生へは性急にて困るといひ問合せ出しくれし由。昼食後稲荷へゆき羽倉君に履歴書わたす。桂(※高校) は十五日すぎ返事。今度は久世、北宇治、濱のうちと。 歩きて深草の川崎菅雄にゆけば醍醐の花見より帰りしところと、羨まし。すしよばれ18:00出て下総町に寄る。健、帰省、大もあり。博多あす返事すと。20:00バスにて帰宅。 4月11日 一時間半おくれて出勤。途中松井君と一緒になりアラビヤンナイト抄訳のこといふ。二嬢と英語、一昨日検閲し洋書の解説は富永館長と、可笑。 東洋関係文献を●●部長、米国への土産にすと。高橋君に教ふ。山崎君、出納に廻さるることとなりしとてくさり研究所へかはると。高橋君に傘借る。やめるとしても欠勤つづけよと(※助言された)。 愛らしきをぐなわが手をまさぐりて冷しといふその眼忘れず(車中)。 けふ史、下総町にゆき200借り来しと。 4月12日 朝、小雨。羽田にゆく。午後下総町にゆきしも博多駄目と。 天野忠に本見す(300)。「ゲーテ伝」買ふ(80)。角川、矢野先生よりハガキ。角川「ハイネ恋愛詩集」をと。矢野先生、堀辰雄氏へ連絡をと。角川、矢野先生、 武田泰淳へハガキ。夜、下総町へオーバーもちゆく。 4月13日 7:15にてゆき山中嬢に会ひ、安達家へ傘返し鈴木治氏にゆく。数ヶ月ぶりなり。保田の原稿のこといふ、哀れなり。北林ゑみ子夫妻を隣宅に入れ、高橋道男夫人来りをる。 10:00登館。山崎君、館長に辞任いひしと。入江と二人出納に当りゐし。七月まで留任をいはれしと。十六日月給くると。執行委員会の要求せざりしに逆手打ちしなり。 帰り雨また降る。慶松君よりハガキ。河西新太郎より「現代詩人論」の広告。羽倉より六月からの中学校の口ありと電話し来りしと。 4月14日 けふも7:15、遥拝にまにあふ。カード挿入。硲君(※天理図書館に)入るらし。日曜大掃除と。帰り東方史論叢の校正のことで養徳社にゆきしもわからず。 経済九原則とやらで浮かぶ瀬なきらし。 4月15日 7:15にのりてゆく。研究室片付けさされ、大学設立祝賀会の醵金の件などにていよいよ中村君不快。あす「切支丹文庫」なる書見んとて京大へ出張となり月給先渡し。 いよいよ増俸なきこと明らかとなり本俸8494家族手当2040地域給1050にてやるべしと也。 満文書籍のことにて仙田氏に主張してゆづらしむるなどうるさきこと也。 帰り吉岡に会ひ「大和文学」の詩わたし、保田のこといへば「右翼につきことわれとの論あり。吾は毎月書かすなといひしのみ」と。不快極まる。「東方史論叢」の初校なくせしと。 靴直し750。帰り羽田に寄る、病臥。けふ矢野先生より青春の詩雍陶と。羽倉君より百瀬氏神大教養学科教授と。 けふ史、西賀茂中学へ入学。一年生8担ありと。 4月16日 8:30家を出、共同通信に羽倉君訪ねしもまだ来ず。散髪(50)して待てど来らず。中学校に骨折りくれし保田君にたのみ同志社図書館にゆき「キリシタン文庫」見る中、電話かかる。 11:30待合せ、ともに京大にゆく。田村博士に会へず。14:00伏見、かへり田村博士にゆけば善海の原稿あり、校正預かりて帰る。 羽田まだ臥床、会はず。けふは悪日か。武田泰淳より昭森社不況と。入矢君よりハガキ。 4月17日(日) 日曜出勤を命じられ、ゆきしに大掃除ひるまで休みなしにやらさる。明日も書庫掃除と。帰り羽田によりしにまだなほらず。善海の校正しり来る。 硲君来り二十日再び面会にゆくと、気の毒なり。 この二日ともにすごししみぢかかるわれらの時の最良の時。 すみれ咲く山かげにゆきひと去りてうたのごとくにすぎしひととき。 4月18日 家居。午後、東方文化にゆき入矢君に会ひ、昭森社のこといひ藤枝と話せしに高田修あり。進駐軍に勤むると。高松宮のこといふに不快。桑原氏に会ひ、 村田教授に紹介され、話きけば確かならず。吉川教授に会ひ入矢君のこといふ。夜、雨。羽田にゆき話す。 4月19日 欠勤(高橋君図書館へ来りし予定)。10:30西窪家にゆき米三升(600)、子ら可愛ゆし。昼飯たまふ。帰り汽車にのれず電車にて西ノ京、佐藤君にゆきしも無人。 帰りて善海の校正了り、夜、羽田にゆく。 4月20日 欠勤。東山へゆかんとし、清水寺より木戸孝允の墓地へ出る。桜咲き東本願寺の行事にて人多し。17:30桜井につき西窪夫人に米頒けてもらひ、 うどん貰ひ保田へゆく。與重郎と久しぶりに会ふ。夜、泊めてもらふ(1:30就寝)。 桜咲く坂みちをゆき降りつつ足つかれしといひし子ろはも。 4月21日 保田夫人に迷惑かけて9:45の汽車にのり登館。高松宮来りし時のことを人々話す。旗田巍氏へハガキ。高橋君に寄り、預けし米もちて帰る。 4月22日 出勤。午後、硲君来り館長に会へば俸給前に云ひしより少しと。帰り羽田に寄らんとせしに既に閉ぢゐる。雨ふり出す。 4月23日 出勤。佐藤誠君によりてきけば東京人わが阪大行知りゐると。高橋君にゆき傘借る。羽田に寄り善海の校正受取る。 けふ文部省の人文科学研究費の書式来る。主査小野忍氏と。 夜、下総町にゆく。母すでに先発、岑夫来て泊る。 4月24日(日) 4:00起き、初発の市電にて5:40鳥羽行に乗る。10:30宇治山田着。服部家にゆく。12:00新婦(山本治子)着、14:00より(※弟、健の結婚)披露。 先方叔父伯母多く来り羨まし。16:30二人に送られ駅にゆけば汽車出しあと。近鉄にて京都着22:00、下総町に泊る。帰りの電車にて坂口允可君に逢ひし。 4月25日 (高松宮慰労休)8:00帰宅、羽田に11:00ゆきて話す。夜までに文部省の人文科学研究費補助申請書書く。(西洋人の著した中国地誌の研究28,000)。 角川より「表現」四月号。羽倉、道友社へハガキ。 4月26日 出勤すればみなカード書きゐる。けふ人文科学研究費の書類送る(25)。南京陥落、中国面白し。帰り下総町へゆき洋傘もち帰り500円返却さる。杉浦(※正一郎)昨日丹波市へ来しと。 4月27日 6:15でゆきしに遅る。けふもみなカード書き、われは洋書のタイプ。帰途、養徳社へゆきしも吉岡君不在。けふ羽倉君よりまた電話、教育部長に話し美専へ紹介せんと。 4月28日 養徳社へ校正もちゆき吉岡に詩の稿料のこといへば未だきめあらずと。カードタイプ打ち終り、一週間休むこととす。けふ語専の側に図書館蔑視の観念あるを知る、可笑。 英語やめることとす、山中嬢疲れてあり。夕方驟雨。平端まで歩き終発(20:30)のバスにまにあふ。羽倉君ひる来りて三十日電話すと。 4月29日 天長節、天皇誕生日と改称。午まへ羽田へゆけば、西田夫人また先生に告口せしと。史に炊事やらすと、火事の心配となり。不快。 入矢君よりハガキ。天理より奥村氏あやまりに来しと。夜、茶話会。山木氏、薬剤少佐として沖縄本島南部にあり、六月より洞穴にこもり生延びし一万五千(十四万中)の一人と。 昭夫君共産青年なることはじめて判明。 4月30日 家居。悠紀子、下総町にゆきしに母不在。午後われゆきて1000。バター配給。夕方羽田へゆく。咲耶、史に100呉る。 5月1日(日) メーデー。よべ小雨。伏見にゆき水源地を見、タバコ「光」買ってもらひ17:00別れ、川崎にゆく。山本治雄共産党の顧問弁護士と。帰れば悠紀子終発のバスにて下総町より帰り来る。 5月2日 10:00市役所へゆき羽倉君に会ひ総務部長に紹介さる。美専に考慮しおくと。俸給一万円といふに難色あり。 共同通信にゆき保田君に会ひ一ヶ月にてもよしといひ久世郡中学たのむ。野田君にゆきしに硲君のこと富永へ手紙書きしと、われには天理つづけよと也。 帰りて昼寝。けふ野田君にてきけば小高根太郎、家を売って西下せんと。哀れにをかし。 5月3日 憲法記念日と。朝「表現」のため「大和吟四首」作る。やや意に満つ。 午後彙文堂にゆきしに佐藤長君に会ふ。引返して下総町にゆき吹田の山本治雄を訪ふ。夫人胃癌にて去年十二月死す。一女を残す。亡夫人の妹を娶りしと。 勤先いやにても仕方なからんと。21:44の電車に乗りアルバレス氏と同車、最終の市電にて帰る。 5月4日 10:30市役所へゆき羽倉の紹介にて教育長に会はんとし12:00やっと会ふ。無意味。都市計画課長川勝常次郎なることを知り訪ねにゆく途中会ふ。会議とて話せず。 天野忠氏を訪ね「食後の唄」外一冊(200)。夕方、羽田にゆく。あまりうろうろせず待てと也。 けふ羽倉君よりまた電話、久世郡有望にて面会日[決]定せよと。 5月5日 子供の日と。羽田へゆく。羽倉君より電話。月曜にゆくと決む。賀茂社競馬。堀多恵子夫人より返事、堀氏もはや起きずと。(※手紙にリンク) 「四季」のこと三好、丸山二氏と相談せよと。堀夫人、小高根太郎へハガキ。 5月6日 6:35にてゆき養徳社にゆきしも上田君のみ。鈴木氏にゆき「大和文学」の詩の稿料のこといひ、登館。中村君、語専との確執をいふ。 慶松君より「北堂書鈔」と「平津館叢書」売りたしと。四千円位といふ。 帰り養徳社にゆきて700もらひ羽田に寄りて里井君(※里井彦七郎?)にと地誌目録もたす。久世中学の池田校長より速達、早く会ひたしと。明日ゆかんか。 5月7日 9:00時事通信社(四條に移転)へゆき保田君に会ひ、藤森文平(府教育委員会)の名刺をもちて伊勢田の久世中学池田校長に会ひにゆく。不快。 俸給よくなく勤務もきつきらしも校長最も不快なり。カカア中山管長夫人なりそこねし信者と、可嗤。 佐藤誠君にゆきて昼食。11:00羽倉君によりて報告せんとせしもまだ帰らず。下総町に寄れば父、小中学校へゆくを好まず。23:00帰宅。岡本和子氏十三日来ると。 5月8日(日) 9:00矢野先生へゆかんとし途中白梅町より宇多野まで歩き、西垣旧宅訪ねしに人借り、本人は豊中に住むと。矢野先生にゆけば令息瀕死、 角川にすぐ手紙出すと手紙托されて同志社にゆき、桑原氏を訪ぬ。淀野隆三氏失敗して上京と。父にゆきしに大、わが家へゆきしと。薪割りして待ちしも帰らず。帰りて会ふ。柏井本のこと頼む。 けふ硲君来り、富永の返事見す。冷酷非礼なり。羽田へゆきしも会へず。  5月9日 養徳社にゆき「狐」二冊頒けさす。登館すれば館長新入を控へてお説教、服装をきちんとせよといふに具体的に云へと反問、取消さしむ。 金井君より木村君に注意せよと。帰り高橋君に寄り100借る。電車にて三興、美人に会ひ「狐」一冊与ふ。夜、羽田にゆき話す。けふ細川書店より詩送れと。 5月10日 出勤。10:00里井君来り、地誌見る。われこの二三日、ために地誌目録を編む。高橋君より900借用、里井君、宮崎博士「亜細亜史概説続編」もち来り呉る(120)。 帰りて疲れて不機嫌。けふ松井君を経て吉川仁より「神々の黄昏」返却を受く。 5月11日 出勤。書庫への入口に柵設く。外語の教授の盗書を防ぐためと。里井君、よべ山崎君に泊り歓待されしと。高橋君、細川書店の 「日本文学全集」のため「西康省」と「大陸遠望」より十篇ゑらび呉る。里井君と同車して帰り抄写す。硲君けふ来るかと思ひしも来らず。「不二」四月号。 5月12日 出勤。館長に地誌目録作成のこといふ。八木嬢発熱中退。午後俸給8494+家族手当2400+地域給1090計11984-(職員会84、税金1394、 組合費45、還付金1200、高橋君への返金1000)。悠紀子に8000わたす。けふ細川書店へ詩送る(44)。 5月13日 出勤。八木嬢欠勤。養徳社へゆけば「オネーギン」呉る。石浜先生けふより大学へ出講、一週金曜一日三時間と。矢野先生令息、わが訪ねし八日逝去されしと。 石浜先生来館。中村君[が]お相手す。 帰り硲君と同車らしく伴ひ帰る。十五日の歴研大会に出張と。 ともに野田君にゆき一応管長に手紙してもらふこととす。小高根太郎よりハガキにて共産党入党とのことを見す。暗然。 帰り羽田に寄れば夫人入院せしが未だ分娩せず。和田先生よりハガキにて下洛の桑田博士(※阪大)に会ふべしと。今年度は採らぬやもしれずと。 5月14日 丹波市にて雨となり安達家にて傘借る。カード挿入し、昼出て雨中を歩く。Sに似し男に会ひし。佐藤誠氏にゆき麦二升(200)わけてもらひ、 きけば天理大学出勤日も研究日もなしと。可嗤。帰り終発のバス(21:00)。けふ悠紀子産院にゆき羽田夫人の男児出生を見しと(一貫五十匁)、めでたし。 5月15日(日) 賀茂の葵祭を見ず、羽田にゆけば桑田部長の所へけふ行かんと。ひるすぎ下総町へゆけば父母不在。祖母のみ。羽倉にあへば(※中学斡旋した)保田君怒りゐしと。 「狐」一冊礼にとわたし、いろいろ話して帰り、散髪(60)。帰宅、羽田に二回ゆきしも帰らず。池田久世中学校長へことわり書く。 5月16日 出勤。里井君来り地誌目録作る。組合支部会、八木嬢、執行委員の件につきしつこくいひ改選。木村君当選。われ代議員に。大学昇格祝賀会にわれ不参加も承知さる。 帰り羽田に寄れば、桑田教授、藤井寺春日丘の山岡康氏(※山岡順太郎孫)方にあり、水曜9-10時まで阪大にと。講座をく助教授の必要なしと。父の組合来月解散と。 5月17日 出勤。地誌目録作る。佐藤君「金と銀のさいころ」呉る。羽田にも一冊。里井君の夫人、外山軍治の媒妁、野上俊静夫人の●、兄は台北高校教授たりしと。 5月18日 雨かと思ひしに天気なれば大掃除行ふ。隣室の老嫗二三日前より喀血。西田夫人の無智配給に夫婦して怒る。けふ桑田氏へ手紙出す。来週水曜の会見申込みなり。 夕方入浴。 大学のプロフェッサーと云はれんと三河吉田にゆきし友はも。(※服部正己のこと) この二夜ゆめに出でしは好かぬひと中にまじりてひとりつれなき。 5月19日 出勤。慶松君きのふよりまた来しと。中村幸彦に云へば桑田部長不愉快な男と。15:00より雨。羽田夫人けふ退院せしらし。けさ川崎菅雄と同車。 5月20日 出勤。この間退職せし町田嬢よりハガキ来る。石浜先生来られ管長のよこせし自動車にのりゆかる。山中嬢欠勤。二十三日大学昇格祝と。帰り雨霽る。けふも地誌目録作る。 「わづらはしき友らにはなれてただひとりきみをしこひてあるべきものを。」 中島明子氏にハガキ。夕方羽田にゆき里井君に月曜の休みのこといふ。夫人退院してゐられし。 5月21日 出勤。ソ聯の引揚残り数万人と。月曜の祝賀休みと定める。 あやめ咲く池にはゆかずつつじ咲く丘べをあゆむうたびとわれら。 帰り下総町に寄る。 5月22日(日) 朝、羽田へミルクもちゆく。午後落柿舎裏の矢野先生をお訪ねし仏前に菓子(175)供へ奉る。いろいろと話さる。昭和十七年三月に台北高校を出て、 東大独文に入られしと。われとは遂に会はざりし。 15:00すぎ出て大阪関目の康平叔父訪ねしにゐず、21:30まで叔母、甚幸と話す。水曜会社に城平叔父とともにあるを訪ぬることとす。 富美子信者の養子をもらひしと。分教会の札を掲ぐ。丹羽橋でのりかへ奈良電まち駅着23:15。歩きて帰宅。塀のりこへて入る。けふ角川君来り、明日宿へ来よと。 5月23日 朝、母来る。後にわかりしが金借りるがためなり。14:30出て京大東洋史研究室にゆき、里井君に八日(?)の会の題「史料としての清代地誌」といひ、 東方文化へゆけば東洋学協会の相談。天理大学代表として列席、龍谷大の小笠原氏(※小笠原宣秀)より後刻挨拶さる。 藤枝に「新制世界史」第一分冊もらひ蛸薬師の千切屋にゆきしが角川君帰らず。彙文堂にゆき「東光8」買ひ、また引返して三十分待ちしが帰らず。明日7-8時にゆくを伝言して帰る。 5月24日 7:00家を出、千切屋に角川君を訪ぬ。編輯長の長谷川覚氏(元岩波)あり。文庫の話、羽田先生にと「島木赤彦(茂吉)」托さる。「四季」出すとなり 「ハイネ恋愛詩集」の名にて「歌の本」六月までにと約束。 丹波市12:00。中村君も祝賀会に出て盛会なりしと。帰り八木嬢に傘借る。養徳社にゆき三田村君のマルチニのこといふ。羽田によりしも不在。 帰れば桑田博士より返事、「会ふ用なし」と。 5月25日 欠勤。10:00羽田にゆけば脈なしとも云へずと。吾不知焉。 片町線にて今津にゆき富士鋼材に康平叔父訪ぬれば不在、城平叔父あり冷酷なる顔して迎ふ。父の(※組合解散の)こといひしに心配なしと。 帰りて父に会へばいらぬことをせしと怒る。帰りて妻子に当る。 5月26日 出勤。午後芸能祭とかで休み。あやめ咲く池をめぐればぶと飛べる。 5月27日 出勤。石浜先生と同車。午後先生来られ本見せる。夕方山木氏来り話す。 5月28日 出勤の途、村上君と一緒になる。話せば不快。帰りあやめ池、「気分出ず」と。 羽田によれば悲観せざれと。 5月29日(日) 硲君来るかとも思ひしが来ず。一日床にゐて夕方履歴書かく。 5月30日 出勤。里井君来る。木村三四吾君に泊めることとす。 14:00退館、藤井寺にゆき桑田六郎博士を訪ふ。全田忠蔵叔父のこと訊ねらる。一高での同窓と。天理の方宜しからんとの話なりし。 大江の新婦房子に紹介され夕食よばれて帰る。22:30。 5月31日 7:15の急行にのれたり。靴直し中途にてゆけば遅刻ならざりし。地誌すみて茫然。慶松君天理地誌のことを京大に話す意あり、可笑。山中嬢より学報もらふ。 里井君とともに帰る。けふ市電定期悠紀子買ひしと(240)。羽田により昨日のこといふ。 6月1日 けふより市電定期。山崎君研究所へ転任の挨拶。帰り五万円預りて出る。荒川氏に一言さる。臨川にゆき47200払ひて帰る。羽田にゆけば散歩に出て帰らず。 6月2日 9:00家を出、彙文堂と佐々木に払ひし、10:15にのり登館、12:00かっきりなり。出張手当184もらふ。帰りて羽田にゆき話す。 東山女専(※京都女子)に話して見んと。夜、堀、矢野両先生、角川へのハガキ書く。角川より「表現」六月号。 6月3日 7:00家を出、またまた石浜先生と西大寺にて一緒になる。午後お越しゆゑチャム語文法見す。健より結婚式の写真。 6月4日 よべ里井君来しらしく手紙挿みあり。講演再来週にと。又、六日東方文化にて慶松君同じ題で講演すと。 悠紀子に羽田へ承知の伝言たのみにゆかす。吾郷君、奈良学芸大学へ転ずるに付、中村君大学へ代れと云はると。前栽より乗る。よべ羽田も来しと。 6月5日(日) 9:30母来り、蒲団のつくろひして呉る。父、先月限り退職せしと。11:30羽田にゆけば慶松君の話10:00よりと。旗田氏のこと東山女専へたのみしも駄目と。 13:00バスの乗場にて硲君に会ひ、ともに野田氏にゆけばまだ返事なしと。男児先月十七日に出産と。硲君と別れて佐々木書店の京都詩人会にゆく。 天野忠監事、天野隆一などあり計七名。18:00帰る。 6月6日 10:00家を出、東方文化へ慶松君の話ききにゆきしに、われ同君に連絡することとなりゐしとて元より来ず。かはりに天理図書館の話す。森鹿三、 日比野文夫の二氏の外、内田智雄、天野元之助、木村英一氏などあり。 藤枝、入矢君と東京夢華録よむ。(森氏より「東光」つぶれしとて「蘇東坡」返却を受く)。 研究室にゆきしに佐藤君のみ。馬来、ビルマにありしと。桑原氏に会ひ彙文堂へゆき(湖南博士「支那史学史」700円)帰りて入浴、羽田にゆく。 6月7日 支那史学史図書館へ納入。山崎君750にて買ひし満洲実録もち来る。けふ矢野先生よりハガキ。角川君に会へざりしと。 6月8日 出勤。つゆの気配なり。帰れば筒井より速達。水曜に野上と来ると。「一日禁煙」を「時論」のためつくる。 6月9日 身体検査、体重44キロ、異状なし。月給十三日と。レントゲンの検査すませ高橋君に久しぶりにゆく。 6月10日 西ノ京の佐藤君へ寄る。ゆけば11:30。慶松君十三日帰ると。「子どものため生きる」と宣ふ。不思議なることかな。帰り法隆寺より帰りの佐藤君に会ふ。不思議なること。 けふ八木嬢早退と英語のレッスン休み。羽田にゆけば水曜3時からと。 6月11日 7:15にてゆきしも9:15着。帰り佐藤君により米一升。夕食たまひて帰れば22:30。 けふ母来りて1000貸しくれしと。 あざみ咲く丘べにありてゆくすゑを語りてをればゆめのごとしも。 6月12日(日) ひるね。散髪。和田先生へ手紙。羽田にゆけば朝顔の棚作りゐる。 6月13日 出勤。俸給9000円余もらふ。吾郷氏とゆきしに組合のこと、●員除名と。われ規約改正して入れよといふ。十五日より市電値上と。 6月14日 出勤。研究は二日とれと。十五、十七とす。市電のことまだきまらず。帰り山崎君にアイスクリームおごる(30×2)。帰りて明日の地志の話の準備す。 6月15日 朝準備すみ、13:00筒井、野上来る。待たして京大にゆく。天野元之助、森鹿三、外山軍治、三田村素助氏、羽田とみなあり。匆々にすます。 わが話の最不出来なり。帰りて散歩より帰りし二人待ち夕食与へ20:10送り出す。 6月16日 雨、バスにて駅までゆきしも7:55、10:00着き雑務に追はる。慶松君、地誌借りて藤枝に預けゆき田中にとりに来させといひし由、不快。昨日の講演のこといひて大不快。 八木嬢に米たのみて900わたす。佐藤君来り、朝鮮語字典代まだもらはずと。山崎君「元朝秘史」売れと。みな不快。 帰れば母来り2500もちゆきしと。不快重なる。但し佐藤君のことは2月25日の日記にのす。 6月17日 けふよりバス市電値上。今出川までゆき(10)、市電にのりかふ。佐藤君にゆきしに登校と、学校を訪ねしもあらず。後に訪ね来りしゆゑ、朝鮮語字典のこといひ、わびいはしむ。 北見志保子なる●人案内せよと電話あり。植村武氏と共に来ると。わが高校生なりし時、歌つくりゐし小学校教師なり。石浜先生と来らる。北見女史案内す。 外語へことわりにゆきしにきかず日曜ただばたらきとなる。けふ八木嬢に900またわたす。 6月18日 出勤。郎世寧の画を見しのみ。時々雨。 小雨ふる丘べのあざみなつみそとひとの教へをわれや忘れし。 かへり見ずきみ去りしみちふりかへりわがゆくこころわれとくやしき。 6月19日(日) 大雨のなかを行けば(東山女専)。意外にも旗田氏講演中。すみて服部龍造氏の「●戦文学」なる話ききてのち、わが「恋愛文学」橋川先生、入矢義高君、 山崎忠君の外に西田昭夫君ありて軈て二十数名。旗田氏さそひしも帰る。羽田に寄りタバコ借る。けふ角川君より手紙。ハイネ、四季、羽田先生のこと。 6月20日 雨、出勤。7:15の急行にのる。里井君来り200この間の謝礼にて。慶松君よりハガキ。地誌十七冊を東方文化までとりにゆけと。午後外人を案内。 八木嬢、米二升を300にて頒け呉る。丹波橋のとりしまりきびし。(川崎と同車) 6月21日 大雨。欠勤。ハイネやる。夕方羽田にゆけば不在。昭夫君と遊ばんとせしに試験勉強とことわらる。 6月22日 晴、出勤。地誌やる。羽田にゆき200のこといへばとりおけと。 6月23日 晴、欠勤。17:00家にあり。 歌うたふことをもやめて強くゆくわれとならんといへばこたへず。 6月24日 出勤。石浜先生、佐藤君と同車。地誌やり洋書久しぶりに二冊。桑田博士無俸給と。慶松君よりハガキ。 6月25日 出勤。午後勉強するつもりなりしかど出来ず。山崎君「秘史」1200の受取かかす。高橋君の嬢、病気とて夫婦して病院にゆくに会ふ。 さほ川のつつみの花をつみゐれば稲田の上に風吹きわたる。 6月26日(日) ハイネの訳ほとんどすむ。夕方羽田にゆく。中野博之君より便り、三沢先生に叱られしと。小林君出たらめせしと。 6月27日 出勤。里井君来らず。帰りに森本一三男氏の弟君に会ふ。なつかしげに話し喫茶店へつれゆく。保田の末弟島岡通訳と政治大学のことにて喧嘩せしと。 佐藤誠君転居のことにて夫婦喧嘩と。歌二首。 争ひはきのふとなりてかかはりの何なき様する君をくやしむ。 ひたすらに許し乞はむと別れては言足らざりしを悔みゐたりき。 6月28日 出勤。きのふけふと地誌にて疲る。団体協約の会ありて完全に牛耳られしと。(けさ川崎と同車、のん気なる顔しゐたり)。角川の佐藤仁君より手紙。わが詩失ひしと。 史の担任、中島先生家庭訪問、将来学校へやる気なしと答ふ。 6月29日 出勤。神経昂ぶり16:00より歩く。帰れば21:30。 あはれなる男となりて野に死なんすがたひとには見せじと思へど。 6月30日 ゆきと帰りと雨。父に寄り、母より700借る。矢野先生より忌明けのハガキ。依子弓子ふしぎに八木君に手紙かく。 7月1日 彙文堂へゆき700払ふ。8:15にのり石浜先生と同車。東海銀行京都支店長より本店に移りし大崎富士雄なる名、新聞に見る。ア●ボンの大崎か。 山崎君より1200受取り、依子弓子の手紙の返事八木君よりもらふ。大高森田先生を酒井先生案内して来らる。石浜先生と三人にて真柱にゆく。 われらにて富永館長に司書、司書補の職[附]制のこといひ、頑迷なるに呆れて中坐、佐藤君にゆき米一升210にて世話してもらひ帰る。 ソ聯よりの引揚者歓迎とて駅頭赤旗の波、芳野、服部、大よりハガキ。 7月2日 出勤。やはり不快。きのふのこと中村副館長にいへば館長と同意なりしに呆れる。八木嬢子供たちに水蜜桃を托す。新町の天野忠氏に寄りあすの詩人会欠席をいふ。 帰れば母来り不平いひしと。 たひらなるみちにあらねど●●ふたりゆくには安きみちをしゑらぶ。 7月3日(日) 一日家にゐてハイネを訳しあとがき書き了ふ。(38枚) 「大和吟四首」作り直す。羽田に一寸ゆけば元気。 7月4日 出勤。研究日の件で館長に談判。入館一ヶ年後のものには許さんと、可嗤。 八木嬢と二児、手紙けふも交換。町田嬢挨拶に来る。帰りてハイネの糊ばり。 7月5日 出勤の途、聞けばきのふ駅前で引揚者と共産党に怪我人出来と。民主主義警察棍棒でなぐりし也。金井君にきけば「中村君研究日返上説」と。 新井女史「生活のための図書館に非ず」と。不快。 地誌大分すすむ。帰り雨。ハイネにノムブルつけ小包にす。 7月6日 雨、よべ停電。欠勤することとす。ハイネ小包(65)送らす。昼寝せしのみ。中村博之君に変身かく。 7月7日 出勤。地誌の外に矢野文庫すこし。山中嬢と帰る。けふタバコ殆どのまず、つらし。「表現」七月号。 7月8日 出勤。遥拝時にまにあひしかど出ず。佐藤君に朝鮮語の催促す。館内いよいよ不快。帰り父の所へ寄りしに母米買ひに出て帰らず。 7月9日 出勤。日直は明日と。前川氏十七日とかはらんと、応諾す。 けふゆきがけ入矢君と同車。かへりの車費なしで来しと。タバコ無心されてよわる。100円八木嬢より借用。天野氏よりハガキ。出版のこと。 みささぎのかたへの木かげ坐りゐてかたりしことはわれひとのゆめ。 ゆめを見るをのこをとめにこひをしてこれぞひとつのうつつといへる。 7月10日(日) 大へのハガキ返り来る(住所不在と)。西窪夫人よりゆき子へハガキ。 夕方羽田へゆきしも不在。けふ史、下総町へゆき500借る。 7月11日 暑し。地誌ほぼめどつく。午後服部来るかと思ひ「李朝実録」よみしが来ず。鈴木氏に「大和文学」廃刊をきく。男子生れしと。相変らず変な男なり。 佐藤誠つひに金わたさず無力の男なり。あす歓送迎会と。京都出張を申出づ。二階堂より来る。 7月12日 少雨、大江の叔母より手紙。昼すぎ京大にゆき里井君より慶松の地誌受取る。帰り天野忠に寄り、夕食後羽田にゆきややしばらく話す。 7月13日 出勤。たてあひ会の世話役沢田よりきのふのサイダー一本わたされつき返す。慶松君の地誌わたし出張旅費204もらひ月給もらふ。11984-税金1394+×=10341。 新田辺の池のはたにゐることしばし。天野忠に寄り、「近代詩人集(210)」。散髪(60)。 何もかもわがままになることいなむをとめのさがにかなしむわれは。 7月14日 けふ地誌すむ。服部、昨夕はじめて丹波市に来り●●へゆきしと。 風涼し丘のべによむ失恋の詩人の詩をばきみうべなはず。 きのふ郡山駅にて岡本和子の妹に会ひしが、けふ手紙。ふしぎ。 7月15日 郡山にて岡本女史へハガキ投函。会議中のところへ登館、ひる出て新田辺、山田川、木津、櫟本へゆき中島未亡人と話し、保田家へゆく。 7月16日 保田母君おそく起き朝飯たまふ。匆々辞したれど9:48の汽車にのれず電車にてゆく。森本佐一に会ふ。「敦賀に転任」と。図書館にゆけば11:30、 地誌すませハイネと保田のための「ガルガンチュアー」(※『ガルガンチュワ物語』)借出す。養徳社にゆき鈴木治氏に挨拶。けふ暑し。 夏休みの日直、明日をこめて三日あり。上野君に代りたのみしも日曜以外手当なしと。可嗤。 7月17日(日) けふより休み。昼寝し入浴す。羽田、丹波市へゆきしと。史、祇園祭見にゆきし。 7月18日 地誌目録作製。退屈す。午後区役所にゆけば分所へゆけと。下総町にゆきしも雨に会ふ。地誌すみ、あとは清書。 7月19日 午前中区役所分所にゆき寄留証明書たのむ。午後、史とりにゆく。京(※みやこ)の寄留も出来ゐたり。 羽田にゆく。「仏人と橋立に三日ゆきし」と。李朝実録抄とぢこみにす。角川へハガキ書く、原稿つきしや否や、便なきがためなり。 7月20日 夏至入りと。9:00出て南にゆき桃山城をさぐる。 わがこころいつもおどろきわがまたといつももの見るつかれ知らずに。 「孚化志略」と地誌用の紙もち帰る。 7月21日 終日家居。地誌やる。 7月22日 同。夕方入浴。 7月23日 家居。 7月24日(日) 同。硲君よりハガキ。神田氏よりの(※就職)運動も効なかりしと。 われおもひ屈してをれば夏山の雲も見ずして三日四日を経ぬ。 みなひとがかかはりなくて生けるときかのをとめ子はいかにおもへる。 7月25日 硲君と吉川仁とにハガキ。地誌目録もちて研究室にゆけば里井君不在。東方文化にゆけば入矢君、蒲松齢につき十月話せと。 帰り下総町にゆけば父、健の家にゆきて不快がりしと。やがて帰りし父と昼食。大より「清代通史」二冊来ありし。天野忠氏に寄り、詩「南」を托す。 7月26日 家居。暑し。岡本和子嬢よりハガキ。「八月一日10:00来る」と。インク買ふ(24.00)。 7月27日 約の如く9:00八木山中二嬢来訪、大和西瓜ともち米と土産あまた。上賀茂社と深泥池に案内。暑くなる。帰りて昼食。15:30辞去。休み三十一日までと。 7月28日 よべハイネ新詩集十数編訳す。けさ羽田にゆきしに「家賃値上の話とともに西田夫人出てくれといひし」由、家風あはざるを理由とする旨、不快。 ハイネ「いろとりどり」まですすむ。大へハガキ。 7月29日 雨。詩作る。ハイネ50枚。子どもかあいく哀れ。ゆき子哀れに呑気なり。みよ。 7月30日 伏見へゆく途中、西田の婿村松氏に挨拶さる。何となく不快なり。 康平叔父の許へゆけば留守、叔母に父のこと話して帰る。長女里帰りしゐたり。帰れば八木嬢より二女にハガキ。 かなしきはうたつくるより能もたぬわれをしおもひきみに会はぬ日。 7月31日(日) ハイネ80枚。二女八木山中両嬢に手紙かく。夕方より悒し。細川書店より写真送れと。 8月1日 9:30岡本和子女史来訪。芝君との恋愛?破局の詩置きて13:00辞去。 夜、下総町へゆき父母と話す。健、来ず。天野忠氏より七日の会の通知。 8月2日 末吉より暑中見舞。末吉と持論社野間三郎史に[〒]。午後、硲晃君来訪。天理のこと話し野田君(※野田又夫)にともにゆき商売がへのこといへば反対す。 18:00退去、烏丸車庫で別る。 下総町へゆかんとせしが止め、史ゆかす。 8月3日 10:00家を出て下総町に寄りしのち京都駅。東山、伏見より関目にゆく。 康平叔父19:00帰宅、話せしが冷酷なり、母のこといふ。長女の婿帰り会ひしのち歩きて市電に出、筒井(※護郎)宅(森小路下車)にゆけば散歩。 23:00帰りしと話し2:00眠る。わが実行力なきを痛罵す。 8月4日 筒井とともに出て久米田下車。野上にゆく。話せば5000くれ、布地11ヤード呉る。自転車にのせて槙尾街道につれゆき呉れ、別れて内田の河野へゆく。 咲耶中々心がけよし、姑君、奈良女学校の卒業(明治三十八、九年)にて中山教祖の孫と同期たりしと。 16:00出て田村へゆきしも不在。岡部君を訪へば「三興出版部解散せし」と。大阪駅へ出て帰る(23:00)。 8月5日 9:00ごろ眼をさまし昼飯ぬき。山木夫人の面前にて悠紀子を叱る。羽田へ二度ゆきしかど留守。中野博之君よりハガキ。細川書店へ写真。野上へ礼状。夜、入浴。 8月6日 10:00羽田にゆきて起こし、いろいろ苦辛談はなし、下総町にゆき俊三郎叔父に会ふ。 彙文堂にゆき東洋思想双書13冊(650)と江南文化開発史(150)とを館へたのみ「イスラム・イン・チャイナ」120にて引き取らし、内田銀蔵「日秦関係(30)」近所にて買ひ、 下総町にて麦一升わけてもらって、天野忠氏に会ひ、放談一時間、帰宅。 亀井、岡本和子、末吉よりハガキ。 8月7日(日) 角川より翻訳届。中野君への返信とをもちて12:30家を出、堺町錦上ル大西卯一郎(久慈徹三)宅の詩人会ゆく。コルボー会(※コルボウ詩話会)となり、 山前(※実治)君の書肆よりゲーテ詩集出すと(11行30字、題4行分と。但し印税なし)。18:30帰る。 8月8日 あさハイネ一篇、11:00出て下総町にゆき13:30にて江州野洲にゆく。暑くたのしまず。父母やさしきもかなし。帰りて眠る。 8月9日 晴、8:00家を出て(2)で一時間近く待ち会ふ。月給日十三日と。 17:30天野忠氏寄り、帰れば末吉13:00来りしと。夜、電話かかり「明日10:00来る」と。 けふ「表現」八月号来る。わが詩のらず、「時論」八月号ものらず。 夏花のもゆる思ひをうたはざるわれがうたをばひとは拒める。 8月10日 10:00末吉再来。昼食、夕食をして貧乏話永々とす。筒井の如く叱らずにききくれたり。「関大高校待遇よければ話して見ん」と。19:00帰る。 兄の境遇我に同じとて通じよかりし。寿一より暑中見舞。 8月11日 10:00羽田にゆきインクもらふ。寿一と亀井昇へハガキ。図書館より「十三日俸給とりに来よ」と。西田夫人全快祝にパン。 8月12日 家居。ハイネ「新詩集」の恋愛の部ほとんど終る。夕方入浴。細川書店より写真の受取。 8月13日 朝、母来る。ともに出て天理へ。西ノ京、佐藤君により不快。午後月給もらひ西瓜食ふ。高橋君不快。養徳社により鈴木氏より原稿用紙もらふ。(けふ芳野清へハガキ)。 藤井寺もしくは桜井へ行かんと思ひしもやめ下総町にゆけば父留守居。帰りて卵食ふ。 8月14日(日) 伏見へゆく。羽倉君教育長にまだ交渉中、電話かかるやもしれずと。川崎果物を食はす。20:00出て帰宅。 おのづから心かよひてわかれぎはふりかへりたるこころうれしも。 8月15日 朝、硲君来り、「東洋史年表作製の為本かせ」と。京に玩具もち来る。善海の論文のりし「世界」かしくる。昼食後ともに野田君にゆく(モーリッツ「ギリシア・ローマ神話」80.00)。 別れて桑原氏にゆきしに不在。「近々信州へゆく」と。帰り下総町に寄れば盆の行事宝国寺詣りしと。帰りて夕食後羽田にゆく。 けふ國分(菅原)節子よりハガキ。「郡氏のところしらせ」と。 8月16日 家居。よべゆめにT夫人に恋慕せし。ゲーテ詩集やる。「瀋陽日記」写す。「道の友」来る。 大文字山の火。 わがむねのもゆる思ひと大文字を見るよひきみはいづこの空に。 8月17日 「ゲーテ」ほぼ終る。野間三郎君より時論の詩返却。午後ゆけば受取る。歩きながら話せしに同じく落伍者。彙文堂にゆき「東洋史研究文献要目」預る(450)。 下総町に寄り、伊東の詩集三冊を持ち天野忠氏に寄る。「月下の一群」500円と。 8月18日 家居。久しぶりで雨。無為。〒なし。小川浩と菅原節子へハガキ。 8月19日 時々雨。朝、羽田へゆき新潮かりて「俘虜第一号」と檀「太宰治」とをよみたり。「ゲーテ」の跋書く。 8月20日 伏見。淀野隆三へゆきしに不在。 くどくどと同じことばをくり返すたはれをのことわれはなりしも。 8月21日(日) 暑し。ゲーテを天野忠氏にもちゆきしも留守。「責任感」とともに夫人に托す。 帰れば松本善海夫人二児をつれて羽田邸への帰途立寄る。珍しきことなり。共に羽田邸にゆきしも不在。ややにして辞去。末吉よりハガキ。「紀州へゆき校長にまだいはず」と。 8月22日 入浴せしのみ。 8月23日 暑し。午後タバコ買ひに出、葉巻(15)。天野忠氏と話し帰りて夕食。光(50)買ふ。 8月24日 タバコ配給。「瀋館録」あすで終らん。夜、野田君にゆきハイネのこと桑原氏にたのむは不可かいなか問ふ。「よからん、我よりも話して見ん」と。小川浩よりハガキ。 8月25日 「瀋館録」終る。菅原節子よりハガキ。「郡信一氏を見つけよ」と。午後紙魚を見つけ畳あげ掃除す。 8月26日 雨。「ゲーテ」三十才終る。「ローマ哀歌」「ヱ゛ネチアにて」はいかがせん。 ひねもすを君をおもひてゐしわれにひるすぎてより夕立するも。 夜、羽田にゆきウィスキー賜ふ。 8月27日 家居。悒し。一日游学す。 8月28日(日) 来客なし。田村春雄より「来月三日(日)父君十三回忌」と。砂糖配給。 8月29日 8:00家を出、天理行の定期買ひ(935)、西大寺にて上田一雄君に会ふ。「玄米食やりをる」と。高橋君に行き刻みと巻タバコと替へてもらひ再訪を約して出、 図書館にゆけば新井女史不在。八木君より米二升と無花果とをもらひ、高橋君にゆき球突く。 17:18にのりて帰り下総町に寄る。「妹弟等に手紙だせ」と。 8月30日 雨。やむと同時に家を出、10:15にのる。 くらき雲かぶさる時をおもはざる教に入らんこころつきにし。 帰れば山木夫人発狂。哀れなり。「コルボオ」の会、四日にと。 8月31日 我が生涯の最悪の誕生日。カカア殿、卵一ケを供へ賜ふ。午後出て大学にゆく。里井君地誌目録の不審紙賜ふ。郡講師の住所わかる。 東方文化にゆき桑原武夫氏に呼びとめられ中島のこと承る。「田中、予想通りのカカアもらひよった」といひし由。 出て学術図書館の話ききにゆけば13:30よりに変更になりしと。仙田氏に挨拶して帰り下総町に寄り、帰れば18:30。山木夫人相不変狂状。母君も五年これに罹りしと。 9月1日 出勤。7:15にのり9:00の朝礼にまにあひし。野間三郎の兄、光辰来り「阪大いかに」と問ふ。杉浦より手紙、東中野にゆきしをいふ。 職員組合の協議などして、カード挿入せしのみ。帰り病欠の高橋君に寄る。 9月2日 出勤。電車おそく鈴木氏に寄りて10:30着、二嬢と英語やり、帰り高橋君に寄り一時間おくれて帰る。山木夫人メンスありて軽快となりし由。 9月3日 土曜。薮君手伝して地誌十部やる。西大寺-上六-藤井寺、大江叔母叔父に話し、鹿熊にゆき鉄君に十数年ぶりに会ふ。「帝塚山へ遊びに来たことありし」と。 24:00すぎ帰り1:00ごろ就寝。 9月4日(日) 10:00ごろ康平叔父も来会。写真帖もち、お艶叔母に千五百円借り、田中よりメリケン粉一貫もらひて帰宅。母来会はす。硲君けさ来しと。 コルボオの会へゆく。ゲーテ詩集「新しい恋」二千部来月には出来ると。 下総町へ寄りて帰る。けふ不機嫌。 末吉よりハガキ。「今中英語教師」にと。埜中君より「鶴橋小学校に勤む。詩歌呉れ」と。 9月5日 出勤。昼、桜井浅古の尾西氏来訪。末子嬢ルンゲ(※結核)らし。「田舎も金なくて困る。米買はぬか」と。 高橋君は腎盂炎らしくてあと一週間休む由。夜、羽田へゆきてきけば「土曜の来客旗田氏」と。「某高校の夜学に話して見ん」と。 9月6日 欠勤。悠紀子に千草への手紙かかし、われ埜中氏に詩と歌とを送り、末吉、菅原節子へハガキ。 9月7日 出勤。高杉君にバター頒けてゆけば間に合ひし。研究日貰へることとなりしと。 帰りまた高橋君に寄り「日本敗れたれど」を見るため明後日泊めてもらふこととす。 9月8日 出勤の途、高橋君に寄り「宮本百合子」預る。図書館にて420円にて買ってもらふ。月給十五日と。館長より分類の監督係命じらる。洋書のカード挿入と検閲と地誌十部づつを日課とす。 夜、羽田へゆけば「高橋のこと話して見しも勿体ながり、一本」とのこと。 9月9日 高橋君と「日本敗れたれど」を見、泊めてもらふ。けさ西大寺にて岡本女史に会ふ。「月曜図書館へ来る」と。 9月10日 高橋君十日ぶりにて登館、わが席その隣に移る。はじめ分類の監督との話なりしもけふの話にてはもとの山崎君の位置へゆくこととなりし。 昼飯よばれて帰る。「高橋夫人また身重」と。下総町に寄れば咲耶来をる。「あす来よ」といひおく。 島稔より手紙。芳野清よりハガキ。羽倉啓吉「滋賀師範に口あり」と。 ながためにこのまぬこともせんわれとなりにし大きをとめの力。 9月11日(日) 雨。吉川仁よりハガキ。羽田へゆき「内蒙古諸部落の起源」借る。 午後出て天野忠へゆきしに市にゆきしとて不在。下総町へ寄りて100借り、羽倉にゆけば「滋賀師範は藤枝の口より」と。「近々支社に常詰となる」と。 出て山崎にゆけば金なしといひしが出てより追ひかけて1000貸し呉る。 帰り天野忠まだ店にゐるに下車して話きけば十五日すぎ冊子出来と。ややいやになる。 9月12日 早く家を出すぎて北大路まで歩く。佐藤誠君来りしかば叱りしに朝鮮語辞典の金300円呉る、可笑。民族学研究4号(80)、トルコ語辞典(60)借る。帰り羽田にゆき羽倉のこといふ。 9月13日 雨。電車でアルバレスと一緒となる。傘を安達家で借りてゆく。佐藤君100円わたせしゆゑ40円渡して帳消しとす。 高橋君の説によれば研究日は司書研究員にのみと。服部よりハガキ。「愛大の豊川分校に講師」と。埜中より受取。 9月14日 一時間おくれて出発、行きて仕事なし。中村君にいひて館長に伝へしむ。 9月15日 下痢。月給日とて出勤。9900もらふ。昼食もすすまず、S氏(仙田)と職掌のことにて変。 帰り川崎君に寄る。夫人入浴中。 9月16日 朝、雨。欠勤。下総町にゆきしに父母同居の心なし。父、はじめて京を抱く。「健、千草より便なし」と。(※同母妹の)千草を特に怨むは不快。帰りて羽田にゆく。 帰りて羽田にゆく。「日比野武夫(考へし通り)高利貸」と。「桑原博士もさなりし」と。 末吉より手紙。「関大用に履歴書送れ、今年は断られし」と。夜、リレキ書く。硲君「日曜に来る」と、迷惑。 9月17日 出勤。帰れば吉川幸次郎博士より電話かかり「講演(十月一日)の題しらせ」と。健より「来週上洛相談せん」と。暑し。 夏の日のあつき心を秋山の桔梗の花にいとほしみゐる。 9月18日(日) 母来り、1500プラスとなりしと。硲君来らず。羽田にゆき帰りて昼食、ひるね、15:00天野忠氏にゆきコルボオ2受取る。 入矢君にゆき落花生の畑作りを見、「蒲松齢の浪曼性」との題を吉川先生に伝言たのみ、野田氏にゆけば「桑原先生ハイネ岩波に話して見ん」と。断り天理入信のこといへば笑ふ。 帰って入浴、きのふけふ暑し。 9月19日 出勤。この頃司書室を総裁して忙し。大江叔母へ借金のことわり悠紀子にゆかしむ。「不二」八月号。パイプ。 9月20日 雨、出勤。靴屋にきけば豚皮で1,000円と。帰り養徳社へよれば高田青年の代り増野道則、可笑。下総町へ寄れば「大けふ帰り来し」と。 「千草窮乏。●母了解せし」と。靴たのみて帰る。 9月21日 出勤。この頃殆ど遅刻せず。我乍ら呆れたること也。組合支部会。臨時手当要求に反対一(上野君と)。「出血覚悟ありや」と問ひ、要求するや否やに反対二。 八木嬢、無花果賜ふ。安達家へよりしに山より父母帰らる。帰れば角川よりハイネの校正。八木[総で]264頁。 9月22日 出勤。八木嬢に中村君居残り命ぜしとて断らしむ。不快。 雨にて[足]達家にて傘借る。ハイネの校正を夜半了ふ。 9月23日 秋季皇霊祭。末吉より速達「校長に履歴書わたし見込ありさう」と。「二十三日より五日までの間に来る」と。 午後、新免君に校正を送ること頼みにゆく。帰り羽田に寄れば「西田君世話しくれさうゆゑ履歴書書け」と。 9月24日 土曜。7:44にてゆき佐藤誠に寄り、凌純声とり返す。高橋家に傘返却。杉浦来りしに、会ひさそひしがきかず、中村君悪人なること説明す。金井君と帰り、 中村仙田の悪人を知ることおそかりしを嗤はる。道の子に腹立てて帰宅、明日より当分休むこととす。 9月25日(日) 朝の中、履歴書かき羽田に届く。昼まへ硲君来り、年表と地図見せらる。羽田にゆきしに散髪、またゆけば不在、腹立ちしかど仕方なし。 けふ健康保険の哺育費駄目と送り返し来る。夕方末吉江州の帰りとて寄り「関大ゆっくり待つべし」と。呆然。羽田にゆけば金関丈夫の台湾の話、面白かりし。 9月26日 9:00家を出、京都西大寺寺田町よりバスにのり迂回して桑津にゆき林叔母を訪ね、父の話すれば気の毒がり2000呉れし。阿倍野橋にゆき私立病院に田村春雄を訪ふ。 家へともなはれて泊る。沢田四郎作氏帰りしとて随筆集出す。 9月27日 春雄とともに出、市役所にゆき筒井に会ひしも関高末吉、吹田山本ともに不在。13:00家に帰り昼寝。夜、羽田にゆきしのみ。 9月28日 出勤。10:30より職員組合。図書館支部の弱体につき熱弁をふるふ。明日より定期切れるに付き出勤せずといへば八木嬢家へ帰り金もち来る、哀れなり。 帰り下総町に寄りしに悪しと。帰りて悠紀子に聞き腹立つ。けふ服部、島稔へハガキ。甚幸本を返しに来る。 9月29日 朝、悠紀子と二女と下総町にゆき母に会ふ。不快。 12:00新京阪にて天六の関高(※関西大学付属第一高等学校)にゆき、末吉に計算器わたし3000借る。そのまま帰り天野忠氏に寄り鴎外「還魂録」(10!)買ひ、 俵青芽氏と一寸話して帰宅。夜、健来る。毎月1000位送金可能と。依子鞍馬へ遠足。 9月30日 欠勤。隣組の杉村夫人、市税の申告書もち来る。午後出て吉川幸次郎先生へゆく途中、田村教授に会ふ、養徳社の安藤君の名失念。 吉川先生に平井氏「聊斎遺稿」いただき志異自筆本?を見てのち東方文化にゆき藤枝と話し、東洋史研究室に引返してのち帰る。(途中大槻「言海」を買ふ、40円!) 10月1日 欠勤。12:00まへ家を出、臨川などひやかして「しんしん堂」で喫茶、時間つぶしに困る。平井医師に紹介さる。(内田吟風の斡旋にて寄托せしと)。 神田(※喜一郎)先生「蒲氏(※蒲松齢)の祖は元の般陽路總管、アラビヤ人にてはなきか」と。得我意矣。すみて17:00すぎ。 けふ支那学会長那波(※利貞)先生、寺島翁のこといはる。河野千寿氏よりハガキ。「山沢みきの氏へ十一月頃訪問の斡旋を」と。野間三郎詩を送り返し来る。不快。 10月2日(日) 八木嬢、米二升果物もちて来訪。送りて伏見にゆきしも川崎不在。天野忠に寄りしも「校正まだ出ず」と。 10月3日 出勤。二嬢と英語やる。組合支部会、共産党排撃と反●と●とをかけて文教部要求し来る。委員改選、荒川、金井二氏と吾と当選、可笑。 八木嬢知合の某会長に紹介しくれんとしたるも「明日」といひて帰る。 羽田に寄れば田村博士わがいひしを誤解して養徳社安藤君に手紙かかれし様子。 けふ小高根二郎より桜井へハガキ「四月より宇治へまた転居」と、うれし。 けふ市民税のため「いちれつ」会の給与証明書もらふ。23年1月-12月まで10万円(税1300円)と。 10月4日 出勤。雨。組合支部ともに旧委員留任となり。支持するとの投票を記名で行ふ。 16:30すみ高橋君にゆき球つく。八木嬢大滝氏に紹介され、はじめて道の話きき、21:00金井氏にゆきて泊めてもらふ。「司研部主任となるためなるべく欠勤せざれ」と。三時まで眠られず。 10月5日 金井氏と同道出勤。きのふより木村君不快なり。ゆけば高橋君「昨夜なぜ起さざりし」と怒る。 大浜氏、佐藤君の室の助手として出勤。高橋君に紹介す。「こおろ」同人なりしと。 帰りの車中にて山中嬢「今月限り止めん」と打明く、意外。向川より校正の受取。けふより大谷氏出勤。 10月6日 山中嬢の辞職は結婚のためらし。帰り高橋君により安達氏に挨拶。 大浜氏にゆきて「泊めよ」といひ夜半まで話す(ウィスキーもちゆく)。ややに心ふるるものあり。修養科に入るには未だしとの結論(新井氏より2000借用)。 10月7日 山中嬢欠勤。八木家を訪ね昨夜のこと話しつつともに出勤。眠し。石浜先生来られ「ヤングポエート」の話さる。「来年度開講の関大大学院にゆかぬか」と。 「桑田博士未だ下阪されず」と。中村治光に道で会ふ。 10月8日 山中嬢、結婚にてもなき様なり「十一月末退職とかへし」と。大浜氏、金井君らにて大谷君に家世話すと。大谷君「アルマ・アタより昨年復員」と。帰り羽田に寄れば先生病気と。 木犀の花咲きかほる秋となりかはらぬひとみまたもみつむる。 10月9日(日) 雨。前田直典の訃報「九月十八日死せし」と。あはれ。島稔よりハガキ。 新聞に山本達郎、安南史にて五十万円授賞と。めでたし。次●に小林高四郎、白鳥清二先生の名あり。 羽田へゆけば「博士けふ膀胱炎にて入院」と。新聞には「法隆寺調査の委員長」と発表あり。 小高根二郎より電話にて「明日駄目」と。午後家を出、桑原武夫氏にゆけば家を出られるところにて、ハイネを「アテネ文庫」に話してみんと。「仁井田陞氏、追放のおそれあり」と。 コルボオの会へゆく(依田義賢氏宅)。「二郎を入会せしめよ」といふ。「ゲーテの校正二三日の中に」と。 18:00頃すみて北白川の寺島翁にゆく。「寺島会長を信用せざれ」と。身上話したさうなれど辞去す。 10月10日 島稔にハガキ。平端にて山中嬢に会へば「義兄出直し」と。帰り高橋君に行き[足]達翁に茶賜ひしのち八木家へゆき父君に話きく。幸せなる人なり。 「わに徹」へと話多くさる。(※不詳) 10月11日 24:00まで眠れず。朝3:00より修養科生に起さる。朝また父君と話し、八木嬢とともに登館、眠がりつつ仕事やる。 保田の従弟、八木の松村氏来訪。「名古屋の百貨店に勤む」と。「十六日頃より飛騨白川へゆく」と。 山中君を見舞にゆく。八木君と同車。帰れば小高根、内田吟風より便り、羽田に寄れば「先生小康」と。 10月12日 出勤。山中嬢の義兄の葬儀すみて来る。久しぶりにて大学にゆき中村孝志氏に会へば「江州の松村一雄先生二三日手伝ひに来てくれぬかと所々ききをられし」よし。 姫岡氏にレヴィレート(※レビラト婚の習俗)の説明なす。帰り高橋君に寄り鈴木氏と会ふ。西窪氏にゆき夕食たまひ妻への贈物賜はる。 坂口允男君に寄りて聞けば「堀内民一氏桜井高校へ転任」と。保田へゆき父君、弟君と種々話す「よく考へよ」とのことなり。 10月13日 まほ子(※保田與重郎長女)我をおぼえゐたり。もよら(※もゆら同次女)大きくなれり。父君弟君と又話す。 そののち10:05にのり(土産にそーめん賜はる)登館すれば組合の会。午後二時より歓迎会。大谷の俘虜生活談面白かりし。 けふ八木嬢よりスリッパ造ってもらふ。眠し。帰れば菅原節子より「郡氏と旨くゆきし」と。「岡田志紀夫人亡くなられし」と。気の毒。 10月14日 出勤。帰り大浜氏を誘ひ(※天理教につき)いろいろ話せしが通ぜず。天理駅にて金井君に会ひアパートへゆく。夫人を帰し自炊なり。 待つ間酒井先生を問へば夕食に酒出さる。全田との間柄話し、恋愛談話したる「ゆう子ちゃん怒りしは戦災に一物も送りたまはざりしゆゑ」と。 「隈本敏子●佐々木喜一の義弟に家かたられし」と。 風呂へ入り話して二時床につきしも徹夜不眠。 10月15日 起きて金井君の炊きしこわき飯食ひ弁当つめてもらひて出勤。神経たちて久しぶりに怒る。 けふ石の上神宮の祭。俸給出る。山中嬢と同車せしに上田嘉俊もあり「十三日結婚せし」と。ふしぎなることかな。 うつくしき眼に見いる草の花いつまでつづく秋の日和ぞ。 けふ昼、米田君来り、「病気のため一年おくれアルバイトに中学へゆく」と。なつかしきもふしぎ。 10月16日(日) 午後、天野忠氏へゆけばゲーテ校正あり、下総町にゆきてすませ渡す(城小碓氏と会ふ)。 帰りて羽田にゆきいろいろ話す。散髪70円。オヤヂわが服を見て「局の人か」と。城君は協和服なつかしと、人さまざま。 善海より羽田へと連名の便り「毎日新聞よりの出版にて生活のめどつきし」と。「肺浸潤にてややしばし休みゐし」と。前田直典君母堂へくやみの手紙。 10月17日 出勤。仕事はかどる様なれど呼ばれて十九、二十日と中学校の図書整理と。中村君二日のみ勤務のこととなると。小野勝年氏来り、山西省の地誌見る。 15:00よりソフトボール。明日8:00礼拝とのことに八木嬢に宿舎たのみ山中嬢と下れば退職の理由結婚と。 鈴木氏にゆき夕食たまひ19:00東詰所にゆきとめてもらふ。 けふ角川源義氏へ一万円の前借たのむ。 さびしげに四つ葉のクローバ探ねゐしひとをあはれむわがみにあらねど。 とつぐ日の近くしあればつとめやめ衣(きぬ)縫はんとぞけふあかしける。 友らみなとつぎゆく日にほがらかに笑めるをとめをかなしむわれか。 10月18日 開館十九周年とて8:00本館前に集合(※写真リンクあり)、8:30登館、吉村正一郎の講演に「教養とは人間本来の性質を発揮すること」と、不思議。 昼飯たうべ酒のみ、吉村仁に会へば「皮肉をやめよ」と。山中嬢「奈良教内にて結婚す」と。 佐藤誠に会ひウイグル語せかす。夕方小雨。明日は中学へ整理にゆかん。角川への借金一万円いかがならん。 10月19日 中学校へゆき整理二千冊、昼食を小幡信易君母上より賜ふ。「米国へよびよせられん」と。 14:00すみて登館、薄茶のみ高橋君に寄りしのち田原本の原君へゆけば「ヴェニスの商人」の舞台稽古と。21:00までつきあはされ帰りて就寝。 10月20日 中学校へ着きしは9:30、整理千五百冊。館にかへりて報告す。帰り山中嬢母上に会ひ弔みと祝ひといふ。村上君に会ひ短期大学のこといひ、帰れば服部より速達にて 「(※愛知大学)短期大学に名貸せ」と。不思議。羽田にゆきて相談し貸すこととす。 10月21日 出勤の途、館長宅によれば在宅。いへば「奥村学監に話して見ん」と。昼すぎゆきて話し書類作らさる。教授としてなり。著書三冊論文五とす。 高橋君に服部に寄ることをすすめ承諾せしむ。 石浜先生に江實の源流(※『蒙古源流』)お貸しす。明後日桑田博士の講演と。服部に電報にて断る。山中嬢「十二月まで勤務せんか」と。帰れば島稔よりハガキ。 10月22日 出勤。高橋君けふより東上。あす静安学社の会にゆかんと思ひしも場所不明にてとりやめ、羽田に寄れば帰らず。 秋山のとりどりの花ながめつつすぎしし時はまためぐり来ぬ。 10月23日(日) 朝、羽田にゆき話す。史、運動会。午後人文科学の東洋史談話会にゆく。日野開三郎、西島定生、須藤氏など来あり、民族学研究二冊買ひて引上ぐ。 夜、松村一雄先生に手紙書く。服部正己、原正朝へハガキ。 10月24日 7:15に乗りおくれて行けば寺島会長に逢ふ。外山軍治氏来り、館長に紹介せんとすれば外務省の松田信隆氏(高沢の長女みす子の夫)あり。案内さされて午後をすごす。「二十七日再来」と。 「不二」来り、保田との間にひびある如し。 10月25日 出勤の途、佐藤誠君に会ふ。業務会によばれ中村君の大学行発表、仕事の引次ぎ金井・木村の二人にてやり、我は名のみの主任として真柱に申請すと。 すみて「ビブリア」のこと。帰り山中嬢にきけば「退職申出でしが館長とめざりし」と。 10月26日 天理教秋季大祭、三年目にはじめて参列。すみて金井君と登館、「神経衰弱、実行力なし」とやっつけられる。 すみて藤井寺にゆき桑田博士を訪へば不在。明朝再訪と申上げ大江に鞄置きて肥下にゆき夕食、姪を貰ひ玩具多く買ひたり。不況と。 帰りの電車にて中村治光と遇ひビールのませる。「軍需省の航空機生産の係なりし」と。帰りて大江叔母と4:00まで寝床にて話す。(叔父北海道へ出張中) 10月27日 9:30朝食、桑田先生にゆきしに出られしところと。駅まで駈けゆけど見えず。山岡夫人に聞けば「教授会、明日帰京(七月頃西下と)」と。「予算にて減員位、見込なし」と。 帰りて大江叔母にいへば「やめよ」と。 田中昌三家より下駄三ケもらひ、大鉄地下鉄、市電にて関大高校、末吉「昨日速達せし」と。校長に会ふ。感じよろし。「英語の教師」にと。 雨降り出す。帰りて昼寝せんとせしが駄目。けふ羽田の通訳にてグルーカ教授の講演なりしが行けず。(大鉄にて栢木君と同車、保田と不二のこといふ) 10月28日 山中嬢と同車、きけば「大浜氏のおしゃべり?八木嬢も知りをる」と。 中学への出張仙田氏に云はれしが拒む。館長に将来のこといへば「御随意にただし今の通勤御気の毒」と。 帰り二嬢と駅まで。羽田に寄り佐藤君のプリントわたし阪大のこといへば肯定。 10月29日 出勤。帰り大浜氏に会ひて「神経衰弱には修養科よし」といはれくさる。庄野上田二君に会ふ。(※小高根)二郎に行かんと予定せしが雨降り出してとりやむ。 10月30日(日) 朝、羽田を訪へば「博士邸」と。ゆきて話きけば「阪大駄目となりしことみんな知りをる」と。「桑原氏どこやらにハイネ世話し呉れし」と。盗難なりしこと知らずして見舞はざりし。 午後、宇治の二郎訪へば不在。川崎も不在、下総町へゆきて父母に会へば天理教精神なり。千草の手紙来りをり、哀れ。 10月31日 出勤。中村幸彦の転任のこと館長いふ。休憩時間に会合ささんとせしとて一もめ。高橋君帰来、服部夫人われをあはれみゐし由「角川不況」と。 入矢君へ本代7000もたされて行けば上京中、帰れば「くれなゐ」来をり。 けふ新井女史より2000借用。800にてボックス西田夫人より。 11月1日 出勤。鈴木氏より本返してもらふ。けふ史は二見浦へゆくため昨夜より下総町泊り。 帰りに八木嬢にたのみて大浜君へゆく。夕食後高橋君にゆけば「鈴木氏へ」と。呼びにゆき1:00まで話す。館長、下條氏のことにてわが「政治的」を咎めゐしと。 愛知大学の件(※教授として名を貸す件)にても邪推しゐると。1:00やっと大浜君にて泊めてもらふ。 11月2日 11:00すぎ登館、休日出勤と休憩時勤務とのことにて中村幸彦声をふるはしてものいふ。投票の結果は反対二票のみ。代議員選挙にてもわが票3のみ。負けじ魂湧く。 早引して宇治へゆき(大久保よりバス5:15最終)今●なる(※小高根)二郎を訪ねてともにコルボオの会にゆく。「ゲーテ詩集」出来上り50部もらふ。21:00まへ退席。 11月3日 文化の日と。9:00伏見、桃山御陵参拝。陵前のお賽銭100に号泣す。天理を去るの心いよいよ決す。 淀野にゆきしに不在。「ゲーテ詩集」一冊置く。帰れば留守中、硲晃君来り、地図出来しを三部置きゆきしと。岡部克也よりハガキ。「天王寺高校に就職」と。 岡本和子。北支の同隊の笹倉掬生伍長。夕べ羽田にゆきて話せば「良し」と。 くやしさにおほみささぎにこゑあげて泣きしをのこをきみは忘れじ。 11月4日 曝書始まる。7:41にてゆき郡山にて下車、岡本女史を訪ひゲーテと「くれなゐ」とを与ふ。 行きて入江と組み、夕、中学校の慰労宴に招かれしが行かず、雨の中を帰る。 けふ天理時報社高田君来り、詩を注文す(十日までと)、こはふしぎ。 島稔よりハガキ。「西川を訪ねし」と。 (ゲーテを富永、高橋、図書館、八木、山中書史に与ふ。) 11月5日 7:41にてゆく。中村君と組にて曝書。入矢君に会ふ。きのふの中学校の寿司、高橋君もち来しを子供らに与ふ。 明日欠勤とほぼ決めて帰れば服部よりハガキ。「愛大の漢文教授に」と。けふ末吉と硲晃君とにハガキ。 11月6日(日) 欠勤して履歴書かき速達す。埜中清市に「ゲーテ詩集」と「羊飼ひ」送る。 羽田にゆけば冷淡、「八日に天理へ来る」と。野田又夫にゆけば桑原氏、河出に世話し呉れたまひしと。「デカルト エリザベトへの手紙」もらふ。 桑原氏にゆけば「三好達治氏と桂へ」と。夜、柊屋に電話し三好氏に「明日会ひたし」といふ(けふ天野忠氏の所にて「コルボオ」の詩人たちに会ふ。詩わたす)。 11月7日 7:15にのる。 りんだうの花つむ乙女いつくしむ秋の光のそそぐひるすぎ。 吉田病院の青木院長と話す。柊屋に三好氏を訪ね四季の話す。「伊東の詩集創元社より出して病気見舞とせん」と。 帰りて寝衣きし処へ保田より電話、新町丸太町上ル吉野書房へゆき社長前田隆一、栢木(※喜一)、奥西(※保、幸)兄弟、高鳥(※賢司)君と話す。 文芸辞典保田と合著して出せと。23:00高鳥君と歩きて帰る。 前田直典母堂より四十九日すみしと。 11月8日 7:41にて出勤。大学の北村事務長来り、大学教授の審査用履歴書かけと。拒めば館長呼びて理由きく。策動云々をいへば「高橋君の発言にて我は知らず」 と。再び奥村学監に話さしめしのち我自ら断りにゆく。中村君なぐらんといひてみなをこはがらす。 羽田12:00すぎ来り、本を見、館長と話す。あとにて「あの下でよく三年辛抱した!」と。帰りビールのまさる。 11月9日 出勤。雨。中村幸彦、待遇問題で煽動せんとし、自ら旨くゆきしことと暴露す。をかし。外に事なし。 11月10日 8:15に乗り郡山に降り、岡本和子女史に寄り、ゆきて昼まへに仕事すむ。大浜、佐藤誠の諸氏と話し、来りし岡本女史と出れば時報社の高田君に会ひ、詩一篇わたす。 帰り三好氏に行かんとした大西卯一郎氏にゆき電話せしかど不明、帰る。 佐藤君にきけば「天理大学にても詩人なればと案じゐる」由。羽倉君より電話「市営住宅の用紙とりたり」と。 11月11日 8:00家を出て下総町に寄れば母不在。父、大阪へゆくと。城平叔父に会ひしが薄情と。 時事通信にゆき羽倉君に会ひ用紙もらひてのち奈良電京阪、関目にゆけば叔母の話かなし。「富美子大江に告げにゆきし」と。1000借りて帰る。 前川佐美雄よりハガキ、「夫人腎臓摘出」と。 11月12日 休暇、雨。9:00家を出、市役所にゆき川勝常次郎氏を訪ぬれば欠勤。鈴木係長は府庁へと。手続すませ(440号)時事通信社にゆけば羽倉外出。 置き手紙しレーヨンにゆけば小高根二郎大阪出張。 帰りて下総町にゆき父と話し、天野忠に寄りて帰る。 11月13日(日) 雨。羽田にゆきて山崎君の抜刷わたし、桑原氏によれば「現代フランス文学の諸相」たまふ。ともに出て河出の件、就職の件たのむ。コルボオの会にゆけば二郎来らず。 17:30出て北園町の川勝氏訪ぬれば夫人病気「(※市営住宅の件)引受けられねど努力して見ん」と。タイにゐし時の話さる。久々にての話とて喜ばれしはうれし。 11月14日 出勤。一時間早引して宇治の二郎にゆけば「花屋敷にあり」と。待ち受けて話す。兄の(※共産党)入党も知らざりし。「月下の一群」よみて睡る。 11月15日 9:30出て(二郎欠勤。)大久保までバス、電車にて朝帰りの大浜君に会ふ。1500円にて飯までつく由。司書研究部主任発表ありしと。ツベルクリン反応の注射受く。 山中嬢退職公表されし模様。文芸年鑑に返事。 帰れば原君より「白鳥庫吉先生『日本語の系統』見つかりし」と。松村一雄先生より「日曜にでも来よ」と。くれなゐ発行所。 末吉栄三より「十四日教務主任発令となればすぐ運動する」と。羽倉君より電話「番号きき来りし」と。 11月16日 出勤。大浜君「瀛涯日記」返し呉る。16:52の汽車にて桜井へゆく。尾西末子、富松初子に会ふ。尾西家農繁と。西窪夫人に会ひ米五升分けてもらひ(200×5)、坂口允男にゆきて喫茶。 20:30辻研にゆきとめよといひ、ともに銭湯にゆきアイヘンドルフのこといひたり。「帝塚山学院に小野十三郎、長沖一、杉山平一ら勤む」と。 11月17日 八木西口より乗り10:00図書館着まで米五升の重さに困却す。ゆきて不快。他に事なし。 岡本和子嬢より手紙。恋人は芝君に非る様子。(けふ松井君来り、「元服」の原稿のこといひたれば断る)。 ツベルクリン反応陰性と、ふしぎ。税金9190円と。昨年の十倍。 11月18日 出勤。私立大学図書館会に出ささる。つまらず。 けふより冬オーバー着しも寒し。甚幸、米をとりに来ず。 11月19日 研究日として行かず。井倉にゆけば多忙「住宅受け合へず」と。 西大寺にて保田に会ひ、ともに祇園十二段屋にて棟方志功に会ひ、吉野書房に引返し滋賀大学長への紹介前田社長に書いてもらひ帰宅。 み冬さびさむき山べにゐしときもふたりしあればこごへを知らず。 11月20日(日) 雨。11:00家を出て大津の松村先生を訪ぬ。大津師範はよせ、他に考へんと。御一緒に出て京都へ帰り、三條にてお別れし彙文堂。羽田。 11月21日 出勤。暖し。 うきことはあまたあれども笑まひつつ通るひとびとならひてあらん。 島稔より返歌。河野千寿嫗より「風邪にて来られず」と。 11月22日 出勤。中学校へみな出張。外山軍治君来り、「どこかへ世話せん」と。「中村兄弟とはかねてより旧識、ビール飲まんといはれしも拒みし」と。 帰り田原本へゆき原君の帰り待ちてとまる。白鳥庫吉先生「日本語の系統」十幾年ぶりに返してもらふ。 11月23日 (勤労感謝の日と)7:00まへともに出、雨の中を帰る。山木夫人また狂乱と。 夜、外山軍治氏にいはれし履歴書かきしのみ。 たえず振る雨に心もむすぼれてきみがまなこやうるめると見る。 11月24日 出勤。佐藤誠より忠告の手紙もらふ。前川佐美雄へことわりのハガキ。 11月25日 出勤。11:00石浜先生来られ「ビブリア」の原稿のこといへばなしと。辞意申上げしに可否なし。 米二升もちて帰る。杉森久英より「河出、ハイネだめ」と。「コルボオの会四月、大西氏宅にて」と。 11月26日 研究日なるものを貰ひ、10:00家を出、上京区役所へゆけば税金は廈屋税のため高しと。吉野書房へゆけば「小説今月中に呉れよ」と。前田氏「けふ釘本久春督学官に会ふゆゑ話さん」と。 夕方桑原武夫氏に寄れば「江州堅田へ行きし」と。 おろかなるわが身とおもひきみに会ひ力つくごとおぼゆるわれか。 11月27日(日) 末吉来るかと思ひしが来ず。羽田へゆき末吉にハガキ書く。「老兵の記」なるもの書きつついやになる。 11月28日 7:15に乗り出勤。時報社に電話かければ原稿料くれる様子なりしに来ず。清水文雄、広島文理大の生徒つれて二日に来り、東詰所に宿泊と。堀内民一よりまた原稿くれ。 天理大学より挨拶。外山軍治より履歴書受取りしと。 11月29日 出勤の途、道及社によればけふ出ずと。押せばわたすこととなる。 山中嬢の送別会ひるまへにあり。午後清水文雄より手紙。三日来観と。道及社の1000(-税150)受取り高橋君に寄りて帰る。 史とバスにて会ふ。父より手紙にて林叔母に会ひ、金(※克己より云はれた窮乏)のこといはれ赤面せしと。 11月30日 欠勤。「老兵の記録」かきつづけ29枚となる。午後「東●●●」彙文堂へもちゆけば二千円と。吉野書房へゆけば無人(高鳥君、清水方と)。 下総町にゆけば祖母のみ。リアル書房(※天野忠)に寄りて帰る。 12月1日 朝、高鳥君を起して聞けば「保田二日か三日上洛」と。「原稿まだ吉野書房にあり」と。 駅前三條詰所にゆけば清水君出しあと、帰り寄ることとし天理にゆけば服部(※正己)来る。「稿料とりに来し」と。「愛大せかねば行かず」といふ。 けふゆきかへりともに奥村学監と一緒となりし。管長宅へ沢英三氏の本見にゆく。「150冊にて28万円といふ」と。無茶な値なり。 一時間早く京都着、清水君を訪ねしに半時間して帰り来る。「蓮田善明はジョホールバールで自決」と。半日となりゐたり。 12月2日 出勤の途、田中甚幸とともになる。霧深し。ゆけばすぐ幹部会。ばからし。「貴重書目録を二十周年記念にやるゆゑ計画せよ」と。 外山軍治君来り履歴書の書方の咎めし著書目録を書かす。帰り浪高の中川君(独語)に会へば、阪大の宇佐美氏(助教授?八高出)を案内しあり 「(※田中克己は)阪大ダメになりしや」と問はる[と]。 帰り吉野書房へゆけば保田あり。清水君迎へにゆかしめ22:00まで話し、帰りしあと22:30高鳥君の自転車の尻にのせてもらへば巡査に咎めらる。 藤枝(※晃)より電話「日曜の10:00に彦根女高(※彦根高等女学校:滋賀県立短期大学の前身)の校長来訪と。都合しらせ」と。 12月3日 早起きして7:15に間に合せれば清水氏一行発車まぎはに来る。館長以下懇切に案内したり。それにて藤枝の電話忘れ帰り東方文化にゆけば上野實朗(十二年卒業と)君のビルマの話。 すみて篠田(※統)大阪学芸大学教授に紹介され、彦根女高の話承る。「来年四月」とのことにてがっかり。明日膳所までゆくこととす。 帰り羽田にいへば「関大高校せかすがよからん」と。喜多村先生の宅にお電話し、西田夫人に身の上と税金のこといふ。不快なる応答なりし。 12月4日(日) 8:00出て京都駅へゆけば汽車なく三條へ引返し京津電車にて膳所の彦根女学校長喜多村氏を訪問、湯川秀樹と同級の動物卒業。富永よりずっと感じよし。 「四月より来てもらふことはほぼ確実」と。 松村一雄氏に寄り「ほぼ確実の程度たしかめてくだされ」と頼む。大西卯一郎宅のコルボオの会に出る。小高根二郎来らず。 硲君を家より呼びよせ聞けば「全田の純子と見合せし」と。「止めよ」といへば諾す。 17:00出て帰る。末吉よりのハガキにて「まだきまらず」と。「くれなゐ」来る。 12月5日 7:15にて出勤。午後ボーナスとして(5992-税1198)4794もらふ。大学その他との差につき意見あり、面白し。 帰り養徳社にゆけば「天理に評論くれよ」と松井君。朝日新聞より人事カード。 12月6日 西大寺にて畠中君といっしょになり聞けば「大学より図書館への金一封は一万円」と。「図書館執行委員弱くて困る」といふ。登館、高橋君にいふ。 佐藤誠、中村幸彦のこといふ。小野勝年君来館。 執行委員会へ13:30より出て服部氏を詰問。そのあとで高橋君責めらるるを見し。小野君と帰る、10号1級俸と。清水文雄、佐々木邦彦より便り。 12月7日 9:00京都発、11:00ゆけば支部会。青年をいためつけ、やっと協力的ならしむ。すみしは14:30けふ「くれなゐ」へ歌六首送る。 12月8日 研究日として欠勤。外山氏より「大阪へ早くゆけ」と。午後羽田へ寄り東方文化の藤枝と話し東洋史研究の会に出る。宮崎(※市定)、佐伯(※富)両先生の経済史の話、 すみて羽田と出、電車にて史の担任中島先生と会ふ。向ふ顔を覚えてゐられしに恐縮。川勝氏を訪ねしも帰らず、同窓会名簿置きて帰る。 佐々木氏に寄りしに不帰。帰れば硲君より「西太后に侍して」の刊年(藤枝より貰ひて帰りし)。 12月9日 7:15に乗りおくれ西ノ京下車、佐藤誠にゆけば薄茶のます。中村幸彦「羽田は我党なれど田中は然らず」といひし由。ゆけば11:30「ビブリア」のこと云はれしも相手にせず。 貴重書目録の会すみて真柱来り「ゲーテ詩集」二冊嬢ちゃんにとわたす。石浜先生、朝の電車にても一緒となり天理やめること申上げしに心配さる。小野勝年のことも頼みたり。 吉田ふじ子氏「高梨姓となり幸福」と八木嬢へたよりあり。帰り腹をへらして直行す。伊藤賀祐より「明日来い」と電報。 12月10日 出勤途中、東京より帰りの森忠巳氏に会ふ。鈴木治氏に寄りて行く。 をさな子のごとき眼をしておちてゆく夕日の丘によりそひてゐし。 布施市菱屋西106といふ伊藤賀祐(※のち岐阜大学)のところを探しまはってゆけば帰らず。 桜井にゆきて坂口允男を訪へば帰らず。保田にゆき文学辞典、名著解題の相談す。4:00まで話す。 12月11日(日) 保田家を出て駅にゆけば8:50。あはててゆきしに16:00まで待たさる。仙田「皮肉をやめよ」といふ。高橋君とおしゃべり。 来りし委員中に麓保孝氏(支那哲、昭6年天一商(※天王寺第一商業)教授)特に案内す。 12月12日 疲れて9:41にのり郡山下車。岡本女史に「祖国」の詩歌のこといふ。新井女史より2000借用。帰り山中女史に会ふ。高橋夫人今月中に出産と。内山完造「そんへえ・おおへえ」買ふ。 12月13日 10:00出て散髪。市役所にて昼食。筒井の顔見しのみにて府庁にゆけば山川課長不在。大手前高校の坪井を訪ひ、ともにゆきしも欠勤らしく坪井にたのみて出、 関大高校にゆけば末吉帰りしあと。山本治雄にゆけば不在、吉野書房に奥西兄(※保)を訪ひて帰宅。「くれなゐ」より「原稿受取りし」と。 12月14日 出勤。電車で川崎と同様「不景気」と。ボーナス1350もらふ。佐藤誠君、右上に移りしと。服部氏より秘密漏洩といはれしとて我応援にゆかんといひしも呼ばず。 帰り養徳社に寄る。けふ都新聞より原稿依頼(二十五日まで)と。高木惣吉「太平洋海戦史」買ふ。 12月15日 ひるまへ羽田にゆき、午後京大東洋史研究室に「東洋史研究」の金払ひにゆく。 桑原武夫氏を訪ねしに不在。東方文化にゆけば藤枝あり「神田(※喜一郎)先生、名大の漢文の後任に我を推したまひ、一月から」と。「ただし六ヶ月間無給と思へ」と。 天野忠に寄り(川勝氏へゆく途中)家までゆけば夕食たまひ「ゲーテ」十冊貸し呉る。 川勝氏にゆけば(※市営住宅の件)駄目らし。帰り羽田にゆきしに入湯。帰れば「お幸伯母けふ死にたまひし」と。 12月16日 出勤。正午、内田吟風氏来る。司書会。いままでの出たらめを痛罵す。佐藤誠君、服部大人と喧嘩と。帰り内田氏と同行。「くれなゐ」へ150送金。岡本女史300送金せしと。 12月17日 出勤。支那地名の日本よみ表こさへて仙田に渡せしに有耶無耶。八木嬢の友、春日のおん祭見に来しとて佐藤誠君案内役「われ天理大の史学にもそねまれし」と。 生駒山ふもとのみちにゆきなづみふたりゐし日はゆめとなれかし。 下総町に寄れば母のみ。林叔母(※妹)に父一万円借用申込みことわられしと。 末吉より(※関大高校就職の件は)四月と。中野英夫。坪井明より「二十一日来よ」と。 12月18日(日) 一日臥床。旗田巍氏よりハガキ「池内先生歌作られし」と。「和田先生わが事を心配しをられる」と。父、不意に来る、珍し。 12月19日 忘年会不快とて欠勤。「若き俳人への手紙」を「天狼」のため書く。二百字二十枚。羽田にゆく。西田夫人汚しとて悪口、ゆき子叱る。夜、履歴書二枚書く。 12月20日 出勤。忘年会の肉と米呉る、珍し。「月下の一群」八木嬢に500で買はせ、佐藤誠の新居へゆく。小畑君の母上に会ふ。明日私鉄ストと。 いその上冬の木立を夕まぐれふたりし行けど会ふひともなし。 12月21日 私鉄ストと。9:30の省線にて大阪にゆき田村春雄に会ひ坪井の学校にて昼飯食ひ、山川課長に会ふ。「探して見ん」と。スト解除のことに美術館にゆくとて坪井とゆきし途、 上六にて降り天理にゆき月給もらふ。年末調整とて三百円多く引かる。 佐藤誠「ウイグル語の本もちて二十五日上洛」と。二十三日坐り込みにてボーナス一月分とらんと。帰れば伊藤賀祐より返本。 12月22日 9:00家を出て西大寺にゆけば[米田君]に会ひ、西にゆき松岡神社へ参り鶴橋、天王寺、花園町、津守●へゆく。19:00ともに出てアベノ橋、[米田君の親戚]に泊る。 新しき生を生きんとちかひつつ夜ふけぬれど疲れしらずも。 12月23日 8:00ともに出、別れて大鉄、松原の肥下にゆきコギト詩集一冊もらふ。 「凶作にて供出すれば売る米なし」と。「全田の純子の縁談心配す」と。 大江にゆけば叔母胃病にて起きしところと。パン呼ばれ八尾市太田まで歩き鷲教礼を訪ぬれば学校と。ゆけば出張。校長と話し、 伝言たのみ近鉄八尾駅まで一里歩き長瀬の伊藤賀祐にゆけばここも留守。(※河内)小阪より乗車、西大寺を経て帰る。 昭和24年12月24日~昭和24年12月31日 25.5cm×18.1cm 横掛ノートに横書き p3 12月24日 午後まで昼寝。15:00ごろ羽田の亨二君呼びに来り「旗田(※巍)氏来訪」と。ゆけば夫人もともにあり、北京以来満四年なり。羽田の帰宅までお相手つとむ。悠紀子も来って挨拶す。 羽田帰りて(※写真はこのときか。)夕食よばれやや話せば吉野書房より電話。ゆけば保田、前田氏ら以下あり。『祖国』正月号出来上りしを見る。 24:00近くまでゐて徒歩にて帰り不審訊問に会ふ。帰りて徹夜。「老兵の記録」(2)を書きて中途にて擱筆。 12月25日(日) よべ不眠。佐藤誠君来るまでにと「老兵の記録」つづけ29枚とし、昼食終へし直後、同君来訪。 「ボーナス一ヶ月分28日頃出る」との高橋重臣君の手紙もち来る。ともに出て羽田君へゆく途中、亨先生へゆきたまふ神田喜一郎先生に会ふ。 羽田でやや話し、われのみ丸太町の吉野書房へゆけば無人!よべ置きし鞄とり原稿机上に置き放して帰る。「旗田氏、百瀬(※弘)氏の代りに神戸大学へとの話あり」と羽田の話。 12月26日 終日家居。15:00硲晃君来る「全田純子ことわりし」と。「東方史研究」の会費200円預る。蜜柑一かご賜ふ。夕食すみて帰る。 12月27日 9:00家を出、12:00天理着。養徳社に寄れば松井君不在。吉岡君より『陽気』正月号もらふ。高橋君にゆきて昼食する中、佐藤誠君来会す。 「高橋君三重大へ図書館指導にゆき帰れば館長東京へゆきゐし」と、可笑。「中村われに虚心」と、可怪。 図書館へゆく途、八木嬢とゆき合せ『陽気』父君へ托す。16:00、1月分11984-税2396=9588もらひ高橋君の分とどけ、また養徳社に寄りて帰る。 小宮義孝『城壁』買ふ。 わだのはら越えゆくごときこころもてなれと別れぬ青き冬空。 松本善海よりの『世界の歴史Ⅲ』羽田とどけくれたり。 12月28日 悠紀子、三女をつれて買物。羽織980、弓子ズボン400、史ズボン600。 われ14:00出て東方文化に寄り外山軍治にゆく。餅つきをり「山川課長、北野高校へ入れんといひし」と。「神田先生の名大(※への就職口利き)も外山氏の口より」と。 「但し1月からは駄目ならん」と。 野田又夫にゆけば下阪。リアル書房に『月下の一群』の代500払ひ「ヴァン・デ・ヴェルデ第3部(※Van De Velde『完全なる結婚』著者)」(130)買ふ。 西田夫人にお歳暮500もちゆけば喜ぶ。「くれなゐ」3号来る。 12月29日 なれにこふ心かはらずもみぢする逢坂山をこえてわがゆく。 さざなみのしがのみづうみ波たたずくもれるを見てなれをこほしむ。 12:00八木嬢来訪。餅あまたと子らへのお年玉とをもち来り、子らよろこぶ。16:00送り出す。 下総町にゆけば大あり。「角川へゆきて見よ」といふ。井上靖「人間は好かねど三好以上の日本一の詩人」とわがことをいふよし。19:00ともに出て帰る。 (「千草明日上洛」と。『恋愛名歌集』葉巻2本とかへさす)。都新聞に「京の一年」を書く、400字也。 けふ悠紀子、羽田博士夫人にお歳暮もちゆけば「(※大家の)西田家、近ごろは何も云はぬゆゑ、いましばし(※退去の件は)よからん」と云はれし由。 瀧口春男君より「何か書け」と。(けふ14:00ごろ里井、佐藤の二君、羽田博士訪問の帰り寄りしかど上らず。田村春雄へ「三日行く」とハガキ出す。) 12月30日 母10:00ごろ来る。11:00再来、怒りて帰る。千草今夜来ると思ひて哀れなり。 午後羽田にゆく。「ボーナス5000位」と。旗田氏より池内先生の歌2首見せらる。和田先生、旗田氏に「田中の業績なし」といひをられし由。旗田、埜中、 松本善海へハガキ。都新聞へ原稿送る。 12月31日 雨。午後、下総町へ史やる。やがて千草をつれて帰り来る。千草土産あまたくれ、聞けば「内職もやり陽生(※夫)の方もまあまあ」と、安心。 和田、池内両先生へ手紙。和田先生へは「新制高校へゆかんか」との相談なり。『近江吟』6首作ってみる。 田中克己日記 1950 【昭和25年】  昭和25年は転職の話がやうやく実を結び、詩人は新しい職場で新年度を迎へます。  まずは碩学神田喜一郎先生からの名古屋大学へのお誘ひの話が具体化します。年末に藤枝晃氏より仄聞した情報が年明け早々、 神田先生直々にもたらされるのですが、当初1月からといふのが4月からとわかり落胆、 それならばすでに責任者との面会を果たし太鼓判を押されてゐた滋賀県の新設短大への話を優先しようと心決めします。両者とも藤枝晃氏からの情報でした。  知合ひの誰もが名古屋大学へゆくことを推し、名大の先生達も学内に存在する“戦争詩人”の就任に反対しさうな新村猛氏ら左翼系同僚を説得するために、 保田與重郎氏一人を悪者にした説得工作を試みてくれるなど、全般に好意的ではあったのですが、さうした善意も『祖国』同人と契る詩人にとっては固より本意ではなかった筈ですし、 加へて不発に終った大阪大学での苦い経験も脳裏を過ったのでありましょう。詳しくは書いてゐないですが、結局さきにお声が掛かり、自分の“獲得”を早々と新聞に報じてくれた滋賀県立短大からの招聘を有難くお受けするといふ、 この詩人ならではの義理堅い選択によって田中家は最大の経済危機から脱出を図ることになります。(名古屋大学へは5年後、入矢義高氏が入ることになります。)  暮らし向きにつかの間の安息を得る一方で、文学的には再スタートを切った前年に続いて自ら展望を開いてゆく年になります。 すなはち田中克己が拠点を彦根に移すことによって長浜から京都へ向かふ東海道沿線上に住まふ詩人たち、井上多喜三郎(近江八幡)、 小林英俊(彦根正法寺町、円満寺住職)、武田豊(長浜)を中心に、滋賀県の詩人たちが俄然活性化の様相を帯び、 京都での「コルボウ詩話会」にひき続いて「近江詩人会」が結成されることになるのです。  さきに述べたやうに保田與重郎は雑誌「祖国」で活動を再開、刊行元の吉野書房には田中克己も足繁く通ひ、北海道からはるばる大和旅行に招かれた浅野晃とも邂逅してゐます。 保田與重郎をはじめ「コギト」同人の面々(大阪高校OB)を排斥しない、地元関西ならではの土地柄にも助けられたといへるでしょう。周りには新しく岩崎昭弥、藤野一雄といった若い後輩詩人も現れます。 主治医でもあった河村純一氏らとともに最晩年まで親交を保った人々との縁は、湖畔で暮らしたこの一年間につくられました  しかしながら関西圏の東端に位置する彦根での生活には何かと不如意のこと多く、学問をする上で(もちろん愛人と会ふ為にも!)、 なるべく京都の近郊で暮らしたいと希ひは強かったやうであり、年末にふたたび帝塚山学院大学への再転任の打診があると早や気持は傾いてしまひます。 天理図書館の場合とは異なり、関西大学付属高校との掛け持ちとはいへ、公立大学の職場環境はもちろん劣悪といふ訳ではなく、 折角招聘して下さった関係者の期待を裏切り去ってゆく訳ですから、辞めるにもお世話になった恩人への配慮と説得は欠かせません。 当然作ったばかりの詩人会でも後進から慰留を懇願されますが、土地に根付いてゐない人間を引き留めておくだけの理由がみつからなければどうしようもありません。  こののちも転任理由の第一に「北陸の雪の寒さ」を挙げ、寒がりの詩人であったにせよ、幾ばくかの後ろめたさもあったのではないでしょうか。 昭和25年1月1日~昭和25年12月31日 25.5cm×18.1cm 横掛ノート(文部省選定教育ノート大学高専用)に横書き (冒頭8p学生が使ひさしたノートを使用) ノート   田中家系図 1月1日(日) 終日臥床。餅食ふ。神田(※喜一郎)、喜多村(※:彦根女学校校長)、松村(※一雄:滋賀県)、石浜(※純太郎)諸先生へ賀状。 午後ひるね中、賀状来る。田村春雄、木村繁喜、鹿熊鉄、大江喜代造、池田道夫、小川浩、坂口允男、埜中清市と8枚。大江叔父へ返事「元日に年賀状書くのんきもの」。 「爐」135号。森本一三君、われのこと詩に詠ず、それにハガキ。 1月2日 賀状、木村、小川、坂口、鹿熊へ。高倉、薮、八木嬢と図書館よりの賀状とハガキ。 和田先生より「天理と彦根の教授審査やられし」と。 羽田へゆけば来客、引返せば藤枝来る、珍し。ともに昼食、羽田にゆき、出て彼は矢野仁一先生へ、我は野田又夫へ。 羽田野田両家で屠蘇よばれる。わが出し時より雨。 1月3日 朝早くより起され8:30家を出、高安(※前川佐美雄邸)の「くれなゐ」歌会にゆく。鶴橋の校長先生、埜中、鳴上、池田、加藤の諸氏と吉田、平田、北川の三嬢、北川嬢は大阪学芸大学長令嬢と。 16:00出て上野芝の田村へゆけば「宿直」と。夫人も外出。急ぎて帰洛、21:00家につく。 留守中、外山軍治、日比野丈夫の二氏来訪と。健の年賀状。 けふ『くれなゐ』に「近江吟」6首わたす。 1月4日 9:15に乗り西大寺-鶴橋-枚岡。梅林にゆく。餅たまふ。 細川書店より「写真返す、来春刊行」と。岡本和子より手紙。末吉(※栄三)「城崎へゆきし」と。中野英夫「法務府に勤む」と。亀井、笹倉より賀状。 天の河の星のごとくにつらなれるあかりを見つつ坂を下るも。 1月5日 けふは寝んと思ひしに山本治雄よりハガキ「新年宴会をするに付川崎誘ひ来よ」と。 12:00川崎にゆけば「ゆけず」と。14:00まへゆきて新夫人の料理を待ちて碁将棋。 山田後藤来る筈なりしがど来ず、19:00出て帰る。 けふ八木嬢より依子弓子へハガキ。 1月6日 外山軍治、笹倉掬生へハガキ。和田賀代よりお幸叔母の悔みへの返事。平田信子嬢より「くれなゐ」の会のこと。 中野英夫、亀井、平田信子へハガキ。瀧口春男へ原稿の問合せ。 1月7日 石浜先生より浪人祝ひ状、早速「まだ浪人せぬ」旨お返事す。 よべ雪ふりて寒く、一日臥床。細川書店より写真返却。養徳社松井君よりリルケ『若き詩人への手紙』。 1月8日(日) 午後羽田にゆけば風邪。依田義賢宅のコルボウの会にゆく。近江の井上多喜三郎、神戸の山村順などの古き詩人来り盛会。小高根二郎よそに会ありとて来ず。 1月9日 定期買って出勤。「高橋(※重臣)君男児出生」と。金井君に聞けば「彦根女学のことすでに山崎喜好氏によって中村幸彦に通報」と。 丹羽千年を訪ひプール女学校の短大に斡旋せんといはれしと。千年の妹は俳人と。 松本善海よりハガキ。加藤真一郎、牧野恵太郎よりの年賀状転送。 1月10日 雨の中を出勤。富永館長に文部省の審査のこといふ。養徳社松井君来り、原稿「天狼」に載らず「七曜」にと。カロッサ呉れしを高橋君にやる。 川久保(※悌郎)より手紙。鷲教礼より手紙。京は雪。 1月11日 出勤。業務会すみて貴重書目録の会議。「八木嬢の父君肺炎にて絶食三日」と。 2000円新井氏より借用、高橋君祝返しとて餅5合賜ふ。帰り八木嬢に会ふ。 池内先生より返事たまふ「我が信、8日につきし」と。 1月12日 うす暗き中に家を出て7:41、いやになる。岡本嬢に詩のこといひ登館。八木嬢風邪とかで休み。(出勤の途、村上君に聞けば「教授の査定パスは学監にありし」と。 「辞令3月に出るやもしれぬが実授業はなし」と。不快) 帰れば神田先生より「明日午前中お宅へ来よ」と、名大漢文(※名古屋大学への口利き)の件なり。 末吉より「例の件(※関大高校への口利き)進行中」と、ふしぎなる日なり。 1月13日 やや暖かし。9:00神田先生をお訪ねす。「2月末までに講義すむ如くに中国文学助教授」と。「履歴書、資格審査書写、業績表、著書を送れ」といはる。 「文学部長工藤好美氏、新村猛氏、大浜(哲学)氏、東洋史の宇都宮清吉氏の推薦そろひて第一候補、18日教授会」と。 帰る途中外山軍治氏に会ひ東方文化に寄る。羽田に寄れば風邪とて臥床「買い被られたね」と。 帰りて書類作り悠紀子に送らし、散髪。入浴。鯛のさしみ食ふ。 けふ旗田氏よりハガキ「藤井通雄君世話しくるるに付、履歴書急送せよ」と。但し4月以降かと。 芳野清より挨拶。松村一雄先生「三人目の嬢ちゃん出来選択されし」と。 1月14日 けふも暗き中を出て7:41に乗る。雨となり養徳社安藤氏に傘借りてゆく。急ぎて中国地誌をやり20部位やりしか。 ひるすみて安藤氏に傘返し、羊羹買ひて八木嬢父子を見舞にゆく。「父君お粥食べるやうになりし」と。 石上の佐藤君を訪ぬれば留守。「昨日東京より帰りことづかりものあり」と山崎君に伝へし由なり。下りて駅まへにゆけば夫人にあふ。(書店にて玉井一郎に会ひ、きけば「老兵の記録」の初校すみしと) けふ都新聞より原稿の催促あり。父より古書売立のこと。 1月15日(日) 午前中家居。旗田氏と都新聞とへハガキ。池内先生、川久保への手紙書く。 午後羽田にゆき、天野忠にゆく。 1月16日 日出前に家を出、7:15に乗りてゆく。高橋君の説に館長曰く「仙田氏は1月末やめ副館長田中氏なれどこれもよそへゆくこと定てをる由なればいかがせん、 高橋君にはgunior collegeの図書館学をやるべし」と。 吉田ふじ子氏より館長への年賀状「学問やるなど申せしこと以ての外」と、お幸せにて結構。八木嬢、熱止みしとて一寸来る。 明日私鉄ストとて泊めんといひしが高橋君にゆけば夫人不快なり、帰り来る。 1月17日 私鉄ゼネストとて欠勤。11:00吉野書房より電話かかり「校正出し」と。 羽田へ寄りてのちゆき奥西兄(※保)、高鳥君らと話し天理図書館。保田へ電話す。保田「21日に来る」由。 帰り下総町へ寄れば天野忠来り「(※万葉集)古義」「歴代御製集」は値つかずといひしにより売らざりしと、不快。 ゆくこころひとは知らざり笑むわれがよろこぶがごと見ゆるとうらむ。 1月18日 雨、出勤。7:15に乗る。電話効なかりしといふに八木庶務を叱る。ひるまで地誌やる。 昼食後頭痛を申立て早退。途で佐藤誠に会ひ薬もらひ、中村忠行に会へば「桑田六郎先生、石橋の阪大にお住居、よろしく」とのことなり。 八木家にゆけば父君すでに外出、水もらひて薬のみ、八木嬢に青柳嬢とわれに流感うつせしことをいひ、又くすりもらひて帰る。 1月19日 風邪の上、雨のため欠勤。「老兵の記録」書かんと思ひしも出来ず。 都新聞より「原稿未着、再びかけ」とのハガキと電話。角川書店よりハイネの印紙2500枚。 1月20日 雨止む。7:41にのり登館。石浜(※純太郎)先生来られお相手とす。相客はのちにきけば富永の義兄にて女高師の教師と。どうやら下村文相(※来訪)のとき交渉に出し奴らしくていやな奴なり。 八木嬢より200円借りてやっと帰る。石浜先生「桓夫氏(※甥の藤沢桓夫)より」と『黄坡遺稿』わたさる。「博士号とらば関大大学院に推さん」と。無理のたまふものかな。角川よりハガキ。 1月21日 7:15より登館。地誌やり俸給を待つに中々出ず、12:00をすぎてやっと貰ふ。税金少し安くなりたり。 玉子うどん食ひ(50)、タバコ買ひ(60)、あめ買ひ(60)してぼつぼつ金を費す。 伏見にてパイプ賜ふ(35)、コーヒーのめば50円。「ワ゛ン・デ・ヴエルデ(※Van De Velde『完全なる結婚』著者)」又買ふ。 吉野書房にゆけば保田すでにあり「名大ゆきてもよし」と。『くれなゐ』の「山城吟」出るに「評判よし」と。 また風邪気味なるにより20:10出て帰る。「老兵の記」明日午後高鳥君とりに来ると。帰れば名大工藤文学部長より「(※決定には)書類その他の受取、数回の教授会必要」と、意外! なかなかにわれをはなさぬうはなりのつよきをうなのごときおしへよ。 へだて来し雲ゐの外のよそびとにこころうつさんわれならなくに。 1月22日(日) 臥床。午後、硲君より電話かかる。「来よ」といへばまもなく来訪。「結婚せん相手みつかりし。四月までに大学の助手を神田力氏に依頼せし」と。夕食すすめしに帰る。 そのまへに「老兵の記録」28枚書き了り、高鳥君のとりに来るのを待ちしかど来ず。 羽田のマサ子ちゃん、明君の半紙もち来る、「未だ臥床」と。手紙かきてわたす。 けふ母来り金もちゆく。「一興叔父の一周忌とて大、招かれし」となり。 1月23日 欠勤。ゆき子に吉野書房へ電話せしむれば「すぐ来る」と。待てば15:00ごろやっと高鳥君来る。原稿わたし、同伴の京大西洋史学科生に天理図書館へ就職のすじ道はなしす。 けふ神田先生へ速達、工藤氏の(※まだ決定では無き由の)手紙同封す。 角川へ仰紙速達。マフラーゆき子買ひ来る(300)。 1月24日 7:15にて出勤。佐藤誠に「民族学研究」14の2頒けてもらひ、きけば「中村忠行と二人で中村幸彦にわれを副館長にすべし」と云ひしと。 八木君に100借り帰り姫岡君と同車、わる口きこえるやうに云ひて別る。 羽田によれば(※我れ)大分やせゐたり。 1月25日 8:15にてゆく。風邪なほらぬを口実に早引することとす。この日はじめて仙田氏退職とのこと公表、同時に送別会。バカにしをると怒れば富永席上弁解めきしこと云ひつらねたり。 高橋君『Wunderhorn(※少年の魔法の角笛)』の訳わたす、あまり感心せず。 吉野書房にゆけば前田氏明日、「祖国」も明日と。奥西君と話し帰る。 彦根女専より研究費申請書、神田先生よりお見舞状。 1月26日 正月大祭と。われは研究日とて行かず。終日臥床せしが15:00母来る。 電話せしに吉野書房社長あり「18:00ごろ来よ」と。髭そりてゆけば『祖国』2月号出来。前田隆一氏と話し、酒よばれ21:00まへ帰宅。 1月27日 出勤。[不相変]にて午、高橋君つかまへて富永の薄情いひ「明日より来ず」と申し渡す。 午後、石浜先生によばれ、山崎君の宅へゆきウィスキーと餅、佐藤君も来会す。「新城(※新蔵)博士の令息(※新城英太郎)を図書館に入れん」と。 帰り高橋君と出てくりかへし。八木嬢と山中嬢へゆくみち自転車にて来し金井君にあひ山中嬢にゆけば「何のことなし」と。別れて酒さめ帰着21:00。 1月28日 暖かし。岡本和子より「母の病気にて桜井へ帰りし」と。 正午出てぶらぶら羽田にゆけば「神田、宇都宮両先生に会ひてきけば4月から」と、落胆。あす二先生のところへゆきて断らん。 あたたかき小春日和は雨となりゆくべき宿も傘もなくして。 1月29日(日) 晴。『くれなゐ』来る。午後神田先生を訪へばお留守。宇都宮清吉氏を訪へば在宅、「ぜひ来れ」と、「18、9時頃、神田先生を再訪せよ」と。 帰りて出直しいろいろ申上げしかど「彦根よからず、名大へゆくべし。家のことは部長に話し1日の教授会の結果すぐ報さん」と。 1月30日 朝、家を出て京都駅へゆき45分待ちて糸魚川行(9:17)にのり彦根(90円)。まはり道して女専にゆけば校長、松村両先生、県庁と。広瀬教頭に案内受 け、図書館室見、昼食後滋賀大学学長大畑氏に会ひ、「祖国」わたして駅へかけ足、膳所の校長宅へゆけば「県庁へ来よ」と。学事課で両先生にお会ひし、きけ ば「我の獲得を新聞に出されし」と。匆々辞去。豪雨の中を帰る。 1月31日 無為。午後、富永より電話「相談あり来よ」と。「病気にて行けず」と返答せしむ。 史、下総町へゆかし米麦と100とり来さす。 彦根へ研究費15,000の書類書く。Poppeのダグール語写しはじむ。 2月1日 無事。「コルボオ会12日」と通知。Poppeに、せい出しのみ。 2月2日 午後、下総町へより800とり来る。坂口允男君より『シェリー詩集』稿送付。父と会ふ。 2月3日 午後、吉野書房へゆけばみな留守。校正をし終へし頃、高鳥君来り「保田へゆく」と。手紙托す。帰り下総町へより父と会ふ。 2月4日 11:00家を出、下総町に寄り、伏見-吹田。山本治雄ややしばらくして来り、「けさ東京より帰りし」と。「丸(※三郎)に泊り、きけば子供に家庭教師つけ月費5、6万円」と。彼自らは3,4万円と。 風呂に入り夕食ともにしてのち事務所開設の通知書助けてかき就寝(山本、近頃(※共産党)入党せしと)。 をとめさび眠る子見ればとことはをちかふことばはいつはりをらじ。 2月5日(日) 11:00朝食。山本を出て坪井(※明)にゆけば「今夜東上、西川(※英夫)に会ふ」と。伝言たのみ、山川課長への(※就職斡旋話の)断りたのみ、14:30出て京阪、京都文芸懇話会なるものに桑原、 小高根二郎氏ゐるかと思ひたづぬれど毎日会館不明、野田にゆきて話せば「名大よからん」と。 帰れば波多野(※善大)助教授、一昨日の宇都宮教授の書預かりて枉駕、「(※名古屋に)家は二軒あり、但し会議にはゆけず」と。西田家の電話借らんとすれば「通話停止」。 大より「角川にゆけば「ハイネ」今月末出版の予定、支払ひは翌月末より分割払」と、Alas! 2月6日 8:00家を出、羽田へよれば就寝中、なかなか起きず一寸話し東方文化にゆき波多野氏に会ひ宇都宮氏の手紙托す。 それより丹波市へゆき養徳社にて電話すれば「管長24日まで北海道」と。やむなく登館。富永館長に「相談」受け、司書主任を当分押し付けらる。大谷君に渡すべしとの我説なり。 帰り鈴木氏にゆけば「(※転職)よからん、但しわがよしといひしことは他言するな」と。一電車おくれて帰宅。旗田氏より京阪東大東洋史会の通知。 2月7日 よべ3:00までねられず、7:00出発。登館すれば館長出張、仕事すませ桜井へゆく。途中森本忠君に会ひ饅頭もらふ。酩酊。 坂口君に同じ汽車なりしをとらへ同行、宿泊をたのみシェリーの原稿の用字訂正。保田に電話して20:00ゆけば「父君肺炎なりし」と。21:00坂口君に帰りシェリーの跋かき直させて眠る。 2月8日 弁当つめてもらひ8:30の貨物にて丹波市。9:30より分類目録の会議。吉田不二子氏の母親来り、するめ2枚づつくれし。 長尾良の弟の紹介とて来し京大西洋史の学生来り、原(※随園)教授の館長宛の紹介状もつ。「けふは駄目」といひ、15:00ともに出て吉野書房にゆき前田社長に紹介、 米田氏(管長の友と)への紹介かかす。文芸辞典の参考書費1000もらひ、帰れば「10日11:30来よ」と。関大高校よりの速達と末吉の手紙。 2月9日 雨、登館。何もせずだめりゐし。玉井一郎の紹介にて天大英文科の女生徒来り、「心理学につき教へよ」と、ことわる。 木下君(※不詳)より電話「我の後任に吉川(※幸次郎)、泉井(※久之助)博士らの紹介にて申込まん」と、可笑。 午後、司書室に我を暫定主任の紹介。14:00出て関大高校へゆく。教師たち酒気をおびゐる。末吉に断りいひ、すしおごられて新京阪にて帰宅。市長に予想通り高山(※義三)当選。 2月10日 雨。ゆけば晴。仕事やる。昼、佐藤君来り、きけば「(※関大高校)ジュニアーにわが時間割くみあり」と。「新城先生の子息15日より就任」と。案内し、研究所にて語る。 中村忠行氏にきけば「松村一雄先生より便あり、近江にて寒き目ささん(※させない)」と。 首脳会議中、木村君より電話、帰り際来り、きけば「昨年2月かに保田-堀越ラインより紹介ありしが欠員なしと断られし」と。みかん駅にて賜はんとす、ふしぎなる人なり。 「七曜日」出来て3冊もらふ。帰り吉野書房にゆけば前田氏不在。伝言オバさんにたのむ。 2月11日 出勤。司書室配置転換につき大谷君と相談、館長にいふ。 帰り駅にて法輪寺にゆく八木嬢とあひ、つれて行ってもらふ。飛鳥仏より十一面観音をありがたしと思ひ井上師にも申上ぐ。「長男東洋史の大学院学生、次女東山女学にありてわが講演ききし」と。16:00退去。 風邪発熱を押して宇都宮氏を訪へば「彦根松村先生に明日ことわりにゆかん」と。「名大七月辞令出んと。新村猛、本田先生(※本田喜代治:元大阪高校教授)にわがこと訊ね「(※田中は当時)保田にひきずられた(※ファシズムとは関係ない)」ですみし」と。 みな予想通りなれど最悪の結果なりし。 2月12日(日) よべの薬ききて風邪軽快。羽田に寄れば「大阪へゆく」と。天野忠によりて高橋、坂口二君の原稿托し、12:00東山三條にて宇都宮氏待合せ。大津へゆけば「松村先生膳所にて会合」と。 追ひてゆけば滋賀師範の会、御馳走よばれダベリしのみにてわれ早退。膳所より汽車にのり京都着。 コルボオの会にゆく。臼井喜之助来会、あはれなり。井上多喜三郎氏に(※彦根での)家のことたのみ18:00出て下総町まで歩き父母と話して帰る。 2月13日 出勤の途、羽田夫人に挨拶すれば羽田ねまきのまま昨日の同窓会の名簿わたす。 大谷君欠勤。仕事なし。帰り金井君見舞にゆき西村に「泊れ」といはれしも帰れば大畑、上田二君と同車。大畑君にきけば「(※養徳社)9人馘首され大畑君もその一人、小高、藤田、 小牧などみなやめられし」と。庄野(※誠一)常務の心境やいかに。 けふ中野清見の村吏、宮下正義より詩40篇送り来る。 2月14日 金井君より流感もらひ直し欠勤。 2月15日 けふ新城氏着任、配置がへあるかと思ひ、むりに行きしも何のことなし。11:30出て帰り来る。羽田に会ひ「宇都宮氏に(※彦根を断る件どうなったか)訊ねてくれ」とたのむ。 2月16日 欠勤。羽田に悠紀子ゆかせしも「まだ眠る」と。坂口允男君よりハガキ。羽田ゆきがけ寄りくれ(珍し)、宇都宮氏に会ひてきけば新論出ず。 松村先生 東京よりの帰り工藤さん(※名大文学部長)に会ひ兼任話されんといはれしと、ありがたし。 2月17日 欠勤。無事。「岩佐東一郎歓迎会20日」と。 2月18日 風邪軽快。ゆくつもりなりしもいま一日と休めば昼すぎ、八木嬢より電話「大谷、金井二君も欠勤なれど高橋君のおかげにて事欠かず」と。憤慨して「もはや出勤せず」とのハガキ出し、ゆき子も怒る。 「老兵の記録」17枚書きて止む。けふ天理大学より挨拶状。可笑。 2月19日(日) 吉野書房より誰か来るかと思ひしに来ず。悠紀子を叱りて一日くらす。50円しか嚢中なきことわかり冬オーバ質屋へもちゆかしむ。愚妻に呆れたり。しばらく別居せばいかに。 2月20日 朝、ゆき子に電話せしむれば「1時来る」と返事し高鳥君18:00ごろ来る。書き足して30枚となりわたす。「保田18日は上洛せざりし」と。 2月21日 朝、八木嬢9:00すぎ来訪、あやまりに来しらし。ひる頃までゐて結局図書館の薄情みとめて帰る。果たしてサラリー誰ももち来らず。史、下総町へゆけば母300円貸しくれしと、気の毒なり。 2月22日 臥床、宇都宮氏よりハガキ「土曜会ひに来よ」と。(※義弟)数男よりハガキ「西川の所しらせ」と、珍し。 夜、大畑君来り就職の話。史を下総町にやり父の外套借らしむ、「健来ゐし」と。Poppeすみ『諸蕃志』にかかる。 2月23日 7:00出て宇都宮氏を訪ぬ。話通ぜず「松村先生とこへは行かぬ方よからん」と。 出て天理にゆき俸給もらひ富永氏に辞職のこといふ。日付なしの辞表提出。 帰り下総町に寄り4000貸す。川久保より手紙「父君亡くなられし」と。「天理には来る気なし」と。 2月24日 出勤まへ下総町にゆけばみなねゐる。健の起きるをまちて外套出して出勤。高橋重臣に独断専行を責め、中村孝志らに辞表提出のこといひ、石浜先生とともに帰る。 新城英太郎氏と今出川まで同車、大人物なり。電気代上りて400円負担せしめられしと。 2月25日 出勤。新城氏執筆の雑誌多く賜ふ。高橋重臣ものいはず、中村木村に挨拶す、不快。「山崎喜好氏は内談せしのみ」と。 新城氏と西大寺まで同車。帰れば「ハイネ(※『ハイネ戀愛詩集』)」20冊来りをる、うれし。 うたつくるこころとなりて早春の丘べをゆけばふきのとう萌ゆ。 2月26日(日) 朝、硲君来り話し、羽田へ午ゆき、すぐ帰り昼食後野田君にゆく。北野高校林校長に野田君より紹介状かくこととなる。 小雨の中を天野忠に寄り散髪して帰る。 2月27日 4:00起き7:15つかまへ新城氏と同車。 ハイネを名刺として「真柱」に面会求めしも駄目。仕事のまへ青年たちに指針を与へ(西村、入江の卑怯を痛罵す)、ひるまへ大浜氏と話し帰途富永館長を家に訪へば「真柱に会へねば彼より話さん」と。また「玄関」にゆきしも駄目。 佐藤誠を石上に訪ね、金井君にゆくみち買物の夫人に会ふ。ゆきていろいろ話す中中村君も来る。すき焼にて酒のみはじめて大酔、足腰立たずなる。ふるへつつ寝しに(12:00)。 3:00ごろ金井夫人きて悪[寒](※がすると)、びっくりして医者来るを待てば「貧血と脚気」と。すまなくてたまらず。朝飯と弁当金井氏にしてもらって登館。 2月28日 よべ2時間ねしのみなれどカード挿入、支那地誌のよみ付けなどやり、金井夫人の見舞を八木、青柳二嬢にたのみ退館。管長、館長ともに消息なし。 帰り西大寺にて「真相」買ひ、楊井克巳東大経済学部教授らしきを知る。和田先生よりハイネの礼状をかね「阪大いまだ脈なしとはいへず」と、困る。 江刈村の宮本正義君より手紙。熟睡。(たてあひ会より選別500) 3月1日 11:00家を出、羽田に寄れば「このごろ会議にて疲れる」と夫人の話。 吉野書房にゆきて着きし本の運搬手伝ふ。文学辞典の参考書代としてまた2000わたされ、「祖国」1冊もらひて出、三條にてキャラメル4ケ(100)買ひ、 滋賀け県庁にゆけば「松村先生お宅」と。参りいろいろお話伺ひ安心す。保田の話出たればまことのことといふ。 京津の乗場に文学辞典あり(370)よめば「コギト」「四季」「保田」の欄あり「とにかく一個の代表的人物」と、又正論か。 帰りて天野忠により「現代日本文学全集(80)」買ひ隣の書店にて創元社「世界文学入門」買ひして用意ととのふ(けふ「ハイネ」前田氏と喜多村氏へ)。帰途また羽田によりしも帰らず。 3月2日 八木嬢よりハガキ。「金井夫人見舞にゆきしにやや良し」と、安心。「くれなゐ」来る、池田道夫の論、不快。母来り、千草に怒るといふ。 匆々出て大学にゆけば桑原氏東上、研究室に丁度来し天理研究所所員に高橋君への手紙托し、硲君の200(東洋史研究会費)わたす。 研究所にゆき藤枝に「ハイネ」、外山氏にも1冊托し、森、日比野氏らに挨拶、出て古本屋まはり「神皇正統記(10)」、鴎外「かのやうに(20)」「護持院原の敵討(20)」。 佐々木邦彦を訪へば在宅、珍し。山の絵、椿の屏風気に入る。コルボオ詩話会の最年少にて最も吾と合ふ。天野忠にゆき鈴木虎雄「陶淵明(80)」。 帰りも羽田に寄りしが不在。(けふ「文学辞典」の項目作りにヘトヘトとなりし) 帰れば松村先生より手紙「名大へは1年後にゆくべし」と!(※心外とて)早速返信。「三島江の芦のかりねのひとよ妻そをさへ忘るわれならなくに」 3月3日 12:00まで文学辞典。金井君へのハガキ書き、出て吉野書房へゆく。「保田に便なし」と。 原稿用紙と「祖国」2冊もらひ奥西、高鳥二君とともに出、寺町河原町の古本屋あるき(参謀本部「彦根」など(※地図)3枚買ふ。12×3)「竹取物語(10)」買ひしてリアル書房(※天野忠)に寄り、 羽田に寄れば帰りゐる。「阪大を和田先生に断らん」といへば「外山氏推せ」と。「名大ことはらん」といへば最後に「よし」といふ。 3月4日 12:00家を出、羽田に一寸寄る。夫人二嬢の学芸会を見にゆく。北中出の教へ子を北高へ紹介のこと硲君にいへと。 伏見より電話かければ小高根二郎「すぐ帰りて待つ」と。大久保よりバスに乗り、焼酎のまされ泊めてもらふ、「伊東静雄の妹、彼にも求婚せし」と。夫人後屈と、可笑。 あたたかく若草萌ゆる春のみちひとりあゆめばかなしからまし。 3月5日(日) 淀野(※隆三)氏上京、三笠書房へつとむと、9:00出て桑原氏を訪ぬれば珍しく在宅、新城英太郎氏の畸人ぶりを聞く。「長女ピアノを教へて食ふ」と。「名大よからん」と。 13:00出て「コルボオ」の会にゆきみな待つ間に高橋、大浜二君来る。紹介すます。「Wunderhornは9月に出す」と。 17:00までつき合ひて二君と出る。館長、中村「田中君の御意に任せ2月末退職とせん」といひしを木村、高橋君二君にて「3月末とせよ」といひしと、有難迷惑なり。帰れば高橋君「老兵」の校正もち来りしと。 3月6日 8:00家を出、留守の吉野書房に校正刷届け、天理にゆき養徳社(庄野氏常時家居と)より中山管長に電話すれば「13:00すぎ来よ」と。足達家にゆき隆之助氏に挨拶し昼食賜ふ。 13:00ゆけば富永も現はる!管長の挨拶中々よくて退職許されたり。われ「漢籍の専門家入れよ、仏文学の本買へ、東洋学の普通書入れよ」などいひて出、八木家にゆき挨拶。 16:00まへ天大にゆけば奥村氏上京、北村事務にいひ登館。高橋君にきけば「3月15日付」となりしと、をかし。 金井君と出る(法輪寺の井上嬢来会、兄君われを知らずと)。別れて養徳社により16:50にて桜井着。同車に富松(※初子)あり、双方知らぬ顔す。 保田家にて父君より夕食たまひ、保田に「文学辞典」の項目みることたのみ20:00出て坂口君にゆき泊めてもらふ。「岸知事進駐軍によばれなどして会へず」と。 3月7日 9:00まへ出て桜井高校にゆき堀内民一氏に会ふ。「老兵の記録」と「諸国吟」とつづけよと。 雨の中を出て天理へ、河野峯夫を協和銀行に訪ね100借り、田村春雄を訪ぬれば「14:00ごろ来よ」と。市役所にゆき筒井(※護郎)と話し野上への「ハイネ」托し、池永治雄と話して出、東高校に硲君訪ぬ。「上京おくれし」と。 住吉高校に口ありと。『歩兵操典』もらひて出、市民病院にゆき17:00ごろ出て上野芝にとめてもらふ。「Deutsche Balladen」もらひし。 3月8日 朝食に豚、コーヒーのみして春雄とともに出、杉本町下車、12年ぶりに浪中職員室にゆく。事務の寺田少年、平石、礒江(小寺君への弔詩を傑作といふ)、 川相常五郎、加賀山の諸氏と会ふ。園田氏向ふより挨拶に見えたり。加賀山に送られて出、 石浜先生に参れば関大。取次の老嫗にては埒明かずと思ひ「お嬢さんを」といへば(※藤沢)桓夫母君!黄坡先生未亡人にて「少女にわかる学問の話なら私でもわかります」と怒られ平身低頭。 『ハイネ』に小野勝年のことかきし手紙托し鬱々と退出。 住中にゆけば休みにて山本君不在、金なくなりて藤井寺にゆき女ばかり(※叔母達)のところにて馬鹿話(父この頃城平叔父のところにて職得し様子)。 肥下にゆけば不在、「コギト」少し見て出、電車にのれば阿部野橋にて「先生ぢゃありませんか」と吉村武。京都へ商用にくとのことにて共にゆき電車賃みな出してもらふ。 吉村、教頭の甥にて綿布業、衡陽桂林より帰りし7年兵と。途中、話たえず、ふしぎなることなりし。 帰れば留守中、宇都宮氏来訪「彦根のことはお任せあれ」といはれしと。角川源義よりハガキ『現代詩鑑賞』書けと。 3月9日 名大教授会の日。疲れて昼寝、夕方羽田「来よ」と。ゆきて小野君のこといへば老先生「駄目ならん」と云はれしと。「養徳社に田村博士怒りをらる」と。「硲君より返事来し」と。 3月10日 高橋重臣よりハガキ「3月分サラリーは一ヶ月分呉れる」由、「但し手当も21日頃」と、バカらし。 午まへ杜甫とラブレー書き原稿用紙300枚とともに吉野書房にもちゆき、来会せし玉井君にたのみ保田へもち行くことにしてもらふ。 下総町に寄れば「咲耶12、13の2日間来る」と。天野忠にゆけば「高橋、大浜二君の同人加入の件よからん」と。 けふ小野勝年、角川源義へ便り。(天野君を通りし「コギト」90冊、吉野書房へ900で入りし) 3月11日 俊子姉よりハガキ「残置きし本1600で送りし」と。『ハイネ』で景気よからんと、をかし。 午すぎ出て伏見、川崎に寄れば帰らず。帰れば留守中宇都宮氏来られ「名大教授会通り文部省手続4、5月中」と。「家は公務員住宅にて家賃1200、彦根の代り探して推薦せよ」と、をかし。 ちちははのすすむるひとにあるときは心動かんゆるせよといふ。 3月12日(日) 咲耶来をるに付「来よ」とのことなりしも寒くてゐる中、向ふより来る。何やら詰問めいたこといひていやらし。母の意志を体したるならん、終日家居。 3月13日 吹雪したり晴れたり。朝、悠紀子を下総町にやらしむ「母別状なし」と。 名大、工藤先生より「教授会通りし」と。「辞令一ヶ月以上かかる」と。「神田先生教授も決定」と。 小野勝年氏より「天理ことわり学校世話せよ」と。午後羽田へ寄れば留守。 吉野書房にゆけば前田社長不在。(リアル書房にゆき天野氏に大浜、高橋二君の詩わたす)。 3月14日 寒し。終日家居。金井寅之助君より「送別会20日」と、すぐ返事す。 石浜先生に小野氏のことわり伝ふ。夕方篠田統先生来訪、恐縮、宇都宮氏と話合ひ「当人の意向に従はん」となりしと。「本心東洋史」と申上ぐ。 神田先生名大にゆかるることに決りしらし、われは従って無用なり、うれし。 3月15日 寒し。大来る。角川への伝言たのむ。元気らし。羽田より「けふ桑田博士へゆけず」と伝言。 午後吉野書房へゆけば「栢木来る」と。待てば17:00すぎ来り、保田の「辞典」の連絡あり「短冊10枚かけ」と。「19日大和神社で歌会す」と。 前田社長も帰り来り「中西龍雄(浪中、いま大阪外語マレー語助教授)をマカッサルにて通訳に使ひし」と。(荒木隊の鳥取高農出の炊事兵、いま奈良県庁に勤むと栢木君の話) 帰り下総町に寄れば父母機嫌よし。羽田に寄れば「下阪するか否、明日11:00ごろ報ず」と。 けふ弓子、小学校入学の注意に悠紀子ゆく。 3月16日 『文学辞典』ちょっとやり11:00よびに来し亨ちゃんのあと羽田にゆき、ともに下阪。 石橋の桑田六郎博士を訪ねしに不在。芳蔵部長に会ひ御挨拶すれば助教授など全然考へざる様子。外山氏のこと羽田も一寸いひ、出る。羽田の話では「今度の去就でわれの評判きまる」由。 山本治雄の事務所にゆけば不在。沢田直也を調停裁判所に訪ぬれば帰宅。1時間以上まちて帰り来りし山本と出、家売買の口ききて2万円もらひしを見、ビールをあさひ軒(買主)におごられ、 ともに出て飯食ひにゆくみち、川村判事に会ふ(金井君と同級、全田の三周忌に来りし)。洋食おごられ微酔にて山本家にゆき12:00まへ就寝。 (22日再下阪、桑田博士に会ひ、山本、池田に会ひ、田村春雄、末吉に会ふこととす。) 3月17日 売込事件弁護にゆく山本と8:00出て10:00まへ帰宅。 「東洋史教授資料書け」と信あり。昼寝。「辞典」すすむ。 3月18日 名大の工藤部長より「松村先生(※名大行きを)了解されし」と。大津へ昼ゆき松村、喜多村両先生を雨中訪ねまたし15:00ごろ松村邸で会へば了解されざりしと。 「4月1日辞令出さん、ぜひ(※彦根へ)来よ」と。 決定して宇都宮氏を訪へば了解。神田先生にゆき申上げ(※自分のみ辞退することを)おわびすれば怒らる「よく眠りて考へ直せ」との御結論に退出去。 夕食23:00食ふ。新井女史より「20日俸給とりに来よ」とハガキ。 3月19日(日) 朝、新城英太郎先生「明日天理へ来るや否」たしかめにお越し。 史、下総町にゆかしめてのち気が付きて「老兵の記録」23枚書き、昼食。12:00出て丹波市。歩きて大和神社にゆき保田の祝詞講義傍聴し、あら人神の解釈に感心、 大名貴命の「名」に私見云ひ、別れ告げてまた歩き、八木嬢にゆけば「明日2次会を高橋君計画中」と。おどろきてことわりに行き夫人に怨まれ、やむを得ず暫時出席ときむ。 9:15に乗り檪本、極楽寺の中島明子氏に別れ告げにゆき「わだの原」の歌、中島に供へてもらふこととして泊る。 3月20日 朝起きて中島の位牌に[詣]で、昭和16年の見合写真(※リンク)もらひかき餅と米とをもらひ、8:15にのり丹波市、高橋君にゆきて米(けふの会用に)わたし、 庄野氏を問ふ「既に辞表提出せし」と。かき餅半ば分けて登館。10:30まで地誌目録やる。職員組合の役員改選、執行委員大谷、高橋、代議員上野、中林、金井と。 奥村秀夫氏に挨拶にゆけば困りし顔す。帰りてひるまでに地誌すませ、八木嬢に人名対照表やり14:00よりの送別会。 富永の挨拶上出来なり、われも又。荒川氏「田中先生に怒らされぬ人は一人もなし」と。 館へのハガキに「渕上毛銭死せし」と。15:00すまし高校の松中委員長に挨拶、駅前に修繕に出せし鞄とりにゆく(30)。 文教部にゆけば岡本課長不在、挨拶すまし16:00頃までまちて佐藤誠、山中晴子嬢を最後に高橋、大谷、金井、八木嬢と6人の送別会。佐藤誠もわが「皮肉こわし」と。 18:30出て18:48にのり大急ぎで帰れば昨日、工藤先生より「21日午前中神田先生邸で会ひたし」との電報。島稔より「北大に世話してくれぬか」と。 3月21日 8:00家を出、下総町に寄り10,000わたす。父母ともに「滋賀県の方宜からん」といふやうになりし。 神田先生に参れば「13:00頃来らるる由」、出直して外山氏にゆき阪大のこといへば「断ることもなし、有難くお受けす」と。そこへ神田先生見え早く辞去、 14:00まで時間つぶし神田先生に参れば工藤先生あり。「宇都宮氏より聞きて了解す。松村先生へも(※挨拶に)行かん」と、ありがたし。あと学問の話してすしよばれ17:00退去。 古本屋をひやかし「世界の住居(30)」「江●一詩集(20)」「近鉄双書」5冊(100)「雍正帝」など買ひす。 うつくしき新しき衣われに見すと春寒きみちのぼり来しやは。けふは吉き日なりし。 3月22日 9:00ごろの電車にて下阪、石橋の阪大にゆけば桑田先生迎へられ歓談。中々に気持よく、方豪氏「康煕五十三年測絵台湾地図考」抜刷貸し給はる。 「教員の閲歴つけるために近大(※近江大学=彦根短期)よからん、論文書きおけ」と云はる。外山氏のこと云へば御存知なき様なり。 12:00まへお別れし山本の事務所にゆき、ともに出、われ先[ず]沢田直也訪ぬれば在り、夕方の送別会承知せしめ、山本来会を待ちてのち地下鉄にて市民病院。春雄と話し散髪。 いそぎ引返せば17:30。やや話してともに北浜の料理屋にて送別宴。山本のおごり也。すみて喫茶、21:50吹田にゆき山本家に泊めてもらふ。(春雄「30,31日上京」と。) 3月23日 10:00山本とともに出、片町線徳庵に降り丹羽千年を訪ぬれば不在。みさ子、母上にて歓待。服部英次郎氏に斡旋しくれし桂信子への礼と、金井君のことたのみ退去。 同じく今津町の富士鋼業を訪ね、城平叔父と電話で話し、康平叔父と寸語。出て梅田ガード下の十合食料品店を訪ひ昌三叔父に挨拶し、缶詰あまたたまひて帰洛。 羽田にゆけば「阪大を旗田氏にもすすめし」と、ふしぎなることかな。東京より本多く着きゐる。八木嬢より「留守中来し。28日以後の都合しらせ」と。 3月24日 昼寝し、島、八木、丸の諸氏にハガキ書き散歩。リアル書房によれば天野隆一、俵青芽の二氏あり。上田敏「小唄(130)」買ひ、 吉野書房にゆき短冊10枚と「祖国」4月号とを受取り、前田社長と話せしあと新城英太郎氏を訪へば令嬢バッハのプレリュード弾き呉る。 3月25日 朝、床をはなれぬ中、新城英太郎氏来訪。「笠間杲雄(南方赴任の途死と)」氏の遺蔵書売立世話すべし」と。すぐ出て天野忠を訪ぬれば不在、佐々木氏を訪ね話し、 新居に画もらふこととなり、野田又夫に会ひして時間つぶしリアル書房にゆけば出たらめの見積。 下総町にゆきしのち善書堂にゆけば不能と。新城氏にゆき「リストいま少し手を入れよ」といひ、桑原氏にゆきて報告。 雨の中、彙文堂へゆき西田家の本のこといふ。「28日にでも来て見ん」と。笠間本にも色気あり。(けふ買ひしは中島健蔵「フランス文学入門」、中野好夫「アメリカイギリス文学」、 大島正[満]「タイヤルは招く」、新城氏より沈璿訳「東洋元文学史研究」笠間「砂漠の国」いただく。) 夜、蔵書カード作りはじめ、「悲歌」改作。(桂信子へ「七曜」贈り角川のこと問合せのハガキ出す。) 3月26日(日) 10:00家を出、東山五條の山前(※実治)へ「哀歌」もちゆく。帰り彙文堂まで歩き石田幹之助『南海に関する支那資料(80)』買ひをれば、 波多野善大氏来合せ「仰せの如き理由のみならば(※名大へ)来らるる筈なりし」と。 華僑の子を臨川(※書店)に案内し、桑原先生にゆけば不在。襟巻つひに新城氏で見付け帰りて昼食。羽田にゆきて「東洋史教授資料」ことわらんと云へばきかず。 3月27日 短冊10枚書きリアル書房に寄りしのち吉野書房にゆく。前田社長とも話せしが事なし。喜多村校長に電話せしが不在。帰りプラトンインク買ふ(55)。「不二」来る。 3月28日 雨。11:00彙文堂大島五郎氏来る。養稼先生の本の残り(「16函すでに東京へ売りし」と)1200にて引取ってもらふ。夜、入浴。 『東洋史研究』来る(95)。わが論文は次々号廻しなり。保田、中島明子へハガキ。この頃蔵書カード造りてひまをつぶす。 3月29日 晴。8:30出て新城氏へゆきしも不在。山崎より渡船にて八幡、帰れば一歩まへに八木嬢着。泊ってもらふ。「留守中新城氏来られし」と。 3月30日 雨。八木嬢、子らの着物つくり呉る。洋人漢名教へもすみて15:00去る。「尼崎の姉の家にゆく」と。岡山聡子よりお幸伯母の写真。「くれなゐ」。島稔より「北大やめし」と。 大より「角川へ再びゆきてみん」と。 3月31日 朝、新城氏来訪。彙文堂のこと伝へ、ともに出てゴルフ場散歩。帰れば硲君来訪。 羽田に昼食後ゆく。辞令受手はおくれるとのことに成程と思ふ。16:00出て帰る。 けさより京(※三女)、加減わるく藤岡嫗の診察を受くれば「肺炎となる虞あり」と、ストレプトマイシン打つ(400、初診料50、水散薬100、体温計150)。依子、八木嬢へ礼状。 4月1日 8:30雨中を出て「時事通信」に羽倉啓吉を訪ねしも来らず。伝言たのみ京阪三條まで歩き滋賀県庁学事課に松村一雄先生を訪ぬれば近江大学の書類作成中。 喜多村先生もあり、立話にて住居のこといへば「今年度には入らず」と、意外。15:00頃すむとのことに昼食し映画見て待つ。15:30松村邸にゆけば帰られず。諦めて帰洛。 下総町にゆけば父母ともに不在。家へ帰れば母来り、「汝が背広焼けし」と。天理図書館より厚生保険証と退職辞令と送り来る(3月25日付)。 4月2日(日) 11:00羽田を誘ひにゆき大谷光照君に会ひしのち飛雲閣にゆく。硲、羽倉の外、藤井、旗田氏らあはせて12名。本願寺内の案内を受け、敦煌文書を見せられして15:00やっとビールの座につく。 16:30出てコルボオの会にゆけば高橋君あり。朗読すみしのち八木嬢への手紙托し、佐々木君より齋藤勇『アメリカ文学史(120)』受取りて帰る。「哀歌」朗読し、 井上多喜三郎氏に家のことたのみなどして忙しかりし。 帰途新城氏に彙文堂のハガキ渡す。 けふ八木嬢より我と依子とにハガキ。東洋史研究会より「参考資料」の締切となりしとハガキ。 4月3日 午前中「日本詩壇」にと「コギトの思ひ出」10枚書き、午後羽田へ寄る。昨日の会、赤字になりしと。退屈なる会なりしがあれでよしと。 リアル書房にゆき天野忠に『年刊詩集』の文句つけ、安藤真澄のところ教はり下総町にゆけば祖母のみ。 吉野書房にゆき封筒こさへてもらひ切手もらひ橿原奉讃会の米井氏に会ふ。重役会と。早々退去。 彙文堂に新城氏を教へ『清文彙書』と服部四郎と思想1冊とを100円で買はせ『西齋雑著』(80)と『平妖伝』(50)とを買ひ下総町へ寄る。母「明朝来る」と。 帰りてカード作る。京、4時間毎に薬のますとて時計(650)買ひにやる。 4月4日 母12:00まへ来り、話きけば怪し。午後出てリアルにゆき『平妖伝(80)』と紙屑本ととりかへ山前実治来合せしと『年刊詩集』反対の論のべ、 母より質札もらひて高倉六角の日本信託へゆけば「あり」と。「明日とりに来る」といひて出、 吉野書房にゆけば校正来らず「保田夫人家出」と。暗然。玉井一郎18:00まへ来りしに校正して帰宅。 けふ井上多喜三郎氏に家のこと依頼。 4月5日 雨、家居。高橋、大谷氏へ送別会の礼。「くれなゐ」へ「大和通信」書かすや否、問合せ。 大より「角川に会へず」と。すぐに「根気良く催促たのむ」旨ハガキ。 けふ市民税とりに来り半ば払ひてすます。 4月6日 雨。床にゐれば11:00母より電話「けふ駄目、明日午後」と。15:00雨止み大宮通を下り天野隆一のアトリエにゆき話す。『年刊詩集』のことなど。 けふ桂信子よりハガキ「服部英次郎氏に会ひし」と。 4月7日 晴、ひる下総町にゆき母、祖母と話す。4000もちて六角へゆけば「夕方まで駄目」と。 山前実治まで歩きともに出て二條の河北印刷所へゆく途、羽倉啓吉に遭ふ。大西卯一郎を往きかへりに訪ひしも留守。 亀山おごってもらひ吉野書房にゆき玉井一郎と話す。「明日保田へゆき見ん」と。 18:30帰れば西村喜世英あり「3時間ほど待ちし」と。夕飯くはす。「青柳嬢にほれられし」と。「14日頃より上京して図書館講習所に入る」と。 4月8日 晴、10:00家を出て六角へゆけば不在、下総町にゆき母にいへど埒明かず。昼食して京都駅をうろつき15:00ゆけば在宅、200安くさせて喜んで帰る。 明日八木嬢不在に来るときまり手紙書く。 4月9日(日) 5:00起き6:10ごろ家を出、初発のバスにのり京都駅へゆけば6:40、40分待ちて7:20東京行にのる。山前実治の父と同車、彦根近くまで立ち、 降りれば諸先生なきに10日の約束なりしかと気付きしが、学校へゆき見て日直の先生と話し明日出直すこととす。 10:57にのり(ういろう土産に買ふ)京都13:00帰宅すれば八木嬢、依子の洋服つくりゐる。カード500枚もち来りくれし。 15:30子らと上賀茂社へゆく。われ30分して出ればあり。同車にて今出川までゆく。 けふ田村春雄よりハガキ「1‐6日まで丸家に泊りし」と。 かぜ寒き春の日知らず散るさくらともに眺めてゐたるひととき。 4月10日 晴、再び7:20で彦根行。川村学長(われのこと知りをりたまふ)の挨拶後、職員会となりしに河村、島津二先生の発言、激昂的にて不快。 相手はあとにて長尾先生(心理学)の説明によれば松村先生なりしと。 午飯後、サラリーの半ば6000もらふ。その後文学科長選挙ありわれに1票ありしと、ふしぎ。広瀬氏当選。「三木為堂先生(浪中教諭)の令息なり」と正浩先生より挨拶あり。 15:00ともに出て古本屋により青木正児「支那文学思想史(130)」、矢野仁一「近代支那論(50)」買ふ。 帰りの汽車中、原随園博士と同車。三木、松村、長尾三氏と話しつつ帰る。 辞令「滋賀県公立学校教員に任命する。二級に叙する。昭和二十五年四月一日 滋賀県知事服部岩吉」。 京都駅にて長尾氏コーヒー奢りたまふ。帰り羽田による。飛雲閣前の写真(70)出来。丸三郎よりハガキ。 4月11日 大谷篤蔵氏よりハガキ。和田先生に御挨拶。丸、田村春雄にハガキ。依子より八木嬢にハガキ。 区役所分所へ寄留証明書もらひにゆき(18)、帰り羽田に寄る。 午後出て吉野書房にゆく、保田の消息なし。17:30出て下総町に寄りレアル書房に寄る。「アメリカの現代作家(40)」。 4月12日 挨拶状-寺島徳八郎翁、(※青木)陽生、沢田(※直也)、杉浦(※正一郎)、坂口(※允男)、三好達治の諸氏へ。 9:00家を出て宇都宮氏を訪ねしに散髪。鹿ケ谷の花見をする中、松村先生お越し、昼食よばれてのち松村先生を家に伴ひお酒すすむ。中村地平へ寄せ書かかる。18:30お帰り。 けふ大よりハガキ「角川16日上洛の時話すといひろくろく返事せざりし」と。篠原全一、白鳥清、肥下、鈴木治の諸先生へ挨拶[状]。 4月13日 午後出て(※京都)大学へゆけば佐藤、里井(※彦七郎)の二君のみ。研究所へゆき藤枝(※晃)、森、入矢(※義高) (天理やめしと)、田中[謙]二の諸氏に挨拶。「神田先生、博士になりたまひし」と。「民族学研究」頒けられて(110)退去。烏丸車庫より歩きて帰宅。 角川より手紙「ウェルテル訳せよ」と、可怪。 4月14日 6:20家を出てバスで西田昭夫君と同車、「当分(※京都の借家に)置き呉るるやう」たのむ。7:20に西洋史の田村君と同車、高地高校出なり。語りつつゆく中、篠田先生あるを見、 この間の会議の模様申上ぐ。承知にて「そのため来たまひし」と。 10:00より会議はじまり協議会作ることとなり、河村、島津のコンビ相変らず不快。島津わが言を誤解して「教授づらせし」といふ如き言をなす。 文学科の委員として広瀬、松村二先生を挙、これにて任終ゆ。 汽車を一時間待ち呉越同舟にて帰る。協議会の空気よくなしと。八木嬢よりわれと依子とにハガキ。 4月15日 野上弘、末吉、山本治雄、山本重武、薄井(※敏夫)、牧野径太郎へ挨拶状。 9:00出て下総町へゆけば母外出。父と話し待つ中0:30帰り来る。1000わたして出、吉野書房にゆけば「保田北陸へゆき18日以後に京へ来る」と。 東山へゆきて帰れば「留守中角川来り、エルテルのこと云ひし」と。やがて新城氏来る「21日、三笠宮図書館へ来り、22日雨天ならば句会」と、皇室の式微かなし。 しづむ日をしづむがままに見やりつつ  4月16日(日) 角川より電話かからず。11:00すぎ出て北白川法然院にゆけば12:00、14:30までうろうろし(藤枝に会ふ)、『ゲーテ詩集』わたし伝言たのみ帰りしが角川遂に音沙汰なし。 羽田へ夜ゆけば和田先生より便あり「田中阪大をやめしは本心か」とききたまふと。岡崎精郎助手のことなどいひてお返事してくれとたのむ。 4月17日 たけのこ飯を昼食ひて昼寝。三好達治氏よりハガキ。17:00家を出てリアル書房に寄りしあと下総町。母と俊三郎叔父の帰るを待つ。 けふ矢野峰人先生、山本達郎氏へ挨拶状。 4月18日 鈴木治氏よりハガキ「赤ん坊はしかで亡くされし」と。大へ角川のこと。筒井、坪井、辻研、佐藤誠、中村治光、中野博之諸氏へハガキ。中室員重、上田嘉俊同。 上田一雄、田中城平、きわ、(※田中)昌三、(※田中)三郎へ同。 4月19日 きのふ夕より「老兵の記録」かき33枚にし、午後吉野書房へもちゆく。16:00出て帰る。 けふ末吉、八木嬢よりハガキ。 井上多喜三郎氏より「家を見付けるのに努力したまふ」と。 矢野峰人先生よりコルボオの「哀歌」見たまひしと。 4月20日 八木、井上二氏へ返事、谷川(※新之輔)、芳野、竹内(※好)へ挨拶。児玉實用(※さねちか)氏より不在のわび。吉村武、川崎菅雄、川久保、笠井(※信夫)、金井(※寅之助)へ挨拶。 雨。ひる知事選選挙にゆきしのみ。 4月21日 細雨。石浜先生よりハガキ「おどろかれし」と。白鳥先生よりハガキ「東京へ呼びたし」と。角川よりハイネ10冊。和田賀代、船越章、小野勝年、相野(※忠雄)、大原利貞、小川浩へハガキ。 知事に蜷川当選。俊子姉よりハガキ、御愛想よし。夕方下総町へゆく。米2升もらひて帰る。 児玉實用氏帰らず。『諸蕃志』終る。角川へ受取。服部、原、林正哉、(※西島)寿一、(※丹羽)千年、西川(※英夫)、本荘実先生へ挨拶状。 4月22日 堀さん(※堀辰雄)、本位田(※昇)へ挨拶状。坂口允男君よりハガキ。八木嬢より子供たちへ贈物。午後家を出て野田又夫、佐々木邦彦にゆきしがともに留守。 文学堂?にハイネ1冊やってWelther(※若きウェルテルの悩み)たのみ天野忠に寄り羽田にゆけば「まだ和田先生に書かず」と。 折から羽倉啓吉君来る。「大阪へ転勤になりし」と。家へ伴ひ帰りハイネ一冊与へ名大、阪大のこといふ。夕食すまして帰る。 4月23日(日) 早川(※須佐雄)、池沢(※茂)、石田(※幹之助)先生へ挨拶状。 9:00家を出、児玉實用氏に寄る。われを独文出と思ひ(※同志社へ)採用考へゐしと。ワーズワース訳すと。 下総町に寄り母より200貰ひ、京都駅-嵯峨嵐山の賑ひ見、松尾神社を見、大久保に出、歩きて小高根二郎にゆけば母上あり。一日より滞在と、わが変りしを云ふはる。 太郎、都立の夜学(※教師に)にゆくと。21:00までゐて帰る。 わがこころ若葉を見れば水見れば旅ゆくこころなきにはあらず。 4月24日 朝電話してききやれば「来てよし」と。11:00汽車にて彦根、安土駅にて井上(※多喜三郎)氏と同車なりしことはじめてわかり、けふゆくことと約し、学校へゆけば残額6600くれ、27日会議と。 すぐ出て『愚管抄(30)』買ひ13:50の汽車にて安土着。歩き出せば井上氏に見つかる、ふしぎ。至れり尽くせりのもてなし受け、折から降り来し雨に一泊。 同氏とは共に「マダムブランシュ」の同人たりしと判明。 春闌けて蛇飼の村を指されける。  晩春を独り寐し夜の明けがたき。 4月25日 雨中、傘借り9:20の汽車に間会ひて帰洛。杉浦、池沢、井上氏のハガキ。27日学芸部協議会の通知来あり。昼飯食って昼寐3時間。 川久保より来信「和田先生に会ひし」由、惜しと。成城高校へゆくらし。 八木嬢より電話、25、26日休館といひ来たまひしと。子らの手紙に併せ28日行くやもしれぬといふ。井上、小林英俊氏へハガキ。夕方川久保の手紙を羽田に見せにゆく。 4月26日 芳野清よりハガキ。工藤先生に手紙とハイネ([〒]12)。川久保にハガキ。羽田に一寸寄りてのち文学堂にゆきWeltherもらひ、 吉野書房にゆき『祖国』5冊もらひ保田に電話して5月1日来ることきき杜甫とハイネの原稿預け、新城英太郎氏にゆきともに加茂堤を歩き丸万書店で『遊仙窟(30)』『徒然草(10)』。新城氏に下駄貸す。 三笠宮おこしで辻部長「高松宮お越し」と失言。宮、館で「学者扱ひにされた」と喜びしと。中山氏失言をうまくとりなししと。その他ゴシップ聞く。 陽生より手紙、はじめて泣言いふ。相野「平野分校にあり」と。夕方羽田にゆきCzaplichaとりかへし来る。 4月27日 職員会とのことにて7:20にて彦根へ。同車に遠聴の助手あり。ゆけば手違ひにて会議流れ授業時数一週4時間2単位と。 正法寺の小林師見え家さがしに同行、むつかしきことわかりしも8日までに何とかせんと。 15:00駅へゆく。田村講師と同車。京都駅より丹波市。八木嬢に悠紀子のことことづけわたし、高橋君にゆけば無人。大浜氏にゆきて夫人赤ちゃん見せてもらひ泊めてもらふ。 4月28日 大浜氏とともに出て木堂森下氏方の佐藤誠君にゆけば既に登校。図書館にゆき諸氏と会ふ。 荒川氏、岸と改姓。新城氏(※保田與重郎の)「祖国正論」を卑劣と論ず。 佐藤君の室にゆき中村孝志、大浜の諸氏と話し、金井君に会へば山崎喜好ら、この間真柱邸に会し、わがことを詩人らしくなしといひしと。 12:00八木嬢のくれしすし食ひ、地誌目録一寸やり税金の証明書もらひて(三輪の池田君来り会ふ。富永とちょっと話せしのみ)養徳社にゆく。途中高橋君にゆけば怱々瀧本にゆく、怪し。 養徳社鈴木氏と話し瀧井氏に会ひ、青山諸氏会ひてきけば「庄野氏スタイル社、安藤君文芸春秋新社にゆきし」と。アパートへゆきしに中村孝志君不在、金井夫人やせゐたり(吉岡夫人泣きゐたり)。 引返して木下にて『春夫詩集』買ひしのちゆるゆる上りて佐藤氏にゆき大浜氏と三人にて夕食。いろいろ話ききて泊めてもらふ。『薬師寺縁起』もらふ。佐藤君「若様」の国語教育係となりしと。 4月29日 よべ3時まで眠られず。6時起き8:00朝食よばれともに出発。9:18の天理発にのり伏見。 昼食後稲荷の羽倉邸を訪ひ漫談、俣野(※博夫)へ紹介状書く。 出て京阪五條より山前氏を訪れ大浜氏の詩をわたす。18:30京都駅へゆき19:00米田君と落合ひて米田家に泊る。 4月30日(日) 8:00ともに出、三條まで歩きて別れ帰宅。同じバスに末吉あり、すしもち来る。昼食ともにす。上加茂社ゴルフリンクを案内(羽田家にともなひ紹介す)、15:30別る。 留守中、西川より手紙。俣野東京へ転任らし。上田嘉俊、金井君より手紙来をり。丹羽千年よりハガキ、プール(※女学校)今年度はだめと。林叔母「筒井に紹介せよ」と。 5月1日 メーデーと。服部よりハガキ「北大ことわりし、4、5年豊橋にゐるつもり」と。佐藤誠の話と異れり。林叔母へ筒井紹介の手紙。八木嬢、小林英俊へ礼状。 12:00出て羽田へ寄ればゐず。途で会ひし天野忠夫人にロシヤ本の返事し、下総町へゆけば父母ともに不在。 来会せし京法2年の笠井奈良江令息と一寸話し、帰り来し父に日記借り、吉野書房にゆけば18:00ごろ保田、栢木来る。夜食たべて相談。出版に浅野晃の言きかん。 齋藤忠の本出さんなど、われはのけものになる。 23:00出て帰宅。工藤好美先生よりハガキ。(けふ『文学辞典』とりやめきまる。)(マクネア『華僑(32)』) 5月2日 小川浩よりハガキ。松村先生よりハガキ。16:00昼寝よりさめ文学辞典の資料、吉野書房へもちゆけば保田まだあり。すぐ帰る。 加茂儀一『タバコ文化史』。夕方羽田へゆき『小方壺齋』借る。 5月3日 雨、憲法記念日と。マクアーサー共産党攻撃の演説をす。12:00出て羽田にゆき野田又夫にゆく。角川、野田又夫に訳たのみしと、ことわれと云ふ。出て児玉實用にゆけば来客、 酔ふ「矢野博士の出講日、未だしらべあらず」と。帰れば角川より10,000来しと。 夜『小方壺齋』抄す。悠紀子不逞。 5月4日 地図のカードこさふ。原正朝、中村地平、八木嬢、彦根西中学校太田守松氏よりハガキ。地平さんに返事書く。 午後第一銀行西陣支店へゆきしに「照会のハガキ来ず渡せず」と。むっとして吉野書房へゆけば立換へて呉る。 今日出海『三木清に表はれた人間像』などよみ菓子(200)ごち走して15:00出、新城英太郎氏へゆきしに出勤と。文学辞典2冊托す。 かへり古本屋にて『毎日年鑑(15)』『李太白詩集(40)』買ふ。 下総町にゆけばきのふ山口夫人来り「借金7000返せ」と不況をしるす手紙見たり。帰れば寿一のハガキ。 5月5日 小雨。児玉實用氏より「矢野先生の御出講日、火13:00-14:25、金11:00-12:25」と。 16:00末吉より電報「6ヒ10ジ来ヨ」と。 うたがはぬ妻をばもちてあきたらねうはなりすればなにとかいはむ。 浪中加賀山へハガキ。 5月6日 7:15に出て天六関大(※関大高校)へ着きしは9:30。末吉10:00すぎに来る。同僚平田君も青年。彦根に電話せしかど時間割不明とて(附属高校の)話きまらず。 月、水、木、金に15時間英語を持てと也。時間給400、電車賃も出すらし、「1学期だけ」とのことなり。 出て山本事務所にゆけば不在。阪急十合にゆき電話かりて田村春雄にかけ昌三叔父に藤井寺への伝言托し、春雄に会へば「会」と。ともに出て肥後橋で別れ、吹田の山本へゆけば在宅、 夕食よばれて19:30出、帰宅21:30。小林氏よりハガキ。 佐藤誠来り「羽田も留守なりし、来週土曜また来る」と。短大より「8日来よ」と。 5月7日(日) 林叔母より「筒井へゆきし」と。10:00出て下総町により200もらひ依田邸のコルボオ会にゆく。小高根、大浜、高橋の諸氏みな来り、18:00まで会。 シリーズの個人詩集を出すときは200づつ出して5冊もらふこととなる。いろいろありて不快。 帰り新城氏に寄れば酔眼。醜悪陋劣…の『祖国』の評語ただせしが不明。決裂ときめ鞍馬口にて別る。 母300呉れ、米2升もらふ。父10日早朝出発と。角川へ受取と『エルテル』『ハイネ新詩集』のこと問合せかく。 5月8日 7:20で彦根行。松村先生「官舎たしかゆゑ借家ことわれ」と。午すぎ「1週6時間で火、土2日」ときまる。宮川君の一般教養の歴史をやれとの故なり。 (※掛持ち予定の関大高校の)末吉にはそのまへ「少し待て」の速達出す。 西中学校の太田氏に会ひことわり、小林英俊氏に電話せしが「家へ来よ」とのことに行けば帰りゐず。坊やの案内で駅まで帰り17:40の汽車で帰る。 けふ父母にて箪笥など送り来しと。角川より「エルテルの返事いかに」と。地図6枚(75)。 5月9日 9:00家を出て吉野書房にゆけば前田氏のみ。「角川の小切手、昨日まで不渡なりし」と。 「杜甫出すや否まだきまらず」と。 四條大宮へ出ず西院より乗車、12:00すぎ関大高校にゆけば末吉ゐず、校長食事中と待たす。 むっとしてあまり勤めたくなきこと云へば末吉の推薦者ぱーじとなりしためと。日曜理事会できまると也。すし奢られ別れ、江商の村田を訪へば「西店へかはりし」と。 地図4枚(46)買ひ藤井寺へゆけば大江叔母不在。祖父の命月と。田中の叔母ネクタイ3本たまふ。肥下へゆけば「畑忙し」と。むっとして出、21:30帰着。新城英太郎氏より怪ハガキ。 5月10日 雨、終日事なし。カードつまりてふらふらとなる。 わがおもひとどかずあるか山霧らひひねもす雨降りながかた見えず。 5月11日 「西田夫人きのふ家賃値上めいたこと云ひし」と。午すぎ(※京都)大学へゆき『東洋史研究』に89払ひ、桑原氏訪へば留守。藤枝も留守。吉野書房へゆき茶ふるまはれて帰り下総町によれば母ゐず。 『字源』『和英辞典』もち帰る。(けふ岩波文庫『愚管抄』『春雨物語』買ふ)。 夕方羽田にゆき山木氏にもことわり家賃値上に応ずることとす。23:00田村君より電話。 大したことなかりしも西田夫人に掴まり「いつ出るや」と問はれ「昭夫君と相談せん」といふ。 5月12日 7:20にて彦根にゆく。開学式にて在学生の挨拶にancient regimeを打破せよといふ、面白し。まんじう貰ひ、12:29に乗り宮川助教授と話し、土曜の講義を日曜にかへなば引受けんと云はせ京都駅にて喫茶。 市電に乗り研究所にゆき宇都宮教授と話す。「再来年位来よ」と。貝塚邸なる藤枝を訪へばルソーの会。野田、桑原二先生もあり。ともに出て野田氏と同車、帰れば「和田先生還暦記念論叢に書け」と(12月まで)。 けふ学校へ彦根[の]岩崎昭弥の手紙。夕方電話「淺野晃14日夕方、京へ来らん」と。 5月13日 ひる家を出て吉野書房にゆき、うどん奢らる。辻政信『15対1』借りて出、東山にゆき将軍塚にゆく。帰れば末吉より電報「15ヒヒル来ヨ」と。佐藤誠来りて帰りしと。 わが友の画きし山に似たる山見つつ坐りてゐたるひととき。 5月14日(日) 東洋史参考書目作らんとして午前中すごし、午後羽田にゆきしも留守と思ひ引返し、17:00ゆきがけに寄り、一寸話し吉野書房にゆけば保田、栢木二君あり。 すき焼し、21:00着の浅野氏迎へにゆく。我を覚えて喜び握手。御所前の宿屋にゆき24:00まで話し帰れば1:30。終戦前後とジャバ紀書けとすすむ。 酣燈社は『15対1』の5万部で芽を吹きしと。けふ佐藤誠へ詫びのハガキ。 5月15日 10:00まへ家を出て関大(※関大高校)にゆけば12:00。校長「しばらく来てもらふ」と云ふ。教科書もまだ買はせず止むを得ず漫談3時間、疲る。校前の教科書屋へ注文にゆき末吉と出て喫茶。 平田氏よりバンド貰ふ、時価1200と。家へつけば19:00。 5月16日 彦根へ出勤。河村校長と話す。つけば1時間あり。時間つぶしに●せしあとは着授業。 程度低し。午後も川崎君と話してのち7-8時限の講義。すませて17:40の汽車にのり20:30帰宅。疲る。 けふ八木嬢よりハガキ。三輪の内山●●青年チブスで死にしと。岡村工業科教務主任より「土曜の時間変更出来ず」と。 5月17日 大阪へゆけば始業に間に合ふ。末吉ひるまで来ず、生徒怠け者にてやる気なくいやなり。 事務に旦とかいふ詩人あり、来る。5時間すまし末吉とともに出る。 けふきのふにて彦根大阪間の定期そろふ(900+680)。八木嬢へ返事。吉野書房にゆき校正直し浅野晃氏のこときけば「20日上洛、いま大和」と。 5月18日 11:45より授業、いよいよいやになる。3時間すませて早々帰る。 かのひとみわがためもえし日ありきといふ思ひしてひとりたびゆく。 5月19日 10:55より授業とてゆけば天六にて硲君に会ふ。「28日結婚」と。近所の芳村君とで昭和16年の東洋史卒業生の古本屋に案内さる。 授業すませて帰着16:30。八木嬢より「24日頃講習をかねて来る」と。 5月20日 汽車にきちきちにゆく。工業科へゆき1時間ほど待ちて開講、30名ほど、割合おとなし。 帰り雨ひどき中を吉野書房にゆけば浅野氏まだ来ず、疲れをいひて帰る。けふ工藤先生より本返送を受く。 5月21日(日) 浅野晃けふ北海道へ帰ると。送らず。 大河のながれに風の吹きわたりさざなみ立つを見ればくるしも。 父母のあるひはむすぶえにしかとゑらびしをのこつかれ眠りし。 うたつくるひまもたぬ子とゆくときしつかれしわれもあくびせしはや。 川崎不在。下総町へゆけば父ココアをのまし呉る。森一輸入商につとむと。健、今朝帰りしと。 わがためにもえしまなこのとづる日をおもへばながく生きたくもなし。 5月22日 13:00よりの授業とて1:00まで家にゐる。『日本詩人』来る。わが「コギトの思ひ出」のす。誤植だらけなり。3時間やり末吉とともに出て帰る。サラリー25日すぎと。 わが心時にしほたれ死をおもふかかるさがをば母やさづけし。 きそ見てしかのひとみをば丘のべの青き花にぞたぐへておもふ。 うなだれてつつみのみちをゆきしとき青く小さく咲きし花はも。 京(※三女)の百日咳ひどし。 5月23日 出勤。車中、石山のドクターと話す。図書館長佐藤教授と話す。学校図書館のありかたについて訊ねられし也。大学新聞に記事のる。午後の授業短く切り古本屋。 『楊貴妃とクレオパトラ(60)』内山完造『おなじ血の流れの友よ(10!)』辻『日支文化の交流(80)』。 けふサラリー呉る。税金調整690のみ。 5月24日 9:00「老兵の記録」書く、27枚。八木氏「26日くるやもしれず」と。彙文堂より笠間氏の本返事なく打切りと。彙文堂、東京東方学会へハガキ。 羽田にゆけば登校、吉野書房へゆく途中、下総町へ寄れば父のみ。歌稿かへし吉野書房にて奥西氏に原稿わたし、 引かへして河原町通の古本屋ひやかし烏丸の文学堂?にて梅原氏『東亜考古学概説(40)』買ひ、羽田に寄れば東京の話さまざま。 和田先生はじめより外山氏の気なりしと。桑田先生「将来博士になれる人でなければ駄目」といはれると。池内先生『清朝実話』3000にて東洋文庫へ入れられしと。 吉野書房へ一昨年原稿わたされ3校まで出しと。催促引受く。松本景気よく、川久保会へざりし、岩村忍いよいよ京都へ下ることとなり桑原、吉川二氏と仲好しと。 帰りて夕食、銭湯へゆき工藤好美先生、浅野晃氏へ信。 5月25日 9:00すぎ吉野書房へゆき前田氏を待ちて聞けば『満鮮古代史』は三上次男校正料1万円とりて出たら目せし様子。「とまれ出してくれ」といへば応と。 喜びて山前君へ詩もちゆけば不在。東山通歩き『佐保路(20)』買ひ、帰りて羽田にいふ。 中河与一より西太后のこと書くにつき参考書をと。(コルボオの大西卯一郎の店へ寄りし)。 けさ母来り、2000もちゆく。夏服のあつらへ店たのみおく。西田家へ500家賃追加としてもちゆけば喜びて7、8月までよからんと。中河与一へ返信(※リンク:管理人所蔵)。 5月26日 出勤の電車で話しかけしは山本治雄、けふ上京、30日彦根の裁判にゆくと。梅田で別る。 登校、サラリーいつ出るかときけば出ずと。1Aで大説教。帰りのバスで内田吟風氏に会ふ。八木氏来りをり、泊まらずといひしが嘔気とて泊める。小林英俊氏よりハガキ。夫人病気なりしと。 5月27日 雨。彦根の工科へゆく。生徒たちに割と評判よろしきらし。近藤助教授と同行、平凡人。セファランチン錠のこと石山のドクターに教はる。北支で軍属(大佐級)たりし篠田博士の話面白し。 12:00まへ止めて帰り依田義賢の脚本たる「婦人科医の告白」見る。 5月28日(日) 依子弓子に八木嬢へのハガキ書かす。昼寝。17:00すぎ悠紀子と三女と大宮通へゆき火事に会ふ。夏上衣をさがし鞍馬口でトロピカル1450といふを1400にさせて買ふ。 5月29日 関大へ13:00ゆく途、吉野書房へより「祖国」6月号5冊もらふ。校長14日付辞令呉れる。月給まだ出ずとて末吉に怒り平田氏より3000もらふ。 帰り古本屋にゆき有高巖『中国社会史(70)』『東洋の家と官僚(60)』とを買ひ、すし屋にゆき末吉に1000返し平田氏に「祖国」1冊与へて帰る。月原橙一郎氏よりなつかしと手紙。 5月30日 出勤。石山のドクターにゲーテ(※『ゲーテ詩集』)1冊。喜多村、広瀬、井之口三教授と話し、ひる[おらす]を家政科女先生より賜はる。山本の弁護ききにゆきしにいまだ来ず、 尾末町の官舎見にゆき階下使用ときめ赤塚講師夫人に挨拶す。帰り山本と同車、話しながら帰る。 けふ『朝日年鑑昭和20年(20)』『マライ史(50)』『蘭領印度史(35)』買ふ。 5月31日 関大(※関大高校)。3年生叱る。12:00すみ昼食後阪大にゆき桑田六郎博士にお会ひし方豪氏の論文返却。懐徳堂の本の整理しをられたり。ともに外に出てお別れ。 羽田に参りしに池内先生三上次男に味方さると。「くれなゐ」来る、つまらず。 6月1日 あさ弓子みそ汁で火傷す。休むつもりなりしもうるさくて出しに金忘れ、梅田より歩く。 月原橙一郎へハガキ。末吉に100借る。散髪す。八木嬢よりゆき子と二女にハガキ。 関大月曜休み。水曜も休みかしれず、金曜休みと、ありがたし。 6月2日 10:00家を出しはずが11:00なりしと吉野書房で判明。13:20の汽車まで待つ。羽田と前田氏の会見のこと高鳥氏にたのむ。 15:10短大にゆき身体検査を受けしこととなり正法寺の小林師を訪ひ泊めてもらふ。 夜、選挙運動中の小学校の3先生来る。話して笑はす。夕方よりまた雨。 6月3日 歩いて工科へゆけば3、4時限生徒大会で休みと。河村[専]太郎居合はせしにより教務への抗議を托す。彼は生徒に反対なれば問題複雑とならん。 川堤を歩きて学芸科へゆき教務の女子より飴もらひ松村先生まちしに来られず。 11:57にのりて石山下車。三木正浩氏を訪へば(※三木)為堂先生あり。73才と、浪中の話をし、次の汽車にて帰洛。 八木嬢のハガキあり、富永地誌目録出したく一度来ると。細川書店より「現代詩」。けふ彦根にて『論語(20)』。 疲れたる眼をしたるをのこゆゑきみがひとみを避けんとはする。 6月4日(日) 硲君、新婦ひさ子氏をつれて挨拶に。12:05来る。昼食ごち走し羽田へ案内して別れコルボオの会へゆく。大浜君来らず、高橋君のみ。 天理のハイネ2冊返すことたのみ八木嬢へあきの時間見せることたのむ。 帰れば矢野峰人先生よりハガキ、転居したまひしと。 6月5日 関大休み。矢野先生をお訪ねすれば御不在。京大へゆき田村博士に挨拶、桑原氏は不在、彙文堂へゆく。図書集成の二十四史1.6万円と『異民族の支那統治(40)』買ふ。 満文書●しあり、既に売れしと。 吉野書房へゆき前田氏の帰り待ち、三上氏のハガキ見る。水木金の夜ならよしと。 矢野先生へ参ればいろいろお話あり。こちらもいろいろ申上ぐ。 史、下総町へゆかせれば米もなく金もなし。大野木、大山当選、共産党を非合法にする●ある様子。夜、高鳥君より電話、校正初校は向ふで見ると。 6月6日 彦根へ出勤。午後の授業を5時間目にくり上げ7時間目放棄して帰る。15:30の汽車なり。 本位田昇より法務●裁官房情報課長となり東京へ転居と通知あり。 マクアーサー日共中央執行委員22名を追放す。 6月7日 関大(※関大高校)へゆけば試験監督。すみて12:30平田氏より移転費5000借り山本の事務所へゆけば不在。筒井に会へば林叔母だめなりしと。『家畜系統史(45)』買ひて帰る。 竹内好より不景気と。八木嬢より土曜夕方来ると。悠紀子にトラックの交渉にゆかす。(吉野書房にゆけば前田社長十二指腸と。明日19:00ときめて羽田に云ふ。) 6月8日 関大へゆく。日曜石浜先生の会あり、わがこと云へば佐藤誠座にありよろしくと云ひしと。 雨降り出しすぐ帰り、18:30吉野書房へゆく。19:30羽田来るまで書籍会社と一座、 羽田よひていろいろ説教す。スマトラより帰りてわれまだ変なりしと、松本か川久保の話ならん。23:30円タクおごってもらひ帰る。運送屋来り、積合せゆゑ土曜に荷造りに来ると。 6月9日 9:00起き11:10で彦根へゆき俸給もらひ事務にことわって明後日公舎へ入ることいひ小使一人たのみ尾末町へゆき赤塚夫人にもいふ(上田講師に来たのむ)。 帰り羽田へ寄り夫人に挨拶。夕食後銭湯にゆくみち羽田先生にお会ひし御挨拶。 6月10日 工科へ講義にゆく。いつもの通り篠田先生のお話伺ひ乍ら近藤氏とゆく。河村[専]太郎無能と生徒より排斥されしと。その河村君グタグタ云ひたるにいやになり講義すませてすぐ帰る。 八木嬢17:30来宅、その前に運送屋来り、きれいに荷造りしてくれる。羽田家、西田家より餞別に御馳走賜はる。富永氏に地誌目録につき書く。近ごろ子供出来しと。けふ上京郵便局へ転居通知。 6月11日(日) 6:00起床、8:00すぎ運送屋来り荷造りし呉る。われ八木嬢と障子張り。父母来り、母に1000貸す。9:30出て羽田に寄り夫人に送ってもらふ。史の友3人も来る。 京都駅へゆけば10:10にて1時間待ち熱海行にのり彦根につけば丁度トラック来る。 赤塚氏も手伝ひくれて荷卸し完了。八木嬢15:31にて帰る。夜、赤塚氏夫妻に夕食たべてもらふ。彦根郵便局に転居通知かく。 さざなみの社たとなり住む家にきみも来りて住めといひしか。 (トラック代2500チップ300)。羽田、小林英俊、井上多喜三郎氏にハガキ。 6月12日 雨。8:53に乗って大阪。3年生にけふはやられる。16:30にのって帰る。 けふ昌三叔父を十合梅田店に訪ねしが不在。転居のこと置手紙にす。「不二」来る。政治的にていやなり。 埜本君より歌の受取、みな学校へ来しを宮川君とどけ呉れしと。学校は西小学[と]西中学にて明日より生けると。馬場事務、小使の手伝ひをたのむを忘れしと。けふ小使米(100)もち来りてわかる。 6月13日 「くれなゐ」「不二」桜井郵便局へ転居通知。前田隆一氏へ同。 出勤。移転届を出す。授業来週より8:35はじまりとなる。5-6限の世界文化史の途中「もっとゆっくりやってくれ」との声あり。失礼咎めて打切ればあとであやまりに来し。 本棚一つ組立てしのみ。本位田、竹内へ転居通知。子ら明日より登校と。 6月14日 6:09にのるため5:00起き、行けば1時間早し。帰り16:00にのれし。八木嬢と父より初便り(彦根のポストの)。大浜君来たしと云ひしと。 6月15日 関大へゆく。14:30すみて山本治雄の事務所にゆき転居のこといひ地下鉄にて田村春雄にゆく。今夜ゆくと約し、 女医氏より百日咳は100日かかる由ききて退去(梅田の古本屋にて50にて見付けし「楊貴妃とクレオパトラ」与へし)。 大江へゆく途中、大鉄百貨店にてみやげ買ひゆけば大江の女児5ヶ月にてガラガラ喜ぶ。叔母より3000借り夕食よばれ、難波店長龍氏に紹介状もらひ田村にゆけば21:00、入浴してすぐ眠る。7月また東上と。 6月16日 春雄とともに出、アベノ橋で別れ十合にゆきポーラズボン(※不詳)900にまけてもらひ古本5冊100にて買ひ上洛、吉野書房にゆく。奥西保氏のみ。荷物預けて下総町、500返してもらひ、 昼食たうべてリアル書房にゆきコルボオ会に転居通知。松本文三郎『東洋文化の研究(100)』買ひ、また吉野書房にゆき「老兵の記録」の校正し(次は10の節)、16:15東京行にて帰宅。 八木嬢より二女へのハガキありしのみ。大江叔母へハガキ。 6月17日 矢野峰人先生へ転居通知。京都へより転居届し、「詩経」借り、図書館の話し、工科にゆきて講義、面会日を火曜15:00よりとす。13:00帰りて夕食すれば松村、篠田、喜多村三先生お越し、 喜多村先生のぞく二先生一汽車おくらさる。お帰りののち西中学校長、太田先生へ御挨拶にゆきおしゃべりす。 6月18日(日) 8:50にて京都へゆく。池内、石浜二先生と岩崎昭弥氏に転居通知。 しのわけて高きにのぼりよろこべるきみがおもわをわれはめかれず。 たたかひにたふれしひとのはかどころ歩みて思ふきみがはらから。 利瑪竇(※マテオ=リッチ)伝(Pfister)写し入手。 6月19日 転居通知。上京郵便局長、硲晃、旗田、早川、原、服部、羽倉の諸氏へ。 関大へ、事なし。16:00の汽車にて帰る。「ワーズワース詩集(※児玉實用訳)」送り来る。 6月20日 雨、登校、事なし。手当土曜にくれると。夜「老兵の記録」書く。 6月21日 関大、末吉に後任見つけよと云ふ。帰りの電車で吉野書房前田社長に会ひ保田来るときく。 けふ関大にて「老兵の記録」25枚とせしゆゑ奇縁なり。下総町にゆきおはぎ食べ母より500とり吉野書房へゆけば玉井君あり。保田東京よりの電話にて何時に来るや怪しと。18:30にのりて帰宅。 池内先生よりおハガキ。住吉区役所より戸籍記載書。 6月22日 彦根大雨の中を8:52にてゆけば京より雨止み大阪にては晴。運動会明日に延期となり授業。明日休むこと末吉にいふ。帰り芳村君の店にゆき『四書集註(40)』買ひ、 新京阪にてともに上洛、白鳥芳郎君と親友と。 吉野書房にゆけば保田出しあと。栢木君帰り来しを待ちて聞けば角川に行かざりしと。「老兵の記録」8月号は休ますかもしれずと。 18:32にて帰彦。笠井君大阪の市営住宅に入りしと。硲君土曜待つと。羽田夫人。服部正己、服部英次郎氏に会ひしと。けふ先日十合で買ひし古本5冊もち帰る。 6月23日 晴、運動会ありしならん。ひるすぎ行けば毎週月金は会食日と。月曜に会議ありと。サラリーもらひ赴任旅費(30600)もらふ。 大場磐雄『日本古文化序説(45)』ジャイルズ『支那文明史話(35)』買ひ85払ひて出る。 夕方散歩に出て清水盛光『支那社会の研究(135)』武内義雄『支那思想史(135)』買ひ、出れば川崎健史君に会ふ。夫人にパーマネントやらし大邸宅に住む。酒すすめられて帰る。 野間三郎と親友と。スマトラの写真多く見せらる。末吉へ月曜のことわり。堀、堀内、丹羽、健、寿一へ転居通知かく。 6月24日 9:00出て滋賀銀行にゆき30600受取る。白鳥庫吉先生『日本語の系統』買ふ。 一旦家に帰り悠紀子に27000わたして工科。生徒「今日はあまり名講義ならざりし」と云ふをきく。京都へゆく。暑し。硲君の新宅へゆき夕食とビールたまひ、 京都駅につけば21:44の汽車一歩まへに出てやむなく下総町にゆき泊る。 6月25日(日) 起きて8:00すぎ出て佐々木邦彦君を訪ふ。われに賜ふ画はいま広島で展覧会と。 野田又夫氏を訪ひ話し、水野清一『東亜考古学の発達』梅原末治『朝鮮古代の文化』ガウエン『アジア全史』(180)買ひ、佐々木君の画を見に大丸に寄り、 昼食すし食ひ(90)、汽車待ちに丸物にゆき「李太白」見つけて買ふ(50)。 13:20にのるに時間あまり省線電車にのりて往復す。帰れば留守中中村竹次郎来りしと。 彦女の教師なりしがやめていま進駐軍関係に働くと。笠井信夫、外山軍司、小川、相野へハガキ。中村を訪ね見しも留守。 6月26日 和田先生、角川書店へ転居通知。午後学校へゆき研究費図書費の件にて会合。宮川、田村二君を牽て転居祝。赤塚氏も加はって22:50まで。 けふ神田先生、金井、田村実造教授、田中城平、康平、坪井、筒井、辻、中山正善、宇都宮教授、上田嘉俊、野上弘へ転居通知。 6月27日 眠し。田村君と登校、2時間授業をし、事務馬場君に礼1500わたして退出。 金曜また教官会と。篠田先生へ土曜の挨拶状。川久保、中野清見へハガキ。京城陥落。 夜、評議員会とて21:30やっと5先生お越し。悠紀子赤塚夫人とともに仲居役! 6月28日 6:52に乗りてゆけば遅刻、原氏代りくれをる。ややして原夫人現はれ聞けば「骨髄腫とかにて三男絶望」と。春雄にききにゆくつもりなりしも止めて帰る。 他人事ながら悲しく哀れなり。新中3年生と。 わが心なれをおもひてゐるとしきかなしきことはきくにたえ得ず。 保田、桑原、工藤先生、中野博之へ転居通知。けふ芳村君にゆきGilesの『The travels of Fa-hsien (200)』買ふ。 6月29日 7:57で下阪、昌三叔父へゆけば「大江叔母よりきかず」と。康平叔父の長女来合せゐし。 山前、松本、藤枝、小高根太郎、河野、江口へ転居通知。平田氏より3000借用。芳村夫人よりHaberlandt『Die Haupt-Literaturen Des Orients(200)』を買ふ。 1年2年の英語試験問題作成。16:30平田、末吉二君とすしやにゆき2学期よりの辞職のこといひ吹田へ一寸降りしが思ひ直し京都19:40にのりて帰れば川村助教授の●問会とて騒し。 けふ原氏の三男足を切断されしと。(※小高根)二郎、寺島翁、杉浦、肥下、陽生、沢田、島、坂口、白鳥先生へ転居通知。 6月30日 協議会有耶無耶に終り川村君に却って好感もちし如し。腹立つ。篠田先生より諾の返事、堀内民一よりハガキ。「祖国」5冊来る。 12:30ゆきて会食の席にありし松村先生に川村氏のこといひ会計のこといひ滋賀大にゆき大畑学長に面会いへば仕事中と。 帰りて会議、文学15家政10ときまる。腹立ちて耐らず。田村君に5000貸す。井之口氏「夜、来て泊る」と。赤塚夫妻広島行と。 7月1日 「祖国」の受取出し、10:17で彦根口の工科。授業すませて帰り、お出で待つ。 金井君一軒立へ移りしと。八木「十日すぎ来よ」と。金井君「29日に女児出産」と。広瀬先生「御病気にて来られず」と。小川浩。 14:00すぎ篠田松村喜多村三先生お越し1000位の御馳走にて御機嫌よくお帰り。 中村竹次郎に行きしに来客とてあげず。ゲーテわたして帰る。井之口氏泊る。 7月2日(日) 井之口氏早朝帰る。大より「井上靖に会ひし」と。丹羽美佐子江口三五よりハガキ。 ひるまへ散髪(65)、正法寺の小林氏を訪ひ、まき3束と米2升とをもちて来てもらふ。焼酎少し御馳走し6:00辞去。 史、春雄の尋ね人県営住宅にありとしらべ来る。けふ佐藤誠へハガキ。 あぢさゐの咲く山かげのみちゆけばゆくへもしぬになれがこひしも。 なにゆゑに逢ひをこばみし指折りてかぞふるごときあひの永さは。 7月3日 8:53で大阪、試験前とて早々にすます。(梅田で鴎外『十人十話(50)』買ふ)。武本生と梅田まで歩き平田君に会ひ3人で喫茶(210)。 7月4日 彦根の授業。「秦始皇帝」「婦人」とをすましてうれし。宮本氏にワーズワースその他たのみ、帰れば中村竹次郎来り16:00ごろ再度来るといひし由。 久しぶりに風呂に入りたくなり銭湯へはじめてゆき帰れば中村君待ちゐる。 けふ西川よりハガキ。大江叔母より「金受取った。勉君東京へ転任」と手紙。夕方城内へ散歩 こもろなる城のほとりを歩きしはなれ知らぬ日のわれなりしかど。 長椅子にふたりならびて坐るをばねたむにあらずされどさぶしゑ。 7月5日 6:09で大阪。吹田で降りしに浪中の卒業生阿部平八郎にあふ。8年兵となり藤枝の死を見しと、土建やりをると。 登校。3時間やらされて退去。12:07京都、吉野書房にゆけば保田昨日東上、前田社長とともにと。下條氏(※下條康麿)をかついで早川須佐雄、旅行案内社をやりゐるとてその店員来りをる。 丹羽千年、小高根太郎よりハガキ。宮本氏よりコルボオ双書のこと。けふ借りし「文学界」6月号に島稔のことあり。 7月6日 6:09で大阪。また3時間試験監督。すませて昼食、芳村君にゆけば本なし。京都で降り山前君(※文童社)にゆき「ワーズワース」10冊と「詩堂」10冊と預かり、西瓜食って出る。 16:15に乗るため丸物にゆき『韓非子(30)』買ふ。(大阪で『太平天国史事論叢(40)』) 夕食後、宮本氏にゆき不在とて帰りかけ途で会ひ話して帰る。けふ羽倉、小高根二郎、陽生、広瀬浄慧先生よりハガキ。 7月7日 朝、小使来り、文化会費もち来る。島稔よりハガキ、ふしぎ。林叔母より学校へハガキ。17:30より文科会、つまらず。19:40にてみなみなお帰り。 7月8日 9:00学校へゆきサラリー工科へ届けてくれるやうたのみ、外へ出れば四巨頭に会ふ。松村先生きのふ大阪米原間往復されしと(よっぱらって)。 工科の授業終へ6700もらひて出、上洛。宇治の二郎氏に泊る。夕方より花火、鵜飼など見につれゆかる。 韓くにのたたかひのことくだくだとしるすをとめをいだき河見る。 この土に戦火もゆる日なとわれとすみひそむべき林はいづこ。 血にあえて死ぬるよそびとあはれともいはぬこころにわれはなりぬる。 7月9日(日) 田村春雄の先妻は今村治子氏にて大江の叔母の教へ子、今村阪大係長の嬢にして二郎夫人の従姉なること判明。 朝、ともに出て8:41宇治より乗り京都駅にて別る。山前君にゆけば不在。四條の古本屋みなのぞき丸善にて『十進分類法要目表』買ふ。すし昼食にたべ(100)、シュワ゛リエの「王様」見る、 おもしろし(60)。出て『孟子(30)』買ふ。依田氏にゆけば14:00、城 小碓(※じょうおうす)の詩集出来、200わたす。高橋君にきけば「佐藤誠、生●に怒って辞表提出せし」と。 19:40に井上氏とともにのりて帰る。神田博士、工藤先生よりおハガキ。大より角川へゆかんかと。 7月10日 6:09にのりしも京で止まりとなり10分ほどちこくして試験監督。英語を暗記物とする劣等生、不遜なるカンニング未遂、営業化せる学校、商売人の如き教師たちに別れ早く告げんとし、 校長に面会日ききしがきまらず。 末吉と喫茶後、帰り1組のみ採点。白鳥先生よりハガキ「東京へ呼びたし」と。 7月11日 家居。朝、研究費のことで大学へゆきしも事務会議で宮本氏と話して帰る。ひるね中、母来り怒りて帰る。坪井より美馬憲之のハガキ転送。寿一よりハガキ。 氷菓買ひ金借りに来し老いし母ことば足らねば怒りて帰る。 吾をめぐるひとびとすべて幸なくて世の末のごとはかなまるるも。 必修の採点終る。 7月12日 7:56で京都、大阪。関大へ採点表わたす。末吉、歴史の教師の書たる謄写版の教科書もち来り、検せよと。午後夕立。帰れば彦根も夕立なりしと。 わが心スコールのごと霽れてのちふくまぬさがはきみのみぞ知る。 ともに死ぬさだめならずと父母とわかれんことはさらにいはずも。 7月13日 朝食中、松村先生お越し「研究費のこと図書のことで学校へともに行かん」と。参れば用なく午まで退屈。午後切上げて帰り来る。近江詩人会につき小林氏へ日の問合せ。 ふしあはせになすをおそるるこのさがになじかはきみはわれを愛せし。 7月14日 答案の採点終る。朝、京都より速達回送、雲井書店より「楊貴妃とクレオパトラ」出したしと、諾と返す。羽倉より俣野に会ひしと。大阪市東区唐物町1の6隣邦貿易の常務取締役と。 美馬より返事、狂気せること明かとなる。夕方「支那の怪談」3枚を大毎のため書く、旨くゆかず。 7月15日 関大へ8:52でゆき採点表わたし大毎へゆきて原稿わたせしが埒明かず。『蘇東坡(80)』。 京都吉野書房へゆき前田氏と一寸はなせしのみ。カード作成は奥西保氏引受くと。 島稔よりハガキ。東洋史研究会よりハガキ。けふ末吉より「明日浪中同窓会」との案内受取る。 7月16日(日) 退屈して蔵書カード作る。夕方正法寺へゆき小林君と相談し22日14時より詩人会ときめ、案内状出す。けふ雲井書店より若杉慧『エデンの海』送り来る、面白し。けふ悠紀子300で本棚見つけ買ひ来る。 7月17日 来信「不二」。9:30より学芸部職員会。工学、女学ともに辞職中出でしと。喜多村先生慰留ときまる。すみて昼食、カードの注文受取り、本棚と本運び、長谷川嬢、研究室の係となる。 7月18日 9:00大学へゆき天理の出張の件いひ研究室で待つ。長谷川嬢大連育ちと、面白し。副手となるらし。11:00出張旅費1280をもらひ昼食して出発。(田中●好、寺島翁よりハガキ。 武田豊君より近江詩人会を喜ぶと。雲井書店より速達、原稿用紙送ると、少女向きにせよと云々)。 12:29で京都、吉野書房にゆき奥西保君にカードのことたのむ。(学報の見積たのむこと忘れし)。散髪して15:15にて天理へゆき金井君を訪へば帰らず。玉井君も同。 木下により夕食してのち八木家にゆき父母君、明子嬢に挨拶。二嬢(※八木嬢、妹明子)とともに出、傘借りて玉井君にゆき校正受取る。今月はのせずと。 金井君にゆき話し13:30床のべてもらふ。(彦根で小島悠馬『中国共産党』買ふ)。 7月19日 金井君とともに出、別れて大浜君にゆけば学校で泊りしと。ゆきて話せば来月上京と。 図書館にゆき方々挨拶しをる中、佐藤誠来る。やめて東京へ帰るといひつのる。明日小林高四郎氏来るとのことにうっかりと会ひたしといふ。よべの睡眠不足でだるくする中、 昼食たべしあと、全員われの歓迎コンパ、一寸うれし。 15:00すぎ出て養徳社に寄り天理時報にゆき瀧井氏に工務主任への紹介たのみきけば1頁120円と。(500部200頁ならば12万円)。 ただしいき忙して8月初に原稿わたさねばだめと。ここ切上げて出ればバス来るにのりて、桜井にゆき保田家にゆけば歓迎。 夫人妊娠にてはなきらし。少女双書の企劃いふ。われはナイチンゲールを書き孔明を書けと。東京で淀野はじめわが収入で不足いはば可怪といひをると。父上叔母君で40万円医療費に要せしと。 夕食よばれ西窪氏にゆけば再婚せし模様、早々いとまつげ阪口君にゆけば職員会議と。電話かければ入れちがひに帰り来る。 来月6-16日の間に山前君に会はんと。 何事も旨くゆかず疲れて乗車、八木で降り貧相なる宿に泊る(300)。 7月20日 起きて女中にチップ100やり早々藤井寺にゆき、叔母にいろいろ話す。勉、東京へふさ子つれてゆき赤ん坊のこしゐたり。昼食たうべて300借りて出れば15:00に天理図書館着、 小林氏来りをらず、佐藤君と話し中村幸彦と話して16:00退出。 支那そばと西瓜よばれ(短大にて入浴、大浜君も奥村氏の意向伝へ大体佐藤君即時退職翻意)、八木嬢に依子への手紙ことづかり(大浜君、短大の教師を八木嬢に斡旋せんと。 佐藤君めでたけれどかなしと)、シャツの乾かしたのみ木堂へゆき夫人のもてなし受け19:00退去。(八木嬢シャツもち来り呉る。明子君わがカッターシャツをこさへ呉ると)。 本部前にて別れ金井君にゆきいろいろ話して泊る。 7月21日 8:00出て天理駅で金井君と別れ、吉野書房にゆけば皆あり。午までゐてカード見積させれば1.50-1.40、1.70-1.80と。紀要の見積もたのみ25,6日頃来るといひて出る。 ナイチンゲール編輯費として500円もらひし。 年わかきをとこ友どちいざなひは来りし時はくやしとぞのる。 帰りの汽車で川村仙太郎とともになり。アイスクリームたべさし結局松村先生の悪口ききて別る。留守中、田村春雄の便りありしのみ。けふ彙文堂にて斎藤勇『杜甫(100)』、 小野重朗『琉球文学(40)』、梁啓超『清代学術概論(30)』、長澤規矩也『支那書籍解題(100)』買ひて帰る。 7月22日 俸給日とて登校、喜多村校長に退職をとめる。(保健所にゆきレントゲン。あけぼの書店にゆきHistorian’s history他へ売りしとのことに怒り、寺義司書をやっつけることとす)。 井之口、宮川二君のみ。カード写してことわらんと、結構なり。紀要も井之口氏やると。 帰りて14:00に武田豊君来訪、小林英俊氏も来り、近江詩人会の下相談。16:30井上多喜三郎氏来り、本[決]りとなる。20:00駅まで送り出す。 7月23日(日) 11:00ごろより発熱、寒くなったりあつくなったりして臥床。37-38度を上下す。 7月24日 金井、保田、佐藤と大和諸友にハガキ。武田豊君よりハガキ。登校まへ西中へゆく史の担任を見る。若く下手な教師なり。松村先生にいろいろ申上げて12:30帰宅。 (雨森芳洲と海覚のことわれにやれと也)。夕方中村竹次郎君にゆき、ためしにナイチンゲールのこといひ出しに打ちきり貸し給はる。雲井書店へ原稿用紙の受取。 7月25日 保田へナイチンゲールのこと。朝より「老兵の記録」のつづき書く。末吉ら来ず。羽田夫人よりゆき子へ。杉森久英より文芸の編輯やめ単行本へ廻りしと。澤田直也より。羽田へハガキ。 午後学校へゆき宮本君と話す。「小説新潮」借りて来てよむ。 7月26日 末吉来るかと思ひしが来ず。ひるまへ電話かかり協議会へ来よと。すでに協議員となりゐしと。発言せず新教官採用に白紙を投じて14:00ごろ帰る。 工科の西山、岡村二教官に先輩とて挨拶せし。ボール紙でカード箱こさふ。 7月27日 末吉来ず。埜中君よりハガキ。「くれなゐ」おくれしと。夕方石島博士へ組合票とりにゆき腎臓結石との先生と話す。旅順にて軍医をし、終戦に逢ひし話面白し。22:30大風の中を帰る。 7月28日 雨の間を見て登校、京都行の定期代もらひ長尾君と話して帰る。夕方川崎君にゆけば税吏と宴会と。 7月29日 8:52で京都行。吉野書房にゆけば清水文雄氏来合はす。宮山氏の弟に来てもらひカード。紀要の見積もらふ。(名刺こさへてもらひし)。15:30出て羽田にゆけば帰らず。 やや待ちて夫人と話し、18:00出て●にのり彦根に帰れば宮本正●君来て待ちゐる。川崎君も野間六郎来たると呼びに来しと。宮本君と話してゆかず。 7月30日(日) 川崎君に電話すれば野間君と来ると。小喫後、雨中を釣にゆく。おみなる魚2尾釣り、帰りてひるね。両君釣りしを土産におきて帰りし由。八幡の錦織(※にしごり錦織恒夫:白羊)、 水野両氏より詩人会に入会申込。両氏へハガキ。善海よりハガキ。 7月31日 苗村の井上氏より申込と100。同氏へハガキ。10:00登校、朽木谷へ2日よりゆかんと。怪しげな応をなす。カードのこと吉野書房の宮山氏へたのむ。大4500、小6000。 8月1日 8:00出て上洛。石山寺にゆく。19:30(※現高島市)勝野の小川浩にゆき、若狭小浜にゆきし小川君を待ち、20:30帰りし小川君と1:00まで話す。 うみ青き岸べをゆけばスマトラのみずうみのことなぜか思ふも。 比良やまのふもとをゆきてわかれこし●なこおもへばうらがなしもよ。 8月2日 小川君と出て、9:30の電車にのれば松村、篠田両先生あり。川崎君もあり。朽木谷の興聖寺に入る。宮川君、井之口氏あはせて6人。みなみな仕事する様子なれど吾のみなくて退屈。 8月3日 朝、9:00出て朽木家にゆき宮川君の史料しらべ手伝ふ。貸出すこととなり宮川君よろこぶ。天文年代までのもの多くありし。10:50のバスにのり安曇着。1時間まちて今津へ(25)。 ここより木之本行のバス(100)。景色よし。木之本にてまた1時間待ち、生れてはじめて北陸線にのり長浜下車。武田君を訪ひ、氷水御馳走となる。長浜にて申込者6名ありと。 帰宅すれば金井君より書類。羽田、八木嬢、硲君より4日に来ると。(悠紀子5日にしてくれといひしと)。俊子姉より2姫来らしむと。果して雷雨の中を来る。船越章、放送協会を赤(※レッドパージ)にてくびとなりしと。 8月4日 末吉、高橋輝雄氏へハガキ。錦織氏へ受取。大学へゆけば記者来り、研究調査状況を聞く。リアル書房より本つく。図書館の引越し、帰りてひるねすれば17:00篠田先生お越し19:00松原へゆかる。 20:00お越しの萩原博士とゆき座談会に出る。23:30二先生とともに帰る。(けふきけば滋賀新聞に近江詩人会のこと出しと。) 8月5日 両先生を送り出して登学。松村先生に会ひ金井君のこと申上ぐ。脈ありさうなり。 帰れば健、男児出来て順と命名せしと。硲君十日来ると。昼寝す。 夕方、水野清一氏より速達にて原稿、長谷川、宮村二嬢来り、史とともに英語のレッスン。中村竹次郎君来り、9日金剛輪寺で時局談をせよと。明日確答すと約束す。 8月6日(日) 「くれなゐ」の歌三首を封し、12:29で京都、コルボオの会。井上氏すでに近江詩人会のこと披露と。安藤君の詩、面白く刷り直しとなる。11日山前君来るやもしれずと。19:40で井上氏と同車、帰り来る。ハガキ来ず。 8月7日 7:57で上洛、吉野書房にゆけばカードの見積などなしと宮山氏の弁。次の紀要のオトリのカードの安値すること判明。19:00帰る途、川崎、宮川二氏に会ふ。宮川君家まで来る。 中川[五]次氏より入会申込。公舎の契約書に印押さされしと。 8月8日 学校より電話、9:30より評議会と。萩原博士、工学長、松村先生学芸部長となり喜多村先生厚生補導部長をやめらる。公舎の家賃の外に税金多くかかる模様。帰り長尾君に誘はれ堀女史、 松林嬢とヨット。風なくあつきのみ、早く切上げ家へ伴ひ来る。夕方より英語のレッスン。すみて「御在所山」買ひにゆく。 8月9日 散髪し、17:00誘ひに来し中村竹次郎君と近江鉄道豊野下車。秦川村の金剛輪寺に至る。天台宗の大寺なり。22:00ごろより講演会とて「絶対平和論序説」となへ1:00帰りて泊る。 (燈籠に「涼風に乗りて来ますや仏たち」) 8月10日 9:30よりまたはなし、すみて座談会に入れば正午すぎ「敵上陸すればいかにすべきか」の質問あり。終始感じよかりし。お礼もらひコルボオ双書を誠徳会長吉岡君に贈りてお寺を退出、 帰れば16:00、硲君まちくれをる。やや話し、19:40の汽車に送り出す途、うなぎを贈る(220)。宮村、長谷川二嬢来り待ちゐる。成子、純子あさって帰ると。 8月11日 史、案内して成子、純子を京都へやる。午後長浜の武田君、●木君来り、15:00小林、井上2氏来る。月刊誌を「Poets'School」とせんと。すみて小林、井上2君と美粧院へゆき夕食よばれて帰る。 けふ末吉より、来る機会なく金送らんと。八木嬢より伊勢へ行くと称して姉妹2日泊りにて14日来ると。咲耶より悠紀子へあやきりにゆくべしと。 8月12日 学校へゆきしも事なし。帰り石田『食糧の東西(60)』、白秋『まざあぐうす(25)』、西鶴『武家義理物語(30)』買ひ、昼食後、綜合グラウンドへ野球見にゆく。 杉浦より8月末北海道へ移住すと。八木嬢より甲府へゆく途、寄ると。金井君よりいつでも来れと。夕方英語のレッスン。 8月13日(日) 10:57で京都、羽田へゆけば在宅、先生入院と。「還暦記念論叢」明后日までにつき立てかへ呉ると。山前君にゆき「Poets'School」たのむ。1000円にて16日までに作り呉ると。 8月14日 9:16で八木嬢、あき子2嬢来る。われ文科会とてゆく。岩崎昭弥君来り、河村専太郎のため助手になれずと。松村先生にご紹介す。12:30帰り昼食後ともに松原海岸にゆく。夕方、京下痢と。 けふ井上氏よりハガキ。佐藤誠君、八木嬢に手紙托し、月末来ると。 8月15日 10:00竹生島ゆきに八木姉妹と乗る。依子たちゆけずとて恨む。桃山時代の代表的建築との弁天堂見しのみにて乗船、帰りつく。明日6:00発といふを9:16にかへさす。井上氏よりケイサツへの届けのこと。 8月16日 八木君たち9:16にのるを送りにゆく。電報同君義兄御木氏に打ち、詩の会の案内状20通出す。ひるすぎ高校生来り、八日市高校の生徒のために詩人会のこと訊ねる。 俊三郎叔父来り2000貸せと。有金全部を与へ砂糖3斤与へ帰ってもらふ。岩崎君来り、今夕多景島へゆかぬかと。蛇こわしと断りさまざま話す。 8月17日 昼食後12:29で上洛、東方文化へゆけば藤枝不在。東洋史研究室へゆきしも無人。17:00藤枝に「羽田博士還暦記念論叢」代800わたし、宇都宮、入矢、内田吟風の諸氏と話し、 「東洋学報」2冊(110)買ひ、カバトン買ひ(35)、山前君にゆき「Poets'School」50冊受けとり、ともに出て氷西瓜食ひて19:40にのり帰宅。 8月18日 午前中に朝日、彦根夕刊、滋賀新聞、中部日本と新聞社を歴訪、20日の会のことのせてくれとたのむ(1冊づつ「Poets'School」わたす)。羽田、小川へハガキ。 河出へ「現代詩大系」の問合せの返事。夕方正法寺の小林氏にゆき、1冊わたし西瓜もらひて帰る。(町中に来てわりし)。下村海南『8.15事件』買ふ。 8月19日 錦織君より欠席と。宮川君昼まへ来り25日より3日間中野(八日市隣)の天理教会へ泊りがけにゆくべしと。昼食与へて帰らしむ。八木嬢より甲府からの便り。 16:00頃岩崎昭弥君5人ばかりつれて来る。中に蓑田君この間の戯曲につぎ小説もち来る。 8月20日(日) 午前中学校へゆき掲示板を書いてもらひ、張り、引返し硲君のハガキ受取る。12:00まへ山前、天野忠の二君来り、ついで続々と来るらしきに、さきに出て学校へゆく。 14:00、20人となり(※近江詩人会の)開会。うまく行かざれど17:00すみ、ビールをのみて駅まで送る。この次も彦根で我家にてやる由。 8月21日 雨のはれま9:00すぎ出て滋賀新聞支局にゆき佐田嬢を訪ね(留守)、木村保生氏へ伝言たのむ。登校、誰も来ず、11:00帰り高麗史地理をよみ時間つぶす。夜、岩崎君来り詩置きゆく。 阿部君興奮しゐるにつき23:00とらへてさとす。 8月22日 無事。天野忠よりハガキ。夕方、中村竹次郎にゆきしも不在。けふ入浴。 8月23日 登校。13:00エフ協議会と。研究室できて間に中野村の研究の打合せ傍聴。滋賀新聞の佐田嬢来り50円置き、松村先生より上田敏かりてゆく。長谷川嬢ミルク賜ふ。協議会つまらず、 すみて永沢先生に岩崎君のことたのむ。帰れば赤塚氏夕食たまふと。(けさボーナス1013もらふ)。阿部君と3人にてたべ終れば中村竹次郎君来りすぐ帰る。そのあと岩崎君来る。 8月24日 よべ夜半めざめて朝寝せしに予期通り八木嬢7:57で大垣より来り、起きて朝食後案内す。(子ら地蔵盆とて忙し)。金亀せんべいを土産にし彦根城より湖水を眺めて帰ることとなり、 昼食後13:55にのるを送る。精進湖でロマンチックなりしと。夕方散歩かたがた川崎君にゆけば留守、松本信広『印度支那の民族と文化』岩波『保元物語』『閑吟集』にて130円買ひて帰る。 けふ市民税の申告書く。(新井氏より14万円-1.8万円●との書類のみ送り来りし)。靴修繕400円。 8月25日 8:52にて下阪、関大へゆけば意外にも英語の講師見つかりしに、アダチ氏結核にてまた足らずなりしと。5000+2300もらひ、やむを得ず(※週)2日だけ来むといひて出、 山本の事務所にゆけば不在。ルシア書屋といふ古書屋にて石田幹之助『欧米における東洋学(100)』『公卿辞典(30)』買ひ市民病院へゆけば春雄不在、藤井寺にゆき叔父叔母と夕食。 くみ子分娩のため入院、勉近々子を引取ると。千草不平たらたらいひよこすと。(朝鮮地図買ふ)。中村治光にゆきビールのまされ説教して帰る。 8月26日 大江で朝食、出て市民病院にゆき、教授の送別会最中の教室にゆき、酔ゐし看護婦どもにナイチンゲール訊ねて埒あかず。やっと婦長より『新看護法(120)』買ひ「ナイチンゲール」借る。田村にゆき泊めてもらふ。 なつくさにまじりて咲けるひともとの青き花とぞなれをたぐへし。 おそなつの河原に下りて水かげにならぶふたつをうつしてぞ見る。 (春雄の前夫人は今村和子氏ならぬことききて唖然。) 8月27日(日) 朝寝し出しは11:00。東高安に着き梅岩寺へゆくみちで話しかけしは山口君。着けば埜中、池田の二君のみ。17:00まで飲み食ひ話し200払ひて帰り、吹田に下りて山本治雄にゆけば帰らず。 少しまちて20:02にのり京都駅にて待ちゐし20:47にのりて帰着。 三木為堂先生より詩一篇、佐々木邦彦、八木嬢、健、村田幸三郎よりハガキ。 とこしへにかはらじといひなれがめゆすなはち泪わくを見たりし。 8月28日 昼まで寝、12:29にて上洛。吉野書房へゆけば「祖国」けふ出来ると。カードの催促宮山君にたのみ、7(※質屋)にゆけば来月末までよしと。アテネ文庫『哲学小字典』買ひ、 百万遍にゆき『吉野(20)』『飛鳥路(30)』『大和の古墳墓(50)』内藤湖南『日本文化史研究(120)』、禰津正志『印度支那の原始文明』クローバー『フィリッピン民族誌』『大東亜地理民族学』(140)買ひ、 山前君にゆき500払ひ、『キンダーブック』買ひ、18:30にのり八幡より中野の天理教会にゆき座談会きく。24:00までかかりねむし。 8月29日 昨夜車2:00ごろ史料●帰来、それより寝につけば篠田先生嘔吐。朝食後、村役場にゆき戸籍簿見しも宿を特殊部落とまちがへしことわかり無駄となる。 14:14にて八日市発、先帰り(中野の古本屋にて『おあむ物語(20)』『甘肅西藏邊疆地帯の民族(30)』)。筑摩書房より来りし『私たちの詩集』と伊藤佐喜雄のハガキ見る。 萩原先生来られ阿部君のこと篠田先生にいへと。 18:30井上多喜三郎氏来訪。話す中、篠田先生見えともに夕食差上ぐ。井上氏子らにと人形5[体]たまはる。八幡の講演20日すぎと。阿部君品行あしく学費見込なき変●者なるらし。 8月30日 9:00篠田先生送り出して10:30登校。阿部君に篠田先生のこといひ、しばらくして工専の卒業者2人来り、工業科のことに干渉せざるやう松村、喜多村二先生へ伝言せよと。 萩原博士へも不満ありと、いいかげんにして帰らす。昼食して寝、夕方まで読書、帰られし篠田先生と話す中、家政科の中島馬場二嬢来り夕食手伝ふ。そのあと長谷川、宮本二嬢来り英語。 長谷川嬢9月より会計にかはるにつき出来ずと。宮本君来り赤塚氏をくはへて座談。宮本君バイ[し]て詩抄おきゆく。夜ふけ阿部君篠田先生に引導わたさる。 8月31日 9:00篠田先生し市役所、松原の戸籍簿うつす。15:00すまし望月美粧店で散髪、女史によろしくといひ、帰りて誕生日の御馳走にうなぎ食べ、中島馬場嬢と話す中、長谷川、 宮村二嬢来り英語のレッスン、これにて一先づ終りとなる。川崎君釣りし魚もち来くれしと。阿部君帰郷せしと。 9月1日 朝、篠田先生より宿泊費300たまはる。旅館の主しなりしと、おかし。 登校、4日に校歌選定委員会を開く旨、通知してもらふ(大橋、多田、湯次)。山本副手と話す。近々地理(奈良女子高等師範出)の田中副手発令とならんと。 帰途『道長日記(2冊60)』買ひ、ゆき子に130やりて飯びつ買はしむ。 午後城北小学のPTAでの篠田先生の講演ききにゆく。家政の2嫗うらめる色あり。滋賀新聞の佐田女史来りをる。 夕食後、地図(高宮、能登川)買ひに出る。 けふ島稔、井上多喜三郎氏よりハガキ。われ詩人会のハガキの外、三木先生、八木義雄氏に書き、末吉に辞意表明の速達す。 9月2日 雨。島稔へハガキ。雲井書店へ原稿料払ふや否やの問合せ、ことわりの一種なり。 午後、小林英俊氏2児つれて来訪。話す中、中村竹次郎君来る。記紀の近江関係記事のリスト作る。 けふ岩崎昭弥君訪ねしにまだ帰らずと。 9月3日(日) 朝、岩崎君来り、ラッキーストライク二箱呉る。保田にゆきしも不在なりしと。こないだ来し卒業生は川村専太郎のまはしものと。「くれなゐ」の会員さがしくれといひ、 近江詩人会会費2ヶ月分あづかる。6日頃来りて世話しくるとなり。昼ごろ帰してのち暴風。外べいなどに被害あり。赤塚夫人こ[はが]りて下り来る。夜、停電。 9月4日 9:30登校、学歌選定委員会の予定なりしが大橋教授より外、来られず。8日に流会とす。天理への研究出張申請せしも埒明かず、汽車電車不通のため誰も来ず、 やむなく13:00帰宅(けふより田中嬢副手として来る)、家にて貯金より1200引出し15:30にのれば学長と新任英語教授中島氏と。車中学長のお話伺ひつつゆく、面白し。中島氏、 石浜先生よりわが名ききをられたり。 18:00天理着。八木家へゆけば屋根とびしとて泊まれず金井君にゆき入浴。けふ出がけ「祖国」来る、浅野晃の「大和紀行」あり。 けさ出がけに「くれなゐ」へ歌6首と堀氏への「大和通信」1、2。日本詩壇へ「Poets' School」1冊送る。 9月5日 金井君と別れて富永館長を訪ね菓子を贈る。すでに登館と。追ひてゆけば八木嬢あらず、他はみなあり。挨拶後、利瑪竇(※マテオ・リッチ)せりかけしも中々進まず正午すぎ出て金井君と別れ養徳社で昼食。 松井君やめしと。館に帰りて閲覧室で読書。16:30、5冊借りて出、八木嬢の妹信子嬢の養家松井家にゆき夫人に挨拶、宿泊たのむ。 夕食後八木家へゆき礼のべ引返して3嬢(※八木嬢、妹明子、信子)に会ひ21:30より読書。目鼻つかず困る。 9月6日 よべ3:00までねられず。6:30起床。松井忠蔵氏わざわざ買ひ来たまひし、ちぬ鯛うまく食べて登館。マテオリッチだめとあきらめ愉快。ひるめし八木嬢にたまひ、 西村と出て佐藤氏留守宅にゆき、夫人といへば15日西下せんと。八木嬢世話せずよしといひしと。出て大浜氏へゆくみち八木嬢に会へば、松井氏安堵の父君病気とて帰られしと。 桜井へゆかんときめ大浜君に伝言たのみしも、あとにて気持かはり帰宅ときむ。八木家にて夕食にすし賜ふ。京都にて19:40の汽車となる。 帰れば塀なをり岩崎君けふ来て原稿受取り出し呉れし由。硲君、八木嬢のハガキ。堀場正夫氏よりハイネ出さんと。高鳥君より『祖国』の名まへ誤植のわび。『不二』影山氏の従軍記。 9月7日 7:00起きて朝食。また寝て12:00昼食。赤塚氏と話し「文芸新潮」かりてよみ夕食後、松井忠蔵、石谷、高鳥の諸氏にハガキかき、ポストへいれかたがた岩崎君にゆき、古本屋ひやかして帰る。 9月8日 9:00登校。松村先生に『おあむ物語』差上げ工学卒業生の伝言つたへ、金井君の履歴書わたし、昼食後協議会に出て学歌の選を発表す。首案は旧工学の校長先生なり。 17:00すみて月給と出張旅費ともらひて帰る。「Poets'School」に詩5篇。夕食後来りし岩崎君と受取りかき、17日の会大体ここときめ、散歩。 『わたしたちのことば』と地図3枚とを買ひて帰れば宮本君来り、喜多村先生辞意ありと。引留めよといふ。 9月9日 登校の途、『太閤記(50)』『蒙古と西支那(60)』買ひ、田中●さんより『近江』借りる。井之口氏のみ。萩原、宮本氏と話し工業科に手を焼く。 篠田先生来られねど阿部君解職となりし由。帰りて「Poets'School」の編輯をし、金井、小川浩二君のハガキ見る。小川君、本を近々送り来ると。八木嬢よりハガキ2枚、 失礼をわび来りしなり、気の毒なり。 夜、八幡高校の林君来り文学談してゆく。 9月10日(日) 10:57にて京都へ。バスにて井上氏とともになり依田君まへにて武田君とともになり、玄関にて矢野峰人先生、わが詩久しぶりにのりをり、高橋君のWunderhorn(※『少年の魔笛』)出来(200)、 コルボー双書代(330)払ひ「Poets'School」の原稿わたし、18:00京都駅着、伏見泊り。 9月11日 9:00伏見を出、吉野書房にゆく。宮山氏に電話せしめしが事明かず、12:00出て昼食。彙文堂へゆき鳥山喜一『満鮮文化史観(80)』、伊東恒治『北支蒙疆の住居(100)』、 今西龍『朝鮮史の栞(30)』買ひ、丸善へゆきしも本なく13:20にて帰宅。八木嬢へ本の受取り。 9月12日 登学まへまでノート作り。ゆきて2時間抗議。反響なきにがっかり。井之口氏の悪口、宮本君といひ(研究室近々分離と)、昼食後宮本君伴ひて帰り、話し、送り出してのち夕食。 岩崎君来り近江詩人会の案内状24通書き、文芸春秋10月号かりて送り出す。 9月13日 家居。台風九州へゆきしか、雨たびたび。八木嬢より父母るすにて台風を心配すと。金井、堀場二氏へハガキ。夕方散歩に出て『太平記(2冊60)』買ふ。 9月14日 家居、無為。『太平記』よむ。 9月15日 朝、登校。定期代の請求。京都、石田印刷所へ電話せしも要領を得ず。青木富太郎よりハガキ、珍し。すぐ返事かく。13:55にて膳所。三木為次郎先生訪ひしも留守。 喜多村先生訪ひきけば女学校長のみやめられると也。とまれお止めす。 けふ岩崎君にきけば川村専太郎、新聞記者を呼びて学長の悪口をもいひしと。帰れば留守中小林英俊氏来り、日曜会ありや否問ひゐしと。大よりハガキ。7月末にて失職、口あらばせわせよと。 9月16日 けふより滋賀新聞とれば工科のこと出をり河村老学長とやゆし、専太郎を弁護す、いやらし。工科にゆき授業、12:29にのり上洛。雨ややもよほしたれど大事なし。 山前君にゆき「Poets’School 2」受取り、19:40にのりて帰る途中、滋賀大の伊藤教授といふ人とのり合す。中村地平、宇都宮清吉、山下幸雄を教へしと。在台湾22年と。 折柄大正14年より台湾で育ちしといふ酔漢、話にわりこみ彦根着。けふきけば山中晴子やせゐしと。 とつぎ去り頬こけし子に会はん日はわがまなこをばいづくやるべき。 海こえて道ともに来し紅毛のひとを語りてこの子かなしも。 9月17日(日) 10:30岩崎君座布団もちて呉る。雨の中をはり紙4ヶ所。13:00まへよりポツリポツリ集り、計13人。茶菓出し合評。武田君面白し。 近江兄弟社へ21日5時の汽車にてゆき「詩とは何か」を話すことときまる。 9月18日 雨、岩崎君の蒲団とりに来しを機に出て、望月氏にテキスト渡してのち登学、(※資治)通鑑など運ぶ。松村先生わがままなり。帰りてノート作らんとせしが宮川君来るとて待つ。 19:00ごろ来る。けふ三木為堂、高橋輝雄氏よりハガキ。 9月19日 晴、宮川君とともに登学。講義2時間、年の誤を指摘されてうれし。午後すぐ帰る。みちで生田春月『ハイネ詩集(50)』買ふ。けふ短大の学生で「Poets’ School」観しといふが一人ありし。 吉田芳江氏にも一冊依子にもちゆかせし。八幡の錦織氏より礼状。 9月20日 6氏へ「Poets’School」郵送、登学。協議会。河村仙太郎内地留学。11日以後は今問題に関し解消と、先達ての卒業生の申入れをいひ、工科の不干渉について学長先生の意をただし、 11日以後に河村仙太郎の発言あらば責任とらすとの御説承り退去。 17:00来りし長尾君と話し18:50に送り出せしあと赤塚君と話す。 9月21日 9:00の汽車で上洛、吉野書房へゆけば初校出しあと。石田大成社に会へば今月末にカード出来と。13:30で帰彦。天野忠、島稔よりハガキ。 小林英俊氏と17:30の汽車にて近江八幡へゆき詩の会。詩とは何かを話し、とめてもらふ。 9月22日 9:00八幡図書館見学ののち10:30の汽車にて彦根に帰る。午後登学。萩原、広瀬、川崎、長尾、宮本、山下の諸氏と相談、川村仙太郎をやっつけることとし、散髪して帰り、 夕方岩崎昭弥君を訪ひしも不在。けふ山路愛山『足利尊氏(30)』買ふ。 9月23日 春分の日と。7:57で上洛、東山五條で狩野直喜『読書纂余』、浜田青陵『東亜文明の黎明』、新村出『南島記』、ローリンソン『印度及印度人史』(170)、 河原町三條で『源平盛衰記2冊(60)』買ひ、山前君に500払ひにゆく。佐々木邦彦君、絵具代と額縁代とにて1000で宜しいといひしと。 吉野書房に電話せしに校正すみしと。帰り駅で田中助手と一緒になり川崎君へ明日ゆくと伝言してもらふこととす。青木富太郎よりハガキ。大江叔母寄らずして帰るとハガキ。 9月24日(日) 8:30川崎君へゆき新聞社のこといひ、大橋教授訪ひ了解を求め、中村竹次郎へゆく。帰りて昼食後、彦根図書館を見にゆき、入浴。 けふ硲晃君より一度泊りに来よと。錦織恒夫氏へハガキ。 このさちのいまいくとせぞうきくさのはかなさ知る身たのまずといふ。 夜、岩崎君、箕田君を伴ひて来る。箕田君石鹸2ケ賜ふ。 9月25日 登校。工科へ電話かけてもらひドド君呼び話せば彦根報知へ提供の現場にゐしことを認め証人になるといふ。午後、地歴研究室かはりて疲れ、明日1、2時限休むといふ。 けふ宮野嬢に兄のこときけば彦根報知の記者と。松村先生、天理へゆかざりしと。新築官舎に入れるやもしれずと。 夕方、井上多喜三郎氏来る。夕食をともにし万一のとき滋賀新聞編集長などへの紹介たのむ。けふ山本書店へ本の注文せしむ。 9月26日 1、2時限休み、10:00登学。辰巳氏と話せば「公務員としての懲罰の理由にならずと、やむを得ぬと」なり。授業3、4限やり昼食後、ボヤボヤし長尾、 山下氏と打合せ、次いで萩原博士と打合せてのち懇話会開催。わが単独行動はやむなけれど文学部は代表として我、湯次、原女史の3人を選出し、明日学長に大学の自治を申入れんと。 帰りて夕食後、岩崎君にゆき事実確認書作り、そのあと城址の月見にゆく。守田、佐田などの女史たちおそろひ、太田守松、大橋夫人など居られしも中座して帰る。 9月27日 8:00工科へゆき百々(※どど)生まちしも来ず。図書館見しに石崎嬢わりあひよく分類しゐし。一度家へ帰り11:00出直し学長を探せば、佐藤、喜多村両教授と話しをらる。 昨日の要求書をかきなほすことを云ひ、一同のところにてゆきづまり、単独にてゆき岩崎君の報告とわが辞表と呈出、帰りて来し百々生のいやらしき報告を学長先生におわたしして退去。 萩原先生に後事托せしも音沙汰なく、夜、岩崎君来り「新彦根」に悪口書きしとてとりやめをたのむ。 けふ角川より近々金いくらか送る、残りは19000といひ来る、ふしぎ。 9月28日 早起きして「老兵の記録」書きしに9:00すぎ終る。うれしくて11:00家を出、岩崎君によれば専太郎二度来り、確認とり消せといひしと。念を押して出、吉野書房にゆけばみな不在。 カードたしかめにゆけば30日出来と。7(※質屋)にゆき480払ひ、佐々木邦彦君にゆき『早春の桂の山』もらひてうれし。野田又夫に寄れば不在。京都駅で持込料50払ひ、 彦根駅につけば百々生に見つかる。岩崎君の名あげしことを秘せよといふ。腹立ちて口論、物別れして帰れば、けふ二階で長尾、赤塚、山下3先生会せしと。松村、中島、二教授来られしと。 土曜を約されしと。赤塚氏と話し、近江根性に腹立ちて就寝。 9月29日 床にゐれば宇田嬢(※良子)より電話、やがて来り詩、見す。Gedichteなることいひてほむれば「人工流産」の詩のすと。父君仏印にゐし司政長官と。 帰りしあと中島和夫氏来りて懇々と説教す。腹立ちて耐らず。相対死は敵の思ふところ、神経衰弱よと。昼食後、思ひ返して15:40の汽車にてゆけば原女史あり。 「学長、専太郎はよき人間」と云はれしと。松村先生にゆき焼酎よばれ聞けば退職願は知事宛に書かずんばだめと。専太郎は自滅せん、旧工学校長は引止め運動ありしも退職認められしと。 喜ぶ色見せたまはず。中々老獪なり。公舎のことなどいはれ不快。漢文2学期よりもてと。いやな顔もせずに断り、21:51彦根着。 「くれなゐ」来る。けふ田村博士より東洋史参向書売捌きたのむと、不快。 9月30日 大江叔母、佐々木邦彦氏へハガキ。工業科にゆけば島津、司書にされるとてさわぎしと。萩原博士別室に呼び、わが思ひ通りになるゆゑ今しばらく耐へよと。 講義終へて駅にゆけば篠田博士来られ池田へゆくとて同行。きけば元凶は松村氏。学長は無能、十月末を期して退職せんと。思ふてもなきよきニュースなり。 長尾君にゆきて話し、夕食よばれて帰る。井上氏よりハガキ。 さむざむしみづうみわたる秋風に君わがふすまつくりたまれと。 けふ雲井書店より速達、不快なる内容、青木康次のあやめ池の病院探索されしと。 10月1日(日) 家居、赤塚君と話せしも手ごたへなし。午後カード作る。17:00ごろ岩崎君来る。「くれなゐ」渡し10月末まで待てといふ。そろそろ寒く火鉢入れそむ。 酒のまずをみないだかず早くねてながく生きんといひし友はも。 めぐらせる蓬生に啼く秋の虫いつまでふたりならびてあらむ。 10月2日 午前中無為。午後久しぶりに登学。通鑑綱目2冊借り出し懇談会に出る。協議会改革委員と紀要委員とを選びしのみ。われ双方とも票あり後者となる。長尾君さそひて帰り喫茶せしむ。 この会で有志として懇談会を招集せしことをわび、辞表の無効なりしことをいふ、不快。 10月3日 登校、4時間講義。カード到着。帰り学長先生に会へば21日の開学式までに片付けたまふと。阿部輝雄君の令兄来りて荷物片付ける。詩稿3通。 10月4日 ひるまへ登学。家政科生の料理を食べ、カードを分配し、王錫侯の字貫(和刻本)を中島利夫氏に見せてもらひ協議会。河村専太郎の隣に坐る。教官の免職は協議会の議なりと。 近江詩人会の原稿受取りを書き眠る。この二三日西遊記よむ。(けさ「くれなゐ」に歌二首と大和通信3、4)。 10月5日 雨、一日家居。佐田嬢、詩もち来るもかかあ殿会はさず。珍しきことなり。 10月6日 家居、「Poets’ School」の原稿まだ来る。小林君来る。午後岩崎君「新彦根」の記者をつれて来る。小説かへし評をいふ。 10月7日 9:00京都へゆき篠田先生に会ふ。嬢ちゃん「コルボオの会」へ来る由。地図帖140で見付けてくれたまひしと。工科すましサラリー受取り上洛。すし食ひて帰宅。けふ「祖国」来る。 誤植だらけなり。「西遊記」よみ終る。 10月8日(日) 9:00に上洛、臨川に寄り『京大漢籍目録(60)』買ひ、向ひで加藤先生(※加藤繁)『支那学草(70)』買ひ、散髪してゆけば気になりし篠田先生の令嬢まだ来られず。新城英太郎氏に会ふ。 14:30ごろ令嬢見え朗読きかれ、詩見せられしが下手なり。茸狩は田中冬二の都合で29日となる。近江詩人会に22日、佐々木氏に1000お礼として渡し篠田嬢の指導たのむ。 けふ山村順の詩集出来たり。高橋重臣、名古屋工大に口ありと。 10月9日 小高根二郎、高鳥賢司へハガキ。角川書店松原純一へハガキ。大へ(※就職の件で)西川(※英夫)の許へゆけと。 ひるまへ徳永嬢来り、短歌の近代性とレアリズムとにつき詰問す。父君龍谷大学の英文教授たりしと。登学し協議員選挙あるかと思ひしになく田村君を誘ひて帰宅、入浴す。夜、岩崎君来り建築界の内輪話す。 10月10日 登学。ノート検査2単位。午飯くって退却。佐々木邦彦氏よりハガキ、選挙の手紙送りしを喜ぶ旨。夕方岩崎昭弥君と近江詩人会の案内状21枚かきて話す。長谷川英子嬢より石鹸とするめ賜ふ。 10月11日 雨。協議会とてゆく。事なく島津協議員となりしらしきにおどろく(西山氏の代りとて出席と)。天理図書館より20周年18日と。関大生森田よりハガキ。 10月12日 久しぶりに晴。大よりハガキ、いま就職口ひとつありさうと。小川浩君より蘇峰送りしと。井上多喜三郎氏より小林氏に連絡をと。15:30正法寺までゆきしに稲刈中、たのみて松茸もらひて帰る。 10月13日 10:00の汽車にて上洛せんとせしも30分延着とて岩崎君にゆき助手殆ど脈なきことを云ふ。吉野書房にゆけば奥西君あり。「諸葛孔明」を書けと。「ナイチンゲール」とりやめうれし。 彙文堂へゆき『矢野仁一(450)朝鮮史(1500)三国志演義(150)』注文す。三木為次郎先生訪へば正治君いまだ入院と。休職となりしと。あやしきことなり。 石山にて井上多喜三郎氏へハガキ。帰れば角川より清算書。小高根二郎君より29日来たしと。堀内民一より歌集の批評をと。 けふ依子に吉田先生への手紙、史に宮村嬢への手紙もちゆかす。 10月14日 登学。篠田先生まちしも来られずと。工科の歩きノート検査。11:57にて上洛、丸物の古書を見る。宇治へ大久保からゆき小高根二郎訪ねしも不在。29日の会のこと報し19:57にのりて帰る。 青木富太郎、錦織恒夫、武田豊よりハガキ。 歌つくることも止めなん年老いし女のけはひするとひといふ。 冬近き山べを見れば泪おつとこはるのくにゆくすべもなし。 いましばししばしととどめ西山におつる日見ればいまはと去りぬ。 10月15日(日) 田村春雄より29日に来たしと。角川よりハイネ3冊と太宰治「斜陽」倉田百三「愛と認識との出発」村上菊一郎「悪の華」来る。 13:30長谷川、宮村二嬢来る。お汁粉くはし太宰、倉田さっそく与ふ。岩崎君来り、永沢氏に会ひしと。大東亜地図帖貸す。みな帰りしあと中村竹次郎君来り、 「近江人には本心あかすな、政治よりはなれ学問と教育に専心せよ」とすすめて帰る。「逍遥歌」松村先生のつづき作る。出たらめなり。 10月16日 雨。小高根二郎より29日に来ると。金井寅之助より18日来よと。井上多喜三郎より岩佐東一郎28日安土へ泊ると。 午後登学。小川浩より国民史着く。松村、川崎、宮川の三勇士、朽木へ映画とりにゆくと。学芸部の会で松村氏、篠田先生の後任見つけゐるに気付く。18日の協議会もなし。 けふ中島氏、阿波文庫の「日本寄語」見せらる、悪し。 けふ定期券代900円研究費よりの請求す。姫野氏の本のことみな我にかぶさる、ふしぎ(=不快)。けふより酣燈社のためハイネ清写す。外山軍司氏近々来ると。 10月17日 1月期終りの講義を文科で行ひ小川君の国民史購入の手続きをし、昼飯して帰らんとすれば外山軍司氏来訪。貝塚(※茂樹)さんと選挙せよとなり。 ともに出て家にともなひ城山にゆき帰りて茶のみ15:00の汽車にと駅へ送り鮎の折贈る。 篠田先生、喧嘩早き由。けふ定期代もらふ。もはや旅費なく雑費より20円借る。ハイネすすむ。岩崎君来る。 10月18日 9:30ゆき萩原博士に状況わるきをいひ、決意を示す、同感。図書館へ150わたし「諸蕃志」とる。彙文堂より本包み来る。その中より「三国志演義(150)」とる。 帰りてハイネの清書すまし浅野晃の「ホイットマン」買ひにゆけば真野君に会ひ家へ伴ふ。岩崎君来り河村専太郎より断念せよといはれしと。「先生やめずともよし」といふ。 「兄と母とに相談せよ」といひてかへす。 10月19日 悠紀子4児の冬支度に10000必要といふ、慄然。ハイネ年譜了り解説に一寸頓挫。篠田先生21日開学式にお越しと、意外。島稔、外山軍司よりハガキ。きのふけふ「三国志」よむ。 ひとあまた山のかなたにつどひつつわがめづる子に言問ふらしも。 10月20日 家居、ハイネの解説かけず。三国志よむのみ。風●へゆき帰りに長尾君に会ふ。川村徹、山下幸雄と「われ余り悲観的」といひをる由なり、不快。けふ三木為次郎氏より礼状、小川浩へ受取り。 10月21日 開学記念日と。ハイネ解説かきかけて10:30登学。篠田先生に会ひハイネ嬢ちゃんにと渡し、つまらぬ式辞ききて宴会。島津、萩原博士に食ってかかりしを止めに廻り、 ガンルーム会なるものに出しも紀要のことと。島津の暴言のこと協議会にてきくべしとだけで終り、15:00篠田先生と同車、途中姫野氏に紹介うけ、いはゆる東西度洋史料見る。 Boxerの翻訳権もらひしと。ふなずし御馳走となり、次の汽車にのりしも萩原先生あらず。京都駅階上レストランにて御馳走になり辞意おひるかへしあうて服部知事に会はれんことを願ひ、 別れて山前君にゆき「Poets’School」50冊受取り19:55にのり22:00帰宅すれば萩原先生あり。河村、島津、水原その他5人組ゐて、みな専太郎の助命書に印押せしと、呆然。 10月22日(日) よべ3:00まで三国志よみ7:00起きて萩原先生と話す。9:00お帰り。12:30多喜さん(※井上多喜三郎)見え、事務所移転のこといふ。つづいて篠田文子嬢をはじめお越し、18:00まで話す。 小林、多喜さん、岩崎君口々に(※短大を)やめるなといふ。文子嬢に篠田先生への手紙托す。もう手を上げたの意なり。田村春雄氏に29日のことわり3日から5日にかけて来たまへと。 10月23日 8:05に乗る。岩崎君及びその友達と同車。宇治のおばさん扇風機のこといふ、可笑。硲君、職員会とて帰らず、夫人母君のとめたまふをふり切って18:30の汽車で帰宅。 小川君より運賃のことであやまり来る。けふ『青木正児』『酒の肴』買ふ、ふなずしのことあり。山中晴子嬢結婚して菅谷となりし。 10月24日 昨日萩原先生より電話かけしとて12:00ゆき(1:00まで昼寝)、川村徹、山下幸雄氏などと話し、明日教授会とのことにて帰る。角川より5000、文庫への承諾求め来る。 夕方矢守嬢来り、玄関にて話して帰る。田村実三、金井寅之助氏へハガキ。角川へ受取り。 10月25日 9:30登学。10:30教授会。結論は原案を萩原、大橋、佐藤三教授にて作り学長に呈出、学長より協議会に諮問、とのこと也。篠田先生には松村氏ゆくと。萩原博士の親戚のことにて田村春雄に紹介状。 10月26日 13:00の汽車にて上洛、先づ吉野書房へゆけば保田来ると。待ちしも中々来ず17:00北原夫人と出て北白川篠田先生を訪へば夫妻ともにお留守。 文子嬢に手紙托し送られて外山軍司氏へゆき話して京都駅へつけば20:00。汽車22:00までなく急行券を買へば定期にては急行にのれずと、払ひ戻してもらひ四條まで歩き、 帰宅24:00、夕食くひて眠る。 けふ田村春雄へハガキ。吉野書房この頃不況と、孔明(※出版企画)いかに。 p2 10月27日 10:30まで来りし真野氏と話し酒たのみのちほど約束して送り出し、朝昼兼用のめし食ひて登学。広瀬、萩原、松村、北村の諸氏と話し(時間割火曜の5、4。木曜は漢文、金曜工科3、4?)。 松村先生とともに出、●展見て別れ、真野氏を訪ひ六法全書見せてもらひ詩と絵の話し夕食たまひ、雨はげしきとて待ちて19:00傘借り芋もらひて帰る。八木嬢よりハガキ。 10月28日 登学。萩原先生と一寸話せしのみ。帰りて向ひの嬢ちゃんに歴史を教へ、赤塚君と話して日暮る。けふ天気快晴。塚本啓三『漢文解釈法(50)』。 10月29日(日) 岩崎君来り真野君来る。11:00真野君と駅にゆき田中冬二、岩佐東一郎をまじへ19人となり、われ買物にゆき正法寺の松茸山で17:00まで遊び、彦根へ帰る。 田中冬二、われの兵隊御苦労と。あす長浜武田君で会。(けふ1000足を出す) 10月30日 9:00汽車にて長浜へゆく。東京の2客と井上(※多喜三郎)氏、彦根より小林(※英俊)、鈴木寅蔵の2君。ゆきて大道寺など見学。松井等『東洋史精神(70)』買ひ昼食よばれ15:30出て帰宅。 中島利夫氏、岩崎君来りし由、保田より不平をやめよといひ来る。田中冬二ら北川の小説(※北川冬彦『悪夢』)よみしと。 この日ごろきみに会はねば物思ひくもれる海を眺むと知るや。 堀口大学先生への寄書に彦根と擬し「リラの木の一つだけある町に住む」。岩佐君より「落葉」の短冊。 10月31日 雨、10:00までノート書き、赤塚氏とともに登学。萩原博士この2日休みと。講義やり飯くひて帰る。平中氏より鈴木氏らの歓迎会。旗田氏の送別会と。ことわり書く。夕方雨止む。 p1 11月1日 朝、コルボウ詩話会より礼状。篠田博士より翻意せずと。酣燈社よりハイネの催促。一度登学せしに萩原博士来しを見、昼飯くひて帰り12:30再びゆき漢文のテキスト書きしも中途でやめ協議会に出て紀要のこといひ、 腹立てて萩原博士と帰り、辞めざるやうおすすめす。中島利夫氏も同意見なり。夕食後「Poets’ School」送付の表書かきゐしところへ宮本君来り、つづいて岩崎君来る。家の新築おじゃんとなるらしと。 11月2日 朝、井上多喜三郎氏よりハガキ。酣燈社より『宮沢賢治詩集』『ポー詩集』『ワーヅワース詩集』『ゲーテ詩集』来る。中にわがハイネ詩集の広告をのす。 登校して漢文のテキストに聊斎志異の「趙城虎」を刷り「閲微草堂筆記」より抜き講義をす。20名余り。 帰り石島博士にゆかんとせしがだめ。帰れば堀さん(※堀辰雄)より自筆の葉書、うれし。岩佐東一郎より礼状。入浴し、ハイネの解釈14枚書き了へうれし。 (けふポーを宮本君に与ふ)。けふ小川君へ2000送らしむ。 11月3日 9:00の汽車にのりゆきしに5分おくれ出直して10:57、川崎君と同車。(美馬よりの手紙ポケットに入る。瘋癲の手紙着きたり私の家)。人研にゆけば12:30、丁度中休みとて硲君と昼食。 榎、岩村氏に挨拶。神田信夫君来をり。ややして羽田博士へ論叢贈呈式。すみて1冊受取る。エリセエフ、愛宕、岩村諸氏の講演みなつまらず。石浜先生見え、 桑田先生より那波先生へ紹介たのまれ外山氏に任す。外山氏より歴史辞典1冊もらひ学校への分1冊預かる。榎、エリセエフ、羽田、岩村、鈴木俊の諸氏と同じテーブルにて晩餐。 (小林高四郎あす天理へゆくらし)。すみて神田博士より彦根へ来らるとて挨拶し、石浜先生と同車にて京都駅、硲君に泊めてもらひにゆき御馳走となる。(悠紀子にハイネの原稿を酣燈社へ送らしむ)。 11月4日 硲夫人7:00頃挨拶に見え、勤めてをられることわかる。朝飯ご馳走となり住吉へゆく同君とともに出る。(『寮歌集』、宮武正道『パラオの土俗』借りる)。 夕方雨降り出せしを押して篠田先生を訪ぬれば仙台へゆかれしと。夫人文子さんと話し文子さんに送られてバスまで出、18:00の汽車にて帰れば来彦の金田一博士を迎へにゆきし中島氏泊らると。 22:00ごろ帰り来られしと話して眠る。鈴木氏より茸狩の写真送り来る。 うみ超えて去る日を語りわが勝に坐りてゐたるをとめありしか。 11月5日(日) 中島氏7:30頃散歩に出しあと起き、8:00朝食をともにす。8:30中島氏、金田一先生の宿舎へとゆく。岩崎君来り、詩おきゆく。写真わたし写真もらふ。そのあと講演会にゆく。 金田一先生、国語改革と教育法につき話さる。国語綴の改革と混同の感あり。終りて中島氏より紹介受け、先生の御本にSignいただく。昼食にと中島氏を家に伴ひ、 出られしあと漢文の予習!をし、15:00田村春雄君迎へにゆき小憩後、城山に案内し見物してのち丸野木町の石島博士にゆきしに神経痛と。ややしばし話してのち本町、河原町、 新町を歩きて帰り、うなぎ食ひ話す。けふ箕田君ドラマ置きゆきしと。 11月6日 田村春雄君と9:00朝食。小林英俊来る。10:00家を出て学校へゆき図書館への本もちゆきしも受取をと。小雨の中を出て喫茶後、帰宅昼食。折柄訪ね来し矢守、佐田二嬢と話し、 3氏に本貸し15:00の汽車に送りゆく。けふ八木嬢よりハイネ4冊送り呉れしと。鈴木寅蔵、硲の2氏へハガキ。外山氏へ300の受取りたのみ、和田先生の学術会議の推薦状、石浜先生、 服部正己、富永牧太、相野忠雄、竹内好へ書く。 11月7日 鈴木氏へ5冊送らすこと悠紀子にたのみ、10:00登校、萩原先生と話し、関氏の履歴書お願ひす。話す中、前田政雄氏とは旧知と、奇縁なり。持久戦をいふ。明日学長の都合にて協議会なしと。 講義すまし午飯くひて帰り、井上多喜三郎氏にけふ刷りし会員名簿と4号原稿とを送りハガキ書く。田中冬二氏より礼状。吉田芳枝氏より3ヶ月分の会費。 けふ八木嬢よりハイネ4冊送りたまふ。八木嬢、前田隆一氏へハガキ。 11月8日 岩崎君「新彦根」もちて来る。ともに昼食して公共職業安定所内の中川侑雄氏を訪ふ。詩人会を脱会せず、詩の発表もす。労組の講習に詩の話せよと。望月氏にゆきしに選挙運動。 散髪して出、登校。中島教授を招けば長尾君と共に来らる。夕方、矢守嬢、松林君をつれ来る。埜中君と小川浩君に問合せ。 11月9日 入れちがひに小川君より受取。井上多喜三郎氏より受取。午前中支那語勉強し、午、西小学校へゆき弓子の受持西沢先生、依子の受持島村先生に挨拶し、吉田先生に詩を出すことをいひ登学。 漢文次より1、2時限としてもらひ講義後、萩原、川村徹2先生を誘ひて帰宅。萩原博士明日より来ずと。夕方、依子、吉田先生の詩もち来る。夕食後宮本氏を訪ね、土井晩翠借り、 ともに出て帰宅。 11月10日 よべ3:00眠れず8:00出て小林氏にゆけば田。道で呼び止められ井上氏にゆくといひ、工科で講義。13:15汽車にのらんとせしに雨。一旦家に帰らんとせしに小林氏傘もちて待ち呉れゐる。 ともに汽車にて安土下車。老蘇にゆけば井上氏京都と。16:30まてで待ち帰りしと話し、詩人会の事務会計引きつぎすませ夕食いただく。田中冬二、岩佐よりの礼状あり。 冬二の短冊(※「晩春の乙女のごとく梨の花さく」)もらひ、雨の暗がりを駅につけば汽車出しあと。1時間半まち彦根21:51着。茶のまして別る。 けふ「くれなゐ」来る。けふ汽車にて篠田氏留守にゆきし3女史に会ふ。コルボオの会場、座布団なしとて依田氏より断られしと、不審。 11月11日 8:00の汽車にて上洛。先づ研究所にゆき藤枝に会ひ、外山氏に代りて300の受取をかかし、橋川、森の2先生、吉田光邦君、藤枝とで龍谷大学へゆき史学会講演を傍聴。昼食後、 石浜先生帝塚山へ来ぬかと。諾の返事し、履歴書15日までに送ることとす。 出て14:45伏見。うどん食べ三條よりバスにのり篠田邸へゆけば長尾君もあり、博士の曰く、池田へ4月に呼ぶつもりゆゑ彦根やめて了ふはよからず、講師で帝塚山へゆけと。 長尾君とともに出、四條歩きしのち駅にゆき支那そば(60)食ひ22:13にのり24:00帰宅。北陸の温泉行にて立づめなりし。山崎忠より本2冊返すと。学術会議の投票用紙、佐々木邦彦君より青龍展の案内。 北平(※ペーピン)にわがありしときゆめに見し青衣をとめにけふぞ会ひける。 11月12日(日) 中村竹次郎君、朝来り学校の打明話すれば怒るも当然なりとの顔す、うれし。送り出して「くれなゐ」に堀さんへの手紙5、6と歌6首書き、11:57にて上洛。大西宅へゆけば小野十三郎来会。 高橋重臣名古屋も神戸もことわりしと。中山正善に止められしためと。篠田先生の文子嬢も見えたり。多喜さんに滋賀新聞と教会議長への紹介の名刺書いてもらひ17:00閉店まへの大丸にゆき佐々木邦彦君の大作見しあと17:20米原行にて帰宅。 けふ外山軍司、吉川幸次郎両先生よりハガキ。 11月13日 堀さんへ「ささなみの社のほとり伊吹根ゆ降り来る雪に埋もれむ戸ぞ」。岩佐東一郎、田中冬二、硲晃、外山軍司へハガキ。午前中登学。広瀬、佐藤二教授に会へず。 午後ゆけば広瀬先生あり。12月15日締切を認めていただく。宮川君に無関心を責め、佐藤氏の家にゆきしに不在。工科に電話し帰りたまひしにまた紀要のこといひ、通知刷らしむることとして帰宅。 けさ真野君来り、多喜さんに直されすぎていやになりし様子。 夜、堀内民一に 「しきしまの大和の国に三年住み語りもあえで別れ来にける。 ささなみの志賀の山々もみぢしてうたつくるべく眠られぬ夜。 戦ひの火中に妻子のこし来て[鏡]とるひまは哭きゐしわれか。 あかあかと敵の焚く火を見やりつつ人ころさじと吾は思ひしか。」 島稔にもハガキ。中村竹次郎より聞きて昨日留守に来し彦根口の夜間高校の先生来り、10時間もてといふ(1時間250円と)。水曜に返事することにして帰りてもらふ。 11月14日 9:00目ざめ9:57にて上洛。吉野書房にゆき宮山君弟よび紀要のこといふ。1月中頃にてもよしと。大学にゆき里井君より「東洋史研究」もらひしこととなり『清初史料四種』借り、 田村博士に教科書の件電話してもらひ、岩村忍教授に会ひ、桑原教授を訪へば下阪と。また岩村研究室にゆき永々と別離以来の話し、出て7(※質屋)へゆきオーバー出し、 京都駅へゆけば汽車延着、70分まちて20:00帰宅すれば萩原博士待ち居らる。明日の話し喧嘩と決む。けふ13:00ごろ庄野氏来りしと、木曜下阪すべきらし。 11月15日 9:00起きて萩原博士と話し、送り出せしあと赤塚氏より受験談聞き12:00登学すれば協議会取止めと。学長に申上げまづ教授会、辞職勧告ときまりしのち14:00協議会、 20:00近くまでかかり結論出ず、明日13:30より再開と。萩原博士、高原氏お二人お泊り。明日6:06の汽車にて下阪!14:00までに彦根へ帰ることとなる、苦し。 11月16日 5:00家を出て44分まで待ち大阪着9:19。すぐ帝塚山へゆき庄野兄弟と会ふ。時間給にて10時間位もつべしといへば学長の内諾書くれと。これを拒み●●きかれ今の待遇話せしに家のこといふを忘れし。 20分ほど話して帰り、梅田十合によりしも昌平叔父ゐず。10:25にのりて彦根着13:05。家にて茶漬一杯食ひしのち登学。協議会。松村、井之口いやらしかりしも票決となり河村19票、 島津17:2、水原12:5にてみな不適格となり、処分はあす学長県庁へゆきてきむと。ほぼ結果わかりたり。帰り中村竹次郎に礼によれば伴野氏あり、 礼いひことわりのこといへば校長(主任)より学長へ依頼状出さしめんと。帰りて赤塚氏と話す。けふ羽倉よりハガキ。肺浸潤にて家にて病臥と。 11月17日 8:05にて上洛、芳野君より2000借用。佐々木君と話し、野田又夫にゆきしに帰らず。丸万にて『東洋文化史大系 明(300)』、清野謙次『南方民族の生態(30)』、 井汲越次『ハイネ新詩集(50)』、趙鳳喈『中国婦女在法律上之地位(30)』買ひ、長尾君にゆけば不在。 19:55にて上田女史と同車、帰れば赤塚氏パスして身体検査に上京。 留守中、宮川、中島、長尾の三氏次々と来りしと。酣燈社よりハイネの校正。硲、服部二君よりハガキ。 戦ひに勝ちしかなしみ知るときし長津の湖雪降りしきる。 11月18日 朝、中村竹次郎君来る。高等学校ことわりのわけ云へば、終戦後のくさぐさ語り小説700枚書きしと。八幡の図書館への世話たのむ。禁煙なれど仕方なからん。 ついで岩崎君来る(けふ京都駅焚けしと)。そのあと真野君来り、いい加減にしなされと。不快。けふ終日雨。夜、頓服のむ。 11月19日(日) 朝、酣燈社132頁までの校正来り、これをすまし小林君とともに出て長浜の職業安定所の近江詩人会。15人集りし。今月より1500円となりしと。武田夫人に万引きの件きけば大分わるし、 またの日のこととして帰る。 11月20日 中村竹次郎君、朝来りしと見え手紙投入しあり、学問に専心せよ、八幡は会へず郵便にてたのみおきしと。島稔、外山軍司よりハガキ。 11:00徳永嬢来訪。何といふことなくて帰りゆく。岩崎君オールドミスにならばもらってやるといひし由。12:00登学。湯次氏によびとめられ万引きのこと。 次いで滋賀新聞に記事のり松村氏やられをると。やがて佐田嬢来る。万引き生の父親来る。元小学校長と、いやな奴なり。帰り望月澄子氏にテキストわたし、 近々それぞれへ紹介たのむこととす。宮川君来り、転任運動せんかと。けふ角川と酣燈社へハガキ書く。 11月21日 登学。教科書もちし子らによませ楽して、昼食後、久しぶりに会ひし田村君と出、望月氏に明日来訪のこといふ。河村また書きし由なり。(明日協議会なしと)。 帰れば堀内民一より批評くれと。大よりまだ就職せずと。田尻宗夫よりなつかしと。(けふ出がけに立命大学生の小林君の紹介にて十合の世話してくれと)。 14:05にて長浜ゆき、武田君と田中書店に□□□□の件たのむ。うまく聞きいれくれてうれし。共にゆきし厚生補導の中村氏は満州引揚にてよき人なり。帰れば酣燈社より233pと。 赤塚氏と話し、岩崎君とやり屋に世良氏訪ぬれば不在。 11月22日 月給日なれど望月澄子氏を訪ねる。大体事情きき新聞とらん教会も運動せんと。但し短大に美容科をこさへよと。帰って昼食。サラリーもらひはやき萩原博士に15:00もしくは16:47に乗らんといひ、 出て長尾氏に会ひ帝塚山のこといひ一旦帰宅。前川(※佐美雄)、大より便。酣燈社よりの233pまでの校正すまし送り、定期券買ひして萩原氏まちしに来られず。 単独16:47にのり藤井寺へ20:00すぎ着。叔父叔母と話して眠る。 11月23日 けふ午後久美子、離縁のため城平叔父来ると。鶴橋[岡]分[送]明寺へ散歩、15:00大江へゆけば話中。ややして帰り来りし久美子に怒鳴られ、叔父に話せば帝塚山ザックバランに云へと。 自動車に同乗、寺田町にて別る。この間父訪ね来り「克己が」といひしところにて別れしと。石浜先生にゆきスキ焼たまふ。専任教授われ一人ゆゑ色々計画立ててやれと。 家のことも申上げ不得要領にて19:30おいとまし21:20にて帰る。 11月24日 10:00工業科へゆく途中、長尾、宮川二君に会ふ。講義すませ13:00家に帰れば山下君来しと。登学、用をきけば帝塚山へ世話せよとなり(小林君も来りしと)。芳野清より久しぶりにハガキ。 角川より12月に5000位送るやもしれずと。けふレポート家へもち帰る。長尾君夕方来り、山下君の心境語る。 11月25日 井上多喜三郎氏より10日の通知。前川氏より3日の出版会。ことわる。西河君来る。面接の注意す。中村氏来られ□□□□起訴猶予となりしと。うれし。 16:00工科へゆけば事務みな帰りしあと。あきらめて帰宅。滋賀文芸懇談会の案内来る。これも3日と。芳野清、田尻宗夫へハガキ。 冬近き日なたの丘にふたりゐて山のあなたを語りゐたるも。 11月26日(日) 金井寅之助君より就職の件如何に、ますます不快と。杉浦九大へ転任と。真野君来り、話す中中村竹次郎君来る。帰りしあと答案片付けしのみ。 ひねもすをなれをおもふと知る知らずかの子はけふも笑まひてあらむ。 11月27日 採点に学芸部へゆき、定期代請求して帰り昼食後、工科へゆく。採点すませ近藤氏と語り帰宅すれば雨となる。宮川君『史林』貸し呉る。 11月28日 寒し。10:00よりオーバー着しまま講義。萩原博士にまた定期買ひしと。協議会でまづ河村より云ひ渡すときのりしと。帰れば朝日のレポーター来る。送り出して赤塚君と話す。 広瀬先生わが飛ぶを察しをられる様子。 11月29日 雨なればいかがと思ひしが、思ひ直して上洛。京都大雨にて濡れて京大、東洋史研究の金払ひ「台湾の古地図(※原稿)」とりかへし、『清朝史料四種』かへし池田君と話す中、 いしはお越し、帝塚山へ家のこと云はれし由。平戸島へゆきし学生と鼎談。先生お見送りして西洋史にゆき井上智勇氏の出しあと星田助手に案内してもらひ文科の図書室へゆきしもむだ。 野田君にゆくといへば大高の後輩とわかる。ともにゆき話し、『西洋近世哲学史』もらふ。三高の独乙語の某君来る。ともに天理外語の教師にしてこれも後輩。 出て研究所にゆきしも藤枝不在。吉野書房にゆきみな留守の中を奥西兄氏より1000、11日まで借り、出て山前君にゆき夕食よばれ、吉野書房でかきし「車中で」わたして帰る。 留守中岩崎君来しと。「祖国」12月号1冊けふとり来る。正誤なし。いやになる。 11月30日 晴、寒し8:45ゆき漢文すませ定期代催促せしに午後と。松村氏会ひたき由にてやや待ちしに駄目。帰りがけ岩波文庫『ハイネ歌の本 上』(※井上正蔵訳)買ふ。訳うまし。 昼寝ちょっとし、夕食すめば岩崎君来り助手ことわりしやうなことなり。ややして中村君来る。八幡、キリスト教ならざれば駄目と。悪口いひ帰ってもらふ。けふ梁夫人の歌集もらひ礼状書く。 12月1日 工科の授業し、帰りて雨の中を本部にゆき定期代900もらひて松村邸を訪ねしに不在。朝日の田川君も不在。望月夫人にきけば仙太郎議長にも問題にされずと。 帰りて蒙古源流のカードこさへはじむ。夕食後長尾君来り、萩原松村両先生の仲を云ふ。 12月2日 1:57に乗らんとしてゆけば井上多喜三郎氏あり。明日の会にゆかんと。安土まで話して下車後、工科の左翼学生に説教されて京都着。また芳野氏より800借り、 小高根二郎ほ訪ぬれば下阪らし。羽倉にゆき見舞いへば元気。焼酎のみ22:13にのりて0時帰宅。夕食くはせろといへばゆき子怒る。山下章雄君履歴書もち来る。 12月3日(日) 赤塚君留学許可新聞にのりをり。祝ひいひ9:57に乗らんとゆけば予備隊幹部見送りとて番野、中村竹次郎二君あり、話してのち乗車すれば朝日の田川君あり、膳所まで話しつつゆく。 リルケの『マルテの手記』もち居り、山下君にゆき昼食たべつつ話きけば、どこといはず大阪へかはりたしと。挿絵をよくすと。別れて県庁隣の産業文化館にゆけば14人あり。 堀江弘会議長と井上君との間に坐り滋賀文学会と会名をすべしと発言して出る。(木村●生氏と一寸話す)。 佐田君宅へゆけば大浜君あり、この次は5日と。大浜君と出、きけば高橋君(※天理教の)信者となりしと。佐藤誠もはや居られずと。別れて18:30にのりて帰宅。けふ赤塚君に記者3人来りしと。 12月4日 一日臥床、中島利夫氏来られ17日ごろ鈴木虎雄先生、神田先生彦根へお越しと。帝塚山のこといへば致し方なからんが追ふ人もあらんかと。羽田より便り。池内先生の御本、 吉野書房より2月ごろ出ると。小高根二郎よりハガキ。昨日「日本歌人」の会にゆくつもりと。よる赤塚氏お祝ひの席をまうく。いろいろ話す。 12月5日 学術委員投票、和田、貝塚、森末、桑原の4先生。よべ4:00までねられず電話かけて休まんとせしところへ岩崎君来り、短大あきらめ京阪に就職すと。帰りしあと山下君来り履歴書おきゆく。 昼食中、徳永嬢来り、午後、河村純一ドクターをつれ来ると。15:00ごろ来訪。Singaforeの話2時間ほどして帰る。入浴せんとせしが寒くなりてとりやむ。 12月6日 朝、小林英俊君来る。正月すぎに餅くるる由。夜、扉しめしあと宮本君来り、転勤するやなきや問ふ。けふ久しぶりに入浴。 12月7日 8:45登校。漢文の講義すませ『五雑俎』より次の題材をとり、田中頼子嬢に刷らす。萩原博士と話し、学生に23日の級会のこと約して帰る。途に真野君に会ひ伴ひて帰り話す。 ながことを思ひつつゐる日の照りのやうやくうすき北国の町。 12月8日 朝、工業。「学長閥」への反感ややに話さる。12:00帰りて昼食くふ。埜中君より原稿をと。本部へゆきサラリーもらふ。学生より新聞部の顧問をと。中島氏と帰らんとすれば宮本氏追ひ来り、 公舎新築へかはれとのことにて夜、松村氏来らるるにつき返答用意せよと。中島氏極諌せしと。酣燈社より再校以後見せず月半ばに発行といひ来る。赤塚氏、わが移転やむを得ずと。 小高根二郎、羽田明へハガキ。 12月9日 大江の叔母へハガキ。西河君のことをせかす。登校するつもりなりしも取止む。午后松村氏来られ中島氏の云ひ分はとりあげず、我には公舎(芹橋、松村宅隣)へ移れとなり。 礼いひて帰ってもらふ。「くれなゐ」へ歌5首と、大和通信7送る。向ひの大西の嬢ちゃんにたのまれ国史の参考書買ひに出、文求堂『漢字典』買ひ、望月にて理髪、 折から降り来し雨に傘借り河村純一ドクターを訪ね、マレーの話をし、傘返して帰宅、酣燈社へハガキ。 12月10日(日) 10:00にのらんとゆきしに50分延着と。小林、岩崎、中村、矢守諸氏と近江鉄道五箇荘下車、一里の途歩く、寒し。多喜さん宅で昼食御馳走、やがて来りし諸氏と例会、天野隆一氏も来る。 18:39にて帰宅、朝日支局の田川君来り、遅くまで話す。けさ5時まで眠れざりしもまた眠り難し。 12月11日 寒し。京子下痢よべ再発につき医師(八木原)にやりしあと中島氏見ゆ。わが辞職理由云へば言なし。神田、鈴木両先生接待の件も申上げ、今夕京都へ参るといひをるところへ宮川君来る。 土曜、篠田先生7人首切れといはれし由。11:57にのり京都、吉野書房へ1000返し、前田社長に山下君の絵のこといへば見んと。出て研究所にゆけば藤枝に羽田より電話かかりゐる。 研究室へゆき羽田博士論叢の受取先にこさへてもらふ。 羽田の室で佐伯氏と鼎談。(彙文堂電話和田先生の概説(※中國史概説)買ひ、大山定一氏に途で会ひ挨拶)。しんしん堂で茶のましてもらひ帝塚山のこといひ小野勝年氏のこといひ、 川久保、成城へゆきしこときき、別れて中島氏にゆけば未だ帰られず。18:30京都駅より出る汽車にのりて帰宅。 けふ研究室で宮崎市定『東洋的[近]世(135)』本展で藤間生大『埋もれた金印』買ふ。彦根で京(※みやこ)へ絵本(40)、史このごろ声変りす。三木正浩君よりハガキ。外科手術受くると。 12月12日 登学。寺義君に「羽田博士論叢」と「和田先生概説」買入れの手続きを早くせよといふ。講義すませれば田中女史教科書代わたせしも様子変なれば、きけば盗まれしと(2250、田中の2000、 前日にも500なくなりしらしと)。不注意なれど哀れにて厚生補導の中村、長谷二氏に訴へ、寒冷手当2100をもらひ、山下君に吉野書房の紹介を書き、 滋賀大に電話すれば大畑学長13:00すぎに来よと。やむなく時間つぶしゆけば埒明かず。前田氏に手紙書き15:00来し山下氏に托す。 けふ小高根二郎、梁女史よりハガキ。八木嬢より手紙。関軍治氏より手紙。(けさ出がけに西河君菓子もちて来る。23日までといひて帰す)。 12月13日 けふ協議会とのことに風邪を申立て欠勤の電話かけさし一日床にゐれば夕方中村竹次郎君来り、保田に会ひたしと。松村氏よからずといふ。「小谷城阯」を貸し呉る。 帰りしあと中島教授来られ、けふより協議員となり爆弾動議を出し島津の辞職勧告を早急にやらすこととせしと。わが転宅喜ばざる●学任決心も云ひしと。20:12に乗りて帰ると。 井上氏よりハガキ、正月の米の件。 12月14日 9:00登学。漢文を教ふ。萩原先生にあひて帰る。岩谷氏の詐偽事件にて昨日来られざりしと。木之本に国文の2先生と中島先生そろひてゆかれ雨森芳洲史料とりて来しと。 帰り中島氏寄り翻意勧告したまふ。けふ関氏より学術成績報告。 12月15日 工科へゆきノートまたとらし、左翼学生よりA Happy New Year!をいはれ、近藤氏に15:00来りたまへといひ、帰れば大江叔母より手紙。岩崎君に途で会ひ明日より山科へゆくと。 河村のため又働きしといふに説教すませし所へ山下君、ついで宮川君、ついで近藤氏。宮川君、松村家へゆくといふを引留めて泊らす。和田先生最少点にて当選したまひしと。 12月16日 宮川君送り出して寐んとすれど寐られず。12:00ゆきて芹水会に2500の借金申込み(盗難の件)、篠田先生に会ひしもすぐ帰らる。(あとで同車と思ひちがひされし由)。 期待して学生との懇談会に出れば散々。おくれて中島、萩原両氏出席、16:00すみて松原氏にゆくといへば中島氏怒鳴る。みちみち話しつつ来て1汽車おくらし、我「了解し」ゆっくりやることとなる。 けふ大江叔母よりハガキ。西河君いづれ選衡すべしとなり。 12月17日(日) 8:02の汽車にと早起きしてゆけば中島嬢あり。35分おくれしに乗り空席をさがしにゆきして男連れの長谷川嬢を発見、稲村より西堀嬢のり来り、狭き土地とつくづく思ふ。 京都を18:00たち家へ20:00帰着。羽倉より東上の帰途よれざりしことわり。一昨日の「みづき」教会の為戯作。 寒冷地手当1000円まへに置き、もだせる妻をわれはにくめる。 詩も「コルボオ」のため「二者兼一」なるを考へ出だす 12月18日 朝、川村徹氏見え、工科は紀要の形をとらず、報告とすと。論文書かんとせしも成らず。夕方宮川君あやまりに来る。きけば16日中島氏と会ひともに学長宅へゆきしと。 紀要の論文のことたのむ。定期を超過して使用、見つけられ4000罰金とられしと。 かへりしあと夕食し、そののち下痢、吐瀉の気あり、サンドイッチのためか!大江叔母、井上多喜三郎、羽倉啓吉へハガキ。羽倉東京よりの帰りよれざりしあやまりよせしなり。 12月19日 よべ吐気し、下痢す。朝絶食し、ひる少したべしのち京の保険証とりかへかたがた医者にゆき100支払ひ、河村純一氏にゆけば恰も徳永女史あり。投薬してもらひ出て登学。 ややして鈴木豹軒(※虎雄)、神田両先生お越し、大津図書館長と村長、助役さんとそろひ雨森芳洲を見、やりやへご案内し鴨なべ。我は絶食申し立てて帰る。 けふ後半の月給出、公舎1月6日に移転いひ、新聞の顔聞きてあれこれ云ひし、うるさし。 12月20日 けふ8:00より海●法師の書を2先生見にゆかるることわかりをりしも行かず。午まへ登学。お帰りかと思ひしも未だ。帰り来って昼寝。大江叔母より一度来よとハガキ。 「くれなゐ」11月号来る。けふ宇田(※良子)女史に途で会ふ。津田左右吉『支那思想と日本』武内義雄『儒教の精神』(2冊で100)買ふ。夜、「鄭氏の台湾地図」写す。 12月21日 よべ4:00まで仕事し、朝食後また寐、13:10で上洛、山前君にゆきコルボオの詩わたし、鞍馬口の中村へゆき冬服出し、吉野書房にゆけば奥西保あり。 保田、浅野の本と『絶対平和論』もらひ京都駅へゆき19:55を1時間半まちで帰る。 留守中、徳永女史と岩崎君来りしと。 12月22日 中島氏来られ明日学長に会ひ家のこといへと。午後広瀬先生お越し。予算出せと。ともに床にゐてお会ひす。 12月23日 10:00まへ登学。学長に1月6日の転居のこと申上げ辰巳部長にもいふ。10:30より職員会。12:30昼食のとき紀要のことにて野田又夫の弟子といふ土屋講師来る。 クラス会を申立てて帰れば8人あり。宮川君立腹して来る。赤塚君にきけば土屋もその一人にて我妻を加へし「反学長派」いやらしかりしと。けふ徳永女史より歌会29日にのびしと。 地歴の新年宴会3日川崎邸。生徒たちのは9日学校でと。面白くなき会の好きなる図かな。「和田先生還暦記念論叢」に「鄭氏の台湾地図」清書し終ふ。丁度60枚。 12月24日(日) 吹雪の中を史に送らせ13:10に乗らんとゆく。直行せしも藤井寺着17:30。新●昌三の義妹来あり。話す中、伊藤賀祐の親友の製薬師と。 大江叔母の話にて今川の城平叔父のもとへゆきすし食はしてもらひ、山本社長を通じ帝塚山の確約良ければ●長を兼ねて帰阪する気になる。22:00大江に帰りて泊る。 12月25日 大江叔父とともに出、枚岡君にゆく。ここにてもすし賜ふ。帰れば20:00。大江叔母の手紙来あり、早速西河君に電話せんとせしになしと。依子弓子の成績不相変悪し。 吹雪にて史、傘こはしゴム長買はしめしと。 12月26日 朝、桶屋町を尋ねて西河君にゆく。小さき雑貨屋なり。帰り学校へ寄り本代1700受取り、本屋のぞきしも何もなし。帰りて何もせず。 雪つもる越路に近き一冬をわが生のうちに加ふべしとは。 としずゑのざわめき立てる市の灯に腕をにぎりてわかれ来しにや。 妹に夫とられし天理教信者のはなしききすごし降車(お)る。 12月27日 朝より吹雪。時に1時間位晴れ間を見ることあり。いやな図なり。赤塚君より郵便物転送をたのむハガキ。学校へ来し野田又夫の『デカルトとその時代』とともに城平叔父の手紙。 手取1800を承知したと山本社長の話。正月14、5日頃会はんと。薬師寺衛の母より遺稿出版したしと。それぞれへ返事。『インドネシヤ語派の身体呼称』を書き直しはじむ。 12月28日 終日臥床。堀場正夫君より検印向ふにて押し正月早々出ると。見本送りしと。寒くて来客なし、終業の会にゆかんとも思ひしがとり止む。史をして2000父の許へもちゆかす。夜、帰らず。 12月29日 快晴、午後出て河村医師を訪れ保険証かへしてもらひ、中村竹次郎君を訪ひしに他出。一廻りしてまたゆき話す。ついで「みづき」短歌会。わが歌に投ぜしは徳永嬢の1票のみ。 16:00ごろ帰り来る。史、17:00帰り来り父の礼状もち帰る。埜中、大に、野田又夫氏とハガキ3枚書く。 12月30日 晴。午前中障子張りす。午後、佐田、矢守二嬢来る。銭湯へゆく。和田先生へ手紙。八木さんよりSumatraの地図うつし来る。天理ボーナス10割で28日に出しと。けふ餅4分1だけとり来る。 わかよはひ永くしあらむ幸多き年いひおこす友しあるゆゑ。 12月31日(日) 朝、岩崎君、餅もって来る。一昨日夕方に来りしも、閉りゐしため帰りしと。恋人田中嬢とやらの話永々とす、自殺するを待つと、戒めたれど効なからん。 昼食後、望月美粧院へ散髪にゆく。(途中『「平治物語(25)』買ふ)。帰れば小林英俊氏、留守中餅を賜ひしと。4日より忙しと。ややあって真野君来訪、 京にゴム靴賜ふ。けふと昨日にて26枚賀状を書く。夜、餅を切る。 田中克己日記 1951 【昭和26年】  昭和26年、彦根の地に移った詩人ですが翌27年、自身の活躍の場を再び畿内に戻すべく、叔父が専務を務める会社(富士鋼業)のコネを頼り、 社長(山本藤助)が理事長を務める帝塚山学院への移籍が実現します。生活の窮状を救ってくれた彦根短期大学を、たった1年で辞めてしまふことについては周囲からの異論・慰留の声も多く、 その理由は自ら挙げた寒冷のためばかりではなかったのでしょうが、決めてしまったことは仕方がなく、 父親からは「まう今度は腰を据えるつもりで皆の事を考へねばいけない。」と手紙にても諭されてゐます(2月16日消印封書)。 新居は布施市(現東大阪市)富士鋼業の男子寮の敷地内に建てられた一軒家に決りました。条件として寮生の管理を仰せつかった詩人は、講義にゆく傍ら会社にも出社し、 ワンマン叔父さんの配下に入って、寮に図書室を作ったり、賄ひ婦を探したり、素行不良者の生活指導を行ったりと、 雑務に教員ノウハウを発揮して、その報酬をも生活費(図書費?)に充てることができるやうになりました。 移籍先の帝塚山学院短期大学は滋賀県立短期大学と同様、発足して間もない学校でしたが、ここで『四季』同人の後輩である杉山平一と、同僚として出会ふことになります。(参考資料「短大の歩み」杉山平一) 共に幼子を喪った身の上を話し合ってゐますが、帝塚山には同じく詩人である小野十三郎も居りました。戦時中も抵抗精神を持し、 戦後現代詩陣営からは反抒情詩の立場を掲げた文学者の鑑として、やがて「関西詩壇のドン」に目されてゆく彼ですが、一方の田中克己はといへば、 日本浪曼派の文化圏にあって戦争中は皇国史観を体現する詩集を刊行してきた根っからの抒情詩派です。日記から詩壇の消息がどこまで窺はれるのか、 相反する二者の間に杉山平一を置き、キャンパスの文学者たちをめぐる今後の交流に興味津々です。 もっとも田中克己も、近江詩人会においては実力一番の詩人です。といふより結成の立役者でしたから、 滋賀県の詩人たちは彦根を去らんとする詩人をこぞって行く春とともに惜しみました。規約を定めぬ会において地元不在の彼は、この後も名誉職のやうに遇され、 昭和32年に上京して以降も永く、亡くなるまで交流は続いたのでした。一番に信を寄せた井上多喜三郎とは、共に京都のコルボオ詩話会に参加してをり、 また近江詩人会とコルボオ詩話会の印刷者は同じく山前実治、古書店をたたみ奈良女子に奉職した天野忠とも、天理図書館時代の同僚たちと行き来する途次に復活し、 と前述の帝塚山の仲間をふくめ、詩人達との往来も却って増へてゐる様子が窺へます。 その井上多喜三郎「多喜さん」が田中克己の転地を知り、近江の詩人たちと相謀り、餞別のプレゼントとして詩人には内緒で編集・印刷されたのが詩集『寒冷地帯』です。タイトルネーミングに田中克己ばりの皮肉を効かすべく、敢へて選んだ表題作ほか、 選択された作品の出来が詩人は不本意だったらしく、後年も正式な著書としてカウントこそされてゐませんが(詩人の書架にも見つかりませんでした)、 世間の目には触れぬ50冊限りの印刷だったこともあり、日記を繰れば判るやうに、学生にやったのを後悔して取り返すなど、彦根で暮らした記念(かたみ)として、 田舎ならではの詩友からの心づくしには感じ入ったやうです。 さて帝塚山学院短期大学に奉職して田中克己が早速おこなったのは、コギト時代の盟友で親友だった亡き中島栄次郎の蔵書処分でした。 和書900冊はそのまま図書館に買ひ取られることになりましたが、残りの洋書(100冊?で計1000冊余?)は帝塚山短大では手に余ったやうで、 野田又夫に紹介された服部英次郎を通じ名古屋大学に買ひ取られることが最終的に決まります。日記にはその間の記録が、 中島の遺族や伊東静雄の教へ子である古書店の間に入り目まぐるしく周旋する様子が詳しく記されてゐます。他にもこれも伊東静雄がらみだったか、 西垣脩を呼ばうと動いてゐたことなど初耳に属することです。 浪速中学時代の教へ子らによって、詩人の風貌を冠して名付けた「蜻蛉の会」が始まったのもこの年、もちろん大阪高等学校時代の旧友の消息を伝へる記事も多くみられます。 小高根二郎はコルボウ詩話会の同人ですが、変った話題では松浦悦郎の兄との偶然の再会、また東京の竹内好が下阪した際、歓迎の宴で話題にのぼった昔の?恋人を探さうとしたなどといふ一件には笑はされます。 しかし肥下恒夫とは引き続き水の如き交はりといふよりもはや疎遠に、親戚の全田家を通じ困窮の様子を聞いても、お互ひ自身の生活で一杯といった感じで先行きが案じられます。 中島栄次郎についても、蔵書の整理はされても著作集の発行の話が出てこないのは、売値に執心する遺族の経済状態が芳しくないからなのでしょう。日記でも著作集については一言も出て来ません。 さうして保田與重郎ですが、前年に文学的再出発といふべき2冊の著作集『絶對平和論』『日本に祈る』を祖國社より刊行することで果たし、追放も解除されるのですが、 直後の7月には結核で入院してゐることが知られます。大阪の警察病院に見舞の様子があって田中克己サイドからの友情を再確認させますが、 あれほど足繁く通った祖国社(吉野書房)へ顔出しすることはまれとなり、羽田明邸への訪問も減ってゐます。住居のある布施市徳庵は京都よりは大阪のすぐ隣で奈良が近く、 もはや京都大学グループを巡り歩くやうな就職活動をする必要もなくなった彼にとって、コルボオ詩話会の集まりを除けば無理にも通ふ土地ではなくなったのかもしれません。 幸ひ、保田與重郎は短期の入院で完治したものの結核と云へば、詩人の例の恋人にも病巣が見つかり、せっかく彦根より下阪して頻繁に会へるやうになったのに、 2年間の療養を要すとの診断を下されてしまひます。友人を多くこの病ひで喪ってゐる詩人は、結核に関する書籍を買ひ漁り、親切を極める助言に心を砕いてゐますが、 伊東静雄と堀辰雄が結核によって病没するのは2年後の昭和28年のことです。行方は次年以降の日記にゆだねられますが、娘たちをも手懐けることに成功した御両人の縁しが、 どのやうに終息に向かふのか。御長女依子さんに訊ねても不明なこの恋愛の結末について、関西在住日記のこのさき、下世話な事ながら詩人らの動向とともにこちらも気になるところです。 昭和26年1月1日~昭和26年2月11日 25.5cm×18.1cm 横掛ノート(文部省選定教育ノート大学高専用)に横書き (冒頭8p学生が使ひさしたノートを使用) ノート   田中家系図 1月1日 雨、新年の式に出ず。12:00すぎ中島利夫氏お越し、ややして宮川、山下二君祝ひに来りしも上らず。子ら遊び、われ餅を飽食。悠紀子風邪とて寐たり起きたり。 賀状46枚、中に珍しきは菅谷晴子(山中)夫人よりあり。あとは学校の生徒、近江詩人会、天理など殆ど目下のみ。 1月2日 年賀状16枚、佐賀へ帰りしといふ杉浦正一郎。『くれなゐ』の会5日と。岩崎君誘ひに来り青年会へゆく。太田守松、河村ドクター、世良氏、市役所西田氏がお客にて14:30まで待たされ遊戯ささる。 夜、田村君より電報「3日ゆけず」と。けふも孔明書く気にならず。 1月3日 10:00すぎ依子に川崎君へ使にやりしに帰らず、史をやりて呼び返せば返事なし。昼食して床にをれば電話かかり、行けば広瀬先生、宮川君あり。17:00まで大食して帰る。けふ賀状6枚。父より6日頃来ると。 1月4日 晴、寒し。10:00始業とて登学せしに学長来られず御帰郷らし。宮本君を訪ね公舎見て松村家へ御挨拶して帰る。辰巳事務部長夫妻来訪につき案内す。夜、赤塚夫妻帰宅。 けふ賀状、篠田先生と嬢ちゃん(紀子)、外に朝日の青年記者田川君東京より。 1月5日 8:45の汽車にて上洛、米二升もち11:00先づ依田氏に寄りしに10:00から会と。そのままゐて来ざる小高根に電話せしに出張と。丹波市も来ず。昨年度のコルボオ賞選定に、 わが「哀歌」8票で一位、安藤、天野忠と入選。朗読でわが“パンパンの詩”みな笑ふ。 薬師寺の母君に会ひに中座せしも詩集いまのところ出さずと。2月11日の七回忌前後に知友の会せよといひ、依田君に引返し酒の会。葡萄酒1瓶賞にもらひ、 依田、安藤、山前、俵、荒木利夫、阿原、大西と8人にて新京極の金剛なるおでんやにゆき0:30まで飲み、resistanceを語り、大西邸でまたむし返し、泊めてもらふこととなり囲碁、入浴。 寝床の中にて「すまんすまん」とくり返す。 1月6日 9:00目ざめ、置手紙して出、10:30駅前で五目そば食ひ、昼食し、800+100払ひ吉野書房にゆき「孔明」書く気なきことをいひ、印刷所に電話かけ祇園行にて河原町三條に出、古本屋を見、 塩谷温『中国小説の研究(30)』買へば、紳士挨拶す、ややにして淀野隆三氏なることを思ひ出す。話しつつ京阪までゆき三井寺前の川村学長をお訪ねすれば病臥と。 葡萄酒置きて膳所より乗車。20:00家に帰れば父来り、寐をる。城平叔父より帝塚山のこと(※帝塚山学院への転職の件)聞きしと。年賀状多数、服部より関大に口かかりしとて相談。 この間の会にて抽籤当りしとてウイスキー1瓶を岩崎君もち来りくれしを父のみしと。 1月7日(日) 父13:10にと出てゆく。もろこを土産にゆき子買ひし由。その後臥床、大食。 服部へ下阪せよと。大西卯一郎、依田義賢、山前実治へ礼状。 近江の湖ながるる水の京にゆきなにわにゆくと思へばうれしも。 雪国の雪の下萌えほのぼのと息かよはせて談らんと思ふ。 1月8日 荒木利夫君に(※〒)、新しき年の初に新しき友を得しとぞわれは喜ぶ。 篠田紀嬢に無韻(※〒)、斯水西流落洛陽、洛陽花不知咲否、惟過得昨不惑歳、今年若惑君莫嗤(※斯の水、西に流れて洛陽に落つ、洛陽の花、知らず咲くや否や、 惟れ過って得る昨の不惑の歳、今年若し惑へども君、嗤ふ莫れ) 井上多喜三郎氏に上の歌の和訳、三木為堂先生に添削たのみ、堀場氏に一万円先払たのみ、堀(※辰雄)、和田(※清)、佐藤(※春夫)、河上(※徹太郎)、 三好(※達治)、野田(※又夫)、保田、工藤(※名古屋大学)、林(※)の10先生へ寄贈と35冊送付たのむ。 登学。月給もらひ金森使丁に明日の手伝たのみして帰る。和田先生より勉強すれば他を考へんと。石浜先生、矢野(※峰人)先生、桑田博士(阪大)、岩村教授より賀状の返し。堀夫人より同。 帰れば松本(※善海)、川久保よりハガキ。散歩にまた登学。諸届し17:10帰り来し赤塚夫妻と晩餐をともにし従来の学誼を謝す。不快なることなかりし人々なり。 1月9日 10:00まへ宮本君手伝いひに来てくれ、ややして金森使丁来る。われ新居にゐて受取り後、遅々として進まず。昼食にうどん2杯、松村家よりたまふ。午後、宮川、 山下嬢と連れ立って微酔にて来る(東山生そのまへにクラス会に呼びしも行かず)。17:00終り、悠紀子に松村家に挨拶にゆかしあとは明日とす。けふ篠田先生よりハガキ。 1月10日 朝、赤塚氏新聞を届けたまふ。悠紀子具合わるさうなれど登学。漢文のプリントにゆきしに中島氏中心となりて図書館の会しゐる。松村氏もありと。 田中嬢呼び出しプリント刷らしめ『くれなゐ』(次の締切10日と)受取り、山本治雄のハガキ受取る、病気せしと。帰りて悠紀子悪さうなれば河村氏に往診たのみ、 するめ3帖買ひ帰りて史、依子を使って炊事、ひまを見て隣の下里氏に挨拶。19:00往診したまひし河村氏と21:00まで話す。 1月11日 8:45より漢文、瀛涯勝覧天方国すませ、長春真人西遊記刷る。図書館の岩田氏と話して帰り昼食。午後河村ドクター見え、送り出して正法寺の小林(※英俊)氏にゆきお年玉(200)子らに与へ餅もらひて帰る。 けふ保田の小坊(恒三郎)より手紙。夜、松村氏へゆき挨拶。ついでに帝塚山のこといへば中島氏よりききをり、とめずと。講師として1日位来よとのことになりし様子。 1月12日 工科へ授業にゆく。ノートに要点のみ記しゆき講義せしも旨くゆきし。帰りて本部へゆき山下、長尾、宮川3君に雑誌の論文催促す。17日山下君と印刷所へゆくこととす。 帰りて井之口氏にゆき締切いひ、また出直して宮本君にゆけば風呂へゆきしと。夜食のとき史、旧友風間を家に置きたれば叱りしに出てゆく。あとで風間家を訪ねしに二人とも不在。 河村ドクターにゆき市立病院への紹介の名刺をもらひ中村竹次郎君にゆけば疲れて眠ると。けふ堀さんへ『くれなゐ』。埜中君へ原稿のことわりのハガキ書く。 1月13日 12:00まで床にをる。悠紀子その間に病院へゆき窪田ドクターの診察受けしと。13:00登学。矢野峰人先生をお迎へし、場つなぎに先生の紹介演説やり(美作の人と)ややすれば御講義。 学長先生より来よとのことにて、ゆきて辞意申上げ小野勝年氏のこといへば肯はる。14:30より酒客、われ一滴ものまず18:35にと矢野先生を送り出し、井之口、松村、 宮本三氏に先立って帰宅。松本、川久保へハガキ。 1月14日(日) 8:45に乗らんとしてゆきしに土橋にてバス来ず。川崎君に寄り、ともにゆく。所謂了解に終りたり。13:00鶴橋着、久しぶりにて戎橋、千日前、道頓堀歩き梅田で「戦場」なる戦争映画を見、 喫茶。山本にゆけば疑似猩紅熱なりしと。夕飯もらって泊めてもらふ。(※歌一種抹消) 1月15日 電話して庄野英二(※父は庄野貞一:帝塚山前学院長。昭和25年10月死去)に連絡たのみ帝塚山にゆき守本氏と鼎座。 山本理事長(※3代目山本藤助:帝塚山学院理事長)よりの話にて収入の点承知したが13時間もってもらふ(歴史と国文)、大笑ひなり。城平叔父にゆけば出勤と。 置手紙し15:10にのりて帰彦。雲井書店より梅崎春生『日の果て』送り来しのみ。 1月16日 朝、城平叔父より速達、直接守本氏と話しあとで山本社長(※富士鋼業社長=帝塚山学園理事長)にゆけと。 久しぶりに学芸部で歴史、すまして山下、長尾と話し、田村君に帰り家に来れといひ昼食。ハイネ出し由にて学校へ矢野先生、家へ和田先生の礼状。和田先生は『中国史概説』下さる由。 梅原京子氏より何かやらん申し出よと。大よりハイネ送れと。田村君来り、貸金月末と、退職のこと了解すと。ハイネ彦根でも見しと。18:00退出。 夜、松村先生にゆき大学の雑誌の話。すみて町内の常会、23:00まで、ばからし。 1月17日 10:00田中嬢ハガキ(工藤先生)もちて来る。追ひてゆき会計より定期代強奪!し、萩原先生より米国タバコもらひ井之口氏の原稿受取り佐藤教授に雑誌のこと話し(広瀬先生欠勤と)、 河村先生にゆき強心剤うってもらひ駅にゆき、11:57にのり膳所で山下君見えぬにいらいらし、京都へつけば在焉。ともに吉野書房にゆき高鳥君と話せしのち石田印刷所へゆき割付し、 支配人に7、8万円までといひ、(100頁内外、2月末必ず出来と)、吉野書房に引返し、うどんよばれ羽田にゆけば会議に出しと。置手紙して帰る(22:30)。 1月18日 漢文講義すませプリントに宋名臣言行録すらせ、帰ればハイネ5冊のみ来あり、富本君に一冊もちゆけば留守。まもなく西河君来り、十合受けしも最終番にて650と。思込みなからん。 帰りしあと宮本君来り話す。(けふ悠紀子市立病院に手続にゆき500とられし)。夕方、礼かたがた河村ドクターにゆけばまた注射うち下さる。女歌人あり、三好達治に弟子入りしたしと。 次いで来りし徳永嬢らと話し、22:00帰宅。けふ無名の年賀来る。白鳥先生ならん。転任世話のことなど云はれず。 さりともと礼するわれにまなこ避けゆきしをみなよこの怨みをば(某青年の話)。 1月19日 よべ不眠。あさ史に市川氏へ欠講の届けさせ、昼まで臥床。来りし宮川に退職いへば、我の時も原隨園氏より推薦せんとせしと。小野、宇都宮諸氏のこといひ、 雑誌のこと山下君とともにやり呉るやうたのみ、山下君と連絡ささんとせし所へ田中女史来る。手紙わたしてゆかせしに、宮川君帰りしあと林女史来り、連絡とれざりし。 あさ酣燈社堀場君に1万円の催促、夜、保田恒三郎君に手紙。與重郎へも添へ手紙して堀場君へ催促たのみ、田中城平叔父に山本理事長へわびたのむ。雨降りていやなり。心悸時々昂進す。 1月20日 8:00の汽車にのらんとしてゆけば8:45出しあと。10:02まで待つこととなり朝日の田川君と話し9:45にて来たまひし篠田先生つかまへ、けふの帰り問へば15:00またはそのあとと。 勝手にしろで別る。(中島氏、学長もありし)。中島嬢と25分おくれし汽車にて京都12:30着。吉野書房にゆき宮山君呼びて雑誌大体6.2万円としてもらひ、 羽田に電話して呼び出し池内先生の満鮮古代史を祖国社より出すこととし、文部省の某氏の推薦の辞その場で書かされ菓子たうべ、奥西保氏より2000借り、 ともに石田大成社にゆき刷り見本みて丸太町で別れ、丸物百貨店にて佐藤春夫『神々のたはむれ(80)』、赤彦『十年(30)』買ひ、●物買ひて帰り200引けば1300円!(河村ドクターへの礼に菓子150)。 けふ硲君より大阪北畠へ転居せしと。羽田より入れ違ひにハガキ。(羽田には1.小野勝年、2.堀井一雄、3.宇都宮清吉といひ承知せしむ)。 1月21日(日) 郵便なし。昼まへ駅にゆけば小林英俊。ついで中川君、宇田(※良子)嬢と4人にて安土着。近江詩人会。16人会し、すみて新年宴会。井上多喜三郎、井上源一郎、初田(清海)、小林、 辻君の6人。450の会費借りて帰る。彦根は雪積る。 わが心つめたくあらばこの国の空のもとなる土にねむらん。 をみな子のごときものいひするをのこわれをめぐりてあるがごとしも。 1月22日 よべ眠りにくく12:00までごろごろし登学。中島氏と会へば栄転ゆゑ止めず、篠田博士も了解しゐしと。協議会に出て井之口氏つかまへ原稿かへし、山下君、宮川君に印刷所のこと話し、 うだうだの会議大方終りまでゐて田村君を助教授にといひしが無理とわかり引込め、出られし広瀬先生追ひかければ松村氏すでに云ひ、宇都宮氏を云ひしと。小野君のこと話し、 近藤氏のこと云はれ御再考を乞ふ。 夜、宮本氏来り、コルボオに少し金出してもよしと、学校のことで考へ深く態度慎重なり。(けふ宮本夫人赤塚夫人ともに心配してくれし)。 1月23日 文科授業すませ俸給(17900)手取り8471貰ひて病院へゆけば、宮本、赤塚両夫人あり。身の廻り品選び呉れらしと。夫人たちかへりしあと夫君たち次々と見舞に来らる。ドクター、 看護婦ともに冷淡。18:00一旦家に帰りて夕食。また京(※みやこ:三女)を依子に背負にしてゆき我のみ20:30帰宅。けふ子らに100づつやる。けふ朝日の田川青年に会へば川崎君すでにわが退職しゃべりしと。 1月24日 晴、10:00宮本氏来訪に起きて病院にゆき窪田ドクターに会ひ、回診の際たのみしが冷淡。15:00看護婦に300わたせば俄かに手術してくるることとなる。 中西ドクター用意そろはざる中にやりくれ、その後婦長親切。但し窪田氏は謡曲やりゐたり。夕食時来りし宮本氏にいへば、云ふひまなかりしが、そんなことなりと。20:00までゐて帰り来る。 けふ保田より速達にて堀場に催促したが君よりも再々やれ、大阪へゆくなと。子らかはゆく●け合ふ。このをみな死なばあくる日つまむかへねばならぬ身と事にあひ知る。 1月25日 なだれおつる雪のごとくにひたむきになれに向へるこころはしらじ。 朝、弓子、依子、京にて病院。経過よささうゆゑ、あとまかせ史を学校へゆかせ依子、弓子を留守せしめて漢文教へ帰りて二女また病院にゆかせ13:00帰り来しによりまた登学。 教養部設置の会に出る。松村、中島ラインのきらはれかた見るに気の毒なり。われ文科へ残ることとなりしゆゑ直ちに退去。 けふ上田嘉俊より寒中見舞、女児出来しと。保田へ礼のハガキ書く。 若狭より積み越しかれひはみながらゆくすゑおもひ妻はなげくらし。 降りつもる雪のとぼそを叩くひとけふもなくして文作れとや。 死児埋葬品に印押す。 1月26日 10:00まへ家を出て病院によれば経過良好、すでに同室あり子癇にて帝王切開と。10:02出て58までなきゆゑ歩きて工科にゆき近藤氏と一寸話して講義。すませて近藤氏に転任いひ、 出れば12:28取り消し、58まで待つ間うどん食ひ、その家のババアに腹立て。 彦根で河村ドクターにいひ退院よろしと。喜びてゆけば早く出てほしきとわかる。学校にゆき金森使丁まち、長尾君と話せば山下君本校に愛人ありと。伊藤生東大を受くるため休学許可を求む。 許して金森を待ちて出、病院にゆけば既に室追ひ出されてあり。吹雪の中を帰らんとすれば自転車預りの婆さん電話かけてくれ輪タクにて悠紀子帰宅。 われも帰り宮本君と話し同君気は良きも典型的なるインテリにして無力とわかる。 けふ市役所に手続し芹橋の長久寺に埋むる許可を受く。入院料1122少しも安くなし。けふ旅費名目にてボーナス1690もらふ。 1月27日 朝、長久寺にゆき山に埋め、梵妻に200わたして回向たのみ、登学。篠田先生に大体の話をし、13:00の汽車で同行を約し、昼食後また登学。 (広瀬先生とけふはゆっくり話をし川崎氏に正月の200わたせし)。駅にゆけば篠田先生来られず川崎氏とゆき京都着。稲荷にゆき靴磨きに靴直され400とられ、羽倉にゆく。 和田先生にいろいろ弁解してくれし由。お餅御馳走になり、ともに出て四條南座の前にて別れ(村上一時間講師として900の月俸。東京左右の別れきつき由)。羽田にゆけば夕食中。 砂糖一斤土産とし、小野君彦根を辺鄙とていやがりをる様子ゆゑ、他を考へて研究室より宮川、田村に通ずべき旨いひ、21:20出て篠田博士邸へゆきとめてもらふ。松村氏はアル中と。 帝塚山永つづきせずと。学芸大学長北川氏は官僚的にていま喧嘩中と。ゆき子さんにハイネ進呈(博士風呂ぎらひ、朝顔を洗わずと)。 1月28日(日) 朝食よばれて9:30おともし、丸物にてジェレシャ・カーチン 『蒙古史(150)』買ひ、昼食たうべ髭のばせしまま彦根へ帰る。京、お多福風邪か腸わるきかと。 わが血肉岩と木の根の山の辺に埋めしことは忘れずあらむ。 このをとめさかしきさがにをぞびとらこはがりつつもののしるらしき。 (900+140+160=1200(400))。真野君、田川君、中川君みな留守中来りしと。(帰りの汽車、守山まで山本矩久子嬢と同車、谷崎源氏改訂の下[請]やると) 1月29日 朝、子ら登校。われ食糧公団へゆき市役所へゆき市内転住の手続し、米7キロもち米とし、八木原ドクターに往診乞ひ、帰りて昼食、登学。田中女史より彙報の原稿もらひ帰れば宮本君来り、 話すうち八木原氏お見え口内炎と。 けふ万暦武功録のカード作り初む。城平叔父、三木正治氏へハガキ。夜、岩崎昭弥、中川郁雄、藤野(※一雄)、若森、徳永嬢ら次々にあらはれ嬢をのぞく4人おそくまで話してゆく。 岩崎君(※京都市)西半木町西部岩森花方へ下宿と。 1月30日 歴史授業、レポートの題5を出す。野田又夫よりハイネの礼状。きのふ書きし彙報を山下君にわたし旅費請求をして帰り昼寝。悠紀子けふより炊事やる。夜、福島生の母親来り、 麻雀犯を止めてくれよと。市川夫人、田中禎子嬢の縁談につき訊ねに来る。 1月31日 10:00学校へゆき福島生をきけばあらずと。小使室で見付け家へつれ帰り事情きき、河村ドクターに『月下の一群』もちゆき、徳永女史に会ひ、福島の父母に話し、帰途、中川郁雄君に会ひ、 滋賀大の杉本(※長夫)氏会ひたがるときき、昼食後ゆく。暖かく景色よし。夫人とともに歓談さる。京城より引揚げしと。 12級1号俸と。帰りて見付け置きし『宋名臣言行録 上(50)』と伊東『反響(40)』買ひ、山の湯に入浴。 夜、田川君来り話しゆく。 春めきて荒神山に立つかすみこのままにして死なばよからむ。 2月1日 8:45より漢文講義し、蘇洵の文をテキストに刷りて11:00帰宅。昼食してひるね。夜、来客あり村田といふに誰かと思へば幸三郎。飯すすめしもすみしと。 金なくて困りしに察してか20:12にて帰ると(金沢からの途中下車と)。送りにゆけば東海道線不通、再びつれ帰り途中買ひし酒一升の中6合をのみて酔ひ、高石での妻、筋肉炎で死し、 北京での第二の妻、憲兵少佐の姪にて帰りしのち合はず協議離婚し、いま第三の妻もらひ豊川村道祖本宿川原に住み、6月より富田に家買ふと。旧友の話いろいろしてうれしかりし。 2月2日 8:00起床、村田と朝食し、またしゃべりしのちともに彦根駅へ出、別れて電車にて工科、ヒミコの話中途までして帰り、宮川君に会ひにゆけばぐうたらぐうたらして、 川崎君の意見では第一案は村松部長の云ふ通り宇都宮氏と我とを講師にせんと。梅原糸子氏へのハガキを投函して帰宅。羽田より佐中氏も如何とのハガキ見て、 宇都宮氏との連絡促すハガキ書きて依子に投函せしむ。夜、岩崎君来る。。 2月3日 寒し、よべより雪つもり、けふも降ってはまた止む。昼、学校へゆき篠田博士と会ひ話さんとする所へ松村、佐藤二氏来合せしにより帰る。藤野君リンゴもちて来り、夕飯まで話しゆく。 けふ「祖国」2月号来り、和田先生の還暦記念論叢講談社より出るにつき15日までにレジュメをとのハガキ来る。きのふより万暦武功録のノート作る。 2月4日(日) 雪降り止まず、河村ドクターに貸せし本とりにゆきしも起きず。バスにて8:45にのり京都着。山前君にゆき昼食。13:00依田君にゆく。小高根二郎、大浜、高橋など来ず、 井上多喜三郎とともに岩佐東一郎現はれ詩の朗読すみて歓迎会と。依田君のおごりにてビール。20:30みなと出て天野忠君に泊めてもらふ。奈良女子大より話ありと。 サラリーマンになる勿れといふ。 2月5日 8:00起き、話す中佐々木君見えいろいろ話し、10:00すぎ3人にて出て店にゆき歴史書2000ほど短大に送れといふ。『神々の戯れ』(450)につけあるを見る。吉野書房にゆけば栢木君あり、 「祖国」の編輯けふ保田来ると。昼食よばれ社長5000だけ立替へんと。あとで2000借金引かれ3000受取り彙文堂へゆき岩村『長春真人西遊記(120)』、隣で『辺略五種(20)』、 『水沫集(100)』。一旦帰り小高根二郎待ち、来りしと話し15:00の汽車にのるとふ保田待ちしが来ず16:30出て河原町にゆきコーヒー奢って貰ふ。(今村治子女史のことで叱らる)。 別れてゴム長、子らにと思ひしも高く、帰れば保田まだ来ず岩崎昭弥君と夕食くひにゆく途、宮山弟君に会ひ夕食おごり呉る。(13:00ゆきて支配人に会ひ500部中20部抜刷のこといひし)。 一度彦根に挨拶に来ると。(藤枝に電話し後任の件いふ)。帰れば保田あり。久しぶりなれどいふことなし。父君、小坊によろしくとたのみ、 (あす棟方(※志功)と伏見の酒屋にゆくと)19:57をつかまへ文学談しつつ帰れば隣席の画家話し掛く。同車に中村竹次郎君あることを発見、話しつつ帰る。 けふ広瀬先生宮川君と見えし由。河村ドクター悠紀子診察、貧血と。磯崎道子氏の詩稿おきゆかれしと。梅原京子氏より2月11日●之助氏の7回忌と。服部(※正己)より今年は転任せずと。 2月6日 登学。ヒミコの話すませ広瀬先生にお会ひすれば昨日村上成実氏を後任に定めんとして宮川君とともに来たまひしと。よからんといひて田村君に京大へ返事してもらふこととなる。 中島利夫氏久しぶりに研究室に来しゆゑ土曜に訪ねまつるといふ。山下君15:00来宅、坪井(※明)への紹介状書きてわたす。小林英俊氏来り、きけば病臥しゐしと。 17:30河村ドクターお越し悠紀子われともに注射うちてもらひ、詩の話くさぐさして帰らる。心悸よべ3:00までし、けふもをかし。服部、西村、薬師寺母君(10日参上と)、上田嘉俊へハガキ書く。 2月7日 井上多喜三郎氏来訪。14日老蘇にて青年相手の話せよ、7:20安土着にて来よとなり、ついで小使来り、東野女史の使にて「酒の肴」もちゆく。ひるまへ登学。 川村学長に地歴科教官の承認ありしこといひ広瀬先生に申せば松村氏に先づ云はんと。一旦帰りて河村ドクターにゆき強心剤打ってもらひ中川君に会ひドクターの詩のこといひ「酒の肴」買ひ足しにゆけば真野君に会ふ。 別れて協議会にゆけば広瀬さん、松村氏むくれてもう一年吾に苦労させようといひをりし由。紀要の伺ひ書き(7万円)帰れば、藤野君来りてやりやひて夜19:00よりの学長の馬の話ききにゆけと云ひし由。 夜来りてゆかんとすすむれど寒く心悸昂進すれば断り「詩人」を「Poets’ School」に送ること中川君にたのんでもらふ。 けふ城平叔父より速達、4間の家3月15日ごろ建つ。20~25日引越せと也。12日伺ふ旨速達す。梅原京子氏より3品送りしとハガキ。気の毒なることなるかな。 2月8日 登学、漢文教へ一旦帰り12:30ゆき俸給もらふ、8000余となりし。やがて藤野君来り、中島氏来りしも10日の18:00待つとのことにて上らず。長尾君去り2氏17:30去る。 けふ梅原氏より小包にてネクタイと布地と絵はがき賜ふ。 うたうたふ雲雀の如きわがまなこ春めく空を見ればうれしも。 指折りて会ふ日かぞふる京をみななには乙女かわがこふらくは。 三木正浩君よりハガキ。夜、和田先生論叢のレジュメ書き酣燈社へ受取と35冊の催促書く。 2月9日 工科へゆく。雨中歩きてなり。河村専太郎あり、松村氏と連結なりしと。近藤君に村上氏のこといひ、また歩きて帰り宮川君まてば松村氏に話し了解得しと。 広瀬先生と顔見合せ今夜われ行きてあやまることとし、夜、松村家にゆけば広瀬氏には云ひしもよからんと。社交的談話すませて帰る。これにて短大との仲旨くすみたり。 (けさ岩崎君来り、当分彦根より通ふと。工科の授業にてヒミコは倭トトヒモモソヒメノミコトと新説を説く)。 2月10日 10:00まへ学校へゆき中島氏の本と天野君の書類とらんとせしに広瀬、川崎二氏あり。昨日の松村会見のこと話し、帰りて11:00まへ家を出、河村ドクターに強心剤打っていただき11:57にのりて上洛、 吉野書房にゆけば奥西兄氏のみ。2000だけ立替へてもらひ、梅原さんにゆき(300香奠)、歓待さる。大正11、12年の洋行の話さる。出て研究所にゆけば藤枝不在。入矢氏と話し伝言たのみ(竹内好教科書を出しゐし)、 中島氏に寄って見れば既に帰宅さる。ハモなべ食べさしてもらひ(宮川来会す)、20:30出て藤枝に礼いひ、宮川と別れて天野君にゆけば不在?。やむなく佐々木君にゆき伝言たのみ、 ともに出て致し方なく駅前の宿屋に泊る。 2月11日(日) 四條にゆき洋傘ひやかし結局10:00開店の大丸の木綿市で750で買ひ、靴下2足(160)買ひし。丸物にゆき下阪。田村春雄にゆけば夫人産褥、嬢や(和子と)を生みて9日目と。 春雄少しも可哀がらぬがふしぎなり。風呂に入れてもらひコーヒーのましてもらひしてとまる。山本義助邸は北畠と。 さくら咲く丘にのぼりてこひのうたふたりうたふ日いまか来たらむ。 たれひとりその吉ひ(※さひはひ)をうばはずてこのこひとげむすべをおもへる。 をのこわれみめはほこらずことごとにこまかきなさけたぐひありなし。 をのこわれつつ(※銃)とるときもよそびとにひかねどやぶれ知りては泣きぬ。 黒奴も支那農民も殺さずてはな咲くつちとなさむ時がな。 昭和26年2月12日~昭和26年12月31日 24.6cm×17.3cm 横掛大学ノートに横書き p2 2月12日 8:30の講義にゆく春雄とともに出て8:00天王寺で別れ、今川の城平叔父を訪ね、ともに自動車で徳庵にゆく。運転手の帰るを11:00まで待ち、その間叔父のワンマン振りを見る。 父来合せきのふ山本重武に会ひしと。母ひがみゐるゆゑ一度来よと。康平叔父もあり。 安堂寺橋にゆき12:30山本社長に引合され、礼いひ「ハイネ」贈りまた自動車で帝塚山。叔父にたのんでもらひ学長に会ふ。出て住吉高校にゆき山本重武に8年ぶりに会ひ、 うどんおごってもらひ硲君の家へつれてゆかれ(途中池沢(※茂)に寄りしも夜にならねば帰らずと)、ミルク御馳走になりアベノ橋で別れ、 大手前の坪井(※明)を訪ぬればP.T.A.で忙し。すぐ出て梅田にゆき17:10に乗り能登川をすぎれば雪。傘役に立てて同車なりし川崎君と帰る。宮本君来しと。 2月13日 登学。歴史の講義すませ天野忠より来しハガキ見れば送料きめてあらずと。田中健二氏より『陶淵明』買ってくれよと。帰りて昼食すませれば藤野(※一雄)君来り、ややして宮本君来り、 藤野君帰りしあと徳永嬢来る。(けふ田村君5,000また返せず断りいふ) 2月14日 5:00起き6:00家を出6:40の下りに乗り安土着。7:20のバスで老蘇、井上邸に入る。小林英俊肋膜と。9:20より小学校での青年修養講座に出、 「青年のすすむべき道」との題で反戦論やりしも反響なし。昼食よばれて井上邸に帰り、もてなし受け15:00講演終りし滋賀新聞編輯長木村緑生氏と夕食たまふ。 憲法第9條の改正近くあらんと。それに無抵抗の気持は青年たちと同じ。18:00すぎ雪の中をともに出て近鉄の駅まで歩き20:00彦根に帰る。夕方松村氏、 明日の虎姫の特殊部落見学の案内をされ、岩崎君あすより京都住ひといひに来し由。羽田より速達、山下君の就職につき姫岡氏にたのめと。 けふ井上氏気付にて臼井(※喜之介)より中河与一『秘帖』(50+12)送り来りし。 2月15日 けふ虎姫の部落祝祭にと3教授そろひてゆきし由なれど我ゆかず、松村家へ悠紀子ことはりにやればすでに出しあと。漢文すませ広瀬先生に伺へば宮川君「飲酒研究」と悪口いひゐしと。 天野忠よりことわり状、ラヂオ聞きゐしと。帰りてひるね中、藤野君来しも悠紀子帰せしと。夜、石浜先生、羽田へ便りかく。 2月16日 曇、工科へゆき12:10ごろ家へ帰れば悠紀子不在。また学校へゆき山下君に姫岡氏へゆくことをすすむ。宮川君「われも世話せよ」といふ。帰れば朝日の田川君来り写真とる。 13:30正法寺の小林君見舞にゆけば入れ違ひとなりしと。井上多喜三郎氏より礼状、いたみ入る。 けふ石浜先生への手紙投函し臼井喜之介へ『秘帖』の代、3月コルボオの会にて払はんといふ。 2月17日 晴曇半ばし寒し。家居、富士の原義元氏より図書室のこと。父より通学と配給のこと。けふ和田先生、坂口允男へ手紙。原氏へハガキ。 大へ「酣燈社へ35冊とりにゆきくれよ」と。午後中川郁雄、藤野一雄2君来る。明日11:57でゆくと。『ワーズワース』と『詩鑑賞』と2冊づつ買ふ。(150) 2月18日(日) 朝、大江叔母へハガキ書き11:57に乗ると出てゆきしにおくれ、中村竹次郎へ寄りしも不在。13:12にて八幡着。産業会館の詩人会にゆけば30人ほど、盛会。わが詩よみ終りしとき、 史来り「ジヨウヘイヤマヒワルシ フジコウギヨウヘコイ、エン」との電報もち来る。あはてて17:10の汽車に飛び乗り19:00徳庵へゆけば「警察病院へ入院せし」と。 久美子の婿松尾、同君の父(もと住中校長と)とともに桃谷の病院へゆけば胆嚢炎と。一目見しのみにて大江叔母、田中叔母、今川町の叔母、きわ叔母と話し、うろたへし康平叔父、 東京より帰りし大江叔父、昌三叔父、久美子などと一座し20:30藤井寺にゆきて泊る。(けふ『Golden treasury』120で見付け買ふ。) 2月19日 10:00藤井寺を出て市立病院にゆけば春雄診察中、まちて散髪し、コーヒーにトースト摂り14:00すみし春雄の部屋へゆき石浜先生の甥君と話し、 警察病院の外科部長に紹介状書いてもらひ病院へゆけば16:00。父あり「病状心配いらぬ」といひ、叔父にも会って退去。 天理にゆき金井(※寅之助)君にゆく。18:00ごろまで帰らぬ由を呼んでもらひ彦根(※就職の口)脈なきことを申渡して泊めてもらふ。 (中村忠行に途で会ふ、帝塚山のこと知りゐる。金井君は知らず。佐藤誠やめしと。) 2月20日 金井君に一歩おくれ駅より大学まへ行のバスにのり図書館にゆく。佐藤誠来ず。10:30出れば新城氏養徳社まで送り来る。上田嘉俊呼び出せばまた整理と。 吉岡君危しと。鈴木氏2ヶ月欠勤と。コーヒーおごられ西ノ京へゆき薬師寺の塔頭に住む佐藤君にゆけば「夫人東京にやり自炊」と。東京よりの客3人ゐる。ともに出て西大寺で別れ京都着。 吉野書房へゆき2900もらひ、帰れば19:00。 留守中、田村君4000返せしと。山下君礼もち来しと。(けふ姫岡氏に天理で会ひてきけばあやふやなり)。三木為堂、田村実造博士、 井上多喜三郎氏よりハガキ「近江詩人会3月は彦根図書館にて18日10時より。原稿は10日締切」と。 けふ石田大成社より校正受取り、帰りてあけ見れば井之口氏と我との分なりし。 2月21日 晴、暖し。10:30井之口氏に校正もちゆき自らも校正す。山下君より手紙。美術大の口なりしとて喜ぶ。『天狼』より「選句を」と。斯波氏『陶淵明(240)』送り来る。 帰りて昼食してまた登学。中島氏に会へば「学長、家空けくるるや心配しゐる」と。「金井君は欠員なきため(※呼ぶこと)ならず、天理よりなにか告口ありし」と。気の毒なり。 協議会つまらず。いよいよ不快。帰れば「小林君、餅もちて来たまひし」と。藤野君にゆきて此間の会のこといひ、帰れば守田、徳永2嬢お越し、話す中、井上多喜三郎氏来る。 ややあって小使来り、「家賃2300を後期月給より引く」と。2嬢帰りしあと井上氏に夕食たべてもらひ、送り出して宮本君にゆく。徳永嬢は諏訪氏に断られしと。 世界地図(宝暦版)もらひ帰宅。けふ『くれなゐ』にと歌12首かきぬく(会費200同封)。 2月22日 8:45の漢文の講義にゆき帰りて岩崎昭弥の失恋といふハガキ見てゐれば、徳永嬢来り京に絵本2冊呉れ、昼食たうべ15:00まで話しゆく。(けさ平凡社より「辞典5項目書け」と、 善海の心配りなり)。午後、井上多喜三郎氏より礼状。 2月23日 朝、和田先生より「中国史概説」たまはる。工科にゆき何も教へず、帰りて昼食、登学。 山下君に途で会ひ「田中秀央先生にもたのむべし」といひ、校正宮川君にわたし、サラリーの不平聞き、帰らんとすれば藤野一雄君?受験の聞合せに来る。別れて新聞部の卒業生たちと会し、 帰れば「留守中藤野一雄君2度来し」と。夜来しと岩崎昭弥のことなど語り送り出せば12時すぎ。 けふ金井、平凡社、田村実造博士へハガキ。大より「酣燈社にゆけば送りしとて帰り来し」と。けふ萩原博士に聞けば「学長、工科の人にあとわたすゆゑ心配しゐる」と。 折よく来たまひしに「3月25日頃明けわたす」といふ。月給より家賃2300引かれし。 2月24日 11:30まで寝て起きれば酣燈社より35冊来ゐし。学校にゆき図書館に一冊わたし、萩原博士の室で篠田先生まち13:12の汽車を約し先に出て中川君に留守いひ、 駅で山本副手とともになり待つ中2博士お越し、中島氏「松村はこの頃悪くなりし」と云ひゐるとのことに「前よりならん」といひ、山下君のあとたのみ、大阪着。警察病院にゆけば、 城平叔父好きらしバナナ昭和17年よりの年ぶりに食ひ、アベノ橋で中華そば食ひ、京都へ帰り下総町にゆく。久美子の母は今川夫人と。似ゐると思ひし。 2月25日(日) 洋傘借りて出、駅前にゆき羽田にゆけば同窓会とて不在。4月博士邸へ越す由、夕食すすむる夫人にことわり下総町に傘かへし19:55にて帰宅。「留守中、小林君来り、若森君来し」と。 けふ父より山上次郎『斎藤茂吉研究』2冊もらひ車中よみて来し。 客入らぬ古本店にふみよめる友のひたひを車中より見し。 あたたかき春をおもへばへやのそとはしための泣く宿に泊りつ。 ちちははのなきぬ歌よみこのをとめややにさかしくなりゆくらしき。 2月26日 角川より税金申告、「31400(源泉4710、未払15248)とせし」由。 11:30出しにバス出しあと、汽車14:00までなければ河村先生にゆき『茂吉』1冊贈り福島にゆきしに母のみあり。学校へより宮川と話す、「転職す」といきまいきゐたり。 出てバス待ち、13:12にて湖岸伝ひに長浜にゆき武田君に『ハイネ』冊贈り、陵木(※おかぎ)君に会ひ『孔子伝(30)』、 『十八史略(30)』買ひして時間つぶし17:00より田楽くはしてもらひ二人で酒一合のみて帰る。子供へ絵本もらひ18:50の汽車。米原にて電車また来じ。 ねぎみそを和へし豆腐をはみつつも詩をつくりたくわれはなりゐし。 2月27日 井上多喜三郎氏より「近江詩人会18日」と。登校。学芸部最後の歴史の講義す。学生はまだ知らざる様子。長谷川嬢旅費1280もち来り、「宮川君よりわが転任ききし」と。 昼食しひるねしてゐれば真野君来る。夜、田村春雄、武田豊へハガキ。 けふ姫野助教授より校正来り「転任を山下君よりききし」と。武田へ「北国の門口にある町にゆき心かなしくわれはをりたり。」 2月28日 田中嬢来り「図書館委員会に出よ」と。居留守つかはしむ。けふ依子の学芸会とて悠紀子出しあと長尾君来る。春めきたり。坂口君より「9000いつにても出す。奈良学芸大高校へかはる」と。 夕方、河村氏にゆき『斎藤茂吉』もちゆく。帰り古本屋にて『法隆寺(120)』、『石神問答(60)』買ひ、帰れば松村氏来り「三木君8月以後は療養できず。 中村忠行より卒業生やとへと云ひ来し」と。「帝塚山より学長に挨拶すべし」など。けふ武田豊と田村春雄へ礼状出す。 3月1日 漢文の授業にゆく。天野忠、埜中清市より「金受けとりし」と。帰りて昼寐、夜、坂口允男にハガキ書く。 3月2日 風吹きやや寒し。工科へゆく。岩崎昭弥より「仲直りした」とハガキ。『風流滑稽譚3』を買ひ、これでそろふ。午後図書館へゆき『東洋歴史大辞典』ちょっと見る。「学芸の学生わが転任を知りし」と。 3月3日 風吹きて寒し。羽田よりハガキ、「村上氏15日すぎに来彦」の由。山本治雄学校へ来しとのことに裁判所へゆき12:30またゆき伴ひ帰る。呉竹、廣野の事件との由。 昼食せしめ15:00の汽車にと駅まで送る。『ランボオ詩集』、ゴローニン『日本幽囚記(30)』買ふ。けふ和田先生へ礼状。羽田、堀場、三木氏へハガキ。(三木君、滋賀新聞にてわが転任を知りし由)。 夜、朝日の田川君来る。ボケた写真置いてゆく。 3月4日(日) 8:05に乗らんといそいで出、『堀辰雄』買ひ、よみもてゆけば(花もてる女)、八幡より井上源一郎君、女と乗り話し相手あり。山前君にゆきコルボオ双書の清算し(264)、 坂口君のことたのみ、大西卯一郎へゆけば留守。ここにも『ハイネ』置く。 春あさき湖の色わかれ来しいまのまなこに見るはかなしも。 けふ山前君にきけば井上多喜三郎君、われの詩集(※『寒冷地帯』の印刷)たのみゐし。 3月5日 よべ雪降りけふは晴、一日臥床、来客もなし。 なには津にわれら下るとももやまのみささぎのへにゆきし日のあり。 ながおもてまなこつぶれば鮮やかに見ゆる日けふをあやしみてをり。 3月6日 雨、午後田中嬢卒業式の饅頭もち来り、「石田印刷所の宮山君、明日来る」と電話ありしと。 大に『ハイネ』2冊送り、帝塚山の庄野英二君に「院長の学長あて挨拶状のことたのむ」手紙出す。 夜、若森君菓子もち来り2:00まで話しゆく。「岩崎昭弥の愛人、立命の夜学に通ふ」と。「自らは大阪の離婚、子1人ある女に養子にゆく」と。 3月7日 寒し。田中嬢校正もち来る。登学すれば電話かかり「宮山君あす来る」と。馬場課長にきけば「退職手当なし」と。西沢課長に院長の学長あての手紙の書式ききして帰り、 校正(再校)やり(ひるまへ田村瑞穂君1000返しに来り、これですみ)。 夜、井之口氏にもちゆき宮山君に校正見せ、帰れば岩崎昭弥君来り「18日の会来れず改めて送別会する」と。 3月8日 晴、8:45より漢文。李白杜甫やり、すみて試験問題かき、帰りてまたゆき山下君に校正見せ、中島氏井之口氏に校正の連絡とり、俸給もらひ13:30来し宮山秀夫君を案内して30000とらせ山下君に紹介し、 帰りて徳永嬢に『ハイネ』1冊与ふ。藤野、中川君と話し夕食後、河村先生にゆき話し帰途、田川君と会ひ、うどん食ひて別る。けふ硲君よりハガキ。『日本爆撃記』買ふ。 3月9日 10:00工科へゆき左翼学生より「人民の歴史」をとの注文きき、帰りて早ひる、散髪せんとせしもコミゐしに、辰巳事務長を見舞にゆく。13:12にのり京都下車。 山前君に『ハイネ』と彦根で買ひし『Pantheon』10冊(200)預け、散髪して乗車、病院にゆけば叔父機嫌よく話す中、昌三叔父も来る。ともに出て大江へゆき(叔父上京)、 おえん叔母と3:00まで話す。賀陽の宮の話面白かりし。 3月10日 7:00起き8:00駅にゆけば中村治光「飛行機をつくる」と。学院にゆき短大にゆき試験監督2時限目とわかり11:00まで待たさる。硲君来る。美学の岩崎氏と話す。 瀧遼一、三上次男、内藤コー次郎を知り、小高根、保田を知らず。 1時間半監督、形式だけの試験と知るゆゑ面白からず。すみて昼食くひ、英二君に『ハイネ』やり、洋傘を探せばかへられたり!14:00病院にゆき叔父と学則をよみ、 大江叔母と月給5000(手取り)ときめてもらひ、10,000もらひ父と出、京阪五條下車、山前君にゆけば映画。夫人にいひ散歩に出、大西卯一郎にゆけば酒宴中。 『コギト詩集』預り、出て澄田正一『中國先史文化(30)』、三浦周行『日本法制史(70)』買ひ、山前君にもどり、印刷たのみ泊めてもらふ。 3月11日(日) 8:00ごろ朝食よばれ、よべ1:00までかかりて切りし原紙の校正をし、百万遍までゆき臼井(※臼井書房)に寄れば「病臥」と。『ハイネ』1冊やり、篠田先生にゆく途中、 江上波夫『ユウラシア古代北方文化(150)』見付けうれし。文子さんにけふの会にゆくことすすめ、外山氏にゆく。『世界人名小辞典』3版になりしとてもらふ。 藤枝の家にゆけば研究所と。ゆきて田中健二氏へと『陶淵明』の240ことづけ、山前氏に帰れば「すでに依田氏にゆきし」と。むべなり。13:30なり。 依田氏にゆけば主人よみ合せとて不在。来会の天野忠、天野隆一、城小碓、俵青茅、荒木二三、阿原、井上多喜三郎、山村順、安藤、佐々木、高橋重臣に『ハイネ』一冊づつ贈り、 篠田嬢に『Pantheon』預け、山前君にプリントの清算す(1500と。以外の高値なり)。 大阪の交替詩派の8,9人来る。喜志邦三を大将とする一派なり。17:00ごろ来し岩崎昭弥と高橋君と三人にて出、岩崎君に外食おごってもらひ鞍馬口まで歩きて後会を約し、 父のもとへゆきプリントことづけまた出る。近所の府立医大学長夫人殺されしとてあたりさはがし。岩崎にことはりしあと野田又夫にゆく。 保田の批評を割に真剣にやりし。迎へに来し岩崎君と出て近藤助教授をたづね(武安向ひ)写真あまた見せられ、ごち走になりして出、古本屋またひやかして矢野仁一『支那の社会と経済(70)』買ひ、 岩崎昭弥の下宿にゆけば同室あり。女主人の老婆酔ひて叱るにいやになりて出、烏丸車庫で別る。(井上多喜三郎氏『寒冷地帯』つひに白状し1冊手渡す。 鈴木寅蔵『若き日』も呉れし)。 ながわれを愛すと知りぬながそをば心づく日をわれはおそるる。 3月12日 よべ寝にくかりし。9:00羽田にゆき『内蒙古諸部落の起源(※和田清)』借り、引返して母の直しくれし鞄もちて(200)吉野書房に寄り、石田大成社にゆき校正、ひるめし振舞はれて終り、 奥西保君に池内先生の本を催促の手紙のこして宇治へゆき、小高根二郎の案内で寮則もらひ、(※富士鋼業の)寮母さんたちと話し「寮長」は選挙と知り、大阪へゆかんと思ひしが考へ直し下総町。 父にいへば「明日でよからん」と。夕食ふるまはれ19:55にのりて一先づ帰宅。 「留守中真野君来り、神谷博君を紹介せし」と。西川英夫よりハガキ。「本位田昇渡米」と。角川より「5000送りし」と。 3月13日 歴史大辞典かく筈なりしかど出来ず昼まで臥床。西川、坂口へハガキかき、14:00登校。博士となりし川村徹君に祝辞いひ、萩原博士に「同車せん」と書き置きし中川郁雄君に会ひ寮規則のこときき15:00にのる。 原女史と同車、転任のこといふ。 18:00徳庵着、丹羽千年を訪ね桂信子氏とも会ひて話す(外食券にて天丼35)。『ハイネ』1冊置く。20:00寮に着き、 城平叔父と対談中の重役課長に「寮長」のことなどいひしも心配なしと。おそくまで話す。 3月14日 よべ眠れず。喘息の発作起る。7:00起き朝食。8:00(※富士鋼業の)工場へゆきそろって寮へゆき開寮式。城平叔父能弁なり。松尾部長のあとわれ挨拶。あまり旨く出来ず。 懇談11:30すみ、撮影すみて人々を送り出しわれ昼食試食、麦飯なり。24、5日転居を寮員と約し、会社によりしのち14:10にのりて帰宅。角川のカハセ来ず。大、佐々木邦彦氏よりハガキ。 若森君来り空函くれ「トラックの心配せん」と。21:00田川君来り、「中島信子嬢を泣かせし」と。 3月15日 8:45のつもりにてゆきしが9:45より漢文の試験、全然出来ず。広瀬先生来られ「きのふの協議会にて部長より発表あり、中島氏、地歴の冗員を云ひし」と。2回生の組主任を宮川、 1回生を村上氏と。ときめ、「田村君にはやむを得ずば英語手伝はせん」といふ。 「明日歓送迎会」と宮川君に連絡たのまれし。山下君に表紙のことにて石田にゆくことたのむ。帰りて漢文の採点。 けふ喜多村、岡村、下里の諸氏に挨拶し、辞表かき、帝塚山の手紙、西沢課長にわたす。 奥西保君よりハガキ。池内先生の本やはり4月らし。21:00若森君来り「トラックの世話しくる」と。菜物学の話してゆく「朝顔の種子4ケ位で下剤になる」と。 3月16日 小林英俊来り「18日16:00より出席」と。「(※八木嬢?)また発熱せし」と。米2斗たのむ。田村君来り入学試験問題集おきゆく。12:30登学。萩原先生と話し学長に会ひにゆき挨拶す。 その他挨拶す。長谷川嬢なにとかいひてわが肩に手を置き怨むふりす、ふしぎなることかな。14:00村上君来り学長に会ひにゆく。その間待ちて退屈す。15:30呼びにやり引きつぎす。 「学長のまへで部長15日まで用なしといひし」と。おかげで入学試験をわがやることとなる。漢文は「唐詩選」やると。工科の歴史は田村君ゆくらし。 16:30より作法室にて松村氏を含めてわが送別会。酒2本出て会席料理。気の毒なり。松村氏、名大の工藤先生に会ひ、 わがこといへば「その故に名古屋にも来ざりしかと了解されし」と、ふしぎなることかな。 18:00先に出て帰れば宮本君来り「地歴の女生悪評あり」と。ややして中川郁雄、真野両君来る。トラックのことたのむ。23:00まで話しゐたり。けふも辞典書けず気がかりなり。 【歌稿ページ(6p/36p)より】3.16 しろじろと浪花ばら咲く垣根みちかなしといひてわれらわかれず。 海港のはるけき汽笛よはすぎてわれらめざめてききにけるかも。 もやふかきまちの四つ角たちどまりあかぬわかれをわれらなげける。 去るわれをとめんとのべしなれが手のぬくかりしてと今も忘れず。 3月17日 8:30中村竹次郎君来り「21日夕食をふるまふ」と。9:00学校へゆき漢文の答案かへし順次説教す。片山久子赤くなりしをはじめて見し。すみて篠田先生の室にゆけば松村氏あり。 「24日の転居以後は来ずともよし」との口振りなりし。帰りて飯食ひ昼寝せんとすれば若森君来る。中川君よりの電話をとりちがへしらし(けふ八木女史よりハガキ。 「25日以後休みと」。岩崎昭弥より「住田加茂の宮司となるやもしれず」と)。上田女史、田川君とともに来り、最中20ケたまふ。 松村氏●●君の留守中となりの室に男やもめ入れんといひ「猫に鰹節」と反対せしと。可笑。 3月18日(日) 近江詩人会とて9:00家を出、図書館で『東洋歴史大辞典』写せしのち会場にゆけば集りおそく、12:00まへやっと出そろふ。総数20人ほど、中に河村純一先生あって退屈されをり。 17:30記念撮影すませて一度散会、やりやにての送別宴、12人(河村純一、杉本長夫、井上多喜三郎、井上源一郎、錦織白羊、中川郁雄、岩崎昭弥、真野、武田豊、藤野一雄と我)。 気の毒にて1合位のみ、21:30杉本氏を誘ひて帰る。 3月19日 よべ不眠。送別会を思ひ出してなぜやら不快。長尾君来りぐち云ふ。西村より「明日帰丹(※丹波市)の途寄る」と。徳永嬢来り「22日わが家で会する」と。 ことわりしがきかず宮本君来り「工科の教授、すでに来り家の空くを待ちゐる」と。夜、工科の採点しゐれば宮本夫人来り「哀歌」見て泣きしと。かはった人なり。松村氏また上京と。 けふ昼すぎまでかかり「カルカ、カラチン、ガルダン、オードス」書き平凡社へ速達せしむ。夜、西村より「21日朝にす」と電報。 3月20日 悠紀子、小学校へ転出の手続きたのみにゆきて間に山下君来り「就職駄目なりし」と。 11:00中学にゆき今村先生に転出たのむ。太田校長、宮村嬢にも会ひし。石島博士にも挨拶し、帰りて昼食。(けふ依子に八木嬢へ手紙かかせ「28日来よ」といひやる) 13:30学生10人来り「グッドバイ(※詩)」よみてきかせ説教もす。宮川、中島二君とも評判わるく「理由は上にへつらひ下にきつきがゆゑ」と。感心してきく。われは「全学のNo.1なり」と。 とりわけ家政のお嬢さんによしと。ふしぎ。 17:00みな去りゆく。けふ学校へ来し村上氏の手紙。時間割のこと。夕食後、市川氏にゆきしに帰らず夫人にきけば「田中禎子嬢技術者にゆきたしと教師の話ことはりし」と。ふしぎ。 床に入れば松村氏来り「大阪図書館長八高出」と。「試験監督せずともよし」と。けふ『戦後吟』65首写す。 3月21日 春分の日と。9:00西村喜世和来り話す中、藤野君来る。22日の会ことはり23日荷物造りの時、徳永嬢も来てもらふこととす。 12:30学校にゆき長谷氏に会ひ採点わたし村上氏の出勤日の相談す。「中島氏評判わるし」と。 城山に案内し、河原町歩き、別れて帰れば若森君留守の間に来り「8500出せばトラックその日にてある」由。夕食後中村君にゆけば「明日のつもり」と。 ことはりて帰れば河村純一先生お越し、シンガポールの話し、たばこ賜り恐縮す。 3月22日 登学、試験問題作る。田中嬢も中島氏と宮川君のこと知りをる。廣瀬さんと話して帰り、午後出て望月澄子氏に挨拶にゆき帰れば、藤野君箱4ケもち来り若森君2ケもち来る。トラック8500のになる様子。 けふ「東洋学」送り来り、平凡社より原稿の受取来る。21:00すぎ中村竹次郎来り「いまより来よ」と。けふ退職せし様子、しかも明日上京と。かわった男にて薄気味悪ければ寒さ申し立ててことはる。 3月23日 12:00まで子ら学校にゆき、われ入れちがひに登校。(大橋氏来り送別会の日取も[ち]、中島君来り八木嬢に案内されしと) 田村君に後事托し月給もらひて出、(東山、水、二人にて記念品もち来る。気の毒なりし)、帰れば若森君、真野君来る。(真野君、エプロン、ちゃんちゃんとお菓子たまふ)。 山下君(タオルたまふ)。長尾君来りしも上げず、田中嬢来りタオルたまふ。徳永嬢短冊と額縁たまふ。佐田嬢餅菓子たまふ。下里夫人ネープル(150)たまふ。赤塚氏菓子(75)たまふ。 夜食、うどんと忙し、宮本君(ドロップ1缶)もち来り赤塚君と21:30までゐて手伝ひせず。若森君独り舞台なりし。24:00まへまで3君話して帰る。中村竹次郎「東京へゆく」と18:30来り、 肉200匁呉る、「西川英夫に会へ」といふ。芳野清よりハガキ。けふ徳永嬢わが別れの挨拶に泣きし。ふしぎなることかな。「東洋学」また来る。 【歌稿ページ(6p/36p)より】3.23 わがために泪おとして送り来しひとはねむりにいりにけらしも。 3月24日 6:30起き7:00頃よりふとん包みはじめ7:30若森、藤野、中川3君来り、水嬢来りし。8:30来しトラックには学生4人、その他大勢手伝ひ呉る。 芹川堤に見送る岩田氏をはじめ諸氏に別れを告げ、9:00中川君、福島生を相棒に出発。中仙道を下る。途中やや寒く、逢坂山、山科の検問所で引っかかりしも教授の面子で勘弁してもらひ14:00着。 8500中川君にことづけ500チップにやりして帰ってもらふ。(けふ寺村先生に依子らの証明書とノート1冊もち来らる。長谷川嬢キャラメル7ケ呉る。) 城平専務に挨拶おくれ苦き顔さる。堀の向ふに荷物置き17:30帰りし寮員に運ばし、あと音沙汰なきに腹立ちしも仕方なし。「叔父死して帰郷す」といふ子あり。羽衣の叔母来しあり。 3月25日(日) 7:00起き9:30来りし城平叔父を囲む懇談会に出て司会者やる。城平叔父の懐旧談中々うまくホロリとす。12:00まへすみ、丹羽千年へゆき帰る途中、雨。美次子家まで来り傘借りて帰る。 夜、電気つかずいらいらする中、来って直しくる。それより寮長と懇談会。いろいろ話きく。買ひて欲しといふ本の中にVan De Velde(※『完全なる結婚』著者)あり。衣川なる綾部出身がリーダーなり。 けふ彦根、布施両郵便局へ転居通知、若森君へハガキ書く。京、夕食食べず熱計れば39℃とて心配。 3月26日 寮長申告かく。帝塚山、彦根の短大へ転居通知。9:00すぎ会社へゆき康平叔父、大江課長、松尾君などのゐる倉庫部へゆきしあと、専務に申告書出せば娯楽書でむつかしき顔す。 先日立替の1500もらひ転住、転学の手続たのみて帰れば11:00。父来り、こないだ預けし本もち呉る。送り出して昼寝せんとすれば庶務課長、配給のことで呼出し。 引受けて夕食すむをまちて寮員呼出せばまたわからず20:00寮母杉浦、炊婦安倍を呼出して話をきく。けふ田中禎子、徳永の2嬢へ挨拶のハガキかく。両井上、『くれなゐ』、羽田へ転居通知。 【歌稿ページ(6p/36p)より】3.26 春あさき老蘇の森の下草のひめたることはいはで別れぬ。(井上多喜三郎に) 3月27日 朝6:30起床、9:00まへ会社へゆき俸給5000もらひ庶務課長竹村氏と区役所にゆき転校の手続きし、課長室で茶と羊羹たまひしのち、放出中学、榎本小学校を歴訪、 会社で昼食よばれ専務に礼のべしあと藤井寺にゆき会合中の大江叔母にまた昼食おごられ(タバコ置き土産とす)、杉浦寮母出戻りの娘にて初枝叔母の妹と知る。 市民病院に田村春雄訪ぬれば帰宅。徳庵駅前で穎原退蔵『俳諧史の研究(80)』買ひ、帰りて飯くへば停電。和歌山の寮員「ぼんやりなりやこそ工場の意もわかりませぬ」とほざく(小倉修)。 23:30までかかりて主食の表作る。眠れずハガキ書く(中川郁雄、萩原博士、硲晃、服部正己)。 【歌稿ページ(6p/36p)より】3.27 風寒き淀の流にき●くるか●ごししこと今は恥づるも。(中川郁雄に) なが●どに坐りしをさな水かはる浪華の家にひと夜熱病む。(徳永昭子に) 3月28日 8:00会社へゆふべの表もちゆきしに竹村君勘定わからず。衣川、代表として(+)(-)をなしにせんといふ。外へ出てより持参のクーポンを表につけざることわかる。 坪井にゆく途中散髪し(80)、銀行にゐるをつかまへ金井君のこといへば「浪速大学に江川あり国文さがしゐる」と。よろしくたのむ。学校までゆき昼食よばれ、12:30出て、 大軌(※大阪電気軌道)にゆき、百貨店で村田治郎『満州の史蹟(150)』、『ゴローニン上(30)』買ひ、ぜんざい食ひて(50)別る。 夜、寮長あつめゐれば監督も来り、写真わけ近々ボーナス出ることを云ひす。D室の横山、高知、須崎の折合あしきを●ふ。 春の海の青き見し夜はこひしくてほとほと死にききみをおもひて(みえ女の云へる)。 3月29日 錦織悦夫、林正哉、西島健、西島寿一、西島大、西川英夫へ転居通知。堀さん、酣燈社、外山軍司、小川浩へ同。太田守松、相野忠雄、尾西実、渡清彦、鷲教社へ同。悠紀子、 京を池川医院へつれゆき診てもらひしも原因不明。 けふ案内を見廻りしに一人臥床、寮母にゆかせしに仮病らし。12:00会社へゆき云へば「労務課長叱りし」と。13:23にて天王寺へゆき市民病院へゆけば田村春雄出張と。 石浜先生へタバコもちて(500)お礼にゆく。「関大へ呼びたかりし」と。嬢ちゃん『ハイネ』を喜びてうけたまふ。藤沢桓夫氏も一寸来られ「長沖一氏父君に父ゆきて(※帝塚山への就職のこと)云ひし」と。 帰り大鉄百貨店にて『孔子家語(30)』、喜田貞吉『飛鳥宮(50)』、体温計(200)買ふ。 夜、仮病の鳥飼生あやまりに来る。 けふ彦根より回送の『くれなゐ』10部。『大阪東北部1/25000(15)』買ふ。会社へ『祖国』4月号来る。 【歌稿ページ(6p/36p)より】3.29 水ぬるむなにはの野辺にあそぶ子らこの子らゆゑに帰り来しはや。 3月30日 悠紀子、黒板に落書ありと発見「パンよこせ」なり。会社にゆきて云へば原君、気にするなと、尤もなり。河村純一先生、佐田佳子、角川書店へハガキ。15:00まへ専務、総務部長、 山本社長を案内し来りボーナス1000賜ふ。 けふ中川郁雄、田中禎子、中島利夫の諸氏よりハガキ。東海日日新聞より宗教につき1200字をと。15:00すぎ八木嬢来訪。夕食食ひ、尼ケ崎へゆくとて早々退去。夜、須崎校の塚本、 職に通ぜずとて辞任申し出づ。岩崎昭弥、神田喜一郎博士、川久保悌郎、笠井信夫へ転居通知。 【歌稿ページ(6p/36p)より】3.30 あたらしき庭に四本のさくらばな植うるときのふひとは来りし。(宇田良子に) 3月31日 けふ原監督転居し来る。われ東山、水、福島の3生、川崎健史、神田信夫、金井寅之助、芳野清、竹内好、田村実造博士、武田豊、田村瑞穂へ転居通知。12:00出んとすれば徳永嬢より手紙。 角川より5000。国会図書館より「地誌安徽省の部」。会社にゆきしも庶務課長ゐず、四条畷の杉浦総務部長宅へと一級酒1升(825)もちゆき、四条畷高校できけば相馬実、病臥と。 50分まちて河内磐船より私市(※きさいち)にゆけばちがひ、反対の交野村私部(※かたのむらきさべ)にゆく。病気は結核にてマイシン4、50本うちしと。母上いかが見たまふやと泣かる。 気の毒なり。戦友たちに相談せんと思ひて帰る。われと仲の好かりし野村も近くにありと再訪約して帰る。また丹羽千年によりしも不在。けふ移転祝とて酒一升たまふ。一級酒の日なり。 4月1日(日) 筒井、辻研、中島明子、中村治光、長谷川英子、宇都宮清吉、薄井敏夫、上田嘉俊へ転居通知書き、丹羽千年に寄れば英語の家庭教師忙しくて出来ずと。 電車で香代子と夫森君とに会ひ梅田までゆき今里へ引返し、埜中清市訪へば留守。 けふは一日雨なり。笠井、錦織両氏よりハガキ。夜、原氏へゆきて話す。佐賀の人なり。 4月2日 9:00放出中学へ史の転学でゆきしに10:00よりはじまり退屈す。入学金150を収め、帰りて昼食、ひるね。散髪屋諏訪来る。大三島の男と。面白し。 短大へ挨拶状。山田鷹夫、山下幸雄、工藤先生、桑田先生、竹川、中村竹次郎、村田、杉本長夫、野上、野田、桑原武雄、梅原糸子、保田、山本重武、 安田章生、矢野峰人博士、山本治雄、川崎、田川正義諸氏へ転居通知。 けふ『くれなゐ』へ10首送る。夜、原監督より転居の挨拶にて茶菓ふるまふとてゆく。22:00までお説教す。昼来し散髪屋の件もあり可笑。夜、善海、菅谷晴子、平凡社、俣野、前川、 吉野書房、呉野、藤野、丸、藤井通雄、藤枝、小高根二郎へハガキかく。 【歌稿ページ(6p/36p)より】4.2 わが友ら城山の上にうちつどひこひかたる日ははやめぐり来ぬ。 みづうみの冷きいろをかなしみて去りにし友をわするるなかれ。 4月3日 雨、小林英俊、青木富太郎、小高根太郎、江口三五、池田直也、寺島徳八郎翁、近藤豊諸氏へハガキ。10:00会社へゆき専務に礼いひ総務より礼出され11:00一旦家にかへり酒一升さげて藤井寺。 大江叔母不在。初江叔母、松尾久美子と話し肥下にゆき話して帰り、叔母より色々きく。杉浦美都子は大分のかはり者なりと。専務の都合伺って私宅へゆけと。甚幸入社せしと。21:20帰宅。 宇田氏、硲晃よりハガキ。近江詩人会より通知。埜中君よりまた『くれなゐ』。堀内民一より泉尾高校にかはりしと。けふ大鉄百貨店にて1/25000吹田。アテネ文庫『源氏物語』、 『科学人名事典』買ひ大江叔母より500もらふ。 ※〈四月三日 午后二時田中克己来訪。帝塚山短期大学教授ニ転ジタ由。詩集「寒冷地帯」ヲ貰フ。四時頃カヘル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 91p 4月4日 朝、雨。ひるすぎ止み、史を布施へ本買ひにやる(350)。岩崎昭弥より手紙。若森君失恋、みなさびしがって我をおもふと。東山、水2生よりハガキ。新城英太郎、島、三木為次郎、宮川、 坂口、堀内(泉尾高校へかはりしと)、宮本、鈴木俊、末吉、杉森、杉浦正一郎、平戸、姫野、広瀬浄慧、白鳥清、篠田統の諸氏へ転居通知。京都上京郵便局へ同。 父来り夕食食ひタバコ銭200もちゆく。先月城平叔父より10,000もらひしと。服部よりハガキ「豊橋面白くなし」と。夜、入湯。 4月5日 朝、会社へゆき一旦引返し早ひるたべて長沖一にゆく。父の友なる父君、長沖先生ともにうす[毛]なり。「あまり学校に熱心にならざるがよし」といふ。 『ハイネ』一冊おきて教はりし庄野英二の家へゆき佐藤春夫先生接待中とのことにかけ足にて本家へゆけば潤三(弟)その他をあはせて坊ちゃんと同行の先生接待中。 「本をありがたう」といはる。われひとりしゃべり短冊いただく。「ニセ詩人貧農を助くるの話」の賜物なり。「龍児君もわがこといひをる」由。 13:30学院にゆき「金曜あけたまへ」と云ひ「9日高校の開業式」ときき、すぐ出て硲君にゆき東大国文大学院の川口朗君と二人を相手にしゃべる。 「佐藤先生にいま愛人あり。鴎外も風流なりし」など聞く。「虎杖丸の曲」たまはると。夕食よばれてともに出、池沢によれば在宅、夫人かへせし様子、悲観的なるをはげまし松虫まで歩かす。 同君妹、立野利男の夫人なるを忘れて気の毒したり。「兄立野いまも狂気して上野芝に住む」と。 帰れば竹内好よりハガキ。これも「先日佐藤先生にあひし」と。文学青年西村来り24:00まで話しゆく。「みちひられしやら」と喜ぶも哀れなり。 4月6日 また雨。会社にゆき専務に話にゆく日時設定たのめば今夜来よと。そこで少し話きけば夜尿症ありと。救急薬もらひ帰れば竹村、原二課長来り、炊事増員の相談す。野上、竹内、藤野、 安田、中村竹次郎、全田叔母、羽倉、江口、羽田、武田、埜中よりハガキ。角川よりA6にして(『ハイネ戀愛詩集(文庫版)』))二冊にすと。 16:00夕食食ひ藤井寺へゆけば大江叔母手習中。寮母たのみ肥下で時間つぶし、今川町にゆき今後のこといふ。20:30来りしトラックにて帰れば22:00 けふ短大教授と中島利夫氏よりの餞別「我的書」来る。竹内好、田中禎子へハガキ。 【歌稿ページ(6p/36p)より】4.6 こけかづらすとふ岩かげなとゐれば神々のごと思ほゆるかも。 4月7日 曇。羽倉へハガキ。国会図書館小笠原正治氏へハガキ。午寝し午後出んと思ひしも小雨とて止む。前川佐美雄より『うづまき』の評かけと。川久保より弘前大学へゆくと。 中川郁雄、平戸禎一、井上多喜三郎、林叔母、俣野よりハガキ。羽田より弟に室せわせよと。西村健来る、リルケの話す。明日コルボウ詩話会にさそふ。 4月8日(日) 8:30誘ひに来し西村と出て京橋より京阪、稲荷で降り羽倉にゆけば「教師の口か電鉄の口さがしくれよ」と也。出て烏丸丸太町より歩きて新町一條上に西村の知合にゆき、 我は別れて丸太町にて『リンゲルナッツ(100)』買ひ、大西卯一郎にゆけば一着。14:00より10人集り詩話会。西村は7:00まへ一寸顔出しあと迎へに来し少女と残る。 高橋、大浜二君で「送程」やるとて『渕上毛銭追悼号』呉る。 けふ花見とて人群れコーヒー店も見付からず、三條より細君子宮癌との山村順と同車。帰れば19:00帝塚山より「明日出校せよ」と(事務三苫)。真野君よりハガキ。 けふコルボオの中選「トラック」を作りてわたす。「近江詩人会22日」「コルボオ来月3日」と。高橋君に「13日天理へゆく」といひし。 21:00杉浦寮母帰りエアシップ(※烟草)10箱呉る。義弟山本夫妻挨拶に来しゆゑ常備薬とDDTとたのむ。 4月9日 9:00より始業式゜とのことにて7:30史と家を出てゆく。森高校主事の挨拶長々しくばからし。すみて紹介さる。職員室で新聞委員来り、趣味はといふに「たばことおしゃべり」と答ふ。 石浜先生に『インドネシア語派の身体呼称』届ければ出たまひしあと。全田にゆき挨拶し竹川の職場とほしとてやめて帰り15:00までまちて教授会。文芸科われと岩崎氏、 家政科守本氏と中田氏。つまらず長し。新校舎へゆけば研究室なし。17:00放免。「明日また来よ」と。時間割金曜をのぞき全部。専任5名と。いやになる。藤井、小高根兄弟、丸、青木富太郎より返事。 4月10日 9:30登校、漢文の授業なく、ややして時間割の作成その他に追ひ廻さる。山本理事長来り、こわき顔しゐし。私立高のウラのこりなく見ゆ、やむを得ず。16:30まんぢう食うべて帰る。 藤井寺にゆかんと思ひしも果さず。金井、小林英俊、工藤好美、近江詩人会、池沢より便り。「彦根の送別会11日」と。 4月11日 9:30にと登校、小野十三郎、長沖一などの講師来る。式で学長の話長し。すみて新学舎に案内し、学科選択の指導を岩崎君とやり昼食で一旦休む。すし出るとの話なりしかば用意せざりしに出ず。 うどんとらしむ。12:30よりまた指導。13:30すませて市民病院にゆき田村春雄と一寸会ひ、藤井寺にゆく。「寮母少し待て」と。3000借り久美子とすし食ひ、 別れを告げて傘忘れし来しに気付きまた市民病院にゆけば春雄手術中。傘とりて出、古本屋でRobinson『A general history of Europe(200)』買ひ、新本屋で『太平洋戦争隆戦概史』買ひ、 京橋でとみくじ三本買ひして帰る。角川より『ハイネ』改装本。長谷川英子、田村春雄、相野忠雄、福島悟、村田幸三郎よりハガキ。 【歌稿ページ(6p/36p)より】4.11 ながおもに似しをもとめてひたまもる別れていくかへぬるふたりぞ。 4月12日 9:30登校。二年生の学科指導。一年生の子ひとり来て昨日のつづきをいふ。みなかはゆし。ひるまへ大の添書もちて坂根図雄君来る。詩作品見せられ、ともに北畠まで歩きコーヒーのみて(80)別る。 住吉高校にゆき山本重武、硲晃君と会ひ、後会を約して帰り会社にゆけば専務帰宅後。帰りて庶務課長と話す。杉森久英、岩崎昭弥よりハガキ。 夜、寮務分担表つくり徳永昭子嬢にあてし手紙にせる「うずまき」評(400×6)かく。けふMacArthur免職。 4月13日 8:30会社へゆき原君と話してのち専務来るのを待ち寮務分担表を見せいろいろ意見きく。図書費として毎月1000円以外に一時[金]5000もらふ。健康保険もいれてもらふこととなる。 にこにこして10:00電車にて天理にゆき12:00過ぎ図書館着。昼食食ひ富永氏に中国地誌のこといひ、八木嬢呼ばせ大浜、高橋と話せば大浜「奥村学監が悪口いひゐし」と。 山崎忠に会ひ抜刷わたし(富永、中山管長にも一部づつ)、金井君に中村忠行のこといひ、国文三冊夫人史としてMorganの『Woman and her master』二冊借り、 八木嬢より「日曜来る」との悠紀子宛ての手紙ことづかり、出て帰途鈴木氏にゆき半額給となりしとの話きき、小阪よりバスにて帰着。 あす午後移りてよしと現場監督の話なり。西村呼びて話し、すみて室長会議「みな原監督をきらふ」と。「西村同室におけず」とD室長の話。 けふ山下幸雄、杉本長夫氏よりハガキ。寮長日誌どこやらへ置き忘れ気になりてねにくし。彦根の二回生と徳永嬢にハガキ。 4月14日 角川書店松原純一、埜中清市へハガキ。9:00会社にゆき、寮長日誌忘れありしを返してもらひ、大手前へゆき坪井に会ひ、出て葉巻2本買ひしのち引返し、 昼食後ひるね。15:00より宿替へをす。手伝ひ一人もなし。夜、杉浦、津田、安倍に汁粉くはせて注意し、ややして来りし西村に明後日よりの同室をいひ、 手伝はせて本はこびゐる中、出火の声におどろきてゆけばガソリン引火(B室竹中)、幸ひに大事なかりしも驚きに動悸せし。 けふ彦根より免職の辞令と徳永嬢の手紙。姫野氏のハガキ。 4月15日(日) 朝食後7:30すでに呼び出され受付係となる。一族みなみな来る。午後剣舞白虎隊の解説やらさる。八木嬢米2升もちて10:30来りゆっくりしてゆく。城平叔父の子、みな美し。 16:00八木嬢かへり17:30会終る。康平叔父一家ちょっと寄り呉れ杉浦総務の子の医学生話しゆく。今夜より西村を泊めることとす。 4月16日 7:30家を出、定期買ふ(省線360上町線140)。9:00登校、一時間して杉山平一、授業すみて来る。「萩原先生のパノンの会にても会ひし」と。1時間目歴史、女のための歴史を話すこととし、 2時間目万葉集をやることとす。1人服飾科で漢文・古典講義ききたしといふものあり。帰り西尾実『国文学入門』買ひ、百貨店休みとて帰り来り、 天丼食ひ散髪屋のぞきしに休み!三木為次郎氏よりハガキ「喜多村氏農大専任となりし」と。大「世田谷にかはりし」と。 4月17日 9:00登校、太宰先生あり「中島利夫よべも来てわがこと話せし」と。高校の漢文、生徒みな笑ひ止まず。2年の教科教授法で日本語のこと教ふ。すみて昼食、 出て姫松の本屋にゆき西村のための仏蘭西語の教科書かひやり『コフマン世界人類史物語(20)』、『国語[教育]歌謡(20)]買ふ。帰って散髪にゆけばけふより90円と。 けふ父来り「明日も来る」といひて帰りしと。沢田よりハガキ、神田博士よりお葉書。夕方須崎高校の田村先生来られ「会社に感謝す」と、うれし。 4月18日 あさ田村先生と話し履歴書1枚預り9:00天王寺着。東天下茶屋でおり古本屋にて『本朝文粋』、内藤湖南『近世文学史』、藤村作『日本文学史概説』買ひ、 『萩原朔太郎詩鈔』買ひ、大高へ寄り神田力氏に置手紙し登校。高校すみて写真とられ、大学すませしところへ相野忠雄来る。山下幸雄のことたのむ。ともに出て住高により、 山本君へ15:00ゆくこととし、汁粉食ひコーヒー飲み南田辺で別れ山本君にゆく。硲君もあり。酒ご馳走となる(お土産菓子150)。 18:30出て帰り来れば寮員あり「レントゲンの結果わるし」と。他に2名計4名と。心配しつつ帰り、胃わるしといふ吉本をどなりて医者にゆかせ、 帰りし5名のこときき大したことなしとのことに安堵す。けふ若森君来り「布施の俊、徳道の中川ゴムへ就職せし」と。若森君より手紙も来をり、 宮本君より手紙「田村満穂君、奈良女子大へかはりし」と。 けふ父14:00来り『万葉集略解』2冊もち呉る。200渡せしと。 4月19日 8:20会社にゆき専務待つ間種々話す。松尾部長口よき人にて西村のことで礼云はる。 きのふ預りし履歴書わたし10:00来りし専務にLunge(※結核)たちのこといひ、帝塚山にゆけば石浜先生帰られしあと、お宅へ電話せしも「京都へゆかる」と。 長沖一氏と話し西保嬢(※西保恵以子)の恋歌よみて感心し、縁談の問合せすまして帰り来る。 ひるね出来ず。金井君より履歴書。杉浦よりハガキ。辰巳部長よりあやまり状。夜、部屋替のことにてH室全部押しかけしゆゑ、責任もたしていふ通りにし、 衣川と話し(病院にゆきてLunge大したことなしときき)帰り来し西村と殆ど話さず眠る。 4月20日 家居。矢代嬢のこと会社の武田君に届けさし昼食後ひるね。起きて構内歩きまはりしのみ。けふ宮本正都、岩田新蔵、入江来布の3氏へハガキ。 4月21日 登校。よべ眠り足らず授業不熱心で慚愧。西保嬢に歌の批評をす。3時限いい加減にし、パン食ひ終れば硲君来り「末永博士、奈良」とのことに会ひへゆくこと止む。 (石浜先生より「22日10:00ラムステッドの会」と)。戎橋にゆき画帖買へば2冊で1400!沢柳大五郎『鴎外箚記』買ひ、芳賀矢一『国文学史十講』、大山定一『ドイツ愛唱詩集』、 高木惣吉『軍事基地』などを買ひ、帰り電車で丹羽千年に会ふ。 けふ山下幸雄にハガキ。「不二」より「原稿を」と。関軍治氏、桃山学院へ就任。井上多喜三郎氏「あすぜひ来よ」と。梅原糸子氏より「本送った」などと。 4月22日(日) 5:30起き7:00出て学校へゆく。8:00すぎ着、9:20より試験。ひるま働く故、第一部とちがひみすぼらし。学科出来ざることは同じこと。ひるちらしずし食はさる。15:30出て田村春雄にゆき、 井上芳郎『古代女性史論』、クノー『マルクスの歴史社會並に國家理論』、上スターマーク『人間結婚史』借りる。(けふ学校で土屋充理夫のハガキ受取りミス大阪山本節子さんを見る)。 帰れば19:00梅原夫人より薬師寺衛の本(※蔵書)、犀星『鶴』、中也『ありし日の歌』、『ランボオ詩集』、耿之介『転身の頌』、大学『ヴェルレエヌ詩鈔』賜る。平凡社より「法隆寺」かけと。 4月23日 ゆめなかもうつつのごとくわがままとならぬなんぢに 4:00起きて歴史の準備せしためねむし。ゆきて歴史うまく出来、万葉あごを出す(※万葉集講義は不出来)。立替の1400とりて帰る。 岩崎君より「朝鮮人を若森と二人して傷つけ彦根中大さはぎとなりし」と。埜中清市君より「25日16:00上六小劇場前で待つ」と。 けふ村田幸三郎に電話せしも不在。杉山平一に『寒冷地帯』一冊贈る。梅原糸子、岩崎昭弥、石浜先生、井上多喜三郎、関軍治の諸氏へハガキ書く。 【歌稿ページ(6p/36p)より】4.23 ゆめにあひしなんぢとわれもひとめをぢせはしきこひをするものなりき。 4月24日 登校。高校漢文。文二の教科教育すませ太宰先生と話し、また高校の漢文。この間とりし写真もらふ。帰途、大手前へゆけば坪井出張。石山直一に会ひ(10年以上ぶり)、 金井君の履歴書ことづけバスにて帰る。近江詩人会より写真と「Poets’ School 9」。短大より年度末手当と互助会とて2100。 4月25日 登校まへ大鉄百貨店で『比律賓史』二冊(100)。けふは漢文とてうまく教へ、ひる来し硲君とともに大高(阪大南校)にゆき、図書館見せてもらひ、神田力館長に挨拶し、北畠で別れ、 戎橋に出て十合で『寺田虎彦随筆集4冊(400)』買ひ、上六(※上本町)にゆき百貨店の古書即売会で『懐風藻(40)』買ひ、埜中、山口2君と会ひ、コーヒー、ケーキ、麦酒おごらる。 会員となり会費200出すこととなりし様なり。別れてまた学院、第二部の入学式に出、すし食って帰れば22:00。井上多喜三郎、真野の2君よりハガキ。富士(※富士鋼業)サラリー5000もらひし。 4月26日 8:30会社へゆき康平叔父より食事につき話され、城平叔父に云ふ。「理事長宅へ一度お伺ひせよ」と。10:30帰りて昼寝せんとせしが出来ず徳庵駅前へ散歩に出て鴎外『栗山大膳(10)』、 『人体と結核(50)』買ふ。杉浦、吉村、津田、安倍の炊事どもを何とかせんと思ふ。夜、原課長にゆきて話す。 4月27日 朝一度起きて昼寝、父来しを知らず12:00起きて3000わたす。沢潟『万葉集講話』『狐の詩情(60)』持ち来りくれし。『略解』300とし100わたし、ともに会社にゆく。椅子2脚呉ると。 「5月3日の入寮には用なし」と。ともに天満橋にゆき坪井、吉永に会ふ。松田『結核』を買ひ、土産ドロップ(80)買ひして、坪井宅に夫人より『全釈万葉集』借り、片町より乗車17:00帰る。 前川より礼状、彦根より試験手当300(-税)送り来る。夜、「帰郷」書き山前氏に送り、彦根嶋田女史に礼状。 4月28日 登校。国文学史やりサラリーもらふ(17500)。藤井寺へゆきしにお艶叔母上京、お徳叔母留守しゐれば早々退出。肥下に寄りしも田圃。放出で草花の種子買ひ(55)、 徳庵で名刺あつらへ(130)て帰宅。島稔よりハガキ。杉山平一より『寒冷地帯』の批評。彦根短大長谷九平氏より補点のこと。角川よりハイネのこと。 4月29日(日) 「不二」へ「四月二十九日吟」かき、彦根の長谷九平氏に補点かき、杉浦、島へハガキかき9:00出て小阪、布施をあるき鶴橋で喫茶。大江にゆき力夫妻に会ふ(子どもへ120のセルロイド[※玩具])。 「社長へは350位の菓子よからん」と。千草夫婦やきもちやきゐる様子。出て放出下車。『隔簾花影 上』買ひ、武田祐吉『古典の精神』買ひ、帰れば八木嬢あり。 Harperの『ハムラビ法典』借りに明日ゆくと約するところへ岩崎昭弥来り、『祖国』5月号呉る。夕飯たべさして返し、実生と話し22:00。けふ立原道造の手紙なくなりしに気付く。西村の所為か。 4月30日 8:00登校、杉山平一と話せば「一児疫痢、一児肺炎で亡くせし」と。歴史、万葉ともにうまくすませ、鶴橋で昼食し、天理高校へゆき八木嬢よりHarper『The code of Ḫammurabi』借る。 金井君「高校ならことわる」と。「生駒藤雄3人目もらひ幸せなり」と(後刻阿部女史とわかる)。 けふ中村孝志に会ふ、『靖海記』かしくれと、不快なる男ますますみにくし。20:30帰り西村のゐざる部屋に一人いぬることとなる。梅原梨子氏より「3日待つ」と。山下幸雄より履歴書。 長谷川英子嬢より手紙。『祖国』三冊。 5月1日 4時間授業し窪田空穂『和泉式部』アリストファネス『蛙』買ひ、市民病院にゆけば田村春雄疲れゐたり。早々出で新世界にゆきリヤー『婚姻の諸形式(30)』買ひ、 歩きて松坂屋で青木良吉『西洋服飾史要(50)』買ひ、千日前で焼そば食ひて17:00となり登校、夜学を教へ2年生3名とともに出、その中の一人と鶴橋まで同車して帰る。 芳野清より手紙と詩。会社より酒肴料300、わけわからず。 5月2日 登校まぎは原君に「会社へゆくか」と念押され「ゆく」と答ふ。講義すませ(2Bにてのた写真を高校生より貰ふ。)硲君と出て帝塚山書店にゆき吉沢義則『国語史概説(40)』『思ひ出(40)』 『白文万葉集(150)』『古風土記集 下(10)』『南洋文献目録(40)』買ひし。住高により山本君に礼いひ、帰途会社にゆき城平叔父に会ひ徳従婦のことに触れ「藤井寺に置きたまへ」とすすむ。 (けふゆきがけ350の洋菓子買ひ山本理事長宅へ挨拶にゆきしも留守。) かへり米田君に506工業雑誌のことハガキにてきく。5月5日朝より入寮式、午後園遊会となり。角川より「5000送る」と。宮本夫人より手紙と詩(ゆき子へ)。小川浩よりハガキ。 5月3日 けふ32名熊本より来る筈なるも放って上洛。五條にて有朋堂文庫『詔勅集(20)』『古事記・祝詞・風土記(20)』『古京遺文(40)』買ひ、篠田氏にゆけば先生不在。ふみ子さんに挨拶。 梅原糸子氏に羊羹3棹(350)もちゆきお礼とせしに昼食たまはる。農学部前にて『中国叢報索引(100)』新村出『言葉の歴史(40)』、大学前にて『神話学(40)』『朝の蛍(20)』買ひ、 臨川にて『乾隆帝伝(60)』探しあて、依田君にゆけば主人不在。母君に会ひ不機嫌とて下賀茂社の一殿借り(500)に佐々木邦彦君とゆきコルボオ会。出席少し。 荒木利夫君「小野十三郎と大阪にて歓迎会す」と。多喜さんよりこけし人形4ケ(27×4)買ひ、16:30出て下総町。父のみ。羽田に小西氏より電話すれば「まもなく帰宅せん」と。 『古代国語の音韻について』と『ことばの講座』とにて200払ひ、羽田へゆけば帰らず。(角砂糖200)。母堂「おやせになってお見それせし」と。 20:00電話かかりしゆゑ烏丸車庫にて待合せ喫茶(100)。「川久保弘前にゆき、守屋美都雄阪大に来し。小野勝年肺病」と。別れて電車にのりアメリカ水兵にこけし1ケやり、 羽田家に置きしと2本なくなる。帰宅23:10夜食して眠る。羽田「19日午後来る」と。 5月4日 7:30熊本の古賀教頭挨拶に来る。10:00出て会社にゆき、城平叔父に会ひ病人のこといふ。出て、南海高島屋にゆき1900の靴買ひ支那そば食ひ(80)、市役所へゆけば筒井不在。 池田にゆきバカ話し、沢井種雄の所へゆくみち山本治雄に会ふ。沢井「吉永氏よりききし」と。山本の昼食に接伴してコーヒーのみ、大手前にゆき坪井に金井君のこといひバスにて帰る。 夜19:00より入寮者に注意。けふハイネ『歌の本 下』買ふ。杉浦氏長男来り話しゆく。八木嬢より「2日から東京へ出張、富永の同伴」と。支那地誌のことならん。危きことかな。 武田豊、真野、錦織より寄せ書。夜、新潟鉄工所の技師来て我室に泊る。 5月5日 子どもの日と。8:30竹村課長に会へばつっかかる如きものいひせしがあとでごまかせし。9:00より(※富士鋼業)入寮式。われ「釘と鉄」の話す。すみて記念撮影。 城平叔父「2、3日中に来よ、せびろやらん」と。12:00出て阿倍野橋にて時間つぶしに古書店。『柿本人麻呂(100)』『サン・ヌゥヴェル・ヌゥヴェル(130)』『古語拾遺(20)』 『みたみわれ(20)』『続アルスアマトリア(180)』『ハルツ紀行(30)』と買ひ、始末に困り硲君とへば留守。階下の主人たちに預けて山下邸にゆけば「田中先生お越し」との声あり。 隠し芸きき、みな下品なるに感心す。16:30出て硲君により未だ帰らざるゆゑ折詰、下宿にやり、またバスにて天理。大江にゆけば叔父叔母と初江叔母とのみなりしもやがて勉夫婦かへり城平叔父来り、 久美子かへり来る。久美子の妹けがせしとて早々帰る、哀れなり。刺身にてめし食ひ『サンヌウエ゛ル(※cent nouvelles)』あたへて帰らんとすれば叔父、手提鞄呉る。けふ堀内民一、岩崎昭弥よりハガキ。 5月6日(日) 朝寝せしあと昼寝し、午後「わかれのことば」を「Poets’School」のため書き、河村純一氏にハガキ書き「祖国」送る手筈し、D室のすき焼きに招かれE室で碁打ちて帰る。 5月7日 登校、歴史うまくゆけ、万葉の時、法隆寺見学いひ渡辺、中許2嬢に世話役たのむ。13:00すぎ鶴橋小学校に埜中氏を訪ひ「祖国」わたし200(4月分会費)わたして帰る。 けふ宇田嬢の家での会の寄せ書と。天野忠君より。相野忠雄へ山下君の履歴書送る。夜、原監督にビール2本のます。 5月8日 雨。昼4時間やり藤井寺にゆく。大江叔母血圧175と。久美子も来り話す。夜学2時間やる。1年生より声あり「語句の解釈は高校の虎の巻でわかるゆゑ歌の長所短所をくはしくやれ」と。 雨中を帰れば若森君あり「休みなし」と。杉浦実君より「10日阪大病院へ講演に来よ」と。「近江詩人会5月20日13:00八日市町にて」と。 5月9日 雨止む。文2西保ら「土曜に法隆寺にゆかん」といふ「相談せよ」といふ。文1齋藤の母に会ふ。硲君来りこの間の礼いふ。帝塚山書店で『歌曲集(50)』買ふ。第1回教授会。 壽岳博士をはじめて見る。岩橋講師「全田の純子と女専の同級生」と。帰りてすぐ寝る。堀内民一と川久保へハガキ。 5月10日 8:30会社にゆき11:00までかかりて叔父と話す。負傷者出て大さはぎなりし。12:00まへかへりて食事。父来り『霊異記』と『祝詞講義』おきゆく(150)。 出て小坂までのバスにのり布施郵便局にて5000とり登校。旅行の案内書刷り、出て散髪(100)。古本屋にて『法隆寺建築(80)』と『ハイネと青年独逸派(65)』買ひ阪大へゆかんと地下鉄淀屋橋で降り、 生徒に会ひともに朝日会館までゆき16:30より大高会。猥談し、釜洞先生と出て梅田の料理屋、カフェにゆき帰れば18:00。熊本古賀先生より礼状。八木君より「明日!室生寺へゆく」と。 5月11日 7:30家を出て天理にゆきしに図書館休みらし。講師室にて石浜先生待つ中、仙田、中村孝志などいやな奴ばかり来る。「佐藤誠5日に引払ひて[東]上せし」と。 浅見篤にきけば「川西氏異常なる人」と。鈴木治に寄りて帰り来る。 けふ咲耶よりハガキ。山本の共産党推薦のハガキ1月おくれて?来る。角川へ受取と『立原全集』のこと。 5月12日 創立35周年とかにて休みなるを利用し法隆寺ゆき。8:30天王寺。鳥打買ふ(700)。9:20に集まりしもの10名(2年伊井、植木、西保、土井、則武、山城、小島、引地、1年川崎外1人)。 9:25にのり法隆寺。井上氏すでに通じたまひ寺内見、写真うつされ中宮寺、法輪寺にて昼食13:00。十一面観音と塔の写真かひ、井上師と話し、法起寺にゆき15:40のバスにのり天王寺(80)。 駅前で別れアイスクリームたべて帰る。 けふ彦根より退職手当(7350)。島稔よりハガキ。河村純一氏より「祖国」の歌に感心せし様子。八木さんから子どちへハガキ。前川佐美雄より「20日に八瀨で会するゆゑ来よ」と。 (石浜先生にけさ天王寺でお会ひし[明日]のウラにアルタイ学会の案内いただく。) 【歌稿ページ(6p/36p)より】5.12 なれをこふわがうたひとを喜ばせ五月大和の丘になれこふ。 かの丘にまなこをとぢて眠ります追憶の神われはゆめみる。 5月13日(日) よべ悪日にて怪我人出来(雨谷)、酔払ひ来り(魚住)夜半まで眠れず。ひる医者にゆき怪我のことにつきききしのち外語にゆく。『希臘宗教発展の五段階(20)』。 石浜先生、山本守氏(「高知大に荒木修中隊長ゐし」と。「石浜先生も御存じで大好き」と。)の外、山崎忠、中村孝志の2天理、桑田博士来られ御挨拶す。 「鴻池新田にお住ひ、守屋美都雄まだ来ず。君と思ひしが」とあやまられし。(神田博士も「田中さう(※勤め先を)かはってはと心配されゐし」と石浜先生。) 岡崎精郎の話きかずして帰り入湯。寮長会をし魚住をやっつけ、雨谷の件にておどかして1:00眠る。 5月14日 9:00登校。篠田博士より「五穀の起源」の抜刷来りをる。歴史けふより講堂にてやり万葉4号教室となる。すみて渡辺、中許嬢らに了解の意味を示す。めんどうなることかな。 教授室に机入る。西保嬢の和歌よみをへしころ、大浜厳比古あらはれ、ともに出て阿倍野橋でアイスクリームのまし、河野岑夫にゆけば「大阪支店へ転ぜし」と。 帰れば杉浦実君より礼状。川崎菅雄より「27日に山本宅にてクラス会す」と。埜中君より岡本和子のところ。前川佐美雄より「20日に京都で会す」と。川久保へのハガキ。 弘前より帰り来し、ふしぎ。けふ松本善海へハガキかき「辞典送れ」といふ。明日10:20の汽車にて悠紀子彦根へゆくと。 5月15日 登校。文二の2派はっきりわかり守本氏にいへば「正義派とヤンチャ派」と。山城生、堀さんの手紙見に来たし」と。午後雨。傘かりてナンバにゆき露伴『骨董(60)』、 安藤圓秀『詩経随筆(50)』の外、史に『英和辞典(100)』買ひワンタン(50)食べて帰る。 けふより電話かかりしゆゑ村田に電話す(住吉3949)。夜学嬢の話では「太宰施門博士の講義面白し」と。(けふ博士のゐるところで入江来布氏より「29日までに何か」といはれ「杜甫かく」といひし)。 雨の中帰り駅に迎へし悠紀子と帰る。「彦根へゆき宮本夫人に会ひ、きけば中島君生徒より排斥されし」と。「藤野(※一雄)君に出会ひよろこばれし」と。 ハガキ藤野君より偶然来をり「杉本長夫氏に『祖国』の歌見せられし」と、ふしぎ。徳永嬢、小林英俊と彦根より3通あり。ヒコネデーか。八木嬢よりハガキ。『くれなゐ』57号10部。 5月16日 定期券買ふ。登校。ひる休み硲君来り、ともに出て帝塚山書店でエンゲルス『家族私有財産国家の起源(100)』、平野『太平洋の民族=政治学(60)』買ふ。埜中、井上、小林、藤野、 前川(20日の会のことわり)、川崎(肥下・坪井への通知承諾)へハガキ。 けふ「伊井、山城、土井の三嬢土曜に来訪する」と。教授会。壽岳博士欠席。「樟蔭、天理、奈良女子大へ出張せよ」と。「来年、長沖氏を専任にせよ」と。 17:00すみて藤井寺。「今川町に自動車のガレージ出来るとのことにて到頭本宅となりし」と久美子いふ。「山下幸男少年は大江のネエやの子」と。手紙預り来ってわたす。 5月17日 9:00会社へゆきしも「専務に夜伺ふ」といひしのみ。樟蔭にゆき安田章生君に案内書もらひ、詩について一席しゃべらさる。反響なし。 かへり山口君に寄り飲物のましてもらひ一寸散歩して青陵『希臘紀行(20)』買ひ、帰りひるねせんとせしがだめ。入浴して19:00子供の本もちて今川にゆき、 少し待たされ寮のこといふ。21:30池川医院により雨中をかへる。けふ史、近江八景へ遠足。 5月18日 9:00奈良へゆき前川佐美雄にゆき11:00まで話す。保田家にゆき「『ねえさん』死なれし」と。「保田夫人また家(※実家)に帰り、このごろ帰りて恐人症」と。 「資産税690万円かかりし」と。「吉村正一郎、夫人を50万円にて離縁し玉井照子(25才)を娶りし」と。(※奈良)女子大の横田俊一氏(※太宰治研究者)に紹介され、ゆきしも不在。教務にゆきて応募きき、 天野忠ゐるを見る。「田村満穂も着任」と。忠さんにうどん奢ってもらひ、古本屋ひやかして天理へゆき、短大で書類もらひ高校に寄り、図書館へゆけば日の寄進デーとて草むしりゐる。 大浜君に澤潟先生へ紹介され、サイダーのみにゆき、八木嬢よりGeikie借りて16:00のバスにて帰る。鈴木治氏より「松岡國雄(九文乙)が寮母世話しくる」とハガキ。 5月19日 登校。鍋井克之氏けふより講義。けふはじめて国文学史2時間かっちりやりMiss西保の法輪寺の歌3首とふるさと吟5首とをとり、伊井、山城、2嬢をつれて帰りいろいろ話し17:00ごろ送り出す。 中原中也と「祖国」とをもちゆきし。けふ見原文月氏の歌集と近江兄弟社の詩集と来り、真野氏より手紙。羽田より「来られず」との断り状。 悠紀子の話によれば「今月収入33000、われのみにて14000費ひし」と。「あす9:00城平叔父来る」と。けふサラリーもらひしも17000。少なくなりをる。夜、井上敬道氏へ手紙。 5月20日(日) 肥下、坪井へクラス会通知。9:00より懇談会。城平叔父、松尾部長列席。10:30すみ昼食して12:40の大阪発にとゆく。八幡着15:00まへ。八日市まで守山の岩崎君とゆき、 つけば河村純一先生の外、宇田嬢あり。ついで徳永嬢も来る。16:40出てともに八幡まで出る。二嬢果物買ひてたまふ。 15:26にのりて東西に分かれ20:00まへ帰宅。けふ車中でHammurabiの法典ちょっと読めし。八木嬢より「明日来る」と。山本、川崎よりともにクラス会通知。雲井書店より月末来さうな手紙を彦根へ。 5月21日 登校まへ杉浦氏来られ「美都子君かへれず」と。ゆきて阿部野橋にて電車故障、バスにてゆく。西保、伊井2君の歌をゑらぶ。八木嬢より電話なきゆゑ上六で1時間まち呆け。 鶴橋小学校に埜中君訪へば「授業中ゆゑ会はさず」と。歌ことづけて帰り来ればみちで八木嬢に会ひ、家にともなひ16:00ともに出て上六。 信子君くるをまちてすし食はす。けふ雲井書店へ転居通知。田中秀央『アエネーイス2冊(100)』フレーザー『サイキス・タスク(40)』『ジャンヌダルク』買ふ。帰途、 御散歩の桑田博士夫妻に会ひ奉る。 5月22日 登校。高校遠足とて授業なし。太宰博士と話す。漢文のテキスト切りて帰り、大鉄デパートで松田『結核をなくすために』2冊買ひ、帰りて安田章生のハガキと『樟蔭文学2』。 藤野一雄のハガキ。岡本和子より悠紀子あてのハガキ。岸田国士「善魔」(郵便不足54)よみしてゐる中、熊本の校長来りしとて呼びに来る。会社より料理屋にゆき、みな平げて帰る。 (20:00)。「康平叔父に腹立てし」と松尾、原2氏の話ききづらかりし。室長会をやりA(和歌山)文句うるさく「どうでもせよ」との意見をいふ。 5月23日 出勤。法隆寺門前での写真1枚だけ西保君くれし。教授会あるかと思ひしもとりやめ。藤井寺へゆき叔母にいへば「下元帰すは叔父かへるまで待て」 「帝塚山の月給のことは自らいへ」「康平叔父はよき人、松尾はよくなし」とのことなりし。 駅にて丁度バスありしゆゑ太田の鷲をたづねにゆき小学校、家、檀家とまはりて会ひ相馬のこといひしも反響なし。八尾に出て帰り、 すぐ眠らんとせしに吉田鳥飼ら3人「上阪の女学生に会ひにゆく」と1000借りに来し。 けふ岩佐(※岩佐東一郎)、武田(※豊)、多喜さん連盟の長浜よりのハガキ。「岩佐23、26両日北極屋泊り」と。羽倉より電話番号。埜中、坪井より金井君の履歴書返送。江川の手紙同封しあり。 5月24日 朝、下元生よびて話す。藤野、篠田紀、安田章生へハガキ。奥西保君へ池内先生のことで手紙。百瀬弘氏より「神戸着任」の挨拶、 並びにこちらへ来てから「田中は居住地手当が増しただけだのに月給が上がったと喜んでゐるからバカだ」といふ噂を二度ききし由。「松田壽男、●谷氏なども来阪」と。 相野より「山下君の業績表送れ」と。山下君へその旨通知。下元鼻血出しとて池川医院へより17:00岡本和子の母君に会ひ「一度来よ」といひやり、地図4枚買ひて登校。 二時間目は御所出身の嬢ひとり(他に昼の渡辺三栄子)。京橋まで同車、話しつつ帰り、池川医院へゆきしもごま化さる。けふ学校へ大浜君より「来てくれ」との電報 5月25日 7:30家を出て9:00天理へつき大浜君の家へゆけば「登校」と。呼出してきけば「16:30」と。呆れてものもいへず図書館にゆく途中八木嬢にハムラビかへし、ともにゆけば山崎君に会ひ、 室にゆくといひ、大学により石浜先生に伝言たのみ山崎君の室にてギリシア史よみ12:00食堂にゆきて焼飯注文すれば大浜君来る。「賄人も少し待て」と。図書館も面白からず。 鈴木治氏にゆけば「賄人たのみしも応答なし」と。15:30までゐて大浜君と大学前で会ひ朔太郎の話。すみて500もらひ八木嬢より米もらひて帰れば20:00まへ。 中村竹次郎より「退職せし」と。中川郁雄君。けふ入違ひにMiss八木より「17:30-18:00つるはしへ来よ」との手紙来り、史ゆきしと。 5月26日 登校。文学史の講義す。けさは伊井生と同車。山城生より「祖国」写せしと返され、この派に偏すらし。守本氏にことわりてのち会計中村に云ひにゆけば「理事長のお指図通り」と。 硲君来てくれ、ともに出て天王寺美術館にゆき、末永博士に紹介され、樋渡事務長(東洋史昭8)に会ひ、マチス展硲夫人のおかげでただで見、 コーヒー喫茶室でのみて新世界通りぬけ(けふはじめて茶臼山を通りし)、春山行夫『台風風物詩(30)』『古墳横穴地名表(40)』『改正杏花史(50)』買ひして丸善にゆく。 途中「北極屋」に岩佐東一郎氏のことききにゆきしに支配人不愛想なれば早々に出、成見屋に[小杉]ためしに訪ねれば在焉。丸善の隣の露店市見しのち男つれて地下鉄で天王寺に出て帰る。 宇田嬢よりハガキ。徳永嬢より「みづき」と栄養科の書類送らる。夕食入湯後、杉浦家にゆき美都子のこと相談して帰る。 5月27日(日) 朝早く起きる筈なりしも、よべさはがしく1:00すぎ迄眠れず。駅にゆけば9:00すぎ。上六に出て天地書房で井坂『支那民族生活史(50)』買ふ。雨となる。鶴橋、京橋、 吹田にゆき俣野と駅で会ひ傘に入れてもらふ。本庄先生、後藤、坪井、来をり、あと川崎来しのみにて7人。「田村死にし」と。「福田戦死せし」と。「山内四郎大阪に勤めゐる」と。 18:00早く出て今川にゆきしも城平叔父帰らず?賄人の件、小松保の件、帝塚山のサラリーの件、手紙にし、カステラ、海苔もらひて21:00帰宅。徳永嬢よりハガキ。 吹田にて青木良吉『日本服飾史要(45)』、『梁塵秘抄(30)』、『さんびか(25)』『音楽辞典』買ふ。 5月28日 登校。学長に調査の結果はなし大浜君と出て家へつれ帰り、ビールのませ夕飯食はす。(「大谷女子大学にて1ヶ月に1回づつ詩の話せよ」と。) 夜、雨谷呼びつけて叱る。 5月29日 登校。15:00すませ時間つぶしに阿倍野橋に出、古本屋で『人体と結核(20)』、野上豊一郎『クレオパトラ(80)』買ひし。帰校。 夕食食べ夜学「万葉集」すませれば文学史の生徒一人もなく岩橋女史とともに帰る。C室長有馬「やめて帰国、雑貨屋やる」とてタバコもち来る。 山下幸雄より「東京へゆくにつき大阪へは来ず」とことわり来る。末永博士よりわび状。岡本和子より「いつか来る」と。 5月30日 登校。「土曜休む」と生徒に通告す。ひるすぎより「国破山河在」をかき入江来布氏に届け(200×8)、大阪女子大へゆき佐野氏の部屋にゆく。支那文の高馬三良教授に紹介さる。 帰って教授会と。教師補充の名に西垣修(※西垣脩)あり。「明大にゐる」と。学長来ざるゆゑうやむやにすみ17:00平野の学芸大分校へゆきしも相野会議中。呼出して山下君のこと話してことわり、 古本屋に寄れば『楊貴妃とクレオパトラ』あり50を30にまけさして帰る。夜、雨谷来り「本かせ」と。 5月31日 雨、見原文月氏へ「雲泥読後」。松本善海へ問合せ。会社へゆき色々いひしも一つも通らぬ様子。帰りて11:00より炊事監督。21:50引取る。 6月1日 3:15に起こされるまで殆ど眠らず。起きて6:30まで監督。朝食後一寸眠り、7:30またゆきし。昼食後また寝る。創立記念日のボーナス1000もらひ、庶務課長と一寸話し、 天野忠へコルボオ会のことわりいひ(3日11:00より祝賀会と)、18:00和歌山へ帰る有馬に300餞別につつみ19:30散歩に出、丹羽千年にゆき桂信子とも話す。 けふ徳永昭子嬢より「マチスに来れず」と。「くれなゐ58」10部来る。西保、伊井2嬢の歌そのままのりゐる。徳永嬢へ1部送る。 6月2日 3:30一度起きて賄監督。羽倉、中川、石瀬、中村竹次郎へのハガキ。9:00賄2人をつれて会社へゆき11:00待つ。蒲生へ散髪にゆき『東亜植物(70)』買ひて帰り、 島稔よりのハガキ見る「服部に会ひし」由。山下幸雄へハガキかく。けふ平凡社より2100来る。 6月3日(日) 11:00よりの幹部会のため何もせず。康平叔父より草刈を命じらる。13:00までで引上げしが城平叔父の自動車故障とて我家にあぐ。One-manの声あり。浴衣と石鹸とをもらふ。 夕方散歩にゆき放出、鴫野をあるき朝鮮語1冊(20)買ひて帰る。 6月4日 登校の途、伊井、土井2嬢と会ひ『くれなゐ』渡す。学校にて西保嬢にわたし100受取る。伊井嬢文学座の6日分の切符呉る。ひる大浜君来り「賄みつからず」と。 羽倉より電話「明日16時南海高島屋の本売り場にて会ふ」と決む。ともに出て古本屋見、『神楽坂(30)』をわれ買ひ、『コギト詩集(80)』彼買ふ。大谷短大にゆき紹介うけ(吉井、山本2君)、 うどんたぶる彼を待ち、アベノ橋にてコーヒーのみしのち別れんとすれば久美子と会ふ。上六にゆけば「八木あき子嬢、火・木・土登校」と。帰る。けふ出張手当340もらふ。 6月5日 登校。講義すませ出て上六にゆけば八木あき子女史あらず。古本屋ひやかし『五[合]山(70)』、『李長吉詩集(50)』。溝端清にて『Stories from the ancient histry(30)』買ひ、 ナンバ高島屋にて羽倉に会ひ「首になりさうゆゑ高校でよし」と。ともに喫茶、やきそば食ひ(200)別れて夜学。沢山来をる。 帰れば「あき子女史、家へ来てくれし」と。有馬幸一より図書室へ『花水木』寄贈し来る。 6月6日 登校。ひる漢文の試験問題提出。硲君来りともに出て田村春雄にゆき本かへし、小児麻痺のこときき、大鉄百貨店見しあと硲君と別れ、学校にかへり教授会(17:00まで)。 (けふ「国破山河在」の校正見せらる)。すぐ大手前の毎日会議に文学座「武蔵野夫人」見にゆく。大浜君来てあり。2幕見しあと出て山城、伊井2嬢と話す。 伊井嬢に『クレオパトラ』やり『寒冷地帯』かへしてもらふこととす。古本屋で『蜻蛉日記(40)』買ひ夕飯。サンドイッチとコーヒー(110) けふ岩崎昭弥より「我歌滋賀新聞にのりし。中島嬢と話しあり徳永嬢泣きし」と。天野忠より天理の2詩人のことと「anthorogyの締切20日」と。 井上多喜三郎氏より「10日までにPoets’ Schoolの詩を」と。則武三雄氏より「杉本長夫氏と友人、三好達治の弟子」と。 【歌稿ページ(6p/36p)より】6.6伊井玲子に1首 長瀬川ながるる水の清かりしわがわかき日はいづちゆきなむ。 夜のゆめに出で来しひとはわがかたを見ぬふりしては旨く[去に]き。 6月7日 朝、広瀬来り退社退室を申出づ。きけば泣くばかりゆゑ市立病院につれゆくこととし、会社へことはり、午后ゆけば田村春雄不在。宮本氏に話し入院をさすこととし連れ帰る途中伊井女史に会ふ。 きのふの「先生いたいところあるでせう」をあやまらせ、鶴橋で別れ会社へよれば城平叔父不機嫌なり。まあまあ入院をみとめさせ夕方また広瀬をよびて説き伏せ、 埜中にゆき450わたし『くれなゐ』4部もらひて22:00帰宅。(「大和通信8」と西保女史の歌わたす)。 けふ長谷川英子女史よりハガキ。「短大やめし」と。保田「追放解除」の予告新聞に出づ。 6月8日 9:00すぎ広瀬つれて市立病院へゆき。「きのふ春雄16:00に来て宮本さんよりききし」と。「入院するまでに注射して見ん」と。問へば「きのふは1ヶ月に1、2回」といひ、 けふは「3ヶ月せず」といふ。わけわからず。すみてコーヒーのまし藤井寺にゆく。大江叔母「それにて宜しからん、齋藤嫗は今川夫人の義母」と。 13:00出て北田辺の古本屋見しあと帰り来る。けふ「薮の中の彼」を近江詩人会に送る。 6月9日 登校。Miss伊井より『寒冷地帯』かへしてもらふ。かへり上六の学校にゆきしも八木あき子女史あらず。百貨店で『十六夜日記(20)』『今鏡(20)』買ひ帰りて昼食。 16:30風呂に入ればあき子女史来る。「母上肝臓炎」と。春雄へ小児麻痺の紹介状かき、八木女史に『ゲルマニア』たのみ夕食たべてもらふ。 18:00桑田六郎博士をお訪ねし苺ミルクいただいて帰る。けふ雲井貞長氏より「10日すぎ来阪」と。津田侑より「村上氏より唐詩選の名講義きく」と。 6月10日(日) 朝、退屈す。12:00出て天満橋にゆき『国語の歴史(80)』買ひて緒方塾(※適塾)さがしまはる。石浜先生にお会ひし、ともに探し、ゆけば「会費200円」と。 あやまりて浪速芸文会の「王静安25周年追悼会」に出る。神田先生に挨拶申上しもこはい顔してをられし。同先生司会にて鈴木豹件(※虎雄)、橋川、梅村の諸先生の話うかがふ。 金戸守呉生(泉尾にて堀内民一より『戦後吟』見せられしと)。高橋盛孝先生などに挨拶し、彙文堂の隣に坐りし。かへり坪井に寄り19:00片町より乗車。「寮生2名、金かりに来し」と。 「乾隆帝」書けず。しらぬ顔することとす。 6月11日 登校。「あす高校試験」と。出ずともよろしきららし。西保嬢、石浜先生に会ひ「田中は日本で何番目かの詩人ゆゑいぢめるな」と云はれしと。山内四郎に電話せしも不在。 住高にゆき硲君に会ひ、北畠にゆき上田書店にて太田亮『姓氏と家系』、棚瀬『東亜の民族と宗教』買ふ(90)。後者は愚著なり。けふ平凡社の稿料貯金に入りしと。 6月12日 登校。試験監督なかりし故1時間あき帝塚山書店にゆき『明徳記』『雨月物語』『中等国文法』、佐藤春夫『美人』買ふ(95)。 教科教授法すまし漢文のテキスト刷り山城嬢より婚約の相手の調査たのまれて上六。八木あき子女史よりタキッス(※タキトゥス)『ゲルマニア』受取り、ともに喫茶。 (けふ入江来布氏より「梅花」7月号と稿料500受取)。梅田にゆきギャバンの人情もの「鉄格子の彼方」見、17:30あはてて登校。夜学教へて帰り、高知高校の校長先生の会にゆく。 「不平派をなだめていただけじゃ。」 けふ岡本和子より「猫やらん」と。埜中氏より「15日16:30上六へ来よ」と。西川より「関口八太郎、(※警察)予備隊の大阪管区幕僚長となりし」と。 6月13日 高知工高の校長先生挨拶に見えしかば追かけて会社にゆく。城平叔父来るを待ちて出て登校。奥西保よりハガキ。「池内先生の本、7月末となりし」由。「羽田に電話で叱られし」と。 「年少吟、さはらぎ物語とともにかけ」と。ひる休み硲君来り、タキッスかしくれ、マチス展の絵葉書3枚たまふ。教授会。来年度国文科を置くことはやめになりし様子。 帰れば中村竹次郎より手紙「小説を朝日新聞社に紹介せよ」と。広瀬父より礼状。けふ木村英一氏へわび状と200送る。 6月14日 徳永嬢、河村純一ドクターへマチスの絵葉書。会社へゆき原課長より吉本のわる口をきく。天理へ高橋君の弟とことにてゆけばたのみしおぼえなき様ないひ方をするゆゑ一寸腹立つ。 (八木嬢に本かへす)。ひるめし食はされ大浜君に会ひして養徳社によりしのち帰る。(吉岡君に西大寺で会ふ。) 奈良まで汽車。女子大にゆき天野君に会ひ「二君脱会の心なし」といひ、 横田[純]一(※横田俊一)氏に会ひ服部英次郎氏に会へず古本屋でまた横田氏に会ふ。前川氏にゆく。「保田京都にかはる」様子。「谷川あひかはらず養父母と喧嘩」と。 かへり小阪で下り古本屋大[進]書房によれば「先生ならずや」と。「浪中の堀内進にして伊東の弟子」と(※『VIKING』同人)。『山家集(30)』『記紀歌謡集(30)』『河内(20)』にしてくる。 山口君にゆけば埜中君あり。「あすの会ゆけざるかもしれず」といふ。帰りて吉本呼び叱れば「原課長のいひしことは事実無根」と。(けふ会社より坪井に電話し関口のこといふ。)  山前君より「坂口君の校正出でし」と。宮本夫人より「いろいろの話」。中に「福島自転車泥棒にてあげられし」と。 6月15日 羽田、山前へハガキ。祖国社へ「年少吟」52首。寮母賄人の採点表かく。9:30会社へゆけば城平叔父不在。康平叔父に高橋君の弟のことわりいひ一旦帰る。 徳永嬢より「10日マチス展見に来て感激せし」と。天野忠よりハガキ。雨ひどきゆゑ止むを待ち16:00出て上六へゆき山口、埜中二君の御馳走にて難波君の歓迎会。 18:00すましアベノ橋へ出、岡本嬢に寄れば皺寄りゐる。今川にゆけば城平叔父まだ帰らず。藤井寺にゆき叔母習字中なるを待つ中、叔父帰り来て夕飯。 すみていろいろ相談しレインコート借りて帰る。今川へゆけば21:30「貸金はやめよ、組合結成の動きあり注意せよ」云々。23:30帰宅。「留守中3人ほど金かりに来し」と。 6月16日 朝8:00すぎ家を出て会社へゆけば重役会。置手紙して登校。私語せしゆゑ伊井嬢らを叱りて11:30すませ、ナンバより市電にて朝日新聞。谷川新之輔に会ひ、 茶おごられ中村竹次郎のこといへば「駄目なれど会って見ん」と。「訴訟山本にたのめ」といひ、山本の事務所までゆく(途中『狐の詩情(35)』見つけて買ふ)。不在。 天満橋へ出、月見うどん食ひ(50)、会社へゆき10000借りる。ひるねし入湯。夕食。あとで10人近く3000借りに来る。 けふ木村英一氏より会費受取。角川より「立原道造全集送る。印税残額も送る」と。 6月17日(日) 9:00出て上六、本屋休みなり。「日本歌人」の大阪会にゆき前川佐美雄と並ぶ。川邨夫人あり。10年ぶりなり。他に見原文月、梁夫人、池田君などあり。 田中武彦といふ偉き人も来る。山本に電話して中座。18:00より会するとて忙しく谷川のことたのみて帰る。 うた作るこころをひとのさまざまにあげつらふ場にわれはあくびす。 うたつくるこころとなりてなれとゐし六月のバラさくひるまへを。 20時頃原君酔ひて帰り来り「御用組合出来たれば寮の者をこれに入るるから努力せよ」と。きき流しにす。 6月18日 登校。山城嬢に『狐の詩情』与へ『寒冷地帯』かへせといふ。「金曜に天理へ守本氏ゆく」と。帰り阿倍野橋でコーヒーのみ帰宅ひるね。末吉より「一度来よ」と。 岩波文庫『小公子』『にんじん』『風車小屋だより』買ふ(220)。夜、みな借金に来る。けふ西川、島へハガキ。中村竹次郎へハガキ。 6月19日 登校の途、守衛と同伴。いろいろ組合問題をきく。みな不慣れにてうろたへてゐるらしき。家族主義ここに終りを告ぐるか。5時間目眠し。 けふ太宰先生に山城嬢の見合の相手のこときけば「五條大路の瀬戸物屋の子にして近頃法科の大学院の例にもれず一流にてはなし」と。嬢にはよく云へば喜ぶ。 『狐の詩情』の代りもち来らず。漢文テキストに聊斎のp13「偸盗」を刷らしむ。散歩に出て春雄にゆき宮本氏へと弘瀬の石鹸托し、戎町で岩村忍『蒙古史雑考(60)』、 鉄道院『China(100)』『国訳漢文大成 剪灯新話(100)』買ひ、堀内民一に会ひ喫茶(100)。「北極星」で支那そば食ひ夜学。国文学史の教科書16日に失ひしらし。 帰りてきけば「2組合ほぼ同数」と。藤野君よりハガキ。佐々木邦彦よりハガキ。 6月20日 登校。ひるすぎ帝塚山書店にゆき『李花集(25)』『東関紀行(25)』買ふ。西保、植木、伊井、土井、山城嬢らと写真うつす。教授会あり「夏休み7月14日から」と。 「中島(※栄次郎)の本買へと」と日野君に話せば学長にいひ「よし」といふことになりし。また用ふえたり。けふ本屋へゆきしまに父訪ね来し模様。 帰り大鉄にて5万分の1「神戸須磨」買ふ。定期買ふ(360)。 角川より『立原全集』1、2来り、1を西村にわたす。「Poets’ School 11」来る。角川経理部長坂作二郎へ受取と1、3(2部)の註文。 6月21日 一の谷へ遠足と。曇ゆゑ傘もちてゆく。2年は山城、西保、津熊の3人のみ。付添守本、中田、長沖。三生に学長西宮より加はる。一の谷へ行くころ雨ひどく、 観光ホテルといふへ上る。13:30出発、また阪神国道を走り梅田でわれ下車。高尾書店で『Nelson's encyclopaedia(750)』と『更級日記(30)』買ひて帰る。またまた金借りに多く来る。 郵便来ず。珍し。 6月22日 会社へ9:30ゆく。康平叔父大国氏と衝突せしらしく悪口云はる。自転車で通ふとののしらるはまだ笑ふべきも竹村「子供までせわになってゐて」とほざきしには腹立つ。 けふ八木あき子嬢に依子ハガキ出せしことわかる。15:00藤井寺にゆき叔母のため歌3首代作。久美子とすしよばれて帰る。今川で下車、四辺歩きしも古本屋もなし。 中島に寄らんとせしも雨。帰れば16:00ごろ。あきちゃん来しと。祖国社より「年少吟8月号」と。夜、山下章男よび大江叔母よりあづかりし万年筆わたして聞けば、 伍長らの組合共産党ゆゑ他へ入りしと。けふ貞明皇后大葬儀。 6月23日 帰郷4篇を書き足す。会社へゆき1時間半まちて城平叔父に対組合の方針きく。humanistなり。出て関大にゆき末吉、平田、長谷川、3教官と話し、去年の車馬代4400もらひ、 出てすしおごり芳村古本屋にゆき『Wells, A short history of the world(100)』買ひ、夫人より芳村君このごろ競馬で金使って困るときく。(その直前、硲君と会ひし。ふしぎ)。近くの古本屋で『春夫詩鈔』と『青 い鳥』買ひ(105)、『日本文学双書202(150)』買ひ、梅田まで歩いて駅内で岩村忍『マルコポーロ』『土佐日記』『紫式部日記』買ひて帰る。 ゆき子に1200わたし、堀さんよりの『薔薇』受取り夕食後、散髪に出て図書室のため岩波文庫(330)買ひ来る。 6月24日(日) 8:00まへ家を出、省線にて京都。まづ彙文堂に寄り『風土記(100)』『結核(20)』買ひ、篠田博士にゆけば大津へゆかれしと。外山軍司にゆき阪大のあやまり云ひ、 11:00出て百万遍まで歩き『曽我物語(40)』『ローマ法(250)』『埴輪(80)』『金槐集(40)』『漢の武帝(70)』『奥の細道(35)』『伊勢物語(25)』『方丈記(25)』『イワ゛ンゴル(20)』 『日本古代社会の葬制(20)』『日本古代文化(120)』『大和を中心とする日本彫刻史(90)』と買ひあさり、電車で野田へゆけば外出。置手紙して依田君にゆき「帰郷」5篇に1篇つけ加へ、 小高根来ゐるにきけば賄役ありさうと。水曜頃ゆくことを約す。井上多喜三郎来ゐるゆゑ100わたし、会費(200)払ひ、天野隆一『雲の耳(200)』。 そのまへ佐々木邦彦にて『ゲーテ詩集』6冊(120)、羽田に電話かければ来よと。やむなく土産に飴買ひてゆく。「太宰施門薄情な奴なり」と。20:00出て野田君再訪、 中島の本のこといへば宜しからんと。帰り来れば23:30。 けふ寮にて組合の会やりしと。中島夫人よりハガキ来をる、ふしぎなることかな。病気にて大阪に入院しゐしと。 6月25日 雨。登校。杉山平一に『ゲーテ詩集』1冊与ふ。遅刻勝ちと生徒いひ来るをなだめやりし。12:30出て本屋で文学史買ひ直し、中島の家に寄り姉さんに兄さんへの伝言たのむ。 帰りてひるね、すみて消防座敷を借りて宴会。その最中会社より呼びに来しかば、行けば昨日組合に講堂かすといひしかと。云はずと答へ詫びとなる。5000もらひて帰り、 杉浦美都子見込みなきゆゑあと探さんと賄に云ひわたす。島よりハガキ。角川より道造全集3を1冊。 6月26日 登校。『ゲーテ詩集』と天野隆一『雲の耳』4冊づつ生徒にやる。太宰博士の話では「中島利夫意気消沈、川村学長にきけば図書館長にするつもり」と。ひるすぎ出て散髪後、 中島家にゆけば「兄君(※蔵書処分に)異議なく明子夫人に任す」となり。上六に八木あき子嬢に会ひにゆけば「来ず」と。伊井嬢に会ひ欠席咎むれば母親ゐたり。 『天老』『菅江真澄』『印度文化史の課題』みな20円の山にあるを買ひ、夜学すます。 6月27日 会社へゆき賄の欠員われ見付け来るもよきかとことはり登校。須磨の写真を西保君くれ、山城君『寒冷地帯』を返しくる。12:00講義終へれば大谷短大の梶原嬢来り「15-19日の間に詩の講義せよ」と。 送り出して京橋より京阪。宇治のレーヨンへゆけば小高根二郎、会にゆきてあらずと。1時間待ちて王寺ゆきの汽車にのる。 檪本着。坪井の父母に会ひにゆきしとふ中島夫人をまち、本売ることを承諾せしめ一寸整理しかけて止む。 6月28日 朝起きて洋書整理はじめ、弟君に手紙もたし八木嬢呼びにやれば9:30来る。ひるまでに洋書すみ午後和書。全部にて1000冊。リスト洋書全部、和書は立派なるものぬき書きし、 餅たまひ18:30八木嬢とともに丹波市まで歩き、大浜君にゆき賄のこといへば椿氏に話し修養科の卒業生つのりて見んと。19:30出て帰れば長谷川英子嬢よべより来て泊りゐると。 講談社より『和田先生還暦記念論叢』の校正、角川より『立原全集』2冊と印税残額3872円と。宮川満より福島悟生退学となりしと。 6月29日 杉浦美都子来りしゆゑ診断書をそへて辞表を出せとすすむ。10:00すぎ長谷川嬢をつれて梅田を経て心斎橋。ライスカレー食ひ(160)、オリオン座まで歩き「レベッカ」見(180)、 出てコーヒーのみて(100)別れ、岩波文庫を十合で3冊買ひて帰宅。校正やり図書委員を西村、田中、鳥飼の外1名ときめ呼びて話す。 けふ中川郁雄よりハガキ。姫野君より転居通知。「祖国」7月号3冊。浅野晃の「大和紀行」に『西康省』のこと云ふを見る。 6月30日 登校。守本氏にきけば夏休みに白浜と吉野山とへ2、3日づつゆかねばならぬらし。ひるすませて南海高島屋へゆき『マルコポーロ』とりかへさせ『孔子』を礼に買ってやる。 帰れば長谷川嬢出しあと。けふ10時上六で誰かと待合せ明日も彦根へ帰らざる様子。坂口允男より「校正出せし」と。9000山前君にわたすやういひやる。 けふ和田先生の論叢の校正書留にて48なりしと。夜、室長あつめて会議。図書委員をいひ、すみて金かへせと原口、鳥飼を呼ぶ。鳥飼の話にては「高知、熊本おほむね総評に入り、 北野、入山が役員」と。「魚住も総評なり。」「けふBonus出て、組合に入らざりしせいか鳥飼よかりし」と。 7月1日(日) 8:00まへ出て会社へゆきしも杉浦、竹村二氏来ず。原君は竹村とも悪きらしく、賄のことには口出しせずと。出て雨の中を坪井に立寄り、中島家のこといふ。出て上六。 ウラルアルタイ学会にゆかず堀内進(※古書店)にゆけば不在。時枝誠記の国語文法買ひ(120)、伊藤賀祐(※のち岐阜大学)さがせしも見つからず。かへりまた堀内のぞけば帰りゐる。 「伊東静雄散歩しゐる」と。家へ来よとさそひしが「颱風来る」とて来ず。 けふ久しぶりにて高井田村を歩きしが塚本本家を見しのみ。帰れば小高根二郎より手紙「保田警察病院に入院しゐる」と。 7月2日 雨と風、レーンコートきて下駄はきゆきレーンシューズ買ひ(780)登校。「23-25の3日間白浜へゆかねばならぬ」由。12:00出て帰り来る。大谷女子短大より「19日来よ」と。 庶務課長より「原氏夫人の従妹希望ゆゑ賄のこと承知されよ」と。 7月3日 登校。うたつくる心とめえず六月の雲まにひとりなげかひをれば。 いつはりの心うたひて世のひとの心ためさむわがさがかなし。 午後藤井寺にゆく。久美子にきけば「けふボーナス出る」と。叔母より夏衣もらひ、ききしゆゑアベノの大鉄百貨店に寄りて見れば仕入部長は松浦(※松浦悦郎?)の兄なり。 一寸話して別れ、パン二つ食ひ夜学一時間やりて切上げて帰る。梁夫人より礼状。井上多喜三郎より「15日詩人会」。赤塚夫人より「4日出発」と。Bonus8000多くもなし少なくもなし。 7月4日 会社へゆかんとせしもおそくなり、そのまま登校。漢文の試験問題作り自習させしあと短大の漢文。日野君にきけば「学長、中島の哲学書中、独文のテキスト不要といふ」と。 金曜に大和へつれてゆくこととす。学長の書類のことで我も行かねばならぬらし。中島夫人へハガキ書き速達せんと思ひつつ警察病院まで来て投函。保田の366号室にゆけば「結核」と。 夫人付添にて元気なり。安静時間のことなれば一寸話し見舞のタオルわたし玉井君と話せば「心配いらず」と。城平叔父のこと知りをり「会社に来しことあり」と。 大手前へゆき坪井、石山、二教官と話し17:30雨止みを待ちて帰る。中川、藤野両君へハガキ。 7月5日 朝、会社へゆき城平叔父に会ひBonusの礼いふ。「御中元社長以外はよし」と。康平叔父「魚住は悪し」と云ふ。杉浦氏より「美都子心臓脚気」の診断書とり「やめると城平叔父にいふ」となり。 帰りてひるね。夕方西村呼びて、岩波文庫その他買ひにゆき、残金60とし図書室作りす。けふ宮本氏よりハガキ「赤塚氏出発せし」と。 7月6日 8:00出て8:30鶴橋にゆく。9:00日野君来りともに天理にゆく。短大では事務部長まだ栄養士許可来ず書類はその後にと。図書室見しあと図書館にゆき、みなみな話し相手にもならず。 整理24万冊となりしを見る。昼食すまし(金井君病欠と)、高校へゆき八木嬢に案内してもらひ、すみて14:19にて檪本。中島の和書を見せ15:52に乗り奈良で別れて帰る。 神崎学長には愛想つきたり。小阪で文進堂にて『枕草子(30)』買ひ、帰れば岩崎よりハガキ。埜中君よりこの間の写真。 うつくしき山々を見しかへるさは心さびしもむかし思へば。 7月7日 登校。硲君来り、ともに出て美術館にゆきしも末永博士あらず。新世界でコーヒーのみ古本屋見てナンバで別れ、十合で[龍]氏にたのみ夏上衣2750を2500にしてもらふ。 帰れば長谷川嬢より礼状「東京へゆく」と。 けふ学校で山本より「本代の請求」去年10月の分なり。彦根へいひやることとす。図書室うまくゆくらし。夜、原田「歯の治療のため」と2000借りに来る。 7月8日(日) 雨。いやいや13:30出発し上洛。四條の何とか地蔵さがしまはり着けば15:30。臼井、高橋珍しく来をる。すみて山村君、妻君なくせし挨拶をす。気の毒なり。 ともに出て四條河原町の「日本一」なるところへゆき、彼等は酒のみ、われは飯くひ早退して帰る。 けふ青木富太郎より抜刷。京阪書房にてウェスターマーク『婚姻と離婚(40)』。 あまけぶるやましろの野辺かふちのべなれをおもへばわれも哭きたし。 ちちははの許さぬこひとともに知り知りつつつづけ来しいく年ぞ。 「近江詩人」に「帰郷」わたす。 なにあふと帰り来しはやなには江のあしきことどもありと思へど。 7月9日 登校。2、3時間目の間、八木あき子嬢より電話かかり「12:00上六で待つ」とのこと。7月分月給呉る。(8月は20日とのことなり)。中島家へ「和書5万円で引き取る」と手紙せしと日野君の話。 3時間目すまし上六へゆきコーヒーのみ(100)歯医者へゆくとふあきこ嬢より弓子、京の洋服受取り「座右宝美術文庫」4冊(40)『Silver and China(50)』買ひて帰る。 徳永昭子嬢より「幼稚園へ帰りし」と。「岩崎の求婚ことはりし」と。夜、岩崎へハガキ書き青木富太郎へ抜刷送る手続す。 なには江に暑き一夏ともにすみわれらがこひはいやますらむか。 7月10日 暑し。講義すみしころ山内四郎より電話かかり来る。出て阿倍野でライスカレー食ひ(90)(この頃食欲すすまず)、『俳諧七部集(20)』、湖南『近世文学詩論(50)』買ひ、 大鉄百貨店で『東光文化双書10冊(50)』買ひし、鶴橋より上六に出て齋藤昌三『東亜軟書考(20)』買ひ、飴買ひ(150)て保田(※警察病院)にゆき、奥西保、高鳥に久しぶりに会ふ。 池内先生の本まだなり。玉井君にビタミン打ってもらひ学校にかへり夜学すます。けふ中島明子氏に「五万円だけ分けよ」の速達出す。 7月11日 11:30より授業とてゆっくり行き、すみて昼食。向ひへコーヒーのみにゆき2年生6人とともにのみ、おごりし様なこととなり壽岳博士の講義3人にさぼらし、帰れば守本氏まづき顔をしてゐる。 試験の相談をし、すみて帰る。(けふ三野女史あての篠田博士のハガキ見る。われを「詩人」と紹介しあり)。会社へよれば「労基監督署来りをる」と。 原夫人の従妹の話は杉浦氏知らざりし。図書費3000預りて帰り、入浴。労基官知らぬ顔をさせられ、西村呼びて2000わたし「[明]日本を買ひにゆけ」と云ふ。 布施市より「812づつ3245」との通知をとともに来し衣川の通知を渡さんとすれば長話してゆく。角川へ受取。雲井書店、宮川、小高根二郎、前川佐美雄、雨谷父へハガキかく。 7月12日 大江叔母、羽田へハガキ。けふは終日雨とて家居。ひるまへ父来り、1000御中元にわたす。図書委員4人にて本1300ほど買ひ来り、落花生くれ、車代とらず、気の毒なり。 中島夫人より「洋書も売りたし、和書は14日以外ならいつとりに行きてもよし」と。岩佐東一郎より暑中見舞。 7月13日 夕方まで雨降る。家居。彦根短大より『工科紀要』来る。惨たり。 7月14日 登校。国文学史のレポートの題を授く。帰り焼きそば食ひ、雨ゆゑ家に帰れば13:30、八木のあきちゃん来るかと思ひしに来ず。 杉浦実君「家にて待つ」との手紙来しゆゑ16:00四条畷にゆき18:00帰りし源次氏より話きく。22:00帰宅。池川医院の後任はやはり大高(※出身)なりし。ヨドキシンまきしとて家中蚊をらず。 まねて見ん。けふ赤塚氏より「13日渡米」の挨拶。短大図書館より「山本には10月払ひし」と。 7月15日(日) 雨。山本書店より「金10月に受取りゐし」とあやまり状。夕方小阪にゆき堀内進に古本市の価格表かり、Heineの『Buch der Lieder』と『Deutschland』をレクラム文庫で見付け(100)、 『イエス伝(20)』と鴎外『黄金杯(100)』とを買ひ、山口君でサイダーのまされて帰る。4人金借りに来り700もちゆく。 7月16日 時々雨。9:00日野君と鶴橋にて待合せ油阪より奈良駅に出、檪本着。中島夫人にいひ「朝の中に大体計算3.6万ほど、のこり2.4万見つくろひとし6万にてよし」といふこととなる。 (「洋書中、文学書は9月ごろまでに神崎院長に話してみる」となり)。15:00すぎバタバタ来り、日野君積みてゆく。われ丹波市にゆき高校へゆき西村喜世和に会ひ、ともに天理駅まで来り、 氷金時のみて別る。「生駒夫人御機嫌よろし」と。堀内進に『古書通信』かへしHeineの『Neue Gedichte(130)』『東都近世史(100)』買ひてかへる。宮本正都、岡本和子よりハガキ。 前川君より『日本歌人』もう一冊来をり。 7月17日 和田先生へ彦根の雑誌つつみ徳永嬢に『日本歌人』つつむ。会社へゆき城平叔父に美都子の後任のこと、ヨドキシン購入のこといひ、一旦帰り、昼食後ひるね。 新大阪新聞、足立巻一氏より「25日までに詩一篇を」と。藤野君、篠田嬢(丸物地下で花屋すと)、日野君「中島の本530冊ありし」と。「Poets’School12」来る。 16:30出て「かもめ」で『鴎外全集』借り(420)、春夫『荷風雑観』買ひ、やきそば食って夜学。レポートの題云ふ。日野君、紀州へゆきしらし。 7月18日 家居。井上多喜三郎、新大阪、慶松へハガキ。大よりハガキ。夕方室長会。消灯その他きびしくすることとす。夜、図書室に本390買ひにゆく。 帰って不良の巣となりゐるT室にゆきしに不在(鳥飼、清田、東野らが中心か)。 7月19日 篠田紀子嬢へのハガキと慶松への抜刷と投函。7:30出て大谷女子短大へゆき早すぎて困る。9:30より話。すみておうす(※薄茶)とすしと1500もらひ清水光(桑原氏と同級と)と交替し、 吉井君に「大浜君と遊びに来よ」といひ帝塚山。同窓会名簿2冊もらひて(180)帰り、田村春雄さがせしもまだ来ず。石浜君に名簿托し『アテネ文庫』3冊と地図2枚買ひて帰る。 彦根短大図書館より山本のハガキ転送。会社へゆきしも原君、竹村君と話せしのみ。 7月20日 会社へゆき専務に本日寄付4名をいひバスにて天満。坪井にゆきしも会へず。保田にゆく。元気になりをりし(羊羹100)。佐藤春夫『南方紀行(30)』新村(60)アベノ橋で地図1枚買ひ、 教授会、長沖氏はじめて出席。「中島の本の残り7万円で(※計13万)」と学長の話。「23日8時30分アベノ橋に集まり7月30日7:30ナンバに集合」と。けふ久美子にと同窓会名簿わたし、 きけば「大江叔母、房子の見舞いに上京せし」と。中島家により姉さんに中間報告し、帰りて不良を順々に訓戒す。23:30帰り来しを叱りて終る。 7月21日 会社にゆき康平叔父と話し「寮のこと大分心配」ときき、帰りて羽田よりのハガキと池内先生の本の推薦文(わが書きし)を見る。『東洋史研究』11の2来る。 午後ひるねせんとせしに雲井より電報「明日来る」とのことゆゑ「カタマチセントクアンゲシャフジハウスヘ(※片町線徳庵下車富士ハウスへ)」との電報打ち返しにうろうろし京橋駅にてすませ、 散髪して帰る。夜、寮則に関し室長会、23:30ごろすむ。 7月22日(日) 原君、朝出がけにききに来しゆゑ一寸説明し、あとで外泊届とともに報告しおく。13:00ごろ雲井君来る。「もと角川にゐし」と。「稿料4回に分けて払ふ」と。 「谷川徹三氏が推薦されし」と。8月中ごろ送ることとし、風呂に入れ夕食くはせ京橋まで送り坪井にゆく。「明後日より上京」と。中島明子氏に「13万でいかが」と問合せの手紙出す。 7月23日 付添で白浜へ。総勢29名。昼食もたざるは吾のみ。14:00白浜館着。午後水泳の子らを見、入湯2回。23:00すぎまで子らさはぐ。 7月24日 岩崎昭弥、羽田明、島稔、八木、藤野、中山諸氏へハガキ。午後観光バスで湯崎を見にゆき臨海研究所にゆきBougainvillea(※ブーゲンビリア)観る。(新大阪へ詩「8月」送る)。 夜、2年生の室で詩2篇、歌3首をつくる。春夫『玉笛譜』、『美しい町』、ハーン『山光集(20)』 【歌稿ページ(6p/36p)より】7.24白浜にて あかあかと沈む日みつめゐしわれのかたへにひとはゐざりしごとし。 スマトラにわが見し花をふたたびと紀南の海辺けふ見たるかも。 玉簪花茉莉花かざししみんなみのまちにあひたるをとめのともは。 7月25日 朝入浴せしのみ。14:00までぐうたらし、手当1500もらひ土産「柚もなか(330)」もちて20:30天王寺着。和田先生、慶松、芳野、有馬幸一よりハガキ来をる。 7月26日 朝、会社へゆき電気代払ひにやらる。夕食後硲君来訪。ビールのんでもらひ21:00送りに出、『折たく柴の記』『大学中庸』『近世畸人伝』(110)買ふ。「新大阪」より受取り。 天野忠よりハガキ。夜、「白浜吟」2首清書す。 7月27日 朝、広瀬の父兄来りて応対す。10:00会社へゆく。城平叔父帰り来し。大谷短大より礼状。夜、室長会に原君出て長々としゃべりし。けふも暑し。、 【歌稿ページ(6p/36p)より】7.27 あつき日の日なか汗かきなれこへるこころすずしきをみなと思へば。 あまきおもひこなごなくだきそむきゆくをみなのさがをなれももてるや。 ちちははの命ずる仕事上役の仕事にかまけたよりなき子か。 7月28日 家居。中島の姑、藤谷絹枝氏より「明子未亡人に代りて任す」と返事。岩崎昭弥より「白浜のハガキ見し」と。終日出ず。病人3、4名出し。 7月29日(日) 家に午前中ゐしに午後天理の鈴木松岡ルートより後藤雪子(34才)氏来訪。ハウス内を案内し「履歴書遅れ」といふ。16:30出て桑津の日野君を訪ね極楽寺への返書たのむ。 今川へゆきしに叔父帰らず。『岩波写真文庫』2冊(野球と汽車)とスタイルブック1冊とをお中元に置く(200+160)。古本屋を見て岩波文庫『古今著聞集(80)』『上田敏詩鈔(50)』 『一茶俳句集(30)』『中華六十名家言行録(50)』と「高野山(5万分1)」を買ひて帰り来る。 【歌稿ページ(6p/36p)より】7.29 そむかれしかなしみ告げむ人をなみひとゐぬやまにわれはのぼらむ。 7月30日 7:00家を出、ナンバに8:00着。9:20の特急にのり12:00高野山成福院に入り24:00まで会議。家へハガキ。 7月31日 ひるすぎ散歩。古本屋にて『和泉式部(50)』、有高『唐代の社会と文芸(90)』、児島『支那文学史(80)』を買ふ。夜ふけまで会議、めまひす。 【歌稿ページ(6p/36p)より】7.31 みのりきくこころはもたずすてられし身になぐさめのうたをきかせばや。 8月1日 ひるすぎ古本屋へゆき昨日買ひのこせし『人情本集(150)』買ふ。堀さん、埜中君へハガキ。夜、大阪人を語る。院長先生とこの2、3日碁打ち8目。 【歌稿ページ(6p/36p)より】8.1 堀氏に この世ならぬひとをぞおもふみ山木のなかをひとりしうなだれゆけば。 わが心つげむすべなみみ山木のしげ木が中になみだおとすも。 8月2日 ひるまへ会議。宝物館へゆく。大師の書と義経の字おもしろかりしのみ。仏像はろくなものなし。帰りてまた碁(8目)。17:00自動的にてケーブル着。 17:43にのり20:00ごろ大阪着。支那料理を会食、大阪駅まで学長と同車。帰宅すれば八木君けふ来り「3、4日中にまた来る」といひて須磨へゆきしと。 『くれなゐ』『凝視』『湖畔の声』来をり。河原正博、岩崎昭弥、中川郁雄、徳永昭子氏より便り。後藤ゆき子氏より履歴書。 8月3日 くもりて涼し。西保恵以子へ『くれなゐ』。『凝視』発行所へ礼状。河原正博へハガキ。徳永昭子氏へ『くれなゐ』。ひるねも旨くゆかず。『祖国』8月号来りしもわが歌のらず。 瀧脇清子(2A)より暑中見舞。伊井玲子へ『くれなゐ』送る。 【歌稿ページ(6p/36p)より】8.3 岩佐東一郎へ 僧去りぬ杉の梢に暮の星 なでしこの両傍に咲くケーブルカー 8月4日 朝、会社へゆきしも叔父来らず。帰りてひるね。(中島、明渡2生より暑中見舞)。前川氏より「12日の会の発起人を」と。15:00再びゆけば組合との間うるさいらしく、 松尾三郎に大江叔母への「せんべい」わたして天満橋。『枕草子 中下(70)』買ひて帰る。22:30まで室長会とて原課長の「熱弁」。 8月5日(日) 9:00家を出、9:26の特急にて京都着。ヌガー買ひて(100)羽田家にゆく。吉野書房の出たらめきき昼食よばれ13:30四條の地蔵前のコルボウ詩話会。篠田紀子嬢来り「花屋やりゐる」と。 吉沢独陽君来会。「近江詩人会19日滋賀大にて」と。17:00小高根二郎とともに出る。(詩集代650払ふ)。前川佐美雄より「12日会する」と。寿一より「竹田龍児氏に会ひてわがこときかれし」と。硲君よりハガキ。 8月6日 八木嬢来るかと思ひしに来ず。午後会社へゆけば城平叔父不在。西保嬢より歌と写真。角川の松原純一氏より「ハイネ」の催促。和田先生より「善海、東大助教授。川久保、 弘前大学教授となりし」由お便り。 8月7日 暑し。会社へ9:00すぎゆき「寮母の件駄目。雨谷の件は馘首せずといへ」と也。帰りてひるねしゐれば八木嬢来る。 「くれなゐ」の原稿とともに西垣修(※西垣脩)への手紙(城平叔父にきけば「家なきため上京せし」と)かき、夕方散歩。林叔母に会ふ。杉浦正一郎、吉田生、山城生より暑中見舞。 8月8日 7:30起き8:00家を出て9:00鶴橋にて日野忠夫氏と待合せ油阪より檪本へゆく。12:00(※中島栄次郎蔵書運搬)トラック来ず昼飯よばる。母君「千三百円をも少し」との言あり、わびし。 賄婦だめとわかる。14:00日野君去り、われ15:01にて桜井にゆき駅にて坂田夫人と会ふ。「10日までの講習すませて山前君へゆく」由。地図かきて渡し、羊羹二棹たまはりて帰る。 (布施-小阪-徳庵)。 けふ伊井嬢より歌、杉浦正一郎より『猿簑』。吉川仁、溝端清、岸明子よりハガキ。山城、吉田、岸、伊井諸嬢へ返事。「くれなゐ」へ伊井嬢の歌。 けふ留守に父来り『万葉集研究』『源氏物語研究』おきゆきし。 8月9日 9:00出て学院にゆけば誰もゐず。教授会記録作り。三苫君をとへば犬に咬まる。出て大江にゆけば叔母一人。「千草月収10,000にて家賃4000、泣くばかり」と。 「松尾三郎のBonus20,000森のBonus30,000」と。夕方帰れば津熊照子より暑中見舞。2B西浦孝子より同。末吉より同。池田道夫より「日本歌人の会に来よ」と。千草でなけれどわが貧にも困じたり。 8月10日 会社へゆきしも専務忙し。竹村、後藤女史のことで怒る。ともに出て寮に帰り固定資産税調査に立ち会ふ。すし賜ふ。康平叔父話ありさうなりしによりまたゆきしに出しあと。 淡路へ墓参のことらしと。帰りて佐竹女史、俣野博夫の暑中見舞と。河出の『現代詩大系』の資料おくれの速達を見る。佐竹、津熊、杉浦正一郎へハガキ。後藤女史へのことはり状。 8月11日 会社へゆき池川医院の中元のことにて原君からかひ、康平叔父にタバコもらひて出、保田を病院に見舞ひ、玉井君に恐水病(※狂犬病)のこといひ、 帰り大手前より坪井(※明)宅にゆきしに「保田には十年不快」と、はじめてきく。あやまりて帰れば八木嬢あり。ドイツ語と宣教師やり、18:00まへ帰す。会社より盆に500呉る。 西保よりハガキ。埜中君よりハガキ「けふ後藤ユキ子氏来り、天理へかへりしとことわり云ひに来し」と。 8月12日(日) きのふ賄たち布を呉る。真野喜惣治、藤野一雄、青木富太郎(浅野忠允、人口問題研究所で課長と)よりのハガキ見、11:00ズボンの洗濯出来上りしをまちて出、 帝塚山にゆけば「(※咬んだ)犬は桂君の犬にて狂犬の予防注射2回せし」と。三苫君よりBonus(税引き7000余と旅費284)もらひ、 やきそば食ひcoffeeのみ(120)、アベノ百貨店で『東洋中世史3(150)』買ひ、日本歌人の会(※写真あり)に出れば早すぎて15:00まで待たさる。 吉村正一郎、橋本凝胤、安田章生、米田雄郎、壽岳文章ら集り、小高根二郎来ず。『高踏集』なるもの批評さされ、吉村の新夫人ほめて鳧。18:00すぎ散会までに松浦の兄に会ひ、 なくせし手帛かひ(90)、堀内民一、安田章生と出て警察病院へゆく。保田「家のことありて退院せざる」様子。荻野を玉井君見舞はざりしらし。 「恐水病の薬はなし」と。出て『南方随筆2冊(400)』買ひ、天満橋より帰宅。 8月13日 角川、真野、有馬幸一、吉川仁、西保へハガキ。角川へは「8月中に送る」と。11:00出てて私部にゆき(途中昼食)、相馬実を見舞へば意外にも元気(体は衰弱加ふるらし)。 「安岡正篤の弟子なりしも近ごろまた信念をとりもどす」と。見舞300置き星ヶ丘にゆき八木嬢に会ひ「18:00再来」をいひて出、枚方の町散歩、散髪(90)。『末摘花(350)』買ひ、 菓子買ひ(150)して星ヶ丘にゆき、やがて帰り来し松井信子嬢より夕食たまはり[20:00]出て康平叔父にゆく。原君のわる口いふ。叔母よりタバコ2箱と帯じめともらひて出、 甚幸と駅に出て『硫黄島』と『坊ちゃん』とを図書室のため買ひて帰る。 8月14日 芳野清、西島寿一、藤野一雄諸君へハガキ。河出へ「写真詩集送れず」とハガキ。14:00八木嬢来り、勉強18:00までやり帰りゆく。徳庵にゆき『細雪(250)』図書室にと買ひ来り、よみ出す。 8月15日 2B檜垣博子より暑中見舞。昼食ごろ『細雪』よみ終る。夜、丹羽千年へ坂口允男の『シェリー』もちゆく。「神田先生、帝大の文学部長となられん」と。 8月16日 晴、朝10:00会社より呼びに来てゆけば城平叔父「父を就職せしめん」と。「ありがたし」と礼いふ(「20日面会」と)。康平叔父、原君のこと云ふ。出てひる食し、 ひるねせんとすれば八木嬢来り20:00まで仕事す。杉浦正一郎より『奥の細道』。ハガキ中川郁雄。宇田良子よりハガキ。新大阪より「八月の詩」掲載紙来る。父へ速達。 夜、八木嬢送り出して京橋へゆき『柳樽1』買ひ来る。杉浦へ頭註の誤指摘。 8月17日 9:30出て会社へゆき11:00まで待ちて水道代もらひ小阪へゆき大進堂によりて道きき、払ひ終り、冷うどん食ひ、『松の葉(20)』『楚辞(50)』買ひて帝塚山にゆけば三苫君不在。 会計できけば「15:00まで待て」と。恥かきて美術館の硲君の会にゆき話すこととなりしがいやになり別れて帰る。中村竹次郎よりハガキ。堀田靖子より暑中見舞。 8月18日 父、史の受持尾谷邦三郎氏、前川佐美雄よりハガキ。10:00すぎ八木嬢来り「左肺浸潤の診断受け2ヶ月休養を命ぜられし」と。再び医師へゆくとて仕事やめ、 14:00来りし西村の父姉と話し(果物1カゴ。広瀬より栗もらふ)、15:00出て梅田。ハイネ『ロマンツエロ上下』買ふ。けふハイネの追加としてsonett4、5篇訳してうれし。 8月19日(日) 8:18発にて11:00すぎ彦根着。安土より児玉実用をつれて多喜さん乗り来る。駅にて城にゆく2氏と別れ、河村先生にゆき昼食たまひタバコ『茂吉の人間と芸術』たまひ(『末摘花』を贈り、 徳永嬢への帯じめ托す)、ともに陵水会館(※滋賀大)へゆく。13:30より18人にて児玉君の話きく。睡眠不足にてつらかりし。すみて「Poets’ School13」の批評。終りしころ徳永嬢来り、 みなと別れ「やり屋」へゆき(光10箱を贈る)、河村、広田、杉本、藤野、宇田良子、徳永昭子、岩崎昭弥、中川の諸氏にて歓迎会たまはり20:00の汽車にのれず22:00すぎ出て岩崎君の家にゆき4時までとめてもらふこととす。 同級生小倉が来り話すため0時まで眠れず。岩崎「近々岐阜へ転任」と。 8月20日 ひるねして「不二」と同社より「歌稿送れ」のハガキ見て、会社へゆきしも父といれちがひとなる。叔父たち重役会とて会へず。学校へゆき渡辺芳子、母の葬儀にゆきし中村会計待つ間、 学長に会へば「中島の本、あと1万円でよろしきなら洋書もらふ。然らずんば断念す」とのことなりしと。われ「聞かざりしことゆゑ日野君にたしかめん」といひ石浜先生に参る。 藤沢桓夫氏にきけば「新大阪」の詩、社内で好評なりしと。東北大の金谷氏としばらく同席、煙草おきておいとます。嬢ちゃん「歌をかいてくれ」と。 (途中の電車でおりく叔母に会ひし「全田へゆく途中」と)。帝塚山で降り「かもめ」で『鴎外全集』その他受取り、日野君を訪ねしも留守。置手紙し曽祖母の出し日下家おそはり、 帰れば18:30。夜、室長会。自治会も出来る由。父、留守に来り「6000もらへる」由。青木陽生「東京十合へ運動してくれ」と。 8月21日 朝、竹村庶務課長来り出勤表のことと休みのこととで文句いひ、西村父姉とめしを不服さうにいふ。「ハイネ」ちょっと訳し、彦根の諸氏に歌かき、 羽田にハガキせしところへ八木嬢来り「肺門浸潤の診断書なりし」と。ともに鴻池新田に出て、われ四条畷下車。杉浦実君と話し星ヶ丘までゆき八木姉妹に夕食よばれ、結局田村春雄にみさすこととして22:30帰宅。 けふ祖国社より「池内先生の本、月末に出、わが「年少吟」9月号にのせし」と。亀井昇、錦織恒夫、中川郁雄よりハガキ。坂口允男「18日に山前に金もちゆきし」と。 【歌稿ページ(6p/36p)より】8.21 M p in ●●●に 茴香の料理食ひしか食はざりしかかかることにもしばし煩ふ。 いさましき男といはれ笑みし日は海のあなたの●のごとしも。 小休止に鏡よこたへ眠りゐる友をうらやむわれなりしかも。M 藤野一雄に あかねさすひるま歩けぬ罪人のこころをもちてわれはゐしかも。M 杉本長夫に 疲れ来しわれのまなこに街角に光りてゐしは湖の水かも。Mlle 宇田良子に わかれ来しひとののこせし言の葉を疲れし脳髄いまだとめたり。同上 河原町太物を売る店つづきここと指されし家の●よ。 M 広田一彦に 秋近き湖畔のまちにうたかたりわれはゐしかも死ぬは忘れて。同上 あまの川としにひとたびあふ二人うらやむわれとなりにけらしな。 8月22日 10:00会社へゆき原、竹村2氏と話し、いやな奴と思ふ。11:30アベノ橋にゆき炒麺くひ、市立病院にゆけば「春雄博士休暇」と。家にゆけば建増してゐる。 あす八木嬢つれ来る約束をして星ヶ丘へゆき、その旨伝へ、きのふ忘れし帽子とりて帰る。 けふ日野君よりのハガキにては「学長8万円といひし」と。(13万はどこより出し数字なりや)「ともあれ話してみん」と。 8月23日 「ハイネ」のソネット大方すみ、14:00まへ出て京橋へゆけば八木嬢14:30来る。アベノで菓子(250)買ひ、上野芝へゆき一寸まてば春雄帰り来り、レントゲン写真見、 聴診(ラッセル聞えず)して「進行中」と。注意きかせ、アベノ橋で『松田道雄(※結核治療の本)』買ひて与へ500貸し、焼売くひて別れ、大江にゆく。「十合の東京支社まだなかなか」と。 帰り来し叔父の不敗論きき笑ひ乍ら出て松原下車。肥下にゆけば「縁談にて忙し」と立話。(けふ春雄より『人類学雑誌総索引』もらふ)。山前君より「坂口君の金もらそし」と。藤野一雄よりハガキ。 ※〈八月二十三日 田中克己九時半頃来ル。(保田病気ノ由)〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 83p 8月24日 山下幸雄より「萩原博士口をきかずなりし」と。「ハイネ」訳了。解説かかばよし。2B明山より暑中見舞。夜、病人多く出、蔭山先生に二度来てもらふ。われも悒鬱。 8月25日 会社へゆき図書費8月分もらひ、叔父に病人15人出しことを云ひ庶務課長より「小きこと」といはれ、原課長より風呂のことでいや味いはれてのち星ヶ丘へゆく(二十世紀5ケ)。 (※八木あき子女史へ)療養のこといひ、しばらく会へずと云はれ暑き日中をさけて18:00枚方ですしおごられ氷金時おごりて帰る。(『万葉秀歌』2冊もらふ)。 けふ徳永嬢より礼のハガキ。新大阪新聞より1600。広田一彦、荒井平治郎、2B油谷よりハガキ。 8月26日(日) 一日家にゐる。午ごろ父来る。西垣修(※西垣脩)君より「勉強も少ししたし」とことわり。中村竹次郎、硲晃よりハガキ。坪井より「保田への誤解とけし」と。保田より「きのふ退院す。 石山直一見舞に来し」と。西垣君へ「再考を」との手紙。夕方『即興詩人(100)』買ひ来る。これをよみて落涙。 【歌稿ページ(6p/36p)より】8.26 病める子を思へばかなしもなれとわがいづれ先立つ知らぬままにも。 わがことをうれひをのが身忘れしと見ゆるもかなし笑まふ子ながら。 秋づくを感じなげかふ年々のならはしならぬなげきわがする。 8月27日 10:00ごろ来診の蔭山先生にことはりて結核の診断してもらひにゆく。ツベルクリン反応と血沈とのみすみ、京橋-天満橋にて坪井宅へゆき、大手前へゆき昼飯くはさる。 「けふ夕方来る」と。石山直一に会へば「現在罹病中」と。「中西義章(布施市永和1の1)に診てもらひゐる」と。天満橋で図書室の本の外、 幸田成友『日欧通行史(100)』、大場磐雄『日本考古学新講(130)』、外山卯三郎『日葡貿易小史(60)』、『俳文俳句集(120)』、野村八良『鎌倉時代の仏教文学(20)』買ふ。 山口実より写真。17:00坪井来り、われにタバコとビール、子らにドロップ呉れ写真とってくれ19:30帰る(※写真あり)。気の毒なり。 西保恵以子よりハガキ。 【歌稿ページ(6p/36p)より】8.27 わがいのちも永くはあらじあと追ふと秋風のごと逝かむと思ひ。 たぐひなくかなしくなりて街ゆけばなとゆきし日はゆめのごとしも。 8月28日 朝、会社へ寄り池川医院へゆく。「陽性にて血沈6-30にて普通」と。レントゲン写真とってもらふ。「3、4日して来よ」と。帰りてハガキ多く書き「不二」へ歌3首書き、河村純一氏へ礼状やっと書く。 8月29日 終日家居。Mission八木嬢に代りてやり、午後「ハイネ」のソネットの註かき解説かき『ハイネ青春詩集』とすべしといひやることとす。 けふ悠紀子、森医院へゆきしもやぶらしければ明日市立病院へゆかしたることとす。埜中清市より『爐』に広告せよと、不快。高2B明山よりハガキ。夜、訪ひの声し出てゆけば亀井昇母子、 西瓜をさげて来る。「勤め先の黒田製薬つぶれし」と。 8月30日 家にゐてJesuitやりしのみ。ふしぎに郵便なし。悠紀子市立病院にゆく。田村春雄に階段で会ひしと。子ら留守番して哀れなり。夕方岩崎昭弥来り、1日より岐阜へゆくと。 保田には会へざりしと。夕食とビール与へ京橋まで送りゆく。 8月31日 10:00依子、京づれにて悠紀子市立病院にゆき弓子留守番。坂口允男よりハガキ。八木嬢より礼状と1000。熱微かにあり道一すじに生きよと説教されしと。昼、コルボオへ「誕生日」「わかれ」を送る。 夕食後、丹羽千年来り、梨5ケ呉る。池川医院へゆく途、亀井に逢ひ家へ帰り待たしむ。レントゲンの結果異状なしと。帰りて亀井23:00まで話す。珠算教へ月収3万円近しと。坂口允男よりハガキ。 9月1日 朝、会社へ久しぶりにゆきしも庶務課長ゐず、立替金くれざりし。帰りて無為。 9月2日(日) 島稔よりハガキ。中野清見と会ふ由。たへがたく悒ければ、15:30小阪へゆき、山口実にゆけば「堀内近々来る」由。日をきけば「6日」と。伊藤賀祐さがせしにまた見つからず。 ノート(60)買ひて帰り、「やり会年表」作ることとす。 9月3日 やはり物悲し。朝、ゆき子保健所にゆき留守す。午すぎ会社へゆけば、大江叔母来合す。家へ伴ひ帰る。(肉100匁と油と呉る)。夕方、森君来る。 けふ岩崎昭弥よりハガキ。「江口三五に会ひしが話さず」と。中川郁雄よりハガキ、「山之口獏彦根へ来し」と。角川の松原純一君よりハガキ。「原稿受取った、すぐとりかかる」と。 9月4日 8:30出て9:45よりの2Aの漢文を教ふ。すみて日野君と中島文庫のこといへば「はじめ5万円のつもりなりし」と。「洋書買入は我より出でし」と、不審。とまれ6万円しか出ぬ由ゆゑ、 その分だけ堀内進(※古書店)にでも見さし、他は我が処分せんといふ。田村春雄にたのみにゆけば「6日11時に来させよ」と。散髪(120)して帰る。いれちがひに日野君よりハガキ。夜、停電10分づつ。 9月5日 登校。高2Cの漢文教へ、熊沢安定氏より西垣君のことききして帰る。(伊井生に電車で会ひし)。小阪にゆき堀内進に明日差支へるをいひ中島文庫のこといふ。 (けふ日野君に13万円のあやまり云ひし)。(授業まへ硲君来り、きのふの留守のわびいたし)。帰りて臥床。 9月6日 朝、依子を休ませ京と3人で留守。13:00八木明子女史来り、八木女史の手紙もち来る。「図書科のレポートとりおかん」と。面会多く話し相手多き様子。 腹立ちて「それを止めよ」の手紙書くところへ悠紀子帰り来る。「春雄女児をなくせし」と。夜、雲井書店より『楊貴妃とクレオパトラ』の催促電報。 9月7日 12:00までに病院にゆくとふゆき子と共に京つれて市場にゆき、2人帰り来て子らの帰りをまちて引返す。田中禎子。赤塚氏アメリカより。松井信子よりハガキ。 夕方ゆき子帰り来り「700円ほどとられし」と。西垣修(※西垣脩)君よりことはり状「この間下阪、伊東静雄に会ひし」と。 けふ、よべ書きし『ハイネ青春詩集』の解説7枚角川の松原純一君に送り、「八木嬢まゐる」なる詩ゆき子に見らる。 9月8日 ゆき子病院へ京、依子とゆく。われ堀内、山田2君来るかと待ちしに来ず。午後駅までゆけばバス不通とわかる。 9月9日(日) けふよりSummer timeやめとなる。8:00まへ家を出て丁度来合せゐしバスに乗り小阪へゆけば堀内すでに不在。中島のリストとりかへし、 京橋より京阪星ヶ丘へゆき松井信子女史よび出して八木嬢のこときき伝言たのみ、急行で丹波橋のりかへ京都駅より西京大学まへまで市電。 野田君あり「(※中島蔵書洋書売払いの斡旋は)服部英次郎氏にたのむことよからん」と名刺書きて呉る。出てめやみ地蔵のコルボオ会にゆき様々な相談事に夕方までかかり京橋へつけば19:00。 中川郁雄より「八幡高校へ桑原武夫の講演世話せよ」と。「講和条約の調印すみし」と新聞。 9月10日 登校。上町線の定期だけ買ふ。堀内進来るかと思ひしに来ず。学長に会ひ「中島文庫の洋書やめ」のこといひ「国文に早大出の松蔭短大講師いかに」と云はれ「西垣君の方よろし」と答ふ(明治40年生、いま講師と)。 (けふ『奥の細道』使ふこと申渡し、レポート大分受取り、池内先生の本日野氏にたのみ、渡辺芳子へくやみ云ひなどせし)。かへり上六へゆけば明ちゃんに会ひ八木嬢へのわび状わたす。 「殆どねたきりにて背中いたみし」と。帰れば羽田老先生の手紙いただき「坊ちゃんの御縁談にて布施市金岡の山本家とりしらべよ」と。快諾。お返事し、 会社までゆきて金岡しらべれば長瀬近在らし。他に末吉、岩崎寿雄よりのハガキ。「けふ鶴橋-上六間にて挨拶せしは桐野五郎」と。 (杉山平一に『コルボウ詩集』与ふ)。(上六天池書房で佐伯好郎『支那基督教3(60)』買ふ。) 9月11日 登校。佐沢(※佐沢邦子)氏より『あめつち』(※短歌誌)貰ふ。2A教へて帰れば堀内(※古書店)来り、中島文庫見すれば「和書買値4万円、売値6万円か」とす。「洋書は4~5万円か」と。 寮長女子大のこといひ、コーヒー日野君にのましてもらひ別る。(きのふ中島夫人より電話あり「兄君に1、2万円わたしたればもう渡さぬやうに」と。けふも又電話ありしが中島夫人か)。 出て硲君にゆけば試験監督中。『東方学』置き市立病院へゆき春雄に礼いひ、けふもらひし同窓会の宝塚券(250)わたし、藤井寺にゆけば叔母留守。ひるねさしてもらふ中、久美子来り、 きけば「松尾三郎また乱行はじまり別れた」と。16:00出て硲君にゆき、すし御馳走となり夜学万葉やり文学史。本[容]れ、学生3名いいかげんにしてかへる。 (けふ津熊生ヒステリー起し2時間目ゐず。伊井生に金岡の案内可不可を父母にききくれるやうたのむ)。よべ22時まで自治会の委員長衣川、副委員長来り、 会社への批判せしゆゑ眠りがたし。帰れば大江叔母よりハガキ。 9月12日 登校。ひるすぎ硲君来り『東方学』の100預り「貸間の件たのむ」と。コーヒーのみて別るれば、中島夫人より電話「来週月火水の内に来よ」といひやる。三野女史、 彦根の短大にゆけばみな我をなつかしがりしと。長沖氏来り「中学部の女先生、一時国文に呼ぶはいかに」と。15:00まへ学長に中島文庫901冊のことにつき印押してもらひ、 それより教授会。20:30の講義にてやっとすみし。但しこの会より筆記三苫君となる。 けふ天野忠よりハガキ。服部英次郎氏「来週月火水の午后に」と。けふ『クレオパトラ』2枚かきし。「亀井、夜来て20:30まで待ちし」と。 9月13日 よべも睡眠不足なれど11:00京をつれてゆき子と3人市立病院へ。待ちゐる中、田村春雄に会ひ、礼いひ、きけばもう一回来よと。12:30すみて支那料理食ひ、 長瀬へゆけば金岡は弥刀駅のところと。その辺の同窓生訪ねしに東京へ転居せしと。伊藤賀祐の家(※布施市菱屋西106 のち岐阜大学)さがし当て、夫人にきけば心当たりなしと。 樟蔭にゆき安田章生に父兄への紹介の名刺もらひ、堀内にゆき奈良女子大に19日にゆくことをきめ(14:00近鉄奈良駅、中島の本、評判よかりしと)帰る。 大(※弟ひろし)の処女作のりし『フィガロ』(※演劇同人誌)、清水高範『ひたすらに静かに』贈らる。堀内で小林太市郎『王維の生涯と藝術(100)』借る。夜、またまた寮生借金に来る。 9月14日 9:00出て会社へ寄り父の組合きき、上六へ明子嬢に会ひにゆきしに来はせず。19日(水)のこと伝言たのみ父の組合へゆきまたされ、共同信託のこと教はり、ゆく途、 谷川に寄れば中村竹次郎に度々催促さるると。コーヒーのまされて共同信託にゆきしに不在。また上六へ出て昼食せんとすれば堀内民一来る。『白珠』の名誉同人のこといへば怒る。 何とか双書だめとなり原稿送りかへし来りしと。弥刀にゆき198の1藤田家にゆき夫人に案内され、結局坂本家の隣家へ行きて色々きき布施市役所へゆきし。小阪へ出、 山口実たづぬれば歌集の序詩かかされコーヒーおごらる。帰りて国文学史の予習すませ羽田先生へ手紙かきかけて自治会。西村らの病室泊めにて攻撃食ふ。 けふ祖国社より池内先生『満鮮史研究』著者寄贈一冊。「祖国」3冊来る。 9月15日 登校。2時間すませ12:00出てまっすぐに帰り、疲れて何もせず。夜も早々寝る。「日本歌人」来り、小高根二郎、わが恋歌は「アイロニカル」と。 竹村課長より弁当箱のことで警告あり、生活委員大塚に伝へる。 9月16日(日) 雨。一日家居。祖国社、川久保、山口実へハガキかく。川久保いよいよ弘前へ出発と。父より硲君の間すでにふさがったと。けふより「クレオパトラ」書き70枚。 9月17日 登校。高橋嬢白浜の写真呉る。みな同じなり。ひる食中、中島夫人来り奈良へ話すこと承知。売値10万円といひてくれと、ことわる。ひる食たべて長沖氏を訪ねしに学院と。 高等部へ追ひゆき水曜の教授会のことたのむ。帰れば羽田先生より礼状。中川郁雄君より同。けふ川久保へハガキ。河村先生へ「祖国」。 9月18日 登校。12:00講義すませ出て住高へゆけば硲君欠勤。山本君に部屋ふさがりしあやまりの伝言たのみ、タバコもらひ、藤井寺にゆけば德叔母と今川夫人と城平叔父と鼎談と。 逃げ出して藤井寺高校のそばへゆけば小雨。引上げて15:30学校へかへり「クレオパトラ」ちょっとやり日野君と夕食すませ、高等部サラリー出しとのことにて三苫君にきけば、 短大授業料出ぬゆゑいつのことやらわからずと。腹立ちて夜学すませて帰れば堀内より明日ゆけず、手を引くと。相馬実より軽快と。服部英次郎氏よりあす16:00来よと電報来あり。 万事みな都合あし。けふ『日韓関係』『日唐関係』『日本神話について』(70)アベノ百貨店で買ふ。 9月19日 9:30出て会社へゆき図書費もらふ。そのあと上六へゆきしも明子氏来ず[伝言]もせずと。12:30天理着。天ぷらうどん食ひて図書館、サラリーここも遅配と。 高橋と話し大浜君日曜にコルボオにゆきしときき、金井君に会ひ青柳嬢に八木嬢への伝言いひ、広田君とともに14:19発にのりて奈良。前川佐美雄に会へば、保田夫人ヒステリー、 保田は我よりなほ無能力者らし。 16:00女子大へゆき天野(※忠)君よりうどんおごられ、やがて服部英次郎氏に会ひて本(※中島栄次郎蔵書)一冊づつ値ぶみしてもらひ10万円余りとなる。 奈良では買へぬゆゑ(※前任の)名大に話しみんと。たのみて天野君と湖月にゆきしるこ奢り、小阪18:30のバスにて帰宅。 咲耶よりハガキ。安田君に礼状。(けふ会社より電話にて休講と教授会欠席とを云ふ。) 9月20日 7:30家を出、桜井に10:00まへつき保田家にゆき槌三郎翁(※與重郎父)にたのみ桜井高女(秋永氏教頭らし)、甲谷医院とまはり若夫人の話にてやっと端緒つかめ。 保田家にて昼食(三輪の池田君、ボロを出して東京へ引上げらし)。保田元気らしきにうれし。 14:58にのり丹波市。羽田先生に速達し、図書館。話し相手もなく館長にゆけば、地誌目録出すと。出て靴直し、大浜君さがし当てことはりて八木家へゆけば、父君すしたまひ、 父子の対病のちがひ云ふ。大浜君にゆき国文の後釜せおはされ、出て本通り下れば高橋、金井2君に会ひ、高橋家へゆきうどん食はされ19:49にのりて21:30家に帰る。 角川より本2冊。宮本君より手紙。(松村、萩原2部長やめ、広瀬、大橋、河村3部長)。祖国社よりわが手にて3冊注文在りしと。 9月21日 終日家居。9:00まで寝、12:00まで臥床。八木嬢より手紙。北海道の高梨嬢つまらずと云ひ来しと。倦怠期ならん。「アジア言語学報1」来る。 大阪国文談話会10月7日400で10時より女子大でと。相馬実へのハガキ。『新現実』の礼状西垣君へ。 9月22日 登校。1時間目にまにあひ文学史の予習す(太平記)。すみて俸給もらひ停車場で硲君に会ひ(鴎外430)、ともにアベノ橋にゆき大鉄で昼食、喫茶して別る(ラッキーストライク2ケもらふ)。 けふふしぎに郵便なし。(けふサラリーもらひしものこりなし)。 9月23日(日) 家居。末吉より10月7日同窓会いかにと。安田章生より、名誉同人も5、6席にのせるがいかにと。雲井より原稿早くと。保田槌三郎翁より小笹家のこと。 正午より今村労務部長の挨拶会。寮のこと何でも寮長の仕事と。「クレオパトラ」けふですみ。 9月24日 秋分の日と。きのふより風邪、一日臥床。岸生よりレポート。羽田先生よりお礼状、もうよしと。宮本君へハガキ。『コルボオ』へ詩2。羽田先生へ保田槌三郎氏の調査。 9月25日 雨、登校。きのふの八木嬢の神田先生レポート書き、けふは日本図書館史その他。守本文生、公立とちがふゆゑサラリーおくれるも止むを得ずと!則武生の落書見てアプレゲールを知るなどいやなこと多し。 漢文14:00すませ家へ帰れば八木嬢より「おさしず」。藤野君より「近代感覚論」。山口実より10月末出来る歌集の出版記念会などなど不快。風邪なほらず。鯨のビフテキ食へず。 けふ『東方学』の400送る。けふより「楊貴妃」かきはじむ。 9月26日 雨、登校。三野女史に不平いふ。相野へ会ひたしとの伝言たのむ。電話かかりしは明子女史ならんと思ひ上六へゆきしも会はず。帰りて「楊貴妃」かく。 徳永女史より岩崎らにからかはれしと。10月24日われ彦根にゆくと。あまり笑談いふなとハガキ書く。 9月27日 7:30家を出て丹波市へゆけば9:30。八木嬢にゆけば書いてくれよと。2つわたし図書館へゆき壽岳教授の分かく。金井君不景気なり。昼食、明子君もって来てくる。 15:00また八木家へ寄り、鈴木氏へゆき吉岡君に会ひして小阪へ18:30着。堀内に王維の代金わたして帰る。宮本正都より文童社へ交渉してくれと。 9月28日 岡本和子嬢結婚して竹村夫人となりしとのハガキ。14:00出て上六へゆき明子女史にレポートわたし、ぜんざいおごりバカ親切はこれで終りといふ。 天地書房で『ガリヤ戦記(30)』『寒山詩(30)』。けふより風邪ほぼよし。「楊貴妃」57枚。 9月29日 終日家居。「楊貴妃伝」121枚となる。〒なし。めずらし。 9月30日(日) 雨。藤野一雄よりハガキ。「徳永嬢よりいはれしが詩のモデルとせしおぼえなし」と。徳永嬢より手紙『戦後吟』のモデル扱ひにされしと。 服部英次郎氏より(※中島栄次郎蔵書の件)名大で受取るゆゑ15日までに送れと。末吉より同窓会月半ばにと。天理短大の上原氏より栄養の助手の待遇いかにと。 夜、亀井、初なりの芋もち来る。末吉好色と。帰してのち「楊貴妃」終る、200枚。 10月1日 登校。歴史の試験、出来ず。中島生、白浜の写真呉くる。日曜の国文談話会とやらの会費を学校より出してくれると。翻訳文学われにてはダメと。長沖氏助教授なりし。 昼食後、長沖氏を訪ねしも不在。古本屋見てかへる。大より角川へゆけば『四季』『コギト』送り呉ると。 『ハイネ[青春詩集]』印刷所にゆきありと。岩崎昭弥より近江詩人会にて杉本長夫氏、多喜さんと衝突すると。けふ「楊貴妃」送りしに75円送料と。 けふより「朝日」朝夕刊抱き合せとなる。けふ学校で長野敏一のハガキ受取る。 10月2日 登校。漢文教へ試験用のプリントかき、会計で中島文庫の金いつでも払ふときき、14:00出て奈良で45分まちバスで檪本。藤谷姑君に会ひ(中島未亡人帰って来ず、 帝塚山よりは17日に金支払ふとの便りありしと)、明日服部氏に会って話きめよといひ、また17:43にて奈良を経て帰宅。 八木嬢よりレポート27日までのびしと、唖然。浪華藝文会7日に関大で泊園文庫の展観と。安田章生より名誉同人の件。 多喜さんより「Poets’School」と14日の長浜での会、29日小林[英俊]君の茸山での会の案内。 10月3日 登校まへ徳庵で散髪。3時間目高校漢文。4時間目短大漢文試験。出来ず。コーヒーのみなどして時間つぶし15:00よりの教授会16:00より17:30まで。一向わが仕事なし。 英文教授出来ざりしらし。壽岳博士にあやまりて図書学の講義いれてもらふ。帰れば雲井より原稿受取の電報。埜中より『爐』に広告かけと。けふ安田、長野、八木3氏へハガキ。 10月4日 家居。岩崎寿雄、井上、岩崎昭弥にハガキ。面白からず。またMissionやり出す。 10月5日 朝の中に会社にゆきしも労務部長と入れちがひ、城平叔父に会ひて退社退寮多きをいふ。帰りてひるね。丸山薫氏より『小学生全集』のため詩をと。2篇送る。 安田章生より歌をと。4篇送る。中川郁雄よりハガキ。 10月6日 家居。よべ窮盗入りしと。原君まかせとなる。服部英次郎氏より藤谷母堂に会へざりしと。16日までに着くやうたのむ。運賃先に払ひてくれよと。その旨檪本(※中島遺族)へいひやる。 10月7日(日) 9:00家を出て女子大へゆき大阪国文談話会なるものに出る。野間光辰来り、犬養助教授来り、安田章生、吉永兄弟あり。料理食ひて14:00出、関大へゆく途、外山軍司、 小野勇2氏とともにゆく。武内義雄先生の話きき懇談会に2番目に指名され「仁丹」のこといふ。けふはじめて武内義雄先生に会ひし。『説文解字註』よめと。 かへり漢口にゐしロータリークラブの人と話し天六より帰る。父よりハガキ、歌3首。 10月8日 登校。2時間目3時間目のあひだ中島夫人と姑君来りしに会ふ。6万円もらひしと。5000円名古屋のへの運賃に預り、昼食まへ近所の運送屋にゆき見積らせれば1500円位でゆかんと。 教科教授法のノート採点すませ帰り来る。藤野君より『戦後吟』のこといひしは彼と、あやまり来る。『湖畔の声』(※雑誌)もらひ礼状かく。 10月9日 登校。運送屋来るといふに9:00より中島の洋書はこび出し荷造さす。午後授業すませ(けふ短大は女子大へゆきわが講義流れし)払ひにゆけば2000円。 12日中につくと。コーヒー一杯のみ疲れて困り全田へゆき夕食くはせてもらふ。純子縁談あり。肥下貧乏で困りをると。夜学すませて帰る。岩崎昭弥より手紙、 藤野君と徳子嬢の間を河村先生とゆきたると、よからん。 10月10日 登校。高校終へて来れば堀内、本もち来りコーヒーのまんと。向ひにゆきわれ金出せしが彼払ふ。(この時500をなくせし)。硲君来りしに『東方学1』を頒ち(100受取り)、 ピカソ展の招待状もらひ、共に出て乗車、彼北畠で降りるを入れちがひに山本重武のり来り、話しつつアベノ橋(コーヒーのおかげで昼食せず)。鶴橋より奈良行にのり500なくせしに気付き、 予定をかへて女子大へゆき服部教授をお宅に訪ね、運送費の受取お渡しし、話中はじめて先生大高でなく三高なりしを知る。わがあはて者にも呆れたり。お礼いひて引取り、 天野君と食堂にゆきて別れ、前川氏を訪ひ、嬢ちゃんつれて木原まで『世界●人名字典』かひにゆき(そのまへ木下杢太郎『日本吉利支丹史鈔(120)』、春夫『田園の悒鬱(60)』)、 小阪へ16:00つき、堀内に寄り落し金のこといはんとせしも夕食中で話せず、歴史地図3冊50で買ひて帰る。入れちがひに天野忠より「コルボオ」の通知。詩集3冊買へと。 百田宗治の会14日と。28日彦根の茸狩と。丸山氏より受取。河出よりまた写真送れと。 10月11日 終日家居。河出書房へは写真なしとことはる。『コルボオ27』来る。 10月12日 朝、会社へゆき今村部長の話きく、面白し。出て天満橋へにゆき『ウスリー探検記(50)』『芭蕉と去来(50)』『中央アジア史(70)』買ひ、大手前高校にゆき坪井と話して帰る。 天野忠より百田宗治の会のびしと。夜、衣川に今村部長との会見すすめし。 10月13日 登校。講義すましてすぐ藤井寺へゆく。叔母をさがし廻り、松尾の老先生も見しにこはき顔をしてゐし。叔母に会ひてきけば久美子この間家出(叔父叔母会議はそのためにして我偶然その日ゆき会はせしなり――18日)、 小豆島に十日ありしと。松尾三郎、会社の亜鉛50万円を拐帯、一部売飛ばせしもとりかへしと。洋裁にて一生たてさすゆゑと竹内女史に紹介たのまれる。二女、長は今川に、 次は松尾の姉夫婦に預くと。伊藤のとく女史来るとのことに待てば上京中なりし大江叔父も帰り来る。とく女史45才と。19:00出て帰る。 10月14日(日) 半日臥床。八木嬢よりハガキ。15:00ごろ丹羽千年へ京つれてゆく。小便かけらる。服部英次郎氏のこと云ふ。 10月15日 登校。颱風ひる頃まで吹く。すませて北畠の古本屋へ習字の本さがしにゆき酒井賢先生に呼びとめらる。職員室へゆき一寸話を伺ふ(『長秋詠藻(20)』)。 帰れば平凡社より「乾隆帝」の催促。野田又夫君へ報告のハガキかく。 10月16日 登校。教科教授に「図書館」やり、ひるすぎになりて竹内女史つかまへ久美子のことたのめば「木曜来させよ」と。14:00すみて帝塚山書店(木村)に寄り、この間の運送屋紹介の礼いひ、 書道の本きけば「なし」と。アベノ百貨店で見付け(阪正臣集130)『吾妻鏡(150)』『ルーヴル美術館(100)』買ひして大江へゆく。久美子の下の子の話ききて哀れなり。 今川へ木曜のこといひにゆき久美子にPhilip Morris1箱もらひ、夜学すませ日野君とともに帰る。長谷川英子より横浜にありとハガキ。『詩人学校10月号』来る。亀井母子来りすし呉れ、 嫁もらふため就職必要と。 10月17日 登校。昼休みに硲君来り、コーヒーおごりくる。ともに出て藤岡『近世絵画史(60)』、鈴木『上海(30)』買ふ。長沖氏るす。また書店で『リーダーズダイジェスト』20冊買ひ教授会。すまして帰る。 川久保より弘前につきしと。藤野一雄よりハガキ。『不二』『日本歌人』。夕方、吉川仁の友達にて四条畷中学の先生といふ人、仁の詩集『陸』もち来り、話さず帰る。 この二日、停電なきもしばらくのことと。けふ新聞で丸才司死亡を見る。55才と。 10月18日 「乾隆帝」書き、真野喜惣治のハガキと日本詩人会の入会問合せのハガキ受取りしところへ亀井来り、昼食食ふ。ともに出て会社に寄り、 山口栄一の米代のことにて腹立て、亀井宅へゆきて母親に会ひ、別れて帰る。 10月19日 ひるまへ会社にゆき城平叔父に会へば久美子、竹内先生に入門せし様子。ゆき子、京と小学校の運動会にゆく。けふ「乾隆帝」かき終へて送る。近江詩人会より病気見舞の寄せ書。 日本詩人クラブ会費とるとわかり断り書く。 10月20日 登校。面白からず。日野氏にきこえるやうに話す。13:00龍神の伊藤家へゆき本見る。『五雑組』『心史』ありしが面白し。書目みつけ、すし振舞はれ27日また古本屋つれて来るを約し、 帝塚山書店へ寄れば主人ゐず。雨降り出ししを帰る。八木嬢よりハガキ。天理図書館より展覧会の案内。中野英夫より京都の西田家にゆきしとのハガキ。彦根より転送。 10月21日(日) 15:00散歩に出、亀井に会ふ。中西義章に火曜診察うけ、はっきりした診断うけしと喜ぶ。コーヒーおごり呉れし。これにて気がかはり枚方の松井信子を訪ぬ。 (京橋で『リーダーズダイジェスト』7冊買ふ)。風邪ひきしとて在宅。八木嬢に下阪せよといふと。枚方で彦坂嬢とあひ、すしおごりて帰る。 10月22日 登校。「ユーゴー」へより『グウルモン詩集』と『ジャム詩集』買ふ。なつかし。上町線の3ヶ月定期買ふ。「かもめ書店」で『鴎外全集5回』受取り、庄野未亡人と潤三のこと話す。 堀内進来りて金受取り、会はずして去る。帝塚山書店で土曜のこときめ(2時待合せ)、職員会に出て35周年の催しの手筈あくびしつつ聞く。岩崎寿恵雄よりハガキ。大江叔母より久美子のことハガキ。 10月23日 登校。雨。ひるすませて夜学まで傘なければ教授室にとどまる。 10月24日 晴、登校。図書室に本150にて引取ってもらふ。午後教授会。西垣(※脩)君に11月学長会はんと。八木明ちゃんより電話、八木嬢血沈高く、11月3日下阪、田村博士にたのむとなり。 「くれなゐ」60号やっと出来。徳永昭子嬢26日夕方来るやもしれずと。川久保より昭和13年に見せし原稿送り返し来る。スローモーションの好き例なり。 10月25日 終日家居。史、四国への修学旅行とて夕方出発。「くれなゐ」のため「詩と歌と」3枚かき歌6首うつす。中村竹次郎より「朝日」の様子しらせと、返事かく。久美子より礼状。 衣川呼べば会社や労務部長への不満いふ。 10月26日 8:30家を出、中村竹次郎へ速達し、会社へゆく。城平叔父上京中と。康平叔父と話す。原君の悪口いふ。原君のことで庶務課長からかひ図書費もらひて3日運動会とのこときき帰る。 東方学会より2日東京日大で第1回総会とて出欠きき来る。藤谷絹枝氏より3000の受取。服部先生より連絡なしと。徳永君より速達にて「けふ来られず」と。 田中禎子氏より日曜に川崎健史君来訪と。すぐ地図かきてハガキす。運動会のこと問題となり城平叔父を諌止せんとす。 10月27日 登校。文学史西鶴で赤出す。日記帖忘れ西保嬢に歌もらひしのみ。木村書店きのふ伊藤にゆき本見、29日再びゆく約束せしと。硲君、 美術館へと誘ひに来しがことわり藤井寺にゆけば4叔母集りをり、運動会のこと云へば城平叔父きかざらんと。父の月給3000増ししゆゑやらずとよしと。 1日の35周年式の礼服のこといへば初枝叔母呉る。大江叔母はYシャツ他、康平叔父の靴きめ叔母きき見んと。3人の子ある2号と別れしと。よきことばかり也。 帰りてけさ盗難ありし始末を清田よりきく。父、増給いはす、3000とりゆきしと。川崎君より今夜来ると電報。川久保より池内先生の本のこと。 川崎君2時間あまりたづね廻って20:00すぎに来り、外へ誘ひ出す。きけば天理へ11月18日、陛下行幸につきその映画とらしてもらひたしと也。 10月28日(日) 起きて鈴木治氏へ紹介状かき、ともに出て小阪で別れ山口実にゆけば「くれなゐ」締切月末と。原稿預け永和の中西義章を訪ふ。満州より引揚げの記念日とて在宅。 手ぶらにてゆきしも行届いたもてなし受け17:00ごろまで7時間ゐて「神の使命」をきいて別る。幸せなる一本道の男なり。大阪一の結核医なるらし。中村竹次郎より礼状。 10月29日 国鉄定期1ヶ月分買って登校。すませば電話かかり、とく女史より来てくれと。つづいて八木明ちゃんより田村博士のこと問合せ、早く来よといひやる。 14:00ごろ龍神へゆき本を2階より下せしも木村来ず。うなぎと吸物と龍神廓内で御馳走になり帰り、木村により明日14:30ごろ来よといふ。 けふ『ルバイヤット(50)』買ふ。熊沢君と西垣修君(※西垣脩)のこと相談。真野喜惣治君へハガキ。川久保へ池内先生の本の案内。 10月30日 登校。運動会予行で高校なし。教育の時間、小島生たしなめて心配となる。14:00ゆきて古書整理。とく中々人を信じぬやうな[の]を知る。木村翁、結局売立てをやってくれることとなる。 林叔母を訪ねて夜学。藤野一雄就職と。守屋美都雄より下阪の挨拶。鈴木治氏より川崎君を紹介してくれしと。『東洋史研究』。大江叔母より「けふ明日の中に来よ」と電話ありしと。 10月31日 登校。高校なし。小島生漢文のプリントもちて欠席ゆゑ、親友引地生呼んでたのむ。西垣君への学長の手紙作り見せ、硲君と出て京都の会のことわりたのみ、藤井寺へゆき、靴、 大江の叔父より、間服、冬服、モーニング、ズボンもらひてのち今川へゆけば叔父まだ帰らず。間オーバーもらひて帰る。大江の叔母の話にては伊藤の叔母狂ひ、わが母、 後妻の祖母を呼び捨てせしと。小高根より河出へわが写真送りしと。埜中君より原稿受取。 11月1日 運動会とて叔父のモーニング、合オーバーにてゆく。君が代、国旗掲揚などあり式辞祝辞長くいやなり。職員の宴も不快。市立病院にゆけば田村春雄退出。けふ中川郁雄よりハガキ。 服部英次郎氏より中島の本の受取。八木君より3、4日に来んと。安藤真澄より3日百田宗治氏、依田君宅へ見えると(けふより運賃、郵便値上げ)。薬師寺衛母堂より本4冊とネクタイ贈らる。 11月2日 会社へゆき大江氏に中西君への紹介状書き重役会とて叔父に会へず。門外にて父に会ひ、鴻池新田にゆき守屋君訪ひしに留守。歓迎会のことわり夫人にいひ、帰りて無為。中野英夫学校へ電話せしと京都より。 午後、雨時々。八木あき子来るかと思ひしに来ず。けふ中島の本のこと藤谷絹枝氏に。 11月3日 けふ運動会なれど雨時々降るゆゑ家居。真野君より来ずと。会社の運動会とて総務部長以下働く。森君来りて原君わがことを間諜といふと。 11月4日(日) 会社の運動会、朝より受付。10:00すぎ八木君来る。田村博士ゐざらむとて待たす。15:00(※結核診断検査)すむ。 (岩佐東一郎、井上多喜三郎寄書。岩崎昭弥のハガキ。)15:30出て田村邸にゆけば帰らず。19:00まで待ちてあきらめ木曜再下阪を約して別る。 11月5日 登校。1時限終へれば服部(※正己)より電話ありしと。2限終へれば来り待つ。ともに出てうどん食はせ田辺の中山宅までゆき夫人の妹と話し、又出て大手前にゆく。 石山君に聞けば中西昼食ごろがよからんと。坪井の家にゆき二人将棋。坪井を負かせし。夕食よばれ片町よりバスにて家へつれ帰りしが泊らず。けふ〒なし。 11月6日 モーニング着て登校。生徒わらふ。太宰博士に聞けばこの間なぐりあひありしと。あとで聞けば三苫君がたたきしと。追悼会で父兄代表の話●中絶、泣きゐるを見てわれも涙もよほす。 すみて時間つぶしに全田へゆく。肥下の父死にたまひしと。すみ子の縁談、阪大のドイツ文学助手ときまり、仲人は吉井市立図書館長と。伊藤の荷物預けを山口義一宅にたのみ見んと。 英文学双書売るゆゑ世話たのむと。帰りて夜学まへにきけば13日文部省より視察来ると。 2時限2名のみゆゑやめて帰る。八木氏より礼状。安田章生氏より歌十日までにと。(けふ羽倉よりクビになりしと。守屋美都雄留守中来しと。) 11月7日 登校。大江叔母へ礼状。安田章生へ歌十首。午後長沖氏司会で文芸講演会、すみて会食。山本理事長、吉村、壽岳、長野氏ら7名、いやなり。全田の英文学双書を借りることとなりし模様。 川崎健史より天理には映写技師ゐてだめなりしと。藤野一雄より徳永女史のこと。『現代詩大系9』見しと。 11月8日 8:30梅田、桜橋まで歩き春日出車庫行にのり、暁明館病院にゆく。中西君に10:00ごろ来る。懇切に見て呉れしと。昼食ともにし、別れて山本治雄を訪ねしも不在。 天野忠よりコルボオに来いと。彦根市役所より本日までに税金出せと。夜、労務部長の話。 11月9日 天野忠へゆけずとのハガキ。終日家居。学院より毎日来よと速達。藤谷絹枝氏より礼状。放送文化研究所より問合せ。川崎健史へハガキ。 11月10日 図書館守本氏あひかはらず不愉快。全田の本、167冊借りて来て成駒屋に運ばす。留守にとく女史来りしと。古本屋にゆけば明日3000円余わたすと。 中西に電話すれば気胸せんまへに今一度診察したしと。金曜10時に来よとハガキ書く。けふ〒なし。 11月11日(日) 登学。守本氏に会ひしのみ。11:00高野線にて上野芝田村邸へゆけば、身体不具者更生所長となりしと。職業主任のこと工業学校へ話すこと承知して帰る。 途中今川へゆき久美子に会ひ、再来週より月水2日英語教ふることとなる。 11月12日 出勤。明日の準備でゴタゴタす。三野女史高校の齋藤婆さんと喧嘩し、やめるといふ。伊藤とく女史より電話、木村書店よりまだ金もらはずと。我、雨中をゆきて4950円預かる。 工芸学校の笠井君に電話し、田村君の話す。けふ「かもめ」で『現代詩大系9』見せてもらふ。彦根の茸狩りの写真と「西康省」と「花の便り」の二篇のる。 11月13日 文部省の学科増設検査とて8:45登校。9:00すぎ安倍能成、園西京大学学長正●、糸魚川和歌山大学学長、関口曽門学務局長来校。案内し会食す。英語教員と書類とに不備いはれしのみ。 よかりしならん。関口氏はシボルガ(※スマトラ)に居られしと(タバヌリ州長官?)。すみて日野月先生を教授にといひ、よからんとなり。 藤井寺にゆく。天理の仕事その他にてお約束なしと。大江で飯よばれ夜学。「今夜先生出来わるし」となり。とく来り、4950わたす。不満さうなり。 帰れば天野忠より480納めよと『コルボオ28』。山前より『シェリー』30冊。岩崎より『現代詩大系』見しと。 11月14日 登校。高校では思ひ出話す。午後、西保嬢にさそはれ『立春』の同人加藤夫人といふに会ひにゆく。見原文月より「神の如き恋歌作り」と紹介されゐしと也。 すみて帰り徳永嬢の手紙を見、笠井、徳永、岩崎、末吉(24日午後会せんと)へハガキかき寝る。 11月15日 会社へゆき、城平叔父に赤(※共産党員)なきやきかる。賄婦の増員たのむ。学校へゆき石浜先生に久しぶりにお会ひす。森繁夫蔵書買はぬかと。長沖氏つかまへ日野月先生のこと云ふ。 コーヒーのみして待ち、15:00より高校PTAの役員会。則武、前野、堀内生の母親などありし。夕方雨となりて帰り来る。鈴木治氏より「失業4ヶ月苦し」と。 11月16日 9:00家を出て上六、梅田まで市電。『ジーキルとハイド』よみゐたれば午すぎ。昼食して16:00山本治雄を訪ね、誘はれて吹田までゆき夕食すき焼食ふ。21:00まへ帰宅。西垣修(※西垣脩)より『三角帽子』2冊。 革命のあかつきはよき法官とならんといへる友と酒のむ。 肺の中空気入れむと医の膝にすがりしといふそれもねたまし。 11月17日 登校。西垣修(※西垣脩)より院長あて手紙。熊沢君開封すればことわり也。月給出ず。京大出の熊沢、岩崎、長沖三氏の名簿作り。藤井寺にゆき大江叔母より1500借用。 今川へ一寸寄り、坪井にゆき名簿わたして帰る。『現代詩大系』第9巻、『不二57』来り、硲君よりハガキ。羽倉の講演19日15:30よりと。 11月18日(日) 終日家居。蜻蛉会(※今中教へ子による同窓会)24日と案内来る。夜、原口遊びに来る。西村に『現代詩大系』貸し図書のことにて来りし魚住と話す。洋服屋来て4人に売りしと。 われにあふ外套なく、また来ると。 11月19日 登校。月給出ず。院長に云はんとせしもだめ。市川女史のことのみ云ひ、西垣君のこと聞きて別る。住高に寄り羽倉君話すみて硲君の家にゆくときき、 今川にゆき(14:30)英語教へて17:00出、佐藤春夫『窓ひらく(20)』買ひ、硲君にゆき退職と就職のこと話し、阿倍野橋にて別れて帰る。 11月20日 2Cの授業を第1限にかへてもらひ8:30登校。ついで2A。短大教科教育法をすませ12:30上六にゆく。サラリー出ず面白からず。(※八木嬢と)松竹映画見てわかる。土曜会はずと。 怒りて夜学にゆき守本氏に日野月先生への就職いひ『鴎外全集6』とりにゆき、かもめ書店主、川端氏(直太郎教授のいとこ)と話し今中と。今の勤め先に西野半三氏ありと。 『不二』より原稿のこと。 11月21日 登校。漢文のみ。午すぎ人来ると電話あり。放送局より26日までに「私のふるさと」を2枚半と。(けふ『不二』へ大正天皇の漢詩については書けずと断りす)。 長沖氏来りしゆゑ日野月先生へ明日ゆくことをきむ。16:00まで待ちしも院長あかず。帰り英語の教科書さがして見つからず。『アラビアンナイト1、2』と『魏志倭人伝(40)』買ひ、 今川で1時間やって帰る。竹内好より23日17:30大阪着と。藤野君より徳永嬢にふられしと。『白珠』12月号。 11月22日 登校。石浜先生と話し歴史すませてまた話し、長沖氏と会ひ、午、院長に会ひて専任科と4時間位とのこと約し、出んとすれば大浜、吉井の2君来る。 ともに電車にのり来週金曜にゆくことを大浜君に約して藤井寺。日野月先生中々うんと云はれざりしも出がけに承諾書よからんと云はれ、大江を敲きしも無人。帰る。 宇田良子氏より寄せ書。けふ長沖氏ウイスキ(1250)1瓶さげゆきし。 11月23日 雨、9:00出て会社へゆきしも話し相手なく不景気話耳にして出、10:30大手前会館にゆき京大クラブ、教育長、教育委員(水川氏と)、高校長らの話きかさる。八田英次に会ひ相野に会ふ。 竹内のこといひ11:00●愛病院に西田哲見舞ふ。手術杜撰なり。玉井をさがせば茨木分院へ転ぜしと。出て大手前へとって帰し坪井宅へゆき、3人にて梅田。谷川新之輔も来り、 竹内(※好)17:43に来しを迎へ、お初天神の朝鮮人の店にて酒のみ、竹内の恋人といふをさがしにゆき3時間かかりて見つければ男と帰り来しにて竹内の連れ出しを吾にたのむ。 きかざればのこして坪井とタクシー。片町まで360円 11月24日 出がけに見れば『和田先生論叢』出来。1470送れと。国文学史やり暁明館へ電話すれば込むと。日野月先生へゆけと書類預り13:00上六。あきらめし所へ14:30みよ来り、昼食。 『サビエル書簡集2冊(160)』買はせコーヒーおごり、生駒まで乗り腹立てて別る。 ある時は我をにくしみあるときはさげすむといふ恋の終か。 17:30すぎ蜻蛉会にゆく。[平]石芳太郎氏も来会。末吉、亀井、加賀山の外、速水、橋本(重役と。歌旨し)、荒井、高橋、服部の8人。21:00出て帰る。13年ぶりの会[ひ]なりし。 (※写真あり) 11月25日(日) 朝の中は西村来り、カナダの姉のもとへ行くべきや否たづぬ。小高根二郎よりハガキ。中河与一の追放解除祝賀会にゆきコギトの再興をのぞまれしと。午すぎ西村とアベノ橋まで出て別れ、 目ざし買ひて藤井寺、城平叔父あり「5、600万円貸しくるる人なきや」と。久美子とかつ子叔母と合はず困るをお艶叔母に云ひに来しと。康平叔父夫婦もあり。 日野月先生にゆけば我あてのハガキ投入して帰り来られ「考へ直してことわる、すまぬ」とのことなりし。色々話し、叔母とも話し夕食くひて帰る。放送原稿かけず。いやなり。 11月26日 よべ3:00にかきし原稿を10:00ごろ放送局へもちゆきしに藤本万里氏ゐず。佐々木英之助氏は文芸課長なりと。受付へ預け登校。 日野月先生のこと守本氏にいひするところへ電話かかり今夜放送すと。(長沖氏は来がけにことわる)。日野氏より全田の本、院長45000でならと云ひしと。全田へゆけば純子に相談して見んと。 純子の婚約者は関大一高の独乙語の先生と。ふしぎ。今川へゆき久美子に説教すれば叔父叔母も古すぎたり。信州長沼静人より詩集『外景』。 11月27日 登校。寒し。よべ放送あり。二、三人聞きしと。夕方かもめにて『マイヤア詩集』と『デカメロン』買ひ、隣のコーヒー屋にゆけば高3林ら3人ゐてPTAの会にて林の母にわれ一生忘れずと云ひしと。 夜学2時間目池田1人、話して帰る。金井君より手紙。どこやらに口ありし様子、体わるしと。 11月28日 登校。寒ければ冬服に合オーバー。短大の漢文すませ上六。(※八木嬢)2年位かかると覚悟せしが哀れなり。茂吉『源実朝(80)』、鈴木成高『ランケと世界史学(10)』。 羽仁『ミケルアンジェロ(30)』買ひ、コーヒーのみ、鶴橋より今川、帰れば竹内より手紙。この間のこと(※昔の恋人のこと)ハガキにかくなと。 けふ授業中に●本眞理子氏来り1000と原稿写しおきゆきくれし。 11月29日 登校。冬オーバー。石浜先生と話しあす養徳社へ記念論叢の原稿たしかめに参ることを約束しまいらす。長沖氏に日野月先生の手紙見せ学部の打合せ。日野君より4万円受取り全田へもちゆき、 ナンバへ出れば創元社の売店なし。『アラビアンナイト4』買ひて帰宅。梅原糸子氏より長き手紙。本の始末のことと家追去のこと。 11月30日 会社へゆけば寮費400円値上のことなど同席ささる。図書費11月分もらひ11:00天理へゆく。先づ養徳社へゆき上田専務にきけばわからず。吉岡君までゆき(工員となる)わからず。 うどん食ひ図書館へゆくみち上田氏追ひ来りありしと。大浜君に会へば講義中にて喜志氏よしと。図書館にて稀書目録と[天覧]目録もらひ、石浜先生と山崎君より羊羹もらひ、 やめてもらひたがられてをる新城君と出てまた養徳社。吉永登氏に連絡たのみ、金井君にゆけば途中、森[忠巳]氏来り、岡島に追ひ出されし。管長派と反管長派とありと。 金井君岡山の短大への同意書に富永(※図書館長)印をくせざれしと、哀れなり。 帰れば服部英次郎氏より2、3、4日の中に金とりに来よと。『詩人学校』『祖国』来をり。 12月1日 出勤。鍋井克之画伯のた新円の税ありと。校門を出れば硲君来り、ともにコーヒーのみ、古本屋まはり東天下茶屋にて別れ「サンデー毎日」と『小島の春』とを見舞にもちて警察病院。 桃谷まで歩きて帰る。山前君より500の受取。風呂へ入れば陽生来る。大阪へ金借りに来しと、不快なり。酒2合とすし食ひて諏訪の森へと去る。昨日けふ電気ストにて停電しばし。 12月2日(日) 家居。風邪ぎみ。竹内より『現代中国論』5冊。武田豊より『晴着』、西垣修(※西垣脩)よりハガキ。藤野一雄、梅原糸子、長沼静人、小高根二郎へハガキ。夜、徳庵の不良との出入につき鳥飼、衣川、魚住と話す。 12月3日 出勤。守本氏相変らず来年の時間割作り、不快なり。午早々に出て上六。シロコゴロフ(80)、『上田秋成集(60)』『父親としてのゲーテ(20)』買ひし、14:00までうろつき15:00今川。 教へて帰れば18:30。天野忠よりコルボオ会費2ヶ月請求。 冬空をみつめてあれば風吹けり生きてこひする身のかなしさは。けふ竹内へハガキ。 12月4日 出勤。午後高校行事。古本屋にゆきルナン『イエス伝』『イエイツ詩抄』羽仁『都市』などにて100。夜学の帰り雲吞くひて帰宅21:30。〒なし。 あやふやの約束をしてあひびきに会はざりしなをあはれとばかり。 12月5日 出勤。三野女史に相野へと竹内の本1冊たのむ。15:00より教授会。日野月先生●●一度たのむこととなり壽岳博士ゆかる。この日学長わがままとていやになりそむ。 明日私鉄ストあらば休校と。今川へゆき19:30帰宅。 12月6日 出勤。きのふ壽岳博士へ日野月先生10日まで待てと云はれしと、気の毒なり。石浜先生と話し花柳ユーコー(※花柳有洸)女史より黄鶴楼のことしらべよと云はれ、午まへ学校を出て大手前。 坪井に竹内の本わたせばひる食御馳走となる。朝日の谷川に行かんとせしがバス来りしゆゑ帰宅。八木嬢より手紙。図書館の誰やら同士結婚せしと。 岩崎昭弥より藤野君と徳富嬢とうまく行かずと。けふより風呂自弁にてたく。 12月7日 晴、暖し。藤野君よりハガキ。梅原糸子氏より家追ひ立てたれの手紙。午後出て会社へゆけば寮の賄を寮長雇ひにかへると専務の話。放出中学へゆき田中校長の話ききPTAの350、 年末までにお払ひをとの話きき、担任尾谷先生に会へば全校4番ゆゑ大手前受けてよしと。 12月8日 朝、雷雨。登校。漢文の高校試験問題出雲氏にわたし、入学案内原稿のことにて守本氏と相談すませ12:30出て上六。 なにゆゑの泪と知らず泣き過ぎて頭いたむと世なれは別れし。 陽生より帰京挨拶。埜中君より歌をと。悠紀子に宮本夫人より。夜、近松を3時まで読む。 12月9日(日) 晴、10:00ごろ守屋美都雄君来り話しゆく。天理の●井廣徳とは同窓と。編書目録2冊を贈る。13:30ごろ徳永昭子嬢来り、藤野君にはゆく気なしと。16:30ごろ止むるをきかず帰りゆく。 けふ和田先生還暦記念論叢の抜刷。日野月先生よりお手紙。山形より断りゆゑ止むを得ず名を貸すと。 12月10日 出勤。大学案内の編輯にとりかかる。日野月先生へ礼状かき三苫君に托す。学長と守本、中田、二教授をまじへ臨時教授会を大鉄のはたで16:30までやり今川。 主としてマミ子を教ふ(へちまを持参)。竹内好より(※預かった著書)保田にやりてよしとハガキ。 12月11日 出勤。12:30出て長沖氏にゆけば3日間不在と。藤井寺にゆき、お艶叔母より陽生のこと、久美子のことなどきき、今川への歳暮にと食用油もらひ夕食よばれて帰校。 夜学、2年は池田一人とてやめ月給もらひて帰宅。『コルボー29』藤谷絹枝氏より5万円受取ったと。けふ久美子に『椿姫(110)』買ふ。けふ留守中、多喜さん来しもよう。 12月12日 出勤。登校の諸先生つかまへ教授内容をかいてもらひ(よべ京、弓子吐瀉にて睡眠不足)。コーヒーのみて元気づけ、散髪にゆきしも教授会16:00まで待たされ、他よりの編入に反対し、 今川にゆけば18:00。マミ子を教へ、すしよばれ、帰りし叔父より歳暮の礼いはれ、自動車にのせてもらって帰宅。 けふ和田先生論叢の1470(カハセ料40、カキトメ45)送り、保田に竹内の本送る。 12月13日 登校。歴史やり石浜先生に抜刷さし上げ、長沖氏と話せばさっぱりわからず。教授内容問合せのプリントに書込みしをへ、米田君よりの電話きいて出る。 今里の埜中清市へゆけば『天雲』出来しを明日もち来る筈なりしと。会費400+西保100わたして帰る。徳永昭子より手紙。下[元]武より解職通知受けしと。 天野忠よりコルボオ1月5日15時より荒木二三宅にてと。けふ春夫先生の『国文学入門』と津村『戸隠の絵本(20)』今里で買ふ。 12月14日 10:00家を出て会社。賄人どもをわが雇用契約とする話、食費値上に寮生反対せしと。12月分図書券1000もらひ帝塚山。小野十三郎に『天雲』わたし、越智生の詩作る話きき、 守本氏と学科の打合せし院長に専任一をとるか然らずば講師とのこといひ過労ことわる。漢文の採点出雲氏にたのみヘンになり、出て田村春雄にゆく。笠井君へは来年正月にと。 出てコーヒーのみ、岩波文庫『キプリング(35)』『十六夜日記(25)』、辻『信長、秀吉、家康(60)』『ファウスト(160)』買ひて帰宅。川久保より池内先生『満鮮上代史』買ひしと。 12月15日 登校。今年最後の授業といひわたし、高校にゆきて漢文の採点。出来わるし。帰り来れば『和田先生論叢』つきあり、うれし。二嬢を幼くして失ひしと。御経歴のところ●し。 12月16日(日) けふも寒し。入浴。賄にわが雇入となると申渡す。吉村われもこはしと。けふ終日採点。 サザンクロス早く傾くよひよひをやもり啼く音をききて眠りし。 追はれつつなほ汝をこひて星あかきマラッカ海峡わたり終へつる。 12月17日 悪日。『Variétés sinologiques(60)』風呂敷につつみて出、天王寺で上町線にのりて(※紛失に)気付き、天王寺駅でききしがなく、旧の電車にのり、 梅田までゆき中老の人に風呂敷包●たるをもてるにきけば怒りて中見す。あやまりて京バシにゆき、片町線きき合せてもらひしもなし。天王寺の案内所にもたのみて登校。 レポート帰しゐる中、服部来る。関大と京大にてきまりしと。ともに丸善までゆき新世界へゆきて喫茶。別れて今川へゆく。水曜にて年内やめんと。けふ歴史大辞典の稿料2100円彦根へ来る。 (服部を石浜先生へ案内せしも予期通りお留守)。夜、あれこれ考へて眠れず。 12月18日 登校。2A漢文話をし2C切るといひ、レポート返してのち梅田へゆき問―ど遺失物なしと。待合室二ケ所に分かれてムダ待1時間。14:00頃会ひて道頓堀にゆき八木君にまむし食はせ、 南海高島屋にゆきコーヒーのみ乍ら本のこといへば心配いらずと(富松桜井教会長夫人に会ひし)。上六へ出てまたコーヒーのみ、石切●で送りしが、心配しゐざるに感心す。 12月19日 登校。暖し。入学案内書作り、教授会待ちしがお流れ。16:00出て今川にゆけば久美子、佐竹嬢と仲悪く、ここまで一切知れゐるに憤慨す。今年の英語終へ、 帰れば竹村氏より食費の件につき手紙。藤野君より正月遊びに来ると。山前君より5日に来てくれと。宮本正都より大阪へ来りしと。 12月20日 登校まへ会社へゆく。城平叔父こわき顔しゐる。出て学校。石浜先生に服部のこといへばよしと。『Variétés sinologiques』臨川にありと。1月2日藤沢桓夫の新年宴会と。 例の仕事やり14:30出る(土井生に大江への久美子の手紙托す)。警察病院へ西田を見舞にゆけば28、29日頃退院と(『アッシャ家の没落』見舞にやる)。 京橋駅へゆきてきき合せてもらひしも出ずと。けふ『白珠』1月号。徳永嬢よりハガキ。井上多喜三郎のハガキ来る。(大鉄にて『印度案内(150)』買ふ)。 12月21日 登校。提要●どつきしゆゑせず。日野君より2000もらひ全田へ昼食後もちゆき受取もらひ200借る。婿、関高の独乙語教師片山君なりしと。十合で『滑稽本集(120)』買ひ、北浜へゆく。 高橋先生の支那民譚の話。すみて森鹿三、入矢義高らの顔の外に篠田統先生あり。同車に守屋、岡崎(和田先生より守屋君ききたりと)2君を入れすき焼き。19:00退席。 八木嬢よりわが紛失せし部分のみ②ならずと。夜ふけまで眠れず。 12月22日 雨、悠紀子わが浪費を咎めて不快。15:00すぎ会社へゆく。不景気さうなり。藤井寺へ電話すれば久美子の手紙つきしと。オーバー、昌三叔父の古ありと。 16:30ごろ帰宅。夜、藤野、徳永、下元諸君へハガキ。 12月23日(日) 晴。10:00すぎ丹羽家にゆき信子女史にきけば近鉄車輌は賄婦なしと。鴻池新田まで乗車、守屋美都雄に会ひぜんざい御馳走になり、桑田博士へ抜刷托す。 わが阪大へ定まりゐしこと承知しゐしと。帰りて弘瀬より病気再発のため無断帰郷のわび状見、原課長にいひにゆき風呂に入れば硲君タバコもちて来訪。夕食ともにして送り出す。 けふ宮本正都、武田豊へ便りかく。 12月24日 会社へ10:00ゆく。城平叔父八つ当りす。賄[鯖魚]を竹森課長にいへば直ぐ云へと。やめて給料改正につき叔父に責任もってもらふこととし、出て帝塚山。長沖、小野2君もの云はず。 何かありしか?ボーナスもらひあけても見ず、忘年会。来年ベース上げについては教育で報いよとお説教あり。われは可笑かりし。中途であけ見れば短大はPTAなく17960のみ(1ヶ月分)。 出て梅田にゆき、もらひし弁当食ひ、アベノ橋へ引返しコーヒーのみ、わんたん食ひて別る。 貧しき父もちし子どもにサンタクロースとなれよと云ひてなれをばやりつ。 帰れば末吉より写真、面白くうつりゐる。弘瀬父より途方にくれゐると。けふ史、悠紀子をつかまへてブーブー云ひしと、をかし。 12月25日 朝、会社へゆき由良の日給ついに130円として申請。今月のサラリー28日頃と。学校へ寄り守本氏にシロコゴロフ(※訳書『北方ツングースの社会構成』)で感心され、 硲君にゆき東洋史の名簿もらひ北畠の古本屋でBohnenの『神皇正統記(70)』、ラッパポート『社会進化と婦人の地位(30)』、松崎鶴雄『柔父随筆(45)』買ひして停留所まで送られて帰る。 けふモーニングとりかへよと近藤運転手手伝ひに来りしも、ゆき子高島屋へ買物にゆき明白のこととなりしと。 12月26日 雨。家居ときめてゐれば岩崎昭弥よりハガキ。神保わがこと『現代詩辞典』にかきゐると。保田、近畿行幸の資料集めゐると。正月2日来ると。午すぎ一寸雨やみし故、京都へゆくこととし、 モーニング会社へもちゆく悠紀子と前後して出、13:25京橋発急行、臨川へゆけば『Variétés sinologiques』2年まへに東京の松村書店に売りしと。 『高麗史(450)』とLatourette『The development of China(200)』買ひて東方文化へゆけば藤枝ゐず。入矢君としばらく話し16:00出て東洋史研究室にゆけば佐伯氏あり。 話して羽田三高にゐるとて電話すれば来る。『李朝実録鈔』と『中国史学入門』とくれ『羽田博士論叢(1200)』頒けてもらひ東洋史研究の代金として300おき、 ともに田村博士に寄[りてぶり]村上嘉実邸にゆく。やがて内田智雄、重沢俊[郞]、田村実造の3先生もお越し、引留められて酒3杯と御馳走よばれ、 研究所へゆけば藤枝まだ帰らず入矢氏に風呂敷もらひ本包む中藤枝帰り『東洋学報』3冊わけてもらふ。『Variétés sinologiques』は彼も彼もありか知らずと。 (羽田は大阪の華僑でもちゐるを知る故、紹介せんと)。20:30出て京阪へゆき、支那そばくひ21:00発の急行にのり京橋より22:01にのりて帰宅。けふ『世界歴史辞典』へ受取出す。 入れちがひに聖祖かけと(1月31日しめ切)。 12月27日 ひるすぎ亀井来る。(洋菓子もち来りしゆゑ石鹸やる)。ともに出て会社へゆき明日サラリーボーナスとりに来よと聞き、藤井寺。日野月先生にお歳暮もちゆけば帝塚山よりは挨拶なしと。 匆々退去。叔母に洗濯石鹸わたして羊羹もらひ、今川へのことづけたのまれ行けばみな留守。帰り大鉄で『労働基準法』買ひ、雲吞たべて帰宅。入湯。よべ不眠にてすぐ寝る。 12月28日 14:00来いといはれ午食後すぐ出て亀井にゆきすぐ引返して会社へゆき17:00までかかりて賄の諸手当、サラリーもらひて帰宅。われはBonus10000。専務、 労務部長の説教を工員しづかにききゐし。帰りて4名のBonusなきに気付きあはてしもあとでもち来る。賄ども説教す。 けふ専務より「黒田のあと750万円で買はぬかといはれ断りし。250万円位」とのことなり。「吉岡氏にゆきて話してもみよ」と。 12月29日 ひるまへ出て会社へゆき、上出の皆勤云へば5月22日よりゆゑ資格なしと。天満橋にゆき散髪(120)。パジェス『日本切支丹宗門史 上(10)』買ひ、 梅田にゆきこの間怪しみし「福島工業所専務大島」といふ男、待合室で●かく。15:00うなぎとすし食ひ日記帖買ってもらひ別れて柳田『婚姻の話(120)』『月下の一群(200)』買ひ、 坪井へコーヒー(170)もちゆきキャラメルもらひて帰る。埜中清市より「くれなゐ」新年宴会5日と。 12月30日(日) 終日臥床。〒なし。夕方、上出、買物にゆき釣銭のことにて損せしと。また朝、徳野で払すまして受取らずと云はれしと(100円)。代りに憤慨してやる。 12月31日 午まで臥床。午後奥の室片付け餅食ふ(1斗搗き)。夜、池内、萩原、日野月、白鳥清、篠田、桑田、工藤、宇都宮、川村、神田、和田、羽田、石浜の諸先生、 保田槌三郎(※與重郎父君)、堀辰雄、大江、田中康、田中昌三の諸家へ賀状かく。けふ『祖国』1月号来る。 田中克己日記 1952 【昭和27年】 帝塚山学院短期大学の教員に落ち着いた詩人ですが、それにともなひ、住まひも彦根から布施市(現東大阪市)徳庵の富士鋼業の社宅へと移ります。 前に述べたやうに、帝塚山学院短期大学の理事長が富士鋼業の社長。そこで重役を務める叔父たちの差配に従ひ、短大の講義だけでなく社員寮の管理も任され、 生活の安定確保が成ったのでした。  関西の東端から京都を通り越し大阪に活動拠点が移った結果、足しげく通ふ友人も、大阪高等学校時代の旧友である、長男が通ふ大手前高校の教員であった坪井明や、 吹田事件で多忙となる弁護士山本治雄の名前が頻繁に記されるやうになります。ことに大高クラス会の幹事にもなった坪井氏は、長男の進学相談に乗ってあげたりと、 天理時代の服部正己氏や京都時代の羽田明氏のやうに、詩人とは相性の良い気安い関係であったやうです。  さうして関西在住の旧コギト同人らの話題が増へるわけですが、髯を生やし長髪となった保田與重郎の話にはじまり、薄井敏夫の訃報、中島栄次郎の蔵書、 松浦悦郎の遺構集『五つの言葉』を遺族から譲り受ける話、そして同窓会に誘はれるも会費がなく、閉会間際にやってきた肥下恒夫の話に至っては、 のちの運命を思ふと不憫に思はれてなりませんが、それを受けてのことでしょう、就職口を坪井氏が探してきたり、それを断った農生活に徹する信念の堅い肥下氏のために、 今度は種子代を集める発起人になったりしてゐます。  その他、コルボオ詩話会では小高根二郎、井上多喜三郎、臼井喜之助といった脱会者・除名者が相次ぎ、異動そして世代交代が始まってゐます。 田中克己には「休会」といふ名誉同人的沙汰が近江詩人会同様に申し渡されましたが、こののち詩人は小高根二郎とともに雑誌『果樹園』を立ち上げることにります。 そこで小高根が伝記連載の対象に選んだ伊東静雄、彼の病床を詩人が見舞った記録もこの年の3月24日に見え、目を引くところです。  けだし7月には新薬ハイドラジッドによる小康が伝へられたものの、昭和24年より永らく療養生活を続けてゐた伊東静雄は、翌28年3月12日、 47歳で入院先の病院で結核に斃れます。詩人が見舞に行ったのは亡くなるほぼ一年前、そのときの回想が当時の雑誌に掲載されてゐますので抜粋して掲げます。 病院 (前略)それから二十年つきあひをつづけ、二十七年の三月廿四日、意を決して千代田村の大阪病院長野分院に伊東を見舞ふ。  意を決してと書くのには色々わけがある。同じ病気でねてゐる保田與重郎から、自分の代りに同病の友を見舞つてくれ。医師からきけば夏までもつまいといふ手紙を受取つてから何日かになる。  死ぬと決まりつてゐる病人を見舞ふのには勇気がいるのである。その上、病気で神経がますますするどくなつてゐる人間に、こちらの表情を見られるのが一番つらい。  僕は林檎の入つた籠をぶら下げながら、思案にくれて病院へゆく坂を登つて行つた。しかし面会の結果は来てよかつたと思つた。  病人は声もかすれ痩せてはゐたが、笑ひかけていろいろと話す。最後に「あまり腹を立てなさんな」といつて笑つた。  昔ながらの腹立て虫が四十を過ぎて相変らず腹のすはらないのを隣れんでくれてゐるのである。僕はありがたいといふ目で、笑つて答へて病室を出た。  外は三月の末には珍しい吹雪である、雪の小止みになるのを待つて、食堂でうどんをすすりながら、伊東はもう腹を立てないんだなと考へてゐた。  あのするどい神経の詩人が腹を立てなくなつたのはいつからか。息さへしなくなつてからももう何ケ月かになる。                                    『詩と真実』8号 (昭和28年11月) 関西詩人会発行より  私自身、「小野十三郎が見舞ひに大枚を包んできてくれたと云はれて。まいった。果物なんかを持参してきた自分が恥ずかしかった。」  といふ話を、晩年の詩人から直接伺ったことがあります。しかし日記には、「小野十三郎1万円もち来り恥ぢいりしと。」  と、見舞に現金を包まれた伊東静雄自身が恥ずかしがったこととして書かれてゐます。特効薬が高価なため辞退する言ひ訳をしてみせたり、最期まで含羞の生活を貫いた伊東静雄でしたが、 現金の見舞は助かったに違ひなく、小野十三郎との見舞品の差を辱められたわけではなかったこともわかります。  またこの見舞は保田與重郎の便りが伝へた病状に驚いてのことであり、報告がその後、詩人により方々になされてゐることが知られます。これまでみてきたとほり、 日記から窺はれるのは、詩人の筆まめ且つ訪問魔ともいふべきアクティブな行動履歴でありますが、この年、実は一度も田中克己は保田與重郎本人とは会へてゐません。 両者の交友の一番の相違は自分の学生時代を知る友人との関係にあり、超然と構へる保田與重郎は、恩師のためには動くものの、文芸と関はりのないクラス会には行きません。 一方、連絡を入れれば旧い仲間内全体に話を伝へてくれる、フットワークの軽い田中克己の存在は、保田與重郎に限らずこの時期の大高同窓生にとっての要めの消息筋として機能してゐたことが、 日記によってほぼ証明されるやうな気がします。  さうしてかたや恋人の結核については快方に向かってゐるやうで、よかったと申すべきか、名前を伏せて書いてあるので却ってわかってしまふことなんですが(笑)、 デートはしてゐるやうであります。しかし生活の安定や彼女の病気が頭を冷すきっかけとなったものか、詩人にとって「恋」は、むしろするより相談に乗る側に移った感じもいたします。 彦根時代の後輩である藤野一雄さんと岩崎昭弥さんのお二人が、とある女性をめぐって恋の鞘当てを演じてゐた(?)など、(そして二人おなじく破れたらしいなど)、 初めて耳にしたことでしたし、そののち当の彼女が別の男性との恋に走り、煩悶を詩人に訴へるべく、絶交したはずの岩崎さんと同道して彦根から詩人を訪ねてきたなどといふ条りには、 噴き出してしまひました。詩人平光善久氏から詩集を送られ挨拶されたのは、岐阜に転居した岩崎昭弥氏からの口添へもあってのことだったでしょうか。 同庚の伊藤賀祐氏もこの年に岐阜へ移り、のちに岐阜大学医学部名誉教授となられて何と2011年まで存命だったといふことを知り、驚いたことでした。(つづく) 昭和27年1月1日~昭和27年12月31日 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き ノート   田中家系図 1月1日 10:00会社へゆき年賀。叔父今年より好景気とのニュースを得しと。乾杯して帰り年賀状105枚受取りしところへ岩崎昭弥、藤野一雄の二人来り、 ややして岩崎君保田にゆき藤野君と20:30まで話し寝しところへ昭弥帰り来る。保田髯生やし長髪となれりと。 けふ徳永昭子、●雅子、中田秀雄、寺島徳八郎、、太田守松、林正哉、河村純一、岩崎次男、岩佐東一郎、百瀬弘、岩崎寿雄、鈴木治、金井寅之助、山崎忠、依田義賢、西島寿一、 平戸禎一、佐々木邦彦、澤田直也(退官と)、藤井通雄、諸氏へ年賀かき、状なくなる。昭弥百人一首呉る。うれし。硲晃君、 年賀に来り白鳥庫吉『朝鮮語とウラルアルタイ語』置き、史に小遣ひ賜ひ上らずして帰りゆく。 1月2日 9:00藤野君近江詩人会費200もちて昭弥と退出。賀状5通。外に橋本貫一のハガキあり。午後亀井母子来り砂糖呉る。戦災の話してゆく。けふハガキ50枚買はせ賀状の返事かく。やや寒くなり概ね炬燵にあり。 1月3日 けふも賀状20枚ほど。終日臥床、入浴せしのみ。 初ゆめに出で来しなれとほとほとにものいはず来てさめてかなしも。 1月4日 家居4日目。八木嬢より5日頃来るやもしれずと。藤野君より礼状。夕方、浅沼君に賄のこときけば1ヶ月3000にても引受けがたしと。 わが思ひかよはずとありと思はねど山川越えて何の神ぞも。 夜22:30より歯疼む。 泪もてつづる日記を書きつがむ心はとはとわれも知らずも。 1月5日 川村多実二、日野月、池内諸先生より賀状の返礼いただく。西垣修(※西垣脩)、芳野清、川崎菅雄、星斌夫、和田久徳、宮本正都より賀状。山城生より年末父を亡くせしと。10:00家を出て省線で上洛。 吉野書房へゆけばもう執務。池内先生の校正表のこといひ、天ぷらうどんよばれ奥西保(また歯痛)高鳥君らと話し、社長と一寸話して出、衣笠校まへの荒木二三邸へゆく。 大浜、高橋、小高根などみな来ず。いやになり羽田に電話し(『Variétés sinologiques』近く連絡すると)ゆかんとせしが思ひ直し宴会に出、 酒のみ苦しくなって佐々木君に干柿もらひて山村順と新京阪で帰阪。 われ待つとあるひはきみが佇ちけらし駅のホームを夜となりてゆく。 けふ悠紀子、杉浦家へ答礼にゆきしと。和歌山の寮生池田庸夫?われにコーヒーおごりてくる。はじめて也。 1月6日(日) 家居。伊藤徳、伊井玲子、高橋重臣、萩原基衛、篠田統、中村地平の諸氏より賀状。羽田亨先生より賀状のお返事。山城生へ悔み状かき、諸友へ賀状。 1月7日 寒し。終日炬燵をはなれず。和田先生、工藤先生、宇都宮清吉より賀状の返礼。関大高校の武本生、近江八幡の錦織君より賀状。 かの子はも炬燵にあたりむだ口に我を忘れてあるがごとしも。 けふ天理の中村孝志君に抜刷送る。 1月8日 寒し。岩崎昭弥よりハガキ。午後思ひを決して肥下にゆきコギトそろへてくれよといふ。けふ片山君と全田純子の結婚式と。出て大江にゆきお徳叔母と3人で夕食。 田製薬の話すればゆきて見よと。20:00帰宅。留守中、羽倉君来しと。新聞社駄目なりしと。杉浦総務部長来られ黒田の話専務待ち受けゐると。 汝を負ひて荊棘の中わけゆきしいつの夏ぞも今も忘れず。 1月9日 寒し。午まへ坪井より夏の写真、よく写りゐる。竹内(※好)のリーベ大塚女史よりところしらせてくれと。山前実治よりバイロン11500と。埜中より「くれなゐ」『天雲』を15日迄にと。 八木嬢より手紙。6日毎となりしと。神田信夫、高鳥賢司、白鳥清先生より賀状。会社へゆけば専務あり。「黒田の話急がず」と。タオルを賄にもらひ、 徳野酒店の[上書]に対する非礼を竹村保長にいひ電話かけさせ亀井まで歩き、ともに出て布施までバス(20)。孔舎衛坂まで電車(40)。留守とて引返し上六(60)。 ともに天ぷらうどん食ひ(140)、北浜の黒田へゆけば(20)銀行と話中と。明日電話かけよといふに引返し(20+20)帰る。夜、黒瀬の顔見たく呼びしにかまぼこ呉る。 1月10日 登校。石浜先生にお目にかかる。正月禁酒をとかれしと。藤枝のこと云へば放つてくれと。藤枝より「中島栄次郎文庫」との印彫りて住吉へ届けしと2日付の手紙来あり。 歴史の授業すまし黒田の吉岡専務へ電話すれば来よと。行きて話せば550万円と。天満橋で新見吉治『日本に於ける武家政治の歴史(40)』買ひち、バスにて会社へゆけば叔父出しあと。 15:30も一度ゆき話せば明細表とり来よと。けふ眞野喜惣治君より賀状。 1月11日 よべ雨降る。10:00出て片町より黒田製薬にゆきしも吉岡氏出られしあと。置書し、梅田7日毎になりしわが会ひイエホヴァ神定めし数と思ひつつをり、お好み焼き食ひ、 小坂の堀内にゆきシェークスピア全集のこと云ひしも返事よからず。ワ゛リエテのこともぴんと来ぬ様子。本庄『我国近世の農村問題』、竹越『日本経済史3』、一柳『印度の法律思想』、 富倉『日本戦記文学』4冊で90。山口実にゆきお茶のみ新年宴会のことわり云ふ。帰れば相馬、服部正雄、犬養孝諸氏より賀状。川邨みしほ氏より15日歌会すと。けふ留守、武村生来り、広瀬来しと。 1月12日 登校。住高山本君来りしと。文学史2時間すませば待ち居り、文芸へ1人志願す。大毎の支局長の女、よろしくたのむと。コーヒー奢り呉る。ともに出て木村書店にゆけば主人留守。 帰れば日野君『沙翁全集』買ひたしと。1500と決めて帰る。神田先生より賀状、平凡社より宣宗仁宗(1枚づつ)末日までにいかにやと。けふより寒し。 1月13日(日) 寒し。植田弥之助氏より14日16時来よと。日野月先生より佐賀大の河瀬先生のこと。西垣(※脩)君より『三角帽子』2冊。午すぎ武本生来り15:30まで話しゆく。 夜、大浜君の紹介にて西宮君(※西宮一民)来る。奈良中、皇學館、京大卒。近畿専門学校に今ゐると。タバコ賜ふ。 1月14日 悠紀子より1000もらひ定期買ひ『奥の細道』教ふ。雨にて寒し。守本氏の話にてはベース改正は4月からと。バカらし。午すぎ全田の叔母来り明日披露と(ハガキも来ゐたり)。 神田力氏に電話かけしも欠講と。 けふ片山君、留守番ゆゑ来よと。14:00すぎゆき聞けば健と天中にて同級。弟は大と同級と。トーマスマン研究すと。関高2時間にて500円と。叔母帰り来しに明日来るといひ、 黒田にゆき社長とも会ひ、明細書借りて今川、英語やらず書類預けて帰る。電車賃200貰ひし。宮本正都より14、15両日中に山前君にゆき金わたすと。 中村孝志より「1647年の台湾蕃社戸口表」送ると。『白珠』3月号の原稿送れと安田章生より。夜、5首写す。 1月15日 成人の日とて休み。水弘子より年賀状。12:30出て全田。城謙三、河村判事、肥下、堺市立高校生島校長、教頭、肥下、われ、渡にて(※片山家・全田家)披露宴。 城教授、全田叔父にそっくり也。片山、生いきにていやとなり。18:00帰る。 1月16日 登校。午まへ船越こせん小母来り、家教へる。午後教授会(守本氏欠)。中田博士と待遇改善に付き近々院長に進言せんといふ。今川へゆき城平叔父の帰るに会ひ、こせん小母のこと云ひ、 黒田のこと云ひ、自動車にて帰る。こせん小母あり。(※船越)章、退職金50万円もらひ、和田聡子交際中妊娠して結婚せしと。 (※義弟柏井)数男、(※義姉田中)俊子に家売りしことにて(※義母の遺産を)一部分けんと。可笑。けふ宮本正都よりハガキ。10日位にて初校出ると。西宮一民君より依頼重ねて来る。 1月17日 登校。歴史教へ石浜先生と話せば、服部(※服部正己)、派閥のため関大(※への移籍)だめなりしと。気の毒にして腹立つ。帰れば船越小母去りしと。ゆき子への分け前は7万円と。入浴。 夜、衣川、魚住来り不快。西垣修氏(※西垣脩)より『コルボオ詩集』の礼状。 1月18日 10:00出て会社へゆき図書費1月分もらひ、明日帖簿作りに来ることを約す。康平叔父に船越小母の話す。梅田にて八木嬢に会ふ。 来週羽田にゆきてその結果(※結核診断結果)まちて館長に云ふべしといひ、上六にて別れ、埜中にゆきしも不在。隣家に「天雲の作者」(※原稿)4枚ことづけて帰宅。 多喜さんの戦友、大塚雪郎より『翅のない天使』。史の担任[小谷](※尾谷)先生に明日来訪のことわり云ひしもはっきりせず。 1月19日 耐へがたく思ふ日続く西北の風吹くみちを海に向かひて。 登校。2時間の講義を1時間ですませば、もっとやってと西保。かもめ(※書店)で『Popular science』1月号とり、放出校にゆき待たされて史の受持尾谷氏に会へば、坪井に2月初、 会はして呉れよと。会社へゆき帖簿作成する筈なりしがわけわからずなり、ノート2冊もらひしのみにて帰る。日野月先生より阪大助手に交渉せよと。若森君より会社やめ帰郷すと。 本屋の広告にて島田正郎法学博士となりしと。夜、西宮君来り、遠藤教授に云へばすぐ推薦状書かんと。困る。 1月20日(日) 一日在宅、夜、亀井昇来る。 1月21日 登校。きのふもけふも俄雨降る。中田博士と院長会ふこととし15:00すぎやっと会へて4月より昇給、1月は遡及と。ベースは人毎に変へんと。 わが云ひしは高校よりサラリーおそきなど差別待遇のこと。研究費のことは反対されし。かもめ書店で『鴎外全集』30受取る。庄野未亡人「潤三に云ひて原稿かかれよ」と。 今川で古本屋にゆき犀星『田舎の花(10)』、実方清『古代歌論(10)』、鈴木俊『唐宋時代の支那(10)』、五十嵐『ビルマ史(20)』、松枝『中国の小説(30)』みな安し。 3従妹弟教へて帰れば、遠藤教授より「西宮君院長に推薦した」と。弘瀬より「青木富太郎に会ひしに十歳くらい年上に見え、田中短気と語りし。荒木氏事務でも忙し」と。荒木修より「小説見たし」と。 1月22日 登校。午後すませて藤井寺。叔母にこせん小母のこと云へば会ひたかりしと。16:00かき餅よばれて出、松原の肥下へ寄れば恰も帰り来る。コギト20冊もらひ話す間もなく退去。 再登校、夜学すませて雲吞をアベノで食べ帰宅。鈴木治氏より山本治雄に会ひ感心せしと。森永豊やめるとて挨拶に菓子もち来る。異例なり。 1月23日 登校。院長東上のため教授会なく、13;00出て住高へ行き山本君に会ひ、大毎金沢支局長馬路氏の嬢のこといひっ、漢文の教師の件だめさうときき、硲君にゆけば『考古学論攷1』賜ふ。 東洋史特集号に書けとなり。出て大手前へゆき石山君に会ひて聞けば船越小母には会はざりしと。訪ねしも知らざりし。服部のこと伝へよと坪井へ伝言たのみ上九で下車。 加藤東知『英国の恋愛と結婚風俗の研究(150)』買ひ、アベノで雲吞食ひ、ためしに手袋片あしありやときけば拾ひありともち来る。うれし。今川にゆけば大江叔母来合す。 まみ子に英語教ふることとなり「スケッチブック」をやらされ担当の非常職に憤慨す。土曜も来ることとし、折柄帰り来し叔父の自動車に乗る。村上鋼業退職希望者は熟練工のみ、 しかも人数を上廻りしと。服部よりハガキ。上道氏の速達つきしと。善処せんと。青木富太郎よりハガキ。夜、吉本旧正月に帰るとて来り、出来合制の結果粗悪品多しといふ。 1月24日 曇、登校。石浜先生に鴎外『小倉日記』のこと申上げしも御返答なし。長尾禎子するめ一包賜ふ。11:00上洛(かもめに『鴎外全集』第7回欠のこといふ)、 13:00吉野書房にゆき『祖国』10冊もらひて荒木修氏に送ってもらふこととし、羽田家に電話して三高たることを確め15:00ゆき16:00出て研究室に寄りしのち、 しんしん堂でお茶よばれて別る。華僑芦屋にあり早速にきいて報さんと。老先生一度礼に夕食賜はんといはると。(彙文堂にて『越絶書(100)』、魚返『大陸の言語(50)』、 横尾『東亜の民族(50)』。京阪書房にて『頼山陽詩鈔(40)』) 京阪三條17:35発、京橋にて親子丼(100)食ひ帰宅17:30。〒なし。労働者名簿作らんとし順々に呼ぶ。 1月25日 9:00会社へゆき原課長に用紙もらひ労働者名簿と賃金台帳作製、重役会すむを待ち安全につき云へば松尾部長怒り、今村部長に粗悪品のこといへばもともとのことなりしと。 原田恒三郎天理教のため退社すといふに会ひ、夜を考へて一先づ梅田。八木嬢に会ひ雲吞おごり足袋買はせして(※12/17紛失の)『Variétés sinologiques』ついに帰らぬことをあやまる。 山本治雄にゆけば遺産もらへる筈ゆゑ丸(※三郎)にいって見よと。おでんと酒とおごられ梅田駅で別る。夕方、原田呼べば科学によって日本中を天理教にすと。瘋癲らし。 1000貸し明日一月大祭にゆき教会長に相談せよと訓す。 1月26日 原田7:00すぎ出てゆきさうなれば原課長に短大への欠講ことわってもらひ、ついて丹波市にゆく。春季大祭に偶然参拝のこととなる。高橋重臣に寄る。司書室主任となりしと。 大浜にゆきしに会はず。日和佐詰所にゆき息子に不言実行いはせ(原田落涙)、本殿に参拝。図書館にゆき吉田女史に茶の接待受け、またお墓へゆき足痛ませて帰り来る。 埜中、西宮両君より礼状。夜、衣川来り、原田のこときく。『千夜一夜物語』『デカメロン』『鴎外』を図書室へ寄贈す。天理教的一日。 1月27日(日) 晴。寒し。午後今川へゆく筈なりしも原田父来るかと思ひて待ちぼけ。宮本夫人よりゆき子へ便り、彦根短大、池洲町は女子専門となるらし。中村孝志より『日本文化』。 山崎忠より『アジア言語研究2』。夜、「ゆめと知りせば」と「チャムピオン」と書きて原田22:0会ひに来しが会はず。 1月28日 原田メシアあさ来り誘ひて労務にゆき、田中栄太郎君にも会はせしがだめ。引返せば父来り、話して会はせば「●度です」と匙投ぐ。会社へつれゆき一時帰郷をいはせ、 きのふ貸せし金云はれしが200のみとりかへして帰す。われ今川へゆき「sketch-book」をまみ子に教ふ。叔父上京。明日も来ることを約し、すしよばれて帰宅。 けふ田中俊子より(※遺産として)「50,000年末までに送る、史の大学への費用にせよ」と。 1月29日 登校。志願者(推薦)37名で昨年と同じと。午後高校achievement test。散髪にゆき今川に行きしもまみ子帰らず。大鉄デパートで『戦国策(90)』。 けふ全田の『沙翁全集』代1500日野氏より預かる。夜学すませ帰り来れば八木氏より手紙。富永氏に(※診断結果)いへば無条件で許され3月まで自由出勤を許されしと喜び来る。 1月30日 登校。高校2Bすすみすぎと申立てしにより自習。推薦50名を超えし由。『マノンレスコオ』買ひ来りよむ中、硲君来り『越絶書』進呈。15:00より教授会。 西宮君推薦の遠藤教授の手紙見しに「田中君よりお話の」と明記しあり、弱り、会ひしことなく調べ見んといへば壽岳博士「令嬢にききて見ん」と。17:30今川にゆきsketch-book。 すまざれば日曜に来ると。帰れば徳永嬢より(※藤野一雄氏からのアプローチ)「田中に激励されたとてしつこくて困る」と。 1月31日 登校。雨となる。石浜先生と一寸話し12:00「明星」で雲吞たべて帰宅。入浴。郵便なし。西宮君その他のことにて悒鬱なり。 2月1日 寒し。会社へゆきしのち17:30瓢箪山の西宮家を探せしも見つからず、うどんやに入りハガキ書きしところ、息子の中学生さがしにゆきくれ、 見つからずと帰り来しところへ役場の女史来り、つれゆき呉る。夜学とて夫人のみ。他言せざる様子とのことに帰り来れば宮本正都君来り待ちゐる。いろいろ話ききて24:00まへ寝る。 けふ祖国社より池内先生の本送り来る。 2月2日 寒し。国文学史の講義の間、宮本君またせ、すみてコーヒーおごり阿倍野橋で本屋に「スケッチブック」さがしにゆき白秋『花樫(20)』買ひ、支那料理おごりて鶴橋で別る。 帰りてひるねせんとしたれど果さず。荒木修氏より「老兵の記録」見しと。返信かく。夜、西宮君来り、遠藤教授の話の場に壽岳令嬢ゐしと。 物贈らんとせしを断って帰ってもらふ。近畿29時間教へて1万2千円と。 2月3日(日) 朝、『白珠』へ「スマトラ」5首送り、荒木修へハガキ。午、久美子とまみ子来り、厄おとしのしるこ食ひ16:00迎へに来し叔父の自動車で帰る。福神漬もらふ。 夜、字典に「仁宗、聖祖、宣宗」かく。けふも寒し。 2月4日 推薦選考とて9:00出勤を命ぜられゆけば長沖、服飾の主任を加へて6人で15:30までかかりて6人面接。10人のみ第2次選考にのこる。文芸は15人中1人。あと学院より12人来り一般は少しと。 19:00までかかりて夕食くはされ帰る。神田信夫君よりハガキ。岩崎昭弥よりハガキ。 2月5日 朝、頭痛して欠勤の電話かけしむ。原田の父より分裂症と。数男よりゆき子へ6月のボーナスにて俊子払はんと。『祖国』への小説かかず。 2月6日 登校。饗庭源吾氏より電話かかり会ひたしと。12:30より第2次面接。服飾にて落ちて文芸へといふが数人ありし。すみて教授会。西宮君のこと壽岳博士云はず。饗庭君来りやせゐる。 17:30今川へ寄り風邪とことわりて帰る。けふ藤野一雄より手紙。 2月7日 朝9:00になり頭痛やまざれば電話かけさせて欠勤。雪降り寒し。〒なし。 2月8日 曇。10:00出て会社へゆき聞けば原田父より届出しと。城平叔父、杉浦氏とともに在らず。高井弟君、洋画の師たのむと。出て片町より歩き坪井宅へ寄り、 学校へゆき、服部のこと話し、10日に尾谷氏のゆくこと告げ、山田の事務所ききて梅田で雲吞、コーヒー。山田にゆけば不在。明日電話せんといひ天王寺をへてかへる。 夜、西宮、藤野、岩崎昭弥諸君にハガキかく。 2月9日 登校。午飯時、守本氏よりの話にては、来年度12時間(夜学4、昼8)院長教務をやらさんと云ひしをことはり呉れ楳垣氏擬せられゐると。講師長沖氏に女子の人あるらしきゆゑ相談せよと。 山田に電話せしも埒明かずゆき見れば留守。用件かきて留守居にわたし、丸善にて旗田巍『朝鮮史(260)』、増井経夫『太平天国』と2先輩の本かふ。何れも容共左翼なり。 平凡社より原稿受取り。稿料3月半までにと。けふ久しぶりに入浴。 2月10日(日) 晴、午后も出ず。日野月先生より推薦うまくゆかずと。創元社より外山、羽田二氏の『京大東洋史』2。 2月11日 出勤。けふまでに(※よその)高校などサラリー出しと、不快。森本生、叔父風邪薬呉ると。山田に2度電話すれば、かかりて「来よ」といふに13:30行く。 1/3遺産相続権あれど嫁入仕度を引くべし、今年で5年になるゆゑ時効にかかると也。西田来会す。今中同期にて洋裁研究所長と。 14:00出て丸善にゆき『鴎外全集7回』買ひ、戎橋まで歩き、途中新谷病院見付けゆきしも病気とて閉め、小杉にゆきしに風邪薬くれず。今川にゆき教へて帰る。 うたがひの心はもたね冷しと時ににくみの心湧き出づ。 なれと似しおもわと思ひゆきずりのひとをみつむるおろかなれども。(これらの歌はうきなり、子の顔すぎていねられず) 2月12日 出勤。昼の授業すませて藤井寺へゆき、大江叔母に相談して昌三叔父に砂糖3斤[托]し、夕食よばる。叔母3月末上京、その節、柏井(※妻実家)方面へ交渉してもよしと。 夜学すませば小雨。帰れば西宮君より礼状。宮本正都よりコルボオ詩会に出しと。 2月13日 登校。漢文やり午となり山城、津熊二生のヒステリーききゐる中、硲君来訪。『京大東洋史』は買ひたりと。教授会に先立ち壽岳先生にきけば令嬢、西宮君をほめゐしと。 教授会でもその旨云はれありがたし。我はサラリーのおくれることを文生氏にまた云ひおきし。坂口允男君の『シェリー詩集』を壽岳博士に差上げ、 今川にゆき帰りの電車で亀井と一緒になり家まで伴ふ。吉岡弥之助氏より問合せ来をり。ふしぎ。宮本正都君より『バイロン詩集』2冊。 2月14日 登校。石浜先生博士論文かかると。関大佐藤長あきしに某呼ぶと。長沖氏来り、西宮君のこといへば自分の時間割く気なしと。ともに不快。田木繁の義妹の履歴書預りて出、 山本重武君に会ふ。高等教員免許状あれば一級教官になれると。饗庭君のこと話して出、梅田にゆき西宮君にゆく気なきにも非れど風邪きつく鶴橋より引返す。 『祖国』3冊来をる。けふはわが誕生日とて待つ父母のもとへ帰りて古きこひ見む。 けふ西保生に記念帖へ歌かく。 2月15日 雨。子ら登校後ふり来る。会社へゆくつもりなりしも止め、西宮君に速達す。岩崎昭弥より春に徳永嬢と大和へゆかんと。奥西保よりハガキ。夜、安倍賄人ごまかし云ひしと叱りしあと、 埜中[清市]、山口[実]二君来る。『くれなゐ』出来、山口君の『長崎』見本出来しとなり。話し『廉子遺稿』もち帰りもらふ。 2月16日 登校。文二喧嘩せしらしく半分のみ。ストーヴ囲んで朔太郎、春夫の詩よませ国文学史の最後とし、日野君より全田の本代5000受取り、藤枝の「中島栄次郎文庫」の印わたし、 ストーヴに当りゐれば院長おこし、西宮君のこといひ、田木繁の義妹のこといひしに「藤沢[恒夫]一派か」と。日野月先生へウイスキーもちゆく筈なりしも中村事務長出しあととて止め、 全田へ金もちゆけば叔母も風邪とて臥床。帰り来り西宮君まちしが来ず。 けふ『コルボオ31』『ケロイドの顔(※佐々木邦彦詩集)』の外、丸山薫編『新しい詩の本』来をる。 2月17日(日) 晴。『白珠』来る。『くれなゐ』とダブル歌1首あり。午後西宮君来る。明日来学と。 2月18日 晴。西宮君来り、少しまちて来し院長に会はす。専任とし6時間もたさんと。よろし。我が時間につき高校泉君に云へばやってもらはねば困ると也。送り出して、 実習にてもめゐし扱ひなし西尾中学教頭にあやまりにゆくに附合ふ。すみて三苫君より1500預り、日野月先生へwhisky(\250)もちゆく。いろいろ心配されしと也。 大江に寄りかき餅たべ、久美子へと預って出、17:00ゆき1時間して帰る。(『新しい詩の本』置く)。 2月19日 登校。ひるすませ、坪井の所へゆかんと思ひしがストーヴに当りていやになり、そのまま三苫君の辞職説ききゐる(理由は官吏よしと也)。 夜学すませて帰れば創元社より現代詩集のこと、佐々木邦彦君の長男亡くなりしと。わが訪ねしころ二階にねゐしなり、哀れ。 数男より悠紀子へ手紙、(※遺産の事)まだまだもつれん。 2月20日 登校。遅刻10分。二年生ら記念帖にサインを求めに来る。硲君来りしとコーヒーのみ(月給もらふ)、かもめ書店に『鴎外全集』の代払ひ、別れて全田、1500と200の借金払ひ、 婿片山と一寸話し、『大陸遠望』『楊貴妃とクレオパトラ』『神軍』とり返し、学校へ寄り、出て今川。ワイシャツ地賜ふ。(大鉄百貨店にて『アメリカの婦人(60)』『黒人論(25)』買ふ)。 帰り途、亀井母子と会ひ家へ連れ帰れば病気全快とて就職たのむと。20:30有馬来て挨拶してゆく。けふ藤谷明子より外語と帝大とへ紹介せよと。『Poets’ School』。 就寝後、原課長呼びて寮生25名馘首と。 2月21日 今学年最後の講義をし、長沖氏に西宮君のことと来年の講義科目承認してもらひ、石浜先生と一寸話して散髪。入江来布氏に李笠翁の十宜詩よめずとことわり、 斎藤、長尾2生つれてアベノ橋まで出しが雪もよひゆゑ、けふは来ざれと云ひ、帰れば八木嬢来をり16:00帰りゆく。 2月22日 会社へゆき退社寮生31名の名を聞く。理由は原課長も知らずと。庶務にゆき専務に会ひ午後また来よと云はれゆきしも用なし。大手前へ坪井に会ひにゆき礼いひ、 田木繁の義妹のこといへば府教委の[後]業あり。履歴書とり出さんとせしに無し。コーヒーおごりてもらひ帰り来る。 夜、西村来り退社といふ。けふ山前実治に『シェリー』15冊代375送り(小為替料3)、大に教員免状の件でたのみ(速達)、丸山薫氏へ承諾の返事す。 2月23日 会社へゆき上田澄夫の退職とりけせと云ふ。組合内の問題と。亀井の履歴書、康平叔父に托し、会計課長の弟、その弟、浪速外語に入学のため昼の修業やめしときき帰宅。 (松本善海よりハガキ)。岩崎昭弥、徳永昭子へハガキ。夜、衣川呼べば後始末して辞職せんと。いさぎよし。22:00高橋寿彦来り金貸せと。失礼なり。 (『東方宗教』送り来り地方委員に推薦すと道教学会より。おしつけがまし)。 もの云はでやりにし子ゆゑこの日ごろ心さぶしも飯は食めども。 2月24日(日) 晴。午後タバコ切れ鴻池新田の守屋君に池内先生の本もちゆけば学校にもすでに買ひしとてダメ。しばらくだべり、歩いて徳庵駅前へ来れば西宮君に会ふ。 コーヒーのませて時間を7-9時間といひ専任待遇にして呉れと云はれて別れ、丹羽千年にゆけば留守。桂信子と一寸話して帰る。 けふ岩崎昭弥より岐阜の新聞に中島健蔵書いたと新聞も来る。西垣君より『三角帽子』。 2月25日 よべ睡眠不足。9:00まへ会社にゆき11:00までかけて今村氏に会ひ上田の退職取消を云ふ。丹羽千年にゆき市立大学の採点法きけば無記名番号かくしと。 中島夫人に云はんといひ12:00出てアベノ橋明星食堂で雲吞食ひ、歩いて大谷短大にゆき吉井君を30分まち、卒業免状の写しもらひ、帝塚山へゆけば三苫君上京と。 守本氏と一寸会ひ今川にゆけば久美子風邪と。帰りて和歌山の井上らの不平とりしづめ、高知の送別会で歌うたひて帰る。 けふ山前君より受取。八木嬢よりまた風邪ひきしと。けふ丸山薫氏へ18枚選詩送る(8.00)。 2月26日 定期券買ひて登校。よべ雨ひどくrain-shoesなり。高校の漢文すませ、12:30藤谷明子氏来り、先月10日頃名大より(※中島栄次郎の洋書代金)23000もらひてすみしと。 日野君と我とに礼呉れる。入学試験の方は同志社にてすみしと。藤枝の(※中島栄次郎文庫の)印のこと云ひ、礼状たのむ。 午后の授業すませ大手前。坪井に聞いて学務課の平尾課長より社会事業短大の卒業免状の文おしへてもらひ上六、天地書房に寄り中河与一『秘帖(20)』『上世年紀考(30)』、 山川菊栄『武家の女性(20)』、川田順『西行(20)』『和漢朗詠集(30)』と買ふ。帰りて日野君と話し夜学レポート十人あまりより受取りて帰る。 けふ八木女史のこと佐野氏にきき、妹在学中ゆゑ訊ねささんと。西宮君のことも云ひ、昨年度11000にて5000の税金ときく。われも田中会計にきけばこちらにて書き直し彦根と帝塚山と一つにせんと。 2月27日 登校。高校の漢文終へ、田中会計に彦根と計算してもらへば税未納3791となる。13:00すぎ山本、硲二君来校。住高に●あるゆゑ藤井君に高校長に云はしめよと。羽倉のためなり。 山本君馬路家よりとて1000呉る。教授会に出ていろいろのことしをへ、西宮君●入を長沖氏に了解せしめよと。専任講師の名にて客員講師とせんと。税金のこと云へば手なしと。 瓢箪山の西宮君にゆき(長沖家へゆきしも留守)、明日10:00すぎ来よといひ、帰りて西田末人、鳥飼2人を次々に呼びて説教す。けふ山口実の『長崎』来る。万年筆(300)買ふ。コーヒーおごる(180)。 2月28日 登校。9:30来りし西宮君またせ歴史の授業すませ長沖氏に紹介。院長にゆけば待たされ12:00面会さす。別れて梅田。ベーベル『婦人論(100)』見付け『吉井勇集(30)』買ひて帰り、 津田に辞職すすめサラリーわたし説教す。寮生10人に退寮を命ず。 けふ大より返事。書類来るゆゑ府教育委員会にて手続せよ、雲井は駄目ゆゑ原稿とり返さんと。 2月29日 会社へゆくまへ居残り退職組に退寮さとす。谷端などかみつきしも結局すみ、会社にてその話す。学校へ行けば入試問題5日までよしと。硲君にゆけば家庭教師。 羽倉の口として住高の社会科時事問題ありと。北野高校へゆき藤井通雄に云ひ、林武雄校長宅へ挨拶にゆきて帰宅。天理文芸より詩の選者にと。 3月1日 会社へゆけば父来合はす。城平叔父忙しく、まちて父当分休職となりし経緯きき、寮の今後のこと聞き、父とともに出て1000小遣ひにとわたし、 われ梅田『西太后に侍して』に書入れ多くせし京大社会学部矢野といふ記あるを買ひ(80)、上六にておこのみ焼食ひ、和歌森太郎『日本歴史辞典』買ひ、小阪にゆき堀内、 山口実と一寸話して帰る。両隣出づ。けふ退社みな引上ぐ。階上を当分使はぬ旨、衣川に申渡す。澤田直也より弁護士開業挨拶(備後町第二野村ビル2階毛利法律事務所、北浜2322)。 宮本正都より近江詩人会21日をかけて来よと。数男よりゆき子へ6.5万円と。 3月2日(日) 一日家居。入浴。夜、原口早大へ入ると云ひに来る。衣川、部屋替と大掃除との打合せに来る。羽田へハガキ。 3月3日 登校。「奥の細道」試験。すみて入試問題世界史作りへとへとになり、コーヒーのみて今川。徳永昭子嬢と東山生とより3月20日彦根へこ来よと。 3月4日 晴。会社へゆき城平叔父と会ひ、津田の勇退云ひしも後に入れるとかで確答なし。大江の善信つれて中西ドクターにゆき事務ならよろしときき天満橋でコーヒーのまして別れ、父に会ふ。 うどん食ひ大手前にゆき坪井より試験問題集かり、コーヒーのまされて帰宅。 迫田退社。西よび療養さとす。けふ佐々木邦彦の長男遺稿集来る。夜おそくまで入試問題作製。 3月5日 登校。漢文試験。すみて壽岳博士と話せば学長に気をつけよと。高校へゆき漢文の採点し、15:30より教授会。文芸40人を越え50人まで入れんと。西宮君専任講師決定、 ただし待遇は薄くてもよしと云ひしと。17:30すみ今川。夕食よばれ帰れば岩崎よりハガキ。高知の浜田より挨拶。 3月6日 会社へゆき寮の会計写す。庶務課長の杜撰なること[瞭]然。出んとせしところへ電話大江よりかかり千草来をるにつき来よと。夕刻ゆくと云ひて梅田。雲吞食ひ怒りしのみ。 藤井寺にゆき話きき、陽生の出たらめと千草の小悧巧とに不快なり。大江叔父の帰るを21:00まで待ち(あり金900をはたいて千草にわたす)、きけば使へずと。 大江叔母と3人にて今川にゆけばまた留守。22:40までまみ子に英語教へ、われ先に出る。 けふ原田の母より手紙。中野英夫より手紙。コルボオ9日に会すと。(けふスバルで牧野巽『支那家族研究(50)』、吉川『支那人の古典とその生活(20)』)。 3月7日 一日雨。学校会社ともにゆかず。東大より成績証明と人物調査書。既修科目、史学概論、国史概説、江戸時代史(後期)、東洋史概説、明代蒙古(前学年ノ続)、満鮮史演習、西洋史概説、 教育学概論、、教育史概説、国文学と教化、平安朝仏教史、中世史、支那語前期、支那制度史、満鮮上世史、高麗朝史、朝鮮史演習、近世都市ノ発展、言語学概論、満州近世史ノ研究、 東洋史学演習、産業革命以後ノ欧州ノ社会。 人物調査書には「1.思想-穏健。2.性格-明朗。3.指導力-責任感強ク指導力ニ富ム。4.研究心-真摯。5.社会性-円満。6.長所7.短所-特ニナシ8.その他-なし 教育職員としての適格性-適格」とあり。 3月8日 府庁へゆかんとし坪井に寄れば史の願書やっと出て安心せしと(けふ最終日なり)。府教委へゆき教育タイムス社にゆき用紙買ひ(10)、卒業証明書必要とわかる。 登校。試験の採点し、すませて電話し上野芝の田村春雄にゆき夕食たまふ。身体検査書に印捺してもらひ、笠井信夫と相野忠雄へ紹介状かき帰宅。 3月9日(日) 郵便、丹羽美佐より難波夫婦来るにつき23日(日)正午より阪急別館で在阪従兄姉会と。河村純一氏より20日彦根へ来よと。『天理文芸』門馬実氏より詩2篇とハガキ。 午後、大に善信礼もち来りしゆゑ発[奮]して中西にゆく。梅村きあはせ17:00頃まで話して帰る。 けふ東山[覚]雄、河村純一二氏へ彦根にゆくと返事。東大へ卒業証明書の請求かく。小阪の文進堂にて遠藤元男『源頼朝(30)』、[伊藤]東涯『制度通2冊(30)』『加賀鳶(30)』『菅原伝授手習鑑(10)』。 夜、須崎の藤岡退社とて送別会に呼びに来る。ゆかず。山下幸雄よび、康平叔父に工高受験のこと話せといふ。 3月10日 会社へ8:30ゆきぐたぐた仕事をし登校。笠井君に電話かけ試験答案しらべ了り、疲れてコーヒーのみにゆけば笠井君来り、ともに話し田村春雄と連絡とらんとせしもだめ。 夫人に水曜朝の中または14:00とのみ云ひ、16:00すぎ出て今川。水曜来ずといひ(おうめ祖母の忌日と)、帰宅。 『東方学会』2冊来る。西宮君より手紙来り時間割のこと。滋賀短大より卒業式10:00からと。 野辺の雨みねには雪と見えゐたり春とはなれどまだ花咲かず。 (けふ東大文学部事務室へ卒業証明書請求に100円送り、小為替組みしあときけば現金封入は違法ならず、このこととなりしと。30円の為替料高しと思ひしにバカらし)。 3月11日 試験監督に9:00まへゆき壽岳博士と組み、10:45すみて採点、5:00終る。出来ざりし。昼食たまひ夕食うなぎ食はさる。けふ田村春雄来るとのことなりしかど来ず。 亀井より明日夕方来ると。津田、本日付で辞表提出。 3月12日 登校。9:00より院長の来る11:00まで待つ。午すぎよりと思ひ違へしと。面接し、橋本と西田の卒業式の辞直し、20:00までかかる。文芸専攻で3人おとし8人おちし。帰れば東大文学部より卒業証明書。 3月13日 家居。庶務課長来り11名やめるとなり。昨日退職願出せし津田呼びて今後出勤に及ばずと申し渡す。『Corbeau』来る。入浴。『天理文芸』の詩の評かく。 史の担任尾谷先生より学区制のことにつき注意あり、返事かく。 3月14日 雨。登学。理事長祝辞作り、散髪し、中央病院に小松保博みまひ帰宅。丹羽美佐より23日11:00アベノ百貨店7階でと。けふ悠紀子、数男より来し1万円にて史の洋服など買ひ来る。 尾西史郎に遇ひ雲吞おごらる。放送局へ入りたしと。 3月15日 8:00出て住吉区役所へアベノ橋よりバスでゆき、身元証明書(80)と戸籍抄本([9]0)ととり、硲君へゆけば学校と。ゆけば未だ来ず、秋永氏と話し、 やがて来しにこの間の藤井君との会見のこと云へば成功したや否や不明と。 帰りて花柳嬢のため黄鶴楼のこと書き、やきもき屋で昼食におこのみ焼。帰れば硲君来りまたコーヒーのみにゆき散歩して別る。 卒業式14:30より無事すみしが、その後わがままなるに腹立ち、謝恩会なるものに出、皮肉のあやまり云ひていやとなり、すし菓子もちて帰宅。 けふ亀井来り明日来ると。斎藤、長尾2生も明日来ると。藤野君より歓迎攻めもせぬゆゑ来よと。(けふ北畠で新村『船舶史考(30)』)。 3月16日(日) 大江叔母より陽生就職出来たとハガキ。咲耶よりゆき子に23日会ふと。岩崎昭弥より20日待つと。11:00斎藤、長尾2生来り13:00まで話しゆくに機嫌直りし。 夕方亀井来りし故、一度中西ドクターへゆけとすすむ。同窓会わが家で来月5日にてもやらんと。けふ悠紀子買物にゆく。『白珠』来り順位大分下りし! 3月17日 会社へゆき城平叔父、康平叔父に千草のこといふ。一旦帰り昼食し、大手前高校にゆき坪井を待ちて石山君と話し、坪井と府庁にゆき府教委にて高等教員免状一挙に片付く。ありがたし。 コーヒーのまされ法務省へゆきしも帰り浜中君に会ひ、本荘健男帰りて東京にありときき、出て藤井寺。陽生、十合取引の外人商社に12日より就職。2万円位にならんと。めでたし。 今川の[空]巣のこときき見舞に寄る。和服17点13万円ほどとられしと。けふ若森、徳永と彦根の二氏よりハガキ。20日来るを待つと也。 3月18日 雨。はれ間に工事場へゆきしにややして八尾土木の事務所の者来る。会社へゆき庶務課長にいへばまかさる。20,21両日の旅行届を杉浦部長に出し、原課長と話し冷酷なる話ききて出、 バスで小阪へゆく。堀内に伊東静雄のこといへば(けふ保田よりの信にて危きらし)、行きて宜しく仰せあれと。山田『方丈記(20)』『中村憲吉歌集(30)』『堀口大学檳榔樹(50)』借り来る。 3月19日 雨。史、依子ともに学校すみ、史は明日入試、依子は遠足と。千草より陽生の就職ききて最後の働き場所と喜ぶと。悠紀子阪急へ史の帽子こり●へにゆき午かへり来る。中野英夫の手紙。 大江叔母へハガキ。夜、亀井来り中西にみてもらひしに不治の病と云はれしと。12日18:00よりわが家にて蜻蛉会(※今中教へ子による同窓会)せんと。 3月20日 けふ依子卒業旅行に新和歌浦。大、大手前に入社とて悠紀子4:30起き、われも5:30起き6:29にのり梅田7:00発東京行。喜多村教授を見しのみにて彦根着。河村先生に鞄預け、短大。 長々しき卒業式に出、すみて萩原博士と話し、謝恩会に村上、宮川、川崎、田村の諸教官と出、すみて宮本氏と河村先生に参り、夕方やりやにゆく。広田一彦、中川、若森、徳永、守田、 宮本、河村先生の外、岩崎[昭弥]岐阜より帰り、朝日の田川君のちほど来り22:30河村邸に泊めていただく。 3月21日 よべ睡眠薬もらひて寝、9:00頃宮本夫妻来り散歩してまた来るとのことで起き、朝食後来しに庭で挨拶し、徳永嬢来りしと話し、11:00中村竹次郎を訪へば安土に勤めて不在。 カワラ町を歩き岩崎と3人にて徳永嬢のお寺にゆき母上に挨拶し、丘にのぼる。「わが血肉埋めし土をものいはず踏みつつ来り一年をへぬ」 帰りて河村ドクターと昼食、藤野君の自転車の尻にのり杉本長夫氏、広田君などと正法寺『Poets’School』20の会。マルクスボーイも半パンもありて不快。17:00まへ河村、宮本、 丹沢(大津のレーヨン社員)、宇田、徳永2嬢などと出て彦根駅着。[17:]35にのりて丹沢君と話しつつ大津、ついで国文を卒業し関大の短大に入るといふ池田生に、 3年へ入るやう交渉して見んと云ひて大阪着。 留守中、伊井、越智2生よりレポート。牧司より挨拶状。 3月22日 陽生より報告。平凡社よりまた彦根銀行の小為替にて2700。11:00早ひる食べて会社へゆき杉浦部長に礼いひ、城平叔父に彦根土産わたし梅田にゆき小松見舞ふ。あさって退院と。 関西大学短大へゆけばよしと。山本にゆき卒業生名簿を引受け21:00すぎ帰宅(末吉あす結婚と)。 3月23日(日) 池田生へハガキかき、河村先生へ手紙かき、風邪ひきし京抱きて池川へおき、1:00すぎ電車。アベノ橋では11:30、難波の子へ本2冊買ひ従弟会へ出る。丹羽夫妻、はじめて見る難波君、 かず子(眼鏡かく)男子、林敏男(工科の助手となりしと)、3姉弟そろひ、渡夫婦2児(片山夫妻欠席)、咲耶夫婦子で4人、われとで15人。 渡12:30で上京とのことに本荘健男へ伝言たのみ、岑夫にきけば讃岐喜八は松尾村の出で、いま東京と。14:00散会。帝塚山へゆく『鴎外全集』第10回借り来る(580‼)。 三苫君に会へば西宮君一万円は呉れよと学長に云ひしと。坪井宅へ寄れば(※京大入試)判定会と。史、出来ゐたりと。中島夫人また婚したしと。同窓会名簿原稿托す。 帰れば広田君のハガキ。守本主事より10時間やりたしと。この間電車で会ひし女詩人山根氏より『夜の詩会20』。広田、井上、武田、徳永諸氏へ礼状。 3月24日 8:00果物かごもちて家を出、大鉄汐の宮下車、国立大阪病院長野分院の伊東静雄を見舞ふ。北病棟にあり。面会謝絶でもなしと。ゆけば夫人尿瓶もちて出で来らる。 入りて御無沙汰のわびいふ。桑原武夫来りてわが名大のこと云ひしと。小野十三郎1万円もち来り恥ぢいりしと。死者のことのみ思ふとetc。 帰らんとすれば吹雪‼ うどんを食堂で食ひて待ち、やや小止みねらひて出で藤井寺。 大江叔母に千草陽生の手紙見せ、27日上京の時よろしくと云ひ、松原で下車。肥下にゆき伊東の病状云ひ、今川にゆけば正平のみ。帰れば[岩崎]昭弥のハガキ。南部英眞子のハガキ。 3月25日 また氷雨ぽつぽつの日。史をつれて入学手続に大手前へゆき坪井の話きく。中途で出、吉永氏より岩波写真文庫『文楽』もらひ、山田に電話かけし、天満橋で雲吞くひて朝日新聞の後藤に会ひ、 阪神電鉄に大河原訪ね(留守。住所のみわかる)日銀で鎌田の住所きき、市役所で筒井を見、山本の事務所にゆきしが不在。クタクタに疲れて帰宅。羽田先生より「この間の礼を送った」と、 恐縮。藤野、山根敬子、南部英美子、若森、岩崎昭弥、牧司へハガキかく。 3月26日 会社より呼びに来しゆゑ、行き寮規則の改正(退寮3日以内と)。すみて池田生に関大のこと云ひ、願書早く出せといひ、城平叔父より史の祝いはれ、大手前へゆき坪井より高[校]教[員]社会科一級免状もらひ、 府庁へゆき荒井と三●敏邦にお茶おごられ、別れて今川。4月14日まで休むこといひ帰れば水、東山、宮本、眞野、広田と彦根の諸氏よりハガキ。原口より東京にありと。 けふ会社より佐藤、魚住君に電話し梅本の声20年ぶりに聞きうれし(※梅本吉之助)。羽田博士より饅頭とバター。 3月27日 終日雨。史、教科書買ひにゆく(1338)。亀井来り12日の会の打合せとて例の長尾[も]昼食してゆく。 中西ドクターわれに会ひて話す。9月まで療養せよと也。午後父も饅頭もち来る。夕方宇田良[子]、東山、水の諸氏に礼状かき、広田君には30、31両日以外に来よと。 3月28日 10:00会社へゆき図書費2000もらひ、原、竹村2課長の間を往来して7人30日に入寮せしめることにつき相談す。帰りて昼食。15:00ごろ丹羽へこの間の礼をかね、 金井君の岡山聖心女子大へ就職のこと報じゆけば、彼方へもしらせしと。徳永嬢より京(※三女みやこ)の玩具は「犬ならず熊」と。岩崎よりまた求婚されしと。 池田生より関大商学部76番と。けふ白井三郎に電話し万代西4の8に住みゐると。紅松の住所ききたり。 3月29日 同窓会名簿原稿送り、羽田博士へ礼状出す。硲君より木曽へゆく、羽倉君ダメと。木村三千子といふ女詩人より大阪へ転居と。小林英俊。埜中清市より31日上六で会ひたしと。 ことわり書く。けふ一日家居。無為。 3月30日(日) 7名の進入者つかまへて寮則説明。10:30眞野君来り、郵便来る。桑原武夫氏より中島の原稿返送。守本氏よりわれ8(後10)、西宮君には夜間事務手伝はすと。河村ドクター、 藤野君よりハガキ。池田生より関大試験旨くゆかざりしによりたのむと。眞野君と昼食、出て片町より坪井にゆけば留守。明日吉永登氏の住所ききに来るをいひのこし、中西にゆけば不在。 堀内に100返し、コロンタイ『婦人論(20)』買ひ、西宮君にゆかんとし、電車賃なくなりしに気付き帰宅。 3月31日 家を出れば雨となる。丹羽千年と会ひ、片町より歩き坪井にゆき、西宮のこと語れば奈良中での教へ子と。大手前にて吉永詩の家きき雨の中を新森小路にゆき伊丹市の登氏の家きき、 雨ゆゑ行くをやめて梅田にて中華そばくひて帰る。宇田良氏よりハガキ。 春の雨いまだ冷く病むなれに障子を見ればわれもかなしも。 ひとり立つ心をもたず男われも時に失ふその心ゆゑ。 父来り3000もちゆきしと。依子の教科書代1031と。桑原氏の受取。木村氏へハガキ。金井氏の祝辞のハガキ。けふ聞きしに芝田馘首されしと。 4月1日 晴。依子におくれて放出中にゆく。入学式とてうだうだと説教きかされ、金儲けのうち見ゆ。帰れば広田君来あり。宇田嬢のハガキ来あり。竹村課長より今1名馘首せよと。 4月2日 広田君と朝食とり10:00大手前で別れ、高校にゆけば入学式はじまりしところ2000の寄付とるためうだうだと長し。持合せざりしにより抜けて帰る。眞野君より礼状。 けふ会社にて由良やめさせんといふゆゑ、吉村の健康わかりてのちといふ。 わが力国を救はず妻子らの飢みたすのみかかずらひゐる。 小高根二郎へ伊東静雄の病状。新聞に鎌田正美福島支店長となりしと。 4月3日 家居。畠やらんとせしも力及ばず。難波香寿子より礼状。島稔より本宮の娘、恋愛しゐると。 午後、庶務課長よび、水氏と蚊帳のこと相談。父来りしゆゑ金づまりを云ふ。咲耶富士ハウスのこと知らず、明日京へゆきて泊ると。 4月4日 晴、家居。『不二』来る。衣川のよべ買ひ来し本みなよむ。マーク・ゲイン『ニッポン日記』など。 4月5日 西宮一民より礼状。松尾部長をつれて竹村課長来り令息卓尓君の転校を桃山へ世話せよと。11:00来りし夫人と令息にあひしのち桃山へゆく。途中、中山勝次夫人に会ふ。 田辺本町5の55と隅田先生のおところ聞き、山本重武に寄りしも留守。隅田先生にお会ひしてたのめば8日つれ来よと。岩鼻先生の隣にてまへに一度お訪ねせしことありと。出て今川に寄る。 (途中、『日暮硯(5)』、茅野蕭々『独乙浪漫主義(50)』、板澤『昔の南洋と日本(5)』富成『日本科学史要(20)』、安藤『国語国字の問題(10)』を買ふ)。久美子以下あり。 出て北田辺までにて今川夫人に会ふ。会社に寄り松尾部長にいひ、保証人の印、竹村氏にもらひて帰宅。きのふよりウラルアルタイ語彙作りそむ。 4月6日(日) 終日家居。『三合便覧』終りソロン族終りゴルヂ終る。足立生よりレポート。不快。 子が飼ひしひよこ死にしをかなしみてわれはさめしを子らは眠りぬ。 うつそみのはかなきおもひはるかなる山辺の子をばこひしみてゐる。 4月7日 朝、史を区役所にやらし、昼、来りし父より『日本歌選』受取り、史つれて大手前。13:00ごろ着き、中塚先生と対面。この間のテストに国語80 (7/349)、英60、数70と。杉野、吉永、石山の諸先生と話し、事務室で2000の寄付出し、片町で定期(140)むりに売らせ、帰りてしばらくす れば羽倉君来り、北野の2部に就職せしと、うれし。洋菓子もらひ、長浜ボーロ返しとす。 4月8日 雨、子ら学校へゆく。われ家にをれば竹村課長呼び来り、ゆけば松尾卓尓君桃山だめなりしと。夫人隅田先生に成績証明とれずと云ひ、そのため校長より断られ食ってかかりしと。 桃山へゆかんか否迷ひ京橋へ出しに亀井に会ふ。梅田より天六にゆかんとし迷ひ、南田辺にゆけばお留守。天六にゆき平田君の家きき、塚口より雨の中ゆけば岡山出張。 明日学校へ訪ねるといひ靴に足くはれて京橋、蒲生。竹村課長にいひて放出をへて帰宅。 貧しくて苛立つわれのポケットに小銭かためていれてわかれぬ。 4月9日 よべ中ごろ目をさましてねむれず。8:30会社へゆき松尾部長と話し、関大へゆき平田君に会へば「末吉や吾の知るところならず、●直接校長にいへ」と。 明日午後来るといひ浪高にゆき平石氏に会へば丁度転入試験中。校長にききてくれ成績よければ入れん、金もちゆきても入るるや否、不明と。不快となりて帰り竹村、松尾2氏に云ふ。 明日関大浪高と順々にゆき見ることとし、帰れば小高根二郎よりハガキ。伊東見舞には13、15両日の中ゆきてみん、コルボオは3月限りで脱会せしと。夕方眠らんとして駄目。 帝塚山東高のこと思ひつきてふしぎ。 4月10日 9:00会社へゆきガラス、門扉破損の始末書かき、松尾氏に会ひ帝塚山東高校のこと云へば乗気せず貿易学校へゆくらし。成績証明書見しに1学期すでに成績わるし。 杉浦氏にいへばこれにて打切れと。竹村氏とともに出、関大にゆき平田君わび云ひ、山本の事務所にゆけば不在。阪神に大河原を訪ね、横山の所ききいろいろ話し(20年ぶり也)、 茶おごられ別れて山本にゆき本庄先生に会ふ。帰り省線にて●井の米田清治に会ひ家につれ帰る。西京大学講師とならん。西宮君とは知人と。17:30帰る。けふ隅田先生よりお手紙。 夜、日本史、世界史の2部の試験問題作製。 4月11日 久しぶりに登校。西宮君、楳垣教授とは旧知らし。中学兼任を命ぜられしと。式の学長の永き話に疲れ、文芸科の生徒に学科指導をし、すし食べながらの教授会。高岡氏入り、 長沖氏あり中田博士欠。石浜先生来られ14:00すみ、西宮君を佐野君に紹介にゆき、別れて住高。山本重武君と話し帰宅。亀井来り出欠の返事おきゆく。 10人以内にて毎回来ざりしは川西位と。 時間割 4月12日 天野忠のハガキ。宮本君より彦根の卒業生名簿、『コルボオ』来る。午すぎ散髪にゆき、会社へゆき帰りて待てば川西圭之祐先づ来り亀井、服部、荒井、高橋、橋本、三●、 後藤一人と8人来り、兵隊時代などの話して愉快なり。22:30帰りゆく。 4月13日(日) 晴。9:30面接に登校。41、2才のババアどのもまじへ50人をみな及第と。15:00すみ漢文の入試問題作りて白井にゆき見しに、わが旧宅のすぐ近く。全家留守らし。 帰宅して疲れて入湯、眠る。彦根短大の卒業式写真送り来る。 4月14日 9:00すぎ上町線の定期買ひて登校。古武、石田両博士の講演きく。退屈。庄野英二に伊東の病状いふ。この間佐藤先生の還暦祝にゆきしと。高校の漢文教科書受取り、 泉君と話し帰りて昼食。夜まで困り、住高にゆき市立病院にゆき(田村春雄出ぬ日らし。途中奥村嬢に会ひきけば結婚せしらし)、今川にゆきて遂に藤井寺。 大江叔母陽生に説教しくれしと。千草病気よきらしと。借金切り出せず学校へ帰り夜学の始業式に出る。明日欠勤を西宮君にたのむ。依子風邪欠席。 4月15日 あさ雨。10:00出て放出中学へゆく途、バス待つ亀井に会ふ。進学祝に木曜朝来るとなり。辻教官に700托し、梅田より大朝。谷川[新之輔]呼出し伊東の病状つたふ。吉村の息子、 皮肉なところ我にそっくりと父親云ふとなり。コーヒーのまされて別れ、上六。 天地書房にて『女性西洋史(50)』、坂井『日本歌謡史講話(60)』買ひて帰宅。本買はず子らがよみ物買はんとし、安本買ひてわれと苦笑す。依子の風邪はいまはやり風邪らしく、みよも3日ねしと。 古き恋ながほこりかに語りしを夜来にめざめていきどほりをり。 4月16日 登校。(早ひる食べて)初授業とて教科教授法やり相変らず手応なきに失望。1時間にて切上げ15:00よりの教授会開くを待つ。従来のメンバーに高岡、楳垣両教授の外、 三野助教授加はり教育論にて守本氏みなにやらる。われも出席よい加減を云ひ、下向かせしを気の毒に思ふ。二部の夜間一般の応募ほとんどだめならんと予想。 帰りて早寝(けふ今川にゆく日なりしも18:00まへとなりし故サボりし) 4月17日 休みとて寝てゐれば竹村課長来り25日弁当持参にて琵琶湖への遠足に行くべしと。亀井9:30来り、史の進学祝にノート10冊もち来る。この間の剰り金をみなの相談にてとのこと也。 藤井龍太郎死亡せし旨、従姉より云ひ来しと。そこへ郵便にて後藤一人のハガキ。早速返事かき序でに川西のところへ増田の弟やることとす。 その他に木村三千子女史のラヴレターめく手紙。中野英夫より悲観した如きハガキ。無きこと也。増田の父より柑橘一箱送り来り、 ややして松尾夫人この間の礼にと卵一箱(30ケ)とかまぼこ、梅焼などを賜ふ。亀井16:00までゐて帰りゆき、増田の弟20:00帰り来て駄目なりしと。 4月18日 私鉄ストの日。杉浦氏より黒田[製薬]しらべよと。10:30家を出て黒田にゆけば吉岡弥之助氏やめしらしく社長も不在。会計課長に会ひ明日短大へ電話たのみ府立図書館。 中村[祐吉]館長にたのみてカードのことなど萩野司書にきく。支那地誌150部位。出て市役所にゆき渡君にコーヒーおごられ本荘健男、小畑大悟の女と結婚しゐるときき、 市教委に八田君訪ねしも不在。筒井にまたコーヒーとケーキおごられ、梅田より帰り、会社にゆき杉浦氏に報告。 帰りて蜻蛉会員に礼状。七理にも書く。 いつもいつも貧しきわれを知る男けなげとほめてコーヒーりましぬ。 なが住める国に電車の通はぬ日それもかなしと山脈を見る。 4月19日 登校。45分前なりし為退屈す。高校2年手ごたへなく家政の歴史手応なし。岩崎君より謝恩金600もらふ。黒田にゆき吉岡専務に会へば止めしと。 社長とも話し天満橋で天ぷらうどん食ひ、坪井に会へば同窓会せんと。別れて会社。城平叔父に報告し松尾氏のこといへば謝礼返せと。25日の遠足ゆかずともよしと。 帰れば山城和子より手紙。 4月20日(日) 試験のため登校。西宮君には通知もれ、守本氏にいへば君より云ふべしと。月給はベース未定のため何時出るやらわからずと。国語の監督採点し歴史の採点し、 面接し、不満なり。すみて17:00、雨ゆゑ傘借りをかねて白井三郎にゆく。夫人近藤芳美(アララギ歌人)の妹と。夕食御馳走になり傘借りて帰る。 けふ入江来布氏より入学依頼。堀内進より本買ってくれと。大阪府立図書館萩野氏へ礼状。 4月21日 白井家へ傘返しに寄ってから登校。歴史(1文)漢文、国文とやり、やきもき屋へコーヒーのみにゆき(『東方学』2冊図書室へ引取ってもらふ)。2部の入学詮衡みなパス。 17:00今川へゆけば久美子胃病。正平とやり、すぐ出て古本屋を廻り、原隨園『アテナイ人の国家(30)』、加茂『世界文化史 上(50)』、折口『世々の歌びと』(きのふ折口信夫『日本文学の発生序説』買ひし)、 『近松 上(20)』、『其角句集(80)』など。帰れば岩崎昭弥より徳永嬢と絶交せしと。高橋一好より礼状。安田章生より夏にただで講演せよと。 4月22日 9:30家を出、大鉄デパートへ寄り『大阪東北部[※地図]』買ふ、25円に値上。『風土記(120)』。住高へ寄り硲君と話し、大高名簿未着とききしらべたのみ登校。高等学校教へ、 また大鉄へゆきコーヒーのみ、上六天地書房で『十訓抄(40)』『新葉和歌集(40)』『珊瑚集(20)』と岩波文庫買ふ。 大津の山本なる医師、結核の外科手術に自身ありといふと。けふ安田章生へ返事。寒し。末吉よりハガキ。 4月23日 私鉄ストにて学校休み。一日床にあり。ハガキ多くと。中野英夫への手紙かく。徳永昭子氏よりハガキ来しのみ。 わがよはひたけくしなりぬ放埒の翌朝のめざめ鏡を見れば。 4月24日 〒なし。岩波文庫144冊ありと計算。16:00家を出、2部入学式にゆく。市役所のアルバイト申込なき様子。学長いつもいつも大学のあり方につき長[口]舌。すみて又々京大出と紹介さる。 19:00出て帰宅。 4月25日 雨。会社ビワ湖へ遠足とて出てゆく。休めば欠勤とすと也。我臥床、シロコゴロフよむ。岩崎昭弥より『西康省』くれと。 『天理文芸』より稿料510!しかも上村孫作氏のと入れちがへ也。森生よりレポート。 4月26日 私鉄第3次スト中なるもゆき見れば天王寺で上町線動きゐる。高校休講。大学も一寸話せしのみ。渡にアルバイトのことにて電話すれば今の所不要と。塚本、安村2生とコーヒーのみ、 大高へ名簿のことでゆき見れば着きしと。警察病院にゆく途中、電車で藤村誠一と話し(15年ぶり)、病院にて耳鼻咽喉の主任といふ里村と話し(口ひげ生やしをり)、金沢、 松本一彦など帰阪ときき、玉井君ゐることを知り、西見舞ひしのち、西のレントゲンたのみ、保田、伊東のこと話して帰宅。 鈴木治より天理図書館にゐると。原田より病気全快したと。けふ自治会総会ありしとて菓子呉れ、衣川来りて委員長に再選されしと。写真帳作りたしと。 4月27日(日) 晴、家居。〒なく無為。 4月28日 8:50までに登校。9:00からの講和記念貨式に出、講義すませ15:00日赤アベノ分院へ松本健次郎をたづぬれば堺分院と。今川にゆき久しぶりに久美子教ふ。勉らは4日まで帰省しゐると。 今川ねえや逃げしと。学校へ帰り夜学の式に出、講義して帰る。けふ4月分のベース差額呉れ月俸21500と。石浜先生より原稿催促。玉井君より西のこと承知したと。父来り本2冊おきゆきしと。 4月29日 天長節とて休み。会社より呼出し、行けば俸給と賄人へビワ湖の弁当代。われ税金248。雨ひどく帰りて出ず。『天理文芸』来る。庄野誠一相変らず関係しゐる。 夜、栗生金3000借りに来る。間服出しにゆき子ゆく(1600)。 4月30日 登校。(天理文芸へ為替送りかへす)。時間早ければ大鉄百貨店へ松浦元一氏訪ねしも不在。藤沢昭子氏へと6枚書きて事務に托す。帰り田村春雄を訪ねしに藩札目録送ると。 Hydragid(※結核特効薬)は手に入らずと。また松浦氏見にゆきしも不在。今川にゆけば久美子あり。やがて来りしまみ子教へ、史の入学祝とてアルバム貰ひて帰り来る。 衣川呼びて栗生に金返せといひ、英語やりて疲る。(けふ黒田氏より催促の電話) 5月1日 10:00会社へゆき黒田社長のこといひ、城平叔父よりくはしく聞き、由良賄人のことにて終り、住吉高校へゆき山本君にタバコもらひ、硲君風邪欠勤とて隣席の女史に旗托し、 黒田へゆかんとせしが止め、梅田より市電にて松井氏にゆく。20:30うどん食べて帰宅。末吉より挨拶状。玉井ドクターより西、別状なしと。『薔薇』4月号にわが歌ほむ。けさ「スマトラ」6首『白珠』へ送りし。 メーデーは春北欧に来る日とぞ春の終りをなとともにゆく。 夜のおもひうたたかなしくうどん汁のみほしゐたりひとりとなりて。 5月2日 終日家にゐてカード作り写真帖はりかへす。亀井10:00より15:00までゐて兵隊の話してゆく。夜、衣川を呼び栗生に3000返してもらふ。 5月3日 憲法発布の日とて休み。昼すぎて大鉄百貨店へ寄り松浦元一氏と話し大江へゆけば勉らあらず。(子供の本160)。この間、父来り500とりゆきしと。叔母疲れて機嫌わるく説教ききて帰る。 (鹿熊鉄と電話で話す)。帰ってゆき子に説教伝へふくらす。けふ『東洋史研究』来る。 5月4日(日) 雨、終日家居。きのふアルバム帖はりかへすまし、けふ小説かかんとせしもやらず。けふより悠紀子副食節約と。安田章生より「ハイネの詩について」と予告せんと。 5月5日 子供の日とて休み。一日家居。小竹氏、久美子の「けふ来ずとよし」との便りもち来り明日会社へ来よと杉浦氏の伝言。 5月6日 会社へゆけば吉村の退職手当3000の稟議書かけと也。学校へゆき高校の漢文教へ未だ登校せぬ長尾嬢にハガキかき、遡及3509もらひ(税過納とて709返してもらふ)、 北畠にてストライキ期間の定期のばしてもらひ、奥村君に会ひして帰宅。けふ『天理文芸』より原稿料改めて来る。不二出版社へ藤田徳太郎氏『日本歌謡史』の注文かく。 けふ沢樹生、坂口允男の家の地図を届く。志賀直哉の旧邸のすじ向ひなり。 5月7日 朝から労務課総出で草とり(昨日に引つづき)気の毒なり。10:30出て住高にゆき硲君に礼いふ。日の丸受取りをらず。姫松の木村でクロー『支那人気質(20)』、 五十嵐『平家物語の新研究(15)』、倉石『支那語教育(50)』買ひして学校へゆき教科教育やる。壽岳博士、河上肇の漢詩訳の原稿を見せらる。(唐五代宋の詞なり)。 教授会なしとて今川へゆき、卵くはされて帰る。松浦元一氏より坂口徳三郎君のところ報せらる。 5月8日 終日臥床。史、和歌浦へ遠足、土産もちて帰り来る。木村三千子氏よりハガキ。『コルボオ』来る。衰へたり。「宣伝中隊」けふまで書きしがいやになり書直せしが旨くゆかず。 5月9日 会社へ寄り亀井に寄りして坪井に会ひ、同窓会名簿わたし24日に会とほぼきめて梅田。この間22:30ごろ帰宅せしと。上六にて泉井『這語民俗学(20)』、毎日新聞『世界の歴史・日本(80)』、 天地書房にて野尻『星(50)』『古今和歌集(20)』買ひて20:30帰宅。徴兵貯金48払ひしを200返してくれしと。 5月10日 雨、登校。高校大学教へしのち、西宮君とともに生徒さそひて朝日講堂の万葉学会講演をききにゆく。藤野、塚本、山中、斎藤、安村、平山ら8名。大浜、吉井2君来会す。 神田先生の話おもしろかりし。雨中を歩きてコーヒーのみ、タクシーにて大阪駅へゆき別る。齋藤生にきけば長尾禎子退学する由。けふ寮にて取引先を招待、大さはぎなりしと。 5月11日(日) 終日家居。「宣伝中隊」30枚を越す。天野忠より6月例会8日と。木村三千子氏より詩。 5月12日 〒なし。千草よりみさ子の古着るゐ送り来る。「宣伝中隊」68枚となり、ひるすぎ警察病院へゆき玉井君にわたし、真法院町の日日新世界社さがせしもわからず。 アベノ橋まで歩きアテネ文庫『アテナイ人の生活』見つけ、市立工芸へゆき笠井君教務課長となりしに会ひ、平野線で今川。西川如見『町人嚢(20)』買ひ、正平、久美子教へて帰り来る。 けふリッジウェー(※第2代連合国軍最高司令官)帰来。 5月13日 学校へゆく途、散髪す。高校なく12:50までに梅田O.S.劇場へゆけと。古本屋見て時間つぶし「ホフマン物語」[観]る。子らわからぬらしき様。山本治雄にゆく。 (劇場に本庄先生来[合]はさる。支配人大高と)。この間東上、西川に会ひしとてハガキかきゐしに寄せ書す。 出て伊庭孝『日本音楽史』買ひ、大東楼で会食。英語の川口徳彦氏と●●話す。すみて生れてはじめてパチンコやり「光」2ケ。土屋文明『万葉集入門』買ひて帰る。八木嬢よりハガキ。 5月14日 早昼食べて登校。教科教育法やり(硲君来りしと。夜間月曜に詩●会やると)。教授会。1年文芸47人。夜間一文37人と。17:30すみて帰宅。 5月15日 家居。〒なし。入浴せしのみ。(亀井来り『戦陣訓』もち呉る)。 5月16日 東方学会より会費請求。昼すぎ出て会社へゆき図書費もらふ。府庁にゆき荒井に会ひ、蜻蛉会の写真もらひ大手前高校にゆきグランドにて野球しゐる坪井にきけば24日の会は彼上京のため駄目と。 (『万葉集 下(90)』)。 5月17日 登校。長尾生より速達にて「退学とり止む」と。20日高校のPTA総会にて参観ありと。「会議は踊る」の学生券2枚買ひ(140)て出、梅田。「ヴァレンティノ」[観]る。 帰れば西保君より歌集出したしと。坂口君より21日の予定報せと。 5月18日(日) 臥床、入浴。〒なし。 この一日心あはずてすごし来しわが云ふときにうべなひし子も。 5月19日 登校。歴史、漢文国文学おしへ月給もらひ、文2委員たちに奈良旅行のための万葉抄わたし、阿倍野交叉で『上宮聖徳法王帝説(30)』『後撰和歌集(20)』『ぎや・ど・ぺかどる2冊(40)』買ひ、 田辺で駒井卓『人間の遺伝(40)』、藤井乙男『俳諧研究(30)』買ひして今川。久美子に「会議は踊る」の切符やり真み子まで教へて帝塚山。うどんパン食ひ2部教へ、 詩歌の会といふに21:00までかかりて帰宅。角川書店より創刊『俳句』。 5月20日 雨、登校。齋藤生、万葉のプリントきれいに仕上ぐ。高校4時間目なく5時間目母2人見学。14:00出て地下鉄。大丸隣の佐渡島金属にゆき梅本(※梅本吉之助)に20年ぶりに会ふ。 ビルマより帰りしと。出て大丸へ本見にゆき地図『田辺1/25000』買ひして今川。みさ子に絵本買ふ(50)。けふ東方学会へ800送金。名刺130にてあつらふ。 5月21日 奈良への遠足に付添ふとて徳庵で鳥打帽買ひ(430)、30分まちて遊覧バス3台に160人のる。津熊、山城、伊井3卒業生を加ふ。法隆寺中門で説明さされよわり、中宮寺へ25人ゆくにつきそひ、 20分おそくなりしとて守本氏いやな顔す。奈良三笠山の下にて解散。万葉植物園へ西宮君と12、3名つれゆき写真、樟の木の下でとってもらふ。東大寺まへで乗車。 阿倍野斎場で吉井巌君に逢ひ、降りて西宮君と3人にて茶のむ。 5月22日 不二歌道会鈴木正男君あて『日本歌謡史』のとりしらべたのみ、会社へゆかんとしゐしに電報。山本治雄より「丸、下阪につき来よ」と。すぐ行けば山本、丸ともに行方不明。 沢井判事にゆきしにわからず。三越へ佐々木邦彦の「穣高」見にゆき村山高の勤先さがせしもわからず。沢田の事務所もわからず。梅新でパチンコして時間つぶし、 16:00丸の泊る大一ホテルへゆき山本まち、大松先輩の酒場「ローレル」といふへゆき夕食。そのたと梅新のCAFÉにゆき23:20までビールのみ駅前で別れて帰る。 (けふ父に会ふ。口みつかり城平叔父「手川の家かす」と云ひしと。) 5月23日 家居。『日本歌謡史』来る。岩波講座『日本文学』所載のものと。『Poets’School 22』来り、あひかはらずわれを会員とす。『玉台新詠』と『古詩源』とを校(※くら)ぶ 5月24日 登校。寺本信子奈良万葉植物園での写真呉る。田村春雄にゆけば在宅。芝田氏の藩札のリスト預り、向ヶ丘の立野保男訪ぬれば在宅。分裂症なりしと。いま商大講師としてドイツ語教ふと。 別れてアベノ橋で雨降り出づ。京橋でパチンコ屋へ入り30で光3ケ、キャラメル1ケもらひ、あと20円つかひ放出でまた下車。買物して帰宅。 5月25日(日) 9:00家を出、丹羽千年にゆけば桂信子岡山の句会へゆきしと。知合の嫁たのまれ、出て梅田へ「Der Kongress tanzt(※会議は踊る)」見にゆきしにかはりゐる。 ナンバへゆきしもここもかはり、上六にゆき『覚後禅(130)』(そのまへ木下杢太郎『食後の唄(150)』)。18:30天地書房で『南蛮更紗(60)』、史学会『世界史概観(20)』、 井村『中国古代社会経済の研究(100)』、『ドイツ民譚集(30)』と買ひ、小阪にゆき堀内で『好色一代男』『義経記』『詞華和歌集』と『覚後禅』ととりかへ、 山口実にゆき西保の200わたす。只一人の(※女学生で『祖国』)購読者と喜ぶ。引返して中西にゆき、きけばhydragid手に入るゆゑそのうちにやらんと也。21:30帰宅。茶漬くふ。 父より前任者健康恢復、口だめと。東方学会より「800受取り300あまりし」と。間違なり。 5月26日 昨夜0時すぎまでねられず苦し。登校すれば長尾生わか布たまふ。聴講指導やり国文学史の時間流してしまふ。コーヒー柴田へのみにゆきてのち今川。 「Der Kongress tanzt(※会議は踊る)」見しと。引返して夜学。クタクタになって帰宅。 快き疲れにあらね兵隊のわれのたびたび欲りし眠りよ。 けふ二部歌会へ2首わたす。 5月27日 雨。登校。高校2時間やり硲君来りしと話す。金なくてつらく早々別れ市立病院へゆけば田村君帰宅。今川へゆき久美子不良化の原因を守本氏ときき17:30帰宅。入浴、食後すぐ眠る。 5月28日 竹村課長来りしゆゑ話し、丸、徳永昭子2氏のハガキ見しところへ父来る。3000わたして出、住高に寄り硲君に会へば市営住宅当りしと。午後2時間すまし教授会。すみて自治会との話合。 5月29日 休日。玉井君より小説7月号へと手配せしと。次の締切20日と。八木君より中西先生にさとされハイドラジッド熱(※所望熱)さめしと。富永(※天理図書館長)月末まで上京と。 徳永、丸2氏へハガキ。大阪国文談話会へ8日の会のことわりす。会社へゆき坪井宅へゆけばまだ帰らずと。ゴンチャロフ『日本渡航記(50)』、小林『地獄の季節(30)』、 エウリピーデス『ギリシア悲壮劇(70)』、西鶴『男色鑑(50)』買ひ、大手前へゆき坪井と7日の会の相談し、西鶴与へ家へゆき、茶よばれて帰る。 5月30日 終日家居。〒なし。 5月31日 登校。『エウリピーデス』図書室に買はせ、硲君より市営住宅のこと市役所で問題になりさうときき、大高同窓会の手紙受取り、長沖氏の分、同氏宅の郵便受に入れて別れ帰宅。〒なし。 6月1日(日) 静安学会より7日住友家の銅署見学の案内ことわる。これにて7日2つ、8日3つ会あることとなる。入浴、無為。 6月2日 登校。遡及出ず『鴎外全集1』出しと。立川陽子写真2枚呉る。齋藤と出てアベノ橋。今川で真美子より松尾東高校へ就職らしときく。風巻『日本文学史ノート2(20)』、 荒木『中世日本の庶民文学(20)』買ひ雲吞食ひて夜学。山城和子より手紙。広田一彦よりハガキ。 6月3日 登校。高校の漢文教ふ。遡及2、3月分7080もらひ、長沖氏と話せしあと14:00出て大鉄デパートより上六。枇杷食ふ。天地書房にて春夫『風流永露集(50)』『蝗の大旅行(70)』買ひ、 鶴橋にて西宮君に会ひて帰る。〒なし。けふ『鴎外全集1』受取る。 6月4日 道教学会へ300送り、西保、山城2嬢へハガキして登校。(大より雲井移転先さがしにおくれしと。9月出すと云ふ由)。教科教育すませれば、齋藤生アカハタと朝日グラフと見よと貸しくる。 教授会。図書費文芸10万円と。すみて山本にゆけば中々帰らず。書生サセ君と韓国人と話す中、18:00帰り来り今夜20:00より講演と。桜橋にてビフテキおごられ講演きかさるることとなり、吹田、 山本宅へ夫人とあき子ちゃんと呼びにゆかされ、破防法ききて山本宅へ帰り、夕飯くはされ、碁一番やれば電車なくなり泊る。山本7日のクラス会へ出席と。 6月5日 10:00すぎ山本と出て梅田で別れ、古本屋まはり柳田『方言覚書(70)』、散髪(150!)、疲れて帰宅。坪井より出席者と欠席者一覧。大河原一派来ずと。雲井書店と大にハガキ。 6月6日 吉川綾子の送別式との由にて8:30家を出てゆけば長沖、小野諸氏も来をり。すみて出、藤井寺の大江叔母にゆく。合服暑さうなりとて裏無しとぬぎ替へて昼食たまひて出、 日野月先生と途で逢ひ挨拶し、肥下にゆき畑へゆけば、雨降らずば(※同窓会に)ゆけずと云ひ、会費出せずといひす。今川へ映画の切符もってゆく途で松尾四郎に会ふ。 平野へゆき寄宿舎の相野訪ね、ともに出て古本屋見、ソーダー水のまされアベノ交叉で別れ又古本屋。野尻抱影『星の美と神秘(20)』、中川『妻妾論(100)』買ひて帰宅。 6月7日 登校。長尾生、相談ありと。12:00まで待ち、齋藤生と3人で出、大鉄デパートの喫茶室できけば演劇方面に就職世話せよと。齋藤生も教師となると。細工谷のクラス会場まで伴ひ話きく中、 坪井来り2生退去。坪井と碁うち(4、5回)、梅本、白井、郷崎、山本、山田、本庄先生、関口と順次に来り、肥下閉会まぎはに来る。5500の収入にてあと坪井にまかせ、 われは名簿発送引受く。関口の自動車にてゆく6人と別れ、桃谷駅にて白井、梅本、肥下と別れて帰宅。 6月8日(日) 会社の遠足の日なるにまた雨。昼寝せしところ14:00中野英夫君来訪。夕食後、心斎橋へゆき大塚女史に会ひ、きけば此間は竹内に会はざりしと。自殺せんとせしことありと。 電話なきため森永へゆき守口に電話せしにかからず。自動車にて天満橋、守口へゆき松下病院へ中野嬢たづね、我家へとすすめしもきかれず。雨中帰り来る。 (けふ名簿の発送のことしをへ、天野忠より500受取りのハガキもらふ。あと300と。) 6月9日 中野君をのこし(三沢先生と武田嬢のところきき)登校。立野君より手紙。詩をやりたしと。長尾生見合するゆゑ就職ちょっと待つと。吉川綾子に送別の名刺托し今川。 すませて学校に帰れば長尾、斎藤まだあり。話して夜学。帰り来れば中野君10:30ごろ出しと。正剛の息子らしとゆき子の話。なるほど叔父の話(※詩人の)秀人のことらし。咲耶より挨拶状。 6月10日 登校。長沖氏と話す。(名簿の発送す、16通160)。ひるすぎ出て田辺東之町6丁目芝田氏をたづぬれば山本へ転居と。今川へゆき梅本へ紹介状かき電車賃200もらひて帰宅。 『祖国』6月号と藤本真理子氏より「近畿ところどころ」5枚17日までにと。 6月11日 登校。すみて(田村春雄をゆきがけ訪ねしに8日より6日間上京と)放送局、藤本まり子氏に会ひ、原稿承知といひ、大手前へゆき坪井に会ひてきけばクラス会まだ[精]算せずと。 守口にゆき中野嬢に会ひて大略話し、近日来たまへといひて帰宅。大毎より25日までに詩1篇をと。山本家創業80年のバックルを杉浦氏とどけたまひし。『文学雑誌』の杉山君の専務物よむ。 6月12日 会はずして日数へぬればいかばかりかなしくあらむためし見むとぞ。 伊井玲子より西保への伝言何なりしやと。亀井来り末吉2.4万円貸せといひしが答へざりしと(卵もち来る)。午後会社へゆく。自炊にせんかと。 6月13日 家居。横山と俣野より名簿つきしと。ウラルアルタイ学会、棈松(※あべまつ)氏より29日に講演せよと。諾の返事かく。(シロコゴロフの『ツングース語字典』につき話さん)。 6月14日 登校。電話立野保男君よりかかり来り、13:00まで待ち中島文庫見せ、家へ伴ひ帰る。応対少し変なれど勝手にこちらのみしゃべり夕食食べてもらふ。由良賄人より25日頃までと佐世保より。 『不二』来り保田の写真のれるを見れば髯生しをり。けふ「続 宣伝中隊」かきそむ。 6月15日(日) 家居。ハガキ多く来る。北海道の高梨富士子氏より母上死なれしと彦根へ。紅松より名簿の礼状。岩崎昭弥より7月来たしと。コルボオより7月例会13日と。 昼寝し前後にJOBKのため「野崎参り」10枚かく。衣川ら本買ひ来り安田徳太郎『人間の歴史2』よむ。大して腹立たず。 6月16日 登校。 遅刻すと泣きじゃくりつつ出でし子を時すぎしのち忘れかねつも。 教へ了り今川。すませて春夫『花と実と棘(10)』買ひ、帝塚山4丁目でうどん食ひ、学校へ帰れば長尾生パン呉る。夜学生すみて短歌会するとのことなりしも流会。喜んで帰る。 伊井嬢よりハガキ。保田より同。 6月17日 登校。午後齋藤龍太郎と藤沢桓夫2氏来校。帰らんとすれば長沖氏コーヒーおごらる。この頃ラヂオで好評と。今川へゆき中野嬢来るかと思ひて帰りしに来ず。 西保恵以子より25日に来ると。安田章生より8月8日に「ハイネについて」話せと。『俳句』2、『白珠』7月号。 6月18日 登校。すみて教授会。吉川綾子に10万円もちゆかせしと。白浜行で院長と守本氏と対立。サラリー出ず。「G線上のアリア」安村生にきかされて退出。けふも中野嬢来ず。 徳永嬢より8月来彦のうはさききしと。棈松氏より礼状。 6月19日 9:00会社へゆき図書費5、6月分2000もらふ。城平叔父、康平叔父を叱る。出て大手前にゆき坪井の授業待つ間にJOBKにゆき22:40より放送とたしかむ。 坪井、氷うどんおごり呉れ、この間の会5700ですませしと。梅田にゆき帰り小雨。鎌田よりハガキ。 6月20日 朝から「続 宣伝中隊」かけずうだうだしてゐるところへ〒。薄井菫子夫人より薄井(※薄井敏夫)23年7月発病、25年4月6日亡くなりしと。かなし。西川よりハガキ。立野保男より礼状。 硲君よりまだ転居せずと。玉井一郎に会へば原稿月曜でよしと。保田夫人心臓脚気と。帝塚山学院へゆき、川西、高岡、三野諸先生の評判わるしときくところへ高岡博士来らる。 月給もらひ『鴎外全集』13回とりて藤井寺へゆけば大江叔母病臥。初枝叔母服くるると。夕方になり肥下へゆけば夕食中。薄井のこと告げ、ジャガ芋もらひて帰宅。 6月21日 きのふより風邪、発熱すれど登校。45分まちにつき定期を買へず。すませて大学南校へゆきしも要領えず。(帝塚山書店で田中香涯『江戸時代の男女関係(50)』)。帰りてひるね。 熱とれず。藤田久一より礼状。けふ坪井に手紙かき、史にもちゆかせしも反響なし。 6月22日(日) けふも発熱36.8℃位なれど暑くねころがるのみ。山城和子より手紙。保田、西川、関口、高梨の諸氏へハガキ。「宣伝中隊」うまく書けず。 6月23日 発熱、せきも止まず。9:00ゆき子に学校へ電話かけしむ。雨ひどき中を17:00女の声するに齋藤、長尾2生見舞に来りしと。菓子と花呉る。日くれさうゆゑすぐ帰りゆく。気の毒なり。 6月24日 10:00出て警察病院へゆき名刺通じて散髪。玉井君にことはり云ひ、出て上六まで歩き天地書房にて『春夫全詩抄(60)』。大手前にゆけば坪井あり。関口より28日15時すぎ京都へつれゆくと。 出て古本屋で田代晃二『言葉の使い方(130)』買ひ、春日出行にて暁明館(※病院)。中西の診断書受くれば結核はなしと。咽頭炎の薬もらひて大毎へゆき「七月の大川」受付へわたし、 山本の事務所へゆき忙しげなるに薄井の死を告げて帰宅。けあ中野英夫へ中野嬢来ずと速達。大高同窓会へ420振替。 6月25日 よべ中西の薬のみて寝しに副作用ありて眠れず。学校へ電話かけ西保和歌山より来ば家まで来よとの伝言たのむ。来ざりしは如何なりしやらん。夕方まで食欲なくぶらぶらす。 6月26日 10:00暁明館へゆき(西成線野田よりゆけば早し)、薬の副作用いへばさることなしと。また調剤注射し呉る。八木嬢来ゐたればつれて天満でうなぎ食ひ『詩経(60)』買ひしてバス。 徳庵橋で父に会ひ「健に送金いへ、大より結婚の相手見つけたと手紙ありし」と。丹羽の信子に再婚の気なきやききあはせに行ってもらひ八木嬢と16:00まで話し、入浴。 6月27日 終日臥床。東洋史研究会より90送れと。シロコゴロフ辞典をよむ。旨く話出来さうもなし。 6月28日 登校。みな見舞云ふ。2時間すませてウラルアルタイ学会の原稿切り、(硲君に会ふ。住宅うまく行きさうと)。そこへ村田幸三郎より電話。田代重雄九州より来阪しゐると。 すぐゆき田代に会ひ、中間の炭坑の自動車課長らし。藤田に紹介せんといひ、村田西尾の仲悪きをきく!ともに出てLaurelにゆく途、西野半造来り4人にて麦酒(われは喫茶)。 15:00すぎ自動車にて大手前まで村田に送ってもらひ、30分して来し関口の自動車で京都。畠山六衛門邸(大京KK専務)にゆけば大阪と。18:00すぎまで待ち円山公園の「菊の井」にゆき入浴、 夕食。祇園の「みの家」といふに席移し、又singer。われのみ23:30畠山氏へゆきて泊る。(台湾嘉義にありしと。令嬢同志社中学へたのむと)。 6月29日(日) 鯛もらひ10:00自動車にて京阪三條まで送られ、特急にのりて11:00すぎ京橋。一旦帰宅。父よりハガキ。『祖国』7月号(つづきとをはりに記しあり!)。下調べして13:00家を出、 14:00まへ外大へゆき、山本守氏のあと「シロコゴロフのツングース辞典」につき話す。あと鴛淵博士(※鴛淵一)つまらずだるく先出て(会費100払ひ!)、 大軌デパートで井筒『マホメット』買ひて帰宅。 6月30日 登校。3時間教へ、守本氏に夜学の断りいへば、補講西宮君にゆく。4:00出て今川にゆけば大江叔母の看病に藤井寺と。(アベノ交叉綿野でBaedeker『Paris(100)(※旅行案内書)』『耳袋(80)』)。 南方(※熊楠)全集よめば昨日の鴛淵博士の話そのままにあり。 7月1日 雨。登校。高校の授業今週限りと。太宰博士補筆油たまはる。鞄にぬれと也。中馬生、東京土産とて海苔呉れしをもちて藤井寺。久美子にも会ひ、 帰り近鉄百貨店で後藤朝太郎『佛印・泰・支那言語の交流(80)』買ふ。わけのわからぬ本なり。眞野君より木之本へ転任にならんと。原田運治より礼状。 岩崎君より本代300。毎日夕刊に詩出ず。 7月2日 雨、登校。教授会。帰れば『東方学4』と八木嬢のハガキ。『南方熊楠全集』よむ。風邪ほぼよし。 7月3日 9:00出て布施へゆく途、竹村課長と同車、楠根川溢る。小阪にて大進堂により、米田祐太郎『支那艶詩選(40)』買ひ、郵便局で1700とり、上六より大手前。坪井に会ひ、 村田に会ひにゆきしに東京出張と。大毎の前通り、2日夕刊に「7月の大川」のれるを見る。19:00帰れば大毎より金送りしと。山本書店より書目。東洋史の本上りしもよきものなし。 いつしかに真夏となりて金もたぬわれらなげきてちまたゆきかふ。 別れぎは金のことをば云ひしをば別れしのちの悔しさとなす。 7月4日 家居。大毎より掲載紙。玉井君より7月20日までに「宣伝中隊」をかけと。大高同窓会より11日森田先生の会と。断り状かく。父来り『八代集』もち呉れしに200わたす。夕方守屋君へゆきしも不在。 7月5日 登校。高校の試験問題わたし、住吉高校へゆけば山本君授業中。硲君に300托し弁当食べて萩ノ茶屋の古本屋へゆきしに見付からず。ナンバへ出、朝日会館へゆき「会議は踊る」を見る(100)。 泪出しは青春を思ひ出してなり(20年前見し)。梅田より帰る。白鳥先生の次男郁郎氏死と。田代より挨拶状。西保より大毎の詩を見しと。『南方全集』3、4、5よむ。 7月6日(日) 家居。数男よりゆき子に20,000送り来る。難波[礼]二『朝鳥』跋にわが名あり。午後正平来りビスケットもち来る。(午、森来りパン食ひゆく。原課長だめなりと。 安倍の嫁去ると挨拶しゆく)。山前あてに詩2篇書く。 7月7日 登校。点きつく出欠厳重にてわが評判よくなきらし。出て金田一『北の人(10)』、市村『文京論集(50)』と長沖氏の少女小説(10)とを買ひ、今川。すませて学校へゆけば丁度時間よし。 芝居にておそくなりし松井生らと帰る。岩崎昭弥よりハガキ。 7月8日 白鳥郁郎君の[弔]み状、清先生へ(500同封)。岩崎昭弥より『詩集西康省』つきしと。登校。高校へゆけば漢文は土曜、今度より1単位となりしと。伊藤生、白鳥郁郎君に習ひしと。 夫人ありしと。15:00すぎまでコーヒーのみなどしてアベノ橋。天海堂で芳賀檀『英雄の性格(30)』。今川にゆきまみ子と日本歴史、英語。帰れば20:00。 7月9日 安田章生より8月8日の案内に入場券5枚と送り来る。売って小遣ひとせよと、嘔吐!登校の途、長沖邸に寄り『コギト』(池沢の預けし)7冊受取る。授業すませ給料受取り市民病院にゆけば春雄手術中。 地下鉄にて(コーヒーのみしあと)心斎橋。駸々堂にて地図と『アテネ文庫』2冊。ピース10ケ包まして山田の事務所にゆきしも不在。引返して新谷病院を訪ふ。白髪になりたまふ。 西垣清一郎3人目の妻女共産党員にて共産党と。今中の会報もらひて出、帰宅。(十合、大丸と見し)。けふ大毎の稿料来しと。 7月10日 会社へ久しぶりにゆけば大掃除のこと、電気代のこと。次いで専務と会へば原君との間心配して今村氏に云ひおきたりと。彷々の態にて逃げ出し中西にゆけば日曜の同窓会にゆかんと。 八木君今帰りしと。大毎にゆき学芸の稲本君に会ふ。『コギト』よみしことありと。やがて永井正三氏来り、伊東、芳賀、保田のこと話し、雨の中を出て朝日。 谷川[新之輔]呼出し茶ふるまはる。伊東ハイドラジッドでよくなりしと。出て松坂屋ホールの「女の一生」劇を見る。見るに耐へず。 出て雨中、古本屋にゆき今『人間の研究(90)』『東蒙古(100)』『小説より見たる支那の民族性(40)』買ひて帰宅。をかしな日なりし。 7月11日 立野保男より詩、庄野英二より洋行の挨拶状。家居、事なし。 7月12日 登校前『東洋史研究』会費290払込。学校へゆき歴史(家政科)は話。すみて高校へゆき採点すませれば12:10。昼食し(平山、寺本、中馬、斎藤、長屋に『白珠』の入場券わたす)、 帰らんとすればBonus(10,800)呉る。コーヒーのみにゆき女子大生3人天理図書館の話するをきき紹介せんといへば後刻来る。高橋重臣にかく。 (同窓会名簿2冊240)。近畿方言学会楳垣先生主催であり出席。つまらぬこと云ひ後で気になる。東京の日本書房より来し本の 中、小倉『朝鮮語方言の研究2冊(500)』、金沢『言語の研究と古代文化(300)』、『原人の思想(100)』、小倉『国語及朝鮮語のため(380)』と1280払ふ。西宮君と氷のみて帰る。 入江来布氏より月曜までに何か書けと。『不二』。岐阜の詩人平光善久氏『伽羅雲』寄贈を受く。 7月13日(日) 午前中大掃除やり、平光君へ礼状。本荘健男へハガキ。14:00家を出、15:00今高へ着き中西、宮崎、塘、筒井と5人のみ同期。鹿島、粟津などと食堂で一緒になる。 18:00出て中西宅へゆき碁打ち夕食よばれて22:29帰る。ゆき子傘もちて迎へに来る。 7月14日 登校。2時間やり午後切捨てといひ昼食すませれば伊藤賀祐来る。論文の英文直してくれと。楳垣先生に御相談すればやって下さる由。(入江来布氏にゆき原稿のこと云へば明日でもよしと)。 庄野英二の送別会との由に職員会に出れば説教なり。理事者職員とも驚くにたへたり。教授会で明日のデモに参加とのことに引受けて上野芝へゆくこととし長尾生呼出し、 行けばまだ帰らず。19:00となり春雄宅へゆき夜学ことはりの電話かけ(春雄留守。)、長尾生と別れてゆけばまだ帰らず。父母と話しゐる中21:00帰宅。連れて駅までゆきき(※デモ不参加を)さとす。 7月15日 登校11:00。守本教授に11:00すぎまで会へず。やっと掴へて昨日の報告し、劇の援助金交付をも乞ふ。斎藤はるみを好まずと云ふ。すみしところへ八木明子氏より電話。 富永牧太氏今月末渡欧と。楳垣先生、伊藤に土曜会ひたしと云はれしゆゑ、出て上六へゆき散髪。明ちゃん呼出して茶のませ、伊藤にゆけば上れと云ふを上らず。 今川へ帰りて藤井寺へゆくと云ひ、手紙ことづかり大江。叔母全快祝をしゐるに行合せ、入江氏の雑誌の原稿かき、すしよばれウィスキー1瓶もらひ、風呂へ入って帰れば22:30。 山城和子生よりハガキ。 7月16日 登校。硲君来り、まだ転居せずと。教科教育の時間に漫談し、安村生に山城君の伝言たのみ(白浜行なしと。演劇部に5000わたせしと)、梅本に電話して15:00ゆき、 大丸喫茶室でコーヒーおごられ、湯川嬢のことたのみ、大丸と十合にて今川の子供たちに本買ひてお中元とし、わがためにも『小辞典』3冊と『中世歌謡集』と買ひして今川にゆき、 正平の成績簿見、帰宅。 天野忠君より臼井(※喜之助)除名。来月より活字に「コルボオ」をす。丸山薫より略歴送れと。中野英夫より結婚談はあとでと。(けふ十合で昌三叔父に会ふ。「十年」9枚を「梅花」社へ届く)。 7月17日 9:00出て小阪。山口実にミシンのこときけば15,000出せばよきのありと。布施郵便局で1700受取り理事長宅。執事にwhiskyわたし夫人に会はず(開衿シャツのため)。 近鉄百貨店で松浦元一氏たづね、コーヒーとアイスクリームよばれ、近日母上に会ひにゆくと云ひ梅田。暑くすし食ひてせん風器にあたり、池田亀鑑『平安朝の生活と文学』買ひて帰る。 『俳句3』(※角川書店)。白鳥家より挨拶。浪中より?20日同窓会と。 扇子買はせあふぎてやりて別れけり。 けふより史、水泳にゆき忘れし物を担任中塚先生(化学)届けたまふ。恐縮して夕食差上げ三高にて羽田に習ひしときく。夜1:00大震(※吉野地震)。 7月18日 家居。小川君のもち呉れしBonusを賄人にわたす。よべの震源は十津川と。悠紀子買物にゆき丹羽みさ子に会へば牧落に家買ひしと。父来りしゆゑ3000わたす。 西保より『日本歌人』に入らんかと。よからんと返事かく。 7月19日 登校。途中停電となり伊藤賀祐と同じ電車なりし。ゆきて待つ中、楳垣先生お越し。われは何もせず。午飯とり(300)、15:00出て近鉄百貨店で伊藤にお茶おごられ、 鶴橋で楳垣先生と別れ、伊藤に(※論文英語校閲)お礼3000とききて別る。 けふ近畿方言学会へ入会(200)。岩崎より『人類遺伝学』(※田中克己著)見し由、同名異人の仕業ならん。埜中君、丸山薫より。岡本和子「6ヶ月にて離縁していま埼玉」と。 けふゆき子山口君にゆきミシンたのみ来しと(13500と)。 7月20日(日) 家居。庭の草、実ととる。「宣伝中隊」69枚となる。中野英夫より地震見舞。礼状出す。夜、亀井来る。けふ浪中の同窓会なりしもゆかざりしと。 7月21日 会社へ久方ぶりにゆき、城平叔父、康平叔父と会ひ、警察病院へゆき玉井君に原稿わたせば保田大論文かきしゆゑ(※掲載を)2分せんと。インターンのこときけば城平叔父の名刺もらふべしと。 吉田和成見舞ひて(書店地方価いひしゆゑ見舞[ま]たず)今川へゆく途、『万葉女人像(20)』『見聞談叢(20)』買ひてゆけば、久美子大掃除の手伝ひにゆき真美子教へ、出て帝塚山。 太宰博士菓子をたまふ。長沖氏高野山へゆけずと。 けふ青木陽生より地震見舞。若森敏雄より暑中見舞。14:00ごろ山口実君ミシンもち来りくれ13,500払ひしと。 7月22日 郵便なし。家居。きのふより女流歌人集あむ。 7月23日 10:00出て会社へ旅行届出し原君にことはる。大手前へバスでゆけば坪井をり、十合たのむとのこと。出てカレーライス(80)食ひ、大阪新聞へゆかんとせしが果さず。 13:30省線にのりて芦屋下車。古本屋で『ハイネ書簡集(80)』買ひアイスクリーム食べす。(天満橋で『おあむ物語(20)』『玄奘三蔵』買ふ。)ざるそば食ひて別る。 風吹きてややよき日なりし。岩崎昭弥よりハガキ。 7月24日 9:05ナンバにゆけば9:00集合なりしらし。9:30準急で12:45成福院(※高野山宿坊)着。楳垣先生着をまち院長先生と碁打ち6目となる。22:45寝間へ退く。 7月25日 8:00より23:00まで会議。13:00より15:00まで散歩。去年来し古本屋に本何もなし。遠藤教授きのふまで高野山にありしと。けふ電話せしにをられず。 7月26日 会議大分らくになりし中、碁打ちにてふらふらとなる。夜、まとめて報告。隣室のさはぎをよそに眠る。ハガキ5枚出す。 7月27日(日) 9:00すぎ自動車にてケーブルまでゆき9:50発で12:20ナンバ着。支那料理くはされて帰宅。留守中『中国地方志綜録稿7四川省』2冊。『Poets’School24』。西保恵以子より3日来たしと。 藤野生より好きな音楽について。木村三千子より姉の詩集を臼井喜之助へ届けてくれよと!米沢生より暑中見舞。徳永昭子より某君と恋愛、結婚許されずいかがすべしやと。 日野君より図書購入について。 7月28日 よべ眠り足らず。家居。松永生より29日夕『狐の詩情』について話に来てくれ、8月12日もと。中川いつじより暑中見舞。都新聞より9日までに「詩人と思想統制」2枚半~3枚と。 依子、宮本君に世話になりゐしが夕方(※彦根より)帰る。河村先生、藤野、徳永諸氏に土産もらひ来る。 7月29日 雨にて涼し。津熊生、西宮君、広田一彦君より暑中見舞。方々のハガキかき14:00出て会社。城平叔父にBonusの礼云ひ、梅田のSwan書房へゆき『狐の詩情』3冊(90)と長沖一『大阪の女(20)』買ひし、 藤井寺。大江叔父腹痛でねてをりダラ●助よろこびてのむ。17:30出て短大。松永、小山、平岡、斎藤と4人のみ。話し天丼食ひコーヒーおごりて21:00まへ別る。平岡生を中西に紹介す。 胸の病となり。留守中、学園の植山氏来り理事長の紹介にて空家さがしに来たと。 7月30日 よべ睡眠不足。家居。午前中『祖国』来り、中野英夫より暑中見舞。午後、杉森久英より『四季』かせと。角川へ紹介かく。荒井より暑中見舞。西保より4日午後になると。2児と草一寸刈る。 7月31日 10:00出て会社へゆけば、伍長死にしとて忙し。出て大手前へゆき坪井に会ふ。二階で碁将棋の会と。大阪新聞にゆき片山林左右氏に会ふ。村田と神志那の間に住むゆゑ一度泊りがけで来よと。 矢野兼三氏のことも話に出る。けふは変な日にて新書古書しもに買へず、ノート買ひて帰り、0時すぎても暑くて眠れず。 わがためにさげすまれしをいきどほり我もをりたり[なもさ]たりとふ。。 8月1日 史、中元(1500)もちて上洛。(※下総町の父宅に)2、3日泊り来るはず。上高地より山荘生。岩崎より8月17日徳永嬢つれて来ると。 8月2日 家居。〒なし。草とりを2女やりて日くる。けふ35.4℃と。 8月3日(日) 錦織恒夫より暑中見舞。草とりす。史、帰り来り、父の集めし地図もらひ来る。駅前にて露伴『一瓶の中(20)』購ふ。 わが父のかたみとくれし地図を見て我子は時へつ血色の水脈を。 8月4日 家居。草刈り。和田先生より秋、京都へ来たまはずと。『人類遺伝学』はわが訳かと。西保君より来ずと。山城、伊井2君より高野山より和歌山へゆくと。けさ西宮君お中元に光30ケもち来る。 8月5日 家居。草刈り。河村純一先生、藤野一雄、羽倉啓吉諸氏より来信。埜中清市君より難波君の歌集評を15、6日頃までにと。 8月6日 家居。草刈り。夕立す。暑中見舞3通。西保君より7日東京にゆくと。岡本和子より歌。夜、亀井昇、履歴書もって来る。 8月7日 家居。草とり。風吹き涼し。夕方「詩人と思想統制」2枚半。都新聞のためにかく。けふ暑中見舞3枚。三島の仲田といふ翁来り、堤の草刈れと、犬つなげと。 8月8日 父来り10日、史を墓詣りにつれてゆくと。ともに会社へゆき、竹村氏に犬と草のこといへば云はるる通りと。松尾氏に近々伺ふといへば隣に短大生西山あり。うはさすと。 出て片町でひやしうどん食ひ大手前。坪井に会へば、さち子君この間試験されしと。大江叔母よりの口ききめありしならん。松浦元一氏に紹介状かかされ、 図書館3階で『白珠』主幹安田清風氏にはじめて会ひ、(※長男の)章生君の話ききてのち「ハイネについて」録音され、時間引きのばされ弱る。矢内原伊作氏にはじめて会ふ。 出て来会せし短大生寺本、斎藤、藤野、塚本、山中、立川(他に平山)の6生にコーヒーおごりしてのち、松井信子氏の室にゆき夕食よばれて帰来。けふ木村三千子氏より礼状。 広田一彦君よりハガキ。けふ白珠気付で小野勝年君より「室見つかりし」と。 8月9日 草取り。山城生より卒業式前の写真送り来る。 8月10日(日) 朝より草刈り。都新聞より原稿受取。依子、海水浴に。史、宝国寺へ墓掃除にゆく。史、父より『三十六人集』預り来る。増田(※正元?)の弟、万年筆一本もち来る。(お中元にと200やる)。 8月11日 会社へゆく途、竹村氏に会ひ水代500づつ請求することとなり登校。サラリーもらひ特別手当2500もらひし。壽岳、高岡、中田、守本氏と院長とにて教授会の折、 住田講師(阪大南校教授)万代池にて溺死の報入る。英語教師として全田叔父とはよからざりし様子。出てアベノ斎場。綿野にて『Grimm(50)』『日本文学講座5冊(70)』、 志賀重昂『日本風景論(20)』買ひ「まむし」食ひ(130)、平野線にて田辺、隅田先生にお中元としてタバコ10ケもちゆき今川。瀧川『売笑制度の研究(40)』、 エレンケイ『恋愛と結婚 上(20)』買ひし、久美子、マミ子、叔母と話し藤井寺へゆきしに、叔母、明石へ墓まいりにゆきしらしく、帰る。「コルボオ」よりプリント。 徳永嬢より縁談やめ恋愛つづくると。 8月12日 草刈りしをへしところへ竹村、電気部長と来り鎌のとぎ方教ふ。東幸子よりお中元タオル5本。中島明子氏、南部英美子より暑中見舞。安田章生より礼。立川陽子より礼。 コルボウへ500送り、13:00家を出て散髪。『文芸春秋』買ひ今川。まみ子に英語教へ、お中元もらひて出、アベノ橋でライスカレー食ひ、学校へゆけば2年生4人のみ。 恋愛論して氷のませ梅花社へ入江氏たづね7月号もう一冊もらひて帰宅。 8月13日 寺本生よりみなの返礼としてバット13ケとマッチと送り来る。礼状かく。暑中見舞2通。西保君より山中湖にて。17:00すぎ出て天満橋。『文芸手帳詩歌篇(220)』買ひ『週刊サンケイ』の春夫先生の恋愛の件よみつつ、 京阪千林の松尾氏にゆく。卓尓君早ね。向ひの西山産科へゆき博子嬢と父母と話を松尾氏より承り、松尾氏よりピースもらひ西山氏よりお菓子もらひて帰る。 8月14日 草刈り。昼寝し13:00出て高尾で『南方記(70)』買ひ、[圖]本の松浦家にゆく。母上78才と耳もきこゆ。姪、山村智慧一の名にて踊り教へゐるを待ち、松浦(※悦郎)の戒名一如院●法日悦信士なるを知る。 恋人たりし森繁夫氏の女も死にしと。すべて20年の茫々。おすしよばれ遺稿集『五つの言葉』3冊もらひて出、 途中の古本屋にぐろりあ本あるを見、佐藤春夫『菊水譚(50)』、伊藤佐喜雄『花の宴(50)』、堀内『万葉大和風土記(110)』買ひし、梅田で吉川『新唐詩選』買ひしてかへる。 けふ出がけに夕立。徳永昭子嬢より16日岩崎とともに来ると。錦織恒夫より読書案内をと。 8月15日 草刈り。岩崎より徳子嬢つれて来ると。中元手当500とコップ半打とを会社より。松浦家へ礼状。マミ子へ宿題の解答。中島夫人へハガキ。 汝をすてて博士とならむ暑き夜を虫啼くこゑにめざめ思へる。 8月16日 草刈り。10:00すぎ岩崎、徳永2客来訪。徳永嬢の許嫁者、非常識にて破談し泣かれしと。硲晃、天野忠よりハガキ。徳永嬢16:00すぎ帰り、岩崎君泊る。 8月17日(日) 岩崎と9:30出て鴻池新田の官舎町返れば守屋の子遊びゐる。「又かへりしや」と問へば「たり」と。竹中靖一(2回文甲、近大)氏、追放書籍放任のため退職さされしとききて会ひしに好人物なり。 飯盛山へゆくといふに20分ほどして出、鶴橋より桜井。駅まへ通り舗装出来あり、冷しうどん食べ保田家へゆけば不在。父君にきけば高野山の夏季大学にもゆき今はまた大阪の夫人宅へと。 19:58まで西瓜よばれ桜井駅で岩崎と別れ、天理。八木家へゆけば信、よし、二嬢あり。大浜へゆけば下阪。高橋は瀧本へ。瀧井氏と話し養徳社のこときき(本屋で喧嘩して佐々木治綱『永福門院(50)』、 今井邦子『日本女流文学評論(100)』)、鈴木治氏へゆき夕食たまはる。富永泣き面してデンマークへゆきしと。19:00約束せしに匆々飛出して天理駅で信ちゃんと会ひ(明子嬢と許嫁者に会ふ。)帰阪。 京橋でお茶おごりて別る。矢野兼三氏より喜んでハガキ。齋藤、塚本、二生より礼状。毎日より図書推薦をと。 8月18日 家居。八木嬢から入れちがひのハガキ。不二より十四士七年祭の案内。丸山薫より詩の発表年月日の問合せ。 8月19日 草刈り。11:00右原厖の詩集もちて村井平七君来訪。14:30まで話きいて帰る。小野十三郎、越智生とつれ立ちて評判なりと。角川書店より『俳句4』、森田宏子、山口千恵子より。 8月20日 草刈り。大毎へ松井経夫『太平天国』推薦、『湖畔の声』にクリスチ『奉天三十年』推薦。徳永嬢より当分わが忠告に従ふと。藤野和子よりバッハ放送30日に延期と。 夕方入浴中に珍しや、小山正孝君来訪。中教出版の出版課長にて『百科事典』を大毎に推薦してくれよと。19:00まで話し名古屋へゆくとて帰る。けふ『祖国9月号』来り「宣伝中隊」終る。 8月21日 会社へゆき叔父に原課長のこと云ひ、8月分図書費もらひて出、一旦家にかへり岩崎、丸山薫(代)のハガキ見て、18:00梅田にゆき23:00ごろまで(※八木嬢と)話す。 8月22日 9:30帰宅。山中タヅ子より手紙。鈴木治氏より服部みき子「天ゆく影」に吃驚したと。矢野兼三氏より『南の星』はもらったと。堀内民一より『万葉大和風土記』贈ると。 草刈りやり夕食すまし四条畷の杉浦実にゆく。26日小橋君インターンの件にて城平叔父面会の時立ち会へと。 8月23日 朝、池川医院へ午後来診たのみにゆく。帰りて草刈り。〒なし。珍し。午後池川ドクター来り赤痢ではなしと。夕方道本呼びて叱れば泣く。関目康平叔父にゆけば一家不在。 世界文学全集『父と子 処女地(50)』買ひ来る。 8月24日(日) 八木嬢より27、28、29フランス語習ひに来ると。草刈り。徳永嬢へハガキ書き19:30熊本工高の[続]氏と原君で会食。23:00。24目かし、野良犬をすてにやる。 8月25日 杉森久英氏より『四季』まだ借れずと。午後ひるね。17:30守屋美都雄にゆく。[橘]君、夫人つれて英国へ留学と。池内先生の古稀に1000づつ集めしと。帰りてA室と会。希望なくして不快と。 8月26日 9:00会社にゆき杉浦実君の友小橋善雄君インターンにつき城平叔父にたのむ。われも玉井君に紹介す。帰りて眞野君のハガキ見る。14:00伊藤賀祐君来り、岐阜へ転居と。 江口三五に紹介かき、本田喜代治先生の名大にあることをしらす。17:00徳庵まで送りゆき氷西瓜たべて別る。肝臓病とかで衰弱見ゆ。(ゆき子によれば靴下やぶれゐしと)。夜、B[室]2名来り面白からず。 8月27日 昨日けふかへりて暑し。都新聞彦根より速達。8月26日号にのる。金井君よりハガキ。錦織君より礼状と「湖畔の声」。港野喜代子「紙芝居」。 北京よりのPeople’s China『人民中国』京都より回送。13:00まへ八木さん来りシャボンと梨とくれ20:00まへ去る。あすも来ると。夜C室6名と話す。 8月28日 家居。八木さん13:00来り泊る。高野山より藤野、西田、立川3生。小山正孝、藤野一雄、芳野清諸氏より。亀井昇夜、来る。四国へゆきゐしと。 8月29日 草刈り。13:00松井信子嬢来る。ゆき子とは初対面なり。昼食たべ入浴し16:00すぎるにて出、[廉]野保長、●幸にバスで会ふ。氷しるこ食はされ『天武天皇』買ひ、瀧井の寮にゆき、すしよばれて帰る。 8月30日 草刈り。残暑見舞来る。暑し。 8月31日(日) 誕生日。三木正治氏より退院せしと。来客なければ早夕くひて小阪。山口実にゆけばミシンの針呉る。松本一秀(彦根)訪ね、昔話す。(八木明子嬢の就職。山口君にきけばあいさうと。) 9月1日 山本治雄より電話新設堀川6702と。本位田より東京高検検事に転ぜしと。杉森久英より田中保隆氏28日に角川を訪ね『四季』合本4冊かり、あと4冊ありと。西保恵以子より始業日しらせと。 安田章生へ歌6首送り、定期買ひ定期入れ買ひ(15)、帝塚山へゆき、佐竹事務やめしと挨拶さる。氷小豆くひ(42)藤井寺へゆけば叔母留守。今川へゆかずかへり来り、夜、D室不在。 叱りを岩崎直に伝へさす。 9月2日 登校。漢文教へ短大へ帰れば待ちゐし面会人。田尻宗夫とて神戸商船大の先生と。硲君来合せミルクセーキおごりて田尻君と別れ、硲君宅へゆく。まだ市営住宅きまらずと。 中山八郎の書評に(史学雑誌)『台湾地図』のこと書けるを見て今川へゆき正平腕折りしを見、18:00帰宅入浴。田中保隆氏より『四季』借用の礼、相沢孝友の歌友と。 八木、松井姉妹よりたより。山本治雄より至急会ひたしと。けふ16:00驟雨ありて涼し。 9月3日 草刈り。明ちゃん来りシンガポールのせびろ裏返しにするとてもちゆく。山口実へ紹介かく。昼食して山本治雄にゆけば予想通り本庄先生の渡支費。我、坪井、長野、服部、 保田5人より1000づつ集めんと。吹田事件の主任弁護士として多忙。坪井に電話きかず、家へゆけばまだ帰らず。佐智子嬢4階へかはり礼云はんと思ひゐしと! 象のゐる山見しまなこはなれゆくながうしろかげもとめつつをり。 道の辺のかはらよもぎに風吹きてなれがそむかん時は来りぬ。 けふ父来り、村田幸三郎渡米と新聞に出てゐしと。 9月4日 10:00すぎ出て会社。小橋君はかばかしく報告せざりしと。釘もらひて電燈料(267)払ひて出、バスにて天満橋。大手前高校にゆき杉野女史と話し、 坪井を授業の間にとらへ本庄先生の「カンパ」500受取り、梅田、山本事務所にて本庄先生にも会ひ、アジア平和会議の説明うかがひ、山本と曾根崎の待合にゆきビールのまされて話し、 コーヒーのみて20:00梅田にて別る。けふ丸、保田、服部、長野へ手紙かかさる。 9月5日 家居。『梅花』来しのみ。夜、熊本の連中と話す。 9月6日 登校。高2Aの漢文。西宮君とアベノまで帰り藤井寺。久美子の英語やめることを叔母に云ひ、ひるめしよばれ散髪(100)して松原で下車。肥下夫人に会へば就職の世話してくれよと。 畑の肥下に会ひ近日学校へ来るといふのみききて帰る。大高同窓会より森田先生の寄付清算。けふ平和会議参加不許可と新聞にあり。山本に電話せしもかからず。 9月7日(日) 家居。コルボオの会ならん。草刈り。中村孝志より抜刷。杜臻の書引きて[様]にしながら我名出さぬはをかし。 9月8日 登校。始業式。すみて漢文のはじめ平和論やり、吉川綾子より紙切ナイフもらひ、ひるめし食べて国文学史。山本に電話すれば男子出来て早く帰るやうになりしと。 出て今川へゆけば久美子あらず。藤井寺にゆきしと。歩いてアベノ橋へ出、ライスカレー食べ17:00学校へゆけば山城和子あり。2つ下の学生に恋すと。 (けふ西保恵以子よりも電話あり)。夜の始業式にも出、21:00すぎ帰宅。 9月9日 登校。高2Cの漢文やり、長欠3名にハガキかき、長沖氏に本庄先生のこと云へば5000出さん、藤沢氏に云へば10,000~20.000出さんかと。山本に電話すれば15:00~16:00来よと。 出て大鉄百貨店に松浦氏訪ねしが見当たらず、今川にゆき久美子に会ひて正平の家庭教師のこと云ひ、30になるまでに死にたしときき、出て山本にゆけば16:00。 やがて帰り来しゆゑ俣野に電話して待つこととし、ビールのむ中17:00すぎあらはれ、3人にてDateなるCaféにゆきビールのむ。われ勧進文をかくこととなる。 けふ保田より1000送り来りあり。20:30帰宅すれば服部より断り、外山軍治氏より抜刷。丹羽千年より転居通知。 9月10日 登校の途、大鉄百貨店によれば松浦元一氏不在。学校へゆき府立女子大へゆきて見れば12日より始業とて誰もあらず。引返すみち相野[忠雄]に会ひ、 氷食ひ乍らきけば(※大阪学芸大学?)国史の教師空きしゆゑ来ぬかと。明日明後日の中に履歴書もちゆくを約し、中島文庫見せて別れ、昼食後、 1時間履歴書のかき方教へしのち高岡博士に「妻は職業か」の朗読してもらひ就職につき話してのち教授会。すみて藤井寺にゆき大江叔母に相談すれば反対乍ら一応城平叔父に話せと。 勉の応召時の話ききてのち出、今川にゆけば叔父あり。山本理事長一家は水臭くなきゆゑ安心してつとめよ、ことはれと。寮に共産党の手のびたらずや云々。23:30帰宅。 中野英夫名古屋へ転任と。 9月11日 10:00出て会社。今村部長と対談せんと思ひしも不在。大手前にゆき坪井と話し、(府庁の荒井に会ひ亀井の履歴書托し末吉に3000貸せし話きく)、 本庄先生頌寿記念会趣意書とを托し、信子の寮。田中嬢と議論し仏語、パチンコ教へて帰る。 9月12日 草刈り30分。9:00家を出『文芸春秋』買ひ、よみ乍ら平野、相野を待ち、宇治のみ古本屋見、引返して会へば12:00までまた授業と。正平の担任に会ひてのち寄宿舎でまち、 ことわれば北山康夫君に話し、講師いかにときいて見んと。礼云って別れ帝塚山へゆけば14:00。昼食にパン食ひ学長、主事に会へば修学旅行に付添へと。毎日新聞に4名志望ゆゑ会へと。 渡辺、斎藤、平山、菊池と会ひ、斎藤、平山とアベノ橋。茶のみて金足らずと思ひ齋藤より60出さす。(山本治雄に電話せしが連絡なし)。帰れば保田よりハガキ。 9月13日 登校。講義すみて山本に電話し、ゆけば吹田事件にて忙し。待ちゐる中、上田女来り3人にて出て昼食。本庄先生頌寿は俣野、山本2人の発案にて何も計画なきことわかり、 よろしくやってくれと任さる。天満橋で森岡『物語の様式(20)』買ひ、会社へゆけば今村部長、城平叔父ともにあらず。帰りてひるね。夕食まへ衣川と話して暮る。 けふ万年筆を山本事務所に忘れしらし。 9月14日(日) 雨よべひどく、水溜りて草刈れず。『白珠』来しのみ。史、ゆき子に怒りて出てゆき22:00すぎ帰り来る。われは本庄先生の仕事にかかる。 9月15日 行きがけ駅にて今村氏に会ひ、木曜の懇談会を約す。学校にては就職相談で忙しく、松井生にJOBKの藤本氏に紹介すれば今年も男より取らずと。西保君来り、話して授業。 すませてともに氷。おごってもらひ加藤夫人に会ひ(歌集『白き石』たまひし礼いふ)、大鉄百貨店にゆけば松浦氏見付からず、今川にゆきて、 叔母と話すところへえみ子来りしゆゑ共にゆき、この間の礼いひ久美子とも話し夕食よばれて夜学。帰れば坪井より肥下の就職ありさうと。 9月16日 登校。高校の漢文2時間すませ、長沖氏に本庄先生の会の発起人承諾してもらひ、サラリーもらへざるに失望して出、十合にゆけば昌三叔父あらず(ナルミヤで小杉に話一寸す)、 梅本に会のこといへば承知してゐたと。とろろそば食はしPhilip Morris一箱もらひてまた十合。展覧会のこといへば今のところ展覧会に貸さずと。出て山本。きのふ坪井に会ひしと。 本庄先生のこと一切まかすと。梅田より帰宅。 9月17日 早ひる食ひて家を出、(長尾生より退学したしと)、大鉄百貨店で松浦氏に会ひ『五つの言葉』のこといへば今ここになしと。展覧会場のこといへばききおかんと。授業すませて電話、 山口実氏より明子嬢の口みつけた故、明日15:30来宅してもらへと。やがて肥下来り坪井の手紙見て事務にてはいや、3000でよきゆゑ農業の片手間でやれることをと。 坪井にゆかせ教授会。すみて大手前にゆけば坪井あらず、寄にゆけば夫人、窓框ごしに話し腹立ちて帰る。(けふかもめ書店にて『鴎外全集』2冊740)。 9月18日 10:00会社へゆき杉浦、竹村2氏と会ひ、今村部長と話し12:00出て徳庵駅前で昼飯食ひ、御霊神社に園克己を訪ぬれば外出まぎは。短大こさへるとかゆゑやめよと云ひ、 大松氏のグリルのぞけば東京と。村田の会社できけば先月20日より台湾と。朝日に谷川訪ぬれば欠勤。瀧井にゆきフランス語。夕食よばれて20:00すぎ帰宅。 坪井より肥下のアルバイト見付けた。●代その他にて年内に金あつめ贈るはいかんと。八尾土木より契約書。(高尾でパジェス『日本切支丹宗門史 中(40)』、すりっぱ(100)と腸詰(110))。 9月19日 岩崎昭弥よりハガキ。硲君よりやっと転宅ときまったと。会社へゆけば東京旅行して宜しと。八尾土木への印押してもらひ、出て大高へゆき神田力氏に会へば1000を多すぎるゆゑ500とせよと。 学校へゆき15:15まで待ってGideon Soc[iety] の聖書寄贈式に出、一冊もらひて帰る。 9月20日 登校。来週よりも高校の8:30始業はかはらずと。落胆。大手前にゆき坪井と話し、肥下の種子代を集むることの発起人承知。帰りて早寝。 9月21日(日) 角川書店よりハイネ133pで半ぱと。『新文明』和木清三郎氏より詩1篇1000、9月末までにと。松本善海より景気好しと。西保氏より『二十一才』と題をきめたと。 ひるまへ竹中精一氏にゆきしに留守。昼食食ひて疲れ乍ら藤井寺。子供の本2冊(160)もちゆけば勉夫妻と城平叔父、久美子親子、ややして辻夫婦(東洋紡?)来り、城平叔父去る。 われは何となく悲しく、夕食よばれ中村治光にゆけば出張中。 9月22日 登校。大毎受けし4人みな失敗。「諫早」よめざりしと。平山に産経を世話せんかと思ひて云へば喜ぶ。坪井走るかと思ひしに相野来り国史専攻をとる。市村某も候補と。 ともにコーヒーのみ、別れて夜学まち。本庄先生より「25日15:30山本事務所で」と。『くれなゐ』『新文明』『新しい教室』。 9月23日 堀内民一より『新稿万葉大和風土記』、わが歌「秋立てる」のせあり。宮本正都より赤塚君帰りしと。15:00いやいや東大クラブにゆく。水川教育委員の選挙運動なり。 岡本新太郎に会ふ。八田君「火曜に来よ」と。中座して平山の家にゆき母君に会って帰る。 9月24日 登校。平山を学長に会はし教科教育の時間に説教。すませてすぐ帰宅。けふ角川より80pの校正。八木嬢より山口実へ明ちゃん黄疸としらせてくれよと。 9月25日 〒なし。午後会社へゆき今村杉浦二氏とはなし、山本事務所へゆき本庄先生に同窓会誌にしるしつけてもらふ。明日出来と。山本、福井とやらへゆき月曜帰ると。 けふ角川へ校正送り返し(16)、300頁の全訳にせよと云ひやる。けふ山本にて横山薫二と会ふ。20年目なれど話なし。 9月26日 よべ雨。家にゐて退屈し、寮の者よびて叱る。徳永昭子氏よりハガキ。16:00家を出て山本事務所にゆけば閉めてあり。 ややにややに老いをおぼゆるわれが身に冬づく日ざし見るは絶ええず。 近江路にこひする人らあつまりてこひなきわれに見せしめむとか。 あるときはにくしと思ひあるときはかなしと思ふをとめらがあつまりにゆき学説くときは(徳永嬢に)。 9月27日 登校。硲君来り府営アパートの4階に住むと。ともに出て山本重武に饗庭君のこと訊ねしもわからず(山本事務所の●瀬君に電話すれば昨日欠勤、本庄先生来られざりしと)。 関大にゆき東洋史懇話会。石浜、橋川、鴛淵諸先生、桑田博士おくれて来られ総数十名ほど。かへりまた桑田、守屋二氏と共に。難波礼二君より礼状。堀内民一より本売ってくれ。 西保君より月曜14:00学校へゆくと。 9月28日(日) 雨。本庄先生より大宮卒業生名簿とハガキ。 9月29日 竹内好より『魯迅』。武田の跋に「大阪高校の交友は日本浪曼派を結成して彼とは反対方向へ走った」とあり。午后出て俣野にゆけば10月2日まで東京と。出て学校へゆきしが西保来ず、 また出て市役所。中尾行政局長に渡より紹介してもらひ、財務課の佐々木政憲(12文乙)と3人出来(帝塚山中等部の吉田充21S3も承諾と)。 引返して悲田院町の西阪(※西阪修)氏へゆき修の弟にききて阪南町西5の24のアトリエにゆけば行動屋の準備で忙しき中会ひ画集呉る。 また学校へゆき「かもめ」書店の川端富之助君(10SB)に承諾せしむ。講義してかへり島田玲子生、伊藤忠につとめ伊藤徳を知ると。 (けふ市役所で筒井に会ふ。忙しと。バスで硲夫人に会ふ。)。 9月30日 登校。西保来り、きのふ電話して休みときき来ざりしと。原稿おきゆく。硲君来り、ともに出て上七で別れ、山本事務所にゆけば本庄先生来らる。近日発起人会開くべしと。 長野来阪と俣野に便ありしと。後藤に電話すれどもかからず。17:30おでんやにゆき大阪駅にて本庄先生とお別れす。八木嬢よりハガキ。『不二』より十四烈士遺蹟返還署名をと。 10月1日 本庄先生よりハガキ。午前中悠紀子[●]栗にゆき午後われ楠根小学校へゆく。共産党加藤充に投票し、裁判官みな×とす。警世をせめても表さんとなり。すみて大手前にゆけば坪井あらず。 日赤小児科の湖東次長訪ぬれば不在。名刺おき山本にゆけば長野[敏一]音沙汰なし。谷川[新之輔]に会ひて世話人諾せしめ、井上正蔵『ハイネ』買ふ。帰りてよめば容共左派の傾向物なり。 万世に平和開かすおほみむねくつがへらさむしれ(※痴れ)臣の子ぞ。 10月2日 松本善海より東京在着の日しらせと。午后出て会社へゆき図書費もらひ、大手前へゆき坪井に会ふ。肥下夫人喀血して内職できずとことわりしと。 瀧井へゆき土居の古本屋にて春夫『わが成長(70)』『朝鮮叢話(30)』買ふ。共産党0となり自由党ややへる。国民何を考へをるや吾にはわからず。 10月3日 家居。須崎工高の田村教諭と話す。『天理文芸』来る。午后藤野君来る。就職運動に来しと。 10月4日 省線定期券買ってバスにて登校。高校ダンスの練習とてやめ家政の歴史試験し、東京旅行の日程表もらひて俣野に電話かけ、バスにてゆきコーヒーのまさる。 きのふ大阪転任の藤田に会ひ一昨日長野に会ひしと。山本宅で会し、われにも連絡せしと。13:30出て第二野村ビルの沢田直也に会ひ、 出て堂ビルまで歩き東洋経済の中田英一に会ひして山本事務所にゆけばゐず。北野病院眼科の重松博士に会ひして(今昔物語1買ふ。)京橋、散髪、帰宅。藤野君終日家にゐしと。 杉山平一の『ミラボオ橋』送られ、わがうしろむき写真(※『現代詩人集第2』1940山雅房刊)のことあり。(けふ『狐の詩情(20)』3冊、スヴァルで買ひ大河原へもちゆきしも会議中と。) 10月5日(日) 西川、大、松本に東京泊の日をしらせ、教委選挙にゆき水川氏に投票。駅前でコーヒー、うどんにて藤野君と話す。「失恋して顔立たず」といふ。 16:30別れて松本健次郎にゆき発起人承諾せしめ疲れて帰宅。 葉書 10月6日 登校。試験三科目。出来ざるにものうし。午后より雨。学校にのこりて何もせず。楳垣教授より「部落調査表」借用(けふ寺本生、 中島文庫よりわが出せし13年12月のハガキ見付けくる。)。夜、また試験。 10月7日 雨。高校漢文。すませて社会事業短大へゆき音田正巳君に会ふ。帰れば藤野君よりハガキ。 10月8日 荒木二三より詩集(※『二つの帆』)。『不二』五周年記念歌集。ゆきて試験。よべ「特殊部落」写して眠れず、コーヒーのみて教授会(サラリーもらふ)。羽田博士、 壽岳博士にわがこと云ひをられし由。17:00すみて水曜の夜学の漢文のことぼやきてのち帰宅。けふ角川書店と大江房子にハガキ。 10月9日 ひるまへ父、来り昼食。大よりハガキ。16日帰洛。21日東京で会はんと(婚約に成らざりしと)。藤野君辞職せしと。西川より章文館近くゆゑ来ると。亀井より履歴書。 父とともに出て大河原に会へば貧乏し5000は出ずと。毎日にゆき渡辺英雄、落合浩一に会ひ発起人承諾(共産党につき云ひしも)浅井良任、中村了に会へず。14:00出て山本事務所にゆきしも会へず。 別れむとうはなりごとを云ひつつも涙おとしてゐたるなれかも。 10月10日 山本と10:00ともに出(祝200)、事務所にゆくまへ阪急デパートの食堂に水曜の会場たのみ、事務所へゆき電話せしも沢田と谷川のみより出席できずと。市役所にゆけば渡、 佐々木と話し200ならざればだめと。むっとして帰り、澤田、谷川に延期云ひ阪急ことわりて帰宅。(同窓会名簿2冊受取る。俵青茅に阪急で会ひコーヒーのませて別る。 われ休会とコルボオで決定と)。 10月11日 登校。すみて短大の教授会記録清書。守本氏父君危篤で旅行に行けざるかもしれずと。マードックス女史と話し、齋藤生に説教し藤井寺。久美子のこの間自殺しかけしと。 寿美子を叔父つれ帰り病気さして大騒ぎせしと。西窪氏のこと云へば「使ってみん」と。ボストンバッグ借りて帰宅。八木嬢よりハガキ。 10月12日(日) 朝、長尾生来り、病気なりしが卒業出来ればつづけると。香茸といふを呉る。ともに出て小阪。山口君にゆけば八木明子氏きのふ(※姉の八木嬢に)面会したと。 『狐の詩情』を礼に出し、堀内にて阿部知二『バイロン』、村田『ギリシア美の性格』『世界文学全集シュニッツラ』(70)買ひ、て中西にゆけば不在。 行動屋へゆき西垣に『狐の詩情』やり展覧会見れど、彼の絵わからず。今川にゆき全家留守のところ隣家にて「千成」ときき湖東の家たづねあてしも不在。千日前にゆき「ちとせ」探しあて、 お徳叔母見舞ひ、くみ子の卒業免状見せられ、松茸うどんよばれ飴もらひて出、山本にゆけば風邪にて臥床。夫婦喧嘩きき夕食よばれて帰宅。 10月13日 登校。新村博士、猛夫人逝去のため来られず。午後切捨。三苫君漢文引受を断る。(旅行の注意す)。出て散歩せしのち梅本にゆけば不在。名簿預け山田にゆきパチンコしコーヒーおごり、 山崎三七喜氏に話せずして玉造より帰宅。西窪氏来りをり、ゆき子と18:00大江へゆく。白鳥家より香典返しにふろしき。 10月14日 登校。高校の漢文、すみて社会事業短大に音田氏訪ねしも帰りしあと。歩きて大手前にゆけば坪井、胃癌の虞れありとてふさぎゐる。ともに出て帰り18:00来し八木明子嬢に説教し、八木嬢への手紙(16日15:00までに来よと)と中西ドクターへの手紙托し、『南方熊楠全集』よみて眠る。(吉永氏より同窓会名簿4冊預かる)。 10月15日 登校。旅行準備とて多く休みゐる。斎藤の母来り俳優座へのアルバイトとめてくれよと。あとにて呼びて母より金もらへと手紙わたし、平山に高岡先生に会ふ日つげ、 守本主事より手当6400(内1500は返さねばならぬらし)もらひ、十合梅田の古本屋見る中、雨となりて帰宅。安田章生、西よりハガキ。『白珠』11月号。 10月16日 朝、西窪氏来りひる食くはせ注意与へ大江へやり会社へゆき労務部長に留守中たのみ、帰りて15:00八木嬢来り、●れといへどきかず(角川より21日朝待つ。『コギト』見付からずと)。 小阪へともにゆき土居内にゆけば『近代劇』他へ売りしと。木枝増一『国語の道』『北越雪譜』『啄木歌集』と3冊100買ひて夕食。20:00出て大阪駅へゆき22:30の臨時にのれば図体とやらとのり合せ3人がけ。 悪日なり。夜、一睡もせず。浜松、静岡で弁当買ふ(120)。(けふ井上多喜三郎よりコルボオ空気かはりしゆゑ九月限りやめしと)。 10月17日 6:30富士着。遊覧バスにて白糸滝。朝食(9:00)西湖を廻りて河口湖畔に着、昼食。快晴なりしに雨降り出づ。入浴、夕食。神崎学長(※神崎驥一)、八木嬢にハガキ。(絵ハガキ30)。 10月18日 9:00河口湖出発、芦ノ湖をわたり強羅旅館に入りケーブルにのり公園にゆきす。家と井上多喜三郎にハガキ。 10月19日(日) 鎌倉へゆき江の島をへて鎌倉宮、鶴岡八幡宮へゆく途中、松岡正二によりしも不在。東京本郷章文館へ入り、西川訪ぬれば20日と通知せしと。コーヒーのみて一旦宿にかへり、 許可を得てまた出しも夫人帰らず。 10月20日 9:35上野発、日光につき湯本に泊る。 10月21日 9:00出発。出発まへ土産買ふ。羊羹2棹(100)、こけし(100)、湯の花(100)。晴れわたり男体、眞名子など美し。日光着。神崎院長へハガキ。上野までの車中、 文芸のひいきの子どもに詩かきて与へ疲る。16:00章文館着。外泊問題にてごたごたし、泣く子あり、わめく子あり。西川より電話かかりて早めに来れと。松本善海助教授来り、 ぼそぼそ話す中、大の電話かかりしゆゑ7:30出て東洋経済へとタクシー。松本と支那そば食ひて別れ、原田(鼻少しかけあり、戦傷と)、倭、本位田、西川、室のゐる所へゆき、やがて丸、 紅松、現はれいろいろ話し、本庄先生のこと話せしが最後とせしつもりの所、本位田、丸、紅松還るとて旅館まで来、21:00すぎ点呼すみて房子(土産呉る)その友、西垣修(西阪修とも西垣脩とも異なる別人)と話し、 電話かかりてうるさきゆゑ、大と出て百万石にゆき酔払ひどもと踊り帰れば23:00。守本氏苦き顔しゐる。 10月22日 9:00遊覧バス。国会図書館を1時間で見、中山八郎氏に名刺托せしのみ。12:30宮城前の無料休憩所で昼食。解散して河出にゆきしも杉森久英不在。 お茶の水へ出るみち園田一亀『明代建州女直史研究(80)』を買ひ東京駅へゆき14:30まで待ちしも大来ず。角川へゆき校正と『四季』4冊受取り(50pとし、70円とすと)、 酣燈社へ自動車でゆき堀場正夫に初対面。ハイネ(※『ハイネ詩集』)の清算見せよ云へば3150冊中返本992。68.5%の売れと。何とか挨拶せよ、『詩人全書』一そろひと『ハイネ』数十冊送れといひ、 夕食ふるまはれ語り合ひ、東京駅へゆけば20:00まへ。海苔土産に買ひクリームたべし、22:45にのりて西下。 10月23日 10:00まへ大阪着。解散。梅田にて写真屋藤岡、公社中[村]と守本氏と朝食たべんとせしに、守本氏そわそわして問へば親父のこと気がかりと。赤面。3人にてライスカレー食ひ、礼いひ、 おごらんとせしもきかず。別れて帰宅。井上多喜三郎より26日彦根の松茸狩の案内。北村うめの氏より気づらしと。岩崎昭弥よりハガキ。ひるねし、入浴してまた眠る。 10月24日 9:30家を出、会社にゆく。城平叔父[マ見]子に二次に洋裁を受けさすと。五氏に礼云はれてのち藤井寺にゆけば北村氏喜ぶ。お徳叔母●に久美子あり、湯の花を贈り診察に会ひしゐる中、 城平叔父来る。久美子太りし人きらひと。北村氏に叔母サラリー2000出すと。叔父の自動車にて奈良街道にゆき、降りて山口実にゆく。明ちゃん礼●●来しと。 堀内にゆき市村[瓚次郎]『支那史研究(90)』、黒板[勝美]『国史の研究3冊(650)』、大山彦一『中国人の家族制度の研究(300)』、太宰施門『文芸研究(10)』、 [京都大学支那哲学史研究会]『東洋文化の問題1(60)』と買ひ、足痛めて帰宅。(けふ上町線定期買へば350に値上り)。西川、本位田、[大江]房子に礼。小林英俊に茸狩の断り。 松本善海、大、角川松原純一氏にハガキ。 10月25日 登校。授業すませ山本へ電話すれば、本宮岩田より来りしゆゑ午来よと。石浜先生御用あり、連絡せよと。電話せしも不明、入江来布氏より500。『鴎外全集』とりて梅田。 13:00すぎ本宮来り、ローレルの大松氏訪ねしも不在。朝日に後藤訪ぬれば不在。神●秀雄と会ひコーヒーおごられ、山本事務所に引返し俣野と会ひ、 4人にて曽根崎「杉の家」「ダテ(※喫茶店)」といつものコース。23:00帰宅。 けふ父来り、大、東京駅でまちしと。青木徳一郎氏25日死せしと。大江より電話ありしと。竹内より『葉紹鈞(※竹内好訳『小学教師』)』、神田信夫氏より『呉三桂』。 10月26日(日) 礼状。●のみをのこし出し終る。大江房子より「別れの一言身にしみし」と。八木嬢よりハガキ受取りしと。本多の父より礼状。衣川、大塚にひる食くはす。 自治会長の慰労なり。ひるねし採点す。 10月27日 家を出れば雨。試験答案返し、再試験申渡す。夜学までのひまにローレライとブラームスの子守唄教ふ。守本氏の父君死去せしが香奠出さずときまる。夜学すませ西宮君と帰る。 大より14:30より16:00まで降車口で待ちしと。陽生より死亡通知。太宰博士より『東大文学部研究紀要』いただく。 10月28日 雨。登校まへ市役所へゆき市教委の松田、八田2主事に会ひ3生(齋藤、伊藤、野崎)の履歴書わたし再会約し、地下鉄にのり天王寺近くで松浦元一氏にあひ『五つの言葉』のこと云へば渡すと。 一階で待つ間に黒ネクタイ買ふ(480)。コーヒーおごられ学校へゆき2時間すませ、諸先生と15:00すぎ●浜の守本邸へ弔問にゆき、すみて林叔母に会ふ。父、日銀関係にて働きゐる由。 ピース一箱呉る。(けふ藤野生に『五つの言葉』一冊与へ、学校へ一冊寄贈す。)。ハイネ校正すむ。 10月29日 羽田博士来らるとて9:00家を出、散髪してゆく。11:00来られ「文学の話」きく。お下手なり。すみて挨拶すれば以前の礼云はる。その前、新城英太郎氏来りしも13:00再来と。 西保恵以子来り原稿そろへ香水呉る。教科教育の時間、羽田博士のこと教ふ。すませて新城氏と話せば学院に話してみてくれよと。別れて16:00羽田博士をお見送りし教授会。 修学旅行と就職探しの報告をし、テープレコードにてわが声きけば沢田直也そっくりなるにおどろく。白井へ『五つの言葉』もちゆき近日訪社を夫人に伝へてもらふこととす。 けふ硲君来り、2日[平]中氏へゆくこととす。けふ院長に話せず漢文休講、土曜また休講とす。 10月30日 石浜先生に会ひに学校へ。予想通り新城氏のこととなり、先生よりの推薦お願ひし、教育志望の子らに会へず。帰宅。昼ねせんとすれば八木嬢来り、昼食して早々帰る。 竹内よりわび状。岩崎昭弥より、彦根の茸狩に安西来り、わが悪口云ひしと。 10月31日 雨けはひ。天理へゆきしに遠足とて米田、八木2君のみ。やがて来合せし新城君と駅に出て帰る。眞野、小山みどり氏よりハガキ。 11月1日 晴。14:00より●●[園]にてシンチンゲル先生の講演ありとて天満橋まで出、新村出『花鳥草紙(60)』買ひしも頭痛し、坪井にゆけば本復せしと。家にて茶菓供されて帰る。 11月2日(日) 10:00家を出、京阪七條より歩きて山前実治にゆき『コルボオ36』もらひ、出んとすれば昼食たまひ四條にてコーヒーおごられチョコレート子供へと賜ふ。忙しくて正月に下阪すと。 別れて寺町歩く。彙文堂休み(京阪書房に『名著全集(4500)』あるゆゑ註文)、藤田徳太郎『平安時代の庶民文学(40)』買ひ、下加茂へゆき依田[義賢]によれば留守。 野田又夫に本●さんのこと云へば200よからんと。500賛成せしめ15回文乙佐野利勝、18回文乙前田敬作2独文助教授に連絡たのみ、また上洛として、 平中苓次氏別宅へゆけば池田[宏]先生きのふ亡くなられしと。羽田来ず仁井田[陞]、青山公亮2先生の外、青木富太郎、佐口透あり。平中氏は六神丸の家と。22:00まへ散会。 潮田富貴蔵氏と同車。23:00すぎ帰宅。留守中亀井来しと。(帰りの電車にて小野村胤久氏に会ふ。天理外語にゐし人なり。今は何処に勤むるやしらず)。(※池田宏訃報新聞切抜添付) 新聞切抜 11月3日 家居。終日臥床。 11月4日 家居。亀井来り29日蜻蛉会すと。角川へ校正送り、田中保隆、前川緑、神田信夫の諸氏へハガキかく。午後より雨。西保恵以子の歌集の序かきしもうまくゆかず。 11月5日 登校。Lied教ふる中、西保嬢来り序文に文句つく。饗庭君に電話すれば梅田に坂秀なる店を夫人に開かす由。硲君この日招待しゐたるかと思ひしがゆかず。 帰れば池田先生の通知。彦根をまはりて来る。この日多く写真もらふ。Eisenhauer(※アイゼンハワー大統領)選挙に勝つ。 11月6日 9:00出て会社へゆけば小橋君警察病院へゆきしと。城平叔父にと『アイヌの生活文化』托し図書費1000もらひ、森の宮の社会事業短大にゆき音田君に会ひ200か500の話す。結論出ず。 近々山本に会ってもらふこととし、俣野にゆき、うなぎ北浜にて食はされコーヒーのみ別れて、東京銀行梅田支店長の奥戸に会ひ、山本にゆけば丸、この間来阪と。 別れて饗庭君の家にゆき、来週土曜日、西保君とゆく旨、伝言たのみて帰る。藤野一雄よりハガキ。 11月7日 けふ会社の春日奥山遠足とて弁当くる。布施の巡査、林祐治の身許しらべに来る。12:00出て市大日研究室にゆき同博士に会ひ、本庄先生呼んでいただき来週木曜ごろお会ひせんといひ、 山本にゆけば不在。同窓会名簿2冊預かる。(室より2冊送れと)。裁判所にゆけば沢井判事火木土と。俣野にゆけば不在。 『[Tockee Ocsman](60cents)』と『身体呼称』とおき、梅本に電話してゆき1000と250受取り、山田へゆけば山崎弁護士よりまだ返答もらはずと。 和歌山県の地図買ひして帰宅。吉永孝雄に1000同封の手紙、史に托す、(スバルで『老年期(20)』買ふ。)。 11月8日 登校。サラリーもらふ。守本氏、この間石浜先生学長に新城氏を哲学の先生として紹介せしがその意いかにと。保導にとの意を明らかにす。12:00出て住高によれば休み。 アベノ百貨店で『東洋史講座7冊(250)』『東亜論叢4(30)』『良寛詩集(50)』買ひ藤井寺へゆき、鹿熊猛、鉄2人に会ふ。徳叔母良くなり近々河原町へ帰ると。 ゆき子へ衣類もらひ、くみ子に送られて帰宅。蔦美子より英語教へてくれと。角川より校正受取、毎日より出版文化賞の通知。(●生百科は準賞)。西保より手紙。 11月9日(日) 徳永昭子、田中保隆よりハガキ。13:00家を出、山口実に歌集『長峰』の批評4枚をわたし、堀内で『伊太利文芸復興期の文化2冊(120)』も眞鍋広祥『王朝文学の代表的女性(30)』買ひ、 松本一秀に会へば就職だめと。同窓会の役員にすと。出て中西にゆけば不在。今川にゆけば久美子不在。明日午后来るといひ、湖東栄次郎訪ぬれば発起人引受け、西山伊一郎、間島俊平、 木崎國嘉の諸ドクターにも云ふと。 11月10日 登校。2時間目歴史すみて立太子式の話、学長より。すみて漢文李白を教へ始む。昼食まへ学長に漢文のこと、就職のこといへば、三苫君事務好きゆゑ駄目。 時間は創業期ゆゑ相当に犠牲をしてもらひたしと。飯くひてLindenbaum教へ、出て鞄直し(20)、Baedekerの『西北ドイツ』と『南ドイツ』(50×2※旅行案内書)を●野で買ひ、 今川で朔太郎『港にて(20)』『北槎[異]聞(10)』買ひし、今川にゆきて英語を万美子に教へ18:00まへすませて帰る。電車で竹中精一氏に会ひてきけば同窓会名簿、 黒田製薬の東京支店にありと。土曜のクラブの会に来よと。けふ室に2冊送り送料68とられしと。佐々木邦彦君より宇治に転居せしと。 わがひとの頬のおとろへそのままに冬来りしが一のかなしみ。 11月11日 朝『白珠』にと史に杉野先生へ歌3首もちゆかしめ、9:30家を出て学校。靴裏直し(300)、パン食ひ長沖氏と話せしあと午後また高校漢文。 すみて守本氏と院長の悪口いひ(午、音田氏に電話し山崎三七喜氏を中心にせよといはれ不快)、出て本庄先生へ木曜4時山本事務所へと速達し、 きのふ買ひのこせしBaedekerの『Nordost-Deutschland(50)』を買ひて津熊照子に会ひ、コーヒーのませ西保君へ寄せ書し、別れて上野芝。斎藤母に会ひ、 ともに中学へゆき中学校長会より父君帰り来るを待つ。保田、蓮田、浅野、影山の本あり。早大英文出と。すし夕食によばれ駅まで送られて帰宅。 安田章生氏より『樟蔭文学4』『白珠』2冊。八木氏より金曜来ると。 11月12日 岩崎昭弥より保田に京都で会ひしと。佐々木邦彦より山の絵。登校まへ府立女子大にゆき東田千秋に会ひ、松浪有(十九文一、阪大北校講師)、松本淳(十一文甲)に会ふ。 講義すみて齋藤を説教し、(●●せし由是手紙しあり。)教授会。すみて『文芸春秋』買ひ来る。 11月13日 10:00出て俣野の事務所に寄れば不在。置手紙し阿波座中通の大藤を訪ぬればタバコや丁度来し十回理乙紫野●君にも紹介さる。出てローレルにゆけば大松氏まだ上京と。園克己不在。 増山訪ねしに出張。裁判所にゆき沢井判事に熊野啓五郎氏へ電話かけてもらひ南同心町に訪ね、[五十嵐]達六郎氏の話もし、出て山本事務所へゆけば15:10。 近くのドン洋裁研究所にゆき明ちゃんと話し、16:00すぎ本庄、音田、山本と4人で話し、一度発起人会開くこととし、饗庭君の坂秀へゆき酒のみ(2430、中1000われ払ふ)、 別れて山本とダテへゆきコーヒーのみ、出てライスカレー食ひて帰宅。八木嬢来りゐる。 11月14日 寒し。一日臥床。夕方入浴。八木嬢10:00まへ去る。やや肥えゐしに安心。 11月15日 9:00の高校に10分おくれて登校。すませて伊藤生に松田●への紹介状かき、11:00来るはずの西保待ちしに13:00来る。(三苫君にきけば3年勤むれば退職手当4月分と)。 山城来りしも話さず西保と瓦町にゆき饗庭君に紹介して出、南久太郎町の婦人子供服会館の大高クラブ総会にゆき熊野氏にきけば本庄先生の会はクラブでは取扱はずと。 京阪神急行の森専務、菅生弁護士に紹介され某教授の帰朝談(20分!)きき、岡野、日野月2先生に挨拶し、名簿10冊(野田久雄、木崎博士、中村治光、西山卯二郎4氏の分預り)もちて帰る。 安田章生より[●月谷郎]のこと12月15日までに書けと。埜中君より『くれなゐ』に歌かけと。千草より葬儀に今まですでに10万円かかりしと。けふ北村うめの氏に会ひにゆきしゆき子にきけば、 久美子再婚を金持にのぞみゐると。我とは血縁関係なしと云ひゐると。大江叔父冷酷なりと。不快。 11月16日(日) 家居。水曜に見学に来る清水谷高校生のため大掃除。我も草刈り手伝ふ。亀井来り29日会すと。写真3枚呉る。井上多喜三郎、埜中清市、松井信子、島居清へハガキかき、 自転車のうしろにのせられ竹中氏訪へば不在。帰り来る。杉浦部長へ押入の棚作られたしと手紙かく。夕方入浴。 11月17日 出勤。阿倍野の卒業生に野田久雄氏へ名簿托し、きのふ松田にゆきし2人より就職むつかしき報告うけ、『新文明』12月号受取り、Lied教へ、女子大へゆきしに東田君帰宅。 西山卯二郎宅へ名簿とどけ越智順一氏をたづね人とせしに安立町に転居と。かへりて夜学。けふ守本主事にきけば院長とくひちがひあり。 11月18日 出勤の途上、社会事業短大へゆけば三木君のみ。音田君欠勤に付、伝言たのみ、日赤へゆけば湖東君研究日。木崎氏仝。名簿ことづけ女子大へゆき山本忠雄博士に会へば承知と。 東田君とちょっと話し登校。高校教へ昼食時来し硲君に『東洋史講座』7冊贈れば家へ来よと。1時間待ってもらひ南住吉のアパートにゆき夕食よばれ、 ともに出て越智ドクターを安立町に訪ぬれば承知と。名簿頒けて帰宅。 八木氏より手紙。病状よしと。富士ハウス明日清水谷高校生100名来り、付添の先生3名と城平叔父と我家で昼食と。茶器買ひ坐ぶとんをゆき子作る。 11月19日 登校の途、京橋で散髪。住高へより山本君と話し硲君の部屋へゆき坂井君ともう一人に名簿頒布。出席を戒告する文かかされ、午後教科教育。中村治光に電話すれば菅生事務所と同じ大ビルにゐると。 音田君より電話かかり上本町4丁目の分校使へると。ボスひとり来てもらへと。夜までの時間つぶしかたがた北久太郎町の島本久三郎訪ぬ。よきおっさんとなりゐる。承知と。 大藤にゆき名簿頒け、中村に会ひてわたし、朝日会館につけば藤野君、妹とともにあり。生れてはじめて音楽会。父君とともにタバコもすはずきく。 Rachmaninoff: Concerto No. 8 in Cなり。帰宅22:00。亀井より29日の同窓会。 11月20日 晴。家居。祖国社より『祖国』11月号。[棟方志功]『反響神』、『明治天皇の御日常』来り、角川より『俳句』来る。西保君より5、6万円と云はれ3、4万円しか予定しをらずと云ひしに、 田中先生の顔立てさうすると云はれしと。木村三千子氏より会ひたしと。午后、室より名簿代550来る。 11月21日 晴。10:00出て会社へゆけば会議中。天満橋へ出、坪井を訪ね山本より云はれし某生のこときけば京大、阪大ならよからんと。日赤へゆき湖東に名簿わけ、両医長へたのみ、 うどん食ひて今高、筒井に会ひ19期の名簿訂正させ、山本にゆけば法廷。木村三千子氏を訪ぬれば詩の話ききたかりしと。30分話して別れ、山本まち山崎氏に電話かけ28日(金)夕方の会ときめ、 音田君に電話すれどかからず、佐瀬君と出てニュース映画見、コーヒーのみて音田君と電話で話し通知状出来上る。帰宅20:00。芳野清より「双十節」よみしと。 11月22日 登校。すませて昼食後、梅田へゆき42枚ハガキ書き、時間ありとて「カーネギホール」見にゆく。 11月23日(日) 阪急デパートで『伊丹』買ひ山本と話し、昼食。帰宅16:00。角川より目次につき問合せ。野田久雄氏より礼状。岩崎昭弥より「スム」(※コギトに関係の名?)に彦根にて1000位ならと。 梅本よりねえや駄目かと。(けふ梅田にて大谷君に会ふ。) 11月24日 登校。金なくパン食って夜学。漢文に6人出ておどかし利いたり。酣燈社より年末いくらか送ると。山前君よりコルボウ脱会つづくと。 11月25日 登校。朝日の田川君より電話かかり19:00梅田へ迎へにゆくこととなる。長沖氏に本庄先生のこと説明す。金曜の会来るやもしれずと。16:30一旦帰宅。松井信子氏より手紙。 田中真知子氏と来たしと。18:00すぎ出て梅田。Svar書店の上島氏と話す。やがて田川君と会ひコーヒーおごりて(140)、払へば電車賃なくなり困る。富山支局へゆくと。21:00帰りゆく。 11月26日 登校。授業すませ修学旅行の写真29枚もらひ15:00住吉中学へ齋藤、野崎、伊藤3生と松田、八田2主事をたづね、紹介の名刺もらひ、引返して教授会。 けふ和木氏より稿料1000。硲君来校。本庄先生の会につき注意たまふ。木村三千子氏より手紙。 11月27日 家居。八尾土木より3000来る。夜、課長より碁に呼びに来り、ゆきて3番負けつづく。和木氏へ受取。松井信子氏へ13日午后来よと。梅本へねえやのこと今しばらく待てと。 11月28日 16:30家を出、谷町6丁目で市電下り、古本屋にてGilas『支那文化展望(20)』と『西南太平洋(30)』と買ひ、もと軍人会館たる社会事業短大第二校舎へゆき、山崎、越智、俣野、山本、 永谷、三木、佐々木、立石、佐野、硲、吉田の諸氏とで12名。佐々木のおかげで「300円以上」とすることとなり実行委員として山崎、越智、音田、田中、硲、瀧川の6人。 締切を2月末日とする、勧誘状発送を12月末とすることなどきまる。山本、俣野と出、福井へゆく山本と別れ、俣野と坂秀へゆき饗庭君と話し、俣野を残して出る。駅までゆき子迎へに来る。 けふ陽生来てすぐ帰りしと。 11月29日 登校。授業終へ、女子大にゆきしに山本、東田、松本3英文教官みな不在。佐野●氏と話し帰校。写真を学生たちに分ち与へ、大学南校に神田力氏を訪問。平山生と知合と。 文珠、小松、林広治3氏へ発起人のことたのみ下されといひ、一部始終報告。パンもちて藤井寺にゆけば叔母温習舎と。2階にて時間つぶしゐる中、陽生現れ今川夫人現はる。 陽生を紹介し、16:00ともに出てアベノ橋へ着けば咲耶と遇ふ。別れて上六。会場さがし廻れば荒井、丹波道久、道に迎へゐる。21:00すぎ来りし速水を加へ、亀井、後藤、三竝、服部、 高橋と8人。22:30我、一足早く出て帰宅。けふ『鴎外日記2』配本。 11月30日(日) 家居。私鉄スト。〒なし。ひるね入浴せしのみ。 12月1日 登校。SchubertのStändehen教へ、大阪女子学園の瀧川君に会ひにゆき実行委員承諾してもらふ。(女子大へゆき松本君に山本博士への伝言たのむ)。 帰り歩きて奥『婦人問題十六講(30)』、吉岡『婦人に与ふ(30)』買ひ、うなぎ食ひて夜学。川端富之助君に話し、中西生に京橋まで同行。帰れば『詩人全書』24冊来あり。 天野よりコルボウ例会12月7日と。けふ本位田3日に(※東京より)来るゆゑ連絡をと、白井より電話。浪中の西崎宏より手紙。 12月2日 晴天の時は高校体育会とのことなりしも9:00丁度小雨。登校。白井へ電話すれば外出。13:00二君より紹介受け人事課鹿海係長に会へば、高校出といふことにして受験すべしと。 但しコネクションなければ見込なしと。梅本にゆき白井に電話し、明日17:30金屋会館に集らんといふこととなり、出て山田にゆけば不在。富士銀行堂島支店高橋玉諟君に会ひ、 振替口座のこと承知せしめ、奥戸に寄りて明日の会へ来よといひ、山本にゆけば●人。坪井へゆけば帰らず。夫人に俣野、大河原、横山、後藤への電話たのむとの伝言托し帰宅。 池内先生の埋骨式、5日午後1時より上本町4丁目大福寺にてありと。京大佐野利勝君より300を500と改めよと強硬意見。 12月3日 寒し。早ひる食べて会社へゆき、松葉会とやらの会費催促され、図書費出ず。押入の仕切出来ずとやらで不快。小型にのり大手前。坪井に会へば(※本位田歓迎会)会場変更と。 別れて奥戸に会へず、しらせだけし、毎日の渡辺君に会ひ、ハイネ1冊とられ、浅井良任に会へず、向ひの三和堂島支店にゆき宮田君とやらに車時間またされて会ひ、本庄先生のこといひ、 また渡辺君に会ひしが浅井氏に遂に会へず。阪大医科へゆけば田辺教君転任。釜洞助教授さがしまはり、ともに増山に電話せしも不在。別れて曽根崎の朝日にゆき待つ中、17:00坪井来り、 漸次本位田、後藤を最後に関口、奥戸、白井、梅本、山田、横山と11名となる。珍し。関口早く帰りしあとDate(※店名)にゆき、21:30別れて帰り来る。 よのつねのひとにはあらぬ我がさがを知るや知らずや友らはわらふ。 22:00すぎ京橋で桂信子に会ひキャラメルもらふ。私鉄ストとて寮で泊ると。 12月4日 寒し。私鉄ストつづく。中野英夫君土曜に来ると。16:00山崎弁護士にゆかんとせしも駅より帰る。夜半ゆめ見る。「某所へゆく途、●一人あなたとXと怪しと。 その後会へばX俯し、きけば純潔を破りし」と。 12月5日 寒し、10:00家を出て学校へゆけば松井生迎へて出、大丸へゆきたしと。注意与へサラリー出ざるに失望。上町線に田中美智子君のりあはせ、13日来られず14日に来ると。 コーヒーとトーストおごり大福寺へゆく市電にて天高校長後藤安久氏といっしょになり、行けば田中正義、石瀬弘、浜田敦などと話す。明君にいひしゆゑ、 亨先生わが身許しらべせし新夫婦に家を世話せよと。承知し16:00出て山崎弁護士にゆき趣意書よしと。山田とパチンコしレモンティーのみて山本にゆき、待つ間、明ちゃん訪ぬれば欠勤と。 山本とおでんや、ダテと歩き、本位田帰京せしをききて帰宅。けふ花環代200のみにてすまず。 風寒き冬の日来りそむかれしゆめ見しをのこ何のあしどり。 12月6日 登校。よべ眠り足らず苦し。高校短大すませ富士銀行の高橋君より電話ありしとて、こちらよりかけしも不在。暁明館に電話すれば八木嬢まだ来ずと。伝言たのみ住高へゆけば硲君あらず。 近鉄アベノ百貨店で『兼好法師家集(30)』『概観維新史(50)』買ひて大江叔母に会ひ、中野君来ること云ひ、久美子の心境きき、羽田先生の件伝ふれば城平叔父にいふべしと。 大丸社長にも会ふべしと。昼食めざしにて食ひ、急ぎ帰れば16:30八木嬢来り、富永(※天理図書館長)明日帰国と。私鉄ストゆゑ急ぐと帰る。けふ松井、田中、両嬢より14日来ると(10:30)。 陽生より礼状。重松典雄医師より発起人会欠席のわび状。夜、増田万年筆修繕してもち来る。 12月7日(日) 島稔よりハガキ。本宮に会ひてききしと。ゆき子数男に催促のハガキかく。中野英夫まちて17:00出、万美子の家庭教師にゆく。(朝、近藤君月、水のどちらかに来てくれと云ひに来し)。 久美子もあり。一度話さんと云へばねえや逃げて月半ばまでだめと。叔父帰りしも疲れしとて会へず。21:00までやりて夕食せずに帰る。 (けふ古本屋にて『蹇蹇録(15)』板澤『杉田玄白の蘭学事始(10)』、ヘルツオーク『独逸民族史(30)』買ふ。) 12月8日 寒し。登校すぐストーヴなきことの不平云へば6号教室のみ守本氏入れ呉る。教員志望あす試験と。大丸社長に面会したしと手紙かく。住高へゆき硲君に会ひ、 帰り『常山記談(50)』木村で買ひ、山中生と塚西まで歩き越智ドクターにゆけば今一度発起人会をせよと。住吉交叉で親子丼食ひ夜学。漢文2人のみなるによりやめて帰る。 国会図書館より『中国地志』はじめて天理の本記入さる。 12月9日 徳庵-天王寺間の6ヶ月定期買ふ(2490)。登校して高校教へ西保君より原稿預けられ大阪女子学園にゆき、瀧川君と話し(けふ大丸社長より大学短大の入社試験すみしときく)。 田辺にて散髪。今川にゆき万美子教へ、18:00すぎになりしも夕食出ず、アベノ橋で雲吞食ひ、天海堂にて朔太郎『郷愁の詩人与謝蕪村(20)』、一茶『おらが春(25)』、 『蕪村七部集(40)』、古野清人『原始文化の探求(40)』買ひて帰る。全田の叔母より『シェークスピア全集』の金いかがなりしかと問ひ来り、城平叔父より黒田の書類返したといひ来り、 ともに無根。徳永昭子より恋人東北に就職?縁談たのむと。 12月10日 11:00家を出、学校で西保君に会ひ『歌集21才』の題字壽岳先生に書いてもらひ、卒業アルバムの写真とり、菊池生の資生堂への就職きき、平安文法1時間講義して教授会。 すみて音田君にゆけば発起人にハガキ出してきけと。羽田先生より催促たまふ。けふ全田へ返事して2月12日に渡せしと云ふ。羽田明、中野英夫へハガキ。 12月11日 10:00家を出、会社にゆき図書費2000もらひ、切り炬燵につき大工さんに杉浦部長より口きいてもらふ。電話すればすぐ来よとのことに学校へゆき、 石浜先生に新城君のこと云へば「あきらめさすのだね」と、羽田先生にたのむことを好まれぬ様子。お帰りのあとすぐ出て女子大。東田君に会へば「たのんで入れてもらふところでなし」と。 山本博士「本庄先生には200が好し」と。いやになり菅生事務所へ1250払ひにゆき梅田散歩。高尾でカロン『日本大王国志(150)』『南方諸民族事情(70)』。 土日で『平安朝文化(90)』『ジャム詩集(280)』。山本にゆけば吹田事件。帰って『祖国』3冊。角川より校正送ったと。 12月12日 終日臥床。岩崎昭弥、徳永昭子、山前実治、重松典雄、木村三千子、埜中清市諸氏へハガキ。電燈代464の請求を受く。 12月13日 登校。授業すませしあと、卒業アルバムへと句をさがしに多く来り、女子大の学生2人、1人は中也、一人は達治書くとて来る。『詩と詩論』2冊貸しやり、タバコ5ケもらふ。出て大丸。 北沢社長に会へばおそし。高校と同待遇はならぬと。腹立てて出、山本へ再びゆけば500で強行せよと。坂秀へゆけば俣野酔ってをり、饗庭君にきけば西保女史相変らず(※詩集用紙は)和紙といひしと。 本庄先生の見積り3800と。俣野と出てkohiおごれば羊羹かへしに呉る。帰れば角川より校正。151pとなりをる。全田叔母よりあやまりのハガキ。 12月14日(日) 11:00松井信子、田中美智子2嬢来り、みかん土産にもち、依子の外套、八木嬢よりことづかり来る(仕立代500)。〒なし。校正朝のうちにすます。睡眠剤のみて眠る。 12月15日 登校。松井和佐子に大丸だめとあやまり、服の鮮やかなのを着るを戒め、小野勇に逢ひてまだ本庄さんかといはれ、すみて唱歌。200出して茶会やり、京橋で本屋見しが何もなし。 帰れば音田正巳より300にせよと。けふ卒業アルバムに「わかれ」といふ詩書く。夜、弓子の友、細川君の父なる大工さん来りしが、会社にいひしと(※受注斡旋)ことはる。 12月16日 終日家居。睡眠剤に中毒せしにや、頭痛す。音田正巳より300にせよと。500にせんと発起人会出席の面々9人に書く。 12月17日 安田章生へ原稿ことわりのハガキ。ゆきがけ会社へ寄り城平叔父に今川の家のこといへば久美子にきいて見んと。学校へゆき漢文の試験問題へらし、中田博士と話し、 本学の諸先生は内職あるゆゑ高給不要と院長いふときき、講義1時間して安村、椿下二生とコーヒーのみて帰宅せんとし、また思直して会社へ黒田社長の電話取次にゆく。 地上物件売れし由。岩崎昭弥より相不変のハガキ。『白珠』1月号。 12月18日 家居。安田章生より『表情』。木村三千子より「先生は女性を喜ばすことお上手」と。宮本正都より三木老先生死せしと。井上斌子より山中たづ子の金ありしと。 大塚来り、会社側の承知せしボーナス13日分と。17:30野崎、伊藤2生クリスマスケーキもちて来訪。すぐ帰りゆく。 12月19日 8:00家を出、今川へ『シンデレラ(150)』と洋菓子ともちてゆけば叔父出しあと。久美子と話し、会社へ引返し11:30叔父に云へば短期間、荷物そのままならば宜しと。 羽田先生へ速達かき、12:30玉造で狐うどん食ひ、山崎弁護士にゆけば反対も来ずと。山本にゆき発起人勧誘の状かき、月曜に来るを約し、 饗庭君にゆき夫人に封筒2000枚たのみ(古本屋で『碧蹄館(20)』『スペイン語第一歩(80)』買ひ、久美子より『世界文学全集31』返してもらひし)。『不二』来りしのみ。 12月20日 登校。Bonus24日と。八木嬢より電話。先日の女子大花井嬢来り『三好達治論』の参考書かすゆゑ明日来れといひやる。楳垣先生より『俗語の語源』賜はる。 安田より朔太郎論いつでもよしと。中部日本放送より著作権印税につき。 12月21日(日) 10:00すぎ女子大花井嬢来り『四季』1冊と『日本詩壇』ともち昼食してゆく。藤村青一に紹介状かきたり。羽田先生より近日連絡せんと。翰林社より1月1日までに詩をと。 埜中清市よりハガキ。午后守屋美都雄君来り、東大東洋史学会名簿もち呉る(50)。16:00八木嬢来る。もはや気胸いらざるらしと。靴下たまふ。泊りてもらふ。年末手当団体交渉とて寮生帰り来らず。 12月22日 八木嬢を6:30送り出し、きけばよべ20:00妥結せしと。睡眠不足にて寒き中、高校へゆき保険の申告をし、採点し、12:00まへ終る。栂井君(?)西角先生泉大津の図書館にをられ、 わがこと話さると。短大で守本氏と話し、気に入らざるやうなものいひす。佐々木生来り、きけば伊藤生のみ試験に落ちしと。 14:00まへ出て饗庭君に会ひ封筒2000枚1000でこさへ呉れしを受取る。西保君の歌集は2月初。40,000で100p、200冊と。半額前払してくれと。出て山本事務所へゆけば山本、 多摩川へ24日夜まで連日通ふと。封筒150枚かき疲れ、謄写版代400立替へて無銭となり、坂秀へは明日原稿持参とことはりて帰宅。硲君来り、24日午まへ短大へ来ると。海苔たまふ。 羽田先生より月曜董君に電話せよと。 12月23日 晴、寒し。来信『俳句新年号』。12:30出て会社。重役会と。大工に炬燵のこといひしも怪し。置手紙して14:30出て山本事務所。文書の原稿作り饗庭君にもちゆき1000を封筒代として渡す。 封筒300枚もち帰りそろそろ書く。けふ発送代、佐瀬君立替る。埜中清市に街で会ひし。 12月24日 京、きのふより風邪。医者へと共に出、会社へゆけば城平叔父きのふ羽田先生のお手紙見しと。期間6ヶ月といひ、家賃いくらかで云ひ[きて]なりて叱らる。 あはてて出、学校へゆき1.5ヶ月もらひ『鴎外全集19』とり、硲君にあす来てくれといひ、(山本君肺病と)、昼食くひて羽田董君を呉羽紡績に訪ひ、ともに今川。家見せてもらふ。 きれいにしてあり。あす明君に山本事務所へ電話かけよとたのみて別れ、今川へゆき久美子と話す。27日のパーティーに行きてよしとなり。一度阿倍野橋へ引返し、 大和銀行で日野月先生への3000のお礼をgift-checkにしてもらひ(箱代30)、大江にゆき、字かいてお訪ねすれば留守。北村氏にあとでもってゆくことをたのむ。(今月より10%増俸と)。 帰り近鉄デパートで藤沢『流行歌百年史(220)』、天野『大東亜資料綜覧(150)』買ひ、仁井田『中国法制史』買ひし、くぢ引きて鉛筆2本もらひて帰宅。 けふ数男より38000来りて(※妻悠紀子への遺産分割)すみし由。藤野君より近江詩人会つぶれるやもしれずと。羽田より速達来りをり、西保嬢より香水4瓶来り、内2瓶こはれゐしと。 夜、賄3人にbonusわたす。 12月25日 10:00父来り問へば今月よりつとめ、隔日にて5000と。めでたし。ともに会社にゆきしも叔父不在。我のみ駅にゆけば中馬、東、吉川、菊池らの組と会ふ。 15:00来りし羽田と硲君とを饗庭夫人の所につれゆき酒のませ(1200)、16:30山本にゆき(そのまへ都正次に会ひし)、羽田らと別れて天ぷら食ひしのちDateにゆきChristmasを祝ひ、 20:00坂秀にゆけば饗庭眠がる。29日夜出来とききて出、校正のこと忘却。京橋で『ミュッセ詩集』買ひて帰宅。(羽田の言によれば移るか否か月曜に返事すと)。 伊藤久子より落第の報告とクリスマスカード。島稔より戯文。 12月26日 よべ不眠。Alcholと封筒書きとの為なり。午后出るときめてねてゐしところ、小沢大工来り、椿炬燵にかかりしゆゑ出られず(長浜の人と)。午後訪ひ来しは松本一彦夫人、 嬢ちゃん解析1点とて相談に来しなり。青山定文をさがし当てよといひて帰らす。けふ八木嬢よりこの間の礼。 12月27日 9:00家を出、会社にゆき叔父に羽田家月曜返事とのこといひ、けふのダンスパーティー云へば大騒ぎしゐると。杉浦氏にきのふの礼云ひ、小沢大工に1000わたせしと云へば多すぎると。 本町1丁目下車瓦町の印刷屋にゆけば校正出をり校了とし、沢田の事務所にゆき山崎三七喜氏に電話すれば異議申立なかりしと。第2野村ビル5階の通産局によれば藤田又一出しあとと。 沢田に再びゆけば鰻奢り呉る(2人前950!)。別れて内本町にて散髪(130)。舞踏会館にゆけば佐々木女史タバコ3ケとジンフィズ賜ふ。14:00現れし久美子、男連れをり、 武内先生につれゆきて礼云ひ、すぐ出て梅田。『唐詩選2冊(80)』ヨシカズ書房にて『平安女流歌人(70)』、高尾にて折口信夫『恋の座(70)』『日本雑事詩(100)』『伝道と民族政策(150)』、 土田にて『ギリシア女人群像(30)』『大黄河(30)』と買ひて時間つぶし、山本にゆけば出るところ。振替用紙なしにて発送ときまり、都正次、佐瀬と3人にてコーヒー(240)のみ帰宅。 埜中より1月5日新年宴会。日野月先生より受取れずと。鈴木治氏より朝鮮関係書目をと。 12月28日(日) 寒し。封筒かきゐる中、青の父よりシャツ、ズボン下、松本夫人より青山未帰還と。休みかたがた小阪にゆき山口実に会へば不景気と。埜中の新年宴会のことわりたのみ、 堀内へゆき百科辞典9000ならもて来よと云ひ、松本にゆき話し、日野月先生へゆくをやめて帰り、バス待つ間、また堀内にゆき藤岡『近世絵画史』『抱朴子』(100)『近世世相史概説(100)』、 高須『日本近世文学十二講(30)』『漢文大系唐詩選(100)』と買ひ集めて帰る。萩原・天満2生よりナイロン靴下3足贈らる。夜、西宮君来り砂糖3斤と菓子賜ふ。谷口砂糖2斤呉る。 夜、22:00までかかり18回まで終る。 12月29日 寒さややゆるし。羽田先生より2、3日返事まてと。文芸家協会より名簿原稿。10:00本荘先生の封筒1400枚書きをはり12:00出て会社。叔父へと羽田先生のハガキ托し、 梅田地下の古本屋で『南支那(25)』『マカートニー奉使記(30)』『支那家族の構造(80)』と安きを買ひ、ニュース映画見て吹田にて泊る。けふ来年の日記帖もらひ万年筆贈る。 12月30日 9:30出て梅田にゆき、万字屋にてきのふ見し『人類学の基礎(130)』とLoeb『スマトラの民族 下(40)』買ひ、喫茶して坂秀にゆけば留守。やや待ちて帰り来し夫人より印刷受取り(2600)、 重きをさげて山本事務所にゆけば佐瀬来ず。山本に電話し喫茶店にて待てば硲君、弟づれにて来り、喫茶しゐる中、佐瀬12:00前来り、作業開始。14:00来りし山本夫妻より5000預り、 15:00まむし食ひ17:30終り、バタバタにて中央郵便局へ運び(8×1747)、別れて坂秀にゆきコーヒーとケーキにて出、19:00帰宅。末吉より転居通知ありしのみ。 餅搗きすみ砂糖3斤礼にせしと。(饗庭君令息にゑほん85) 12月31日 中川いつじより詩集。餅食ひてねてゐし。夕方入浴終り年越そば食ひゐれば酣燈社より3000。 田中克己日記 1953 【昭和28年】  昭和28年は伊東静雄と堀辰雄が相次いで逝去する年です。 『四季』や『コギト』に親しんできた者にとっては、ある意味、抒情詩の命運が絶たれた年のやうに感じられる年でもあります。  伊東静雄が国立病院長野分院で息を引き取ったのが3月12日。その訃報は田中克己には翌日、大阪市内を所用で終日かけ回ってゐる間、 自宅へともたらされたやうです。帰宅したその足で伊東家に駆けつけたのですが、すでに夜。柩は火葬場へ運ばれたあとであり、帰ってきた家族と落ち合ったことが記されてゐます。  後日の追悼会(4月26日)には速達で呼び出され、集まったのが田中克己のほか、伊東静雄の弟子である庄野潤三と某女史の3名だけだったといふことですが、 四十九日の法要らしく、地元佐賀での葬儀に行けなかった詩人に対する遺族の配慮が感じられます(伊東家が黄檗宗であるとは知りませんでした)。  さてその場で庄野潤三から、林富士馬は伊東先生の前であなたの悪口など云ったことはない、また田中克己の弟子だった大垣国司が発狂したのは、 出征中に預けた朔太郎ほかの大切な書簡を紛失させたことをあなたが叱りすぎたからだと“おどかされ”、日記に記してゐる位ですから随分気になってゐる様子です。 大垣国司については、実はすでに二年前(昭和26年3月4日)に精神病院で虐待死してゐたという衝撃の事実を、彼の友人だった芳野清の手紙によって知らされ、 さらに後悔することになりますが(11月24日)、その短い不幸な生涯については、 『果樹園』に連載された芳野氏による回想 を参考資料として抄出掲載させていただきましたので御一読ください。  それも心にあったのでしょう。5月4日には、自分が目をかけてゐた別の後輩詩人、戦歿した薬師寺衛の母堂を訪ね、 遺稿『受胎告知』を借り受けて写しはじめてゐます。のちに一部がやはり『果樹園』に紹介されましたが、単行本の刊行には至りませんでした。 或ひは掲載された分のみが「小火出して薬師寺君の原稿も行方不明」の結果、遺された断簡だったのかもしれません。  大垣国司といひ、薬師寺衛といひ、そしてこれも先立ち戦死した増田晃といひ、田中克己と親しく交はった、 抒情の質を同じくする戦前の後輩詩人たちがみな夭折し、中学、短大の教へ子からは誰一人として文壇で身を立てることなく、 文学者・史学者からはそれぞれ毛色の違ふ詩人学者・学者詩人とみなされ敬遠される向きがあったのは、 同じく神経質な詩人気質ではあったものの、大坂でも裕福な地区の中学校教師として多くの後進を育て得た伊東静雄の苦労人ぶりとは様相を異にします。 そして先輩にあっては、生きてゐれば最大の庇護者となったに相違ない、晩年古典に傾斜していった堀辰雄のもとからは、5月28日ついに恐れていた訃報が届きます。    「けふ会社へ堀辰雄夫人より電報。夕刊にものりをり。辰雄氏1:30死去、48才と。alas!」  すぐさま弔歌を電報で打ちますが、東京増上寺で行はれた告別式には、案内状 の到着したのが前日とて参列してゐません。『四季』に推挙してくれた最大の恩人とはいふものの堀辰雄は著名な文壇人です。実生活では、 病床にあった本人よりも家族を通じて健康を気遣ふといふ関係でしたが、このさきも多恵子夫人に対する配慮がそのまま故人への尊敬と追善を示す様が、 末永く晩年まで続いてゆくこととなります。告別式に出席できなかったことについて納得するところはあったと思はれます。  さて雑誌『祖国』では、当然ですが伊東静雄の追悼号が組まれました。田中克己も別途に講演に呼ばれ回想を語ってゐます (「伊東静雄を語る会」10月10日市立文化会館)。  昭和の抒情詩史を語る上で欠かせない『四季』と『コギト』にあった、カリスマ性をもつ最重要人物が相次いで病没し、大きなピリオドが打たれましたが、一方で再興の萌芽も日記には窺はれます。  9月28日に依田義賢、荒木利夫、山前実治、井上多喜三郎、佐々木邦彦、田中克己6名による会合の席で発議され創刊されることになる、コルボウ詩人会とは別組織による『骨』といふ風変りな名前の同人誌です。  「気骨・老骨・硬骨」いかなる含意を込めたのでしょうか。漢字で大きく「骨」と印刷された雑誌を小脇に抱へて歩いてゐると、 女子学生から奇異の目でみられたと杉山平一氏が記してゐますが、すでに近江詩人会やコルボウ詩人会があるなかでの新雑誌です。 小高根二郎氏には「無意味」であると見えたやうですが、案外にこの雑誌、その名のやうに各同人の「バックボーン」の発表機関として20年余の長命を保ち続けます。  そして再興の萌芽がもうひとつ。小高根二郎との間で『スム』といふ誌名(?)が話題に挙がってゐることです(1月14日)。 もちろん「コギト エルゴ スム(われ思ふ故にわれあり)」からの発想でしょう。  この年、小高根氏は第二詩集となる『郷愁』を出版、記念会も盛大に催し自らの詩業に対して一区切りをつけてゐます。と同時に、盟友だった伊東静雄の逝去をきっかけに、 やがて遺された書簡と日記をもとにして、彼と彼が生きた日本浪曼派の時代を生き証言として書き遺すことを思やうになります。  のちに「書簡からみた伊東静雄(詩人、その生涯と運命)」として名物連載になりますが、それが載るのが小高根氏が田中克己と相談して始めた雑誌、 『コギト』の後継誌として昭和31年に創刊することになる『果樹園』です。3段組と体裁こそ簡素ながら、これもまた17年間205号を数へる息の長い雑誌となります。 そして印象を喩へるならば「保田與重郎がゐない日本浪曼派」といった趣きがあります。何故に主役である筈の保田與重郎がゐないのか。 その伏線がこの年あたりの消息からはっきりしてくるやうに思ひます。  年末の12月18日、芳賀檀を迎へる宴席が京都でもたれました。注目するのは祖国社より(もちろん保田與重郎の意向で)、 肥下恒夫の出席を田中克己を介して要請があったことです。すでに農地解放によって大地主ではなくなり、パトロンとしての資格もないながら、 保田與重郎にとってそこにゐなくてはならぬ人として肥下恒夫が意識されてゐたらしいことは、当日付の日記に詩人自ら    保田[與重郎]、[小高根]二郎、長尾[良]、岩崎[昭弥]すでに[※破れ]芳賀氏来るをまちて宿屋までゆき「日本浪曼派」結成の準備と知る。  と記してゐることからも分かります。この前後のページは一度破られてゐて、最終ページも欠落してゐる事情とともに詳細不明ですが、 田中克己はこの日、保田與重郎に師事してゐる彦根時代の後輩岩崎昭弥から、かつて『日本浪曼派』に自分が呼ばれなかった理由を「官吏教師は止めとこ」 と保田氏が云ったとする口実を仄聞してゐます。それが方便であることは、同人だった伊東静雄が歴とした教員だったことからも明らかですが、 すでに『祖国』の伊東静雄追悼号の誌上で、おなじく保田氏から    「日本の新詩始つて以来、最も意味のあつた詩人」として「昭和から次の代に亘る詩人は、蔵原伸二郎、宮沢賢治それに伊東静雄」(82p)  と自分が入れられなかったことにも失望してゐます。校正時に見たらしいですが、そもそもこの追悼号、 当初は保田與重郎から直々に編集を依頼されたものの、富士正晴を探し出し下駄を預けてしまってゐます。 その結果としての保田氏の記事であったかもしれませんが、長らくライバルと目された田中克己の寄稿のないことが、 やはり私には異様に感じられてなりません。保田與重郎の戦後の雌伏期を支へた雑誌『祖国』の役割が終り(終刊は昭和30年)、 彼らとの蜜月時代が終息し、仲違ひした訳ではないけれども、新たな活動の場が模索され始めてゐることが窺はれるのです。  12月18日の会には結局、肥下恒夫は参会しなかったやうです。帰農した肥下氏については、生活の窮状を救ふため、 田中克己が坪井明とともにたち動いてゐる様子が日記にみえますが、これは前年の同窓会で、会費が払へず散会間際に現れたといふ「事件」をみかねてのことでありましょう。 竹内好が土産の博多人形を売ってお金にするやう托したりしてゐます(2月7日)。そして年末には皆の斡旋策が功を奏し、堺脳病院への就職が決まります。  いったいに師友に対する恩誼友愛によって奔走するのは「協同の営為」をこととした『コギト』同人らしい田中克己の性分でもあるらしく、 大高の恩師であった本庄実に関する頌寿記念会の醵金依頼についても、大物OB藤沢桓夫をふくむ実に各方面に広がる同窓生の元を訪ねて骨を折ってゐます(4月10日贈呈式)。 文学者こそ輩出しなかったものの、教育者としては教へ子から慕はれ、ことにも「蜻蛉会」と呼ばれる浪速中学時代の教へ子によるクラス会が度々開かれてゐる理由も、分かる気がいたします。  しかしやうやく大学教員にはなれたものの、私学ならではの苦労は、たとへば有力者からの入学口利きに困惑する様子などが窺はれます(3月8日)。 教へ子の娘たちの就職斡旋については、実にあれこれと腐心して関係先を回ってをり、旅行などにも当然付添ひ、文学面では最初の女弟子と呼ぶべき西保恵以子を輩出、 氏の処女歌集『二十一歳』刊行に世話を焼き、短大からの出版物として序文を書いて言祝いでゐます。  かうした教員生活の煩はしさや、やり甲斐について、あらためて語り会ったりしたでしょうか、天理時代にはずいぶん世話になり自宅へ入り浸ってゐた旧友の服部正己が、 愛知大学から大阪市立大学への再転任に成功、豊橋からふたたび畿内へ帰ってくるのもこの年です。ただしこの時期頻繁に立ち寄ってゐる旧友は服部正己ではなく、 法律事務所を大阪の繁華街で開いてゐた山本治雄のやうです。もっとも実際に話し相手としてつるんでゐたのは、 当時社会を騒がせた吹田事件の主任弁護士として多忙だった山本氏ではなく、事務所員の佐瀬君(佐瀬良幸氏)だったやうですが。(山本氏はのちに吹田市長となります。)  さて最後に、この年の田中克己本人について日記で初めて知ったことを記します。ひとつめは、年初の『サンデー毎日 新春特別号』(32巻1号)に掲載された、 藤沢桓夫の「聖女たち」といふ小説(130-137p)のこと。主人公モデルが詩人本人らしいといふことで、これは私も是非よんでみたいと思ひ、 探したところ運よく入手できたのですが、読んでみたらば筋は全くのフィクションだったので紹介は割愛することにします。ただ人物紹介には笑ってしまひました。いや失礼!    「(前略)どこの女の学校でも、学生に妙に人気のある教師がいるものだ。この大阪の郊外の女子短期大学では、国文学の桂木敬助がそうだった。     背はひょろ高いし、顔色は蒼白いし、あまり眉目秀麗型の方でもないのだが、東大出身で、まだ三十歳を出たばかりで、     詩人としてもちょっと名が売れていて、長髪を無雑作にうしろへ掻き上げているところが、若い娘たちにはいかにも芸術家らしい感じを与えるのでもあろうか。     これで、彼が独身であったら、もっと騒がれているのかも知れない。(後略)」  それから、12月3日の日記に「けふ『文芸春秋 冬増刊』に中島健蔵わが悪口を巧みにかく。」と記されてゐる、 「参謀本部日記 ―「文化人」が軍服を着せられた時代―」といふ中島健蔵の回想の文章。 かつて北川冬彦によって書かれた暴露小説「悪夢」のなかで、旧知であるにも拘らず、 たちの悪さうな兵隊とつるむいけ好かないタイプの人物として描かれてゐる中島健蔵が、同じ徴用船での出来事を自分の側から描いて申し開きをしてゐるのですが、田中克己については、    「田中は、無邪気らしく軍刀をかまえて、「応徴詩人」とみずから名のって、どうやらこの新しい環境になじんでいくらしくも見えた。」    「微用の第一陣の中には、深刻な内部的暗闘があって、寺崎はペナンに、海音寺はコーランポにとどまって、シンガポールの本隊を避けていた。中村地平や田中克己は、その妙な暗闘のつづきにまきこまれているらしかった。」 と記されてをり、あらためて両者を合せて読み比べてみると興味深いです。  そして最後に、父が『カバヤ児童文庫』を執筆してゐた筈だといふ長女依子さんの記憶です。もちろん著書に数へられてゐませんし、 私も本人から聞いたことがありません。そもそもこの「おまけ本」のシリーズ、9巻以降の号が順番に発行されてをらず、書誌の全容も今だにはっきりしてゐないのですが、  岡長平氏編著の研究書『カバヤ児童文庫の世界(岡山文庫2014)』によると、     カバヤ児童文庫第10巻第1号 『鉄のハンス』グリム兄弟著 刊行年月日不明(昭和28年11月20日刊行?)     カバヤ児童文庫第11巻第1号 『のんきぼうずの旅』グリム兄弟著 刊行年月日不明(昭和28年11月20日刊行?)  といふ2冊があり、現物は確認されてゐないのですが、     2月 5日 藤枝よりグリムたのむと。     3月12日 藤枝よりグリム童話の原稿送られ、     3月16日 藤枝より原稿返せと。     9月30日 藤枝よりカバヤキャラメルの10,000送ると     10月1日 藤枝より金来しと。  といふ日記の記述を拾ってゆくと、どうやらこれらが怪しさうです。現物をお持ちの方がいらっしゃいましたら、御一報いただけますと幸甚です。  ちなみにこの仕事を斡旋してくれた藤枝晃氏自身は、     カバヤ児童文庫第10巻第13号 『アマゾンの秘宝』バランタイン著 昭和28年11月20日刊行  を担当してをられます。 昭和28年1月1日~昭和28年12月31日 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き ノート   田中家系図 1月1日 8:00起床、寮生挨拶に来る。9:30年賀状143通受取り、会社へ年賀にゆく。池川医院ドクターも来る。康平叔父のみ不参。11:00早くぬけて帰宅。賀状に神田博士、吉永登、岩井大慧、河村純一、青木富太郎等のあり。堀口太平、東京にてプリント屋やりをる。吾より出せし賀状和田先生、神田先生、石浜先生、大江叔父叔母と4枚のみ。 1月2日 けふ40枚賀状。『祖国』新年号来る。午后出て小阪。堀内にゆき『古事記伝4冊(120)』と『イタリー語第一歩(100)』買ひ中西にゆけば他出、松本にゆき(土産に『音楽の聴き方(160)』)17:30までしゃべりて帰り来る。けふ海上警備隊の林佑治、せんべいもちて来る。 コルボウの新年宴会けふと天野忠より。(松本へ植野氏よりの通知にては青山正文昭和19年ニューギニアにて戦死の公報と)。 1月3日 快晴3日。賀状20枚。午後青夫妻、原課長への年賀にふられて寄りしのみ。島稔より中野清見の手紙同封。竹内好へハガキ。西下の日時しらせと。 1月4日(日) 晴寒し。賀状20枚。中に岩崎昭弥の『サンデー毎日(※昭和28年新春特別号)』に「聖女たち」といふ小説あり。[※藤沢]桓夫の作にて主人公は我と。史に買ひにやらすればいかにもさうらし。タバコにマッチ入れありしをほめしと書きあり。 午後、史、友達へとゆく。守屋君夫妻門口まで来る。羽田先生の御返事来らず。 今暁、秩父宮薨去、50才と。 1月5日 曇、賀状13枚。川久保、本宮等旧友のものあり。文芸2年藤野・疋田の賀状あり。あと7人のみよこさず。 14:00八木君、柿とみかんとタオルともちて年賀。中西君の診断にてはまだ気胸つづくと。雨の中をともに出、我は山本へゆけば客一人。かしわのすき焼食べ飽きず、子守に100祝儀として包む。 吹田の古本屋にて『イソップ(25)』、ジャコブ『骰子筒(30)』。羽田先生にお電話すれば断ると。 1月6日 10:00出て梅田。万時屋にて『狐の詩情(20)』『海国女性史(20)』。藤井寺にゆき大江叔母と相談しゐるところへ今川の勝子叔母来り、話かけんとすればとめらる。 日野月先生にゆきしにお留守。子らへと大江叔母より1000。西窪うめの君の後夫誰やらと結婚し、それを報せ来りし隣組ありしと。アベノ橋にて『東洋の政治経済(20)』。 帰りてコルボウより活字となる故、投稿をと。『不二』。賀状横山の父より。夜、大塚あめ呉る。 1月7日 10:30会社へゆけば叔父出しあと。電気代払ひ庶務課長より入学の相談うけ、大手前へゆけば坪井あり。肥下この間の留守に来しと。(天満橋の古本屋でラッツェル『アジア民族誌(200)』『遺物遺跡の研究(50)』『朝鮮民謡選(40)』買ひ、まむし食ひ(150)し)。 食堂でコーヒーのまされ、石山直一と話し、将棋さして勝ち、山本に電話せしあと事務所へゆけば帰らず。またコーヒー(120)、別れて富士銀行堂島支店に高橋玉諟訪ねしも不在。 みぞれ降り来しゆゑ高尾書店に入り『駿台雑話(30)』、ホークポット『支那通史(20)』『離縁状と縁切寺(120)』買ひして帰宅。 けふ池内一君より礼状。和田、石浜両先生より賀状。松本一彦に山下より電話し、10日(土)坪井の教へ子(大学南校生)つれゆくと決む。高橋重臣へ9日(金)ゆくとハガキ。 1月8日 9:00会社へゆき叔父に羽田先生のこと伝ふ。午后『文芸春秋』3月号の詩17日までにと速達、諾と返事す。 1月9日 7:30家を出、小阪にて8:00すぎ準急なく、のりかへのりかへしてゆけば天理図書館10:30(※リンク写真あり)。館長に会ひ見学云へば歓迎すと。大浜、高橋に『コルボウ』のこと云ふ。(『四季 朔太郎追悼号』吉井君に貸しありと)。 八木嬢よりカードもらひて出、新城氏に経過いへば宜しくたのむと。ともに鰻丼食ひ(200)、鈴木氏にゆき小阪17:00すぎ。堀内にて『平家物語 上(20)』『万載狂歌集(20)』『南の文化北の文化(30)』。帰宅18:00。 山前実治より10日来れずと。白鳥清先生より喪中欠礼と。佐々木・後藤田二生より賀状!(西大寺にて彦根の工科の近藤君に会ひし)。 1月10日 6:00起きし、7:30家を出て定期6か月分買ひ(1890)してゆけば始業式と。ばからし。小野勇氏、本荘先生の勧誘状見しと。島本貞三郎氏来り、関口に紹介状書かす。やきもきやでコーヒーのみ(50に値下)、(庄野英二にきけば富永パワーで神経衰弱となりゐしに金借りしと)、住高へゆけば休み。山本重武に見舞にゆけば不在(御慶リンゴ28×5)。 田辺より天王寺へ出(姫松で『沙石集2冊(60)』)、山本事務所へゆき佐瀬と話せど山本風邪で来ず。ニュース映画見にゆけばなし。喫茶してスバルで重治『ハイネ人生読本(100)』『現代ナショナリズム辞典(40)』買ひして時間つぶし、大手前にゆけば阪大女生2月半ばまでだめと。西岡先生にたのむこととし、松本に電話し紹介状かきてバスにて帰宅。けふ学校にて木崎博士の賀状見、返事かく。三角とあだ名のラグビーの名スリークォーターなり。藤野一雄よりハガキ。 1月11日(日) 松本善海より毎日の『東洋史』再版送ると。午后出て松本へゆき西岡先生紹介の辞をし、雨になりて夕食よばれて帰る。堀内休店。徳庵で下りて傘買ふ(95)。 1月12日 登校。2時間目と3時間目の間に学長訓話。漢文流れ5時間目国文学史やり、すみてsolveig's Lied(ペール・ギュント)教へしところへ硲君来訪。ともに出て古本屋で『天皇制の成立(10)』『太閤記2冊(80)』『沢庵禅師書簡集(10)』『吉田松陰書簡集(10)』買ひ、別れて斎場前でまむし。帰りてストーヴにあたり夜学終へ、21:00まへ帰宅。けふ彦根短大の卒業生川辺より電話。西保嬢より前金承知とハガキ。 1月13日 風強し。焚火する道路工事の女たち咎めて登校。『文芸春秋』2月号買ふ。伊東静雄の詩あり。 長沖氏に相談し27日(火)天理行ときめる。堀内進来りコーヒーのみて『百科辞典』受取り、出てアベノ橋で別る。15:30帰宅、入浴。 けふ日野月先生より手紙。また来よと。羽田[薫]君より4月末家建つに付、辞退すと。保田より同窓会名簿2冊送れと。けふ大谷短大の吉井君に電話すれば『[四季]朔太郎追悼号』預りゐると。 1月14日 登校、島本貞三郎氏より電話。関口に会ひしゆゑ一度お礼したく連絡たのむと。1時間すまし、教員志望呼びて三野氏に紹介し、教授会。天理図書館見学許され高校2年生の講師の件再考慮してもらふ。近鉄百貨店にて『日本人の遺言状(20)』『蕪村俳句集(50)』『日本民謡論(150)』。高梨富士子より本よみたしと。長尾禎子より風邪と。北村ウメノ氏より高田へ帰ると。小高根二郎より『スム』結構と。 けふ卒業アルバム用の写真貰ひしに若くとれゐし。 1月15日 成人の日と。後藤田生より水川氏の秘書をなしをり、欠席ために多しと。文学志望にて『聖女たち』よみ先生は愛妻家と。 八木嬢よりきのふ気胸に来て1週毎に来よといはれしと。饗庭君より18日(日)13:00来てくれと。15:00出てバスにて小[阪]。孔舎衛坂下車。八田君にゆきしに不在。夫人は帝塚山卒業。毎日終電車と。池内先生の本おきバスにのり瓢箪山で下車。西宮君にビスコ(100)もちゆけば新宅。1時間して出、小[阪]。堀内にて『言道歌集(20)』買ひ、帰りて夕食すませれば宮本正都君酒気を帯びて来り、20:00まで話しゆく。 けふ保田と後藤田生へハガキ。夜『文芸春秋』3月号のために「自殺未遂」を書く。宮本君が語りし青根生を機縁とす。ふしぎなることかな。 1月16日 晴。速達出しかたがた出て上六。近鉄自動車部の江馬春夫に会ふ。バス1日10600とチップ500となり。出て学校へゆき森本氏と話し後藤田生呼び、野崎、平山、松井生呼びし、11:30出る。 寺本生尋常科にきまりしと挨拶。市立病院へゆき田村春雄に会ふ。接収されゐし家返還と。ともに支那料理食ひコーヒーのみて別れ、山崎弁護士にゆけば不在。島本にゆき関口に電話すれば長官来りゐるとてだめ。心斎橋筋を南下、駸々堂で[楽]語買ひして帰宅。、本日〒なし。珍し。 1月17日 晴、登校。硲君来り、松川殿六氏の息のこといふ。近鉄に馬より電話あり。アベノ橋へバスをといひしあと、学校へ集ることにしたしと。出て山本にゆき14:00帰り来しに会へば不景気らし。 八木あき子嬢に冬服のこといひ『今昔物語 2』買ひて帰宅。『東洋史研究12の2』来り、松本一彦より西岡先生14日来られしと。田村春雄よりリョーマチにコーチゾン錠1日3-4錠のめばよしと。 1月18日(日) 晴。浪華芸文会の新年宴会25日に十三でと。11:00出て京橋で散髪。13:00饗庭君にゆき「ニャーオ」の相談す。前金不要となりしと。寒気して15:00まへ退出。西保嬢また香水呉る。 1月19日 風邪なれど登校、バス学校へよこし呉るるやう近鉄自動車部へ電話す。ひる高等の生徒『漢文入門』3冊もち呉る。歌教へてゐのこり、天ぷらうどん食って(70)夜学。20:41にて帰宅。松本善海より『世界の歴史3東洋』改訂版。 1月20日 登校。2cも『漢文入門』2冊呉る。修学旅行の案内に詩を付す。彦根短大英文の浜田来り、ともに喫茶。清徳『形而上学(30)』買ひ、鞄直す。天王寺駅で別れて帰宅。西保嬢より礼状。宮本夫人より悠紀子へ同。梅本(※梅本吉之助)より大阪相互銀行に生島勤めゐると。高橋玉諟君より本庄先生の報告。17,100集りしと(17日迄)。けふサラリーもらふ。税少し安くなれり。 1月21日 文芸春秋新社より原稿受取り。それを見てゆけば12:30。八木君より電話かかりしと。松本一彦に電話すれば坪井に礼いかにと。不要と答へ関口に電話申込み、高橋玉諟君に電話しする中、大毎の天野より電話、女性の読書についてききに来ると。壽岳博士と話せば「大興安嶺」にて『北方ツングース』の訳者の名見ゆるは君かと。 やがて来し天野と齋藤、山中、井上、藤野と座談会しゐる中、関口より電話かかり明日にても明後日にても18:00大阪駅西口にてと。島本に電話かくるを忘れて天野とコーヒーのみて帰宅。 けふ由良賄人辞職を申し出づ、夜、呼びて話す。 1月22日 9:30会社へゆく前、安倍と話せば上出も辞意ありと。会社へゆき城平叔父に会ひ、竹村課長と話し、バスにて大手前へゆき坪井と18:00梅田へ来よといひ、梅田新道下車、山本事務所にゆき佐瀬と話して、まむし(85)食ひ、大阪駅で広津和郎『大和路』よみをへしあと富士銀行へゆき高橋君に会へば21,000となりしと。 2,800印刷代に預り、菅生法律事務所にゆき保田に2冊送らすこととし、500立替へ、高橋君に名簿わたし梅田新道の古本屋へゆかし、土田で『ブレイク抒情詩集(20)』買ひ、また山本へゆけば泉大津へゆきしと。 佐瀬と饗庭君宅へ2,800払ひにゆきしあと、ニュース映画見て18:00まへとなり、あはてて大阪駅西口へゆけば坪井、島本2君既に待つ。18:10来し関口と正弁丹吾亭へゆき22:00まで飲むにつきあひ、島本とはぐれパチンコ。すみて黒百合へ関口と2人でゆきジュースで880払ひ、片町まで送ってもらって帰宅。堀内進より羊羹2棹。 冬空の寒きを見つつゆきかへばおろかなるこひするひとと見む。 1月23日 9:30家を出て上洛。まづ京阪書房により学校のため『日本書紀証』『日本書紀新釋』『六国史』買ひ、鈴木氏に藤田『朝鮮考古学研究(280)』買ひ、わがために『国語国文書誌便覧(80)』と『大興安嶺探険(550)』買ひし、畠山家へゆき夫人に会ひてのち同志社にゆけば児玉実用に会へ、同志社中学校長に会へば男女校とわかり、女子中学校へゆけば帰宅。紹介の名刺もらひて下総町。母、祖母と会ひ2000わたし京大。 東洋史研究会費190払ひ、羽田を待ち池内先生のこと話し、再開をほぼ約し畠山家に帰り、夫妻留守の間に吉野書房に電話し(池内家へ5、60冊送りし。訂正は天理時報社がせざりしと)、依田君へ電話すれば29日迄上京と。やがてまぐろ持ち帰りし畠山氏と会ひ、夫人と自動車にて永島女子中学校長宅へゆきてたのみ「大丈夫でせう」と云はれ、まぐろ置きて帰り粕汁にしてもらひ、電車賃返し、からすみもらひ、タバコもらひ、京阪まで送ってもらひて帰る。 けふ羽田に『京大東洋史5』もらひ、帰れば『俳句2月号』と『Poets' School』来しあり。京橋より守屋君とともになる。平中氏にゆきゐしと。先日慶松来しと。 1月24日 登校、授業すませ島本氏に電話かければ一人づつ世話せんと。12:00まへ出て長沖氏にゆけば25、6日帰阪と。ぜひ修学旅行にと夫人にたのみ、鈴木治氏に長沖氏ゆくかゆかぬや未定と速達し、まむし食べて藤井寺。大江叔母の意見で日野月先生やめ、からすみとり出せば2,000位と。叔母にやり藤井寺駅長に学芸大へ次男入れることの不可をいひ17:00出て帰宅。 西保君より難波の歌集代150送付。亀井より来週来ると。(けふ学校へ児玉実用氏宛の手紙忘れしが森氏いれくれしや)。 1月25日(日) 家居。ひるねす。大谷篤蔵君31日女子大にて講演すと。畠山氏、羽田へ便りす。 1月26日 登校、江馬へ電話すれば10,000でよしと。4時間目府立女子大へゆき家へゆき又女子大と追ひまはして佐野君に会ふ。明日ともに天理図書館へゆくと。 梅本に電話し子守あやまり、生島に電話して声きき硲君に会へば、先日本庄さんの封筒入れ手伝ひし弟自殺せしと。住吉中に話せんと。野崎の履歴書もって帰ってもらふ。 斎場前へゆき『気候と文明(60)』『平賀元義歌集(25)』『徳和歌後万載集(20)』買ひ、まむし食ひて(130)帰校すれば坪井、ココアのみて(100)別れ夜学。山前実治より父君死なれしと。日曜大毎に図書館記事ありし。 1月27日 悠紀子発熱、依子飯を炊く。7:30家を出、8:30学校へゆけばバス既に在り。佐野氏来り、長沖氏、西宮氏と4人そろひ、学生も塚本以外そろひて出発。10:30[天理図書館]着。 長沖氏、真柱に会ひにゆく。我うろうろし八木嬢より貰ひしパン食ひて鈴木氏の室で地誌目録見る中14:00。出発して薬師寺へ行かんとせしに奈良着。歌うたひつつ帰着16:00。 谷川より電話かかりをり、きけば竹内[好]2月2、3日に来阪と。帰れば竹内よりもハガキ。山本治雄より本庄先生の醵金不成績につき直接集めんかと。19:00すぎ彦根の教へ子谷田(中央市場運送)と川部(三栄紙業)と来訪。22:00近くまで話してゆく。浜田[氏]約束しはぐれしと。 1月28日 10:00家を出、会社にゆけば電話近くかかると。池川医院にて浜口のこときけばLunge[結核]らしと。山本事務所にゆき佐瀬に会ひ受取書のこと云ひ、学校に電話して教授会欠席云ひして出、金田一『国語の変遷』買ひて帰宅。『白珠』来ありしのみ。亀井と同道、会社へ推薦せんかと云ひしも即答せず。 1月29日 朝の郵便にて保田より、会ひたき故、大阪書籍の津田正男に連絡せよと。名簿2冊代600.中野清見より長男京大経済受くるに付、藤枝と相談してよろしくたのむと。交通費2000同封。徳永昭子嬢より秋田への嫁入りにつき意見きかせよと。 午後出て京都。まづ畠山氏に会ひ自動車にて同志社。児玉君会議中のことに人文科学研究所にゆき森鹿三、平岡2氏と話し、病臥中の藤枝に会ひよろしくたのみ、schulerの序文かけと云はれ、研究所より同志社へ電話すれば帰宅と。 古本屋にて『建礼門院右京太夫集(40)』、Baedeker『Berlin(100)』五味『萬葉集作家の系列(35)』『満洲の伝統と民謡(40)』『禅真後史(200)』と買ひ(そのまへ京阪書房にて佐伯『奈良時代の国語(90)』穂積『婚姻制度講和(90)』)、児玉にゆけば疲れて眠れりと。『青い花(100)』置き夫人にたのみ、下総町にゆけば父あり「けふ家へゆきて1000とりかへりし」と。 それより畠山家へゆきomnibusにて丸山公園「菊の井」にて夕食し、競輪選手買収の一幕劇を見、京阪四條にて別れて帰阪。けふより電話つき稲田348。(父の書架より『物類称呼』もらひ来る)。 1月30日 祖国社高鳥より「玉井警察病院をやめ国に帰りし」と。松本一彦より「礼送りし」と。昼寝せしあと13:00すぎ出て大手前へゆけば坪井、吉永、2氏とも忙し。吉永氏の言では京大第一内申詮衡などなしと。 ルナン『イエス伝(60)』買ひ、桜橋にゆき奥戸に竹内の歓迎会のこと云ひ、大毎にゆき天野[愛]一呼び出し竹内好のこと云ひ、富士銀行に奥戸の1000わたし、山本にゆけば彦根と。 佐瀬と出て古本屋。白蓮『歴代女流歌人の鑑賞(30)』宮本英雄『婚姻の基調(20)』『宮沢賢治詩集(70)』など買ひてコーヒーおごり(100)帰る。 1月31日 登校、授業すみて電話島本にすれば1人だけ話しつきしと。米沢生呼びて来週面会にゆけといふ。川部に電話すれば果して洋傘忘れしと。子供寮に預けおき、守本、西宮2氏と来年の時間割。 女子大に守武の話ききにゆけば島居清あり。大谷篤蔵君話す。講師に来るやとききしも即答せず。『黒馬物語』買ひて帰れば広田君15:00より待つと。21:00の汽車で帰るといひしも泊る。 2月1日(日) 寒し。11:00広田君帰りゆく。児玉実用氏よりハガキ。失礼をわび、礼云ふ。今一度校長宅へゆくもよからんと。 2月2日 登校。谷川より電話かかり、ここ2、3日欠勤ゆゑ、竹内来たらたのむと。午後すましてうたの最後、すみて安村、疋田、三木、寺本とアベノ橋へ出て喫茶。『墨汁一滴(25)』『鶴屋南北集(50)』『トオマス・マン自伝(20)』買ひてまむし。 帰校して夜学。3年3名、はやめにすましてまたアベノ橋へ出てぜんざい。池田、河口、備前の3生なり。帰れば藤枝よりハガキ。今年度の経済学部の詮衡方針未定と。 2月3日 会社、竹村君に上出の辞職を電話でいひ登校、島本氏に電話せしに不在。奥戸より電話かかりし故「消息なし」と答ふ。坪井に電話せしもだめ。山城嬢とコーヒー店にゐる中、迎へに来しゆゑ坪井の電話にかかれば大手前の子1人たのむと。4生と出てアベノ橋。 地下鉄にて井上斌子と戎橋。「黒百合」へゆきしも「消息なし」と。紅茶よばれて帰れば竹内より速達。5日11:17準急にて大阪着と。山川京子より礼状、白鳥先生より東京へ呼びたしと。西保君より「5日校正出る」と。坪井より医師の女にてP.T.A.副会長の女と。 2月4日 9:00前登校、奥戸に電話かけ出迎へたのみ、推薦面接まへ院長、厳選を云ひしゆゑ、ゆるくすべしと云ふ。大浜来り、竹内に天理で8日(日)に講演すべしと。八田英次来り、夫人昭和13年卒業の臼井文枝と。米沢生「就職とりやめ」と。 午后教科教育の終講をし、平山呼びて島本にたのみにゆけと云ひ、出て梅田、天満。広田より礼状。浜口より帰郷挨拶。堀場正夫より同人費1000の雑誌作ると。田中来りて退社退寮申出づ。けふ花井嬢来り「四季」返し、ウィスキー呉れしらし。 2月5日 9:00登校、よべより下痢ゆゑ絶食して面接。15:00終り奥戸に電話すれば竹内来しと。21:00までかかり文芸5人補欠、服飾11人おとす。すみて曽根崎新地Dateにゆけば山本、坪井の外は文甲奥戸、江馬、相野、富山、沢井5人と竹内とともにあり。whiskyを贈り明日宿屋へ訪ねると云って天満橋までタクシーにて帰る。 角川より印紙7000枚送りしと。藤枝[※晃]よりグリム(※カバヤ文庫のグリム童話の訳担当)たのむと。鈴木治、難波礼二2氏より礼状。松本一彦より海苔送り来しと。 2月6日 10:30竹内に電話し、山本にて待合せすることとし、ゆけば中々来ず、ライスカレー食ひて待てば来り、やがて山本と3人にてFranceなる喫茶店。17:00より正弁丹吾と約束し、大毎にゆき天野と学芸部長とに会ひて喫茶。朝日にゆき谷川、後藤を呼び出してまた喫茶。 出てナンバにゆき「黒ばら」にゆけばマダム不在。小杉の店で電話かり俣野に電話。17:30正弁丹吾にゆき18:00山本と5人そろひ、俣野より白井の1000預り、やがて黒薔薇出て心ブラ。パチンコする中、3人とはぐれ山本と2人。 夕食、またDateにゆき山本宅に電話し京橋まで自動車にて終発にまにあふ。竹内夫人より速達預りあり。角川より印紙(10日までにと)。羽倉よりハガキ。 2月7日 9:00まへ学校へゆき竹内に電話すれば来ると。家政の歴史すませ3時間目の西宮君の時間もらふこととし、[※竹内好に]現代中国文学について話させ、学生より昼食出させ13:00出てアベノ橋より市立大学。橋川先生に会はせ上六までTaxiに便乗し別れる。 肥下の救捐に山本に売れと博多人形托さる。 市大へ特別講義に来ることきまりし。帰りてひるね。妻子、角川文庫の[※『ハイネ恋愛詩集』の]印捺す(けふ角川へ[※扉にハイネの]肖像のみで挿絵勘弁すと速達す)。 2月8日(日) 角川へ印紙送り中野へ手紙かき、松本へ礼かき、岩崎へハガキかく。16:00齋藤生の母、ココア一組をもちて来訪。すし食ひて帰りゆく。 2月9日 登校、守本主事に厚生補導係をおけと云へど受付けず。西宮君を助手につかへと。松井、就職試験に落第せしと悲観す。14:30すみて野崎、椿下、和島、佐々木4生としるこやへゆき、別れて藤井寺。散髪し(100)夕食くはしてもらひ、18:15より授業。 太宰博士強壮剤を賜らんとせし旨おことはりす。深沢美智子、保田の手紙もち来る。大阪書籍につとめ多忙ゆゑよろしく見てやれとのこと也。 帰れば梅原糸子氏より「2月11日は薬師寺衛の忌日」と、写真送られ「何か他にも送る」と也。 2月10日 登校、漢文教へに高校へ。昼休み天野[愛]一君来り、長沖氏と2人に北昤吉代議士の漢文教育振興についての批判をきく。すみて西保嬢の校正預り、文芸主任補のこと西宮君にいひ、また漢文。 すませて住吉高校。山本君に会へば第2次は外語大学よりなしと。入試内申4点以下はだめときき、阪南町の南部家にゆく。次男の夫人、杉浦の婿山本氏の妹と。長男、その娘に会ひ大谷の高校にて宜しからんといひ、すし御馳走となりて帰宅。(けふ北畠にてBrandes『19世紀文芸主潮史1(60)』買ふ)。 八木明子氏来り、せびろの裏返しおきゆき1500と云ひしと。1000わたせしと。父来り、計算尺もち来りしと。冬木康『竹の中』贈らる。 2月11日 12:50登校、途中『文芸春秋3月号』買ひしにわが詩のりゐし。島本君に電話すれば要領得ず。履歴書もう一通と。中村治光に電話すれば不在。大毎の記事のらず。 後藤田に電話かけてくれとたのみ、教科教育の時間を吊し上げに使ふ。教科教育を専門家にやらせよ、言語学(石浜先生)を変へよ。藤沢桓夫を名実ともに講師とせよ、時間一杯教へよ、名士講演を行へ等。天理見学のレポートの誤字を訂正さしてから委員3人と話し、疋田生を加へて近鉄へゆき山中、井上、疋田の3人で喫茶。府庁にゆき水川教育委員に会ひ「府教育課係長3人を[相]待せよ、後藤田府会議員を入学させよ」との話ありしのち、 堺の田村春雄につれゆき診断させ、18:00すみてアベノ橋で別れ帰宅。文芸春秋より7000(-1050)。角川より印紙7000枚の受取。『コルボウ』3冊。『文芸日本2月号』。『薔薇』より原稿依頼。田中啓史の父より挨拶。 2月12日 電話かけてもかからざりしゆゑ学校へゆきしに学長午後と。午食する中田、守本2氏と話せしに「学長反対ならん」と。14:00になりしが来ず腹立てて出、野崎、井上2生と近鉄百貨店。高野辰之『日本歌謡史3冊(250)』買ひ、喫茶。野崎君と外語にゆき願書(20)。上六より鶴橋に出て別れて帰る。『文芸春秋』来る。(野崎君、前田社長と親戚と。) 2月13日 会社へゆき城平叔父に会ひしに「理事長の干渉たのむは悪しからん、樫本氏に相談せよ」と。黒田製薬へゆけと。黒田へゆききけば「550万円より少しは安くならん。返答は来週会社へゆきてす」と。出て大阪ビルに中村治光たづぬれば不在。菅生事務所で同窓会名簿2冊買ひ、大同ビルの石原産業に本庄武重君を訪ねしに渡米と。 谷川新之輔よび出しコーヒーおごりライスカレー食ひし、富士銀行にゆきしに40,500となりをり、白井の1000入れ受取もらひ、奥戸に受取もちゆきしも不在。山本にゆけば不在。佐瀬と出てコーヒーおごり(天満橋で『米語辞典(80)』とシラー『素樸と感傷(30)』。梅田で杢太郎『食後の唄(40)』)。 別れて裁判所官舎へゆく途、木村三千子氏に寄り杢太郎与へ、子供にチョコレート(80)。官舎で河村判事に会へば夫人帝塚山8回卒と。 熊野判事に中間報告して天満橋。坪井にゆきしに帰らず。片町で『人間の歴史3』買ひて帰宅。宮本正都、岩崎昭弥よりハガキ。 2月14日 よべ不眠。学院に電話かけさして休む。中野清見より手紙。「長男早大も受ける」と。丸、失恋せしと。中明子より靴下半ダース。午后松井和佐子来る。本庄武重の名を教ふ。 2月15日(日) 10:00出て山本へゆき竹内の博多人形1000で買ってもらふ。12:00すぎ出て駅前の古本屋で『賽金花』『日本の古典』『道祖神』『古代絹街道』と買ひ(170)、饗庭君にゆけば内幕話し家庭教師たのむと。印刷の相手にならざりし。 Cinemaにゆくと云ふにともに出て阪急前で別れ、坪井にゆけば家中不在。帰れば沢田夫人礼にと菓子と毛糸もち来りしと。夜、子供らの写真とりくれし礼に石井良旺呼びて茶のます。大毎より漢文復活賛成のりしを送り来る。 2月16日 登校、文学1年の歴史すませ、樫本氏に会へば「考慮せん、神崎学長(※神崎驥一)はかなはん」と。小野勇氏、金なしと。12:00出て山本へゆき津村正光氏と会ひ、別れて山本に茶おごり(200)、堂ビルへ中田英一に会ひにゆけば不在。伊井りえ子に会ひ茶おごり(80)、呼止めし紳士山尾義春とて25年ぶりか。沢田にゆけば不在。藤田に会ひコーヒーのまされ沢田に会へば金なしと。 俣野にゆけば不在。名簿置き山田にゆき、山崎弁護士に中間報告し、十合の古本展にゆく。何もなし。アベノ橋に出てまむし食ひ『働く女性(20)』買ひ学校へ帰れば樫本氏「金は出るゆゑ君接待せよ」と。断りてすむ。 夜学2時限、池田生1名とてやめて帰る。へんな日なりし。(けふ村山高氏訪ねしも不在。石浜郁子来り5分間話せし)。 2月17日 登校、長沖氏より5000もらひてうれし。島本より平山生500預り来る!松井、渡辺2人とも石原産業通りしと、うれし。放課後、津熊、山城の2生来る(上念省三郎氏より名刺預りし学生ありし)。2生にコーヒーおごり山城つれて松竹座に「罪ある女」見る(320)。ドイツに珍しき心中物なり。喫茶後(120)『紫式部集(70)』買ひて別る。徳永昭子、港野喜代子、相馬大よりハガキ。八木嬢より19日レントゲン検査と。竹内より礼状。(けふ戎橋筋にて今川叔母に会ひし) 2月18日 9:00出て会社。城平叔父に会へば今夜より上京と。すぐ黒田社長に電話せしも不在。樫本氏の好意を無にせず府教育課よべと。出て坪井に会へば竹内、坂井、杉浦の1500と関口の名簿代と預りゐし。われも肥下への竹内の1000とわが1000とわたし、図書室の朝日君と話し500もらひ坪井にうどんおごってもらひ、日赤に湖東訪ぬれば結核にて入院と。 木崎博士に会ひ硲、乾2doctorの分として3000もらひ、電車にて富士銀行へゆきしに高橋君忙しげにて無愛想、10500わたし山本にゆけば不在。21日の大高クラブへ出よといひて堂ビルに中田英一訪ねしも不在。地下鉄にてアベノ。 近鉄デパートにて『節用集(40)』買ひ、疲れて教授会。吉川綾子表彰に反対し17:30終りて帰宅。 飯食ひゐればc室盗難。『祖国』2月号。『不二』同。黒田氏より手紙。角川より少しおくれると。安田章生より『新古今集評釈』教科書にと。岩崎、藤野よりハガキ。やがて来し巡査案内。 2月19日 昨日の盗難につき杉浦、竹村2氏来る。すみて交番にゆき小阪。堀内にゆき『塩鉄論』と『橋と塔』(70)、上六に出て狐うどん食ひ梅田。俣野より名簿代来る。 2月20日 会社より電話。11:00ゆきて康平叔父に叱られ、帰りて昼寝。西保恵以子の校正し、中野清見に32点以上進通とれば第一次パスとの新聞送り、夜、室長会。 2月21日 雪、登校、椿下生にひるのパン買ひにやらせれば多く呉る。12:00出て京町堀4丁目を訪ねまはり、谷本といふ印刷屋にゆき西保の校正わたし、歩いて御堂筋に出る途中、園克己に寄りしも来客中とて会はず。 コーヒーのみ(70)婦人子供服会館にゆけば14:00。俣野に電話すれば東京と。出てパチンコして時間つぶし、15:00帰れば津村正光氏来り、やがて常連いれて20人中に奥戸新三判事、清心井(時報社)、松本広治などあり、秋田実の話きき、黒田氏の紹介にて本庄先生醵金の説明し、旨く出来ず。 秋田氏より5000とりしのみにて山本、奥戸判事とTaxi(実は自家用車の内職200、われ払ふ)、Dateにゆかんとて支那料理食ひ1時間ゐて帰宅。畠山氏よりハガキ。田村春雄より図書館分類法につき。 2月22日(日) 雪解け道をゆき子・京・依子と買物にゆく。午後、岩崎昭弥よりハガキ。原課長きのふ来りしは[※盗難に関して]谷口助命の為と。けふまた説明し、了解せしか。、 2月23日 登校、試験やり、すみて級委員と話しゐれば守本氏なにかと不愉快なこと云ふ。谷田の妹をつれて試験受けささんかと云ふ。野崎、井上2生と出てアベノ橋。rice curryたべ(100)、ハイネ『回想(30)』買ひして帰校。また試験す。 留守中、城平叔父、竹村氏と視察に来しと。芳野、沢田利氏よりハガキ。(上町線にて渡辺芳子、中許の2人にあひ、岡陽子の結婚の前祝の帰りときく)(本庄先生の件につき藤沢桓夫氏への手紙を額田生にもちゆかす)。 2月24日 会社へゆけば竹村課長、谷口を退寮命ぜしことをとがむ。怒れるふりして説明すれば明日城平叔父に云ふべしと。黒田社長は26日来ると。ともに出て天王寺で別れ学校。 守本氏建築費によりBase低まらんと。中田博士と共に出て上野芝。斎藤家にゆき父母君と話し、斎藤生と田村家にゆき春雄帰るをまち、歯科へ紹介してもらひアスピリン買ひて帰宅。 服部(※服部正己)より市大に(※就職)決まりしと。松井生より石原産業採用と。けふ父来りしと。 2月25日 9:00会社へゆき図書費清算かく中、城平叔父来り忙しげなり。生島に電話して午后ゆくと約し、城平叔父に会へば谷口のことにて叱らる。すみて卵うどん食ひて出、先づ13:00生島を大阪相互銀行といふに訪ね、本庄先生の500もらふ。旧友ともあまり会ひたくなしと。 すみて大藤にゆき500、富士銀行にゆき阪井、小野勇2氏の500と秋田実の5000と合計7000わたす。現在75300(+印刷費2800、計78,100)と。 阪急へゆき古川大夫君に会はんとせしもゐず。柴谷貞雄氏に会ひ、文乙、理乙を中心とする教へ子なりと了解たのめばよろしと。吉延陽治とよく似ゐると我がこと忘れたり。『法律学辞典(アテネ文庫)』買ひ雨の中を帰宅す。鈴木治よりハガキ。竹内より『魯迅評論集』。 夜、A.H.2室をよび寮則厳守をいひ、大塚、石井を呼び部屋替。谷口よび退寮届撤回、部屋替、寮則厳守をいひをる中、2警官来り、いろいろ呼びて訊ね、最後にけふ帰郷しゐる筈の杉呼びて入質のこと問ひただし、原君と相談の上、寮に泊めることとし、各室に消灯いひ廻りて22:30終りとなる。茂吉死すと。 2月26日 9:00ねてゐるところへ竹村課長来り、午后刑事来ること云へば応対せんと。池田来りしゆゑ派出所へゆけと云ひ、質札のことにて橋本に注意し、原課長にたのみ羽田より28日京都へ来いとのハガキ見て天理へゆき、瀧井氏に会ひ、靴直し(350)、図書館へゆけば15:30。 富永館長とと話し鈴木氏の室へゆき『中国史学入門』差上げ、真柱に電話すれば日の寄進と。高橋君より写真もらひ16:30自動車にて鈴木氏宅。夕食よばれ1000預り、名簿代預り、生駒氏に会ひ、のろけと真柱の対本庄先生感情きき、1000預り山口氏へゆけば夫人乾性肋膜と。また1000預り、本庄先生への真柱のことききて20:40乗車。家へ帰れば22:30。 けふ杉、布施署へ曳きゆかれしと。 2月27日 羽田へ28日行けずの速達し、会社へゆき布施署へ礼にゆかんかと云へばその必要なしと。出て梅田、大河原訪ぬれば待たし2000渡す。「君の至誠に云々」。山本へゆけば来ず。うな丼ときも吸(110)食ひ、中田英一訪ねしも不在。富士銀行にゆき5000納め82800となりしと。 北野劇場にて「快楽」見、鶴橋にてしるこ食ひ、西宮君にゆき入試問題検し、いわおこし貰ひて小阪。堀内にて『比較言語学(110)』、岡田正三『詩経(100)』。 バスにて帰れば保田より「南の864島本」へ電話せよと。中野清見より大阪外語受けずと。松本善海より弟死にしと。浅野晃より李白と杜甫20~25枚を3月10日までにと。 2月28日 9:00登校、保田の旅館へ電話かければ前田社長出で17:00すぎ行くを約す。 高校へゆき授業せず、帰り来れば守本氏火曜まで試験問題延ばしてよしと。三並敏邦より電話かかり15:00ごろ来ると。 会館にゆき、すし、菓子、果物よばれ岸生を除く大方出席。写真多くとられ15:00三並に会へば母君同道、嫁世話せよと。承知してタバコと菓子もらふ。菓子森氏に与へ(けふ健康保険証と27年度源泉徴収票228880税11101賞与19250不足2299)、鍛冶姉妹、山荘、渡辺、疋田の5人とナンバへ出、喫茶。 鍛冶姉妹に佐々木三九一氏への手紙托し戎橋で別れ、渡辺、疋田と大丸までゆきて別れ、四つ橋「笹岡」にゆく。堀内民一、栢木喜一の2君あり。保田、小学校教科書の校閲に忙し。 平林治徳氏も来る。前田社長にきけば野崎老の親類にて出戻りと。20:00堀内君と出て雨中を帰宅。中川いつじ、津田侑2君よりハガキ。 3月1日(日) よべ不眠。金井寅之助より本庄先生一口送りしと。庄野潤三より「幼き日の思ひ出」3枚朝日放送に3月10日までにと。午後ひるね。京の誕生日とて赤飯くひ、電話十分かからざりし篠崎へ19:00ゆけば夕食。すみて詩ちょっと見、庄野院長腹上死、幼稚園10万円などを平林氏より承りしのち帰宅。(玉造にて肥後和男『日本神話』)。 3月2日 瀧井芳次氏より現金郵送にて中山真柱の2000来る。会社にゆき9日入寮のこと原氏にたのみ、杉の身許引受など相談し、1500万円増資の菓子のこして大手前。 坪井忙しく、相野に預りし500受取り府庁にゆき三並と会ひお茶おごられ快活なる子をとの条件きき、荒井や医者2名(大高の後輩にて我を知りをり)と自動車にのり、富士銀行に2500わたし11万円となりしを見、大毎へゆきしも渡辺、天野ともにゐず。山本にゆけば敷島ビルへかへりしと。 彦根泊りといふに共産党の山田六[左]ヱ門と話し、佐瀬と出て梅田で『西鶴研究(50)』『近松研究(50)』『桂園一枝(40)』『宗武曙覧歌集(30)』『天平芸術の想像力(80)』買ひ、海丹買ひ(100)喫茶して帰る。 吉田和成、浦上に布施署より呼出し。夜、H(※不詳)を迎祝し将棋2番。亀井来り蜻蛉会の写真もち来る。よくとれゐし。瀧井、浅野晃。ABC放送へ返事もちゆきもらふ。 3月3日 10:00登校、試験問題わたす。高校へゆきしに欠講。日野君に注意す。試験問題土曜日まで待つと。12:00まへ出て越智ドクターにゆき中間報告す。山城和子にゆき写真みせてもらひ、ともに出て歩いて藤沢桓夫詩を訪ひしに会へず再来を乞ふと。 住吉に出てお好み焼食べ(100)、ナンバに出、上念省三郎氏を訪ひ、コーヒーのまされて山城嬢の就職たのみ、戎橋筋へ出しに足立千栄子に会ひ、不二屋で喫茶(140)。別れて天牛[古書店]を見、日本一よりのりし市電上六止りなりしにより江馬春夫を訪ひ、家族切符もらひ、紅茶のましてもらって帰宅。杉浦よりハガキ。 3月4日 9:00家を出、江馬より借りし家族優待券にて奈良(70)。東向北町の野崎家探せばあの賑かな通りの旗屋。父母に挨拶する所へ前田隆一氏の令嬢来る。その嬢と出て小西町の岡谷診療所。実ドクター2000わたし吉田病院に電話して呉る。2回文甲の楠本正彦氏を万寿屋に訪ぬれば不在。大和タイムスに田中治郎訪ぬれば未出勤。ココアのみてその嬢の破婚の理由を性格の相違ときき、駅前にてまむし御馳走となり前川佐美雄。 兵本善矩氏あり。やや話して女子附属高校に坂口允男訪ぬれば校長は台湾にて会ひし塩見薫氏。松村一雄氏の悪口云ひ、別れて小野勝年君を訪ね、飛鳥園にて紅茶よばれて別れ(法華寺に住むと)、近鉄駅前に出、しるこ食ひて田中治郎へ名刺かき、西大寺下車。 吉田病院へゆき院長青木康次君に会へば3000出す。帰宅19:00。けふ無料となりしは僅か130のみ。(桂雲堂にて『東硯田唄集(70)』)。夜、大塚来る。 3月5日 岩崎昭弥のハガキと松本一彦の手紙見て出(庶務課長と話し谷口の外泊勝ち教ふ)。菅生事務所へゆき名簿鈴木治氏へと250渡し、朝日へゆき谷川に会ひ来週来るときき、日生へ松本訪ぬれば出張。 山崎弁護士にゆけば20000近く集りゐると。山本事務所にゆけば佐瀬君『風媒花』貸し呉る。ともに出て古本屋歩き吹田にて『ソヴィエトの市民生活(20)』『ヴィクトリヤ女王(30)』。山本宅で葡萄酒のみて疲れなほる。帰宅21:00。杉すでに検事局へ送られしと。 3月6日 終日家居。面会謝絶、採点など。『くれなゐ』来る。山口実のらず。夕方入浴。原課長検察庁へゆきしが杉に会へざりしと。スターリン死すと。 3月7日 8:30家を出て登校、試験の最後は家政科の歴史。けふ2年生の採点わたす。入試問題の校正す。疋田、今村の2生来り、山城来り、履歴書預る。高校にゆき日野君に会へば試験問題受取りしと。疋田、今村に誘はれて十合に泰西美術展見にゆく(100)、詰らず。 喫茶し、富士銀行に高橋君訪ぬれば近々高麗橋へ転任と。13万円余となりしと。出て山本へゆき発起人への催促状見せ3月31日まで延期となり(けふ青田、滝川2実行委員に電話せしも駄目。小野勇氏より上道直夫氏の1000預る)。 印刷を佐瀬君にたのみ、ともに喫茶。靴直し(70)別れて岡生に会ひ体操不合格とのこときき、桜橋にてまた本多生に会ふ。梅田駅にて石井孝?に遇ふ。ニュース映画見て喫茶。やっと終りとなる。 3月8日(日) 畠山家にて夫人に会へば合格せしと学校へ電話せしと。六衛門氏、児玉君に礼にゆき、夫人校長宅へゆきしと。児玉君に電話すれば学校と。やがて帰り来し畠山氏と昼食。 成績400人中の19番とて運動の必要なかりしならん。関口に電話し羽田に電話すれば試験の採点中と。13:30出がけお礼とてむりにポケットにねじこまれる(後で開き見しに5000)。 寺町通を歩きBennigsen『現代蒙古(80)』『いの字絵本(60)』。河原町通で『平安朝時代の詩(30)』『能美郡民謡集(80)』『女の本(40)』買ひし、コルボウ会にゆき記念撮影して帰る。井上多喜三郎近々来ると。 京橋にて『玉勝間(120)』。徳庵にてまむし食ひて帰宅。村上新太郎より20日まで原稿よしと。長尾禎子の父よりぜひ卒業さしてくれと。塚本グループ赤倉より。 3月9日 10:00登校。院長来りしも来客。10:30より判定会。院長疲れて我一人舞台。すみて方々に呼出しの速達と電話。15:00女子大にゆき河井女史に体操の点たのみ、斎藤生と出て梅田。山本事務所にゆく。17:30佐瀬君と出て封筒と発起人へのプリントとり500払ひ、かきうどん食ひて(120)梅田で別る。 夜、新入寮14人の注意、原課長のやるにゆく。21:00ABC放送の原稿かきゐれば松本一彦来り、部長の娘(吉川氏)のことたのみゆく。 3月10日 9:00登校、試験監督のあひまに今村羊子来り、学科の注意すれば泣く。鍛冶姉妹来り、赤倉の土産とて民芸品の状差し呉る。父満洲にあり縁談5月まできけずと。 斎藤来り、書道なしでもよしと府教委いひしと。椿下来り、試験すみ、ひる斎藤、椿下に茶のますれば斎藤泣く。長尾のぞき注意すみ夕方来りし渡辺と帰る。けふ珍しく〒なし。 一ね入りせしところへ服部現はれ市大3月20日発令と、泊る。 3月11日 服部朝食とらずともに出、バスのり場で別れ、登校9:45。壽岳、梅垣2先生待ちをらる。長沖氏来ず。10:00より面接。文芸2人おとして17:30終了。(谷川『古典全集』そろひ50冊もち来り10000わたす)。 夕食たべず松本にゆき夫人と話し、19:30帰り来しと話す。関学の卒業生にもたのみおきしに院長忘れゐし也。傘かしてもらひ終発19:40のバスで帰宅。 けふ月給もらふ(本俸15,000家族手当2,400地域手当4,100計21,500。所得税311、慶弔会費30、市町村民税297、手取20,882)。 3月12日 昼寝し、鈴木治氏のハガキ見、藤枝よりグリム童話の原稿送られ、朝日放送4月6日とのしらせ受け、ぐづぐづして15:30家を出、梅田で散髪(150)。 17:30野崎、鍛冶姉妹、佐々木、山荘、椿下、伊藤、和島の8嬢とおちあひ、新大阪ホテルへつれゆかれて謝恩の晩餐を受け20:00まで概ね我語りて梅田へ出、帰れば大毎より2回来りてマナスル峰[※登頂記事]のこと詩にかけと。電話して承諾といふ。 けふ買ひし『サンデー毎日』に昭和20年3月10日の東京大空襲のことあり。怱々新なり。 3月13日 眠きを辛抱し、マナスルの詩書き、大毎へ11:00まへゆき大毎グラフの次長、松村益二氏に会ひ、その場で清書してわたしコーヒーよばれ、富士銀行へゆけば高橋君不在。上道氏(1000)と岡谷氏(2000)と入庫し、朝日に谷川訪ぬれば未出勤。新道で『朝の宮(30)』買ひて山本事務所へゆけば上田女史の甥アルバイト。昼食にゆく途、西垣清一郎に20年ぶりにて会ふ。阪急に訴訟しけふ判決と。佐瀬と一寸話して出、『天平の文化(180)』井上『ハイネ詩集(50)』『西洋研究録(50)』買ひて天満橋へ出、バスにて帰宅。西保ゑい子より歌集明日出来上るゆゑもって来ると。昼寐せんとせしがだめ。 会社より電報を電話にて「伊東静雄12日死ス」らし。 17:00出て帝塚山。庄野潤三にゆけば北野田へゆきしと。学院から大毎に電話すれば記事となりしと。朝日に電話すれば谷川ゐず。高野線にて全田叔母に会ふ。白髪だらけ也。途中ききて初芝で下りバスにのり[※伊東家へ]ゆけば留守。 上りてまちゐる中、20:00頃、夫人、二児、弟すゑ男君帰り来り、火葬場へ運びしと。本葬は郷里と。2000香奠につつみ、嬢ちゃんに送られて四つ角まで来ればバスなし。歩けば萩原天神へ出る。帰宅22:30。 3月14日 9:30登校、高校漢文の採点わたし10:00より卒業式。11:00写真。西保君来り『二十一才(歌集)』出来上りしをおきゆく。13:30まで在校生の送別会。すみて守本主事、来年の時間のこと云ふゆゑ逃げて中田博士と話し15:00り謝恩会。太宰博士ピアノにて六段ひく。中座せんとせしもだめ。最後に反戦演説ぶつ。帰途を要し泣きしは吉原、岸、山口のハデ組なり。 帰り来れば八木嬢来て帰りしと。けふ北野生うつしの写真多くもらひ、野崎の交通公社就職きき、電車にて桑田博士夫妻に会ふ。 3月15日(日) よべ解散と、バカらし[※国会バカヤロー解散]。ひるねして安息。夕方訪れしは疋田、今村2生。卒業のお礼にとハンカチもち来る。徳庵橋まで送りゆく。 3月16日 終日雨。藤枝より原稿返せと。高等学校より18日(水)11時より謝恩会と。角川よりハイネ[角川文庫『ハイネ恋愛詩集』]10冊来る。行かへ出たら目に直しあり。午后、斎藤生礼に来り、white shirt呉る。 3月17日 8:30家を出て天理。瀧井氏に会へば本庄先生と真柱と家の問題にてまづくなりしと。丹波市局で70通料金別納とし図書館。館長にレポートの製本承諾せしめ、西村より天理の[俸給の]新Baseおそはり(公立並)、うどん食ひ、鈴木治氏と一寸話し新城氏にわびてともに出、14:19の京都行にのり、谷川にゆきしも全家不在。野崎家へ寄りしにその嬢不在。来合せし永島福太郎氏と話し、女子大によりて天野忠と話し、別れて安田章生にゆきしに不在。 18:00すぎ小阪で下りしに堀内きのふ朝、伊東家へくやみにゆきしと。夫人わが見舞をいひしと。武田祐吉『古事記研究』荒川『外来語研究』2冊買ひ(110)帰宅。井上斌子、野崎そのより卒業の礼状。伊藤久子より履歴書2通。谷川より10000の受取。 けふシロ、ジョン毒団子食はされしらしくシロ死しジョン行方不明、かなしや。 夜ふけて帰る足許じゃれつきしなれら思へばかんし子のごと。 3月18日 高校の謝恩会のため登校のみち、時間早ければ疋田家さがせしも見付からず。津熊の家見付く。11:00ゆけば中々と。守本主事と話し、理事長より話なければ高給もしくは自由のいづれも駄目と。 謝恩会に出、すし食ひ、すぐ短大に帰り、出て峰家にゆき短冊と『ハイネ』を明子嬢にわたし母上と話す。7男2女の4人目と。藤井寺にゆき叔母まつ間、和島家に電話し、みね子君の写真よこせといふ。やがて帰り来し叔母、和島家のことよく知りゐる。葡萄酒のみ初江叔母に瘋癲の惚れし話きき(12日尾崎梅祖母33回忌明石でやりしと)小豆とカステラもらひて出、中村治光に寄りしも帰らず。鍛冶姉妹より礼状。川添和子氏よりその中来ると。松尾育子生よりレポート。沢田直也より「本庄先生の3000少し待て」と。峯、八木嬢より入れちがひのハガキ。 桑原武夫氏より伊東の詩集出すゆゑ『コギト』見たしと。角川より『ハイネ』40冊。(けふ疋田生よび出し今村と2人に2冊与へし)。 3月19日 9:30亀井来り、28日(土)アエバ君の所でTombo会の予定と。兄、狂気らしくそろばん学校も忙しとて哀れなり。父、来合せ金尾文淵堂の貸金とて1200返せとのハガキもち来りしにより托す。会社へゆきしも城平叔父出しあと。帰りて臥床。 17:00出て学校へゆき夜学3回生らにreportの題を「作家年譜」と「東歌と防人歌」とし5月半までといひわたす。 天満橋へ出て坪井にゆけば夫人臥病と。伊東のことのせし『コギト』23日11:00頃学校へとりにゆくといひ、本俸25000~26000とききて出る。 けふ安田章生より礼状。賄新雇2人の身許ききて台帳にしるす。 3月20日 9:00前、会社へゆきしも[城平]叔父忙しく19:00今川での面接約せしのみ。康平叔父と話し、武田、甚幸に『ハイネ』1冊づつ与へて帰り、夕方まで臥床。 16:30出て近鉄departで万美子に500の商品切手買ひ(560)、松浦元一氏と話し(営業部長と)、今川にゆけば久美子不眠と。19:00城平叔父にいへば先づ院長に薄給いひ、ついで内職のため時間べらし云ひ、ついで転職認めさせよと。 けふ野崎よりハガキ。谷川にゆきしと。三好達治よりハガキ。 3月21日 彼岸休み。9:30ごろ近江詩人会の某嬢来る。中本町に住み洋裁に勤むと。昼食し14:00ごろ帰りゆく。けふ和島美弥子生より手紙。音田正巳君より頌寿会のこと。 3月22日(日) 15:00頃、日本生命の吉川眞郎氏見え、お礼としてwhite shirtもらふ。我も出て小阪、松本に礼云ひにゆく。堀内にて『歴代名画記(50)』。松本胆石病にてねてゐる。出て中西にゆけば帰りしところと。神崎学長のこと云ひしもわからず。夕食よばれ碁打ち21:30出る。 3月23日 雨、会社へゆき2、3月分図書費2000受取り、綾部高校の先生と話し、11:30大手前へゆき坪井に会へば帝塚山の森氏に紹介状2枚かかさる。別れて梅田より高橋、お好み焼昼食とし京都。 桑原武夫にゆけば留守。坪井よりもらひし『コギト』置き、下総町にゆき父母に会ひ、児玉[実用]にゆけば留守。あきらめて京阪、枚方へゆく。桑原武夫氏、大毎に伊東をかき大朝に三好かく。 3月24日 9:00出て天満橋より山本にゆき、すぐ出て大毎。天野に『ハイネ』与へマナスルのこと聞き合せたのみ、コーヒーよばれてU.S.consultantへゆけば中村治光また不在。大朝へゆき谷川[新之輔]に会ひ『ハイネ』与へ別れてまた山本(途中エレン.ケイ『恋愛と結婚(2冊80)』)。熊野判事にと『ハイネ』1冊托し、4月11日に本庄先生の贈呈式せんかといひ、juiceのんで別れ、天満橋まで歩きbusにて帰宅。 井上多喜三郎より子守なし。西保恵以子より礼状。宮沢弘子より卒業の挨拶。島居君より大谷君某大学へゆき後任に推されゐると。藤枝より本宮の令息だめなりしと。 ABC放送より4月7日23:05放送の写し。亀井より27日の同窓会の案内。 3月25日 曇。小雨。郵便多く来る。朝日放送より24日1700送ったと。小高根二郎より伊東のこと。内田敏子、米沢幸子、辻芙美子より卒業の挨拶。桑原武夫氏より『コギト』受取。徳永昭子氏より26日白浜の帰途泊ると。八木嬢より28日泊りに来ると。ゆき子毛布買ひにゆく。名刺出来(140)。晩、宮本君来る。学芸大池田分校へ転任となりしと。長谷川英子あたみで情死せしと。 3月26日 家居。朝〒に藤野和子より礼状。学院より5日12:30同窓会総会と。午后会社へ電報、京都秋山氏よりあす10:00来ると。[意味]わからず。〒松本一彦より西岡先生の所しらせと。大阪詩社を鈴木豹軒先生を中心に結成、5日(金)15:00より成蹊学園でと。夜、迎へにやりしに徳永昭子来り、秋山氏はその約婚者と判明。 3月27日 徳永嬢10:00より11:00まで徳庵駅へ迎へにゆきしが秋山氏と会はず、12:00昼食して十合へゆきしあと秋山氏来り、追ひかけてゆく。八木嬢より29日か30日の午后に来ると。朝日放送より1700来る。 3月28日 朝日に暁明館の事務募集の広告を見、平山に会ひにゆきしに「けふは忙しくて駄目」と。 堀内で『万葉辞典(200)』。上六より四つ橋へゆき山崎弁護士訪ひしに不在。のちほど電話すといひ新谷太郎に寄り、しんしん堂にて[地図]『宇治』と『大阪西北部』買ひ、歩きて島本にゆき、平山のこときけば面会にゆかせしと。出て俣野にゆけば東京へゆくと。本町二丁目で別れ、藤田を訪へば東京出張。沢田に会ひうどんおごり、富士銀行大阪支店探しまはりてゆけば高橋君不在。 朝日放送に訂正もちゆき後藤孝夫を呼べば出勤日ならず。ぬれて山本にゆけば帰りしあと。アエバ家より山崎氏に電話すれば11日でよしと。高橋君まだ帰らず。(梅田新道で『日本家族制度の研究(90)』『菩薩蛮記(60)』)。パチンコしニュース映画見て17:30。 アエバ家(※蜻蛉会)にゆけば加賀山あり。やがて亀井、荒井、三並、後藤、高橋、田川、服部とまた8人。終電車となりて帰る(※写真リンクあり)。ゆき子迎へに来り待ちゐし。中野清見より令息落第のこと。西保嬢より佐野氏にほめられしと。 3月29日(日) 寒し。生駒に雪見ゆ。浅野晃氏より4月12日までに原稿をと。よべ水道のカラン18ケ盗まれしと。派出所に盗難届す。夕方うす暗くなりて八木嬢来り泊る。夜、本庄先生、島居君、児玉実用君へ手紙。 3月30日 八木嬢と一家そろって朝食。11:00出て中川組監督に会ひ、会社へゆき事故報告し、呼鈴たのむ。城平叔父毎日の「マナスルに寄す」を見て喜びし由。 バスにて天満橋。富士銀行大阪支店にゆき高橋君に4日清算をたのみ、日本生命に松本を訪ね、中田英一に会ひて『ハイネ』与へ、昼食にrice curry食ひ(60)、山本へゆけば不在。後藤に電話すれば16:30とりに来よと。中村治光に電話すれば東京転任と(??)。小寺正暁に電話すれば出征中と(??)。 16:30山本と朝日にゆけば後藤出て来り、歩く中、渡辺生に会ふ。天ぷら食ひビールのみ、そば食ひして20:30(浪江弁護士を加へ)最後に3人にてコーヒーのみて22:00帰宅。 けふ、ゆき子、八木嬢、京と朝日会館にて映画見しと。本庄先生の贈呈式10日(金)朝日にての予定となる。後藤より朝日の4000預る。けふ、留守中、羽倉君来り菓子呉れしと。本庄先生醵金、金庫に本日169,021となりしと。 3月31日 よべ不眠。谷川新之輔より旧受取返せと。高橋君より本庄先生の入金表。眞野君よりハガキ。午すぎ後藤より電話。労組の室貸すならよしかと。西宮君来り、試験問題もちゆく。歴史はおくれると云へと伝言たのむ。佐野君に時間増し云ひしと。port-wineのみ30分ほど昼ねし、16:00出て藤井寺へゆく。 途中、恵我之荘、和島家へゆけばcamel10ケたまひ、琴稽古中のみね子君に妹関学法科生案内しくれ、駅まで帰りて別れ大江へゆく。 この間、城平叔父来て云ひしと。必ず通るつもりで院長に云へと。叔父にcamel5ケ与へ、大入袋3ケもらひ、和島家へ電話して礼云ひ、転職云ふ北村うめの氏をさとして中村治光にゆけば、東京の保安庁へ転ぜしと。本庄武重君への紹介名刺、学校へ送りしと。 4月1日 徳永昭子氏より礼状。彦根の宮本君送別会の寄せ書。本庄先生より10日夕、差支なしと。12:00出て饗庭君に傘返し、朝日の後藤に会ひ、労組事務局使用ときまる。出て本屋へゆけば史の受持中塚先生に会ひ、お茶と菓子おごり帰宅。花井彩氏より卒業せしと。夜、大塚来り、盗難杉浦部長にわびしと。 4月2日 よべport-wineのみしが中々ねられず。起きれば史、クラスの遠足にゆく。本庄先生の封筒かきと組別けとし、一日臥床。野崎君より勤めゐると。長尾君より口見つけてくれと。児玉実用より礼不要と。朝日放送より7日23:15に変更と。夜、畠山氏に手紙かき児玉君の手紙同封し、日本史世界史の2部試験問題作成。(けふ『文芸日本』4月号。『不二』3月号。相馬大『影』など来る)。 4月3日 10:00出て登校、2部の入試問題もちゆきしが守本氏に会ひゴタゴタ云ひ、藤沢桓夫氏に電話すれば2時頃までねてゐると。山崎三[七]喜氏に会ひ8日午后再来を約し、山本にゆく。植田女史と別ると。 平野義太郎選挙事務所へゆき名刺托し、山本と別れて吹田東口成蹊短大へゆく。石浜先生と話せず。鈴木虎雄博士より「元日口號」を「不識洛陽花咲不。斯水西流向京師。昨夜方過不惑歳。今朝猶惑君勿嗤。」と直される。みななかなか旨くて不快。 先に出て山本へゆきしも帰らず。古本屋にて瀧川『日本歴史解禁(100)』倉石『漢字の運命(75)』『中世騎士物語(65)』買ひて帰宅。八木嬢よりゆき子にわび状。齋藤生の母より陵西中学にきまりしと。 4月4日 10:00〒保田より『祖国』伊東の追悼号とするゆゑ編集せよと。 渡辺鐐子より礼状。井上斌子より「先生の理想社会はsoviet」と。出て山本にゆき藤沢桓夫に電話すればまだ眠ると。渡辺英雄に電話すれば晩に2000出せしと。池田に電話すれば少し待てと。富士銀行の高橋君に電話すれば入金表とりに来よと。 やがて天ぷらうどん食ふ中、山本より来よと電話。ゆけば佐伯千仞と昼食中。藤沢桓夫に電話すれば5000出す、名を出すなと。 富士銀行にゆき大毎にゆき天野[愛]一に富士正晴探してもらひ、ともに喫茶して『祖国』の追悼号一任し(途に中島生に会ふ)山本に帰り、報告書18:00までかかりて出来ず(23万円か24万円か不明)。佐瀬にたのみ3人でおでんや。山本また一穴主義とりやめし、可嗤。帰れば西田哲退社退寮と。 4月5日(日) 家居。本庄先生より簡素にと。父来る。午后硲君来り、弟君を南部に埋骨せしと。李白しらぶ。 4月6日 平山生より就職やめたと。祖国社より伊東静雄追悼号のこと。午后出て山本事務所にゆけど16:00まで印刷出来て来ず。来れば不足。すませて硲君と梅田にてしるこ食ひ別る。帰りて本庄先生に手紙かく。 4月7日 晴、家居。呼鈴つく。守本氏より時間割につき明日来よと。椿下生より『ハイネ』受取り茶臼山にて和島生と「神々のたそがれ」朗読せしと。岩崎昭弥より徳永嬢の婚約はじめてききしと。18日か25日に来ると。 4月8日 朝、中川くにより電報来り帰ると。よべ塀をこえさして入りしと。会社へゆき杉浦氏に報告す。城平叔父ラヂオをききしと。10:00にと出て学校。守本氏と話し火、木、金に授業ひとまづまとめてもらひ、院長つかまへれば明日10:00話きかんと。 疋田生に電話し、昼食してゆけば義兄大毎記者、父は間組らし。養子を考慮と。ともに出て難波へゆき喫茶して話し、別れて山崎氏にゆけば京都へゆき17:00頃帰ると。 梅本訪れしにゐず。ニュース映画見、『フライリヒラート詩集(30)』買ひしてまた山崎氏。10日17:00頃来れと。2.5万円預りて出、後藤にゆきしも帰宅。 会館の関響にゆけば後藤田生に会ふ。水川氏に挨拶し、18:30出て焼売と鶏汁(150)にて夕食。山本にゆけばまだ帰らず。まちて8000(西川500立替)わたし、22:00出て帰宅。(けふ山崎氏で重松おとし、森一郎きかざりしに気付く)。平野義太郎氏、6日夜、山本に泊まられしと。 帰れば川添和子氏より歌添削たのむと。西保嬢よりハガキ。高橋君よりその後の入金。松井信子君9:00頃来り、本3冊返しカードおきゆきしと。帰りの電車で亀井に会ひ、きけば荒井、羽曳野に入院せしと。 4月9日 10:00学校へゆき富士銀行高橋君に電話してゆくことを約し、院長に話せしに月給値上は考慮せん、時間へらしは駄目と。出て高橋君にゆき23,198わたして清算すみ、明日16:00頃通帳とりに来るといひ、梅田へゆき卵丼くひて瀧井。16:00出て帰宅。横山薫二より米谷利治の所しらせと。 ものたらぬおももちをして去りし子にともに行かむはいづれのくにぞ。 4月10日 昼寐す。風邪気味なり。三野ヤスエ氏退職せしと香川県より挨拶状。創元社より文庫のために写真をと。16:00出て富士銀行、通帳受取り山崎弁護士にゆけば留守。水引と色紙と買ひ(8)『富田林』買ひ、やがて帰りし山崎氏と朝日新聞。 4階労組事務室にて津村、川端、小松、仁田、工吉、後藤、山本、音田、長谷川勘一郎、大井令雄と11人にて贈呈式。すみて自己紹介。出がけ仁田に森良雄生存を伝へれば喜ぶ。天ぷらやにて山崎、山本、津村と我4人にて本庄先生と酒。われ天ぷら茶漬食ひ梅田にて別る。(けふ中田英一が脇坂栄一の金をももちて山崎氏に来りしと会ふ)。 4月11日 よべ睡眠不足。一日家居。〒なく『文芸日本』かけず。 4月12日(日) 2部面接の為9:00登校、12:00終り、まむし食ひて帰る。竹内、九州へゆくも寄れずと。肺悪しと。鍛冶姉妹より『ハイネ』の礼状。けふ寒し。 4月13日 浅野晃へ謝り状速達し、登校。院長の話きき写真うつし、後藤田府会議員に面接し、鴨南蛮食べて教授会。服飾一人を除いてみな通し、ついで学科の協議。すみて高校にゆけば謝恩金1000もらふ。 藤井寺大江へゆけば紀州のねえや病気、西窪君よこせずと。夕食よばれ昌三叔父よりラヂオ借り、和島みね子に電話し『ハイネ』の伝達の礼いふ。けふ時間割きまり火、木、金、本きまりとなる。(かもめ書店に漢文の教科書たのみ『鴎外全集23回』借る360円)。 けふ〒なし。天野[愛]一に電話して竹内のことわり伝へし。 4月14日 9:30家を出、アベノ橋近鉄で散髪(120)。高校の漢文教へて帰宅。近鉄で『Morike[メーリケ](70)』。『週刊朝日』の中共引揚号を買ふ。山城より幼稚園に就職せしと。西田哲よりわび状。夜よりラヂオ鳴る。大塚来り、将棋クラブ作るにより名誉会長をと。 4月15日 よべ久しぶりによく寝、9:23にのりて登校。10:30つきて講演会に出ず。コーヒーのみなどし、山中たづ子君呼べば忙しくなりて来り話せず。遠藤先生に御挨拶。西宮君に学科指導させて夜学の始業式といふをとりやめて帰る。 『アポリネエル詩抄(150)』『宇治拾遺物語(150)』『歴史とは何か(60)』『今古奇観(110)』と買ひ『鴎外全集2回分(760)』払ふ。 けふサラリーとりあへず旧baseにてもらひし也。宮本君より転任挨拶。西保君より宮崎智慧の歌集転送。 4月16日 相変らず寒し。9:55り授業(家を出るまへ中川組の監督洗顔に来りしを咎めし)。騒がしと叱り、米沢生の父来り、妹の手続未了なりしをすぐする故入れよといふに、院長に云ひおかんと帰し、西保生来るとのことに小出氏とまちしも来ず。 13:30出て藤井寺。羽曳山へ散歩にゆく叔父叔母と共に歩き、病院にゆけば5:30。荒井D'なりと。(A-Eまで病気を[度]す)。三並のことなどききて出、アベノ橋天海堂にて『杜甫ノート(170)』『方言の研究(100)』『蝸牛考(70)』『豊太閤と南方図(20)』買ひ、鰻丼食ひて帰校。夜学教へて帰宅。(けふ西田章子生新婚の記事見し。) 4月17日 午后からの講義と思ひて13:00頃登校すれば、4時間目漢文なりしと・院長に米沢妹のことたのめばよしと。疋田君10:00来て待ちくれしと。電話せしがゐず。帰り帝塚山書店にて『文芸と法律(130)』『日本人(20)』『歴史の矛盾性(20)』『世界史教程(30)』買ひして帰る。入浴。 4月18日 11:00会社へゆき中川賄人のこと云ひ、出て梅田。佐藤春夫2冊買ひ(60)、ライスカレー食ひ上六にて『名人戦(120)』将棋クラブの賞に買ひして帰宅。岩崎昭弥より当分来ずと。本庄先生より吉村正二の1000入りゐしと。荒井平次郎より礼状。 4月19日(日) 投票のため7:00家を出て楠根小学校へゆき、左社久保田に投票。西宮君と上町線同車してゆけば受験者22人のみ、出来ず。昼食にまむし食はされ面接採点し、及第判定会は明日と。14:00出て帰宅。 けふ岩波文庫『木下杢太郎詩集』買ふ。平野義太郎氏23日迄在阪と山本治雄より。西田章子(新姓福田)新婚旅行の船上より。中川賄人19日迄休ませてくれと。 4月20日 開票をラヂオできく。自由、左社いづれも軍備反対で好況。12:30出て上町線で硲君と会ひ、学校までゆき伊藤生に会ふ。帝国高校に就職出来しと。15:00ぎまで待ち、2部の判定会。みな入れて教授会。17:00帰る。 けふ山本に電話し平野義太郎氏の在家きけどわからず。羽倉君に電話し一度会はんと云ふ。 4月21日 登校、9:30。漢文4時間。ひる疋田嬢来り、結婚今少しあとにせんと。伊藤嬢帝国学園ことわり短大事務に来る模様。喜田聿衛氏より電話たびたびかかり15:00電話すればナンバへ来てくれと。 高島屋で会ひコーヒーよばれてきけば謄写版屋やりゐるゆゑたのむと。別れて近鉄案内所に野崎嬢訪ぬれば明日佐々木君東上と。アイスクリームおごり呉る。17:00へなりしゆゑそのまま帰宅。布施税務署より明日13:00来よと。伊東夏樹より静雄の忌明け。羽倉より引きちがへにハガキ。 4月22日 休みなれど会社へゆき、中川のこと杉浦氏に云へどこたへず。会計へゆけば15000ほど出さねばなるまいと。学校へゆき27年度申告票もらひしところへ亀井と三並来る。荒井見舞にゆきてわがことききしと。ともに出てバスにてナンバ。近鉄案内所へゆけばみなゐず。Ice Creamおごられ12:40出て布施。税務署へゆけば帝塚山知らず、平凡社来りゐし。土曜帝塚山の申告票もち来ることとなり欝々として思ひつき、西川英夫父君訪ねしに元気。謡の先生やりゐると。 出てのりし電車に安田章生坐りゐ、ともに鶴橋でおりて飴湯のまされ、別れて山本へゆけば入れちがひに手紙出せしと。明日平野氏と3人で話さんと。ことわりて帰り来れば、角川より48650-7297.50(15/100)=41352.50(-40冊代2240=39112.50)来りをる。川添和子氏よりビタミン剤やらんと。創元社より写真をと。 4月23日 登校、伊藤けふより事務室勤務。三並に電話して礼云ひ、野崎に電話し山本に電話して14:00行くと云ひ、『国文学史総説』の教授用と『唐詩選』ともらひて梅田。大河原訪ねしもゐず、山本にゆけば、平野さん19:30までゐずと。500わたし、出て地下道で『南海漂流譚(40)』『官場現形記(100)』買ひニュース映画を見、まむし食ひて夜学。平野先生の推薦演説ぶつ。 服部(※服部正己)より生駒に住むと。西保嬢より歌集のこと。(けふ松本健次郎に会へば紅茶おごりくれ、本庄先生の1000出すと。森良雄大阪へ来しと)。(羽倉啓吉君、夜学の前5分に来る。用別になしと)。 4月24日 登校前、参議院の選挙にゆき平野先生に投票。登校、漢文すませて昼食。山中生に電話し、午後終へて西宮君とアベノ橋までゆき藤井寺。叔母、税金のことを先づ城平叔父に云へと。夕食もらひて駅前の村岡薬局にゆき暁子生と話し、恵我荘で降りて和島家。岩吉氏と話しタバコとすしもらひて帰る。みね子君この頃事務所を手伝ふと。帰れば上出、洋裁に住込みにゆき手伝へずと。 4月25日 会社へゆきしも叔父に会へず。10:30布施税務署にゆき係(大西君)に会へば印税の紙失ひ、父をも扶助家族として呉れ5760追加としてくる。礼云ひて出、鶴橋まはりて帰宅。 叔父の後援する小林大厳(上宮校長)落選。平野義太郎氏も駄目らし。父来り、3000とり3000貸してくれと。富士鋼業の30000を父名義とすること承知と。健よりハガキ。女子生れ恵子と命名と。高橋玉諟君よりその後1500入りしと通知。 4月26日(日) 服部正雄より蜻蛉会の写真。伊東花子氏より静雄の追悼会本日13:00にと速達。 12:00出て守屋君に断りにゆき、アベノ近鉄alefartで羊羹(150)買ひ、堀場[正夫]『遠征と詩歌(20)』、羽仁『歴史教育批判(20)』、[森]槐南『作詩法講話(150)』、木村靖二『古代農村社会経済史(100)』と買ひ、帝塚山で乗換へんとすれば硲君あり。 初芝で降りて伊東家にゆけば庄野潤三と某女史と2人のみ。黄檗宗の唐音のお経きき、すみてすしよばれながら伊東の話し、潤三おどかす。林富士馬はわが悪口云はざりしと。大垣国司、我に叱られて発狂せしらしとの説。成程ときき16:00すぎ出てバス。 帝塚山で降りれば硲君にまた会ふ。コーヒーのみて別れ帰宅。 4月27日 会社へゆき城平叔父に会ひ、税務署のこと云ひ、今月より父を顧問として謝礼し、みな父名義とすることを承知してもらひ、中川のこと留用ときめて出、大手前へゆき、石山君と話し、坪井に会ひ藤井寺へゆくと云ふに肥下に寄ることすすめ、京阪にのり京橋より帰る。 4月28日 登校、高校の漢文。沢樹生より電話かかりて来るとのことなりしも来ず。追加4月分のみにて7000(税込み)、溯及はなきらし。伊藤生事務つまらず止めたしとのこと。なだめて別れ15:30Svarにて『民族学の基本問題(80)』『朝鮮旅行案内記(100)』買ひ、十合へゆき岩波の『古典のよみかた』貰ひ、『マヌの法典』買ひ、特売場で靴見しもよからず傘(850)買ひ、1階にて3000の靴買ひnews映画見て上六までtaxi(100)。運転手とばすと思へば40milesとて巡査に掴まへられ罰金1000となり、気の毒がりつつ降り、親子丼食ふ。 (けふ十合喫茶店にて吉川綾子に挨拶さる。産経につとめ前田久吉の選挙運動にて忙しんりしと)。(服部より電話かかり待つと)。 4月29日 天長節。服部と将棋さして勝つ。ボロ家を修理して良き家とせしと。旧の三業地なり。子ら大きくなりゐる。増田渉氏も転任と 15:30出て小阪に降り、堀内にゆけば変なり。ペーリー『古代文明研究 上(50)』『蓮如上人御一代記(30)』『文学史の方法(20)』買ひて帰る。祖国社より伊東の履歴送り来る。訂正せよとなり。夜、亀井来り、堀内へ三並とゆきて変なりしと。 4月30日 雨。登校。ひる沢樹生来り、藤野生来ると。2年生京都博物館の36歌仙見にゆかんと誘ひに来しを断り、、三並に電話すれば不在。沢樹、伊藤と喫茶。15:00すぎ2人と出て近鉄案内所へゆく途、山城君と会ふ。高島屋で弓子へと『シンデレラ姫(50)』買ひ、近鉄案内所へゆき野崎君におごられ、藤野君と十合まで歩き中馬君に会ひ大丸で喫茶。引返して戎橋で藤野君と別れ、古本屋見てナンバ駅へ出れば18:00。あはてて高野線で学校へゆけば三並待ちゐる。明日会ふと約し授業。 帰り外出する新入寮生を叱りて帰らせれば21:30。取消してゆかしむ。 鈴木俊氏上洛4日(月)17:00り東洋亭で同窓会と。江馬春夫より丸太町岡崎道ライオン自動車へ転任と。 5月1日 登校、ひる米沢来り待つと。三並に17:00梅田有料toiletで待つこととし、14:00すぎ来る山中まち、busの交渉にゆく井上ら3生と同行。伊藤、西宮君と近鉄案内所にゆく。野崎の紹介にて所長にbusのことたのみ、階上喫茶roomで待ちゐし山荘、鍛冶姉妹、和島と喫茶、中座してwhite shirtの仕立に高島屋へゆき(12日出来し。collar2本300)、引返して伊藤生に菓子おごられ(米沢、先日の礼にとpeace一箱と養毛剤!と呉る)。 梅田へゆき18:00三並と会ひて夕食。従来の経過話しcoffeeのみにゆき、かまぼこもらひ、アエバ君の坂秀へゆけば主人寝しと。bear一口のみて帰宅。室より転居通知。西坂より行動展の通知。 5月2日 家居。午后〒八木嬢より『漢の武帝』探せと。本庄先生より礼状と問合せ。夜、杉釈放されて来り2、3日泊めよと。米沢嬢に祝婚歌。けふは我が結婚日なり。 5月3日(日) 〒なし。眞野喜惣治君来り、瓢箪山の植田明信局長を訪ぬるといふに名刺わたす。夜、帰り来り、会へざりしと。明日ともに上洛を約す。 5月4日 外泊届会社へ出し、原課長に杉のことたのみ眞野君と8:00家を出、天満橋より9:00乗車、10:00前京都三條。畠山氏へゆけば夫人も留守。歩きて吉野書房へゆき(京阪書房にて『六国史(4000)』『日本書紀通釈(2400?)』注文。吉井勇『短歌風土記2冊(40)』買ふ)。 奥西君に会ひ伊東年譜わたし、池内先生の本無償で呉れるときき『漢の武帝』探しまはりしもなく、『江戸ばなし(80)』『南都と西京(70)』買ひして梅原家。母上[薬師寺衛母堂梅原糸子氏]「小火出して物送らざりし。薬師寺君の原稿も行方不明」と。 出て研究所にゆけば藤枝ゐず。鈴木俊氏を迎へて茶会中、飛入りて笑はし16:00出て『ゲルマニア』買ひ畠山家。再来を約して東洋堂。やがて鯨ハム来る。硲君来られず植[渡]、八田、前川、芳村(和泉高校に勤むと)なども来り、三島一氏(平野、大山久氏にのちほど会ひにゆくと)をまじえて語り20:30畠山氏に泊めてもらふ。 5月5日 子供の日とて休み。朝食たべしあと畠山氏客迎へにと出てゆく。9:00礼のべて出、古本屋見しあと四條より京都駅。10:10の王寺行にのり宇治下車。日本レーヨンにゆけば小高根二郎勤務中なりしも休みとりて自宅へ案内。15:00まで話す。『コギト』『四季』『日本浪曼派』見せらる 大久保までバス。奈良へゆき野崎家へゆき、傘借り古本屋見、17:00[吉野書房社長の]前田家へゆき入浴して待ち、19:30浅野[晃]氏来る。嬢ちゃん宝塚へ入り、明日ゆくとて天理行承知せず、新城氏[何]にも不適と。20:00保田[與重郎]来り、1:00まで話し泊りしが5:00まで眠れず。 5月6日 10:00出て京都へゆく3氏と西大寺にて別れ、天理。レポート製本受取り鈴木氏に池内先生の本のこと云へば真柱に云へと。またまたかかりし也。八木嬢より土産もらひ新城氏に送られて短大(大谷氏佐賀大へゆくと)。高橋重臣君と話し、大谷氏送別会案内をたのみ、生駒までゆきて出来心にて服部家にゆけば豊橋出張と。 帰宅、郵便見れば角川よりハイネ東京では普通と。西保君、堀内民一に会ひしと。成蹊吟社5月10日14:00と。井上斌子より手紙。大江叔母より三並に縁談のこと。文芸クラブの案内。『東洋史研究12の3』。 花の命はみじかけど、ながふみのみぞいつまでも、人の心にのこれかし。 ながよきこゑは中空に、のこりてあれどまぼろしの、おもかげびととなりにしか。 留守中、宮本君来り、9日以後に再び来るといひしと。 5月7日 登校、図書費12万円と。その他昨日の教授会のこと中田博士より報告受く。菊池より電話。高橋玉諟君に電話。午後島本貞三郎より電話。雑誌出す人を紹介す。岸来り[JO]BKを受くると。10:00すぎともに喫茶。伊藤も来る。(けふ小野十三郎氏よりコーヒーおごらる)。夜学すませ帰れば西保君より24日出版記念会と。 5月8日 文芸クラブ参会者、椿下、和島、山荘、鍛冶姉妹、伊藤、山口、吉原、菊池、三木、宮沢、長尾、北野、疋田、井上、山中、安村、沢樹、堀、野崎おくれて岸、斎藤と22人集り、次回を6月7日(日)ときめしのみにて散会。岸グループと出て戎橋。コーヒーおごられて18:00別れ、次田潤『古事記(50)』買ひて帰る。けふ堀内民一より大手前へ転任たのんでくれと。『アサヒグラフ』配達所にたのむ。 5月9日 会社へゆき城平叔父に黒田製薬の今津工場のことで相談受け、4月分図書費受け取って出、山本にゆけば未だ来らず、svar『菅政友全集(200)』買ひハイネ買ひしてのちrice curry食ひ、黒田へゆけば社長「田辺化学へ即金にて4月末売渡せし」と、不快なり。 大毎グラフ松村益三氏より詩の稿料2000(税なしと)。眞野、杉より礼状。 5月10日(日) 岩崎昭弥よりハガキ。13:30家を出て成蹊詩社へゆけば皆おそろひ、鈴木豹軒先生より直されし我が詩「偶成」市井鄙歌暮。敝屋訪客稀。多年空慷慨。作詩吟詠微。 山本へ寄れば昼寐よりさめしところ。すぐ出て『否定の論理の発達(45)』『国民性十論(30)』買ひて帰宅。城平叔父に報告書く。 5月11日 家居。池内先生『日本上代史の一研究』よむ。夕食後宮本正都君来る。送り出してタバコ買ひにゆく。 5月12日 雨。弓子奈良へ遠足にと出しも学校にとどまるらし。硲君よりこの間の会のことわり。本庄先生より22日(金)夕お礼の会すと。興安丸の帰国者に岐阜県今西蔦子、シリュウ、ゴリュウとあり春秋夫人か。 5月13日 学制80周年とて学長の講演ある筈なれどゆかず。会社へゆき上出の礼400受取り、天王寺美術館に池内先生の本一冊わたし、藤井紫影先生の嫡子に紹介され『阿部房次郎氏寄贈中国絵画目録』もらひStutterheim『回教と蘭印群島(50)』『揚子江(40)』買ひして(新世界)、高島屋へWhite shirtとりにゆき、山本事務所へゆき22日のこと云ひ、山田にsoda水おごってもらひ富士銀行。その後入らずと。山本事務所にゆき計算すれば255,500(中藤沢氏未納5,000)となり、精算書のプリントたのみnews映画見て帰宅。 浅野晃、平野義太郎2氏より挨拶。安田章生より『新古今名歌』贈らる。 5月14日 雨。登校後、晴る。昼講義終へ漢文print刷りしてゐる中、喜田聿衛氏より電話。この間の話いかにと。14:00島本貞三郎よりの紹介にて現はれし人、服飾雑誌を100万円にて出すと。大阪にてはむりといひ、長沖氏をつかまへて紹介。小野十三郎と話しお好み焼夕食代りにせしところへ硲君来り、話す中、杉浦正一郎現はる。 夜学すませ住吉新地先の相野宅へゆき21:00まで話して帰宅。米沢幸子(新姓藤田)雲仙よりハガキ。山荘住子、武田洋裁へ入りたしと。母わが詩を見て泣きしと。 5月15日 登校。藤野、山荘2生の妹よびしもともに来ず。14:00すまして上町線にのれば向ひに坐りしは中朋子とて前田隆一氏令嬢の友だち。この間、泊りしこともすでに知れゐたり。大江へゆけば叔母ともかくありのまま三並にいひてのち写真とりよせんと叱る。北村うめの氏を近くの[温泉]の主人くどきしと。柏原南口までゆき高井田の山荘訪へば留守なりしも、ややして帰り来り、火曜に来校と。20:00までゐて国分に送られて帰る。衣川と同車。近畿大へゆきゐる也。 高橋重臣より17日(日)奈良「江戸三」で大谷君送別会をと。岩崎昭弥より17日来るやもしれずと。高鳥より伊東追悼書けと。竹内より『魯迅作品集』。 5月16日 中川賄人、昨夕出て帰らずと。竹村課長に電話かけ出て府庁にゆき三並に大江叔母よりの藤田嬢の件の手紙わたし返答たのみ、大手前へゆき坪井に会ひ、堀内民一のこと云へば履歴書送れと。凸版へゆき『ハイネ』見付け石原産業の受付へゆき松井にと托し、東京銀行の前通り奥戸のぞきしもゐず。『茉摘花(100)』買ひ山本にゆけば奈良と。print(150)とりて出、阪神で大河原に会へば胃悪しと。やせゐる。rice curryおごられ説教されて別れ帰宅。 中川帰りゐる。よびて叱れば夫、岡山大の教師にて肺療養中、そのことにて親族会議と。佐瀬よりのハガキ来り、22日(金)17:00大東楼にて本庄先生の会と。硲君にしらせのハガキかく。 西保恵以子より24日(日)13:00と。本庄先生の精算書(第二次)かく。18通。 5月17日(日) 昨夕の行水にて風邪ひく。伊東花子氏より5月5日香奠返しもちて大学に訪ねしと。山荘浩子より謝り状。12:00すぎ川添和子氏来る。もっと本よみ恋愛しなされと云へば「してゐる」と。 帰りゆきしあと15:00まへ出て奈良の大谷氏送別会へとゆく。「江戸三」とて春日一の鳥居前なり。料理まづく酒のまず風邪をなほりしのみに会費1200。けふnews映画見し。 5月18日 朝コーヒーのみて出、帰れば保田より東洋の詩人文人の名を中学教科書のためあげよと。『広東新語』を解説せよと。本庄先生より改めて22日17:00大東楼へ来よと。 rendez-vous(デート)の時間におくれ急行の速さに手をあはせゐしたはれ男ありき。ゆき見れば人はすでにゐず、時間超過45分なりしとてあはてし心をかしやな。 けふ山荘に偶然会ひし。安田章生へ『新古今名歌』の礼かき、保田へ返書かく。明日よりまた忙し。 5月19日 登校、salaryもらふ。手取り27500。山荘来り、竹内女史に紹介してたのむ。白井に電話すれば21日まで東京出張と。坪井に電話すれば秘書心当りなしと。西宮君計画の天理図書館ゆき、院長あとにせよと云ひしと。高校は試験で休み。文芸部をこさへるといふ7人と話し、アベノ橋で散髪。 アポロドロス『ギリシア神話』買ひ、佐野学『足利尊氏(80)』買ひ千日前。野崎に会ひてことわり云ひ、茂吉『正岡子規(80)』買ひして帰宅。山中タヅ子、松井和佐子より手紙。西保恵以子より24日10時に来よと。 5月20日 7:30出て短大。9:20出発、文芸一年の車にのる。長沖氏来る。須磨寺へゆけば若住職は小池義人とて元北野高校の先生。昼食後、長々と源平合戦の話す。すみて公園。鉢伏山へゆく連中に加はらず。増田正元の死せし肺病院の入口まで行きしのみ。老人連中の仲間入りし15:00まで待ちてバス。(※リンク写真あり) 三宮で下車し元町を歩き『玉台新詠集』買ひ『日本の女性文化(150)』買ひ『新漢詩作法(110)』買ひして元町より乗車。帰れば堀内、硲2氏よりハガキ。中川賄人また呼出しかけられ出てゆき、夕刻夫より退職といひ来る。 5月21日 竹村課長に中川のこと電話し、登校。津熊より電話。24日10:00天王寺のtourist bureauの前で待合すこととし、三並に電話すれば外出。例の出版社来り、来週会すると。中田印刷が後援と。漢文刷りて出、服飾の4人と大鉄departでice-creamのみ、松浦元一氏に会へば仕立代5~7000円と。 「黒バラ」へゆけば喫茶店にかへる工事中。竹内には未練なしと。 近鉄案内所へゆき野崎にまむしおごられ夜学。『唐詩選』つかふこととして謄写版問題解決。安本文生またいやらしくなる。堀場正夫、小高根二郎、安田章生よりハガキ。 5月22日 学校。白井に電話して服地のこと云へばとりに来よと。三並に電話して縁談のこときけば断りの手紙已に出せしと。藤野生に電話して来よと云ひしところへ西川の弟現はれ、29日より3日まで在阪と。大阪屋証券に勤むと。花井彩来しゆゑ、姉裕嬢にとHeineと三好達治のハガキと渡す。 午后、山中たづ子来しところへ伊東花子氏来られ、香奠返しに盆と果物。栗山理一氏のこと云ひ連絡を約す。 宮沢生来りしゆゑ24日10:30の電車にてゆくこと云ふ。堀も和歌山と。伊東氏にもらひし果物片付け、藤野、山中と出て、山中のみつれ道頓堀で喫茶。ついで近鉄案内所へゆき野崎と文芸クラブの相談し、16:30出て地下鉄にて堂島大東楼へゆく。 本庄先生の謝宴にて山崎、山本、高橋、硲と6人そろひ、我、予備費の残484おわたしし高橋君通帳わたし、山崎君の米ソ即決論ききて20:00まへ散会。家に藤野より手紙。松本善海、川原湯よりハガキ。庶務課長、欠員補充どころではない多忙と。池本、色をつけよと。 5月23日 雨、10:00まへ会社へゆき杉浦氏に中川賄人のこと云ひ、新しく雇ふは臨時日給とすべきを云ひ、原氏に職安へ電話かけさすれば26日4人来ると。選定を原氏にたのみ、帰りて池本に超過勤務手当考慮をいひ、竹村氏に電話して道悪しく八幡製鉄の見学考慮されよといひて昼寐。 岩崎昭弥より前川佐美雄に会ひ「関西に大出版社出来るも貴下は見送られん」と、苦笑。藤野生にハガキ。石浜先生へ中村事務長の詩送ることとす。 5月24日(日) 9:00家を出て天王寺。10:00津熊来り、脚気にてゆけずと。東和歌山へつきて見れば堀、宮沢2人迎へに来る。公園前の喫茶店にゆき西保まち、やがて来しと一寸話し、もらひし弁当もちて公園。昼食し、14:00まで待てば鍛冶姉妹来り、英一の坂田?来る。 西保の隣に坐り、romanticの講義し、記念撮影(※リンク写真あり)すまして解除してもらひ、5嬢と新和歌浦、引返してブラクリ丁。ブラクリとは吊下ることと坂田嬢の話。急行食堂!といふにてrice-curry食ひ(990!)、土産あまたもちて南海駅へゆけば21:31。やがて来し普通にのり泉佐野にて急行とのりかへ、鍛冶姉妹と別れ帰宅。23:10。三並母より断り状。 5月25日 出るはずなりしが昼寐して止め、入浴。中川より来ざれどたのむと炊事へ。 5月26日 登校、4時間目、高校30分早くなりしこと通知なく呼びに来る。午後2時間すまし白井に電話し長沖氏に明日の教授会出をたのむ手紙かき、日野君と出る。南久太郎町2の22の東亜紡織に白井を訪ね、取引先へつれゆかれ「tropical」2yard半3500で頒けてもらひ、別れて島本にゆき正弁丹吾につれられ夕食。佐々木三九一大和銀行堺北支店長と。パチンコして別れ上六天地書房にて樋口勝彦『ローマ風俗考(60)』。 大手前へゆき坪井を訪ね、西川、服部(※西川英夫、服部正己)の会を6月1日ときめ、明日奥戸と連絡とることとす。france菊一株わけてもらって帰宅。西保嬢より礼状。 5月27日 9:00出て三越にゆきしに時間早く、茶のみ靴直し芭蕉展にゆけば栗山氏広島と。青龍展の佐々木邦彦の絵のみ見、大阪屋証券へゆきしも忙しらしく、淀屋橋まで歩き、凸版で『詩人全集』買ひ松本に寄り西川来ることを云ひ、11:00奥戸、坪井に電話し、大手前会館にて6月1日17:30よりときまり、出て古本屋見、1/25,000「和歌山」買ひて大阪駅。天理『善本写真集1、2』もらひ服部にゆきしも21:00まで帰らず。置手紙して来る。月々10,000欲しがり、本代と。 徳永昭子氏よりハガキ。『祖国』5月号。けふ中川賄人のうそばらしに来し人あり。「富士に入れると2000とりし」と。某社を夫婦して解雇されしと。岡山大学の先生と女学校の先生なりしなど大嘘と。 5月28日 雨。登校。西川弟に電話すれば16:00まで不在と。ひるすぎ誘ひに来し成尾、浜谷2生と出て三越。栗山理一氏と初対面。 ice-creamおごられて話し、別れて2生と喫茶、別れて大阪屋証券へゆき西川君に英夫への伝言の名刺わたせとと受付にたのみ天満橋をへて帰宅。16:30夕食して登校、夜学終へて帰る。 けふ会社へ堀辰雄夫人より電報。夕刊にものりをり辰雄氏1:30死去、48才と。alas! 鍛冶姉妹より礼状。岩崎昭弥より6月初来ると。けふ聞きしに石浜先生高血圧にて2回欠講と。 堀辰雄訃報記事 5月29日 雨。堀夫人にとりあへず弔電「あさま山みねのけぶりのいつまでもゐますとわれは思ひしものを」 登校、西川弟より電話かかり都合悪しと云ひしと。早速電話せしも不在。漢文の時間に堀さんの話し、硲君来しとききしも会へず。14:30藤野君と来し山中君と先づ近鉄depart。松浦氏を訪ねしも不在。お茶のみて待ち6月7日室満員とのことに14日(日)とかへ、会費200として出、近鉄案内所。 西川弟に電話して布施を訪ぬると云ひ、永井聿[正]氏を呼出し文芸クラブ会報に[円]にてやらすこととし、やがて来し山荘と上六。布施にて降り西川に6月1日まで出発延すことを承知せしめて帰宅。 堀亘、渡辺鐐子よりハガキ。創元社より『詩人全集8』1冊。けふ我も近鉄で1冊買ひし。夏服の寸法とってもらひし。 5月30日 会社にゆきしに賄人の後任また選びそこなひして来ずと。締切後といふに池本の臨時出講を5月1日とし、大手前にゆき坪井に会ひクラス会きけば関口4ヶ月間久里浜に入学と。生島ことわり来しと。本庄先生への案内かき、出て藤井寺。叔母、北村ウメノ君を可愛がる。某爺の話は冗談なりと。羽曳野病院にゆき荒井を見舞ひて帰宅。沢田より中島のドイツ本のこと。花井裕嬢より礼状。 5月31日(日) 山本の重役会のため大掃除。草とりやる。10:00城平叔父庶務課長と来り、パンとタオルと皆に呉れることとなりし。〒なし。堀夫人に手紙かく。 6月1日 雨。15:00出て堀夫人に香奠1000贈る。片町より歩きて大手前、島本に電話すれば行けずと。沢田に電話すればなほ心がけてくれと。([Ernst]Cassirer:Philosophie der symbolischen Formen Bd.Ⅳ)。17:00坪井と大手前会館にゆき待つ内、西川、本庄先生、藤田、服部と主賓そろひ、梅本、横山、江馬、沢井、奥戸、前田、俣野、山田、白井と15人となる。西川芳の恋人に電話かけゐる中に散会20:30。 帰れば庶務課長宛に中川治子の夫、山分新一なる男より詰問状来り、返事われにたのむとなり。ハガキにて1.日割でなく月給制。2.貸借関係と荷物とのため出社せよと篇次かく。 6月2日 登校、雨。松本一彦に電話すれば、何とかするゆゑ来ずともよしと。日野君にカッシーラきけば持たずと。16:30帰宅。西保君の記念撮影の写真来る。 創元社より写真[返]り来る。今中同窓会より13日(土)16:30より委員会に出よと。 堀辰雄氏葬儀6月3日芝増上寺にてと。(※案内状写真リンクあり) 17:00株主ら叔父とともに来りしも会はず。入浴。『満文老檔』よみ終る。 6月3日 休。竹村課長に電話し、明日応援してくれることとなる。大高クラブより13日14:00り増山成夫の講演と。 6月4日 登校、昼の部教へて帰宅。堀亘より礼状。本庄先生よりrain shoesかはりしと。夕方またゆき夜、学校教へて帰る。岡崎君より6日(土)石仏展を見にゆくと。 6月5日 雨。ゴム靴穿きて登校、午後小野関大教授に事務室のこときき、出て住高へ寄り山本、硲2君と話し、山本事務所にゆけば浪江弁護士帰宅。山本は彦根と。佐瀬君より金借りて喫茶。 この間、壺井繁治来りてわれ拗ねゐるかと云ひをりし由。坪井に電話すればrain shoes心当りなしと。引揚者の住宅ほぼ出来上る。ハウスのチビ昨日死して河へ流されしと。もはや梅雨なり。京、虫歯にて医者へ通ふ。 6月6日 雨。会社へゆく賄の欠員中共の引揚者2名ありと。中川の夫山分より配給通帳をと。関大へゆき上[道]直一氏に石原修のことたのめば事務よびてききくれ外国語だけでも6科目欠、追試験手つづきしゐると。梅田へ出、古本屋見しも本なく『数学辞典』買ひ昼食。天満、瀧井。西川よりタイプの礼状。西保より礼状。けふ萩原朔太郎『遺珠(50)』買ふ。 6月7日(日) 岩崎来ず。〒なし。夜、衣川来りて、近畿大の話してゆく。 6月8日 雨。家居、〒なし。大江叔母へ速達して石原修のことを報ず。 6月9日 登校。『文芸クラブ誌』につき電話せしに日曜出来しと。山田鷹夫の紹介にて藤井氏嫁の問合せに来る。高校の奥村女史に紹介して答へてもらふ。15:00帰宅。布施消防署より人来り、懇談会の都合きくに、金又は土曜にと返事す。朝鮮の休戦いよいよ成立らし。けふ近鉄アベノdepartにて『南方閑話(70)』。 6月10日 家居。午後来し竹村氏に上出房子の手伝のこと云へばよしと。引揚の女、専務に会ひてのちきまると。西保君より明日学校へ来ると。夜、亀井昇母子来り、Biscuit呉る。 6月11日 登校、午salaryもらふ(26,887)。西保君来り、ともに出て加藤女史にゆき『Heine』1冊与へ、すぐ出て津熊家にゆけば照子不在。ナンバに出しに近鉄案内所へ野崎君不在。大丸まで歩き梅本に会へばrain shoesかはりしは彼と。大丸古本部で『新村出選集3冊(380)』。みつ豆おごられまた近鉄。永井夫人呼出して『文芸クラブ』代600払ひ、ナンバ高島屋で別れ夜学。 けふ学校へ道井の兄、田中長夫より手紙。作品見てくれと。帰れば保田の代理に深沢生より速達。土曜16:30大阪書籍へ来よと。 6月12日 登校、山中生より電話、井上生と来ると。佐瀬に電話し山本にことはりたのむ。14:00山中生来り、伊藤の不平ききてのち、ともに桑津の井上家。17:00出て帰れば杉浦、竹村二氏来り、19:00すぎ来て布施消防署長、大賀氏の話きき、帰りしあと原君酔って不快。 6月13日 10:00会社へゆけば満洲引揚の藤田女待ちをり面会に立会ふ。よろしとなり池川医院につれゆき、寮へつれ帰り、また出て山本事務所。きつねうどん佐瀬と食ひ山本を待ち、借金のことわり云ひ、伝言きいて別れ、14:00alateへゆきしも不在。置手紙し、大高クラブ。神原藤佐尾氏の経済楽観論きき(熊野判事、島本ら14、5人)増山来ざるに山田と二人出て、われは津守の大阪書籍。 保田に会ひ、堀辰雄、日本人の漢詩などたのまれ(散髪120)、西浜通りぬけ今高。すみしところへゆき夕食。山本重武と話しつつ食べ自己紹介。20:00出て饗庭君に会ひに坂秀へゆけば別居と。21:30出て帰宅。宮沢弘子より会に出られずとハガキ。 6月14日(日) 島居清君より9月頃天理図書館へゆくと。学術会議より名簿用紙。草刈りし、12:30出て駅へゆく途中、関大高校の長谷川君に会ふ。末吉栄三、伊丹第4中学へ転任せしと。石浜先生見舞ひしと。13:30近鉄アベノ百貨店へゆけば山中、奥村の2人のみ。やがて長沖氏来られ、16:00までに山荘、和島、吉原、吉川、中馬、野崎、東、北野、沢樹、堀、立川、藤野と14人のみ集り、松浦元一氏の話きき、最中よばれ17:00解散。 和島君と同車。藤井寺へゆけば康平叔父夫婦あり。久美子あり。やがて石原氏来り、修君のこと話し久美子母子と出てアベノ橋。ice creamくはせて別る。けふ北村うめの氏、目を泣き腫らしゐて辛しと。 いつまでもかはらじといひしその面わ眠れぬよるを想ひつづくる。 6月15日 家居。草ちょっと刈る。西保恵以子より礼状。夏蜜柑賜ふと。保田より支那童話をと。 きのふの礼状、沢樹(茶)、鍛冶姉妹(人形)へかく。夜、栗生来り、教科書代400借りゆく。図書6冊買ひて池田もち来る。 6月16日 登校、漢文教ふ。(西宮君と同行。アベノdepartで松浦部長への礼状托す)。梅田へゆき天満。帰れば布施税務署より5760を6月22日迄にと。津熊生、本庄先生より礼状。本荘健男、西宮へ帰り来しと。服部より本庄先生の講師復活に尽力したと。(西保君よりの夏蜜柑、小[坂]駅止に来りしと。)和島B子より手紙。いけずなのは他の子と。(土曜永山光文より電話あり。今東京にゐると)。 6月17日 晴、草刈。西保嬢よりまたハガキ。14:00出てアベノ斎場で降り潤一郎『刺青(70)』買ひ学校へゆけば15:00まへ教授会つまらず。18:00帰宅すれば大谷篤蔵氏よりこの間の礼状。 6月18日 登校、13:30本荘健男に電話し、一度会ひたしと云ひ、アベノ橋で『村の女性(20)』買ひて帰宅。夕立に会ひ安神夫人に傘かしてもらふ。17:00また出て登校。深沢君より19日都合しらせと。 6月19日 登校の途中、秋岡歯科にゆく。長沖夫人に会ふ。明日また来よとなり。講義すみて山中生よりの電話きけば疋田生と火曜来るとなり。就職希望大菊、藤原2君の話きく。大阪書籍に電話すれどかからず。14:30永井夫人にあんころもらひ、坪井に紹介かき、長沖氏にもかかし、別れて出んとすれば佐々木生あり。出てナンバ。芳鐘歯科にゆきしに忙しらしく、出て近鉄案内所。専務と話す中、佐々木生来り、沢樹生来る。17:00出てきた芳鐘、中山書店にて『西行の伝と歌(60)』。つるはしへ出て帰宅(けふ時間あまり青山正文の姉君に会ひ19年5月3日New Guineaaにて戦死ときく)。 6月20日 会社へ出勤cardもちゆき図書費5,6月分2000もらひ近鉄アベノdepartで万年筆買ひ(500)、斎場前で『堀辰雄詩集(230)』買ひ、秋岡歯科にゆきしも満員。大阪図書の深沢君呼び、昼食にパン食べて(40)、空くをまち13:30やっと施術すみ。また斎場前より飛田にゆき山王町2の46に金杉重信を訪ふ。25年ぶりか。誰とも交際なき様子。 アベノ橋に出て帰り徳庵で守屋美津雄に会ふ。「和田先生6月10日渡欧されし」と。中野英夫氏より首相官房調査室に4月より在り。役人いやになりしと。Kansai Asistic Societyより27日(土)16:00三條柳馬場のY.M.C.A.でと。 6月21日(日) 羽田より教科書送りしと。村上新太郎より詩5日までにと。午后宮本夫人2児つれて来りやかまし。15:00出て桑田博士をお訪ねし池内先生の本1冊おもちす。和田先生渡欧を知りたまはず。鴻池新田駅にて竹中靖一氏と同車。京橋にて思案し、吹田。パチンコして山本。風呂に入れてもらひ夕食して雨、小止みをまち沖野岩三郎『書き改むべき日本歴史(100)』買ひて帰宅。大雨となり待合せにパチンコせしも止まず。ぬれて帰る。 6月22日 一日家居、〒なし。 6月23日 9:00秋岡歯科へゆきしに抜歯あとにせよと。講義し、午ごろ来りし疋田君の詩を見、また漢文。すみて歯ぬかれ(右臼歯)、バスで難波。ナルシヤ小杉に会ひしも何もなく向ひの出雲屋。吉田栄次郎に会ふ。白髪となりゐし。杉本栄蔵、内外綿の重役になりしと。帰りより痛み出し夕飯くへず。島居清より9月天理への転任きまりしと。中央公論社より「花の便り」を詩選集にと。 6月24日 9:00秋岡歯科へゆく。腫れたりとてペニシリン打ちてもらふ。富士鋼業に電車し、甚幸呼び出し富美子、貴美子の所きく(貴美子現在匹田姓なることはじめて知る)。出て地下鉄にのり思ひついて今高へゆき筒井信義に会ひ、阪急産業で古田重郎に会ふ。Malacca海峡で会ひしは彼でなき由、不審。 池田にゆき宮本君に土産買ひ、篠田博士に会ひ、上村六郎氏に会ひ、助手に案内されて寮へゆく途、某助教授にきけば養徳社の××、○○と知人と。宮本君帰りをり岡本君も来り、話し池田駅まで送りてもらひて帰宅。新日本放送より歌曲の版権について契約書。その必要なしと返事かく。 6月25日 9:00へ登校、9:20歯科、弱虫だなと。消毒悪しかりしか腫れたり。土曜休みてはならずと。3時間すまし1-3月分25500もらひ、夜学欠講申し出で、昼食なしで出、(永井いつえ氏より坪井に会ひ注文来週受くとて礼状)。アベノ橋でice-cream食べ(50)、歩きて稲垣●友訪ねあて色々話す。(Heine12冊かもめで840)Heine1冊与へ雨の中を15:30出しも出がけに同窓会名簿置き忘る。寺田町の古本屋で『朝鮮歌謡選(30)』『万葉皇室歌人(30)』買ひて帰宅。塚本●子よりハガキ。成蹊吟社より7月19日(日)の案内と詠草print。 6月26日 雨、ゆく途中稲垣にゆけば名簿はあり、地図なし。昨日見し『切支丹宗門史』2冊でなければ売らずと。120にて買ひ、歯科へゆけば口あく練習せよと。西宮君と就職につき話せば小島の妹泣きしと。 昼食にシュークリーム食ひ、小野、長沖2先輩と話す。白浜行長沖先生には生徒より話ありしと。山中たづ子来り、ともに出て「かもめ」により『アテネの市民生活』とりよせたるにもはやすみしとて買はざるありと。 ナンバへゆき「黒ばら」訪ねしにまだ工事中。天牛隣にて喫茶、sandwich。別れてbusにて梅田新道。山本を訪ねジンフィズおごり借金かへしたり。杉山平一『ミラボー橋(100)』『切支丹(上)』など与へ別れてのち雲呑たべて帰宅。 けふ朝日放送より電話ある筈なりしと。28日(日)9:00京都駅前にて待合せ苔寺などへゆくと野崎groupより云ひ来りし。 6月27日 10:00秋岡歯科へゆく。事務の森君妊娠と。野崎君に京都の遠足ことわりて上洛。畠山家へゆき見れば移転せしらし。 吉野書房さがして歩き烏丸通に出て昼食してのちわかり、ゆけば高鳥、奥西兄弟あり。羽田に電話してのちほど研究所へゆくことを云ひ、折柄来し伊東追悼号の校正を見れば、保田、近代の詩人は伊東と蔵原と、我を除きたり。文学史的本音か。 15:00出て研究所。入りゆけば某氏の「歴代名画記」の話長くみなうんざりしゐる。小憩に出て藤枝にきけば今西夫人帰国と。我会ひにゆかんと云へば官吏の彼はゆきにくしと。今西いまだ在獄と。羽田と出てbeerのまし池内先生の本のことわり云ひ、三島一氏に便することを約して別れ、北白川の古本屋にて春夫『ふるさと(40)』、三浦周行『国史上の社会問題(40)』、赤松『結婚と恋愛の歴史(150)』、Loeb『スマトラの民族(2冊240)』『東印度の地理(80)』、本間久雄『婦人問題(80)』と買ひ、 薬師寺の母に会ひて詩集稿1ヶ月を約束して借り、百万遍まで歩きて帰る。 6月28日(日) 〒なし。昼食くひて小[阪]へゆき堀内に寄り『夜明け前のさよなら(80)』『加藤博士還暦記念論叢(350)』買ひ(ふしぎなことに茶出し菓子出し椅子出せし)、平山重子に寄りしに父母出、外へ出て夕まで帰らずと。出て道で逢ひjuiceのませれば話ありさうなりしが別れて松本。出て永和郵便局探しまはり見つかりしも不在。永和駅へ出て中西見れば引越しすましゐたり。腹立つ。ノート買ひ薬師寺の『受胎告知』写しはじむ。 6月29日 秋岡歯科へ9:20ゆき、すみて学校へ寄り史の在学証明呈出。道満生に明日佐々木節子(和田夫人)への贈物ことづけると云ひ、出れば庄野潤三に会ふ。祖国社へは10冊注文せし由。 帝塚山書店で春夫『霧社(20)』、辰雄『花あしび(20)』『南洋の植物(50)』買ひ、住高へゆきしに山本君授業中。Heine1冊この間の礼にと漢文の教師に托す。『李太白』手に入れしと。市電にて肥後橋。大同生命に井階房一訪ぬ。Dateなし。朝日に谷川訪ひ『古典全書』3冊出し由なればたのみ、rice-curryおごり(220)、朝日へゆき天野愛一よび出し、また、rice-curryおごり(240)、松村グラフ次長にとHeine托す。奥戸を訪ね、いまききし高坂の大朝経済部長新任伝へんとせしも留守。また古本屋にゆき佐々木君にと勇『恋愛名歌物語(100)』買ひ、高尾にて『明治天皇御集』と『昭憲皇太后御集』(20づつ)と買ひ、加藤先生の還暦論叢500なるを見る。Svarにゆき『珊瑚集(250)』そのまへ地図4枚(100)と、やきもき屋でのjuice代とあはせ1000以上使ひし。 帰れば国立図書館より『中国地誌 陝西省』来ゐしのみ。20:30になるも富士salary出ず、出ても一部との説ありしと。田中保隆へ『四季』返せと。 6月30日 登校の途、秋岡歯科による。もうほぼよろし。すみて学校より森岡宏子の実家へ電話し高垣の大阪転任を伝ふ。7月10日天理図書館へ修学旅行と掲示しあり。高校へゆき4日(土)学期末の会と。出席といふ。午ごろ田中長夫来り、原稿おく。15:00再来せよといひやり佐々木節子に電話すれば夫、和田氏出る。挨拶し道満洋子に吉井勇をわたし、午后2時間すまし(守本氏にきけば院長「田中あれで満足しゐるか」と問はれ「満足しゐる」と答へしと。白浜へは彼氏のみゆくと。高野山にも学生ゆくと。院長にはわが不参云ひしと)。田中とやきもきやでjuiceのみゐれば硲君来る。別れてまた近鉄喫茶室。戦争中、将校のだらしなかりしを咎む。夕、富士のsalaryとどく。 牧野徑太郎氏の詩集『拒絶』。片山純子より夫ドイツ留学に及第せしと。夜間入学の心得おしへよと。 7月1日 朝、池本にsalaryわたす。森田宏子より礼状。13:30出て近鉄depart階下で散髪。5階にゆき森潤三郎『鴎外森林太郎(50)』藤田元春『大東亜共栄圏地図帳(30)』買ひ教授会。三苫君病気とかで我、書記役にまはる。夏休みの計画さまざまなり。いやらし。 秋岡歯科に寄り、中学の西尾教頭と同車。鶴橋で下り俊徳道の永和郵便局長笹田繁造を訪ふ。長男学芸大2年と。全然記憶なし。帰れば『文芸日本』。けふ中野英夫へ返事出せし。7:00頃、松井和佐子枇杷一箱もち来り、呉れし由。 7月2日 朝、夏背広、松井夫人もち呉る。早速着て礼にゆき登校、昼の時間卒業写真写し12日~14日三井寺へ大伴氏親子とゆくgroupにさそはれ返答留保。(松井和佐子に電話で礼云ふ)。きのふ死にたしといひし小野和子さそひ住吉社まで連れ出してきけば、妾腹を父に責めしと。本妻腹の姉より外に血族なしと。夏御坊へゆくと云ふに小竹稔の消息しらべてくれとたのむ。苹果買ひて石浜先生を訪へば臥床。郁子君なれなれしくものいふ。出てナンバ。小杉に一寸会ひ「天牛」へゆき、「中山書房」へゆき『馬来編年史研究(50)』とジョイス『若き日の芸術家の肖像(60)』と買ひ、アベノ橋へ出、すし食ひて夜学。(小野十三郎、昼『大阪』を呉る。『Heine』返しに与へし)。 すみて欠伸しつつ帰宅。〒なし。 7月3日 また雨。朝、歯科にゆけばこみて午後来よと。長沖氏にきけば明日の高校の懇親会に出ると。西宮君、大伴氏監督の三井寺行を守本主事にいへば叱られしと。あとで学生ら我にききに来しゆゑ大伴氏より院長に云はせよと云ふ。 帰り生島訳『第二の性』買ひ来りよめばつまらぬ本なり。松本一彦より千川と増井の住所しらせ来る。小高根二郎より増山のこと。鈴木治氏に10日天理行をしらす。けふ帰途、生れてはじめてTelevi(※テレビ)を見しにnews映画やりゐし。 7月4日 雨。痔きのふより発病。15:00出て会社へゆき寮の扉の修繕たのみ出て小阪。堀内に『第二の性』売り(150)山口実に会ひてラムネのまされ、別れて上六。生玉まで歩く途にて『地学辞典』と福尾猛市郎『日本家族制度史』買ふ。PTAの会、下卑てつまらず。痔を申立て(院長にも云ひて高野山の断りすみし)て帰宅。けふ村上新太郎氏の『薔薇』へ詩「夏」を送る。 7月5日(日) また雨。山尾浩子より勤めの様子。笹田繁雄より中西と浜名の住所しらせ来る。15:00出てbusにて天満橋。梅田にて柳田国男『母の手毬歌(30)』。『陰名辞典』方々で見し。 7月6日 10:30京都。新京極角にて高群逸枝『母系制の研究(200)』見付けてうれし。彙文堂へ久しぶりにてゆけば主人留守。岩村・藤枝『蒙古研究文献目録(150)』、長沢『漢文学概説』『漢の武帝』買ひ、下総町にゆき祖母へ300おみやげにし、髭剃り、出て大学。 佐藤圭四郎講師と話し羽田待ちしも来ず(岩村氏に会ふ)。野田又男にゆけば帰宅。渡欧はまだしてをらず。研究所にゆき藤枝待つ間、平岡氏と話し、篠田博士に一寸会ひ、藤枝より『東洋学報』2冊分けてもらひ、篠田氏まつ間書庫へゆきしも『毛大将軍海上情形』見つからず。17:00篠田博士と話し、ぬき刷多くもらひ『陰名辞典』贈りて退出。京阪楼上でchicken-rice食べ、帰ればまだ日くれず。山本書店より書目。浪華芸文会より11日(土)15:00阪大での案内。 7月7日 登校、時間のあひまに歯科にゆけばまだ虫歯一ありとてはじまり、ちくちく痛む。雨降り出し山中田鶴子嬢に傘もって来てもらふ。19日9:00より助松へ海水浴と。石川喜久子送別会をことわりしと。15:00帰れば松本一彦より川崎民昌、小川俊郎の住所。 7月8日 秋岡歯科へゆく。学校へ寄りしところ、西保君よりすぐ来ると。10:30来り、壽岳博士へ礼として香水瓶。われにも呉る。ともに出てナンバ。不二屋でrice-curry食べ(興地先生の甥?に小出楠重氏未亡人より話ありと。●めしかどきかず)。別れて布施消防署。いろいろ話きき防火演習見て17:00。堀口に寄り、足利惇氏『ペルシアの旅』と須山『アジア民族の研究(30)』。帰れば依田義賢渡欧につき7月18日16:00りめやみ地蔵で送別会と。埜中清市より『くれなゐ』また出すゆゑ歌をと。けふ在原の勤先さがせば2、3年前につぶれしと。 7月9日 定期(560)買って登校、2年に図書館のこと教へ、1時間きり。就職希望2名の話きき、高校の試験答案とりて出、調達局に科野を訪ぬれば25年振りなるに「田中か」といふ。出て府庁にゆけば三橋退職。三好は布施府税務[署]長。大丸に木下義三訪ぬれば7月1日退職と。野上『朝鮮台湾海南諸港(120)』『蕪村(50)』、柴田武『文字と言葉(80)』買ひ、梅本吉之助呼出してice-creamおごり(100)、出雲屋でまむし食ふ中、吉田帰り来る。今高のPTAにゆきしと。出て服飾の子に会ひ4人にice-creamおごり(260)て帰校。夜学教へて帰る。 けふ大手前へゆきしも坪井出張。小野十三郎より『詩集大阪』につき読売にかけと。村上新太郎より礼状。山前実治より18日ぜひ来よと。 祖国1953.07 7月10日 9:00まへ学校へゆきbusにのりて天理図書館。見学の間鈴木氏の室に長沖氏と坐り、生駒氏と話しゐしのみ。すみてお玄関にゆき久しぶりに真柱に会ひ、お膳出され、本殿見学の連中を呼びにゆきciderのませてもらひ、薬師寺やめさせ18:00帰校。 秋岡歯科にゆき木下義三の家さがしあて、夫人に来意いひて帰宅。『祖国』伊東号来り、『東方学』6来り、堺刑務所長より来れと。 7月11日 秋岡歯科へゆく。すみて高校漢文の採点すまし、伊藤君と出て高野線、出雲屋でまむし奢り、近鉄案内所へゆきcoffeeおごられ19日の海水浴、29,30,31の志摩行約束して帰る。 伊東の忌明けに会ひし織田喜久子女史より手紙。中島夫人への「恋愛せよ」は宜しとなり。 7月12日(日) 朝、三井生命の社員2名来り、寮生の勧誘してゆく。午後ひるねせんとすれば山前実治君来り、Goethe(『ゲエテ詩集・新しい戀(訳詩)』※)120冊おきゆく。夕食くはし天満橋まで送り、パチンコやりdrop缶土産とし、chocolete1ケもちて坪井にゆく。 7月13日 秋岡歯科へゆき学校へゆかんとすれば、漢文の採点来ずと浜口大さはぎせしよし。すませて伊藤君より菓子もらひ、高野線にて難波。山口千恵子に会ひice-creamおごり別れて丸善。 山本理事長の2嬢に洋書(275+400)、東亜紡績へゆかんとし見つからず島本商事へゆきしに社長留守。南久太郎町とわかり白井に会ひ礼いひ『Heine』1冊わたし本町2丁目よりのりて帰宅。中野とし子生より遠足の礼。木下夕爾より『木靴』4。 7月14日 理事長宅へ中元もちゆき夫人に会ひ秋岡歯科。すみて学校へより三苫君よりbonus20日すぎときく。ナンバへ出、十合へゆき今川の子らに本660、sandwich食ひ今川へゆきマミ子へと香水わたし久美子と話して藤井寺。鹿熊猛に途で会ひ、後刻話さんといひ18:00まで待つ。中村治光家を150万円で売るとなり。猛君と話しすし食はされ駅まで送られて帰宅。 けふ帝塚山書店で川島元次郎『徳川初期の貿易家(100)』買ふ。江馬春夫より暑中見舞。原課長、明日8:00でに会社へ来よと。15:00で行けずと云ふ。 7月15日 朝、ねんとせしがねられず。西保君より和歌山文芸会26日と。安田章生より8月10日までに10枚ほどをと。13:00買物にゆく悠紀子に読売への『詩集大阪』評投函たのみ、15:00会社へゆき、竹村氏に会へば寮の運営につき相談せよと云はれしと。明日8:00来よと。 秋岡歯科へゆけば明日で終りと。すみて学院の宿直泉君に会ひにゆき傘借りて出、tennisの練習しゐし2生とアベノ橋でice-cream食ひて帰る。けふ洋服仕立代3000払ひしと。 7月16日 8:00会社へゆき12:00で杉浦、竹村、原3氏と会議。寮の出納みなわが管理となる。一旦帰りて3年生の最後の漢文やり、電話かけ来りし木下義三にゆく。満鉄にゐて帰り大丸につとめしも大損害与へてやめ独立するつもりと。けふ池田眞砂子よりreport郵送。 7月17日 9:30出て梅田。雨ときどき降る。フックス『風俗の歴史』買ふ。〒なし。原監督22日より月末まで帰郷と。けふ日給制など申し渡せば不平らし。 7月18日 15:00まへ出て会社。杉浦氏待つま、野崎に電話かければ明日の海水浴とりやめと。山荘も出て伊勢に先生行くことにしておいてくれと。竹村課長よりcoffeeのまされ炊事婦のbonus預り、富美子入院の見舞を約して京阪にて京都。四條めやみ地蔵へゆけば依田君をり、のちほど来ると云ひ薬師寺の母上訪ひて詩集返す。同居に池内宏とあり引揚の警官と。 めやみ地蔵へゆけば小高根二郎、大西卯一郎、天野大虹[※隆一]など日ごろ来ぬ連中みなあり。すし食ひ写真うつされ依田君に西島大(※弟のこと)きけば知りゐると。20:00まへ出て帰宅。 小野和子より「小竹稔、大阪に勤めゐる」と。佐々木(和田)節子より挨拶。けふまた紀州水害。白浜へは行けざる様子。(京都四條にてbus待つ間に津田左右吉『古事記日本書紀の研究(500)』。)(父来りしゆゑ、夏衣与へ伊勢行はなせし)。 7月19日(日) 8:00会社へゆきbonusもらふ。帰りてあけ見れば8000。その他にsalary7月より5800とすと。断らんと思ふ。午後西宮君にゆけば留守。帰り堀内に寄り『千恵子抄(40)』『木綿以前の事(100)』買ひ、松本にゆきて帰る。夜、西宮君来り、文芸のadressもち来り呉る。 7月20日 午前中ひるね。午後会社へゆけば専務、杉浦、竹村諸氏みな不在。西九條にゆき東亜鉄工所にゆき小竹稔に会ふ。御坊へその中帰ると。警察病院へゆき里村14:00頃帰りしと。富美子見舞ひ、小野和子訪へば既に白浜より帰りしと、安心。雨中を帰る。 7月21日 朝、電話杉浦氏よりあり10:00ゆくと答へゆきて城平叔父に会ひ昇給ことわれば予備費とすべしと。購入、支払、保管などみなやれと也。出て警察病院に里村訪へば欠勤。名刺托し富美子に会ひ、付添の斎藤嫗と話し、東桃谷の塘訪ひ中田歯科といふにて石原の転居先とひ、busにて天王寺。長居へゆき石原に会ふ。肺患きいてはなきや、2児の父。西へ歩き後藤田の家の前とほりPLの横へ出、busにて天王寺。帰宅15:30。 けふも〒なし。紀州の災害にてさはがし。けふ史の通知簿見れば解析Ⅰ15点、吾にはなかりしこと也。 7月22日 家居、朝、羽倉啓吉より暑中見舞。吉本青司『夏路』。午後西保君より26日の都合問合せ。宜しと返事す。 7月23日 家居、菊池淑より暑中見舞、退職と。内田敏子より書類。税務署より予定申告31日迄にと。『野村英夫詩集』。竹村氏来る。夕方草刈り。 7月24日 杉浦氏より電話「9:00会社へ来よ」と。ゆけば城平叔父より父に用あり連絡とれと。帰りて史、散髪さす。小野和子よりハガキ。中野トシ子より8月9日(日)遠足と。児玉敏子(L1)より暑中見舞。三苫氏よりbonus14,000。午後田中啓之より暑中見舞。史に2000もたし500与へて京都へゆかす。 7月25日 会社へゆけば父をり8月より手伝ひせよと云はれしと。7月分俸給表出し、200父に借りて散髪。家に帰りて父より大の家きく。28日より泊りに来てくれる由。17:00八木君来り、neck-tieと石鹸半dozenと呉る。夕食して中西へ案内す。経過宜しとなり。すみて生駒まで同車、服部を訪へば土地買立てを責められて不快。salary50,000と。けふ峯嬢より暑中見舞。栗生より家助かりしも田畑駄目と。 7月26日(日) 8:30家を出、天王寺9:30発の阪和にのる(けふ私鉄はst)。10:30和歌山着。出迎へなし。ce-coffeeのみ思案せしのち一先づ水軒口下車、西保家たずねゆけば27、28両日のつもりなりしと。 父母君と話し、昼食たまひてのち宮沢、堀2嬢を加へ、雑賀山にゆき新和歌へ出れば19:05。古本屋見、堀家へゆき母上に挨拶申上げ、夕食たまはり西保家へまたゆき泊めてもらふ。(星林高校の同級生玉川岳雄氏より詩集もらひし17才の作と)。 7月27日 よべ『文芸』堀辰雄追悼号をよみたり。堀さんも怒ることありしと。 9:00出て堀嬢の手配にてmoter-carにて和歌山市駅9:30の急行にのる。ナンバ着。近鉄案内所へゆけば野崎嬢、家へ速達せしと。別れて帰宅。 史、帰り留守しゆき子、京、依子で海水浴。昼寐すれば悠紀子ら帰り来る。夕方病人3名あり。医師来るも心配なし。 伊東花子夫人より創元社の全集につき問合。藤原幸子、明渡淑江、吉本恭子より暑中見舞。西保嬢よりいれちがひに27日来よとのハガキ来あり。けさ10:00朝鮮休戦成立。夜、栗生来り、有田川の水害につき話す。 7月28日 よべ不眠。7:00家を出、上六へゆけば:00前、誰もゐず、8:30鍛冶姉妹、野崎、山荘、和島、椿下と6人になり8:40の特急にのりこめば前の席に江馬春夫あり。名古屋へゆくと。[宇治]山田で我のみ降り、健の家へゆき治子に会ひ、順、恵子の甥姪はじめて見、菓子と衣類与へ連絡たのみ、宇治山田より鳥羽までbus。電車まつ間に親子丼平らげ賢島より船。鯨望荘に15:00着き入浴。夜、隣室さはがしくて寝られず。 7月29日 昼すぎ伊藤嬢来る。午后海女見にゆき泳ぐ。スマトラのmedanのpool以来11年目なり。この日、客われらのみ。夕方、宿田奈といふところまでdrive。 7月30日 8:10の浜島発にのるため早起、港までみな送ってくる。11:40宇治山田へ着。健、待ちをり、転任の件につき話きく。三重県より出れば恩給年限にもならずと。山本下駄店が治子の実家と。宇治山田銀座で『宇治山田』『波切』『鳥羽』と地図3枚買ひ、順にと絵本2冊与へ、赤福餅貰ひ、古本屋へ案内され『延喜式神祇4冊(550)』買ひ14:22山田発にて帰宅。暑し。 留守中、松永弘江より9日の遠足新薬師寺へ?9時上六へ集れと。西田敬一より新事務所を世話せよと。藤野一雄、伊東追悼号に感激と。八木嬢より礼状。杉本聿子より暑中見舞。読売新聞より小野『大阪』評2000(-300)。会社10000仮渡しとしてくれしのみ。 7月31日 水野雅子、山本敦子より暑中見舞。和歌山市詩人会の寄せ書。盛会にて14人あつまりしらし。昼寐し(悠紀子、税金930を1回目として納めにゆきし)16:00会社。salaryの残りもらひ(note1冊もらひ)原君にわたす。富美子退院と。赤福餅を甚幸に与ふ。帰れば午后の〒、山本敬子、森田宏子より暑中見舞。末吉より豊中市立第4中学へ転任の挨拶。 8月1日 9:00会社へゆき竹村氏と話し、10:00出て天満下車。市交通局病院に出雲礼子を見舞へば面会時間12-13、15-17時と。読売にゆき受取渡し、埜沢宏君と喫茶、『文芸汎論』に詩かきしと。 山本事務所にゆけば病欠と。電話してことわりてのち佐瀬と出て昼食、news映画を見、古本屋へゆき柳田『海南小記(80)』。別れて『薬師寺、唐招提寺(岩波写真文庫)』みやげにもちて出雲生にゆく。入浴中なりし。「漢字の音と訓」をreportに命じて出、氷西瓜たべ、保田『萬葉集の精神(100)』見付けて帰宅。 家長禎子、石川孝子の2生、徳永昭子氏、小山正孝氏より暑中見舞。夜、徳庵駅付近より出火、2時間燃ゆ。あとできけば黒田製薬の空地買ひし田辺化学なりし。 8月2日(日) よべ12軒もえしと新聞にあり。花井、井上恵子(L1)、則武、佐々木(L2)の諸生より暑中見舞。西宮君、中元におこしもち来り、昼食し羊羹もちゆく。小島憲之氏の論文のりし市大の『人文研究』2冊もち呉れし。 8月3日 10:00出て会社。父をり城平叔父より東京行と。会ひて5万円ほど借りたしと云へど埒明かず。竹村氏に薬品代730わたし、出て片町までバス。坪井にゆきて茶のみ、ナンバにゆき荒木利夫訪へば欠勤と。黒バラへゆけば川端康成命名で「面影」といふ喫茶店になりをる。近鉄案内所にゆけば野崎、石川の送別会の打合せまだ出来ず、多分7日にならんと。上六まで歩き、途中柳田『妹の力(120)』、上六天地書房で柳田『新図学談2冊(100)』。近鉄鶴橋まで出て帰宅。宮沢、西保、内田の諸生よりハガキ。『伊東静雄詩集』出来。 8月4日 10:30学校へゆく。『プシケ』の伊東追悼号3冊、関大より2冊+xとして12900もらひ平山、吉原に会ひ教員免状預り、ナンバにゆき山中たづ子に会って渡す。石川喜久子の送別会10日?別れて肥後橋。石原産業にゆき渡辺、松井2生に免状わたしjuiceのませて出、『陰名辞典(450)』買ひ直し5000預けて帰る。堀姉妹へのハガキ帰り来る。実生、鶴身、藤原加代、西本、松下、杉田諸嬢より暑中見舞。保田より漢文教科書につき手助けせよと。 名ばかりの新婚旅行にゆくといふ妹の鞄ゑらびゐしはや。 8月5日 起きがけ原君来り、9日(日)に大掃除せよと。やがて竹村氏より電話かかり同じことを。夕まへ草刈り入浴。夕食すまして小阪。堀内にゆき『日本の言葉』『日本中世史』『日本庭園発達史』(150)。 けふ暑中見舞。●田雅子(L1)、岩崎昭弥、田代充雄、百済●子(L2)、島本貞三郎、辻芙美子(L1)、佐瀬和子(L2)、瀧脇清子(食1)。末吉栄三よりその中自転車で来ると。 8月6日 会社へゆき寮へ5万円の借入に判おしてもらひしのち12:00すぎまで待ちて竹村氏を布施消防署へ砂糖5斤×3をもちてゆく。(徳●へ1500屎尿汲取代)。この間の火事の弁解気の毒なりし。別れて上六へ岩波写真文庫『薬師寺、唐招提寺』買ひにゆき天地書房で肥後『日本古代史(40)』。帰れば留守中、賄の後任来しと(けさ藤田結婚の為4、5日中にやめさせて呉れと申し出し)。暑中見舞、藤原由子(L1)と●本●子より。 8月7日 城東消防署の上田氏、辻といふをつれ来る(富山県人43才)。会社へゆき医師につれゆき洋傘おき忘れ、梅田。坂秀へゆきて聞けばアエバ君まだここに住まふと。山本にゆき逢ひしも佐々木裁判長の黙祷事件につき話せしのみ。『蒙古土産(50)』買ひ和島弁護士にゆき、B子ちゃん出しあとと。父君に話しゐる中、熊野判事来合はす。出て東京銀行にゆき奥戸と話し、そば食はされ古本屋見て別れ、津田『日本上代史の研究(280)』、梅原『朝鮮古代の墓制(150)』を高尾にて買ひて市電にて京橋、帰宅。野崎そのより10日17:30より石川喜久子の送別会をすと。浜谷照子より教室での我の写真。撫養育子(服1)、平山重子より暑中見舞。 8月8日 辻9:30来るを見、短大へつきしは11:30。本荘健男に電話すれば東京出張と。8月分salaryもらひ29日13:00ナンバに集っての高野山行承知して荒木利夫に電話し13:00勤先にゆき誘ひ出して昼食rice curry。彼はbeerのむ。けふ依田義賢日本を出ると。中共貿易に専心すると。「面影」へつれゆきてcoffeeのませ、別れて十合の古本屋へゆけば西保嬢きのふ来しと。春夫『熊野路(90)』。 大丸へゆき本名和子母子に会ひ、古本屋にて『豆の葉と太陽』『雪国の春』『海南小記』(あとにて家にあること判明)、原『東山時代の一縉紳』にて310。『犯言記 上下(200)』買ひして全田叔母に遇ひ、茶のませ片山良展の悪口ききて帰宅。深沢生よりその中来ると。赤穣生より暑中見舞。けふは立秋。 8月9日(日) 8:30までに上六へゆきしも、ややして早雲来りしのみにて9:30まで待たされ、12人にて乗車。西ノ京下車、薬師寺、唐招提寺を見学。昼食後、別れて奈良に8人と出て、春日奥山をめぐり(※リンク写真あり)ice creamを鴬陵で与へ奈良駅で別れ、野崎家へ立寄り安田章生にゆけば留守。夫人に『堀辰雄追悼』渡せずとことわり、汗ふきふき帰宅。 けふ寮大掃除中、高野敏子お中元もちて来りし由。暑中見舞、西宮、中馬、開順子(?)、織田ユリ(L2)、富永治子(服2)。 8月10日 暑中見舞、八木(L2)、小野(L2)、西岡(L2)、安部(L2)、山本(L1)。伊東未亡人より同。 14:00すぎ服部夫人来訪。藤田美津子にsalaryわたし餃子つくりて食はさる。会社へゆき杉浦氏に報告。 17:30本町二丁目の出雲屋にゆく。長沖氏も来られ東、伊藤、内田、岡、鍛冶姉妹、菊池、岸、北野、後藤田、斎藤、相良、立川、中島、寺本、野崎、疋田、平山、藤野、堀、前川、松井、宮沢、山荘、山中、山尾、和島、渡辺と石川[喜久子]の送別会として中々の盛会なり。20:00まへすみて石川、後藤田、岡、疋田の4人とice cream。Ohioのcolombus市の近くの大学へと13日出発の由。 8月11日 朝、9:30硲君、中元もちて来訪。昼食くひてもらふ。夫人分娩の為京都へ帰らると。馬路、小島2生より暑中見舞。小林君子の父、仁太郎氏より中元にwhite shirt。 8月12日 晴つづき朝の中、咲耶と母と来る。父もしばらくして来り昼食に冷しうどん食ひ、母らは宝図寺へゆく。藤原(L2)、西保、沢樹、中井、遠山、阿部純枝(?)、斎藤堅太郎氏より暑中見舞。 8月13日 晴。けふも家居。堀内民一より日本歌人の会の案内。斎藤かづ枝、成尾、山城諸生より暑中見舞。夜、将棋さす。 8月14日 9:00すぎ会社へゆき、辻賄人の日給170如何にとの伺書かき、父に3000与へ、立替の電気代もらひ天満橋より桜橋に出、高尾にて有高『元代の婚姻(90)』『淮南子(120)』買ひ、ヨシカズ書店にて『朝鮮開化史(100)』。リーチで『食物と心臓(90)』買ひして山本事務所にゆけば来ず。rice curry食ひ『宝塚』『西宮』と地図2枚買ひてnews映画見、雨にあひ嘔吐に会ひして帰宅。 けふ阪神departて革belt(70)、安全剃刀(70)、同刃(70)買ひせし。中野とし子よりうれしかったと。山尾治子よりも同。花井裕、津熊照子よりは暑中見舞。図書新聞より『伊東静雄詩集』について書くや否速達にて問合せ。 ひだちのくにいしをかまちへとゆきし子やわがいひしことのろひとやきく。 この子はもしあはせに生きよそびとを愛するすべを知るとやきほふ。 8月15日 家居。新潮社より『堀辰雄全集』編集につき書翰の問合せ。しらべしにハガキ3枚のみ。西保嬢信州より。夜、大雨警報出づ。きのふ山城南部水害。 8月16日(日) きのふの水害にて沢樹澄子の中和束村被害らしく、11:00出て先づ坪井にゆけば盆にて帰郷と。 関口、東京の業務学校長の栄転の由。新聞にて見しを伝へ、梅田にゆき阪急にて地図買へば沢樹のところは徒歩にてはゆけるところではなきこと判明。関口を訪ねることとし、新伊丹で下車すれば不明。公衆電話すれば夫人迎へにお越しと。稲野まで引返せば駅前に夫人と末女とあり。家はすぐ近くにて西瓜(240)土産とし神戸へ映画見にゆきし関口の帰るを16:30まで待ち、官舎なく単身赴任ときき、近々坪井にクラス会開かすこととして、18:00退去。 柳田『秋風帖(50)』svarで買ひて帰宅。夜、熊本工高の教師よび西瓜くはす。けふ二部の欠課生らに通告5枚。地理調査所『上野』『笠置山』購入。佐々木●子講師より暑中見舞。西保恵以子小諸より白樺の手紙。堀さんのハガキ3枚のみありと新潮社へ。雲井預けの原稿とりかへせ、田中保隆にゆき『四季』のこと訊ねてくれと大(※弟)へ。 8月17日 新聞見しに中和束村の全滅家族として沢本國之助といふあり。出て会社へゆけば田辺化学移転をはじめしとて城平叔父怒る。坪井に電話して13:00すぎゆきしに、電話かけしもかからざりしと。朝日に電話せしむれば高垣来週まで九州出張と。今中11期の丸井貞男氏と校長会の打合せする坪井と別れ、思ひついて梅本にゆき、Münchenあたりでいかにと云はれ、十合でice creamおごられ山田鷹夫にゆきしも不在。置手紙してMünchenにゆけば三階宴会場と。野崎嬢に会ひ沢樹君のこと云へば大毎にききくれしも不明。天牛にて柳田国男『山の人生(80)』買ひ鶴橋をへて帰宅。 けふ森桃子、高橋玉諟より残暑見舞。渡清孝より23日片山良展の送別会す。ただし本人の出欠不明と。ことわりの返事出す。 8月18日 9:00出て関口へ速達出し、阪神へゆき大河原に明日の出席約せしめ、横山に電話させ、山本事務所にゆき生島、坪井、梅本、後藤に出席約せしめ、藤田、白井、俣野、山田、山本には伝言たのみ、奥戸に寄り文甲、今度は除外するとことわり、高尾で栗山周一『日本闕史時代の研究(230)』買ひ『伴信友全集5冊(350)』、津田『神代史の研究(300)』買ひたしと思ひてrice curry食ひ、京橋まで来て気がつき鶴橋をへて戎橋。 Münchenに室約し(服部に速達)、米沢幸子の母に会へば十中八九沢樹一家全滅はたしかと。小阪に姉夫婦をり見にゆきしと。野崎にしらして帰宅。 図書新聞より『伊東詩集』の評24日までに600字と。稲田郵便局長より電報電話につき不満を云へと。『薔薇』14号、「夏」をのす。 8月19日 郵便多く来る。先づ『薔薇』の村上新太郎氏より謝礼500円。田中長夫よりgroupを作りその資金かせぐつもり故、出版急げと。山中タヅ子より母帰り遊びに来よと云ふと!八木嬢より明子妹8日茨城県に嫁ぎし、図書館20日より開くと。大より大田区山王1の2600岩谷方に転居せしと。安田章生より25、26日までに原稿をと速達。残暑見舞、野村朝子(L1)、上田阿津(L1)子、佐藤和子(L1)、大菊佳代(L2)。 18:00出て天牛見て有朋堂文庫『大岡政談』見つけきけば1500が相場なれど600と。Ludwig『イエスの生活2冊(60)』買ひMünchenにゆけば関口、坪井、山田、俣野すでに在り。後藤、山本、梅本と8人にて3840飲み(6900)、山田に2次会とて肥後橋につれゆかれ、別れて山本、後藤と曽根崎の待合、山田に900返却。帰宅23:50。 けふ「雄略天皇のこと――記紀研究序説」書きはじめ、夜、大阪駅に硲君に会ひし。 8月20日 9:00会社へゆき欠食表作り、城平叔父と話せず。11:00出て散髪。34.5℃と、暑き中を帰り山口千栄子のハガキ、岩崎昭弥の30日(日)来ると云ふを見る。午后、電話かかり欠食表だめと。『東洋史研究』成蹊吟社次回は9月9日(水)と。 8月21日 8:00家を出、天理着10:00。時報社滝井氏に会ひて『新村出選集4』たのみ、もって来て貰ふ。図書館にゆけば11:30。富永氏に一寸会ひ『書紀集解』借り出し研究所にて山崎、佐藤誠、中村孝志の抜刷もらひ、昼食して『集解』よみゐれば八木嬢より電話、来よと。大浜に電話し会って18:00ゆくを約し八木家へ祝300もちゆけばお返し30円とタバコ5ケ。すみて大浜君にゆきbeerのまされ夕食たまはり23:00帰宅。 玉川君より自転車預りありと電話と。村田幸三郎より玉村式索道KK取締役営業部長となり東京へ赴任すると。早雲洋子より遠足の写真。山尾浩子より体良しと。松本善海より近況。家本実枝子より遠足の礼状。渡敦子より片山も出席につき日曜来よと。けふ13:00服部来り、速達外出後つきしと。 8月22日 9:00出て会社へゆき自転車の話きき城平叔父に話して辻の日給170にしてもらひ、食費表書き改めを承認し、10:40のbusにて大手前。府庁にゆき後藤田に会ひice creamおごって貰ひ、水川氏にまた田村doctorにつれて行けと云はれ、江商にゆけば村田幸三郎14:00まで他出と。大毎にゆけば富士正晴きのふ退職と。天野愛一木曜まで賜暇と。 高尾で『神代史(300)』買ひ『伴信友全集5冊(750)』買ひのがし、山本事務所にゆき佐瀬君に原稿用紙かはせて600字『伊東静雄詩集』批評をかき、本屋で図書新聞社の所ききて速達す。 けふも暑し。村田に電話すれば明後日赴任と。西野は不都合により解任となりしと。この次帰阪の節、送別会すると約してすまし(坪井に電話すれば24日16:00に大手前高校へ来よ、泊りがけのつもりせよと)。松永弘江よりこの間欠席のわび。小野和子20日まで六甲山上にゐしと。宮口(L1)の残暑見舞。 8月23日(日) 杉本聿子(食1)よりハガキ。午後冬over買ひにゆき子弓子と十合へ。先づ大丸でwhite shirt寸法とり(5日出来と)、十合へゆきしもよからず、ice cream食はせて古本屋。鴎外『涓滴(80)』『パプア(100)』『青白赤(100)』、春夫『薔薇と真珠(70)』『Rubens(20)』『宗達(40)』『湖国を行く(30)』と買ひ、学校へと『矢野峯人訳詩』と『方言手帖』注文して帰る。寮の自転車修繕(500)。(十合製本屋粗雑とのことにて行はず)。 8月24日 安田章生へ「堀辰雄追悼」10枚送る。東洋史研究会へ200円。峰明子より澤樹澄子に見舞出せしに全家行方不明で返り来しと。芳野清より久しぶりのハガキ。堀辰雄のこと。15:00出て大手前へゆき16:00来し関口と京都。畠山氏の新居(下京区西七条市[部]町5 電下3932)へゆく。祇園菊乃井にのみやの女将、弁、小袖、豊千代、小照など来り、21:30まで飲みて京橋23:25にのりて帰宅。 8月25日 けふ眠し。沢樹のこと本多、米沢の2人より絶望と。守本主事より30日の帰り午ごろに早くなりしと。藤井勝子(2L3)より残暑見舞。西保君信貴山より。三木正浩君より●先生昨年死なれしと。夕方雷雨。停電。 19:00出て梅田。『須磨』『神戸首都』『神戸南部』買ひ、氷食べて時間つぶし20:30platformにゆけば関口、坪井すでにあり、保安隊の見送り盛。島本も来る。21:00送り出して坪井とjuiceのみて別る。失ひし扇子学校にありと。 8月26日 9:00会社へゆき城平叔父に8月分給料支払の印おしてもらひ7月分寮会計41,000不足の報告をし、高野山行の届をす。近鉄departで松田道雄『結核をなくすために』買ひ、横山青蛾『日本女性歌人史2冊(70)』買ひ、大江へゆき昼食す。関目の叔母も来会す。14:30出てbusにて羽曳野病院、橋本須美子は個人病室にあり。松田道雄与へ15:30のbusにて藤井寺へ帰りアベノ橋で靴直し(170)、内田『近世の日本(65)』を天海堂で買ひ、氷西瓜食ひ寺本の家さがせしも見付からず帰宅。安田章生より稿料1,000。 8月27日 山中タヅ子より31日沢樹嬢の姉を訪はんと。1日にてはいかにと返事す。田中長夫より原稿今しばらく預れと。奥村宏子より10日の会に案内なかりしと。若野洲(L2)より残暑見舞。午后会社へゆけばsalaryけふは出せずと。父のsalary10,000と。城平叔父に明日よりの高野山行ことわり、原君にもたのむ。 8月28日 〒なし。安部に3000内渡しし12:00前家を出て近鉄案内所へゆき野崎に会ひ、山中に電話かければ1日13:00上六洋裁へと。高島屋へゆき『仰臥漫録(50)』買ひ13:00ゆけば守本主事あり。coffeeのみにゆきて13:20特急にのる。同車に東本願寺法主ありたりと。仏教会議と西本願寺もあり。成福院にも長井真琴博士、中山太一氏あり別室に泊めらる。 8月29日 終日会議。長沖氏17:00帰阪。「高野山」ゑはがきなど買ふ。11:00まで会議。文芸英文の研究科出来ることとなる。 8月30日(日) よべ眠れず。碁、院長に7目にて負けしまま打かけ。安田、三木、八木三氏へ山上より送信。10:53にのり12:43ナンバ着。高島屋特別食堂にてlunchとりて解散。斎藤はるみより来るかと待ちしと。相楽郡高山村の福仲種太郎氏よりコルボオなど詩誌の問合せ来あり。会社salary出せざりしと。けふ戎橋筋にてalbum投売に会ひ200で買ふ。 8月31日 会社へゆきしもsalary出ずと。立替として6,000のみ貰ひ帰宅。早昼食べて出、天満橋で松岡静雄『ミクロネシア民族誌(160)』買ひ(梅田で『Lectures françaises Ⅰ』)て帰宅。17:00八木嬢来り、けふ病院で咳止め3回分1度にのみ中毒して大騒ぎとなりしと。夜、泊れといひ泊らしむ。自治会より呼びに来り、大塚、衣川、久万にて懇談と。大掃除1,300出せと。 9月1日 11:00会社へゆく。浅沼のつけありしと。雨漏りに腐りし柱の見分を厳重に談じ込む。13:00上六洋裁にゆけば山中君門前に待ちをり、藤野君も来るとのことにtoast食べ乍ら待てば来り、juiceおごりてのち中小阪松花町の沢樹君の姉、古沢夫人に会ふ。 毛馬に上りし屍骸そのままの顔なりしと。父君雨中に懐中電灯を2回つけしが最後なりしと。一家の屍骸みな見付かりしはての家のみと。 出て小阪駅前で別れ堀内にて『実用ブラジル語(60)』『国文事典(60)』『若き女性の心裡(70)』150にまけてくれ、川添和子に案内しくれしも不在。大浜より「書紀の述作Ⅱ」の抜刷速達。清水高範『冬の旅へ』。藤野和子の上高地よりの絵ハガキ。丹羽千年。山本治雄より5日(土)長男の誕生祝に来よと。末吉栄三より関大一高の教へ子の転校(公立へ)たのむと速達。 9月2日 八木嬢無事帰宅せしと。西保嬢よりハガキ。依子の計算では蔵書2,260冊と。 9月3日 川添和子より4日19:00頃来ると。林富士馬よりなつかしと。折口信夫博士死なる、66才と。 9月4日 堀夫人よりお香奠返しに『かげろふ日記拾遺』。15:00会社へゆきsalaryもらふ。竹村課長勝手に買ふもの薪炭。けふ大工さん柱、屋根を修繕に来る。17:30川添嬢来り、羊羹たまふ。夕食さして帰す。 9月5日 8:00会社へゆき7万円寮への赤字埋め願ひかき、先月預りの清算せしのち退出せんとせしに、城平叔父来り、7万円は庶務課長呼べと。大掃除の薬代のこと云へば自治会呼べと。大塚夜勤とて衣川呼べば怖がりしも会はせ「会社倒れかかりしこと数度故云々」。13日(日)10:00に寮で懇談会すと。 バスにて大手前。府庁へゆき後藤田府会議員に会へば昨日西宮君来り、7名就職引受けしと。水川委員にも会ひてのち心鬱して出、山本事務所にゆき佐瀬君に会ひ誕生祝の羊羹もちゆき貰ひ天満。山本にゆけば夫人の機嫌直りゐる。北区長藤本氏、山本と中学同級とて来り、22:30出て吹田書房に寄り『神武天皇(140)』『日本古代社会(60)』買ふ。 川添和子より礼状。また襖張りに8、9日来るやう頼みしと。中野とし子より「このみちを」の歌よみしと。西保嬢よりハガキ。 9月6日(日) 岩崎直退社の挨拶に来る。田中長夫、出版社見つかりし故原稿返せと。林佑治来り、警備隊の話をしてゆく。山口年男空手クラブを作ると許可を得に来る。 9月7日 会社へゆき7万円借用願かき直して学校。沢樹の葬式10日、15-16:00と。式に出てのち山中嬢に電話かけ、西宮君に原稿きらせ100円づつ集めることとし、近鉄案内所へゆけば野崎君欠勤、別れて上野芝へゆき高野敏子のこと斎藤堅太郎先生にたのみ、はるみ君に送らせて田村、家の中全く改悪されをり、沢田四郎作博士のprint4種もらひ水川氏のことたのみて出る。(けふ鴎外全集28巻受取)。図書新聞「伊東静雄詩集評」来をり。(片山清の弟に呼ばる)。 9月8日 久しぶりの授業に疲る。帰らんとせしに本多来るとて待ちゐれば西成署の刑事来り、岩本20万ほどの物もちて家出せしと。則武、額田、八木、鈴木のgroup呼びて訊問させしも知らずと答ふ。本多、米沢(藤田夫人)来りしも何もせず、とて呆れる。帰りて早寐。(川添嬢の紹介にてふすま屋来り、5枚はづしてもちゆく。佐々木君の絵もたのむ)。 9月9日 郵便「Poets' School」のみ。12:30夕食すまして出、十合古書部へゆきしに泉君をらず。請求書くるるやうにと云ひおき、佐渡島金屋へゆき15:00なるに驚き登校。硲君『三国史記』もち来て呉る。8月31日女子生れしと。 教授会まへ守本氏にきけば岩本の居所わかりしと。教授会にて研究科の件、来週火曜に長沖、西宮二氏と相談することとなる。帰り白井三郎へゆき冬over coatの生地たのむ。長男来春高校と。 9月10日 登校、12:30すますまでに研究科の説明、旅行のことなど話す。安村嬢より電話13:45天王寺で待合すこととし、来りし田中長夫に原稿返し、13:00すぎ『鴎外全集』「かもめ」で受取りて天王寺。近鉄departで散髪し、安村、塚本と会ひて小阪。梅垣、西宮二氏待ち居られ、山中、米沢、本多あり。やがて斎藤、平山来り、在学生代表も写真もちて来る。堀内に鞄預けて(※澄子の葬儀)会場へゆけば古沢陽子嬢の葬式なりしに不快。守本氏来り、東、伊藤、鍛冶姉妹、峯、立川、寺本、野崎、藤野、山口、吉原、和島と同classの参会19人。寺本をのぞく18人と氷のみてのち帰宅。 夕食くひてすぐ出、夜学早めにやり、すませて半田祐子の家庭訪問。院長の意向伝へて帰る。堀亘より会葬出来ずと速達。西保恵以子より13日奈良へゆかぬかと。自彊会会報来る。『文芸春秋』10月号。 9月11日 登校、授業。岩本生帰宅せしと。山本幸子、●●●へ音楽慰問にゆきしと。筒井今高教諭へ同窓の住所。早く帰り関口の挨拶状見る。日曜城平叔父10:00に来ると。 9月12日 会社へゆき書類出し、3000預り、薬代と図書費と貰ひて梅田。山本事務所へゆけば佐瀬君我に伊東静雄の講演たのむとハガキ出せしと。上田女史来合せLungeなりと。夜、雨。衣川呼びて金わたす。 9月13日(日) 10:00前、城平叔父来り、懇談会。菓子自治会にても買ふ。賄の制度考へよ。欠食払戻をやめよとなり。すみて13:00より大塚、衣川、久万の3人と懇談。結論出ず。けふ佐瀬君のハガキ着き、10月20日(火)18:00市立労働会館にてと。 9月14日 家居。けふにて浅沼氏の副食検すむ。中朋子より20世紀一箱、Heine1冊送る。 9月15日 雨、傘もちて登校、三菱商事より人求むとて井上斌子に電話せしにすでに勤めゐると。岩本生の父来り、この間心配かけしと挨拶。半田生呼び院長に会はしめれば、4000で夜間の図書係とすと。うれし。島本ら呼びて研究科につき座談しゐれば長沖氏来られ、西宮君と3人にて話せしも希望者もなく、予定立たず。 富士正晴と朝日の学芸記者来り、庄野潤三東京へ転任と。氷小豆おごり(けふsalaryもらひし)、帰らんとせしに傘なし。出がけ小野和子見つけ、呼びて同行、なぜ研究科志望せざるやきき、大鉄喫茶室でjuiceのませて別れ、藤井寺。叔母に寮のこと相談し(東京のすみ子来をり)、駅まで送られて今川。叔父帰らず、久美子に送られて乗車。『白珠』10月号。西保恵以子唐招提寺より。 9月16日 会社へゆき城平叔父に云ひ、今後買入はみな一応わが手を経ることとす。竹村不服相なりしも承知せざるを得ざりし。昼食を労務部でし、今川部長の話きく。近鉄departアベノ店で『広島』買ひ、コフマン『世界人類史物語 下』買ひて登校。壽岳博士に岩橋文雄のこときき、井上斌子より三菱物産へかはれずときき(電話)、白井三郎より冬over地見に来よとの電話きき、明日14:00ゆくと返事し教授会。研究科見送りときまる。 『天地人』より10月20日までに随筆5枚をと。『祖国』10月号。 9月17日 登校、大菊、島本2生、研究科出来たら云々と云ひ、長沖先生の付添ではゆかぬ云々と云ふ、叱る。19:00出て白井にゆき垣内へゆき冬over地2.5mで2,800×2.5=7,000払ふ。東京銀行の次長も同行。すみて松本一秀に会ひにゆきしに会議中と。梅本に会へば夫人の友の子、学院の中等部にたのむと。白井に明日同行といふことになる。大丸にて『支那雑記(100)』、信綱『山上憶良(10)』。 吉田いづもやで夕食。近鉄案内所で野崎に会ひ、山中タヅ子今しがた去りしときき、帰校後山中に就職のこと云へば考慮せんと。 夜学漢文の試験をし、中野とし子の“love letter”もらひ、山中父より諾との返事ききて帰宅。 『天地人』5。中●作夫人(明子母)より梨送ったと。(天牛南店で鍋井克之『寧楽雅帖(80)』)。(この間の奈良旅行の礼にと島田、家本らpeace10ケ呉る)。 9月18日 登校、山中タヅ子父子来り、喜びて面会にゆきしと。14:00出て十合へゆき古本部泉君に請求書かかせ、桑田『豊臣秀吉(70)』買ひ、梅本と東亜紡績。夫人のsuits地買ひにゆくと国際物産へ付合はされ退屈せしのち地下鉄にてアベノをへて帰宅。池之[父]より礼状。(『鴎外全集』28回)。 9月19日 森良雄へ手紙。高橋玉諟君より本庄教授頌寿記念会へと高垣金三郎より2000来しが受取るべきや否やと。中朋子よりHeine受取しと。河口生よりreport受取りしやと。 9月20日(日) 午前中、自治会。すみし頃ゆき見れば原課長も出席しゐたり。夜の連絡会約し、佐瀬君より伊東静雄を語る会10日(土)18:00市立文化会館にてはいかがとのハガキ見、午後小阪。堀内に寄り『香港』と岩橋『日本舞踊史』とにて30。松本へゆけば夫人病臥。吉川部長に就職たのむは如何にと問へば気の毒と。条件は家庭と容貌と。中西にゆき引留められて22:00まで話きく。神の使者と批判されしと。野田又男、渡独中Jaspers(※ヤスパース)に会ひしを書きゐると(朝日)。 9月21日 〒なし。夜間3年の漢文採点。夜、連絡会。 9月22日 登校。沢樹嬢の姉、古沢夫人より礼状。吉村一夫氏が洋傘をかへられし由。15:00吉川嬢呼び、父君に就職のことで斡旋たのむ(松本より電話にて受付は25日までと)。出て梅田。万字屋にて『松浦宮物語(30)』。京橋をへて上洛。祖国社泊り。 肝臓を病めりとをとめ秋の夜を。 9月23日 9:00出て雨中、傘買ひ(150)朝食。生駒に出て服部。16時間にて夜学3日と。何処もよきことなし。昼食くひ、雨やみしゆゑ、傘置きてともに上六。天地書房にて『天平彫刻の典型(20)』『シラー詩抄(40)』『支那人(40)』。帰れば桑原氏より『コギト』送り返さる。 9月24日 雨、10分遅刻してゆく。吉川嬢より父君、明日17:00本社で会ふと云はるる由。高野敏子、斎藤堅太郎氏に会へば中々むつかしきも尽力せんと。昼すぎ出て淀屋橋。日生へゆき松本に明日来るをいふ。藤原が叔父検事長より社長に依頼する旨云へば却って駄目ならんと。富士銀行高橋君に会へば短大出はとらずと。横山の三菱商事わからず山本事務所にゆき佐瀬に会へば、共産党某幹部獄中の愛読書なりしとふわが『李太白』借り来りをり。横山に電話し宜しくたのみ、山本宅へゆき夫人に12月25日?の夫人忌の山本のこと云ひて出、駅前にて『海南島志(50)』『女性服装史(70)』『おもひだすまま(30)』『南欧游記(40)』と買ひて乗車。鶴橋にて天丼くひ、学校へゆき村田、山本の漢文追試(60点)、望月にreport命じて帰宅。上町線にて浪速大佐中牡教授と会ひ京橋まで同車して帰る。 9月25日 暴風警報。11:00天王寺へゆけば学生たち「もうをらず」と云ふも、ゆきて長沖、守本2氏と話す中、雨風ひどくなる。日生の吉川氏より電話、けふの会談延ばすとなり。電車もとまり出られず、18:00までゐて天王寺までbus。省線停電とて天満橋まで市電。徳庵行のbusにのりて帰宅。雨漏りし(北風のため)、寮塀倒れガラス破る。山中タヅ子よりハガキ。西保恵以子より十月第一日曜来たしと。山[前]実治より依田義賢歓迎会28日19:00木屋町「れんこん」にてと。 9月26日 会社へ米、麦の注文にゆき、風害報告をし、日本生命にゆき松本に会へば1名とると。学校に電話せしも捗らず、ゆきて島本、藤原、照崎、中川禎子の4人に身元調査書を書かせ、松本へ添書かき、(清水美紀の父、取締役と判明)、大津任といふ詩人のハガキ受取り、天丼くひて「北極星」へ山本治雄に会ひにゆきしに不在。近鉄案内所へゆけば野崎不在。「おもかげ」へゆきてcoffee。(天牛で『近代の恋愛観(10)』『薄田泣菫集(20)』) 鶴橋より京橋、安村にゆき佐恵嬢にきけば父君一昨日帰京と。手紙かきゐる中、阿倍野支店長青山氏の嬢一枝君英文1年と。安心して帰る(28日の式に我を呼ぶとなり)。図書新聞より600円(700税1.05)。沢樹嬢の姉、古沢夫人より忌明けにと風呂敷。 9月27日(日) 家居。夜、連絡会。事なし。 9月28日 風害見舞、小野和子、和田節子、西保恵以子より。岩崎昭弥より10月10日結婚式に出てくれぬかと。保田、高鳥出る由。 西保嬢へ4日より3日に来よと。古沢道子氏へ礼状。斎藤堅太郎氏へ礼状。 12:00家を出、富士銀行アベノ橋支店長青山氏に会へば自信なきも努力せんと。交叉点綿野書店にて『考古学入門(30)』『西洋文化と日本(40)』。学校へゆきて2年の漢文の問題切り、教授会。 18:00すみて省線にて京都。busにて木屋町「れんこんや」にゆけば、荒木、山前、井上、佐々木4氏あり。依田義賢20:30来りてarabiaの沙漠の美しかりしを話す。『骨』を出すこととなり、22:00出て帰宅24:00。 9月29日 登校、漢文試験すみて高校。だるし。安村妹と青山一枝とにシェリー与へ安村佐恵に伝言たのむ。14:30来し山中タヅ子、三菱商事に就職きまりしと。ともに出て大丸。青龍展に佐々木君たづね土日曜来泊ときき図録もらひ『隨縁小記(40)』買ひ『ジャム』買はせ、十合へゆき大江叔母訪ねしも会へず。戎橋まで下り、米沢宅へゆく山中と別れて荒木に会ひ「おもかげ」にて喫茶。[青木]陽生より風害見舞。山田より改姓の挨拶。 9月30日 朝、雨。午くもり。藤枝よりカバヤキャラメルの10,000送ると(※カバヤ文庫執筆原稿料)。 小高根二郎より詩集出したと(※『郷愁』)。西阪修より行動展の案内。八木嬢より風の見舞。北村ウメノ氏より10月切りにて大江やめたしと。午後、麦の収入とちがひありとて(400k←300k)会社へゆきしも竹村氏ゐず。父、明日より参宮と。出てbusにのり天満橋。pocket booksのスペイン語と世界地図買ひ(160づつ)、古本屋へゆけば同じく『詩集(80)』、Baedekerの『白耳義和蘭(70)※ベルギーオランダ』買ひ、またbusにて帰宅。坪井より高垣の歓迎会20日にせんと。 10月1日 ゆき子思ひちがひにて8:40家を出、10分遅刻して試験監督。安村の妹、佐恵姉承知したと。午まへ丹波道久来り、19日13:00警察学校で郷土史の講演せよと。13:00出てアベノ橋さがし廻り"Hugo"にてHeine見付け土産にもちて行動展(洋裁の子3人つれ)。目録買ひしに250!西阪の画、相変らずおとなし(その前久美子に電話して誘ひしに縁談あり、要らずと)。 藤井寺にゆけば大江叔父休み、上平、百済の2君の就職の件たのみrain-coatもらひ、夕食すませ、北村ウメノ氏に辞職反対せずと云ひ、帝塚山書店で『史学雑誌39冊(300)』買ひ、学校より疋田に電話し近々ゆくことを云ひ、夜学試験。帰れば藤枝より金来しと。(けふ南日と清水美紀をみつけGoethe与へ、清水父へ伝言たのむ)。 10月2日 10:30出て市立大学病院へゆき田村春雄に会へば水川氏まだ来ずと。『スマトラ民族 下』わたし、大手前へゆき坪井に2,100class会費の残り清算し、20日の高垣歓迎会のことで奥戸に電話し(就職はだめと)、天満橋の古本屋にて見付けしHeine-Geldernの民族誌(200)、Schopenhauer『女について(30)』。 今橋4丁目の三菱商事にゆきしも横山不在。野沢次長に山中生のことたのみ、富士銀行に高橋玉諟君訪ひ、就職の件の中間報告し、十合にゆき古本屋。泉君たづねしも不在。天地書房あとを追ひ「田中先生なりや」と問ふ。代金は15日でよしと。池内先生『元寇の新研究(600)』。梅本訪ねしも不在とてnews映画見てのち梅田。天満を経て松井氏。 帰れば小高根二郎『郷愁』。横山より屑の様な人間の寄合で気違染みた連中と。山中嬢心配なり。薮秀道より風害見舞。 10月3日 家居。創元社より詩人全集の稿料(2156-323)来る。200を貯金とす。横山薫二より白井三郎へ服地買ひにゆきゐし留守とわび状。宇野美代子より卒業式謝恩会の案内状。池田眞砂子よりreport。 13:00西保嬢来り、前川佐美雄の我に対する悪感情を云ふ。色々見せ母の歌集与へゐるところへ佐々木画伯来り、依田義賢来るやもしれずと。16:00山前、荒木2君来り依田君来られずと。Beer出しすし食はしめ、西保君先づ去り20:00みな去る(佐々木君、龍子先生を送るために帰ると也。太郎の『平福百穂』もちゆく)。 昨日より痔痛みしも入浴して快し。いぼ痔なり。(鳴田勝之、中西に紹介せしに-rayとなる故、月曜にまた来よと云はれしと。) 10月4日(日) 論文かきさして守屋美津雄に『宋書』借りにゆく。子供四条畷学院に在学。けふ運動会と。12:00出てアベノ橋departにて笹川『近畿の山と谷(100)』買ひしも古本にては縁起かつがれん。今高へゆき痔痛み、知人少なく面白からず中休みにやっと増井進一に会ふ。宮崎塘医博士も来をりと。 松本(保田)の腹話術あり、やっと筒井と6人になり、同窓会名簿2冊わたし、自家用にて夕飯にゆく4人と別れて帰宅。聯絡会けふ止めて賄3人京橋へ買物にゆきしと。 10月5日 家居。徳永、宇田、若森、中川4氏同封にて岩崎の結婚を祝する旨。山前君より礼状。午ごろ短大に電話せしめ、明日高校漢文の休講を云はしむ。 16:30夕食くひ鶴橋下車、川本医院へ痔の治療にゆく。塘の紹介にて診察受くればふだん酒のまざるが飲みしゆゑと。明日来れずと云ひ洗薬もらひ、小杉放庵『唐詩及唐詩人』買ひて帰る。藤原より電話にて日生の試験に5人とも数学出来ざりしと。『雄略記』やっと50枚を越す。 10月6日 6:00起床、7:20のbusにて小阪。15分余りしかかからぬことを知る。7:40の準急にて天理。busに山口氏のり合せ、酒井先生男児出産、ゆう子君とも仲直りせしときく。 図書館へゆけば9:00の始業前。『中国地誌』出版の計画ありと。池内先生の『満鮮史研究』中世1、2よみに朝鮮語研究室へゆきしも役立たず。今西博士『百済研究』つまらず。鈴木氏の室で退屈し、山崎君にゆきciderのまさせ、諸戸氏と会ひ、ともにうどん食ひにゆきして時間つぶし、富永氏出館をまちて館外帯出許されし『明季遼事叢刊』と『古事記伝6』もちて出るよろしくお願いを(青柳嬢の話によれば吉田君発狂と。八木嬢と殆ど話さず)。 短大へゆきしも高橋君帰宅。また駅前にてやきそば食ひ、14:55天理発にのり、のりかへて小阪。堀内にcoffeeのまされ柳田『伝説(20)』買ひDas Geschlechtsleben in Glauben Sitte Brauch Und Gewohnheit Der Japaner. Leipzig.,1911』借りて帰宅。痔ややよし。よべ寮眠にてねむし。 10月7日 起きてより12:00まで『雄略天皇』の註かき、飯食ひて出(西保君より礼状。学術会議の自薦2枚)。鶴橋下車。川本医院にゆき灌腸され施術され、学校へつきしも15:00。伊藤生、三苫君に叱られし故、辞職すと。教授会終るまでまたせ、竹内の答辞直し、院長に明日伊藤と面会の許し得、小竹に電話かく。塩野氏のこと聞合せ[き]しなり。 松本より電話あり藤原、照崎、中川よかりしらし。匹田に電話し(伊藤にお好み焼おごられ)て行き、中西よりの話(筒井doctor)伝へ文芸clubの幹事になれといひて交叉点で下車。越川書店でHugo『Les Miserables 3冊(200)』、亀井『大和古寺風物誌(50)』、春夫『日本文学選(100)』『支那文学選(100)』と買ひ、市村『秘められた古代日本(180)』なる愚著をも買ふ。 けふ早くもsalary出しなり。帰れば伊藤の速達着きゐし。(けふ西宮君置手紙し後藤田府議一部へ転ずること止むと。『好色盛衰記』賜ふと)。 10月8日 8:30会社へゆき竹村氏に麦代訂正せしめ会計報告かき、10:30出て省線定期買ひ登校、守本氏と話せば伊藤免職でわが気持心配しゐし様なり。安村大三郎氏より富士銀行就職はだめと。 森良雄より便りうれし。この間本位田と飲みしと。院長に会ひ、辞職きき届けとし、漢文の試験用紙刷らし安村、佐瀬に電話し、藤野の問合せに答へ(藤原の従兄が相手なり)、松本に電話せしも不在。伊藤と出てナンバ。則武姉に会ひ[不二]屋で喫茶。別れて近鉄案内所(天牛南店で春夫『幻燈(60)』)、沢樹追悼号1、2日中に出来ると。 伊藤と別れて萩原生母子に会ひ、家へ誘はれしもゆかず、梅本にゆき本2冊与へ、駸々堂にて『心理学辞典』、Willman『日本旅行記』とAthene文庫2冊、e Candolle『栽培植物の起源 上』買ひ、市電にて川本医院、手術せずともすむと。鶴橋にて散髪、まむし食ひ(150)て帰宅。(けふ樫本、中学校長に梅本のこと云へば承知しゐたり)。 10月9日 登校、試験監督2時間。清水生つかまへ父君へよろしくとたのむ。西宮君にきけば修学旅行不参20人と。岩崎氏にきけば南日生は子2人ある出戻りと。百済、大平2生と十合へゆくも大江叔父欠勤、人事係小出といふに会ひてきけば大学出は一般採用なく高校は1月頃と。昌三叔父に会ひしも無意味。7階にて春夫『神々の戯れ(80)』見付け、市電にて細工谷。 2生と別れて川本医院。帰宅して八木嬢の「本なし」のハガキ見る。松本に電話かけしに中川禎子(けふ戎橋にて会ふ)の云ひし如く楳垣教授の●稿(朝日の8日に出、短大の認められざるを許可)問題になりしも藤原有望、照崎補欠と。 10月10日 寮のガラス直しに来り48枚。杉浦氏も来る。米、外米50kづつ入る。よべ5:00で眠られず、9:00起き、だるし。弓子運動会。15:00出て川本医院。明日来ずとも好しと。上九まで歩き、なべ焼うどん食ひ(50)、市立文化会館25人位集りしか。伊東の話喜ばる。(※講演会) 佐瀬と帰り、上六天地書房にて『瓜豆集(40)』。coffeeおごりて帰宅。けふ小高根二郎よりハガキ。東京の出版記念会に60人来しと。伊東の詩碑立つと。山中タヅ子より礼状。 10月11日(日) 10:00出て梅田。古本屋見しも何もなし。帰れば西保嬢よりはじめて歌誌に悪口のりしと。 10月12日 11:30出て暁明館へゆく途、目加田誠『風雅集(30)』と『木曜雑記(30)』買ひ、中西に会へば鳴田肋膜のみにて入院の必要なしと。筒井doctorは大正13年生と。出て小竹稔に会ひ同窓会名簿買はすこととし、うどん食ひて大ビルの同窓会事務所。歩きて和島事務所へゆけばB子ゐる。 野崎に電話すれば表書かきしと。佐瀬に会ひにゆきcoffeおごられ、やがて来し植田女史と話し、山本に他日を約して川本医院。すませて登校、卒業式(※リンク写真あり)、謝恩会に疲る。けふUral-Altai学会10月末に天理でと案内。 10月13日 登校、文芸の修学旅行に不参加21名。内に岩本生あり、注意を要す。14:00西宮君と出てアベノ橋にて別れ、古本屋見しも何もなく川本医院。腹へり途中うどん食ひしは珍しきことなり。帰れば佐瀬よりハガキ。坪井より[JO]BKを受験する某嬢に長沖氏の推薦をと。手おくれなり。奥戸転任らしと。 10月14日 14:00高野敏子tobaccoもちて来る。文芸の子ら守本主事いやとて行かざるもある由。共に出て梅田へ送りにゆく。英文藤野の母を藤野pianoの母とまちがへて恥かく。西宮君と鶴橋。雑煮くひて川本医院。けふ『文芸クラブ沢樹澄子追悼号』つく。 野崎の手紙挿入しあり。方々の中学校より教師の口あり迷ふと。荒木利夫君より中国語の訳は書類必要と。八木嬢より父君脳溢血にて倒れしと(11日)。 10月15日 登校、歴史教へ、奥戸夫人に電話すれば本店参事に栄転と。坪井に電話すれば授業中。帰りて臥床。ゆき子、松井夫人と裏地買ひにゆく(2300)。17:00また出て川本医院。あと2、3日と。夜学教へて帰宅。Radio絵ハガキ(※ラジオ番組)に4枚、25日までいかにと。坪井より竹内[※好]19日来阪。朝日にて20日17:30よりと案内。 10月16日 登校、途中住高に硲君を訪ね23日(金)15:00訪問を約す。2時間教へ、萩の茶屋にゆき岩本生の家たづねしも不明。地下鉄に花園町より乗車、ナンバにゆき荒木利夫を訪ね『骨』の原稿20日までと断り云ひ、(朝日に予告出し由)「おもかげ」にゆきしもmadame按摩中と。野崎に会ひ教師ことはれと云ふ(萩の茶屋の津田にて『一目小僧(100)』『北小浦民俗誌(30)』『支那の婚姻法(10)』)。川本医院にゆけば明日で宜しと。葉茶屋に寄り最賤の茶(100匁100円)を300匁210にさせ(見本として)帰宅。蒔田廉(蒲池歓一)『石のいのち』贈らる。 10月17日 ラヂオ絵葉書断る。昼すぎ出て会社へゆき父に3000たし3000預り。茶と炭とを竹村氏にたのみ、小阪の堀内に借りし本返しにゆけば留守。 『牧野植物随筆(30)』『支那文学十五講』『藤村作校古事記』(2冊にて50)買ひ、砂糖3斤(225)さげて川本医院へ礼にゆく。今後も酒のむなと。すみて花園町へ地下鉄、津田書店へまたゆき『La vie sexuelle de la femme(150)』買へば『瀋陽日記』ただで呉る。『子規全集』23冊2500と。英国史とを学校へもと来よと云ひて岩本泰子の家さがしあてしに機嫌よくしゐたり。菓子一折もらひてナンバへ出、とく叔母訪ねしも不在。天牛にて大町『謡曲全集(3冊100)』買ひ、いづもやをのぞけば吉田君あり。class会のこと話して帰宅。 けふ出雲礼子より卒業の礼。石川喜久子より加州(※カリフォルニア州)Pasadenaにありと手紙。日本歌人社より大伴道子夫人『静夜』。 10月18日(日) 佐瀬君より『人民文学』6部借りてありと。山前君より『骨』の原稿急げと。芳野清君より伊東に感心したと。森鹿三氏より桑原武夫氏「日本フランス文学会」推薦にて学術会議に立候補と。山尾浩子より去年の今頃我にブラ下って行きしと。午すぎ京、弓子つれて守屋君に『梁書』返しにゆく。幼き子ひとり留守番しゐたり。和田先生へ松茸送りし旨。山崎忠へ31日夜泊る、とのハガキ投函。四条畷神社にゆき帰り来る。夜、「蘇東棉蘭」10枚『天地人』のために書く。張氏一家を粗描せしのみ。 10月19日 和田先生より「頂くわけなし」と礼状。中馬敦子より沢樹生のこと。斎藤堅太郎氏より「高野生、大変おちついたいい方のやうで是非お世話申上げたい」と。 12:00まへ出て12:10片町。『新潮文学目録(10)』買ひ、待つ内、丹波道久来り、自動車にて警察学校。校長と話し13:00より「仁徳天皇の話」。静粛にて反響なきが如し。1000もらひ自動車にて大手前高校にゆけば坪井、家と。家へゆけば学校と。『今昔物語3』買ひて山本事務所。 佐瀬と会ふ前、中野トシ子に電話し、梅田新道にて待合すこととし、佐瀬君とゆけば会はず、結局交叉点まで往復し、喫茶し、狐うどん食ひて別る。 夜、西宮君来る。話す中20:00となり送り出して連絡会。 10月20日 『骨』創刊号にと「八ポ言」9枚。詩3篇かき終しところへ大、来る。ともに出てアベノ橋にて喫茶。15:00電話せよといひ登校、高校の漢文教へしに旅行の付添とのデマありしとて2時間話し、2Aのみ授業。すみしところへ大の電話あり。朝の近鉄parlourにて10:00待てと。「かもめ」で『鴎外全集26巻』受取り、天王寺へゆけばやがて咲耶、子をつれて来り、大は16:30。支那料理屋へゆき我は雲呑。咲耶と別れて3輪自動車にて梅田へ向ひ、我は梅新で下車。 「あさひ」にては未曽有の盛会。奥戸、竹内、高垣の3正賓の外、竹内の連れの都大教授も来り、田中政雄、坂井源吾、相野忠雄、松田政治郎、山本、俣野、橿山、白井、後藤、川崎、服部、坪井、梅本、我と18人、20:00散会。 上田女史より頼まれしが山本どこかへ去りし。我は川崎、服部と喫茶して別る。 けふ朝日より朝日賞を選べと。またコルボウ詩集の評をと。守屋美津雄より礼状。西保嬢より宇治へゆきしと。けふ会にて森良雄へ寄書せし。 10月21日 よべ少眠。昼食くひて小高根二郎より「西保嬢に会ひし。保田貧血症にて入院。『骨』発刊は無意味。コルボウ出しは感情的な分裂が起るやうに思ひ」と。 成尾、浜谷、藤原3生十和田湖より。平中氏より11月2日17:00同氏GPにて同窓会をと。等を見、鶴橋を経て天理。松井夫人にきけば八木義雄翁昨日死去と。香奠500用意して松井夫人と八木家へゆけば八木嬢痩せて泣く。明子氏は丸々と太る。すぐ別れて短大。 高橋君の自転車の尻にのりて大浜家。corbeau脱退、『骨』結成の話をし、17:00出て帰る。堀内に寄りしも本なし。山峯『独乙文学概観(20)』買ひて帰宅。 10月22日 登校の途、大菊妹に会へば修学旅行無事帰りしと。院長に会ひ細野の1部への転科たのみ、授業にゆきて会はせ、大より来ずと電話かかりしと聞き、安村より28日14:00天満宮へとの案内受け、中野トシ子の電話ききて帰宅。 佐瀬より礼状。浪高より11月5日(木)10:00より30周年と。窪 徳忠より11月9日池内先生追悼会と。九大より日野開三郎氏の学術委員推薦をと。八木嬢より入れちがひに父君死亡と。浪高へは当日12:00出席と返事。窪氏へは断り、九大へは諾と。16:30出て夜学。西宮君相手に記紀論ぶちし。 10月23日 10:00家を出て登校、守本主事帰り来る。14:20すませ住高へゆけば休校。busにて住吉区役所で下車、硲君のapartにゆきお祝贈る。(8月31日生れの赤ちゃん泰子と命名と)。父君来られ話し我孫子前まで送られて阪和、美章園で下車。松本健次郎訪ぬれば入洛、森良雄と親しきは小森佐一と前田幸作と。 出て寺田町まで歩き内田『国史総論(30)』買ひて帰宅。岩崎[昭弥]より保田なほりしかと。古沢道子氏より礼状。藤枝より家かまへしと。西保嬢法隆寺より。立川、藤野2嬢勝浦より。 10月24日 9:00家を出て会社。秋季慰労会費2000を受取り、出て天満橋をへて山本事務所。佐瀬と話し今高筒井に来週ゆき15日のクラス会の案内書くを約しゐる中、山本来る。荒木利夫に電話すれば原稿つきしと。2日入洛を約す。山本に昼食よばれゐる中、後藤孝夫来る。別れて『戦争地理学研究(120)』『お伽草子(100)』買ひhylsingの本、安村嬢への祝にと買ひ(180)帰宅。 筑摩書房より李白出すと。山前実治より『骨』来月初出る予定と。朝日より身許調査票、郷土史家と記入しあり。小野和子より海苔1本。鍛冶初江嬢より皮肉かきしと。 10月25日(日) 小野和子へ礼状。筑摩書房井上達三へ承知した、原稿用紙送れと。保田より警察病院月末退院と。 佐々木邦彦より離縁しをりと、並びに『骨』のこと。日本テレビより契約書。吉田病院より1日運動会の招待状。 夕方、守屋君2児をつれて『東洋中世史(490)』もちて来る。そのあと半田祐子と父君長三郎氏、社にと来りtobacco2箱賜ふ。院長宅へもゆき留守。我が家は探し廻りしと也。夜、連絡会なれど集り悪く衣川と話すのみにてとりやめ。 10月26日 朝日吉井栄治君へ『colbeau詩集1953年』の評3枚。日野開三郎氏より学術会議にたのむと。中野トシ子生よりsentimental letter。昼寝30分す。痔また悪し。森良雄へ寄せ書き送る。 10月27日 久しぶりにて登校、安村の妹つかまへお祝に本2冊わたし招待状受取る。旅行より帰りし2年生土産呉る。中に萩原、天満の2生断り西宮君にわたすを見、気の毒なりし。日生の課長来り萩原の身の上調べをす。 すみて藤原呼び泥を吐けといへば子1人ある男にて結婚後も勤めるつもりと。15:00帰らんとすれば鶴身生(我を好くと)土産呉るるとて大騒ぎなり。長沖氏よりもらひし林檎もちて警察病院、保田夫人に出口で会ひ、色々話して帰れば芳野清君待ちをり国有鉄道に勤むと(松井若夫人にover-coatの寸法とってもらふ) 21:00芦屋の寮にゆくと明日17:30梅田にて待合すことを約す(けふ西山卯二郎氏夫人来り、会社不況、次女高等部へたのむと。野田又夫氏より『パスカル』。外山・日比野2氏より貝塚氏を学術会議へと) けふ朝、新聞見しに『現代詩人全集』創元社より出、四季派1冊に神保と我なく、三好、丸山、田中冬二の3生者と伊東、立原、津村の3死者。 10月28日 教授会休み。12:00出て(山前より6号?2、3枚たのむと)散髪。天満より市電で樋ノ上町下車。創元社へゆき受取わたし、雨に降られてtaxiにて天満宮。 「今市家」室に入り新郎憲作氏と話す中、阪大植松博士もお越し、14:30安村家一同来り、そちら側へ移り15:30挙式。すみて相生楼にて披露宴。我、上席に坐れど苦しみ、17:30すぎしに気付き新郎に断り、新婦に色直し中会ひにゆけば泣く(※新聞記事切り貼りあり。) 梅田までtaxi、芳野君と会ひ地下鉄にてナンバ。吉田出雲屋にてまむし食ひ肝すひのみ、千日前歩かせ面影にてcoffeeのませ、また梅田まで送りて別る。夜も城平叔父より電話、小倉のカラーのsizeひみつでしらべよと。 記事 10月29日 登校、細野の転部許されしと。鶴身に『女性服装史』をと同級生に托し、萩原にきけばハガキまだ見ずと。高野敏子に斎藤[茂吉]先生のハガキ見せなどし、藤井先生の欠席者を叱りし。今高筒井に電話すれば明日来よと。藤野より電話かかりて今日都合悪しとのことに、帰宅することとし、島本生にcoffeeのましてきけば藤井氏、点悪いらしいとて皆逃げしと也。渡敦子より、子の小学校長次田利夫氏会ひたしと云ふとハガキ。夜、またゆきて国文学史。硲君不在中来り、2日の京都の会に出ずと。『カトンボ山発掘報告』貸し給ふ。 10月30日 登校、岡田先生と渡敦子にハガキ。鶴身生受取りしと礼云ふ。藤原生に採用通知。けふ学歌の作曲家山田耕作氏列席の下に発表会。長沖氏と話せしのち出て今高。筒井と15日15:00天王殿で1200との通知の宛名かく。寺田町で『昔話と文学(100)』買ひて帰宅。松本一秀に礼状。夜より雨。 10月31日 傘もちて出、7:20のbusにて小阪。天理より大学行bus。荒井女史と一緒になる。図書館に入り潘岳「征西賦」の『文選』にのるをたしかめてのち仕事なし。青木、佐口よべ天理へ泊りしと。10:30羽田来り、ともに講演ききしもつまらず。 午食後、田村博士と羽田、神田信夫君を案内して参考館。大分宜しくなりをり。別れて八木家。香奠返しもらふ。 16:30図書館に引返し神田君と話し、藤枝来しを見る。18:30すみて講堂にて懇親会。中山眞柱出席。勇しき挨拶せしが窪 徳忠なり。前に川喜田二郎、今西錦司など勇しき人々あり。やがて中山眞柱に羽田紹介し、京大図書館費ampaのこと云はれて20:00発にて天理駅。 けふ朝日賞に田村博士を推薦。西保、小高根二郎、『火山灰』よりハガキ。筑摩書房井上達三君より12月末までにと原稿用紙送り来る。 11月1日(日) 臥床、朝日新聞より「コルボウ詩集評」の稿料(1,764-264)。山前君より明日18:00依田宅へ集ると。夜、竹村氏より10月決算表来り、悠紀子を叱る。 11月2日 10:00会社へゆき父に薪600束不納のこと云ひ、城平叔父に鳴田のこと云へばなぜ断らぬといひたげりし。京橋でうどん食ひ(30)京阪で三條、京阪書房で森槐南『杜詩講義(230)』買ひ、山前にゆく途中古本屋をひやかす青木富太郎に会ひ、3人にて東洋亭にてcoffee(180)。別れて彙文堂にゆき『続国訳漢文大成(20,000と)』注文し、馮至『杜甫伝(180)』買ひ、祖国社の高鳥と話して池内先生のこと念を押し、また寺町へ出て『李太白詩集5冊(130)』『英訳Heine(100)』買ひ、親子丼(100)食べて依田家。 まだ誰も来ず、羽田呼び出し断り云ひ、やがて山前、佐々木、井上と5人そろひslide見、荒木の来るのをまち23:00となり、あはてて出、出町に宿見付けて泊る。 11月3日 女中朝食もち来て、よべ快声に悩まされざりしやと。880+120払ひて市電にて下総町。母、神経痛にて臥床、500借りて野田又夫にゆけば夫人留守。嬢ちゃん「父は3月帰朝」と。 古本屋見つつゆき『熱帯生活の常識(10)』『小さきものの声(50)』買ひ、研究所へゆけば丁度中憩終りしあと。羽田まだ来ず。貝塚氏の隣にゐて2人の話きき、羽田に祖国社のこと云ひ、挨拶せし人が竹田龍児君(※佐藤春夫の甥)なり。 ともに昼食し、いろいろ話す中、13:30となり、払ひしてもらひ恐縮。彙文堂にまたゆきしも休業。梅田へゆき色々話して安心。帰宅21:00。岡正雄氏より学術会議に立候補と。芳野清より礼状。 11月4日 家居。竹村氏より電話かかり炭屋来る。600束みとめし代り今後の約束す。松井夫人松本健次郎に名刺かかせ、仮縫ひしてゆく。学術会議とて桑原武夫、本田喜代治諸先生よりハガキ。『天地人6』来り、正月号にわが随筆のせると予告。 11月5日 登校、2時間教へて浪速中学の30周年にゆく。教へ子は善見勉一人のみ。旧同僚に正富(85才)渡辺(77才)眞野吉之助、吉田吉太郎の諸氏あり。平石、礒江2氏は表彰受け、礒江氏にきけばきのふ三木氏令息慰霊祭に来て我に会ひたがりしと。出て全田にゆけば敦子、浅香山小学校の次田校長入れちがひに帝塚山へゆきし筈と。 学校へゆき15:00まで待ち名刺托し、ナンバへ出、「千とせ」へゆき徳叔母に会ひ、ひかり工房教はりクラス会名簿たのみ(13日出来と)、近鉄案内所、天牛南店にて『真淵全集(2500)』見付け明日学校へもて来よと云ひ、音田正巳君に会ひ「面影」へ同行、coffeeのませ高野線にて帰校。西保嬢来て怒りしと。(近鉄へも今市夫妻直ぐ前に来しと)。夜学終へて帰宅。 川添和子より手紙。朝日吉井栄治氏よりコルボウ詩集の発行所と定価しらせと。中條三郎より会ひたしと。 11月6日 登校、朝日吉井氏に電話す。大江叔母の都合きいてくれと村岡にたのむ。今村羊子来り長沖氏と会ふ。「学校から離れようと思ひゐし」と。よべ不眠にて疲れ、浅香山小学校へ電話かからざるまま出、『女子労働者』買ひ、よみもて帰り電車にて西宮君に会ひて思ひ出し、秀英堂へゆけば饗庭君梅田を引揚げてをり。坂根夫人はやめしと。明日見積りに短大へゆかれたしと云ひて帰宅。 中央公論社より『近代日本抒情詩集』着きをり。わが「花の便り」に春夫先生の解説あり。 入浴しゐれば中野トシ子より電話。鎌田にわが詩送り返事来しと。けふ依子多武峯へ遠足。 11月7日 よべ少眠。竹田龍児氏にこの間の礼として「幻燈」送り、会社へゆき父に500返し、月曜また来るを杉浦氏と約し、京橋より市電にて梅ヶ枝町。山本にゆき佐瀬君に本返し、山本と昼食。夫人また懐姙にてhysteriaと。別れて古本屋見しが買へず帰宅。 今高より名簿作成の原稿をと。他は学術会議のみ。 11月8日(日) よべよく眠る。安田章生より1月号に歌をと。藤野一雄より近況。『祖国』にと「蘇東坡」清書す。 11月9日 会社へゆく。寮費値上についての秘密会議なり。すみて竹村氏と布施市水道局へゆく。許可書不要なれど道義上よりと係長の話なり。竹村氏にうどんおごられ川添和子を訪ね、パンビタ買はんとせしも金なし(樟蔭に安田章生訪へば正倉院へゆきしと。原稿ことはりたのむ)。堀内に寄り、露伴『猿簔(40)』買ひ『文芸春秋12月号』買ひて帰宅。 学術会議投票用紙速達で来る。夜、大塚呼びてきけば木炭代半額負担を竹村氏約せしと。 11月10日 登校、彙文堂より『続国訳漢文大成』来をり(22,000)うれしや。salaryもらふ。補講料400付く。野崎より電話かかり22日(日)多武峯へ遠足と。安村妹より里帰りの祝として饅頭もらふ。今高筒井より電話あり15日のフランス文学会出席者14人と。午「光工房」の永井君よび同人雑誌組に紹介すれど下手ならんとてやめしと。饗庭君の見積り28万円余にて、学報95,000にてすとの印刷屋に任すとなり。 浅香山小学校の次田校長より電話かかり15:30全田家で会ふことを約し、5:00すみてまちゐし今村、疋田2君と立話にて別れ、ゆく途中電車にて府教委水川、山川2氏に会ひにゆきし高野生と会ふ。山川課長むつかしきこと云ひしと。全田へゆけば丁度次田氏の来るところ、思ひ出話し、校歌ことわり、夕食よばれ、きけば肥下と同級と(堺中)。肥下どこにても良しと云ひをると。 20:00近くまで話し帝塚山でのりかへ寺町で下車。稲垣訪ねしに15日canaryの競覧会ありゆけずと。永井君のこさへしclass名簿置きて出る(途中、石井『古典考究(70)』買ひて途ききし)。西保嬢より12日13:00学校へ来ると。野田夫人左起子より礼状。いまHarvard大学にありと。 11月11日 定期買ひて鶴橋より奈良。野崎家へ寄ればその嬢すでに正倉院見しと。別れて古本屋にて春夫『女誡扇綺譚(100)』と『狐の詩情(30)』買ひ博物館。目録買ひて入場(30)。12:00まへ見終りて女子大。天野忠に会ひうどん奢られ『狐の詩情』与へcoffeeおごられ『正倉院雑識(40)』買ひて13:30奈良駅。学校へつけば15:00まへ。教授会早くすみ(出欠厳重にすることを云ふ)、木下義三にゆきしも不在。名簿与へ、斎場前の古本屋ひやかして帰宅。『祖国10月号』来る。京、きのふよりまた歯痛。 11月12日 登校、石浜先生に客あり、あとで満洲語をやる上原久君と。抜刷置いてゆく。英晤欠席の学生叱りしところへ西保嬢来り、ともに出てアベノ橋で喫茶。別れて警察病院。里村15日に差支ありと。康平叔父を診察しゐると。康平叔父と話し、上六まで歩きbus。大手前で下車、科野を大阪調達局に訪へば「この年で係長みなに合はす顔なし」と。不快になりて梅田より5,000とりて帰宅。 今市夫妻より挨拶。次田氏より礼状。竹田龍児氏より「佐藤春夫先生御夫妻近々上洛、その節はしらす」と。 11月13日 雨、登校。筒井に電話かければ欠勤と。荒木君に電話し、のちほどゆくと云ひ馬場東大教授、安部忠三の弟といふ柏井君に会ひ就職たのまれ、busにてナンバ。荒木君にゆけばまだ不在。溝端にて鈴木信太郎『近代フランス象徴詩抄(110)』買ひ「おもかげ」にゆけば税務署来をり、ややして近鉄案内所にゆき山荘に会ひ、電話して荒木君「おもかげ」へ呼出し2,000同人費として渡し、別れて帰宅。 徳永嬢より写真在中の手紙。佐瀬より竹内[好]17日来阪と。けふ吉田、小杉の2件に名簿わたす(吉田は不在)。 11月14日 コルボウ詩話会より小高根二郎の出版記念会15日と。薔薇短歌会より現代歌壇浪曼的なりやと(知らずと答ふ)。篠田紀氏より好川姓となりしと。中野英夫より役人やめたと。八木嬢より松井信子の耳鼻Reportのため紹介をと(里村へ紹介す)。 昨夜「蘇東坡」書き了る(34枚、保田に献ず)。 午後会社へゆき清算し今月分3,000預かる。大毎へゆき天野愛一呼出せば明日日直にてゆけずと。古本屋歩き高尾にてHeine『物語詩抄(春月訳100)』。Perry『日本遠征記3』買ひてbusにて上六。松本にゆけば白浜行と。中西にゆけば近江八幡。堀内にて『子思子(30)』。busにて徳庵へ帰り、夕食くひて大塚と話す。 11月15日(日) 川久保より岡正雄氏の推薦状に「東京にて松本、太田、岡辺4人集りてわが噂せし」と。平中氏より和田先生21日(土)歓迎会を17:00よりと。出席の返事するところへ電話。電報島稔より来り高安詰所へ来よと、万葉学会にて出張なり。電話して明日夕ゆくと電報し、13:00出て寺田町より歩きて新世界。岸邊『東洋の楽器とその歴史(70)』、高群『日本女性社会史(100)』買ひて時間つぶし天王殿へゆけば池田次郎あり。 やがて岡田先生、隅田先生、長沢、谷口両先生に井上博、梅村、遠藤、岡本、坂部、筒井、塘、古河、宮崎、吉村と我とにて12人となり1,700会費払ひ入洛。すき焼き、茶漬一杯くひて早々退去。20:00帰宅、連絡会す。夜半、島より電報、18日頃学校を訪ねると。 11月16日 雨、終日臥床。守屋美津雄君より河原正博に会ひてよろしくと云はれしと。21日和田先生上洛と。あすover-coatの出来上りを見ると。尾谷邦三郎氏より令息関大夜学出を高等学校へと。 11月17日 登校、島の電報は西宮君が打ちしと。沢田直也に電話せしにまだ来ずと。授業すませ萩原生呼びしにハガキまだ着かずと。「源平」とやらいふ料理店と。出て東天下茶屋で下車。永田三郎(辻部)の家訪ね、夫人と母君に名簿わたし一度会ひたしと云ふ。近鉄地下で散髪、busまでは初江叔母に会ひ、busおごりてゆき一里村訪ぬれば帰途と。内科の医師に会へば発作大したことなしと。(匹田)貴美子と久しぶりに会ふ。 帰って入浴。山前より18日17:00上洛せよ、『骨』わたすと也。佐瀬良幸より支那詩に韻ありやと。中條三郎より面会ことわられて残念と。けふ羽田へ『道教』21日に持ち来れとハガキす。 11月18日 休日なるにも島来るとて登校、井上生来り、家火災の為、休みしも今後は出ると。佐瀬に電話すれば竹内聯絡なければ何とかすると。荒木君より電話かかりしゆゑ、けふ上洛できずと云ひ、明日14:00すぎとりにゆくと約す。天野愛一より電話。壽岳先生の書斎訪問につきゆくと。18:00来よと教ふ。 2部2年の国文学史の採点94~28点。15:00まへ島より電話あり、高島屋古書部前で待ち合すこととし、15:30来りしと先づ一杯のむに附き合ひ十合へゆき(沢田五倍子『無花果(100)』)「面影」へゆきし。電話、沢田直也にかければ19:30「竹仙」にてと。時間つぶしにパチンコし出雲屋でまむし食ひし。19:00竹仙へゆき待つ間に島酔ひ、沢田来ればからみ出し、●後に「逢坂」なる宿屋へつれゆきしも断頭台に我をかくると云ひて不快。沢田と別室で話せしのち、ともに出てパチンコ。「光」3ケかせぎて時間気にしつつ23:05にて京橋発、帰宅。 11月19日 登校、10:00島より電話かかり昨日何を云ったかと。教へてやるゆゑ13:00再び電話せよと云ひ授業。藤野和子の妹、姉の手紙もち来り、立川陽子、高砂鉄工技師太田治男と23日結婚と。 学報の校正あり、それをやる中、島より電話、14:00梅田でと約し、西宮にその酒乱話せば、我のこと異常なる神経質と大浜ら話せし由。出て島に会ひ叱れば覚えなしと。説教しつつ中田英一に連れてゆきて別れ、本町二の大阪府中小企業金庫に千川義雄たづぬれば長く欠勤と。 荒木にゆき『骨』33冊もらひ(25日2号締切と)、近鉄案内所へゆきしも野崎帰宅後。『骨』に22日不参のことわり書き、永井にゆき謄写版のこと云ひ「ちとせ」で親子丼。叔母不在。学校へ帰って校正終へ、授業して帰宅。 安部忠三の弟(柏井英夫と)より履歴書。松井信子より里村へゆかずと。高鳥賢司より原稿をと。島より入れちがひにハガキ。 11月20日 登校。鶴身、日野谷groupと新over-coatにて写真とり、2人にGoethe与へ、西宮君が井上生説諭を見つつ午後授業。すみて大同生命に井階訪ね、朝日に吉井栄治君訪ね『骨』2冊進呈。島の同窓会名簿のことで大高club事務所にゆけば不在。毎日に天野愛一訪ぬれば不在。『骨』2冊托し、山本事務所にゆき佐瀬に会ひrice curry食ひて帰宅。 小高根二郎より『骨』見たと。西保より旅信2.今村羊子より礼状。山中タヅ子より風邪にて22日ゆけずと。中野清見より12月来阪と。 11月21日 10:00会社へゆき、竹村氏に炭代免担と火鉢2ケ購入のことたのみ、父より図書費10月限りで打切りとの云ひ渡し受け、俸給表提出し、busにて大手前。坪井に柏井英夫の履歴書わたし、肥下のこと云ひ、ともに白井を訪ね、毛布5枚買ふを見、本庄先生待ちしも来られず。 14:30別れて島本商事へゆき木村慎吾らと話しゐるに会ひ(西川この間、白井に来しと)、地下鉄にて梅田。省線にて京都。祖国社へゆき高鳥君にきけば「蘇東坡」着きしと。『伊東静雄追悼号』3冊もらひ、奥西保氏より池内先生の本発送せしも送料は3,000もらひしのみときき、歩きて京阪書房。三上『白河楽翁(70)』、尾崎『古墳のはなし(50)』買ひ、歩きて平中邸。 和田先生末嬢と既にお越し、研究費査定のためと。桑田、潮田、駒井、佐中、石瀬、樋渡(ルオー展切符2枚賜ふ)、羽田、重本、守屋、芳村、羽倉、小池の外に森鹿三、平岡の2氏も来り、鈴木俊氏も来る。各自思ひ出話せし中に羽倉「我と田中とを困り者と仰せありし」と云へば先生困り打ち消さる。羽倉と共に出、京阪三條前にてcoffeeおごり京阪に同乗、帰宅22:40。 11月22日(日) けふ日本歌人の会。文芸クラブの会ともにゆかず臥床。よべ5:00まで眠れざりし也。西川英夫よりこの間来阪せしと。名簿受取りしと。 11月23日 よべよく眠り、寮をぶらぶらせしに、辻賄人内緒で申上ぐとて安部育の米と砂糖竊取を告ぐ。池●呼びて訊ねしにやはり蔵匿しあるを見届けしと。 15:00出て和田先生見送りにと梅田―京、そのまま京泊り(上村家)。 11月24日 京より学校へ直行。2時間教へしに竹内[好]より電話かかり、夕方眞法院町の宿へ来よと。漢文午后やめてくれと高校生来る。やめて13:00出、近鉄departにて高橋盛孝『民俗学の実際(50)』、瀬川『販女(30)』、村上『女性の勝利(30)』と安本漁り、警察病院へゆけば叔父発作疲れでねいる。大江叔母、房子来をり、けふ明日は見舞はざらんと。出て「古賀」へゆけば15:00、16:00再来を云ひ上六まで歩く途中、吉川仁印刷所訪ねしも留守。 天地書房にて『明治家族法史(80)』『女の自由(20)』、あと時間つぶしにうどん食ひ、電車にて「古賀」へゆきて待つ間、吐瀉、便所汚し女中に200やる。 17:30竹内帰り来り、昼夜8時間教へ12月2日までと呆れる。出てまた吐瀉、桃谷より帰宅。 (けふ『詩と真実 伊東静雄追悼号』『関大石浜教授記念論叢、羽田亨、岩井大慧』もらひ住高へ『祖国』2冊もちゆき、松本喜久子を出席で叱り皆出約させし。鶴身groupのとりし写真2枚もらひ、西山groupの写真2枚とられし。) 芳野清より大垣家訪ねしに国司26年3月4日、発狂のまま死せしと、可悲。我宛の封書ハガキ1通づつ同封しあり。島稔より歌2首。 11月25日 〒凡信2。昼寝し15:00に登校、教授会。すみて婦人子供服会館での大高club。高垣話しをり坪井来をりinflaかdeflaか判明せぬ講演すみSchinzinger先生。天理の田中治郎、鈴木、瀧井、山口の諸氏とともにお越し。HeineとGoetheの訳本進呈し、自己紹介了へ19:30散会。坪井、俣野と本町2丁目で別る。 けふ(辻部)永田三郎も来をり。『骨』両中野、蒲地、西垣に送る。夜、古和田退社を告げに来る。 11月26日 登校、2時間目すみしところへ井上生、従兄とやらをつれ来て、どうしても駄目かと。荒木に電話かけてきけば『骨』の締切月末と。13:00出て警察病院、昌三叔父夫婦来る。藤井寺へゆきて麻布中の叔母に安部育の件相談し、夕食よばれて日野月先生。以前もちゆきしgift checkを問題とされしを、収めていただき、肥下に寄って事情きき夜学。 中野生来り、29日ストにて云々と。28日午后来よと云ふ。 11月27日 登校、藤野妹、山中藤野2人にて産経会館のconcertに招待すと。ことわるところへ斎藤はるみより電話、16:00来ると。柴田でcoffeeのみなどして待ち、来しと共に出て近鉄depart。coffeeとsandwichおごらせ忙しく働くとの話ききて18:00別る。立川陽子、太田治男夫妻、箱根より挨拶状。島稔より黒沢尻着と24日付。 11月28日 会社へゆき、城平叔父に安部のこと云へば、さもあらんと。帰りて15:00まで待てば森、中野、2嬢来る。卵と米とを賜ふ。夜、床に入りをれば肥下来り、堺脳病院に就職出来しらしと。 堀辰雄全集編集の前川康男より手紙貸せと。千川義雄より遊びに来よ、俳句やりをると。鍛冶初江よりお別れpartyを1日15:00より不二屋でと。 11月29日(日) 家居。堀辰雄氏のハガキ写す。伊東花子氏より転居通知。小高根二郎より春夫先生のこと。夜、聯絡会。 11月30日 朝、城平叔父より電話、正平博士の史料ありやと。鴎外全集もちゆけば出しあと。bonus表出せと杉浦氏より。busにて天満橋。扇町商高にゆき沢井孝子郎に会ひ、尾谷氏令息の履歴書托し、うどんよばれ(今34,000手取29,000位と)、北府税務署へ寄り田中幸臣訪ぬれば欠勤と。読売へゆき埜沢宏君に『骨』わたしてよろしくとたのみ、山本事務所。佐瀬君と話し、荒木君に電話すれば原稿直送せよと。 本屋で祝に『現代抒情詩抄』と『鹿鳴集』。心斎橋に出れば15:00。news映画見、梅本にゆけば不在。富沢生に会ひcoffeeのまんとさそひしもきかず。十合古本屋見、南下すれば服飾の卒業生湖崎、麓、林富美代に会ふ。武内洋裁にて久美子と同級と。みつまめおごり、天牛見て16:30[不二]屋へゆき17:00より鍛冶姉妹、野崎、伊藤、椿下、山荘、和島とgroupみなそろひて別れの宴。武田長兵衛の福岡支店小笹氏に嫁ぐと(式は6日大阪でと)。杉浦[※正一郎]に紹介せん。大阪転任運動せんと云ふ。20:00cakeもらひて別る。『鹿鳴集』にsignと「きみがゆくくにははるけしみをつくしこころつくしてこひわたれとや」。けふ西保、中野トシ子より。 12月1日 登校、大丸を受験せしもの皆落第と。永井君に電話してきれいにやれと註文つける。15:00出て鞄の直しをして帰宅。 岐阜県の伊藤勝行氏より『白い花びらのために』。『骨』の詩出来ず。 けふ「雄略天皇」の再校出来。高校生西角先生のわがこと書かれし「高石小学校75周年記」もち来り見す。由起しげ子(伊原卯三郎夫人)も後輩と。 12月2日 休み。終日臥床。 12月3日 雨、登校。漢文2Lの答案返す。高野に斎藤へと『祖国』と『ニャーオ』わたす。14:00金杉重信の紹介にて東井夫人来る。小学校入学の斡旋たのむとなり。島本生恋愛を語る。出て南田辺の千川義雄を訪ぬ。25年ぶり也。中西義章の診察受けよとすすめ、今川へゆけどマミ子ゐず、森鴎外に見えたる田中正平博士の覚書わたして出、北畠まで歩く途中soothill『A history of china(10)』、Waldschmidt『Gandhara(30)』買ふ。8人の追試行ひて帰宅。 けふ『文芸春秋 冬増刊』に中島健蔵わが悪口を巧みにかく。 亀井昇より四條小学校に就職と。肥下より堺脳病院に就職と。林富士馬より「いやさうに詩を書く」と。 12月4日 登校、9:00地鎮祭、すみて文化祭。14:00出て康平叔父。発作少なくなりしと。田中正平博士の話きく。出て大手前。坪井にも肥下より就職の便りありしと。けふ毛糸のneck-tieもらふ。齋藤かずゑ生より帰郷、療病と。 12月5日 寒し。会社へゆかず。大江叔母より一度小野和子つれて来よと。天野忠より『骨』見たと。中野清見より下阪1月にのびたと。16:30出て千日前。天牛南店にて朔太郎『[殉]情小曲集(100)』見つけてうれし。「丸万」にゆけば西宮君あり。家本、宇野、島田、高橋、竹内、中野、藤井、堀、松永と9人集る。中野生『文芸 太宰治号』呉る。20:00長沖先生のおごりとなりて解散。近鉄組3人と西宮君でtaxiで上六、近鉄をへて帰宅。 12月6日(日) [終日]無為、臥床。『祖国11月号』。島稔より『骨』と同窓会名簿と着きしと。 12月7日 [※破れ]会社へゆき賄のbonus案提出。杉浦部長反対せしも最後に「これですか」と察したり。歩きて放出中学、[※破れ]三郎氏に会へば一人息子につきよろしくと。天満橋より北浜2へ出、日本経済に増井直一を訪ね名簿渡し、歩きて三菱商事へ寄れば横山不在。山中嬢の顔見しのみにて出、日生へゆけば松本一秀欠勤。市役所へゆけば筒井不在。地下食堂でrice curryたべ山本事務所へゆけば佐瀬君、横山源之助『日本の下層社会』賜ふ。梅ヶ枝町より市電にのれば本庄先生あり。帰宅15:30。 12月8日 登校。高野敏子、後藤田女史に山川課長へ礼にゆくことの可否とへば上手にと云はれしと。島本生就職やめたと。泉君に小学校入学の法とへば先づ幼稚園に入れよと。荒木君に電話すれば出張と。 15:00出て藤井寺へ小野和子つれゆく。明日一人で来させいろいろ聞くと。ともに出て近鉄departにて『香料小史(60)』『女の一生』買ひ、雲呑食べて別る(けふsalaryもらひし)。12月8日とて軍隊の話し中西六郎氏より「いつもいつも」とひやかさる。齋藤生より診断書。宇野より礼状。 12月9日 教授会なし。山前より『骨』2号の会10日と。祖国社より芳賀檀の会18日17:00よりと。肥下を呼べといふ。 横山薫二より不在のわび状。諫早文化協会より伊東の詩碑の会の発起人をと。14;10出て会社。明日の支払の用意おほむね出来をり、父に5000わたし、出てbusにて放出大橋。またbusて緑橋。中村外科病院に筋炎の礒崎見舞へば明日退院と。雨中歩きて白山市場の瀬戸物屋を見て通る。帰りの電車にて音田正巳君に会ふ。長尾良と同級。 12月10日 雨、登校。3時間終へ高野敏子の話きけば山川課長に5000もちゆかんかと。小野和子、艶叔母に会ひ傘借りて帰りしと。林重信に電話し17:00に会ふときめ、追試施し、松本に電話すれば井上と学校へ出しと。15:00訪ねると約するところへ現はれ、図書館へ勉強にゆきしと。 ともに出てナンバ。しるこ食べながら話きき、「面影」へ呼出し父と話し、御堂筋で別れて荒木君。『骨』同人への伝言托し『日本後紀~三代実録(200)』買ひ、高須『近世文学十二講(60)』はdoubleり、近鉄depart。金杉と会ひしところへ千川も来合せcoffeeおごられて話し、別れて雲呑。『文芸春秋』よみつつ夜の2時限まち、後藤田女史に高野敏子のこと云ひ、授業すませて清水、平岡2生と帰る。小山緑、結婚して虐待されゐると。●幹事と答へ紅茶のませて帰宅。『天地人』より1500。鍛冶初江、笹野姓となりて新婚旅行よりハガキ。 12月11日 登校、半田に高須本与へ、八木生に千川への伝言托し、藤原を泉大津の案内にと思ひしが、これはだめ。昼食床におとし小野にパン買ひにゆかす。話したげなりしかどきかず。出て泉大津図書館。西角先生に会ひ(65才になり玉ふと)、すぐ出てナンバ。天牛南店をひやかし鶴橋に出て児島『支那文学史(80)』『大阪便用録(40)』。寒がりながら帰り来る。(けふ行きがけ定期買ひ散髪せし)。西川よりハガキ。[※破れ]Burma行の送別会せんと。大阪東大clubより18日17:00より例会と。 12月12日 9:00出て会社。遅しとて城平叔父と話せず。帰れば祖国社より肥下の参会宜しと。朝日よりコルボウ[※破れ]評のせし昨日の新聞。藤野一雄より右よみしと。 12月13日(日) 中野トシ子、藤原幸子よりハガキ。竹田龍児氏より春夫先生の上洛なかりしと。宮本正都氏、島稔よりハガキ。13:00出て梅田。石井良助『長子相続制(50)』、coyett『閑却されたる台湾(100)』買ひ、なべやきうどん食ひし。留守中、硲晃君お歳暮持ち来り、春夫訳『尖塔登攀記』もち呉れ給ひしと。 12月14日 9:00前、会社へゆき城平叔父つかまへしもbonusの件、杉浦と話せと。父と清算すませ(74,000不足)て帰宅。〒なし。夜、草野、上野呼びて退職とめしもきかず。 12月15日 登校、2年漢文の最後の授業をし、八木生より千川義雄のことづけし、菓子と小野十三郎と受取り、高野敏子より山川課長宅訪問の報告談。最後に小野和子「生れてきたわけわからず」との手紙もらひ、出て浅香山。全田に行き叔母に案内されて飯野家にゆき肥下の世話の礼云ひ、堺脳病院。 犯人の蒲団の世話しゐる肥下に会ひ、18日の祖国社行すすめ、今村羊子の父に会ひ、羊子つれてナンバ。野崎居らず古本屋見、「面影」へゆき大丸古書部にて柳田国男『小さきものの声』『遠野物語』『地名の起源』、春夫『武蔵野少女』にて500。喫茶し春夫かし、戎橋まで歩きて別る。筒井信義より写真入りの書類。夜、池田退社退寮と。。 ※〈十二月十五日 二時頃、田中克己病院ヘ来訪。十八日、京都祖国社ニテ会合アル由、出席セヨト。芳賀檀モヨロコブダラウトノ由。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 91p 12月16日 悠紀子湿疹にて城東病院へゆく。昼食して住高へ寄れば休み。漢文の先生に硲君へと『カトンボ塚発掘報告』の返却と児島『支那文学史』とを托す。歩きて帝塚山書店に寄り『名家漫筆集(50)』買ひ15:30まで待ちて教授会。すみて半田祐子に寄り『小さきものの声』与へ小野和子にゆき部屋見、お好み焼食ひて(鴎外『諸国物語(50)見付けてうれし』)別る。大江叔母に昨日手紙もらひて帰り来しと。 けふ岩崎[昭弥]より19、20日頃会ひたしと速達。(筒井信義に電話すれば休暇)。杉浦氏より来よとの電話ありしと。 12月17日 登校、国文学史の時間reportの指導うまくゆかず。高校の採点せんとせしも出来ず。萩原生と出てナンバ。喫茶後、荒木君に会へば依田君旅行で『骨』旨くゆかざる様子。別れて「源平」へよばれ萩原の父母に会ふ。父君、園克己と同窓と。近鉄案内所にゆき野崎と話し、天牛南店にて『ミラボー橋』買ひて与へ、菓子とすし貰ひて萩原生と別る。(けさ電話にてbonus15日出しと。土曜とりにゆくと電話す)。夜、渡部退職を云ひに来る。父と自転車屋すと。 12月18日 登校、授業のあひまに高校の採点し、日野月先生英語の本もちてお越しを迎へ、長沖氏と会はせしのち、出てアベノ橋でお別れし、安村妹、青山2生とcoffeeのみ、京都吉野書房へ17:00着。 保田[與重郎]、[小高根]二郎、長尾[良]、岩崎[昭弥]すでに[※破れ]芳賀氏来るをまちて宿屋までゆき「日本浪曼派」結成の準備と知る。岩崎12万にて[※破れ]集』出さんと若森、高鳥ときめしと云ふに、ともに出て歩き乍ら「官吏教師は止めとこ」と保田の[※破れ]我の浪曼派に入れざりし理由と云ひ、全詩集はこれまた保田の思はざる所ゆゑ止めよといひ [※破れ]書房で森槐南『杜氏講義3冊(600)』、辻『武家時代と禅僧(80)』買ひて「れんこんや」の[※破れ]、京阪の切符買ってもらって別る。岩崎には気の毒なりし(芳賀5月より近大に教ふと)。 12月19日 鳴田勝より家に着きしと。午后出て会社へゆく。杉浦部長と電話で話し賄人のbonus(安部4000池元4000辻2000)と我の分(10,000)受取り、城平叔父に4人退職を云へば父母に問合せ中と。原君に云ひにゆけば止めたしと会社きらふ故、仕方なしと。大手前にゆけば坪井帰宅と。家にゆけば吹田へゆきしと。ハリス『日本滞在記 上』と『プーシキン詩集』と買ひ、古本屋にて朔太郎『詩の原理(120)』『大和の古墳(130)』買ひて帰宅。bonus頒つ。 12月20日(日) 西保嬢より24日(木)電話かけると。午後、学苑新聞の記者とて新米1年生2人来り、学校へ電話せしも埒明かず詩かきてもち帰らし、松本、山口に会はんとゆけば亀井、荒井に会ふ。亀井、術つかはざれば身体検査に通らざりしと。荒井10月退院せしと。夕食たべて帰る。 12月21日 『文芸日本12月号』、午後会社へゆき徳野へ竹村課長と屎尿汲取代と餅搗代もちゆく。康平叔父昨日退院せしと。丸善へゆきしも買ふ気にならず。十合へゆけば百済生Arbbeit中にて見付く。990分本買ひ、梅本に会ひにゆき松本一秀に電話すれば1000出せしと。17:00今川へゆき久美子と話し、出て春月『ゲエテ詩集(30)』。アベノ交叉点で『日本古代史(100)』。帰れば永野要助退社したしとて来る。 12月22日 10:00家を出て近鉄departで『芳賀八一遺著(130)』、今高へゆき筒井信義より昼食おごられ、出て霞町まで歩き『森鴎外妻への手紙(30)』買ふ。中共より直接来る由にて本やすく『杜甫伝』も110なり。天六行の市電にのり鳴尾町で下車、『[日本文化史上に於ける]利瑪竇の世界地図(30)』買ひ山本事務所へゆけば山本仙台行と。松川事件死刑4人と。佐瀬と出て古本屋歩き『海南島(30)』『特殊ブラク2000年史(100)』『孤猿随筆(150)』『東洋史教授資料(120)』、三浦周行『国史概説(20)』と買ひ漁り、news映画見て佐瀬と喫茶して別る。(1月1日に来よと云ひやる。渡辺恵、生きて社長と)。中川、高野2生教員試験失敗と云ひ来る。 12月23日 家居。米屋回中、餅米3升もち来る。上村肇(諫早文化協会)より再び勧誘。 12月24日 10:00出しも保険証とりに帰り12:30学校へ着く。岩橋女史の夫君、嫁探しの同窓紳士つれ来らる。album見せて話し、学院の院長室で待ち(鴎外全集31回受取560円)、14:00忘年会。我、おでん食ひしのみ。弁当もちて小使さんにやり、電話にて待合せ約束せし西保嬢を20分待ち(高島屋古本部)、春夫『陣中の竪琴(50)』見付く。ともに荒木君訪ねcafeおごられ、古本屋ともに見て『西鶴全集7冊(350)』買ひ、別れて[※破れ]店にゆき『米版encyclopaedia britanica(1500)』12冊を15日頃届けてくれとたのみ(金[※破れ]て戎橋。吉田出雲屋で夕食。「面影」にゆき日中文化協会に出て今川君にて泊る。けふbonus[※破れ]と15,000と貰ふ)。watch500にてx君より買ふ。 12月25日 10:00朝食。天地書房にて朔太郎『昭和詩鈔(50)』。busにて天王寺、斎場前で下車。歩きて[※破れ]のみしあと藤井寺にゆく。理事長への歳暮、handkerchiefや化粧匣宜しからんと。十合社長死して叔[※破れ]上京中なりしも今日帰阪と。上平、百済の履歴書よき日を見て渡してくれとたのみ、久美子より家庭の不和きき、小野和子のことたのみ(1500万円の財産家と)て帰宅。 悠紀子に金わたせば(―)ゆゑ828のみもらふ。(時計は止りしゆゑ修理たのむ。28日出来300円の予定と)。『文芸クラブ4』、山前実治より井上君の原稿来ず発行遅れんと。北野雅子より『文芸クラブ』見しと。西保嬢より入れちがひに手紙。百済、上平2生より煙草10ケ。夜、半田祐子よりお歳暮送ったと速達。 12月26日 家居。粉河の小林氏より羊羹贈らる。悠紀子、依子、京の2児つれて十合。topper coat(2300)買ひ来る。弓子留守番して世話す。史は補習。 12月27日(日) 家居。山中タヅ子よりはがき。山前実治君より明日16:00三和書房へ校正へ来れと。12:00高野敏子、坊やつれて来り、山川夫人の言に試験に通ればあと引き受けたと。方中へ通信。竹田龍児氏へ「懐旧」よみしこと、鍛冶和枝へ杉浦夫人へ紹介状。その他ハガキ。 夕方年賀状を和田、白鳥、岩井、岡田、隅田、西角、本庄、日野月、太宰、神崎、石浜、神田、篠田、宇都宮諸教授、河村、田村2doctor、林、大江、田中昌三諸叔父、斎藤堅太郎先生と20枚書く。 12月28日 寒し。12:00出るとき郵便受取る。八木嬢より妻子へ4日に来ると。鶴身生よりハガキ。上村氏より伊東詩碑、個人の素志と無関係と。 大高7回東京会より寄せ書。久保、保安庁に転任、井上摻、生きてああ大阪へ来ると。 会社へゆきsalary預り、宝国寺へ300香奠50わたし、小野昭典の退職希望を原課長に云ひ、14:00発京阪特急にて三條。古本屋見、(彙文堂へゆき『三国史記(1000)』『文選(650)』、金沢『日韓字典』註文)、石原『鄭成功(40)』『台湾を語る(50)』買ひ三和書房。荒木君を除く5人そろひて校正。れんこんやへゆき(『カロッサ詩集(35)』『飛騨の女たち(40)』買ふ。)15日14:00大阪で会合ときめ、400払ひて20:30出る。留守に小野和子来り、羊羹くれしと。青美智子より歳暮来しと。 12月29日 5:00まで眠れず。9:00竹村氏来り、餅米おきゆく。賄のsalaryわたす。山本恭子、実子姉妹より礼状。上野より帰郷せしと。徳永昭子嬢よりneck-tie贈らる。 [※以下欠] 田中克己日記 1954 【昭和29年】  前年、小高根二郎との話題に『コギト』の後継誌に『スム』といふ誌名がのぼり(『コギト』の語源「cogito ergo sum:我思ふ故に我あり」から)、年末には実際に芳賀檀を京都に迎へ、保田與重郎をとりまく雑誌『祖国』のブレーンたちを中心に「日本浪曼派」の再結成の動きがありましたが、翌29年も後進詩人の高橋重臣らの加入を小高根二郎がとりつけ田中克己に参加を促すなど、日記には引き続いての動向が記されてゐます。  田中克己はすでに京都・近江時代にできた新しい詩友たち5人(依田義賢、荒木利夫、山前実治、井上多喜三郎、佐々木邦彦)と共に、『骨』といふ同人誌をこぢんまりと発足させたばかりであり、職場の帝塚山短期大学においては女学生たちに囲まれ、旅行だ・卒業だ・就職だ・お見合だと何かと手を焼き、頼りにされては、彼女らと行動を共にするプライベート時間もないやうな教員生活を楽しんでゐるやうに見受けられます。  戦後の評論活動を本格的に始めた保田與重郎に対しては、信奉者が集まるのは人徳として、しかし高等学校の同窓会に顔を出さうとしない水臭い態度には、かつて野球部に籍を置き旧制高校の友情と付き合ひを大切にした田中克己にすればあきたらぬ思ひがあったやうです。一方で、ライバルと称された亡き伊東静雄の詩碑が建ち、職場の講演会に呼んだ文人の今東光からは保田與重郎こそ小林秀雄とならぶ当代の評論家であるとの敬服のさまを見せつけられれば、すでに文学史に刻まれつつある彼らに対する、盟友としての喜ばしさとは裏腹に、保田與重郎が『祖国』の伊東静雄追悼号に記した「日本の3人の詩人」において自分が外された落胆についても、あらためて察せられるといふものです。  結成時にはお呼びの掛からなかった「日本浪曼派」の一員として迎へられ、今更ポレミックな文学的行動を共にすることに、詩人としてのモチベーションは上がらなかったでしょうし、もともと汎アジア主義者だった田中克己が、戦後も尊王攘夷を掲げて節を曲げなかった保田與重郎と歩調を共にすることは考へられないことでした。当初の「日本浪曼派」に彼が迎へられなかったのは、思想的に竹内好に近い違和感を東洋史学者としての田中克己に保田與重郎が感じてゐたからではなかったか。そしてかうした思ひが、戦後の民族派と呼ばれる論陣のなかに積極的には身を投じなかった田中克己の底辺にもわだかまってゐたのではないか、といふのが私の考へです。それをやがてはっきりさせるのがキリスト教への改宗だったのかもしれませんが、今しばらくのところは、『日本浪曼派』再結成に積極的な小高根二郎と、この後どのやうな経緯を経て(保田與重郎を欠いた)『コギト』の後継誌ともいふべき雑誌『果樹園』の創刊へとこぎつけるのか見守ってゆきたいと思ひます。  さて田中克己の仕事が戦後ふたたび世間的に認知されるのは、実はこの年あたりからではなかったでしょうか。それは詩人として関西のリトルマガジン『骨』で始めた詩作ではなく、中央の商業出版社からの需めにより出された訳業においてでした。具体的には、それまでも三興出版部、角川書店、酣燈社と版元を変へて何度も出しては絶版になってゐたハイネの訳詩が、4度目となる角川文庫の『ハイネ恋愛詩集』に至って当たり、刷版を重ねはじめたこと。またこちらは漢詩ですが、すでに戦争末期に出されたものの戦時色とは関はりなく識者からの評判もよかった『李太白』の評伝が、こちらも折からの新書版ブームによって再版が刊行され、刷を重ねたことにおいてでした。  これを受けて昭和16年に透谷賞を受賞した『楊貴妃とクレオパトラ』も同じ元々社から新書になりましたし、『ハイネ恋愛詩集』に至っては、(おそらく文庫ブームのほか「恋愛」といふネーミングもものを言ったと思ふのですが、)再刷25回をもって改版、さらに20刷以上と、30年余の長きにわたって田中家の家計を助けてくれたことを訳者自身が語り草にするやうなベストセラーとなりました。ちなみに『李白』も新たに訳文を付した評伝を筑摩書房から出すこととなります。田中克己とは本来気質的には縁の薄い大詩人李白ですが、日本における評釈の一人者として定着する下地が出来上がってゆくことになりました。  それから詩とは別に、前川佐美雄ら関西の歌人たちからも一目置かれてゐた彼の、自身初となる歌集の出版計画が、この年の年末に立てられてゐます。けだし田中克己の代表作として詩篇ではなく、 「この道を泣きつつわれのゆきしことわがわすれなばたれか知るらむ」 といふ『詩集西康省』の巻頭歌を挙げる人も多いのではないでしょうか。良家の子女が多かった短大の教へ子の中には、自費出版の面倒まで見てもらった西保惠以子氏のやうな短歌の弟子も現れ、先生として、そもそも歌日記「夜光雲」から出発した詩人として、一冊の歌集くらゐ持ってよいとの決断を促したもののやうに思はれます。  翌年刊行される歌集『戦後吟』は、また更にその翌年に刊行される詩集『悲歌』とともに、さうして戦後の田中克己の文学上の区切りとなる出版物となるのですが、これが同時に生活上の区切りを意味するところともなるのは、処女詩集を刊行した時と同じです。すなはちこの夏には久しぶりに上京して、東京で出世してゐる師友たちと久闊を辞し、この「大高・東大人脈」を利用して、上京・転任の可能性を模索し始めてゐるのです。すでに東京には異母弟である西島大(ひろし)がシナリオ作家として立ってをり、両親を呼び寄せる計画を立ててゐる最中でありました。  高校時代からの親友西川英夫(東京建物)は、大阪での山本治雄(弁護士でのちの吹田市長)とともに、学究生活とは関係ない、世間的に一番頼りになる出世頭のツレでしたが、同じく関口八太郎氏も陸上自衛隊の幹部となってをり、これはやがて田中克己の上京後に防衛大学の兼任講師となった際のコネとして働いたことと思はれます。  もっとも盟友かならずしも成功者ばかりではなく、ここで日記に再登場するのが戦争末期、互ひの身の上を語り合った小高根太郎です。やがて富岡鉄斎研究の第一人者となる彼もこのときはまだ、多くの文学者に倣って共産党に入り出世街道を棒に振った一教員にすぎませんでした。田中家とは上京後に親しい往来が復活しますが、この夏ひさしぶりの再会では、かつて昭和19年当時、徴兵を免れ得まいかと世田谷区喜多見の軍需工場にあった薄井敏夫を一緒に訪ねたことを思ひ出し、昭和25年4月に病没した彼の旧宅を再び訪問、結核に侵された未亡人が窮状にあることにショックを受けてゐます。  この年のトピックとしては他に、自身は出席しなかった伊東静雄の詩碑建立式に出席した、伊東の同級生で中国文学者・詩人でもある蒲池歓一を迎へ、柳井道弘(三千比呂)とともに大阪の史蹟を案内してゐますが、岐阜在住の管理人としては、詩人と教へ子の一向が観光で当地を訪れたことを特筆しておかなくてはなりません。  折しも長良川の花火大会に合せての来訪であり、彼を接待した岩崎昭弥は同時に保田與重郎一家も招待してゐたやうですが、両者は結局同伴することなく、詩人は折角の花火を楽しむこともなく岐阜市美江寺町の「すみよしや」にて飲み明かし、翌日は犬山をめぐって彦根経由で帰還してしまひます。岐阜に移住した江口三五、伊藤賀祐の旧友らとは旧交を温めた様子ですが、けだし江口氏は人権派の弁護士、伊藤氏は岐阜大学医学部の国手、また保田與重郎に心酔する岩崎氏はのちに社会党の代議士となるのですから、思へば田中克己の思ひ掛けない人脈には驚かされます。  そして意外といへば、戦時中の日記には悪態が記してあった竹中郁を神戸から、また人気俳優となった芥川比呂志を、学生のリクエストに応へて職場の帝塚山短期大学の講演に呼ぶことに成功してゐます。一体にこの大阪での教員時代、自身の就職活動に限らず、依頼・斡旋・折衝など友人知人のために骨折り迅速に行動に移す様子は、最晩年の炬燵に端坐する姿しか知らない私にとって全くの意外な一面でありました。山本治雄の法律事務所で茶飲み相手にされてゐた佐瀬君(佐瀬良幸氏)もさうですが、女子大の先生とはいへ、この先いったい何組のお見合に関はってゆくのか、もし私が尋ねたなら「斯様の下事は、人に君たる者は必ずしも通ぜず。保田なら関知しないだらうね」と一笑されたかもしれません。 昭和29年1月1日~昭和29年10月31日 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き ノート   田中家系図 1月1日 9:00起き10:30より寮生2groupに[分]れて年賀に来りしに屠蘇のませ、年賀状258通受取る(内102通は在学生)。それをよむ中、佐瀬良幸来る。西田長寿編『都市下層社会』呉る。 午后守屋美津雄氏、韓国人李氏つれて来り、池内先生の本3冊ゆずられたしと。祖国社へ紹介状かく。半田祐子より海苔賜ふ。弓子circusへ細川父君につれられてゆきしと。辻賄病臥とて挨拶に来ず。(よべ2:00まで忘年会とかで酒のみしらし)。 1月2日 賀状13枚。榎本すみ子より病院のこと。賀状の返事50枚かく。少雨。浜松の保安隊に入りし広瀬来る。 1月3日(日) 賀状35枚。新潮社より堀辰雄全集のため8日までに3枚をと。斎藤加寿栄より教務上の問合せ。午后中野トシ子来り19:00までゐる。賀状の返事70枚かく。中野清見22日大阪着と。 1月4日 雨。賀状11枚。高野敏子合格と、めでたし。史、担任先生の家へ遊びにゆく。父より電話。健父子昨日より来をり、けふ帰ると。八木嬢来るかと思ひしに来ず。「李白」書き出せど旨くゆかず。 1月5日 曇。賀状36枚。竹田龍児氏より。百済璋子より家庭の事情。西川良江より府教委検定通りしと。13:00八木嬢来る。賀状その他30枚かき投函してもらふ。夜、史を叱り何か特徴を出せといひしに泣寝入。大江叔母に百済生たのむの手紙かき、明日悠紀子をゆかすこととす。 1月6日 晴。悠紀子、京をつれて大江へゆく。16枚賀状。中に植村清二先生のあり。ひる出て京橋より山本事務所へゆく。米沢昭子けふ来るとのハガキもらひしゆゑ電話して断る。山本へも本宮より22日来るとしらせありしと。天満へゆき、帰れば『骨』2来をる。大江叔母、百済のこと承知といひしと。房子3日ほどして来ると。 p1 1月7日 堀辰雄氏の思ひ出かかんとするところへ佐々木邦彦氏来訪。書初めとて苹果の絵賜はる。賀状9枚。西保嬢より出版を父上援助したまはると。午后、文芸1年の米沢昭子、上田阿津子(ともに奈良[高]卒)来り、漢文の点きき学校面白くなしと云ふ。上田嬢はあやめ池住なり。夜、書き直し書き直しして「堀さんと四季」(200×7)やっと書き終ふ。 1月8日 弓子けふより始業。「堀さんと四季」速達で送らす。賀状6枚。史に坪井の『骨』托し、芳野清、林富士馬へ送る。 1月9日 原田運治へ『骨』1、2。10:00ごろ一寸ひるね。12:00出がけに長尾禎子より賀状。小高根二郎より明日小野十三郎の会で来阪と。蒲池欽一氏より十和田操にきいた、『骨』呉れと。会社へ寄り読売埜沢君に『骨』をと受付へ。大毎へゆく途、高尾に寄り『encyclopaedia』。きけば14日もって来ると。大毎へゆき天野愛一に『骨』わたせば地方版のみに紹介出しと。文章巧しとほめて呉る。朝日吉井君は欠勤。 15:45不二屋にゆく。吉川、東、中馬、伊藤、鍛冶姉妹(姉離婚せしと!)、峯、後藤田、斎藤、酒井、椿下、寺本、野崎、疋田、平山、藤野、堀、本多、松井、宮沢、山口、山荘、山中、山尾、吉原、藤田、和島、28人に長沖、西宮二先生と盛会なり。出て斎藤、堀と喫茶。天牛南店にて鈴木信太郎訳『ボードレール(120)』『古典全書増鏡・蜻蛉日記(50づつ)』買ひて21:30帰宅。 1月10日(日) 朝食後、ひるねしゐしに久美子、正平、隆平自動車で来る。十日戎への途と。午後、藤野生、松本一秀の帰りとて来る。夕方、鳴田帰郷の挨拶に来る。電話料1380(内市外430)。けふ白鳥清先生より賀状の返事。 1月11日 斎藤加寿栄より一年間の休学願。鳴田、松尾部長に被[覆]へ職場転換願出て、きかれざりしにより退職したしと。杉浦正一郎より10日出の賀状! 1月12日 登校、賀状学校へ8通。12:30東井夫人来り、金杉博士より音沙汰なかりしと。今週中に幼稚園長にききおかんと云ふ。百済生には藤井寺へつれゆかん。高野敏子には上野共へつれゆかんと約束す。彙文堂より本つきをり。『研究年報1』出来上り、抜刷もらふ。15:00硲君来り、ともに喫茶。春夫の本は賜ふと。出しところへ山本重武君と会ふ。けふ『文芸春秋2月号』買ふ。 留守に宮本正都夫人来り、合宿に困惑と。本田晴光氏よりハガキ。(けふ丹波道久より16日10時より講演をと)。 1月13日 雨。昨日より憂鬱なりしが会社へゆき鳴田のこと城平叔父に云へば原課長呼び出され変なりし。出て近鉄で散髪(150)。有馬に会ひ本屋で島本、藤原2生に遇ひして幼稚園。佐沢園長に会へば欠員なしと。森校長に云へと。父とは知合と。出てアテネ文庫3冊買ひ学校。教授会。今年学院よりは39名より来ずと。すみて彙文堂より来し『文選(650)』『三国史記(1000)』『日語類解(400)』『支那に於る昏姻及び家族史(300)』もちて帰宅。鳴田呼びて話す。 1月14日 晴、出勤。高野敏子来り、斎藤先生けふ来よと伝へしと。午后漢文の追試験をす。(青生skiにて骨折、泣くと)。追試験中、小野和子と話す。兄の知人と今夜映画にゆくと。15:00出て上野芝。学校までゆき引き止められてすし御馳走となり、はるみ君と3人にて駅前まで歩き帰校、夜学。(けふ高尾よりEncyclopaedia Britanica 1905、12冊と『淀川文化史叢考(380)』着く)。 帰れば鳴田来り、原課長大分怒りゐると。津田侑よりハガキ。Geoffrey Bownas氏よりバタビヤ城文書を呉れと。中村孝志と間違へしならん。 1月15日 鳴田来り、中西doctorより診断書もらひしと。八木嬢よりハガキ。11:30出て近鉄百貨店。土鍋のこときけば2名来て送らせしと。東井家へゆき佐沢園長に紹介状かき、地下鉄にて戎橋。中山書店で堀口大学『男ごころ(70)』買ひ、荒木利夫の勤先にゆけば已にあり。 やがて山前、依田、おくれて井上と5人(※『骨』同人)そろひ、beerのみてのちMunchenにてまたbeer。千日前にゆきてまたbeer。最後に“Degas”といふ喫茶店にてまたbeer。戎橋ではぐらされて帰る。 1月16日 出るまへ鳴田来り、共に京橋までゆきて別れ、片町10:00。やがて迎ひに来し自動車で警察学校。雄略天皇の話をし、すみて武田製薬の佐竹彬氏と一寸話し、天丼よばれて大手前高校。坪井に会ひて田中米店の話すれば成績見せよと。嬢ちゃん十合[止]めたしと。出て近鉄百貨店でpastel2ケ買ひ藤井寺。途で北村ウメノ氏に会ひ、叔母留守ときき、ゆきて房子に会ひ、電話かりて和島美禰子呼べば留守と。14:55のbusにて羽曳野病院。榎本すみ子大分元気らし。15:35またbusにて藤井寺。 松原にて下車し肥下家へ寄れば肥下、畑と。この間(※12月28日芳賀檀歓迎会)は時間おそくなりて来られざりしと。 アベノ橋より寺田町で下車。石塚書店で春夫『夢を築く人々(40)』買ひ千林へゆきしに松尾部長、西山博子ともに未帰宅。散歩して『病床六尺(40)』見付け、なべ焼きうどん食ひ、coffeeのみしてゆけば部長夕食中。ややして話きき鳴田に便宜計りしと。会社[止]めたしと。ややして博子来り、20:00すぎ辞去。(けふ岡本和子訪ねしに母上あり、和子つとめゐると)。蒲池欽一氏より『骨』の礼状。林富士馬より同。西保恵以子より柳田国男よむと。中野清見(※岩手県江刈村村長)より22日20:00大阪港へ迎へに来てくれと。 ※〈一月十六日 午后、砂ノ豌豆ウネノ土寄セスル。六ウネ済ム。留守中、田中克己来訪。夕ヨリ雨。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 92p 1月17日(日) 麓明子より賀状!鳴田、恋人へ会社つづくるとの証明書かかす。16:00出て梅田。柳田国男『日本の伝説(80)』、時計の革買ひ(250)、rice curry食ひ、帰途亀井母子に会ふ。 1月18日 晴。10:00家を出て西垣、島、竹内、安田へ『骨』。高鳥に「雄略天皇のこと」送り、京橋より扇町商高沢井を訪ぬれば試験監督中。木村三千子氏訪ねcafeよばれ引返して沢井に会ひ、中野清見の歓迎会を23 日18:00より北のMunchenにてと定め、北府税務署に田中幸臣訪ぬれば長尾病院に入院と。山本事務所にゆき佐瀬君と話し4:00まで待ちしも山本帰らず。土田にて柳田国男『桃太郎の誕生(80)』、高尾にて蘇峰『豊臣氏時代 甲乙丙(150)』買ひして朝日。後藤に会ひ中野の会のこと伝へ、紡績機械に荒木利夫訪ねて『骨』同人費托し、天牛南店見などして帰宅。鳴田今夜帰郷とて2400、11月分の食費として置きゆく。 1月19日 登校、salaryもらふ。税少し多し。大谷短大の吉井巌君より電話ありしと。きけば修学旅行のこと。守本氏に返事してもらふ。川端直太郎氏の紹介にて布施女子高の受験につき大高の後輩。15:00すみて骨折の青生見舞にゆく。帰り白村『近代の恋愛観(50)』と『今昔物語4』買ふ。和島美禰子より謝り状。母、肺病の見舞をきらふと。けふ羽田、松本、川久保へ「雄略天皇」送る。 1月20日 学院より史、依子の在学証明書急いでもち来よと。12:00すぎ出て会社。鳴田の2400と電話料370と会計へ。寮の炊事止めんと云へば庶務課長賛成す。佐瀬君に電話すれば山本出て迎へにゆくと。大手前高校へゆけば坪井授業中。石山氏に手紙托し、史の証明書もらひ、阪急の古本屋へゆく。春夫『東天紅(120)』のみ。山本事務所にゆき喫茶中の山本と菅原弁護士に会ふ。また山本事務所にかへり古本屋見て帰宅。中川いつじより[蒺藜]の痛さ知ると。芳野清君より『骨』の購読料500。 1月21日 登校、石浜先生、楳垣先生に「紀州植物方言」の稿もつ中学校校長先生。午すぎ西保嬢より電話かかり13:00高島屋へゆきて会ひ、喫茶後、荒木利夫氏訪ぬればしばらく待てと。また喫茶して待ち、やがて来りしに日中友好協会やめを云ひ、芳野君の500托し、別れて大丸の古書部へゆけば久美子に会ふ。3人にて”Degas”へゆき喫茶。天牛休みとて千日前でスバル座に「二つの男の世界」といふのを見んとすれば西保君逃げ、久美子と見、中休みに昌三叔父を見付け(今川叔母胃潰瘍と)、久美子引渡して夜学へゆく途、上町線にて山城生に会ひ職員室へつれ来り、長沖氏に会はす。帰れば安田氏より『骨』の受取。榎本すみ子より礼状。 1月22日 登校、小野和子また結婚申込受けしと。15:00まで時間つぶし新世界の本屋へゆきて中国書見しも何もなし。市電にて鳴尾町下車。山本にゆけば本庄先生をらる。17:00すぎ共産党の渡辺氏と4人にてCezanneへゆき山本酔ふ。 19:30円タクにて築港へゆけば中野清見待ちをり、山本の前の宿屋に荷物預け心斎橋へゆき八幡筋みのやにて夕食。道頓堀を歩き中野喜ぶ。D[i]tsにゆき23:00出て宿。中野と我と人吉での女按摩をとる。 1月23日 10:00朝食。日本レーヨンの増山に電話すれば東京出張。村山高氏に電話すれば午来よと。11:30出てゆけば短大文芸1年のtypistあり。昼食よばれ20年ぶりの話し、13:00出て朝日、後藤呼び出せしも忙しく大丸、十合へゆく。妻にとnylonの靴下買ひ呉る。梅本(※梅本吉之助)に今夜来よと名刺置き、宿に引返して将棋。17:30北のMunchenにゆけば田中(前田)政雄あり。沢井、江馬、に後藤、富山あはせて8人。宿に引返し高垣来りしと記念写真とりてわれtaxiにて片町、帰宅22:30よべ小眠にて疲る。 1月24日(日) 雨。島稔よりハガキ。中野清見のこと書きてあり。中村孝志氏より「台湾の鯔漁業」の抜刷。 1月25日 寒し。朝、電話かかり10:00田中季雄夫人来訪。やがて兄竹村氏来り、坪井に紹介状かく。『法政文学3』来る。年賀状の抽籤にて7枚当りしを悠紀子とり来る。史、坪井の手紙もち帰る。●岡生の服飾入学について便宜計らへと。 1月26日 よべ雪降りて積りゐる。登校、土曜保田夫人来しと。高野生堺市長夫人の紹介状もらひしと。高校の6時間目を3時間目にかへて14:30すみ、藤井寺。大江叔母をり百済、上平2生のこと叔父にたのみしと。小野生の写真わるしと。すぐ出て近鉄departで岩波新書『纏足を解いた中国 上』買ひて帰宅。保田夫人より、みづ穂(※保田與重郎長男)天高入学につき教を乞ふと。 1月27日 10:00片町へゆけば丹波すでに在り。ボロmotor-carにて警察学校。「豊太閤」の話す。校長上野芝に家当りしと。出て大手前高校。保田夫人、坪井にも頼みてありと。田中季雄夫人きのふ訪ひしと。出て山本事務所、この間の宿料8000なりしと。和島美禰子に会へば鍛冶初江浪曲師を好みしと。出て天満橋。『赤光』買ひbusにて会社。salary受取りて帰る。川久保より抜刷の受取。補導課長をしゐると。千川より中西に見てもらひ休養ときまりしと。 1月28日 登校、寒し。国文学史最後をやる。上平、百済に大江叔母の言伝へ、萩原天満に青生見舞云ひしに今日は都合悪しと。小野生を大丸に写真うつしにつれゆき「面影」へゆきしに竹内いま入洛と。近鉄案内所へゆけば野崎在り。鍛冶姉妹元気と。天牛南店で『城壁(50)』(大丸で『漢文指針(120)』)、別れて「いづもや」へゆく途中、津熊照子にあひ汁粉食ひて帰校。 長沖、小野2氏休講、1時間目にやることにせしに小野より電話、大江叔母、土曜夕方は都合悪しと云ひしと。山中たづ子より電話、来るとのことにて授業すまして待てば来りてタバコ呉る。 1月29日 登校、小野3日に藤井寺へゆくと。藤原の言によれば松本喜久子生reportを人に書かし楽しみは酒席のみと。高野、三国丘中学校長に会ひしも空席なしと。天満生を呼びて先ゆかせ14:00すぎ青生の家へゆけば起きゐる。漢文の宿題与へ、淀川の参考書かして天満生と出、coffeeのませて別る。西保嬢より推薦入学に星林の楠戸規美子つれゆくと。千川義雄より俳句の評。 1月30日 杉浦氏入用と蒲団4枚もちゆく。午後郵便、中野英夫より来ざりしが病気かと。武田君らの『鬼1』。夜、鳴田、中西doctor来週日曜15:00すぎに来よと。 1月31日(日) 晴、中野英夫にわび状。武田豊に祝状。午后悠紀子阪急departへ2児つれてゆき、その留守に守屋君にゆきしも不在。(野崎君より新年宴会の写真来る)。神田博士、信夫君、和田先生、篠田先生、天理山崎忠、中村孝志、朝鮮学会へ「雄略天皇」の表書す。悠紀子手袋買ひ呉る。100と。 2月1日 筑摩書房井上達三より『李白』2月末迄にと。午后出て山本へゆけば井上摻と倭周蔵15:00朝日の後藤の許へ来ると。出て高尾でH. B. Morse『The international relations of the Chinese empire (400)』買ひ、吉永孝雄氏にcoffeeおごられて同社、3人にて梅田のおでんやにゆき、山本を待つ。我17:00出て天満。親子丼食べて帰宅。(倭、潜水艦を造ると。能勢Singaporeへゆきしと)。 2月2日 晴。登校、藤原生来り、中川生恨むと。高野生、斎藤先生ことし限り退職と。小野生に明日大江へゆきて金曜叔母の都合きいてくれとたのむ。上平、百済2生のためなり。すみて藤原生と出、近鉄depart五階でcafeのます。渡辺鐐子より手紙。守屋君より朝日会館へゆきゐしと。千川義雄より幼稚園の保姆をと。(けふ藤野朗子姉よりの手紙忘れしを云ふに電話すれば何事もなしと。父君病気と)。保田と竹田龍児氏へ「雄略天皇」。千川へ該当者なしと返事。 2月3日 9:00前登校、無試験面接。後藤田府議より1人たのむと手紙。白井三郎より電話、子供のことたのむと。17:00すみて来合せし前川、宮沢、堀3生とナンバ。長沖氏よりcafe御馳走となる。津熊、西保2嬢よりハガキ。成蹊[吟]社詠草。吉田太退社せしと、さっさと退寮。 2月4日 8:30登校、13:30までかかりて面接すむ。堀の母より電話、近々会ひたしと。妹に来週火、木の午すぎと伝ふ。小野生、大江叔母に会ひ写真また悪しと。明日16:00までに来よと吾に。20:30までかかりて判定すみ、わがたのまれし(星林)楠戸、(市施女)岩本の文芸はもとより坂田(池田)、糸岡(大手前)も入る。帰れば坪井より結果しらせと。(帰りがけ主事「発表まで云ふな」と)。眞野喜惣治より上田局長に転任につき話しくれよと。篠田先生より抜刷の受取。山前より6日16:30三和書房へ校正に来よと。 2月5日 ゆきがけアイワ幼稚園申込にゆく悠紀子・京と共にし、登校すれば堀亘の母より会ひたしと。17:00近鉄5階でといひ、昼食時、松本喜久子よび体操たのみにゆかして卒業さすこととなる。 長沖、西宮二氏協力。14:30百済、上平2生と藤井寺にゆけば、大江叔母全身痛と。予告せざりしと叱らる。「出来るだけ運動するも他もさがせ」と。憂鬱。茶おごりて吹雪の中を百済生と別れアベノ橋につけば堀生迎へゐる。母君より話きけば「交際数ヶ月の人あるもまま子にて陰気なる故いやとなりし、先生かはりあれば云々」と。まだ先方に通ぜずと云ひてあやまらる。帰れば京、入園手続すみしと。史、きのふより夜まで図書室、坪井の手紙預り来る。 2月6日 10:00家を出て大手前、坪井に会へば糸岡破産の為何もききに来ずと。無試験入学の女子短大しらべ、府庁にゆきしに後藤田府議来ずと。白井にゆけば不在。散髪し(200)、また20分待ちて会ひ長男を今高にときき、昼食くひて別る。『詩経(目加田訳)』買ひて饗庭君訪ね、茶。菓子ふるまはれ向ひが汎愛[高校]なるに気付き、寄りて蛇口三郎に会ふ。禿げゐたり。北浜2まで歩きて天満橋、京阪三條より歩きて三和書房にゆけば山前、依田。17:30みなそろひ校正すみ、依田、佐々木他へと去り、河原町角にて夕食し、三條にて別れ京阪書房にて内田『日本経済史概要(120)』買ひて帰宅。中野清見より東京転任、丸に話せしと。田中定子来り、従妹の木谷、補欠となりし故、宜しくたのむとなり。 2月7日(日) 11:00田中定子より電話「院長に云へ、心配なら来よ」と云ひ15:00まで待ち、桑田博士をお訪ねすれば次嬢、四條畷高校を出て三越に勤められ洋裁にやらんと。出てbusにて小阪、山口の家訪ぬればミシン屋廃業の様子なり。堀内によりて聞けば肺患入院かと。 市河三喜『言葉(70)』買ひ松本を訪ねしに散髪。中西にゆけばをり20:00まで引留む。碁一番やりて夕食賜ふ。松本にゆきて(馬場、山地2先生にと中西より1000預りし)。嬢、保姆資格をとらさんとの話きき22:00出て帰宅。 2月8日 家居。〒なし。事なし。 2月9日 登校、漢文試験。松本喜久子、体操の先生を訪問、便法おそはりしと。百済、[中小]企業にてもよしと。高野、堺市教育長へ山川課長より紹介受けしと。小野見合すませ返事あらばしらすと。白井より電話。疋田より電話。堀妹、母君礼云ひゐしと。すみて今高へゆき筒井に中西の金わたし白井のこと云へば引受けたと。馬場、山地両先生の金6500づつ位と。 帰宅、神田信夫氏より抜刷の礼。西保恵以子より28年京大農経出の梅田善彦氏の身許たのむと。鈴木治氏より抜刷くれと。(けふ田中定子、遠縁ゆゑ宜しと。蛇口三郎より電話。) 2月10日 家居。大塚呼びて聞けばいつまでもゐたくなしと。山中タヅ子より婿の世話不要と。竹田龍児氏より抜刷受取。 2月11日 登校、安村妹、結婚式の写真をもち来る。院長より梅田善彦君、母堂に会へとのことに会へば「親類に知事2人あり、岩[出]の旧家にて西保家は成金の、それも大したことなき家なれど云々」と。不快なれどほめ、文学好きを明かして帰す。あと電話かかり西保来るとのことに待ちて、疋田生呼び文芸クラブの原稿わたし、丹波道久より20日また講義をとの電話きき、西保と出て白井家にゆけば留守。播磨町bus停にて別れ、千川にゆき、中西の紹介の礼云はれ、引返して小野にゆけば返事まちて落着かざる様子。姉君に紹介うけ、ともに散歩して白井。夫人に筒井への紹介の名刺かき夕食。親子丼くひ(90)、帰校。 疋田、山中に電話し、来週休講と云ひて夜学終る。高野敏子より斎藤家へゆきしと。竹村氏より炊事を会社での件急ぐと。平井雅尾氏より蒲松齢のこと。 2月12日 登校、昼、疋田生来り、医師でも良し、30才までの長男でなき人をと。幼稚園に講演の長沖先生訪ね来年度、中・高兼任を止めんと云ふ。出て藤井寺。中谷母堂来りしとて返事は見合宜しく調べさしていただくとの由なれば、うれしくて小野の家へゆき伝へて帰れば電話。旧宅の辺にて聞合せされたら困ると也。『骨3』20冊来り、鳴田父より礼状。角川より48,650-7,297の申告せしと。常岡氏より礼として奈良漬。けふsalary出しが健康保険にて2000近く引かる。『鴎外全集27(520)』買ふ。 2月13日 9:00会社へゆきて竹村氏、今村部長と寮のこと相談し、重役会に任すこととす。11:30になりてbusにて大手前高校。坪井、吉永氏と話す中、天理大学祐田氏来会はす。出て山本事務所、佐瀬君と出て喫茶。News映画、また喫茶して別る。岩崎昭弥より徳永昭子嬢の式3月28日と。堀亘の母君好枝氏より継子の件、考へ直せし様子と、めでたし。糸岡清子氏より礼状。小野和子の手紙。西保嬢より『車塵集』。 2月14日(日) 今村羊子より木曜夜にでも本返しに来ると。上平生より家不況に付き嫁入支度稼ぎたしと。竹田龍児氏より祖父上の「懐旧」自筆版賜はる。けふ雪降り雨となり、晴れてより家を出、『骨』の会にゆかず。山権へゆきしこととなる。(「今年の計画」5枚書く)。 2月15日 登校、試験問題作らんと也。安村明美に会ひてともにゆき、小野生に会ひてきけば、土曜大江へゆきて話し、火曜また姉とゆくと。「世界史」と「試験問題集」高校より借り、西山卯二郎夫人に日野君への紹介状かく。 けふ伊東花子氏より手紙受取る。来月一周忌の相談なり。昼すぎ出て島本生にcafeのませて帰宅。定期買ふ(940)。山中タヅ子よりあやまり状。 2月16日 登校、東井夫人現はれ、願書提出、森校長に会ふとき何をもてゆかんかと。佐沢氏にきけと帰らす。タバコ1箱呉る。すみて浅香山。今村羊子にゆけば病臥と。父君より『武蔵野少女』返却さる。 堺脳病院にゆき肥下に会ひ、全田に引返し17:15まで待てば肥下来る。夕食ともに食ひ、在阪の片山の悪口きく。20:00出て天下茶屋をへて天王寺。悠紀子雨風の中を長靴もちて迎へに来るに会ふ。 けふ西山博士夫人来りしと。Tobaccoとcakeもらふ。鈴木治氏より抜刷受取。中野英夫より小林北海道より帰りし様子と。児玉実用より詩集送りしと。 ※〈二月十六日 田中、病院ヘ来訪、全田叔母ヲ訪ヒ、共ニ夕食ノ御馳走ニナル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 92p 2月17日 「死んだ恋人」2篇かき竹田龍児氏への礼状かき、児玉氏『さまよう星』と西保嬢の「見合すみ、第一印象良かりし。内緒で」との便り見て家を出、西山博士夫人に会へば泣く。日野君に会ひにゆき桂氏に横顔かかれ卒業生にsign求められし。日野君つかまへてきけば成績順と。教授会に出、補欠入学きめ17:00キリンビヤホールにて岩橋、小崎二君に会ひ、疋田生を推薦せしに一度内緒で見さしてくれと。よべ麻雀やりて1時間より眠らずと。支那料理やへゆきcoffeeのみて別る。 2月18日 登校の途、西山邸へゆきしに夫人出しあと。学校前にて追付き日野君に紹介し(岩崎君にまた紹介し呉れしと)、1時間すませ、青博士に会へば秘書一人採ると。長尾禎子来り、菓子呉れ、保証人にと院長たのみにゆきしが断らる。長沖氏につれゆき父君に会ふ。明治15年生れと。我母知りをられたり。出て幼稚園にゆきしも佐沢先生不在。住高(※住吉高校)にゆきしに山本、硲2君授業中。出て東井家にゆけば森校長見舞ひにゆきしと。市立医大病院にゆけば石浜君に会ふ。336号室に羊羹3棹もちてゆき、暫時話しまた東井家にゆきて帰る途、電車にて西宮君に会ひ雑煮食ふ。社会事業短大の田中卓君の「日本武尊」の評の抜刷呉る。帰りて『祖国正月号』受取る。「蘇東坡」のる。 けふ岩橋夫人にきけば吾を皮肉と夫君、山崎君云ふと。伊東花子氏に日曜にせよ、坪井、肥下呼べと手紙。 2月19日 登校、一年も最後の講義なり。百済生呼びて青博士のこと云へば5,000下はいや、奈良県の先生となると。上平生呼びて考慮さし、島本生に事務への応募すすめ、22日(月)9:30阪急前に長沖、岩橋2先生と集り桂離宮の参観監督にゆくこととし、守本主事に長沖氏と2人にて大学専門にしてもらふやう考慮たのみ、出てナンバ。 荒木君呼び出し(この間の[『骨』の同人]会にゆかず原稿まだと)、「面影」にゆき、野崎呼出し3人にて歌舞伎座で喫茶。別れて古本屋にて幣原坦『文化の建設(50)』買ひて帰宅。 饗庭君より電話待ち甲南への紹介をと。明日行くことを約して終る。けふ『文芸日本』『祖国』よりそれぞれ詩の依頼(文芸日本は大鹿卓氏なり)。 2月20日 警察学校へゆき「大塩平八郎」の話し、自動車にて瓦町まで送ってもらひ秀英印刷。饗庭君と話して待つ中、社長速水夫人来り、大毎に電話し天野君に道筋きき、新京阪にて向日町、壽岳博士に令嬢転学たのめば武田理事長に話してみんと。出て駅で別れ祖国社。みな出て不在。柳井君呼び戻し、「蘇東坡」神田、壽岳2先生に送り、山口輪子君つれて三條。喫茶し鍋焼きうどん食はせて別る。けふ宝国時より振替用紙。 2月21日(日) 家居。山前実治より児玉君の詩集評たのむと。伊東花子氏より肥下、坪井のこと承知したと。竹内[好]より『国民文学論』。 2月22日 8:00前、家を出、阪急前にゆけば9:00、30分待ちて岩橋、長沖2氏来り、新京阪にて桂下車。雪降り来る。11:00小出君となりて離宮拝観。2年20名余来る。すみてまた雪の中を駅までゆき、四條大宮よりtaxiにて三條河原町。長沖氏に昼食おごられ、依田義賢に電話して児玉君の詩集評たのみ、ゆっくりゆけど修学院前にて一時間あり。鷺森神社といふまで歩き30分待ちて拝観。16:00すみて加茂大橋まで来り、別れて三和書房まで歩けば山前君のところへ多喜さん来をり。ともに四条河原町までゆき上海といふにておでん食ひ、れんこんやにゆけば依田君、辻久一と話しをり。用談すみしところ紹介さる。昭和10年独文卒と。20:40山前君と七條まで同車、帰宅すれば大阪[雪]降らず。 元々社より齋藤晌『漢文入門』と浅野晃『現代の詩』送り来り、執筆依頼と。 『文芸日本』。大菊、安倍2生のREPORT。(れんこんやより祖国社に電話すれば奥西保君出て西保の歌のせてよろしと)。 2月23日 晴、家居。木炭10俵入る。小田、弟受験の為28日まで寮に宿泊させよと。 2月24日 徳永昭子氏より3月28日挙式、その前に河村DOCTORと来よと。硲君よりハガキ。西保嬢より明日連絡すと。12:00すぎ出て会社。父に会へばこの間BASE-UPにて張紙せしと。2,000もらひ大手前にゆき坪井に会ひ、すぐ出て法務局上田局長に会ふ。(はじめ不在と云はれし)。眞野君のこと云へば湖西へやらるることなしと。出て山本事務所。依頼とcafeのみtoast食ひせしも山本忙し(肥下の件引受くと)。 17:00出て高尾にて蘇峰『文政天保時代(80)』買ひ、京橋にて『婦人公論3月号』買ひして帰宅。藤原生より電話かかりしと。(饗庭君よりも電話。壽岳博士より報なきゆゑ行くといふに明日迄待てと伝ふ)。 2月25日 登校、歴史の試験をし、高校漢文の問題わたし、入試の校正をし、筑摩書房の土井一正氏来阪とのことに14:00迄に来れといひ、上平生よりも電話ありしに来れといひ、やがて来し上平と話す。青博士の研究所ゆくはいやでもなく応でもなしと。土井氏来り、3月末まで『李白』をと。小川[環樹]、吉川[幸次郎]2教授の推薦と。 14:00来し藤原生と3人にて戎橋に出、「面影」にゆき喫茶。土井氏、井上靖・富士正晴と友人と。Heine角川に書かされ損となりしを云ひて帰らす。松本来り、体操試験延期となりしを知らず。藤原と出て湊下車。歩きに歩いて春雄の役所へゆけば府庁と。家へゆき夫人に明日病院へゆくと云ひ、上野芝駅前で茶のみて別れ、ふと千川に寄り夕食よばれ、向ひの古本屋にて蘇峰『朝鮮役3冊(180)』と『東亜考古学論攷1(200)』と買ひて帰宅。 高野生より堺市教委の試験の模様を報ず。(けさ父に会ひsalary表、明日出せと)(西保和歌山より電話し来週金曜来ると)。けふ服飾の児たちと写真とる。●●れゆきて三苫氏より1,000借る。 2月26日 家を出て桂信子に遇ふ。10:30近鉄にて散髪。女理髪師に白髪1本見付けられし。日赤アベノ分院の南野氏に会へば15:00頃ひまと。田村春雄に会ひ、ともに森礒吉氏病室にゆけば入浴中と。東井、西山2家の件、名刺にかきてたのむ。春雄、金杉を知り東井を知りゐたり。昨日階上にありしと。出て時間つぶしに心斎橋。梅本を訪ぬれば席にあらず。News映画見てまたゆく。生島、神戸の支店長となりしと。15:30日赤にゆき中西の病院教ふ。自殺とて女舁き入れらるるを見し。 帰れば西保君より歌と手紙。相手氏、秀才と。斎藤生暖かくなれば丹波より出て来ると。佐瀬より9日(火)18:00労働会館にて堀さんのこと話せと。 けふ帰りの電車にて桑田博士と話す。『李白』書けよとなり。 2月27日 家居。藤原幸子よりハガキ。『東洋史研究12の6』。Report送り三苫君より1日迄に採点をと。富士[鋼業勤務分の]のsalary出る。 2月28日(日) 晴。家居。和田先生より「依然としてお若く少しも年を取られないので気強く存じました」と。伊東花子氏より7日(日)13:00より静雄一周忌と。百済生より大日本セルロイドへ就職運動すと。NHKより絵葉書原稿くれと。退屈まぎれに『延喜式神名帖』写す。 3月1日 登校、採点し事務にわたす。国文学のreportまだ4人出さず。高校漢文の試験問題なくなり日延べとなりしとて泉君怒る。明日やることとす。白井に電話すればこの間、筒井に会ひ歓談せしと。黒田製薬社長より大高クラブに長沖氏の話たのむと(3日の土曜)。佐瀬に電話すれば来よと。ゆけば山本をり佐瀬出られず。cafeおごられ自動車にて梅田。天ぷらうどん食ひ雨に降られて帰る。(けふ疋田嬢に会ひ金曜に来ると)。文芸一般●●少く、守屋氏苦き顔しをる。 3月2日 雨。ストなくなりしにより10:30高校へゆきしが午后と。堺脳病院に肥下を訪へば伊東の一周忌に出ると。供物を共同にせんと云ふ。全田無人なりしが純子出産のため入院と。出て宿院まで歩く。思出すこと多し。 山の口に今井文岳堂あり。隣の小西古書店で魚返『中国の文芸(40)』。きつねうどん食ひ宿院より乗車、学校に帰り14:50より漢文の試験。すみて天王寺でまむし食ひて帰宅。 竹村課長より電話、田中米屋一家心配しゐると。史、坪井より手紙持ち来る。伊東の日に伝へとなり。次田氏より校歌の見本。柏原生よりreport。(学園新聞に「横顔」のりをり)。 ※〈三月二日 田中、病院ヘ来訪、夕ヨリ全田叔母ヲ訪ヒ、純子、渡留守ノタメ、夜泊ル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 92p 3月3日 徳永嬢へ27日参列のことわりを云ふ。鶴身陽子より手紙。12:30出て登校、藤原生をり。及第会議の表出来しをり。八木家へ電話すれば外出。明日来よと云ふ。天満生に呼出しの[即]達す。松本生は体操とれしと。教授会にて藤原生、総代に選ばれ祝辞は山本陽子。 出て(恰も来りて大江叔母の写真もち来し小野生とともに)半田生に単位不足云ひ、高野浩子にいひしてのち饗庭君にゆき壽岳博士の伝言し、夕食賜はる。『東方学論集1』来をり。(けふbusにて我孫子の片山写真館と同乗、bus代賜ふ。片山清いま山本姓にて小学校教師しをると)。 3月4日 9:00家を出て上平を訪ねて警告し登校、10:30より学院出身の子の面接。理事長来をり、何かと思へば恭子、文芸志望なり。12:30すみて待ちゐし八木、上平などに会ふ。上平には十合より断り来しと。鍵谷生に吉野書房奥西、高鳥への紹介状かく。藤原生に答辞書くことを命ず。やがて院長に短大専属云へば考慮せんと。高野敏子大浜中学に就職出来しと菓子呉る。雨中、上平に貰ひ、と菓子をかかへて馬路宅を訪はんと北畠に下車すれば、疋田生乗車。またのりて天王寺でjuiceのみつつ話して別る。電話4月1日より布施2348と変更、うれし。 3月5日 11:30登校、漢文試験、百済生来る。天満生来る。report提出せしと泣く。探せば在矣!14:00西保君来り、ともに出て加藤夫人に会ひ、新村博士来られし時のsignたのみ、出て津熊家。照子君誘ひしもきかず、西保君の婚約者の話ききつつナンバ。Cocoaおごられて別る。荒木君に寄りcafeおごられ校正にゆけずとことわる。佐山『近代詩はいかに歩んだか(30)』。帰れば佐瀬君より中島健蔵のわがこと書きし(※昭和28年『文芸春秋 冬増刊』)を見しと。 3月6日 竹村氏より電話かかりて9:30までに来れとてやっと起きて朝食とる中、おそくなり電話かけしめてbusにて待合すこととせしに、1つまへのbus。会社へゆきて乗り直す(父に会へば甚城祖父の写真もち来れと)。大手前高校へゆけば服部(※服部正己)居り、長女ここへ入学志願と。ともにうどん食ひ、明日の伊東忌にと12:30高野線入口で待つと。 出てBKへゆきしもすぐ出、白井にゆけば帰りしと。島本に寄り地下鉄、十合の古書部を見、玉造に出て帰宅。 眞野喜惣治君より運動出来ぬ性質との手紙。入れちがひにBK志方好雄氏よりいつでもよしと。山前君より明日14:00より校正と。学院高等科13日までに採点報告せよと。山前へゆけずとハガキ書き、史に投函にゆかしむ。 3月7日(日) 11:00出て坪井誘ひ12:30ナンバにゆけば服部待つ。湊野喜代子と同車。13:30伊東家に着けば肥下、小高根二郎あり。斎田昭吉夫人、富士正晴、女詩人織田喜久子と伊東すゑ男、令妹などにて14:00より読経。御馳走になり、コギトのみにてナンバに出てcafe。千日前にて小高根二郎とtaxiひらひて天満橋。帰宅19:00。 松本喜久子よりreport。藤原生より電話かかりしと。『新編南蛮更紗』買ふ。 3月8日 ※〈三月七日 午后一時ヨリ伊藤宅ニテ伊東静雄ノ一周忌アリ、田中、坪井、服部、小高根二郎等集ル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 92p 昼間無事。〒なし。夕方、島本と藤原の2class委員来り、鞄を贈る。西宮家への帰りと。そのあと衣川、大塚来り14日(日)入寮3周年記念の会するにつき酒を出せと会社にいへと。昨夜の電話は西山夫人なりしと判明。補欠となりしにつき聞き合はされ、明日訪ふと答へさす。 3月9日 田中季雄氏、菓子もちて礼に来る。『祖国』の詩「伊東静雄に」送る。11:30西保、山中2嬢よりのハガキ見て会社。杉浦部長に14日の会のこといひ学院高等部にて岩崎君に会へば森校長も考慮せしが西山永子嬢の成績悪かりし故、補欠となりしと。短大にゆき丁度荒木君より電話かかりしをきけば、佐々木邦彦君下阪と。代りて佐々木君15:00そこにて待つと。島本、百済、藤原3生と話し、守本、三苫氏にきけば、島本顔まづき故、事務とれずと。青博士には西田を世話せしと。気の毒がりつつ西山家へゆき森校長に会ひにゆけといひ、出て荒木君と話し16:00来し佐々木君と「正弁丹吾」で夕食。「面影」で待ちしも荒木君おくれ18:00まへtaxiにて府立労働会館。12、3人相手に「堀辰雄の思出」話しtobacco2缶もらひ、天満橋で喫茶。佐瀬と別れて片町より帰宅すれば浅野晃氏より『李太白』そのままにて出すは如何にと。奥戸よりラングーンへ赴任の挨拶。布施税務署より申告せよと。(けふsalaryもらひしも税金と健康保険の額多し)。『祖国3月号』来る。(東井氏の方、5日発表の筈なりし故、これも落ちしらし)。饗庭君より速水氏の件、西宮に継続出来るやうなりしと。 3月10日 9:00登校、試験監督し採点し、(伊東花子氏、相野にと来らる。紹介状かきしも道まちがへて教へし)15:00出て白井(出張中)、夫人に会ひ筒井信義の家きき、岸の里へ出てゆけば留守。名刺おきて天王寺へ出る。中川禎子より就職の挨拶。八木嬢より仏書目録の訳直せと。 けふ悠紀子、税務署へゆけば前納税金1,000以上返してくれさうなりと。(文筆所得は半分に査定と)。けふ日野氏に高校の採点表わたす。黒田社長より長沖氏に講演たのむと。 3月11日 浅野晃氏に『李太白』のこと返事す。10:00登校、面接。青生より卒業式に出られずと。饗庭君よりお礼に会食をと。山本陽子の祝辞直し、16:30及第すみて藤原生の答辞直す。中野清見より転任を竹内に運動してくれしも返事なしと。(赤田町石塚で『露西亜五人集(100)』)。 3月12日 けふ休日とふりかへになり日曜のpingpongやりをる様子(昨日杉浦氏より電話ありしと)。峯明子、松山より絵ハガキ。 3月13日 9:00会社へゆき今村部長、竹村課長と協議。原監督忙しとて加はらず。家より電話かかり藤原生来り待つと。2案書き火曜に再来、専務に申すこととして帰れば藤原生帰りしあと。 祖国社より原稿受取。徳永昭子嬢より21,28のどちらかに来てくれと。岩崎君より27日来て泊れと。小高根二郎より歯痛かりしと。日本浪曼派同人費1,000と。岩崎、小高根2君にことわり状書く。 3月14日(日) 家居。伊東花子氏より相野訪ねしが東京出張中なりしと。鍵谷洋子より祖国社訪ね、空きなきも、よそへ世話すると云はれしと。15:00藤原生、友だちつれて来る。答辞添削。けふ教育関係2法案反対のため小中学校授業やる。 3月15日 10:00前、学校へ。卒業式。送別会。謝恩会とつづく。百済の兄、井上の母、西川の母、西山の母に挨拶さる。Albumもらひ16:30退去。新潮社より『堀辰雄全集月報』の2,400-360=2,040。(西宮君、大手前高校へ講師になりにゆくと)。 3月16日 9:00会社。近藤運転手負傷のため城平叔父遅く(父に2,000わたす)竹村氏と話す中、原君、酒の寄付を指示せしは我といふ。21日は彼も用ありと。今村氏、杉浦氏と叔父に会ひ第一案。賄1人減(安部育)、食費3,000に値上ときまり、出て藤井寺。北村ウメノ希望退職さすと。小野和子の件未だ返事なしと。(村岡薬局に寄り暁子に会ふ)。出て小野訪ねcoffeeおごりて別る。男友達多くありと。帰りて『骨4』見、安部呼んで退職せよと云ひわたす。西保恵以子よりハガキ来をり、彼岸過ぎ結納入ると。 3月17日 家居、昼ね。安部退職承知と。斎藤晌氏より「李太白そのままで送れ、既に一種の古典としての意義がある」と。夜、大塚、衣川呼びて寮費値上げいへば新委員改選まで待てと。(夕食時、汎愛高校の進学係、古沢文雄氏(13回理乙)、蛇田三郎(教頭と)の名刺もちて補欠入学について尋ね来る)。ビキニ環礁への原子病マグロにて騒がし。 けふ悠紀子、化粧品買ひ来り徳永昭子氏にお祝として贈る。(670+55)。我もお祝にゆけずと手紙書く。 3月18日 『不二』来り、40そこそこで翁呼ばはりよせと保田のこと云ふ。13:00会社へゆき杉浦、今村両部長に報告(安部辞表を出さずと云ひし。池元、辻2人は喜ぶ色あり)。天満より歩きて読売。埜沢君に『骨4』をわたし、山本事務所にゆきて佐瀬に『骨』わたし、電話して和島事務所にゆけば岩吉氏あり。Coffeeのまされ美子君と出て梅田新道より別れ、ヨシカズ書店で『諺文聖書(100)』。大毎へゆけば天野愛一不在。『骨』ことづけ大朝へゆけば後藤所用。吉井栄治君と2人に『骨』托し、荒木君にゆけば他出。Busにて相野家にゆけば学校と。夫人に伊東マア子のことたのみて『骨』置き、林叔母に寄って話す中、叔父帰り来り、夕食よばれて退去。 けふ中野トシ子来しと。けふ斎藤晌氏に元々社の件承知、4月半までに原稿送ると返事す。 3月19日 家居。成尾生より卒業の挨拶。山前君より28日締切と。安部呼びて辞表出せとすすむ。夜より「李太白」かき直しはじむ。 3月20日 インク買はして「李白」かく。13:00会社へゆけば島田君父(のちに安部にきけば今川夫人の姉の夫と)死にて葬式とて父、甚幸、原君のみ。原君「安部より辻をやめさすべきなりし」と云ふ。帰りてまた「李白」。斎藤文子氏より高野三国丘中学にきまりしと速達。はるみの手紙もあり。上平逸治氏より卒業の礼状。夕方、古沢君また山崎生の入学につき来る。 3月21日(日) 入寮3周年といふをぬけて登校、10:30より2部の面接。文芸26、服飾22、英文14とて13:30終る。西宮君来り、南野女史の紹介で暁明館にゆきし女薬剤師、中西の気に入らざりしと。学科構成、守本氏にわたし、(高野に電話すればまだ校長より通知来ずと)。汎愛高校のこと云へば院長頑強に反対。16:30すみて白井に行けば今日発表あり合格せしと。南住吉住宅へゆき硲君に伊東詩碑の件たのみ、山本君にもたのみ上野芝斎藤家へゆけば夫人のみ。礼云ひ駅前にてうどん食べ田村へゆき、21:00出て帰宅。 けふ11:00城平叔父来り、1級酒2本くれしと。藤原、島本2嬢来り菓子くれしと。壽岳先生より「蘇東坡」ほめて来らる。 3月22日 10:00安部つれて会社へゆけば明日午また来よと。城平叔父機嫌よく学院へ茶・生花の師いれんは如何にと云ふ。硲君に『祖国』2冊、中野清見、西川に『骨』送りて帰宅。汎愛高校古沢氏に電話かからず、史、帰りてより会社へゆかせ父に代りてかけてもらふ。西保恵以子より27,8日許嫁つれ来るは如何にと。彦根より俳句のよせ書。「李太白」書く。田中季雄氏よりgift check? 3月23日 晴。家居。八木嬢よりハガキ。旗田巍氏より『李朝実録抄』送り返せと。けふ安部育、会社へゆき30日また来よと云はれしと。「李太白」73枚となる。長沖氏の昨年収入220万円と夕刊に出たり。 3月24日 晴。家居。また痔痛む。島本生より就職とり止めた放心せよと。安部、夕方引き払ひゆく。きのふ金の方の支払ひすみしと。夜、宮本君来訪。この間彦根の卒業式にゆきしと。白井三郎より坊やの今高入学を報せ来る。 3月25日 家居、「李白」109枚。高野敏子より礼状。東井夫人、入学の礼に来り、2,000のgift checkもち呉る。 3月26日 家居、佐瀬君より電話。高垣金三郎、東京本社へまた転任と。西田敬一より同窓会名簿わけてくれと。大手前高校より史、講習に欠席しをりと。西保嬢より28日15:00不二屋1階喫茶部にて待つと。元々社より原稿用紙送ると。「李白」の予告、読売新聞に出たりと。筑摩の方なり。 3月27日 会社へゆき杉浦氏に竹村氏にとcheckわたして出しに、父に会ひ、叱らる。学院へゆき28年分収入表もらふ。年末調整しゐる由。守本主事速達出せしと。きけば院長また考へかはり高校やれずやと。Base-upはなきどころか下がることもありと。いやな顔して出、戎橋いづもやでうな丼食ひ、梅本にゆけば高垣の送別会やめてよしと。山本にゆき「衣笠」で昼食するを見、また引返して待ち16:00ともに丸善へゆき坪井の長男への祝に金penの万年筆買ふを見、玉造上田氏へともにゆきて夕食。19:00坪井へ同道、山本先へ帰る。坪井、府教委へ転任と。20:30出て帰宅。 高野生より体格検査通ったと。八木嬢より仏文書目。けふ高垣へ電話せしがゐず。『文芸日本』大鹿卓氏と蒔田廉(蒲池欽一) 氏へ『骨3、4』送る。炊事のsalary払ふ。けふ山城、津熊2生に会ひし。 3月28日(日) よべ雨。昨日に引きつづき暖し。藤原生よりもはや勤めゐると。西川より『骨』の礼状。饗庭君より速水氏2令嬢開成へ入りしと。元々社より原稿用紙と田中忠雄『善と現代人』。14:00出て鶴橋。千日前で古本屋へゆけば天理図書館の上野をりし。不二屋前で待つ内、西保嬢と婚約者梅田君とあらはれEspaniaでcoffeeおごり「日本歌人」の会へとtaxiでゆき、前川佐美雄と会ふ。城の前歩き、また喫茶。15:20になりて別れて大阪駅より吹田へゆきて泊る。夜、雨。 3月29日 10:00吹田を出て梅田より市電。秀英印刷へゆき饗庭夫人に会ひ速水夫人に来てくれるなとの伝言たのみ、汎愛高校へゆき蛇口教頭に会ひ、三菱商事にゆき横山に会ふ。山中嬢とにcoffeeおごり呉る。日生へゆけば松本また鰻おごり呉れ、藤原を凸版2階へ呼出しまたcoffeeおごられ天満橋。鳥羽正雄『日本の城(100)』買ひ、busにて帰宅。高野けさ10:00頃来てお礼にとwhite shirt呉れしと。上平生、小野生、浜谷、吉本と謝恩日の如く郵便来りをり。 3月30日 小野生に1日に電話してくれとハガキ。「李太白」書く。南野コウ氏より暁明館に加藤恵美子氏就職せしと。丹波道久より14、15両日の中、来られぬかと。長沖氏の所しらせと。村上律久氏より礼状。「李太白」184枚。2部の歴史試験問題を作る。 3月31日 10:00家を出て学校。試験問題わたし11:00出て姫松より乗車。交叉でのりかへ(ランケ『世界史概観(50)』『忠臣蔵(30)』)、今川へゆき正平に祝(500)やり、外へ出て叔母、隆平に会ふ(隆平も中学と)。古本屋見つつ上六。穂積重遠『結婚訓(30)』買ふ。けふ岩本夫人来りwhite shirtたまひしと。西保嬢よりハガキ。藤原幸子嬢より同。 4月1日 家居。百済璋子より大日本セルロイドに就職と、めでたし。梅田善彦君より礼状。花井彩嬢より卒業の挨拶。辻賄人、病気とて心配、ゆき子手伝はす。けふより布施局に電話かはり、先づ10:00小野和子より電話、すぐ来てくれといふ。西田敬一より電話、一度来れといふ。丹波道久より15、16両日のいづれかの都合つかずやと。12、3日頃返事すと答ふ。小野君15:00前、菓子もって現はれ18:00まで20枚ほど[※「李太白」の清書?]書き呉る。縁談どうでもよしと。 4月2日 よべ辻賄人また苦しみ池川医院来診。腹膜炎とのことに竹村氏に電話し上田氏呼び10:30淡路町の福井病院に入院せしむ。11:30小野和子君来り、17:00すぎまで写して呉れ、あと50頁ほどとなる。山前実治君より8日17:30依田邸へ来よと。けふ父neck-tie呉れとて来る。史、九州旅行にと17:30出てゆく。 4月3日 家居。悠紀子、依子[※寮の]炊事を手伝ふ。われ風呂をたく。「李白」398枚にて終りとなる。高野敏子より手紙。三国丘へ斎藤堅太郎先生転任されしと、よろし。 4月4日(日) 小野和子より電話、相手に愛人ありとて大江叔母ことわれと云ひしと。同窓会にゆくと云ふ。西田敬一より電話、10:30頃来る。「今中十九期生名簿」貸す。ともに11:00出て京橋で別れ、学校へゆく楳垣、中田、西宮3氏来りをり。鍵谷、中川、萩原、天満、則武、林、八木、北沢など短大新卒のみ。小野和子と話せば大江叔母また十合の「醜き男」を世話すと云ひしと。今年度の時間割見にゆけば火、木、金の外、水曜出勤となりたり。出て白井にゆけば在宅、寿司出してくれ服地礼にやらんと。断りて出、busにて新世界。矢沢利彦『中国と西洋文化(40)』、津田左右吉『日本人の思想的態度(30)』、『そんへえ・おおへえ[上海生活三十五年](40)』買ひ、福井医院へ辻見舞ひ、すぐ近くの饗庭君にゆきて帰る。留守に守屋君来り、三上氏の伝言ありしと。 4月5日 守屋美津雄君再来、『満蒙史料李朝実録』400冊そろへて見せねばとのことにて托す。依子を郵便局にやり『李白』を元々社に書留小包せしむ(105)。橋本須美子より今日退院と。あとで依子受取もち来りしを見て「元々社」を「生活社」と書きしこと判明、心配なり。斎藤氏にもその旨ハガキす。 午后会社へゆき伊津井を借りることにきめる原課長代りを入れよと云ふ。帰り天理教徳庵分教会へゆき心当りなきかきき三島江までゆきしも駄目。 4月6日 雨、〒なし。[朝]鮮訳『新約聖書』を写す。夜、史帰り来る。 4月7日 曇。午前中、佐伯氏の紹介にて引揚住宅より一女来り、午後再び来れといふ。短大より電話、守本氏夜学の時間割にて明日来よと。天理教徳庵分教会よりも人ありとてつれ来りしを断る。亀井来り、月末土曜にclass会すると。14:00竹村氏来り、ともに栗林夫人(夫、宮崎県小林にありと)に面接し、10日間ほど手伝はすこととす。夕方服部来り、入学の保証人として印捺さす。夫人流産にて臥床と。村上嘉実博士、市大の助教授会より否認され部長あやまりにゆきしと。関口君より学校移転の為、小平鈴木新田に住むと。 4月8日 京、けふより幼稚園。先立ちて出、天理教へpine-apple礼にもちゆき9:30学校へゆき14:00までかかりて時間割きまり前期火水木金(木,夜)、後期(月,夜)ときまる。『鴎外全集』最終回受取り、busにて天王寺、省線にて京都。 16:30祖国社へゆけば玉井上洛、高知の吉村淑恵上洛、しばらく話し、市電にて河原町丸太町古本屋にて鴎外『意地(40)』、吉田小五郎『聖フランシスコ・シャヰ゛ヱル小伝(90)』買ひ、依田家へゆけば依田君20:00まで他出と(母上76才となられると話し)。19:30来し山前、井上2君と話して依田君来るをまちて井上君帰り、我と山前君21:00出てtaxiにて京阪。 けふ伊東未亡人よりまき子2部へたのむと速達。津田侑より伊香中学に奉職と。木下夕爾より薬師寺[衛]を知ると[〒]。 4月9日 晴、家居。京、幼稚園2日目。元々社より原稿受取り来る。上村肇氏の『河』送り来り、伊東詩碑5万円以上集りしも秋に延期と。けふ伊東未亡人に速達す。 杉浦氏より電話、田中康平叔父の義弟、豊中の火事にて公傷死亡、明日今里にて葬儀と。 4月10日 晴、京、幼稚園で泣きしと。午後〒松本善海より忙しと。山中タヅ子嬢より。けふ我もハガキ4枚かく。『骨5』のための詩出来てうれし。佐瀬に電話かけて来よと云ひしに来ず。 4月11日(日) 晴、家居。鶴身嬢より写真同封、兎を飼ふと。百瀬弘氏より平凡社の『人名辞典』の執筆項目。今村羊子嬢より郵便はなるべく手紙でと!『骨5』の8ポ言9枚書く。 4月12日 登校(定期買ふ。徳庵からも連絡売る也)、10:00より入学式。院長1時間話し、教務学生西課長の話あり12:00となる(森高校長に礼云ふ)。疋田生来り、宇宙物理の大学院学生と話し出来しと。学科指導し(けふsalary呉る。25,000に本俸とりし)て出、住高へゆき山本君と話す。同窓会は出さぬやもしれぬと。転部願ひ出し夜学生2人にcoffeeおごり地下鉄にてナンバ。『晏子春秋(70)』買ひ、荒木利夫にゆけば不在。丸善にゆきRamstedt『a Korean grammar(825)』見付けてもらひ(Langenscheidtにてはなかりし)、『堺市地図』しんしん堂で買ひ、新谷医院に寄りして帰宅。 徳永昭子氏(新姓秋山)秋田県平沢町にありと。 4月13日 10:00会社へゆく。竹村課長、父ともに支払でぶつぶつ云ふ。とりあへず10,000預りとなる。栗林を山本蒔助邸へ世話したしと。炊事の保険負担問題となりをると原氏の話。府庁へゆき指導主事となりし坪井に会ひ、昼食おごられて出、辻見舞にゆく。まだまだの様子(三越で豊公展しゐるを見る)。沢田弁護士を訪ね島の時の礼云ふ。出て梅新、高尾で信綱『近世和歌史(70)』。天満へゆき夕食上うなぎ食ふ。柳井三千比呂[道弘]氏より誤植のわび状。 4月14日 10:00登校といふに9:30行き、始業式。壽岳、中西2博士の話きかされ、すみて2年の学科指導。すみて教授会食。教授会はじまる頃、大菊妹、薬専を受けるため退学、予備校へ入学すと。 伊東母子来り、入学試験の手続きす。東生来りしを待たし教授会、16:00までかかりてすみ、ともにナンバに出てjuiceのみ、きけば市大講師と1年間交際せしも断られ煩悶すと。別れて南田辺へゆき千川の前の古本屋で蘇峰(※近世日本国民史の『大阪役』巻)を買はんとせしも店主不在の為わからずと。八木一江家へゆき電話かり、夜学の始業式に出られずと云ひ(一江お茶にゆきしと)、千川で19:00までゐしも結局『大阪役』借りて帰る。『祖国』来をり、伊[藤]静雄と誤植す。岩崎昭弥より岐阜へ転居せしと。歴史と漢文の採点すます。 4月15日 行きがけ閻魔帖忘れ採点呈出できず。12:00前授業終る(国文購読わが方20人ほどにて丁度良し)。東生14:00前来り、聴講生よしとなる。半田好大を受けず図書係を院長に志望しいやな顔されしと。 丹波14:20迎へに来り出て警察学校にゆき、大阪落城の話すと云へば拍手さる。16:30すみ天王寺まで校長と同車。炒飯たべて登校、疲れに疲れし。19:45やめて帰宅。百瀬弘氏よりハガキ。 4月16日 登校前、時計屋に寄り直しをとる(300+靴150)、曰く「余り良くありませんよ」。散髪しゆきて硲君、昨日来しときく。午後の歴史、小講堂に一杯となり、少くなれとすすむ。早くすませ堺東で下車。三国丘中学へゆく途、古本屋にて『初夜権(90)』。出れば高野生に会ふ。今から大浜へ新入職員歓迎会にゆくと。斎藤先生、旧校長と比べて評判悪く大騒ぎと。堺東駅で別れ殿馬場中学校へゆき斎藤はるみ生を呼ぶ中、校長先生に挨拶すむ。出てともに山の口。柳田国男『時代と農村(80)』、平瀬己之吉『近代支那経済史(200)』買ひ、喫茶して別れて帰る。疋田生よりあの話断りしと。けふ荒木利夫に原稿催促の電話す。 4月17日 家居。〒なし。竹村課長来る。(その前上田消防士来る)。 4月18日(日) 雨、家居。ひるまへ自治会より呼びに来る。寮費値上とbase-upとは本来無関係といひしに、それでなければ了解せずと。結局値上は認めし也。税務署より申告と事実と相違あり、明日午前中来よと。饗庭君より一度来よと。 4月19日 よべおそくまでねられず。悠紀子税務署へゆきしにより幼稚園へ迎へにゆきしに11:00に悠紀子まにあひ、大朝の稿料の外にありやときかれ、なしと答へて決定せしと。駅前で昼食し、会社へゆき原課長に寮生のsalaryうつさしてもらひ可成り良きに安心す。城平叔父に会へば不機嫌。竹村課長とbusに同車、600万円で購入の機械動かずと。(父にきけば河野岑夫東京へ転勤と)。天満橋にて藤岡『国文学全史(100)』、モーパッサン『女の一生(70)』、山本事務所へゆけば無人。梅田新道リーチで柳田『日本農民史(80)』、土田で『女性の心と言葉の歴史(40)』、高尾で柳田『言葉のいろいろ(80)』と買ひ、毎日へゆけば天野愛一不在。朝日で山田新之輔に会へば奈良女子大に我きまりしと。可怪。もとの義父死に2,000万円の遺産審さしにゆきしと。『今鏡』探してもらひ20%引きにて分けられ、市電にて荒木利夫にゆきしに不在。野崎も不在。「面影」でtoast食べ登学すれじ夕食出ると。藤原生来りをり、青に会ひにゆくと、この間しばらく松本胆石にて休みしと。八木一江よりハガキあり、電話すれば不在。試験監督し伊東の子、あまり出来さうもなきを見て帰宅。大より貧乏しゐると。 4月20日 10:30幼稚園の方、廻ってゆき、11:30登学、2部入試の採点すます。硲君来り、火曜の午后あくることとなりしと。永井いつえ氏より電話、明日来よと云ひ、あとで明後日とかけて訂正。14:00授業すみ漢文歴史の点教へ、田辺まで歩き『近世日本国民史3冊(200)』買ひ、千川に寄り荷風『裸体』貸され16:00出て近鉄departに寄りて帰校。まむし食はされ面接。伊東まき子4番の好成績なりし。文芸で1人落し、来月9日(土)文化会館で話せよといふに承知し、21:00すぎ出て帰る(けふ石浜doctorに会ひし)。堀君の母君より大体話きまりしと。西岡生より写真。 4月21日 家居。昼寐ちょっとし『荷風戦後日暦』よむ。安村佐恵(今市)よりおのろけとpicnicに誘ふと。今中自彊会より役員会24日14:00と。夜、長●大塚と寮費値上の懇談。けふ父、岩倉の某翁つれて来る。 4月22日 電話竹村氏にと悠紀子に命じ、ゆけば阿倍野交叉点で衝突とて電車不通。Busでゆき歴史やりLoreleiのprint切り、購読すませ、永井夫人に筒井君への紹介状かき[揚]餅もらふ。 よべ寡眠にてだるけれど住高へゆき山本君と話し、『東洋歴史大辞典』見、硲君と別れて上町線。学生2人つかまへ手さげ籠かひ(500)、cream sodaのませて高井家へゆき、お祝ひとして渡し新世界。『中古三女歌人集(60)』買ひ中国書2冊買ひ(100。200元が1円と)、市電にてナンバ。出雲屋へゆく途、元養徳社松井君に会ひ鈴木、浜谷2生に会ふ。出雲屋に吉田栄次郎ゐし。すませて近鉄案内所。5月5日和歌山へゆかんと野崎いふ。市電にてまた学校へ帰り夜学。宮沢弘子より写真送ると。鈴木豹軒博士喜寿4月29日にと。 4月23日 登校、2時間すませ小野にゆき見れば料理習ひにと。Bus待つ中、鶴身生に会ひ同車して堺東。高野敏子訪ぬればまだ帰らず。字引と坊やへの菓子置きて出る。母君涙流しゐたり。 堺東駅で肥下夫人に会ふ。夜学の入学式に伊東のまあ子来りしゆゑ『祖国』わたす。深沢生来り、昨日保田、大阪書籍へ来しと。用ありげなりしも小野和子と歩き北村ウメノ氏また藤井寺に来ゐると。この間も一度十合hand-back氏に会ひしと。帰宅21:00。 西保よりのろけ歌、三原文月16日死せしと。佐々木邦彦より詩稿おくれと。八木嬢より仏文直せと。 4月24日 10:00会社へゆき今村、竹村2氏に話せば金額300でも宜しからんと。上田消防士も来合せゐしが、去りしあと辻の病気に気をつけよと原君。伊津井に400礼として与ふることとす。父に会ひ5,000預り、山本事務所へゆき佐瀬と話す。山本tripper(※淋病)を妻に与へしと、やれやれ。隣の先生にcoffeeおごられ14:00帰りて山本に話しかければ営業妨害すなと。 今高へゆき筒井より600名簿代として貰ひ、50周年の計画きき伊藤本一(阿倍野高校)に挨拶し、丼よばれて出、東にゆく。日中友[好]とて台湾人相手の商売なりし。ともに出て「面影」にて喫茶。別れて天牛南店にて折竹『仏文法(30)』。市電にのり下味原にて国府犀東『大塩平八郎(70)』、『復活(130)』、今井邦子『清少納言と紫式部(60)』、羽太鋭治(10)買ひて帰宅。電車にて赤星と同車。電灯のmeterみてくれとたのみ帰宅すれば青木富太郎の抜刷。 19:00すぎ八木嬢より電話あり、夜、来るやもしれずと。21:00より23:29まで駅に待ちしが来ず。富田林のPLにありしと。 4月25日(日) 9:00八木嬢来り、きけば御木氏に会ひ父君の貸金片付けよと説教されしと。昼食後ともに出て天王寺で別れ、辻見舞ひてきけば淋病ではなしと。饗庭君にゆけば速水氏よりの礼として2,000の商品券。大塚来ず22:00まで待ちて眠る。百済生より羊羹。 4月26日 家居。夜、大塚ら6人来り、寮費360円値上(5月より)と云ふ。小倉の現実肯定をききて不快。けふ百済より手紙。『文芸日本』5月号。史の担任中塚先生より明日来てくれと。 4月27日 登校前、竹村氏に電話で報告。大手前高校にゆき中塚先生に短大の特色いひ、市電にてアベノ橋、12:00学校へつき、中川生の就職ハヤシシンへとの旨、藤原生の電話でたしかめ学生課に報告。国文学史2時間やりて帰宅。片町線鴫野より来るが宮口生なり。 けふ学校へ宮沢弘子より堀生5月4日松[坂]屋にて結婚、相手は27歳の浅野氏と。家へ咲耶より岑夫転任の挨拶に来ると。 4月28日 朝、又々電話、岑夫京都へも明日と。登校の途、寺田町の石塚へより『ヘルデルリーン詩集』『暮しの言葉』『江戸の町人文学』(155)買ひてゆく。停留所で帰る子つかまへて叱り、college hourなるものに出て不快。守本主事の話ききて不快。14:00出て藤井寺。叔母ゐず房子と話す。久美子、松尾三郎に未練ありと。北村ウメノにくやみ云ひて出、悲田院に清水文子を訪ひ、ともに駅に出、松原で下車。肥下訪ねしに無人。 夜、salaryわたせば池元昇給は、ときく。栗林、姉2,3日中に来ると。伊津井に礼400つつむ。上田澄夫より身の振り方帰りて相談すと。八木嬢より混雑の中を帰り疲れしも無熱と。 けふ学校へ西田敬一来り、成尾、浜谷の2生来る(礼いらず、助手すると)。 4月29日(天長節) 電話かかり城平叔父360円の寮費値上では納得せざりしとのことに竹村氏に会ひにゆく。今村氏とも相談の上、城平叔父に会へば3年後の今は負担さほどする必要なし、竹村課長を午前中にやりても良し。5月2日10:00より話にゆかんと。大塚を呼びて云へば困りし様子なり。帰れば岑夫来り、東京駅前の新丸ビル内の本店にかはり五反田の寮より通ふと。すし食はして別る。藤田久一より日亜製鋼に転勤せしと。けふ第2次私鉄stなり。 4月30日 出勤。途中、私鉄departにてstratz『女性美(100)』。2時間教へ疋田生に電話かけ5日の遠足きけば知らず。出てナンバ。荒木利夫訪へばまた不在。『詩人ハイネの臨終の恋(90)』買ひ、近鉄案内所へゆけば野崎不在。5日の遠足すと。面影にてice-cream(千日前にて服部に肩叩かる)大丸まで歩き(Alain『スタンダール(30)』)、elevatorにて鈴木生に会ひ、梅本訪ねしに不在。梅田へゆき万字屋で『台湾文化史説』100円となりしを買ふ。他に『纏足を解きし中国 下』『唐詩及唐詩人 下』を新本で買ひし。寮費の話合ひ3日午後会社でと。辻帰り淋菌なしとの診断書提出。 5月1日 May-dayとて寮生ゆく。辻に会へば悪病でなきことを云ふ。午后、青山喜惣治よりハガキ。彦根に転勤と内定せしを謝すと。井上斌子より山中、今市夫婦と2、3両日塚本生の家へゆくと。斎藤堅太郎先生より三国丘中学へ転任の挨拶。堀好枝氏より亘嬢4日結婚の通知。高野敏子より図書室整備で忙しと。 5月2日(日) 家居。〒浪華芸文会より8日森三樹三郎氏の講演と。ゆけず。帝塚山文芸クラブより5日9:00ナンバ発と。郊外電車st. 5月3日 10:00すぎ城平叔父より電話、12:00来よと。石川喜久子の桑港よりのヱハガキ。11:30雨中をゆき、寮経営を自主的にやるため5月を準備期間とせよとの話。寮生不審らしく石井、大塚あとで訊ねに来る。 5月4日 会社へゆけば竹村氏欠勤。請求書ことづけて出る。岑夫ゆきしに母不在にて咲耶怒り来しと。散髪して登校、国文学史2時間やり、出て古本屋まはりstendhal探せしもなし。小[阪]の堀内までゆき『今昔物語5』新刊にて買ひて帰る。大塚来り、神経衰弱的な顔を見せる。哀れなり。 5月5日 子供の日。早く出しつもりがナンバにては9:15。立川(太田)、藤野、伊藤の3人と会ひ同車でゆけば和歌山駅で楳垣先生。他に鍛冶姉妹、東、岸、北野、野崎、山荘、吉川、和島と案内の宮沢嬢と総勢15名となる。新和歌までバス。宮沢嬢、西保君よりのneck-tie預りゐてくれし。新和歌で昼食。すしを用意しおきくれ、話し、写真とり、紀三井寺へゆき、また南海駅まで帰り、15:55にのりてナンバ。伊東、東、岸、野崎、山荘、吉川、和島とice-creamのみて別る。『赤と黒(110)』『恋愛論』2冊見付け、吉田いづもやでまむし食ひて帰宅。中馬君、生田姓となりしと。太田夫人の夫君は泉山三六の甥と。 5月6日 登校、丹波より電話かかり20日15:00よりの長沖氏講演とりつぐ。石浜先生にきけば中山眞柱6月10日発南米行と。新城英太郎氏6月末にて退職ときめられしと。桑田博士還暦記念会1,000位にてやる予定と。長沖氏にきけば明日眞柱の送別会と。荒木利夫に電話せしも不在。『赤と黒』よみて時間つぶし教授会。5月最後の週の行事山ほどにて疲る。帰途、小倉と共になり城平叔父の心事を疑ふと。『東方学論叢2』来る。西保、井上斌子2生へハガキ。 5月7日 登校前、会社へゆき会計に請求書わたし今村部長の意見ききしも専務の云ひ方あいまいとのみ。13:00出て天王寺美術館へ国吉康治展と行動展見にゆき西阪に会ふ。八木生をらず。出て帰宅の途、気がかはり天理まで切符買ひ生駒下車、服部にゆけば在宅。誘ひ出して眞柱送別会へ行き見れば眞柱腫瘍にて面会謝絶の所を一寸出て来て挨拶受く。大高クラブ会長桐山氏なり。中島賢三といふに驚けば元知事の天理市長候補同席にて黒田、熊野、阪急専務、山崎三七喜ら知れる人多く酒のむを逃げ出し高橋[重臣]家にゆきて泊めてもらふ。テレビ見せらる。 5月8日 よべ眠れず。9:30高橋君と出て図書館。秘密諸社関係なく、タバコ吸へず山崎忠君にcoffeeおごられ、峯氏と話し、よべ話にききし新井、富永両combに会ひて挨拶し、11:30出て天理時報により瀧井氏と話す。大和方言集を作成しゐると。出てうどん食ひ八町屋敷見ながら東詰所にゆけば八木君帰らず、母君に神戸の山上にありとうそつき、やがて来し大井夫人(10回理丙大阪学芸大助教授)と話して下り、天理駅。生駒にて服部夫人に会ひ、ヒステリックな話きき傘とりて出、上六に着けば45円。うどん食ひて市立会館、30人近くなりしに詩と恋愛の話し、清水生とアベノ橋まで歩きice-cream食べて待ち、木場氏より500もらひて23:00前帰宅。 山崎忠君よりききし如く平凡社より20日まで延期の通知あり。父来り、支払ひ我のせし如く装へと云ひしと。 5月9日(日) 雨風。午眠ちょっとやり16:00出て小阪、堀内で中川善之助『日本の家族制度(80)』買ひしのち松本家に寄り見れば不在。胆石病また悪しと夫人心配しゐる。傘借りて中西にゆけば不在。引返して大雨の松本家の前で中西に会ひ八木嬢のこときけばもう[結核]よしと。松本へ傘返しかたがた寄りて話す。帰れば自治会より呼びに来しもゆかず。 けふ西保嬢より家庭の設計談。佐瀬由幸より講演会の切符売れと。 5月10日 朝、竹村課長来りかまど修繕さすに話し、阪急へ買物にゆきし悠紀子の帰るを待ちて会社へゆき10,000手持金とし、城平叔父に手紙置き、学校へゆく。卒業生15:00来はじめ疋田、西保、島本、藤原、野崎と文芸好成績、他は服部、中井、英文山荘、食物八木のみ。わが鼻高く八木をのぞく7人と戎橋に出ていづもやでまむし。面影で喫茶。野崎、山荘taxiで鶴橋、帰れば21:30。 途中片町線で住道の服飾2年に会ひし。珍し。(けふ藤原neck-tieくれ、小野電話かけて来し)。堀内民一よりハガキ。堀場正夫へハガキ。けふsalary29,000もらひし。 5月11日 登校、佐瀬に電話かからず。出て荒木利夫君にゆけば在り。井上多喜三郎の原稿のため遅刊ならんと。日夏耿之介『サバト恠異帖(40)』買ひ(けふ行きがけアベノで高群『女性の歴史 上』買ふ)、梅田にゆき菓子食ひつつ20:00まで語らひて帰宅。山中タヅ子より眼悪くせしと。『祖国 宮崎滔天号』2冊。 5月12日 創立記念日とて休み。辻賄人あと1週間引つづき休ましてくれと。佐瀬に電話かけ切符うれずといふ。『清史稿』の本紀よむ。 5月13日 定期券買ひて(940)登校、午、西保君より電話かかり14:00「面影」で会ふと約束。永井夫人より電話かかる。出て「面影」にゆき、ともに「天牛」、西川満の『台湾脱出(40)署名本』、「大丸」にて『平妖伝(100)』。喫茶し近鉄案内所へゆき野崎嬢に会ひ藤原生と会ひ、きけば卒業式の日30,000盗られ一昨日守本氏よりの橋渡しにて6,000醵金もらひしと。夜学教へ、まだをりし藤原生さとして帰らす。眞野君よりまだ発令にならずと。(けさ帝塚山書店で『ユージェニ グランテ(80)』)。鈴木豹軒先生の頌寿30日と、またゆけず。 5月14日 京、発熱せしとて幼稚園を休む。登校、「かもめ」に『鴎外全集翻訳篇(800)』2冊来をり。西宮君よべ上京と置手紙しあり。永井夫人来る。森桃子来る。帰れば中野トシ子より電話。 小高根二郎より高橋重臣の同人承知した。「日本浪曼派」に吾も入れと。山崎実治より井上多喜三郎の原稿未着と。(けふ大菊生の母来り退学願出す)。 5月15日 けふ悠紀子藤井寺へゆくと云ふに9:00会社へゆけば城平叔父、父来しところ。寮費について云へば明日寮へゆきて話さんと。竹村氏と同車にて天満橋。府庁へゆき坪井の室にゆけば不在。三竝・荒井の室にゆき喫茶室に案内さる。(京阪書房で『大和物語(40)』『春夫詩集真珠篇(60)』『京大日本史1(100)』『解剖台に倚りて(60)』)。三竝5月1日結婚せしと。6月トンボ会(※浪中の教へ子同窓会)すると。日赤へゆき松井信子君を呼吸器・婦人科とたづねまはり警察会館で昼食す。わが大阪転任を母君にしばしば云ひしと。歩きて岡山町に出、上田女史訪ね、山本治雄への忠言たのみ京橋で別る。佐瀬良幸よりハガキ。雨で講演会の入り悪かりしならん。悠紀子帰り来り、叔母男孫を大切にすと。 5月16日(日) 水道管こはれ溢水。10:00城平叔父来り、寮生と話し[軟]かにて安心す。11:30帰る。午后、守屋美都雄にゆけば来客とて上げず、桑田博士還暦祝賀会の計画見す。可笑。『明史』2帙借りて帰る。Dien-bien-fuは奠辺府とおぼえたり。 5月17日 家居、郵便は天野美津子詩集『車輪』。電話、松井信子氏より、明日16:30まで病院にて待つと。京、けふまた風邪にて休む。『世界人名辞典』かく。Radioにて堀未亡人の声きく、万感こもごも。 5月18日 登校、小野和子より電話ありしと。宮沢弘子より南紀へゆきしとヱハガキ。試験手当1500もらふ。今高の筒井来り、6月19日Munchenで17:00より同窓会せんと。(住高へ寄り『東洋歴史大辞典』を見、伊東詩碑につき国語主任の先生と話せし)。山本陽子と話せしのち、日赤へゆけば松井信子君帰宅、cardは托してありし。『新潮』買ひて犀星の「朔太郎の話」読む。 5月19日 登校、「康熙帝」書き、college hourといふのに出、丹波道久の来りしに会ふ。6月12日8:40に片町へと。住高へゆき『東洋歴史大辞典』の「鄭成功」と「鄭芝龍」写す。14:30終り帰りて教授会に出すべしと。岡の妹、聴講生として入学許可。帰りて佐瀬のハガキ見る。講演会盛況なりしと。堀田善衛わがこと訊ねしと。元々社より校正24日頃より出ると。夜1:00まで辞典かく。 5月20日 悠紀子に平凡社へ阿桂、永明王、奕山、汪景琪、王三槐、王倫、鄂爾泰(オルタイ)、岳鍾琪、槐裔介、槐象枢、琦善、恭親王、瞿式耜、康熙帝、洪承疇、耿精忠、呉三桂、秋瑾、戴名世、張廷玉、鄭芝龍、鄭成功を送らす。(速達とも49)。 登校して石浜先生に会へば新城君の口なきかと。ひるすみて14:00まで丹波の来るを待ち、長沖先生に紹介し終へて小野和子にゆき、連れ出して喫茶。まむし食ひ、あんみつ食ぶ。青生に会ふ。野崎をも訪いひして17:00すぎ帰校。夜学教へて帰り夜学3年目の井上(服飾・住道)、松本(仝、鴻池新田)と同車。松井信子氏より他の約束ありしと断り。 5月21日 学校へ電話し欠勤を届く。辻、けふより働く。栗林呼びて竹村氏に会ひにゆかせ、帰り来しにきけば明日10:00に来よと。今月分の日給29日分4350わたし、明日われつれゆくを約す。大塚来り、毎月15,000づつの補助申請すと(寮長、監督の給与、賄の人事と俸給、加配米の支払をのぞき)。賛成しおく。齋藤生より9月1部に転ずるはいかにと。 山前君より『骨3、4』3冊づつ送り、のちほど速達来って井上多喜三郎いまだ原稿を出さず、善後の会議を23日(日)13:00より依田宅でと。けふ22:00までかかりて辞典の残り、査嗣庭、僧格林沁(※センゲリンチン)、史可法、朱一貴、朱嶟、尚可喜、蒋廷錫、徐広縉、施琅、銭謙益、曽紀沢、曽國荃、宋之清、荘廷鑨、索額図、趙金龍、兆恵、張煌言、張名振、張玉書、張良棟、徳楞泰、田文鏡、鄭廷楨と書き、あと張天倫のみをあます。 5月22日 栗林をつれて8:30家を出、張天倫加へしを平凡社に送る(33)。山本藤助邸へゆけば夫人会はれ、明後日より勤むることにて良しと。別れて短大へ洋傘探しにゆきしも無し。荒木利夫に電話して明日ゆくと言ひ、きけば多喜さんより[辞]めるとらしき便りありしと。 山本事務所にゆき佐瀬と話し、news映画見る(柳田国男『火の昔(80)』『先祖の話(80)』リーチにて買ひrice curry食ひし)。 けふ留守中筑摩書房来り、8月までに書けと云ひゆきしと。眞野君より16日発令となりしと。『阪大文学部紀要3』贈らる。 5月23日(日) 10:00家を出て、宇治の小高根家にゆけば母上あり。夫婦他出と。探しにゆきて行きちがひとなり、家へまたゆき話す。『日本浪曼派1』出しあと入ることとす。14:30出て京阪書房で『遠西双考(180)』買ひ依田家へ着きしは15:30、井上多喜三郎あり(佐々木君旅行中と)怠けしと。8ポ追加と詩「過去」とを即座にかきて17:00出る。四條で3君と茶漬食ひ、別れて京都書院で『近大歌謡集(150)』、新生堂で『満洲碑紀行(20)』『満支典籍攷(20)』買ひ、20:00発の京阪特急で帰阪。 5月24日 よべ小眠。午すぎ会社へゆき父に会ひ5000預る。夜、大塚と炊事と呼びて話きく。堀場と高橋に『骨』送る。 5月25日 芳野清よりのハガキみて11:30家を出て登校すれば、研究費使ってよしと。硲君来る。この頃碁に熱中と。よべ書きし「今中十九生会の記」を木村生よびて托す。この間我になれなれしく本預けし子なりし。「国文学史」すみて宮口生に松本一彦への紹介状かき(大学新聞の広告)、山本、明渡2生と『中■命』考はなして出、寺田町で下車、石塚書店で橋本循『中国文学思想論考(150)』、吉川桑原『新唐詩選続篇(80)』買ひ、稲垣歯科へゆく。井上博、この間の同窓会つまらずと云ひをりし由。百済璋子より30日の会たのしみと。 5月26日 10:00家を出て高島屋に寄りwhite shirt2着の仕立たのむ。6月6日出来と。登校せしもcollege hourとて西宮君と2人出てなすことなし。自己紹介をすれば武居「つまらないから名云はず」と。宮口生きのふ松本に会へば日生の代理部になってくれれば4万でも5万でもといひし由。15:00帰宅。筑摩の広告見しに『世界名詩選』一冊予価350と。 5月27日 登校、身上調書のため1人づつと応対、府立女子大へゆきし花井生サボりしとて来る。14:00歩きて千川訪へば留守。荷風を台所へ置き去りし。家へ帰りて見れば千川の手紙。ふしぎなることかな。 高橋君より小高根二郎の所しらせと。鍛冶初江より勤め先をと。1.5時間休みてまた登校、藤沢桓夫氏、明日来るとて承知したれど学院の失礼に怒りゐると。夜学早めにやめて帰る。 5月28日 登校、守本主事に助手のこと云へば「増築で金がないので云々」。腹立って院長に云ふ故、反対するなと云ひおく。2時間すませ、浦畑、青木の2水泳選手と話す。青木より浦畑の方賢きこと発見す。15:00すぎ出て峯の里まで歩き榎本すみ子の家探せば帝塚山の真下なりし。母上出られ、すみ子出、大分元気なれど相変らずねてゐると。出れば追掛け来て内祝としてネクタイと菓子ともらひ赤面す。学校へ戻れば中野トシ子来り、天丼くふわれに茶もち来る。 講堂へはじめて入りしがslipperでなければならずと中田博士注意されしと。望月博士と藤沢桓夫氏の講演きかさる。すみて清水生と帰る。先生人気あるのね、と夜学生の知らざることを知りしらし。 帰れば西川より中島健蔵(※『サンデー毎日』の文章)よみしと。佐瀬より『堀辰雄全集2回』出しと。佐々木邦彦君より佐渡までゆきしと。元々社より校正28頁まで。 ガルダン 世界歴史事典 v.4 (平凡社 昭和26) カルカ 世界歴史事典 v.4 カラチン 世界歴史事典 v.4 コウソウ 清 高宗 v.7(平凡社 昭和27) オルドス v.3(平凡社 昭和26) セイソ 聖祖 v.11(平凡社 昭和27) センソウ 宣宗 v.11 ジンソウ 仁宗 v.10(平凡社 昭和27) 5月29日 朝ねてゐれば竹村氏より電話。父、給料のことで心配しゐると。午後行くと約してねてゐれば簡易保険来り、入口のglassわりてゆく。午後出て会社、父より10,000預り藤井寺にて2日に会あるときき、ゆきみる気になり、近鉄で散髪、古書部で『墨國一覧(50)』、佐野学『社会史(150)』。 ゆけば叔母留守。房ちゃんの姉夫婦(1月新婚、伊藤忠の竹下輝雄)あり。色々話す。島田玲子、社長の弟と結婚の予定で退社と。徳従姉を知ると。時間つぶしに表で会ひし清水生訪ぬれば不在。鹿熊訪ぬれば不在。また帰りて竹下氏のbeerの相手をし、19:00帰りし叔母、やがて叔父と話して出、肥下に寄れば豌豆呉る。Salary20,000となりしと。帰れば池元もはや眠りゐる。けふ組合の総会ありしと。(片町線で守屋君と同車、時野谷 勝、阪大へ来しと) 5月30日(日) 8:30家を出、近鉄departでslipper買って(80)登校、10:30より開会。けふはslipper不要なりしらし。文芸の出席よく、1回西保、越智、則武、中許(旧姓高島)(小島姉も来りしと、われに会はず)2回は伊藤、鍛冶姉妹、菊池(すぐ帰りし)、峯、北野、相良、中馬(旧姓生田)、椿下、寺本、中田、野崎、疋田、藤野、本多、松井(渡辺病気で会社欠勤と)、今市(安村)、山荘、山中、和島の20人。3回は大浦、小野、鍵谷、北沢、百済、小島、佐瀬、天満、島本、内藤、中川禎、中川弘、成尾、西岡、西川、西野、則武、萩原、渋谷、林、藤原、馬路、松島、八木の24人とさすがに成績よし。第二部は島田、中野、出雲、森、家本7人。西田(福田)章子来り挨拶す。写真を内藤組にとられ、北野より新和歌の写真3枚もらひ、鍛冶初江に助手宜しときき、15:30峯、中馬と出れば百済、馬路もbus待つ。百済のぞく3人誘ひてナンバ。高島屋特別食堂でjuiceおごり馬路つれて天牛南店にゆき大学訳詩集一冊与へて別る。 けふ羽倉、硲晃君来りしと。元々社より『李太白』68頁まで初校。『文芸日本』6月号。 5月31日 終日家居。筑摩書房編集長土井一正氏より8月末までにたのむと。 6月1日 登校、島本より電話あり、長沖先生のお世話になることになったと。宮口生ら日生へゆき広告3,000もらひしと。荒木利夫より電話かかりしといふゆゑ、かければ『骨5』出来しと。後刻ゆくを約して授業。すみて明日新村先生の話といふに加藤邸にゆき見れば夫人留守。京へ先生お迎へにゆきしと。ナンバに出て荒木利夫君に会ふ。我が詩をほむ。ききて大丸へ鉄斎展見にゆく。我にはわからざりし。 梅本に寄りて見、すぐ出て帰宅。(野崎にゆきて鍛冶初江の意向きけば喜んでゐしと)。鍛冶初江より喜んでゐると。 山本事務所Grillミマスの階上へ移り電話も35-8368とかはりしと。高橋重臣より東京へゆきゐしと。(けさ近鉄depart前で饗庭夫人に遇ふ。あそびに来よといはれ、ええと答ふ)。 6月2日 雨。登校、9:15にゆけば9:00よりはじまりなりしと。杉山平一君と話し『骨』1冊与へゐる間に壽岳博士来られ、よべ新村先生と加藤邸に泊られしと。『南蛮更紗』のsignこと云へばあとにせよと。式すむところを講堂に入り一休みして茶珍博士の生活改善の話きく。家庭婦人の教養時間屏禁15分と。そのあと新村出博士の話、老いたまひしものかな。壽岳先生に呼ばれsignしてもらひ、また研究室。西宮君自動的に同乗して京都へゆくを命ぜらる。院長つかまへ鍛冶初江に3,000与へて助手とせんと云へば宜しと。土曜午前中来よと書きやる。川原女史きのふ高野敏子に会ひ忙しとききしと。 教授会、文1細原(学院)家出しゐると。久保田の一味なり。帰り来し西宮君とともに出て帰宅。『李太白』初校102頁まで。 けふ守屋君と京橋で会ひ桑田博士の会の案内出せしと。なるほど来あり、12日(土)14:00錦江ビル内「北京」でと。 6月3日 朝、炊事に原君の預ける5,000受取る。9:00登校、歴史教へ1時間休み、長沖氏来しゆゑ鍛冶初江のこといふ。4時限屋上でSchubert Wiegenliedを教ふ。久保田生よび細原のこといへば叔母の家にゐしと。父逮捕されしとけふの新聞にあり。 楳垣氏より『言語生活6』もらふ。田中塊堂氏、『白氏文集』よりの断簡訊ね来らる。しらぶべしと答ふ。(夜、帰宅して見れば『白香山集26』の「江州司馬庁記」の中頃なり)。15:00まで待ち補導会議。女師4人出て中々盛んなり。細原生、四国へゆきゐしと。親子丼食ひて夜学。伊東マア子呼びて『骨5』わたす。 帰れば『李太白』132頁まで。■校見よと。写真くれと。佐々木邦彦より帰洛と。『日本歌人』。(硲君、会議の前に来り、話せず) 6月4日 竹村氏より電話、来よと。けふはだめ、明日8:00ゆきて今村部長と話すといひ10:00出て登校、新野といふ人より電話ありしと。わからず。文1で名簿順に並ばせれば近視6人。ひる佐瀬に電話すれば昨日新聞に出しboatで死にし藤田繁は上田女史の甥と。のちほどゆくといひ歴史すませれば、山本重武君より電話、浪大の2年生に独語の家庭教師をと。ともかく火曜にゆくといひしところへ西宮君来り、座席変更に2年異議申し立てしと。ゆきて説明し大体納得せしも楳垣氏と懇談せしめsalaryもらふ。健保上りて28,000の手取り。もらひし羊羹食べて出、ミマス2階に移りし山本事務所にゆく。 山本は葬儀にゆきしと。rice-curryおごりともに古本屋、高尾で『東亜論叢3(150)』『西北支那(50)』と光太郎『天上の炎(40)』買って大毎。天野ゐざるゆゑ向ひで喫茶。梅田の方へ向へば向うより来り、餡蜜おごり呉る。別れて帰宅。馬路晨子より礼状。 6月5日 8:00より会社へゆきて待ち、9:00前来し今村部長より会社の答弁を預り月曜に再来を約して登校、(健保証書きかへとのことに返還)。鍛冶姉を待ちて2年class委員にきけば楳垣氏きのふ再考を約せしと。1年浜谷も来りて云ふ。元々社のための写真とってもらひ、11:35院長に鍛冶姉を会はせ、守本、三苫2氏に紹介すませて、久保田問題を起こせしときき、学院へゆききけば、soft-ball部員を集めて授業サボらせし。十時といふが来り、不逞なりしと(住吉学園)。そのまま鍛冶と出て千日前。野崎を訪ね昼食おごらせしところへ相良、撫養の2卒業生来あはせ話し、大丸へゆく途、戎橋上で高校の卒業生に珍しく声かけられ「Degas」につれゆきて喫茶、「大丸」へゆけばまた鍛冶に会ふ。 伊藤佐喜雄『森鴎外(30)』『偏奇館吟草(30)』買ひ、梅田でnews映画見、喫茶し吹田。うどん食ひて泊る。(『西南アジアの趨勢(30)』)。富松桜井会長選挙違反で捕はるとradio。 6月6日(日) 10:00すぎ朝食。11:30“calm”でcoffeeのみ、アテネ文庫『人文地理辞典』と『脂肪の塊り』買ひて帰宅。 雨。午后よりまた降る。岩崎昭弥よりハガキ。平凡社よりやっと原稿の受取り。稿料は7月中下旬に払ふと!『李太白』180pまで。長山来りしゆゑ、会社の[回]答わたす。寮生負担は88円?である故15,000渡すは止め。一応自治会運営にまかせ、不足につきては改めて交渉せよとなり。横山来り20日辞職帰農と。原君に云ひしとゆゑ留めるを中止す! 6月7日 よべも今朝も自治会より連絡なく、竹村氏に電話して今村部長にことわりてもらふ。高尾書店の書目。今中19期生会の案内。午后、万美子より『祖国』返し来り、菓子と手紙。午后大塚来る。 6月8日 9:00すぎ家を出て『骨5』を西川、中野清見、堀場、蒲池の諸氏に送り、天王寺にて坪井に遭ふ。平野の相野のもとへゆくと。『骨』1冊また与ふ。学校へゆけば昨日伊東未亡人来りしと。靴下おきゆく。鍛治君にとnote1冊と机ともらひ、神楽歌、催馬楽きり、新聞部の宮口、伝田2生に「わが愛読書」の記事とらさんとせしも旨くゆかず。午后の「国文学史」すませれば山本重武より電話、すぐ住高へゆき本間君の許へ伴はれ木曜独乙語を教ふることとなる。浪大2年なり。出て高島屋へゆきwhite shirt2枚出来上りしをとり、赤木『ありし日の東洋詩人たち(50)』買ひ「面影」にて喫茶。 けふ『李太白』初校212pまで出る。けふ東生5日の写真2枚出来上りしと呉る。 6月9日 登校、西宮君来り、元々社のため写真とり呉る(※写真リンク)。浜谷のとりしは未現像と。田中塊堂先生来られ『白氏文集』のつづき発見と。『日本写経総鑒(2,200!)』賜ふ。大掃除する中、十時生呼びこの間のこと叱りしにきかず。単位のとり方も不十分なる様子につき思ひつきて久保田の父宅へゆけば不在。祖父権四郎氏に会ひにゆきて連絡たのみ、帰校(『Bovary夫人(80)』)すれば図書室にをりBasket-Ballの練習すと。また思ひついて森ノ宮の十時宅にゆき母君と話せば男性的と。帰れば多喜さんより電話かかりて来ると。まちゐしに21:00また電話、来ずと。疲れて悒鬱、八木嬢より「従妹[ベ]ット」のこと返答。 6月10日 京、風邪らしく時々発熱し、けふも幼稚園休む。9:00すぎ登校、もはや来客あり、別に用なきことわかり馬鹿らし。山本理事長夫人より栗林よしと御挨拶。立食の時、池坊短大学長と話す。12:20すみて『文芸春秋』よみて14:00。加藤夫人に礼いひにゆき一旦帰校。雨中小野和子にゆけばけふ先方の母にあひに大江の叔母とゆきしと。千川にゆき同窓会に出よと中西doctorの伝言たのみ、アベノ橋へ出て夕食。学校へ帰れば柳井三千比呂より会ひたしと深沢みち子の電話ありしと。大阪書籍へ電話し20:00来よと云ひしに来ず。高野線までゆきて待ち、ともにナンバへ出てきけば、李太白の詩を教科書にと。ことわりて夜間の子西川生をまじへて喫茶。千日前で別れtaxiで鶴橋に出て帰れば22:00。『李太白』初校みな出終りて241p。 久志卓真『中国陶器』。山前実治より13日(日)『骨』の会せん、その時同人費をと。 6月11日 登校、歴史いつも旨くゆかず。すませて堺へゆき肥下に会ひ、平田生呼び今村生の姉に会へば3ヶ月休養でよしと。(全田へゆき叔母、敦子、純子に会ふ。女児3月8日に出生、良子と名づけしと)。 帝塚山で下車すれば中野生に会ふ。森生とbonus後の遊びにゆくと。3人にてbusでナンバ。餡蜜おごり帰らんとすれば中野生怒り出雲屋でまむしおごらる。(『骨』の会員費100づつ預る)。硲君より明日の桑田博士の会出ずと。 『祖国50号』。大塚来り、月曜10:00に竹村氏に会ひにゆかんと約す。けふ元々社へ公正と略歴と送る。 6月12日 8:00すぎ家を出て8:40片町駅にて迎への自動車にて警察学校。けさねすごして何も準備せず、「大阪の兵隊」と漫談やり10:05すませ特別調達局まへまで送られ、科野の席にゆきしも不在。府庁へゆけば竹村氏に遭ひ、月曜10:00に会社へゆくと云ふ。坪井も席に不在。出て市電にて上本町8丁目へゆき上宮病院に今村生を見舞ひ、帰り途の吉川仁の店のぞけばをり、伊東詩碑のこと云ひ、上6まで歩きrice curry食ひ、天地書房にて『印度支那言語の系統(40)』と春夫『侘しすぎる(70)』と買ひ、市電にのれば前に生徒あり。ともに図書館まへ下車、「衣笠」でjuiceのませ山本事務所へゆけば佐瀬も不在。 高尾まで歩き「北京」へゆけば大分集まりをり14:50より(※桑田博士の会)開会。守屋君の司会で石浜先生、浅井恵倫(金沢大学と)、中村孝志らの諸氏の祝辞。みなききとりにくかりし。外山軍治、時野谷勝の外に森三樹三郎より挨拶されしはうれしかりし。 19:00出てtaxiにて時野谷、羽田2君を戎橋に案内し、萩原美知子の家「源平」に案内すればSinger呼ばんかと仲居。ことわりて名刺わたし御馳走になり土産もらひて出、2君と別れ美知子嬢に春夫贈りて帰宅。 渡辺鐐子より手紙。多喜さんより詫び状。陽生より三鷹に移りしと。房子より北村ウメノをつれて東京へ帰りしと。『東洋史研究13の1,2(240!)』 6月13日(日) 家居、岩崎昭弥より手紙。伊藤賀祐は(※岐阜)県立医大の皮膚科主任と。 原課長、母病気とて帰郷せしはよけれど妻君よりも挨拶なし。夕方、西山卯三郎氏に電話すれば、夫婦ともにをかし。16日に夫人来ると。 6月14日 10:00大塚と会社へゆき竹村、今村2氏と話させ了解。城平叔父も覗きたれば面会求め、原君の無礼云へば同感。帰阪後注意すと。父10:30来社、帰りがけ寄れば建、この間上京し、大に会ひて俳優座の女優と結婚とききしと。帰りて松井信子氏より電話ありしゆゑ、明日ゆくと答ふ。西保嬢よりまた歌作りをる、木曜に学校へ来ると。 6月15日 5月分精算表を托して登校、宮沢生来りをり、鍛治君を助く。(日赤へ松井信子君訪ねしも仕事中とて会へず)。明日のcollege houreをまかすとのことに守本氏に抗議せしもあしらはる。萩原君へ礼状かく。(時野谷勝氏より礼状来をり。) 昼食後YMCAあつめて「キリストの女性観批判の批判」せしに楳垣女史「先生の御批判はいかが」と、つひわれ赤くなりしと。 小野和子より17:00頃来るとの電話ありし由なるも来らず。 6月16日 幼稚園へゆく京とともに出て登校、college houreに2年生に修学旅行のnonsense説きしも反論なし。住高へゆき『東洋歴史大辞典』見さしてもらひ硲、山本2君に会ってのち帰校。 荒木利夫に20日ゆけずの伝言たのみ教授会に出て日程きき、着席順につき話せよと命ぜられてすみ、小野和子来り、待ちゐしによりともにナンバに出しも(nighterを X氏と見ると)風呂思ひ出して帰宅。。榎本生より快調と。山中タヅ子より会社第一生命buil.に移りしと。早くねる。 6月17日 登校すれば8:20、やがて鍛治君来ってわびる故気の毒。けふ明日と長沖氏休講。古典購読の時間には「菩提樹」を教ふ。すみて宮口来り、詩人座談会を催し小野(※十三郎)、安西(※冬衛)、杉山(※平一)、我の対談と。 西保君来るかと思ひしに来ず、藤原生と電話で話せば明日17:00頃来ると。14:00小野和子より電話かかり会ひたしと。出て帝塚山書店で待てば来り、亡くなりし実母の事でよべ一夜煩悶と。明日藤井寺へゆくと云ひ本間書店前で別れdeutschを1.5時間教へ帰校。やがて高野敏子より電話、来ると云ふに待てば、女教師にいぢめらると。初めて貰ひしsalaryで卵10ケ呉る。2時間待たせ西宮君と3人でアベノ橋のbeer-hallにゆき、おごりて帰宅。 元々社より奥付の校正、7月5日発行とあり。羽田より礼状。中村孝志氏より『台湾史概要』の抜刷 6月18日 登校前、近鉄で散髪。長沖氏より鍛治のsalary1,500とどく。昼すぎ三苫氏に云ひて3,000借用、三苫氏より渡してもらふ。帝塚山書店へゆき野村望東尼『上京日記・姫島日記(40)』買ひして帰る。(西宮君のとり呉れし写真を元々社へ送る)。 やがて島本来り、小野も来ると。16:00まで待ちしあと出かければ来り、3人にて天王寺「No.1」にゆき氷しるこ食ひ、別れて藤井寺へゆく。小野のegoismを説教せしかどきかず、叔母に会へば泣きてすむ。一昨日先方にても母の病気を知り、母君の反対にて行悩みゆゑ一応断らんと也。夕食よばれる中、叔父帰り、外へ出れば昌三叔父にも会ふ。 帰れば佐瀬よりハガキ。中野清見の本出しと。 6月19日 雨。15:00父来る。〒なし。(中野、羽田、佐瀬、中村孝志にハガキ書く。) 父と出て戎橋のMunchenにゆけば、辻部(永田、工学博士となりしと)待ちをり、樽井(坂部)、花崎来り、先生方([脇]田、岡田、石川、山地)見え、次第に殿井、越田、吉田、井階、三好、江口、宮本太郎、吉村、松本一秀、池田、塘、古河と17人となる。昭和3年よりのは越田、花崎、三好、江口[※三五]、宮本太郎の5人なり。石川先生上六予備校へ模擬試験に史よこせと。松本と出て「源平」教へtaxiで鶴橋。 6月20日(日) よべ眠りがたく、一日臥床。午前中、小高根二郎氏より高橋重臣君の『日本浪曼派』加入承認されしと。夫人再妊娠と。 八木嬢より“Madame Bovary”の人名表。午後山前君よりけふの会のびしと。夜、『世界人名辞典』にと寧完我、年羹尭、范文程、費揚古、福康安、傅恒書く。 6月21日 家居。人名辞典のつづき。傅爾丹、彭春、明瑞、楊遇春、雍正帝、陸生[冉]、李星沅、李衛、李文成、劉之協、劉松、呂留良、林清、林爽文、和珅と夜21:00書き了る。守屋君へ『明史』2帙かへしに行きしも不在。小谷晴康、月賦の保証人にたのみに来る。 6月22日 登校前、会社へゆき729日清算し、10,000貸与さる。学校へゆけば齋藤加寿枝と英語とれざりし岩井生と夜学2人来る。齋藤は下宿して35歳になるまでに卒業したしと。国文学史すまし、また齋藤と話し、院長、主事に会ひきのふ盗難ありし(三村の写真機)、7月8日天理図書館見学と云ひ、齋藤の復学話し、17:00鍛治君と出て千日前。「面影」でcoffeeおごらせ、野崎に7月8日のbusたのみ、天牛書店で春夫『別れざる妻に与ふる書(30)』、大学『空しき花束(150)』買ふ。(けふ浜谷生、写真3枚呉る。2枚を元々社に送る)。 帰れば『李太白』の校正そろひて来りをり。朴慶植君より池内先生の本の礼状。 6月23日 雨、家居。9:00までに校正すまし送らす。元々社より写真小さすぎる故nega送れと。昼寐す。横山退社、帰郷す。 6月24日 登校、1時限目すみて浜谷生呼び、negaのこと云へば持ちをり、直ちに元々社へ送る。昼食中、橋本すみ子来り、全く良しと。疋田生も来り、17、8日一泊で赤目へゆかんと。15:00本間家へゆき独乙語。すみて『映画作品辞典』買ひて帰校。森桃子と話し夜学教へて帰る。 けふ三苫氏に3,000返し、1日のみ残りし。(けふ北畠-帝塚山間の電車で林叔母に会ひし)。(中野トシ子生より電話あり、class会不出席は私のためかと、可嗤)。 6月25日 登校(けふ西の空地の鉄線はづすを見る。きけば垣めぐらす也と)。『Bovary夫人』一寸勉強し、梅垣女史に腹立て、午後身体検査とて講義ちょん切らる。小野勇氏来りて関大の話す。西宮君、富永館長に手紙かく。5:00出て帰宅。 母来り、来年上京して大に寄寓すと我に云へと也。中野清見より『李太白』不要、丸とともに景気悪しと。横山薫二より会社第一生命buil.に移りしと。中村孝志より誤りの謝り状。桑田博士の会の写真来る。 6月26日 12:00昼食して出る前、佐瀬に電話してゆくと云へば気のない返事。行きてきけばこの間、山本夫人にbeer一本のまされて皆告口せしと。そのあと北区長より夫人に恋慕のこと問はれしと。夫人花屋敷へ800円もちて2日ゐしと。山本気の毒となりて出、「Svar」で内山『両辺倒(50)』買ひて帰る。 元々社より本のcoverかけと。山前君より依田、荒木、我、未着と。佐々木君より5号の「戦友に」よしと。平凡社より「雍正帝 外256行」稿料8月下旬にと。 けふ上京らしき藤村青一に会ひしも先方気付かず。 6月27日(日) 家居、『東方学7』来る。「無題」と8p言とを『骨6』に書く。『李太白』のcoverの帯の文書く。 6月28日 家居せんと思ひしに父より電話。12:30会社へゆけば一時払の形式でとのことに30,000借りしことにし、今村氏より竹村案見れば500円余の補助なる故、少なすぎると云ひて出、天満橋へbusにて出れば古本屋なくなりをり。 坪井にゆけば居り、coffeeおごりてもらひ東京行云へば止めよと。梅田へゆき大河原訪へば来客中。止めて古本屋廻り、野尻『星まんだら(40)』、藤間『日本武尊(100)』買ひて市電にて京橋を経て帰宅。 西保嬢より『骨5』の詩に感心せざりしと。夜、salaryわたせば健保、厚生、失保なくなりしに2賄人抗議す。原君に云へと云ふ。(けふ会社で会ひしも挨拶せず)。 6月29日 登校、今年卒業の安部(幼稚園)、山田(城東中学校)、大菊、田中と来り待ちゐる。話す中、齋藤来り、下宿やかましと。7月8日の天理図書館の見学の注意し、芥川比呂志君呼んでくれとの件きき、15:00出て帰宅。 高鳥君より「蘇東坡」承知した。保田けふ上京と。(電車で中尾君に会へば健保つづきをると)。 けふ新聞部1日に安西冬衛、杉山(※平一)、小野(※十三郎)との座談会と云ふに、夜、本間家へ電話し2日にゆくと云ふ。 6月30日 雨、登校、college-hourに出ず。きのふの雨にて被害ありし様子(のちほど阪和・高野線不通ときく)。荒木利夫に電話して明日の詩の座談会いへば来ると。天野忠の詩集預かりをると。 午后「蘇東坡」写しなどして15:15まで待ち教授会。18:00すみて帰宅。荒木より入れちがひにハガキ。夜、鳴田来り、父泊めくれと。食費のこと云へば1000わたせし。 7月1日 登校、歴史むつかしく講演1時間で切り、「蘇東坡」清書し了へ(55枚)、午后詩の座談会の用意せしに、小野氏にきけば安西冬衛は未連絡と。杉山平一君も来らず、西保も来ず、お流れとなり、菓子呉る。 荒木君に電話して16:00すぎゆき天野忠『重たい手』受取り、中山書店(御堂筋西側)廃業を見、溝端で後藤末雄『東西文化の交流(100)』買ひ、夕食くはずに帰校。パン食ひ長沖氏にnylon靴下のお礼にと菓子贈り、夜学すませ、伊東まあ子に『詩神(山田新之輔の追悼詩のる)』与へて帰宅。元々社より24,650来りをり、八木嬢より“Une vie”の人名。夜、池川先生の往診乞ひ、京、発熱浣腸してもらふ。 7月2日 9:30家を出、森ノ宮までゆきて雨止みしゆゑ三菱銀行今里支店へゆき元々社の稿料受取る。疲れて近鉄にてorange juiceのみて登校、きのふ鍛治君、野崎に会ひbus雨天中止と云ひゐしと。午后、伊井、山城、津熊の三卒業生来る。授業すみて疋田、ややして来し高野敏子と3期の卒業生それぞれ集まる。けふ白浜行きまり監督文芸より1人出せと。長沖氏に押付け不快なり。 15:00疋田(25,26の両日赤目へ一泊旅行と)高野と出て姫松まで歩き、高野と別れ北畠下車。『Heine恋愛詩集』1冊買ひて本間家へゆく。すみて(来週も金曜と約す。山本重武君に恰も北畠で会ひし。)2,000もらひ、近鉄departの古本屋みれば永田工学博士に会ふ。此間の不足を謝し、喫茶店おごり(同君7年軍隊にゐて大尉となりしと)寺田町へゆき『二都物語(150)』『中国の知慧(120)』『末摘花註解(170)』買ひて帰宅。京、買ひ来し本を見ず絶食に弱りゐる。元々社より捺印用紙来りをり依子に捺さしむ。小林和尚より西河嘉雄君の履歴書。(けふ祖国社へ「蘇東坡」送る。) 7月3日 京、絶食して泣く故、出て岡山町の植田女史を訪ね、藤田繁君に弔意を表す(1,000)。今夜吉永教諭ら呼びて35日と。長堀橋の大日本セルロイドに百済生を訪ね13:00までに大丸へ来いと云ひ、white shirtあつらへsheetsと浴衣と買ひ古本部にて国分直一『壷を祀る村(250)』買ひ、ややして来し百済生に昼食くはせ、心斎橋筋を南下し、近鉄案内所へ寄りしあと「面影」へ寄りナンバ駅前で別れ、市電待つ間に声かけしは小林正三。昭和9年より20年ぶりなり。 大毎へゆき天野愛一に芥川比呂志君のこときけば5日夕来阪、旭区北清水町の大野旅館に泊る予定と。穂積陳重『法窓夜話』、『山内義雄訳詩集』、桑原『西洋文学小辞典』と文庫買ひ、craypasを京に買って帰宅。丹羽みさ子より咲耶夫妻の送別会をわれに開けと也。 7月4日(日) 布施税務署より4,200納めよと。午后、傘もちて小阪へゆけば堀内書店休み、服部へゆけば50,000借金して土地買ひしと。1.5万円のArbeitをしてゐると。夫人の帰りを待ちてのち退出。けふ服部で聞けば中山八郎氏市大へ来ると。Busにて阪大の潮田富貴蔵氏と乗合す。守屋君にと植木もち、桑田博士の令息の阪大入学に付き教へにゆきたまふと!和田先生へ国会図書館に付きお願ひ書く。 7月5日 雨、京やや良し。船越章と吾の噂すと云ふ堀内幸枝女史より詩集『紫の時間』。 7月6日 晴れ、京を池川医院へつれゆく途、父に会ふ。咲耶夫婦送別の従兄妹会、丹羽にまかせよと。京阪電車千林下車、西山博士宅へゆく。母君の話では縁談できしと。博士に案内させ大野旅館へゆき芥川比呂志氏を呼び出せば今、東京より着きしところと。11~14日なら講演承知と。 すぐ出て登校、学生委員に伝ふれば喜ぶ。午、齋藤かず枝より菓子くれ、佐野氏の時間不足にて受けささずと云ふに、会ひにゆかせば後期をきけと。齋藤はるみより電話、明日来ると。午后1時間すみしころ島本、小島2生来り待ちをる。 けふsalaryもらひ29,159。鍛治君の母上来らると云ふに待てば15:00すぎお越し。菓子?賜ふ。小野和子より電話、児玉氏?より話を復活せんといはれ昨日大江へゆきしと。2嬢つれて戎橋で餡蜜おごり十合まで歩きて古本屋見しも何もなし。別れて駸々堂で地図3枚と『労働法』。帰れば百済生より礼状。けふ疋田生より委員辞したしと。天野愛一より『言語生活』受取りしと。篠田博士より『小豆雑煮』と『陰名辞彙』。 7月7日 晴。登校の前、東洋史研究会へ300送る。近鉄で散髪。古本屋にて『ハイネ(30)』『西洋文化と日本(30)』『熊本方言の研究(150)』買ひて出、林生に会ひ芥川の来校いふ。ゆきてcollege hourに出、午すぎ来りし齋藤はるみ待たせ、年報の編集会やり、芥川氏への手紙を辻、山本2生にわたし、齋藤の遅刻注意し、疋田生に15:30近鉄古書部にて会ふを約し、齋藤君と出て古本屋歩き『韓語字典』を帝塚山書店にreserveせしめ、アベノで喫茶して別る。疋田は縁談世話せよとて写真と親類書わたす。官吏と教師はいやと。大江叔母に会へば児玉氏この間小野和子の許へ押かけ縁談復活をせまりしと、めでたし。疋田生の写真見せしが相手にせず。 帰れば久美子より電話『徒然草』の参考書見せよと。金曜ゆくと約す。山本書店より書目。大塚より会社の返答に不満、も一度会談せんとの要求。けふ大江叔母よりきけば竹村氏定年退職となりしと。 7月8日 大、西川、中野と3通上京通知。8:00すぎ帝塚山書店へゆき、店主起して文世栄『朝鮮語辞典(1,100)』買ひ内山『上海漫語』つけてもらふ。学校へゆき9:00院長来られしゆゑ9:15出発。11:00前天理図書館着。院長を富永館長の所へ送りこみ、我は忙しく引ずりまはさる。「中国地誌」は日比野丈夫に初稿見てもらふ由。13:00出て参考館へゆく頃、大浜君現はれ生駒氏来り、14:00出て中宮寺。蒸し暑きこと限りなし。すみて法隆寺前で院長よりciderおごりてもらひ乗車、16:30帰着。 けふ辻、山本2class委員にきけば、芥川氏、明日15:00より1.5時間話してくれると。野崎君、楳垣先生まじへて雑談せしあと夕食くひて夜学。すめば田中生『Heine』もち来りsignをし、齋藤生、福井生呼び、あと清水委員より長良川へ遠足を31-1日とのことに「日をかへよ」と云ひして出る。古川・沢田2生京橋まで送り来る。木村生、今春聴(※今東光)氏に案内せんと云ふ。 7月9日 9:30登校、芥川氏に電話すれば迎へに来ずともよしと。守本氏に長良川へ遠足のこと云へば御随意にと。ひる小野勇氏来り、関大にて「雄略天皇」ほめし人ありしに、高橋盛孝氏「田中は勉強きらひ」と云ひしと。午すぎより大講堂か小講堂かでもめつづけ15:30芥川氏来りて大講堂ときめ、17:45まで悠々と話され、こっちの方で心配す。 自動車迎へて送り出し、(けふきけばbonus16日、来月salary10日と。)本間家へゆきドイツ語1時間。田辺でrice curry食ひてのち今川。城平叔父すでに帰りゐる。正平classで一番になりゐると。22:30まで教へ支那そば食って帰宅。 山前君より『骨6』の初校11日13:00依田邸でと。芳野清君よりハガキ。『自彊会報』(けふ今川で岡田剛先生に会ふ。城平叔父へゆく途にお宅ありし)。 7月10日 11:00竹村氏来り、退職の話す。あと昼寐し14:00覚む。〒8日に中野英夫君ハガキかきゐる。偶然か、ふしぎ。西保惠以子より歌。 17:00出て『文芸春秋』買ひ、会社にて城平叔父に東京行を云ひ、田中正平博士(※故郷淡路賀集村出身、純正調オルガンを発明した名士)の遺族を訪はんと云ふ。会議は数字を正確にして決定せんと。原、不快。杉浦氏と歩き駅前で別る。 7月11日(日) 9:00すぎ正平来り、我と史とにて漢文、国文法教ふ。Corbeauの出版記念会のハガキ来り、12:30出て上洛。京阪書房に寄り『玉葉3冊(2,000)』学校へ送れといひ『拾遺和歌集(80)』『天保ものがたり(100)』買ひて依田邸14:00。すでに5人集りをり初校の校正。きけばCorbeauの会は18日と。すみて雑談。写真とりなどし18:00出て佐々木、井上、山前の3君と夕食。(けふ5君より伊東詩碑100づつ預る) 別れて京都書院で沢瀉(※久孝)、武田(※祐吉)2博士の万葉歌と正宗敦夫の総索引(3,500)学校へ送らすこととし、『高青邱(80)』『枕草子(80)』『李太白3冊』は1,500と。大学堂で『山島民譚集(230)』、新生堂で『採緝諸国風土記(50)』『満洲観(50)』『老読書歴(150)』と買ひて帰宅。 けさ山本より電話ある筈なりしも来ず。 7月12日 10:00会社へゆき旅行届を14~20[日]までとし、父に書類預け、電話料700わたしてのち住高へゆく。途中おとわ叔母に会ふ。藤井寺にゆくと。大江叔母に伝言たのみ、北畠で硲君に会ひ、山本君に本間家の謝礼の報告し、学校。 守本、三苫氏、院長へつぎつぎと旅行届し、本間家へゆきて教へ(西宮君に手紙置く。沢瀉[の本]だぶりをりし)梅田へゆく。帰れば丹羽美佐より咲耶母子を客としてやると。高鳥君より「蘇東坡」の受取。鶴身陽子よりハガキ。元々社より20部送ったと。 7月13日 家居。京大分よし。午后西保嬢『日本歌人』の奥嬢同伴して来る。大よりハガキ。中野英夫氏より「人生の偶然に驚いた」と。夜、小野和子より電話、木曜に児玉氏に会はすと。上京伝へて断る。『李太白』けふも来ず。 7月14日 安田章生より『白珠』に朔太郎または静雄につき10枚を10日までにと。佐々木邦彦より現夫人のこと。12:00すぎ10,000もちて出、今高にゆき同窓会名簿1冊買ひ筒井より会報5部もらひ、Svarにて『狐の詩情』2冊見付け、rain-cort買ひ(1,600)、傘を山中タヅ子嬢に預ってもらひ、横山と2人に『狐』与へ、また『狐』5冊買ひ(30づつ)『ハリス日本滞在記 中』もちて瀬戸号にのり、品川7:00前着。大の下宿にゆく。 7月15日 大にきけば(※女優と結婚の話)片恋にて成否わからずと、可嗤。父母には一室を保たさんと。ともに出て東京駅で朝食させ、西川に電話してゆき『狐の詩情』土産にわたす。梅本、坪井、関口((※自衛隊の)東部副総監になりしと)と会つづきなれど月曜に会せんと。坪井「関口に田中の上京させざれ」と云ひしと。 傘借りて協和銀行にゆき岑夫に会ふ。8月3、4日帰阪と。別れて自動車。元々社を三崎町に探しあて社長に会へば20部それぞれに寄贈せしと。われにも20部送りしと。また10部呉れ、蒲池氏に電話。家にて待つとのことに案内されゆき、大と別れ、2階にて昼食接待受け、齋藤晌氏に他日同行を約して別れ、新宿に都電でゆき小田急で和田先生。 『李太白』受取り返事せしと。(※東京での研究職につき)欠員なしと。東洋文庫の岩井主事の後任として入るるはよけれど榎君反対「詩人なれば」とのこと。がっかりせしところへ中山八郎氏来り、本部にても不快と。 出て中野英夫宅訪ぬれば外出、電話して明日9:00迄に再訪といひ、また小田急。梅ヶ丘駅に出て小高根太郎を訪ふ。外出中なれど帰り来り泊めて呉る。 7月16日 太郎にbus停留所まで送ってもらひ区役所前で降り、中野英夫を訪ふ。「■沢老師弟子の裏切により動揺」と。我に他力自力につき切諌す。送られて西島寿一宅へ寄り、叔母に迎へらる。一興叔父に似ゐる由。やがて自転車で帰りし夫人に会ひ昼食供され、寿一の勤先きいて出、梅ヶ丘よりお茶の水。Busにて帝大前。筑摩書房の土井編集長に会ふ。(※『李白』の本)必ず出す由。 寿一に電話し、忘れし洋傘を西川に届けることたのみ、明日また電話するといひ、井上書店にて植村『万里の長城(150)』『婦人と小児(150)』。Busにてお茶の水、大森の大にゆけば置手紙し明日夕まで帰らずと。出て思案し高円寺にゆき赤川[草夫]の店訪ねあて、都丸[書店]の電話かりて千草のapartに電話せしもかからず。焼飯たべさしてもらひ丸を訪ぬれば[在]宅、20:00まで話して泊めてもらふ。「関口われのこと気付かざる様子」と。 7月17日 10:00丸と出てbusにて東京駅(丸は丸の内で下車)、西川の許へゆき関口に電話し15:30に行くを約し、19日15:00に再来といふところへ丸来る。出て靴みがかせ(20)協和銀行にゆけば12:00。河野岑夫に食堂で会ひて大体話し、電話して西島寿一の会社たしかめ、行けば(野村ビル)在り。 ともに出て丸ビルで喫茶、歌の話し(『李太白』売店になし)神田神保町へ自動車。山本書店で2冊買ひ、『蘇東坡(100)』。水道橋まで歩き東上練馬へゆけば15:00。部隊へゆけば(※関口の)家示され、会ひてたのめば承知した、19日までに調べて見んと。すでに少将になりて6ヶ月、いまはこの部隊の長と。再会約してbus。 池袋に出てまむし食ひ(130+きもすひ50)、大森へゆけば大もどらず。White-shirtしかへて吉祥寺。電話して新川まで迎へに来さし、ゆけば貧乏話。いやになる。ただし長男高一と、たのもし。浅野建夫に電話して迎へに来てもらふこととせしところへ[※青木]陽生来り、話す中「麓保孝氏と陽生と面識」と。 長男に送らして約束の場所にゆけば浅野すでに待ちをり、三鷹駅近くの宅にゆき、きけば「寺内元帥の許にゐし」と。MedanもSingaporeも知りをり。藤田貢に電話し来よとすすめしかどきかず。「丸山正三郎、中村治光と往来す」と。「語学はRussia語とMalay語に達しゐし」と。風呂たまひて就寝12:30。けふ18:00すぎて電報打てず。 7月18日(日) 9:00浅野に自動車運転さして藤田家にゆく。中村治光もこの近くと。子供成蹊高校へゆきゐると。夫人は須貝の妹にて浅野夫人と同級、病弱なり。 10:00出て帝都線の停留所で降り、上北沢にゆき、歩きて田中保隆を訪ねしに出てきて謝り『四季』返し呉る。聖心女学院につとめ白鳥清、原田淑人2先生も来られ女子のくせに史学科ありと。 bus停留所まで送られ渋谷に出、省線にのりて浦和、竹内好の家たづねまはり14:00着。夫人、胡散くさげな顔せしも二階に上ぐ。話す中「面白き人なり、はじめ押売と思ひし」と。2女を生む。 駅まで送られて大宮、高野勝美、明子夫妻をapartに訪ね、夕食ふるまはれ、ともに新宿へ出、氷店より蒲池氏に電話して明日齋藤晌先生を訪ぬるを約し、2君と別れて小田急。小高根太郎邸にゆき、さそひ出して薄井(※敏夫・故人)訪ぬればここも2女。薄井に似し面わす。夫人朗らかにて却って哀れなり。悔み云ひて出(いま間貸しにて生計を立つと)欝々と悲しくport-wine買ひて太郎とのみ、やや鬱晴る。(途中古書店にて『中世民謡集(30)』買ふ。) 7月19日 9:00出てbusにて東京駅。『四季』預け飯田橋にて下車、日歯(※日本歯科大学)に船越章訪ぬればすでに退職、放送局に勤むと。つっけんどん也。角川にゆき編集次長に会ひ平凡社への途教へてもらひ『李太白』1冊与へて出、市ヶ谷下車、平凡社にてまた編集次長に会ひ、稿料の催促すれば13,000おくれると。係の老人説教し、蒲池氏に電話して新宿駅で待合せ約し、toast食ひて省線。ゆけば待たる。齋藤晌氏にとchocolate買ひ(500)京王にのり高幡不動下車。齋藤氏を訪ぬれば在宅。15:30まで話し、『荊棘園詩鈔』いただきて退去、新宿着16:30。Coffeeのみて話し、お茶の水で蒲池氏と別れて東京駅17:00。 西川会社にゆけば丸待ち、やがて加藤定雄来り、用ありとてすぐ去る。あと高垣、谷口、森良雄、原田と大体集りしゆゑ、浅草雷門の「加茂作」へゆく。関口、西川と共に来り防衛庁山田人事課長に紹介書き「明日履歴書もちてゆくべし、久保は不在。防衛大学、防衛研究所あたりへたのめ」と也。ありがたく礼云ふ。丸も木村長官に運動しくると。疋田生の写真を丸方司氏の長男にとわたす。高垣は『李太白』を週刊朝日にて紹介さすべしと也。 20:00散会、関口の自動車にて有楽町(西島寿一、西川にゆきし故、紹介せしと也)、高垣と降り、調査部に連れゆかれ(※田中)正平博士のこと調べてもらへば20年死、長男楠弥太と。大森の大の下宿にゆけば不在。20:45まで待ちて「山王」といふ宿にゆきて泊る。 7月20日 6:00起床、7:00大の下宿にゆけばよべ2:00に帰りしと。朝食ともに駅前までゆきて食ひ、美濃紙、墨汁買ひ、帰りて履歴書かき、ともに出て東京駅。防衛庁につけば11:30、局長会議といふに待たされ12:40山田課長に会ふ。 しらべて見んと。この間久保にも依頼の手紙かく。天ぷらうどん両国で食ひて東京駅。西川の会社へゆけば不在。関口に電話で報告し、太田氏よりの電話といふに考へた末、立川陽子君とわかり電話すれば和田節子と会ひに来てくれると。16:00東京駅でと約し、有楽町の日本交通協会buil.をたづね、私鉄経営者協会の田中勤氏に会ふ。やはり一郎氏の令息。川口の技術庁研究所に電話してくれ、正平博士の後嗣田中楠弥太氏(病臥中)を呼出し話してもらふ。「毎日」に寄り桐山眞氏呼びしも不在。置手紙し、東京駅。 大来り、和田、立川2氏も来る。地下の「庄司」にゆき喫茶。立川氏9月より伊賀へ転任と。 入り来し人々ふと見れば中谷孝雄、浅野晃。ゆきて問へば保田けふ昼までをりて送りしかへりと。外村茂、大鹿卓氏もあり。浅野氏、あの双書(※元々社)にて『楊貴妃とクレオパトラ』も出すべしと。諾して出、2夫人より土産もらひ(この間、大、河野岑夫より1,000借り来りくれし)、大と「酣燈社」。堀場正夫氏夕食たまふ。保田を泊めしと。別れて朝日放送に庄野潤三君訪ねしも帰宅。19:30の明星号にのりて西下。 7月21日 浜松あたりより気分あしくなりしが大垣で席あき眠る。6:30大阪着。徳庵駅に『四季』預けて帰宅、朝食とる。 堀亘より電話ありしと。山本藤助氏より女中の礼として靴下。小林仁太氏より中元。植田初枝氏より香奠返し。 〒多く来あり。奥靖子女史より礼状。小林英俊より西■君の催促。和田先生よりの行きちがひの御返事。浪中より18日同窓会と。赤塚[徳]郎氏より転居通知。横山薫二より礼状。森克己博士!より「風光台湾」の依頼状同封、大場少将存命と!藤枝晃より礼状。山本信江生よりかあゆき(※可愛ゆき)礼状。丹羽美佐より25日阪急8階で「いとこ会」をと。短大より高野山行7月29日8時13分ナンバ発に変更。8月分salaryは10日と。安田章生より『李太白』の受取。伊東花子氏より詩碑9月には建つかと。小高根二郎より受取。外山軍治、竹田龍児、河村純一氏より仝。宮口生、上高地より。神田信夫氏より礼状。吉岡弥之助氏より暑中見舞い。咲耶よりゆき子へ「会へず」と。吉井栄治より受取。 ひるねしてさむれば中村貞子生の暑中見舞。天野忠よりハガキ。小林仁太氏より中元の送状。竹村氏より電話「明後日17:00会社で会し自治運営につき商人たちと話合ふ」と。大塚来り、自治のこと云ひゐる最中、栗林栄来り、ひまとて来りしと。「山本藤助邸、旦那様、奥様、嬢様よけれど悪者をると」と。 7月22日 9:00すぎ会社へゆけば父をり、城平叔父より待てときき、やがて来しに田中勤、楠弥太の両家の話すれば喜ぶ。Bonusの原案置きて父にあらまし話し今村部長に栗林のこと云ひて出、busにて天満橋。毎日新聞にゆき天野愛一呼び出せば齋藤安秀君に紹介さる。ともに喫茶、『李太白』の紹介たのみ、第一生命buil.に山中嬢たづね、洋傘預けしをとりかへさんとすれば家へもちゆきしと。昼食に誘ひ、我のみrice curry食ふに近くに桂信子。(天満橋にて春夫『閑読半日(80)』買ふ)。別れて阪神へゆきしも大河原ゐず、news映画見て京橋。 昨日けふより暑し。(『狐の詩情』また梅田で買ひし、30なり)。浅野亘子より明日来たしと。桐山眞君よりなつかしと。 林富士馬より「電話であがりし」と。馬路生より暑中見舞。佐々木種子氏より仝。野崎より速達「赤目を中止」と。 7月23日 浅野亘へ電話、9月に学校へ来よといふ。浜谷弘子、原田、谷口、森、加藤、堀場、壽岳博士の諸氏へ『李太白』。原田、丸、西川へ礼状。蒲池氏へ仝。庄野潤三君よりわび状。中野清見より「新しい村つくり」。 庄野、中野、浅野建夫へハガキ。吉岡弥之助氏へ中野清見との提携すすむるハガキ。小高根[太郎]へ礼状。 柳井三千比呂君より入浴中電話かかり「Goetheの訳詩誰のがよきか」と。「誰もよからず」と答へ20:00に来よといひ、夕食して会社へゆきbonus受取る。城平叔父あやまる故あけて見れば5,000。集会所で自治引継ぎの座談会。業者として田中米店、徳野酒店、炭屋来り、浅沼来ず。会社より杉浦氏、やめし竹村氏、池元と我とに寮生大塚、長山、衣川の3名。すみて帰りbonus池元と辻とにわたす。 神田先生より礼状。岩崎昭弥より8月第一日曜(※岐阜にて)待つと。河合百合子(英1?)より怪しげなる暑中見舞。22:00すぎ柳井君2時間半かかりて来、beerのみて23:00帰りゆく。3,000の詩集の見本みせ「平林治徳、保田をおしのけんとしゐる」と。前田正男氏保安庁の有力者と。 7月24日 8:00家を出て小阪までbus。瓢箪山の西宮君を訪ぬれば在宅。『玉葉』その他図書館に入りしと。出て上六の天地書房にゆき『東北の方言(150)』『那覇方言概説(150)』『朝鮮通史(250)』『朝鮮文化史論(250)』買ひてbusにて東天下茶屋。本間家にゆけば10:30。教へて話しゐる中、昼食にまむし出され、食べて出、またbusにて小野和子にゆけば大掃除とて在宅。山崎氏に初対面、ともに出てこれまた大掃除中の長沖氏に『李太白』1冊わたし、小野より児玉君への不満きき、別れて塚西へゆく途、apartに林叔母訪ねしも不在。塚西より訪ね訪ねて山中家へゆけば、たづ子君まだ帰らず、母君に送られて藤野家。病臥中のdoctor見舞ひ、和子嬢に太田陽子の西帰伝へ、玉出駅まで送られてナンバ。荒木君訪ぬれば、とりやめしあと10名を越えしと。地下鉄にて梅田、万字屋にて『平家物語考証(800!)』『魯迅選集(80)』買ひして阪急8階にて明日のいとこ会の時間きけば11:00からと。靴に金打たし、世界平和をキリスト信仰からとの説教ききて帰宅。 南部英美子嬢、中学の先生となりしと。森克己氏より『台湾風物』2冊転送。元々社より「週刊読売にて推薦されし」と。食1石原薫より暑中見舞。 7月25日(日) 桐山眞、中村貞子、森克己、南部英美子、小林仁太の諸氏へハガキ。西保、齋藤2生へ『骨6』。 9:30家を出て散髪。11:00阪急にゆけば人影なし。古本屋にゆき鳥居『ある老学徒の手記(180)』買ひてゆけば咲耶・渡夫妻、すみこ母子、丹羽夫妻あり、14:00までかかりて解散。山本治雄に電話せしも不在。 けふ入矢義高氏より『李太白』の受取。20:00小野和子より電話、28日17:30「おもかげ」で待合せ児玉君に逢はさんといふ。けふ『週刊読売』買ひ推薦の辞を見る。註釈よしと。画像リンク p2 7月26日 西川英夫へ『骨』5冊。楊雲萍氏へ抜刷と手紙(10+24)。元々社へ1,000同封「10冊送れ」と。大へ「岑夫の分返した、雲井書店へ行ってくれ」と。 9:00出て本間家、寝てゐしとて宿題やらず。11:00すませ斎場前で下車、『Brantome (60)』『全国市町村便覧(10)』『昭和22年毎日年鑑(20)』買ひcoffeeのみて帰宅。(『平家物語 下』を新本で買ふ。) 山尾浩子より手紙。鳥居治子(食1)、明漫(文2)、齋藤かずゑ(文Ⅱ3)、山中(文2)、北野雅子より暑中見舞。京また消化不良。 7月27日 午后、tobacco切れ、会社へゆきて父より電燈代と水道代の立替とり、29~31日の(※高野山への)旅行届出す。倭周蔵、橋本貫一2君より暑中見舞。壽岳博士より『李太白』の礼状。小山正孝、宮沢弘子より暑中見舞。浜谷弘子より『李太白』の受取。 7月28日 曇、むし暑し。植村清二先生より手きびしく「李太白の見方、因襲をかへ得ざりし」と。木村(文2)、松山(食1)より暑中見舞。 13:00出て本間家、14:30すみて大丸へゆきwhite-shirt。古本部見しも何もなし。心斎橋筋下りて「面影」、小野生を待ちてjuiceのみ、次いで「オランダ」といふにゆきて児玉君待ち16:00出て千日前で別れ、天牛南店で『平家物語諸本の研究(300)』。まむし食って帰宅。けふ佐瀬より電話、長野敏一来てゐる由。 7月29日 6:00起床、6:30家を出、鶴橋よりtaxiにてナンバ(110)。8:13にのりて高野山。同行院長、守本、高岡、梅垣、長沖の5氏。成福院にて昼食、会議、夕食、会議、就寝22:30。 7月30日 会議。 7月31日 朝から会議。夜学廃止、校外講義、推薦入学廃止、研究科設置などきまる。奥の院へ我のみゆき帰りて古本屋で『四国の方言(160)』買ひ、中野英夫、蒲池2氏にゑはがき書き、院長と碁して(6目で1番負け)、16:00出発。ナンバ19:00前着き平野屋で夕食。別れて天牛南店のぞきしあと帰宅。 平凡社より稿料遅延のことわり。元々社より「14冊送った」と。西保嬢より「7月の便り」。鍵谷洋子より「9月学校へ来る」と。石川正智先生より「一度来よ」と。荒井平次郎、、金井節子(L2)、木村陽子(食1)、小林千余子(L2)、山田登志美(食1)、細野美智子(L2)、花井彩(府立女子大)より暑中見舞。斎藤堅太郎先生より同。加藤定雄より礼状。堀場正夫より仝。杉山美都枝氏よりロマン派のこと。森桃子より「一度会ひたし」と。溝端富子(中西)より暑中見舞。宮本正都氏より「篠田博士、毎水曜池田に泊らる」と。 8月1日(日) 昼寝す。前川圭子(食1)、下村喜美代(仝)より暑中見舞ありしのみ。16:30入浴中、八木嬢来る。富永館長胆石病と。麻雀模様の浴衣もて来しゆゑ悪口云ふ。丹波市に痴漢出没と。19:00駅まで送りゆく。 8月2日 家居、草刈を午前と午後にす。久万哲男関節炎のため退社といひに来る。『骨』の原稿、詩1、「東京日記」「天野忠詩集評」と書く。上村博子より「扇雀後援会に無給で働く」と。百済安璋子より「中元送った」と。天満、萩原2卒業生、大塚、中井(L2)、津熊照子(1回生)と暑中見舞。清水文子より「8月7日12:42三島行にて岐阜市美江寺町すみよしやへ行く」と。参加の返事し、岩崎昭弥に江口[※三五]、伊藤賀祐2友への案内たのむ。 百済生へ『狐の詩情』、齋藤堅太郎先生へ『李太白』包み、本間家へ電話し明日10:00前ゆくといふ。けふsalary届きしゆゑ、池元、辻に4,000づつ渡す。 8月3日 晴、暑し。8:00前出て院長宅。『李太白』を呈しいろいろ話して10:00本間家へゆきドイツ語。月謝くれず梅田万字屋にて『女性に関する十二章(100)』、市村『東洋史要(100)』(山中タヅ子とともに7階の横山訪ねしに欠勤。我rice curryとcoffee、かれjuiceとcoffee)。石切にゆき小阪に引返し『平家物語の説話的考察(400)』『こども風土記(20)』『自然科学史(60)』『弴・春夫集(40)』買ひてbusにて帰宅。松下公子より暑中見舞。 8月4日 家居、父より電話。7月分支払の請求書についてなり。〒山本敬子敦子姉妹、山本陽子より暑中見舞。中井英子洲本より。蔵本恭子(L1)徳島より。安部順子より仝。林祐治、亀井昇より仝。千川義雄より雑誌、この間13日に学校を訪ひしと。山前実治君より入れちがひに催促状。 8月5日 会社へゆき立替の清算し、7,8両日の(※岐阜行き)旅行届す。咲耶より挨拶。橋本幸子(服1)、藤原加代、太田昭子、浜谷姉妹より暑中見舞。岡崎玲子(服1)、鍛治初江より同。出雲礼子より仝。藤原幸子より仝。神崎院長(※神崎驥一)より礼状。宇都宮清吉氏より仝。 夕方、長山と屎尿汲取代1,500徳野忠子にわたし、busにて天満橋。『現代東亜人名名鑑(70)』。坪井にゆき薄井未亡人に2,000贈ってくれとたのむ。 8月6日 9:00家を出、本間家へゆき3,000もらひて出る。(荒木君に電話すれば13:00より不在と)。南住吉apartへゆく途中、住吉区役所に寄り庶務課長中川■雄と会ふ。我をおぼえずと。硲君にゆけば、けさ我のところへ来るつもりなりしと。8月31日生れの嬢ちゃん見て、山本君にゆきて礼云ひ、その中[辞]めると云ふ。 出て高野線で荒木君にゆき吉田君と話しつつ昼食、「面影」につれゆき、別れて梅本吉之助に会ひ薄井夫人のこと云ふ。十合古書部で鴎外と迢空『死者の書(200)』買ひ、日生へゆき松本一秀に会ひ、藤原嬢よびて本与ふ(高野とまちがへし也)。ともに出て喫茶、図書館前で別れ、山本事務所へゆけば無人。 帰宅すると清水文子君より電話恰もかかり、(※岐阜行き)参加者5人と。行かんといふ。西岡照子より写真再送。高野敏子より忙しと。山口千恵子、伊藤久子(2回)、西川良江(3回)、伝田(L2)、吉田悦子(食1)、増井園子(?)より暑中見舞。伊東夫人より仝。東井夫人より仝。増田弟より仝。八木嬢よりゆき子へ礼状。山前君より「原稿われと佐田君とのみ」と。鳴田「肋膜炎にて退社」と。 8月7日 10:00出て横山、大河原たづねしにともに不在。『狐の詩情』2冊買ひ、待てば清水、谷川、西岡、福井、柏原と5人のみ来り、西宮君とで7人、12:42三島発にのれば平岡も来る。京都で逓信病院の沢田生見送る。 16:30岐阜へ着けば岩崎[昭弥]、保田夫妻、子とともにをり花火祭見に来しと。後刻を約し美江寺町「すみよしや」に入れば、江口三五氏より電話ありしと。こちらより電話し、迎へに来しautoにのり、ゆけば喜びて迎へbeer半打(※ダース)とsider1打とをたまふ。保田、明日訪ねると伝へ、22:00岩崎昭弥より明日来るときき、24:00まで話して眠る。 p3 8月8日(日) よべ帰りし伊藤賀祐より電話。岩崎とともに現はる。江口三五に紹介し、彦根の河村先生に電話しおくと岩崎よりきき、犬山城へ電車(よべ本多喜久子氏の家たづねしに戦災に会ひて行方不明らし)。写真うつしてもらひ(※写真リンク)、(※犬山)駅前にてすし食ひ、新岐阜へ出て土産買ひ16:41大阪行にのり彦根着。 河村先生とへば岩崎より電話なかりしと。中川、広田、藤野、小林、若森と呼びあつめてもらひ24:00まで話してとめてもらふ。保田も昨日ここに泊りしなり。 8月9日 7:00起床、石川県の団体にて忙しきをせかして朝食。出んとすれば勘定河村先生支払はれしと。200茶代にわたし先生への電話たのみ、9:00出て中村竹次郎へ寄り見しも不在。峯田美子『森鴎外小論』買ひてbusにのり9:35駅につき、準急券(60)買ひて京都まで立ちづめ。ふと下車し、畠山邸に電話すれば大掃除にて会社と。吉野書房にゆき高鳥と話し、畠山氏に電話すれば迎へに来ると。出て表で待ち、祇園「池田家」にゆき豚かつ食はせてもらひ、依田君に電話すれば柳井三千比呂ゆきて原稿とりしと。山前君の電話番号きき、河原町四條まで送られて別れ、『ポオルフオル詩抄(120)』『慵齋雑記(50)』買ひしてのち、山前君に会へば、荒木利夫君より原稿も『李太白』も同人費も未着と。 羽田に電話し、15:00朝日会館前で会ふこととし、彙文堂に寄りて本3冊たのみ、羽田に会ひて和田先生、防衛庁、平凡社の話す(羽田も平凡社に詰問せしと)。夫人と坊や来しゆゑともに喫茶、別れて帰宅。 留守中、河井ち津の父定吉氏来りお中元、久保田初美より仝。井上斌子より手紙。薮芳道君より暑中見舞。大田サワ子、米沢昭子、榎本須美子(まだ安静命ぜられゐると)。上田弘子、辻芙美子、古谷悦子、市村伎餘子、岡幸代、希美、成尾禧紗子、千場和子、浅野通子(堀)など、文芸の卒業生、在校生よりハガキ。井上博子(食1)より仝。 小高根二郎君よりハガキ。花井裕より仝。夕、原君熊工の先生来りしゆゑ会食すと。ゆきて例の説教上戸きく。 (大より成城に転居、雲井さがせしがどこかへ移転しゐると)。小野和子より「Peace」3缶。(けふ京都駅前で山下幸雄君に会ふ。「長尾君とともに立命館にあり」と。) 8月10日 世話になりし先に礼状かき9:00行けば省線で伊井玲子、上町線で筒井嬢に会ふ。Salaryもらひ教授会記録わたし『玉葉』3冊図書室より借り出す。(帝塚山書[院]で『史学雑誌』5冊と『族制語彙』(100))。『文芸春秋9月号』と岩波新書『豊臣秀吉』かもめで買ふ。楳垣先生より水口清氏の『和歌山県植物方言集』いただき、西山夫人の置きゆきしお中元と『玉葉』とを置きて安村妹とナンバ。不二家で喫茶、近鉄案内所にゆき野崎にまむしおごらし、「扇雀会事務所」にゆき上平生に会ひcoffeeおごり、安村と別れて梅田。宝塚にゆきて納涼帰る。 20:00鳥本と藤原と来りしと。藤原由子、西本幸子、齋藤加寿栄よりハガキ。けふ森桃子「母より教育者としてあるまじきこと」と云はれしとて、おごられるの止めしと置手紙しあり。 8月11日 暑し。家居。退社退寮の鳴田勝挨拶に来る。2,840の受取わたす。青美智子生より角砂糖、岩崎昭弥より佃煮。芳野清、菊地淑、西保惠以子、山城和子、塚本[侊]子、青美智子、半田祐子より暑中見舞。蒲池氏よりはじめて便りと『雅友18』。田中史子生(LⅡ部3)より「十和田湖へゆきし」と。鳥居君より暑中見舞。 8月12日 暑し。鳴田退寮してゆく。上野伸広、徳永(彩、秋山)昭子、清水文子、高野敏子よりハガキ。野中薪炭店より砂糖5斤。けふ16枚ハガキ書く。 8月13日 暑し。悠紀子、京をつれて今川、大江へお中元にゆく。19:30帰り来り、北村ウメノ胃痙攣にて大さはぎなりしと。齋藤かずゑのため空室見付けくれしと。小野和子叱り10月挙式を承知させしと。坪井にpineappleもちゆき薄井夫人への労を謝す。けふ薄井夫人よりLungeと礼をかねて報じ来りし也。田中、深沢みち子、末吉栄三より暑中見舞。桑原・生島『文学と女の生き方』『堀口大学詩集』買ふ。 8月14日 暑し。鍛治初江君より電話、あとで来てくれとたのむ。平凡社より(4752-712) (6246-936)の2口現金輸送、但本代2,040。 堀多恵子夫人より『大和路・信濃路』、筑摩書房より高安国世『リルケ』。山本陽子、佐藤和子より暑中見舞。藤原幸子より『海女記』貸せと。14:00来りし鍛治君より『玉葉』3冊受取り、髯剃りてともに出、busにて天満橋。古本屋にて大内兵衛『婦人の経済学(130)』『玉葉集(70)』。またbusにてナンバ。野崎君に会ひてのち別れ、天牛にて井上哲次郎『菅原道真(80)』(大内兵衛は野崎君に与ふ)。市電にて下味原、古本屋見しが何もなく帰り来る。 8月15日(日) 終戦記念日。けふより筑摩書房の『李白』かきはじむ。「秋浦歌」より始む。芳野清君より「大垣(※国司)を悼む」。八木嬢よりlist。伊藤賀祐より礼状。竹田龍児氏より「新宮にあり」と。浅野建夫より残暑見舞。 けふ薄井未亡人に紹介状かきし也。青山喜惣治氏より「この間駅までかけつけし」と。堀未亡人へ礼状。西川へ「久保亀夫君のところしらせ」と。山本治雄に電話す「一度会ひたし」と也。 8月16日 本間家へ電話すれば淳三郎君外出。けふ夜間2年の匿名嬢よりハガキ1枚。『李白』37枚。 8月17日 暑し。本間家へ電話すればまだ神戸、明日来よと。12:00出て梅田。散髪やで女の子に腹立て、「Svar」で『ドイツ古典哲学の本質(60)』買ひて石切。生駒にゆきて服部(※服部正己)。夫人体わるきらし。小阪へ19:10服部とつき堀内の店教へ、『東亜古俗考』『中国短篇小説』(200)。 帰れば亀井来りをる。入浴、夕食す。けふ『白珠』来り『李太白』の広告しくれをる。齋藤かずゑ生より漢文の質問。上田阿津子生より古典講読の転科。山荘、則武、宮口の諸生より暑中見舞。河野岑夫より挨拶。(けふ藤原生より電話、明日来いといふ)。 8月18日 雨ふる。Rain-coat着て9:30出しに駅で晴る。本間家にて新しき読本やり、神戸の瓦せんべいもらひて11:30出、大丸の古本屋にゆき『鮮訳聖書(250)』『漢鮮日字典(150)』買ひ、梅本訪ねしに坪井に会ひし由。昼食にうなぎおごり呉る。日本生命にゆき藤原生に瀬川[※清子]『販女』貸し、山本事務所にゆけば居り、細君をまま子いぢめと怒り明子つれてをり。山本の出しあと佐瀬と明子にのみもの飲ませ、市電にて京橋、帰宅。 上田来り、やめて漁業すると。西川より「仁田工吉の歓迎会する」と。安村明美より礼状。石橋信子(LⅡ2)より暑中見舞。けふ平凡社より智天豹(?)につき早くかけと速達。坪井より高校の転学につき問合せ。 8月19日 平凡社にことわりと受取。山本文子夫人よりこの間不在でと!西川より「関口に連絡すれば(※東京での就職口)他にもたのめ」と!齋藤かずゑより下宿今のところでと。太田陽子志賀高原より。久保亀夫に『李太白』送り、よろしくとたのむ。 8月20日 本間家に電話すれば淳三郎君午前中にと。ゆけば「この頃ドイツ語わかって面白し」と! 11:30出て小野和子にゆけば在宅。昼食たべさしてくれ御坊の土産呉る。児玉君と10月結婚ときまりし也。岩崎次男氏たづね坪井の手紙わたし、転校きけば駄目ならんと。短大へ寄り岩橋女史と話し高野線にてナンバ。電車にて平石氏に会ふ。荒木利夫訪ぬれば会議中。「面影」にゆけば電話ひく(75-2101)、藤沢桓夫氏に会ひたしとのことに石浜氏へ電話し、郁子嬢にいへば桓夫氏出て来て涼しくなったら来よと也(片岡鉄平夫人の紹介状もち文学やりたしと大塚女史の話)。十合へゆく途中、久保田初美に会ふ。児玉君に会ひにゆきしも不在。古本部で『品花宝鑑(50)』(天牛で柳田『日本の祭(100)』)。帰れば大阪書籍の柳井[※三千比呂]君より電話ありしと。夜、深沢女史より電話「柳井君病気ゆゑ女史明日来る」と。 8月21日 家居、疋田紀子嬢より元気出せとお説教し来る。杉本聿子よりハガキ。電話料1,907、大塚にまはす。けふ深沢みち子君来り「大阪書籍の『中教』に高村光太郎の詩の解説を」と。忙しといひてことはる。『李白』68枚。 8月22日(日) 疋田生に電話かけしのみ。〒なし、めずらし。『李白』92枚。 8月23日 坪井に電話、転校だめと云ふ。父より電話、来よと。9:30出て本間家。早雲女史に紹介かく。峯の里まで歩き、出雲屋でまむし。「十合」の古本屋にゆき柳田『神を助けた話(250)』『信州随筆(200)』、楳垣『京言葉(60)』、露伴『幽秘記(50)』。 busにて天満橋、今津北通。会社へゆけば27年7月よりの寮費見せよと。杉浦氏庶務課長、康平叔父総務課長と。〒詩集1冊。 8月24日 家居、『李白』119枚。佐瀬より電話かかり「山本宅盗難ありし」と。八木嬢よりlist。萩原みち子、豊田佐世子より残暑見舞。夕食後、大江叔母より電話、明日夕方ゆくと約す。 8月25日 9:00会社へゆき給料表と自治会の補助12,600+賄食費5,720を康平叔父に呈出。 梅田へゆき万字屋で『復軒旅日記(40)』、山本にゆかんかとせしが思ひ返して藤井寺。昌三叔父宅へ。また[空]巣入りしとて大江叔母留守しゐる。小野和子また昏姻延期といひしとて叔母怒りゐる。出て小野にゆき外へ呼出し家へ電話してのち氷宇治食って話し帰宅。 角川より『ハイネ』9月5日3,000再版と印紙送り来る。小高根、子持、堀内、西保の高野山からの寄書。本田晴光氏、児玉敏子(L2)、鳥居治子(食1)より残暑見舞。伊井利枝子より沢田(旧土井)黎子の住所。 8月26日 家居、ひるね。峯明子より残暑見舞。硲君Calpis2本もって来らる。気の毒なり。『李白』すすまず。けふ悠紀子をして角川へ印紙送らしむ。 8月27日 朝、杉浦氏より賄の食費と大掃除の薬代についていや味。康平叔父へのいぢ悪なり。昼までかかりて『李白』137枚となり、午后小阪へゆき天理へゆく。駅よりtaxiにて石ノ上まで100。運転手にきけば眞柱9日帰来と。八木母娘に東京の高野夫妻のこと伝へ、電話して高橋[※重臣]君にゆき、すし夕食にたまはりて帰宅。 けふ薬師寺へゆく前川佐美雄氏に会ひ、書いてくれと云はれし。『台湾風物』より楊雲萍に近々わが便り送ると。原稿9月5日まででよしと。(9月5日以後に送ると返答)。 青山喜惣治、青山一枝、■弥生より残暑見舞。森本佐一君、庭窪の研究所へ転任と。 8月28日 角川書店より速達、「昭和文学全集昭和詩集のため219行!!を9月6日までに」と。諾の返事す。西川良江より生野区の田島中学に9月より就職と。13:30出て『台湾風物』社へ9月5日まにあはずと航空便。 大阪書籍へ電話し前田社長の在否たしかめ鶴橋、桜川2丁目をへてゆけば会ふ。この間、保田と防衛大学へゆきしと。良きや否やわからぬも前田正男氏に云はんと。5日頃また保田と上京と。柳井三千比呂と話し、深沢みち子と話し(10日すぎ会食せんと)、出て桜橋。 『現代詩人全集 光太郎、犀星、朔太郎(65)』、news見、夕食たべ吹田書店にて『天平芸術の研究(50)』。 8月29日(日) 京都駅にて電話すれば依田来月初まで在京と。丸物で『李太白』買ひ、(※三女の)京のぬりゑ買ひ、山前に電話すれば在社、15:00ゆくと約し、市電にて■野行にのり、賀茂川わたりて下り、野田宅へゆけば野田又夫上京と。『李太白』名刺代りにおき古本屋で『標準語研究(50)』『古今武家盛衰記1(100)』。洛北高校まへ迄あるき、また古本屋に入れば『文章軌範講義2冊(60)』『広東語会話典(10)』。きけば主人死に若主人戦死と。『鼠牙(30)』買ひて100とし、東山線にて山前。 校正見(『骨6』の同人費まだ受取らず)、ともに出て四條。京阪書房で本7冊学校へと註文し、「れんこんや」にゐる山前君の許へ引返し、小婢に「会議は踊る」書いてやり(片カナ!)、四條まで歩きて西瓜食はさる。田中忠夫、堀場正夫は昔の仲間と。四條よりともに京阪特急にのり七條で別る。 帰れば月給3日と。増田来り、民俗学の本貸せと(3冊かす)。小野和子より2回電話あり、31日また電話すと。杉本長夫氏より『詩声』創刊号。吉松久寿枝より残暑見舞。和島みね子[鞆]より。筑摩書房土井一正氏より「李白150枚より少し長く」と。 p4 8月30日 〒は角川書店より、この間の印の押しもれ1ケ所ありしを送り返し来りしのみ。午後、父来り、岡島三郎胃癌にて危篤ゆゑ金いるとて3,000もちゆく。 8月31日 東京新聞より速達、9月9日までに随筆4枚をと。杉浦氏より電話、この間のこと重ねて云ふ。『李白』195枚。 9月1日 家居、『李白』かく。昼210枚となる。岩波の茂吉全集刊行会より書簡をと。ハガキ2枚ありしも悠紀子やきし也。元々社より60冊保管承知した、30日の朝日に書評のりしと。高垣が■をふみくれし也。西原直廉、在英大使館参事官となりし。 9月2日 午前中『李白』220枚とし、本間家へ午后ゆくと電話し、小野和子より姉の家にての手紙、丹波道久より転任のハガキ見、12:30家を出て本間家。ドイツ語教へ3,000もらひ木津川まで高野線にてゆき、大阪書籍に前田社長訪ね、履歴書わたし、柳井三千比呂より詩集もらひ、深沢嬢と出て戎橋。出雲屋でまむし食はせ、近鉄案内所の野崎に会ひ天牛南店、本店見て、松田智雄『イギリス資本と東洋(100)』買ひ、喫茶してのち鶴橋にて別る。 帰れば中野英夫氏、友人(佐伯氏?)つれてまちをり、横尾元通産相の話きき生駒屋へつれゆきて泊む(1,200)。 9月3日 よべ2:00まで眠れず。10:00生駒屋へゆき見れば中野氏まだ寝てゐる。Toastとみそ汁の朝食たべ、わがいひつけし菓子(300)食ひて、金のやり方を講義され12:00徳庵駅まで送りと別る。 雨ふり出しが京、悠紀子をり、京負ひて先帰宅。山前君より5日、7号の同人費もち来れ、『骨』その日にわたさんと。荒木君に電話してことわる。秋山昭子氏より『李太白』の書評見しと。写真封入しあり肥えて美しくなりし。角川より印紙の受取。山崎雪子氏より『歌集 海に近く』。けふ会社のsalary出しと。 9月4日 本間家へ電話し、午ごろゆくと云ひ、会社へゆき茶代(900)とラヂオ代(266)もらひDDTのこと城平叔父に云へば寮生にいひきかせてのち払へと。本間家へゆく時間半端となり近鉄departで『李太白』買ひparlorで茶のみ、傘買ひ(200)本間家へゆく。13:00すみて住高へゆきしも無人、北畠よりbusにて上六。『伊豆大島方言集』『佐渡海府方言集』『周防大島方言集』(150×3)。吉川仁にゆきしも不在。帰れば齋藤晌先生より朝日の評を見た、地図付せよとあり、賛成と。野田又夫君より写真よしと。山中タヅ子より審査課にかはりしと。岩崎次男氏より欠員なくなった、あやめ池にてはいかがと(※坪井明より依頼の高校転学の件)。 9月5日(日) 家居、夕方『李白』すむ。256枚。本荘健男より住友金属工業KK鉄鋼部鋼管第二課長に転ぜしと。東大club、19日(日)14:00天王寺区石ケ辻町110浪[華]荘で会費400と。大塚に会社よりの補助金わたし電気代、水道代(200)払ふ。 9月6日 京、風邪で休園。9:30出て『李白』送り(105)、定期券買ひ学校へゆく。西宮君をり浜谷生に写真またたのみ、出て荒木君にゆき『骨』20冊受取る(荒木君は不在)。地下鉄にて住友金属にゆき本荘健男君訪ねしに昼食に出しと。Juiceのみてまたゆけば神戸出張前と。またゆっくり話さんと云ひ白井にゆく。毛布1枚呉ると。coffeeのまされ(島本に寄りしも不在)、心斎橋筋南下して十合。児玉君に会へばapartたのむと。末松保和『任那興亡史(180)』古書部で買ひ、『平家物語』2部学校へたのみ帰宅(けふ住高へゆき山本君に本間家のこと云ふ。漢文の先生『李太白』買ひくれしと)。 『文芸日本』10月号、土井一正氏より東朝の切抜。 9月7日 9:30家を出、10:30学校。小野和子より電話、けふ会へずと。松本一秀に電話し(日生の入社試験12日と宮口にきき)午後、高校出てともに受験ゆるす故、明日10:00来よときく。(藤原生よりも電話あり)。園博太郎氏、元々社の友人より依頼あり、再版のため地図くれと。午後、国文学史すませ、来ると思ひし疋田嬢に電話かけさせれば来ずとことわりありしと。 けふ山本信江、沢田四郎作博士より『シベリヤ日記』ことづかり来る。藤野和子の音楽会の切符、明日嬢預りもち来る。帰りの電車で浪中の八百に会ふ。阿倍野の労基監督署につとむと。馬路嬢に会ふ。 帰りて『シベリヤ日記』よむ。夜、『骨7』つつませ表書かく。丸、西川、蒲池、小高根太郎、齋藤晌、西島寿一の諸氏へ。夜、東京新聞へ随筆4枚かく。 9月8日 9:00家を出て梅田をへて地下鉄にて日生、松本に会ひ、西原直廉きのふLondon行の挨拶に来しときく(大使館参事官)。人事部長、課長、吉川重役と次々に会ふ。藤原評判宜しと。出て地下鉄にて荒木利夫氏。この間の会にて締切20日、次のguestは小高根二郎ときまりしと。高野線で学校へゆき岩崎、日野2君に連絡し、あと日生への推薦まかされしゆゑ宮口、西村2生ときむ。不本意なれどけふcolleg-hourにも出席せぬ連中ゆゑ致し方なし。 島本に蕪村碑のことにて電話すれば不在。浜谷妹、写真とってくれる。15:00までぼんやりすごし、教授会。推薦とりやめ1月20日頃試験につき高校長に会ひにゆくこときまる。夜学廃止もきまり中田博士、胃の2/3とりしとききて散会。修学旅行の付添西宮君とほぼきまる。 帰り天王寺にて松本健次郎に会ふ。重松doctorとなりしと。(けふ壽岳博士より『不滅の日本芸術』と『English Literature』たまはる。) 夜、鳥本君より電話、来週蕪村碑案内たのむ。浅野建夫、竹内、中野清見へ『骨7』包む。 9月9日 8:30登校、2時間目、宮口生の父来り、いろいろ話す。我と同年と。西村生来らず、いるの休みに上平生来りしゆゑ演劇部の方に話せば野村朝子ことわりに来る。山本信江生に沢田博士への手紙ことづけ、院長、古田秘書に紹介す。理事長夫人の肝煎で簔助会出来をる由。住高へゆき山本君の紹介にて3年主任奥野先生の話きく。学院少しおちた由。 出て本間家、来週より金曜ときめる。帰れば(散髪と夕食、近鉄にてし)光岡の父まちをり就職たのむと。夜学3年の漢文試験、出来ず。すみて2年、帰り谷川生、岐阜の写真呉る。よくとれてゐし(※写真リンク)。 けふ上町線で挨拶せしは神戸女学院へゆきし大津千代子。けふ園氏より電話あり、印刷とめてゐる故、正誤表送れと。学校へ早く来ありし篠田博士の『李太白』受取(少しむつかしと)、今市佐恵の妹に代りて礼状。 9月10日 8:30出て大鉄河堀口で天王寺高校へゆけば後藤校長不在。3年担任の人に会へばinkをこぼし大して話もせず。家庭科の人は敬遠す。天王寺へ引返し松虫で下りて阿倍野高校へゆき野田又夫氏の令兄に会ひ林教頭に話きく。女子の進学はせいぜい2,30名と。すみて学校。ゆき守本氏に報告し、後藤田氏より電話ありしとのみきき、宮口、西村2生の紹介状を松本にかき、光岡にtobaccoもちゆかせ、午后の授業すませし頃来し伊藤と話し、salaryもらひ、鍛治君と長沖氏と4人でナンバ。3人となりて野崎をさそひにゆきしもきかず(天牛で春夫『机上枕上歩上(130)』、新村出『行雲流水(130)』買ひ)喫茶して2嬢とわかれ、高島屋で『舞踏の歩み(30)』『児やらひ(30)』買ふ。白地図よきものなし。 帰れば「元々社」池袋にうつり人もかはりしと。とりあへず2版を1,000と印紙送り来る。筑摩の土井氏よりかなづかひ、ふりがななどの問合せ。久万より挨拶、西保君より挨拶。けふ『文芸春秋』10月号買ひし。(山本信江生わが手紙を沢田doctorにもちゆきしとき石川道雄氏同席せしと)。 9月11日 家居、昼寐。悠紀子、京をつれて買物にゆく。12号台風近づく。山崎雪子氏より高石小学校の先輩とききてうれしと。山前君より締切25日と。 9月12日(日) 台風12号来とてさはがし。縁側に板打ちつけてくれしは沼田なり。『ハイネ』の再版角川より来る。中野英夫氏より『東朝8月30日号』2部来る。八木嬢よりlist。『李太白』のための地図かき了り、『昭和詩集』のため219行をゑらぶ。13,14日、小中高校休みとradio。宮口に電話すれば試験すみしと。和田、太田両夫人へ『骨7』つつむ。 9月13日 台風騒ぎつづき学校よりけふ明日休講と電話。康平叔父よりも電話。悠紀子、依子、細川君にて窓打付けすむ、感心。角川書店より送りしHeine写真なくなりしにより送り直すと。藤野和子君に電話すれば明日の音楽会10月5日に延期と。 9月14日 よべtyphoon北へ逃げしと。朝の中に釘を抜く。白井に電話すればあと2枚工場より取りよせると。来週行くといふ。角川よりHeine再版また1冊来る。夕食後出て天満橋。『女工哀史』買ひ、古本屋にて永井潜『結婚読本(50)』『法窓秘聞(150)』。坪井にゆき夕陽丘高校の園田教授に紹介状かかし、伊東詩碑の100受取り、帰れば松本一秀より電話。宮口落ち西村通りしと。 9月15日 8:50夕陽丘高校へゆき園田教頭に会ひ話きき(逓信病院に寄り第2内科に中谷信之訪ひ、その中7回生の会せんと云ひHine贈る。看護婦に沢田愛子をり。)、近鉄departでcoffeeのみて帝塚山。かもめ書店に鴎外全集代払ひ、登校すれば院長不在。来週のcollege-hourに今東光氏呼ぶと。小野和子13:00来ると。ぶらぶらしてcollege-hourに出、西村、宮口呼びて日生より通知あれば云ひに来よと云ひ、宮口に家への地図かかし、来し浜谷妹にnegaもらひて角川へ送り、ハガキ5枚かきして小野と共に戎橋。スバル座で「ラプソディ」見て17:30(上平を扇雀の会に訪ふ)、宮口宅へゆけば父君不在、母君と話す。宮口生、母を軽蔑すと。ふしぎ。鴫野まで送らして帰宅。 東京新聞より随筆送り返し来る、不快。井上多喜三郎氏より『李太白』の礼。齋藤晌先生より『骨』の礼状。 9月16日 登校、院長けふも他出。昼まへ西保嬢より電話かかりし故、来さし、小出氏にも会はす。12月(※結婚)式と。宮口生来り、17日来よとの日生の電報示す。西村は来ず。順当なれど松本の電話と反対なり、ふしぎ。浜谷と土曜12:30に会ひて毛馬へゆくと決む。 午後、上平来り扇雀のこと。演劇部に云ひて出る。(疋田生より当分学校へゆかず。文芸clubの幹事辞任すと電話) 堺脳病院に肥下を訪ひ、伊東詩碑の100とり、浅香山小学校に次田校長とひ校歌ことわり、肥下と3人全田に会合することとし全田で待てば17:00、次田氏肥下とは堺中の同級にして久しく会はざりし也。18:00出て夜学にゆけば藤原生来り、鳥本に電話さし土曜13:30天王寺公園前にて待合せと定む。帰宅すれば渡辺鐐子より松井佐和子と一度学校へ来たしと。角川より『昭和詩集』の原稿催促。 ※〈九月十六日 午后三時、田中克己来訪。午后五時過ギ、全田叔母ヲ訪フ。田中、及浅香山小学校校長次田氏来テヰル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 92p 9月17日 9:30家を出、英2植田清子とともにゆく。院長に会ひ住吉、天王寺、阿倍野、夕陽丘4高校の報告す。午后すませ(西村生つかまへてきけば日生より便りなかりしと)、15:00出て疋田生にゆかんとすれば雨降り出で、北畠にて道にまよひ、見知らぬ女人より傘さしかけらる。やっと見付けて母君と会ひ、一人息子と云へばそれでもよしと。傘さしかけられて北畠。本間家へゆき淳三郎を1時間待ち教へて出れば雨やむ。徳庵にてまた振り出せしに徳野食堂にて電話かけ、親子丼食ひて待ち、悠紀子のもち来りし傘にて帰宅。鳥本、浜谷弘子に明日の毛馬行とりやめを電話す。 関口より(※防衛庁)山田人事課長に会ひしに前田政務次官よりも話ありしと。明年(※防衛大学にて)歴史(※の講師枠)明くゆゑ麓氏に連絡せよと。堀内幸枝より『骨』見てゐると。『東洋史研究13り3』。台風14号明日来ると。(けふ漢文の再試験8人を掲示す)。 9月18日 朝より雨。幼稚園より中学まで休校。(※西島)寿一より手紙と『ことたま』。吉井千秋のpen-nameを用ふ。 午ごろ康平叔父より電話、寮生の安全に気をつけよと也。ただし台風は東海にそれたり。夜、長山来り、26日の自治会役員会に出よと。京都にゆくといひてことわる。 9月19日(日) 関口、丸2君へ手紙かき、角川より『昭和詩集』の原稿受取みて家を出、高島屋に与謝野晶子展見しが大したことなし。天牛南店で周作人『結縁豆(30)』買ひ、野崎嬢のぞきしもゐず、(斎藤茂吉『柿本人麻呂』5冊学校へ註文)上六へ出て、鮮訳『ハイネ詩集(60)』買ひて浪[華]荘。石山、藤井、八田、壷井、坪井、岡本、吉永と話し、桜塚松浦校長に坪井より紹介受く。明日午前中ならよしと。赤間知事、水川委員来場。17:00早出せしに入口に後藤田卓美嬢あり、水川氏の自動車を運転すと。母君に会はせよと云ひ、明日午ごろ府庁へゆきみることとす。そこへ浪中の西田といふが来て挨拶す。昭和13年に1年生として我に3月教はりしなり。末吉と噂すと。出て近鉄にて小阪。松本へゆき見れば西村、宮口のどちらか誘惑的にて落ちしと。宮口の面接の結果は明日夕刻わかると。出て中西にゆく。千川10月より出勤の予定と。堀内により青木正児3冊と『近江奈良朝の漢文学』を学校へ註文し、我も2冊借る。 9月20日 9:30出て岡町の桜塚高校、松浦先生に会ひ試験無試験は大して影響なしと。出て駅前の古本屋を見、『バゴボ族覚書(40)』買ひ、梅田より府庁。後藤田笑子氏に会ひ府営アパートたのむ。しかるべく運動せんと。この間、多武峯へゆきしと。長沖、川西両氏が苦手と。タバコ30ケ呉れcoffeeおごらる。荒井の室へゆき丹波、天岸にも会ふ。出て市電、本町1丁目で下り、俣野に会ふ。Indonesia人を使ふ。白井に電話してゆき毛布1枚もらふ。2,000のものなりと。ぶら下げて伊藤忠へゆき伊藤徳よび出し奥村嬢の夫、森田氏に紹介さす。島田嬢の結婚は怪しと。森ノ宮へ市電で出て帰宅。 9月21日 悠紀子出しあと弁当見当らず手ぶらにてゆき桃谷より歩きて通産省日用品検査所探しあて、女の子にきけば前田[福]太郎氏名古屋へ7月転任と。(途中古本屋にて伊東静雄『春のいそぎ(30)』見付く)。 Busにて桃谷。近鉄departにて『青春の[歌』曲集』と『李太白』と買ひ、学校へゆけば宮口身体検査のこ[と]しと。楳垣氏、和歌山の就職探しにゆき下さると。堀内より本とどきをり高きにおどろく。12:00すぎ松井嬢来り、9月15日でやめしと。渡辺嬢来り、待合せ場所にて会へず。平野行にのりしと。2人とも菓子もち来る。授業20分お説教し、守本先生より許し得て天理へゆくこととし、2人と15:00出て近鉄departで喫茶。16:00すぎ鶴橋よりゆき17:00天理着。駅の案内所できき郡山の詰所にゆけば南海詰所と。Poolか高橋君へゆかんとすれば後追ひ来り、大阪より通ふと。 とも角poolにゆけば偶然浦畑文子に会ふ。芦津詰所にをり20:00ごろひまと。本2冊与へて八木嬢訪へば、高野君、友人と十條に150,000で家買ひしと。3畳と4.5畳2間と。夕食くはしてくれしゆゑ『李太白』礼にわたして19:30出、芦津詰所にゆき、青木、浦畑2生と話し、20:25にのりて帰宅22:00すぎ。(けふ「かもめ」で鴎外6回配本受取る)。 9月22日 登校、11:20なればあはてしに、やがて今春聴(今東光)氏来られ、院長の紹介受けしのち講演「比較文学」と題し谷崎純一郎の真個の秀才なりしを語らる。すみて昼食をともにし、保田、小林秀雄が現代(※一番の)の評論家ときく。東光山天台院の住持となるいきさつ面白し。13:30木村静子氏とともに帰らる。 修学旅行参加者22名との故に楳垣氏と相談。けふ黒田製薬社長より電話かかりしと云ふに、こちらよりすれば長沖氏に原稿をとなり。教授会にて文芸の旅行中止を24日告げることとなる。よし。高校の3年生主任を呼ぶこととなり、17:20すみ、追試験にと来しを順次よび入れて説教す。瀧本生泣く。19:00出て梅田。吹田に泊る。(けふ沢田[※四郎]博士より『熊岳城遺跡(※熊岳城温泉付近遺跡の研究)』と『近畿民俗』14冊賜はる。) 9月23日(秋の彼岸とて休み) 千里山へ散歩してのち、阪急古書部にて春夫『大東亜戦争(100)』、阪急友の会に寄りしも額田節不在。帰宅すれば小高根太郎よりOuang Tchouanchanfは誰なりやと、王船山なり。 芳野清君より詩、元々社よりまた1,000部の検印。出来は27、8日と。 9月24日 検印送り、10部くれと云ふ。省線で守屋君に会へば『李太白』感心したと挨拶なり。(徳庵駅前で父に会ひ城平叔父入院ときく)。和歌山の古本屋への註文書を鍛治君にかへし、伝田生にもちゆかすこととし、力身生より芥川比呂志氏との写真(※写真リンク)もらひ、楳垣教授と文芸専攻の修学旅行とりやめを伝へ、歴史の時間に「Jeanne」を問題として与へ、沢田博士へと手紙と研究年報とを山本信江にもちゆかすこととし、16:30来し本間君に18:00来てくれときき、出て警察病院。城平叔父見舞へば糖尿病の食餌■■と。5年後の祖父50年祭に追悼録を出すと。康平叔父も来会し、きつく話しあふをききし。マミ子この間、勤、楠弥太氏に会はざりしと。 本間家へゆけば来週木金2日かかりてやることとなる。西保、山中2生よりハガキ。(明日福井房子の追試を家で行ふこととす。) (けふ天王寺より斎場前まで歩き、保田『戴冠詩人の御一人者(20)』と『青春の歌曲集』を買ふ。後者は3冊目なり) 水爆犠牲者のNo.1久保山きのふ死せしとてさはがし。 9月25日 家居、森田宏子夫人よりハガキ。堀内幸枝氏より船越章Radio山梨につとめてゐると。伝田生より電話、3冊をのぞきてみな持ち来りしと。16:00福井生来り追試、放出中学の生岡先生は同級生と。依子の去年の担任なり。 9月26日(日) 家居。台風15号それしも余勢あり。太田陽子夫人より藤野和子嬢、近く結婚と。 9月27日 晴。きのふ青函連絡船で1000人以上死せしと。西保嬢、大和へゆきしと。電話して会社へゆき又より補助金受取る。(堀内に電話して写真売るかとききしに不明と)。荒木利夫君に会へば原稿まだと。喫茶して学校へ再試の報告。歩きて十合、児玉君へapartのこと云ひ『柳樽4』駸々堂で買ひ、歩きて東亜紡績にゆき毛布2枚、白井よりわけてもらひ(2,800)帰宅。 9月28日 雨、登校。和歌山の書店より61冊着きしを見る。BKより求人、志望者多し。試験監督午后2時間。 夜学3年の呼出し8枚書く、30日(木)8:00にと也。伝田生に国語書の註文書またもちゆかす。けふにて文芸の修学旅行不参加決定。 帰宅して江口三五のハガキ見る。前田福太郎氏と会ひしと。けさ朝刊に今西春秋氏帰国を見る。万感交々。 9月29日 元々社より『楊貴妃とクレオパトラ』(※再版の件)来週、齋藤晌先生に伺って決定と。宝国寺より受取。『祖国』9月号5冊。小野和子より電話、15:00まで学校といひ、ゆきて『平家物語雑考』かきはじめ15:30大阪書籍に電話すれば前田社長出られ、礼などよろしと。 小野来り、apartより40万円の家見付けたと。ともに出てしるこおごられ、あと2ヶ月好きなことさせよと。十合古書部へ1,100払ひにゆき、原田大六『日本古墳文化』と『国文学解釈と鑑賞』買ひして帰宅。 けふ藤枝晃へ今西春秋氏への伝言たのむとハガキ。 9月30日 登校、近鉄departへの推薦状かき、『祖国』の「蘇東坡」の誤植訂正などし、古典講読に独乙語の歌唄はせればみなあがり可笑し。 堀内民一氏より電話あり、15:00すぎ来るとのことに、まづ本間家へゆき3,000もらひて[醇]三郎君と引返せば、堀内君、山崎雪子女史と待つ。17:00まで話し『絵で見る日本史(350)』白井君の長男にもちゆき、夕食し、呼出せし2部2年生と話す。清[本]生来ず、前田、福井は卒業おくれんか。中野トシ子来をり、待たせ、後藤田氏にきけばapart少し待てと。中野とアベノ橋でしるこ食ひて帰宅。齋藤こずえより帰郷と。伊東リツ氏(※伊東静雄妹)よりハガキ。 10月1日 昼まで在宅、出て近鉄departに寄りしに『李太白』なし。斎場前にて買ひてゆき「平家物語雑考」ゐれば、日生より宮口生の調査に来り、すめば後藤田府議。申込書2通もち来る。出て帝塚山書店で柳田『苦話覚書(150)』、清野『スマトラ研究(200)』買ひ(けふ特別手当4144)、今川にゆき久美子にきけば城平叔父の腎臓病よくなし、その上、心配する事多しと。この間鴫野の中学生来り、正平に会ひしと。録音にて問題起りしと。 夕食よばれ(山本信江に電話すれば沢田博士2日まで上京と。けふ柳井三千比呂も7日まで岡山へ帰省と電話ありし)、小野和子にゆきapartのこと考慮促し、明日10:00学校で、と云ふ。中谷とて第一回見合の相手忘れられずと也。寺田町でマードック『世界の原始民族 上(100)』買ひて帰る。(斎場前で『未開社会に於ける犯罪と慣習(20)』)。(三苫君わが『李太白』買ひしと)。 10月2日 登校、10:00(近鉄で散髪)、「平家雑記」かきゐしに小野和子来り、大江叔母に相談すればapartことわれと云ひしと。北村ウメノの縁談で一度来よと。後藤田氏にあやまり状かき『李太白』とともに托し、12:00出て十合。古本屋にてBarbier『安仏辞典(350)』『Knaurs百科辞典(200)』、岩生『近世日葡通交小史(20)』『Come to Java(30)』『戦国時代和歌集(30)』『飛鳥古京(50)』買ひ、児玉君に家のことちと相談にのってやれと云ひ、風呂敷買ひして(90)出、梅田、天満と雨にあひ、まむし食って徳庵に着き、家に電話して傘もって来させる。けふ朝、父に会ひしに出ずと云ひしsalary出、宮口生より日生通りしと電話ありしと。 10月3日(日) 8:00宮口に電話かけ、けふ松本へ行かんと誘ひしに試験勉強でだめと。9:00小阪へゆき堀内に借250払ひ『大阪郷土史双書8冊(250)』(「大阪城」入り「古代の大阪」2冊ありし)買ひて松本。西原のこと書きし『文芸春秋増刊』と天坊先生の『古代の大阪』礼におき、生駒へゆき服部(※服部正己)にドイツ語おそはり、将棋3番さし、すしよばれクタクタになりて出、瓢箪山に下り西宮君に寄れば、けふ洞川へゆきしと。小阪をへて帰宅。(『風俗の歴史4』を買ふ)。 藤野一雄より『李太白』2版を買ひしと。諫早文化協会上村肇君より2,000受取った、11月3日除幕式の予定と。 10月4日 元々社より2,000部の印税(20,000-3,000)と筑摩より土屋文明の『万葉集』来る。 12:00出て京阪にて京都、京阪書房によれば『万葉集全釈(18,000)』にてあり。それと『朝鮮語辞典(1,300)』、佐々木八郎『平家物語(1,200)』とを注文し、『清少納言と紫式部』もらひ、向ひにて『大阪文化史研究(150)』『飛騨山川(80)』『北伐(80)』買ひして山前君にゆき、きけば原稿まだ一つも集らずと。バカらし。 依田君に電話すれば18:00れんこんやでと。小高根二郎君とも同所でと約し、好川紀夫人に『木下杢太郎詩集』贈りて出、人文科学研究所へとゆく途、彙文堂にてきけば今西氏元気にて帰洛せしと。『中国文学報1』借り、『内藤文庫目録(60)』買ひしてのち人文へゆき藤枝に会ひ、今西氏帰郷、わがこと伝へしと。外山氏と出て篠田邸へゆけば博士不在。また研究所へ引返し佐藤長君に会へば神戸大より京大へ転ぜしと。 出て古本屋見しあと、下総町にゆき母に会へば東京転住やめしと。父は何も云はざる様子。出てれんこんやへ行けば3君待つ。Beerちょっとのみ、依田君に講師承諾せしめ、小高根二郎君と喫茶、中書島まで同車して別る。角川の全集に云はれざりしと。帰宅22:00すぎ、茶漬食ひて眠れず。 10月5日 朝、山下幸雄、赤痢と池川医院の診断書ありしと原君より電話、八尾の避病院に入ることとなり康平叔父、原君、近藤君など往来す。 10:30われは出て寺田町に寄りしのち学校、13:00まで「平家」かく(電車で佐野君に会ひ女子大図書館へ明日の紹介をたのむ)。14:00本間家へゆきしに[醇]三郎君帰らず、15:00出て(途中で見付けし『李太白』再版もち)近鉄depart。 仮館へまた帰りし松浦営業部長に会ひ、就職の件たのみしに変なりし。本社にての試験ゆゑ力になれずと。 出て一旦帰り、保健所に不潔と叱られしをききて、産経会館へゆく。早すぎしゆゑ高尾に寄り『続台湾文化史説(120)』買ひてゆき、西田章子(福田夫人)、藤野明子、山中タヅ子、塚本侊子、川端教授、川崎みち子、相良紀予子、疋田紀子などに会ひ、藤野和子君のCesar A. Franck (1822-1890)のPrelude ききしのち、coffeeのみにゆき、あと藤野夫人より縁談ととのひしときき、5尺7寸ある婿君瞥見。藤野先生は石浜夫人危篤にて来られずと。21:30すみて山中、川崎2嬢とまた喫茶して帰る。 10月6日 8:30家を出、定期買ひ(940)、上町線で藤村青一と同車、学校では誰よりか電話かかりしと云ふに後刻現はれしは井上源一郎君。料理学校に奉職する故、紹介状かけと。名刺わたせばX夫人に待合せの電話かく、可怪。 12:00出て女子大へゆき佐野氏より『参考源平盛衰記』借りてうつし、14:00花井生に傘さしかけてもらひて帰校。伝田生に父君の礼状。ことづける。 15:30より教授会、夜学存続となり、いやになる。すみて本間家に電話し、夕食たべて清水生に菓子もらひ出る。本間家で20:00まで教へ、車中岩橋講師と話し寺田町の古本屋ひやかして帰宅。西保君より12月挙式と。 けふ後藤田氏に叱らる。安村生より手紙来る。10月分salary出、長沖氏の分、立てかへて鍛治君に払ふ。 10月7日 よべ2:00石井君来り、城平叔父より電話にて寮生にマイシンとひまし油至急のませよと也。会社へ電話すれば大塚出て池川doctorにきけば賛成出来ずと云はれしと。早速城平叔父にと警察病院に電話すれば池川doctorが会社へこたへずに避病院に入院させしを咎め、明早[朝]一番にて原君を警察病院へよこせ、autoを栄太郎君に運転させよと也。 早速康平叔父に電話すれば今ごろ無茶と怒る。原君と相談して栄太郎君ことはりしに、あとできけばすぐ来り原家に一泊、早朝ゆきしと。 けふ検便あるに付き指図原君よりありしあと出て学校。(途中『東方学』300を送り、元々社へ『李太白』70冊送れと速達す)。「平家物語雑記」40枚近くなりしあと、岩橋女史より麦茶御馳走になり、後藤田氏より電話ありしときき、しばらく待ちしのち近鉄案内所へゆき(途中日本文学アルバム『堀辰雄』買ふ)。野崎君に前田正男氏へ礼をとたのみ、荒木利夫氏訪ねしに東京出張と。上六へ出て関急産業に木村静子訪ね、16:00までcoffeeのみて待ち『堀辰雄』に立原のハガキありわが名のるを見付けたり。 16:00木村生のところへゆけば今春聴氏に電話かからざりしと。Juiceのませて鶴橋まで歩き、あん蜜食ひて別る。(帝塚山書店にてけさ『史学雑誌』6冊(50)買ひし)。小野和子よりハガキ。「どうぞなるべくお許し下さいませね」と。『文芸日本』来り、堀さんの悪口云ふ。ふしぎ。 10月8日 9:00出てアベノ交叉の本屋のぞき、北畠にて『李太白』3冊見付けて買ふ。硲君が本屋にいひてとりよせさせしと。よべ電話かけてよこせし福井房子に午会ひて単位もらひに走らす。今一人の前田光子は昨日来しも驚かざりしと。 上平生より電話ありしゆゑ藤野明子らにゆけと云ふ。 15:00出れば青山一枝と同車。明日文学座見にゆくと云ふに、アベノ橋で父の支店長なる富士銀行にゆき芥川比呂志君への手紙書き『李太白』と托す。近鉄departで『日本の顔』買ひ、城平叔父への土産とせしも明日のこととす。けふ〒なし。 10月9日 9:00出て一旦学校へ寄り(「かもめ」で『鴎外全集』第12巻受取り『文芸春秋』11月号買ふ。)、女子大へゆき高馬[※三良]教授に『史記正義』おそはり、また帰って『文芸春秋』よみ、昼食して退出。美術館でGogh展と行動展とを見、森桃子と喫茶。別れて日生の支部に寄り、きけば岡本氏、南支部へ転じ、家は今里と。電車にて警察病院、叔父に池川医師と原君のこと云ふ(原君いま課長でなき由)。『日本の顔』見舞におき、中田博士見舞ふ。20日すぎより出勤と。歩きて朝日堂の前に出れば詩人あり、柿食へと云ふをことはり、また歩きて天地書房。仁井田『中国の法思想史(40)』買ひ、味原町の古本屋にて『女礼式大全(120)』買ふ。途中cheeze(130)あるを見て買ふ。(朝日堂より電話し松茸300になりしを悠紀子に云ふ。) 帰れば浅沼をり、前田正男氏に500匁たのむ。西保氏より手紙。元々社より71冊来をり。11冊は印税差引分とあり。鍛治君より電話、明日出られずと。福井より卒業あきらめたと電話ありしと。けさ千草に丸山氏を通じて麓保孝氏にたのむと手紙かき『李太白』2冊送りし。 10月10日(日) 2部卒業式とてゆくに『李太白』60冊もち「かもめ」に渡す(※授業教科書用)。(前田正男氏へ礼状)。10:30より卒業式、77名と。東田君来をり。12:30すみて謝恩会、13:30すみ、西岡呼びて福井の伝言托し、前田光子に卒業延期申し渡し、木村生より今春聴氏上京中にてけふ帰阪とのことに、西川、岩井2生と玉出へ歩き、沢田先生訪ひしに外出。『李太白』おきてナンバへ出、出雲屋にて2生とまむし食ひ喫茶して帰宅。 元々社より9月28日に送りしと。齋藤晌先生より再版も売切と。前川佐美雄氏より詩をと。千川より下痢のためまだ出勤せずと。八木嬢より転室、父君の墓を[建]てると。 10月11日 9:00家を出、鶴橋をへて奈良。10:00野崎家を訪へばその君まだをり、母君に前田正男氏帰寧のとき宜しくとたのみ、出て女子大。まづ天野忠に会ひ、工藤好美、服部英次郎2教授へ『李太白』たのみ、家政学会に来ゐる八木嬢らにゆきあひしあと、高校にゆき塩見薫主事と話し、出て『郭沫若詩集』買ひてover coat忘れしに気付きて引返し、とりかへして前川家。(※前川佐美雄、)短歌新聞記者と話すに会ふ。 山崎雪子氏の評1月号にと。写真とられて出(※写真リンク)、駅前に親子丼食ひに入れば奥西兄弟あり。弟は紀州で土木工事監督と。また野崎家へ引返せしあと、弟君と小野勝年訪ひ、博物館の遼代陶瓷見せてもらひ、喫茶して別れ、和田先生の追憶記のるてふ『思想9月号』むだにさがせしあと、近鉄にのらんとすれば保田順三郎君追ひ来り、外へ出て喫茶。石切に住むと。奈良漬もらひて帰阪。 アベノ橋で雲呑たべて学校へゆき1年の漢文はじめて教へ、前田光子を世話し、出て上町線にのれば福井房子あり。姫松より500m駈足して引返す。教員免状とるため半年延ばすと。「この間、先生に叱られしゆゑ云へざりし」と。バカらし。一電車おくれて片町線で森君と会へば城平叔父13日退院と。角居、腸チブスの保菌者と。依田君より講師ことわると。眞野君より17日来ると。上田局長本省へ転任と。 10月12日 登校11:00、(よべ途中で目をさませしため起きられざりし)。芥川氏に会ひしとて力身生12月来阪の時、案内たのむと伝へ来る。『骨6,7』をまた服飾の子に托す。15:30出て北畠より歩きて千川。腸結核らし。『李太白』に100円だす。むつかしと也。帰途再び蔭山医院を訪ねdoctorに角居のこときけば心配いらずと。『台湾物語』来る。 10月13日 登校10:00、『楊貴妃とクレオパトラ』の清書を鍛治君にたのむ。(けふ雲井貞長(※雲井書店主)に(※『楊貴妃とクレオパトラ』再版の件)契約不履行を責むるハガキ出せし)。寺本生来り、疋田生の問合せにつき云ふ。明日13:00先方来る由。木村静子よりの電話待ち、明日17:00上六にて待合せ、今春聴氏を訪ぬることを約す。芥川氏に会ひし連中、毎日来るねと云はれしと。 出て「かもめ」で『李太白』1冊買ひ藤井寺。叔母に『李太白』買はせ、山下幸雄への見舞1,000もらひ、縁談、以後は世話せずといひ、清水、田中2生呼びて叔母に紹介し、田中生とbusにて八尾へゆく。同車に保田夫人の妹、柏原嬢をりし。八尾病院にゆき付添にきけばあと1週間で退院と。出て駅へゆく途中、岡本和子に会ふ。ここに住むと。痩せてゐし。平岡英茂生より手紙。元々社より原稿用紙送ったと。(けふ藤井寺への途、学芸大平野分校に相野訪ひしも休暇)。 10月14日 登校、齋藤晌先生に『祖国』。塩見氏に『雄略天皇』、『骨』に詩送る。川端教授にきけば大高club、11月14日と。けふ長沖氏欠勤。 竹中郁呼ぶことにきめ院長にいへば、よしと。守本氏の後輩と、名刺托さる。 小野十三郎より『伊東静雄詩集』毎日文化賞の候補と。伝田生つれて佐沢園長に逢はせゐれば、中山八郎氏あと追ひて来らる。つれ立ちて帰校。(クラス委員に来週木金1泊旅行せよとすすむ)。 しばらく話せしあと市立美術館へつれゆき樋渡氏より茶おごられ、「明器展」見せてもらふ。胡人と美人とうれし。 ともに新世界歩きてのち文華堂案内し『東韃紀行(80)』買ひ、taxiにてナンバ。不二家でrice curry食べて地下鉄に案内し別る。 けふきけば和田先生脳溢血の発作ありしと。あたかも『思想』の「学究生活の思ひ出」のせしをもらひしばかり也。暗然としたり。 近鉄案内所より木村静子に電話すれば待つと。近鉄departでcheeze買ひてともに山本下車。天台院へゆき、今春聴夫妻と21:00まで話す。喧嘩早しと。女好きと。保田に敬服となり。ともに出て駅まで送られ帰宅。 元々社より200字詰300枚! 城平叔父より退院挨拶。けふ岡本和子より電話あり、来週日曜でも来ると(布施2234-7)。 10月15日 出勤。NHKうけし連中みな落ちしと。漢文『李太白』で行ふ。長沖氏より1,500受取る。西宮君に竹中郁へ来週来講依頼にゆくことをたのむ。文2に1泊旅行すすむ。城崎にならんと。西保嬢に『魔女(※佐藤春夫著)』たのむとの手紙もちゆかす。本間淳三郎君来週上京と。 すみて帰れば八木嬢よりハガキ。『東方学9』。 10月16日 9:30出て、まづ「かもめ」へゆき『李太白』2冊買ひ、高野線でナンバ。(事務室できけば石浜夫人いよいよ危篤と)。府体育館のVolley Ballの女子大大会にゆく。1回戦府立女子大とやり2-1で勝ち、15:30まで待つ間、小野和子に会ひ、高島屋へゆき『軍政(30)』買ひ、2回戦、京都女子大に零敗。すぐ帰宅。 けふ前田正男夫人より礼状。隆一氏も上京と。千川義雄より礼状。山下幸雄より礼状。八木嬢よりlist。宮口生、父君と14:00ごろ来り、biscuits一缶呉れしと。 10月17日(日) 雨。終日家居。疋田紀子君より塚本侊子君の俳句を『文芸クラブ』へと送り来る。忙しとなり。加藤繁先生をしのぶ会を11月5日にと。欠席と通知す。 10月18日 晴。14:00ゆくと学校へ電話すれば三苫君より石浜夫人亡くなられしをきく。小阪の堀内に寄り『白樺』4冊(40)と桑原『文学入門(50)』買ひ、借りし写真返し、学校へゆく途中、院長に会ひ、修学旅行のこと云へばよしと。西山夫人来りしと。Tourist bureauにゆきしclass委員にきけば間に合はずと。来週にせよと云ふ。 15:00笠井君来り、石浜夫人のことしらせに来しと。出て全田にゆき敦子より500借る。(西保嬢より『魔女(350)』届き金不足となりし也) 我、我孫子道より歩きて石浜邸にゆけば取込み中とのことに香奠(1,000)置きて出、帰りて三苫君と話す。不平らし。 夜学前、西山夫人に電話すれば不得要領。細井と1年生(富士伸鋼勤務)休学を申出で、今一人1部へ[替]れずばやめるといふがあり。けふ学校へ塩見君より礼状。佐瀬君より写真、高校生よりも写真。家へは大鹿卓氏より『文芸日本』に龍之介論10~15枚月末までにと。埜中君より歌集『ピリカーネップ』。 10月19日 登校、宮口生と同車。風邪にて苦し。女子大にゆき『李太白』を高鳥氏に贈れば旧版買ひしと。(「かもめ」にて『李太白』6冊のこりしをとる)。『山槐記』見る。(院長と話し、久美子の聴講生よろしからんと)。高校の川口氏より石浜家へ誘はれしも風邪申立てて断り、名刺托す。帰りて久美子に電話さす。 岩崎昭弥より歌集出せ、援助すと。石浜家より通知。山川京子主催『桃』6号。けふ松井信子氏より電話、八木嬢にたのみし本なしと。 10月20日 登校10:00。女子大図書館へゆく。(『李太白』1冊寄贈)。帰りてしばらくすれば竹中郁氏来る。わがこの頃の詩、冗長と。子供の詩朗読し、すみて昼食となりしに盗難発見。20名にて3万円位とられ、最大は住の9,000。母へ詫状かいてやる。外より男1人来をりしと。 西宮君と出て鶴橋で下車。departで喫茶。青山君より17:00まで講習あり来られずと。芳野君よりハガキ。入江知子生(VolleyのCap.)より礼状。石浜家より会葬の礼。けふ疋田、塚本2君へハガキ書く。浅香group花巻よりゑハガキ。 10月21日 登校、歴史『父と子(※ツルゲーネフ)』のOdintsova(※金持ち未亡人)の話。すみて古典講読、欠席多し。『うたかたの記』すみしあと打切る。 泉尾高校の山崎雪子氏より電話、来られるとのことなりしも明日にといふ。出て岡生の家へゆけば、おでんやにて不況にてもあり大叔父本名村松年博士のあととりとして東京へ転居と。退学願出せといひ、山本事務所。佐瀬と話し、山本を一寸見しのみにて大河原、横山に電話せしが不在。天満橋まで歩きてbusにて帰る。11月2日17:00より東大東洋史学科会を三條河原町西入春豊園にてと案内。東大阪大大高クラブを29日(金)にと。これはことはる。 安村、青山、虎谷の芥川funよりもゑハガキ。太田陽子夫人伊東より。蒲池氏より礼状。和田久徳氏より『島夷雑誌』の抜刷。 けふ和田先生に松茸送りしと。 10月22日 登校、1年漢文教へて帰れば山崎雪子氏と堀内民一氏と待ちをり、折しも来しは児玉(仙野)美須夫とて今中の同期、26年ぶりなり。長沖氏に講演たのみに来しと。青山氏よりも電話ありしと。『海に近く』の批評かくこととし、菓子もらひ、昼食ぬきにして歴史やり、帰りて飯くひ、何もせずゐる中、class委員たち集り、服飾の吉崎雅子といふ[ハッサイ]来る。 16:00前、白井へゆき近藤芳美氏の日程きかんとせしに不在。学校へ帰りて白井に電話しゐる中、文2の旅行Tourist bureauで不成立と。山本信江、野村朝子2生と天王寺駅のbureauへゆき我、交渉して大体出来ることとなりし模様。18:00前帰宅すれば青山喜惣治君待ちをり、大体心静かになりしと。鍵谷生より吉野書房で働くと。うれし。鳴田勝来寮。大塚、明後日の自治会役員会に出てくれと。けふ角川よりHeine再版印税21,000-3,150=17,850。三井銀行布施支店への小切手で来る。 p5 10月23日 登校まへ会社へ寄りsalary。補助、慰労会手当の書類出す。学校へ山田克子来合はせ、転任したしと。修学旅行にゆきし安村ら煙草入れ、浅香ら九谷焼の湯呑呉る。 出て浅香山、肥下に会へば全田叔母に金借りたしと。看護婦品行悪しと。全田へ引返し13:30昼食。渡左遷なりし故、運動たのむと。 けふ万年筆なくせしらし。留守に学校より電話あり、井上源一郎君松茸もち来しと。処分たのむと三苫君に悠紀子云ひしと。我にも学校で三井銀行より電話ありし。秋季慰労500づつもらふ。 10月24日(日) 9:00起き11:15家を出、小阪までbus。あわてて鶴橋へゆき西宮君に会ふ。乗越して宇治山田行つかまへしも誰ものりあはせず、八木へ着けば疋田嬢のみ見付かり、ややして下りにて桜井の聖林寺見て来し鍛治姉妹、野崎、山荘、椿下、和島の6嬢来り、この9人にて遊覧busにより飛鳥めぐり。同車に老夫婦1組ありしのみ。 橿原考古館前でbus下り、小島氏の話きき17:00八木を出て上六まで出、6嬢と夕食をともにしてのち天地書房にて和田英松『国史国文之研究(150)』買ひて帰宅。 守屋君より1日に池内先生のお墓参りせんと。夜、丸へ手紙かく。 10月25日 雨。今川に電話かけんとせしもかからず。(あとにてきけばけふ城平叔父入院と)。白井に電話して近藤芳美氏に会へずと知り、山下、辻呼びて叱り、鳴田勝のハガキ見て、守屋君にゆきしも不在。13:00会社。忘れし万年筆とり17,200預りて出、学校にて漢文の教科書作り、16:30井上、平田(料理学校長と)2氏の土曜置きゆきし茸籠開き、小使の小父さんに与へ、白井家へもちゆく。夜学つまらず。 10月26日 辻賄人、有給休暇の序でに帰郷願ひ出しゆゑ叱りしに不満らし。久美子に電話して明日学校へ来よといふ。11:00出てアベノ橋でEckermannの『(※ゲーテとの)対話』探せしに2軒にて3冊そろふ(210)。『宗祇(60)』も買ひて登校、守本主事にきけば旅費は学生より、手当は学校よりと。久美子の聴講は良しと。国文学史すませて旅行にみなゆけと云へば東生、父に云ってくれと。院長16:00まで待ちて3人の付添料いへば2人分は出さん、手当は3人分出すと。土曜の休みも宜しと。服飾研究室でお茶よばれ、吉崎生の電話きけば『李太白』ぬすみゆきしと。 出て本間家。11月4~6日に一回ゆきて終ることとす。出て寺田町下車、busにて東家へゆけばLungeやりしゆゑと。あやまりて塘のこと云へばいまから会ふと。母子に送られてbus。寺田町にてうどん食ひて帰る。『corbeau詩集4』。岩崎より歌集岐阜で印刷すと。佐々木君より青龍展見に来よと。 10月27日 辻呼びて叱り、康平叔父に相談すれば知らずと。出て登校、「蘇東坡」写して疲る。院長、土曜の休みを和歌山の子だけと思ひしと。住康子にと1,500わたし、college-hourに久美子来しゆゑ守本氏待ちてたのみ、かへして15:00教授会1時間。すみて1,000づつの手当と1人分の旅費1,350もらひ、近鉄で散髪して警察病院。城平叔父元気なし。(※辻賄人の)有給休暇は再考せよと。出て帰宅。 辻、友人をつれ来しゆゑ手伝ひたのむ。眞野君より礼状。和田先生より礼状の代筆。けふゆきの電車で守屋夫婦と夫人の夫君の天理にゆくに会ひし。 10月28日 6:00起き8:05梅田へゆけば学生見付からず。『アポリネール詩集』買ひて8:30集合場所へゆけば2人(小西、小林)をのぞきて集りをり入場。9:50発「いづも」号にて豊岡のりかへ橋立着。対橋楼といふに入る。別巻風呂に入り3:30までみな眠らず。われは不眠。(山本陽子3人のまねをし笑はさる) 「この間、修学旅行に天橋立にゆき、一泊した宿の隠し芸で、一等かしこい演劇志望の子が「物マネをします」といって、何をやるかと思ったら、付添いの長沖一氏をはじめ、先生のクセをたくみにまね、私のところになると「君たちはなんにも知らないね」といって、眼鏡の上からジロリとにらみ、それが満場の大喝采を博した。「眼」昭和30年4月13日東京毎日新聞夕刊より(昭和29年10月28日記事)」 10月29日 9:00、lunchにて対岸へゆきcable-carにて展望台。写真多くとらる。体悪き西浦生とまたlunchにて帰り、力身生の叔母とといふに会ひ、昼食後、生するめ、黄味かまぼこもらひ、よべの酒代長沖氏に払ってもらひ、13:30乗車。西舞鶴、綾部廻りで帰阪。(由良に山椒大夫のあとといふを土地の男にきかしてもらふ)。西浦生を長沖氏に托し、19:00帰宅。 手伝の女来しゆゑ会って明日午后たのみ早ね。太田陽子より詩。今中田中浅次郎書記の功労金101,000づつと。西保嬢、橋本勉よりハガキ。森三樹三郎より礼状。新潮社より『堀辰雄全集月報4』。宮城学院女子大の石井昌光氏より『詩集 谺』と手紙。佐藤竹介と同級、我に詩見せて悪口いはれしと。増田春恵の弟大阪に就職せしと来り、朝鮮飴くれしと。 10月30日 筑摩、土井編集局長に『李白』の問合せ、ほか5枚ハガキかきしのみ。久美子より電話あり、守本、院長、高岡3先生のところ報せと。明後日にせよといふ。きのふ手伝ひ頼みし婦人、差し支へありとことはりに来る。増田の弟来り、仲仕の如き仕事ささると。 10月31日(日) また久美子より電話、けふゆくとのことに院長、守本、高岡3先生のところ教ふ。2部卒業生より5日(金)17:30浪[華]荘にて会食と。東京創元社知念栄喜より挨拶状。夜、「蘇東坡」写し終る、80枚。 (※読売新聞1954.10.22の記事「亀井勝一郎 私の文学経歴 第10回 日本浪曼派の思い出」切り貼りあり。) 昭和29年11月1日~昭和29年12月31日 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き ノート 11月1日 登校、10:30、久美子と同車。1,000払ひて月謝すみしと。「蘇東坡」わたし、採点と漢文printしをれば湖東博士より電話、14:00近鉄のりばにて会ふこととし、京都より通ふ1年坂本生探せしに13:00すぎ来る。出て交叉点で下車、誠進書房見しに角川全集の『昭和詩集(280)』あり。買ひて湖東に会へば義弟に嫁世話せよと。別れて大福寺へ14:45に着けば誰もゐず。15:00すぎ守屋、平中夫妻、潮田、樋渡の諸氏来り、羽田夫妻も来るとのことに待ちて(※池内宏先生の)回向。花すでに供へありしは誰のしわざならん。16:30別れて帰校。1年教へ2年叱りて帰宅。 (丸より手紙。公式でなき見[合]ひしたしとのことに、疋田家へ電話すれば父君帰宅しをられ、池田の直属上役と。池田にすべて相談せよといふ)。山本[夏]津子来り、最中一箱呉れし。帰れば千草より手紙。丸山照代よりのハガキ同封。麓氏は吾をしりをり。一度千草と行かんと云はれしも着物なく困る故、我に上京して訪ねよと也。けふ羽田にきけば今西春秋氏、石浜先生に代りて天理大へゆくと、めでたし。 11月2日 登校まへ父に電話して千草の手紙のこと云へば、陽生、千草より父にも信来あり見すると。11:30登校、やがて硲君来り、けふの東洋史会に上洛せずと。色々話せしもきかず。国文学史1時間やりて出、省線にのらんとせしも、丁度東京行ありしゆゑのりて16:00京都着。 吉野書房に月半よりつとめし鍵谷生見にゆけば長尾良も勤めをり。奥西保君帰りをる。前田社長7日ごろまた上京とのことに伝言托し、角田文衛氏『古代北方文化の研究』もらひ『祖国』10月号もらひ鍵谷生と歩きて河原町三條。「春豊園」につけば旗田巍、鈴木俊、日野開三郎、護雅夫、藤野彪、青木富太郎らの客あり。中山八郎氏も来あり。20:30先に席立ちて京阪書房へより、『朝鮮語辞典』の1,300払ひ、『近代劇大系』『明治大正昭和文学全集』を註文し、末永『埴輪』、Giles『漢言無師自明』貰ひて帰宅。 陽生の手紙見れば先方に話したと。千草のはhysterieなり。百済璋子生より「おなつかし」との便り。 11月3日 10:00家を出て大江。ゆく途で清水生に会ふ。叔母に会へば小野のことならで、わが就職(※上京計画)につき反対を口実に千草のぐち来し也。話せばあとで聞こえては悪きゆゑ城平叔父に云へと。関目叔母来り、出て駅で昌三夫人に会ふ。2科展へゆくと也。地下鉄で梅田『芥川竜之介集(280)』、小阪へゆき中西にことづけ物わたし、堀内で清水盛光『家族(200)』、White『Patriarchs & Prophets(70)』。けふハリス『日本滞在記 下』買ふ。 11月4日 登校、石浜先生に会ひ弔意を表す。長沖氏に会へば明日、小野氏より石浜先生賞金祝に500づつ集めに来らると。12:30出て市電にて警察病院、城平叔父に相談すれば、昌三叔父の礼を引き弱く反対す。父に電話し千草のこと云へば昨日手紙出せしと。天満橋へ出、京阪四條れんこんやより電話して山前君に『骨』のこときけば、荒木、佐々木2君の作、未着と。多喜さんも来をり。人文科学研究所へゆき、榎一雄の講演きく。瑣末な考証と思ひしもあとにて桑田博士は感心されし也。三笠宮、中山正善らをはじめ100名近き晩餐会。石田(※幹之助)、岩井(※大慧)、吉川幸次郎氏に挨拶し、羽田、桑田、駒井義明氏らと同tableにて寒々とすし食ひ、桑田博士と帰阪す。 筑摩書房より『エリオット』来り、土井一正氏より(※『李白』)印刷中と。坪井よりclass会開けと 11月5日 登校(文芸日本の大鹿卓氏にことわりのハガキす)、石浜先生の祝賀に500づつ出すとて庄野英二と小野(※十三郎)氏と相談。午后の時間早目に切上げ、津熊照子に電話すれば来て宜しと。ゆきて母君と話し写真もらひしが姉(28才)より先はいやと。送らして北畠。『李太白』1冊買ひ東天下茶屋へゆき本間家へゆきしもジュン三郎君帰らず。出て『Heine』1冊買ひ『新中国事典』買ひし上六。天地書房で大学『砂の枕・人間の歌(120)』、信綱『歌謡の研究(60)』買ひ、学校へと『字源』その他たのみ、浪華荘へゆけば17:00。 日東小学校古川の名の室となりをり、待ちて6時、二部今年度卒業生の会、すき焼にて石塚、岩井、樫本、柏原、木村、沢田、四方、篠田、瀧本、谷川、近木、西岡、向井、横田と15人集り盛会。21:00仰げば尊し歌ひて散会。たばこセットもらふ。 堀内民一より帝塚山へきたしと。芳野清より詩(不足税20)。荒木利夫より自信作出来ずと。碌な事なし。(木村に今氏へと『李太白』托し、谷川に写真の礼と『Heine』与ふ)。 11月6日 10:00家を出て鶴橋桜川より津守の大阪書籍。前田社長に会へば上京とりやめしと。麓氏には手紙出しおかんと。すぐ編集に1人必要と。森部長、高階編集部次長と話し、午食よばれ、坪井に柳井君を電話で紹介し、ともに出て千日前。野崎に会ひ島本嬢に電話し中川嬢とも話し、天牛南店にて『婦人の解放(60)』買ひ、戎橋までゆき出雲屋で「まむし」。 本間家へ電話すればジュン三郎君不在。火曜までゆけずと云ひ市電。下味原で『兎園小説(50)』『婦人社会衛生学(50)』買ひして22:00依子、修学旅行より帰り来る。 11月7日(日) 家居。橋本貫一より「電話48-3872」と。「蘇東坡」を清書す。夜、浅香克江に電話してきけば明日法隆寺へゆくと。夜、「蘇東坡」終る。200×40。 11月8日 8:30家を出、9:15学校につく。天王寺でしらべしにbus11:00、汽車10:30ゆゑ浅香一派に云ひ、待つこととし、島本に電話すれば不在。母上に明日来させよと云ひ、湖東に電話すれば廻診中と。 10:00出て関西線。11:00すぎ法隆寺駅下車、すぐbusにのり法隆寺見学。同行は浅香、赤穂、奥中、榎本?の4人なり。80円にて夢殿まで見て14:00昼食。14:40のbusにて王寺、15:40の汽車にて天王寺。李徳全女史歓迎に雑踏する上町を帰校すれば、湖東より天王寺まで出て来よと。ゆきてMokaにてcoffeeおごられ、津熊照子の写真わたす。1ヶ月ほど猶予せよと。 帰りて夕食、2時間授業すれば西川、岩井の2生。西川と玉造まで同車。齋藤晌先生よりハガキ。馮至の『杜甫伝』の訳、元々社より出ると。 けふ本間君より電話。木曜、学校へ来ると。(水曜ともに正倉院へゆくことを岩橋女史と約せし)(橋立の写真、中井妙子と力身とくれし)。(けさ岩崎に14日2~4時京都で会はんとハガキし、祖国社へ「蘇東坡」鍛治君に送らせし)。 11月9日 家を出てゆけば島本生すでに待つ。大阪書籍の高階氏に履歴書もちゆかせ、天地書房より来し藤田『近代歌謡集(450)』doubleをりとて引取る。研究室寒く、国文学史の採点す。湖東より電話、津熊照子の生年月日問はれて答ふ。明日教授会あるらしきも奈良博物館へゆくと云へば守本主事「よし」と。9:15:00出て住高。硲君に『埴輪』進呈。(けさ浪大の佐中壮教授に会ひ、小野勝年君へ紹介状かく)。 帰れば伊東静雄詩碑除幕式23日と。依田以下10氏の案内状もあり、夜、宛名かく。本田晴光氏よりハガキ。細井悦子より採点送れと。 11月10日 9:30登校、『ハルハ五部』写し、11:00石浜先生に会ふ。今西春秋を天理大に推薦のことはかくさる。college hourに「なにわ賞」の祝賀、すみて「町人文化の話」、すみて研究室に帰れば本間淳三郎君来りて礼置きゆきあり。 岩橋(旧奥村)女史と出て斎場前よりtaxi(130)。奈良着14:00、博物館の正倉院展見る。天理図書館も参観とて西村、富永、木村の3人見し故、館内さがし廻りしも他を見ず。岩橋氏と「湖月」までゆき、しるこ食ひ、小野勝年君に電話すれば来よと。行きて水野清一氏を待つと云ふに後刻約し、また下りて野崎家へゆき、この間の前田正男氏への礼云へば防衛大学とは云はざりしらし。 出て18:20の法華寺行busにのり東町で降りtobacco屋さんできけば、そこにて、夫人と2男あり。夫人「やせられましたね」と。除隊直後会ひしのみなり。肉200匁もちゆきしを食べ、19:30のbusにてまた■坂。21:00帰宅。塚山勇三氏より天龍林業高校に就職と。 11月11日 家を出しもよべ睡眠不足でつらし。「西保嬢、12月19日挙式」と。楠戸生云ひ来る「来週木曜に来校」と。石浜先生にUigur文書のありかを伺ふ。鞄の破損直しにアベノ交叉で下車、1時間かかる。その間に天海堂で『文学アルバム鴎外(160)』『古今奇観(150)』買ふ。 帰ってひるね10分。元々社より「かもめ書店」の送金受取りしと。大鹿卓氏より芥川研究1ヶ月のびし故、11月末まででよしと。短歌新聞の石黒清介氏より前川邸での写真(※写真リンク)。辻賄人に故郷より電報来りし故、帰ると。平凡社より4,608-691=3,917来る。 11月12日 朝食後、ちょっと寝て10:30家を出、11:30登校、小野和子より再々電話ありしと。楠戸、伝田2生より西保君からの伝言あり。昼食時、小野勇氏に500円、石浜先生のお礼として渡す。15:30帰宅、疋田角治氏よりも丸に会ひしと。岩崎昭弥より14日14:00祖国社でと。辻より電報、日曜夜帰り来ると。 11月13日 家居、角川より『昭和詩集』の印税変りしと。増田の弟来り、兄来る、重労働にて耐へられずと。今西氏に云ひしもとり上げられざりしと。 11月14日(日) 11:00家を出、坪井を訪ひ杉浦美智子氏の府教委試験につききく。京都府立女専出と。■が母よりきけば東山女専門なり。 省線にて京都、吉野書房にゆけば14:00岩崎待ちをり、歩きて原稿作成面倒ゆゑ歌集むりならんと云ひ、支那そばと柿くはされ、御所まで歩きて別る。羽田にゆけば学生多くをり。Uigur文献の報告す。『東方学』の方は編集会議ののちと。バカらし。 出て母に会ひ杉本氏のことと防衛大学に関し千草のこと云ふ。その中に借金子らに分けるとのこと也。出て京都駅へゆき、歩きて三條。 11月15日 10:00出て川端の古本屋にて杢太郎『支那伝説集(100)』『山西学術探険記(30)』『法隆寺の壁画(90)』。 山前の事務所にゆけば原稿やっとそろひしと。ともに出てcoffeeおごられ、別れて彙文堂、『中国文学報』の代払ひ、鄧廣銘『王安石(60)』『湖南著述目録(80)』買ひ、鈴木豹軒『白楽天訳解』、東條『方言学』外1冊を学校へ送らせ、寺町を下り、京阪書房にて『島の人生(70)』『大塩平八郎(60)』。とりわけ後者探しあててうれし。 14:30帰宅、16:30出て天王寺よりbusにて小野和子訪ねしに不在。わが祝ひつきしと。学校にて丸の手紙見る。この間、疋田父君に会ひしと。写真よきの送れと。授業すみて中野トシ子来をり、ともに出て喫茶。打明け話といふをきく。けふ西保嬢よりのハガキ見る、「12月19日の式に出よ」となり。昨日守屋君来り、東大東洋史名簿おきゆきしと。 11月16日 11:00今東光氏より『李太白』の受取もらひ、昼食してのちゆく。千場生、父母にかくれてarbeitしてゐると。山本信江へ便りありし。国文学史の2時間目お説教し、来りし小野和子にきけば式近きを喜ぶと。祝ひありがたしと。西山博士夫人来り、神経衰弱なりしと。津熊照子母子来り、姉和子嬢の写真おきゆく。昭和2年生れで身長5尺3寸と。小野と出て藤井寺。叔母にきけば祝に1,000立替へくれしと。夕食たべ、帰り来し叔父に挨拶して帰る。夜、吐く。 11月17日 パン食ひて登校、伝田、宮口、三村3生と天王寺でのりあはせ、ゆく中、また吐気もよほし、北畠で下車。疋田家に寄って姉君に写真のこと云ひ、疋田生に送られて出、学校へゆき、college hourの中村祐吉氏話きかず。陪食命じられ、ゆきしも食はず(けふより『楊貴妃[とクレオパトラ]』に手入れはじむ)。 14:00より高校との連絡会。岡辺剛、長沢洋平の2先生の外、住高の浜中君来る。小野和子来りて手伝ふ。17:00すみて帰宅。平凡社の『世界大百科事典』よりamursana (※アムルサナー:阿睦爾撒納) 200~400字、11月末日迄にと。 11月18日 登校、歴史の時間説教す。この頃休む者多くarbeitしゐると。森鴎外すみて西保嬢より電話、楠戸生basket-ballの試合にゆきゐるに連絡させ、14:30不二家で会ふこととす。(けふ中村祐吉氏の授業のぞき見しに2人のみ聴講、守本、楳垣2氏に云ふ)。千場、小西、小林3生ともに来らず。 14:00出て不二家にゆきbasketの4生に会ひ、伝田生におごらせ、やがて来し西保君と4人にてまた喫茶。荒木利夫にゆきcoffeeおごらせ19日に和歌山商工会議所での披露にゆくこととす。(小野和子、児玉君と歩くに会ふ)。 別れて天牛南店へゆき『奈良県古墳墓表(80)』買ひ(野崎君に会ひこの間の礼云ふ)、帰宅。本間淳三郎よりハガキ、「試験に失敗せし」と。 11月19日 雨。登校すれば千場をり、4,000とられてArbeitにゆきしも金出来ずと泣く。早く告げざりしを叱り、米沢妹のArbeitにゆきしを叱り、楳垣氏に斡旋を相談してくれと云ひ、四方生の電話きけば守本氏「院長、彼女を小学校にとらんといふ」と。 14:30来りし湖東、「在京の弟に津熊照子の写真きに入りしも姉のことあり。気の毒と」。ともに出て津熊家。17:30帰り来し父君に会へば「妹には院長の令息よりも話ありしがまづ姉」と。城平叔父とは知合と。 出て私立医大3年の兄君と照子に送られて沢田四郎作博士訪ひ『異国より帰りて』と『石川道雄詩集』とをもらふ。やがて山本信江来り、千場生泣きしと。出て玉出より天下茶屋をへて帰宅。山前より21日校正も間に合はざる故とりやめと。けふ万年筆をなくす。 11月20日 府立体育館へゆきbasket-ballの応援す。神戸薬大とやって28-23で負け、楠戸、中島、十時出場、久保田補欠にあり。不良学生の応援来りて不快。 すみて学校へゆき万年筆さがせしもなし。千場生を訓誡し12:00南三国ヶ丘の北野雅子宅にゆきしに、母、祖母出で、湖東の件話せば写真わたさる。出て三国丘中学。齋藤先生に会ひ図書室見せてもらふ。はるみ君この頃遅刻せぬ様になりしと。高野敏子と出る。母癌にて市立病院に入院と。アベノ橋までbus、別れて湖東にゆけば夫人出、北野の写真わたし、津熊の写真とりかへし、近所の小西啓子にゆけば扁桃腺炎と。今川に寄り久美子と話し、千川に寄れば1日より中西の病院に入院と。(北田辺の古本屋で『菟玖波集 上(35)』『現代支那文学傑作集(25)』)。 帰宅すれば千草より「どうするか」と。蒲池氏より「伊東の建碑式に20日の雲仙号でゆく、同行せめや」と。 11月21日(日) 家居。『楊貴妃[とクレオパトラ]』の訂正す。夜、湖東より電話。 11月22日 『楊貴妃[とクレオパトラ]』の訂正をすまし、元々社、蒲池、丸、丸山照代、疋田父君などに手紙とハガキかき、宮本正都よりのハガキと太田陽子の上野へ帰りしハガキ見、角川より15,138-2,270=12,868受取りて、悠紀子に7,000わたし、12:00出て会社へゆき、父より10,000預けられ、出て日本劇場で「二十四の瞳」見、16:00出て学校へゆけば、四方生待ちをり、学院小学部(※就職)きまりしと。 いろいろ話す。万年筆出て来しと。夜学、2年生の正高呼びて叱る中、30分おくれ、1年すませばすぐ2年。松尾さよ子といふ29才の三共製薬の事務員と出て「No.1」でしるこ食はせ、古本屋にて『民間信仰(200)』『古典解釈のための日本文法(100)』『ロシアの民謡(130)』買ひて帰宅。省線にて佐中壮氏とまた同車。正倉院展ゆかざりしと。 11月23日 勤労感謝の日と。旧新嘗祭なり。「いもの話」写す。石川道雄氏にハガキ。石浜先生より忌明けの挨拶。 11月24日 9:30出て徳庵郵便局にて蒲池君へ「オタチヨリコウ(※お立ち寄り請う)」と電報打つ(160)。 近鉄で散髪、departで『昭和詩集』と『物語の女性』買ひ登校。織田優子を富士紡績に紹介することとし、14:00来る湖東まちゐる中、早く来りて、写真義弟の気に入りしと電話ありしと。児玉君より電話「明日祝辞たのむ」と。 出て堺東。国道筋の洋品店にゆき北野雅子の父母に履歴書、親類書わたし、親類書もらふ。南横山村父鬼の出と。 学校へ帰りて湖東に電話し、ゆきて夫人とに親類書わたす。柿もらひて警察病院に沢田愛子訪ねしも不在。『中国現代史』『コクトオ詩集』買ひて帰宅。(けふ山本信江に『近畿民俗』の200托せし)。 小野和子より我孫子の家の地図。(靴直しに240)。坪井より「class会12月4日(土)17:00より浪華荘で」と。 11月25日 8:30までに学校へゆき45人にて大原へ(長沖氏来られず)。11:30つき昼食後、三中院と寂光院。雨上る。東山通に出、四條でわれのみ降り京阪にのりかへ天満橋よりナンバ。靴みがき松坂屋、しるこ食ひてゆく。17:30より仏式にて結婚式(※児玉円城・小野和子 写真切貼あり)。披露宴で祝辞いひ、帰宅する新郎と握手。大江叔父叔母とtaxiにてアベノ橋。21:00帰宅。中野嘉一氏よりハガキ、蒲池氏と友と。 p6 11月26日 登校、宮口生東京へcorusにゆくといふに止めれば「先生わからずや也」と。元々社より受取と原稿用紙送ったと。放課後、研究年報の校正すます。石浜祐次郎君来る。健と同級と。大阪書籍に電話して森部長に「会ひたし」と云ひ、ゆけば少し待たされ、柳井三千比呂と3人にてtaxiにて上六。「うを佐」と云ふにつれゆかれ、坪井の伝言いふ。鳥本は代りとなる女子止めざるゆゑ駄目と。20:00出て柳井と喫茶。(天地書房にて『万葉集』2冊150)。beerのませて帰宅。 宮口電話かけ来しといふに、かけ返せば不在。原稿用紙つきをり。けふ柳井にきけば「萩原さんの葬儀に見し悠紀子この世ならず美しかりし」と。 11月27日 家居。朝、宮口生より電話あり「corusにやはりゆく」と。大鹿卓氏より「芥川論送れ」と。昼より雨。「殉死」写しおはる42枚。 11月28日(日) 10:30出て島本家にゆく。父母君のみあり、縁談出来たが云々と。わびて出、十合へゆけば昌三叔父に会ふ。杉浦実君と堺脳病院の宮本doctor夫妻とあり。食堂にゆき吾はcoffeeのまされ、別れて前川氏に会ひ、人事の小出氏に紹介さる。一昨日試験すみしと。今夕20:30児玉夫妻着くと電報来あり。出て古本部で注文し梅田、天満にゆき(Svarで『芭蕉俳句集(40)』買ひ)蓮田善明『花のひもとき(10)』買ひて帰る。伝田生より礼状。羽田より「年内に原稿送ればよからん。ただし遺[り]東京」と。浜谷と成尾「来週水曜来る」と。 11月29日 〒なし。12:00出て梅田。Svarできのふ見付けし『珊瑚集(400)』西保君にと買ひ、下で『海女記(60)』と『急就篇3冊(120)』。地下鉄にて学校、芭蕉句抄(※ガリ版)をきり、『[楊貴妃と]クレオパトラ』の書き直しす。柳井君よりGoetheにつき問合せ、しらずと答ふ。 伊東夫人17:00来訪、詩碑の写真みせらる。蒲池氏わがハガキ見(※詩碑除幕式に)来る筈と(※思ったと)。伊万里焼の花瓶とおこし1箱とをたまはる。夜間の卒業生多く来る。(瀧本、西川、岩井ら)。西川、岩井と雲呑たべて帰宅。(けふ久美子来り、今川夫人の喀血と。この間しるこおごりし松屋とし子、薬2瓶呉る)。 11月30日 坪井より史の預りし手紙、朝見れば5日([土])17:00「朝日」でと。出て11:00学校。きのふよりstove入り快し。旅費800受取る。伝田生よびて西保嬢に『珊瑚集』と手紙托す。きのふインク入れおきゆきしは誰ならん。宮口、東京より帰りしとて5日(日)のcorus会の切符おきゆく。八尋生(Ⅱ部2年)より退学届出しとて一度家庭へゆきみんと云ふ。16:00市立美術館へ藤井、樋渡2氏を訪ねしに会議中とて会へず。石原書店に寄り『東洋の歴史(50)』『近思録(20)』を買ひ、学校へと『大鏡詳解(100)』買ふ。小野和子の伊東よりのゑはがき。(けふ学校にて『楊貴妃とクレオパトラ』のこり少くなり詩2篇写さす。)21:00蒲池氏より「一ヒアサアソゴ(※阿蘇号)ニテツク」と大牟田駅19:45発の電報。夜、1:00までかかりて「龍之介論」11枚!! 12月1日 9:00家を出、梅田にゆき、しばし待てば阿蘇号つき、蒲池氏と喫茶。元気にて1泊とのことに学校へ案内し、大阪書籍に電話すれば柳井君写真師三村幸一氏と13:30来ると。浜谷、成尾2生来りて話し、湖東に電話して明日来よと云ひ、古田生に今夜の(※蒲池氏の)宿たのみ、伊東未亡人に電話し、13:30、4人にて出、天王寺よりtaxiにて毛馬(480)、小さきみすぼらしき蕪村の碑写し、長柄橋へ出て梅田までbus。地下鉄にて本町2丁目、花屋跡(※花屋仁左衛門屋敷)にて写真とってもらひ(※写真リンク)、四つ橋へゆき[小西]来山、[上島]鬼貫の碑を見、文楽前で喫茶。蒲池氏とまたナンバ、高野線、初芝にゆき伊東家で夕食ふるまはれ20:00阪急Hotelにつき部屋に案内して帰宅。 横山薫二よりclass会のことはり。けふきけば成尾禧紗子はアイワ幼稚園長夫妻の姪と。 12月2日 よべおそくまでねられず。「芥川論」よみ返し2行付け加へてすます。坪井に手紙かき史にもちゆかせ、我は芥川もちてアベノに出、速達す。10:00ごろ蒲池氏来り、阪急Hotel宿賃とらざりしと(古田生、歴史の時間欠席せしゆゑわからず)。小野十三郎君の12:00すぎ来るを云ひ、またす。湖東君より電話、13:30来ると。小野君と蒲池氏引あはせ話すみて13:30送り出せば、湖東来り、田中氏の写真わたし「12日見合に来るがよしか」と。「北野家にきく」と云ふ。この間、堺の店と家と見にゆきし様子なり。14:30堺東にゆく。(住吉区役所の中川庶務課長俊雄に電話して冬期Arbeitたのめば「一応履歴書よこせ」と)。店へゆけば父君「母君に云へ」と。家にゆき12日のこと云へばよろしと。くたくたになりて帰宅。 (けふ鍛治君の清書すみ、明日送らん)。湖東に電話し阪急別館にて昼食せんと云へば任したと。(帰途、瀧本生に会ひ案内されて八尋生訪ねしも「戻らず」と)。夜、『楊貴妃とクレオパトラ』588枚を包ます。けふ『東洋史研究13の4』来る。70円也。 12月3日 『楊貴妃とクレオパトラ』速達小包にし(120)、10:00登校の途、帝塚山書店に寄り『東南アジヤ文化圏史(100)』『ニューギニア(100)』『日本神話の研究(70)』『和蘭の東印度経路概史(50)』『宝庫スマトラの全貌(50)』『東洋の古代芸術(30)』と買ひてゆく。(けふ3,000悠紀子に借りし也)。漢文すませ小林生より写真2枚もらひ、阪急Hotelの請求書1,100と云ふをもらひて古田生に礼云ひて払ひ、やがて来し北野雅子より書類受取り、今東光氏の伝言を木村静子より電話できき、山本治雄に明日北区長へ紹介たのむ電話し、姫松より歩きてvolley-ballの応援にゆく。寒く、1試合またされ相愛とやって2-1で勝つを見て決勝見ずに今川まで歩き、久美子にきけば「肺、大したことなく盲腸の癒着手術をせんか」と。湖東にゆきてきけば東京へ問合せてのちと。帰宅。 守屋君より池内先生忌の写真。保田より大阪書籍に出勤のためclass会出られずと。川畑勝蔵より先約あり出られずと。 12月4日 10:00家を出、山本事務所にゆけば会議中。佐瀬と話して待ち、来し山本と一寸会ひ、また区役所にゆき藤本区長にArbeitたのみ、佐瀬に津熊家のこと云へば(※見合について)断らず。来合せし薮本君よりそろばん、簿記出来る子をとたのまれ、本庄先生に会へば今夜のclass会に山本に誘はれしと。梅本、大河原、藤田、白井、肥下、俣野に電話し、出欠きき、佐瀬とrice curry食ひてのち、角川の『ルーヴル博物館』買ひて千川見舞にゆく。高見町の別館と云ふを暁明館できく(中西不在)。ゆけば下痢なほりしと。すぐ出て千鳥橋まで歩き、桜橋の古本屋にて小高根二郎『はぐれたる春の日の歌(180)』買ひ、(新道で堀内民一に会ひ(※class会欠席するといふ)保田の悪口云ひ、夜学ことはって別れて)「朝日」にゆき、人数もなにも連絡なしと云ふおかみに[次]郎(※の本)やり、17:30より(※大高同窓会)開会。 本庄先生、山本、俣野、後藤、白井、川崎、井上摻、坪井と我とに文甲・沢井、田中(前田)政雄、江馬、坂井にて17,000余を山本払ひしらし。(けふきけばこのごろ200万円入りらしと)。出て大阪駅まで歩くみち、旭屋にて「宮津」「大原」(※地図)買ふ。(けふ愛和幼稚園に成尾(※健蓮)[園]長に会ひにゆきしも不在なりし)。 12月5日(日) 京の演芸会8:30よりとて悠紀子早く出てゆく。津熊家に電話し14:00ゆくこととし、〒に西保嬢より「長沖、小野2先生の御恩に報いるため!呼ぶはいかに」と。小野和子より「大江叔母へ我への恩返し相談せしに怒らんとて止められし」と。大手前のPTA有志より300づつ出せと。13:00出て姫松下車。八尋生尋ねしに下宿全家留守、津熊家にては父母本人(和子嬢)みなまんざらではなき様子。出て山本信江訪ひしに山本陽子の踊り見にゆきしと。父母と話せば京城大学出しと。話合ひて18:30、信江帰るまで語り、叱りて出、天下茶屋のりかへで伊東花子氏に会ふ。 桑原武夫氏へ礼にゆきし帰りと。天王寺より市電にて勝山通三[丁目]にて下車。鳥本生に会ひ就職云へば「そろばん出来ず」と。桃谷駅前で『ランボオ詩集』と『奥の細道』買ひて帰宅すれば角川よりHeine3版3,000の印紙来をり。 12月6日 朝、採点し12:00出て十合へ京、悠紀子とゆく。マフラー買ひ(500)屋上にゆき、児玉君に会へば和子君来ゐると。呼出しを待ち、児玉君にこの間の小出君のこと云へば15日より2人働かすと。やがて来し姉君に挨拶し、佐渡島金属にゆけば梅本不在。公衆電話を梅垣女史にかけ、千日前の扇雀後援会によれば上平をり、辞表出せしと。ナンバまで歩きて学校。Salary呉る。松本広治氏に電話してきけば「薮本氏の云ふほどすぐには要らず」と。 柳井より電話、「写真出来しゆゑ来る」と。十合へ「三村、藤田2生推薦す」と云ひ、山本信江に『万葉集』2冊やり、傘かはりしをはは久美子と話し、帰りしあと来し瀧本生に留守させ、漢文。すみて1人再婚世話せよと来る。 柳井君来り、この間のtaxi代200返して呉る。保田、肥下のことほめて帰る。(伊東マキ子に会はせし)。 瀧本と八尋生訪ねしに就寝と。色をなしてあがり、きけば役所のtype忙しく、もはや通学出来ずと。(前田克子の詩集預かる)。出て秋田生と水野生をつれ「No.1」によりしあと、同車。『徒然草』と『更級日記』買ひHeineを秋田生に買はす。けふ角川より「3,000の検印12月8日までに」と。大鹿卓氏より「(※「芥川論」)面白く拝見した」と。千川より礼状。 12月7日 11:00登校、児玉君へ紹介状かき三村、藤田2生にわたす。山本敬子就職すと。推薦状かかさる。藤助別家にして汽船会社社長令嬢なり。明日休むこととす。(けふ蒲池氏に写真送る。33)。帰り寺田町の石塚にゆき春月『象徴の烏賊(50)』、牧水『行人行歌(50)』『青春の季節(85)』買ひて帰宅。 角川より写真Film返し来る。元々社より原稿受取。浪華芸文会より12日今西春秋の話をきく忘年会と。(けふ佐瀬より(※見合のこと)母に反対されしと断りの電話ありしも叱りおく)。けふ吉田内閣総辞職。 19:00湖東に電話し、きけば「東京より今電話あり、12日15:00の茶会よし」と。 12月8日 学校へ電話し「急用にて教授会に出られず」と云ひ、父にover-coatやらんと云ひして出、大阪駅に出て大河原を訪ひしに席を外すと。阪急departにゆきしに全然空きなしと。また阪神にゆけば「会議にて会へず」と。憤慨して女の子叱り、三菱商事の山中嬢に会ひ横山を訪へば不在。山本事務所にゆきしも山本話さず、佐瀬に昼食おごられ(藤本区長欠勤)、和島事務所にゆき、岩吉氏に相談せしも駄目。歩きて大毎にゆき天野愛一より教へられて「Selection」と云ふにゆけば、また教へられ「二見」にゆきて話きむ。(500円にて6人と)。 高尾で『胡人の匂ひ(150)』買ひ、四つ橋文楽座で「会議は踊る」を見て、堺東の北野家にゆき、すしおごられ店番の母君と雅子君に会ひ12日14:00ナンバ駅乗車口で待合すこととし、busにて天王寺。湖東にゆき打合せし、傘借りて帰宅。 東大文学部より『満蒙資料2冊』、平中歳子夫人より『歌集青蓮』。(けふ阪急友の会に額田生訪ぬれば痩せて不愛想なりし)。小西啓子よりお歳暮に砂糖来しと。 12月9日 よべ4:00まで眠れず。休まんと思ひしが押してゆき、歴史すませ「蘇東坡」の2校やり、古典の時間みなをほめ「Goethe」やる。北区長に電話すれば会議中と。薮中氏に電話し、長沖氏とわれの紹介状もちて上平生面会にゆく。帰らんとせしも思ひ直して美術館にゆき、薮井氏に会へば「唐三彩、狆を連れた長裙の美人」は佐々木茂索氏蔵と。彙文堂とは中学同級と。出てまた思ひ直し市電。賑橋で下車、荒木利夫訪ぬれば不在。またのりて桜橋にゆき『日本民族』さがしつつ丸岡明『堀辰雄(140)』買ふ(あとにてよめば愚著)。梅田新道で『日本民族』みつけ喜んで帰宅。けふは住康子より貸金1,500返されし也。 12月10日 よべ8:00より寝て元気とりかへし、学校へゆき佐瀬君に電話して藤本区長への使者たのみ、菊地淑の来りしに結婚2月1日ときき、ともに出しに呼び返され、広常生に会へば「cunningにて学校いやとなりし」と。「思ひ返せ」とすすめ、年報のことで話して西宮君と出れば、宮口泣きゐしと。思ひつきて訪ねしに帰らず。20:00再訪を約して帰宅。 榎本須美子のハガキと蒲池氏の礼状見てまたゆけば帰り来る。高慢と不勉強さとして22:00帰宅。 けふ小野和子に「15日ゆく」とハガキ書き、文学座の15日切符買ふ。『芥川竜之介読本(文芸)』と『文芸春秋』とを買ふ。 12月11日 山前君より19日に『骨』の会、初校もその時と。森三樹三郎氏より六甲は干支と。今東光氏より青年の雑誌に原稿をと。梅田、西保両家よりの19日の案内状。午后出て国立病院中央病棟108号に松本一秀君を見舞ふ。邦枝完二の胆石手術談のりし『文芸春秋』正月号贈れば喜ぶ。天六の古本屋にて『太宰治の手紙(50)』『ラテン文法綱要(130)』。 12月12日(日) 角川書店より印紙3,000枚の受取。12:00出てナンバ。高島屋を見て13:45北野雅子、母君とおちあひ、taxiにて桜橋。「二見」にゆけば湖東夫妻、田中順二郎君15:00来る。中々の美男子にて話も良し。雅子女史見劣りして心配せしが、すみて2人をtaxiにのせ、われのみ高尾へゆき『東亜古文化研究(450)』『台湾諸島法(150)』『朝鮮古代の墓制(180)』――あとでdoubleとわかる――買ひて帰宅せんとせしに大阪駅で呼びとめしは湖東と同級の森本佐一君。本山に住むと。(けふの勘定3,030は湖東が払ひてくれし)。 12月13日 湖東君より電話「異議なし」と。13:00ごろ来るとのことに上平生の会社にことわられしとのハガキ見てゆけば待ちをり、きのふ順二郎君酒のみて叱りしと。3月末に挙式とせんと。早速北野家へゆき父母ならびに雅子に会ひ、けふ18:00ナンバで待合せ。20:30大阪駅にて父君にも会ってもらふこととす。卵もらひ1,515円預る(ゆき帰りともに全田叔母に会ひし)。 帰りて「蘇東坡」と西宮君と校正交換。よべ不眠にてくたくたになりて帰宅。(湖東にきけばレスタミン用ゐよと)。 けふ学校へ平凡社より「アムルサナ(※人名:事典項目解説)」15日迄にと。けふ藤原幸子来り「21日の式に出て呉れよ」と。 12月14日 朝、湖東君より電話「14:00学校で」と云ひ、溝端清子(旧中西)の手紙見て昼食後ゆけば、浅香ら芥川GROUPをり「明日17:00大毎会館で」と約し、volley‐ball組とは明日といひ、伝田生にきけば西保嬢わが欠席で病気になりしと!! 千場生にArbeitなければわが仕事ささんと云ひ(山本信江父君の『日本書記集解』もち来あり、これでも写ささんか)。14:30来し湖東君に会へば順二郎君「今まで知らざりし天与の乙女と考へゐる」と。結納なしを承知せしめCastillaもらひ、戸籍謄本預り北野家にゆき扇納めを21日午前中と約して出、小野和子に寄り、明日来るといふ。20:00帰りて夕食。田中季雄氏より醤油1斗届きあり。夜、「戦後吟」写す。 12月15日 久しぶりに会社へゆき父に「3,000くれ」と云はれ、賄人のbonus4,000、2,000と申請し、竹村氏に会へば教壇かせ、正月演劇をすと。扇子は見合ひすみて新郎より渡すものときき、湖東に電話し、学校へゆく途中、近鉄departで文学Album『芥川龍之介』買ひ、住吉区役所よりArbeit2人云ひ来りしとのことに中川俊雄課長に礼云ひてcollege-hour。すみて楠戸生に西保嬢へ「どうしても出ねばならぬか」と問はせることとし、volley部の木村、沼2生と墨江の小野和子訪ね、15:00学校へ引返し、溝端夫人へハガキ書きしのち西宮君と出て近鉄で散髪。 大毎会館へゆき浅香、奥中、橋本3生と会ひ、ややして楽屋へゆけば芥川比呂志君来をり、我を忘れたるが如し。親子丼を天満橋で食ひ(150)。飯沢匡「二号」見る。1:35はねて片町より帰宅。 12月16日 11:00出て蒲池氏へのハガキ投函。学校へゆき小出氏に西保君の式に出るときき祝辞たのみ、楠戸生にきけば西保嬢「先生来ねば絶交」といふと。 けふ学院で屋上より投身自殺ありしと。 15:00鍛治君と出て「愛の泉」を見、すみて野崎君に会ひ、新年宴会をすることとし(佐々木三和田夫人名古屋に移住と)、新装なりし「面影」にゆきてcoffeeおごられ「源平」にゆけば美智子嬢まだ帰らず。出て鍛治君に別れ『女性思想史(50)』買ひて帰宅。Radioで山本アキ子?試験疲れで墜死と報ぜしと。吉崎雅子より手紙。田中順二郎君より礼状。夜、西保嬢の速達。 12月17日 新聞を見れば墜死は山本敦子と。敬子の妹にして隆三郎氏の三女なり。我にもおぼえある子とて哀れ。隆三郎邸へくやみにゆき、岸明子に寄れば新宮へと。幼稚園の山尾生と話し、住高にゆき山本重武、硲両君と会ひ、登校。 「戦後吟」すまし小野勇氏と話しつつ15:00まで待つ。楠戸生に日曜ゆくと返事。荒木利夫に電話すれば月曜まで出張と。15:30住吉葬儀場まで西宮、小野2氏と歩きてゆけば、城平・康平両叔父、富士鋼業の重役みな来をり、焼香すまして出、井上妙子と話して帰校。西宮君に鍛治君のbonusたのみて山本信江のもち来りし『日本書記集解』20冊もちて帰宅。 竹内好、吉祥寺426に転宅と。村上新太郎氏より『薔薇』に詩を年末までにと。伊東詩碑の写真。 p7 12月18日 湖東君より電話「北区役所にArbeitなし」と。午后〒山本隆三郎氏より会葬お礼。山前君より19日には同人5名みな都合あしくそれ以降に会をと。前川佐美雄氏より『海近く』の評を年末までにと。筑摩書房の山田丈児氏より『李白』の校正送ると。夕方、服部正己来り、二女の中学をどこにせんと。坪井にゆけとすすむ。夜、山本敬子に弔み状。前川、山崎2氏にハガキ。 12月19日(日) 8:00出て天王寺へ出、郵便投函。9:00発急行にのり10:10東和歌山着。雨の中を一停留所歩き商工会議所へ10:30着き、coffeeよばれて待つも11:30まで新郎新婦来ず。やがて新婦の使に中田光子来る。けふの着付け係なり。ゆけば平常通り。歌やめよと云ひ、写真とり、12:00より披露宴。 新婦側の最先頭に坐らされ、隣りに前川佐美雄の代理、堀内薫と云ふ人。向ひは小野十三郎(欠)、その隣小出君(おくれて来る)紹介にまた歌やめよと云ひ、堀内、小出2君より反対さる。14:00迎へに来し伝田雅子に1時間後再来を云ひ、15:00すみて出れば見えず。やがて楠戸生と2人来しとautoにのせられ、水軒口の和歌山大学予備校といふに行き、父君、楠戸母子、生駒生(英1)と話し、土産沢山もらひて帰宅。 筑摩の『李白』48p校正送り来をり、夜半までかかりて校正。書き下しを新カナづかひに改めてありしを旧カナづかひにもどす。全部で240p内外とならん。(帰り阪和金岡でころびしは横田久子なりし)。 12月20日 午まで寝床、〒なし。14:30出て湖東家へゆき扇子受取り、すし・タバコもらひて藤井寺にゆけば、小野和子の手紙送りしと。扇子もちゆき返しの扇子もらふことを知る。夕食たべて出る。(ゆきがけ清水文子に道で会ひし)。帰りて包みあければ「電車賃」入りをりし。藤原生より電話あり、来てくれと。夜、湖東君に電話さす。 12月21日 8:00すぎmorningにて家を出、天王寺よりbusにて堺東につきしは9:40。あはてて北野家へゆき扇子納めの口上云ひ、雅子嬢手製のcakeに感心し、御祝儀(1,000)もらひて!湖東家へゆき、扇子をまた納め、すし御馳走になり、近鉄departにてHeine2冊。『日本人名小事典』『朝日相談室結婚』買ひ、便箋と封筒買ひて帰る途、悠紀子と京とに会ひ、河井ち津生の父君歳暮もちて来りしときく。佐瀬より電話、上平生、富士レジンに就職せしと、うれし。 やがておとなふ声して鈴木(林)母子来る。高師浜に家構へし時の隣人にして一男君、いま立命館大にゆきをり、嬢は伏見に嫁ぐと。今里に住み文芸年鑑を探して来りし也。 16:00出て梅田。Taxiにて堂島の中央電力会館の吉森(安彦)・藤原両家披露宴にゆき、検事長、三菱商事、日本生命の人と一座。けふ織田優子より富士紡入社試に落ちしと。堀好枝氏より西保家にわが出しあと電話せしと。大江叔母より和子の手紙の転送。田中順二郎・北野雅子両人に婚約成立の速達。山前実治氏に27日ゆくと。けふ古本棚1,200にて買ふ。 12月22日 康平叔父より電話、町会費6,000につき。竹村氏来り、教壇と消火器と[梯]子ともちゆく。里井生(2部1年)より再縁先さがせと。梅田夫妻有馬より。鍛治初江よりbonusの礼と、萩原家貸しくるると。堀好枝よりカステラ一箱賜り、町会の徳野翁(もと小楠女学校を設立せし一人にてマナベ校長の叔父と)来り、町会費3,000にしてくれると。出んとするところへ宮口生来り、松本一秀手術せずにすますと。味の素呉る。正月に伝田生と来よと云ひやる。 会社へゆきbonus我に5,000、辻に2,500、池元に4,500受取る。久美子歳暮の発送を手伝ひに来をり。出て天満橋。『南洋地理大系8冊(400)』とHeine買ひてbusにて帰宅。けふ会社にて津熊家に電話し、24日夕ゆくと云ふ。 12月23日 家居。悠紀子買物に出る。父、午すぎ来り書類渡す。そのまへ湖東より電話ありしが1月2日北野家訪問決定ののち挨拶せよと云ふ。松井信子嬢より電話、天理図書館27日より休館との八木嬢の言を伝ふ。12月行けずと伝言す。北野雅子嬢来り、子らにマフラーを呉る。田中順二郎君の靴下編むと、うれし。悠紀子帰来、父にズボン1,600で買ひ来りしと。伝田雅子よりハガキ、正月来ると。 12月24日 父にズボンを史にもちゆかせ、10:30家を出て近鉄departにて隆平、みさ子に本買ひ(徳庵にて守屋夫人に会ひ同窓会名簿代100わたす)、今川にゆきて叔父と久美子に会ふ。金逼迫にて久美子働くつもりと。出て平野線にてアベノ。綿野にて『斑鳩寺(20)』『音声学(140)』買ひてゆけば短大無人。忘年会生れ月にて卓こさへあり、神崎院長と桂君が8月なり。銀の匙と菓子もらひ、弁当食ひて短大へ引返せば長沖氏来り、伝田生来る(1月4日11:00に来訪と)。西宮君来り、bonusもらふ。50,250-3,096=47,154と。鍛治君のbonus立替1,000を西宮君に払ひ、研究年報3冊と抜刷とをもらひ、かもめ書店に『鴎外全集2冊』とHeine1冊とを払ひ、近鉄departにまたゆきし、また北田辺へゆき小西啓子にHeine与へ、湖東家へゆけば夫人のみ。 Heine置き、出てナンバ。近鉄案内所へゆき野崎君に会ひ『南山城』と『三輪石上』もらひ、津熊家に電話すれば父君6:30より待つと。峯の里にゆきて迷ひ迷ひして探しあて、聞けば養子となれば就職をす。弁護士となるなら補助すと也。照子と兄君に送られて姫松。交叉点で降り、「越川」にて『楠公史話(50)』『女(180)』『性と女(150)』買ひて帰宅。 山本敬子より長き手紙。敦子の自殺を報ずるも原因不明。田中順二郎君より礼状。村上新太郎氏より歌集広告せんと。けふ父欠勤なりしと。Bonus勘定すれば1,000足らず不快。高野敏子よりbiscuit。硲君来訪、味の素を賜ひしと。 12月25日 佐瀬に電話し夕方来よと云ふ。父より電話、風邪にて昨日休みしと。百済璋子より油、楠戸よりcoffee(あけて見れば手紙入りをりwhiskyを長沖、西宮氏にと)。久保田信博氏より牛肉味噌漬を賜ふ。百済よりハガキ。筑摩より校正全部送った、但し新年でよしと。堀内民一氏より迢空のことのりし『短歌1月号』。悠紀子、座布団5枚(1,400)買ひ来る。夕方入浴。佐瀬君来り、養子も可と。29日朝、母君と会ふときめ22:00まで話す。好青年なり。 12月26日(日) 10:00出て梅田。『近古奇観の2(140)』と『万葉集の時代』買ひ『逐次刊行書目録』もらふ。『戦後吟』出すことを喜ばず。説得しつつ別る。 梅田夫妻よりハガキ「長野より苹果送りし」と。山前君より27日13:00『骨』の会と。 けふ悠紀子留守に西村弘子生来り、菓子と1,000おきゆきしと。返却することとす。 12月27日 11:00西宮君来訪。砂糖3斤賜ふ。楠戸生のwhiskyもち帰りもらふ。ともに出て(髭剃るを忘れし)京阪にて京都。市電にて丸太町、彙文堂へゆけば中共calender賜ふ。『孟浩然集』は売り切れしと。山前君まで歩くみち、古本屋にて『知られざる国々(30)』『小町と業平(40)』買ふ。山前君に着けば、けふの会また流れしと。近所の印刷屋呼び見積させしに『戦後吟』100頁、1聯刷り切りで14,400と見積る。喜んでたのむ。 『骨8』20冊もらひ、羽田に電話すれば研究室にゆくと。ゆきて待ち、山崎忠に会ふ。里井君に途中見付けし『狐の詩情(20)』贈り、『内蒙古部落の起源』借る。 防衛大学(※転職計画)のことを羽田、鈴木俊氏に云へば止せ止せと云ひしと。三高前で別れて京阪にのりて帰る。 2月28日 会社へゆき池元賄人呼びてきけば辻意地悪せしらし。会社にて町会費の説明し、職業公共安定所へと原君に電話さし、年賀葉書かく(田中城平、中田秀雄、昌三、太宰、神田、和田、井上多喜三郎、服部英次郎、沢田四郎作、桑田、楳垣、守本、宇都宮、康平、田村春雄、高岡、依田、神崎院長、河村純一、大江、本庄、西角、西島寿一、林、隅田、白鳥、篠田、齋藤晌、工藤、丸、佐々木、関口、荒木、前田、山前の諸先生知友親戚)。辻5日まで置いてくれと。14:00外谷(浪中卒業生)、西岡■子と来る。松虫中学の同僚にて西岡府立図書館の転任を小野十三郎にたのみゐると。西岡は海苔、外谷はcastilla呉る。帰りゆきしあと赤星来り、辻良く池元意地悪しと。さにてもなしとくはしく話す。 夜、12月分salaryと町会費来る。けふ12:00徳野老来りてもちゆきし也(受取あとにてと云ひてよこさず。けふ湖東君より電話、明日ゆくと云ふ)。 12月29日 9:00出て近鉄で散髪、佐瀬家で母上と話せば場合によりては養子も可と。父上と話し好感をもつ。送られてともに玉子とじ食ひ(『明星4号』とカステラもらふ)、湖東家にゆく。京都の義兄正月に来ることとなりしと。北野家に電話し、母上に2日のことと1月末挙式と云ひ、出て近鉄departで花買ひ(570)、くじ引き引けば鉛筆1本。山本隆三郎邸にゆき敬子君と母上とに会ひ、落涙さる。 出て疋田家に寄れば東京より便りなしと。出て津熊家。和子嬢に話し了りしあと母上帰宅されまた云って出る。寺田町の石塚で『花の文化史(95)』『キリシタン大名(250)』買って帰宅。 梅原夫人より菓子とハガキ。倭周蔵より三井精機■直り中、重役として残りしと。鍛治初江嬢16:00来り「文芸cluc通信7」と奈良漬と賜ふ。池元賄人、妹を雇ひくれぬかと。つれ来れと云ふ。 12月30日 平凡社より『外国人名事典』出たと挨拶。12:00八木嬢来訪、『骨』「蘇東坡」の発送手伝はしAlbum貼ってもらふ。『骨』は高橋、相野、西川、坪井、服部、柳井、中野、齋藤はるみ、肥下。齋藤はるみよりcheeze来、梅田夫妻より苹果来りし也。大塚来り屎尿汲取代に1,500払ひ不足といはれしと。小林君子より油、鍵谷洋子より砂糖2k賜ふ。八木嬢16:00すぎ帰る。 12月31日 山崎雪子氏『海に近く』について14枚を速達す。住康子よりみかん1箱。『薔薇』に詩「新年」を速達。鍵谷、住、小林君子へ礼状。小野和子より1日午后来ると。住より送り状、小林仁太氏より同。角川よりHeine3版1冊(12月15日発行)。夕方、京、風邪にて耳痛しと。池内doctorへゆきしも不在と。夜、湖東君より電話、京都の兄君来られず。何か我に送り賜ひしと。けふ『李白』の初校終る。 田中克己日記 1955 【昭和30年】  この年、詩人の初めての歌集となる『戦後吟』が計画され、2月11日に出来上がると、その送付先や評判に関する記録が日記の前半にこと細かく記されるやうになります。 戦後吟  壽岳文章博士からの「会津八一に比肩す」との絶賛をはじめ、出来栄えについては概ね好評でしたが、出来上り(造本)については、同時に評伝 『李白』を刊行した筑摩書房の土井一正氏からプロらしいチェックも入ったやうです(3月10日)。 なるほど云はれてみれば私の所蔵本は、本文紙が厚すぎたのか、紙目も逆でノドに皺が寄ってをります。  奥付をみると京都で印刷業を営んでゐた『骨』の同人、山前実治の文童社からの刊行となってゐますが、日記をみるとどうやら山前氏の諒解(アドバイス)のもと、 近くの格安印刷屋(中野印刷所)が使はれた模様です。そんなこともあってか山前氏が印刷代をさらに勉強させたのでしょう(2月27日)。ただ詩人本人は不満など書いてませんし、 私も聞いたことがありません。安く作ってもらったことにホッとしたのではないでしょうか(先年12月27日)。  題簽を明星派の歌人だった父西島喜代之助(西島南峯)に、意匠のトリコロール柄は長女の依子氏が塗ってさしあげたといふ、上製文庫版のこの歌集。新時代風の明るいデザインと家庭的な手触りの風合に仕上がりましたが、 著者にとって生涯唯一の歌集となったことを思ひ、望蜀の感を申し上げるなら、本書をその格調に相応しい、も少し仰々しい装釘で見たかったとも思ってゐます。例ふるなら棟方志功の装釘や、 今一度『詩集西康省』とお揃ひの鉄色表紙の和装本などで如何でしょう。  そもそも『戦後吟』といふタイトルですが、内容をみれば戦後吟(昭和21年-29年:65首)だけでなく、戦中吟(昭和17年-20年:64首)、そして田中克己の代表歌である「このみちを・・・」の歌を巻末に据ゑた年少吟(昭和5年-8年:65首)を含んでゐます。 それ以外の昭和9年-16年を謂はば「詩人としての黄金期」とするなら、詩作よりむしろ作歌に高い調べが感じられた前後の時代が三等分されて収められてゐる訳で、最近作を以て世に問ふ思惑があったとはいへ、 肯へて「戦後」の名は冠せずともよかったのでは、と思ってしまひます。  実は私自身が先師の没後、御遺族の依頼を受けて『田中克己詩集』を編んだ際、和歌は『歌集』として別に上梓すべきと一旦は外したものの、編集後になって雑誌追悼号を出してくださった歌人の平野幸雄氏から、 「刊行の栞」として自費印刷してでも添付したいとの要望があり、量的にも『戦後吟』だけなら付録の体裁に収まってしまったといふこともあり、御厚意に押し切られる中途半端な形で付してしまったこと、 『全歌集』として冊子物の体裁をあらためて与へることができなかったことに対して、個人的に後悔を感じてゐるといふ次第です。  またこの年。昭和30年の後半からは、懸案となってゐた新雑誌がいよいよ創刊にむけて動き出します。その原動力は田中克己といふより、もう一人の発起人=小高根二郎の発願にかかる、結核に斃れた『コギト』の盟友伊東静雄に対する顕彰に傾けられた情熱でした。 資料としてあつめられた亡き詩人の書翰、ことにも失恋に終った恩師令嬢(酒井百合子氏)へ宛てた書翰の存在は、さぞかし小高根氏に衝撃を与へたことでしょう。 「伊東静雄書簡編緝所」と戯れに自称する報告(5月7日)に、手紙の解析にいそしむ熱中ぶりが感じられます。しかしこれには当然花子未亡人の反対がありました。8月18日、9月11日と、 夫人と親しかった田中克己を介してのやりとりが記録されてゐますが、説得の場に同席した詩人の目に、 「許さねば『静雄研究』とするとの小高根君の脅し効きしか。」  と映ったのは、花子夫人があくまで公開を許さないなら、すでに資料を手許に確保してゐる小高根氏が、学術論文として、つまり引用といふ形をとってでもこれらの書翰の存在を知らしめたいと、 夫人に対し公開の許可を迫ったのではないかと思ひます。このあと10年の歳月を経て1000ページに近い浩瀚な研究書(『詩人、その生涯と運命 :書簡と作品から見た伊東静雄』1965)に結実することとなる、 小高根二郎氏の熱意ならではのエピソードです。  さて一方の田中克己にしてみれば、すでに詩の発表場所として詩誌『骨』があった筈です。ただなにぶんメンバーは戦後になって識り合った、井上多喜三郎「多喜さん」はじめとする地元関西の気のおけない仲間たちであり、 詩人のタイプも様々なれば、この6人の集りから何らかの主張を世間に発してゆくといふ性格のリトルマガジンでもありませんでした。昨年来の『日本浪曼派』復刊計画に対しても、 創刊号の現物を見てから判断せんとしたものの、結局形にはならず、代はって保田與重郎を中心とした旧『祖国』編集陣を中心に創刊された総合文芸雑誌『新論』(なんと10万部発行!)は、 田中克己にはつまらぬ内容に映じたやうであります(6月5日)。小高根氏との間で、それならどのやうな話し合ひがもたれたものか。  発起人の二人が同じくした気概は、『新論』と同様、戦後ジャーナリズムによる伝統否定の風潮に対しての抗議にありました。(詩壇でその神輿に担がれ、抒情詩批判の急先鋒にあった小野十三郎は、 田中克己とは職場を同じくする帝塚山短期大学の同僚でしたが、何変ったところもなく普通に交はり、むしろ舞ひ込んだ小学校校歌の作詞依頼の仕事は、戦犯詩人の自分などが書くよりはと、 彼に回すなど気を遣ってゐます。ただしその詩論に対しては、前川佐美雄主宰の歌会で悪態を吐く場に居って(8月20日)、関西人らしい(?)交際が偲ばれます。)  肝心のタイトルも、さういふことで『コギト』の後継誌と位置づけられ、語源となった「cogito ergo sum: 我思ふ、故に我あり」から再びとって『スム』と決まりました。 でも響きがイマイチだったんでしょうね(笑)、結局『果樹園』といふ名前に落ちつくこととなります(11月3日)。  そして志を同じくするやうな、脈のありさうな詩人たち17人に声をかけ、身近くあった岩崎昭弥や高橋重臣、芳野清といった後進はもとより、浅野晃、森亮、小山正孝、西垣脩、 池沢茂、斎田昭吉、上村肇といった旧『コギト』や『四季』の文化圏にあった人たちの賛同を取り付けることに成功します。発起人の並々ならぬ決意が伝はった訳ですが、 おもへば亡き伊東静雄の縁しが、四散してゐた同志を引き寄せたといってもよいでしょう。ことにも「詩の雑誌出せ」との、田中克己がふしぎがったといふ浅野晃からの慫慂は(10月7日)、 詩作を始めた彼の戦後の道行きを思へば、時宜の符合を感じさせます。浪曼派系の抒情詩の本統を継ぐべく興した雑誌『果樹園』が遺した成果のうち、最も大きなものは、 小高根二郎が書き上げた伊東静雄と蓮田善明の二大伝記でしたが、実作においては詩集『寒色』で読売文学賞を受賞することとなった、詩人浅野晃を世に送り出したことといってよいからです。  年末に山田新之輔から聞いた「前川佐美雄が保田與重郎を破門した」(12月12日)といふ、聞き捨てならない事情については詳らかにしません。 田中克己は前川邸に息女の家庭教師として通ってをり、保田氏はこの年の前半は『新論』編集のため東京の旅館に缶詰めになってゐましたが、夏には毎年開催される「日本歌人」の歌会合宿に参加してゐます。 前にも記したやうにこの年は田中克己も参加し「小野十三郎の悪口」で大いに盛り上がった筈です。しかしその後胃潰瘍(による貧血?その実は宿痾となった肺浸潤がぶり返したものらしく典子夫人も喀血)を病んで警察病院に入院。 吉見良三氏による伝記『空ニモ書カン』(淡交社1998年)の中に詳しく描かれてゐますが、『新論』は当初の目論見を大きく外し、保田與重郎が入院した後は、 経営難の果てにわづか半年で廃刊に追ひ込まれてしまひます。彼を精神的支柱に仰ぐ歌誌『風日』が創刊されるのが昭和32年、そして京都鳴滝の「身余堂」に移り住むのが翌33年、 もはや政治的文学運動からは退き、孤高の文人の佇ひをもって再び中央ジャーナリズムに姿を現すまで、今しばらく雌伏の時をすごさねばならないことになります。  思へば『新論』と『果樹園』とは、規模も背景も違ひますが、戦後一新された出版ジャーナリズムが文化を専横しはじめた時代に、焼けなかった京都奈良(伝統)を要する関西から、 満を持して放たれた一矢でありました。資本を投下して大仕立てで始めた『新論』は、戦後ジャーナリズムの宣撫が完了した東京においては、もはや異質にすぎ、脇の甘い拙速さも災ひして自滅気味に挫折したのは、 当時を振り返る編集陣の座談会(※『保田與重郎全集 別巻3』所載)をまとめた吉見氏にすれば当然のなりゆきだったやうです。 浅野晃も再三助言したやうですが(※)聴き入れられなかったといひます。  しかし『果樹園』の方とはいへば、かつて『コギト』が保田與重郎の文章を柱にしたと同じく、小高根二郎の連載を柱に月刊を堅持し、もはや肥下恒夫のやうなパトロンをもたぬことを肝に銘じて、 『戦後吟』を造った時のやうに節約にも節約をモットーに慎重に事を運んだ結果(表紙も作らず3段組で「8頁がよからん(10月16日)」なんて体裁は、節約に過ぎる嫌ひもありますが)、 細く長く17年205号を数へる長命を保つこととなったのです。  コルボウ、近江詩人会と、創刊時の中心メンバーでありながらいつも真っ先に抜けてしまひ、これで3度目となる『骨』に対しては、田中克己もさすがにバツの悪さを自覚してゐたことと思ひます。 もとより「骨:コツ」とは自分の若かりし頃からの諢名でもあってみれば尚更のこと。けじめをつけやうと山前実治氏らに対し、休刊・解散を再三申し入れるのですが受け入れられません(7月7日・7月21日・8月4日)。 会合もすっぽかすやうになってしまった田中克己は、事情をまづ出講先の奈良女子大の職員として引き続き親しかったコルボウ時代の友人、天野忠氏に打ち明け(11月12日)、 多喜さんに打ち明け(11月13日)、最後は荒木利夫氏の所へゆき小高根二郎氏も同席の場で「脱退」を納得してもらふことになるのでした(11月21日)。  詩誌『骨』はこれを契機に版型も小型になり、くだんの天野忠をはじめ、大野新などの若いメンバーを入れることによって組織を新しくしてゆくことになります。 そしてこれもまた息の長い歩みが、実はここから始まっていったやうにも思はれるのは、面白いと思ひます。  雑誌の編集に若いメンバーが必要なのはその通りでありましょう。新しい『果樹園』でも、計画段階から参加し、編集・雑務とすべてに係り重宝された青年として「福地君」、 すなはち福地邦樹氏が登場するのもこの年からです。病臥する伊東静雄の許に通った最晩年の弟子であり、先師の評伝を連載する『果樹園』の発行を支へ続け、終刊の後も小高根二郎・田中克己御両人との関係は終生続きました。 最晩年の田中克己が悠紀子夫人を伴って突然福地邸を訪ね、そのまま一泊して帰ってきたこと。それが最後の外出旅行となったことを夫人から伺ひ、『コギト』人脈を語る際の最重要関係者として、 私にとって強く心に刻まれてゐる方です。さきの『田中克己詩集』を編集する際、どうして一言御相談を申し上げなかったのか、著書の交換のみで拝眉の機会さへもとうとしなかった己の愚かさ・頑さを、これも今に至って後悔してをります。  この年はほかにもトピックとして、戦争を生き残り、中国文壇の大物として再来日を果たした中国の詩人郭沫若に、自分がかつて日中戦争の最中、日本の側からその生きざまを描いた長編詩「詩人の生涯」を書いて思ひを寄せてゐたことを伝へてもらひたく、 著書を贈るなど関係者に取次をしてもらったものの(5月2日)、京都人文科学研究所で行はれた講演の席(12月10日)では気がつかれず、積年の片思ひが片思ひのまま終ってしまったことに落胆する、 などといふこともありました。「詩人の生涯」は詩集『大陸遠望』に収められてゐますが、斯様な詩篇が障ったのでしょうか、戦地から還ってきた、この詩集を献じられた蓮田善明に出来栄えを一喝されたといひます。  また山本事務所でながらく話相手をつとめてくれた佐瀬君(佐瀬良幸氏)が解雇されたり、職場の寮では食中毒や泥棒騒ぎ。彦根時代の後進で岐阜に移り住んだ岩崎昭弥氏が、「破門覚悟、詩集出させよ」(3月26日)と、 歌集制作の援助がだめなら詩集をと直訴?するのを説得して諦めさせたりなんてこともありました(4月4日)。ちょっといい話では帝塚山短期大学で、副手として働いてもらふことになった教へ子のsalaryが安すぎることを案じ、 院長に対して自分らのsalaryから本人には内緒で分け与へてでも倍額にするやう、長沖一氏と相談して決めるなど、侠気もみせてをります。  昭和29年の解説にも書きましたが、ことほど左様に頼まれるたび卒業生の就職・見合の世話をしばしば焼いてをり、大阪市立大学で教鞭を執る服部正己の許にも教へ子の辻芙美子氏を助手として紹介派遣してゐますが、 恩師に宛てた手紙で「服部は我に似たり」と認めたらしく、辻氏については服部先生の御息女埜中美那子氏を通じて田中克己書簡を御寄贈頂いてゐるので併せてご紹介させていただきますが、 埜中氏の曰くには、「つまりは家族が大変な目に遭はされるってこと」。明治生れの詩人気質も、すでに当時の若者とは人生観がかけ離れてしまってゐる様子が、寮生との懇談会でもそろそろ本人に実感されてゐるやうです(7月17日)。 18歳となった長男、史(ふびと)氏にあっても「「父母ともに不快」と。こちらも不快なり。」(10月5日)って、そもそも息子の日記を黙って覗いちゃあいけません(私もですが 笑)。 昭和30年1月1日~昭和30年3月31日 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 横掛ノート 1月1日 短大卒業生より65枚、在学生より107枚、その他155枚、計賀状327枚。15:30小野和子より電話、4日に延ばさんかと、すぐ来よと云ふ。16:30来りしは和子のみ。夕食さす。18:00すぎ児玉君来り20:00すぎ帰りゆく。仲好きやうにてうれし。賀状の返しを天川勇司、川崎菅雄、川久保[悌郎]、武田豊、田中禎子、池田徹、佐々木統子、中村地平、武田信一、東井夫人、仙野美須夫、南部英美子、坂口允男、伊藤徳子、三村幸一の諸氏へかく。 夜、卒業生へ賀状6枚、林富士馬君へ『骨』、岩井大慧、神田信夫、和田久徳、星斌夫、佐中壮、鈴木俊、竹田龍児、浅野晃の諸氏に「蘇東坡」。みな賀状に代ふ。 1月2日(日) よべ不眠。ひるまでうだうだし、12:43にて徳庵発(ハガキ100枚買ひ)、第5種アベノで投函。湖東家へ13:45に着き、折柄帰り来し順二郎君をまじへ1月末2月初に質素な式をせんと申入れのこときめ、丁度ありしtaxiにのりて北野家まで(920)つき、写真を御両人にとらせ、料理よばれ、18:00別室にて父母君に話し込めば早く挙式承知と。簡単にやることも賛成と。19:00出て湖東家。大体2月6、7日頃挙式、仲人は我が夫婦ときまる。睡眠剤もらひて20:30帰宅。 賀状13枚。大転宅(代田2の1058歓[貴]荘)。八木嬢、生駒生より礼状。立原[道造]研究の藤田君より手紙。 1月3日 賀状22枚。15:00までに計160枚の賀状かき、徳庵にて投函。道頓堀の支那料理屋にゆけば湖東すでに待つ。ややして順二郎、雅子現はれ、きけば指環けふ出来ずと。大阪城見にゆきしと。 湖東夫人と2嬢まつ間に簡素を説教す。17:003人来り、やっと料理はじまり20:20両人まづ起ち、ややして散会。両家ともに気に入りしと。新婚旅行は紀伊勝浦と。 1月4日 賀状24枚を見て、村田といふ大和の女に面接。明日より来るや否や早くしらせと云ひ、150渡して帰す。宮口、伝田2生来り、機嫌よく遊び、14:30ともに出て『李白』の原稿と初校を速達で筑摩に送り(185)、京橋で稲荷へ初詣での2生と別れ、天王寺よりbusにて北野の父君に会ひにゆき、2月6日住吉でと云へばよしと。 高野線堺東で下車、住吉大社へゆけば、りく叔母社務所にをり3,300前払ひして(※結婚式)6日13:00ときむ。住吉よりナンバをへて梅田。湖東に電話して6日決定のこと云ひ、吹田にてすし食ふ。 1月5日 梅田11:00。京へゆき祖国社へゆけば『祖国』12月号出来上りをり「蘇東坡」のる。羽田に電話すれば待つと。鍵谷洋子きげんよく働きゐる。高鳥、奥、西保、長尾良と話して出、busにて上賀茂羽田家にて屠蘇よばれ抜刷もらひ『内蒙古諸部落の起源』借りて15:30出、 山前の双林printへつけば『骨』の会。 佐田君上京のため出来ずと。『戦後吟』の組見本見て小高根二郎に電話せしも駄目。17:00出て古本屋見て京阪書房にて『屈辱と解放の歴史(90)』『豊太閤朝鮮役(150)』買ひ京阪にて帰宅。 上平生きのふ来り菓子呉れしと。山下幸雄、卵呉れしと。村田女11:00来り、8日まで就労できずといひしと。池元女より安部嫗を手伝ひに来ささば如何にと。よしと答ふ。賀状37枚。 (羽田夫人よりすぐき貰ひ、潮田氏へ[※池内]大学先生の書預かりし)。 1月6日 賀状7枚。阪本越郎、植村清二2先業よりのあり。午、里井生より電話、あす早く来よと云ふ。夜、上平博子より速達。会社やめたし、知合の縁談せわせよと。 1月7日 賀状4枚。村上新太郎氏より詩の受取。12:00上平生より電話ありしゆゑ、すぐ来よと云ふ。13:30上平生来り、富士レジンにて役立たず、病気中の事務員癒りし故やめたしと。里井生やがて来り、親類書見す。15:00出て天王寺、里井生と近鉄departのsalonにて話せば舅姑と合はず離縁となりしと。まあまあ探さんといひ、別れてbusにて天神橋。府立労働会館にゆけば第一会議室使用料900にて2月6日空きゐると。食堂にてきけば200にてコーヒー、sandwich、紅茶と。またbusにてアベノ橋。近鉄にて今川叔母に会へば久美子藤井寺と。湖東に云へば果物つけて300にてよしと。 明日北野家へゆき見んと云ひ、住吉神社の半金出させ、津熊家。父君に上平の話云へば先づ姉を話して見てくれと。呆然。親類書交換してすしよばれて帰宅。 けふ悠紀子、藤井寺へゆけば叔母の紋付だめにて洋服とover-coat呉れしと。 1月8日 9:00出て会社。辻のsalary立替分請求、原君に手当の件いふ。10:00、busにて小阪、池内大学の書幅を潮田邸に届ければ銀行へゆかれて不在。松本一秀の家を往復に訪れしが不在。堀内進(※教へ子経営の古書店)に寄り『石川啄木(30)』、牛島『女子の心理(40)』。上六に出る電車で中田善章夫人と同車。Bus待つ間、天地書房で小林『東西文化の交流(50)』、東條『方言の研究(60)』。堺東へゆきて北野徳治氏に相談すれば何もかも任すと也。北野邸へゆきすき焼よばれ、湖東家へゆく雅子嬢と同車。住吉東で別れて住吉大社。お[隆]叔母をり、写真2組の予約し、出て上町線にて天王寺。Busにて天神橋。府立労働会館に1号会議室予約をなし(900)、食堂に一人前300円にて35人位とたのみ、披露宴のこと了る。天満橋まで歩き、古本屋と新本屋見しあと、京阪で京橋。Groasset『アジア史』買ひて帰宅。 村田臨時雇に会ふ。午后来りしと。職安より40才位の女来りしにより明日返事すと云ひしと。けふ悠紀子、京をつれて鈴木夫人に会ひにゆき岡本家に寄りしと。松本善海より賀状。西宮一民氏より明日の会出られずと。宮口生より礼状。齋藤加寿栄より物送ったと。 1月9日(日) 8:30まで寝、朝食してすぐ出しも11:03発の片町線、鶴橋よりtaxiで「源平」にゆく。長沖氏14:00まで来らず、我一人に榎本、鍛治姉妹、菊地、岸、北野、相良、太田、守本、中田、野崎、疋田、藤野、本多、前川、松井、三木、安村、山口、山荘、山中、■田、和島の23女史集る。すみて萩原みち子嬢の招宴を長沖氏と受け、18:30傘借り菓子もらって出る。(米沢昭子よりtobacco姉預り来る)。 天牛南店にて『下谷叢話(60)』『音楽の西流(60)』。竹田龍児氏より「蘇東坡」見た。伝田嬢より礼状。渡辺鐐子より年賀状。池元賄人けふ帰省。久美子より電話「明日学校ありや」と。田中修氏より挨拶。 1月10日 よべ睡眠薬のみて10:00まで眠り、午后〒、高梨富士子氏より「子3人になりし」と。浅野晃氏より「海南島にをりし。蘇東坡、興ふかく見た」と。大阪国文読話会より15日14:00より相愛短大で近代詩につき会すると。寒き中を14:30出て学校。力身、小林、野村などに途で会ひ、研究室に来し〒見る。芥川比呂志の賀状あり。星野(旧吉川)綾子の賀状も来あり。潮田先生より礼状。漢文のprintに白楽天きり、鍛治君と話し、西宮君を送る。(府教委に太田、小西、井上の3人通りしと)。 夜、瀧本生来るまで鍛治君まち、語りあへば昔の同級生と。帰れば辻のsalary立替分、会社より来をり。 1月11日 登校まへ湖東より電話かかりし故、15:00に学校へ来よと云ふ。鶴橋で下車、『昭和詩集』2冊買ひ、ゆきて米沢妹に与ふ。山崎雪子氏より電話、けふは来られず明日と。15:00湖東来り、11:00吾家へ来しと。順二郎君15日来ると。 ともに出てアベノ橋で別れ、富士レジンへゆき薮本氏に会ひ上平のことたのみ、大阪駅前で別れ、上平待ちてしばらくつづけよと云ひ、小高根二郎の『浜木綿の歌』与へ、佐瀬と3人でrice curry。上平を帰して津熊家のこと云へば「助かった」と。Coffeeのみて別る。(Svarで『平田篤胤(50)』)。芳野清氏より手紙。木村三千子氏よりハガキ。 1月12日 9:30ねてゐる所へ湖東より電話かかり16日(日)田中修氏北野家訪問を伝へよと。10:30出てcollege-hourに出、14:30まで待てば山崎雪子氏来り、coffee呉る。(鍛治富子嬢来り縁談進行中と)。 15:00長沖氏来り教授会。申込まだ3人、学院よりは43人中27人が文芸志望と。ふしぎ。16:10より食堂で学生の料理の試食。まづけれど諸先生みな平げらる。17:30川原夫人と高野線、堺東で下車、古本屋で『町の民俗(40)』『菟玖波集(70)』買ひて北野家に行き父君に湖東の伝言す。近鉄departより問合せ。和田節子より年賀状。辻賄人より「教訓忘れず」と。 1月13日 登校、5分おくれ、歴史やり、齋藤加寿栄に会ふ。長沖氏休講。すみて12:30出(「かもめ」より鴎外全集第10巻と『結婚』)、梅田、天満。うなぎ食ひて帰る。神田信夫氏より「蘇東坡」みたと。(西保)梅田夫人(※西保惠以子)より10年の嫁の如く姑御と話すと。 1月14日 登校、伝田生誕生日とて九谷焼の湯呑賜ふ。家へ菱田久光氏より速達来り、15:00学校へ来るとの電話なりしも来ず。北野雅子君来り、披露宴の案内状かきて渡す。午後salary出る。 齋藤加寿栄来り就職なしとて泣く。長沖、西宮二氏whiskyのみつつなり。けふまでに志願者10名と。寺田町下車、『世界女性史』『近世日本農民史』『文字と言葉』みな50円。 けふ「かもめ」の本代440も払ふ。 1月15日 成人の日と。田中修氏よりこはだの鮨賜ふ。9:30出て省線にて10:55京都着。■・信姉妹と会ひ、ともにbusにて京都美術館へルーブル展見にゆく。萩原みち子、岩井みよ子と会ひし。13:30み了へて河原町三條までtaxi(60)。支那料理たべ、山前君に電話すれば出勤。ゆきて校正まだとききcoffee一金■おきて表紙置き、河原町三條へ引返し京阪にて天満橋。十合へゆき心ブラ(※心斎橋筋を散歩)してしるこ食ひ、天牛南店にて『日本考古学概説(140)』『日本文学の古典(80)』買ひtaxiにて上六(80)、鶴橋にて別る。十合にては『布施市街図』買ふ。伝田生よりハガキ。藤田氏より来週また来ると。 1月16日(日) 悠紀子に電話を湖東にかけしむれば「来よ」と。10:30湖東家につき田中修氏に会ひ、昼食たまひてのち順二郎君に会ふ。北野家にゆく順二郎君よりわさび漬と佃煮もらひて退出。寒風烈しき故、大丸にゆきnews映画見てのち、駸々堂にて二万五千分の一「粉河」「五條」「岩湧山」「内畑」買ひて帰宅。 けふ留守中、西村氏来訪と。松本一秀夫人より成蹊入学につきたのむと電話ありしに、ふしぎ。〒なし。齋藤加寿栄より砂糖3斤。 1月17日 雪降る。寒く、西垣脩氏よりの手紙と成蹊詩社の23日案内見て床にをり、15:00やっと出て登校。開生、奄美大島の朱欒漬呉れしと。17:00までゐし太田昭子に住高の4先生にと年報、阿倍野高校へは小西啓子に渡す。夜、瀧本生来り、中野トシ子来り(『骨』の代200おきゆく)、2時間すませて瀧本と天王寺「Mocca」にcoffeeのみにゆけば松井佐和子の女友達と来るに会ふ。出て古本屋見しも何もなし。 1月18日 平凡社より『外国人名事典』来る。13:30登校、「国文学史」教へ、西村弘子に父君の登校日をきけと云ひ、出て堺東。北野家で母君に会ひbusにてアベノ。『媒酌人の心得(100)』買ひて帰宅。 山下幸雄出席日不足、成績もわるく退学せんと。松本夫人より電話「明日成蹊へゆく予定」と答ふ。原氏、土産としてかまぼこと羊羹呉る。 1月19日 寒し。上町線で西村弘子と会ひ、父君のこときけば今日学校と。college hourに出ず。守本主事曰く「申込すくなき理由を田中君に調べてもらへと学長いふ」と。川崎より電話ありしと云ふにかければ22日(土)、玉井邸へ白井と三人で行かんと。18:00ナンバ駅改札口と約束す。 地下鉄で梅田へ出、新京阪相川下車、成蹊にゆき西村先生に会ひ松本ヒロ子のことたのみ、就職斡旋は不要ときき、出て梅田。国立病院に松本訪ね、報告。竹島家の長女に学院中学部入学の世話たのまれ樫本校長に紹介。出て湖東家にゆき入籍手続書預かり、ふくさ借り、案内書の校正して出る。帰りて夕食。金戸守先生よりハガキ。 1月20日 風吹く。登校、西村弘子父君の手紙もち来る。よめば鹿内校長に云ひ、ほぼ大丈夫なれど他言無用と。川崎より電話かかり玉井家の仰せにて22日夕食をよばれんと。出て国立病院に松本を訪ぬ。弘子の落第は近視のため也。上六へもどり鶴橋まで歩きて帰宅。 けふ原課長より学校へ電話かかり村田賄人盲腸と。帰りて見舞しに夜には食とり歩くと。筑摩土井氏より速達と再校。 1月21日 朝、目ざめまた眠り、さむれば9:00。村田賄人呼び帰郷手術さとせしも効ありや。行けば4時限に5分遅刻。14:00すぎに北野嬢と湖東君と同時に来る。長沖氏よりPhilip Morrisもらひ15:00出てナンバ。高島屋特別食堂で喫茶して別る(けふ悠紀子の包みし祝渡せしに2,000なりしと!)。鶴橋へと日本一より乗りて帰宅。 山本隆三郎氏より香奠返しにhandkerchief一箱。宇野美佐子より父、[米]田中学に勤むと。けふ賀状の抽籤5等に当りし近江詩人会、山川京子、重本長生、横山薫二、辻芙美子、神木美智子、伊藤久子、岩橋節子諸氏の切手32枚、悠紀子とり来る。筑摩へ速達(41円)。 1月22日 午、会社へゆき、安部育にと2,720もらひ、電話して払へと云ひ、駅前にて上出房子に会ふ。14:30梅田、天満より玉井邸につきしは18:00。白井、川崎あたかも来しところ、理事よろこび迎へらる。次男サイパンにて戦死。わか子氏の婿New Guineaにて軍■として戦死(和田博士次弟と)、結婚3ヶ月なりしも1児あり。22:30までお邪魔し、川崎と京橋にて別れ、終電にて帰宅。 1月23日(日) 朝寝す。『戦後吟』の初校見てのち出て15:00成蹊短大にゆく。鈴木豹軒先生をられ、木村英一、橋川時雄、高橋盛孝、水野平次の諸氏にて13人。鹿内氏に西村氏を通じてと礼云ふ。18:00相川駅前の宿屋にてすき焼すみ、歩きて山本治雄。岡山の弁護士来りしを機に立ち、駅前にて『毛吹草(50)』『民族学の基本問題(30)』。 1月24日 午食して会社へゆき城平叔父に会へば富士ハウスの欠損大なる故、学生に貸す方針を立てよと。父に『戦後吟』の題簽かかし、15:00学校、鍛治君と話して時間つぶし、中野トシ子、瀧本、柏原など話して夜学終る。『研究年報』くばりしも1年は6冊のみしか取らず。明日桜塚高校へ出張命ぜられし。 1月25日 9:30出て豊中。岡町との由にて引返して桜塚高校。松浦校長に会ひてきけばわからず。出て『大隈言道全集(40)』『千家元麿詩集(20)』『キルギスよりアムールへ(50)』『万葉集1(50)』買ひ、上町線にて院長夫人に会へば、中田教授、胃癌が肝臓癌となりて急死さると。想像だもせざりし事なり。 北野雅子、研究室に待ちをり婚姻届書類預かる。2時間すまし、硲君来りしと話しをれば湖東君来り、書類わたし、15:20かかりし電話で北野、三木、前川、宮沢4生あつまりゐるを大丸で待たせ鍛治君とゆく。中2階で喫茶せしも鍛治君おごり呉る。別れて中田邸。夫人泣かる。出て帰宅。 村田賄人手術を申立ててやめると。入浴後来りしに150×15=2,250わたす。けふ白井夫人に学院前で会ひし。『万葉集』山本信江にやりし。 1月26日 11:30登校、college-hourで中田博士の追悼の辞。すみてカステラもらひ、13:50より教授会。けふ受験108人となりしとて院長大分ほっとせし様子。土曜の校葬に略歴をよむこととなる。 15:00出て藤井寺。大江叔母会ひゐしを呼び戻し、寮の継続につき明日城平叔父に問い[質]してもらふこととす。北村ウメノ氏再婚の話す。清水生に電話し、来週月曜来よといひ、帰宅。[板]原哲夫氏より年報の礼状。(けふ和歌山より書つき『長安の春(350)』あり)。『戦後吟』の校正、明日送ることとす。 1月27日 登校、9:05すぎ。歴史すませ、鴎外すませ、花柳有洸女史来る。入学斡旋にと也。松井和佐子来る。湖東に心臓病の母君のこと紹介す。菊地淑来る。これも従妹の入学斡旋なり。 けふ富士のsalary出ざりしらし。(長沖氏の香奠預かる)。竹田龍児氏よりハガキ。けふ『戦後吟』送らせしに送料8円なりしと。『薔薇』1月号来る。夜、池元姉妹呼びてきけば女中になる気なしと。 1月28日 朝、杉浦氏より電話。大江へ2、3日中に来れと。11:30登校、御香奠1,000渡し、堀[亙]母堂より電話あり14:30来たまへと云ふ。4、5時限すませ、来し松井和佐子よりきのふ湖東に日赤アベノ分院のdoctorに紹介されしと。14:30堀夫人、友人をつれ来り、受験するにつき宜しくたのむと。15:30より校葬の準備会。18:00すみてアベノ交叉よりbusにて新法院町の中田邸にゆき、夫人、長男より略歴承り、出て狐うどん食ひて帰宅。中西■子の友だち堀田節子、油賜ひしと。扇町高校の先生会ひたしと云ふと。 1月29日 朝、康平叔父より電話「原君の手当は会社よりわたす」と也。Morning着てゆき研究室で待ち、13:00来し御遺族に中田博士の母上の名ききてまた用なし。略歴をはじめにやらされやや困る。わが直せし食物栄養の井上旨くやりし。すみて記念撮影。橋本高校の某先生と西宮君と親類とて話す。(けふ扇町高校の小林氏に山本夫人をして電話してもらふ)。 小高根二郎より「日本浪曼派」4月かと。鶴身陽子より妹英文受けるゆゑたのむと。角川より『昭和詩集』の税2,270と(先日Heine再版のも来し)。富士[※ハウス勤務分の]のsalaryとどく。 1月30日(日) 羽田と小高根二郎とにハガキかく。湖東に電話し郵便見てからゆくと云ひ、出欠3枚と。筑摩の再校、「中国地誌広東省」、鈴木俊氏の「珍しいお話の御研究」の礼状と見て家を出、13:30湖東家につき、北野雅子君来りしと打合せし、16:00ぬくずしよばれて出(けふ扇町高校の小林先生、生徒をつれて来り、カステラ2本おきゆく)、藤井寺。大江家の前にautoとまれるを見て養老院の方を散歩せしあと、ゆけば康平叔父叔母なりし。長唄のけいこ聞きて夕食。 大江叔母にきけば富士ハウスもちつづけるゆゑ利用法考へよと。康平叔父の話きき、夕立に会ひし大江叔父迎へ来りしあと、叔父叔母とautoにて鴫野。杉浦氏、大江氏退職、大江叔母、城平叔父とガス会社設立と。 帰れば鳳高校の西林生たのみに父来りしと。(佐瀬君父君の紹介)。『李白』の再校を深更までやる(午前4時了る)。 1月31日 佐瀬に電話かけ西林氏のこと父君に伝へよと云ふ。筑摩へ小包代120かかりしと。会社へゆく筈なりしも止めて登校、15:30まで待ちて学院の子の面接、32名中1人悪きのありし。無意味にすまし坂根国雄氏の速達を見、高岡博士にきけば隣に住むdoctorの息にして西島大と友達と。夜学のとき山崎生(ⅡL2)菓子呉る。瀧本と出てcoffeeのむ。(清水来しが忙しと見て帰りしと電話)。けふ〒なし。 2月1日 速達で『クレオパトラと楊貴妃』(※仮名遣ひ)をもと通りにせんと元々社。よべ遅く書きし手紙破りてよしと答ふ。3月上旬刊行と。城平叔父にも手紙かき12:00出て学校。扇町の小林氏より電話。前川生披露の祝辞原稿見せに来る。坂根女医来り、大谷出の娘よろしくと商品切手らしきものおきゆく。前川と北野家へゆき父母君と話し、住吉大社へゆき林叔父叔母と会へば、敏夫君4月1日佐藤■雄次女と結婚。19:30帰宅。湖東に電話すれば明日10:00電話かけ来ると。 2月2日 10:00湖東君より電話、花婿側の披露宴出席28名と。計48名なり。出てbusにて天満橋、労働会館にゆけば小会議室ならよかりしにと。Port wine230円にて15人分と。そを加へてもらふことたのみbusにてアベノ、登校、予餞会といふに出ず。阪大南校へゆきしも神田力氏不在。お宅へゆきてまた不在。15:00より教授会。文芸を2classにせよと云ふ。(けふ白井に電話すれば西川来て電話かけくれしと)。 帰れば『戦後吟』の再校。披露宴出席の返事2枚。2、3日中に城平叔父、寮へ来ると。 2月3日 試験。岩橋女史と監督。すみてぬくずし食ひ14:00出てアベノより平野。相野に会ひにゆけば不在。またアベノより歩けば運動中の後藤田笑子女史に会ふ。帰れば岩崎より歌集5冊位送れと。10冊送ると答ふ。夜、城平叔父より電話かかり荏原区に近き下宿として千草だめかと。 2月4日 8:45登校、面接に14:00までかかる。荒木利夫に電話すれば『骨』の原稿まだと。今川に電話してきけば品川区荏原に近きところをと。判定会で頼まれし子みな入れ、文芸専攻74名とし、また今川に電話し下宿心当りなきを云ふ。(けふ神田氏に電話もらひ火曜10:00に阪大寮委員長に紹介受くることとなる)。坂根女医にもらひしは“Peace”10ケなりし。 2月5日 湖東より電話、午後逢ふと約す。14:00出て放出中学の進学相談にゆく悠紀子と京と同車。近鉄より湖東に電話すれば来よと。ゆきて田中修氏夫妻に逢ひ、近鉄で散髪。半紙買ひ、桃谷で『地方史研究法』『外来語辞典』買ひして、徳庵で筆と墨汁買ひして帰宅。 けふゆき子はpermanent-waveかけし(小西啓子に寄り郡山高校堀内生の食物入学を云ひ、山本夫人に扇町高校の入学を云ふ)。八木嬢よりlist。夜、披露宴の席札書く。 2月6日(日) 京、ゆふべより発熱、8:00起きてうだうだする中10:00になり、悠紀子の着付すみ、駅へゆけば10:23出しあと。住吉交叉で下車、林叔母を訪ね、玄関で立話、500呉れしと。出ておりく叔母訪ねしに不在。やむなく高松権宮司宅へゆき直子嬢にたのみ、帰って火鉢に火入れるを見、しばしして挙式。仲人役不要にて楽。すみて写真とり、親類の紹介すみ、田中修氏、北野兄君、蒲田課長とtaxiにて労働会館にゆけば全く席出来てゐず、食堂に云ひ15:30やっと席らしくなりし処へ諸客来り、前田令息夫人をのぞきそろひしゆゑ始む。早島喜一氏、橋本兼次氏、上田部長、前川嬢の祝辞すみしあと祝電披露すれば橋本部長をぬかせしと。port-wine、coffee、sandwichのもち出し方ももたもたして苛立ちしも無事17:00北野徳治氏の「高砂」にてすみ、新郎新婦を送り出し、湖東君にtaxi代もらひて片町。 帰れば疲れ一時に出、沢田といふが入寮の挨拶。大塚の委員会出席をすすめしにみな床より挨拶し、原君の沢田入寮につき了解を云ひ来りしにもいいかげんにすます(生酔ひなりし)。 けふ雅子嬢「うれし、うれし」と云ひゐし由。湖東へ電話せしめしに喜びゐると。元々社より『李太白』3冊、『漢詩入門(※齋藤晌)』来をり。 2月7日 よべ1:00まで眠れず。16:00まで臥床、出て夜学。Salaryもらふ。瀧本、福井、西岡とアベノ橋Mocaでcoffeeのみ、西岡転任に坪井へ紹介の名刺かく。帰れば『戦後吟』の3校来をり。 けふ角川松原純一氏へHeine3版の印税催促書く。 2月8日 9:00出て神田力氏を訪ねるとゆく途中、宮口生と同車、けふ明日休講を伝へしむ。桃谷で下車、本屋あかず、アベノ橋ユーゴーでHeine買ひてbusにて南校前。神田氏を訪ね、寮総務に紹介してもらひ色々きき、出てbus待つ間、coffee店に入れば、西阪修画伯をり。別れてbusにてアベノ橋。京橋より京阪にて上洛。 双林printにゆけば山前氏、「11日骨の会をすると通知せし」と。中野印刷所へゆき奥付組ませ、11日発行、セピア刷などきめ、山前君と四條丸善へ和紙(見返し用)見にゆきtaxiにて帰れば佐々木邦彦画伯より電話ありしと。呼びて来りしとなべ焼うどん食ひ、山前君にたのみて別れ彙文堂。『人民詩人白居易』『唐代的長安』(5,200元で100円)、『大唐六典(400)』、西田太一郎『漢文法要説』買ひして三條で見付けおきし『李太白(70)』『マーシャル語の研究(80)』買ひて帰阪。 宮本君待ちをり、入浴夕食後話をきく。武庫川学院短大の夜学を教へると。湖東より電話、兄(※田中)修氏喜びて帰郷されしと。明後日会ふを約す。 2月9日 会社へゆき城平叔父に学生入寮のこと云へば適当でなければ入れずと。帰りて〒(西保)梅田夫人より母君病気でさびしとのハガキ。角川より『昭和詩集』再版。田中夫妻の勝浦よりの絵ハガキ見て待つに15:00前、土産もちて来る。新婦少し肥えしと。30分して出てゆく(けふ行きがけよべこはせし眼鏡のつる買ふ。250)。 2月10日 湖東より電話、11:00大阪駅1、2等待合室でと約す。疋田紀子より電話、明日研究室へ来よと云ふ。(けふ休講と電話せし也)。10:30出て梅田夫人へのハガキ投函。大塚に夜来よと云ひ、大阪駅にて11:00に10分前、第一生命ビルへゆき吉森氏に遇ひ、近日訪問を約し、山中嬢呼びて12:30の「はと号」のこと伝へ、湖東に会ひ、式、披露宴の立替表を見、11:45待合室にゆき12:00来し新郎新婦とplatformへ出る。見送り多く、前田夫人も同車。鍛治、前川、三木、山川の4嬢見送り出発せしあと、北野母君と湖東と3人にて阪急食堂。かきフライ食べつつ湖東の立替7,300を払ふことを母君に伝ふ。日曜午后父君我家を訪問さると。 別れて山本事務所へゆきしに佐瀬君やめしと。coffeeのみて新道の高尾にゆき『董金塚』『日置町誌』■れゐしを催促し、『大日本人名辞典』も註文し、真山青果『随筆瀧沢馬琴(100)』『童馬山房夜話4冊(180)』買ひ、『文芸春秋3月号』買ひて帰宅。 樫本嬢、東恒子となりしと。伊井利枝子お好み焼き「河童」を開業と。(けふ横山薫二に会ひしも話なし)。浦上退寮、沢田入寮。大塚つひに来らず。 2月11日 9:30出て池川医院に午后の往診たのみ登校、疋田嬢に12:30来よと云ひ、5時限の歴史休講の掲示す。鶴身陽子より電話、妹入学の礼なり。松井和佐子来り、湖東を通じての医師紹介の礼せしと。相野来り、伊東詩碑の100円呉る。今年嬢ちゃん高校と。やがて長沖氏来り、疋田生来る。 相野とアベノ橋まで出て別れ、疋田生と近鉄parlorへゆけば協和銀行員と縁談出来しと。祝を云ひて省線、京阪線、三條より山前に電話し、吹雪の中、歩きてゆけば佐々木、荒木の2君をり、やがて依田君来、出れば井上君来てみなそろひ「瓢箪」といふところにてすき焼。『戦後吟』見本10冊来る。依田君に3冊買はせ19:30まで話してtaxiにて三條。我まづ下りて帰阪。梅田(西保惠以子)氏より婚礼の写真。入浴、夜半まで眠らず。 2月12日 寒し。秋山昭子氏よりハガキ。田中修氏より礼状。13:00出んとすれば父より電話、城平叔父、益子氏に会ひしに常務、なつかしがり近日また連絡すると。来週月火の中にゆくと云ひて梅田。14:30藤野の妹に会ふ。姉9日南村姓となりしと。まむし食べて帰れば本位田重美氏より2度電話ありしと。大江氏Metan-gasの器具もち来り、貸代7,500とgas1,200と機械500と。21:30本位田氏より電話あり、明日午ごろ岩波文庫の『中国小説史略』の訳本借りにお越しと。 2月13日(日) 京、発症「はしか」ときまる。午飯どき本位田重美氏見え、上れとすすめしかどきかず、土曜再来といひ、魯迅と塩谷温と児島献吉郎ともち帰る。井上多喜三郎氏より『戦後吟』たのしくよみしと。『文芸日本』2月号と『日本歌人』2月号と、ともに我が文をのす。15:30湖東と北野徳治氏と見え、喜び云ひ、湖東は京を診察しくれ、18:00まへ帰りゆく。お礼にと10,000と羊羹3棹。夜、田中修氏へ報告かく。佐瀬へ問合せ。 2月14日 4:30起き、悠紀子起して7:00家を出、定期券買ひ、7:45京橋発にて京都。三條より歩けば自転車で来し山前君に追ひつかれ、きけばまだ出来ずと。11:00まで時間つぶしにLion自動車へ江馬訪ぬれば未出勤。歩きて半中歳子夫人訪ひ、見本刷わたし歌の話し苓次氏とも話す。 双林printへ帰れば11:30。まだ出来ずと。吉野書房へゆき高鳥君待ち、昼食くはせてもらひ、また電話せしに江馬欠勤と。山前より今日は駄目と。引返して鞄とり、悄然と三條。京阪書房で『南慧帖(70)』『成吉思汗は義経なり(30)』『塙保己一(20)』『霊元天皇乙夜随筆(50)』買ひて帰阪。 登校して夕食、中野トシ子来り、伊東夫人来り、近木慶子来る。近木は気がつけば羽衣415にて元と山口のゐし家に住むと。中学へ転任したしと。瀧本のapartにゆかせてたのむ。帰途、家の近くで中野印刷所のオサム君に逢ひ100冊もち来りしと。茶のませ礼云って帰ってもらふ。大源の娘さんより電話ありしと。眞野喜惣治より春照村へ転出さされしと。平凡社より税の届出。 2月15日 大源氏より電話、3月1日願書呈出後、松本のところへ紹介状もちゆくと答ふ。文芸2年Xより電話、明日10:00すぎ父君と研究室でと答ふ。12:00すぎ出てゆけば父と会ひ、城平叔父、新村先生を含めて(※『戦後吟』)5冊わたし、西島寿一、保田、野口、前川、安田、村上、『短歌』、中河与一、幹子、影山正治と10冊送る(160)。 梅田へ出て山中タヅ子に買はせ、産経蒲田氏訪ひしも不在。代理に1冊わたし、大毎天野愛一不在ゆゑ2冊托し、大朝山田新之輔、後藤孝雄、神崎とみな留守。吉村正一郎にと2冊托し、同盟通信に長尾禎子訪ね、1冊買はせてcoffee御馳走となる。和島みね子訪へば父君印度から中共へ旅行と。羨まし。1冊買はせてあともどりして『俳諧評釈』『軍医森鴎外(180)』買へば金なくなりて帰宅。 税務署より確定申告せよと。山前君より11日の写真。近畿民俗学会より20日14:00より沢田博士邸で例会と。 2月16日 9:00家を出て登校、(丸、関口、梅田、高鳥、齋藤、浅野、堀内、河村の諸氏に『戦後吟』送る)。 佐沢、庄野英二氏に『戦後吟』を托し、岩橋・南田2女史に紅茶のませてもらひ、1冊づつ贈り、佐藤春夫、堀口大学2先生へと切手貼り、きのふ電話かけ来し東順子の母君より、妹孝子君の特別入学のこと聞き、疋田嬢呼びて今村羊子と2冊分売り、伝田生に2冊、鍛治君に2冊をはじめ12冊売り、壽岳博士にわたして『戦後吟』の日なり。 天野愛一に電話すれば感心したが紹介未定と。15:15より教授会。未定なりし細原の妹入学させざることとし、東の妹あとへ決定を延ばしして終る。198名と。 帰れば佐瀬よりやめさせられしと。湖東より北野氏と相談せしと。マミ子けふ来りて「Goethe」の本4冊もちゆきし。出発は19日と。のちほど電話す。 夜、池島信平、岩崎昭弥、中野清見、西川英夫、小高根二郎に『戦後吟』包む。 2月17日 8:45登校、鍛治君5分して来る。歴史すませ鍛治君の知合で転科希望の子まつ間に小野和子訪ぬれば果して悪阻と。児玉君よべ宿直といふに早々式の写真とAlbumもらひて逃る。帰ればまちをり食物より文芸へと云ふに不可さとし、帰らしめてのち、加藤夫人にゆけば所用と。本わたしてすぐ出、庄野英二に会へばよみしと。ナンバへ出、萩原みち子に1冊わたし、野崎君に1冊売り(天牛本店にて『戦争と性v.3(80)』『不幸なる芸術(230)』買ふ)。天牛南店に浪速双書5,000学校へと註文し、『動く蒙古(30)』『満洲の今昔(30)』『浪曲選集(80)』買ひ、「面影」にてcoffee、Madame紅茶おごり呉れて出てゆきしあと、怪しげな男の話きき、荒木君訪ねしに会議中。 帰れば田中雅子より挨拶。夜、今川より電話、学院中・高入学について也。まみ子、今度は大江へ泊るといふに明日ゆかざることとす。小野和子へハガキかきしに又電話。まみ子の就職のこと。 2月18日 10:30登校、漢文やり、来りし2年生のreportの口頭試問し、午、院長に鍛治君の雇用、山本信江の無給副手、西宮君のsalaryと仕事とに考慮してもらふこととし、午食時間なくなり、家政の歴史きりて2年生の試問続行、西宮君に院長との会見話し、来りし和島嬢主婦生活編集長と話し、15:00和島嬢と出て、かもめ書店に『鴎外全集』に370払ひ、ナンバへ出て近鉄案内所。野崎、鍛治と4人にて喫茶。(野崎君の同僚にHeine与ふ)。 月曜、野崎家を訪ぬるを約しtaxiにて梅田新道、「小出楢重展」見て2嬢と別れて帰宅。西村市造氏より松本ヒロ子合格、手続もすみしとハガキ。 けふ『戦後吟』なくなり、悠紀子に2,500わたす。(けさ天王寺にて白井に遇ひ、きけば大垣に転任と)。 2月19日 家居、中河与一氏より文筆旺盛をのぞむと。午后、堀内民一氏より2冊ほしき人あり、代はあとでと。夜、小西啓子尋ね尋ねて来り、堀内生よりの礼と5,000置きゆく。 2月20日(日) 午前中雨と風。元々社より校正22、3日に出すと。疋田生より『戦後吟』うつくしと。堀内民一氏より「戦後もっとも美しき歌集」と。午、出て片町より坪井、高校入試問題作成に缶詰と。出てbusにてナンバ。玉出の沢田博士邸の「近畿民俗」の会にゆく。折口博士「さうやさかいに」の抜刷もらひ、辻野セツ子氏「蒲生郡朝日野村の採集報告」と鈴木東一氏「亀岡市犬甘野(※いぬかんの)の正月行事」の抜刷もらひ、山本信江の父君と話し、ともに出て住吉をへて白井家。明日赴任、大垣工場の庶務課長と。吹雪の中を『歴史家の散歩』よみつつ帰宅。(けふ松本一秀より3月初、西村氏に礼にゆくと電話)。(田中順二郎夫妻へ手紙)。 2月21日 京都市印刷所へ電話すれば土曜送りしと。会社へゆき父より10,000預かる。杉浦氏退職と挨拶す。康平叔父に池元久子の履歴書托し、学校へゆきて同窓会報と研究年報2冊とり、鶴橋へ出て奈良、野崎家で父君より推薦葉書10枚預かり、女子大付属高校へゆきて坂口允男の室へゆけば昼食中。塩見主事の室にゆき年報呈し、講師の希望ありや否やきかれ、漢文の先生とも話し、塩見氏と大学にゆけば服部部長(※服部英次郎)、席をはづす。天野忠と話せば服部氏、文学部長をやめると。受付に年報托して出、うどん食ひ『狐の詩情(30)』『朝鮮巫俗の現地研究(140)』買ひて前川(※前川佐美雄)邸。 朝日に(※『戦後吟』の)推薦かくと。山田新之輔、この間悪口いひしと。保田わが批評かきくると。吹雪瓢箪山までつづく。小阪で下りれば堀内休業。busで生駒家のmadamと同車。帰れば『戦後吟』つきをり、浅野晃、中河静子、安田章生の3氏の礼状。入浴。 2月22日 試験監督に登校、太宰博士の時間、久保田、十時の2生欠。『戦後吟』2冊頒け、電話かかり学院事務室へゆけば5女史に庄野英二君、頒ち与へしと。Signさされ帰りくれば院長秘書、礼として一封とタバコともち来る。出て東、力身2生に呼び戻され、すみて藤井寺。大江叔母に5冊買はす。北村ウメノ氏には下着類贈れと。清水生呼び、田中生呼び迎へにゆきて話す。田中生、勤務10年と。ともに天王寺に出れば百済生と遇ふ。ともにMocaにゆきcoffee。平岡生とに4冊頒ち、共産主義勉強するといふ百済生に驚く。これにも1冊与へて別れ、石塚書店にて『茂吉の手紙(100)』『ルーヴル美術館(130)』『若き女性の心理(40)』『日本詩史(60)』買ひて帰宅。 大源氏より電話、明日、夫人と松本の病室で会ふこととす。『東洋史研究13の5』八木嬢よりlist。岩崎昭弥より10冊はかさんと。藤野一雄君より中川いつじ君とに2冊送れと。河村純一doctorより礼状。大阪文学会より26日に会合と。『楊貴妃とクレオパトラ』の初校18p。やはりよみにくし。(学校へ大井氏より電話あり、相野の紹介なり。今あやめ池に住まると)。 2月23日 岩崎へ10冊、桐山、高垣、田中順二郎氏へ2冊づつ包む(24×3)。初校終へ(速達33)元々社へ挿絵として「狆を持てる美人」を佐々木茂索氏にたのむやうにとハガキ。岩崎昭弥へ10冊送るとハガキ。疋田生より電話、会ひたしと。午すぎ出てbusにて天満橋より国立病院。松本一彦の病室にゆき室井夫人を学院中学長樫本氏に紹介す。松本近々退院と。電車にて朝日にゆき山田新之輔に学芸部への紹介たのみ2冊おく。山本事務所にゆき1冊置き、class会より金もらへとききて出、京橋をへて帰宅。 西川英夫より3冊買ふと。咲耶より史よこせと。疋田嬢より歌。山中、今村2嬢と村上新太郎氏より感想。菊地淑より入学の礼状。角川より21,000-3,150=17,850。沼生より卒業式後の謝恩会出欠問合せ。元々社より初校32pまで。松井和佐子の師とききし中村斗志女史よりcoffeeの礼状。夜、江馬、沢井、富山、坂井、前田、梅本、後藤、川崎、俣野、坪井に(※『戦後吟』)包ます。 2月24日 9:00登校、note提出3名のみとわかる。疋田生より2度電話、縁談また行き悩みとなりしと。寺本生来り『戦後吟』1冊買ひ呉る。三木生の聞合せに来し人、また来り、ことはられしがまた一人学院出ありしと。名簿見しが見当らず。その旨いひて帰らす。畠山六右衛門氏より電話、きけば長男同志社へ入りたく紹介たのむと也。近日ゆくと答ふ。父より就職または縁談をと云はれし犬和の杉本嬢来り、就職たのむと。なしと答ふ。京の菓子おきゆく。Report提出、辻、明渡2人のみ。木村静子より電話。 13:30出て上六。木村嬢に今東光氏への『戦後吟』托し、小阪の三井銀行にゆき17,850受取る。堀内きのふ男子生れしと。(上六、天地書房にて『苗族と猓玀族(80)』買ふ)。小阪よりbusにて帰りしが道路工事のため遠く歩かさる。 けふ悠紀子、四条畷学園へゆき小学校毎月1,250、入学時の寄付3,000と。大より阪根嬢たのむと。阪根母上より礼送ったと。元々社の校正80p。「楊貴妃伝」すむ。 2月25日 9;30藤井寺へゆく悠紀子・京と共に出て郵便局。10冊(160)と西川への3冊(32)、その他郵便料多く払ひ、会社へゆき城平叔父に会ひ、salary請求書に印おしてもらひ、原君と話してのちbusにて天満橋より安堂寺橋の山本鋼業へゆきしも益子専務不在。『戦後吟』1冊おき、親子丼食って俣野博夫に会ひ、白井の送別会を3月26日(土)と定め、饗庭君を訪ねて話し、日生まで歩き藤原女史に会ひ、祝として1冊与へ、出て大阪日々会館に佐瀬訪ねしに不在。風呂敷ことづけ、市電にて荒木利夫を訪ねて話し、地下鉄にてアベノ橋より湖東宅。けさほど北野母君よりの電話にてききし写真とり、アベノ交叉までゆけば鶴身陽子に会ふ。話して古本屋見、アベノ橋で紅茶のみて駅で佐中壮氏に会ふ。織田ユリの仲人に成功せしと。話しつつ京橋で別れて帰宅。悠紀子と同時となる。 夕食中、室井夫人来訪。カステラ賜ふ。樫本校長に会ひしと。元々社校正96p。岩崎昭弥より1冊分1,500送り来る。野田又夫、小高根二郎より受取。[坂]根母堂より2,000。(けふ天王寺駅にて西川の友、安田に呼びとめらる。会社専務と名刺呉る)。 2月26日 〒なし。12:00出んとせしところへ本位田氏より電話、徳庵駅まで本返しに来るといふに不二家(※大阪文学会会合)のこと云ひ、busにて天満橋をへて心斎橋。不二家へゆけば盛会。祖国社の連中も保田も来るといふに、14:00前出て梅田。京都へゆき丸物で時計のひもかへ、ここの劇場での大の脚色「続・天下太平」を見る。面白かりし。 2月27日(日) 9:30出て雨の中を畠山氏にゆき(taxi60)、わが仲介不要を云ひ、autoにて鞍馬口、兒玉実用君に久しぶりで会ひ『戦後吟』贈りて出る。賀茂川べりまで出、『詞選(120)』買ひて双林社に電話かけ、busにて丸太町。麻生『日本文学史(150)』買ひて山前君に会ひ『骨』へと詩2篇わたし、中野印刷所の勘定きけば2万越えしを1.8万円に負けさせしと。オサム君呼びて払ひ、河原町丸太町で『富山市近在方言集(10)』買ひ、busにて京阪三條をへて帰宅。 史の友達来て咲耶のところへ厄介になれぬかと。数男へ相談せよと云ふ。前田光子より就職たのむと。元々社の校正128pまで。(けふきけば児玉君にも詩たのみゐると)。(京橋で亀井昇母子に会ひし)。 2月28日 風邪ひきてのど痛む。鍛治君に電話かけさし17:00頃ゆくと云ひ、ぶらぶらゆけばreportの子たち待ちをり、すまして野崎君より礼の電話きき、漢文の試験。出来ず。すみて三苫君に採点提出迫らる。清水、田中、瀧本の3人と天王寺のMocaへゆき、やがて平岡、木村来り、5冊の代金受取る。木村、京橋まで送り来る。(瀧本生にきけば中野トシ子醜態らし)。 けふ前田光子より就職依頼。木村三千子女史より100封入、歌集送れと。今氏(※今東光)より出席の礼状。総選挙開票、憲法改正やっと不可能と。 3月1日 病臥、38℃を越し、腰いたむ。夕方、蔭山Dr.の来診を乞ひ、きけば流感と。あすの教授会いひ、注射うってもらふ。江馬より受取。塩見薫より受取。元々社より挿図のこと。宮本正都より「歌集実費にてもでもお頒けいただきたし」と! 3月2日 朝になって熱下る。けふより京、幼稚園へゆく。学校へ電話して欠勤云ひ、また電話して千場和子のこと云へば西宮君より電話あり、嬢やYo-koと名付けしと。けふ西川より3冊代300。江口三五、沢井孝子郎2氏より受取りしと。 3月3日 幼稚園ひな祭と。湖東より電話「明日研究室へ来る」と。畠山氏より電話「試験出来ざりし」と。児玉氏(※兒玉実用)へよろしくたのむと速達す。元々社より初校160pまで来る。帯の広告とあとがきの原稿かく。富山忠雄より礼状。藤野和子、南村となり吹田市垂水168の39住友商事千里寮に住むと。小林千余子より関学を受けると。 3月4日 久しぶりにて登校、漢文の問題作りしあと何もする気力もなく、試験おへしあと湖東を待つ中、小西啓子、小林君子の2人来る。ともに国文学史まだなり。明日家へ来ることとなり、湖東と出てナンバ。明菜でcoffeeおごらる。(けふsalary出し)。大丸まで歩きて別れ、住所簿買ひ(330)、三井信託に森桃子訪ねて中野トシ子のこと云ひ、また十合。児玉円城君に会ひして、天王寺へ引返して帰宅。(寺田町にてClausewitz『戦争論2冊(130)』)。元々社より176pまで。小西啓子よりreport着きをり。田中雅子より「物送った」と。 3月5日 11:00、井上生、母とつれ立ち来り、菓子と商品券と呉る。小西、小林2生来り、国文学史のreport口頭試問。小西生に湖東君へと(北野)雅子の手紙托す。(けさ史、(※東大受験より)帰宅、田中順二郎へゆかざりしと。咲耶にゆきしと。子らへ土産、数男より。われにはtabacco)。太田陽子よりハガキ。山前君より「10日までは詩の追加を」と。齋藤加寿栄生より「府教委の試験うかりし」と。夜、田中雅子へ手紙かく。22:00千場和子reportもち来る。けふ寒し。 3月6日(日) 家居、史に筑摩へ印紙未着の速達出しにゆかす。風呂の釜とりかふ(2600)。 3月7日 家居、父より「林敏夫の祝を共同でせん」と。畠山氏に電話してきけば落第せしと(49×2)。田中順二郎氏より砂糖送りしと。 3月8日 京、四条畷学園小学部受験にゆく。われ9:30出て京橋で散髪、三條京阪書房で矢野『外国関係研究(450)』買ひて山前君。詩「初老」をかいてわたし、中野トシ子の200渡し、彙文堂にゆき『東江遺事(300)』『明季史料零拾(300)』『心史叢刊(350)』『清史要略(350)』買ひて吉野書房(途中昼食)。 高鳥、奥西保に『戦後吟』1冊づつわたし、折柄来会せし窪田雅章氏(正体何か我知らず)にも1冊贈り、羽田夫人に亨先生のお見舞電話し、畠山家にゆけば令嬢のみ。六右衛門氏に電話かけ、けふ兒玉実用氏に電話して補欠たのみしこと云ひ、京都駅より省線。梅田にて古本屋、『中国近世社会経済史(100)』。また親子丼食ひて帰宅。 京、口頭試問に答へしらし。奈良女子大より講義の日取と題目しらせと。筑摩より思ひちがへと謝りて印紙2,500枚。 3月9日 10:00出勤、採点す。西宮君来り、新庄吉田氏の礼1,000呉る。教授会にて壽岳博士『戦後吟』は会津八一に比肩すとほめらる。小林千余子来り、関学受けると。16:30すみ鍛治、小林2生と西宮君まじえて千日前。野崎君呼び出して喫茶。taxiにて鶴橋(けふ院長に奈良女子大(※出講)の了解求めしにあまり良き顔せず)。服部氏(※服部英次郎)より井上庄七氏(大高20回)と共訳のSchelling(※岩波文庫『ブルーノ』)。 白井三郎より大垣へ転任の挨拶。けふ学校へ兒玉実用氏よりハガキ。台湾大学図書館閲覧部主任永祥氏より手紙。 3月10日 悠紀子、北村ウメノ氏の結婚式にゆく(高津氏にゆく)。京、幼稚園休み12:00狐うどん食ひて出、四条畷学園に13:15つき、14:30までまたされうだうだ講話、中途で出て手続し(4000)、服(1800)、シャツ(800)、帽子(200)買ひて帰宅。悠紀子19:30帰り来る。林叔母に祝(1,500)もちゆきしに知合に嫁世話せよと。八木嬢より女中いらぬかと。筑摩書房土井一正氏より『戦後吟』(※造本)出来上り良からず、『李白』15日出来と。元々社より税金の申告(20,000-3,000)。湖東より雅子君の手紙返却。数男より「一次通った」との電報。大江に電話すればうちは不要と。大源氏より電話、72番の受験番号と。 3月11日 9:00会社へゆき城平叔父より風呂釜代もらひ、父と話し、鶴橋より奈良、女子大にゆき服部英次郎氏に会ひ、唐詩やることとし、天野忠とcoffeeのみてのち、12:00書類呈出。岩城隆利氏に会ふ。商高にゆき坂口允男に会ひ、出て昼食。野崎家によりてのち前川邸にゆけば翠夫人「山田この間来り、朝日に書きたり。保田はまだ」と。(途で吉村正一郎氏に会ふ)。奈良駅にゆけば桜井行出しあと、busにて檪本。極楽寺にゆけば「五重?」と。(※八木)明子氏と話し、かきもちもらひて出、14:42にて桜井。 保田にゆけば『祖国』に書くと。母上神経痛と。出て16:40の汽車にのり天理。松井家へゆきしも信子嬢、大阪の病院へArbeitにと。高橋君は猟にと。夕食くひてまたゆき夫人と話し、天理18:15発の準急にのり、小阪19:15。堀内で『人類学ノート』『星と伝説(100)』買ひ、19:40の最終busにて徳庵着。 けふ小林君子、この間の礼にと羊羹もち来りしと。西岡盈子より坪井に会ひうまくゆきしと。元々社より214pまでと。再校80pまで。 3月12日 10:00登校、採点表呈出し、日野君と話し、疋田、成尾2君を電話で呼び、白井へゆけば全家不在。引返して疋田生またせ成尾生に林叔母よりの話をし、疋田生とアベノ橋。「相手小心にしていらいらする」と。別れて梅田、雨ふる。帰れば成尾の母より電話かかりしと。22:00室井夫人より電話、合格せしと。小野和子より悪阻つづくとハガキ。彦根の『詩人通信』に『戦後吟』の取次をすと。 3月13日(日) 風吹く。林叔父より礼状。堀内民一氏より出講の日しらせと。千場和子より吉村氏の採点。堀内氏に『日本歌人』へ書いてくれとハガキ書く。 3月14日 寄永祥氏へ返書(35)。朝、湖東に電話すれば高木婦長に云ひおくゆゑ本院へゆけと。9:00池元久子つれbusにて天満橋より日赤。すぐ診察してくれ胃病と。別れて向ひの松本一秀見舞へば少しも良くなりをらず。出てcoffeeのみ(40)、市電にて心斎橋。梅本(※梅本吉之助)訪ひ女中いらずやと云へば心配いらずと。食堂で恰も田中定子に会ひ『戦後吟』やり、写真よこせと云ふ。出て心斎橋筋を南下、ナンバより住吉、林叔母訪へば縁談不要となりしと。気を悪くし、駅前より成尾家へ電話して道きき、母上に詫ぶ。鉄屋さんにて養子ほしと。やがて帰りし禧紗子君に送られ駅にて別れ、硲君のapartまで歩き、「我孫子前」まで送られて帰宅。 (けふ『八.一五事件』と『太平洋海戦史話』買ふ)。角川より色紙10枚。八木嬢より奈良の旅館の飯炊き見付け来りしも待たしゐると。(速達にて少し待たせよと返事)。元々社より校正。けふ悠紀子、税務署へゆき1,690払ふこととなりしと。 3月15日 京と幼稚園へゆく途、成尾保姆その他の人々に会ふ。9:45登校、卒業式すみて謝恩会(東の母、辻の母、道満の父より挨拶さる。和田節子明日頃来阪と)。悠紀子より電話あり、史より収入証明書送れと云ひ来りしとて学院事務室へゆき用紙もらふ。帰りて歌うたひ、鳥打帽子もらひて写真とられ、16:30西宮、鍛治2君と千日前。近鉄案内所へゆき、天牛南店で『続日本紀(400)』買ひして4人でまむし食ひ喫茶し、taxiにのりしに途中でエンコ。無代となる。野崎嬢と上六で別れ、西宮君と鶴橋で別れ帰宅。 梅本より女中見たしと速達。蔵本生、徳島より「点知りたし」と。戸籍記載事項証明とりに区役所へゆかねばならぬとわかる。 p1 3月16日 梅本に9:30電話すれば「ぜひたのむ」と。アベノ橋よりbusにて住吉区役所、戸籍係に西生ゐると発見、中川俊雄に会はせにゆきしも不在。名刺おき証明もらひ(30)、高野線にて住吉東、住吉社をぬけて郵便局より速達。林叔母へゆけば、けふ電話したが悠紀子不在、女中ほしと。ことわって出、まむし食ひ短大。 女子大へゆけば佐野道氏、学生と話して待たす。不快。昼間のことわり云ひ短大へ帰り、14:00出て学院の前にて則武、藤野、林、鈴木、北沢のgroupと会ひ、ともにナンバ。岩本に会ひして「面影」へつれゆき茶おごり(560)、別れて近鉄案内所。野崎嬢に和田夫人来ざることを告げ(けふ偶然弟来りしに会ひし)、『戦後吟』20冊、前川(※佐美雄)氏へと托し、上六。天地書房にて『未開社会における法(30)』『婦人と犯罪(30)』買ひて近鉄。西大寺、郡山にてのりかへ天理につけば17:40。 八木嬢に電話すれば「速達した。ゆけず」と。叱って本部前で出会ひ(中林、中村孝志に会ふ)、さとして八木家へゆき、すし御馳走になり、ゆくときき駅まで送らせて帰る。 けふ知念栄喜より『現代詩人全集』に蔵原、神保らと参加せよと。堀内民一氏より25枚かいたと。近木生より就職あきらめたと。安達生よりreportのこと。(けふ前田社長邸へゆく吉野書房の青年に会ひ、きけば保田19日上京と)。 3月17日 『楊貴妃とクレオパトラ』校了。梅本に電話して15:00上六でと約束し、白井より26日は土曜ゆゑだめとの返事。佐々木邦彦氏より『骨』近々出来とのハガキ見て14:30出、上六へゆけば15:30。藤井よしえ来り、喫茶室で話す中、彦根短大の田中禎子嬢に会ふ。次いで天理大学の畠中敏郎氏に会ひ、朝日に歌集の批評のるをきく。梅本来り紹介すみ、29日午后、八木嬢につれゆかす。定休2日、月給当分2,000ときまる。1,000貰ひてわたし、鶴橋まで歩きて帰る。 浜寺の上田氏といふが明日来ると電話ありしと。けふ創元社へことわりのハガキ出す。21:00天理より電話「藤井きらはれた断る」と。1,000もらひしことも云はざるやう也。 p2 3月18日 京、卒園式とて出しあと父より電話、高野敏子より学用品。八木嬢に21日来よとハガキ。開利枝にハガキ。前川佐美雄氏に礼状。筑摩の『李白』10冊来る。父来り『戦後吟』日銀へと10冊、『李白』城平叔父へもと2冊わたす。史帰り来る。高野へ齋藤はるみと2人にと『戦後吟』2冊、ハガキかく。依子けふ四条畷高校の入試。 3月19日 開生より電話、けふ来よと云へば「ダメ、火曜来る」と。やがて藤井よしえより現金1,000と400、400はタバコ代にと。成尾よりこの間の礼。堀内民一氏より『短歌』に『戦後吟』評のることとなりしと。眞野喜惣治氏より2人に2冊を、大津へ近々転任と。 ひるねせしあと八木嬢わびに来ざる故、早夕食べて天理、busなくtaxi(120)。400つっかへし叱りしもむだ。眞柱に『李白』もちゆけば来客、鈴木治氏の杖あるに気付き会ひたしと云へばややして「をらず」と。高橋君に寄れば不在。駅前にて25分あり、電話を八木君にかけて「2度と来ず」と云ふ。 けふ筑摩の土井君に「20冊送れ」はいかがなりしやと問ふ。堀内、成尾氏へもハガキ。(梅本に2回電話し、父に18才の女中ありとききてたのむ)。 3月20日(日) 眠し。7:30家を出て2部の面接にゆく。長沖氏も来る。三苫氏と院長に『李白』。長沖氏は買ふと。鍛治君に前川氏への『李白』を野崎君に托するやうにたのむ。半田生来り、京都美術と大阪学芸大と通りしと。15:00、47人の受験生みな通す。文芸は15人。白井家へ寄れば三郎君あり。当分家あかず。送別会はゆっくりせよと。すし御馳走となりbusにて上六。『竹斎(30)』買ひ近鉄をへて帰宅。 上田阿津子より市教委の試験通りしと。高野敏子より母君まだ入院と。齋藤はるみまた転任と。松本一秀夫人より西村先生の所しらせと。 3月21日(春分の日) 依子の入試発表に悠紀子ついてゆく。東夫人に電話し、「娘つれて院長のところへゆけ」と云ふ。12:00まへ悠紀子帰り来り、八木嬢来る。きけば方々かけまはり松井夫人の口より裏の娘を梅本へゆかさんと云はれしと。Airship2缶もち来る。松井家でやる紙石鹸の販売もやると。13:30よりの四条畷高校の注意に悠紀子出しあと、八木嬢と出て京橋より松本へゆけば、室井美代子氏わが出しあと来りしとて会ふ。礼置きゆきしと。樫本氏へも10,000もちゆきしと。 帰れば東家より電話ありしと。こちらよりかけて聞けば、院長2日後の予算会議のあとまで待てと云ひしと。室井夫人の呉れしは3,000と洋服地。 けふ10:00〒木村三千子氏より8円切手2枚、中川いつじ君より『戦後吟』買ひたしと。佐竹静子氏よりお好み焼き開業と。柴田天馬『聊斎志異研究』買ふ。 3月22日 家居、〒近畿民俗学会より4月10日天理参考館見学と。松井信子嬢、八木嬢の代理として「5日まで傘の仕事やめられぬ故、ひとまづお断りす」と。4月8日よりはいかにと速達す。午后、開生より「天気なら明後日来る」と。 3月23日 けふも雨。家居。本位田重美氏より「入試に関係せず。実方氏には云ひしも塩谷滋講師に会ひてたのめば如何に」と。夜、小林千余子に電話して伝ふ。川崎より『戦後吟』の受取。芳野の前氏より前川氏の評よみ生甲斐を感じたと。田中順二郎君より『戦後吟』学芸部へたのんだと、幸せなりと。 3月24日 前川氏より「詩人として著名な」といれしに省かれしと。八木嬢より4月5日まで云々は口実と。午后出て会社、ゆく途中父つかまへ日銀へ『戦後吟』もちゆくときく。会社へ月給の請求書出し、まみ子落第ときく。出て片町より国立病院、松本夫妻に云へば、返せば代りの品くれんと。 出て朝日、山田新之輔に『李白』2冊わたし、後藤孝[夫]と出て喫茶、高尾書店に9,900払ひ地下鉄、高野線にて堺東。北野家の父君母君に順二郎君の手紙見せれば喜ばれて、依子へ旅行鞄、我へneck-tie賜はる。 高野敏子に寄りbusまで送らし(齋藤はるみ浜寺中学へ転任と)、遠里小野橋で下車、小野和子訪へば児玉君もをり、悪阻癒らずと。沢之町よりbus、上六にて夕食、鶴橋をへて帰宅21:15。 元々社より後記の校正。(高尾で『近代女性史 写真版(150)』) 3月25日 梅本から電話。女中のこと放心せよと。東夫人より電話、きのふの予算会議いかがなりしかと。聞きにゆけと云ふ。開利枝来る。[喜]界島の産なり。10人兄妹の末娘と。入学後しばらくは泣きつづけしと。Chocolate賜ふ。筑摩の土井一正氏より在庫なくなりしゆゑしばらく待てと。「アララギに慣れた目に抒情新たに心に沁む感じです」と。 夜、八木嬢より電話、「あさって連れて来る」と。池元姉妹の父、初蔵([※長崎県]福江市赤島町)より礼状。 3月26日 松井信子氏より電話「電鉄st.でなければあす八木嬢つれて来る」と。梅本に電話すれば喜ぶ。堀内民一氏より15:00来ると。角川より486-72=414(『昭和詩集』再版印税)。佐々木寛幸氏より前川氏の文見たと150。西島寿一より「はじめ詩人の余技と見た」と。知念栄喜より林(※富士馬)、岩崎昭弥に会った、承知せよと。岩崎昭弥より「破門覚悟、詩集出させよ」と。4月2、3、4日の中に来る」と。 疋田紀子より縁談解消したと。15:30堀内民一君来り、夕食たべてゆく。その直後宮本正都君来り、caramel呉る。 3月27日(日) 私鉄ストとて八木嬢来ず。羽田より『李白』受取りしと。西川良江より教師忙しと。石田嘉子生(2部2年)より、4月3日学院同窓会総会と。 3月28日 梅本より電話、八木嬢けふ行かずと再答。湖東より電話「東京より帰りし」と。14:00ゆくと答ふ。堀内民一氏より礼状。里井、永井2生熱海よりハガキ。13:00出て湖東へゆけば菓子とわさび漬くれ、防衛大学へ運動すると。雅子氏肥え、4月帰り来ると。出て梅本に会ひ1,000返し、毎日へゆき天野に会ふ。『戦後吟』評書きしも未だのらずと。雨中帰り京橋の引場で炒麺。八木嬢14:00来りて明日来ると云ひしと。 3月29日 朝、城平叔父より電話かかり、マミ子の就職を樫本氏に打診せよと、不快なり。八木嬢より電話「来る」と。11:30現はれて配列につき本よまさる。女中の方は大丈夫の由。17:00帰りゆく。明日私鉄st.にても来ると。篠田統博士より今度の『李白』宜しかりしと。『戦後吟』は甘しと。齋藤晌先生より受取。一言もふれられず。森三樹三郎氏よりも礼状。岩崎昭弥より詩集のこと。 3月30日 八木嬢9:00来り、11:00ごろすみて帰る。入矢君(※入矢義高)より『李白』の誤指摘、(※本書の著者が)酒のまぬは不満と。面白し。竹田龍児氏より同礼状。和田先生より御自筆の礼状、5月同志社へ出講と。桑田先生より受取。田中雅子よりハガキ。梅田ゑい夫人より病気して『戦後吟』の礼おそくなりしと。田中定子より写真。 午后出て樫本校長宅を訪ぬれば出校と。ゆきて会へば「学院の音楽はふさがりゐる。弟(学芸大、正氏)に頼め」と。学院図書に『李白』買ひしと。1冊差上げて短大により、今川に電話し、府庁にゆけば坪井在席、たのめば味舌中学に口あり、明日面会と。今川に電話かければ夜相談すと。 『戦後吟』の1,000もらひ三越にゆけば薬師寺の講演にて亀井勝一郎来るは明日とわかる。梅田にゆき高尾にて中島『蒙古通志(300)』、鴎外『性欲概説(200)』買ひ、静安学社のX翁と話す。今川に電話して東住吉高校すすめ「明日また電話して返事きく」といふ。(坪井にきけば[防]衛大学20日に教授会あり人事決定せしと)。 3月31日 8:50梅田より電話してきけば「けふ面接にゆきしゆゑ2、3日留保してくれ」と城平叔父。府庁にゆき坪井に云へばきき入れ呉る。上六へ出て奈良、前川邸にゆき夫人に会へば、亀井氏は夫人と京都と。『李白』まだつかずと。1冊おき(昨日坪井に1冊)、野崎家により『李白』(※前川佐美雄へ渡すのを)留保してくれと置き手紙し、小阪をへて帰宅。 途中、悠紀子に会ひてきけば今朝電報来り、史残念会にゆきしと。岩崎昭弥「4日15:00すぎ来る」と。浅野晃より礼状。小林千余子より「関学3年に編入ゆるされし」と。夕刊にてみれば西岡盈子、淡路中学校へ転任となりしと。他人のことは旨くゆくやうになりし。 昭和30年4月1日~昭和30年8月25日 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 2 4月1日 雨、11:00八木嬢、堀川きよみ女を連れ来る。けふより働く用意しありと。梅本に電話し、狐うどん食べさしてやる。可愛き子なるらし。 小高根二郎より『李白』の礼状。浜谷弘子よりハガキ。石田嘉子生より電話、来れと云ふ。けふ田中順二郎君に防衛大学の件、調査たのむ。父より電話「明日、咲耶帰郷につき史をして見送らすべし」と。和田先生、羽田、入矢その他のハガキかく。佐々木邦彦氏より『平福百穂』返却さる。 雨の中いでゆきしこと小さけどなぜか夜ふけて悲しみおもふ。 4月2日 朝、今川へ電話すれば、まみ子の友、山根嬢たのむと。梅本より電話かかりて堀川女気に入りしと。山本敬子生より「24日より勤めゐる。先生は最も印象わかかりし」と。中川いつじ氏より「女中心当りなし」と。眞野氏より「大津に勤めゐて快し」と。 午后藤井寺へ電話すれば、向ふよりも申込みしところ「史、いかに」と。夕食後、坪井にゆき山根嬢の面会月曜13:00~14:00ときめ、沢田医院により父母のぶ子嬢と話して帰り、今川に電話すれば「山根嬢、今市校の話再燃」と。 けふ小松保の母来り、早生tomato呉る。咲耶帰郷5日となりしと父より電話ありし。 4月3日(日) 10:00出て京、依子をつれ近鉄にて散髪。屋上にゐし2人迎へにゆきて短大へゆけば宮沢、堀(妹)の2人ゐる。姉かと思ひて堀生と話し、学院前にゆけば文芸の今年卒業多くゐしが、みな逃げ、井上生に坪井へ紹介の名刺かき、研究室で峠夏津子、瀧本とゐすはりゐれば、去年卒の鍵谷、馬路来る。京と依子先へ帰し、城平叔父に電話かけ、出て文の里の吉森家。披露宴の写真もらひ、出て鳥本生の家へ2人送り込み帰宅。 けふ学校へ杉浦(※正一郎)よりのハガキ来をり「31日来阪、電話かけし」と。八木嬢より「堀川女つれゆきて喜ばれし」と。山前君よりやっと校正。吉崎生より下宿せしと。西岡盈子より礼状。関学の桂周作君より『四季』『コギト』の話ききたしと。城平叔父より電話かかり山根嬢一応お断りすと。羽倉裕景君より6日午后来ると。自治会会長となりし赤星来て、今夜他の者不在にて相談会せずと。(石井周作『日本古代文化研究(50)』を勝山通で買ふ)。 4月4日 城平叔父より電話あり、長々と坪井の世話にならぬ理由きき、早速手紙かきて史にもちやらす。井上恵子のことたのみしがあやなし。服部英次郎氏より『李白』の受取。「新学年の授業たのむ」と。成尾禧紗子より17日法事で愛和幼稚園に来ると。野球ききて時間つぶし16:00すぎ来し岩崎昭弥と話す。酒もタバコもやめゐると。創元社(※『現代詩人全集』参加の件)と詩集(※編集刊行させてほしいといふ要望)と両方とも断念せしめ、阪急Hotelへ泊れといひて出す。『祖国』もうすぐ止めると。 けふハガキ多くかき、山本敬子に手紙かく。岩崎帰りしあと創元社の知念栄喜君にことはり状出す。 4月5日 9:00出て登校、十時(下駄ばき)と共にゆく。上田阿津子、神尾と会ひ研究室へつれゆき、やがて来し西宮君と話し、2年の担任たのみ、11:40出て千日前。野崎に会ひ『李白』やること云ひ、2生と大丸で別れ、梅本にゆく。細川女気に入りしと。明日夫人礼に来るとて地図かかさる。胃悪しとて『李白』与へて別れ、前の食堂にて炒飯(60)。荒木利夫に会へば日中貿易で忙しと。(大丸前で疋田嬢母子に会ひし)。地下鉄で梅田、svarで『人種哲學梗槩(50)』金なくnews映画見てうどん食ひ扇町公園まで歩き天満より帰る。 田中順二郎君よりハガキ。(※防衛大学への就職口)むつかしさうなれど社会部大川氏に話さんと。9日雅子君帰省、15、6日頃下阪と。湖東より電話かかりと云ふに、かけ見れば教師に縁談をと。他日会見を約す。 4月6日 晴、悠紀子、京の入学式にと出でゆく。12:00すぎ梅本夫人来訪、(※世話した女中の)細川女気に入りしと。梅本けふ胃癌か否の検査と。菓子とかまぼこと礼にと賜ふ。鍵谷よりけふ進退伺に母を吉野書房にやりし。父母の意見にまかせ欠勤多かりしと。神田信夫氏より『李白』の礼状。毎日新聞(東京)より7日までに随筆2枚をと。夕食後「眼」と題して2枚かく。 4月7日 晴、朝速達2通、1は元々社より挿絵に苦心しcleopatraだめなりしと。15、6日頃出すと。1は岩崎より創元社も詩集も保留せよ、創元社は計画また変へ女流詩人を3名入れると。すぐ返事出す。 梅本より電話、胃癌になるおそれあり月末手術と。湖東より電話、明日13:50梅田の本屋の前でと。神田(※喜一郎)博士、影山正治氏より『李白』の礼状。井上恵子より坪井に会ひ親切に云はれしと。自治会長赤星来り、汚水流しの土管敷設を24日にやると。 4月8日 速達で元々社より6p3,500。12:00浅野晃『ワーズワース詩抄』、開生の礼状。東生の長崎よりの便り見て会社。排水路の工事伺ひ出して(叔父2人とも不在)、京橋。市電にて扇町商高へゆき沢井に杉浦(※正一郎)の来阪を機に白井の送別会せんと云ひ、また市電にて桜橋。湖東にあひ蒲田氏呼びて海機(※海軍機関学校)の同窓坂田君の花嫁探しを承諾。ともに三菱商事に横山薫二訪ね、別れて山中、吉森2君とcoffee。『岩出』(※和歌山県地図)買ひて帰宅。 鍵谷生来り、縁談ある故、汐時として(※吉野書房)やめると。佃煮おきゆき、小林千余子缶詰呉れしと。 けふ四条畷高校の入学式とて悠紀子も不在なりし。夕食後また電話、中西講師の紹介にて入りし井上暁子母子来り、whisky2本呉る。Wordsworthにつけた大木のHeineの広告にHeineの訳として田中克己・片山敏彦の2人ありと。 『楊貴妃とクレオパトラ』の寄贈名簿、土井、藤枝、羽田、原田、服部英次郎、入矢、吉川幸次郎、壽岳、川久保、神田博士・信夫、桑田、工藤、中河、西川、野田又夫、小野、佐藤春夫、篠田、田中順二郎、竹内、竹田、高垣、和田先生、保田の25氏にと。夜、東順子の母より電話、特別入学許されしと。 4月9日 晴、家居。三苫君に電話し、小林千余子に礼状。古谷悦子に『戦後吟』。午後父来り、日銀へと『戦後吟』10冊もちゆく。北野徳治氏より順二郎君の手紙返送。仙野(児玉)「東桃谷小学校長となりし」と。菊地淑「西洞院姓となりし」と。中井妙子より「稽古事しゐる」と。けふ京ひとりにて登校。元々社へ印紙速達す。 4月10日(日) 雨。本多和子より手紙。佐々木寛幸氏より『戦後吟』受取ったと。村上新太郎氏より「申込者少々あり、金送る」と。毎日新聞より原稿受取。電話かかりて田中雅子夫人来訪と。やがて来る。元気できれいになりをり。天然色の写真と栄太郎の飴とわさび漬と賜ふ。湖東君に電話して16:00訪ね、坂田君の縁談いやと云ひ、夕食ご馳走となる。 4月11日 登校、入学式。長沖、西宮2氏来る。山本信江、鍛治2君と共に紹介、山本君に住高校(※住吉高校)原、硲2君にと『李白』2冊托す。鶴身陽子、お礼にと何かもち来りしを受取らず。東順子の母、礼を云ふ。 14:00より教授会。東は聴講生と。他に苫米地。李○○といふ朝鮮少女入学ささんと云ふ院長に反対す。すみて東順子と共に帰る。西宮君、大手前へまだしばらくゆくと。500~1,000のbase-upの未定のためsalary出ざるらし。 けふ学校へ阿閉良衛より歌集ほしと。本位田重美氏より小林のこと。家へ小野和子よりあやまり状。 4月12日 晴、家居。竹村氏、布施市会の運動に走る。この間杉田嬢の縁談に失敗したと。米沢昭子より手紙。俣野博夫Asia-Africa会議に18日出発と。服部正己より「臨時助手を」と。佐々木邦彦画伯より礼状。入試の成績よかりしと。服部に電話して「考へて見る」と。得津生の父より礼にと肌着。16:00風呂焚きしをれば東順子と母上と来訪。5,000と羊羹とを礼におきゆく。 p2 4月13日 定期買ひて登校、家より電話かかり羽田亨博士薨去とradioで報ぜしと。始業式に出、研究室に帰れば西、上田阿津子、神尾来をり、藤原生を通じて辻(※辻芙美子)生呼びをり、その結果にては上田生を服部に推薦せんと思ふ。 貝塚(※茂樹)氏来り、slideにて中国旅行を話す。すみて『李白』もちゆけば「いつよりこちらに」と。送り出してまた講演きき、すみて1年生に注意し、辻生待てども来ず。院長代理で羽田家へ弔問にゆくこととなり、salary(暫定)もらひ、ふくさ借りて出、波屋にて一昨日見付けし『朝鮮語』買ひて省線。京都にて吉野書房にゆけば鍵谷をり、高鳥君に電話かけ双林printに電話して上賀茂。羽田邸にゆけば受付に知人をらず、やや待ちて貝塚、神田、外山の諸氏に礼し、さだちゃんに伝言たのみて(?香資1,000と学校の3,000)出、双林printにゆけば山前君大多忙。この間4冊売りしが75%と。『骨』は生活のため再校見られずと。早々出てrice-curry食べ、京阪書房にて『遠野方言集』『家族制度と婦人問題』『日本紀年論批判』(400)買ひ、疲れてcoffeeのみて帰阪。 伊藤賀祐夫人より『戦後吟』の批判、千川義雄より「快方に向ふ」と。羽倉君よりハガキ。(けふ俣野に電話すれば11日vizaとれてBandonへ出発、5月15日すぎに帰国と)。 4月14日 8:55登校、例の如く鍛治君来をり山本信江休み。歴史すませ上田阿津子来りしゆゑ市立大学のこと云ひ待たす。羽田家へゆく積りなりしが止める。17日も入試中途にして式に行きてよしと。小林千余子来りしを待ち、14:00となり上田と出て天王寺。すしおごり別れ、服部(※正己)にゆく。 杉本町の校舎の私設助手にて辻芙美子宜しと(※リンクあり)。将棋一番して負け、ともに上六へ出、別れてtaxiにて三越。青龍展の佐々木邦彦見しも画伯は不在。学校へ帰り秋田生の退学きき、授業2時間、間に西岡生来り、ついで日本放送に働くといふ野村朝子来る。西宮君とともに帰る。 けふ京都芸大に通りし半田生に『戦後吟』乞はれて1冊与ふ。薔薇短歌会の村上新太郎氏より10冊代金として1,000。「今後、扉に毎号詩を書け」と。奈良女子大より土曜3、4時限に出講せよと。 4月15日 村上氏に10冊速達小包で送る(105)。登校、けふは山本信江来る。15:00来る田中順二郎夫妻を待ち退屈。順二郎君、大川氏が人事局長にきき呉れしに「(※上京就職希望)承知しゐる。運動つづけよ」と云はれしと。 出てアベノにて『近江奈良朝の漢文学(60)』『Man,woman and child(20)』買ひして湖東家にゆけば両人すでにあり、湖東君に「縁談の件、勘弁してくれ」と云ひ、その診察の終るを待ちて夕食たまひ、20:00になりて辞去。名医なるかな。羽田君より17日の葬儀通知。古谷悦子より『戦後吟』受取り100同封。(けふ幼稚園へ佐沢氏に10冊もちゆきし)。 4月16日 雨、家居。関口八太郎君(※防衛庁)より「13日の毎日夕刊を見た。我いまだ老眼でなし」と。磯崎潔、天草より礼状。羽田家よりまた葬儀の通知。矢野峰人先生の詩集買へと出版社より。夜、関口八太郎君に手紙かく。 4月17日(日) 8:30登校、9;20より試験監督。すみて採点漢文10人位(41人中文芸16人)。昼食に鰻丼とりくれしゆゑ12:00まで待ち、食べ了へて院長の名刺もちて出、省線にて京都。Taxiにて堀川[町]寺ノ内町興聖寺といふにゆく(320)。 京とも雨にて泥濘。お焼香すまし宇都宮教授と話しゐれば葬儀委員ゆゑ居残れと。桑原武夫氏より挨拶され、大島奈良女子大教授より挨拶され、三田村泰助氏見付け今西春秋氏に会ひたしと云へばのちほど遅れて来らる。前どほりなり。近く訪ねることとして羽田明君の委員たちへの挨拶きき、父の家。 母、下痢とてねてゐる。祖母84才と。この間胆石病にかかりしも癒りしと。町内会の遊山より帰りし父と会って出、京阪書房で『群書類従正続(6.8万円)』を注文し、四條まで歩きて新村出『あけぼの(20)』買ひて出れば「金支払ひしや」と追ひかけて店員ききに来、ついで天坊先生の本100との札見て買へば250と。断りて出、四條より乗車。けふ〒なし。 4月18日 原君より電話。大、外語大よりの広告見て城平叔父命ぜしと。午后ゆくと云ひ、ゆけば城平叔父康平叔父ともにをらず。しばらく待ちて出、藤井寺。途中、恵舟荘の松村生とともにゆく。大江へゆけば藤井寺の梵鐘落成とて帰り来し叔母に寮長辞任を云へば反対。梅本の病気云へば岩永生宜しと。帰り来し叔父に挨拶して出、(山下の妹来をり、婆さん女中気に入らず、帰すと)。梅本にゆけば明日国立病院に入り岩永外科の手術受くると。御馳走になり堀川きよみ女に送られて駅へゆく。 急行のりかへの為、松原で下り、ふと肥下にゆけば就寝しゐしが起き、堺脳病院長やめ、いやとなりしと。 9:30帰れば羽田家の会葬御礼。『新論』発刊の挨拶。齋藤加寿栄より就職なかりしと。けふ父『日本の隅々』呉る。 4月19日 9:00会社へゆけば康平叔父あり。やがて城平叔父来り「寮見に来てくれ」と云へば承知と。すぐ出て学校、国文学史1時間やり研究室へ帰れば東幸子の問合せに嫗、不快にて早々に帰す。 蒲田君より電話あり、15:30ゆくと云ひ、高野線にて木津川下車。大阪書籍にゆけば前田社長不在。高階次長と話し、出しに柳井三千比呂君に会ふ。引返して奈良女子大出の女史と話し(佐瀬和子の友と)、市電にて桜橋。 15:00なるゆゑ高尾へゆき『女四書(150)』『原始社会(180)』隣にて『日本生活史(180)』、土田にて『世界文化交流史(230)』。産経にゆき資材部長に会はされ、『楊貴妃とクレオパトラ』出てより文化部長に紹介してもらふこととし、坂田君と3人にて3階にてjuiceのまされ、結局嫁探し承知して帰宅。 村上新太郎氏よりもう3冊送れと。柳井三千比呂君より入れちがひに「河内長野に家もちし」と(50万円+α)。上田阿津子生より「就職たのむ」と。けふ八木嬢に細川女のこと速達す。夜、八木嬢より電話「通帳その他23日もち来る」と。 4月20日 保田へ『李白』送り登校、college-hourへ出ず。湖東より電話ありしに坂田君の書類返せと也。変心の旨云へば来ると。山本信江に『李太白』を大阪女子大へもってゆかせ、湖東と話して疋田家へゆき、母上に[命]ひ考慮してもらふこととし、住吉高校にゆけば板原、山本、硲の3君みな授業中。峯の里へ出て高野線にのれば西宮君あり。木津川で下車、大阪書籍へゆけば前田社長また不在。柳井君と話し、西浜をぬけて今高へ寄り筒井君と話し、、恵美須町まで歩き文華堂で『李白詩選(110)』『中国猿人(200)』買って帰宅。 朝日の藤原恵氏、東京毎日の桐山君より『戦後吟』の礼状。前田光子より「失業中、授業料未済」と。 4月21日 8:55登校、鍛治君電車の為来らず。授業はじまりて来る。午后basket部の子を学院へつれゆけば庄野英二君、歌集代を払ふと。藤原生、踊りの切符もちかたがた来る。疋田嬢より電話、来よと云ひ、ややして来しを榎本須美子訪問かたがたつれゆけば大体見合よろしと。写真もよくとれゐるを托されし。 (けふ小野十三郎氏、朝日に紹介をかくゆゑ『李白』くれと。石浜先生にも1冊差上ぐ。今西春秋氏、水曜午后に関大に来をりと)。 榎本嬢不在のため引返して別れ、学校へ帰れば瀧本生来り、中野トシ子現はれ、日銀の諸氏より預かりしと歌集3冊にsignさし、自己も1冊買ひゆく。理事長より月曜17:30より守本、西宮2氏と吾とを招待して飯くはすと。 夜学すませ帰りdance稽古の穴川生に会ふ。板原、宇都宮両氏より『李白』の礼状。小高根二郎より伊東散文集のこと。 4月22日 朝、会社より電話、ゆけば二葉会とか解散にて400円返され16,300の補助金と。日曜の勤労奉仕の菓子代1,000とを申請す。城平叔父よき顔はせざりし。父、歌集代700渡さんとせしゆゑ500のみ取る。健、京都へ転勤して親孝行すと云ひ来りしと。 登校、産経蒲田君に電話し、2時間やり、前田隆一氏に電話すれば麓氏に近々連絡せんと。山本邸の招待は西宮君の授業やめさして受けると? 井上、永岡2生来る。けふ山本信江は中退せしと。 出て朝日にゆき吉井栄治氏に会ひ『李白』渡して小野十三郎氏の紹介文掲載をたのむ、「よし」と。出て産経、蒲田君に疋田嬢の写真わたし連絡たのみ、ヨシカズ書店にて『西洋の起源(80)』買ひて京橋より帰宅。 東大より『蒙古史料4』、『東方学10』。元々社より『楊貴妃とクレオパトラ』2冊。東京毎日より4,000(-600)。 服部より辻芙美子の採用やっと決定せしと。田中雅子より礼状。(けふ吉田生に小野氏へと『李白』托し全部なくなりし。門前天理大教授、令嬢夜学へ入学とて挨拶に来る) 夜間の入学式を西宮君にたのみて休みし也。 4月23日 奈良大の初講義とて8:20家を出しに向ふへゆけば10:00。服部(※英次郎)、塩見、天野(※忠)3氏には会ふ。学生便覧もちひて見れば中村幸彦、千田正雄も今年より講師にて木村と我と天理図書館(※旧館員)4人そろひし也。 10:30より11:30までやり、出て野崎家。父君にきけば「前田正男夫人戸別訪問(※選挙違反)にて罰金1万円」と。前川家にゆき夫人と話し、佐美雄氏より歌集代2,000受取る。(けふゆくみち安田章生君に会ひ、帰途『言語関係刊行書目(120)』『インドネシアの民謡』『夢かぞへ(90)』『史学雑誌40の8(30)』買ひす)。 梅田に14:45着き、rice-curry食ひて昼食とし、まむし食ひて夜食とす。帰れば辻芙美子より「ドイツ語習はねばならぬこととなりし。服部は我に似たり」と。 4月24日(日) 下水工事と市議選とに逐はれ9:30家を出、梅田で古本屋を見、『仏伊・伊仏辞典』見付け買ってもらひ(300)、news映画見(阪急ですし食ひ)喫茶、大毎の短歌祭にゆく。 前川氏来ざるゆゑ橋本多佳子と松村英一の話きかされ、来し前川夫人にwhiskyわたし、安田章生君と喫茶して帰る。 けふ下水工事すまず、小出楢重夫人重子氏より『戦後吟』の礼状。 4月25日 傳田雅子より幼稚園やめ家のこと手伝ふと。田村春雄君より5月8日(日)14:00より母君7回忌と。 14:30出て片町より国立病院、松本と梅本引きあはせ、外に出て梅本夫人に会ふ。手術は明日なりと。歩きて植田初枝氏の前通りしに入口ふさがりをる。 天王寺より斎場前まで歩き、喫茶して時間つぶし山本家へゆけばゆけば30人に上る学院教師招かれをり、出るではなかりしとくやむ。先生たちの隠し芸と子らの唱歌とにて20:00すぎ散会。 p3 4月26日 9:00家を出て学校、山本恭子「先生お酒飲まれないのを存じ上げず失礼したと母申す」と。院長「山田光子の就職世話せん」と。 出て高野線の駅までゆけば(途中学院に寄り新聞にのせしわが詩云ひしも不明)、齋藤加寿栄来り、引返す。途中庄野英二君に会ふ。この間佐藤先生の会にゆき中谷孝雄氏らに会ひしと。齋藤生就職きまらずと。Coffee呉れしを西宮君にと押しつける(『李白』を山本信江父君に贈りしに「金沢大学の某氏もちゆきし」と)。 ナンバを出て先づ荒木利夫訪ねしも不在。米沢昭子に寄り、東幸子を訪ぬればこれまた不在。「面影」にゆきmadameと話しシャーベットのむ。近鉄案内所にゆけば西宮君をり、野崎君不在。鶴橋へ出て帰宅。たばこ代なくなりしも父に徳庵駅前で会ひ100円借りる。 保田より『李白』ほめ来る。篠田博士より『楊貴妃とクレオパトラ』受取り「又もや力作拝受、小生の様なナマケモノは唯々アレヨアレヨとゆうばかり…」と。壽岳博士より「昨年から今年にかけての文学的所産の質量に驚異の目をみはってゐます…」と。中河与一先生より礼状。林叔父より祝返しせしと。高橋重臣君より「RilkeとDuse」の抜刷。村上新太郎氏より3冊代と送料で500、詩は5月6日までにと。(父にきけば新村博士わが『李白』買ひたまひしと)。 4月27日 四条畷学園の参観とて悠紀子新しき服着てゆく。小野勝年、神田喜一郎、桑田六郎の諸碩学より礼状。榎本須美子近々来ると。三越より林の祝もち帰った、地図教へよと。東大阪大高clubより「15日天理見学」と。 14:00出て桃谷で日本読書新聞買ふ。4月25日号に『李太白』『李白』を都立大学助手今村君(※今村与志雄)の批評のると壽岳博士に教はりし也。竹内好のいひつけでか。 15:00鍛治、院長、長沖、西宮、三苫の諸氏に『楊貴妃とクレオパトラ』贈る。教員会とて可笑。すみて教授会、19:30帰宅。 4月28日 8:45登校、歴史すます。古典講読20人ほどにへり山本信江君聴く。すみて産経の蒲田君に電話し、漢文のprint切りしあと、ゆけば橋本部長をり、しばらく待たされ蒲田君帰り来しとき文化部の女記者来る。『李白』『李太白』『楊貴妃とクレオパトラ』わたし紹介たのむ。桂の女専出にて壽岳博士令嬢の一年先輩と。蒲田君「高峰秀子に似し子を」と写真かへす。(阪神に『楊貴妃とクレオパトラ』山積しあるを1冊買ひ、旭屋にて『李太白』を1冊買ひ)また旭屋にて1冊買ひて大毎へゆけば天野(※愛一)君の室へ通され、永井君に会ひしも挨拶せず。若き記者と3人にて喫茶(けふ橋本部長にきけば後藤田、水川怪しと評判となりしと)。 高尾へゆきSmith『Human History(550)』『現代詩人全集8(160)』、早川二郎『日本上代文化史(100)』、遠藤元男『古代史(100)』買ひしに遠藤はdoubleりゐる。 阪神にまた寄りしに『楊貴妃とクレオパトラ』少し嵩少なくなりし模様。帰校して親子丼食ひ(けふ試験手当2,000もらひ野崎嬢より鍛治君に托せし歌集の売上げ300[伊東、東、中馬と]貰ひし也)、夜学教へ、単位の指導2年の分やる。瀧本君を鍛治君断りしやうにてをかし。 帰宅すれば〒なく、前田光子より電話かかりしと。会社のsalary出しと。(けふ笠井信夫氏より電話、藤沢桓夫氏の祝についてなれば長沖氏に相談せしも結論出ず。) 4月29日 天長節、われは家居。悠紀子、弓子、京は心斎橋へゆく。午后、湖東と疋田家へ電話し報告す。市立美術館よりエトルスク・ローマ壷展の案内あり。夜、radioで和田先生、武者小路公共、森田たま女史と座談会。 4月30日 8:00家を出、駅までゆきし悠紀子と会ひ、共にbusで楠根小学校へゆき、市会議員と教育委員の投票をす。ばからし。 すみてまたbusにて小阪、奈良女子大へ10:00つき、塩見、大島大2教授に『楊貴妃とクレオパトラ』をと助手に托し、天野忠君と話す。塩見、服部(※英次郎)2氏に会ひしも話もなし。講義17、8名相手にすませ、出れば「あの先生えらくないわね」の声きこえし。 出て高校へゆき坂口允男に会ひしも無愛想。すみて外でしるこ食ひ、[もちい殿]歩きて『玉台新詠中』買ふ。女主人「お久しぶり」と挨拶せしは人ちがひならん。生駒へゆき服部(※正己)家にゆけば学習院の学会にゆきしと。辻嬢気に入られゐる様子。服部京子つれて『にんじん(※ルナール?)』買ひ与へ(育英中学へ入りしと)、『楊貴妃とクレオパトラ』見付けて買ひ、小阪で下車。 堀内に寄れば吉永孝雄氏来合はす。高橋盛孝『文化人類学講話(120)』買ひてbusにて帰宅。 川久保より『楊貴妃とクレオパトラ』の受取。筑摩土井君より印税内金3万円。原課長来り「村上入ることとなりし」と。次いで隠岐高校出の当人来て「入ることとなりました」と。月曜まで待てと云ふ。 一日中、変なことつづきの日なりし。(よべ2:00まで寝ず。5:30目覚めし)(奈良にて米田祐太郎『西太后・楊貴妃(50)』買ふ。愚本なり。)(けさ関口、朝日吉井栄治、毎日天野愛一へ『楊貴妃とクレオパトラ』。弘文堂へ取換本送る。送料64円と)。 p4 5月1日(日) May-dayと。和田先生より「羽田先生の葬儀の日、末嬢の結婚式でゆけず弔電打ち香華供へられしに羽田より返事なく怒れるか心配す」と。神田信夫氏より学生に(※『李白』)推薦すと。藤枝(※晃)よりも礼状。岩崎より「体悪し。徳永氏に会ひし」と。 けふ大毎にまた「眼」をのす。村上姉来り、入寮の挨拶す!今川に電話せしも全家留守と。堀内民一君へ『楊貴妃とクレオパトラ』包む。夜、C室長[天]場来る。 5月2日 9:00すぎ出て会社へゆけば、城平叔父叱りゐる。待つ中、今村氏来りしゆゑ無視されしを云へば、労組の要求にて金曜にきまりしことを原君云ひ忘れしらしく、あまり怒る必要もなきこととなり、池元姉妹の保険のこと云ひて出、電車にのれば守屋君あり。けふ上京と。大阪駅で別れ阪神departで『楊貴妃とクレオパトラ』買ふ。(ぐっとへり、あと4冊位となりをり)。 市電にて府庁へゆき坪井に会ひて礼云ひ『楊貴妃とクレオパトラ』与へ、歩きて国立病院。外科医長長田博士に会ひてきけば「梅本今のところ胃と十二指腸の潰瘍。松本は長びかん」と。松本と梅本とそれぞれ見舞ひ、心斎橋まで歩き更に南下して荒木利夫訪へば居り、中共貿易団の帰国に托せよとて『楊貴妃とクレオパトラ』(空堀で買ひし)を包み、中国文化部次長孫平化氏へ手紙かき、郭沫若氏への伝言たのむ。大高3回の中日友愛協会勤務の某君に紹介され、湖東(出がけに電話かかりし)と約束の15:00に近くなりしゆゑ、あはてて別れ地下鉄にて十合。会ひて喫茶(また『楊貴妃とクレオパトラ』買ふ)。 心斎橋筋を南下して米沢姉妹、井上雅子らに会ひ、basket部の中島、楠戸に会へば、明日試合を見に来てくれと。湖東と「面影」に入り(縁談世話はやめときまりし)、出て別れ、荒木利夫に『楊貴妃とクレオパトラ』もちゆきしも不在。日本一まで歩きて帰宅。 田中雅子より『楊貴妃とクレオパトラ』の礼。岡本和子より「その中来訪」と。西阪修より「行動展」の案内。神田信夫氏より『中国史』と『三藩の富強の一側面』。安水稔和氏より『存在のための歌』と出版記念会の案内。 5月3日 憲法発布の日と。『東洋史研究13の6』着く。天野愛一氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の受取。秋山昭子夫人より「河村doctorに『戦後吟』見せられ、あなたのこと多く歌ってあると云はれし」と!? 12:00出て府立体育会館のbasketにゆけば77-17で京都女子大に大敗。新人戦とて久保田ら出て醜態。武居と出て“grand”と云ふにてjuiceのませて別れ、鶴橋まで歩く。 夜、前田光子より電話、小阪にゐると。道教へ来りしにきけば「就職たのむ、兼松商事にArbeitしゐるも辛し」と。結局引受けて帰す。 5月4日 よべ3:00まで眠れず。前田生が為なり。9:00悠紀子より1,000借りて出、近鉄にて散髪。10:45登校、院長つかまへて 1.鍛治嬢の俸給の件、2.前田生のこと云へば、 1.は守本主事に任せあり、2.は我方も1人預りをりと。 守本主事に云へば「知らず」と。教授は2,000づつ昇給せしと、西宮君の話。院長は「大阪女子大にて調べ少なけれど」とわび云ふ。11:45より眼の話し、すめば院長「いつもこのやうな話ならcollege-hourの出席もよくならん」と、学生に云ひ、われには「卿の話の特徴3要素あり」と云ふ。詳しくきくにいとまなかりし。 浅香生来りて芥川比呂志氏に『戦後吟』わたせば今度は忙しくて会へずと云ひしと。榎本須美子生来て『戦後吟』1冊買ひ、体快調と。本屋町の親類にゆきゐしと。 漢文の追再試験し、その間梅垣女史に云へば「新日本放送(※毎日放送)」より1名募集来りをり通知せんと。安田栄治郎の会社に電話せしに「その会社の人々はこの頃来らず」と。茫然。 出て我孫子へゆき小野和子に小野ボタンのこと云へば、使用人10名と。8日の法事に云ひて見ん。児玉君にたのんで十合の臨時雇はいかにと。たのむと云ひて出、荒木利夫にゆき見れば欠勤。米沢薬局に寄れば「いまし方、姉妹と車坐と中馬の出産祝にゆきし」と。市電にて労演(※勤労者演劇協議会)にゆけば佐瀬ゐず、しばらく待ちて出、梅田。 19:00までrice-curry食ひ、角田『原始社会』買ひて待ち、吹田。家に電話すれば、けふ羽倉より原稿出来上りしとの電話ありしと。富山県より『戦後吟』につき問合せ。(高尾で『日本歴史のあけぼの(120)』買ふ)。 5月5日 子供の日。相川の辺り神崎川を見、天六(※天神橋六丁目)でtoast食ひ、梅田の万字屋にて森末『食物史(160)』買ひ、赤川2丁目の共産党診療所に寄りしのち天満橋に出て京阪。三條の京阪書房にて学校への本注文せしのち、依田君に電話すれば「18:00れんこんやで会はん」と。山前君にゆき『骨』20冊とり、れんこんやで会ふこととして出、彙文堂にゆき王瑤『李白(80)』買ひ、本学校へ送らすこととし、歩きてまた京阪書房。Brandesの『青春独乙派』もらひ、れんこんやで45分まち、出しところへ依田君来る。 天ぷらうどんおごらし『楊貴妃とクレオパトラ』与へて京都駅へ出て帰宅。 辻生の母、礼に来り、前田生より「新日本放送」受くと電話ありしと。岡本和子来り、夫婦ともに共産党と。桜井の芝君は共産党の良き顔と云ひに来しと。鍵谷生より「近々(※吉野書房)やめる」と。山本敬子生より「木曜けいこ日にて会へず」と。この間May-dayに宮口と会ひしと。梅田惠以子夫人より「近々新居に移転」と。 入矢義高氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の批判。入れちがひに山前君より7冊問屋にゆきしと。小高根二郎君より伊東文集のこと。野田又夫氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の礼。浅野(※晃)氏より東京では売れてゐると。 5月6日 朝「詩人の親と子」作り西宮の村上新太郎氏に送る。(※短大に)ゆけば長沖氏休講。教員免状とりに新年[生]多く来り、話す中11:45となり、漢文やり、午食の時間に1年の学科指導やる。家庭科の歴史やり、東生の電話きき、柳井君に電話すれば前田社長上京する故、今度は話つけて来ると。家の件まかせてくれと云ひ、出て児玉円城君に会ひにゆけば「十合だめ故、方々当りゐる」と。履歴書わたし、帰りくれば硲君に会ふ。(庄野英二君、歌集10冊代賜ふ)。研究室で話し、salaryもらへば1,500のみ(+)となりし。 (けふ行きがけ放出の眼科医で健康保険証とりゆきて学校へ渡せし)。『鴎外全集』代払ひ、鍛治君誘ひて松虫下車。前田光子の下宿さがし、きけば新日本放送の試験に6人来りしと。「かつらぎ」で喫茶して種々さとし、アベノ橋まで歩きて別れ帰宅。 けふ悠紀子税務署にゆけば控除50%は認められずと30%に改め、7,000ほど更に払ふべしと。河村doctorより『戦後吟』1冊送れと100円。浅野建夫とMalayで[識]ると。羽倉君より都合しらせと。 けふ来し諸生中、井上恵子栗まんぢう呉る。よる大塚女史より電話、『楊貴妃とクレオパトラ』買ひし故signたのむと。清田の室に夫婦者泊めんと赤星許可を得に来りしゆゑ許さずと答ふ。 (本俸26,300家族手当2,400手当6,3004月分差額1,500計36,500所得税2,549保険2,112慶弔会費30差引31,809) p5 5月7日 河村純一氏に『戦後吟』1冊送らせ、8:40家を出、鶴橋をへて奈良、野崎家へ寄れば父君「永島福太郎氏の説に、田中君も帝塚山でのやうにいいかげんにやってゐればやっつけられますぜと」。 前川家へ寄れば[緑]夫人帰りに来てくれと。講師室の助手にHeine与へ、図書室へゆき天野(※忠)君と話し、午をともにせんと云ひ講義、別にやっつけられることもなし。すみて天野君の出でゆくうしろ姿を見る。バカらし。 川村徹博士に会ひし。Sign求むる助手君に「奈良山の木の間にひびく山彦のはかなきものをこひとは知りぬ」と書き、出て前川家に鞄預け、駅前でまむし(180)。 木原の向ひで森銑三『西鶴と西鶴本』。Juiceのみてのち前川家。起きし佐美雄氏と話して15:30まで帰らぬ嬢ちゃん待ち、英語見てやりしも出来ざる様子。夕食すすむるをふり切って生駒服部(※正己)家。夕食よばれ将棋一番して勝つ。服部収入82万円、税20万円と。 帰れば弘文堂より『ルネサンス』外とりかへ。堀内氏より『楊貴妃とクレオパトラ』受取った。小高根二郎「伊東静雄書簡編緝所」。 (けふ小野勝年氏に電話、来週会ふこととす)。高津高校のモリ本氏より坪井の紹介にて現代詩について20日から月末の間の月・金の15:30より話してくれと電話。小野和子より「口ありさうゆゑ履歴書3通を至急」と電話ありしと。 5月8日(日) 角川より『Heine』4版3,000を5月中旬にと。阿閉良衛より『戦後吟』代金100とsignをと『李白』。佐瀬より礼状。 12:00出てアベノ橋で『楊貴妃とクレオパトラ』とHeine買ひ、前田光子の下宿へゆき履歴書のこと云はんとせしも留守。置書し古本屋で『婦人の社会科(80)』『近代戦争史略(60)』買ひ、上野芝。駅前でうどん食ひてのち田村家へゆく。夫人の父母、清徳保男の母堂と姉など合せて20人。清徳母堂77才にて中津浜通りに住むと。看経ののち御飯よばれ、出て阪和にて東羽衣(昔の阪和浜寺なり)。旧居のあたりを歩きて沢田直也を訪ぬれば朝から飲みつづけと。火・水の名に国税局の事務官に紹介せんと。伊藤母子は結局10,000にて立ち退きしこととなりしと。 20:00駅まで送られて南海にてナンバ。「面影」へゆけば四天王寺学園の教師といふ文学中年に紹介され、いやになりて出る。前田生より電話かかり「十合へ履歴書もちゆきし」と。角川より夜、速達にて印紙。 5月9日 『骨9』を百済璋子、西川英夫、梅田惠以子、高橋重臣、中野清見、林富士馬、浅野晃の諸氏に送る。堀内民一氏より電話、16:00頃来ると。高津高校、森本氏よりまた電話、いやゆゑ坪井に云へといふ。山中タヅ子より手紙、句集出版の人にたのまれたと。堀内君来り『釈迢空』の原稿出来しと云ふに浅野晃氏へ紹介状かく。送りかたがた『サンデー毎日』買ひに出る。けふ史、宝塚へSymphony of the Airをききにゆく。 5月10日 登校時、アベノ橋「ユーゴー」へゆきて『楊貴妃とクレオパトラ』3冊買ひ庄野英二君に1冊進呈。高津高校の森本氏より電話、坪井と会ひし結果やはりたのむこととしたと。 守本主事「院長は鍛治君を副手として1,500しか出せぬときめし」と。けふにて1年の学科指導終り、13:30出て林叔母に疋田君の写真もちゆき、ナンバへ出てbus、市電にて北浜ビルの沢田君を訪ひ、taxiにて国税局。資産課係長の木下正三氏に会ひ「あす課長会議にて云ひおくゆゑ、会へ」ときき、出て別れ、府庁。坪井をらず、国立病院にゆき梅本見舞えへば土曜退院と。松本と話して出、片町をへて帰宅。 佐々木邦彦君、隠岐よりハガキ。桂君といふより批評をと。けふ学校へつきし『中国詩概説(290)』引取ることとす。明日教授会に出ず、長沖氏と相談して鍛治君の話きめんと思ふ。夕方、羽倉君より電話「AA会議について書きし」と。「それにては駄目」と答ふ。 5月11日 短大へ電話し、西宮君に鍛治君のsalaryのこと云ひ、ついで来し〒に傳田生、明日来校とありしを見て、明日休校のこと楠戸生に伝へさせよと電話し、13:30出て学校。院長にわがsalaryをさきて鍛治君に廻せと云ふ。中田博士未亡人来られしとて会ひ、教授会。年報分を提案して終り研究室に帰れば、織田優子より就職の礼にと羊羹? 東生より写真。西宮君と別れて前田光子訪ねんとせしが中途で引返し、古本屋見あるき、寺田町石塚で春夫『文学読本秋冬の巻(70)』買ひて帰宅。 原田俊仿、退社退寮をいひに来る。けふ平中氏より17日(土)17:00より、同氏邸にて和田先生歓迎会と。出席の返事す。 5月12日 創立記念日とて休み。9:00出てbusにて小阪。永和まで歩き府税事務所長三好一夫を訪ぬれば茶菓を供し、布施税務署に電話しくれ課長不在とわかる。筏井嘉一の弟子として歌作りしと。『楊貴妃とクレオパトラ』と『戦後吟』おき、出て樟蔭に寄りしも安田章生君未だ出勤せずと。堀内に寄りてのち帰宅。 村上新太郎氏より詩の受取。山前実治より『骨10』の締切25日と。午后吉崎雅子よりハガキ。夕方、元々社より速達にて『李太白』3版2,000の印紙。『楊貴妃とクレオパトラ』も売行よしと。 18:10小高根二郎より電話、19:00京阪乗場にてと約束してbusにてゆく。喫茶してきけば、伊東(※静雄)書翰は穎原(※退蔵)先生のお宅以外は少なしと。20:00別れて散歩してのち帰宅。川村一郎氏(元々社)に『李太白』の誤植訂正表かく。 5月13日 元々社へ印紙と訂正とを送り登校、西宮君と同車。よべ3:00まで眠れざりしゆゑ、だるく2時間いいかげんにすます。傳田生来り、三宝柑もち来る。 長沖氏を午后につかまへ(午前中、小野勇氏来り長沖氏を待ちし)、ともに守本主事・三苫君に1,500をわれらで出すゆゑ鍛治君には秘密にと頼み、長沖氏に3,000借用。 産経の蒲田氏より学園の某女の問合せ、その旨云ひてことはる。三好一夫に電話せしも不在。布施税務署にゆき所得税松井課長に会へば木下・三好2氏に会ひ、たのまれしと。田中係長と相談、新潮社の2,400を計算し50%として690円追加に払ひて放免さる。 沢田事務所に電話せしも不在。百済璋子より「猛烈に」恋してゐないと抗議。井上恵子より保姆講習を受けゐると。藤原加代より南松尾村小学に就職したと。入れちがひに小高根二郎、布施税務署より。和田先生歓迎会18日に変更と。京の受持宇津先生来訪。 5月14日 三好君へ礼状。8:30家を出て鶴橋をへて奈良。女子大へゆけば丁度よし。11:45にやめ博物館に小野勝年氏を訪ね、ともに昼食(280)。上高畑に地所買ひあり住宅資金ほしと。法隆寺献上御物展みせてもらひ、別れて前川家。 いま聞きし和田先生天理とのことに14:30の汽車にて天理。友井老に会ひ、taxi(190)にてゆき朝鮮学会の講演にゆき、中村栄孝博士のあと和田先生の朝鮮の起源について伺ひ、御挨拶し、眞柱にも会ふ。わが『李白』買ひし由。お別れ告げ、薮君と話し、出て西村君に会ひ、ともに高橋家、重臣君不在。夫人と話し出て駅前で喫茶。 17:53の汽車にて奈良。前川家にて20:00夕食。すみてすず子君教へ22:05にて奈良発。前川氏、奈良銀行頭取を小野君に紹介すと。我は痔の医師を紹介すと協定。入れちがひに高橋君よりハガキ(この頃この類多し)。西川英夫より礼状。佐々木邦彦氏隠岐より帰りしと。中山八郎氏、古市に居を定めしと。 p6 5月15日(日) 湖東より電話、朝日に小野氏の『李白』評のれるを報せ呉る。10:30出て前田生の下宿訪ぬれば姉と動物園と。十合へゆき児玉君に会へば「菓子屋に口あり、明日にても可」と。無痛分娩の書(120)贈りて出、表にて夕食(60)。地下鉄にて梅田。 阪神departにて2冊となりし『楊貴妃とクレオパトラ』買ひ、旭屋にて1冊のこりし『李太白』買ひして相川の成蹊詩社。鈴木先生おくれて来られ、木村、水野、橋川氏ら9人のみの会。鹿内校長に『李太白』と『戦後吟』贈り、『楊貴妃とクレオパトラ』(※鈴木)豹軒先生に進呈して出、山本治雄にゆけば、昨夜外泊のため喧嘩せしと。夕食よばれbeer半杯のみて、本家の田紳ら4人来るに会して出る。 徳庵駅にて前田生に会ひ、就職後のことさとして別る。(けふ靴直して400)。傳田生より礼状。大島利一氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の受取。長尾禎子より18日岩崎姓となると。安村夫君今市氏と同級と。今中自彊会より21日(土)自彊会役員会と。 うたかたの此の世のいとも短かかるわが世をいとふ長き日のあり(成蹊詩社にて吟)。 5月16日 京つれて7:30出て8:45学校につき9:00すぎ長沖、西宮、鍛治、山本信江4氏と110人の学生と当麻寺。中の坊といふにて休憩、昼食。4,000払はされしに憤慨。石光寺といふにゆき30分。15:00二上口まで着きてまたbus。帰校16:30。 帰れば前田光子より電話、面接の結果を児玉君より我に知らすと。羽倉君より18日(※和田先生歓迎会に)ゆけずと。22日14:00より羽田博士追悼講演会を人文科学研究所にてと。28日(土)13:00より楽友会館にて日本言語学会と。原田俊仿退社退寮。 5月17日 登校、鍛治君に伊東の文章写してもらふ。午ごろ中学生来り、Junior-dayの詩をと。高岡博士「朝日の記事見た」と。久美子にも会ふ。小林千余子来る。塘に電話せしも往診と。百済生に電話し、その中会はんと云ふ。中山眞柱に藤沢桓夫氏の結婚式は29日としらす。横山より朝日見たと。 浅野晃氏より「堀内君の本は来月の編集会にて決定」と。小高根二郎の「前川佐美雄と伊東静雄」はきまったと。史、けふ姫路の友へ泊りがけでゆく。 5月18日 登校まへ桃谷下車、塘doctor訪ね、前川氏を川本doctorへの紹介かいてもらひHeine贈る。出てアテネ文庫2冊買ひ登校。 杉山平一君の話きき、院長。すみて日野君と話す。児玉君に電話せしに前田生、先方に気に入らざる様子と。堀内民一氏に電話すれば帰りしと。 省線にて京都。吉野書房にゆき『戦後吟』7冊分受取り、鍵谷生今月限り退職ときく。出てtaxi(80)、平中邸にゆけば硲君をり、17:30和田先生守屋君に案内されてお越し。羽田、大谷光照、八田、百瀬、桑田、中山、駒井、佐中、布目など15人にて20:30まで会食。京阪まで歩き、桑田、守屋、中山、八田、硲の諸氏と帰阪。羽田にwhysky1瓶送り礼云はれし。 竹田龍児氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の礼状。小高根二郎君より礼状。堀内民一氏より27日高津高校で会ふと。辻生より明日来校と。 5月19日 8:30登校、よべ3:00まで眠れずだるし。井上生来りしゆゑ坪井に手紙と『骨』とを托す。午、蒲田君の友達坂田君来り、高校卒業の某生の身許しらべと、不快なれど案内す。毎日の齋藤君来り(この間天野に紹介されし)、長沖氏の談話とりゆく。藤沢氏の祝1,000づつ来週中にと笠井信夫君に電話す。 出て退学せしとの木村陽子生訪ねしに留守。母上に一度よこせと云ふ。佐中氏に『戦後吟』送り、帰りて住康子よりの海南市立巽小学校に就職との便見る。千場生も故郷にて就職しゐると。 堀内民一氏に電話して元々社のこと伝へ、宮口生よりの電話きき、来週木曜にでも来よと云ひ、17:00そろひし山本敬子、藤原由子、辻芙美子の3人と会ふ。山本生salaryよりもなか買ひて呉れし。 2年漢文追試やり(9人)、西宮君と帰る。 行きに会ひし井上生(2部服飾)と帰りも会ひし。阿閉良衛より礼状。当麻寺松村実照師より留守にて失礼と。横山薫二よりclass-mateの住所教へよと。(けふ出がけ齋藤の老嫗死せしときく、今川夫人の継母なり)。 5月20日 よべ8時間近く眠り、めざめに眩暈起りしはなぜならん。ゆきて講義。柳井君より電話、前田社長よりの伝言に「防衛大学迎へたがってゐるが欠員なし」と。湖東君14:00来り、坂田氏の失礼云へば「もうかまふな」と。 15:00ともに出て心斎橋。途中「シャルドン」といふにて喫茶、十合人事課に児玉君訪へば「前田生の就職きまりし」と。喜びて出、湖東と別れ、古本屋。Baedekerの『Rome(30)』『土中の日本(60)』『氏神の信仰(40)』買ひて帰宅。 大阪市立美術館より九州古陶名品展の案内ありしのみ。 p7 5月21日 朝8:30駅までゆきしが体の工合あしく電車の出るまでにとび出して帰宅。 (父に会ひ29日の薬師寺の信綱博士の会のこといへば「行く」と)。横山薫二より東京へ転任と。高津高校森下種次郎氏より講演のtext刷ると。臥床して終日。(前川氏へハガキ)。 5月22日(日) 9:30家を出て坪井にゆきclass会を6月5日に開かんと云ふ。出て市電にて梅田。juiceのみて「楊貴妃」を看る。そば食ひて天満まで歩き、省線にて天王寺。白井にゆけば不在。長男に5日にて都合宜しきやきくと伝へよといふ。 疋田嬢より電話かかりしと。今村嬢より長崎の支那菓子1折。梅田夫妻「新宅に移りし」と。天野愛一より土曜の書評について。羽倉君よりハガキ。けふアベノで『全国市町村字名総覧(80)』買ふ。 5月23日 前田生より電話、口きまりしがまだ働きに行かずと。鍛治君より電話、中西氏(伊東の親友)の住所を山本信江しらべて呉れしと。けふ授業参観に悠紀子ゆきしゆゑ、帰るを待ち14:00昼食。池元姉妹に一筆かかせて会社へゆく。重役会議と。Salary表と補助申請書おき、busにて天満橋をへて扇町商高。沢井君に会へば「class会のこと任す」と。山本事務所にゆけば上洛と。電話かりて横山にかけ6月5日class会といひ、俣野に掛ければ帰国上京中と。本庄先生の都合きくことをたのみて出、雨中京橋をへて帰宅。 けふ書きし「朔太郎のこと(10枚)」大手前高校へ持ちゆく筈なりしも出来ず。佐中壮氏より『戦後吟』の礼。 5月24日 登校まへ「朔太郎のこと」速達。学校へ岩田生来る。盲腸の手術しゐしと。(けふ古道具屋の人、殺されしと)。午、山本治雄より電話「すぐ来よ」と。本庄先生の渡欧資金カンパなり。 すぐゆけずと云ひ木村陽子と話す。木村彦左衛門の孫にて今高より来しが去年10月以来欠席と。むつかしけれど父君と相談せんと云ひ、ともに出て駅で別れ疋田家にゆき、坂田君の書類の返還受け、今村羊子生のこときけば知らずと。 出て住高。山本君より伊東の親友中西氏のこときき、硲君に会ひしのち大高。教務でclass-mateの出身中学きく。中島(※栄次郎)は天王寺商業の4年より高[資](※[高]等学校入学[試]験)で来しなりし。 出てbusにのりナンバ。荒木君に会ひ『楊貴妃とクレオパトラ』中国へゆきしと(孫平化氏の手をへて)。別れてbusにて鶴橋より帰宅。 殺人犯は稲田のAl中患者と。今村嬢より長崎へ旅行と。無名氏より大毎の切抜。前川氏より信綱祭の案内。会社より10,000つきし。けふ『中国文学報2(200)』学校へ来り、我買ふこととす(計490)。 5月25日 200もらひて登校前、近鉄で散髪。(父に電話し信綱歌碑建立式に我代りて出よといひ、前川氏にもその旨ハガキ)。ゆけば旅行についての注意とてcollege-hourに出ず。 俣野に電話すれば不在。生島のことにて電話すれば大阪相互銀行にては行先不明と。大河原も席にゐず電話のみきく。 13:00出て津守の大阪書籍にゆき前田社長に会ひ、麓保孝氏の手紙見る。装備局長と青木の親類丸山と双方よりのたのみ聞きしと。 出て戎橋。成見屋へゆけば主人不在。夕立を小杉と話して待ち、竹内栄太郎と帰り来しに会ひて、復学たのむときき、茶よばれ昌三叔父と商大にて同級ときく。 出て「面影」へ寄り、また茶よばれ近鉄案内所にて野崎嬢に会へばsoft-creamご馳走し呉る。金なく鶴橋まで歩きて帰宅。 前川氏より父の出席よろしと。小高根二郎より(※伊東静雄書簡集に?)中島あての便り入りしと。 5月26日 登校、よべ夜半ねざめし故苦し。午、長沖氏に藤沢氏の祝1,000と鍛治君の2か月分1,000とを渡す。俣野に電話すれば「5日の会宜し」と。宮口生より「来る」と。木村陽子のこと守本・須原2教授に談じ、電話すれば「明日来る」と。 出て白井家へ寄れば不在。歩きて林叔母訪ぬれば疋田嬢のこと明日返事きかんと。また歩きてpoolにゆき青木、浦畑2嬢の練習見、ややすれば和島嬢来り、ice-cream呉る。またしばらくして宮口・藤原2生来り、宮口君cake呉る。前田光子来り「明後日より十合へゆく」と。待たせて夜学了へ、姫松まで歩きて帰宅。 白井より「5日の会宜し」と。岩崎昭弥より十二指腸悪しと。 p9 5月27日 登校、木村陽子待ちをり、須原教授に会はせ、よしと思ひ父君院長にたのめと云ひしに、ややして父君来り院長に会ひ、昨年10月より欠席といひし故、1年もう一度やれと云はれしと。 歴史教へ5:30上本町4丁目まで市電。下りて歩けば坪井に会ふ。ともにゆき16:00より「現代詩の散文化」について云ひ、堀内民一氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の「ぐろりあ」版もらひうく。 山崎女史も来り、別れて坪井と森本氏に付添はれ、上六の関急食堂の和食よばれ(礼2,500もらひし)、急に思ひついて5日(日)の会場約し(500の料理10人以上、17:00よりと)、出て2氏と別れ、天地書房にて『中国考古学研究(150)』『実践支那語篇(20)』『日本憲法史(30)』買ひ、近鉄にのり鶴橋をへて帰宅。 富士のsalaryおくれると。島居清君より『満文書写真集』。300以上集めゐると。安田章生氏より原稿受取った、6月20日頃出る7月号にのると。(けふ楳垣氏編『東條操先生古稀祝賀論文集(400)』頒けられ、長沖氏、藤沢桓夫氏の祝ひ届け了る)。 5月28日 よべ3:00まで眠られず、押して出て鶴橋9:40にのり女子大に10:28につきて11:45まで詩経やり、天野忠の室にゆきて昼食。すみて信綱先生後援会の講師室にゆき、安部忠三氏と20年ぶりに会ふ。平田春一、森口奈良吉氏に紹介され、前川・保田2君に伝言托し、廊下へ出しに信綱大人来着。明治5年生れ、当年83才と。 出しに古本屋の前にて元養徳社松井浩生君に会ひ、ともに入りて話す。失職中にてこの間、吉野書房の試験受け、はねられしと。彼の売りし『蘭和辞典(80)』買ひて出、帰阪。 けふ会社のsalary出。保険類を引きありしと。中河与一氏より署名入り『悲劇の季節』。『Heine4版』。八木嬢より明日来ると。けふ往復ハガキ20枚買ふ。 けふ、奈良女子大学長落合太郎(4月1日付)「講師(非常勤)(奈良女子大文学部)に採用する。1時間手当400円を給する。任期は昭和31年3月31日までとする」を貰ふ。 5月29日(日) 雨。Class会を6月5日、関急地下和食堂にて17:00より会費800ときめ、往復ハガキにて白井、井上、保田、生島、横山、山本、山田、俣野、藤田、肥下、服部、大河原、後藤、川崎、梅本、江馬、坂井、富山、前田の諸氏に出す。沢井には片信のみ。坪井には改めてせん。 林叔母より手紙来り、疋田嬢の相手に植松治雄とて大高27回阪大医卒のインターン(東住吉区東之町)推薦し来る。坪井へ通知。角川編集部へ『Heine青春詩集』の原稿返せと。中河与一、堀内民一、岩崎昭弥の諸氏へハガキ。 けふ八木嬢来ざりし。 5月30日 松井夫人に電話すれば来てくれと。9:00のbusにのらんとゆけば来ず、9:30待つ中、駅に下り立ちしは芳野清君。電話して家に待ってもらふこととし、松本にゆけば六條(二階堂下車)の吉村文子といひ、京都女子大受けて落ちしと。 西村氏に紹介状かき、ゆきて話して見よといひ(大進書房で『希臘神話(40)』『Chinese art(60)』)、帰りて芳野君と話し、疋田家に電話して16:00すぎ朝子嬢、帰宅の頃ゆくと云ひ、天王寺までゆき、昭和町の上村夫人といふに電話すれば不在。芳野君を美術館に案内し、九州陶器展を見、『古代の大阪』買ひ、別れて電車にのれば西宮君あり。ともに短大にゆく。 吉永孝雄氏、『文楽 首の名作3』呉れしと。話して18:00上村夫人に電話すれば、植松君といふより「若すぎて2、3年待たすわけにはゆかず、断る」と。出て姫松より疋田嬢にゆかずと断り帰宅。 八木嬢より電話、梅本のねえや電報よこし迎へに来よと云ふと。松本夫人より電話、吉村嬢、姉に会ひて止められし様子と。話のこはれる日なり、面白し。 けふ筑摩より22,900来りて『李白』印税すむ。東大文学部より『明代満蒙史料5』。佐々木邦彦より「明日上京、しばらく滞在」と。 p8 5月31日 浜谷生16日の写真おき呉る。国文学史すませて用なし。八木嬢より電話、堀川きよみ女、思ひ直せしが親きかず一度帰らして呉れと梅本に頼めと。手紙書きて投函。 けふ岩波文庫『女の議会』買ひて読む、面白し。帰り前川氏にゆかんと思ひしもだるく寺田町で下車、折口信夫『近代短歌(120)』『性生活の原初形態(80)』『日本二千六百年史(20)』買ひ、鶴橋で喫茶してのち帰宅。 けふ旅費450もらふ。八木嬢のハガキ。布施税務署より690払へと。すでに払ひし也。細野みち子より成績証明書送れと。 6月1日 登校、細野の書類、三苫君にたのみ、出来上りしも托すべき食物の田中生欠席。小野和子より電話「来る」と。その間に大高クラブ集金人来り、川端氏来らる。本庄先生は随意にといふことにせよと云ふ。 やがて来し小野和子の取扱に困り、北沢生の家へゆかす。教授会で木村陽子条件付き(3月15日卒業でなきこととし)で許さる。電話かけて父君呼びて申渡す。すみて小野和子にて憂鬱。アベノ橋の本屋見しあと帰宅。 欠:(生島、保田、梅本、服部。山本は「この前の立替の残金返せ」と)。出:井上、俣野、横山。父よりこの間、薬師寺へゆき会費とられざりしと。 6月2日 登校の途中、天王寺で木村家へ電話し、父同伴で来よと云ふ。1時間目すみて無事再入学となりしと礼に来る。午后、成尾生来り、ともに出て大丸で別れ、佐渡島金属へゆき見しに梅本未出勤と。雨降り来しゆゑnews映画で「Peter-Pan」を看、おそくなりあはてて地下鉄にて天王寺。 炒飯食ひ(90)、学校へゆけば山本夏津子をり、夜学1時間すませば清[正、本]、田中と来をり、2時間早くすませ、ややして前田光子を呼びて聞けば、今日我が家へ来しと。たしなめて出れば停留所にて清水、平和荘に転居し漆に負けし木村と、多くなり、清水、田中、山本と天王寺(山本sheets呉る)、喫茶して別る。 羽田家より満中陰とて(※先考の)遺影と『飛鳥奈良時代の文化』。Class会に後藤欠。江馬も欠らし。川崎は出と。 6月3日 登校、坪井に電話せしも不在。山本夏津子に『楊貴妃とクレオパトラ』送る。夜学2年の欠席4名に来週木曜の呼出かけ、志野の漢文必修を注意し、近鉄で『pomade(100)』買ひ、関みさを『枕草子の研究』『馬琴』買ひて帰宅。 富山、白井より出席通知。堀内民一氏よりハガキ。松本夫人よりわび状。夕方、広瀬公生来り、松魚4本呉る。高知電鉄に勤むと。 6月4日 8:00家を出、奈良へと小阪までbusにのれば駅で挨拶せしは夜学文2の中川(奈良高、夜間)にて、会社忙しきゆゑ休学すと。西大寺にて奈良高の旧師に紹介す(大阪外語、京大文学部言語学出と)。 奈良駅にて別れNHK奈良支局へゆけば安部忠三局長まだ来ず。9:30まで待ち、『戦後吟』贈れば17年末より南方徴員たりしと。 別れて木原にてアテネ文庫『古事記』『南北戦争』『堤中納言物語』買ひ登校、林助手に云へば昼弁当の注文は10:00までにと。12:00すまし12:30出て湖月にて蜜豆食ひ前川家へゆけば、女歌人『砂の上』出来上りしとてをり、やがて横田利平氏(奈良芸術大事務局)来り挨拶さる。すず子君教へて出る。前田政雄君よりclass会に出席と。元々社より失念したとわびて(34,000-5,100=28,900)大和銀行新宿支店払の小切手来る。 6月5日(日) 大河原より速達にて欠席と。沢井よりも出られずと。『新論1』来る。つまらず。 15:30出て片町より坪井にゆけば「入浴してゆかん」と。「この間、山本に呼ばれ残金返せし」と。17:00上六関急食堂にゆけば席、用意しあらず。忘れし様なり。やがて坂井、江馬、俣野来り、席かへんかと思ひしがやめ、井上、白井、川崎、前田(田中)政雄と9人のみにて白井の送別。 俣野のAA会議談をきき、7,100の勘定に1,000づつ徴し、不足を我払ひて関急Hotel。江馬のおごりにてjuiceのみて別る。 p10 6月6日 草刈せしのみ。〒なし。夜、原君来り、入寮1人9、10日頃と。この間のこと云ひしに、とがりしものいひせし。 6月7日 登校、salary出てをり(35,000-5,479)、他に共済組合長期掛金過納金1,584。 梅本より手紙来てをり「ねえや此間、帰省させしに喜ばれしと。帰れとすすめたのに帰らなかった」と怒りをる。山本夏津子より礼状。久美子呼び、4時限早くやめ昼食すまして外へ出んとすれば硲君来る。明日より修学旅行と。 駅で別れ鍛治君と3人にて(鴎書店に鴎外全集の代払ふ)千日前。野崎嬢と17:00再会を約しスバル座で「埋もれた青春」を見、出て喫茶。久美子にきけば富士鋼業に山本保三氏、社長として動くやうになり城平叔父不平と。 別れて成見屋に小杉に会ひ、隣りで『家庭の法律』、高島屋で『女性の歴史 中』、エシヤで『木馬と石牛』買ひして、野崎君呼び、taxiにて上六。奈良へゆき「湖月」にてしるこ奢られて別れ、前川家。 漢文出来ずと心配しゐしを教へ、英語教へて21:00退去。『日本歌人』に詩話のせることとなりし。芳野清君より礼状。富山よりclass会のわび状。 6月8日 家居せんと思ひゐしに、午すぎ小野和子より電話。「藤井寺へゆかん」と。14:30天王寺にて待てといふ。横山薫二よりことわり状。山中タヅ子より忙しと。吉崎雅子より詩人的なハガキ。 前川氏より昨日ききし『日本歌人』の原稿のこと。大和銀行阿倍野橋支店へ小切手(元々社の)を当座預金にすることとして取立てたのみ(100)、近鉄departでjuiceのんでのち、小野君と藤井寺(けふ児玉君、和歌浦泊りと)。 17:00より杉浦氏、城平叔父など集まるときき、出て駅で別れて恵我荘、梅本を訪へば不在。13日より出勤の予定と。石塚にて『源氏物語研究(50)』買ひて帰宅。 6月9日 8:45登校、石川先生(今中の物理)より電話あり、予備校の講師せよと也。おことわりしにゆくと云ひ、3時間すませ「かもめ」にて『楊貴妃とクレオパトラ』買ひてゆき、ことはれば、今井林太郎氏ら公吏みな駄目となりし補充と。coffeeご馳走となり、一度やりて見んとお別れし、本町二丁目の通産局へゆけば大高クラブ。御霊神社へかはりしと。 名簿預け北浜二丁目まで歩き、沢田直也君にこの間の礼云ひ(けふ三好一夫、西成府税務署長に転任と見し)、市電にて天王寺につけば、先生と寄り来しは相川とて2部2年生。やめたしと云ふに退学届出せと云ひ、すし食うぶればおごり呉る。別れて西川、岩井2生と会ひ、夜学。 小川環樹教授より「李詩の解釈については些か異論がないことはなし」と。 6月10日 登校まへ寺田町にて下車、市電にて新世界へゆき文華堂にて郭沫若『屈原賦今釈(120)』買ふ。天理大学中国科の某君来をり。平野行の電車にて阿倍野交叉へゆきペルリ『日本遠征記4』買ふ。 2時間授業、西宮君より250貰ふ。屈原のprint切りて帰宅。京橋にて沢田生(今年卒業)に会ふ。山本八郎氏の嬢と同級ゆゑ我を訪ひにくしと。 『法政文学』来しのみ。草刈りて入洛。けふ上田阿津子研究室へ来り、桃谷中学へ入れさうと。 6月11日 奈良へゆく途中、野崎家に寄れば松井君をり、この前、父君の紹介にて吉野書房受けしならん。博物館に電話すれば小野君未出社。女子大にゆき図書館にゆけば、天野君けふ居残りと。 後刻再訪を約して講師室。小野君より電話かかりし故、前川氏を訪ぬることをすすめ、『楚辞』教へ、40円の弁当食ひ、天野君と話して帰阪。 News映画を見てのち靴敷き買ひ、まむし食ひて帰宅。 小川環樹氏より『李白』の誤指摘、憂鬱なり。広瀬公生父子より礼状。 6月12日(日) 家居。小高根二郎君より16日(木)下阪、電話かけ来ると。前田光子より「愉快に勤めゐる」と。李白の詩みなよみ直し、noteとる。 16:00八木嬢来訪。松井信子、薬剤師より結婚申込まれ、ほぼ承知と。17:00帰りゆく。弓子に我にとtobacco呉る。夜、便所に青大将ゐるを悠紀子見つけ、小菅に捕へてもらひbeerを贈りし。小川氏に手紙。 6月13日 家居、水道とまり夕方まで出ず。草刈り入浴せしのみ。林叔母より32才の松下電器に勤めゐる青年ありし。いかがせん。 6月14日 悠紀子に1,000借りてゆき定期買ふ。近鉄departにてslipper買ひ、大和銀行で預金通帳受取り、国文学史2時間教へて研究室に帰れば、湖東待ちゐる。ともに出てナンバ。ABCといふgrillにゆきbeefsteakおごってもらひ「面影」にゆきてシャーベットおごり、ともに心斎橋歩きて大丸前で別れ、佐渡島金属にゆき田中十八重役に紹介してもらひ、十合に児玉君に会ひて礼云ひ、ice-creamおごられ、出て駸々堂にて2万5千分の1「柳生」買ひて帰宅。 堀内民一氏より『日本歌人』に「現代詩の散文化」書けと。 6月15日 10:30登校、西宮君、東田氏、樫本氏と上町線で同車。小野十三郎氏のcollege-hourの講演きく。「詩はcriticなり」と。昼食に陪座、すみて泉尾高校の堀内民一氏の電話ありしと。かけ返せば29日(土)14:00より高津高校で「李白」の話せよと。諾といふ。 教授会にてごてごてと問題多し。高野山会議27~29日と。すみて西宮君と出れば北畠より疋田紀子君乗り来る。林叔母に明日行かんと思ひゐし也。八木嬢よりDapperの本なしと。『台湾風物5の4』来る。石原道博の論文またのりをり。(けふ鍛治君に3,000礼として渡す。恥かしがりて中々とらざりし)。 6月16日 8:45登校、暑苦しくて耐らず。菊池よし(西洞院)来る筈なりしが貧血起して来られずと電話。大毎永井氏より「本と私」の記事とりに来ると電話あり。 14:00来て写真とられ話す。中央アジアに捕虜としてゐしと。話旨く出来ず帰してのち憂鬱。小高根二郎君より電話ある筈なりしを思出し、家に電話すればすでに電話あり。学校と云へば会へずといひしと。夜学すませて帰宅。 田中順二郎君より写真入り手紙。1月に子供出来ると。萩原美知子より本の受取。4月後れてなるも、けふ長沖氏と話せしあととてふしぎ。 林叔母へ疋田生の話たのむとハガキ。八木嬢へOgilbyの『Atlas Sinensis』さがしてくれとハガキ。『李太白』3版来る。6月10日発行と。 p11 6月17日 9:30まで眠り登校。西宮君富永氏に7月8日ゆくと手紙かく。4時間目教へて光岡、太田サワ子の来るに会ふ。就職に奔走すと。やがて藤田孝子も来る。湖東に電話すれば知りをり、14:00来ると。 午後すませて湖東と話しゐれば津熊生来り、帰らんとする所へ梅田夫人来る。成尾生も来る。みな同窓会幹事会がためなり。 梅田令姑胃癌にて切りしもだめと。小出画伯の設計不便にて改造せしと。 長沖氏と出て近鉄地下にて散髪。長沖氏も明日奈良へ写真とられにゆくとて散髪。帰れば傳田生よりハガキ。和歌山にわが行く日を待つと。 6月18日 雨傘もちて出る。朝食殆ど食べざりし故、鶴橋でtoastとcoffee(けさ大毎の「本と私」の記事のり写真も出てをり顔赤くなりし(※写真))、ゆきて『詳註古詩源』を図書館、国文研究室とさがし廻りしを見付からず。服部英次郎氏話しに来らる。水川といふ仏文女講師にはじめて紹介受く。Salaryもらふ。4月分1,600-192=1,408。5月分2,400-288=2,112なり。 すみて40円の弁当食ひ、川村徹理学博士の研究室にゆけばcoffeeのまさる。前川家にゆき16:00まですず子君の帰りまち、夕食よばれて20:00出、野崎家により帰宅せしその君(※「そのきみ」ではなく「野埼その」君)と話す。雨、午後よりひどくなり、大雨の中を帰宅。 堀内民一君より電話「25日の講演は7月9日にのばす」と云ひしと。 6月19日(日) 林富士馬より「創元社の全集(※『現代日本詩人全集:全詩集大成』)に出せ」と。井上恵子より保母講習終ったと。13:00出て片町より上本町1丁目まで市電、松本一秀訪へば経過思はしからずと。夫婦悲観しゐる。慰めて15:30警察会館の「薔薇」短歌会にゆく。村上新太郎氏とは一度会ひしと。藤野福雄(大毎)氏来り、保田のfanらし。2次のbeer会に出て一寸話して出、古本屋のぞき『諸国語の系統(40)』『日本文学に及ぼしたる西洋文学の影響(60)』買ふ。途中、文学座みるとふ生徒に会ひし。夕食たべて坪井。帰れば20:30。 6月20日 会社へ山本保三氏に挨拶にゆく筈なりしも、とりやめ無為。〒もなし。 6月21日 会社へゆかんと思ひしが止め、赤星にきけば、叔父その後来社毎日と。「蚊帳たのむ。雨漏り止めてくれ」ときき、学校。鍛治君、この間の礼の中1/3をtobaccoにて返してくる。泉尾の堀内民一氏に7月9日の講演承知と電話す。 13:00出て日赤アベノ分院で松本健次郎氏に会ひ、松本一秀の見舞たのみ、出て『支那語法入門(50)』『本朝神社考(40)』買ひ、新世界通りぬけ文華堂にて『白居易研究(110)』『大唐三蔵取経詩話(30)』『楽府詩選(130)』買ひ、歩きて「ちとせ」でうどん食ひ、お徳叔母に会はんとせしも留守。高島屋で『楊貴妃とクレオパトラ』買ひ、荒木利夫に会ひ『骨』のこと話して鶴橋に出る。途中市電にて吉村謙二君に会ふ(和泉高校)。 けふ学校へ浪中で教へし(園克己の親類)大塚嘉雄といふより「大毎の写真見た」とハガキ。浅野晃氏より『主義にうごく者』。桐山同窓会長より25日会合と。天理大より25日資料展観と(行くと返事)。上田阿津子より勝山中学に就職したと。(けふ中井妙子と2人の縁談につき守本主事より問はれし)。 6月22日 8:30会社へゆけば叔父既にあり。山本保三(副社長)に会ふ要なしと。『楊貴妃とクレオパトラ』托す。久美子、大江の息子にて北海道の防衛隊にゐると話きまりしと。 出て学校。宮口に琴教はるといふ英2の河合生とゆく。大田、藤田2生の履歴書おきあり。望月信成氏の講演ききしあと用事なく、考へたあとbusにてナンバ。十合にゆき前田光子をドーナツ売場にたづね、100買ひて屋上にゆき児玉君にわたし、藤田のArbeitの口ありやと問へば、なしと。 出てAthene文庫3冊を「しんしん堂」にて買ひ、長堀橋まで歩き、大日本セルロイドに百済生を訪へば、加治生(高校にて教へし)も居り。別れて玉造でcold-coffeeのみて帰宅。小高根二郎よりハガキ。鍵谷生より退職の挨拶。角川より『Heine』4版の印税21,000-3,150=17,850。 6月23日 登校、4時限やめて飯くふ。西洞院夫人(菊池淑)来るといふに待ちしも来ず。京都吉野書房より電話。「廬山煙雨浙江潮」の句もつ東坡の詩さがせといふに、つひに見付からず。あやまり状を大阪書籍の柳井君に吉野書房の所きいてから出す。 夜学まで研究室に坐りつづけ、了へしころ福井房子来る。清水ら滞納の授業料あつめて呉れしと。帰れば八木嬢よりOgilbyの『Atlas Sinensis』なしと。ふしぎ。中国訪問日本貿易代表団より『楊貴妃とクレオパトラ』を郭沫若氏に届けしと航空便。けふ古田生、石光寺での写真呉る。 6月24日 暑し。9:30のbusにて三井銀行小阪支店へゆき17,850受取り、近鉄にのり鶴橋で思ひ付きbusにてナンバ。地下鉄にて十合をぬけ(前田生見付けあとを追ひ来し)、隣の本屋で『楊貴妃とクレオパトラ』1冊買ひ(鍛治富子にと)、また地下鉄にて天王寺。Juiceのみてのち登校。天理行をbusにするか電車にするかで、やっさもっさする。荒木利夫君に中国よりの便りのこと電話でいひ、16:00帰宅。途中、京橋で元天理図書館、いま樟蔭高校の入江春行(※)に会ふ。放出の学生の家に住むと。 横山より東京本社資材部と。竹田龍児氏より論文抜刷。(けふ上平生より電話。富士レジンに愉快につとめゐると。本庄先生渡欧費のため働くと)。 6月25日 Busにて小阪。普通にて石切にゆき、のりかへて奈良。野崎家で汽車時間表見せてもらひてのち登校。天野忠に来週会食せんと約し、講義早くすませ(試験はreport「中国文学に関する――誌の批判」10枚)、小川講師と話す。「生島遼一氏の弟子にて吹田東口に住む」と。 13:06にて天理にゆき、暑き途あるきて14:00、着けば守屋君1人。『アジア言語研究』の礼を芹沢君にと名刺おき、Mc.Laodの台湾地図写し、Ogilbyの本なきをたしかめ、中村孝志君に云へば、西村に訊ねおかんと(富永が売りしやもしれず)。『中国地誌』の4校見る。石浜先生15:00来られ、桑田博士を会長に南アジア学会を作らんと。笠井君にたのみて出る。新井トシ、松井の小母さんに会ふ。和楽館。 p12 6月26日(日) 11:00出て天六までゆき、ふと思ひついて筒井にゆきみる(大宮小学校前)。筒井不在。母君と話し、37才になり独身ときく。妹君のとりよせしすし一口たべ『李太白』置き、野上の貸しくれし金のこと扱ってくれとたのんで出る。(4、5日前もわがこと云ひをりしと。ふしぎ)。 帰れば吉野書房の礼状来ありしのみ。この間、犬一晩のみゐしが、けふは猫松井の母上もち来る。 6月27日 晴。梅雨すぎしらし。〒なし。角居来り、佐藤来り、「清田24日夜、工場に泥酔してゆきswitchとめ馘首されさうゆゑ、城平叔父にたのんでくれ」と。夜、清田来りたのむ。 松井和佐子来り、長姉の家、淡路の野島にて作りし枇杷一箱賜ふ。『戦後吟』返礼とす。八木嬢より電話、松井の紙石鹸のこと。 6月28日 8:20会社へゆき、角居・佐藤の嘆願書出し、城平叔父に穏分の処置たのむ。今村部長にも会ふ(城平叔父また久美子の縁談いふ。式は来春と)。 学校へゆき1時間くり上げ、久美子呼びて祝ひを云ふ。山本信江嬢creme-aux-choux(※シュークリーム)沢山呉る。藤田孝子来り、ぜひ就職したしと。筒井護郎に電話すれば「忙し。近日電話す」と。涼しくなるまで武居豊子と話し、帰る。(宮田民雄といふ青年よりturk語の手紙)。 夜、佐藤来り、30日懲罰委員会を開く故、我も出席せよと。けふ近鉄で扇子買ふ(100)。Cutter-shirtに汚点つき、鍛治嬢にironかけてもらふ。日本予備校より電話「8月に講習たのむ」と。 6月29日 8:30家を出て鶴橋。新潮文庫『月下の一群』見付けて買ひ、府立体育館にゆき浜谷の父姉、叔父に会ふ。10:00より始まりし西日本大会に山口女大と当り52×19で大勝。11:21ナンバ発にて登校、壽岳博士の話きく。15:00より教授会。日野君、図書室を[辞]めさしてくれと申し出しと。 17:20すみて退出。西宮君と天王寺で別れ、古本屋見しが何も買はず。帰宅。入浴。 清田呼びて覚悟きく。島本貞三郎氏より同窓会の寄附のこと。金戸守先生より9日(土)14:30高津高校で「李白について」話せと。 6月30日 京、風邪にて初欠席。8:45会社に行き、9:15まで待ち(※清田の)査問会。山本保三氏「初めまして」と御挨拶あり。我と組合長と伸線組長とわびる側にまはり解雇・臨時雇ときまりし様子。 出て本町4丁目までゆき島本商事たづぬれば早く移転と。丸善にゆき『全訳悪の華』買ひ、心斎橋角にてすし食ひて登校。藤田孝子待ちをり、坂井源吾へ紹介状もちゆかせしに、あとで不在と電話かけ来りし。夜学停電のため早くやめる。天王寺で木村生と会ひし。漆まけ癒りゐたり。林叔母より「心当りの相手すでに婚約あり」と。八木嬢より「Ogilby見付かりし」と。 7月1日 朝、中毒発生のことに炊事場にゆけば池川doctor往診と。待ちゐれば原君知りをりし様子に腹立つ。16人中毒し、いか又は貝のためと。今川に電話し、やがて康平叔父来る。池元姉も中毒。よべ遅かりし故いはざりしと。 登校し漢文すませ、大高3回の矢村氏といふが来る。今中15回と。午后、映画「Hellen Keller」を学生見、我は14:30まで神戸山手短大の学長を待ち、話きけば交換講演と。学長以下難色あり。15:00まへ終る。 けふsalary出る。西宮君と出、天王寺で別れ、新世界入口の文華堂にて『官場現形記2冊(310)』買ひ、ゑはがき(70)買ひして天王寺。桃谷で『李太白』又1冊買ひて帰宅。 中毒さはぎすみしと。入寮又1人と原君云ひに来しと。佐々木画伯2~7日個展と。吉崎生より詩の如きもの。 7月2日 朝、早起して下調べし9:00鶴橋よりの急行にて奈良。早すぎて古本屋に入り、三興[出版部]の『ハイネ詩抄(50)』(※田中克己訳)、『オランダ語四週間(180)』買ひて奈良女子大。川村徹博士の研究室にゆけば未出校。『李太白』置きて引返し、天野忠君と昼食の約束し、12:00前すませてともに出、商工会議所食堂で食ふ(520)。別れて前川家にゆけば夫人病気と。すず子君の来週の都合ハガキで知らせと云ひ、『日本歌人』もらひ、わが著書4冊の広告のせ賜ひしを見て出(次号の原稿は来週でよしと)、生駒服部[※正己]にゆき将棋さす。辻嬢評判良しと。夕食2:30帰宅。羽田より「4日14:00大福寺へ来てくれ」と。 p13 7月3日(日) 暑し。京のみ学芸会の予行にゆく。清田呼べば礼云ふ。阪口といふ天草生れの男入寮。西保(梅田夫人)君より手紙、小出氏と設計のことにて不快と。 悠紀子三越へゆき替jubon(2,300)とcutter買ひ来る。 7月4日 悠紀子、京の学芸会にゆく。12:30出て天王寺より交叉までゆき鞄直し、ひまを見て天海堂で宋雲彬『中国文学史(160)』。扇子2回目に買ひ(70)などして鞄受取り(30)大福寺へ14:00着けば羽田まだ来ず。住職と話して待てば羽田夫妻14:45に現はる。 武田製薬でおそくなりしと。「池内先生の父君を基と云はれし」と住職よりききし。羽田の来りしは墓碑作るためと。住職の読経ききてすみ、taxiにて千日前。不二家の二階で羽田はwhisky、われはrice-curry食ひ、地下鉄にのりて梅田。子供にと岩おこし与へ、別れ て青山道夫『養子(50)』買ひて帰宅。けふは〒なし。 夜、大阪新聞のため「夏の詩」(1200字)を杜甫「江村」をもとに書く。羽田「2、3日中に亨先生追悼の詩送れ」と。 夜半、猫、陶所先生の書に排尿。偶然か、ふしぎなることかな。 7月5日 雨。登校、国文学史を1時間目に下げしことを忘れてゐし。天理行の指導をし、中島悦子より児玉氏からの矢野博士『挽歌』(※矢野峰人詩集)受取る。 大阪新聞の福田君に電話して「夏の詩」は古人のものときき安心す。 午后、鍛治富子君、羊羹をもちて来る。不眠で苦しくすぐ去る。(岩崎君肝臓病で暁明館に入院と)。寺田町石塚で『古代の書物(70)』。また1人近々入寮と。 7月6日 雨、時々晴る。藤野一雄より中川五次に送れと110同封の手紙。横山薫二より3通、細野美智子より就職きまらずと。 17:00出て小阪までbus。前川家へゆけば18:00。夕食出されしが食べず、すず子君教へて22:00すぎ、あはてて出しも片町線最終。悠紀子傘もちて迎へに来る。 けふ社員にもbonus出し様子。(『日本歌人』へと「現代詩の散文化」7枚かきてもちゆく。猫、下痢をはじめ悠紀子捨てにゆく。わづか1週間なれど哀れなり)。 7月7日 登校(京、下痢して絶食せしままむづかるを連れゆく)、坂井源吾に電話せしに出社せずと。藤田孝子より電話あり。学生課の世話にて就職出来たと。宮口より電話、来るといふに「来週にせよ」と云ひ、松本のこときけば退院と。 13:00出て三越へ佐々木邦彦展見にゆく。Sketch一枚呉ると。『骨』の休刊もしくは解散を申入れ、歩いて御霊神社。島本に会ひてきけば睾丸炎にて無職と。横山のハガキ渡し、出てbusにて天王寺。 近鉄departにてすし買ひて帰校。松本宅に電話すれば親戚の田中医院にゐると。湖東より電話ありし由なるも、こちらよりはかからず。 17:00までに夕食すませ山本夏津子、木村、瀧本、篠田のGroupのもち来し菓子もらひ、夜学2時間とも早めにすます。西洞院夫人(菊池淑)来り、夫君(立命出)の就職たのむと。 帰りの電車で日野君にきけば、関学の図書館、事務長を院長入るるつもりと。けふ楳垣教授にきけば、羽田博士の録音なくなりしと。京、絶食と。 7月8日 9:00登校、すでにbus来あり、野崎君busにつきて来をり。1人をのぞいて皆来り、9:20出発。11:00天理図書館につき岸事務長に会ひてたのみ、書庫を見さす。みな我がreportの勉強を熱心にやる。14:45出る。(今年の卒業生のreportの製本を友井老にたのむ)。 唐招提寺に寄り17:15帰校。18:00出てナンバより道頓堀の「dohton」といふにて夕食。恰も来し和田夫人(佐々木節子)、野崎君も加へ7人。払ひを長沖氏にとられ(2,000)、ついで鍛治君の提案にて御堂筋西のbarにゆき、みなみな洋酒おごられ20:30別れて西宮、野崎2君とtaxiにて上六。 野崎君の同僚のはじめしNeccoといふbarにて西宮君にHigh-ballのませて帰る。父より「城平叔父に会ふべし」と電話。 7月9日 12:30すぎ出て鶴橋をへて高津高校。14:30より漢文学会での講演。金戸先生をはじめ数人のみ聴講、うまく出来ざりしも浅利氏面白く、ややして堺工高の梅原慧運君(大高9回)より、條をあげて『李白』の誤読訂正におそれ入る。 夕食たまはり2,000もらひ、堀内民一氏と上六まで歩く。 浅野晃氏より「折口信夫」留保との返答ありしと。けふ兒玉実用氏よりハガキ。 p14 7月10日(日) よべ4時間ほどより眠らざりしも10:00出て吹田駅前の古本屋で目加田誠『詩経(280)』買ひて京都。高槻で乗換まちゐれば安村君よび、岐阜への出張の夫君も挨拶。 京都駅より電話して羽田邸。先生追悼の詩、旨く出来ざるを云ひ、9行清書しておく。15:00出て稲荷の羽倉君に会ひ、また出て15:30、宇治まで汽車にのり小高根家へゆけば伊東静雄の弟子2人をり、ともに鴻池新田に住むと。すし食べて出、帰宅21:30。 暁明館に入院の岩崎次男氏より反対に挨拶。木村陽子の父、成見屋木村貞司氏より砂糖と醤油。 7月11日 けふ京、久しぶりに登校とて悠紀子つきそひて行く。9:00すぎ会社より電話かかり、すぐ行けば城平叔父、新喜多大橋の落成式に出る前と夏季手当5,000賜ふ。父にきけば賄人の分は我よりぢかに話せと。池元姉妹2,500、1,500の原案かきて置き、赤星に蚊帳のこと反対と話し、busにて天満橋。 市電にて暁明館。17号室の岩崎次男氏見舞ふ(『鎗・穂高(100)』)。中西doctorは分院のことに、うどん食ひてゆき千川たずぬればまだ入院(『長野県(100)』)。中西にきけば岩崎氏心配いらずと。千鳥橋に出て市電で桜橋。旭屋で『楊貴妃とクレオパトラ』買ひ、大毎にゆけば天野未出社。藤野福雄氏呼べば今から会葬と。『楊貴妃とクレオパトラ』贈って朝日。山田新之輔と会ひMeillet & Cohen『世界の言語』20%引きの2,000で頒けてもらひ、茶おごりて話し、前川夫妻に会へば病院へゆきしときく。大同生命に寄り力身好子呼びて井階房一への紹介かき、労演へゆき佐瀬呼出し、山本(※山本治雄)夫妻の話きく。本庄先生には山本もあまり出さざりしらし。別れて日生へゆきしも16:00すぎて閉店。市庁に筒井訪ぬれば出張と。 『小公子』京に買ひて帰宅。前田光子より「生きてゐるのがいやな時あり」と。 7月12日 朝、宮口時喜子より電話、夕方来ると。次いで西洞院淑より電話。長野よりとて聞きとれず、来よとのみ云ふ。浪速中学より「17日(日)同窓会ゆゑ来よ」とハガキ。布施税務署より1期分160払へと。16:30西洞院夫妻現はれ、立命館出の夫君「教師はいや。文学やりたし」と。「長沖氏と今氏にゆけ」と云ひて送り出す。juiceとtobacco賜ふ。ついで宮口生大きな西瓜もって来る。 7月13日 9:20会社へゆけば城平叔父会議中。父、病欠と。康平叔父に町会費のこと云へば町会長と話さんと。草刈らせよと。山本保三副社長と話す。益子氏このごろgolfに熱中と。城平叔父にbonusの件話して印もらひ、17日8:00~9:00寮生と懇談会すと。赤星より自治会役員会に出ざりしを告口されしと。 Busにて天満橋。ついで心斎橋。兒玉円城君と昼食(洗ひ御飯と300)。前田光子に会ひ悲観を戒め乾葡萄やる。 地下鉄にて天王寺をへて登校。Bonus出をり35,000-4,900=30,100。鍛治君にと1,000托し、木村陽子に会ふ。度々我を訪ねしが会へざりしと。またナンバに出て荒木利夫訪ねしが不在。溝端書店で『星と東西文学(200)』『支那全図(30)』。心斎橋筋歩きて大丸へゆき、『国語学叢録(150)』買ひ、製本部をきき『諸蕃志』と『支那家族研究』を預く(180+280。27日出来と)。文楽座にて「巴里祭」を看、駸々堂にて『巌窟王』と『楊貴妃とクレオパトラ』買ひ、市電にて玉造。ice-coffee(40)のみて帰宅。 悠紀子に2,6000渡す。浜谷、中川井上恵子よりハガキ。康平叔父より電話ありしと。 7月14日 朝から草刈り。会社に電話かけ康平叔父にきけば町会費のこと。ついで父にかければ今日は出勤と。午すぎbusにて小阪、堀内で『和英(80)』、天坊『上代浪華の歴史地理的研究』『法隆寺』『源氏と平氏』にて220。工事して休業すと。 服部にゆき八田、松田、両主事の住所教ふれば、高津中学に既に話つきしと。前川家へすず子君にあやまりにゆき、和英辞典贈り、きけば夫人病気にて入院か否か明日わかると。帰り小阪の松本家を訪ひしも無人。をかしな日なりし。 夜、前田光子より電話、「明日夕方来る」と。小高根二郎君よりハガキ、福地君(※福地邦樹)来ると。 けふ賄にbonus与へし(池元かよ子2,500、久子1,500)。短大より「三越より額縁来し」と電話ありしと。佐々木君のsketch贈られしならん。 7月15日 前田光子より電話、夕方来よと云ふ。草刈り。赤星来り、ごたごた云ふ。午后また草刈り。赤星、除草剤を買ひ来る(20坪分120)。佐々木邦彦君より画送ったと。転居とり止めたと。芳野清君より林富士馬に会ったと。山村貴美氏より『[歌集]砂の上』。伊東静雄の手紙2通とハガキ2通見付く。みな昭和22年のものなり。22:00前田光子来る。菓子呉る。(けふ赤星に鳴田の2,600渡す)。 7月16日 午前中、草を焚き、殺草剤(丸善薬品産業クロレート・ソーダー)を半分まく。 午后出て散髪。京橋より市電にて桜橋。高尾にて学校へ本注文し『有馬晴信(70)』買ひ、天満に出て夕食、喫茶。『自習ビルマ語捷径(60)』買ひ、子供の本2冊買ひて帰宅。 7月17日(日) 8:00前、今川より電話かかり、寮生の月収表、城平叔父忘れしを写しとる。7:55城平叔父来り、康平叔父、父来る。8:15より懇談会。寮生の考へ方の、我に理解出来ざることふしぎな位なり。9:15すみ、4、5日中に会社の返答ありと。 12:30出て鶴橋をへて上六。浪華荘へゆき見れば堀内民一、山村貴美氏らあり、前川氏未だ来ず。すぐ出て浪速高校。ciderのまさる。正富氏(87才と)、渡辺垣治、眞野吉之助、川相常五郎など(※旧同僚)の老人長講。川西栄之祐、内本二郎、道井新左右に挨拶さる。(道井の従兄田中、この間死にしと)。 出て南住吉apartに硲君訪ぬれば不在。山本君訪ね、小野和子訪ね、busにて上六。まむし食ひて鶴橋まで歩く。(天地書房にて『近代神仙譚(130)』、ハイネ『ルチチアⅡ(20)(※書誌不詳)』。) 7月18日 6:30起床。7:19徳庵発。7:46天理行準急に乗る。森田淳一博士前に坐し給ひしも挨拶せず。天理8:55着、busにて天理図書館にゆき友井老に会へば58冊の製本(※学生の卒論製本)出来、2,000と。支払ひ、浜谷生に来るを待ちしが遂に来ず。 Ogilby見、朝鮮史2冊見、鈴木治氏の室にて『李白』に感心せしと云ふ高橋亨博士に会ひ、八木嬢よりすし振舞はれ、本4冊もらひ、島居君よりも『Biblia4』もらふ。 15:30出て高橋(※高橋重臣)家。Beerと刺身馳走となり、『楊貴妃とクレオパトラ』おきて準急にのり、小阪で降りて19:40発のbusにのりて帰宅。 河原憲一氏より暑中見舞。井上恵子より履歴書3通。大塚の父婚姻につきたのむと云ひて帰郷と。福地君より電話ありしと。 7月19日 晴。福地君来り、天野、永井2氏に紹介状かき、我に来りし伊東書簡渡す。31日[小高根]二郎と伊東夫人と会ふよし。 昼寐してのち蒲池君の「伊藤整」よむ。山口玲子、松田亘代より暑中見舞。夕方もとゐし辻賄人来る。不快。 7月20日 けふ21日と思ひちがへして登校せんとせし。とりやめて草刈り。千川君より『古典語典』よめと。暑中見舞、中野英夫、田中啓之、中川いつじ、吉本恭子、岩田和子、田中順二郎、村田温。小川環樹氏より[鈴木]豹軒先生詩集刊行袵の発起人にと。 p15 7月21日 9:00前出て登校、鍛治君あり。高尾より本着きをり、部落問題3冊我とる(840)。学生来ず。荒木君に電話かければ不在。浜谷生に電話かけ天理のこと云ふ。 12:00鍛治君と出て近鉄案内所。野崎君に松竹のこと(※松竹に伊東静雄の懸賞募集児童映画脚本の童話「美しき朋輩達」があるや否や)云ひ、ともに出て喫茶。別れて荒木君にゆき『骨』解散を云ふ。 出て成見屋にゆき吉田栄次郎をも呼び、茶ご馳走になる。『楊貴妃とクレオパトラ』買ひて萩原みち子にもちゆきしが不在。鶴橋をへて帰宅。宮本君より池田市立病院に子供入り岡崎dr.に世話になると。渡辺鐐子より暑中見舞。 夜半、気がつけば我、時計、ズボン、紙入とられ、史、ズボン、学生服、シャツ2枚、財布盗られし(2:30)。のち学生服、シャツ1枚、財布(2,850の金とられし)庭隈に捨てありし。 (けふ手帖学校へ忘れ近鉄案内所までとどけしと。鍛治君また戻りし也)(夕方笹尾とし子の母より電話「明日来よ」と云ふ)。 7月22日 9:00福地君来り、野崎生に紹介す。悠紀子を交番に告げにゆかせ、会社に電話すれば城平叔父飛行機にて上京、明日帰ると。父と笹尾生の母と来る。笹尾とし子退学を希望と、父母望まずと。高校の時も家出上京靴磨きせしと。25日(月)朝訪ふことを約し、海苔賜ふ。 山下実美氏より中元送ったと。藤野一雄君より新木菊子氏に『戦後吟』送れと138同封。浜谷弘子より「9月1日天理へゆき製本とり来る」と。井上暁子より暑中見舞。 被害届書けば時価11,450(tropical trousers2着、時計citizen型2,000現金2,950バンド2,500開襟半袖shirts300紙入100)。 夕方福地邦樹君、手帖もち帰りくれ、松竹の方(※伊東静雄資料の探索)は野崎君自らゆきて後刻報告すと。 7月23日 茲雨。11:00すぎ出て会社。父あてに[西島]寿一よりハガキ。『短歌』に堀内民一氏の評のりゐると。 旅行届と給料表かき、大雨の中帰り来し副社長と城平叔父の自動車にて食堂へ渡り、話きけば寮をやめ社宅とすと。皆以外とて困りし様子なり。父より5,000預り、中元祝儀500もらひて出、徳庵通で悠紀子に会ひ、寿司食ひて駅で福地君に会ふ。「小高根二郎より血圧に異状ありと云ひ来りし」と。福地君阪大国文らし。 鶴橋にゆき玉造まで歩き(紙入買ふ。75)、『古本説話集』見つけ、京橋まで乗り『短歌』見付け、氷西瓜食べて帰る。 赤星、我に会ひたがりしも後で考へ直せしと。高野敏子より「biscuit1缶」。早雲もと氏より「平井昌子のみと教へよ」と。寿一より我にもハガキ。北野徳治氏より暑中見舞。木村三千子氏より20日大阪新聞にて「清江一曲」見しと。大塚の父より宜しくたのむと。日本予備校より「8月17~19日12:10~13:40出講せよ」と。 7月24日(日) 時々雨。午寝しをれば山下実美氏より角砂糖。高野敏子より母君退院と。青山一枝よりYMCAにて料理習ふと。浅野建夫より「上京の節は立ち寄れ」と。刀谷恒子(Ⅱ/文)より病気休学の相談。 史に国史問題集借りにゆかす。つまらず。大阪新聞21日号来る。なるほど写真もつまらず。 7月25日 8:00家を出、山崎(80)の笹尾とし子宅にゆく。駅より30分の水無瀬川岸なり。着けばまだ園部の姉宅より帰らずと。12:00すぎ帰り、色々話せしが退学すと。理由は「勉強したくなし」と。同志社高校の歴史の大沢氏を好きなりしと。靴磨きせし家出の件も話す。15:00自転車のうしろにのせられて駅まで帰り梅田着。 上六の日本予備校にゆけば教務をらず。明日電話することとし、上六でうどん食ひて帰る。(けさ下痢シ笹尾家で昼食くはず)。渡辺三七子より暑中見舞。梅田惠以子夫人より同。島稔より同。児玉君よりshirts賜はる。小林仕太氏(君子父)よりcheezeなど賜はる。 7月26日 依子病臥。午后出て日本予備校へ断りにゆきしも試験問題集渡され、8月17~19日12:10~13:40やることとなる。その前電話して笹尾中庸氏と15:30港保健所で会ふこととし、上六天地書房で松井君に会ふ。千日前に降り野崎君に会へば松竹の知合巡業中と。出て境川で降り、市岡元町4の港保健所まで歩き、笹尾dr.に会へば築港の会館につれゆかれ、懇談。父君の心情をあからさまに話したまへとすすむ。湊町までtaxiで送られ、下りて米沢家に寄れば昭子君幼稚園に就職。向ひに高橋和子(Ⅱ部2回)嫁ぎをり。東幸子は不在。VitaminCとtobacco貰ひ、昭子に千日前迄送られて帰宅。 留守に東亀太郎氏夫人来られ、2,000とunder-shirtと賜ひしと。けふ東幸子、川勝重子(文1)、優谷芽沙子(服1)、浅野亘子より暑中見舞。 7月27日 6:00起き7:30家を出てナンバ。早すぎて氷西瓜食べてゆけば諸同行皆集まる。 8:40出発、(※高野山)成福院に入り23:00迄会談(石井千鶴子母子を呼ぶ)。図書館長をやることとなる。 7月28日 終日会議。夕方石井よりbeer1打もち来りし故、西宮・長沖2氏を誘ひて礼にゆく。 p16 7月29日 午前中会議の結論。研究科を置くときまり(今東光氏を呼びたしが院長の内心と)、授業料その他を値上げすることとなる。赤不動見にゆき、岩波写真文庫『高野山』買ひ、絵葉書かきて昼食。碁4目で1番負けに終り、石井のbeerを楳垣氏に餞けて15:30出発。16:56発の高野号にのり17:30ナンバ着。不二家南店にて夕食。Taxi代100もらひて西宮君と上六同乗。鶴橋で別れて帰宅。 久保田初美の父と原田比富の父より中元。今川へけふお中元もちゆきしと。依子いまだに臥床。『日本歌人7月号』に小高根二郎、茂吉の悪口いふ。山村貴美夫人より『砂の上』につき書いてくれと。鈴木治氏より「Keene:The Battles of Coxinga(※ドナルドキーン『国姓爺合戦』)の書評をかけ」と。小林千余子より「遊びに来てくれ」と。上田弘子、丹羽千年、根岸治子、西川良江、小山正孝、則武加代子、山崎敬子、羽倉裕景、花井裕、金井節子、日野谷頼子の諸氏より暑中見舞。硲君より8月になれば来ると。佐々木邦彦画伯より表具屋にて汚点とるが見つかりしと。梅田惠以子夫人より母君この夏が危しと。 7月30日 午睡たびたび。夕方郵便。岸明子、芦屋へ転居と。長雄英子、元々社、菊地成子、丹波道久、葛井博子、瀧井美智子、松田久(亘代の父)の諸氏より暑中見舞。 東順子、孝子の母上に電話す。山田新之輔より『唐詩選』へのはさみ込み3~5枚を一週間以内にと。 7月31日(日) 依子まだ悪し。悠紀子、弓子、京にて生駒へゆく。我も出て鶴橋まで同行。駅にて天理へゆく入江に会ふ。久宝寺口駅前の小林千余子に本2冊もちゆけば不在。母上と話し、出て今東光氏に会ひ、専攻科を院長に話せしをきく。この間盗人に入られ30,000とられしと。 出て上六いづも屋でうなぎ食ひ、大丸へ製本とりにゆく(460)。古書部で万葉関係4冊(1,000)学校へ届けさす。十合へゆき前田光子を見、児玉君と食堂。シャツの礼云ひ、別れて十合映画館に入り納涼。16:00帰宅。鍛治初江君よりjuice2本贈らる。東井昇之進、佐々木満嬢の2氏より暑中見舞。悠紀子ら21:00帰り来る。 8月1日 午后外出。映画もろくなものなく、すし食ひ、氷西瓜たべしのみ。 夏の帽子買ふ(100)。堀内民一氏より『日本歌人』9月号の原稿たのむと。 山前君より4日15:00依田宅で『骨』の会。『戦後吟』22冊売れ代金1975円を『骨』同人費にと。 東孝子(母君に朝電話せし)、大道裕子、清水文子、古谷悦子、山本陽子、原田比富、松山幸子など文芸卒在の暑中見舞。 8月2日 晴。西宮君より電話「明日10:30来る」と。池元久子に伝ふ。中井妙子、吉崎雅子、成尾禧紗子、石田嘉子、生徒住禎子、加藤ハルミより暑中見舞。鍛治初江君より送り状。午后八木嬢来訪。弓子に本2冊賜ふ。 8月3日 10:00西宮君来る。池元久子を相手に五島のaccentをしらべbiscuit贈って去る。悠紀子その間に藤井寺大江へゆく。元々社より『李太白』3版の印税20,000-3,000=17,000来り、青木大乗氏よりwhiteshirt1着。日野月先生より大朝学芸部定年退職の花光健三氏(明治33年富田林出身、大正13年東大英文科卒)を学院にたのむと。新木菊子氏より「子供を疫痢で亡くした経験あり」と。 眞野喜惣治、広瀬公生、中田富子、助野正子、藤原由子、板原順子より暑中見舞。悠紀子16:00帰来、大江叔母の説にては管理人として残る見込と。 けふ西宮君に貰ひし一成堂書目では『詩集西康省』350で売られゐる。父来り、咲耶の編みしjumperもち来し。 8月4日 晴。11:00今村部長来られ、清田結婚するとて城平叔父に借金申込みしと。小林千余子よりわが訪ねし日、父君脳溢血にて倒れしと。百済璋子より中元送ったと。島稔より『コギト』川口朗(大高18年卒、岩手大助教授)氏に譲ったと。佐瀬良幸より『暮春挿話』ゆづると。西岡照子、西令子、溝端清子、山中通子より暑中見舞。 13:00出て『文芸春秋』特別号買ひ、朝日へ「唐詩愛好者の言」4枚速達し(山田に電話しきけば間に合ふと)。京阪にて京都。京阪書房で学校へ『日本書記通釈』その他送らせ、『物語東洋史3冊(100)』買ひて、市電にて依田邸6:00みな集り『骨』廃刊通らず、25日締切にて10号出すと。 羽田に電話して来週会ふといひ20:00出て京阪までtaxi(100)。井上多喜三郎の長男学校へ行き出せしと。野崎その嬢より電話ありしと。 8月5日 9:00出て靴裏の釘打たし(10)、大和銀行アベノ支店で17,000の小切手取りよせたのみ(100)、ワイシャツ仕立てに近鉄departへゆく(17日出来と)。短大でsalaryを河原女史より貰ひ、西宮君待つ間、壽岳博士の来られしに花光氏の履歴書托し、11:30来し西宮君より250返却を受け「かもめ」書店に『鴎外全集』の払ひすまし(400)、ともに住吉交叉へゆき出雲屋でまむし(120)、林叔母訪ねしも不在。ナンバへ出て散髪。野崎訪ぬれば「伊東静雄の脚本は松竹になし」と。 出て天牛南店にて『葱南雜稿(100)』『打出の小槌(150)』『日本地理大系台湾篇(250)』。荒木君に寄り茶のみ、京町橋まで市電。佐瀬を訪ね『暮春挿話』もらひ、朝日会館にゆきて喫茶(120)。別れて山田新之輔訪ぬれば原稿つきしと。図書課長原田正男氏に紹介さる。「花光氏は東大銀時計にて皮肉屋。吉村正一郎と合はず」と。 出て高尾にゆき『日本奴隷史(500)』『北国銀行(150)』。途中、堀口大学『シュペルヴィエル詩集』『月下の一群』『社会科学辞典』にて帰宅すれば、わが残金500となる。 けふ平凡社より「ガルダン」「ガルダンツェレン」を9月15日までに書けと。百済璋子より羊羹3本賜はり、田中米店電気stand賜はる。『新論』第3号。井上源一郎、浜谷姉妹(上高地より)、伊藤登美子(奈良女子大「芭蕉と杜甫」書く)、穴川裕代(十和田湖より)、田中智慧子、永井洲子、林克子、杉多永子より暑中見舞。村上新太郎氏より『薔薇』の詩15日迄にと。 8月6日 朝、湖東博士より電話「午后来訪」と。『日本歌人』の原稿かけず。鈴木治氏よりKeeneの本(※ドナルドキーン『国姓爺合戦』)、書留にて来る。浅野建夫君より、松田緑(食2)の姉、都嬢につき八尾804脇田方に滞在の夫人にしらせと。 吉川博士より『杜甫』(※吉川幸次郎『杜甫ノート』)送ったと。辻芙美子、市村伎餘子、今市佐恵、藤原加代、上田阿津子より暑中見舞。東幸子より不在のわび状。隣地の場主より「8日9:00より実地検証に立会を」と。会社へ電話す。 湖東来り、順二郎夫妻月半来ると。Drop1缶賜って帰りゆく。夜、悠紀子、京、依子とつれて天満へ買物に出てゆく。 8月7日(日) 福地君より電話「夜、来い」と云ふ。依子picnic。弓子病気。竹内より『続 魯迅作品集』。前川佐美雄より「原稿たのむ」と(けふ2枚ほど書きていやとなり困りゐし也)。暑中見舞、西本幸子、伊那迪子、南定子、安部順子、東順子、中井英子、岡本和子、馬路晨子、山北録枝、尾崎菊子より。鈴木氏、Keeneの本の送り状。大高clubより「9日15~18日北浜2丁目清友clubへ来よ」と。 夜、福地君来り、小野十三郎氏へ紹介状かかす。詩作見せしが上出来なり。八木嬢より「母上帰宅されし」と。清田英雄結婚のため退寮(東淀川区北大通2の108村上菊一方)。 8月8日 8:00城平叔父より守本氏のadress訊ねて電話。8:30康平叔父、竹村氏をつれて来り、土地の境界に杭を検分ののち木村菓子屋の地所検分。米沢昭子、沢田宣子、瀧川裕子、吉田照子より暑中見舞。悠紀子より1,000借りて散歩。宮口登喜子chocolate一箱もちて来しと。 けふ硲君より午、電話。来ると云ひしを断りし。深更まで依子の買ひし『田舎教師』よむ。『日本歌人』の原稿かきし為眠れざるが故也。 8月9日 朝、八尾804脇田氏に電話せしに「浅野夫人留[美]子他出」と。福助足袋に電話し、松田健威津総務部長に「午すぎ伺ふ」と云ひ、10:00出て短大。 食堂須原教授に松田線のこときけば「覚えず」と。京阪書房より来し書籍中『日本書記通釈』返送を鍛治君にことづけし、二部三年の池島と同車。堺下車。 北野店に寄れば母上をらる。すぐ出て福助足袋にゆき父上にきけば都嬢7月24日に約婚と。 Taxiにのせられ堺脳病院にゆき肥下に伊東の手紙のこと云へば「14日の日曜に探す」と。「保田の次男また寄留をたのみに来し」と。「夫人喀血せし」と。 出てナンバ。河原町の店にゆき、お徳叔母に久美子の約婚賀し、大源の室井氏に会ひ、夫人に松本一秀の症状問へば「知らず」と。手拭8本もらひて北浜二丁目の清友会館にゆけば島本君あり。住所録訂正し、出がけ仙石永博氏に会ふ。沢田直也に会ひてきけば木下正三氏布施へ転任と。手拭3本置きて出、天満橋をへてbusにて帰宅。 西浦孝子、木戸礼子、開利枝、瀧口喜久子、富田芙二子より暑中見舞。けふより涼しくなり出す。『日本歌人』に速達す。夜、開利枝banana一房もちて来り、すすむれども友達と共に入らず。池尻かよ子の見合の相手来る。千林の洋裁屋、一月に妻一子をのこして亡くなりしと也。 8月10日 朝、浅野夫人より電話、松田氏のこと伝ふ。大掃除。我は概ね草刈。硲君来る。羽倉君のこときけば後藤氏に云へば宜しからんと。Calpis置きゆかる。 小雨模様につき畳入れしあと町会長徳野来る。赤星と会ひしこと云へば曖昧な返事す。『日本歌人』8月号来る。原田満喜子(竟病院看護婦)より単位の問合せ。近江詩人会より戸塚定雄氏(短大工科講師)亡くなられしと。神島輝子、竹屋貞子、塚本光子、四方あや、傳田雅子、南部英美子、斎藤かずゑ、秋山昭子、中島悦子より暑中見舞。室井氏より電話、「松本2、3日前より自宅へ帰りやや良し」と。 8月11日 やや涼し。筒井嬢より電話「平凡社より稿料送り来りし」と。井上恵子juiceもちて来る。津熊照子、吉森安治夫妻、佐々木種子氏より残暑見舞。末吉栄三「城原工に転任」と。松本夫人より帰宅と挨拶状。夕方、毎日の齋藤君より電話。「8月15日の詩20行位を13日午前中に」と。 けふ細川君の叔母来り、悠紀子に就職の世話たのむと。 8月12日 筒井嬢に電話すればまだ来ずと。細川さち子の叔母来り、藤井寺に電話せしむれば「すでに新しき女中来り、今川へ世話せよ」と。久美子に電話し、悠紀子つれゆきしに夜、来りて「2,000の月給と多人数ゆゑことわる」と。城平叔父に電話してことわり云ふ。西洞院淑子より「無為の夫にいや故、ぜひ口を世話せよ」と。 村上新太郎氏より薔薇短歌会21日と(ことわりて詩「夏」送る)。小高根二郎君より清水文雄氏と保田に行きしと。『文芸春秋』買ひ来る。 8月13日 9:00出て学校。平凡社より540-81=459(アムルサナ世界大百科)来をり。鍛治君の外、学生6、7名。12:00かっきりに大毎。齋藤君に「8月15日」の詩わたす。Tomas Mann死にしとて忙しらし。天野愛一君にcoffeeのまされ、出て高尾。学校へ『日拉字典』と『万葉図譜』(3,000)送らし、我は中川善之助2冊(250)。鰻丼食って帰宅。 井上多喜三郎氏より21日近江詩人会5周年に来よと。ことわる。 暑中見舞、高橋啓子。けふ高野線で園克己に会ひし。長沖氏に菊池淑の手紙見てくれと。鍛治君に托す。 8月14日(日) 晴。やや涼し。草刈。堀正江、森桃子、安村明美より暑中見舞。山本治雄より9月4日電話34-8251(代)とかはると。けふ会社盆休み(明日とで2日)。片町の木村家主人8日に写しくれし写真を送り賜ふ。 p17 8月15日 草刈。大阪新聞より稿料(3,000-450)2,550。浜谷照子、安田千晶より暑中見舞。村上新太郎氏より原稿受取。毎日新聞に掲載。夜、福地君を家へつれ帰り肥下のこと云ふ。『四季』と『野村英夫詩集』貸し与ふ。 8月16日 晴。草刈。疋田君より電話、写真返せと。松本一秀より一度来れと。亀井昇、明渡淑江、生駒セツ子より暑中見舞。父来り、咲耶明日帰郷と。『東洋史研究』14の1、2合併号来る。欠280と。悠紀子に300送らさんとせしも郵便局しまりゐしと。夜、細川静江女再来、「女中でよきも3,000以上、家族少なき処へ」と。 8月17日 晴、11:00出てゆけば徳庵の町で守屋美都雄夫人に会ふ。12:00前に日本予備校につき、石川校長先生にきけば「岩城隆利氏は準太郎の息、秋より来てもらふ」と。12:10より200人を相手にすまし、老先生3人と近鉄depart大食堂で氷西瓜たべさしてもらひ、ナンバへゆき、住吉より林叔母の許へゆけば、疋田嬢の写真返し、上村家おそはり、住吉交叉で鰻丼食ひ、疋田家へ電話し、姫松駅で待つうち東孝子に会ふ。「彦根へゆきし」と。 疋田君に写真返し、詩の原稿大毎より返りしを受取り、文ノ里の上村家にゆき未亡人と若夫人に会ひ、明日(※女中候補の)細川しづえをゆき子につれゆかすと云ひ、給料3,000月一回休日とを約束す。(近鉄departで『空から見た古墳』買ふ)。 平凡社より印税残り510と。長沖氏より「西洞院夫人より同じ意味の手紙来あり」と。和島美禰子、豊田佐世子、中村貞子より残暑見舞。本田晴光氏より詩。中井英子より「克己」の「己」まちがひしわび状。田中順二郎君より電話、明日帰京につき会へずと。 8月18日 悠紀子、細川しづえ女を上村家へつれてゆく。11:00出て上六。予備校にゆけば昼食にrice-curry食はせてもらふ。すみて上六より奈良まで切符買ひ小阪下車。松本にゆけば経過良好と。24日入社試験ゆゑいかにと。本年度は応ぜしめずと云ふ。宮口の組合運動はかまはずと。 出て奈良へゆき家につけば夫人をり、堀内、山村2氏に会ひ、吉野行、小高根君も未定故21日(日)ときめ、出て野崎家に寄り、あやめ池で下車。上田阿津子を訪ね、叔母、母上と話しゐる中、父君帰られ、引留められて夕食よばれつつ、井上生の就職たのむ。 服部へゆくを止めて帰れば(20:30)、伊東夫人待ちをり、福地君につれられて来し。書簡発表に反対すと「小高根君に伝ふべし」と云ふ。 けふ末吉来り「亀井と絶交のまま」と。上村家に細川女2時間ゐしあと、田舎より女中来りつれ戻し、菓子賜ひしと。田中文子、齋藤かずえより残暑見舞。吉川幸次郎博士より「本見付かりし故送りし」と。 8月19日 晴天まだつづく。朝より下痢。押して予備校にゆき昼食中の老人の出で行くを見しに酒井先生!追ひかけてきけば「まさ子嬢夫君精神病、三児を抱へて三重県で四苦八苦」と。気の毒なり。すみて謝礼もらへば3,000。石川先生をられず。出て箕面へゆくつもりなりしも天地書房で『徒然草(50)』買ひ、昼食食べしあといやになり帰宅。 吉川博士より贈られし本『杜甫私記 第1巻』の5版にて落胆。吉原陽子、鍛治富子、宮口時喜子、大住蔦子より残暑見舞。(けさ湖東君より電話「雅子君を日曜午后に招く」と)。(鶴橋で靴ひやかし1,900までまけられて買ひし)。 8月20日 暑し。草刈。毎日新聞より2,352-312受取。新宮よりの岸明子の信。 小高根二郎より『日本歌人』の会不参の通知見て、急に吉野へ行く気となり、出でんとすれば北野夫人より電話「雅子、与謝より預りし果物もちゆくべきも来られず」と。腹立てど22日夜、悠紀子行くと返事し、1,000もらひて鶴橋・八木・橿原神宮前を経て吉野にゆく。 途中、靴痛く弱りし上、みな無愛想にてすぐ帰らんと思ひしも、待つ中、保田来り、夫人に令姉(城北幼稚園・寺西輝恵氏)への紹介書いてもらふ。 夜12時まで歌会、小野十三郎の悪口!云ひてすみし。夜、不眠。(けふ橿原神宮駅で平井昌子に会ふ)。 8月21日(日) 5:00起き洗面し、如意輪寺へゆきし一行を待ちて[朝]食。9:00恰も来し自動車つかまへ前川、保田2氏に挨拶せず、堀内民一、梁雅子らに見送られ、cableまで来て下車(160)。停電のことに他の一組と元の車に乗り吉野神宮前(200)。 上六までの切符買ひ、橿原・八木で乗換へ準急にのりて八尾下車。氷食ひ、久法寺口でまた下車。小林家へゆけば千枝子在宅。父君良好と。学校はやめずと。出て駅で母上に会ひ、共に鶴橋まで行き、別れて炒飯食ひ『文学界』9月号買ひて帰宅。 昨日荒木利夫より中國人と会食誘ひ賜ひしと。杉浦源治氏より暑中見舞。奥野博子?より残暑見舞。 8月22日 雨よべより降る。一ヶ月ぶり也。長雄英子より「宮本猛夫は日置駅長」と。梅田夫人より「姑君、18日感謝して逝去」と。得津佳子より残暑見舞。 涼しき故、午すぎ北野家に電話してゆくといひ、悠紀子、京と天王寺よりbus。ゆけば友達母子と同席。京都よりの20世紀一箱とshirt、靴下と福神漬もらひて退去。明日帰京と。 我のみ我孫子の児玉家に寄れば和子「児玉君の小野家入籍につき困りをる」と。梨10ケ置きて出、ナンバ、鶴橋をへて帰宅。 留守中、小高根二郎より電話かかりし様子。池元かよ子いよいよ縁談きまりし模様。史の友、カキ谷生泊る。 8月23日 けふ池元かよ女、縁談のこと云ひ「8月末にて退職したし」と。「久子は引つづき勤めさして置く」と。室井夫人美代子氏よりハガキ。榎本須美子より紀伊田辺へゆきしと。松尾さよ子より残暑見舞。 午後会社へゆけば、城平叔父不在。書類一応呈出し、帰る。夕方湖東に電話すれば「雅子君を駅まで送りし」と。我に縁談たのみし坂田君、伊吹の麓の工場行を命ぜられしと、ザマ見ロ也。 8月24日 8:30会社へゆき、城平叔父に印つかす。池元かよ子の退職申出急なりとふきげん。出て片町より市電にて保田夫人の令姉寺西輝恵女史に会ふ。むつかしけれど心がけておかんと也。出て天六で下車。住山重子と兄母と会ひ「薬大転学を思ひ止まりし」ときき、昼食の丼くはずtobaccoもらひて出、宇治金時食べて阪神に大河原訪ねしに不在。 三井商事に山中タヅ子訪ひ、藤原夫君に会ひcoffeeおごられて別れ、桑原『ソ連中國』買ひて帰宅。 弓場紀代子より残暑見舞。ややして角川より『昭和詩集』の3、4版7,500部の印税1,457-218=1,239来る。堀内民一氏より礼状。入洛中笹尾トシ子の母君来られ電車賃1,000と西瓜と賜ふ。「トシ子つづける」ときまりし様子。 夕方、福地邦樹君訪へば父君在宅。あとにてきけば農学にて台湾にをられしと。邦樹君を家に伴ひ話す。 8月25日 晴、中野清見より『骨』いつもありがたうと2,000。前川佐美雄より礼状。二五美佳子(奈良女子大1)よりハガキ。吉崎雅子より仝。森田宏子より子供の自慢。12:30出て梅田。「百舌鳥」見、noteもらひ夕食。小高根家に明日ゆくと電話せしも夫人。 昭和30年8月26日~昭和30年12月31日 26.0cm×18.8cm 横掛ノートに横書き p19 8月26日 10:00出て氷西瓜食ひ、弓子に『アンクル トムスケビン』買ひて上洛。吉野書房にゆけば高鳥・奥西ともに出張。羽田に電話して研究所で会ふこととし、小高根二郎君に電話して伊東夫人のこと云へば釈然とせず。 9月に会ふこととし、出て丸太町でtoast食ってのち錦林車庫前を廻って人文科学研究所。藤枝痔にて欠勤と。日比野氏をつかまへてきけば恰も『食貨』あり、借りて写し、すみて篠田博士より池田分校の話きき、来りし羽田の用談待つ間に、入矢義高氏つかまへ誤読指摘を謝し、誘ひ出して3人にて三條。Beerのみ支那料理食ふ。 19:00別れて京阪書房に寄り『芭蕉研究3(50)』。学校へと杉浦正一郎の『向井去来』送らせ、京阪にて帰る。 里井千寿子より残暑見舞。毎日新聞より「愛誦する夏の詩を」と。頼永祥氏より『鄭氏の地図』と中村孝志『近代台湾史要』の訳。 8月27日 よべより雨。旱害のおそれ全国よりなくなる。上田阿津子より井上のこと極力尽力してくれると。小高根二郎より入れちがひにハガキ。古川丈吉代議士より残暑見舞。近畿民俗学会より明日14:00一心寺で例会をと。午睡せしのみ。 夜、会社のsalary出、池元かよ子の退職手当は月末と。けふ中野清見へ礼状。夜、福地君葡萄もち来り、Holderlin借り『戦後吟』2冊もちゆく。 8月28日(日) 悠紀子、弓子と京つれて動物園にゆく。我、草刈りをれば大江叔母より電話「細川しずえ女を明後日よこせ」と。「本人の意思きいて見ん」と答ふ。小林千余子より「Seminarの題くれ」と。天満博子、林富美代より残暑見舞。鍋島友三郎弁護士より同。けふ大毎へ「秋草」の解説送る。史より『京大日本史2、3』を200で買ふ。 8月29日 朝、池元かよ子を会社へ挨拶にゆかす。細川しずえ来しゆゑ、明日大江へゆけと云ふ。田中雅子より挨拶。齋藤かずえより免状とりに6日来阪と。短大へ電話せしに筒井女史のみにてわからず。 史、外出せしゆゑ武部利夫『李白小伝』買って来さす。誠に「1時間文庫」なり。夜、退屈して陳乃蘖氏の訳を検するに誤訳だらけなり。 8月30日 悠紀子、細川女をつれて藤井寺へゆく。京ついて行かず、下痢。井上斌子より会社休みゐると。塚本光子も病気なりしと。梅田惠以子よりmamboに反感をもつ、来春遊びに来よと。毎日新聞より受取。昨日のpistol強盗は鮮人なりしと(※東海銀行強盗殺人事件)。栗林女を臨時に雇ふことと決む。京を医師につれゆき て悠紀子21:00帰り来しところへ大江叔母より電話あり「細川女陰気にて合はず、明日還す」と。仕方なし。 8月31日 〒なし。珍し。細川女来ず。栗林女を夜呼びて話きく。山本藤助邸の女中たち怠けると。浜谷生より電話かかり「明日天理図書館へゆく」と。 父より池元かよ子の退職手当預りし筈の原君20:30まで帰らず。22:30帰り来し池元女に5,500の手当と1,000の祝とを渡す(けふ昼、我も1,000祝ひし也)。細川女21:00すぎ来り、葡萄狩にゆきし大江叔母の帰り待たされしと。葡萄一箱と1,000在中の手紙ともち来る。退職申渡せしもおどろかず。 9月1日 二百十日と。風やや吹き涼し。藤枝晃より「克己」の印ほかくれしと。小野和子より藉の事心配不要と。佐々木邦彦画伯より『毎日グラフ』。池元女午前中に荷出し、16:30出てゆく。みな独力でやり泪ぐまし。子供ら今日より学校。小林といふが寮に寄食と。 9月2日 府会議員森田氏といふより電話、きけば幼稚園3所の中、今里の神路幼稚園に欠員あり、井上恵子に会ひたしと。寺西夫人の紹介なり。月曜9時にゆけと速達す。台北頼永祥氏より『清和の支那治海』の史料につき問合せ。鄭氏の『台湾地図』らしきもの発見と。前の訳をやっつけ、答を書きて送る(70)。散髪す。 けふ日本予備校より14日の日曜に出講をと。平凡社より残金510。 9月3日 5:00起き、6:30家を出てbusにて小阪。7:25の準急で天理。Busにて仙田氏と共になる。飲酒の為か老いたり。『清朝実録』借り17:00まで写しにうつす。2冊のこりしを八木嬢に借出してもらひ、高橋君に電話すれば不在。 歩きて木下で『楊貴妃とクレオパトラ』買ひ、鈴木治氏にゆけば『Bible』の原稿いつにても良しと。夕食よばれ西大寺に出れば保田の弟夫妻にplatformの向ふより声かけらる。 帰れば井上恵子より速達、「月曜都合悪く火曜に学校に来る」と。相良紀予子より手紙。田中順二郎君よりtelevi抽籤にて当りしと。八木嬢より入れちがひにハガキ。『大清実録』抄し了れば23:20。 9月4日(日) よべ1時間より眠れず。7:00家を出て小阪にゆき、日曜とて準急なきを知る。のりかへて郡山にてjuiceのみ、天理着。パン買ひ、自動車にて図書館(190)。田中女史のみをり、八木嬢へと礼の「味の素」托し、実録つづき借出す。 富永館長をり『中国地誌目録』出せば呈すと。25周年に呼ぶと。『太宗実録』v.51まで抄して疲れ、高橋重臣君に会ひ「Sum」加入を約させ、15:45の王寺行busにのり法隆寺前で下車。 井上恵子の家へゆけば母君在宅、「1日より法隆寺[事]務所に勤務、布施市教委より公民館へ来よと云はれしところへわが(※幼稚園求人の)速達」と。 法隆寺へゆき17:00終業せし井上君と会ひ、歩き乍ら(※話し)布施へゆかすこととし、急行busにて17:50発。天王寺をへて帰宅。寺西、森田両園長にことわりの電話して寝る。 けふ奈良女子大より「17日の授業あり」と。菊池淑より電話ありしと。福地君、歌集代100もち来りしと。大東夫人(※大東幸子)が買ひ呉れし也。 9月5日 朝、西洞院淑よりまた電話、ぜひ会ひたしと云ふに13:30玉造の駅で待合すこととす。小高根二郎君より11日(日)14:00高島屋1階食堂にて伊東(※寿恵男)、福地君と会せんとハガキ。 池元初蔵氏より娘よろしくたのむと。日本予備校に電話し、今後の講義ことわる。午すぎ出て玉造駅より菊池家にて話きき、別居さすことをすすめ、夫君に会ひて就職努力せんといひ、帰り来れば笹尾とし子に途で会ひ、連れ戻して礼云はれ、父の愛情も知りをると云ふに、今後心配さすなと云ひをるところへ桂周作とて詩作る関学生。立原道造のことききたしと小林千余子に道ききて来る。夕食食べさしてゐるところへ福地君来り、桂君帰りしあと23:00まで話す。 9月6日 登校、鍛治、山本2君をり。salary出る。天理行の出張手当(200)。佐藤、小西2生より電話「東洋棉花につとめゐる」と。次いで家より電話「全田の叔母来り、浅香山小学校の校歌たのみに」と。木曜にことはりにゆくと返事し、出んとすれば笹尾生来り、映画「旅情」を見にゆかんと。諾してまた電話。上田阿津子といふに14:00、[中]で待ちしも来ず、置手紙し、ややまへより来し小林千余子と4人でナンバ。別れて松竹座へゆく。すみて茶おごり、話せば可怪し。別れて天牛南店へゆき、『印欧語比較文法(280)』買ひて帰宅。 けふ楳垣先生より『船場言葉』もらひ、代払へば又1冊賜ひしゆゑ、本位田重美氏にと小林生に托す。池元かよ子より礼状。渡敦子よりも同じく依頼状。千川(※千川義雄)より『俳句研究』送り来り「清江の一曲」のよみ方わるしと。何を吐かす也。坂井源吾君より学校に「富士金属針布(旭区赤川町3の456電35-3394)に常勤」と。 9月7日 悠紀子を定期買ひに先行させ、京と駅。別れて気がかりなりしは乗りおくれざりしやと。鶴橋より府立体育館にゆき奈良女子大とのbasket-ballの試合をみる。40-24で負け、山本恭子、増田の2人と登校。 昨日上田阿津子14:30来りしと。college-hourきき、昼食すませば硲君来校。折しも湖東の電話かかり大阪女子学院へ出講と。住宅資金当りしと。西洞院夫妻来り、夫君と話せば中々自信家。学長に話し長沖氏に話して見んと帰せしところへ長沖氏教授会のため登校。(木村陽子ら紅茶をご馳走し呉る)。 教授会にて高野山会議のむし返し。図書館の件、決定。すみて研究科相談し、今東光、前川佐美雄に話してみんと。17:30すませ2氏より1,750もらひ鶴橋にて下車。京、弓子の本と後藤守一『食物の歴史』買ひて帰宅。 近江詩人会と近畿民俗学会の例会通知。 9月8日 京をつれて出る。昼まへ院長に会ひ西洞院君の履歴書示せば、どこか学校に世話せんといひ、学院は駄目。出て浅香山。全田へゆけば叔母、茶の会をしをり、すぐ小学校にゆき次田氏に会ひ、(※校歌依頼の件)ことはり、小野十三郎氏に云ふこととなり、堺病院。 肥下に案内さして原田満喜子に会ひreport今一つ出せと云ひ、また全田により片山純子に送られて出、我孫子前の児玉家に寄り、木曜休みの夫妻に会ふ。予定出産日は10月3日と。二人に駅まで送られ、帰校して親子丼食ひ、漢文の卒業試験。原田また出来ず。1年早めにやめて西宮君と帰る。八木嬢よりハガキ。井上恵子より礼状。 9月9日 台北の頼永祥氏宛て『身体呼称』の抜刷航空便で送り(25)、雨に降られて小野十三郎氏を訪ぬれば就寝せしところと。起きて「浅香山小学校校歌承知した。但し来週木曜現場見たし」と。 登校、次田君に電話してよしとなり、文2のclass委員らと文科講師の相談す。「1/3位来るやも知れず」と。出しところへ石川先生の電話といふに、ゆけば日本予備校より「試験問題丈にても作製せよ」と。ことわりて午後の授業すまし、山本信江誘ひてアベノ橋の古本屋。われは『満洲帝国文省地図(200)』買ひ、信江君にと2冊買ひ(430)、出て喫茶し、鍛治君待ちて「暴力教室」見、けふ菊池妹の(※姉の事で)泣きしが気がかりとなり、玉造にゆけば、母も共に淑子と喧嘩。木村病院といふに泊りしと。電話して呼ぶま話し、やがて来しに院長に会ひにゆかすことをすすめ、避妊せよと云ひ、やがて又夫君よりかかりし電話に木村病院といふにtaxiにてゆけば中村外科の向ひ。茶のみてともに出、condom買ひ与へ帰宅。 浅野晃氏より「堀内君の本、来月きまらう」と。「保田(※体調)悪し」と。ふしぎ。 9月10日 休日。昼寐1時間足らずす。24日(土)13:30外語で桑田博士の講演と。大阪書籍に電話すれば柳井三千比呂欠勤。高階次長呼びて保田のこときけば「そんなことは知らず」と返答、不快。 9月11日(日) 10:30西洞院淑より電話。院長に会ひしが学院は駄目、むずかしけれど探すと。木曜長沖氏と会へと云ふ。佐々木邦彦氏より『骨』の原稿井上君を除きて集りしと。 12:00来し福地邦樹君と出て高島屋へゆけば、小高根既に来をり、14:00伊東夫人来り、(※書簡公開をあくまでも)許さねば『静雄研究』(※論文中の抄出扱ひ)とするとの小高根君の脅し[効]きしか。 別れて「面影」へゆき雑誌出さんいひ、madame呼べば「も早この店を他人に譲りし」と。Juice御馳走し呉る。出て天満橋で小高根君と別れ、坪井に寄れば出張中と。片町より電車にのり福地君を家に伴ひ、太郎の本2冊貸す。 けふ小高根君にきけば「柳井三千比呂、大阪書籍をやめし」と。昨日の電話にはじめて納得す。 9月12日 堀内民一君より電話かかりしに『日本歌人』の原稿土曜に前川家へと。保田のこときけば「夏の末、前川家でbeerのみ、その日より腹を悪くせし」と。浅野氏のハガキの内容伝へて用すむ。 安田章生君より『白珠』に文10月5日頃までにと。桂周作君より礼状。けふ午后より眩暈。 9月13日 登校、湖東より電話かかり「来る」と。成尾喜佐子より同。国文学史やりをれば岡田とて新任の学院高等部の先生会ひたしと。行けば柳井の紹介せし奈良大出の元大阪書籍の編集部員。また来よといひ、すませ成尾、湖東、西洞院と3組の来客と話す。成尾君は一人子の家へゆくと云ふに反対す。西洞院夫人は離婚すと。湖東は20万円借りたしと(180万円新築に必要、他に予備費を。担保なしで2年と)。 帰れば林叔母より全田叔母に婿候補ありと。井上多喜三郎氏より我以外の原稿みな集りしと。小林弥毅氏より退院せしと。けふ久美子来り、「城平叔父、痔瘻にて悲観しゐる」と。 けふ池元かよ子饅頭もちて来りしと。林とし子夫人来り、愚痴いひしと。(けふ東洋棉花に入りし小西啓子の父に天王寺で会ひ、湖東紹介す)。 9月14日 college-hourは自治会役員選挙とのことに学校へゆかず。radioで「短大を専門学校にする」と文相。中川禎子より勤やめたと。細川しずえ女、木村屋の喫茶につとめゐると。けふ毎日新聞で「筒井護郎、消防局総務課係長となりし」と。 9月15日 出勤。8:30に鍛治君すでに来をり、前田光子より帰れと云ひに来りしと。ことはれといひ、児玉君にも云はんといひ、15:00西洞院君と話すみし長沖氏に礼云ひて出、浅香山小学校。次田校長に小野十三郎氏紹介し、帰り我孫子前にて下車。 小野和子訪ぬれば児玉君Lunge悪しと。それを云ひしとて児玉君怒り、早期治療をすすめしに聞かず。出て帰校すれば輪島B子嬢来をり、話して夕食。三苫君、事務所やめて教師の方にかはりたしと。ふしぎなることかな。 夜学2時間のみ。早めにすませ半田君に欧文card作れといひ帰宅。 山前君より『骨』の催促。『Corbeau詩集Ⅴ』。 9月16日 よべ3:00までねられず。けさ京「赤い大陸」観にゆくと早く起き、我も7:00に起き10:00登校。山本信江来をり。梅垣女史、三村、光岡の二人就職と伝ふ。西洞院夫人より電話、近々夫の家へ帰ると。宜しと答ふ。 小野勇氏来り話しゆく。吉森幸子(藤原)より電話「東京へ旅行する故、横山に紹介状を」と。郵送すと答ふ。14:30岩橋女史と出て帰宅。千川より謝り状、11月検診ののち帰職と。 9月17日 8:30出て奈良。野崎家の前は挨拶して通り、旧の貴賓室が講師室と変りしに坐り、図書館にゆき天野忠と話す。(出がけに三木といふ女性、前田光子に復職すすめに来る)。 授業すませreport3人から受取り、小川講師と話して昼食し、長橋講師と話し、6、7月分のsalaryもらひ(6月3,200-448=2,752。7月800-96=704)、小川女史と出て前川家。よべ書きし4枚見せ、保田のこときけば「十二指腸潰瘍にて大阪警察病院に入院」と。 出て上六(古本屋で森本忠『僕の天路歴程(25)』、内村鑑三『非戦論(60)』)より警察病院にゆけば在らず。十合にゆきて前田光子に会へば、このままつとめると。児玉君に会ひにゆけば欠勤と。大森係長に会ひて云へば、本人とゆっくり話して見んと。 出て心斎橋歩き、岩井嬢とその友に会ひ、juiceおごり、成見屋へゆき電話借りんとせしに梁雅子女史の姓思ひ出せず(帰りて電話帖しらべしに見付からず)。光岡貞子より関西ペイントに勤めゐると。 9月18日(日) 前田光子より電話、「中央プラスチック社ことはりて呉れ」と。係長と話したと。布目潮渢氏より『唐方子伝注』の抜刷。原田満喜子よりreport郵送。夜、福地邦樹君来る。 9月19日 8:30家を出て順慶町の中央プラスチックK.K.にゆきしも無人。丸善へゆき図書原簿2冊(1,000)注文し、今和次郎『女性服装史』買ひ、消防局へゆけば筒井、係長としてをり、野上より返事なきゆゑ10月2日13:00阪和天王寺で待合せ10,000返さんときめる。 出て十合にゆき前田君に会ひ、決心たしかめ、児玉君に会ひにゆかんとすれば、大江叔父に会ふ。児玉君けふも欠勤。6階の販売推進部長としてゐる昌平叔父に会ひ、児玉君の病気のこと云へば承知と。入籍問題はむつかしと。 中央プラスチックに電話すれば来てくれと。行きて社長中尾唯雄氏に会ひ、保留せよといふをあきらめてくれと云ひ、羊羹返せしをまた渡され、市電にて梅田新道。 山本治雄に会ひにゆけば裁判所。昼食にrice-curry食ひ、ややして帰り来しに、東住吉農委会長高橋巌氏と一座して「川波」と云ふにて昼食に付合ふ。「湖東に11月迄に10万円は融通せん」と。折から上田女史来り「我を恨みゐる」と。佐瀬を通じてみなバレしと。3人にて「Boir」といふbarにゆき、紅茶のまされ、羊羹置き、出て梅田新道で『奉使俄羅斯日記(50)』。 高尾へゆき学校へ2冊と。矢野仁一『動く支那(20)』、高桑駒吉『東洋近代史十講(20)』。波屋書房へ寄りしに青木ら4人と会ひ、ついで安村嬢に会ひ、小林千余子もゐるといふに呼びて喫茶。 (けふ梅本に会へば女中島根より年契約で来しと。木村静子に電話して梁雅子氏の所しらせとたのむ)。帰って湖東に電話すれば喜ぶ。 9月20日 登校9:20、退屈しつつ待ちゐれば田中久美子来る。「城平叔父やや宜し」と。荒木利夫に電話すれば神戸。すみて14:00住吉へゆき硲君と話し、出しに中塚教諭(大手前高)に会ふ。梅田でbus待つまにアテネ文庫『古今集』『伊勢物語』買ひ、千鳥橋行にのりて北野高校にゆきしに藤井君、席にゐず。30分待ちて名刺置き、上六行のbusにのれば梅田へゆかずと。中津でおろされ、富士レジンK.K.に寄り、薮本君より松本広治社長に紹介さる。上平博子とちょっと話して出る。 吉森幸子より礼状。夜、赤星来る。寮生小林久夫を除いて35名と。 9月21日 けふ会社へゆくつもりなりしもやめ、10:00家を出て登校。College-hourに出て旅行の心得きき(1年出席20名、2年25名)、退屈して図書室のcardを検して岩崎嫗に講義し、教授会。 佐竹の退学認め、専修科の相談をす。長沖、西宮2氏と出る。長沖夫人わが「おしゃべり」を発見せしと。朝日新聞社より2,500-375=2,125。『薔薇25』来り、「次号の詩、月末までに」と。高木正一『唐詩選』。平凡社よりGaldanとGaldanTselengを25日迄にと。堀内民一氏より「保田自宅にて静養」と。毎日新聞より出版文化賞の問合せ。 9月22日 登校8:30、このごろ岩崎嫗を指導す。鴎外の『即興詩人』すみしこととし、『Torna a Sorrento』教へ、2部卒業の漢文採点すまし、荒木利夫に電話すれば「昨日多喜さん来阪、わが原稿のこと云ひし」と。 山本信江君さそひ「夫婦善哉」見にゆきしに満員。喫茶してまたゆきしに入れず。第2Orion座といふにゆきて「哀愁」と「我が海は緑なりき」をそれぞれ半分づつ見、信江君と別れて帰校。 木村静子来らず。2年の大野叱りて不快。『アジア史講座』2冊来をり。けふ石浜先生にきけば「成蹊詩社の会、来月に延びし」と。 9月23日 9:00会社へゆき城平叔父に会ふ。機嫌悪し。Salaryと補助金の書類受取り、栗林栄を日給150にとの案は置いてゆけと。散髪せんと思ひしも満員。漢文やり岩崎嫗と図書の打合せし、午後は試験の注意せしのみにて打切り。 15:00出て浅香山。全田叔母に会へば片山夫婦去りしと。渡、課長待遇なれど、本庁へ帰る運動せよと。婿2人のこときき、出てともに藤原静の家へ行きしに不在。浅香山の駅へゆけば来りし電車より下車。叔母に紹介して帝塚山で下車すれば赤松眞千子に会ふ。(けふ会社で補助金の中5,000前渡し受く)。 小高根二郎より25日午后中河与一氏の代理として保田を見舞にゆくと。 上田阿津子より井上恵子の便りなく心配と。片山純子より恰も母の方へ下宿人たのむとハガキ。 9月24日 平凡社のためガルダンとガルダンツェレン書きゐたれば、竹村氏見え、地坪の杭うちに来しと。これにて100坪増すと也。うどん食ってもらひ、13:00出て大阪外語にゆく途中、天地書房にて『北越雪譜(50)』。 Islam学会と南亜学会と合同の桑田博士「宋と大食(※アラビア人)」ききゐるは20人ほど。石浜、高橋盛孝、少名子、中村孝志、守屋、岡崎などの外に笠井信夫君をり、printもらひて笠井君に挨拶して出、市電にて梅田。『袖珍名著文庫7冊(280)』買ひて帰る。福地君、柿もちて来しと。 9月25日(日) 家居、臥床。日野月先生より花光健三氏1万円にて宜しき故急ぐと。井上多喜三郎氏より『骨』の原稿急ぐと。八木嬢より電話「尼ケ崎の義弟の転職を」と。「無し」と答ふ。 9月26日 羽田と上田阿津子にハガキ。岡崎精郎君よりハガキ。「天坊幸彦先生の葬儀にゆきし」と。「遺稿あり」と。日野月先生、保田へ手紙かき、「現代風景」かきて(※『骨』の)山崎君に送り、午后小阪へゆく。堀内に寄りしも本なし。松本一秀にゆけば好調と。「夫人、家購入のため神に伺ひかけに出し」と。 布施まで歩き、深[●]より天満橋行のbusにのれば、「先生ぢゃありませんか」と乗り来しは浪中の卒業生と思ひ、いい加減に相手す(岩橋女史の夫君なるらし)。森ノ宮で下車。玉造へゆきて『地中海(100)』買ひしのち帰宅。 9月27日 8:30登校、4時間つづけて試験監督なれど、国文学史は自由に書かす。修学旅行参加者30名とて西宮君叱られしと。原田裕代欠席とて西宮君電話かけしに、あとで来るとわかり、呼びて云ふ。 昨日菊地淑より来た電話ありしと。松井和佐子来るとて待つに、高校岡田女史来り、柳井君と15:00会ふこととなりをると。天王寺でと約束し、松井君と会へば「服飾出で高島屋につとめゐし中西英子gas自殺せし」と。 14:30出て近鉄にて散髪。15:15より16:00まで待ちしも柳井君来らず、けふ保田を見舞にゆきしと。大阪書籍にて林和比古と喧嘩して6月やめしと。 (けふ瀧本生に会ひしに黄疸と。木村静子この間忘れし也と)。昨日会ひしは岩橋氏にまちがひなかりし。 9月28日 typhoon来ると。12:30出て登校の途、帝塚山書店に寄りしも何もなし。行きて奈良女子大のprint切る。 昨日17:00岡田女史に柳井君より電話ありしと。16:00より教授会。専攻科文科のみ成立と。2部の及落会、原田満喜子英語不足のため半期おくらし25名及第。 18:00帰宅。保田より警察病院318号室に26日より入院、5、7日中に退院と。小高根二郎より同じく保田の入院のこと。けふ『薔薇』に「秋季試験」送る。 9月29日 8:30登校。「かもめ」で石川淳『森鴎外』。文科の歴史を自由にかかせ、古典講読書かせる間に天王寺。大和銀行で10,900引出す。利息200円ほどつきをり。天海堂へゆき『人類と婚姻の歴史(100)』『京言葉(40)』『聖母マリア(70)』『民族移動史(20)』。出て「Erie」でjuiceのみ帰校。 答案受取り、小野十三郎氏より浅香山小学校校歌受取り、昼食しをへしに院長より呼ばれ専攻科会議。我に「女性文化史」をと、可嗤。庄野英二君の出講を院長喜ばず。我は川西君の仏語をけり、一先づ文部省に書類呈出。あとにて相談せんと云ふ。 14:30出て(池田君あひまに来りしに、小野君の原稿わたす)、アベノ交叉よりbusにて上本町9丁目。古本展で春夫『幻燈(20)』と『日本の民謡』と買ひ、保田を318号室に見舞へば夫人をられ、我が手紙けふ見せしと。「胃潰瘍にて出血せしも、もはや良し」と。 17:00前出て近鉄departで鯖ずし買ひ、アベノ交叉の綿野で『ポルトガル語四週間(180)』と『奇本・珍本・本の虫(70)』買ひて帰校。 半田図書係に「婚姻きまりし。当分別居にて土日2日に会ふ」ときき、妊娠せざる様、注意せよと云ひ、岩井君を研究室に呼びて話し、試験用紙くばりて帰れば木村静子来をり。梁女史、帝塚山に住むと。ややして松尾生、漢文の点ききに来る。この前来し岡田生と共に吾を好くと。すみてアベノ橋につれゆき氷しるこ食はせて別る。 (けふ近鉄地下にて光岡に会ひし)。梅田夫人より出産予定日10月22日(土)と。けふ藤井君より電話、羽倉君に心配いらずと。(原田生、英語とれゐしとて及第26名となる)。 9月30日 筒井より電話「2日差支へあり、明日野上家へ行かん」と。「15:00まで待て」と云へば「いや」と。けふ17:00役所へゆくこととす。 元々社より千代田区神田駿河台2の1に移転と。15:30出て京橋で福地君に会ふ。玉造で市電、十合に寄り、前田光子にこの間の経過伝へ、消防局へゆけば16:55。17:15の退庁時まで待ち、梅田新道までtaxi、曽根崎の「すし亀」につれゆかれ、彼は飲み、我は食ひ、風月堂で野上への名刺托し、10,000と歌集とを明日届けてもらふこととす。彼の同級会ありしに、皆我の悪口いひしと。 10月1日 8:00すぎ出て奈良。教務課長に河村博士なりをる。聴講者card見せてもらへば国文より英文多く、その他混合なり。採点は後期と共に1回で良しと。天野忠に会ひてきけば9月23日の会なりしと。 早めにすませ(長橋講師に『Heine』贈れば小川講師へんなりし)、昼食すませて前川家へゆけば、夫人、根来寺へゆきしと。佐美雄に保田の病因と財産問題とききて楽しまず。 野崎家へゆけば永島福太郎氏をり、関学に行きゐると。やや話して出、服部家へ寄る。キョウ子高津中学へ通ひゐると。将棋して帰り美奈子に会ひし。 けふ児玉君より電話「男児けさ出来し」と。村上新太郎氏より詩の受取。佐々木邦彦君より四條河原町「西京都ギャラリー」にて5日まで素描展をやりゐると。吉崎雅子よりtyphoonを待ちゐしと。梶原来り、1万円貸せといふに2,000貸す。  10月2日(日) 〒なし。家居。京の運動会とて悠紀子、弓子ゆく。午後、依子出しあと福地君来り、16:30まで話す。 10月3日 tyhoon23号来ると。家居。悠紀子を府立病院の小野和子の見舞にゆかす。自動車にのり早期破水せしと。児玉家にて入籍その他の手続して呉れると。松本健次郎よりハガキと、寝小便のこと書きし冊子と。 夕方湖東に電話すれば木曜頃まで忙しと。筒井より電話かかる筈なりしもなし。夜、『白珠』の為「立原道造のこと」13枚書く。 10月4日 [23]号はそれて滅えしと。会社へゆき父に会ひ、栗林のsalary150×17もらふ。busにて大江の坊やと同行。大手前高校へ寄り、吉 永、杉野2先生と話し(石山氏病気と)、西宮君に遇へば原田裕代の家へ行ってくれと。諾して府庁へゆきしも坪井不在。原田裕代の家探しまはり、探しあてれば全家不在。夜再来を伝へてもらふこととし、天王寺へ出て短大。守本氏に会ひて原田を旅行に参加させざるを云ひ、出れば雨烈しく正門前で拾ひしtaxiにて府立病院。137号室の小野和子を見舞ひ、搾りし乳見せられていやになり、北沢君に電話すれば不在。別れを告げてアベノ交叉より天王寺まで歩くみち、湖東(姉)に会ふ。久美子のこと知りをり。『ドイツ抵抗詩集(30)』『日本書紀3(70)』買ひて帰宅。 岩崎昭弥よりわが詩集用の金(※ポケットマネー)つかひしと。 入浴、夕食ののち原田裕代の父に会へば事業再開の為、娘のことに心廻らずと。今もArbeitの先を知らずと。罵倒すれば法華経信者にて成行を楽観すと。呆れて出れば駅にて裕代に会ふ。(※修学)旅行にゆきたしと泣くを、止めよと云ひて別る。桑田忠親『千利休』買ひ、soft-cream喫して帰宅。けふ筒井より電話あり、野上10,000受取りしと。 10月5日 試験休み。一眠りして楳垣氏にと電話すれば未だ来ずと。午、電話あり原田裕代のこと云ふ。他にも間ぎはになるまできまらぬのがありと。西洞院淑より手紙。「肋膜で病臥、他よりもて来し就職を先生に任しありと夫ことはる。舅もせかす」と。 午後また〒。松本健次郎より夜尿症のこと。漱石のは「道草42」に験ありと。露伴は幸田文の「みそっかす」にありと。史の日記に「父母ともに不快」と。こちらも不快なり。梶原方々に借金あり、ずっと休みて居所不明と。悠紀子そを知りて貸せしと、これも不快なり。「予定されたることを覆さんと予定されたる家に入らず」とXが云ひしを忘れず。 10月6日 湖東より電話、山本にゆかんと。13:00梅田新道で会ふこととす。安田章生より受取「12月号にのる」と。秋山昭子氏よりこけし人形贈らる。 11:30出て京橋より市電にて山本事務所へゆけば12:45まで帰らず。湖東迎へにゆき「みます」でcoffeeのみてきけば、地面9,000 で売れることとなり、10万円で餘る予定と。13:30来し山本に引合せ11月初に貸すことを約束す。 出て梅田新道で別れ、高尾書店へゆき、学校へ本送らせ、我は『那珂東洋小史(20)』『那珂東洋略史(20)』同じものなれど後者の方、先に出版され可怪。 けふ筒井に電話すれば野上「遊びに来てくれ」と云ひし由。〒後便にて『新論5』と近江詩人会の案内。 10月7日 8:30登校。教育心理の試験立会は宜しとなる。漢文の問題切り、日野君と話し洋雑誌のlistもらふ。市立美術館の藤井源一氏、講師ことはりしと。吉岡生に電話して原田生の代りに払ひし旅費いづれ返却すといひ、basket部の住山に中島生の家教へ、菊池妹に土日の来訪を止め、横浜商高の小島樹君と堺市の紋野英子(女詩人と)の手紙よみ、salaryおくれると三苫君よりききて、『那珂東洋略史』贈り、石浜先生より日本中国学会の案内受取る。 午后、長沖氏来り聞けば、西洞院夫人より便りありしと。午后すまして早々帰宅。岩崎昭弥より雑誌のこと。港野喜代子氏より『魚のことば』。午后便にて浅野晃氏より「詩の雑誌出せ」と、ふしぎ。 百済璋子より天の橋立の絵はがき。 けふ今村氏、梶原のことしらべに来寮と。入質の期限切れかかりし他人の物多くある様子。家へ手紙せんかと、とへば「2、3日待て」と。夜、小島氏に「大鵬賦(※李白)」写してやる。よべ京、遺尿。わが子にして珍し。毎日の出版文化賞に泉井博士『世界の言語』推す。 10月8日 30円もちて家を出るまへ、菊池家に電話すれば成子すでに留守。母君、西洞院家との喧嘩を長々と話さる。天王寺の大和銀行にゆき10,200引出し、3ヶ月の定期買ひ(2,540)、天王寺美術館にゆきて藤井源一氏に会ひ、短大へ出講すすめしに夜学だけ承知と。樋渡氏とも埴輪展で会ひ、別れて行動展見る。芥川比呂志君のHamlet画きし向井潤吉の絵あり。西垣修のはChrist処刑図にて、こたびはやや良し。市立図書館にゆき館長吉井良顕(大高1回)と話し、片山君とて良[●]の弟がcard作製すと云ふに紹介さる。 出て公園出口にて望月氏に会ひにゆく木村英一氏に遇ふ。アベノ交叉まで歩き、古本屋見しが何もなく、『岩波小辞典 日本文学古典』買ひ、省線にて鶴橋。まむし食ひ、京橋へ出て、四貫島の暁明館病院にゆく。中西院長は分院。岩崎氏見舞ひ、出て桜橋。蘆花『自然と人生』もらひ、弓子に本買ひて帰宅。 留守中、筒井に来し野上より電話かかりしと。けふ省線にて竹村氏に遇ふ。今川夫人タバコ屋やるとてゆくと。原田裕代より礼状。天理図書館より18日の開館記念日の招待状来る。 10月9日(日) 9:20登校すれば、鍛治君来をり。途中、西宮君と一緒になり原田の件で説教しておきし。楳垣氏欠席(のちほど睡眠剤中毒とフラフラ来らる)のまま、卒業式始まる。文芸26名皆出席。 すみて石浜恒夫君来り、美術史の講師のこときまる。花光氏のこと長沖氏と相談し、小野勇氏の代講に推薦せんとす。謝恩会まへ、岩井生([過]卒業生ただ一人の出席)に『戦後吟』やり、謝恩会中、松尾生に『戦後吟』やる。皮肉屋と紹介受けし我より、東田君のずばすば云ひに呆る。すみて白井に行き見しに転宅。 学校へ引返し、菊地成子に電話し、原田裕代に連絡し東洋棉花受けさせよと云ひ、天王寺にて決心して大江へゆけば、叔母この間の細川女のおかげで女中ゐつくやうになりしと。梶原に2,000貸せしを叱られ、ねんねこも高すぎるとたしなめらる。 port-wineのみて梅本にゆく。田舎より来し女中、宜しきらし。肥下にゆけば夫人羽曳野の病院に入院と。 寺田町で炒飯食ひ、石塚で『続膝栗毛(50)』買ひて帰宅。 けふ齋藤かずえより教員免状受取ったと。(日野月先生に小野君に連絡し、推薦させよと云ふ。清水文子に電話せしも不在)。 10月10日 朝、福地君より電話「午後来る」と。〒日本著作権協議会よりのみ。子ら女3人とも運動会休み。 14:00福地君連れ来しに伊東の女弟子、大東夫人。用件は従弟(夫の)に疋田紀子の縁談あり、問合せと。ほめてすみ、菓子おきて帰りしあと入浴。夕食して16:00前登校。 Salary出、税金少し安くなり、本俸26,300+家族手当2,400+手当6,300=35,000-(税2,015+慶弔会費30+市税730+保険料2,112)=30,113と。 昨日卒業式に来ざりしと遅刻とを咎めて新授業の1年生こはがらせ、2年も叱り、あてし伊東、吉本、予習せざりしとて早く切り上げ、地下鉄にて大阪会館にゆけば多喜さん(※井上多喜三郎)と女詩人木村女史とまちをり、多喜さんより『骨』の校正日きかれ、欠席を云ひ、源一郎君ともなひてcoffeeのみ、大阪駅にて21:17にのる多喜さんに飴わたし、3人にて梅田の鳥料理小島家といふにゆき馬鹿話し、autoにて木村女史送り、自動車強盗の非常警戒にひっかかりて京橋着。22:43にのりて帰宅。 『文芸春秋』買ふ。けふ学芸大の坂井氏といふより電話あり。日本予備校引受けしとて引継をきかる。 10月11日 登校。「奥の細道」の句を抄しprintし、旅行の注意す。久美子と散歩約し、原田に貸せし8,000受取りて吉岡信子訪ね返却し、住吉東よりナンバへ出、喫茶し、きけば松尾とはこの間会ひて話合ひしと。 天牛の隣で雑煮くひて、野崎君に挨拶し、地下鉄にて天王寺をへ、学院へ引返し、誕生会といふに出て、銀の匙1本もらふ。 けふ学校へ日野月先生より手紙「花光氏時間なしと云ふを説きて時間作らせることとした」と。ふしぎなることかな。17:00帰宅。 菊池眞一氏より「江口、前田両氏に会ひ、うはさをききなつかし」と便り。服部より「藤沢桓夫氏に講演の斡旋を」と。 夜、赤星来り梶原の捜索をしゐると。女と逃げゐるらし。(けふ北沢みち子に会ひしに、小野和子を見舞にゆかざりしと。披露宴に出てくれるかと云ふに、出ると答ふ)。 10月12日 college-hourなく、教授会なきゆゑ家居。朝、城東工高へ電話し、末吉に来よと云ひ、短大筒井嬢より日野月先生の速達来しと電話。15:00末吉の来りしと話しゐる中、羽田君より電話「天王寺にゐる」と。17:30大阪駅でと約束して末吉と出、「北京」にて御馳走し(1,120)「Calm」で茶のみて別る。 けふ八木嬢より「17日は平常通り。18、9日の為わが家にて泊れ」と。蒲池氏より『中國現代詩人』。『日本歌人9月号』に「現代詩の散文化2」のる。夜、梶原より電話。神戸のHotelにをりとて、赤星ら会ひにゆきしと。 10月13日 9:00前登校。一昨日朝日の雑喉氏といふが訪ね来てぜひ会ひたしと云ひしと。日野月先生の速達見れば「朝1時間目をよこせ」と。無茶なり。 歴史すませ、産経の鎌田君の電話をきけば阪大英文卒見込の女子を世話せよと。古典の時間「ぢいさんばあさん」よみ、帰り来れば中国書ひっさげて来る。『宋江三十六人考實(70)』『晩清戯曲小説目(140)』『京本通俗小説(50)』『宣和遺事(70)』『元史紀事本末(130)』『瀛涯 勝覧(80)』『長生殿(360)』『論語疏証(540)』『元代白話碑(320)』にて1,760、廉し。 雑喉氏に電話せしも不在。文芸のclass写真とり、長沖氏に逃げられてのち、原田裕代の授業料未納なれど証明書発行のことを三苫君に談じこみ、出て上六。日本予備校に歴史のプリントわたし、小野勇氏の宅を訪ぬれば不在。鶴橋まで歩きて帰宅。 田ノ上に会ひしに梶原帰り来しと。あとで詫びに来る。寸借詐欺になることを教へ、入浴。 けふ堀内民一氏より電話。15日奈良で『日本歌人』の歌会あり、出よと。横浜の小島氏より「大鵬賦」の礼。浪速中学より16日運動会と。杉本長夫氏より詩集。 けふ上六の関急産業に木村静子訪ねて月曜に来よといふ。 10月14日 10:00登校。杜詩のprint切り、筒井より電話ありしときく。産経の鎌田君より12:30来ると。漢文すまし鎌田君と出て上町線、地下鉄、淀屋橋よりtaxiにて土佐堀のYMCAにゆきcoacher関大の藤原君と十時、中島、楠戸、久保田4生と6人にて卒業albumの写真とり、出て朝日新聞へゆき、校閲の雑喉氏呼べばまた不在。後藤孝夫呼びて伝言たのみ、労演へゆき佐瀬君より上平博子恋愛中ときく。 出て大阪駅まで歩きて帰宅。(筒井に電話すれば16日野上と来るゆゑ、徳庵駅まで14:00迎へに来てくれと)。新大阪新聞より随想3~4枚をと。小高根二郎より16日来訪と(福地君よりも都合問ひ来りしと)。 山前実治君より15日校正会と。前川佐美雄氏より明日16:00雲井荘にて座談会と。 けさ日野月先生に速達し、花光氏の断念を乞ふ。夜、福地君より電話、日曜の朝来ると。(住山生、九州の土産に蜂蜜呉る。中野トシ子病気しをりしと。昨夜来て河童こけし人形呉れしと)。 10月15日 菊池眞一君に『戦後吟』送り、10:00前奈良女子大へゆき、天野忠と話しゐれば、服部英次郎氏、学生課長をつれ来り、「11月5日午后3時藤沢桓夫氏を招きたく交渉たのむ」と。天野君にsalary-day毎月17日ときき、講義すませ小川講師にも『戦後吟』贈り、出て前川家に寄り、緑夫人と話せしあと16:00よりの座談会ときき、野崎家へ寄れば、その嬢には年下の商ひやる養子をと。 出て放送局にゆき、安部局長よび出せば、麻雀中。講師に来る気あり。出て15:00雲井荘にゆき寝て待ち、16:00すぎ横田利平氏来りしと話し、ついで前川主宰、横田俊一、堀内松花、堀内民一と集り、座談会といふこととなりしもtape-recorder旨くゆかず猥談のみ。保田月曜退院と。11月23日浪華荘で出版記念会と。 20:30までをり、出て急ぎ梅田駅へゆき文芸29人の(※修学旅行)出発を見送る。山本[蔵]助夫人令息、菊池夫人、西洞院君など来をり。原田裕代、吉岡の2生と出、原田生に授業料分納をさとす。朝日雑喉氏より電話あり、明日午后来ると。平凡社より「起運(存留)」書けと、断らん。 10月16日(日) まづ福地君来り、「春風馬堤曲」しらべ午まへ帰る。ついで野上、筒井の2君を14:00駅へ悠紀子に迎へにやりしに(我風邪)つれ来り、菓子たまひ5,000返済さる。令嬢今年6年、来年学院の中学へ来る様子。筒井にbeerのませしあと、送り出せば雑喉氏。吉川博士の紹介の刺もちて来る。用件は花光氏のこと也。 福地君再来して話す中、小高根二郎君来り、肥下に会ひしと。新しき雑誌『Sum』ときめ、見積り、同人選定など来月[●]宇治(※小高根宅)へゆきて相談すときむ。8pがよからんと。 10月17日 短大へ電話すれば石浜恒夫君の授業4時限と。それより髭剃りて12:25に着けば、長沖氏紹介に来てくれしと。奈女大の11月5日の来講2氏にたのむ。けふは石浜夫人の一周忌と。 児玉君に電話すれば洋史(ヒロフミ)と名つけしと。明日悠紀子とゆくと云ひ、15:00出てナンバ。荒木利夫訪ぬれば東京出張。天牛で『歌合集(80)』、南店で『東洋ア史大辞典9冊(10,000)』を学校へ注文し、帰りて藤原静と話し、1時間すませば木村静子、岩井美代子、平岡英茂来る。1時間またせ、岩井生より歌集代100もらひ、木村、平岡2嬢と天王寺、お好み焼き食って別る。 けふ久美子に会へば城平叔父、河原町叔母とも臥床と。 10月18日 天理へと雨中をゆけば薮君に会ひ、taxi用意ありと。のりて10:30図書館につき、鈴木氏の室で元館員星川清孝氏に会ふ。茨城大教授と。長沖氏への伝言托さる。 11:00(※開館記念日の)式はじまり御神楽歌をきく。式後、宴はじまり中村大阪図書館長、貝塚、岩村、江上、泉井、藤枝など諸学者あり。『中國地誌目録』『Christian MissionⅡ』などもらひ、高橋重臣、山田新之輔(朝日より写真『天理』出すとて来りし)と『Sum』の話し、大浜、鳥居(海軍大佐なりしと)と話し、『清実録』借りて東詣所へゆき、八木嬢の隣室でとめてもらふ。 10月19日 早起教とて5:00頃よりガヤガヤし、6:00八木嬢起きるまで待ち、よべ『清実録』早くすみしを云ふ。 9:00出て駅まで歩き9:55の天理発にのり、生駒で下車。服部(※服部正己)にゆき藤沢桓夫氏招致の媒介ことはる。夫人のみなり。  12:00すぎ帰宅。梅原糸子氏より薬師寺君(※薬師寺衛)の十周忌とて虎屋の菓子。多喜さんより礼状。辻芙美子より近況。筑摩より税の申告。悠紀子ねんねこ持ちて小野和子にゆく。われ風邪なほらざれど午睡の後入浴。 10月20日 風邪を押して登校。1限すませ帰り、暴風警報出しに気付き学校へ電話し、三苫君に休校を云ひ、帰りてまた電話すれば休校せしと。但し暴風は13:00すぎより去る。 けふ学校へ『中國文学報3』。硲君より「アフガニスタンの旅」の案内。梅田善彦氏より「18日男児出産、母子ともに元気」と。大東夫人より礼状。桂周作君より追分の絵ハガキ。森井順子生、大館より同。 p20 10月21日 9:00出て天王寺より市電でナンバ。府立体育館へゆく。久保田、中島、十時、楠戸の4人と肥後のteamにて滋賀大学teamと対戦、17-7にて勝ちゐるを見て帰校。のちほど大勝せしときく。長沖氏に会ひ藤沢桓夫氏のこときけば、すすめておいたと。石浜恒夫氏に電話してきけば「朝日新聞の小説にて忙し」と。 湖東君来て『本草綱目』の雷丸の項よます。 ともに出て北畠で下車、住高へゆけば硲君PTAに出をり、『瀛涯勝覧』贈りて帰る。アテネ文庫の『増鏡』『近松』を買ふ。きのふつきし書目に琳琅閣に金尚憲の詩集10冊10,000にてあるを見る。 けふは十和田湖より4枚(※修学旅行中よりの便り)、中に西宮君(よく眠り、用なしと)と菊池生のとあり。 10月22日 早めに家を出てゆきしも、奈良女子大に着きしは10:00すぎ。早速教務へゆけば林女史、手当とり来らんと。弁当代の立替へ(40)せしと。こはふしぎなり。学生課へゆき課長に会ひ、藤沢桓夫氏のこと云ひ、叩頭し、ついで横田氏の研究室にゆき、この間のこと云ひ、図書館の天野君にも会ふ。手当は(800-96=)704なり(9月分)。 講義すませれば史学科の3学生来り、演習の漢文教へさす。服部氏「(※藤沢氏斡旋の件)桑原氏よりもことわり来りし」とて苦い顔しゐたり。 14:00前川邸へゆき夫人に会へば、この間の録音入らざりし故、要旨書けよと。天満ですし食ふ。駅で会ひしは去年2部卒の横田久子。菊池眞一氏より「来月9~13日来阪、会ひたし」と。田中雅子夫人より米沢(藤田夫人)と渋谷のdepartで邂逅せしと。平中苓次郎氏より「同窓会を2日17:00三條春豊園で」と。 10月23日(日) 京の学園文化祭に悠紀子ゆく。我14:00出て梅田で『万葉集辞典』『世阿弥』とアテネ文庫買ひ、松井信子姉妹と待合せて文楽座へゆき「Romeo and Juliet」のみ観て、誘ひ出し夕食。Taxiにて上六までゆき、鶴橋にて姉と別れ、京橋にて妹と別る。11月3日9:00より人文科学研究所にて京大東洋史談話会と。新坂、浜谷2生より「松島雨なりし」と。 10月24日 〒なし。午后、会社へゆけば城平叔父まだ欠勤と。書類出して登校の途、『唐詩入門』『漢代の社会』と買ひ、着けば鍛治君をり、同窓会にて忙しらし。 日野月先生より「花光氏了解、先生も高野山大学教授となりしが名のみにて無給」と。吉田定一氏来り、文学雑誌に月末までにEssey10枚書けと。長沖氏の推薦と。 中村貞子生呼びてきけば「結婚の相手ことわりし」と。父君祐介氏は学校反対と。久美子呼びてきけば城平叔父、疼痛にて大騒ぎなりしも、やっとやや軽快と。岩橋女史にきけば愉快なりしと。西宮君も同じと。バカらし。 夜、四方生『和泉式部』返しに来り、柏原、木村、清水、瀧本、西岡、平岡の外、中野トシ子来る。中野生、盲腸炎にて死にかけしと。7人でアベノ橋で喫茶して帰宅。 p21 10月25日 登校。山本、増田組で人形、菊池、森井組でこけし人形(※修学旅行)みやげに呉れ、全員より栞と菓子と呉る。久美子呼びてあとでゆくと云ひ、出るところへ硲君来訪。文化の日に上京するやもしれずと。加藤夫人と話しつつ天王寺、城平叔父見舞ひ、正平に英語きかれ、出て湖東の新築工事見、宅へよれば不在。 けふ学校へ浜谷照子来る。中山八郎氏より「虬髯客伝」のprint。在東の藤田幸子夫人より「田中雅子夫人に会ひし」と。 10月26日 よべよりの雨、午后にやむ。『日本歌人』のため「短歌と詩」9枚書き、研究年報の「金尚憲のこと」を書きはじむ。 「北沢みち子と伊藤和一氏との挙式11月11日17:30新大阪ホテルで」との案内来る。八木嬢より「Das zerbrocheneRinglein(※アイヘンドルフ「壊れた指輪」)」の写し。「20日に来阪、電話する」と。 小高根君に「3日午后ゆく」とハガキ書きしに、夜、福地君より電話あり、来てもらへば「上六にて6,000円余にて刷りくれる印刷屋、父上より見付けてもらひし」と。3日15:00ごろ小高根家にて落合ふこととす。伊良子清白『孔雀船』賜ふ。 10月27日 8:30登校。鍛治君より早かりし。北沢みち子嬢の披露宴に出ると返事。すみて荒木利夫に電話すれば15:30まで会議と。湖東君に電話すれば外出と。 市電にて饗庭君に会ひにゆけば不在。俣野にゆきしも亦不在。 森宮を経て帰宅すれば、菊池生より電話ありしと。ややしてかかりしをきけば、西洞院夫人にして夫君の従弟の就職たのむと。夜、湖東より電話、300部なら5,600にてやると印刷屋云ひしと。 けふ原田裕代の父より、娘遠慮して登校せずと。梅垣女史にきけばArbeitしをると。 10月28日 徳庵で散髪して登校。西宮君上機嫌にて旅行談す。午后湖東君来り「桑津の印刷屋にてなら(※元市印刷株式会社)」といふ。ともに出て近鉄departで喫茶。寺田町で下車、文庫Que-sais-je(※文庫クセジュ)の『ルネッサンス』買ひて帰宅。 11日東大阪大高clubの会と。ことわる。奈良女子大より来週休みと。毎日新聞より出版文化賞の内定。夜、会社のsalary来る。 10月29日 奈良女子大の途中、前川家に寄れば、佐喜雄氏串本へゆきしと。原稿おきて登校。天野忠君に正倉院同行を誘ひ、授業すませば小川講師もゆくと。3人にてゆき見畢りて「湖月」にてしるこ食ひ、小川氏と鶴橋まで同行。梅田に出てアテネ文庫『サラセン文化』買ひて帰宅。 大高clubより13日13:30より阪大南校で同窓会と。欠席の通知す。けふ博物館にて平岡武夫氏夫妻に会ふ。 10月30日(日) 梅田惠以子夫人より幹人(みきと)と命名せしと。12:00福地君より電話、来よと云ひ、きけば斎田昭吉君は十合時計部に勤め、その斡旋にて16p、5,000以下にて出来ると。も少したしかめよと云ふ。 16:30八木嬢より電話、大阪駅にゐるとのことに呼び、『清陰先生集』(※金尚憲著作)の捜索をたのむ。琳琅閣より返事なきが故なり。送りゆき、電車賃なしとてまた引返し100貸す。夜、『大阪人』のため随筆かかんとせしも旨くゆかず。 10月31日 朝、鍛治君より電話、『清陰先生集』売れたとの返事ありしと。けふ〒なし。 16:00学校へゆきしに同窓会の幹事会は8日と。菊地淑君の置きゆきし履歴書、西洞院愛信とて市大商学部を来年卒業の見込と。久美子にきけば城平叔父、笑ふやうになりしと。 けさ書きし「私は大阪に帰ってきた」13枚を預け、鍛治君と話す中、中野トシ子現はれ、やがて夜学はじまりしを最後まで待ちゐる。天王寺まで瀧本生を誘ひ、結局瀧本に逃げられ、むっとして追ひてあやまらんとすれば中野生もゆくと。アベノ交叉で下りて帰り来る。 11月1日 登校。山本恭子、増田と来り、basketの応援にゆくと。止むれどもきかず。昼、フシヤとやら云ふ出入の本屋と話し、月1万円づつ買ふこととなりゐるを知る。岡田女史の紹介にて近鉄宣伝課の福持君来る。伊賀赤目の人と。宣伝用の写真のmodelを出せと。梅垣女史に紹介す。 14:00帰り、亀井昇11月5日結婚との通知見る。硲君より電話「上京す」と。 けふ帰途、平中苓次氏へ明日の会欠席の速達す。吉田定一氏に原稿わたす。弓子、早朝白浜への一泊旅行に出発す。小野洋史の宮参りとて小豆。(原田裕代、滞納の半額出せしとて来をり)。 11月2日 きのふ欠勤の届けして、けふ教授会にも出ず。羽倉君より電話かかりしも出ず。八木嬢より100送り返し『清陰先生集』東洋文庫にはあり、天理にはなしと。 父来り18:00弓子白浜より帰り来る。我にpipeを買ひ来りし。 けふ「発刊の辞」書く。夜、福地君来り、23:00まで話す。 11月3日 北川労組組合長より電話あり、来りしにわれ清田の減俸取消申請書に捺印。9:30出て京大人文科学研究所へ11:00着。小野勝年氏に玄関で会ふ。前川氏に紹介受けしも住宅資金に落選。我に30万円貸せよと。 『東洋史研究』の羽田博士追悼号受取り、110払ひ、会場にて浦廉一氏の話にゆき、やがてすみしあと仁井田博士、中村治兵衛、鈴木俊、百瀬弘の諸氏と会ひしも話さず。やがて蒙古班とやらの岩村、藤枝、内田吟風、鈴口、青木富太郎と駸々堂にゆきsandwich & coffee。 すみて別れ、『台湾蛮界踏査記(70)』、中村地平『日向(70)』、『近代日本女性の解放(50)』買ひて京阪書房。学校へ本註文し、小高根家へゆけば15:10。 福地君、既に来をり、19:00までかかりて(※雑誌タイトル)『果樹園』ときまり、17氏に参加勧誘状出すこととなり、(けふ嬢の誕生日とて夕食よばれし。『日向』を近々宮崎にゆくと云ふにおく)退出し、京橋にてcoffeeのみて帰宅。 天理図書館よりまた『地誌目録』1冊。『薔薇No.26』。 11月4日 登校。Salary出てをり、教授会で来週水曜遠足実施と。長沖氏の夫人の実家のある道明寺天満堂ときむ。 日本予備校の石川氏より電話「補講してくれ」と。「忙し」とことはる。出て天王寺より地下鉄にてナンバ。荒木利夫君訪ねしにまた不在。米沢薬局に一寸顔見せ(裏にゐし東嬢転宅、四条畷に新築中と)、市電にて京町橋下車。御霊神社にて同窓会名簿買ひ(350)、佐瀬に寄りしも不在。 朝日へゆき、山田新之輔に会ひて話せば『果樹園』参加承知と。Coffeeおごり桜橋まで歩き、高尾で『菅原伝授手習鑑』買へば2なりし。市電にて京橋をへて帰宅。松尾さよ子より卒業の礼状。夜、山前君より電話、『骨』出来上りしゆゑ6日(日)17:00依田邸へ来よと。 11月5日 元々社より1月~9月印税調書54,000中8,100と。村上新太郎氏より、この間の詩、女性に評判よかりしと。山前君より「同人費もって明日来れ」と。午后出てすし食ふ。 11月6日(日) 今中同窓会報来りしのみ。芳野(※芳野清)、岩崎(※岩崎昭弥)、高橋(※)3君に勧誘かきしところへ福地君来り、斎田昭吉、谷口の2君承知したと。18:30依田君より電話「みな集りゐる」と。風邪を申し立てる。 けふ疋田嬢より電話、盲腸手術にて13日欠席と。夜、京、歯痛で泣く。 11月7日 池沢茂、小山正孝2君に(※『果樹園』勧誘)ハガキ。和田先生に案内のハガキと『中文地志目録』郵送(48)。菊池君より「9日9:00天王寺へ大和号で着きあと2時間ほど話したし」と。 14:30出て登校。採点ほぼすます。中野トシ子来しが会はず。2部2年御手洗生せめなければならぬと泣く。きけば両親なく勤先の温情にすがると。けふ瀧本生忙しと峯和田より電話かけ来る。 11月8日 9:00すぎ出、近鉄departの開くを待ち、『東京案内』2冊買ひて登校。けふもbasket-ballの試合とて部員欠席。久美子来りて明日の遠足にゆきたく守本氏に云ふと。「国文学史」すまし岩崎嫗にきけば一般図書費あと2,000と。 13:30出て(けふ道満の父君来り、昭和6又は8年生れの嫁ほしと)、北沢家。歌集とともに3冊お祝ひとす。みち子嬢の姉君挨拶に出らる。東京四谷のApartに住むと。守本氏も招きしと。 住高へ寄れば硲君まだ帰らず。山本重武君と話し、出、『アテネ文庫』買ひて帰宅。 菊池氏より電報「明日来ずあと文」とありしと。伊東の弟子、山根忠雄氏の詩集来をる。久美子に電話し、明日旅費もちゆけと云ふ。 11月9日 9:20登校。まちて10:20出発。1年生55人と石浜、長沖、西宮、鍛治、山本信江の5人の付添。道明寺天満宮、道明寺を見て、南の村外れの長沖氏夫人の実家で昼食。すみて薄田隼人の墓を見、誉田八幡に詣でて帰校。 山本正子といふがまたやめたしと云ふと笹尾生の話。学校へ西垣脩君より『果樹園』に参加との手紙。 出て府庁へゆけば坪井席にあらず。三竝と荒井に茶おごられ、引返して坪井に会ひ、西洞院愛信(よしのぶ)君のこと云へばむつかしと。帰りて菊池夫人に電話し、明日学校へ来よと云ふ。(けふ道明寺へ山荘、和島の2嬢来り、山荘君に道満氏の件話す)。『日本歌人』10月号来り、東幸子より大領町1の13にありと便。けふ田中秀子の話にて、千草の友、三好信子(既に死亡と)の妹、千草のことききをると。 11月10日 寒し。登校。昨日よりgas stove入る。11:30西洞院君つれて淑君来る。府教委の試験の手続せよと云ひ、中々ないと云ふ。小野十三郎氏にきけば浅香山小学校[之]歌につきよばれ渡敦子に会ひしと。礼はまだと。 湖東君来り、きのふ山本より10万円貸してもらひ、利子15%ときめしと。ともに出て帰宅。昼寐せんとせしが出来ず。(赤松眞千子、養子を21日に迎ふと。院長よびしとて趣味を電話できく。院長と図書室のこと話し、一般4万円を(※図書費に)流用ときめる)。 吉崎雅子生より一度会ひたしと。夜、池沢茂より電話、読売校閲部と。来週水曜電話して会ふこととす。 11月11日 冬over-coatにて出て散髪。登校して授業し、長沖氏より750もらひ、17:00のつもりで出て天王寺で靴みがき、淀屋橋へゆき時間余り喫茶し、高尾まで歩き『馬来語会話(20)』買ひ、taxiにて新大阪ホテル。神崎、守本、竹内(小学部)の諸教員と則武、村岡、青木房子(結婚せしと)、北野和子(?事実上の仲人と)などの同窓生と。 新郎は伊藤和一とて丸紅専務の息。クレムにつとめゐると。北沢みち子別れぎは我を認めしらし。またtaxiにて大阪駅、疲れて帰る。記念品に一輪差しもらひし。 『骨10』来をり。井上恵子より布施の採用試験おくれゐると。小山正孝君より『果樹園』参加承知と。 11月12日 よべ眠られず。7:00起きて朝食。下調べせずして奈良へゆき、横田俊一氏に『骨』贈呈、曽沢教授に紹介さる。天野君に会ひ『骨』脱退を云ふ。 講義すみて小川講師と話し、前川家に寄り、26日亀井君と会ふといひて出、眠くて家まで直行。 和田清先生より『中文地誌目録』受取った、上京望むと。芳野(※芳野清)、浅野(※浅野晃)二氏より『果樹園』参加と。 p22 11月13日(日) 起きて飯食ひて出れば10:00すぎにて11:30学校へゆけばやっと始まる所にて、来会者多し(※同窓会総会。出席者一覧書き出しあり)。歌と踊りとすみて昼食。長沖氏の来るを待たせしも14:00すぎて文芸散会。ことし卒業の連中にさそはれ諾しながら山荘、和島、椿下、本多、安村、鍛治富子と出て戎橋で喫茶。別れて梅田までbus、帰り来れば福地君来りしと。 夜、電話ありしに呼びて22:30まで話す。けふ井上多喜三郎君よりハガキもらひ『骨』脱退理由を『果樹園』のためと明かせし。 11月14日 多喜君への手紙。浅野、芳野、小山の諸氏にハガキかききしあと、岩崎(※岩崎昭弥)より参加と。体悪しと。 14:30出て山前へ2,000現金書留で送り(53)、登校。藤原加代に贈られし柿食ひ、夜になりて来し瀧本、岩井、藤重と話し、瀧本より「中野トシ子先生に惚れゐる」ときき、出て天王寺にて産経体育部に勤むる和田生と同車。『骨』1冊を社へと托す。 菊池君と電話、来阪しゐると。けふ駅にて父に会ひ、きけば城平叔父けふより出勤と。来月1日より上京すると。久美子にきけば大江の女中帰りしと。 11月15日 菊池君より電話かからず、9:00出て登校。二見行のmodelとして楠戸、中島の2人をすすめ、岩橋女史について行ってくれるやたのむ。 風邪気にて出、寺田町石塚にて『空より見た東京湾(70)』『金印の出た土地(75)』買ひて帰宅。 『白珠』12月号。森田宏子夫人より挨拶。綾部より3人来り、鳴田の行方を問ふ。4、5万円もちて女つれて家出し、2、3日前寮に来りしも衣川がかくしてくれと云ひをると。22:30三人また来り明日来ると。衣川にきけば結婚を反対され逃れ来しと。 11月16日 9:50まで待ちしが綾部の3人来ず。登校。11:45より図書室のこと話す。旨くゆかず。すみて池沢待てば14:00来り、『果樹園』同人は承知と。原稿はかけるや否わからずと。 山荘来り、写真わたすを待ち、雨の中を出て松虫で池沢と別れ、道満家へゆけば父君不在。洋子に伝言たのみ帰宅。 電話もかからざりしと。けふ楠戸・中島modelとなることをやめると。試写に来りしも会はず。 11月17日 登校。学長によばれ図書室の建築計画きく。400万円の予定と。亀井勝一郎君に「28日(月)15:00より講演に来てくれぬか、礼は3,000位」と手紙かく。 児玉敬子来り南[●]輪中学に勤むと。小野十三郎君に講演たのむと。またせて話しゐる中に『知性』編集長ら、また小野氏にと来る。児玉君会はせ、鍛治君と盲腸にて市大病院に入院の疋田紀子を見舞ふ。近日退院と。大東夫人の親類は心当りなしと。 高橋重臣君より「同人承知」と詩1編。「司書の件、具体的には如何」と。 井上多喜三郎君より『骨』脱退承知と。山前君より同人費受取ったと。 けふ大安書店来り、また1,000余、本買ふ。 11月18日 登校。楳垣教授、川西君に年報の原稿たのみ、学生にも書かしゐると、不快。午后学長に司書として天理短大出を雇ふことを考慮せられよと云ひ、半田生の退職については我より話すこととなる。冬のArbeit雇ふは宜しと。中井生ら同窓会の幹事と話し、出て地下鉄にのれば藤原恵氏「朝日へ遊びに来よ」と。 十合にゆき斎田昭吉氏と会ひ、茶おごられて話す。別れてbusにて梅田新道、大安書店に1,760払ひ「Boir」をのぞけば山本をり、湖東の礼云ひ、市電にて京橋をへて帰宅。 奈良女子大より三和布施支店へ3,200-448=2,752。千川義雄より大阪病院の許可もらひしも12月15日頃まで入院し、来年早々出勤と。奈良女子大より「12月1日以後、10:30に始まる」と。 小高根二郎君より上村肇氏参加、中村地平、中河与一の2氏応援したまふと。 夜、鍛治初江君より電話、二見浦への監督にゆくと。きのふ大安より買ひしは『中國歴史要綱(440)』『九朝律考(360)』『殷代社会生活(160)』『中古文人生活(100)』計1,060。 11月19日 8:30家を出て布施に下車、三和銀行にゆけば未送金と。奈良女子大にゆきて会計に放出支店へ代へてくれと云ふ(住友銀行に送りしと)。講義10人位しか出ず。早くすませ弁当代払ひ(120)、前川家へ寄りて小野、長沖2氏の発起人承知を伝へ、前川氏を出て奈良駅へゆけば14:00。 ややまちて天理、高橋家へゆけば山へ鏡打ちにゆきしと(※不詳)。八木嬢呼びて伝言托し、100借り、駅まで送られ、芝田義孝と同車(中島の姑に途で会ふ)。湖声社、錦織恒夫君より「日記にわが詩のせし」と。荒木利夫君より『骨』はつづけると。 11月20日(日) 福地君来り話してゆく。疋田氏より電話、令嬢を幼稚園に入れたしと。紀子君と相談せんと云ふ。安田章生氏より『日本のコント2』。錦織君より『日記』、我の「春旅」を録す。鳴田ら見付けられ綾部へつれ帰る故安心せよと。 11月21日 「金尚憲のこと」9枚かき、昼食くって出、布施の住友銀行へゆき2,752受取り、荒木利夫君に電話かけて行くといふ。行けば3、4人の中に小高根二郎もあり、新人入れ、そろはなくても『骨』出すとなり。結局わが計画ききて脱会認めてくれし模様。 短大にゆき武居、生田の両新聞部員と話し、鍛治君の土産の赤福餅もらふ。亀井勝一郎氏より「28日は関学に14:00よりゆく故」との断り来をり。夜学すまし半田祐子に会へば、12月19日学校すめば新婚旅行と。そのあと出来るだけ早く止めたしとのことに難問片付く。 出て相川、篠原の2生と話しつつ帰る。関目の蓮池の近所に篠原住むと。 11月22日 登校。児玉君より電話、25日(金)夜、御馳走すと。行くと返事す。冬季Arbeitを12月1日より人数いくらでもと梅垣氏に云ふ。昼、硲君来訪。東京の談話会盛会なりしと。楳垣、西宮2氏帰り来り、14:30より高校との連絡会。桐蔭高校の松野三郎校長、住高の浜中氏、泉尾高校の金戸氏など、吹田高校の岡本新太郎氏より紹介状もちし人も来をり、気づまりにてつまらず。すみて武居生と出、「No.1」にてぜんざいおごりて別る。 小高根二郎君より森房子氏同人承知。26日18:30ごろ『日本歌人』の会に来ると。堀内民一氏より元々社へ催促たのむと。 11月23日 勤労感謝の日と。赤星呼びて補助申請の人員36名を35名と訂正すればブツブツ云ひし。菊池博士より14日講演して夜汽車で帰りしと。1月末に再来と。佐瀬和子「5日に結婚、三毛姓となりし」と。和田先生より『満文老檔1』賜はる。 14:30出て『明治社会史(アテネ文庫)』買ひ、鶴橋でまむし食ひて帰る。 11月24日 登校。長沖氏休講。小野十三郎氏来り「浅香山小学校まだ礼くれず」と。電話すれば次田氏、記念品贈呈とて彫刻作製中と。金にせよと云ひ5,000近日中に持ちゆくと。小野氏にその旨云ひて出、河原女史と同車。 アベノ橋で近鉄別館の古本屋見、池内先生『満鮮中世史1(280)』、川田順『源実朝(40)』、生活社『日本叢書40冊(40)』買ひて帰宅。 この頃図書室の事務用card書く。夜、福地君来る。日曜午后谷口卓男をつれ来ると。 11月25日 登校(中野清見に『骨10』送る)。講義すませ岩崎嫗に司書講習をす。長沖氏の出るを待ち、鍛治君つれて山本信江君にゆけば、母上Noiloseらし。信江肥えゐたり(けふ「面影」の大塚女史より電話、明日川端康成氏観劇に見えるゆゑ、すみし頃女学生つれ来れと。時間をきけば22:00なり、ことわりて石浜恒夫君に報せば知りをる)。 18:00前、我孫子の小野家にゆけば夫君19:00まで帰らず。料理食はされ21:00出て帰宅(斎田昭吉氏を知ると)。 小高根二郎君より森亮、伊藤桂一、小島信一みな参加と。伊藤氏の原稿同封しあり。百田宗治氏を慰める会より1口500円と。 11月26日 よべ中ばにめざめ眠きうへ、print不足に気付き奈良女子大へ休講の電話かけさし、ひるねし、「金尚憲」かき、和田先生へ『満文老檔』のお礼かく。島本幸子より「平林姓に11月11日なりし」と。 16:00出て浪華荘にゆけば(※『日本歌人』の会)開会18:00。亀井(※亀井勝一郎)、長沖、小野十三郎の諸来賓みな来る。亀井君と齋藤史女史とに『戦後吟』呈上。柳井道弘来り、きけば吉野書房につとめゐると。石川信夫氏われに新宿のおでんやで会ひ、萩原朔太郎先生よこに居られしと。 奈良女子大の英文科の竹内正夫氏より挨拶受く。佐々木恒清先生の女婿にて旧宅に住まはると。来々週土曜に訪問の約束す。安部忠三氏よりよろしくたのむと。 小高根君と出てjuiceのみしのち、守口行の電車にのり京阪東口で別れ、我は片町より帰宅(伊藤桂一の同人費300預かる。森亮一昨日来りわが 『戦後吟』本屋に註文せしも受手出来ざりしと)。川端康成氏に会ひにゆかず(女性を好むと)。 11月27日(日) 10:00まで寝、昼食のとき依子を叱る。午后「金尚憲」書き乍ら谷口卓男をつれ来るといふ福地君待ちしに16:00電話あり「谷口君来ず」と。やがて福地君来り、昨日小高根君より預りし同人費とり出せば200よりなし、可怪。 Noteとハガキ買ふことをたのみ、帰りしあとまた「金尚憲」。けふ湖東君の転居通知。高橋重臣君よりRillkeの抜刷。『Biblia』の原稿用紙。 11月28日 「金尚憲」かく。午すぎ疋田紀子嬢より「退院して自宅で療養」と。午后会社のsalary受取りて15:30出、登校。 「かもめ」に『鴎外全集』の500払ひ、山荘嬢の母上の手紙受取り、「論語」のprint切る。17:30道満洋子来り、山荘嬢の相手。占ひを見てもらって断ったと。けふ写真多く受取る。瀧本君来ず。早目にやめて21:00前帰宅。 彙文堂の『冊府3』来る。「西園寺公の註文は概ね艶笑小説なりし」と。 11月29日 登校。遠足の付添手当200もらふ。天理短大より平岩君来り催促す。高橋君の推薦するは田中嬢とて大阪に叔母ありと。昨年の就職は最低8,700と。院長15:00まで来らずとのことに返事するとて帰らす。近鉄の古本屋にまたゆき『柳田国男先生著作目録(30)』『帝王の二十四時間(50)』、柳田国男校『紀行文集(60)』と買ひし中、『東北方言(180)』はdoubleをりし。 11月30日 10:00まで書きて登校。山本信江嬢来をり、12:00ごろまで西宮、沢井君と相談し、230p位と計算。印刷屋来りて見積りさせれば15万円位と。1月20日頃出来と。我も5行ほど書き足して69枚とす。親睦会より600返金受け、萩ノ茶屋へ出て『支那の幌子と風習(60)』買ひ、地下鉄にて梅田。「万字屋」にて福地君に会ひKipling『Barrack Room Ballads(60)』『日本文化(100)』買ひ、京橋にて喫茶。 小山正孝君より『逃げ水』。白珠社より歌集。けふ院長に350のArbeit3人、5~7日を申込みてよしときき、天理短大へ手紙出す。 12月1日 よべ睡眠不足にて眩暈し、鍛治君に欠勤しらす。芳野清より原稿。生田敦子より手紙。けふ原君の秀子入院。 12月2日 登校。山荘「差支へあり月曜来る」と。前田光子より速達、あけ見れば詩! 午后salaryの出るを待つ。『鴎外全集』繙訳篇18冊にて完結(400)。帰れば八木嬢より「仙田氏より指導いはれしも25日まで勤務あり」と。石田嘉子生より礼状。文芸春秋特輯『日本陸海軍総決算』買って来てよみ終る。 けふ徳庵にて散髪し、森亮氏に『戦後吟』贈りし。 12月3日 奈良女子大へゆく。まだstove入らず。天野の室にゆき12月17日に会食の約束し、郭沫若氏、明日奈良へ来るときく(後藤守一『衣服の歴史』買ひよみもてゆきし)。 12:00すまし、後期試験2月11日ときめ、出て古本屋にて『日土辞典(300)』買ひ、吉村正一郎氏に会ひ、前川家へゆき(昼食「いづもや」でrice-curryたべ、野崎家にて汽車時間表見し)、出て電車で天理。西大寺で酒井先生と会ひ、ゆう子氏の夫君犯気の話再びきく。興地先生の未亡人、いま銀行の掃除婦と成下りゐると。高橋君にゆけば夫人も留守。呼びてきけば「高橋君は九州へゆきし」と。 16:00田中嬢来るとのことに八木家へゆき、茶よばれてcardのかき方おそはり、Arbeitの監督たのみしをことはり、送られて高橋家へゆき、田中嬢に会ふ。永和に知合ありと。 小阪よりbusにて帰れば田中三郎兄(※妻方の義兄)来阪とて史、迎へにゆきをり、入浴して夕食すませば来る。船越章失明に近く、借金も大きく困りゐると。明日京都へゆくと。咸子女子薬大3年、すみ子青山学院短大生と(『大阪市区分地図』買ふ)。 12月4日(日) 三郎兄10:30出てゆく。悠紀子も京つれて阪大病院より十合へとゆく。われよべ4:00までねられざりしにより昼寐。北沢(伊藤)みち子より礼状。四谷の須賀町のapartに住むと。芳野清君より同人費300。夜、来りし福地君にわたす。 p23 12月5日 登校の途次、本多顕彰『指導者』買ひ、よみもてゆく。保田與重郎が彼に折紙つけしと。college-dayにて弁当とsoupと賜ふ。Chorusききしのみ。石浜恒夫君来り、「面影」に共にゆかんと誘ひしも時間おそくなり取止め。 瀧本生来り話す中、「我に離婚の勇気なし」と云ひしを鍛治君にきかれ憂鬱。すみて木村生と瀧本生と3人にて天王寺にてお好み焼食ひ別る。けふ山中タヅ子より「歌作る」と。 12月6日 風邪気味と電話して欠講。板原順子よりArbeit5日よりすと。伝田雅子より「13日13:00学校へ来る」と。 小高根二郎君より「森房子夫妻の訪問うけ同人費1,000預りし」と。山根忠雄君より同人参加を申込み来りしと。日本学術会議近畿支部より10日(土)9:30より中国科学院訪日学術視察団と懇談会と。日本の人口8,926万9千人と。 12月7日 京のPTAで悠紀子出てゆく。9:00出て府立体育館にゆけば近畿短大協議会の開会式。神崎院長(※神崎驥一)が会長なりし。卓球、volley-ballのあとbasket-ball光華短大を22-21で敗る。出て荒木利夫君訪ねしに郭沫若氏のこと知らずと。十合へ出て児玉君に会ひ、前田光子の父の名訊ねしも知らず。出て丸善にゆきloose-leafと紙ハサミを注文し、梅田に出て大河原訪ねる気となり、山田鷹夫判事に会ひ、大河原の席にゆけば沢井判事をり、あとで茶おごられる。生島は貸倒れの責任とって銀行やめしと。波屋へゆき『李太白』1冊のこりしを買ふ。 けふ奈良女子大へ10日の休講届け、佐々木恒清先生の墓詣りも出来ずと竹内教授に書く。(けふ桑田博士に片町線でお会ひす)。田中順二郎君より「阿佐谷2の557久野方へかはりし」と。安心。『新論』新年号。 けふ夫婦の留守に都島署員来り、この間の盗人捕へしと。(天理短大の付添に来し平岩君に会ひしも要領を得ず)。 12月8日 よべおそくまで眠れざりしも9:00前登校。1時限すましてのち3、4時限切る。山前君6日来校とて名刺おきあり。11:00出てナンバの府立体育館。Basket-ball敢闘して武多川学院に31:27にて惜敗。昼食券もらひ食堂にて廉内成蹊学長と話す。出て野崎嬢にあふ。「鍛治初江君退かねばならぬと考へてゐる」と。よろしく伝言たのむ。 「面影」にゆき大塚女史に会ひてきけば石浜君をmanagerにとは川端夫人の笑談と。鶴橋をへて帰宅。 京、風邪より耳炎。夜、都島署より電話。中野刑事と。いろいろ聞かれしもわからず。けふ羽田君より10日郭沫若氏の会のこと。天理の金子和正君より『中文地誌目録』について『Biblia』に書けと。鈴木豹軒先生の詩集予約1,500を20日までにと。 p24 12月9日 9:00家を出て会社にゆく。父帰りをり東京土産、栄太郎の飴呉る。大(※西島大)、送金のこと云はざりしと。池元2,000栗林1,000の祝儀申請をおき、登校。湖東博士より電話「来る」と。あとでまた「来られず」と断り来る。石浜恒夫氏より電話「面影」の件ことはられてすみし。 16:30出て野崎君のところへゆけば帰りしあと。(けふ学長宛に田中嬢の履歴書来あり、19日以後のArbeit期間に面会さすこととなる)。田中俊子姉(※妻の姉)より礼状。三郎兄、我を若しと云ひをると。 けふ山本信江君、父上よりと松本文三郎『達磨』もち来る。(父より1,000借りし。) 12月10日 6:30起き7:30出て8:23の京橋発にて京阪三條。Taxiにて人文科学研究所につけば(200)まだ早かりし。百瀬弘氏と会ひ、きけば案内176人。内100名以上来て10:00より翦伯贊、熊復、尹達3先生と座談会。翦氏は「中國史の時代区分」の原稿を藤枝に読ましめしに一向わからず、熊氏の「中國歴史学会の現状」話し中に郭沫若先生来場。「私は史学者でない」との話なりし。肥えて若々しき気持よき印象。梅原末治博士と抱擁し10分後退場。百瀬、羽田の2氏と昼食、羽田におごらる。 12月11日(日) 『文芸春秋』新年号買ふ。福地君来り、16:00小高根二郎君、ややして大東dr.夫妻、またしばらくして達原実君、終戦後Medanにても暴動ありしと。夕食たべてもらひ18:30出てゆく。 25日14:00より小高根邸にて編集会ときまる。小高根君(※日本レーヨン)本社管理部へ転任うれし。池田市あたりに転宅の予定と。馮乃超氏と明日14:00新大阪ホテルにて会談の案内あり。福地君に『李太白』と『楊貴妃とクレオパトラ』の譲受を乞ふ。頼永祥君より『台湾風物』5の8+9と年賀状。夜、福地君再来、2冊もち来り呉る。 12月12日 岩崎昭弥より「小説送る。同人費もかためて送る」と。12:30出て京橋より肥後橋。靴直しさし、朝日へ行き山田新之輔に会ふ。吉村正一郎氏、夫人に原稿をのせてもらへと云ふ由。前川氏「保田を破門した」と云ひをる由。 紅茶おごってもらひ、出て新大阪ホテル。桑田博士とまごまごしてゆけば14:30より尹達氏出席、出席者の名簿は阪大、市大、関大のみを録し、質問も守屋君あたりの問ひが主。我2冊(※著書)を贈り、今後のこときけば日中関係次第と。 200払ひて出、毎日に天野愛一訪ねしも不在。高尾にて柳田国男『村と学童(50)』買ひて帰る。 けふ金子和正君に締切と枚数訊ねるハガキ出せしもあとで小包に手紙同封「15日までに11~18枚」とあり。山下実美氏より砂糖6キロ。 12月13日 登校。商工会議所で中国側と会見との案内来をり、荒木利夫君に電話すれば出ずと。忘れゐし伝田生来て家庭で教へゐる子たちの文集出版の世話せよと(※『足音』1956刊)。承知して鍛治君と3人で千日前。汁粉おごり外出より帰り来し野崎君に「銀馬車」といふ開店の純喫茶につれゆかる。別れて天牛南店で『台湾蛮界展望(150)』買ひて帰宅。 けふ机の上に松尾さよ子生のCastilla1箱と風邪薬3瓶おきあり、昨夜来しらし。伝田生も漆器をくれし。 夜、赤星と前田と来り、浅沼断り徳庵市場で副食買ふこととすと。 12月14日 『果樹園』発行所の印註文、400円位ならんと。10:00すぎ三和銀行放出支店へゆきて見しも為替まだ来ずと。Card作りし(『昭和史』買ふ)。 専攻科設置の相談を壽岳、楳垣、西宮の3氏とす(長沖氏は小野十三郎氏長嬢の結婚式にて来られずと)。15:30より教授会。外部より今(※今東光)、矢本(※矢本貞幹?)二氏呼びて一先づ発足、授業料18,000と。すみて伝田生よりもらひし漆菓子器もちて帰宅。原田章氏より砂糖5kg贈らる。桂信子より『女体 (※句集女身』)と贈り状。大菊佳代生より酒井姓となりしと。(けふ平岩氏よりArbeitに2人推薦し来る)。 12月15日 登校。このごろ司書業務を毎日やりをる。長沖氏、小野氏来り、専攻科の報告す。Arbeitに開、生田の2生来てくれると。山荘君より電話かかるを待ち、14:42にてナンバ、出口にてまちゐし山荘君と喫茶。経過話し(※見合)写真預かることとす。背高く別居が条件と。野崎君訪ねしに不在。鶴橋まで同車して別る。 けふ北野徳治氏より衣料。森亮氏より『戦後吟』の礼。 12月16日 ハガキ3枚投入。放出の三和銀行にゆき2,112受取り、登校してprint切り、堺の浅香山小学校へ電話すれば次田校長不在。天野愛一君より電話、(※大阪毎日新聞の記事として)家庭忘年会の写真とりたしと。けふ新坂、原田早苗の2人専攻科へ入りてもよしと。山本実子にきけば祖母快癒と。印刷屋呼びてせかし、出て古本屋見まはり、寺田町石塚で『本の話』『戦争と平和』『戦争と日本人』と『写真文庫』3冊(215)買ひて帰宅。 鈴木治氏よりまた原稿用紙。(けふ桂信子に会ひ『戦後吟』贈り『女身』の礼云ふ。林叔母四国へ転任と)。夜、福地君より電話、浅野晃氏原稿と500来れること云へば「日曜にとりに来る」と。「森亮、森房子2氏の原稿来をり」と。(けふ学校へ松尾さよ子来りしも話さずして帰る)。 12月17日 悠紀子、都島署へゆく。我10:20奈良女子大へゆき昼食代40払ふ。昼食を共にせんと約束せし天野忠欠勤と。12:00まへやめ、出て奈良放送局にゆき安部忠三氏に会ひ、専攻科に来年は呼ばすと云ひ、前川邸にゆき夫人に同じこと云ふ。 けふより寒くなりてたまらず、服部へゆかんと生駒で下車すれば吹雪。やめて帰阪。玉造で『文芸春秋漫画読本4冊(160)』買ひて帰る。 岩崎昭弥より同人費1,000。『東方学11』『東方学論叢3』夕方福地君より電話「明日来よ」と云ふ。悠紀子ズボン2着750にて取返し来る。他品はなかりしと。 12月18日(日) 悠紀子、京をつれて原秀子ちゃん見舞にゆく。伝田雅子より「よろしくたのむ」と。法隆寺の井上恵子来る。布施市教委まだきまらずと。海苔置きゆく。小野円城君よりshirts上下。午后福地君来る。印をとり来れと500わたす。 12月19日 7:30家を出、寺本生と一緒になる。肥えゐたり。物尺買ひ(55)、生田、開2生岩崎嫗と待つ中、田中洋子嬢来る。上六よりナンバをへて来りしと。今一人は行方不明と。仕方なく整理やり、文2のclass会へ出、16:00すます。帰りみち教へて寺田町下車。『死都ポンペイ(70)』買ふ。 けふ康平叔父、会社のbonusとどけてくれしと(5,000)。池元久子(2,000)、栗林栄(1,000)にもわたす。 小山正孝氏より詩と同人費1,200。小林千栄子よりseminar旨くゆかずと。 12月20日 9:00登校。天理の高橋君より電話「田中洋子集中講義にて午前中来られず」と。やむを得ずわれcard書き、開・生田2生を使ふ。午、浅香山小学校へ電話すれば「近々小野氏に礼にゆく」と。前田光子より電話「國の父より物来りしを夜9時もち来る」と。 16:30鍛治君とともにナンバへ出、busにて梅田新道。大安へ本代1,060払ひ、『中國分省地図(360)』買ひ、餃子を鍛治君と食べ、「Boir」へゆき見しに山本をらず。Madameに本渡せと云ひwineおごってもらひ、市電にて京橋。春山行夫『詩人の手帖』買って帰宅。 硲君より忙しとて夕陽丘予備校の摸擬試験票賜ふ。次田氏より入れ違ひに手紙。21:00悠紀子、駅までゆき前田光子に会ひ、米と黒豆ともらひ来る。このごろ商品の売行きよしと。兵庫県教委の試験受けたしと。けふ悠紀子、今川へ歳暮もちゆきしに久美子のみにて上れとも云はざりしと。けふ17:50宮口生Castillaもち来りしと。 12月21日 登校9:15。三沢、井上ら本を見に来る。産経の和田章子に電話して早川生の欠席のこと云ふ。湖東に電話して17:00ゆくと云ひ、筒井に野上へ27日ゆくことを云ふ。16:30すませ湖東の新宅へ。佐々木画伯の林檎もちゆく。過労と。出て寺田町にて炒飯食ひ(700)、玉造にて『文芸春秋漫画読本5、6(90)』買ひ7冊そろふ。 西垣脩氏より原稿。羽田より忌中欠礼のハガキ。けふ前田光子より電話「県教委の試験受くるなら授業料片付よ」と云ひしに、20日締切と。父に断るひまなくあきらめると也。河井ちづの父、定吉氏より奈良漬。 12月22日 9:30登校。志野姉、研究室へ来る。岩崎嫗、早退申出でしによりいやな顔す。山本夫人の旧師と。小林千余子seminarのことききに来り、羊羹3棹と菓子と呉る。 帰り京橋で福地君に会ひ、後刻来よと云ひ、帰れば笹尾母子缶詰一折と干柿ともち来りしと(16:00頃)。久保田初美よりHam詰合せ。秋山夫人より菓子贈らる。田中順二郎氏より歳暮贈ると。 12月23日 9:30登校。岩崎嫗むつかしき顔しゐる。つづけて整理しゐる中、bonusもらふ(52,000-年末調整5,348)。山本信江君来り、校正おしへてやらす。西宮君、沢井君も来り、見積りのこと印刷屋に云はす。ややして住山生来り、きけば新聞部の金4万円とて預り、あけ見れば3万円なりしと。泣く。川原女史、木村使丁と変となりしなり。楳垣教授の扱にて問題とせずとのことになり帰りゆく。武居生にも手伝はし、16:40すませ、職員会の菓子折あけ、酔ひし西宮君と泣きゐる信江君とに困りつつナンバへ出、支那料理を3生におごり、鍛治君よりjuiceおごられて帰宅。 31,500を悠紀子にわたす。けふ坪井の紹介にて英文科受けたしと昭和26年高津高校卒の高木信嬢来り、羊羹たまふ。田中順二郎君よりwhite shirt来りしと。夜半、天理の『Biblia』の原稿12枚かき了ふ。八木嬢より子らにChristmas-card。 12月24日 9:30登校(原稿鈴木氏に速達す)。上町線にて文1の松田亘代(阿倍野高)と同車。周防大島の出と。田中洋子来り、松田生手伝ひ仕事大分すすみしも終らず、田中嬢に9~11日来よと云ふ。 山本信江けふも泣く「親類中に副手と云ひふらせしがさうでなし。西宮君の酔って云ったは本当」とて我を信ぜず。我[は]教授扱ひされをらず名などどうでもよきも他人前ありと。学長に会ふ決意す。守本主事呼びて無給副手なることを云はす。 12:00印刷屋来り、わが校正わたす。昨日くれし靴下もち帰らせ16:00すみて3人にそれぞれ1,050づつわたし、京橋で散髪(100)して帰宅。沢田宣子来りChristmas-card呉る。けふ高野敏子より飴呉れしと。東孝子の母君、塩鮭もち賜ひしと。「金尚憲」校正を了る。 12月25日(日) 高野敏子よりハガキ。早ひる食べて福地君と14:00小高根邸につき、『果樹園』の編集。15:30にすみ、岩崎昭弥の小説は送り返すこととなり、16行のみあまるを後記とし、小高根、我の2人にてかくこととす。(28日印刷屋へもちゆかん)。 17:00佐々木邦彦夫妻、稲垣タルホと現はれ、タルホ先生丸山薫氏の許にて会ひしことをおぼえゐたり。佐々木画伯に揮毫してもらひ、21:00散会。福地君は退屈せしと。我はたのしかりし。 東井夫人タバコとcakeもち来り、親戚の娘短大へたのむと。硲夫人、悠紀子の留守に来りHamたまひしと。23:00石井良旺来り、京にChristmasの贈物呉れし。 12月26日 10:00出て梅田。「svar」で『縁々堂随筆(40)』買ひ、梅田新道の古本屋ひやかし、高尾にて『大阪方言事典』学校にと買ひ、市電で四貫島。『ルネッサンス』買ひて暁明館に岩崎氏見舞へば、昨日神崎院長夫妻見舞に来り、1月より出勤となりしと。15:00帰院せし中西に大事とらせよとたのみ、中央キネマで「慕情」と「愛の泉」とを看て夕食、天満。 12月27日 梅田より大丸にゆきオルゴール(1,100)買ひて戎橋に出、鶴橋をへて阪和にて久米田。天王寺駅にて咲耶母子に会ふ。昨日京都(※下総町の実家)で泊りしと。長男成績優秀と。殆ど5なり。 岡山行のbusまちて終点にて下車、たづねて野上にゆき、弘君の帰宅したるに聞けば学芸大附属を受けさすと。これも成績良きらし。帰りに土産くれ、自動車で久米田駅まで送らる。南田辺で下車、千川義雄訪ぬれば在宅。明日病院の荷物引取ると。 帰宅すれば会社より電話あり、福地君、夜再来と。萩原みち子君昨日来りしと(鯛のみそ漬たまふ)。百済璋子より砂糖。楠戸生よりcoffee。湖東君より蜜柑。鶴身生よりそばボーロ賜はる。 夜、来りし福地君にきけば、芳野君と割りてわが原稿のせよと。77行こさへると。29日湖東に紹介され、印刷所へゆくと変更す。 年賀状かき、田中順二郎、神田博士、岩井大慧、畠山、浅野晃、西川、前川、白鳥、関口、野上、城平叔父、田村春雄、田中修、和田先生、桑田博士、大江、中河与一、林、小高根太郎、北野徳治、石浜先生、服部英次郎、川久保、工藤好美、松本善海、中野清見、河村純一の諸先生、熟知、親戚へ27枚。 (野上の土産あけて見れば高島屋の5,000の商品券なりし!)。石田嘉子より1月2日午后来て宜しやと。 12月28日 9:00前、康平叔父より電話、来よと。10:00ゆきて城平叔父に会ひbonusの礼云ひ、きけば赤星、釜の蓋の修理を要求せしに、康平叔父、我に相談せずにと云ひしと。赤星呼びて今後は我にまづ云へといひ、塩谷に頼むことを命じ、salaryもらひて帰宅。 鈴木氏より4,5人か45人かと問合せ。『文芸日本』。悠紀子に賀状出しにゆかせ、福地君より二郎氏の編集後記来りしとの電話きき、16:00来りし西宮君に山本信江生のことで注意す。無給を気の毒に思ひしと也。原田裕代のことでも注意す。砂糖5斤くれしゆゑ飴やりて帰す。 けふ野上をはじめ礼状7枚。石田嘉子に「2日来て好し」と返答かく。井上福蔵氏(子父君)より味の素。 12月29日 湖東君より電話、12:00来よと。15:30~16:00にと約束す。12:30父来り、蔵書わたす。つづいて福地君来り、湖東君との約束云ひて「発刊の辞」と「編集後記」と書く。「郭先生のこと」は午前中に77行かきし。 新城英太郎氏より『Encyclopaedia Britannica 13版』13,000にて河原三條の赤尾にありと。宇都宮利子より喪中欠礼と。14:30出て湖東家へゆけば、Dr.まだ帰らず。16:00帰り、夫人丹後ちりめんを悠紀子にと賜ふ。礼状はすでに出しあり。3人にて桑津町5の8(77-2802)元市印刷K.K.にゆき、社長元市有泰氏に原稿わたし、桑津北口まで歩きて福地君と別れ、雨中を歩きて「石塚」にてTurgenev『散文詩(40)』『奈良西部(70)』『奈良の大仏(70)』『動物渡来物語(90)』買ひて帰宅。 依子にAlbum貼らし100与ふ。夜また青木弥与子より林檎1箱。かもめ書店より蜜柑1箱たまふ。 12月30日 晴、家居。坂根千鶴子の母君より砂糖。京、池元久子につれられて姉、高田かよの家にゆき、餅もらひ来る。鍛治嬢より送り状。山根忠雄君より山口に帰郷と。夜、石井良旺来り、結婚の為、本日限り退寮と届けす。 12月31日 寮生餅搗く。赤星帰郷と。大江も呼ばず。我に断りもなし。 原夫人帰り来り、京に首巻、我にも礼云ひ、退院許されざりしと云ふ。本多和子より手紙。 田中克己日記 1956 【昭和31年】 『果樹園』発刊の辞 (創刊号:昭和31年1月20日 果樹園発行所刊)  われらは永い喪乱の時代を、生きぬいて来た。しかり、生きるだけは生きて来た。この間に斃れた友たちの詩魂が、南溟や北土から呼びかけもしたが、われらは詩とはなれた生き方をして来た。  われらの愛する国土が荒れたのだ、荒地に詩は生れるか。文学は育つか。われらは否とこたへ、それを実証するかの如く、多くの非詩、非文学が出版ジャーナリズムにのつて市場に氾濫した。われらは頑くなであり、愚かであつた、これらの荒地はみづからが拓くべきであつたのだ。  この間おのづからと、春の水のごとく融り通つて来たものがある。それは友情だ。期待もそこから湧いた。すでにわれらの国は耕やされ、培はれたのである。種子を蒔くのは誰か。われらは種子である。培ひびとではない。照りかける太陽でもない。それらの恵みのあるところ、われらは発芽し、花ひらき果実をつけるであらう。  われらは出来うるかぎり、うましい果実をつけたいと冀ふ。これは野望であるかもしれぬ。味はふのは他のひとだからである。しかし右を見、左を見て喜ばれようとする媚びはもたない。われらが先づ恃むは同志のおのづからなる共感と共鳴とである。この共感共鳴がしだいにひとびとにひろまるときをわれらは期待してゐる。 編輯後記  「四季」「コギト」ともに廃刊を命じられたあと十年たつた。「コギト」はこの命令のあとも内緒で八頁のパンフレツト型で四号出した。それが忘れられないので三、四号この形で出す。 せいぜい愛してよんでやつていただきたい。投稿は歓迎する。読者であると否とを問はない。同人に参加したいといふ方には別に規定がある。問合せられたい。(T)  前年の解説にも書きましたが、小高根二郎氏と共同で編集することとなった同人誌『果樹園』は、「発刊の辞」でうたってゐるやうに、戦後出版ジャーナリズムによる伝統否定の風潮に対して、抗議を広く世に示すことに刊行の意義を置き、簡素な表紙・3段組・8ページといふ、まるで業界 専門誌のやうな節約した形姿を以て出発しました。  「編輯後記」では『コギト』末期の仕様に倣ったものだ、なんて虚勢を張ってゐますが、連載コンテンツとして亡き伊東静雄の書簡と日記があらかじめ用意されてゐましたから、紹介に賭ける小高根二郎の意気込みはもちろん、とにかく同人誌にありがちな「3号雑誌」で終るつもりのない決意で創刊されたことだけは確かです。    ただその決意が、当初参加表明した遠方の人達にどのやうに映り、伝はったものでしょう。作品が3段組で載せられるのは、発表機関も少なかった時代とはいへ、書き手にとって不本意であったには違ひありません。創刊後しばらくの誌面を見て、中村地平や小島信夫や伊藤桂一といった人たちは去り、西垣脩も“戦犯”浅野晃の参加が腑に落ちず、参加に逡巡してゐます。  (雑誌上に同人名簿は発表してゐませんが、この年、同人費を払ったと日記に記されてゐるのは以下の人々。 田中克己、小高根二郎、福地邦樹、浅野晃、小山正孝、西垣脩、森亮、池沢茂、岩崎昭弥、斎田昭吉、高橋重臣、山根忠雄、山田新之輔、上村肇、服部三樹子、芳野清、森房子、石口敏郎、伊藤桂一:1号のみ、小島信一:2号のみ、山岸外史:5号のみ、林富士馬:客分希望)  詩欄を枠で囲み文章欄と区別し、時には2段組で詩の特集号をやったりもし、詩人たちの雑誌として工夫はするのですが、詩誌として後進を発掘する『四季』のやうな同人サロンの雰囲気を、述志タイプの詩人が醸成することは難しかったやうです。雑誌の性格は、やはり小高根氏の伊東静雄伝記資料の連載をはじめとする「史実を思ひとともに正しく伝へたい」といふ、専ら戦争に青春を塗りつぶされた詩人たちによるオアシスの形をとってゆくことになります。それを直截に伝へたのは小高根二郎の連載のほか、田中克己による自伝エッセイや、 芳野清が亡き詩友大垣国司を紹介した「月に招かれた男」など、主に戦中戦後の思ひ出に題を採った文章の数々であり、散文がこの冊子における読み物となってゐたやうに思ひます。  惜しいと思はれるのは、大垣国司や薬師寺衛など田中克己の弟子とも呼べる夭折した詩人たちの詩稿が失はれ、せっかくの主宰雑誌から満足な遺稿デビューをさせてあげられなかったことでしょう。大垣国司については芳野氏により悲劇的生涯の素描が捧げられましたが、 軍医としてレイテ島で悲惨な最期を遂げた薬師寺衛(1913-1945)については、友人林富士馬に托された詩稿が焼失し、わずかに母親の許に遺された昭和13年頃の稿本『受胎告知』も、この年の『果樹園』第7号に僅か1頁、申し訳ばかりの「詩抄」として掲載されただけで刊行には至りませんでした。  (この薬師寺衛の幻の詩集『受胎告知』(林富士馬による昭和18年の同名詩集とは別物)については、田中克己の書庫から新たに筆写ノートが発見され、現在翻刻中です。2023年3月追記)  作品の発表場所としての『果樹園』が、詩の実作においては同時代性を重視し、過去の詩人の発掘や顕彰に澆(うす)いところが感じられるのは、文学資料や当時の証言が日々消失してゆく今日からみると残念にも思はれるのですが、戦争がまだまだ身近でありすぎた当時、(伊東静雄は別格として)それを事業として行ふゆとりがなく、同人費でまかなはれる運営ゆゑに致し方ないことだったのかもしれません。  ただ、敗戦を経て詩人として面目を一新した浅野晃が、ここを基点に気を吐き、数々の詩集を果樹園発行所から刊行するに至ったことは、詩精神を標榜するこの雑誌に花を添へ、戦後現代詩史の流れにも一矢報ゐる痛快事となったやうに思ひます。浅野氏はまた、むかしの日本浪曼派同人の面々を『果樹園』に勧誘すべしと、雑誌の活性化にも積極的だったことが日記から窺はれます。芳賀檀、林房雄、蔵原伸二郎、神保光太郎といふ、田中克己や小高根二郎からすると一世代上の、浅野氏と同年輩にあたる協力者への呼びかけは、しかし刊行者二人にとって有難迷惑の要望だったかもしれません。 といふのも、自分たちより年長者に声をかけるとなれば同人費を払ってまで参加してくれるのかどうか瀬踏みをする必要もあり、山岸外史のやうに頼みもしないのに突然お金と共に掲載を申し出る奇特な先輩も居たには居たわけですけれど(笑)、西垣脩が感じた反動派集結の惧れはそれとして、案外そんな下世話な問題がネックとなったのではなかったでしょうか。浅野氏の想ひ描いた『祖国』なきあとの旧『日本浪曼派』同人の鳩合は、結局ここ『果樹園』ではなされず、別に興された『バルカノン(1956-1977)』で回顧され1-10号の残部を製本したもの、 のちに保田與重郎本人を迎へる『浪曼(1972-1975)浪曼発行』『浪曼派(1979-1982)出雲書店発行』といった文芸雑誌が創刊されるのを俟って達成されたのではなかったかと思ひます。  一方同じく発表の場として『四季』を失った小山正孝が、兄弟誌だった『山の樹』の復刊を西垣脩らと画策しつつ、関西における伝統抒情詩の牙城としてこの『果樹園』を認知し、参加してくれたことも、政治色を払拭したい刊行者の思惑を大いに援けてくれたのではないでしょうか。西垣脩も先師伊東静雄を顕彰する小高根氏の連載に実際に触れ、大阪に帰って直接田中克己と会って話すことで参加への不安は払拭され、杞憂に終ったのでした。  さうして新しく詩を書き始めた同人のなかには、たとへば岩崎昭弥のやうに、南方のインパール戦線で喪った肉親の無念を詩に憑依させて書き綴ってゆくといふスタイルの詩人も現れたのでした。岩崎氏は田中克己がかつて彦根にあった当時に識った近江詩人会の後進です。保田與重郎の心酔者であると同時に労働運動にも係り、のちには社会党の代議士となったといふ経歴の持主ですが、岐阜へ転居して以降も、敬愛する田中克己が持つべき歌集や詩集について度々刊行を慫慂し、資金面を含め心を砕き、手紙で詩人を口説いてゐます。この年には山川京子が創刊した『桃』にも歌人として参加してゐますが、同じく戦争で夫を亡くした山川氏とは、心に通底する悲しみと憤りを同じくしてゐたものと思はれます。  『果樹園』編集の要(かなめ)にあった田中克己自身は、しかし遠方から意見や援助を申し出る岩崎氏よりも、もっと気安く何でも依頼できた若者、伊東静雄の最晩年の弟子であり、当時大阪大学の4回生であった福地邦樹氏を可愛がるとともに、公私に亘る助手として恃んでゐたやうです。  近所に住んでゐるのをよいことに、足肉刺で通院する際には自転車の荷台に乗せて運ばせるなど、編集以外にもいいやうに使ってゐますが(笑)、高校生となった長女をはじめとする三姉妹で賑やかな田中家に顔を出し、毎晩遅くまで編集から発送に至るまでの雑務に勤しんでゐた福地氏自身、この『果樹園』一年目の出来事については、雑誌編集の機微をベテランから実地で学んだ思ひ出としてなつかしく回想してをられ、その親交は上京後も永く最晩年まで続いたことは、前の解説にても前述した通りです。  詩人も『果樹園』編集を手伝ってくれる青年の熱意に感ずるところがあったのでしょう。5冊目となる新しい詩集の制作は結局、岩崎氏ではなく福地氏の手を借りて行ふこととなったのでした。  その詩集――「果樹園叢書」として300部が刊行された『悲歌』ですが、装釘は見積をとった本人が不安になったほど、同じく文庫版ながら前年に出した『歌集戦後吟』を更に地味にした、極めて節約された表紙をまとって刊行されました。しかしながら内容の評判はよかったやうです。  かつてコルボウ詩話会で激賞された「哀歌」(昭和25年度コルボオ賞に選定)をはじめ、編集に入る直前に発表した同名の「哀歌(昭和31年7月『薔薇』30号)」など、タイトルの『悲歌』に相応しい作品が、杉山平一ほか読者の涙を誘ったことが、感慨をもって日記に記されてゐます。  戦争遂行の公的要請に憑依した詩を書いてゐた詩人がふたたび個我意識にたち返り、代表作に数へられる詩篇を詠み得るほどの復活をみたことについて、私も詩集に賛辞を送った人々と同様、そのモチベーションとなった悲しみを言祝ぐべきかどうか迷ふに悋かではありません。たださうであるなら、その容れ物についてもカバーも函もない可哀想な姿でなく、周辺の声にも耳を傾け、援助やコネを最大限利用した「挽歌」に相応しい装釘もあったのでは、といふ憾みもまた残るのです。  出版記念会は、11月18日(日)、中之島にある大阪市中央公会堂に於いて、39名の参席者を集めて行はれました。  井上多喜三郎、天野忠、山前実治をはじめとする、田中克己が度重なる脱退と呼び掛けを繰り返して迷惑をかけた、コルボウ詩話会や近江詩人会、『骨』で交はった詩人達が、こだはりなく集まってくれ、それ以外にも職場である帝塚山学院からは、詩派を異とする同僚小野十三郎や、専攻科で教鞭を執ってゐた今東光にも出席してもらひ、会場となった食堂は満員で盛会だったやうです。  旧『四季』の同人としてはただ一人杉山平一が出席してゐます。十年にものぼった在阪時代の詩歴を振り返ると、その間、彼や竹中郁らと交流が特段に深まってもゐなかったことが、私には意外に映ってゐます。書評を書いてほしいと特に杉山氏を指名してゐるところをみると、「哀歌」の元となった亡児経験を同じく持ち、詩集を読んで泣いたといふ杉山平一に対して田中克己が親近感を持ってゐたことは確かです。つまりは杉山氏の方から「田中克己=癇性の詩人」といふイメージを惧れ、また敬愛する竹中郁を田中克己が必ずしも好く思ってゐなかったことを仄聞するなどし、近在ゆゑにこそ敬遠してゐたのかもしれません。杉山平一が会社経営の修羅場から退いて帝塚山学院に藉を移し、おちついて教員詩人同士として関係を深められるやうになったのは、田中克己が東京に去った後のことであったやうです。  さうしてむしろ意外といふならば、ここでは欠席者について語るべきかもしれません。すなはち戦後、詩を書くにあたっては何ものも負ふところが無かったといふ意味なのか、保田與重郎はともかく『コギト』の発行者であった肥下恒夫がこの場に居合はせなかったといふ一事です。何より『果樹園』は『コギト』からバトンを受けた後継誌といふことで出発したのではなかったでしょうか。まさか『悲歌』を渡してなかったとは思はれないのですが、この年には、1月に『果樹園』創刊号を送付したことは記されてゐるものの、受取も来なかったのか、以来肥下恒夫のことが日記に現れてゐません。  当時の肥下氏は帰農したものの農地改革で減らされた農地だけでは食べてゆけず、折角ありついた病院事務職も経営の内幕を知って辟易しながら勤務してゐた筈です。持ち前の潔癖心から結局その定職を放り投げてしまふのですが、さうした辛い時期にあって、もっとも気心の知れた旧友だった田中克己が、自身の事だけで精一杯といった有様で、周りのことを顧みず東京に去ってしまったのは、肥下氏に於いてはその後の悲劇的最期に大きく関係したもののやうに私には思はれてなりません。  またこの時期の、(といふより、この時期以降、上京後もずっと、といっていいでしょうか)保田與重郎に対しても、親しく通交のあった前川佐美雄の家族(娘の家庭教師をしてゐました)を通じてよろしくない風聞がもたらされてゐますが、呆れたやうな、素気ない態度を示してゐます。  今東光が保田氏の胃癌の疑ひにつき心配してゐると「そんなの、恋患ひですよ」と斬って棄ててゐるのには笑はかされますが、保田與重郎の女性からのモテぶりについては、たとへば山川京子による当時を回想した文章(『保田與重郎全集別巻5』月報「桜井のころ」)にもあるやうに、『日本歌人』会員の間では周知のことであったのでしょう。女性ならではの京子氏の視点にはハッとさせられますが、さきに前川佐美雄が保田與重郎を一時的に破門したと怒ってゐたのも、かうした風聞に関係したことだったのかもしれません。普段から前川氏本人よりも親しく話し込んでゐたと思しき緑夫人から聞き及んだ醜聞をうっかり日記に書き留めてゐるのは、側近の奥西、高鳥、柳井の各氏がそろって固く口をとざしてゐることだけに珍しいことに思はれます。  とまれ保田與重郎を再び中央文壇に押し出す使命を負った『新論』もあへなく瓦解し、余波を受けて吉野書房も混乱、前田社長とも確執を生じた保田氏にとって、歌誌『風日』を立ち上げてふたたび“風雅をこととする文人”としての歩みを始めるまでといふのは、まさに八方塞がりの雌伏の時期であったやうです。  しかしながら田中克己においても不倫は他人事ではなかった筈。恋人や教へ子に対するあけすけな恋情は『悲歌』中の詩篇に堂々と披露してゐますし(確信犯 笑)、日記に記されてゐないものの、悠紀子夫人との喧嘩も絶えなかった由(或ひは今後の日記に出てくるのでしょうか 笑)。 小高根二郎に呈した『悲歌』の扉には わがわかきひは をみな子をこふることばはゆるされず たけきことばをつらねしが  いまわれをとめおしへつつ それをおもへばくちをしな  とペン書きがされてゐました。詩人の思ひは如何にあったでしょう。化粧品業界誌に載った香水商の若旦那との対談には「これまでも機会あるごとに研究をすすめてきたが」なんて書かれてますが、どうなんでしょうね。  山本治雄事務所で懇意だった佐瀬君が解雇された真相にも驚かされますが、どうやら戦後民主主義が日本浪曼派にもたらした最も辛辣な影響といふのは、公的には戦争責任に対する糺弾だったかもしれませんが、私的には女性の解放に伴ひ、壮年期を迎へた浪曼派世代のサムライたちを、そろって「火宅の人」にしてしまったことだったのかもしれません。  さて、さきに「肥下氏を置いて東京に去り」と書き、福地邦樹氏を紹介の条りでも「この『果樹園』一年目の出来事」と書いたのは外でもありません。詩集『悲歌』が関西在住時代の記念としてこの秋に刊行されると、翌年三月に田中克己は一家をあげて東京へ引越してしまったからです。    突然のやうな上京計画ですが、実は一昨年の夏に東京へ旅行した際、大高時代の同級生である関口八太郎(自衛隊幹部)や、『李太白』の新書版を出してくれた元々社の顧問格だった齋藤晌を訪問して、在京大学への転任については打診済であり、このたびは東洋大学の文学部長に昇格した齋藤晌に対して『果樹園』同人となった浅野晃からの口添へを得て、文学的な清算のつもりで詩集を出したのを期に、満を持して実行に移されたものでした。  小高根・福地氏ほか『果樹園』の関係者はもとより、家族もまた驚き難儀されたことと思ひます。日記には誰が反対し、誰が賛成してくれたか詳しく記されてゐますが、もちろん近親者が賛成する筈もなく、日記には親友羽田明の冷たい態度がそのままに記され、肥下恒夫、坪井明、服部正己に至っては相談どころか報告さへもまだされてゐない模様です。  就職活動をしてゐた福地邦樹氏は、謂はば『果樹園』編集のために田中小高根2氏から引き留められ、高松への教員赴任を断念したのですし、長男史氏も、家計を考慮して進路を東大から京大に変更して合格、学生生活を送り始めたばかりのところでした。  もっともこの詩人には、処女詩集である『西康省』を刊行した昭和13年にも、就職のあてもないのに家族を引き連れ“蝙蝠傘一本もって上京”した前例がありますから、何をいったところで無駄なことも周辺は分かっては居られたでしょう。  詩人としての生活を一区切りさせたところで湧き上がった「学者としての焦慮」。実は詩集の出版記念会があった11月18日の直前、11月2日には東大東洋史学科の同窓会が京都であり、田中克己は恩師と同輩たちを前に、詩篇「三十年」を朗読してゐます。  三十年     (昭和21年11月 『四季』3号初出) 先生は老来ますます御元気で お別れを告げに参ると 原稿を示して最後の一節を誦された 「任那(みまな)日本府の撤退後 三十年にして日本の文化は花ひらいた」 いま私は法隆寺の近くに住んで 朝夕ふるい日本の文化の名残を味はつてゐる 三十年たつとまた日本の文化も栄えるだらう 豫言のやうに私の脳裏からはなれないこの考へも しみじみ味はふと淋しい 先生はおそらくいまさずなり 私は先生の年になる!  のちの高度経済成長の日本を予言する、田中克己の得意としたところの予言的な一篇ですが、出版記念会の席では同じく「三十年」にも及んだ自らの詩作を、これでやめてしまふと宣言したといひます(もちろん守られはしませんでしたが)。関西で築いた詩壇的地歩や友人関係をなげうち、詩筆を折る覚悟をさへして強行せざるを得なかった、田中克己の生涯を劃る最後の上京は、自身の作品で曰ふなれば“Mortality(『神軍』所載)” の自覚に抗しきれず、収穫(とりいれ)を急かされたとでもいふところでしょうか。そして上京はまた副次的に、先ほど述べた女性関係をも清算することになったのでしょうか――ひき続き昭和32年の日記の動向に注目してゆきたいと思ひます。 昭和31年1月1日~昭和31年7月10日  本冊画像PDF 26.0cm×18.8cm 横掛ノートに横書き p19 1月1日(日) 9:00起床。京、弓子は式に登校。依子は学友の家へ。寮生3人挨拶に来りしのみ。下元とて結核にて高知へ帰りしが来り、夜、増田弟をつれ来る。老成して見よりも年長に見ゆ。賀状218枚。在校生(80枚)、卒業生(94枚)、退寮者(6枚)。知友の中に今西春秋、村上嘉実、平戸禎一が珍しきのみ。夜、賀状120枚かく。池元、原、吉田、栗林のさはぐに24:00目をさまして注意す。 1月2日19560101 9:00起床。朝食後、池元よびてきけば吉田と相愛ならずと。栗林呼びて叱り、吉田よびて「賄室立入りをやめよ」と云ふ。(昨夜、映画につれゆき帰りて餅焼きゐしところへ原君来りしと。)「相愛」でなしと。浅沼(大塚)心臓病で急死(明日副食もち来られずと)気の毒なり。前田呼びて「明日買ふべし」と云へば金なしと。 けふ2、3組年賀に来し。福地君来り、春夫『青春期の自画像』たまふ。石田嘉子と入れちがひに退去。石田生カステラ呉れし(春木より熊取中学に通ふと)。 けふ賀状63枚。原君もあやしげなるあやまり方をしに来し。 1月3日 曇。依子、弓子早くより千日前へ映画見にゆく。賀状26枚。中間町の田代重雄のあり。次田氏「24日に小野十三郎氏へ礼もちゆきし」と。大塚来り「18日挙式、東淀川区加島町に家ありし」と。寮の副食代、大塚が立て替へしと。 午后眞野喜惣治氏来訪。北川冬彦の『時間』に参加、この間江頭彦造来り、わがうはさせしと。元大阪法務局長上田明信君の人事だめになりしと。布賜ふ。池沢茂君に『果樹園』のこと。 1月4日 雨。風の中を京をつれて悠紀子千日前へ映画見にゆく。賀状25枚。岩崎昭弥に『果樹園』のこと。 1月5日 9:00すぎ会社へゆきしに城平叔父不在。康平叔父自治会へ10,000貸せしと。我にことはりなかりし也。梅田へゆき『アテネ文庫』2冊買ひrice-curry食ひて帰る。 賀状16枚。服1の西野多美子といふより「石田様のおば様ご存じですか」と。奈良女子大の小川講師。榎本須美子より「全快して結婚許されし。石川よりchristmas-card来りし」と。 1月6日 曇。家居。賀状5枚。石田嘉子より礼状。夜、高田かよ子来り、妹久子退職さしたしと。1、2週待てと云ふ。 1月7日 久子呼びてきけば胆石症ありと。口実としてはよしと。会社へゆかんとし電話すれば、父、城平叔父ともにあらず。パン買ひにゆく京と出て、天王寺より地下鉄にて十合。児玉円城君に会へば和子、姉に会ひゐる。挨拶すませ昌三叔父に会ひ、出て斎田昭吉に会ひcoffeeおごらる。2号には書くと。(前田光子に会ひしに正月帝塚山の旧の勤先の手伝ひにゆきゐしと)。 心斎橋筋まで歩きて「オランダ」にゆけば今市夫人(安村)、疋田、鍛治の3君と西宮氏のみをり。ややして太田夫人(立川)。入れちがひに今市夫人帰り、生田(中島)、西洞院(菊池)両夫人、松井、山中、伊藤、野崎の順にお越し。長沖先生来り、出て佐竹氏のお好み焼屋にゆく。生田夫人は風邪気味の坊やづれゆゑ、帰ってもらふ。(「オランダ」の出がけに渡辺芳子に会ふ)。Champagneのまされて出、喫茶店にゆきて西洞院文昭氏に会ひ、堀枝味子(両國夫人)より挨拶受く。西洞院君は斎田君と旧知と。ナンバに出て西宮君とtaxiにて鶴橋。 けふ賀状6枚。沢田博士より「石川道雄氏来阪につき17日午后来れ」と。齋藤かずゑ君より「京都書道連盟理事となりし」と。出しあと武居、浜谷、生田、住吉、角倉の5生来てtobaccoと菓子とおきゆく。 1月8日(日) 寒し。田中洋子より速達「9、10両日は来られず」と。大塚来り、結納をおさめるに付き、自治会に貸した6,000また貸してもらへぬかと。 赤星に10,000ありと云ひしも知らざる様子。『果樹園』より6,000借りて貸せしところへ赤星来り、1万円のこと云へばありと。明日までに賄人の代り話しつけてこよと云ひしところへ福地君来り、6,000借りしことを了解してもらひし。 明日夜、連絡してくれと云ひ、送り出してのち明夜の夜学に気付く。 けふ賀状9枚。内に住山生の池の平よりのヱハガキあり、Arbeitの金にて来しと。夜、高橋重臣君へ『果樹園』のことと、田中洋子君のことと。 1月9日 8:30会社へゆき原君に池元のこと云へば知らずと。電気部長に会ひにゆけば心当りの婆さん他につとめをり放さずと。赤星にきけば1万円はありと。城平叔父に浅沼(大塚)への香奠相談すれば「出してよし」と。大江氏に会へばプロパン瓦斯のstove買へと。Busにてのりかへ白山市場へゆき大塚氏の妻子に会ひ、弔意を表し香奠置き、今里をへてbusにて天王寺。 11:00登校。鍛治君とcard書く。信江君をり、機嫌直りし様子。研究年報の校正は明後日と。元市印刷に電話すれば校正月半ばと。夜まで 待ち、1時間目の院長講話きかず。半田君挨拶に来り、院長「出来るだけ早く後任さがす」と云ひしと。2時間目すませば伊東マキ子就職さがせと。 けふ学校へ丸三郎らの賀状。家へは植村清二先生と高梨不二子の賀状。 赤星をかしな電話かけ来りしと。22:00すぎ来り、51,000会社より借りるに付、印押せと。返還の方法きめてのち、あす会社へゆくと答ふ。 1月10日 会社へゆき赤星と会ひ、ともに城平叔父に会ひ「貸すこと承知」ときく。原君に毎月salaryより300づつ差引き積立てること依頼す。出て10:30登校。 国文学史すましlistとcard引合はし、なくなりし本を推定す。岩崎嫗また早引、楳垣氏に云へば院長も遠慮しゐると。村上新太郎氏より29日までに詩をと。岡姉妹より賀状。(けふ楳垣氏より都竹[ツズク]氏『奈良県北部地方方言覚書(150)』配布を受く。) 夜、福地君来り、「伊東夫人花子肺浸潤」と。(硲君研究室に来る) 1月11日 朝、浦本浜子(昭和8生、天草栖本村995)履歴書もち来る。10:00会社へゆき康平叔父に浦本のこと云ふ。原、赤星ともに反対の様子なりし。けふ51,000渡すこととなりしと。 登校11:30。College-hourに出ず退屈し、15:00まで待ちて職員会。院長「専任の数ほぼそろひし故、励むべし」と。出て天王寺。東井家へゆき願書出せと云ふ。柴山順子夫人(安部)より「大津に住む」と。佐々木邦彦君より「8日三越に来し」と。前川佐美雄氏より「15日16:00までに浪速荘に来い」と。夜、池元久子呼びて13日退職ときめ、栗林呼びて浦本に伝へよと云ひ、大塚より明日退寮と届受け6,000返還受く。夜半「金尚憲」の再校す。 1月12日 よべ3:00すぎまで眠れず。眼鏡の弦こはれし故、早めに出て徳庵、桃谷をさがし、アベノ交叉で明けし店さがしあてとりかふ(270)。歴史すませれば松田生、周防大島の土産とて柳井の「独歩」といふ菓子と灰皿と呉る。住山生の母より電話「盲腸にて入院」と。 印刷屋午ごろ来り、初校やっとそろふ。Cardにて点検やり、小野十三郎氏に次田氏のこときけば「24日来し」と。礼云はざりしは少なかりしか。 15:00出て粉浜の林叔母訪ねしも不在。帰りて15日16:00より井上多喜三郎、荒木利夫らの会すとハガキ見、ことはりかく。 港野喜代子氏より「雑誌出すときいた」と。奈良女子大より「12月分以後のsalaryおくれる」と。夜、湖東君に電話して「印刷屋せかしてくれ」とたのむ。 1月13日 原君に電話し、久子の健康保険のこと云へば打切りたのむと。出て散髪(今月より100円に値下!)。登校して西宮、沢井2君に印刷屋の方をまかせ、漢文やりて帰れ来れば、印刷屋来をり、伝田生のprint(※伝田雅子編児童詩文集『足音』1956 刊)の見積りさせれば5号96pB6版にて35,000位(300部)か。 院長に呼ばれて岩崎嫗の無能と無責任といひ(月給7,600と)いま1人半雇へといへば、田中洋子ほぼよし。その他に夜間に半人雇はんかと。漢文の入試問題作る。 けふ元市印刷に問合せて明日15:00初校出来の旨、小高根君に伝へ、明後日浪速荘で会ふことを約す。15:30出て帰宅。 明治書院の『高等国語』に「李太白」のregime8枚にていかにと問合せ来をり。台北の頼永祥氏より『台湾風物』2冊。夜、池元久子にsalary3,000(内221引)立替て渡し、元市印刷へ行って呉れと福地君へたのむ手紙かく。明治書院には「攀」その他の訂正を申込 む。 けふ史の夕陽丘予備校の摸擬試験の成績通知を悠紀子ぬすみ見れば、2,000人中17番にて歴史悪く、英数ややよかりし。 1月14日 8:30家を出て奈良、野崎君に寄れば「2月2日その嬢の挙式にわれを呼ぶ」と。「山田新之輔の家の売買の世話せし」と。 前川家へ寄り砂糖おき、明日の会に出席を云ふ。保田、今、吉村などの諸氏出ずと。講師室に林夫人来をり、暖し。天野忠に会ひ小川講師と話して授業。12:10すまして昼食。13:03の汽車にて丹波市、高橋君に会ひ田中洋子のこと話す中16:00ごろ本人来り、採用のこと云ひ帰宅。 福地君より電話19:30「今より印刷所にゆく」と。21:30来りしと校正。割合きれいなり。24:00まへすみて帰す。高橋君より入れちがひにハガキ。林叔母より学校へ来ると。 1月15日(日 成人の日) 湖東博士より電話「昨日田中雅子夫人女児分娩」と。悠紀子を高島屋にゆかす。今東光氏にゆくつもりなりしも止め、15:30出て上六。『日本歌人』の会にゆけば14:00より集りゐしが開会せずと。小高根二郎君来りて開会。横田俊一氏来り、吉村正一郎夫妻もをり、夕食たべ、相聞短歌の話出て、平井恵美女史五條高校教官といふに楠田君のこときけば在職と。名刺托す。小高根君と出て喫茶。小島信一君の同人費300預かる。 Taxiにて京阪(140)。田中順二郎君には毛糸と菓子送りしと。 けふの〒は『詩学』。無断でわが詩のせ依田君気付で送りし。 1月16日 9:00出て寺田町より市電。桑津北口まで乗り、元市印刷所にゆく。再校15:00出ると。近鉄河堀口まで歩き登校。夜まで用なく、生駒生呼びて伝田君への伝言たのみ、鍛治君に野崎君のこといへば知らざりしと。 午、林叔母来り、今治の姉妹会社へ叔父転任と。海苔賜ふ。坪井の紹介にて英文受くる高木信嬢来り、願書出し102番と。大阪女子大の花井彩生来り話しゐる中、17:00となり、鍛治君出てゆく。伊東マキ子来り、坪井へ紹介状かく。半田生、図書館の後任にと大阪女子大生つれ来りし故、院長に会へとすすむ。 夜学1時限やり研究室へ帰れば瀧本生来り、同級生多く来ゐると。谷川、柏原、平岡、田中、清水と出て天王寺のKYKへゆき、われは汁粉。清水、大江叔母に女中世話せしと(けふ久美子に合over-coatの地ねだられ、帰りて悠紀子に云へば5,000以上と)。 1月17日 アベノ大和銀行で5,000出し登校。久美子呼びて渡す。typeおきあり授業すんで肩打ちと洋雑誌のcardと打つ。東井夫人より電話。富田林高校の土橋生、昨日願書出せしと。住吉区役所の中川俊雄庶務課長来り、学院の加納生たのむと。心配いらずと答ふ。 15:00出て沢田博士邸へゆけば石川道雄氏入浴中と。帰り来られしに初対面の挨拶し、府大の奥宮、平井2氏、山本信江父君、布施医師など20:00ごろまでにお越し。信江君給仕を手伝ふ。石川氏は高橋新吉の媒酌をし、50才にして子を成せしと。『半仙戯』に署名もらひ、『戦後吟』おきて退去。天下茶屋をへて帰宅。 東大より『明代満蒙史料46』。南村(藤野)和子氏より12月17日に女児分娩と。田中順二郎君よりもお産の通知。池元久子より挨拶。 福地君来り、明日夜、出来上りし『果樹園1』もち来ると。 1月18日 寒し。今東光氏へゆく筈なりしも止める。前川氏より礼状。西下経一氏より礼状、「攀」は訂正したと。夜、福地君来り、依子に手伝はして折り、同人14氏に袋入れ、明日16:30小高根君に集ることとす。元市印刷はあす研究室へ来ると。土曜夜、又は日曜朝に発送ときめる。 1月19日 曇。9:00登校。講義して伝田生に会ひ、元市印刷に電話して来させ見積りさすれば20,000と。大体それにきめよと云ひて伝田生帰らす(Castilla1箱呉る)。湖東君より13:00来ると電話ありしと。Salaryもらひ写真うつされ、長沖、小野2氏に『果樹園』贈り、来りし湖東とナンバへ出て「Doton」にて喫茶。大手前に長女受験さしたしとて坪井に紹介状かく。我は住吉の方良しとすすめし。 別れて荒木利夫に寄りしに出張。市電にて朝日の山田新之輔に会ひにゆけば欠勤と。日本Rayon Co.にゆき小高根君に会へば、増山成夫重役に会はして呉る。22年ぶりで見事に禿げゐたり。 16:30と約束して凸版へゆき『夫婦の法律』買ひ、引返せば福地君と会ふ。3人にて出て喫茶。2号の締切は2月10日、岩田潔の同人加入認める。小高根君、石橋に大体きまりしと。片町に出て帰宅。西下経一氏よりまた礼状。けふ久しぶりに入浴。 1月20日 晴。郵便局にて8円切手100枚買ひ、近鉄departにて『奈良観光市街図』買ひて登校。武居生「庄野英二に『果樹園』もちゆきし。田中先生好みと云はれし」と。新坂康子の母来るといふに待ち、山荘佳子の電話きき、写真も少し貸せと云ふ。新坂の母来り、「専攻科へ入れたし」と。 「喜んで入れる」といひ、菓子もらひ金一封受取らず逃ぐ。 半田退職したしと云ふに、院長に会ひ、この間つれ来し女子大生を臨時に雇ふこととす(楠本の妹を院長入れるつもりと)。三苫君に半田への伝言たのみ、近鉄の古本展見にゆき『朝鮮全図(120)』、春夫『玉簪花(100)』買ひて帰宅。 田中順二郎氏より「祝受取った」と。八木嬢より日曜も出勤命じられゐると。 1月21日 奈良へゆく。『果樹園』を服部英次郎、天野忠、小川講師、横田俊一の諸氏に配り、講義すませ弁当食ひ、高校へゆき坂口君に会ひ岡村生の成績の「秀」きけばclassのNo.1と。塩見校長にも『果樹園』贈り、前川家へゆけば無人。野崎家へゆき、父君、母君、新嫁と話しつつ、パーマかけにゆきしといふ、その君(※「そのきみ」ではなく「野崎その」君)待ちしに帰らず。 13:30出て奈良、駅より天理。途にて養徳社に寄り、中島の原稿のこといひ、高橋君夫婦に山荘佳子の写真みせれば表情よくなし。出て『日本語の構造』買ひ、よみつつ帰宅。 伝田雅子より「元市印刷で宜し。4月末に出したし」と。全田叔母より「高校、入学の斡旋たのむ」と。 20:00福地君来り、100冊の発送の支度を23:30までやる。けふ高橋君より同人費3号分と売上5部分預り、我の同人費2,000出 し、残金3,270となる。陸原実、林叔父、三村寿恵子、板原順子、成尾禧佐子、松本善海、馬淵源太郎、池沢茂、丹羽千年、野上弘の諸氏の(※くじ当選)年賀状と切手と引換了る。 1月22日(日) 午睡す。さめれば小山正孝君の『逃げ水』出版記念会を西垣、小山弘一郎、鈴木亨3君発起にてやると。古川政記『歌集葦の芽』。 午后、福地君来り、谷口君見込なしと。同人やめさすこととす。Printも福地君やり呉ると。池田宣子の母来り「兄嫁の従妹、御所高校の中島章子服飾受験につき宜しくたのむ」と。「院長にもたのみあり」と。菓子と海苔おきてゆく。五條高校平井女史「以前に堀内民一君と桜井大教会へ訪ねしが留守なりし」と。「楠田豊茂親しかりしやうに云ひし」と。 1月23日 小山正孝君より『果樹園』の受取。悠紀子よべ酒井の竈まへにて逢引しゐるを見しに逃げしと。正月3日間泊りしと。 13:00会社へゆき浦本女145円の日給にては如何と伺ひ出し、父より久美子へのわが祝、親類に大騒動おこせし!!ときき出て、鶴橋より山本、今東光氏を訪ぬれば88才の母上危篤と。(※帝塚山の専攻科)講師承知ときく。保田胃癌とのことに、恋病ならんと云ひおく。 天王寺にて氷雨。「Hugo」ひやかせしあと登校すれば鍛治君映画より帰り来る。伊東マキ来り、坪井に会へば「田中にもたのめ」と云ひしと。千川義雄に紹介かく。 福地君より電話「printすみし」と。ⅡL2の授業中、京都より電話といふに驚きゆけば畠山氏「嫁世話せよ、重役候補にて30才」と。承知と答へ、『果樹園』18部売り、瀧本、岩井2生と出、天王寺にてお好み焼。あと茶おごり、岩井生「縁談あり。天理大の上原といふ男」と。東大教会長の息子か。「しらべおく」と答ふ。(けふ酒井に「寮にて逢引やめよ」と云へば「承知した」と)。 1月24日 寒し。父より電話、あとで来り、黒板の調査に来しと。月給表かきてわたし、出て登校。文2に専攻科の案内書をわたす。1年も2人とりに来し。近江八幡高校の越後校長といふより電話かかり「校歌を作ってくれ」と。ことわりて小野十三郎氏に紹介かく。 鍛治君と出てナンバより近鉄案内所。天牛南店に『西南戦史12冊(100)』買ひ、野崎君と「オランダ」にゆき、我はport-wine。別れてbusにて鶴橋をへて帰宅。 (けふ久美子にきけばover-coatの布、大江叔母安く買ひ呉れ、残り返すと。けさ大江の十合店員に会ひし。児玉君と知合と)。 岩崎昭弥より「あと5部呉れ」と100円。「保田の問題で新論休刊」と。山根君より同人費300。千川義雄より「勤めゐる。礼に物送った」と。浪江弁護士より「娘の入学たのむ」と。(けふ野崎君に『果樹園』1冊うり、萩原みち子訪ねしも留守ゆゑ1冊おきし)。 1月25日 寒し。8:30電話あり、菊池眞一氏より来阪と。9:30有料TOILETでと約し、朝食食ひてゆけば白髪。ともに喫茶、我はport-wineのみ色々話す。11:20新大阪ホテルへ自動車で送り、color-filmで写真とってもらひ、別れて朝日。山田新之輔未出勤。毎日へゆき天野愛一呼び出し(杉山平一君に会ふ)、昼食ともにす。『昭和史』(※岩波新書)批判を月曜までに2枚半書けと。 別れて高尾へゆき『大阪方言事典』の代払ひ『Die deutsche Frau(450)』借る(毎日で新大阪の足立巻一氏に会ひ原稿催促されし)。 地下鉄にて天王寺より帝塚山。院長に呼ばれ、楠本事務女史の妹を夜間の図書に採用と。某社へ文筆の立つ子2名推薦を云はる(のちほど青木、生 田と決める)。15:30まで待ち教授会。文芸に学院より13名、他に26名と。英文40名突破すとて文芸厳選を云ふ19560126。専攻科も厳選せよと院長。18:00すみて帰宅。保田槌三郎翁(73才※與重郎父)留守に来り、 娘の子林良子(342八尾高卒)を服飾に入れよとcastilla賜ひしと。池沢より読売に加入希望者ありと。石山直一君より礼状。福地君よりprint1部。 1月26日 登校。1年文科遅刻欠席咎め、青木大乗画伯令嬢みえ子を叱りし。小野十三郎氏休講、この間の八幡高校の話いかがなりしやらん。14:00出て元市印刷へゆき、伝田文集の原稿おき、白port-wine1瓶もらひ、寺田町まで歩き石塚にて『岩波写真文庫(富士山、富士をめぐる、美人画)』買ひて帰宅。 小高根君より谷口君のこと了解。2月5日ごろ転居と。浅野晃氏より「生きがひを感じた」と。西村公晴氏より『戦後吟』1冊ゆづれと。 夜、堀内民一氏より電話。高田の阪本歯科医の令嬢服飾へ入れよと。駄目と答ふ。けふ保田槌三郎、浪江源治二氏に同意味のハガキかき、平井恵美氏へハガキ。(住吉高校へゆき山本、板原、硲の3君と話せし)。 福地君20:00来り、『果樹園』事務片付けてくれし。けふ名刺出来(130)。 1月27日 天王寺にて木村静子と会ひ、話もてゆく。越後氏(八幡校長)より小野氏に会へざりしと。院長に青木、生田2生を推薦。14:00出てナンバ。 高島屋で野崎君の祝に『岩波写真文庫(瀬戸内海、阿蘇、長崎)』と挟み『花嫁の心得』買ひ(640)、萩原家へゆき父君、母君と会ってきけば早大出の社員と話きまりしと。菓子もらひて帰宅。 芳野清、佐々木邦彦より『果樹園』の受取。宮沢弘子より前川生結婚と(けふきけば青生も結婚と)。下新庄の福崎正氏より毎日で見たとて『果樹園』1冊送れと。夜、肥下、小高根太郎、相野にも送る。伊東マキより、千川にゆくは坪井の方きまりてからにすると。 1月28日 9:00出て10:00奈良着。野崎家へ祝もちゆく。11:00より授業。終講の辞のべ30分にて出て来、林夫人と話す。「[木辻]遊廓の隣に住み、火事こわかりし」と。出て前川家へゆけば平田春一といふ歯医者。ともに出て生駒で下車、服部(※服部正己)により将棋、1番勝つ。 「Swedenへ留学したし」と。 帰ればsalary届かず。庄野潤三君より『果樹園』の受取。大垣菊五郎氏より国司君の詩、まへに見しものを封筒に入れあり。 田中雅子夫人より赤ちゃんの写真2枚。頼永祥氏より『台湾文献6の4』と手紙。『文献』に方豪氏の誤訳指摘あり。楊雲萍君わがことを噂しゐる趣。夜、大塚覚、新妻をつれて挨拶に来る。 1月29日(日) 大毎見しとて『果樹園』申込3人。中河与一、房内幸成2先生より受取と激励。井上源一郎氏よりこの間の会の参会者3人と。今東光氏より母堂の88才で亡くなられし通知。 午后出て入洛。畠山六右衛門邸へゆけば(taxi160)恰も天野氏居り北海道の漁場長と。まへに渡せし山城嬢の写真返され、その時は福井にゐしと。水産講習所を出し35才の3男坊と。この間本位田に会ひし話きき、taxi呼んでもらって京阪三條。 帰宅すれば留守中、保田の紹介状もちて林八郎夫人来、生物の出来る子と。タバコと菓子と賜ひしと。 1月30日 悠紀子電話かければ、父「28日にはsalary出さざりし」と。西村公晴氏に『戦後吟』。池谷はる、林喜芳、岡田兆功の3申込者に『果樹園』つつむ。 午salaryとどく。午すぎ『昭和史』評5枚かきsalaryわたして出る(川副国基氏より『果樹園』受取。自衛隊の安部三郎といふ人より 同人参加申込)。 15:00出て京橋より大毎にゆき天野愛一君呼び出せばcoffeeおごり呉る。別れて旭屋にゆき『アテネ文庫』4冊包ませ金入れ忘れしに気付く。あやまりて出、省線にて天王寺。学校へゆけば文芸専攻一般にて60名を超えしと。『研究年報』出来をり。「論語」のprint切り、岡田亨子に『果樹園』買はし(これにて35部)、伊東マキと会へば、どうしようかと。岩井みよ子に2時間の分かれ目、東大教会長の子、上原君のこと話し、2時限すませて来れば中野トシ子をる。瀧本生に天野氏の話すれば心当りの31才嬢に話して見んと。 夜、教委試験受けんと2人来り、通りてもむつかしと話し、中野と同車。もの云はず、天王寺にてスカして帰宅。和田先生、天理の鈴木、高橋2氏に(※『研究年報』)抜刷送る支度す。史、夜半まで帰らず。 1月31日 登校の途、アベノ橋(Hugo)で『アテネ文庫』4冊買ひ、ゆけば伝田生来り(※文集の)表紙見す。久美子来り、午后山本信江来り、「恋愛?を父にとりつげ」と。諾せしところへ羽田より電話。高島屋でと打合せ、ゆきて会へば父君の墓碑のことにて一騒ぎと。 出て野崎groupと会ひice-creamおごられ、別れて羽田と梅田。別れて帰宅。 石中象治氏よりハガキと『芸林』。奈良女子大より(14,400-1,856)と。村上新太郎氏より催促。 2月1日 寒し。予饌会とて行かず終日臥床。西垣脩氏より同人費1,000。大上敬義氏より『果樹園』社に『地虫』。乾武俊氏より受取。史、京大法科に願書かきをり。 西垣氏へ受取。浅野晃、神田信夫、岩井大慧、今西春秋、松本善海、植村清二、川久保悌郎の諸氏に「金尚憲(※研究年報抜刷)」包む。西垣氏へまた『学報』。 2月2日 9:00出て散髪。10:30鶴橋着。『文芸春秋 三代日本の謎』買ひ、鍛治君の10:50に来るを待ち、同車にて奈良。Taxiにて奈良 Hotel(120)。挙式中ゆゑ待たされ13:00より披露宴。新郎は川口君とて近鉄案内所にて見知りの好青年。前田社長、永島福太郎氏と話し、その氏の「男まさり」ほめて了る。またautoにて奈良駅前。湖月にてしるこ食ひ電車にのれば新郎新婦と一緒になり、我のみ京橋まで同車して別る。 伊藤桂一君より同人費300。夜、福地君来る。東井夫人より電話。けふ父「信綱文集・歌集」もち来りしと。 2月3日 7:30家を出、8:30登校。退屈なる(※入学)試験監督す。浪江氏の女[※むすめ]、岡村嬢みな受けゐたり。村上鋼業社長の女もあり。12:30まむし食ふ。漢文採点はすでにすまし、鍵谷生を待たす。すみて鍵谷と出、島本を訪ぬ。四天王寺高校の化学の先生に嫁ぎしと。けふ金入れ忘れ鍵谷生に売りし『果樹園』の10円のみもちゐし。をかし。 奈良の西村公晴氏より『戦後吟』受手。影山正治氏に送りたしと200。堀内民一君より岡本令嬢224と。村上新太郎氏より詩の受取。毎日新聞より稿料2,500-375送ると。「金尚憲」を橋川時雄、村上嘉実、百瀬弘、鈴木俊、青木富太郎、佐中壮の諸先輩へ包む。夜、福地君より電話「小高根二郎氏の転宅は10日頃に延びし」と。 2月4日 10:00登校。面接。遅々として17:30までかかる。浪江弁護士の令嬢だめ、高木信だめ。その他もいかがなりしや知らず。岡村墨屋令嬢は1番か2番にて院長ほむ。南敏邦君の名刺もちてその舅、藤野欣子の身許しらべに来る。別居は19560204させたくなし、この 外に推薦してくれと。腹立てしもそ知らぬ顔して帰す。 帰途、上原専禄『歴史を学ぶもののために』と『言葉の今昔』と買ふ。 けふ毎日に『昭和史』の評出たり。相手は市大助教授原田伴彦。帰れば稿料とどきをる。井上恵子より府教委の試験通りしと。けふ西洞院夫人より電話かかりしも出ず。福地君より上村肇の原稿。 2月5日(日) 9:00前出勤。(※判定会議にて)電車の中で受験の苦心話しゐし30娘あとで落とせしをはじめ浪江令嬢、沢田医師の姪などおとす。保田の姪は良き成績なりし。堀内民一氏の云ひし岡本嬢も、東井夫人の土橋嬢も入り21:00までやりて帰宅。 けふ壽岳博士『昭和史』の不快に同感と。小高根二郎君より「池田市野町168に2月21日転居」と。中村地平氏より「同人加入保留」と。 2月6日 松本一秀に電話すれば「(※結核)だんだんよし」と。清水重役はじめ2部長の令嬢のこと云ひしも知らず。「宮口生、組合にて共産党より近づかる」と。白鳥芳郎、平中苓次、桑田六郎、護雅夫、宇都宮清吉、日野開三郎、中山八郎、竹田龍児、和田久徳、河原正博の10氏に「金尚憲」抜刷。 堀内民一氏に『果樹園』。父より電話、兼頭とて同じく鉄線業の娘のことなりし。西垣脩氏より「小山君の詩集(※『にげ水』)評を我にかけ」と。 15:00出て天王寺。東井家へ寄り土橋家のこときけば富田林に6、70軒ありと、バカらし。古本屋見、岩波文庫『朝花夕拾』買ひて登校。 兼頭夫人、学校にも来り、西宮君に会ひしと。中井玲子同窓会のためautoを運転し来をり。山本信江来り、石川道雄氏にと『戦後吟』にsignさす。寝屋川の教師といふ松川朝江「けふより出席せばいかに」と来りしを叱る。伊東マキ、千川に会ひしに一週間以内に我に返事せんと云はれしと。瀧本生、友達の親類書と写真とを托しskiiにて来られずと。 2月7日 9:00出て登校。type打ちreportの口頭試問す。早くすませ今西春秋氏、千川義雄(10部呉れと100円同封)。よべ叱りし松川の手紙受取り、学校へゆき願書その他で50払ひ、日野君に会へば岩崎嫗このごろ窮屈といひをる由。 ナンバへ出て市電にて四ツ橋、消防局に筒井訪へば忙しと。野上に5,000返せは彼もすすめしと。出て高尾に450払ひ、増田『原始刑法の探求(250)』買ひ、梅田新道より市電にて日本レーヨンへゆけば小高根氏、けふ明日と出張と。日本生命へゆき宮口、藤原、谷川3生に順次あひ、16:00宮口、谷口2生とまちあはせてお好み焼。宮口「共産党員とはさほど仲好くなし」と。宮口生と片町へ出て省線。大阪新聞より税申告票。保田の妹、林満寿子氏より礼状。野崎夫婦雲仙より。鈴木治氏より「金尚憲」受取。 2月8日 家居。桜塚の校長松浦氏より電話、郡とて落第せし子のこと。補欠と思ひちがひして守本主事にゆきて会へと云ひ、あとで学校へ電話しおく。 小高根二郎君より電話、14日(火)16:30より編集会と決める。 楠田豊茂君よりハガキ。山中良造氏より『果樹園』の申込(20円同封)。岡田兆功氏より受取。伝田雅子より表紙あれにてと。近江詩人会より藤野一雄君結婚と。『果樹園』のこと広告しくれたり。 東井夫人より土橋夫人と礼に来ると。ことわりしもきかず17:30来てshirtと金一封おきゆく。千川へ『果樹園』10部。山中氏へも包 む。 2月9日 寒し。8:40登校。2年のreportの口頭試問やりしに菊池「姉、午后来る」と。ついで松井和佐子も来ると。古典の試験に将来のこと書かせしに、みな程度低く専攻科志望も浦畑、新坂のみか。武居生「銀の鈴」社に就職決定と。14:00来りし松井生に会へば『南坊録』の講義ききに古市にゆくがよきかと。府立図書館へ電話かけてききやり、ともに出て近鉄departで西洞院姉弟に会ひ、沢井孝子郎に紹介状かき、会ひにゆかす。松井生出、西洞院夫人と鶴橋にて別れ、小阪の松本一秀訪ぬれば、隣家の夫人胃癌にて死にしと。いろいろ話せしのち出て、堀内にと『言語と生活(150)』買ひ、鶴橋をへて帰宅。 けふ学校へ岡田剛先生より安堂女のこと。青木、佐中2先輩より抜刷の受取。 浅野晃氏より100と詩「同人費500にても良し」と。岩崎昭弥君よりも詩。田中雅子夫人より「赤ちゃん美千子」と。中山八郎氏より会もちたしと。越後氏(八幡高校長)、松浦氏(桜塚高校長)へそれぞれ返事。 2月10日 同じく寒し。登校。4時限目授業なくなり図書館整理す。南日生『風俗の歴史』買ひ、三苫君『人間の歴史』買ひ、安田徳太郎大流行也!!岡田都君芸術祭の券賜ふ。東孝子の母君来り、休学か退学かせんと云ふ。中西義章の診断受けよと紹介書く。落涙しあはれ。 14:00出てナンバ。地下鉄にて本町の千川の勤先にゆきしも2、3日欠勤と。(けふ岩崎君月末退院とて挨拶に来し)。 『果樹園』の締切とて斎田、山田、山根(300同封)の3同人の詩来る。斎田君は詩の組み方にも注文あり。保田父君より林良子生の入学の礼状。神田信夫君より「金尚憲」の受取。「丁卯は丁丑の誤なり」と訂正さる。けふ買ひし『文芸春秋』に亀井勝一郎の『昭和史』評あり。 2月11日 奈良へゆく。野崎家へ寄りしに式の写真5枚と土産の砂糖漬と賜ふ。図書館へゆき『研究年報』贈り、服部英次郎氏に抜刷進呈。11:55より試験「私の杜甫論」17名出席。12:30すみ昼食。弁当代払ひ、出て横田俊一氏に会ひ、ともに前川家へゆけば佐美雄氏、橿原市誕生とてゆきしと。なるほどけふは紀元節也。横田氏に竹内訳『野草』贈り帰阪。しつこき風邪に罹りしといふ人に会ひ帰宅。 森亮氏より訳詩と同人費(300)。野間光辰氏より受取。橋川時雄氏「韃靼漂流記と川沙漂流記の合さり詩を出す」と。弘文堂より『豹軒退休集』の割引は20日までと。 2月12日(日) 寒ければ家居。小山正孝君より詩、『山の樹』再刊を考へゐると。竹田龍児氏より「和田先生1月末まで胃潰瘍で倒れたまひし」と。松浦校長より、わが思ひちがひのせいで郡嬢、聴講生を許されさうと。鈴木治氏より抜刷ワグナー氏に送れと。斎田昭吉君に『果樹園』5部包む。小山君の受取。夜、計算すればすでに631行となり628行に入らず。 2月13日 中山八郎、鈴木治(年報送るゆゑ、ワグナー先生の方はたのむと)、神田信夫の諸氏へハガキ書く。〒なし。和田先生へお見舞状。 15:00出て1,500を弘文堂へ『豹軒退休集』の代に送る(40)。学校へゆきて千川に電話すれば断りし也と。『果樹園』10冊はまだ入手せずと。久美子に研究室で会ひ、「みさ子を貰ひに来し人あり。ことはり、ことはらずで大騒ぎ」と。面白くなしと。 夜学1時間すませれば瀧本君来をり、田鍋佳子氏(大正15年生、岸和田市立大宮小学校勤務、岸和田市加守町431、幸雄氏長女)中背、北海道行承知と。2時限すませて帰宅、けふ〒なし。 2月14日 川久保悌郎、村上嘉実2氏より「金尚憲」の受取。西洞院愛信君「沢井孝子郎に会ひ岸和田産[業]高へ紹介されし」と。角川より税金申告(43,943)。小高根二郎君より電話「pompeian」なる喫茶店休店につき会社へ来いと。 15:30出て片町をへて日本レーヨン社へゆく。待つまに福地君も来り、公会堂下の食堂で編集会。行数規定にまちがひあり、わが分も出。 18:00出て京阪にて七條、市電にて畠山邸。六右衛門氏電話にて帰り来り、田鍋嬢の年齢に不満らしきも「ともかく話して見よ」と云ひ、羽田に電話してゆくと云ひ、whiskyと瓦せんべいともらひ、auto呼んでもらって上賀茂(※羽田邸泊)。羽田君も和田先生の御病臥は知らざりし。 2月15日 起きてゆけば羽田早くより待ちゐしと。朝食よばれ紅茶よばれて12:00なるにおどろきて、ともに出、大学研究室にゆき、里井君に杜臻出してもらふ。『研究年報』1冊おき、『東洋史研究』の300置く。「方豪氏より桑田先生に杜臻の問合せありし」と。阪大の岡崎助手の話。 出て研究所へゆかんとすれば桑原武夫氏に会ふ。(※寄贈した)『果樹園』のことは忘れたる様子なり。藤枝帰宅とて古本屋にて『台湾旅行案内(65)』買ひ、百万遍より市電にて吉野書房。 高鳥君をり、ややして柳井道弘君も出て来る。Taxiにて三條にゆき喫茶。『新論』1,300万円の損失なりと。美術雑誌出すも稿料なしと。危きことなり。Coffee柳井君におごらせ京阪書房に寄りて帰宅。 林夫人、昨日来り衣料賜ひしと。岡村嬢の母来り羊羹賜ひしと。芳野清君より同人費1,500。父鬼の並木富美子氏より「同人規定知らせよ」と。千川より「10冊受取し」と。柏原広子氏より「送付の手続しらせよ」と。小山正孝君の『にげ水』評525字を書く。 2月16日 9:00登校。歴史すませnote検査と発表。机の上に藤田亮策先生の手紙あり。山本嘉蔵氏より「金尚憲」見せられしと。史料多く教へ賜ひしも見るに由なき様子。 伝田生、明日来る由。榎本すみ子昨日来しとcakeおきあり。疋田生より電話、12:45天王寺で約束し、(※『果樹園』の)編集後記かき了へ、その前に電話して来し信江君の15:00の約束までに元市印刷へゆくこととす。 守本主事、専攻科の時間割を相談す。楳垣先生、前田勇『浪華しゃれことば』返礼に賜ふ。疋田生と会ひbusにて元市印刷。伝田生の(※文集の)組見本出来しをりたり。『果樹園』25日迄に出来を、とたのみ、出て近鉄にて天王寺。お好み焼食ふ。「協和銀行員との縁談また再燃せし」と。 別れて地下鉄にてナンバ。荒木利夫君に会へば多喜さん『果樹園』着かずと怒ってゐると。春夫『悲壮美の世界(100)』買ひ、信江君と愛人苅田[カンダ]君とに会ひ、将来を約さしめ、父君に会はんと云ひて別れ、成見屋薬局の電話借りてかけしに不在。帰りて信江君に電話すれば我に会ふと出て未だ帰らずと!! 堀内民一君に同人新加入を当分せずと。蒔田氏に礼状かく。21:30信江君より電話かかり、父君明日14:30来校と約束す。「お別れにpartyやってゐた」とのこと也。 2月17日 伝田生来るかと9:30登校。11:45まで待ち、開、広常の面接せしのみ。東生来をり、中西にゆけとまたすすむ。午后すみて長沖氏と話す中、山本嘉蔵氏来校。苅田君のこと云へば承知と。我に一任するや否やは返答待てと。16:45まで学会の話などし、くたくたになり、苅田君に至急来よの速達かきしあと、鍛治君誘ってナンバ。Coffeeおごり呉る。(けふ卒業生よりの贈物、万年筆をと浜谷生に云ふ)。 帰れば河出より『世界歴史物語』書けと。三島一、山上正太郎などが編集と。失礼なる言辞なり。西洞院愛信君「前田政雄に会ひし」と。「欠員ありて予算なしと云はれし」と。 2月18日 苅田君より電話あり「来よ」と云へば10:30ごろ来る。山本嘉蔵氏の気持伝へ、津山の実家へ手紙せよとすすむ。姫路工大より阪大の大学院へすすみしと。昼食して帰りしあと、信江君に電話す。 弘文堂より『退休集』代金の受取。鈴木治氏より「Wagner氏に送った」と。千川稚泉より『果樹園』に2、3句のせぬかと。平凡社より申告票(540-81)。夜、福地君電話かけて来る。 2月19日(日) 赤星を呼びて賄人への手当のこと云ふ。〒なし。午后草焚く。夜、林満寿子氏へ祝状。(沼田、午后天草より呼びし花嫁つれて来る。12日退寮せし也)。夜、「杜臻粤閩巡視紀略のこと」250字12枚を書く。 2月20日 悠紀子に郵便出してもらふ。台湾への開封(50)、頼永承氏への私信(35)と、共に航空便なり。〒なし。午后、父来る。この間、林叔父叔母に会ひ、出発少しおくれしとききしと。 2月21日 昨日より下痢。家居。石中象治氏より『芸林』4月号に詩をと。小高根君より転居通知。17:00守本主事より電話、明日補欠入学につき14:00来校せよと。夜、福地君来り、校正23日かと。 2月22日 鈴木治氏へ『研究年報』。林満寿子氏より折返し礼状。池沢茂より原稿とハガキ。高橋重臣より詩、「山荘嬢の縁談は相手に情人あるらしく話に乗らず」と。『薔薇28』。史に京大法科より受験票来る。 けさ8:00苅田君より電話「昨夜23:30まで逢ひ、我に呼ばれしと云ふこととせし」と。戒めおきしも、弟に不快感与へざるためと!! 午后出て学校。院長に会へば及第取消4名あり。補欠1名辞退。8名入り、のこり3名如何にせんと。皆入れよと云ふ。中学部にて国語の教師入用とて井上恵子推薦し、25日(土)9:00来よの速達出す。 長沖氏登校。一寸話して出、山本信江生に会ひ、母君見舞ひ、も少しゆったりかまへよと云ひ、榎本須美子を訪へば秋、京都府医大のdoctorと結婚と。17:00ナンバ駅にゆけば山本嘉蔵氏待たれ、「Etoile」と云ふにゆきて昨夜のことあかし協力を乞ふ。(沢田博士に寄りしに不在。『近畿民俗26』信江君より受取)。 けふ元市印刷に電話せしに明日校正出ると。帰り京橋にて桑田博士に会ふ。家に着きし恰も電話、伝田生より「金曜来る」と。小高根二郎氏よりも電話、24日会ひたしとのこと也しと。奈良女子大より「23日迄に来学期の講義要領しらせよ」と。織田ユリより「徳永悟氏と結婚、山本に住 む」と。 2月23日 家居。福地君より電話。元市印刷へ行ってもらふ。服部三樹子氏より200送り来る。福地君来り、ともに校正、事務片付てもらひ、また元市印刷へゆくと。送り出せしあと、苅田君来り、父の手紙見す。「先方の両親は学校の先生の仲介にて承知した由なれど、当方は一応調べて返事す」と也。すぐ山本嘉蔵氏に電話す。夕食食ひて帰る。 2月24日 朝、山本信江母君より電話、信江風邪にて代りに礼云ふと也。13:00伝田生来り、太宰博士の原稿その他置き「何もかも我に任す。4月8日に披露したき故、3月末に出来させよ」と也。元市印刷に電話せしも無人。砂糖呉れ金一封置きゆく。 2月25日 8:50学校へとゆけば「かもめ」に井上恵子をり、研究室へゆき武居豊子よりreport受取る。「銀の鈴」社に勤めて6日になると。10:00すぎ院長来り、井上生と会はせしも気に入らざる様子。信江君呼びて問合せに気をつけよと云ふ。樫本校長来り、また井上生会はせしも如何にや。西宮君、楳垣教授ら来り話す。 出て元市印刷にゆけば(※伝田文集)表紙4色刷にて3月に間に合はずと。『果樹園2』1冊とりて寺田町で昼食せしに、やがて下痢気味。1時間余り待ちて青くなり帰宅。夜、福地君来り、発送事務終ふ。芳野清君の1,500渡す。 2月26日(日) 下痢直りしらしきも日中臥床。風呂へ入り急に思ひ立ち(吉田定一君より稿料1,720。河出書房より原稿用紙すでに送りしも再度送ると見しあと)鶴橋へゆき散髪。天理につきてうどん食ひ東詰所へゆき八木家ききてゆきしも無人、高橋家に泊めてもらふ。 (けふ午前中、伝田君へ手紙かき、史に速達出しにやらす。) 2月27日 88る老嫗、絶食1ヶ月以上にて夜中ぢうわめくを聞く。9:00起床、10:00高橋君の自転車にのせられて図書館。友井製本翁に水、金2日の中に来さしてくれとたのみ、司書室にゆき司書講習受け、八木君よりcardもらひ、大学の図書館科研究室にゆき仙田氏と話してのち帰阪。 鶴橋でそば食ひ登校。雨少し降る。東生けふより試験受けられずなりしとのことに電話すれば母上水曜来らると。 夜学試験。2年に『果樹園』20部売る。伊東マキ子にきけば静雄の忌日12日と!! 帰宅してあと急風、こはし。百瀬弘氏より「金尚憲」よんだと。伝田雅子君より入れちがひらしき問合せ。河出書房より原稿用紙。(文学アルバム『朔太郎』買ふ)。 2月28日 山中タヅ子より円満退社と。菊地成子、原田裕代より出版社に就職したしと履歴書。伝田雅子より表紙の指定。井上恵子より院長、校長へ運動すべきやと。入江来布氏の死亡通知(71才、肺炎にて26日卒と)。山中生にお祝ひ、菊池、原田には口なしと返事かく。 14:30福地君来り、ややして城平叔父、風害を見に来る。マミ子受験上京と。久美子の礼云ふ。15:30出て片町より北浜2丁目下車、トッパンで『柳樽5』買ひ、中央公会堂下でport-wineのみて(※『果樹園』3号)編集会。15日締切にて伊東静雄特輯ときまる。 出て梅田まで歩く途、「Beir」の前通り、寄りしに山本、岡山へ行くとてmadame不在。beer2本のみて710を小高根君おごり呉る。けふ10:30まで寐て快し。会社のsalaryとどき『信綱文集・歌集』の立替を父、引きあり。 2月29日 9:00出て寺田町下車。石塚で『井伏鱒二詩集(60)』買ひ、元市印刷へゆけば息子ゐず。(※伝田文集の)表紙と写真ともにだめらし。のちほど電話するといひて登校。 院長に会へば生田、青木2生の書類審査を中山太陽堂で云ひをると。山中タヅ子に電話すれば3月半までまだ出社と。生田生に電話してくれ、後ほど来る。阪本昌代と話し、東夫人の来訪受けてきけば、東生、中西の診断にては休学不要と。うれし。 15:00より教授会。体操で10名再審となり、図書返却せざる子のこと云ひ、追試の手当のこと云ひ、専攻科のこと云ひ(山本恭子来ずと)、3月7日新聞社を呼ぶ。毎日は我連絡せよと。 18:00すみてぶつぶつ云ひつつ帰宅。 池沢茂より隔月刊にせよと。20:00福地君来り、同人へ報告。元市印刷へ電話のひまなかりし。(一昨日受取りし夜Ⅰ田中の診断書失ひしか見当らず。けふ全田叔母の間借りたしと1人来る)。 3月1日 9:00家を出、天王寺へゆけば寒し。喫茶店より元市印刷へ電話せしも不在。Hugoへゆき『アテネ文庫』2冊買ひ、近鉄departで『和歌山市街図』買ひして10:25電話かかりしのち、10:30の急行にて東和歌山。伝田生の電話しらべしもなく、うろおぼえにて電車にのり、水軒口まできてわかり、父上とも会ひ、すしよばれて(※文集の)表紙は児童の絵にすることとし、梅田家まで案内され、大阪へ夫人ゆきしときき、車庫前より市電にて市駅。急行出しあとにて普通にのり、南淡輪で急行にのりかへ泉佐野で途中下車。電話かけて鍛治家にゆき、姉妹より歓迎受け、母上とも話して出、16:46の急行にてナンバ。 入浴し夕食すませれば高知より小高といふ元工員来る。西村はじめ皆健在らし。千川君より150送り来る。Basket-clubより3日14:00より宗右衛門町「新市」で送別会と。堀口太平より江戸川apartにて開業と。23:00奈良女子大の採点了る。 3月2日 9:00家を出、奈良へ成績表を速達で送り登校。4時限まで待つ。末吉より電話。11:00すぎ天理より友井の息子君来り、report50部と万葉研究3冊もちゆく(80×50+120×3)。試験を監督す(漢文)。出来ず。すみて末吉に会ふ。金(岩本)といふ韓国人の息女、中等部に入りたしと。だめと云ひて帰す(※受験資格ない為)。院長来りしかば長沖氏の試験すむを待ち、研究費と本位田・石浜恒夫2氏の新学期よりの講師、信江君の解職などを云ふ。鍛治君、西宮君のsalaryの件は本人達同座により云へず。野崎夫人、近所の子供つれて来る。 16:00出てナンバ。「道頓」でcoffeeおごり、天牛南店で『中国文法基礎(280)』買ひて帰宅。 けふ山田光子に「院長心配しゐる」とハガキ。生田・青木2生、中山太陽堂へ書類もちゆくと同車す。史、10:00すぎ(※京大受験に)上洛せしと。 小山正孝氏より出版記念会の写真(新藤千恵子をり)。林富士馬より山根君の詩よしと。岩崎昭弥より3月末来ると。宇治の日下部喜子氏より2号以后の代金240。 3月3日 小高根二郎君よりハガキ。13:00出て宗右衛門町の「新市」へ14:00着く。楠戸、中島、十時、久保田の送別会なれど1年住山、肥後、佐々木と3名にて淋し。すきやき食ひ、みなbeerのみ、我のみ、14:30出て心斎橋筋歩き十合に入り児玉君に会ひにゆけば真赤となり食堂にてjuiceご馳走となる。「新市」より元市印刷へ電話すれば18:00頃まで不在と。梅田新道で夕食。また電話すれどかからず。 3月4日(日) 天六にて元市印刷に電話すれどかからず。busにて天王寺。電話かからざる故ゆきて相談し、阪和にて和歌山。車庫前にてのりかへ時間を利用し梅田家へゆけば夫君も在宅。久しぶりにて話し、菓子もらひて出、水軒口にて楠戸生に偶然会ふ。伝田家へゆけば恰好の表紙出来をり。それもちて19:00大阪着。電話かからぬ故また行きてよしとなる。留守中〒なし。岩崎次男氏より全快祝として石鹸半douzen。 3月5日 家居。父より電話。福地君より電話。のちほど来り、『果樹園』事務すまして呉る。〒なし。午后史帰宅。羽田家より『コギト』24、25、27、28、31、32、34、35、37-39の11冊。京大の入試易くみな点良かりしと。 3月6日 雨、家居。謝恩会の通知来りしのみ。羽田、伝田、小山正孝、岩崎次男の諸氏にハガキ書く。 3月7日 曇。井上多喜三郎、中野清見、梅田惠以子に『果樹園』1、2。横田俊一氏に『李太白』。 12:00出て登校。14:00より教授会。だらだらと浜谷を卒業生代表とし山本実子を在学生代表とするに時間とる。すみて一休みせしあと16:00より専攻科の打合せ会。毎日、朝日、産経、読売よりも1人づつ来会。今東光氏の独り舞台となる。すみて19:30帰宅。 (けふ学校に伊東花子氏よりマキ子君、堺の幼稚園に口ありしと)。石井習氏より同人に参加したしと120。『玻璃』3月号。小川和氏より『Reflexions our le roman』。中に手紙挿みあり、「親切な先生にもはや会へず」と!? 3月8日 福地君来り、石井習氏に『果樹園』送る。小川和氏へ礼状。河合幸男氏より蒲池邸にて『果樹園』見た。『詩苑』送ると。鈴木俊氏より「金尚憲」の受取。短大へ電話すれば税金の伝票送り呉ると。今年度15万円の印税原稿料収入ありしらし。 3月9日 家居。鈴木治氏より『研究年報』の受取。郡元次夫人より礼状。中林茂子氏より『果樹園』1号よりと100。本多和子より関西二紀展に入選したと。河合幸男氏より『詩苑』2冊。 夜、郡夫人より高島屋の商品券3,000。けふ奈良女子大より来年度の時間割来り、土曜3、4時限と速達にて返事す。元市印刷へ電話せしに校 正火曜に出ると。 3月10日 寒し。〒学院より申告票449,460と来る(去年428,766)。午后電話かけて松本一秀君にゆき『日本歴史物語3』借り来る。 3月11日(日) 家居。鄭成功よむ。 3月12日 家居。また寒し。午まへ福地君来る。ともに小高根二郎君に電話し17日(土)12:30中央公会堂で会ふこととす。 3月13日 9:00元市印刷に電話かけ、10:30にゆきしに校正1時間待てと。rice-curry食はされ13:05の急行にて和歌山。伝田家へゆきて表紙2.2万円見積りのこと云ひ、校正すませ、風邪申立てて出る。表紙は大日本印刷の太秦工場に相談すと也。急行出しあとにて伝田嬢と紅茶飲み、20:50に乗り23:00前帰宅。表紙の問題のこりしも致し方なし。 千川より伊東マキの幼稚園の口なしと。村上新太郎氏より詩を31日迄にと。 けふ留守に北野高校林校長の紹介にて川井義通教諭来訪。2部服飾17井上房子の入学たのむとwhisky1瓶おきゆきしと。大工来りしも赤星応対して不快。 3月14日19560315.JPG 風邪なほらず。弘文堂より『豹軒退休集』。色々の事思ひ出す桜かな、の類なり。 井上多喜三郎氏より『果樹園』の受取。浅野晃氏より伊東の追悼の詩と500、蔵原伸二郎に送れと 14:00出て元市印刷。社長に表紙のこといひ、これにて原稿みなそろひしを云ひ、案内書の印刷たのみ、1,500をハガキ代にわたす。湖東君訪ねしに卒業式にて夫人留守。元市氏にもらひしwhiskyおき風邪薬調剤してもらひ出る。省線にて長雄英子に会ふ。開利枝より電話かかり、けふ帰着せしと。(頼永承氏より杜臻のmicrofilmたのむと)。けふ八木嬢に見舞状。 3月15日 卒業式とて京と出てゆけば学校に着きしは8:45。9:40までにゆけばよかりし也。待つ中、伝田雅子けふ来るとの名刺預り来し子あり。万年筆贈らる。式場へゆけば高岡、守本2氏morningを着ず、我を見て嫌な顔す。文芸専攻の呼名せしに不行届とて守本氏いやな顔す。笑ひ声、話多き卒業式となる。 すみて中島生よりbasket部の返礼とtobacco1箱と母君よりの洋服地ともらふ。伝田父子来り、表紙和歌山にて刷ると。長沖氏も出席と。壽岳先生の題字「足音」と。 謝恩会に出れば東夫人お越し、追試は4、5月といふ。(友井坊や製本もち来り、3,000余り)。 やがて校正見て仕事すみ、教師たちの隠し芸に出ず、15:30より専攻科の会議。10人近く申込ありし。田中洋子明日来るとのことに院長にきけば宜しと。 出て疲れしに気付く。西垣脩氏より原稿。岡崎精郎より『研究年報』の受取。河合幸男氏より同人に加へてくれと。 けふ悠紀子税務署へ申告にゆき13,651払ひしと。父来り、「河野の長男、学芸大附属に落ちし」と。 3月16日 父に電話し、十合の月賦購買券(10,000)のちほど史にとりにやらす。山根君より詩。森亮君より2.5枚。上村肇氏よりも2.5枚。河合幸男氏より詩集2冊。中島悦子へ礼状。井上斌子・山中タヅ子へハガキ。『薔薇』へ詩「卒業式」。田中洋子より電話、院長にまだ会へずと。天下茶屋に下宿探すと。 3月17日 福地君10:00来り、事務やり呉る。一足先に出てもらひ郵便まてば芳野清より原稿送ったと。八木嬢より26日頃来るやもしれずと。伝田雅子より元市印刷へゆきしと。 出て13:00中央公会堂下へゆき編集了。われは69行を伊東のことかき、10行後記をかくこととなりし。「十合」にゆき斎田君に会へば伊東の思ひ出かきかけをもつ。4月1日の会を「御門」でせよと。合セビロあつらへにゆき6,000。そのあと児玉君に会ひにゆきしに不在。昌三叔父に電話かけてもらふ(25日出来と)。「御門」にゆき喫茶。4月1日の特別室の約束し、駸々堂にて『現代用語辞典』買ひ、玉造をへて帰宅。 奈良女子大の伊藤生『杜詩』4冊返しに来、菓子呉る。父来り、今井祖母危篤にて母ゆくとのことに、見舞に1,000わたせしと。羽田より史合格の祝電来をり。(昌三叔父にきけば27日の式は出雲会館と)。 夜、岩崎昭弥より速達、伊東の追悼の詩と「25日来る」と。また福地君より電話、『果樹園』24日ごろ校正出ると。明日夜8:00にでも来よといふ。 3月18日(日) 9:30登校。10:30より2部面接、文芸12人ろくな子なし。午、湖東より電話、夕方ゆくを云ふ。本位田氏のこと道満宅へ電話してきけば東京ならんと。苅田君より電話、近日来よと云ふ。(帰りてきけば山本氏よりも祝ひの電話ありしと)。青木正子「中山太陽堂に通りし」と礼に母と来てcake呉る。生田生は落ちし。湖東に寄り日赤の耳鼻咽喉へ紹介の名刺もらひ帰宅。 20:00福地君来る。けふ岩崎昭弥よりまたハガキ。芳野君より原稿。清水文雄氏より『和泉式部歌集』。楠本、田中、岩崎嫗3人に4月2日10:30登校せよとハガキ書く。 19560315-2.JPG 3月19日 9:30登校。専攻志望は9:00より待ちしと。10:20より院長の話あり。面接聴講4名中にただ1人老婦人あり。長沖さんの講義きくと。院長に鍛治君の昇給いへば心得し様子。長沖氏とナンバへ出て天満橋をへて帰宅。 (福地君と朝同車。学校まで校正とどけてくれし。「元市印刷きのふ我家さがせしも見当たらざりし」と) 西川より手紙と日本経済新聞の切抜。村上新太郎氏より詩の受取。矢野兼三氏より転居通知。夜、松本一秀君より電話、史入学の祝詞。『足音(※伝田雅子編)』の校正再校すます。深夜、京の寝床で猫出産。 3月20日 雨。西川へ『果樹園』の読者となれとハガキ。本位田重美氏への講師の交渉(水曜5、6限、古典講読をと)。眞野喜惣治君より汚職の手助けせよと、断りの返事す。横田俊一氏より『李太白』の受取。久美子の結婚披露27日12:00より出雲会館でと。 14:30出て元市印刷へゆき再校すます。帰りアベノ斎場へ出、『国姓爺合戦』見付け、天海堂で『法史閑話(80)』買ひ帰宅。 愛和幼稚園の成尾園長より学園高校につき明日来ると電話ありしと。 3月21日 神田信夫君より『閩海通言』の名見当らず『閩海贈言』とありと。和田先生御経快と。鈴木治氏より令息に『古典語典』よましゐると。湖東より電話「令嬢、大手前に合格。我に保証人たのむ故、明日15:00来る」と。 14:00出て梅田へ散歩。Svalにて『日本人の博愛(100)』買ひ鶴橋にて鰻丼食ひて帰宅。井上房子生あたかも来あはせ、礼にとcakeおきゆく。 3月22日 晴。小野和子より電話、史の及落問ひ合せ来る。保田與重郎より林良子入学の礼。小高根二郎君より服部三樹子氏同人参加と。山中タヅ子より専攻科には入れずと。 14:00湖東君来り、大手前高校の保証人の印おさす。busまで送りてゆきしも来ず。駅まで送り愛和幼稚園にゆきしに成尾園長、学園高校入学の件については佐沢氏にたのみにゆきしと。夜、福地君来訪、用なし。 3月23日 晴。依子を日赤に悠紀子つれゆき小山dr.の診断受ければ蓄膿ならずと。10日ほど通ってみよと。湖東君への手紙も托さる。河出書房より「26日までに原稿を」と。 父来り、土曜より、富士鋼業交渉決裂、ビラを貼りまはしゐると。史、明日より上洛と云ふ。苅田君より電話、ややして来り、成績見たし、釣り書ほしと。8月より結婚予定の交際とせんと。葡萄酒2瓶、史の祝として賜ふ。夜、岩崎昭弥より速達「25日こられず」と。 3月24日 よべ「国姓爺合戦」20枚を書きしも了らず。午、康平叔父より電話、寮生の人数に疑問あり(31名ならずやと)。彼らの為せる所を一度見に来よと。すぐゆくと云ひ、悠紀子の帰るを待ち、訊ねしに32名にて宜しと。羽田君より享博士の一周忌を4月8日(日)11:00興賢寺にてと。(ゆけずと返事かく)。角川より『ハイネ』5版2,000の検印紙を26日迄にと。本位田重美氏より水曜6、7時間目にと。(短大へ電話せしも守本氏28日まで登校せずと)。学院同窓会を4月1日(日)11:00よりと。 会社へゆきて康平叔父に人数のこと云ふ。原君がまちがひしと。ビラ赤旗を見て帰り来れば、のちほど田中課長来り、けふ夜、帰りし者をしらべよと。今川宅の前にapartの一室を借りをると。やがて悠紀子にしらべさせしに概ね帰寮。小倉が出て城平叔父に会ひにゆくと云ひしと。(岩崎昭弥に4月1日来よといひやる)。 3月25日(日) 悠紀子、京と弓子をつれて買物に十合へゆく。福地君来りし故、校正まだ来ずと云ひ、電話せしもわからず。行ってもらへば待たされて組み了りしを持ち来る。その間、上村肇氏の『河』来りしのみ。 14:00来りし福地君と校正。すみて『李太白』買ふことたのみ、角川の印紙投函たのむ。小高根二郎君に行くと也。 今夜また6人ほどおそくまで帰らず。昨夜、小谷、赤星、衣川、永井、増田、佐藤怪しとの手紙田中課長にかく。 夜、24:00までかかり「国姓爺合戦」50枚書き了る。我としては書き了へし感じなり。 けふ羽田に4月8日参れずとの返事出す。(背広出来)。(池沢茂に電話し4月1日おそくならば連絡せよと云ふ)。 3月26日 依子に河出への速達托す。福地君、元市印刷への途『李太白』もち来り呉る。疲れて午睡、和田先生『東亜史研究』賜ふ(1,500)。 けふ原君に田中課長への手紙托す(小谷、赤星、衣川、永井、増田、佐藤、小倉の名をあぐ)。 夜、福地君電話し来り、『果樹園3』28日出来と。(小倉によればビラ貼りに前田従事と)。 3月27日 10:00家を出て散髪、大江の坊やをり。すみて11:23にのりて森ノ宮より出雲会館へゆけば12:02。 われが最後なりしらし。式場にも出さされ披露宴、新郎(大江望)側は父母と大江父子と房子(つとむ年度末とて来られずと)。久美子の側は城平叔父、川原町叔母、康平夫婦、昌三夫婦と。藤田女史と川島女史(花柳勝田衛)杉浦氏も来をり。14:30新郎新婦出発、われ肥後橋まで歩きて片町より帰宅。 大江叔母と城平叔父とにて史の祝に鞄くれる由。帰りて今井三郎叔父よりの礼状見る。 住康子より4月会ふと。八木嬢より『新潮』19年21号に「スマトラ便り」発見せしと。浜谷弘子志賀高原より。やがて西宮君より電話、開利枝来ると(けふ吉永君に市電にて会ふ)。来りし開生に夕食くはせ『戦後吟』を餞別とす。史けふ上洛。 3月28日 史、宇治に下宿見付け2食5,000なりと。家にゐるは不快故、下宿したしと。父来り、万美子の為に下宿さがせと。悠紀子に俊子姉へ速達せしむ。(夜、城平叔父より電話、遠すぎずやと)。 岩崎昭弥より4月1日来ると。上田阿津子生、名古屋より。角川より印紙の受取。石田嘉子よりハガキ。 夜、福地君兄妹来り『果樹園3』の発送すます(120部)。 3月29日 無為。河出より「国姓爺合戦」の受取来る。守本主事に電話して本位田氏のこと云へば「5時限をおそく始めささん」と。ハガキかきて本位田氏に 諮る。 3月30日 雨。散歩に出る。金なくて悒鬱なりしに帰れば奈良女子大より8,400+4,600(車代)。1月より1時間700と上りし也。短大より採点 を7日までにと。 けふ悠紀子、藤井寺へゆき今川へゆき、叔母たちに会ひしと。(万美子に祝1,000)。 3月31日 晴。中村文子より関学大の3年編入通りしと(4名の1人と)。和田先生へ『東亜史研究』のお礼書く。 八木嬢14:00すぎ来り、史へ祝にnote5冊。子らにgame。(悠紀子、十合へ買物に出し直後)。Koffmann2冊、福尾『家族制 度史』、神近市子などもちゆく。 元市印刷より電話にて明日和歌山へ『足音』もちゆくと。月曜に短大へ1冊もち来れと云ふ。 夜、鳥取の田中洋子母より電話、胃痙攣にて2日出勤できずと。 けふ新聞にて大阪府教委の転任発表あり。瀧本美津子は岸和田城内小へ、西川良江鶴見橋中へ転任と。 4月1日(日) 弓子入学式とて悠紀子新調の和服にて出てゆく。雨となり10:00出てゆく。上町線にて西宮父子に会ふ。「かもめ」に寄り『鴎外全集 別巻2』受取り4年8か月の全集すむ。山本信江に電話し、来よと云ひ、吉田東洲なる人よりの『李太白』の批評受取る。高岡博士とすし食って出、信江君の家へゆく途中、会ひ一寸話してゆき、父上に釣書と成績証明書のこと了解せしめ、お好み焼御馳走となり、(※『果樹園』の会に)「御門」へゆけば福地、高橋、山根の3君のみ。おくれおくれに斎田、岩崎、小高根、池沢とそろひ、4号より毎月刊、16頁、同人費500ときめて出る。 岩崎、小高根2君と高島屋へ帽子買ひにゆきしも大混雑でだめ。岩崎君とbusにのり天満橋。家まで伴ひ夕食せしむ。疋田、井上斌子2嬢よりハガキ。19:30岩崎君出てゆく。子ら八木嬢よりもらひしgameばかりやりゐる。 「乾隆帝」やや案を得たり。俊子姉より2階4畳半を6,500(2食)にて貸すと返事。城平叔父より電話、21:30の彗星号にて明日久美子夫妻と上京と(8号車)。(けふ佐沢波絃氏『戦後吟』10冊代とて1,000呉れし。伊藤賀祐、渡独中と岩崎の話)。 4月2日 よべ寝られず。朝30分ほどねしところへ福地君来り、朝食。ひげ剃りともに出て京橋で別れて登校。「かもめ」のぞきしも夫人見えず。守本主事にきけば昇給われ10%、西宮君は少しと。岩崎嫗、楠本嬢と茶のみつつ、5日田中洋子来りてよりlist作らんときめ、漢文2部問題を三苫君にわたし、山本信江の成績表5日作成をたのみて出、「かもめ」に『鴎外全集(550)』代払ひアベノ橋にて炒飯くひて帰宅。 野間光辰、山宮允氏より『果樹園』礼状。伊藤佐喜雄「小金井に転居」と。 父来り、くだくだ云ひて帰る。寐られずして困る中、鈴木母子来り、夕飯くひ、依子悠紀子と出てゆく。城平叔父伊豆へゆくと。 夜半bellなり酔漢2名闖入(1名は元工員ハタと)、われ起され、原君おこし、結局出てゆきしも腹立つ。 4月3日 会社へ電話し康平叔父にハタといふ男のこと云へば「今度来たらおれの方へ廻せ」と。引揚住宅の子持仲居にだまされしならんと。院長より電話「井上生を小学へとり、四方生を中学へ廻すはいかに」と。「ありがたし」と答ふ。本位田氏より13:40出講にて宜しと。酒井絢子「19560401.JPG久賀谷姓になりし」と。村上菊一郎『果樹園』の礼状。『桃』(※山川京子主宰歌誌)来り、岩崎昭弥 の歌宜し。 湖東より電話「山本入院、ともに見舞にゆかん」と。福地君に元市印刷への支払ひたのみて出、梅田で待合せ、吹田済生会病院へゆく。膵臓潰瘍と。なほ意外なりしは夫人離婚したと。そこへ上田初枝女史来り、家事の采配ふりをること判明、よろし。3万円湖東返却。梅田にて喫茶、別れて「Sval」にて『東洋史講座3冊(180)』と『日本現代詩辞典(250)』。けふ「乾隆帝」の成案を得、うれし。 夜、福地君来る。昨日高村光太郎死にしと。 4月4日 晴。傳田雅子より礼状と『足音』1冊。上村肇氏より2号同人費300。北村徳太郎氏に送れと。「乾隆帝」夕方までに20枚。 4月5日 9:00出てbusにて小阪より布施、住友銀行支店にて7,308取り登校。田中洋子早くより来て待ちゐると。院長「井上を電話の通りにきめ た」と、めでたし。List作りやり、昼食の時、信江君来る。苅田君上京中と。成績証明書預からす。 15:30出て田中洋子にぜんざい食はせ、アテネ文庫『アヘン戦争と太平天国』買ひて帰宅。増田幸子より8日洋裁にて下阪と。硲晃君より「田中吏といふを見つけし」と。夜、ちょっと採点。大江の坊や、史への祝の鞄もち来る。 4月6日 定期買ひて登校。住高の山本重武君に会ふ。ゆきて2嬢と話しゐれば院長に呼ばれ「図書室の計画せよ」と。13:00となり昼食、井上恵子に明日9:00来よの電報打ってもらふ。15:00すませ交叉で下車。『日本山岳巡礼』買ふ。 帰れば百済生よりなつかしと。河出より催促の速達。史、帰り来り、吉野書房のArbeitは夏休みと。畠山氏手続教へやらんと。23:20 「乾隆帝」50枚書き了る。 4月7日 速達、天王寺で投函。井上恵子来り「小学校の校長秘書となりし」と。岩崎嫗おくれ来り、不快ゆゑ叱りおく。12:00すみて事務室にゐしに大東夫人(※伊東静雄の女弟子)、専攻科の用紙とりに来り、ともに出て地下鉄にてナンバ。「printemp(※プランタン)」といふにつれゆかれcoffeeおごらる。 別れて「源平」によれば美智子嬢5月結婚と。祝すると云ひ、すしもらひて出、十合にゆき児玉君に会ひて赤ん坊の病気のこときけば、時々風邪と。 雨となり地下鉄にて天王寺、寺田町にて『アラビアンナイト(75)』(十合にて『日本法の生成(100)』)。放出で下車、電話すれば弓子、京にて傘もち来る。(けふ採点2部の漢文と国文学史とわたす)。(児玉君にきけば前田光子挨拶なしにドーナツ売場やめしと)。 4月8日(日) 雨。11:00家を出て阪和12:00発の東和歌山行へのり、伝田家へ着けば14:00。住康子来をり、風雨にて参会者少く哀れなり。(※『足音』出版記念会)栗栖氏の司会にて始まり16:00すむ。長沖氏来り、太田昭子来り、武居生来る。夕食たまひ(市助役、市教育長――みな若し)、taxi呼んでもらひ市駅。4人同車にてナンバ。喫茶後、地下鉄にて天王寺をへて帰宅。(羽仁五郎『国会』買ふ)。 岩崎昭弥より保田本日転居と。硲晃、川井義通氏より(※〒)。 4月9日 家居、史(※京都大学)入学式にゆき父付添ひしと。女児もみな登校。福地君来る。角川書店より学校図書館用にわが『Heine(※『ハイネ恋愛詩集』)』を入れると。漢文の採点すます。 4月10日 9:00家を出、『文芸春秋』よみもてゆき、鍛治初江君への電話申込みlistこさふ。鍛治家へ電話かかれば一家淡路へゆき明日夕帰宅と。同嬢の月給2,500ときまりしと。午、岩崎嫗来る。山本信江に電話すれば「苅田君帰阪」と。西洞院夫人より電話、ナンバで待合せの約束し15:00で仕事やめる。岩崎嫗遅刻の穴埋めすと云ふを叱る。西洞院夫人にきけば、夫君サンケイ関係につとめ、販路拡張に協力してくれと。別れて荒木利夫君訪ねしに不在。 帰れば奈良女子大より(※帝塚山の方の)開講日しらせと。「21日(土)」と答ふ。里井千寿子より婿さがし3、4年先でもよしと。服部三樹子氏より同人費500。西垣脩氏より(※『果樹園』編集の)新構想に賛成と。梅田惠以子夫人より退院療養中と。 けふ疋田嬢来訪。姪御の入園の礼としてcastilla1箱賜ふ。浜松の縁談はこはれしと。けふ史、京大法科の個人面接に、2番で入り、1番と1点ちがひなりしと云はれしと。19560411.JPG 4月11日 10:00ゆきlist作り終り、分類皆やらんとすれば岩崎嫗アベコベ云ひどなりつけ、あとで恥かし。疋田嬢に電話せしも留守と。野崎夫人午后来り「永島福太郎氏の義妹、2部英文受験につきよろしくたのむ」と。最中と壁かけの皿を賜ふ。院長来室、日産経の本売りを■退する場にゐあはす。 16:00すまし、千川に電話かけ地下鉄にてゆき喫茶。(※『果樹園』頒価4号より10円から)30円になれば1冊づつ月極めと90円預り10冊分(3号)100円受取り、地下鉄にて天王寺。別れて鶴橋で散髪。Barton『世界史入門』買ひて帰宅。入浴、夕食。 けふ山崎忠Teheranにて死せしとradioでも云ひしと。21年ともに入館、八方美人的なる男なりしも哀れ。青木正子より「つとめゐる」と。木村三千子氏、南3軒目に大きく店出したと。伝田雅子より礼状。田中順二郎君「中野区雑色町14へ転居」と。父より新村博士の『李太白』の礼状写し。時間割出来上り。 4月12日 9:20登校。入学式。すみて写真撮影。学科説明中に教授会と呼びに来る。教授会にて図書館新築の件出る。14:30すみ、採点。保田の妹林夫人母子、兼頭母子などに挨拶うく。16:30すみて鍛治君さそひ「愛の交響楽」見にゆかんとすれば吉崎雅子(けふ聴講生[専攻科の]となりし)離れず、「面影」へゆきてport-wineのませ角座へゆき(労映の切符2枚150+170)、看了りて中華料理。すみて喫茶。帰れば22:00。 けふ井上恵子の母、礼に来りcasilla1折と近鉄商品券1,000とくれしと。開利枝より就職口きまらずと。岩崎、小高根2君の原稿。(けふ佐藤道氏「夫人病気につき講師辞退」と。本位田氏より月曜ならば都合よしと便あり、佐野氏の火曜の夜学もたのむこととせん)。(高野線で小野和子夫妻に会ひしに坊や可愛。) 父来り、万美子阿佐ヶ谷へゆきしに1時間半かかりしゆゑ、やめると云ひをると。(山本信江嬢来り住高の成績書受領、つり書は父上より渡さると。母君、明日市大病院へ入院と。) 4月13日 本位田重美氏の夜学講師交渉の速達し、登校。2門の分類かへやる。田中洋子出来ず(けふきけば7,500のsalaryとなりしと)。山本嘉蔵氏に電話すれば、坊やと苅田君と津山へゆきをり、釣書いそがずとわかる。吉崎より電話。早川麗子生来り(産経経済部)、腸閉塞となりしと。4月より1年やり直すと。次長は今沢幸とて浪中のわが教へ子と。田中洋子と3人にて出「No.1」でぜんざい食ひ、梅田新道まで同車。別れて大安にて『中国石器時代的文化(80)』『杜甫詩論(220)』。「Boir」へ寄りしもMadameゐず。山本退院せしと。京橋へ市電にて出る。 小高根二郎君より「同人費のこと心配しゐる」と。夜、福地君来り、集りゐる原稿計算すれば30行程度。編集会を木曜わが家ですることときめる。 4月14日 始業式への途、アベノ交叉の誠進書店にゆけば店員仏頂面してゐる。昨日わが店開け遅きを云ひし故なり。『続お伽草子』『街の言語学』と買ひて登校。始業式に石田博士の講演きかさる。市大やめ京都女子大と。すみて空腹かかへ天王寺。炒飯食ひ、近鉄にて元市印刷。伝田君あての請求書(20,000)受取り、藤井寺。大江叔母12日帰阪。丹波へゆき17日まで帰らずと。昌三叔父宅へゆけば叔母と(みさ子を育てることとなりしらし)今川夫人とあり。話して出、恵我ノ荘、梅本に行く(※梅本吉之助宅に泊)。 4月15日(日) 京へと衣類と靴もらひて出、学校へゆけば9:30。2部49人来をり、採点すまして「かもめ」にゆけば松村生をり、伊藤信吉『現代詩の鑑賞 下』と『外来語辞典』と買ひ昼食。面接し及落決定。補欠6人に18日(火)18:00~19:00に再面接のこととなる。16:00すみて帰宅。 浅野晃氏より原稿と300。森亮氏よりも原稿と500。服部三樹子氏より歌稿。岩崎昭弥君より訂正。大江久美子より挨拶「仲好くしゐる」と。 けふ伝田生へ請求書送る。 4月16日 畠山六右衛門氏より電話「奨学金はだめ。その中転宅すれば家庭教師たのむ」と。小高根君に電話せしも不在と。久保田新子夫人より礼状(入れちがひにbeerの礼状出せし)。矢野好吉氏より『くにぶり』に応援たのむと。本位田重美氏より木曜に夜学としてくれと。13:00出て登校。 守本氏に云ひ木曜の西宮君とのふりかへ成り、南海にてナンバ。 松竹支社へ「夕やけ雲(※木下恵介監督)」見にゆく。越智一美来り、安西冬衛をり、ややして小野十三郎氏来る。八幡高校(※紹介した校歌作詞)の礼をもらひしと。すみて出、末沢家訪ぬれば母君も見て帰りしところと。 市電にてナンバ。川原町へゆけば叔母juiceのませ呉る。永井君を見舞ひしに元気と。大阪一のprint屋となりしと。山崎忠の死を知らざりし。出て日本一の宮本書店にて『徒然草索引(800)』とクセジュ『匂いと香料(70)』買ひ、市電にて鶴橋。支那そば食ひ、力身好子生訪ね、beer出さる。東順子の誕生日とのことに電話かけ、帰り「会社にて相手見付けしも26才にて12,000のsalary」と打ち明けらる。 (けふ小高根君より学校へ電話「伊藤桂一(※同人を)やめる」と)。 4月17日 8:30家を出、住高に寄り硲君に会ふ。Bebel『婦人論』を教科書としてとり10:00よりの専攻科開講に出、国文学史の指導やり、やが て来し西洞院氏を庄野英二、熊沢安定の2君に紹介。小野和子赤ん坊つれて来り、大江へゆかんと誘ふ。電話すれば昨日不眠に疲れて会へずと。木村陽子来り、九州旅行の話す。本屋2組来る。田中洋子下宿を見付けにゆく。専攻科にBebelを使用すと申渡し、井上、古田2生とナンバに出、高島屋にcutter shirtあつらへ(5月1日出来と)、「priuteuf」にて喫茶。 別れて荒木利夫訪ねしも不在。梅本訪ぬれば課長にあらず部長と。『果樹園』の6ヶ月申込受け、出ていづもやでまむし(駸々堂にて清野『人類の起源』)。天王寺をへて帰校。夜学の補欠入学の4人に会ふ。(2人来ず。1人は補欠なら止めよと父にいはれしと)。 19:05出て岩橋女史と同車。山根氏より詩1篇。菊地成子よりつとめゐると。けふ福地君来しと。(松本善海に電話すればもはや出勤しゐると。近日中に弥戸に転居すると)。久保亀夫国鉄経理局長となる。 4月18日 昼食すませてport-wineのみ登校。西宮君けさ専攻科やりしと。矢本定幹氏をり『海盤車』同人たりしと。加藤一君健在と。田中洋子帝塚山に下宿見付けしも2,500の外、水道電気代、前払10ヶ月と。川端氏来り矢本氏に紹介せよと。 15:00図書館規則の会議し、すみて佐野道氏に退職承知を伝へにゆく。帰途疋田家へゆきしも紀子生不在。出て帝塚山書店へゆき『文芸春秋 アメリカから得たもの失ったもの(10)』買ひ夕食。2時間目に出、漢文の答案返し再試を云ふ。 帰り産経の和田生らと同車。帰宅すれば野崎君より根木氏の及第の礼状。夜、昭和21年日記抄(※『果樹園』原稿)20枚かく。 4月19日 2時限のためゆけば庄野英二君来をり。歴史4号室とてゆけば入りきらず、25人程立ちをり。教室変更できず1時限に変更せんと守本主事。村上生に朝、増次郎君来りし(羊羹5棹持参)をいふ。長沖氏来り、大谷短大の吉井君より電話、天理の大浜君講師として来をり、会ひたしとのことに、のちほど電話すれば明日正午すぎ来ると。神島生漢文の再試験にて文句つけに来る。Christ教の本を売りに来し神女2人あり2,000余り買ひやる。疋田嬢より電話、その中に来よと云ひ、13:00出て天王寺より今墨行busにて東医院。順子・孝子姉妹と話し、またbusにて寺田町。帰れば16:00。入浴。 河出より「少し直したから見よ」と。のちほど速達来しを見れば、もち上げて大して直してなし。17:00福地、小高根2君来り、勘定すればわが稿足らず29枚まで追加し、後記10行かきて22:00了る。大江勉より世田谷4の437に転居と。『日本歌人』4月号に『果樹園』のこと書く。 4月20日 登校まへ庄野未亡人昨夜逝去の記事を見る。ゆきて長沖、西宮2君と相談し、昼休み時間に香奠もちゆく(小野勇氏同行、われ香奠1,000三苫事務長より借用)。(府立女子大の高馬君に誘はれcoffeeのむ。) 大浜君より電話、けふ来られずとのことに予定狂ひ、print切りしあと、新世界へゆき通天閣工事を見、まむし(80)肝吸(30)食ひ『東支那海路誌(120)』買ひ、平野線でアベノ交叉。字引3冊学校へと注文し、18:00の2部入学式に出る。沖殿ら3年生に9冊『果樹園』を売りし。帰れば伝田生より「写真出来ざる故未だ来ず。(※文集の)反響は大へん」と。大江望夫妻より挨拶。 4月21日 参考書をしるし、挿絵まかすとかきて河出書房へ書留速達し、9:01鶴橋発の天理行。西大寺のりかへ9:50奈良着。野崎家へ寄り、すぐ登校。 教務できけばまた69教室。横田俊一氏に会ひ、天野忠に会ひ、図書館評議会の規則もらひ、小川和氏と話し、服部(※服部英次郎)氏に放課後を約して講義。45名位をりprint不足。45分ですまし、昼食まち(50)、教務で伊藤生の所きき、なれなれしく話かける法学の講師(天理大の小林君なりし)に迷惑し、図書館で服部氏まち羊羹贈り、出て(藤岡『人類と人種』売店で買ふ)前川家。 (佐美雄氏『浪曼派』出るゆゑ『果樹園』やめよと云ひすてて他出)、われ夫人と話し、保田と西村嬢、山崎夫人の話きき、出て生駒下車。服部(※服部正己)へゆく途、長女に会ひてきけば父母ともに不在(服部今年度土曜出勤と)。前川夫人に角川源義氏大阪にありときき宿屋(金森旅館)に電話せしも他出と。 帰りて服部三樹子氏の訂正ハガキ見、岩崎待ちとも来ず。育英会の申込用紙5月10日までに呈出と。20:00岩崎昭弥来り、梅田に泊ると。 『果樹園』には1,000まで出す。わが詩集には20,000まで出すと。 4月22日(日) 晴。午后、平凡社より『世界歴史大事典』の学生版のため訂正をと。15:00入浴。福地君を訪ぬれば大掃除。『蕪村』貸し誘ひ出して諸堤の大東邸へゆき夫人、dr.に会ふ。田村春雄を知ると。夫人の専攻科の願書と検定料と預りport-wineに酔ひて帰る。 4月23日 朝、田中洋子に電話して午后ゆくと云ひ、乾武俊の「詩観ちがふ」とのハガキ見て会社。Salary表出し父に会ひてのち村上鋼業社長に会ふ。 登校14:00。図書館規定出来上りをり、角川の『国語辞典』来をり。田中洋子の分類を見、請求書の印押す。守本氏に大東夫人のこと云へば水曜の教授会にかけよと。夜学まで西宮君と話す中、三好一夫より電話、「西成府税務所の平田の漢文の点まけよ」と。不快。 (けふ悠紀子、史とわが冗費を怒ると。計算せしに4月中に10,000使ひらし)。夜学に図書借用票くばり、すみて早川生と話せば「今沢幸あひたがりゐる」と。(平凡社の『歴史大事典』の校正送る)。 4月24日 9:00家を出、登校。国文学史やる(けふより図書館開館)。松田、山本正子2人来り、三原律子の一家行方不明と。岸谷の母来り、就職したしと(山本恭子来り、長々と話ゆく)。西洞院君来り、庄野英二君に会ふと『果樹園』1、2、3買ひゆく。 16:00出れば「かもめ」夫人『国文学史(角川文庫)』品切と。帰宅。 荒木利夫君より『果樹園』2号呉れと。芳野清君より新企画に賛成と。清水文雄氏「広島市南千田町1039に転居」と。久美子より「ハガキ見た」と。 4月25日 けふcollege-hourに話すべきやと、10:30登校すれば、壽岳博士やる故不要と。むかつきて同時間出ず。図書館運営委員会の規程案作り、大阪新聞よりの電話きけば「幸福の扉」に書けと。「明けたことなし」と大笑ひし、明日かあさって来ることとなる。岩崎嫗欠勤、田中洋子を手伝ひ、教授会の開会まち、運営委員会案より館長公選と。委員の候補除かれ、むかむかして夜学まてば明日1時限歴史と。休講云ひて「国文学史」教へ帰宅。 けふ学校へ原田裕代より「協和広告に勤めゐる」と。田中順二郎夫妻より史の祝1,000。 4月26日 9:00学校へ電話さし、1時限休み10:30登校。十時の家へ電話すれば神戸へゆきしと。図書室で田中洋子に文句つけ山本恭子の問合せとて来し興信所と応対。鴎外『文づかひ』よみ(40人位)、休みに下りれば則武(妹)をり、やがて小野十三郎君来り、昼休みとなり、今東光氏来る。この間保田来りしと。 14:00帰らんとせしに、伊藤賀祐来り「楳垣氏に会ひたし」と。待たせゐる間に、大阪新聞より来ると。「幸福の扉」とて小説60行を筆記すとなり。その前来りし岩崎嫗どなり、伊藤をびっくりさせし。女記者と出てナンバ。Münchenの前にて明日筆記さすことを約し、伊藤にbeerのまされ、ドイツより来し手紙よまされて別る。 松本一秀より「弥刀に転居」と。伝田雅子より「明日来る」と。福地君より電話「印刷屋おくれ20:00出て来る」と。24:00初校了る。きけば福地君、元市老と共に植字せしと。 4月27日 登校。伝田雅子、太田昭子と待ちをり。院長より呼ばれゆけば「図書室20坪にてはいかに」と。「しらべて返事す」といふ。 漢文やりて昼食時、basketの新入生に講話し、またしばらくして大阪新聞より電話、下痢申立てて断る。小野和子けふ藤井寺へゆく筈なりしも赤ん坊下痢にて止めと。大浜君断りなしに帰りしとて西宮君早く去る。われ奈良の漢文print切り、16:00宮口に会ひにゆくといふ伝田君と別れて帰宅。 雨、午后より降り出して止まず。けふ父より電話、史に同志社大2部1年生の家庭教師せよと。西川良江より「上谷姓となりし。相手は旧同僚」と。伊藤(北沢)みち子より転居通知。西阪修より行動展の案内。竹内(※竹内好)より『魯迅友の会会報6』。服部三樹子氏より訂正承知と『果樹園』発行所宛。 20:30福地君より電話、菊版とす(従来は変菊版)。出来上りは日曜10:00と。父より「万美子、高円寺7の981藤野節子方に下宿」と。 4月28日 奈良へゆく(けさは下痢せず)。図書館にて書庫、閲覧室の坪数きき、小林君小川女史と話し(横田君見付からず)、63教室へゆけば丁度満員。 12:00まで講義、服部氏と話し昼食して野崎家へゆけば、鍛治姉妹のみ。永島氏来られ根本嬢の2部より1部への変更いはれ迷惑す。遅れし和島、椿下2生来り、出て「湖月」にてしるこ食べしあと藤見にゆく。藤田幸子(米沢)夫人より田中雅子君訪ねしと。俵青茅氏より「日動火災海上保険奈良出張所長となりし」と。東向北町30といへば野崎家の隣位なり、ふしぎ。(けふ、われ女史を竹内正夫氏に紹介する約束す。再来週とならん。田中講師名大へゆくと)。 4月29日(日) 10:00福地君より電話、11:30『果樹園4』もちて来ると。太田陽子夫人別府よりハガキ。福地君と昼食して同人の分包み、出て中央郵便局。発送し、包紙買ひ、『ギリシアの詩』買ひて阪急石橋の小高根君の新居。長男しゃべり小女黙す。同人費は催促せしゆゑ心配なしと。山岸外史より投稿来をり、2,000出すこととなり、夕食よばれて帰り、福地君さそひて家に帰り110部の寄贈読者の発送をなす。時に22:00。 4月30日 登校の途、椎寺町の府立図書館天王寺分館へゆきしに、元大原研究所とて贅沢に書庫用ひあり。参考とならず。ついで市立図書館へゆき吉井良顛館長に話きく。 登校。本位田重美氏の来るを待ち、ついで府立女子大図書館を見、帰りて院長室へ本位田氏つれゆく。昇君肥えゐると。 11:00となりアベノ交叉へゆき綿野にて『顔(100)』、誠進にて『口語新釈聖書(70)』買ひ、焼飯食ひて帰校。 和田嬢にきけば産経(大阪新聞)の女記者怒ってもゐずと。けふ鍛治姉妹3ヶ月読者となり、浜谷姉に会ひ試験手当3,000もらふ。 5月1日 8:45登校。歴史やり、退学したしといふ三原生に会ひて「止むなし」と認め、国文学史やり、東生より姉順子の『果樹園』6ヶ月分受取り、蘇原美智子より17日15:00gas buildingでの披露宴への招待受く。(藤井姓となり、石切山荘に住むと)。専攻科すまして鍛治君と行動展見にゆく。西[阪]修をり批評せよと。逃げ出して喫茶新世界を通り抜け、市電にて天牛へ『風土記』探しにゆきしもなし。佐竹の店へお好み焼食ひに入り、出て別れて地下鉄。高尾までゆきしもなし。 疲れて徳庵まで帰れば苅田君に遇ふ。「山本信江せきゐる様子」と。明日父君に連絡せんと云ひ、助教授桜井良文氏に大高17回ときく。すでに打明けありと。 福地君をり『果樹園』の赤字計算す。(けふ天王寺にて篠田博士に遇ふ)。大東夫人より手紙。「水曜登校」と。 5月2日 登校。山本嘉蔵氏に電話すれば不在。小高根君に電話すれば「野田氏との待合せ場所、十合地下喫茶と変へし」と。「痩せる法」をcollege-hourに話す。壽岳、楳垣、守本、西宮諸氏に聴かる。 すみて夜学までの時間つぶしに弱る。(大東夫人来り、壽岳博士に紹介す)。山本氏に再び電話すれば「月曜17:00学校へお越し」と。 出てアベノ橋。旭町の小映画館で「ローマの休日」観、busにて淀屋橋。日本レーヨンにゆけば小高根君帰宅。Taxiにて産経にゆけば今沢幸帰宅。大毎にゆけば天野愛一帰宅。「Boir」にゆきpeppermint一杯のみ(130)、madame植田初枝氏のこときけば4月でやめしと。ややして来り、17日より山本宅へゆくらし。出て新道の古本屋にて吉永君に遇ひ『果樹園』石山君(※石山直一)にと托し、busにてナンバ。雲呑くひて登校。2年10人しかをらず。この授業やめると演説して帰る。(けふ池沢わが出しあと来り、同人費と売上と650おきあり)。 井階房一、大同生命新潟支社長となりしと。小高根君より森房子の同人費1,000受取りしと。 5月3日(憲法発布の日)19560503.JPG 服部(※服部正己)夫人より11:30電話「30分ほどして来る」と。ついで苅田君より電話「火曜夜来れ」といふ。服部来らず16:00とな り、家を出れば姿見え、きけば「来客にておくれし。土曜関大へ出講のため会へず」と。 ともに出て玉造よりtaxiにて十合へゆけば小高根夫妻すでに待つ。18:00の閉店まぎはとなり斎田君来り、ややに野田宇太郎氏来る。三池の産と。蒲池氏とやや似たり。 ともに出て千日前「繁の鮨」にてすし食ひbeerのみ(900)、天牛南店にゆき、百田宗治氏の故家とひ、閉ぢし二階に上りして、二つ井戸(※跡)にゆけばわからず。道頓堀にて喫茶の後、taxiにて新町(80)、ついで堀江にゆき(80)、地下鉄にて梅田、別る。 けふ岩崎より同人費と売上とにて1,000。『薔薇29』。(野田氏、2人に鳳晶子(※与謝野晶子)の家の羊羹1本づつ賜ふ)。(※和菓子屋「駿河屋」のレッテル貼り込み) 5月4日 父より電話あり、羽田君けふ旅行する故だめと。小野和子より電話「14:00までに電話せざればともに藤井寺へゆかん」と。悠紀子城東区役所にゆきしあと、田中米屋夫人来り、嬢ちゃんの受験につき(西宮君の話せし)聞き、卵おきゆく。父に金尾文淵堂のことききたしと電話し、来りしに訊きしも旨くゆかず。大和アベノ支店へ金引出しをかね14:00出てアベノ橋。時間あまり『空から見た大阪(65)(※岩波写真文庫)』見つつ待てば、16:20小野和子母子あらはれ、大江へゆけば女中また新来。18:00叔父帰るまで居り(千葉にこの間叔母会ひしと)、自動車に便乗、アベノ交叉にて別れ、Mark Gayn(30)よみつつ帰宅。 けふ池沢、千川より『果樹園』のこと。小野勝年氏より「会ひたし」と。 5月5日(子供の日) 父より電話、羽田君父宅へ来り、「けふ、明日にでも来よ」といひしと。瀧口喜久子より身上相談「級友われを陰気にして辛辣といふ」と。瀧口生と八木嬢へ手紙かく(金尾文淵堂本しらべてくれと)。夜、福地君来る。 5月6日(日) 竹内正夫氏に「12日13:00佐々木恒清先生のお詣りせんは如何に」と。伊藤みち子、西川良江にハガキ。林富士馬より『果樹園』の受取。午后福地君来り、田中保子来る。大東夫人来りて羊羹賜ふ。 5月7日 祖母、今井たけ(※)死す。(5月6日午后10時10分、86才と)と父より電話。 『ハイネ恋愛詩集(5月10日発行と)5版』来る。山崎忠の葬儀10日(木)14:00と。悠紀子税務署へゆきしあと散髪に出しに月曜にて休みと気付き引返して鬚剃り登校。 院長、図書館のことにて我を待ちゐしと。三苫君、夜学のことを守本氏に云はざりしと。田中洋子と話し、鍛治君よりいろいろ報告受け、本位田氏に会ひ、print切る中、山本嘉蔵氏来訪。親類知己父母みな反対となりしと。我に手を引けとか。明日信江嬢に会はせよといひ、1年の漢文やり、瀧口生に会へば、「相手は校長さへも畏る」と。 出て急ぎ帰れば税務署すみ、市役所税務課の証明もすみしと。(税務署へは今年度申告一つもなかりしと)。 けふ今村部長に会ひしに「松田道雄氏は甥」と。父より手紙「金尾文淵堂を調べにゆき同じく調査の藤田福夫君(金沢大助教授)に会ひし」と。今井三郎叔父へ弔文と香奠1,000。 5月8日 8:30登校。本屋来り忙し。午、山崎より電話といふに学院までゆけば予想通り笹尾の母よりにて、話は予想せざりし(※笹尾とし子の)訃報。 おどろきて守本主事に相談し、弔問にゆくこととす(小森に会ひたしと母上より)。16:00出棺とのことに致し方なく専攻科やり(成尾禧佐子結婚せしと来る)、山本信江にゆき見ればまだ帰らず。明日連絡するといひてナンバ。地下鉄にて省線(『解釈と鑑賞』買ひしが悲しくてよめず。)ゆきみれば父、中庸氏のみをられ、昨日(※職場の)病院へ来て帰りてのち死せしと。母上(※自死を)報せしを不快がらるる様子に早々退出。芥川堤をゆけば悲し。 徳庵にて散髪して帰れば子猫の三毛、急に死せしと。これも哀れなり。(けふ院長によばれ図書館新築につき意見具陳せし)。八木嬢より入れちがひに手紙。『果樹園』くれと100。三郎叔父より祖母の訃報。蒲池歓一氏より『果樹園』の受取。 5月9日 起きぬけ八木嬢より電話、山崎忠君のお通夜けふと。金尾文淵堂についてもしらべて呉れをると。出て8:30学院着。山本信江に明日15:30訪問と約し、小森さがせしも欠席と。瀧口生に漱石か鴎外よめと置手紙して出発。 奈良着11:00。解散して昼食(山荘君、高井田より同乗)。別れて小野勝年君に会へば『中国地図』を和田先生より見たしと。神田先生(※神田喜一郎)にたのめと云ひ、女子大へゆく同君と歩き、別れて野崎家へゆけば鍛治、山荘2君すでにをり、あやめ池の住宅は50万円見当と。出て前川家へゆきしも不在。博物館の来匠美術展見、15:00出発。帰りついて一休みせしのち、西宮君と出て小森生の下宿さがしに長瀬ヘゆけば兄、俊徳道にあり、本人は鶴橋に住むと。俊徳道で探せしもわからず、疲れて帰宅。 けふsalary出、本俸29,000(本俸29,000家族手当1,800手当7,700四月分溯及3,500/[計]42,000 所得税3,966慶弔会費30保険料2,304/[計]6,300)と3,000上りたり(西宮君は2,000)。夜学文2は実在人員16名と判明、ばからし。(けふ院長、守本2氏に(※笹尾生葬儀について)話せしに2人とも自殺を認む)。伝田雅子より5月の会なき様子。 5月10日 8:00家を出、鶴橋より井上生と同車。吉岡弥之助を知ると。小森生待ち、2時間目終りてつかまへれば布施にゐると。身上調書かけと云へば明日と云ひて逃げられし。古典講読すませて『文芸春秋』よみながら天理14:10着。500香奠包みにし、天理公会堂にゆけば、(※山崎忠の葬儀)式はじまりしところ。自殺らしきこと中山正善、貝塚茂樹氏らの追悼にてわかる。岩村忍なにをいひしかわからず「死んでこんなめにあはさるるか」と腹立つ。入矢君(※入矢義高)、新井とし氏に挨拶し、16:00駅にゆけば25分まで電車なくいらいらして鶴橋着。信江嬢に20:00ゆくといひ、梅田の有料Toiletにゆけば18:20原田18:30やっと菊池あらはる。ともに支那料理くひ喫茶し、信江君にことはりいひて帰宅。 福地君来りしと。服部三樹子氏より同人費500。けふ小野十三郎君『重油富士』賜ふ。庄野英二君会費として300。 5月11日 けふも早く出て天王寺より南海にて玉■出下車。山本家へゆき信江嬢に会へば、ほぼ父上と同意見。同道して母上を市大病院に見舞ひ、同じこときく。出て春夫『風雲(50)』見付けて登校(田村春雄君に会ひ山本夫人のことたのむ。白髪禿頭ともに著し)。 西宮君出講と。大浜君来り、話して山崎忠君のこと同感と。ややして道満洋子の問合せに紳士来る。すまして家庭科の歴史。苅田君より電話ありし15:00近鉄の約束にせかされ(永井夫人print代950とりに来り、立替ふ)、ともに出て近鉄パーラーにてbeer2君にのませ、われはcoffee。 15:00前、近鉄改札口へゆき5分まちて苅田君に会ひ、山本家の意向伝へ、桜井助教授に会はせよといひ、別れて天海堂にて『末摘花詳解 上(270)』。市大病院へまたゆき山本夫人に報告して帰宅。京橋にて守屋君に会ふ。 けふ上村肇氏より原稿と300。田中洋子の母静子氏より礼状。宮口時喜子より琴の演奏会の案内。大阪読売より人事card。森脇昭吉氏より豊中市上野7の150の30に転居、直接読者2人出来しと。三郎叔父より礼状。福地君に日曜夕方来よとの名刺を依子に托す。(元市印刷忙しくてとりに来られずと)。 5月12日 奈良行。日動火災海上保険出張所へ寄り見しに俵君(※俵青茅)出張と。野崎家へ寄り、その君と話し登校。天野忠、横田俊一、小川和、服部英次郎と諸氏に『果樹園』くばり、横田氏に前川家行を約す。 放課、昼食後、小川氏と東京出張中といふ竹内教授宅を訪ひしに夫人も不在。恒清先生(※佐々木恒清)仏前にと羊羹おきて出、古本屋に入れば吉村正一郎氏あり。話す中、竹内夫人(恒清先生令嬢)追ひ来られ挨拶す。 前川家に寄り夫人の滞京中の話きく。檀一雄らの小遣ひ、日々2万円と。出て天王寺の司書たちの会にゆく。(片山君に紹介たのみし)。田中洋子をこのときに来さすこととし、出て上六天地書房にて『広島(65)』外1冊。鶴橋にて『農業全書(40)』『満州国全図(120)』。けふ『古義堂書目』もらひ文淵堂書目もらひし。 5月13日(日) 9:30出て雨中をtaxiにて天王寺。京都駅より電話して羽田家にゆき、育英会の斡旋たのむ。15:00出て父の宅へ寄れば箕面へゆきしと(畠山氏夫妻とも留守と羽田家よりの電話にて知りし)。新村博士邸へゆきしに学士院にて上京と。北村叔母来訪。17、8年ぶりなり。寺山町の妹宅にありと。出て小林政治氏(羽田も知りをり)を訪ひしに留守。京阪書房に寄り『大阪府名所旧跡案内(70)』買ひて帰宅。 苅田君より明日15:30以後研究室へ来よと電話ありしと。福地君すでに去り、印刷費もちゆかざりしと。和田先生より『東洋史』(羽田にきけば2月より外出したまふと便りありしと)。大田浩、大江久美子、中野英夫よりたより。「歌麿展」の案内。税務署より「15日10:30来れ」と。 5月14日 9:00小松保博、大阪外大の2部中国語科へ入りしと保証人たのみに来る。父より電話。きのふ貸した傘とりに来ると(けふ池沢と上村氏の原稿来る。開生、喜界島の中学に就職と)。16:00まへ大阪大学工学部をたづねたづねしてゆき桜井助教授に会ひ、苅田君のこときけば朗らかと。 大学院へは残れと云はずと。お茶ごち走となる(仁田工吉、内田英成を識ると)。京橋へもどり登校。 鍛治君に停留所で会ひ、西宮君に会ひ、夕食して授業。(吉田恒子静岡の新茶くれしと、おきあり。田中洋子あす大祭にて休むと云ひて帰りしと)。米沢7冊の売上210もち来る。岩井美代子来りしゆゑ、ともに瀧本生訪ねしに入浴と。明渡生に会ひ、森内生に会ひして岩井と「No.1」にゆき、しるこ食ひ帰宅。 5月15日 京とともに出て登校。鍛治君おくれて来る。吉田生の茶は研究室へくれしと。明日返すといふ。原田早苗来り、妹安子の文芸転科をたのむ。小森生来り、土曜笹尾家にゆき初七日に会ひしと。けふ14:00母君来らると。田中洋子より電話、欠勤云ひ来しゆゑ叱る。午后国際地学協会の森下正信氏といふが地図売りに来りしに話す中、元松山高校教授にて西垣清一郎を教へし人なり。長沖氏来り、明日座談会に専攻科生を使ふと。専攻科やりをへ、笹尾夫人を待つ間、梅垣主事と話せば「山本恭子、酒煙草のむとて話とりやめとなりし」と。(萩原家に電話かけて17日14:00披露の念押し、小高根二郎君と金曜編集会を約す)。 笹尾夫人来り、この間より3回自殺を企て3回目に成功せしと。高橋、小森2生にも話せしと。2生に形見分け托し、我にも羊羹賜はる。西宮君来り、山本恭子のこときけば交通公社とふざけしと。出て傘もちて帰宅。 芳野清君より1,000と詩。小高根君より原稿。村上新太郎氏より「月末までに詩1篇を」と。けふ悠紀子税務署へゆきしに係をらず、不明にてすみしと。 5月16日 雨。10:30家を出、登校して田中洋子呼びて叱れば泣き出し、布教所生活のつらさ云ふ。なだめて萩原父君より「明日祝辞を」との電話きき、高橋、小森2生に笹尾の形見わたし、口止めを云ひ、昼食後、女子大へ文淵堂しらべにゆけばだめ。帰りて専攻科に来し大東夫人と話す中、教授会。 教務に皮肉いひしが通ぜず。旅行とり止め、乃至3日の学科別修学旅行をとなへ、小野和子の来ゐしを見、親子丼くひてのち帰宅。 森亮氏より原稿と500。また別便にて推薦の詩8篇。斎田昭吉より詩。辻芙美子より便り。夜、「金尾文淵堂年譜稿」11枚にて了る。 5月17日 10:00登校。morning-coatゆゑ合over着て笑はる。長沖さん来り『お父さんはお人好し』に署名して賜はる。山本恭子、増田 幸子、武居豊子、住吉幸子の4人来る。(上町線で女子大の司書女史と同車、ゆきて文淵堂版見せよと云ひしに無し。中村府立図書館長に会ふ)。古典講義いい加減に片付く。田中洋子転居承知された、たのむと也。 pine食ひて夜学2年のこと長沖さんにたのみ、地下鉄にて淀屋橋。府立図書館にゆき(※文淵堂の本)しらべ、出て日本レーヨンに小高根君を訪ね、明日来よと云ひ、日本生命に松本訪ねしも不在。凸版にて『帝王と墓と民衆』買ひ(靴みがかせ)、雲呑たべて時間つぶし、taxiにてgas-buil.(80)、15:00着。 ややして父母氏来り、園君にも会ふ。天満博子来り話し、16:00より披露宴。隣席の宇野菊三郎dr.と話し、あとにて花嫁の讃辞、旨く出来ず。長沖さんの本贈って片町までtaxi(120)。菓子と花ともちて帰宅。 浅野、岩崎、服部三樹子の3氏の原稿着。夜、服部女史の訂正の速達。 5月18日 福地君の電話きき「午后早く来よ」と云ひ登校。大安より中国書籍もち来しと。『平妖伝(170)』『詩経選(120)』『六朝楽府与民歌(140)』とることとす。(けふも女子大司書女史に会ひ『果樹園』やる)。 長沖さん2部文2の欠席者にきいてくれ、今後欠席せざるやうになりしと。来週水曜の図書館運営委員会につき、廻状まはすこととし(建築教師に設計に注文つける)、1年のclass会なるもの(学生課主催!)に出ゐれば、西垣修君(※西垣脩)来訪と呼びに来る。 16:00ともに出てモンチャンにゆき、お好み焼食ひ、beerのみ、先に出て「御門」にゆき待ちゐし小高根君にあやまり、福地君来しと計算し、薬師寺の詩いれて不足を補ふこととす。西垣君遂に来ず(2,000を同人費として預り、鈴木亨君を入れよ、浅野晃氏の入りしは如何にと問はれし)。 18:30地下鉄にて梅田。別れて福地君と日曜に再編輯約して帰宅。奈良女子大より(1,600-192)来る。また1時間400にかへりし也。 5月19日 8:00家を出、鶴橋より西垣君に電話すれば「御門」にはおくれて来しと。小高根二郎君の電話おしへおく。 奈良着。海上火災の俵君に会ひ、ついで野崎家に寄り、鍛治君の来寧いひしもおどろかず。竹内氏より林女史を通じ6月まで会へずと。図書室にゆかず講義す。(cardしらべしに52枚。去年に引きつづき聴講は1人のみ)。12:00すませ昼食し、busにて奈良駅をへて天理。近代文学研究会にゆくといふ女子大生ありし。電話して高橋君を大学に探しあて「Monami」といふ喫茶店に待合せ、足達家へゆき詩1篇かかす(田中洋子のこと我にまかすとなり)。16:00天理発、帰宅すれば〒なし。けふ平凡社へ校正送る。 5月20日(日) 9:00福地君来り、編集しなほせば薬師寺衛の詩2篇しかのらぬこととなり、またしばらくして郵便。森房子の歌来り、薬師寺割愛。元市印刷に電話かけ「14:00までにゆく」と云ひ、うどん食ひて行き、11,500(4号印刷費)払ひ、25日初校、27日(日)出張再校校正ときめ、湖東に電話してゆく。山本不在と。信江君に電話すれば母上出られ、本日は帰宅、父上旅行につき明日20:00までに病院へゆくくや否、連絡することとなる。 湖東を出て天王寺よりtaxiにて上本町2丁目。ice-creamたべて往診の間まち、またtaxiにて坪井宅へゆけば不在。片町まで歩きて別る。 けふ杉浦源次夫人来訪。みつ子君あひかはらずと。 5月21日 西垣君よりの(※『果樹園』同人)断り状。土曜に小高根、斎田2君と「御門」で会ひしと。12:00出てbusにて小阪、堀内にて『曽良日記(50)』買ひ、住友銀行布施支店で1,408受取り、学術会議登録票投函。寺田町で炒飯食ひて登校。 本位田氏の菓子食ひ、井上恵子の旅行の土産のきびだんご食ひしてのち、浅香山。(※全田)叔母留守にて敦子にきけば、室まだ空きあり1,500にて貸すと。帰校、田中洋子に見にゆかせ、返事明日ときき、夜学まで待つ。この間、山本夫妻より電話、すみ次第ゆくこととし、19:35市大病院へゆけば山本氏待たれ、土曜の朝鮮学会に藤田亮策先生来てをられしと。わが意見はなし、木曜山本氏に会ふことときめ、古本屋にて津村信夫『善光寺平(20)』買ひて帰宅。苅田君より電話かかりしと。 5月22日 京と家を出、8:30登校。鍛治君来りをらず、1時間目すませ明日結婚(小椋製菓社長の息子と)といふ木村陽子と話し疲る。午后全田叔母より電話「(※空き部屋はあるが)自炊はごめん」と。腹立ち絶縁せんと思ふ。児玉君に電話し、田中洋子ゆかすこととし、休館せしめれば院長来り、勤務のこと云ひ、明日の運営協議会に出席すと。鍛治君さそひて「歌麿展」。つまらず。すまして近鉄departにて喫茶。おごられ出れば金井節子に会ふ。帰宅。〒なし。 高井田の赤地夫人来り、史の家庭教師きまりし様子(けふ山本信武君に会ひし)。20:00福地君来り、『果樹園』預り金みな吐き出し500円不足。 5月23日 会社へsalaryの表かき10:00出て登校。田中洋子にきけば児玉君の実家せましと。勝手にapartに入れと云ひおく。杉山平一君の話きかんとする所へ山前実治君来る。老けをり。依田君の詩集のため『骨』出ずと。荒木利夫に電話し、送り出して杉山君の話きく。けふIbsenの50年祭と。 すみて陪食、すぐ出てゆきしあと、図書館運営協議会。75万円しか出ざる様子。次回を6月6日15:00と定め、予算のわけどりとす。出て林叔母に会ふ。角砂糖おく。来月10日頃移転と。小雨の中を粉浜まで歩き、南海電車。荒木にゆけば中国へ詩見せたしと。別れて河原町。お徳叔母と話し、また出て天牛ひやかし、市busにて天王寺。帰校して夕食くひ、久しぶりに2部2年の国文学史やる。 山根君より原稿と600。井上多喜三郎君と芳野清君。大高東大阪clubより6月3日の遠足の案内。 5月24日 雨。登校10:00。守本氏に原田安子の診断書わたす。田中洋子にapart見にゆかす。岡田都君は結婚せしなり。山本信江より電話おくれ、父君に電話すれば「来週月曜に学校へ来る」と。そのあと電話かかる。 けふ梅垣女史より「児玉君Arbeit学生ほしと云はれし」ときき、電話すれば木曜にて休み。〒なし。金なし。 5月25日 登校。原田早苗来る。昼、運動部の顧問会あり。眠くて帰らんとすれば田中洋子の室の件にひっかかり、共に探しに行かんとせしところへ木村小使追ひ来り、知合の婆さんの室ありと。まかせて帰る。(けふ疋田紀子の問合せに来し人にきけば、西山卯三郎氏、豊中へ転居と)。 夕方洋子より電話、木村の話だめなりしと。堀内民一君より元々社の原稿かき直しゐると。平凡社より訂正受取りしと。けふ河出の『世界歴史物語』の広告、新聞に出し。夜、福地君来り、13pまで出し初校見る。 5月26日 奈良へゆく。野崎家へも寄らず女子大へゆき、天野君(※天野忠)と話し、廊下歩く中、本田喜代治先生来講に気付き、教務にたのみて会ひ、お話承はる。小高根太郎に会ひ雪舟展案内されしと。中野清見に融資の世話されしと。講義ののち大阪まで御案内することとなり、昼食後(来週休講を学生にいふ)教務へゆき岡谷博士へ電話さるるをきき(青木君と■襟、いま病臥中と)同車、上六へつきしに迎へゐず、電話を代りにかけなどす。先生来月末また来講さると。 帰れば田中洋子より電話、高松生の世話にて室見付かり月曜転居と。福地君より明日9:00徳庵駅へ来よと。藤田幸子、細野美智子、吉崎雅子3生よりたより。奈良女子大より辞令。 5月27日(日) 雨。9:00駅へゆき福地君と会って元市印刷。再校了へしは12:20。親子丼くはされ原稿用紙見積らせれば1万枚で6,000。2万枚なら5,400×2と。午后社長も帰り来る。湖東君に電話し、火曜の講話たのむ。 16:00帰宅。梅田夫人よりハガキ。森内、宮沢2君結婚きまりしと。 5月28日 晴。新しく買ひし鎌にて草刈る。午すぎ会社のsalary来る。〒なし。『薔薇』へ「哀歌」送り、八木、藤田、細野、堀内諸君にハガキ書き、13:30出て登校。本位田氏と会ひ佐々木三九一氏のこと云へば、令妹歌子氏は益子輝夫氏に嫁ぎしと。田中洋子にきけば沢之町の家に日曜に転居と。16:00信江氏の父君来らるを待ち、桜井氏より苅田君に云ってもらふ。我、桜井氏に云ふこととなる。夜学講義すませて帰宅。 (梅田夫人へ時間割かく。田中静子(洋子母)へ借問のこと。山本敬子、辻、藤原3君、金曜夕方来しと。おかきの缶おきありし)。 5月29日 朝、曇。8:30登校。歴史すませ一休みして国文学史。また一休みして湖東君を14:00迎へ、遺伝の話をと専攻科に案内す。遺伝の話ではなかりし。すみて新田君と話さし、山本治雄に電話せしに不在。ともに出て近鉄departにてcoffee。礼いひて帰る。久美子よりハガキ。 林叔母より悠紀子に礼状。伝田雅子より「6月7日午すぎ来る」と。大東夫人より「明日休む」と。 けふ帰り雨ふり、途中の婆さん「先生、傘もってお帰り」と声かけくれし。(長沼弘毅『和漢の散歩』といふを本屋もち来りし)。 5月30日 鍛治君より電話『紳士録』受けとりてもよきかと。三苫氏に云へといひしに、また三苫君より電話。買はずともよかりしにと、腹立つ。行けば8,000の理事長紹介の『紳士録』来あり。教授会にて修学旅行は他の短大もみなやり、苦にしをらずと。原田の妹の転科は認めずと。 はじまりし直後、林叔母beer3本もちて来る。すみて元市印刷へ電話し、待つまbeer西宮君とのみ、出て散歩。徳叔母に久美子のハガキよみ帰校。中野トシ子来る。『果樹園』を伊東マキ子にわたし、6冊文Ⅲにわたし、国文学史やりて帰宅。〒なし。 5月31日 久しぶりにて晴。10:00登校。庄野英二君と話し、ついで長沖一、小野十三郎、今東光とそれぞれ『果樹園5』わたし、出て地下鉄にて淀屋橋。日本生命にゆけば松本をり『果樹園』売る。木下義三に義兄田中医院の改築設計たのみたしとなり。(藤原=吉森夫人の弟、悠紀子の推定通り草薙剱を盗まんとせしと。長沖氏の話。藤原検事長、間組の弁護士にて首すくめゐると)。 小高根二郎君訪ねしに、もはや日本レーヨンには出社せざるらし。Taxiにて朝日新聞、山田新之輔に会ひて書けといひ、吉村正一郎氏への分もわたし、毎日へゆき天野愛一にわたし、産経へゆき今沢幸、早川麗子呼び、学芸部へ紹介たのむ。高橋一好red-pageとなりしと。 高尾書店で電話かり、池沢の在社たしかめ岡島誠太郎『古代エジプト文化(100)』買ひ、主人と話せば金尾文淵堂よりの『社会主義詩集』出版前に押へられし見本刷を60円で他に売りしをまた警察にとられしと。 読売にゆき、池沢にうどんおごられ、560受取り我家へ泊りしとき蒲団のボロボロなりしをきき、梅ヶ枝町へ引返して京橋より帰宅。村上新太郎氏より詩の受取。福地君すでに来をり、発送22:00すむ。 6月1日 西川英夫、丸三郎、中野清見、小高根太郎の諸友に『果樹園』発送。院長より図書館建築についてきき、ついでbasket部の不平きく。阪大工学部桜井氏に電話せしに、授業中と。16:00来りし榎本須美子君にきけば「5月15日結婚」と。 西宮君と出て京橋より阪大にゆき、川端氏の今朝もち来たまひし同窓会名簿おくり、信江嬢のこと苅田君へ伝へてくれるやうたのむ。2、3日考へて見んと。(けふ小野勇氏にきけば、石浜先生博士論文提出、「わが生涯の汚点」と云はると)。〒『不二』のみ。 6月2日 9:00福地君より電話「小高根君に会へざりしため、夫人に日曜17:00会合といひし」と。夕方疋田嬢より電話「会ひたし」と。「月曜16:00家へゆく」と答ふ。夜、庄野家より香奠返し。苅田君より電話「あすまた電話し来る」と。 6月3日(日) 9:00起床、朝食すましcard挿入しゐれば苅田君より電話「京橋駅で待つ」と。すぐゆき11:10会ひ、ともに梅田。Beerのみながら話せば「恥ずかしいばかり」と。また出て喫茶。ともにおごられ、こちらが恥かしく気の毒なりし。13:00別れてbusにて南久宝寺町。長雄、二見2生に会ひ、ともに探して「天狗」にゆく。(順慶町にて堺筋より東)。青木正子、穴川、生田、井上、上田、城戸、楠戸、坂本、住吉、武居、高岩、中島、中村、新坂、根岸、浜谷、原田(早)、平井、古田、二見、増田、山本恭子、吉田恒子ら25、6人集り盛会。 16:25出て梅田。『文芸春秋ニッポンと戦った5年間』買って急行にて石橋、小高根邸にゆき、5号の同人費ほぼ集りしを知る。夕食よばれ次の編集会を16(土)17:00ときめて帰宅。(小高根君この家にゐると)。 石浜恒夫より『果樹園』受取。奈良女子大より「銀行指定せよ」と。小高根邸より預り来し「詩人・伊東静雄」よむ。(けふ大塚来り、 whisky呉れしと)。 6月4日 晴。草刈り疲る。疋田紀子生より電話「けふ差支あり来ざれ」と。父来り、小林政治氏に『果樹園』(※金尾文淵堂の記事)見せしも異議なかりしと。東宝より映画「カラコルム」を8日18:00(金)宝塚大劇場で見せると。16:00出て学校へゆけば鍛治君すでに帰宅。 弁当食ひ、教へて伊東マキ子に会ふ。齋藤史なる男性の読者を獲しと。18日売上うけとる。出て寺田町下車、荷風『ひかげの花(20)』。けふ出しsalaryわたせば2,000のこりしのみ。奈良女子大へ「三和銀行放出支店を指定」とのハガキ出す。 6月5日 8:30登校。かもめ書店にて『書物の歴史』買ひてゆく。田中洋子宿がへすみしと。岩崎嫗、山本理事長夫人に禁帯出貸さんといふ。原田裕代来る。よべ少眠にて苦しく、専攻科いやいやすまして帰宅。『解釈と鑑賞 古典と漢詩文』をユーゴー書店で買ふ。 池沢君より『果樹園』3部売れしと。上村肇氏より誤植ゆるすと。浅野晃氏より「杜甫伝」のこと楡書房へと小田邦雄君にたのめと。菊池おとせしを路上で拾ひしと、同居の寺下といふより問合せ。八木嬢より『Hammurabi法典』の訳24条。 6月6日 朝、草刈りをやり、河出書房の校正やりして13:00家を出る。(岩佐東一郎氏より『果樹園』の礼状)。15:00より図書館運営協議会。前年度の19,19,11,11の80%とし、残りを一般教養にまはすこととなる。院長来り、今70万円成立、5万円は何とかする。のこり10万円は考へるとのことなり。 すみて高松の家へゆかんとせしに、母君外出と。アベノ交叉にゆき、『女性は翼をえた(60)』を買ひて帰校。青木正子、生田、井上律子、吉田恒子の4人来り、『果樹園』買ふ。夜学了へ、和田生に大阪新聞の書評見せよとたのみて帰宅。けふ壽岳博士「金尾の結婚の話かく」と。 6月7日 雨。10:00登校。今氏来り、午后葬式ありと。長沖氏と交替。3時間早くすませて帰れば庄野、小野、越智一美君ら話しをり、やがて来し中島、楠戸の2嬢とナンバ。府立体育館にゆき、彦根短大とのbasket-ballの試合みる。久保田、十時2生も来り、8人代る代る出て29-18にて勝つ。短大へ電話し、伝田君来ゐるをたしかめ、帰りて元市印刷へゆかしむ。(ナンバにて唐木順三『森鴎外』買ふ)。けふ行くみち福地君に会ひしも夜また来り、事務片付け呉る。 6月8日 10:00登校。print切り、午となれば大浜君来り、日生の西田敬一君来る。おかげで長沖氏より500もらへず。元市印刷に電話してきけば原稿用紙などすぐ出来ると。伝田君昨日原稿みなは置かざりしと。井上暁子万葉しらべに来り、きけば「萩原美知子新婚旅行より帰り挨拶まはりせし」と。beer2本とり出して大浜君にのませ、出て近鉄snock-parlorにてまたbeer。別れて鶴橋にて散髪。 帰れば岩崎昭弥より、奥西、高鳥2君『新論』(※赤字廃刊)の責任とらされて退職、柳井君、組合を作らんとして退職勧告受けしと。宮本君蛍ケ池住宅に入りしと。庄野潤三氏より池沢の4号の作(※)ほめて来る。 6月9日 8:30家を出て鶴橋で東田千秋氏と一緒になる。竹内教授は専攻科に今日出講と。ゆきて『果樹園』くばり長橋講師より13:30京大にてHeine記念講演会ありときく。講義すませ昼食くひ、英文研究室のぞきしも無人。前川家に寄る。夫妻ともに外出前なり。「吉野書房に残るといふ柳井君来り、高鳥、奥西2君の退職金に玉井一郎君の出資にて出版社計画中。保田を阪神間に出す」と。野崎家へゆきてきけば株主総会で決定。奥西兄君も退職と。 坪井家にゆきしに帰らずと。春山行夫『花の文化史第二(85)』。けふ井上多喜三郎君より『果樹園』の受取。伝田生より学院の作品全部のせることとなりしと。芳野君より原稿。近森敏夫君より同(池沢の紹介)。依子預り来し福地君の手紙見れば、欠損を収入部に記しあり。 6月10日(日) 晴、草刈る。眞野喜惣治君より能登川に転任と。午后、鈴木一雄君来る。十合にArbeitにゆきたし。ただし事務をと。福地君来る。 6月11日 11:00中野清見より手紙。すぐ返事に山本のことかく。悠紀子児玉君に鈴木一雄君のことたのみにゆく。 14:00出て京橋より市電にて扇町商高。沢井にclass会開かんといひ、出て木村三千子女史訪ぬれば井上源一郎君をり、近処に山村順氏勤めゐると。坪井に電話せしに不在。 市電にて学校へゆけば伊東マキ子来る。本田喜代治先生に30日(土)会にはいかにと問合せかき、1年教へ、今沢幸君に明日電話かけることを約して上町線にて瀧本生に会ふ。結婚など話なしと。19560612.JPG 6月12日 京と駅までゆき定期買ふ。2年国文学史reportの指導をす。産経より電話といふに午后来れと云ひ、来しは石浜君とて2男坊、吉川博士『西山一窟鬼』の評を3枚、金曜午までにと。高橋生、父危篤とて山形まで帰省す。15:00産経に電話し、今沢君呼出せばbeerのまんと。胃悪きを申し立てて断る。 雨中帰り来れば沢田四郎作博士より「明日午后渋谷敬三氏来られるにつき来会せよ」と。柳井三千比呂君より月土在校かと。父より藤田福夫君の手紙届く。 6月13日 晴。午后出て沢田博士邸へ渋谷敬三氏の会へとゆく。15:00ごろ来らる。われ天理図書館にて迎へしことあり。欧州旅行の話さる。Hamburg博物館の民族学よしとなり。(楳垣氏も来会、同じく教授会休みしと。苦笑)。 18:00中座して(梅棹忠夫君も来会せり)、外にてすし食ひ、夜学教へて帰宅。壽岳博士「金尾文淵堂のこと」置きありし。 6月14日 登校。すませしあと13:00出て住吉高校に寄り、硲君に会ひ『耶馬台国』借り、出て佐渡島金属にゆき梅本に会ひしに月末は忙しと。歩きて丸善にゆきtypewritterの係に会へば、古物は出ず、新しく買へと。歩きて俣野訪ひしも不在。くたくたに疲る。 夕方、福地君より電話ありしゆゑ、来よといひ、編輯をさせれば12p位出来をり。帰りしあと『西山一窟鬼』の紹介6枚かき、「陳夫人」14枚かく。 6月15日 登校。疲れて院長、主事の悪口いふ。長沖氏より500もらひ14:00出て荒木利夫君訪ねしに不在。本町までまたbusにのり、紡績協会に村山調査部長訪ひ、総務部長に紹介され、type賜ふこととなる(Underwood型?)。小林生にも会ひ、礼云ひて出、住友金属に本荘君きけば不在と。歩きて日生にゆき松本一秀君に会ひ、藤原生(吉森夫人)呼び出してもらひ弟のこといへば、今同居すと。お茶よばれ、市電にて梅田。 万字屋にて書目もらひ、山川弥千枝『薔薇は生きてゐる(30)』『第二次大戦史(80)』買ひて帰宅。 本田喜代治先生より「都合よし、宿はいかに」と。岩崎、高橋2君より原稿。けふ石浜典夫君原稿とりに来し。 6月16日 奈良女子大へゆく。途に俵君に寄りしに「帰りに来よ」と。天野忠に伝へ、すまして(前期reportに「中國詩に表はれた東洋的美について」10枚)、竹内正夫氏と話す。先週来るやと思ひて待たれしと。来週と約し、出て俵君のぞきしも天野君ゐず、帰りて「陳夫人」のつづき書くつもりなりしもやめて草刈り。 小山正孝君より4,000と詩。浅野晃氏より500と詩。服部三樹子氏より500と歌。山根忠雄氏より600。今高より23日同窓会幹事会 と。福地君来り、小高根二郎氏17:00来り編集会。夕食を間にはさみ20:30すむ。わが小説削りてすみし。同人費2,000入れる。 6月17日(日) 起きて9:00出て吹田の山本を訪ぬれば、すでに外出。引返して梅田より市電にて坪井、久しぶりに会へて30日の本田先生歓迎のclass会といきむ。国語の教師の口ある由。12:00出て片町より帰宅。 けふより夏服なれど暑し。俣野よりclass会せよと。山本に会ひて3婚ききしと。短大より20日(水)15:00図書館増築につき教授会と。木村三千子氏より8×15。 6月18日 朝、電話かかり、中島氏来校、まちゐると。止むなく出んとするところへ福地君来り、校正土曜まで出ずと。登校して中島氏に会へば図書館につきplan立てをり、これに色々いひ、すみて院長に会ひ、大方そのplanだめとなり笑止。 昼食時となり三苫氏に礼状かかし、1,000借りて上六。(辻和子生、卒業式の日の写真もち来る。中村貞子家出して福島にゐると)。江馬訪ぬれば不在。置手紙して紡績協会にゆけば村山氏不在。総務部長に会ひunderwoodのtypeもらひ、taxiひろひて帰校(360)。16:30出て天王寺。ひやしうどん食ひてまた帰校。 高橋生といふより結婚の相談うけ、20分おくれて夜学。すまして3名のArbeit希望呼び、あす梅垣女史に会へとすすむ。(江馬に16:00電話かけしに「明日16:00会はん」と)。 帰りて入浴。岩崎昭弥より2,000。浅野晃氏より「楡書房3~400円の本にするつもり」と。けふ本位田氏よりきけば「Schinzinger先生、日本人のdancerと再婚」と。 6月19日 9:00前登校。渡辺、加藤の2class委員と上六へゆくこととし、かかりし電話きけば井上多喜三郎君。「17:00大阪駅で」と約し、2生と近鉄にゆけば江馬君会議中と。電話かけてもらひ、関急Hotelへゆき、busの値段安くしてもらひ、2生を帰してHotelで定食500、beer170ときめ、1人室を約し、電車にて梅田新道。山本(※山本治雄)に会へば「夫人、佐瀬その他と姦通」といふ。 ともにcoffeeのみにゆく途、関大講師羽田といふ人と会ひ、喫茶して別れ、大阪駅へ17:20ゆけば荒木利夫、井上源一郎と多喜さんと3人待ちをり、五色豆賜ふ。 曽根崎の焼鳥屋にゆき、払ひ1,980と。金なく荒木君に割勘立替へてもらひしに井上源一郎君もなしと。多喜さん出し可笑。二次会に「ナナ」といふところへゆき裸踊見る。つまらず。駅にて別れ、帰れば森房子氏より原稿14枚。 けふ成尾園長、礼にと最中もちて来られしと。けふ帰り城東線にて挨拶せしは関学生鶴崎祐雄。(けさ上町線のり場にて湖東君に遭ひし)。 6月20日 Ural-Altai学会より24日14:00大阪外大にて山崎忠追悼会と。11:30出て放出の三和銀行に寄り2,112受取り、鶴橋よりナンバにゆき荒木利夫君に金返さんとせしも受取らず。mode喫茶なるものにゆき、ついで冷房にゆく。登校。本田19560621.JPG先生の会の案内を往復ハガキ19枚に刷る。川端直太郎氏も来合せられしに案内す。教授会にて図書室12月まで1号室に設けると。すみて住吉神社高松邸へゆき、直子生の父母に会ひ、帰りて夜学。帰り車中にて和田生よりもらひし大阪新聞見る。 6月21日 登校。古典組にとprint刷り、SchubertのWiegenlied教ふ。すみて仕事なく、住高硲君に『耶馬台国』返却にゆく。席に在 らず。帰りて〒なく、草刈り入浴。この頃唐詩植物のcardとり、杜甫、岑参、李長吉すみ、李白に入る。 6月22日 登校。中島老来りしゆゑ話きけば、本の有無を検すと。苦労察するに余あり。書棚書庫より出ざるにつき、如何するや学長と相談せん。児玉敬子来り、長沖氏に講演依頼。我にも9月たのむと。Castilla1折呉れしを長沖氏にとわたす。 石井志津子(2部2年)リョーマチとて欠席届。大阪新聞来る(※『西山一窟鬼』書評)。夜、6月のsalary表かく。(帰途、桂信子に会ひてきけば、明日の出版記念会は第二句集のと)。 6月23日 8:30家を出、奈良着。野崎家に寄り、その夫人と話し、冷たさ感ず。出て図書室。講義して次週打切りをいひ、本田先生迎へにのみゆくこととなる。 昼食しゐれば竹内教授来り、ともにお宅へゆく。池内先生のお宅へ泊りしことあり、御長女の婿と親友と。小川和女史のこといへば一度話しによこせと。 出て前川家。明日『日本歌人』の会にゆくと約し、出て帰宅。角川書店よりHeineの印税(14,000-2,100=11,900)来り、岩崎昭弥君より500来り、これにて8月分までにしてくれと。福地君来り23;30校正了る。 6月24日(日) 服部、後藤、石野より欠席通知。江馬より本田先生にと全線の無料切符。早速本田先生に転送し、岩崎、小川和氏へハガキかく。(本田先生には15:30上六出口で待つと)。 12:00出て『日本歌人』の会へと上六。途中天地書房で『朝鮮政治史(40)』『売春(80)』『人類学(50)』買ひ、ゆけば前川佐美雄 氏14:00前まで来ず、知りゐる者藤田氏位にて愛想なし。巨万の長者歯科医平田春一氏来り、われ「朔太郎」の話5分す。枚方街道筋の松井氏にゆき「くらわんか餅」食ひて帰宅。 6月25日 朝、田辺化学燃え、寮生に出勤を令し来りしと。12:00まで在宅、富山忠雄より「月末にてclass会に出られず」と。岩崎昭弥より「5号1部くれ」と。元市印刷にゆき再校、三校見、16:00となりcoffee饗せらる。けふ原稿用紙出来、半分学校へもちゆきし。 16:30登校すれば鍛治君をり夕食したため17:00すぎ鍛治君帰りしあと、高橋、涌井の2生来る。優等生と劣等生となり。楳垣先生「30日10:30BK(※JOBK大阪放送局)に録音にゆくべし」と。鈴木治氏より「眞柱に通じおく」と。帰途、『Que-sais-je(※ク セジュ)文庫 印度史』さがしにゆきしもあらず。悠紀子、角川の送金とり、今里の鈴木母子に会ひ来しと。 6月26日 京と駅へゆき8:30登校。上田阿津子来ると電話ありしと。菊池生より電話、山本有三の「姉妹」といふ作品ありやと。住吉区役所の中川俊雄君来り、「7月9日の開票に手伝ひよこせ」と。文2にいへば4、5人程承知と。高橋生帰り来り「父、死にし」と。小森生も2、3日中に帰り来ると。19560628.JPG 専攻科やり(元市印刷の長男、原稿用紙もち来る)、けふにて終りといひ、新坂康子と鍛治君と3人にて「安井曾太郎展」(上田生には日を改めて来よと電話す)見了りて喫茶。別れて鶴橋をへて帰宅。 沢井、岡本、井上、前田、坂井の5君より出席通知。依子、劇の稽古にて遅くなると。四条畷高校金崎氏よりことはり状。 6月27日 伊藤、山本より出席の返事。小川和氏より礼状。14:00出て十合(山本八郎夫人と話しもてゆく)、児玉君に会へば昌三叔父店長となりしと。挨拶にゆけと云ふに、ゆき見れば用務中と。斎田君も出張と。 出て戎橋で萩原みち子と母君に会ふ。井上睦子を知ると。(けふ奈良女子大へ30日7日休講の届す) 登校。鍛治君の帰りしあと、上田阿津子来り、「教案作成を手伝へ」と。中学へゆき西尾教頭に紹介せしも明日隅谷氏にきけと(月餅もらふ)。里井生ら中学教師さがせしに欠席。 早川麗子、富士正晴の『果樹園』評のりし大阪新聞くれしに、同車にて帰るみち、天王寺で眩暈して倒れ負傷。大阪駅まで送りゆきて帰りしあと不快。(けふ梅本に寄り、俣野に電話すれば「通知受取らずと。」不審)。 6月28日 よべ早川生に不行届なりしを悔いて眠りがたし。10:30ゆき、上田生けふは来ずときき、今氏と話し、わけのわからぬ『道頓堀』編集者に紹介され、院長に呼ばれ中島氏とともに技師に会ひ、書庫2段、窓4.5尺よりあけることとなり、鉄の書棚とりやめとなり、すみてドイツ語の歌教へ、(院長、開票の手伝よろしと)、昼食。 菊池生より電話かかり「山本有三わからず」と答へ、西尾中学教頭に断りにゆき(早川生への手紙、鍛治君に托し)元市印刷あす来るときき、住吉区役所四宮課長に電話し、代理の名簿明日とりに来るときき、坂根生と話せば「12月兄と上京、大(※西島大:克己弟)に会ひしに偉くなりゐし」と。 帰り京橋よりbusにのり、帰れば出欠もはや来ず、産経より3,00-450=2,550。関急Hotelに電話し、10人分用意をたのむ。『満文老檔』2冊、『字源』、『唐詩選評釈』2冊の製本たのまんと包む。 6月29日 8:30登校。9:00長沖、西宮、楳垣、鍛治、田中洋子と英文2年80名をつれて出発。天理のロータリーで6人拾ふ。着きて鈴木治氏の室に長沖氏をいれ、西村君に案内さし、われ雑務。 中山眞柱、隅野久夫氏と現はれ長沖氏をつれ去る。楳垣、西宮2氏と鈴木氏の室にて昼食。(八木嬢にパン、茶世話してもらふ)。天理大講師室に今西春秋氏をるとてゆき、挨拶す。「天理2号館に近々転居」と。仙田氏に会ひ、田中洋子をおき去りにす。(高橋君来りて同人費1,000渡せし)。別席場にゆき参考館見学、すみて一休みしてのち長沖氏迎へて出発。16:00すぎ帰校。『果樹園6』おきあり。休憩して帰宅。 江馬君より電話「本田先生あす差支出来し」と。坪井より欠席と。夜、福地君来り、発送福地家にてやるといひ気の毒。 6月30日 雨。白楽天のcardとり、11:30出て片町。ちょっと早きゆゑ、坪井に寄れば駄目と。出てBK(※JOBK大阪放送局)。楳垣氏まち居らる。米沢anouncerと話して待つ中、尼崎市立大庄西中の佐伯哲夫君来り、打合せすみて廊下にて明渡淑江に会ふ。 録音うまく行かず、2回せしも、われ最も話少なかりし。3,000-450=2,550もらひ、楳垣氏と市電にて上六。天地書房にて永井君に会ふ。(大手町にて夫人に会ひし)。『結婚の歴史(120)』『日照雨(80)』『敬語法(50)』『女性犯罪(80)』買ひて永井君にお茶おごる。短大生、長沖氏をほめ、わが悪口いひゐると。江馬の幸へゆきしにゐず。 15:00より関急Hotelで待ち、相野、俣野、岡本、江馬と次第に来り、本田先生、助手の急死にて来られずとわかる。井上槮来り、沢井、山本、坂井と来りしとき、川端直太郎氏来られ、わびて同席してもらひしも逃げらる。(松田)伊藤好治郎来りて10人となり、18:00まで話し、3台のcarに分乗、解散す。われ江馬、沢井と同車。 天満橋より京橋、時野谷勝『日本名著辞典』買ひて片町線、(9人分9,000-8,260=740、内200を通信費とし540預り)徳庵の 新設本屋にて『青年歌集』5冊そろひしを買ふ。 けふbasket部の肥後より電話、coacher如何にと。「月曜まで返事まて」と云ふ。8月末高尾山に合宿と。 7月1日(日) 〒小高根君より「けふ待つ。中河与一氏7、8日に来阪」と。12:30福地君来り、全田修三君へ第3号送らせ、ともに出て石橋(※小高根邸)。別に用事もなく16:30夕食よばれて出、石橋の古本屋で『儒林外史(100)』、保田與重郎『佐藤春夫(30)』。岡町で下車、『七爺八爺(50)』『殉情詩集・佐久の草笛(100)』。加藤生母子に会ひ、また一軒にて『法苑林(70)』。帰宅、入浴、茶漬食ふ。 7月2日 9:30出て会社。栗林(3,000)、浦本(2,500)との盆祝儀原案を出し、『果樹園』を新村、金尾2氏へと父にわたす。新村先生ほめをられし由。城平叔父に会はず。京橋より市電にて産経、和田生訪ねしに欠勤と。早川生呼びてbasketのことたのみ、juiceのます。この間は会社へ寄り自動車出してもらひ2日休みしと。のちほど体育部の記者に紹介してもらひ、協会の理事長といふに電話で話し、世話してもらふこととなりし。 出て地下鉄にて学校。西宮君に文芸研究室への本運びさせ、本位田氏と話し、basketの肥後生に伝へ、15:30本位田氏と地下鉄にて桜橋。ひとまづ別れて毎日にゆきしに天野愛一不在。朝日にゆき山田(※山田新之輔)に会ひ、書けとすすめ、出て竹山『昭和の精神史』買ひに入り『世界歴史物語2』見付ける。 本位田氏のゐる「にしき」と云ふをのぞいてbeerのまされ、まっ赤となって帰校。さめざるまま教室に入れば皆笑ふ。 早々すませて研究室。米沢生に『果樹園』6冊わたし、伊東マキ子より齋藤史氏(歌人と同名異人)の90受取り、寺田町で夕食して帰宅。 家にも河出より来をり、井上多喜三郎氏より『薔薇』の詩(※「哀歌」)見たと。学校へ本田先生より「名古屋より電話せし」と。(けふ父にきけば大、楢崎勤氏令嬢と縁談と。元『新潮』編集部長、いま読売文芸部長と)。山下、夜来り「久美子一週間前より藤井寺へ帰省」と。 7月3日 1時間目の歴史切り、10:00登校。本屋の払ひす(380)。院長来り、1,200冊紛失しをり、一部は学院へゆきしならんと。明日教授会 にて図書館運営協議会をせよと云ふ。中島翁にきけば1,200冊以上なしと。 秋の修学旅行にゆく者42人、行かざる者20人と。鍛治君と出て「printemp」で喫茶。荒木君と会ひ、お徳叔母に会ひにゆけば「久美子悪阻、11日頃までをる」と。松坂屋の古書部見たのち天王寺をへて帰宅。〒なし。(荒木君に『世界歴史物語』を贈る)。 7月4日 9:00山本信江より電話「一度お礼に上る」と。我より「ゆう故都合しらせ」と答ふ。13:00出て散髪。城東線にて藤井啓一氏に遇ひ、思ひついて石野伊三雄のこときけば3年休み、この9月にて馘首さると。天王寺駅にて藤井(萩原) 美智子に会ふ。洋裁にゆくと。学校にて江馬に電話し、石野のこと云へば「友なし」と。 Salary出をり、15:00教授会。すみて図書館運営協議会『女体美大系』買ふこととなりし。すみて19:00まで待ち、米沢生より6冊の代金(180)もらふ。伊東マキ子の分とで270なり。 帰れば池沢より「明日来る」と。井上多喜三郎氏より(※「陳夫人」)ほめ来り、岩崎昭弥より「体悪し」と。福井久子氏より詩集『海辺でみる夢』。今月より家に27,500わたすこととす。Bonus(会社の)土曜に出るゆゑ月曜に来よと。 7月5日 9:30ゆきて「Heidenröslein(※野薔薇)」のprint切り、図書室2階の本を文2の古典講読組に運ばす中、松本一秀君より 電話、今年度の試験は8月10日にて、同君の手をへて2、3名の受験許すこととなりしと。 池沢14:00来るとのことなりしに電話して大阪駅で待合すこととし、ゆきて喫茶。650受取り、別れて(『新中国の愛と結婚(30)』を買ふ)、市電にて住山の家。兄に会ひて話し、天六にて渡辺母に電話すれば「来てくれるな」と。明日学校へ昼頃来ることとなる。 省線天満まで歩く途、春夫『文学読本』の片われ見付けてうれし(70)。杉森『森鴎外(30)』。帰れば佐々木邦彦画伯より「個展、三越にて14~19日」と。村上新太郎氏より「歌の批評を」と。八木嬢より「図書館8月、3~16日閉館」と。(上町線で角倉生と遇ふ)。 7月6日 10:00ゆき11:45より漢文やめて1年つかひ本運びさせしに中途にて中島老もうよしと云ひしと。われもはや知らぬ顔して、渡辺の母に会ひ、住山重子よび、高松に会ひし(class写真うつす)。 長沖、西宮2君と500づつ出しあって鍛治君のbonusますこととし、小林千余子来しと。ともに出「No.1」でしるこ食ふ。(西洞院君来り、『果樹園』5、6買ひゆく)。「Hugo」で『世界歴史物語』買って松本のお土産とし、日生で書類3通もらひ、出て宮口に途で会ふ。 天王寺に引返し、藤井寺(松本も『果樹園』1冊)、おとわ叔母も来をり、久美子妊娠4ヶ月目と。山口の航空隊にをりしと。東京へ飛行機にてゆくといふ叔父帰り来り、夕食よばれしあと(叔母3ヶ月分90呉る)、自動車に同乗。玉造まで来て下車。 帰れば森亮氏より「誤植をゆるす」と。他に誌代100。野田宇太郎氏より11日ごろ西下と。日本文芸家協会より『果樹園』送れと。 7月7日 『日本歌人』の原稿かきゐれば電話(八木嬢より明子の離婚につき)すぐ行くと云ひ、京橋にて会ひ、大阪駅まで話きき、我も賛成、松井信子君への電話ききて別る。 帰りて昼食。「朔太郎と蕪村」書き了り(6.5枚)、依田義賢君よりの『果樹園』の礼状見て大阪駅。速達して小高根家。明日と云ひおき、けふ速達したとのことにすぐ出て百貨店にて暑さしのぎ帰宅(春山行夫『季節の手帖(90)』)。 福地君来り、『果樹園』の大江叔母(90)、松本一秀(30)、西洞院君(60)を記帳してもらひし。 7月8日(日) 9:00起き、山本家に電話し、2時間後ゆくと云ひ、朝食して出る。途中、電車の連絡悪く11:30着。嘉蔵氏、同夫人に苅田君の返答のべ、礼断り、13:30出て玉出のフミヤ書店を見、南海、地下鉄にて梅田。 万字屋で『101名歌集(100)』買ひ、石橋の小高根邸。途中、福地君に会へば「中河与一氏既に着かる」と。久闊叙し、萩原さん(※萩原朔太郎)の遺族の話承り、保田の話し、夕食中来りし池田高校の篠田君の話を笑ひ乍らきき20:30退去。 小島樹氏より『李太白』の抄のりし教科書送ったと。 7月9日 6:30起きて急いで出、天王寺よりbusにて住吉区役所前で下車、墨江小学校へゆけば既に12、3人をり、やがて9:00までに34人来る。票紙をのし、分類して地方区すみ、ついで全国区に入りしところにて午となる。神島ら4人のgroup実に感じわるく、参観人よりも声かけらる。100づつとわれに200給され、渡辺、高松、住山の3人に日生の書類わたす。3人とも数学だめと。 学校へゆき、田中洋子に明日友井令息来るゆゑ製本の注文せよといひ、三苫君に休講の掲示たのんで出、西宮君と帰る。 京橋より外へ出、『河出文庫』2冊(20×2)買ひて折よく来しbusにのりて会社へ寄れば、社員扱ひにbonus出ずと。 帰りて森房子氏の同人費1,000。池沢より「織田喜久子に会ひし」との便り見、明治書院の教科書を見、註の訂正を小島樹君にかき、うとうとしゐれば守本主事より電話、院長休講の理由を問ひゐると。くそくらへ也。 帰り赤星と一緒になり、会社よりの借金51,000を明日の期限に返し、30,000また借りること城平叔父了解と。夕方2階に1室を占拠すといふ村崎来り、認めよといふに許さずと答ふ。けふ山下来て久美子の夫、浜松に転任ときまりしと、めでたし。 7月10日 10:30登校。1年文科の歴史休講云はざりしと。守本主事に会へば、教務として休講の理由は知らねば困ると。西宮君も休講云ひ、月曜の院長 の終業式には文芸の出席なき故困ると云々。14:00、友井令息製本もち来るやと思ひしに来ず。日野君に会へば中島老4,000冊見当らずといひしと。三苫君にきけばbonusは16日と。彼、帝塚山西3丁目のTennis-coatの角に家見付けもらひしと。16日欠勤を方々に云ひ、出て鍛治君とsoft-cream食べにゆけば太田昭子に会ふ。(児玉君出張と)。2、30万円貸す人あり、出版やらぬかと。出て『文芸春秋』駸々堂にて買ひて玉造をへて帰宅。 八木嬢より「離婚さすことときまりし」と。今市佐恵、夫人ぶり「仲好くしゐる」と。参院選挙社会党80名とり、憲法改正3年間なきこととなりしらし。 昭和31年7月11日~昭和31年12月31日  本冊画像PDF 20.9cm×15.0cm 横掛ノートに横書き 7月11日 上村肇氏より「収支表は年2回位とし、反響記事のprint出せ」と。伝田雅子より「再校見てくれ」と。成蹊詩社より「22日(日)芦屋女子高校で」と。 14:00登校。守本主事を見てものいはず、中島老に4,000冊紛失の件でいひがかりつけ、友井より製本来をらざるを見、電話せよといひ、渡辺の叔父会ひたとし云ふ電話きき、近日中に夜ゆくといひ、伝田雅子より「来てくれ」との電話きき「ゆけず」と断り、院長に会ひにゆきしも多人数ゐる故やめて、アベノにてsoft-cream食ひしてのち西宮君にゆけば不在。「明日電話せよ」といひおきて帰宅。 7月12日 元市印刷より電話、『足音』のこといひて来てくれと。3時間してゆくと云ひ、西宮君迎へて「善処せよ」といひ、ともに出て元市印刷(西宮君、葡萄酒2瓶賜ふ)。再校の目次と奥付と見、神崎院長(※神崎驥一)の文の宛字をそのままとし、rice-curryよばれ、ice-cream食べて出、今里までbusにのり、歩きて近鉄の駅にゆけば、渡辺三七子来しところ。ともに自宅へゆき母君、叔父に会ひ、我がしゃべり、たのまれてのち、駅まで送らる。 夜、福地君来りまたしゃべり、basket部の電話きけば「coacher見付からず。学生にては駄目か」ときかれて駄目と答ふ。けふ池沢君よりハガキと原稿。悠紀子、藤井寺に電話すれば久美子すでに浜松へ出発せしと。大江房子より返事来ありし。 7月13日 田中洋子より電話「友井君来しも尋ねたきことあり、明日また来る」と。三苫君より「図書館工事につき明日来よ」と。井上幸子より履歴書と、まちがひだらけの手紙。今高より500円寄付せよと。前川氏より原稿受取。浪高より「15日(日)13:00より同窓会」と。小島樹氏より「訂正は改訂の時に」と。 初枝叔母よりわび状。平凡社より(1,080-162)。夜、斎田君より電話、「出版の出資者会ひたしと云ふ」と。月曜9:00「御門」で会ふこととす。 7月14日 9:30家を出、10:30登校。上町線で友井息と一緒となり『満文老檔』2冊の製本出来し、守目堂に転居のためおくれしと。父君よりの手紙も来ありし。 守本主事1日8:30ナンバ集合を令す。11:00より新築会議。院長「研究室を家庭的にせよとの趣味人もあれど云々」と皮肉いふ。我、相手にならず。 すみて三苫、楳垣2氏に不平もらし、ナンバに出(則武姉妹、林生に遇ひし)。荒木君訪ぬれば碁をやりゐる。午食につきあはし、taxiにて三越、佐々木邦彦の個展を見、茶よばれ、梅田に出てbus待合場所で西村生(2部)に遇ふ。教員となるにむつかしきを云ふ。暑ければ甲子園までゆきしも助からず。夜半まで眠られざりし。 けふ会社のbonus出、我に5,000、2人にはいかがなりしやらん。 森亮、小山正孝の2氏より原稿。芳野君よりハガキ。高知の近森敏夫君より詩稿。 けふ大毎の天野愛一に会ひ高尾書店にて安本10冊たのみおきし。中に文淵堂のスタール『お札巡礼(※御札行脚)』あり(80)うれし。 7月15日(日) 暑し。午前中「陳夫人」のつづき書き、25枚とす。依田義賢君より『ローマ』の出版記念会の発起人たのむと。14:00福地君来り、原稿不足とわかりし時、上村肇君より速達。小高根君来り、薬師寺衛の詩と写真つかひて不足補ふこととす。 夕食して小高根君帰りしあと、福地君の家にゆき父君に会ひ、東住吉高校のこといへば、校長旧識、早速ゆきて見んと。21:30辞去。 けふ松本一秀へ電話、4人にてもよきかと云ひ、十時巫佐子へ電話、外出を止められゐるとのことに、行きて両親に話さんと云ふ。八木嬢より電話「明子もとの鞘へ収まりし」と。 7月16日 9:30出て十時ふさ子を訪ひ、母上と話し、basket部のcoacher1週に1回位なら宜しとなる。出て天満で下車、住山重子の家まで歩きてゆきしに、母子ともに不在。職人にきけば、兄居り乍ら取次せざるに憤慨。 出て市電、梅田より地下鉄。天王寺より学校につきしと、ゆきて編輯。火曜夜校正出、水曜出張校了ときまる。住山に電話し母に恨みいひ、学校に電話してbonusとりにゆけば守本主事に会ふ。38,500-5,400=33,100、他にαもらひて出(鍛治君研究室に来をり、楳垣氏仕事を学生に手伝はしをられ、ice-creamたまはる)、今宮戎で下車。今高にゆき筒井信義君に会ひ、寄附1,000し、busにて梅田新道。「大安」に480払ひ、『明朝対風刺的戦争』『明代海外貿易新論』『張煌言』『成吉思汗伝』『海録注』にて330。高尾にゆき、この間とりのけおきしスタール『山陽行脚(80)』『祭礼と世間』『炉辺叢書3冊』『新釈女大学』『鴎外文学』『原人の発見』『氏神と氏子』『民謡の今と昔』『蕪村論』とにて1,200。 出て産経の今沢幸君呼び出し、われbeerおごり(500)、ついでおごり返され地下鉄にて「御門」。 斎田君をり、伊東マキ子ら2人来り、19:30永田治君来る。われ労力奉仕して本(※自分の詩集)を出すこととなり、別れて夕食。 住山に電話すれば「明日忙し」と。21:00すぎ帰れば児玉君より電話かかりしと。悠紀子、鈴木一男君にしらしにゆき22:30帰り来る。 7月17日 8:00住山母子来り「先生怒りて推薦とりやめとなりしか」と。娘『女大学』もちゆき、母tobacco10箱呉る。松本一秀君に電話「明日13:30来させよ」と。その前高松に電話し、日生受験希望者ときき渡辺三七子に電話して皆にしらさしむ。 夕方福地君へ『蕪村論』もちゆけば80円にて譲り、ともに大東家にゆき、夫人に梅汁のましてもらひ、dr.の診断受け、魚の目ゆゑ切開必要と。30日(月)19:00再来を約して帰宅。 渡辺生より電話「みなに伝へし」と。けふ中河与一先生より8月箱根にゐるやもしれずと。涌井千恵子生より漢文の試験につき。 7月19日 奈良女子大より2,400-288=2,112。市村伎餘子より大阪郵政局に勤めて6ヶ月と。13:00出て会社、大掃除の薬代のこと康平叔父に云へば「出して宜し」と。機嫌悪く、この間の寮生への貸金38,000につき文句いふ。その通りなれど不快。 出て寺田町「石塚」にて『リルケ詩集(75)』と『森鴎外読本』と買ひ、味原町にて『史話俳談(50)』『文章軌範(70)』『大東亜海の文化(60)』『歩兵第八聯隊史(60)』。まむし食ひPomerai『結婚の歴史』買って帰宅。 けふ京大より「史、授業料未納。9月24日迄に支払はざれば除名」との通知来る。 7月19日 悠紀子を今川へゆかしめしに、午まへ高松夫人、直子生つれて来り、2時間探しまはりしと。松本われに似たりと。帰りしと入れちがひに悠紀子帰宅。マミ子帰りゐると。父来り、葡萄酒のみゆく。 山根忠雄氏より詩1篇と同人費。夕方出て小阪へbus(10となりし)。堀内に寄り『興国詩選(80)』『新薬師寺(50)』『支那年中行事(10)』『フランス語の歩み(70)』と4冊買ひ70にしてもらふ。夫人、史を見覚えしと。弥刀まで電車でゆき松本の新宅訪ねあてしに夫人病臥、松本22:30まで帰らずとのことに本返却、『果樹園4』置きて鶴橋をへ、氷西瓜食べて帰宅。福地君留守に来りしと。 19560725.jpg 7月20日 9:00福地君来り、坪井へ紹介状書かす。会社へゆき城平、康平叔父ともにゐず。田中課長に大掃除の消毒液の稟議書出し、鶴橋をへて天理着12:10。Taxiにて図書館にゆき、鈴木治氏に朝鮮学科研究室へ紹介してもらひ、『青邱説叢3』しらべしにあらず。 出しところにて今西春秋氏に会ひ、云へば「故龍博士(※今西龍)の出版にて1冊あり」と。17:00伺ふと約し、八木嬢に『台湾私法 巻2上』借出してもらひ、ともに出、別れて友井家さがし当つ。守目堂に新築、中々好き家なり。わが『字源』まだ乾かずと。出て尾村千鶴生の家にて散髪し(120)、支払ひてのち母に云へば「現在大阪でArbeitしゐる」と。高橋家にゆけば「13日女児出生」と。重臣君をらず、のちほ どと云ひ、八木家まで上りCalpisよばれて出、高橋君に会ひ、今西氏訪ね、いろいろ話し田川孝三『毛文龍と朝鮮(※毛文龍と朝鮮との関係について:青邱説叢3)』分けてもらひ、beerをのみ、夕食くひ、最後の準急(19:36)にて帰阪。 西保(梅田夫人)、松田久生、赤見生より暑中見舞。永井州子は他の部長により他の日に日生受けると。芳野清君より原稿。(けふ足達家へ尾村母よりtobacco20箱届けありしを高橋君、今西氏へおき来し)。(放出大和支店にて2,400-288受取りし)。 7月21日 9:00寐てゐる中、畳屋来り、夕方まで6畳すむ。松本君より電話、誰か来させよといふに、渡辺生に電話してゆかすこととし、高松生にも電話す。芳野君よりハガキ。加藤順子生よりbasketの練習8月までなしと。関大三上氏より石浜先生古稀記念論文の筆者をと。山本正子生よりreportのこと。板原の父、淳曽氏より「母病気のため欠席させし」と。伝田生より『足音2』。県人会は8月に延ばせしと。夕方渡辺生より電話、松本君訪ね、明後日学校へゆくと。 7月22日(日) 大掃除なれどもすることなし。午后、渡辺生に電話してゆくと云ひ、小阪までbus。堀内にゆき『わが小説作法(100)』買ひ、今里の渡辺家へゆき、推薦状3枚かき、三七子生に送られてbus。ナンバに出、地下鉄にて十合。児玉君に会ひ、食堂にておごりしあと、17:35待合せの約束し、書籍部見をれば「面影」のmadameに会ふ。廃業して浜寺に家を建てゐると。 外に出れば甚幸、写真機もちて通りかかる。児玉君と南街buil.の屋上beer-hallにて一杯。鈴木一男の就職の礼のつもりなり。別れてtaxi、鶴橋をへて帰宅。 留守中、服部三樹子氏500と原稿もちて来しと。けふ全田修三君より20円。 7月23日 畳屋裏返しに来る。眠くて午寐しをれば渡辺三七子より電話、日生所定の用紙に推薦書かけと。直ぐ来いといひ草刈り。11:00現はれしと話しつつ書き、住山に電話すればgroup5人で北海道旅行と。 秋山(徳永)昭子夫人、東京へ転任と。(田中)大江久美子浜松より。阿原寛一、小川和、青木春子(英Ⅰ)諸氏より暑中見舞。14:30畳替へすむ。けふ村崎と栗林と喧嘩せしをなだめし。珍しきことなり。 7月24日 悠紀子買物にゆく。午まへ東大文学部より『李朝実録抄2、7、8、9』4冊贈らる。羽倉裕景君、里井生より暑中見舞。渡辺三七子より「日付記入必要か」と電話。 夜、福地君来り校正。7月28日(土)小高根家へゆくこととす。山下陽子より砂糖5斤。 7月25日 鈴木夫人より悠紀子に電話あり「一男君、小野氏より預りしもの今夕もちゆく」と。草刈り。午后となり井上源一郎氏、宇野美佐子、松井和佐子、辻本(成尾)禧佐子、得津佳子の暑中見舞見しあと元市印刷にゆく。14:30より校正出、16:00すみ、寺田町まで歩きて帰る。夜、一男君来り、依子用の傘もち来る。 7月26日19560731.jpg 朝、田中米屋の嬢、お中元もち来り、悠紀子受取りてそのまま帰せし。井上恵子、下村(文Ⅰ)、山内(文Ⅰ)より暑中見舞。午後散歩、梅田「Svar」にて『異国情趣集(100)』買ひしのみ。 けふ読売新聞より電話「野田宇太郎氏の原稿にわがことのり写真ほし」と。百済璋子よりも電話ありしと。片町線にて大東夫人、福地君と一緒となり、大東夫人に月曜の手術たのみし。(長沖氏に高野山会議欠席を通知す)。 7月27日 小野ヒデ子(2部1年)よりbeer1打賜はる。父君文彦は警察病院勤務と。百済璋子より電話、相談ありと。17:30十合で待合すこととす。和田先生より論文『東方学』にも『東洋学報』にものすと。お体悪しと。俵青茅、亀井昇より暑中見舞。父より電話『読売』に金尾のことのりしと。 16:00出て玉造をへて心斎橋、駸々堂にて『知性』買ひしのち、百済生と十合で会ふ。木村中将の令息と話あり、同僚との間も未解決と。どちらかにきめよといひ、靴下もらって別る。 7月28日 朝、福地君より電話、『果樹園』9:00に出来、10:00にもって来ると。やがて現はれ、発送すます。そのあと昼寐。さめて池沢より読売新聞の切抜送り来しを見、新潟にゆきし井階清一より「植村清二先生と隣同士」とのハガキ。原田比富、中島寿代の暑中見舞見て(原田父より砂糖6kg)家を出、16:00前小高根邸につき、19:30まで葡萄酒のみ、夕食よばれて帰宅。原夫人帰郷せしと。 7月29日(日) よべみなおそく酒飲みて帰りし。熊本工高の教師来て泊りをり、我に挨拶なし。服部三樹子氏より1、2号送れと。平井恵美氏、細川(文Ⅰ)、助野(食2)より暑中見舞。北野徳治氏より暑中見舞と靴下3足。伝田雅子より乾武俊に悪口云はれしと。 けふ守本主事より電話、切符1枚不足と。悠紀子にわが不参いはしめしに喜ぶ色ありしと。史、依子ともに出る。植物のcard一応すむ。渡辺生より高松生と松本にゆきしと電話。 7月30日 院長に高野山会議欠席を速達し、松本に電話し、10日頃ゆくと云ふ。久保田初美、西林、鳥居治子より暑中見舞。 19:00福地君に自転車のしりにのせてもらひ大東医院。勝之助博士に「魚の目」2ケ切ってもらふ(鶏眼と学名)。帰り書生君にauto-byeのしりにのせてもらふ。 7月31日 久保田初美にハガキ。福地君、見舞に西瓜たまふ。午后、大東博士来診かと思ひしに来られず。長沖氏より欠席承知したと。林叔父、今治へ移りしと。丹羽千年よりも同。梶本(文1)、大浜(同)、井上睦子(文2)、石田嘉子、上田阿津子より暑中見舞。桂周作君より同。英1の佐々木生ら軽井沢より。田中順二郎氏より砂糖。村上弘子父上より同。脚、鈍痛あり。22:00意外にも大東博士、夫人とともに来診、歯痛のためおくれしと云はる。恐縮。書生にとbeer2瓶もち帰りいただく。 8月1日 午、父来り、大塚への靴下托す。城平叔父警察病院入院と。『読売』もち来る。大東先生来られ経過良好と。西宮君より夏休みの計画表。末吉栄三、岸明子、田中(順二郎)雅子、中島悦子、板原、青木の諸生より暑中見舞。雅子夫人、美千子君つれて帰省するやもしれずと。 硲君来り、『果樹園』3ヶ月分(7-9)置きゆく。 夕方、東順子・孝子の母君来り、孝子市内に転地しゐると。(硲君Calpis2本賜り、東夫人2,000とwhite-shirt賜はる)。 けふ弓子あす生駒への京の遠足につきゆかずと云ひ、泣かせしを叩く。夜、「清初の奴隷」書き初む。 8月2日 京、遠足へ出しが参加者少しとてとりやめしと。午すぎ原田早苗chocolateもち来る。丁度、福地君来り、決算す。500円ほど黒字と。池沢茂君より『読売』2部と同人費と売上。天理大より『Biblia6』と『善本写真集7、8』学校より転送。日本読書新聞より『鴬の卵』の書評を7月28日迄にとの速達。桜井大教会より天理図書館をへて来りし也。 中村貞子、福島県青根温泉より長沖氏と我に連名。梅田惠以子氏より鍛治富子への縁談。村田(文2)、川島(文1)、細野美智子、山中タヅ子より暑中見舞。 14:00原田生帰りし(例の西堤courseとりしと)あと、八木君来り大東先生。5日には福地君の自転車にのせてもらって宜しと。福地君帰りしあと、八木君夕食たべて去る。(子らに本とつっかけ。友井老より製本もち来る。450をもちゆき貰ふ)。鍛治君の親類書を梅田君に送る。(けふ富子生よりもハガキ来をりし)。八木君にきけばBiblia稿料出さずと。天理大借金と。 8月3日 暑し。辻芙美子、小島照美、井上律子、佐々木満嬉、中村文子、西岡照子、木村淑子、吉岡信子、小林千余子の卒業生、村上宏子(文1)、吉田笑子(英1)、西口和子(文1)、井上笑美、宇都宮和子(文2)より暑中見舞。馬淵源太郎湖北より、佐々木邦彦、畠山六栄(※右衛)門2氏京都より。 林富士馬君、薬師寺(※薬師寺衛の遺稿)のNote焼きしをあかし来る。大東先生14:30お越し。足の裏つけて歩いてよしと。けふ大阪37℃を越えしと。(37.7℃) 8月4日 暑し。10:00福地君来てくれ、自転車にのせてもらって大東医院へゆく。よべ健保の計算で徹夜されしと。帰って福地君にbeer1本もって行ってもらひ、〒十和田操氏より『果樹園』の礼。鍛治初江氏より200。鳥居清氏、疋田紀子、藤原由子、松山幸子(文2)、野原、田中孝子、鈴木(文1)の暑中見舞。鈴木生は学校面白くなしと。木村小使君来り、高野山の土産の菓子ことづかり来しと。長沖氏わがハガキ見てすぐ学校へ電話たまひしと。 夕方、吉森幸子夫人見舞に来り、松本一秀君も明日辺り来らんと。来ざるやう伝言たのむ。高島屋より元市印刷の商品券2,000と、林満寿子氏より菓子。 8月5日(日) 8:20福地君来てくれ大東医院まで運んでもらひ、夫人に手当してもらふ。鍛治初江氏より葡萄酒2本賜ふ。院長、高野山より見舞状。植村清二先生「井上源一郎君の隣に住む」と。浜谷、白馬岳より。明渡淑江、根木薫(永島福太郎氏義妹Ⅱ英1)、川勝、伊奈(文2)、桜井、石塚、木村(文1)の暑中見舞。大谷、尾崎、森田3生白馬より。松本君に電話、来るな、ゆくといふ(火、木、都合悪しと)。湖東君に電話「元市印刷の中元もらっておけ」と。 夕方、京つれて散歩にゆく。高槻の小久保実氏より200。青梅の並木陸郎氏より問合せ。けふ鍛治君への礼状に20円の切手同封。 8月6日 福地君10:00前来り、大東医院へゆく。明日は先生来診と也。(けふより福地君橋立旅行)。八木君より礼状。友井老に金わたし呉れしと。岩崎昭弥よりわが詩集のこと心がけゐると。野崎その、井上和子(英2)、城戸(専)、金子多美子講師、伊藤桂一君転居、大住(?)より暑中見舞。 木村老もち来ると思ひしsalaryとどかず。 8月7日 9:20学校へ電話、三苫君をり、悠紀子ゆかすといひ、診断書もちゆかす。高野敏子よりshirt地、外に暑中見舞。尾崎政子、中井英子、佐々木千重子講師、本多和子。永井、瀧口、里井(Ⅱ文3)上高地より。田中知慧子(文2)、羽畑、島田、藤本(文1)、増村篤子(服1)より暑中見舞。 悠紀子15:00帰りしあと小林千余子より電話、3人にて来ると云ふに入浴しゐれば大東先生お越し。明日も一日来診賜ふと。帰られしあとすぐ小林、力身、東順子の3人来り、小林に『右京太夫』『南蛮更紗』『日本女性歌人史 下』貸す。力身君「先日、山本信江に会ひしに死にたしと云ふ」と。Tobacco10箱賜ひ西瓜賜ふ。 ともに出てビニール靴買ふ(550)。けふ山本正子よりreportについて電話。深更までかかりて「陳夫人」24枚。 8月8日 昨日買ひし靴はきて大東医院へ参り、灰皿(楽山焼)贈ればcoffeeのまされ、博士スクーターにて駅まで送り賜ふ。片町へ出、市電にて上六。近鉄departにて印度リンゴ5(300)と蜜柑3(175)と買ひ、警察病院。今川叔母つきそひ正平、市大受験のため国語を史に教へさせよと。 出てまた上六。天地書房で『台湾志1(50)』『隠語全集(80)』『史話俳談(130)』買ひて江馬訪ねしも、歯の治療にゆきしとて不在。まむし食ひ、松本にも2度電話せしも不在。ともあれゆき見れば居りて、渡辺生、父の記載なしと。宜しくたのみて出る。 淀屋橋より市電にて天満橋。Busにて帰る。保田の妹、林夫人より挨拶状。依田、小高根2氏とも電話番号の通知。蔵本恭子、徳島より。西田、桂(文2)、西(文1)暑中見舞。(警察病院の小野文彦博士(ヒデ子父)は歯科の科長。会ひて叔父のことたのみて来し)。 悠紀子、弓子、京、生駒へゆきて18:30帰り来る。服部の長女水泳選手と。貯金出来しと。けふ上六にて散髪し200とられし。 8月9日 10:00福地君にゆく。橋立より帰りしと。自転車にのせてもらひ大東医院にゆく。またcoffeeたまふ。出て家まで伴ひ、同人費収め、小高根君に16日の会承知と伝へることたのむ。渡辺嬢に電話し、田中米屋に電話す(令嬢不在)。 父来り、日生の勧誘員つれ来る。河出書房より印税(12,000-1,800=10,200)来る。西宮君より高野山会議の内容。新大阪新聞 の足立巻一氏より「退職した」と。千場和子、柴山順子(高槻に転居と)、南(文2)、瀧川(文1)より暑中見舞。 8月10日 朝、福地君にのせられて大東医院。明日は休診日とて膏薬もらひ、13:30家を出て上洛、四明岳(※比叡山)までcableでゆき、下山して川崎邸に泊る。 8月11日 16:00ごろまでうだうだし、氷西瓜たべ、冷しうどん食ひて市電。仕伏町行のbus教はりしも出しあとにてtaxiつかまへ梅原邸(100)。薬師寺衛君の母上に会ふ。来年は13回忌と。(※詩抄の載った『果樹園』)3部おき、ちらしずしよばりて出、busにて三條。京阪書房にて電話かり羽田君。『東方学』刊行の見込なきらし。『唐史叢鈔(220)』『桃太郎の誕生(160)』『西は何方(140)』『満鮮植物字案(180)』『満洲・民族・言語(70)』『シラー選集(70)』『賀茂真淵集(80)』にて900に負けてもらふ。五色豆買ひて帰宅。 湖東君より石鹸。岡村智慧より奈良漬賜ひしと。芳野君より同人費。小高根君より原稿。前川氏より「信州へ行け。16、7日までに堀さんのことを」と。 佐竹静子、安村明美、青山一枝、岡幸代・希美、田中洋子、青木康次、久万哲男の諸氏より暑中見舞。東順子生より礼状。久保田初美より「高野山の合宿へゆく」と。父上には電話かけて会へと。岸谷、井上(幸)、加藤、松田(文2)、今井(文1)、堀内節子(?)よりハガキ。 8月12日(日) 朝食してまた眠りゐれば、10:00福地君迎へに来てくれる。大東先生へ奈良漬1本もちゆき、昨夜生駒山上で泊られしときく。帰りて『果樹園』の事務やってもらひ、〒待てば野崎君より和田夫人の住所しらせ、瀧口生(2部文3)よりのハガキ来しのみ。梅田夫人より鍛治富子君についての問合せの電話。湖東君に電話すれば外出。 8月13日 9:20短大へ電話すれば鍛治君来参、やがて来し福地君に乗せられて大東先生。あと2、3回らし。帰りて『果樹園』のback-number 整理し箱に入れてくれる。1号は62冊しかなし。すみて昼食。花井裕、池元久子(長崎にあり)より暑中見舞。力身好子、赤穂より礼状。浅野晃氏より原稿と同人費。上村肇氏より同。 鍛治君より電話、母方実家は簑島の池上七郎氏と。14:30正平来り、史より受講。16:30出て鴫野東劇へ「RichardⅢ」と 「Picnic」見にゆき出れば22:00。留守中大塚来りsyrup賜ひ、宮口時喜子来り、缶詰賜ひしと。 8月14日 史に朝、赤地君来り、午后正平来る。赤地母君来り、授業料と御中元賜ふ。高橋重臣君より訳詩。山根忠雄君より同人費。 東井夫人、関口淑子(文1)、木村(英1)、須内(文1)、岡田享子より残暑見舞。笹尾とさ夫人より「小森、高橋来りてわが詩見せし」と。楳垣先生より『隠語全集』使ったが借りし故、譲り受けたしと。 夜、18:30福地君来り、大東博士。またcoffeeたまふ。明日休みてよしと。帰りて原稿受取4枚書く。詩集の下書きすることとなる。史、午后より信州へゆく。 8月15日 かもめ書店よりcider贈らる。野田又夫氏より『自由思想の歴史』。森亮氏より原稿と同人費。小山正孝君より原稿(詩)とハガキ「上京を待つ」と。 並木陸郎氏より切手にて200。高知の吉本青司氏より『果樹園』見たと。清水文子、森井順子、新坂康子、永井州子より暑中見舞。読売新聞より明日写真とりに来ると。13:00頃良しと答ふ。 夜、服部夫人より悠紀子に電話、13:00頃来ると。夜「堀さんのこと」14枚を『日本歌人』にと書く。 8月16日 9:30福地君迎へに来てくれ、大東医院へゆく。もう殆ど良しとて、この次は日曜に伺ふこととす。夫人butterを賜はる。 帰りて福地君一度去り、弘瀬公生、花井彩、吉野(Ⅱ文1)の暑中見舞見しあと、福地君再来。斎田君13:00来る。読売尾島君来り、わが写真とる。去りしあと(伊東の写真必要とて『果樹園』与へし)、小高根君来り、編輯会すみ、出版(※『詩集悲歌』果樹園叢書1)について話す。 2君去りしあと、悠紀子に来りし服部母子去り、ふと思ひついて元市印刷へゆくこととし、19:00ゆけば伝田生まだ代金払はずと。催促すること引受け、組代その他見積りきき、24日校正出ることと定めて帰宅。2:00大江のことたづねて酔漢来り、不快。 8月17日 9:00すぎ原君に電話し、大江よこせといひ、昼寐せんとせしもだめ。栗生金借りに来りしも悠紀子外出してだめ。坪井より2部の入学について尋ね来る。19日上京と。吉本、穴川、西田(文1)より暑中見舞(けふ伝田に照会のハガキ出す)。 夜、栗生また来りし故、わけをきけば兄の家へゆくに500円貸せとなり。わけをくはしく云へと云へば帰りゆく。大江来り、きけば浜の博党にてよべ2:00頃、親切にせんとせしに因縁つけられしと。 8月18日 事なし。草刈りし「清初の奴隷」書く。西垣君(※西垣脩)より速達「大阪の詩人」14枚。池沢君より「金魚のこと書く。軍隊物は書きたくなし。沖塩徹也姫路にあり」と。 8月19日(日)19560820.jpg 涼し。9月中頃の気候と。10:00歩きて大東医院にゆく。火曜にまた参ると云ひ、帰り福地君に寄り、自転車にのせてもらふ。西垣氏、池沢君にハガキ書く。小高根君にも9月1日(土)池沢君呼ぶことにつきハガキ書く。高橋重臣君よりKrolowのこと。 前川氏より前号のわが文評判よかりしと。小西啓子より「結婚の相手見付かり10月30日の式にわれ呼ぶ」と。上野伸広より暑中見舞。三場君、梨1籠たまふ。 8月20日 北野徳治氏より電話「田中順二郎夫妻帰り来り、順二郎君明日帰京と。一度連絡たのむ」と云ふ。咲耶より「岑夫、船場支店に転任、22日帰阪」と。塚本君子(英1)より残暑見舞。よべ全然不眠。昼寐してやっと元気となる。原夫人帰り来る。『満文老檔』のcard作る。 8月21日 9:30北野氏より電話、今より田中夫妻来訪と。待てば11:30来訪。美千子嬢見るなり笑ふ。12:00京橋にて兄待つといふに註文の寿司来ず。住山生来り「日生自信なし」と。「22日より29日まで高野山高室院にて合宿」と。根木生来り、室内満員と見て上らず梨賜ふ。寿司遂にまにあはず夫婦去りしあと、住山生と話し寿司1人前だけ受取りて食ふ。 草大分刈り、入浴せしに18:00。福地君迎へに来、待たして夕食。大東医院にゆけば「もう1回来よ」と。福地家に寄り西瓜御馳走となり、家まで送られ、詩集のため選をしてもらふ。 けふ依田義賢『ローマ』来り、『東洋史研究』来りし。父より電話「読売にのりし」と。守本主事より電話「本棚図書室に入れる」と。 8月22日 雨。久しぶり也。小高根氏よりも読売紙送ってもらふ。八木嬢より「24日午前早くきてくれる」と。よべ不眠にて昼寐せず論文書けさうになる。伝田生より(※印刷代支払について)便なく困る。福地君も来るかと思ひしに来ず。 8月23日 給料表出す。よべ12時間眠り爽快。福地君寄り大東先生にゆけば「今日にて治癒」と。礼のべて福地君を伴ひ帰り元市印刷に電話すれば「校正25日」と。また詩見せれば出せと。元市印刷に電話し直し社長に云へば「校正明日17:00出す」と。「伝田生より9月初まで待てと云ひ来り諒承しせし」と。 『薔薇31号』来る。小高根君より「池沢に案内す」と。池沢より「参る予定」と。西垣君より「戸隠へ行きゐし」と。「文章は没にしてよし」 と。堀内民一氏より『果樹園』1より呉れと。 野村朝子より電通のanouncerの練習中と。南須美子より「就職したし」と。平川生(文1)より残暑見舞。 8月24日 11:00八木嬢来る。けふ明子君帰郷と。『果樹園』の90円おきゆく。悠紀子、京をつれてともに出て堺の北野家。われ留守番しをれば布施税務署より4,100(前納)を8月25日までに納めねば差押へすと。 堀見生より残暑見舞。井上恵子来り、愉快に学院に勤めゐると。調味料1折と菓子と賜ふ。夜、福地君(※に)電話かけ、のちほど来りしに悠紀子やっと帰り夕食、校正了りしは22:00。くたくたとなる。 (伊東マキ子より植田生と2人の履歴書)。 8月25日 悠紀子、税務署へゆく。われ10:30出て梅田。炒飯たべ、藤村作『ある国文学者の生涯』『中世ヨーロッパ』買ひ、鶴橋で氷西瓜たべてのち元市印刷。『果樹園』責了とし、専務の帰り待ちて夕食。Beerよばれ見積りききして帰宅。 短大より石川喜久子の手紙と本位田氏のハガキ転送。荒木利夫君より『ローマ』。出版記念会未定と。住山生、高室院より。税務署、甘言もて31日までに納めることとなりしと。 8月26日(日) 岩崎昭弥君より(※田中克己の)詩集用にと10,000送り来る。夫人承知。姑君知らずと。伝田雅子より9月末払ふと。落合明美の母より煎餅贈りしと。18:00福地君迎へに来り、大東先生にお礼もちゆく。福地君にも礼せし。伴ひ帰りて詩集の原稿(けふ午后清書すます)の勘定せし に本文109頁。 渡辺、高松、住山の3生より日本生命の試験すみしと電話ありし。 8月27日 10:00鍛治君へ電話せしに来らずと。角川書店よりHeine(※『ハイネ恋愛詩集』)の印紙2,000。9月半に出る6版のためなり。 榎本須美子志賀高原より。午后短大へまた電話せしに「鍛治君来ず」と。16:00入浴中、松本一秀君より電話、学科試験に渡辺生のみ通り、高松生140、住山生128にて落第と。渡辺に電話すれば喜ぶ。 夜、鍛治君泉佐野より電話「腹痛にて休みし」と。本位田氏のエンマ帖のこと伝ふ。 けふ岩崎君に礼状。詩集のあとがき書く。名は『悲歌』とせん。(落合明美の母よりせんべい1缶賜ふ)。   8月28日 雨。悠紀子買物にゆく。堀内民一氏より『果樹園』の受取。八木嬢より悠紀子に。 夕方渡辺生より電話、けふ日生の面接すみ、松本君との関係きかれしと。会社のsalary出、父より「協和銀行船場支店は本町北西角」と。 8月29日 曇。10:00福地君より電話『果樹園』出来をりと。鍛治君より電話「本位田氏のエンマ帖のため登校」と。落合カズヘ氏より手紙。村上新太郎氏より「9月20日までに詩の外に2枚かけ」と。新大阪新聞より食ひ物屋のアンケート。福地君来り16:00発送事務終了。 8月30日 雨。早川麗子よりHeine渡辺生より電話かかり、身体検査の通知なきゆゑだめならずやと。松本一秀君に電話せしに不在、のちほどかかりてやはり駄目と。高松生代りに推薦すとのことに電話すれば喜ぶ。 14:00家を出てゆけば私生児ゆゑだめなりしと。折柄来し高松生に会ふ。出てbusにて渡辺宅。叔父、母に会ひ185点なりしことを云ふ。 本人はそれをききて満足と。叔父、産経の事業部長を通じて再運動してみんと。 送られて出、アベノ橋ゆきにのり、「日本かく戦へり」と「南極捕鯨船隊」見て19:40。帰りて夕食す。前田光子より4,000送り来り「卒業免状ほし」と。東京にあり。 8月31日 久しぶりに晴。弓子の友、細川女まへに引取りし猫返しに来る。則武嘉代子よりハガキ来しのみ。三苫君に電話し、前田光子にあと1,500出せとハガキ書く。 夕方、力身生より電話「猫くれるや」と。京に相談するゆゑ来よと云へば小林生と来り、bananaとcheezeと賜ふ。京、猫を渡すことを承知せず。帰りしゆきあと夕食すれば福地君来り、『祖国』返せしところへ関学の桂君来る。小林生と噂せしあとゆゑ不思議。大毎受くると云ふにわが経験話す。Castilla1箱賜ふ。その帰りしあと松本一秀君より電話「高橋生は補欠」と。 9月1日 晴。住山生より電話。basketのcourtを屋外に造りゐると、不快。南生より履歴書。父来り、悠紀子と咲耶訪問の日を打合す。われ14:00出て小高根邸。池沢おくれて来る。森亮『ルバイヤット』『コルボウ詩集』借りて帰る。 9月2日(日) 論文うまくゆかず。岩崎昭弥より詩とハガキ。奈良女子大より「15日(土)より始まるにつき出講せよ」と。『文芸春秋漫画読本12』買ふ。岩崎江嫗よりport-wine2本贈らる、不快。榎本夫人へ石川生のadress問合せ。 9月3日 晴、暑し。植村清二先生より『アジアの帝王』賜はる。16:00松本一秀君より電話、渡辺生、産経の上田氏より社長に運動したがだめと。電話かけて呼び、夕方来りしと話し断念せしむ。 9月4日 晴、暑し。子らみな学校へゆく。われ論文かきつづけるもだるし。河野岑夫より帰任の挨拶。池沢君より西垣君の文のこと。 16:00福地君来り、斎田に会へばわが詩集反対、他も売れず、大山(※大山定一)、吉川(※吉川幸次郎)氏あたりへ頼めばよきにと。永田君に損さすのはわれもいやなればとり止めん。夜、本文ほぼ書き上ぐ。これより註。 9月5日 よべ不眠にて「清初の奴隷」本文39註53書き上げ、昼寐せんとせしに出来ず。また訂正などす。 浅野晃氏より『日本歌人』の信州夏居に参加したと。北海道の小田邦雄氏よりは浅野氏にも連絡なしと。 散髪して登校。15:00よりの職員会待つ。楳垣氏に『隠語全集』贈れば新著『隠語辞典』賜はる。職員会不快(平井生結婚のため専攻科退学と)(鍛治君、空気刷新のため3月退職希望と)。17:00すみて楳垣氏出版記念会世話役となる。 井上恵子、院長ならびに同僚に不評と。これもわが悪評の中か。夜学不眠をことはりてやらず。 9月6日 定期券買って登校。前田光子の4,000を事務にわたす。高松生来る。石浜さんに逢はんとせしに休講。小野、今講師みな来ず。今週より開講を教務達せざりし也。楳垣教授に出版記念会のこと相談す。 午まへ梅田夫人、森内嬢をつれて来る。三林といふdr.と結婚すと。梅田夫人と出て戎橋で喫茶。香水もらふ。荒木君によれば来月初位、依田君の出版記念会と。出て雨らしくなりしに天牛南店へゆき『類聚国史』2冊買ふ(300)。 帰って入浴、夕食。上村氏より3部送れと100円来りしに、思ひつき、福地君にゆき大東先生にゆく。軟膏たまひ、ついでに体のかゆみのこときけば薬賜ふ。Vitamin不足ならん。福地君呼び決算す。赤字3,500(けふsalaryもらひて同人費払ひし)。 9月7日 登校の途、久保田家に寄りしに初美君不在。登校。漢文、歴史ともにきちんとやりし。14:00院長に会ひて12日の楳垣氏の出版記念会の打合せし、案内書刷り、鍛治君と出て、不二家でsandwich食ひ、辞職申出を取り消さしむ。 別れて十合へゆく。児玉君不在。斎田君訪ひ、(※詩集)出版の件話し、永田君へ断念取次いでもらふこととし、宣伝部意匠課の藤井君(詩人なる由)呼び、16日来よと云ふ。古本部にて来た『隠語全集(100)』、秦豊吉『西洋十夜(100)』買ふ。 帰れば城平叔父来をり、名賀君といふを20日ほど泊めよと。台風来ると。夜、久保田初美に電話すれば「父にまだ行かざりしか」と。 9月8日 9:00元市印刷へ電話し、和歌山へゆかんと云ひしに、社長「その要なし」と。無為にて日暮る。石口敏郎『遠い終電車』来しのみ。夕、福地君へ散歩、高松生、身体検査月曜と電話。 9月9日(日) 朝、山本治雄に電話すれば「丸三郎また半身不随になりし」と。夕方ゆくと約して坪井にゆきしに不在。「昨日福地君父君と会ひし」と。夕方山本家へ来よと云ひ、河内町の永田治君訪ひしに他出。父君に名刺托し、市電にて日本橋二丁目、Orion座にまちがって入り「灰色の服の男」を見て「慕情」となりしに気付き、出て河原町の叔母に会へば大江房子入院、2児藤井寺にゐると。茶漬食はしてもらひ市電にて梅田。『李太白』のみ旭屋で見付け、吹田へゆけば16:00。ぶらぶらして17:00。 山本家にゆき新夫人に挨拶、湯に入れてもらひbeerと雞。夫人の辛苦察するに耐へたり。坪井来るかと思ひしに来ず、20:00出て古本屋にて吹田順助『ヘルデルリーン(30)』『未亡人(80)』買ひて帰宅。 福地君来り、山中タヅ子、井上斌子来しと。山中に電話、改めて来よと云ふ。 9月10日 台風来るとのことに3回生の会ありや否を会場に電話してのちゆけば11:30。10名位集り、12:00すぎ長沖氏来りしと共に開会。空き腹にbeerのまされ真赤となる。出席、鈴木(養子とりしと)、八木、吉本(つとめやめしと)、小島、高野浩子、鳥本、内藤、西岡(九度山より来しと)、安部、西本、則武、林、大菊、山尾(おくれて来る)、成尾(2月出産と)、浜谷(11月結婚と)、中川。北沢も2月出産、その他も怪しく、(※日本の人口)1億を越すは早からん。 学校へ電話せしに守本氏出て出席12名にて水曜の会は学校にてやると。たのみて16:30登校。台風それしにより夜学ありと。鍛治君、「富子妹、見合の相手気に入らざりし」と。仕出し屋にことわられ、近所のお好み焼屋へゆけば宇治氷くれんとす。 出て夜学。1年の漢文最後やり、3年の漢文の補点に会ふ。米沢生360立て替ふ。西宮君と話して帰宅。 山根幸夫君より和田先生の代筆として『東洋学報』に論文をと。こまる。 9月11日 山根幸夫君にことわり状。8:30登校。元気に授業し、丹羽夫人と話し、久保田父君に電話すれば他出。16:00帰社と。東順子と出て孝子出席不足故、卒業おくらせんと。Coffeeのみ乍ら話す。承知の様子なり。地下鉄乗場で恰も久保田初美に会ひ、市電にて今宮戎下車。久保田鉄工所にゆけばをらる。感じよきも「取らず」と。ナンバまで歩きて地下鉄にて天王寺、帰宅。疲る。 けふ八木嬢よりHammurabiすみしと。榎本夫人より2-520と。大東医院へゆき内服薬いただき、福地君さそひて帰宅。山根忠雄君の返金700を記帳してもらふ。 9月12日 9:00出て森ノ宮。靴直させ、本町2丁目まで市電。倉敷紡に岩田常務訪ねしに「11:00まで来社せず」と。協和銀行船場支店に河野岑夫訪ね、ついで紡績協会に村山高氏訪ね、type-writerの礼として著書2冊贈る。柴谷氏呼出し、大高野球部の会すべしと。諾して倉紡再び訪ね11:20まで待ちしあと千川を訪ねしに90円くれ、昼食おごり呉る。勤め先に女の読者1人ありしと。別れて倉紡に電話すれば岩田氏昼食にゆきしと。 地下鉄にて登校。15:00まで大東夫人と話し、鶴身生の妹より「姉の披露宴に出よ」と云はれなどし、硲君と話して『果樹園』送らざりしに気付く。 15:00より教授会。東妹の卒業日おくらすことと決定。16:00より『隠語辞典』出版記念会。食物の子の料理旨く出来し。理事長、大塚博士ら欠席。18:00終れば山中タヅ子、井上斌子まちをり、話して2部2年の授業。すみて西宮、長沖氏とともに出る。 帰れば鶴身陽子より「10月6日(土)上本町2丁目山中荘にて披露宴」と。森田宏子より「丸山に新築」と。(※青木)陽生より「下高井戸4の889へ転居」と。多喜さんより『果樹園』の受取。前田光子より8日までに金出来ざりしと。 9月13日 雨。外国航空郵便45円なることを知る。10:00すぎ登校。石浜先生お越し、庄野英二、小野十三郎、石浜恒夫君とみな始業日知らざりしと。 古典講義やり、12:00日本経済新聞より電話、来るとのことに待てば、私の詩文をと吉永孝雄の紹介にて京大仏文出の青年、話し相手となり、13:30岩田氏に電話すれば「来よ」と。行きて会ひ、紡績協会へ話して見んといふこととなる。岑夫に寄りしに他出。日本レーヨンに増山君訪ねしに不在。日本生命に松本君訪ねんとし、夫人に遇ふ。「高松80%大丈夫ならん」と。 朝日にゆき山田新之輔に会へば「詩出来ず」と。毎日に天野愛一訪ね、西原寛二君に紹介してもらひ、茶のませ、勧誘す。高尾へ寄れば『瀋陽日記(400)』ありふしぎ。三浦義一『悲天』ただにてもらふ。省線にて帰宅。 中野トシ子より「会ひたし」と電話ありしと。高松生より「入社許されし」と電話ありしと。(けふ渡辺にきけば実父死にし人と)。池沢より原稿。芳野清君よりも「送った」と。北大福の北島清香嬢(千川の勤め先)より10月号よりと100。文1西田生よりnote送付。名賀君tobacco5個賜ふ。 9月14日 昨夜半、石川喜久子に返事かく。10:00出て登校。中村図書館長の娘来をり、話してひまつぶし。授業。ひるbasket部3人来る。奈良のprint切り歴史。長沖氏に法務局より来り、思想傾向につき質問、不快。 和島嬢に電話せしむれば「も早出勤せず」と。11月医師と結婚と。 15:00出て十合。児玉君欠勤。佐渡島金属にゆき梅本より300受取り、田中十八氏に会ひ智慧子生のこときけば修学旅行のためねだりをると。出て思ひつき筒井に会ふ。「野上、恋人出来て離婚考へゐる」と。さそひて玉造にゆきbeerのます。 帰れば中野トシ子生来をり、弟日銀を受くるにつきコネをと。罵倒して帰らす。浅野氏より1,000と詩。森氏より500と詩。田中静子氏より「20世紀(※梨)送った」と。山本より「丸(※丸三郎)軽快」と。 夜、宮口生より電話「月曜来る」と。 9月15日 奈良へゆく。10:20ごろ着き、図書館天野忠君に『果樹園』3冊わたし、『コルボウ詩集6』もらふ。横田俊一氏にわたし前川家訪問を約す。講義すみしは12:00に15分まへ。昼食すまし、小川講師と話し、横田氏と出て前川家。 佐美雄氏radioへとすぐ出てゆき、緑夫人と話す。「保田出版の件に苦労しながら西垣一子女と恋愛しゐる」と。芳賀檀氏、わが会ひたしとの伝言を喜んでききしと。 出て野崎家。その君、思ひしにたがはず悪阻とて出ず。岡村家へ電話せしに、父君変な返事ゆゑ、ゆきしに「母子成長の家ききにゆきて不在」と。やがて帰り来し母君にきけば「阪大学生に恋愛しかけられし」と。やがて智慧子生より電話かかり、わがゐること知りゐる様子に、置手紙して出、石切下車。萩原美智子(藤井夫人)のぞきしに不在らしく応答なし。井上睦子にゆき母子と話す。すし賜はる。 けふ芳野清君より原稿。服部三樹子氏より同人費のみ。BKより電話「愛する歌」の放送をと。小野和子より「在店しゐるゆゑいつでも来よ」と電話ありしと。 9月16日(日) 雨。福地君より電話かかりし故「11:00来よ」といひ、呆然としをればすでに時刻。行数数へてゐる中、小山正孝君の小説来り、大超過となる。八木嬢より電話、弓子の洋服のことなりし。 14:00小高根二郎氏来り、同君の「伊東静雄」を半分にし、西垣君を没書とするといふを、半分だけ出すこととし、われに105行賜ふ。ありがた迷惑にて(詩を書けとなり)、beerのみて編集、16:00終り福地君のこり、それも去りしあと唐詩cardをしらべ、22:30「唐詩の草木」105行、編輯後記11.5行かき了ふ。 9月17日 雨。福地君9:30来り、ひげ剃りて出る。元市印刷へゆけば社長のみをり『果樹園9号』は24、5日校正、28日出来上りをたのみこむ。ついで1万円わたし3万円にてわが詩集作れと云ふ。金預りしゆゑ出来るらし。 BK垣田君に電話、15:00ゆくといひ、十合児玉君にも電話すれば、赤ん坊栄養失調にて市立病院に入院と。出て2人でうどん食ひ十合。児玉君をらず。きけば仕事中にて会へずと。斎田、藤井2君ともにゐず。怒って出、別れて北へゆけば追って来、斎田君見つけしと。喫茶して別れ、本町まで歩き河野岑夫のぞきしに、これまた不在。 市電にてBKにゆき、垣田君に会へば京大国文出と。わが『詩集西康省』もつと。「会議は踊る」「大高全寮歌」「四条畷」を歌はすこととし、水曜13:30またゆくこととなる。大手前高校へゆき、吉永君に会ひjuiceおごられ、きけば夫人(今高教諭)腎臓炎にて日赤に入院、危篤と。はげまして別れ、日本経済新聞に井上君を訪ひ、伊東の「百舌鳥のみささぎ」を教へ、出て沢田事務所。近々講義に来てくれると也。「実父死亡後3年以内ならば庶子認知訴訟出来る」と。市電にて梅田。万字屋にて『大日本普通植物誌』60円といふが50円にしてくれし。 (沢田事務所より家へ電話すれば宮口、谷川差支あり、来週来ると)。鶴身陽子の披露宴の案内と。依田君『ろーま』出版記念会23日(日)17:00河原町三條下ル西側ニュー・アサヒ3階にてと。 9月18日 依田君記念会へ出席の通知かく。森房子氏より原稿と1,000。服部三樹子氏より読者紹介の300。平田春一『象刻集』受取りてのち、昼食して出、アベノ橋の市立病院206号室に小野洋史を見舞ふ。14:00~18:00が面会時間なりしもむりに通り、目ばかり大きな坊やあやせば泣く。前田光子の手紙見せ、出て学校。 住友銀行の広瀬重役夫人と話し、令息の坊ちゃん気質ききてすがすがし。 17:00出て鶴橋より今里。渡辺宅にゆき母、叔父と話せば三七子の父終戦後すぐ死にしと。 帰りて夕食。入浴すませれば福地君来り、事務すまし、『台湾(30)』譲り呉る。松坂屋にて古本展あり、ゆけと。 9月19日 石口敏郎氏へ同人加入勧誘状かく。父より電話、小林政治氏の死を報ず。昨日葬儀ありし。與謝野夫妻、金尾文淵堂らの友にて80才なりしと。 13:00出て森ノ宮下車。時間つぶしに社会事業短大訪ねしも孝橋、田中両君ともゐず。BKにつきしは14:00。簡易裁に沢井判事訪ぬれば会議中。またBKにもどり明渡生呼出して話し、垣田君よび出さしめ15:00より録音、10分となり時間あまり2、3度とり直し、はふはふの態にて出れば稲葉直君に紹介さる。(放送料として4,000-600=3,400もらひし)鹿熊猛の友と。 16:30出てtaxiにて松坂屋。古本展見にゆきしもすぐ閉店。台湾資料見つからず『ニクブン文典(80)』『仙台方言集(150)』『廈 門(40)』『女大学(40)』買ひ、大高寮歌集とまちがへて『六高寮歌集(80)』買ひ、出て日本橋1丁目の宮本書店にて『佐藤春夫全詩集(180)』、天牛にて『西太后(20)』見つけ、出てしるこ食ひ、源平にゆきしに萩原母君おいで「1,000にて会を」とたのむ。 鶴橋まで市電。『夜と霧』なるbest-seller買ひて省線にのれば、また鶴崎裕雄生に会ふ。明渡生より1期下と。けふ『薔薇』に詩「ラジオに」送る。高知の吉本青司君より会費300。 9月20日 よべ眠りにくかりし。9:30出て近鉄departでcoffeeのみて登校。フランス語の試験監督す。東孝子来り、母会ひたしと。来週水曜に会ふこととす。庄野英二君に『果樹園』に入れといひしに、はかばかしき返事なかりし。村山氏に電話し、(岩田生父よりききしと。『倉紡』なる印刷物もち来る)来月27日(土)15:00より「源平」にてときめる。大毎の西原君に電話せしに「席にあらず」と。のちほどゆくと云ひ、東北旅行の間に九州にゆくといふ山下、大谷、重谷のこと梅垣女史より注意うけ、早速山下の母に電話すれば「承知」と。山下、大谷つかまへ注意して帰せし。 今東光氏15:20まで講義、待ちくたびれて出、「かもめ」にて松村生に会ふ。今氏と同車、寺本(近々結婚と)、井上恵子2教員に会ひ、天王寺で別れ、地下鉄にて大毎、西原君文学やる気なしと。Coffeeおごりて別れ、高尾書店へゆき『遼東志(400)』『学士院報告4冊(150)』買ひ、省線にて帰宅。 井上睦子より萩原みち子に伝へしと。けふ依子に『西太后』托し、福地君招きしに来り、話しゆく。高松の母来り、礼に菓子1折たまひしと。 10:40「心の歌」の放送ききしに、歌の部分多くして誤魔化し呉れたり。 9月21日 福地君野菜賜ふ。昼ねして快し。夕方、木村夫人と児玉円城君より電話。昨日洋史坊退院せしと。2人ともRadioききしと。豊田久男に23年ぶりに電話で話せし。近々会ひて野球部名簿を作ることとす。 9月22日 奈良行。9:50着き、俵青茅のぞき依田君の会に出るときき、野崎家のぞき、その女史に会ふ。「根木女史に会はずともよし」と。女子大前にて自転車にのる高校長塩見氏に会ふ。ゆきて天野忠にきけばこれも明日の会に出ると。横田俊一氏に会ひ『果樹園』同人加入をすすめれば自信なしとことはらる、不快。 すみて服部英次郎教授、小川講師と話す。(小林天理大教授をわればかにしゐると小川氏の話)。 昼食代払ふ(140)。出て古本屋にゐる吉村正一郎、横田教授の2氏に気付き、入りゆけば『日本歌人』出来をり、1冊とりて前川家。すぐ出て雨に遭ひ13:35発のbusにて天理(40)。 北大路にて下車。八木家まで歩き『台湾私法』返却。中島駒次郎氏いまだ在職まちがひなしと。 雨に降りこまれ止み間を見て出、高橋家へゆく。新築あと2ヶ月以内に出来る様子、同人費2,000預りRadioの悪口云はれ、beerとす しでご馳走となりて19:00の電車つかまへ鶴橋につけばまた大雨。 家に電話し傘のこといふ。徳庵につけば雨やみをり。 全田叔母、渡敦子、吉崎雅子、藤野一雄よりRadio聞いたと。太田陽子より南三国丘町1の9に転居と。 けふ羽田君より恰も電話、下阪しゐしと。明日ゆく旨通ぜしと。日本経済の井上君より電話ありしと。 9月23日(日) 9:00出て京都。京、弓子つれて4人なり。11:00すぎ下総町へつき羽田君へ電話し、午后ゆくと云ひ、父の家につけば咲耶まだ来をらず。 12:00来しと話し、河野舅の老衰せるをきく。蕎麦食って出、羽田家へゆけば、史のArbeitを知りをり『敦煌遺書』2冊賜ふ。 折しも岩井大慧先生来られ東京の話承る。白鳥清先生ほらを吹かると。『満文老檔』の進行早しと。天理図書館の『中文地誌目録』見をられずと。悠紀子ら15:30来り、2児ともに恥かしがりて話さざるを見て、先に出(あとにてきけば仲好くなりて17:00まで遊びしと)、大丸前までbus。 阪本昌代の家をたづねあてれば黒焼屋。母入院とてすぐ別れ、古本屋見、大学堂にゐれば声かけしは佐々木夫人。これを先にやらし、会場にゆけば依田君すでにあり。 17:30(※依田義賢『ろーま』出版記念会)開会。旧コルボウ同人ほぼ全部集る。読売に紹介書くこととなり(小野十三郎の紹介と)、2度演 説し、Eliotの深瀬基寛先生と握手し、外に出れば高橋君はづれ小高根君と喫茶。別れて京阪書房により帰宅。 父にもらひし『蝸牛庵訪問記』よみて眠る。家にも『満文老檔2』来あり。 浅野晃氏より同人に神保、蔵原、芳賀、林、吉村貞司、吉本青司、前登志夫など挙げらる。困る。笹川くるみ生より謝恩会の案内。 (※欄外に来会者:天野美津子、俵青茅、安藤真澄、児玉実用、山村順、天野忠、荒木二三、荒木利夫、山前実治、井上多喜三郎、佐々木邦彦、同夫人、武田豊、杉本長夫、依田義賢、久慈徹三、城小碓、小高根二郎、富岡松五郎、たかはししげおみ、西山英雄、臼井喜之介) 9月24日 晴。終日臥床。日生の3人より電話「夕方、宮口、谷川真佐枝の2人来る」と。鍛治君に電話、print10枚ましてくれと云へば守本主事の命にて400づつ(楳垣氏記念会費)集めると。 〒なし。17:30、2生来り、栗きんとん呉る。塩尻公明『女性論』輪読の指導せよとらし。 福地君来り、2生匆々去りしあと校正。22:40すみて帰去。高橋君への受取かかし、小高根君へと浅野氏の(※同人候補列挙の)ハガキ托す。 9月25日 豊田久男に電話すれば町会の旅行と。(福地君より校正15:00と電話ありし)。高知の吉本青司君より7号以后ほしと。 13:00出て寺田町の古本屋に寄れば、元々社のわが本2冊ともあり。時枝誠記『日本文法文語篇(220)』とTizard『Guide to marriage(80)※満ち足りた結婚』買ひ、歩きて元市印刷にゆく。けさ盗難に会ひしと。伝田のこと云ひ、和歌山へ催促にゆくこととなる。(千川に電話し、俳句雑誌330部での見積やらせれば、1万3千円にて利得なしにてやりゐるらし)。 わが詩集は300部にて32,400と。製本代わづか3,000と計上しあるが不安なり。18:00校了。「菡萏(※かんたん:蓮花)」の(※活字)作字で800とられると知り、かたがた憂鬱にて帰りてもぼやく。(木曜和歌山へゆかねばならぬらし)。角川書店より『Heine(6版)』来る。10月10日発行と‼ 9月26日 雨中をゆき、研究室に入るとすぐ三苫君来り、「院長、図書購入を1月まで中止せよと云ひし」と伝ふ。楳垣、守本氏らにいひして不快。沢田直也君に電話すれば10月2日(火)は上京中と。矢本貞幹氏と話しなどしてすごし、15:00の教授会まつ。 大東夫人来る。鍛治君にきけば「富子君の見合ことわりにゆきしに、梅田夫人もきらひゐし故よかりし」と。川端氏とも話し15:00すぎ教授会、おもしろくもなし。すみて図書館運営委員に伝へるところへ院長来り、(※図書購入1月まで中止は)会計の意見と。楳垣氏と2人に「アメリカ文学の本55万円にて買ふはいかに」と。関学大の某氏の書なり。金なしとことわればよきに‼ すみて木下義三君来り、「次女を高等部へ入れんと思ふ」と。やめよと云ひて別る。 台風15号の前ぶれの雨にて和歌山災あり。明日ゆくをやめんと思ふ。和島嬢より「11月16日の結婚式に出よ」と。林叔母より「友の孫に嫁世話せよ」と。 9月27日 「15号台風、東京にゆきし」と。ここは雨のみ。12:00雨止むを待って家を出れば、深瀬基寛教授より『果樹園』の礼状。天王寺へゆけば急行出しあと、天海堂へゆき鄭振鐸『書物を焚くの記(70)』買ひ、13:32にのりて東和歌山。美園町の医大にゆきてきけば「久保君、病院」と。病院(公園前)にゆけば助手、近ごろ転居せしゆゑ案内すと。 汐止まで電車でゆき、会へば歯痛と。S女あり。なつかしがって話し、帰りがけwhiskeyたまふ。水軒口へゆき伝田父子に会へば「贈与税かかりしため払ひおくれしも10月2日とかに来阪、3万円払ふ」といふに、叱って雅子生に梅田邸まで案内させれば不在。電話かけてきけば「高松の印刷屋にあり」と。 歩きてゆき母君と共にあるに会ひ、梅田邸へ引返し、すし食はされ羊羹2棹賜はって19:30出、駅へゆけば電車取消し。20:20発にのり、22:30帰宅。福地君来り、『台湾史料上下(100)』と菓子賜ひしと。 小高根君より電話「土曜15:00の会よし」と。 9月28日 元市印刷へ8:30電話すれば「不在」と。学校へゆきてかけ「のちほど行く」と約す。小野和子より電話「大江へゆかん」と。忙しくてことはる。 読売へ電話し、池沢君呼出し、埜沢氏に『ろーま』評のこときけば「その本まだ見ず」と。悪きことをせし。小野勇君来り、長沖氏と2人に野球部員の名簿きく。院長呼びて「岩崎嫗やめさすことを考慮せよ」と。守本氏水曜に『隠語辞典』のこと話せと。 出て元市印刷へゆき伝田父子のこといひ、『果樹園』受取り、『悲歌』ゆっくりせよと云ひ、福地君と10号を詩歌特輯とせんと云ひ帰宅。 夕食し入浴し、また福地君迎へ、発送托す。この間、高橋君階上にて依田氏にsignさしをりしと。(けふ岩崎嫗にきけば沢井判事よく知りをると。渡辺三七子に紹介の名刺かきし。豊田久男に電話すればまた不在なりし)。 9月29日 奈良へゆく。野崎家に寄り11月13日の和島嬢のお目出度教へ、大学にゆき、天野(※天野忠)、横田(※横田俊一)の2氏に『果樹園』くばる。横田氏『詩的体験』賜ふ。『果樹園』には入らずと。前川夫妻旅行中と。杜甫すませ(先週天理で走って電車つかまへしを見てゐし子ありしと)。服部教授(※服部英次郎)、小川講師(※小川和女史)にも1冊わたし(小清水氏に1冊托す)、前川家へ配達して大阪へ帰り、阪神の古本屋見る。ほしきものなく万字屋へゆき『袁氏世範(30)』『宋詞選(30)』買ひて石橋の小高根家。10号を詩歌特輯とすること決定。浅野氏より申越の芳賀氏、林、吉本3君には小高根君より交渉、蔵原、神保2君には吾より浅野氏にことはることとなる。 池沢と3人にて梅田まで帰り、アテネ文庫『中世日本の形成』買って帰宅。 石口敏郎君(早大仏文4年生と)より「村上菊一郎君にもすすめられ同人加入承知」と。桂周作君より保証人になれと。春名夫人より「弓子の衣出来、送りし」とゆき子へ。 9月30日(日) 依田君へ読売へ1冊送れと。桂君へことわり状。浅野氏に神保、蔵原2君同人費出すやきけと。10:00出て散歩(悠紀子は京の運動会にゆき、依子picnic。弓子留守番)。 夕方帰れば小清水卓二氏より「唐詩の草木」評賜はる。八木嬢より電話あり。仕立て代を撓擾 10月1日 悠紀子、京と鶴橋をへて十合(斎田君に電話してゆきし)。晴雨兼用rain-coat3,200の気に入りしと。斎田君にゆき帰りて悠紀子らを見ず。児玉君呼び、茶のみ、斎田君に8号まで180わたしありと云ふに、9号より3号分90とり、別れて南下、戎橋北詰「いづも屋」にて昼食、源平に寄り、27日15:00より10人位と置書し、地下鉄にて学校。 本位田氏に会ひ、不平云ふ。歴史のnoteの採点し、柳井三千比呂の電話きき、すぐ来よと云ひ、やがて来しをつれて天王寺。昼食するま話きく。「長尾良、吉野書房に帰りゐる」と。 奈良女子大付属高校長の塩見薫氏に紹介かきて別れ、本町2まで地下鉄、村山氏に会ひ、名簿のprintを案内状にいれることとし、岩田生の履歴書もたし、折柄降り来し雨にbusにのりて鶴橋へ出て帰宅。 悠紀子らおくれて帰宅。のちほど拡声器にて呼びしと。 大江の子弱々しと。西島寿賀子より「寿一君、鹿島療養所に入院、快調」と。前田光子より「授業料すませし」と。 けさ来りて原稿かきあたへし福地君、夜再来、print見す。1筆づつ書き加へて送り出す。前田光子へ手紙。小清水氏に礼のハガキ。(けふ西岡生と戎橋で会ふ。井上斌子と同じ勤先と)。 10月2日 京と出て天王寺で雨に遭ふ。かもめ書房(庄野院長令嬢)にmoratrium云へば困ると。ゆけば8:30、鍛治君すでに来をり、1限すまし豊田君に電話すればまた不在。ハガキでしらすと夫人の話也。3、4限すまし、旅行の注意す。就職のことも話す。伝田生つひに来らず。 14:30出て元市印刷所。途中雨に会ひてぬれてゆく。詩の2段組大して安くならずと(※通常の『果樹園』は3段組)。伝田の贈与税のことは嘘ならんと。詩集(※『悲歌』)の校正はそろそろ出さんと。 (けふ読売より「女性の心のふしぎ」について2枚、1週間位以内にと)。(誕生日の銀の匙と金1封ともらふ)。 依田義賢氏より「読売鈴木啓一氏にすでに送りあり」と。山中タヅ子より『果樹園』ほしと。山前君より写真2枚。夜、大東夫人の使者来り、tobacco1箱たまひ、浜谷生へnote返却たのまる。 (けふ「源平」に電話し、みち子母堂に27日15:00の室よろしとの返事きく)。(けふ前田光子に手紙出し、授業料滞納皆済を喜びしに三苫君にきけば未着と。まことに女性心理はふしぎなり)。 10月3日 9:00出て散髪屋のぞきしに満員。中道までゆき新しく大きく開店せしに入り、すませ学校へゆき、院長に呼ばれ「志賀勝氏の本、いつ搬入してよきや」と。「いつにても良し」と答ふ。岩崎嫗のことはすでに理事長夫人に話せしと。われ沢井判事のこと云ふ。 すみて守本氏つかまへbasketのcoacherのことたのむ。college-hourに楳垣氏の紹介し、すみて旅行の注意。楳垣、守本2氏長々とやり、終りて実際参加に小森、高橋2生のこと問へば誰もしらず。(中田、平田2生さとし、中田生泣く)。BKの受験を渡辺、井上幸子にすすめ、山口玲子にtypewriter屋をすすめ、15:00より教授会。図書購入禁止は志賀文庫の為なり。終りて旅行手当4,000もらひ、楳垣氏より志賀文庫60万円の不当に高値なるをきく。壽岳博士もまたbrokerなりしか‼ 鍛治君さそひて出んとせば加藤とみ子夫人より電話ありしと。寄り見れば「詩吟の会に出てくれ」と、10枚入場券預かりて別れ、鍛治君とナンバにつけば八木、岩本2生(神戸女学院卒)に会ひ、5人にてjuice。地下鉄にて別れ高尾。2,750+1,200払ひ『周口店の遺蹟』もらひ、『燕呉載筆(120)』『朝鮮史話(180)』買ひて出、また地下鉄にのり上町線にてすでに19:00なるに気付く。 山本理事長夫人と2生とに会ひ「注意しつこしと、子ら怒りゐる」と。不快なれど調子合はし別れて授業。羽馬生結婚にて退学願ひ出づ。すまして和田、島田2生と出、和田生と京橋にてすし食ふ。寝屋川まで帰る由。 浅野晃氏よりハガキ。井上斌子よりハガキ。(けふ山中タヅ子来り、『果樹園』2,3,4,5,6,8,9の代とともに200預かる) (salaryもらひしに所得税2,150、慶弔会費30、市町村税810、共済組合費2,304、計5,294)手取り33,206と。や や多し。 10月4日 よべ3:30に目覚め、ねむきを耐へてゆく。近鉄にてcoffeeのみ、研究室に入れば石浜先生あり、魚澄惣五郎氏に投票すべしと。庄野英二、長沖一氏も来る。 国文学史おしへ岩田生呼べば紡績協会長に話つけしと。高橋生も来をり、(tourist bureauの佐々木といふ青年来り、文科急行券未定と。守本、楳垣2氏に山本夫人の言たしかに伝ふ)。 小森、高橋2生の分を河原女史に預けたり。あとにて良き由なり。 小野十三郎来り、今東光氏来り話し、家政の歴史採点しをへ、眠がりて出、帰れば15:30。(『中国文学報4』の代金225を彙文堂へ送金す)。入浴し夕食して鴻池新田。 福地家に寄り、大東博士にゆけば塚本邦雄君をり、詩人前登志夫と友と。博士に血圧見てもらひしに120にて低しと。鎮静剤もらひ旅行してよしと。健康保険証返却していただく。 福地君に寄り、茶ふるまはれ、連れ帰る。(同年兵相馬実死せしと四条畷の同窓名簿にあり。小寺範輝とも同期、昭和6年卒業。丹羽千年このごろ阪大講師と。『果樹園』与へしと)。 元市印刷への連絡たのむ。山中タヅ子の200。東順子の150記帳してもらふ。(東順子の150を詩集の申込とす)。 浅野、小山、岩崎の3氏より『悲歌』出版につき祝詞。藤井美知子夫人より留守のわび状。豊田久男君より渡辺怘君、正和興業KKの代表取締役。アベノ区西長居509の2(67-6259)にて出席すと云ふと。 10月5日 登校まへ近鉄でcoffeeのみ、ゆきて野球部のprint切る。渡辺三七子、沢井判事に会ひて訊ぬれば即答出来ざりしと。漢文と歴史そこそこにやり、長沖、西宮2氏に7日欠勤を云ふ。(小森来り、帰郷し、近鉄の事故にて登校出来ざりしと)。 15:00出て十合。3,200のrain-coat見当らざるに店長室へゆき昌三叔父に云へば、佐竹といふに電話してくれ、庫に入りしを出 してもらひ、2,500にしてくれし。1回の帽子売場にゆかんとせしに児玉君に会ひjuiceおごられ、仲人氏に会ふ。昌三叔父の助手なりし。 別れて帽子買ひ、靭公園前の大保商店へゆき、西保令息(※西保泰男)に会ひ、『大阪化粧品商報』記者2人呼ばれ、令息の講義きき(※10月18日対談記事となる)、夕食よばれjasmine香料1瓶もらひて21:00帰宅。元市印刷に電話しかへせば10号2,500しか安くならずと。伝田君より40,000のみ送り来しと。『悲歌』の校正9日までに出ると。平田春一歌集出版記念会14日(日)と。けふ年報の再校出しゆゑ、夜し了ふ。 10月6日19561006.jpg 〒なし。12:00出て片町(西島寿一の病院に『果樹園』8冊、中野清見へ9号送り、近畿車輌に寄り、丹羽信子に会ひてきけば村岡専務病欠。500円の同人費は高しと)。 大阪府庁へ寄り坪井に会ひ、茶のまさる。吉永夫人逝去はまことと。丁度時間よくなり、上本町1丁目山中荘へゆく。林、岩本、八木などすでにあり、花嫁(※鶴身陽子)と話しそこなひ披露宴はじまり、花嫁側の大阪歯医病院長の隣に坐らされ、演説ささる。「学習院長になれ、烏を鷺に云ひ[白]めし」といひに来し人あり。 15:45新夫婦出発。16:00われも出て肥後橋より大毎。天野愛一に『寮歌集』贈り、茶おごり、楳垣氏に道頓堀言語散歩をたのんでくれときき、別れて省線福島。秀邦印刷へゆき再校わたし、3校月曜に見に来ることとす。 豊田久男に電話すれば案内つきしと。野球部歌、印刷するゆゑ教へよと。帰れば上田一雄君より電話、原稿たのみに来ると。 10月7日(日) 9:00下痢を云ひ立てて2部卒業式に出ず。草刈る。小高根君より林富士馬君、同人に加入と。ただし客分にしてくれと、同人費500。岩崎昭弥君より同人費1,000詩集出版記念会に出ると。頼永承氏より『台湾風物』廃刊と。わが文のせしを送ると。 10月8日 南海鉄道の田杉進一氏より電話、4、5人ぬけをり、呼びて宜しきかと。村山氏に問へと云ふ。 12:00広沢雄一氏より13日石口敏郎君の出版記念会の案内。森房子氏より1,000と歌稿。 出て会社(日生外交員の森永夫人、久田氏と云ふをつれ来り、中学校へ入れたしと。Melonと葡萄と賜ふ。城平叔父にたのめと云ふ)。 Melon叔父に渡せしに、山口のやりし“Parisien”のwaitressなりしといふも「知らず」と。旅行届し、庁町をへて淀屋橋、 日生に寄り松本に『果樹園10』を売り、御霊神社に園訪ねしに『寮歌集』心がけんと。Coffeeおごられ麓信夫の脳梅毒にて廃人となりしをきき、別れて秀郎印刷。3校すまし京橋をへて帰宅。 豊田君より電話ありしといふにかけ返せば、田杉君よりここにも電話ありしと。村山氏に電話かからざりし也。よろしくたのみ、福地君に記帳さし、岩崎に出版記念会に呼ぶと書きて了る。 けふ頼永承氏より台湾刊行物1束来る。 10月9日 頼永承氏へ礼状。前田光子より東京着の汽車時間しらせと。元市印刷より電話「校正出来し」と。読売へ電話して原稿のこときけば埜沢氏出て来て「18:00頃までに持て来よ」と。 13:00出て京橋よりtaxiにて読売(120)、埜沢氏呼べば待たさる。池沢呼び出して原稿托し、出て梅田。荷物一時預し(taxi80)、地下鉄にて天王寺、元市印刷へゆきて初校了る。すみて疲れ休めにport-wine所望し、ちらしずしふるまはれ、19:00出て近鉄に乗れば、井上英美あり。赤い顔のまま梅田にゆき、わらじ屋の地図5枚買ひて(※修学旅行)集合場所にゆけば、楳垣教授すでにあり、井上睦子の母、山本実子の母姉、田中知慧子の父母らに見送られ、土産もらひて乗車(夜学の米沢来り、みやげ呉る)。西宮君来り、守本氏の注意書わたす。坐席なき子5人あり、われ3人掛け席を井上2人、高橋、滝井とともにやり、睡眠剤きかずして困る。 10月10日 桂、尾崎、白倉、田中知慧子の席にゆき、午すぎてやっと席出来る。下車まぎはになりて吉田明美、坂根、川勝、井上睦子ら発病、食中毒らしく大館駅着、taxiにて病院につれゆき、taxiにて旅行へ伴ふ。 10月11日 12:10出発、十和田湖にゆく。曇にて景色見えず。春夫先生の「湖畔の乙女」の歌に曲つけるを知る。夕食後、井上睦子きげんを直し、藤井美智子夫人へのハガキもち来る。病人おほむね良くなりし様子也。 10月12日 十和田ホテルを出て休所までboat。「湖畔の乙女」像を見、写真多く写さる。蔦温泉で休み、八甲田の初雪よべ降りしを見、岩木山を見て青森をへ、16:00浅虫着。南室に入る、不快。 中野清見君より電話、すぐ来り、夕食まで待たし、ともに「みどり楼」へ行き御馳走となりbeerのむ。20:30ともに帰り来り、食堂で話 す。夫人、新聞に夫のこと投書せし、嫉妬のためと。22:00各室をまはりて「ねよ」と云ひしあと、睡眠剤のみしもねられず。 10月13日 7:00朝食、8:00駅へゆけば中野清見君送りに来り、こけしとport-wine1本と海丹1瓶と賜ふ。われも堺の菓子を贈り別れて発 車。15:55花巻温泉千秋閣に入る。夕方19:30より鹿(しし)踊りを見ささる。意外にも面白かりし。帰りて入浴、wineのみ、山本実 子の室と尾崎菊子の室に遊びにゆく。前川夫人、大東先生夫妻、昌三叔父叔母、八木嬢、米沢昌江生に絵ハガキ書く。 10月14日(日) 10:20花巻温泉発、平泉に着き昼食、大急ぎで金色堂を見る(岩波写真文庫『平泉』を買ふ)。18:30松島海岸着、観月楼に入りしに隣の白鴎楼と部屋割でもめ、英文生hysterie症状を見す。解決後各室を廻り就寝23:00。 10月15日 よべ22:00楳垣氏、桂、尾崎の部屋を叱り、ついで二階に逃げゆきし同groupを含む20名を叱りしとて、われにあやまらる。睡眠剤のせいと、われは山本実子の部屋やかましくて眠れざりしも法政大学生をふりしに喜びゐし也。 瑞巌寺見学後、13:00より蒸気にのり塩釜着。busにのり政岡の墓と仙台城にゆく。19:30まで自由時間、われ古本屋さがしにゆき『青い花』3版(※田中克己訳)を見つけ(50)、坂根生にゆづる。和田先生に羊羹お送りす。21:00の汽車にのり、白河の前後2時間ほど眠り5:35上野着。 10月16日 水月旅館へゆき朝風呂、朝食。西川(※西川英夫)に電話し、丸(※丸三郎)に電話す。丸、角力見物にゆくやうになりしと也。林富士馬の電話わからず。数男(※義弟)の電話かからず。学習院に転校せし生悦住[いけずみ]生訪ね来をり。 7:30出て日本橋、銀座、丸ノ内をbusにて廻り東京駅。9:00の「つばめ」発車まで名物店街をうろつきcoffeeのむ。 8:30plat-formへ入り西川の送り来しに会ふ。詩集5冊買ふ由。鶴身陽子見送りに来り、のちほどwhisky-bonbon呉る。 交通公社の佐々木君、慰労に食堂(※食堂車)へゆきlunch食へば1,615にて、つけたのむ。大阪駅に院長迎へに来り、plat- formにて解散。帰宅17:45。 栗林栄、木曜より精神異状、赤星がwhiskyのませしためと。夜、浦本浜子の姉来りつれゆく。 昨日までに小高根、岩崎、山根、森房子、池沢、高橋、福地、西垣、芳野、石口と原稿あつまり、受取出せしと福地君、また詩集の再校見しと。河出書房より『世界歴史物語』の再版(?)印税2,500-1,875=10,625。今西春秋氏より『檀君考』(※先考著書)とハガキ。服部、林、浅野、森脇4氏の原稿。 奈良女子大より「20日recreationにて休み」と。黒井千鶴子より22(月)学校へ来ると。百済璋子より「2匹とも兎逃げし」と。平中氏より「11月2日17:00より春豊園で東大会(※東大東洋史学科同窓会)」と。 10月17日 桑原武夫氏へハガキ書く。和田先生に送り状。百済、黒井2生へもハガキ。読売に電話すれば鈴木氏外出中と。以後かからず。父に電話し、学校へ電話して昼寐しゐれば、服部(※服部正己)より電話「たのみ事あり、来る」と。16:30来り「弟の保証人たのむ」と。ともに夕食し、出て登校。 鍛治、西宮君ともにをり、年報印刷費20万円以上と。休講の通知しありしを今日書き直せしとて10人内外。話して出、石井生さそひてわれはpeppermintのみて帰る。 野球部会の出席9名と返事あり。(越智一美詩集呉19561018.jpgれしと)。 10月18日 10,000もって家を出、会社へゆけば父すでにをり、城平叔父に相談すれば半人前(通勤)を雇へと。宜しくとたのみ(天理教にあらかじめ同意味のたのみせし)、駅にて定期買ひ、アベノ交叉にて久保田初美みつけ、話しつつゆき、元市印刷へ電話し12:30来よと云ひ、古典講義20分やり、すまして渡辺生にきけばBKみな落第と。 院長と会ひてアメリカ留学に沢井君推薦よからんと云ひ、また相談して年報分離申し立てしも院長合併してよし、金出すと。1,100部刷りにてよしと(元市印刷専務に9,000わたす。伝田生この間より2度来しと)。 14:00出て住高へ寄りしに山本、硲2君授業中、出て帰宅。(けふ尾谷先生より明日14:30~16:00学校へ来よと)。 林叔母よりハガキ。東方学会より4日(日)の案内。夜、福地君来り、3校あす学校すみてのち元市印刷へもちゆき呉ると。岩崎昭弥君に11月18日(日)出版記念会にては如何にとハガキ書く。 10月19日 夜半に寝覚めして疲れとれず。9:30出て天王寺のtourist-bureauへ寄り、佐々木氏に会ひcoffeeのみしあと、硲君に会 ひ、寮歌集借り、漢文教ふ。 尾崎菊子、古典講読継続を申し出づ。江馬より12:30来るとの電話ありしとて待ちしに13:10来り、長沖氏に紹介す。小西啓子より30日11:30松坂屋での披露に出て呉れ、お祝に短冊をと。返答保留。 歴史教へ、江馬の自動車にのせられ片町。放出中学の尾谷先生と会ひ、縁談見付けると約束。『ことばの生い立ち』買って帰宅。 中島駒次郎氏より出席と。伝田雅子より「なるべく早く支払ひ了へる」と。西川より会社おもしろくなしと。林叔母の友、小島スヱさんより「来週来る」と。 奈良女子大より2,400-288=2,112。夜、豊田久男君より電話、村山氏にはかけざりしと。 10月20日 寒し。蒲団かぶり乍ら「新詩作法」2通りかく。栗林栄より「(※賄職の私の)代り見付けてよし」と。 桑原氏より「Nepal国より招かれてゐる」と。硲君より入れちがひにハガキ。『骨』同人より明日安土にて茸狩するとの案内。森亮氏より「27日(土)の夕方より21:00まで時間あきゐる」と。 午后、福地君来り、小高根君来り、池沢君来り、編輯会。Beer2本のみて了る。森氏の歓迎会27日19:00「御門」でと案内かく。4日15:00小高根邸で10号の出来上り会ときめる。 秋の連休これにて皆つぶれたり。元市印刷へ電話し、あす10:00~11:00ゆくこととす。福地君去りしあと編輯後記260字かく。 10月21日(日) 弓子、運動会とて悠紀子早起。9:20来りし福地君と元市印刷。詩集3校わたし、あす午后また見ることとす。『果樹園』校正25日に出ると。 湖東君訪ね大医大(※大阪医科大学)試験のこときけば甲南大へ2年ゆけと。午、すしよばれ、汁をこぼし失礼せし。出て佐渡氏、良幸君をり父君留守。週2回にて3,000と。 今川の古本屋にゆき『大和文学巡礼(20)』『国語叢考(15)』買ひ、千川家まで歩く。『俳句作家』印刷を元市印刷にたのんでくれと也。『モゴール族探険記』さがして歩き、『知性』買ひて帰宅。 中田富子より「睨まれてゐるらしきも悪き点教へよ」と。八木嬢より絵ハガキ見たと。『大阪化粧品商報』に西保君との対話のる。 (千川『悲歌』2冊買ふと)。夜、福地君来り、大山定一氏に斎田昭吉会ひ、我に詩かけよと云はれしと、不快。 10月22日 中田富子生へ返事。和田先生より羊羹のお礼、「京都の会へお越しあるやもしれず」と。池沢より詩の組方について。 12:00出て会社。(原君より伊津井を手伝ひに来さすと電話ありし)。月給表出し、浦本浜子に加手当500と出す。赤星に会ひぐたぐたと云はる。出て元市印刷、責了とし、佐渡氏のこと伝へ、千川に電話して紹介し、南海の田杉君(改良課長と)に電話せしに不在。27日刷り出来ると。 天王寺に出、「Hugo」にて『モゴール族探険記』見付ける(放出にて2,400-288=2,112受取る)。尾崎菊子に遇ふ。 帰れば栗林栄の義妹来り、25日より働かせよと。医師の診断受けよと云ふ。 京、発熱して休校。夜、住山生より電話、basket光華短大に勝ちしと。疋田紀子君「30日結婚」と。 10月23日 雨。登校8:50。歴史すませ、野球部歌のprintし、南海田杉君に電話すれば2、3人来さうと。Chorus練習するといふに国文学史1時間でやめる。 小森帰り来り赤福餅呉る。吉田明美心配かけしとtobacco1箱呉る。専攻科に広瀬夫人来らず、来週火曜2時限にくり上げ可否をハガキにて問ふ。 けふ旅行の写真4枚もらふ。15:00出て天王寺よりナンバ。荒木利夫君訪へば出版記念会、産経にては如何と。電話かけくれしに1時間500 とて駄目となる。「源平」へゆき13人位といひ、天牛2軒みる。南店番頭「10日ほど前、野田宇太郎氏再来、わがこと訊ねゐし」と。学生たちに遇ひて鶴橋をへて帰宅。 岩崎より「18日可」と。芳野君より訂正。昭和女子大溝江京子氏、伊東のこと論文にかきゐるとて300。けふ図書費申請に久しぶりに捺印せし。 10月24日 午前中雨。東亜鉄工所に電話すれば竹稔氏東京へ転任と。栗林栄来り、自覚せざる故「火曜に上二診療所へゆけ」と云ふ。角川より 1,4000-2,100=11,900。小島夫人より26日(金)に来ると。 12:30出て散髪。登校。研究年報あす出来るときき、中島を創元社の息子にとの高岡博士の話きき、15:30より教授会。羽馬の退学認めてもらひ、種々の日程定まって終りとなる。19561025.jpg 19:30木村静子来り、ややして里井、滝口、永井の3生、cake一折もちて来る。 19:10となりて始業、すみて和田生と帰る。栗林また来り、やめさすなといひし由。 うつくしきをとめとつぐ日千万の谷ことごとく紅葉する日(小西啓子のために)。 けふ鍛治嬢と疋田紀子にはなむけの電話す。 10月25日 京、久しぶりに泣きながら登校。われ9:00出て溝江京子氏に『果樹園』送り、小阪までbus。三井銀行支店にて角川の印税とり、堀内に寄りしも何もなし。 学校へつけば家から電話、栗林栄をつれゆく故、吉田病院教へよと。村上生と写真とられ院長より図書館移転につき云はれ、石浜先生より魚住惣五郎氏のこと念を押され、辻生よりの電話きけば服部明日の都合きく。 川西の広瀬夫人に電話せしに不在。尾崎菊子さそひしもだめ。Basketの試合ある筈なりしもとり止めらしく、出てアベノ交叉の綿野にて『法隆寺(40)』。天王寺まで歩き、寺田町より桃谷まで歩きて帰宅。 平凡社より「朱一貴について0.5枚かけ」と。森亮氏より「27日の会承知」と。栗林栄、吉田病院にとめられ、1ヶ月1万800円と。 夜、服部より電話「あす弟の会社の人来る」と。(けふ長沖氏に会ひに近鉄より2人来しも今日明日休講と)。福地君校正すます。 10月26日 朝、栗林栄の兄、岡光源二郎を呼び、吉田病院長への依頼状かく。北畠で下車、書店に寄りしにアテネ文庫『フランス大革命』見つけしのみ。漢文のprint切り4時限。大阪市大の中川女史を1年文芸に案内して家元制につき調査の紹介し、戻れば小島嫗をり「孫君の嫁せわせよ」と。もなか賜ふ。やがて旭広告社より人来り、服部の弟の保証人として印つかす。 広瀬夫人より「時間割変更承知」と。川崎菅雄より「伊藤賀祐出席」と。小林正三より欠席と。 14:30出て近鉄へゆき、短冊2枚買ひしに紙入なく、学校へ電話せしになしと(のちほど家に置き忘れしと判明)。元市印刷へゆきて書きしに書き損ず。『果樹園』校了、29日出来と。詩集もそのころ出来んと。 福地君と寺田町まで歩き、焼そば食ふ。出版記念会のことにて相談、きまらず。 帰れば青木氏不在とて副院長城所氏の手紙あり、3ヶ月位入院必要ならんと。 硲氏よりハガキ。服部より入れちがひに駄目ならんとのハガキ来ありし。今中より同窓会名簿もらふ。 10月27日 子猫ゐずなりしと。8:00出て奈良。野崎家へあとで寄るとかけ声し、前川家へゆけば夫人。「出版記念会の発起人たのむ」といひ承諾を得、奈良女子大。 服部(※服部英次郎)、横田、天野の3氏みな出張。荒木二三氏『オフェリヤ頌』おきありし。小川講師「田中講師(名大助教授に転任)の2時間もらひし」と。 11:45すまし、5分間で飯くひ野崎家へゆけば、鍛治姉妹来り、すぐ出て上六をへて戎橋。「源平」へ14:30着き、待てば先づ吉延氏、田杉、永井、村山、渡辺、益子、中島、川勝、川崎、伊藤(※伊藤賀祐)、田中春太郎と(※野球部同窓会)13人になり、みななつかしがりてうれし。 18:00閉会、われ郵送費1,000もらひ、羊羹もらって出、川崎、伊藤と喫茶。 地下鉄にて「御門」へゆけば小高根、斎田、山根の3氏と福地君とあり。やがて森亮氏来り、池沢君来る(※森亮歓迎会)。21:00まで話しbusにて天満橋。京橋にて別れ帰宅。 子猫帰り来しと。うれし。筑摩書房土井一正氏より『中日文化』16年の号もつやと。伊東マキより卒業の礼状。『薔薇』32号。 10月28日(日) 10:00出て小西家。(近鉄で原稿用紙、Note買ふ)。30日不参をことはりてすみし。 帰れば福地君まちをり、小高根君とさがしまはりて(※詩集出版記念会)中央公会堂ときめしと。雑費は主賓が半分出すが当節の礼儀と。写真とりて200円の会費とすと。岩崎君より同人費1,000。「18日たのしみて待つ」と。服部正己より保証人となりしに礼状。 10月29日 中田富子よりうれしとの手紙。午すぎ会社へゆき山本副社長と話す。「益子氏、当日会社のpicnicをすてて来し」と。原君より「三日、天の橋立へゆくか」と問はれ「行かず」と答ふ。 退職手当1年なら10日と。2,000の申請かき、駅までゆきしも思ひ直して帰宅の途、岡光夫人にあひ「申請せよ」と勧む。 帰れば井上多喜三郎氏より電話。また出て木村三千子氏の店へゆき、誘ひ出して天満駅前で酒のませ、大塚雪郎君に杉山平一君への紹介かき別れる。酒代わづか340にて持金にて足りし。 (※元市印刷にて)福地君待ちをり、(※『果樹園』)発送す。詩集は31日出来と。1日9:30までに学校へもち来れと云ふ。 10月30日 登校。この日はいつも少眠にて苦し。専攻科を2時限に上げしため連続となる。(広瀬夫人欠席)。三木、森田、写真呉る。中に西川(※西川英夫)と東京駅でとりしあり、早速送る。 午后野球部名簿切り、basket部の練習試合ありといふに17:00まで待ちしもとりやめとなりしと。男子学生数名来りをり。(鍛治君より 90×2受取る)(修学旅行費の清算すみ、560もらひて楳垣氏に林[●]代500払ふ。あと医療費を学生より徴収せよとなり)。 寺田町で雲呑くひて帰宅。村上新太郎氏より「11月15日までに詩呉れ」と。板原順子より「実習一ヶ月に延ばしてよきか」と。『研究年報4』と抜刷ともち帰る。 10月31日 午前中雨。読売新聞社より2,500-375=2,125。力身好子より「そのうち小林生と来る」と。16:00出て鴫野より緑橋まで bus。中島悦子生の家へゆき母君に会ふ。まだ早しとて(※縁談)乗気ならず。母君天草の人と。出て登校。鍛治君名簿をみな刷りあり。詩集来ず。夕弁当たべ講義すまして帰る。 11月1日 8:30出て野球部名簿23通投函。学校へゆけば早すぎしと。10:15まで待ち、来りゐし『悲歌』200と案内書50通より、庄野、長沖、鍛治の諸氏に配る。鍛治君、富子君にと1冊貪ひくる。 式はじまり、久保田権四郎翁87才といふに出席、うれし。同窓会長の祝辞巧みなりし。すみて今東光氏つかまへて(※詩集)渡し、研究室に帰りて折詰食ひ、地下鉄にてナンバ。 荒木利夫君に会ひ1冊贈り、市電にて肥後橋。朝日にゆき山田新之輔君と茶のみ、天野部長にと1冊托し、書評かかすなら杉山平一君にとことづけす。 毎日にゆき天野愛一に2冊わたせば、書評400字小高根二郎君にかかすこととなる。出て産経、今沢幸君呼びしも不在。早川麗子生に托し記念会に出てくれるやうたのむ。 高尾ひやかし『台湾蕃政史(1,200)』ほしけれど買はず。梅田新道へ出れば折しも行幸。陛下龍顔、蒼ざめたまへり。山本事務所に寄りしも不在。 読売へゆけば池沢帰宅。1冊托し、浅利君にと野球部名簿托し、busにて帰宅。福地君来てくれしと100冊おきあり。(※詩集『悲歌』都合300部発行) 夕食、入浴後、床に入りをれば来り、Loss8冊ぬき出して悪口いひしも同感せず。発起人として天野、依田2君われよりたのみ、写真屋も吾よりたのむこととなる。 案内状の表書かかし、われ悠紀子と発送にかかる。 (野球部名簿より豊田ぬかせしに気付き、一度包みしを皆はがす)。けふ岩田、神島2生を村山氏の許へゆかせし。山中タヅ子生より詩集3冊ほしと。前田光子よりまた手紙‼ 前登志夫君、先日来りしと。けふ坂根生、礼に来りしと。 11月2日 登校。西宮君をり、話すこともなく別れてあと10日間ほど出張と知る。山中タヅ子君に電話し、火曜来ると約束。東順子の妹に1冊わたし、力身好子にも電話せしに不在ゆゑ伝言たのむ。小森生に1冊わたし、笹尾母君へと托す。 14:30出て千川に会ふ。2冊買ひ呉る。松本に会ひ1冊売り、本田顕彰『大学教授』よみつつゆけば(宮口呼びてきけば忙しくて講義に呼ばずと)、busにのりあはせしは奥西(兄)君、ついで京阪に前田社長のりあはせ挨拶す。三條にて17:00前なるに気付き「れんこんや」にゆき、依田義賢君に電話、発起人承知と。女中さんに(※寄贈本)托してのち、京阪書房にて奥野信太郎『北京(50)』。 (※東大東洋史学科同窓会)会場にゆけば守屋君をり、得意げに話す。19:30つきたまひし和田先生を最後として山本達郎、前島信次、鈴木俊、護雅夫、青木富太郎らの常連、半常連を前に「30年」(※『悲歌』所載詩)を誦す。20:00[散]会(東方学会へ300を托せし)。 われ1人にて京阪。八木嬢より詩集送れと200。中野清見より「荷車の歌(※映画題名)」よめと。岩崎より出版記念会に高鳥(※高鳥賢司)を呼べと。(※祖国社関係者に縁のある)ふしぎな日なり。硲君より京都へは行かずと。天理より『Biblia7』。 11月3日 9:30家を出、京都三條につけば11:45。思ひついてbusにのり天野忠を訪ぬれば在宅。発起人承知せしめ、服部英次郎氏の悪口きき、またbus。市電にて午食にゆけば羽田君をり、すまして青木富太郎の話きく。つまらず。 出て大安の出張売店より『忠王李秀成自伝原稿箋証(170)』買ふ。(東洋史研究会へ400支払ふ)。記念撮影をすまして出る。(小林高四郎博士。仁井田博士に抜刷送り、内藤戊申氏より湖南先生『游清記1,2,3』いただく)。 四條まで電車でゆき、阪本昌代訪ね、小島氏の件きいて見れば「いやでもなし」と。汁粉食べ了り家へ戻り早く返事せよと云ひて出る。母上はまんざらでもなきが、父上「全般的に縁談にすすまず」と。 帰阪、京橋で炒飯くひて帰宅。筑摩書房土井一正編集長よりハガキ。 11月4日(日) 晴。齋藤史女史より『短歌人』。森房子氏より「歌かこんでもらひたかりし」と。林富士馬君より『悲歌』代と同人費。 13:00京都で福地君と遇ひ、いたし方なく小高根家へゆけば14:00。(大東夫人より2冊代300)。けふ太郎君(※小高根太郎)夜来るとのことに、15:00時中座、桜562丹羽千年と訪ねまはり、着けば桂信子氏不在。18日の案内状をおき、千年君と20分話して駅まで送られ、17:30小高根家に帰着。太郎君まちがてら夕食とりしも来ず。まづ夫人迎へにゆき、代りて3人20:00近くまで待ち帰宅。 住山に電話すれば昨日より不在と。(明日試合なしと云ひ来りしとあとで判明)。 11月5日 8:30小高根家へ電話すれば太郎君出、「よべ12時に着きし」と。今より藤田美術館へゆくと。我も出てゆけば休館とて庭で待ち、10:30頃現はれしに米人女、近代美術館男女2人、京都美術大の森教授と表具師岡岩太郎氏の6人。特別に見ることを許さる。法隆寺の天人ののこぼれがありし。 11:30出て天満橋でさばずし食ひ、busにて天王寺の市立美術館。樋渡主事に紹介す。阿部房次郎旧蔵の宮素然「王昭君出塞図(※明妃出塞図)」を見、ゆるゆる見るに怠屈。やがて樋渡氏にまたたのみ、山濤の画帖その他をとり出して見せてもらふあたりで先出。 太郎、野田又夫にも会ってゐずと。けふ父来り、橋立の土産を会社より托せられて来しと。池沢君より詩集の受取。木村三千子氏より誌代120。22:00住山生より速達7、8のいづれかの日、帝塚山courtで樟蔭と試合と。 11月6日 雨。8:40登校。2時限すませれば山中タヅ子生来り、井上斌子、塚本徳子の2友にもと3冊もちゆく。 12:30昼食すませsalaryもらって出、三浦貢氏を訪ね、多忙な中を会ひ、訂正してもらひ、1,000出され赤くなって辞去。住高に硲 君を訪ね1冊買ってもらふ。 天王寺をへてbusで松坂屋。古本屋にて『熱帯柳の種子(20)』『台湾読本(20)』『亜細亜大陸旅行日誌(40)』『女性二千六百年史 (100)』『亜細亜横断記(50)』『肉弾(50)』『満鉄旅行案内(90)』と買ひて、ナンバまで出てbusで鶴橋。喫茶して帰宅。 夜、福地君来り同人費払ふ。浦本浜子風邪とて臥床、伊津井女来り手伝ふと。 桂信子氏より18日出席と。民子叔母より寿一の病状。前川佐美雄氏より「14、15日より10日間夫妻上京」と。壽岳博士より歌3首。 11月7日 会社へゆき城平叔父に会へば「伊津井にいひて手伝を探させよ」と。父に1冊わたせしところへ家より電話、「福地君、鴻池新田に1人老女見付けくれし」と。早速城平叔父にいひ、栗林の退職手当(2,000)預り、池田栄一氏訪ねんと歩き、途中にてbus来りしに心かはりて乗り、天満橋より北浜2丁目へ出、沢田事務所に寄り、詩集おけば、書生君「下さるのですか、買はすのですか」と。来週火曜専攻科の話にきてくれとたのみ、紅茶を飲みて思案し、梅本吉之助に行き、南須美子の履歴書預らせ詩集1冊買ってもらふ。(200預りし)。 十合へゆき児玉君呼べば「入社試験の件にて忙し」と。昌三叔父にと 1冊わたし、いづもやにゆきて昼食。Busにて天王寺をへて登校。 白楽天のprint切る。阪本昌代より近日写真送ると手紙来あり。 15:00まへ西洞院君来り、『果樹園』つづけて欲しと90円。折から来合せし宮本正都君と詩集1冊づつとる。15:00より講演会、古武博士の話きき、研究室に帰り、吉田東洲氏より3日より7日まで在阪のハガキ見、連絡先へ電話(近畿管区警察局長と中村広三氏――外科病院長ならん)すれどつかまらず。(古田、高松兄妹、田中秀子が「かもめ」で詩集買ひくれし)。 田中知慧子生に車中会ひし競輪選手より交際の申込来あり。我にことわり書かす。 やがて中嶋悦子、穴川生とともに来り、返事きかんと宮本君と3人にて出、電車の中で「尚早」と。 別れて宮本君にbeerのませ、篠田博士へ「満足しをらず」との伝言たのみて別れ、帰校、夕食。 講義すませれば室外に45分立ちて待ちゐしとて瀧本生。ともにぜんざい食って別る。 福地君の世話の嫗だめなりしと。杉本長夫、小林英俊、田中冬二、芳野清、上村肇の諸氏より詩集の礼状。芳野、上村氏よりは金送らる、ふしぎ。 金崎忠彦君宛の名簿返送さる。竹内好より『魯迅案内』。(康平叔父へ『一日一善(140)』買ひ『吹田、池田市街地図』買ひし)。 11月8日 晴。よべよく眠り、〒多く投函して登校。沢田直也君に電話すれば「来週火曜来る」と。菊池家に電話して西洞院君の名、文昭とたしかめ、『果樹園』4,7,8投函。 庄野君「たのしく悲歌をよみし‼」と。小野十三郎氏、発起人承諾と。17日長沖氏の「なには賞」の祝賀会と。「会議は踊る」の唄教へ、尾崎菊子、井上京子より写真たくさんもらひ、渡辺恵に電話して、天王寺よりbusにて道頓堀下車、正和興業KKにゆき、会って渡辺三七子の履歴書わたし、米沢昭子の家に寄る。ついで大道裕子の家に寄り、父dr.に会ひ、昌三叔父重役になりしらしきを聞く。 荒木利夫君に寄れば『悲歌』再読せしと。出て「源平」にゆき母君にこの間の礼云ひ、美智子君へと『悲歌』托す。(渡辺君にも贈る)。 帰宅の途、鴻池新田までゆき福地君父上に賄人手伝のことたのむ。そのあと途上、大東博士に会ひし。 川村dr.、中河与一先生、岩崎昭弥君、井上多喜三郎氏、山根忠雄君、知念栄喜君、村上新太郎氏、浅野晃氏より『悲歌』の受取。小山正孝君よりなほ2冊くれと。井上氏よりなほ明日17:00依田邸にてお礼の会と。中島駒次郎氏より礼状。奈良女子大より 1,600-192=1,408。 11月9日 小山正孝君へ2冊送る。8:40登校。9:00来りし長沖氏とともに60名余をつれてゆく。東、渡辺の2生最前列にあり、梅田廻りをたのみ、 梅田シネマ前で本位田氏拾ひ、OS劇場前で1名(曽根)拾ひして11:45大原着。 寂光院前にて昼食後、中を見る。一向面白くもなし。すみて三千院門前までゆき、busへ戻り14:00すぎ出発。往復ともに依田君の向岸を通 りし。17:00帰校。 帰り上町線にて吐気催し、交叉点で下車。杢太郎『森鴎外(30)』買ひて帰宅。 山根忠雄氏より学校に2冊買はせしと。同人費、原稿、売上100。小高根二郎氏より出席(桂、石浜、庄野、井上、山前、大東夫妻)。欠席(前 川、天野忠、桑原、深瀬、野田)。現在出席10名と。 11月10日19561110.jpg 奈良女子大へゆき天野忠に会へば18日出席と。横田俊一氏に会へば同じく出席と。小川和女史に1冊贈り、案内すと云ふ。「長恨歌」教へ昼食。雨降る。小清水教授を研究室に訪ね牡丹のこと聞く。講師として来室の大阪市大吉良龍夫教授に紹介さる。 出て前川家へゆけば佐美雄氏radioの録音車に同乗、出てゆかる。横田氏と夫人と話し、出て野崎家。前田社長夫人来合せらる。その君に1冊買はし、和島みね子君へのことづけ預り、出産今月末とききて出る。 和田先生の抜刷、羽田より2冊送り来る。小高根太郎より礼状。和島みね子「結婚披露宴16日16:00新大阪Hotelで」と。天野愛一君よ り「榊莫山君に1冊送れ」と。武田豊氏、佐々木邦彦氏より礼状。佐々木君、草果の画をも賜ふ。沢田直也君より「火曜必ず来講」と。小高根二郎氏より欠(河村、小山)、出(芳野、天野忠、山根、村上、杉山、岩崎、壽岳)しらし。岩崎君より会場費1,000補助すると。並木陸郎氏より 会費150と『悲歌』1冊代。渡辺三七子生より電話。 11月11日(日) 服部三樹子氏より『悲歌』の感想と1冊代。新関西新聞社東川紀志男氏より100+〒66。山前実治君より礼状。大塚雪郎君より「(※紹介された)杉山平一君に会ひしもだめなりし」と(※就職の件か)。「大阪金銭登録器神戸事務所に勤めた」と。 山崎雪子氏より「歌集送った」と。(疋田)枡田紀子夫人より「神戸市灘区赤松町1の9番地の1の24に住む」と。 角川書店の立原道造全集編集会より速達。 11月12日 出て〒。放出下車、三和銀行で金もらひ、京橋より市電にて南森町下車、木村三千子氏に寄るつもりなりしも開店しゐざるにいやになり、読売まで歩き、池沢呼べば未出勤。葛原喜好も同。『悲歌』1冊と出版記念会の條かいておき、busにて梅田。旭屋にゆき和島嬢にと『冬の山』『スキー』2冊(360)包ませ、新築の阪神本社に大河原倫夫訪れしも不在。Juiceのみて高尾書店にゆき『淡路島』2冊と『朝鮮・満洲・支那案内(20)』買ひて地下鉄にて天王寺。藤井寺まで直行、大江叔母に3冊買はし『果樹園』代150もらふ。この間、房子外出ゆるされしと。叔母10万円与へしと。19561112.jpg 清水生に電話で話せば来よと。ゆきて田中生に電話し、藤井寺小学校にゆき平岡生とに3冊買はし、菓子一折もらひ(18日出版記念会に誘ひ合して来ると)、恵我荘和島家へ祝ひにゆく。けふ荷物出せしと。 帰れば小高根君より「出席、木村、たかはし、元市印刷、千川、杉本、荒木、羽田と24人。欠席、浅野、野田宇太郎、西垣3氏」と。福地君風邪にてゆかざりしと。深瀬氏より欠席のことはり。西川英夫より750。森亮氏より4冊代と〒、700。眞野喜惣治君より『果樹園』見たしと100。 夜、福地君来り、事務片付け呉る。『薔薇』へ「願ひ」かく。 11月13日 8:40登校。歴史すませば沢田直也君来てくれ、専攻科に「女性と法律」につき話してくれし。すみて礼いひ出てゆきしあと、武居生来り『悲歌』1冊買ひ、ひるすぎまで待ち呉る。浜寺の小島嫗に電話し、15:00ゆくといひ、武居生とともに出てナンバ、富士屋で茶おごり、羽衣まで急行でゆき小島家へゆき写真わたし、山本家へつれゆかれ母君に会ふ。藤原由子に電話せしに不在。阪和東羽衣より帰宅。 小高根君より「出席、高鳥、服部、[●]田3氏。欠席、東順子」と。村上菊一郎、野田宇太郎2氏より礼状。芳野清君より原稿送ったと。堀内民一君より「案内せよ」と。池沢君より原稿。山崎雪子氏より歌集。吉本青司君より詩集。安部育嫗より「病院に派出婦しゐる」と。 夜、板原生より「実習つらし」と。「やめよ」とすすむ。(岩田、神島2生とも就職出来しと。中田生別府へゆくと)。(学校穴川生より、かあゆきたより) 11月14日 午前中出る筈なりしも疲れてねてをり、羽田君より18日池内先生のお墓詣をかねて夫人同伴にて来るとのハガキ。新関西新聞社東川氏より原稿依頼の手紙見て12:00家を出、鴫野下車。平家に電話すれば城平叔父入れちがひに会社へゆきしと。用件伝へることをたのみ、京橋に降りて大東夫人にあふ。登校の途中と。散髪し、市電にて木村三千子氏を訪ひ『悲歌』買はし、市電にて天王寺。 登校すれば坂根生150置きあり。15:00より教授会。すみて父危篤といふ山口玲子に電話し、山本実子に電話すればすでに上洛と。肥後生はこの間見合のため試合に欠席せしと。(浜寺の木村家より電話ありしと。話よろしきならん)。 壽岳博士に歌3首のせてよろしときく。米田(姉)生来り、授業料未納なれど証明書くれと。みな我をきらふと。 すみて和田、島田2生と帰り『悲歌』よます。帰れば〒また来あり、芳野、浅野、森3氏の原稿、杉山平一君の礼状(「悲歌」よみて泣きしと)。 (けふ加藤とみ子夫人より『清水千代氏随筆集』賜ひあり。根本生、柿?一包みおきありし)。浜野治君宛の名簿返送さる。 11月15日 京の授業参観とて悠紀子忙し。9:00会社へゆき城平叔父待ちしに来ず。康平叔父より本代250貰ふ。玉造の職安に電話してくれしも300円位やらねばならぬらし。原氏の話にては手伝ひありと。阿部育嫗の話あとにし出て学校。 山本正英氏より電話ありしと云ふに13:00来てくれと電話し、本間君来りしにきけば「reportの参考書貸せ」と。熊沢君にも紹介し、加藤とみ子女史の電話きき、山本氏と会ふ。明日京の洋裁へ阪本生のぞき見にゆくと。大丸へ電話して写真のことを大丸にたのみ、(小野十三郎氏出席と)、今東光氏まち、出席ときき、白楽天のprintきり、女詩人湊野氏(※港野喜代子)に1冊わたして出る。 榊莫山氏より150。前登志夫君より1冊ほしと。葛原喜好氏より14、15日の「よみうり抄」に出版記念会を紹介せしと。眞野君に送りし『果樹園』返送。 21:00電報、おどろけば石口君より「ケササクヒンオクッタ」‼ 同時に大東博士並びに夫人お越し、葡萄酒4本賜ふ。 (本日、尾谷邦三郎氏より弓子催促の手紙もち来る。あと1週間まてと答ふ)。(梅垣女史と板原生を訊ね、一度父に会ひたしといひおく)。19561115.jpg 11月16日 9:30会社へゆき城平叔父に会ひ、安部育の臨時雇を承認してもらひ、寮の解散いへば「よろしけれど、お前より探りてみよ」と。安部嫗に電話し、4、5日後より来るときき、(前登志夫君に1冊送らす)登校。 泉尾高校の堀内民一君に18日の会のこと電話しおき、院長に図書館のことにてうるさく云はれ、来週運営委員会を開くこととし、講義。 長沖氏、明後日は多分出られずと。午、近鉄自動車部に電話して14:30来よと云ひ、午后の講義す。 村田温『悲歌』買ひ母に見せれば泣きしと。14:40江馬来り、長沖氏と話す中に鍛治君と出て、15:30ナンバ。 伊藤、(※鍛治)富子、椿下の3嬢と会ひ、山荘生おくれしにより地下鉄にて淀屋橋。新大阪ホテルにつけば16:00。(※和島みね子結婚披露宴)式は16:30すぎにはじまり、われ山本治雄の悪口いひて笑はす。寐心地あしからん。 すみて南隈(ナングー)美禰子夫人に別れをつげ、梅田へ出、喫茶し、『悲歌』にsignして別る。 筑摩書房より『ボードレール』。石口君より同人費と写真と『悲歌』の感想。村上菊一郎君、天理へ来る様子。壽岳博士より速達にて欠席と。 阪神東洋史懇談会12月2日(日)13:00より天王寺美術館にてと。 11月17日 8:30出発、野崎家へ寄り、女子大にゆけば寒し。天野忠と話し、服部氏に礼いはれ、overのまま教へ、寒きを口実に出て俵青茅君訪ね1冊。天ぷらうどん食って帰れば福地君すでに来をり、(出版社へ就職すると)、14:00小高根君、15:00池沢君。 16:00編集了りて出、2氏と京橋で別れ、鶴橋にて八木嬢に会ひ、われ喫茶して紫陽花のしらべたのむ。 (※長沖一「なには賞」祝賀会)会場にゆけば藤沢桓夫氏以外ほとんどそろふ。われ小林dr.、朝日永井君、松竹吉田君と同座、みなを笑はし、長沖氏より(※明日欠席の出版記念会の)代読たのむと批評受取り、帰れば23:50。 読売駒井君は後輩にて杉山平一君に批評たのみをりし。(けふ西川より詩集社中にて売れしと。中野清見君より立木を売る為来られずと。山田新之輔よりも同)。 11月18日(日) 9:00起床。飯食ひをれば城平叔父より電話、会ひたしと。すぐ行くと云ひ、売上もち『悲歌』10冊と前著5冊とをもちてゆけば、解寮のこと。今井、原2氏のこといひ、ゆっくり案じて見んと云ふ。 出て天王寺。焼そば食ひ、departで「署名簿」(220)、墨、筆買ひ、地下鉄にて淀屋橋。靴裏直させれば600とらる。 公会堂へゆけば芳野、福地、山根の3君すでに来をり、岩崎、服部、鍛治、元市迪夫、堀内、小高根、山中、井上、天野、斎田、小寺、竹内、山前、木村、大東夫妻、小野、庄野(学院より祝にと2,000)、たかはし、荒木、桂、金戸、千川夫人、川端周三?、今、臼井史朗?、小川、杉山、横田、清水、田中、杉本、村上、羽田、柳井、武居と39名となり満員。(※「署名簿」リンク) アイウエオ順に批評、われ一々これに答へ、写真とりて羽田よりはじむ。 中坐、2生とつれて梅田新道でまつ中、小高根、岩崎、服部の服部の3氏来り、ギョーザ食ひにゆき、あとにのこりし山根、福地2君に電話すれば既に出しと。清水生ら見にゆかせしもだめ。 小高根君、1,000置きて立ち、われ勘定すれば1,800。大阪駅にて別れ、岩崎、服部2君と喫茶。岩崎君、家の土産呉る。 帰れば20分前に福地君来りしと。悠紀子わが売上もちゆきしを知らず、飯くへざりしと。不快。 金のほかおそるることなき冬の妻。 けふ聞けば大江、片目の犬を叩き殺して河に捨て、3日後あらはれしをまた殺せしと。無慚至極、許しがたし。(前川夫妻、東京より祝電。元市whisky賜ひ。岩崎port-wine賜ひしと)。榎本須美子より、疋田旧姓のままかと、失念して書かざりしらし。 11月19日 10:00すぎ福地君来り、昨日の2次会のこと云ひしに、その気なかりしと。収支決算はあとまはしとし、斎田君の同人費と昌三叔父の30円と入れる。(きのふ写真屋1時間待たせしと)。 大東先生へと佐々木君の絵もって行ってもらひ、whiskyの残り贈る。山本氏に電話せしに他出と。 12:00出て京阪にて京都。京大へ直行すれば羽田、佐伯助教授と学術会議に全国区に出る宮崎氏の運動中と。佐伯氏より『清代塩政の研究』賜ふ。 里井君に抜刷贈り、新学社に電話し、高鳥君にのちほどゆくと云ひ、杜臻のmicro-film撮影見積りを里井君にたのみ、野田君(※野田又夫)訪ねしも不在。 田村博士の研究室に引返し、60周年展観の本の相談にのり、出て喫茶。転任(※転任希望?)云へば関大にきいて見んと(守屋君、阪大教授にきまりしと。布目君助教授か、西京大学もあくと)。 出て新学社。柳井君をり、高鳥君吉野書房と。電話かけて呼び、池内先生の本のこと待ち、篠原君(吉野書房営業部長)と高鳥君の話にて、きれいなのだけ羽田邸へ転送ときまる。あとの契約は明らかにせず。 長尾良呼び出して檀一雄のこときけば女優と来をりと。居所あかせしこととなりし。這々の態にて出て(高鳥、柳井に『悲歌』1冊づつ、高鳥より200柳井より100預かる)、羽田と別る。菓子と『アジア史北方篇』もらひし。 busにて京都駅、折から動きかけし電車にのれば草津行、叩いて止めさし脱帽してあやまりし。 帰れば岩田生、礼にと毛糸くれしと。藤田福夫君、家を建てしと。けふ行きがけ桂信子訪へば、林叔父来をり、喜びゐしと。『さくらんぼ』2冊呉る。わがおしゃべり別に害せざりしらし。(高田展、一昨日退社退寮せしと)。 11月20日 8:30登校。鍛治君をり。きけばつり銭なく50円入れおきしと。歴史の時間『女大学』を写させ、2時間目専攻科にゆきてきけば、国文学史の時間みなふるへゐしと。 すみて木曜の長沖、小野2氏の時間の聴講生2人に休講の通知し、3時間目こはがらさぬ方法考へよといひて、やめる。板原生の父、23日空きゐると。喧嘩になるやもしれずと。場所、家にしたまへと云ひてやる。 渡辺生履歴書もち来る。井上京子、森田2生『悲歌』買ひに来、京子『果樹園』2冊とり30円おきゆく(米沢生の分と)。 けふ来し時、机上におきありし包あけ見れば阪本生の写真。意外におどろき、怒り、午すぎゆくことときめ、元市専務と製本あしきを云ひて30冊あまり持ち帰らしむ。ただし請求書は30,000と引きくれありし。 学院にゆき、庄野英二君に会ひ、祝儀の礼誰にいふべきやときけば、森、中村門左の2氏と。 Toan penya Bahasa banya bagus, tetapi saya penya banya ~ manisと云ひて去り、山本正英氏の名刺さがせしもなく、山中タヅ子宅へゆき母上にきけば、知らずと。家に電話すれば悠紀子不在。 折よく帰り来し山中タヅ子嬢と話し、pocketより出て来しmemoにて明装興業とわかり、電話帖しらべて本町3の39と判明。タヅ子嬢に案内して、ゆき、会へばこの間京都へゆき、洋裁はよかりしも家をのぞき見て、蛇屋なるにおどろき、帰りて祖母に云へばふるへしと。意外にて吃驚。 album見せてもらひ探す。橋渡しだけで仲人はことわるとききてbusにて大国街をへて帰宅。不快。わが自らの愚かなるに愛想つかして。 堀内、保田の礼状。南隈みね子氏の強羅よりのハガキ。金戸先生の漢詩(この朝、天王寺にて岡田剛先生に遇ひし)など見、まちゐれば赤星来り、3万円ほど借りてapartにゆくはよしと。 悠紀子に電話せしむれば安部嫗、明日より来ると。(けふ上町線にて同車の住高生―音楽と絵画やると―に、「硲君へ返却を」と、『寮歌集』托す)。 11月21日 10:30までに和田先生に「20,000以上の勤めさがして下され」と。阪本昌代に先方祖母宗教上にて反対すと書き、元市印刷へゆけば11:30。11,000わたし一応すみしこととし、(※『果樹園』1-10号)30数冊を製本 し直さんと云ひ、rice-curryよばれて出る。 大丸写真部の小山氏に電話してわび云ひ、(※出版記念会の写真)1人60円にて送料つきと。送り先と2,400と事務室に預けよと。明装興業に電話すれば山本氏、「17:00まで会社にゐる」と云ふに「albumもちゆく」と約束す。 登校して山口玲子の父上の葬儀にゆくと云ふ西宮君に名刺托し、図書館運営協議会。高岡、須原、沢井の3氏と事務費の凍結をとくこと、その他きめしところへ院長来り長々と話す。すみて明装へゆかんとせしも鍛治君かへらず。そのあとゆきしに道に迷ひ、ゆけば17:30。山本氏もともと帰らざりしと。(※見合相手の?)album預け、返す時の心得いひ、電車にて帰校。 (けふ硲君来り『寮歌集』受取りしと。大東夫人と同車。帰り、よりて話され、dr.も喜んでをられしと)。 図書館工事にてさはがしく、国文学史(※print)切り(今週よりわれよむこととし、出席もとらずと云ふ。早川生にきけば今沢君忘れしか、日をとりちがへし模様)、事務室にて話しゐれば「先生帰りませう」と誘ひしは島田生。かあいく、出て鶴橋までさそひ、和田生とに茶のませ、われbeer。 帰れば木村三千子氏より『果樹園』に井上源一郎氏入りたしと。山中タヅ子君より入れちがひに(※出版記念会)たのしかりしと。浅野満氏より現住所と現職の通知。安部嫗、夕方より来しと。浦本浜子会ひたしと云ひしと。退職申出か。 11月22日 浦本呼びて事情きけば、安部嫗180円の日当と云ひしと。それんら考へありと。安部嫗呼びて付添のこときけば、400円にて100円食費その他1,500ほど引かれると。明日会社にきくを待てと云ひ、出て上町線にて渡辺生と同車、時間ちゃうどなりし。 古典講読われよみ、すみてEichendorffの“das zerbrochene Ringlein (※こわれた指輪)”教へ、午飯くひて泉尾高校に電話すれば堀内君出、金戸先生『悲歌』受取られし様子と。しらべてくれと云ひ、小野十三郎(近々豊橋戸ゆくと。丸山薫氏に1冊托す)、長沖一氏と話すところへ今東光氏来られ、すみて(専攻科生、太宰先生(※“太宰先生”?)の悪口云ひしと)、芝生にゆき和田生と話し、気がつけば時間なく、あはててprint切りしも中途、高校連絡会はじまり、西宮君来ず。楳垣氏病欠。beerのみ、17:00すぎよりprintつづけ、18:00退出。 家へ帰れば福地君をり、記念館の時の学園の2,000を入れて1,350『果樹園』に寄附す。浪大に父上たずねたまひしもだめと。 けふ〒なし。(「かもめ」にまた(※『悲歌』)4冊わたし、150×14×0.8=1,680受取り『太宰治読本』買って帰る。) 悠紀子、けふ上二病院へゆけば城所博士の出院は土曜にて会へざりしと。 11月23日(祭) 家にゐて色々考へ(※上京計画の事か)午后となる。清水文子よりハガキ。石口君より5部送れと。 15:30会社へゆけば城平叔父上京、明日帰阪と。伊津井嫗の云ひし手伝ことはらせしばかりと。伊津井にゆきて再びたのんでくれと云ふ。 折から来しbusにのり、天満橋『玉台新詠集 下』買ひ、『東洋のあゆみ(110)』買ひ、またbusにて帰る。 11月24日 頼永承氏へ『東洋のあゆみ』包み、8:00出て9:30奈良着。野崎家のぞけば父君「まだ出産せず」と。台湾への小包料25。女子大へゆき天野忠に礼いひ、竹内、小川2氏に名刺托し、横田教授には会ひ、12:00までやりて午食(登校まへ高校へゆき塩見主事に新学社のこと云ひしに内職禁止と)。 出て前川家を訪ふ。緑夫人まだ帰らず、きのふ帰阪の西垣脩氏と同車と。われの東京行賛成、東洋大学、日本大学につき齋藤晌氏に(※転任の斡旋)たのめと。12月1日までに7.5枚をと、春夫論を書かんと云ふ。 帰途、西垣君に電話すれば他出と。帰宅すれば(※西垣氏より)電話かかりしと。すぐ電話してあす10:00短大にて会ふこととなる。 松山市明屋支店よりの注文(福文堂)ありしのみ。(けふ1,100借り、10回分納として定期券買ふ(100)。(※値)上りて1,040となりし)。柳井君よりの電話は10:30にかかりしと。 11月25日(日) 9:00出てまっすぐ学校へゆき西垣氏に会ふ。同人費3,000預かる。わが東京転任賛成と。父上の銀婚式とて去りしあと津熊、山城、伊井と1回生3名、長沖氏と話し、藤原生、山中タヅ子らほとんど話せず。 われも(※同窓会)会場へ出ず、変なりしも記念撮影のあと昼食に小講堂へゆけば1回3名、2回(立川、安村、山荘、鍛治姉妹、和島、山中、中田光子)8名、3回(藤原、島本、中川禎子)3名、4回(明渡、市村、小林、細野、力身)5名、5回(生田、浦畑、角倉、武居、多和、浜谷、原田早苗、古田、二見、??)11名と、きはめて少数。西宮君けふ風邪と。 2回生先発せしめ、5回生と“Printemps”へゆけば鍛治、中田、山荘のみ。すみて「マンチャン」へ生田、武居らとゆきて帰る。 大東夫人より『詩集西康省』中途までよみしと。われも風邪。19:30福地君来り、23:00初校了る。 11月26日 9:00出て会社へゆきしに城平叔父すでに他出。伊津井女の口はことはりしと。工員某君に会ひ、明日か明後日に1名来さすと。 出て森ノ宮より市電にて常磐町の福文堂にゆけば、小売120なら問屋はそれ以下とのことに100現金でもらひ、同じ町内の立川ペンへゆき太田治男氏(陽子夫君)に会ひ、北野病院重松博士に名刺かき、渡辺生の就職考慮をたのみ、唐物町の俣野博夫に会ひ『悲歌』1冊売り、千川君に会ひ90受取り、大保商店へゆき兄君に会ひ、12月4日(火)に講演たのむ。梅田惠以子君妊娠と。 市電にて四ツ橋、大阪屋へ1冊わたし金はあとと(100円)。消防局に寄り筒井に会ふ。そのあとまた市電。荒木利夫にゆけば不在。出て午食。高島屋の休日なるに気付き、元市印刷へゆき再校みる。 風邪またひどくなる。就職試験すまし来し福地君に17:00。3校まかせて寺田町。『大塩平八郎(120)』買ひ、駅にて宮川満に会ふ。ふし ぎ。 帰れば大塚雪郎君「石油会社の夜警にかはりし」と。柳井君より11:00電話ありしと。 けふ三浦貢氏に電話すれば「弟の所しらず」、村山高氏に電話すれば「兄君の住所しらず」。 11月27日 9:00まへ鍛治君に電話し、休講をいふ。安部嫗休暇とりしと。午后〒小林三佐子(奈良女子大)より『悲歌』よんで泣き笑ひした、1冊くれと2,000。 大阪屋よりまた1冊註文。久保和友氏より近江詩人会で見た、1冊くれと。阪本惣太郎氏より「今後もよろしくたのむ」と。金戸先生より「1冊よんでゐる」と。島尾敏雄より『果樹園』宛「名瀬にあり」と。 けふ浅野晃氏へ「齋藤先生(※齋藤晌)に云ひて東洋大学または日本大学へ(※転任斡旋の件)たのむ」と手紙かき、小林生へ1冊送る。夜、住山生より電話「あす15:30より体育館で試合」と。 11月28日 原君より11:00電話「炊事婦見つからず」と。大阪屋よりまた1冊註文。高知市小野義三氏より1冊(150)。名古屋の山科雄護氏より1冊(200)。 午后出て玉造より大阪屋。2冊わたし3冊分300受取り、十合へゆきしに児玉君、東京出張と。斎田君不在。心斎橋筋歩き荒木利夫君にゆきしに「この間は愉快なりし」と。 高島屋にてwhite-shirtあつらへ(8日出来と)、府立体育館へゆけば丁度時間よし。十時、久保田の2卒業生来をり、院長、守本氏来会せり。成蹊女子短大に20-43で勝つ。 地下鉄にて天王寺をへて登校すれば、鍛治君帰宅。basket場で会ひし山口玲子来り、十合への推薦状かかす。丁度斎田君より電話、大山定一氏と折しも話しをりしと。山口生の父は宣伝部長たりしと。帰りしあと清水生来り、講義追へしあと瀧本生来り、天王寺へ出てport-wineのむ。 けふ会社のsalary出、浦本浜子に5,995出しと。 11月29日 小野、山科2氏へ『悲歌』送り、鶴橋より府立体育館。basket試合はじまり(対光華女子短大)3-2となりしところにて登校(中島悦子見に来る)。 古典講読やり、歌教ふ。宇都宮生来り『悲歌』買ふ。尾崎菊子「かもめ」で買ひしとてsignさす。夜学今年卒業の大野賀世子より電話「今里に住む老人の名教へよ」と。わからず。basket負けしらしく、出て斎場前へゆき田中屋といふに池内家の墓のこときけば「硝子張りにし屋根つけよ」と。 busにて上六。天地書房にゆき春夫『むささびの冊子(80)』買ひ、江馬訪ぬれば出張と。 歩きて大福寺へゆき池内大学夫人の墓見る。なるほど剥げをり、住職夫人にきけば無愛想。石富といふを教へられ、外出の石工に(※羽田明氏依頼の)見積たのみ、筋向ひの出版屋に勤めゐる武居生呼び出し、茶のませ、別れて鶴橋まで歩き、奥むめを『婦人問題十六講(80)』買ひて帰宅。 八木嬢より松井信子妹に売りしと200。土井一正氏より礼状。小高根二郎氏より1日の会16:00にしてくれと。阪倉康男氏より360を『果樹園』の費用にと。 夜、福地君より電話「切手買ってくれ」と。 11月30日 9:30家を出る(弓子に尾谷先生あて嫁さがしはだめとの書状もたす)。森ノ宮下車、玉造の職業安定出張所にゆきしに、日傭のみにて(※炊事婦希望の)該当者なしと。玉造まで歩き、coffeeのみて登校。 長沖、西宮2氏と会ふ。漢文すませ、石富よりの電話きき、glass張りよからんと云ひしゆゑ見積りせよと云ふ。井上京子、森田智子と『悲歌』もち来りsignさす。 午后すみて帰途、小森生とらへ、この間置きゆきし150の代りに『悲歌』1冊とらす。鶴橋にて下車。城東安定所にゆきて話せば気のない返事す。松本元取締役の夫人来りて働きたき様子なりしと。夕方また来るとのことに待ちしに赤星来り、伊津井女より「とるな」の伝言ありしと。 福地君来り、発送の仕事す。けふ米沢生の手紙、井上京子預り来り、誌代200入れありし。出版記念会の写真来る(※リンクあり)。小林三佐子生より受取る。 山根一郎君より野球部名簿の礼。松本陽子夫人より漸くおちつきしと。石口敏郎君より『淡交』編輯所東京支社に就職ほぼ決定と。大島利一教授より抜刷の礼と抜刷2部。 (福地君、体格にて出版社はねられ、高松市立高校へゆかんと。止める)。(けふ高松生に托して藤沢桓夫氏に『悲歌』もちゆきもらふ)。 12月1日 けふより10:50始となりし奈良へゆっくりと行く。高校へ塩見君へと「清初の奴隷」の抜刷もちゆき、天野忠、横田、竹内、小川と諸氏に『果樹園』くばり、講義時間きちきちまでやり、すみて弁当なく小清水教授の研究室にゆき、coffeeのましてもらふ。紫陽花はアジサヰではなしと牧野博士の説。 出てうどん食ひ、前川家にゆき緑夫人、すず子嬢と話し、紅茶のましてもらひ、出て野崎家へゆけば、その君まだ分娩せず。Cocoaのまされ駅にて14:30。石橋(※小高根邸)へゆけば丁度16:00。 福地君の高松行は小高根君もとめし。山根君来り、別に話なかりしも19:30までport-wineのみて帰宅。〒珍しくも、無し。 12月2日(日) 12:00家を出れば守屋君と同車‼ 13:00かっきり(※ママ)に美術館につき、中山八郎氏の来てゐるに抜刷わたす。 桑田(※桑田六郎)、鴛淵(※鴛淵一)、内田吟風博士以下20人で天野元之助博士の話きき夕食、つまらず。 アベノ橋で別れて帰宅すれば、浅野氏より「8日齋藤晌氏に会って(※転任斡旋依頼の件) 話す」と。 12月3日 9:00出て会社、城平叔父に会ひてきけば、安部嫗250の日給でよしと。浦本浜子は155にあげ、その代りbonus10,000やりてよ しと。 出て放出大橋まで歩き富士伸銅にゆき、池田栄一重役呼び出す。20年ぶりにて殆どかはらず。Cogitoのことおぼえゐしに嬉しくて『果樹 園』おきて出る。 鶴見町4丁目まで歩いてbus。読売にゆけば池沢、駒井2君ともに未出勤。駒井君に野球部名簿おき、隣の市大理工学部にゆき笹川くみ子を訊ぬ れば折しも通りかかる。ともに歩きて北野病院へゆき、太田治男氏見舞ひ、眼科に重松博士を訪ひし、歩きて梅田。 第一生命buil.へ久しぶりにてゆき、三菱商事の吉森君訪ぬ。暖かく氷宇治おごってもらひ、夫人の悪口きく。 出て高尾書店。『台湾蕃政史(1,200)』借り、中川与之助『女性宣言(20)』『白氏文集(100)』買って毎日(※毎日新聞社)。天野愛一君呼びて、詩をやめ東京へゆくと云ふ。 新関西(※新関西新聞社)の東川君訪ぬれば隣の喫茶店にをると。ゆけば石上玄一郎と同席。石上君は成蹊女子大に去年よりゐると。弘前高校にて太宰と同期。小高根二郎君の一年上級と。 出て和島事務所へゆけば出廷。風呂敷の礼伝言し、うどんを昼食とし、立原『鮎の歌(20)』買ひて金なくなり、市電にて石富にゆけば3,800にて硝子張り出来るとの見積書送ったと。 出て上六。江馬春夫を訪ね『悲歌』1冊買はせ、紅茶おごられし(折柄来合せしは杉野知博とて日動火災海上次長)。出て鶴橋をへて帰宅。 安部、浦本に申渡す。村上菊一郎君より石口君の就職につき臼井喜之助へよろしくと。石富より見積書。 12月4日 9:00登校。9:30西保泰男氏来校。専攻科に豊富なる香料見せて話したまふ。すみて国文学史教へ、3時限すみて帰り来れば鍛治君と話しをり、jasmin1瓶たまひて退出。明後日離婚の調停最後と。 午后、鍛治君と高松生さそひて戎橋。別れて荒木利夫君に寄りしに不在。高尾にゆき『世界歴史大系5(400)』買ひて帰宅。 岩崎昭弥より『果樹園』未着と。(けふ吉森夫人より電話、松本一彦君令嬢の就職につき会ひたしと)。 夜、福地君来り、清算表送付す。けふ羽田君に石富の(※父君墓碑の)見積書送り、村上菊一郎君にハガキ。 12月5日 よべより風吹く。神田、今西、川久保3君に抜刷。藤田亮策先生に同。学校へ電話し教授会欠席を云ひ、16:00出るまでに「春夫先生のこと」15枚『日本歌人』にかき速達し、梅田へ出て万字屋できのふ見し高橋盛孝氏『民俗学』見しに180!やめて「大安」まで歩き『李秀成(60)』買ふ。奈良女子大の独乙語講師長橋女史来あはせをりし。 地下鉄まで戻り登校。18:20。夕食せんとすれば瀧本生来り、けふ官公労のst.と。(教授会はわれと楳垣氏欠席のため中止となりしと)。 国文学史よみて研究室に戻れば、谷川、武居の2人も来をり、天王寺まで伴ひ木村屋でport-wineと紅茶のます。武居は会員となり(100)、谷川は「14日16:30日生ヘ講演に来てくれ」と。昼食ご馳走するゆゑ別の日にも来よと。 けふ岩崎昭弥君より『果樹園』着いたと同人費1,000。(Hugoにて佐伯氏にと『李太白』と『楊貴妃とクレオパトラ』購ひ来る)。 12月6日 佐伯富氏に2冊送る(32)。中道の太閤といふ理髪店にゆく。100円にて頭を洗ふ也。庄野英二、今東光2氏休講。 きのふ山中嬢来しといふに鍛治君に電話せしむれば不在。西保泰男氏に鍛治君をして礼状かかしむ。井上睦子ら4人『悲歌』を買ひ呉る。 帰途、中道より歩きて古本屋見しが何もなし。放出でPierre Louijs『Bilitisの歌(※ピエール ルイスのビリティスの歌)』買ひて帰宅。 深瀬基寛氏よりスペンダーを贈らる(けふ桂信子を訪れ『女流俳人』その他もらひし)。眞野喜惣治君より『悲歌』買ひしと。 12月7日 小雨の中を出て天王寺。市大病院へゆけば田村春雄君まだ来りをらず、出て門前で会ふ。 登校。西宮君また休講、長沖氏は来りしも午后休講と。山中タヅ子君来り、『悲歌』1冊買ひ、『果樹園』代300。待たせて(石井千珠子に1冊)、鍛治君と3人にてナンバ。 「Shantan」といふにゆき茶のみ、「マンチャン」でお好み焼(1月13日にclass会すると)。忘年会にと24日17:00より、山 中、鍛治2嬢、石浜、西宮、長沖3氏と6人の室とれと「丸万」に予約。cake(250)買ひて高野線にてまた帝塚山。山口玲子の家へくやみにゆく。「父上、歴史を好みし」と。「彦根芹橋に住みし」と。『悲歌』1冊おきて辞去。 芳野君より「別便にて写真送る」と。宮本君より「篠田博士に伝言を伝へし」と。大阪屋より2冊もち来れと。太田陽子夫人より礼状。 12月8日 奈良へゆく。日動火災へ寄りしに俵君そっけなく、すぐ出て野崎家。5日15:30男児出生と。女子大stove入らず。天野君のところにて火にあたり、来週にて授業打ち切りと決め、本田先生集中講義とのことに教務にてstoveにあたりつつ昼食。12:40来られしと出て駅前にゆき、藤井明氏(元県衛生部長、柘植にて開業)令嬢と昼食せらると話し、別れて前川家。 夫人病臥、山崎女史の話きく。わが「春夫論」まにあひしと。 帰途西宮家へ寄り(古本屋にて『日本・支那・西洋』『南溟の秘密』『印欧言語学序説』『日本と金銀島』『口承文芸大意』『国史と民俗学』6冊にて480買ふ)、保険申告教へ、24日の忘年会を約し、port-wineのまされて出る。けふ手袋もらふ。 帰れば三場君婚約出来、鯛くれしと。『台湾研究1』来る。今西春秋氏より抜刷の礼。角川の立原全集に貸せし手紙、小山正孝君より返却。 けふ奈良女子大のsalary2,400-288=2,112もらふ。 12月9日(日) 昨夜生駒に初雪と。寒くて終日臥床。鄧嗣禹氏より調査票。奈良市桐山京子氏より『悲歌』申込。堀内民一氏より、よんできかせしに生徒喜びしと。佐伯富氏より2冊受取ったと。羽田より石富に電話して(※夫君墓碑)命じたと。芳野清君より出版記念会の写真、よくとれてゐし(※リンク有り)。 夕方、松本一彦に電話し、明日会社へゆくときめる。小西啓子父君より祝返しに砂糖。 12月10日19561210.jpg 9:00出て会社。賄のbonus申請す(浦本5,000+5,000、安部1,000)。康平叔父去年は2,000、1,000、夏は 3,000、2,500なりしと但し書す、不快。甚幸に依子へ写真機売れといひにゆけば、高井弟君あすもち来ると。 出て放出まで歩き、三和銀行に寄りしに奈良女子大の為替まだ来ずと。玉造へゆき、市電にて大阪屋。200現金でもらひ地下鉄にて日生にゆき、松本君と話し、100『果樹園』代として預り、谷川、吉森、宮口3君そろひしところにて、出て雲呑、松本君おごってくれる(250‼)。 ついで吉森と3人にて喫茶、別れて日本レーヨンに寄りしに、増山君出張と。また地下鉄にて十合。児玉君に会ひにゆけば山口玲子面接中と。すみしと3人にて食堂。内藤順子、斎田君に会ふ。 別れて斎田君に話きけば、板倉君(※板倉鞆音)のHofmannsthal詩集編、大山定一氏より廻り来をり、『果樹園叢書』として出すや否やと。 出て心斎橋筋南下、天牛本店にて『植物記(80)』『閨秀詩集(100)』買ふ。(けふ谷川・宮口2生『悲歌』買ひくれし)。 出て戎橋にて力身生に会ひ、不二家に入れば上野、林2生をり、力身生「2月に大和銀行々員に嫁ぐ」と。 別れて鶴橋をへて帰宅。入浴しゐれば菊地盗難に遭ひしとて巡査呼びしと。出て見にゆけばover-coatとられしと。田中屋より墓石の件につき問合せ。 林富士馬君より原稿と同人費。 福地君来り、会費の清算す。坪井にまだ会へずと。 12月11日 登校。8:30。専攻科来週は打ち切る。山中タヅ子君来り、『文芸通信』の原稿作りしと。志野和子推薦状かかす。漢文の採点やらんとせしも進まず帰宅。 浅野晃氏より齋藤晌氏に(※転任斡旋依頼の件)話せしと。寺本信子生「11月22日結婚して谷姓となりし」と。神田喜一郎博士の還暦記念会1口1,000を1月末までにと。 (けふ田中屋に墓のことはり云ふ)。夕方A室盗難発見、巡査呼ぶ。村上、佐藤、三場、盗まれしはover-coat、背広などの衣類。 (放出三和銀行にて奈良女子大の手当受取る)。永井の女とまりこみゐること判明。 12月12日 曇。小高根君より「石上玄一郎氏に会った。千家元に会ひ石口君のことたのんだ」と。野田又夫氏より「羽田君に話きいた」と。 依子、写真機を高井君より譲ってもらひ来る。17:00出て夜学。 清水、瀧本、田中3君の外、沢田(逓信病院看護婦)生来り、1月医師と結婚と。すぐき1折賜ふ。萩原姓となり京都に住むと。 2年生に研究年報11冊わたし、3生と出て天王寺。木村家にてport-wineのみ、清水生より1瓶もらひて帰宅。片山哲『白楽天』買ふ。 12月13日 松本一彦君に電話し、園長に会ふまでにPTA会長にきいて見てくれと。 9:30出て登校。広瀬夫人に来週休講を通知し、「Santa Lucia」教へ(「大塩平八郎」了る)、鍛治君をして忘年会のこと石浜恒夫君に報さす。(庄野英二君、当日はだめと)。 高野線にゆき小野和子訪ぬれば訪問のこと知らざりしと。Port-wineのまされて出(沢田生のすぐき贈る)、高島屋にゆきwhite-shirtとり、鶴橋をへて帰宅。 平井恵美の父、康吉氏より婿とりしと鰹節賜ふ。昌三叔父より石田氏の女(富田林高校)の入学たのむと。 コルボウ詩話会より16日(日)会合と。石浜先生古稀記念会より1月末までに1口500円と。 夜、福地君来り、坪井に会ひしに(※採用通知のあった)高松へ行けと云ひしと。帰れば父君、東淀川高校に口ありさうと見付けたまひしと。小高根君、成蹊に話して見んと云ひしと。 松本君より電話、有望につき運動されたしと。 12月14日 登校。楳垣教授も久しぶりに来て、吐きしため自動車にて帰宅す。 漢文の答案返せしに寂として声なし。すみて15:00まで待ち、天王寺より地下鉄にて淀屋橋。凸版にて本ひやかし、coffeeのみて日生にゆく。 谷口、宮口、藤原の3生の外20人ほど少女をり、別館4階にて女性論し、すみて支那料理屋にゆき支那そば食べさしてもらひ、宮口と市電にて片町をへて帰宅。 石口君より原稿。けふ学校へ毛利菊枝氏より礼状。天理図書館より『Biblia』の件。夜、服部三樹子氏より速達にて原稿、同人費と手紙。 12月15日 安部嫗帰らず。奈良へゆき野崎家母上にちょっと挨拶して登校。 天野忠君、腎臓炎とて欠勤。横田俊一氏に会ひ、小高根君へと『詩的体験』預かる。小清水教授『はまゆふ考』賜ふ。 (けふ電車で篠田博士に会ひ『悲歌』を嬢ちゃんへと托す)。林女史に昼食代として200托し、出て前川家へゆく途中、古本屋で横田氏、吉村正一郎氏に会ふ。春夫『新秋の記(20)』買ひ、前川家へゆき、風邪なほりし夫人より『悲歌』に「老」の字多しときき、出て近鉄。 鶴橋で支那そば食ひ、梅田へゆき高尾書店へ払ひにゆきしも主人不在。『近松浄瑠璃集 下(100)』と古田生に『Pomerai(120)(※不詳)』買ひて、浪速書林で『口承文芸史考(40)』、大安書房にゆき『諸蕃史考注』『鄭成功』『西域南海史地考証訳叢五編』『南京民間薬草』『敦煌的故事』にて635。 寒風の中を京橋まで市電。森亮((※『悲歌』の)所感無断で(※『果樹園』に)のせしと叱らる)、岩崎、高橋、芳野の諸君より原稿。 夜、石口君より原稿「淡交社にもはや働きゐる」と。 12月16日(日) 西垣君より詩と『悲歌』評と2冊分(300)。11:00ごろまでに「牡丹と紫陽花」130行かく。 依子、きのふより風邪で臥床。13:00来りし福地君、14:00来りし小高根、池沢2君、14:30来りし山根君の接待に悠紀子1人にて当る。 山根君の詩入れて、『悲歌』評、保田のはのらず杉山君のみを採る。 30日15:00小高根邸で忘年会と。福地君、元市印刷へゆきしあと、齋藤晌先生に(※転任斡旋の)願ひ状。昌三叔父には石田氏令嬢大丈夫な らんと書く。 12月17日 西垣脩氏に『悲歌』5冊送る(70)。11:00家を出しに元市印刷へ着けば正12時。(石塚にて柳田『方言と昔(100)』買ふ)。年賀状 で忙しくしをりしも110枚たのむ。一昨日、伝田生来り借金みな済ませしと。 雲呑たべて登校すれば院長呼び、水曜教授会後、図書館運営委員会をすべしと。2年の採点やり、本位田氏と別れ告げて出、鶴橋にて喫茶して帰る。 川久保より母上の喪中と。今西春秋氏より『満洲語のはなし』賜ひしと。竹田正男氏(19文1)より大町市に転居と。 夜、白鳥清先生に(※就職斡旋の)依頼状かく。浅野晃氏、杉山平一氏へ編輯状。落合かずへ氏より蛤。 12月18日 8:40登校。専攻科を切りしゆゑ楽なりし。山口生、十合きまりしと。南生、何かもち来りしも受取らず。 けふ前期一部の採点報告す。西宮君来る。渡辺三七子生に渡辺恵氏へ紹介状かき会ひにゆかせ、佐沢園長に会ひにゆく。幼稚園の近くへ転居されしと。「いま保母4人居りて不要」と。 住高へゆき硲君に会ひ、アテネ文庫『遼の社会と文化』と『鴎外の子供たち』買ひ、よみつつ日生にゆき、松本に報告すれば任すと。 梅田へ歩くみち「リーチ」で『びいだあ・まいやあ(50)』『武将の家訓(70)』『中国農村の家族と信仰(100)』買ひ、帰宅すれば今西 春秋氏より『満洲語のはなし』贈らる。 鍛治嬢よりport-wine3本。山下実美氏より砂糖8斤。田中順二郎氏より砂糖5斤。 12月19日 9:00康平叔父より電話、来よと云ふに出て会社。Bonusもらふ。浦本浜子は10,000のつもりなりしも8,000とせしと城平叔父よ りことわり。安部嫗来しに1,000もたし、悠紀子に駅に来よと電話し、郵便局にゆき白鳥先生に研究年報と抜刷と送り(32)、浦本女に会ひて手渡す。 悠紀子来しに7,000わたして梅田。高尾書店に1,200の借金かへし、ケストナー『人生処方詩集(120)』、土田にて『考古学入門 (80)』と『日常生活に於ける精神病理(120)』と買ひて出、割亨学校に井上源一郎君訪ひ、同人参加ことはり茶おごる。会員となると 150預る。 梅田地下にて昼食。(兒玉花外『社会主義詩集(100)』を浪速書林)。 地下鉄にて天王寺、北畠の幼稚園にゆきしに佐沢園長忙しくて話せず。 登校。斎田君より野田宇太郎氏来阪との連絡ありしと。図書館の書棚につき訊ねられしゆゑ注文つけ、研究室にゆき山中嬢と話す中、伊東花子氏来 り、結核の疑と。『果樹園』の費用と金出さんとせしを止め、ついで来し尾崎菊子の母より菓子もらひ、15:40より教授会。 すみて図書館運営委員会。予算のための資料としての要求も不要となり、中島老の説教ききしのみ。 出て十合。野田氏(※野田宇太郎)来るまに昌三叔父に会ひ『果樹園』にと100預り、安川庶務部長に会ひ文学青年なるを知る。 19:00来し野田氏と4人にてわれはbeerのみ、斎田、野田2氏はjuice、飯食はぬ中20:00となり、天満橋までtaxiにて送ら る。明日淡路へゆくといふ野田氏に正平博士のこと云ひ、別れて帰れば22:00。 13日に出せし浅野氏の詩来をり、岩崎昭弥より『悲歌』代として1,000。『鬼』に武田豊の批評のりをり。 (けふきけば野田氏、成城大学の講師と。栗山氏(※栗山理一)文学部長代理と。話してみよとなり)。 12月20日 寒し。朝、元市印刷に電話せんとせしに故障にて中々かからず。(※『果樹園』に)杉山君の文やめ、浅野氏の詩を入れると也。 上村氏より600。田中順二郎・雅子より送り状、この間浅野建夫を訪ねしと。兼頭生の父より送り状。 午后、岩崎より訂正の詩。やむなく元市印刷へゆけば活字拾ひもしをらず、社長以下、大童なり。 寺田町で炒飯食べて帰宅。けふ悠紀子風邪にて終日臥床。 12月21日 終日臥床。天野忠より病状。依田君の詩集評判よく何とか賞確実と。 父より電話、河野父君火傷して入院と。けふ京「三越」へ学芸会をひとりで見にゆき昼食して来る。梶原、嫁とりに国へ帰ると告げ来る。 12月22日 悠紀子臥床。父に電話すれば河野父君退院せしと。賄2人も風邪。寮に6人ねてゐるとのことに、影山dr.に電話して来診を乞ふ。 杉山平一氏よりハガキの転載承知。伝田生より『足音』の残金15日に払った。依田義賢氏より忙しと(成吉思汗をradioのために書くと)。 港野喜代子氏より『悲歌』礼状。 田中十八氏より[の]送り状見、来訪の声にあはてて蒲団片付ければ、藤井寺の石田氏姉妹。服飾を富田林の妹氏の令嬢受くるとのこと也。「万里春(※日本酒)」2本賜ふ。 14:00出て昼食にrice-curry食ひ、安全剃刀の刃6本(150)買ふ。(田中米店より鰐のbandとblouse賜ふ)。 12月23日(日) 羽田邸へ電話すれば、入れちがひに速達せしと。ゆきてきけば24日お墓出来ると。東京にわが就職なからんと。野田又夫、博士論文を提出せしと。 寒ければより道せずに帰宅す。 神田信夫君より抜刷の受取。田中十八氏より砂糖。北野徳治氏より子供用Handbag。畠山六右衛門氏より千枚漬賜はる、ふしぎ。 (けふ『日本随筆大成1,7,9,10,11(150)』吹田で買ふ)。小野文彦氏より蜜柑1箱を夜、賜はる。 12月24日 羽田君の速達、朝入りをり。10:00会社へゆき浦本浜子10円昇給の伺状出し、城平叔父に賄2人の医療費の承認を得る。ムルチン(※風邪薬)打つがよしと。 学校へ電話し、筒井嬢に1,500を鍛治君(※の給料袋)に入れることたのみ、出て学校へ着きしは丁度11:30。 忘年会13:00になりしとのことに、支那そば食ひなどして時間つぶし、14:00になりて学院図書室にゆく。15:00すませ、元市印刷に 電話してbonus預け、年賀状の校正見てのち戎橋。 丸万に17:00着き、17:30には長沖、石浜恒夫、西宮、鍛治君(※初枝・富子姉妹)とそろひ、山中タヅ子に電話すれば明日と思ひちがひせしと。 20:30出てbar2軒歩き、2嬢と喫茶してtaxiにて鶴橋。賑やかなりしX’mas。taxi運転手の話きけば今夜17,000稼ぐつ もりと。 山本達郎氏より、楊雲萍君[より]預りし抜刷送ったと。浅野晃氏よりおくれたならよしと。大東夫人きのふX'mas cakeとtobaccoともち来たまひしと。東順子・孝子母上も来て、三和のgift-checkと飲物詰合せと賜ひしと。湖東博士よりみかん1箱。渡辺三七子より来るとて電話で問合せ来しと。 12月25日 原田章氏(比富父)より砂糖。青木弥与子より手袋贈らる。楊雲萍君の抜刷2冊来る。 15:00田中米店の女より電話。徳庵駅に来よと云ひ、京橋まで同車す。食物栄養を受験すと。生物の問題どんなか知りたしと。排球の選手と。 近鉄departで墨買ひ(100)元市印刷。年賀状出来をり(150)、17:00、3校にて責了となる。 福地君と中村組版氏と寺田町に出て夕食(330)。西岡虎之助『日本女性史考(290)』買ひて帰宅。 きのふ預けし54,000悠紀子にわたす。伊東花子氏、大東先生の診断受け、今後一月一回づつ来ると福地君の話。 12月26日 福地君来り、同人費わたし、昌三叔父(100)、井上源一郎(150)の会費わたし、すっから寒となる。みかん賜ひ、奨学金の保証人となる。 年賀状65枚書く (田中順二郎、柏井(※妻実家)、西島建(※弟)、矢野兼三、保田槌三郎(與重郎父君)、八木嬢、山本治雄、和田先生(※和田清)、梅本(※梅本吉之助)、竹内正夫、筒井護郎、田村春雄、昌三(※叔父)、康平(※叔父)、城平(※叔父)、田中三郎、千川義雄、杉浦源次、鈴木俊、関口八太郎、白井三郎、篠田統、塩見薫、白鳥先生、池田四郎作、池田直也、佐々木邦彦、小川和、大東夫妻、岡田剛、大江(※叔母)、西角先生、野上弘、西川英夫、西垣脩、丹羽千年、元市印刷、前川佐美雄、中野清見、中河与一先生、江馬春夫、青木陽生、浅野晃、荒木利夫、羽田明、硲晃、服部英次郎、林富士馬、畠山六右栄門、本田先生(※本田喜代治)、石浜先生(※石浜純太郎)、岩井先生(※岩井大慧)、井上多喜三郎、壽岳文章、川久保悌郎、神田先生(※神田喜一郎)、桑田博士(※桑田六郎)、河村dr.(※河村純一)、工藤先生、小山正孝、湖東栄次郎、北野徳治、小清水教授、小高根二郎、河野岑夫)。 靴下と菓子もち来し渡辺三七子と話しゐれば、羽田より電話。髭剃りうどん食ひて渡辺生と玉造で別れ、上本町2丁目をへて大福寺へゆけば、羽田まだ来ず。 15:00来しに、花供えへ写真とり「石富」への払ひに立会ひてのち、taxiにて戎橋。出雲屋にゆき、うなぎ食はせ酒のみ、齋藤晌氏の2.5~2.6万にてとの便、相談すれば「さあね」と。梅田へゆき「calm」にて茶のまされて別る。 けふ悠紀子、今川へ歳暮もちゆきしと。マミ子海苔くれしと。 岩崎昭弥より同人費1,000、会費200の外、『悲歌』2冊代として300送り来り「これにて終り」と。くそ喰らへ也。 12月27日 林満寿氏より肉。浅野晃氏より「正月、齋藤晌氏に会ふ」と。平凡社より「朱一貴」の原稿7日までよしと。 午后、西宮君来り、わが転任の意思告げしもとめず。Port-wine2本呉る。史に転任云へば6,000送ってくれと。 12月28日 松本善海君より抜刷。村上新太郎氏より歳暮賜ひしと。 13:00すぎ福地君来り、『果樹園』12号の発送。 母来り、父17:00すぎ来るとのことに待たす。硲君来り歳暮賜ふ。 福地君の自転車にのせてもらひ、大東先生に酒1本もちゆけば、御夫妻ともに留守。またのせてもらひ帰宅。 父母に転任云へば母、不賛成。 大塚覚君、夜来て歳暮賜ふ。 西洞院夫人より200、『悲歌』代に150とり『果樹園』2冊送る。 会社よりsalary、浦本浜子に155になりしこと申渡せしも無表情。(岩崎江嫗よりcastilla貰ふ)。夜、兼頭生より砂糖。 12月29日19561228.jpg 福地君また来り、巫女にききしに、わが東上全然よきことなしと。折しも栗山理一氏より便りあり、「いまのところ専任のあきなし」と。 福地君に謝して帰らしめしあとひるね。午后また〒来り、松本一秀夫人より郭子嬢の履歴書2枚。 夕方、岩田生、漬物もち来り、増田久美子生の就職斡旋たのむと。福助足袋にでもたのめと云ふ。『楊貴妃とクレオパトラ』探して父君にわた せしと。 12月30日(日) 羽田君より速達。すでに撮影し1p、13円と。鍛治嬢よりChristmas Eveの礼状。富士ハウス自治会より蜜柑1箱。村上新太郎氏より砂糖。依子をつれ悠紀子の買物に出しあと、餅食ひて出、万字屋にて『Elements of English law(150)』『East Indies(200)』買ひ、『文芸春秋漫画読本14』買ひて、小高根邸に15:30着けば池沢、山根、福地の3君すでに来あり。同家にも風邪ひと通りすみしと。夕食たまふ。みな東京転任に反対。(けふ履歴書かき了へ業績かかず)。 19:30帰宅。赤星、帰郷せしと。丹前、pomade、航空郵便を悠紀子買ひ来る。 12月31日 台湾の頼永承氏に13×390=5,070送れとの速達かき、著書論文目録かき了へ、齋藤晌氏に速達。 原田早苗より魚の味噌漬。井上恵子より菓子賜ふ。山口玲子より十合に採用決定と。加藤順子(英1)より「basket部の練習終りし」と。小林千余子より「論文かき了へし」と。井上恵子より送り状。 寮生、餅搗く。午后百済璋子君より砂糖。坂根千鶴子女史より忌中と。夕食にそば食はさる、珍し。関口八太郎君に転任の挨拶。 田中克己日記 1957 【昭和32年】    戦後、堀辰雄の『四季』が失はれた後の田中克己の詩作活動は、同窓との関係も国威との絡みもない、つまり『コギト』や『日本浪曼派』とは離れ、地元関西であたらしく識りあった詩人達とともにあり、彼らと交流することで思想にとらはれない詩的境遇を復活させてゐたもののやうに思ひます。  京都・滋賀において詩誌『コルボウ』『詩人学校(近江詩人会)』『骨』を興し、『コギト』の盟友だった保田與重郎と距離を置きはじめ、抒情詩批判のボスだった小野十三郎とも職場同僚として折合ひをつけながら、戦争協力者に対する排斥キャンペーンはなかった地方詩壇の一隅に翼を休め得て十年、抒情詩人の地位を墨守してきたと云へるでしょう。関西ならではと呼んでよいのか、アプレゲールが集結する政治色に敏感な首都圏内では求むべくもなかった人間関係だったに違ひありません。  総じて志を得なかった十年ですが、田中克己としては、戦争詩人と呼ばれっぱなしで終ることに、作品を以て応へるしかない気持ちがあったのではないでしょうか。総括の意味で出された詩集『悲歌』といふタイトルには、表題に呼応する作品「哀歌」のみならず色々な理由を感じさせてくれます。  井上多喜三郎や天野忠をはじめとする人生をみつめる詩人達との蜜月は、さうして戦後関西詩壇の土台作りを終へたところで田中克己の側から一方的に放棄されたのですが、離脱の背景には、気の置けない寄合ひの仲間とは別に、堀辰雄や伊東静雄の亡きあと、心にわだかまってゐた戦前『四季』『コギト』の抒情精神の灯をふたたび掲げ、守り継いでゆきたいとの思ひがあり、それを形に表した『果樹園』の創刊がありました。詩とは別にこれまでの体験を文章にして綴る場所が『祖国』の廃刊により無くなってしまった今、時事警醒へとのめりこんでゆく保田與重郎とは別のホームグランドが欲しかったといふ事情もあったでしょう。  しかしその主幹者たる地位をも放棄し、たった一年で詩筆を折るとさへ宣言するに至ったのはなぜでしょうか。これまでの同人誌の旗揚げに際しても、毎に中心で関はりながらいづれも雑誌が軌道に乗りしばらくすると、突然住居ごと移って抜けてしまふ。また雑誌の中でも一寸したきっかけが原因で連載を中断してしまふ、そんなことが普通だった人でした。このたびは昭和31年の年末、詩集『悲歌』出版記念会の席で宣言した絶筆宣言の数日前に催された、東大東洋史学科の同窓会にて期するところがあったやうです。  昭和25年、大阪大学への就職に失敗し、併せて名古屋大学のポストも棒に振り、彦根に流寓した際にしたたか思ひ知らされたことでしたが、その後も京都大学の学閥で固められた関係者の周りをどれだけめぐらうとも、自分に与へられる席がこのさき無いであらうこと。親友羽田明が何かとフォローしてくれるとはいへ、また、だからこそいつまでもさうした状態で京大に出入して関係者と交流を続けることにも抵抗があったのではなかったか。  そして近畿圏では地元新聞からも度々寄稿を求められる「詩人」として認められるやうになったものの、それが却って災ひし、学界の恩師たちにはいつまでも「学者」として一本立ちしない、二足の草鞋を履いた不徹底な態度や原因として映ってゐるらしいこと。これは終生の僻みとして田中克己のプライドに糊着し苛んでゆくことになりますが、帝塚山短大の専任教授となって同僚にも恵まれ、やうやく家族を食べさせてゆける経済状態にもなったのに、このとき遂に、自分の本分はあくまでも学者であり、中央で身を立てなければとの、居ても立ってもゐられぬ焦燥感が爆発したのではなかったでしょうか。  もとより東京が大好きだったといふこともあります。そして詩壇史的にながめても、田中克己の関西詩壇からの退場は、次世代の戦後現代詩詩人の台頭と時を同じくしてゐたのだ、とも云へます。田中克己の抜けた『骨』は代りの気骨的先輩人物として天野忠を迎へ、世代交代しながら面目を新しくし、『果樹園』も編集が小高根二郎に移されることによって、詩誌といふより伊東静雄研究(のちには蓮田善明研究)を長期連載する奇特な雑誌として文学研究者間に知られるやうになります。一方、詩集『悲歌』を刊行して以後の田中克己といへば、こと詩作品に限って云へば、世に問ふべき詩集として再びまとめられるやうな内容の作品は、(晩年に『神聖な約束』が編まれ信仰関係者に配られましたが)、さびしいことですが書かれなくなってゆくのです。  さて日記に見られるやうに、年末より急速に上京するための就職活動を行ひ、浅野晃からもたらされた伝手によって、ともかくも東洋大学の専任教授のポストを得ることに成功した詩人ですが、移籍した大学の講義では夜学(2部)しか持たされず、それも毎クラスの生徒がたった一人とか二人とかいふ有様。何かたいへんな間違ひでもしでかしてしまったのだらうかといふ不安も消えぬうちから、つづいて今度は「動揺大学」とも呼ばれた当時の大学内紛に巻き込まれてしまひます。ことにも田中克己を引っ張ってくれた齋藤晌文学部長がその当事者であってみれば、一宿一飯の恩義もあり黙って居られる訳がありません。学内政治的な行動こそ自重しなくてはならない時期と身分の筈ですが、小室栄一氏や村上正二氏をめぐっては実に危なっかしい立場に立たされたやうです。  すなはち東洋大学への口利きを熱心に行ってくれたといふ小室氏が、悠紀子夫人の同級生の兄であることが分かったものの、やがて失望と蔑視とを感じ、しかし明治大学へ引っ張ってやると云はれ一転して「いい人では」と思ひ直し、土産を持って挨拶へ出向いたものの、その帰りに和田先生から陰口を叩かれてゐたことを知らされたなどいふ条りは、同じく陰でファシスト呼ばはりされて蔑まれてゐた村上正二氏から、講義のコマを譲ってもらったものの、非常勤講師の渡辺道夫氏の心配までせざるを得なくなったといふ事情や、さきの阪大就職をめぐっての桑田六郎博士との関係と同じく、師弟関係に律義で情にほだされ易く、裏心のある人物からも都合いいやうに翻弄されてしまふことが、(生前先生に訊ねたら怒ったに違ひありませんが)間々あったやうに私には観ぜられるのです。  ただこの年にはまだ芳賀檀とは仲違ひはしてゐないやうです。どころか親愛の様相を呈してゐるのは日記にみるとほりで、むしろ文学面では、影山正治や中河与一との交通はあるのに、保田與重郎や、肥下恒夫氏との没交渉が気になって仕方がありません(前年前川佐美雄夫人から聞かされた保田氏の不倫疑惑は、五味康祐が否定してゐます(8月22日)。信奉者による証言ですが、どうなんでしょうか)。  家族の話題にもこと欠きません。長男史(ふびと)氏の学費督促にあって、悠紀子夫人もパートで働くことを決意する始末。只でさへ余裕のない家計が火の車にあった年なので、気の紛れるやうな話題にも乏しいのですが、途中の7月18日 「依子の担任橋本先生に会へば「率直にして判断早きは長所にして、みなりにかまはず、人にゆづることなく、総じていへば可愛くなし」と。我によく似し。」 といふ個所では、ひどいなあ、と思ひつつ可笑しくて、長女の依子さんに御報告かたがた当時の聞取りを行ったことでした。日記を翻刻する際に活かしてゆくつもりですが、なかで知った意外な人脈や親戚関係について不取敢ここでメモしておきます。  詩人の同窓の丹波鴻一郎氏の弟が俳優の丹波哲郎であったことは、青年座の脚本家だった弟の西島大さんも御存知だったでしょうが、親戚で今後の日記にしばしば名が上るやうになる、田中克己の従弟で、太宰治の研究会にも所属してゐた西島寿一氏の孫が、同じく俳優として現在活躍中の斎藤工氏であることまでは、最晩年に聞き及んでをられましたかどうか。とまれ弟の大さんは、このさき詩人が精神的危機を迎へた際に、数々のサポートを差し伸べてくれた家族の恩人だったといふことで、今後も仄聞されるだらう当時の青年座の舞台裏の事どもと共に、チェックしてゆければと思ってゐます。  昭和32年。皆が惜しんで引き留めてくれる関西から思ひ立っての上京――そしてまったく先の見えない運命揺れ定まらぬ状態がうち続いた「東京日記」最初の一年目でした。 昭和32年1月1日~昭和32年3月25日  本冊画像PDF 20.9cm×15.0cm 横掛ノートに横書き 昭和32年1月1日 9:00起床。寮生新年会すと呼びに来りしも出ず。賀状254枚。岩崎節子氏喪中と。夜、依子にalbumはってもらふ。 1月2日 賀状34枚。前川氏より『日本歌人』1月号わが稿少し削ったと。清水文子のgroupより忘年会の寄せ書。夜までかかりて賀状70枚(きのふ35枚)かく。大江(※叔母)、伊勢(※弟の建宅)へゆきしと土産を京にもち来る。 1月3日 賀状124枚。ハガキ100枚を買はす。坂根千鶴子より電話、14:00来りて古事記伝をやめ古事記につきreportかくと。岩田、増田2生来ると電話あり15:30来り、岩田manila葉巻呉る。夕食さしゐて日くれしあと、増田の靴、犬がくはへて出しことわかり、探せば片足だけ見つかる。悠紀子の靴はいてもらふ。けふ『日本歌人』正月号来り、わが「春夫先生のこと」のす。削除の箇所わからず。 1月4日 早朝、悠紀子さがせば、庭の北東隈に靴片足ありしも、かざりとれゐたり。靴やへもちゆけば4日ほどかかると。増田生に電話しことはる。 けふ賀状20枚。他に板倉鞆音氏より『パアゴラ』1号。小山正孝氏より『山の樹』復刊1号。小山君1,500の豪華詩集を出すと。 午后、喜界島の開利枝生より電報賀状。依子の中学の友、檳榔みつ子投身1ケ月後発見されしと新聞に見ゆ。 1月5日 7:30咲耶(※妹)より電話、河野舅君死に、明日葬儀と。父母ゆきをりと。賀状20枚。吉村淑甫氏より『悲歌』と(※『果樹園』)7号以後をと300。 午后出て吉村氏へ『悲歌(〒16)』と『果樹園(〒16)』6冊と送り、京橋、鶴橋とpicnicして帰る。柳井三千比呂より詩送り来る。 1月6日(日) 8:30出て和泉府中に10:00着き、bus30分待って内田。河野宅へゆけば出棺15:00と。待ちて父母ともに役立たぬを見る。 5,000香奠出すを見届けさされ(我は1,000+酒1本)、健の伊勢より来りしと会ふ。帯谷治郎の母と話し、来りしと会ふ。岑夫と従弟なり。鶴亀の蝋燭立てもたされて墓地へゆき、17:41のbusまでに夕食たまふ。健と天王寺まで同車、別れて帰宅。 けふ賀状28枚。東幸子、伊勢市に嫁ぎ五味姓となりしと。 1月7日 赤星帰り来しゆゑ、呼びて寮の解散を話す。うけがふ(※承知の)色あり。生田(中馬)夫人の賀状きのふとりのこされゐし。原野栄二氏より『悲歌』くれと200。小高根君とは会ひゐると。 賀状17枚。午后出る筈なりしも寒くして出られず。「伊東静雄の詩」書いて送る。 夜、福地君来り、12号清算その他おはる。われ12号同人費未納。 1月8日 9:00出て平凡社へ「朱一貴」200字送る(近畿車輌に桂信子氏訪ねしに風邪にて欠勤3日と)。愛和幼稚園へ寄りしに園長講話中。そのまま寺田町へゆき、元市印刷へゆき、21日原稿もち来ること云ひ、2,000の商品券返却。 出て天王寺をへて地下鉄、ナンバ。荒木利夫君訪ねしに未出勤。天ぷらうどん食ひ、渡辺怘君訪ぬれば、渡辺三七子の口、二三さがしゐると。 出て消防局訪ねしに筒井護郎外出。佐渡島金属へゆけば、梅本(※梅本吉之助)外出。十合へゆき、安川部長訪ねしに不在。『果樹園』1冊おき、 児玉君に茶おごってもらふ。梅本にゆけばをり、南生に院長の推薦書つけば確実と。 出て心斎橋筋を南下し、山下陽子生に会ふ。busにて鶴橋。徳庵に帰り、愛和幼稚園へゆけば園長不在。他日を約して帰宅。 白鳥先生(※白鳥清)より実践、昭和、中央の学長に(※転任希望)話しくれたまひゐると。佐々木邦彦君「山科に新居かまへし」と。賀状3枚。 1月9日 寒し。午、父来る。石井習君より200。『悲歌』1冊ほし。のこりは『果樹園』へと。賀状5枚。上村肇氏より10冊送れと再度申込。 14:00福地君の父君来訪、吹田高校長に訊ねてのち運動たのむかもしれずと。けふ増田久美子に悠紀子電話し「修繕おくれる」とことはりしと。 1月10日 雨、登校。庄野、長沖、小野(※庄野英二、長沖一、小野十三郎)3氏に会ふ。古田房子に80円のつり返す。増田生に会ふ。 学校へ賀状14枚。中に山本夏津子「結婚せし」と。森副院長不在とのことに帰らんとすれば院長、autoにて出、天王寺までのせてくれる。家へ賀状9枚。瀧口喜久子より300(『悲歌』1冊と10号以下をと)。 1月11日 定期券買ひ、雨中をゆき「中道」にて途中下車。散髪す。 登校11:00。「琵琶行」をprintす。小野勇氏来室。鍛治君(※鍛治初江)やはり3月退職したしと。 長沖、西宮2氏(※長沖一、西宮一民)より500づつもらふ。鍛治君(※salary援助)の(+α)の分なり。 学院へ森院長に会ひにゆけば、近鉄社長来をりて話せず、来週と約す。 竹田誠伍君より賀状。奈良女子大より12月分支払おくれると。角川書店より『コギト』そのうち返却すと。 1月12日 8:30出て鶴橋へゆけば9:05。特急は0:02と0:32と。空きしも急行でゆく。野崎家へゆけば、その君明日出席するやもしれずと。女子大にて50分あり、図書館にゆき天野忠に見舞いふ。23日非常勤講師につき教授会と掲示あり。講義12:00すみ、昼食して出る(けふ服部教授(※服部英次郎)と竹内教授と遭ひて変なりし)。 前川家へゆき紅茶贈り、夫人、佐美雄氏と話す(わが原稿十分まにあひしと)。 出て古本屋ひやかし、特急にのりたく三条通りまでゆきし途中、横田利平氏に遭ふ。特急、西大寺にとまるのみにて30分。鶴橋で下車。本屋、古本屋見て上六までゆき、departで吹田地図買ふ(doubleなりし)。 近鉄にて鶴橋へ引返し、省線にのれば小川和女史のり来り、京橋で誘ひて喫茶、その1時間講師料220と。別れて帰宅。 羽田君より写真代5,070×2=10,140と‼ わが後任に京大出を推せと。 池内一氏より礼状。伊藤徳姉より賀状(けふ帰途、桂信子氏を訪ふ。昨日より出勤と)。井上多喜三郎氏より「博士論文書け」と。山根忠雄氏より「史を洛陽高校へ来させよ」と。 1月13日(日) 朝、電話かかり10:00田中米屋の夫妻、長谷の田中氏母子つれ来る。同じく大手前にて食物栄養志望と。増田久美子より電話かかりし故、 14:30、Dotonへ来よといひ、13:00出て戎橋。 14:30には3教師と榎本、鍛治姉妹、峯、太田、椿下、谷、生田、枡田、平山、南村、本多、柏崎、橋本、山荘、山中、山尾、吉原、南隈、渡辺、森田と21人集まる(うち夫人10人、子供づれで来しが生田、森田2夫人)。その中、藤田氏子供つれて来り夫人2月出産のこと伝ふ。恰も八尾に帰り来しと也。 16:00まで我beerの小gocky2本あけ、出て「御門」まで南隈、山尾、山荘、橋本、柏崎、本多、南村、椿下、太田、鍛治姉妹をつれゆき、山本治雄に電話してゆくと云ふ。山本謡曲をきかせたがりしもbeerのみ、子らのかはりしを見て辞去(増田生よりもらひしCastilla1折をおき、『悲歌』1冊買はす)。 通りにて小川講師に遭ひしはふしぎ。八木嬢より手紙、200を同封す。井上多喜三郎氏より19日(土)13:00佐々木邸にて宴会と。 池沢、岩崎より原稿。藤野一雄よりハガキ。平凡社より原稿受取。けふ巡査来て「(※先月寮内で起きた)盗難は内部ではなきか」と。 1月14日 台湾の頼永承氏に10,140なりと航空便。山根、森2同人より原稿。森氏の題を12号にては誤記しをりと‼ 米沢昌江生より2月2日(土)17:00~20:00千日前でクラス会開くと。小島スヱ嫗より、その中に来ると。 1月15日(成人の日) 朝、服部三樹子氏京都より電話。原稿いまより送ると。風吹き福地君来ず。港野喜代子氏の賀状、不足2円。山中タヅ子生よりクラス会の礼状。小山正孝君より速達にて小説12枚。日本歌人の会、浪速荘にてあるもゆかず。 1月16日 福地君10:00ごろ来り「卒業論文にて忙しかりし」と。12:30芳野、浅野2氏の原稿来り、page不足となる(われ「葡萄」13枚かき了る)。 登校。森副院長に会ひにゆきしも他出。山本氏より電話といふに、きけば正英氏にてalbum返すと也。けふ明日もらひにゆくと答ふ。教授会にてまたも東孝子の編入議題に上り、卒業よろしとなる。図書室移転を今月末にせんといひ、すみて鍛治君に西保泰男氏のこといひ、生物の試験問題見、19:00まで熊沢君と院長の悪口いふ。わがままと忘却癖と無責任となり。中野トシ子文学やるといふ少女つれ来しも話さず。 授業了れば瀧本君来をり、ともに出て上町線。天王寺にてみなと別れて帰る。 けふ『日本歌人』で見しとて隠岐國彦氏より『悲歌』1冊注文あり。佐々木邸の建築祝に欠席と井上多喜三郎君に通知す。賀状抽籤しらべしに4等肥後恵子、5等山本夏津子、佐竹喜代子、秋山昭子、井階房一、山内和子、伊藤桂一、津田賄、伊藤賀祐、金子多美子、中河与一、上田典子、沢田利、田中順二郎の諸氏差出のもの当りゐし。 1月17日 10:00登校(途中、山本八郎夫人と同車)。森氏を訪はんとせしに院長と会議と。庄野、長沖、小野氏と話す。近鉄より電話、長沖氏の礼につき。太田陽子夫人に渡辺生をして電話せしめ、紹介状と『悲歌』もちゆかす。 14:00今東光氏来り、直木賞候補と。森氏あきらめ歩きて明光商事へゆき、album2冊返却を受け、ナンバへのbusにのり今高へゆき筒井君に会へば、3年の転校むつかしきらし。地下鉄にて天王寺へ出て帰宅(けふ長沖氏に100借りし)。 小高根氏より原稿とハガキ。『日本歌人』の新年会にゆかんとして伊東夫人の見舞でおそくなりしと。佐々木画伯のAtlier開きには出ると。 佐々木氏より案内。玉井一郎君より『果樹園』に300。田中保子よびて問題を見す。album開けば手紙入りをり(※見合希望に)数十名を指名す‼ けふ阪本昌代生、学校へ来りしはふしぎ!米沢昌江に2日の会、欠席と通知す。石口敏郎君より電報にて「原稿けふ送った」と。 1月18日 9:30家を出て井上睦子、東、田中智慧子らと上町線同車、珍し。森副院長に会ふまへ院長につかまり、南須美子を佐渡島金属より近鉄departに入れる方よからんと。山本正英氏に電話すれば「11:00来る」と。 森氏に会へば学園にも空きなしと。中島氏来り、図書館のことうだうだ云ふ中、山本氏来り、辻本、沢田、松本秀子に交渉してくれと。われ富永英子をしらべて見よと云ふ。そのあと江馬春夫、長沖氏に礼もち来り、われにも羊羹1箱賜ふ。漢文すませ写真とられ、南にきけば院長紹介状くれざりしと。われ推薦状かき、院長邸へ母親同道にてゆけと云ふ。漢文print切り、熊沢氏と話す中、15:00となり、高等部の懇談会。院長中退のあと「裏口をしめよ」と云はれし。 帰りて渡辺の電話を東孝子にきき、電話すれば(立川)太田陽子夫人親切なりしと。松本一彦に電話して報告し、赤星呼びて20日(日)11:00城平叔父に呼ばれし理由きけば器具のことならんと。 けふ伊藤佐喜雄よりハガキ。『婦人倶楽部』2月号の村上菊一郎君の紹介見しと。(salary出る)。 1月19日 鶴橋にて『婦人倶楽部』2月号買ひ、村上君の詩の紹介欄見しに何もかきてあらず。 9:30の特急に乗り女子大へゆき、横田教授訊ねしに会へず。講義すまし昼食くひ、前川邸訪ねしも応答なければ、出て野崎家へゆく。(林夫人に『婦人倶楽部』の付録贈呈)。 けふ父来り、明日の叔父の話は富士ハウスを野球場とするためと。齋藤先生より2月6日の教授会にかけると。わが名あげしにすでに反対の声ありしと。市村其三郎は策動して理事者教授連にもきらはれゐる故、連絡するなと。早速返事かく。 小山君より「詩集まだ送れず」とハガキ。3,000送金(内300はわが詩集代と)。角川書店の松原純一氏より『コギト』送り返すと。服部三樹子氏より「明日来られず」と。歌稿と同人費。石口敏郎君より同人費と原稿。 1月20日(日) 9:00に起き、10:00に会社へゆき、城平叔父の野球部と話すま、赤星と話し、ついで叔父にきけば寮解散は今季行へずと!ついで赤星と寮器具の不整理について叱られ了る。 成尾氏に電話すれば「16:00~17:00好し」と。帰りて太田陽子夫人の手紙を見、13:00すぎ来し福地君に帖簿つけさし、小高根、山根、池沢の3君と編輯会。 すみて相談すれば東京へゆきてよしと。福地君の高松行もとめず、3君にて編輯ならびに事務やると。池沢、この間、学芸部に杉山平一君の『悲歌』評のらざりしわけききしに、わが同誌(※読売新聞)とらざる故と、慄然。 16:30すみて夕食。5人にて出、われ福地君と元市印刷へゆき、(※『果樹園』1-10号の)合本(100円位と)と13号の印刷たのむ。 25日初校、26日校了と。(表紙2度刷りにて2,000位と)。 あす9:00徳庵駅にて(※福地氏と)待合せ、桜塚高校へ松浦校長に会ひにゆくこととす。 夜、岩崎昭弥君に売上4,000寄附をたのむ。(同君の『悲歌』評は8ポに変更のため割愛となる。) ふしぎなる日なりし。 深更齋藤先生(※齋藤晌)に心境披瀝、(※かつて転職活動に失敗した)名大の例をあげ、再考を乞ふ。(岩崎昭弥に4,000寄附せよと云ふ)。 1月21日 9:00前、家を出、齋藤氏に速達し、徳庵駅で待ちゐし福地君と会ひ、岡町下車。桜塚高校へゆき松浦校長に会ふ。 欠員東淀川、東住吉2校だけ。2年程経験あり1.3万円までの教師を好むと。高松行に反対されず、令息京大法科のtopなりし。福地君呼び入れて紹介し、夜学に欠員あるやもしれずときき、出て古本屋で春山行夫の本買ひ、梅田にて福地君と別れ、昌三叔父に会ひて、食物むつかしと石田氏に伝へることたのみ(斎田君欠勤)、まむし食ひ、金田一春彦『日本語』買ひして市消防局にゆき、昼食に出し筒井まち、会へば住宅協会のapart世話するときき、市電にて信濃橋。 千川に会ひ『悲歌』1冊代預り、大保商店に社長父子に会ひ、惠以子君(※梅田[西保]惠以子)の出産予定2月末ときき、肥後橋まで歩き、市電にて片町。沢田医院にゆき夫人に会へば寛子君昨秋、阪急の野球選手と結婚、明石に住むと。 徳庵にて愛和幼稚園にゆき、成尾園長に会へば、布施の進修園長に電話したまひ、面会すとのことに喜び、樟蔭の齋藤園長令嬢にと電話せしに昭和5年生れとて気の毒なりし。 帰りて松本夫人に電話すれば、看病のため就職やめることとほぼ決定せしと。バカらし。 けふ〒なし。夜、福地君来り、「高松の校長感じよく、ほぼ決定」と。 1月22日 8:50登校。鍛治君来をらず、南海延着の為なりし。4時間すませ、南生に母同道院長訪問をすすめ、渡辺生に推薦状かきてわたし、住山生に富士伸鋼へ紹介せんといひ、井上睦子にきけば19日石切駅で待ち呉れゐしと。守本氏にきけば院長うるさしと。ききすてにして出、赤星生と話しつつ天王寺にゆけば13:25の和歌山行出しあと。Coffeeのみ14:03発の汽車にのれば学生をり、南京豆呉る。 和歌山につき、梅田邸にゆきてきけば、泰男君bechaと云ひしと。離婚の件、目鼻つかずと。すし食はされ、タバコ貰ひて出、市駅にゆき19:00鍛治邸に電話すれば弟君運転の自動車にて初江君迎へに来、母上、富子、父上とも挨拶し、4月以後も少し留任することとなる。 21:30の佐野発にのり23:00帰宅。 〒けふもなかりしと。両田中嬢、服飾に志望と変更せしと‼ 1月23日 寒し。康平叔父より電話、父2日間欠勤すと。明日、史やりて見舞はさん。神経痛ならんと答ふ。 〒『詩宴』24、岩崎昭弥書きをり。電車にのり合せし夜間生『悲歌』買ひしと。けふ斎藤教授に『果樹園』4冊と抜刷、千川君に『悲歌』1冊送り、八木嬢へ手紙。佐々木邦彦君にあやまり状出す。 登校すれば三苫君「女の人待ちをり」と。ゆけば山本信江生‼ きけば市大病院にをりしDr.と結婚すと。2月6日16:00よりGas buil.での招待状もち来をり、入試面接につき不明といひて帰す。清水生来しところへ根木生来り、「昼間へかはるはいかん」と。やめよと云ふところへまた涌井生来り、「先生かはれると仰しゃった」と。変相して否定し、授業。すみて来ゐし田中、木村3生と平和荘の瀧本生の室へゆき、帰りまちしもだめ。 21:30出て帰宅。寮のsalary請求表かく。 1月24日 8:30史に父母見舞命じをれば会社より電話、風邪ひきしと。庄野、小野、長沖氏と会ひ、古典講読すませ、近鉄よりの電話を長沖氏にとりつぎ、鍛治君の身の上いふ。山本信江、きのふ長沖氏にも案内せしと。文芸志望21人となりしと。藤井寺の石田嬢、服飾に志望し300なりし。 今東光氏来り、湊野女史来り、産経新聞の井上文夫君来る(花嫁来年秋までに欲しと)。木村静子来り、南隅みね子君来り、2月10日(日)家へ招待すと。野崎夫人にも伝へよと。 長沖氏より500もらひ、和歌山の増田幸子より『悲歌』くれときき(井上睦子に歌の本やる)、鍛治君と3人にて天王寺へ出、喫茶して別る。 今西春秋氏より『異域録解題』の抜刷。森亮氏令妹、倉八千代氏の展覧会案内。 けふ学校へ後藤田女史より関響の招待券2枚来をりしを新田嬢へ与へし。 1月25日 登校の時、渡辺生と同車(あとにて立川pen Co.より呼ばれて面会にゆきし)。西宮君よりきけば後藤田女史復学希望と。鍛治君のこと云ひしに無反応。すみて酒のみ、ともに出しに上町線にて山本重武君に会ひ、mode喫茶へつれゆかれbeerのまさる。 『文芸 堀辰雄文学読本』買ひて帰宅。頼永承氏より10,800東京より送ると。井上睦子より速達、「昨日泣きし」と。涌井生より「母来さす故、日をしらせ」と。(元市印刷に電話せしに校正27日(日)と)。福地君よりも電話。小林来り、結婚して退寮せしと(20日)。渡辺生より電話、面会すませしと。 木村三千子氏より電話、荒木君と井上源一郎君と集りゐると。荒木君「依田義賢、中国へゆくこととなりし」と。増田君来り、浪大2部卒業せしと。 (けふ上田阿津子より電話、漢文学史の参考書かせと。「月曜に会はん」と云ふ)。 1月26日 涌井生に母親29日(火)13:00又は30日(水)14~15:00によこせと速達。9:32鶴橋発の特急にのり、奈良へゆき、野崎その夫人に会ふ。永島氏夫人(根本嬢の姉)小清水教授を識り、だめと云ひをられる由。 女子大にて天野忠君に会ひ、横田氏、竹内氏と会ひ、来年(※来年度)も講師委嘱と23日の教授会できまりしときき、前川家訪問を約し講義。 すみて前川家へゆけば2教授も来会、芳賀檀氏、昨日来り、東洋大に出講しをる由。(※田中克己転任に)何とでも努力すると云ひ、けふ来るやもしれずと。 14:00竹内氏と出てbusにて天理市北大路、足達家、洋館出来をり、八木嬢に会へば「入れちがひに送りし」と。高橋君を訪ね、Ginのまさる。電車にて小林君(天理大法律教授。奈良女子大講師とて一年同僚)に遭ふ。 帰宅、夕食。風邪気味なり。室清より「接収されゐし明治生命本館にかへりし」と。 岩崎昭弥君より「御意のままに」と1,000の同人費。林富士馬君より同人費。小山正孝君より1,500の詩集(※『愛しあふ男女』)。 1月27日(日) 9:30ごろ寮の二階整理する故、立会へと。松本ひろ子嬢10:30に来る筈なる故、いつもの事乍ら不快。やがて来しは鳳高校佐瀬良篤氏の紹介にて向井順子嬢。盲学校の先生の子にて、兄阪大仏文助手と。white-shirtたまふ。そのあと二階見にゆけば原君指揮。やがて松本ひろ子来し故、悠紀子と共に愛和幼稚園長にあやまりにゆかせ、阪急より届きし松本家よりの「味の素」1箱受取り、夫人よりのハガキ見、 12:40出て学校へ寄り、八木嬢の手紙受取りて、倉敷紡績常務岩田信次氏に会ひにゆく。住吉中の南側なり。増田久美子も来をり、色々しゃべり、次女に受験の心得はなし。増田生の就職斡旋たのみ、夕食にすしたまひ、菓子もらひて出、学校へ預けて元市印刷へゆけば6pだけ校正出る。 福地君と見、あす家で残りをすることとし、寺田町に出て雲呑おごられて帰宅。 1月28日 風邪にて臥床。上田阿津子よりの電話に「家へ来よ」と云へば都合わるき様子なりし。佐々木邦彦、竹内好の2友よりハガキ。伝田雅子より『足音』の3集原稿を元市印刷へもちゆきしと。 (けふ羽田君に頼君の送金のことかき、山本信江の式には「出られず」と父君へことはりせし)。夜、増田久美子より電話「梅垣女史より山本商店へ斡旋受けし」と。「ことはれ」と云ふ。 19:30福地君と校正しゐれば、木本晃氏より電話、前田福太郎氏と酒宴し、江口三五(岐阜)に電話かけてわが電話知りしのちかけしと。天津の礼云はる。 22:30校正すみ、あす印刷屋へはゆけずと福地君にことはる。 けふ会社のsalaryわたせしに浦本浜子不平の様あきらかと。安部育6,000余に比し、浜子4,000余なれば也。 1月29日 風邪。学校へ電話し、欠勤いひ、涌井の母来訪の時はたのむと云ふ。〒なし。昼寐。上田阿津子より今日来ると。 17:00涌井母子来訪。守本氏に会ひしと。1年へ入り直すこととなる。卵賜ふ。上田阿津子来り、本4冊貸す。山本令息の写真わたし、近々父母に会ふといふ。渡辺三七子より電話、太田夫人に会ひしと。 21:30福地君より電話、校了にし31日か1日出来上ると。 1月30日 雨。午后ゆくつもりなりしも、ふらふらして休講の電話かける。鍛治君に山本信江わが出欠ききに来しと。池元かよ氏、赤ん坊を抱きて来る。『悲歌』大阪屋より1冊註文あり。 1月31日 寒けれど9:00家を出て登校。古典講義「うたかたの記」終る。上田阿津子より電話、本返すと。あす16:00家を訪ふ予定と答ふ。 きのふ教授会で小島の転部転科、涌井の転部ともに難航せしと。小島母子来りしゆゑ、あやまる。今氏のお祝の会を専攻科と共に14日にやることを尋ねんとして出来ず。(増田幸子への『悲歌』を和田生に托す。岩田生の父君、増田生を某社へ推薦したまひしと)。 天王寺より地下鉄にて荒木利夫訪ひ、依田君の送別会の主催者になる資格なしと告ぐ。大阪屋にゆき1冊売り、帰宅。 新学社の転居通知。入浴後、元市印刷に電話すれば『果樹園』出来しと。19:30来りし福地君と発送事務、22:00了。 2月1日 登校。漢文のprint切る。きのふ太田陽子夫人より渡辺三七子の就職99%確定と。渡辺生呼びて伝へれば喜ぶ。礼状かく。西宮君、守本主事に叱らる。勝手に小学部と交渉せしと也。 鍛治君に『果樹園』わたし90×2受取る。長沖氏にも渡す。四肢だるし。 今市佐恵夫人より電話、アベノ交叉近くへ移りしと。知合の夫人、調査に来ると也。やがて来しを日野君に紹介、chocolate一箱たまふ。 午后、風邪を申し立てて学院面接を逃げ、家政科の歴史やめて出しも、桃谷で下車、勝山中学へ寄り見れば上田阿津子をり、けふ行けずと云ひ、父母の意向きけばyesと‼ 月、火の中にゆくと云ひ、隣の東桃谷小学に校長仙野美須夫訪へばをり、塘に電話せしも不在。今宮中学にては児玉姓なりし也。出て天王寺までbus。徳庵駅で父に会ふ。金尾未亡人二階より落ちて入院と。 帰れば高尾の書目来をり、『社会主義詩集(児玉花外)』のこと云ひ、金尾のことを話す。この頃かかる種類のふしぎ多し。 台湾より『台湾外記』3冊、『台湾海国紀』『海天孤憤』贈らる。東京より金、未だ来ず。(卒業生よりの贈物を問はれ万年筆ほしと答ふ。桂信子を会社に訪ひ『果樹園』わたす)。 2月2日 奈良女子大へ10:30着。天野(欠勤)、横田、竹内、小清水博士に『果樹園』くばり、小川講師にもわたして講義。小清水博士にゆきしころより風邪気強くなり、出て古本屋で吉村正一郎氏に会ひ、横田氏『文学試論』もらひ、折から来し横田氏にsignしてもらひ、ともに前川家。 この間、芳賀檀氏入れちがひに来りしと。出て鶴橋で飯くひ、蔭山医へ寄り注射してもらへば寒気なくなる。 けふ〒なし。(本田助教授への『悲歌』1冊托す。来年度教課概要を9日までにとどけよと教務課に云はれし)。 2月3日(日) 雨時々降る。朝、菊池とて電話かかり、来よと云ひしが来ず。終日臥床。 『薔薇』来り、わが最後の詩をのす。米沢昌江より2日のクラス会欠席承認、『果樹園』よみゐると。硲君よりその中会ひに来ると。笹尾生の母より『悲歌』小森より受取ったと。午后『果樹園』の会にゆけずと電話す。 2月4日 6:00起床。8:30登校すれば文芸以外はそろひをり。3時間半試験監督。 本位田氏(※本位田重美)、X女史をつれ来り、学院高等部に入れしと。わが東京転任の時、あと引き受けると。成城の漢文、欠あるゆゑ講師なら有望と。 採点しをれば長沖、西宮2君にはcoffee、われには菓子と云ふに注文さして出る。東京の曳田武人といふより『婦人倶楽部』で見たと。メダカ会よりよせ書。八木嬢より訳見てくれと。橋本貫一より住所かはりしと。 2月5日 8:45登校(八木嬢への速達投函)。2年の国文学史を最後の授業とて説教す。 田中智慧子、縁談きまりしと。渡辺、南、住山生と話す。増田幸子より150預りて寺本生来る。松原順子就職きまりしと。 長沖氏の作文採点を見のこして出、中道にて下車。散髪し、busにて上六。江馬君訪ぬれば会議中と。急行にて石切下車。井上睦子と藤井美知子夫人訪ねしにいづれも不在。 昨夜少眠のため苦し。学園前にゆき上田阿津子の家訪ぬれば、タバコやしをり、母上と話せば(※見合)伯母反対すれど本人乗気と。書類と写真とを届けよと云ひ、tobaccoもらひ駅まで母上に送らる。 小阪下車、堀内(※堀内民一)訪ね、『二都物語(80)』買ひ『果樹園』1冊おきて出る。『桃』来り、咲耶より富士ハウスにて壻さがしてくれとハガキ。 夜、福地君来り、事務片付てくれる。府教委の試験通りしと。桜塚の松浦校長よりwhite-shirt賜はる。わけわからず。増田来て話す。 2月6日 面接のため9:45登校。昼まで文芸24人やる。向井順子生2番。岩田の妹も15番?で及第確実。 17:00すみ、山本正英氏に電話せしに他出と。長沖氏の教授申請を院長やるつもり也。 夕食たべ、涌井生つかまへ明日の院長面接の注意し、2年の国文学史すまして研究室にかへれば、瀧本生と共に武居生をり、前金切れの代としてport-wine1瓶もち来る。天王寺まで同車。金なくそのまま別る。。 梅原伊都子氏より茶、「薬師寺衛の13回忌」と。天野忠の批評のりし『日本詩壇157』。井上睦子のあやまり状。岩崎昭弥より『桃』の石田圭介わが愛読者と(※切り貼りあり)。林富士馬氏より『日本歌人』の春夫先生(※1月号「春夫先生のこと」)よみしと。田中雅子より上京したら会すると。涌井生より入れちがひに手紙。「百済生まだ勤めゐる」と。 2月7日 9:15登校。涌井の院長面接を第一にやり、許すといはれうれしさうな顔せし。面接午すみ、14:00より判定、結局食物栄養を60人とることとし、ほぼ落第なくなりし。21:30すみ、port-wineのみて帰宅。 田中保子より問合せありしと云ふに悠紀子に電話かけさす(大手前の最劣等生と)。 小山正孝君より詩集の評をまたわれにと。瀧口生より前金切れしゆゑ送ると。 2月8日 登校。漢文の時間に本運びさす。住吉区役所の中川俊雄君より及落の問合せ。 午后歴史やり、山本氏に電話かけさせれば来ると。15:00来訪。上田阿津子気に入らざる様子。新卒たのむと。 別れて山口玲子、西田洋子2生と話し、ともに出しも来週映画見ることを約して別る。山中タヅ子より見合に上京と。塚本生、中座の隣の「Echo」にゐると。角川より28,000払ひしと。上村肇氏より売上300。 2月9日 9:00家を出、福地君と同車、10:00の特急で奈良。天野忠訪へば欠勤と。(悠紀子より恰も電話、「東洋大OK」と)。 試験監督中、横田氏に(※転任の件を)云ひ、ともに文学部長に会ひ、来年度集中講義にしたしと云ふ。すみて服部英次郎氏(病臥中)、竹内正夫氏(東京の高校長に知合多くあり)、前川佐美雄氏(横田氏も同座)と歴訪、折柄東京転任の挨拶に来しは元三興出版社浅田広治氏(住友商事物資課)。 出て野崎家に寄り、営団前で降車。林夫人と上田家まで同行、父君、阿津子ともに不在とて、母上に案内され、島居清宅訪ねしにこれも帰らず。上田家で待ち、帰り来し父君に(※見合につき)山本のだめと井上文夫君の話し、夕食たまひ、帰り来し阿津子生に送られて駅。『文芸春秋』買ひて帰宅。 斎藤部長(※齋藤晌東洋大学文学部長)の手紙見れば、全員一致で史学科教授に可決。芳賀氏も独文科に同と。 桜塚高校長より受験生の名を列挙しよろしくたのむと。百済生より一度会ひたしと。 小高根二郎氏より17日夕食出すなと。竹村氏より礼状。村上新太郎氏より原稿くれと。 2月10日(日) 10:30竹村氏より電話、お礼いかにと也。その中に田中保子嬢よこせと答ふ。角川より「Heine7版2,000部の検印15日までに」と。 14:00出て天王寺。東長居行のbus、20分まちて南隅夫妻の新居訪ふ。鍛治姉妹、椿下、山荘の4君あり、御馳走になり天然色の映画見る。夫君よき人なり。 18:00出てbusにて天王寺。けふ財布忘れしゆゑ、鍛治初江君に100円借り、ナンバへゆき「Printemp」にて喫茶。別れて鶴橋より帰宅。 けふ斎藤教授に礼状。栗山(※栗山理一:成城大学)、白鳥(※白鳥清:立教大学)二教授に講師依頼。浅野(※浅野晃)、八木2氏に報告のハガキす。 2月11日 寒し。短大に電話し、桜塚の補欠たしかめ松浦校長に手紙かき、東京佐々木書店に送金の件たしかめる速達かき、15:00出て藤井寺。大江叔母に東京転任云へば「よし」と。城平叔父に電話せしに「会合にてけふはおそくなる」と。久美子2月1日出産、艶子と名づけしと。夕食よばれて出、駅にて喜代造叔父に会ふ(初枝叔母に石田生入学のこと云ひし)。 帰りて小山、林、上村、森、小高根の諸同人にハガキ。林君(※在京の林富士馬)にはアパート心がけてくれとたのむ。 森房子より同人費2,000と、『悲歌』見たしと。早速1冊贈る。角川より印紙2,000枚来る。浅野氏より内定の旨ききしと入れちがひにハガキ。和田先生へおしらせす。 2月12日 8:45登校。鍛治君より先なりし。Basket部の加藤生、coacherとして関学生をといふ。院長に直接いへと云ふ。3月13日部の送別会をすると。太田夫人に訪問の可否ききしに夫君病気にてだめと。 楳垣教授に転任あかせば宜しと。図書館長引受けてよしと。長崎講師に中田文庫を図書館へおろせといひにゆき、茶のまさる。 出てナンバ。荒木利夫訪へば東京出張中と。十合へゆき児玉、昌三叔父ともに不在。斎田君に見付けられcoffeeのまさる。同人費2ヶ月分預る。天満橋をへてbusにて会社、みな不在。あすまた来てみん。 岩崎君より原稿、山根君より原稿と同人費。比留間一成氏より諸代として500。島居君より不在のわび状。 入浴中、福地君より電話あり「明日9:00来る」と。西川英夫にアパート探したのむ。 2月13日 9:00福地君来る。記帳してもらひ、われ小高根太郎君に(※娘の)高校転学の問合せかき、山根君にハガキ書く。田中順二郎夫妻にアパート探したのむ。 梅原伊都子氏に薬師寺衛13回忌の供養の礼かく。 父に電話せしめしに城平叔父すでに他出と。乾武俊より高石町に転居と! 父来り、わが東上を喜ぶ色あり。城平叔父けふ帰らば都合きいて報さんと。風邪にて声嗄れたり、哀れ。悠紀子の貯金出しにゆきしあと父より電話、「城平叔父にすぐに会ひに来よ」と。よきて話せば「よし」と。 出て定期券買ひ、登校。神崎院長(※神崎驥一)に電話すれば「来てよし」と。ゆきて話せば「意外、も少し早く云って欲しかった。6月まで待てずや」等、「明日会議して返答す」と。後任に本位田重美氏を云ふ。母親学級に我を指定せしと。 学校へ帰り2部1年2名の就職斡旋きき、清水、田中2生の来しと話しゐれば、熊沢君来り(元市印刷に合本せかす)、2時間目の講義早く切り、 来週打切りを云ひ、試験問題を「日本浪漫的文学」と「日本現実主義文学」とし、出て2生と瀧本のアパートにゆけば未帰。木村静子に会ひ伝言たのむ。2生とアベノ橋にてpeppermintのみて帰宅。 栗山理一氏より漢文もう決定しゐると。浅野氏より祝詞。芳野清君より同人費2,000。 2月14日 登校。石浜先生さがせしも来られずと。古典講読の試験に歌うたはす。坂根生このあひだ上京、青年座で大(※西島大)に会ひしと。川西奎之祐より電話あり。畝傍高校の先生、入学金の延期たのみに来らる。守本氏に会はせ、天満博子の問合せに返答書き、鍛治君と出て「御門」で喫茶。後、 別れて佐渡島金属に寄りしに田中、梅本2氏ともにまた不在。 阪急Hotelにゆけば長沖氏のみあり。(けふ院長と話し、途方にくれし顔せしと。も一度話せと云はれしと。壽岳博士令嬢呼べと云はれしと)。ややして小野(※小野十三郎)、西宮(※西宮一民)、庄野(※庄野英二)とそろひしところへ今東光氏来り、直木賞祝賀会(※写真)。 今氏の「葬式に出れば1,000、読経代30円」といふがをかしかりし。17:30すみて西宮、鍛治2君と出、鶴橋までtaxiにのりて帰る。 池沢君より原稿、上村肇氏より詩と伊東リツ(※伊東静雄妹)の歌と‼ 奈良女子大より昨年度の申告(21,200-2,628)。 けふ母親学級にと古田氏より話ある筈にて3月25日と! 2月15日 堀内に寄り、悪書うり『牧羊神(200)』分けてもらひ登校。古田氏に電話し、弟の結婚のためだめといへば、25日以後でもよしと。長沖氏けふは院長と話さず。村田悦子来り(服飾3回卒)、夫のつとめる住吉一中の校歌添削さす。長沖氏に本庄実先生の使来り、先生脳出血と。 15:00すぎ鍛治君とともに出、堺東にゆき、太田家探しまはり、古本屋にて『本草和名2冊(50)』買ひ、結局北野家の祖母君にきけばすぐ近所。 16:00訪へば待ちゐしと。渡辺生を社長秘書とすると。三国丘中の齋藤校長に電話し、高野生のこと問へば元気と。はるみ君、浜岡中学につとめゐると。Sherryのましてもらひ出て北野店訪へば母君をられ、「この間、順二郎君来し」と。 出てbusにのり、ふと小野家を訪へば夫君帰らず、和子生、大江叔母に会ひ、ききしと。『悲歌』もらひしと。親子丼よばれ、駅までゆく途、夫君に会ひ、引返して酒のまされ、東京転任になるやもしれずときく。23:00帰宅。 白鳥先生より「来年の立教大学院の講師よりなし。宅地世話する故一度来よ」と‼ 八木嬢よりの開き封(※書籍小包)、中に手紙あるを発見され罰金4円とられしと。角川より検印の受取。高橋君より原稿。芳野君あて伊藤桂一氏より手紙。(けふsalary出、悠紀子への借1,400となる)。 2月16日 13:00出んとすれば上田阿津子より電話、「写真・・・」といふに鶴橋にて会へば忘れしことはりの電話と、ばからし。上六にて飯くひゐれば向ふに坐りしが説田敏行とて浪中の卒業生、いま凸版大阪支社の課長代理と。今里の渡辺家にゆき就職後の注意す。 松本一彦に電話すれば、なほりて出社と。この間、西原直廉来り、殿井に案内せしと。我をのけ物にせしと恨みいふ。 けふ和田先生よりお便りにて「東洋大学は内紛多く、待遇わるきも(※一時の)足場ならよからん」と也。 森房子より150。けふきけば杉浦正一郎直腸癌となり枕辺に博士論文通過をはり紙してゐると。 2月17日(日) 依子のcamera買ひに悠紀子ともにゆく。西川英夫より50万なら売屋ありと。Apartは6畳1間で5,000位と。 小高根太郎より「転学はむつかしくない」と。「10日ほど泊める故、家さがしに来よ」と。 松浦良雄校長より礼状。米沢昌江より「会ふ日しらせ」と。桑田博士退官祝賀会1口300にて3月15日までと。 13:30小高根二郎君まづ来り、福地、山根、池沢とそろふ。発行所を小高根邸にうつして印刷所も変へ、果樹園社と変へることとなる。 われ小山正孝『愛しあふ男女』の評かき、編集後記もかかさる。16:30みな出てゆく。 依子のcameraリコレットとて6,800を児玉君にたのみ5,400にまけてもらひしと。 2月18日 天野忠へ見舞。関口八太郎へ転任するとハガキ。田中雅子より心がけるとの返事。畑和子氏より『悲歌』1冊をと170。増田正男氏より手紙と海苔。 13:00上田阿津子へと電話すれば欠勤と。出てbusにて天満橋。大手前高校にゆき吉永孝雄氏に転任話す。ついで府教委に坪井明訪ぬれば。転勤知りをり(福地君より?)、杉浦の病気は知らず。 出て日本経済に井上文夫君訪ぬれば不在。沢田直也君訪ぬれば不在。日生に松本一彦訪ね、別れつげ、山本事務所にゆけばこれも不在。高尾書店まで歩きしも父子ともに不在。『李太白』旧版(100)買ひて帰宅。。 2月19日 雨。京と共に家を出、歴史すみて原田生と話し、上田阿津子、井上文夫2君の(※見合諾否の)電話まつ。12:00高等部にゆき岩崎氏と話しつつ、庄野英二君待ち、来りしに別れいへば長沖氏よりききしと‼ 岡田都に新任の女史のことたのみ、研究室にかへり、上田阿津子の電話に17:00までにゆくと云ひ、出て泉君に会へば「某女史のこと主任の我に話なかりし」と憤慨。こまりて別れ、鍛治君と大丸。 棟方志功展みにゆけば柳井三千比呂をり、棟方夫人に挨拶し、保田が来るといふに待つ中、堀内民一、山崎雪子の二歌人来る(けふゆきがけ五条高校出の某生、平井恵美女史の教へ子と)。 15:00になって別れ、十合にゆき児玉君に会ふ。「東京へは転任せず」と。camera割引の礼云へば(※転任を)悲しむ。「南須美子につき努力する」と。 出て田中春太郎dr.を訪ね、野球部の名簿訂正さし、心斎橋筋を下りて中座よこの「Echo」といふ喫茶店に、塚本侊子訪ねしも不在(「松本」の隣なりし)。Bus「巽神社」行にのりて勝山中学。上田阿津子呼びて写真受取る。この間、父君近所へ問合せにゆきしと。 帰りて『日本歌人』2月号を見、増田よびて話す中、井上氏より電話、明日21日来ると(14:00)。電話電報にて畝傍高校のマスイ氏よりワダアケミ(341)入学ジタイと(院長今夜より東上と)。 羽田君、史の試験監督に来り、「台湾へ写真送らうか、金はあとでよし」と云ひしと。 2月20日 家居。岩崎昭弥より「上京いやなしらせ」と。涌井生より「以後休む」と。父より電話「咲耶の(※上京)転居費3万円なりし」と。西川、田中雅子に返事。羽田に来週月、木のいづれかにゆくと。岩崎にも手紙かき、投函かたがた夕方出て鴻池新田。福地家へゆき、父上と話せば「明日、坪井に(※息子の就職につき)会ひに行かる」と。 自転車にのせてもらひ、大東先生(※大東勝之助)に別れ告げに参れば塚本邦雄君あり。20:00よりport-wineご馳走となり、また自転車にのせてもらひて帰宅。福地君の卒業祝にwhite-shirt。 2月21日 晴、寒し。服部三樹子氏より「この間来られず歌も出来ず」と、500。『日本詩壇158』にわが詩作止めしを誌す。 元市印刷に電話かけ17:00迄にゆくと云ふ。14:00井上文夫君来る。上田阿津子の写真と吊書わたし、なるべく早く返事せよと云ふ。 帰りしあと出て元市印刷。社長に会ひ転任云ひ、他の印刷所へかへること云ひ、14号の校正26日午前中に学校へもち来ることとなる。合本は5日出来。その日送別会してくれると。 湖東家へ電話すれば「田中雅子よりの手紙来をり」と、嬢ちゃんの話。千川に電話すれば、送別会を筒井とすると。Port-wineのまされて近鉄departにて菓子買ひ(300)、石浜先生にゆく。まだ酔ひさめず、転任いへば「驚いたね」と。 出て短大まで歩き、長沖氏に会へば「院長けふ帰阪せしも何も云はず」と。小野十三郎君に転任云ふ。(涌井生に欠席みとむとハガキ)。 夜、湖東より電話、「送別会する」と。 2月22日 10:00登校の途、渡辺生と同車。明日より立川pen Co.に出勤と。長沖氏「院長によばれ、わが退職やむを得ずとなりし」と。のちほど我もよばれ認むとなる。 神戸大の二宮教授(※二宮尊道)より電話「のちほど来る」と。米沢生来り、「うすうす知りゐし」と。山中タヅ子来り、「送別会の日きめたし」と。山本夏津子来り密談ありと。 やがて二宮氏来り、きけばエンライト氏(※D.J. Enright)監修で日本詩集の英訳を出すと。わが詩「偶得」「曠野」を訳されゐる。(※『The poetry of living Japan』)『果樹園』と『李太白』と贈り、cake1箱たまふ。 小野和子来り、山本夏津子の用件きけば、教へ子2人中学へ入れたき故、院長に会はせよと也。会はして鍛治君と4人でナンバ。小野夫人と別れ3人にて雲呑くひて帰宅。 (けふ住吉一中の村田氏より、小野氏(※小野十三郎)が作歌することになった、礼いかほどと。10,000以上せよと云ひやる)。 本田義憲氏より礼状。堀内歴(※堀内進)より『Viking』2冊と詩歴長くかき来る。 奈良女子大より「講義内容を25日までにしらせ」と。石浜先生古稀記念会より執筆依頼。 2月23日 10:00まで採点し、すみてすぐ出て奈良。採点を教務課へ提出、来年度の教授要目しめせといふに、文学部長に会はんと云へば会議中と。天野忠君に会ひて話し、呼びに来し林女史と帷子二郎氏たづね、会へば「事務局長と相談、旅費と宿泊手当かさむ故、来年度たのまぬこととなった」 と。ともに横田君に会ひにゆけば不在。 別れて高校に坂口允男訪ね別れ告げ、前川家へゆき、前川・長沖氏にて送別会すとのことに、希望人名あげる。(9日の土曜の予定と)。 出て野崎家へ別れ告げ、折柄来し前田隆一氏(※吉野書房・大阪書籍社長)令息に父君の在否とへば、在と。帰り来し野崎父君にきけば先ほど会ひしと。 あやめ池で下車、前田邸へよれば夫人出られ、まだ帰られずと。上田家へゆけば阿津子君、家へ電話しわが来訪知りをり、父君と「つるはし」と。 島居清君訪ねしに在宅。天理と浪速中学の思ひ出話す。杉浦1月末博士となりしと。中村幸彦、眞柱代理として見舞にゆきしと(※杉浦正一郎は元天理図書館員)。 出てまた上田家。父君に会へば、先日十合へ問合せにゆきしもわからず。旧居中津しらべたく、その番地しらべてくれと。諾して前田邸へ電話すれば社長帰宅20:30と。 生駒で下車、服部(※服部正己)家へゆけば「この間、父君逝去、夫人まだ徳島」と。(昼食わすれゐしを思ひ出し途中ラーメン食ふ)。転任告げてのち帰宅。 保田より『日本歌人』の「伊東論」(※「伊東静雄の詩」)ほめて来し。けふ前川家で自讃せし直後ゆゑふしぎ。森房子より『悲歌』ほめらる。 2月24日(日) 9:00まで寝、10:30出て漫歩。『Biblia2』見付けし。山本治雄に電話かけてゆき、従兄渡辺氏(子息京大法科1年)よりの謡曲の稽古きく。わが送別会を3日(日)山本邸ですと。この日、彼の誕生日と。 23:30帰宅すれば、渡辺三七子母子礼に来り、下衣と菓子賜ひしと。深瀬基寛教授より『SpenderⅡ』。石田英男氏より礼状(万里春醸造元)。天野忠君よりいれちがひのハガキ。荒木利夫君より送別会すると。『ハイネ恋愛詩集7版』1冊。台湾風物雑誌社より東京佐々木書店へ転送をと。貸借につき書きし手紙同封しあり。 (※大阪毎日新聞の杉浦正一郎訃報記事貼り込みあり) 2月25日 保田へ別れ。齋藤晌氏へ17日面晤の予定と。佐々木栄一店主へ問合せ。 悠紀子郵便忘れ、京つれて十合へゆく。大阪書籍に電話すれば社長まだと。 福地君より電話、13:00来る。元市印刷に電話せしに校正明日17:00と。袋は1枚1.4円にて4日かかることのことに断る。千川より電話してくれと。河出書房より税金申告票。16:00悠紀子帰宅。昌三叔父には会へざりしと。 2月26日 京と家を出、8:45登校。歴史試験「私の考える私どもの将来」。山中嬢来り、13日不二家でclassの送別会してくれることとなる。村田悦子の夫君来るとかいひしを断る。中島老、typeの古を買はんと云ひしに、館長辞任を云ひ、待たす。奥西兄君より子息学園高校へ入れさしてくれと。 11:00出て山中嬢に千本通まで送ってもらひ(見合の相手渡米と。井上生の母ゆくへ不明と)。西成府税務所に三好一夫所長訪ね、東上云ひ、 政岡生の転任たのみ、昼食よばれautoにて今高まで送ってもらひ、卒業式とて筒井待つ間、加島秀夫君に酒のまされ、比島Bontokで終戦迎へし話きく。森中先生わがこともおぼえをられし由。 筒井に幹事辞任、千川を後任にと申し出、地下鉄にて千川。会費90もらひ、その中時間見付け「いづもや」にて送別会をといふを受け流して出、住友金属に本荘健男訪ね、小畑信良少将いま成城学園前にありときく。隣の小林政K.K.に殿井(専務)不二男訪ね、西原直廉白髪となりしときく。 出て紡績協会に村山高氏訪ねて挨拶し、伊藤忠に伊藤とく従姉訪ねて別れ告げ、協和銀行に河野岑夫訪ぬれば母君幽門閉塞にて食物とれずと。咲耶(※妹:嫁としての)の苦労察するにあまりあり。 俣野博夫訪ぬれば欠勤。秀英印刷に饗庭君訪ね、夫人と話す中、帰り来り、きけば夫人は日本生命につとめゐると。松本一秀君に紹介書く。沢田事務所まで歩きしに直也弁護士不在。書生君に離婚のこときき、busにて徳庵に帰る。 留守中、堀内歴来り、tobacco-caseと林檎賜ひしと。岩崎昭弥より「その中に『果樹園』のsponcerとなる」と。森房子より『ラマンチャ』に「金閣寺」評かけと。 田中順二郎君より「王子に権利金6万円、月々4千円の2間あり」と。『果樹園』初校、22:00すむ。 2月27日 林叔母へ転任告げ、山本正英氏へ縁談の世話ゆるせとことわってくれとの手紙。深瀬基寛氏へのスペンダーの礼状。 朝刊に昨日会ひし三好一夫職員課長に転任と。松下文雄氏監査委員事務局長とも見ゆ。 田中順二郎君へ18日訪ねるとハガキ。石浜先生古稀記念会へ執筆諾。題名は「インドネシアに於けるインド文化要素―言語より見たる―」と返事。 14:00寒き中、出て元市印刷へゆき、再校見了りしころ福地君来り、18:00までかかりて了る。元市、食事出さず寺田町にて雲呑食ひて帰宅。けふ〒なし。(千川より明日送別会をと。ことはる)。 2月28日 寒し。父より電話、河野母上、中島dr.の推察にては癌ならんと。上田阿津子より電話、前田隆一氏今週中、午后在宅と。 10:00出て京阪にて三条。奥西兄氏訪ねてわからず。三条よりtaxiにて二条東大路の新学社。訊ねまはりてのち行けば奥西保、高鳥賢司2君ともにをり、兄君に電話し、昼食よばれて待つ中、羽田に電話し、14:00大学研究室にてと約し、兄君13:30来しと話す中、森氏来る(秘密と)。森院長にと名刺わたし、吉野書房の文京支店北村正男氏に紹介もらひ、出て京大。 羽田すでに来をり、里井彦七郎君を歴漢の後任推薦のこと諾し、前田氏とのこときき、佐々木書店の話してすみ、別れて依田義賢邸へゆき見れば、 三条の旅館にて仕事中と。 ゆき見て別れ告げ、京阪七条より市電にて畠山邸へゆき、令嬢に他出の父母呼んでもらひ、夕食にと東山の「菊の井」。Pork-steakよばれて帰宅。 杉浦美知子氏より(※杉浦正一郎の)死亡通知(けふ京阪書房にてうはさせし)。 田中順二郎君より西巣鴨に2ヶ所、林富士馬氏より東洋大学の事務、大森倖二氏に(※アパート探索)たのみしと。長沖一氏より「9日17:00より丸万にては如何に」と。三苫君より電話「2年の成績しらせよ」と。 徳庵タバコ店の妹娘、昨夜gas自殺せしと。 3月1日 丸、中野(※丸三郎、中野清見)へ転任のしらせ。森房子氏へことわりの返事。長沖氏へ「9日18:00よりの送別会よろし」と返事。筑摩書房より『李白』再版1,000部。訂正せよと速達。林富士馬氏へ礼状。三苫氏へ電話し、採点明日にのばしてもらふ。井上文夫君に電話せしもつかまらず。 12:00小吃して出、近鉄barbarにて理髪(150)。white-shirt仕立てさせ(12日出来と)。Hugo書店にて『岩波文庫おくのほそみち(※杉浦正一郎校註)』買ひ、上六。近鉄tourist-bureauに野崎君訪ねしに出張と。江馬春夫訪ね、別れを告ぐ、 3日の案内あらず。天理にてRugby部の会と。 あやめ池にゆき前田隆一氏訪ぬれば、午后会社へ連絡せよとのまちがひと。来週月曜ごろ会社へといひ、生駒にて下車。服部(※服部正己)訪ぬれば夫人また不在。将棋さして負ける。泉井久之助と小林英夫をほめし。別れて帰宅。 井上君より電話なかりしと。『おくのほそみち』服部家へ忘れしに気づく。20:00まへ福地君来り発送、23:00すむ。5日16:00に元市印刷へ来れとことづかりしと(あとにて『おくのほそみち』発見、老年の兆候いちじるし)。 3月2日 寒し。寒し。9:30住吉高校に山本重武、硲晃の2君を訪ね、別れを告ぐ。 登校して採点報告す。南須美子来りし故、梅本に会へと家を教ふ。山本実子来り、住山生のこと父に云ひ、ひきつづき雇ひくれさうと。東孝子、順子姉妹に電話す。 坪井に電話かければ「明日16:00山本宅にてgroupの会」と。坂根生と出て(兄、この間また上京、大と会ひしと)、天王寺にて近鉄departへゆき、松浦元一氏をまた訪ぬれば会議中と。別れ告げればneck-tie賜ふ(850)。大丸へゆきwhite-shirtあ つらへ(9日出来と)。十合にゆき児玉君に会ひ、昼食をともにし、昌三叔父訪ねしにまた会議中。出て新谷太郎博士訪ぬれば往診と。 朝日にゆき後藤孝夫に会へば明日15:00ごろゆくと。吉村正一郎氏呼び出して呉れる。吉村氏、西太后のこと云ふ。別れて山田新之輔訪ひ、茶おごられ、毎日に天野愛一訪ねしも他出。 高尾書店に本引取れといひ、梅田より帰宅。 井上多喜三郎氏『骨』同人その他にて10日(日)京都にて送別会したしと。浅野晃氏より13日原稿送りしと‼ 瀧口喜久子より忙しと会費300円。(けふ大道裕子、叔父二宮難波店長・大江叔母よりわが転任ききしと)。 19:00井上文夫君来り、見合承知と。夜、堀内進に電話し、明日14:00までに来いといふ。 (夕方、住吉一中の先生、(※校歌作詞斡旋の)礼にと2,000の商品券と羊羹2棹もち来らる。(※斡旋した)小野十三郎氏にも1万円とtobacco礼せしと)。 3月3日(日) 井上多喜三郎氏へことわり。午前中、手紙の整理し、やっと了り、昼食すませしあと堀内歴来る。Whiskeyのませ、われはwineのみ、詩の話し、本見せ、“Pantheon”10冊贈る。 井上多喜三郎氏より『浦塩詩集』来る。頼永承氏より写真代立替へてくれ、里井君の兄上にはドイツ語習ったと。 桑田先生を囲む会を21日に行ふと(欠席と通知せん)。 蒲池歓一氏より『悲歌』1冊くれと。沢田直也君より「栄転」祝ふと。渡辺三七子よりreport卒業式の日まで延ばしてくれと。 片岡壽夫氏より『果樹園』見たしと50円。15:00まへ堀内送り出し、髭剃りて山本(※山本治雄)邸。後藤孝夫20分前より来をりしと。山本は謡曲の稽古す。坪井(※坪井明)、川崎(※川崎菅雄)、大河原(※大河原倫夫)とそろひ、後藤帰りしあと、すしのお座敷屋台出来、 beerのみ、山本の従弟たち来りて可怪しな会となる。われ飲み、食ひし、鯛もらひて渡辺氏とともに出、駅にて大河原、川崎と別れ、渡辺氏の案内にてcabaret“Empire”といふにゆく。つまらず。 すみてtaxiにて片町、坪井と別れ21:30帰宅。 けふ松本一秀君より上京の日しらせと電話かかりしと。(吹田駅前でリク叔母に会ひしに小さく白髪のおばあさんとなりゐし)。 3月4日 室井夫人より電話、友人の娘中学入学に10万円を斡旋料と吹きかけられて憤慨と。「樫本校長に会ひて話せ」といふ。山中タヅ子より電話、会ひたしと。10:30天王寺にてと云ふ。ゆけば待ちをり。『果樹園』西川英夫、小清水卓二、横田俊一、天野忠の諸氏に贈り、羽田へ頼永承氏の手紙同封して出し、井上多喜三郎君に『浦塩詩集』の礼出してから、公園にゆき話きけば、画学生好きと父母に打明け「田中先生に聞いて見よ」と云はれしと。明日同道して来宅せよといひ、別れて勝山通。 通産省工業研究所に寄り見れば、前田福太郎所長欠勤と。勝山中学へゆけば上田阿津子、忘れ物してとりに帰りしと。東桃谷小学校にまた仙野美須雄校長訪ね、完全給食くはされ、時間待ちせしも上田嬢帰らず。 Busにて戎橋。荒木利夫訪ねて別れ告げ、送別会ことわり、大阪書籍に電話し、桜川をへて前田隆一社長に会ひにゆけば、池内先生の本300円にてよしと。寄贈者と読者をはっきりせよと。東京支社の使用はたづねおかんと。 出て帝塚山短大へゆけば、本位田氏あり。学長に相談され国文学史引受けしと。あとは何もしらずと。東京にて会はんと云はれ、西宮君と話し、里井君と云へば不満らしかりし。 事務室で2生のreport受取れば西林生、銀行に就職出来しと。三苫君、河原女史わが転任知りゐしと。三苫君、漢文歴史の後任希望をいふ。 千川に電話して17:30出雲屋で会ふこととし、ゆけば待ちをり、200の定食くはさる。吉田栄次郎店主も来り、喫茶「Dega(※ドガ)」にて[喫茶]せしのちtaxiにて上六。あやめ池へゆく西大寺まで特急。引返して上田家へゆけば井上君、この間校長に会ひしと。 帰れば荒木利夫君より電話、「8日の夜、送別会すと井上多喜三郎君ときめし」と。渡辺三七子よりreport。 齋藤はるみより手紙。安部忠三氏より「神戸国際会館につとめし」と。向井薫より入学の礼状。 3月5日 筑摩書房井上達三氏へ『李白』の訂正表送る。大森倖二氏(東洋大学事務)に転学とアパートの問合せ。蒲池歓一氏に『悲歌』。山中タヅ子母君より電話、生根神社々司も昨夜会ひ(※恋愛)反対せしと。 荒木利夫君より電話、8日17:00より大阪駅待合室にて『骨』同人と会ふことときまる。高橋重臣君より赴任までに会ひたしと。12:00山中タヅ子君、岩井清君をつれ来る。社交下手らしき好人物。色々話し今日明日中に父君に会ひて話すこととす。 服部(※服部正己)夫人来り、悠紀子と話す。東順子生より電話、小林生と明日18:00研究室へ来ることとなる。 14:00福地君来り、『果樹園』宛の郵便もち去り、ついで山中組、服部夫人と去る。 われ15:30出て元市印刷。合本発送すでに福地君やりをり、婚礼にゆきし有奏社長帰り来しあと和定食とすしにて送別会。われはport-wineのむ。万年筆をそれぞれ贈らる。(※『果樹園』1-10号残部)合本代とわが詩集30冊(※製本し直し)とをのこして19:30出る。(※元市印刷社長)よき人にて名残惜しまれし。 入浴、茶漬食ひしあと増田現はれ4年の成績見す。けふ三洋電機の某君に電話かけ、取次の女史に腹立てどなり返して止む。 3月6日 山中家に電話すれば10:00に父君来るとのこと、掃除して待てば10:30母君と来られ、止むを得ず許すとのことなりし。Sheetsと生菓子賜ひ、ともに出んとすすめられしも断る。 12:30昼食して出、近鉄departで田中秀子生に会へば、けふ皆report出す予定と。ゆきて受取り採点し提出して要注意なくなる。 みなわが退職を知りをり、(※卒業後に)専攻科には来ずと。 (安村)今市夫人来り、副手承知と。16:00より教授会はじまり(近鉄より礼にとtobacco20賜ひをりし)、最後にわが退職審議、5分間にてすみ、高岡博士「惜しけれど先生の命なら仕方なし」と。 17:20会議すみ(卒業式にmorning-coat着用と)、今市夫人まだをりしと話す中、齋藤はるみ生来り、東順子生来り、小林千余子来る。 19:00国文学史の答案用紙くばりしあと、帰り来れば武居豊子生来り、みなわが送別のためなり。 20:20すみてともに出れば和田、島田groupと同車、退職告げ、天王寺にて木村家に齋藤、武居と行く(小林生、菓子1折くれし)。我はpeppermintのみ、2生はhigh-ball! 齋藤生、布地たまひ、高野敏子を13日つれ来ると。 22:30帰宅すれば小高根君より「長沖、前川2氏の会の日しらせよ。杉浦のこと後記にかく」と。池沢、野間光辰2氏よりハガキ。(けふ意外なりしは卒業順位、村田、青木、山本実子の順なりし)。 夜半まで眠れず、小高根二郎、池沢、向井薫(新入生)、高橋重臣の諸氏へハガキ。齋藤部長に18,19,20の3日の都合問合せ。 3月7日 8:30会社へゆけば城平叔父、話し中。康平叔父「きのふ大江叔母よりききしも、東京へ行くか」と。おくれし挨拶をし、城平叔父に決定なりしを云ひ、東京の住居のこと問はれ、辞表出さんかといへば返事きこえず。 増田春恵の就職斡旋いへば黙ってせよと。出て山本鋼業。社長、話し中とのことに益子常務に会ひ、東京行いひ(佐々木三九一氏、羽衣住ひと)、 山本藤助氏に会へば「知らざりし」と。 ついで向ふより挨拶されしは西垣脩氏の父君。住山生、本決りとなりしと追って来って語る。 出て大日本セルロイドにゆき百済生に話したきこときけば、縁談きまりさうと。祝ひ云ひて出、新谷太郎博士訪ひて別れ告げ、筒井訪ぬれば市会と。 大毎にゆき天野愛一に別れ告げ、茶おごられ、高尾書店にゆき9日(土)10:00(※不要蔵書買取に)来るときき、産経にゆき今沢幸君に会へ ば、南川らと送別会すと。ことわりて阪神に寄り、大河原よりすしご馳走となり、市電にて本町2丁目、俣野博夫訪ねて別れ告げ、西村生の履歴書托し、またcoffee。 市電にて大手町。調停裁判所に沢井判事訪ぬれば開廷中なりしも会ってくれ、別れ告げ、市庁にゆき松下文雄氏訪ひしも留守。三並、荒井の2君訪ぬれば多忙中。Coffeeのましてくれ汽車をいへと。 出て森ノ宮をへて天王寺。大江叔母訪ねて「10万円貸すや」「齋藤部長への礼、何をいかほど」と訊ね、「貸す」「ラクダのシャツ4、5千円のにしろ」ときき、夕食よばれしあと、20:00昌三叔父訪ね、別れ告ぐ。 帰れば室井美代子氏より樫本校長と会ひしと。好結果ゆゑ4月来りて報告すと‼ 福地君の母上来たまひ切手(1,000)賜ひしと。 3月8日 西村生と政岡生に転任告げ、就職の斡旋したことを云ふ。雨中、市大病院へゆきしに、田村dr.10:00まで来ず、外へ出て道で遭ひ、別れ告げる。 登校すれば太田夫人来りし故、渡辺の礼いふ。文1の漢文早くやり、昼食。秀邦印刷来り、西宮君の方言手帖の印刷につき相談する。守本主事に会ひ学院への挨拶。学生への挨拶。漢文試験問題作成につきいへば院長、西宮君に不快がりゐると。 basketのcoacherとして関学生来りし故、わが退職告げ、加藤主将、順子よび同じくこれを告げて善処すすむ。13日11:00花壇前駅(※現:関大前駅)に集って部の送別会と。合宿するとて寝具類の保証人とならさる。 15:25梅垣学生主事と出て早川麗子に会へば、今沢幸の使者として「ひまなる日を見つけよ」と。「無し」と答へ、梅垣学生部長の悪口ききつつ大阪駅。 17:10来りし荒木利夫君にきけば、多喜さん以外来られずと。やがて来し井上氏と3人で天満橋「民芸そば」へゆき、食ひ、本贈られて別れる。荒木君、人形町のPL信者の家を宿にせよと紹介し呉る。 堀内歴より「(※不要蔵書は)高尾と我とに見せて高く売れ」と。「伊東夫人の義弟来り、石切のおかげで軽快。伊東に嫁ぎ損したと夫人云ふ」 と。 小川和女史より別れ。小清水博士、上村肇氏よりハガキ。丸三郎より「(※体調)軽快、家探さん」と。 けふ西垣脩氏へ挨拶。20:00三苫君より15日16:30より送別会すと都合きき来しと。『東洋史研究15-3』来り、佐口ドイツにあり、 鎌田三鷹に住み、守屋評議員となりしと。 22:00室井夫人より電話、たのむと。 3月9日 田中米店へ「けふ来るな」と電話させれば「来るつもりなし」と。安部育嫗呼び、新寮長きまるまで辞職せざれと返事す(看護婦会より問合せ来しと)。 福地君来り、元市印刷に電話すれば合本代1,800と。われ三苫氏に電話し15日16:30の送別会受けると。ややして守本氏より電話、別れの挨拶を「蛍の光」の前にさすと。 高尾に電話すれば息子出しと。11:00来り、依子と我の運びし約1,000冊見て23,500にて買ふと。すみて福地君に同人費2,000(13、14号分)わたし、ひるねす。 赤倉より大道ら5生のヱハガキ。森房子氏より合本の受取。清水文子のハガキ。佐々木邦彦君より別れの挨拶。筑摩より「検印紙どこへ送るか」と。筑摩へ「今の所へ」と。千川に礼かき、16:30出て「丸万」へゆけば横田利平、堀内民一と長沖一氏とすでにあり、18:00小高根、吉村、前川、石浜、庄野英二、杉山平一、小野十三郎の諸氏にてそろひしこととなり、魚すき焼きたべ20:00出て「正弁丹吾亭」にて二次会。こたびは平田春一氏のおごりにて、長沖、前川、吉村、小野、石浜と我の7人。22:00先に座を立ちて帰宅。 井上文夫君より「10日、13日宿直」と。清水文子生より「明日来られず」と。ともに電話ありしと。 3月10日(日) 10:00運送屋、本をとりに来る。堀内民一の本1冊をのこし、のちほど行くと高尾書店に云はしむ。田中保子、令子の二母君お越し、退職いへば「その方よろし!」と。菓子と金1封置きゆく。林叔母より「転任承知した。ことわり承知した。東京へゆけば訪ねる」とのハガキ。妙高池の平より井上京、森田、宇都宮3生の絵ハガキ。13:00出て高尾にゆき、堀内の本のこといへばよろしと。ついでとり出せしは天理図書館の『国姓爺合戦』。眞柱来店の時返却するつもりなりしと‼ 頭下げて500で買戻し、服部宇之吉『支那研究(250)』買ひ、別れ告げて出る。 天理八木君に返却を4月後に鈴木氏へとたのみ、上田家へゆけば両親ともに不在。網干へもゆきをらざる様子。待つ中、次第に帰り来り「20日迄に行きて(※見合の)返事す」と。「会計監査にてゆけず」と。 帰れば母うるさくなかりしと。西村生来りしと。三洋電機宣伝部長、亀山太一君2度来りwhiskey置きしと。畠山伊都子の夫にして、妻「かく細く変った先生」といひしと。(依子、家中の撮影をす)。 3月11日 亀山君にハガキかき、定期券買ひにゆく悠紀子にもち出さしめしに「whiskeyの礼なし」と。見れば字にじみをり、叱りてwhiskey返却に三洋電機へゆかしむ。 菊池生より電話、あす原田裕代と18:10梅田一二[等]待合室前で待つと。上野、山本実、佐々木の3生「熊本へゆきし」とハガキ。 17:00悠紀子帰り来り、あやまり不完全と。路傍の人なり。けふ9:00ごろ私鉄st.解決、総評の第一波なり。夜、採点す。 3月12日 よべ雪降りゐる。9:00出て登校の途、市大病院に樫本真中等部長を見舞ふ。退職伝ふれば悲しむ。 出て登校。採点わたし、楳垣氏の図書部長ときまりしをきき、900渡し、英文2年と会食。図書室に「石の上ふるきふみよみ新しきをみなとなれと我はすすむる」と書きのこし、山中タヅ子の母に「のちほど訪ねる」と電話せしところへ、鍛治、山中2君来る。 ともに出て学院。森副院長まつま長く、2生を去らし、古田秘書、山田書記と話し、森氏に退職のべ、玉井理事訪ねて退職の挨拶し、山中家を訪ぬ。母君と父君「恋愛結婚の先生など訪ねさすのではなかった」と云ひあひし由。山中嬢より詩集預り、ともに出て玉出駅前で汁粉くって別れ、沢田四郎作博士訪ね、お別れ申上げ、『近畿民俗』の会費200払ふ。山本信江、月経止り、盲腸炎にて入院と。ナンバへ出、busにて梅田新道「大安」へゆけば移転しをる。『切紙ゑはがき』『古今註』『本草衍義』にて240払ひ、梅田駅で待てば30分して菊池来り、原田裕代(鬼城)つひに来らず。19:20、2人にて地下の食堂で夕食とbeer。Coffeeのみて別る。餞別に文箱とふろしきとを2人して賜ふ。 帰れば中外貿易K.K.より12,000わたすと。小高根君より写真貸せと。小林千余子より『悲歌』2冊代300。丹羽美佐より送別会すると。深更、堀内歴へことわり状。瀧口喜久子へ別れのハガキかく。 3月13日 桂信子を訪ね、丹羽の送別会ことわる。9:00家を出て、梅田よりbusにて十三。井上文夫君の家訪ね、父母に会ふ。母曰く、「この子、方々へたのみ廻り先生まで迷惑かけし。年が一つしかちがはぬのが云々」。仲人の件もまだ早しと。 出てともにcoffeeのみ、花壇町で下車すれば加藤順子ら待ちをり、われ先づ平川唄子の家へゆく。井原coacherも来り、beerのまされ、すき焼食はされ、肥後生につづいて出る。(会費として1,000おき退職いひ、後任として長沖先生を顧問にせよとてふ)。天六に出、阪急貿易に古田君訪ね、小川俊郎君に会ひたしといひ、電話してもらひしに不在。中外貿易を訪ね、12,000の小切手貰ひ、taxiにて不二家へ16:30つく。 長沖、西宮2氏の外、生田、伊藤、井上、今市、榎本、太田、鍛治姉妹、岸、相良、山荘、塚本、椿下、寺本、枡田、本多、松井、三木、橋本、森田、山尾、山中、吉原、南隅、渡辺の25夫人令嬢集り、金一封賜はり(山中嬢に時計買ひて賜へと渡す)、塚本兄妹の営む「Echo」にゆきしのち、taxiにて上六をへて帰宅。 けふ悠紀子会社へゆき、康平叔父に会ひ、大江叔母よりの下衣貰ひ来しと。来ずともよしの手紙入れあり。 留守に青木正子、生田美恵、井上律子、吉田恒子の4人より餞別としてライター賜ひしと(生田生を除く3人来しらし)。 東洋大学の大森倖二氏より「依子の転校を文京学園に了解させし」と。 辻芙美子より「出発前に一度会ひたし」と。山口玲子より、もはや十合に勤めゐると。梅田惠以子より2月20日男児出生、郁人と名づけしと。亀山太一氏より事務を叱りおきしと。岡季美子より姉幸子の代理の電話ありしと。帰りて酔さめ物悲し。 3月14日 よべ睡り足らず11:00来りし田中保子・令子2生と話し、入学後の心得いひ、祝としてNoteと手帛とを交しゐる中に、まづ岡季美子より電話「姉、あすわれを送りたし」と。次に西保泰男氏より「業界新聞のため座談会主催してくれ」と。「あす午后来校せよ」と答ふ。 ついで井上文夫君より電話、「網干の家への道教へん」と。「その必要なし」と答ふ。百済生より餞別1,000。 林富士馬氏より「駒込にapart見付かった。返事を電話又は電報にて」と(敷金とも10万円、家賃毎月8,500と‼)。13:00出て徳島局より林氏に「16ヒマイルヘシマテ(※16日参るべし。待て)」と打ち、航空郵便買ひし。 busにて天満橋をへて三和銀行平野町支店へゆき12,000受取る(史をして羽田にまづ届けしめてfilmの送付たのみ、池内先生の本300にてと、買贈明記せよ、里井君の就職の件だめと報ぜしむ)。 小雪の中、日本生命まで歩き、松本一彦君に会ひ、3生呼びて別れ告げをれば室井幸太郎氏より電話。中川嬢passせしと。礼に来ると)。出てトッパンの階下にて喫茶、雪やむをまち市電にて天満橋。 Bus今津町行にて廻りて会社へゆけば城平・康平の2叔父ともにあらず。田中課長に旅行のこといひ、原課長に安部育のこといひして出、門衛に大江叔母よりの品渡され、一旦帰宅後、出て守屋教授‼に会ひて転任告げ、桑田博士の記念品代300托す。同君東洋大学にゐしと。案内されて桑田邸にゆけば博士不在。夫人出られわが転任知りゐしと。令息令嬢のための下宿さがせと。 出て福地君にゆき瀧口喜久子の会費300わたし、うどんよばれ、父君と話し、ややして来たまひし大東夫人と話せば、亀山君を識りをり好まずと!toaster贈りたまふといふに、出てtaxiにてわが家。堀氏の『かげろふ日記断簡』贈り、福地君をとどめ、山中嬢の詩集を見さす。 けふ八木嬢と井上多喜三郎君とにハガキかきしあと、八木嬢より17又は21日来ると。21日にせよといふ。亀山君よりわが「口笛または歌を口ずさんで歩いてこられようとは考えませんでした」と! 夜、頼氏へ航空便かく。けふ悠紀子税務署へゆき、4,500払ひしと。 留守に谷省吾君(寺本信子生の夫)来りて、推薦たのむと抜刷おきゆく。「杉浦正一郎を悼む(11枚)」かき福地君にわたせし。 3月15日 朝、「15日夜より20日夜までの旅行届」を会社へと托し、9:20登校。 卒業式順調にすすみ、専攻科の次に文芸専攻62名の呼名をす。式すみて院長より紹介され、われ退職の挨拶す。旨く出来ざりし。「蛍の光」にて了りとなり、古田、高松、井上[暁]、山本実子、井上(英)、田中などの父母より挨拶受け、記念撮影。次いで謝恩会。 この間、わが為に泣きし子ありしと、あとにて高岡博士の話。わが見しは岩田生なりし。15:00すむまでに西保泰男君来りしを長沖氏に紹介し、16:50より専任教員のわが送別会と今、長沖2氏の受賞祝賀とをかぬる会あり。餞別6,000贈られ18:00西宮君と出て帰宅。 入浴、夕食し増田春恵会ひに来しと話し、荷物もちてもらひ梅田。岡生の電話ありしに家までtaxiにてゆき(70)、酒2本姉妹よりふるまはれ、松前ずし賜はってまたtaxi(100)。「明星号(21:30)」に乗車、こみしを増田のおかげにて坐れしも、猥雑なる2組ゐて眠りがたし。 3月16日 8:00すぎ東京着。神田にて下車。大阪書籍支社へゆきしも誰もゐず。北村氏(奥西楢市氏紹介)は出張と。 10:00出て東洋大学まで都電でゆき、大森倖二氏に会へば、多忙中せわしてくれ、服部紗智子嬢に紹介され、駒込駅近くのapartにゆき見る。新築にて他にもありさう、考慮すといひて出、疲れて喫茶。おかげで紙入れ忘れしに気付き、服部嬢とり来り呉る。追分町まで戻り文京学園を見る。また考へてしるこ食ひ、向丘高校の近くあるを見、東洋大学に帰り、教務課長大野文吉氏に紹介されしに、齋藤部長(※齋藤晌)恰も来をらると。 ゆきて会へば「東大推薦といふことになりをり、小室教授(翠雲令息)が熱心に推してくれし。戦犯詩人といひしは講師と」。 会議とて別れて、待ちゐし林富士馬君に誘はれてtaxiにて西巣鴨の宅へゆく。厭人といふ中、感化受けてこっちも悒鬱となる。恰も往診依頼、ともに出て送られ、池袋駅まで歩き、新宿ですし食ひ、小田急にて経堂。 cake買って小高根(※小高根太郎)家。母上2、3日前入院と。転校先は直接当れ、だめならば板橋高校にいってやると。Port-wineのまされ、大阪書籍に帰れば長尾良君居り、ともに出て喫茶。入浴して眠る(※大阪書籍泊)。 3月17日(日) 8:00目さめ、9:30朝食よばれ、西川(※西川英夫)に電話してゆきしも家忘れゐて、また電話して迎へに来さす。 長男成蹊大学に入り、入学手続4万円と。Whiskyよばれ15:00ともに出て、上中里1の12小池むめ氏方に伴はれ、家探しの基地として10日ほど貸してもらふこととなりし。学校は明日直接当ることとせん。 本郷まで帰り、「鉢の木」にてbeerのみ、飯塚浩二教授(文博)の家に伴はれしも原稿かきに他出と。地下鉄の駅まで案内受け(西川宅にて丸と電話で話せし)、お茶の水より新宿。「高野」で羊羹買ひ、和田先生お訪ねするに不在。奥さまに挨拶し、busにて渋谷。地下鉄にて大阪書籍へ帰り来れば万年床! 入浴後、荒木利夫の宿へ電話せしも来をらず、関口(※関口八太郎)に電話せしにこの次会ふと。辻芙美子、山口玲子へハガキかく(けふ家へ速達せしあと、上中里のこときまりてバカらし)。城平叔父、艶叔母へハガキかく。山中タヅ子へ同。悠紀子に小池家のこと速達かく。 3月18日 9:00起床、朝食後、三島重役に礼いひ、向丘高校への紹介たのむ。長尾良すでに来をり、話して社長、三島氏に会ひにゆけば、鈴木支社長より向丘高校、松沢教頭に電話してもらひ、すぐ行き会ふ。物理生物の件は心配いらずと。一般社会とりをるやを気遣はる。鈴木氏の旧同僚宮本校長病臥とのことに、よろしくと頼み、まちがへて農学部前に出、肴町に戻って東洋大。大野課長とX氏に『悲歌』贈り、再会約してtaxiにて筑摩書房。 井上君に土井編集長呼んでもらひ、呉茂一『ぎりしや詩選』もらふ。『李白』の検印は4月でよしと。産経会館までtaxi(80)。田中順二郎君来客とて1時間まち、多忙と知り再度上京の日と約して地下鉄にて東京駅。東京建物に西川訪ひしに不在。昼食とり、また訪ひしもまだ帰らず、省線で神田。 大書(※大阪書籍)にゆき長尾君に再会約し、鈴木氏へ伝言托し大丸にて買ひし菓子(325)を礼にとおばさんにわたし、東京駅へ出、16:21の小田原行きにのり、8:15の浜松行にのりかへ、20:17静岡着。本位田昇に電話し、taxiにて官舎(80)。23:00まで夕食たまひ、夫人ともども話してtaxiにて出る(長女中学、長男6年と)。 23:35発「明星」満員。浜松にて後部へゆき、名古屋にてやっと坐る。殆ど不眠。 3月19日 帰ってすぐ朝食。昼寝す。吉崎雅子より別れのハガキ。田中智慧子より卒業の礼状。父君十八氏より折畳式傘賜ひしと。井上睦子?来り、カステラ呉れしと。依子留守のためわからず。 室井千代子氏、中川家と双方より3,000づつと、かき餅たまふ。仲介人どなり込みしと(3人の先生に3万円づつと饗応費1万円の筈なりしと)。 西村生来り、21日電話すると。羊羹たまひしと。 11:00さめて高野敏子に会ふ。忙しかりしと。別れを惜んで15:00まで話しゆく。熱心なる先生なりしと、うれし。入浴、夕食。疲れとれず。 (父昨日来り、富士の退職手当3万円と重役の餞別1万円。うち1万円を酒代にくれといひしと)。 村田幸三郎より電話あり、玉村式索道K.K.(65-1967)にゐると云ひしと。 3月20日 9:00会社へゆき、城平叔父来るまでに挨拶す。おくれしと康平叔父怒りゐしと。 10:00すぎ来りし城平叔父より餞別もらひ、auto三輪の借用申込む。後は原課長に引きつぎてよしと。生田、青木、井上律子、吉田恒子の4人に『悲歌』つつみ、吉崎雅子、田中智慧子(梅本に電話し、父君十八氏によろしくとたのむ)、田中雅子、西川英夫へハガキ。 (安村)今市佐恵よりの2度目の電話に出て見送りことわり、副手舅姑に内緒でといふこととなる。山本敬子に電話して別れ告ぐ。けふ同女、辻、藤原由子より同時に別れにゆきたしと便りありし也。他に中村文子、潮岬よりヱハガキ。 浦本浜子、安部育の2人にあとのこと原君にいへといふ。丹羽美沙子別れに来り、衣料と菓子賜ふ。青木弥生子(ふろしき送り来る)、井上睦子へ礼状。 悠紀子17:30帰り来り、大江叔母に15分間会へしと。初枝叔母胃潰瘍にて面会謝絶と。清水生に電話すれば、明日来て猫引取ると。住山重子にbasket部への礼状。友井啓輔君へ礼状。湖東君に電話かけ、美千子見られざりしをいひ、送別会ことはる。 夜、衣川母と対談中の原君に事務引継ぎし、釘賜へといふ。赤星来りしに24日12:00よりの会に出るといひ、林夫人よりの電話とりつぐ。 3月21日(春分の日) 西村生より電話ありしに俣野の勤先教へ「会ひにゆけ」といふ。昼近くなりてはじめて八木君より電話「14:00ごろ来る」といふに「すぐ来よ」といふ(信子君来られずと)。 11:00清水文子1人にて来り、田中文子、谷川真佐枝みな来られずと。致し方なく13:00会社より来りし老爺と本の荷造りし、15:00選択終って15箱を作る(300円礼せしと)。 福地君に電話かけ来りし故、叱りてすぐ来よといひ記念撮影し、小猫を箱に入れ、14:00出て鶴橋にて猫つれし清水生と別る(悲しく、児女の情に我と呆れる)。 八木嬢の同僚への祝といふ陶器の選択手伝ひ、ともに特急にのれば「あやめ池」臨時停車。別れて上田家へゆけば「(※見合)いまだ決心つかず明日電話にて返事す」と‼ (けふ本の選択にて東洋語学、鴎外、春夫そのた1/3を京都に置かざるを得ざりし)。 石田嘉子生より「その中会ひたしと」と。東京へ去ることを告ぐ。原夫妻、25日帰郷と。無責任なることかな。 18:00西宮君来り、悠紀子も留守なりしに、谷君難航(推薦が古田氏との理由で)と置手紙しあり。 3月22日 9:15帝塚山短大に電話すれば河原女史出、退職手当のこと云へば中村門左氏に云へと。古田秘書に電話すればをらず、中村事務長呼び出し、手当出しときは大江叔父に送ってくれと云ふ(大河原君に電話せしに起きて来り、日通に云はんと)。 大河原君より電話、「日通の友人病欠のため徳庵駅長に通ずるやうにした」と。ふと気づき近鉄Tourist Bureauの野崎善男君に電話し、24日夜行の寝台券たのむといひ、筒井護郎に電話せしに不在(3回とも不在にて、東京へ去りしといへと云ふ)。 父、午すぎ来り、酒代として母(※義母)に内緒にて5,000わたす。祖母ののこせしタンス、水屋は売ることとしたり。 けふ吉田恒子らへの『悲歌』ゆき子に送らせ、西宮君と石田嘉子へのハガキも出さす。(昨日須原教授の写せし写真もち来りしと)。 夕方、大江叔母に電話し、10万円月曜に貸してもらふこととなる。(野崎君より電話あり、寝台全くだめと。16:10の普通にてゆかすこととす)。 上田阿津子の父より電話、「仲介人なしの直接交渉にては如何に」と。井上文夫君にきいて見るといひ、電話せしに「父母に相談す」と。福地君と話しゐれば返事かかり「母者だめと云ふ」と。「その通り伝へん」と答ふ。 福地君、大東博士夫人のため歌かかす。赤星けふ結婚のため帰郷。けふ丹羽美佐よりハガキ。「敬意を表しに参りしことを認めよ」と。 3月23日 8:00起床、9:00来し福地君と京都行の本を入れる。昼まへまでに大凡すみ、うどん食ひて帰りゆく。上田阿津子に電話し、この話打切りと云ひしもわからざりし様子。 康平叔父に電話せよと父より云ひ来り、すぐせしも不在。甚幸来り、1,000の餞別くれし。あとにて康平叔父より電話、「明日、家明け渡す」といふ。 父来り、山下幸雄に550の日給と云はれしと。八木嬢に電話、「来阪しゐる」と。明日の見送りことわる。 夕方入浴し、鍛治初江君来りしに出て話す。Tobaccoたまひし。そこへ河野岑夫来り、cake呉る。夕食し、3人にて出、京橋にて岑夫君と別れ、梅田に鍛治嬢ともなひ、lighterに油いれ(5)、喫茶。おごられ、別れて石橋。 小高根邸へゆけば夫人出ず。明日20:00増山君帰朝を迎へにゆくと。『果樹園』1日ごろ出来る。4p増すと。『悲歌』5冊預く。(けふ疋田君よりと鍛治君1冊買ひくれし)。(井上文夫君来り、礼にとwhite-shirtたまふ)。 出しあと渡辺三七子生より電話、「(立川)太田夫人にたのまれた。出発の時間しらせ」と。湖東君よりも同。(けふ羽畑桂子より別れのハガキありし)。 3月24日(日) 7:30起床、8:30山下来り、史の分と京都行の本積込む。寮生2人手伝ひくれ、出しあと6周年祝として1,000わたす。日通のauto三輪来らず。佐伯翁荷造りしくれ、了りて悠紀子催促にゆけば一向大河原の話通じをらざる様子也。 11:00来り(鈴木一雄君手伝ひに来り。母吐血せしと)、やうやく積込み、悠紀子駅まで同行(あとにて聞けば、運賃田端駅払ひとなりしと)。 われは寮の会に出て酒のみ、一場の挨拶す。15:00ともに出て山本八郎夫妻、松井母者の見送りを受く。(砂糖礼にせし佐伯氏も来る)。鴫野で妻子下車、われは吹田。山本治雄宅にゆき泊めてもらふこととす。 16:20駅近くまでゆき、汽車の走るを見る。大阪駅頭の混雑はなはだし。 3月25日 9:00目覚めしも出る時11:00。天六に出、喫茶後busにて上六。鶴橋まで出、note(20)買ひ、天王寺をへて藤井寺。大江叔母待ちわびてtaxiにて往復せしと。三和銀行の10万円の小切手(心斎橋支店)貸してもらひ、初江叔母見舞にゆけば、その2妹あり。別れて駅頭にて清水生に会ひ、柏原、西岡、平岡、田中、福井、谷川、山本と8人よりの贈物neck-tie受取る。 京都駅より羽田に電話すれば夫人出られ、大学にて待ちわび、帰宅し来ると。後ほどゆくといひ、下総町(※父宅)にゆけば父母をり、母、本をあけ並べてくれしと。史の言に「この本10万円」と。送金の件で気まづくなり、lighter忘れて出しも、母追って渡し呉る。 羽田家で酒よばれ、21:00のbusにて京都駅。折から来し「彗星」の空きゐるに気付きのりこみて坐る。// 昭和32年3月26日~昭和32年8月7日 「東京日記」 本冊画像PDF 20.9cm×15.0cm 横掛ノートに横書き 3月26日 沼津で弁当買ひ、7:27東京着。 駒込をへて小池むめ氏方につけば、依子、悠紀子受験にゆき、京、弓子残りをり。京つれて向丘高校にゆき見れば、依子試験場にをり、悠紀子見えず。京としるこ食べてのち、小池方に帰りひるね。 12:00悠紀子帰り来り、きけば岐阜まで坐れざりしと。富士ハウスの寮生多く送りに来しと。 13:00出て上中里駅より東京駅。西川訪ぬれば不在。産経までゆき見れば田中順二郎不在。taxiにて吉野書房へゆけば長尾良不在。大阪書籍の鈴木支社長も不在。 三越をへて前を通りし東京銀行に寄り見れば、奥戸会議中。産経にゆきしに順二郎まだ帰らず。置手紙して(数男(※義弟)に悠紀子電話し、われ小山正孝君に電話せしに不在)、地下鉄にて池袋。省電にて田畑をへて上中里。近くの空室訊ねしもわからず、帰りて早夕くひて寝る。悠紀子、小池嫗と話し来る。 3月27日 5:00起き、悠紀子に飯炊かせ、9:00依子と発表見にゆかす。12:00帰り来り、通りし女児2人の1人と。悠紀子に田中順二郎君への電話させしに風邪にて欠勤。小林氏案内さすといふに断りて、西ヶ原2丁目のapart見にゆき、夫人入りてほしかりしらしきも、5月末とのことに考慮して王子まで歩く中、相沢といふ斡旋屋の広告見て入り、王子駅北すぐの岸町1丁目に建ち了りしばかりのapart(※北区岸町1-7中込アパート)の階下2室よしと思ひ、帰りて斡旋屋にゆけば「家主旅行中にて明日夜まで待て」と。権利金1室1.5万、室代4,000+4,500と。 別れて神田、大書支社へゆき鈴木支社長に会へば、(※向丘高校の)校長教頭に会ひ「まあついて行けるでせう」と云はれしと。 前田社長の令弟専務をり、長尾良に置手紙して支社長への礼、高島屋の切手1,000渡してくれるやうたのみ、歩きて日銀前に出、鎌田人事局次長(※鎌田正美)に会ふ。4月初、歓迎会すべしと。紅松一雄君に案内してもらひ「大学講師をさがせ」ときき、また歩きて西川英夫訪ぬれば用談相手は大江叔父なりし! 小切手現金に換へんとの手紙をことづけたまふところなりしと。同buil.の7階の十合事務所につれゆかれ、三和銀行京橋支店まで同行、10万円を現金にて賜ふ。別れて都電。 赤門前で下車、藤島亥治郎『台湾の建築(120)』買ひ、西川宅へゆき見れば「早くは帰らず」と。長男日本医大に入れしと。「小池嫗への礼につき教へよ」といひ、帰りて夕食。 西川気付にて井上律子「清水姓となり『悲歌』受取りし」とハガキ。 3月28日 悠紀子は京と依子つれて家さがし。われ弓子を留守におき、「お茶の水」へ都電でゆき元々社さがせしもわからず。小山正孝君に電話すれば会議中と。 12:00また電話するといひ、角川書店へゆき松原純一氏訪ひしに不在。代りに山本容朗君といふが出て『西脇順三郎詩集』もらふ。市村其三郎の『日本史』新刊と掲示あり。 歩きて山本書店に出、元々社きけどわからず。蒲池歓一氏に電話すれば裏と。ゆきて小山君に再び電話し、神保町角まで行きてともに待てば来り、喫茶し、話し、出て蒲池氏と別れ、小山氏と昼食し、西垣君の電話番号をきき、別れてお茶の水。 上中里駅より帰れば悠紀子らすでに帰り、良き家見つからざりしと。入浴(15)、夕食して18:30。悠紀子と相沢克己といふにゆき見れば、まだ管理人旅行より帰らず、あす8:00再訪を約す(けふ田端に荷物つき9,000の運賃と)。雨降る。 3月29日 4:00起き5:30朝食。7:30に依子と京つれて相沢克己にゆき見れば、まだ交渉しをらずと。電話かけて「宜し」となり、ともにゆき権利金8,500円、家賃8,500、相沢への謝礼8,500払ひ、依子らのこして相沢方に帰り、やがて来しauto三輪にて小池嫗に挨拶し、積込みて中込apartに戻り(400)、荷解く一方、悠紀子は田端駅へゆく。やがて来し27個の本箱ひらき、12:30、3女つれて近くの支那そば食ひにゆき、夕刻やっと本並べ終る。 18:00悠紀子、3児をつれて西川夫人に礼にゆく。22:30帰り来り、西川にも会ひしと。「関口、札幌の棍成第一旅団長に転任、4月8日16:06上野発。歓送迎会を4月3日やる」と。 父より転送のハガキ。丹羽千年(24日)、田中雅子(24日)、角川第3編集部よりのアンケート。『ユリイカ』より「立原君の詩」の再録いかにと。 3月30日 朝より大江叔母、父、小高根二郎、小山正孝の諸氏に転居通知かき、入学手続に妻と依子出てゆきしあと、関口宅へ電話すれば夫人出らる。産経に電話せしに田中順二郎君他出、中込アパートをしらせ、近くの印刷屋に転居通知300枚あつらふ(260×3)。ついでその上の山本歯科にゆき右奥歯みてもらふ。 西川に電話すれば「3日の会、室君(※室清)せわしくれゐる」と。13:00出て渋谷をへて東横線祐天寺下車、白鳥清先生訪ぬれば御在宅。 (※夭折の子息)郁郎君のこと話さる。手塚君(※手塚隆義)と話し、来年立教の大学院に呼ぶと。 出てbusにて渋谷。青年座たづねまはり、ゆけば「大、痔のため来をらず」と。男女俳優の稽古中なるを見る。電話して明日あたり来よと家教ふ。 帰りみち、看板見て映画「カラコルム」を見る(50)。岩村、山崎、梅棹3氏の姿見えたり。天然色にして山はうるはし。帰宅17:30。 悠紀子ら待ちあぐみし様にてすぐ数男宅へと出てゆく。23:00帰り来り、船越章殆ど失明、妻を派出婦とし、母をも働かしゐる。100万円蕩尽は女ゆゑとの陰口なり。数男太り、俊子(※悠紀子姉)しは寄りしとの話也。 3月31日(日) 9:00山本歯科にゆき健康保険証返却してもらふ。明日も来よと也。城平叔父に礼状かき、浅野晃、林富士馬の2氏に配慮を謝す。 11:00西川英夫来り、区役所の転出すませくれしと。小池嫗へは礼に物もちゆくらし。4月3日の会は会費払へと。我もともに出る気なりしも、田中順二郎夫妻も来るかと。(※順二郎夫妻参加させるのを)とりやめ送り出す。 15:30入浴、田中雅子、尾崎菊子(西川気付にて写真入りの手紙よこす)の2教へ子にハガキかく。 けふ父よりのハガキ見しに西島寿一退院の通知来しと。伝田雅子の『足音3』転送す。蒲池氏より150の現金書留!来りしと。 (※中込アパート)階上の弁護士、平野静雄氏(酒巻法律事務所と)挨拶に来る。けふ我も管理人村田氏夫妻に挨拶し、家主中込夫人に挨拶受け し。 4月1日 共済組合証を王子郵便局にて書留にして短大へ送り返す(45)。八木嬢にも手紙。 それより東洋文庫に寄りしに11:00まで誰も来ずと。和田先生は第二火曜の10:00に来らると。 歩きて東洋大学へゆき、大森君に転居通知し、大野課長にもしらし、明日組合証明書もらひに来ると約し、東大より昨日電話ありしと云ふに、文学部研究室にゆけば、けふより休み。東洋文化研究所にゆけば善海(※松本善海)は大塚と。 西川に寄り夫人に会へば、速達来りしを会社へもちゆきしと。電話して小使にもちゆかせしと。3日の会「鳥九」でときき、帰宅。 印刷屋で校正見、昼寐せしあと読売新聞をけふからといひにゆく(速達は証を返せとのことなりし)。 夕方また速達来り、3日の教授会に出席を令す。 17:00出来し移転通知22:00までに200枚かき、途中山本歯科にゆけば、今夜疼むとおどかされ、明後日また来よと。 4月2日 移転通知王子局へ出しにゆく。料金別納の印は自ら捺す(228×5)。あとにて横田利平、加藤順子と2枚追加かく。悠紀子、西川夫人に会ひにゆき、井上福蔵、睦子父こよりの手紙と小高根君のハガキと『果樹園15』10冊ととり来る。 15:00出て東洋文庫。榎君(※榎一雄)と話し岩井主事に会ふ(閲覧券の為なら会はずともよしと云はれし)。 羽田より宜しくたのむと云ひ来ありと。 すみて山根幸夫君に会ひ、東洋大学のこときけば、「皆うるさく、いい加減に切り上げよ」と也。 森君に会へば「証明書まだ出来ず」と。あさって来ると。出て帰宅。『果樹園』に池沢わがことを書く(※15号編輯後記)。伝田雅子に『足音3』の受取。 4月3日 井上父子、菊地成子に転居通知。小高根二郎君に受取。杉浦未亡人に『果樹園』。悠紀子は父、大江叔母、原義元夫人に手紙出す。 小高根二郎君よりあと5冊送ると。浅野晃氏より「連絡とれ」と。 14:00出て(悠紀子、柏井玉子叔母見舞にと高円寺にゆく)登学。事務室で待ち、健康保険代用証もらひ、15:30教授会に出る。我と某老師(浅井治平)と新任として紹介さる(芳賀氏(※芳賀檀)欠)。 17:00すぎまで会議つづき、学長候補に齋藤晌氏選出。小室栄一氏に自己紹介受く。元々社より本出せしと。 西川に予め電話して、都電にて銀座東「鳥九」へゆけば、関口らすでにあり。杉野祐二郎珍し。あと丸を最後に久保、紅松、室、西川、奥戸、鎌田、高垣、原田と12人集り、会費1,600(われ1,200わたし、あと西川に借りたり)。酔ひて関口の車に西川、丸とのせてもらひ、西川を本郷で下ろし、われも王子で下車。 父より手紙来り、角川の11,900来りしが預ると。不快。夜半起きて水のむ。依子の写せし(※富士ハウスでの)写真出来をり。 4月4日 竹内(※竹内好)、倭、矢野のクラス会欠席者に挨拶状出す。蒲池氏に同。松本善海より研究所と自宅の電話しらし来る。林敏夫より「いとこ会」を4月21日(日)にやらんと。 中河与一先生より「一度来よ、ラマンチャの会14日(日)16:00から」と。西下経一氏より歓迎と。 悠紀子、平林英子、父に手紙かき、京は原秀子に写真送る。 善海に電話かけ、明日ゆくといふ。山本歯科に証明書を出す。加藤定雄君に転居通知。山本八郎夫人静子より手紙と写真を悠紀子あてに。 帝塚山学院より私学教職員共済組合長期給付組合員手帳送付し来る。川端直太郎氏と畠山六右衛門氏より挨拶。 夕食すまし、悠紀子火鉢を買ひにゆき、我は藁灰を作る。 19:30大森倖二氏と服部嬢と来り、果物一籠たまはる。「ラマンチャ」の会にほぼ出席と中河氏に伝へることたのみ、手帳を托す。 林俊郎に21日(日)家族の会にせよといひやる。 4月5日 9:00山本歯科。朝の郵便まてば10:30となる。八木嬢より「信子君あきちゃんの家に10日頃までゐる」と。秋山昭子夫人より「赤坊のため訪ねられず」と。 12:30出て大塚をへて東洋文化研究所へゆき、松本助教授善海君に会ふ。『大木文庫目録』を賜ふ。見たきものなし。 出て地下鉄にて産経へゆけば田中順二郎君恰も空きをり、喫茶して「雅子夫人赤ん坊の先天脱臼にて外出できざりしも7日(日)訪ね来る予定」と。 別れて神田へ歩き長尾良君を訪ね、中学参考書 (※の原稿)引受ける。喫茶し、14日(日)16:00ラマンチャの会にともに出んといふ。 都電にて帰宅すれば、西垣脩氏来りのちほど又来ると出しと。郵便多く、転送は井上恵子、伝田雅子、民子叔母、中谷(旧姓中田)充子、堀内歴、蒲池歓一、南村和子の諸氏。転任通知に対し、太宰施門、野田又夫、神田喜一郎、前川佐美雄、相野忠雄、小野勇の諸氏。他に山中タヅ子より哀れなる手紙。 西垣氏再来、『果樹園』の会を11、12日に久礼田邸にてやることとすと。「この間、山本藤助氏上京、田中が厄介になってゐはせぬか、と云ひし」と。不審。 入浴(西垣氏『悲歌』代金として1,050置く。余りは返さん)。(けふ西川に2度電話せしも不在。明日の会のことわからず)。 夜、南村、萩原母君、中谷充子、井上恵子へハガキ。 4月6日 王子中学へ弓子つれゆく。2年5組山下先生担任ときまる。校長荏本(エノモト)太三郎氏と名刺交換す。 すみて教科書買ひにゆき(770)、炭取り(140)買ひ、史へ「畠山氏と連絡せよ」とのハガキかき、中河与一先生に「14日(日)伺ふ」とかく。 山本歯科へゆく。和田久徳、鹿熊猛2友より「栄転を喜ぶ」と。昼食後、新宿よりbusにて成宗へゆき、交番できけば堀辰雄氏の家のまへを下りし井上といふ家が高野明子の貸間。ゆけば「きよし」といふ男児と婆さんとあり。大きな腹をし「昼ねしゐし」と。 依子のワイシャツたのみ、信子君と9日に来るといふをききて出、加藤夫人(※堀多恵子義妹)に会ひ、転居通知わたす。堀多恵子氏も外出と。 電車にて高円寺、赤川君(※赤川草夫)にゆけば、夫人とほくより吾を識る。このごろ嬢と駅前に酒場を開くと。Beerのまされ、丸家(※丸三郎宅)にゆけば夫妻ともに在宅。話せしのち関口家に電話し、明後日の出発16:05と坊にききて帰宅。 坂根母堂みつせ氏より千鶴子生のこと。瀧口喜久子より手紙。池沢茂、小川浩(渡辺坦治翁79才で3月10日卒去と)。堀内民一、入矢義高、羽倉裕景の諸友よりハガキ。 夕方、2女とたばこ買ひに出てアテネ文庫『産業革命』買ひ来る(けふ富士ハウス大江君より写真多く来る)。東洋史研究会へ移転通知。 4月7日(日) 清水文子へ写真送る。〒朝のみにて野崎生と無名(森良雄博士なり)。散歩にゆき『週刊朝日』買ひ来って待てば、田中順二郎夫妻12:00すぎ来り、菓子おきて去る。小林氏の方のことはり宜しと。20日すぎ大阪より帰り来ると。我よりも答礼にゆくこととす。13:30去りしあと、他は来ず。 4月8日 子ら始業。京はひとりでゆき、依子は入学式とて悠紀子つきて出る。沢井種雄判事、今沢幸に転居通知。田中春太郎dr.に同。大江叔母に退職手当催促すべきや否、相談す。山中タヅ子に手紙。 郵便多く、父より10,000転送。硲晃君より餞別に2,000。その外、堀内歴君より『果樹園』代として400。久礼田房子氏より「自邸にて12日(金)17:30より会す」と。 杉浦源次、末吉栄三、藤井通雄、北野徳治、前田善弘(帰郷のため見送り出来ざりしと)の諸氏よりハガキ。大江久美子より赤坊(艶子)の写真。 鍛治初江君より「坂根父君の会社より招かれしもことわりし」と。 太田陽子夫人より「5月25日頃上京、藤野夫人も5月上京」と。果樹園社より14号の決算書。 12:30悠紀子の帰り来ると入れちがひに出て、東洋文庫にゆき、金尚憲『清陰集』よむ。 14:30出て都電にて上野。すでに関口からplat-formにあるを知らず。juiceのみなどして15:45入り見れば西川と川崎民昌とあり。関口は(※自衛隊より)星2つ、3つのが1人送り来し。長嬢泣く。汽車の出しあと池田徹と西川、川崎(杉野祐二郎来りしも帰り)と4人にて東京建物地下の「蘭」にゆきbeerわれは飲む。 帰れば大より「痔にて入院」と。大江叔母より「高い家賃でどうするか」と。荒木利夫氏より26日18:30依田、山前2氏と京都駅へゆきしと。楳垣実、竹内好(旗田氏(※旗田巍)人文学部長と)、江口三五、中野清見(4月中に上京と)諸友より「上京よろし」と。 岩崎昭弥より「果樹園の色彩ちがひし」と。山本敬子生より「東京へは嫁げず」と。 4月9日 新聞で(※『李白』の)広告見しあと筑摩書房より使ひ来り、印紙1,000枚に検印さす。これと同時に我も出て(名刺100枚150出来)文庫(※東洋文庫)。 昨日に引き続き『清陰集』よみをれば、和田先生お越し。伺って東洋大へ推薦されしこととなりをる旨云へば「承知した」と。「学問の仲間を」と云へば「南海史よみにいかにや」と。『清陰集』より殆ど得る所なく、11:30出て帰り来れば平林夫人(浅沼氏)来をる。昼食にとりしそば食ふ。 西川より転送は吉田恒子生の『悲歌』の受取。他に神田信夫氏より「老档研究について教示を」と。 散髪にゆき(100)、本屋にゆきして待ちしも松井信子姉妹来らず。 午后の郵便、東孝子、岩田生(連休に上京し来ると)、同妹の手紙。初枝叔母、隅田先生、鹿内健三学長、川久保悌郎(4月休中に上京の予定と)の諸氏より栄転祝賀。 16:00入浴、歯科へゆき『万句合』買ふ。 4月10日 大江房子に見舞。長尾良に14日中河邸へと訂正。堀内歴に『果樹園』代の受取。池内一氏より挨拶状。 (※村上新太郎の)『薔薇』「また詩をかかすつもり」と。 山本歯科へゆけば「4、5日来ずともよし」と。12:00学校へゆき大森氏に会ひ、時間割もらへば和田先生の仰せ通り夜学のみ3時間。大森氏、心配げなる顔しゐたり。 出て研究室見にゆきしも入るに由なく、すぐ出て都電にて駕籠町、それより伝通院前に出、思ひついて芳賀檀氏に電話かけしもののかからず、坂下町さがして着けば全家留守。名刺ほりこみ、また歩きて芭蕉庵の前通り、早稲田に出、あんみつ食べて早大文学部事務室に石口敏郎君のこときけば、第2文学部の教育出と。下宿教へてくれしも29年の届けゆゑ駄目と分り、busにて高田馬場、代々木八幡の井上病院に大(※弟:西島大)訪ぬれば経過良好と。「肉親より友達の方たよりになる」と。 出て本位田重美氏訪へば在宅、いろいろ話し夕食とお酒たまふ。その中(※大学内での)内戦心がけおかんと。昇君(※本位田昇)9日着任と。 20:00出て渋谷をへて帰宅。 けふ14:00高野夫妻と松井信子氏と来り「今夜帰阪」と。はじめよりけふ来訪のつもりなりしと。長沖一氏より写真を速達にて送らる。千川より詩のりし『俳句作家』。藤田福雄、松浦良雄、山根忠雄の3教育家よりハガキ。林俊郎君より5月19日(日)にいとこ会したしと。 4月11日 寒し。長沖一氏へ礼状。岩田姉妹へハガキ。悠紀子、下十条(駅の名4月1日より東十条と改まる)へ買物にゆく。 長沖氏より入れちがひにハガキ。加藤定雄君より「元々社つぶれし」と。 われも午后東十条へ散歩にゆく。古本屋1軒あり。(石口君しらべんと淡交会といふに電話かければ「淡交」と関係なしと。淡交寮といふに電話すれば炭鉱関係と。可笑)。 午后の郵便として福地君、高松より。東順子「父母に結婚せかされる」と。 4月12日 8:00家を出、都電にて小台下車、果物買って(300)鹿熊猛君を訪ふ。一間を借り、夫人と朝食中。Arbeitたのみて出る。田端まで歩き省線にて帰宅。 小高根太郎君より「内職さがさん」と。芳賀檀氏より「百万の味方を得し」と。寿一(※西島寿一)より『李白』の広告見たと。 12:30出てまづ湯島まで都電、小雨そぼ降る中を筑摩書房にゆき、井上君に会へば、けふ『李白』送りしと。6冊買ひ鈴木俊、高垣、原田、本位田重美、小室栄一の諸氏に署名して送ってもらふこととす。 歩きて東洋経済の前に出しに、寄り見れば原田運治未出勤。日銀へ寄り見れば鎌田正美会議中と。『肉蒲団』の伏見沖敬訳を受付に托し、東京銀行に寄り、奥戸武に会ひ『李白』と『万句合』とを贈り、西川英夫に会ひにゆき(東銀で電話かり本位田昇と話す。中野住宅に住むと)、土産なくなりしに困る。 大江叔父来ゐるといふに、ゆき見れば不在。名刺を托して出、時間余れるを承知にて五反田にゆき、雲呑たべて戸塚橋までゆき、古本屋にゆき『中国現代史(70)』買ひ、新本屋で『Soviet百科中国史』買ひし。 雨にやむを得ず17:00久礼田家へゆく。17:20浅野氏来会。やがて帰り来られし久礼田博士と話し、18:30より(※ラマンチャの会) 開会。芳野(※芳野清)、西垣(※西垣脩)、小山(※小山正孝)、林富士馬、森房子の『果樹園』同人の外、知念栄喜、糸屋鎌吉(明治44年4月8日生れと)、曽志崎信三、萩原葉子、鈴木亨の諸氏来会。22:00までゐて浅野、小山、芳野、知念の諸氏と出、小山駅より目黒、池袋、赤羽をへて23:45帰宅。 川久保悌郎君より「上京中につき連絡せよ」と速達あり。田中秀子、辻芙美子の2生よりハガキ。植村清二先生より「上京うらやまし」と。 他に悠紀子あて史と八木嬢とよりの手紙来をり。 4月13日 8:00川久保君に電話し、来宅を乞へば「来る」と。『果樹園』に「西堤の家」3枚書きしころ来る。いろいろ話し、松本善海君に電話すればこれまた午后来ると。14:00まで待ち、やっと来り苺賜ふ。折しも筑摩書房より『李白』2冊来りしゆゑ、良き土産となる。『悲歌』ももちゆき川久保君は神田信夫氏の『呉三桂』その他もちゆく。2人とも家族少なく生活も楽にして羨ましきこと也。 午前中、大森倖二氏より転居通知。加藤順子より「バスケット部合宿効ありし」と。 午後、山本恭子・実子姉妹より「4月初めは上京しゐたり」と。根木豊生より惜別。高松直子生より「日本生命にて楽し」と。沢井種雄判事より「栄転を祝す」と。和田賀代氏より夫婦にあて「その中訪ねる」と。 4月14日(日) 荒木、福地、田中秀子、高松直子へハガキ。小高根君に1,000送る(同人費500、売上90、堀内会費400)。12:00『西堤の家』9枚かく。 杉浦美都子未亡人より「九州にのこる」と。伊東花子未亡人より「このごろ体良し」と。手紙出し、王子郵便局へ速達出しにゆく。 12:30出て新宿で一休みし、小田急にのりて経堂。小高根家へゆけば太郎あり、戸板女子短大に話してみんと。さそひて16:00中河(※中河与一)家へゆく。 「ラマンチャ」の同人会、一昨日会ひし糸屋、曽志崎2氏の外、堀内幸枝氏あり。船越章のこと訊ねらる。1時間合評会につきあひ、座をはづし中河幹子女史に会はしてもらふ(長尾良さしつかへありて来られずと電話ありしと)。 出て駅前交番にて訊ぬれば、小畑信良閣下住まはると。新宿でまた下車、20円古本屋にて北山康夫『近代の中国』買ひ、赤羽をへて帰宅。夕食、入浴。 21:00訪ふ声に誰かと思へば岩崎昭弥!村田家の犬に咬まれしと。「20万円出来しゆゑ使ってくれ」と。22:30帰りゆく。 4月15日 八木嬢へ改訳送り、歯科へゆけば「書類出来るまで治療まて」と。(悠紀子をして村田家へ犬のこといひにゆかせしに「狂犬でなし。犬きらひを咬む。傷その他は弁償す」と)。 山本恭子・実子姉妹、根木薫嬢へハガキ。父より手紙。奈良女子大より10,275来しと。浦井千恵子より「入学式に名きかずふしぎに思った」と。西宮君より「谷省吾君、講師に決定。漢文は石浜先生に一任となりし。高中小の教師で組合こさへた」と。 塩見薫教授より挨拶。井上睦子より近況。『東洋史研究15の4』来り、-90と。 14:00本位田重美氏より速達、「18日18:00坂本泉、河田為也氏らとSchinzinger先生を呼びて会食、もし会に参加するなら河田氏に電話せよ」と。 15:00父より転送『詩と現実』『芦笛』『美酒』。他に食物栄養の新卒堀田節子より礼状。 けふガラス障子を修繕、しまりなくなる。西宮君へハガキ。 4月16日 9:30〒来り、長尾良より「気分あしくなりし故」と(※欠席の)あやまり。志野和子より「日本製鋼へつとめた」と。 出て東洋大学。大森倖二氏に健保のこと云へば致し方なしと。 芳賀氏(※芳賀檀)来講とのことに講師室にゆけば恰も在室「11:30より昼食をともにせん」と。都電にて三崎町にゆき古本屋見しが何もなく引返して会ひ、天ぷらとbeer、真赤になりて戻れず、別れて本郷を散歩。 通りの古本屋みな見しが何もなし。三井不動産の河田為也氏に電話すれば「Schinzinger先生差支あり、会やめる」と伝言あり。本郷三丁目より都電にて帰宅。 けふ買ひしは河野密『孫文の生涯と国民革命(40)』。堀内(山本)信江より「体よくなり幸せ、弟中央大学へ入り、父上京の時、藤田亮策先生 近くゆゑ訪ねて宜しきや」と。「宜し」と返事かく。金子多美子講師より挨拶。大江房子より勉の所しらし来る。この間のわがハガキ名をしるさざりしと。 4月17日 〒なし。9:00すぎ声かけしは小野円城君。隣の労政事務所で新入社員の講習に来しと。正午来るといひ、待てば13:00来り、20日まで引きつづき講習と。この家の近くなりしは知らざりしと。 増田春恵より東京転任待つと。弟、急死せしと。手紙の字で履歴書の字は他人のものとわかる。渡辺三七子より「楽しく勤めゐる」と。 野田宇太郎氏より「一度会ひたし」と。小高根二郎君より16号の内容。わが送りし金つきしと。石口君の住所、この間早大でききしと同じなりし。淡交salaryを出さざりしと。上田阿津子に手紙かき、石口君に「連絡とれ」とハガキ出す。 (けふ平野弁護士新婚旅行より帰り来るとて、叔母君よりcake1箱賜ひし。) 18:30出て東洋大学。大野課長にきき講師控室で待ち、20:15「18号室」といふにゆき見れば消灯(※聴講者なし)。他の教室にも人影なく20:25帰り来る。 4月18日 家居。芳野君より石口君の所しらせ来る。小高根君のと同じ也。午后福地君より高松の様子しらせ来る。岩崎昭弥に犬のわび状。けふ依子の旅行積立返却を受く。 4月19日 朝より悠紀子十条の職安へゆく?依子炊事す。本位田重美氏より手当のこと折を見て話さん、『李白』は受取ったと。小高根太郎より「戸板短大よりはことわり来し」と。 午、十条へnote買ひに出る(50)。午后、矢本貞幹氏より「研究室へ行って(※転任)知った」と。大江叔母より「もう少し待て」と。矢本氏と平田春一氏へ挨拶状。 16:30登校。2時間とも聴講なし。大野課長にいひて帰り来れば、大19:00ごろまでゐしと。京都へ3,000送金したと。 4月20日 悠紀子働きに出る。われ9:30児玉君のこと訊ねしに、けふは新宿にゆきしと。出て飯田橋より角川書店。主人をらず松原君をらず。若き女史(野田?)出て(※貸した)『コギト』その中もって来ると。 出て日本歯科に北園克衛訪ねしに未出勤と。名刺おきて神田へゆき古本屋みる中疲れ、お茶の水をへて帰宅。 川久保より礼状。『ユリイカ』立原の特集号。小高根太郎へ相模女子大よろしとことわり、歓迎会も同じ。福地、畠山、渡辺三七子、森房子の諸氏へもハガキ。八木嬢に「cardたまへ」と。悠紀子18:00帰り来り、仕事単調と。 4月21日(日) よべの雨にて昨日汲取りし便所に浸水。鈴木亨氏に『果樹園』同人加入をすすめる。 〒松沢教頭よりの礼状を西川より転送。小高根二郎君に芳賀檀氏同人加入の件を報告。 12:30青木陽生、千草、秀樹と来る。大江房子の入院知らざりしと。夜、鍵を悠紀子買ひ来る。 4月22日 8:00みな出てゆく。西垣脩氏へ300借りのこと。大江叔母へ退職手当のこと。清水文子生より「猫にチョコ・ボンボンと名づけ元気」と。辛島驍博士より「この間の水曜、村上君と研究室にて20:30まで待ちし。この次は19:00より会す」と。 峯明子生より「4日まで東京にゐし」と。悠紀子へ山本静子夫人より受取。昼食にpão(※パン)1斤(30)買ひ来る。 4月23日 けふも雨。岸明子、清水文子へハガキ。藤田幸子夫人より挨拶。森房子氏よりこのあひだ中河邸へおくれて行きしと。石口君の友人、山中玄造氏より同君帰省中と。村田幸三郎より「出張中なりしが当分在京」と。 簡易保険の集金来り、明日再来を約す。14:30京帰り来り、14:45依子帰る。われ傘もちて出、東洋大学へゆき、齋藤文学部長に会ふ。 「ドイツ語2時間もて」と。同時に野尻貞雄学生部長(一般教育化学)、広池利三郎教授(哲学)に紹介さる。 出て大森君に会ひ、会計課へゆき見ればsalary出をり、本俸29,000家族手当2,250-源泉所得1,000積立金100=30,150。 大森君と明夜beerのむを約し、出て正門前まで歩き、加藤泰造『唐朝史の研究(100)』買ひ、濡れて帰宅。 三苫君より試験手当2,000来り、あひかはらず不愉快と。堀内民一君より「元々社だめゆゑ筑摩の東博君に話さんか」と。「保田、学芸大の非常勤講師となりし」と。 樫本真氏より「退院した」と。梅本吉之助君より「南生40点で落第した」と。(辛島博士への返事を大森氏に托す)。 4月24日 小雨。梅本へハガキ。王子郵便局へ62,500預けにゆく。空巣よけの為なり。 山本歯科へ健康保険証もちゆく。「治療してゆくか」と也。「後で」といひて出る!簡易保険の利子576とりに来る。 11:45また簡易保険集金に来り1,035もちゆく。森中篤美先生より便り「忘れず」と。 14:30京帰りしあと谷省吾君より礼状。八木嬢より「25日頃、明子夫妻社宅へ移る」と。父より河出書房の(※経営破綻に関する)書類転送、われにも負債6,000余りありと。小高根二郎君より「16号は5月3日出来上りの予定」と。 関口君より挨拶状。庄野英二君より「潤三君のところへ遊びにゆけ」と。 依子のこさへし夕食くひ、出て悠紀子の帰り来るに会ふ。 18:30登校。史学研究室へゆき、小室教授と話す中、辛島博士来しもごたごたして出入し不快。19:30鳥羽正雄、宮崎幸三、市村其三郎の諸教授集り紹介されしも、わが任命に異議ありし模様。ドイツ語はこれを救ふ為らし。鳥羽教授につかまり話す中、辛島博士「九大の目加田氏に会ふ約束あり」と出、みな退出、われも21:00鳥羽教授をふり切って出、大森倖二君さそひ出し、「天松」にて天ぷらとbeer1本、茶漬食って帰宅。 4月25日 朝、ゆき子寝坊せしに叱りつけ、炭1俵買はす(520)。谷[信]吾君より『日本(桃李改題)』来りしのみ。小野寿人は20年6月Borneoで戦死と見ゆ。谷、庄野英二2氏へハガキ。 河出書房債権者委員会へ委任状。午寐2時間。父より3,000のみ送り来り、清等のちにすと。大より3,000ゆきしと。 4月26日 晴。友井啓輔君へ礼状。史へ『岩波新書』と『アテネ文庫』と送れと。散髪にゆく(140)。東洋大学の税金書類を大森君より転送。服部紗智子氏より礼状。林富士馬君より「この間愉快なりし」と。青木陽生より「倭周蔵に紹介してくれ」と。13:30簡易保険また来り132追徴してゆく。 八木嬢へハガキ。頼永承君へ航空郵便にて問合せ(30)。 弓子16:00帰り来り、出て神田明神前下車、筑摩書房へゆき東(ヒガシ)博君に会ひ、堀内民一君の原稿のこと云ふ。『李白』3冊買ふ(720)。 白山ですし食ひ登校。辛島博士にと1冊托し、教室へゆき見れば無人。細川助手にきけば3年2人、1年2人との由(西田卯八博士に会ふ)。その1人に会ひ帰宅。 けふ午后の郵便にて山口玲子、上田阿津子2生より手紙。『薔薇』に5日までに書けと村上新太郎より。 4月27日 雨。前川佐美雄に手紙かき「坂戸事務局長によろしく」と。堀内民一氏に「筑摩に話して見よ」と。 5月1日14:30より定例教授会。その際辞令わたすと。鈴木俊氏より『李白』の受取。同時に中野清見より電報、「15:00東京第一弁護士会にて会ひたし」と。 12:00山本嘉蔵氏より鯛の浜焼を大阪高島屋より。 11:30でて有楽町、毎日新聞社に桐山眞訪ねしに「宮内庁に常詰」と。歩きて第一弁護士会にゆけば、丸と話しゐるは武居眞(8回文乙)。 15:30来りし中野清見と4人で八重洲口にゆき、beerのまされ竹井君に『悲歌』1冊贈り、別れてtaxiにて新宿。夕食して高野へゆきfruits食べ、駅にて別る。中野いろいろ企業に発足すと。丸にきけば退職手当要求に根拠なしと。八木嬢よりcard来り、増田より「身体に自信なきも現場にても可」と。入浴。 4月28日(日) 西川に電話かければ在宅と。関口、中野清見(杉野祐二郎のadressしらす)へハガキ。 13:00出て西川宅。葡萄酒のみ、ともに出て古本屋歩き、『高砂族慣習法語彙(250)』を井上(※井上書店)で買ひ、(Dubarbier『近代中国史』買ふ)、帰れば10分前山本嘉蔵氏、令息と来訪と。藤田亮策先生宅へゆかるとききをきし故、追ひてゆけば意外にも信江夫妻もをり、17:30まで話し、王子駅前で父子と別れる。 けふ高野明子夫人も来り、依子のwhite-shirtおきゆきししと。大島、6丁目に木曜より住むと。 (藤田先生にきけば辛島博士は中文専攻と。何で博士となりしかし。京城大の助教授となりゐしは明らかとなる)。 4月29日 悠紀子、工場へゆき、3女高野明子氏に遊びに出る。帝塚山学院会計課へ給与票送れとハガキ。 筑摩書房井上達三君に『李白』を藤田亮策先生にとハガキ。守本文生氏(※帝塚山学院の学務主事)より挨拶(退職手当のことは云はず)。卒業式の記念撮影2枚。西川よりの転送来ず。 11:00すぎ十条へ散歩。野上豊一郎『シエバの女王(70)』、風間阜『近世中国史(120)』買ひて帰り来り、昼食す。 13:00芳野清君来訪。14:30、3児帰宅。依子の料理にて夕食。去りしあと悠紀子帰宅。(芳野君、中村屋のcake1箱たまふ)。 4月30日 和田節子よりやっとハガキ、「椿下生この間、上京しゐし」と。石見益田のdr.岡崎澄衛氏より詩集『遠望』とハガキ。上村肇氏と知人と。広西よりの撤退を詩に作る。 田中雅子に「5月5日午后ゆく」とハガキ。高野明子に礼状。岡崎dr.に寸感。和田節子に「椿下生を遊びに来させよ」と。 午後また〒、枡田紀子より『悲歌』受取りし。山坂上り下りしつつ赤ん坊の生長祈ると。小森明子生より「勉強せよ」と。辛島博士より『李白』の初版もちゐると。八木嬢より陽子君に会はずと。 15:00出て都電にて日本橋。三井精機訪ぬれば「倭周蔵は下丸子の工場にあり」と。地下鉄にて青山一丁目。間組訪ぬれば、池田徹は購買課長にて不在。疋田氏は出張中と。 都電にて渋谷にゆき、青年座訪へば、大はradio忙しくて来ず。中野に住むと。帰りて夕食すませ倭宅へ電話すればまだ帰らず。明朝7:30までは在宅の予定、出発は9日と夫人の話。 5月1日 晴。7:30倭に電話すれば「9:30来よ」と。いまいましがりながら出てトロリーバスにて池袋(15)。渋谷行にのりつぎて東郷神社前下車。天理教の隣のよき家に住む中学同窓に、whiskyのまされ10:30まで話す。2ヶ月で帰朝と。菊池眞一夫人によく会ふらし。陽生(※義弟)のため本社の課長に紹介かかし、三越へ買物にゆく夫婦のcarに便乗 、都電にて帰宅。 岩田生より「28日夜、乗れざりし」と。石口敏郎君より「相談に来たし」と。陽生に倭の紹介同封。枡田、岩田、小森の3生へハガキ。 13:00出て東大研究室。石橋助手に会ひ「山本教授、教授会」ときき、4日(土)東洋史談話会、南洋史研究会は水曜10:30からときく。 出て井上で『清末七十年史(60)』買ひ、東洋大学へゆく。 教授会まへ齋藤部長に会ひ本俸2.9万円の礼云ひ、ドイツ語のこといへば「のちほど」と。会議15:00より始まり「8時間以下の教授は地位危し云々」と部長説き、不快。 18:00まで会議つづき、すみて辛島博士にきけば「村上君の授業時数は今年も維持さすが条件」と。曜日がへを我にのぞむと。近々会って話さんと云ひ、今夜も聴講なしとて帰宅。 桑田博士の退職醵金11万円弱あつまりしと。帝塚山学院より昨年の所得「給料425,870賞与61,200、計487,070。税27,488+5,400未納6,312、計39,200」と。 (けふ家主中込夫人来り、契約書に印捺さし、家賃並びに敷金の受取くれし)。 5月2日 曇。京、井の頭公園へ遠足にゆく。憂鬱とれず『薔薇』に原稿ことわり、八木嬢へ米田のことたのむ。筑摩書房井上達三君より藤田先生へ送りしと。『不二』4月号ここ宛に来る。 史より『アテネ文庫』と『岩波新書』と送り来る。午后の便にて「送料285。7月は半すぎまで上京せず」と申し来る。 堀多恵子夫人より「軽井沢にあり」と。井上睦子、得津佳子2人にて天の橋立へゆく車中。日野月明喜先生より御挨拶。 小高根二郎氏より本社復帰と『果樹園』4日出来、6ポ(※新しい印刷所で刷った編輯後記の活字)不良、その中に元市(※元市印刷)へかへさんかと。 堀夫人、西川へハガキ。京、依子、弓子の順に帰り来り、雨降る。石口敏郎へ「土、日の午前来ぬか」とハガキ。 5月3日(祭) 8:30松本善海君へ電話してゆくと云ひ、9:30ゆけば迎ひに出てくれゐし。話して村上正二君の近きに気付き電話すれば来る。都立大学にをりと。月曜と金曜の交換よろしと云ひ、夫人と嬢ちゃん出しあと昼食にすし御馳走となる。 14:00出て帰宅。増田久美子より速達にて「つとめゐる。その中に初salaryより何か贈る」と。田中雅子夫人より「5日運動会にて順二郎氏不在なれど来てよし」と。陽生より礼状。父より回送にて小島樹君編集の高等国語参考書と同君のハガキ。小清水卓二博士より『日本歌人』にて転任知りしと。中林茂子、山中良造2氏より『果樹園』の会費。小清水、小島2氏に転居挨拶。西宮一民君に退職手当の調査たのむ。 5月4日 大東幸子夫人よりわが旧居のあたりゲンゲ咲く。『李白』買ひしと。渡辺三七子より「牡丹咲く」と。 午まへ案内あり、出れば石口君。よく話し、28才と。尾崎一雄、村上菊一郎に愛さると。井伏氏こわしと。13:00すぎ帰り来し依子にいひてすし買ひにやらす。15:00前去ってゆく。 岩田生よりハガキ、「増田と2人でneck-tie買ひくれし」と。13:30出て本郷、西川夫人に会ひてこの間の転送未着ゆゑ今後とめおきたまへと云ひ、山上御殿(※東大和田清研究室?)にゆけば無人。古本屋へゆき弓子へと本買ひ(50)、16:30再びゆけば和田先生をられ、「宇都宮大学の講師にゆかぬか」と。お願ひし、國學院大學のこと云へば市古君に云へと。市古君には近々訪ねることのみ云ふ。 けふの会者50人(※東洋史談話会、南洋史研究会)。中に顔知れる人、山本、榎、西島の3君の外、和田久徳君、竹田龍児君、鈴木俊、須藤、中島敏、神田信夫、岸也成雄、矢沢、松田の諸氏。松本善海おくれて来る。山本教授より新来として宮本延人氏、われも久しぶりとて紹介受く。榎君の印度滞在談おもしろかりし。20:00すみて松本と喫茶。また鈴木、市古2氏と会ひ、市古君に「清初の奴隷」わたして引上ぐ。 弓子、母に働き止めよと云ふと。 5月5日(祭日) 父より「史、全力を尽くして本の荷造りせし」と。西川君より今後転送せぬと。 千川義雄君より『俳句作家』中に句あり「酒酌まぬ別れ春灯にまむし食ふ」。われ答へて「酒のまぬ別れの座下の春の水」。 悠紀子、弓子、京つれて田中順二郎(他出と)家を訪ね、16:30帰り来る。 5月6日 小雨。京、出てゆきがけ給食用エプロン汚しといひ、悠紀子洗ひ、われ届くることとなりしも、乾かざるに炙りてこがす。代品買ひにゆけば160。もちゆきて小使さんに托す。 近藤博子生「結婚して浅田生となりし」と。午すぎ岩田、増田の贈物neck-tie来り、またしばらくして藤原、山本敬子、辻の3人より額ぶち来る。 散歩に出て帰って夕食(けふ平野夫人(※2階の弁護士一家)、電気25kiloなりしと。我家との計49kなり)。 5月7日 小雨。10:30小島樹氏よりの挨拶のハガキ(『果樹園』来ず!)見て出、上野より地下鉄にて渋谷。都立大へゆけば竹内(※竹内好)不在。 旗田巍文化部長に会ひ、矢野峰人総長に会はしていただく。『果樹園』ごらんと。 「行春哀歌」の曲は藤村より採りしに、これはまた鉄幹より採りしと。『悲歌』贈り『去年の雪』いただき、出て駅前で支那そば食ふ(『毛沢東(80)』を都立書店で買ふ)。 それより東急のりかへのりかへして洗足にゆき、浅野晃氏訪ぬれば不在。neck-tie置き、五反田に出て帰宅。 辻芙美子より送り状。瀧川恵美子生(2年)より手紙。けふ弓子遠足にゆきし。 5月8日 小雨。9;40出て東大東洋史研究室へゆき石橋君に「清初の奴隷」呈し、南洋史研究会待つ。和田久徳、白鳥芳郎の2君より知らず。山本教授来りておほむね近着印度史目録の話。15分ほどHall: A histry of South-east Asiaを山崎君?よみして了る。 急いで東京女子大にゆき市古宙三君に会ひ、國學院大のこときけば「欠員なし」と。『李秀成供』の繙訳すすめられ、toast食って東洋文庫前で別れて帰宅。 北園克衛氏より「12:00ごろ学校に在り」と。村上菊一郎氏より「9日13:40~14:00大隅会館で会はん」と。 (けふ今東光氏に「和島弁護士にたのめ、石口君よろしくたのむ」と手紙出せし)。 八木嬢よりPLに入団せしと。午后『果樹園16号』10冊と小高根・池沢2氏のハガキ来る。芳賀檀氏同人に加入せしと。石浜恒夫君にも交渉すと。瀧川生へハガキ。小高根氏に山中良造、中林茂子2氏の金おくる。 17:30村上君より速達「川口博氏逝去のため16日14:00に延ばしてくれ」と。 18:30家を出て登校。所得申告票わたせば1~3月分でなければ駄目と。史の在学証明書2通出せと。 大野課長、大森氏、会計嬢と『果樹園』3冊贈り、大学院研究室で時間つぶす。 辛島博士の講義すみて話し、法経2部の一般教養東洋史の渡辺講師?に挨拶受く。東洋大学で守屋君に習ひ、早大大学院にて松田寿男博士に習ひ、唐末専門と。 20:30出て帰り来る。平野弁護士は陸軍中尉の中央大学出と。けふ学校へ『天野美津子詩集』『詩人学校』『山本書店書目』来をりし。 5月9日 三苫君に「1~3月の給与証明くれ」とハガキへ。藤野和子夫人、服部紗智子嬢、林富士馬君へハガキ。羽田明君へハガキ。林俊郎へ「19日の会よろし」と。 村上菊一郎君へ「16日寄る」と。 坂根千鶴子生へ「一度来よ」と。東洋大学より4月1日付「本大学専任教授を委嘱する 文学部勤務を命ずる」との辞令。 浅野晃氏より「近日来訪」と。すぐ出せしに登校と。井上多喜三郎氏へ「荒木、山前、佐々木の三名」のあやまり状。天野美津子氏へ詩集の受取。16:30入浴。 5月10日 晴。平野夫人と電気料の話せしもわからず『週刊朝日』よみ、田中文子生へハガキかく。西宮君よりハガキ「大腸カタルにて今週欠勤」と。 16:30出て靴に金打たし登校。大森君に会ひ研究室へゆく。聴講card4枚来あり(2人)。西洋史27年出の高橋講師と話す。神戸大学の西洋史学会にゆくと。井上幸治君いま神戸大と。名刺わたす。 18:00出て西川英夫にゆく。春本3冊貸し呉る。こは天津以来かれが癖也。 5月11日 晴。〒午后、山根君より『果樹園』の精算書来りしのみ。赤字1,440と。 16:00訪ふ声し、寐床片付けさされて会ひしは角川書店松原純一氏と野田嬢。(※貸与した)『コギト』92冊もち来り、『果樹園』そろひ1部もちゆく。『立原道造全集』(※月報)用に3枚かけと。散歩に出てのち夕食。 5月12日(日) 芳賀氏より「明日16:00会やる故来れ」と。夕方十条まで散歩(山根君に誤植の訂正たのむハガキ)。 5月13日 晴。西宮君「しらべしに院長忘れた顔せしらし、6ケ月分」と。川崎宏子生「ガクブチもちて17日以後来る」と。 山中タヅ子嬢より「小山君の小説(※16号所載「爪は桜貝」)よし」と。 12:00訪ひ来しは坂根千鶴子。「17日青年座の試験」と。伊予蜜柑賜ふ。菓子買ひにゆかせ、京帰宅せしのち共に出て大塚。せんべい1箱(300)買ひ喫茶し、青年座に電話せしに大、伊豆へゆきゐると。 別れて芳賀(※芳賀檀)邸へゆけば馬場文翁教授(東洋大学ドイツ語主任)あり。薔薇100本、すずらんなど庭を見せられ、beerのみ始めれば林富士馬君来り、あと18:30大野文吉、橋本俊子と東洋大教務2氏来り、すしいただいて退出(大阪の平田春一氏上京に付き明日ともに会ひにゆかんと)。 けふ午后、渡辺三七子君より手紙、「立川陽子の夫君また胃病」と。小高根二郎君より「石浜恒夫君、同人に加入承知した」と。手塚隆義氏より「立教大学へ来てよし」と。 5月14日 9:30出て東洋文庫へゆき『燃藜室記述』写す。和田先生お見えにならず午帰宅。 〒来あらず。立川、山中2生にハガキ(あとにてわかりしが西保泰男君、留守に来り、平野氏にみやげport-wine2瓶、香水1瓶托し、第一Hotelに在りと云ひおきしと)。 16:30出て曙町に菊池眞一氏留守宅にゆき、母上に挨拶す。夫人9月に渡仏と。 17:00史学研究室にゆき貫(ヌキ)達人氏に紹介さる。桑田六郎博士の義弟と。辛島博士「5月末限り家追立を迫られゐる」と。 芳賀氏来室、ともに出て水道橋をへて有楽町。雨の中歩きて銀座の料亭に平田春一氏訪ね、御馳走になる。木村捨録氏(『短歌研究』編集)に紹介 さる。60才と。ふしぎな程若し。長沖氏の写せし写真贈りて東京駅までtaxiにて帰り来る。 芳賀氏「明日より20日まで近畿大へゆく」と。小高根君に会ひたまへとすすむ。 5月15日 晴。朝、第一Hotelに電話し、西保泰男氏14:00来訪ときまる。10:20東大研究室へゆき和田久徳、白鳥芳郎氏と話す中、向ふより来りしは太田常蔵君(学芸大小金井分校)。20年ぶりに話し、研究会終りてのち「鉢の木」にてともに昼食。内村君も在京と。 13:00帰宅。浅野晃氏より「17日14:00鶯谷駅出口にて」とのハガキ。百済璋子生より「いつまでも先生とゐてほし」との手紙。鈴木治氏よりの『和鷹考』見てのち、来訪せし西保君とport-wineのみ、惠以子妹にと『果樹園』と『悲歌』とを托し、ともに出て省線にて神田。都電にて「高島屋」。青木大乗個展にゆき大乗画伯、夫人と話し茶菓ご馳走となる。(※教へ子だった娘の)弥恵子生(白根男爵邸に寄寓)いま帰阪。17日17:00会ひに来るといふ(この間、西川家へハガキよこせしは、青木生または学習院の生悦住(イケズミ)生らし)。 出て喫茶、西保氏と別れて東洋経済社にゆき、原田運治君と話す。西洋史の青山吉信助教授をよく知ると(salary1万円と)。出て一旦帰宅、クラス会にゆきし悠紀子まだ帰らず。夕食して登校。 けさ速達にて来し帝塚山学院の手紙見せしが何のことなしと。1-3月の給与票わたし、研究室にゆけば学生1人あり。 講師控室にゆき川西正鑑経博学長に当選、齋藤晌氏は理事留任の掲示を見る。 20:10「18号教室」にゆけば、老学生2人あり。清朝前期史やるといひ、参考書をあげてすます。 悠紀子の旧友、小室栄一教授の実妹。栄一氏は小室翠雲画伯の養子と。世の中狭きかな! 5月16日 8:30みな出てゆきしあと「忘れられぬ」13枚と、「東京吟5首」とをかき、小高根二郎君に速達す。百済、渡辺三七子、池沢の3氏へハガキ。父より葉書「田中甚幸結婚、その式に会ひし大江叔母、退職手当のこと云ひしと。30日上京し来るつもり」と。 12:30出て都電にて早稲田、大隅会館にゆき、13:40村上菊一郎氏と会ふ。昭和17年、仏印Saigonで会ひしきりなるらし。 Beerよばれ、やがて来し石口敏郎、広沢雄一郎の2淡交社社員の不平きく。庭見しあと茶寮にゆきcoffeeふるまはれ恐縮して都電にて帰宅。 林俊郎君より「いとこ会」を6月2日(日)にと。服部正己より「19日11:00神田神保町進省堂で会ひたし」と。 (けふ大塚にてpott『支那史概説(80)』買ふ)。 5月17日 500札なきため同人費おくれず、小高根氏へことわり状。学院田中欽一氏にハガキ。 父より転送、眞野喜惣治君手紙(『果樹園』代210同封)。笹尾とさ氏より「一周忌のお供へ送りし」とハガキ。千川義雄より『俳句作家』に書けと。川崎宏子生より「上京少しおくれ23日までに」と。 13:00出て鶯谷、改札口で待てば13:40浅野氏来られ、ともに博物館にゆき、普及課長鎌原(カンバラ)正巳氏訪るしも席をはづす。待つまに近世初期風俗画展見せてもらふ。師宣以前の煙管は曲り方ちがひゐしに気付きし。見了りて鎌原氏と話し、『Museum』もらふ。 16:00すぎとなって高島屋の青木弥与子君に電話せしに父母と食堂と。明日訪ねると伝へよといひ、研究室で待てば、演習に辻村久弘生1人。 話す中、吉原竹虎生来り、text英語でときまる。ついで中国現代史は吉原生の外、小野彰(昭和7年生)と2男子、安部(昭和8)、土橋(昭和12)、佐藤(同)、河田(昭和4)と4女生。 19:30すませ(野原『中国現代史』をtextとすることに決める)帰宅。 父よりまたハガキ。「史、Arbeit一つ見付かりし」と。夜、鈴木治氏に挨拶。八木嬢に「明子君の出産しらせ、休みしらせ」と。 5月18日 笹尾とさ氏へ礼状。眞野喜惣治君へ受取。小高根二郎氏に同人費500円と眞野君の200(10円は郵送費にとると)。 10:00京の学友今井理髪店へゆく(120)。大分はつさいらし(※発才:おてんば)。帰って立川陽子氏より「5月上京、23,24,25といそがしく会へぬ様子」と。藤野和子氏より「vizaおくれゐる。夫君も会ひたがりゐる」と。村上菊一郎氏より『愛の詩集』。 京の帰宅をまちて昼食すまし、12:00出て都電にて高島屋。青木弥与子生に会ふ。「来週土曜に生悦住、坂根3人にて会せん」と。出て神田下車、吉野書房へゆけば長尾良君をり「(※中学参考書の仕事の件)催促しようと思ってゐた」と。 ともに出て鶯谷で別れ帰宅。 服部紗智子氏より「月曜来る」と。西洞院淑子夫人より「特別に思ってゐた」と(けふ青木生にきけば、我と鍛治君と同時に辞めし故、疑ふ者ありと!)。 「明治天皇と日露大戦争」見にゆかんと入浴夕食と早くせしも150円なることわかりバカらしと止む。 村上、山本敬子、藤原由子の3氏へ礼状。西洞院夫人にはひいきせざるをハガキ。 5月19日(日) 10:00出て西川英夫に寄り、借りし本返し、初音町まで送られ、神保町につけば11:00。 服部と板倉鞆音氏父子(嬢ちゃん東京女子大の英文か生と)待ちをり(※服部正己と板倉鞆音は愛知大学旧同僚)。新省堂は休みなりし。裏の喫茶店Brazilにゆき、『果樹園』のこと云へば「入らず」と。けふ都立大で独文学会ありと。 父子と別れ、服部と古本屋見しあと、われは雲呑たべ、13:00別れて大塚窪町。古本屋見まはり、尾崎秀実『現代支那論(60)』買ひて都電にて帰り来る。 丹波道久より「泉大津署にかはりし」と。史より在学証明書。根木薫生より「さびし」と。増田春恵より「自衛隊でもよし」と。 5月20日 雨。増田春恵に履歴書かき直せと。根木薫生へ「ふるさとの藤野花見に来よといふ友もあらなく夏たちにけり」。 「立原道造の系図」6枚をついでに書く。本位田重美氏に院長への(※退職金)催促たのむ。丹波道久へ挨拶。 今日、依子休日。『Biblia No.8』寄贈。清水文雄氏より『悲歌』もらったと。小高根二郎氏より原稿受取。父より「布施税務署より17日出頭を命じ来りし故、電話すれば宜しとなりし」と。「31日8:23安芸号で上京の予定」と。「甚幸の新婦は大江夫妻の媒酌にて関目?の文具屋」と。同時に速達来り、「羽田君21日上京、23日が都合よし」と。 12:00雨中を出て王子郵便局。1,930引出し、松本(※松本善海)に(※羽田来訪のこと)電話すれば「23日、同君宅で会せん」と。「太田常蔵君にもしらす」といひ、帰りて羽田、太田2君に通知かく。 午后の便にては大江房子「25日退院」と。16:00服部紗智子君来る。『アテネ文庫』の国文関係もち帰りもらふ。史の在学証明書をも三浦嬢にと托す。夜、大へ父上上京のこと青年座気付でしらす。清水文雄、小高根二郎2氏へもハガキ。 5月21日 10:30出て東洋大学。Salaryもらふ(29,000+2,250-共済組合費1,560-源泉所得税780-積立金 100=28,810)。 白山上より都電にて神保町。『中共領袖の素描(40)』を赤本屋で、東西堂で『英仏西伊日語辞典(80)』、巌南堂『中国歴史概要(120)』買ひ、都電で数寄屋橋。 東京駅前より西川英夫のり来り、New-Tokyo Beer-hall前で矢野昌彦に会ふ。支那料理にて桐山喜一郎氏の印度感心談「指導者偉く、人民ばかなれば将来性あり」と。坂本泉、西山安三、竹井眞の3氏をしれるのみ。 国電にて飯田橋。日歯(※日本歯科大学図書館)にゆけば北園克衛また不在。角川にゆけば社長、松原2氏不在。野田嬢に「立原道造の系図」(※『立原道造全集月報』原稿)わたし、研究社にSoothill『支那の歴史』のこときけば戦後版行せずと。 神楽坂あるき、juiceのみて都電のりかへて帰り来る。 長沖一氏より「3月博士になられし石浜先生の祝ひ1口500円、参加を強ひず」と。東方学会より「24日(金)10:30~17:00まで第2回国際東方学者会議」と。 小高根二郎氏より「芳賀檀氏に会はず。小山君の原稿おくれて来り4p増した」と。 福地君より「上京する弟の保証人たのむ」と。服部三樹子氏より「右京区桂下豆田町に転居」と。河出新社(※再建された河出書房新社)の株主になれと。 20:30表の市原夫人挨拶に来り、誤配されし服部嬢の速達もたらす。「typewriterは10:00までしかつかへず」と。(長沖氏に「2口1,000を川崎生にわたす。退職手当の件たのむ」とハガキ)。 5月22日 晴。よべも寝つき悪かりしゆゑ、ノートこさへず、研究会休むこととす。福地君にハガキ、「令弟家へ来させよ」と。 鍛治君より手紙。安村君出勤と。富子妹、梅田夫人のはなし、交際して1,2回して断りしと。鍛治君へハガキ書き、卵3ケ(36)買ひに出、昼食して東洋大学。大森君のよこにてSoothill『A histry of china』2pを演習用にprintし、帰途白山上の古本屋にて小島祐馬『中国の革命思想(90)』、矢野仁一『満洲支那領土説の批判と満州国の建国(20)』買ひて帰宅。 15:00学院より待望の退職手当来りしに84,700!!!三苫君少額にておくれてとわび状書きあり。早速西宮君に「催促せしゆゑ減りしや」とハガキ出す。 『日本歌人』の夏季吟行8月17~19日箱根にてと。簡易保険とりに来りしも明日といふ。大江叔父叔母の消息きかんと(※従弟の)勉の会社(住友海上火災営業第2部)に電話せしに、帰宅せしと。本位田重美氏にも報告。 18:00悠紀子の帰りしを待ち登校。小室、宮崎2教授のゐる所にて教室がへ宮崎氏に云へば小室氏色をなす。悦子氏は「遠縁の娘」と。齋藤氏いま不満らしと。 服部嬢、演習用のprintもち来り呉る。『清朝史前期』鈴木、吉原2生にやり、Nurhachi出現にて止む。鈴木生「豊島師範にて櫻井芳朗君に習ひし」と。 5月23日 よべおそく寐、朝、父に「語学関係の本チツキ(※手荷物国鉄で送る)にしてくれぬか、31日朝迎へにゆく」と書く。 9:30住友海上火災の大江勉に電話してきけば「喜代造叔父月曜帰阪」と。「日曜夕方にでも悠紀子をして返金にゆかしむ」と云ふ。八木嬢より目録。天理図書館の休み8月かららし。明子氏の出産6月と。 大江叔母へ報告。渡辺三七子生より「太田夫人この度の上京では会へずといひをる」由。 産経を7月よりとると約束、towlもらふ。念のため羽田卓氏に電話かければ外出中と。このごろバカらしきこと多くバカ丁寧は止めんと思へど。 16:00出て都電にて向原下車、林富士馬君訪ぬれば疲れた顔してゐると。VitaminBを夫人に打たしめらる。出て池袋まで歩き、松本邸にゆけば18:10。太田君よりは行くと電話ありしと18:30来り、19:00になりても羽田(※羽田明)来ざるにより不安になり、わが歓迎会と変へんとて食事はじめし所へ来る。 和田先生わが事心配され、白鳥先生と相談されゐると。(※斡旋予定の)宇都宮大学返事なく(石原道博われをきらひゐるらし)云々と。帝塚山学院のこと(※退職手当の額のこと)云へば、頼みすぎ、いらぬことする故に非ずやと。史(※長男)、われにひどき反感もちゐると。 21:30まで居て写真とり、明日再会を約して退去。太田君と3人にて池袋に出、coffeeをMeijiにてのみ別る。十条にて下車、帰宅23:30。 5月24日 よべ師恩をおもひ眠れず。 予習する中、筑摩より『李白』の金23,100(30,000-買上10冊24,000-税4,500)来り、今市佐恵より「出勤、研究室に てさびしがってゐる」との旨、ならびに今氏受賞祝賀会の写真。 井上幸子より「文部省の役人と称する者来し」と。中河与一先生より「25日(土)15:00バラ見に来よ」と。 11:00出て太田陽子夫人に電話。藤野明子の夫君5年間Singapore駐在の予定と。肴町、白山上をへて神保町。第一銀行支店に筑摩の小切手もちゆけば口座に入れよと。 出て東京都民銀行神田支店長加藤定雄君訪ね、預金にかへて貰ふ。明日引出せると。 出て錦町河岸より田村町、炒飯たべて霞山会館にゆけば午后の講演はじまりをり、羽田紹介者席にあり。 15:00の休憩まちて和田先生にお礼申上げ、桑田六郎、石田幹之助、増井経夫、小林高四郎の諸教授に挨拶。 出て地下鉄にて上野。筑摩に電話すれば井上達三君他出。「26日(月)16:00訪ねる」と伝言たのみ、一旦帰宅。 西宮一民君よりハガキ。「(※退職手当)送りしときき安心した」と。バカらし。 夕食くはず出て登校。細川助手ゐず、鍵あけ待つ中、吉原生ひとり来り、演習やる。すみて茶2人でのみ、現代史にゆけば吉原生を入れて4人(小野、河田、X嬢)教科書手に入らざりしか。19:40すませて帰り来れば17:30川崎宏子2人づれにて額縁もち来りしと。電話かけあす12:00お茶の水駅で待合はすこととす。 (けふ『宋慶齢選集(20)』を白山上で買ひ、東方学会で『1954,55年東洋史論文著書目録(70,80)』買ふ)。(額の絵は田中了とて新人の作なり!) 5月25日 雨。8:00白根松介邸へ電話かけ、けふ会するや否や青木弥与子に問へば「1日帰阪となり、帰郷後」と、バカらし。 10:00出て王子郵便局で3,700を現金に換へ、史に6,000送り(60)、八木嬢に目録送り、都電にて湯島。都民銀行へゆき、加藤定 雄君に10万円の小切手作ってもらひ、11:00明大に寄り見しもわからず。(古本屋にて王枢之『孫文伝(100)』見付けうれし)。 11:30より12:00まで待てば川崎宏子とその姉来る。連れて「揚子江」にゆき昼食(410)。文2クラスへ礼状かく。意外なりしは本位田氏きらはれゐると。出て水道橋まで歩き、別れて新宿。 46円しか金なきも中河邸へゆけば小高根君は呼ばざりしと。『桃』の山川弘至夫人(※山川京子)をり、(※『桃』同人で岐阜の)岩崎昭弥の話す。保田家にて会ひし也。 堀内夫人もあり。16:00より会はじまり、西垣脩君来りし故、(※帝塚山学院の神崎)院長と断交のこと云ひ、鈴木亨より『果樹園』に入るとのこときき、萩原葉子、大森倖二、三浦嬢など知合やうやく多し。澁沢秀雄氏令嬢も来あり。 萩原先生の塑像の写真見せられ涙催し、その作者舟越氏に礼云ふ。夫人をばわれ顔を見知りゐたり、ふしぎ。 Slideにて幹子夫人、長女夫妻の対米日記見せられ、石川生思ひ出す。糸屋鎌吉君持参のbeerにて微酔。 20:00出て、われ経堂に下車、小高根家にて100円借りて帰宅! 山根忠雄君より『果樹園』1日刷上り、誤植訂正したと。高垣金三郎君より『李白』の礼状。小高根家にて借用申込みし『白楽天』を忘れ来し。 5月26日(日) 昨日一家留守中、セキネ(坂根?)来り、月曜10:00再来と平野夫人に云ひおきしと。 山川京子へタバコの礼。今市佐恵夫人にやめざれと。(※帝塚山学院事務)三苫氏より少額におどろきしと手紙。短大新聞を同封。 昨夜の借金と『白楽天』とのため、悠紀子小高根家へ寄らしむることとす。20:30悠紀子帰り来り、小高根家にて夫人に会ひ『白楽天』借り来りし。大江勉夫妻にも会ひ、手伝ひし、叔父けふ来ず。明日9:00帰阪と。小切手勉に預け来しと。 (三苫氏に今後のため抗議す。受取送らずとハガキかき、入浴。十条へ散歩して午后すごし、藤田亮策先生にゆくつもりなりしもとりやむ)。 5月27日 鎌原正巳、松本善海2氏へ礼状。10:00坂根千鶴子生来り、きけば「青年座不採用なりし」と。あくまで俳優になりたしと。なぐさめ学院の話し、依子帰り来しゆゑ上へ鰻食ひにゆく。 (尾崎菊子生より田中生のノロケききしと手紙。涌井千鶴子生より「2部生たりしことを云ひふらす者あり」と。短大新聞も同封。父より「31日(金)8:03の明星号で上京」と。長沖一氏にきいてもらへと)。 ともに出んとし、ひげ剃りゐればまた〒中野清見君より山本治雄のこと丸にききしやと。 西宮君より「熊沢氏の計算にては(※退職手当)138,600となる筈」と。沢井、須原、高岡、三苫、守本の諸氏にも云ひしと。 (羽田君より内藤湖南『遊清記4』戊申氏よりのを送り、台北へのfilm郵送の受取も送り来る)。筑摩に電話すれば「待つ」と。 坂根生と都電にて湯島、喫茶せしのち別れ、井上達三氏に会へば「beerのみにゆかん」と。『白楽天』3~400枚を『名詩鑑賞』に入れると(※叢書:実現せず)。 引受け、17:00より会ふ予定の吉川幸次郎博士の宿舎「富士見荘」といふにゆき色々話す。「三尺下って師の影をふまず」は中国古典になしと。またbeerのまされ森亮君の『中国古詩訳』は河出にたのむ筈なりしもだめとなりしと断ってくれと。諾して18:00出、井上君と別れ、西川宅に寄りしに帰りをらず。 5月28日 井上幸子へあやまり。羽田明君へ承知。尾崎菊子へなつかし。山川京子氏より『悲歌』くれと。 依子早く帰り来るとのことに待ちしも駄目。14:00出て東洋大学。芳賀檀氏に会ひ「大阪では誰にも会はざりし」と。齋藤部長の会議を待ち、会ひて来年より学科多くなりて宜しと申上ぐ。我をFascioと云ひしは村上正二と!! 芳賀氏と喫茶。『去年の雪2冊(40)(※矢野峰人自伝)』買ひ、1冊贈り、printきり了へ、大森氏に地図かいてもらひ、都電にて新庚申塚。 大塚駅前より歩きて林富士馬氏を訪ひ、健康保険証を提示。『去年の雪』贈りVitaminまたうってもらひ、大塚まで歩き都電にて18:30帰宅。 山中タヅ子より「恋あきらめし」と。中千枝子より「得津29日結婚、文芸の第2号」と?! (けふ丹波鴻一郎君(※東大同期?丹波哲郎(正三郎)兄)、上富士前に帰りゐるを電話帳にて発見せし)。 21:00平野夫人、里帰りするとて挨拶に来り、1,000預けゆきし。 5月29日 丹波君へ転居挨拶状。森亮氏へ吉川博士の伝言。小高根二郎君に「母上見舞に来よ」と。 9:30出て森川町にて幸田成友『東洋歴史(50)』見つける。こは珍し。 研究室にゆけば和田久徳君「先生の伝言ありしも先週われ欠席せし故云々」と。(※和田清先生と)お会ひして感激せしを拙く云ふ。 太田君来ず。12:30すみて井上書店にて『中国通史簡編1(150)』。帰り来れば〒なし。 悠紀子帰りてのち19:00家を出て登校。研究室にて小室栄一氏『贋作拝見』受領。茶のみゐれば福地君の弟来る。昨日来てききしと。田無に友だちと家借りしと。履歴書の保証人の印捺し、茶のみて「清代初期」講義す。鈴木生「昨夜、蔵原伸二郎氏にゆき、わがことききし」と。 (『去年の雪』吉川幸次郎氏にとまた1冊買ふ。20円)。 肴町にて西垣脩氏に電話すれば「明日13:00~15:00明大にて」と。 5月30日 父より「31日8:03明星号または8:23安芸号にて上京、迎へに来よ」と速達。吉川、山川2氏に本送り(16×2)、吉川博士、大江叔父叔母、小室栄一氏、中、涌井2生へハガキ書く。 けふも雨なり。八木嬢より「今月中に訳片づけたし」と。川崎宏子生より「姉、感激しゐる」と。林dr.より『去年の雪』感激してよんだと。倭周蔵より「出発6月1日」と。 12:30出て13:00明大にゆけば西垣氏見えず、13:15来り、帝塚山学院のこと云へば「考へさしてくれ」と。父君にきいて見ての上と也。山の上Hotelといふ喫茶室にゆき、茶のまされ、熊沢君も誰も信用できずと。われもはや投げるといひ、別れて東京都民銀行。1,000引き出す(けふ西垣氏に残金300返却)。 加藤君不在ゆゑ『悲歌』1冊托し、山本書店にゆき『東洋史上より観たる古代日本』買ひ、蒲池氏にゆけば不在。夫人より大福餅頒けてもらひ、日大と國學院大とに講義ときく。 帰れば小高根二郎君より速達。「母君見舞の為上京。1日(土)15:00~16:00新宿あたりで小山君(※小山正孝)とに会ひたし」と。 18:00帰り来し悠紀子に不満。けふも雨なりし。(増田春恵より履歴書来る)。 5月31日 悠紀子にものいはず。7:30出て東京駅ホームにゆけばすでに父つきてあり。ややして青木陽生来り、大見えぬままに帰宅。大、9:23にゆきしと追ひ来り、10:30父とつれ立ちて出る。 史の送りしチケット荷物として来りし本47冊受取り、日本レーヨン支社に電話すれば、小高根君他出と。小山正孝君に電話すれば「明日17:00まで出られず」と。小高根君に「17:00高野Fruits-parlourにて」と速達す。 山中タヅ子へ歌3首。16:30夕食たべ靴みがかせて登校。2科目やる(演習辻村と吉原。現代史4人)。 帰れば石口敏郎君待ちをり、「明日小高根君に会ひに来よ」といふ。 21:00父帰り来る。大江叔母より「(※退職手当減らされたのは)6年間家賃払ひしと思へ」と。 6月1日 9:00前、父日銀へと出てゆく。王子の清掃事務所へ電話かく。八木嬢のため目録誤訳訂正、acharyaの語しらべにゆかん。 11:00、2枚のみ送る。里井千寿子生より「(※上京の)本望達して嬉しきならん」と。 十条へ水道代(288)払ひにゆき、橘樸『支那社会研究(100)』買ふ。 けふ暑し。3:00入湯、帰り来れば坂根千鶴子まちをり、「今日大に会ひ『俳優やめよ』と云はれしも止める気なし」と。ともに出て新宿。高野Fruits-parlourにゆき西垣君来りしに紹介せしも、芥川比呂志氏への紹介肯んぜず。 林富士馬、石口敏郎(女学生つれ来る)、小山正孝君おくれて来り、beerとjuiceのみ、林君払ひて帰りしあと、小山、石口と(※小高根二郎と)4人にてrice-curryたべ、両方とも奢ってもらひ気持よからず。神田まで小高根君につき合って別る。「あす石浜恒夫氏の結婚式に出るため帰阪」と也。 (けふ西垣君より大阪に電話し、父君にいひしも仕方なしと)。 曽根桂子生よりあやまり状。石浜君より結婚通知。 6月2日(日) 父、世田谷の叔母に会ひにゆく。依子きのふより流感臥床。2部史学科の新入生歓迎会5日(水)17:30よりとの通知来しのみ。曽根、里井2生へハガキ。 12:00出て有楽町。十合へゆき田中甚幸結婚祝にHandkerchief3枚(500)包ませ経堂行のbusにて渋谷。東横百貨店にてtobacco買ひ包み忘れあはててとりにゆけばありし。 井之頭線にのりて東大同窓会館といふにゆけば、林俊郎君迎へに来り、難波逸夫夫妻2子をつれて来をり、やがて西島寿一夫妻と2子、父と大来り、わが家、京とで13名。林俊郎夫人風邪にて来られずと。16:00まで話す。 難波逸夫は三菱銀行池袋支店にあり。東田町に住むと。大、父を送りて青木にゆくといふに我のみ渋谷へ出、地下鉄にて上野。見切の本2冊京に買ひて帰宅。 大の言によれば「坂根生(※女優は)だめ」と。 6月3日 依子臥床。1,584共済組合長期掛金31年5月より32年3月まで過納の戻金として三苫君より転送。 西宮君より「(※さきの退職手当)84,700は共済組合加入前の2年9月分の計算」と。いよいよ無茶ゆゑ「再考せよ、(※不足分)引渡の時期を早くせよ」との公開状かき速達す。 他に長尾良君より4日(火)午后来訪と。川崎宏子生より大阪に帰ったと。 12:00すぎ出て東洋文庫。Acharyaしらべんと梵語辞典2冊借り出せしもよめず、新唐書に白居易伝なきをたしかめて出、東洋大学の図書館にて梵語辞典引きしも見つからず。研究室にゆき村上君の来るを待ちしも「14:25の授業に16:00来るが常」ときき、呆れて出、千駄木町の通りあるき、鴎外先生の胸像に拝礼し泪出る。 千朶書房で『文芸春秋6月号』買ひて帰宅。父帰り来り、青木陽生来る。父に三和銀行放出支店のGift-check1,000わたす。 6月4日 父に先立ち9:30出て東洋大学。橋本係長嬢に仏教辞典編纂室へ紹介させācāryaは阿闍梨とわかる。バカらし。 散歩して菊坂までゆき、支那そば食ひ『朝鮮会話(150)』買ひて13:30帰宅。 14:00長尾良君訪ねまはりて来り、「7月15日までに原稿を」と。明日より大阪へゆくと。『果樹園』1そろひ贈りwhisky-bonbonもらふ。 16:00送り出して散歩、中島健蔵『昭和時代』買ふ。ためにならず。 18:00坂根千鶴子来り、悠紀子帰宅。父の見送りたのみ、夕食たべさす。滞京と。21:00悠紀子帰り来り、大より「明後日電話せよ」との伝言。坂根嬢に伝ふ。 父beer3本のみて汽車にのりしと。けふ〒なし。 6月5日 三苫氏へ受取(1,584の)。八木嬢へ目録の訂正。 10:00出て東大東洋史研究室。太田君来り、白鳥、和田2君来らず。すみて太田君去り、われも一旦帰宅。小高根二郎君のハガキ見る。石浜恒夫君の婚礼に出席、長沖一氏、わが退職手当のこと心配されゐしと。『果樹園』おくれしらし。 昼食すまし、14:00出て東洋大学教授会。給料是正を申出でよと宮崎氏しつように云ひ、文学部史学科が最も割高と国文教授より発言ありし。 われがこといふか。 芳賀氏さそひしも用ありと。18:00より新入生歓迎会(原田運治君に云はれし青山助教授に挨拶受けし)、教師側みな出席。すみて3時限休講を辻村生にことわりて出る(鈴木、吉原の2生いかがせしやらん)。 (けふ西新学長の挨拶ありしに、入場退場に礼せしは我のみなりし)。 深夜しらべしに我と同じく夜のみの教授は鳥羽正雄、辛島驍の2氏。村上正二の待遇よきに(教育上)気づく。原田、長、坂本太郎の3博士は1時間づつのみ。 6月6日 雨。けふ学祖祭の通知ありしもゆかず。昨日郵便局より10:00に再来を云ひしは、帝塚山学院の府助成金3年度分にして三苫君のわざわざ請求しくれし4,900-392=4,508。 三苫君「上京のため宝くじ30万円当るを祈れり」と!森亮氏より「原稿たのむ」と。千川義雄君へハガキ。 依子早退して帰宅。風邪なほらず。弓子もこの間より流感のため学校早く帰し来る。 西垣脩氏へ公開状発送の旨。林俊郎君へ「いとこ会」の礼状。帝塚山学院へ受取。 夕食後、長沖一氏へ石浜先生の祝ひ1,000封入。藤田亮策先生のお宅へCastilla1折(300)もちて訪ねしに「鳥取へと今し方出られ、14,15日御帰宅」と夫人のお話。 6月7日 また雨。渡辺三七子生にハガキ書き了れば、太田陽子夫人より来書。ふしぎ。「7月来る」と。令姉宅は板橋区志村前野町と。依子試験とて11:00帰宅。白楽天詩譜作りをり。 15:00出がけに郵便。今井恵美子生より「先生の手紙とカチコさんの手紙を西宮先生によんでもらった」と。川勝重子生より川崎生に会って所知った。「富士山」の文句教へよと。 15:30東洋大学。教務でprint切り、大森君と話し、出て白山園で雲呑くひ、研究室へゆかんとすれば受付「さきほど永山氏(※不詳)より電話かかりし」と。また電話かけてくれ、けふ20:30水道橋で待ち合はすことを約し、17:40より演習、吉原生のみ。すみて現代中国史は吉原生と河田千鶴子生の2人。 19:45すまして雨中、水道橋。駅構内のlunch-roomでチャーシュー麺くひ了れば永山来り、20:20鈴木文平も来る。3人にて taxi、銀座西2「寿加川」につれゆかれbeerのみ、料理くはされ永山の話きく。平壌にて終戦、鞍山に戻り優待されしと。久保田鉄工所につとめゐしと。今は叔父の会社と。鈴木は中尉として信州にありしと。 23:00出しにまた「銀花瓶」とかいふbarにつれゆかれ、24:00新橋駅。帰宅すれば依子、試験勉強しをり。 6月8日 雨。朝の郵便にて父より安着。『堀辰雄全集第7巻』『東方学』等、布施に来をり、奨学資金のため住民登録と布施市の税金領収書送れと。史よりも「書類12日着にて送れ」と。『果樹園17』10冊来着。高尾書店の書目来り、わが売りし本の一部分にて3万円の値付けをり。他に『文学雑誌』。 午后、子らみな帰り来り、清水文子より「猫元気、『悲歌』1冊送れ」との手紙。涌井千恵子より漢文の後任は関大の壷井義正君(文学部長と‼)と。 入浴、夕方雨やむ。平野夫人の土産に名古屋の外郎1本いただく。けふ白氏文集の年代順ほぼすむ。 6月9日(日) 9:00出て(悠紀子速達にて税金票のこと父にたのみにゆく)。散髪(130)、思ひつきて丹波鴻一郎君訪ねしに掃除しをり。1,000万円の借金負ひて中和商事をつぶし、家を抵当に入れ外人に貸し、夫人の父上の土建小池組の営業部長と。祖父君(※丹波敬三)の鴎外関係書類なしと。岡部長章君、東横学院につとめゐると。 出て西川家。浅野建夫君に電話すれば「けふ在宅」と。丸に電話して山本治雄のこときけば心配いらずとのみ。水道橋まで歩き、途中、楠林南陽堂といふに入れば鴎外『蛙(100)』。書目もらひて中央線。吉祥寺下車。 竹内好の家訪ねまはってわかり、村上正二との調停たのむ。大工入りをり、beerのまされ、金素雲『恩讎三十年』もらひて出、三鷹下車。浅野建夫君訪ひ、またbeerのまされ、血液型の伊太利本の訳の話きき、薄井夫人(※薄井敏夫未亡人)つひに来ざりしをたしかめ、18:30autoにて駅まで送らる。長男慶応医科へ入学せしと。 高円寺下車。「赤ちゃん」といふにより赤川(※赤川草夫)夫人に会ひ、Highball生れてはじめてのみ、100払ひて赤川君訪ねにゆきしもわからず。ことわりて帰宅。中千枝子生より結婚第1号は伊庭生と。 (医科歯科大の田中克己博士に名刺托す)。 6月10日 悠紀子休み。区役所出張所へ住民登録票もらひにゆく。清水文子、丹波道久、山根忠雄、中千枝子の諸氏へハガキ。林俊郎君より「いとこ会」の写真。天野忠君よりずっと病臥『果樹園』くれと。『文芸春秋7月号』買ひ来て清水君へ『悲歌』贈りしゐる中、大阪より転送の小包にて『堀辰雄全集7』と『東方学13』、他に平凡社より「籌海図編」(※辞典の項目原稿)を7月31日まで200字をと。 八木嬢より「目録」の終り来り、明子妹6日男子出産と。原田早苗生より「おこし」の送り状。西田敬一君より「神戸に家買ひし」と。 18:00夕食すませ、表で待ちゐしに通りすぎしとふ京の受持松井先生(8年教師つとむと)をつかまへ、20:30まで話してゆかる。『悲歌』ならびに『果樹園17』もちゆきもらふ。叔父上東大文学部事務長たりしと。悠紀子23:00歌舞伎座より帰り来る。(立教女学校のクラス会に招待されし也)。 6月11日 曇、gas代515とりに来る。田中雅子夫人より「遊びに来よ」と。鎌原正巳氏よりハガキ見たと。西川英夫君より南邦彦氏の履歴書その他。 12:00昼食し、弓子帰宅せし故、省線にて東京駅。西川に会ひしのち歩きて十合。地下2階の前川人事課長に会ひ履歴書わたし、4階の齋田(森脇)昭吉君訪ね、coffeeおごられ雪ケ谷に住む、水曜休みときき『果樹園』1冊わたし、私鉄経営者協会に田中勤氏訪ねしも不在。 朝日調査研究部の阪本泉先輩訪ね、四方太父君のことかけと云へば「何も知らず」と。高垣(※高垣金三郎)は不在にて学芸部へよろしくとのことになり、出て帰宅。 山本陽子生より「坂根生と木曜夕方来訪」と。原田早苗より「おこし」送ったと。里井彦七郎君より礼状。渡辺三七子より「みかん食べよ」と。 西宮君より「手紙を三苫君と文生に見せ、そこにてストップらし」と! 八木、林俊郎、小高根二郎、太田陽子の諸氏へハガキ。 夜、坂根千鶴子来り、大に会ひし結果1年勉強して来年かさねて試験受けると。山本陽子と明後日まち合せの約束せしと。送りゆきハガキ買ひ、西宮一民、堀多恵子夫人、新潮社へハガキ。 6月12日 雨。『果樹園』2,200の赤字と。弓子、京、流感のため北区休校。14日東洋大学新学長就任式と(東大研究室へ本よみにゆき、白鳥芳郎氏の脚本を見せたまへと清先生への伝言たのむ)。 帰りて卵くひ、ひるねし、小高根二郎君より「杉山平一君参加、赤字は未納あつまれば(高橋、芳野、福地、森脇にて6,000)よし」と。 夜、雨やむ。登校すれば吉原生流感と。鈴木生のみにて特講すます。朔太郎を論文にすと。 けふ原田早苗よりの「おこし」着く、うまし。 吉川幸次郎博士より、森亮君の『中国古詩抄』と『ルバイヤット』書留にて来る。 6月13日 晴。京、流感らし。あさ「センチメンタル」2篇かく。原田早苗生に「おこし」の礼。吉川博士より「北海道にゆくにつき、夫人に送らした」と。 桐山眞氏より「不幸のため返事おくれた。宮城内へ訪ね来よ」と。 千川義雄君より「血圧190あり、腎臓悪し」と。西垣脩氏より手紙見たと。 ひるすぎ東十条へ散歩にゆき、京に雑誌買ひ来る(京ねたままなり)。 15:00入浴。悠紀子帰宅。熱計れば京39℃。19:00山本陽子と坂根生とcakeもちて来る。陽子に茶漬くはす。(午后、長沖一氏より1,000受取った、退職手当まだなら院長に話すと)。石浜恒夫氏に祝辞。 6月14日 西田敬一君に転居通知。中島悦子生より「転任知った」と。筑摩書房海老沢利彦氏より新刊の『太陽』のことにて会ひたしと。 12:00出て筑摩へゆき、井上達三氏呼べば不在。海老沢氏に会へば「楊貴妃のこと7月10日ごろまでに4、5枚」と。 土井氏呼んでもらひ、森亮氏の原稿わたす。「編集会にかけて返事す」と。 中央大学へ寄りて見しに「鈴木俊氏14:30より講義」と。東京都民銀行へゆき2,000引出す。加藤支店長は来客中。 都電にて和田倉門へ行きしにのりこす(「東京駅前」といふがそれなりし)。坂下門より入り、宮内庁記者クラブに桐山眞君訪ね、21年よりの話す。矢加部勝美君red-pageにてをらず。田代継男君も退職と。この次内閣文章見るときの便宜たのみ、出て中央大学。16:30講義すむ鈴木氏まつ間、胡華『中国新民主主義革命史(50)』(『和漢朗詠集新歌(150)』をそのまへ買ふ)。ゆきて会ひ、あす吉野書房前田社長に会ふ予定話し、池内先生の本のこと云ふ。 夕食くひ神保町まで歩きて曙町。登校すれば研究室あかず。辻村生来ず。新学長就任式に出ずして帰宅。 井上幸子より礼状。八木嬢より速達の受取。今市佐恵氏より「法円坂のapartに移りし」と。父より「布施市の税金票、田中米店にたのみてとれし」と。 6月15日 父、中島悦子、平凡社(7月31日までに「籌海図編」0.5枚と)、『文学雑誌』、田中雅子、里井彦七郎、天野忠、今市佐恵の諸氏へハガキ。 10:30出て国電にて神田。大阪書籍鈴木支社長に会へば我を忘れゐたり。「前田社長の上京18日」と。階上吉野書房へゆけば長尾良君をり、「下阪のとき池沢茂君に会ひし」と。前田社長への手紙かきて長尾君に托し、昼食にさそひ、すみて別れ、銀座7丁目より文芸春秋社訪ね、印南寛君おとなへば不在。安藤直正君呼べばcoffeeおごり呉る。会ふでなかりしの感ありて憂鬱。 他に約束ありと追立てくひ、有楽町まで歩き、経堂行のbusにのり(45)、小高根太郎君を訪へば在宅。 『白楽天詩集3,4,5』借り、さそひて舟越昭武氏訪ひ、夫人とに引合せ、道案内してもらひ、西島寿一の家を探しにゆけば、中村真一郎家の帰りといふ堀辰雄夫人に会ふ。ふしぎ。 加藤俊彦君(※多恵子夫人弟)東大経済学部教授となりしと。27日より軽井沢といふに一度訪ねることを約す。 そのあと訪ねあぐみて都立明正高校前までゆけば寿一の家。叔母をり、寿一帰り来り、すが子君帰り来り、また出しあと夕食よばれ、羽衣の家のことにて沢田直也君にたづね見ることとなる(寿一君と同隊なりしと)。 梅ヶ丘の駅まで送られ、新宿で京へ本買ひて帰宅。22:30。 平凡社より「Tsewang Araptan (※ツェワン・アラプタン)」7月31日まで0.8枚をと。福地邦樹君より「高松いやになりし」と。 6月16日(日) 平凡社へ承知と。福地君へ「詩を書いた」と。小高根二郎君より「文芸春秋社の樫原雅春氏、『コギト』の読者なりし」と。1日訪問早すぎたりし。清水文雄氏より『和泉式部日記』改訂版贈らる。『薔薇』35号。 6月17日 京、まだ熱あり休校。大安よりcatalogue。兼頭淳子、川崎宏子(履歴書送り来る)、田中保子(広島へvolley-ballの試合にゆきしと)。 森亮氏より「きれいな本にして出せ、いそがず」と。田中保子をのぞく3氏へ返事。西巣鴨交叉点まで散歩。 6月18日 悠紀子けふは出ささず、京いまだ休校。 小高根二郎君に「もう5部(※『果樹園』)おくれ」と。 11:00出てNew Tokyoへゆく。佐々木喜市校長来り、いやいや挨拶す。長尾良君来り、奥戸武君来り(浅草支店長となりしと)、和田浩君(東邦大学と)来り、鈴木憲三?、西寛治2氏の話きく。 西氏はアメリカの人文科学今後発展せんと。皮肉でなく云ひし。西氏に挨拶し、肥下のこときかれ「後日くはしく」と云ひ、長尾良と出て国電神田で別れて帰宅。 田中保子より広島の絵ハガキ。父より「甚幸に祝品わたした。河野博士母上軽快」と。田中保子へ返事。 沢田直也君に「羽衣の家いくらで貸せば適当なりや」と。 夜、西川より速達、「南君のことたのむ」と。 6月19日 晴。暑し。渡辺、涌井2生へハガキ。白鳥芳郎氏に電話かけしもかからず。研究会やすむ(京、休校のため)。 午后兼頭歌子夫人より手紙。変なり。小高根二郎君より「18号原稿少なかりし」と。 19:00出て登校。三島嬢に会ひ大森君へと『果樹園』托す。吉原生休み、鈴木生1人を相手に「清代史」。蔵原伸二郎氏、小学館の仕事すと。 6月20日 晴。暑し。中野清見へハガキ。元市有奏氏(※元市印刷)へ『悲歌』残部送れと。 9:30出て東大。経済学部研究室の受付できけば、加藤俊彦君、社会科学研究所にて未出勤と。堀夫人あてに雑誌2冊托し、busにて池袋。 立教大学へゆき手塚隆義氏に13年ぶりに会ふ。鎌田重雄のこといふ。小林通雄教授に挨拶さる。松岡中尉いま神奈川県会議長と。『史苑』4冊もらひ、昼食でご馳走となり、佐々木喜市氏の室へつれゆかれて出る。 帰れば帝塚山学院の慶弔会より1,000来る。入浴。悠紀子けふにてArbeit了りとなり6,000もらひしと。 6月21日 曇。三苫君へ受取。頼永承氏へ清算。東洋史談話会29日(土)17:10より本郷学士会館で。村上正二渡印と(きのふ手塚氏よりききし)。 池沢君より「齋田昭吉に連絡してくれ」と。池沢君へ「もう5冊送れ」と。談話会出席と。 吉川幸次郎『人間詩話』買ひ来る。 14:30出て東大社研へゆきしに「加藤俊彦君けふも来ず」と。演習のprint忘れしに気付き、筑摩書房にゆくを止め、久保天随『白氏評釈(200)』『十八史略(100)』買ひて一旦帰宅。 橋川時雄先生(博士になりたまひしやらん)より転任祝賀のハガキと、川崎宏子の手紙見て出、白山園で冷麺くひ(50)、登校すればsalary14,000と半分。三浦嬢「詩を見よ」と。諾して研究室。細川助手にきけば「村上君の渡印は2年半の予定」と。 辻村、吉原2生とも休みて演習出来ず。現代史も小野、河田(女)の2生のみ。橋川先生へ礼状。 6月22日 8:40浅野晃氏に電話かけ「相談に参る」といひ、10:10ごろ訪問。東洋大学の話し、「齋藤晌先生に会ひにゆく」と云へば、ゆきてよしと。枇杷1籠を土産に置き(280)、東京急行にまたのり、元々社へ電話かけんと旗の台にて下車。 ふと秋山家を訪へば夫人不在。隣の奥さん、わが名を知り「すぐ帰る故待て、四日市へ転任」といふに、近所でそば食ひ手帛買ひして待つ(元々社の電話応答なかりし)。 12:30昭子夫人帰り来しとて上らされ、むつみちゃんとて6ヶ月の女児相手にし、健三氏に電話かけにゆく間待つ。「ここへ移りて1ヶ年、四日市は7月赴任」と。13:40まですしよばれて待ち、帰宅後beerのまさる。 16:00すぎあはてて立ち上り駅まで送られ、五反田より気かはり渋谷へ出、中村書店とて宮益坂の詩集多き古本屋にゆく。『四季』120で10冊ほどあり、『詩集西康省』は450、『コギト』1冊のみあり60。『李白(220)』1冊と春夫『わが1922年(50)』『小杯余瀝 集(80)』買ひ、地下鉄まであるくみち、不二歌道会の前へ出、長谷川氏に会ひたしと云へば、鈴木氏、影山氏と出られ、保田、軍隊の話して出る。帰宅20:00。 『果樹園』16、17ともに10冊づつ来をり。(秋山氏、燃料研究所にて田中楠弥太氏に会ひしと)。 6月23日(日) 小高根君に受取。松本一秀君に川崎宏子生の履歴書。 8:30家を出て雨中新宿。「高野」で羊羹2棹買ふ(280)。京王電車わりあひ早く10:30齋藤晌部長邸へつき、村上君の補充のこと云へば承知と。白楽天の話うかがひ、わが『李太白』人間的すぎるときき、11:30出て新宿。 ラーメン食ひ中村屋にて支那饅頭買ひ(150)、堀さんにゆく。夫人不在。加藤俊彦氏に会へば風邪ではなかりしと。29年に訪問しゐると。やがて夫人帰り来られ「7月2日に室生犀星先生と追分ゆくと変更されし」由。三上次男氏の夫人、女医にて堀さん手当受けられしと。15:00出て阿佐谷まで歩く。 けふ沢田直也君より親切な返事。6~7,000が至当ならんと。尾崎菊子生より「東京へ嫁に来いを2度云ひし」と。井上多喜三郎氏より「誤植は了解」と。山根忠雄君より「家庭教師心がける」と。 6月24日 雨。寿一君へ沢田直也君の手紙転送。尾崎菊子生へ吊書送れと。井上睦子より「絵送った。得津佳子は押上姓となりし」と。成蹊詩社より「橋川時雄先生も博士となられ、30日祝賀会」と(欠席の返事す)。 今中同窓会より22日の幹事会(辞任申出で、千川義雄君を後任にと)。 12:00出て筑摩書房。井上達三君に会ひ「原稿用紙くれ。1冊『李白』と手塚隆義氏に」とたのむ。森亮君の原稿返却すと。 出て東京都民銀行のぞきしも加藤君ゐざる様子。小学館にゆき蔵原伸二郎氏の消息きけばしらずと。 蒲池歓一君訪ぬれば日大芸術科へ出講の直前。蔵原氏の来をるやと、しるこ屋に案内され、小学館編集部長浅野次郎氏、日本児童雑誌編集者会塚方氏とに紹介されしもすぐ出て、山本書店にて万曼『白居易伝(70)』、聞一多『唐詩雑論(120)』買ひ、 中教出版のありかききしてゆけば小山正孝君不在。角川書店へゆき野田嬢にきけば鈴木亨、小山君と『山の樹』会しゐると。 『果樹園』2冊わたし、出て日歯(※日本歯科大学)にゆくみち北園克衛氏に遭ふ。茶おごられ『果樹園』またわたし、歩きて「大安」へゆき『辞海』の予約申込をす。 石階上れば恰も元々社の前に出し故、よりて見れば「電話とめられし」と。齋藤晌氏の姪といふ女人と話し、『楊貴妃とクレオパトラ』10冊借り、歩きて西川英夫宅。 夫人に「南君の採用むつかし」と云ふ。 帰れば池沢君よりまた4冊『果樹園』着く。23:00電報「25ヒアサ9ジマデニデンワタノムナカノ83-4624」。 6月25日 8:30中野清見君に電話せしに眠さうな声なりし。「16:00第一弁護士会で」ときまる。 新坂康子生より手紙。井上睦子生より「あじさゐ」の絵。 13:00出て王子中学分校へゆく。弓子の担任、山下氏がleadしてまづ要望、ついで成績公開となるところで15:30。 あわてて出、第一弁護士会館へつけば、丸、中野に杉野祐二郎君まちをり、すぐ出て検事局の部長本位田昇君に会ひにゆき、17:00まで待ち、つれ立ちて銀座へbeerのみにゆき、丸、本位田と別れて3人にて夕食。上野まで同車。杉野と別れ、中野の旅館へ荷物とりにゆき、22:00上野駅。すでにとまりゐる「おいらせ号」に送りこみて帰宅。 清水文子生より詩集代を切手にて。秋山昭子氏より反対に礼状。(けふ丸、中野、本位田の3人に『楊貴妃とクレオパトラ』1冊づつもちゆく)。 6月26日 井上睦子生に礼状。秋山夫妻に『楊貴妃とクレオパトラ』。 10:00出て東大。白鳥芳郎氏に会へば電話故障なりしと。郁郎君の「七月七日」もし返ってきたら見せると。太田君と久しぶりに会ふ。和田久徳君は来らず。山本達郎博士9月渡欧と。(石橋助手に『楊貴妃とクレオパトラ』1冊わたし、きけば村上正二の渡印2ヶ年の予定と)。 12:30出て帰宅。東洋大学より70周年の寄附をしろと。筑摩書房より「8月15日までに詩495行を録せよ」と。 森亮氏より『ルバイヤット』は不足分に入れるためと。角川書店松原純一氏より『立原道造全集』の月報に『萱草に寄す』のわが解説(『四季』13年2月号)をのせよと。 森亮氏へ「創元選書ではいかに」と。清水文雄氏へ礼状。清水文子へ受取。 19:00登校。細川助手休み。研究室しまりゐる由にて須永君に『楊貴妃とクレオパトラ』わたし、講師室で待ち20:15になりて18号室へゆけば無人。30分に鈴木生現はれ『四季』貸す。「太守の蒙古経略」やり了へ『楊貴妃とクレオパトラ』1冊やりて別る。 6月27日 また雨。浅野晃氏より挨拶。元市印刷所より『悲歌』そのまま送ると。(午、元市より小荷物来る)。 午后米田弘恵生より漢文の点くれに失礼な手紙。(西宮君に送りて見せることとす)。増田春恵より「長山帰郷せし」と。 6月28日 雨。悠紀子、職安にゆきまた工場にゆく。田中保子よりvolley-ballのこと。 16:00東洋大学。七十周年の寄附のこと大森君にきけば職員は10%を10ヶ月割と。会計課長に会ひ3,000を3ヶ月ときめ、七十周年記念会にゆき田浦義光氏のこときけば共同通信社会部次長と。 演習1人も来ず。須永講師「天理教文教会長の息」と。いろいろ話しsalary残り15,100もらふ。 夕食炒飯くひ、現代史3人に教ふ。来週ありなし教授会できまると。 6月29日 吉原生へ演習のprint送る。田中保子へハガキ。田浦義光氏へ転居通知。西島寿一より礼状。 午すぎ十条まで散歩。加藤(岡本)和子より「詩をやめ共産党運動やめ母となりゐる」と子供の写真。 15:00入浴。16:30出て本郷学士会館の東洋史談話会へゆく。入口で竹田龍児氏に会ひ、会場へ早く入りゐし故、話出来ざりしが、村上正二送別(8月末出発、2年の予定と)、満文老檔学士院賞祝賀(神田信夫氏挨拶)、中国考古学見学団(関野雄、原田淑人2氏挨拶)、江上波夫氏の近東視察談、長くてslide20枚ですむ。 吉田金一氏、岡部長章君に23年ぶりに会ひし。鈴木俊氏に鳥山喜一先生へ紹介してもらひし。仁井田陞博士に挨拶されし。帰宅。 (石浜先生の記念品16,500集りしと報告ありし)。 6月30日(日) 八木嬢、加藤和子、川崎宏子の3女史にハガキ。坂根千鶴子に「増田春恵のこと父上にきいて見てくれ」と。頼永承氏より「フィルム到着のこと前便で申した」と。手塚隆義氏より『李白』ついたと。羽田明君へハガキ。 昼食すませ悠紀子、京と十条へゆき、靴(1,500)買ひ、古本屋見て帰り来る。 7月1日 悠紀子けふよりまた勤めに出る。森亮氏より「創元社にたのんでくれ」と。父より「食費受取った」と。 小山正孝氏に電話し、「14:00社にゆく」と云ふ。悠紀子帰り来し故、出て肴町で白山上にゆき、三崎町に下車。時間早かりし故、波木井書店にゆき、小泉丹『眉毛眼上集(20)』『法文中国坤輿略史(20)』『世界史概観(60)』と買ひ、中教出版にゆき小山正孝氏より中学社会教科書と教師用参考書ともらひ、『楊貴妃とクレオパトラ』呈上すれば「Köln」といふ喫茶店へつれゆかる。鈴木亨君、同人費えらくて返事くれぬ由。 別れて元々社へゆけば、この間をりし男女ともにクビになりし模様、(※『楊貴妃とクレオパトラ』の)750払ひ、お茶の水より吉野書房に電話すれば長尾君、他出。「来てくれ」と伝言たのみ、また岩波文庫『和漢朗詠集(50)』『春雨物語(30)』買ひて神田明神より都電にて帰宅。 藤野一雄君より『詩人学校詩集』にわが詩をとると。菊地成子より「東京弁になったか」と。 夕方、長尾良君来るかと思ひしに来ず。けふ買ひし本よみてすごす。菊池、藤野2氏へ返事。 7月2日 晴。きのふ小山君よりききし旺文社の参考書買ひにゆき(130)、『The perospect for Communist China(60)』買ふ。何だかわけのわからぬこと也。暑さのせいならん。東洋大学七十周年会より礼状。 ひる、お菓子買はず茶漬くひしのみ。渡辺三七子生より屋上浸水腰まで来たと。得津佳子より「5月29日押上和喬氏と結婚、名古屋に住む」と。 小高根二郎氏より「5日~7日滞京、7日夕、会をしてくれ」と。15:00長尾良訪ね、いろいろ云ひしもきかれず、小山氏に電話かけ「会場世話せよ」といひ、西垣氏と相談の結果を明日きくこととなる。 渡辺生へ見舞状。19:00訪ふ声して坂根千鶴子生。きけば「父君の会社、事務は子供1人」と。今日より青年座の事務手伝ふこととなりしと。近々帰阪すと。 7月3日 雨。朝の郵便なく、吉野書房の仕事(※中学参考書)にとりかかる。得津佳子(押上夫人)に祝のハガキ。 15:00小山正孝君[より]電話かかり、高野Fruits parlourの2階で200円の会費で7日(日)18:00『果樹園』の会をすることときまり、芳賀、浅野、石口、芳野、森脇、小高根の諸氏に通知。 西垣、林、小山、森、糸屋の諸氏は西垣君の責任とす。 松本一秀君より「短大出をとることとなれば助力す」と。同時に川崎宏子より依頼状。山田正一氏(和島弁護士のところに勤めゐし)より独立したと。 けふの教授会に出ず、19:30ゆきて辛島、宮崎、千葉3教授の話すをきけば、事務の1/3削減は30万円しか出来ずと。教員の方は切り崩しにかかると。 清朝史けふも鈴木生1人にて、今週限りとなる。 7月4日 『古今評論(わが転任をのす)』来しのみ。南側に塀作り、物干しこさへんと管理の嫗より云はる。悠紀子に相談してと答ふ。吉野書房の仕事やる。 午后、八木氏より「母上先月19日以来上京」と。父より久保和友氏あての手紙を田中克己気付にて来てゐると。父、松本氏、川崎生へハガキ。八木氏にもたより。名刺100枚出来しを弓子にとりにやらす(160)。 7月5日 5:00めざめ、また寝て8:30起きれば無人。秋山夫人より「13日頃出発」と。山本陽子生より「6日(土)14:00来訪」と。手塚隆義氏へ礼状。西宮君より「米田生ら、再試は教授会に出し、われ怒ってゐる故、西宮君がやることになりし」と。 中野清見君より「夏に江刈に来ぬか」と。佐々木邦彦画伯より『果樹園』の詩見た。『骨』も出ると。 西宮君に手紙かき、16:00出て東洋大学。健康保険証とりかへんとすれば、京、脱落しをり、4、5日して三浦女史がもって来てくれると。大森君と話し、coffeeのみてのち細川助手の来るを待ちて、辛島博士への祝200わたし、辻村生1人を相手にして演習。吉原生と同じくよめず。現代史は河田、小野2生。 帰って夕食し、玲音荘に電話すれば小高根二郎君をり、「わがハガキ見し」と。『果樹園』は送らしたはずと。 7月6日 王子郵便局にて4,550引出す。大江叔母、佐々木邦彦画伯へハガキ。 午、散髪。14:00山本陽子来る。坂根生より連絡なしと。15:00帰りゆきしあと入浴。〒なし、珍し。 7月7日(日) 田中順二郎氏より「お中元送りし。雅子夫人、美千子坊ともに流感」と。『文学雑誌25』短大文芸機関雑誌の看を呈す。 悠紀子、京をつれて齋藤晌先生へのお中元買ひにゆく。13日の盆の入りまでにすべき由。『堀辰雄全集7』よみゐれば、われあての25年のハガキ1枚、21年の箇処に入れあり。不審(※)。 16:30夕食して神田廻りの国電にて新宿。仕方なく高野Fruits parlourへゆけば、やがて小高根二郎君来り、石口敏郎、浅野晃、芳野清、小山正孝、広沢雄一郎、森房子、糸屋鎌吉(新入すると。広沢君も同じ)とsandwichにcoffeeにて騒しき中、20:00すぎまでをれば齋田昭吉君も来る。 この間われ十合を訪ひしあと、野田宇太郎氏来り、ついで小野円城君来りしと。20:30散会。 いつのまにやら別れ別れとなりて帰宅。(西垣脩氏『皿』創刊、忙しきもむりなし)。 7月8日 『文学雑誌』の礼状。「大安」来しのみ。弓子帰り来し故、吉野書房に電話してゆき、長尾君に会ひ(※中学参考書作成用の)原稿用紙もらふ。ワリツケもたのむと也。帰り来れば渡辺三七子、川崎宏子2生より手紙。 7月9日 吉野書房の仕事よべおそくまでやり、やっと4枚。鹿熊猛よりわび状、「社長大変」と。 けふ涼し。夕方、三越より田中順二郎君よりの砂糖5斤とどく。悠紀子bonus500もらひし由! 7月10日 中野清見君に「ゆかず」と返事。田中順二郎氏へ礼状。午后の便にて高橋秀助教授より『東洋大学紀要』に10月21日までに400×30書けと。 芳賀檀氏より7日18:30高野へゆき訊ねたが、しらずときき、帰ったと。残念なることかな。 7月11日 雨。千川義雄より『俳句作家』(元市印刷も浸水したと)。寺本和代より近況。 寺本に返事かき、京、依子帰り来り、散歩かたがた林dr.(※林富士馬)のもとへゆかんとせしところへ、平凡社より稿料1,300-195=1,105来る。 出てタバコやより林医院に電話し「1時間以内にゆく」と云ひ、ふりかへれば帝塚山高等部で教へし鶴崎裕雄生(関学経済)、「YMCAより香港へゆくこととなりゐしにvisaおくれてだめとなり、事情調べに来し」と。ともに出て大塚まで都電、『グールモン詩抄』買ひて与へ、雨やみまちて喫茶。大塚駅まで送り、taxiにのり(70)林医院へゆき、Vitamin注射してもらふ。Beerのまされて恐縮。17:00すぎ出、向原より都電にのりて帰宅。 7月12日 曇。ゆふべの睡眠不足に仕事せず昼寐しゐれば、毎日新聞の勧誘来りておこさる。 影山正治氏より『一つの戦史』と『朗詠歌集』来をり。『果樹園』にと歌5首かきしあとなり。 13:00弓子帰り来しゆゑ雨中を出て、郵便局にゆき、2,000引出し『果樹園』に500円と切手150送り、国電にて新宿。中村屋にゆき、干菓子2箱(500+400)。まづ和田先生お訪ねすれば御不在。新宿、渋谷をへて上目黒の白鳥邸お訪ねすれば、ここも不在。奥様「郁郎君の詩集(※遺稿詩集『しりうす』)印刷中」と話さる。 出てbusにて渋谷。『文芸春秋』よみつつ帰宅。池沢君より「また5部送った」のハガキ。 17:30秋山昭子夫人来訪。友達ゐるとてためらひしを上げ、悠紀子帰りしに送らす。15日西帰と(『悲歌』1冊与ふ)。桃1箱賜ひし。けふ吉野書房の仕事休み、爽快。 7月13日 久しぶりに雨やむ。午すぎ影山正治氏へ礼状。池沢君へ受取かき、王子郵便局へ誤配3通もちゆき帰り来れば、筑摩書房の海老沢君、催促に来る。 15、6日に届けると云ひ、帰せしあと不安。尾崎菊子生より「父母にすすめられ写真送る。婿見つけてくれ」と。入浴。 7月14日(日) 影山正治氏の林房雄、中河与一2氏批判のりし『不二』来る。わが訪問が機会となりしと。石浜先生古稀会より原稿用紙。 午后出て西川英夫訪ねしにbeerのまさる。帰り顔赤く、水のみてのち電車。けふも吉野書房休み。(西川この間、大江叔父に会ひ、十合商事社長となりしこと承知せしと。南氏のこと臨時雇やめて他にたのみしと)。 夜、住吉区役所中川俊雄君に本籍変更の手続きく手紙かく。 7月15日 9:30出て郵便局にて4,500引出し東洋大学。本の出しは10:30、『開元天宝遺事』『明皇十七事』『安禄山事蹟』見了りて『雍煕楽府』見はじめしころ時間切れ、もり食って(35)六義園見にゆく。12:40よりまた見て、14:00了り帰宅。 北海道へゆきしbasket部の3生よりハガキ。西宮君が顧問と。村上新太郎氏より「7月末までに詩をくれ」と。鈴木文平より暑中見舞。 午后の便にて和田先生より御中元の礼と「いそがずともよきも履歴書よこせ」と。 依子の担任橋本氏より富士銀行推薦は1日考へさしてくれと。18日より20日まで父母と懇談すると。(18日を選ぶ)。夜、「楊貴妃」9枚かく。 7月16日 千川義雄より『皿』受取ったと。弓子帰宅を待ちて出、元々社へゆけば表札もなく、齋藤氏の姪御も姿なし。 『楊貴妃とクレオパトラ』5冊買ひ(350)、古本市見て春夫『自然の童話(30)』買ひ筑摩。海老沢君に「楊貴妃」9枚と本とわたし、明治書院へゆき編集部の眼鏡かけし女史に教師用の誤植訂正わたし、『白詩新釈』もらふ(『楊貴妃とクレオパトラ』贈る)。 歩きて吉野書房へゆけば長尾君帰宅せしと。「10日間延期伝へてよ」といひ、都電にて帰宅。小高根二郎氏より受取。「同人費集りわるく16pにするやもしれず」と。 7月17日 朝〒なし。吉野書房の仕事やりてふらふらになる。屎尿汲み取り来り210円。鈴木文平へハガキ。 八木嬢より「chorusの奉仕をする」と。感心なこと也。「長沖氏、この間天理図書館で手持ちぶさたなりし」と(鈴木氏欠勤のため)。気の毒也。 『薔薇(※村上新太郎主宰)』に「バラと女」。 7月18日 八木嬢へ米田千代生のこと。訪ふ人に誰かと思えへば筑摩の海老沢氏。もはや『太陽』(※原稿「楊貴妃」)の稿料もたらしたまひし也(5,000-750=4,250)。 齋藤部長より受取。辻村久弘生、故郷より暑中見舞。 14:30出んとせしところへ史のハガキ。「25日帰省す」と。向丘高校へゆき依子の担任橋本先生に会へば「率直にして判断早きは長所にして、みなりにかまはず、人にゆづることなく、総じていへば可愛くなし」と。我によく似しとあやまり、富士銀行の身許調査票もらひ来る。 出て本郷通歩き、長尾良君に電話すれば「18:00までゐる」と。都電にてゆき、きけば「前田純敬君待ちゐる」と。17:30まで待ち、近所の喫茶店にてbeerのみ、ややに気分直りしころ19:00前田君来る。我に初対面と。庄野潤三君、都落ちの決心せしと。(長尾君に月末原稿もち来る故1万円先払ひをとたのむ)。家族に1千円わたす。 7月19日 平川唄子、辻村久弘、尾崎菊子3生へハガキ。明日10:00より「大学の現状財政に対する対策について」臨時教授会を開催すと。 川崎宏子より暑中見舞。弓子帰りしに12:30家を出て「三輪橋ゆき」都電にのり「水天宮行」にのりかへ金杉1丁目で下車、歩きて浅草。「明治天皇と日露大戦争」見る。すみて氷しるこ食ひ、上野まで歩きて国電にて帰宅。 南村和子より「夫君22日夜Singaporeへ飛ぶにつき明日電話かけ、22日の昼食ともにせん」と。増田春恵よりshirtsと靴下。 悠紀子にまた500やりしもふくれをり、依子に遺伝せし悪質。 7月20日 8:30南村和子夫人に電話すれば「今日15:00銀座小松storeで会ふ」と。出て東洋大学。誰も来らず大野教務課長に『果樹園』わたせしあと、「Anggin」へゆきて喫茶。 10:20より教授会。墜死せしは49歳の老嬢と。助教授を贈り、753万円の欠損をカヴァーするため減俸止むなしとなる。12:00一時休会。委員起草の間そばよばれ、12:45より再開。学長、常務理事の無給等を条件として減俸のむ。 (電話かかり、出れば吉田東洲氏『古今評論』の筆者、14:30会ひたしと)。13:10すみ組合の総会に出る。服部緋沙子嬢、執行委員たり!中途にて14:10となり、教務で待つ中、吉田氏来られ、salary半額14,000もらひて、きけば村松正俊教授にも会ふと。3人となりて村松教授の案内にて近くののみ屋にゆきbeer3本、村松氏におごらる。話中々面白かりし。 15:10となって別れ、氷水のみて日本橋まで都電。両国川開きにて雑踏。小松storeにつきしは丁度17:00。南村夫妻とあひ、東京駅前の住友Hotelにゆき夕食よばれ、Singaporeの体験話す。30才の青年にして自信満々たり(かつての我を見るが如し)。大阪外語中国語科より京大法科へすすみしと。20:00東京駅前で別れて帰宅。 米沢昌江より「上京する。訪ねるやもしれず」と。(研究科にありと)。中川俊雄君より「120円送り戸籍謄本2通とれば本籍変更可能」と。高田かよ子より暑中見舞。 小高根二郎氏より『果樹園19号』は22日出来と。父より郵便転送のこと。その1通、『英訳現代日本詩集』に「自殺未遂」のせてよきや否やと。(よしと返答)。(けふ西義雄博士に、花光氏のハガキわたせし)。 7月21日(日) 増田へ礼状。南村和子夫人に太田陽子夫人の姉の家しらす。高田かよ子(池元)、川崎宏子へ暑中見舞。頼永承氏より『台湾研究2』と『鄭成功史料合刊』贈らる。 浅野晃氏より『学芸手帖』に400×13を8月3日までに書けと。影山正治氏より「歌6首を『不二』にのせて宜しきや」と。林俊郎君より「祖師谷大蔵に移転せし」と。 午すぎ西川英夫君来訪。依子、富士銀行受験につき、仁谷正雄氏にまづ紹介をとたのむ。土屋文明『万葉集』もちゆく。浅野晃氏へ『学芸手帖』しめ切1ヶ月おくらしてくれと(『桃』のこと書かん)。影山正治氏へ「掲載随意に」と。 7月22日 中川俊雄君へ「戸籍謄本2通たのむ」と120円送る。けふより3女夏休み。 簡易保険料1,035とりに来る。川崎宏子より「日本生命の書類もらへることとなりし。推薦者は松本一秀君」と。小島樹氏より「そのうち会ひ たし」と。村上新太郎氏より詩の受取。 午后の便にて中川君あての手紙に切手はり忘れし故、返し呉る。福地君の令弟茂樹君「吉祥寺の従兄宅にあり。進駐軍に働く」と。川崎、福地、小島の3氏へ返書。 7月23日 依子、きのふにつづき職安へゆく。けふも雨。 午后田中秀子より暑中見舞。『東洋史研究16の1』来り、内藤湖南先生の「游清第3記」をのす。誌代不足220円と。田中秀子に返事。 (依子、製函工場へ明日よりゆくと。「8時より6時まで働きて200円」と。あはれ)。 鹿熊猛君へ稲葉直氏のこと(去年9月19日BKにて会ひしと)。 7月24日 よべまた眠り足らず。けふ久しぶりに晴れたれど寒し。依子も出てゆきしゆゑ、弓子主婦となる。 午后『鴎外の新研究(季刊『明治大正文学研究22』)』買ひ来る。吉野書房すすまず。平川唄子より返事。羽倉啓吉氏より暑中見舞。 夕方より咽喉いたみ微熱。 7月25日 依子けふもゆく。熱少しあり。食欲はあり。小室栄一教授より暑中見舞。坂根みつせ氏より礼状。山中タヅ子生より近況。長尾良君より「現金だめゆゑ仕事中止せよ」と。 小山正孝氏より『山の樹2』。小山、小室、山中タヅ子3氏にハガキ。創元社知念君に電話すれば不在。長尾良君に電話すれば「来る」と。 やがて来しにきけば「吉野書房いよいよ金づまりて駄目」と。奥西弟に長尾近々会ひて相談するらし。 長尾出しあと知念君にまた電話してゆくと云ひ、飯田橋よりゆき、森亮君の原稿預ける。武部利夫氏の『白楽天』近刊と。これもよきことにてはなし。 出て家へ直ちに帰り来れば、留守中「大阪より」と女性来り、夕方までに帰るといへば、のちほどと出てゆきしと。米沢昌江ならんと思ひしに、果たして16:30崖上より声かけて来る。以前本位田重美氏宅へも泊りしと。「専攻科、今氏(※今東光)の時間だけ押すな押すな」と。 18:00帰りゆく。 神戸大学二宮尊道氏よりエンライト氏と共訳の『The poetry of living Japan:John Murray』https://archive.org/stream/poetryoflivingja007840mbp /poetryoflivingja007840mbp_djvu.txt)』いよいよ出る。稿料は払へず。わが詩『偶得』と『曠野』、伊東 の『夕の海』と『子供の絵』のせると。 鈴木登美子より「友出来なかった。卒業後の縁談きまった」と。史けふは帰らずと悠紀子早くより寝る。伊東花子氏へ二宮氏の文、転送。 7月26日 悠紀子と入れちがひに史、帰省。森亮氏、坂根みつせ氏、鈴木登美子生へハガキ。 影山正治氏より「(※自衛隊幹部の)関口君への紹介状ほし」と。 父よりハガキ。「(野田宇太郎氏「文学散歩」)田中正平博士のことは(八)にかき、昨日(23日?)付」と。浜谷照子より原田早苗と喧嘩すと。 (関口君への紹介状かき不二歌道会へ史にもちゆかす)。 住吉区役所より戸籍謄本2通。弓子に梓の死亡と同じ記載あり。我の結婚届10年11月21日。父母の同大正3年7月4日。家督相続同年6月25日と記載。 北区役所へ転籍の手続ききにゆけば、謄本2通持ってくれば宜しと。 夜半、元市印刷所主の東京見物に来て会ひに来てくれしを夢見て覚む。 (夕刊に大村諫早出水。諫早の死者2,000人と見ゆ)。 7月27日 区役所へゆき転居のこと問へば悠紀子の抄本必要と。京ひとりで古本屋さがしにゆき見付からざりしと。つれてゆき帰れば坂根千鶴子より「帰郷して20日になる」と。 小高根二郎氏より散文は700~1,000にせんと。すでに各個に了解求めゐると!二宮尊道氏に返事出し、午后面影橋まで都電。高田馬場より西武電車、野方下車。 井上千代、田中勤夫人俊子に会ひ、系図(一郎氏写)と写真出して問ひしも知らずと。千代氏、わが母は知りゐたり。正平博士未亡人、楠弥太夫人と合はず、いま鎌倉の養老院にありと。明日再連絡することとして、中野よりbus。新宿をへて帰宅。 川久保君より在京、寄れずとて神田信夫氏の抜刷返送。志野孝子、辻芙美子2生より暑中見舞。『日本歌人』6月号、久しぶりに出しらし。8月17~19日箱根龍宮殿にて夏行と。悠紀子、史と京をつれて西川家。 7月28日(日) 田中勤氏に電話し「14:00ごろ伺ふ」といふ。東京大高clubより8月3日(土)15:00よりNew Tokyoにて会すると。井上恵子より暑中見舞。 13:30田中勤氏訪ぬれば昼食用意されゐしと。結局わが曽祖父わからずて了ひし(一郎翁の書かれし系図は写しそのままなりし)。 16:00帰宅。けふ33℃なりしと。夜、藤田亮策先生を訪ねまいらせしに御在宅。歓待されしも『燃藜室記述』はもたれず。昭和7年京城、朴栄喆版『朴趾源 燕巌集』貸したまふ。 7月29日 晴。史に大学病院へゆけといふ。『燕巌集』よむ。藤田幸子夫人より暑中見舞。父より布施税務署の27日の呼出状と日本生命より「8月2日頃集金に来る」との通知転送。『果樹園』第19号15冊。井上文夫、野崎その2氏より暑中見舞。 夜、林富士馬氏へ氏とともに診断書受けにゆき注射投薬たまふ。(けふ史、柏井の戸籍抄本とり来る)。小高根、辻芙美子、藤田幸子の3氏へハガキ。 7月30日 京つれて散歩。9:00になりしゆゑ区役所へゆき、大阪市住吉区万代西4の20より東京都北区岸町1の7へ本籍移りしこととなる。(京に盆栽買ってやりし)。 鶴崎裕雄生よりこのあひだの礼状。川久保、志野孝子、坂根千鶴子、井上文夫、野崎その、井上恵子、鶴崎裕雄へハガキ。住吉区役所中川俊雄君に報告。 午后、健康保険証とりに東洋大学へゆく。知人の事務出勤は服部紗智子君のみ。8月10日ごろsalary出るやもしれずと。暑中見舞。塚本侊子、天野美津子、小山正孝の3君より。 (正午頃より腹痛と下痢)。夜半のめざめ慄然としてport-wineのむ。 7月31日 晴。暑し。塚本、天野2女史へハガキ。小川和、瀧口喜久子、岩佐東一郎、田中雅子、東井恵美子、志野和子の諸氏より暑中見舞。笠野芳子生(2部)より「なつかし」と。花井彩より「北海道旅行、あす日本女子会館に宿泊」と。中野英夫氏より「雪ケ谷departに開業」と。 岩崎昭弥より「服部三樹子氏の歌集『瓔珞』を出しやる」と。小高根二郎氏より「印刷所かへ安くなった、上村氏(※九州諫早の上村肇)の災害は、問合せ中」と。 岩崎君へ「(※『瓔珞』を果樹園)双書編入よろし」と。中野、小川、滝口、岩佐、東井、笠野の諸氏へ返事。 王子郵便局にて1.5万円出し、500円もちてお茶の水。元々社へゆけば『楊貴妃とクレオパトラ』9冊のみありと。借用証かきて(630)みなもらひ、西川にゆき、富士銀行仁谷氏に電話かけてもらへば他出と。 暑き中を大手町まで歩き、産経に田中順二郎君訪ね、「暑きゆゑ訪ねられず」と云ひ、みち教はりて共同通信に田浦氏訪へば、18:00出勤と。向ひの東京新聞に西寛治氏訪へば論説委員となり他出と。 田村町にて白鳥先生に電話すれば「けふはおそくまで帰宅されず」と。あしき日なり。新橋より国鉄にて帰宅。 須永梅尾講師より暑中見舞。夜、京と弓子つれて上十条へゆき、赤羽をへて帰宅。 8月1日 晴。9:20白鳥先生電話すれば、御在宅「来よ」と。小高根君に電話すれば、玲音荘に未着と。国電にて上野、また電話して(※小高根二郎へ)「ゆく」と云ひ、訊ね訊ねしてゆけばゆっくり時間ありと。『果樹園』を休むこといひ、出て地下鉄にて渋谷。白鳥邸へは12時前につく。 アジア文化研究所の設立は北アジア学報にありと。解散は20年8月末とせよと。名誉研究員の期間は在職としてよしと。吉岡永美氏とは仲直りされしと。郁郎君の詩稿見せられ「母に」の1篇みて不覚にも落涙。「明智光秀」なる脚本、文学座にみせしに、やがて福田恒存?作として公演となりしと。 校正見ることを約して出、祐天寺駅前でそば食ひ(鮎川義介氏の金にて研究所設立運動中と)、渋谷に下車。青年座訪ぬれば「大は千葉県にをり、4日頃帰京」と。 帰れば前川氏(※前川佐美雄)より「箱根の歌会に来よ」と。松原純一氏より「角川書店やめた」と。林良子生「北海道より5日ごろ上京、叔父宅に泊る」と。伊東花子氏より「諫早は人命に被害なかりし」と。林富士馬氏より史またよこせと。 父より田甚(※田中家)の第一代は他より養子、第三代が甚城(※祖父)、その妻は船越の出と。 18:30女子会館に電話せしに、大阪府立女子大生未着と。20:30また電話すれば花井生をり喜ぶ。 8月2日 弓子、八木嬢にハガキ出す。『古今評論』来しのみ。 午后、西宮一民君より原稿用紙と宝文館の手紙転送。西宮、小山正孝、林富士馬、田中勤の諸氏にハガキ。 午后、花井彩嬢来訪。「姉嫁ぎてすぐ帰り来し」と。三好達治を卒業論文とせし女子大生なりし。15:30京と3人にて上野より浅草にゆく。京と握手して別れし。(飴賜ふ)。史、帰京したしと。 8月3日 晴。史、青木(※叔母宅)へと出てゆく。文学部長より臨時教授会を5日(月)10:00よりと。暑中見舞。友井啓輔、山本実子、関田淑子、百済璋子、原田比富より。太田陽子夫人より「上京せざることとなりし」と。 午后、原水爆禁止協議会に出席せよ、旅費支給すと。自然科学者とまちがはれしらし。東順子より見合して成りし様子。15:30入浴。夜、散歩。 8月4日(日) 悠紀子日曜出勤。三浦久子氏より「salaryの半ば出し。もち来らん」と。松本一秀君より「川崎宏子生の受験許された」と。 依子炊事し、散髪し写真とる。われも散髪。12:00に5分前、郵便局へハガキ買ひにゆき9枚かく。 史、大に電話せしに不在と。明日あたり西下したしと。夕方、京と散歩。 8月5日 9:30出て東洋大学。7月分のsalary後半14,000もらふ(70周年醵金引きあり)。教授会に川西学長、小野常務理事出席、9月より月給下ることきまり、「削減に関する基本方式」なるもの示さる。村松教授発言す。 12:30休憩。「Anggin」にゆきcoffeeとtoast。帰り来れば蕎麦出ありし。8月のsalaryのあてどなしと。 14:00出て神田、波木井書店にて幣原坦『極東文化の交流(50)』、長野朗『支那辞典(10)』、『和漢朗詠集註解(80)』買ひ、note7冊(100)買ひ、神田をへて帰宅。 京大より「9月21日迄に授業料4,500払へ」と。涌井千恵子より「壷井氏の著書多しとは思ひ違ひ」と。梅田惠以子夫人より『悲歌』受取りゐると。 杉本長夫氏より『果樹園』見たと。富士鋼業より暑中見舞。二宮尊道教授より『果樹園』の講読方法しらせと。森亮氏より「矢野峰人先生の仕事やりゐる」と。 悠紀子、体わるしとて早退しをり。米田よりの便りなし。このごろ全逓の休暇闘争中なり。 史にArbeitをたのむと、坪井、硲、殿井(小林政とは父の友、與謝野夫妻の友、小林政治翁か)、奥西、高鳥の諸氏へ依頼の名刺、羽田へ手紙かく。 夜半にねがたくたより来ぬひとをうらみて痩せし身をねじりくねらせ床にをり。 かの子かの日に忘れじといひしをつゆもうたがはね 路のとほさよ運の尽き。 菊つくりしちちうへはいまは亡き身となりにしか やさしき母ぞなかなかにこひのさまたげなしにける。 8月6日 史、悠紀子8:00出てゆく。母子別れに何もいはざるはふしぎ也。山口玲子より「十合にて愉快」と。吉岡信子より暑中見舞。 11:00出て秋葉原。亀戸をへて堀留橋行busにて高野家訪ぬれば、明子君2児とともにをり、母上よりのハガキにて「八木嬢8日頃上京」と。勝美君、労組の住宅委員と。 出て村田幸三郎君の玉村式索道KK訪ねしに不在。錦糸町駅前でrice-curry食べて帰宅。 枡田紀子夫人、東孝子嬢より暑中見舞。入浴すまして出れば京、まちをり「来客」と。帰れば坂根千鶴子君。「昨日、大に電話せしに9月まで待てと云はれし」と。誰にも会はず帰り来し模様。 悠紀子帰るまでをり、夕食して20:00帰りゆく。悠紀子近くの医師に見させしに過労と診断。 夜、筑摩書房より速達。詩集410行と。 8月7日 8:30出て東京駅。西川に電話かけてもらひ、仁谷正雄氏に会ひにゆく。30分またされ『楊貴妃とクレオパトラ』進呈、依子の受験のこといひ、たのめば「身体検査むつかし」と。帰宅すれば長尾良君来りしと。電話して「15:00ゆく」といふ。増田春恵より「富士鋼業不況にて今年中には必ずやめて上京し、就職さがす」と。 福地邦樹君より『コギト』の欠本、送るゆゑしらせと。 暑中見舞転送。石田英男、古川文吉とともに南河内より。千川義雄より『俳句作家』、平凡社より「鄧茂七」と「図書編」を9月20日までにと。 枡田、吉岡、東、山口の諸生へハガキ。 昭和32年8月8日~昭和32年12月31日 「東京日記 2」 本冊画像PDF 20.9cm×15.0cm 横掛ノートに横書き 8月8日 郵便沢山来る。北海道より宇都宮和子生「13、14日東京に滞在、訪れる」と。 暑中見舞。山本敬子、藤原由子、新坂久子(康子生の母)、川勝禧子、向井順子、西宮一民、四方綾子、井上達三、丹羽千年、瀧川恵美子。 広沢雄一郎氏より「小説56枚も書きし」と。永井、里井2生、蓼科より。三浦久子氏より「9日18時ごろ訪ふ」と。 午后、笠野芳子生より『悲歌』の礼状。(小山正孝氏より『詩集西康省』の選、「(※長篇でも)「西康省」を入れよ」と。井上京子生より「自律神経障害にて療養」と)。 岩田生より5日出せしハガキに「11日(日)訪問するにつき地図しらせ」と。 速達出しにゆき、窓口に夏季闘争の衆知せしめをられざるを難ず。 (角川書店越智宏氏より『日本古典鑑賞講座』22巻の「蕪村・一茶」に「孤愁の詩人」20枚(400円×20)を9月10日必着で書けと)。 史へ「蕪村関係の本ありなししらべてくれ」と。 8月9日 曇。風邪ふく。『詩人学校84』に小林英俊「good-by」をかく、あはれ。 暑中見舞。北野徳治氏、清水文子、中千枝子より。大森志郎氏より『学芸手帖』の原稿25日までに14枚までと。栗山理一氏より「角川よりたのんで来たらきけ」と。 小林英俊氏に見舞状かく。角川の越智君に電話して「書く」と返事す。 午后、八木嬢、妹明子氏と坊やつれて来り、明子氏はすぐ帰りゆく。明日より目録の論文かけとすすむ。疲れたりと。 夕食せしめしところへ三浦久子氏来り、詩を見す。やや宜しきと1篇をおかし、八木君の帰りしあと話しゆく。「明日より西那須野へ帰省、17日ごろ俸給準備のため帰京」と。 午后、兼頭淳子より暑中見舞。(八木嬢、松坂屋の商品券1,500賜ふ。渡辺三七子生よりwhite-shirt仕立券付きたまふ)。 岩崎昭弥のハガキも来ありしを発見、「服部三樹子の歌集出す」と。手ごたへなかりし! 8月10日 大森志郎氏へ『学芸手帖』の原稿を8月27、8日までのばしてくれと。前川氏へ「箱根へはゆけぬ」と。浅野氏へ「箱根へ行ってくれ」と。 平凡社へ「鄧茂七」と「図書編」書かぬと。栗山理一氏に「蕪村」引受けたとハガキ。 篠田統博士より「今度はおちつけさうか」と‼ 根木薫生、末吉栄三より暑中見舞。田中保子よりbasketの報告。 八木嬢15:00来るまで吉野書房の仕事ちょっとやり、来しに目録ちょっと手伝ひ、「泊れ」とすすめ、中央郵便局へ電話かけさせ、夕食して飛鳥山へ散歩。就寝前ちょっと仕事す。 8月11日(日) 八木嬢11:00帰りゆく。〒なし。16:30みな数男宅へとゆく。田中保子をほめ、増田春恵にお説教の手紙かく。23:00悠紀子ら帰来。 8月12日 晴。浅野氏より「箱根へは行けぬ」と。 小高根二郎氏より「諫早の上村氏(※上村肇)、母、夫人、2女、3女と4人失ひ、長男、2男のみのこりし。カンパ100づつす」と!哀れなることかな。 秋山昭子氏より「四日市の社宅不便」と。千川義雄、田中令子、薄昭子より暑中見舞。 12:00出て東京駅大丸へwhite-shirtの仕立ゆけば23日出来と。 神田にゆき吉野書房に寄りしも長尾良君不在。鶯谷より上野を散歩して田村実造博士に遭ふ。「学術会議よりの帰りにて明日ドイツへ出発」と。 帰宅すれば井上恵子より砂糖。岩田生と又1人(あとにて増田久美子とわかる)来り、cookieおきゆきしと。 夕食して電話すれば(倉敷紡績天沼寮)、増田生20:15にて帰阪と。岩田生に来よといへば来り、飛鳥山の盆踊りにつれゆき泊める。 けふ鍛治初江君より暑中見舞。 8月13日 晴。きのふにつづき風吹き涼し。岩田生11:00帰りゆく。寺本和代生より「手製の品送りし」と。貯金通帳帰り来り、28,615と利子115つきをり。 午后、王子神社の夏祭を通りぬけ郵便局にて3,400引出す。 東亀太郎氏、井上恵子、渡辺三七子へ中元の礼状。小林英俊氏より「体重9貫となりし」と‼『滋賀詩集』2冊来る。わが詩3篇をのす。 岩田生の妹、市村伎餘子、沢井幸樹氏より暑中見舞。藤野一雄君より送り状。鍛治、岩田生の妹へハガキ。 8月14日 晴。暑し。郵便局へ8円切手30枚買ひにゆき、帰宅すれば八木嬢来てをり、筑摩書房の原稿つくらす。長尾良君より「15日連絡せよ。150~60枚にせよ」と。 渡辺三七子より手紙。穴川裕代より相談。井上幸子より「新田ベルトにつとめし」と。服部紗智子君、北海道より。上田阿津子、堀内節子、楠戸規美子より暑中見舞。三木、重谷、山下、大谷4生岡山の鷲羽山より絵ハガキ。 小高根君に切手8×30と500を送る。100円は上村君のカンパ。140は売上となり。 『骨』12号、形をかへて出る。梅棹君も加はりしと。中々よろし。 八木嬢の仕事16:30ほぼ片付き、出んとするところへ宇都宮和子、尾崎菊子の2生、北海道の帰りとて立寄る。上十条に下車して尋ねまはり、17:00に会ふ約束しゐるとのことに、平常着のまま送りに出て東京駅。喫茶店へつれゆき、支払はす。尾崎生、写真を送り来ると。 帰りて筑摩書房の原稿に略歴200字を付す。 8月15日 朝、目ざむれば悠紀子もはや出しあと。ゆふべ2:00まで吉野書房の仕事やり92枚とせし也。朝また一寸やる。 前川佐美雄氏より「(※箱根行の際に)東京へは来ず、夫人のみ1、2日滞在」と。 12:00出て筑摩書房へゆけば、東博君、昼食に外出と。やがて帰り来しと会ひ、原稿わたし、箱根へゆかざるとことわり云ふ。土井氏にも遭ふ。 神田駅より長尾良に電話し、「つらくて(※分量)のばせぬ」と云ひ、鶯谷、駒込より六義園。歩きて上野に出て帰る。 けふは終戦記念日なり。梅垣安子女史より「この間、上京してゐた」と。深更めざめ穴川裕代へ手紙。 8月16日 悠紀子休暇、松坂屋へとゆく。松本一秀君より日本生命東京総局受験手続しらすと。田浦義光氏より「会ひたく電話した」と。「森武二郎写真技師、自動車事故で死んだ」と! 城戸慶子より暑中見舞。本田晴光氏より「上村肇氏なぐさめたし」と。 佐々木満禧、辻本(成尾)禧紗子、南部英美子諸生より布施へ暑中見舞。 14:00長尾良君に電話して吉野書房へゆき、前金貸せといひしに出来ずと。茶おごられて帰宅。 山本陽子、宮口時喜子2生よりたより。(けふ吉野書房より田浦氏に電話「その中あひたし」といふ)。寺元和代生より布来る。 8月17日 21日(水)10:00より臨時教授会の通知。 12:00出てトロリーbusにて亀戸。高野家訪ね、八木君にArbeitにたのみしに「明子君の手伝ひにて来られず」と。悠紀子、毛糸編み機を借り来る。中島悦子生より残暑見舞。和田節子夫人より「鍛治君、近々上京」と。 8月18日(日) 悠紀子、日曜出勤とて出てゆく。花井彩より礼状。加藤順子より「18日から26日まで福井県高浜にて合宿」と。 増田春恵、富士山頂よりヱハガキ。井上暁子、橋本(宮沢) 弘子より暑中見舞。小島樹氏より「21日より25日までの間に来訪」と。 川久保より「16日上京、月末まで東洋文庫に通ふ」と。小島氏へ「25日(日)午后お越し」とハガキかく。『文芸春秋』9月号買ひ来ってよむ。 8月19日 川崎宏子より「日生を山内和子も受験、一度会ひに来る」と。午后、鍛治富子より「白馬に登りし」と。 八木君来り、「岡田温整理部長に転任たのみし」と。夜、履歴書かく。 8月20日 八木嬢と話す。「早く天理をはなれたかりし」と。意外。 11:00ともに出て谷中墓地を見る。他日再び訪はん。暑し。 筑摩書房の東君に電話せしに欠勤と。尾崎菊子より「帰阪、父母よろこびゐる」と。 大東塾より「25日(日)14:00より14烈士12年祭に出よ」と。 福地君より『コギト』欠本送った、大東dr.小型自動車を買はれしと。 小高根二郎君より「名誉同人となり時々詩を送れ、岩崎昭弥とも会った」と‼ 増田春恵より「わが云ひしこと承知した」と。羽田明君より「史、訪ねた」と。「しばらく辛抱せよ、吉野書房は中大へ100冊送りし」と。 岩田生より「橋のところにて泣きし」と。史よりノート6冊のみ来る。 わが愛するものことごととりあつめ焦くる日迎へをらんとぞ思ふ。 8月21日 協議会にゆけば齋藤部長神経痛とて佐久間教授が代理。定員数に達せず流会となりしあと、理事「会ひたし」といひしを拒否す。Salary出ず。文学部の不協力の為といふらし。大島理事の名をはじめてきく。善隣協会の大島理事? 村松教授より住所きかれ、『楊貴妃とクレオパトラ』1冊贈る。われと同じく4月新任の地理の浅井治平教授と話す(身体不自由の老人也)。 辛島博士より村上君の時間2時間もらふことを話さる。また夜間の特殊講義なり。不可解。 帰宅すれば青木弥与子箱根より。15:00民子叔母より「家賃5千円ときまりしとて、1度くるゆゑ地図教へよ」と。新坂康子より花井生にききしと。妙高より山本?佐々木2生。筑摩書房の東博氏に電話すれば「前川夫人、五味康祐邸にあり」と。電話してあす五味邸を午后に訪ぬることとす。 入浴の帰り、京、迎へに来り、八木姉妹来訪と。帰れば八木君「けふ大和号にて帰郷」と。名残惜しく香水1瓶を贈る。Tobacco賜ふ。 送り出して夕食後、履歴書かきしに旨くゆかざれば、東京駅にゆき乗車口に待つ中、高野夫妻と現はれし八木嬢にたのむ。22:30発の汽車、21:30改札開始と。21:00高野夫妻と帰り来る。 笑まひつつ去にし姉ゆゑ妹のすまながりたるこころかなしも。  大東塾十四烈士十二年祭 天つ日も光けしぬるくやしさによよぎがはらにゆきしひとはも。 やまとだまかくこそありけれといさぎよくよよぎかはらにゆきしひとはも。 8月22日 歌2首墨書して大東塾へ送り、12:00まへ早昼くひて池袋。西武depart休日とて迂回して東武departへゆき思案にあぐみて月餅(330)買ひ、五味康祐邸へゆく。 池大雅の絵かけ、夫人は前川夫人の従妹と。Beerよばれ「保田の恋愛うそ」との話きき、庄野潤三氏渡米ときき、電話すれば「26日夫人同伴出発」と。 あとにて電話かかり来よとのことにゆき、夫人と話し、潤三氏と話す。Ohio州GambirのKennyon大学に1年入学と。『バングローバーの旅』貰ひ、井荻へbusで出、高田馬場をへて帰宅。 東洋大学長より24日(土)15:00懇談会に出席を命じ来る。 高松直子より手紙。福地邦樹君より『コギト』欠本9冊。 8月23日 井上睦子より速達、用なかりし也。平凡社より「9月1日までにてよろし」と!乾武俊より『現実』なる雑誌来り、「戦後の詩の中に現代詩に反発し、時には反発も与へずに過ぎてしまふ」ものとして田中克己「現代風景」(※昭和30年『骨』10号所載)を挙ぐ。ご丁寧なこと也。 12:20東洋文庫へゆき、田川孝三氏に面会もとめ話きく。「すべてを朝鮮におきて来し」と。すみて川久保に会ひ、「西王母」の資料とり、松本に電話せしめて会ひにゆく。池袋へ出て喫茶店にて19:00となり帰り来る。 尾崎菊子の母上より履歴書「姉の嫁ぎ先は近鉄自動車部業務課長松村英治氏」と。伝田雅子、田中文子より残暑見舞。 夜半、「西王母」かきはじむ。生活の不安をややに感ずれば也。 8月24日 睡眠不足にて苦し。書店へゆき『中央公論』の巌谷大四の文を松本善海よりききゐしとてあけ見しに、「現代詩人会」とかに出席のことのみ。 王子郵便局で5,000引出す。浅野晃氏より『現代に生きる』を賜はる。 午后、八木嬢より「無事帰宅、東京駅でわれらがうしろ姿見て泪ぐみしと」! 苦しければ夕食たべてのち林富士馬dr.に注射うちにゆけば『文芸日本』の会に出席と。夫人に注射していただき豊島区役所の隣の会館にゆけば、中谷孝雄、外村繁、榊山潤の3氏列席。会費50円もたず林氏に借る。外村氏の新著の批評会。やがて牧野吉晴氏、金子光晴夫妻来会。色紙かかされて21:00散会。林氏に都電まで送ってもらふ。 夜半までかかりて「西王母の歴史」28枚書き了る。うれしく憂鬱なくなる。けふ尾崎菊子の写真来る。 8月25日(日) けさ9:00起床。わりあひ快し。郵便局へ「西王母」を速達しにゆく(33)。浅野晃氏へハガキ。尾崎菊子母上へ手紙。金子多美子氏より残暑見舞。 13:00小島樹氏来訪。二松学舎を出て兵隊たりしと。月餅たまひ、愉快げに話しゆく。民子叔母、史へハガキ。八木嬢へ手紙。 8月26日 依子、弓子ともに出校。長尾良君来り「31日までに金出す」と。書くこと承知し、藤井(萩原)美知子夫人の残暑見舞見て昼食後、新宿をへて鍋屋横丁に鳥山喜一教授邸さがしまはり、ゆけば不在。本と菓子おき、都電にて荻窪。国電にて三鷹、浅野建夫君訪へば往診。まつ中、帰り来り、「も少しまて」とまた出てゆく。この間の医師もはや相手きまりしと。雛子夫人は尾崎正一郎氏を知りゐると。21:00まで御馳走となり、自動車にて駅まで送られて帰り来る。 『太陽』来り、尾崎菊子生よりまた手紙来をり、「宇都宮君、朝日新聞社員と縁談きまりし」と。硲君君より残暑見舞。 8月27日 よべ2時ごろまでかかりて『太陽』よみ了る!服部三樹子氏より歌集のこと、「小高根二郎君も序文書く」と。 専任教授連合会結成準備会より「31日14:00第2回総会」と。浅野夫妻に礼状、菊子生の手紙を同封す。松本一秀君に人事課への紹介たのむ。 午后の便にて若狭和田より住山重子生とbasket部生。山本夏津子、清水、田中の3生。山本実子より「電話かけないで帰阪した」と。大森志郎氏より「原稿受取った、挿絵教へよ」と。 16:00三浦久子氏、俸給4,000と葡萄ともち来りたまふ。川久保に電話せしに「帰心つき、忙し」と。 8月28日 晴。青木弥与子へハガキ。福地邦樹君に『コギト』4冊。 8:40出て王子郵便局、史へと6,100送る(60)。向原まで都電、林dr.に注射たのみ、この間の50円返却。近所と喧嘩して患者へる由。 帰れば浅野晃氏より「九州へゆきゐし」と。午后、八木嬢より履歴書2通、おのが履歴書も送りしと「太りたまへ」と。 『薔薇36号』(「バラと女」をのす)。入浴。 8月29日 小高根二郎氏より速達、「上村肇氏上京、親和銀行東京支店にあり」と。電話すれば「11時30分たちよる」と。 筒井護郎より「29日(28と見ゆるも28日出しなり)18:00新宿駅中央線上り急行ホームへ来い」と。涌井千恵子よりゴタゴタと相談。八木嬢より「手紙見た。タバコ代送る」と1,000‼ 東洋大学長より2日より開始、印おせ」と‼ 上村肇氏に5回電話して通じ、髭そりて銀座資生堂へゆけば、直木賞穂積氏?と話をり、十合へ案内すると出し途中、朝日新聞に寄り、安西均学芸部次長と会ふ。職員食堂へつれゆかれcoffeeのまさる。「わが転任知らざりし」と。 別れて斎田君「野田宇太郎氏との雑誌にかはらんとす」と。別れて有楽町駅より蒲池歓一氏に電話し、taxiにてゆく。近所のとんかつ屋へつれゆかれ、beer小山正孝君に電話して来てもらひ、17:00となりしに別れ告ぐ。諫早の洪水は電撃的にして、しらぬまに天井につかへしと。 まだ悲しむひまもなき様子なりし。 新宿へとゆく途中、八木嬢へと堀口大学『白い花束(50)』買ふ。(蒲池氏に穎原博士『蕪村』借る)。17:30より18:30まで待ちて筒井来ざるに苦笑して帰宅。八木嬢に礼状。筒井に残念とのハガキ書く。 8月30日 よべ少眠にて苦し。東洋大学労組より規約。午ねちょっとせしらしく(taxiにのるゆめ見た?)そのあと京つれて散歩。ホリーダネス『印度の歴史と社会(40)』買ひ、八木嬢に本送る(24)。 帰れば松本一秀君より「川崎、学科面で通りし」と。東京総局人事課長成尾重蔵氏と平島一氏とに紹介の名刺。川崎生よりも「電話でしらせてくれた」と大喜びのハガキ。鳥山教授、箱根より礼のヱハガキ。村松教授より『国民文庫』。 8月31日 8:30家を出て都電にて日本橋。高島屋内の日本生命にゆき、成尾人事課長に会ひ、願書もらふ。「10人に1人の及第にてむつかし。松本は酒好き」と。西川に会って報告し、東京駅より国鉄にて帰宅。 安西均氏よりハガキ(『西康省』を少年の時よみ賜ひしと)と『花の店』。『文芸日本』7冊。 散髪して昼食し、東洋文庫へゆき吉田金一氏に会ふ。『籌海図編』見る。平凡社『百科事典』のため也。 13:30すみて登学。三浦久子氏に会ひにゆけば「けふ15:00俸給の残り出る」と。「萩原葉子氏、いつでも会ふといひ玉ふ」と也。 専任教授連合会の第2回協議会に出て、郡司博士の司会にてうまくゆく。一ノ瀬弁護士の糺弾その他、法学部に問題集中せし。18:00すみて肴町にてすし食って帰宅。 けふ学校へ来ゐし天牛南店中谷政一氏のハガキ見し。「花光健三氏よりききし」と。辛島博士「1単位?をわれにゆづること確定」と。令息昇君、天理図書館見学の便宜はからへと。 渡辺三七子、大道裕子より手紙。父より「史、退屈しゐる」と。長尾良君14:00ごろ来りて未了ときき、連絡せよと云ひて帰りしと。夜、『文芸日本』よむ。 9月1日(日) 朝より平凡社百科事典のため「ツェワン、アラプタン」と「籌海図編」かき11:00速達しにゆく。(島居清君へ「辛島昇君よろしくたのむ」とのハガキも同時に速達)。 青木陽生より「倭周蔵君、帰朝しゐるにつき電話してくれ」と。大より青年座公演にその作「女優の死」をやると招待状(10日18:30神田一ツ橋講堂)。 知念栄喜氏より創元社編集会議にて「古風」といはれ、(※森亮氏の)原稿返戻すると! 午食の後、京をつれて十条へゆき『蕪村』さがせしも見当たらず、『伊東満所(70)』買ひて帰宅。夜、朴趾源『燕巌集』を抄し、吉野書房ちょっとやる。 9月2日 吉野書房やりゐれば長尾良君来訪。「困ってゐはせぬかと来た」と。金つきゐるらし。 史より「蕪村見付からざりし」と。大東塾より礼状。東洋大学より教室変更の通知。 長尾とともに出て神田。Toastとcoffee(220)。別れて有楽町。東朝に安西均氏訪ひ『果樹園』と『悲歌』と贈り、十合にゆき斎田君に『果樹園』わたし、別れてお茶の水『蕪村句集(30)』『蕪村七部集(40)』見付け、小田急梅ヶ丘。和田先生お訪ねすれば「東洋文庫へゆかれし」と。われも行かんとせしも思ひ返し、下北沢下車、古本屋3軒見る。アテネ文庫『蕪村(20)』見付かる。 経堂へ行き、小高根君(※小高根太郎)訪へば在宅、学校は明日よりと。17:30ラーメン食ひ、古本屋2軒見て梅ヶ丘。 和田先生お訪ねすれば帰宅されをり、「聖心女子大1,500を白鳥先生の10,000と合せてゆづらんと思はれし」と。業績表出せと。仁祖時代の満鮮関係やりたしと申し上げ、夕食用意したまひしらしきにあはてて辞去。帰宅すれば21:00。 史より『世界名詩選2冊(〒70)』。知念君より森亮氏の原稿。佐々木邦彦君より展覧会の案内。筒井護郎より「29日16:10より30分待ちゐしと」と。Platformちがひしならん。 子ら今日より学校、悠紀子けふより在宅。 9月3日 4:00寝覚めし、起きれば10:00。朝食し、平凡社より原稿受取のハガキ見る。『文芸日本』への礼状。倭周蔵君へ帰朝祝賀、青木陽生へ 「連絡した」とハガキ。薔薇短歌会より「20日までに詩をくれ」と。吉野書房の仕事、現代史を残すのみとなる。夜、著書論文目録を作り、ほぼ出来上る。 9月4日 晴。また寝覚めしてねむし。母より「大に7、8月分(※仕送り)催促してくれ」と。前川緑夫人より礼状。 12:00出て国電有楽町より松屋にゆき勁草展見る。「佐々木邦彦画伯、1日に来るといひしに来ぬ」由。それより三越にゆき青龍展を見、日銀に鎌田正美君訪ね、富士銀行への紹介たのみしに「もう1人たのみしゆゑ駄目」と。 出て都電にて東洋大学。大森君と話し(三浦女史「15日のラマンチャの会の日、萩原邸へゆかん」といふ)、教授会。 村上君の時間の中、昼の特講演習われに来るとて鳥山教授に礼いふ。夜も概説来るらし。理事不信任案出さんとの堀教授の発言にみな困惑せし。小室、宮崎両教授に礼いひ、支那そば食ひ夜学待つうち、渡辺講師(※渡辺道夫)来り話す。「唐末の藩鎮が専門」と。意外! 川久保より「帰宅せし」と。山本夏津子生よりハガキ。 9月5日 晴。疲れて目覚めしは10:00。福地邦樹君よりハガキ。「教師に適してゐる」と。午后の便にて上村肇氏より礼状。椿下清子より『太陽(※「楊貴妃」所載)』よみしと。 夕方入浴。疲れゐる。川久保悌郎、竹内好の2友へハガキ。吉野書房の仕事、本文あと1日?八木嬢にハガキ。 9月6日 (安村)今市夫人より「来年2月出産につき副手やめる」と。「夫君10月12日頃上京」と。 午后の便にて能登川の池田夫人千代子氏より『太陽』よんだと。八木嬢より「出納にまはされし」と。 16:00東洋大学。演習用のprintを切り、大森氏にたのむ。芳賀檀氏に会ひ、Pen-clubで忙しと。 夜学2時間とも学生来らず。この間(※教授会で)hystericになりしは教育学の堀秀彦教授。「あまりに無責任だからわざと乗ってやった」と。雨の中を帰宅。 9月7日 夜明け寝ざめし、朝食後ひと眠りし、覚めれば11:00。『果樹園』20号15冊来をりし。長尾良君来り、「頁数すこしふやせ」と。今日、明日中に本文終ることをいひ、『果樹園』5冊を三浦久子氏に(16)、1冊を安西均に送りにゆく。 (けふ尾崎吉子夫人に医師の件、だめなりしことをしらす)。午后より雨。夜より台風雨。 吉野書房の本文、第2次大戦までゆき131枚。依子けふArbeitの金とりにゆき1,000もらひしと。 9月8日(日) 硲晃氏より「大阪に家庭教師あり」と。川崎宏子より「入社通知もらひし」と。坂根みつせ氏より「果物送った」と。関口八太郎君より「ご無沙汰しゐる」と。和田賀代より悠紀子に「高田外語(37-7669)につとめゐる」と。 午すぎより胃痛してねたまま仕事せず。夜、岡本医院へゆき注射と投薬受け、絶食して眠る。 9月9日 朝、ねたまま。午、粥食べる。村上正二君より「講座ゆづる」との手紙。東洋大学より「試験について申告せよ」と。 夜、悠紀子をして松本善海に村上正二君の見送りについて訊ねさせしに「東京では見送らぬが普通と!」。 けふ坂根みつせ氏より梨1箱届く。坂根氏へ受取。硲氏へ礼状(悠紀子をして史に連絡せしむ)。 9月10日 村上正二君に電話すれば夫人出らる。「見送りできず。代講承知した」といふ。三浦久子氏より受取。東洋大学専任教授連合会より「14日(土)14:00出て来よ」と。薔薇短歌会へ(※詩稿)「秋山」。 青年座「女優の死」看にと悠紀子やりしあと、坂根、山本陽子の2君来り、14日(土)夕、3人にて看にゆかんと。大に切符都合せよとの名刺を坂根生に托す。 22:00悠紀子帰り来り、2/3の入りなりしと。主人公の名「克己」と。 9月11日 また雨。前川佐美雄氏よりハガキ。毎号書けと(7枚くらゐ)。 13:00登学。大森、三浦2氏に会へず。大野課長に会ひ、長尾君に電話し、「明後日ごろもってゆく」と云ひ、須永助手に会ひ、眠くてたまらず、角川書店に電話すれば係、齋藤君と。20日印刷屋へもって参ると。教学課に夜学休講をとどけて帰宅。 父より兼頭父君死去と。奨学金まだきまらずと。清水文子より猫の写真。田中秀子よりハガキ。『文芸春秋』10月号を悠紀子に買ひ来さしてよむ。 9月12日 雨のち曇。吉野書房の仕事をつめてやり、ふらふらとなる。角川書店齋藤氏より催促のハガキ。堀内民一氏より『まめ山三里』。 夜、林dr.にゆき(下痢)投薬、注射してもらふ。21:00中野清見より電報「14ヒ1ジベンゴシカイニテアイタシナカノ」。 9月13日 曇。下痢してだるし。9:30長尾良君来りし故「今日午后もちゆくつもりなり」と云へば、午后留守「明日来よ」と。あと寝んとせしがだめ。 15:00登学。試験届出し、業績のtypeを大森君にたのみ、三浦女史に「萩原家へ行けず」と云ひ、研究費3,630もらひ、夜学の休講とどけて「Anggin」にてcoffeeのみて帰宅。(鳥山教授に会ふ)。 けふ〒なし。2,000悠紀子にわたせば、依子とradio買ひに行く。(依子日本生命の入社試験にゆき、問題やさしかりしと。女子350人 位来しと)。 9月14日 史より「(※アルバイトで)硲さんのお世話になる」とのハガキ。昨日来りしらし。小高根二郎君へ切手で160送る。 10:00吉野書房の仕事ひとまづ了り、国電にて吉野書房東京支社にゆき、長尾良君より前金2万円貰ふ。 村田幸三郎に電話せしも不在。busにて九段下までゆき引返して山本書店にて王瑶『白居易(80)』、辛文房『唐方子伝(120)』、堤留吉『白楽天(450)』買ひ、他にて清水孝之『蕪村の解釈と鑑賞(240)』買ひ、都電にて日比谷。 第一弁護士会へゆけば、丸のみをり、toast食ひ、中野清見来しゆゑ少し話し、丸と出て有楽町にて「最後の突撃」とやら見て時間つぶし、資生堂にゆき、中野と某女史とに落合ひ、西川に電話し、重役祝を早めに始むることとし、本郷蓬莱町までtaxi(280)。西川丁度来り、18:00までbeerのみて一ツ橋会館へゆき、坂根、山本陽子2嬢に会ひ、大いに食ひ、たのみて引返し、20:00までbeerのみて三筋町のbarへゆきしあと、西川と菊坂までtaxi。別れて都電にて帰宅。 硲氏より「史に会ひし」と。八木嬢より「今のところ心配なし」と。吉田恵氏より王瑤『李白』の訳。訳詩下手なり。 けふ関口、山本治雄へ寄書す。帰りて入浴して体重はかれば40kgありし。 9月15日(日) 吉田恵氏へ礼状。八木、硲2氏へハガキ。〒来ず。 16:00出て本郷。『郷愁の詩人与謝撫存』買ひ、汪洋『明治の青春(40)』買ひして西川家へゆき、倭周蔵に電話し、浅野建夫に電話して今中のクラス会を29日(日)15:00決定。 雨中、傘を借りて神田一ツ橋講堂にゆき、大の「女優の死」看る。観客250人位。きのふの2生、金を払ひしと。20:45すみ、炒飯食ひて帰宅。(大にきけば毎日新聞に東洋大学の騒動出てゐしと)。 9月16日 ハガキ12枚買って10:00西川の会社へゆき、クラス会案内のtypeたのみ、歩きて新橋駅待合室。 11:00中野清見父子と会ひ、知合の会社へゆき、西寛治氏に電話すれば「堺中の同窓会」と。「すぐ行く」と云ひ、taxiにてゆき中野父子を紹介し、受験できることとなる。(肥下の住所しらせと)。出て朝日新聞。阪本泉氏と4人にて昼食とり、ここも受験できることとなる。 別れて東経の原田運治に電話すれば、「関西出張にて来週帰る」と。日比谷公園にて中野と別れ、共同通信にゆき田浦義光氏に15年ぶりに会ひ、 『新潮』19年2月号の写し貸し、東洋大学への応援たのみ、出て西川の受付にゆき、print受取り、鶯谷の古本屋にゆきしに見当らず。帰れば恰も雨降り来る。 西宮一民君より『近畿方言調査簿』。「9万円かかりし。吉岡信子を副手とせし」と。『東洋史研究16-2』380円の欠と。高橋重臣君より「28、9日上京につき連絡せよ」と。 睡眠不足にて床にゐれば、白鳥清先生お越し、砂糖たまひ、郁郎君の詩集(※『しりうす』) 再校64pと「明智光秀(※脚本)」とをおきたまふ。傘貸しまいらせし。 今中会の案内を岡島源之助、田中幸三郎、藤田貢、中村治光、雑賀留夫、西原直廉、柴谷利嗣、柴山胖、川崎民昌、金沢良雄(※法学者)、倭(※倭周蔵)、西川(※西川英夫 東京建物)、浅野(※浅野建夫)、広島通(国際電電)、兼清隆二(日立製作所)、と19枚書く。 西宮、高橋2君へハガキ。 9月17日 雨。終日家居。角川よりまた催促。 午后、山中タヅ子よりハガキ。尾崎吉子夫人より「他にも縁談あり」と。青木陽生より「三井精機に入れることとなりし」と。小島樹氏より速達、「28日(土)国語部会で唐代文化について話せ」と。諾の速達す。 夜、坂根生来り、明日11:30東洋大学の学生課へ下宿斡旋につれゆくこととす。チェーホフ「かもめ」のradioききて22:00去りゆく。山中タヅ子へハガキ。 9月18日 よべ2:00和田先生と守屋美都雄の夢見て覚め、9:00まで眠り、起きてすぐ登校。 大野課長に会へば「6時間となりし故、昇給すべけれど云々」、その必要なしと云ひ、毎日の記事のことただせば云々。 すみて大森君よりtypeをprintにすときき、礼に200円わたす。服部嬢にたのみしあと、坂根生来り、掲示板見せしも該当なしと。 出て水道橋にて支那そば食ひ、渋谷へ出て青年座へゆけば、大をらず。Apartにもゐざる故、15:00再来を云ひ、白鳥邸。 夫人に問へば「(※息子の遺稿)原稿はドンボスコ社に」と。電話して明日ゆくことを伝へていただき、出て青年座。 大のあとつかめざる故、坂根生と貸間につれゆかれ、駄目とて帰る。案内女、Singaporeよりの引揚げにて北町一郎を知りをり。 帰り、渋谷よりの乗越し20円とられて抗議せしも駄目。 日本生命より「遺憾乍ら」と来り。悠紀子、西川邸へ傘返却にゆきしと。平凡社より「籌海図編の著者は鄭若曽と藤井宏君の説あり、いかに」と。 中野英夫氏より「一度会ひたし」と。 夕食して19:00出て東洋大学。渡辺講師に会へば「特講は学生なし」と。時間給にて1,600円のみと。概説ゆづりてよしと云ひて別る。 「清代史」は鈴木生のみにて、試験やめ後期は詩をやらんと云ひて別れ、西川に電話して「富士銀行仁谷氏へ(※依子就職の件)よろしく」とたのむ。 夜、床にて気付きしが、渡辺君のsalaryを村上より我へと転化のことと辛島、宮崎、小室、部長?の相談ありし也べし。大野課長の言と照らせば3,200の減俸となりしか。悠紀子いやな顔す。 9月19日 ゆふべ17枚まで書きし「蕪村」を朝よみ返せばなってなし。心鬱して八成町のドンボスコへと行きしに、野々山氏とやら不在にて、殆ど話すことなく、のこりの校正もらひて井荻へ出、高田馬場にて高田外語へゆき、和田賀代氏に会ふ。ほとんど銀髪。船越章の200万円の使途を妻も知らずと。 別れてラーメン食ひ、大塚にて下車。林Dr.にゆきしに応答なく、帰宅。 けさ小高根二郎君より『果樹園21号』東京からは浅野氏のみ。芳賀、斎田2氏を同人より除きしと。 午后の便にて小島樹氏より「28日の講演13:30より。13:00横浜駅へ迎へにゆく」と。 夜、下駄穿きにて林Dr.にゆき注射うってもらふ。帰途、白鳥家へ電話すれば清先生出らる。 夜半、3:00めでたく40枚書き了る。ただし自信なし。 9月20日 10:00起き、見直してのち角川書店へ原稿もちゆけば齋藤氏不在。野田嬢は7月退職と。社長も未出勤といふに出て、法政大学へ寄り、河原正博君のこときけば「土曜13:00出講」と。 平凡社へゆき係、藤田君?に会ひ、藤井宏君の「籌海図編」著者考見せよと云ひしに、ただ字典に書きあるのみ。出て餡蜜食って帰宅。 田中雅子よりハガキ。『東方学14』。帝塚山短大2部卒業式謝恩会の案内。高松直子より「日生に山内生も入れし」と。 給料もらひ研究室の細川君に会ひ、南方史研究会の25日(水)10:00よりとの通知を見、業績目録のprint受取り、28号教室にて辻村生と話せしあと、ice-creamを「Anggin」にて摂り、『近代詩人集(100)』、『運命の人(20)』買ひて研究室に戻る。(西田博士にきけば「国富博士、今夜出講ゆゑ会ふべし」と)。 2時限誰も来をらず帰宅。Port-wine1瓶買ふ。 9月21日 11:00大に電話させれば「10分前出てゆきし」と。松本善海に電話すれば「中耳炎でねてゐる」と。長尾良君に電話して、問題集送り返すこととす。 田中雅子夫人に行けずとことはり。八木嬢に業績のtype見す。 小高根二郎氏に名誉同人のことはりと三浦久子氏の同人加入ことはりと。高松直子へハガキ。 平凡社へTsewang Arabtanと訂正かく。 9月22日(日) 終日臥床。八木氏にまた訂正の速達す。大に電話せしめしに不在。昨日今日と〒なし。 9月23日(秋分の日) 『不二』と『桃』と来りしのみ。 11:00出て、藤田亮策先生に朴趾源『燕巌集』返却に参れば包みおき賜ひし『東文選』7冊いただく。 一度家に帰り、また出て白鳥邸。清先生、夫人ともにゐます。これにて校正見了りしこととし、出て駒沢住宅探して和田節子夫人訪ぬれば、父君10分前に出たまひしと。鍛治君もはや来ざるらし。Coffeeとcakeとたまひ、大橋まで送られ、上通にて下車。 青年座にゆけば「大、こよひ18:00来る」と。名刺おき帰宅。 夕食後電話すればをり、「明智光秀」(※白鳥郁郎遺稿脚本)もちゆく。 けふ大野晋『日本語の起源』買ひてよみ了る。若き学者なり。今日午后、石口敏郎君来り、転居せしと。 9月24日 松本一秀君より「(※日本生命)東京総局人事課長より(※川崎生の面接)成績悪かりしを云ひ来りし。落してすまぬ」と。八木嬢より元気にて『太陽』よみしと。 11:00出て都電にて吉野書房。長尾君に会ひ、村田幸三郎君に電話すれば他出と。長尾君を外に誘ひ出せば窪田雅章、金子智一の2氏に遇ふ。 金子氏はインドネシアへ今日出発と。喫茶後、筑摩書房へゆき『李白』1冊購ひ、土井氏呼び出し喫茶。問へば『白楽天』書きてよしと(加藤定雄君に会ひてきけば室清君病気、角川書店37人を免ぜしと)。 別れて古本屋見てまはり、『李太白』『楊貴妃とクレオパトラ』の廉売店にあるを見、1冊づつ買ひ『明治の御宇(20)』買ひ、蒲池氏訪へば不在。(※中教出版に)小山正孝氏を訪ひ、酒饗してもらふ。『立原道造全集』市場に出てゐると。 (村田に電話かかり明日18:00会社に訪ふことを約束)。帰宅。 尾崎菊子より23日見合と。宇都宮和子11月12日挙式と。夜、西寛治氏へ肥下のadress書き、山本嘉蔵氏に「藤田亮策先生へよろしく」と。 9月25日 9:00目覚め、雨中rain-coat着て東大。南方史研究会へゆく。Hallの本了り、次は漢籍をtextにすると。太田常蔵君をりしが 忙しとて別れ、電車待つ間に中華そば食ひ、都電にて肴町通りしに気付き、下車して東洋大学へゆき鳥山先生にゆけば帰られしあとらしく、又偶然齋藤部長を見かけ、部長室にていろいろ話す。 渡辺道夫講師のsalaryは出るはずと。山室教授の夫人が国富博士の令嬢と。 (けふ八木嬢よりtypeにて業績来り、和田先生にゆく筈なりしも郵送す)。 増田春恵より催促。萩原葉子氏より「一度話したし」と。硲晃氏より「史に浜寺の坊やの家庭教師また世話したまひし」と。 15:00村田幸三郎君に電話して17:30行くと云ひ、16:00出て錦糸町よりtaxiにてゆけば17:00。一寸話して用すむを待ち、 自動車にて銀座までつきあひ引返して深川の料理屋。御馳走となり小学校の同級生の思ひ出話す。肝臓わるしとてわれのみ酒のみ、21:00出て自動車にて家の前まで送られる。夜ふけ八木嬢に礼状。 9月26日 小島氏より「迎へに出ず。聴衆にわが教へ子あり」と。蒲池歓一氏より「この間、蔵原伸二郎と小学館にて噂さしゐし」と。 和田節子夫人より礼状! 尾崎吉子夫人より「菊子君の見合好かりし」と。入浴。 19:30電話して松本善海を訪ふ。慢性中耳炎と。夫人音楽会とて帰りたまはぬ中、辞去。ハガキ書く。 9月27日 浅野建夫君より29日の(※今中会:今宮中学同窓会)出席10人。中に珍しきは柴山胖か。村田に礼と増田春恵の就職依頼。尾崎吉子夫人にお祝ひ状。和田節子夫人に『悲歌』。 台風南を通る。美堂正義君より「呉にあり」と布施へ。平凡社藤田正典氏より「訂正承知」と。川崎きく子よりcookie(宏子の姉ならん)。 9月28日 9:00起床、散髪にゆき、浅野建夫君に電話して尾崎菊子の(※別の)縁談ことわる。川崎きく子氏より送り状、果して宏子の姉なりし。 専任教授連合会より10月4日(金)13:00必ず出席せよと。 11:00出て国鉄(桜木町行といふがあり)、南太田までゆき中華そば食ひ、横浜市立商業へゆけば無人。ややして市教育主事蕪木直行氏に紹介され、『詩集西康省』もつ横田氏(鶴見工高)に紹介され、わが教へ子(法政中学)と話す。熊谷孝君森村学園にありと。「唐代の文化」(※講演)20人足らずを相手にやり、3,000を謝礼にもらひ、『太陽』2号よみつつ17:00帰宅。 高橋君来らず。中野清見君より「令息のことたのむ」と車代2,000。21:00古道具屋へゆき机(600)買ひ来る。(和田賀代氏より「依子就職につき、月曜会ひたし」と)。 9月29日(日) 朝9:00高橋重臣君の訪ひに目をさまし、葡萄酒のみつつ話す。天理教の財政立直りの傾向と。毎月訳詩すると。 10:00出しあと朝食とり、11:30出て池袋departにてlighterに石と油入れ(15)、吉祥寺にて下車。 古本屋見、『Heine全集』2冊1,300にてあるを見し。 竹内(※竹内好)訪へば在宅、中野清見の長男の就職斡旋たのみ、14:30となりて出、busにて吉祥寺。 雨中を武蔵小金井駅より「料理の寺子屋」探しあてて着けば15:00。誰も来をらず。 やがて浅野、藤田、西川、広島、柴山、雑賀、金沢と集り、倭を最後に皆出席。(西原、柴谷は外遊中)。柴山は東宝喜多見の撮影所長と(※のち円谷プロ代表)。大(※西島大)を識りをり。 18:30まで笑ひ語り、撮影して解散。 柴山の自動車にて金沢と駅まで送られ、帰宅すれば中野剛宣君来り、再訪を云ひしと。待てば程なく来て話し、竹内、原田に紹介の名刺書きて渡す。 9月30日 雨。川崎きく子へ礼状。宏子へ同。松本一秀君へクラスの有様。 午后東洋史研究会へ500送る。『果樹園21』15冊来り、『帝塚山短大研究年報3』2冊着きしのみ。 依子をつれて悠紀子、和田賀代女史に会ひにゆき17:00帰り来る。 10月1日 西宮君へ礼状。子ら東都祭で休み。 12:00鳥山教授に電話すれば御不在。東洋文庫へゆき『果樹園』くばり、鳥山教授に電話すればまだ帰られず。萩原葉子氏も留守と。 帰れば岩田生より手紙。けふ依子を西川に行かし「仁谷氏へよろしく」と頼む。 夜、竹内好より速達、「一昨日わが帰りしあと杉浦(※杉浦正一郎)未亡人と田辺東司氏訪問、杉浦家吉祥寺へ移住。未亡人は4日まで田辺家にあり。連絡せよ」と。すぐ電話すれば在り「聖心女子大へ嬢を転校さすつもり」と。 10月2日 晴。10:00東大東洋史研究室へゆけば無人。10:30よりと。 出て古本屋ひやかし11:00前より『梁書』を読む。すみて社研へ加藤俊彦君に会ひにゆきしも不在。「牧山」にて昼食し、鳥山先生に電話すれば「来てよし」と。 新宿より鍋屋横丁のお宅へ参り、『李太白』進上して帰り来る。先生70才になりたまふらし。大塚をへて帰宅。 筑摩の井上達三氏より「白楽天を冬までに」と。小島樹氏より礼状。夜半、岩田生、池沢茂の2氏へハガキ。 10月3日 晴。入浴す。(※東洋大学紀要に)「劉アイタのこと」書かんとす。 なにものに憑かれてあれやこの十日たよりよこさぬなれをおもふも。 うつくしき秋天見ればなれが眼に似たりとおもふものおもふ日の。 10月4日 晴。堀内歴より「なつかし。椿下来し」と。長尾良君より「本日退社決まる」と。 12:00出て専任教授連合会にゆけば小室栄一氏来をり。渡辺講師のこと云へば「知らず。私講師にて今迄は村上君が払ひし」と。不快。また曰く『西洋史研究序説』の原稿を出版社に世話せよ、と。 竹村(安田生命社長)、川西(※学長)、齋藤(※文学部長)3氏辞表を出せしと。理事総辞職にならざりしも一応成功と。 16:00電話といふにゆき見れば、鶴崎裕雄。16:30肴町で会ひ、喫茶してきけば「加藤勘十代議士に大映へ推薦受けし」と。ここより長尾良に電話すれば「いま申し渡されゐる」と。2人にて歩き、東大案内し、産経田中順二郎氏に「明日19:00訪問す」と伝ふ。 10月5日 曇。和田夫人より『悲歌』受取りし。鍛治嬢よりは返事なしと。 12:30出て東洋文庫。『燃藜室記述』と『史料叢刊初篇』とを借出す。和田久徳氏来り、やがて和田先生お越し。「聖心女子大へ履歴書出した。鳥山君にきけば村上君の時間ももらひ、salaryは羨ましい程ださうだね!」と。 15:30出て帰宅。17:00悠紀子と家を出れば坂根生に会ふ。「神泉町に下宿見付け3,000なりし」と。修学旅行は10日出発と。 池袋で玩具買ひ、新宿より方南町行busにて雑色住宅の田中順二郎夫妻を訪ぬ。「来年4月出産」と。美千子父親につく。21:00帰宅。 けふ、8日(火)15:00村上講師代講の件につき2部教授会開くに付き、月曜休講にせよと速達。小室栄一しゃらくさし! 夜、竹内、小島、井上達三3氏へ礼状。その他。 10月6日(日) 雨。父より転送の古本屋の広告来りしのみ。夕方、依子をつれて悠紀子、和田賀代女史の紹介の東京証券取引所計算課長佐藤氏にゆく。「今年度は12人採用」と。悒鬱耐へがたし。「劉アイタ」書く。 10月7日 京、運動会。東洋大学大森氏に電話し、出講時間たしかめれば14:20~17:25と。京に弁当もちゆきし悠紀子の留守をす。 鍛治初江君より「上京出来ず」と。西宮一民氏より「typhns(※台風)たりし。修学旅行は17日5:35上野着。5:50~8:00水月 館」と。 参考書その他もちて14:00登校。宮崎教授に会へば「2部教授会は知らず。小室氏のままに。齋藤部長との関係如何に」と。 須永助手、高橋助教授と話し、千葉栄教授と話す。「安藤藤島宮宮司、高松住吉神社宮司をよく知る。三木正太郎氏と同級。額賀大成生の父いま香取神宮宮司」と。信頼すべき人の如し。 昼の学生も来らず、7:00出て帰宅。 青山定雄氏より速達「防衛大学講師として1週4時間東洋近世史を講ぜざるや、返事直ちにききたし」と。速達し、和田先生に電話して伺へば中島敏氏も講師たりしと。 (けふ富山大学へ集中講義に出発前の鳥山教授に会ひて「和田先生に心配いらぬ」と申されし趣承る)。 池沢茂君より「福地邦樹君、東京では田中氏奥さんを働かさねばならんと云ひしに、それ見たことか」と云ひし由。鍛治、西宮2氏と史へハガキ。 10月8日 井上睦子生より「打明けたきこと起った」と。 12:00前出て東洋文庫へゆきて見しも休憩中とて六義園で休み、12:40より『明清史料2篇』見しも青山定雄氏来られず。太田常蔵君と小使さんにたのみて出、東洋大学へ14:30ゆけば、谷講師「教授会は16:30に変更」と。 帰りて早夕食し砂糖もちて出、ゆけば千葉、辛島2教授を加へて4人で会議。小室氏の説通り、概説は年寄りの我、特講の学生あるなら渡辺君やり、報酬はあとまはしとなる。細川助手帰郷。代り見つかりしらし。 渡辺君と出て内職さがさんといひ、高橋秀君とも同車。新宿にて別れ、祖師谷大蔵訪ねて青山教授に会ふ。「防衛大の清水講師の後任としてまづ半年やれ。麓氏(※図書館の麓保孝)には話して見た」と。履歴書わたして訊ぬれば、我がことは知り、和田先生心配しをられし故と。ありがたし。 21:30帰宅。 富士銀行きまらぬゆゑ、依子hysterieおこせしと。午后浅野君より写真4枚来りし。 10月9日 ゆったりしてゐて気がつけば水曜。あはてて髭剃り東大東洋史研究室へゆき見れば南方史研究会はじまりをり。山本教授も帰国して出席。 すみて(欝金香をtulipとわが云へば博士はsaffronと)、太田君と出て、すぐ別れて帰宅。 昼食し、八木嬢に履歴書また1枚たのみ(このごろ便りなし)、井上睦子に「何でも語れ」と書き、13:50出て教授会にゆく。 助手の件通り、渡辺君の新講は通らざりしと。ふしぎなることかな。毛塚図書館長より「天理出張につき紹介を」とたのまる。すみて芳賀氏とちょっと話し帰宅。 笠野芳子生より2部卒業式6日にありしと。渡辺三七子より仏教に感心すと。松本一秀氏より「けふハトにて上京、10日~12日滞京、東京総局へ電話せよ」と。 (夕方、西川に電話すれば「忙しく富士銀行のこと聞かず」と。) 19:00また登校。鈴木生つかまへ、三浦氏にきけば萩原葉子さん「いつにても」と云ふ由。「12日(土)14:00小田急ホームで」ときめ、史学研究室にて細川助手にきけば「吉原生休学」と。 齋藤昭三新助手に会ひ、鈴木生と相談、来週休みと決定。別れて西川君に電話し、松本との連絡約す。 渡辺道夫君より履歴書受取り「中教(※出版社)へ話してみん」といふ。 10月10日 『果樹園』へ「東京哀歌」送り、笠野、渡辺2生へハガキ。増田春恵へ「履歴書送れ」と。日生秘書課へ電話すれば「松本君学習院大」と。行けば「帰社」と。また電話すれば「まだ帰らず」と。 池袋で西川にその旨伝へ帰宅。昼食せしあとまた電話すれば「面接中」と。尾崎菊子より「(※縁談まとまり)うれし」と。入浴。 17:00また松本に電話し、「忙しとてあす夜20:00東洋大学へ電話する」と。依子帰宅。富士銀行第一次向丘高校にて5人通りし1人と。 10月11日 晴。帝塚山より転送の『NHK国語講座 方言と文化』3,200部の印税を3~6月後支払ふとのハガキ見て、林dr.に注射打ってもらふ。夫人浜松へ旅行中と。 小山正孝氏を訪ふつもりなりしも一旦帰宅。悠紀子、上十条へ鞄の修理出来しをとりにゆく(250)。 平野氏(※自宅電話ないため取次)に和田賀代、船越耐姉妹より電話かかり、西荻窪に離れありと。小山君に電話せしに文部省と。あきらめて17:00まで家にをり、 八木嬢よりまた入れちがひのハガキ見る。「松茸をO先生に送りし」と。 山本敬子生より「神戸市灘区篠原本町鈴木廸雄(日立造船大阪本社)と10月21日結婚」と。「28日14:00~15:00東京にゐる」と。 川崎宏子生より修学旅行の在京時間しらせ来る。 登校。細川清助手を関口に紹介する手紙かき、演習に学生なく、現代史は河田生1人、そこへ国文の学生質問に来る。この次よりと云ひて帰宅。 (登校せし時、恰も松本より電話、「明日14:00より時間空く」と云ふに萩原邸訪問を云ひて断る。) 西荻窪の家の持主、共立女子大の教授にて1間はsun-roomと。ことわれとすすむ。 10月12日 よべ睡眠不足。山本敬子への祝状出させ、『俳句作家』受取り13:00出て新宿。 三浦嬢、鈴木生待ちをり、梅ヶ丘駅よりたずねたずねして行けば、萩原葉子氏「一寸用たしに」と。 上りて待てば帰ってお越し。茶菓を盛んに饗さる。『青い花』(※同人誌)賜ふ。よく書けあり。 『萩原朔太郎全集』来年新潮社より出ると。鈴木生なにも話せず。(※朔太郎に関する)わが追憶おきて出、門前にて別れ、寿一宅訪へば門前にて寿賀子に会ふ。 きけば飼犬のことでねじこまれゐると。橫で見てゐしに突かれ、寿賀子に警察へ電話せしめしに去る。「この次は食っちまふ」と云ひしが可怪。叔母来訪のひまなき様子に、悠紀子を来さすといひ、pãoもらひて帰宅。 『架橋2』来りしのみ。悠紀子電話せしに、先方に神経異常の息子をるとて止めよと和田賀代氏云ひしと。難問かんたんに解決す。 10月13日(日) 山口玲子生より「十合小野君、業務監察室に転じた」と。中野清見君より盛岡方言ヱハガキ3袋。岡田、隅田、筒井信義3先生に写真包み、ハガキ書き、宇都宮、尾崎、山口3生にヱハガキ。浅野建夫君にも同。夜、中野令息に電話せしに不在。 10月14日 晴。史より「奨学金もらへなかった。本見つかった、送る」と。服部英次郎氏より「小川和女史10月7日急死」と! 小高根二郎氏より「原稿受取った」と。高橋重臣氏より『漢訳西洋人名字典』『学芸手帖5』来り、わが稿6にのると。 依子けふ富士銀行の面接とて午前中在宅。弓子運動会のあとの休み。 13:30出て登校。16:00までに4年中村生と、その呼び来し櫻田生と2人のみ。(※前任の)村上君とちがひ14:30より始め、演習は 『唐書日本伝』。特講はcoxiugaやることとす。 17:00中華そば食べ(三浦嬢(※昨日あれから)あと30分ゐしと。萩原葉子さん喜びゐしと)、17:30より研究室にて待ち、3人集りし (国史3古巣正吉、大正14年生。同2浅見輝雄、昭和12年生。社会3片岡惠次、昭和4年生)に、この次、中世より始めることとす。 中野剛宣君より電話、「朝日より返答なく、岩波はやめた。東洋経済は原田に会へず。昨夜来しも寝ゐる様子に帰りし」と。 けふ依子、富士銀行にて「細し」と云はれしと悲観す。学校へ横山薫二とゆきしと伊藤賀祐君との寄せ書。 夜、中野剛宣君来り、「東京新聞の第一次通りし」と。深更、服部英次郎氏と萩原葉子氏に礼状。 10月15日 西寛治氏へ「中野君のことたのむ」とハガキ。増田春恵より速達にて履歴書。長沖一氏、川崎宏子、文芸一同よりヱハガキ来る。 夕方、坂根生来り、父君の持ちたまひし松茸を呉る。『果樹園』22~24号分90預る。 史より『楊英実録』、『明清史料4』10冊、『清文虚字指南編』、『清文補彙』6冊来る(95)。 依子帰り来り「合格通知ありし」と。明日身体検査と。深更「小川和女史追悼(東京哀歌2)」を書く。 10月16日 晴。10:00藤代へき社会学研究所に加藤俊彦氏訪ひしも、例の如く不在。研究室へゆき「睿親王九王考」史学会にと問へば満員と。(園田氏は固説らしきも、われAmin jirgalangをかぞふ也)。 『梁書』の印度の条よみ、帰宅すれば、八木嬢より履歴書。『月光』には乗ると。 防衛大学校教務部長保柳睦美氏より「木曜にきまる予定」と。小山正孝氏に電話せしも話中にてやめて入浴。 堀内歴より『蝉の歌わらべ歌』と送り状。保柳、青山2氏へハガキ。 10月17日 4:00起きし(よべ2:00に就眠)、2番電車にて上野にゆけば4:50。5:35に着く筈の汽車12分おくれ、着きしとbusにて花園町 水月旅館に入り、長沖、楳垣、、新任の同志社出の英文講師と話し、4氏入浴の間を文芸20名の室にゆく(井上明子とやらNeuroseと)。 落合、兼頭、川崎、羽畑、村上、山内などがわかりし。一同よりこけし贈られ長沖氏より手拭賜はる。山内ら菓子をくれ、またbusにて一周。東京駅につけば「つばめ」発車に20分前。先にplatformに入り、坂根生と待ち、10分前に来りしと話して別る。川崎の姉、来りしも話さず。 坂根生とcoffeeのみ、別れて西川にゆき礼云ふ。大丈夫ならんと。 みちききて野村buil.に西島寿一訪ぬれば不在。竹井眞訪ねしも不在。産経に田中順二郎君訪ね「こけし」渡し、紅茶よばれ、神田橋より都電にて三崎町。中教出版に小山君訪ね、(※渡辺同僚に)Arbeitありやなしや問ひしに「なし」と。国電にて帰宅。 午ねして14:00になれば訪ふ声して渡辺君。20:00まで話してゆく。 依子帰り来り「通りし」と。田中順二郎君より祝賀電報。青山氏より速達にて「今夕20:00湯島聖堂にて麓氏に会へ」と。麓氏に電話すれば母堂出られ「連絡なし」と。睡眠不足ゆゑ渡辺君と話してゆかず(守屋君上京し来ると)。 依子のこと、悠紀子賀代女史に電話すれば「(※紹介した東京証券取引所は)自ら断りにゆけ」と。風の中を出てゆく。21:30帰り来る。数男を訪ひしと。 10月18日 晴。寒し。9:30まで寝て疲労回復。史に「本の残り送れ」と。青山氏に親切を謝し「来週麓氏に会ひにゆく」と。 17:40登校。18:00吉原生来り、病気なりしと。『唐書日本伝』を演習のtextにかへると云ひ、Soothillの最後をやり、引きつづき現代史。小野生と吉原生。19:50やめて帰宅。新聞に「一足とびに冬」と見ゆ。 10月19日 9:00東京駅。彗星と月光とを見る。麓保孝氏より「木曜9:20より14:20まで?! 25日(金)17:00~18:00湯島聖堂にて会ひたし」と。 田中雅子夫人より「土橋氏に訊ねて合格知りし」と。隅田虎市先生より「19期は良いclassなりし」と。筒井信義君よりも受取。 10月20日(日) 雨、寒し。広告2通来りしのみ。「Aita(※劉アイタ)」清書しゐれば、悠紀子爆弾をおとす。明日、小光母の10年(※忌日)にて、けふ姉 弟と染井墓地へゆくつもりなりしと。「2年待て」といはれる。われ思はず落涙す。「私とゐるばかりにろくな仕事もできないで」の一言痛切なり。 依子けふ運動会。和田賀代氏より電話にて「この間寄らざりし」と船越耐氏、悠紀子に怒りゐると。 夜、麓保孝氏へ「24日(木)午前、学校を訪ふ。25日は17:00~18:00授業」との手紙投函。「Aita」夜半に39枚となる。 10月21日 曇のち晴。悠紀子あひかはらずhysterie状態にて出てゆきしあと、講義の下調べす。 昼、帰り来て依子に「残りしfilmにて2人を写してやれ」と云ひしあと、郵便局にて金引出し来り、おきゆく。 13:30出て登校。演習にtext1人ももち来らず。(山崎敬子より電話かからず。宮口時喜子団体旅行にて来しと電話かけしと)。 すみて大森君に会ひてきけば「salaryの見込つかず」と。Coxingaやりはじめ、6:30すませて渡辺君に会へば、「大学書林の面接受けてよきや」と。宮崎主任に防衛大学(※講師副業)の了解求め、中華そば食ひ、研究室にて待ち、18:00より概説はじめ、唐代了れば18:45。 あはてて帰りしに八木嬢来ずと。夕食すませ19:30おとなひ受け、『天理図書館稀書目録洋書第3』もらひ、依子に祝500もらふ。 悠紀子、先人の戒めをくどくどと垂れ、21:00すぎ2人にて駅まで送りゆく。けふ工藤好美先生より「(※名古屋大学より)京大へ御転任」と。 10月22日 晴。家居。萩原葉子氏より礼状。午后訪ふ声し、大道裕子、三木和貴子、山下陽子の3人来訪。16:00まで話しゆく。「大谷治子静岡へ嫁ぎ来る。山本恭子東京へ嫁ぎ来る」と。こんぶ賜はる。大道生に連絡時間書き与へし紙は「Aita」の29枚目なりしこと、あとにて判明! 深更「Aitaの伝記 ―中国官人の一性格―」54枚(※東洋大学紀要原稿)書き畢る! 10月23日 晴。東洋大学組合より「土曜の臨時総会に出よ」と。けふは南方史研究会休み。ぐったりしゐしも、12:00出て秋葉原より都電にて山本書店『羽田論叢』を800で売り、近くで『楊貴妃とクレオパトラ(50)』。蒲池君に寄りしに不在。団子食ひて待ちしも帰り来ず。 東京堂で『立原道造全集』見、またゾッキ本で『楊貴妃とクレオパトラ(40)』『李太白(40)』。Bate『Report from Formosa(100)』買ひて筑摩書房にゆき、井上、海老沢2君とも不在ゆゑ、東博氏呼び、『李白』2冊借り、『楊貴妃とクレオパトラ』贈って出て東洋大学。 大森君に組合総会の委任状托す。齋藤部長に防衛大学の了解求め、高橋助教授に「Aita」渡し、14:30よりの教授会に出る。鳥山教授、相談なしにきめし時間を見せ、2部も同じ。辛島博士来て小室氏と相談し、17:00すむ。 渡辺君に時間ふえず。帰りて岩田生の手紙見、19:00出てまた東洋大学。渡辺君「大学書林の感じよかりし」と。特講鈴木生のみにて「けふ卒業論文出せし」と。誘ひて湯豆腐にて浅酌(2人で一合105なりし)。 けふ小室氏に防衛大学の了解求むれば「お祝ひ申し上げる」と! 10月24日 9:00出て品川にて京浜急行にのりかへ、10:00ごろ馬堀海岸へ着けばbusなく、歩きて山上の防衛大学へゆき、客案内中といふ保柳教務部長を12:10まで待ちて会ふ。(京城大学にて鳥山、藤田両先生を識ると)。履歴書呈出し、案内されて図書館に麓保孝氏を訪ね、丸山氏(※丸山薫)との関係問はれ、中華そば食べさしてもらひ、田中秀雄教授に紹介さる。 busの時間きけば恰も13:05来りをり、駈足にてのり、馬堀より横浜まで乗り、外へ出てtoast食ひつつ思案し、東横妙蓮寺前まで乗りて大口仲町の田中幸三郎dr.を訪ぬ。見おぼえなけれど、たしかに19期生なりし。岡島源之助の話し、大口より東神奈川まで出て帰宅。井上睦子より「来春上京す」と。 10月25日 曇。堀内歴へ詩集の礼。防衛大学総務課人事係板垣事務官より「研究業績概要を」と。西川より「仁谷さんに会っておけ」と。 午后速達にて板垣氏より「受取った」と。八木氏より「やまとで帰りし。眠りがたかりしならん」と。 渡辺三七子生より英文typeならふと。17:00雨中を出て登校。台風19号来るとかにて、小野生2時限に来しのみ。Salary明日出ると云ひし人あり。 西川に電話すれば小唄と。夫人に「仁谷さんに行くのおくれると伝へてくれ」とたのむ。 悠紀子、戸籍謄本を見て、「10月21日はわれらが結婚入籍の日にて小光叔母死にし日なること」発見。 10月26日 曇のち晴。大田浩より「林富士馬氏にきけば、つまらないように云われるということですか」と詩集。 西川より依子に祝としてbag。午后、中野令息来り、「東京新聞第2次にも通りし」と。 けふ八木氏へ手紙。渡辺三七子へハガキ。(朝、羽田より速達にて目覚む。「28日ユネスコにて中央大学へ来る。会ひたし」と也)。 10月27日(日) 晴。中野、青山定雄、浅野建夫の3氏へハガキかき、散髪せしのみ。18:00西川に電話すれば不在。 10月28日 今市佐恵夫人より「夫君在京中来られざりし」と。涌井千恵子より「2部の方よかった。百済璋子29日泉大津へ嫁ぐ」と。 専任教授連合会より「30日(水)12:10より臨時総会」と。 12:00まで講義の下調べして湯島3丁目より中央大学。13:10まで待たされ、羽田君よべば「30日夕方空きをり」と。 早々出て東洋大学。鈴木(山本)敬子夫人の電話まちしもかからず14:45より講義。17:10昼の部すます。 (けふ理事長名にて「15:00俸給わたす」との掲示ありしも後刻撤回)。 構内食堂にてrice-curry食べ、宮崎教授に会ひて話せば「salaryいつ出るやらわからず、(※齋藤晌)部長ならびに我に少々用意あり。いつにても云へ」と。「はじめ君を呼ぶに部長少々強引なりし」と。 夜の概説すませ、西川に電話すれば「まだ帰らず」と夫人。天理図書館より『biblia9』と『善本写真集9、10』。倭周蔵君より「増田まづ見込なし」と。 あを父のごとく思ふといひし子はわれに告げずにとつぎゆくらし。 10月29日 曇ゆゑ京、荒川に遠足にゆきしに雨降り来る。藤田幸子夫人より「田中雅子夫人に会ひし」と。東方学会「11月7日(木)14:30日大本部にて」と。 午后出て都電にて吉野書房。北村氏にきけば「長尾良君25日に退職した。[卿]の参考書とは関係なし」と(※不詳)。出て日経に寄りしも原田運治君不在。歩く中、住友海上火災見つけ、大江勉呼び出してお茶と菓子よばれる。「大江叔父叔母3月東京へ来る」と。 出て西川に会ひ、行きてよしときき、富士銀行仁谷氏に会ひにゆけば「会議中」と。本2冊と名刺おき、野村建設に竹井眞支店長訪へば、「嫁世話せよ」と。寿一訪ひしにまた不在。 堀内歴より礼状、「すべて富士正晴まかせ」と。あはれ。 夜、松本善海に電話し、「羽田君に連絡とれ」といふ。「芋の話に異議あり」と。夜に至りて悲しくてならず。 10月30日 工藤好美、倭周蔵、今市佐恵、八木嬢の諸氏にハガキ。中野清見氏より、令息を一度に西氏に会はせよと。白鳥夫人より校正。二宮尊道氏訳の『新体詩』。 悠紀子、新聞広告にて見し橘町の商店へ出てゆきしあと昼食し、12:00東洋大学。 鳥山教授に保柳氏のこと云へば、「来週あたり会ひたしと云へ」と。専任教授連合会に出て学長代理、理事長の後任を議す。salaryは組合が労働金庫より借りると、小沢委員長発表。14:00帰宅。 硲氏より「史、礼に来り、防衛大学出講聞いた」と。悠紀子帰りをり「(※パート採用可否の)返事あと」と。 夕食してまた東洋大学。白鳥夫人に伺へば「ドン・ボスコ社へ直接送り返したまへ」と。松本宅に電話すれば「羽田に会ひにゆきていまだ帰らず」と坊や。渡辺君来り、「大学書林返事なし」と。 特講また鈴木生のみ。来週2時限にくりあげ『昭和詩集』よむこととす。 10月31日 6:00起き、7:25王子発。9:30防衛大学に着く。茶、弁当など教官用の設備なく、学生もなんとなく不快なり。麓氏を図書館に訪へばまだ来らず。15:00前やめ、疲れに疲れて帰り来る。 父より手紙。「心身ともに多忙。大より送金せず」と。前川緑夫人より11月10日までに必着にて「漢詩について」書けと。 11月6日(水)14:30の教授会に専任助教授、講師も出席さすと。夜、中野剛宣君に電話すれば「父より物来る筈」と。それを待ちて行くこととす。 今日、史より『清文彙書』『三合便覧』『清文啓蒙』『清文補彙』来り、近々売りに行かんと思ふ。 悠紀子面会にゆきて一時勤めと云ひしに夜、「それにてもよし」と速達来る。(吉田東洲氏、高橋匡四郎を識りしと『古今評論』)。 11月1日 悠紀子7:30出てゆく。二宮尊道氏へ受取。関口、青木陽生2氏へ防衛大学のこと。前川夫人へ「11月10日までに送る」と。涌井、藤田幸子夫人へ返事。白鳥氏の校正をドン・ボスコ社へ送る。 訪ふ声に誰かと思へば長尾良君。「吉野書房やめしもX社にゆくこときまりをり。吉野書房より2月まで8千円づつ貰ふ上、失業保険あり、心配不要」と、うれし。 わが原稿料は4月後は催促してよしと。青山氏より京都の学会へゆくと。 長尾君去りしあと昼食し、14:00ごろ中野剛宣君の訪ひ受く。父よりbutter来る筈にて、それを待つこととす。大江叔母より元気と。「博士になれ」と。『果樹園』22号来り、(※編集後記で)池沢「奥さんを働かして」と云ふ。 11月2日 みな出てゆき最後となりし京「お父ちゃん起き!」とおこし呉る。 岩崎昭弥より16日(土)静岡への出張のついでに来ると。Heine Geldern氏の講演13日(水)18:30~19:30。Walter Fuchs氏の講演21日(木)16:00~17:00と。ともに出られず! 午、中野清見君よりbutter6ケ。尾崎菊子より菓子2箱。 15:00中野剛宣君に電話すれば外出中と。満文書5種もち神田をへて山本書店にゆき11,000で売る。『唐国史補(80)』『李白詩論叢(120)』買ひ『李太白(40)』ゾッキ本で買ひ(『楊貴妃とクレオパトラ』見当らず)、神保町歩き『南十字星(20)』『東亜史雑攷(100!)』買ひして帰宅。 夕食しゐれば中野君来り、またせて18:30ともに出、渋谷代官山に西氏訪ぬれば、未だ帰らず。夫人に明日9:00中野君再び来さすといひ、渋谷で青年座にゆき、麻雀屋の大のもとへ案内させ、百軒店の酒店で待つこととし、来しと話し、京都の本を売ることとし、20:00帰宅。悠紀子機嫌よし(室代払ひしと)。 11月3日(日) 依子、弓子と留守番にて楽。ハガキ4枚(父、岩崎昭弥ヘ西下の予告す)かき、16円と値上がりし銭湯にゆきしのみ。 11月4日 三木生より27日帰阪、大道生は急に帰りしと。八木氏より「7、8、9は図書館会議」と。宮口生より「会ひて相談することありし」と。 14:00登校。salary、2日に出しも殆ど受取るひとなかりしと。大学祭は23日を中に一週間と。 怪文書まはり「齋藤派の陰謀。一刀両断せよ」などとありしと。羽田君の名刺と菓子と研究室受付におきあり(あとにて聞けば30日夜来り、しばらく待ち呉れしと)。 昼2時間すませ、炒飯食ひ、須永助手にきけば京華(※中学校)は全く東洋大学よりはなれゐると。 夜学すませ帰り来れば専任教授連合会より5日(火)15:00より小野理事の話に先だちて会議すと即日速達。 小高根二郎君より「美堂君詩集買ひしを雑収に入れる」と。(鴎外『現代小品』を150にて見付けて買ふ)。羽田、八木、宮口、小高根へハガキ。 11月5日 京、蕁麻疹にて休校。林dr.、夫人に電話して「レスタミンのませよ」と教はる。三木和貴子、青山定雄氏(10日午すぎ伺ふと)、岩崎昭弥君へハガキ。 レスタミン買ひにゆき『ニューディール』と『太陽3』買ひ来る。京にpão食べさし、14:30依子帰り来らざるに出て国鉄にてお茶の水へゆけば、中野君待ちをり、きけば今日の面接の結果わからずと。都民銀行(駿河台下)へゆけば加藤定雄16:30まで外出と。 中野君をつれて宝文館へゆき『方言と文化』もらふ。ついで三省堂にゆけば休み。東京堂にゆき『末摘花評釈 下(380)』買ひ、岩波書店にてきき、歴史学研究会事務所へゆきて、三島一氏還暦祝(200)渡せば金なくなる。 古本屋見て加藤君に会ふ。「創元社又は平凡社に紹介せん。筑摩は『太陽』にて危し」と也。 お茶の水まで歩きて中野君と別れ、上野にて絵本買ひて帰宅。大道生より礼状。谷川真佐枝「岐阜へゆきし」と。 11月6日 大道、谷川2生へハガキ。吉田東洲氏に高橋匡四郎のこと。楳垣教授へ『金田一論叢』のこと。 京、流感らしくけふも休校。奈良女子大自治会の文化祭の案内を大阪より転送。これに住所変更と「小川和女史を悼んで」同封の手紙かく。 12:30弓子早引きして帰り来り、京をみさして14:00登校。鳥羽正雄教授と同道。 15:00より始まる会に宮崎教授より怪文書見せらる。われのみ来らざりし也。 社会の米林氏まへに曝露せし河合良成の婿といふ松本信次法学博士より対決せまられ、部長、広池、宮崎、野尻の諸氏証人に立ち、反対せしはドイツ語の馬場氏のみ。 部長より五島慶太氏出資のいきさつ話あり、ついで野尻氏の報告あり。 17:10すむ。われ帰宅し、前田光子よりの手紙と作品と大阪より廻送されしを見、鈴木助次郎『駿河大納言』その他受取り、ややにして鈴木生と繰上げを約せしに気付きてゆけば、停留所にて見付かる。河井酔茗よみて終り、渡辺君に守屋君との連絡たのみて帰宅。 11月7日 快晴。暖し。7:30家を出、品川よりのりかへて行けば9:56のbusまで待たされし。(※防衛大学にて)printくばり3組の進度そろひし。昼休み麓氏に会へば丸山氏のこと云ひし。 15:00前すませ、横須賀駅までbusにのり逗子、鎌倉をへて横浜へ出て帰れば17:30。 角川書店より『蕪村・一茶』来り、わが文のりゐたり(※日本古典鑑賞講座『蕪村・一茶』346-355p「ロマンチックな詩人」)。 頼永承氏より5日来日と。堀内民一君より「蕪村の抜刷くれ」と。岩崎昭弥より「16、17日の上京未定」と。西島寿一よりわび状。 頼氏の宿、芝Park Hotelへ電話すれば、会ひたけれど忙しと。会議中とのことわかり早々切る。渡辺道夫君より速達。「守屋君土曜15:00文庫にて」と云ふと。 11月8日 京つれて林dr.にゆけば富士馬氏まだ寝をり。起きて注射打ち、投薬たまひ、初診料とりたまひしのみ。『果樹園』よまず書かずと。 出て大塚まで歩き、絵本買ひてやり帰宅。志野和子生より「この間上京した」と。 午后、千川より『俳句作家』2冊。「1冊は倭に手渡せよ」と也。 依子帰りしのち、17:00家を出て東洋大学。辻村生18:00来り、来週帰省と。次はいつも通り小野、河田の2生。 けふ中野剛宣君来り、東京新聞補欠らしといふにより、丸に電話すれば電報打ちて清見君呼ぶと也し。 11月9日 よべ2:00ごろまで眠れず「詩人のありかた」と題して白楽天の48才をかき、朝書き足し14枚にし、9:30速達しにゆく。『文芸春秋12月号』買ひ来る。 青山教授より「明日不在」と。堀内民一、志野和子、西島寿一3氏へハガキ。 14:30家を出、東洋文庫にゆく。展示中の満文『平定準噶爾方略』にTsewang Rabtan, G’aldanとありし。 増井経夫、鳥羽正雄、岩井大慧、白鳥清、手塚隆義、佐中壮の諸教授に挨拶。青山定雄氏もお越し、挨拶せしが変なりし。守屋君(※帝塚山学院同僚)来り、16日池田に転居と。渡辺君のことたのむ。防衛大学のこと知りゐたり。歩きて帰宅。 岩田生より「先生怒りますか」と。鶴崎裕雄より礼状。尾崎菊子、山下陽子よりハガキと、帝塚山day! 関口八太郎君より2~3月渡米と。入浴せんとせしも休み。 11月10日(日) 岩田生へ「アホバカマヌケ」と返事。鈴木助次郎、鶴崎裕雄、山下陽子の3氏へハガキ。父より「腑甲斐なし」との手紙。 13:00出て古本屋にて檀一雄『太宰治(50)』買ひ、よみつつ成城学園前下車。訊ねまはりて小畑信良閣下訪へば他出と。土産と名刺とおきて中河邸。 「ラマンチャ」の研究会なれど三浦女史のほか知る人少なし。公平、三浦女史の小説朗読きき、批評さされてのち、そばよばれ、蘇峰の書見せていただいて退出。 悠紀子風邪とて臥床。21:30銭湯へゆく。 11月11日 雨。細川清君より挨拶。岩崎君より「17日午前来る」と。楳垣実教授より「17日国語学会に西宮君と出席するが会へず」と。百済璋子より「林姓となりし」と。 13:30京、帰り来り、留守番させて登校。学生2人のみにて不快。16:00すませ学生食堂にて粗末な飯くはされ、待てば頼永承氏より電話。「きのふ学会の諸名士に会ひ西下」と。「楊雲萍君によろしく」との伝言たのみてすむ。夜は聴講3人。不快がりつつ帰宅。 11月12日 晴。林(百済)璋子夫人へ祝辞。細川清君へハガキ。三火会より「19日井沢淳君の映画の話」と。 午后の便にて西宮一民君より「大道生よりきけば、(※西宮氏上京に対し)何も云って来ないと云ひし由」と。「笑談ならん。16日ごろ36番教室へゆく」と返事。石浜論叢に「Gulmahun(※箍爾媽混:うさぎの謂)」書くことと決心。 11月13日 9:30中野剛宣君に電話すれば「父上上京しをり、片づくまで会ひたくなしと云ひゐる」と! 小畑信良閣下より「忘れた」と。早速ハガキかく。 午后、堀内民一氏より『日本歌人』の原稿受取。19:00出て東洋大学へゆきしに渡辺道夫君来ず。助手をして捺印せしむ。ふしぎ。 丸家へ電話すれば「まだ帰らず」と。風邪ひきし鈴木生と柳虹、犀星、春夫よみて21:00了へ、帰れば中野清見より速達。「15日夕方、丸と2人にお礼の一杯飲まさんと思ふ」と。 11月14日 悠紀子に中野君への電話たのみ、8:20品川発の特急に乗り防衛大学。寒し。事務の嬢にきけば「俸給は21日」と。17:30帰宅。 浅野晃氏より「18日田園調布に転宅」と。 11月15日 寒し。西宮君より速達、「16日13:00すぎに東大にゆく。一酌したし」と。中野清見君に電話すれば「すぐ宿へ来よ」と。「東京哀歌」清書し速達して御徒町の宿へゆけば、今夜本郷の宿屋へ缶詰と。自叙伝を平凡社より出すと也。 (※本郷の)宿へゆき神田の組合へゆき、東京新聞にゆきしに西氏不在。昼食し、西川に会ひ、農林省へゆきまた東京新聞。西氏また不在とて日比谷で映画を見、電話すれば「今夜差支へる」と。 夕食して(東洋大学。に休講の電話す)、nude-show見て別れ、21:30帰宅。 小野彰生より欠席通知。植村清二先生より「中村図書館長より貴台の後任に推すといふにつき、内容しらせ」と。八木氏より「風邪ひいた。連休に来るや」と。(丸、坊やの看病に房州へゆきしと)。 11月16日 前川緑夫人よりも受取。本位田重美氏「岡本に転居」と。尾崎菊子より宇都宮和子結婚の様子。岩田生より「会ふのはおそろしい」と。 13:00中野剛宣君来り、「東京新聞より断り来りし」と。父のところへゆかんと昼食し、ともに宿へゆけば外出と。 (※東大)38番教室にゆき西宮君掴へ「18:00王子へ来い」と云ひ、また宿に引返し、待てばほどなく帰り来り、西君に電話かけささる。 10人にまで入りしも6人のみ合格せしと。補欠はなしと。中野君月曜までゐることとなりしと。 出て帰宅。入浴し(筑摩書房より申告票)、18:00都電の駅にゆけば西宮君来り、port-wineのみつついろいろ話す。川崎この間ものいはざりしは井上の狂気の原因つくりしゆゑと(井上帰阪、入院退学と)。兼頭の母、長沖氏にも同文の手紙出せしと。鍛治君、院長の世話にて御木本に働くこととなりしと! 11月17日(日) よべも睡眠不足。岩崎昭弥待ちゐれば、郵便にて花井彩の詩、中々よし。山本敬子より挨拶状、「この間、電話かけざられざりし」と。驚きしは東洋大学理事長に大島豊★任じられ、18日紹介式と。 そこへ岩崎昭弥来り、「保田、新学社より雑誌出すとて京都に泊まりこみ」と。「服部三樹子の序文、保田かかず」と。 依子に昼食つくらしめ、tobacco1箱もらひ、13:00ともに出て浅野晃氏を訪ぬ。お多福風邪と。岩崎「紙と製本代負担して(※浅野晃 の)詩集出す」とて相談し、わが話さんとせしところへ窪田雅章君、名古屋の人を案内して来る。大島のこと簡単にいひ、喧嘩するといひて出、洗足駅前で喫茶し、新宿で岩崎と別る。山川京子の家へゆくとなり。 悠紀子と京と19:00帰り来る。 (★後日記 欄外:理事長は鈴木中将とてrobott。常任理事にして高商長をかね、下に齋藤貢とて無学の実行家ありし。白鳥先生のことにて我反論し、即日退職せし相手。官僚的なる男なりし)。 11月18日 悠紀子に休講の電話たのみ、植村清二先生へ「止めよ」とのお返事かく。落合明美生より21日上京と。早速ことわりのハガキ書く。尾崎菊子、鈴木(山本)敬子へハガキ。 10:00より雨やむ。夜、中野剛宣君来り、「父の言ふには東京新聞へ銀行関係より運動したく、しらべてくれ」と。承諾して帰らす。 悠紀子、学校へ電話すれば「お大事に」と云はれしと。 11月19日 曇。「23日9:30より七十周年式典に出るやいなや」と東洋大学より。八木氏より「風邪きつし」と。 依子早く帰宅。散髪し、14:00出て東洋大学。大森君にきけば「大島は土建社長」と。明日salary出ねば貸してもらへると。旅行のこと云ひ、70周年欠席とどけ、研究室へゆけば小室、千葉2氏不在。野尻教授つかまへてきけば「大島は右翼、当分静観」と。 出て神保町より東京都民銀行にゆけば加藤君不在。筑摩にゆき井上達三君に白楽天かかずとことはり、『支那之実相(30)』買ひて、加藤に会ひ、東京新聞の銀行ききしもわからず。けふ平凡社へゆきしと『詩人』呉る。 都電にのれば丸ノ内へ出、東京駅をへて帰宅。 渡辺三七子より手紙。悠紀子20:00前帰宅。西川に電話すれば「宴会にて未帰宅」と。 11月20日 晴。風。岩崎昭弥へ「高千穂号にて22日17:29(※岐阜駅に)つく。都合わるければ江口(※江口三五)氏へ」と速達。花井彩へハガキ。 父へ「25日頃、古本屋を(※蔵書売却に)つれてゆく」と。 京、帰りしゆゑ14:00出て飛鳥山よりbus、三越前(25)で下車。日銀に鎌田正美訪ぬれば流感と。原田運治訪へば「今年度は採用せず」と。 歩きて西川訪ぬれば17:00まで外出と。第一弁護士会へとゆくに日比谷公園で杉野祐二郎に会ふ。丸に会っての帰りと。ゆけば夫人もをり、長男心配いらずと。「西氏を訪ふことにせよ」と。 本位田昇に寄りしあと東京新聞にゆけば西氏不在。新橋へ出て帰宅。 西宮君より礼状。夕食し、19:30東洋大学へゆき、salaryもらふ。講師室ふさがりをるに研究室へゆき、中野剛宣君に電話、「加藤君と西氏に自らゆけ」といひ、渡辺道夫君に会ふ。「この前東洋文庫でおそくなりし。守屋君に帝国高女へ紹介してもらひし」と。青山助教授「成田節男君会ひたし(講談社教育図書)と云ふ」との伝言を置きあり。 鈴木生と話し、来週休講ときめて帰宅(加地信『中国尚用十年』買ふ)。 11月21日 品川8:40に乗り防衛大学。麓氏に会ひて「昼休みに来よ」といはれ、行けば校長来り、台湾の話す。すみて「青山氏多忙につき火曜の2時間も引き受けぬか」ときき「臨時代講なら」といひ、「salaryもらふはいつか」ときけば会計、教務にききてくれ、手続未了とわかる。放課後またききにゆけば「来週たぶん出るでせう」とのことなりし。 帰れば太田陽子夫人より速達「渡辺三七子の母亡くなりし。孤児ゆゑ引受けてやる」と。西宮君より「木村小使よりよろしくとの伝言忘れた」と。大東幸子夫人より「文学と絶縁しゐる」と。 中野清見君より「西氏に脈ありやきけ」と。いつもあとを追かけ来るが事件か。 悠紀子20:30帰宅。入浴して爽快。 11月22日 8:30出発。悠紀子けふ休暇とり機嫌よく送り出す(3,4千円借りる)。東京駅で出、西川に会ひ中野の話し、銀行関係しらべしもわからず。 10:15東京駅構内へ入り11:00高千穂にのり17:34岐阜着。 岩崎君迎へに出てくれ、18:30より座談会すると。江口氏にことはると云ひ、taxiにて杉山町にゆく。大増築やりをり。柿羊羹たまひ(岐阜一の弁護士と)、またtaxiにて岐山荘。座談会には女4人と男3人(中に大橋君といふが、ひとり受け答へしてくれし)。21:00すみて謝礼1,000もらひ、夕食。 昭弥夫人志津子来たまふ。伊藤賀祐に2度電話せしに夫婦にて外出と。佐藤春夫66冊にて3千円(※で岩崎昭弥が引取る)と話きめ、金受取る(5千円わたされし)。 11月23日 8:00朝食。写真とってもらひ(伊藤に電話すれば夫婦とも就寝と!)、taxiにて駅にゆき、8:27発の準急にのれば満員。彦根まで立ちつづけ、busにて土橋にゆけば戎講とやらにて町賑はし。 河村純一dr.に会ひて小林君(※小林英俊)のこときけば、病進行しをり、いふことをきかざる故、叱りくれと。Tobaccoいただき京都の同窓会にゆくと云はるるに同行。駅にて豊郷病院副院長清水博士と同行。 京都station食堂にてrice-curryたまはり、別れて羽田に電話すれば「来客中なれど来てよし。西下の理由は史よりきいた!」 と。 busにてゆけば来客はWalter Fuchs博士!「東洋文庫の講演は出られず延期されし」と。やがて来し三田村泰助氏に本見せられ、たのしき会話し、上加茂神社へと出たまひしを橋ぎはでAuf Wiedersehen!を握手。(羽田に亨博士論集、松本へと吾と2冊わたさる)。 京都駅への途中、下総町によれば父、史ともに不在。25日堀内君(※堀内歴=堀内進)つれ来る予定をいひ、母に土産料1,000おきて出、京都駅を17:40出て吹田、山本(※山本治雄)に泊めてもらふ。 11月24日(日) 15:00出て吹田東口より天六に出、coffeeのみて渡辺三七子に電話せしにかからず。東家に電話すれば順子生出て「孝子不在ゆゑ渡辺の電話わからず」と。天満、鶴橋をへて近鉄に乗れば孝子と同車。ともに藤本家にゆけば「母上、京都にて亡くなられ三七子京都に在り」と。太田陽子夫人の手紙見せ、線香(300)置き、京都に電話してくやみのべ、太田夫人の言つたふ。 堀内に電話すれば在宅と。(すしよばれ)東孝子と出て駅で別れ、堀内にゆけばwhiskyのましくれ、明日京都行承知と。10時すぎ電話すといひ、上六にて岩田生に電話し(堀内宅より古田房子に電話すれば不在なりしが、母上「泊りて宜し」との返事ありし)、taxiにて阪急Hotel。 房子生に出迎へ受け、太田陽子夫人に電話して礼いひ(立川Pen Co.にて電話ききし)、山中タヅ子に電話し、山本治雄と電話にて話し、21:30来し岩田生に説教し、菓子?一折たまひて送り出し入浴。 11月25日 7:30目覚め、高松直子に電話し、宮口時喜子へ伝言たのむ。朝食に卵2つきをり。9:00帝塚山学院短大に電話し、木村使丁夫婦、河原女史、三苫氏と話し、西宮君に会へずといひ、やがて日本生命の宮口、藤原、谷川3生と電話で話す(田中秀子より電話、10:00までに来ると)。堀内進に電話して「11:00大阪駅platformにて待合す」といひ、田中生と中千枝子と2人に会ふ。田中生、蜜柑くれ中生tobaccoくれし。10:15、3人にて出(阪急Hotel970といふに1,000と茶代300置く)、地下鉄にて大阪駅。 紅茶のみ11:02堀内の現れるを待ち、2生と別れて快速車にのる。 下総町へ12:30着き、母に天ぷらうどんたのみ、大の本見させれば1,600と。ついで我が本を見、12,500といふ。 母と思案せしも致し方なく、『鴎外全集(1万円と)』のこし外へ積出させれば16:00。吉野書房へとわれ出て営業部長に会へば(知人は宮山兄1人となりし)、出版おくれると。社長のadressきき、夕食ささんといふをことはり、新学社へ電話すれば奥西弟をり、taxiにてゆく。 「保田いまは桜井」と。新雑誌、長尾のことを話さず。宿屋世話せんといふ。高鳥も多忙げなれば17:30、渡辺三七子にまた電話して話し、依田義賢氏に電話すれば夫人出て「上京中、大のtelevi見てゐる」と。 市電にて下総町に帰り、父に会へば悲観しゐる。「城平叔父とはものいはず」と。 史に畠山氏へ電話せしむれば六右衛門氏出て「来よ」といひしと。春夫の本の送料とて1,000を渡し、2包の本もちて市電にてゆけば21:30。 酒のまされ、新潟へ今夜出発、30日上京ときき、22:00ひげ剃り(石鹸箱忘れ置きらし。阪急Hotelには襟巻忘れしらし)、autoにて京都駅。 ヤミ屋に彗星(指定席)急行券500にて売付けられ、ヱハガキ買ひ(100)て乗車。茶2杯(30)。みかん(50)を名古屋、朝食(100)を静岡にて買ひ、9:03東京着。(畠山邸より羽田に電話すれば「来て泊れ」といひし)。 (※欄外別記:母の話に「史、小林政社長殿井に気に入られ、反対に史は殿井をきらふ」と。板原哲夫氏に礼として『白楽天』とtobaccoとに添へし手紙もちゆけと命ぜし)。 (※鍛治初江、八木嬢、山崎実治、井上多喜三郎、肥下恒夫らには連絡せず。) 11月26日 本包み重がりつつ帰宅。裏へ廻れば依子在宅。流感休校と。 筑摩書房の『現代日本文学全集』のわが詩のことにつき、問合せの速達来をり、早速返事す。 藤田幸子夫人より家の地図と「昭子妹の式来春に延びた」と。井上京子生より「すっかり癒った」と。鈴木登美子生より「西宮先生より話きいた」と。23日に芳野清君来しと。最中1箱置きあり。昼寐ちょっとして元気となる。増田春恵より手紙。 夜、坂根千鶴子久しぶりに来り、「踊り習ひゐし」と。悠紀子に6千円渡す。『明清史料』しらべればそろひゐし。 11月27日 よべよく眠り、覚むれば悠紀子すでに出てゐし。岩崎へ礼状(春夫本、預りとせよと)。江口三五、河村純一、古田房子(マフラーありやなしや)へ礼状。松本善海に電話すれば流感にて欠勤。羽田より預りしこといひしも今日来よといはず。羽田にその旨ハガキ。中千枝子、田中秀子へ同。山本達郎博士に南方史研究会のわび状。大東幸子夫人、小林英俊氏へハガキ。 講談社成田節男君に電話して16:00ゆくことときめる。青山定雄教授に「当分の代講なら」と。 井上京子、鈴木登美子2生にハガキ。 弓子の帰り待ちて出、都電にて日ノ出町2丁目にゆき、あと歩きて(※講談社)訪問すれば、喫茶店へ案内さる。「鄭成功」書けと。石原道博のこと云ひしもきかず。大学入試参考書を青山、渡辺2君にやらし、われ監督し、中島敏、杉勇の名借りよと云へば、採用せし様子。歩きて大塚へ出るみち『白鳥博士還暦記念論叢(380)』を見付け、Zweig『マジェラン航海記(130)』、Verne『世界大探険物語(100)』買ひ て大塚より都電にて帰宅。けふ〒なし。 11月28日 7:40家を出、8:40品川発にて(※防衛大学)登校。10月分とて2,040もらふ。 麓氏と話さず。15:06にのり「横須賀中央」にて下車、本屋をさがし、汐留まで歩き、Singaporeを思ひ出せしは土産物店多きが故なり。神田で下車、雲呑たべて帰宅。 悠紀子帰宅せしを促して古物屋を見にゆき、本棚売れしとて本箱(1,600)買ふ。明日もち来ると。 花井彩生より「歯は入歯でなし。詩人にならず」と。12月分家賃払ふ。 11月29日 晴。10:00本箱もち来りしも一向片付かず。吉田東洲氏より「病臥」と。山本達郎教授より転居通知。芳野清、前田隆一2氏へ礼状。 午后、西宮君よりハガキ、「伝言ききし」由。 17:20夕食して登校。1時限、辻村生「福地君に会ひ、先生上京止めし。下宿またかはりし」と。2時限小野生1人。 丸に電話し、畠山氏上京を伝ふ。中野君に電話し、「明日夜、来れ」といふ。 帰宅すれば速達2枚。1は筑摩書房竹西寛子氏より「写真正面向きを」と。1は東洋大学より「教員の身分に関する件」につき臨時教授会を明日13:00よりと!? 11月30日 妻子ら送り出し、床にゐれば窓を敲きて頼永承氏来訪。『北台古輿図集』を猪肉酥と賜ふ。台湾史料の話し、『パイワンの工芸』『西洋漢名字典』と『悲歌』2冊(1冊は楊雲萍教授にと)もち帰りもらふ。これから東洋文庫へゆくといふに同行せんと云ひしもきかず。 青山定雄教授より「代講の要なし」と。古田房子生より「マフラー忘れありしゆゑ送りし」と。物事旨くゆきてうれし。 12:30出て東洋大学。定員数に中々達せず、14:00前はじまりし。議題は、齋藤晌氏、文学部長を免じられ、大島豊部長事務取扱。他に免職8人。文学部は小沢、広沢2教授。他に野尻学生部長も同と。 文学部教授会でこれを認めざることとなり、われも(※大島氏の)善隣協会専務理事時代のことをいふ。辛島博士拍手せし。 けふ松本善海に電話すれば、坊や出る。「明日午後早くゆく」といふ。 麓保孝氏よりの預り物を齋藤部長に渡せし。 帰れば『桃』来をり、「保田10月20日東京に来をりし」と。中野君来り、あす西氏に電話かけることを約せし。 12月1日(日) 増田春恵に「就職斡旋出来ず」と書き、西寛治氏に電話すれば「これ以上の運動やめよ」ときびしき語勢なりし。すぐ中野君に電話かけて、そのこと云ひ、父にもハガキ書く。 松本に電話すれば「来てよし」と。宇都宮和子より「笠松姓となりし」と。中千枝子より写真2枚と、「姉のこりゐるゆゑ交際を」と。古田房子よりマフラー送り返さる。 東洋文庫よりFuchs教授の座談会を3日(火)16:00~17:00」と。 12:00出て松本宅にゆき、この間、羽田と2人にて東洋大学に来しときく。出て椎名町下車、池袋まで歩き、地図3枚買ひ、池袋界隈の雑踏におどろき、歩きて林dr.に注射打ってもらひて帰宅。 けふ丸に電話すれば房州へゆきしと。田浦氏には電話かからざりし。 12月2日 悠紀子、けふ休みとて平林英子氏に会ひにゆく。古田房子へ礼状。渡辺三七子、堀内歴より礼状。 悠紀子13:00帰り来しあと登校。須永、亀田2講師相手に熱を吹きしあと、演習すまし、宮崎教授によばれてきけば、矢野健三氏と会ひわがこと話されしと。齋藤部長喜びゐしと。小沢委員長の解職に労組動かずと。いやになり、次の特講やらず16:10竹井君に2度目の電話して17:00[懸]けてくれといひ、雲呑麺食ひ、加藤定雄君に電話すれば「平凡社、創元社でことわられし」と。竹井君の電話きけば「もう80%話きまりゐる」と。明日午前中にゆくと云ひ、夜学やりて帰宅。 弓子またhysterieと。(けふ垂水に便り) 12月3日 紙屑屋つかまへ新聞(1貫匁26×2)、雑誌(仝20×1.9)売る。 10:00出て東京駅より野村建築に竹井眞君訪ぬれば「23日見合して交際ときまりし」と。昼食くはされ、山田、沢田、島などの話す。 別れて西川訪ね、『紳士録』によって大島豊写す。(竹井氏にけふの毎日に(※学内騒動の)記事ありしを教へらる)。 出て共同通信に田浦氏を訪へば「東洋大学の」田中といはせて「会議中」と云はれる!? 隣の日比谷図書館の中国朝鮮書籍展を見てのち、丸を訪ねしも不在。日比谷より筑摩書房の竹西寛子女史に電話すれば、「来よ」と。都電にてゆき写真撮られ、東博氏と話し、別れて都電にて東洋文庫。 和田先生をられ、大島豊のこと話し、喧嘩承知していただく。森克己、小林高四郎、青山定雄、山本達郎、諸教授も出席。Fuchs博士に天理の写真集差上ぐ。話は面白からず。Erich Haenisch、Otto Frankeの話などわかりしのみ。園田一亀先生をられしことわかり、榎教授より「田中さんなにか話は」と云はれ赤面して閉会。 帰宅すれば岩崎昭弥君より「(※佐藤春夫初版本)5千円では少なすぎるが」と。(飛鳥山で滝遼一『東洋音楽史(70)』買ふ)。 12月4日 午前中無為。前田隆一氏より「野崎と噂す」と。角川書店より400×40-2,400=13,600を現金で。 齋藤部長より先日の決議事項の写。社会学科は全欠。他は過半数? 13:00また学長事務取扱大島豊より6日(金)13:00文学部教授会を速達通知し来る。 中千枝子生にあやまり状かき、前川、浅野両氏に報告かく。『太陽』1月号買ひ来ってよみゐれば、また速達。「金曜出席するな」と。 19:00出て登校すれば、昼、学長代理の学生への訓示ありしと。夜もまたやりゐる様子。渡辺君に講談社の話すれば「承知した」と。 21:00中講堂より出て来し齋藤助手にきけば、「大島の話すみしあと、千野氏はじめる教授の話あり、まだつづきゐる」と。学長室より出て来し大島ら意気揚がらざりし!渡辺君さそって一杯飲む(210)。悠紀子喜びゐる様子なり。 12月5日 7:00起きて防衛大学へ雨中ゆけば学生ゐず。教務課にきけば「行事で休み」と。「11月分手当は送る」と。研究室に平田俊春教授のゐるに気付き、訪れて話す。杉浦正一郎、和田浩と佐賀高で同僚たり。日野月先生が校長たりしと。教務にゆき抗議せしも女の子叱られてすみし!(※意味不詳) けふ浅野晃氏の立正大学出講日なるに気付き、平田氏に案内受けてゆく。中華そば御馳走となり外より帰り来し浅野氏に話せば、傍に波多野通敏氏もあり(立正大学文学部長と)。 講義はじまり1時間待ちて帰り、親子丼食ひ、五反田より渋谷へ出、青年座へ寄りしに「大は下宿」と。 電話かけて日曜午后来ることときめ、大塚より都電にて帰宅。(渋谷にて『はぐれたる春の日の歌(150)』見付ける)。『果樹園』23号来をり。大森倖二君転居通知。 大島豊より「6日(金)夜学休め」と。夜に入り、「キンキユゴコンダンシタシアスゴゴ四ジオイデコウ トーヨダイ」と電報来り、宮崎教授に電話かければ同文91通打ち、その対策は明日きめると。 きのふ昼も学生大会で大島派やられしと。悠紀子も毎日に記事またのりをりしを持ち来る。 (藤野一雄君より「小林君[宅]でわがハガキ見た」と)。 12月6日 晴。暖し。八木氏より『満文書籍集』はもうなしと。11:00出て東洋大学。宮崎教授に会へば「けふの教授会に1人だけ出ることとなった」と。print見せらる。それをもちて「大安」へゆき『広陽雑記(150)』と『本事詩(70)』買ひ、中教出版にゆき小山正孝氏に会ふ。 「西垣脩氏、胆石」と。 別れて『ホンコン脱出記(10)』買ひ、中央線にて吉祥寺にゆき、竹内好君訪ぬれば「流感なりし」と。宮坂長安君は早大と。大島、人よくなしと。励まされて出、阿佐谷で下車。 和堂書店みつけ杉浦明平『細胞生活(90)』買ひて、水道橋より東洋大学へゆけば無人(14番教室で大島らの話ききゐると)。printと同じく8教授非難のビラ貼りあり。明日ストとのビラは大分はがされゐし。 帰りて(※階上の)平野夫人との応対で悠紀子どなり、あとにて云ひ返されし。 12月7日 東洋大学より「文学部長事務取扱を6日付竜山義亮(教育)とせし」と。 鹿熊猛君より「世田谷区松原みどり荘へ移転せし」と。 13:30依子帰宅。昼食して林dr.にゆき、注射打ってもらひ、マフラー返してもらひ、芳賀氏に電話せしに他出、西垣脩氏に電話すれば「胆石軽快」と。 帰宅して山口玲子より「このごろ楽し」との手紙。田中秀子より「鍛治初江君宅にあり」とのハガキ見る。 大学のこと心配なれど仕方なし。 12月8日(日) 雨。竜山偽部長より「9日(月)13:00教授会」と速達。西宮一民君より『帝塚山短大研究年報5』と新聞。石浜先生古稀記念会より「会費を来年1月までに」と。丹波鴻一郎へ電話せしも不在。田辺東司君へ電話すれば杉浦夫人来てをり、「近々挨拶するつもりなりし」と。 笠松(宇都宮)和子、西宮一民、竹内好、山口玲子の諸氏にハガキ。 野田宇太郎『関西文学散歩』出版記念会(18日(水)17:00千代田区役所4階会議室)に出席通知。 大より電報「キヨウコラレズ」と。13:30出て新宿で羊羹2箱(300×2)買ひ、祖師谷大蔵下車。 まづ栗山理一氏訪ね、角川の礼云ひ、東洋大学のこと云へば、「来年(※成城大学に)新設の史学科に考慮せん」と。 出てすぐ近くの青山氏訪ぬれば、米林富男(東洋大学社会科主任)と知合と。いろいろ話してうどんよばれ、出て経堂下車。小高根太郎君訪へばすでに門をとざす。駅に引返し、思案して新宿へ出、ちょっと散歩して帰宅。 留守に田中順二郎夫妻来訪、お歳暮賜ひしと。「ゼヒデテクダサイ」の同文電報来あり。宮崎教授に電話すれば「出よ」と。 (けふ経堂にて『Philips’ handy-volume-atlas 18ed.』100なりしを買ふ)。 12月9日 岩崎昭弥君より佐藤春夫(※初版本)受取ったと。12:00出て東洋大学へゆけば、宮崎教授の室にて齋藤、佐藤、南日、早坂の諸教授集りをり、千葉君とともに加はり、13:00会議室にゆけば大島派12,3人集りをりし。やがて龍山義亮(元弘高校長、教育学)の議長にて始めんとせしゆゑ、齋藤氏起ちて話さんとせしところへ大島来り、その後退席をきかず。40名ほど出席して19:30まで闘争。くたくたになる。 途中入りて話さんとせし同窓会副会長柳井君を野溝七生氏となだめにゆき、後刻話さんと約せし。 散会後、そば食はしてもらひ、千葉、西ら10人にて同窓会と話し、20:30すみて、おでんやにゆき千葉氏と飲みゐれば、柳井君とともに入り来し、畑山博とて『歴程』同人と(赤羽中学校長 ※東洋大学講師、『歴程』同人「畑山浩」)。わが『西康省』知りをり、また飲まされ瀧野川の家へつれゆか る。齋藤氏を退職、他を停職とする予定、「お前は引受けた」と!家まで送られ、礼云ひて帰せしあと戦慄。動悸し六神丸のみてやっとおさまる。 鈴木助次郎の出版記念会を13日(金)18:00「レバンテ」にてと(「夜学にてゆけず」とことはる)。 12月10日 10:00までねて(6:00まで不眠)、朝食。筑摩書房より写真来る。13:30弓子帰り来し故、留守[番]さして畑山氏を訪ぬれば同じく欠勤と。14:30まで話し、『悲歌』贈りて帰宅。入浴。 史より手紙来り、「岩崎君に本(※佐藤春夫初版本)送りし。板原氏に礼もちゆきし」と。夜、坂根千鶴子生来り、「山本陽子生、大阪にて肺炎」と。 「明日14:30より教授会」との速達また竜山義亮名にて来る。(けふきけば、塩山の三沢師、もと東洋大学常務理事たりし。畑山氏の2,3年先輩と!)。八木、岩崎、藤野、田中秀子へと4枚ハガキかく。 12月11日 『不二』正月号に「わが昭和33年の抱負」400×3を20日までにと。東洋大学校友会より「調停委員会にまかせよ」と。 悠紀子に電話して住宅課のこときけば14日までよしと。13:00出て東洋大学の研究室へゆけば、野尻、広池、小沢の3教授あり。畑山氏に会ひし顛末を(千葉氏よりききしと)話せといふに、誠心誠意話せよとすすめ、学部長後任云々といふに柳井正夫氏にききゆけば、野口(中国語)君ゐてきけず、ここにても三沢氏のこと云ひ、「Anggin」にてcoffeeのみてのち、会議室にゆけば、齋藤氏あり。「君に来てもらってすまなかった云々」。 さて会議始まれば竜山議長、前日通り。大島やや態度かはりし様子なりしが、退席もとめて大島出しあと、けふの議題は「諸氏よく御承知ゆゑ申さぬ」との竜山の言にわれ、「何をいふか、とりけせ」とどなり、とりけせしもあとにて堀秀彦に云はれ、ともかくわれも取消して了解となりし! (四元学生課長にも退席せしめし)。 大島、小野、勝の話のあと、4教授の抗論あり、「ゼヒデテキテクダサイ」は元々社あとよりの発信までしらべゐしを知り、また大島の竹村氏と一高同窓なることも知る。 防衛大学へ「アスヤスム」の電報を庶務より打たせ(し筈)、鈴木生に休講あやまり、居合せし女子学生より好かれし。また千葉氏と一杯やり帰宅。 けふ途にて原田淑人先生に挨拶し、国富博士に自己紹介し、勝承夫理事にも挨拶せし。 12月12日 晴。浅野晃氏に電話かけ、明日午前ゆくこととせし。15:00京を留守番として都庁にゆき、住宅の申込用紙もらひ、西川に寄り、大島のこと云へば「中々の勢力者」と。別れて田端下車。散歩して上中里より都電にて帰宅。 「14日(土)14:00教授会」とまた速達。 12月13日 雨風の中を8:30出、東京都庁へ住宅困窮の申請書もちゆき、有楽町まで歩き、国鉄にのり目黒より田園調布へゆき、浅野氏の新宅は新築なることを知る。 齋藤氏の援助云へば「高慢ゆゑ」と見殺しの態に落胆。折柄来あはせし『国民評論』の河野芳郎氏の話すをきけば「森本忠氏健在。佐々木望君、小説をかき『文芸日本』に投稿せし」と。 今夜の鈴木助次郎氏『駿河大納言』出版記念会への伝言たのまれ、出て思案し蒲田をへて雪ケ谷にゆき、rice-curry食ひしあと、雪ケ谷depart.内の中野英夫君訪へば、新妻と店にあり。 やがて二階の私室に案内され、「三沢師はむかしの師にあらず。金に汚し。遺骨宰領に来春、中国にゆくやもしれず」と。大島を知れる如く「俗事より手を引き教育に専心せよ」と(※自分を)さとす。佃煮もらひて出、急ぎて16:30帰宅。 鍛治初江君より「ミキモト・パールすでにきまりをりて就職できず、家事やりゐる。新田嬢(新副手)11月結婚して東京にあり。伊藤生来春鹿児島へとつぐ」と。 夕食たべて登校。歴史の大学院研究室は無人。西田卯八博士と話せしあと、吉原生の病気癒りしとあひ、演習辻村生と2人となる。ついで現代史は小野生と2人相手にやり、すみて小野生に誘はれ酒のむ。曰く「金曜の2時限が唯一の楽しみ」と。微酔して帰宅。 茶漬くひゐれば、訪ひしは畑山夫人、「すぐ来よ」とのことにtaxiにのせられてゆけば、「black-listにのらぬやう、明日の教授会出るな、出たら発言するな」と。三沢師のこと訊ぬれば「高潔」と。齋藤氏退職、あとは現在のまま、ただし明日の教授会にては議決せずと。 帰宅すれば23:45。 (『駿河大納言』の会へは電話してことわり、浅野氏の讃辞伝ふ)。 12月14日 鍛治初江君へ手紙。『果樹園』『骨』さがし出す。史へハガキ。 13:00畑山君へ雑誌もちゆき、夫人に言づけし(東洋大学へゆきゐると)、東洋文庫へゆき『世祖実録』『李朝実録』『朝鮮史』よむ。16:00帰宅。入浴、痔わるし。 悠紀子より「21:00まで帰れず」の電話、平野夫人とりつぎくれ、21:30帰り来り、6,000、bonusとしてもらひしと。 12月15日(日) 中千枝子生より「気にかけず」と手紙。14:00出て西川にゆけば夫妻とも不在。紅茶とMilkとおく。 室町3丁目まで都電でゆき、田辺東司君を訪ねしに「杉浦家へゆきし」と不在。浅草橋まで歩きて帰り来る。 12月16日 『バルカノン』来しのみ。14:00出て東洋大学へゆき、演習にただ1人の学生相手とし、すみて心配しゐるときく中、千葉氏来り、この間攻勢に出られしときく。 ついで特講すませて雲呑くひ、概説すまして宮崎教授(※宮崎幸三)に礼いふ。東洋大学一の正義派なり。(土曜、大島のよみ上げし「怪文書」に白鳥先生のことをつづると千葉氏の話)。鈴木幸太郎生へハガキ。 12月17日 平田俊春氏へ礼状。渡辺三七子へハガキ。防衛大学より「8,160(9,800×0.85?)三菱銀行王子支店で受取れ」と。 西川英夫より「近日中に来る」と。竜山義亮より「18日(水)15:00教授会」と。石浜論叢委員会へ題目「通訳グルマフンについて」と届ける。 訪ふ人を誰かと思へば西保泰男氏。今日午后飛行機で帰ると。Port-wine賜ふ。 午后散髪にゆき、帰れば田辺東司君よりわび状。昼寐しをれば石口敏郎君来訪。国文の卒業論文について質問す。 12月18日 早朝、小室栄一教授より「本日の教授会にぜひ出席せよ」と速達。「通訳グルマフン」5枚かき、昼食して三菱銀行王子支店にて8,160受取り、秋葉原をへて神田。『李太白』6冊(250)買ひ、山本書店にてFerrand『明代倭寇考略(160)』買ひてのち曙町。Anggin に紅茶のみに入れば亀田講師をり、『李太白』1冊与へ、研究室にて千葉栄氏に1冊与へ、大森君にも1冊与へて齋藤、野尻氏と会ふ。 野尻、小沢の2氏は3月末退職と。教授会に出れば大島、態度やや改まりて愉快。 17:00まで小沢氏の竹田復氏との関係きき、辛島驍氏に委任状托して中座(小室氏「明大へ来ぬか」と云ひし)。 千代田区役所での『関西文学散歩』出版記念会に出る。矢野峰人(衾町に転宅されしと)、栗山理一、木俣修、西脇順三郎、日夏耿之介、石田幹之助、正富汪洋、小堀杏奴、嘉治隆一、長谷健、伊藤整、高橋新吉、幸田文等の諸氏の話あり。われ林(※林富士馬)、斎田(※斎田昭吉)2君とならびて話なし。 20:00出て、金尾文淵堂『寂しき人々(200)』買ひて、秋葉原をへて帰宅すれば、畑山氏来訪。さそひ出して酒のまさる。「わが去りしあと教授会は調停委員会裁定をのみし」と(『李太白』1冊贈る)。 12月19日 よべ不眠にて防衛大学へゆき、やや元気に講義す。小泉嬢けがして休みとか。代理の嬢、気がつく人なりし。平田教授は自宅。 昼休み、教務課にゆきてきけば電報の届にてよかりしと。15:00中哲の助教授と話しつつ帰る。荒木中尉の下級と。大森海岸で下車、大森まで歩き雲呑くひて帰宅。 『文芸春秋』買ふ。楠戸規美子生の父逝去らしく年始の欠礼届来しのみ。 12月20日 平田俊春氏に『李太白』送る。年賀状の印刷出来しをとりにゆき、活字汚しと叱りしもとりあはず(300)。八木嬢へ「履歴書たのむ」と。『文芸日本』の忘年会24日18:00から300にてと。 頼永承氏より年賀状(12月4日帰宅されしと)。角川書店へ忘れゐし受領書出す。鹿熊猛君にハガキ。 16:00辛島博士より電報「明日10:00必ず出席乞ふ」と? 夕食して17:00東洋大学へゆけばsalary18:30ごろ出ると。研究室にて千葉教授にきけば、明日齋藤氏の査問会と。西川君より送り来し『同行』見す(石橋派なるらし)。 出て神保町をへて都電「青山六丁目」にゆき『不二』社訪ひ、けふしめ切りの原稿ことはる(『昭憲皇太后』をみやげにもちゆく)。宮益坂の古本屋2軒ともしまりをり、失望。 青年座にゆき大のこときけば、「わからず。25日忘年会」と。地下鉄にて上野をへて帰宅。 12月21日 10:00登校。Salaryもらふ。三浦嬢「年内に遊びに来る」と。宮崎教授の来るをまち、きけば「齋藤氏に有利にせん」と。 10:30はじまり、瀬川「齋藤氏の訪問の結果、決裂」と報告。ついで市村其三郎「中世的な男らしさ。大野になるか大石になるかの齋藤派は大野になることをすすむ」と原稿よみて演説し、ついで馬場文翁「古くよりの知合なれど云々、大島とは一高で同期」といふ。村松、宮崎、早坂、国富、鳥山諸教授の提案にて「教授会の権威と自由みとめよ」の意見を新部長をして云はしむること満場一致で通過!! ついで寄附行為規則改正委員に鳥山、辛島の2氏。教授会記録確認委員に早坂、西の2氏と歴史科の策戦成功。 12:00すみて小室氏を26日午前中訪問の約束し、千葉、土屋敏雄2教授さそひて白十字(途中、芳賀氏に会ふ)。昼食しbeerのみて別れ、琳琅閣にて秋山『東亜交渉史論(120)』、井上書店にてRiess『台湾島史(250)』買ひて東洋文庫。きもちよく勉強し、山本達郎教授に廊下で挨拶し、和田先生をられるに会はず(青山氏に遭ふ)、丹波邸に寄れば(※丹波鴻一郎)未帰宅。 帰れば宮崎氏の出席をすすむる手紙のみなりし。(けふ小室氏に成瀬正勝=雅川滉(※筆名)教授に紹介してもらひし)。 12月22日(日) 曇。寒し。筑摩書房竹西寛子氏より『コギト』1冊貸せと。石浜先生記念会より「グルマフン」で宜しと。 牧野吉晴氏(50才)、昨夜銀座のbarで斃れしと新聞に見ゆ。佐々木邦彦君の絵にあふ額縁(70)買ひ来る。賀状110枚書く。佐々木君の絵もちて畑山氏にゆく。酒よばれ「牧野氏、他殺の疑ありて解剖されし」と高橋中也画伯の電話きく。『恋愛名歌集(30)』買ひて帰宅。 賀状「父、田中城平、大江艶、田中康平、田中昌三、林茂子、田中三郎、柏井数男、西島健、青木千草、和田賀代、大江勉、増田久美子、林俊郎、丹羽千年、難波逸夫、西島寿一」18 「和田清先生、西角桂花先生(※小学校恩師)、村田幸三郎、沢田直也、隅田先生(※帝塚山学院)、岡田剛先生(※帝塚山学院)、松本一秀、倭周蔵、西川英夫、千川義雄、浅野建夫」11 「坪井明、竹内好、山本治雄、石浜純太郎、江口三五、硲晃、池沢茂、小高根太郎、湖東栄次郎、丸三郎、村山高、中野清見、西寛治(※東京新聞)、長尾良、大河原倫夫、関口八太郎」16 「野上弘、荒井平次郎(※大阪府庁)」2 「植村清二、鳥山喜一、和田久徳、白鳥清先生、松本善海、羽田明、川久保悌郎、桑田六郎博士、神田喜一郎博士、神田信夫、岩井大慧教授、手塚隆義」12 「田中順二郎、山本八郎、山根忠雄、芳野清、八木嬢、依田義賢、矢野峰人博士、赤川草夫、天野忠、荒木利夫、浅野晃、秋山健三夫妻、千場栄、青山定雄、藤田亮策教授、麓保孝教授、林富士馬、服部英次郎教授、井上多喜三郎、畠山六右衛門、岩崎昭弥、板原哲夫、石浜恒夫、河村純一dr.、大東勝之助dr.、桐山眞(※毎日新聞)、小高根二郎、小山正孝、栗山理一、小室栄一、辛島驍、北園克衛、三苫(※帝塚山学院事務長)、前川佐美雄、久礼田房子、村松正俊、前田隆一、村上菊一郎、元市有奏、宮崎幸三、長沖一、中河与一、西宮一民、西垣脩、中野英夫、高橋重臣、楳垣実、西保泰男、杉山平一、齋藤晌、田中勤」51 計110枚。 12月23日 朝より「Gûlumalûn」考へゐるも書けず。12:00すぎ郵便。 鍛治君より「いまのところ結婚考へず」と。山中タヅ子君より「この間の電話で泣いた。見合一度してことわられた」と。坪井明より喪中欠礼。岩崎昭弥君より岐阜でとりくれし写真2枚。 鍛治君へハガキ。をみな子のこころ弱くてひとすじにすすめぬことをわれも知りたり。 14:30依子帰り来りしゆゑ、都電にて筑摩書房。竹西女史に『コギト』3冊貸し、(王子郵便局にて年賀郵便投函。『李太白』を青山教授に送る)、駿河台の元々社小石邸にゆき見しに無人。 引返して『Hongkong(100)』と軍書5冊(30)買ひて都民銀行。「この間中野清見来りしも、(※子息の就職)斡旋みな駄目なりし」と加藤君語り、手帖2冊賜ふ。 蒲池家へゆきしに不在。秋葉原へ出て帰宅。「ラマンチャ」の新年宴会は1月11日(土)17:00より中河邸にて会費300と米一合と。 (けふゾッキ本にて『楊貴妃とクレオパトラ』35円にて2冊見付けし)。 12月24日 寒し。紙屑28円売る。島稔夫人より「物贈る」と!八木嬢より子どもらにCristmas-card。 速達にて筑摩書房の校正来る。13:00筑摩への速達送り、山中タヅ子、岩崎昭弥、坪井明、中千枝子へハガキ書き、東洋文庫。16:30までに『李朝実録』見了りて帰宅。 硲晃君への礼状書くところへ坂根千鶴子Cristmas-cardもちて来る。ともに夕食しcakeたべてのち、池袋までbusにて同車。明日帰阪と。 文芸日本の会、19:00すぎまではじまらず、浅野氏(齋藤晌氏6ヶ月ほど静視すと云はる)、中谷孝雄氏の外、一戸務、林富士馬、伊藤桂一(鈴木生来をり)の諸氏。榊山潤氏、閉会まぎはに来りて牧野吉晴氏の死にぎはを話す。 林邸へ同伴、「味の素」贈る。(長谷健氏もこの間、死にしを林君も云ふ)。 12月25日 島稔と北野徳治氏より贈物。社会思想研究会出版部八坂安守氏より『李太白』出したしと。京大より「授業料4,500を1月23日までに納めよ」と。花井彩よりCristmas-card。 午后、八坂氏に電話せしに不在。午后、東洋大学教務課より「年末手当支給された」と。山本達郎博士より『歴史の見方』賜はる。入浴。楠戸規美子へ弔状。京、太田dr.の家へ招かれ、21:00まで帰らず。 12月26日 8:30家を出て西荻窪へゆき小室栄一氏訪ぬれば、夫人出て「電報打ちことはりし」と。上げられてport-wine贈り、履歴書わたす。青山公亮先生に(※明治大学斡旋)云ふと也。 途中にてchocolate買ひ、竹内好訪ぬれば「この間、小沢氏来り、楽観的な顔しゐし」と。「さにあらず」と力説して12:00出、駅前で中華そば食ひしのち阿佐谷に下車。 和田先生に電話すれば御在宅。1時間してお訪ねすと云ひ、新宿にて毛靴下買ひ(1000)参れば、至文堂の編集来をり、帰りしあと東洋大学のこと報告し、(「白鳥と大島の喧嘩のときは白鳥の方(※分が)わるかりし」と)、成城のこと云へば「推薦承知」と。 明大のこといへば「(※斡旋すると云った)小室君は君の悪口云ってるよ」との仰せ。 石原道博、教育大に博士論文提出せしと。「君より猟官巧みだよ」と。 よろしく願って出れば雨降りをる。(聖心女子大(※講師斡旋)、原田先生承知されしも2,000と)。 水道橋へゆきライフ社探せしもわからず。小山正孝君呼び出して探してもらひ、もとの元々社あとなることわかる。ゆきて齋藤先生に会ひたく連絡たのむと云ひ、「Köln」にて喫茶。17:00(※小山氏と)別れて古本屋見るうち眩暈して帰宅。 影山正治氏より『千里行脚歌集』。篠田統博士より『鮓考』その他。硲氏より送り状。 八木氏より「(※履歴書)Type、25日すぎになる。T君にはこのごろ会はず。岡田温先生より機を見てと云はれし」と。大東夫人より『詩経』よみゐると。社会思想研究会出版部八坂氏より「1月7、8日頃会ひたし」と。兼頭歌子氏より喪中欠礼。 12月27日 夜半に雨やむ。小室栄一氏へ速達。山本達郎、影山正治2先輩へ礼状。24日大川周明、けさ砂田重政逝去と。 鍛治君より送り状。平田俊春氏より『教育者』5月号に400×20、2月末までに書けと。中河与一先生より『探美の夜』。 平田俊春氏へ諾と。中河与一先生へ礼状。兼頭歌子、淳子母子へ挨拶。鍛治初江君へ礼状。畑山博氏へ賀状追加。 夕食中「あす2時来よ」とライフ社より電報。井上恵子より菓子。 12月28日 8:30電報局へゆき小室氏へ「2ジコラレタシ」と打つ(76)。家へ帰り呆然としをれば、三浦久子嬢来りbonus8,000わたし呉る!!! カステラ賜ひ、詩3篇見せられる。詩はみな面白く、話すうち訪ふ声に誰かと思へば村田幸三郎と西野平造。 三浦嬢去らしめしのち話きけば、年越せず。東京銀行に話したしとのことに待ちゐしautoにて浅草支店へゆき、奥戸武君に紹介す。話わからねど12月分のsalaryとbonus払へぬらし。 13:30となり出てtaxiにて三崎町(190)。東京ライフ社へゆけば齋藤先生まだ来られず、そば食ひ待つ中に来られ、「転任よろし。自分はガンバる。『李太白』は4月元々社より出す予定」と。 茶のみにつれゆきたまひ、16:30別れて「大安」へゆき、和田先生より承りし珍本『帝京景物略(90)』のほか、陳寅恪『唐代政治史述論稿(140)』、汪伯岩『中国近代史講話(160)』、『北京游覧図(30)』買ひて帰宅。 けふ史8:00帰宅。本2冊もち帰りし。齋藤先生より「死ぬる前に」いただき、影山正治氏より「いつにても書け」と。林富士馬氏より屠蘇散。 夕方、訪ひ来しは西島寿一君。礼として菓子など呉る。悠紀子帰るまで待たし風呂敷返せし。 防衛大学より12月分として4,080来し。ふしぎなる日なりし。 12月29日(日) 家賃払ひ、餅代払ひし。井上恵子、八木嬢(朝、速達にて(※タイプされた自分の)履歴書2通と幸福の米とどけてもらひし)、齋藤先生へ礼状。大東夫人、篠田博士へ返事。寺本和代より喪中と。物送ったと。渡辺三七子より「骨納めした」と。押上(得津)佳子より「妹の入学につきたのむ」と。 史をして大に電話せしめしに不在。午后青木へゆき、年賀に来るときいて来る。 12月30日 9:30三菱銀行へゆき、防衛大学の手当もらひ、河村敬吉『若き鴎外の悩み』買ひ、ハガキ100枚買ひ、朝食し、昼食まへ京つれて十条まで散歩。野上豊一郎『エヂプトの驚異(90)』、岡崎義恵『鴎外と漱石(40)』買ひて戻れば、中野剛宣君来しと。昼食了へれば再来。日活の2次まで通りしと。けふ16:00帰郷と。 防衛大学へ受取。押上佳子へ「長沖、西宮氏に直接たのめ」と。悠紀子19:30帰り来り、salaryとbonusとにて史への金を出す余裕なきことを申す。不快! 12月31日 晴。寺本和代より織物2枚。その礼状と渡辺三七子へハガキ。父より「体が第一」とのハガキ。栗山理一氏へ履歴書送る。悠紀子18:00帰り来り、風邪ぎみとて何もせず。 田中克己日記 1958 【昭和33年】  学者として身を立つる志の止みがたく、まづは上京するだけはした詩人でしたが、たった一年で本務校である東洋大学から御役御免を言ひ渡されてしまひます。糊口を凌ぐべく在京4大学(防衛大、成城大、立教大、聖心女子大)の非常勤講師を続けながら、どこか常勤として迎へ入れてくれる大学はないかと、コネを拡げながら打診をつづけます。  その結果、やうやく年末になって転機が訪れ、定年まで勤めあげることとなる成城大学に専任教授として迎へ入れられることになるのですが、これまでも家族のことなど顧みず、自発的に引っ越しと職探しを(この順番大切(笑))繰り返してきた詩人のことです。田中家の家計安定は結果論であって、勤めあげた教員人生を後から振り返ってみて、さう思ふにすぎません。  当時の成城大学には、蓮田善明以下四人の国文学者が戦前に興した雑誌『文芸文化』の同人のうち、栗山理一、池田勉の二名が奉職してをり、また高校部には戦歿詩人山川弘至の未亡人である山川京子も教鞭を執ってゐました。みな日本浪曼派グループの近傍にあったひとたちであり、環境として申し分なく、このたびも栗山理一氏が文学部長だったおかげで採用に与ったやうです(池田勉氏は図書館長)。日記には後年その経緯の個所に赤鉛筆が引かれてゐます。  しかしながらこの年の春の時点では、全く途方に暮れてゐた詩人でした。東洋大学のリストラ禍に遭った10名の教授陣のうち、中心人物として訴訟を起こすまでに至る文学部長の齋藤晌は、田中克己にとって大坂から東京に自分を呼んでくれた恩人です。善後策を議す際には率先して走り、齋藤の自伝的新刊『死ぬる前に』が出れば自腹で何冊も買っては友人に配り、朝日新聞学芸部次長だった安西均に書評を頼んだりしてゐます。  また恩師の白鳥清が奉職する立教大学では、博士の子息郁郎氏の遺稿詩集『しりうす』の出版記念会の御膳立てを頼まれ、故人の同期生を探したり会場を押さへたりと、あれこれ世話を焼いてゐます。もちろん常勤への布石とならんかの思ひもあったでしょうが、学恩に対するこの詩人らしい律義な一面を見る思ひがします。  律義といへば、戦時中の南方徴用中に恩誼を(おそらく一方的に)感じてゐた“小畑信良閣下”への表敬訪問、そして『李太白』を読んで感心したといふ、未知の読者(横山雄偉)からのファンレターの文面に感じ入り、日記に写しとったものの、それが元玄洋社の老志士と知っては吃驚してゐます。  いったいに上からは都合よく使はれるものの、報われることは少ない。コネクション作りに余念のないさまは、(一昔前の日本では普通でしたが)、会ふ人ごとに出身と学校を訊ねてゐることにも表れてゐます。  一方、後進や教へ子など、関西にのこしてきた支援者からは相変らず慕はれ続けてをり、手紙や贈物が尽きません。  井上多喜三郎をはじめとする畿内詩人の仲間たちは、詩を捨てて東京に去った盟友に対していつまでも温かいですし、歌誌『薔薇』の村上新太郎は、擱筆宣言した詩人に対しても、なほ詩作の慫慂をし続ける奇特ぶり。岩崎昭弥は岐阜に移ってから政治力さへ具へ、詩人をサポートする気まんまんで、事あるごとに詩人を気にかけてくれてゐます。  このやうな、自分を評価してくれる在阪時代からの温かい支援者たちには、気安さも手伝ってか、総じて無頓着にあしらってゐるやうにもみえる詩人ですが、本務校を失ったこの年は下阪することも叶はず、たびたび大阪や天理の夢を見てをり、やはり旧歓の念は抑へがたかったやうです。教へ子たちが上京してくれば喜んで会ってをり、演劇志望者の娘には、引き合はせた義弟西島大(青年座脚本家)から見放されようと、親身に相談に乗り続けてゐます。フットワークが軽く面倒見もよかった田中克己は、お点の辛い先生であったものの、女子学生には評判が極めてよかったやうです。  東京における交遊関係は、さうして各勤務先の大学や東洋文庫、母校東大の研究室を中心に拡がってゆくのですが、なかで御近所のよしみを以て往来が繁くなったのは、東洋大学の講師をしてゐた赤羽中学校校長の畑山博氏で、度々日記に出てきます。「畑山浩」といふペンネームで『歴程』同人でもありましたが(※宮沢賢治研究者とは別人)、田中克己とは詩を語り合ふ純粋な文学的な関係といふより、教員でありながら詩人であるといふ、一種同類の安心感をもって下世話な話が出来る付合ひであったやうです。家計を助けるための家庭教師の口も、彼の口利きで得てゐます。  文学関係の交遊といふことで云ふなら、文壇にデビューする前の萩原葉子が訪ねてきたり、2月5日の記述 「浅野晃氏より「手紙見た。8日の日本歌人の会にて会ふ」と!芳賀氏との面接をいかにせんと困る(中略)芳賀氏へ日本歌人の会に浅野晃氏も出席の旨伝ふ!」 の条りなんかは、ちょっと気になるところです。芳賀檀と田中克己との関係は依然良好で、東洋大学のなかで絶交に至ったのではなかったことが分かったのですが、芳賀氏と浅野晃氏と間はうまくいってなかったのでしょうか。なにか鉢合せにならぬか心配してゐるやうにも見える文面です。  ともあれ成城大、防衛大、聖心女子、立教大(採用されるも受講者なし)と掛け持ち授業をしながら、さらに帰宅後は近所に家庭教師に出向いてまでして糊口を凌がねばならぬ始末。悠紀子夫人もパート仕事で協力するものの、古本はもとより交遊に係る出費も外面が良ければ減ることがありません。コネクションは、拡がればそれに伴ひお金も出てゆくのが道理で、大阪高校時代の同窓との飲み会でも、暗黙の了解で支払はひとり免ぜられるやうな有様。プライドの高い詩人のことだけに、一家の当主としてさぞかし気に病んでゐた様子を、この年就職して家にお金を入れるやうになった長女の依子さんからお聞きしました。さうしてこれがやがて夫婦間の「不満のエネルギー」としても鬱積していった模様であります。  先ほど面倒見がよく女性たちの評判がよかったと書きましたが、私生活面においてこの年、これまでのプライベートな交際に対する清算が行はれてをります。保田與重郎氏の恋愛騒動を嗤ひ、また不倫の不始末をどうすべきか悩む卒業生の相談にものってゐる詩人ですが、『ハイネ恋愛詩集』の訳者にして色恋沙汰が他人ごとである筈がありません。すなはち年末になって恐れてゐた事態が、つまり永らく家族ぐるみで交際してゐた八木さんとの関係について、夫人の怒りが爆発したのでした。  この年は下阪してゐませんし、日記を見る限りきっかけも分からないのですが、依子さんの記憶にある修羅場といふのは、この時のことではなかったでしょうか。私はいつも温和で情緒の安定してゐる悠紀子夫人しか見たことがありません。以降の日記の解析には女性陣への同情バイアスが掛かってゐることを予め御承知おき下さい。よほど腹に据ゑかねられたのに違ひありません。  ただ幸ひなことに、恋情が見境なく燃え上がるロマンチックな時期といふのはとうに過ぎ去ってゐました。日記から窺はれるのは、どちらかといへば思ひ出は思ひ出として、今は詩人も彼女が職業婦人として自立しようとする行く末について、心を砕いてゐる様子です。  急遽彼女を関西から呼び出し、自宅に邀へた悠紀子夫人にせよ、一旦は嫉妬に逆上したものの、当事者の夫を抜きにして、夜を徹して二人で語り明かしたその内容とは言へば、おそらく田中克己といふロマンティーク「詩人」を愛してしまった不運と、嘆くべき現状、そしてこれからの不安を語り合ったのではなかったでしょうか。私にはさう思はれるのです。  知らない仲でもない、どころか、もっとも家計が苦しかった天理時代には、田中家は富貴な八木家の世話に度々なってゐます。娘たちの為にも何くれとなく世話を焼いてくれ、昭和24年、あとさき考へず天理図書館を辞めてしまった詩人が精神的危機に陥った際には、彼女が絶望をともに悩んでくれました。謂はば十年にわたった在阪時代を通じ、八木さんは生活上での恩人と呼んで差し支へない、詩人一家にとって一番気の置けない人であったのです。  結局彼女が結婚しなかった(しようとしなかった)のも、わが貧乏亭主にずるずる引かされた挙句のことであったかと夫人が理解してみれば、彼女も私と同じまことに被害者、といふ気持に落ちつかれたのかもしれません。八木家が身近にあった在阪時代に問題視されなかったことが、考へてみれば不思議な気もしますが、修羅場から逃げ出し、ひとり外泊して帰ってきた翌朝、詩人は日記に、 「八木さん送りにゆき、帰れば悠紀子泣きてあやまる。哀れなり。」  なんて記してゐます。でも悠紀子夫人があふれさせた涙って、旦那に勘違ひを謝った涙だったんでしょうか。当事者の記した言葉から真反対の事情が窺はれるのもどうしたことかと思ったことです(笑)。  俗に「雨降って地固まる」とは申しますが、この後、夫婦の危機は辛うじて回避され、冒頭に述べた成城大学専任の話も決定します。実際の順序からいへば「地が固まる然るべき時に雨も降った」のだ、と云へますが、とまれ事情はこの年末を境に徐々にですが好転してゆくのです。  悠紀子夫人が云ひ放ったといふ「(子供たちが育つまで)十年待ってくれれば(こんな亭主は)くれてやる」とは、なかなかの殺し文句であります。「男はもうあなたでこりごり」とも仰言ってをり、御両人の晩年のお姿しか存じ上げない私としては、とにかくビックリすることが書いてあった日記ですが、新年を最悪の感情を引きずったまま迎へることが避けられたのは、何よりのことでありました。  上野から北に向かって東西を分けて走ってゐる“道灌山台地”。そのはづれの高台に位置してゐたのが王子の岸町アパートであり、転居先住所のゴム印まで用意した下町北千住への転居計画は取りやめとなってゐます。翌くる一年間も公団住宅の抽籤ははずれ続け、その末に田中家は中央線沿線吉祥寺の住人となるのですが、田中家が王子にあった三年あまりの期間といふのは、詩人の後半生が晩年へと落ちついてゆく過程での、象徴的な分水嶺にあった時期だったかもしれません。 昭和33年1月1日~昭和33年8月29日 「東京日記 3」 本冊画像PDF 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 晴、暖し。依子、9:30の「なにわ号」にて大阪へゆきし由。座席なかりしと、送りゆきし悠紀子の話也。 11:00賀状268枚。親戚知友58枚。返事のいるもの同92枚。帝塚山関係118枚。他に原田裕代の年賀電報。 平野静雄氏夫妻(※アパート階上住人)15:30手拭もちて挨拶に来る。われ賀状55枚かきて頭痛す。 1月2日 晴。京をつれて悠紀子、阿佐谷(※実家)へ出てゆく。弓子発熱39.5℃、流感らし。史をして大(※西島大、弟)に電話かけさすれば「仕事にて忙し。明日来よ」と云ひしと。 賀状、知友11枚、帝塚山17枚。返事いらざるもの3枚。返事85枚ほど書く。 夕方、中華そば食ひにゆきし留守に、西川英夫君chocolateもちて年始に来る。 悠紀子20:30帰宅、阿佐谷のきちがひ部落の話(※同名映画「気違い部落」を踏まへ、実家のある町の閉鎖性について)長々とす。 けふ『果樹園24』『日本歌人1月号』来る。ともにわが稿をのす。「Gûlumalûn(※紀要原稿「通訳グルマフンについて」)」書けず。 1月3日 11:30入浴。賀状・返事11枚。帝塚山短大4枚(齋藤堅太郎先生、市教員委員となりしと)。親戚知友5枚(今井三郎叔父よりあり)。 中野清見より「令息帰省した」と。史、大を訪ねしに留守なりしと。賀状帝塚山文2の13枚をのこす。 青木(※妹)夫妻来らず。悠紀子出勤はじむ。われ炊事にあたりPLの祝ひ米を入れて炊ぐ。 1月4日 賀状みなすませ、畑山博氏(※東洋大学講師、『歴程』同人「畑山浩」)に電話してゆくと云ひ、背広着てゆき酒のまさる。帰り菓子一折たまはる。 12:30帰れば賀状の返事来をり、他に(※上京時の郵便預け場所)西川より転送の瀧井美智子、西野平造、上田阿津子、広沢雄一郎。 植村清二先生より『神武天皇』。(われ古本の初買ひに長沖一『やんちゃ娘(30)』)。 けふ土曜とのこと忘れ、郵便局より金出せず。夕食のおかず京と買ひにゆく。寒し。 1月5日(日) 依子7:00すぎ帰宅。けふは暖し。増田春恵より「帰省して教員の試験受ける。ザボン送る」と。賀状の返事7枚、他に6枚。八木嬢に「card賜へ」と手紙書き、15:00入浴。17:00、4児と夕食すれば悠紀子帰り来る。 19:00京、太田dr.に風呂もらひにゆき、史も(※京都下総町の祖父宅へ)出発す。 1月6日 教へ子よりの賀状9枚。他に返事5枚。千川稚泉より『俳句作家』。 11:00悠紀子、西島寿一へ年始にゆく。午后、服部紗智子氏より賀状、久美子より返事。千草(※妹)夫妻来り、そば食はす。千草、悠紀子と同じせりふ(※家計について?)云ひしに陽生気の毒なりし。 沢田四郎作先生より『近畿民俗』21、22号賜はる。けふ社会思想研究会八坂氏に電話して「あす15:00ゆく」と云ふ。 悠紀子22:00帰り来り、「寿一宅に居すわり寿一夫婦のそろふまで待ちし。家内汚かりし」と。 1月7日 沢田四郎作博士に礼状。白鳥清先生奥様より「郁郎君の詩集(※『しりうす』)すでに出来上り売出されてゐる」と。山本八郎夫人幹子氏より賀状の返事。増田春恵、熊本県八代郡鏡町のZabãs(※ザボン)1箱送り来る。酸けれどありがたし。 13:00出て東京ライフ社へゆき、相談せしも返答なし。出て大安へゆき、王鍾翰『清史雑考(220)』、『常用字江(85)』買ひ(それまでに古本屋にて大川白雨『森鴎外(10)』、野口『蕃地飛行(10)』、浜田隼雄『南方移民村(10)』、茅原廉太郎『日本人民の誕生(10)』、矢野仁一『近代支那の政治と文化(100)』買ふ)。 懐中15円となり、筑摩書房にゆき東博氏に会ひ、『白楽天』の相談す。『太陽』廃刊と。12日(日)13:00の東京日本歌人会に出るといひ、社会思想研究会おそはり八坂安守草間営業部長に会ひ、知己を謝し、まあことはりすむ。 湯島聖堂内の文物流通会とかに寄りて名簿の訂正たのみ、都電にて帰宅。 依子、弓子ともにねをり、悠紀子帰宅の後、医師につれゆかしむれば消化器不良と。増田春恵へ礼状。 1月8日 朝、速達にて史より賀状転送48枚。中に学院11枚(三毛和子とは。旧姓わからず)。38枚返事かきて疲る。『果樹園』の新年宴会のよせ書。大東幸子夫人と小高根二郎、山根忠雄、福地邦樹、堀内歴、石浜恒夫の6氏。 夕方、われ買物にゆく。けふ暖し。小松保博より賀状。八木嬢より「原稿かきゐる」と。 1月9日 防衛大学へと8:40の特急おくれて出、心配せしもbusにまにあふ。3月の気候とてstove入らず。 昼食後、図書館へゆけば「麓保孝館長、青森へ出張」と。 (※授業)すませて直行して帰宅すれば、村田幸三郎、先刻来りしと。まつ中、夫人、江商の親友、坊やと現はれ、持参のbeerのむ。「伊藤忠より1,300万円入り、年越せし」と。奥戸の斡旋ありしらしきも酔ってわからず。同行の人、山崎忠の死にぎはを知りをる様子。 坂根千鶴子来りしを待たし、やがて出てゆきしあと会へば、土産に岩おこしと渡辺三七子よりことづかりの靴下と渡さる。山本陽子、胸をわるくしゐるらし。 杉山平一氏の返事。南村和子夫人より「年内24通出し、夫君より20通来し」と。 弓子、浦畑生よりの連絡ありしと。 1月10日 朝、西野平造より速達「村田越年出来る見通しで帰阪、12日上京」と。 14:00すぎまで弓子ら帰り来るを待ちしもだめ。急ぎて東洋文庫へゆき、田川孝三氏の『瀋獄問題』を見しに「上」のみ。研究室の田川氏にきけば「下」は書きたまはざりしと。そのまま出て帰宅。Beerのみて眠りし。 1月11日 昨夜より下痢。小畑富子氏より「信良閣下、姉君死去のため不在」と。 14:00依子帰宅。渡辺三七子へ靴下の礼状かき投函せしのち散髪。すみて依子より100円借りて家を出、新宿より経堂下車。 小高根太郎訪ねていろいろ話す。「最中」もちゆきしとて母上挨拶に出られしも元気。 17:00出て古本屋で吉野作造『中国革命史論(20)』買ひ、17:45中河邸につきしに来客は我のみ。 やがておでん焼鳥にて酒のみ、19:00となりて芳賀檀、曾野綾子など来る。20:00となりて西垣[修]、森房子氏など来てのち辞去。三浦、公平2嬢の見送り受けし。 『文芸春秋』2月号買ひてよみもて帰宅。22:30。酔ひ発して苦し。けふ「Gûlumalûn」14枚まで清書せし。 1月12日(日) 朝食のとき電報。川久保悌郎君より「39-4747ヘ電話せよ」と。かければ「上京中にて会ひたし」と。松本善海に連絡して時間場所きめるゆゑ12:00までに電話せよと也。12:30また電話すれば「火曜17:00池袋の喫茶店で」と。 14:00出て信濃町を千駄ヶ谷とまちがへ、歩きて「Hotel松平」といふにゆく。東博氏と早川智慧(宮崎)氏の外は初対面。30人以上をり、 歌の評のあと、奈良の思ひ出話ささる。石川信夫、古川政記、森一郎、大伴道子(ここの女主人?)、荘雪子、名坂八千子などの人の顔と名とあひし。 大塚で下車。『文学界』さがせしに売切れ。王子で買ひしに「現代詩の展望」羊頭狗肉なりし。 1月13日 よべ書きし「東京通信」に書き足して8枚とし、悠紀子に速達せしむ。悠紀子けふ定休とて平林(※平林英子:小説家と同名異人)邸のクラス会にゆく。ゆきがけ、この間駒込の叔母にききしと一興叔父ならびにわが父の不品行なりしことを明らかにす。不快。 小林英俊氏より「何する気力もなく、夏ごろまでいらせそう」と。渡辺三七子より「太田部長にブローチ買ってもらった」と。 14:20東洋大学へゆき、三浦女史に『果樹園』3冊わたし、研究室へゆけば学生1人。 賀状、荒井平次郎、加賀山秀夫、天牛中谷政一氏、畑谷(上平)博子と大島廉といふがあり。 講義やめて一旦帰来。17:20また登校。宮崎幸三教授に会へば「齋藤部長に24日付解職通知ゆきし」と。夜学生6人ほど来り、18:30までやる。2月3日より試験と。すみて帰宅。疲れて眠る。 1月14日 雨。三火会より「21日(火)川島武宣氏の話を12:00~13:30まで」と来しのみ。 12:00まで「Gûlumalûn」書きつづけ、うれしけれどくたくたとなる。京、依子帰り16:00となる。京、300貸しくれ、無軌道電車にて池袋。 約束の喫茶店へゆき、17:10となり松本来り、やがて川久保来る。茶のみて、わが話せしあと洋食くひにゆき、われ茶代だけ払ひ20:00散会。 松本、川久保ともに冬のbonus手取り6万円にて、子は中学生なり。 けふ気づけば階上の平野夫人、悪阻いちじるし。夜半「Gûlumalûn」書き了る。註ともに46枚。 1月15日(成人の日) 雨、坂根みつせ、南村和子へハガキ。「Gûlumalûn」あさまたちょっと書き直してすむ。 柏井数男より賀状! けふ賀状の抽籤あり、5等に15枚、(※名前略)の賀状なり。 16:00雨の止むを待って郵便局へ速達出しにゆき、須藤光暉『愚禿親鸞(30)』買ひ、入浴。悠紀子けふ17:00帰り来る。 1月16日 いつもの通り8:40品川発にて防衛大学へゆき講義。事務室にstove入り、中国語(新開)、国語(東)教授と話す。小泉女はいちばん役に立たずとのこと也。 15:05のbusと電車にて同車なりし教官と国鉄にて話合ひ、ドイツ語の千疋教授とてドイツ帰りなることを知る。御徒町にて下車、雲呑くひて帰宅。東洋大学紀要の校正をす。 けさ八木嬢より原稿速達にて来あり。20:00すぎ案内乞ひしは中野英夫君。「義兄田中氏の坊や、豊島附属小の入学に斡旋を」と。太田常蔵君に紹介状かく。「店儲かり50万円の負債返却せし」と。22:30まで話して去る。 1月17日 9:30印刷屋と八木氏へ速達2通。郵便貯金出さんとせしに「印鑑ちがふ」とてだめ。悠紀子に電話せしも仕方なし。八木氏へ手紙かく。岩田生より「父に勘当受けさう」と。 午后昼寐し、京、帰りしに目さませば日本紡績検査協会原氏より手紙。糸屋鎌吉氏よりラマンチャの会出席への礼状。清水文子生より「谷川生と旅行した」と。 依子帰宅。17:00出て登校。「俸給は1月より25日支払とす」との理事長告示を見て不快。 演習は辻村生1人、中国現代史は河田+小野2生「中国の学生」「私の孫文伝」のいづれかを書けとReport題を決める。 丸に電話すれば「中野剛宣君、日活に通る筈」と。 1月18日 晴。原氏に「離婚促す」と。郵便局より8,100引出す。小室氏より「22日(水)16:00来年度2部史学科の打合せに来い」と。田中雅子より「明日午后来訪」と。 産経に電話かけ、順二郎君に「明日都合わるし」との伝言たのむ。糸屋鎌吉氏へハガキ。 午后、上十条へ散歩。Wellace『馬来群島(200)』、松田『近畿キリシタン史話(60)』買ひ来る。 文雅堂より速達にて「アイタ」(※「アイタの伝記」)の再校来る。責了として送り返す。夜、銭湯へゆけば満員。 1月19日(日) 晴。家居。清水、平岡、柏原、西岡、谷川、田中文子、福井房子のGroupの新年会の寄せ書呉る。 22日(水)教授会と。 1月20日 晴、八木嬢より「原稿受取った」と。13:40出て郵便局へゆき、賀状の景品切手受取り、東洋大学。 昼の部すませ試験の報告し、大森君と話し、三浦嬢に会へば、年末調整の1,690渡さる。 学生3人と会ひcoffeeのませ中華そば食って夜学。すませて肴町より畑山博氏へ電話すれば「他出なれどすぐ帰る」と夫人の話。 家に帰りて夕食してのち電話すれば帰りしと。ゆきて『世界の酒』贈り、羊羹と毎日新聞の緒方昇氏への紹介名刺もらふ。畑山氏4月に教育会議にCeylonへゆく様子。 (けふ太田常蔵より「田中氏の2、3回の訪問受けたれど他出中にて、しかも豊島に知人なし」と)。 1月21日 晴。9:30出て田中氏に電話すれば不在。国電にて水道橋、東京ライフ社へゆき八木氏に(※齋藤晌著『死ぬる前に)』)1冊買ひ(200)、2冊新聞社へと預り、田中順二郎君に電話すれば「待つ」と。 大安に寄り、敦煌展の絵ハガキきけば「有り」と出し来る(70)。『南明史略(160)』買ひて都電にて大手町。 産経にゆき山本文雄氏に紹介たのめば、けふは休みと(校閲部)。大阪より昆布預り来てをると。 地下鉄にて西銀座。「New Tokyo」へゆけば吾が最も早く、来りしに矢野昌彦と西寛治より話相手なく。川島武宣氏の性道徳の比較おもしろかりし。東京大高会の名簿買ひ、毎日新聞へ畑山浩氏の名刺もちて緒方昇氏に会へば出版局次長。 『悲歌』贈りて出、朝日へゆき、安西均氏に会ひ『死ぬる前に(※齋藤晌著)』(※書評掲載)たのめば「いま審査中」と(西君にもたのみしがいかがにや)。思ひ直してまたNew Tokyo Buil.にゆき「菩提樹」見る。 帰れば八木嬢よりcard1箱来をり。富士ハウスより転送の賀状、竹田誠伍、久万哲男(佐川町町会議員となりしと)、家本美枝子の3枚。(※転送が)父の字にてなきは如何にや。 1月22日 晴。午前中、東洋史談話会より「25日(土)14:00山上会議所で」と。 午后、王鍾翰氏の清太祖時代は奴隷制社会なりしとの論文よむ。 午后の便にて岩田生より「手紙見た。原氏25日(土)午后来訪」と。筑摩書房より『太陽』休刊の挨拶。 史へ「八旗満洲氏族通譜」のnote送れとハガキ。 16:00ゆけば教授会未了とて待たさる。『朝鮮史講座』1冊借り、青山君にきけば講談社にArbeitにゆきをれど、一向きかずと。 16:30より2部の会。「来年度の主任を鳥羽正雄教授に」と。渡辺君(※渡辺道夫氏)の専任講師の件は「時期を見て」と。 18:00出て一旦帰宅。夕食すましてまたゆき、渡辺君に会へば「このごろ墨田区役所にArbeitにゆく。日給320」と。あはれ。 3時間目、鈴木生1人のみゆゑ、さそひておでんやへゆき、けふにて終了とす。Reportの題目を「私の中国論」400×5とす。けふ読売夕刊に『死ぬる前に』の評のり、「事件なさすぎる」と。 1月23日 晴。防衛大学へゆく。Stove入らず。田中順二郎君の友人、岩崎二佐を教官名簿で探せしも見当らず。麓館長に会ひにゆきしも来客。 すまして千疋助教授と同車。終戦まで滞独と。いろいろ話きく。Schinziner先生、安井先生を識ると。 蒲田で下車、東京ライフ社へ電話して齋藤先生のこときけば「明日また連絡せよ」と。 中華そば食ひ東京駅にて絵ハガキ買ひて帰宅。 中野清見君より「明日9:00タカラホテル83-0101へ電話せよ」と電報。山本達郎博士より「南方史研究会に名つらねよ」と。返事29日迄にと幹事より。 緒方昇氏より『日本未来派』『花粉』『歴程』へならいつでも紹介すと。 1月24日 晴。9:00中野清見君に電話すれば「来よ」と。ゆきて杉野祐二郎君来るといふに話しつつ待ち、11:00来しとtaxiにて東大社研の藤田若雄講師を訪ね(加藤俊彦教授けふも不在)、4人にて「百万石」へゆき、とり鋤焼食はしてもらふ。藤田君大高10回文甲と。 14:00別れて一旦帰宅。あかね書房より小学生の『世界文学全集』に、わがHeineの訳のせてよきやと布施へ(※問合せあり)。 15:00東京ライフ社に電話すれば「16:00佐渡氏へ電話せよ」と。また電話すれば「齋藤晌先生他出」と。 小高根二郎君より「2月4日夕、会ひたし」と。夜学にゆき、けふにて今年終りとす。帰れば悠紀子すでに眠りをり。 1月25日 小高根二郎氏へ「2月4日の会、承知」と。緒方昇氏へ「田代、矢加部2君の消息しらしたまへ」と。 平光善久氏へハガキ。『不二』へと「千里行脚歌集をよみて」9枚。 防衛大学より1月分2,040! 日経[紙]みれば「中村地平図書館長はやめ相互銀行取締役となりし」と見ゆ。 13:30原氏に置手紙して、東大山上会議所の東洋史談話会にゆく。和田先生、桑田博士などおくれてお越し。酒井忠夫君の「郷紳と土人」なる話、くどくて非論理的なりし。永井算己、矢沢利彦などと挨拶し、青山定雄氏に防大の試験のこといひ、山本博士に「南方史研究会のこと承知」といひ、白鳥芳郎君に「郁郎君の詩集(※遺稿詩集『しりうす』)、不出来」ときき、田村博士の話きけずに16:00すぎ、小憩のまに出れば、追ひ来しは意外にも幼方直吉氏。話したげなりしも、田村博士のSoviet紀行きけとすすめて別る。 (和田先生、われを見て莞爾とされ、われも笑ひ返せし。鈴木俊氏に都合とへば「30日17:30中大後楽園校舎にて」と。) さて帰宅して待ちしに原君来りしは18:00。現在の夫人とはつひに恩怨なしと。早く離婚せよ、そのあと我はたらかんとすすめ、beerのませる。機嫌よく去りゆきし。あと入浴。 1月26日(日) 10:00西垣脩君に電話して「2月4日の会の世話を糸屋君で」とたのむ。他に事なし。 1月27日 「なつかしい中国」9枚を朝日新聞へと書き、10:30、三菱銀行にて2,040受取り、『日本』3月号買ひ来る。 八木嬢より『死ぬる前に』受取り、よんだと。13:30出て朝日新聞へ速達し、東洋大学へゆきsalaryもらひ、三浦嬢より『ラマンチャ』2冊もらひ、大野文吉氏に南方史研究会への印もらひたのみ、昼の学生5人に演習。 すみて神田へゆき東京ライフ社で電話かけまはしてもらひしも齋藤氏つかまらず。鍛治初江君へとまた1冊送ることたのみ(200)、小山正孝君訪ぬれば会議中と。 まむしと肝吸食べ、ヒューズ『西洋文化の支那侵略史(200)』と『英国の暴政(50)』買ひて帰校。夜学教へて帰宅す。 1月28日 朝、父より速達「城平叔父を坪井明に紹介せよ」と。早速、坪井と父に速達かき、緒方昇氏に『果樹園』4冊包み、石浜先生古稀記念会へ1,000。 清水文子groupへヱハガキかく。大東塾への原稿返送、上通を上目黒と誤記のため也。『東方学15』来る、-140と? 麓保孝氏より賀状の返事。名刺あつらへしに「明日出来」と(150)。午ごろより粉雪。大東塾へ送り直す。 1月29日 晴。岩田生へ手紙。影山正治氏より『告日本国』。東洋大学教授会1日(土)15:00と。議題「学部長候補選出の件」。 13:30郵便局へ簡易保険払ひにゆき、東洋大学。南方史研究会への学長印もらひ、宮崎、千葉、小室3氏と会ふ(小室君、この間齋藤先生と会ひしと)。 別れて東大東洋史研究室。石橋助手より『世界研究』に「夜話(15~20枚)」書けといはれ、諾して社研へゆけば、加藤俊彦君をり、堀さん(※堀辰雄)の義女、近々結婚と(24才)。 帰りみち古本屋見まはり、『アジアの目覚め(50)』買ひて帰宅。入浴。 1月30日 防衛大学へゆく途、電車おくれしもドイツ語の千疋氏と一緒ゆゑ心丈夫。馬堀海岸で保柳教務部長と落合ひ、bus呼んでもらって丁度10:20。 Stoveにあたりては講義し、帰途ロシア語の岸本氏に話しかけられる。「平田氏より10年先輩」の如く見えしらし。 水道橋の中央大学へ鈴木俊氏訪ね、18:00近く高橋君(明治学院大)と3人でtaxiにてお茶の水食堂へゆき夕食ご馳走となる。「(※中央大学)欠員あれど来年。星君呼ぶつもり」「鳥山(※鳥山喜一)・船木(※船木勝馬)2氏よりもきいたが今のところ首、安全とのこと故、居れ」と。 20:00上野駅まで同車す。安西均氏より「写真送れ」と。城平叔父より「今、速達クハシク文シタ。宜シクタノム」の電報。 田中順二郎君より「山本文雄氏に話したら一度会ってよし」と電話番号42-9637世田谷区若林町。 (けふきけば満鉄にゐし佐野利一氏、静岡の高校教頭で1月1日卒去と)。 1月31日 妻子出しあと眠りしらしく、覚めれば小島樹氏より問合せ。 村上新太郎氏より『薔薇』やっと出来た、次号にも詩たのむと(20日迄)。小室栄一氏より「村松正俊氏を推すことと決定した」と。 (小高根二郎君より速達来り、「4日夜9時まであかず、同人会とりやめられたし。まだ他には云はず」!と。すぐ西垣君に電話すれば会場きめ、まだ同人には通知しをらず。承知したと也)。 古川政記氏へ8日出席と返事。小島氏へも返事。城平叔父よりの速達来り、「12月3日より1月6日まで脳出血で倒れし。坪井へたのむは平鋼治(城東区白山町)にて追手門中学部」と。坪井と城平叔父へ速達出す。 RadioできけばSchubertの161回誕生日と。悠紀子帰宅。飯くはずに先に風呂にゆく。 2月1日 このごろ太宗老档の人名cardとりてひまつぶす。新坂康子より「菩提樹」みたと。押上佳子より「妹のこと長沖氏にたのんだ」と。村松正俊氏より『国民文庫』。 子ら帰り昼食して14:30東洋大学にゆき、。8日(土)日本歌人の会13:00「Hotel松平」にての通知受取る。 千葉氏の研究室のみあき、入りゆけば田部重治先生あり。面白き話なさる。「“とても”を肯定に使ふは大正のはじめ信州方言より」と。 宮崎氏14:40来られしに佐藤先生と6人となり。村松氏やめて鳥山教授推薦となる。小室、辛島氏らみな委任状。さて投票は(早坂一郎博士、島根大学長となられ欠席)、鳥山17票、竜山21票にて敵の作戦成功。 出て芳賀檀君にさそはれ、宮崎、千葉2氏と票の勘定する中、村松正俊氏とさそひに来られ、東京駅地下のおでんやにて飲む。村松氏とは完全一致、芳賀氏も了解せし点ある模様。『日本歌人』の会にさそひおく。 帰宅、『薔薇37』来をり。 2月2日(日) 雪。石浜先生古稀記念会より原稿と1,000の受取。岩田生、原2氏より礼状。鍛治初江君より『死ぬる前に』受取った、伊藤久子の婚礼は3月7日、富子は5月と。我5月下阪のときclass会すると?? 三大会「15日(土)14:00に400円でbeer party」と。千川義雄より角川の『蕪村・一茶』よんだと。 齋藤晌、浅野晃氏へ報告の手紙。 2月3日 晴。前川佐美雄氏より『日本歌人』の会にて会ひたしと。堀内歴より『果樹園』に入り云々。安西均氏より写真返送。 山本文雄氏、新坂康子氏、古川政記氏へハガキ。午后『果樹園25』、詩よろし。15:30入浴。けふ節分と。 2月4日 京、ものもらひ出来しとて、9:30出て林富士馬dr.にゆき、親切なる診断受く。風邪もひきゐると。われにも注射たまひしゆゑ礼云ひて出る。 小島樹氏よりハガキ。村松正俊氏へ日本歌人の会の案内。石橋秀雄氏へ「世界史夜話」につき問合せ。 午后の便にて城平叔父「坪井より8日に会ふこととなりし」と。 21:00すぎ玲音荘に電話すれば小高根二郎君をり、林氏と西垣氏に電話せよといふ。増山君よこにをり。 (そのまへ畑山氏に電話すれば「風邪でねてゐる」と)。 2月5日 朝、『詩人学校』来り、午后、依子帰り来しあと散髪にゆきて帰れば、浅野晃氏より「手紙見た。8日の日本歌人の会にて会ふ」と!芳賀氏との面接をいかにせんと困る(※不仲の故?)。 山本実子、林佳子、上野董子、佐々木慧子の4人蓼科より寄せ書。 畑山博氏にゆけば「けふ登校せし」と。豊島の附属は抽籤と。(史より地図類の包み来る120円、「八旗満洲氏族通譜」のnoteはなし)。 芳賀氏へ日本歌人の会に浅野晃氏も出席の旨伝ふ! 2月6日 晴。馬堀海岸にてまたbus出しあとにて、保柳部長にbusよんでもらふ。昼食後、麓館長に会ひにゆき、齋藤晌先生の件伝ふ。 帰りまた千疋助教授と同車。東京駅で下りてヱハガキ買ふ。(13日は運動会にて休みと)(試験3月3日(火)1時限と。監督できずといふ)。 村松正俊教授より「歌わからぬが出ても良きか」と。蒲池歓一氏より「乾直恵氏も先週金曜(31日?)に逝去」と。 18:00坂根ちづ生来り、「山本実子らに銀座で遇ひし」と。俳優座受験すると。大、また宿かはりしと。 2月7日 雨。依子けふ富士銀行の身体検査。鈴木俊、田中順二郎、蒲池歓一、堀ノ内歴の諸氏へヱハガキ。林佳子生にハガキ。三大会へ欠席の通知かく。史へ受取ったと。 〒太田陽子夫人より「5月の帰阪の日しらせ」と。『文芸日本』の牧野吉晴氏追悼号よみゐる中、穂積驚氏とて賀状の不明なりし人は牧野氏の弟子なりしを知る。ここに弔状をかき、太田陽子夫人には「ゆかず」と返事す。 夕方鶴崎生来り、「加藤勘十代議士の紹介にて大映に「運動中」と。 2月8日 雪やむ。八木嬢にヱハガキ。高尾書店の書目来りしのみ。村松正俊氏に電話すれば、「出席」と。 12:30京、帰宅せしゆゑ留守せしめて「Hotel松平」の日本歌人の会にゆく。中谷孝雄、浅野晃、亀井勝一郎の3氏、すでに来りて前川氏と話す。14:30になりて閉会。村松氏、芳賀氏来会、珍しきは伊藤佐喜雄。東洋大学のこと話せず。すず子ちゃん芸大受験とききて出る。 村松氏誘ひて神田で酒のみ、同氏も東洋大学3年にてわけわからず、宮崎、辛島2氏危険とききて別る。田中智慧子より「佐藤姓となりし」と。 2月9日(日) 長尾良へ見舞状書きゐれば角川書店より『昭和詩集』の6~9版分1,068-160=908来る。 午后、十条へ散歩。『死ぬる前に(160)』林富士馬氏へと買ひ、中野清見の『日本人(230)』買ひ、『楊貴妃とクレオパトラ(50)』買ひ『India and its faith(180)』買ふ。帰って入浴。 2月10日 鬱してゐしに田中秀子より「西宮氏にきけば学院の景気よかりしと」との便りありしのみ。 稲荷の初荷にて香具師の口上ききて京よろこびて帰り来る。 夜、鶴崎生再来、大映うまくゆかざりし模様、昆布呉る。 2月11日 晴。迷ひゐしに長尾良君より「金曜に林dr.(※林富士馬邸)ででも会はん」とのハガキ来りし故、11:30出て林邸。 注射うってもらひ、来週のこときけば「不在」と。 歩きて池袋に出、西武depart7階の婦人Hallの宮崎智慧氏訪ね、茶のみながら色々話し、21日15:00ここにて会ふは如何にと長尾君にハガキ書きて別る。 それより新宿へ出、小田急にて成城学園。会議前の栗山理一氏に偶然会へて退職必至をいへば「(※講義の)時間こさへるやう努力する」とのことなりし。 出て電話して小畑信良閣下を訪ひまいらす。敗戦後、満洲よりChita、Khabarovsk(※チタ、ハバロフスク)をへてMoscowより 300kmの地に移され、前後11年間ゐたまひしと。参謀本部で占領地経営方針かかされしあと、SumatraついでBurmaをへて満洲と。 占領地の話をわれもし、またを約して出、梅ヶ丘に和田先生お訪ねすれば御在宅。「聖心女子大は大丈夫ならん。明日原田博士に会ふ故、ききおく」とのことなりし。お土産置けば「羽田の物と同じく京阪の品は口に合はず」と。 帰り来りて渡辺といふ全欠学生よりの非常識なるハガキ見て、畑山氏に電話すれば他出と。和田先生に『東方学』へ書きて宜しと承りし。 2月12日 村松正俊氏へ『悲歌』とハガキ。紀元節国守せずと自民党軟化せしと。筑摩書房より『現代詩集』初版5.4万部を2月10日発行と。 中野清見より「本そのうちに送る」「夫人病気」と。渡辺三七子より「一度会ってくはしく話したい」と。西宮一民君より「短大370名の志望で230名とった」と。「東京通信」9枚とす。筑摩書房より『現代詩集』届く。75人中の1人なり。 2月13日 奈良女子大より6,720-805の源泉徴収票。長尾君より14日(金)12:30ごろ林dr.に電話してみると。川崎宏子より「日生のことで喜びゐる」と。 昼寐ちょっとせしあと、角川書店より「検印紙を1月10日までに返送で送りし」との旨、布施より転送。 靴直しかたがた出て電話し、「検印紙あらためて送れ」といふ。 西宮一民、佐藤智慧子、田中秀子3氏へ手紙。 夕方より寒気し、計れば37.4℃。そこへ坂根千鶴子来り、大は西大久保へ転居と。帰りしあと慄へて薬のむ。 2月14日 行きがけ悠紀子「男はもうあなたでこりごり」云々。角川より「印紙2,000枚、15日までに届けよ」との速達。齋藤晌先生へ宮崎、辛島2教授のこと。渡辺三七子生へ「5月には(※大阪へ)行かず」と。中野清見君へ見舞。田中雅子夫人より「夫君の姪、手伝ひに来る故、心配いらず」と。平凡社より1,300-195の源泉徴収票。 12:00に電話しおきし林dr.へゆけば長尾君すでにをり、わが持参のbeerのむ。「瀬川病院の支払20万円以上。小学生用の参考書会社につとむ。新学社の東京支社長は他人にきまりゐること知りしあと」と。また我を「皮肉いふ故、怖がらる。物事の悪いことばかり話す」と。悠紀子と同意見なり。 ともに出て西武陸軍と性病Departに入れば芳賀氏に会ふ。すぐ別れて7階にゆけば宮崎智慧氏欠勤と。名刺おきて茶のむ中、女づれの芳賀氏を見かけし。 busにて東洋大学へゆけば、研究室しまりreport入手の手段なく、教務のぞけば大野文吉と文学部長ら話しゐる。 会計の三浦嬢に『果樹園』3冊わたして帰宅。山中タヅ子より「帰阪待つ」と。松本善海君より(清)陸燿『甘薯録』の教示。萩原葉子、松本善海、川崎宏子、千川稚泉へ返事かき、丸に電話すれば「関口八太郎17日渡米につき送別会を西川英夫世話しゐる」と。 22:00訪ふ声に電報かと出て見れば畑山浩夫妻。「中野の本貸せ」と、色紙おきて去る。 (けふ林dr.に風邪薬もらふ。患者殆どなきが心配なり)。 2月15日 晴。中野英夫氏へハガキ。山中タヅ子、田中雅子へ同。朝日新聞より6,000-200=5,100。 小野彰生よりreport。山川京子の『桃』来る。昨日長尾より「保田、同女の家にて泊る」とききしばかり也。をかし。 午后の便にて太田陽子夫人より「帰らねばうそをついたことになる」と。史より「noteそのうちに送る」と。 その前、大に電話せしに(新宿区大久保2-212小室荘)「白鳥郁郎氏のsrarnd(※不詳)はradioなら心がけおく」と。「坂根生は見込なし」と。 畑山氏に電話すれば「今日明日と東洋大学の会議」と。入浴。夕食後、西川に電話かければ「けふ三大会に関口よび鎌田、奥戸、高垣にて3次会までやりし」と。中山正善、酒井教授をつれて来しと。 2月16日(日) 9:00起き、10:00朝食。西川、丸、竹内あたりへゆきたかりしも止め、「東京通信」を帝塚山の文芸clubのために書き、太田陽子夫人に送る。早川智慧さんより留守のことはり状。 村松教授より、この間疲れてゐしと。角川書店より源泉徴収票14,000-2,100を布施をへてと。印紙2,000枚の受取。 21:00ごろ訪ふ声は中野英夫君。「従兄の子を中央大商科へ入れたしとて紹介たのむ」と也。 2月17日 9:00家を出て常磐線金町(40)。書店で葛飾区地図(20)買ひ、探しまはりて鈴木邸。中野英夫君の話すれば「尽力せん」と。ありがたし。 出て有楽町、住友銀行丸の内出張所にて朝日の稿料受取り、第一弁護士会へゆけば丸、出廷と。 本位田を訪ね、話しながら待ちしも来ず。またゆきて丸掴へ別れ、我は共同通信にゆき、田浦義光氏呼び出しsmatra会せんといへば賛成と。 会議中なりしことわかり這う這うの態で出、東博氏と話せしのち『蕃族調査書アミ族(200)』『台湾海峡(100)』『米英東亜侵略史(30)』 『蘭印探訪記(30)』買ひ、加藤定雄君のぞきしに不在。都電にて一口坂。中国研究所さがしまはり、ゆけば野原、幼方2氏会議中なりし。大島豊の悪きことは幼方氏も認めし。他日またといひて国鉄にて帰宅。 手塚隆義氏来訪され「あす午ごろ電話かけよ」と。学生も1人来て、「明日14:00渋谷東横にて送別会す」と云ひおきしと。 林富士馬、萩原葉子2氏より礼状。原氏より「岩田君をなだめてくれ」と。飯くひしあと、畑山氏に電話すれば「来よ」と。 『現代詩集』もちゆけば「売れ」と。三沢先生(※三沢元貫)昨日来りて、常務理事を承知されざりしと。また電話して交渉するをよこでききゐし。 Beerのまされて21:00帰る。 2月18日 中野英夫君へ速達。『薔薇』へ「同窓会」。帝塚山短大へ「源泉徴収票たのむ」と。 12:00立教大学の手塚隆義教授に電話して「すぐゆく」といひ、12:30ゆけば「東洋近世史手薄と山本達郎教授にいはれし」と。喜んで承知し、兼任講師の同意書かきしも著書論文目録にて明日提出とし、出て古本屋。『妄人妄語(120)』買ひ、『東京西北部』買ひして渋谷東横8階の東洋史送別会といふにゆく。卒業生は中村と櫻田の2人。1年は金生1人。2年は顔もしらず。鳥山教授、船木助教授参加。16:00すみて鳥山教授に辛島、宮崎2氏のこといふ。 青年座にゆき見しに大、来ゐしと。伝言たのみ帰宅。井上多喜三郎氏より「荒木君病気、『果樹園』はわが上京以来もらはず」と。前川佐美雄氏より「村松氏のadressしらせ」と。 押上佳子夫人より令妹補欠となりしと。井上、前川、押上3氏へ返事。比留間一成氏へ『青衣』の受取。 2月19日 京にハガキ4枚の投函たのみしに帰り来て「学校への500失くせし」と泣く。また1枚与へてゆかしむ。 齋藤晌先生より「教職員半減より仕方なし。卿はしばらくとどまれ」と。「20日午、学士会館で会ひたし」と。 12:00出てbusにて池袋。立教大学図書館に手塚教授さがしあて、書類わたし、水道橋まで国電でゆき、東京ライフ社に明日会へずとの齋藤先生あての伝言たのみ、中教出版に小山正孝氏を訪ぬ。『果樹園』に書きしと、『現代詩集』受取らずとのことに、竹西氏に電話かければ「昨日送った」と。「Köln」につれゆかれ、パノンの会(※戦中に催された萩原朔太郎を囲む会)のこと質問さる。 波木井書店で山本実彦『満鮮(30)』『支那(30)』、杉山平助『支那と支那人と日本(20)』『南方拓殖第一報(10)』買ひ、都電で巣鴨、国電にのりかへて帰宅。坂根生、饅頭もちて来り「金曜12:00また来る」といひしと。 八木氏より「ランガナタンを次号廻しとせし」と。夜、また中野英夫君来り、鈴木氏への謝礼のこといふ。釣道楽の話す。 2月20日 寒風吹く小原台の防衛大学へゆき、けふまでを試験範囲といふ。午后、平田俊春氏に会ひ、聖心女子大きまりしをきく。(教務課へゆき「試験問題呈出を25日までのばしてくれ」といふ)。 千疋助教授とまた同車して帰る。小高根二郎君より『果樹園』の原稿17日に着き、まにあはざりしと。 齋藤昭三助手より「研究室にreport預りゐる」と。櫻田、古巣2生よりreport。 夜、青山定雄教授へ「連絡の日時しらしたまへ」との往復ハガキかく。(櫻田生、師恩を謝すとの手紙同封しあり)。 角川文庫のHeine8版1冊来る。浅野、齋藤2先輩に報告かく。 2月21日 8:00王子郵便局へ青山教授あての速達出しにゆき、八木、小高根2氏へハガキ。坂根生11:00来り、pão食べて話す。4月の俳優座の試験受けると也。 青山教授より入れちがひにハガキ。「明日午、東洋文庫。または東洋史談話会にて会ふ」と。石橋秀雄氏より「『世界史研究』送らす」と。 12:30出て坂根生と別れ、東洋大学へゆきしに誰もゐず。Report受取り、大森君に袋もらひ会議室へゆき、結局、宮崎氏(※宮崎幸三)との み話し、評議員会の新学■なるもの配布うけ、無言のまま出て(野溝女史に『悲歌』1冊贈る)宮崎氏と話せば「夜学の史学は応募学生にすすめて受付けず。辛島氏のみでなく、我も危し」と。 ともに出て神田へ同行。Coffeeのましていただく。筑摩書房へゆき、『現代詩集』2冊買取り、お茶の水駅前で『支那の民族問題(10)』買ひて帰宅。 山本夏津子より「子供できず」とのたより見、手塚隆義氏の来訪受け、わが大学院講師は小林とて青二才の反対ありしときく。謝して、東洋大学退職とならんといひ、帰られしあと悠紀子帰宅。 この二三日身体わるしといふに医者にかかれといひしもきかず、不快。 2月22日 悠紀子病臥。依子起きて朝飯を炊ぐ。学校へゆきしあと11:00『学芸手帖6』が5冊来る。 渡辺三七子より「心配いらず」との手紙。小室氏へ速達し(45)、東洋文庫へ12:00着きしも青山氏不在。中華そば食ひにゆき、また待てど来られず。山根幸夫君と話す。小室栄一氏の没落におどろき、米林の栄華におどろく。 出て山上会議所へゆけば青山氏より電話。「19世紀末までのイギリスの東洋進出について」と共同の題をきめ、われより吉田氏に速達することとなる。 やがて和田先生お越し「君、まだ原田君(淑人博士)に行ってないね、出来なくなるよ。“我をやめさせよ。然らずば田中君と両方使へ”と強硬談判せし」といはる。 明日参ると申し上げ、『学芸手帖』見ていただく。講演は一橋出の増淵龍夫とていや味でつまらず。 山本博士に東洋大の自然退職申し、鈴木俊さんに中野君昨夜伺ひしときき、鎌田重雄の顔見しが収穫なりし。 松本にcoffeeのまされ、小林は立教理事の息子ときく。中野清見の本うれざるらし。本郷3丁目で別れて帰宅。 悠紀子元気になりゐる。入れちがひに青山氏より返事来あり。25日16:00より東洋大学史学科謝恩会の案内状。『学芸手帖』の編集、戸田謙介氏は和田賀代女史の隣家なることと判明。 2月23日(日) 9:00家を出て早稲田にゆき、原田淑人先生のお宅を訪ぬれば出られしあと。夫人に19:00再来を申し上げ、新宿をへて(昼食小鯛ずし50『新北京百題(20)』『支那問題の基礎知識(20)』『大東亜巡察考(20)』『赤裸の支那(20)』)祖師谷大蔵。 栗山理一氏訪ぬれば「転任多き理由はいかに。体は大丈夫なりや」の質問され「少なくとも兼任として8時間(12,000)は確実、専任になるや否は2、3日中にしらす」とのことなりし。 ついで青山定雄氏訪ね、来年度も麓氏の気に入りなれば云々。聖心女子大のことはきいてゐる云々と。 『現代詩集』夫人に贈りて駅まで見送りうけ、小高根君(※小高根太郎)。 「もう来さうだと思ってゐた云々」。出て大江勉、房子夫妻に寄り、正平の慶応受験をきく。マミ子も訪ねる由。矢野長官邸訪ひしに不在。渋谷を経て阿佐谷。戸田謙介氏訪ねて『学芸手帖6』また5冊もらひ、原田先生へと1冊托され、船越章を訪ひ、こせん伯母に甚城祖父の父問へば「知らず。淡路にききあはさん」と。 出て原田邸へ急行。先生引見され「聖心4時間にはすべし。ただ専任は無理か」と。成城のこと云ひておことわりせしもきかれず。 出てトロリーbusにて池袋。busにて王子につけば学生まちをり中村生をつれて4人。22:00まで話してゆく。(西川に電話かけ、高垣に本宮の本の推薦たのめと云ひし)。 2月24日 防衛大学へ「19世紀末までのイギリスの東洋進出について」との題送りprintたのむ(吉田氏へ速達)。 午睡してさめれば依子も外出。坂根みつ女氏より三宝柑の送り状(昨日来て子ら喜び食ふ)。 吉田東洲氏より「3月8日13:00、新丸buil.ポールスターにて会する」と。村上新太郎氏より「詩、21日につきし」と。山根忠雄氏より「第2詩集出したし」と。川勝重子生より「いとこ百々礼子、子ども生みし。阪本も結婚して大阪にゐる」と。川勝、山根2氏へ返事。雨にて採点すます。 京、帰りしあと15:30出て登校。採点わたす(吉原、辻村、安部の3生欠)。 明日14:00すぎsalary出ると。悠紀子帰り来て流感と。口喧嘩より夕食くはず寝てしまふ。 2月25日 晴。悠紀子ものいはずして出てゆく。南極隊、犬15頭を残して寄航の途につく。小山正孝君より『現代詩集』の受取。浅野氏より「めでたし、我もArbeit欲し」と。 防衛大学より2月分として8,160。法学部4年生の荒井生reportもち来る。13:00三菱銀行王子支店にて8,160受取り『世界の名歌(130)』買ひ、靴直しにゆき(40)、散髪(120)。恰も15:30となりしゆゑ、東洋大学にゆき、荒井生の採点提出。Salaryもらひ、偽文学部長と遇へば、先方も変な顔せし。 神田にゆき大安にて『敦煌莫高窟(400)』『小腆紀年附考(700)』『台湾歴史概述(55)』『隋唐五代史綱要(125)』『内蒙古歴史概要(200)』と買ひ、蒲池歓一氏に電話かけしにまたまた他出。 波木井書店にて『太平洋民族誌(80)』初版ゆゑ買ひ、国電にて帰宅すれば坂根生まちゐし。三宝柑の礼云ひ、夕食せしめ、速達にて大島豊より「27日(木)15:00までに学長室へ来れ」との状見、畑山博君に電話すれば「君にも来たか、今それにて相談に出る。27日はゆくな」と。 他に辻村生のreport。山口玲子より「恋愛してゐる」と。けふ家に39,000わたす。 2月26日 8:00すぎ宮崎教授に電話かければ「27日13:00に呼ばれたり。小室君も呼ばれゐる」と。わがゆかざるを云ひ、善処と、3月1日に会ふ約束をし、村松、佐藤2教授も危うしときき、村松氏に電話せしにここへは呼出し来てをらぬ様子なりし。 栗山教授より「今年度は講師として中国文学講読(文芸2,3年)、中国文学史講義(文芸4年)、中国文学講読(短大1年)、東洋文化史(文芸2年)もつことと内定」と。 山川出版社より『世界史の研究』6冊。12:00まへ林dr.に電話かけ、最後の健康保険のと云ひて注射打ってもらふ。beerのまされ、出て西武dept.宮崎智慧氏に会ひ、前川夫人へ「明日、明後日忙し」との連絡たのみ吉祥寺。busにて竹内(※竹内好)を訪へば、をり、馘首さることを云ひ、中野の本のことを話す。杉浦正一郎夫人この間来り、嬢はお茶の水女子大と東京女子大受けると。専任考慮すと云ひ、夫人の帰宅まちて出、西荻窪まで歩きて帰宅。依田義賢氏より電報来をり、明日17:30電話すると云ひ、(八木嬢より「転任運動たのむ」と履歴書。田中秀子より「5月下阪の日取りしらせ」と。防衛大学の小泉嬢より源泉徴収票)、 畑山氏に電話してゆけば香港姑娘預りをり「卿が留任のため人々はたらかせ、いまも勝承夫理事はたらきゐる。明日返事あらん。4月三沢常務理事来任まで待て」と。 (中野清見の『ある日本人』第2部見付けて買ふ)。 聖心女子大には内藤智秀博士あり「田中の来任決定」といひをらる由、不審。竜山も知りゐると、不快。 2月27日 栗山理一氏に礼状を投函して防衛大学最後の授業。Printみなすまし、午休み教務課にゆけば問題printしてくれたりし。採点要領もらひ、麓館長に挨拶にゆきしに不在。手紙かきて托し、(土屋(中国語)、新開、岸本(ロシア語)、東(国語)の諸氏をおぼえし)。 午后すませて岸本、千疋2教官と同車。新橋にて下車、テッキン旅館に電話すれば「依田義賢氏、山本プロダクション」と。そこへ電話して銀座「双幸」にて会ふこととし、taxiにてゆけば、すでに待ちあり。映画関係のおでんやにて依田君ほとんど知りをり。『骨』同人の忠告伝へられ、19:30出て有楽町にて夕食して帰宅。 矢野兼三氏より留守の挨拶。 2月28日 晴。10:30宮崎教授に電話して「13:00ゆく」と云ひ、わが稿のせし『不二』見て早昼くひ、11:00出て渋谷(途中買ひし『週刊朝日』に中野清見の批評出てをり)、玉川電車にて駒沢下車。 宮崎邸訪へば化学の野尻教授(※野尻貞雄)をり、小室氏すでに辞表出し、辛島博士も辞意表明し、宮崎氏は明日辞表郵送すと。われ三沢氏の出馬云へば「遅すぎる」と。結局、西洋史には内藤智秀博士来り、日本史は犠牲出ず。史学の4人のみにてすむと也。矢野兼三氏、電話せしに不在。『歴史教育』の電話しらべしもわからず。 青年座へゆけば大、けふ小室荘より転居と。和田先生に電話すれば「夜まで会合に出らる」と。思ひついて中村書店にゆけば『西康省』なし。大東塾にゆけば影山正治氏出られ、一部始終話し、保田翁にと1冊もらひ、大よこせとききて微酔にて出る。 帰れば村松教授より「様子しらせ」と。 3月1日 平田俊春氏へ『歴史教育』の稿 (※「白居易とその時代」)、1月乃至1週間おくらせと速達。村松教授に電話して経過報告す。和田先生にお電話すれば「午前中に来よ」と。急いで髭剃り靴みがかせてゆけば11:10。聖心女子大の海老沢有道氏なかなかうんと云はずと。『東方学』書けと。 出て新宿にてラーメン食ひ『歴史教育』出すといふ日本書院に電話かけて「締切1週間のばす」ときき池袋。 宮崎智慧氏に会ひ「前川夫人(※前川佐美雄夫人)、五味邸にあり」ときき、電話すれば「すず子君8番の受験番号(※芸大受験)。油絵できず」と。 busにて帰り、藤田亮策先生訪ひしに無人。『学芸手帖』を挿して帰る。15:30入浴。 夜、中野剛宣君来訪、『ある日本人 第2部』 (※父、中野清見著)預り来る。西川に会へと紹介状かく。(ラジオ経済通信社)。 20:00すぎ中野英夫君来り、「鈴木俊氏だめなら文科へ入れると云ひし」と。自慢話し、わが馘首されしと云ふに見舞として金おかんとす。 3月2日(日) 速達2通。1は「種々御都合もおありのことと存じますがお話申上げたいことがございますので」4日14:00会ひたしと大島豊より。1は城平叔父より「どうしても大手前通したいゆゑ云々」と。 伊藤佐喜雄君よりbar「リヨン」の案内。依子、富士銀行押上支店勤務ときまりしと。 畑山君に電話せしにかからず、西川に電話すれば「昨夜帰らず、母はねてゐる」との坊やの返事。やむなく畑山氏へゆけばMars-commi(※マスコミ?)の講師になるやもしれずと。 午、石山(※石山直一)、吉永孝雄2先輩への添書同封、城平叔父に速達。坪井明君に速達。鈴木俊氏へ礼状。田中秀子、太田陽子2君へ「5月帰阪せず」とハガキ。 午后、松本善海に電話して「遊びにゆく」と云ひ、いろいろ話して18:00帰宅。 洋服ぬぎしところへ電話。青葉建設へかかり「畑山に電話せよ」とのことにて、きけば三沢先生(※三沢元貫)お越し「すぐ来てよし」と。 ゆきて北京のこと話し、思ひ出したとて色々話さる。結局、畑山君の性急なるたのみはきかず、勝承夫氏を専務理事とし、畑山君を理事にし、ゆきづまれば三沢先生出るとなりし。われには「水のみて良き詩かけ」と。 喜びて仰せに従ひしところへ勝氏より電話。「田中のこともだめ」ときこえしゆゑ、われ出て礼云ひ、辞表郵送すと云へば「一度大島に会へ」とのことなりし。 21:00帰宅。税金申告しても過納と悠紀子喜ぶ。 3月3日 悠紀子休日。子らつれて買物にゆく。われ終日家居。また無為。父より悠紀子に便あり。『果樹園26』来る。つまらず。 3月4日 晴。浅野晃氏より「齋藤晌先生と7日(金)12:00神田一ツ橋学士会館談話室にて会はん」と。小山正孝氏より『ユリイカ』にパノンの会や朔太郎のこと書けと。 難波逸夫氏より「三菱銀行丸の内支店に勤務」の挨拶状。 12:30出て東洋大学。2部の教学課に辻村生の点を提出し、大島に会ふ。 「白鳥に会ふか」「近ごろ会はず」 「善隣高商はいかがなりしや」「われ追放後、経営成らず明治学院に合併」 「さて2部史学科、他の中哲、仏教と同じく経営成り立たぬ故、廃止するについてはやめてもらひたい。但し竜山心配して聖心にきまりし故安心、防衛大学も運動しおく」と也。 「それでは円満退職と心得て宜しきや」「宜し」 「和田先生に報告する。貴公よりも伝言なきや」「宜しくむたのむ」と名刺托さる。 出て大森倖二君に『果樹園』わたし、紀要出来上ればもち来りもらふこととす。三浦嬢をらず。 70周年記念事業会に柳井正夫氏訪ね、退職の挨拶し、都電にて神保町。蒲池歓一氏訪へば在宅。珍しく退職のこと云ひ、出て宮崎幸三氏に電話かけて報告し、大曲まで都電、日本書院にゆき、『歴史教育』2冊もらひ、創元社に寄りしも知念君不在。牛込北町に都電でゆき、新潮社に『堀辰雄全集』編集の谷田君訪ひしにまた不在。代りに出し女史にわれあてのハガキ1枚、25年付なることを云ひて出、角川書店まで歩きて『立原全集』の係といふ志摩氏に会へば俳人と。『立原全集』既刊2冊もらひ、「近々稿料送る」ときき、九段上より東京駅行のbusにのりしに、産経会館の前通りしゆゑ下車して田中順二郎君訪へば席にあらず。置書し、西川に電話かけてゆきしも会へず、帰宅。 城平叔父より速達2通。吉永、石山2氏にわが手紙出しおくと也。夕食して畑山氏に電話して「円満辞職」いへば、氏もけふ大野文吉、竜山義亮に電話してききしと也。 浅野、齋藤2先輩に7日会ふとハガキ書く。 けふ船越こせん伯母より、淡路国三原郡西淡町湊、菊川こたま氏のハガキ同封。 「田中甚城様の母は田中六左衛門様より分家された人。其人に私家菊川家の三代の弟(吾平)5人兄弟の末が養子(田中一郎さんの家)に行ってゐたのです。吾平に私の母きみ、阿萬の新田の船越国蔵の母よね、甚城と外に長女立川「東リ」の矢野へ嫁いでゐた人は分家した人が外家へ嫁いでゐた時の連れ娘とか聞つたへてゐます。甚城の母は初代とかです」とあり。 3月5日 晴。朝8:00まへ速達、城平叔父より2通。1は5,000。1は「坪井、石山、吉永3氏に東京土産わが名にて送れ」と也。わが手紙も大阪出しにては変とて返送しあり。王子郵便局へ「その旨承知」の返事と、石山、吉永2氏の手紙計3通速達しにゆき(100)、東京駅へ出、西川に会ふ。 きけば「山本の海苔よからん。中央大学の相場は5万円位か」と! 歩きて山本へゆき石山、吉永2氏に1,500の海苔、坪井に1,300の海苔急行便にて送らせ、日銀鎌田正美君に会ふ。「本宮(※中野清見)の本よまず」と。 ともに原田運治訪ねしも「まだ来らず」と。都電にて帰宅。 大江房子、増田春恵の手紙をよみ、昼食後、田中六郎家系図さがしまはる。写真帖にはさみありし(※リンクあり)。これを写して城平叔父に報告速達す。 3月6日 防衛大学校より書留小包にて試験答案来る。山口玲子、中野清見にハガキ。八木嬢、勝承夫2氏に手紙。勝氏には『悲歌』別送す。 岩田生より「夫人別れるなら死ぬといひ、また同居しはじめた」と。父より城平叔父の礼言を伝ふ。平田俊春氏より速達の返事。立教大学より「歓迎会を4月7日伊豆伊東で」と。 午后の便にて渡辺三七子。夜、坂根千鶴子来り、三宝柑送るため大の家さがしまはりしと(渋谷区鉢山町10雅荘14号室)。 夜、「白楽天の生きた時代」書き出す(9枚)。 3月7日 雪よべ降る。10:00藤田亮策先生を訪ねまいらせしに登校されしあと。帰りて坂根みつせ氏に礼状かき、渡辺三七子にハガキ書きて都電にて学士会館。 浅野氏12:20来られ、齋藤晌氏12:30お越し。階下の食堂にて定食よばれて報告す。「5月よりsalary出なくなるおそれあり。教職員半減の必要あり」と。16:30ともに三崎町にゆき、別れて中教出版KKに小山正孝君を訪へば不在。帰宅。 城平叔父より「通れば恩にきる」とのたより来あり。白鳥(※白鳥清)夫人より「(※郁郎氏遺稿脚本の件で)会ひたし」と。緒方昇氏より矢加部勝美君の勤先と住所しらせたまはる。『果樹園』より19号まで払ひゐると。村松正俊教授より昨日の「教授会で退職10人の名を発表した」と。 3月8日 伊藤佐喜雄へハガキ。岩田生へ「処置なし」の手紙。難波逸夫、齋藤晌先生へハガキ。 安西均氏より第2詩集『美男』。三浦久子氏より「3月分salaryもってゆく」と。 小高根二郎氏より「服部三樹子氏上京、本も出来て16日送別会」と。城平叔父より「大手前の出願締め切り307人。坪井君にたのむ」と。 3月9日(日) 晴。村松氏に電話かけて「そのうち芳賀氏と3人会せん」と云ふ。「成瀬正一兼任教授も退職」と。 11:00「白楽天」の稿了り、『日本歌人』2月号(3月東京歌会23日(日)10:00~19:30西武dept.7階婦人Hallにて。 100円夕食代と)。 史より送付のnote見てより、畑山博氏に電話すれば「夕方18:00ごろ電話せよ」と。 12:30芸大へゆき見れば16:00発表と。一旦帰宅。「白居易とその時代」清書してのち16:30芸大の発表見ればNo.8は合格しをり。五味邸へ上野より電話すれば「すず子君1人にて見にゆき、音沙汰なし」と。16日ごろまで緑夫人滞京とききて帰宅。 18:30畑山君に電話すれば「すぐ来よ」と。先約ありしこと気づかず。話してともに出、帰れば中野英夫氏来り、三沢師との会見談す。中央大学の出来わるかりしと也。 23:00「白居易とその時代」38枚清書し了る。うれし。 3月10日 晴。日本書院への送稿、悠紀子に托し、9:30出て原田淑人先生お訪ねすれば聖心大へゆかれしあと。 令息に伝言おねがひし、またトロリーバスにて渋谷上通までゆき、鉢山町の大のapartをたづねあてればをり、白鳥郁郎氏の「明智光秀」は機会を掴へて上演(televi又はradioにて)のつもりと。 11:30出て渋谷、昼食すませ、白鳥邸に電話すれば「来てよし」と。寿福寺前行のbusにて参り、まづ清先生に立教(※講師斡旋)の礼申上げ、 聖心のこと云へば「まだきまらぬだらう」と。 先生の出られしあと、君子夫人に郁郎氏の詩集の出来上りし(※リンクあり)を見せていただき、手塚氏(※手塚隆義ではなく序文を書いた手塚富雄)と相談の上、Don Bosco社、野々山君に(※夫人の不満につき)抗議せんと云ふ。帰りがけ芳郎氏「父子連名制と爨氏の系譜」の抜刷と「政治貧論」とたまふ。帰りて眠く、 夜、防大の採点4,5枚やりしのみ。 3月11日 依子あそびにゆく。植田生と堀口太平氏に去夏の暑中見舞の返事。防大の採点。佐野利一氏遺児育英資金1口500を4月25日までにと。 午后、鶴崎裕雄より「受験のため上京、宿所に電話くれ」と。19:00家を出て鈴木俊教授訪ねしに、いまだ帰られず、夫人駅まで見送りたまふ。 3月12日 晴。8:30金町着、鈴木邸へつけば俊教授在宅。若松生不出来のこと云へば、14日発表と。ひとまづ文学部にも出願しおけと。 中央大講師は山本博士の話にて島田君をいれしと。礼はいらずと。 出て大井町をへて中野君へゆけば12:00。鈴木氏の言葉伝へ、いつもの如く佃煮もらひ、busに案内され東京行にのりしに、途中平塚橋とかを通りしに気付き、下車して支那そばを食ひ、森房子氏を訪ふ。 夫君久礼田博士は退職され、明大、上智大の教授と。服部三樹子氏上京の話し、夫人とともに出てbus。東京駅まで乗りて帰宅。 ユリイカより「朔太郎の思ひ出」10枚を3月末日までに書くかと。歴史教育研究会より「6月号に受取った」!?と。中河与一先生より福田須磨子『詩集原子野』。 入浴。14日会議といふ『東方学』に書かんと思ふ。 けふ鈴木邸のあと亀有下車。村松正俊氏を訪へば夫人これまた医師(小児科)なり。自由主義の根柢は夫人の力によること大なり(宮崎教授夫人も女医也)。帰りて同教授よりの『国民文庫』を見る。 夜、不二歌道会鈴木正男氏より速達「3月21日14:00東郷神社での不二歌道会で話せ」と。「承知」の返事す。 3月13日 「ハルハ五部の成立と住地」写す。和田先生より「至急来れ」と。山本海苔店より吉永孝雄氏あての海苔、宛名見つからず返り来りしと(大手前高校あて再送たのむ)。 太田陽子夫人より「(※帰阪できぬこと)怒りゐず『文芸通信』出しclass会する」と。勝承夫氏より詩集『悲歌』受取ったと。堀口太平君あてのハガキ返送(宛名先に見当らず)。 高島屋より羊羹来り、送り人しらべれば石山直一氏。入学斡旋拒絶のしるしかと不快。 太田夫人宛ハガキ書き、18:00出て和田先生訪ね参らすればまだ帰られずと。西島寿一宅へゆけば寿一帰らず、寿賀子帰り来るまで叔母と話し、 梅ヶ丘駅近くにて電話すれば「すぐ来よ」との仰せに参れば、 「原田先生、田中君は東洋大学留任となりしと云ひに来しとて運動やめらる。来年の空きに青山定雄氏入れんと海老沢部長きめをり、今年はとらずときめゐるならん」とのことに、東洋大に身許しらべ来りしこと、正式に辞職となりしこと申上げ、そのあと「ハルハ五部」の話すれば、先生喜ばる。 22:00帰宅。坂根生来りしと。夜半「ハルハ五部」書き了る、52枚。 3月14日 晴。よべ一睡もせざりしが8:00出て、原田淑人先生を訪ひまゐらす。青山定雄氏を採用するとて東洋大にも調査ゆきをらぬ筈、中国キリスト教史やらんと云へば喜ばる。大学卒業後、考古学を選ばれるまでの苦しさを話さる(「明代の蒙古」につき問ひまゐらせし)。 10:00出て東方学会へゆけば鈴木俊氏をられ、今度の号の原稿の集りよく、のるやのらぬや不明と。 ともに出て茶おごられ、蒲池氏に寄り、きのふ聞きし石田先生(※石田幹之助)への斡旋を謝す。 出て小山正孝氏に電話してゆき、昼食ともにし、いろいろ話す。立原道造の杏所・翠軒の裔でなしといふ稿を母君のため保留しゐると。立原忌やるならやれと云ひ、御馳走となりて出る。 森本忠『匿れし人達(10)』『明治天皇御製集(10)』『日本外史(50)』。 帰れば石山直一氏より手紙。「出来るだけ骨折らん」と。城平叔父より速達「正平合格らしきゆゑ、姉弟2人の室を見つけよ」と。 成城大学より「出講予定日(4科目なりし)と講義内容しらせ」と。昼寐す。 八木嬢より「岡田温先生より返事なし」と。田中保子より「試験すみ、赤倉へskiiに来し」と。 けふ小山氏に『新潮』にわがこと桑原武夫氏書くこときき、買ひし。 3月15日 曇。城平叔父よりまた速達「室は勉君世話するゆゑ放念せよ」と。城平叔父へ返事。石山直一氏へ礼状。立教史学科の会へ不参加。東洋史談話会へ欠席と。 依子学校へゆきしあと「山本恭子、島宏氏と結婚4月4日(金)帝国ホテルにて披露宴」の案内。出席の返事出す。村松正俊氏より「今後のことしらせ」と。 3月16日(日) 晴。9:00藤田亮策先生に電話して参る。山本信江の弟、慶応受けしと。西王母の画は六朝ならんとの仰せ。 11:00帰り、佐藤春夫先生の「春の日の会」4月9日(水)15:00清澄庭園にてとの案内と、不二歌道会鈴木正男氏よりのハガキ見、山本恭子へ祝辞かき、 栗山理一氏に会ひ、講義内容を説明し、図書館に欠員あるやもしれずときき、来年気に入れば専任になすつもりときき(服部三樹子『ねむの花』『短歌』誌に評かくといひ)、出て青山定雄氏訪ひしに入試出勤と。 林俊郎君訪ひ、夫人に紹介され(嬢、今日子と)歓待受け、経堂にて西垣脩氏に電話かければ不在。小高根太郎君訪ひてだべり、帰宅。小高根君に借りし『古代殷帝国』よむ。 3月17日 成城大学へ1時限のみゆるせと(10:20始まり)返事、講義内容も同封。服部三樹子氏へ角川『短歌』に1冊送れと。佐藤春夫先生「春の日の会」出席と。 10:00出て東洋大学。大森君に学長印捺してもらひ、三浦嬢に「遊びに来よ」と云ひ、月収3,1250と教へてもらひ、同窓会へゆき柳井、伊賀上2氏と話す。月原橙一郎(原嘉章)は知人なるも卒業生にても半退にてもなしと。きのふ勝理事とわがこと話せしと柳井氏の話。渡辺道夫君と遇ふ。 同じく免職の通知受け、教務課長に会ひに来しと也。 悠紀子、京をつれて田中雅子の見舞にゆく。大東幸子夫人よりたより。すぐ返事。(けふ服部紗智子を学生課に訪ねしに「母上病気にて帰郷」と)。 夕方、悠紀子帰り来り、田中順二郎君、この間わが残せし伝言書見ざりし様子と。やがて何やらにてわが言葉咎め「理解者おあり」と云ひて飯食はず寝る。 夜半めざめ、「斗酒なほ辞せず」大盃にてのむことと王瑶をよみて識る。村松正俊氏へ手紙かく。 3月18日 悠紀子、飯炊きしのみにて出てゆく。田中保子へ返事。林富士馬氏よりも「春の日の会」の案内あり、夜、2度電話せしも「医師会に出て帰らず」と。 竹内好、Radioで『阿Q』を話し、夜更け大の「誤解」(これをきかずに寝る)。 3月19日 郵便局へ3,100出しにゆき林dr.に「15:00ゆく」と云ひ、散髪。 (城平叔父より発表は20日。麻美子ら巣鴨に室予約せしと。石山氏の令息の名しらせと。父より史25日すぎ帰省と。青山定雄教授より欠席者なかりしと)。 鶴崎裕雄来り、「大映2時まで通過した」と。そば食はす。帰りしあと坂根千鶴子来り、茶のみしあと、つれて都電にのり、林dr.のそばまで同行。 林dr.、beerのましたまふ。16:30帰宅。 3月20日 曇。弓子卒業式と11:00までゐる。関口八太郎副総監Texas州Dallasより3月16日出のハガキ。近々帰来らし。東方学会より「6月発行にのる。概要と英訳と略歴と送れ」と。 史より悠紀子に「24日ごろ帰省、4月半ばまでゐる」と。『詩人連盟』へ礼状。 14:00電報来り、「ザンネンオチタフミタナカ」と。我も残念なり。八木氏へ手紙。15:00入湯。 夜、渡辺道夫君来り「小室教授と縁切れしを喜ぶ。須永助手は新潟へゆく」と。 ゆめ――2人にて佐藤先生にゆき待たして怒らる。 3月21日 春分の日。服部三樹子氏より歌集の送り状。12:00出てbusにて池袋。宮崎智慧子氏に会ひ、前川夫人の消息きけば「無し」と。 国電にて代々木下車。明治神宮に参拝。まだ時間あまり、倭周蔵訪ひFranceの写真見せらる。別れて東郷神社。詩の話す(※不二歌道会)。大賀知周氏来会。歌3首作り16:30トロリーバスにて池袋をへて帰宅。 鈴木俊氏より「若松生、文学部に入学できた」と速達。城平叔父より「力及ばざりし」と速達。夕食すました中野英夫君に「合格祝す」の電報打ちにゆく。 3月22日 城平叔父へ慰問状。東方学会へ略歴と梗概。小高根太郎君より『果樹園』に「ねむの花」のことちょっとふれよと。八木氏より「28日ごろ来訪」と。 (母子にて北陸廻り上京と)。 小高根氏へ返事。依子をして史へ1,500送らす。石山直一氏より手紙。「平鋼治50人落ちし中の中位」と。山中タヅ子生より「東京へ上る機会なし」と。井上京子より手紙。 村松正俊氏より「退職の意思ありを云ひふらされをり、芳賀氏は関学大専任となりし」と。 けふより朔太郎書かんとす。(夜半めざめ、山中、井上へハガキかき、朔太郎10枚かく)。 3月23日(日) 石山直一氏へ礼状。倭周蔵君より「Javaのスジャト君につき我のこと週刊朝日に投書した」と。あはて者なり。 12:00西川英夫に電話してゆくと云ひ、昼食すまして訪ぬれば夫人下阪と。Televiの野球見ながら話し、port-wineのまされ14:30出て都電にて池袋。西武depart7階婦人Hallにて待つ中、宮崎智慧氏に五味邸へ電話かけてもらへば、「前川緑夫人17日帰寧」と。「来年も芸大受ける」と。 古川政記、宮崎智慧、名坂八千子の諸氏の外、山村智慧、見原(文月)夫人も上京参会。山村令嬢、曾我廼家十吾一座に加はると! 20:00外へ出て中野英夫君のこと気になり帰り来しにつひに来らず、不審。 けふ村松正俊教授に電話すれば「卒業式にゆき20:30まで帰らず」と。倭周蔵は一家そろって外出と。 3月24日 晴。井上多喜三郎氏へ『果樹園』包む(24)。依子外出。史13:00ごろ帰宅。送りし金は間に合はざりしと。本5冊と畠山氏よりの海苔2瓶もち来る。 3月25日 曇。8:00家を出て大井町をへて中野英夫君訪ぬれば電報昨日着き「北海道へ電話し母君27日来るを待ちて」と云々。 出て朝日新聞社にゆき、三島秀雄君呼び出し(昭和19年より会はざりし)、週刊朝日の件われにて無き云ふ(けさ山口玲子よりまた速達にて我なるときはうれしと云ひ来りし也)。 「佐々木六郎、名古屋にあり」と。帰れば防大の手当来ず。坪井明君よりわび状。川崎宏子より「宮口時喜子の後任となりゐる」と。涌井千恵子より「後期の試験病欠」と。 午后の便にて林良子より卒業の礼と「保田の長男瑞穂京大文化へ入りし」と。 小松保博より「大阪外大2部卒業式に中国語科の総代となりし」と。山本恭子より「新居は三田のapart」と。 『骨』13号と山前実治詩集『花』。田中順二郎・雅子夫妻より依子の祝に靴下。隣のお婆さん、京に「猫のことたのむ」と云ひて移りゆきしと。昨日は京(図画5あとみな3)、けふは弓子(4×2、2×1あと3)と成績わるくふしぎ。 夜半、増田、小松、林良子、山口玲子、涌井千恵子、川崎宏子、坪井明君へハガキ書く。 3月26日 雨。東洋大学の三浦久子氏に電話かければ「今日来る」と。村松正俊氏に電話かけ「明日17:00上野駅待合室にて」ときむ。齋藤晌氏より「麓氏に紹介せよ。東洋大学の入学者375名」と。 白鳥きみ子夫人より「ドンボスコ社と話合つきさう」と。田中雅子氏より送り状。齋藤氏へ手紙で紹介すとかき、麓氏に手紙書く。 16:00入湯。18:00salaryもち来たまひし三浦久子嬢と夕食し、『立原道造全集』2冊貸し、悠紀子に電話せしめて畑山博氏に伴ひゆく。風邪とて臥床。「大島にいひて退職手当出すこととなりし」と。飛鳥山まで送り『牡丹灯籠(50)』買ひて帰宅。 けふ初めてききしに三浦嬢もと常務理事国井順一氏の姪」と。また事務3人退職を命じられしと。夜半、白鳥夫人へ宜しと返事。けふ「萩原さんの思ひ出」16枚となる。 3月27日 曇。朝、「萩原さんの思ひ出」20枚とし、12:00依子の友だち来るといふに出て、湯島聖堂の内の古書流通会に『韃靼漂流記の研究』探しにゆきしに無く、『詩人李白(100)』『西域考古記挙要(75)』『中国文学史(220)』買ひ、麓氏のこときけば来られゐしも帰られしと。 筑摩書房にゆき、東博氏呼び出し「白楽天」書きてよきや土井氏に訊ねてくれといひ(印税4月17日頃と)、加藤君を都民銀行のぞきしも不在。昭森社呼びしも応答なく小山正孝君に電話して聞けば、ユリイカ社も同所と。向ひの喫茶店で伊達君探しあて、安水稔和君上京中なると会ひ、やがて来し那珂太郎氏と萩原さんの話し、雨中ゆくところなく寒ければ一旦帰宅。 大江叔母より「27日上京、そのうち連絡す。物送った」とのハガキ。林満寿氏より「令嬢卒業の祝送った」とのハガキ。 井上多喜三郎氏君の受取。あかね書房より「700円を5月末に」との手紙見る。(昼まへ大田医院に火傷のことききにゆけば、あと残らずとのことなりし。50)。 史、渋谷の住宅協会より帰り来て「大に会へざりし」と。over-coat借りて上野へゆき、村松氏には会ひしも芳賀氏来ず、beerと酒その他よばれて帰宅(21:00)。大江叔母より調味料来をり、けふ史にきけば父、今年末退職申渡されしと。古川政記氏より「会ふ日しらせ」と。 3月28日 寒し。父より「史への送金封したまま置きゐる」と。防衛大学より「追試験の問題しらせ」と。林満寿夫人よりbiscuitsの大缶。 15:00八木嬢来り、依子に就職祝賜ひ(3,000)、われにタバコ、他に金沢の菓子賜ふ。云ひて国会図書館の岡田氏に電話かけさせ、話きくに明ちゃん成功と。そこへ山本信江の父君来訪、chocolate一箱たまひ、藤田先生にゆくとてすぐ去る。「信江君、出産せし。2男慶応の経済に入りし」と。 鶴崎裕雄生来り、「大映に入れし。大阪勤務」と。めでたしと云へば喜ぶ。これも菓子賜ふ。 八木嬢帰り鶴橋生帰りしあと、山本嘉蔵氏待ちしに遂に来らず、憂鬱となる。悠紀子帰り来り、飯食はず風呂へゆき、帰って寝てしまふ。 飯沢匡(飯沢紀)氏へ田中正平のこと書く。純正調pianoを『オール読物4月号』に書けば也。 夕方より雪。夜半、山本嘉蔵氏へ礼状。村松正俊氏へ礼と「春の日の会」に出たまふなと。 3月29日 寒し。9:30原田淑人先生へと菓子もち出しも会へず。つまらぬ映画(オードリー・ヘプバーン)見て帰る。悠紀子もの云はず夕食くふ。〒なし。 3月30日(日) 大江叔母より「正浩発熱、出られず。来よ」と。浜谷、古田2生「信州より1日上京、芝本旅館に電話せよ」と。 防衛大渡辺氏より問題送れと。林満寿氏へ礼状。防衛大へ「近世の印度」の題送る。 出て渋谷にてアブサンのみてゆけば千草帰りしあとと「城平叔父、右半身不随となり、康平叔父は腰立たずなりし。曽祖父の名知らぬはお前だけ」 云々。正平、まみ子高円寺に室きめしと。17:00すぎ出て帰宅。 けふbiscuits大缶もち運び神経苛立ちし。 3月31日 晴。8:30家を出て東十条の古川(佐藤)政記氏を訪ひ、beerのまされて語る。シベリアに3年ゐし話、面白くききし。前川佐美雄氏を呼ばんと云ふ。12:00帰宅。15:00入浴。 17:00八木嬢来り、「岡田氏より紹介受け、田中日比谷館長に会ひしに予算なくて云々」と。履歴書忘れしと。20:00まで悠紀子待ちしも帰らず(依子に帽子賜ふ)。トロリーbusにて亀戸までゆき高野宅へ送りしに勝美夫妻不在。出れば明子氏帰り来り、ちょっと話して出る(明日帰ると。履歴書2通預る)。亀戸までtaxi(80)。帰れば皆ねてゐて起きず。 (飯沢匡氏より「田辺寿雄氏のことにて田中博士は知らず」と。江口、前田2氏より寄せ書)。 4月1日 晴。依子けふより富士銀行員となり本店へ出てゆく。前川佐美雄氏より速達「すず子君の4、5月分の下宿を中央線に探せ」と。杉浦宅の所を悠紀子をして田辺東司氏に訊ねしむ。吉祥寺と。堀多恵子氏「日暮里に転居」と。 12:00出て池袋。西武dept.に宮崎智慧氏訪ねしも不在。成城大学教務課に電話して木曜第1限を許せと云へば「伝へおく」と。 吉祥寺下車、杉浦美知子夫人訪ね、正一郎君の最期きき、長女の戸山高校補習科、次女の西高校入学をきき、「室建てましの為、お世話できず」ときき乍らbeerご馳走となって竹内(※竹内好)にゆけば「『不二』とはどんな関係か」ときく。「中野清見の出版記念会を月半ばすぎにやる。春夫先生の翻訳の下請けせよ」とききて三鷹にゆき、浅野建夫待ちて「雑賀留夫君、入試の斡旋す」ときき、論文の字句訂正引受けて、すし御馳走となり外出の夫人に会へずして出、思ひつきて東京駅にゆき、大和号の列見しも八木母子見えず。天理にゆく南方史研究会の某君に遇ひ、島居君への紹介の名刺かく。 帰れば増田春恵より「熊本大学工学部機械科教室に勤めることとなりし」と。 悠紀子眠りをり。 4月2日 江口三五氏へハガキ書き、浜谷生へ電話、11:00八重洲口で待合すこととす。杉浦美知子氏へ「断られしや否や」の問合せ。 悠紀子、退職手当5,000+2,000もらひしと。10:00出て西川訪ね、保証人承諾せしめ、書類は悠紀子取りにゆくと云ふ。 ついで浜谷、古田2生に会ひ、有楽町より日比谷公園、有楽町で昼食を浜谷生にふるまはれ、別れて古田房子のみ我家に伴ふ。 成城大学より「木曜第1限を土曜第2限に変へる」と。城平叔父より「謝す」と。安水稔和氏よりのハガキと見て、しばらく話し、山本恭子(東急apart)に電話して古田生ゆかせぬと云ひ、ともに神田。演劇関係の本見せてのち喫茶。神田駅前にて夕食くはせ(240)、小網町までtaxiにて送り(70)、帰宅すれば和田先生より速達「原田先生のおかげにて聖心大きまりさうゆゑ、明日午后、海老沢氏に会ひにゆけ」と。 けふ史、柏井(母方実家)へゆく。(水道橋にて中河与一氏に会ひ、成城出講を申上ぐ)。 4月3日 杉浦美知子氏へ「断られしや否はっきりせず」とハガキ書き、米沢昭子「10月伊沢姓となる。東京銀行行員」と。宮本正都氏より「筑摩の『現代詩集』と村上氏の四季詩集?で見た」と。 12:00前出て聖心女子大へ13:00前着き、海老沢氏ゐずとのことに散歩し、のちほど会へば「和田先生の代りに東洋近世史を2時間」と。海老沢氏は立教出にて高慢。ものいひ知らぬに呆れしも、和田先生に大学院講師留任を条件に電話かけるをきき、17日(木)また来ると決めて出、青年座に寄りしに大をらず。 池袋に下車。busにて帰宅。けふ悠紀子class会に京つれゆき、弓子は映画。依子は新入社員歓迎会とてみなおそく、夕食19:00。 悠紀子、千草に会ひ極貧の話ききしと。秀樹、横浜大の発表明日と。 4月4日 防衛大渡辺氏より速達。すぐ採点(D)し、速達し、「手当いつ呉れるや」と訊ぬ。 浅野建夫へ原稿書留にて返送。悠紀子をして東洋大、西川英夫にゆかしむ。和田先生へ謝し奉ると手紙。 田中順二郎氏より「2日10:00長男出産、章博と名づける予定」と。角川書店より『立原道造全集月報』の稿料2,500-375=2,125来る。散髪す(120)。午后、芳野清君より「東京通信」よんだと。 16:00出て東京駅、産経へゆき田中順二郎君に会ひ、お産軽かりしときき、taxiにて帝国ホテル(山本恭子・島宏(※島秀雄長男)披露宴)。 受付にて祝辞の交渉受け、藤助夫人、花嫁に会ふ。待合室にて浜谷生、米川生(英文)と話し、西垣脩君と話す。席は山本敬子・敦子の父母と同じ。国鉄総裁、いすず自動車社長、辻村太郎博士などのあと、花嫁の紹介さされ、卒業のreport「向井去来」の出色なりしことを云ふ。すみてひとり出、帰宅。 4月5日 晴。立教大学より出講希望時間を第3希望までと。「火、木、金の午前中」を以て答ふ。昼寐して12:00となり、東洋文庫へゆけば岩井主事不在。閲覧券書きかへてもらひ、吉田金一氏に会ふ。『明清史料乙編』写し、和田先生のお声するに気づきしもお会ひ奉らず、出て『白居易』買ひ、高橋新吉に遇ひ、自己紹介すれば角川文庫『新吉詩集』呉る。うれし。帰宅。 山根忠雄氏より「15日頃第2詩集出す」と。八木嬢より1日11:00離京と。杉浦美知子氏より「他に心当り探す」と。山本嘉蔵氏より「藤田邸にておそくなりし」と。 入浴。夕食。子らのするたこ焼食って畑山博氏訪ね、「三波元貫氏わが上を案じらる」ときく。八木嬢へ返事。 4月6日(日) 曇。村松、井上2氏に『果樹園』送る。硲晃氏より「坪井明君、富田林高校長となりし」と。 平凡社より『ある日本人』の会、12日18:00如水会館にてと。成城大学より2年以上14日(月)詩業。1年は23日(水)よりと。印鑑証明書必要とて悠紀子、西川夫人に電話す。 来客なし。(中野英夫の消息なきは不審なり)。史、退屈す。 4月7日 曇。2児学校はじまる。硲、芳野清、宮本正都、増田春恵の諸氏へハガキ。服部三樹子氏より「代々木山谷の後町工務店にあり」と。 昼、千草来り、「秀樹横浜大学も落ちし」と。ぐだぐだと陽生の無力無反省を云ふ。 われ区役所出張所へ二度往復して印鑑証明書とり来る。(西川君の分は会社にありとて、史とりにゆく)。 後藤末雄『支那四千年史(40)』。14:30悠紀子、千草とともに出て三鷹の田中雅子夫人見舞にゆく。 夕方、大森倖二氏『東洋大学紀要12』と抜刷100部とを持参、慷慨の言をなす。悠紀子18:30帰来。 4月8日 曇。小高根二郎、服部三樹子2氏にハガキ。岩崎昭弥君より「19、20日上京」と。白鳥きみ子夫人より「郁郎氏詩集幾冊必要か」と。 王子税務署より10,220還付すと。13:00出て東洋文庫。岩井主事に「アイタ」(※「アイタの伝記:東洋大学紀要抜刷」)贈呈。田川孝三氏に同。『明清史料乙編』写し、15:00大塚仲町まで都電。東方文化研究所の松本善海訪ね、出てまた都電。 西武dept.の宮崎智慧氏訪へば「東博氏より前川氏の借室の件ききしが心当りなし」と。 出て林dr.。明日の「春の日の会」にゆくと。芳賀檀氏、高血圧と。whisky入りの紅茶ご馳走となり向原より都電にて帰宅。櫻田悟朗生より礼状。 4月9日 曇。岩崎君へ「19、20日両日待つ」と。櫻田生へ返事。太田陽子夫人より「明日10日さくら7号車にて着京」と。 村松正俊教授より「老子ならびに道徳教の英独仏語で出てゐるものを教へよ」と。 吉田東洲氏の『燃ゆる神曲』出版記念会を21日(月)14:00より三笠会館でと。 雨の中を12:30出て東洋文庫。cardの老子関係を写し、14:00出て駒込、両国をへて清澄庭園の「春の日の会」にゆく。 長谷川氏(※長谷川幸雄)の司会。先生、奥様に御挨拶申上ぐ。浅野晃氏「収入なくて困る」と。 中谷孝雄夫人、亀井勝一郎、林富士馬、外村繁、井上靖(われを人間わるしと云ひしことなしと)、邱永漢、檀一雄、山之口獏(琉球踊りを指揮す。われ思はず落涙せし)などの諸氏に挨拶し、浅野氏の見えざるに不審がりつつ退席。(竹田龍児氏に挨拶受け「Aita」(※東洋大学紀要「アイタの伝記」)贈りし)。 井上靖の詩集評2枚を書くことを約す(16日締切)。酔発して苦しく、両国駅まで歩きて帰宅。 八木嬢より履歴書おくれると。島恭子夫人、新婚旅行先より礼状。 4月10日 田村春雄氏より速達にて「上野小島館にあり」と。すぐ電話せしに今夕18:30宿を訪ぬることとす。 村松氏へ老子のlist。芳賀檀邸に電話すれば不在。『果樹園』に「東京通信」6枚かく。竹田龍児氏へ「清初の奴隷」の抜刷贈る。昨日吉森(藤原)幸子夫人、東大入学の弟をつれて来りしと。大江房子より「叔母6日帰阪した」と。防衛大学渡辺氏より「手当近々送る」と。 林満寿夫人より「保田父君『不二』を見て喜びゐる。与重郎君、嵐山に新築の計画」と。 渡辺三七子生より「元気」と。社長父子上京のことはいはず。白鳥きみ子夫人に「郁郎氏詩集(※『しりうす』10冊頒けよ)」と。 19:00出て上野小島館にゆけば春雄博士まだ帰らずと。駅に引返せば遇ひ、ともに喫茶。18:30一旦別れて東京駅にゆきみれば「さくら」は19:50と。やめて上野に引返し入浴中の春雄君待ち、夕食賜はって丸と電話させ、東京、大阪の話し、21:00となりて出てまた喫茶。「明夜、来たまへ。12日如水会館へ来たまへ」と云ひて別る。春雄君、大東dr.を知ると。清徳保男君母堂卒中と。 4月11日 よべ中夜目覚め苦し。『帝塚山文芸クラブ通信9』堺より送り来る。立教大学より火曜第1時限(8:30~)に定めしと。井上靖氏詩集、共同通信社小塙学氏より速達。 午后の便にて『満文老檔Ⅲ』。服部三樹子氏より「13日午后来訪」と。20:00田村春雄君、cakeもちて来訪。子ら見てもらひ、小泉丹『眉毛眼上集』と『悲歌』と贈る。 4月12日 史、けふ帰ると。事情説明す。谷口氏に電話して太田氏の電話きき、陽子夫人に礼云ふ。 東洋文庫へゆき「Gûlumalûn」を『八旗通志初集』で見しに康熙[●]の微臣。老檔註の誤れるを知りしのみ。 帰れば防衛大学より4,080来をり! 村松正俊教授より(※東洋大学)1週4日勤務がならはしとなり、バカらしくてやめたと。保田父君よりたより。 史、出発とて悠紀子に500円借り平鋼治君に『concise』を買ひてわたせといひ、畠山氏への礼状、硲君へ「Aita」抜刷を托す。史、「大に会ひにゆき500もらひし」と。 17:00出て新庚申塚をへて都電にて一ツ橋。如水会館にゆけば無人(※中野清見『ある日本人』の会)。やがて同窓にては阪本、黒野両先輩、久保(※久保光男)、竹内(※竹内好)、原田(※原田運治)、丸(※丸三郎)、西川(※西川英夫)。鶴身祐輔令息俊輔はじめ20人足らず。山本治雄来ることとなりゐしに来ず。田村春雄氏も現はれず。 21:30散会、神田で喫茶後、新宿へtaxiで出て伊藤佐喜雄の「リヨン」といふへ行けば閉めをり、近所で酒ちょっとのみて0時帰宅。 4月13日(日) 前川佐美雄氏より速達「阿佐谷の友人宅に置いてもらふゆゑよろし」と。海老沢有道氏より「25日(金)13:10~15:00まで東洋近世史・近代史」と。火曜(15日)に会ひたしと。 杉浦美知子夫人へ謝り状を速達で出し、海老沢氏へ「15日午后ゆけず16日又は17日に変へてくれぬか。15日電話にて訊ねる」と。 依子の友だち来り、午すぎまで居り、14:00服部三樹子氏来り、「職なく6ヶ月の失業保険にてゆく」と。意外なるにおどろき、更に図書館にて人待たすといふに来てもらへば京都人の叟。話してport-wine1瓶おきて帰りしあと、17:00案内せしは井上睦子。「熱海旅行のあと父母と 別れ、長兄と来り一眼見ればと思ひて来し」と。待ちゐる兄にことはらし、20:00まで話し銀座2丁目の宿まで送りゆき、兄に会ふにろくに挨拶せず。街角まで送られ握手して別る。 4月14日 9:00悠紀子に三菱銀行王子支店へゆかしめしに防衛大学の手当呉れし。定期買はんとせしに新宿まで一ヶ月690にて安くなし。 11:30成城学園前駅にゆけば丸令嬢をり挨拶す。短大英文2年にして中国文学史きくと。ゆきて栗山教授問へば不在と。教務課長に教室その他きき「文芸学部開講は来週より」と。 短大と合併の明日の文学史は休講ときめ、折柄来合せし栗山部長に『天理図書館写真集』贈り、忙しときき、図書館に寄り池田教授(※池田勉)に挨拶す。『果樹園』このごろ来ずと。 出て祖師谷大蔵で下車、中華そば食ひ、青山定雄氏訪ひて聖心女子大のこと訪ぬ。 経堂に下車、小高根太郎と話し、母上の元気に帰宅したまふを見る。『日本民族の起源』借る。『日本文化史概説(20)』買ふ。 梅ヶ丘の和田先生お訪ねせしに御不在。夜おそくまで基督教大学と。明日お電話するといひて出、池袋下車。立教大学へゆき手塚隆義教授訪ねしに「学科指導」と。「明日再訪」といひて帰宅。 硲晃君より「驚きし」と。入浴、疲れゐるに気づく。 4月15日 悠紀子、都庁へ住宅の空家の申込みにゆき10:30帰り来る。梅ヶ丘に2室670円のがありしと。 出て立教大学。手塚氏訪ぬれば海老沢氏も在り。立教は聴講なきやもしれずと。海老沢氏に14:00ゆくと云ひ、出て渋谷。神泉町23田中といふを訪ねまはり12:30着けば坂根千鶴子不在。同居の奥さんに『果樹園』托し、中華そば食ひて青年座にゆけば、大の室の掃除をArbeitとするといふactress親切にことづけ聞いてくれる。 聖心大にゆけば院長新入生に訓話しをり、海老沢部長に案内されて見物す。ここは元久邇宮邸と。15:00まへ院長に紹介さる。和田先生に参りて報告せんと思ひしも金なくて帰宅。 竹田龍児氏よりの受取見る。『薔薇38号』来る。古川政記氏より「日本歌人の会20日13:00Hotel松平にて」と。 足痛くねてをれば坂根生来り「芸術座の試験おちし」と。母にも便りせず恋愛しゐると。夕食して18:00帰りゆく(金曜再来と)。 和田先生にお電話して「明日午前中お訪ねする」といひ、あとであはてて詩集『北国』(※井上靖詩集)の評の草稿かく。 4月16日 曇。9:00まへ出て日比谷共同通信にゆき、原稿を受付にわたし、日比谷より経堂行のbusにのり世田谷区役所前で下車、20分歩いて和田先生をお訪ねし、お礼申上ぐ。原田先生2度も往来したまひしと。「近世史は清初よりでよし。早くやるとすんで了ふぜ」と。「ハルハ五部」およみいただき、わが説よかりしと。 出て新宿。中村屋で羊羹買ひ、原田淑人先生お訪ねし、お礼申上ぐれば和田先生もここへ訪ねられしと。聖心女子大気持よき学校なりと。 トロリーbusにて池袋。(日比谷より五味氏に電話すれば前川夫人未着と五味氏の声なりし)。 宮崎智慧氏訪ね、20日(日)「日本歌人の会」にゆかずと云ひて帰宅すれば岩崎昭弥より「20日来ず」と! 田中秀子生より「寺本生東京に嫁ぎ来る」と。めでたし。悠紀子をして丸夫人に電話かけしめ「明日ゆく」と云ふ。 4月17日 8:30家を出、新宿をへて丸家に10:00着き、丸と話し、丸夫人より末嬢(ゆみ子)通学を校医より禁じられしときき、これをも浅野君に見せることすすめ、1:00高円寺駅。12:00まへ浅野邸につき、坊やの話すれば「転地させよ」と。嬢は証明書かく故通学させよと。 12:30出て三鷹駅前ですし食はされ、吉祥寺で別れぎは、浅野君の小池校医への手紙を坊やにもちゆかせしに気づく。 別れて亀井勝一郎氏に会へば、東洋思想講座(※至文堂)第4巻に「愛情とその表現の特徴――東洋の感受性と発想法」3、40枚を5月一杯に書けと。 出て吉祥寺医院に森良雄訪ね、coffeeのまされて話きく。『文芸春秋』にpen-nameで書きしことありと。杉浦家を訪ねずして帰宅。古田房子生より礼状。 4月18日 雨のち曇。『ユリイカ』5月号来り、朔太郎号なり。 坂根千鶴子来りしゆゑ山本陽子の見舞を命ず。井上睦子より「このあひだロビーへも上げずに」とあやまり来る。 4月19日 晴。羽田へ抜刷5冊(里井、三田村2氏への分も)。小高根二郎氏へ雑誌類転送。 悠紀子、職安へと出てゆく。保田槌三郎翁、林満寿氏へハガキ。羽田へも一筆。 丸よりハガキ「休学承知して帰宅した。運動せぬやうに」と。悠紀子、職なしと帰り来る。 午后、弓子のPTAに悠紀子ゆく。島居清氏より「中田氏よりの伝言きいた。杉浦の芭蕉の研究の校正やりをる」と。 城平叔父より「英和辞典もらった。正平たちの住所中野区大和町32三和荘」と。山根忠雄氏より『詩集岩に刻む』60p100円。 金環蝕の日とて曇りしあと入浴。帰りて昼寐してをれば岩崎昭弥君来訪。 (悠紀子PTAにて依子の不遜を云はれ、向丘高校の及落の境目とききしと)。 ともに夕食し、『文芸日本』の月例会へ浅野晃氏に会ひにゆくといふに、案内かたがたゆけば浅野氏欠席。榊山潤氏と葉山君(尾崎秀実の弟といふをあとで林君よりきく)。林富士馬君中座せしとて待ち、21:00となり浅野氏に電話せしもかからず、その詩よきをほめて散会。 林君と岩崎君を駅まで送り、林君の家にゆき、茶よばれて向原より帰宅。 依子すでに眠りをり、本俸6,000+臨時手当3,480-(保険料280、住宅預金1,000、ソロバン代900、その他にて2,705)=6,775。家へ3,000入れしと。 4月20日(日) 都営住宅の抽籤番号来しのみ。田村春雄へのハガキ投函して信濃町。野球と創価学会の葬式にて混雑。堤夫人、在原夫人などおぼえる。五味邸へ電話すれば「緑夫人あす朝8:30東京着」と。石川信夫氏来り、17:00までゐて帰宅。 4月21日 8:30出て成城大学へゆけば短大の入学式と。教務の女史にのちほど云ひてあやまられる。中河与一先生を訪ひ『誘惑の谷』いただく。『探美の夜』の紹介せよと。幹子夫人も出らる。高校へ寄り山川京子氏と会ひ、漢文の教諭新垣淑明氏に紹介さる。庶務課長に会ひしに「専任でなきゆゑ通勤証明書出せず」と。 busにて東宝砧撮影所へゆけば「柴山胖、重役になり所長やめしも今来りをる」と。やがて秘書来り、忙しくて会へずと。 またbusにて農大前。矢野長官を訪ねしに「10月10日にはSumatra会しゐる。戦犯獄中記400枚を出版社に紹介せよ。住友住宅の芥を注意せよ」と。句集『赤道標』賜ふ。 大江に寄り房子君に会へば、正平君わが家訪問したしと道たずねしと。出て小高根家へ寄れば太郎君不在。道にて母上に会ふ。新宿をへて帰宅。 八木嬢より履歴書2枚。「島居氏にもてなされしは阿部秋生か」と。正平へ道筋かきしハガキ出す。(矢野閣下新婚にて中山久四郎博士の姪が夫人と)。 4月22日 晴。7:30出て8:20立教大学へゆき、教務と話す中、手塚教授来り、一応T3といふ裏階段3階の神学研究室へゆきしも誰も来ず。『臨川書目』など見て40分待ち、研究室にゆきて山田昭次副手と話し、手塚、海老沢、林助教授とゐる処へ、貫東洋大助教授も現はれ大学院みな学生なきらし。 11:00手塚氏と会計へゆき、salary4,500-375もらひ、文学部長菅円治氏(悠紀子習ひしと)に挨拶し、出て帰宅。 昼食して12:20急ぎ成城大学へゆけば13:30。栗山部長と話し、服部三樹子氏の口ふさがりしを知る。庶務課長に電話して証明書出ることとなる。301号室へゆけば文学4人に短大6人ほど中国文学史なりしことを知り、開講の辞しばらくやりて講師室にかへり(4月分車馬代30日に払ふ。 今後は21日と掲示あり)、庶務課にゆきて証明書もらひ、池袋にて西武dept.7階にゆきしに宮崎女史忙しく、餡蜜くひ五味邸に電話せしもかからず、busにて帰宅。 けふ島恭子より新居の通知。史より「畠山家に(※家庭教師)1週2時間ゆくこととなりし」と。羽田君より「抜刷つきし」と。 (けふ三浦久子氏に悠紀子をして電話せしめれば私学組合の金1~1.5月かかると。その3月分とりに来ると)。 正平君来り、「明夜、城平叔父泊るゆゑ会ひたし」と也。床のべてゐれば訪はれしは藤田亮策先生にて「困りゐるなら講師の口にて来しも、そんなに行ってゐるならもうよし云々」。がっかりして駟も舌に及ばず也。「Aita」もちてお帰りになりし。 21:00すぎ五味宅の緑夫人に電話し「27日(日)1:00西武婦人Hallで会ふ」こととせし。(けふ池袋で武部利男『李白』上(※中國詩人 選集)140で買ひし)。 4月23日 雲。島(山本)恭子へハガキ。山本嘉蔵氏へ同。散髪にゆけば勤務評定反対の休校に憤慨する秋田の叟ありし。 丸夫人に電話すれば「タケ敏発熱した。ユミ子云々」と。岩崎昭弥君より「当日21:00に岐阜へ着いた」と。 13:00出て都電にて神田明神前にゆき、ふと医科歯科大に田中克己dr.を訪へば在室。「明治44年生れ」と。『Heine恋愛詩集』買ひ賜ひ しと。いろいろ話してのち筑摩書房へゆき東博氏呼び出してcoffeeのまされ、前川氏上京につきいへば「弟子たちたよりなく、東京にては有名ならず云々」と。石川信夫氏も来るとのことなりしも出て、都民銀行神田支店へゆけば加藤定雄をり、「嬢ちゃん聖心の英文2年と。この間平凡社の常務と話せし」と。 出て都電にて九段上、角川書店へゆけば志肇氏不在。飯田橋より国鉄にて高円寺。途あるく中、正平君に会ひ、きけば城平叔父より「おそくなるゆゑ夕飯いらず」と電報来しと。一度apartへゆきマミ子君のこさへし夕食くひ、正平君の買ひ来しbeerのむ中、20:00をすぎ、丸にゆくとて送りてもらひ、ゆけば丸帰宅せしところ。喧嘩せぬかと心配してハガキ書きし由。いちごよばれて受験参考書もらひて帰宅。 渡辺三七子より「忙しくて休暇もらへず」と。けふ正平君にきけば「大江叔父十合を退職した」と。 4月24日 共同通信社小塙学氏より『東京タイムス』4月21日号(※井上靖詩集評)。村上新太郎氏より「詩呉れ」と。 12:00出て立教大学へゆき白鳥先生にお会ひすれば「郁郎君の詩集まだ送れず」と。忙しくされるゆゑ出て(宮本、小林2氏と会ふ)、佐々木喜市先生訪ひしも不在。 駅前の古本屋にて吉川博士『詩経国風 上(140)』買ひ、疲れて帰宅。 昼寐しゐれば畠山氏より「史を家庭教師にする」と。坪井明君より高校長就任の挨拶。 4月25日 11:00までnote作りし、昼食して聖心へと出、渋谷で大に電話かければ不在。早めに女子大に着けば青山定雄教授をられ、田中保隆氏より挨拶受く。 やがて和田先生お越しになる。東洋近世史と近代史とを45分づつやり、疲る。出て渋谷で青年座に電話せしも大をらず。帰宅。 〒なく金なし。鳥居清、畠山六右衛門2氏に礼状。 4月26日 成城大へ出講。暉峻康隆氏と話す。「中村(※中村幸彦)、九大教授となりし」と。高田瑞穂教授と話す。 中国文学やり、宮崎幸三氏に電話すれば「在宅」と。busにて三軒茶屋。駒沢まで電車にのりてゆけば無聊と。「(※東洋大学に対する)遺恨忘れず」といひて出る。 渋谷青年座にゆけば大の居場所教へてくれ、電話せしに「日活の仕事中」と。 昼食せずに15:00帰宅。高林生(防大)より退院ののち訪問し来ると。福地邦樹君より「令弟今年も芸大失敗」と。 立教大学より5月5日の会の案内。入浴し、福地、山根、防大渡辺3氏にハガキ。石浜恒夫氏より『日本アンデルセン』。 夜、前川夫人より「29日に会合変更となった故、同日11:00西武婦人Hallで会ひたし」と速達。 4月27日(日) 立教大学へ5日の会欠席の通知。八木、正平2氏へハガキ。(正平・まみ子2人づれにて連休の一日来よと)。 共同通信より稿料(2,000-300)。硲君より「Aita」2部を誰にわたすべきかと。石井英雄生(東洋大学国史)より「続群書類従完成会に勤めゐる」と。 依子、八木嬢よりの金にて買ひし布地を自ら裁ち縫ふ。 夕食後、悠紀子にすすめられ鈴木俊先輩を金町に訪ひ伺へば「中野英夫より挨拶なし」と。市古宙三、松崎寿和2氏の眼前にて1,000を佐野利一氏遺児教育資金にと出す。7万円ほど集りしと。 某教授より入学斡旋の礼といふwhiskyご馳走となり、雨中を駅まで送られて帰る。中野英夫へ「スマナカツタナ」とハガキ。 4月28日 成城大へ出講。李白のprint切り、今宮中学出で天理図書館で話せしといふ高城氏、われが詩人なることを知る富永次郎氏、台北高校でわが話ききしといふ上原助教授と話す。龍口直太郎氏とは話さざりし。 短大1年に私語して不快なる2人あり、叱りてさらに不快。疲れて考へながら田中順二郎邸訪へば疔とかにて欠勤、在宅。北野母君と美千子君の芸に笑ひつつ出て、また不快となる。17:00帰宅。 兼頭淳子生より「専攻科にのこりし」と。角川書店齋藤和生氏より『蕪村・一茶』の再版。 夜、萩原葉子氏より速達にて明日の演奏会の切符。けふ悠紀子、銀行へゆき1,700とり来りしと。硲晃氏へハガキ。 4月29日 10:30家を出てbusにて西武dept.7階婦人Hallにて宮崎智慧女史と話しつつ待てば、前川緑夫人11:45に現はれ、ともに茶のみつ つ話きけば、「すず子君6月竣工の哲学堂apartとやらに2間約束されをり、芸大の男生と先生とにつく」と。「前川氏、半分東京伴ひす」と。「6月来たまひし時、ゆっくり計画立てたまへ」と云ひ、12:15別れて千駄ヶ谷。 日本青年館へゆき、萩原葉子さん見当らず。14:30までmandolineの演奏きき、廊下に出れば萩原さん母子に会ふ。『蕪村・一茶』贈り、昼食くはざればふらふらと原宿まで歩き、渋谷よりまた大のapart探しつつゆき(朝、悠紀子に電話さし在室たしかめありし)、pão食ひつつ「毎月3,000を京都(※実家)へ送れ」といひ、承諾せしめて出、帰宅。 服部三樹子氏、いちご持ちて来しと。和田博徳氏より「Aita」受取りしと。『不二』わが歌をのす。 4月30日 8:30家を出て成城大学。6日(火)の中国文学史のため詩経抄のprint切り、了へて会計課へゆけば13:00まで車代出ずと。待つ中、野田宇太郎氏来り、田中正平博士のこと話す。15、6日まで九州旅行と。 13:30会計課へゆきはじめてsalary見れば15,000-1,788=13,212、ありがたし。 出て駅前にて後町工務店に電話かけて服部三樹子氏呼び出し、南新宿で待ち合すこととし、30分後会ひて喫茶。別れて代々木より飯田橋。角川書店にゆけば志摩、齋藤、角川の3氏みな不在。 歩きて蒲池氏に寄り転職のこと報告す。勝承夫氏に会ひて「手おくれなりし」と聞きしと。 山本書店で倉石『中国文学史簡話(100)』買ひ、加藤定雄のぞきしも不在。筑摩へゆく気なくなり、お茶の水より帰宅。 田中万美子より「休みに来られず。正平は来る。四家文子女史の独唱会の切符売れ」と。『東洋史研究16の4』。 5月1日 父、史へ手紙同封4,000送らす。本位田重美氏へ成城大学出講の挨拶。 王子税務署より「計算のまちがひ発見した」と6日の呼出し状。東洋史談話会より「10日14:00」と。 今中みよ子生より今先生に会ったと(4月28日)。今中生へ返事。入浴。聖心女子大のnote作りに腐心す。兼頭生へハガキ。 5月2日 悠紀子、職安へゆきしも締切りあとと帰来。田中順二郎氏より祝返しに石鹸。中河与一氏より「金言を云へ」と。正平より「3日午后来る」と。鈴木俊氏より受取。 11:30出て聖心女子大に着きしは12:30。和田先生来られるまで話相手なし。講義くはしくゆっくりやりしもnote不足ぎみなり。 Salary650×4-208=2,392もらふ。和田先生に都電下通まで案内していただき渋谷でお別れし、角川へゆかんと都電にのりしも青山一丁目で下車。間組に池田徹訪ぬれば不在。また都電にのり駿台下にゆき、加藤定雄訪ぬれば旅行らし。古本屋見てMacaulay『LordClive(20)』買ひ、国電にて帰宅。 鈴木登美子より「三野姓となりし」と。中千枝子より「寺本和代、二坂姓となり上京、中野区に住む」と。(和田先生「藤野彪君急死、きみ後任にゆかないか(※愛媛大学)」と。おことはりす。) 5月3日 憲法発布記念日と。依子出てゆく。鈴木俊氏へわび状。中千枝子氏へ絵ハガキ。共同通信社小塙学氏より『南日本新聞』(※井上靖詩集評)。 15:00正平君来訪。Davis’ Cup戦に日本teamの負けるをきき、夕食たべさし四家文子女史の切符もち帰りもらふ。 5月4日(日) 『果樹園』28来る。増田春恵より便り。萩原葉子氏より礼状。昼食後、畑山博氏訪へば「高校の夜学へゆけば如何に」と。碁4番打ち負けて帰る。 けふ11:30小島樹氏、坊やつれて来り、武田泰淳の『司馬遷』の文庫名訊ぬ。岡崎文夫『司馬遷』貸す。ちまきと柏餅とを賜ふ。 5月5日 子どもの日と。東順子氏より京都府立医大生と婚約、『果樹園』見たと。青木大乗展5月6日~11日高島屋6階でと。 昼食して藤田亮策先生へお礼に伺ひしも無人。小高根二郎、東順子氏へヱハガキ。柴田武『日本の方言』買ふ。 5月6日 8:15立教大へゆき手塚教授に会ひてきけば「聴講のあるなし不明」と。T3室で40分待ち、図書館へゆき武田泰淳『司馬遷』しらべしもなく、研究室へゆき山田助手にいへばしらべてくれ、創元文庫昭和27年発行と。海老沢、林2氏のほか、小林、野々村2教授に会ふ。 11:00出て新宿で昼食。 12:00すぎ成城大へ着き、高田瑞穂氏と池田勉氏に『果樹園』わたし(池田春三君いま県庁の課長と)、短大主事の坂本浩氏にゆけば出席40人。 まだ15人はゐるらしくprint刷り直しとなりてくさる。丸令嬢をりし。 出て小高根太郎に行かんとすれば経堂の駅にをり、同車して池袋まで来る。 史より「もう本なし」と。瀧口喜久子生より「泉大津へ転任した」と、めでたし。野村朝子より「4月15日以降在京、会ひたし」と。史と野村生へハガキ。 けふ悠紀子、王子税務署へゆき「50%控除みとめられず1,020出せ」と云はれしと。小島樹氏、瀧口喜久子、三野(鈴木)登美子2生へ返事。 5月7日 9:30出て都電にて高島屋の青木大乗展。画伯夫妻をられ「弥与子生は明日着京」と。やや話して増築の東京建物へゆけば、西川「王子英語学校主、 渡辺氏に話さん」と。出てお茶の水。満江巌『聖フランシスコ・ザビエル(30)』買ひて、加藤定雄訪へば風邪欠勤と。 小山正孝氏に電話し、東方学会へ寄り校正未だ出来ずとききて昼食。小山君に角川の知合の名ききてより、思ひつきて東京ライフ社へ寄れば「齋藤晌教授けふ駿河台」と。矢野氏の話(※矢野兼三の獄中記)すれば「原稿見てよし」と。元々社あとへゆき、しばらく待ちていつ来られるか不明とのことに名刺置き、角川へゆき齋藤和生氏に初対面。「印税10日出る」と。 矢野氏の句集預け、「志摩氏にきいて呉れ」と云ひ、至文堂へゆく途、紙入れなきに気付き、受付のお嬢さんに探してもらひ、また国鉄にて駿河台。 齋藤氏に会へ、「訴訟やっと書類出来て13日かに初公判」と。喜びて出、いやいや筑摩にゆき土井氏に会ひて転任いひ、稿料10日すぎときき「仕事与へたまへ」といひして東博氏に赤面しつつ会ひてのち、都電にて帰宅。 西宮君より「3日の2回生の会13人出席、樫本氏わが転任知りをる」と。鶴崎裕雄より「三原に出張した」と。東方学会より「23日(金)10:30~17:00霞山会館にて国際東方者会議」と。 宮崎幸三氏に電話かけて齋藤氏のこと云へば「近々会合せん」と。村松氏転任を(※東洋大学当局が)許さずと。 5月8日 村松正俊氏に電話し、短大への転任妨害されをると宮崎氏にききしをただせば、話合中と。 立教大学史学研究室より「本年度単位取得者なし」と。昼食後、十条へ岩波文庫『論語(20)』探しにゆく。 西宮一民、坪井明、石井英雄、増田春恵の諸君にハガキ。坪井明よりいれちがひに「21日上京、24,5日まで在京、会ひたし」と。硲晃氏より「藤井、羽倉2氏と会ひ、わが事案じゐしと。旅行は6月4日又は5日着京」と。 山中タヅ子生よりハガキ。根木薫生より手紙。15:00銭湯へゆかんとせしところへ坂根千鶴子来訪、「渡辺、井上、山本陽子に会ひし」と。夕食して19:00帰る。中河与一先生へ『論語』より引用して送る。 5月9日 『ラマンチャ』来り、中に三浦久子氏の手紙あり。「近々猪俣君つれて来る」と。平凡社より稿料870-130=740。寺本和代生より「中野区桜山町25山田荘に住む」と。婿養子らし。 小高根二郎君より3君の書評ぜひ書けと。出て聖心女子大。だんだん講義旨くゆく様子なり。和田先生、藤野君の死をまた説かれ、「君、いまにここでも好かれるよ」と。 大塚で一度下車、都電にて帰宅。夕食すませしあと野村朝子生来り、「televiのanouncerになれし」と。21:00すぎまで話してゆく。八木嬢より手紙。 5月10日 8:40出て成城大。暉峻康隆博士(!)と話す。「天理図書館へゆく」と。2年の中国文学聴講者20名以内とわかる。売店に『唐詩選』来り1冊呉る。 11:50出て新宿。中華そば食ひ御茶ノ水をへてbusにて東大へゆき研究室。石橋君ゐず、13:50となりて山上会議所へゆき松本善海と会ふ。辛島昇君をおぼえ、あとにて自己紹介す。東洋大学船木助教授「夜学の授業やりゐる」と。大島うそつきし也。松本善海と出てcoffeeおごってもらひ帰宅。(けふ山根君に「Aita」の抜刷6部わたせし)。 小島樹氏より礼状。防衛大学より「履歴書と研究著書論文講演目録折返し至急送れ」と。また高林生のreport送付し来る。夜入浴。 5月11日(日) 雨。角川書店より『ハイネ(※ハイネ恋愛詩集)』8版の印税14,000-2,100=11,900。 東洋文庫より東洋学講座の案内。5月21日~6月25日毎水曜日。履歴書と業績目録ペン書にし、高林生の採点Cとともに防衛大学へ速達(45)。 根木薫、山中タヅ子、渡辺三七子、安水稔和、羽田明の諸氏へハガキ。 5月12日 雨。8:30出て成城大。詩経のprint切り、富永次郎氏と高田瑞穂氏とまちがへし。龍口直太郎氏に自己紹介す。 14:30すみて帰宅。『東方学』の初校来る。9pとなりをり。羽倉裕景氏より「Aita」受取りしと。渡辺三七子より「白浜へゆく」と。鍛治初江君より「洋裁に通ふ」と。前田光子より「13日17:00勤めすまして来る。簡易保険局に勤めてゐる」と。 「青木政代、東洋Olinpicの水泳の代表となりし」と新聞にあり。『薔薇』へ「向ふ側」。寺本和代、鶴崎裕雄へ返事。『果樹園』に「東京通信」8枚。大田医院の老先生亡くなられしとて悠紀子、香奠もちゆく(500)。松ちゃん梅ちゃん京の友なり。 5月13日 晴。新聞に玉村式索道4月3日より給料不払、工場閉鎖でst.と見ゆ。高橋重臣君より「東京通信はわびしすぎてつらい」と! 12:00出て成城大学。臼井教授と話す人を松村達雄君と知り、高城助教授に紹介さす。長尾良君の友なり。 (栗山部長に防衛大学のこといへば今年は了解も不必要、来年専任となれば37,000近く貰へる筈ゆゑ、その節は兼任整理すべしと也)。 図書館の柳田文庫見せてもらひ、ethnographie(※民族誌)の本も大分あるを知りし。 詩経教へ、すみて坂本氏(※坂本浩)に『果樹園』わたして帰宅。 鈴木(山本)敬子夫人より相生通へ転居の通知と、花井彩生よりのたより見る。前田光子生19:00近くに来り、22:00近く帰りゆく。詩作りたしといふを止めよといふ。 高橋重臣、羽倉裕景、鈴木敬子、鍛治初江、花井彩の諸氏に返事。 5月14日 筑摩書房より『現代詩集』の印税21,188-税3,178-買上=16,120来る。 防衛大学渡辺氏より書類の受取。昼食後、十条へ散歩。この間見付けし春夫先生『白雲去来(70)』買ふ。83pに「この映画は一見するに足るものであったが、さらに史実を知らうとする人があったら、田中克己の『楊貴妃とクレオパトラ』が詳しい」とある也。 帰れば曽根桂子より「新宿松竹座へ出演中、22日(木)17:00来訪」と。藤井通雄氏より「北野高校教頭となった。山川信夫は高津高校長となった」と。 5月15日 島(山本)恭子夫人へ「青木政代の応援にゆけ」とハガキ。午后の便にて三浦久子君より「訪ねて良き日しらせ」と。林富士馬君より「服部女史の会やるのを出すぎとためらふ。北海道より田中克己立候補す」と。 太田陽子夫人より5月3日のclass会の写真。後藤田卓美結婚して藤堂姓となりしと。三浦氏には「土日に来れ」と返事。太田陽子、藤井通雄2氏へハガキ。 5月16日 よべ2:00までねられず。あさ日本書院より『白楽天』の校正の速達。すまして郵便局へ出しにゆき、山村生への手紙とともに出し、散髪屋にゆき、帰れば朝食いまだとりをらざるとわかる。朝食兼ねし食事し、千川より『俳句作家』に蕪村のこと多く書けるを見て、聖心女子大へゆく。 青木氏来ず、和田先生お越し。抜刷3部賜ふ。2時間目の4年生「noteやめ参考書と話とで」と。困りて和田先生に申上ぐれば「(※学生は)いろいろ云ふ」由。 都電で渋谷、先生とお別れし、大塚より林富士馬君にゆけばbeerのまさる。酔ひて帰宅。[●]の人工衛星をソ聯打上げし。 5月17日 成城大へゆく。高田瑞穂氏より国文科の会を20日(火)18:00新宿「秋田」で開くゆゑ出よと。帰り、経堂で下車、中華そばを食へば驟雨。新宿でも止まず、寄り途やめて帰宅すれば止みゐる。 島(山本)恭子夫人より「青木政代の激励承知した」と。西川英夫より「母君逝去、帰阪して坪井明に会ひ、学士会館あたりで会したし」と。聖心女子大小林氏より通勤証明書。 けふ下痢しをり。入浴す。(『東方学』の「ハルハ五部」の再校来をり、すまして王子局へ投函)。 けふ12:30ごろ服部三樹子氏来訪。「成城に電話せしにゐずと云ひし」と。 5月18日(日) 前田光子より「詩を作る」と手紙。家居せしに午すぎ寺本和代生、婿君順吉氏と来訪。「竹中KK東京出張所につとめゐる」と(日本橋小舟町1の2の15)。 けさ西川英夫君に電話し、「坪井の歓迎会は学士会館で、日はその中きめん」と。19:00三浦久子氏、猪俣君(ラマンチャ同人、早大政経)をつれて来る。同君、硲晃氏に習ひしと。22:00去る。 5月19日 成城大学へゆき、『楚辞』のprint切る。漢文早くすませ、午后文化史。すませて世田谷代田より下北沢まで歩き、小堀杏奴『回想(20)』買ふ。堀ノ内歴君より『果樹園』に入れしを喜ぶ。『Viking』を脱退せしと。『日本歌人』の例会25日(日)13:00、Hotel松平にてと。 5月20日 よべより雨。服部三樹子、堀ノ内歴、寺本順吉和代夫妻へハガキ。神田信夫君より「Aita」受取ったと。不二歌道会より「10代の文章を6,7枚、31日までに」と。 12:40家を出しに、雨やみしかば傘おきに帰りて出しに成城にてまた降りをる。松村達雄氏とまた話し、中国文学史やり詩経了ふ。丸嬢をり「用ありや」と問へば「無し」と。 土曜のためprint切り、16:30になれば高尾嬢帰りゆく。下北沢に下車して古本屋にゆきしに町中休業日なりし。「秋田」を探しまはり中華そば食ひ乍らきけば偶然近くなりし。 (※成城大学国文科の会)われを最初に齋藤清衛、栗山[理一]、池田[勉]、坂本[浩]、高田[瑞穂]5教授、山田助教授、今井、内田、野田宇太郎諸講師にて盛会。野田氏と我と話し手にまはる。「土曜13:30より詩の話せよ」と坂本氏に云はれて諾す。21:30散会。ひとり帰る。 (けふ伊藤佐喜雄の店に寄りしにまた無人なり)。 5月21日 猪俣欣也君(世田谷区給田町345伊藤方)よりこの間の礼。 午后はドンボスコ社より『しりうす』10冊(80×10+40)。1冊を坤道(旧伊藤)久子に包む。白鳥郁郎氏の教へ子なりしと也。 川久保悌郎君より「清代に於ける辺疆への罪徒配流について」の抜刷。17:30出て東洋文庫。 東洋大学の学生をり(来週水曜来ると)、藤田亮策先生の話くどかりしが欠点なりしも、宮城県や水沢に前方後円墳の大いなる(径105m)が発見されしといふをききとめし。 和田、桑田両博士お越しなれど話せず、吉田金一氏と話し、白鳥郁郎氏の本贈りて帰宅。西川に電話すれば「明日また電話せよ」と。 5月22日 神近市子(※社会党)に投票。近藤久子、今市佐恵2夫人にハガキ。川久保悌郎君へハガキと「Aita」の抜刷。千川義雄君へ『俳句作家』の礼。堀内民一君へ『奈良県観光』の礼。 15:00西川に電話すれば他出。入浴し、16:30また電話すれば「17:00坪井来社、わが家へつれ来る」と。夕食して待ちて18:00まへ来しと話す。杉浦の家教へ、19:30来し坂根、曽根桂子と入れ違ひに出てゆく。 曽根ら21:00近くまでをり、まだ舞台のこりゐると悠々と帰りゆく。 5月23日 Noteかけず11:30出て(よべ遅くまで選挙の開票ききしため眠し)、聖心女子大へゆき、会計の小林氏に礼云はんとすればsalary出てをり。 和田先生、国際学会出席のためお出であらず。青山氏に会ひて防衛大学のこといへば「秋のため早めに用意せし」と。2時限目わが身の上語り、 noteとりをつづけることとす。 疲れて渋谷で餡蜜たべ、青年座にゆきて大のこときけば「缶詰め」と。文紀堂によれば『金田一博士古稀文集』あり2,000と。1週間のとりのけたのみ、『楊貴妃とクレオパトラ(50)』みつけ『杜甫(150)』買ひ、池袋で下車。 宮崎智慧氏に25日の『日本歌人』の会に欠席ことはりて帰宅。 けふ村上新太郎氏より詩の受取来しのみ。けふ『しりうす』聖心女子大の図書館へと学生にわたせし。 5月24日 8:30出て成城大へゆき、中国文学すませ、外へ出て中国料理店で昼食(出がけに坪井に電話して「宿舎へ17:00ゆく」といひ、大に電話してそのころ来るとききし)、出れば中河与一先生に声かけらる。「長崎へ月末帰りたまふ」と。 帰りて短大の坂本浩氏訪ね『北村透谷』もらひ、13:30まで待ち、講師室へゆきしに中学の先生6人と坂本、池田のみなりし。話してタバコ切れ、 16:00出て渋谷までのbus代払へばタバコ買へざるに気づきし。 桜山町の宿にゆき10分待てばアジア大会見にゆきし坪井帰り来り、大18:00に来るまでにbeerと夕食とあつらへられ合計2,000位のおごりを兄弟で受けし。道玄坂へ案内し、喫茶して帰る。 正平来り「水曜、城平叔父上京」と。なにもかもチグハグなり。坂根千鶴子より「池袋2-1238舞台芸術学院(電97-2819)へ12:00ごろ電話せよ」と。史より「畠山氏5月末にて名古屋に転任と」と。 白鳥清先生へ『しりうす』10冊の受取。寝るところとなりて今日もらふつもりならsalaryとれしことに思ひつく。 5月25日(日) 林佳子、上野薫子2生、大島よりヱハガキ「アジア大会見に来し」と。 坪井12:30の特急で帰りしならん、情なし。終日家居、依子午后より出てゆき21:00ごろ帰来。 5月26日 晴。成城大へゆき、漢文教へしあと、服部三樹子氏より電話「駅前にゐる」とのことに、正門で待ちしも来ず、駅にゆきて探せしも見つからず、rice-curry食ふところへ来り「教へられし道ちがひし」と。 山川京子氏につれゆき12:30より東洋文化史教へ、中国文学史のprint切り了へしところへ再来。つれて栗山理一氏を訪ぬれば「新宿のおでんやにて働かずや」と。つれ出して下北沢で別れ、古本屋見て中村亮平『東洋美術の知識 上・下(100)』買ひて帰宅。 けふsalary貰ひし也。渡辺三七子より「京大英文生と婚約せん。隣家にして何もかも承知」と。宜しからん。 林富士馬氏より、三島由紀夫の悪口なりし故『果樹園』へ送稿せざりしと。浜谷弘子より「Asia大会へ招待する故27日夜、山本恭子へ電話せよ」と。 八木嬢より「就職」と「就任」と統一せばいかんと。『近畿民俗23』を沢田四郎作博士より。 5月27日 林富士馬、畠山六右衛門2氏へハガキ。東洋大学大野より手紙。「依願退職としたいが辞表提出なきため困る云々」。 学芸手帖改題『民間伝承』。12:00出て巣鴨で龍山義亮とのりあはす、ふしぎ。 新宿より宮崎幸三氏に電話すれば会ひたしと(けふ悠紀子、私立学校共済組合にゆきしに114,480支払は厚生年金の手続ある宮崎、小沢と我3人のみにて1週間おくれると)。 ゆきて『李白』のprint切り、中国文学史すまし、松村達雄君待ちしもおくれし故、出てbusにて三軒茶屋。世田谷新町の宮崎氏訪ぬれば「齋藤氏に一度、会を主催せよと云へ」と。世話人は野尻、小室2君がやると。 出て駒沢の古本屋にて『楊貴妃とクレオパトラ』見つけ「著者なり」と云へば65円を50円にまけてくれし。 渋谷をへて高円寺。すし食って三和荘にゆけば正平のみをり、参考書2冊与へ、城平叔父へ鋼治君についての坪井の話を手紙とし、出てbusにて新宿。 山本恭子に電話せしに不在。畑山博氏に電話せしに不在。(玉電にて三軒茶屋より西島寿一と乗合せし)。 帰れば留守中、千草来りしと。楳垣教授より「金田一論集注文する」と。 5月28日 齋藤晌、八木嬢2氏へ手紙。島恭子夫人へ電話「Asia大会招待は好意謝するも忙し」といふ。 杉浦美知子氏へ手紙。ドン・ボスコ社へ840(『しりうす』10冊代)送ると。みな悠紀子に托す。 『古今評論』来り、吉田東洲、沢田四郎作2氏に礼状。悠紀子帰り来りしあと、堀多恵子夫人に電話すれば「多摩墓地にゆかれし」と。調べしに(※堀辰雄)命日なりし! 大野教務課長に「辞表呈出の要なからん」と返事。『民間伝承』の礼を戸田謙介氏に。 17:00夕食せんとせしところへ増村、安部、杉田の東洋大学東洋史学科3人来る。東洋文庫へゆけず話し、『朝鮮史講座』の返却をたのむ。 20:00出でゆきしあと畑山博君訪ねんとすればtobacco忘れあり、駅まで追ひゆきて増村生見つけ返せば前田光子「詩を見てくれ」と。断りて21:10帰らしむ。 けふ至文堂の黒河内氏に電話して亀井勝一郎より(※東洋思想講座への原稿依頼の件)話きかざることわかる。早く交渉せよと云ひやる。 5月29日 10:00出て大塚より林富士馬dr.訪ね、大病院へ勤務の意あることを知る。ただし一般に安く、労多しと也。『Sirius』1冊おき、立教大学へゆけば研究室に手塚教授不在。まづ会計にて5月分もらひ、手塚氏に会ひ、昼食注文せしあと、佐々木喜市教授に電話かけてもらひ挨拶にゆく。すみて研究室に帰り昼食。 会議中の白鳥先生待ち(手塚氏に『Sirius』1冊贈る)、挨拶し、ともに池袋駅まで歩き、「明日、大に会はば云々」と申上ぐ。 帰り大塚駅より堀夫人に電話せしにまた他出。帰宅して服部三樹子氏より「27日林dr.訪ひし云々」とのたより見、伊藤久子より『Sirius』の受取を見る。篠田統博士より「続小豆雑煮」の抜刷。堀夫人へハガキ書く。入浴。けふ暑し。 5月30日 晴。暑し。11:00前田光子生より手紙と原稿。今市佐恵夫人より血液1/2失ひしも回復したと。11:30出て雅荘に電話せしに話中。渋谷でかかり、きけば大「この間、坪井を見送りにゆかざりし」と。「televi、radioともに連続物ばかり註文さる」と。15:00すぎ青年座へゆくと云ひ聖心女子大。 和田先生お越し、「鴆毒とは何か」の御質問に弱りし。すみて先生と共に下通へ出、渋谷でお別れして青年座にゆく途、白鳥清先生にお会ひす。夏殷周抹殺論ドイツで本になるとて500Markを受けらると。 Ice-creamいただき乍らお話承り、青年座の女性に『楊貴妃とクレオパトラ』と『しりうす』托し(白鳥先生に伊藤久子(※郁郎教へ子)の手 紙およみし、7月1日の郁郎君命日に出版記念会開催につき手塚教授(※手塚隆義ではなく序文を書いた手塚富雄)と相談することお引受す)、文紀堂にゆけば「楳垣教授に(※『金田一博士古稀文集』)送りし」と。 宮益坂へゆけば芳賀檀氏に遇ふ。ふしぎ。立話し『不二』の原稿ことはりを鈴木正男君にいひ、都電にて秋葉原(長沢規矩也『支那文芸史概説(50)』渋谷にて買ふ)。 川久保悌郎より「この間東京へ来し」と(白鳥先生よりききありし)。伝田雅子より『足音4』、謄写版となりし。篠田博士へ礼状。 5月31日 成城大へゆき坂本浩氏へと給仕に『果樹園』わたし、講師室にゆけば「浜谷生より電話ありし」と。こちらより掛ければ「12:00前来る」と。 4大学の会するとのprint見しに会計委員に生悦住生の名あり(成城・成蹊・武蔵・学習院が4大学なり)。 「李白」了へて浜谷生待ち、12:00に来しと成城園にて冷そば食ひ、春の旅行のcolour-film見る。「十時生も上京中」と。10月結婚して来るときき千歳船橋で下車すると別れ、われは小高根太郎。 借りし本2冊返却し海苔贈る。14:00出て帰宅。 暑きゆゑ入浴。『不二』来り、小島樹氏より写真封入し「秦代は1年365日か」と! 硲晃君より「4日16:00新宿着、本郷弓町1-8朝陽館に入る」と(電小石川2892,3643)。 6月1日(日) 悠紀子、就職のため出てゆく。依子、深大寺へとゆく。少女2名も出しあと手塚富雄氏に郁郎君同級生紹介せよとハガキ同封の手紙かく(速達)。 堀多恵子夫人よりお墓は多摩墓地12区3側と。あかね書房より823-123=700。beerもちて飲みにゆかんと畑山博氏へ電話かけしめしに「修学旅行にゆきし」と。 6月2日 悠紀子、就職のため出てゆく。8:20出て靴みがかせ時間早きため世田谷中原で下車、梅ヶ丘まで歩きてのち登校。漢文早くやめ高橋邦太郎氏に自己紹介してSmatraの話す。わが自動車事故知りをられたり。「船越章とはSaigon局長にて知る」と。 東洋文化史やりて退出。経堂で下車。鈴木正四『インド兵の反乱(40)』買ひ、東北沢でまた下車。「遊仙窟」さがせしも見つからず。新宿で下車。 また見つからず野尻抱影『星まんだら(20)』買ひて帰宅。〒なく悠紀子の職もなかりしと也。 6月3日 寒し。シャツ、ズボンかへしところへ千草来り、「日生の勧誘員になる故、保証人になれ。印鑑証明書もほし」と也。悠紀子には了解ずみなりしはふしぎ。印おいて成城大学。 元気なき講義し、松村達雄君のすむを待てば、帰室ただちに鞄盗まれゐしと云ひ、高尾給仕泣く。本のみ入りゐしも見かけよき鞄なりし。教頭に届けさし、出て紅茶ご馳走となり、興地実英教授の家に入りゐしとて、思出話す。 帰りて千草の件咎むれば悠紀子ふくれる。上野薫子、八木嬢2氏にハガキ。 6月4日 曇。齋藤晌氏より「小室、宮崎、野尻3氏に会ひたく世話せよ」と也!宮崎氏に電話すれば「小室氏に会ひて相談せよ」と! 15:00郵便、布施税務署の呼出しなど見て国鉄にてお茶の水。明大大学院へゆき見れば「小室氏休み」と!加藤定雄のぞき見れば不在。 Riesenberg『太平洋史(150)』、『蒙古土産(100)』、『韃靼一千年史(150)』、『梅花一両枝(20)』など買ひ「遊仙窟」さがせども見つからず。朝陽館に電話かけしにかからず、雨中をゆけば未着と。ややしばは待合室にてまちしあと一旦帰宅。 夕食すませ朝陽館に電話し硲晃君にゆくと云ひ『蒙古土産』『太平洋民族史』『清代塩政の研究』を土産としてゆけば堀敏一君在席、同級と。心配を謝し、出て西川に寄りしに在宅。ともに古本屋見て今関天彭『中国文化入門(40)』買ふ。愚著なり。 宮崎氏に電話して「明朝小室君を訪ねる」と云ふ。(西川に「渡辺英語学校校主恐縮しゐる」ときく。中央大学出の弁護士と)。(けふ一誠堂で天理図書館の上野に会ひし「仙田とともに図書館会議に来し」と)。 6月5日 8:30家を出て西荻窪の小室家へゆけば在宅、「昨日も明大にゐし」と。いろいろ話して17日夕に会することときめ、宮崎氏に電話かける。そのあと吉祥寺へゆき杉浦夫人訪ねしに銀行へゆくところと。ともに出て森良雄に紹介す。増改築に70万円の予算なりしこと、その他わかる。 国鉄内、話しながらゆけば前にゐし学生、市ヶ谷で降りがけ紙わたし「失礼ですが前のボタンに御注意願ひます」とあり赤面す。神田で別れて帰宅。 『文芸地帯』の尾上欣一より云々。午后の便にて『文芸日本』。ねむきところへ正平来り、「この間、田中勤氏を2人して訪ねし」と。夕食すすめしもきかず。送り出して入浴。 6月6日 朝の〒来らず。11:30出て聖心女子大。海老沢氏に久しぶりに会ひ和田先生の「達延汗について」の校正見す。やがて先生お越し「Xavierはサビエル」と。2時間すませて先生と渋谷へ出、経堂行のbusにも御同車。われは赤堤一丁目で下車。野尻貞雄氏訪ね、夫人に「19日(木)夕方、会してよきや返事またききに来る」と云ひて経堂へ出て帰る。 手塚富雄教授より「郁郎君の卒業年次わからず、東大の日本独文学会にゆきてたづねよ」と。小高根二郎君より印刷所の主人死亡で『果樹園29』おくれしと。(けふ和田先生の学生に13日は休業ときく)。 6月7日 成城大へゆき話す。すみて成城園で中華そば食ひ、白鳥夫人に電話すれば「夕方もう一度かけよ」と。金子薫園夫人の葬式にゆくと也。一旦帰宅。 立教大学より「19日(木)16:00よりタッカーHall教授室にて、大学院文学研究科教授学生の懇談会に出よ」とのハガキ。千川義雄より『俳句作家』2冊送ったとのハガキ見、夕食後、白鳥家へ電話すれば「来よ」と。 19:00すぎゆきて任すとのこときき、ともに橋口倫介邸(上智大助教授)へゆき紹介受く。西洋史出にて学習院の親友と。昭和女子大、東大独文の連絡われに任すと也。 21:00出て祐天寺より帰宅。留守中、畑山博氏来訪。「明日一日在宅」と也。 6月8日(日) 久しぶりに雨。東洋大学大野文吉より「辞表の代りにこの間のハガキを用ゐる」と。野尻貞雄氏より「19日の夕方の都合よろし」と。東洋史談話会「14日(土)14:00より」と。 畑山博氏へbeer1本もちゆき碁打つ。「赤羽中学へ英語教へに来ぬか」と。Beerのみ最中もらひて帰り来る。 渡辺三七子よりわが手紙よみしと。齋藤晌氏へ「19日都合よろしきや否や」問合せ書く。 6月9日 朝、雨。成城大へとゆき高橋邦太郎氏と話す。Medanの地図見たき様子なり。文化史出席の連中にきき見れば、2年で専攻必修ゆゑ聴講card出さずと。 すみて高橋氏と駅までゆき、別れて三宿までbus。昭和女子大へゆき人見翁(※人見東明)に面会もとめ、白鳥郁郎君の話すれば「きれいな人でした」とのことなり。 「会合にここ使用して良し」と云はれ、一応留保し、『しりうす』差上げて出、渋谷をへて帰宅。 『歴史教育』と抜刷(※「白居易とその時代」)、『果樹園29』来をり。悠紀子、けふ史へ奨学金手続に必要な書類送る。郵便の袋しらべる中、八木嬢よりの「書類少しおくれる」のハガキ入りをりし。ふしぎ。村松正俊氏へ『果樹園』と「白居易」(※抜刷)とを包む。 6月10日 晴。10:00畑山夫人来訪。「知合の家の英語の教師にゆかずや」と。「ゆく」と答へしあと帰りたまふ。 成城大学にゆきprint切る。けふはbonus出、高尾嬢「5,000もらひし」と喜びゐし。 『果樹園』を池田、高田2教授にくばり、「白居易」を栗山、池田の2教授にくばる(村松正俊氏にも送りし)。 帰りて河野岑夫より「協和銀行大阪支店に転勤」と。入浴、散髪し、鐵屋の大野氏(※畑山夫人知合の家)へ19:30ゆき、大泉高校の女子英語の先生の帰りしあと高3女子2名、高2女史1名、中3男子1名の家庭教師となり、21:00まで話せしあと、帰る途中、畑山夫人に電話す。「博校長、東洋大学の評議員会に出しと。明日新潟に出張」と。 6月11日 眠きも9:30出て東大独文研究室にゆき、伊藤利男助手に面会し、白鳥郁郎君の同窓たづぬれば「是枝達郎(鹿児島大)、永戸一朗と3人のみの昭和20年9月卒業にて2同窓とは連絡なし」と。上下への連絡たのみ、東洋史研究室のぞけば南方史研究会を開催中らしうかりし。 西島助教授と話し、「白居易」贈りて出、加藤俊彦君のぞけば「忙し」と。「堀夫人来週月曜軽井沢へゆく」と。 赤門前にて『米国東亜侵寇史(30)』買ひて帰宅。服部三樹子氏より「浅野晃氏につれてゆけ」と。 私立学校共済組合より11万円余、歴史教育社より1,770-266=1,504来をり。 小高根二郎君へハガキ。硲晃君より礼状。畠山六右衛門氏より「熱田に転居、大東魚類KK常務」と。 雨中19:00出て大野家へゆき4人を教ふ。吉川幸次郎『陶淵明伝』買ひ、葡萄酒買ふ。橋口倫介氏に電話かけ「明日15:00すぎ白百合へゆく」と約束す。 けふ京、林dr.へ眼の治療にゆく。当分毎日来よとのこと也しと。 6月12日 服部三樹子氏へ「ひとりで訪はれてよし」とハガキ。新田晃子生へ「果樹園社を小生気付にするな」とハガキ。日本書院へ(※「白居易」)受取。 悠紀子、丸ノ内へ就職の面接にゆく。午后、井上靖氏より『詩集北国』の特製本。 13:30出て角川書店へ寄りしに志摩、齋藤2氏とも不在。名刺に返事せよと書きておき、時間あまりて靖国神社境内にをり、15:00白百合学園へゆきしに待たされ、橋口氏20分して出て来しを待ち、喫茶店にて相談。四谷のDon Bosco社売店へゆき5冊買ひ、まだいくらも売るときく。安心して上智大学にゆき白鳥夫人に電話してもらひ、「7月5日(土)昭和女子大にてはいかに」と問合せ、「清先生と相談の上にて」といふことになり、4冊を橋口氏に贈り、「明日12:15上智大に参る」といひて別る。 帰れば坂根生待ちをり、八木さんより履歴書1通打ってもらひしと。齋藤先生より「19日18:00学士会館にて」の返事。涌井千恵子より「10月修学旅行の時会ひたし」との手紙来りをり。 けふ依子の蔭口を悠紀子われに伝へ不快なりし。 6月13日 起きて『果樹園』に鴎外研究断念記7枚かく。京の画どこやらに入選せしと。白鳥先生に電話し「昭和女子大にて土曜にて承知」ときき、『果樹園』へ速達。八木さんへ礼状。齋藤、宮崎、小室、野尻4氏へ「19日(木)18:00一ツ橋の学士会館集合」のハガキ書き、 火の会より日本浪曼派云々のenquêteに「作品は伊藤佐喜雄の「花の宴」」とのみ答へ11:30出て上智大学。橋口氏に案内書原稿検してもらひ、『しりうす』を先づ送ることを白鳥家に話してもらふこととし、渋谷にゆき東横dept.にて新本展を見、河村敬吉の『鴎外論(60)』買ひ、玉電三宿で下車。 昭和女子大に人見翁訪ねまいらせれば「10分ひまあり」と。「7月5日(土)温考館で」ときめ、『悲歌』1冊贈呈して出る。 三軒茶屋まで歩き大きな古本屋あるを見、池田勉『森鴎外(30)』買ひて疲れつつ帰宅。 悠紀子、畑山家へゆきをり帰り来て「そして気にやまずともよし」と云はれしと。畑山氏越後湯沢より帰りゐしと。 夜、橋口氏に電話し、坂本由五郎氏(昭和女子大)を発起人に加へると承知してもらひ、印刷をtypeにせん、その印刷屋紹介をたのむ。悠紀子、京の治療に夕方より林dr.。 6月14日 成城大学へ出講。暉峻博士欠講とて話相手なし。高尾女も欠勤。午食を成城園で食ひ、小高根太郎君を訪ふ。話すこともなし。 出て下北沢下車。古本屋まはり歩きしも何もなく15:30帰宅。 村松正俊氏より「一度会ひたし」と。立教大学より「写真と調書出せ」と。田中正平より木曜来ざりしことはり。 けふ悠紀子、依子の時計買ひに十合へゆき齋田君(※斎田昭吉)に会ひ、昌三叔父重役になりしとききしと。 6月15日(日) 依子級友と会ひにゆく。悠紀子2児をつれて阿佐谷へゆく。伊藤利男助手より白鳥郁郎君の同級の報告。 小高根二郎君より『果樹園』のこと『中央公論7月号』にのすと。宮崎教授より「19日の会承知した」と。 帰りし悠紀子にきけば「数男の妻、尚子の実践女子の友、村松夫人」と。 夜、橋口氏に電話かければ「印刷屋と連絡とれざりし」と。『中央公論』見にゆきしにわが「東京通信」をのす。 6月16日 成城大へ出講。午まへ高橋邦太郎氏にMedanとSaigonの地図貸す。中国文学史のprint切りしあと、昨夜少眠の疲れ出て、東洋文化史短めに切りて家にまっすぐ帰る。 城平叔父より礼状。曽根桂子生より「9月の公演に来る」と。岩田生より「45万円の慰藉料払ひし」と。 『バルカノン』編集部より「日本浪曼派についての回顧を400×3以内で」と。 夜、橋口氏に電話し、「あす案内の原稿速達す」といふ。田中正平に「今週木曜不在」をハガキ。 けふ悠紀子、京の授業参観にゆき松井先生より「京5二人、4+一人の4の下の方」ときかされしと。 6月17日 涌井千恵子、曽根桂子2生へハガキ。橋口氏へ速達出し、岩田生へ祝ひ云ひて、三島一教授還暦記念会の受取見て東大独文研究室へゆけば伊藤助手不在。置手紙し『しりうす』置きて駒込より成城大学。 宮本和吉学長に池田勉氏より紹介受け、土井光知先生を見しも紹介されず。松村達雄氏に『ある日本人』第一部貸す。尚子は夫人の友達ではなきらしき。 中国文学史すませ、庶務へゆき定期の購入書もらひ、家まで直行。 『詩人連邦』来り、月原橙一郎書きゐし。夜、(※家庭教師)大野家へゆけば雨降り来り、鈴木坊主来らず、傘借りて帰宅。 6月18日 村松正俊氏へ「近々会はう」とハガキ。『バルカノン』へ「日本浪曼派についての追憶」6枚。 成城大学より「23日~28日まで文3A、4A休め」と。藤田幸子より「田中雅子訪ねた」と。 11:30訪ひしは青木秀樹。悠紀子の世話にて柏井の家庭教師となるとて昼食くひてゆく。何やら生意気なのが憎し。 午后、吉田東洲氏より『燃ゆる神曲』贈らる。夕方、雨中を悠紀子、林dr.へ京つれゆきしあと、出んとせしところへ渡辺道夫君来り「鳥山喜一氏にたのみゐる」と。図書館長にて鈴木俊氏へ履歴書たのみもらひしと『高麗史』貸せとなり、貸してのち大野家へゆき英語教ふ。 藤田幸子夫人に返事。「その中訪ねる」と。 6月19日 朝、〒なし。12:30出て林富士馬氏訪ぬれば「太宰治忌にゆかれし」と。 池袋三越にゆき、川柳展を見、立教大学へゆけば14:30。手塚氏に会ひ「のちほど再来」を云ひ、 『中央公論』7月号買ひice-cream食べ、15:40また立教。16:30やっと会はじまり、白鳥先生も来らる。わが家に『しりうす』30冊送りたまひしと。 17:15先づ出んとすれば、追ひ来て話ききたしと神学の先生。「来週木曜に」と云ひて出、中央線にて野原四郎氏に声かけらる。 学士会館へ18:00丁度に着けば、宮崎、齋藤の2氏待たれ、野尻氏来り、小室氏来らず。(宮崎氏に「我も一度ゆくか、齋藤氏に直接云はすべきだった」と注意さる)。Coffeeのみてそのまま話しあひ、20:00になりて近くのそば屋へゆき、出て宮崎氏と別れ、3人にて新宿までtaxi。そのあと野尻氏と話して22:30帰宅。 新田晃子生よりハガキ。正平けふ来て「もう来ず」といひし。 6月20日 起床9:00。朝食後note造り、了へて昼食し、立教大学より「25日(水)15:00史学談話会」の案内を見て、聖心女子大。 和田先生来られ「至文堂の講座、亀井勝一に書かすつもり」と。そこへ小林氏。6、7の2ヶ月分の給料4,700をもち来り玉ふ。 2時間教へ「卒業論文に元の大都のことかく」といふ学生に参考書問はれ、来週教へるといひて先生と渋谷まで同行。お別れして餡蜜食べ古本屋にゆきしに定休。 池袋で下車。川柳展にまたゆき『末摘花詳釈拾遺篇』買ひ、busにて帰宅。 太田常蔵君よりHallの『東南アジア史』を東洋大学へ持参せんかと。橋口氏に電話かけ『Sirius』30冊来をり明日発送のため伺ふときめる(14:00)。 6月21日 成城大学へゆく。すみて2人『蜘蛛』同人と云ひて来る。1人は相馬弘とて詩人、いま1人は名を忘る。 12:00まへ暉峻博士とsalaryもらひにゆく。定期証明書にけちつけられし。 冷し中華そば食べbusにて渋谷。東横dept.で封筒さがせしもなく、祐天寺にて2軒歩き2種買ふ。そのまへハガキ30枚買ひ、のり買ひして用すみ、橋口倫介氏と発送手続し、この間買ひし詩集代を寄付し、中目黒へゆき、郵便局にて発送すます。 渋谷へ出て全線座で「母と娘」といふ映画見ればまじめなる性教育映画なりし。すみて帰宅。タバコ買へば金なくなりをり。 けふ橋口氏より『上智大学』1,2もらひ、家に『Biblia』10来をり、半田元夫『キリスト教史』買ひし。 井上幸子より手紙。けふ依子、高野明子夫人訪ねしに、夫君入院のため不在なりしと。夜半姉君に見舞と問合せ状かく。 6月22日(日) 増田清秀氏(大阪学芸大)より『清商曲の源流と呉歌西曲の伝唱』『隋唐における古典の伝唱』(※紀要抜刷)布施局より転送、礼状かく。井上幸子へハガキ。 15:00畑山博氏訪ね、大野家の報告す。29日東洋大学理事評議員の改選と。碁3番打ち、beer1杯よばれて帰る。 青木のみさ子来り、兄の柏井家庭教師延期となりしといふ。大野家のマサ子君来り、試験問題集買ってくれと500預けゆく。 6月23日 成城大学へ出講。元学長山崎氏(※山崎匡輔)と話す。文部次官、東大教授なりしと。 文化史courseの女生「木曜16:30より大藤氏ら教官と学生との懇談会に出るや」ときく。「出る」と答へし。 経堂下車。旺文社『英文標準問題精講(120)』3冊買ふ。 中野清見より「ひまで困る。夏に江刈へ来ぬか」と手紙。呉市笹本毅氏より『バルカノン』の原稿受取。『山の樹3』来をり。 京、久しぶりに林dr.へゆく。「患者来をりし」と、めでたし。夜、中野清見に「行かず」の返事。 6月24日 伊藤利男氏より出席したく案内を乞ふとの(※白鳥郁郎の)友2人のしらせ賜はる。橋口倫介氏に転送。 西川英夫より「鎌田正美日本銀行福岡支店長に栄転につき、土曜16:30より送別会を学士会館です」と。 夕方入浴。19:00出て大野家。参考書わたし教へて出れば4,300呉る。海老沢有道『南蛮文化』買ふ。 (前田光子より「父に呼ばれて帰郷す」と、めでたし)。伊藤利男氏に礼状。 6月25日 小島樹氏より『司馬遷』返却。野村朝子より「まだ東京にゐる」と。平凡社より『世界百科事典』に李自成、李善長、李之藻を書けと(8月31日まで)。野村朝子へ「また来よ」と。 夕方、Poppe教授(※ニコラス・ポッペ)の講演を東洋文庫にききにゆかんとせしが果たさず、19:30鈴木生のため『中学生の英語(130)』買ひて大野家にゆく。鈴木生全くできず。『山の樹』の受取かく。 6月26日 小室栄一氏に19日の会合の報告。立教大学へ12:00ゆき手塚氏に会ひ『史苑』もらひ、白鳥先生喜ばる様子をきき、会計でsalaryもらひ、庶務課に書類わたし、中沢氏を13:00まで待ち、会へば「図書館のBibleの整理に立ち会へ」と。承知して来週火曜ときめ、出て成城大学。 栗山部長に会へば「服部三樹子氏、料理屋に口できてゆきし」と。16:00よりの会といふに山川京子氏に会ひにゆけば「岩崎昭弥、一昨日と昨日と上京せし」と。 「7月13日(日)13:00杉並公民館の『桃』の会に出る」といひ、氷たべて図書館長室にゆき、鎌田女史(宮本馨太郎氏よく知ると)(※鎌田久子。のちに同僚となる。)、今井富士雄氏(小高根太郎と教学練成所の同僚と)、大藤時彦氏(※オオトウ)に紹介され、竹岡勝也先生とともに案内されて料理屋にゆき、池内彌(ワタル)講師と教師5人。学生8人(女生4人)の会。なかなかに家庭的でよろしく、20:00すみて帰宅。 坂根千鶴子待ちをりし。正平またも来て「5月帰阪」と。 けふ夏の鳥打帽を東急dept.で買ひ(200)、浅野建夫より『Q式血液型』もらひ、『明代満蒙史料10』もらひ、八木嬢より『Biblia』の原稿で忙しかりし。高野君入院は知らざりしと手紙もらひし。 6月27日 晴。暑し。小島樹氏より礼状。11:40出て聖心女子大。久しぶりに青山定雄氏に会ひ防衛大学のこと云へば「自分はやめる。後任もみつかる予定」と。 和田先生お越し、「Poppe教授は61才、明代Mongolsのhero詩がBuriatにもXalxaにもありとの話なりしが、途中眠りし」 と。 教へにゆけば「先生、話!」の声あがり、話して早くやめ、教授室に帰り湯沸しのこんろをこはし、方々に報告廻る。2時間目、あはてて葡萄牙語よりの日本語の話し『蒙古史雑考』と『東亜論叢3』とを某生に貸し、和田先生を待たずに出て広尾橋に出、都電にて信濃町。大塚よりまた都電にて帰宅。 宮口時喜子より「藤本姓となり甲陽園に住む」と。 このごろ頭悪く失敗多し。依子、けふ高野明子夫人より電話あり「勝美氏扁桃腺炎の手術なりし」と。ばからし。 6月28日 八木嬢へわび状。東大文学部へ受領書。成城大へゆき最後の時間は切上げが例ときく。 すみて成城園へそば食ひにゆけば、少孩「このおぢーちゃん長い顔」といひし。 出て小高根家。今井富士雄氏のこと云へば「知ってをる」と。碁うち互先で一勝一敗。 14:00出て帰宅。暑き日ゆゑ入浴。近藤久子夫人「転居した。物贈る」と。菊地成子より「帝塚山へ帰ってくればよいにと研究室でいふ」と。佐野利一夫人より礼状と。同後援会より「12万3千円集った」と報告。 16:00出て巣鴨をへて学士会館。西川来られざりしと。丸より出ろとすすめられしと来し竹井眞君をいれて鎌田、谷口、原田、室、加藤、矢野、高垣と我にて9人。Beerのみ会費払ふとなりて、我のみ不要と原田がいひ、43のみ払はされし。そのあと神田の喫茶店にゆき、原田とtaxiにて秋葉原。21:00帰宅。 けふ32度を越す暑さなりし。依子、高野家へゆきしと。21:30帰り来る。 6月29日(日) 近藤久子夫人より檳榔団扇3枚とこけし人形贈らる。東洋大学秘書課より「依願退職を命ず」と「手当出すにつきとりに来れ」と。畑山氏にゆき礼云ひ、碁一番うちて帰り来る。 風吹き乾燥し、土埃ひどし。近藤久子、菊地成子、藤本時喜子3生へハガキ。浅野建夫君へ出版の祝詞。 15:00都電にてはじめて赤羽にゆき、『文芸春秋6月号(40)』買ひ、東十条まで乗りて歩きて帰る。 古物屋できけば「本棚即日売れし」と。平凡社へ「李自成」「李之藻」諾と返事(8月31日迄)。 6月30日 8:30出て成城大学。宮崎氏に電話すれば「外出」と。漢文教へまた電話して「15:00ゆく」といひ、高橋邦太郎氏の昼食のともせんと思ひしに「食はず」と。 我のみ出てそば食ひ、中国文学史のprint切り、東洋文化史の時間には7人相手にFolk-loreの外縁を説明し、これにて了りといへば、相馬弘来り話すうち、山崎前学長来り「追分の寮へゆけ」と。 出てbusにて三軒茶屋。駒沢よりまたbusにのり宮崎氏に会ひ、退職手当みなもらひしをきき、Danteの本を蒐集せし大場氏の話きき、『プラトン哲学』いただき、中央公論社牛島軍平氏への紹介状もらふ。(矢野兼三氏に電話かけしに夫人わからずと)。 帰れば三田村泰助氏より抜刷4種。渡辺三七子より手紙。『東洋史研究17の1(欠430円と)』。 夕食後、橋口倫介氏に電話してきけば「出席の返事23枚」と。 7月1日 三田村泰助氏、渡辺三七子へハガキ。10:30立教へゆき中沢教授を図書館に訪ね、聖書類を書庫に検す。端本その他にて同氏の「中華訳聖書の訳が日本訳」との言をききしのみ。 出て駅前でrice-curry食ひ(Handkerchief忘れて出しゆゑ40で買ひし)、渋谷をへて三宿の昭和女子大。 人見先生に食堂まで同行たまひ、5日25人200円づつの用意たのむ。 出てbusにて農大前下車。大江房子不在。姐やに叔母の見舞たのみ、矢野家。兼三閣下御在宅。中央公論は前に話せしと。いま3月内にとの話ありと。 出てまたbusにて成城大学。松村君『ある日本人』よみしと。中国文学史了へれば短大2年、試験のこときく。「北海道旅行より帰りて3日目につき止めよ」と云ふがあり、不快。まっすぐに帰宅。 森本ヤス子氏より『虹夫人』来りしのみ。夜、大野家。姉妹のみなりし。姉「東京女子大と日本女子大とを受験す」と。 7月2日 大阪東大clubより「本日会する」との案内。転居届す。 13:00東洋大学。曙町で東洋史3年生の1人に会ふ。いまより船木勝馬君の演習と。秘書課へゆけば「会計へゆけ」と。ゆけば「1年ゆゑ1万円」と。 三浦嬢に私立学校共済組合の立替金わたし、「Angin」でcoffeeおごり、(この間、結核の疑で2週間休みしと)、都電にて三崎町。大安にて『三曹詩選(90)』、『李白詩論及其他(85)』、『白居易伝論(110)』買ひ、小山正孝氏訪ねしに不在。『毛沢東(20)』、『忠王李秀成(20)』を波木井で買ひ、蓮田善明『忠誠心とみやび(10)』買ひて東京駅。西川訪ひしに不在とてice-creamたべて帰宅。 大阪より転送の印刷物のみ見て19:00となり、出て畑山博氏に電話すれば不在。夫人に1万円もらひしてと告げ大野家。姉娘遠足にて疲れしと。鈴木生また来ず。21:00まで教ふることなく退屈して帰る。 成城大学より速達「中国文学史の試験問題を15日までに示せ」と。小高根太郎より借りしApollinaireを訳す。 7月3日 森本ヤス子氏へ『虹夫人』の礼。神田信夫氏より『清初の貝勒について』の抜刷。その礼状すぐ書く。東洋史研究会へ1,000送金。 午后散髪、入浴。林dr.に電話すれば「来てよし」と。『Q式血液型』もちてゆきbeerのまされ『果樹園』来をるを見て出、池袋にてうなぎ丼食ひ、新宿よりbusにて高円寺。 正平をり、呼び出してすし食はせbeerのませ駅近くにて丸に電話すれば「来てよし」と。近くまで送られ、丸家へゆけば「夫人、長男の転地にゆき、長女basketの試合より帰らず」と。 21:00になり中野まで歩き国鉄にのりて帰宅。橋口倫介氏より速達来をり、電話かけて「30人近くの出席者なら心配いらず」といひてすむ。 7月4日 立教大学、菅文学部長円吉氏より「聴講者なきゆゑ前期のみにて俸給とりやめる」と。『果樹園』30号来る。成城大学短大へ「試験問題を火曜にもってゆく」と速達。 午后の便にて大江房子より「仲人してゐる。お艶叔母だいぶ宜し。小学校休みには子らつれてゆく」と。 7月5日 『ラマンチャ』を三浦久子氏より。『文芸日本』7月号。三浦氏の手紙はさみあり。扇子を東洋大学会計課に忘れしらし。 11:30昭和女子大へゆき(途中、三宿の古本屋にてウィンステット『マレーの歴史自然文化(30)』、『ソロモン群島滞在記(30)』、『文芸春秋7月号(30)』買ひして)、温考館にて13:20まで待てば、橋口倫介氏未着。 14:30より始まりし会(※白鳥郁郎遺稿詩集『しりうす』出版記念会)に25名?われ母上の前にその詩の異例なるを云ふ。 すみて立替金700返却を受け、三軒茶屋より帰り来る。山本書店の目録来ありしのみ。 7月6日(日) けふ又雨。水饑饉解消? 〒なし。 午后、畑山氏にゆき碁打つ。1万円は小野専務理事のせいかと。帰途、瀧野川、板橋を歩きまはり疲る。 依子、よべ鎌倉へ組合学校とかにて泊る。 7月7日 成城大学へ登校。短大1年の漢文教へ11:00まへに了り、前学長山崎氏と話す。桐生の人と。高橋邦太郎、富永次郎の2氏も来る。すみて教務の女史に教科書のこと試験のことと云ふ。(『果樹園30』を池田、坂本2氏に配り、今井富士雄氏にも渡せし)。 経堂下車。野尻貞雄氏訪ねしに前都立大学長の葬儀にゆきしとて留守。駅前にて氷水のみて帰宅。 森本ヤス子『虹夫人』の出版記念会を14日(月)18:00、Station Hotelにてとの案内と、田中静子とて洋子司書の母より「娘のこと相談したし」と云ひ来る(火、水の夜、日曜だめと云ひやる)。 午后の便にて前田光子より「東京医大病院に入院の友に付添ひゐる」と。夜、アポリネール訳了。 夜半、天理へゆきしゆめ見て覚む。八木、前川、仙田、富永、増野みなありありと出て来し。 八木さんへ手紙かく。13:30。 7月8日 大江房子より暑中見舞。渡辺三七子より「大阪雨つづき」と。『民間伝承7月号』。文芸日本社へ出席の返事。大江房子へハガキ。悠紀子をやりて池袋三越より和田先生にお中元送らしむ。 午后、千草来り、大野夫人お中元賜ふ。夜、ゆきしに「鈴木生、母子呼びをる」と云ひしも来ず。マサ子君、英語とりわけ悪く同級の中以下と。 7月9日 〒印刷物と布施税務署の呼出しのみ。太田静子『斜陽日記』といふをよむ。33才の出もどりなりし。 武田豊氏へ小林英俊の見舞かく。夜、大野氏へゆく。鈴木生また来らず。 7月10日 白鳥夫人の筆にて清先生の礼状。田中静子、前田光子、坂根千鶴子みな来ず。 午后八木さんより七夕の歌と『Variétés sinologiques』の新購入に59,60のみなかりしとの通信。日本生命より「千草の保証人を認めし」と。坪井明より手紙。夜、三浦久子氏、桃一箱もちて来訪。「(※『ラマンチャ』)評判よろし」と云ふに「ますます書け」とすすむ。 7月11日 田中正平、浜松より手紙。午后は西田俊栄「太宰治全集にわが名見つけし」と。野新田へbusで散歩。荒川堤のgolf場見しのみ。 7月12日 西田俊栄へハガキ。茅ヶ崎の横山雄偉なる未知の人より、(※元玄洋社々員。広田弘毅の親友) 敬啓。未だ拝晤の機を得ませんが昭和二十九年七月十日付で公刊されました高著『李太白』を三十一年五月七日入手いたし熟読いたしました。最近またある感興から高著を拝読しましたので、元々社に問合せ、この状認めた次第です。 私は明治拾六年正月七日生りですから、あなたより二十八年も年長、ことしの正月七日で満七拾五歳です。随て子供の時から漢詩には心魂を尽して熱意を注いだものです。 私は日露戦争が終結するとすぐ倫敦に行き、六年四箇月、主として倫敦、その他欧洲や米国に滞在しました。その後八回洋行し、前後引続き十四年半在外生活をいたしましたが、色々研究に力を尽くした中で、世界の詩を読みましたが、そして得た結論は、世界各国の詩の中で一番傑れてゐるのは漢詩だと云ふことです。その世界最高の漢詩の中で世界最高の詩を生み出した人は李太白です。その第一位の詩人である李太白の詩の中で、一番優れた詩は酔っぱらった時の作物だといふことです。 「友人會宿」の結句、「酔来臥空山、天地即衾枕」をその一例として、私は常に内外の知人に紹介するのです。私は曽てA級戦犯者として巣鴨にゐたこともありましたので、マッカーサー元帥とは常に交歓する機会があったのです。或時この句を元帥に説明しますと、彼は心からこの偉大なる詩人の特色を理解できたと前置きして――スバラシイ稀有なもの、規模宏大、眞に漢民族の眞の性格を描き出したものだ――と嘆賞しました。 私が常に云ふことですが、文を作る、金を作るよりも難し、です。その難事業である文を作る中で一番六かしいのは、一つの古典を他の古典に訳することです。第二次戦争中、私は度々能楽や歌舞伎を英独仏語に訳して、外国人に紹介したものです。そして難事中の難事につき当った時、扶けを借りるのは、人の力ではありません。何でせう。酒の力です。酒の力なくしては絶対に不可能に終るのです。お目にかかります時、その実例を見て頂きます。 私の宅には電話が二つあります。茅崎の二〇三三と二八一六番とですが、私の部屋のは二〇三三番ですから御架電の節はこの番号を御利用ください。昨年来以来、茅ケ崎の電話は東京と直通になりましたから、東京からは「〇六四、二〇三三」とお廻しになれば、市内電話と同様に直通します。御使用の電話番号お知らせ下されば、私から架電いたしまして拝晤の機を得度く存じます。  乱筆御免下さい。匆々不尽  田中教授様                    偉  昭和三十三年七月九日正午に認 とあり、ありがたくも畏し。村松正俊氏に相談せんと電話すれば他出。林富士馬氏に電話すれば「出る前」と。他に野尻貞雄氏より「宮崎、小室氏との会合の世話せよ」と!? 15:00入浴。帰れば岩崎昭弥君より「小林英俊氏の病床にゆき詩集出版を約せし」と。その死は今年中ならんと。千川義雄君より「末弟に下宿と嫁とを世話すべし」と。 けふ京の画(消防展)金賞に入りしと。夜、畑山氏へつれゆく。 7月13日(日) 9:00村松教授に電話し「19:00うかがふ」と云ふ。高橋重臣君より『架橋3』。服部三樹子氏より「勤先やめし」と。長尾良君より「けふ13:00西武dept.の『日本歌人』の会に出よ」と。 高橋君へハガキ。12:30出て池袋、西武dept.の宮崎女史に会ひて長尾君のハガキ見すれば日曜は27日の日曜と。唖然。 すぐ出て新宿、busにて天沼、杉並文化会館にゆけば(※『桃』の会)3、4人のみ。15:00までに11人来り、歌の披露。われ山川弘至君追悼2首をのこして出、川久保家たづねてゆけば姪君出て「悌郎君上京につきたよりなし」と。帰宅。 夕食して19:30、村松教授を訪ふに数十坪の増築さる。わが問ふところに明確なる返答賜ひ、beerのまされて21:30辞去。日暮里で下車。支那そば食ひて帰宅。 7月14日 横山雄偉氏へ「参れず」と手紙。『白楽天』も送る。長尾、服部、岩崎3氏へハガキ。田中静子氏より「洋子上京、本日15:00銀座千疋屋へ来い」と。大谷篤蔵氏より「大阪女子大へ転任」と。竹内好より『魯迅』2冊。宮崎幸三氏へ中間報告。 14:00出て千疋屋へゆきしは14:50。中村氏(洋子叔父)呼出し、coffeeよばれる中、洋子母子来り「Juheim」にてice- creamよばれ乍ら話きけば 「楳垣氏きつく、この間2ヶ月帰郷欠勤せし。現在月給1万円。関学法科出の男来り働かず。岩崎江嫗は不随となりて退職、その手当5千円なりし」と。 意外のことばかりにて「退職してもよろし。我も探すがあてにするな」と云ひ、洋子のみつれて有楽町。 「十合」により森脇昭吉君に礼云ひて二人とも喫茶ささる。『果樹園』は寄贈も受けずと。這々の態にて出、大井まで送りつつきけば「19日帰阪、ついで鳥取の祖母へ帰省」と。途方に暮れつつ桃一箱もらひて帰宅。 帰りて夕食。林dr.へ京とゆき「治療の要なし」ときき、chocolate-fingerもらひて帰宅。けふradioにて人見円吉先生、相馬 御風のこと語らるるをききし。 7月15日 大塚覚より暑中見舞。今東光の『みみづく説法』を渋谷天外がradioでやるをきく。田中洋子君のこと考へ直す。田中順二郎君より砂糖。 午后の便にて浜谷弘子生より「10月4日挙式」と。夜、大野家。鈴木生来り120返す。 7月16日 10:00起きればアメリカ軍、レバノン上陸を新聞が報ず。『東方学16』布施より廻送。宮崎幸三氏より「村松氏のこと齋藤氏に報ぜよ。小室君に電話通ぜし」と。野村朝子より「17、18両日の中に来たし」と。 長尾良より「27日西武で会はん。この間busで見知らぬ人わがこと話せるをききし」と。 坂根千鶴子に電話すれば「明日にしてくれ」と。田中保子より「バレーの試合にて15日上京した」と。 入浴。大野家へゆく途中、田中保子に電話して「明日10:30の試合みにゆく」と云ひ、帰り野村生の宿へ電話して「なるべく明日に来よ」との伝言たのむ。 けふ手塚隆義氏に「立教の後期無給」をいひ、「22-24日の登校日を教へたまへ」と云ふ。 7月17日 9:00家を出て渋谷よりvolley-ball場へゆく(15)。日本体育女子短大といふに当り惨敗のあと、田中保子に会ひ、岡野英子氏指導のteam員と話す。敗者復活戦といふに国学院と戦ふときき、pão食ひて聖心女子大の試合見ながら待つ。辛勝して喜ぶを見て「明日再来」を約して帰宅。 山中タヅ子生より「この間上京した。『果樹園』よむ」との便りを見る。夕方、坂根千鶴子西瓜もちて来り、夕食して待てば野村朝子、西菊代をつれ来る。「NHKを受験する」と。いろいろ話す中22:00となり、「大和」に乗ることとなりて出てゆく。 野村、桃一箱を賜いひし。3生に連署して山本陽子へ見舞書く。 7月18日 朝、書留速達にて『石浜論叢』の「通訳グルマフン」の校正来る。10pにて抜刷1部20円の部数をしるせとあり。 田中保子に電話してきけば「13:00すぎに始まる」と。校正ほぼすまして12:00出て駒沢へ恵比須よりゆき、入場券また買ひ(70)、気がつけば後半はじまりゐし也。相手は共立女子大にて昨日に比べ帝塚山の意気壮んにして快かりしも2-0にて負く。彼等の記念写真に加はり、また入場せし連中に別れ告げずして帰り来る。 手塚教授、午后お越しあり「明日10:00再来」と云ひ給ひしと。武田豊君より「小林英俊氏小康」と。 7月19日 渡辺三七子、山中タヅ子2生へハガキ。 10:00手塚隆義氏来られ「部長会の決議にてわが後期なくなりし故、早朝に直訴す」と。わが意見をのべしもきかれず任せ、Parker『韃靼一千年史』洋和2冊を大学に寄贈し、bus停留所まで送る。 京都大宝印刷へ校正送る。史より「友達泊めよ、28日頃上京」と。「泊められず」と返事かく。 他に『詩人連邦』。前田光子より「帰郷したがそのうち家出しても上京す」と。鈴木敬子夫人より「来春mamaとなる」と。芳野清氏より久しぶりにハガキ。「しりうす読んで感動した」と。 けふ依子、鎌倉へ泊りがけでゆく。夕方雷雨、停電21:00まで。 7月20日(日) 雨つづく。山川京子氏より礼状。田中洋子より履歴書3通、うち2通は3月付なり。 夕方、雨やみし故、西川へ散歩にゆく。浅野建夫に電話せしに留守。大島学長となり、平野宣紀の故郷に水泳小屋でかせしと、pamphletに見ゆ。 7月21日 村松正俊氏、前田光子にハガキ。成城短大上岡昭子より暑中見舞。『日本歌人』の会27日13:00西武dept.にてと。夜、鈴木敬子、田中正平、上岡昭子、浜谷弘子、芳野清の諸氏へ暑中見舞。 7月22日 台風11号接近とて雨。東洋文庫にゆけず。西菊代より「無事帰阪」と。 夕方、雨やむまに大野氏へ往復す。鈴木生の母来り「北高校受ける」と! 京、24日に飯能へ一泊でゆくと喜ぶ。夜、齋藤晌氏へ村松教授のこと。 7月23日 9:00一時さめ、また眠る。台風とて東洋文庫へ行けざれば也。川久保悌郎君「21日上京、8月2日ごろまで滞京」と。小島樹氏「武田泰淳の『司馬遷』見つけし」と。山口玲子より「仕事面白し。十合不況」と。小島、山口2氏へハガキ。夜、大野家へゆく。 7月24日 12:00家を出て立教、手塚、海老沢2氏に会ふ。総長と会見の結果は未定らしく、14:00まで話し7月分もらひ、池袋駅にて思案し(劉麟生『中国文学入門(130)』『宇治拾遺物語(50)』)、成城へゆく。7月分salaryもらひ、池田図書館長と話して16:30となる。新宿にて下車。 『東亜外交史(20)』を買ひ、鰻丼くって帰宅。増田春恵、山本実子、鶴崎裕雄、岩田生、千川稚泉、梅田惠以子の諸氏より暑中見舞。 川久保悌郎に電話かけ「来週会はん」といふ。 7月25日 9:00大野家。知子嬢のみ。10:30王子中3生鈴木の母よびにやり、話せば「工高へやりたし」と。「29日(火)来させよ」といひ、4,300もらひて帰宅。 昼食すまして12:30東洋文庫。『八旗通志初集』写す。15:00出て帰宅。 大宝印刷より「Gûlumalûn」再校来をり、南村和子夫人より「去年の両国川開きに」云々。 村松教授より『詩人連邦』談話室に書けと。林璋子、本田晴光、川勝禧子の諸氏より暑中見舞。 7月26日 また雨。9:30東洋文庫へゆき、『八旗通志初集』の漢軍都統の部すむ。丁氏にて朝鮮の恩山出身のGûlumalûnを『八旗満洲氏族通譜』にて見出だす。 12:00帰宅。午后の便にて白鳥先生より15吋のWhite Shirt賜ふ! 写真2枚もあり。 丹羽千年、正平より暑中見舞。筑摩書房より『現代詩集』再版1,000部と! 夕方、依子を強ひ、悠紀子の顔にかまはずトロリーbusにて亀戸、高野勝美氏を訪ふ。parmanent-waveかけにゆきし明子夫人(※八木嬢妹)帰り来て、依子のsuits出来をり、beer2本御馳走となり、高野君の組合活動きく。「小川日大教授が、その友(36才)を八木嬢に世話せんとしゐるも、我は強ひず」と高野君。送られて亀戸駅東口にゆく。八木嬢へ礼状。 7月27日(日) 全家10:00朝食。麓保孝氏より「8乃至6時間もたぬか、遠洋航海に出るゆゑ早急に返事せよ」と。 齋藤晌氏より「東洋大学最後の悪あがき」と。三木和貴子、友井啓輔より暑中見舞。 散髪にゆき13:00busにて池袋の西武dept.の『日本歌人』の会にゆく。 14:00会はじまり、石川信夫、大伴道子など同人13,4名。長尾良君来り、16:00中座して我は鰻丼くひ、喫茶して別れしあと、腹痛み上厠。坂根生にもらひし扇子を落す。 青山定雄氏訪へば軽井沢と。栗山教授に会へば「図書館員のあきなし」と。われの専任も怪しきらしき口ぶりなりし。 青山邸へまたゆき夫人に話し、麓氏の手紙おき、「4時間のみ引受ける」と置手紙して退去。 帰れば高野夫妻、西瓜もちて立寄りしと。悠紀子風邪と。夜22:30史、帰来。 (前田光子より「ハガキ見て上京したしと父母に云ひし」と手紙。天理図書館より善本Series2冊)。 けふ祖師谷にて『太宰治の手紙(60)』買ふ。明日速達せんと麓氏に「4時間しかもち得ず」と書き、また夜半、吉田東洲氏に歌2首。 生けるひとにおもて向け得ず死せる友に説きにゆかんと思ふ日のあり。 この世をば奈落と思う日のありて輾転とする妻子眠るに。 7月28日 雨傘もちて9:00麓氏へ速達出してのち東洋文庫。岩井主事(※岩井大慧)に見つけられしに、郁郎君の詩集のこと云はる。『八旗通志初集』すすみ、面白けれど午となりしに帰宅。 京大より「4,500(前期授業料)を9月20日までに支払へ」と。野村朝子「帰阪」と。原田比富、杉浦源次、渡辺道夫、里井千寿子、八木嬢(富永館長へ決心話さんかと)、涌井千恵子(兼頭宅の茶席で父に会ひしと)、辻本禧紗子、鍛治初江、北野徳治、西野平造、向井順子、明渡淑江の諸氏より暑中見舞。 小高根二郎氏より『四季』の伊東の詩写せと。史の送りし鉄道便2箱着きをり。 午后岩崎昭弥、島稔の2氏より暑中見舞。八木さんより再び「決心につきて」と「忙し」と。 平野夫人、昨日分娩と。白鳥清先生へ受領。横田利平氏へ『宇宙祭』の同。 7月29日 弓子、早起きして千葉県岩井へ4泊5日の旅行にゆく。京はRadio体操。われ9:00大野家へゆく。王子中3年生の石原生来り、鈴木生よりは出来よし。 10:20すませ「次回は8月4日(月)9:00より月の半ばまで1週3回やらん」といふ。堀内節子、中千枝子、松下政己氏より暑中見舞。 13:00東洋文庫へゆけば川久保悌郎君来り、16:00ともに出て喫茶。きけば「弘前大の前は成城高校にて栗山氏らを識る」と。松本善海に電話すれば嬢出て「18:30頃まで帰らず」と。時に18:00なり。 大塚まで川久保と同車、駅にていま悪口いひし榎一雄居りたり。都電にて帰宅。 平野弁護士、悠紀子と話しをり「男児出生」と。 7月30日 9:00東洋文庫。川久保も来り、ひる、そば食ひ松本に電話して「17:30までに研究所へゆく」と云ひ、東京駅にて人と逢ふといふ川久保と別れ、14:30まで本見しのち一旦帰宅。 至文堂の女史来り、「明日午后再来」と。東北の旅より上野、山本実子2生。山本陽子、花井姉妹、羽畑桂子より暑中見舞。小高根二郎氏に伊東の詩写して送り、都電にて大塚をへて東洋文化研究所。 松本と話す中、17:30川久保来り18:00、3人にて池袋に出、夕食し川久保におごらる。そのあと喫茶おごり、別れて帰来。22:00入浴。 7月31日 暑し。9:00東洋文庫。青木富太郎氏来る。午、川久保と3人にてそば食ひ、氷のみして語る。「大安」にゆくといふ川久保と別れ14:00帰宅。 辻芙美子、藤原由子、東順子、井上幸子、小山正孝氏より暑中見舞。 至文堂水野和子氏再来、「20日まででよし」と。「明日原稿用紙と既刊2冊ともち来る。昭和女子大出で白雄を論文にかき天理図書館へゆきし」と。 午后の便にて森田智子より暑中見舞。青山定雄氏より「後任を推薦せよ」と。 8月1日 暑し。青山氏へ「心当りなし」と速達。高田かよ子、中島悦子より暑中見舞。博多より山下陽子、重谷秀子2生、植村武氏より歌集『凌霄』。 午后、東洋文庫へゆき『八旗通志』ほぼ終る。16:30閉館とともに川久保と出て氷水のみしあと家へ伴ふ。20:30まで話してゆく。植村武氏より送り状。堀内歴より暑中見舞。 8月2日 史の持帰りし箱とき『吉林外記』『黒竜江外記』をとり出し、文庫ゆき休む。 午後、八木さんより「20日すぎまで上京できず」と。『薔薇』来り、『東洋史講座1,2』来る。 鈴木幸太郎、佐藤智慧子、根木薫、中田富子より暑中見舞。小室栄一氏より同。西野平造君より村田幸三郎のアドレスしらせ「玉村の別会社につとめゐる」と。 18:00すぎ弓子帰り来る。悠紀子けふ内職の金1,800余もらひ来る! 夜ふけ、八木、田中静子2氏に就職につき手紙。天理図書館へ受取。 8月3日(日) 悠紀子、京をつれて名主の滝へとゆく。依子はいつもの如く出てゆく。福地邦樹君より「8,9,10の3日間上京」と。 田中城平叔父、辻規子(政信氏女?)、古田房子、藤田幸子より暑中見舞。麓保孝氏より「青山氏と相談、人文教室主任阿部教授まで連絡せよ」と。 入浴。夕食後、訪ひ来りしは半田祐子。「商業美術展出品のため来りし」と。「離婚訴訟を新聞にかきたてられ、慰藉料25万円を男に払ふこととなりし。相手の弁護士社会党左派の辻本、沢井判事なりし」」と。 8月4日 約の如く大野家へゆきしに石原生のみ。知子、鈴木2生は避暑にゆきて帰らず。この次7日ときめてtowelもらひて帰る。 今井三郎叔父より「入院中、2-3,000円貸せ」と。関口淑子、亀井昇、篠田喜代、清水文子、田中康平、吉森安彦幸子夫妻、川上恭正より暑中見舞。川上生曰く「先生には何とも云へぬ魅力があると皆で話しあっております。先生はニヒルなのですか?ヒューマニストなのでしょうか。先生には秘密が多くあるような気がいたします」と。 午后『果樹園』30号と『東方学』の抜刷10冊と前田光子より玉ねぎとじゃが芋と来る。 夜、畑山家へゆきしも応答なく暑ければ『果樹園』はふり込みて帰る。 8月5日 王子税務署より「第1期分1,020を8月15日までに払へ」と来しのみ。この間からの暑中見舞の返事かく。 悠紀子に電話かけさせしに「大は7日まで志賀高原にあり」と。前田光子へ礼状と『悲歌』送る。 8月6日 9:00家を出て有楽町。晴海埠頭行といふbusのあるに気づき10:00埠頭へゆけば麓氏の乗る「あやなみ」は一番手前にあり。阿部鵬二教授に紹介され、「早く青山氏の後任を推薦する」ことを約す。11:20出航まで待つ。 佐々木邦彦、櫻田悟朗、田中保子、田中令子よりハガキ。あとにて田中保子の札幌より送りし菓子も着く。 16:30坂根千鶴子来り、「明日帰阪、豊島区池袋2-1053武村apartに1日移りし」と。夕食せしめ、誘ひて東中野の寺本和代訪ぬれば「国より上京の妹たち出迎へに夫君22:00まで帰らず」と。 21:00出て新宿松竹座に出演との曽根桂子訪はんとせしに十吾一座来をらざることわかり、引返す。 けふ田中洋子の母より「叔父にたのまん」と。 『バルカノン』来り、保田のわがこと云ひしに怪しげなる伝説(蔵原、伊東、宮沢の3人を昭和の3詩人といふ)、『コギト』再興運動せし云々との虚伝をのす。(※) 8月7日 9:00大野家、知子君と石原君とを教ふ。帰りがけ鈴木生の母来りをり「叔父の家へゆきしまま」と。 松井和佐子、井上睦子(恋すと)、井上律子より暑中見舞。八木氏より「20日すぎ東上」と。 太田常蔵君より『明末における愼緬境域の情勢について』抜刷。午后の便にて田中保子より「6日上野の旅館に宿泊。けふは終日遊覧」と。 川久保より「お会ひしてお話伺ふと何となく自分のペイスが乱れるような感じですが云々」 8月8日 暑中見舞の返事かき、田中保子に礼状かき、村松、池田2教授に『果樹園』送りしのち、満文1冊と和書4種もちて秋葉原より神田の山本書店へもちゆけば1,700と。『李太白年譜(60)』と『天津史(250)』買ひて蒲池君訪へば「夫人、筋腫にて臥床」と。雑誌2冊たまひ「一橋会館ならん」と教へられ、ゆき見れば演劇指導会議はたしてここなりし。受付の女性にたのみ、昼休みまで45分まてば福地君の同僚出で来り、「現在ここにはをらず」と。「今夕来られたし」との伝言たのみ、「揚子江」にて炒飯食ひ、都電にて新宿。中村屋でchocolate買ひ、青山教授訪へば全家留守。 仕方なくpostに手紙をおきて駅前にて『荷風全集(30)』買ひて帰宅。 悠紀子、変なるゆゑ叩きて指に負傷す。福地君(※福地邦樹)18:00夕食中に来り、いろいろ話し、悠紀子の怒りは『薔薇』の詩(※恋愛詩)を見しためとわかる。これまでなきしことにてふしぎ。(悠紀子曰く「今までもみなよんでますよ云々」)。 林dr.に電話して不在なることを知りしも20:30ゆけば夫妻ともに帰り、beerもてなし玉ふ。「林dr.にもわが初対面印象悪かりし」と。 22:00まで話し、池袋へ出ず、大塚まで送られ、神田まで送り紅茶おごらる。けふ新坂母子、羽倉裕景氏より暑中見舞。 8月9日 家居。白鳥きみ子夫人より「white-shirt受取りしや」と。藤野一雄、久保マナ子?、秋山健三昭子みつみ一家より暑中見舞。 渡辺三七子より「物贈った」と。白鳥夫人、太田常蔵君へ受取。 8月10日(日) 浅賀千里(成城大文化史専攻)、三野登美子より暑中見舞。夕食後、板橋区徳丸町の藤田幸子邸を訪ふ。2児夫君と駅まで送り呉る。 8月11日 晴。西村和子、楠戸規美子、兼頭淳子、藤井文子より暑中見舞。西宮一民君より「もうそろそろ先生(※大阪へ)バックされませんか?」と。池田勉氏より『果樹園』31号の受取。渡辺三七子より夏シャツ賜ふ。 夜、大野家へゆき鈴木少年に「毎日家へ来よ」といふ。 夜、『バルカノン』の記事の訂正について2項、『果樹園』32へ5枚かく。 8月12日 林満寿子夫人より暑中見舞。昨日史、電話かけしに「大4日間滞京」と。 13:00より16:00まで昼寐、珍しきこと也。東孝子、佐々木満嬉2生より暑中見舞。19:00より鈴木生教ふる筈なりしも来ず。 8月13日 悠紀子class会へと出てゆく。われ大野家へゆきしに知子君のみ。帰れば鈴木生、家へ来しと。 河出書房の吉武覚氏来り、「CaesarとCleopatra」60枚を少年のために書けと云ひしと。太田常蔵君より「川久保と訪ねよ」と。藤田幸子夫人より「お構いひせずに」との挨拶。今井三郎叔父より受取。上野姉妹、吉岡生より「富士伊豆へ来し」と。 八木嬢より「岡田氏の返事あり、上京の要なくなり、金もなし」と。 午后の便にて井上恵子生より「担任もたされず。物贈った」と。奈良漬一折賜はる。 小島樹氏問合せ。16:00吉武氏再来「9月15日ごろまでに書け。大人向き」と。金沢誠君の推薦と。大の友なり。 悠紀子、帰りおそく4人そばとる。(※削除) 8月14日 よべ不眠にて苦し。鈴木生来ず、助かる。悠紀子をして大に電話かけさし「来よ」と云ひしに「来られず」と。八重樫知子生より暑中見舞。村上新太郎氏より「9月5日までに詩を」と。文芸日本社より「16日(土)18:00より会する」とて出欠問ふ。 昼食して藤田亮策先生訪ひ参らせしに「25日まで御旅行」と。大野家へ寄れば無人。隣家の嫗に言伝たのみて帰宅。 昼ねせしに上田阿津子、林良子、服部紗智子の諸女より暑中見舞。川崎宏子より「松本一彦に御中元もちゆきし」と。大野の知子嬢来りしゆゑ鈴木生のこと云ふ。 夜、畑山家へ雨中ゆけば「けふ(※東洋大学)理事の推薦会」と。史、大を訪ね1,000もらひ、「明後日京都へ出発」と、突然の話なり。昨日けふ大手神社の夏祭。 8月15日 山内和子より「松本一彦の部に配属」と。『朝日年鑑』より名簿にと。昨日と今日と地図かくため方眼紙買ふ。 夕方大野家へゆき、鈴木生、明日より4日間、わが家へ午后1時来ることとなる。 8月16日 朝、畑山君訪ひしに来客すぐ来りて帰る。「3年後にでも東洋大学に復帰せよ!」と。 『詩人連邦』来しのみ。午後鈴木生教へ叱る。小高根君より「秋に東京転勤になるかもしれぬ」と。小畑信良閣下より豊中に帰住と。かはりに本荘健男君東京転任と。 史、数男(※悠紀子弟)にゆく。千草、夕食前に来り、史21:00まで帰らず『文芸日本』の会にゆきそこなふ。21:30史、出てゆく。けふ大文字焼と。 8月17日(日) 防衛大学教務部長安宅彦三郎氏より「10月10日より3月10日まで青山氏と4時間づつ担当の都合のよい曜日、時間を8月末までにしらせ」と。 13:20鈴木生来る。『東洋思想講座』書かず。 8月18日 白鳥きみ子夫人より郁郎君の「七夕の森」をニッポン放送の8月26日(火)17:30より放送と。 前川佐美雄氏より24日『日本歌人』の会にて会はんと。「雑誌9月より東京で発行」と。 鈴木生来ず。原稿書けず。夕方より下痢。 8月19日 至文堂の原稿、題だけ書きて畑山氏を訪へば「立教中学への斡旋たのむ」と。帰宅。 うだうだと時間つぶしゐれば15:30田中秀子来訪。「信州をへての一人旅、高松生にきけば依子の日生落第を松本一彦気にしてゐた」と。 7:00まへ送り出す。「日本歌人東京支社の会を24日(日)13:00西武dept.にて」と案内。 19:00大野家へゆく。石原生来られず、4人のところ3人になりしゆゑ云々と大野夫人云ひしゆゑ、畑山氏に云へといふ。 8月20日 よべ眠れず。前川佐美雄、山前実治氏へハガキかく。朝食後、ひるねしゐれば寺本和代夫人より、田中秀子のことしらせしハガキ来ありし。 午后、浜谷弘子、四方綾、住山重子の3生よりハガキ。井上京子、北海道よりコケシ贈り来る。15:00至文堂の水野女史に電話かければ「月末まででよし」と。バカらし。 8月21日 悠紀子、京をつれて和田賀代女史を清瀬に見舞にゆく。穴川裕代生より「父と対立」と。 13:00出て立教、手塚教授に会へば総長に話し、手当の件は部長へさし戻せしと。手当もらひて出、池袋の古本屋見てのちbusにて瀧野川。畑山博氏訪いひ、夫人に立教入学試験と大野schoolのこといひ、飛鳥山で野球応援の畑山校長つかまへ見物し、三沢先生上京との話きき、畑山家へ引返し、電話きけば畑山氏新宿へ呼出されし。 帰宅すれば坂根千鶴子、大阪の岩おこしもちて来る。夕食して大阪の話きかんとすれど、概ねわが愛情論となる。至文堂がためなり。(※依頼原稿タイトル「愛情とその表現の特徴」) 8月22日 田中秀子より「寺本夫人と共に再訪するやもしれず」との日光よりのハガキ。 堀口太平君の大阪廻送の暑中見舞を見、11:00家を出、池袋の西武dept.に寄り、早川智慧氏より『天魚』4冊借る。保田一つも変らず。 東中野の寺本夫人訪えへば無人。成城大学にゆき8月分salaryもらひ、図書館へゆきしに、一般書庫にはTagoreよりなし。下の鎌田女史に柳田文庫見せてもらひしも印度童謡のみ。加藤嬢に上野図書館の谷ケ崎浜子さんに紹介たのみ、「明日ゆく」と云ひ(大混雑)と、出て祖師谷大蔵。駅前にてラーメン食ひ、あられ買ひて青山邸へゆけば「定雄教授また軽井沢」と。[自]ままに日をきめると云ひ、夫人の話ききしのち経堂。小高根太郎君を訪ふ。『シャクンダラ』をよめと云はれ、二郎君の東京転任を教へて出る。帰れば田中秀子来ざりしと。青山夫人より賜はりし茶をわたす。小島樹氏の礼状。原田早苗、安子姉妹の北海道よりのヱハガキ見る。 8月23日 朝起きて6枚、ともかく書きはじむ。防衛大学校安宅彦三郎教務部長へ「木曜3~6にして下され」とハガキ。白鳥君子夫人、寺本和代夫人へハガキ。 8:30出て本屋にてHeine1冊買ひしあと、向ひの王子図書館へはじめてゆき『世界文学事典』を見、すぐ出て上野図書館へ9:30着けば入館出来、貸出しへゆき谷ケ崎嬢呼んでもらひ加藤嬢よりたのみしといひ、Heine贈りしあと本の出るを待ちをれば座席なく『シャクンタラ』の梗概を立ちて写し、疲れて12:30出、鰻丼食ひ、池之端七軒町へ出て都電。東洋文庫にゆき、Macdonell『A Histry of Sanskrit Literature』抄す。 けさの早起きの為、疲れて出れば雨。氷屋にて雨宿りして帰宅。 井上芙美より「信州で会ひし武居豊子来訪の予定」と。Michigan大学に留学の金子富美子氏より挨拶状。金門攻撃始まる。 8月24日(日) 浜谷弘子の叔父次氏より「成城中学部へ進学につき云々」と手紙。 12:30出て池袋西武dept.へゆけば(※『日本歌人』の会)長尾良君をり、ついで前川氏来る。「保田とはこのごろ会はず」と。『日本歌人』東京移転につき話きき、そのあと「雑務を手伝へ」とわれ演説す。芳賀檀氏も来り、話す。そのころ武居豊子より電話かかり、きけば悠紀子探しあてしと。「すぐ来よ」といひ待つ中、来り、coffeeのませtobaccoのませて話す。「ヒカリノクニ」にまだゐると。Beerのむ前川氏の席へつれゆく。山之口獏君来りなごやかなり。(古川政記氏に畑山博氏への紹介状の名刺かく)。 19:00出てすし食はせ、地下鉄まで送りて帰る。 脇本も家と古川氏宅まで同行せしと。けふ依子、池袋三越の屋上にをりしと。(獏さんにきけば平田内蔵吉、沖縄で戦死せしと)。夜半20枚。 8月25日 9:00王子中学へゆき図書館長山口先生に会ひ、研究社『世界文学事典』を借出す。「浦和高校にて興地先生教はりしと。保田與重郎の本も読みし」と。Heineを本屋で見付け1冊贈る。BaedekerのBelgium,Holland編ほしと也。弓子に托す。 帰れば青山定雄教授、軽井沢より「後任に河鰭君を推さん。26日又は28日連絡せよ」と。八木嬢より「28日までには上京するやもしれず。 いま『Biblia』の原稿作製中」と。 そこへ服部三樹子氏来訪。森房子、山川京子、中河幹子などの作歌女史の話す。浅野氏に会ひたしとのことゆゑ、電話せしもかからず、ゆけとすすめ、 昼食せしのち退去。王子権現に案内せしのみ。 8月26日 悠紀子9:00すぎ出てゆく。至文堂水野女史より「月末までには必ず」と。伝田雅子より某月某日『足音』の講演会する故西下せよと。 弓子、午すぎ帰り来り「事典9月10日の登校までそのままで宜しと山口先生」と。 よべ睡眠不足ながら日本文学に入りて41枚となりし。午すぎ大野知子君来りて、「姉のnote検すみしや」と。「出来ず」といひて帰らしむ。 午后の便にて高松生より「日生にて山内生、老嬢にいぢめられをる」と。 困憊せし上、貧にして、(12月以後の生計立たざるを悠紀子思ひゐるらし)、全く自由を失ひし感あり。西下やめんと午后決定。 夜、柴田武司会の方言座談会ききゐれば、青山教授より速達にて「明日正午文庫に」と。 8月27日 昨夜にて52枚となりしも目ざめて書き直したくなりし。浜谷次氏へハガキ。 悠紀子、京都へ送金す。吉成和也生より暑中見舞。 王子中の山口広先生、丸善へゆきGoethe全集見たまひ「シャクンタラ―」写してたまふ。 10:30東洋文庫。吉田金一、佐口透の2氏あり。12:00までアラビア文学を見て青山教授に会ひ、河鰭君に賛成とといふ。 王子にて『千一夜 第21冊(角川文庫)』購ふ。よべまでの書き直しのみに了る。 8月28日 朝3枚かき55枚とし、午すぎ散歩かたがた高野家へゆき、いろいろ話す。帰れば16:00(うどん賜りし)。 服部三樹子氏より「浅野氏に会ひ堤夫人に紹介し、たのまんと云はれし」と。大野家へゆき教へ了れば4,000呉れし。けふ『千一夜19』を買ふ。 Hãfizのことのりし18とまちがへし也。 22:00、60枚にし、了ふ。不十分、浅薄なれどいたし方なし。 8月29日 朝7:00ごろ訪ふ声し、八木さん来訪。朝食ともにし、「のちに会はん」といひ、9:00帰りしあと10:00出て至文堂へゆき、1万円余の手取り9,000-1,100をもらひ、busにて山吹町、堀口太平君訪ふ。 大垣国司の発狂して死にしこともしらず、「堀内歴を識る」と。再会約して出、八木さんと会ひ話す。「東京転任をさほど急がず」と。急ぐかあきらめるかの境目なること旨くしへず。 一旦帰りて悠紀子に金わたし、史より「岩波文庫送った。羽田マサ子の家庭教師となりし」とのハガキ。 藤本時喜子、山口玲子、太田陽子のたよりを見、高野家へゆけば20:00。時計1時間おくれゐし。子供らにわびの贈り物し、勝美氏、会議とて帰らざるに21:30雨中をbus停留所まで送られて帰る。 けふ留守中、寺本和代来訪。Tobacco20箱をくれしと。 昭和33年8月30日~昭和33年12月31日 「東京日記 4」 本冊画像PDF 25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 8月30日 雨。悠紀子も不機嫌なり。岩崎昭弥より「27日札幌にあり」と。 午后、細川清(元東洋大学助手)より「佼成女子高校に就職せし」と。 16:00 tobacco20ケもち亀井勝一郎へゆく(※名前抹消)。悲観をやめ楽観を唱ふべしと也。19:30別れて帰り来る。 夜半、「栗山氏を訪ひフランス語の教師にわれ羽田を推薦し、会ひてことわられしとて五百井仁を紹介せし」ところにてゆめさめし(3:00)。場所は大阪なりし、ふしぎなることかな、わがゆめみるは。 8月31日(日) わが誕生日の第47回目なり。悠紀子、神経とがりをり、これを観察す。〒なし。古川政記氏訪はんと思ひしが、入浴のあと雨振り出して果さず。山口先生に礼かく。 9月1日 雨。9:30東洋文庫へゆき『吉林通志』『康熙奉天通志』をみる。地図『奉天通志』のみあるも駄目なり。『満洲学報』は1のみ。 12:00出て帰宅。大野昌子来りしと。佐々木邦彦君より「青龍展に2日、4日と会場にあり」と。 午后、武居豊子より「台風にトタン屋根とばされし」と。史より岩波文庫18冊つく。『遊仙窟』も『ガリア戦記』もなし。史へ受取「羽田明君へよろしくたのむ」と。大野昌子へnoteもちゆき、十条まで散歩せしも、はね上り、帰り来る。 夜、『詩人連邦』に2枚。『薔薇』に「誕生日」 9月2日 曇。服部三樹子氏より「小高根君のため『コギト』『四季』を写しに3日午后来訪」と。 13:00出て三越へ青龍展見にゆく。佐々木邦彦氏見つけてもらひ、山の画の越南とソ聯へゆきしをきく。青龍展の山の画の鼻祖なり。茶よばれ、龍子の風塵雷神見て都電にて赤門前下車。『Germania』と『ガリア戦記』探せしもなく、『千一夜物語17(50)』『シーザーとクレオパトラ(65)』『楊貴妃とクレオパトラ』買ひして帰宅。 前川佐美雄より『日本歌人』に書けと。夜、大野家へゆき「知子生、都合わるし、坂東生やめる」ときき、よろしと云ひ、来週より水、土ときめて帰り来る。 9月3日 午后、服部三樹子氏来り、『コギト』と『四季』しらべる。「もうすぐ失業保険きれる」と也。 青山定雄教授より「岡部長章君を防衛大学に推薦す」と。服部氏帰りしあと、京と十条にゆき、古川政記氏訪ねしも、夫妻とも不在。けふ『果樹園』32来る。またもや12pなり。 9月4日 曇。〒なし。家にて何もせず、夜、大野家へ教へにゆき、帰り来ればやがて坂根千鶴子、曽根桂子をつれ来る。十吾一座の東京公演に来りし也。23:30門限とてあはてて帰りゆく。 9月5日 曇。朝、丸より「小竹稔と会するゆゑ、6日15:00弁護士会館へ来い」と。 13:00東洋文庫へゆき、『奉天吉林黒竜江等処標注戦蹟輿図』と『明清人名引得』と借る。李之藻はなし。 15:00帰宅。八木嬢より「日比谷図書館は30才以上だめとわかりし」と。「富永牧太(※天理図書館館長)その論文を博士論文とほめし」と。 井上英美生より長き手紙、別に事なし。17:30大野知子生来り、英語教ふ。昌子も来り、noteおきゆく。土曜を日曜にふりかふ。畑山家へゆきしに博氏不在。夫人に「8月分4,000もらひし」を云ひ「今月以後3,000となりてよし」と云ふ。丸に電話かけ「明日ゆく」と云ふ。 9月6日 暑し。八木氏に「希望を失はざれ」と手紙かき、14:00出て第一弁護士会へゆき、丸に会ふ(午まへ河出書房の吉武寛氏来り「9日14:00より神田小川町資生堂会館に来よ」と。「必ずゆく」と答ふ)。 長男喘息なほり帰宅せしあと神経衰弱と。「近日、会にて話きかん」と云ふ。階下の食堂にをれば小竹稔氏来り、新宿歌舞伎町の焼鳥屋にゆきバカ話し。18:30別れて帰る。西瓜(100)買ひてもち帰る。 前川佐美雄氏より『日本歌人』の原稿のことのみしるせしハガキ来ありし。 9月7日(日) 晴。暑く昨日と同じく33.4度なり。9:00大野家へゆけば19:00と。帰りて〒、帝塚山学院同窓会誌を見る。「谷(寺本)信子退職」と。 夜、大野家へゆきしに鈴木生来ず。止めんとの気あり、母君出てわびいふ。 9月8日 悠紀子に丸家へ電話かけさせ、15:00ゆくと云ふ。『ラマンチャ月報』来り、大森君ぬけ、大野文吉(和歌山県人と)と石川氏とのこりしと。クソと思うふ。 14:00出て丸家へつきしは15:15。成城短大2年の中村生来り勉強しゐる。ユミ子君につき、きのふ丸呼出され「全治しをらぬ故、登校禁止つづくこととなりし」と。長男重俊呼びて「ぜひ受験せよ、予備校へゆけ」とすすめしもハカバカしき返事せず。19:00丸帰り来り、ともにすすめしあと20:00出て駅まで送られ、憂鬱となる。 「赤ちゃん」といふに寄り、赤川令嬢光世君にbeerのまされ、やがて来し母君に赤川草夫氏の在宅たしかめ21:00すぎ訪ぬ(途中『Germania(45)』みつけて買ふ)。「船越章ときどき来訪。もはや党員ではなきらしき」と。『青い花』2版(※田中克己訳、異装釘)もらひて20:15帰宅。 茶漬2杯くふ。けふ大野知子訪ね来て、きけば用なしと云ひしと。 9月9日 天牛書房に東博氏訪ひてきけば「編輯のことしらず」と。出て資生堂会館にゆけば山上正太郎、金沢誠2氏すでにあり。荒正人、三浦朱門、前島信次、など名を知る人々と高橋秀、橋口倫介君らも来る。浪花節的とすべきか、学術的とすべきか結論出ず。 16:00教授会後、古本屋街に『ガリア戦記』さがしに廻りしもだめ。水道橋より電話かけ、堀口太平氏訪ね、予備校きけば「神田の千代田予備校が宜しからん」と。 丸家に電話かけ重俊にいへば「さあ」とのみ。「入学案内とり来るゆゑ考へよ」と云ひ、電話きりしあと腹立つ。 堀口君と軍属の思ひ出話し、池袋行のbus教へてもらって帰宅。 石川喜久子「Spender夫人となりし」と。村上新太郎氏より詩の受取。 9月10日 晴。暑し。太田陽子夫人へ「石川君に同窓会名簿送ってくれ」と書く。 14:00出て神田駅前の千代田予備校へゆく。12日に綜合は締切と。 日比谷の第一弁護士会にゆきしも丸をらず、家へ電話すれば「けふは20:00ごろまで他出」とユミ子の返事。神保町まで都電。『ガリア戦記』みつからず。山本書店にて褚斌傑『白居易評伝(90)』買ひ、『李杜詩選』を教科書にせんと思ふ。 小山正孝氏を訪ね、『四季』の発行部数を問はれ500~1,000と答へ、長話して18:00近くなりあはてて帰宅。 夕食して大野家へゆき鈴木生の出て来しを見る。Plutarchの『英雄伝9』を探せしも見当らず。 けふ「小林英俊の詩集出版記念会21日」との案内来る。詩も作りをり。 史より「授業料受取った。母、伊勢へゆく気になりし」と。夜、『日本歌人』のために「愛情の中国的表現」7枚をかく。朝は平凡社百科事典にと「李之藻」「李自成」ほぼ書き了へし。 9月11日 『日本歌人』と丸重俊とへ速達せしめ(78)、天野忠の詩集『単純な生活』受取る。Shaw『シーザーとクレオパトラ』よみ了へ、正午すぎPlutarchの『英雄伝11』買ひ来りよむ。 前川氏へ「前後切りてよし」とハガキ。夜、平凡社の清書す。 9月12日 雷雨の中を池袋へゆき西武dept.で『英雄伝9』買ひ、ほうじ茶買って帰宅。『果樹園』にと3枚かきしも旨くゆかず。平凡社より「9月20日まで」とハガキ。本荘健男君「阿佐ヶ谷に住む」と。 午后、小山正孝氏より速達にて『ガリア戦記』貸与され、『果樹園』に400字3枚の「東京通信」書き了へしあと「シーザーとクレオパトラ」200×26。 9月13日 成城大学へ登校。加藤嬢に会へば上野図書館の谷ケ崎嬢恐縮しゐる由。高田瑞穂、暉峻2氏と話せしあと、中国文学の時間むだ話し、『李杜詩選』を教科書に使ふこととす。 すみて新宿にてライスカレー食べて帰宅。夜、大野家にゆき、帰りて45枚とす。 9月14日(日) 終日家居。99枚まで書く。あす成城を休むことときめる。勤務評定にて不快。 9月15日 9:00成城大学高尾女に電話し「のちほどゆく」と云ひ、待てば16:00ごろ来り、挿画の参考として『楊貴妃とクレオパトラ』、野上氏『クレオパトラ』もちゆく。 夕食後、林富士馬氏訪ひ、池袋の「オルゴール」といふにつれゆかれ、beerおごらる。山之口獏氏は(※沖縄より)一時帰国と。けふ林氏のハガキのほか『日本歌人』より「21日西武dept.にて会す」と。時間の記入なし。丸に電話すれば「明日16:00高野階下で待合さん」と。 9月16日 12:00家を出て成城大学。話あひ手なく、教務へゆきてきけば「短大試験せよ」と。14:00より1時間と。 教科書として長沢規矩也『支那文芸史概説』を学生に頒つことたのむ。学部2年生来り19人と。山本書店に電話し『李杜詩選』のとりよせたのむ。 14:00より試験す。わりあひよく書く。class委員が辻参謀(※辻政信)の娘なりし。松村君より『ある日本人』の返却受け、池袋より通学の漢文好きといふ子と話しつつ新宿へ来て高野へゆけば16日は定休日。待つうち丸来り、酒と料理饗され「浅野に訊ねる」といひ、17:00別れて三鷹。きけば「喘息患者はみな自信喪失す」と。「何か特技見つけてやらすより外なし」と。家探したのみて19:30出、高円寺駅より丸に電話かけて帰宅。 けふ前川氏より原稿受取。名坂八千子氏より「21日の会13:00より」と。「加藤、弓場2生とともに川勝重子26日夕方東京着」と。『東洋史研究17-2』来り、残金420と。けふ平凡社へ原稿送る。 9月17日 豪雨。朝早く起き、昼ねす。『善人倶楽部』なるもの窪田雅章氏創刊、同人にわが名をつらぬ。 『桃』来り、保田夫妻(※岩崎昭弥の手引きで)岐阜へゆきしと、めでたし。川勝生へ「宿へ26日21:00電話す」と返事。 9月18日 台風21号のため2児休校。平凡社より原稿受取。終日家居。 9月19日 便所のことにて悠紀子に怒る。立教より「史学談話会を25日15:00より」と。無為にして家居。 9月20日 成城大学へゆく。高田、暉峻、宮崎の3氏をり話す。月給13:00出るとて、下北沢へゆき「ペンギン」喫茶店にゆき森本夫人呼んでもらひ、小説の構想ききて帰宅。 角川より「Heineの9版1,500を十月上旬に」と。午后の便にて佐々木邦彦画伯より『骨』同人に伝言つたへたと。 鍛治富子君より「10月4日挙式に来よ」との招待状。大野家へゆく。知子生「このごろ英語好きになりし」と。 9月21日(日) 朝食後ねてゐれば、堀口太平君来り、『果樹園』に参加すと。午食せしめて13:30となり、送り出して池袋へゆけば『日本歌人』の会まだはじまらず。若林つや氏来り挨拶す。17:00すみて青木文庫『東方諸国の新しい歴史 第一分冊(70)』買ひて帰宅。 八木さんより上野図書館の篠崎てる氏へ紹介状。高松直子より「23日上京」と。川勝重子より「来週金曜21:00に宿へ電話承知」と。浅野晃氏より『詩集箱船』。 9月22日 雨もようゆゑ傘もちて成城へゆき、高橋邦太郎氏に会ふ。午salaryもらひ、栗山部長より「服部女史、年末まで在京の決心」ときく。Que-sais-jeの『インド史(120)』買ひ、午后の文化史試験なしとすと云ひ、土曜、古楽府のこと新宿で待合せて野村生に教へること約し、雨の中出て村田生と同車。 下北沢に下車、「ペンギン」へゆけば休業なりしが、森本夫人母子にてcoffeeご馳走となり、村田生と別れて新宿より四ツ谷、山本書店にて『李杜詩選(240)』買ひ、小山正孝氏を訪ひ、しばらく別れて波木井書店にて塩谷温『支那文学概論(150)』買ひ、「終着駅」といふ喫茶店にて朝潮の負けるを見て別れ、帰れば高松生まちをり。坂根千鶴子より「22:00すぎ曽根桂子つれ来る」とのハガキ見て待たしむ。 岸明子より「10月5日挙式、横浜へ来る」と。高松生に電話かけさせ22:20まで待ちしあと駅へと送り出せば、途にて2人に会ひ、別れさせて家へつれ帰り、24:00近くなりtaxiにのせて帰す。「今夜曽根生、坂根の宿に泊る」と。 9月23日 秋分の日。角川より印紙の受取来しのみ。石川喜久子へ航空便出しにゆけば、郵便局休みなりし。 八木さんへ「note送るな」と。散髪して入浴す。 9月24日 雨。鍛治富子生へ祝ひ状。初江生へ連絡同封。名坂八千子、岸明子氏へハガキ。小林英俊君より自筆表書きにて「黄昏の歌」。小林英俊君へ見舞状。 夜、大野家へゆき昌子生に成城受験すすむれば「むつかし」とてきかず。Dumas『Les Trois Mousquetaires(※三銃士)』よむ。弓子が借り呉れし也。 9月25日 雨。13:30出て立教大へゆく。手塚君「学校側非をみとめ後期も手当支給」と。ありがたくもすまなきこと也。卒業論文の中間発表に出て別枝篤彦教授に挨拶す。手塚氏とともに出てMelon贈る。 けふ『李太白(60)』みつけ研究室へ寄付し、他に『第2次世界大戦史(20)』『古代への情熱(50)』買ふ。 帰りbusにて瀧野川下車。畑山夫妻に大野家のこと報告し、beerのまされ碁打ちて負ける。岩崎昭弥君より「保田、京都に家建てをり、わが『悲歌』を最も出来よしと云ひをり」と。成城大学より「4日(土)9:00、6日(月)14:10より試験監督せよ」と。 9月26日 雨ひどし。台風迫るときき『民間伝承』236受取り「田中みな子の式10月10日」との案内みて、「出席せず」と云へば悠紀子怒る。姉の非礼認めしめて渋谷。 大に電話し「けふ15:00すぎゆけずば、来週会はん」といふ。 聖心にゆきしに和田先生お越し、青山教授「岡部君につき返事なく不安」と。吾にもなきこと申し、各人の自由にと云ふに教室を出て、けふ講義中止を伝へる。和田先生は講義されしらし。 ずぶぬれとなりて渋谷へ出、東横百貨店にて昼食。鍛治富子君への祝品探せしも見当らず。大へゆくこと止めて帰宅。 依子、都電国電とまりしために16:00銀行を出しに帰宅せず。音無川の水溢る。停電。 22:00依子より電話「目蒲線の支店長代理に泊めてもらふ」と。 岩崎君に返事。渡辺三七子よりこのごろたよりなきに気がつきし。 9月27日 よべの出水にて近所ひどく、国鉄も不通らし。女子会館に電話すれば、川勝生来をり、「のちほどまたかける」と云ひて、都電に飛鳥山より乗りて、大塚へゆけば「池袋より向ふ不通」と。 成城大学に電話すれば「休業の速達出せし」と也。やがて国鉄動き出せしゆゑ、川勝らを迎へにゆくと云ひ、10:00に渋谷までゆき、地下鉄にて虎ノ門へ出、taxiにて女子会館へゆけば迎へに出てをりし。 芝より日比谷にゆき公園見せ、宮城前へゆき外苑の絵画館につれゆき(星野綾子のapartさがせしも不明)、閲覧せしのち昼食。ここよりtaxiにて新宿伊勢丹、tourist-bureauにききしに、日光まだ不通と。 新宿駅に出て中央線上り急行運転しゐるゆゑ、神田までつれゆきて別れ帰宅。 依子も帰り来り、「西小山の支店長代理宅に泊りし」と。 服部三樹子氏より「易をやる」と。「保田と怪しと長尾君が宮崎女史に云ひし」と。『桃』第一歌集来をり。 夜、大野家へゆけば昌子生「日本女子大の児童心理受ける」と。今月の手当くれずして帰せし。 深更、小高根二郎氏へ連絡事項(90円切手封入)。 9月28日(日) 依子出てゆく。浅野晃、服部三樹子氏へハガキ。午后、藤田亮策先生お訪ねすれば、夫人外出のお留守。『東洋学報』の「朝鮮の年号」の稿見せられ、『朝鮮の歴史』賜はる。14:30辞去。 9月29日 尾崎菊子より水害見舞。悠紀子を西武dept.にゆかせ、鍛治富子に祝送らしむ。夕方、千草来り、「日本生命の社員となりしも収入へりし」と。支部長と日々喧嘩すと也。 依子おそく帰りすぐ寝る。 9月30日 晴。9:00大に電話すれば「この間、健来り、父母の伊勢行ききまりし」と。借金4.5万と。金曜ゆく故、白鳥郁郎氏の「明智光秀(※脚本原稿)」返せと云ふ。 高松直子、兼頭淳子、涌井千恵子、八木の諸嬢より見舞。それぞれに「心配いらず」と返事。八木氏へはtypeの業務案内を同封。 午后、硲晃氏より見舞。名坂八千子氏より返事。けふ父よりも見舞。「史は金曜に羽田家へゆく」由。 10月1日 防衛大学校教務課中川事務官より「決定につき履歴書もう1部送れ」と速達。これを送りにゆきしあと、藤田幸子、大道裕子生より見舞。久礼田房子氏より『多羅』出版せしと。 石橋秀雄氏(元東大助手)より「鳩ヶ谷住宅に移りし」と。藤野一雄君より「小林英俊にてわがハガキ見し」と。 大江叔母より被害のありなしを往復ハガキにて問合せ。そこへ堀口太平君、見舞に現はれ「typist辞職せし故、後任を求む」と。八木氏に「1万円、即刻赴任ゆゑすすめられず」と速達。 午后、服部三樹子氏来訪。長山光文への紹介の手紙かきしところへ小高根二郎氏の手紙、「東京転任は見込薄、『果樹園』同人は現在14名が確実」と。 千川義雄、近藤久子、上田阿津子の3氏より見舞。 浅野晃氏へ電話せしに「九州旅行中にて今夜帰宅」と。夕食せるところへ大野昌子来り、「けふの課業を明日にしてくれ」と云ひ4,000忘れゐしと置きゆく。 畑山夫人に電話すれば博氏、疲れてゐると。話す中「(※大野家へのArbeitは)お断りになってよし」と。 依子、富士銀行改名10周年とかで2,000もらひ来る。 10月2日 藤田、近藤2夫人に礼状。「竹岡勝也氏逝去。阿部六郎氏が実弟」と新聞に見ゆ。 午、父よりまた見舞。昼寐せんとするに悠紀子と話合はず喧嘩するところへ正平来り、大江叔父機嫌わるく、昌三叔父神戸店勤務となりしなど話し「中学1年生の家庭教師さがせ」と。徳島のわかめ置き去る。 夕食せんとせしに大野夫人見え、礼2,300にし、試験本位にせよとの条件承知し、700もち去る。坂根千鶴子来り、夕食せしめ、喫茶店Bonaといふにつれゆきて21:00去らしむ。 10月3日 西武dept.より「鍛治富子君へ1日送った」と。12:00出て聖心女子大。青山教授に会へば「岡部君のこと未だ返事なし」と。和田先生と話し、教室へゆけば「試験問題云へ」と。教へてすむ。あと10日以後しばらく出ざるもよろしきらし。 大訪ね、「男3人(※兄弟)にて4.5万円を払ひ、そのあと大は5千円づつ送ることとせし」と。 帰れば大野昌子待ちをり、受験本位にやらんといひて帰らしむ。増田春恵より見舞。服部三樹子氏より「永山光文へは2、3日様子を見てからにせん」と。 悠紀子の見つけし本棚見にゆき950を900にしてもらひ、金払ひ来る。 10月4日 7:30家を出て成城大学へ8:30につき、教務にゆき高田瑞穂氏の介添なるを知り、中講堂で試験。短1Aは47人出席(欠は佐々木)、文2は15人出席。他に替玉あり。すみて4人時間まちがへしと来り、教務課長に話し追試さしてよしとなる。まっすぐに帰宅。 八木嬢より「堀口太平氏の(※就職)話ことはる」と速達。芳野清君より「その中会ひたし」とのハガキ。『Corbeau詩集1958』と俵青茅『秘色』来をり。 浅野晃氏より「詩集(※『箱船』)の出版記念会は放念せよ、このごろ午前中在宅」と。 出て東洋文庫。「朝鮮本翻刻展」見にゆく。長沢規矩也(けふ同氏の教科書献本受取りし)、中島敏、神田信夫の諸氏と会ひ、岩井主事と話す。 帰りて山本陽子より高師浜の写真入りの手紙。服部三樹子氏より「1万円の(※就職)口出来し」とのハガキ見て夕食せんとするところへ清水文子来訪。22:00まで話し(大野家へは「明日ゆく」と電話せしむ)、駅まで送りて別る。「東洋大学やめしを心配しゐる」と。 10月5日(日) ハガキ8通書く。悠紀子、依子と買物にゆく。『果樹園33』『同合本第2』、森房子『多羅』来る。雨中、夜、大野家へ2女を教へにゆく。 10月6日 雨。京の運動会連延2日なり。服部紗智子氏より見舞。小高根二郎氏より「合本代100を送れ」と。村松正俊氏に『果樹園』2冊送る。 午后、曽根桂子より帰阪の挨拶。至文堂より校正もち来り、「明日とりに来る」と。12pなり。 (けふ11:00岩田生よりのCastilla1棹もちて原氏来訪。「忙し」とて殆ど話さず去る)。24:00まへ電報。「アスアサデンワタノム ヒロシ」。 10月7日 雨。至文堂来ず。12:30出て成城学園。講師室寒し。村松達雄君来しのち、監督にゆけばL3Aの中国文学史受験者は9名のみ。15:10までにすみ、栗山部長に会ひ、服部、久礼田2女史のこといひ、松村氏に駅前で茶おごられて帰る。 (けさ9:00大に電話かければ「あす三好達治氏に会ひに来ぬか」とのことなりし。「ゆけず」と答ふ)。 八木嬢「大原へゆきし」と。新坂康子生より見舞。 10月8日 晴、悠紀子、みな子の祝のことにて阿佐ヶ谷へゆく。京、運動会。われ留守し内職やる。すみて根木薫嬢より「帝塚山短大の副手となりし」と。涌井千恵子生より「16日(木)18:20上野水月旅館に入る」とのたより見、入浴。 悠紀子18:00帰り来り、「和田統夫転勤予定につき、あと借りよと姉弟いふ」と。夕食すませて大野家へゆく。 10月9日 晴、家居。午后東洋文庫より『華夷変態』2冊贈らる。うれし。 千草来りてくどくど云ふにどなりつけしも効果なく15:00去りゆく。夜、大野知子へ訂正の英作文を悠紀子にもちゆかしむ。 10月10日 晴。村松正俊教授より『果樹園』の受取。11:30出て聖心女子大。和田先生に『華夷変態』のお礼申上ぐれば「反対ありしも貧乏ゆゑ、と云ひし」と。岡部長章君防衛大学きまりしと。 14:40に講義やめ、渋谷より飯田橋。下車して支那そば食ひてゆけば、着換の時間なく、待合室で高沢伯母、柏井一族(※妻方眷族)に会ふ。和田總子、統夫の姉弟も来ゐたり。式すみ、披露宴にて挨拶ささる。新郎槙口昭次とて東平鍍金KKの社員(東京工学院?出と)。咸子はライオン歯磨に今後も勤めると。 18:30すみて帰宅。清水文子より礼状。 10月11日 杉本長夫氏にハガキ。13:00出て白木屋に「日南交流350年史展」見にゆきSieboldお稲に涙出し、安南語、Tagalog語、広東語そろへて売りに山本書店へゆけば1,500と。喜びて和田先生の「察哈爾部の変遷 上」のりし『東洋学報 41-1』買ひ、『唐詩概説(160)』買ひ『李太白』3冊みつけ(35×3)、大野昌子のため参考書2冊買ひ(100)、また白木屋ヘゆき案内書買ひて都電にて帰宅。 川勝重子父子より礼状と写真。俵青茅氏より「本送ったが着いたか、会社は昨年12月定年退職した」と。名坂八千子氏より『日本歌人』の会を19日にすると。夜、大野家へゆく。珍しく茶出せし。 けふ堀口太平君に電話してきけば『果樹園』に加入したと。 10月12日(日) 11:00まで眠り(ねざめせしゆゑ)、朝食せしのち林富士馬dr.に電話すれば「夜まで他出」と。畑山氏へゆけばくさや焼きて食ひをり。 Televiの野球1回半見て帰宅。 十条へ散歩し、新村博士『吉利支丹研究余録(60)』その他『東洋思潮』の3分冊(20×3)買ひて帰宅。 19:30林氏に電話すれば「疲れて眠る」と夫人の答なりし。 10月13日 原氏より「岩田生の食少し」と。11:30までに3冊の紹介かき、20号同人費500と製本代100同封、果樹園社へ速達し、林富士馬氏に電話せしも失礼といはず「同人会やるといひてすむ。」 17:00悠紀子、姉の家へとゆく。21:30帰り来り、古着多くもらひ来る。 10月14日 9:00浅野氏に電話し、「日曜『果樹園』の会を」といふ。手塚教授より「11月15日(土)の立教史学会に研究発表せよ」と。11:30立教大学へゆき、やることとなる。「清初八王、九王、十王考」やらん。「梗概を2枚20日までに」と。 聖心女子大へゆけば2名時間をまちがへしといふ子がありし。図書館に『李太白』寄附し、渋谷駅で白鳥先生に電話すれば「御夫妻とも他出」と。大塚で『文芸春秋』買ひ帰れば西村和子生より卒業の挨拶。 西宮一民君と向井順子(※帝塚山修学旅行先の)十和田ホテルより絵ハガキ。入浴。 けふ和田賀代女史より「統夫転任とならばどうぞ」との返事。退院は3月の予定と。 10月15日 晴。比留間一成氏より礼状。『詩人連邦32』4冊来る。午后、田中洋子より「つづけて勤めゐる」と。鍛治(武田)富子より礼状。『満蒙史料第13』。 夜、大野家へゆけば昌子参考書代100わたす。昨日弓子のとりくれし写真、実物そのままに写り、使へざることわかる。 10月16日 4:45おこされ、朝食して6:30家を出、7:00、taxiにて上野花園町水月旅館に着き、涌井生呼び、西宮君呼びして、朝食中のみなにお辞儀し、英文の講師(青山学院出と)、交通公社の佐々木君と会ひ、7:30宿を出て東急遊覧busにのり東京駅へ8:20着く。涌井生のほか向井順子生(拓殖銀行に就職せしと)、林生(秋田実氏の娘)、井上京子の妹、島浦放送局長の娘などをりし。9:00送出して西川に会ふ。あと疲れて帰宅。 久礼田夫人より「外出出来ざる故出版記念会は云々」と。東方学会より1,800-140研究費として来る。 午后雨やむ。夜、考へて「八王・九王・十王考」きまる。聖心女子大。東洋近世史Ⅰの採点すむ。 10月17日 名坂八千子氏より「日本歌人の会へ来い」と。12:00昼食して立教大学へゆき、立教史学会の発表梗概とどけ、手塚氏に会ひてのち、及川『満洲通史(200)』買ひて渋谷。時間あるゆゑ宮益坂を上って『ルチチア2冊(50)』『朝鮮(80)』『帝国主義の没落(70)』買ひてのち青山学院前よりbusにてゆく。答案まだ整理出来をらず、待つまに青山氏に会ふ。16:00出て帰宅。 10月18日 雨。成城大学へゆけば山本書店より『李杜詩選』19冊とどきをり、2冊のみ220と。学生に頒け、角田女生に集金たのむ。 11:30出て下北沢。昼食し古本屋にて長沢『支那文学概観(100)』買ひ、まっすぐ帰宅。 聖心女子大より。「5日の50周年記念式典に出るか」と。 午后、杉浦正一郎『芭蕉研究』来る。林檎1箱、涌井千恵子の浅虫より送りしが来る。夜、大野家へゆけば梨給ふ。聖心女子大。東洋近世史Ⅱの採点了る。 10月19日(日) 悠紀子は京をつれて映画。弓子は模擬試験。依子日直出勤のあと、採点して留守す。太田陽子夫人より「自動車運転手証受験のため返事おくれし」と。 石川喜久子に夫君案内されしと。田中雅子「帰省してゐた。来月半ば上京して会ひたし」と。 防衛大学より「木曜講義(10:25~15:05)」と。14:00悠紀子帰り来りしゆゑ昼食して和田賀代女史を清瀬の東京療養所に見舞にゆく。 来年4月退院むつかしさう也。 帰り桜台で下車、松本善海に電話してゆく。「11月3日京都へゆく」と。Brandy入りの紅茶のまされて出、池袋にて鰻丼食って帰宅。 防衛大学に「10月23日出勤すべきや否や。9:58のbusありやなしや」を問合せ。太田陽子、久礼田房子2夫人へのハガキと、涌井千恵子に「よみたき本いへ」とのハガキを、成城大学のnote作り了へてかく。杉浦美津子夫人へ(※『芭蕉研究』の)礼状。 10月20日 4:00一度起き、眠きも成城大学。教務へ採点提出せんとすればその「要なし」と、バカらし。短1Aに漢文の答案返し、中国文学史の教科書買ひゐるを知る。すませてrice-curry食ひ、臼井、富永、高橋の3氏と話す。高城助教授の細君創元社につとめ、昨日hysterieおこして校正やぶりしをことはりゐる電話きき、困りし。大に電話すれば「三好達治氏には電報でことはりし」と。 文化史教へ、高橋、富永(太郎25才で死にし弟と)2氏と駅にゆけば渋谷まで付合ふと。「columbin」にゆきcoffeeおごられ、『果樹園』贈る。 15:40別れて聖心女子大へ16:00ゆきしに教務不在。受付に採点わたし、急いで渋谷の住宅協会さがせば、もはや事務所打切りゐる。 帰りて史より「奨学金もらふこととなりし」とのハガキ。太田常蔵君より『東洋史(教養の歴史)』と一般教養に使へとのハガキ。松田亘代より「浜田姓となりし」と。涌井千恵子より「西宮君と喧嘩せし」との手紙。西宮君より「太田陽子夫人に電話かけし」とのハガキ。 大毎永井正三氏より「マナスル」の詩(※昭和28年3月大阪毎日新聞)を宝塚に使用させよとのたよりなど来をり。夕食了へしところへ坂根千鶴子来り、「近々芸術座の公演に女郎となりて出る」と。「無法松の一生」見にと池袋へゆきしに21:00にて中途とのことゆゑ西新井行最終のbusにのりて帰り来る。 林富士馬君に電話せしに、よべ不眠にて『文学界』にゆく日と。『果樹園』合本受取らずと。小高根二郎氏より受取り来をりし。 10月21日 大毎永井氏に「諾」と返事。松田亘子へ祝ひ状。防衛大学校中川事務官より「23日講義あり。Busは9:55馬堀発」と返事いれちがひに来る。浅野建夫君より博士号授与内定、丸の坊や来ず」と。修道社より『現代紀行文学全集』に「虹霓」(※リンク)のせよと。12:00『白楽天詩集』4冊もちて出、小高根家へ返却。 成城大学へゆき、途にて栗山部長に会ひ、salaryもらひて松村君と話してのち中国文学史。出席少く、けふより長沢規矩也『支那文芸史概説』用ふ。15:10すませて松村君と出、西鉄-巨人戦をteleviで見る。6-1で西鉄の3連勝きまりし。市ヶ谷より神田、山本書店に『李杜詩集』の立替払(4,520)し、『唐人十観(190)』『李白詩文繋年(140)』買ひ、神保町より都電。秋葉原より国鉄にて帰宅。 前川佐美雄氏より「『日本歌人』11月出る。次号の原稿を3日までに」と。 10月22日 雨。立教大学史学会より34年10月10日までに『史苑』のため5~60枚かくやと。「かく」と答ふ。 中川事務官よりまた往復ハガキの返信。夜、大野家へゆけば松茸賜ふ。 けさ丸家に電話せしに「重俊君不眠症ゆるびしゆゑ浅野君にゆかず」と。Gogh展にゆかんとさそふ。 10月23日 7:00起きし。7:30出て品川にて8:20にのり、馬堀海岸で前のbusにのれ、教務課の中川明事務官に会ひてきけば「教務部長来ぬ日」と。給仕もかはり三田村女とて感じ宜しかりし。10:25まで待ちて2classづつの2組教へ、寒がりつつ帰宅。 丸より「重俊かまはぬこととす」と。菊地成子より「11月18日結婚」と。堀口太平氏より「堀内助三郎氏を同人にしてくれよ」と。鍛治富子より祝返しに靴下。 10月24日 曇。よべよく寐ね快し。正平より「今週中に来る」と。古田房子より「信州山田温泉へゆきし」と。 午后『biblia12号』八木君の統計のりをり。つまらず。南村和子より「一時帰国の夫に会ひに東京へ、29日~1日滞在中にHotelTokyoへ電話くれよ」と。 10月25日 雨。成城大学へゆき、杜甫を教ふ。角田生、教科書代4,520集めくれし故、礼にと『李太白』与ふ。 出て下北沢下車。『キリシタン文化概説(30)』買ひ、rice-curry食へば、雨降り出す。 けふ〒なし。都税とりに来しと。(『斎藤茂吉歌集』買ふ)。夜、大野家へゆけば夫人謝礼のこと云ひ、明日11:30より会すといひて礼はくれざりし。 10月26日(日) 雨。10:00すぎ堀口太平君来訪。(和歌山の西保=梅田夫人より手紙。「第2歌集を我に献ず。12月か1月上京」と)。 大野家へ2度電話して「ゆけず」と云ふ。堀内氏の紹介は貴下自らもせよと云ふ。昼食して帰りゆく。散歩に夕方出てter-paper買ひ来る。けふは天理の秋祭ならん。 畝傍山の雌雄たしかめにわがゆきし 雌にてありけり雄にてありけり。 10月27日 晴。成城大学。漢文と文化史。帰り文化史courseの4生とともにし、帰れば『東洋思想講座』つきをり。東洋史談話会「11月9日(土)17:00より600」と。史学会大会この日あるらし。 よるふけて総身に汗を掻きてをり のぞみたちぬとさだかならぬに。3時まで眠れず。 10月28日 悠紀子感心に起き、朝食の仕度し出せしに、京阪旅行に5:00集合の弓子も起き、安心して眠る。 8:00速達、宝塚歌劇団芸能課上村健次氏より「マナスル登頂隊を讃える」の詩詞拝見したしと。倉敷レイヨンと大日本紡のためと也。「成功を祈る」の詩にして手許になしと返事。 岸明子「安田姓となり、横浜市神奈川区中丸に住む」と。服部三樹子氏より「保田の新宅の植樹の金あつめる」と。 また雨の中(京、大宮へ遠足にとゆきし。日教組の反対闘争なるらし)出て成城大学。いやな顔して坐りゐれば池田教授「土曜会ありて石田幹之助先生お越し」と(わが事云はれし?)。やがて電話かかり、米国大使館日語学校の相川氏とて未知の人、「台湾のX氏、楊貴妃のことききたく来る」とのことに「われより行く」といひ、講義すませて代々木八幡下車。 ゆけば意外にも相手は米人Haward Seymour Levyとて美国外交学院華語学校長(駐台中)、日本語にて話し、わが「楊貴妃伝」を台湾にて李振華なる人訳し好評、自らも安禄山しらべたしと。『楊貴妃とクレオパトラ』見たしとのことに、1、2日中に持参すといひ、通報にのりし論文看すときき、再見約して辞去。 帰れば八木嬢よりたより。眞柱より何好きかときかれ「コーラスと短歌」と答へしと。自信なくしたらし。 眠くて18:00眠り、覚めれば21:30。この間、中野清見より速達「明29日15:00弁護士会館にて会はん」と。 10月29日 朝早くおき8:30舞芸に電話かければ「坂根生まだ来ず」と。中野清見に電話すれば「すでに出し」と。 10:30出て池袋。舞芸にゆき12:00すぎ来るといひ、立教大学の会計にゆきてきけば、「部長の達し通り10月よりなし」といひ、またしらべて「あり」と云ひ、10月分呉れる。 研究室にゆきしにけふに限り無人。『李白 下』買へば予想通り黄錫珪の『李詩編年』を見しのみ。舞芸にゆき坂根呼び、『楊貴妃とクレオパトラ』とりにゆかせ、うなぎ食べさして「けふ俳優座のextraとして初舞台」ときく。 池袋駅前で別れ、河出書房に再び電話し、『楊貴妃とクレオパトラ』のぐろりあ版260pときき、日語学校にゆきて受付にわたし、新宿よりbusにて横田門。 第一弁護士会にゆけば丸、出廷。中野15:30に来り、われ茶とbeerおごり不景気ときく。「その中に八戸へゆく」と云ひ、丸と落合ひtaxiにて上野。Barにて関係人待つと話し、17:30となりて帰宅。 酔ざましに茶漬食ひ、京叱る。堀内歴より「林富士馬氏なぜ書かぬか。堀口太平氏の入会喜ぶ」との手紙。涌井千恵子より「薄謝のみ、本いらず」と。 大野家へゆき知子京都旅行とて、昌子ひとりを教へ、2,300もらひて帰る。 10月30日 8:30品川発の急行にのりて馬堀海岸へゆけば大学のbus来る。教務課へゆけば「print出来てあり」と。三田村女にきけば「岡部君先週まで来ざりし」と。 辞令呉る。「非常勤講師(東洋史)を委嘱する。1時間手当600円を給する。期間は昭和33年10月23日から34年3月12日までとする。(発令日付10月23日) 校長 槙智雄」とあり。 午休み、麓氏に挨拶にゆけば「岡部君、東横学園への了解状不備のため欠」と。独語千疋氏と一緒に帰り、兼任を気の毒がらる。王子で岡部君に電話せしに「チガヒマス」との返答なりし。 渡辺三七子より「恋仲と解消した」と。父より「史が弓子に会ひにゆきし」と。弓場、加藤、川勝3生より「昆布贈りし」と。けふ河出より本2冊返しに来しと。成城大学より「至急採点報告せよ」と速達。 10月31日 弓子早朝帰宅。午すぎまで眠る。史に500、父に200もらひし由。午后入浴。成城大学の採点すます。 夕食後、林dr.にゆきしに「映画見に出し」と。 11月1日 曇。8:30家を出て成城大学。教務へ採点届出づ(採点表わすれ再びもらひし)。杜詩やり11:30となり、坂本浩氏に『果樹園』贈りて出、下北沢にて下車。rice-curry食ひ、新宿にて東京Hotelといふに電話かければ別にて、池袋下車。宮崎女史に会ひHotel Tokyoにかければ南村夫人不在。『日本歌人』の原稿いそがずとよろし、名坂八千子夫人気にしゐると。 帰宅、安田明子夫人より「東横反町駅にて待ちて宜しき故、前日しらせ」と。 角川書店大村ととふより「立原の系図」返送し来り、「昭和13年の立原について書け」と。『果樹園』34号。夜、大野家へゆく。 11月2日(日) 依子いつものごとく出てゆく。角川の大村へことわりの速達(postへ)。渡辺三七子へ手紙。 森亮氏より「15日立教大学での日本比較文学会に上京」と(「その日会場へ訪ねる」と返事)。河出書房より校正。 11月3日(文化の日) 雨、依子、会社の運動会。林富士馬氏に電話かけ、「19:00頃訪ぬる」と決む。 河出書房に電話し、けふ休日と知り「校正明日届ける」といふ。林富士馬氏より「西垣氏に書けとすすめし」と。やめしにてはなかりし也。 西宮一民君より、この間東京駅で上畑芳一講師に撮ってもらひし写真2枚。井上恵子担任とならざる理由。村田温東京へ嫁ぎ来ると。 南村夫人よりことわり状。「石浜先生古稀記念会を16日(日)13:00行ふ」と(欠席と返事)。 18:00林dr.にゆけばwine出され、梨賜ふ。森亮氏のことにて西垣氏に電話すれば他出。16日午后『果樹園』の会行ふときめる。夜半までかかり借来の『ももんが』9冊看了る。 11月4日 9:00出てお茶の水下車。河出書房へゆけば佐藤、吉村2氏未出勤。受付の女史に伝言たのみて出、筑摩書房。「東博氏、北里病院に入院」と。竹西嬢もゐず、代りに来し女史に涌井千恵子へ『現代詩集』送ることたのむ。出て東京都民銀行。加藤君をり、「嬢は聖心の2年生」と。立教と成城に従兄弟伊達氏ありと。の 出て中教出版に小山正孝氏訪ね、角川に断りいひしこと告げ、けふ『日本歌人』に速達にて送りを云ふ。立原母堂系図をもちたまふと。「新宿にて16日会せん」といひ、波木井書店にて大川周明『大東亜秩序建設(10)』、『高青邱詩の鑑賞(30)』買ひお茶の水へ出てbusにて(※東京)大学。東洋史研究室にゆき、小山助手に自己紹介して『韃靼漂流記の研究』2週間借りる。警職法(※警察官職務執行法)反対とて学生大会しをり。 帰宅。久礼田夫人より不満げのハガキ。矢野峰人先生より久礼田氏と同級とのおたよりと来をり、ふしぎ。 午食し悠紀子、都営住宅の申込にゆきしに八木嬢より履歴書来る。「chorusを医師にとめられし」と。 11月5日 晴。警職法反対闘争とて騒しきらし。「八王、九王、十王考」を考へて日をすごす。浅野晃氏より礼状。 16:00慶応の勝ちしをききて散髪、自民党ひいきの声をきく。夜、大野家。 11月6日 晴。冬服を着て8:40品川へゆけば、特急おくれ心配せしもbusに間に会ひし。 (※防衛大学)阿部主任に挨拶にゆけば「東横学園にて岡部君の兼任認めざる故、青山氏と相談の上、われに引受けさす」と也(6時限すみてきけば明日聖心女子大にて相談とのことなり)。 午食ののち、けさ登校を見し保柳睦美教授に挨拶にゆき、東洋大学のこと話す。専任をさがしてやらんと也。 帰り、例の如く千疋助教授と同行、7:00品川発にのれば8:30の1限目にまにあふと也(けふ阿部教授より専任を置くつもりときく)。 山本達郎氏より転居通知来あり。夕方、川久保来り、「史学会に」と云ひしと。 11月7日 11:00聖心女子大へゆき図書館見しも『二十四史』のみ。青山教授に会ひ、安部主任の話どほりわが合併授業ときまる。海老沢部長より『吉利支丹心得書』賜はる。 和田先生お越しになり『東洋学報』刊行されしと。2時間教へ、先生待ちて渋谷までお伴す。ますます言語不便になられし御様子にて哀し。池内先生の7回忌近々ある様子と。われには案内なし。 渋谷郵便局探して阿部鵬二主任に速達し、中村書店まで歩き、「詩会によき場所を」といへば渋谷食堂教へらる。森亮氏『ルバイヤット(230)』ありし故買ひ(その前、途中にてBaedeker『Belgique et Hollande(20)』)、渋谷食堂へゆけば「16日満員」と。 堀口太平氏へ2度目の電話し、新宿よりbusにて(豊島園行)山吹町、ゆきて(※『果樹園』の)会席探してもらひ、通知たのむこととし、busにて池袋をへて帰宅。 すぐ電話して通知すべきaddressをいふ。立教大学より15日の史学会大会にわれ午前の部の最後となりをるを見る‼ 夜ふけて中野清見へ見舞(けさ北海道大地震)、南村和子、涌井千恵子2生へハガキ。久礼田房子、矢野峰人先生へ同。 11月8日 10:00立教大学へゆきしに無人。海老沢氏来しと話し、山田嘱託の来しにprintたのみ東洋文庫。川久保来をり、『清皇室四譜』借りしも『宗室王公功績表伝』なきことを知る。昼食し、池内先生7周忌は鈴木俊氏の主催。羽田の来否不明とわかる。14:00帰宅。 夜、大野家へゆき「来週より18:00はじめる」ときめる。鈴木生母子来り「またたのむ」と。「様子見ん」といふ。丸に電話し「Gogh展ゆけず」といふ。 11月9日(日) 眠りゐしに8:00山本嘉蔵氏来訪。「10:00まで藤田亮策先生の所にゐる」と。あと追ひてゆき、いろいろお話承る。「勧学院大学を角田文衛氏こさへし」と。「信江夫妻、紀州田辺へ転任」と。 帰れば防衛大学より「校外club宿泊を12日(水)に申込んであり」と。16:00家を出て雨中、本郷の学士会館にゆき、青木富太郎氏に会ひ、待つ中、17:00史学会了り諸氏来入。太田(※太田七郎)、川久保(※川久保悌郎)、松本(※松本善海)の3同級生と坐る。鈴木俊氏「千歳船橋に転居、一度来よ」と。平中苓次氏「東洋大学のことききし」と。中山久四郎、原田淑人、鳥山喜一、宮崎市定などお越し大盛会なり。隣に来られしは岩生成一博士にて、台湾のこと話す。 20:30和田先生のお話すむ。「田中克己もすすめし故」と仰せありしに落涙。あす池内先生追悼会に参ることとなる。 けふ岩生先生に承れば「頼永承君2年間アメリカ留学」と。防衛大学中川氏へ「校外club宿泊とりけし」を速達することとす。 11月10日 8:30出て靴みがかせて成城大学。池田教授(※池田勉)に『果樹園』贈り、高橋邦太郎・富永次郎2講師といつもの如く話せしも、なぜか憂鬱。 午后すませてお茶の水の中央大学にゆけば14:30。(※池内宏7回忌の集り)三島一氏の挨拶はじまりしところらしかりし。松本に注意されて池内一氏に挨拶す。中山八郎、百瀬弘、平中苓次、守屋美都雄、佐中壮の近畿同窓も来会。のちほど挨拶せし中に守屋のみ欠けし。川久保が立替へてくれし供物料500かへし、羽田に喫茶店にて寄書(夫人は6日帰洛と。羽田の立場苦しくなりゐるとは松本の話なりし)。水曜11:00松本に本見せてもらふこととし、堀口太平氏神田の「マイアミ」2階を16日のため見つけてくれ、しらせに来玉ひしと。電話かけてたのむ。 けふ成城大学へ前川佐美雄氏のハガキ来あり。『日本歌人』の刊行おくれると。八木、西宮、上畑3氏へ礼状(松本の話にては「昨日和田先生講演中、 歯より出血され、山本教授心配せし」と。我は気付かざりし)。 11月11日 10:30出て立教。けふは手塚教授に会へて「菅部長に挨拶せんか」といへば「その必要なし」と。 12:00出て池袋駅前でrice-curry食ひ、成城大学。教務部長に15日の休講といひ、今井富士雄氏に会へば「近々話さん」と。新城氏といふが日本史の講師に入りし也。 栗山部長見つけ、研究室へゆき防衛大学の話すれば「断れ、こちらへ迎へるつもり」と。謝して松村君と話し中国文学史。けふより出席とる。 15:00すませて、ふと大江へゆきて見る気となり、busにてゆけば房子をり「叔父叔母13日上京」と。17(月)18(火)なら都合よしと云ひ、「夕方ゆく太田夫人の姉谷口英子氏とは1年同級にて同窓会にても会ひし」と。ふしぎなり。渋谷をへて帰宅。 正平「帰阪しゐる」と。涌井千恵子に『現代詩集』つきしと。『日本歌人』の会16日(日)13:00と名坂夫人より御案内。 18:00家を出て都電にて小豆沢(あづさわ)下車。あやぶかりつつゆけば、谷口家見つかる。陽子「姑に怪しまれるゆゑ電話困りし。姉の家でもゆっくり出来ぬ。石川喜久子11月女児を生みし」などきき、19:30taxiよんでもらって帰宅。土産に昆布もらひし。 けふ『週刊明星』に「聖心女子大英文出の正田嬢、皇太子妃に内定」とアメリカよりのニュースをのす。 11月12日 雨やみし10:00すぎ、松本を研究所に訪ね、『瀧川博士還暦記念論文集』の鴛淵博士(※鴛淵一)の論文と橋川時雄博士『異国物語考釈』とを見せてもらふ。2博士ともに可怪。 午まへ礼云ひて出、大塚にてラーメン食ひて帰宅。岩崎昭弥より「詩集の原稿を点せよ。跋文かくならかけ」と。安田明子夫人へ「その中に」と。 けふより大野家、18:00よりとて忙し。19:50帰りて入浴、悠紀子めざまし買ひ来る(700)。 11月13日 悠紀子4:00起き、われ5:00に起き、6:00まへ家を出て6:40品川発の普通急行にのり8:20防衛大着。loud-speakerを中 川氏つけてくれをり、1時間おきにやる。麓教授来られし故、岡辺に代りて礼云ふ。図書館へゆきて書を検せしもなく、『東洋歴史史料』に神田信夫氏わがことをよく引くを知る。 16:00まへ7時間目をすませ、保柳教授とbusのところにて会ひ、我は横須賀線にて帰り来る。 悠紀子に姉より速達。「三鷹に2間の家あり、礼2万円毎月6千円」と。八木さんよりまた履歴書。山内生より「日生にての苦情に放念せよ」と。森亮氏より「立教にて会はん」と。帝塚山短大の同窓会より「23日国際見本市会館にて」と。 11月14日 9:00出て『果樹園』へ「東京通信」速達し、東洋文庫へゆき、『清史列伝』と『國朝耆獻類徴初編』借る。川久保来をり、けふ聖心女子大学へ和田先生お越しのこと云へば「参る」と。 11:20出て高田馬場で下車、そば食ひ、聖心女子大へゆく。和田先生13:10お越しになり、「(※チャハル)察哈爾部の変遷」の抜刷たまふ。 わが名を引き賜ふ。 15:00まへすませて先生待ち、受付できけば川久保来ず。石川喜久子の10月1日出せし航空便を「おそくなりて」と渡せる。先生、羽田の立場御存じにて「お父さんのあと継げない」の評ありと。わが一番の親友なることを申上ぐ。 渋谷にてお別れし、大塚をへて帰宅。 昨日につづき悠紀子、家のことにて姉と連絡するらし。 石川喜久子の手紙あけ見れば「夫君ユダヤ系にて同い年。Calif.大学でいま教会学の博士course。あと2、3年かかる。太田父君とは2、3時間話したのみ」と。親戚に『セールスマンの死』を書いたアーサー・ミラーありと。 11月15日 雨。8:50出て立教大学史学会に出る。わが前に菅部長の挨拶あり。やれば時間足らず説明不十分にて手応へなかりし。 すみて午食を海老沢氏とともに出てcurry店に案内さる。午后、中山久四郎博士来られず、桑田忠親博士の「天下一の号」をきく。その間1:30に比較文学会にて森亮氏を捉まえ、17:00と約しありし故、晩餐会を中途でぬけ出して会ひにゆき、原稿返却す。「明日の会に出る」と。 白鳥先生と来週木曜を申上げ、わが隣席に坐りし中屋健一氏と話す。18:00すぎ記念撮影し、白鳥先生と駅まで同行。「善隣の齋藤貢、東洋大学の理事となりし」と。「鮎川義介3千万円貸せし」と。 帰宅すれば坂根千鶴子より「火曜来る」と。川久保より「聖心女子大へ15:00すぎゆきし」と。浅野晃氏より「明日先約あって出られず」と。 大野知子来り、あす10:00はだめとの故18:30にと約束す。けふ悠紀子の見にゆきし三鷹の家は実は貸間なりしと。 11月16日(日) 晴。朝、堀口太平氏に電話して礼云ひ、3:00出て池袋西武dept.の『日本歌人』の会のぞき、東大生の詩も作るといふをたしなめ、名坂八千子夫人に挨拶して、都電にて水道橋。文芸春秋の蓑田胸喜のこと書けるを10にて求め、よみつつ神田駅に下りれば、堀口太平君待つ。 やがて西垣君来り、小山、林、芳野、主賓森氏と7人となる。服部三樹子女史、『日本歌人』には『果樹園』(※出席)を申立ておき乍ら来ざりしは何やらん。われのみ愉快となりて17:00まで坐り、散会。 帰りてすぐ大野家へゆく。 11月17日 朝、大江叔母より速達「今日は終日、世田谷にをり」と。9:00まへ出て成城大学。午后の文化史を113教室に変更。すみて講師室にをれば、土曜にも来しと早川敏一氏なる禿頭の人来り、話きけば大高9回、柔道部にて西川の紹介と。今宮にて博物学会なりしと。泰国より復員の大尉。予備校などやりゐて結核となり、現在無職。教師に世話せよと。家までゆき(成城町)、夫人と2児の幼きを見て惻隠と同時に困惑。 別れて大江へゆけば千草をり、大分腹立ちしが、叔母より3千円もらふを見、夕食よばれ、正平と3人にて帰る。 けふ父より20日夜「筑紫」にて上京、宿は大が世話すと。中野清見より沖釣りに出しと。 (けふ大江叔母にきけば「老夫婦は実の新宅に同居」と。来年祖父の50年祭にゆくを約す。) 11月18日 雨。12:00出て立教にゆけば手塚教授研究室に不在。待つ中、小林君来り、さりげなく話す。13:10となり、やむを得ず出て成城大学。松村達雄君に早川敏一君の話すれば「難し」と也。 15:20ともに出て話しながら下北沢にて別れ帰宅。田中忠雄氏より三水会に招かる。「あす短波放送会館6階池田事務所にて17:30より」と。鶴崎裕雄生「見習社員となりし」と。服部三樹子氏より「風邪なりし」と。村田温より「12月9日(火)18:30第一Hotelにてcoke-tail partyす」と。末吉栄三より「29日(土)18:30蜻蛉会す。トンボの為に出て下され」と、ふしぎ。 夜、坂根千鶴子来り「きのこ(※配役?)」になりし話す。 11月19日 晴。河野(浜谷)弘子のこと昨日心配して坂根と話せしに便あり「山本恭子離婚せし」と。 修道社より『コギト』につき速達にて問合せ。小山正孝氏より『四季』終刊号。 12:30出て大野家へことはり云ひ、東大東洋史研究室へ小山助手に『韃靼漂流記』返却にゆき、busにて池袋。 立教大学研究室にゆけば白鳥先生おいでにて、手塚教授をらず。立川生つかまへてきけば「すでに小林通雄君には告げし」と(英夫の息と)。ともかく論文返却し、白鳥先生に「郁郎君の原稿出版につき努力す」と申上げ、庫吉博士の雑録面白しと承り、その出版交渉も努力せんと申して16:00出、渋谷にて喫茶。 訊ねて短波放送ビルにゆき、齋藤晌、佐藤、田村、田中忠雄ら5氏と浅野晃氏の話きき、宏池会との袋入り3,000もらひて虎ノ門より地下鉄にて22:00帰宅。 11月20日 5:00起きパン食ひ6:26東京発の横須賀行にのり7:43着。7:52発のbusにてゆけば8:30に丁度なりし。 吉田氏より電話、「木金2日出勤の心得で」と。行事にて15:30了るまで研究室寒くてよはる。阿部教授には礼云ふ。「専任問題未定」と。 帰りは横須賀中央までbus(20)。『文芸春秋11月号(60)』買ひて帰宅。 森房子氏より歌集2冊。『民間伝承』11号。三浦久子氏より『ラマンチャ』19号、中に「萩原葉子さんと来たし」と。 石川信夫氏より「11月末までに2頁分かけ」と。林富士馬氏より「家庭に束縛される」と。菊地成子より「松島の帰り21日頃訪問し来る」と。 11月21日 曇。寒し。冬over-coat着て聖心女子大。和田先生に白鳥博士の随筆集のこときけば「まちがひだらけだよ」と。2時間すませ(卒業album用の写真とってもらふ)、講師室に帰れば和田先生まち給ふ。蒙古史の話して、先生のまちがひ「喜んでゐるね」とのお話なりし。 渋谷でお別れし古本屋を見、大塚で下車、また古本屋見て帰宅。気にせし菊池生来ざりしと。渡辺三七子より便り。村田温子・安宅隆氏より(※結婚)案内。 けふ年賀ハガキ200枚(×4)とport-wine(205)と買ふ。山田孝雄博士85才でなくなられ、俊雄助教授は3男と。 11月22日 成城大学へゆき久しぶりに杜甫やる。すみて高田瑞穂教授にさそはれslide「藤村」見る。了りて川上生に案内させ「七面鳥」といふに昼食しにゆき(salaryもらふ)、13:00よりといふ国文学会にあはてて引返せば14:00より開会。 池田、坂本教授ら8人と雑談、12月21日忘年会を「秋田」でとさそはる。山川京子氏より『日本語を愛する人に』といふを賜はる。 かへり目白で下車せしに古本屋休み。井上書店で矢田俊隆『3月革命』買ひ帰宅。 藤野一雄君より小林英俊氏に『果樹園』送れと。大河原倫夫より「阪神電鉄の重役となりし」と。 大野家へゆき『ビルマ戦記』買ひ来ってよむ。 11月23日(日) 大に電話かけさすれば「けふ夕方、父帰らん」と。上田隆一氏より速達「阿津子生学校をやめ演劇のため家出し、上京したしといふ、宜しくたのむ」と也。 午后、畑山博氏訪ねしに、夫妻とも結婚式にゆきしとて不在。帰りて大に電話かけさしてのち、19:00出てゆけばまだ父帰らず。やがて某女史をつれ帰る。25日帰阪の前来ると也。某女とtaxiにて渋谷に出て帰る。 11月24日 成城大学へゆき、寒がり乍ら漢文教へ、午食に高橋邦太郎氏よりHam頒けらる。そこへ今井富士雄氏来り、「午后の文化史の時間に学生を借りる」と也。きけば「日本の祭」なる映画見にゆくと。同行約す。(貴殿、専任をたのまれる筈ゆゑ、来年の学科につき日本史の新城氏と相談せよ云々)。 やがて電話かかり池田教授と3人にて学生10人とゆく。「東北の祭」なりし。すみてcoffeeのまんと誘ひしに2氏避け、相馬生ひとり掴へ「New Tokyo」の下にてのませ、東京駅にて別れて西川にゆけば、福島夏樹君とて同社員の息、日大芸術科生を大へ紹介ささる。日本橋を都電にてゆき本郷で下車。『北京年中行事(90)』買って帰る。岩田生より「来年3月(※不倫相手と)結婚するつもり」と! 11月25日 11:30出て立教大学。手塚氏に会へば用なし。海老沢氏「あさってTeleviにて皇太子について語る」と。 手当もらひ、この間見かけし古本屋にて青木富太郎『マルコ・ポーロ旅行記(120)』買ひ、rice-curryたべて成城大学。 松村君Gogh展見にゆくといふと連立ちて下北沢。『ゲエテ詩集(30)』、西村真治『人類性文化史(60)』買ひ、「Penguin」にて紅茶のみ、森本女史にことづけたのみて帰宅。 父15:30より来をりしと。史に本送らせよといふ。富士鋼業は早くやめをり、大岡、会計課長などもやめさされしと。依子帰らず20:00出てゆく。 萩原葉子氏より『青い花3』。けふ受取りし手紙に「12月祖父50年祭云々」と。 11月26日 聖心女子大学より追試験を書留にて。午すぎ散髪し、東十条へ散歩。『白居易 下(150)』『中アジアの風雲(60)』その他に英語入試用2冊買ひて帰り来る。 岩崎昭弥より「多忙、よろしくたのむ」と。夜、大野家へゆけば「中学2年も1人世話してくれぬか」と。ことはりてすみ、3,300もらひ、 Burma戦記また1冊買ひ来る(50)。岩崎昭弥が為なり。 11月27日 5:50家を出て横須賀線。(※防衛大学)1時限マイクまにあはず、すみて平田俊春氏の在室に気づき早川敏一君のこと云へば「友だちに心配かけて9,000の家賃払ひ、皇室中心主義を今も云ふ云々」と。我には『歴史教育』にまた書けと。 図書館にて『文芸春秋』よみてすごし、すませて横須賀中央までbus。うなぎ食ひ「正田美智子嬢皇太子妃に決定」の記事を『週刊朝日』でよみつつ帰宅。『東方学17』。「蜻蛉会を12月13日に延ばせし」と末吉栄三より。 11月28日 晴。聖心女子大の追試3枚採点し、和田先生の「察哈爾部の変遷」の固有名詞のtranscriptの私案写し、note不全のまま出勤。先生にお渡しすれば喜ばれし様子。 2時間すまし大喜多喜久子生より「マルコ・ポーロが伝える元の大都」見てくれと渡され、和田先生といつもの如く渋谷まで同行。先生、歯の治療をなさりをる。 古本屋見しも何もなく、魚の目痛くてたまらず。帰れば小高根二郎君より「受取った」と。 11月29日 成城大学へ登校。短大のbazarと文芸学部の文化祭と。川上生、登校の途「Kent」1箱くれ「麗人行」一つもわからずといふ。すまして丸煦美子の食券売場にゐるを誘ひて卵雑煮くひ、坂本浩氏と宮本学長の話す場にゆきしに挨拶なかりし。出て経堂、目白の古本屋見しあと帰宅。 魚の目いたく、入浴して薬つける。『石浜先生古稀記念東洋学論叢』と抜刷18部(20×18=360)と来をり。南村和子夫人より、ホテル東京に12月8日までゐるらしき便り。 大野家へゆけば「昌子、知子2人とも明日わが家へ来る」と。帰りてすぐね、南村夫人のゆめ見て4時目覚む。 11月30日(日) 大野姉妹来り、雨となる。大東幸子夫人より「噂きいてゐる」と。午后みな出てゆきしあと岩田生へ手紙。 12月1日 晴。一日臥床。齋藤晌先生より『雅友38号』。涌井千恵子生より「就職したし」と。100円切手。けふは文化祭の休日なり。 12月2日 新聞に「田中保子volley-ballの試合に14、15上京」と見ゆ。三浦久子より「萩原葉子さんと9日頃来る」と。森良雄より「長唄ききに来よ」と。 13:00出て成城大学。辻参謀の嬢ちゃんに『ビルマ戦記』きけば『ガダルカナル戦記』ならんと。 栗山部長、来週火曜にわが専任を議したまふと。 松村達雄氏と吉祥寺へゆきしに、招じられて夕食たまふ。日本レーヨンは父君常務たりしと。18:45出て杉浦家へゆく(途中、資文堂にて『中国国民党史(50)』買ふ)。未亡人他出と長女。菓子おき痛む足ひきずり竹内好を訪へば「都大の評議員会より未帰」と。 西荻窪へbusにて出、高円寺下車。都丸(※都丸書店)で『李太白(50)』『中国と私(70)』『俄華字彙(30)』買ひ、「赤ちゃん」(※居酒屋)へ寄り1本のみ(90)、『李太白』草夫氏(※赤川草夫)に托し、帰れば坂根氏来し、田村春雄博士来し、と。 小島館へ電話し、「明朝訪ふ」といふ。田中正平、万美子姉弟より便り来あり、ふしぎ。 12月3日 10:00小島館の田村春雄君訪ね、雞眼(※魚の目)の治療きき、丸の子のこといひ、ともに出て大松亮一氏に遭ふ。西郷銅像の前に出てより喫茶(丸に電話し12:30ゆくときまる)。 有楽町より第一弁護士会にゆき丸の用すむを待ちて松本亭でlunchおごられ、丸の金たらずなり困る。 新開通の霞関より地下鉄、大手町で下車。春雄君と別れ、産経に田中順二郎氏を訪ねしに外出。また地下鉄にて新大塚。大塚より都電にて帰宅。 下野(菊池)恭代より「姑、小姑と同居」と。立教大学史学科より11月15日の写真来をり。 魚の目にて跛ひきつつ大野家へゆき20:00帰り来れば筒井護郎(※今宮中学教へ子)来をり、「消防会議にて上京、宴会の隙見て来たり」と。21:00帰りゆく。防大のnote作る。 12月4日 いつもの如く5:50家を出、横須賀線にてゆき、マイクなしにて1時間目すまし、下野(菊池)、渡辺2生にハガキかき、阿部教授に礼いひにゆく。 「専任だめらし」と。通年講師を設け玉へとすすむ。 麓館長に抜刷2冊もちゆき、使丁に泥足を咎めらる。 帰り三田村女よりcoffee饗せられ、新開氏とともに横須賀に出る。Busにて保柳教授に話しかけらる。 中島悦子より「5日上京、2、3日ゐる故会ひたし」と。岩田生より生活の設計。 河出書房の吉武實氏『西洋史物語Ⅰ』もち来たまひしと。史より本5箱送り来り、「1,300の送料なりし」と、うれし。 12月5日 朝、あはててnote作り、西川英夫より「21日16:30より今中19期生会」の案内。住宅公団より「残念でした」の通知。 八木嬢より図書館26日より6日まで休みとの通知見て、聖心女子大へゆけば、和田先生、海老沢氏とともに手塚氏待たれ、「立教大学院、来年度聴講なければ学校の方針に従ふ」と。青山氏に「防大の専任だめらし」と云ひて講義。 大喜多生に卒業論文返し、和田先生待ちて同行すれば魚の目みとがめらる。帰れば西宮一民君より「朝鮮語『剣』何といふや」と。Cardの整理す。(大伴道子氏より『歌集明窓』)。 悠紀子に魚の目削ってもらふ。 12月6日 魚の目はなはだ楽となれり。今井富士雄氏に会へば「16日(火)文化史専攻の会す」と。坂本浩氏にきけば「13日国文学会」と。辻参謀の嬢『十五対一』を月曜に貸してくれると。 11:30やめて講師室にかへれば、いま中島生より電話ありし直後と。やがてまたかかり来て「ハガキ入れちがひに出した。歌舞伎座にあり、明日11:00ごろ来訪」と。東洋大学の三浦久子氏に電話して「火曜だめ」といへば「月曜来る」と。新宿でrice-curryたべて帰宅。 中島生のハガキと田中保子の「6日より在京」とのハガキ来あり。大野家へゆく前後、書籍cardsの整理す。 12月7日(日) cardsの整理了へし11:00すぎ、中島生のハガキ来る。「幼児の時、大連にありし」と。「山本恭子のこと知る」と。いろいろ話して昼食せしのち飛鳥山へつれゆき、16:00まへ悠紀子と新宿につれ立ってゆく。羅紗屋とて服地くれしと。 12月8日 (※成城大学)登校。栗山部長にと履歴書おく。(年賀葉書270枚印刷たのみしに「16日校正出ると350なり」と)。 富永次郎氏、「金子光晴の長男(早大仏文出)を講師にと佐藤輝夫教授より推薦ありし」と。 10:00ごろより雨となる。すみて帰り途、ひどく降る。 (西宮一民君に剣・刀の鮮、満、Dahur(※達斡爾)、蒙古語をしらす)。 19:30萩原葉子氏を三浦久子氏つれ来る。葉子氏の「父の思ひ出」を筑摩出すといひをると。三浦氏のこと『週刊明星』にのり林富士馬君恐縮しゐると。 田中保子より「入れちがひにわがハガキつきし」と。 12月9日 朝の便にて名坂八千子氏より「日本歌人の会を14日(日)13:00より」と。坪井明より「上京、東京駅前にゐる」と。 成城大学に登校。小高根二郎氏に『果樹園』着かずと問合せかく。やがて教授会はじまり、われ中国文学史の講義にゆけば、辻参謀の嬢『十五対一』を貸し呉る。すまして講師室に入れば、高尾嬢「教授会にて田中の著書に『楊貴妃とクレオパトラ』と出しところへ茶もてゆきし」と。松村達雄君と出て一旦帰宅。 (西川より電話かかりし故、かけ返してきけば坪井の宿舎の電話番号教へてくれし)。西川より電報ありしと。 河野弘子(浜谷)夫人より「成城へゆく故、都合しらせ」と。速達来り、立教より「来年度の時間割の問合せ」(20日までに答へよと)。 17:30出て新橋、坪井に電話かければ他出と。第一Hotelにゆき19:00まで待たされ(※村田嬢の結婚披露)式場へ出てcock-tailのみて媒酌の話きけば「新郎は安宅産業の一族にて関学出」と。やがて山本実子、井上和子、とXの来ゐるが挨拶に来る。新婦の友人代表は白百合の子なりし。 20:00出て坪井を訪ふ。「服部の長女、天理大のロシア語科に入りし」と。「福地邦樹に「大阪へ帰るや」と問合せしに断りし」と。 21:30出て、茶よばれて帰宅。井上和子に『悲歌』包む。 12月10日 晴。寒し。成城大学へ栗山部長に会ひにゆかんと思ひしが止めて家居。太田陽子夫人より「怒ってゐはせぬや」と。 『果樹園』やっと来る。夜、大野家へ教へにゆく。昌子生、全く出来ず、ふしぎ。 12月11日 曇。5:50家を出て防衛大学。昼食の場で小泉女に会ふ。阿部教授より礼云はる。 岩崎昭弥に今度の『果樹園』の詩、剽窃と注意す。「来週より3回を第一講堂にてmikeなしで」と教務より申し入れ。村上新太郎氏より「詩を年末までに」と。 12月12日 晴。11:30出て聖心女子大学。和田先生の「蒙古史」の載る論叢出来あり。先生お越しになり、学士院へゆかると。けふ早めに12月分のsalaryくれしゆゑ、広尾の通にて『或る小倉日記伝(50)』『人間詩話(70)』買ひ、大塚にてラーメン食って帰宅。 倭周蔵より「三井精機の常務となりし」と。田中保子より「12日夜行にて上京」と。入浴。 12月13日 早朝めざめ、大伴道子氏への手紙かき、『果樹園』へ「東京通信」の最後を書き、登校前速達して成城大学にゆけば、高田瑞穂氏より「(※専任採用)問題なく通りし」ときく。 13:30といふ国文学会のため、外へrice-curry食ひにゆき、早川敏一君訪ねしに留守。夫人に「月、火のいづれかに成城大学へ来られよ」とたのみ、引返して短大。14:30まで待ち、内田暁郎氏の万葉学きく(川上生ら「太宰治」をスライドにすとて相談に来る)。 16:10中座して池袋に下車、宮崎智慧女史に大伴夫人への便り托し、林富士馬氏に直接『文芸日本』の会へゆくと云ひ、帰宅。夕食。 成城大学より「火曜10:00に体格検査す」との通知来あり。 19:00『文芸日本』の会。三浦、公平2女史の外、芳野清君来をり、大森倖二君はよけれど大野教務課長をり。富沢有為男氏「坊や防衛大学3年生」と。のちほど挨拶に来らる。隣の女史はまた防衛大学の阿部教授の妹と。尾崎秀眞翁の次男に遺蹟わたす。「翁、昭和24年なくなられし」と。 19:00すみて「Orgol」といふへ2女史と芳野君とゆき、林君来るを待ちしに、あとにて随想社長来り、2女史喜ぶ。23:45帰宅。 (けふ中野剛宣君来しと、ふしぎ。悠紀子の話にては昨夜Radio-Dramaにて「苦い乳」とてイカリ村のこととして江刈牧場のことやりしと也)。 12月14日(日) 11:00出て畑山氏に寄れば無人。池袋をへて日本体育館の東西volley-ball大会にゆく。田中保子の出場たしかめるためprogram買ふ。背番号6にてforwardのrightなりし。3回目接戦なりしが3-0で負けしあと面会呼出せしに来ず、案内してもらってゆき菓子贈る。祖父君、4年制にゆきvolleyをつづけよと云ふ由。 別れて松平Hotelの日本歌人の会にゆく。そっ気なき連中ばかりにて古川夫人は見え、古川君は来ず。『日本歌人』の着くをまち、1冊もらひて帰宅。 坪井より「堀多恵子さんの文に君の名あり」と教へ来る。「石浜論文集を貴校に買はせよと刊行会」より。 夕食1杯のみ大野家。次を木曜の20:00よりときめる。鈴木生やや出来るやうになりし。coffeeふるまはる、珍し。 (ゆきに眼鏡のつるこはれ、預けゆきてとりかへてもらひし350) 12月15日 新宿へゆけば9:45の準急。これにいつも乗るといふ高橋邦太郎氏より新聞見せられてゆき、成城学園駅にて富永氏にも会ひ、昼食成城園ですることとなる。漢文成績の悪かりし子、休学と。 ゆきてすまし、昼食まてば富永氏に来客。2人にて出んとせしところへ早川敏一氏。歩き乍ら「大阪へはゆかぬか」と問へば「行かず」と。 高垣金三郎、欧州総局長となりてゆきしと。別れて高橋氏とたべ(駅前にて朝、高橋氏に挨拶せしは中河幹子夫人なりしと)。 本屋見て、講師室に帰れば中沢女生。2人ゆゑ講義いかがなさると。相馬生と3人となりしを講師室に呼び来り話せしあと、図書館鎌田女史に『石浜論叢』のことたのみ、まっすぐに帰宅。 井上京子より「自動車の免許とり、死にかけし」とのハガキ見て入浴。(下の風呂休みゆゑ上へゆく)。 帰りて18:00となれば坂根生来り、22:00まで話してゆく。 12月16日 「10:00までに登校せよ」との教務部長よりの達しに10:10にゆけばすでに3人あり。10:30、Health-centerといふにゆき 診察受く。体重41kg、身長164.7、坐位88.0その他なりし。 教務部長にまた会ひて(本俸2,97万+家族手当)×1.2と。「立教大学へは火曜以外は返答してよし」と。そのまま講師室にゐて栗山部長に会ひ、話し礼云ふ。 辻生に『十五対一』返却。「中国文学史」にて明代の文学すます。図書館にゆき「沖ノ島」見てのち15:40、駅へ出、向ヶ丘遊園入口の紀伊国屋といふにゆく。文化史専攻の会と思ひしも、学生には他の者も来り、新城、池辺弥、今井の3氏のみ成城卒なり。他に鎌田女史。 20:00となり、われ先出、鈴木生駅まで送る。 西宮君より礼状。小高根君より「1月号しめ切は10日なりし」と。(けふ山田俊雄氏より「『成城文芸』に30~40枚かけ」と)。 12月17日 田中保子より「岩おこし」来る。12:00立教に電話すれば手塚教授講義中と。年賀はがき270枚(350)取り来り、ゆけば13:30。木曜5~6を第一志望、金曜3~4を第2志望とし、講義内容を、清初史を民族史的にやると届け、佐々木喜市教授夫人の葬儀けふ13:00よりとの掲示見て、一旦帰宅。 井上和子より『悲歌』の礼状。山本夏津子より蜜柑の送り状。大宝印刷より360の受取見てのち、短波放送の三水会にゆく。 田村氏とて戦中満洲にありし人の主催。佐藤氏のtaboe(※タブー:禁忌)の話いろいろと考へさしたり。すむ頃、齋藤氏(※齋藤晌)来られ、東洋大との裁判順調と。 地下にて水炊きよばれ満腹。虎ノ門へ出てクセジュ文庫『中国文学史』買ひて帰宅。 けふ田中俊子姉より「千住に3,000のapart。権利金5万円ゆゑ入れ」と速達と電話。 12月18日 5:50家を出て横須賀線。けふより(※防衛大学)3時間目本館講堂にて故、話してすませしなど元気なし。 阿部教授に成城のほぼきまりしを云ひ、令妹のこと云へば「山室軍平の子息の後妻、芹沢光治良の弟子」と。 けふより入りしstoveにあたりゐれば、入り来し学生の胸札に富沢とあり。問へば果して有為男の令息なりし。ふしぎと云ふべし。 昼、中野清見君に旅行のこといひ、井上京子、田中保子2生にハガキかく。疲れて横須賀中央までbus。京浜急行にて帰宅。正平来り、山本嘉蔵氏来訪(夫人急逝されしと)。山本夏津子より蜜柑一箱贈られし。 けふ悠紀子、千住の住宅見にゆき、ことはると逆手に出る。小山正孝氏より『果樹園』を脱退すと通告。理由分からず。末吉栄三より蜻蛉会の報告とよせ書。 弓子の中学の図書館長、山口氏わが稿の批評賜ふ。20:00大野家へゆけば19:30のつもりにて3生まちゐしと。22:00近くまで教へ(鈴木生よくなりし)、歳暮にtobaccoと油もらひて帰宅。 12月19日 田中保子の母静子より礼状。『明代満蒙史料14』来をり。11:30出て聖心女子大。海老沢氏のところへゆき、論叢もう1冊もらふ。和田先生お越しになり、国際キリスト教大学のDayan汗(※ダヤン・ハーン)の部分は海老沢氏に云へと也。 2時間とも話し、Christmas-cardもらひ(先生待たれ、わが顔色わるしと心配さる)、渋谷にて別れぎはまた「お大事に」と。 池袋で下車。Busにて畠山茂氏訪ひ、久しぶりに会ひて転居のこと云ひ、正月来るといひて帰宅。 悠紀子をして新居の番地などきかしむ。 村松正俊氏へ『果樹園』包む。けふ小山正孝君へ(※『果樹園』脱退)残念とハガキ。 12月20日 成城大学へ東京、中国文学無人にてすごすごと帰り、浅沼、臼井の2氏と話す。臼井毅教授は東北大出身、岩手の人にて宮沢賢治やりたしといふ学生によき紹介せんと云ふ。われのことを「話術に巧み」といはれし。 図書館にて新城氏と今井氏待ち、来年の学科構成を相談す。新城氏、中々ねばり強く、結局われ来年は史学研究法を講ずることとなりし。 手当もらひ、小高根太郎にゆかんと経堂にて下車すれば、太郎君乗車せんと来り、ともに田端まで来る。 この2、3日悠紀子のこと念頭を離れざりしに、八木君仮名にてよこせし手紙を見せよと云ひ、われ拒みしとて一悶着。 大野家へ教へにゆき、鰻くひて帰り、また相撲ち話(※相討ち話)きく。(※離婚するなら)10年待て、公々然とやれ、先方へ問合せ出すとのことなりし。八木君1,000を同封、詩一篇を入りをりし。その詩かなしかりし。 井上多喜三郎氏より「小林君小康」と。山本嘉蔵氏よりの贈物、わが家見つからずもち返りしと。 けふ西川に2度電話せしに不在。井辺太郎と話せし。 (栗山部長、わが体格検査異常なく、金子光晴の令息森君ひっかかりゐると云はれし)。ふしぎなる日なりし。(転居通知を賀状に兼ねささんとゴム印あつらへし‼) 12月21日(日) 9:00悠紀子来り、(※八木氏への)手紙の代筆せしむ。文意をなさず中途で止めしも出すといふに、着換へて出て飛鳥山にて散髪。西川にゆききけば「公団住宅の転貸は認められず。やめるが宜しからん。礼金は権利金と同じく転出の際有効」と。「西原直廉また渡米、高垣(※高垣金三郎)はLondonにあり」と。 午となり、すし注文されしも中々来ず、ともに出しは14:00か。正門前にてtaxiひろひお茶の水につき、わが払はんとするを西川とめて払ひ、国鉄の代また払ひくれ、platformにて気がつけば紙入なし。ふしぎなることかな。 高円寺で下車。丸にゆけば在宅。中野剛宣君のaddressきけばしらず。岩波教育映画とりに房州にある筈と。2,000借りて出、本位田昇君によれば在宅。「兄君(※本位田重美)この間上京したりし」と。 17:15出て新宿「秋田」にゆきてきけば、「成城国文学会(※予約)きかず。臨時には満員にて不可能」と。 池袋へ出て鰻食ひ、『燕台識餘(40)』、『高村光太郎像(70)』買ひて帰宅すれば、悠紀子、京をつれて出しと。2女飯こさへ、内職手伝ふ。 硲晃氏、大東夫人、山本嘉蔵氏よりの贈物つきをり。われ入浴して2女と話せしあと就床。 何事もなく20年すごし来し友と妻とを吾はうらやまじ。 石神井の川に流るる追憶の美しかりしそも幾日ぞ。 12月22日 小春日和ずっとつづく。10:00ごろ人の出てゆく気配に起き、茶の間へゆけば「克己様」との(※妻の)手紙おきあり、母の墓へゆき田中順二郎にゆくと。 田中正平より浜松にありと。昼食何とかし、14:30また便り来しをあはれみ、簡易保険払ひ、帰り来し京にきけば「きのふ阿佐谷へゆきし」と。 京に焼芋買はせて食ひ、弓子帰る前、悠紀子帰り来り、みかん持つ。その後、子らの夕食の仕度し、わが分は弓子してくれし。けふ簡易保険払ふ。 あなあはれ、静かに流る川の面としづかにくづる炭のおきとを。 悠紀子、依子の夕食の仕度をしてえづく。 夜、中野清見、山本夏津子2氏へハガキかく。夜半めざめ、王子中学山口氏へ礼状かく。野田又夫『デカルトとその時代』を弓子に托せん。(松本清張の『断碑』は森本六爾伝。われ弟の名を思ひ出せず)。3時『薔薇』へと「小春日和」かく。 賀状親類へ10枚(昨年と見計ひ)父、城平・大江叔父叔母、林(※叔母)、肥下(※肥下恒夫)、和田賀代、大江勉、丹羽千年、難波逸夫、西島寿一。 12月23日 そのまま寝ず7:30起きて朝食し、依子に郵便たのみ、またねてゐれば10:00悠紀子起し、話きけと。「京都へゆき八木さんに会ふ」と云ふに、呼べといひ、会ひての話ごちごちと云ふ。10年待てとなり。 すみて譏嫌直り、和田先生へゆけと云ふに(河野弘子夫人より物送ったと)、まづ藤田亮策先生に参れば無人。隣家に『通訳Gûlumalûn』と海苔と預け、池袋の立教大学へゆき、12月分手当受取り、東武dept.で鰻食ひ(松好貞夫『太閤と百姓(80)』)、栗山部長訪ねしにお留守。服地おき礼を伝へたまへと夫人に云ふ。日曜の会場変更となりしと。 ついで青山教授訪えへば在宅。麓氏、わが成城行を知りたまひゐしと。後任に岡部君推さんと云ひ、靴下おきて出、下北沢下車。古本屋にて『現代詩人集2(100)』買ひ、辻政信『十五対一(30)』、『亜細亜の共感(30)』、クローン『民俗学方法論(30)』買ひ、「Penguin」に寄りhighballのみ(60)、森本夫人呼びて『詩人集』贈呈、若き女流作家のねる話きき、coffee(60)のみて帰り、ゴム印出来上りしを引取る(80)。 防大より1.6万円来しと。夜、田中順二郎氏より「転居少し待て」と速達。畠山六右衛門氏よりお歳暮。 和田先生、岡田先生、隅田先生、西角先生、沢田、松本、倭、西川、千川、浅野へ賀状。 12月24日 古田房子、河野弘子2氏の贈物つく。俊子姉、apartの値段勝手にきめよと云ひしと。山本嘉蔵氏へ悼み状と「Gûlumalûn」。硲晃氏へ礼状と抜刷。悠紀子をして手塚氏へ歳暮贈らしむ。 われ賀状、鍛治初江、末吉、荒井、野上、関口、大河原、長屋、池沢、小高根太郎、湖東、丸、村山、硲、江口、石浜先生、坪井、田村、中野清見。 また手塚、原田先生、岩井博士、神田博士、神田信夫、川久保、松本、羽田、鈴木、白鳥先生、和田久徳、植村清二、青山、阿部鵬二、海老沢有道の諸 Prof.。 A荒木、赤川、浅野、秋山夫妻、天野隆一。 F麓、藤田2教授。 H服部三樹子、堀口太平、堀ノ内、本位田重美、本荘健男、堀多恵子、本位田昇、畠山、服部教授、林dr.、平田俊春、畑山。 I石山、井上、岩崎、池田勉、今井富士雄。 K久礼田房子、河村dr.、小林英俊、小山正孝、栗山、金沢誠。 M前川、前田隆一、森良雄、森亮、三苫益子、森中先生、村松、宮崎幸三、松村達雄、村上菊一郎。 弓子、山口先生よりの手紙と貸与の『天壇』とをもち来る。大野家へ夜ゆき27日で切ることとす。 N長沖一、中河与一、西垣脩、西宮一民、野田宇太郎、野尻貞雄。 O大東dr.夫妻、太田常蔵、奥戸。 12月25日 古田、河野2生へ礼状。 S坂口、佐々木邦彦、齋藤晌、沢田四郎作、杉本長夫、須原、阪本泉、坂本浩。 T田中順二郎、高橋、武田、俵、田中勤、筒井信義、田村敏雄(三水会)、高田瑞穂、高橋邦太郎、富永次郎。 U梅本、楳垣、臼井毅、山本治雄、八木、山川京子、依田、山根忠雄、矢野閣下、吉田東洲、山本達郎、山上正太郎、矢本貞幹。計135枚書き了る。 11:30林富士馬dr.訪へば知念栄喜君来てをり、悠紀子のhysterie症状いひて、プロバリンその他もらひ、屠蘇剤もらひ、池袋にて中華さば食ひて和田先生を訪ひまゐらせ、成城大学きまりしを云ふ。 原田先生心配しておいでの由。「石田幹之助先生、板橋の日大病院に入られし」。わが『東方学』の論文掲載に窪徳忠反対せしと。青山定雄氏怨みゐるならんと云はるる故「然らず、明大教授に推し玉へ」と申上げ、歯科医に出られると同行して出、お別れ告げて大塚をへて帰宅。 立教の『史苑』来をり。やがて寺本夫人、蜜柑もちて来訪。その直前、成城大学事務局長篠原雅雄氏より「校医採用可といひし故、4月1日付発令す」と。並びに「研究日を記入提出せよ」と。 石浜先生古稀記念会より「誤植訂正せよ」と。寺本夫人、板橋区向原の公団住宅に入ることとなりしと。 悠紀子も田中順二郎君に公団住宅斡旋をたのむこととし、千住を断ることときめし也。 八木嬢より音沙汰なし。京、4の数へりしと(通知簿の)意気消沈。弓子はみな3。渡辺三七子よりジャンパー贈らる。気の毒なり。 12月26日 悠紀子催眠剤のまざりしと。弓子補習にとゆく。畠山六右衛門氏に礼状。渡辺三七子より送り状。硲晃氏より同。村松教授より『果樹園』の受取。 八木嬢より音沙汰なく、怪しみゐしに16:30電報「カゼナオリシダイユク」と。 15:00小島樹来訪。明治書院の教科書に今度も『李太白』とりしと。葡萄酒1瓶おきゆく。悠紀子入浴、けふ花井彩よりCristmas-card。 12月27日 晴。史より「帰省せず。大、上洛か。父母伊勢行にきまりし」と。小高根二郎氏より「福地君来年帰阪、1月8日東西産経合併」と。 悠紀子、姉に電話せしに「千住の住宅入れることとなりし」と。18:00大野家へゆき1月7日まで休み、元宵父母に会ふときめ、靴下とtowelともらふ。富永次郎『失われた季節』買ふ。京大美術史出にて1909生とあり。弓子をつれて千住にゆきし悠紀子帰り来り、まだ入れることとならず、5万円の権利金は創作と。けふ渡辺三七子よりセーター贈らる。 12月28日(日) 晴。午后京つれて十条。『観潮楼付近(100)』、『芋の葉(20)』、『四季の名詩(100)(※村上菊一郎著)』、『支那の幌子と風習(80)』われ買ひ、帰りて夕食せるところへ訪ふ声して八木嬢。 1:00までわれと悠紀子と争ひ、出ておでん屋台にゆき240の焼鳥と酒。日経より日刊sportsに移りしといふ横田なる男と話し、1,000おきtobaccoもらひ、怪しげなる宿に1,000おきて泊めてもらふ。ふるへて困り6:00起きて帰れば、悠紀子、八木さんともに眠らざりしと。 坂根君より蜜柑1箱。悠紀子、依子をつれて西川へ挨拶。 12月29日 八木さん送りにゆき、帰れば悠紀子泣きてあやまる。哀れなり。昼寝してさめれば18:00。 『薔薇』より缶詰類。井上恵子よりそばbolo贈らる。中島悦子より礼状。池内一氏より法事の返しすると。夜、入浴。 12月30日 晴。室井幸太郎氏より大源味噌贈られし外、〒なし。午前中、書斎の本はたき積み直す。午后、悠紀子と京と十条へ買物にゆく。 昨日より「魚の目」の薬を塗る。午后われはcardの整理す。 夜、室井、井上恵子、渡辺三七子、村上新太郎の諸氏へお歳暮の礼状かく。依子、石鹸もらひて帰宅。 12月31日 成城大学事務局長へ研究日を木金と返答。中島悦子、太田陽子へハガキ。本多和子生より喪中欠礼。 田中順二郎君へ家のこと報告。岩田生へ(※結婚に)「反対」の手紙。大江久美子より手紙。何もかいてなし。 八木さんへ礼状かきて今年すむ(悠紀子、食卓と鏡台買ふ)。 田中克己日記 1959 【昭和34年】  めでたく成城大学の専任が決まり、新年度が始まる前に、そして年末と、この年は懐かしの関西へ二度も帰ることを得た詩人ですが、夫婦の危機はひとまず回避したとはいふものの、“八木さん”の名が話題にあがるたび、悠紀子夫人は当てつけに讃美歌を歌ひ始め、詩人が癇癪を起すといふ夫婦喧嘩には、部外者は失笑してしまふかもしれません。 「帰れば八木嬢より礼のハガキ。悠紀子讃美歌うたひ、わが咎むまで止めず。」(4月11日) しかし、 「林dr.(※林富士馬)にゆかしめんとすれば「あなたこそゆけ」と。突如腹立ちて鋏でなぐり負傷せしむ。(5月25日)」  などいふ刃傷沙汰に至っては、もはや穏やかとはいへません。3月には「礼状」が届いてゐますし、11月の下阪時には、明治天皇陵を先づ参拝してゐます。ここは十年前の文化の日(明治節)に、進退窮まった詩人が参拝し、 「くやしさにおほみささぎにこゑあげて泣きしをのこをきみは忘れじ。」(昭和24年11月3日)  と慟哭した場所でした。確かに日記には名はみえないですが、果たして会ってゐたのかゐなかったのか本当のところはよくわからないのです。年末には、 「とく来ませよきひと来ませはしけやし死ぬほどおもふこひびときませ」(12月7日)  なんて、誰のことかわからぬ意味深な歌も記されてゐます。日付には「ⴵ」なる印がありますが、一体どんな意味があるのでしょう。  身の周りにあっても、不倫相手との恋愛相談に乗ってやった卒業生は、念願の結婚を果たしたものの、姑と衝突して早くも雲行きが怪しく、旧友から上京した息子の見合話を頼まれ世話してやれば、「聞いてた美智子様みたいな美人じゃない」と断られ、実はすでに他に恋愛中だったらしく恥をかく。家族への言及ほか、日記中のプライバシーに係はる記述については“八木さん”以外にも、今日存命の関係者に配慮して、文学と関係ないところは伏せたり省略したりしなければならなくなって参りました。  ただし日頃から使ひ走りをさせたり、素気なくあしらってゐた長男、史さんの就職活動については、企業や役所に同窓を尋ね歩き、外野で気をもむ見たことのない様子が印象的で、就職が大蔵省に決まったことに憮然たる様子を装ふものの、さすがに嬉しかったのでしょう、出世街道を歩む同窓知己に報せて廻るさまには、やはり身内の得意を誇る父親の姿が窺はれ、そのまま残すことにいたしました。  年末に催された旧友との忘年会はさぞ楽しかったことでしょう。これまでは奢られるのが当たり前だった詩人ですが、割り勘にされなかったことを気にかけ、年明けて残金を律義に返してゐるところなど、経済的なプライドにも変化がみられるやうになります。  夫人の“佯狂”も、日記に彼女の名が記されなくなる夏以降おさまります。自慢の息子の就職や、狭すぎるアパートからの引越計画によって、このたびは紛れていったやうです。  さて、この年の興味深い記事としては、上京中の保田與重郎との久しぶりの再会が挙げられます。大泉学園の五味康祐邸に滞在してゐた保田氏ですが、体調思はしくなく、そのまま千駄木の日本医大病院に入院し、胃の手術を受けることになります。  知遇の医師達を巡り珍しく保田與重郎のことを心配する田中克己ですが、林富士馬の病院では自分自身が度々栄養剤を注射してもらってをり、小高根太郎にはこのさき宿痾となる鬱症状を初めて吐露するなど、無理が利かなくなった体に更年期の症状が現れはじめてゐます。  とかく人間の悲観的宿命(メメント・モリ)を語りたがる詩人ですが、気にしてゐた胃痛が実は盲腸だったことがわかり、年明け早々遺書めいたことを日記に記し、自らもまた人生初の手術を受けなければならなくなるのでした。  保田與重郎は無事本復して京都鳴滝に新築した「身余堂」へと帰ります。しかしどんな事情があったのか再び上京して、今度は荻窪の山川京子邸に居候を続けます。  兄妹誌ともいふべき『風日』『桃』の歌誌をそれぞれ西と東で主宰する二人ですが、どこにあっても昼夜逆転生活をくずさぬ保田氏の夜話に、連日応対してゐる娘の健康を気遣った母堂がたまりかねて苦言を呈したといふ逸話が伝はってゐます。  また保田氏を訪ねて来た田中克己がこぼす「死んだ方がまし」といふ口癖を、夫山川弘至を戦争で亡くした京子氏が聞き咎め「そんなら死になさい」と言ひ放った逸話も、これは京子氏御本人から伺ひましたがこの時のことでしょう。 新学社へ電話すれば高鳥専務(!)出て、山川宅の保田に電話して返事くれると。やがてかかりて「来よ」といふに、山川京子に電話して道きき荻窪へゆき、都電天沼の南の山川宅へゆく。やがて帰りし山川女史に腹立てて出、(12月14日)  山川邸は東京の住宅密集地区の中に奇蹟的に当時のままの姿で現存してゐます。このたび日記中に当時の消息が確認されたことに、荻窪までお悔やみに伺った時のことを回想し、感慨を新たにしました。  京都の親友、羽田明はこの年、中東への旅行を計画。ために音信は少なくなってゐますが、11月には無事帰還してゐます。また彦根時代の詩友で、気にかけてゐた円満寺住職の小林英俊が5月13日に病歿し、藤野一雄氏から訃報を受け取ってゐます。  そして農業だけでは立ち行かず、病院の事務職にありついた肥下恒夫ですが、澤村修治氏による評伝『悲傷の追想』および『敗戦日本と浪曼派の態度』のなかで明らかにされたやうに、前年の9月、肥下氏は経営姿勢に義憤を感じた病院を辞めて、再度の帰農・清貧生活のうちにありました。前年まで(賀状以外)まったくの没交渉だった田中克己ですが、そのことを坪井明より聞かされると、このたびの下阪時には二度とも自宅を訪ひ、旧交を復活させてゐます。おなじく薄井敏夫や杉浦正一郎の遺族のことも気遣ってをり、身分の安定によって人心地がついた詩人には、再び友人へ心配りもできるやうになったやうです。  この年は東海地区を犠牲者五千人を出した伊勢湾台風が襲った年ですが、東京は無傷でした。  名古屋には大阪高校の同窓で水産卸売会社の重役、畠山六右衛門氏が居ました。住居は床上浸水したものの、京都時代の畠山家に家庭教師で通ってゐた史さんによって、無事が確認されてゐます。  また岐阜には保田與重郎を師に仰ぐ詩歌の後輩岩崎昭弥が居ましたが無事。大災害の前には、田中克己の序文を戴いた詩集『墓碑銘』を「果樹園叢書」の一冊として出版してゐました(4月)。  彼は『果樹園』『風日』のほか、岐阜の詩誌『詩宴』の同人にもなってゐましたから、その関係で印刷は平光善久が携ってゐます。京都時代の山崎実治といひ、印刷には岐阜人と縁があるものですね。  戦歿した兄に成り代はり、インパール作戦の惨状を歌ったこの『墓碑銘』ですが、詩集にしては珍しく日を経ず再版が出されてゐます。おそらく刊行直後、市会議員選挙に出馬した彼が、トップ当選を果たしたからではないでしょうか(5月)。  有卦に入った岩崎氏は、このあと社会党の代議士への道を歩みはじめます。保田與重郎と社会党との取合せは不思議にも感じられますが、肉親を戦争で喪った岩崎氏の思想信条には、保田氏が戦後唱へた「絶対平和論」が、戦後左翼が掲げた理想主義にも重ねられ深く共鳴されたものと思はれます。  当時の岩崎氏は、岐阜市の土木部建築課で工事設計・管理に携はり、また市職員労組の委員長職にありました。私が東京を引き上げる際、岐阜市の自邸をお訪ねした平成4年には、すでに議員も退かれ、余生を養ってをられましたが、思へば間近に住んで居られたのだから、もっと厚かましく当時の思ひ出話を聞いておけばよかったと、今にして悔やまれます。応接間の壁面に『保田與重郎全集』45冊が整然と並んでゐたことが思ひ起されます。  ことほど左様に昭和30年代も半ばともなれば、高度経済成長を控へた日本の政治は様変はりをはじめますが、学芸の世界でも、岩崎氏に限らず、たとへば田中克己のやうな非政治的詩人の身の上にも、その影響を直接及ぼしてゐたやうなこともありました。  それは詩人が前年の昭和33年11月18日に「田中忠雄氏より」招かれ、12月17日に赴いた「田村氏とて戦中満洲にありし人の主催」といふ「三水会」のこと。――これが、当時できたばかりの「宏池会」で“毎月第三水曜日”に催されてゐた勉強会だったらしいのです。  「田村氏」とは宏池会事務局長、田村敏雄氏のこと。「短波放送会館6階池田事務所」とは、すなはち総理大臣に就任する直前の、当時第2次岸内閣で国務大臣を務めてゐた池田隼人の事務所です。帰りに「宏池会との袋入りの3,000」を渡された、とのことですが、以後、浅野晃氏や東洋大学を逐はれた齋藤晌氏ら学者達に交って講演を聞き、時には講師を務めてもゐたやうです。  長男の史さんが官庁に就職する際、最初に内定を出してくれた農林省から大蔵省に引き抜かれたのも、詩人が田村敏雄と知り合ったことが力となって働いたのではないでしょうか。而して上京してゐた保田與重郎などは、呼ばれても行くそぶりをみせながら行かなかったのは、その面目の躍如と言へるのではないでしょうか。  風変りなエピソードとしては、歌誌『日本歌人』の服部三樹子氏が、突如“霊媒師”となり“萩原朔太郎の霊”を下して一同を驚かしたといふ条りがあります。のちに詩集『神聖な約束』に収めた詩篇「萩原朔太郎」でも紹介されてゐますが笑はせます。浅野晃氏の求めに『萩原朔太郎全集』の写真を見せたところ戦慄し、「朔太郎は地獄にあって苦しんで居る」と報告したのだとか(笑)。  その朔太郎といへば、長女葉子氏によるデビュー作『父・萩原朔太郎』が刊行され好評を博したのもこの年。田中克己も出版記念会の席に呼ばれ、かつての『四季』同人たちが一堂に会した久しぶりの場に列席しましたが、めでたいことで集まるのはこれが最後ではなかったでしょうか。その時の写真が遺されてゐます。  いったいに、大学での講義の在り様も、現在と余り変らなく感じられるやうになるのも昭和30年代のこのあたりから。文学部では『日本浪曼派』や『四季』を研究対象とする学者や、卒論のテーマに選ぶ大学生も現はれはじめます。  『日本浪曼派の運動(三枝康高)』といふ新刊本をみつけて買ったり、中原中也や太宰治のことを訪ねて来る学生に対しては、知り得る情報を与へたりしてゐる詩人ですが、自分たちのやってきた文学運動が、客観的に(かつ批判的に)大学で論じられる研究対象に変じてきたことを、次第に身に感じ始めた筈です。  自分の詩を英訳紹介したいと突然コンタクトを求めてきたLeon Zolbrod氏のごときアメリカ人研究者のことも、かつて“鬼畜米英”を唱へてゐた詩人にして、隔世の感慨も一入だったことでしょう。  一方では盛んに学術論文を書き、学界に示してはみるものの、新時代に元気なしと東洋学界全体の凋落を嘆く声も世間から上がってをり(気になったのでしょう、記事が貼りつけられてゐます)、恩師の和田清も倒れ、まさに時代の変転を、自ら晩年にさしかかりつつある戸惑ひとともに実感する詩人なのでありました。 昭和34年1月1日~昭和34年3月19日 「東京日記 4」 本冊画像PDF 25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p1 1月1日 9:00起きる。河出書房より(10,000-1,500)8,800円、1月5日わたしの書留。 八木よし子氏より速達にて「岡田温氏より宇都宮大学に推薦せんと云はれしもことはらんか」と。 午后賀状157枚(親戚知友)+136枚(教へ子)来る。 小畑信良閣下、藤井通雄、白井三郎、加藤和子(岡本)、三田村泰助、山本文雄、服部正己、佐中壮、横田俊一、里井彦七郎、高田かよ子(池元)、筒井護郎、田辺東司、鎌田正美、岩橋節子、岡部長章、饗庭源吾、沢井幸樹、田中禎子、細川清、横田利平、島居清、山口広、西寛治、木村三千子、福地邦樹、北野徳治、宮本正都へ賀状かく。 田中正平よりの賀電、平野家(※2階住人)へ入りしと。16:00雪の中出て畑山家。高橋教諭あいてにくだ巻き、鮭もらひて出、藤田亮策先生を18:00訪ひまゐらせ、年頭の辞申上ぐ。「通訳Gûlumalûn」よみ下さり『川路聖謨日記』よみたくなる様はなさる。 20:00大野家訪ひ、父母あひ手に「成城大学を第2次に受けさすべし」といふ。昌子生不服げなりし。成田の羊羹と月桂冠1本もらひ、雪の中を帰宅。 小松保博、山下幸男、原口恒美、羽倉裕景、堀内民一、橋本俊子、沢井孝子郎、美堂正義、田中修、板原哲夫、井上文夫、公平洋子、眞野喜惣治、高野勝美夫妻、増田春恵、萩原葉子、吉岡武雄、渡辺道夫、林俊郎夫妻、糸屋鎌吉、伊藤佐喜雄、岩佐東一郎に賀状。 1月2日 晴。積雪。鈴木文平、天川勇司、加賀山秀夫、丹波道久、橋本貫一、高橋一好、亀井昇、と浪中7生へ賀状。千葉、鳥山、船木、小室、高橋、三浦と東洋大学関係6枚。田中忠雄、田中洋子、鈴木亨、島稔、河野岑夫、天野忠。けふの賀状13枚。他に硲晃氏より受取。 聖心女子大より土曜落成式と。芳野清氏、角砂糖もち年賀に来たまふ。池内一氏(※池内宏子息)よりお盆を返しにたまふ。風呂へゆけば14:00までなりし。 夜、また悠紀子逆戻りして「この間八木さん怖い目せし」と教へくれし! 1月3日 晴。依子日直出勤。朝湯に11:30ゆく。賀状29枚。中に赤星結婚せしが来あり。京大より授業料1月20日までに支払へと。 14:00出てトロリーバスにて池袋をへて、原田淑人先生に御挨拶に参る。「年末胃病に罹られしも、もはや宜し」と藤田先生に伺ひし也。玄関にて御挨拶すまし悒々と新大久保へ出て帰宅。 賀状ハガキ数枚のみとなり帝塚山関係をみな残すもハガキ売切れと也。依子21:00帰宅。寒し。帝塚山短大の賀状を分類す。Ⅰ-1(梅田)Ⅱ-21。 1月4日(日) 雨。京、地域会にとゆく。賀状15枚。中に小林英俊自筆の返しあり。『果樹園』36号。小高根二郎君も服部氏に卦見てもらひしと。 池内一氏に賀状と礼状とかねし手紙かき、14:00依子を留守番に高円寺。柏井昇宅に、お玉叔母を見舞ふ。林医院とて義兄と。その裏なり。televiを見つつ挨拶すませ、われのみ出て丸を訪ひ、挨拶と報告とをすませ、重俊君つれて古本屋。都丸にて『戴冠詩人の御一人者(120)』買ひて与へ、我は『唐宋伝奇集(30)』。また先の古本屋にて竹越与三郎『南国記(50)』買ひ、駅にて別れ、池袋よりbusにて帰宅。悠紀子ら22:30帰り来る。 1月5日 晴。賀状22枚。午后昼寐しゐれば堀口太平氏来訪。葡萄酒1瓶をたまふ。牧章造君、北海道にあり。同人雑誌4冊に関係し、もとより入れずと。詩に誤植あり意味不明と。 夜、帝塚山3回7枚。4回11枚に賀状の返事。 1月6日 晴。賀状11枚。『民間伝承23-1』。12:30家を出て巣鴨をへて神保町。第一銀行支店にて8,500引き出し、都民銀行のぞけば加藤君不在。河出書房にゆき佐藤氏に受取わたし、きけば『西洋史物語』売行き良しと。涌井千恵子への送本たのみ、筑摩へゆけば「編集部会議中」と。山本夏津子へ『現代詩集』の送本たのみ(『文芸』堀辰雄読本40)、『台湾南西諸島水路誌(100)』、『日本民族生成論(150)』買ひてお茶の水駅より飯田橋。 角川書店にゆき大村君呼び、『立原道造全集2,4(800×2×0.8)』買ひ、高円寺にて一昨日見つけし『白頭山登行(200)』買ひ、赤川(※赤川草夫)夫人の「赤ちゃん」にてHigh-ballのみ(100)池袋。 松本善海に電話すれば「研究所」と。林dr.(※林富士馬)に電話すれば「榊山潤氏にゆく」と云ふにtaxiにのりてゆき、榊山邸へ同行。天丼よばれ20:00出て都電にて帰宅。 鈴木幸太郎生来りてport-wine2本くれしと。中野清見(※大高同窓)より「□□君(※息子)世田谷にあり」と。賀状8枚。 p2 1月7日 晴。寒し。帝塚山短大5回生16枚の返事。2部2回生(清水文子の組)6枚同。鈴木幸太郎へ礼状。 2部3回(?伊東まきのクラス)5枚に返事。6回卒業生37枚。 けふ朝昼とも〒なし。悠紀子に紙入れを買ってもらひし。夜、寒き中を大野家へゆけば数学の教師をり、きけば「19:50と約束したり」と。やめて帰る。 1月8日 晴。よべ2:00までねられず、鎮静剤とport-wineとのみしため、めまひせしも防大へ出講。麓教授に挨拶す(平田俊春氏とも話す)。bus代30日に上りたり。帰れば山本達郎教授より『岩波十辞典東洋史』賜はる。服部女史より「申込3件ありし」と。 史より「父の喜寿の祝せよ」と。(けふ麓氏より『寒泉書屋箚記』賜はり原田、和田、青山諸教授の分も托さる)。 1月9日 曇。寒し。帝塚山短大7回15枚の賀状に返事。中河与一氏より「11日15:30よりのラマンチャ新年会に出よ」と。大森倖二氏の賀状。今市佐恵夫人より「また高槻に戻った」と。 12:10聖心女子大にゆきしに青山教授見えず。「海老沢教授の父君の葬儀11日14:00」と掲示あり。和田先生も見えず。史学groupの会ありと助野助教授に誘はれて出れば、長 寿吉、中山謙二、内藤智秀などの老教授出席。17:00中座して帰宅。 夕食すませば依子帰り来り「西川より電話かかりし」と。やがて渡辺藤男氏来訪。「王子英語学校の火木土の高2の講義を」と。早川敏一君を推薦し連絡とることとし、西川に電話して報告す。 1月10日 晴。眩暈す。安田(岸)明子夫人より「2月19、26日いづれにてもよし。横浜駅西口で待つ故、時間しらせ」と。服部英次郎、矢本貞幹2教授より賀状の返事。われ帝塚山短大6回の半ばをあます。 正午、早川君へ速達。山本達郎教授に礼状。午后、賀状みなすむ。安田章生氏より「池田市野町に移りし」と。涌井千恵子より「大阪商工会議所にほぼ きまりし」と。 夜、大野家へゆき、すみて鈴木生の母来り、「北高やめ向ヶ丘高校を受け、他に独協、京北受けさしてよし」と。タバコ呉る。帰途この間の屋台にゆき1本飲む。代とらず。 p2 1月11日(日) 晴。母より2月の喜寿に「借金しても夫婦して来よ」と。家本美枝子(篠崎夫人)より賀状! 午后、京をつれて畑山氏にゆけば、在上海30年なりしといふ岩田氏なる老人来訪中。放談し最中もらひて帰宅。 母の手紙思ひ出せば不快なり。(中河邸のラマンチャの会に欠席電話すれば萩原葉子氏出らる)。 夜、八木さんへ報告。 1月12日 速達来ぬゆゑ8:20家を出て成城。早川敏一君訪へば「返事せし(速達でなかりしこと帰宅後わかる)。西川とは日曜来客ありしゆゑ連絡せざりし。承知した」と。 大学へゆき漢文教へてのち王子英語学校へ電話し、川久保よりの電話きけば「6日より上京中、明日池袋で会はん」と。 昼食して809番地の神田信夫教授訪へば中河与一先生のすぐ近所。「和田先生お悪くなし」と。「通訳Gûlumalûn」抜刷、石橋秀雄君への分を托して帰校。文化史すましてまっすぐ帰宅。 けふ悠紀子、大に電話すればそこにも母の(※寿宴催促の)手紙ゆきし、「近々会って相談せん」となりしと。 1月13日 11:40出て立教大学。手塚教授に会ひ「講義内容届け」ときき(中川講師「台北高校にて上原君と同級、松村氏に終戦後同居せし」と)、教務課へゆけば、すみをるらし。 駅前にて春夫詩集買ひ(140)、成城大学。伊達学生部長に会へば加藤定雄君に似てゐし。中国文学史やり、松村達雄君待ち、大に電話し、金曜に会ふこととす。松村君に茶おごられ、池袋にゆけば、川久保待ちをり、松本善海やがて来る。茶のみしのみにてすぐ別る。 けふ早川敏一君来しと。山根忠雄君より賀状! 夜、大野知子来りて「明日の課業を明後日の19:30にしてくれ」と。 1月14日 晴。11:00王子中の山口広先生訪ね『天壇』返却。弓子の進学相談すれば「成徳はZonte(※不詳)あり十文字高校もいかに」と云はる。 12:00帰宅。筑摩書房より『現代詩集』の買上票。午后、青木弥与子よりまた賀状。入浴。(『心の花』700号買ふ。100) 1月15日 成年の日。晴。依子家居。小山正孝君より「神田へ来たら寄れ」と。白鳥夫人より賀状再送。『詩人連邦2月号』。 正午。賀状の抽籤。5等に河野岑夫、難波逸夫、横田俊一、川勝正一、久田(原田)早苗、徳永ユリ、前田隆一、小松保博、加賀山秀夫、池田勉、小谷恵子の諸氏よりの11枚。 午后、散髪にゆき19:20家を出て岡部長章君に電話すれば不在。大野家へゆき今後火土ときむ。昌子、保母学院を受け、日本女子大家政学部児童科受くと。母君来り、出来心かいなかにて激しくいふ。帰り岡部家へまた電話せしも未だ帰らず。(南極の樺太犬2匹生存に喜ぶ。) 1月16日 晴。早川敏一氏より「学術会議に就職きまりし故云々」。大平(小松)保より無名のハガキは広瀬公生と。坪井明より「富田林に移りし」と。西川より第2回とくり会の写真。聖心女子大へゆけば海老沢氏をり、病気にて式に出られざりしとことはる。和田先生お越しになり、この間学校はじまりゐるをご存じなかりしと。 2時間すませ御一緒して渋谷。大に電話かけて呼び喫茶、「(※帰郷して義母喜寿の宴に)ゆけず」と云へば不可なる顔をせし。三好達治氏ゆきつけの鮨屋のぞきしも居らずとて別る。 帰りて夕食すませれば坂根千鶴子来り、「中千枝子、縁談きまりし」と。やがて岡部長章君来り、「いまのところ返事出来ず、2月初まで待て」と。「和田先生、鈴木俊氏にたのめ」とわれ云ひ、23:00まへ帰りゆく。 1月17日 晴。成城大学。中国文学了へ、図書館へゆき今井(※富士雄)、新城2氏と話す。短大1年の漢文なくなりしこと坂本主事にゆきてわかり、学部はわからず。 ラーメン食ひて2氏と別れ、祖師谷の青山氏にゆけば不在。栗山部長に会へば「心配いらず」と。「『果樹園』伊東静雄号にたのまれゐる」と。出て下北沢下車してのち帰宅。 松本(一秀?)より「18ヒツバメ7ゴウシャニテヒル4ジ30キチツクハナシアリエキマエデタノム」と電報。八木さんより悠紀子に贈物の礼。「宇都宮だめらし」と。 岩田生より「10日父に話して許された。3月11日の式に仲人を」と。 『薔薇』に詩を月末までと。夜、大野家へゆく。(楳垣実教授より『Stories of Children』贈らる。帝塚山学院の刊行にして300部限定なり)。 1月18日(日) 曇。森亮氏より「ユリイカの白詩出版旨くゆかず」と。東順子より「3月24日結婚」と。岩田生へ祝状。 16:30東京駅へ「つばめ」迎へにゆき、松本一秀に案内されて銀座の肉屋「松坂」にてすき焼よばれる。「日本生命の常務の嬢を帝塚山に紹介せよ」と也。西川に電話すればgolf。史の就職骨折りくれると也。 19:00東京駅より倭周蔵に電話せしめて別る。 1月19日 晴。寒し。成城大学へゆく。今井氏、馬淵東一氏の講師招聘むつかしく、代り考へしと。高橋、富永2氏と同車にて帰る。富永氏「短大専任となりし」と。「伊藤佐喜雄26万円の損失にてbarやめし」と。 高橋氏にきけば「福永英二帰朝せし」と。 帰れば原氏よりまた仲人たのみ来る。岩田君の、母をにくむに困ると。(けふ名刺をあつらふ) 1月20日 晴。涌井千恵子より「本うけ取りし」と。『不二』来り、「正田美智子の皇太子妃決定に右翼憤りしも影山正治氏は賛成せし」と。 成城大学へゆき、松村君に会へば「けふは同行できず」と。青山氏にゆけば「岡部君来り、業績托しゆきし」と。平田俊春君の推すは伊勢仙太郎と。餅よばれ駅まで送られて18:30帰宅。 大野家へゆき帰りて入浴。(けふ成城大学の教務に試験2月の第2週にたのむ)。(賀状ハガキの5等賞切手4×11もらふ)。 1月21日 寒さややゆるむも、くしゃみ出て風邪。悠紀子も心悸するとて不快にて云ひ争ふ。 東順子へ祝状。楳垣教授に礼状かく。午后の便にて父より「死んでからは宜しき故、祝に来てくれ。史のことも相談する」と。不快。 林dr.に電話かけてゆけば斎田(斎田昭吉)兄弟も診てもらひに来をり、頓服もらひ注射打ってもらひ、三水会に電話すれば「あっ」と(※みなビックリする)。また薬もらひて出、地下鉄にて霞が関。Taxiにてゆけば18:00。 みなそろひ田村氏(田村敏雄:宏池会事務局長)のみ不在。夕食たまひ、米津三郎氏のソ連の話きく。(※田村氏が)池田勇人の幕僚なることはじめてわかりし。すみていつもの如く虎ノ門にて別れ、taxiにて新橋、22:00帰宅。頓服のむ。 1月22日 頓服またのみて出、防衛大学へmaskしてゆく。麓教授によばれ、手休みゆけば「阿南大将の息を後任にいかにと和田先生にきけ」と。「承知した」といひ、『古義堂文庫目録』贈りて出る。stoveの前にゐて寸時眠りし。16:05出てbusにて途中下車。古本屋にて『羽陵餘蟫(130)』、小野則秋『孫文(30)』、『李太白(60)』買ひ、中華そば食ひて帰宅。藤野君より『黄昏の歌(※小林英俊詩集)』また1冊、小林英俊のレントゲンの所見わるしと。加賀山秀夫より「帝塚山短大の服飾入学の斡旋せよ」と。 1月23日 暖しと。風邪を聖心女子大。青山氏つかまへ阿南氏のこといひ、和田先生より『達延汗(※ダヤン・ハーン)』いただき、教室へ出れば学生「休講せよ」と。 2時間待ちて和田先生に阿南氏のこと問ひまつりすれば「よし」と。 渋谷でお別れし、東横dept.で鰻丼食ひ、高田馬場の古本屋見て帰宅。山本夏津子より受取。けふ名刺出来上る(150)。防大より8,100(1月分)来る。 1月24日 晴。成城大学へ欠講の電話かける自民党峯総裁を再選。小島樹氏より「明治書院訪ねて来る」と。加賀山秀夫を西宮君に紹介す。悠紀子、京都(※義母宅)へは自らゆくといひ、われも賛成す! 1月25日(日) 悠紀子10:00林dr.へとゆく。太田陽子夫人より「2月15日にclass会する」と。藤野一雄君へ礼状。太田夫人へ返事。八木よし子へ手紙と『黄昏の歌』送り、畑山氏を訪へば本郷高校岩田氏訪問中。正月に会ひし岩田氏の令息にして「内山完造の言は半ばうそ」と。 悠紀子、林dr.の診察にては高血圧と。 1月26日 成城大学へ登校。宮本学長と話し、山崎匡輔前学長の久しぶりに来られしと話す。中野□□君より電話かかりしらし。salaryもらひ、高橋邦太郎、富永次郎2氏と新宿で喫茶。富永氏と都電にのりて神田。山本書店へゆき小便耐へられずなり公衆便所さがしにゆきてのち、蒲池歓一氏に寄り、夫人の働かさるを見る。これも高血圧と。蒲池氏「齋藤晌先生よりわがこときかれし」と。 山本にて『台湾外記研究(130)』『満族史論丛[叢](140)』『松牕雑録(50)』買ひてのち、駿河台の古本屋に寄り、『日露戦史2冊(120)』『楊貴妃(50)』買ひ、お茶の水より国電にて帰宅。 けふ明治書院より内河タケ子氏来訪。菓子1折たまひ、「指導資料」かけと(50枚。3月10日まで)。中川(力身)好子より「転居した」と。 1月27日 松本と西宮一民氏へのたより、とりちがへて松本を速達とし、西宮君を普通とす。くさりつつ登校。(朝、松本一秀の速達来り、女子学習院よりの浜田常務令嬢を家政科にとなりし也)。今井氏、大藤氏を専任にすとて栗山部長に会はす。 中国文学史けふにて打切りとし、丸の娘呼びて『日本刀(※アサヒ写真ブック?)』与へんとせしに持参せざることわかる。松村君さそひて下北沢。「Penguin」にゆき茶のみ、『日本唱歌集』買ひて別る。 19:30大野家へゆき鈴木生ややに出来るやうになりしを喜ぶ。「日大豊山高校を受ける」と。すみて鈴木君の母と語り、岡部君に電話して阿南君のこといへば怒る。けふ東順子より「同居なれど心配いらず」と。『薔薇』へ「病む妻」。中川好子夫人へハガキ。 1月28日 明治書院内河タケ子氏へ「承知した」と。山本嘉蔵氏より「春江夫人忌明け。病名は12月11日延髄球痲痺にて」と。「信江夫婦田辺市にあり」と。安田明子夫人へ「2月26日17:30横浜駅西口で会はん」と。 悠紀子、林dr.にゆき診察受け注射と薬たまひしと。久美子よりの「正平、試験の為訪へず」との手紙見て、15:30林dr.訪ねtobacco贈り「今後実費とりたまへ」と云ひ、増田晃の『詩集述志』借り、whiskyのみ注射と薬たまひて都電まで送らる。 大塚車庫前まで歩き、『雲の中を歩んではならない(50)』『日本の建国(120)』『中国革命史(50)』『国辱記(40)』『明治大帝(40)』と文芸春秋1月号(40)買ひて帰宅。 1月29日 防衛大学へゆき、麓教授のところにゆけば阿部教授も同在、阿南君のこと云へば「縁故なら定員を問題とせず。田中君の時はだめなりしに」と阿部教授云ふ。 雨降り、昼食時、中川事務官試験日の出勤をいふ。16:00すましbusまでは1便ぬけ、16:35出発。中央駅にて焼きそば食ひて帰宅。 河出書房より負債の2回目払?として209。『薔薇41』。 1月30日 西宮一民氏より「帝塚山の服飾30人しかとれざるも努力せん、文芸は最少」と。田中正平より「17日すぎ来る」と。住山重子より「山本は昨年3月やめたと。designerの森英恵氏(ひよしや主)に紹介できずや」と。 夜、渡辺道夫君来り、「村上夫人Indiaより帰り、村上ドイツ」と。畑山博氏に紹介状かく。 1月31日 寒し。悠紀子サンビ歌444(※「世のはじめさながらに」)うたひつづけ変なり。中国文学すませ(来週打切るといひ)、相馬大と友だちといふ鈴木(2C)と「七面鳥」へゆき、そば食ひ、来合せし川上恭正と3人にて「車」。鈴木生におごらる。「梅ヶ丘」下車。 増田晃君の母君房子氏に会ひ『述志』3冊もらふ。伊福部氏(※伊福部隆彦)「天皇の歌あるゆゑ、あまり頒つな」と云ひしと也。豪徳寺駅まで送られて帰宅。(巣鴨より新庚申塚まで歩く) 悠紀子あひかはらず444歌ひつづけ「高血圧の方が低血圧より宜しきゆゑ京都へゆきますよ!」と。気分わるくなり、大野家に電話して明日に延ばし入湯。 2月1日(日) 晴。悠紀子ねたままにて、ぶつぶつ云ふ依子炊事。林dr.へと出てゆく。 安田明子夫人より「26日17:30待つ」と。中島悦子より「basketの会をした」と。夜、大野家へゆく。 p3 2月2日 成城大学へゆく。短大1年の試験は17日2時限と。漢文すませ、西宮君に礼状速達し、漢文の試験問題作。文化史course女生2人のみ。図書館に中沢生ゐるを見(池田館長(※池田勉)に『果樹園』の原稿たのむ)、2生をさそひて「車」にゆく。 雨模様とて鈴木俊氏にゆけず。池袋で下車。手塚氏を図書館に呼出せば採点中。「19日(木)防大の帰り訪ひ参らす」といひ、1月分手当もらひ『唐代小説(100)』『支那語辞典(50)』買ひて帰宅。 松本より「浜田常務2月中旬上京、礼いふ」と。 2月3日 河出書房より2回分として9,000-1,350=7,650来る。12:00出て荻窪。busに乗れば皆大鹿卓氏の葬儀客。香奠1,000供 ふ。尾崎君受付にをり、中谷孝雄、外村繁2氏見当りし。拝礼すまし善福寺池をめぐって竹内好に寄れば不在。夫人と立話し(この間、大阪へゆきしと)、古本屋にて『Heine 2冊(1,200)』。 吉祥寺医院に森良雄訪へば盲腸手術中。隣の食堂にて紅茶のみて再び訪へば「次女多摩美術大図案科受けるも、つてなきや」と。 阿佐ヶ谷で丸の長男に電話し、高円寺駅へ呼出し喫茶して『日本刀』もつと云ふに、ともに出て都丸にて『木芙蓉(180)』『南支旅行(30)』買ひて帰宅。 夜、大野家へゆき帰途、屋台にて1本のむ。小高根二郎君と保田に増田晃『述志』包む。 2月4日 大鹿夫人より会葬礼。『果樹園37』。小島樹君よりハガキ。『Heine全集』検せしにReclam文庫より詩少なく悲観す。 午后の便にて教科書屋より返事せよと。無礼なり。悠紀子羽織を買ひにゆく。われ入浴。児玉敏子生より蜜柑1箱おくらる。 2月5日 防大へゆく。暖かけれどstoveの横にをり。帰り鎌倉にて途中下車。しるこ食ひ帰宅。腹具合あしく粥食ふ。 岩崎昭弥より「(※岐阜)市会議員選挙に出る。67万円損した。原稿送り返せ」と。藤野一雄、加賀山秀夫、住山重子、渡辺道夫より礼状。小高根二郎君より「伊東記念号にぜひ書け」と。 立教大学(山田君)より「木曜5、6時限とした」と。 2月6日 昨日より下痢、胃わるし。高崎の松本悦治氏よりの信、布施より回送。「大高にて講演ききし。伊東の教へ子にて云々」と、質問状に100同封。 東京大高clubより「14日(土)14:00総会」と。午后悠紀子、京と買物にゆく。 岩崎へ詩を返却(速達書留)、手紙もかく。松本氏へも『果樹園』送る。「会ひたし」と返事。 悠紀子、林dr.に礼し、胃の薬をもらひ来る。中山八郎氏より抜刷。 2月7日 下痢なほらず。午后、鍛治初江君より「15日の会に待つ」と。「ゆけず」と返事。松本悦治、池田勉、村松正俊の諸氏に『果樹園』。 夜、大野家へ電話して「あすにして呉れ」と云ひしあと、悠紀子「体の具合悪し」と大に電話し、京都ゆき止め(※義母へ)3,000祝に贈ることとし、21:00東京駅へとゆく。児玉敏子への礼状と『悲歌』。中山八郎氏へ「Gûlumalûn」包む。 p4 2月8日(日) 晴。悠紀子、依子みな体悪し。われ食欲さかんに起る。ひるすぎ京と梶原へゆき魚返善雄『文学の学び方(50)』買ひ来る。 『日本歌人』来る。わが「立原道造の系図」のす。夜、大野家へゆく。昌子生「高円寺の保田学校に入学許されし」と。吉川『詩経国風 下』買ひて帰宅。 2月9日 晴。「その一言」2枚かきて11:00速達にて『果樹園』に送る(売上180同封)。 悠紀子の林dr.に出しあと上田阿津子来り、父母の反対押し切って上京したし。職も探すと。俳優学校は池袋と。悠紀子帰るを待ち、ラーメン食はし、ともに池袋(松本一秀より電報アスツバメニテ上京と)。坂根生を呼出して会はし、職探しに再上京せよといひて別る。 帰れば高松直子より浜田常務の令嬢、守本氏に頼み、合格のしらせも受けたと(田中秀子よりハガキ来し)。 保田より嵯峨の新宅通知。鈴木、大野生来るとのことなりしも来ず。夜より雨。 2月10日 晴。悠紀子、大に電話かけしに用なし。「喜寿盛会にて全田叔母も来り、千草2、3日泊ることとなりし」と。15:00松本悦治氏より「近々来たし」とのハガキ見て、大野家へゆき昌子生に「今夜休むやもしれず」と云ひ東京駅。 西川に「松本一秀つれゆく」と電話し、「つばめ」で着きし松本つれてゆく。井辺も来会。西川にbeerおごられ、すしおごられて別れ、大野家へあす18:30ときめて帰宅。依子あすあさって休暇と。 2月11日 高松直子、松本悦治氏へハガキ。山本実子より「20日の都合しらせ」と。「16:00ごろよりならよし。他の日はだめ」と返事。散髪するつもりなりしも寒きゆゑ止む。村上新太郎氏より見舞。18:30大野家へゆけば2嬢ことはりに来る途中に会ふ。20:30すませて帰宅。 2月12日 防大へ杏の砂糖漬もってゆく。山田孝雄『仮名遣の歴史』を図書館より借用す。阿部教授にきけば「阿南君、明日面接。岡部君に悪くなきや」とのことなりし。 16:00すみて泰国の留学生に話しかけられ、浦賀へ下りゆきしに造船所のみ。Rice-curry食ひて京浜急行にて帰宅。 千草来り、喜寿の話せしと。父よりも報告来ありし。 2月13日 朝の中寒し。筑摩書房よりの税金申告票来しを見て(散髪す)、聖心女子大。 青山氏をられしゆゑ岡部君と阿南君のこと報告。和田先生お越しになり、わが休みしをお気付なかりし様子。試験問題を「康熙帝と乾隆帝」「近世の日華関係」とし、乾隆帝伝をⅠ組に貸し、青木訳『Marco Polo』をⅡ組に与へ、和田先生と玄関までゆけば安宅氏より電話と。待てば旧姓村田温にて「20日の会のこと寺本、坂根2君に連絡してくれ」とのことなりし。 和田先生『歴史教育』を玄関に忘れられしゆゑ、電話して預りたのみ、日本教文社に電話すれば田中忠雄氏あす四国へ出発の前来者とのことなりし。 宮益坂の古本屋2軒を見て並河亮『百年の無礼(50)』、後藤末雄『芸術の支那・科学の支那(90)』、具島『激変するアジア(80)』『The U.S.in world affairs(100)』買ひて帰宅。児玉敬子より「知合の歌見よ」と。中山八郎氏より「転身の早い貴兄云々」。夜、坂根千鶴子あたかも来り、20日の会を伝へ得し。 2月14日 曇。『詩人連邦』来しのみ。森良雄へハガキ。西宮一民君へ礼状かく。夜、大野家へゆく。鈴木生あす豊山高校の発表と。 2月15日(日) 夜で雨やむ。岩崎昭弥より「江口・伊藤(※江口三五・伊藤賀祐)2氏に(※選挙応援)たのむ」と。太田陽子夫人より『文芸クラブ通信』。 午后出て長尾良君に『新論3』借りにゆき、帰り松本善海に寄る。「風邪ひきねてゐし」と。池袋の古本屋見しも何もなかりし。太田行蔵『日本語を愛する人々』を夕方さがし出す。 2月16日 『かなづかひ』論考へつつ何もせず。角川より税金票。末吉栄三より「とんぼ会」の写真。 午后の便にて楳垣氏、贈りたまひしを忘れ「他人よりか」と。神崎院長をやめさされしと。宏池会へ「明後日の三水会にはかなづかひにつき話す」と電話して入浴。夜、太田陽子夫人へ礼状。 2月17日 雨。10:00成城大学へゆく。われ一人にて講師室に退屈し、漢文すませ昼食すれば富永次郎氏ら来る。池田勉氏『果樹園』にかきしと。図書館にて石黒修『日本人の国語生活』ほか1冊借出す。 午后また退屈して中国文学史の試験監督。すみて帰宅すれば佐々木生より「20日の会16:30より銀座の不二家にて」と。寺本、坂根2生へハガキにてしらす。児玉敏子より『悲歌』受取りしと。 夜、大野家へゆけば鈴木生来ず。豊山高校落ちとならん。けふ至文堂へ電話し『東洋思想講座5』を送れといひし。 2月18日 雨。城平叔父より速達「万美子のteleviへの就職世話せよ」と。午后日本生命常務浜田勝巳氏、菓子もって礼に見える。会はず。そのあと西宮君よりハガキにて「同氏令嬢成績よかりし」と。鍛治初江君よりも「class会12名出席した」と。山本実子、林の2生、諏訪より「20日16:00不二家にて」と。 16:00出て短波buil.の宏池会へゆく。齋藤、浅野(※齋藤晌・浅野晃)2氏を入れ6人。浅野氏「きみは歴史家といふも時間にまちがひあり」と。かなづかひの話旨く出来ず。すみて座談長く20:00浅野、佐藤2氏と渋谷へ出て国鉄にて帰宅。22:00まへなり。 2月19日 小雨を傘もたずゆく。防大教室変更にてごたごたし5時間目5分やりしのみにて進度不そろひとなる。東助教授と話せば「山根忠雄君と同郷にて呼ぶ気あり」と。 16:06ともにbusにのり(試験問題「近世の日華関係をしるせ」の印刷を味田村光子(てるこ)女史にたのむ)、鎌倉下車。炒飯と雞蛋湯くひ、つりなしとて『世界文化史大系13』買ひ、手塚邸へゆけば、すし出る。石田君の住所また教はらず「史学科主任やりたまふ」と。20:00送られて出、帰宅22:00。 保田より増田晃詩集の受取。村上新太郎氏より「月末までに詩を」と。至文堂より『東洋思想講座5』着きをり。 2月20日 晴。暖し。聖心女子大にゆく。和田先生お越し。近世史を終へ、講師室に帰れば先生待ちをられ(けふ2、3月分のsalaryもらふ)、お供して渋谷。「一生つまらなかった」との仰せ。 お別れして宮益坂のぼれば定休日にて古本屋みな休み。うなぎ食ひ青山6丁目より地下鉄、不二家へゆけば16:00前。誰もゐずice-cream食べて出、人形2つ買ひ16:30また入りて2階に上れば林、山本、村田をり、17:00すぎ佐々木(東京へ嫁ぎ来ると)、上野、住山来り、坂根とにて7人となる。sand-wichたべて出、地下鉄にのれば混みをり、鞄の紐切れる。渋谷のbar探しあて、われはabsinth(※アブサン)のみ、他も洋酒。住山「洋裁の師につれてゆけ」と云ふ。菓子もらひ別れて池袋。 坂根とrice-curryくひ、江上『北アジア史(240)』買ひて帰宅。小高根二郎君よりハガキ。(けふ城平叔父に「万美子に会はせよ」と云ふ速達出す)。中国文学史の採点す。 2月21日 雨。成城大学へゆき、短2と文3の「中国文学史」の採点提出。中国文学の試験監督。すまして帰り来れば中野□□君より電話かかりをり。12:40に経堂で会はんといひ、salary12:30といふにもらはずに出る。 (富永次郎氏「伊藤佐喜雄を知る」と)。ともにすしやにゆき彼はbeer、われはすし食ひ、新宿まで同行。お茶の水にて聖堂にゆき『太平天国的教育(45)』『中國歴史要籍介紹(140)』買ひ、都電にて赤門。山上会議所にゆけば東洋史談話会はじまりをる。竹田龍児氏あり。休憩に桑田六郎博士に挨拶す。和田久徳氏の「宋代の華僑」きき、出れば和田博徳氏『明代の鉄砲伝来とオスマン帝国』の抜刷たまふ。 昨日阿部建夫教授、けふ鳥山喜一翁(71才)の訃を新聞報ぜしも話題にならざりし如し。本郷歩き、大野昌子に電話すれば「あす19:30にせよと云ひし」と。古本屋見て『支那学研究法(80)』見つけてうれし。 帰れば上田阿津子より履歴書。聖心女子大より「写真送れ」と。立教大学より「経済学部の入試監督手伝へ(5日8:30登校)」と。 2月22日(日) 成城大学より「3月20日(金)10:00の卒業式後謝恩会」と。「鳥山喜一氏の告別式けふ14:00より15:00まで」と夫人より。 城平叔父より「3月20日淡路墓参:淡路護国寺参詣、田中大本家挨拶、立川瀬庵寺参詣墓参、明石墓参をすまし5月3日葛井寺にて正式法要を営む。5月3日には来てくれ」と也。 住山重子来り、「森英恵女史に電話し、わが名出し、けふ15:00~16:00に来よとのことなり」と云ふに15:00新宿駅で待合せ約し、14:40ゆけば待たさせ、旧Wartherあとの店にゆけば不在。15:30自動車にて着きしも「16:00よりにしてくれ」と。も一度云ひて会ひ、coffee出され「福田幸存に東京女子大で習ひし」ときき、出て喫茶。 bus乗場にて別れ、乗りそこなひて引返し、蚕糸試験場下車。丸邸にゆけば悠紀子より電話かかり「田中順二郎夫妻来訪」と。「丸の長男、成城に来る気になりかけし」と。「長女学部3年にすすむ」と。借金返却して18:00すぎ帰宅。 「順二郎転職の意思あり」と。19:30大野家へゆけば鈴木生、豊山高校おちしらし。すみて大野夫人「女先生結婚のためあと引き受けずや」と。断りて「早川敏一君に訊ねて見ん」と云ふ。帰宅。入浴。 けふ浜田勝巳氏へ祝ひの手紙。鍛治初江君へ「3月20日すぎ行くやもしれず」と。岩波新書『東京』買ひ来る。 2月23日 晴。11:00出て聖心女子大へ写真もちゆく。渋谷にて『国語問題正義(20)』買ひしのち新宿へ出てラーメン食ひ、成城大学へゆけばreport一つも出をらず。教務課長に会ひて学科のこときけば「中国文学史脱落ならん」と。「明日、栗山、坂本2氏に会へ」といふ。川上生らに「太宰治」とるため林富士馬に会へと云ふ。 早川敏一訪ぬれば不在。夫人に名刺もらひ帰校して学術会議に電話して話せば「忙し」と。文化史専攻のreport4人のみ受取り、大塚で途中下車。『一皇族の戦争日記(50)』買ひ、都電にて帰宅。正平来ざりしと。寺本夫人より「多忙にて来られざりし」と。 けふ3月20日の謝恩会に欠席を成城大学に通告。悠紀子林dr.にゆきしに移転中と。「明日ゆく」と云ひしと。ことはらん。 2月24日 雪。10:30出て立教大学にゆきしに研究室無人。教務課に「3月5日の試験監督を可」といひ、2月分手当もらひ、柳田国男『野草雑記・野鳥雑記(100)』と『民国の文芸(20)』買ひ、東武dept.でチャーシュー麺たべて成城大学へゆく。 栗山部長にきけば「中国文学史やってもらふ」と。服部三樹子氏の消息きかれ「知らず」と答ふ。(林dr.に「けふゆかず」と電話す)。 坂本主事に短大2年の中国文学の内容をきけば「興味本位にやれ」と!山田孝雄助教授まち、締切3月2日(月)としてもらひ(採点報告も同)、図書館にて内田泉之助『中国文学史』借り、階下にて文化史専攻の連中と話して(けふ鎌田女史に琉球行の餞別として吉田東伍『沖縄之部』贈る)のち出、下北沢にて下車。辻政信『潜行三千里(20)』と『Singapore(20)』他に英文法参考書買ひて帰宅。 前川佐美雄氏より「4月上京」とハガキ。夕食して19:30大野家。鈴木生来ず。昌子生「28日来ずともよし」と。知子生「15:00来る」と。母君に畑山家へ電話してもらへば「後任すてあり」と。最後の礼もらひて出る。Port-wine買ふ。 2月25日 晴。家居。立教大学よりまた「7日(土)の文学部入試監督に出よ。3日(火)13:00大学院修士課程卒業成績判定会に出よ」と。浅賀千里「盲腸炎にて入院report出せず」と。 悠紀子、東十条に2度ゆき鞄なほる。 p5 2月26日 雪。防衛大学へゆき5時限以外は講義せず「歴史を作るに注意せよ!」と云へば拍手せし。各教官に挨拶せしも麓館長とは会へず名刺托す。 阿部教授「岡部君に気の毒」と。平田俊春君、黒板博士の「奈良県・京都府諸社寺中」なる紹介状見す。豪壮なることかな! 16:06のbusにのれば保柳睦美教授声かけ『地誌目録』賜はる。「藤田先生今後の家のこと心配さる」と。 横浜下車。18:00まへ迄待ち、岸明子来りしとtaxiにて山の上社宅へゆく。夫君、東京へゆきしとて30分まち、televiその他そろひゐるに感心す。夫君、鹿児島産にて(阪大出?)食用油会社の技師。NHKの人にとつぎ来るといふ吉田生にハガキ書き、20:00坂下まで下りて別れ告げ、taxi(80)。22:00すぎ帰宅。 城平叔父、万美子つれて来たまひしと。「父、3月末まで仕事しをる」と?! 住山重子、日生浜田重役より礼状。高田瑞穂教授より学科のこと。不審。 けふ手塚教授へ横須賀駅にてハガキ書きし。(石川道雄氏、ガンで死なれし由、新聞に見え、保柳氏「府立高校にて同僚たりし」と)。 2月27日 晴。終日家居。中野清見オカヤマエキより「28ヒ5ジダイイチベンゴシ会デアイタシ丸ニレンラクタノム」と。 夜になり丸に電話すれば「八王子へゆくにつき都合わるし」と。(井辺太郎より「3月4日(水)18:00泰興楼にて兼清隆二の川崎トキコ(※自動車部品メーカー)へ転任歓迎会」と)。また速達、本位田昇より「富士高校の結果早くわからずや」と。 大野家へ電話すれば「知子あす来られず日曜10:00に来る」と。0:00採点了る。 2月28日 曇。成城大学へ採点報告にゆくと10:00家を出る。高田教授に会ひてきけば我が考へし通りなりし。採点報告すまし、池田教授と話し、文化史専攻の3生呼びて叱り、川上生に電話すれば「林dr.にすでに会ひ4氏に紹介してもらひし」と。 村田生と出て経堂下車。小高根太郎訪へば「関西より帰り来しばかり」と。「高校入試の詮考は各校にてはわからず」と。疲れてものいへず、すぐ出て帰宅。 聖心女子大4年生より「10日14:30謝恩会」と。山本実子より礼状。林dr.より新築にて『果樹園』の会をせよと。浅賀千里より「reportまだ送れず」と。 風呂へゆき中野清見に会ひにゆかず。(けふ池田氏に云へば『成城文芸』は10日にてよしと。杜甫の人名索引作りをり)。 3月1日(日) 弓子、向丘高校の入試にと7:30出てゆく。大野知子生10:30来る。防衛大学卒業式(3月10日)の案内。旅行につき欠席と返事。午后、雨中を畑山氏にゆき、夫妻に礼云ふ。大野schoolのわが乏しきを助けしが為なり。 柳田国男『野鳥雑記』『野草雑記』を礼にもちゆきし。ここにても先だっての採点結果探知はむつかしときく。 帰りて杜甫人名表つくる。弓子帰り来しも成績わからず。悠紀子、依子ともに風邪。けふ京、誕生日とて依子に人形買ってもらふ。 3月2日 曇。城平叔父へ「淡路へ墓参にゆく時間しらし玉へ」と。井辺太郎君へ「4日の兼清隆二歓迎会、所用にて欠席」と。 前川佐美雄氏に「近々会はん」と。安田明子夫人より礼状。成城大学へ「講義要項」を送る。 16:20聖心女子大へゆき「東洋近世史Ⅰ」の答案とり、帰りのこむbusにてどならる! 富士高校に電話すれば「内村君帰宅」と。帰りて夕食。 岩崎昭弥より『墓碑銘』出すゆゑ序文かけと速達。本位田昇君に電話して「役に立たず」といふ。 3月3日 晴。風吹く。悠紀子、住宅公団へとゆきしあと弓子帰り来り、河出書房より7,970着き「これにて28,660みな済みし」と。 12:00出て立教。手塚、中山、小林の諸氏に会ひ、白鳥先生に会ふ。郁郎君のこと忘れたまはず。 14:00よりの大学院の判定会に出、中沢、菅部長に挨拶し、茶菓ご馳走となりしのみにてすみ、牧水『行人行歌(60)』買ひrice-curryくって帰宅。 岩崎昭弥より『墓碑銘』稿再来、「序文かけ」となり。平田春一氏より『黒薔薇』。平田氏と住山生へハガキ。 悠紀子、税務署へ申告にゆく。丸より電報。電話してあす午、会ふこととなる。岩崎昭弥『墓碑銘』の跋と訂正了る。「杜詩人名索引」了る。 3月4日 晴。よべ眠れず苦しきも11:00出て第一弁護士会に丸を訪ね、築地のふぐ料理に案内され、生れてはじめてチリ鍋とさしみ食はさる。「重俊君、成城の第一次は受けず、第2次受けようかな」といふ由。山本、中野(※山本治雄・中野清見)のうはさし、13:00出て西銀座まで歩き、大阪書籍へ寄れば、前田社長、川口会議のため上京と。角川書店へゆき文庫係の山本君に会へば「重版印税は4ヶ月後支払となりし」と。立原全集の第5巻買ひ「10日送金」ときいて出、都電にて渋谷。 聖心女子大へゆき、16:00まで待ち答案受取り、外へ出て大に電話。「colombin」に呼出し「健の妻疾妬す」ときく。千草夫婦より早大又は慶応の入学費として9万円の借金申込まれしと。気の毒にて茶代払ひて帰宅。 母より「4月半ば、伊勢へゆき5月上京。史はすでに下宿へ移りし」と。成城短大の謝恩会21日との案内。中谷孝雄氏より『在原業平』。(けふ岩崎昭弥へ原稿速達す49)。 3月5日 睡眠不足なれど8:20立教にゆき山田君に見つかり、村本助手と同じ組なることわかる。新館にて240名の監督を6人にて行ふ。高橋幸八郎氏も同役なりし。午、田中正義氏に呼びかけらる。「経済学部教授」と。宮本、海老沢、中川(上原君―成城助教授―と同級と)、手塚氏らと研究室で午餐。 白鳥先生も出席されゐし。14:30すみて疲れて帰宅。 田中順二郎君より「営団の補欠に斡旋す」と。訪れ来しは聖心女子大の山形睦子生。「試験の出来を心配してなり」と。東洋大学の三浦久子氏に電話かけ税金申告票たのむ。 夜、聖心の採点すます。 3月6日 聖心女子大へ採点表速達す。午ねし、入浴し、夕食後電話すれば林dr.「来てよし」と。19:30ゆけば多忙、夫人と話し、「お祝また」といひて帰る。 けふ防衛大学より答案来る。夜、速達、松本悦治君より来あり、「7日か8日の14:00ごろ来る」と。 3月7日 雨。8:30立教大学へゆく。また高橋幸八郎氏とcombiとなる。67人中女子39人の文科受験生中にきのふ態度悪かりし大石といふがゐし。ひる海老沢、白鳥2教授とともにし、番匠谷教授に紹介されし。 14:30すみて15:15帰宅すれば松本君待ちをり。岩崎夫妻より礼状来をり。松本君「住中にて斎田昭吉と同級、大高にてわが話ききし」と。 けふ悠紀子、田中順二郎君に電話かければ「書類せかず」と。西川夫人に保証人たのみにゆき、合over-coat、6,000で見つけて買ひ来し。 3月8日(日) 10:30村田生whiskyもって来り、「亡友の詩集出版したし」と。三浦久子氏より源泉徴収票。岩崎夫妻、中谷孝雄、三浦久子の3氏にハガキ。 3月9日 晴。京、風邪とて休む。朝より「岑参二事」を書きつづける。悠紀子、林dr.にゆく。『果樹園38』来る。村上新太郎氏より「申出に従ひ、来号より詩いらず」と。Schinzinger先生の還暦祝賀を500円よりと。 京、薬のみてのち吐瀉す、絶食す、あはれ。夜、21:30「岑参」書き了る。200×49、不十分なり。 山本実子、辻芙美子へ便り。辻生はけふ送り来し同窓会誌4に我が名をしるすが故なり。(城平叔父へ「必ずゆく」と速達)。 小高根二郎君に「23日ごろ会ひたし」と。川上恭正へハガキ。 3月10日 雨。寒し。散髪し、12:00出て成城大学へゆけば池田氏不在。机の上に原稿おき、教務課長に月収証明してもらひ、会計課へ3月分直送たのみ、busにて渋谷。聖心女子大へゆけば、琴はじまりをる。踊り、劇見ささる。17:30より夕食、わが教へし子ら挨拶に来らず。一人にきけば「点辛し」と也!! 19:00中退して帰宅。23日東洋史談話会の通知ありしのみ。(けふ明治書院に電話してきけば「18日が締切」と!)。(若林光夫氏の姪といふがありし)。 3月11日 曇。雨。史、9:30帰宅。母4.5万円の借金ありと。就職日生にてよしと。阪神はいやと。悠紀子、体わるく、やむを得ず西川の月収表もらひにゆく。林語堂『東西の国民性(30)』買ひてもどる。往復ともにだるし。角川書店より『昭和詩集』の10~12版の印税826。田中忠雄氏より「18日の会を25日にのばす」と。 大野昌子母子来り、「日本女子大合格しゐし」と。山本、松本2友へ「20日連絡する」と。 3月12日 防大の採点つづけ16:00まへ了る。「春の日の会」の案内来る。「4月9日にて会費2,600」と。防大へ速達にゆき、畑山氏にゆく途中、雨ふり来る。大野家より電話かかりゐしとて共に喜びくる。 けふ史、柏井へゆき、悠紀子税務署と区役所へゆく。 3月13日 10:30出て明治書院。内河女史に会ひ教授参考書借り、大手町へゆき田中順二郎君に書類わたす。「1月後に東京tower出張を命ぜられるやもしれず」と。地下鉄にて池袋。西武dept.の婦人Hallに宮崎女史訪ねる。『日本歌人』近々出る由。東大生をり「すず子君受験した」と。すぐ出れば追ひ来りしも話さず帰宅。 城平叔父より「22日7:30梅田西口に来てBに乗れ」と。松本悦治君より「20日すぎ再来」と。西川より東京今中会の名簿。 3月14日 晴。弓子11:00すぎ表口まで来て「落ちたよ!」と云ひ出てゆく。そのあと悠紀子、林dr.にゆけば「令息板橋高校へまはされし」と。小高根二郎氏より「23日の予定」と。 夕方、弓子帰り来り、小野のこときけばしらずと。悠紀子をして同女の家にゆかしむ。やがて帰り来り「夕刻帰宅せし」と。 3月15日(日) 晴。悠紀子不快。大江叔母へ「22日参加す」と。鍛治初江氏より「20日迎へにゆくゆゑ汽車の時間しらせ」と速達。川崎菅雄「退社して会計士となりし」と。 鍛治君に「21日阪急ホテルへ泊る予定」と速達。小高根君に「23日午訪ふ」とハガキ。和田博徳氏に『明代の鉄砲伝来』につき礼状。 悠紀子、弓子をつれて王子中へゆき成徳女高を受けることとす。夜、岩崎昭弥より速達「ぜひ来れ」と。 史、柏井へ麻雀しにゆく。夜半までに明治書院のため5枚かく。山口先生へ手紙かき本返す。 3月16日 弓子、成徳女高へ願書出しにゆく。文芸日本社より「20日中谷孝雄氏『在原業平』の出版記念会」と。「欠席」の返事出す。 ひる中書きつづけし「李白」109枚にて了りとなる。仕方なし。 3月17日 雨。明治書院へゆき内河タケ子氏に原稿わたす。歩きて大阪書籍にゆけば、支社長長々と話せしのち「前田隆一社長、今月上京せず」と。都電にて帰宅。 大野家へゆけば「つづけて来ずや」と。「来ず」と答へ、仏和辞典を祝ふといふ。 藤田亮策先生に寄れば「試験の監督にゆき玉ひし」と。角川より10,500-1,575-1,280=7,645。 佐々木邦彦君より青龍展の案内と出誕の坊やに梓と名づけしこと。松本一秀君より「20日午まへ電話せよ」と。長尾良君へ礼状。夜、入浴。悠紀子、心臓悪しと。弓子あす成徳の入試と。 3月18日 6:00起き7:00家を出て7:50の東海1号にのり13:23熱田着。畠山家に電話すれば「六右衛門氏長崎出張」と。坊やtaxiにて迎へに来て大瀬子町の宅にゆく。のり子君同志社女高を昨日卒業せし。殿井の女と同classらし。Whiskyのまされ、岐阜の岩崎昭弥に電話すれば「来よ」と。佐々木六郎君に電話すれば「公休」と。 16:10に熱田駅にゆき岐阜につけば岩崎君迎へに来をり、伊藤賀祐に電話して岐山荘。 本位田、丸、中野、浅野晃の諸氏にヱハガキかく。 3月19日 岩崎君のAutobyにのせられ岐阜駅。準急にのり大阪着10:30。吹田(※山本治雄邸)へゆき昼寐。夕方、飯くひかたがた出て電話を渡辺三七子にかけしもまだ帰らず。晩酌に1本つけ疲れなくなる。 昭和34年3月20日~昭和34年7月10日 「東京日記 5」 本冊画像PDF 25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p6 3月20日 朝、山本治雄に電話かけ、18:00訪問を約し、梅田にて喫茶。万字屋見て『末摘花(100)』買ひ、淀屋橋まで歩き、日本生命にゆき松本一秀君まつ間、高松直子呼び、12:00会食を約し、松本に今村重役、浜田重役へ挨拶さしてもらふ。「保険学勉強さすべし」と也。 藤原、高松、山内、川崎、谷川5生と昼食すみて地下鉄にて本町。中小企業金融協会さがしまはり、千川と話し、隣が小林政商店なるに寄れば「殿井専務忙し」と。その通りの紡績協会にゆき村山高調査部長に会ひ、岩田生、無事式あげしらしきを知る。 荒木利夫氏に電話してゆき、23日『骨』の会を18:00れんこんやにてときめ、出雲屋に吉田栄次郎君を訪ひ、茶ご馳走となり十合に寄りて山口玲子訪ねしも会へず。阪急Hotelにゆけば古田房子君「明日の止宿承知、清水生より電話かかりし」と。 出て新谷博士訪へば「西垣清一郎氏死にし」と。落涙す。これにて了りて梅田をへて吹田、山本邸訪へば夫妻ともに不在にて、待ちてtelevi見、18:30帰り来し山本と話し、坪井の来るを知る。山本嘉蔵氏に電話すれば「紀伊田辺の信江嬢のところへ孫見にゆかれし」と。山本実子に電話し、beerのまさる。坪井の話にては「肥下に遭ひ、堺脳病院をやめしをききし」と。 湖東に電話すれば「田中順二郎氏より来阪ききし。令嬢大阪女子大に入学せし」と。 入浴し、山本と床を並べて眠る。けふ渡辺三七子に電話し「あす午、大野屋にて鍛治、山中、太田夫人会するに案内してくれる」と。 3月21日 山本家にて8:30起き、夫妻の謡ききて11:00出、兵庫県の地図と『サンデー毎日』を大阪駅で買ひ、busにて内久宝寺町下車。立川PenCo.に着きしは12:00。 渡辺生の案内にて大野屋へゆく。「太田夫人、西村氏といふを見つけくれしも一人息子にて親には話まだせず」と。大野屋にては太田夫人待ちくれ、いろいろ話きく。石川喜久子の写真をもらひ、14:30藤野(南村夫人)、山中、鍛治の3生来り、料理了る。 西宮君に連絡とれ、「18:00~18:30阪急Hotelへ来る」とのことなりしゆゑ、16:30出て阪急Hotel。山中、鍛治2君と室に通れば「谷川生より17:00電話あり」と。待つ中、17:30電話あり「十合の前で待つ」と。 折から雨降り、谷川、田中文子、平岡英茂、清水文子、柏原美佐子、西岡盈子の6生と9人にて支那料理食ひ、18:30になりて阪急Hotelへ6生と引返せば「西宮君より20:00に来ると電話ありし」と。 6生と話して20:50となりて送り出せば西宮君来り、「神崎院長、胃癌にて余命若干、組合云々」といろいろ聞く。 研究報告数部もらひ、みやげもらひ、古田房子君と送り出し、入浴、就床23:00。 6:30起したのみ840の勘定書もらひ1,100わたしてすみし。「けふ長沖氏televiに出ゐし」と。 p7 3月22日(日) よべ殆ど眠らざりし。6:30起きそのまま着衣。地下鉄にて梅田に7:00着。朝食くひて西口へゆけば正平君見つけくれ、集りゐし城平叔父一家と康平叔父一家に会ひしも、大江叔母の車来ず。8:00すぎ出発、9:10明石のフェリーボート乗場にて待ち、無事乗船完了。 はじめて淡路東海岸をゆき、12:00賀集の護国寺着。祖父の回向すます。城平叔父の車の運転は近藤君、康平叔父の車の運転は山下幸男にて「四条畷に家たて母呼びし」と。雨中を田中万米(※賀集村[南淡町]村長)家へゆき、当主と母お操(そー)さんとに挨拶すれば、お操さん、われを「甚城そっくり」といふ。向ひの庭見、「甚城声よき人なりし」ときく。「野田宇太郎によろしく」と云うはれし。 万米家の隣に昔の家引取り、そのままにありし。ここより歩きて立川瀬の庵寺の墓見る。「三つならびし中が祖父祖母の墓」と。これですみ83才のお操嫗のみに送られて出発。洲本の町を通りすがら見て、16:30岩屋着。われは鳴門のみかん漬買ひしにまけてくれし。 明石着17:20。雲晴寺の墓に詣り、人丸神社の上の尾崎家の墓にまいりてのち、明石駅前にてあなごずし食ひ、大阪駅前20:00解散。 われは大江へ泊めてもらふこととなり、預けし鞄とり来り、21:00すぎ着。大江叔母とbeerのみ、話す。「この間、父母来り、母“克己に千草をやさしくせよと云へ”といひし」と。(大江叔母あて悠紀子より「弓子入学できし」と告げ来しと)。 3月23日 9:00藤井寺を出て松原で下車。肥下恒夫を訪ぬれば夫人元気になりゐる。「蔵にしまひし『コギト』をその中送る。妹日本生命の勧誘をする」と。 出しは11:10にて、あはてて日本レーヨンにゆけば小高根二郎君「伊東マキ子を呼びゐる」と。つれにゆきて北浜の料亭にてbeerのませ京料理くはさる。 「小山正孝の(※『果樹園』)やめし理由はなし」と。「山根君の転任かまはず」と。「昨年より総務部長になりゐる」と。マキ子云ひしは「人形芝居に入りしがいかに」と。「しっかりやれ」と云ひ、諸田生、砂川にて白骨となり「恥、々、々」の手帖のこして発見されしをきき、 13:30ともに出て北浜2丁目に来り、沢田直也弁護士訪ひしに不在。名刺おきbusにのり上六で下車。マキ子と別れ、江馬春夫に会ひ、15:00特急まてば平田春一氏をり、奇遇といひて話しつつ奈良着。 前川家へ先に行ってもらひ、野崎そのを訪ね、鞄預ってもらって前川家へゆけば、「藤谷(極楽寺)の発案にて柿本寺復興をやりゐる」と。「4月12日大伴道子夫人出版記念会に上京」と。別れを告げて野崎家に寄れば、菓子くれ駅まで送り呉る。17:00発の京都行特急にて京都着。 三條河原町で下車、れんこんやにゆけば佐々木邦彦、依田義賢2君待ちをり、昨日井上多喜三郎「絶交」といひて帰りしと心配す。「彦根にて我なだめん」といふ中、山前実治、女給をつれて来り、荒木利夫君広島出張の前に来り、井上多喜三郎来り、『骨』創刊当時の同人みな集まる。 愉快に話して歌うたひ、女給のbarにゆき井上君帰りしあと、出て、依田君すし食ひbeer買ひtaxiにて佐々木君の山科の家へゆく。0:00依田君を迎へに来し自動車まで送り、夫妻と1:00まで話し、炬燵に入れてもらって就寝。 (けふ田中忠雄氏へ「25日の三水会欠席」の速達す)。羽田明君には「れんこんや」より電話かけ、「明日午前にゆく」と云ひし。栗山理一氏、京にハガキかく。 3月24日 めざめて床の中にて鍛治、太田、松本一秀、西宮、坪井、山中の諸氏にヱハガキかく。「午前中に」との羽田との約束を依田義賢の春画見、殊に夫人、坊やの顔みたく11:00となり、あはてて四宮のbus停留所にいそぎ京阪三條。 橋を渡りて京阪書房へゆき『木馬と石牛(90)』もらひ、上賀茂行のbusなきを知り、新開通の洛北高校廻りの市電にのり、烏丸車庫より羽田家へ13:00着く。 羽田「6月にIranにゆく」といひ、とめてもきかず。「東京の学会も友なし」といひ、和田先生のことなど話して15:00すぎ父宅へ行けば、「隣近所の夫人を集めて送別会」と。髭そり挨拶すませ、父の思ひ出よみ17:30帰りし父と話す。母それまで「子らみなに感謝す」といひし。千草の子入学のしらせなきは落ちしならん。 3月25日 10:00出て大津に下り、彦根へ着きしは16:17。河村先生(※河村純一医師)訪へば、「待たる中に小林英俊宅より急変、のしらせに行かれ、注射うちもどられし」と。やがてまた先生煩はし、果物もちて(※小林邸へ)ゆけば、床の上に坐り、耳聾すれども意識は正確にて喜び呉る。 戻り「やりや」に車とめられ、藤野君(※藤野一雄)と話しつつ、来るを待ち、来しは井上多喜三郎、広田一彦、若森とわづか五人。0:00まで笑はしつづけ、皆帰りしあとさびしくてたまらず。 生涯の最も悲しき日の如く泣きつつねむるわれにはありし。 岩崎昭弥にハガキかく。 3月26日 4:00まで隣室のさはぎに眠れず。8:00おこされ朝食。汽車のなきに待つま、荷物を「やりや」に預けて短大(※彦根短期大学)へゆく。家政科事務室にゆく。西沢事務長、中村事務らをわれおぼえ、書類もらひ「松村一雄氏在室」ときき、ゆきて酒出さる。中島、川崎、田中禎子などのみ残りゐる様子。 出て荷物とり、汽車時間ききに中村竹次郎君によれば「中村清太郎さんは実弟!」と。時間なきことわかり、あはてて河村御夫婦に挨拶すのし、busにて彦根駅。 米原行にのり(「やりや」にわが出しあと杉本長夫教授よりしとて『湖声(※滋賀県職員労働組合機関紙)』おきあり、母君挨拶されし。「宿賃とらず、茶代とらず」といひしを内緒にて渡せし)、豊橋行にのりかへ、12:00まへ大垣下車。 白井(※白井三郎)に電話してtaxi(110)にてゆく。多忙中会ってくれ、工場ほぼ見せらる。女工員平均一年に10万円貯金すと。食費1,350と。社宅につれゆかれ、夫人と坊やに再会。 13:20「新旧工場長の交代」とて白井の出てゆきしあと、夫人令息と15:30まで話し、すしよばれ、high-ballのみ、呼びもらひしtaxiにて駅にゆき、16:07の準急に乗る。 名古屋よりは満員、豊橋の鰻飯くひ、残金45円となりて帰宅。 郵便受取り、留守中の報告受けしも覚えられず。 3月27日 きのふ山本陽子来り「けふまた来る」といひしと。悠紀子、京をつれて買物に出、山本生16:00来り、史、茶を出す。「文学座受験につき芥川比呂志氏に紹介状かけ」と也。夕食せしめて思ひつき、西垣脩氏に電話して明日会はすこととす。柏原美佐子生より「楽しき集りなりし」と。松本悦治氏より「3月31日(火)上京、午后来る」と。西宮一民君より「理事長邸での教授会」の報告。父より系譜史料。 3月28日 植村清二先生18日付にて「中村林氏に紹介せし」と来しに返事。11:00出て立教大学。3月分手当もらひ、東武dept.でrice-curry食ひ、三鷹の浅野建夫博士訪へば女中「何御用?」と。 夫人呼び出し、上げられて悠紀子の病状話し、ややして出て来し浅野君に東大小石川分院の精神病科笠松博士への紹介もらひ、伊藤賀祐のこといへば「考慮せん」と。「永田(辻部)三郎君の歓迎会4月1日」と案内来あり。autoにて駅まで送られ、竹内好訪へば在宅。「小説かけ」と。 16:00出て(池袋にて中国詩人選集『陶淵明(130)』、藤堂明保『語源漫筆(80)』)、西荻窪まで歩き、楳本『最後の陸軍(30)』、今井登志喜『歴史学研究法(50)』。 丸に電話かけしに出ず、高円寺のplatformよりまたかければ、ゆみ子君出て「母外出、父釣り、兄成城けふ受験せし」と。「村山、田村2氏の上京伝へよ」といひ、池袋。 西武dept.に宮崎智慧氏訪へば「4月12日につき前川氏より応答なし」と。鰻丼くひて林dr.。 芳野清君来をり、酒と飯ふるまはる。「春の日の会」出るが宜しからんと。本みな盗まれしと。芳野君「あす下阪」と。 近くに住むといふ野長瀬正夫氏に電話せしに「来られず」との返答をよき機に起ち、芳野君に祝の計画たのみ、大塚より都電にて帰宅。 堀多恵子夫人より『妻への手紙』。影山正治氏より「代々木が原返還されし」と。(林dr.に悠紀子「宅はにこにこして帰って来た」といひしと!) 3月29日(日) 朝下痢。依子、弓子と出てゆく。向井順子、堀ノ内歴、山中京子(井上)、田中季雄の諸氏にハガキ。田中季雄氏「保子生の卒業の礼」として留守にnecktie賜賜はりし也。 午后、依子、弓子のあとを追って京つれて都電にて三越。white-shirtあつらへ(4月9日出来と)青龍展見る。佐々木邦彦君「山望」「残雪譜」2点を出品。ついで大野昌子へと白水社『仏和中辞典(700)』買ひて出、都電にて上野。小島屋へゆけば「田村春雄君、今夜帰りおそし」と。帰りて寝る。 よべより下痢。河村純一博士へ「山望」のヱハガキ。天理図書館へ『Biblia13』の受取。柏原美佐子へ「groupへ」と礼状。羽田明教授に同。 けふ悠紀子、大野家へゆきしに「鈴木生、北高校を受けて落ちし。その母とつれ立って礼に来るつもり」といひしと。 3月30日 井上多喜三郎君へ礼状。山前、依田2君へ同。山田新之輔、涌井千恵子、増田春恵へハガキ。 午后、山中タヅ子より「吾に会ひつかれし」と。折柄訪ひ来しは上田阿津子「親族会議の結果、上京しての演劇研究断念した」と。 14:30坂根千鶴子に会ひにゆかせれば「休校、転居」と。夕食せしめ、ともに尋ね尋ねしてゆけば外出。喫茶して話きけば「東京に信頼する人あり。母は継母」と。 池袋駅にて別れ、帰宅すれば悠紀子電話かけてわれを探しをり。また丸より「デンワセヨ」の電報来あり。かければ「重俊のこと栗山部長に頼んでくれ」と。 その寸前、田村博士に電話して「あす午前中ゆく」ことを約しをりしも「承知した」といひ、坂根生に会へば風邪ひきをり。『果樹園』の110円受取る。 下痢われもなほらず。けふ池袋の国電にて市古お茶の水教授に会ひ、鈴木俊氏へ「会ひたし」の伝言たのみし。 3月31日 よべの睡眠不足こらへて8:30家を出、栗山部長訪へば「丸重俊、学科でき、体格検査さへよければといへ」と。喜んで出て電話すれば丸、出しあとなりし。急ぎて上野の小島屋にゆけば11:00。田村春雄君に都合きけば「明日、明後日の夜よし」と。「のちほど連絡する」といひ、帰りて昼食すませれば松本悦治君来り、前日貸せし本返し『コギト』もちゆくこととなる。 折柄「植村清二先生より紹介受けし」と中村書店主中村林次氏(新潟大学出しあと中央大学出しと)来り、「国姓爺」書かんといへば「宜し」と。 200字詰450枚、夏休みにと約束す。「大野文衛博士にも依頼にゆく」と。 松本君送り出して畑山博氏見舞にゆけば、神経痛癒え北区教育委員と話しゐる。他の会へと出しあと夫人に大野家の話し、養女せしと知りて出る。 「史、あす西下」と。夜、丸に電話すれば煦美子生出て「まだ帰らず」と。中村書店の呉れし『庶民と江戸川柳』よむ。伊東マキより礼状。 4月1日 8:30丸に電話し「明夜、田村博士とゆく」ときめ、春雄に電話し、佐々木邦彦に手紙かきしのみ。 長尾良より「体悪し」と。午后、小林英俊の嬢、明美君より礼状。 けふ永田三郎の歓迎会にゆくや否や定めずゐしところへ山本陽子来り、「文学座の試験に落ちし。西垣君の芥川氏への紹介状使はざりし」と。 中華そば食ひ、ともに出てわれは高野勝美にゆきしに勝美氏は会合。松井信子は帰らず。春名一満にいろいろいひて21:30となり、勝美と話し、亀戸駅まで送らる。「日本はだんだん良くなりゐる」と。 けふ史、10:00ごろ出て西下せし也。 4月2日 上田阿津子より「帰郷する」と。田中万美子より履歴書。白井三郎へ礼状。 午后、鍛治初江より「10月上京」と。山本実子より「見送りせず」と。 16:30出て小島屋にゆけば田村春雄君まだ帰らず。17:00帰来。banana食ひて出、新宿下車。中村屋で手土産買ふを案内しbusにて高円寺。 丸家へつけば「夫人、成城大学へゆきていまだ帰らず」と。重俊文化史専攻とかきしと。由美子の登校も許されしこと夫人帰りてわかり、黒beerさかんに丸のむ。西川に電話すれば帰らず。 20:00すぎ本位田帰りて電話し「令嬢富士高校に入学せし」と。21:30すしくはされ、高円寺駅へ出、神田をへて帰る。 煦美子にきけば「辻生はじめ概ね学部3年にすすみし」と。お茶の水にて加藤定雄の帰り来るにあひし。ふしぎ。 4月3日 『果樹園39』来り、林dr.よりハガキ来る。午后の便にて上田阿津子より貸し忘れし本3冊来り、川崎菅雄、福地邦樹2友よりハガキ来る。小高根二郎、小林明美、川崎菅雄、田中順二郎、野崎その諸氏へハガキ。 4月4日 家居。大森倖二氏より「国立に転居した」と。中野□□君より処女作「鉄工所」(※映画)の試写案内。 午后、鈴木、大野2夫人礼にと来り、大野昌子作の「のれん」その他もらふ。「鈴木生、向丘高校も合格、豊山高校を選びし」と。 平凡社より『アジア歴史事典』に「アミン(※阿敏:清朝軍人)、アルバジン(※ロシア城塞)、伊犁総統事略(※書名)、ウジュムチン(※地名)、ウランチャブ(※地名)、ウランバートル、ウルゲン(※ウルゲンチ:地名)、王昶(※清朝学者)、鰲拝(※オボイ:清朝政治家)、鄂博(※オボー:蒙古の祭場)、鄂尓泰(※オルタイ:清朝政治家)、翁牛特(※オンニュド旗:地名)、可賀敦、可汗(※カガン:ハーン古称)、何秋涛(※清朝官員名)、慶寧寺、海東青鶻(鳥の名)」を5月10日までに書けと。 夕方、丸夫人礼にと来る。「次男、槍ヶ岳にて負傷して帰りし」と。夕食後、京と散歩。 4月5日(日) 雨。聖心女子大より「10日の場所予約されあり、出席なら云へ。授業は23日(土)8:10より」と。 (徳永)秋山昭子夫人より「彦根へゆきしこと宇田良氏よりきいた」と。午后中村氏再訪「やさしきものを書け」と。『川柳』3冊また賜ふ。夜、入浴。 4月6日 城平叔父より「万美子上京した。就職たのむ」と。前川佐美雄氏より『明窓(※大伴道子歌集)』の出版記念会19日と。 午后、東洋文庫へゆき『明清史料乙篇』見了る。太田常蔵君をりし。田川孝三氏に会ひて話せば「藤田亮策先生に記念品贈呈の企てあり」と。16:00帰宅。 渡辺三七子生より「縁談はかどらず」と。山下幸男より「四条畷の新居に移った」と。福島弘子生熊本の家より。 けふよりの新学年に京の担任かはり、松井先生1年担任となりしと。 4月7日 城平叔父へ返事。けさ4:00に起き、6:00再び眠り10:00起きる。東洋文庫へゆかず。大鹿長子夫人より「(※大鹿卓)四十九日明けし」と。16:00散髪にゆきしのみ。 4月8日 秋山昭子夫人、渡辺三七子へハガキ。悠紀子、渋谷の住宅協会へゆく。 13:00出て東洋文庫。『明清史料丁篇』を見、(※清代の)五大商のこと見つけてうれし。小高根二郎氏より「(※来阪中の行動につき)足まめな!」と。森良雄君より「令嬢多摩芸大へ入りし」と。夜半、堀夫人へ礼状。 p8 4月9日 9:30東洋文庫。『明清史料丁篇』鄭氏関係了り『戊篇』見しも鄭氏関係殆どなし。11:30帰宅。 防衛大学より「欠席者2名の補点を」と。『明窓』の出版記念会19日(日)13:00松平Hotelにてと。 成城大学より来年度時間割送り来り、1時限3日なり! 午后より雨となり出でず。(林dr.に電話して「春の日の会」に出ざるを云ふ)。 夕食後、坂根千鶴子来り、大阪のせんべい2缶たまふ。「18日頃帰阪」と。山本実子、山下幸男、児玉敏子へハガキ。 4月10日 東宮御成婚の日。山本八郎夫人より「長男大阪外大Spain語科へ入学できし」と悠紀子へ。 11:30決意して出、大に電話すれば午后出ると取次の返事。渋谷下車、歩きまはりて不二歌道会の前に出、長谷川幸男氏に会ひ、席すすめられしも、向ひの車庫前に聖心の席あると見てゆけばcarnationの花わたさる。教師寥々学生も少し。 15:15馬車にて東宮同妃来られ、妃殿下行きすぎがけに此方を見られし。渋谷まで歩き、coffeeのみてのち帰宅。 けふ大江叔母へ手紙かく。「祝田橋にて青年、馬車に襲いひかかりし」と夕刊に見ゆ。 4月11日 入学式とてゆき、教務課長に訊ねしあと列席。経済学部は10回、文学部・短大は6回目の入学生と。丸重俊はA組、文学部は女生の方多かりし。 すみて庶務課へ定期券の証明書もらひにゆけば、1ヶ月600×3の通勤手当呉る。図書館へゆけば今井君、柳田国男先生に紹介し呉る。かねての景慕いひ、沢田四郎作博士、岡正雄氏などの名あぐれば、あとで「岡君はドイツ語に日本の民話翻訳せしのみ」と云はる。宮古島が倭寇の拠地なりしことを話され、「いまはそのあと廃址」と。阿達氏『庶民と江戸川柳』を呈上して退去。 成城園にて炒飯食ひ、三輪田よりの短2生に挨拶されて経堂下車。小高根太郎君訪へば陶器造りゐる。 帰途、農大前に出、大江勉に寄れば夫妻とも不在。「千草かへりしところ」と姐やの話! busにて渋谷。疲れて駅のplat.より電話すれば「大、野球見にゆきし」と。 帰れば八木嬢より礼のハガキ。悠紀子讃美歌うたひ、わが咎むまで止めず。 『羽田博士論集 下』来あり、あとにて松本善海君もち来たまひしと判る。 4月12日(日) 終日家居。〒なし。松本、羽田2君へハガキ。 4月13日 晴。家居。加藤和子氏より「矢田に転居せし」と。夕食後、畑山氏を訪ね、養女のゐつきしを聞く。beerのまされ「渡辺道夫君を講師としてよし」ときく。帰りて渡辺君へハガキかく。 4月14日 13:30小高根二郎氏へ「古い唄」速達。杉本長夫氏へハガキ。成城学園前まで3ヶ月定期買ひ来る(4,060)。午后、悠紀子王子第2小へゆく。 岩崎昭弥君より「詩集出来た。選挙の形勢有利」と。松井先生氏より「日曜に姉と会った」と。 立教大学より「木曜5,6時限241教室」と。中野□□君より再び(※映画の)案内と切符4枚。佐々木邦彦氏より「また4人集まった」と。 夜、出るつもりなりしも寒くてやめし。 けふ渡辺道夫君来り、「京北高校に4月より勤めゐる。甚だ優遇さる。和田先生東洋大学に概説を講ぜらる。村上正二帰朝。佐藤教授停年となり、家庭不和にて九州の嬢家にゆかれし。云々」。畑山邸へことはりにゆかしむ。 4月15日 10:30出て経堂にて下車。中華そば食ひて登校。講師室に野田宇太郎氏あり。講義要項見れば百瀬氏とわれのみ新任教授なりし。研究室きまりゐる様子。 芳野君より電話「林dr.に(※新居祝に)鏡贈らん」といふに反対せし。文化史2年生の女生2人来り7人。早々すまし野田氏とまた話す。「蒲原有明の碑文を矢野峰人先生にかいていただかんと訪問」と。 浅野晃氏に電話してきけば「けふ三水会あり」と。ゆくと云ひ、校門を出れば声かけし鈴木秀穂とcoffeeのみ、新宿よりの地下鉄にはじめて乗り西銀座下車。 腹へりて松坂屋食堂にてくひ、山葉Hotelにゆけば、村田謹一郎と会ふ。ともに「飛鳥美術」と「新しい製鉄所」を見て17:00となり、新橋にてしるこおごり、三水会にゆけば浅野氏あり。けふの講師は高山岩男博士と。中立性を説かる。21:00了りて齋藤氏に東洋大学のこと伝へ、地下鉄乗場にて別れて上野をへて帰宅。 不二歌道会より速達にて「大鹿卓氏追悼」をと。大江房子よりあやまり状。大江叔母より写真。中に父母の訪問時のあり。立教大学より「明日休講」と。 p9 4月16日 「大鹿卓氏追悼」を『不二』のため書き11:00投函。林dr.に「梅花一両枝」(※新居祝に)もちゆき、近々『果樹園』の会を同邸でときめる。 Lighterとtobaccoと忘れて出、立教大学にゆけば、手塚教授在室。「学部に聴講生ありさう也」と。中川講師にたづぬれば「松村一雄邸に同居せし時ありし」と。 出て中島利一郎『卑語考(400)』、『ウスリー紀行(120)』、『ゴビ沙漠探険記(120)』買ひ、池袋駅前でrice-curry食ひ、一度駅に出しあと考へ、出がけに見し「大安(※古書店)」の広告にひかれ雨中神田にゆき「大安」にて『万暦野獲編(700)』、『南村輟畊録(280)』、『清代碑伝文通検(640)』とを尋ねしに未着と。「予約せよ」といふに署名し、『鄭成功収復台湾記(30)』、『聊斎志異原稿研究(220)』、『太平天国史料(540)』と買ひて出、水道橋までに宮崎来城『鄭成功(50)』と『萩原朔太郎遺稿詩集(30)』と買ひて帰宅。 けさ住山重子より「山本実子と学院に訊ねしもわからざりし」と。平凡社橋本襄尓氏より『アジア歴史事典』の受否返事せよと。 安西均氏より「福岡へ転任、送別会のあと足挫きし」と。夕刊に「神崎驥一けさ死にし」と見ゆ。 (聖心女子大の佐野生『乾隆帝伝』を返却に来しと)。 4月17日 大江房子11:00来訪。大江叔母、住山重子へハガキ書き、平凡社に3項書かずといふ。河出書房より『西洋史物語』3版の印税4,000来る。 堀内歴より「富士正晴、東京の宿舎として林dr.を利用してゐる」と。田中万美子に「一度来よ」といひやる。 午后、父より「浦口町にうつりし」との通知(16日出)。川久保来り、夕食してゆく。送り出し三枝康高『日本浪曼派の運動』買ひ来る。伊東と保田とを論ず。 4月18日 成城大学へと6:30起き、7:30出てゆけば8:40なりし。聴講(東洋文化史)男女合せて40名。この次より9:00開始とし参考書のみ挙げて出る。百瀬教授と挨拶。関本講師(女)も身体検査でしりし美人。「4月分俸給5月4日」との手紙と、山本書店よりの「古書展するにつき本売れ」との手紙とあり。 丸重俊来ず。高校へゆき山川女史(※山川京子)より樽田教諭に紹介受け、重俊のこときけば「女性的」と。講師室に帰り『成城文芸』のための「参考二題」の初校を見、大に電話かけ「13:00ゆく」といひ、昼食して出、下北沢にて乗換へれば吉原陽子に会ふ。「先月16日に結婚、近々池袋に越す」と也。 大に会ひて万美子のこと云へば「承知した」と。「陽生(※青木陽生)この間来りて借金申込みし」と。 渋谷でしるこ食ひ、帰りて渡辺三七子より「30日上京、坂根に泊る」との手紙。辻芙美子よりの手紙。岩田夫妻の「幸せ」との手紙を見、夕食はじむれば坂根来り、ついで山本陽子来て22:00までゐる。 坂根生は今夜下阪ゆゑ「渡辺三七子に連絡せよ」といふ。依子けふ鬼怒川温泉へ泊りがけでゆく。 4月19日(日) 10:00万美子来り、大に電話かければ「外出」と。「近々ゆけ」と云ふ。11:30出て雲呑くはせ、平凡社より「瞿九思(※明代学者)」他2項かけとのハガキに「瞿九思のみ諾」と返事かき、13:00ホテル松平へゆく。 前川氏(※前川佐美雄)すでに在り。beerのまされ、14:00よりの大伴道子女史の『明窓』出版記念会のspeechに中谷孝雄、篠原敏之、浅野晃、栗原潔子(中原)、生方たつ江、伊藤佐喜雄、安藤(柳沢)彦三郎、蔵原伸二郎、榊山潤の諸氏とともにやり、すみて記念撮影後、また夕食たまふ。 佐々木治綱、川田順夫人などと挨拶す。18:30伊藤と出、近々富永次郎氏と訪うふこととす(丸重俊に電話し「あす昼講師室へ来よ」といふ)。 4月20日 傘もちて出、8:45着。2年の中国文学404教室にて4~50人。ついで3年の中国文学史25人。ともにtextなくて講義できず。2年の講義に相馬弘来てをり「追試受けよ」といふ。 栗山部長に会ひ、あす教授会に出ることわかる。12:00まへ阿南惟敬氏来り、麓保孝氏の紹介の名刺もつ。帰りて講義要項送ることとす。 芳野清君より電話、「林氏への祝に文字をせん、2,000円位」と。丸重俊来りしゆゑ、成城堂へつれゆき岩波の独和辞典を取りよせることとす。 辻芙美子、加藤(岡本)和子へのハガキ投函し下北沢下車。「Penguin」のぞけば尾崎秀眞翁の次男をり、high-ballとcoffeeとのみ、出しあと顔の赤きを消すため中華そば食ひて帰宅。〒なし。 4月21日 8:45成城大学へ着。短2Aの私語に不快。郵便局へゆき眼鏡かけし奥さんに咎められ、肩を小突きて云ひ返しあとにて不快。 馬淵東一氏(都立大教授)に紹介してもらひ、岡正雄氏の名出せしにあとで敵同士とわかりこれも不快。 会計へ扶養家族票と住民票とを出す(史は税のみの扶養家族と)。 けふ研究室出来上り、松村達雄に会ひし。学長より「4月1日付教授に任ず」の辞令もらひし(同時にゆきし大藤氏、定員不足のためとことはり云はれゐし)。 14:10まで待ちて教授会。聴講者に2女学生わが「中国文学史」きくとなりし。 16:30すませ、まっすぐに帰宅すれば田中正平まちをり。夕食させ「藤井寺の法事ゆけず」と云ひし。児玉生より「人生の墓場云々」の結婚通知! 4月22日 よべ下痢。史学研究法のnote作り、早ひる食べて12:30出校。独和辞典(750)買ひ、講師室にゐるを阿部知二と識り、挨拶せしも冷淡! 史学研究法17人出席。すませて「柳田先生研究室へ来られし」ときく。今井富士雄氏に「『二十四史』(3万円にして品ありと山本書店に電話してきく)買ってくれ」と置手紙して帰る(丸重俊に辞典わたす)。 往復ともに『蜻蛉日記』をやるといふ小口生と同車。杉浦美知子夫人(※杉浦正一郎未亡人)より『おくのほそ道評釈』。 城平叔父より5月3日の50年祭の案内。『文芸日本』の懇親会を25日18:00よりと。 あとにて速達にて角川文庫『Heine恋愛詩集10版』1,500枚の印紙。 児玉敏子、原氏夫妻へ祝のハガキ。『文芸日本』へ欠席の通知。山本陽子来り、浅野建夫に紹介状かかし、夕食して帰る。 二夜つづけゆめに見し子は怨みゐずけさは長男戦死のゆめを。 夜半めざめ城平叔父へ「史、代理に出よと手紙出す。その上にて返事す」と。史へ「出よ」との手紙かく。(けふ高崎の松本悦治君、『コギト』を返却に来しと)。 4月23日 よべの雨、朝止む。4:00起きて眠れず。不快なれど11:00王子第2小学校へ投票にゆき、都知事に有田、都会議員に飯塚の名かく。一旦帰りて安田明子夫人より「星野夫人を訪ふ日きめよ」のハガキ。兼清隆二氏の「転居通知」見て立教大学。研究室にて大久保利謙(名大より転任と)、清水博2教授の紹介受く。(あとにて主任に清水氏新任とききし)。 教室2ヶ所に別れいづれも新館。13:00まづ2階にゆけば無人。「研究室に来よ」と書き、待ちゐれば、来しは4年高田。ともに333号へゆき、話す中、3年平塚生来り、それぞれに『太祖実録』貸し、「来週より13:25開始」ときめて研究室に戻り、手塚教授に礼云ひ、教務へゆき会計へゆけば「通告なく計上しあらず」と。 出て駅より電話を聖心女子大教務にかけしも応答なく、やめて帰宅。安田夫人へ時間割写しやる。杉浦夫人、兼清隆二君にハガキ。 4月24日 悠紀子、鈴木氏にゆき、われ留守番。「白井の坊や(紘史)より電話かからざりし」と。阿南惟敬氏より「講義要項うけとった」と。 丸三郎より「重俊毎日愉快そうに通って居る」と。白井の坊やへ「いつでも来よ」と。 午后、知事選で東京都知事東奄太郎勝ち、大阪でも水畑孝良氏負け、佐藤義詮勝ちとわかり不快。 15:30帰り来し京に留守させ、王子中学に山口広氏訪ひしに「帰宅」。藤田亮策先生訪へば無人。 大野家へ寄れば昌子帰らず知子無言。不快なる日なりし。 クセジュ文庫『人類の誕生(80)』買ひ来る。 夜ふかくひとりしづかにゆくひとをわれもさびしく聞きゐたりけり。 4月25日 8:40成城大学へゆく。新宿の昇り口の混むに驚きし。東洋文化史の聴講多く、室に満員なりし。すみて暉峻博士に久しぶりに会ひしに「洋行中の板坂元氏(杉浦正一郎の教へ子)の代りなり」と。 佐藤助手にいひて「岑参2題」の再校もらひ、校正するところへ電話、大阪の中島悦子生にて13:00東京駅へゆくまでひまありさうなりし故「新宿駅のplatformにて11:30に待ちあはす」こととし、急ぎてゆけば11:15。それより12:00まで待ちしも来ず。一度山手線にのりしも引返し12:30頃までにまだ来ず。 そのままお茶の水へゆき明治書院に内河たけ子氏を訪ひ『史記文粋』のこときけば「5月10日ごろ出来」と。古版1冊もらひ、東京都民銀行のぞき見しに「加藤定雄君昼食中」と。 出て古書会館のぞけば『康熙字典(50)』『満洲の美術(50)』あり。昼食代なくなり東洋史談話会(村上正二の帰朝談)やめて帰宅。 大江房子より特急券買へざるを云ひ来る。やがて山本陽子来り、浅野建夫dr.に会ひて「3年間静かにせよ」と云はれしと。Cake1箱呉る。気の毒なり。夕食すすめしも帰る。今夜より炬燵を入れず。 4月26日(日) 暖かく家居。安西均氏より「家にて養生しをり、来よ」と。『東洋史研究17-4』。史より「5月3日藤井寺にゆくこと承知」と。 午后、白井紘史君来る。紙博物館へつれゆきしに日曜休館。夕食せしめて帰す。中島悦子より速達「父母には会ったことにする」と!? 山形睦子、美堂正義2君へヱハガキ。中野□□君へハガキ。 思ふことあまたしあれば汝がおもひしらせよとこそわれは書きしか。 4月27日 雨。成城大学へゆく。新宿の混雑に苦しみ、1時間30分かかりし。1時間目中国文学はまだよく、2時間目学部3年の女生活やめず、困る。 独乙語の春田教授に自己紹介す。高橋邦太郎氏休講とて会はず。健康保険のこときけば「来月中頃証票出来」と。渡辺三七子より「29日乗車、 1,2,3の3日の中に会しん」と! 毛沢東辞任、劉少奇主席となる。 4月28日 成城大学へゆく。短2おとなしくてうれし。『平家物語』に詩経を引く3ヶ所うつし、図書館のcardの排列手伝ひ、今井氏に会へば中華書局の『二十四史』ありし。 松村君と会ひしあと13:00新入生歓迎会といふに出て、丸重俊と会ふ。学科の自慢会に出さる。すみて出、青山定雄氏にゆけば聖心女子大より帰られしところにて、われ解職にてはなからんとの意見なりし。 出て池袋より教育大のbusにて林dr.。京の風邪薬もらひ『果樹園』の会を5月10日と仮に定む。 帰れば〒なし。けふ新聞講座の山本文雄氏と話す。われと田中順二郎君とを親戚と思ひをる。 帰りの電車で話せし女生は熊本水前寺の福島生なりし。21:00案内あり、万美子にて「城平叔父来り、大阪へ帰れとすすめし」と。「あす大を訪ねるつもり」と。 (けふ栗山部長より「主任きめよ」とのことに大藤、今井2氏と話せばわれになれと云えはれ不快。) 4月29日(祭日) 肥下恒夫へ『コギト』33冊分けてくれと手紙。塚山勇三君「裾野高校へ転任」と。安田明子夫人より「2日13:30東横書籍売場にて待合はす」と。『薔薇』43号。 4月30日 岸明子へ「承知した」と。大江叔母より「史には芦屋以来」とのハガキ見る。 『桃』5月号に保田の新居は「身余堂」と。11:30出て東上dept.にてrice-curryたべて立教大学へゆけば海老沢教授をり、「和田先生今年度は休み(隔年講義と)、われはあり」と。「241教室へゆきし」といふ学生来しゆゑ「333教室へ来よ」といひ、13:20ゆきしに来しは高田、平塚2生のみ。Fekulen(※清朝の始祖天女)を「佛姑人」と教ふ。 (けふ4月分手当4,500-360=4,140もらふ)。高橋秀君、一般教養の専任となりしと会ふ。「めでたし」と云ふ。 14:10すませ手塚教授(本日を以て清水教授に主任ゆづると)に挨拶し、古本屋見てまはり、生松敬三『森鴎外(200)』、辻『日支文化の交流(100)』、長沼『和漢の散歩(100)』買ひして帰宅。 八木さんよりハガキ(忙しと)と292.2のtype3p。青木弥与子より「5日~10日高島屋にて父君の展覧会あり。来て話せ」と。 (けふ立川pen Co.東京支社に電話し「あす15:00電話するゆゑ、ゐよと渡辺嬢に伝へたまへ」と云うふ)。 古本屋にて荷風カリント食ひて死にしとradioの報ずるをききし。79才と。 小高根二郎氏に1,200包み、高橋重臣君に「5月10日在京なりや」をきく。 p10 5月1日 雨。立教大学より「5月5日の創立5周年祝賀宴に出るか」と速達、「欠」と答ふ。 11:30家を出て渋谷より都電にて聖心女子大へゆき、和田先生来られざるにさびし。5時間目は『韃靼戦争記』を教ふることとす。学生48人? 6時間目は『忠王李秀成自伝』にてこれも34名と。前年より多し。 時間のあひまに立川pen Co.に電話して道きき、雨やみしもゴム長はき傘もちて地下鉄神田より須田町に出て豊島町下車。大和町の支社にゆけば、まもなく渡辺三七子来り、支店長に謝してつれ出す。(神田駅までautoにて送りくれし)。Coffeeのませてのち家につれ帰り、夕食せしむ。「大崎の叔母宅にけふ泊り、3日(日)に再訪」と。 けふ岩崎昭弥より「当選す声援を謝す」の同文電報来り、林富士馬氏より「10日(日)の会17:00からにせよ」と。 5月2日 晴。よべ不眠。8:40成城大学へ登校。相良徳三教授より天理その他きかる。高田瑞穂教授、鈴木治をよく知り、紹介すとのことになりし。 東洋文化史聴講多く、402教室に変更。出欠とれば出席半数。 10:30出て下北沢に下車。鴎外4冊(『蛙(200)』『一幕物 正続(150)』『ギョッツ(150)』)と『楊貴妃とクレオパトラ』2版(100)とを買ひ、天丼くひ渋谷へ出、coffeeのみしあとnews映画見てやっと13:30となり東横dept.。 6階書籍売場にゆきしも14:00まで安田夫人来ず。画本2冊(180)買ひて地下鉄にて神宮外苑前にゆけば藤井夫人と星野の坊やと待つ。「電話を気にして夫人(吉川綾子)家へ帰りし」と也。 19:30までご馳走となる。星野敦志とて龍猪氏の養子。養父母とは殆ど別居同様。また地下鉄にて渋谷に出て別る。美堂正義より手紙。 男らの卑怯好色責めゐるとたよりよこししことは忘れじ(けふ東横にて松村達雄君に遭ひし)。 5月3日(日) 浅賀千里生よりのreportと平凡社より「岳起」かけとの速達。ついで白井紘史より「土曜成城大学に来しも帰りしあとにて月曜2時限すみしころゆく」との便り。 『果樹園40』と小山正孝君より『ガリア戦記』と来る。渡辺生待つ中、11:30となりて眩暈し、貧血とわかる。 そこへ来りしも不快にて、近くの医者へゆけば他出(林dr.に悠紀子をして電話かけしめしに他出なりし)、夫人に注射してもらひしもなほらず。 浅草へ坂根生をして案内せしめ、炬燵いれて昼寐、ややよくなり夕食せしところへ19:002生帰り来り、栗おこしと苺とくれし。すし食はし21:00すぎ坂根の宿へゆかす。 けふHeineの10版来り渡辺に与へ、昨日の『楊貴妃とクレオパトラ』を太田夫人にと托せし。 5月4日 無理して登校。月給呉れるとの故也。(「岳起」かかずと平凡社に返事。村松正俊氏に『果樹園』39,40)。 1,2限とも旨くゆきし。白井坊や来り、ともに出て成城園で炒飯。古本屋にゆき『西国立志編(60)』、『義経記(30)』。「車」にゆきcoffeeのます(成城駅にてけさ浅野忠允君に遭ふ。老いたり矣!転居せしと也)。 学校へつれ帰り、芳野清君に電話すれば「欠勤」と。(相馬弘はじめて良き詩かきしを見せ、聴講の2嬢挨拶に来る。一人は青山学院大にて諸橋博士に習ひしと也)。 高橋邦太郎氏に久しぶりに会ひて「松田みすほ夫人と親類ならずや。松田氏とは仏印にて終戦ともにせし。レバノンより帰り云々」と。 13:00前、会計へゆき4月分salaryもらふ(29,700+1,600+6,260=37,560。所得税1,010。親和会100。差引36,450)。 出て下北沢、古本屋3軒を見、Richthofen『支那旅行日記 上(100)』、『日本漂流奇談(30)』、魯迅『支那小説史 上(120)』、『原爆の図(60)』買ひ、「Penguin」によりcoffeeのみ、帰りて3,600わたせば金1,000以下となりをり。 夕食後、林dr.に『立原全集』5冊もちゆき、風邪の診断うけ注射と投薬。 『文芸日本』の若手2人と会はされ、beer賜はり、敏感との評語もらひて帰宅。 Herz(※心)ふかく受けしいたではまだ癒えずむなしく一日さまよひてあり。 けふ川崎菅雄より「class会名簿訂正せよ」と。鶴崎裕雄より「神崎驥一胃癌の診断に悩みし人間性云々」。 青木弥与子「羽根栄治と15日(金)帝国Hotelにて披露、15:30来るや否や」の案内状。 5月5日(休) 小山正孝、鍛治初江、西宮一民、植村清二、八木嬢の諸氏にハガキ。青木大乗展の案内。小山正孝氏より『ガリア戦記』賜ふと(※前述)。小高根二郎氏より「24号までの同人費受取った。服部三樹子氏消息不明」と。 散髪し、西川に電話すれば「昼寐中」と。15:00出て西川にゆけば起きて来て「鎌田正美の東京への栄転はまこと」と。早川敏一学士院をやめ、主婦と生活社の労務部長と! 名簿の訂正たのみて出、都電にて高島屋へゆけば青木弥与子、生悦住、坂根の3生まちをり、15日の披露に出ることとなる。心なぜかすすまず。 坂根生と東京駅前に出、冷しそば食はせて家へつれ帰る。20:30送り出して服部女史に電話すれば、をりて「歌より外のことやる。17日は出てもよし」と。 けふ午31度の酷暑。 5月6日 けふは普通の気候。チョッキ着て、岩崎昭弥詩集『墓碑銘』と首位当選を報ずる『岐阜タイムス』ならびに「10日の会に出る」といふ高橋重臣君のハガキ見て成城大学へゆく。 駅にて「先生」と来しは辻和子。洋裁に通うふと。 ゆきて阿部知二、野田宇太郎の2氏と話し、芳野清君に電話すれば外出。史学研究法すまし、相馬生の東洋文化史を放棄とききてのち、図書館にて『東洋歴史大辞典』を見、15:00出て下北沢。 中村屋の羊羹買ひて和田先生お訪ねすれば嬢様「30日に日大の教授会にて倒れ入院、面会謝絶」と。悲しくてならず、高田馬場にて下車。都電にて堀口太平君訪へば「多忙」と。 17日の会のこといひ、都電を早稲田にてのりかへて帰宅。 白井紘史より古本のこと。村松正俊氏より「一度会ひたし」と。浅野、芳野、林、高橋の諸氏に会の案内(17日14:00から\300でと)。白井紘史へ「本不要」と。 5月7日 坂根千鶴子より「積極的でないと云はれ眠れざりし」と手紙。林dr.より『立原全集』をよんでゐると。 立教へゆき研究室無人にて、菅 祝四郎君訪へば「ここにはをらず」と。特別手当6千円もらふ。 講義了へ手塚教授に和田先生のこといへば「知らず」と。出て『支那戯曲物語(120)』、『蒙古旅行(250)』、『東洋文化史概説(80)』買ひ帰宅せしに無人。 王子中学に山口広先生訪ね、礼云ひneck-tie贈る。「新宿区揚場町は飯田町の近く」と。 けふ史より「5月3日の前の晩より大江に泊りし」と。坂根・鶴崎の2生へ返事。堀口、西垣、服部の3氏へ会の通知。 5月8日 国鉄上野より地下鉄にて高島屋。青木大乗画伯夫妻に会へば「弥与子君まだ来ず」と。中国古代彫刻展見にゆき(200)、唐代俑に感激して帰れば弥与子君をり。食堂につれゆかれ鰻丼たまはる。「新郎は非鉄金属会社社長にて31才。母、妹と4人ぐらし」と。別れて地下鉄にて渋谷。Busにて聖心女子大。 海老沢教授に和田先生のこと伝へ、2組教ふ。2時間目に正田恵美子(※美智子妃妹)の名あり、その人を見ず。 出て青山学院前で下車。古本屋をまはり、『杜甫 下(120)』、『西廂記(100)』、『中世モルッカ諸島の香料(150)』、『吉利支丹宗門の荒廃(60)』、『読書遍路(100)』、『遊仙窟(30)』、『Histry of China(200)』、『マルコポーロ旅行記(180)』と買ひ漁り、中村書店に『四季』の欠本4冊をたのむ。『詩集西康省(500)』、松下武夫『山上療養館』、『青い花』などありし。 「不二」にてcoffeeのみ『支那地図』忘れしを追ひてもて来、うれし。帰りてねまき着れば(途にて悠紀子に送られし鈴木元夫人に会ふ。婿と嫁と喧嘩してゐたたまれずと語りしと)、坂根・山本2生来る。 22:00帰るまでに眠くなりし。けふ高島屋にて三上次男夫妻、桜井芳郎氏に遭ひ、大鹿卓追悼の『不二』来り、渡辺三七子、同叔父藤本宗治氏の礼状。 伊東花子夫人の「嬢の縁談世話せよ」との手紙。椿下清子生の「中学教師やりをり。中西義章夫妻と識り合ひにて、吾と同級なるに驚く」との手紙。堀ノ内歴より『果樹園』の詩よんだと。 5月9日 雨。8:40成城大学着。講義し、浅賀生の補点80と届け、芳野清君より「木曜電話ありし」とききて出、豪徳寺にてrice-curry食ひ、玉川電車にて三軒茶屋(13)。『鹿鳴集(30)』、『きりしたん史入門(40)』、『靴の音(150)』、『日本風俗史(90)』、『浮世絵(30)』、『印度の法律思想(40)』と買ひ(『印度の法律思想』はdoubleゐし)、cake(220)買ひて安西均氏訪ふ。 「服部三樹子氏の歌集ほし」と。Whiskyのまされんとせしも謝して、三軒茶屋より伊勢丹行のbusにのれば、下北沢を通りし。 帰れば浅野晃氏より「17日の会承知」と。西宮一民氏より「山田俊雄氏に受取りもらひし」と。 5月10日(日) 9:00高橋重臣君来訪。「1ヶ月1.2万円の留学旅費」と。「八木女史うちのかかあより年よりに見えて部長」と。 12:30ラーメン食べてともに出、池袋で別れて、成城高校長室の国語部会にゆく(豪徳寺前にて下車、『李太白(60)』、『支那の風土と建築(30)』、『元明清史略(300)』買ふ)。 図書室にと『李太白』わたし、生徒の出来ざるをきく。17:10散会。神田信夫邸に寄りて見れば無人。 帰れば鈴木元夫人をり、正平留守中に来て母の書きし譲叔母の歌おきゆきしと。21:00まで話し、悠紀子を叩く。 5月11日 8:30成城大学。1時間目、私語せし男学生に「出てゆけ」と叱り不快。栗山部長に主任のこと云へば、早速「遺物整理棚20万円と書籍20万円に決定のことを文化史courseに伝へよ」と云はる。 大山教授「41才にて給料少し」と。浅沼講師「本学は人件費が95%」と。高橋邦太郎氏と話してのち退去。 帰宅すれば鈴木元夫人(林俊子)をり、万美子玄関に来しところ「この間、大に会ひ親切に云はれし」と。「またゆけ」と云ひ入浴。 17:00鈴木夫人帰りゆく。(湖東博士に紹介状書く)。けふ芳野清氏より「会承知」と。 5月12日 傘もちて成城大学。1時限すませ、神田信夫氏訪ひみればまた全家無人。 矢田『三月革命(60)』買ひしも帰りてdoubleとわかる。成城園にて中華そば食ひて帰校すれば芳野君より電話。 12:40身体検査受く。血圧105、視力0.02匡正0.3にて注意さる。(大藤教授に予算40万円通りしこと伝ふ)。 松村達雄君来り、あとにてと思ひ、教授会に出て15:05すみしあと、気持変り、萩原葉子氏に電話かけて「ゆく」といひ、15:40行き話せば、「昨日満17年にて前橋へゆきし」と。ふしぎなることかな。 (けふ八木氏に292.このcopy不要と便りかき、渡辺三七子に返事かき、岩崎、堀ノ内2氏にハガキかきし)。 東洋学講座の案内来りし。 5月13日 大の戯曲集『女優の死』来りしを見て登校。阿部知二、野田宇太郎2講師あり。史学研究法すませ野田宇太郎氏と「田中正平博士夫人に会ひにゆかん」と云ひ、出て神田信夫氏を3度目に訪へば夫人をられ、「(※和田)清博士脳血栓にて胃潰瘍併発。お茶の水の日大病院にて日々帰宅したがりたまふ」と。 出て高田馬場下車。面影橋まで歩き足疲れ都電にて帰宅。 伊勢寿美江(神山町)、子をつれて来り、「母家を出て、帰阪したか我家かと尋ねに来し」と。女の子■つれて土産買ひて帰らしむ。 鍛治初江よりハガキ。けふ果樹園社へ詩を速達す。 5月14日 晴。7:30速達、藤野一雄君より「小林英俊上人13日死亡。葬儀15日14:00」と。弔電「タソガレヲウタヒシヒトハユキマシテクラクサビシクナリニケルカモ」と小林明美嬢へ(120)。 『詩人連邦』見て立教大学へゆけば「史学研究室、新館へ遷りし」と。ゆきて手塚教授の室を見る。明るくて宜し。241号教室へゆけば聴講人を加へ3人となる。すみて古本屋見、ice-cream食べて帰宅。 渡辺三七子より『楊貴妃とクレオパトラ』を太田夫人に渡せしと。あす聖心女子大休講ときめ、のん気なり。 5月15日 晴。小林英信(喪主)より「円満寺住職英俊氏13日1:45往生」の通知。同時に河村dr.よりわが「負托に応へ得ざりし」と。 正午、顔剃りにゆく(70)。帰れば岩崎昭弥より速達「小林氏の密葬に出し。詩集は残部なし」と。 14:30出て東京駅下車。西川英夫訪ぬれば不在。階下の「蘭」にてcoffeeのみ、taxiひろひてゆけば帝国Hotel15:45。来客に一人も知合なく、席は下席にて隣りは新郎羽根氏の親友と。羽根氏は慶応出にて大正13年生れの伸銅屋。みな新郎の商売かねし披露すみてわれ挨拶し、隣の友にautoのせてもらひ東京駅へゆけば、東海道線21:00まで不通、(※新郎新婦)autoにて箱根へゆくこととなる。帰りて隅田先生桃山学院停年の御挨拶を見る、「教育47年」と。 5月16日 雨。成城大学にゆき東洋文化史を講ず。すみて今井氏と話し、林dr.に電話すれば「森房子氏あすの会に出席」と。 12:00帰宅。昼食し、入浴す。16:00出て白金台町の八芳園といふにゆく。教職員100人に近く出席、われ今井、若菜の2君の近くに坐り、若菜の「面白くなし」をききて散会。目黒駅近くを散歩して帰宅す。 梅雨のごとおもくくもれる空のもといぶせくなりてわれもゐたるを。 5月17日(日) 晴。悠紀子、柏井玉叔母へとゆく。万美子、正平を紹介の為なり。われ13:00出て林dr.に(※新築祝の会に)ゆき、夫人にけふの会相談すれば「任せよ」と。やむなく待つ間に野長瀬正夫氏診察受けに来る。 そのあと久礼田夫人服部三樹子氏同道、浅野晃氏来り、芳野君を最後とす。(堀口太平君「夫人病気にて来られず」と)。 服部女史「このごろ霊媒となりをる」といひ、浅野氏の求めに萩原朔太郎先生を見ることとなり、わがもちゆきし全集の写真を見て戦慄、「地獄にあり」と報告す。慄然!! 17:00浅野氏帰りしあと、すしよばれ会費とられず。ともに池袋に出てice creamたべて散会。 帰宅すれば傘返しに来し坂根生まちをり。これも21:30去りしあとわれ疲れて何もせず。 (けふ(※新築祝の)林邸表の文字出来、浅野氏500、われと芳野氏と750づつと定む)。 5月18日 雨。成城大学へ登校。2時間教ふ。学生やうやく怖がる様子なり。栗山部長に服部女史のこといひ、社会科教員免状のこと云ふ。昼食すまして退出。まっすぐに帰宅。 『明窓』(※大伴道子『歌集明窓』)出版記念会の写真来る。岩田知子(原方と!)より「結婚後おもしろくなし」と。 弓子の先生山口広氏来訪。字典を賜ふ。 5月19日 成城大学へゆき短大2年を教へ、山本文雄氏とともに出てcoffeeおごらる。和田先生の病気伝へし。目白で下車。古本屋見しも何もなく、池袋までbusにのりてのち帰宅。 井上斌子より「父失敗、職探してくれ」と。坂根千鶴子より「大に世界戯曲全集借りにゆくに同行せよ」と。 平凡社の明日締切の『アジア歴史事典』の「阿敏、アルバジン、烏珠穆沁(※ウジムチン)、烏蘭察布(※ウランチャブ)、ウラン・バートル、王昶(※おうちょう)、鰲拝(※オボイ)、鄂博(※オボー)、鄂尓泰(※オルタイ)(2枚にす)、翁牛特(※オンニュド)」を書き、気がつけば2:00なりし。 5月20日 晴。朝「Obu(※鄂博)」のつづき書き了へ、平凡社に送り、睡眠不足のまま昼すぎ成城大学へゆく。 史学研究法に出席の2年不快。ただ一人岩手出の鈴木健司といふがまじめゆゑ呼びて話す。庶務課へ健康保険のこと問合せにゆけば「まだ」と。 鈴木正義と出てice-creamたべ、下北沢で下車すれば20日にて定休日。池袋より上十条へゆき見れば、ここも定休なりし。帰れば父より「母と25日上京」と。東洋文庫より『満文老檔 太宗Ⅰ』と『華夷変態 下』と来あり、うれしく和田先生に謝し奉る。 けふゆきがけ同車せしは聖心女子大の谷宏氏とて「20年ハルマヘラ島にて陸軍大尉たりし」と。話しつつゆきし。 夕方、筑摩書房より『現代詩集』5版までの印税393×4-58×2=780(1,572)来りし。朝の便にては久礼田房子夫人より「紹介たのむ」と。 小林明美嬢より「父死んだとは思へぬ」と。高松直子より日生の入試につき。 5月21日 久礼田氏女婿橋本氏の家のことにて青木大乗夫妻、小出楢重夫人重子に紹介状かく。高松直子、岩田知子へ返事。 東洋文庫、筑摩書房へ受取。12:30までかかり、清代史のノート作り。丸三郎より「家内明るし」。山本陽子生より「中西博士へ紹介状を」と。白井紘史より「早稲田へゆかう」と。大の『女優の死』(※戯曲集)の出版記念会31日(日)。19:00~21:00有楽町レンガにてとの便り見て立教大学。 14:30すませ、2生さそひてcoffeeのみ、久礼田夫人と五反田駅前で会ひ、紹介状わたし、coffee代払ば菓子一折たまはる。 服部女史の発作については心配いらずと也。別れて亀戸へゆき、カズミチに会へば「成績向上」と。「叔母よりたよりなし」と。連れ出して鰻くはせて帰宅。 5月22日 晴。藤井陽子より「雑司ヶ谷に移転した」と。平凡社より「原稿受取った。のこりは5月末までに」と。 聖心女子大へゆけば講師室ひっそりとしてをり、和田先生の居まさぬ淋しさ抑へがたし。『韃靼戦記』を即座に訳して苦しかりし。 出て大に電話かけしに「外出」と。速達出し『水沫集(50)』『考古学の研究法(130)』買ってのち、雲呑くひて帰宅。 けふ聖心女子のsalaryもらひし。和田先生は無給らし。某先生にとってもらひし写真もらひ来し。 5月23日 雨。成城大学へ登校。文化史に朝鮮の話し、salaryもらひ(共済組合費2,340)、健康保険証もらひ(史の在学証明書出せと)、今井氏と一寸話して出、池袋で下車。鰻丼くひ、雨ゆゑ東洋文庫にゆかず、李長傅『南洋史入門(80)』買ひて帰宅。26日(火)15:00立教大学の史学談話会と。『民間伝承241』。 5月24日(日) 椿下生への詩の批評書き、13:00出て東洋文庫。市古宙三君に会ひしも和田先生のことはあまりわからず。 雨中を出て丹波鴻一郎訪ぬれば袋田温泉より帰りて表口へつきしところ。話きけばこのごろ勤めにもゆかざる様子。和田先生の重症伝へしも驚かず。松本善海に電話すれば坊や出て「松山へ帰省、木曜ごろ帰宅」と。また雨中を日暮里下車。高橋重臣君の下宿訪ぬれば「昨日より帰らず。けふは東大の五月祭か」と。置手紙して帰宅。 けふ萩原葉子さんより「モモンガ入手、三浦久子氏結婚はデマ」と。悠紀子をして大に電話せしむれば「大毎の出発が25日」と。 p12 5月25日 久しぶりに晴。相良徳三郎教授、修学旅行より帰り、参考館のこと云ふ。「大毎の記者たりしことあり」と。栗山氏に会ひしも話せず。 万美子より電話かかり高橋邦太郎氏15:00まで来られずとのことに「大へゆかん」といひ10:30出て経堂下車。苺(100)もちて小高根太郎を訪ふ。陶器作りをつづけてやりをり。 出てラーメン食ひ、下北沢をへて渋谷。東横dept.休みゆゑ、大のapartへ直行すれば「歯医者へ」と。青年2人をり、大掃除す。 13:20万美子より電話かかりし故「直接来い」と云ひ、来てまもなく日活の某氏来り、大帰り来る。「万美子をその中televi局につれゆく」 と也。「明朝父母迎へにゆくか」と問はれ「悠紀子に訊ねる」といふ。坂根生の要る世界戯曲集なしと。 万美子と出て餡蜜くはせ「房子を訪ふ」といふに別る。 池袋にて下車。坂根生を研究所に訪ひ「明日大学にて探してみん」といふ。 けふ小林英俊姉弟へ弔み状と1,000。井上斌子へ「山中タヅ子の父に就職たのみてよきや1週間以内に『No』なら云へ」と。 〒なし。悠紀子に林dr.にゆかしめんとすれば「あなたこそゆけ」と。突如腹立ちて鋏でなぐり負傷せしむ。 (けふ平松幸彦『蒙古(80)』買ふ)。 5月26日 悠紀子父母を東京駅へ迎へに6:05出てゆきしあと、三女に先立ち出る。山本陽子へ中西義章への紹介のハガキ。萩原葉子氏へ礼状。 篠原事務局長に教員免許状のことききにゆけば「まだ」と。あけぼの書房にいひ『中国詩人選集総索引(180)』入手。 高尾嬢に「手紙来ずや」ときけば「来し」といひしあと変にて、失ひしこと判明。憂鬱。 図書館へ『明史』見にゆけば柳田国男先生をらる。一揖せしのみにてすませし。 14:00の教授会まち松村達雄と話す。けふ来ゐし学園理事の坂手氏に高田瑞穂氏より「鈴木治氏の妹婿」とて紹介受く。 そのあと佐野教授「松村一雄氏と同級」ときく。「もと大阪府立女専の先生なりし」と。教授会すませ連絡きれしゆゑ行かぬの速達し、渋谷の大のところへゆけば父母をり、母「健のもとにゐづらし」と泣き、大「父母を近くに呼寄す」といふ。 帰りて里井千鶴子より「この間上京した」とのハガキ。林富士馬氏より「Letterはお3人よりと承知した」とのハガキ見る。 坂根生来り、近代劇全集のアメリカ篇もちゆく。その間速達来り「和田先生の代りに“アルタン汗”、“ウリャンハイ三衛(※蒙古遊牧民の一種)”書け」と平凡社より也し。 けふ弓子の留守中に中村書店来り、あす来るかもしれぬ様子なりしと。 5月27日 悠紀子、父母を歯の治療に数男のところへつれゆくと出てゆきし。われのみ残りしも中村君来ず。岩田知子より礼状。税務署より「近々3万円払ふ」と。 弓子帰り来しゆゑ出て成城大学へゆけば、速達来をり「都合悪し」と。機嫌直り、電話にて「来る」といふ西垣脩君待ち、来しを野田宇太郎氏に引合せ、ともに出て下北沢下車。石川啄木の義弟とかいふに会ひにゆきしも北海道と。「ペンギン」へつれゆき森本ヤス子氏に引合せ、時間おそくなっていらいらす。 17:20出て渋谷をへて地下鉄。西垣君『糸屋鎌吉詩集』の出版記念会発起人引受けよとの用なりし。 虎ノ門にて下車。「三水会」にゆき田中忠雄氏の話きく。日教組講師団名簿に竹内好あり。高山岩男氏の中国の「専制政治」につきての意見面白かりし。21:30すみて浅野氏に服部女史のこときけば「やはり驚いた」と也し。22:10帰宅。 青木大乗画伯より丁寧なる礼状。悠紀子、母より「千草の話ききて困りし。柏井の払ひ克己せよ、大と同じ家に住むつもりなるも健のことにて困る云々」とききて来しと。 5月28日 朝の便にて宮崎智慧氏より『明窓』出版記念会のときの写真来る。12:00出て立教大学(合服洗濯に出し夏服着し)。 salaryもらひ3人に教ふ。(手塚氏と話す)。すみてまた研究室へゆきしも無人。 三笠宮『日本のあけぼの(130)』買ひice-creamたべてbusにて向原下車。林dr.にゆけば散髪と。 まちて帰り来たまひしにbeerのまされ、服部女史の話きく。「運動となりてよき也云々」。注射打ってもらひ、健康保険証返してもらひ、向原より都電にて帰宅。 角川の中西幹根氏14:30来り「あす夕方再訪」といひしと。(けふ平凡社『中央アジア史』を久保生に貸す)。 5月29日 聖心女子大へゆく。田中保隆教授より「また痩せ玉ひし」と云はる。講義の反応宜しからず。和田先生ゐまさぬを悲しみつつ帰り来る。 山中タヅ子生より「井上斌子心配」と。17:30夕食はじめしところへ角川書店の中西氏来り「古典の窓」といふに「杜甫の人と作品」を書け、稿料は1枚300にて15枚を6月23日迄にと。 帰りしあと見本におきし「古典の窓」の近代詩特集(※創刊号)といふを見て大不快。『図説文化史大系』をハイネの印税の差引にて持来ることを中西氏に頼みし也。やめたしと思ふ。 (けふ池袋西武dept.の宮崎女史の写真の礼云ひにゆく。「前川主宰6月6日(土)来る」と。) 5月30日 午後東洋文庫へゆく(成城大学文化祭とて休み也)。『満鮮地理歴史報告12,13』の「兀良哈(※ウリャンハイ=ワルカ)三衛の研究(和田先生)」みにとて也。 すまして名古屋大学の波多野善大氏を見つけ挨拶すれば「東京転任しらざりし」と。『明代健州女直史研究続篇(675)』頒けてもらひ、喫茶してのち松本善海に電話すれば「夫婦とも留守」と。帰りて史より「困りゐる」とのハガキ見る。「7,000円にて不足」と也。夕方入浴。 けふ留守中、山口実先生お越し『日本浪曼派の運動』よみ亀井氏に共感最も多しとの手紙を挿む。 5月31日(日) 10:30古道具にゆき本棚買ひ、整理して待てば運び来る(2,400)。やがて父母来り、子らにと1,000呉れし。父なにも食はず16:00ごろ出てゆく。東京移住も健に遠慮して行へぬらしき様子。 すぐ山本陽子来り、大に紹介の名刺かかす。中西博士「無理せぬ様に」との診断を名刺にかきてあり。平凡社の事典けふが締切なれど不精。 6月1日 午前中「可賀敦、可汗、何秋涛、瞿九思、アルタン汗、兀良哈三衛」を浄書す。 13:00出て平凡社へゆき稿料にて買取の申込す。歩きて山本書店『李詩索引』その他2冊を成城大学に注文し、『洪仁玕(40)』、『蘇東坡全集索引(130)』、石原道博『国姓爺(110)』、『末代皇帝秘聞(220)』、『白鳥博士記念展覧会陳列目録(150)』買ひて出、東京都民銀行支店の加藤定雄のぞきしも不在。 意を決して日大病院に和田先生をお見舞すれば博徳君夫妻看護され会はさる。 「十二指腸潰瘍おこされし」と。俺答汗(※アルタン・ハーン)と兀良哈三衛書きしと申上げれば、枕頭の『明代蒙古史』受取りしやと問はる。座に耐えずして出ればまた呼び戻され、平凡社さらに書くやとのことなりしならん。 欝々として出、Tokyo Times社の『日英華字典(150)』買ひて帰宅。井上斌子より「たのむ」と返事。 6月2日 8:30成城大学。短大2年おとなしく遅刻せぬ様になりし。白井紘史より電話かかりしゆゑ「11:15新宿で会ふ」といひ、丸煦美子にも遭ひし(けふ丸に電話して「そのうち会はん」といふ)。 新宿よりbusにて早稲田。14~5軒の古本屋見て、『鉄道院満鮮案内記(100)』、『Taschen蘭独辞典(130)』、『有高満蒙史講話(20)』、『陶淵明(120)』、『高桑支那文化史(60)』、『大類概論歴史学(20)』、『神武天皇起源論(150)』と買ひ、すし食ひ(200)、白井紘史が買ふ本に200貸し、また新宿へ出て別る。 立教大学より「文学研究科非常勤講師を委嘱する」の辞令来あり。 投票にゆき、麻生良方(地方)、辻政信(全国区)に投票す。「佐々木喜市氏再婚祝をす」と三火会(※ママ)より通知。夜、山中タヅ子に「井上斌子たのむ」と手紙。里井千寿子にハガキ。 6月3日 10:30家を出る(けさ9:00まで眠りし)。成城大学入口にて辻政信氏の嬢ちゃんに会ふ。阿部知二、野田宇太郎2氏をり、富永次郎氏に「10日伊藤佐喜雄を訪ねん」といはる。 『史学雑誌17』の「太平記は史学に益なし(久米邦武)」借り出して用すみsandwichたべながら2氏の話きく。 阿部氏「上田秋成について書く」と也。やがて丸重俊来り『利根川図志』呉る。父へ「三火会出るや」の手紙かき、本よめと『日本民族』貸し与ふ。 史学研究法30分やり2年鈴木生の「何のためやるか」の疑問に応答し、本2冊貸してのち図書館にゆけば「篠原部長、文部省にゆき、社会科教員免状通ってもいまの3年はだめとききし」との今井氏の話承りて駅にゆけば、当の篠原氏と同車、同じことをきき「栗山部長と相談せん」といふ。 下北沢で下車、「Penguin」にてcoffeeのみしあと『太宰治(50)』買ひて帰宅。角川より『図説世界文化地理大系』6冊来をり、 880×8×0.8=4,224印税差引と。 けふ辻氏当選、麻生落選。前田久吉氏も当選と判明。 6月4日 鈴木治氏へ「坂出氏に会ひし」とハガキ。12:30三木和貴子より「渡部姓となり信州大町に住む」との便り見て、立教大学へゆく。 清水、手塚、宮本、林の3教授1助教授会議中なりし。13:35まで講義して例の如く古本屋へゆき、『生蕃記(50)』『考古学入門(30)』買ひて帰宅。 小高根二郎氏より『果樹園』41号の出来、3日夜とのしらせと『詩学』より「四季について書け」との依頼転送を速達で。 日本歌人より「6日の会を松平Hotelで」と。大江叔母より5月3日の写真。よる床を敷きしあと坂根生来り、貸せし本返却。 6月5日 悠紀子class会にと出てゆく。王子税務署より「28年以来の未納を引き、1.7万円を返す」とハガキ。 11:30出て聖心女子大へゆけば「音楽会で休みのことは掲示せし」と。青山の古本屋見て尾上紫舟『ハイネの詩(80)』中村で買ひて帰宅。散髪にゆく。 6月6日 成城大学へゆき東洋文化史教へ、話やめぬ女生を叱り、すみて出欠とり毛利正が欠2回ありしを云へば「さよか」と引込む。あとにて気になり探せども見当らず。 10:30出て松本善海に電話し「談話会に出るや」ときけば「出る」と。「われもゆく」と云ひ池袋下車。 西武dept.の夫人Hall探しまはり宮崎女史に断り云はんとすれどできず。昼食して帰宅。 山中タヅ子より「井上斌子に問合した上にて世話する」とのハガキ見、13:30また出て東大前にて「Hotel松平」に電話し、宮崎女史に断り云へば、前川氏も出、「用なし、8月また上京」ときく。 談話会にて中山久四郎博士の話ききて困りし。岩井、桑田2博士に挨拶、『東洋学報』に9月号のため書けと云はれし。 松本と出て喫茶しゐれば那珂太郎と西垣脩氏と遭ひ、西垣氏を松本に紹介すれば、松山高校での後輩なりし。 林dr.(※林富士馬)にゆかんと云はれ、地下鉄にて新大塚下車。beerよばれ堀内幸枝女史来会。「船越章と甲府にて識る」と。20:00西垣氏を家に案内し、茶漬食ってもらふ。けふ『成城文芸』5冊もらひ、『果樹園41』来りし。 6月7日(日) 悠紀子、依子買物にゆく。立教大学より「10日までに文部省への調査書記入」のこと云ひ来りしのみ。 午后、白井紘史来り、ともに十条にゆく。八木奘三郎『満洲考古学(300)』買ふ。家までつれ来りしも門口にて帰る。 悠紀子ら「渋谷へゆき父母に会ひし」と。大「山本陽子の青年座入りだめと答へし」と。 6月8日 登校。2時間教へ、栗山教授のこときけば「既に下校」と。駅にて遭ひ、社会科の免状のこと、浪曼派批判のことなど話して新宿。別れて空腹となり、高田馬場下車。戸塚の鰻屋にて丼くひしのち帰宅。 16:30案内して高橋重臣君。「多忙なりし」と云ひ、beer3本賜ふ。のみて夕食し、林dr.にさそひ20:30電話かけてゆき、腹痛の診断書乞へば「慢性盲腸炎」と。ペニシリン打ってもらひてのち、大塚をへて田端で別る。 痛むらしかりし。夕方速達来り、富永次郎氏より「10日の伊藤佐喜雄訪問は延期せん」と也し。 6月9日 出がけ岩崎昭弥より「上京する電話かけよ」の速達を見、新宿駅でかけてかからず、成城大学前の本屋でかければ「ねてゐる」といふを起し、きけば「伊藤賀祐博士は来ず」と。「連絡せよ」と云ひ、17:00まで気にせしもかからず、こちらよりかければ「出てゆきし」と。 けふ教授会で「あすbonus受けとれ」と。「太宰治」のslide見る。感興うすかりし。眠くてたまらず『文芸春秋7月号』をよむ。(小村明美嬢より「香料受取った」と。辻芙美子よりゑはがき)。 6月10日 10:30出て立教大学庶務課へ届出し、肥後和男『神功皇后(150)』買ひ、東口に出て炒麺くひて成城大学へゆけば12:40。史学研究法すまし、夏季手当27,050(内父母の会11,220)もらふ。 雨降り出し、家まで直行す。林dr.より「高橋君の虫様下垂炎に注意要す」と。岩崎昭弥より音沙汰なかりし。 6月11日 雨。高橋重臣君より「林dr.にみてもらひうれし。今夜もゆく」と。12:00出て立教前にて『果樹園』に「遺族」と1,000速達し、手塚教授訪へば会議中。『成城文芸』わたし、我に「会ひたし」といふ学生まちしも来ず、241教室にゆけば来り、3人民俗学専攻とて柳田文庫見たしと。「23日(火)に来よ」といひ、講義し、6月分salaryもらひ、rain-coat1,800にて見つけしを買ひ、busにて新大塚、古本屋見て帰宅。 山本陽子より「大にたのみしも青年座だめなりし」と。林dr.に電話して、今夜高橋君のゆくこと云ひ、17:30出て中河与一邸へゆく。 雨中をゆきしに誰もゐず、定刻をすぎて18:45となり糸屋鎌吉君来、嵯峨信之現はる。「小野十三郎と30年の友」と。いま中河氏の雑誌『人間専科』の編集と。 比留間君、彫刻の舟越保武、芳賀檀氏など来り、beerのまされ西垣脩君の来着を待つ。「28日(日)15:00よりアジア会館で500円の会」といふことになりし。 嵯峨曰く「中原中也のうまさは、いまの若手に3~4人あり」と。林dr.に電話かけ「高橋君来ゐる」とききし。 21:30となりて舟越氏と出、23:00すぎ王子駅につけば雨ふりをり、悠紀子傘もちて迎へをり。 6月12日 10:00の汽車で帰る父を見送りに悠紀子出る。王子税務署より18,010還り来る。12:00出て聖心女子大。了へて青山通りに出、大木惇夫の2詩集『海原にありて歌へる(25)』『雲と椰子(25)』(※戦争詩集)、他に米人Lee(※Henry GarnseyLee)のフィリッピン詩集『Nothing but praise(20)』買ひ、鰻丼くひて(130)都電にて神田、山本書店にて『太平天国史稿(440)』買ひ、水道橋までの間に『高砂族パイワヌの民芸(80)』、山田孝雄『仮名遣の歴史(100)』、魯迅『中国小説史略(180)』、『日本案内記 北海道篇(50)』、『支那叢話(30)』、中田薫『古代日韓交渉史断片考(200)』と買ひ、足くたびれて帰宅。 「父、きげんよく帰りし」と。 6月13日 「東洋文化史」教へに成城大学。きのふ電話かけ来りしとは誰ならん。今井氏と教務課長に話せしも埒あかず。月賦販売の券、受取る。身体検査の成績もらひしに「血圧105~65」とあり。12:30帰宅。 午后、和田先生の『東亜史研究 蒙古篇』いただく。平井昌子より「子供できた」と。伊藤佐喜雄より「夫人病気につき7月に延期せよ(富永次郎氏との会)」と。羽根弥与子夫人より挨拶。畑山邸にゆき見しに留守。 6月14日(日) 尾崎秀樹君より『生きてゐるユダ』贈らる。兄君の伊藤律に売られしを知りし話也。「父君零落して死に玉ひし」と。午后、京と散歩せしのみ。 6月15日 成城大学へゆく。栗山部長にあす教員免状のことにて相談すときめる。『瓜哇(※ジャワ)史』『タイ国史』貸出。 『李白』3種研究室へ来る。帰らんとするところへ吉川幸次郎博士の『成城文芸』見たとのハガキ来る。池袋下車。丸物の地下食堂にてrice-curry食ひ(80)、大塚より都電にて辻町下車。古本屋にて『パンの会(30)』、『民俗学入門(70)』買ひて帰宅。 住宅公団へゆきし悠紀子まだ帰らず。太田陽子夫人より本の受取。小高根二郎氏より同人費受取。父より「伊勢に帰着した」と。住山重子生より近状。山本、太田2陽子へハガキ。 6月16日 晴。暑く夏服きて成城大学。大藤教授に話さんとせしも相手にせず。あけぼの書房に金払いひ、栗山部長に社会科免状のこといふ。 11:00出て空腹にて新宿にてrice-curry(60)。池袋より大塚窪町へゆき、昨日見かけし『歴史学の研究法(150)』、『アジアの諸民族(130)』買ひ、都電にて大塚。soft-cream食ひて帰宅。 〒なし。(新宿にて『新国史概説(200)』買ふ)。大江艶、田中昌三2叔に写真の礼。尾崎秀樹氏へ本の礼。 6月17日 「史学研究法」の下調べにと10:30成城大学へ登校。図書館へゆけば柳田国男先生をられ、司書とお話中にて遠慮して『豊臣時代史(田中義成)』探してもらひしになく、『歴史地理』1の4探す中に御帰宅されしらし。 柳田文庫に坪井九馬三『歴史学研究法』はありし。おかげで史学研究法30分でやめ、新聞の詩の選し、高橋邦彦のを採りし。 伊藤佐喜雄に電話して話し、野田宇太郎氏に『パンの会』にsignしてもらひ、阿部知二氏と出ればtaxiに同乗となり新宿で下車。 一旦家に帰り、竹田龍児氏の『成城文芸』の受取みて(けふ学校にも鈴木俊氏より「受取った。火木土は在宅」とのハガキ来ありし)、雨具の用意して池田事務所(※池田勇人事務所)。佐藤君の「風俗と悪」きき、この次は7月15日にて我「ヒミコ」を話すこととなる。 前田隆一氏、浅野晃氏と会ひ「弟入閣やもしれず」と云ひし由。雨中、出て赤坂見附のりかへ池袋をへて帰る。 6月18日 「池田勇人氏入閣きまりし」と、ふしぎ。井上幸子の手紙見て宮本馨太郎教授に会はんとゆけば欠勤らし。手塚氏らと大研究室で話せしのち講義。3年平塚生と4年久保生ととりちがへゐしこと判明。平塚、高田2生とcoffeeのみて別れ、rice-curry食ひしのち帰宅。 井上斌子より「山中タヅ子の父君の昭和起重機製作所に採用決定しうれし」と。夜、山中タヅ子に礼かき、住山、平井、辻3生にもハガキ書く。帝塚山dayなり。 6月19日 出がけ山中タヅ子よりも「井上斌子6月15日より父の会社へ採用」と。渋谷へゆけば驟雨。やや待ち郵便投函して聖心女子大へ着きしは鐘の鳴ると同時なりし。 田中保隆君に会ひ、久しくといひ『果樹園』40,41をわたす。6,7月分のsalaryわたされ、北区民税50づつ引かる。 「韃靼戦記」うまくゆき「忠王李秀成」は旨くゆかざりし。すみて東急dept.にて炒麺(80)食ひ、白鳥邸へ見舞に枇杷(300)もちゆけば「清先生他出」と! 奥様に面謁、郁郎君の「明智光秀(※遺稿戯曲)」お返しすることを云ふ。出てまっすぐ帰り来る。 糸屋鎌吉『首の蔭』出版記念会の案内来をり。井上幸子、藤井陽子の2生に返事。 6月20日 成城へ登校。「Indonesiaの文化」を講ず。Salary13:00からとあり。出て甘いもの買ひ(205)、千歳船橋下車。鈴木俊氏を訪ひ、岡部長章君のことをたのむ。「むつかし」と也。『李朝実録抄』10,11未完と。 昼食にとtoast出され恐縮して退出。経堂に出て古本屋へゆき『タイ国史(100)』、Bernheim『歴史とは何ぞや(50)』、『風来山人春遊記(80)』、黒羽茂『基礎歴史学(60)』、小堀杏奴『回想(80)』買ふ。(小堀氏のはdoubleゐし)。 電車にて鈴木秀穂生に会ひ、下北沢で下車。Coffeeのませて話す。1年おくれし也。14:00帰宅。うどん食ふ。〒なし。 6月21日(日) 家居。安西均氏より全快祝として「鶴の子」1函送られる。午后、京と飛鳥山へ散歩。安西氏、井上斌子へ礼状。 6月22日 朝夕雨とのことにrain-coat着てゆく。栗山部長に27日の会につき話し、白井紘史よりの電話きき、13:00新宿で会ふこととし、 salaryもらふ。区民税梗正して引きあり。 11:30すみて今井富士雄氏に会ひに図書館へゆけば「帰京水曜に延びし」と。丸の坊やをり、「近々父に連絡す」といひ、出て下北沢で昼食(50)。 新宿で紘史に会ひ、「話あり」といふに喫茶すれば「詩作りし」と見せらる(140)。 都電にて神田。山本書店に『國榷』送付たのみ、『敦煌変文彙録(260)』と『顧炎武伝略(40)』買ひ、軒並に『申翼煕先生演説集(20)』、 『新村出選集2(50)』、『文学界と西洋文学(30)』、『花蓮港庁概要(50)』、『台東庁勢一覧(30)』、『台湾風物誌(20)』と買ひ、『満蒙叢書1,2(150)』と『小田切文庫目録(150)』と見つけてうれしく。 また喫茶せしのち東京都民銀行に加藤定雄のぞきしも不在。御茶水駅前にて角川書店の中西氏に電話し「ぎりぎりの締切いつなりや」ときけば「25日」と。 気持よく、紘史を家につれ来る。けふ『朔太郎遺稿(80)』を買ひて与へし。大江叔母より「下阪したら泊れ」と。 6月23日 成城大学へ登校。よべ3:00までねられざりし故苦し。10:30立教大学細田女生来り、図書館へつれゆきしに若葉君のみ。柳田文庫見せ、「まへかけ」をやるといふに13:00柳田先生へつれゆかんとせしも雨降り出し「来るな」とのことなりし。 14:00今井氏帰り来て岩木山麓の発掘の計画をはなす。きけば「立教大学の宮本馨太郎氏とは親し」と。「柳田先生とも悪くなし」とのことに宮本氏の紹介あればど思ひ、「木曜にまた来よ」といひて帰す。 教授会17:00までかかり雨、丁度小止みとなりしを帰り来る。 太田陽子夫人より「また一年伊賀上野へ転住と。藤野和子はKuala Lumpur住ひ」と。深沢紅子女史より画展の案内。 6月24日 朝がた、筒井護郎と京の法華寺といふにゆき寺僧に数千円恐喝せられし(筒井が)をゆめ見て覚む。 11:00出て成城大学。阿部知二氏と話す。史学研究法すみて中沢生と話し、野田宇太郎氏に誘はれ国木田独歩のslide見る。 出て矢沢利彦氏と遭ふ。帰り浅賀生と同車、「日本史の教科書貸せよ」と云ふ。 『東方学18』来る。鍛治初江君よりたより。中村村次君よりたより。夜ふけ「杜甫・人と作品」30枚かき了る。 6月25日 悠紀子をして角川へ速達と東方学会へ550送らしめ、池袋の三越より和田先生、栗山部長、手塚教授、林dr.にお中元贈らしむ。 午后、山本陽子生より「あす17:00坂根生と同来」と。夜、天覧の巨人阪神戦をきく。5x-4にて長島のサヨナラhome-runと描きたるが如し。 6月26日 悠紀子、渋谷の住宅公団へゆく。我、気進まずとて聖心女子大に休講をいはしめて留守す。 〒なし。15:00帰り来しゆゑ入浴。帰れば坂根生まちをり「18:00より用あるゆゑ16:00待合せを山本陽子と約せし」と。 17:30夕食くひてあはてて出てゆく。陽子21:00までをり「秋にまた上京する」と。 6月27日 出がけ羽田明君より速達「1日の飛行機にのる。26日上京、29日の居所、上田勤氏にしらせ」と。 10:00松本善海君に電話せしに未出所と。『國榷』6冊の図書館につきしを見(浅賀生『日本史』もち来りくれし)て11:00池袋着。 三越で昼食、林dr.にゆき注射うってもらふ。よべ睡眠不足の故なり。斎田昭吉の兄来りをりし。帰れば和田先生より「19日御退院」の御挨拶。 6月28日(日) 11:00大貫へ散髪にゆき、帰りて和田先生と手塚氏の中元の礼。角川の『古典の窓』原稿の受取。尾崎秀樹氏の『生きているユダ』の出版記念会4日(土)18:00新宿でとの通知見る。 (羽田君の姉婿上田勤氏に電話かけ、あす成城への電話の時間しらす)。14:00出て靴みがかせ、深沢紅子の展覧会昨日までなりしことを知る。 (※糸屋鎌吉『首の蔭』出版記念会)赤坂のアジア会館へゆけば丁度よき時間なりしも会は1時間おくれてはじまる。 井ノ口基成氏は夫人の弟にて本名西塚俊一とて八戸市の出なることをはじめて知りし。小山正孝君来り、2次会にさそはれ、渋谷のbarにゆき、やがて来し連中と一緒となる。われ早く出て変な男に会ひ、途中の食堂に逃げしあと帰宅。 けふ笹沢美明、村野四郎、高橋新吉、中河与一、三浦久子、公平嬢などと会ひ(久礼田博士、夫人森房子、萩原葉子、大森倖二などとも)、糸屋鎌吉の哭くを見しなり。 6月29日 成城大学へ登校。羽田よりの電話を10:20に待ちしもかからず。 2時間目すまし(reportの題を中国文学史前期の何かよみての感想ときめる)、柳田国男先生と話すを誰かと思ひしに鎌田女史なりし。「八重山列島へゆきし」と。 Sandwichたべ、羽田の電話なきゆゑ上田氏にかければ夫人出られ、博物館へゆきし、やがてかけ来らんと。かかり来りしと「16:00梅ヶ丘駅にて待合せ、和田先生をお見舞ひせん」とのことになり、『國榷』もちて図書館にゆき、鎌田女史より沖縄の永久装備きき、「藷をumuといふ」ときき、今井氏と「明日相談せん」と云ひ、若葉君より洋傘かりて14:10出て、にて下北沢下車。 「Penguin」にゆき見しに締りをり、南口古本屋で『官場現形記2(50)』見つけられうれし。『華訳世界名歌集2冊(20)』と買ひ、店主と話せばわが名知りゐし。 13:50梅ヶ丘駅につきまちゐれば、14:20羽田夫人あらはれ「羽田君おくれる」とのことに和田邸へゆき、招じられて上れば、先生意外にも出て来られ御元気なりし。 羽田のやがて来るを云ひ、匆々退出し途方にくれ、松本に電話して帰宅すすめ、煙草のみつつ夫人と話しをれば羽田現はれ、和田先生にゆくを30分まち、同車にて新宿。 中華料理たべbeerのみ(860)、「羽田空港へ送りにゆかざる」を云ひ(4ヶ月にて帰国と)、駅前にて別れて帰宅。 史より「日本生命ゆきても大して効力なからん」と!(けふ羽田より高山岩男氏信頼できぬ人とききし)。『生きているユダ』出版記念会に「欠席」の返事。健康保険証に史をくはへて返附うけし。 6月30日 雨仕度してゆき、短大2年に宿題だす。すみて今井氏に会ひ、大藤氏の令弟逝去ときく。学科として立てるもの、日本思想史に千葉大の田中久夫氏をといふのみ。 栗山部長に会ひて「篠原氏と話せ」ときき、高田教授より紹介受けて駅南の木村歯科にゆき、奥歯の手当受く。 14:00すぎ立教へゆけば学長選挙とて手塚、宮本2教授ともに不在。ことづけして出、裏にて家永三郎『新日本史(30)』買ひて帰宅。高橋重臣君より「明日来る」とハガキ。夜になりて雨。 けふ平凡社の藤田君に参考書として『東亜史研究 蒙古篇』をいれてくれとハガキ。 7月1日 雨の仕度して登校。12:00につき菓子とcoffee摂り、川上恭正、柏岡明2生と話す。立教大学へ「太宰治」のslide見せにゆき好評なりしと也。 史学研究法すませ3年生と社会科免状のこと話す。篠原部長とれさうなこと学生には云ひしと也。 女生3人に考古学入門を3冊貸し、成城学園名簿とり、歯科へゆきRentgen見せられ治療受く。急いで帰宅。 高橋君待てば20:00来り、23:00まで話しゆく。「この間、鈴木俊氏Schinzinger先生受勲の祝に東京」と。(けふ羽田夫人に悠紀子をして電話かけさせれば「こだま」で帰洛と)。 平凡社より「香妃、三多(※サンド)、朔方備乗を書くや否や」と。 7月2日 あかね書房より150円来る。収入証明もらひに13:00出て成城大学。会計へゆけば「土曜にわたす」と。 丸重俊に会ひ「父、病気」とのことに電話して「19:00ゆく」ときめ、民俗学会の鎌田女史の大神島の話きく。(平凡社へ「朔方備乗」のみかくと返事。) 15:30出て歯科へゆき、歯みがいてもらふ。すみて下北沢の「Penguin」へゆき森本女史に土曜の尾崎君の会、欠席のことわりたのみ、吉祥寺までゆき、古本屋見しあと杉浦家へゆけば、美知子夫人(※杉浦正一郎未亡人)在宅。「長嬢、早稲田の国史に入りし」と。「国文にかはれ」と云ひ、出て高円寺下車。 赤川夫人に顔のみ見せ、丸家へゆく。「S本○氏2嬢あり、中野□□にめあはしたきにてはなきや」調査たのまる。丸「このごろ金入らず」と。beerとすしごち走となり重俊君に中野駅まで送られ、古本屋見しあと帰宅。22:30。 (けふハンカチ忘れ成城堂でもらひ『ブッダの言葉(120)』買ふ)。 7月3日 むし暑し。悠紀子、数男へとゆく。平凡社の藤田正典氏より「ハガキ見た。和田先生にお会ひした」と。 12:30聖心女子大へゆき、田中保隆、青山定雄2教授に会ふ。 「問題を提出せよ」とのことにⅠはreport「初期の在華耶蘇会(1200字)」、Ⅱは試験「太平天国について」とし、徳富女史?に提出し、東横dept.にてrice-curry食ひ(90)、母に電話すれば「けふ千草宅へゆく」と。 7月4日 暑し。成城大学へゆき、すぐ出て(佐野教授に「丸夫人の旧姓井上」ときく」)木村歯科、「月曜休診」と。 帰って昼食す。住山重子よりハガキ。「十時生、近く結婚」と。入浴せしのみ。 7月5日(日) 暑し。成城大学へゆき2時間目出席者4人につき、つれてcoffeeのみにゆく。(浅賀、村田、国文松浦翠(※後の史氏義姉)と1女生)。12:00帰宅。『果樹園』42号来り、『史苑』来る。 7月6日 暑し。成城短大2年すませて休みとなるも不快。木村歯科にて右奥歯2枚目に金かぶせてもらふ。「あとまた来よ」と也。 coffeeとsandwichと摂り、大藤教授さがせしも「来ず」と。篠原事務局長に会ひ、まかされ、前田教務課長に会ひ、まかされ、やがて来し大藤教授にまかさる。 14:10より教授会。渡辺生(4c)学友会費22万を浪費せし故、7,8,9の3ヶ月間停学と! 16:00すみ、われ図書館にゆき大藤、池田2氏と話さんとせしも出来ず、中馬司書補と竹内のこと話し『類聚国史索引』を池田氏のため買ふこととし、出て坂本経子副手と真向ひに坐りてしらぬ顔され、新宿にて坂本浩氏と同行すれば、小高根君の伊東伝の構成をほむ! 聚楽4階にて坐りまち、池田館長の来しをまちて開会。野田宇太郎氏、北斎の棺内、水となりゐしをいふ。 閉会まぎは「卿は俗人」と高城楢秀助教授にからまれ不快となりまっすぐ帰宅。 川崎菅雄よりclassの名簿来り、西宮一民君より「森氏、院長となるらし。壽岳博士退職等々」。 けふ西川英夫に電話せしに久保亀夫の国鉄大阪支社長陞任の会は音沙汰なし」と。 7月7日 (※記事無し) 7月8日 風吹く。山中タヅ子より『果樹園』わが表書にて受取りしと。 午后、本もちて出、山本書店にて『北京図書館(40)』、『杜甫年譜(400)』、『法顕伝(110)』、『中国近代史稿 vol.1(340)』、『忠王自傳原稿考證與論考據(170)』、『捜神記(85)』、『明清小説講話(55)』など。 蒲池歓一氏を訪へば「齋藤晌氏、博士となられん」と。出て小山正孝氏にゆく旨電話せしあと、「大安」へ寄り予約せし『輟耕録(280)』とり、『玄奘西遊記(120)』、『太平天国史料訳叢(200)』、『西遊記人物辞典(75)』。 小山氏に会ひ喫茶店へゆき、高山(岩男)旋風のこときき、教科書わけてもらふ。この間、三浦氏わが出しあとすぐ居なくなりしと。 加藤定雄君見にゆきしも不在。S本○氏に18:30会はんとのことなりしゆゑ、一旦帰宅。 高尾書店の書目来をり。あはてて飯くひ、朝日新聞にゆけばS本氏入口にあり。父君(※子規門下某歌人)のこときく。(中野清見には2月頃会ひしと?!) ともに出れば朝日の入口にて長嬢に会ふ。美人にして長身。beer-hallにつれゆかれ、Singaporeを案内せしときく、意外。(佐々木六郎名古屋の次長と)。 21:00帰り来れば坂根千鶴子まちをり、「山本陽子20日頃までゐる」と。「大の芝居延期となりし」と。 丸の供して釣にゆくことを悠紀子に云ふ。(けふ丸に電話せしに不在。「重俊生、熱あるに弘前へ発ちし」と夫人の話)。 7月9日 暑し。『東洋史研究』の半ばもちて13:30成城大学。教務課に手助け求めしに「知らず」と。健康保険証、木村歯科へとりに高尾嬢ゆきくれ、新しきものとかはる。 15:30ふらふらとなりて切り上げ、図書館へゆき中馬君より鄭振鐸『中国俗文学史』上下2冊見つけてもらふ。 丸重俊と連絡とるための場所若葉君にきき、2年生5人と話す。神戸生は宇都宮にて「市中に大垣姓多し」と。木村歯科のぞきしも2,3人をり、向ひで氷小豆くひ、池袋よりbusにて林dr.にゆけば往診中。夫人に注射打っていただき、待てば帰宅。「高橋君来ず」と。芳野君に同君の会たのみ、 beerよばれ大塚へ歩き『中国新文学事典(60)』買って帰宅。 前川佐美雄氏より「大伴道子夫人の誌上出版記念会17日ごろまでに」と。入浴。 7月10日 9:00『東洋史研究』の残りもちて成城へゆき、昼食までに書類ほぼすませ、佐野教授と話せば全田忠蔵(※義理の叔父(肥下恒夫の伯父)・大阪高校時代の教員)識りをり。 「事務局長篠原氏2日間旅行」と。前田教務課長に見せ、「月曜来る」といひ図書館へゆく。 中馬君、都立大へ電話してくれ竹内(※竹内好)在宅ならんとわかりしも北京図書館への手紙かかされ、疲れて2年鈴木生より羊羹食はされ、 14:30となりて出、「Penguin」へ鏡買はんとゆきしも閉りをり。 けふ母来り、悠紀子と浅草へゆきしと。弓子と京とで夕食仕度せしところへ帰り来る。「大、機嫌悪きも母、来月までゐる模様」と。 けふ羽田舒子夫人より礼状。『李白歌詩索引』貸出。(けふ悠紀子学校へゆき「弓子5番」ときき来し)。 p13 昭和34年7月14日~昭和34年11月1日 「東京日記 6」 本冊画像PDF 25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p14 (※7月11日 記事無し) (※7月12日 記事無し) (※7月13日 記事無し) 7月14日 「大安」の広告来て岡崎俊夫5月に死にしと見ゆ。11:30出て12:50成城大学。教務へゆけば課長話中。池田勉館長と話し、細田明子生(立教4年)のこといへば「柳田先生女生に甘く大丈夫」と。その旨ハガキ書き、今井富士雄氏にも書く(ゆきがけ王子局より果樹園社に「魚の目」と1,000と速達)。 帰り歯科医にゆき、大きな歯石とられ赤面。下北沢下車、「Penguin」に寄りcoffeeのみしあと古本屋にゆき『支那文化風景(30)』買ひ、また「Penguin」にてHigh-ball。森本夫人近々軽井沢へゆき休店とすると。 帰れば浅賀千里生よりも岩木山麓よりのヱハガキ。明日の話の予習できず。 7月15日 渡辺道夫氏へ中元の礼状。小畑信良閣下また成城に帰りたまひしと。岩木山神社前より八重樫、四條の2生。 村松正俊氏に『果樹園』包む。16:30出て上野より地下鉄にて池田事務所(※池田勇人事務所)。田中忠雄氏をのぞく7氏あつまり「神武天皇抹殺」を話す。旨くゆかず。 すみて浅野氏(※浅野晃)より服部女史の卦(※占い)しらせありしときく。22:00帰宅。 7月16日 晴。家居。住宅公団の抽籤にもれ、悠紀子また申込みにゆき、われ留守。 角川より4,500-675=3,825来る。 午后、清水文子生より暑中見舞。『千一夜物語(角川文庫)10』買ひ来る。 7月17日 晴。田中忠雄氏より暑中見舞。午すぎ前川佐美雄氏へ大伴道子『明窓』の評3枚を速達す。 堀ノ内歴君より「椿下生の来しも、くはしく話せざりし」と。 夕食後、高橋君の宿へゆきしもいまだ帰らず。田端まで歩きて帰り来る。 7月18日 雨、時々晴る。田中マサ子夫人より「日曜も出勤しゐる。営業第2課」と、切符同封しあり。 午后、今市佐恵夫人のハガキと小高根二郎氏より(※伊東静雄伝の連載につづき)「蓮田善明かく」と。 7月19日(日) 大安より『清代碑伝文通検(640)』入庫と。山本実子生より暑中見舞。高橋君より「父君急逝、21日~28日熱海へゆくため今夜来訪」と。 天理図書館より暑中見舞。居間のたたみ替へをす。午后入浴。名古屋場所千秋楽。 20:00高橋君来り、父君のこと話し体わるきを云ふ。28日再訪の予定と。 7月20日 〒なし。午まへ林dr.に電話かけ高橋君のこといへば「芳野君の消息なし」と。 7月21日 新川(三鷹市)の住宅抽籤におちしと。午后出て成城大学。 高城助教授をり、大藤、池辺、鎌田の3氏とちょっと会ひてのち俸給もらひ、駅にて弘前より帰りし中沢生に会ひ、木村歯科にゆき歯みがかれ、夏休み中来ぬと了解してもらふ(時間まちに炒飯くひし)。 神田までゆくと水道橋下車。波木井書店にて『三国志演義(360)』、大安に予約の『清代碑伝文通検(640)』とり、『太平天国制度初探(130)』買ひしのち、極東書店にて『敦煌曲子詞集(70)』、『台湾的開発(110)』買へば「先生ではありませんか」と、東洋大学の増村孝雄生。卒業して職なしと。coffeeのませ巣鴨行都電にのり東洋大学前にて下車すると別る。 帰れば山本陽子来をり、同じく住宅落選、補欠のため保証人たのむ。俸給証明あす成城大学へもらひにゆくと也。 山本嘉蔵氏の暑中見舞(堀内信江代筆)。今夕、依子信州へ出発。 7月22日 9:30成城大学会計課に電話して山本陽子への証明たのむ。悠紀子、京をつれて母と東京towerへゆく。 13:00われ出て立教大学、7月分のsalaryもらひ手塚教授に会ふ。暑くてのどかはき、西武dept.にてice-coffeeのみ、婦人Hallに宮崎智慧氏訪ひ「伊吹山へゆかず」といふ。 林dr.に電話すれば外出と。散髪し(160)ゆけば尾崎秀樹氏をり、春夫先生の話きく。芳野君来ずと。 17:30出て尾崎氏とすぐ別れ、都電にて帰宅。 けふ前川佐美雄氏より原稿受取(林dr.にきけば「保田上京中」と)。安田明子夫人より暑中見舞ありしのみ。 「母の頭の治療に7万円を請求されしと。父伊勢にゐつかずと。田中順二郎氏火曜が休み」と悠紀子の話。(けふ立教に手帖忘れしらし)。 夜、丸に電話し、「中野より便まだなし、重俊帰宅」ときく。 7月23日 川上恭正より暑中見舞。13:30訪ひ来しは兼頭淳子、「壽岳博士に叱られしclass。院長夫人、金少しとて入学志願の親より金とらざりし。筒井女われに帰り来れといふ」など話す。 トロリーバスにて浅草へつれゆき、人形買ひ、すし食はせ地下鉄にて神田まで送り、われ都電にて本郷下車。 ペリカン書店?にて『南の星』高橋君の教えへ通りにあるを見付け(30)、『日本人の人種学(100)』、『最古の人類と文化(40)』、『日本及支那本草学(40)』買ひて帰り来る。 武田富子夫人より「10月分娩」と。 7月24日 暑し。林佳子生より「寺本生の住所しらせ」と。小島樹氏、大江房子(?無名)より暑中見舞。 中野清見君より「□□つれてS本氏へゆけ」と。午后出て立教大学。手塚氏に手帖きけば「なし」と! 『邪馬台国(330)』、『平家物語(70)』買ひて帰宅。丸三郎より飲料。依子18:00帰来。エハガキ呉る。 20:00すぎ坂根生来り「21:40にて帰阪」と。青木弥与子うまくゆかざる様子と。山本陽子「成城より証明書もらへし」と。 けふ高崎の松本悦治氏より詩集『海上流浪』来る。うまし。 丸に電話し「中野□□まかす」ときく。(けふ立教中川講師に会ひてきけば「藤田亮策先生、東京に新居建てられしも奈良の研究所長となられし」と)。 7月25日 暑し。午后の温度34℃と。松本悦治氏より「詩集送った」と。丸よりいれちがひにハガキ。増田春恵より暑中見舞。 夜、藤田先生へとゆきしも途中にて引返す。 7月26日(日) 暑し。根木薫生より暑中見舞来しのみ。午后、京つれて「白雪姫」見にゆく。 7月27日 羽田君Teheranよりヱハガキ。「江上教授に会ひし」と。午后、東洋文庫にゆき『世祖実録』と『大東輿地図』とを見る。 帰りがけ石田幹之助先生より挨拶されし。帰れば史より「8月2~3日に帰省」と。川上恭正よりまたハガキ。 7月28日 中野□□君より「29日頃来る」と。藤井陽子夫人より「1日家へ来よ」と。 13:00東洋文庫。青木富太郎氏をり、市古宙三君をり。『朔方備乗』と『満洲学報6』と見て、15:00出る。(青木氏「和田博徳氏にききしに先生おくにらし」と。) 辻本禧紗子、中島悦子より暑中見舞。鞫治弥生生より「出席を理解ある先生こらへよ」と。 17:00ごろ高橋重臣氏来り、やがて中野□□君来あはす。夕食をともにし、3人にて向原に出、池袋への途おしふると□□君と歩けば「理由あってことはる」と。 林dr.にゆきbeerご馳走となり、22:00大塚駅まで御夫婦にて送らる。われも日暮里駅まで送る。 「留守中、松村生来し」と。運わるきことかな。(□□君と3日15:00高野にて会ふこととす)。 (林dr.、五味康祐宅往診、保田に会ひしに病気なりしと。わがこと云ひしと)。 7月29日 天理図書館より『善本写真集』2冊と『Biblia14』。近藤園枝(文2A)より暑中見舞。 午すぎ五味康祐宅へ電話して保田にといへば「神経痛にてねてゐる」と。「夕方見舞にゆく」といひ、よべの睡眠不足こたへて入浴せしのみ。 堀内節子、丹羽千年、白井紘史より暑中見舞。南隅美弥子より一家3人の写真。 18:00出て大泉学園下車。五味邸へゆけば保田やせてをり、胃も痛み飯くはずと。浅野建夫に電話して病気のこと訊ぬれば「みねばわからず、急性なら一時、胸の病気あるのではなきや。健康保険ありや」と。保田のこと忘れたりと!! (丸に電話して浅野の電話きき、中野□□のこと云ふ)。 池袋駅より林dr.に電話すれば「来よ」と。ゆきて「日大に紹介せんといふことになりゐし」ときき、「浅野といづれにするか本人に任さん」といひ、五味氏と電話せしもきまらず。 23:00帰れば大野の知子来り、あす再来と。まくわ呉れしと。 7月30日 浅野建夫へ保田の紹介の手紙かく。八木さんに暑中見舞。花井裕・彩姉妹より暑中見舞。 林dr.に電話かけ、「用の時は(※2階に住む)平野弁護士へ呼出しの電話かけよ」といふ。昨夜(※五味邸へ)往診、林dr.の注射にて当分すますこととなりしと也。 午后、上岡昭子生(短2A)より暑中見舞。『明代満蒙史料11、12、索引』来りてそろふ。 夕方、井上恵子より果物set贈らる。夜、けさ来し大野知子のために買ひし参考書2冊をもちゆく。政子、障子をしめて挨拶に出ず。鴎外2冊と『小田原』と買ひし。『古典の窓2』(わが「杜甫の人と作品」のす)もけふ来りし。 7月31日 暑し。朝、速達伊東花子氏より来り、「6日入京、在宅や否や」と也。返事速達す。 藤井陽子夫人より「1日16:00丸物前にて待つ」と!千川雅泉(※義雄)、三浦久子、向井順子より暑中見舞。大高clubより「15日14:00よりbeer-party」と。午后の便にて辻芙美子、中山(青木)正子より暑中見舞。他に無名(大阪商工会議所につとめゐると)。 夕方、林dr.に電話かければ「(※保田與重郎)病院へゆきし」と。『三国志演義120回』を読み了る。 8月1日 暑し。きのふ名古屋38℃を超えしと。郵便局へハガキ出しにゆく。田中雅子夫人よりこの間悠紀子の菓子への礼。 15:00出て池袋。丸物で氷西瓜たべしあと、16:00藤井夫人と会ひ、案内されて雑司ヶ谷の社宅へゆく(ソーセージ(380)を土産に)。夫君は太田の出で法科卒。NHK.TVのプロデューサーと。 beerのまされご馳走となり、都電まで送られ鳥打ち忘れしに気づく。林dr.訪いひしに留守。 8月2日(日) 9:30林dr.より電話、悠紀子出さしめ「保田入院」と識り、われも出てかけ「千駄木町の日本医大病院に入り、胃の切開するやもしれず」ときく。 井上恵子へ礼状。浅野dr.に保田の入院をしらす。 井上恵子より送り状。吉岡信子、志野和子(この間上京は上野生なりし)、安永奈美子・孝子(成城短2A、学2A)より暑中見舞。 硲晃氏より「伊東の長男住高入学、成績抜群」と。藤田亮策先生、奈良国立文化財研究所長と発令。 16:00史、帰省。「公務員試験は9月2日ごろ発表」と。依子電話帖しらべしも池内一氏見当らざりしと。 8月3日 兼頭淳子より礼状。井上(東)順子(夫君『果樹園』よむと)、笠野安子、芳野清(口内炎なりしと)、西菊代(関西televiのanouncerとなりゐると)より暑中見舞。 西宮一民氏より「日生浜田常務にたのみ松本君気を悪くしてゐる様子ゆゑたのむ」と。 林夫人より電話「けふ保田、日大病院で手術」と。すぐ昼食してゆけば五味康祐氏玄関にをり、待合室へゆけば保田夫人と奥西弟(※奥西幸)、五味夫人、長尾(※長尾良)をり「いま手術中」と。永くかかり(夫人と話せば「前より異状ありし。瑞穂、羽田君の家へゆく」と)、不安にて林dr.探しあて病室へゆく。林dr.も不安にて吐血、血沈高かりし経過を話す。手術願ひに1万円出し、手術前にも1万円出せとのことなりしと。弟夫婦来りしを喜び、やがて五味君手術室の看護婦に「手術よかりし」ときき林dr.に云ひ、偶然摘出せし胃を見せらる。穿孔ありしと。林氏にあとたのみ、15:00約束の中野□□君に会ふべく都電。地下鉄にて新宿高野へ15:00着き、「白十字」へ案内されてきけば「サメハダにて」といふ。「明日辺り返事す」といひ、浅野建夫にゆけば「多摩墓地へゆきし」と。 高円寺駅より丸に電話すれば「今夜帰宅おそし」と。保田の病気告げよといひ、池袋下車。林dr.にゆけば「一旦帰りてまた出し」と。夫人に注射打ってもらって帰宅。原(岩田)知子より「4日15:00~16:00訪問」と。西川に21:00電話せしにまだ帰らず。 8月4日 林dr.に電話せしに「経過良好、費用のこと五味氏信用せし故心配いらず」と。丹羽道久、城平叔父、児玉敏子、友井啓輔、藤田幸子、久保マナ子(短2A)、古田房子、野村朝子より暑中見舞。 大江叔父「十合産業社長やめた」と。S本○氏に電話せしに「今明週は忙し」と。「16日(日)にはいかに」と。社へ来いといふ故、中野□□君のこといふ。 午后の便にて福地邦樹君「『果樹園』はいつも同じ」と。西田とし栄より暑中見舞。西川英夫より偶然昨日午后出せしハガキにて「押上安倍支店長に依子のことたのみし」と。 18:00岩田知子、増田久美子と来り、「草津の帰りにて原義夫氏の許可を得て」と。増田生の先に出しあと(夕食させ蕎麦もらふ)、岩田生つれて銀座へゆき新橋にて汁粉食はしむ。駅にゆけば藤田生といふがあり、これにも漢文を教へしと。22:00の「彗星」の寝台にのりて帰りゆく。 8月5日 山本誠一(陽子の父君)、鈴木幸太郎、四方あや、北野徳治、河野岑夫の諸方より暑中見舞。 史、眼の治療に林dr.にゆき専門医に紹介されしと。丸三郎より電報、すぐ電話すれば「来よ」と。14:30ゆき15:30会へて「中野清見君6日18:00ごろ会ひたし」と。「□□の病気は父ももちし」と。 beerのまされながら語りきき、また地下鉄にて池袋、西武dept.に宮崎(早川)智慧氏訪ひ、保田のこと伝へれば「中谷孝雄氏よりききし」と。(中谷氏、長尾の会社につとめゐると)。 林dr.にゆけば「保田gas出ず、主任教授は安全確言せざりし」と。出て大塚の古本屋のぞき『Portgal(50)』買ひて帰宅。□□君より速達にて「16日のこと承知した」と。 伊東花子氏「6日宿へついてから来る。迎へいらず」!!と。佐々木満禧より暑中見舞。高橋重臣より礼状。 夕食して母近々帰西とのことに悠紀子と史ゆかしめることとして、われは藤田先生。一度呼びしも答へなきゆゑ大野家にゆき、トモ子も都合わるかりしときき「8日9:00に来よ」といひ、藤田先生に電話すれば御在宅にて「来てよし」と。 奈良の官舎は郡山より15分の山中と。1~2年にてやめ玉ふと。原田先生よりわがききしと思はれし様子、beerご馳走となり蕎麦おきて退出。 悠紀子、史23:30帰り来り、「母7日10:00離京。大、今夜芸術座の初日」と。 8月6日 11:00伊東花子氏より潮来発にて「6ヒ6ジウエノカイサツデマツ」と電報。羽畑桂子、福島弘子(短2A)より暑中見舞。 15:00前出て王子よりbusにて根津宮永町まで乗越し、迷ひつつ日本医大病院へゆき、保田の空気出しをきき喜び、弟にいへば納得せざりし。枕頭に山川京子女史の侍するを見、九死に一生を得し喜び知らぬを感じつつ出て、広小路まで都電。 東京駅にゆき西川訪ねて経過報告す。(奥戸Californiaにゆきしと)。折しも来りしは熊谷とて台北州の課長つとめしあと埼玉茨城で悪評ありし男とて、いままた退職してbrokerする話きき、出て根岸にゐる中野に会ひにゆき、ともに上野に出て一時別れ、伊東夫人やっと見つけ、「わが家へゆきて悠紀子に会ひし。用件は『果樹園』の「伊東伝」。諫早の姉妹怒る」と。わが考へのべ、諫早の姉とわれらの直接談判にせよとすすめ、保田の病院、庄野潤三の訪ひ方教へて別れ、また中野に会ひ、22:05上野発を送りしあと、国電不通。 23:00帰れば伊東夫人の外、増村生また来り、藤井夫人帽子をもち来り、桃呉れしと。羽田夫人より明君の様子しらせたまひ、中田富子、明渡淑江の暑中見舞。浅野建夫dr.より『新しい血液因子』。 p15 8月7日 田中洋子、堀口太平2氏より暑中見舞。家居。昼寐す。入浴。西岡照子生より暑中見舞。 史、眼医者すみ、悠紀子また体わるしとて林dr.にゆく。けさ10:00の汽車にて母帰りし由。青木夫妻渋谷より荷物の宰領して来りしと。母、2等に乗ることとして大より1万円貰ひしと。けふ松本一秀君へ依頼状かく。 悠紀子、林dr.にて保田夫人に会ひ「近日中に帰洛」とききしと。「林dr.、保田の弟の礼云はぬに気を悪くす」と。 8月8日 9:30大野知子来り、国文法を教へ「明後日また来よ」といふ。11:00出て朝日新聞。S本○氏12日まで休暇と。 丸13:00まで忙しとのことに飯くひ、茶のみ、ゆけば丸の用すまず14:30にと。東京新聞に西寛治氏を訪ぬれば「産経に移りし」と。産経に電話すれば政治部長と!!また茶のみて丸と会ひ、築地まで歩く。(日比谷で大の「かあいい不良少女」興行中なるゆゑ見んとせしも「中途ゆゑだめ」と。受付に大の在否たづねしもわからずと)。 別れて「日本かく戦へり」を二度目に見て帰宅。高田(池元)かよ子夫人、松村達雄、東井昇之進、鍛治初江の諸氏より暑中見舞。 19:00林dr.へと出、保田の周囲を嘲笑してすみし。大塚にて『占領風雲録(20)』買ひ来てよむ。(今西春秋氏より『東方学紀要1』の抜刷贈らる)。 8月9日(日) 6号台風近づくと。東孝子より暑中見舞。18:00増村生来りしゆゑ、畑山博宅へつれて就職斡旋たのむ。beerのまさる。 8月10日 晴。涼し。山本実弁護士(大高12文乙)より暑中見舞。兼頭淳子生より「失名(※ハガキ)は涌井に相違なし」と。里井千鶴子生「玄山へゆきし」と。宮崎智慧女史より「手帖見付からざりし」と。池沢茂君より「坊やの市立丸山学園の担任桐山京子は奈良女子大の郷の教へ子」と。大野知子「風邪にて休む」と。「12日に来よ」といふ。 午后、井上律子残暑見舞。林佳子、住山重子2生白馬より。けふ松山事件の最高裁判決「仙台高裁へ差戻し」と。 8月11日 『果樹園』10冊追加に来る。福地君妹に発送たのみし故と。伊東花子氏より「保田も見舞った」と。 鈴木正義生より残暑見舞。午后出れば霧雨。ついで本降りとなり文庫を出られなくなりしも米田君(栃木県烏山高校)に誘はれ傘さしかけられ、そば食ひし、宿までゆき、小雨となりて帰宅。 山本陽子より挨拶。 8月12日 雨。大野知子来る。藤本時喜子夫人より10月出産と。 8月13日 『果樹園』へ「胃の腑」かき速達す。「同人費20日すぎまで待たれよ」とかく。大野知子教へし。 出て朝日新聞。S本○氏に会へば「16日都合悪くなりし」と。中野□□君にその旨いひ、「23日19:00又は30日18:00にては如何に」とハガキかく。 午飯くひて神田明治書院にゆき、内野女史に会へば「おくれて初校やっとすみしところ」と。稿料よりと『日本文化史講座』6冊をとり、両国、錦糸町を歩いて帰る。 藤井陽子夫人より「この間、夫君とともに来し」と。神戸敏江生(文2D)より尾瀬のハガキ。 8月14日 けさ台風のあふりにて涼し。渡辺三七子より「物送った」と。鈴木敬子、田中秀子より残暑見舞。 8月15日 終戦記念日。12:00出て水道橋より靖国参拝。小雨降り来しゆゑtaxiにて日比谷、New Tokyo(けふ東京大高会か)のNew東宝にて「続・菩提樹」見る。氷西瓜食ひて帰宅。 服部三樹子氏より「保田氏の病気しるや、しらざれば山川京子氏にききてともに見舞はん」と。 田中保子生、和島岩吉氏より暑中見舞。服部氏に電話かけ、病院教へて「ひとりでゆけ」といふ。 8月16日(日) 岩田知子より「原姓をなのらぬわけを姑に云ってやった」と。中野□□君より「23,30両日ともだめならん」と。辻規子生より残暑見舞。成城大学より前期試験について問合せ。 8月17日 家居。午后、山川出版社より女史来り、石橋秀雄君の紹介にて『世界史の研究』にかけと。「themaを云へ」といひて帰らす。 20:30S本○氏に電話かけ「9月10日以后にてもよろし」ときく。(けさ丸に電話かけしに「重俊君また弘前へゆきし」と)。 8月18日 今西春秋氏に礼状。中野□□君にハガキ。太田陽子夫人より「伊賀上野にあり」と。午后入浴。 晩に坂根千鶴子来り、「渡辺三七子に会ひしのみ」と。25日、大の劇見にゆくことを約す。 8月19日 暑し。松浦翠(文ⅢA ※後の史氏義姉)高松よりヱハガキ。午すぎ散髪。山中京子(旧井上)より残暑見舞。 富山県氷見市の橋本芳雄氏とて『戦後吟』その他よみしといふが『Burma従軍記』。 京のひろひし犬ヂステンパーらしく見るにたへず。16:30上衣つけて池田事務所(※池田勇人事務所)。田村、齋藤、浅野、勝部、佐藤、米津氏出席。田中忠雄、高山岩男2氏欠席、浅野氏の「愚管抄」きく。浅野氏「四国旅行中なりし」と。林夫人に電話し、排便苦痛を保田訴へるとききしを告げ、見舞たのむ。 『栽培植物の起源 下(120)』買ひて帰宅。けふ渡辺三七子より靴下2足たまはる。大野知子来り「祖母病気のため休みし」と云ひしと。 8月20日 暑し。住山重子より「鶏卵蕎麦」といふを賜はる。夜、林dr.にゆきしに他出。池袋の本屋にゆき『栽培植物の起源 上』買ひ3冊揃ふ。ハガキ12枚かく。 8月21日 暑し。志賀フミ生(聖心女子大)より「参考書を教へよ」と。畑俊六氏(今高十期)「同窓会をするにつき日時場所指定せよ」とともに往復ハガキ。 12:30出て成城大学へsalaryもらひにゆく。栗山、池田2教授に会ふ。『南島文献資料目録1』出来、もらひし。米津三郎氏より依頼の人名しらべしも4~5名しかわからず。 出て(10日まで休みと)『長野県地図』買ひ、下北沢で下車。『上野原』『大宮』買ひ、空腹になりて炒飯くひcoffeeのみてのち帰宅。(渡辺三七子のため『歎異抄』買ふ)。 8月22日 暑し。また聖心女子大の畑瑠美子生より参考書の問合せ。川勝重子より「自動車の免許とりし」と。 13:00朝日新聞にゆきS本○氏に中野□□君の手紙見せ、文化人名簿のこときけば「新聞種にならふ者のはなし」と。出てお茶の水。加藤の銀行閉ぢをり、15:00すぎしなり。 『北満風土雑記(100)』、『西力東漸本末(100)』と明治堂で買ひ、『民俗学問題(30)』をゾッキ本で、小見山書店で田川大吉郎『康熙帝(80)』、「大安」で『万暦野獲編』のまだ来ぬのに文句いひ、ヱハガキ買ひ、春夫『前途展く(130)』買ひて波木井書店で『日土土日大辞典(300)』と『世界歴史8(30)』とにて了りとし、後楽園まへで氷のみ、風呂敷買ひ(70)て本包み、本郷3丁目より都電にて帰宅。 22:00入浴。春夫先生の小説面白かりし。 8月23日(日) けふは涼し。渥美佳子(短2A)より残暑見舞。ひるねせし。羽田夫人と八木よし子氏へヱハガキ。 8月24日 けふも涼し。父より「仕事なく老衰す」と。13:00出て立教大学。Salaryもらひにゆけば会計わが顔知りをり! 手塚、小林2教授と話し、Arseniev『ウスリー探険記(130)』と『黒竜江と北樺太(100)』買ひ、地図『浦和(40)』『熱海(35)』買ひして池袋駅前より林dr.に電話してゆく。 「保田夫人、看護しをり」と。「明日見舞にゆく」といひ都電にて帰宅。 穴川裕代生、軽井沢よりヱハガキ。けふ米津三郎氏へ人名調べつかずと返事。夜、小高根氏に『果樹園』の同人費1,000包む。 8月25日 上田阿津子、鬼怒川より「この間東京にゐし」と。昼食後、本人来り(われ「Weji部抹殺(※Weji部:満州の一部族)」かきそめしところへ)、「けふの特急にのりおくれし」と。 ともに出て上野松坂屋。われ氷西瓜くひ「よべは浅草に泊り、今夕旅の知合と風月堂で会ふ」といふと別れて、日本医大病院へカステラ(375)もちゆく。(※保田與重郎)やせて眼凹みたれど経過よろしきらしき。 17:30となりあはてて出、taxiひらひて日比谷(90)。10分前に来りし坂根生とB席(300)に入り「かあいい不良少女」看る。Witのみならん。幕の内弁当くふ。観客2/3の入りにて明日にて了りと。21:00すみ、beerを有楽町駅前でのみ(90)帰り来る。楠戸生より「中島に会ひし」と。 8月26日 佐々木邦彦画伯より青龍展9月1~13日三越でとの案内。けふ大野知子来し。 8月27日 朝、大野知子来り、母低血圧と。西村公晴氏より『花降』(※歌集)、印刷岩崎昭弥世話し、安田、影山の序文、柳井の跋文なり。 米津三郎氏より「調査いらず」と。畑俊六氏より「29日中央大学前にて」と写真を同封。一人なることわかり「うちへ来よ」と返事出す。 午后、羽田夫人より「母上胃潰瘍」と。柳井道弘君より『芸生殿』2,4。 入浴す。けふまた33℃、「Weji部抹殺」の案成りやや得意なり。 8月28日 暑し(「夜に35℃となりし」とradioにいふ)。坂本紘子生より「ヤソ会の参考書教へよ」と。渡辺三七子より「歎異抄いただいた」と。 9:00岩崎昭弥君来訪、保田を服部三樹子と見舞ふと。『桃』と『風日』の連合会にてききをりしと也。葡萄酒1本たまふ。 午后、小高根二郎氏より「同人費受取った、蓮田善明伝1年つづく」と。 けふ父へ「大の嫁さがせ」と。 8月29日 田中秀子より手紙。13:30畑俊六君来り「矢野健三閣下にも話せし」と。名簿作れといひて帰す。暑く35℃をまた越えしと。夜入浴。 (午まへ大野知子来り、「差し支へ出来て夕方来られず」とことはる)。 8月30日(日) 家居、大野知子来り、弘前にて発掘の吉成和也より「若菜君、丸と5日ころまでゐる」とのハガキ来しのみ。 8月31日 わが48回めの誕生日。〒なく大野知子の家庭教師けふにてすむ。3女にて財布(350)買ひ呉る。夜、大野夫人来り「少しにて」といひて2千円呉る。「知子学習院大受けたがる」と。 p17 9月1日 晴、暑し。午后、秋山昭子夫人のハガキ見てのち、東洋文庫。 入口にて堀敏一君呼び出し、原稿しめ切りを問へば「はっきりはたのんだことにならず」と可怪しな返事なりしも9月10日ごろまでに100枚書くこととなり、帰りがけ神田信夫氏のゐるに気づき、窩集部(※満洲少数民族)のこと問へば「気づかず」と。和田先生宜しきらし。『八旗通志初集』の写真不十分なるも人名cardは出来をりと。出て電停前より松本(※松本善海)に電話し、大塚仲町下車。古本屋のぞきて太田陸郎『支那習俗(130)』、Kent『歴史研究の方法(100)』買ひて松本の研究室。『満洲発達史』見せてもらひ、16:35まで待ちてともに出、池袋の『Green Corner』で喫茶。「土曜に川久保より電話かかりしも不在なりし」と。 別れて本屋にて畑山博氏に電話し「嬢や3年生」とききてのち、子供の本2冊買ひてbusにてゆく。返礼に林檎もらひし。 川久保に電話かからず。(池袋の本屋を出てまた堀氏に会ひ、題きかれ「明末の野人女直について」と答へし)。 9月2日 晴。暑し(36℃を越へしと)。『骨』16号3冊来り「同人に復帰」と。 午后出て東洋文庫。川久保をらず、「昨日は来し」と。田川孝三氏と話し「藤田先生の官舎、郡山市大織冠」と。 15:00すませ松本に電話かけ、氷くひて三越、青龍展見にゆく。佐々木邦彦画伯の「根子岳」「山望」ともによかりし。 裏の日銀へ寄りて見れば「鎌田正美君、文書局長」と。 帰れば平凡社より「「朔方備乗」0.8枚を9月10日までに」と。 9月3日 朝、史より速達「397人中5番で合格、8日までに身分証明書送れ」と。悠紀子区役所へとりにゆき送る。 論文一も進まず憂鬱。夜、明治書院より速達、見れば小島君わが文を改悪す。 9月4日 晴。10:00出て郵便局へ寄り速達出せしあと成城大学。 中国文学(漢文)の試験問題提出。川上恭正に電話してききしあと「中国文学史も試験する」と届け、図書館にゆき池田勉館長と話し、『東国輿地勝覧』下と1冊借り、昼食あつらへしが来ざる故、まちあぐんで出、駅前で天丼食って帰宅。 『果樹園』44号来をり。高田瑞穂氏より前号の受取。林富士馬氏より『ももんが』の田中隆寛「茂吉との対話」に茂吉先生わが詩をほめられしをのすと。 入浴。疲れて仕事できず。けふ図書館にて恰も中野□□君より電話、「今日静岡へゆく。予定つかず」とのことなりし。 9月5日 12:30出て東洋文庫。神田信夫、松村潤2氏の室にゆき『満洲歴史地理第2巻』見せてもらひ、また同じこと話して不快。 帰りても進まず困る。相野忠雄(※大高同窓)より「久保亀夫の会でところきいた」と、珍しき便なり。 9月6日(日) くたびれる位書きて「野人女直」60枚ほどとなりしのみ。白井紘史より「2日帰京し小説かきゐる」と。林dr.に電話せしに外出と。 9月7日 「野人女直」書きつづけて昼間家にをり、鈴木治氏よりハガキ。千川義雄より「上京す。日取は改めて報ず、西川、倭に会ひたし」と。 夜、林dr.にゆけば「借金7~80万円したし」と。そこへ電話かかり、五味康祐氏よりにて「保田の散歩につきあへ」と也。ともに出て五味氏の自動車にて日本医大病院。外へ出るを見とどけ歩きしのち、busにて帰宅。 林氏の見付け賜ひし『ももんが』の記事は、田中隆寛(隆尚の兄)の「茂吉との対話」にて、昭和18年1月7日渡会浩氏(明治44年山口生れ、九大医学部卒)と茂吉先生を訪れ、露伴のことのあと突然!?「田中克己の詩はいいな」と云はれる。渡会が田中克己はロマン派であり、支那哲学をやり(ママ)、ノバーリス(ママ)の『青い花』も訳して居ると云ふと「さうか、それはちっとも知らなかった。自分は経歴などちっとも知らずに、ただ詩を見ていいと思ったのだ。之も西洋を一度通したからいいのだ。今の医学でもさうだ云々」といはれし由。わが生涯に華やかなることありし也。 9月8日 よべ3:00に目覚めて眠かりしに朝食して床に再び入れば速達2通。1は史より「11日友だちつれ池田勇人大臣に会ひに来る。宿せわせよ」と。悠紀子、数男に電話してたのむ。 1は古田房子生より「11,12の両日中、第一Hotelへ来るゆゑ会ひたし」と。 そのあと中野清見君来訪。「けさ丸に電話して讃岐喜八君への紹介たのみし故、午后よしときき、さそひに来し」と。 11:00出てtaxiにて日本医大病院「保田には25年ぶりに会ひし」と。13:00近くまで話し、大手町builまでtaxi。昼食おごられ、喫茶して讃岐に連絡たのみ、西寛治氏に電話すれば不在。讃岐君にはわれ20年ぶりにて「通産省あまりconectionきかざるも話して見ん、履歴書よこせ」とのことなりし。 出て西川訪ねて会ひ、千川の来ることいひ、別れて帰宅。 梅田惠以子より「3番目の子できし。夫君左遷」と。服部三樹子、畑俊六2君より礼状。葉山修平『異形の群』寄贈を受く。 9月9日 午後、東洋文庫へゆき。『武皇帝実録』を見つけ得ず。いやになりて堀氏に会ひ、きけば「400×50、締切は12日午前にてよし」となる。 同室の長身の青年(田中正俊君)、わが詩「物皆変改すと声を出してよみ(※植木屋)」をおぼえゐたり。 出て氷しるこ食ひて帰宅。『文芸日本』来り、山室夫人(阿部教授―防衛大学の■妹)の作をのす。 清書しはじめ37枚となる。 9月10日 松本善海君に電話し、『武皇帝実録』見せてもらはんと思ひしに欠勤と。夜、電話すれば「風邪にて休みし」と。白鳥芳郎氏より「2年間の留学にと9日Wien大学へ出発」と。古川政記氏より「前川氏のことにて会ひたく都合しらせ」と。 p18 9月11日 家居、書きつづけゐれば古田房子生来訪。(あさ電話して「来よ」といひし也)「23日Visaとりにまた上京」と。広東語辞典与へ「台北の地図買ひ来れ」といふ。 史、数男のところへ行きしが便なし。深夜「明末の野人女直について」を93枚書き了る。 9月12日 朝、史帰り来る。またちょっと書き直したあと原稿東洋文庫へもちゆけば、堀氏ゐず、田中正俊氏に渡し、『悲歌』贈れば喜ぶ。田中正義氏の弟と。 すぐ帰り『文芸春秋』買ひ来りしをよむ。けふ河野(浜谷)弘子より近況。松本善海より紫陽花の文献として『南部新書』。 ひさしぶりに入浴し、讃岐喜八氏に電話すれば「名古屋へゆきし」と。明朝9:00に電話して都合きくこととなる。 西川へ史ゆかせて紹介たのむ。「大蔵、通産、農林を受ける」と也。帰って来て忙しき中を西原、奥田(農林)、桐山3氏へ紹介の名刺くれしと。 9月13日(日) 10:00史を西原理財局長へゆかす。〒なし。13:50帰り来り、西原夫妻留守(青山南町に住むと)。池田勇人氏は秘書に電話すれば「明日、役所へ来よ」といはれしと。出て畑山氏にゆき、ぼそぼそ話しゐれば(林dr.の金借にいくらか乗気なりし)、増村、家より追ひ来り「畑山氏の世話にて板橋かの中学に3月の講師できし」と。礼云ひて出、家へ帰れば菓子置きあり。 19:00西原局長に電話すれば「明日役所へ10:00によこせ」と。 20:30讃岐氏に電話すれば「あす12:00会社へよこせ」と也。依子箱根の一泊旅行より帰り来る。 けふ丸に電話かけしに魚釣りにゆきしと。丸重俊生に「あす研究室へ来よ」といふ。 9月14日 7:30出て成城大学。漢文やり、田村氏に電話すれば「12:00来らる」と。京大文学部より漢籍目録来あり図書館へもちゆく。 中国文学の時間に疲れて早々に切上げ、川上恭正生に果樹園社への「猫」速達たのみ、丸重俊君と話す中、史よりの電話かかりしらし。讃岐喜八氏に電話すれば12:30なるに「まだ来ず」と。 田村氏(※田村敏雄:宏池会事務局長)に電話し、三宅秘書官への名刺もらふこととし、高橋邦太郎氏と話せしあと、鎌田女史より宮本馨太郎、保田與重郎へと『南島文献目録1』2冊みらひて出、渋谷より虎ノ門へ地下鉄。Taxiにて短波放送会館。田村氏の名刺もらひて帰宅。 史、まだ帰りゐず。山中タヅ子より「結納入りし相手の欠点わかり破約した」と。山本恭子より「子供の世話することとなりし」と手紙2通。 史、帰り来て「西原偉く、紹介受けし秘書課長23日に来よといひし」と。讃岐氏より紹介の通産省秘書課長おぼえゐしと(面接の場にゐしと)。これも「23日面接せん」と。一応これにて夜汽車で帰ると。 夜、西川へ礼の電話かけしも夫人。田中順二郎君に電話すれば「明日午後ゐる」と。 9月15日 8:35登校。短2すまし、栗山部長と話せば「部会の出張希望あらばせよ」と。篠原部長に会へば「書類作りtype打たしゐる」と。けふ山本文雄氏に会ひ、西寛治氏のこといへば「今日会ひて話さん」と。折から電話かかり畑俊六君「会ひたし」とのことに「14:00新橋駅で」といひ、松村達雄君待ちしも来ざる故、出れば門にて会ふ。新橋へ着きしは14:05。Coffeeのませ話きけば「授業料6,000滞り前期試験受けられざるやもしれず」と。 別れて東京towerにゆき田中順二郎君に会ひ、家のこときけば「協会に運動せん」と。公団はせざりし様子なり。towerに上げてもらひ、焼売賜ひcoffeeのませてもらふ。「湖東君10月3日(土)上京、その夜帰阪」と。 帰れば池沢茂君より「桐山京子生は眞君の従妹」と。「胃の腑」よかりしと云々。大道裕子生より「上京しをり都合しらせ」と。けふ山本恭子、山中タヅ子へ手紙かく。 9月16日 11:00出て成城大学。駅前にて神田信夫氏に会ふ。阿部知二氏をり野田宇太郎氏休講。誰かより電話ありしも「まだ来ず」といへば切れしと。 今井氏にいはれ大藤教授と二人して篠原部長に会ひにゆき指導費14日支出たのめば「よし」と。実際には立替へおけと也。 史学研究法の時間、2年少く、いやな顔しゐればあとで3人来て機嫌直りし。 14:00出て新宿より地下鉄にて大手町buil.のCentral硝子に讃岐常務訪ひ、史の履歴書わたす。「3ケ国語出来る」といひしと。出て憂鬱となり、また地下鉄にて上野松坂屋、日光展見にゆく。明刊小説の稀本見んと也。目録2通り買ひ、帰りに東洋文庫の田川氏に会ひし。 (curry-rice食ひてやや元気出る)。あとまた地下鉄にて虎ノ門。短波放送buil.の三水会にゆく。 齋藤晌、浅野晃2氏に(※長男就職の)斡旋たのみしこといひ、田村敏雄氏より「もはや三宅秘書官には話してある」ときき憂鬱。 帰り瀬長『沖縄からの報告』買ふ。坂根千鶴子より「演出家と喧嘩して・・・」と。 9月17日 きのふフルシチョフとアイゼンハワーと会ひし。その前日はソ連の人工衛星月に到達せしと。 大高同窓会より名簿作ると。立教史学会より『史苑』の原稿10月10日までに400×60と。 午、出て東横dept.にて麺くひ、坂根の宿へゆき見て「近々来よ」といふ。史学研究室へゆけば会議中。宮本教授に『(沖縄)南島文献資料目録』渡し、山田助手に15日(木)、原稿持参の約束し、題は「清鮮間のワルカ問題」とす(※ワルカ:ウリャンハイ:蒙古遊牧民の一種)。 東洋文庫に電話すれば堀、田中氏らみな帰りしあとなりし。教室へ3:20ゆけば学生をらず。電話を教務にかけてたしかめ、行きてやっと高田生つかまへ『祖国』の宮崎兄弟特集号貸し、すませて古本屋。『今古奇観訳抄』3冊(100)、『古文書学(170)』買ひして駅までゆき、赤羽行にまち がひてのり、引返してやっとrain-cort忘れしに気づき、とりにゆき、成城大学に電話して「けふの文化史専攻の会にゆかず」といふ。 帰れば西村公晴君より「東路の小夜の中山こえしより眠れぬ夜はやまと懐へる」を書けと短冊。 岩崎昭弥より『墓碑銘』の新版(※再版)。入浴。 夜は坂根生来り「また宿替へする」と。(池袋駅にて小高根太郎君と遭ふ)。 9月18日 桐山、池沢2君に桐山京子のことでたより。台風の余波吹く。 11:30出て聖心女子大。田中保隆氏の住所きき、代田ときく。海老沢教授あり『1609年キリシタン徇教記』賜ふ。 東洋近世史Ⅰはreport「耶蘇会の初期の在華活動」なりしと。Ⅱは「太平天国」の概説を試験することなりしと(25日13:00)。 出て青山車庫前にゆき『Hong Kong Annual repot 1949,1953(100×2)』とGowen『Asia(280)』買ひ、暑がりつつ帰り来る。 けふ8,9と2月分salaryもらひし也(渋谷駅で大に電話せしも不在)。高松直子より「山内妹と角と受け、角入りし」と。 依子、きのふbonus1万円もらひ、我に洋傘買ひ呉れしも、けふは酒のみて帰宅。 9月19日 成城大学へ登校。新城常三氏九州大学へ栄転(茨城大より)とて後任に千葉大、田中久夫氏を推薦。池辺弥君の専任のことで今井、新城2氏と話し、われ栗山部長に話すこととなる。国会図書館上野支部へ電話し、篠崎さん呼びて「沿海州の地図見せよ」といふ。「有無返事す」と。待ちつつ『金の錆』の合評会に出て、篠崎さん待ちくたびれ、出て日暮里より東武動物公園前に出て図書館。地図類は赤坂へゆきしと。 一旦家へ帰り(学士院内の学術会議選挙管理委員会へゆく途中、林dr.に電話してきけば今日の葉山修平の会には出ずと。のちほどゆくといふ)、18:00出て林dr.「葉山はきらひ」と。「Geld(※お金)のこと、さう心配いらず」と。 出てtaxiにて神楽坂。『文芸日本』の諸同人に挨拶して『異形の群』の悪口いはんとせしも無駄と思ひ2分話して坐る。 20:30先に出て神楽坂にて氷しるこ食って帰宅。(けふもゆきがけ知念栄喜君に遭ふ)。 9月20日(日) 依子、京をつれて悠紀子買物にゆき、わが冬over-coatとjacket買ひ来る。午后、京をつれて十条にゆき古川(佐藤)政記君にゆき畑山博氏への紹介状かき、十条の古本屋見て『月下の一群(90)』と『満洲発達史(130)』買ひ来る。 9月21日 暑し。成城大学へゆき果樹園社へ1,000送り、指導費1,000立替ふ。高橋邦太郎氏に会ふ。Printに「宋詞」切り、41+41枚刷ってもらふ。 Salaryもらひ、出て経堂下車。薄井(※薄井敏夫)宅さがせしもわからず。busにて渋谷(経文堂遠藤にて新田興『雲処雑談(20)』、山路閑古『末摘花並べ百員全釈(220)』、山田孝雄『年号読方考証稿(180)』)。 大に電話せしにまた他出。『浮世絵略史(100)』、圀下大慧『印度史観(30)』と買ひて帰宅。 史より「帰るゆゑ、戸籍謄本用意せよ」と。■(平野黎子生、漢文ならひに来て、けふは宮沢賢治の命日と。盛岡生れにてそれのみを知れり)。 9月22日 よべ睡眠不足なれば苦しきも短大の中国文学史すまし、辻規子生より政信氏の手紙受取り(のち岩崎昭弥に送る)、出て成城園にて昼食。 「商女不知亡国恨」を諸橋『漢和大辞典』で杜牧の詩と見つけ、林泰輔『朝鮮通史』よみ、栗山部長に新城氏の後任交渉のこと諾してもらひ、池辺氏は懸案とし、14:10の教授会。「関本女史は出産休暇」と。 相馬弘の芸術専攻への転科も懸案となり、出て世田谷区地図をたよりに薄井宅へゆけば、取こはし中。隣家でききしに「転居先しらず」と。次嬢の友の母にも会ひ、喜多見に移りしことのみわかり、出て緑丘中学へゆき、転居届しをらざるを知る。次嬢は「あきつ」、長嬢千歳丘高校三年とききて、ゆき見んとせしも千歳高校へまちがひゆきゐるに気付き、busにて経堂に帰り、rice-curryくひてのち中野□□君の下宿、世田谷といふを探しまはり、「毎夜、12時1時帰宅」ときき、名刺おきて出、大江勉にゆけば房子のみ。艶叔母負傷、叔父職をやめて元気なきらし。田中万美子、大阪に就職ときめしらし。 出てbusにて渋谷をへて帰宅。(けふ大に電話して礼云ふ。母また来るらし)。 田中雅子夫人より「鍛治君上京の時、class会せん」と。中島悦子より「山本恭子立直りし。久保田初美家出らし」と。 9月23日 9:00出て駒込より東洋文庫。堀、田中2君をらず、『東洋学報』41~2,3(220)買ひ、田川孝三氏と話し、「京大研究室の間野潜龍助手に出張のこときけ」と教へらる。 出て成城大学へゆく。雨降り雨よけに入りし本屋にて村岡哲『ランケ(120)』。 野田宇太郎氏に会へば「乾直恵の詩集(※遺稿詩集『朝の結滞』)買へ」と(500)。諾して「史学研究法」。30分にてすみ、中野□□よりの電話にて10月3,4日の都合、S本○氏にきけば「よくなし」と。むりに承諾せしめ明日訪問いへば「夫人留守」と。いやになる。 出て千歳丘高校へゆき、薄井はるな呼び出してもらひしに来ず。担任(3年A)横山典子先生に会ひ事情話して狛江町ときき、喜多見へゆき訊ね訊ねして16:00見つければ、あきつのみをり。同居のお婆さんに話し、董子夫人家政婦にて毎夜10時ごろ帰宅。はるなはアルバイトときき、1,000香料に包み(菓子100もちゆきし外)、駅への途をあきつに送らせて別る。 ついで阿佐谷へゆき、おはぎ(100)と羊羹(230)ともちて船越こせん小母訪ね、系図見せてもらふ。章をり、史の合格知りをりし。 出て炒飯くひ、丸に電話し、(※薄井家遺族状況の)報告と薄井はるなの就職依頼す。 (阿佐谷駅前にて『石頭記(200)』、蒋瑞藻『小説考記(250)』、大原利武『満洲史(80)』、『白川集(120)』買ふ)。 丸重俊に中野駅まで送られて帰宅。松本一秀君より手紙。白井紘史より詩。野長瀬正夫氏より『叙情詩集』。 9月24日(彼岸) 桐山眞氏より「京子は姪」と。「小畑閣下は覚えず。今、社会部のデスク」と。 午后入浴。夜、中野□□君より「シゴトニテイケマセンスミマセン」の電報。けさ第一Hotelに電話かけしに「古田房子来泊しをらず」と。 9月25日 10:00出て林dr.。野長瀬氏への手紙托し、この間の『異形の群』の悪口いふ。ついで西武百貨店へゆき、宮崎智慧氏見舞へば全快出勤と。ただし外出中にて会はず。 立教にゆき手塚教授に会ひ、宮本教授と電話で話し、出んとすれば手塚氏追ひ来て「白鳥先生、毛沢東と蒋介石を顧問に研究所を設立されし」と耳打さる。(京都の東洋史研究会へ500送る)。 お茶の水へゆき、『豊橋』『沖縄』買ひ、隣にて『韃靼漂流記の研究(800)』、『アッサム史(200)』、古本市を見て『鴎外柳村記念号(50)(※鴎外と柳村に捧げる記念号『芸林閒歩』)』。 都民銀行のぞき多忙の加藤君にclass会のこといひ、山本書店にて『87種明代伝記引得3冊』を学校へ注文し、『西域地名(50)』、『張蒼水集(260)』買ひてのち、雨中を聖心女子大へゆき、しばし待って答案受取る。reportは出をらずと。 渋谷へ出、帰れば史まだにて、やがて帰り来しにきけば「通産省も成績悪きをいはれ、運動を耳打ちされし」と。桐山喜一郎氏へゆかし、西川に電話すれば帰りをらず。田村敏雄氏に電話すれば「明日三宅秘書官にも一度云はん」と。 西寛治君に電話せしも、これも帰らず。三浦久子氏より「この間は話せざりし」と。古田房子生より「21日上京して即日帰京した」と。 22:00史、帰り来り、「桐山喜一郎氏不在にて明朝電話せよと夫人に云はれし」と。 9月26日 7:30家を出て成城大学。丸に電話して憂鬱をいふ。文化史Indiaをいい加減にすませ、平野黎子に漢文教へ、図書館事務室にゆけば電話電報「ケフノカイトリヤメ、イサイフミ」と。新城氏、田中久夫教授の履歴書もち来り、「1時間で結構、土曜2時限にと。好都合なり」といふ。(昭和11年卒。国民精神文化研究所、教学錬成所、千葉師範をへて教育学部助教授)。 憂鬱にて眠く、出て経堂にてすし食ひ、小高根太郎に会ふ。「心配いらぬ、何とかなるさ」となり、花瓶を賜ふ。 帰宅して史まてば「桐山氏秘書課長をはじめ3通の紹介状たまひし」と。三宅秘書官にも会へざりしと。 夜、友のところへ泊りにゆくといふを叱る。けふ薄井董子夫人より礼状。小高根太郎氏より受取。 9月27日(日) 15号台風(※伊勢湾台風)35m以上吹きしといふも知らず熟睡。9:00起きて讃岐喜八氏を伊皿子に訪ふ。まちがへて日清紡の社長宮島を玄関に呼出し叱られし。 讃岐夫人「戦争中、咲耶と交際せし」と。出て歩きて池田徹君を訪へば、姉君と母上とをり、桂林衡陽作戦に椿部隊司令部にゐし話きく。 西川に電話し、出てbusにて新宿に出、大塚にて下車、『古墳の話』買って帰宅。聖心女子大の和田生よりreport来しのみ。 9月28日 7:30出て成城大学へ8:45着き、漢文と中国文学史との監督。すみてゆっくりをれば悠紀子より電話かかり、田村氏より「電話かけよ」と電報ありしと。すぐ電話すれば「史、弱く見えるとて及落の境、けふ秘書課長に会はせよ」と。 青葉建設に電話して悠紀子にいへば「史、帰らず」と。 柳田文庫に『満鮮地理歴史報告』2,4,5見つけ、うつせしあと出て駅にて鈴木生見つけ「車」にてcoffeeのみ、下北沢にて下車。「Penguin」にゆきhigh-ballのみ、鏡と灰皿(400)買ひて帰れば、史、偶然ながら秘書課長に会ひ、我の詩人なること知りゐしと。自治庁は採用確定しゐると。 9月29日 成城大学へゆき、短2Aの漢文監督し、すみて『満鮮地理歴史報告』を見、栗山部長に田中久夫講師の承諾求め、中野□□君よりの電話をきき「4日(日)夜、好都合」と。4:00出て木村歯科へゆき昨日に引きつづき施療受く。すみて初診料100とらる。 帰れば史あての人事院のハガキにて法務省も受験可能となりをるを知る。自治庁は推薦となりをり 15号台風の名古屋、岐阜の被害大と。畠山氏(※名古屋の畠山六右衛門)へ見舞かけと史にいふ。 夜、聖心女子大Ⅱの採点了る。90~100也。正田恵美子を96とす。『青い花』4来り、萩原葉子氏の「思ひ出」をのす。 9月30日 8:00家を出、目白より荒井薬師行のbusにて江古田1丁目下車。S本○氏をたづね当てれば令嬢出勤のまぎは。 4日(日)20:30ごろ訪ぬることとす。池袋行のbusにのり雑司ヶ谷5丁目といふに下車。藤井(吉原)陽子夫人訪ぬれば、あげられ、「鍛治君の歓迎会の幹事承知」と。出て西武dept.にてcoffeeのみ、成城大学。 文化史ニュースのP.R.を大藤、今井2氏に見せ、岡谷講師の仏語試験監督を手伝ひ疲る。 けふはじめて東海道線の〒通ぜしらし。 中野□□君へ「4日17:00わが家、又は20:00目白駅出口にて待合せん」との速達かき、下北沢でのりかへて渋谷。 聖心女子大へ採点もちゆき、report受取り、金杉橋行の都電にのり、浜松町より国電にて帰宅。 岩崎昭弥より「5日頃上京するやもしれず」と。千川義雄より「1~2日、第一Hotelに宿泊。倭周蔵に会ひたし」と。 田中雅子夫人より「既婚者ばかりのclass会に鍛治嬢呼ぶは非礼」と。 けふ坂根千鶴子来り、「よき下宿見つかりしといひし」と。 史、農林省へゆきしに「京大出の文書課長第一候補とする故、よそ止めよ」と。通産省にゆきてそれを云ひしに返答なかりしと。帰り来しにすでに農林省ときめをり。吾も喜ぶ。西川に電話せしに明日差支ある様子。倭に電話せしにまだ帰宅せず。 10月1日 史、農林省へと早く出てゆく。われ『李朝実録抄』よみ入浴す。 東大東洋史研究室より研究出張の問合せ。立教大学史学会より「年会を11月14日(土)」と。『近畿民俗』2冊を沢田四郎作博士より。 8:30史、帰り来り、農林省に誓約書出せしあと大蔵省にことわりにゆきしに(通産省もすまし)、まあ面接せよといはれ、出て議論せしに合格し、農林省と往復せしあと大蔵省ときまりしと。われ呆れて不快。 千川に電話せしに「飯くひに他出せし」と。 10月2日 雨。8:00坂根千鶴子に電話せしに火事知りをり。ついで千川に電話し、12:00第一Hotelで会ふこととす。 9:30東洋文庫へゆき『満鮮地理歴史報告』7の池内先生の論文を見、10:30となりしに松村潤君に会へば「東洋学報の編輯会は通りしも疑義あり」と。 出て国鉄にて東京駅。西川の会社へゆき相談すれば「礼いらざるも桐山、西原2氏には挨拶せよ」と。 住友商事を通で探して反対側なることを知りてのち、地下鉄にて第一Hotel。千川をり、倭来るをまち、来しに自動車にのせられ三田綱町のclubへゆく。昼食饗されてのち、第一Hotelへ送り返され、千川の同行者と3人にて大蔵省。 途中、北鮮帰国者のdans行進を見る。西原理財局長にまたされて会ひ、礼いひ千川を紹介し、すぐ出て別れ、池田事務所(※池田勇人事務所)。田村氏に会へば農林省のこと知り玉ふ。礼いひて出て大手町buil.にゆき讃岐氏に会へば、これも農林省のこと知りをり。礼いひて出、産経の山本文雄氏に会ひて西寛治氏不在を知る。出て野村建設の入社試験中の竹井眞氏に会ひ、女社員より住友商事のbuil.きき、野村氏よりは中学入学の相談受け、住友商事へゆけば、桐山取締役不在。名刺おきて東京駅より帰宅。 立教大学山田昭次副手より1日は休みにてはなかりしと。渡辺道夫君より抜刷と、忙しと。 夕食すませしところへ坂根生来り、火事の有様いふ。折しも電報来り(大蔵省より)、「採用内定、明日10:00来よ」と。 史、けふ讃岐氏に友人の受験斡旋せしと。苦笑。また出てゆく。われ疲れてくたくたとなりし。 10月3日 晴。史、8:30悠紀子より4,500もらひて出てゆく。われ「朔方備乗」8行かきて平凡社へ速達してもらふ。 10:00田中久夫氏のこと気になり、成城大学へゆきしも新城常三氏来ず。図書館見てまはり『事文類聚和刻本』『全唐詩』など見つく。千葉典子、黒柳直子2女史親切なり。京大東洋史研究会へ出張依頼状の送付たのむ。火曜に白馬節会の合同研究会やると。(中野□□君?よりけふ電話かかりし故「来ず」と高尾嬢答へしと)。 13:30高校図書室にての国文学会にゆく。池田、坂本、高田3教授も出席。河村君の「白秋とNovalis」をきく。わが『青い花』はしらず。 すみて疲れに疲れ、山川京子女史と同車にて新宿。また疲れて林dr.にゆき注射打ってもらふ。(保田30日退院と山川女史の話なりし)。 beerのみて元気出、帰れば中野君来ざりしと。野長瀬氏より「もう1冊送る」と。堀敏一氏より「1~2枚の梗概送れ」と。夜、中野□□君より17:00来るとの電報。 10月4日(日) 京、運動会とて出てゆく。野長瀬正夫氏より詩集。午后それをもちて畑山博君訪ね、碁一番。群馬県へ(教育長?)転任したき様子。 15:30帰りて歌うたひをれば中野□□君来り、讃岐氏よりききし清見君上京きけば「しらず」と。室Hotelに電話かけてきき見しも来をらぬ様子。 夕食し19:00ともに出て目白。coffeeのみしあと、梨1箱買はせ、S本家に(※お見合に)ゆけば、夫人はその積りなりしも嬢しらざるふりして出て来ず。われとS本氏と話し、田中利一氏『週刊アサヒ』編集長として在京と。吉村正一郎定年退職して京都市助役となりしなどきく。 22:00となり出て、bus停留所まで送られ、20:05の最終にて新宿駅西口。high-ballとbeerとにて話す中、「放送局国際局へ、その中ゆきて誘ひ出して見ん」と。宜し。すし食はせて帰り来れば24:00。 10月5日 8:30家を出て成城大学へゆけば岩崎昭弥君より電話ありしと。試験監督し、昼食しゐればまた電話。「17:00ごろ会すむゆゑ家へ来る」と。 午后また試験監督し、騒ぐ子を叱りし。すみて疲れ、駅へゆけば中河与一先生と遇ふ。「詩をかけよ」とのことなりし。 新宿にてお別れし、野口駿雄(LⅡD)と、その友の早大生とにて白十字にて喫茶。地下鉄にて西銀座。朝日新聞社のS本○氏を訪ぬれば、令嬢「昨夜は照れて云々」と。今後の交際よろしとききて帰宅。 (けふ野村建設の竹井眞君より電話「あす採用のことにて来校」と)。山内厚生課長に話す。千葉司書『故事類苑』の白馬の節会の條よめと来しも果たさず)。 10月6日 曇。10:00成城大学へゆけば、米人レイオン・ゾールブラッド氏より電話かかり、14:00も一度かかると。 木村歯科へゆき痛い目にあはされ、新開店の「すみれ」といふにてrice-curry食ひ、「来月10日頃に」との鎌倉文化会のたより見て「承知」と返事かき、ぶらぶらして入学案内の会しゐればゾールブラッド氏より「死んだ恋人」訳したゆゑ原稿見よ、印税の問題も相談したしと。印税freeとす。原稿みたしと返事し、教授会。 片井生の転科いかがなりしと問はれ返答に困る。田中久夫氏の講師はすみし。そのあと池辺弥氏を栗山部長につれゆき、Veteransをやめさせれば時間できるといひし。16:30来るといふ竹井氏を門前で待ち、定刻来しを山内厚生課長に紹介す。 すみてまた「すみれ」へゆきbeerのまされ、加藤定雄ほむるに一致し、別れて新宿下車。丸に電話すれば帰りをらず。 (けふ中野□□君に交際自由の速達せし)。 鍛治初江氏より「富子2日に男児生れし。20,21両日の都合よき時間を指定せよ」と。千川より礼状。史より「床上浸水せし畠山家に一泊せし」と。 藤井陽子夫人よりclass会云々。昨日(4日)radioに出たなと。(けふ鎌田女史にも云はれしが、医科歯科の田中克己(※人違ひ)なり)。(経堂にてInselの『Rilke』2冊85×2)。 10月7日 雨。成城大学へゆき10:40~11:40試験監督。すみて身体検査とて13:00まで待ち受ければ血圧110~70。体重40キロ。 帰れば羽田夫人より、史、訪れて自慢せし様子にて祝ひ状。古田房子「台北市地図見つけし」と。「振袖きて珍しがられし」と。 10月8日 立教大学へゆき山田助手にきけば「試験中も3,4年は休みでなき」由。『史苑』のしめ切22日まで(中川講師と同じく)と頼む。 手塚教授「会合中ゆゑ、すみてより来よ」と。平塚生1人を教へnoteなきに気づきしも家へ置き忘れしと思ひし。手塚氏、白鳥先生のこと慮らる。 出て『ロープートン2冊(100)』買ひて帰宅。 日記とnoteと立教に忘れしこと気づく。米人Leon Zolbrod氏より手紙と訳稿“”My dead beloved。 夜、聖心女子大reportの採点。すみて1:00就眠。 10月9日 晴。10:00立教大学史学研究嫉へゆけば日記とnoteそのままに置きあり。とりて池袋駅より電話かけて大呼び出し、渋谷で会って昼食、喫茶。並木橋の家に移ると。母一室借りくれよといふ由。 聖心女子大へゆき2時間すまし(鴻巣盛廣令息国文の先生なりし)、採点報告し、渋谷へ出て白鳥家へbusでゆく。研究所の話は一言もなかりし。郁郎君の「明智光秀(※遺稿脚本)」返却し、和田節子夫人訪ねんとゆきしも道忘れ。大橋へ出て帰宅。 中野清見君より「10ジデンワセヨ」と。宝ホテルへ電話し、昨日の手紙と同じ内容話してすむ。「明日札幌へゆく」と。けふ『果樹園』来りし。 p20 10月10日 9:00出て成城大学へゆく途、木村歯科へゆき神経とめてもらふ。明治書院より「2,016払へ」と来あり、内河女史に電話かければ「まちがひ」と。 また図書館にゆきreport受取り田島生の母方?磯部の大手姓なるに「拓次との関係調べよ」といふ。 坪井生を昼食にさそへば田島、加藤の2女生も来り「すみれ」にて昼食後、紅茶のまし、別れて小高根太郎を訪ふ。史の就職喜び呉る。 歩きて豪徳寺前に出、桑田『淀君(100)』と『満鮮案内(150)』買ひして帰宅。後者はdoubleなりし。 けふ小高根君より「哺む(※ふくむ・はぐくむ)」を教はりし。毛利生よりreport。 夜半、ゾルブラッド氏に訂正の手紙かく。(けふ依子、林dr.にゆき注射打ってもらひしと)。 10月11日(日) 晴。「清鮮間のワルカ問題」考へるも中々書けず。明治書院の内河タケ女史より詫状と「10,000-2,016-1,500=6,484送った」と。 午后、京つれて十条へゆき、『太平洋2600年史(100)』とBarrows『フィリッピン史(90)』とを買ひ来る。夜、沢田四郎作博士へ礼状。 10月12日 曇。『東洋学報』のため「明末の野人女直について」の梗概3枚かき、10:00出て東洋文庫へゆきしに堀敏一君まだ来をらず。受付に渡して出、成城大学。 けふ沢田四郎作博士にハガキ出せしを鎌田女史に話す。女史は浜松在にて、昨日法事にて帰郷せしと。出て「すみれ」にて昼食し(定期券の証明書庶務にてもらひし)。一廻りして木村歯科にて治療受け、下北沢までゆき中村屋の羊羹買ひて(285)和田先生をお訪ねせしに御在宅。 学士院会員の補充、国際キリスト教大学の後任に2万円出すを某君にせしなど話さる。(夫人われを村上正二と間違へられし)。太守の名を喝竿と云はる。 われワルカのこと話せしに反対もされず、お暇まして水道橋へ出、波木井書店にて『大久保武蔵鎧(30)』、『酒のみのうた(85)』買ひ、小山正孝君呼びて茶のみ、「大安」にゆきて『中国葬俗捜奇(110)』、『中国村落の社会生活(50)』、巌松堂にて『清正記(30)』買ひ、明治堂にて『東韃紀行(150)』買ひて帰宅。 10月13日 依子、佐久間医院にゆき風邪と診断。果樹園社へ「捜索」送る。午食して出て角川書店。立原全集係の大村君呼出し、印税のこときけば「とどこほりをり」と。『図説世界文化史大系』買取りにせんことをたのみ、成城へゆく途、短2福島生と同車。Coffeeおごる。名張にゐしと。父は北海道、母は福島にて安宅産業熊本支店長なり。朝鮮にゐて朱乙温泉をおぼえゐると。 別れて木村歯科、神経ぬいてもらふ。大学へゆきしに無人。祖師谷大蔵まであるき、『中朝事実(30)』買ひ帰宅。 けふ中野□□君より「NHKにまたゆき、elevaterにS本令嬢とのりあはせ、向ふは気付かざりしもいやになりし」と。 渡辺三七子より「太田夫人妊娠か」と。 (鍛治初江嬢に「20日午すぎ三越にて会はん」と速達)。野崎その生より「前田隆一氏16~21日在京」と。伊東まき生より「人形芝居はげみゐる」と。 けふ悠紀子、松茸1,000もちて田村敏雄氏(渋谷区代々木)へ礼にゆき、伊勢すみえを訪ねしとて17:00帰り来る。 10月14日 晴。11:00出て(丸三郎に電話せしに「12:00こよ」といはれし)、第一弁護士会にゆき中野□□君の手紙見せしに「縁なかりしゆゑ傷つかぬ様ことはれ」とのこと也し。 丸、昨日出血して大事とりゐると。別れてNew Tokyoの大高clubにゆく。竹井眞君の隣は藤田久一にて「勤先の日新製鋼が東京へ移転せし」と也。 隣席に河田為也氏坐り「本位田重美氏あす東京へ来る」と。面会できるやう手配たのむ。中学入学をたのむと也。右隣は私市信夫とて通産省大臣官房考査官、官房長くせある人物を好みしと也。楫西光速氏より挨拶受け、S本○、西寛治2先輩に挨拶して地下鉄にて成城大学。 今井富士雄氏、弘前より帰りをり、「岡正雄氏は明大へ転ず。川久保悌郎君、弘前にて酒のみゐし。新城氏は来年来てもらふつもり」と。 出て木村歯科。すめば16:30となりゐし。帰りて瀧口喜久子生より「猫」よみしと。和田節子夫人より「鍛治君の上京うれし」と。千川義雄より「物送った」と。 10月15日 晴。田中雅子より「またしらせ」と。「日本歌人」より「25日(日)大磯へ吟行せん」と。 11:30出て立教大学。手塚教授に白鳥、和田両先生のこと報じ、講義に珍しく高田、久保の2生出席。しるこ食って成城大学。 大藤教授に経過報告し、山内課長に会って恐縮させ!木村歯科へゆきレントゲン3枚とらる。 池袋より河田為也氏に電話して、折しも来訪の本位田重美氏に出てもらひ、17:30S本○氏にまたかけよとのことなりし故、新宿より電話すれば「今夜、昇君(※弟)と会ふゆゑだめ」とかのことなりし。 帰れば和田夫人より「20日午食くひに来よ」と速達。ことはりの返事かく。 夜、「ワルカ部」40枚となる! 瀧口喜久子に「Tolstoiよめ」と書く。 10月16日 『詩人連邦』来りしのみ。11:30出て聖心女子大へゆく。学長招待に応ずべしと云はれ「応ず」と答ふ。 出て雨降り出せしゆゑ、空いたbusにのりて恵比須に出、河田為也氏に電話かければ「18:00~18:30に朝日のS本○氏にて待合せよ」と。 折から来し電車にのれば反対の方向にて木村歯科断念し、一旦帰宅し、傘もちて15:30出て朝日新聞。 やがて本位田令嬢(NHK採用と。成城より早大英文を出し才媛)来り、重美氏も16:30来り、あす成城へ来ることとなる。 19:00出て河田為也氏の自動車にて日比谷のrestrant。夕食とbeerご馳走のこととなる。21:30出て別れ帰宅。(千川義雄よりカステラ賜ひ子らと食ふ)。 10月17日 4:00より歯痛み7:30朝食しはじめて癒るまで耐へられぬほどなりし。 登校。Iranの文化をやり、木村歯科へゆけば満員、引返して田中久夫氏に会ひ、新城常三氏と教務課長前田氏に紹介し、栗山氏の置手紙来年度の人事ならびに予算の原案を今井富士雄氏にたのみ、10:00来し本位田氏を案内して篠原局長に会はす(指導費1,000を呉れし)。 ついで中学小学へゆきし本位田氏待ち(佐野教授、高田、池田、坂本の諸氏と)、13:30まで話きき、駅前の「すみれ」へ案内して昼食せしに高田氏早立ちし奢りたまひし。 別れて木村歯科にゆき、痛み止めの薬きき、上智会館の日本民俗学会へゆき、関敬吾氏の話。 中途よりきき、すみて沢田四郎作博士に挨拶す。致し方なく八重樫、四峯の2女性と出て喫茶。 帰宅すれば鍛治君より「20日三越で待合せの件、承知」と。(けふ判明せしにては20日14:10部長室で主任会と!) 本多和子より「上京中、叔母の家にをり18日下阪」と。二紀会の切符同封しあり。 (けふ田島生の父、大手拓次の再従弟とわかりし)。 10月18日(日) 雨。坂根生に電話すれば外出するところ。20日夜電話することとす。 藤井、和田2夫人に「20日鍛治君より昼前に電話するやう言づけたのむ」速達。 夜、中野□□君来り「(※お見合相手)皇太子妃以上と云ひしに、感じよくなかりし」と怨み云ふ。 「ワルカ」67枚となる。 10月19日 雨。12:00出て成城へゆき(「ワルカ」75枚となる)、木村歯科。「セデス」と「新グレロン」5錠のみ胃を悪くせしを云ひしも「胃腸薬のめ」と。 「すみれ」でcoffeeのみ、成城学園の方うかがひしに無人(駅に中止の掲示ありし)。下北沢で下車、中華そば食ひ、『小説チンギス汗(10)』、馬場久治『森鴎外伝(50)』、暉峻康隆『蕪村(50)』と安本買ひ、文教大学の卒論中間発表会に出て森静枝生の「スマトラ発達史」に参考書貸すといふ。 18:00前終り(白鳥先生さきに帰られし)、帰れば佐々木夫人よりハガキ2通。中野清見君より(※息子の見合)決裂をしらざる手紙。史を讃岐君ほめて来しともあり。 平凡社より『アジア歴史事典(1700)』。21:00まで仕事できず。 10月20日 7:00起き7:30出て成城大学。短大2年教へ鍛治君の電話待ち、交換手の役目つとむ。12:10かかりて吉川(星野)、吉原2夫人来をり、田中夫人は子供病気にて来られずと。われ和田夫人にゆくといひすむ。 Health Centreより「尿を失ひし故も一度提出せよ」と電話かけ云々。Leon Zolbrad氏より「訂正した。会ひたし(月金以外在宅)と」。 この間に「ワルカ部」清書10枚。14:00松村君来り「子息腸閉塞にて森良雄dr.に手術してもらひ助かった。礼いってくれ」と。 14:10より主任会。池辺君のこといひ、棚、箱20万円を要求せし。 15:10すみ、木村歯科。16:00すみてbusにて池尻、和田夫人にゆく(夫君いま関東財務局と)。鍛治君とご馳走となる。(※関西の話題)長沖先生盲腸と。放送などは代作と。20:00出て渋谷までtaxi。洋酒のませ材木町の宿まで送りゆき、都電にのれば榎君のり来り、山本教授も入院と。 帰れば森dr.より「松村令息診断して感謝された」と。 けふ研究出張を栗山部長にいひ内諾得、史より「病気ゆゑ帰り来る」と速達ありし。 10月21日 朝中「ワルカ」書きつづけ40枚とし、14:30出て成城大学。高尾嬢に会へば「身体検査は来週」と。 休講となり学生喜びゐしと! 出てsalaryもらひ、1,955を月賦で引かれ、他に1,330の税金あり。 木村歯科でやや待たされ、16:30となり、云へば10分ですみ、三水会へ17:20につく。 けふの講演は植田捷雄博士なりしと。一時間まちがへて来られし故、夕食はやかりし。「印度の現状」をきく。 すみて19号台風の余波の中を帰り来る。 けふ『果樹園』の合本No.3来り、史より「帰らず。1万円依子より借りてくれぬか」の速達来る。 朝4:00までかかり「ワルカ」註とも87枚で了る。(木村三千子氏より松茸一籠贈らる。) 10月22日 よべの仕事にて9:00まで寝、悠紀子松茸もちて林dr.、寺本生へとゆきしあと、12:00出て立教大学。 中川助手に原稿渡し、手塚教授に『西域地名』を寄附し、salaryもらふ。ワルカ部の話し、2生誘ひて喫茶。(森女生へと『バタク戦争記』を中川君に托せし)。 成城大学へゆき、高尾嬢に出張願托し、図書館下へゆきしも相手にされず、木村歯科へゆきしあと、電車で気がかはり下北沢下車。「Penguin」でHigh-ball2杯のみ、waitressとラーメン食ひ、南の書店で『地下一尺集(120)』、『三田村鳶魚一冊(80)』買ひ、丸に電話すれば「来てよし」と。ゆけば「重俊喘息再発」と。 20:00前出て高円寺。駅前にて『チベット(80)下』買ひ、午買ひし「上」と揃ふ。 「赤ちゃん」に寄り、またHigh-ballとくさや(110)。 帰れば寺本夫人男児出生後一ヶ月なりしと。田中マサ子より詫状。 10月23日 朝、依子より電話「坪井来をる故、西川に電話せよ」と。 12:00出て聖心女子大へゆけば始業直前電話あり、(佐々木)和田夫人にて「鍛治君のこと話したし」と。 あとにてかけ直すことを約し、講義す。Ⅰ組に歴史専攻の2名のみありし。 Ⅱ組を15分前に了り、下へゆきて和田夫人に電話すれば「大の見合を承知させた。17:00~17:30三越にゐる」とのことに、大に電話すれば「引越しの最中」と。 「坪井に会ふや」ときけば「会ふ」と。17:00かけ直すと云ひ、並木橋ですし食ひて考へ直し、電話せしもかからず。 16:30三越にゆけば鍛治君未着と(林泉会といふが蝋纈染の会にて出品物の高きに驚きし)。名刺おきて出、途中喫茶店より電話せしに不在。 西川に会ひて坪井の宿にゆき、待つまに(※弟に)電話して「見合するや」ときけば「せず」と。困りしまま坪井と話し、11月4日17:00、藤井寺駅plat-formにて待合せ、肥下にゆくこととす。 beerと料理とおごられ20:00前となり、東京駅へゆき別れて鍛治嬢。話に困り、ice-cream食べ、有楽町へつれゆきJin-fizzのまし、taxiにて宿の前まで送りて別る。 帰れば西宮君よりハガキ。「長沖一氏まだ入院」と、本位田氏よりききしと。 『東洋学報』の校正を小使さんもち来しと。これを眠れぬままやり疲る。 p21 10月24日 8:45成城大学。東洋文化史早くすまし、田中久夫氏と話す。よき人にて「小高根太郎へ同行せん」といふ。今井氏「火曜の学科紹介の時出てくれる」と。printの原稿こさへ教務へ渡す。 和田夫人に厚意を謝するため手紙かく。靖国神社展の目録送る。 木村歯科へゆけば「今日にて来ずともよし」と。出て研究室にて云ひし『大手拓次詩集(70)』買ひに下北沢下車。主人と話し、『帝国文学●●●記念号(100)』買ひしところへ田中保隆教授入り来る。坪井、高田瑞穂氏らの会にはゆかざる様子。新宿にて誘ひcoffeeのみて別る。 帰れば『欧文インド文献綜合目録』来をり、われも研究者に名を連ねをり。 藤井陽子夫人より挨拶。古田房子より「双十節にひとり残りし」と。寺本和代より礼状。 船越こせん小母より「史、就職せしや」と。アポロン社より「『乾直恵詩集』送った(500)」と。 10月25日(日) 岩崎昭弥君より「リンゴ送った」と長野より。 渡辺三七子、森良雄、野崎その、古田房子、Zolbrad氏、西宮一民氏、山本実子へハガキ。 10月26日 9:00家を出、10:00すぎ成城大学。中国文学史やり、大手拓次詩集を田島生にと若葉君に托し、「大唐三蔵取経詩話」原紙にきり、昼食すまして庶務に史のための健康保険の手続ききにゆきて出、鈴木俊氏訪ひしに無人。 歩きて小高根太郎君訪ひ、田中久夫氏つれ来ることいひ、ともに出て新宿で別れ、林dr.に注射打ってもらふ。(西武dept.に宮崎智慧氏訪ひしも見当らず。しるこ食ふ)。 (※林富士馬談)保田に服部女史の神がかりいへば「まはりの者変った奴ばかりの場ゆゑ」と云ひしと。 出て『郡司草(120)』買ひて帰宅。(けふ大に電話すれば「妻の心当りあり。母、来月初来る」と)。 宮崎智慧氏より「思ひ直せ」と。『Biblia15』天理図書館より。『乾直恵詩集』来り、日本学術会議議員投票用紙来る。 王子中学の山口広先生『ヱルテルはなぜ死んだか』もち来玉ひ、「母上死なれし」と悠紀子にいひしと。けふ林dr.と保田のこと語りしあとにてふしぎ。 10月27日 成城大学へ8:45登校。中国文学史すませ学科紹介。今井氏来かたおそく4専攻の最後にまはりしため国文(高田)20分、英文(臼井)25分、芸術(相良、上原)30分と時間くはれ、学生はざわざわし、12:00まへとなりし故、5分でやるといひ、3分いひてすむ。 丸重俊より電話、山本治雄、今夕の「はと」で来ると。「出張旅費出しゆゑとりに来よ」と会計課。 第一弁護士会、丸へ電話せしもゐず、「東京駅で会ふ」と伝言たのみ、14:10の教授会に出る。Cunningの処分問題が主なりし。 すみて帰宅。鶴崎生のハガキ。中島悦子よりのハガキ見る。夕食し、19:15出て東京駅。 丸と会ひ「はと」三等で来し山本迎へ、地下の「松竹梅」酒場でのませ(660)、赤坂へゆき旧馴染の宿さがせしもわからず、「弁慶橋」といふ一見(※いちげん)に上りこむ。 「茨木golf場の件にて来、大蔵、農林に知合紹介せよ」と。西川に電話せしに自分ではたのまず。われより頼み直すこととなる。22:00丸と出てtaxi、新宿で別れて帰宅。 けふ悠紀子に京都出張をいふ。(けふ大阪への電話で山本夫人と話せし)。(宮崎智慧氏に会ひいろいろ云ひし)。 10月28日 8:00西川に電話し、大蔵省のこといへば「さあ」と。原田、鎌田へ連絡の件は承知と。 山本に電話し、石野信一(大蔵省官房長)の名いへば「boat部なりし」と。自分でゆくといふ。 中島悦子、鶴崎裕雄2生へ「2日帝塚山へゆき古田房子に泊る」とハガキ。 雨の中、出て王子中学に山口広先生訪ね『ヱルテル』の礼云ひ『南の星』贈り、京阪より帰りてのち招待することを約して、成城大学へゆけば12:00。 Sandwich食ひZolbrad氏待ち、霧島にのることにきめ、出張旅費もらひ、健保の手続たのみなどし、「海西4部とNurhachi」しらべはじめしところへZolbrad氏来訪。 話せば面白く、図書館案内し、出て茶のませbusにて三軒茶屋。古本屋「三茶書房」につれゆけば本多くありと喜ぶ。 われも『七番日記(80)』、『川柳見世物考(200)』、『東洋考古学(250)』、『内鮮風習理解の書(50)』、『東洋史講座第15(80)』と買ひて出、渋谷まで電車。地下鉄にて赤坂見附下車。 「弁慶橋」(※山本治雄宿舎)見つけて入れば西川、原田の着きしところ。やがて矢野来り、丸おくれ、笑ひ興じ、みなが会費1千円払ふに、われのみ只にて出、原田、西川と東京駅までtaxi。 原田の識る東洋大西洋史助教授、やめて女子大へゆきしときく。四方あや生、神島一雄と結婚の通知来しのみ。 10月29日 和田節子夫人より「同じく悲し」とのたより見て立教大学。 手塚氏令嬢、昨日式すみしらしく、けふは出勤(途中にて白鳥先生に会ひ奉る)。山田助手より「清鮮間のワルカ問題」の英訳を命じられ、「TheWarka Question between Ch’ing Dynasty and Korea」とす。 講義には高田生1人(森生へと『スマトラの民族』2冊と『蘭領印度史』もちゆきし)。すました巨人対南海のteleviを高田生と学生食堂で見、 3-0となりしところにて出、研究室にゆけば手塚氏帰宅。 出て『満洲の探険と鉱業の歴史(100)』、『性崇拝(太田三郎)400』、『シベリア年代記(200)』買ひて帰れば『シベリア年代記』はありし。 古田房子より「11月お越し待つ」とハガキ。入浴。 10月30日 朝、鍛治君より速達「和田夫人より(※下阪予定)きいた」と也。渡辺三七子より速達「(※下阪したら)連絡せよ」と也。 10:30出て東洋文庫。堀敏一君に会ひ、開明堂に再校きいてもらへば「両三日中に出る」と也。仕方なく再校たのみて出る。堀君は硲君(※硲晃)と同級生なりと。伝言ひきうけたり。 駒込駅前にてtoast付coffee(60)飲み、聖心女子大へゆき、教務へ来週の休講ことはり、青山教授に会ひ、きけば「京阪東洋史学会は2日夜、春豊園で」と。 講師室にて田中保隆氏と太宰治の話し、15分前にすませて都電に乗れば「先生」と寄り来し子あり。「太宰の話ききたし」と。珍しきことなり。話しつつ渋谷に着き地下鉄にて上野。二科展見るまへチャーシュー麺食ひ、16:10都立美術館にゆけば受付「いそぎて見よ」と。本多和子の15室「くるしみ」のみ見しもわからず。 出て図書館の篠崎嬢に会ひしに「21:00まで勤務」と。伝言「健康法の結果いかん」と也し。 京成電車にて日暮里をへて帰れば、太田陽子夫人より「妊娠」と。木村三千子より「商売繁盛のしるしに松茸贈りし」と。 村上新太郎氏より「浪曼について14、5枚かけ」と。堀氏へ原稿包み書留にて送れといひしところへ、坂根千鶴子来り、22:30まで話きいてゆく。 けふ岩崎昭弥より林檎贈られし。(けふ小高根二郎氏に『果樹園』の同人費と製本代1,100送る)。 10月31日 7:30出て成城大学。文化史に近代史の始まりとして新航路の発見とキリスト教の東伝とをいひ、10:00まへすまして大阪行の切符買ひ、小田原へつけば阿蘇出るところ。次の雲仙にのり、京都駅へ19:12つき、平中氏に電話すれば「2日の会に出よ」と。史に「その会か翌3日の午、研究所の前に来れ」と速達。大江叔母、肥下に4日訪問をしらせ、駅前に泊る。 11月1日(日) 10:00出て桃山まで汽車。明治天皇陵に参拝。10年前とちがひ、けふより参拝者二三あり。 桓武陵をへて稲荷までゆき、一日の賑はひを見てのち下阪。吹田山本(※山本治雄邸)に泊る。 いろいろ話してうちとけ、一日を了る。 昭和34年11月2日~昭和34年12月31日 「東京日記 7」 本冊画像PDF 25.9cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p22 11月2日 雨。傘買ってもらひ、11:00山本を出て吹田駅。大阪駅に荷物預け、「Calm」に入って日生の松本一秀君に電話かければ「すぐ来よ」と。 ゆきて新築の南館といふにゆき、契約部長となりしに会ふ。やがて高松、谷川、川崎、山内の4人来る。「藤原はすでにやめ近々上京」と。「宮口は本日あたり分娩予定日」と。 4生と別れ雨中を洋食屋に案内されて昼食たまふ。別れて心斎橋まで地下鉄、阪急Hotelにゆき古田房子生に会ひ「今夜電話する」といひ、帝塚山短大に電話すれば事務の筒井生「みなすでに待つ」と。 『台北市街図』もらひて出、豪雨の中を短大につけば、守本主事「5分間」とことはり、学長室にて退職手当につき、前学長に「告訴するやもしれぬ」といひしも、(※交渉)だめなりしと云ふ。 すみて文芸研究室。川端直太郎氏と源講師のほか、あとにてわかりしは嬢を文芸に入れし中谷信之(逓信病院)。いろいろと話す。山本実子、上野薫子、佐々木慧子、住山、林佳子のgroupと兼頭生。 住高の硲晃氏に電話し、来てもらふこととし、廊下にて今夕の京阪東洋史会さそひしもきかず。送り出してのち岩橋講師、根木薫、田中洋子に会ふ。 15:00姫松病院の長沖一氏を見舞ひ(同窓会名簿を川原止至子氏より貰ふ)にゆく途、理事長夫人に会ふ。早雲もと氏にも会ふ。長沖氏やがて直らん。 出て諸生と別れ、上町線にのれば古田亀夫氏。「その中話しに来てくれ、手続は云々」と。 アベノ橋にて別れ京阪電車にて京都三條。京阪書房に寄り、主人ゐぬに『支那民俗誌』訊ねてみれば「なし」と。フロートの『支那の宗教(100)』買ひ、春豊園にゆけば青木富太郎らの卓に守屋、神田信夫、山田信夫、星斌夫、佐口等あり。 われ老年組にゆき増井経夫と佐中壮2氏の間に坐り、松田寿男、田野開三郎(九大)、中山、平中、鈴木、青山と、これも京阪在住者の少なきに気づく。 神田君ゐるゆゑ(※父君喜一郎博士に気兼ねして)和田先生のこと話せず。静かにすます中、史来り、会へば「にこり」ともせず。500渡し桜井屋のヱハガキたのみ「4日12:00大江にて会はん」といひて別る。 やがて鈴木氏の立ちしを機に出て、本位田重美氏の来るといふすしやにゆきしに、小島博士と来るやもしれずと。 すぐ出て「れんこんや」より依田義賢氏に電話すれば「今夜出られず、多喜さん(※井上多喜三郎)いままで山前(※山前実治宅)にゐし筈」と。握飯くひ、またすしやに電話せしに「まだ来ず」と。出て大阪駅につけば22:10。 公衆電話なく、阪急Hotelへ直接ゆき泊めてもらふこととなり、23:30まで古田生と話す。 11月3日 6:00目ざめ、丸、京、栗山部長にハガキ書き、山中タヅ子、東順子、(中島悦子にはきのふ電話して会へざるをいひし)に電話してのち、荷物と傘預けて京都駅へつけば11:00。研究所に着きて今西春秋氏の始まらざるをきき、宮崎市定博士立会の下に晩餐会出欠問はれて「出る」といひ、会費払ひ(500)、会場に入りて「古代の麻織」(大阪市大佐藤武敏)をきく。つまらず。 すみて今西氏の武皇帝実録の話きく。隣席には滋賀県短大の村上博士。藤枝晃をり、すみてより近づき「印象、彫りあり云々」。 昼食ともにくふ者も見つからず、一人出てうどんくひ、蔦町の梅原いと氏訪へば、雨ややに激しくなる。 「72才となり玉ふ」と。いろいろ話し80周年の府立医大史見せられ、洋傘借りて出、市busにて京阪四條より稲荷へゆき、 東丸神社に羽倉君(※羽倉裕景)訪ひ、羽田の話し(きのふ羽田夫人に電話し「(※羽田明)5~10日の中に帰国」ときく)、和田先生の話して16:00になりて出、京阪書房に寄りしに主人をらず。 (けふ三笠宮、博物館の隋唐展にゆき、中山正善も来をりと、神田信夫氏よりききし)。 わが『李白(230)』買ひ、『日清太平記(30)』もらひ(五色豆、八橋を500買ひし)てまた研究所(中島利夫をさきほど訪いひしに不在なりし)。 やっとすみし講演(貝塚博士)を待ちて撮影(小野勝年わが前にゐし)。立食の晩餐会に出、天野元之助博士より、このほど成城大学に「米の話」しにゆきしときく。佐藤長来り、「羽田をらぬで淋しいでせう」と。 事実なり。 18:30出て京阪にて京橋。渡辺三七子に電話すれば「東姉妹をも呼びをり(旅行はのびしと)すぐ来よ」と。今里へゆけば迎へ来をり、順子、孝子2生も来着しをり。22:00まで姉妹の話し、タバコ賜ひて帰りしあと、叔父さんまじへて話し、風呂たまひ、お茶漬けたまひ、太田陽子夫人に寄せ書して寝につく。 けふ京阪書房にて小林高四郎博士を大津に案内するとてゐしは三木正浩君。われをはじめ藤岡謙二郎と思ひしと。「膳所高校につとむ」と。 11月4日 6:00目覚む。西川英夫にヱハガキ書き、8:00古漬ほめつつ朝食し、ともに出て今里より上六までゆき、別れて江間春夫自動車局長訪へば「9:30出勤」と。ナンバまでbus。心斎橋筋を上り、阪急ホテルにて鞄とり、傘預け、佐渡島金鉱の梅本(※梅本吉之助)訪ね、川崎に電話して「今夜19:00山本宅にて」といふ。(そのまへ山本に電話して約束せし)。 10:00十合のあくを待ち、山口玲子生を呼出せば中々わからず。姉の婦人服売場につとめゐるにききて呼出し了り、喫茶室にて話す。「小野和子2児となりし」と。「大江叔母毎日来る」と。 別れて地下鉄、近鉄にて藤井寺。大江に着きしは12:00前。史来るまでにいろいろ話し、やがて来しと雞鍋、beerご馳走となり(1千円借り『李白』置きし)、史も500円もらふ。 城平叔父に電話にて「訪ねられず」とことはり、清水生に電話してゆき、悠紀子への手提げもらひ、古本回収にと大江宅まで伴ひ、駅までつれゆき、しるこ食ひ、 別れてplat-formにて15分まち17:00かっきりに来し坪井と肥下(坪井、酒一升を買ふ)を訪ひ、東京の話し、西寛治へよろしくときき、『コギト』その中にといひ、駅で別れ、坪井にアベノ橋まで送らる。 山本に大阪駅より電話せしが19:00。30分してゆけば川崎菅雄来しところにて経理士まだ盛大ではなきらしかりし。夫人への伝言たのみ、22:00送り出してより碁。入浴。将棋とやり、24:00就寝。 けふ丸にと電話し、川崎と丸と会ひゐざるを知りし。 11月5日 よべ山本実子に電話し、姉恭子の家に帰りゐるをきき、渡辺三七子に電話して礼いひ、もはや仕事なくなりしに、山本、丸との連絡に「はと」にて帰れといふ。 9:00先に出て梅田。大河原(※大河原倫夫)を訪へば「10:30ごろ来る」と。久保を訪へば出社しをり、会ってくれ「はと」の切符手続してくれる。 出て大毎の天野愛一訪ひしに「11:00出勤」と。高尾書店にゆき『文久二年上海日記(180!)』、『関西文学散歩(130)』買ひて『支那民俗誌2』あるを成城大学へ送らすこととし、山本にゆけば手紙かきをり、待つま小高根二郎君と大河原に電話し、大河原の重役出勤を皮肉りしと怒らる。 やがてgolf-link問題の連中来りし様子に、山本に1千円出させ11:30出て梅田。公社にて切符買ひ(はとの特急券800)、昼食すませ、12:15乗込み空席多きに気づく。 京都より乗来し隣席は勧銀高橋京都支店長夫人「高雄にをり終戦を台北で迎へし」と。横浜まで話し、迎へに来し慶大2年美学専攻の令嬢とに敬礼さる。 東京駅より丸に電話し、新宿駅西口まで重俊の迎へに来ることとなり、21:00会って山本の手紙と車代(1.5万)わたし、鎌田女史へと五色豆と八橋とをわたしてすむ。帰宅22:00。 11月6日 留守中に来りし郵便、林富士馬氏より「高橋重臣君の住所しらせ」と(悠紀子電話せしと)。 井上多喜三郎君より「10日ごろまでに佐々木邦彦のprofileをかけ」と。 山本八郎氏長女八重子氏「原田一郎氏に嫁し保土谷に住む」との挨拶。 小高根君より「大木篤夫氏、困りて会社に来し」と。新城常三氏より着任の挨拶。 帝塚山短大「同窓会を29日やる」と。 けふ来しは大より転居通知。今西春秋氏より『天命建元考』抜刷。史より「阪急Hotelへゆかざりし」とヱハガキ送り来る。 11月7日 雨。人間専科社より「薄謝呈す。詩を正月号に」と。午后雑誌も来り、前川佐美雄氏より「11月上京とりやめた。唐詩の訳くれ」と。中島悦子生より「十時生曰く、よくもてる先生やな」と。 夜、出て林dr.。注射打ってもらひ、(※戦時中)薬師寺衛とわが家訪れしときく。酒たうべ大塚をへて帰り来る。 11月8日(日) 悠紀子と相談、組合より1万円借りることとす。山本陽子生より「9日14~15時来訪」と。 けふ山本治雄、久保亀夫の2友、古田房子、東孝子、清水文子、本多和子、四方綾の諸生へヱハガキ。 学術会議へ山本達郎、藤田亮策と投票し、漢文の採点ほぼすませしところへ正平来る。「明日帰阪」と。 城平叔父に手紙かきて托す。 11月9日 8:30家を出て成城大学。別に事なかりしと。栗山部長にも会ふ。漢文の採点記入し、2B(英文)のみ普通なるに気づく。会計より指導費また1千円出し、ふしぎ。 庶務へゆき課長に1万円の借金申込めば「手持ちなし」と。不快。 鎌田女史にゆけば柳田国男先生をられ、五色豆と八橋おあがりになる。『文学界』の松茶庵訊ねまゐらせしに「わからず」と。「西廂記」のprint切り、12:30出て東洋文庫。 国宝2点など見て、岩井博士に羽田のこときけば「便りなし」と。姉婿上田氏と。麓保孝氏に会ひし。 山本陽子来る筈ゆゑ急ぎ帰れば15:00すぎ来り、「長沖氏の世話にて大阪のradio,televi関係にて働きて見る」と。けふ17:00東京駅にて待合せて父と箱根へ行くと。 そこへ坂根生来り、17:00前、2人にて出てゆき切符忘れゆく。19:00すぎ帰り来り、渡辺三七子に寄せ書し、matinetの切符3枚、悠紀子買ひやる(12日 80×3)。 けふ『文芸日本』来り、「Penguin」の閉店を期し「14日同人会をそこにて」と見ゆ。「人間専科」社へ「18日までに詩かく」と返事。 11月10日 8:40成城大学へゆき、山本文雄氏に会ふ。入学案内城平叔父へと送る。 11:30上京の山本太郎と会ひbeerのみ談りて帰宅。『神功皇后』買ふ。鍛治初江君より「大阪で会へぬならまた上京する」と。 11月11日 今西春秋氏、鍛治初江、中島悦子2生へヱハガキ。「佐々木さん」(3枚)を『骨』にと井上多喜三郎氏へ速達(あとにて悠紀子、普通便にて出せしこと判明)。 訪ふ声して川久保悌郎君。史学会に出張し来り、わが姿見えざる故訪ね来し」と。悠紀子をして上田勤邸に電話せしめてきけば「羽田夫人けふ上京、羽田君は明日22:30羽田着」と。 ともに出て昼食し、家へ引返して井上氏宛の便すでに出せしときくところへ角川よりHeineの10版の印税10,500-税1,525-書籍代640=8,285来る。 国民評論社より「1年分760払へ」と。上落合文学堂の書目来り、「『コギト』100冊2万円」と見ゆ。 成城大学へゆき2時間教ふ。実践女子大生より電話かかりしと也。中島利夫氏より「来訪を謝す」と。 15:00実践女子大の中川生(中原中也を卒論にかく)と宗近生(嘉村礒多やると)と来り、『四季』の「中原中也追悼号」を貸せと。土曜にもちゆくと云ひ、「富永次郎氏を明日訪ねよ」といひ、(阪本短大主事相変らず非礼なり)、出て野田宇太郎、高田瑞穂2氏に会ひ、「車」にゆき2生紹介す。 帰りて池袋「green corner」、松本(※松本善海)と川久保とすでに在り、川久保に茶おごらせてすみし(けふ川久保に『英文満鮮案内記』と『シベリア史年表』とを与へし) (S本○氏に「中野□□、他に恋愛す」と詫び状出せし)。『果樹園』46号来りし。古田房子生より洋傘もち来るやもしれずと。保田與重郎より退院の挨拶。 1月12日 曇。悠紀子「羽田夫人に会ひに」と出てゆく。齋藤晌氏より『詩吟集』来る。 12:00出て東武dept.でrice-curry食ひ、立教大学にゆき「六大学leagueの優勝戦にて学生不在」ときき、教授室にてtelevi見、出てcoffeeのみ4-2にて優勝せしを見て帰れば、悠紀子まだ帰らず。 やがて帰りて「池内邸の破れしと、羽田のsalary万円にて困りをる」などの話きく。 けふ中野清見君へ報告かき、□□恋愛とS本家にいひしを伝ふ。井上多喜三郎君に短冊送らずとかく。 依子、帰り来て「足立支店に転勤命じられし」といふ。 11月13日 雨。上田邸に電話すれば「羽田君よべ2:00に着きまだ眠りゐる」と。散髪して11:30家を出て聖心女子大。すませて渋谷より都電にて赤坂見附。清水谷公園をぬけて池内邸にゆけば一氏出て来られ、2階に案内さる。 婦人と織田武雄氏(同行と)と話し中、羽田君着がへしゐるらしく、旅行中尤も元気なりしときく。「Caspi海の水は日本海と同じく濃かりし」ときき、文部省へゆくといふを地下鉄まで案内して別る。 中野清見君より「(※お見合斡旋につき)すまなかった。明治製菓に工場売れた云々」の手紙もらふ。 白井紘史より「都合しらせ」と。村上新太郎氏より「書け」と。夜、『果樹園』にと「歴史」かく。父より「15日6:00着京、大の新居に入る」と。 11月14日 成城大学へ登校。文化史すませ定期券の証明もらひ、図書館下にゐる。 田中久夫氏と「小高根太郎君をさ来週訪はん」といひ、『支那民俗誌』そろってあることわかる。(高尾より第2巻来あり)。 実践女子大中川生より電話あり、出て東北沢。中華そば食ひながら話し『四季』貸し、赤川(※赤川草夫)夫人へ紹介状かき、別れて池袋。西武dept.。宮崎智慧氏と喫茶。『日本歌人』に7枚20日までに書くこととなる。 古本屋ひやかしてのち史学会。宮本馨太郎氏の「露卯の下駄」おもしろく、白鳥先生に会へば「近々話さん」と。 仁井田陞博士に挨拶して、その中国見学談ききて、懇話会に出る。西武dept.でalbum買ひ、400の会費きちきちとなりし也。 19:30すみて中山久四郎博士(87才と)と90才の老翁(棚橋氏)との足どり危ぶきを見ながら出る。 明治書院より『高等国語指導資料第2巻』来しのみ。 11月15日(日) 田中忠雄氏より「18日(水)の三水会にぜひ出よ」と。 12:30意外にも長尾良君来り、「早川敏一氏に佐々木望氏より紹介受け、主婦と生活社に話ありしも立消えし」と。 帰りしあと松本善海君に電話すれば「16:00も一度電話ありて羽田との連絡きまる」と。 入浴して16:35またかければ「羽田疲れし」と。「夫婦して挨拶にゆかれよ」といひ、我はすます。 依子けふ新任地足立支店をみにゆきし。 11月16日 5:30悠紀子、父母を迎へに東京駅へとゆき、我、戸締りして10:00成城大学。 高尾嬢休みとて戸田嬢?茶汲みに来をり。12:00悠紀子より電話、父母も出て「健、上京中ゆゑ夕食しに来よ」と。 中国文学史のprintに「三国志演義」切り、文化史専攻の志望18人(国文20、芸術20、英文75)とききてのち出て帰宅。 悠紀子帰らず、戸締りあき、東洋学報の3校、山中タヅ子の手紙、千川稚泉のハガキ来をり。悠紀子帰りしあと、渡辺三七子のヱハガキ琴平より来をり。 けふ伊東マキ、白井紘史にハガキかく。16:30出て大の新居訪ぬれば、大帰らず、健来ず、父母とすき焼しbeerのみて帰宅。 11月17日 9:00成城大学へ登校。中国文学史教へしあと川上生と将棋さす。東洋学報のため追記もかきしが旨くゆかず、教授会となり、文化史専攻18人を確認す。 15:30すみて民俗学会17:30よりありとわかり、図書館にて退屈す。宮地直一氏令息、山中裕氏(史料編纂所員)来り、山中氏を中心に「踏歌」につき研究。20:30カレーそば食って帰宅。 瀧口喜久子生より「復活」よんだと。熊谷芳彦より「ひたち孔版社」を開業と。 11月18日 東洋学報の追記清書。『人間専科』へ「帰還」。10:30起き、髭そり郵便局で速達。 東洋文庫へゆき堀敏一氏に会ひ、英文摘要見ささる。coffeeとtoastとりて登校すれば12:50にてほぼ2,3年全出席。 すみてreportの指導し、「2年生、1年の応ずるもの多きに発憤せし」と坪井勝也の話なり。 漢文教へ、この前休みし連中を研究室に呼び、40代以下に「やめよ」といひ、やめしもの3人? 新宿へ出て中華そば食ひ、地下鉄にて赤坂見附下車。短波放送ビルへゆく間、料亭の櫛比せるにおどろく。 (※三水会にて)勝部君の「アメリカ教育の危機」、浅野晃氏、アメリカ圏の没落きまりしといふ。すみて池田勇人氏の還暦祝に梅一鉢贈ることとし、1,500づつを醵出。新橋まで歩きて帰宅。 けふ村田謹一郎『正倉院宝物展目録(200)』をもち来りくる。 11月19日 前川佐美雄氏へ「2,3日おくれる」とハガキ。長尾良君より「近所に2間(6、4.5、浴室付)の一軒家の貸家あり」とハガキ。 立教の史学研究室へゆき、話さず講義。けふは3人皆出席。すみて「らんぶる」といふへつれゆきcoffee、そのまま帰宅。 夜、大江叔母へ礼状と1,000。 11月20日 NHKより調査票。中村漁波林『詩集墓標』。聖心女子大へゆき、徳富氏にきけば「後期はなるべくreportでない様に」と。2時間すまして帰る途、うしろより追ひ来しは稲富生と名のり太宰治のことこの前聞きに来し生徒。 German Bakeryにて話きけば「わが点きつきは当学2人の1人!父を憎む」と。「英文なれど宿題多きゆゑやめる」と。第2双葉より来しと云々。 別れて大のところへゆけば父不在。母、飴くれ「間借りまだ」と。出てゆく大のtaxiにのせられ恵比須をへて帰宅。 羽田夫人より悠紀子へ「箱根に一泊して帰洛。羽田君さほど疲れをらず」と。年賀用ハガキ300枚買ふ(けふ聖心女子大の11月salaryもらひし也)。 11月21日 成城大学へゆく。坪井生「8日に文化史の会を新宿です」と。齋藤生など珍しき2年の挨拶受けし。 Printに「水滸伝」きり(暉峻博士に『蕪村』に署名たのみし)、「すみれ」へrice-curry食ひにゆき、帰りて田中久夫氏と話し、来週土曜に小高根太郎を訪ふこととす。 13:00salaryもらひ、「史の在学証明書とれ」といはれ、出て経堂下車、古本屋までゆきて小雨ゆゑ小高根家へゆかず。 駅にて久しく会はざりし野尻貞雄氏に会ひ、齋藤晌氏の訴訟のこと問はれ「われもきかず」と答ふ。 宮崎氏(※宮崎幸三)無職にてゐるらしく気の毒なり。 下北沢で下車。『日本と泰国の関係(30)』、『年表世界歴史(100)』買ひ、南口の古本屋へもゆきて話し帰宅。 京都の学会の写真来しのみ。(けふ『蘭領印度辞典』の製本を中馬君に托せし)。 11月22日(日) 羽倉裕景君より「勤評第一号なりしを藤井君に奔走してもらひし」と。 午まへ丸に電話すれば「今から出かけ、夕方帰る」と。15:00ころ中野□□君来り、文学話せしも大分ちがひし。 夕食してともに出、新宿にて別れ、高円寺より丸家にゆけば「重俊喘息にてねてゐる」と。「由美子、noiloseにて学校休みをり」と。 来客と話す丸まち、山本のこと話し、第2夫人の姦通は1回だけなりしとききて出、「赤ちゃん」に寄れば、赤川夫人「この間中川嬢来しも、中原中也夫人(野村家)とは7年会はざるゆゑ、電話帳にて探せといひし」と。High-ball1杯のみ、満員ゆゑ出て帰宅。 11月23日(勤労感謝の日) 家居。悠紀子、依子をつれて大丸へとゆきしあと、父母「二の酉」の帰りと来る。「千草、経堂の案内所に成城学園3間1万円の家の広告見つけし」と。 話すところへ岩崎昭弥君来り、『墓碑銘』の出版記念会盛大なりしと報告。また礼状多く見す。いろいろ話す中、悠紀子ら帰宅。(わが冬over3日で出来上ると)。 父母去り、岩崎引きとめて夕食さす。そのあと『日本歌人』へと「白詩2首」の題にて200字詰11枚かく。 長尾良君に「家いらず」と。中村漁波林氏に「出版記念会の案内せよ」と。保田へ『南島資料』送ることとす。 11月24日 △(※不詳) 成城大学へ登校。午まで岩崎君の電話まつつもりの所へ白井紘史より電話。 「すぐ来よ」といひ、西垣脩氏の休講をいふ故、電話すれば夫人「本日は出講」と。 苦笑しつつ「すみれ」へつれゆき昼食させ、祖師ヶ谷大蔵まで歩き、経堂で下車。 北口の古本屋につれゆき、われは蘆花『巡礼紀行(20)』、『地方史研究法(150)』買ひ、南口の古本屋につれゆけば休み。別れて小高根太郎訪へば「美術館へゆきし」と。夫人に「土曜に田中久夫氏つれ来る」といひ、借りし本3冊返却して帰宅。 悠紀子いまだ帰らず無人なりし。やがて筑摩書房より萩原葉子さんの『父』もち来る。 悠紀子帰りて「成城の1万円の家ふさがりをりし」と。けふ大の誕生日ゆゑ行きて飯くひ来しと。 11月25日 雨。成城大学の学生総会とて休みとなり、家居。田村春雄君より「在京。27日夕方、小島館へ来ぬか」と。 筑摩書房の加藤国夫君扱ひにて「12月8日(火)新宿キリンビヤホールにて萩原葉子さんの出版記念会」と。1950~1951年の日記よみ返せしのみ。 午后小高根二郎君より「新年号の締切を12月10日に」と。夜、坂根千鶴子来り、memento mori(※死すべき宿命)話していやがらす。悠紀子風邪。小島館へ電話せしむ。 11月26日 晴。萩原葉子氏へ礼のハガキ。古田房子より「今夜おそく着く。29日(日)夕方会はん」と。 12:00出て立教大学。研究室へゆかず教授室にをれば『史苑』の校正もち来呉る。3人そろひし学生に「ヌルハチ年譜」をreportにせよといふ。 すみて教授室にて校正しをれば佐々木喜市講師来会。挨拶し、史学談話会にゆき、校正了る。 手塚氏をはじめ教授みな中退。われのみ最後までのこり、吉村せつ子生の多摩丘陵の年中行事をきき、slide見て、国電にのれば金子喬彦生とて「義和団事変の東南互保運動について」談りしが挨拶す。盛宣懐、張之洞、李鴻章らに排満興漢の精神なかりしを云ひやる。 11月27日 曇。寒し。大丸より冬over-coatもち来る。午まへになりて聖心女子大へ出たくなくなり休講を電話してもらふ。 筑摩の加藤氏より「葉子氏の会17:00」と。大江叔母より「受取った、手紙の字よめず」と、カナ切り抜いて来る。 川久保悌郎君より林檎1箱。あとにて「送った」とのハガキ。 17:30出て上野小島館へ田村春雄博士訪ね、夕食よばれ、のちともに出てわれはHigh-ball。 Taxiにて神田へ案内し、『北京年中行事記(130)』を若葉イナヲの為に見付けしを最後に『富永太郎詩集(30)』、『中華民国三十年史(30)』、『日本風俗史概説(100)』と買ひ、田村君も買ふ。お茶の水にてまた喫茶し、国鉄にのせ上野で別れし(大東勝之助博士Liebe(※愛人)をつくり、夫人さはぎしと)。 11月28日 8:45登校。Note検査を文化史聴講生に申渡し、図書館下にゆく。(坪井生「12月8日の選考会を18:00よりと定めし」と。1,000の輔導費わたし、村田への200も托す)。 田中久夫氏の終るを待ちて、ともに出、経堂の中華そば屋に案内し、ついで小高根邸へゆけば、太郎君まちをり。 14:30ともに出て(田中氏、公田連太郎翁と親しく、徳永康元君と同級と)。 新宿で別れ、池袋で下車。宮崎智慧氏に『日本歌人』にかきしといふ。大岩嬢(室井馬琴令嬢?)に紹介さる。 出て帰れば前川氏より「よき原稿云々」とハガキ来あり。 中野清見君より「今夜19:00来られぬか」の電報来ありし故、宝Hotelに電話して「ゆく」と云ひ、夕食してゆけば姪2人(楽手と女子医大生)来をり、丸20:00来り、22:30まで話し、飲み(姪も!)、taxiにて丸と王子まで同行、下車して帰宅。 夜半、酔発して苦し。(西武dept.で『静岡』『清水』買ふ)。 11月29日(日) 〒なし。午后、田中正平来り「城平叔父きのふまで居り、龍平に成城を受けさす」と。「来月20日すぎ上京、会ひたし」と也。 帰りゆきしあと入浴。夜、史へ「在学証明書送れ」の電報を打たす。 昨朝、古田房子に電話かけ「今回は会へず」とのことなりし故、他出せず。城戸慶子より「青木正樹氏と結婚」と。 11月30日 8:00起きて成城大学へ登校。栗山部長と萩原葉子氏のこと話す。 中国文学史すまし、あすのため「西遊記」のprint切り、高橋邦太郎氏見て図書館下へゆく。みな卒業論文のthemaとどけし由。丸重俊をり「この間、父酔って帰りし」と。13:30出て帰宅。 史より在学証明書送り来しと(代々木上原より代々木八幡まで歩きし)。古田房子より洋傘送り来る。二階の平野夫人、名古屋のういろう賜ふ。 12月1日 8:45登校。短大2年の私語して止まぬに怒りしも不快。早めにすまして『高木地誌目録』より書き抜きし「すみれ」へrice-curry食ひにゆき、帰れば大藤氏「栗山部長へ」と来る。あとにてとなり、また研究室ですごす。松村達雄を見ざりし。 教授会にて1年の専攻につき英文の超過の試験日きまる。一般教養に馬淵東一氏の民族学を入れんと今井富士雄氏提案せし。 池辺弥君、短大の専任にといふことになる模様。史学史をやらんといふと、あとにてといひ『蜘蛛』の合評会に1時間出席して帰宅。不快にして不満。(けふbonus10日ごろとききし)。 12月2日 角川より速達『ハイネ恋愛詩集』11版の印紙1,500枚を4日までにと。 10:40出て靴みがかせ、下北沢下車。昼食してゆき阿部知二氏と一緒になり、S本○氏の伝言をす。 「西島より電話ありし」と「梅ヶ丘よりにて2階4間を1万何千円とかにて貸す」由。「悠紀子に伝へる」といひ、史学研究法と漢文教へる。 その間、実践女子大の中川生来り「中也未亡人と電話で話せし」由。『四季』返し帰りゆく。 鎌田女史より柳田先生の『故郷七十年』頒布を受く(500)。けふ〒なかりし。 p23 12月3日 午前中、豪雨。正午にぴたっと止む。風邪気なりしも立教へゆけば平塚生をり、ややして高田生来る。八旗の一人の一生を創作して語る。最後は内大臣、都統、男爵より失脚せしこととす。 すまして「来週忘年会せん」といひ、林dr.にゆき風邪の注射打ってもらふ。保田また上京して山川京子にゐるらし。 布佐しらべんと池袋で探して『龍ヶ崎』を買ふ。柳田先生の本よまんと也。 12月4日 千川、Zolbrad、中野清見、古田房子の諸生へハガキ。聖心女子大休むこととせし也。『故郷七十年』よみ了る。 午后の便にて中村漁波林氏『墓標』出版記念会12月8日17:30新橋駅2階「日食」にてと。欠席の通知せざるを得ず(※萩原葉子出版記念会と重なる)。 父母来り、駒込の叔母の間斡旋を知りをり。依子けふbonusもらひしとて我にchocolate呉る。 12月5日 晴。登校。文化史やり「休み中、何もなかりし」と高尾嬢の言きき、図書室。田中久夫氏来るを待つ。坪井生とともに出る。 けふ明日の演劇部の切符3枚呉る。新宿で別れ帰宅して昼食。平凡社より世界百科事典「李自成、李之藻」の稿料791来をり。 午后の便にて立教大学より「来年度講義要項を12日までに」と。田中雅子よりハガキ。(※写真を整理して)album貼る。 12月6日(日) album貼る。角川より検印の受取来りしのみ。散髪にゆく。 午后東洋文庫より「9日(水)9:30よりG.Tuzzi博士の講演」と速達。 12月7日 ⴵ(※不詳) 成城大学へ登校。printに「今古奇観」きり、高尾嬢に空家斡旋たのみしが返事なかりし。坂本助手がS本○氏と近所なることを知る。 けふ栗山部長に「平家物語雑考」を『成城文芸』にのせてよきやをきく。 (※抹消:X’masちかくなりにしをとめらが■■ちまたには金もたぬ吾) とく来ませよきひと来ませはしけやし死ぬほどおもふこひびときませ。 京、この間そろばん学校の試験受けしが、けふ発表あり6級に合格と。 p24 12月8日 登校。1時限すませし(短2Aけふは静かにして、いつもさはぐ村山生あとにて研究室に来しゆゑ諭せし)のち、Zolbrad氏より電話かかりしとて12時までまち、そのあと田島、高井、神戸3女生と「すみれ」にゆき、畠山生にも会ふ。 一度帰宅。よべの睡眠不足の取返しきかずして16:00新宿へゆく(※萩原葉子『父 萩原朔太郎』出版記念会)。 国鉄で蔵原伸二郎に会ひ、ともにキリンビヤホールへゆけば山岸外史あり。握手し、あと三好達治、宇野千代、室生犀星、西脇順三郎、草野心平、壷井繁治(けふ国鉄新宿駅にて幼方直吉氏に会ひ池袋まで話してゆきし)、窪川いね子、その他に久しぶりにて会ふ。 林富士馬、小山正孝、船越章夫妻、森房子、中河与一、堀夫人などの人もあり。奥野信太郎教授とは名刺交換す。 18:00会はじまる前に階下でジョッキ1杯ひとりでのむところへ三浦久子氏現はれ少しく話せし。 19:00坪井生呼びに来り、「栄ずし」へゆけば20人ほど(※成城大学文化史専攻忘年会)。3教師(今井、大藤、池辺)鎌田女史、若葉君のほか3年全部と2年大塚、佐藤、齋藤、鈴木、西村、野口、畠山など来をり。 21:00池辺、中沢と出て中沢生とは高田馬場で別れし。(年賀状300枚を隣の隣の印刷屋にあつらへし)。 2月9日 宿酔気味なれど8:00起き、いそいで仕度し東洋文庫へ9:30よりのTuzzi教授(ローマ大学)の講演ききにゆく。三笠宮、原田淑人博士、中山久四郎博士など見え、わがよこには竹田龍児、中川(立教大学)。 すみて榎一雄君の解説にて1955年以来の烏仗那の発掘報告とわかりし! 村上正二君に挨拶され(小室君には会ひをらずと)、出て成城大学。 史学研究法あひかはらず人数少なく「平家物語雑考」を史料批判にかけしも旨く出来ず。 Zolbrad氏の電話を14:00きき「15日(火)10:30また電話する」とのこととなりし。漢文来週もやることとして、鎌田女史とちょっと話して帰来。 高尾書店の目録来しのみ。(けふ小高根二郎に「悪い恋愛(※萩原葉子のことを書いた詩)」を送り、29日送った同人費受取りしやをきく。仏語講師、岡谷公二君『父 萩原朔太郎』よみしと。もと『新思潮』同人たりしと。『果樹園』を贈る)。 12月10日 12:00出て立教大学。手塚教授に相談し、出講日、水・木ときき、来年度は水曜日に出講、また講義は「明末清初の東南沿海」とす。 3生に17:00池袋で待合せよといひ、成城大学へゆき、大藤教授の都合きけば金土以外は出るとのことなりし。 Bonusもらひしに父兄会よりの26,300を合せて68,000、うち63,000を悠紀子に渡すこととす。 池袋にて高田、久保、平塚の3生と会食(2,460)。高田生就職きまり、久保生は北海道の教職を志望と。 けふ全学連の2学生、国会突入ののち10日余りにて逮捕され、安保反対のため国電午前中大混乱なりしと。 大野夫人、羊羹もち来り、「知子生、学習院と早稲田とのみ受けるといふ」といひおきしと。あつらへし年賀状300枚出来上る(500円)。 12月11日 9:30田中万美子来り「石川島造船所にて設計する芸大出の青年と恋愛しをるゆゑ東京に残りたし。共稼ぎにて5千円の講師を」と。「20日すぎ来る城平叔父に会はせよ」といふ。 11:30ともに出てわれは聖心女子大。胃痛し。来週も休暇ならざるもやめよといふclass、8人休みをり。 Salaryもらひ、卒業album用の写真うつさる。 15:00海老沢教授の研究室にゆき、来年度のこときけば「変更なきが普通」とのことに、また金曜午后となる。 「わが点辛しといふ」と云へば「そんなこともなし」と。出で宮益坂のぼり『漢文入門(250)』、『灰の季節(190)』買ひて帰宅。 〒なし。悠紀子けふ母に歳暮3千円を届けしと。 12月12日 成城大学へ登校。吉田女史と話し卒業生ときく。前田教務課長に研究日を水金と届け、1時間目は考慮してもらふこととす。 柳田先生『七十年』の代金を田島生にことづけしあと、鎌田女史来る。池田勉氏に『成城文芸』へ「平家物語雑考」のせてくれとたのむ。1月10日ごろで宜しき由。 出て下北沢下車。『日本民族(180)』また買ひ、雲呑くひ、新宿より昼間の急行にはじめて乗り四谷下車。都電にて専修大学前下車。 山本書店にゆき、『漢巍六朝民歌選(30)』、『敦煌変文字義通釈(60)』、『詩草木今釈(150)』、『中国和亜非各国友好関係史論叢(60)』、『草木子(70)』、『太平天国文選(180)』、『太平天国資料目録(190)』と買ひ、大安にて『明清史論叢(80)』、『太平天国起義調査報告(135)』買ひ、『毛詩抄(2冊150)』、『東方諸国の新しい歴史(3冊120)』、『満洲歳時記(10)』買ひて都電。巣鴨をへて帰宅。 悠紀子けふ日大芸術科をかりての坂根千鶴子の公演をみにゆく。史より「梅原家へは傘はやくに返却した」と。小高根二郎氏より「同人費受取った」と。清水文子生より岩井美代子の住所。入浴。 12月13日(日) 〒なし。悠紀子と依子と家さがしに出てゆく。14:00畑山博氏を久しぶりに訪ねしに「柳井正夫(元東洋大学同窓会長)の葬儀にゆきし」と(卒中と)。 帰りてしばらくして案内乞ふは意外にも保田與重郎!「16日帰洛、山川京子宅にゐる」と。中谷孝雄氏を訪ふとて早々に帰りゆく(本復祝に猪口賜ひし)。あす新学社へ連絡するといふ(高鳥君は専務と)。 悠紀子帰り来って向ヶ丘遊園駅より10分にて3間の家建てをりと。 12月14日 成城大学へ登校。中国文学史すまし、新学社へ電話すれば高鳥専務(!)出て、山川宅の保田に電話して返事くれると。 やがてかかりて「来よ」といふに、山川京子に電話して道きき荻窪へゆき、都電天沼の南の山川宅へゆく。 荻窪高校の某女史居り。あさって三水会のこといへば「来る」と。やがて帰りし山川女史に腹立てて出、堀辰雄邸の前通りしゆゑ、加藤俊彦夫人に多恵子夫人のもとのまま日暮里住ひときき、丸屋市川に寄り、『三十三年の夢(165)』、『未開人の社会組織(135)』買ひ、駅前でrice-curry食ひ、また古本屋にて『民間伝承・柳田喜寿記念号(50)』見つけ、ついで和堂書店にゆき『今古奇観(2冊700)』買ひて帰宅。 野田又夫氏より転宅通知。けふ悠紀子渋谷へゆき、保田televiに出しをききしと。 和田賀代より電話「女の就職世話してくれる」と也。 12月15日 雨。仕方なく成城大学へゆき、短大2A出席とりしだけにて漢文予習し、手紙かき、図書館下へゆきゐれば、10:30、Zolbrad氏来訪と。 会へば『四庫全書総目提要』見たしと。図書館へつれゆき特別閲覧券発行してもらふ(中馬君「朝日新聞に入社、1月限り退職す」と)。Z氏にsandwichもちゆけば金払ふ。松村達雄と会ひ「その中訪ふ」といふ。 14:10より教授会。『成城文芸』の編集員となる。(池田、栗山両氏には『果樹園』着きしと。我には10日出しの手紙いまごろ着く)。 15:30より主任会(学科の廃合を相談す)。17:00すみてZ氏の返却せし本を見て、アサヒビヤホール(新宿)へゆく。 わが前には柳田為正(お茶の水大助教授、生物学。「医科歯科の田中克己氏を知る」と)。久松潜一博士令息(会計学、楊井克己に習いひしと)治夫(叔父治綱氏は白百合短大にて事故死と)、渡辺篤(生物学)など知らぬ人ばかりなり。 内田直作氏に挨拶し、beer1杯のみ料理食ひて20:00中座。 中島悦子生より「十時生離婚せし」と。白井紘史より「父、羽衣に転宅」と。いづれも7日、9日の投函なり。 (けふ池辺弥君「短大専任決定」と報告来し)。 12月16日 井上(東)順子より8日出しのハガキ来る。12:30成城大学へゆき、史学研究法。中国文学史すませば中村林次君より電話かかり「15:40また電話す」と。 鎌田女史より『甲斐の道祖神』の頒布受け、丸重俊とちょっと話す。 中村君の電話きけば「植村先生の本出し、新宿にゐる」と。16:10待合せを約してゆけばおくれて来り『中国史十話』賜ふ。 別れて短波放送buil.へゆき(※三水会)、田中忠雄、、齋藤晌、浅野晃3氏に「保田来るやもしれず」といひしに来らず。 忘年会を兼ねて齋藤氏の話きき、浅野氏の巡査月給2倍論をきく。 田中順二郎君より歳暮に奈良漬1箱を賜ふ。 12月17日 立教大学は3生と相談してすでに休講と定めたる故、終日家居(「金の鈴」の会、民俗学の会ともに成城大学にてあれどゆかず)。寒し。 悠紀子、渋谷の父母と向ヶ丘遊園地にゆき、(※借家)手附金2千円を渡し来し。登戸1189と。竣成は1月半ばとおくれしと。 「大安」の広告来しのみ。賀状かくこととし、去年と前年の郵便の整理す。夜、坂根千鶴子来り、悠紀子新居のこと夢中に話す。 京、炭素中毒となり、あはてて医師にかつぎ込み注射2本打ってもらふ。失禁し「あと5分にて死ぬところなりし」と。 12月18日 寒し。悠紀子、林dr.と栗山理一氏とにお歳暮とて出てゆく。われ休みし京と留守番しをりしに、13:00帰り来し弓子は映画にとまた出てゆく。 悠紀子帰りしと同時に丸より歳暮としてHam。15:00すぎ出て新宿三越にて砂糖(函入1千円)買ひ、Pilot万年筆(1,000)買ひ、こはれしを修理してもらふこととす(26日出来と)。(王子にて登戸の印(※新住所印)造ってくれと註文、月曜出来と)。 中村屋で喫茶とsandwich。梅ヶ丘の和田先生邸へゆけば奥様出られ、「先生この間また鼻血出されて入院されし」と。お見舞述べて出、下北沢にて下車すれば「Penguin」開きをり、入れば森本夫人不在(新宿駅にて外村繁氏に会ひしが、けふは『文芸日本』の忘年会の筈なり)。廃業のやうにてもなかりし。 井之頭線にて三鷹へゆき、浅野建夫dr.に空腹時の胃の鈍痛いひ、薬もらふ。『癌(Que-sais-je文庫)』贈り『法医学ノート』と『Rh因子と免疫血液学のてびき』、『新しい血液型因子』ともらひ、月曜再来をいひて出、高円寺下車。 丸夫人に電話して歳暮の礼いひ、丸に転宅のこといふ。「中野清見は年内は来ず」と。 都丸書店にて『満蒙の文化(100)』、『朝鮮語の系統(150)』と『東洋思潮』の3冊ならびに『陸奥宗光伝(120)』買ひ、rice-curry食ひて大塚まで国電。古本屋また見てのち都電にて帰宅。 12月19日 寒し。家居。立教史学会より「懇親会18日にす」と出席如何を問ふ往復葉書(12日stamp)。依子忘年会とて23:00帰宅。 12月20日(日) 寒く雨降る。終日家居。年賀状書く。全逓に公労委の斡旋ありしと也(※これにより郵便物遅配解消に向かふ)。 『果樹園』47やっと来る。 12月21日 寒し。晴。午、城平叔父より電報「22日11時八重洲待合室にて待つ」と。賀状200枚書き了る。 15:30出て西川英夫君訪ひしに不在。吉祥寺へゆき(東京駅でrice-curry)、中野の『ある日本人(200)』買ひ、寒きゆゑ致し方なく18:30浅野dr.にゆけば診察しくれる。 4日分の薬もらひ中野の第2冊贈りて帰宅(「賀状を登戸へ出せし」と!)。 (※年賀状名簿) p25 12月22日 10:00出て東京駅。西川のぞきしに用談中と。10:50待合室へゆけば城平叔父待ちをり、万美子とは大丸にて12:30会ふ予定と。 「龍平は成城大学経済学部の二次に受ける。万美子の東京に残ること承知、口さがしたのむ。大阪では帝塚山学院にきまりしも断る」と也。 昼食をともにといふをことはり、12:15西川に電話すれば「居り」と。ゆけば「夫人狭心症にて倒れ入院中。礼金は権利ある故、代りを入れよ。登戸は(※先方からの)違約ならば手金の2倍返却す」と(※新居契約につき異変あったか)。 別れてお茶の水にてrice-curry食ひ、成城大学への途、栗山部長に会へば、礼いはれし。中馬司書わがたのみし製本まだ出来ずとあやまる。大藤氏に相談し、27,28の両日伊豆へゆくこととなる。 今井氏は柳田先生にゆきしとて会へず。busにて三軒茶屋。三茶書房にて『世界文化史5冊(400)』、『土器とはにわ(30)』、『太公望・王羲之(40)』、『唐詩入門(50)』、『平家物語(下)(60)』買ひ、渋谷をへて帰宅。 丸夫人より送り状。三上次男氏より『李朝実録抄』をよむ会につき23日15:00東大東洋史研究室に来よと。 山本嘉蔵氏より「1年が夫人春江逝きてながれし」と。萩原葉子氏より礼状。 坂根千鶴子生来り「青木弥与子を呼びて会ひし」と。「26日ごろ帰宅」と。 入浴、けふは冬至の柚湯と。(けふ『果樹園』を坂根、高田、臼井、岡谷の諸氏に頒ち、西川夫人の見舞にゆかす。) 12月23日 晴。悠紀子を西川夫人の見舞にゆかす。中山八郎氏より『八旗淵源試釈』の抜刷。 14:00京、帰り来りしゆゑpão買ひにやり、食べ了って東大。井上書店で『理蕃誌稿1(250)』。 15:15研究室にゆけば神田信夫、護雅夫、後藤均平、岡本、村松潤の諸氏をり、三上次男氏の来るを待ち、1月20日より第1,3水曜10:00に『李朝実録抄』よむこととなる。 17:00出てまた古本屋を見(神田氏にきけば、和田先生経過良く退院され「田中来ぬ」といひをらるる由)、辻政信『Singapore(30)』と『迷宮記(30)』と買ふ。後者はDer Lingの『清宮二年記』の訳なり。 悠紀子、田中雅子にもゆきしと。夕食すませて畑山博氏に電話してゆき、万美子の就職たのむ。大島豊と三沢師とこの間、確執あり、2億8千万円に負債ふえしと。吉田房子生より3日出しの茉莉茶1缶着く。 12月24日 古田房子へ礼状。散髪し、11:30出て東洋文庫へゆき、『東洋学報42-2』3冊もらひ、和田先生へと2冊預かり、taxi(110)にて林dr.。夫妻に今年の礼をいひ、屠蘇2袋いただき池袋へと歩き、立教大学へゆけば会計課しまりをり。 『明石(20)』(※地図)買ひ、ラーメン食ひて和田先生訪ひまいらせれば「お眠り」と。「年頭また参る」といひてbusにて渋谷。 大に行かんとせしもやめ、『台湾の蕃族(250)』買ひて帰宅。高橋重臣君より「喪中欠礼」と。 聖心女子大長Mother BrittよりChristmas-card。『アジア歴史辞典2』。 畑俊六君より「今高東京同窓会につき何もしらず」と。依子Christmas presentに時計の紐呉れる。けふ茉莉茶のみし。 また会ふ日近くしなりぬちまたには主あれまししを祝ふベルの音。 12月25日 晴。寒し。朝刊にて「本位田昇君、釧地方検察庁検事正」と見て、丸に電話すれば知らず。「送別会せん」といひ、本位田家へ電話すれば「検事正すでに出勤、本日世田谷の夫人実家に移転し、正月単身赴任」と夫人の話。「送別会のため時間あけたまへ」といふ。 わが「帰還」のりし『人間専科2-1』と『東洋史研究18-3』来り、渡辺三七子より胴衣贈らる。 午后、胃の鈍痛断えず、ふきげんとなる。Album余白なくなる。(この間より悠々と貼りゐし也)。 けふ父来り、弓子を駒込へ駒込へArbeitにとつれゆく。「明日より」と。 (千草また「陽生のbonus5千円!」とこぼせしと)。大「洋行するつもり」と。) 12月26日 9:00出て浅野dr.にゆき投薬してもらひ、吉祥寺に下車。森良雄dr.にゆけばすぐ臥させ右横隔膜おさへ「痛し」といへば盲腸と! 30日再来といひ、薬ここにてももらふ(昼食その間にせし)。竹内好を訪ひ、いろいろ話し、出て西荻窪。 『官場原形記(50)』買ひ、高円寺下車。丸に電話すれば由美子?出て「父、夕方帰る」と。 都丸書店にて高見順『敗戦日記(280)』、『アジアの覚醒(100)』買ひて金なくなる。(けふ時計の紐買ひし也400)。 池袋にて下車。宮崎智慧氏訪へば大伴道子氏をられ『日本歌人』11月号出来をり、わが文(※「白詩二首」)は1月号と。Busにて帰宅。 史より「28~29日帰省」と。室井幸太郎氏より「大阪味噌1樽贈りし」と。現物も来あり。南方史研究会より『南方史研究2』に書くや否やと。平凡社アジア史大事典に「春融堂襍記」「シロコゴロフ」「順治帝」書くや否やと。 夕食後、本屋にゆき高見順『昭和文学盛衰史2(290)』、『滝沢馬琴(160)』買ひ、本位田昇に電話すれば「30、31両日に空きあり」と。 丸に電話せしに「まだ帰らず」。 湿疹の薬買ひ来りて塗る。室井、渡辺三七子、中山八郎氏へ礼状。 12月27日(日) 晴。暖し。11:23の伊東行にとゆき、東京駅にて待つ間toast(30)食ひ、小田原越え、熱海にて米田生と遇ひ、伊東にて男1、女5の待てると会ひ、伊豆今川着17:44?。18:05宿へ入る。 この夜、男生2、女生5にてにぎやかなれど、われ湿疹かゆく耐へ難く、3:00まへに目覚む。痒み掻き、朝となり、母病気といふ米田生とともに出て西海岸、水害のあと残れるを見て沼津に出、急行浪速にのり帰宅。23:00。 史、帰りて灯つけをり。前田隆一氏より「喪中欠礼」と。 12月28日 聖心女子大の2classよりChristmas-card。渡辺三七子より送り状。栗山部長より歳暮の礼状。 小高根二郎君より「同人費受取った。卿の50才と異り自らの50才は若し」と。 増田幸子生より転居通知。早川敏一君より「Nikka Whisky」。帰途の汽車にて食べすぎ、昨日よくなりゐし胃、また悪化。 12月29日 10:30家を出て吉祥寺。森良雄dr.に健康保険証わたす(初診料は返却されし)。湿疹にとPredonine A軟膏もらふ(14円と)。盲腸抑へて入院せよと。 4日夜ときめ薬多くもらひて出、Macaroni食べてのち杉浦家。(※故杉浦正一郎)夫人と嬢とに玄関で話し、別に用なきことわかり、橋浦『民俗探訪(30)』買ひて井之頭線。下北沢にて西島寿一にゆきし悠紀子、京と会ひ、急行にて向ヶ丘遊園。 20分ほどかかりて登戸1189にゆき、2間にて建てをるを見、案内所にゆき3間とし、予定日を早く知らすことを条件として約束了る。1万1千円を敷、前家賃、礼金と案内所へとにて4ヶ月払ふこととなる。 また急行にて(15:41発)新宿へ20分で着き、空腹にて京と池袋下車。餡蜜くひbusにて帰宅。 20:00丸に電話すれば本位田とまだ連絡せずと。30分してまたかけ、明日18:00高野2階にて待合し、「春日」へゆくこととなり、西川(けふ依子に電話かけ来り、「坪井来をりしも帰る。会の時間知らせ」となりしと)に電話せしにまだ帰らず。 けふ古田房子生より「ハガキ見た」旨。硲晃氏より「碁二段となりし」と。佐々木画伯より「梓ちゃんもう画描く」との記事のりし「夕刊京都」。 12月30日 晴。森博士に「本位田送別のため18:00高野へ来よ」と電話。 硲、増田幸子、Zolbrad、井上(東)順子、山中タヅ子、中島悦子の諸氏にヱハガキ。南方史研究会へ「3号に書かせたまへ」と。 16:30出て新宿三越。万年筆の修繕成りしをとり、時間余りし故、紀伊国屋にゆき『The Origins of Oriental Civilization』と『Isram in modern histry』買へば480。 高野Fruits Parlourにて待てば森来り、本位田来り、西川来り、丸来る。5人にて「かすが」といふ焼鳥屋。笑ひ話し、他は飲み、われは少し食ひ、釧路検事正を送る。同期のNo.1なりと。 22:00出て(丸、3人より1千円づつ徴収せしを我500のみ出す)、西川とtaxiに乗れば家まで送り来り、悠紀子に挨拶す。 12月31日 曇。『民間伝承』244と『東方学』19と来り、石浜先生古稀記念会より精算書来る。 坪井明君へ大の住所と電話番号とをしらす。短2Aの漢文採点をすます。井川氏にArbeitにゆきし弓子、1千円もらひて帰り来る。(けふ入浴)胃痛うすらぐ。 田中克己日記 1960 【昭和35年】  前年の解説文で、 「とかく人間の悲観的宿命(メメント・モリ)を語りたがる詩人ですが、気にしてゐた胃痛が実は盲腸だったことがわかり、年明け早々遺書めいたことを日記に記し、自らもまた人生初の手術を受けなければならなくなるのでした。」と書きましたが、 p1  からだかゆく肝臓侵され盲腸くさりし男ここにあり。容貌は  けふ弓子に写してもらひし写真に見よ――猫いだき  愛情のもてゆき場所なく (中略)  かずかずの思ひ出あれどともに語らんひとは遠くにあり――  妻子は近くにありてねむりたり。」(1月3日)  と、憂鬱な愚痴ではじまる昭和35年の日記です。手術前夜、1月4日の日記には、  僕はまあ、温泉にゆくほどの些少の感情である。  なんて書いてますが、すぐそのあとには後事を託す遺言めいた文言が並びます。  始終苦(四拾九)の春に会ひたりおのづから。(1月4日19:50分)  そのなかで「著作目録」は八木さんに打ってもらったタイプがあること、そしてこの「日記」についても『果樹園』での発表を八木さんに頼むことが托されてゐて、私事になりますが、日記を公開してきた管理人にとって、まま感じることもあった罪悪感が図らずも払拭される瞬間でありました。  盲腸の手術は無事に済みました。そしてこの入院中、これまで二転三転した住居移転問題が、悠紀子夫人のみつけてきた新しい借家にすんなり決まり、引越もすべて済ませて、退院と共に詩人はこの新しい吉祥寺の家に入ります。近所には、長々と患った湿疹治療に通ふ医院があり、古本屋とともに足繁く大学へ通ふ教員生活が始まります。  さて昭和35年といへば新安保の年。国会前でのデモに参加した学生たちは30万人を越えたと云はれ、条約を締結した岸内閣が倒れ、次の総理大臣には池田勇人が選ばれますが、当時詩人が通ってゐた「三水会」といふのは、池田の派閥である宏池会が主宰する勉強会でした。  大学教授の立場にあった詩人にすれば、教へ子を巻き込んでの政界動乱が、まことにリアルタイムに感じられた一年ではなかったでしょうか。大蔵省に入省初年度の長男史氏の仕事も、多忙の様が早速報告されてゐます。  友だちもまた、竹内好が安保強行に抗議の辞職表明(5月22日)をして、新聞記事にも取り上げられる騒ぎとなりました。  これを愚行とののしる三水会の席上では、詩人は彼が親友なることを明かして肯へて座を白けさせてゐます。そして保田與重郎の友人として慇懃な誼を結んでゐる影山正治に対しても、「中共スパイ」との讒言を躍起に打ち消してゐます。  炎上する世論に油を注いだ竹内好の慰労会は、上京する同窓生歓迎会と兼ねて10月に実現しますが、思想より人情を重んずる詩人の面目が躍如する場面といへましょう。  そして新制大学の発足によって、昭和期をふくめて近代文学が研究対象になったことを前に述べましたが、文壇では現在進行形で、杉浦明平らによる保田與重郎・浅野晃・芳賀檀たち「日本浪曼派」グループに対する“戦犯”を断罪する罵倒が仮借なく行はれてをりました。  詩壇でも、戦後世代が主流となるにつれ、所謂「四季派」への批判が、戦争責任問題として取り上げられることが始まります。  これは「太宰治」や「立原道造」を卒論テーマに選ぶ学生が現れ、生き証人として彼らに助言を与へる一方で、自身戦争詩を数多く書いてきた田中克己にとっては(雑誌『日本浪曼派』同人ではなかったものの)、他人事ではなかったに相違ありません。  この年に刊行されたばかりの、戦後初めて保田與重郎を俎上に据ゑた評論集、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を、詩人は図書館から借りて読んでゐます(5月28日)。  感想こそ書かれてはゐませんが、芥川瑠璃子の詩集出版記念会(4月29日)の席上、「我々は四季派ではない」との弁をまくしたてた『山の樹』同人の鈴木亨に対しては憤ってゐたところでした。5月9日の日記に「「四季」派でなしの意味ほぼわかる」と書いたのは、果して鈴木亨の意図を理解したといふことだったか、彼の実作を見て愛想をつかしたといふことだったか、判然としません。が、『山の樹』は元来『四季』の兄弟誌として友人小山正孝も加はってゐた同人誌でしたし、当日は堀辰雄夫人の前での出来事だったこともあり、余程腹に据ゑかねたものとみえ、はるか後年には私にも語られたエピソードでありました。  かうしたなかで、杉浦明平とは渥美半島の郷里を同じくする影山正治は、学生運動の反米姿勢には共感するものの、主宰する歌誌『不二』誌上で、日本 浪曼派を全面擁護する反論をたった独りで展開してゐました。  戦後は右翼との関はりを嫌った田中克己ですが、自らの懺悔や戦死者の鎮魂をキリスト教に托す以前のこの当時、“国士”影山正治については感じると ころに従ひ、交際を忝くしてゐたといっていいでしょう。  日記を読むと『不二』は竹内好にも寄贈されてゐたやうですが、影山氏にとって、保田與重郎と竹内好と、気になる両極に位置する文学者とプライベー トで身近かった田中克己について敬重してゐたことは、日記の記述や『不二』誌上の対談から窺はれます。  また前年、保田與重郎同席の場で言葉尻を論はれ、絶交したつもりだった、学園同僚の歌人山川京子氏ですが、気性に拘りない彼女からの挨拶にたじろぎ、贈られた新刊『愛恋譜』に顕れた歌境には、保田與重郎への思慕が混ざってゐると呆れてゐる様子です。  いったいに、謝国権の『性生活の知恵』なる医学的How to啓蒙書がベストセラーとなってゐたこの当時(この本は映画化もされ、日本人の性意識を変へたと言はれてゐます)、文学者をめぐって色んな恋愛ロマンス(所謂不倫)があったのは、読書子が周知するところです。有名な檀一雄の私小説『火宅の人』のエピソードや、島尾敏雄が自身の修羅場を描いた『死の棘』の刊行もこの年でした。  笑談と皮肉このみしわが口がまことかたりしただひとりには。  食(し)も水もたたれてあればこのゆふべひとをおもひて眠らむとする。(1月4日)  田中家に於ける夫婦喧嘩の一件は前年解説に書きましたが、手術直前の最後の呟きにはかくのごとき相聞歌が記されてゐました。この年は出張での大阪旅行が叶ふものの、出発時と帰還時と、悠紀子夫人の動向を殊更書き記してゐるのは、部外者の視線からするととても可笑しい。(この出張では帝塚山短大の同窓会に出席したほか、途次、岐阜へも立ち寄って長良橋や金華山ロープウェイからの眺望を楽しんでゐるのが、管理人的には嬉しいところなのですが。)  もちろん日記に怪しい素振りなど書かれるわけはありませんが、性的好奇心については、『東洋性典集』『日本人の性生活』『Ananga-Ranga(インド性典)』といった蒐集に、その関心の一斑は表れてをり、殊にも日本では発禁・絶版が決まった『チャタレイ夫人の恋人』の、イギリスで初刊行された「無修正版」の原書をいち早く読破してゐるのには瞠目します。  次にひとごとについても記します。まづ日記に出て来るのは萩原葉子のこと。『果樹園』1月号に書いた「悪い恋愛」といふ一文は、葉子氏と山岸外史とのことを諷してをり、旧臘『父・萩原朔太郎』が刊行され一躍文壇デビューした彼女と父親との関係を、プライベートな思ひ出からつむいだものでしたが、葉子氏からは大昔の事とて「怒りゐず」との返信があったらしい(もっとも昨年初対面した彼女とのやりとりは一旦これで途絶えてしまひますが)。女性には貞操を強く求める明治生まれの詩人らしいところですが、出版記念会ではその相手と握手したと日記にわざわざ記してゐるんですね。  そして保田與重郎。彼はこの時期、京都鳴滝に新築した風雅な庵居「身余堂」にあって自他ともに隠者を任じ、文壇から超然たるスタンスを持し、マスコミからもスポイルされることによって、却って有志からは仰がれカリスマ性を強めてゆくといふ、特異な晩節の名声が形作られる過程にありました。  前年に『現代畸人傳』を新潮社から出し、中央文壇での再始動を果たした保田氏ですが、しかしながらスキャンダルもまた全く他人ごとではなかったことが、(山川京子女史もその“モテぶり”を全集月報で報告してゐますが、)下阪時の仄聞としてここには記されてゐます。これもまた私は直接詩人から聞かされましたが、気の置けない話相手だった前川佐美雄夫人からもたらされたものだったやうです。夫君が同席してゐたら話されなかったことだったかもしれません。  ことほど左様に国民の「戦後」は1960年代にも入ると、政治的関心だけでなく、これまで社会通念上タブーとなってきた性生活についても、好むと好まざると拘りなくその関心が掻き立てられ、日常生活をゆさぶるやうになっていったことが窺はれます。  旧制高校の青春讃歌も今は昔。佐藤春夫を敬老する会で師がやってきて言葉をかけて下さったのは、欠席した保田與重郎の消息を訊ねられたのでした。わざわざ記したのは面白くなかったからでしょうね。遺恨は保田氏が戦後詩人を三人挙げた際に「蔵原伸二郎、宮沢賢治それに伊東静雄」(『祖国』伊東静雄追悼号)と、自分が外された昭和28年に始まってゐますが、お互ひ腐れ縁とも思ってゐたかもしれないこの盟友に対し、田中克己は他の浪曼派残党のやうには仰ぐことなく、避けはしないものの近づくこともやめ、これからさき複雑な思ひを抱いて接してゆくやうになります。  それは翌年の昭和36年に、父・西島喜代助を、その翌年には親友の肥下恒夫を喪ふこととも、或ひは関係してゐるかもしれません(学芸上の恩師和田清は昭和38年、佐藤春夫と三好達治は昭和39年に逝去)。  まさに「メメント・モリ」や「モータリティ」を、我身にひきつめて観ずることになるのですが、下阪時には岐阜に立ち寄るのに岩崎昭弥氏に会はず、京都では親交の深かった詩人たちとも会はず、福地邦樹氏から「いよいよ皮肉が痛烈」になったと噂されるやうになった詩人。学者としても、安売りするやうになった博士号にはそっぽを向くことを決め、これら諸々の偏屈な事情が因となって欝病に陥り、キリスト教改宗への途へとつながっていったやうに、私には思はれます。  最後に。勤め人としては私学教員として、成城大学への入学の口利きを方々から依頼されてゐますが、具体的な入学斡旋の相場を関係者から耳にして驚いてゐます。古い記録ですが具体的な名前を伏せました。またこれ以降の日記に於いて、大学運営や教へ子のプライバシーに関する記述について、適宜省略させて頂く予定であることを予め申し上げます。 昭和35年1月1日~昭和35年3月12日 「東京日記 7」 25.9cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p2 【昭和35年】 1月1日 (※来翰賀状一覧名簿:転記省略) 8:00目ざめ、畠山六栄門氏よりの年賀電報受取り、9:00雑煮くひ、11:00賀状29枚受取る。 渋谷の父母(※次弟の大と同居)へと悠紀子、3女、史と出てゆきしあと、湿疹、盲腸炎、胃炎によりねてゐれば、13:00芳野清氏来賀。 居間に通ってもらひ、茉莉茶を饗せしのみ。『観潮楼附近』返却を受け、高見順2冊を貸す。 18:00、5人ともに帰り来り、「子ら大より小遣ひもらひ、健の義妹2人伊勢より来をり、明日悠紀子、和田賀代女史に紹介しにゆく」と。 1月2日 悠紀子、雑煮作らず山本の娘を和田賀代女史に紹介のため出てゆく。賀状39枚。うち17枚に返事かく。 午后の便にて人間専科社より薄謝1千円! 本田喜代治先生退官記念事業会より「1口500円を1月31日までに」と。悠紀子18:00帰宅。 1月3日(日) 晴。賀状5枚。ラマンチャ社より「10日新年会」と。 午后増村生、もなかを持ちて年頭の礼に来る。「3月まで勤める」と。堀口太平君来り「忙し」と。砂糖賜ふ。 からだかゆく肝臓侵され盲腸くさりし男ここにあり。容貌は けふ弓子に写してもらひし写真に見よ――猫いだき 愛情のもてゆき場所なく 『平家物語雑考』を写し直して『成城文芸』へとおき ほぼ90点以上つけし中国文学史の答案おきてゆかんとす 学生ら何を感じゐるか、さしも敏感もて鳴りし身も いまはわからず。学もしかなり。索倫達呼爾考(※ソロン・ダウール考)を恩師に 考へよといはれしも考へつかず(枕頭にノートはたづさへん 背いたまず、体痒からざる日、そを考へんと)。 かずかずの思ひ出あれどともに語らんひとは遠くにあり―― 妻子は近くにありてねむりたり。 1月4日 晴。田村春雄へ『南島資料』。田中保隆氏へ『果樹園』。手塚隆義、川久保悌郎2教授へ『東洋学報』送る。(依子、キモノ来て出勤)。賀状41枚。 『史苑』20の2来る。15:00『成城文芸』へと『平家物語雑考』清書し了る(44×200)。大源より年玉の手ぬぐひ来り、恰もけふ来し『俳句作家』に千川稚泉大源の味噌のこといふ。 悠紀子、2女をつれて出しあと16:00史に留守たのみて出、吉祥寺へ着けば17:00。 「えびす」にてrice-curry食ひしあと、吉祥寺医院にゆけば当直看護婦「(※手術の件)聞いてをらず」と。森Dr.に電話してくれ(待合室に『文学界』あり。林Dr.同人雑誌評を書かる)。1号室に入れらる。 入院 小学校の4年のとき、運動場の水溜りで滑って転んで右脛骨を折った。堺の山吹堂といふ接骨の上手に入院し、1箇月半かかって瘉った。その間に弟「泉」の死んだことは知らず。担任の肥田先生のお見舞の時には、ちゃうど教科書を見てゐてほめられた。 2回目、3回目の入院は、ともにスマトラのメダンの兵站病院で、2回目は原因不明の発熱41℃、遺言して入院すると、1本の注射で解熱、見舞に来た田中館秀三博士(この人はもう亡い!)に、現在の軍の衰勢は軍人軍属の精神力低下ゆゑと叱られた。 3回目は自動車事故で意識不明4日。意識がもどると枕許にパンツが置いてあり(誰が贈ってくれてやら)失禁して汚れたパンツを穿きかへると佐々木六郎、松下キクヲ画伯の見舞。その帰って行ったあと、付添のバタク少年をつれて支那人町を歩いた。病院では脱営と大騒ぎとなったさう。 今度は森Dr.に盲腸炎を見つけられ、やむなく一週間の入院となった。誰が見舞に来てどんなになるやら。 僕はまあ、温泉にゆくほどの些少の感情である。それほど僕は退屈であるやうだ。 ―――――――――――――――――― 丸にこの間の会の礼をいひ、500円の(※不足分)会費をとってもらふこと(西川、森は千円出し、我小銭ゆゑ500円しか渡さなかった)。 本を売る時は山本書店(神保町より専修大学前へゆく)店主にたのみ(羽田、松本(※羽田明、松本善海)などの諸友の紹介ありてよし)に。 学校の研究室にも2~300冊あり。学校の本数冊まじりをる故、図書館員に見てもらったあと、これも山本にたのめ。 日記帖は一まとめにし、紫の風呂敷に包みあり。八木氏にたのんである故、わたして清書し『果樹園』に分載のことを小高根二郎氏にたのみ、毎月1千円づつ掲載料を払うふこと(この項、八木さんと相談せよ)。 (八木さん清書の時、不明の人名地名事項は、中学高校のことは西川英夫、丸三郎、大学のことは羽田明、浪速中学時代は末吉栄三(大阪城東工高教諭)、文学方面は肥下恒夫、小高根二郎両氏、帝塚山学院のことは西宮一民、滋賀県短大のことは井上多喜三郎、岩崎昭弥諸氏、東洋大学のことは齋藤晌先生、成城大学のことは栗山理一、池田勉などの諸先生にたづねたまへ。これらの諸氏は住所録にアドレスをしるす。丁寧にたのんで下され)。 子供らのことは心配せず。すこやかにして神経質をやめなされ。 借金なし(丸への500円)、財産なし。(聖心女子大紀要に書けざりしこと残念、海老沢教授に謝し玉へ)。 恩師和田先生、諸友、諸生の幸福を祈る。 始終苦(49)の春に会ひたりおのづから。4日19:50分 ―――――――――――――――――― 悠紀子1時間して近くの友より浴衣と灰皿とを借り来る。 ―――――――――――――――――― 著作目録は八木さんに打ってもらったタイプと本棚の下の抽斗にあるcardにしるす。この関係の本はかためてのこされよ。 ―――――――――――――――――― Leon Zolbrad氏の『世界恋愛詩集』に(※自分の詩の英訳)のると『日本歌人』の正月号にのせしとは、われも未だ見ず。平凡社の『アジア歴史事典』にも数項目のこれり。 ―――――――――――――――――― 成城の試験は前期の採点をエンマ帖にしるす。文化史のみ前期試験せず、採点なし。立教の3生には清太祖ヌルハチ年表を課す。聖心女子大は2classとも前期試験しあり。 いまひとたび國のまほろば畝傍山みむと思へりおもひ出ゆゑに。 いまひとたび若草つみにゆかなむとわれは思へり神しゆるさば。 わが子らしまるき目をもち口とがらせよひよひごとにいさかふらんか。 子らのためのみにし生くといひしひといまもさなりとうなづくらむか。 わがほそき体のうちの五臓六腑みなみなくさりあるがかなしも。 笑談と皮肉このみしわが口がまことかたりしただひとりには。 食(し)も水もたたれてあればこのゆふべひとをおもひて眠らむとする。 1月5日 9:30投薬、10:00悠紀子来り、バリウムのまされ森Dr.見しところにては胃に異状なき様子と。ついで浣腸。 13:30~14:30盲腸摘出と。やがて呼ばれて手術室に入り、右手縛られ左手より2人の看護婦輸血する中を森Dr.ともう1人のDr.白衣にて足もとに立ちしのみをおぼゆ(全身麻酔なりし)。 担架にて40分後病室に入れられ、あと悠紀子と問答し、湖東の大阪より来るやいな等ききしと。 21:00悠紀子帰宅。あとイモワタリ附添婦、終夜わが叫ぶたびにモヒ注射しくれし也。 1月6日 11:00より片岡附添婦来り、廻診の森Dr.「あけてみたが胃に異状なく切らなかった」といふ。モヒ、痛みどめ薬など交互に施されてすみし。 1月7日 悠紀子来る前、父母来り、あと柏井尚子みかんもちて来る。 1月8日 小野和子の映像宙に浮ぶ、ふしぎ。隣室の早大英文4年女生われを笑ひゐると。歌うたひ口笛吹く。 森Dr.宿直らしく夜来りて伊藤佐喜雄とのこといふ。悠紀子に丸家へ「(※長男で教へ子の)重俊よこせ」の手紙もちゆかす。 1月9日 父来り、母「大より」とtransistor(※ラジオ)もち来る。灌腸し排便す。 千草花もち来る。田中俊子、すみ子母子来り、森Dr.の検診受く。すみ子成城大学の坂本紘子副手と青山の同級と。 丸夫人、果物とice-creamともちて見舞はれ「重俊、煦美子ともに旅行中」と。 池田勉氏へと『成城文芸』の原稿托す。父母に退去もとめ母怒りて出しあと、青木陽生来り、田中母子と話す。バカな男なり。 悠紀子の友2人来り、Castilla1箱たまふ。悠紀子「家を見つけし」といふ。 1月10日(日) 悠紀子、依子来るまへ春名一満君飲物1箱もちて来り、八木叔母の命にて来しと。 悠紀子来り、昨日の家ことはられ、向ひの未亡人の家に4間1万1千円、敷2にて出来しと(吉祥寺2856中西)。 一満君帰りしあと廻診、「歩け」と。 丸来り「この間下阪、川崎に会ひし」と。森Dr.への謝礼相談にゆきくれしも帰宅と。 夕方までに賀状の返事45枚かき、八木嬢への礼状書く。(悠紀子、登戸へ「前金放棄す」と速達)。 寿一(※西島寿一)、嬢(※齋藤工の母)をつれて来り、写真とり果物一籠をおきゆく。この日階下の便所へ通ひ疲れる。(隣室の田村嬢、退院前に会ひ本位田重美氏令嬢と同級とたしかめる)。 1月11日 父来り「悠紀子より電話、京病気ゆゑ、来るのがおくれる」と。蒲団包みもち来る。母と大に追放されし也。 午食にpão(※パン)食はせ。、船越こせん叔母への途かきて与ふ。 この間、森Dr.廻診、抜糸あすらし(8:40成城大学に電話し前田教務課長に今週休講を届けし)。 悠紀子15:00来り、城平叔父の速達をもち来る。「10日帰京の万美子と意見一致せざる故、月末会ふまで就職運動を待て」と。「承知」の返事速達す。 悠紀子、中西家へゆく。1時間して帰り来り、「敷金1.1万円置き、喜びて入れられることとなりし」と。 夜になり、万美子(※田中万美子)来り、「相手の石川島造船所所員、父と会ひ、心配さすこととなりし。帝塚山小学部には森院長に会ひてほぼきまりゐる」と。「考へさせよ」といひて帰らしむ。 1月12日 よべ腹張りて苦しかりし。悠紀子来るまへ廻診、抜糸すむ。 悠紀子、太平天国関係書みなもち来る。明日来ずとよしといふ。帰りしあと母と千草来り、母、大阪ずし2本、千草juice2本呉る。この間田中俊子姉と陽生と話し、3間貸すとの話なりしと云々。「2月11日の父の生誕祝に補聴器を贈れ」と母。 皮膚科のDr.に呼ばれ湿疹の薬かはる。成城大学庶務課に電話し、看護給付用紙を送ってもらふこととす。 坂根生来り、八重樫・四条2生来り(文化史一同よりと缶詰)、坂根生に17日転居の手伝たのむ。 やがて正平、万美子姉弟来りしゆゑ、これにも手伝たのむ。 坂根生20:00去り、姉弟21:00去る(※14文字略)(坂根生、果物缶詰2ケもち来りしを、姉弟にもちかへらす)。 1月13日 けさ快調。立教大学教務課に電話し、休講と転居届出づ。森Dr.午后まで来らず、来しと星城高校入学の話すれば名簿もちゆく。 夕方、中沢、浅賀、村田の3生来り、花呉る。「尼さんのおなら(※フランス菓子)」のドイツ語しらべつかず。 けふ海老沢有道氏に紀要の原稿ことはる。出校来週早々もむりらしきこと今日はじめてわかる。 1月14日 △ 9:00成城大学庶務課に電話、「用紙すでに送った」と。高尾嬢に電話すれば「届ける物あり」と「四条・八重樫生に托せよ」といふ。「大阪の住山生より電話ありし」と。ついで松村達雄氏より「明日来る」と。 悠紀子来り、片岡女に6千円払ふ。あす掃除に来る往き来りに寄れといふ。『果樹園』48もち来る。堀ノ内歴速達にて云々。 午后を下痢せしため2食pãoとす。Cheezeうまし。缶詰を看護婦らへともちゆかす。 19:00林富士馬夫妻、菓子もちて見舞に来らる。 1月15日 9:30悠紀子が弓子、京つれて来るまで床にゐる。東洋文庫より抜刷20部その他。太田陽子夫人よりclass会の問合せ。すぐそれに返事かく。 成城大学へ試験・reportの別の届出す。父母来り、新居見にとゆく。正平来り同(けふ大江の嬢の誕生祝と)。 四条・八重樫2生成城大学気付の賀状4枚と購買券もち来る。 午后弓子のみ残して帰りしあと、松村達雄君来り、すぐ西保泰男氏(※大保香料株式会社御曹司)。「岸町を訪ねききし」と自動車にて来り、香水1瓶賜ふ(松村君カステラ?)。そのすぐ帰りしあと(近々Franceへ2度目にゆき永住やもしれずと!)、杉浦夫人来り、いろいろと杉浦(※故杉浦正一郎)の病状はなす(Cyclamen1鉢をたまふ)。18:00松村去りゆく。 みなひとの知りし秘密の内臓と心のきずといづれか重き。 弓子19:00に帰らしめ、20:00丸に電話かければ「森Dr.に(※御礼の件)ききおかん」と。 1月16日 悠紀子8:30に来るまでに起き、朝食をのこすのみとなる。 帰らんとするところへ俊子姉来り、三郎兄すぐ出てゆく。片岡附添来ることおそく(成城大学教務課に月火水の休講を届出づ)、田島、高井、鈴木、野口の4生またCyclamen1鉢もちて来る。 その帰りしあと市野など隣組来りさわぎゆく。俊子姉の手術15:40より16:20までかかり、そのあと森Dr.に会ひにゆけば帰宅と。 けふ森田宏子夫人、濠洲より年賀状、これが賀状の最後ならん。 けふ寒く日中2℃と。冷雨降る。23:00眠れぬまま賀状の分類す。 帝塚山短大の教へ子 104? 成城大学 30? 浪速中学 12? 立教大学 3 東洋大学 2 滋賀県短大 2 聖心女子大 1   154 1月17日(日) 俊子姉好調と。9:00前、母来り、のり巻呉る。三郎兄、ミツ子つれて挨拶に来る(青山学院と明治学院志望と)。 10:45万美子来る。Cyclamen1鉢もちゆかす。11:30坂根、弓子、京来る。Cyclamen1鉢またもちゆかす。 加藤とみ子夫人より歌集と詩集、住山重子より「今度は会へず」とのハガキもち来る。 12:30悠紀子、依子、服部三樹子氏をつれて来り、「丁度来合せし」と。「顔の相かはり良くなりし」と。 15:30坂根生と正平と来り、12:00自動車つきしと。待つ中、中華そばとり、服部女史甘い物とCyclamen1鉢と買ひ来る。 18:00やっと悠紀子ら来り、万美子先に帰りしと(母、transistorもちて去る)。母、来かたおそしと弓子ら叱られしと。 服部氏去りしあと20:30荷物もちて去る。京、弓子あす休校と。 けふ風呂たてられざりしと。(※岸町では)猫捨てて来、(※吉祥寺の)中西家、犬2匹すてしと。家賃13日分返され敷金返却受けしと。 けふ来し便にて「満蒙史料をよむ会」第2,4水曜日11:00と。西村公晴氏より「わが歌3首『風日』にのせた」と。 けふ森Dr.、22日17:00和田氏と会見ととりきむ。20:00skiiより帰りし咸子夫妻わが室にも挨拶してゆく。 1月18日 晴、悠紀子8:30来り、よべ新居寒かりしと。10:00森Dr.来り診察、挨拶して退院となる。 近くの遠藤商店(和田夫人不在)に、火鉢と灰皿と返却にゆき、出て吉祥寺2856中西家まで歩く。 未亡人在宅、挨拶し、本すこし整理し、父来りしを悠紀子、教育委員会へゆかしめれば、父帰りゆく(けふ病院へ1,600余払ひしと)。 東博氏の歌集『蟠花』受取る。弓子18:00帰宅。転居届書きてわたす。京、5年4組に編入ときまりしと。 中西家の子らのわかしくれし風呂に入るや、依子帰り来る(20:15)。通勤1時間45分かかりしと。 1月19日 10:00出て(京、井之頭小学校へとゆく。担任星野先生は法政大学東洋史出身と)、転居通知あつらへしに1,260と(500円内金としておく)、21日夕方出来と。 吉祥寺医院へ寄り、調薬のまに古本屋にて『千一夜物語11(60)』。吉祥寺より下北沢まで20分にて(※成城大学まで)結局1時間近くかかるらし。 事務に届を学長あてにすべしと教へられ、講師室にて諸氏に盲腸炎の説明し、『果樹園』くばりrice-curry食ひ、栗山部長に教授会欠席いへば「学科の廃止につき出よ」と。 大藤教授に代弁せしめることとせしもつかまらず、今井氏に説明して出る。けふ、Cyclamen1鉢は650~700とわかり気の毒。 梅ヶ丘下車。和田先生お訪ねすれば、わが論文まだよみたまはず「川久保ほめてゐたよ」と。古稀記念論文集出ると。明日の李朝実録抄の会のこと申上ぐれば御承知。 出て吉祥寺にてまた古本屋4軒見て矢野仁一『動かざる支那(30)』見つけてうれし。 引越し前に来しハガキ2枚。川久保「13日ごろ在京。盲腸炎入院きいた」と。海老沢有道教授より喪中欠礼と。夜、帝塚山短大の賀状分類すれば1回1、2回18、3回9、4回15、5回17、6回30、7回13、8回1なりし。 (けふ帰りし時、平田聰子2女つれ林檎もちて見舞に来をり。森Dr.よりミツ子に托せしとの虫垂炎の診断書をもちくれし)。 p3 1月20日 曇。9:30出てお茶水。神保『昭南日本学園(20)』なる愚著買ひてのち、橋上に並んでbus待ち、東大東洋史研究室にゆき転居とどけしのち3階の研究室にゆく。 11:10より李朝実録抄の会。神田信夫教授の読釈。10人位にて三上氏出たり入ったりす。 13:00すみて出、田村にて昼食、Hamburg-steak(180)。地下鉄本郷3丁目より池袋。西武dept.に宮崎女史訪ね、転居報告す。 『日本歌人』あす出来上る由。出て入場券買ひ西口へ通り、taxiにて立教大学。12月分手当4,140もらひ、教務にreportとする旨云ひ、久保生の受験みとめしめ、研究室へゆけば山田助手「抜刷岸町へ送りし」と。 転居届け、井上幸治氏のゐるを知りてともにゆき18,9年ぶりに挨拶す。「4月より神戸大学をやめ立教の専任になる」と。うれし。 手塚教授に転住の挨拶し、裏通へ出れば中野行のbusあり。古本屋休みとわかり、次のbusにて中野駅北口。 吉祥寺南口へ出て『朝鮮民族の歩み(70)』『東洋性典集(250)』買ひ、coffeeをstandでのみ(30)て帰宅。 聰子また子をつれて来り煉炭呉る。 けふ吉祥寺医院へやっと看護承認申請書用紙来り(13日出し)しと。(中野より宏池会へ三水会欠席と転居とを電話す)。 太田陽子夫人より吉祥寺宛の第一便。 1月21日 晴。本の整理してのち、吉祥寺医院にゆき、森Dr.に膏薬はがしてもらひ(明日松村達雄氏も呼ぶと)、病室に俊子姉見舞ひ、出て中野下車。 空腹にてとびこみし料理屋寒く、ライスカレー食べ、堀口太平氏に15:00訪問と電話し、busにて池袋2丁目下車。古本屋見しあと研究室にゆき、『史苑』の誤植訂正を提出。講義にゆけば3名とも出席、「ヌルハチ年譜」を講じ、14:00誘ひ出て喫茶。東口よりbusにて江戸川橋。堀口氏に「僕の新年」の印刷たのむ。土曜に出来と。Chocolate坊やにとおき、角川書店にゆかんとせしが、疲れて新宿行のbusにのり西口より乗車。高円寺下車。赤川草夫氏に移転通知にと「赤ちゃん」に寄る。この間、松井氏来て噂せし由。 疲れて吉祥寺。移転通知300枚出来あり。1,200にまけてくれし。帰れば柏井尚子、田中正平(城平叔父29,30のどちらかを選べと也。竹田龍児氏病欠と)。製本屋わびかたがたCrawfurd『A descriptive dictionary of the Indian islands』もち来りしと。 山中タヅ子より「また婚約解消」と。わが太田夫人へのおしゃべり咎め来る。 坪井勝也より見舞。『墓標』の出版記念会を再び30日にと。夜(※新居での)入浴快し。 (国電にて幼方直吉氏と遇ひし。西川より依子に電話、見舞いひ夫人まだ入院と)。 1月22日 晴。寒し。11:00までに転居通知100枚とし、noteこさへずに出て、三田村、今西、中村の3教授に抜刷送り、定期券買ふ(1,300)。 渋谷にて雲呑麺昼食とし、聖心女子大へゆけば入口に田中保隆教授、ひとと話しをり(あとにて中村光夫ときく)、転居通知と『果樹園』とわたし、海老沢氏にも会ふ。 1限講義出来ず、試験問題を「Tatarについて」とす。 2限は休み中に予習し(教務に移転届し、青山定雄氏にも遇ふ)、やの了へれば14:30。試験問題は「忠王李秀成の一生」とす。 出て広尾より都電にて信濃町、角川書店へゆきHeine15冊買取る(840)。あと追ひ来て『図説世界文化史』を送るといふがありし。 大久保にて下車してcoffeeのみ、吉祥寺に16:30着き、森Dr.不在ゆゑ、俊子姉の室へゆけば悠紀子をり。俊子姉明日退院と。 17:00外科へゆけば森Dr.、ややして和田Dr.、松村達雄君の来会を17:30まで待ち「鳥忠」といふへゆき雞の水煮ごち走となる(6千円余)。 ■■に松村君と会ひ西潟高校長に二人にて会ひにゆくこととなる。20:30散会。 Taxiにのりて下りがけ財布を「鳥忠」に忘れしに気づく。中に研究室の机の鍵あり。 けふ坂根生来り、渡辺三七子の見舞預りしとて、林檎もち来りしと。 けふ電気水道の工事すみしと。夜、ねむれず転居通知100枚を書き了る。時に0:30。 1月23日 7:00起き飯くひ、ひげ剃り8:00吉祥寺より井之頭線にのれば混む。8:40着き、欠勤届出し、東洋文化史15分漫談(2月6日終了と)と、鈴木生に全快祝のHeine4冊わたし、会計にてsalaryもらひ(差引3万円余!)、庶務へ看護願出し、PTAよりの見舞金5千円受取る!田中久夫氏まち、今井氏より報告きき、3年生にまたHeine7冊わたして出、田島、鈴木2生を喫茶にさそひしも店あきをらず(製本代250なりし)。吉祥寺まで来て「鳥忠」にゆけば「財布は森Dr.に届けし」と。礼いひて出、クセジュ文庫『仏教(80)』買ひ、森Dr.より財布受取り、 干芋かひて帰宅。 芳野清君より見舞状。桜井里江子とは中田富子なりしと鬼怒川の旅行先よりの便りにてわかる。 山本夏津子より「子供うまれし」と。立教史学会より写真。 15:00また出て山吹町へゆけば堀口太平君不在にて「校正せよ」と。むっとして「まかしたと云ったのに」といひ、1時間後を約して早稲田。古本屋見しも『梅花一両枝(50)』『絵本西遊記(30)』買ひ、また江戸川橋。鰻丼くひ(150)て17:00ゆけば堀口をり、まだ乾かざるを渡され、値段きけば300と。500置きbusにて四谷見附。 直行して帰来。けふより「読売夕刊」入る。 1月24日(日) 寒し。悠紀子、立教女学校入学のため柏井尚子と小金井へゆく。帰り来て寒し寒しといふに不快。八木氏、鍛治初江2氏より見舞。畑山博氏より電報「オタノミアリダンワタマヘ」と。悠紀子にゆかせれば立教の入学のこと。 上田阿津子より「春また来る!」と。坂根千鶴子16:00来り、神風連を公演する故参考書かせと。夕食赤飯炊きしを食はせport-wine2杯のみて18:30帰りゆく。 1月25日 寒し(夕刊にて吉祥寺-7度と見ゆ)。8:30出て成城大学。途中郵便局にて切手50枚買へば礼云はる。高尾嬢手伝はせて貼り、これにて賀状すむ。 LⅢに答案返し、清代の文芸すませ、rice-curry食ひ坂根生の電話きき、明後日16:00高野Fruits-parlourで会ふことと し、『竹崎順子(※徳冨盧花著)』見つけしのみ。 出て下北沢、古本屋にて紙入れ忘れ来しに気づき、鴎外『分身(200)』のみ買ひ、畑山夫人に電話し、立教中学の入学斡旋効なからんといふ。 帰れば紙入れあり、悠紀子王子へゆきて帰らず。押入れの整理ほぼすむ。白井紘史より岸町へハガキ(20日帰京せしと)。 史よりハガキ「皆元気と思ふ」と。(※術後の)我への懸念示さず! 昨日、火野葦平心臓麻痺(※報道)にて死に(52才)、けふ読売賞の詩歌部に村野四郎受賞。保田與重郎の歌最終までのこりしと読売に見ゆ。依子22:00帰宅。 1月26日 7:45家を出て8:40成城大学着。山本文雄氏より「転居届ついた」と。短2Aに答案返す。けふはおとなかりし。 30分して出、前田教務課長と話し、三井物産社員として昭和11年より16年までSumatraにあり、小山いと子女史を識ると。話すところへ高橋邦太郎氏、卒論の面接にとお越し。腹へり「すみれ」へchicken-rice食ひにゆき満腹、苦し。 松村達雄君と会ひ、その来学年出講きまりしを傍聴。出て(山田俊雄氏に柴祭、燔祭についてきかれ、ついで瓶子の首落つの故事(※鹿ケ谷の陰謀)について訊ねらる)、下北沢より久我山で下車。SS書房なるを見しも何もなし。 吉祥寺ガードの下の散髪屋(180)。帰宅して川端直太郎、硲君2氏の転宅祝賀。上野、佐々木2生赤倉よりのヱハガキ。西島寿賀子より寿一君のとりし写真と、母の讒訴の手紙(けふ悠紀子にも八郎夫人より同種の手紙来りし)見る。 『不二』に杉浦明平の日本浪曼派(主として保田の)の攻撃に対し影山氏の反撃のりをり。夜、入浴。 (けふ鍛治初江氏に手紙かく)。東大東洋史研究室より「和田先生古稀記念論文集の諾否と題名を2月末までに」と。「400×20以内」と。 1月27日 下痢大したことなけれど鈍痛。年賀ハガキ5等、筒井護郎、小山佳子、三田村泰助、鈴木正義、天野忠、前川佐美雄、早川敏一、井階房一、春名一満の諸氏のハガキ。郵便局へ寄りて登校。 史学研究法の予習せしも旨くゆかず。野田宇太郎氏「吉祥寺の無名会(※不詳)へ入れ」と。若菜弟に云ひて龍土会のprintもらふ。 阿部知二氏とも会ふ、「多忙」と。sandwich食ひ、今井氏と学科の打合せして出る。丸重俊来てをり「中野清見と父、きのふ23:00まで会ひゐし」と。煦美子、ゆみ子にも遭ふ。 16:00高野へゆけば坂根生をり、『竹崎順子』と『日本歴史』と貸し、桜木町へゆくといふに別る。 森Dr.に寄り中野の来るやもしれぬこといひ、地図かかす。 けふ悠紀子、和田統夫へゆき賀代氏よりの鏡台もらひ来しと。藤井陽子夫人岸町へハガキ。塩見薫、浅野晃、徳永ユリ、小高根二郎の諸氏より吉祥寺あて。 『日本歌人』正月号来る。京都大学東洋史研究会へ転居通知。 1月28日 寒し。前川佐美雄氏よりハガキ。中野清見の本2冊もちて森Dr.に寄る。会はず。高円寺下車。三和荘へゆきしに万美子姉弟をらず、名刺に「29日夜来る」と書きて置く。中野まで歩き疲る。busにて池袋2丁目。1月分salaryもらひ、手塚、清水の2教授に挨拶す。 もはやおほかた休みらし。3生にNurhaci年譜講じ、「3月15~17日の卒論面接までに我家へ来よ」といふ(久保生大学院に残るやもしれずと手塚氏の話なりし)。 出て古本屋見、中野昭和通りにて下車。また古本屋を見、『佐倉宗吾』2冊を丸へと買ふ(80)。 帰れば西宮一民君「(※帝塚山学院)学長候補1回卒業の理博」と。山根忠雄君「賀状おくれた」と。 城平叔父「29日朝着京、30日離京の間にぜひ会ひたし」と。 1月29日 9:00朝食、聖心女子大休講ときめ、本の整理ざっとすます。今西春秋氏より「抜刷受取った」と。 12:00出て亀井勝一郎邸にゆき夫人に転居いふ。ついで竹内好を訪ぬれば在宅。「しらせれば見舞ふのに」と。『近代の超克』呉る。日本浪曼派を論じをり(※筑摩書房『近代日本思想史講座』第七巻「近代化と伝統」所載)。 歩きて一旦帰宅。16:30夕食すませて(武田富子、笠野芳子より見舞)、出て高円寺。丸邸へ18:00つき、礼いひ本を贈る。 それより歩きて三和荘。叔父をりて夕食するところ。いろいろ聞き、(※恋愛の話)反対なれど万美子ベタ惚れなり。牛肉の味噌漬もらひ、万美子にbusの停留所まで送られ荻窪。帰着22:00。 1月30日 よべ少しねむれずport-wineのみし。8:20下北沢にてまちがへて急行にのり向丘遊園前までゆき引返す。富士を見し。 「朝鮮の文化なにもなくなりし」といひ、図書館下にをり、田中久夫氏に会ひしあと出て12:00まへ帰宅。 金沢良雄「2度Wienにゆきし」と。京帰りしあと悠紀子と森Dr.に礼(小切手1,000)にゆき、夫人に会ふ。ついで成蹊前よりbusにて三鷹。浅野Dr.にゆきしに、これまた夫人。別れて古本屋2軒を見、一旦帰宅。 清水文子、山内和子(呵々の会作りしと)、萩原葉子((※出版記念会の)写真。(※『果樹園』に書いた)「悪い恋愛」に怒りゐずと)のたよりを見、16:10出て資文堂『史学要論(30)』Rilke『Ausgewählte Gedichte(※選詩集)』2冊(300)買ひて井之頭線にて渋谷。地下鉄にて新橋、駅2階の日本食堂に中村漁波林『墓標』の第2次出版記念会にゆく。著者、村松正俊の外、『詩人連邦』の同人そろひしを見しも村松氏話さず。田中冬二氏と話す内しんどくなり、野長瀬正夫氏より「見ちがへた」といはれ、近藤東を見しも話さず。 1時間余おくれて開会。面白くない顔をして人々の話をきく中、隣に来て坐りしは勝承夫。ついで木山捷平来り、これはなつかしく、20:00になりしゆゑ中座。幹事の安西均(朝日やめて帰京と)、木原孝一に慇懃に挨拶されて帰宅。 1月31日(日) 晴。暖し。京の担任野村先生より旅費積立返却。高松直子より「呵々の会」のこと。松本善海君へ「来るに及ばず」とハガキ。羽田、松本、久保3同級生に抜刷。加藤とみ子夫人に詩集と歌集の評。 午后悠紀子京また聰子へゆく。 2月1日 9:00出て成城大学、中国文学史の最終時間なり。相馬弘来て史を見す。川上恭正に「藤野先生小伝」よめと『中国文学報4』貸す。 伊達教授に会ひにゆきしに来ず。report提出者少数。不快にて出て吉祥寺へ帰り、森Dr.訪へば夫人「中村といふ夫妻」来たと云ひしと。 和田夫人けふ成城へ願書出さざりしと。明日来ることとなる。(けふ正平、坂根生偶然ひる前電話かけ来し) 帰れば悠紀子をらず。立教大学史学談話会より「10日13:00~15:00第2食堂で卒業生の送別会」と。 咲耶より見舞のハガキ。千川義雄のハガキ。和田節子氏より海苔2缶、見舞ならん。野村先生へ礼状とHeine。 2月2日 9:00短大の中国文学。最後の講義といへばわりあひ静かなりし。(※52文字略) 昼食して松村君待てば来り、10日まで多忙と。来週けふ打合せすることとし『歴史手帖(80)』買ひ、うろうろ時間つぶし教授会。 今井氏欠席、組合の改選あり、われ5票にて次点、浅沼氏再選、大宮氏新任。大藤、池辺2氏と来年度学科の相談す。 帰り下北沢下車。古本屋見て「Penguin」にてcoffee。吉祥寺にてまた古本屋見しも何もなし。 和田夫人より送り状。堀ノ内歴君よりも何か送りしと近鉄dept.より。 西川英夫より「夫人近々退院」と。鈴木正義のreportに無礼の手紙つく。 2月3日 悠紀子、杉浦夫人に礼にゆく。竹田龍児氏「伝研病院に入院」と。丹羽千年よりハガキ。 『果樹園』ら500円と「尼さんの…」を送る。和田節子夫人へ礼状。 2月4日 晴。暖し。湿疹かゆく憂鬱にて家居。依子も疲れて欠勤。 山口広氏より見舞状。中沢晴代より送り状とreport。山本氏の長女に就職ありし模様を子供手紙預り来る。 悠紀子、高円寺へゆき、なかりし丹前を吉祥寺で買ひ来る(1,100)。 2月5日 晴。9:30家を出て浅野建夫君を訪ひ、湿疹みせれば三鷹の松崎医院を紹介さる。すぐゆきて薬塗布、注射受く。酒や刺戟性の食物不可。睡眠剤を打つゆゑ午后来よとのこと也。 一旦帰宅。堀内歴君の見舞状を見、11:00出て聖心女子大学。田中保隆、海老沢の2教授に会ふ。そのあと助野助教授より「海老沢氏立教大学専任となり田中保隆氏講師となりし」ときく。めでたし。 2時間すませ(Ⅱは西太后、Ⅰも訳でなく梗概とかへし)、都電にて並木橋下車。大にゆけば父母と3人をり、11日17:00より喜寿をも一度と。 出て古本屋見しも何もなく帰宅。堀内君より奈良漬来り、小高根二郎君より「『果樹園』2月号休刊、50号より月末締切」と。不快。 堀内歴君へ礼状書く。 2月6日 よべ痒く睡眠不足。9:00前、成城大学へ登校。東洋文化史に「Mongolsの文化」講じ、年度終りとなる。 田中久夫氏に会ひ、土曜出校が都合よしときく。林Dr.に電話すれば「午まで在宅」と。 すぐ出て新宿でのりかへれば矢野昌彦に会ふ。池袋で別れbusにて林邸。Rilke2冊贈りて全快祝とし、大塚まで歩き、山海楼で炒麺食ひ、都電にて畑山氏にゆけば在宅。「3月末にて大島豊をやめささんと思ふ」と。 茶菓子ふるまはれて出、池袋までbus。宮崎智慧氏に会ひ、東博の出版記念会をきけば「知らず」と。 出て荻窪下車。古本屋見つからず。また国電にのりて帰宅。 古田房子より「武居豊子の家焼け父焼死。なぐさめよ」と。18:00夕食すまし松崎医院にゆく。帰りて炬燵にて同じく痒し。 2月7日(日) 晴。暖し。朝食後また一眠りして覚めれば悠紀子、寿一宅へ祝返しに出しあと也し。 11:30松崎医院へゆく。睡眠前1時間にのめと薬渡さる。太宰治の家見んと近くまでゆきしがわからず。 帰れば羽根弥与子と山川京子女史のハガキ来ありし。悠紀子21:30帰り来り、叔母また狂人となりゐると。 2月8日 晴。暖し。10:00成城大学へゆき中国文学史の試験37名。すみて村田「report受取るや」と。「受取らず」と答へ、今井氏と教務課長に会ひ、来年度講師依頼の件きまる。 出て経堂ですし食ひ、小高根太郎を訪ふ。14:00出て帰宅。 『民間伝承』来をり、明治書院より税申告書。夕食後松崎医院。夜、加藤隆子よりreport! けふ山川京子女史に遇ひ挨拶す! 2月9日 8:30成城大学。短大2年の試験をす。すみて松村達雄君待つま、成城園へ炒飯くひにゆき、成城堂で『明治維新の舞台裏』、角川『森鴎外』買ひなどして時間つぶし、阪本短大長(※坂本浩)に池辺君の来年度の担任ききにゆく。松村君午すぎても来らず、1時間すみて教務へききにゆき、欠とわかり帰宅。途中『千夜一夜7』を見つけて買ふ(50)。夜、松崎医院へゆく。次第によき模様。 けふ19.3℃と異常に暖かかりし。△ 辻芙美子生よりハガキ。平塚生より「13日16:00久保、高田と来訪」と。けふ西川英夫に電話かけしも不在と。 2月10日 平塚生、承知とハガキ書き、9:00出て東大。桑原論叢の浦廉一『漢軍鳥真超哈』見てのち李朝実録抄の会。 田川孝三氏来られ、後藤均平君の読み神田信夫とは比べものにならず。次回24日。 12:00すみ、本郷3丁目より地下鉄にて新宿。下北沢にて下車、中華そば食ひ、漢文の試験にまにあふ。 すみて吉祥寺へ帰り、森Dr.に会へば「今夜20:00自宅へ来よ」と。小高根二郎君より「同人費受取った」と。 住山重子より見舞。夕食後、三鷹の松崎医院、塗薬もらふ。一旦帰宅。 森Dr.にゆきて「和田裕君、日大世田谷高に合格、されど成城たのむ」と。松村達雄君に電話すれば「土曜、西潟校長に連絡し日曜以後の面会申込め!」と。夜、疲れて眠れず。 2月11日 阿南惟敬君より「講義に自信なし教乞ふ」と。渡辺三七子より「今年のあきか来年の春に結婚の話ついて!」と。 民俗学研究会より「20日(土)15:00~20:00向ヶ丘紀伊国屋にて羽入田・重久2生の送別会」と。 立教大学のreportの採点す。久保97、高田95、平塚91.平凡社アジア歴史事典編集部に「蘇四十三の乱」書かずと返事。 16:40京の帰宅まちて出、松崎医院。Dr.「昨日は税務署来り不快にて物も云へざりし」と。悪酔の薬賜ひし。 出て渋谷猿楽町に17:20着(※父、西島喜代之助喜寿の祝)。健来てをり、青木夫婦、寿一母子とにて10人となる。 われ酒のまず。叔母の寿一にいふこと一々勘にさはり気の毒。例へば「これのみは西島の筋でなき故、頭悪しと寿一のこと嫁が云ふ」と。 19:00その寿一君に写真とってもらひ、吉祥寺駅よりtaxi(80)にて帰宅。京すでに眠りをり。 2月12日 曇。寒し。〒なし。11:00出て聖心女子大学。海老沢教授「立教大学へ転任のため収入減ずるも母校であり史学科の創設者なる責任をとって」と我にいふ。われ「公私ともにめでたし」といふ。 Ⅱの講義にゆかんとすれば稲富生「家族のアメリカ行を送りにゆく」といふ。他にも欠席多し。 Ⅰの試験3月1日、Ⅱは26日、ともに13:00より。 採点報告は3日16:00までにすと徳富女史にことはる。帰らんとすれば「先生」の声あり。珍し。ともに坂下りて別れ、寒がりつつ帰宅。 松崎医院へゆきて夕食。その後はじめて「望の湯」といふへゆく。広くきれいなれど熱し。(けふ帰途、吉祥寺医院へゆけば山本看護婦「森先生、お友達と喫茶店」と。ゆき見しに見当らざりし!)。阿南惟敬氏へ「来週水~日までに来よ」と返事。 2月13日 成城大学へ東洋文化史の試験にゆく。池田教授補助としてあり。城田信夫(ⅡC)noteを写真にとりてもちをり、よめず中途で出てゆく。他にnoteなきが2人。1人は出てゆき1人は友のnote(これはcopyなりし)を借りゐて池田氏より注意受く。 すみて百瀬・高田2教授と話せしあと西潟高校校長に会ひにゆき、あす在宅とききしあと、森良雄君より電話「むりをしないでくれ」とのことなりし! 松村達雄君に寄りていへば、むりする気はなかりし也と。 吉祥寺医院に寄れば森君手術まへ。「夜ゆく」といひて帰り、川久保より抜刷の受取(18日転宅後の岸町へゆきしと)見てをれば森君来り、入れば必ず成城へゆくとのことなりし。 そこへ高田、久保、平塚の3生来り、平塚生、白鳥きみ子夫人の手紙と菓子と預り来る。19:00まで夕食せしめ、beerのます。高田生、清水へ帰り静岡へ通ふと。送り出して松崎医院へゆく。 2月14日(日) 11:00京をつれて三鷹へゆき、平田家へゆかしめて、われは松崎医院。Dr.「姪を成城短大に受けさす」と。 帰りて昼食すまし、松村達雄君へゆかんとせしに、駅にて森君に遭ふ。「和田坊やの日大高校に合格せしことは云ひし」と。松村君呼び出し、下北沢下車。菓子(770)買ひ、松村500出せし。 西潟高校長にゆけば来客と。散歩して再訪、同氏明治39年生、田中中学校長は40年生と。よろしくとたのみ、下北沢「Penguin」にゆきbeerよそよりとりよせてのみ、森本夫人にも遭ひしてのち、松村うるさく誘ひ、新宿の「玉川」とかにつれゆかれ、またbeerのみ、先に出て保田『佐藤春夫(20)』『パキスタン(50)』買ひ炒飯食ひて帰宅。痒し。 『パキスタン』は東洋大学出版部より出、内藤、■林、村上正二など日パ協会の理事者なり! 2月15日 城平叔父より速達「21日(日)三和荘で午食し、結論出さん」と。ハガキにて「承知」と返事。白鳥夫人への礼状。 渡辺三七子への祝辞とともに出しにゆき、森Dr.にゆけば多忙。会ひて和田博士夫人に西潟校長へ挨拶にゆくことをすすめよといひ、外口書店にてこの間より探しゐし『日本童謡集(80)』見付ける。よみて見れば何のことなし。 悠紀子ひるねしをり。『帝塚山文芸クラブ11』来る。太田夫人の努力察するに余あり。 14:30松崎医院にゆき、帰り近火見舞(三鷹八丁の古本屋昨夕焼けし也)に平田家の前にゆきしも留守らしかりし。保田與重郎より見舞。 2月16日 筑摩書房より『現代詩集』重版の挨拶。12:00出て成城大学、教授会にて社会科の教員免許状通りしときく。 教育大の楫西光速(経済学博士と)氏、昨日来り、けふまた電話かかり、令嬢受験さしたしと。 下北沢で下車。『大和文学巡礼(50)』買ひ、雲呑たべ、松崎医院へ願書もちゆけば令嬢薬大受けてのちのこととすと。他人事はみな気楽に考へてよきらしきも松村君にそのままとて気になる。 △あたたかくげんげ咲く野をゆきゆかん日をばおもひてけふもねむらん。 2月17日 相野忠雄より「18日着京、19日より2,3日滞京。諸友に会ひたし」と。 12:00松崎医院にゆき、帰りて服着換へ、森Dr.に「松村君に連絡せよ」といへば「けふ和田夫人来る故、その話ききてのち」と。(太田陽子夫人に礼状。本位田昇に転居通知出す)。 竹内好にゆけば不在。夫人に相野のこといひ、西荻窪までbus。東京駅までゆき西川英夫に会へば「夫人いまだに入院、相野の歓迎会に出席する」 と。加藤定雄に電話せしに不在。 有楽町へゆき桐山眞を毎日新聞に訪ねしに不在。Rice-curry食ひ、田中順二郎君に電話せしに不在。田中勤氏訪ねしに帰りしあとにて、桐山君また訪ねしも不在。室清のこと思ひ出し、第一生命受付にゆきしに「社員になし」と。明治生命教はりてゆけば事務調査室長なりし。茶菓ふるまはれ、明後日相野より連絡さすこととして出、日比谷よりbusにて溜池。 三水会(電話してけふありと確かめし)に出て21:00近く散会。田中忠雄、浅野晃、齋藤晌3氏とtaxiに同車。新宿へ出る。齋藤氏別れぎは「東洋大学の裁判の証人たのむやもしれず」と。 古本屋見しあと高円寺へ出、「赤ちゃん」にてHighball1杯のみ全身痒くなる。太田夫人より入れちがひに手紙。3月6日class会と。夜半まで眠れず。 2月18日 10:00すぎ阿南惟敬氏、逗子の饅頭もちて来訪。向ひの片根氏は夫人の姉と。李朝実録抄の会に出よとすすめ、抜刷2部もち帰りもらふ。 昼食して松崎医院。Dr.往診中にて歯科のDr.に注射打ってもらひしあと、先生帰来。帰宅すれば太田常蔵君待ちをり、見舞にと菓子たまふ。 桜井芳郎君校長となりしと。けふ台北より「十七世紀台湾英国貿易史料」来り、『ジンギス汗』買ひし。 平凡社より『順治帝』『シロコゴロフ』20日までにと。西宮一民君より見舞。城平叔父より「21日午、会ふことにしてくれて多謝」と。 吉森幸子夫人より「夫に会へ」と。17:00荻窪下車。天沼三田氏訪ぬれば「相野君20:00着京」と。「室に連絡せよ」の置手紙して帰来。けふは寒し。 2月19日 朝、電報「ハハシス、トシカズ」。悠紀子9:30出てゆく。 われ朝の郵便にて新藤千恵の『詩集現存』受取り、松崎医院にゆきてのち渋谷東横にてrice-curry食ひて聖心女子大へゆけば、ほどよき時間。 最後の講義みな早めにすませ、都電停留所前にて散髪し、16:30西島寿一に弔みにゆく。山口夫妻と定子とをり、千草、悠紀子台所にをる。香料1,000包み、悠紀子を帰宅せしめてのち山口翁の健康法をききて中座。 東松原にて夕食、炒飯。永福町より相野に2度目の電話すれば「まだ帰らず、class会は月曜17:30より学士会館で」と。 帰宅すれば2児夕食しをり、悠紀子まだ帰らず。城平叔父より「日曜15:00-16:00三和荘で」と変更の速達。 入浴し薬用石鹸使へば快し。気になりし採点、4年のみ2枚やることとす。「平家物語雑考」の校正来をり。 けふ「3月8日15:00より謝恩会」との聖心女子大4年の手紙もらひ、ことはりし。 2月20日 10:00前出て(Morningにて)成城大学。短大2年と学部4年の採点のみを渡す。鎌田女史にけふの会欠席をいひ、平凡社に電話して『アジア歴史事典』の締切問へば「月末」と。バカらし。 出て梅ヶ丘。rice-curry食ひ(70)、西島寿一にゆく。父来をり、林敏夫、難波和子姉弟に会ふ。青木父子も来る。殆ど物云はず受付にまはり、14:00すぎhire来ず霊柩車を待たすなど、もたもたせし。 送り出して天幕こはし手伝ひ、寿一の会社の社長来しを家に案内す。14:30出んとせしに秀樹すしもちて追ひ来る。 吉祥寺着、森Dr.に会へば「和田夫人西潟校長に会ひし。けふ松村君に電話せん」と。帰宅。 田中マサ子より「夫と坊の病気のため見舞おくれし云々」と。室より「22日(月)17:30神田学士会館ロビーに集合」と。 夜、松崎医院にゆきDr.、太宰、田中英光の検屍をせしときく。浅野Dr.にゆき経過報告す。「平家物語雑考」の初校すむ。10p.o (けふ井之頭線吉祥寺にて竹内好見つけ、きけば旅行と。昨日わが家に来しも無人なりしと)。 2月21日(日) 白井紘史より「Arbeitにてモデルとなりゐる」と。川勝重子より「今年も上京」と。 11:30松崎医院へゆき、帰りて昼食せしあと、相野忠雄君来訪。「杉浦夫人にゆき見よ」とすすめ、ともに出る途、きけば大阪学芸大池田分校に転じ、篠田、福地両教授を識る。「宮本君は天王寺へ転ぜし」と。今度の上京は転任運動でなしと。 杉浦夫人に会はせ、われは玄関にて別れ、busに乗り、下りれば西荻窪駅なりし!がっかりして高円寺へゆき、万美子にゆけば13:10。城平叔父まちをり結論は「1年を限りて帝塚山に働く。1年後には新築の弟たちの家に帰り来るが好都合。田中勤氏に地面貸すやきいてくれ」(これは吾が発案なりし)とのことなりし。 万美子を畑山氏に会はせ、1年後の転任不可能でなきや否やきくこととす。 寒き風の中、高円寺駅に出、荻窪下車。三田家に寄れば親類集りをり、相野迷惑がる。杉浦家にては夫人友を呼び、何回忌かしをり、今帰り来しところと!吉祥寺下車。雲呑たべて帰宅。 2月22日 加藤隆子の成績もち成城大学へ登校(午まへ松崎医院へゆきし)。高尾宣子、退職することときめしと。鎌田女史に逢へば四条、八重樫2女生わが家へと出しと。 柳田国男先生お越し。池田勉、羽入田宏、川本(桑木厳翼の親類と)とわれを聴衆として大田蜀山人の『調布紀行』よりはじまって武蔵の話され、花袋との交情を話さる。台湾へ大正7年ゆかれし。時の総督安藤大将は叔父なりしと。17:00まへまで立てず。 あはてて四谷よりtaxiにて学士会館。相野、室すでにあり。矢野、谷口、西川、加藤来りて階下食堂にてbeerと定食、すみて「窓」といふにゆきて喫茶。相野を荻窪にて下して別る。2女生、弓子の留守番のところへ来てcakeおきゆきしと。 2月23日 中山八郎氏より抜刷の受取と教へ子の就職につき。鶴崎裕雄、藤田幸子より見舞。曽根桂子より中山姓となりしと。保田、四条2氏へハガキ。 3月20日の謝恩会に出席と返事。午后出て松崎医院。帰ってより退屈し、古本屋見にゆきしに、そのまに正平来をり、夕食たべんとせしところへ坂根千鶴子、本の返却に来る。 ともに夕食すませ、正平とあす目黒駅出口にて15:20待合せ、竹田龍児氏を見舞はんといひ、駅前まで送りゆき、喫茶せしあと財布なきに気づき引返せばあり! 正平に返金してすます。今日16:00すぎ皇太孫誕生と。 2月24日 9:00家を出て東大。岡本氏おくれ三上氏来ず。後藤君の読解にてはじまる。次は田川氏、その次は我なり(阿南君来をり)。 すみて赤門前にてrice-curry食ひ、busにて池袋、立教大学へゆきて2月分手当もらひ、古本屋見しあと目黒駅へゆき、また古本屋を見、つかれて餡蜜くひしあと、正平に会ひ伝研病院へ果物(345)もちてゆく。長嬢来あり、竹田龍児教授やせをり。出て喫茶。疲れに疲れをるも三鷹までゆき松崎医院。Busに中道まで乗り帰宅。 大江房子より見舞の手紙。(けふ和田先生古稀論叢に「漢軍八旗」について書くと返事す)。 2月25日 暖し。成城大学より入試監督をわり当て来る。午后松崎医院。相野忠雄より礼状来りし。 2月26日 10:00万美子来ぬ故、そとへ出れば竹棹売り翁来り、1本買ふ(80)。やがて万美子来りしゆゑ畑山博氏に紹介状かき赤羽中学へゆかせ、出て森Dr.。成績しらべたのまれ聖心女子大学へ14:30着きて答案受取れず。図書館にて待つま、係の女史と話す。お茶水を出て柳田為正、木下治雄を東大動物学教室で識り云々と。 15:00となり教務へゆきしに答案まだ来ず。1日再来をいひ(2、3月分の手当もらひし)、あはてて猿楽町。母をり大、病臥と。4月より3千円呉れとのことなり。万美子よりの電話16:00かかり、畑山氏学校にをらず。家にゆき夫人に会ひ、私立学校へきき見てやらんとのことなりしと。すぐききもらひ父にあひてのち、宮益坂にゆき、『蒋総統伝(200)』、『南洋群島水路誌(50)』、『生きてゐる兵隊(20)』、『ハイネ恋愛詩集(40)』、『千夜一夜2冊(70)』など買ひ、鰻丼くひ(120)、畑山氏に電話すれば「ともかく世話して見ん」と。 三鷹へ直行、松崎医院にゆき平田聡子に会ひ「山本の娘の就職につき賀代氏にたのむ」といひ(子供にchocolate150)、帰りて床につきをれば森Dr.来り、「和田博士夫人、成城気に入らざる様子。あす午飯ともに食ひて話さん」と。 けさ山本陽子、山中(井上)京子、2生より見舞。 2月27日 久しぶりにて雨。小室栄一より「知人の女を短大にたのむ」と。雨と風邪気味とゆゑ、悠紀子を森Dr.に断りにゆかせしに、すぐ帰り来て「ぜひ来よ」と。やむなくゆき和田夫人、裕母子にrice-curry饗されてきけば「ぜひ成城へ来たし。面接では田中先生の名のみ出し」と。やむなくしらべることを約して成城高校へゆけば判定会と。鎌田女史のところへゆけば沖縄より上京の宮部夫人(沖縄のタバコの60%を発売と)と今井、中沢、 川本、重久、羽入田の師弟と対談中なりし。 柳田先生へ2女史出てゆきしあと、沖縄の菓子くひて出、下北沢下車。和田夫人に「まだわからず」の電話かけ、松村邸に寄れば、夫人「いま出しところ。事務よりしらしくるる筈」と。用心に感心して森Dr.にその旨いひ「礼いくらせん」とききていやになり、一旦帰宅。 藤井陽子、秋山昭子2氏のたより見、18:30出て松崎医院。それより荻窪に出て山川京子氏に電話すれば無人。 都電にて丸にゆき、夫妻に相談せしのち西潟校長に電話してきけば「英語、国語(※3文字略)にて云々」。和田夫人にこれをしらせ、猩猩袴と桜草と貰ひ、重俊生に送られ、しるこ食ってのち別る。1日朝、来訪と。 2月28日(日) 曇のち晴。だるければ止めんと思ひし松崎医院。12:00前にゆき、太陽灯あてらる。平田家へ京の伝言もちゆき、平田君と話す。 けふ京の誕生日をくり上げて祝ふとなりし。午后だるくねてをり、〒なく、夕食後『アジア歴史事典』の「順治帝」「シロコゴロフ」書く。 2月29日 悠紀子、王子へ月賦払ひにゆくと云ふに、平凡社への速達托す。中野清見より「明治製菓に会社うれ、3月上京会はう」と。中千枝子より「3月結婚」と。 13:30出て成城大学。史学研究法をのぞき採点報告すませ、3年生5人呼びてreportにつき質問、叱る。この間、大藤、今井2氏社会科免状につき篠原氏にゆかんと来しも明日といふ。 15:30すみ、定期証明書もらひ、丸重俊さそひて出、風月堂にて汁粉くひ、三鷹台に松村達雄君訪ひて和田裕のこと話しあひ、出て三鷹の松崎医院。Dr.不在なりし。帰りて夕食すませしあと、けさ来し万美子また来て畑山博氏「あすあさ電話せよ」といひしと。 都庁の私学課長に会ひに同行せよとのことなりし。『初代川柳選句集(120)』買ふ。皇太孫浩宮徳仁(ナルヒト)親王と命名。 3月1日 中野清見へハガキ。「丸に酒のますな」と。10:00来る筈の丸重俊10:45まで来ず。川本生来ず。自分は道わからざりしと也。ネープルもち来る。 そこへ白井紘史来る。二人とも父は大高野球部なり、ふしぎ。そこへ小室栄一の紹介と富田夫人来り、宏子(国文15)短大を受くるゆゑよろしくたのむと土産おきゆく。 パン一切れ食ひしのみにて2息と出、3月分定期券買ひ、成城大学の教授会。万美子より14:30電話かかりしゆゑ、3日8:30高円寺駅ホームで待合すこととし、聖心女子大学へ答案とりにゆけず17:30まで卒業判定会(本年度文芸180採ると決定)、疲れて出、栗山、渡辺、山田の3氏と同車。 山田俊雄氏とは富士見丘で別れ、久我山で下車、中華そば食ひ、三鷹の松崎医院。 けふ『唐宋八家文 中』朝日新聞より贈らる。ふしぎ。 3月2日 よべ睡眠不足。6:00起され、成城大学へゆけば8:00。8:30までに用便すませ、31教室。国語できず、すみて聖心女子大に電話し、「けふ答案とりにゆく」といひ、浅沼講師と話すところへ来会せしは嬢が文芸受ける堀川講師(朝日論説委員、成城高校3回、昭和10年朝日入社と)。 午后大講堂の社会の監督。すみて出、聖心女子大へゆき答案受取り、神泉まで歩くみち汁粉くひ、『地方史の研究のまとめ方(150)』、『日記(30)』買ひ一旦帰宅。 楫西光速教授「嬢、書類そろはぬが受けてよきや、きいてくれ」と速達。(※宏池会)田村敏雄氏より「広島県の地盤の高橋良子(文芸82、短大103)たのむ」と。 小山正孝氏より「登戸へ転居でなくて残念」と。平凡社より原稿受取。けふ東横dept.で棟方志功滞米欧作品見しに『風日』来あり。夕食すまし(父母来て呆けしるしと)苛々して松崎医院。注射打たれず硫黄泉入湯よしと。『Neapel(10)』、『枕冊子(30)』など買ひて帰宅。 3月3日 8:00家を出、駅まぎはにて財布と速達と忘れしに気づく。高円寺へ8:40。東京駅へ9:10着き、喫茶してのち都庁8階総務局私学部へゆけ ば、佐瀬部長すでに出勤。畑山氏の紹介の名刺出せば先客あり。待たされ、会へば「中々口なけれど―20人に1人の割と―履歴書預らん」と。渡して1分で出、万美子と話し、東京駅より畑山氏に電話すれば、一度話して私宅訪ねんかと。万美子とhotcake食ひ、畑山氏に礼と都合きく電話かけよといひ、西川にゆけば先客。 待ちて会へば疲れて欠伸す。すぐ出て呉服橋へゆきしに、ふと大江勉を住友海上火災に訪ね、昼食くひ、相談すれば「一度帰阪させよ、他にも好く男あり」と。 喫茶して別れ(大阪へ転任を望みゐると)、都電にて小川町。中央大学へ小便しに入りしのち、筑摩書房に東博氏訪へば昼食外出。東京都民銀行神田支店に加藤定雄訪へば本店行。『陸奥宗光伝』托し、「大安」にゆき転居いひ、『太平天国(280)』買ひ、小山正孝君を中教出版に訪へば昼食他出。 水道橋駅にて田村敏雄氏に特別入学のこといへば「いくらかしらべよ」と。「イチ万ならん」といひ、国鉄に乗りしのち気になり、成城大学。教務で楫西令嬢の成績証明書のぎりぎりの期限きけば「6日午前中」と。楫西夫人に電話していひ、池田教授に問へば2、30万円なりと! 不快になりて出、帰宅。 悠紀子叱りて速達出しにゆかせ、夕食後寒き中を松崎医院にゆけばDr.不在。太陽灯かけられ夫人も同病ときく。 帰りて万美子来りしに会へば、畑山氏に電話して「大人の話に」と叱られ大阪へ一旦帰る決心つきしと。21:45帰りゆく。 3月4日 けふも寒し。8:15成城大学。大講堂110:70の女男比なりし。すみて今井氏に小室栄一のこといへばおぼえてゐると。午食くはしてもらひ(栗山氏に相談すれば「会ひてのち」と)、また1時間監督の今井氏待ち、2人して森田順子の文化史変更といふに会ひ、小室君よりの富田生のことたのみて出る。 地下鉄にて虎ノ門、短波放送buil.に15:30着き、田村氏(※宏池会事務局長、田村敏雄)に会ひてきけば「医師の女にて金に心配なし」と。 明日来れば栗山氏に紹介すといひて出、coffeeのみ青山車庫まで都電。中村書店に『四季』の欠本たのみ、『千夜一夜12(50)』買ひて帰宅。 渡辺三七子より「祝いらず」と。夜、松崎医院。薬かはる。(けふ午すぎ岩崎昭弥より電話「14:00離京」と)。 3月5日 成城大学文芸学部面接にと8:50にゆき、池田、相良、大山の諸教授と同席。男生みな不出来にてBなし。高橋生(82)も出来あしく、去年の卒業なりし。栗山部長来りて「会ひし」と。 午后また面接。すみて帰宅。夕食すませしところへ森Dr.来り、和田Dr.夫人よりとtobacco2箱。 松崎医院へゆき昨日に引きつづきアメリカの薬つけらる。あす短大の試験監督にて来れざるをいひし。 3月6日(日) 成城大学短大試験監督にと8:10ゆき、午前と午后とやり、疲れしも午后の助手うるさく、第一に呈出せし答案手にしてよまんとせしに飛びゆきて取ればあとで詫びし。 栗山部長、高橋夫人に会ふ由。帰り富永次郎氏と同行、吉祥寺にて「Ruhe」といふへ誘ひ茶ご馳走す。太郎(※富永太郎)は浅野晃と同窓と。 帰れば〒なく、来客もなかりしと。入浴。けふ悠紀子、田中三郎へ純子の縁談にとゆけば「いま交際中」と。 3月7日 午前中、聖心女子大の採点。稲富生よく出来、「詩の話ききたがったが皆はさうではなく」と書きしがありし。 午后出て松崎医院。引返して『文献双編』9冊と『朝鮮語方言の研究』2冊とtobaccoもち、まづ聖心女子大。すぐ出て都電にて四谷4丁目のりかへ、山本書店にゆけば、3千円に売れ、『唐摭言(110)』買ひ、小山君に電話すれば「来よ」と。 日本書房にて『建武年中行事通解(180)』、『朝鮮新話(100)』買ひ、小山君呼び出して喫茶。別に話することなかりし(新藤千恵は『歴程』同人と)。 駅でrice-curry食ひ(80)、水道橋より王子まで久しぶりに乗り、畑山家へゆけば夕食中と2階で待たされ、こはい顔して会ひ「(※39文字略)」と。早々に出てtobacco置くに熱心のあまり嬢の挨拶に答へず。向原より電話すれば、また畑山君出て「入浴中」とのことなりし。 林Dr.にゆき、健保計算すまして疲れゐる夫妻に酒のましてもらひ、出て池袋で釜めし食ひ(130)、丸に電話すれば「明治乳業の顧問弁護士のわれにまだ連絡なし」と。22:00帰宅(史には駅前で遇ひし也)。 柏井と田中三郎兄とで祝に背広こさへ呉れると也。 3月8日 9:45登校。10:10より判定会。190点まで問題とならざりし中に高橋嬢あり。栗山部長「秘密に」と耳打す。不快の中にすみ、伊達氏に挨拶す。 すし食はされ今井氏より富田嬢166ときき、出て下北沢より電話して「よし」とのことに「この間置きゆきしもの返すにつき所教へよ」といへば「夫人留守にてわからず」と。 帰りて昼寐しをれば平田聡子来り、山本長女の相手写真おきゆく(悠紀子けふ森Dr.にすみ子の縁談断りにゆきしと)。3月6日のclass会に山中、中馬、山尾、南隅(和島事務所に福地君の妹はたらくと)、椿下、鍛治、相良、今市、伊藤の9生と長沖、西宮2氏のよせ書(署名なかりしは涌井生と)。 小高根二郎氏より山根君不熱心のため『果樹園』の印刷おくれしと。 16:00出て松崎医院。Dr.夫人ともに不在。山梨県地図(40)買ひて帰宅。 けふ史はじめて話し「硲氏に会ひ嬢ちゃん4月より小学校」と。 p4 3月9日 朝、武居へ弔み状かく。午后、中西Dr.より速達「病院新築7千万円の費用の中、1千万円を寄附仰ぐに付、税のことにて主税局長以下へ西原理財局長から一筆書いてもらふ様、親しき貴君より云々」。困りて夕食早めにすまし、金沢良雄にゆけば「伊豆韮山にて執筆中」と。自由学園高校2年の嬢ちゃんの話。 出て柏井歯科へゆき数男に史の背広の礼にゆき、すしあつらへられ診察了るを待ち、西川に電話すれば「まだ帰らず」と。 荻窪までbusにのり帰宅すれば、史、渋谷へゆき大にも背広作ってもらひしと。むっとして悠紀子に怒りて寝る。 けふ小室栄一に電話すれば夫人留守と。そのくせ神明町富田治郎かとの問ひに「その通り」となりし。変な日なり。 3月10日 浅野建夫に相談にゆけば「出来ないことするな」と。coffeeのませてくれる。松崎先生にゆき、豊橋近在の人ときく。ちくわが名産と。 帰りて中西に断りかき、田中秀子より「中千枝子の結婚13日」とのハガキを見る。 昼寝できず、13:30出て西川に会ひて報告す。「議会開会中にて西原も忙しからん」とのことなりし。 出てしるこ食ひ新橋よりbusにて東京tower、田中順二郎君呼んでもらひ話きけば、水野成夫は池田派、前田久吉は河野派にて後者優勢と。創価学会との提携を考へゐると。その中就職祝もってくるつもり」と。 別れて飯倉へ下り散髪(100)。けふ清宮貴子内親王往復にここを通りしと。 四谷見附へ都電。急行にのり高円寺下車。正平万美子のapartへゆきみれば無人。古本屋にも何もなくて帰宅。 けふ史、富田家へ菓子など返し来しと。19日帰洛の予定と。竹内好税務署への途寄りしらしく名刺おきありしと。 3月11日 10:30筑摩書房武本君来り、『西太后に侍して』のこと知らぬゆゑ「承知したが共訳者太田七郎の遺族をさがし出してくれ」といふ。 帰りしあとすぐ出て霧島にのり豊橋19:40。 3月12日 朝、豊川稲荷にゆき、イナリの叱枳尼天につき考へたく思ふ。伊良子崎までbus150と知る。 昭和35年3月13日~昭和35年10月18日 「東京日記 8」 25.4cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p5 3月13日(日) ちくわ(100×2)買ひて土産とし、弁当買ひ9:30の汽車にのり沼津着。沼津市の地図買ひて見当つけ、水族館前で下車。さがしさがしして緑町塚山勇三君訪ね、伊達宗雄氏との間柄きき、戦災にて『四季』みな焚きしをきき、『果樹園』3冊おき「同人考慮せられよ」といひ、ともに出て千本松原の牧水「幾山河」の碑を見て小便。 和歌山家の墓へゆき、狩野川見て駅へゆけば汽車によく、三島まで乗り、改札にて韮山水宝閣は伊豆長岡が近しときき下車。きけば「taxiがよし」と。のりて水宝閣にゆけば金沢良雄君をり、中西の手紙見せれば「西原に手紙かく」と。 よろこび、思ひ出話しbeerと夕食たまはり、最終汽車によしといふ20:00までをり、またtaxi。三島より乗りしも寒く、深夜の東京かなはずと小田原下車。駅近くの旅館にゆき、朝食つきにて600払ひ入浴、眠る。 3月14日 9:00朝食くひ、浜松発の汽車にのり11:30東京着。新宿をへて成城大学に寄り富田、高橋ともに短大に入れざりしをたしかめ、柳田先生を見、今井君と話してのち出、松崎医院にちくわもちゆきて帰宅。 『果樹園』49と『不二』192来をり。杉浦明平論にわがこと書き「影山正治氏会ひたき故、日をしらせ」と鈴木正男氏の手紙。 他には楫西博士「嬢、東京女学館短大に入りしゆゑ成城へ来ず」と。龍平より「慶応一次商科文科通った」との電報ありしのみ。 3月15日 10:00俊子姉と市野夫人と来り、(※4文字略)につき11:45まで居る。その間、中野清見より「タカラホテルニイル」の電報来り、『民間伝承』来る。 昼食とれずして成城大学、cunningの処置あいかはらず甘く、長びく。すみて(中野に電話すれば不在。不二の鈴木正男氏に電話すればこれまた不在。代理の人に17~19日の中、日時場所を指定せよといひ、丸に電話すればこれまた不在)。 丸煦美子と会ひ、電話したこといへといひ、帰れば悠紀子居らず、伊勢山本氏よりの速達に「嬢の初任給1万円でもよきと思ひしも田中氏の実弟西島健の意見をきき、1万2千~1万5千呉れ」と来ありし。悠紀子にいへば速達を幸子嬢に出すと。 われ19:00出て森Dr.(けふ帰りに寄り中野の電報に自ら連絡せよとことづけせし)に電話すれば不在。 松崎医院にゆきてのち、また宝Hotelに電話せしも中野帰りをらず。 けふ悠紀子税務署へ確定申告にゆき2千6百円余払ひしと。 3月16日 不二歌道会の鈴木正男氏より速達「18日塾長と来訪」と。悠紀子、森Dr.に訊ねしに「中野君と連絡とれず」と。 寒く、炬燵にをりしも16:00出て松崎医院。それより渋谷をへて三水会。佐藤君をのぞく7人。田村氏「高橋Dr.喜びゐて礼」と(あとであければ1万円の三越商品券なりし)。 鈴木氏へ電話かけ途教へ、中野に電話せしもかからず。帰途丸に電話すれば夫人出て「第2こだまで上京の山本迎へに丸帰らず」と。 東京駅にてbeerのみて時間つぶし22:40寒き中をplat-formにゐれば丸、婦人(あとにて中野の恋人とわかる)と来り、出て宝Hotel。中野、姪(楽手)と待ちをり、beerのみて24:00丸と姪と3人にてtaxiにて帰宅。1:00。 けふ史、渋谷へゆき27日が忌明けとのびしとききし。 3月17日 10:00松崎医院。悪酔止めの薬もらひ吉祥寺へ出、busにて森本小路。竹内好訪ぬれば「都大へゆきて遅く帰る」と。「山本、中野つれ来るやもしれず」といひ、またbusにて西荻窪。新宿にてtoastとcoffee摂りて第一弁護士会へゆけば丸に遇ひ、けふこれより山本つれて廻ると。beerのみて待ち、最高検、農林省と廻るを待ち、すみて山本と2人となり、日銀に鎌田正美文書局長訪ひ、竹井眞野村建設支店長訪ひ(25年ぶりに会ひしと。嬢、実践に入りしと)、三越へゆき、アキ子に手帛3枚(240)贈り、宝Hotelへ引返してのち、新宿「春日」を探してゆき、みなみな探し探しして19:00。 西川、原田、矢野、室、中野、てい、律姉妹とにて焼鳥料理くふ。山本500万円の預金通帳見せ、丸に30万円渡せしをいふ。原田が「田中の詩は天才的」といひしに、中野「詩よりも誠実」といひ、楽しからず。 丸来るまへに山本、矢野去り(2万円を会費におきゆく)、丸来てのち「chez-nous(※シェヌー)」といふcabaretにゆき、中野の愛人を見る。姉妹去り、中野、西川の「コリラン」といふへ山本らを追ひゆくと別れ、丸とtaxi、高円寺駅まで送られ帰れば23:30。 けふ阿南惟敬氏使来り、「八王はJieangzu(※江蘇省)を数ふ」との論文おきあり。(春名一満来て「保証人になれ、明日午前再訪」といひしと史、朝になりていひし)。 3月18日 吉本恭子より「河原姓となり広島に住む」と。12:00まで春名一満待ち、出て竹内好にゆく。 昨日のこといひ、『西太后に侍して』(※復刊)のこといひ、『不二』のこといへば、貰ひをり、影山氏にと論文もらひ、『詩経・楚辞』もらひて出、帰れば一満君をり明大商科の入学保証人とならさる。あと埼玉大学を受けると。 帰りしあと15:00となり、表へ出れば影山氏と鈴木氏と探し廻りし様子。招じ入れて話す。保田のこと『日本浪曼派』のことはきかれず、専らわが失敗談かたらさる。19:00ごろ師弟帰るに、重き録音器を師手を貸したまふ。この日松崎医院へゆけず。 3月19日 10:00松崎医院へゆきほぼ良しとなる。白井紘史「18日帰京」と。『蟠花(※東博歌集)』の出版記念会27日(日)13:30豊島園ホテルにてと。出席の返答す。 けふ三鷹にてあざみ(20)と矢車草(10×3)買ひ入浴。 3月20日(日) 西島寿一氏より22日(土)夜35日忌すると。林敏夫より27日(日)14:30駒場寮で親類会すると案内。ふしぎなること也。 午后、京をつれて古本屋、京に『ソロモンの洞窟』買ってやり、われは牧野富太郎『植物記』2冊(150)、『四川省綜覧(100)』、『旧事記(20)』、『東洋人の心(50)』買ひ来る。 けふ成城大学の卒業式の時間忘れ、謝恩会も欠席せし也。(松崎医院も休む)。 3月21日 雨。午すぎ松崎医院へゆき、そのまま成城大学。講義要項を出す。佐野教授に「高城助教授1年休職」ときき、「それはめでたし」といひ、変な顔されし。 千草に電話で「22日35日忌」ときく。salaryもらひ成城堂ヘ払ひ、下北沢、明大前で下車。 鎌田重雄に遭ひし。永福町でしるこ食ひ、吉祥寺でまた古本屋。松本芳夫『日本の民族(250)』、『イスラーム(70)』買ふ。 松本博士!のは愚著なりし。 3月22日 14:00悠紀子、京をつれて出てゆく。われ松崎医院。途中『香料小史(20)』、『にほひ(40)』買ふ。前著はまたdouble。 夕食弓子としゐれば坂根生来り、4月20日の公演の切符2枚弓子にと買ひやり、高野勝美君に紹介かく。 20:00送りかたがた駅までゆく。定休日とて店多くしめをり、駅前で喫茶。21:00別れる。話題にせし万美子より速達来をり、病気と。龍平慶応商科にpassせしと。 3月23日 9:00出て東大東洋史研究室にゆけば10:05。まだ締りゐし故、正門前の本屋を見、10:40ごろより田川孝三氏の訳註きく。12:10すみ、busにて池袋。うなぎ丼くひ(130)、『佐倉宗吾(30)』買ひ、立教大学へゆき、三月分salaryもらひ、研究室へゆきしも無人。 裏の古本屋にて『鴎外の系族(150)』、『父(70)』買ひてうれし。地理調査所の『鎌倉』『御油』買ひ、渋谷をへて帰宅。 悠紀子、万美子の見舞にゆきてをらず(あとにてきけば会へざりしと)。 羽入田勝朗氏より令息卒業の礼状。古田房子より「4月1日ともに浜谷生の家へゆかぬか」と。(けふ西武dept.に宮崎智慧氏訪ねしに欠勤と) 夜、松崎医院へゆく。羽田君より速達「明日10:00ころまでに上田勤氏方へ電話せよ」と。 3月24日 成城の第2次入試監督に登校。3時間とも304教室にて159~185の監督。 上田勤氏に電話すれば「羽田昨夜泊らず」と。松本善海に電話すれば「知らず」と。 14:30向ふから電話かかり「新宿にゐる」と。すぐ行きて中村屋で喫茶。ついで松本を研究所に訪ひ、誘ひ出して「丸物」にてマグロとbeerと「保田の(※8文字略)」と。 別れて阿佐谷で下車。古本屋見しも何もなし。大野知子より「学習院国文科と立教と両方入れ、学習院へゆくつもり」と。 3月25日 面接にと登校。みな思ひつめた風にて哀れなり。14:00すまし手紙かきてのち今井氏に会へば社会科免状のこと篠原事務局長にきけと。同行すれば採点表出来をり、今井氏うつすをのこして出、下北沢にてしるこ食ひ、古本屋見てのち三鷹松崎医院をへて帰宅。 平塚敬一生より「野崎生と来る故都合しらせ」と。不二歌道会より「皇太孫慶祝のうたを」と。 十日間によきゆめ二度とそのゆめにわれは出でしやわれは入りしや。 3月26日 雨。春の日の会(※佐藤春夫の会)4月9日(土)15:00般若苑にて2千円にてと! 帝塚山学院同窓会より3日総会と。悠紀子この間柏井家を訪ね、叔母早く死にたしと歎きゐしをいふ。恰もBalzacの「ゴリオ爺さん」をよむ。松崎医院に雨のためゆかず。 3月27日(日) 依子8:30出てゆく。われも出て阿南惟敬君訪ねしに臥床。原稿返し大廻りして松崎医院。 ついで平田家へ寄りしにまださめざる様子。帰りて『東洋史研究』受取る。悠紀子、平田家へゆけば和田賀代女史をりしと。桜草多くもらふ。そを植えて昼食して出、高円寺下車。豊島園行busなく阿佐谷発なるを知る。 新宿へ出て西口より急行にのりてゆけば14:20。(※東博歌集『蟠花』出版記念会)浅野、中谷、長尾などの常連のほか尾山篤次郎翁、芳賀檀にてはじまり、みな読まず感心せずと。気の毒なりし。 2次会にbeer出て東博君元気づき、われと同世代でなきをいふ。われ名坂八千子夫人にからみしこととなり気の毒(山之口獏来ゐしも2次会には出ず)。 出て松本にゆき、『コギト』半分43冊もらひ来る。あと半分もらへば欠本3冊となることわかりてうれし。佐美雄氏も喜びゐし。長尾が「主婦と生活」社に入社いはず、その他ありて夜半まで眠れず。 3月28日 晴。東洋文庫へゆかず。『果樹園』50来る。昨日万美子、夫婦留守に来り、「明後日帰阪」と弓子に云ひしとのことより悠紀子怒り、昼食14:30となりてのち松崎医院。 一旦帰りて京をつれ人形買ひにゆきしも気にいりしものなく(220)、高田瑞穂『耽美派(45)』買ひて来る。 20:00史、帰宅。渋谷へ荷物預けて来しと。城平叔父、大江叔母2軒より祝に5千円、昌三叔父よりバンドもらひし。羽田へは昨日ゆきて会ひしと。 3月29日 成城大学へゆく。人形もちゆかず高尾嬢に会へば「万年筆は事務の某君のものなりし」と。及第判定会「3入2落」の実態見て不快。500万円入るらし。 すみて昼食。庶務課より看護費わたすとのことに行きしも印鑑忘れて貰はず、4,130円と。図書館にて『満鮮歴史地理報告2,3,5』を見る。 帰途松村達雄君に寄り、17:00来るかと平塚、野崎2生のため急ぎ帰宅せしも来ず。夕食後松崎医院。 けふ和田節子夫人に電話し、夫君銀行局検査官室管理課ときき、「明日ごろ史ゆくゆゑたのむ」といふ。 堀ノ内歴より手紙。筑摩書房より『ノン・フィクション全集』刊行と。城平叔父へ礼状かく。春の日の会へ「出席」の返事。 3月30日 松本善海へ礼状。『果樹園』へ「老境」と500。松本悦治、塚山勇三2氏のことをいふ。 松崎医院へのゆきがけ速達し、タバコ、マッチ欲しくなり平田統子宅へより、山本幸子・桜草の礼いふ。渡辺三七子より「祝くれ、太田夫人男児出産」と。森田宏子夫人より返事。西村公晴氏より「短冊いそがず」と。 出んとするところへ父来り、パンをともに食ひて出、成城大学。看護料4,130もらひ、東洋歴史辞典と大漢和辞典と見てのち館長室。田島、川本2生をり、やがて鈴木生来る。 今井氏、斎藤忠氏を案内し来り、16:00出てしるこ3生と食ひ、駅にゆけば声かけしは東田千秋氏。市河三喜先生へゆきしと。下北沢で別れ、古本屋にゆけば『コギト』とりに来ると。 『元曲金銭記(100)』と『韓退之(30)』買ひ、吉祥寺にてnote5冊(100)と勿忘草1株(45)買ひて帰宅。 史、けふ和田氏に会ひしに「保証人辞退す。西原局長にたのめ」といひしと。 3月31日 風吹く。松崎医院にゆく。史の友達にて外務省に入りしが来をり、帰り来て田中三郎につれゆく。 午后、山本幸子来り、南田中町のcatholicの寮に入ると。菓子1折おきゆく。阿南惟敬君よりハガキ。 4月1日 史の初出勤のため悠紀子3:00より眠れざりしと。赤飯くひて出てゆきしあと、われも起きて朝食。ふしぎにまた11:00まで眠りし。 白井紘史、大阪よりハガキ。坂根千鶴子、高野勝美氏をつかまへ(※公演切符)10枚買ってもらひしと。 新藤千恵氏の出版記念会9日(土)にと。ことわることとす。 大江叔母へ礼状かきて松崎医院。先生出られず。16:30史の荷物来り、運賃3,800。 けふ畑山博氏、石神井高校長に転任と新聞に見ゆ。 史20:30帰り来る。「大蔵事務次官行政職7等級(大臣官房文書課)に採用する。1号俸を給する」の辞令。 4月2日 寒く、風吹く。畑山博氏へ祝状。松崎医院へ11:30ゆき、風邪薬もらひてのち駒込、東洋文庫へゆけば川久保悌郎、吉田金一2氏あり。 『八旗通志初集』はじめより見、16:00まへ川久保と出て池袋。川久保すでに松本と会ひしと。松本嬢へ鏡を買ひ、川久保と別れて電話すれば松本まだ帰らず。けふ高尾宣子より挨拶状。 4月3日(日) 曇。桜満開と。森良雄に電話して夫人に電話をいふ。高尾宣子、堀ノ内歴にハガキ。 高橋重臣氏より「入院知らざりし」と。宮崎幸三氏より「近況しらせ」と。 11:30松崎医院にゆき、帰りて田中三郎宅にゆきし悠紀子の電話きけば「松本善海氏、けふ在宅」と(丸、西川にも電話して電話開通をしらしてもらひしが、みな留守なりしと)。 阿佐谷―中村橋をへて桜台下車(35)。松本にゆき(※『コギト』)113号まで返却を受け、破損の72と125、141、142の4冊を残す全部そろひし(鏡を嬢にと渡せし夫人の礼あやふやなりし)。 もとの途辿りしも重くて雲呑くひてのち帰宅。 石川君とて外務省に入りし史の同級けふ田中2階へ入りしと。(中西夫人、東京への電話は25円もらふといひしと)。 依子21:00雨中を帰り来り、夫婦して叱れば「permanentかけに15:00から今までかかりし」と也。 4月4日 雨、家居。15:00平塚、野崎2生来る。野崎は新潟の産にて白鳥家の書生となる。芳郎君Berlinにて病むと。 18:00となりつれ出してすし食はす。すし屋「戦前より阿佐谷吉祥寺にをり、阿佐谷小山は軍人が創めし」と。けふ松崎医院にゆかず。金なくなる。 4月5日 曇。11:00出て松崎医院。それより東洋文庫、田川孝三氏の出てゆくに挨拶さる。川久保をり、16:00すませて出、駒込駅にて岩井大慧分館長より声かけらる。下北沢にゆき、明朝来るを約さる。夜、入浴。 4月6日 9:30下北沢の古本屋(大地堂林二郎)来り、『コギト』70冊にて2千円、『図説世界史』7冊にて2,500と。文求堂にをりしことありと。詩は壷井繁治を識ると。松崎医院へゆき帰りて昼食。東洋文庫へゆけば、川久保の外に立教の小林教授をり「けふの会は」ときかれ、箱根と思出すのにひまかかりし。 15:30出て筑摩書房にゆき『現代詩集』1冊買ひ、東博氏を訪ねしに他出と。加藤定雄のぞきしもをらず。 山本書店にゆけば『唐詩300首』すでに学校へ送りしと。もう1冊なきやときけば「無し」と。 極東書店にて『唐詩300首(120)』、『唐詩100首(65)』(山本にて『唐語林(190)』)、大安にて『明清史論著集(560)』買ひて金なくなりし。 「主婦と生活」社に長尾訪ぬれば早川敏一も出て来て喫茶。大蔵省宮川新一郎官房長とは同級と。新宿にて別れ、阿佐谷。 金沢良雄に『昭和詩集』もちゆけば「まだ伊豆」と。 空腹にて帰り来れば(19:30)、山本陽子、坂根千鶴子の2生待ちをり、10日ともに青年座の採用試験受けると。夕食し21:30帰りゆく。けふ15:00よりわれを待ちしと也。 小高根二郎氏よりハガキ。『果樹園』の赤字5千円、わが会費40号までと。 4月7日 風吹きて寒し。睡眠不足のため、ねてゐれば中村林次氏来訪。『漢詩選』出せと。締切近くなりて云へといふ。 午后松崎医院。満蒙史料読書会より13日(水)と。 4月8日 立教大学より「水曜7~8時限333教室にて」と。11:00出て松崎医院。文庫へゆけば川久保より「あとで」といひ、『八旗通志初集』よみ、鄭氏との戦に奮戦せし漢軍かくことときめる。「しばらく」と挨拶せし山田君?とかは誰ならん。 16:30出て川久保と新宿下車。beerおごられる。 4月9日 晴。中千枝子より阿江姓となりしと。13:00出て渋谷、父母大の3人そろひをり。大を「春の日の会」にさそひしもきかず。 恵比須駅まで歩き、『李太白(60)』、『温泉案内(50)』買ひ、五反田駅より歩きて「般若苑」(※佐藤春夫「春の日の会」)。 中谷、外村、富ノ沢、浅野、檀、五味、井上靖、庄野潤三、榊山、井伏、林富士馬、尾崎秀樹など顔見知りあり。誰も話さず。奥野信太郎の隠し芸のあと、われ「富士山」うたひ悪酔ひし20:00前、退座。先生わざわざよこへ来られ保田のこと云はる。 帰りて入浴。憂鬱にて夜半めざむ。 4月10日(日) 聖心女子大より金曜13:00よりと前通りの時間表。始講は5月6日也。 成城大学より中国文学史月2(10:00-11:50)、東洋文化史月4(14:10-15:40)、史学研究法木2(10:20-11:50)、短大漢文木3(12:30-14:00)、漢文土1(8:40-10:10)と。 午后、千草、史への祝にと来る。京をつれて出、『新選佐藤春夫集(30)』見つけ来る。 けふも憂鬱なりしが宿酔気味とはじめてわかる。 4月11日 晴。『不二』来り、われ「平野の足にかみつき云々」とあり。概ね史の就職をしるす。 松崎医院をへて東洋文庫。『八旗通志初集』を見て17:00帰宅。太田常蔵氏より「羽田の歓迎会やらぬか、電話で連絡せよ」と。 夜、太田に「土曜、文庫にて」と返事。影山氏には「足にはかみつかず」と。 けふ西川英夫より家に電話あり、「鳩山課長に知人をして史のこといはしむれば、秀才にて云々とありし」と。和田収一氏、史に「日曜在宅」を伝へしと。 4月12日 9:00出て成城大学の入学式。11:30すみて庶務課にゆけば史の健康保険証かへせと。 『唐詩300首』52冊受取り、短大教務吉田嬢にもちゆけば、をらず。1冊ぬきとり図書館長室にゆき、『朝鮮歴史地理第2』見る。中馬君、秋田支局(朝日の)にゆき、千葉嬢結婚すと。 出て帰れば14:30。(森Dr.に寄り、鎮静剤をもらひし)。田中まさ子夫人より「17日(日)に来るがよきか」と。 坂口允男氏より「奈良女子大高校より天理大学講師に転ずる」と。畑山夫人より「忙し」と。 森Dr.の薬のめばねむくて耐らず。『李朝実録』をしらべる。 4月13日 よべ睡眠不足なれど9:00出て東大。7,8人相手に『李朝実録』よむ。(護助教授、長浜に帰り武田君に会ひしと)。 すみて松村潤君に「羽田の講演場所のちほど電話できく」といひ、出て地下鉄で新大塚。昼食して林Dr.にゆき、この間の憂鬱いひ、注射打ってもらひ、歩きて立教大学。 山田助手に始業14:50ときき、手塚教授に会へば白鳥先生をられると。電話してゆき、お話伺ひ、お礼いふ(羽田の講演13:00より早大文学部大学院にてとわかる)。 333番教室の講義に聴講4人(久保一大学院に入りしと。平塚、野崎のほか金子とてこの間曽国藩の話せし学生)。30分にてすまし、また白鳥先生と話し、bus待ちて中野。国鉄荻窪にて不通となり、雨降り出す。 coffeeのみてのち、高井戸にbusで出、井之頭線にて吉祥寺。駅で坂根生見つけ、家につれ帰る。山本陽子よりも電話ありしことあとにてわかり、疲れる(坂根生、青年座に落ち、山本生通りし也)。 19:00夕食し、和田収一氏に17日(日)夕食後参るとの手紙書く。けふ夫人節子より「都合しらせよ」とハガキありし也。 他に井上文夫君結婚せしと。 4月14日 10:00松崎医院。殆ど全快にてうれし。悠紀子class会にと出てゆく。太田君に「羽田の講演会場ワセダ」と速達す。 春名数義氏より一満君のこと。若原英明君(立教副手)より高校と大学院にと。 海老沢教授より立教専任の挨拶状。本荘健男君より「豊中へ帰りし」と。 西川英夫君より「依子のこと人事課へ陳情済」と。和田君「夕食くはす」といひしと史の話也。 4月15日 京、開校記念日で休み。われも文庫やめてねてをり。五味幸子より「紅茶送った」と。井上律子「結婚して東京へ来た」と。 影山正治氏より「『コギト』1,2週貸さぬか」と。他に中村書店より電話、「明日成城へ来る」と。 夕食後、意を決して松崎医院。依子、中野支店へ転任命ぜられしと、めでたし。 4月16日 成城の初講とて8:40ゆく。中国文学30分やり、あと2Dの成績票わたす。丸重俊はじめ来らざる者半ば。独語と当るとかにて2D聴けずと。教務課長にゆきしも了解。 鎌田女史にゆけば13日?小高根太郎君、坊やのことで来りしと。珍しければ(中村書店来り、50冊預り、原稿7月末日までときめし)すぐ出て経堂にてすし食ひしのち、ゆけば「入学後の注意ききて登校せず。和光学園にでも変へんか」と。 出て新宿高田馬場をへて早大大学院小野講堂といふにゆき、坂本是忠氏の外蒙談きき、羽田に「あとで」といふ。 太田のほか内村俊雄来あり、昭和9年以来なり。羽田のIran,Afgan,Pakistanの旅行談と写真とすみて高田会館にて喫茶。 3人にて新宿。Beerのみつつ回旧談し、故人(同窓の)三上、高橋、岩佐、橋本、山崎の5人。在京、丹波、岡部、太田、松本、内村、田中の6人。地方、羽田、原口、川久保。不明は山口、沢田、泉、奥村と18人の数あひし。 新宿にて別れ吉祥寺より雨中を帰り来る。 けふ五味幸子夫人よりCeylonの紅茶来りし。和田夫人より電話かかり「夕食に来よ」といひしと。 4月17日(日) 〒なし。13:00『楊英実録』よみゐれば田中順二郎夫妻、2児(美千子、章博)つれて来る。あげて話す中、雨ひどくなり子供退屈して困る。 史にとwhite-shirtと靴下、菓子1折くれる。14:30小止みとなりしゆゑ井之頭動物園へつれゆき、busにのるを見送る。 帰って犬の仔つれてゆきし弓子の帰りしを見、16:30となりて和田収一氏訪ぬれば、夕食と日本酒賜はる。早大出らしく京大出の兄君をられ、 やがて囲碁一番、白もちて大敗し、節子夫人に大橋停留所まで送られて帰宅。 夫君、湖南作戦にゆき衡陽、湘潭などおぼえゐし。 4月18日 成城へ10:00登校。中国文学史に短大より進学組そろひをり、教務できけばそれで宜しと也。7,8時限の東洋文化史は火曜5,6限に変更となる。(けふ前田種芳教務課長、「Javaで浅野晃と懇意なりし」と)。 丸重俊来る。その他顔おぼえにまた忙殺さる。疲れて14:30帰宅。田中秀子よりハガキ。悠紀子帰り来り、山本陽子より「坂根生けんくわ(※喧嘩)して公演に出ずといひ、どこやらゆきし」との電話ありしと。 夜また電話、大に相談すと也。けふ山本書店へ『韓国年中行事大観』注文す。 4月19日 悠紀子、寿一宅へ着物返しに出しあと留守し、11:30となりて出れば途で会ふ。下北沢で昼食し、1教室にゆき見れば文化史専攻のみ。 2冊『中国史十話』(※植村清二著)を捌き、もはや学校やめしといふ子のことききいやになる(大に坂根のこと相談すれば兄にしらすと也)。 松村に会ひてのち教授会。補欠足りなくなり部長困りし様子。すみて相馬生に会ひ、誘はれて!茶のみにゆき割勘。有羞の詩をいふ。 18:00前帰れば山本陽子まだきをらず。やがて電話かかり、すぐ来よといひ夕食くはす。坂根、意外にも1つ下の愛人と喧嘩して出しと(17日午すぎ)。羽根(青木)弥与子に尋ねてみることとす。 4月20日 和田夫妻へ礼状。雨。山本陽子より電話かかり、「ゆふべ遅く坂根帰って来た。大にも電話した」と。 角川書店より『昭和詩集』13~14版の印税165! 志野孝子より「野口姓となりし」と。 13:30出て立教大学。手塚、白鳥2先生と会ふ。4生皆出席。14:50より15:35までやり、雨ひどしとて出、西武dept.。宮崎智慧氏に会ひ「東氏の歌集評かかせよ」といひ、三水会に電話して「今日ありや」と訊ね、地下鉄にて赤坂見附。途わからずなりて交番できき短波放送buil.に辿りつき、浅野晃氏の「パステルナーク」をきく。 帰途、齋藤氏(※齋藤晌)にきけば「(※東洋大学への訴訟)証人申請は6月にのびし。教授会にて免職可決せざりしをいへばよし」と。 井之頭線三鷹台下車の高山岩男氏と同車。「服部英次郎氏は酒のみ」と。 井上光貞『日本国家の起源(100)』買ひて帰宅。 4月21日 晴。名刺出来上りしをとり、成城大学。暉峻博士をり「杉浦の娘、国文へ転科せし」と。前田教務課長とともに鹿児島の人と。 史学研究法の時間21人をり(男5、女16)、喜びしが男1は国文専攻なりし。東洋文化史に答案出せしも採点なかりしといふ女生来り、やむを得ず80やる。 畠山生来り、ユネスコより8月渡欧と。富永次郎氏『太郎詩集』を賜ふ。時価2,500なり。 ここまで宜しかりしも短大2年に『唐詩300首』教へしあと、疲れて図書館にゆき、新2年に入庫命ぜしに館長に叱らる。 ついで帰りさそひしも誰も来ず。癪にさはりて駅にゆけば鈴木秀穂をり、相馬と来週来ると。経堂下車、喫茶してのち別れ、宮崎幸三氏に電話してゆく。 小室の世話にて明大講師と。野尻貞雄氏は千葉工大と。東洋大学の醜類思出してのち庭を拝見して出る。busにて渋谷に出て帰宅。 けふsalaryもらひしに基本給31,900と上りをり、家族手当1,600+勤務地手当20%6,700にて総計40,200。 Hotel New Japanにて記念晩餐会と。鈴木正男氏より電話、「この間の録音(※『不二』に)掲載してよきや」と。「宜し」と答ふ。 4月22日 依子けふより中野支店。10:30松崎医院へtobaccoお礼にともちゆき(※湿疹)全快となる。浅野建夫博士にゆきて礼いひ、「天才はみな30才ごろに仕事し了へゐる」ときく。 武蔵野市役所の方まはりて12:00帰宅。『狂童群』の合評会の案内来しのみ。悠紀子へ電話かかり梅ヶ丘へゆきしあと影山氏より電話あり「『コギト』借りる」と也。19:00河野氏とてもちゆきもらふ。手紙托し「録音のせざるがよし」といふ。 依子、新任の店にて合はずとてふきげん。史「も少しで首になるところなりし。机上に書類のせしままにしておきし」と。 夜半、近鉄乗場にて先にゆかれしところにて夢さむ。 4月23日 8:30登校。『史記淮陰侯列伝』を教ふ。若葉弟曰く「面白し」と。出て下北沢下車。高野家に電話すれば母上とりつぎ明子夫人出て「4日女児出産、一満君の家はしらず。電話教へる」と。 駒込へゆき12:00ゆゑ丹波家へゆけば夫人出て(※丹波鴻一郎)出社と。まづよしと上富士前あるき、六義園に入る。 『八旗通志初集』けふにて一先づ了りとなりて文庫を出、帰宅。 芥川比呂志夫人、瑠璃子の詩集出版記念会(29日)の案内と、東博氏より『日本歌人』の出版記念会に(※批評)書けとのハガキ。 19:30鈴木正男氏、影山主宰の手紙もちて来り、原稿見す。3~4ケ所訂正し、『コギト』についての質問に答へ21:00送り出す。 けふ史、伊豆へゆき、朝注意せしに「よけいな心配を」といふ顔し、悠紀子、父へ3千円もちゆきしに母、負けおしみいひ説教せしとて面白くなきこと多き日なりし。 4月24日(日) 堀ノ内歴君より「保田のこと惜し」と「福地君の詩云々」。ハガキ6枚かく。 午后、Tarne『文学史の方法』を本屋に見にゆきて買はず。『東洋史統3(250)』、大矢根文次郎『中国文学史 上(150)』買ひ来る。 このごろ愚にてわれ乍ら呆れをり。弓子舞台芸術研究所の公演見て来て坂根生の役は端役にてほとんどせりふなく第5幕と。5時間を要すといふに17:30よりの夜間公演に京つれてゆきし悠紀子心配なり。(23:00帰り来り、坂根母子あやまりしと。ちづ子出演せしと)。 けふ李承晩引退との報。夜半まで中国文学史のノート気にしながら書かず。 このひごろ心にさはることありて何すともなくくらし来りし。 4月25日 登校の途、辻参謀の次女と同車。学習院出の長女27日結婚、卒論は海道記の索引と。 成城駅前で神田信夫氏に遭ふ。Noteなしにて中国文学史序説やり、11:30手紙とり、返事かきて出、下北沢下車。Rice-curry食ひ立教大学へ5月4日の会出席の返答し、4月分手当もらふ。 裏にて『韓愈(130)』、『せんりゅう談義(300)』、『Ricordo di Roma(20)』買ひて東口。 都電にて神保町、山本書店に6,760払ひ、学校へと多く送らせ『中国文学史綱 上(240)』、『隋唐嘉話・大唐新語(110)』買ひ、加藤定雄のぞきしにゐず、古本屋やりをるに寄りて『満洲土俗資料(70)』、『満洲国史教本(20)』の他に『青墓の処女(40)』見付ける。 筑摩書房にゆきて東博氏呼出し、誌上出版記念会に参加いひ、喫茶。『森鴎外研究(304)』買上として別る。 また古本屋、房内幸成(※歌集)『白鳥(30)』、『国史略(30)』、『Cristmas in action(50)』、『ハワイ史(100)』買ひ、地図『浜松(35)』買ひて了りとなり、満員電車にて帰宅。 恰も筑摩書房より『現代詩集』6~9版の印税(21日出)1,173来をり。 けふ史、渋谷へ寄り、大にwhisky、祖父母に1千円贈りしと。 4月26日 堀敏一氏より転居通知。成城大学へゆけば電話かかり、Levy氏会ひたしと。「あさって午すぎ来られよ」と答ふ。姜女生をのぞく2年みな来り、東洋文化史すませ、渡辺、石渡2生より本代受取る。 社会科の教員免状4年以下みなに与へらるとわかり、教育法の時間を穂積重正氏にたのみにゆく。宜しとなり。 栗山部長を訪ねしに散髪と。(途で会ひしき稲葉生と)。追ひゆきて「高校長の了解得られよ」とたのみ、古本屋にて『魯迅(120)』買ひて帰宅。 このごろ頭悪きを自覚す。服部三樹子氏より電話かかり「1日午すぎ来訪」と。 4月27日 9:00出て東大前までbusにのり菊池眞一氏に会ふ。1時間早しとて琳琅閣のぞく。 10:30ゆきて松村君の講読きく。『史苑』の抜刷くれと名刺出せしは宮原鬼一君とて教育大講師。京城大学出らし。 池袋までbus。西武dept.に昼食に入り、宮崎夫人のぞけば大岩丈子とて退職の宝井馬琴令嬢をり『日本歌人』3月号見せられしに良き歌作る。新婚の惚気いふ。 すし食ひて出、時間余れる故、女床にて理髪(130)、研究室にゆき、山田助手に安保反対の100わたし、森静枝生のこときけば家全焼と! 5号館控室にゆき手塚教授と話し、333号室にゆけば久保、金子の2生のみ。序説了へ喫茶にさそひ、国鉄にて渋谷をへて帰宅。 『詩人連邦』来あるのみ。山本八郎夫人より「次男関学大に入りし」と悠紀子へ。 眠くて耐らず風呂へゆけば春名一満まちをり「独乙語をとりし。千早町に下宿す」と。tobacco1箱おきてゆく。 4月28日 9:00成城大学へゆき、『ドイツ語字典』買ひ、『果樹園』へと「春日宿酔」書き、宮原氏へ抜刷包み、「史学研究法」すませ(けふ姜女生来り、2Dの全員の顔そろひし。3Dに編入の短大卒も来をり)、漢文の課外やれといふ女生と話し、12:20まで待ちしLevy氏来ずと思ひ、 新入生歓迎会にゆけば、呼びに来る。 相川肇氏と同道にて丸刈、明日帰来、その後台湾へゆき10月来日と。堀敏一氏の論文に感心しをり。『漢宮妻寵』贈らんと。 東洋文庫のこと教へ『中国史十話』贈りて別れ、おとぼけ紹介なるものに出て楊貴妃のこといふ。 14:30相馬弘、鈴木秀穂の2生ともなひて帰宅。 夕食せしめ、20:30まで話しやる。相馬は秋田大館、鈴木は岩手県東磐井郡大東町の産なり。 (けさ成城の駅にて糸屋鎌吉氏に会ひ、芥川瑠璃子氏の出版記念会のこときけば未定と)。 4月29日 『果樹園』51号来る。12:30出て芥川瑠璃子(※詩集)『薔薇』の出版記念会にとゆく(※於赤坂アジア会館)。 小山正孝、西垣脩、中村真一郎などの『山の樹』同人のほか知るべなしと思ひしに堀辰雄夫人をられ、5月28日14:00ごろ多摩墓地参拝の予定承る。 乾杯の音頭われにとらされ、気がつけば最年長に近かりしならん。鈴木亨『山の樹』の話を長々とし、(※自分たちは)『四季』の系統でもなしと。腹立ちてものいはず、堀夫人と渋谷まで同道。 吉祥寺にて『異国北海道(100)』、『辺境北海道(100)』、『日本漢文学の諸問題(90)』買ひ、ドイツ鈴蘭(65)、ほととぎす(20)、えびね(30)買ひて帰る。 けふ鈴木正男氏より電話、緒方隆士、中島栄次郎、増田晃、外村繁のこと訊ねらる。 4月30日 登校。漢文終へ聴講card呈出最後の日とてごたごたしゐるも退屈。山本書店より本つきをり。 千葉司書新婚にて休みらし。外へ飯くひにゆき、帰りて高尾宣子君を見る。 12:10会計にゆき、試験手当3千円受取り、山田俊雄氏と同道。雨降る中を新宿で下車。中村屋で茶のみ別れてお茶の水をへて東大。 山本達雄教授の雲南新甯の発掘の紹介きく。「滇王之印」出てをりと。原田、中山久四郎、桑田の3先生のほか和田先生お越し、われを見てこわき顔されし。 西島君の話きき(秦漢の郡県制)、出席しゐる増淵龍夫の攻撃なることに気づきし。 すみて桑田博士と同車、お茶の水。坊ちゃん阪大工科出てNHKと。雨中、亀戸へゆき果物1籠買ひ(300)、busにて高野家。母君に会ひ68才ときく。新生の嬢見、一満君へとドイツ語中辞典おけば電話かかり来る。母君7日岐阜へと。 出て亀戸駅前でうなぎ。お茶の水下車。『佐倉宗吾郎(120)』、『藤原氏四代(130)』、『蹇蹇録(40)』、『アクセント辞典(60)』買ひて帰宅。 古田房子より「井上律子に会ひし。浜谷生経堂に転居」と。 5月1日(日) 晴。東方学会の案内来しのみ。けさ方ゆめ見て眠し。 14:00服部三樹子氏来り、運勢見す。 「35年50才。運動して請合ったような仕事からうまく運ばないような事があります。金を使ってそれが死に金となったり、いろいろ費用倒れが多くあります。本年は平凡に送って後年に期する様磨いてをくべき年です。 36年51才。比較的都合のよい年です。多くの人から敬はれて名声も出ます。又一方目下の者の世話も見なければならない年です。子供の件について面倒を見なくてはならないことがありますが、総じて本年より50才台、運気は強くなります。35.5.1鑑定」 納得して三鷹禅林寺にさそひ、鴎外先生のお墓に詣る。すじ向ひが太宰治の墓なりしを知る。 帰りて夕食し、駅まで送る途中、喫茶。帰りport-wineとさつまいも買ひ来る。 5月2日 成城大学へ登校。手紙よべ書きしに書き足し、rice-curry食ひしところへ白井紘史より電話、夜、家へ来ることとなる。 出て経堂下車。果物買ひ(300)、和田先生に参る。殷虚文学専門といふ日大生居りし。東洋文庫紀要の抜刷たまはる。けふ出来し『成城文芸21』と『史苑』の抜刷を呈出して退去。 吉祥寺の古本屋見しも何もなく帰来。 夕食時、坂根生来り「おこし」を母君の土産と呉れ、一言あやまり云ふ。20:00白井来り、これにて坂根を送らす。芥川比呂志氏のcircleに入りたしとて西垣脩氏のところ教へ、服部三樹子氏に四柱推命見てもらひたしとてところ教へし也。 5月3日(憲法記念日) 無為。家居。小林英俊追悼会すと、近江詩人会。 5月4日 「五月哀歌」近江詩人会へと作る。13:30出て会費100同封して投函。 成城大学へゆき野田宇太郎、谷宏氏などに久しぶりに会ふ。小高根二郎氏よりの受取。宮原鬼一氏の受取ともに来てをり。 社会科教育法木曜10:40~12:10となりをり。4年生地理を西洋文化史の時間にたてよといふ。 大藤、今井2氏と話せば、大藤氏「保柳睦美氏を呼ばんか」と。「後期にせよ」といひ、高校にゆき、穂積重正氏に会ひ、来週より講義をとたのむ。 すみてまた研究室に帰り手紙再見。野田氏と同行約し、成城堂に『日本吉利支丹案内史』注文して通りに出れば、自動車より西川降りてのせて呉る。 16:50赤坂見附New Tokyo Hotelに着き、控室に入れば、17:30にとの通知なりしことわかる。 18:00の開会まで1時間まち、井上、金沢など会ひたき友の来ざるを知る。わが席の前は学芸大助教授半田元夫、左は辻善之助教授の御曹司横浜市立大助教授達也氏にて面白からず。 立教の校歌うたひて散会。預所の前にて佐々木喜市老に会ひ、coatきせんとして拒まれ、いよいよくさる。 下北沢下車。大地堂に寄り、また売れといはる。(けふ中村書店の書目来り、『詩集西康省』600、『コギト』138冊3.1万円とありし也)。 『支那文化談叢(150)』、花袋『日本新漫遊案内(50)』買ひて井之頭線にのれば、吉田元子女史眠りゐしが「永福町」の手前で目をさまし挨拶せし。 帰れば小雨降り来る。けふ東博『蟠花』の評、数枚かきし也。けふ高田瑞穂より『木下杢太郎』送らる。(西川にきけば中野清見わがことを明治乳業専務にあけすけにいひし由)。 5月5日(子供の日と) 5:00前目ざめ、茶のみ眠く、千川義雄のハガキ来しを知らず。『不二』の鈴木正男氏より電話「あす影山主宰不在」と。 14:30正平、大江房子母子案内して来る。龍平ドイツ語とりしと。苺3箱呉る。すぐ帰りゆく。 夕食後、森Dr.にゆきしもすでに閉す。一廻りして帰り来る。 5月6日 10:00出て森Dr.に寄れば待合室に市野母子あり。盲腸炎の疑と。森Dr.、魚の目に膏薬貼り呉る。これにて用なくなり、渋谷へ出て中村書店へゆき『神軍(100)』と『大陸遠望(150)』と買ひ、八幡通まで歩きrice-curry(70)。 busに乗り聖心女子大学。1年はわが講義きかざることとなりし。教室きまらず徳富女史にいふ。 時間も13:20より14:10、14:15~15:05となりしと。海老沢氏来る。salaryもらへば(3,000-240)と昇給しをり。 他に車代500出ることとなりし。和田先生御在職中は昇給なかりし也。青山氏、田中保隆氏と挨拶。東洋近世史Ⅰはヌルハチ伝。Ⅱは国姓爺伝とす。 帰途また青山学院前にて下車。coffeeのみしあと不二歌道会にゆき、鈴木正男氏に会ひ「保田夫人の貞淑」なる箇所を「淑徳」と改めて貰ふやうたのみ、誌代1千円をおく(『神軍』もおきし)。 玄誠堂に寄り『朝鮮最近史(200)』、『台湾史要(150)』、『間宮林蔵(190)』、『Holland(60)』買ひて帰宅。 和田先生より北区岸町宛細字にて「先日は態々御訪れ下され『清鮮間の兀良哈(※ワルカ)問題』及び『平家物語雑考』の博学なのには感心致しま した。取敢へず御礼のみ」と。ありがたくかなし。 5月7日 8:40登校。漢文すませ健康保険証とりかへし、寒き雨!の中を成城園へ炒飯くひにゆく。経営者かはり名も変りゐし。(手紙かきし)。 帰校して13:00よりといふ国文学会に出ることとなり、田中氏(※田中久夫)(「玉葉(※九条兼実日記)」に子亡ひし嘆きをかく箇所あり、 よむべしと。後白河法皇の悪口を頼朝としたしくなりてよりいふと)、山田俊雄氏と話し、定刻ゆけば13:30、齋藤清衛博士お越し、明治26年をといふことにて、主として全生涯話されし。わがことを知り玉はず「田中克己に平家物語雑考かきしと、年よった詩かくのと、人類学のと3人あり」といはる。先生帰り玉ひしあと引揚げの機を失ひ、高田瑞穂と坂本浩2教授の奇妙なる応酬を1時間半きき、17:10やっとすみて山田氏と帰る。(※写真撮影あり) 山田氏によれば「仲好しばかりゆゑ長びく」と也。春名一満より「内職せわせよ」とのハガキありし。 5月8日(日) 意外にも晴れて大掃除をする気となり、12:30より疊あげ(本棚掃ひ)てやる。 聖心女子大3年の本多慈子より「トルコ古代美術展」の招待券たまふ。ふしぎなること也。16:00すぎ入浴。 5月9日 登校。「中国文学史」のはじまる前、池辺氏来り、歴史の時間ふやせといふ。少数の例外以外はそのむだなることを云ひ、時間了りて聴きゐし3年Dを館長室に呼べば鎌田女史喜ばざる様子。 社会科教育法15人以内にて62教室使ふこととなり、home-room53と教務にゆきてたしかめる。 了りて昼食くひ、栗山、龍口諸氏とはなし、今井氏探せしも見付からず、丸重俊に会ひ松坂屋にゆくといへば、休みではなきかと疑ひしあと否定す。 出口にて高橋邦太郎氏に会ひて挨拶し、国鉄御徒町へゆけば松坂屋は月曜定休なりし。 引返してお茶の水。「平戸」の5万分の1にて4枚となるをそろへ、長崎県(40)をもまた買ひ、古本屋ひやかし山本書店へゆき范文瀾『中国通史簡編2(460)』、『玉台新詠集 上(160)』、『王維詩選(80)』買ひ、疲れて蒲池氏(※蒲池歓一)に寄り、くづ餅(30)食ひし のち「父母によろしく」と坊やに云ひて都電、渋谷へ出、井之頭線にのりしあと三鷹松崎医院へ湿疹治療にまたゆく。 帰れば『山の樹4』来てをり、鈴木亨の「四季」派でなしの意味ほぼわかる。夜、本多慈子生へ礼状かく。 5月10日 雨、寒し。大江房子より礼状。浦畑チヅ子「永井姓となり延岡に住ふ」と。 立教大学教授団よりまた封書。出て成城大学。東洋文化史教へ、考古学好きの藤井祐介(佐世保の医者の子)を研究室に呼びて話す。 寒くてならず、講師室にゐれば松村達雄君来り、「高城助教授入院、恢復するや否やおぼつかなし。自分は明日より15日まで帰阪」と。 相良教授に誘はれtelevi見かたがたと八宝園へ出発。16:20ごろつけばteleviなく、17:20まで待たさる。話相手もなくてbeerのみ、早めに引揚げ帰りて炬燵入れる。 けふ成城堂より『日本切支丹宗門史』上中下3冊もち来る(480)。 5月11日 9:10出てお茶の水をへて東大(琳琅閣にて李亜農『中国的奴隷制与封建制(150)』買ふ)。やはり一番乗りなり。 宮原鬼一君のよみ出来ず。われ吏文の字引こさへしといひ、三上氏に変な顔されし。 すみて阿南君誘ひしも弁当もつとてやめ、本郷3丁目より都電にて上野広小路。こむといへばまづ飯食ひてゆけば空いてをりし「トルコ古代美術展」早々に目録買ひて一周。国鉄にて池袋。立教大学教授団に50円と諸願書とを山田助手にたのみ、教室広すぎると教務にいってもらへば269とて最古のバラックに来週よりと。 手塚教授、久保生らと来週東洋文庫へ石田、原田2教授の講演ききに同行を約せしも直後に三水会あることに気付きし。 渋谷、吉祥寺をへて三鷹。松崎医院にて看護婦さんに塗薬、太陽灯かけてもらふ。 けふ〒なし。弓子、伊豆堂ヶ島へ1泊にてゆき絵葉書みやげにもち帰る。 5月12日 雨やむ。穂積氏の教室変更となりしをきき、史学研究法教へ、今井氏と話し、火曜連絡会を教授会のあと講師室にて開くこととす。(山田生、名をきかれること5度目といふ)。 冷麺くひて漢文。13:30すませて出、松崎医院に寄り、汁粉くひて帰宅。 藤野一雄君より「小林英俊嗣子、台東区の上野学園大学に入りたしといふにつき取調べたのむ」と手紙。銭湯へゆく(体重41.5kg)。 5月13日 12:00まへ出て聖心女子大学。Ⅰには「ヌルハチ伝」、Ⅱには「国姓爺伝」はじむ。了へて都電にて渋谷。三鷹の松崎医院にゆき「魚の目」施薬してもらふ。足胝の方はだめなりと。 帰れば悠紀子をらず織原夫人と小室夫人訪ね、兄の悪口ききしと、18:00帰り来ての話なりし。 けふ上野学園大学といふを電話帳にてしらべしに台東区神吉町にありし。夜、速達「三水会は今月のみ25日」と。 5月14日 8:40成城大学。漢文了へ坪井生より記念日の行事報告受く。すでに今井講師。野口生より聞きあること也。 山本書店にて買ひし本の整理出来て来る。田中久夫氏と出て(『「却癈忘記」にあらわれた明恵上人』との抜刷もらふ)、経堂下車。 中華そば食ひしのち小高根太郎を訪へば茶碗作りをり、坊や転校せしと。 14:00出て北口の古本屋に案内し、『牧野富太郎自叙伝(120)』買ふ。松崎医院にゆきて三鷹より帰宅。 松井和佐子より佐藤姓となりしと。 5月15日(日) 昨日は史、依子ともに1泊の旅行にゆきし。10:30松崎医院へゆき魚の目切ってもらふ。 帰途、平田夫妻の家の前にゐるに会ふ。帰りて山本陽子より「悲観しをらず。ゆくさき未定」との手紙と住山重子の「televiにつとめゐる」とのハガキ見る。 史、夕方帰宅。(けふ父15:00ごろ来り、すぐ帰りゆく。神経痛とてよたよたしをり)。 このごとくわれも老いなん書もよまず孫も愛せずわれも老いなん。 あるときは烈火のごとく怒りしがいまは怒らずよろめきて去る。 5月16日 9:30登校せしに、やがて教務より電話「知人来し」とのことに迎へにゆけば塚山勇三君にて従弟の伊達信氏弔問に来しと。伊達宗雄氏の出校11:30といふに、研究室にて待たせ中国文学史30分やりて帰り、話す中、伊達氏来る。 講師室にてrice-curry食ひ、13:00出講の伊達氏と別れし塚山君とともに出て、給田町の団地へと千歳烏山行のbusにのり、団地前といふところにて下車。 別れて(誤らしきこと帰宅後、地図を見てわかる)芦花公園前より京王電車。明大前をへて三鷹の松崎医院(けふ白井紘史より電話かかりし)。 帰りて角力のradioきく。藤野一雄より「上野学園大学は女史のみ。国立の音楽大学にゆくといふに反対也」と。 5月17日 10:30成城大学へ登校。指定寄附金の使途について協議せんとせしも今井氏12:00に来り、40分間にて器具設備47万円のこり書籍費ときめる。 東洋文化史すませ、14:10より教授会。3Dの落第、金本、越智の2人決定。特選給付生3、4年ともにB、Cより出てすみ、主任会にて「指定寄附各専攻90万円づつ、使途は部長干渉せず」となる。 このこと今井氏に報告。52,53教室の展覧会の飾付見て、空腹かかへ三鷹にてしるこ食ひてのち松崎医院にゆきて帰宅。 『バルカノン13』来り、美堂正義氏の「『悲歌』に寄す」を載す。 5月18日 曇。美堂正義氏に礼状かく。高尾書店の書目と『詩人連邦』と来りしのみ。 12:30出て松崎医院へゆき、中野をへてbusにて立教大学。教務にて267教室おしへられてのち図書館にゆき閲覧章もらひ『東洋学報』vol.23借り出す。 岩生博士の「李旦考(※岩生成一「明末日本僑寓支那人甲必丹李旦考」)」を見んが為なりし。 久保生つかまへ呼出して教室おしへ「李旦考」よめず。講師室にて手塚教授に遭ひ「単独にて文庫にゆく」とことはり、4生相手にZeelandia城(※台湾の古城堡)の話をし、野崎生の白鳥先生に困りゐるを識る。 16:00すませ炒飯くひてのち、busにて林Dr.にゆきしに全家留守。大塚の古本屋見しあと、駒込にて喫茶。文庫にゆけば手塚教授すでに在り。 聖心女子大学の女生1人来をり、石田幹之助先生の「博学なれ」と原田先生(※原田淑人)の「実行せよ」とのお話承り、和田先生にも御挨拶申上ぐ。 手塚教授と駒込駅で別れ、久保生と新宿下車。「紗里文」でcaféのみ、下北沢をへて帰宅。22:20なり。 5月19日 雨模様の中を11:30家を出て成城大学。この間より同時出勤の老紳士、相良守峰博士と識る。 雨の中を短大教えへ、富永次郎氏と同室の池辺弥氏に予算のこと報告。 年中行事の会に出ざるを云ひ、館長室にて『東洋学報』また見、千葉氏よりWaley『白楽天』借出して三鷹松崎医院をへて帰宅。 高松直子生より「帝塚山学院短大の学長、鎌田政治氏に決定、自分は日生やめてお稽古する。松本一秀部長大腿骨に亀裂入り入院、あと2ヶ月」と。 『不二』来り、例の会談のせ、わが具体的なものいひに嫌悪。 けふ16日誘拐されし子、ガスにて殺されゐしこと判明とて大騒ぎ也(※雅樹ちゃん誘拐殺人事件)。 5月20日 雨。11:30止みしところ、傘もたず出て渋谷で餡蜜くひ、雨中を聖心女子大学。Ⅱの教室221に変更されをり、salaryもらふ。 出て都電に出れば本田生?をり、トルコのアンカラに3年をりしと。 並木橋で下車。父母のゐるところにてちらしずし注文し、食ふところへ大帰り来る。傘借りて出、松崎医院をへて帰宅。 河出書房より1,730?来りしと。けふ松本君へ見舞、高松生へ返事。 昨夜、史0時すぎ帰り、議会へゆきゐしと。面前で安保条約通り、会期延長50日となりし也。 5月21日 晴。成城大学へsalaryもらひにゆく。途中大藤氏と同車、文化史専攻のみ研究費少かりしと思ひ玉ひし也。 講師室にて辻和子6年の恋むすびし(立林姓)とのハガキ受取る。 レース編みをbazarで買ひ(150、のちほど松崎Dr.に献上)、salaryもらひ、昼食にゆく加藤隆子生ら2人をさそひ「すみれ」にゆき飯くはせ、帰りて田山花袋のslideを見、坂本浩氏よりこの間の文学会の写真もらひ、2度考古展にゆきしあと出て下北沢。 大地堂にて『満洲風物誌(100)』、久保天随『支那文学史(100)』、花袋『草枕(150)』買ひ、三鷹にゆき松崎医院にゆきしあと、散髪(130)して帰宅。 住吉幸子より「西保姓となりし。惠以子の従弟が夫」と。入浴。 p5 5月22日(日) 松崎医院へゆけず、11:00成城大学10周年祭にゆく。山田俊雄教授と同車。 11:30より式はじまり、25年新制大学発足までの紛糾ありしをきく。すみて昼食会。 住友銀行支店長に田中克己専務のこときけば「退職して松下電器の子会社にあり」と。 野田宇太郎氏ゐるに気づき、ゆきて高田瑞穂氏より酒井森之助氏への紹介受く。東田千秋氏に酷似してこの間見まちがへし也(短大講師と)。 池辺弥君より指定寄附の28万円の使途書もらひ、講師室にゆけば芸術専攻も富永氏の同書にて困るらし。 14:00となり、出て喜多見の薄井家。(※薄井敏夫)未亡人とあきつ嬢とをり、「はるな嬢は電通につとめ、けふは高校の同窓会」と。 下北沢下車。『旅程と費用概算(30)』、『頼山陽詩集(50)』など買ひ、しるこ食ひて帰宅(花袋の『草枕』をslideの賞にと置きし)。南隅美弥子より父君和島岩吉弁護士の『三つの無罪』贈られをり。 夕食しながら夕刊見れば竹内好辞職せしと出をり(※新聞切貼「竹内好都立大学教授が辞表、“非民主的な政府”と怒る」)。ゆきて松枝茂夫氏と帰りまち、励まして帰り『南支遊記(複なりし30)』、『有馬晴信(30)』買ひて帰宅。眠りがたかりし。 5月23日 10:00起きて朝食。『果樹園』の合本、『近畿民俗』25周年記念特集号などと共に竹内の挨拶状来をり、 「私は東京都立大学教授の職につくとき、公務員として憲法を尊重し擁護する旨の誓約をいたしました。 5月20日以後、憲法の眼目の一つである議会主義が失われたと私は考えます。 しかも国権の最高機関である国会の機能を失わせた責任者が、ほかならぬ衆議院議長であり、また公務員の筆頭者である内閣総理大臣であります。 このような憲法無視の状態の下で私が東京都立大学教授の職に止ることは就職の際の誓約にそむきます。 よって私は東京都立大学教授の職を去る決心をいたしました。 この判断は私の単独に下したものであって、何びとの意志をも介入しておりません。 この処置は他人にすすめられるものでなく、またすすめる気は毛頭ありません。 私は文筆によってかつかつ生計を支えるくらいの才覚はあります この条件の下で、私のなしうる抗議の手段として、私は熟慮の上で、この処置をえらびました。 私の辞職によって、同僚および学生諸君に迷惑をかける結果になるのは忍びないところでありますが、どうかお許し願います。 そして今後とも変わらぬ友誼をお願い申しあげます。1960年5月21日 竹内好」。 悠紀子をして渋谷にゆかしめ、半日臥床、夕食後、松崎Dr.にゆきて帰り、『源氏と平氏(70)』、『日本民俗学入門2冊(50)』買ひて帰り来る。 p6 5月24日 堀多恵子夫人より28日の案内「すみて食事をともにせん」と。 春名数義氏より礼状。安西均氏より「日本デザインセンター」の企画進行室に勤めしと。 小高根二郎氏より『掬水譚』の出版年月日の問合せ。 11:30出て成城大学。指定寄附金の使途、短大では英文、芸術も半分を要求しゐるとて3主任に栗山部長より話あり「誤解なり」と。 26日会議するとの廻状を鎌田氏に托し、民族学の馬淵氏の補講を火曜5時間目にしてもらふことを教務に届け出づ。 四条、八重樫2生をさそひて蜜豆。「柳田文庫の利用を火木土に限られしため困る」と。 ともに出て渋谷東横dept.にwhite shirtの仕立たのむ。6月7日出来と。松崎医院をへて帰宅。 京、けふ河口湖へ遠足。ゑはがきをみやげに呉る。依子、労音とやらにて22:00帰宅。飯くふに目をさます。 けふChiliの地震にて太平洋岸大津波なりしと。 5月25日 9:00出て渋谷をへて地下鉄にて本郷3丁目にゆけば、丁度時間よかりし。すみて本郷3丁目より林富士馬Dr.に電話して「ゆく」といひ、地下鉄にて新大塚。 すし食ってゆき依子の健保証きけば「預らず」と。注射してもらひbusに乗れば山田助手と同車、席譲られ恐縮。茶に誘ひしも断られ、図書館に寄りしあと(『掬水譚』しらべしもわからず)、salaryもらひ、4生を教へて喫茶。 (『平戸史話(130)』と『歴史学――論文のまとめ方と書き方(200)買ふ』) 渋谷をへて三水会。浅野晃、高山岩男の2氏欠席。席上、竹内の話のこと話題となり「バカ」「止めてくれればよい」とのことなりし故、親友なることを明かして座を白けさす。 帰り佐藤俊夫助教授と同行、疲れに疲れたり。 「6月19日新安保自然成立、7月辞職、9月総選挙の見通し」と。けふ田村氏(※田村敏雄)よりききし。われ田村氏に『満洲風物誌』を贈りし。(田川孝三氏に藤枝晃の托せし「克己」の印受領)(※印影あり)。 5月26日 よべ睡眠不足。9:00出て堀夫人へ「食事ともにせず」と速達出す。沢田四郎作博士へ鎌田女史と連名の状かき「史学研究法」教へ、午、池辺、今井、大藤の3氏を待ち指定寄附金の分配。3時間のすみしあと再開とし、camera2台その他にて書籍わづかとなる。可笑。 白井紘史より電話あり、約束せし15:00に10分おくれて下北沢。餡蜜食ひてのち古本屋にゆきまた『満洲風物誌(100)』。 松崎医院へゆけば睡眠薬いはざるに賜ふ。帰宅。庄野英二氏より「『ロッテルダムの灯』贈った」と。床しいて横臥。 (けふ『独和辞典』代715払ひし)。 5月27日 雨。影山正治氏より「芳賀檀を怒らしめし十返肇の文の掲載誌を教へよ」と。 宮本正都君より元気と。11:30出て聖心女子大学。すみて『昭和30年文芸年鑑』見てのち、雨中を歩きて高樹町。都電にて青山6丁目。不二塾へゆけば影山塾長在り。「竹内好は中共より大金もらひゐると教育大の漢文教授(易経専門と)いひし」と。躍起となりてこれを否定し、「十返肇はしらべて返事する」と申し、ともに出てわれのみ古本屋。 『刀伊の入寇及び元寇(40)』、『文禄慶長の役(50)』、『Korea:Her Histry and Culture(100)』買ひて三鷹松崎医院に寄りてのち帰宅。 p7 5月28日 晴。成城大学へ登校。「史記韓信伝」を教ふ。最前列にゐる2Aの女生5人「補講をせよ」といひ、月曜4時間目と定む。 図書館にて巌谷大四『非常時日本文壇史』、橋川文三『日本浪曼派批判序説』貸出し、『新潮』『中央公論』の十返肇の文検して浪曼派関係でなきを見てのち帰宅。 昼食し、12:30悠紀子と出て三鷹にて菓子(300)買ひ、武蔵境より多摩川線にのりかへ、多磨墓地前に着けば、堀夫人と同車なりし。 「玉由」とかいふ墓茶屋改築中にて、深沢紅子女史待ちてあり、加藤俊彦夫人、福永武彦などの次々来るを待ちて墓地にゆく。12区3側にて「堀辰雄1905-1953」とあるのみ。 蚊を払ひ花そなへ、次々に拝せしのみ。(※写真撮影あり)夫婦して先に別れ告げ、busにて三鷹駅前へ出、ice-cream食べしあと、松崎医院へゆき、悠紀子のいぼ取ってもらふこととす。 帰宅。入浴。夕食して眠く中西氏長男の東洋史の質問を「あすに」といはしめて眠る。 けふ渡辺三七子より「結納入りし」と。徳井靖子生(3A)より追試票。 5月29日(日) 晴。松崎医院へゆく。魚の目診察受けし。国会休業のままにて不快。李承晩アメリカへ亡命と夕刊に見ゆ。 p8 5月30日 8:30出てタバコ屋にて切手買ひ「多摩墓地」と1,100送らんとすれば、嫗、受取りて出しおくといひし。 中国文学史すませ昼食に中華そば食ひ、鎌田女史に会へば「今井富士雄氏父君逝去につき香資云々」と。 池田、大藤、池辺氏の分立て替えへ2千円わたせし。指定寄附金90万円の計算書かき、栗山部長に見せ、篠原部長の分に印もらひし。中村書店より電話かかりしゆゑ『中国史十話』売らざりしを云ひ、「来週来る」ときく。 林Dr.に電話し、「十返肇の日本浪曼派罵倒は時事新報に出し」ときき、『不二』の鈴木正男氏に電話して報告。 筑摩書房の東博氏に『蟠花』の評文出来しを云へば「見たし」とのことに「行く」といひ漢文の補講の5女生来ざるゆゑ14:30出てゆきcoffeeのみながら見せれば不満らしかりし。 別れて古本市を見、『歴史公論』の特輯、『国史の研究法(100)』、『史料研究の方法(120)』と『扈従訪日恭紀(50)』、『日露大戦史(50)』と買ひ、都電にて渋谷へ出、三鷹の松崎医院に寄りて帰宅。悠紀子けふは行かざりし。 5月31日 川勝重子生より速達、「4日(土)加藤、弓場2生と東京着、日本女子会館に入る」と。 美堂正義氏より「田中克己論を方々に書きゐる」と。 11:30出て成城大学。「東洋文化史」すませ、篠原部長に計画書出し、中村書店来しゆゑ売上590を渡し、丸重俊に補導費1千円わたす。 14:20より教授会。「bonus10日に渡す」と大宮執行委員よりの話ありし他は輔導関係のことなりし。 すみて大藤、池辺2氏と連絡会。すませて内野生を東北沢に訊ね訊ねしてゆく(途中、中野清見夫人弟姪とあふ――女子医大生)。 体悪きらしく話すうち蒼白となる。飴やりて途中『千夜一夜Ⅰ(60)』買ひ、ラーメン食ひ松崎医院をへて帰宅。 (けふ立教大学生、苺もちて10:00来る。家庭教師のことききに来しならん。午后悠紀子の友より塾にゆくこととせしと苺もちて断りに来しと、ふしぎ也)。 6月1日 千草来り、「父母十日ごろ伊勢へ帰る」と。中村さんとて天沼にをりし当年60歳の老嬢、定期貯金の勧誘に来る。 13:00出て中野をへて立教大学。国姓爺を明清鼎革までやりてすまし、研究室へゆけば、手塚、小林2教授、来年度の計画を立て合はざるらしき場にあふ。そこそこに出てまたbusにて中野。しるこ食ひ三鷹松崎医院。悠紀子いぼのとれし礼に来しと。 帰りて銭湯にゆくつもりなりしも寒くてやめる。けふ立教大学にて来週の休講を4生に約す。 6月2日 昨夜3:00にめざめ、苦しけれど登校。まづ史学研究法やり、内野生の来れるを見る。 昼食そとへゆかんとせしも2女生の食堂にゐるを見、話しつつpão。一人は日立製作所社長室長の女、本間生なりし。 短大すませ篠原部長に補導費と本代の請求出せしあと、鎌田女史より池田(夫人より受取りしと)、大藤2教授の香奠代1,000返却受け、池辺君より「立替ですよ!」と声荒げられしも篠原氏よりの電話にてすみし。 下北沢下車。郵便出し、すぐのって帰宅。 小高根二郎君よりの往復ハガキ2通見る。中島栄次郎の生年月日と伊東書簡の疑問となりし。 入浴し、松崎医院へゆく(帰途、空腹にて炒飯くひし也)。 このごろ魚の目の治療も受けゐる也。眠くだるきもやや平安なり。現金なるものかな!ⴵ(※不詳) p9 6月3日 よべ2:00にめざめて、以後眠れず。11:30出て聖心女子大学。「ヌルハチ」すまして「国姓爺」やらんとすれば(同室の老教授、東洋大学と善隣高商にゐて大島豊を識り、この間1億円東洋大学に貸せし人ありしと。田部重治氏、apart3軒をもつと話す)、 「先生、あすどうなさいます」とのことに「あはてず電車にのれ」といへば、新安保への賛否を訊ねるなりし、意外なることかな。 中河幹子と竹内好の2人の話し、太宰と堀辰雄の話してすまし、渋谷へ寄れば父母13日に伊勢へゆくときめし。 1万1千円にて背広作りてもらひしと見せらる。道玄坂の古本屋に寄り(餡蜜をそままへに食ひし)、『大陸文化研究(80)』、『砂の枕・人間の歌(70)』買ひ、神泉より乗車、三鷹松崎医院をへて帰宅。 『アジア歴史事典4』来をり、わが執筆は「順治帝」のみならん。依子けふbonus6千円もらひしとてport-wine1瓶買ひ呉る。 6月4日 総評傘下のストとの由にて4:00ごろよりspeakerきこえ、7:10出てゆけば国鉄通り、やや空きし私鉄にて成城大学。 図書館にて中島栄次郎のことしらべしも手がかりなし。9:15より漢文。すませて川勝生の電話まちしも来ず、11:00こちらよりかければ「未着」と。 出て丸重俊と会ひ、経堂にて下車。すし食はし、別れて池袋。西武dept.へ宮崎女史に会ひにゆけば、婦人Hall移転しをり。やめて13:00かっきりに六義園に着き、14:50まで待ちて皆そろふ。 2年生14人来をりし。beerでまっ赤となり、散歩して帰り来れば散会となりゐし。 出て巣鴨駅まで歩き、途中『魚歌(20)』、『千夜一夜物語14(60)』買ひ、松崎医院をへて帰宅。 筑摩書房より『non-fiction全集』1,2来をり、『小林英俊Requiem』と手帛2枚と来をりし(16:00また日本女子会館に電話せしも未着と)。 6月5日(日) 東博氏へ礼状。『果樹園52号』来る。悠紀子、同窓会へと出てゆく。 14:00出て高円寺。赤川草夫訪ねbeerご馳走となる。60才と。浅野晃氏と同じく歯に衣きせず。 出て丸に電話すれば在宅。中野、竹内のこといふ。竹内を理解しをり。夫人のいとこの子の嫁、わが教えへ子と。井上といふに井上律子と判明す。 増田四郎『歴史学(90)』買ひて帰宅。悠紀子また依子と買物に出をり。 6月6日 4:00まで眠れず。成城大学へゆき中国文学史また話してすます(直前、神田信夫教授来訪。父博士(※神田喜一郎)よりと『敦煌学五十年』たまふ。『中国史十話』もち帰りもらふ)。 昼食くひ、漢文の特講の女生たち忘れて出、千歳船橋下車。鈴木俊教授訪へば大学と。「あす10:00ごろまで、水曜は終日在宅」と。 『中国史十話』おき、暑きゆゑ駅前で餡蜜食ひ梅ヶ丘下車。和田先生訪ひ参らすれば御授業中と。 『中国史十話』おき、「また」といひて出る。松崎医院にゆき夫人より注射受く。湿疹、魚の目ともに良くなり来りし。 小高根二郎氏よりわが『ハイネ詩抄』につき問合せ。神田先生の本よみ了る。 6月7日 8:30家を出て鈴木俊氏を訪ふ。『満鮮史研究』は「そこのを持ってゆけ」といふこととなり、中村書店の方は要領を得ざりし。東洋文化史のnote忘れしゆゑ、研究室にて作り、下痢のためtoastと紅茶(100)。 東洋文化史の時間すみて山田、武井2生と話す。山田は米人の夫人なり。(齋藤清衛博士と蓮田碑のこと話す)。 父胃癌との長沢生に電話すれば母出て不在と。欠席届せよといひし。 『蟠花』評書き直せしも旨くゆかず。服部女史の卦、このごろ万事に当りをり。室に電話して「竹内慰める会をせよ」といひ、これもH(服部女史の卦の無駄骨折りの印)なりし。 15:30まで待ちて国文学会に野田宇太郎氏の「浮世絵と詩」をきく。(※写真撮影あり) 18:15すみ、すし食ひしあと相談、写真とて19:00近くなり、中座して松崎医院。下痢の薬を夫人にもらひて帰宅。 6月8日 8:30家を出、渋谷より地下鉄にて本郷3丁目下車。西片町長沢家にゆけば、母出てミキ子生都庁に出しあと(Hなり)。 疲れを正門前でcoffeeのみていやし、李朝実録の会に出る。三上教授も出席。阿南君のよみを我と田川氏と訂正す。 12:20すみてrice-curry食ひ、神田、松村2氏と同車。東洋文庫にゆき『太宗実録』天聡7年までよむ。吉田金一氏来る。 16:00出て渋谷東横dept.にてwhite-shirt受取り、餡蜜くひて松崎医院。けふもまた夫人の手当なりし。「bat」3箱買ひて帰宅。 6月9日 9:30成城大学へゆき、聖心女子大学へあすの休講とどけ、長沢生の来しと話し、ついで史学研究法。出席よろしく、姜生、土曜の欠席を届け出づ。 昼食くひ漢文教へ、栗山部長に『文芸文化』からんとせしもつかまらず、ふと図書館にきけば「あり」と。借り出して鈴木正男氏に電話し「来週とりに来る日を指定す」といふ。 井上律子に電話して話す。13日の休講も届け14:30帰宅。 坂本経子副手より「市川姓となりし」と。入浴し松崎医院へ18:00ゆく。眠くてたまらず。 6月10日 8:20家を出、9:30東洋文庫着(吉祥寺―下北沢―新宿の路線による)。昼食時まで『清朝実録』をよみ、昼食を玉子丼とし、金30円となり、13:30までまたよみ、漢軍2旗となりしところにて出る。 また前の路線をへて成城大学。Health Centreといふにゆき、待たされてのち検査受ける。浦本Dr.59才と。ついで会計にゆきbonusもらふ。PTAより2.4万を増しくれをり。 研究室へかへらんせしに、漢文の補習にと鈴木睦美と北森満里?2女生来り、汁粉くひにとつれゆき、蜜豆くはす。 雨ひどくなりて出、下北沢まで野口駿雄とゆき、のりかへにて古本屋、『平戸蘭館日記上下』売れしといふに『台湾ヱハガキ集(200)』、『郵便切手catalogue(40)』、『王陽明(40)』など買ひて松崎医院をへて帰宅。 天理図書館より『Africana』来をり。電話、阿南君よりありしといふに夕食後かけて来さし、凌純声『赫哲族』と『清史雑考』とを貸す。 6月11日 8:30若葉伊奈緒と同車にて成城大学。漢文すませ、成城堂に480(『切支丹宗門史』代)払ひ、東方学会に35年度会費(400)、東洋史研究会に1000払込みしのち、新宿へゆき切符買って東京駅。 折しも出発しかけゐし伊東行に乗り、小田原で切り離しの車両に乗り小田原で下車。rice-curryくひ、大阪行にのりかへて沼津下車。 塚山君にゆかず宿さがし、はじめの高さうなれば茶のみ200置きて出(1500とわかりし)、小さなのに入り入浴。beerのみ飯はすし半分食ひしのみ、熟睡せし。 6月12日(日) 起きれば8:00にて来客ありとてよべ電話かけし詩人4人!ともに10:00出てわれは餡蜜。 送り送られて富士にゆき加藤一氏に会ふ。酒店にて「もと『海盤車』をやりし。同人は麻生、准同人が矢本貞幹氏なりしと。酒井正平、川村欽吾などはおぼえず」と。 駅まで送られ土産買ひ「なにわ」で帰京。 この間Eisenhauerアメリカを出発せし也。読売はじめ新聞みな「歓迎せよ」となりし様子。 坪井明より「頒けよ」と大高文2乙の写真来をり。川勝重子より「4日は40分おくれて入京。電話かけざりし」と。 6月13日 敝衣にて東洋文庫へゆき『太宗実録』を見る。松村氏もよみゐる箇所ありしがすみ、昼食に鰻丼(150)、不味。 散髪せんと思ひしも月曜にて休みなりし。 15:00西川英夫に2度目の電話してゆき、坪井よりの写真を4枚渡す。「竹内の慰労会賛成」と。 中野まで急行でゆき、蜜豆くひ、松崎医院へ羊羹もちゆく。帰れば悠紀子、京をつれて父母を送りに出しと。和田先生古稀記念東洋史論叢編纂委員会より「執筆者毎に3冊予約を」と! 悠紀子ら22:00帰宅。父母きげんよく出発。千草経過良好と陽生云ひしと。 6月14日 9:00悠紀子とともに出、名品店にゆかんとすればまだ開かず。散髪し、遠藤商店の向ひの店にて合背広(8千円)買ひ、着換へて森Dr.に会へば「清瀬一郎に暴力ふるひし社会党云々」といふ。昨日柏井数男みてもらひしと。 出て下北沢でrice-curryくひて成城大学へゆく。 漢文やるといふ鈴木、柏岡、本多の3生と話す中、今井氏来り、「図書購入に関し了解求む」と。 電話、影山正治氏よりかかり『コギト』返却すといはるに『文芸文化』と引かへに、成城大学へよこしたまへといひ、東洋文化史やり、教授会にゆけば、概ね(※安保反対)行動参加生のことなりし。 「影山氏来らる」との案内にゆけば正治氏自らscooterにてお越しなりし。 「この間浅野晃、尾崎士郎の2氏に会ひしに、文芸日本第3次の動きにくさりゐる」とのこと也し。菓子折たまひ恐縮す。 教授会に引返し、すみて文化史の打合せ会(けふ山田俊雄氏に和田論叢の案内わたせし)。 池辺君あひかはらず感じわるくて困る。すみて下北沢にて下車。餡蜜くひ松崎医院。社会党も暴力を清瀬氏にふるひしと強き注射さる。 けふ学校へ(浜谷)河野弘子の転居通知。家へ古田房子のヱハガキ。他に『中央公論』の日本の地下水係より問合せ。 p8 6月15日 13:00まで家にをり休息す。出て渋谷をへて池袋。渋谷で『新東京文学散歩(60)』買ひ、池袋で『国姓爺合戦(30)』買ひし。立教大学研究室に池内先生『満鮮史研究 上世編』わたし、教授室で手塚教授、中川講師に会ひしあと45分やり、東洋文庫へゆきし久保生をのぞく3生と喫茶。 「けふEisenhauerに学位贈呈の件にて教授団、学長に抗議し、米大使館へもゆくらし」と平塚生の話なりし。 地下鉄にて虎ノ門、短波放送会館の前demo隊に対し、警官対峙して入れず隣のbuil裏口より入りゆき、三水会の諸氏みな見物しをるを見ゆ。 勝部君の話の最中も喚声しきりにて、あと竹内のことまたいひて座白け、やめと思ひつつtaxiにのれば「死者1人出し」とのことなりし(※東大生、樺美智子)。 渋谷にて浅野晃氏を喫茶店にさそひ、気持云へば「了解」と。折よく雨やみし時を帰宅。 田中秀子よりハガキ。「高松直子は売約済ならず」と。 世の中のこともしらずに眼とぢ声なくなりしをとめ子あはれ。 降る雨にぬれそぼちつつ若き子らこゑはりあげてうたひつらむか。 この人ら権力おもひこのわれはこひをばおもふともにおろかに。 6月16日 睡眠不足を押して成城大学。史学研究法やらず昨日の(※騒動の)所感をいへば山田生、頭に繃帯し、鈴木健司生見えず、すみて山田女生と武井生にさそはれ飯くひに「すみれ」へ行くことになれば川本2人らも来る。 昨夜みな全学連とともに議会にゆきし也。 帰りて学生課長に会ひ、高桑純夫講師(哲学にて昨日嬢をなくせし樺俊雄氏を識れり)らと話しゐれば池田教授「昨日の指導者はL3A笠松にて負傷」と。栗山部長にも報告し、短2Aの漢文すまし、鈴木生の下宿見にゆきしに「ゆふべ帰らざりし、けさまた出てゆきし」と。 高井生も「帰り来し」といふに一応安心にて、ふらふらゆゑ帰ることとして、駅にゆけば相馬生をり、誘ひて経堂へゆき、けふ結核の診断受けしといふ中谷生の家へ電話すれば帰宅しをり。そのまま帰宅。 悠紀子より教へられてradioきけばEisenhouerの訪問取止めを岸首相たのみ、辞職もきまりしらし。 影山正治氏の構想通りとなりめでたし。ただし新安保はその代償か。山中タヅ子より「まだ縁談おくれる」と。 6月17日 昨夜よく寝て11:30出て(山中、古田、田中3生へのハガキもち)吉祥寺駅で竹内好に会ふ。「やや雲の切れ目見えし」と。 われ彼の動静批判を伝へ渋谷で別れ、喫茶して聖心女子大学。 2classともに(※学生騒動の)所感のべしあと、ちょっと講義し、徒歩にて不二歌道会。鈴木君に礼いひ『文芸日本』托し、またjuiceのみて古本屋。 『ニューカレドニアその周辺(200)』、『The son of the Grand Eunuch(100)』、『千夜一夜物語4(70)』、Baedeker(※旅行案内書)4冊(400)買って松崎医院。 帰りて齋藤はるみの便り、坂根千鶴子の「舞芸座に入りし、いま帰阪中」、父より「無事着いた」など見、東洋文庫よりの『華夷変態補遺』受取り、夕食後入浴。依子、悠紀子につれられて松崎医院にゆく。 われ浴場より帰り来れば野口駿雄生まちをり「鈴木健司いまだ帰らず、学友会では今後ゆくなときまりし」と。「われらに任せよ」といふところへ白井裕史来り「全明大憤激す」と。けふ聖心女子大学6月分のsalaryくれし。 6月18日 8:30成城大学へ登校。丸に電話して鈴木の捜索たのみしあと、学生来り「月島署に留置され、傷は心配なし」と。 丸に電話して「必要なし」といひ、2年の漢文にゆきしに最前列の女生を叱り泣かす。困りし上、隣教室さはがしきゆゑ早々にやめて2Dの女生5人と話す。本間生がものいひし。やめて階下に来れば先ほどの女生待ちをり八つ当たりを詫びればまた泣きし。 そのあと学生課長に鈴木生のことまかせよといひ、尋ね尋ねして今井富士雄氏にゆけば「馬鹿!」といふ。学生課長と話すといふに出て成城学園前へ引返し(山田生吊し上げられ登校とりやめゐると)、田中久夫氏の帰り来るに会ひ坪井、山田君江などと同車にて下北沢(けふ高田瑞穂氏と話し、協力たのみし)。 鈴木女生に会へば家より「自重せよ」の電話しきりなりと。坪井が同方向なるゆゑ誘ひて明大前下車。すし食はせて別れ、(本間女生けふもdemoにゆくと)、『日本人の性生活(2400)』買ひて帰宅。 郵便またおくれ都内騒然。Demo隊20万人と。齋藤晌教授より「都合しらせ」と速達。けふ三鷹で夏の鳥打帽(400)を買ふ。 6月19日(日) 〒なし。11:00出て武蔵野郵便局へ。斎藤教授の返事「いつにても良し」を出しにゆく(齋藤はるみへ「出版の世話できず」と返事)。 松崎医院へゆけば注射せず薬をたまふ。帰宅して昼寝せんとするところへ鈴木健司来り、昨夜放免となり今井氏と学生課長に挨拶にゆきしあとと。 もう「懲りました」と也。「月島署の取扱ひ宜しかりし、岸への反感はありし」と。 つれ出してすし食はせ、別れて古本屋廻り『Manners and social usages(150)』、『Hawaii(80)』、『基礎朝鮮語(215)』、『新旧かなづかひ要覧(100)』買ひ、帰りみち「父の日」の贈物もちし悠紀子、京と遭ふ。悠紀子ゆかた、弓子茶碗、京箸を買ひくれし也。入口にて阿南惟敬氏に会ふ。論文見せよと也。 家に入れば弓子「竹内より電話ありし」と。掛けかへせば「岐阜の江口三五氏来りをり」と。「すぐゆく」といひゆけば大林組の訴訟にて来しらし。やがて迎へに来しと帰る。竹内と少し話して帰宅。 6月20日 登校9:00。講師室の様子かはりをり、大学新聞くれしにより、よみしに笑止なり。中国文学史に三曹の話し、鈴木健司その他ゐるを見る。 栗山部長「秋の俳文学会に吾呼べといふがありしかど云々」。 12:00出て山田、武井のゐる成城園にて炒飯くひ東洋文庫へゆく。『太宗実録』2帙すみ、『世宗実録』に入る。(昨日平凡社のアジア歴史事典係よりShirokogoroffにつき質問ありしを思出す)。 16:30了へてice-cream駅前にて食ひ、中央線にて三鷹松崎医院。Dr.年収450万円と査定されしと!(駅にて学生のカンパに100円入れし)。そのまま帰宅。 『ノンフィクション全集3』来をり。武蔵野市税2,700余と来をり。 (けふ成城堂に田中隆尚『茂吉随聞』2冊注文せしが来をり)。上巻よみ了る。(東洋文庫に受取りを提出せし)。深更下巻もよみ了る(1:30なりし)。 わがこひのうたつくるときひとはみないとひの文を作りゐるらし。 6月21日 曇。11:30出て成城大学。よべの読書にて眠けれど東洋文化史了へ、salaryもらふ。地方税4800の武蔵野市令書入りをり。きけば市役所でいひて重複せぬやうにしてもらへると也。 山田英樹生呼び、coffeeのみながら話きけば「覚悟しゐる」と。「その中、父に会はん」といふ。やがて女生4人来り、鈴木睦美のほか本多弘子、宮崎邦子なり。1年生の水谷といふがをり、「長恨歌」1/4をすませ、雨ふり出せしに傘もたず、2年生さそひて喫茶。 鈴木生はこの間、鎌倉へ座禅にゆきしと。皮肉な笑をするが宮崎にて「高等部より来て新垣淑明氏に習ひしもきらふ」と。 鈴木生の話にては短大生、われを面白がりゐると。 出て三鷹台下車。松村達雄君訪へば「痔にて入院しゐし」と。竹内のこといへば反感もちをり。同じく公務員なれば也。 傘借りて帰宅。松崎医院にゆかず。 河出新社より『西洋史物語』の500部増版印税(2,388-358)きのふ岸町より速達転送され来しと。(この間われに叱られて泣きしは福留泰子とて高知の子と)。 6月22日 St.とて9:30駅に着けばまだ混雑す。お茶の水よりbusにて神田信夫氏と同行。11:00おほむねそろひ『李朝実録』よむ。すみて(長浜に帰りし護雅夫氏より武田豊氏よりことづかりしと菓子1箱受取る)、阿南君とrestaurantへゆきlunch食ひ、黒竜江のHarha部についての論文返却。飯代割勘にせんといひしにきかず、別れて木内書店にをればまた遇ふ。 『北海道詳図(50)』、『高雄州要覧(20)』、『概説沖縄史(50)』、『朝鮮の習俗(30)』買ひ、傘忘れしらし(立教大学にて気付きし)。 busにて池袋。西武dept.の婦人Hallに宮崎女史訪いひ、東博氏の歌集評のこときけば「まだ間に合ふ」と。 出て立教研究室にゆけば手塚教授。ともにsalary受取り教室にゆけば久保靖彦、金子喬彦の2生のみ。 久保「6月15日国会前にゆきし」と。けふも16:00より会合といふにcoca-colaのみにゆき、別れて裏口へ本見にゆき『新唐詩選続篇(80)』買ひもどしてbusにて新井駅前の古本屋見しも買はず。またbusにて中野、松崎医院へゆきてのち帰宅。 6月23日 9:00井之頭線で青木秀樹に遭ふ。史学研究法すまし成城園へ飯くひにゆき、丸重俊に会ふ。 すまして出、クセジュ文庫の『世界の探検家(120)』買ひ、短大の漢文すまし、出んとすれば鎌田女史「丸重俊を使って」とわびる。 足立明子らと喫茶し(けふ金本茂2年に入ると挨拶に来し)。家に帰れば15:00。 史あての手紙まちがへてあける。悠紀子、松村家へ傘返却にゆきしと。松崎医院へゆき、帰途『東洋文化西漸史(50)』と『新唐詩選(50)』買ひ来る。本日岸首相辞意表明。 6月24日 下北沢、新宿をへて東洋文庫へ9:30ゆき、11:30まで『世宗実録』をみ、出てcoffeeとtoast。 渋谷に出て保守党の老先生と遭ふ(中大専任と)。聖心女子大学にゆけば「けふは休み、Mother三好(※三好切子?)は渡米」と。 話して休みをれば海老沢氏来る。『えびすとら』といふを頒けられ、切手代100払ひ、出て都電にて渋谷。 東横dept.にて麺くひ、下北沢の手前池の上にて下車。『成吉思汗は源義経也(150)』と『ガリヴァー旅行記(150)』買ひて帰宅。 入浴して夕食し松崎医院。餡蜜食ひ「GoldenBat」4ケ買ひて帰宅。このごろ出てゐる也。 もろともに死なば死なんといひし子はこのごろ何もいはず生くらし。 6月25日 成城大学へゆき漢文。すませてすぐ出て新宿中村屋にてrice-curry(150)食ひ、coffeeのみ(雨ふり出す)、地下鉄にて本郷3丁目。Howorth『Histry of the Mongols.Ⅳ(380)』見つけ、東洋史研究室にゆき、桑原論叢の浦廉一「漢軍(烏眞超哈)につきて」抜き書きす。了りて和田久徳氏、小山助手誘ひしもきかれず(coffeeのみに)、出て門前に前より見つけありし『朝鮮六法(100)』買ひ、14:00よりの和田久徳氏の林天蔚『宋代香薬貿易史稿』の紹介と、斯波義信「宋代の地方市場一墟市の分析」とをきく。 護氏より紹介されしは早大教授栗原朋信とて浪速中学に3年学びしとてわれのことおぼえゐしと、意外。 すみて誘ひ出しcoffeeのませ昭和11年卒業ときく。別れて古本屋をまた見、地下鉄にて新宿に出、三鷹松崎医院にゆき、帰れば悠紀子、依子をつれてゆきしと。Dr.宴会にゆきしあと也。 帰り来て風呂桶見つけしを話す(6千円にて中西家と折半と)。「柏井玉叔母近々死なん」と。白井紘史よりハガキ。 6月26日(日) きのふ小犬のトラックに殺されしを悠紀子はじめていふ!腹立ち悲しくてたまらず。 「漢軍8旗」ちょっと書く。角川書店へ「Heine11版の印税よこせ」と書く。武田豊氏へ礼状。 三鷹へ悠紀子ゆき風呂桶買ひしが午后つく(和田先生と栗山部長に盆の中元贈りしと)。中西一家を手伝ふ。 わが外へゆく時尾ふりつきて来し来ざれと叱り来さしめざりき。 わがさがはかなしきさがよ生くるもの死ぬるをおもひたのしまぬ日々。 6月27日 よべ9:00すぎ眠り12:00に目明く。いろいろ考へる中に小犬の死にしこと最も痛切なり。 司馬遷のnote出講まへの20分で作り、ゆきてすませ、「すみれ」へrice-curry食ひにゆきしあと、蓮田善明氏の建碑1口300円との案内を池田教授より受取る。 それより15:00まで待ち、その間「異常体質」作り、1千円封入小高根二郎君に送ることとす。 15:00長恨歌の会に柏岡(卒論は鴎外と)、鈴木、本多、宮崎、水谷のほか、この間泣かせし福留泰子とび入りと来る。うれし。 すみてともに出、郵便局にて速達し、同車にて下北沢。別れて松崎医院。Dr.「硫黄浴いまからやり玉へ」と。帰りて論文「対国姓爺戦における漢軍の役割」と改題。書き直して6枚となる。 高橋重臣君よりGoethe『Prometeus』の訳の抜刷。筑摩書房より『現代詩集』11版の通知。(けふ矢沢利彦君に駅前で会ひ、松村達雄君に吉祥寺駅で会ひし)。 6月28日 11:30家を出て成城大学。暑く面白きことなし。松村達雄君来る。東洋文化史すませれば「来週休むか2時間目にせよ」と本間生いひし。「宜し」といひ松島生と話し教授会まで待つ間に来し高校河村教諭を短大の癌に罹るといふ内田氏とまちがへて話せし。 教授会はbase-upに難点ありとの組合報告が主なりし。すみて今井、大藤、池辺の3氏と話し、これにて連絡会打切ることとす。 帰りてはじめてわかせし風呂にて行水。 6月29日 暑し。立教大学休みとしあれば朝より「対国姓爺戦における漢軍の役割」を書き、深更(2:00)34枚とす。不満足なり。 その間、森Dr.より電話「都住宅建設に申込むゆゑ名前かせ」と也。悠紀子に書類とりにやらせ夕食後もちゆく。お世辞いはれ、保証人を丸としてすむ。 6月30日 2:00までかかりて清書せしを朝またちょっと直し9:30家を出る。むし暑し。 史学研究法来週休むこととし、指導費立替へを貰ひ、すしやへ行く。 けふ財布と短大のtextと忘れしゆゑ、午后30分やりて池袋をへて東大。女副手に論文わたし、またbusにて神田。 『成吉思汗実録(280)』、『唐詩選新釈(80)』、『地下の島(30)(※長尾良著作集)』買ひて山本(※山本書店)。 小野忍教授をり竹内のこと話し、7,000近く学校へと本買ひ、また古本屋。『コギト』1冊200にて売りゐるを見しあと、長尾良を訪ひしに会議中と。 波木井書店にて『千夜一夜16(50)』買ひ帰宅。昨日と今日と硫黄湯(※ムトウハップ)にて行水し、松崎医院にゆかず。 7月1日 11:30出て聖心女子大学へゆく。田中保隆、海老沢両教授に会ふ。 2時間ともいいかげんにすます。(salaryもらひ8月は10~20日の10:00~15:00まで小林氏登校。受取れと) 紀要に書けと御愛想のごとくいはる(10月締切と)。 出てbusにて渋谷、都電にて青山6丁目。不二出版社へゆき鈴木君に会ひ、藤田徳太郎氏の年祭に出ざるをいひ、『橘曙覧』2冊(300)買ふ。 そのあと古本屋歩き、林語堂『Famous Chinese Short Stories(120)』とLignitz『日露戦史Ⅲ(50)』買ふ。 けふ往来ともにcoffeeのみし。帰りて『果樹園53』受取り、宮崎氏より「村松氏と早坂氏とを(※東洋大学訴訟)証人にと齋藤氏にいへ」と。 小高根二郎君より「大阪32℃」と。湿疹わるく夕食後松崎医院へゆき、帰り『支那仏教史(100)』と『20万分の1和歌山(60)』買ひ来る。 7月2日 ⴵ 登校。漢文やり田中久夫氏と話し、池田氏と話す。『成城文芸』の編集費4千円あり。火曜に会せんと也。 田中氏のすむを待ち、ともに出て新宿。中村屋のrice-curry食べ古本屋へ案内し、『蘭領印度史(200)』買ふ。森生に与へしことと思ひし也。 高円寺柏井昇宅へ14:00ゆき、玉小母に焼香。昨夜中風10年にして死にし也。高沢小母、柏井家の過去帖出し来て見す。 浜松井上侯より5代目が数男、昇なり。 疲れゐて悠紀子のこして出、都丸にて斎藤忠『古墳(30)』、桃裕行『隣邦史書に現われた日本(30)』買って帰宅。 (宇治金時といふを不二家で食べ手紙かく)。 奥戸武より5月26日「桑港支店長よりロサンゼルス支店長に転任」と。 19:00すぎ松崎医院にゆく(硫黄行水わかせしあと)。 平田家に寄り夫妻と話し(なすの炊き方教はりし)、茄子(20)買ひて帰宅。弓子の作りし夕食くふ。悠紀子22:30ごろ帰宅。 親類みな夕飯ごろ集りしと。 7月3日(日) 晴。11:00斎藤教授(※齋藤晌)へ「宮崎氏の意見に賛成」とその葉書同封して速達し、松崎医院。注射打たれず薬もらふ。 610ハップの行水を2回す。散髪にゆけば170とらる。田村春雄博士へハガキ。 7月4日 10:00登校まへ神田先生へ『敦煌学50年』読後と15年間のお礼いひ、『成城文芸』2冊お送りす。田村春雄博士へも受取り。 柏岡生へ連絡せよといひ、成城文芸編集会のこと大山、木檜(※こぐれ)2氏に伝へ11:00出て、けふ広告来し明治堂に『Sumatraの民族(300)』ありしゆゑ、まづお茶の水。さっそく買取り、よこにありしRowe『Society(200)』といふを買ふ。Lowieと勘違ひせしにてRとLの区別つかぬはSingaporeの時以来なり。 すし食って高円寺。柏井昇家へ13:20着き、まごまごしてのち焼香し、あと茶の間にて松田氏と話し、出棺見送りて帰宅。 また610ハップに入り、悠紀子の帰りまちて夕食し、松崎医院。 (齋藤晌氏より「宮崎氏の証人は公判となればのがれられず。村松氏は気の毒ゆゑ止める」etc.) 帰れば依子ぐづぐづいひをり、叱りて松崎医院へゆかしむ。神経の病気と。 7月5日 登校。2時間目にわざわざせし東洋文化史10人しか出席せず。きけば藤井裕介が連絡せざりしらし。夏休みの計画いはす中、姜生気分悪しくなる。 早々やめてsandwich食ひ、福島生が『阿Q正伝』の研究するといふに参考書かし、午后柏岡生と水谷羚子生とつれて「車」にゆく。水谷生、漢文すきにて谷中に住む下町娘、面白し。 宮崎氏に電話して「あすあたりまた連絡してのちゆく」といふ。病臥中と。 けふひまにまかせて1LDの詩13篇つくりし。15:20より「すみれ」にて成城文芸編集会。池田、宮崎、上原の旧委員と大山、木檜、われの新委員に山田俊雄氏ならびに佐藤助手。年4回にて予算25万円と。 学術的にするとのことにて次号締切9月13日とし、われ催促を引受けることとなりし。 山田氏と出て帰宅。東大東洋史研究室より論文の受取。田中順二郎君より御中元としてカルピス2本。 けふは松崎医院へゆかず。依子欠勤して気分直りし模様。 雨中20:00角川書店より『Heine12版』印紙1,500枚を8日までにと(7月中旬発行と)。 7月6日 12:00まで家にをり昼食して出、松崎医院をへて成城大学。高田、池田、上原、池辺の諸氏に23号の締切9月13日をいひ、原稿用紙わたし、堀川、大宮、渡辺、関本の諸氏へハガキかく。川口、後藤の2氏ぬけし也。 そのあと宮崎幸三氏に電話して「ゆく」といひ、15:15ゆきて齋藤氏の手紙見す。「証人を承知したおぼえなし。村松氏と早坂氏とをはじめより推薦せし。12月18日の3教授が調停に応ずる旨了承したことを了承する教授会以後は記録なし」とのこと也しも、証人に出ずとはいはれず。 16:00出て渋谷までbus。17:00柏井昇にゆけば高沢叔母、みす子(松田夫人)、俊子姉をり、おしゃべりききつつ18:00すぎ来し日蓮宗の坊さんの回向ききしあと、すしよばれ昇君とbeerのみて20:00出、丸家へ電話せしに「まだ帰らず」と。 帰宅して610ハップの行水す。昨日より『全唐詩』の年中行事を抜書す。 7月7日 依子2日休のあと出勤。悠紀子11:00染井の墓地へお玉叔母の骨納めにとゆく。 われ京の帰り待ちて、印紙1,500もちて角川へ。渋谷をへて九段上まで都電。須藤、中西2氏とも不在と。検印紙係伊藤昭三君といふに会ひ「この10日支払が去年の10月の分」ときく。いやな顔して印紙わたし、国鉄にて三鷹。 松崎医院へゆくまへ「氷しるこ」くふ。Dr.まだ帰らず夫人疲れねたまふ。 帰りて西宮一民君より日生の就職運動のことかきしハガキ見、小林茂行?の暑中見舞見る。悠紀子すでに帰宅しをりし。子ら七夕の短冊かけしも曇空。われ年中行事抄す。 7月8日 田中順二郎へ礼。西宮一民君にハガキ。14:00成城大学へゆく。 新城常三氏集中講義に来をりと。池辺弥君、camera云々といひ、短大のsect主義たしなめんとせしに変なりし。Cameraは8ミリ35ミリとも映写機なりしこと、はじめてわかる。 中馬清福君「朝日の秋田支局」と。山本書店より『中国文学報』の4号以下来りしと。電話して「送れ」といひ、『植物名實図考長編』と『詩経の成立に関する研究』もち帰ることとす。 新城氏の話きき「日野、藤井、曾我部の3氏が東洋史の3奇人」とわかる。鎌田女史にきけば「古野清人博士都立大へ10月転任」と。 出て(郷右近生に『漢文の学び方』貸す)和田先生「守屋博士になる、きみはもう手おくれだね」と。明日より茅ケ崎へゆかると。『満文老檔5』の刊行は来年と。喜寿記念論文集出したまへと祈りて出、雨ひどきゆゑ吉祥寺で糕子くひて帰宅。 けふ成城学園名簿受取り、検すれば (※14文字略) 7月9日 ⴵ 暑し。11:40成城大学へゆき、今井氏に後期講師の件相談す。「秋にてよし」となる。丸、山田らと成城園で昼食、石渡生体ゆるく弘前の発掘にもゆけずと悲観するを経堂まで同行。 小高根太郎訪ひ、ともに出て下北沢で別れて帰宅。夜、阿南惟敬氏chocolateもち本返却に来る。麓氏、渋谷へ帰りしと。ともに出て松崎医院。「610ハップききて」といひ、Dr.にいやな顔さる。 7月10日(日) 9:00竹内好より電話「後藤孝夫来るゆゑ来よ」と。朝食してCalpisもちてゆけばまだ来ず。 竹内この間、肝臓病で1週間ねたと。11:00後藤来り、大阪中心に文化圏作り東京独占をやめさすと。 すし食はされ。14:00出てbusにて吉祥寺駅まで同行して別る。 けふ今井富士雄氏より「12日成城大学へ来よ」と。深更までかかりてLady Chatterley’s Lover(※チャタレイ夫人の恋人)よみ了る。 7月11日 晴。暑しと。われ家居して涼し。和田先生より「朝鮮の年中行事は平凡社の日本民俗大系の三品彰英氏の展望をよめ」と細字にて教示あり。 夕方、清水文子訪ね来り、見合に来て大体よろしき模様。「相模ハムの出張所長が相手」と。饅頭と葡萄酒とを呉る。「(※上京時に預った)猫6月に自動車で死にし」と。ふしぎなことなり。タバコ買ひかたがた送りにゆく。 7月12日 12:00すぎて家を出、成城大学。今井氏に会へば「大藤氏の雑誌の金、柳田文庫より出るやもしれず」と。 やがて大藤、池辺2氏と話し、池田氏に会へば「16万円柳田文庫より出す」と。編集委員を池田、鎌田、大藤、池辺とすと。池田、大藤2氏16:30柳田国男先生に会ひにと出るまで3時間かかりし也。 われ長尾龍造『支那民俗志』さがせしもわからず。丸重俊が話すといふにあはてて出て帰宅。 夕食後、松崎医院へゆく。けふ神田先生より「岑参のことよんだ」と。後藤君より「明日の満蒙史料の会を9月まで延期」と。『全唐詩』第1帙すみし。 7月13日 よべ1:00すぎ家の前に酔払ひをり悠紀子さはぐ。けさは飯くひて12:00まで眠る。夕方、松崎医院へゆけば「まだ来よ」と。 7月14日 晴。母より電話「昨日渋谷へ帰り来し」と。父よりもハガキ。松崎医院にゆかず。 猿渡茂氏に礼状。齋藤晌氏に手紙かく。姜照美へ見舞のハガキ。池田勇人自民党総裁に当選。岸刺され10[日]間の負傷と。 7月15日 関口、本位田、藤田へclassの写真包み、猿渡氏の送り状見て13:00家を出、渋谷をへて朝日新聞。受付で高垣金三郎の留守宅きけば「教へられず」と。人事にきいてもらへば全家ロンドンと。三島秀雄氏に「送って呉れ」とのたよりしたため、同氏研調部ときく。 国鉄にて東京駅。三菱6階審査課の吉森安彦氏を訪ひ、elevatorにて喫茶しにゆく途中、elev.-girlに横山薫二帰朝ときき、化学品部次長となりしに会ふ。Coffee地下にてのまされ「三水会に出る」ときき、西川訪ねしに不在。横山帰りゐると置きがきして西荻窪。 Busにて宮本小路に下車。竹内夫人に夏帽子返してもらひ、竹内の病気心配いらずときく。 夜また松崎医院へゆかず。坂根千鶴子の訪問受け、西瓜くひ送りゆく。けふ日中33℃をこえしと。 7月16日 晴。西宮一民氏より「松本一彦訪ねし。自宅加療」と。藤井陽子、堀口太平氏より暑中見舞。 15:00電話かかり中村林次氏(※中村書店主)来訪。高野の桃賜ふ。わが約束せし『漢詩の鑑賞』やめしこと説明して小野忍氏に紹介の名刺かく。『李太白』出すやもしれずといひ、「仮名遣ひ変へよ」といふに、この次にせよといひ帰らす。 夜、松崎医院へゆき依子の高血圧いへばHysterieなりと。浅野建夫に寄り『The ABO Blood Group』もらひ来る。 7月17日(日) やや涼し。家居。京のみpoolにゆく。江崎俊平氏(文芸日本同人?)より暑中見舞。『Biblia16』来る。中西家より西瓜もらひ、こちらよりいなりずし返せし。 7月18日 家居。坪井勝也、山本昌三郎(健の舅)より暑中見舞。角川より『Heine12版』1冊。ついで堀内幸枝氏より速達「次女成城中学部の補欠試験を受けるにつき会ひたし」と。 けふも松崎医院へゆかず。 7月19日 暑し。悠紀子、京のPTAにゆく。われ『全唐詩』を見ること同じ。『民間伝承248』来り「角川源義文学博士となりし」と見ゆ。ふしぎなる世の中なり。 池田首相の政見発表に大学教授の待遇改善をいひしも反応なかりし。 夜、松崎医院にゆけばDr.「家庭療法に(※患者を)とられた」と怒る。Heineおきて帰り来る。 7月20日 暑し。成城大学より「履修科目票を23日までに教務部に提出せよ」と。明渡淑江より暑中見舞。 午后、不二出版社鈴木君より電話「8月21~3日の間に講義2時間、萩原朔太郎の話せよ」と。影山氏代りて出、「『コギト』の欠4冊を肥下よりとりよせるはいかに」と。所教ゆ。 京の通知簿見しに(※10文字略)。夕食後松崎医院へゆく。 7月21日 暑し。三池炭鉱の労組、調停を諾し、会社側いまだと。斎藤教授より「9月5日ごろ証人出廷の予定、宮崎氏はとり下げてもよし」と。 清水文子より「大阪へ来たらしらせ」と。芳野清君より暑中見舞。今井富士雄氏母堂りつ氏より忌明けの挨拶。藤井武義氏(裕介生の父)より依頼にて物送ったと有田の深川製磁より。 13:00成城大学へゆき、聴講cardを教務にわたし、宮崎氏に電話し、salaryもらひ、用なくなりて出、下北沢にて『瀟湘録(50)』、『山陽行脚(150)』買ひてのち氷しるこ食ひ、三鷹台下車。 松村達雄を訪ひ、金尾文淵堂が文海堂(もと敦賀屋)の小僧なりしことをきく。出て家まで歩き、入浴。 夕食後、松崎医院へゆき、帰り『バリ島(80)』買ふ。 7月22日 暑し。〒なし。14:00松崎医院へゆき、中野よりbusにて立教大学。7月分手当もらひ、手塚教授に松浦教授への紹介たのみしに、帰去ののちと。 白鳥清先生、家を売りてHotel経営を考へておいでの由。けふ池袋休日にて林Dr.に電話せしに「医師会へ」と。 またbusにて中野、西荻窪に下車。『支那文学芸術考(250)』、『駅名の起源(60)』買ひ、吉祥寺にて西瓜くひて帰宅。 夜、涼しき風吹く。 7月23日 関口八太郎君より礼状(嬢は東京女学館短大と)。堀夫人より写真入りの礼状。返事かき『果樹園』送る。 夜、松崎医院へゆき平田家へ寄れば、「和田賀代女史23:00に来り、7:00出てゆくが例」と。8月2日より3日間、鎌倉の家へ入れよとの伝言たのみ、吉祥寺へ国鉄。判コ屋にゆけばゴム判まだ出来ずと。 7月24日(日) 午前中、松崎医院へゆく(悠紀子に賀代女史より電話あり、ずっと在宅のこととなりしと)。 東井昇之進、川上恭正、高井洋子より暑中見舞。 夜、判屋にてゴム印とり(90)、busにて高円寺。丸宅へゆけば在宅。「重俊生、恐山へゆくとて一昨日出し。君に悪く思はれてをらぬかと云ひし」と。「民事の証人には立証すべき内容につき通知あり」と。Melonご馳走となり21:00出て古本屋。 (このごろ『小説新潮』をよむ)、『寒山(120)』買ひて22:30帰宅。昨夜泊りし史、あたかも帰り来る。 7月25日 晴天つづきにて水飢饉と。河原(吉本)恭子、原(岩田)知子、堀ノ内歴、吉森夫妻、鍋島友三郎、吉村俊子(?)の諸氏より暑中見舞。 筑摩書房より『Non-Fiction全集』の第5冊目来る。『不二』来る。『東洋史研究』19-1来る。 夜、松崎医院へゆく。Dr.疲れてねてをり、夫人われを更年期障害といふ。 7月26日 難波香寿、山根忠雄2氏より暑中見舞。伊藤信吉氏よりパノンの会のこと質問。 14:00松崎医院へゆき、『般若心経(80)』買ひて帰宅。石渡曜子生より「軽井沢へゆきし」と。伊藤氏へ返事かく。 『骨』17号来る。佐々木邦彦特集号なり。佐々木画伯へ誤植訂正のハガキ。 7月27日 藤井武義氏(裕介父)より送付の茶器こはれて着きし。『蟠花』の評また書きしも旨くゆかず中止。 昼食し、行水せしあと15:00すぎ出て散髪。松崎医院へゆき、新宿をへて宏池会へ着けば17:40にて、佐藤氏をのぞく全員集り、池田内閣成立を喜びゐし。 高山岩男博士の「権力論」ききしあと、21:30まで雑談。池田首相ひまとなりし故、一度会ふと。 出て齋藤晌氏と9月5日の証人出廷のこと話しゐしに相談ありと喫茶店へゆく。 田中忠雄氏「3億円の金の目当てつきしゆゑ研究所を作らん」と。齋藤氏「大学を作れ」とて対立。帰宅23:30。 依子いよいよ(※仕事を)止めるつもりらし。 7月28日 暑し。涌井千恵子、千川義雄、本田茂光諸氏の暑中見舞と不二鈴木正男氏より「8月22日(月)8:00~10:00明治神宮北休憩所で講話せよ」との手紙を受取り、返事すぐかき、13:00家を出て阿佐谷へゆく。 住友銀行なく金子書房にて柳田国男『年中行事覚書(260)』、小林胖生『丙午迷信の科学的考察(80)』、吉沢義則『點本書目(50)』買ひ、中野へゆき、住友銀行支店にて1,000を蓮田善明文学碑建立委員会成城支部への為替とし、歩きて本町通5丁目に出、古本屋2軒見しも何もなく、都電にて荻窪、深沢書店にて『Ananga-Ranga(80)(※インド性典)』買ひて国電にて三鷹松崎医院。 帰り鉄火巻(70)食ふ。けふ東博氏に電話して『蟠花』の評かくといふ。夏行は那智でと。 7月29日 よべ夕立。けふも午ごろ微雨。小野和子、河野咲耶より暑中見舞。関西大学東西学術研究所より論文13冊。 7:00京、箱根の林間学校へと出てゆきしと。14:00入浴。松崎医院にゆくまへ「対国姓爺戦における漢軍の役割」の概要400字をかき、『果樹園』に「未来」と1千円、小野和子への返事とかき、八町郵便局で2通を速達にす。 帰り『年中行事、昔と今(230)』と『万葉の花(100)』と買ひ来る。 夕刊に関口八太郎君、第5管区総監に任命されしこと見ゆ、北海道に居すわりなり。 7月30日 よべ2:00にねざめして苦し。史、けふの夜は日光泊りと。 頼永祥氏に礼状やっと書く(2月末に受手せし也)。安永姉妹、柏岡明より暑中見舞(柏岡生8月初めに来るといふゆゑ、こちらより電話すると書く)。 後藤孝夫より挨拶状。頼氏への航空便を郵便局へ出しにゆき、松崎医院。 平田家へ寄れば和田統夫結核にて8月1日入院と。細君も分娩せまり気の毒なり。鎌倉の地図もらひて帰宅。 7月31日(日) 10:30松崎医院。帰途、『正倉院の宝物(130)』買ふ。依子けふ当直とて出てゆき、弓子ひとりにて静かなり。 伊藤信吉氏より朔太郎のこと問合せ。増田春恵より暑中見舞。『果樹園』54来る。田中保隆氏に包み伊藤氏へ返事かく。 夕食後、郵便を出しに出て外口書店にて和歌森『年中行事(150)』。丸にゆき「あす山本(※山本治雄)第2こだまにて来る」を迎へにゆくこととす(21:00)。 けふ16:30京、箱根より帰り、われにヱハガキ4枚もち来る。2人で1組(50円)を買ひしと!疲れてふきげん也し。 8月1日 『全漢三國晉南北朝詩』すむ。よべ眠られざりし。暑し。丹波道久より『不二』見たと。弘前より三野、毛愛の2生。北軽井沢より白鳥夫人。谷川眞佐枝より「松本部長8月10日頃より出勤の予定」と。手塚敬一より「その中に来る」と。山本嘉蔵氏より「堀内信江もごぶさた」と。佐々木邦彦氏より「誤植気がつかなかった」と。 けふ名古屋37℃、東京34.7℃を越えたとradio。後藤孝夫より大朝紙一そろへ来る。18:00出て夜泊をいひ、松崎医院。 時間早ければ西荻窪にて古本屋見しあと26:00の第2こだまにて上京の山本を迎へ、上野のヨネダヤに泊る。 8月2日 9:30ともに出てともに日本橋。東京駅にて昼食。上野などつきあったのちbeerのみ夕食して雷に会ひ帰宅11:30。 依子、史とは会はず。不二歌道会よりアンケート来ありしのみ。京ら、ゆきしらし。 8月3日 9:00依子の朝食くひ、その鎌倉に出てゆきしあと、松崎医院。井之頭を散歩してのち、新宿にて赤飯くひたく探しまはるもなく、 chicken-riceくふ。お茶の水にて『流転の王妃(160)』と『ポケット孝経(20)』買ひ、涼しくなりて帰れば悠紀子帰りをり。 西村公晴氏より「中島栄次郎の辞世ありや」。辻芙美子、近藤園枝、八木よし子、筑摩書房『ノン・フィクション全集』、山本夏津子の諸氏より暑中見舞。 和田先生のレジュメ着きしと東洋史研究室より。『八旗通志初集』につき阿南惟敬氏より。 8月4日 『流転の王妃』見了り、慧生君『西太后に侍して』をよみしことを知る。伊藤信吉氏より礼状。 友井■輔、武山信子(文2A)より暑中見舞。 15:00出て松崎医院によりしあと東京駅。西川に会ひ紹介かかし、三代田KK社長に会ひ、山本のこといへば中々承知せず。疲れてbeerのみ、日比谷で涼んでのち都電にて西荒川にゆき国鉄にのりかへて帰宅。 涼しさを求め求めて夜ふけまで。 8月5日 12:00家を出て文庫。米田君と会ひ16:30出て納涼。風吹きやや涼しくjuiceのみて別れ帰れば20:00。 畠山六右衛門氏より「ともに北海道にゆかずや」と。長沢美喜子生より「教務に出席促されし」と!? 猿渡祥子、藤野一雄より暑中見舞。本位田昇より「写真受取った」と。また「関口の任地は帯広」と。 けふ奈良漬を東井昇之進氏より賜ふ。中西家母子帰郷。 8月6日 暑し。田中保隆教授より『果樹園』の受取。城平叔父、川本広美、辻規子、桜井(中田)里江子より暑中見舞。 けふ広島原爆投下の日とて皇太子広島へゆき、東京にては安井郁らの会あり!! 夜、松崎医院へゆき『日本愛唱歌集(80)』を買ひ来る!渡辺紳一郎『放電放談(10)』をよむ! 8月7日(日) 松崎医院へゆかず。下痢なほりしらし。春名数義氏より暑中見舞。小高根二郎君より1日付の受取。高橋重臣君より『架橋』5、6。 8月8日 12:00出て松崎医院(小島樹氏より「教科書改訂によき智慧かせ」と。)。 そのまへ『蟠花』評かき(200×9)、筑摩書房にゆけば東博氏在席。Coffeeのみつつ話して渡し、出て13:30昼食とり、涼みかたがた市川よ り松戸へゆき上野へ引返す。 やっと涼しくなり19:30なりし。阿佐谷にて途中下車。柏岡明生に電話して「明日来よ」といひ、丸に電話して「けふ本宮(※中野)清見来しゆゑ電話せしにかからざりし」ときき、帰れば中野より速達来あり「明日12:00朝日の前で待つ」と也! 里井千寿子生より暑中見舞も来ありし。阿佐谷にて『西廂記(100)』買ひし。 8月9日 10:50柏岡明来り、鴎外の話し法螺ふく。その間、中野に電話かかり福永もよこにをり、18:30朝日へゆくこととなる。 和田節子夫人、辻本禧紗子夫人より暑中見舞。鈴木正男氏よりアンケート返事の催促。 14:00柏岡、小金井喜美子と森於莵『解剖台に凭りて』とをもちて去り、われは昼寐。 16:30行水の後、松崎医院。大急ぎで有楽町朝日前にゆけば丁度18:30。声かけしは福永英右衛門、ややして中野清見来り、阪本泉氏のすむまでMünchenにゆきてbeerのみ、阪本氏の案内にて中華料理。それより溜池のPolkaと云ふにゆきドイツ語の唄うたひてのち帰宅。23:30。 野崎正昭、加藤隆子よりも暑中見舞。 8月10日 山田君江生より電話「あす武井と2人にて11:00来る」と。駅まで迎へにゆくといふ。 11:00出て松崎医院に寄りてのち、渋谷へゆけば、大、軽井沢へゆきしと、父ひとり留守す。 聖心女子大学に電話して小林氏出勤かときけば呼んでくれ、気の毒なりし。 14:00ゆきて8月分手当もらひ、都電に乗りしあと交通費なかりしに気づく。四谷3丁目でのりかへtoastとcoffeeとりてのち、山本書店。 学校へと本たのみ、わが分は『中国神話(50)』のみ。(守屋美都雄の『荊楚歳時記の研究』はなしと)。 近所にて後藤末雄『芸術の支那、科学の支那(20)』買ひしに心配せし通りdoubleなりし。 夕立に会ひて小憩。20:00帰宅。 けふ鍛治初江、花井彩、佐藤(松井)和佐子、山野(西村)和子と帝塚山の教へ子4人より暑中見舞。東井恵美子夫人より送り状。 (けふ10:30阿南惟敬氏「サルフ戦の兵力について」の稿見せに来る。アジア歴史辞典より「八旗」について書けといはれしと)。 8月11日 11号台風の余波にて夕立しばしば。松崎医院へゆき吉祥寺駅まで迎へに出れば、山田君江、武井伸子の2生早くより来ありしと。 家につれ帰り、岩木山の発掘に参加せし話きく。今井富士雄氏の苦労察するに余りあり。 15:00送り出せばすしやにつれゆかる。山田生、境にすみてこの辺りよく知りゐしらし。別れて『年中行事(20)』買ひて帰宅。 けふ相野忠雄より暑中見舞。渡辺三七子より残暑見舞。松本一彦より全快したとの通知。吉祥寺南のcatholic教会玄関にて挨拶せしは聖心女子大学の大学院学生と。 8月12日 11号台風のおかげで涼しき風吹く。山川京子より弘至15年忌の歌集。夫想ひしあと日本一の恋人を得しと也。 出て松崎医院。Dr.不在にて「魚の目あす診てくれ」といふ。 国電の駅にて第一生命の勧誘員すすめられ月収2万円以上と喜ぶ女に腹立てる。 お茶の水駅前にて昼食。文庫にて本見しあと、22日のため明治神宮の会所見にゆき、涼みて阿佐谷。丸屋市川にて『南都七大寺行事(140)』買ひて帰宅。 山中タヅ子より暑中見舞。田島靖子より弘前出しのヱハガキ。入浴す。 ひとり立ちをみなもせむとうまうまと乗せられんとすあな無惨にも。 必勝をちかひて白き鉢巻ををみなみなせるに心つかずも。 8月13日 悠紀子、和田統夫宅の見舞に出てゆく。『貝原文月全歌集』来る。そのあとまた郵便。 角川書店よりHeineの11版?の印税(70×1500×0.1)10,500-税1,575-書籍代(33.1.22と34.6.2)5,064=3,861!! 福地邦樹君より「お作をいつも拝見してゐますので身近に感じてゐますが云々、あのお家の北側に鉄工所のやうな小さな工場が建ち云々」。 野口(志野)孝子、井上恵子、田中マサ子より暑中見舞。書翰の整理せんと引出せば、一応すみをる様子。 16:30松崎医院へ雨の晴れ間を見てゆく。 「和田統夫の女房毎日病院へ布教にゆく。船越こせん叔母もちと愚痴いふやうになりし」と悠紀子の土産話なり。 よるふけてさびしくなりぬ亡きひとらいのちをかけて何をしにけむ。 8月14日(日) 雨。午后郵便。長沢生の父12日死亡と。山口広氏「結婚して新居に移りし」と。兼頭淳子、田中正平、鈴木(山本)敬子より見舞状。 毎日新聞社より「毎日前衛書展に鳶を松谷弘子氏書きをり」と入場券2枚。 夕食後、高円寺丸邸へゆけば、下部温泉に変更して出しと。夫人ならびに嬢2人も不在。次息留守しをり。電話借りて川本静江生に明日13:30お茶の水にて待合せ、長沢美喜子の弔問にゆくこととす。 8月15日 山川京子へ『愛恋譜』の受取。松本清張は従兄と跋文にあり。保田への恋と弘至への歌とを併載す。ふしぎ。 鈴木睦美、渡辺俊子、西菊代より暑中見舞。 12:00出てお茶の水へゆけば50分、間あり。聖堂内の古本屋へゆき『夏小正(120)』。 13:25来りし川本静江と喫茶店に入り、悠紀子立替の1千円を香奠としてもたし、busにて農学部前。探して長沢宅へゆき、母、兄、美喜子に会ふ。肝臓癌らし。美喜子も体わるく宇奈月の温泉にゆくつもり。学業つづけるや否や不明と。 出て本郷3丁目まで歩き、川本さそひ広小路より都立美術館へ毎日書道展見にゆく。さがしさがしして松谷弘子「鳶」といふを見つければ他人の蝶の詩なりし。事務所にいひ、作者の住所うつす。 (けふ郵便配達に打つかり、森良雄に会へば住宅公庫の書類またたのまれ変な日なり)。 下の食堂にてice-creamたべ、浅野晃氏に電話せしもかからず。上野駅に出、秋葉原で別れ水道橋。 大安にて『唐宋絵画史(100)』、巌南堂にて『満洲民族史(150)』、一誠堂までゆき、きけば守屋の『荊楚歳時記』は2年間探してゐると。 お茶の水駅へ出る途、浅野氏へ電話すれば旅行中と。松本善海に電話すれば守屋の本もたずと。畠山栄美子(19日出発のはず)に電話すれば他人出る。空腹にて松崎医院へ19:30。すみて鉄火巻くひて帰宅。 8月16日 晴。涼し。成城大学教務課より試験の有無問合せありしのみ。 夜、松崎、民衆書房にて『松倉米吉全集(40)』買ひ来る。25才で死にし也。依子、松崎医院に診断にゆきしとすれちがひ也。 8月17日 昨夜睡眠不足。昼寐できず。浅賀、中沢2生高野山よりヱハガキ。 15:50いやいや出て松崎医院に寄りてのち宏池会。米津氏の「ソ連の地代説」について。研究所の問題は不成立と。 浅野氏、わが電話はしらず。近々「果樹園叢書にて詩集出す」と。赤坂見附にて別れて中央線。 「赤ちゃん」によれば嬢の婿(2月結婚と)、松本(印刷学校にゐし)氏の坊やとに紹介さる。High-ball2杯のみて出る。(李承晩『蒋介石(120)』見つけし)。帰宅22:55。 8月18日△ 曇。柿本人麻呂顕彰会より「参与となるや否や」と。前田教務課長より「長沢生へ供物料とどけよ」と。 大東塾より「25日13:00金王八幡宮にて十四士十五年祭」と。 午后の便にて角川書店朝比奈時子より『現代詩人全集 現代(4)』に掲載してもらへるや、詩集も貸せと也。 長沢和三郎氏より会葬の礼。清水文子生より「この間の縁談できなかった」と。 けふ立川産業よりshirt賜ふ。ふしぎ。 松崎医院にゆき、夕食後気になりしゆゑ、西荻窪までゆき、田島靖子生に電話すれば「明日みな洲ノ崎へゆく故、畠山送れず。電話番号はちがってゐる」と。 畠山栄美子に電話すれば「帰国おくれるかもしれぬ。送らずとよし」と。 けふ『千夜一夜3(100)』買ひ、西荻窪にても柳田先生『祭日考(130)』、『薬用植物図説(100)』買ひ、busにて帰る。史、この週公休なりと在宅。 8月19日 台風14号の影響にて雨。高橋通子、東孝子、中山正子、福留泰子の諸生より暑中見舞。長沢美喜子より弔みの礼。夕方、松崎医院。 8月20日 台風14号来るとのことに11:00すぎ成城大学前田教務課長に電話し「長沢家の香奠月曜に」といふ。 渡辺三七子より「結婚式は10月13日松坂屋で」と。貝原種氏より歌集の送り状。今井富士雄氏より「丸、藤井2生のみ残りをり」と。平塚敬一生より「久保、金子と来訪の日しらせ」と。 山本陽子より「大阪にゐることとなりし」と。上田阿津子より「この夏は上京せず」と。 正午すぎて台風来ずなりしことわかる。但し雨はやまず。なんとなく不快憂鬱。このごろ食欲もなし。 (雨中、『Non-Fiction全集6』届く。他に比留間一成詩集『天鵝』)。 8月21日(日) 晴。11:00松崎医院。夜、散髪。けふ出雲礼子より残暑見舞。よべ眠れず。神への感謝をおもふ。 8月22日 6:00起きし朝食後、すぐ出て代々木下車。明治神宮宝物殿には30分前につき、一服後15分前に北休憩所に着く。 定刻8:00影山主宰以下着。「東洋の詩人」と題して朔太郎と李白の話す。 9:50すませ次の講師國學院大學教授、北岡寿逸経済博士に紹介受けてのち辞去。成城大学へゆき前田教務課長に4年生の空き時間水曜の4時間目のみときき、長沢家へ父母の会よりの香奠3千円預り、月給もらひて出る。 池袋で昼食。手塚教授に松浦教授への紹介たのみ、その来室待ちていへば、講師3校にて時間塞がりゐるとのことなりしも色々話し、出る前小林教授に会ひ、金子生に遭ひして、丸物で喫茶。 Busにのりて本郷田町下車。長沢家にゆき仏前に供ふ。母子授業料未納とて恐縮す。 出て古本屋、出石誠彦『支那上代思想史研究(350)』、この間山本書店にて1,500と記憶しゐたる故買ふ。ついで『阿波方言集(50)』、『Turkmenskaia SSR. (120)』買ひ、地下鉄にて新宿。一旦帰宅。 悠紀子、class会より帰らず。太田陽子夫人より赤ん坊と盲腸炎とのこと。高尾宣子より残暑見舞。住山重子より「朝日TVに入って半年」と。 平凡社東洋史大事典編集部より「長恨歌、張廷玉、脱歓(※トゴン)、トルゲート、バカトゥート」執筆につき問合せ。 悠紀子帰宅。夕食すませ松崎医院。足の肉刺切ってもらひ、氷水のんで帰宅。(『玉台新詠集 上』ダブりゐしゆゑ長沢生へ与へ、三鷹にて「下」買ひし)。 8月23日 森本ヤス子夫人、軽井沢より『悪童女』出版し贈ると。 松崎医院へ午后ゆく。悠紀子、渋谷へ3千円もちゆき、帰りて「父母、誕生祝に日曜来る。咲耶新築祝に電気掃除機をせよ」と。不快。 梅田惠以子夫人より「日本歌人社の夏行に出た」。原田比富より残暑見舞。谷川眞佐枝より「松本一彦出勤」と。京、歯痛とて数男へゆかしむ。 8月24日 涼し。11:00出て松崎医院。Dr.酔ってゐると。京、数男に治療にゆきしゆゑ、西荻窪へ出て電話すれば父留守番しをり、「日曜来ざれ、忙し」といひ、古本屋にて『林園月令8冊(150)』侯爵毛利家文庫本といふを買ひ、石川三四郎『近世東洋文化史(20)』買ひ、『雛祭新考(180)』買はんとすれば金不足。とりのけたのみ、吉祥寺にてrice-curry(80)食ひ、森Dr.に会ひ、湿疹のこといへば自分もかかりをり、医者はと問はれ、答ふれば「悪し」と!? 帰れば悠紀子ら帰宅せしところ。八重樫知子、志野和子2生より残暑見舞。 夕食後、西荻窪へ『雛祭新考』とりにゆき、丸に電話すれば重俊帰りをり、ゆくと云ひ、『奄美大島』買ひもちゆけば医者に出てゆきしと。 丸帰り来りbeerのみ、重俊と話し腹立つ。20:30出て『大東京と近郊(30)』買って帰宅。 雨ふる。中日Dragons大洋に負けつづく。 8月25日 平塚生より「29日14:00ごろ来る」と。12:00出て渋谷の金王八幡の大東塾十四烈士十五年祭にとゆく。 玉串料1千円を受付におき、控室にまちしあと、13:30ころより長谷川幸男氏斎主として執行。長谷川斎主の祝詞に涙催す。主賓代表荒木元大将。献花のあと中退。 東横Hallにて喫茶、news映画見て17:00帰宅。夕食後松崎医院。依子、信州へと出てゆく。 8月26日 家居。10:30角川書店の朝比奈女史来訪。詩集5冊を貸す「村野四郎、伊藤信吉の監修」と。早大仏文出にて村上菊一郎に習ひしと。君個人に貸すゆゑ責任もてといひ、受取置いてゆく。 東方学報と松浦高嶺教授の「成城講師の件、諾。金曜15:50からのみあきをり」と。 夕食後松崎医院。Olympicはじまり水泳100m自由型をはじめとし、だらしなし。 8月27日 松浦教授へ礼状。夜、松崎医院へゆきしのみ。 8月28日(日) 家居。山本恭子より「広島の音楽学校へ入る」と。鈴木睦美生「北海道へ旅行せし」と。依子、夜帰り来る。 8月29日 10:00松崎医院。『果樹園55』来る。小高根君の「蓮田善明 前編」了る。わが『詩集西康省』に満足せざりしらし! 梅田惠以子夫人よりまたハガキ。14:00すぎ立教大学の久保、野崎、平塚の3生来る。平塚は「大月氏考」、野崎は「武帝の朝鮮征伐」をやると也。白鳥夫人に近々伺ふとの伝言たのむ。 8月30日 台風のあひまにて、涼しき風吹く。金子喬彦生、谷川岳よりヱハガキ。帝塚山学院副院長樫本眞翁、8月21日逝き3日告別式と。 鈴木正義生より残暑見舞。佐々木邦彦画伯より「個展のため出京できず」と。 夜、松崎医院(森Dr.来り、住宅公庫当りし場合のこといふ)。けふ果樹園社へ「夏日感懐」と1千円送る。 8月31日 50回目の誕生日なり。家居して〒も『桃』といふが来、保田の山川女史礼讃の再録しあるを見せしのみ。 夕方、松崎医院へゆき、夕立に会ひ、氷のみ駅に雨宿りせしあと、平田で傘かりる。和田統夫の子、昨日出産と。途中で雨やむ。 9月1日 家居。河野岑夫より転居通知。恵我ノ荘東大塚と。夕方また夕立。松崎医院にゆかず。 わが生れし日をば忘れずアラビアゆたより呉れしとおもふゆめみる。 9月2日 西沢悦子より夏休行事の報告。母より悠紀子に電話「咲耶の祝は兄姉弟4人より3千円づつ」と。悠紀子「いま払へずと答へし」と。 夜、松崎医院にゆきしも痒き箇所なく「隔日に来よ」といはる。 9月3日 曇。住宅公団より申込の受取来りしのみ。終日、漢詩のcard作る。 夜、森Dr.へ受取書もちゆきしに長唄の稽古らしく母君に渡して帰る。(阿南夫人、午すぎ来り『人文学報』2冊貸せとの夫君の手紙を示す)。 9月4日(日) 〒なし。松崎医院へゆかず。(※大家の)中西夫人、増築すと悠紀子にいふ。南側をふさぐ案ゆゑ不快。悠紀子に怒る。 9月5日 小高根二郎君より受取りと、「大塚高信博士の妾」とわがいひし田中光子氏のこと。 松崎医院へゆき、鎮静剤もらふ。 午后、竹田龍児氏より全快の通知。(『アジア歴史事典』5来る)。 悠紀子、雨中を出てゆき19:00まで帰らず。手塚氏へ松浦助教授のこと報告。 9月6日 4時目ざめ硲晃氏へ残暑見舞。竹田龍児氏へ全快祝かく。角川書店朝比奈時子氏より、文庫版『現代詩人全集・現代4』へ19篇、村野四郎選と。なかに「西康省」あり。可の返答かく。 16:00松崎医院。Dr.よべ新川の暴行殺害の検屍にて疲れ玉ふ。竹田氏より全快祝としてHandkerchief3枚。 9月7日 成城大学へゆかんとせしも雨降り出してやまず。山川京子より「ハガキの転載を」と。影山正治氏よりカステラ一箱賜ふ。『吏文』の索引作りかけしもcardなく、『全唐詩』より楊貴妃と玄宗とを拾ふ。 9月8日 よべ飲みしつもりになりし鎮静剤きかずと転々。午后成城大学へゆき、定期証明書もらひ、池辺氏、重久、鈴木正義などに会ふ。Torgut族以外は見当たらず、早々に出て下北沢。『まつりと行事(100)』買ひて帰宅。 高松直子より速達、12日夜入京、13日空きをりと(年中行事研究会らし)。渡辺三七子より「祝ひもらふ」と。 松崎医院へゆき、また鎮静剤もらふ。 9月9日 9:30傘もちて、高松直子へ「13日の都合よくなし」の速達出しにゆき、雨となりて白鳥家。 御夫妻とも御在宅にて、わがノイローゼ申上げ、和田論叢の(※白鳥清論文)抜刷50部を小山助手にいふことをお引受けし、salary2万円との立教心理出の嬢の来訪を機にCalpisいただいて出、祐天寺へ出て渋谷。 地下鉄にて三越、青龍展の佐々木邦彦を見る。「盤梯」と「北礁」大作なれどあまり感心せず。 大食堂にて炒飯くひ、また地下鉄にて新宿。高円寺より阿佐谷まで歩く。 通信学校は短大(女子?)になりをり。丸屋市川にて『ソロモン諸島地名集成(90)』、『花傭月令(150)』買ひて帰宅。 葡萄食ひ、『全唐詩』中の「開元天宝の叙事」すむ。 9月10日 山中タヅ子より「在京1週間、練馬の旭丘にあり。連絡せよ」と。阿南君来りて「八旗」の稿みせ、juice1本賜はる。 夕食して松崎医院。西荻窪へゆきて練馬に電話せしも外出中。桑原『ソ連、中国の旅(50)』買ひて帰る。 (森Dr.来り、「九州の知人、出版したがりをる故、一流出版社に紹介すべし」と也。「も少し詳しく云へ」といひて帰す)。 9月11日(日) 11:00山中タヅ子より電話かかり、会ひたしといへば「夜、ふたたび電話す」と。伊藤信吉氏より朔太郎につき問合せ。 渡部(三木)和貴子より坊やの写真。夜、山中嬢よりかかり来し故、池袋の西武終点出口にて(※明日)15:00待つこととす。 9月12日 9:00出て成城大学。中国文学史六朝歌謡とて春夫訳「子夜歌」3首を教ふ。 30分ですまし、中国文学前期の問題を呈出(長沢美喜子来り、classmateへの返しにつき相談す)。 発掘より帰りしばかりにて(120箱堀り上げしと)、呆然矣といふ今井富士雄氏と話し、『玉燭宝典』を借出し(千葉司書は井上姓と)、新城氏に挨拶し、その昼食するを見て出、下北沢にて炒飯くひ、新宿をへて池袋。西武dept.8階の婦人Hallにて宮崎女史に会ふ。 大藤氏の仲介にて柳田国男先生に会ふ話つきをりと。 14:30となり西武改札口へゆき山中タヅ子に会ひ、7階食堂につれゆきて話す。花井卓蔵の孫と見合すみ、交際といふこととなりしと。弁護士になるやもしれず、いま仙台の大学院と。 出て山手線にて有楽町、新橋演舞場近くまで送りて別る。 松崎医院に寄りてのち帰宅。依子bonus15日と。家中に金なしとて不快なれどよく眠る。 (けふ山中嬢に会ふやと吉川(星野)綾子夫人に電話せしに14日まで下阪と。夫君Olympic記者としてゆけるが為なり)。 9月13日 後藤孝夫より朝日(大阪)新聞の切抜来る。高松生よりつひに連絡なく11:00すぎ出て定期買ひ、松村達雄と久しぶりに会ひ、上原氏より原稿受取る。 東洋文化史すませ(長浜の父の死をいふ)、藤井生に伊万里焼の礼いひ、山田君江に『年中行事』与へ、教授会にて関本女史の原稿預かる。 すみて休憩して手紙かきかけなどしてのち(短大の漢文試験問題は会議中に作りし)、手紙を了へて文化史専攻の会。 年中行事関係の本3万円を買ふと承認してもらひ、夏休みの立替を篠原部長に報告にゆき、17:30よりの年中行事の会に出る。五月五日の端午のことなりし。 20:00すみて帰り、吉祥寺で焼売rice食ひて帰宅。依子けふbonus出しと。 三輪山の木の間にありてほろほろと啼きし小鳩はこよひもや啼く。 9月14日 予習せず、後藤孝夫に批評、渡辺夫人に手紙かき、13:00出て松崎医院。 夫人に頭痛を申立て頓服もらひ、暑ければ氷屋に入り、薬のみてのち中野よりbusにて立教大学。松浦氏に会ひ、講師決定をいふ。(松田氏に会ひ意向たしかめしと)。 そのあと14:50より国姓爺30分やり、久保のArbeitに関し内村俊雄に紹介することを約束す。手塚教授に会ひ白鳥先生のこと相談し、 予告なしに林Dr.にゆく。なかなか出て来ず機嫌わるきならんと察せしに果して夫婦喧嘩す。我と同じく盲腸炎にて2週間禁酒しをりと。(芳賀檀、博士となりしと)。ともに出て別れて帰宅。 悠紀子、住宅公団当選の通知見氏しあと柏井へと京つれてゆきしと。伊藤信吉氏にしらべて返事(けふ林Dr.に『茂吉随聞』もちゆき立原全集の註記を見し)。 9月15日 9:00家を出て成城大学。史学研究法やり、栗山部長に松浦高嶺氏のこと話す。「履歴書出し篠原部長にも了解もとめよ」と。 山田生cookie呉れる。午后、短大の漢文。これも早くすませ暑きと昨夜の睡眠不足とにてふらふらとなり(藤井生香奠集りしともち来る)、 吉祥寺にて坂井屋へ入れば、森Dr.居あはせ、邸内に家建て2万円にて貸すか売るつもりらし。ゆっくり考へよといひて別る。 悠紀子class会にゆきて無人。満蒙2料研究会より21日(水)開くと。 夜、八幡の祭とて3人出てゆき、中西家より強飯たまはる。 9月16日 暑し。悠紀子、渡辺三七子の祝品買物にと出てゆきしあと、『不二』を受取れば、保田われを弱卒といふ!不快がりつつ出て渋谷にてcoffeeのみ、聖心女子大学。 田中保隆・海老沢氏と話せしのみにて講義。試験問題を「女直について」と「老一官と鄭芝龍」とす。すみて広尾橋より都電。四谷三丁目のりかへにて専修大学前と8月10日と同じ道筋にて山本書店へ出石誠彦『支那神話伝説の研究』返しにゆき、代りに『文選索引』3冊(8,500)などを大学へ送らす。話しかけ来しは尾崎秀樹。 待たして『西安歴史述略(160)』買ひ、蒲池氏のぞきしに閉めをり、夫人われを知らぬ顔せしゆゑ、ふしぎがりつつ他へゆきcoffee。台湾の話し、近々竹内好訪問の序でに来よといひ、また都電にて飯田橋。国電にて三鷹、松崎医院によりて帰宅。 尾崎君と話せし林Dr.よりハガキ来をり、「更年期障害とわかりしゆゑ云々」。他に川崎宏子より「13日会ふのをたのしみに」とあり、夜になりて10月13日のこととわかる。(けふわれ帝都線にて鎌田シゲヲを見、悠紀子、杉浦夫人に遇ひしと)。 21:00山中嬢より電話、あす14:30の汽車で帰阪の予定と。 9月17日 昨夜、鎮静催眠剤イソミンといふをのみて寝しためか、朝起きて頭痛けれど、7:30出て成城大学。 漢文30分やり、夏休みに山本書店より来し『中学文学報』『東京夢華録』『中華名物考』などを図書館よりとり来る。(指定寄附はまだ出ずと)。 高田、池田、山田、田中久夫の諸氏と話し、松浦高嶺氏に履歴書をとの手紙かき、前田課長に渡せしのち、帰宅すれば悠紀子ゐず。 弓子帰り来しに昼食の仕度させ、夕方まで仰臥。悠紀子、小室家へゆき「兄の先妻(※8文字略)。今の夫人は大類博士の親戚」と妹にききしと。 夜、白井紘史「大阪よりの預り物」と昆布もち来る。 9月18日(日) 9:00起き、川崎、林Dr.、白井三郎の諸氏へハガキ。渡辺三七子へ祝品の送り状。 住宅金融公庫東京営業所より「9月14日抽籤に当選、9月28日9:40ごろ来所せよ、その際、 1.住宅を必要とする理由書。 2.申込者及家族の住民登録票謄本。 3.建築地の土地登記謄本。 4.頭金の調書に関する説明資料(残高証明書)。 5.申込者の昭和34年度の住民税証明書。 6.保証人55才以下の月収証明書及源泉票並昭和34年度の住民税納税証明書、所得税の納税証明書。 7.最近の家賃の領収書。 8.申込人の昭和34年度の所得税納税証明書。 以上を提出して設計審査申請書を35年11月5日までに建設予定地を所轄する地方公共団体に提出すること」と。 松崎医院へゆきしあと、西荻窪より電話して丸に会ひ相談すれば「止めよ」と。帰りて昼寝。 9月19日 悠紀子「森家にことわりしのち住宅金庫へことわる」と。「宜し」といひて出、中国文学史すませ、下痢ぎみゆゑ昼食せず。 出て下北沢、森本ヤス子夫人長嬢に遭ひ、「まだ軽井沢」ときく。冷ラーメン食ひて帰宅。 「吉田東洲氏出版記念会を10月6日正午に」と往復ハガキありしのみ。 悠紀子「森夫人に会ひて、(※住宅金融公庫の当選)はじめより建てる気なく、権利売買のみを目的とすることわかりし」といふ。 死刑囚となりしゆめを見て昨と同じく2:30ねざめす。 9月20日 悠紀子、住宅金庫へと出てゆく。田中秀子「宮島へゆきし」とヱハガキ。11:00出て成城大学。 文化史に唐代の年中行事やり、すみて会計へ「指定寄附の支払いつか」と問ひにゆけば、「常務理事月二回しか来ぬゆゑ」とのことなりし。 山田生にそれをいひ、■の■について「復活」との作見、松村達雄君のすむを待ち、ともに出て下北沢で餡蜜くひ、松崎医院へゆきてのち帰宅。 筑摩より『Non-fiction全集7』来をり。悠紀子、ことわりの証明書もらひ来しと。けふ丸重俊に「忠告どほり(※中止)となりし」と父宛の手紙わたせし。 9月21日 8:00に起き、東大へゆく。わが吏文索引を完成すべしと三上教授らいひ、護氏の訓を直しす。小山助手に白鳥先生の50部抜刷のこといへば「だめ」を直接答へんと。(出がけ速達にてわが「対国姓爺戦における漢軍の役割」の初校たまたま来りし)。 12:20出てbusにてお茶の水。市川よりの本多弘子生と会ふ。新宿で下車。鉄火巻くひ成城大学へゆく途、もと短大の女生、中国文学史「このごろノートつらしとみないふ」と。 salaryもらひ(三万五千円)、noteとり、立教大学へ引返す途、餡蜜くひ、14:55より国姓爺はじめ、すみて久保靖彦を内村俊雄氏(富士高校)に紹介する手紙かき、山田助手より松浦高嶺氏の履歴書受取り、また喫茶。 地下鉄にてゆけば(※三水会)齋藤氏(※齋藤晌)らすでにをり、18:00より田村、米津2氏柏壁にゆきしとて不在のまま、30分ほど年中行事の話す。 佐藤君「柳田先生の仕事手伝ひし」と。高山博士一言も言はず(浅野氏もまた)。すみてせいせいとし、夕食後、帰り来し田村氏の話きく。「水田 の1/3を牧地とし牛飼ふが池田農政」とて、これは宜し。 20:00すみ齋藤氏とtaxi。「東洋大学借金4.3億となりし。遅配はじまりし」と。新宿で別れて帰宅。23:15。 福地君(※福地邦樹)より速達。「上京する。24:25に連絡せよ」と。 9月22日 成城大学へゆき、史学研究法すませ、やっと明日休みを知る。藤井生を家へ誘ふ。 漢文すませ手紙かき、note(Journal d'anne member de la Societe)包み、電車にゆけば本多、鈴木(大船渡)、福留生をり、下北沢まで同行せし本多、鈴木2生さそひて氷しるこ食ひ、別れて古本屋。 『日清太平記(20)』、『憑きもの持ち迷信(50)』買ひ、松崎医院をへて帰宅。 渡辺三七子より「舞踏への招待のオルゴール気に入りし」と。白鳥夫人より「光彦そちらにのこりをらずや」と。 9月23日(秋分の日) 角川より『昭和文学47巻』15版(1月9日発行)の印税(135-20)115! 林富士馬氏より「手術のばした。『茂吉随聞』よんだ」と。久保靖彦生より「内村氏に会った。忙しき様子」と。 12:00藤井生来り、おはぎくはせ、吉祥寺の古本屋へとつれゆき、すしくはせ茶のます。そのあと阿佐谷の丸屋にゆき『国姓爺後日物語(200)』、『韓国併合と国史(50)』買ふ。田中といふにて散髪。(吉祥寺にて『こども風土記(50)』) 荻窪まで歩きて帰宅。 9月24日 8:30成城大学。漢文30分ですまし、帰れば白井紘史より電話「月曜またかけよ」といひ、ついで福地君よりの電話に「6:30~17:30赤坂見附で」といひ、琳琅閣より本つきしを見、田中久夫氏を待ち、12:15ともに出て経堂のdepart地下にてわれはHamburg- steak。小高根太郎にゆくといふと別れ、新宿へ出しも暑く、気持変り東洋史談話会やめ、三鷹松崎医院。すみて帰宅。 すぐ16:00となりしにあはてて赤坂見附へ16:45ゆけば福地君来し。中村屋にてcoffee立ち飲みせしあと家へ伴ひ帰り、大東夫人のヌーヴェルバーグとは歌人との恋愛ときく。駅まで送りて帰り、しまひ風呂にて行水。 けふ吉田東洲氏に「出席」の返事出す。 9月25日(日) 講談社へ送りし校正、70円の切手なしとて送り返し来る。午后雨となる。夕飯の時、坂根千鶴子雨中を来り、あさって帰郷と。夕食をともにし(菓子くれる)、ともに出て駅前でハイボール(150)。おくさんといはれし。講談社への速達たのみし。 9月26日 登校。栗山部長に今井氏助教授申請の件いへば「前にせしも落ち、いまも無理ならん」と。 松浦高嶺氏の履歴書わたし、白井紘史の電話に「13:00明大前で」といひ、ラーメン食ひて、田島生に『明月記』のprintのこといひ、明大前へ丁度ゆき、喫茶して金なきをいひ、下高井戸の古本屋見にゆき『好逑伝(100)』買ひて帰宅。 咲耶より礼状。千草来り葡萄もち来る。 9月27日 11:00茶漬一杯食って登校。電話かかり東・中馬2生「東京にをり会ひたし」と。17:00東京駅でといひ、藤井の母に会ひ、忙しくして教授会。 松浦高嶺氏、講師の件通過。base-upを国立並にとのこといひて臼井・高田2氏委員となる。これにて 16:00前となり、大山・山田・木桧3氏と早々に『成城文芸』の編集会議すませ、文化史の会議はことはり、東京駅7:05着。 金なく2生のおごりにて19:30まで話して帰宅。疲労す。(東生(五味夫人)夫君Cylon出張よりの帰着3日おくれしと)。 けふ『葉子抄』ほぼ了る。夕刊に「上智大学法学部教授一ノ瀬直治taxiに轢き殺される」と見ゆ。東洋大学にゐて悪党一味とおぼえをり。 9月28日 雨。午后立教大学へゆき、白鳥・手塚2先生の話すところへゆく。(※白鳥)郁郎氏の「光秀(※遺稿脚本)」のこといへば「ある筈」と。 4年はあすの発表のprintしをり、教室へゆけば無人。久保生呼び、喫茶店へゆき富士高校の内村主事に会ひし様きく。会議中なりしと。修徳学園紹介せんといひ、別れてまた中野へ出、古本屋見てこの間見し荻窪の『日英アラビア語文法』買ひにゆけば1,400!落胆して『中国地図冊(100)』見付け、三鷹松崎医院へゆきて帰宅。 9月29日 11:00家を出て成城大学。短ⅡAの試験監督(漢文)。すみて栗山氏と話し、前田課長と話し、松浦氏へ「公信まて」と手紙かく。 (上原助教授「論戦中ゆゑ次号もかかせよ、紀要出せ云々」。浅沼講師「次号かかず」と)。 だるく池辺講師にゆき『成城文芸』の原稿半分組置きをことはり、base-upは都立の現在の線へときき、会計へゆき、立替金受取り、土器洗ひ中の今井氏と山田女生とに渡し、茶のみて出る。 (丸煦美子に会ひ「明日ゆく」と父に言伝たのみし)。 吉祥寺踏切にて老嫗2人話しゐるが織原夫人と悠紀子にりし。(われもけふ若葉生に「還暦近きや」を問はれし也)。 帰れば天理図書館より「開館記念日10月18日10:00より」と。山中タヅ子より「手紙にて交際ときまりし」と。穴川裕代より「宿恋みのり11月3日挙式、相手は画学生」と。 硲晃氏より「心身よはりゐて」と。岩崎昭弥より「新居建てし」と。関西dayなりしが、悠紀子帰り、田中雅子夫人より「成城への転居、三千子を成城に入れたく、明後日来る」と。 9月30日 11:00出て成城大学に寄り、鎌田女史にprintの原稿をわたし、出て渋谷。東急食堂でrice-curry食ひ聖心女子大学。あすbazarとおくれる(9月分salaryもらふ)。 老先生(もと東洋大学)より東洋大学大島学長以下理事総辞職ときく。「老一官と鄭芝龍」の題は文学の方こまるときき、鄭芝龍のことだけかけといふ。 出んとすれば助野助教授「岡本良知氏より弁護士を介して告訴するときき困惑」と。弁護士の名きき丸三郎にきかんと。 busにのり六本木に出、喫茶してまたbus。日比谷より第一弁護士会にゆけば「午后には帰宅」と。地下鉄にて新宿に出、丸夫人に電話してゆき、きけば調停裁判にて謝罪ぐらゐならんと。 一ノ瀬のこと知りをり、成城の中学入学は楽なりしときき、出て松崎医院(鈴木尚『骨』借り3千円返却)。 帰り謝国権(※『性生活の知恵』)見付けて買ふ。 伴由欣子生より欠席のわび状来あり。『Corbeau詩集10』来をり。 (東京towerへ六本木より電話し、田中順二郎君に「あす14:00以降に来られたし」との伝言たのむ)。悠紀子風邪にて早くねる。 10月1日 早起きして8:30成城大学。中国文学の試験監督す。無事すみて穴川裕代に祝の手紙かき、経3の「景気論」といふのを監督し、岡本といふをどなる。 すみて話相手もなく、出て森田順子・比企野道子2生と話しつつ下北沢。雲呑麺くひ『西洋美術館(70)』買ひて帰宅。 『桃』の『愛恋譜』評よみ了りしところへ、朝日生命波形政市氏といふが訪ね来て「鞄かはりゐし」と持参。なるほどかはりをり。下北沢下車の前にもちかへしらしく、新宿で警官たち合であけ、この日記帖に挟みし郵便物にてわかり、たづねたづねして来しと。 礼いひtobaccoもち帰りもらふ。14:00すぎ田中雅子夫人来り、世田谷区大蔵町の住宅に当選と。成城幼稚園の話すれば「それは止め、他に見つけよ」とのことなりし。 不二歌道会より電話あり、やがて使としてこの前も来し人、夏の講習の筆記略。「東洋の詩人」とて浅薄なるに恐縮。 10月2日(日) 晴。『バルカノン』来り、美堂正義氏また『西康省』のこと書く。恐縮。竹内好にゆかんとせしもやめ、吉祥寺の古本屋みな見て、アラビア語辞典なしと決定。浅野晃氏の『風死なず(30)』買ふ。 10月3日 『風日』来りしを見て成城大学。栗山部長来ず、富永、池田、蒲田の諸氏と話し、植物図鑑にて艾(よもぎ)引き、「端午」を4枚かき、山中タヅ子と八木氏とにハガキかく。 平凡社に電話してきけば9月10日締切の「長恨歌」「張廷玉」まだ間に合ふと也。 千葉(井上夫人)司書そろそろやめる様子。出てbusにて農大前下車。大江房子に会へば「和光学園の幼稚園入学金1.5万円。毎月1,550にて入学許されん」と。 出て和光学園にて案内書とり、編入の有無はあす電話してきくこととし、小高根太郎に寄る。 出て駅へゆく途中、藤井生に会ひ喫茶し、別れて三鷹松崎医院にゆきて帰宅。 夜、鈴木(山本)敬子夫人より電話、「今度は会へず」と。 10月4日 『果樹園』受取り。見乍ら12:10成城大学。けふも栗山部長に会へず困る。松村達雄来り「研究室で勉強せよ」と。しかるを「菖蒲」を植物辞典でしらべ、「長恨歌」写せしのみ。Note検査6~7冊すませ、和光学園に電話すれば「手続すれば考慮せん」と。 東京towerに電話せしも順二郎君いつもの如く席に不在。「17:00電話たまへ」といひ、松村と同車にて帰り、待てばかかり来る。「金土に同行を雅子君にいへ」といひて、悠紀子をゆかせることとす。 浅野晃へハガキ。けふ『吏文』のcard了る。『老乞大諺解』も見つかる。 10月5日 悠紀子を田中雅子ならびに大江房子にゆかし、齋藤晌教授より「三野弁護士また延期申請に来て証人は11月」との手紙。 古川政記氏より「前川佐美雄主宰上京につき9日(日)11:00より保谷『武蔵野』にて日本歌人会」との通知。 これを見てのち成城大学へゆきしに、栗山部長に会へず。 すぐ出て(「長恨歌」おほむね出来、張廷玉も同。水野平次氏『白楽天と日本文学』見つかる)。 立教大学へゆく。途中coffeeのみhandkerchief2枚買ふ。悒せし。講義おほむねなきも4生そろひて1時間やる。 野崎生「高校の夜学を見つけよ」と。出てcoffeeのまし、久保生と夕食し、東洋文庫の岩井大慧博士の「糞石jadaの話(※呪術石)」きく。白鳥史学の名残りをとどむ。神田、山本、榎、護の諸氏のみを見し。 久保生と下北沢まで同行、帰宅21:30。悠紀子「2夫人に会ひ用すませし」と。 10月6日 10:30出て松崎医院。負傷者はこばれ来しを見て気持悪くなる。まっすぐ東京駅。 西川に寄りて「詩を作る今井氏といふが会ひたしと云ひをる」ときき、すぐ出て新丸buil.のGrillにゆく。(※吉田東洲『日本精神衰亡史』出版記念会) 『日本精神衰亡史』を受取り、吉田東洲氏わが成城勤めを知らざるらしきにきづく。村松正俊氏の司会にて高山博士、花見達二、、荒木大将(86才と)、南喜一、福島元最高検検事などの話きく。われも早く使命受け、詩人としてSentimentalに豊満ダムと高橋匡四郎の話す。 出て地下鉄にて新宿へ出、成城大学へゆき評議員会に栗山部長ゐるを知り、交換手に手紙とりつぎたのみ、(※関西へ)研究出張の件、訊ぬれば「駄目」と。さばさばして帰宅。 小高根二郎氏より「福地君帰り、いよいよ皮肉が痛烈といひし」と。 夜、森本ヤス子『悪童女』よみ了る。けふ「長恨歌」と「張廷玉」とを平凡社に速達せし也。 10月7日△ 雨。いやいや聖心女子大学にゆき、田中保隆氏と会ふ。わが「平家物語雑考」好評と。紀要の原稿しめきり21日(金)で宜しとなる。 2時間目、本多生「Nurhaciを卒論にする」と。St.Mary Antonia廊下で待ち、道博『国姓爺』かせと。 帰途、東横dept.で炒麺くふ。 夜、radioで春夫先生「文化勲章受章者ときまりし」と報ず。皇太子アメリカより帰国。 昨日より靴下駄をくはへるくせありし牝犬ゐなくなり、それにても哀れ也。 10月8日 3:00すぎまで眠れず、6:30起されて成城大学へ着く手前にて手帖開き、けふ試験監督なきことわかる。 仕方なく赤鉛筆買ひ東洋文化史のnote採点。藤井、小川、川本(静)、郷右近、山田君江などよく出来る様なり。名なしは比企野、森田とわかり比企野に電話す。 長沢美喜子来り、中陰明けにhandkerchief1箱呉る。京都へゆき富山へゆき、11月まで帰らず。試験も放棄してゆくと。 天理図書館へ「ゆけず」と返事す。中村幸彦来ると也。松崎医院へ寄りて帰宅。 浅野晃氏よりヱハガキ。生田敦子夫人より帰阪の挨拶。ひるね2時間し、大江房子よりのハガキ見る。 けふ早川(宮崎)智慧女史あすの「日本歌人」の会の案内に来しと。森本ヤス子氏と生田(中島)敦子生へ礼状。 10月9日(日) 白井紘史よりハガキ。井之頭小学校の運動会ちょっと見て駅前より保谷行のbusに乗り12:00「武蔵野」へ着けば、前川佐美雄未着。 他に長尾良呼びしのみらしく、東博君と話せしのみ。13:00より日本歌人の歌会。Beer出しためわりあひ楽にすませて帰宅。 依子、昨夜より日光へと。史は野球にて遅し。京、かけくらで2等となりしと。 10月10日 雨。8:302成城大学へ登校。経2の民法の監督にゆけば「早くくばれ!」の声あり。ついで来し両角氏たちまち3人のcanningを挙ぐ。 Canning paperを使用せしは2Eの(※2文字略)とて群馬の三島病院長の弟と2Fの(※2文字略)(鹿児島川内商工高校教員の子)、いま1人は机の上に書きをりし。 ついで文1B.C.Dの英語。わが学生票見しとて弁解に来しは横須賀の(※2文字略) (1B)とて質屋の子なり。 栗山氏に会へば「(※出張申請につき)篠原氏に会ひしや」、「会はず。悪例をのこすゆゑ」とて了りし。疲れて帰宅。〒なし。 10月11日 美堂正義氏より『バルカノン』に書けと。松崎医院にゆき、下北沢でpão買って登校。「東洋文化史」のnote批評して返却。藤井生は友達に写させしと恥ぢをり。 そのあと定期の証明もらひ、山田俊雄氏と臼井氏の2高談きく。 14:10より教授会。base-upは4月より国立並にと。その代り授業料は在学生も一律に上げると。 16:20すみて文化史の相談。学科ふやすこととし、われも東洋現代史を一般教養にもつこととせん(池田君と話し、7時間がnormaとなるやもしれずときく。主任を大藤氏に代へんと云ひ、今井氏元気なきを皆気にしてをり、とりわけ助教授申請はいかにときく)。『文選索引』 8,500は承認、あとはみな篠原氏へ云ひにゆけと也。 年中行事研究会に東大と学院の学生来り、中国地方では七夕に牛を水辺にもちゆくを云ふ。面白し。あとは柳田の亜流なり。 下北沢へ出て中華そば食えへば値上(50)。けふ考変りしとの速達来りし也。腹立てど面白し(※不詳)。(石渡生に父への依頼、下相談す)。 10月12日 よべ3:30までは寝ざりし。8:00起きて9:00家を出、東大の満蒙史料研究会。神田氏の講読。松村氏に閲覧表のこといへば、とりかへ賜ふと。『吏文』の索引を後藤君にわたし、12:00出て琳琅閣主人の表にゐるに「本着きし」といひ、rice-curryくひてのちbusにて教育大前下車。 松本善海にゆきて話し、出てまたお茶の水女子大の前に出、阪本越郎を訪ねて見しに出張中と(高校長なりし)。 時間まだあり、西武dept.の宮崎女史に会へば「前川氏、14日帰寧」と。よろしくといひ、立教大学。 松浦氏待ちしに会へず。4生にCoxinga(※国姓爺)話し、すませて手塚教授と話しつつ待ち、松浦氏にsalary3千円のこといひ、「21日16:00ごろ来たまへ」といふ。busにて中野をへて帰宅。 「浅沼委員長、17才の少年に暗殺されし」とradio報ず。 21:00すぎ日生江戸橋寮にかけ(吉森夫人よりは午後来ることとなりし)2度誤りてかけしあと、向ふよりかかり11:30北口で待つといふ。相野忠雄より「14,15オギクボに電話せよ」と。 10月13日 昨日の暗殺者の父は成城高校1回卒の陸一佐。母は村上浪六の女と。美堂正義君に『バルカノン』へ書くと返事し、松崎医院。魚の目も処置してもらひ、電車にて吉祥寺。 11:45まで待ち、高松・川崎2生と会ひ、すし食はせて家に帰れば、吉森夫人すでに待ちをり、葡萄呉る。 16:00新宿で愛人と会ふといふ川崎に15:00出て井之頭公園をへて駅前にて喫茶。構内へ入って送る(けふきけば萩原生在京。高松の兄は熱田神宮に勤む。寺本生われを訪ねられずと気にしてゐる。松本一秀の令嬢結婚し、負傷はその直後と)。 松本一秀、東北へゆくとて連絡せよの手紙を托せし。あたかも西川より電話、相野の歓迎会をあすNewTokyoにてやると。時間ききて忘れし。平凡社より受取。 10月14日 10:00家を出、渋谷より都電にて専修大学前。山本書店に『三朝遼事実録』を2,000で売り、『斉民要術(170)』、『東京夢華録注(190)』買ふ。学校へも『宋代香料史』送らせし。 また都電にて渋谷、busにて聖心女子大学へゆき、試験答案受取り(採点報告25日までと)、都電にて渋谷に出、炒飯くひて駒込。 東洋文庫にゆき閲覧票受取り、岩井大慧主事に『口北三庁志』の扎達の項おしへ、『説郛』借出して写し、あと旨くゆかず。 15:30出て丹波家に寄り夫人に電話きき、ついでまたふとその気となり都電にて飛鳥山。 女児への本(200)買ひて畑山家へゆけば夫人と女児。(※畑山博は)東洋大学、後任にて会議らし。それより大野三造家(※かつての家庭教師先)へゆき、知子生に会ふ。国文専攻にて松尾聡教授につき中世やるつもりと。私塾はやめしと。 丁度時間よくなり(西川に電話かけ場所と時間と問ひ直せし)、有楽町NewTokyoにゆけば、矢野(※矢野昌彦)、横山(※横山薫二)をり、相野の歓迎会を西川(※西川英夫)、竹内(※竹内好)、加藤(※加藤定雄)と7人にてす。 すみて文甲4人とわれとにて喫茶。新宿までtaxi。荻窪にて竹内、相野と別れて帰宅。22:00。 茶漬一杯くふ。父より新潟へゆくと。 10月15日 昨夜、矢野「(※大阪高校)佐々木恒清教授の死は昭和4年」といひ、われと賭けしゆゑ、日記見しに昭和6年なり。ハガキ書く。 10:30出て散髪(150!)。松崎医院へゆく途、平田家へよれば「和田統夫はときどき帰宅。和田賀代女史は23日来る」と。 帰り『お寺まゐり(50)』、『大東京区分地図(50)』買ひ来る。大安の書目など来しのみ。齋藤晌教授に「19日三水会にゆく」とハガキ。 10月16日(日) 依子はぜ釣にと出てゆきし。庄野潤三氏より『静物』。吉森夫人より礼状兼見舞状。「端午考」わづか15枚(200字)にて了りとなる。 10月17日 成城大学へ登校。中国文学史やる。栗山氏「本夕より熊本へ出発」と。何となく不愉快にて松崎医院へよりて帰宅。 (けふ4D鈴木生「NHKに入社予定」と。下北沢駅にて龍野四郎君に遭ふ。ひどく年寄りたり)。 平中苓次氏より「11月2日17:30春豊園での会の出欠」問ひ来る。「欠」と答ふ。 高松・川崎2生より松茸一籠贈らる。 10月18日 高松・川崎2生へ礼状。後藤へも同。「端午考」の注かかんと早く登校せしも羽田に東洋史談話会の案内状たのむ手紙かき、ILDへ詰問状かきしのみ。 石渡生「父へは都合ききをらず」と。松崎医院へ寄って帰宅。高松・川崎2生より入れちがひに手紙。「松本君19日11:00ごろ成城へ電話くれる」と。 けふ母に電話せしに「越後行24日に延ばした」と。(成城教務課へ履歴書出せし。) かなしみもよろこびもなく冬来むと心におもひ床に入りをり。 わが夏は激しかりけり春の日の酔ひには似ずてかなしけれども。 昭和35年10月19日~昭和35年12月31日 「東京日記 9」 25.4cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p10 10月19日 昨夜よく眠りて気持よし。帝塚山学院短期大学同窓会より11月3日11:30の会の出欠問ひ来る(岸町へ)。未定と答ふ。 12:30出て松崎医院。中野よりbusにて立教大学。 図書館へゆきしも著者名cardにて困り、手塚氏の来るを待ち、『後漢書』かりしもらちあかず。 手当出しときき、もらひしあと田中正義氏(組合委員長に新選と)と正俊氏のこと話し講義にゆき、野崎生の履歴書預り、金子生に『清代七百名人伝』貸し、久保生に来週月曜13:00下北沢駅にて待合せ約す。 裏の本屋にて『義経は生きてゐた(130)』買ひしあと、地下鉄にて17:30三水会にゆく。 齋藤教授の「政治哲学」ききづらかりし。すみて(浅野氏の『青墓の処女』―佐藤春夫先生にほめられしと―贈り)、中川少年の批判きき、浅野氏を地下鉄にて見失ふ。赤玉ブドー酒買ひて帰宅。 10月20日 睡眠不足にて9:30登校。史学研究法に神武紀やる。すみて石渡生に「月曜午后ゆきてよろしきや」ときいて貰ふこととし、図書館にゆき『抱朴子(岩波文庫)』探してもらひしになし。 池田氏より『伝承文化1』もらふ。『中国文学報』の講読よろしと。 次に短大の中国文学。これは評判よろしきらし。出て下北沢に下車せしに店一斉に休む 森本夫人、鉄筋にて新築しをり。汁粉たべて新宿よりお茶の水。文庫屋にゆけば『抱朴子(350)』あり。向ひにて『Soviet Tajikistan(150)』買ひ、よせばよきに筑摩に東君訪へば、常のごとくその気なし。 出て社会学研究会によれば、われを知る人不在。ここも素気なく、われとわをいやになる。 三鷹に直行、松崎医院によりしあと帰宅。長沢美喜子生、黒薙温泉よりたより。白鳥夫人より「野崎生、受洗せし」と。 夜、中沢生より電話、「鈴木正義の父逝去につき香奠を出せ」と。 (けふ前田課長に松浦高嶺氏の処遇相談し、篠原局長より手当3,500とせしときく)。 夜半めざめて「端午考」の後半の清書了る。すべてにて32×200。薄っぺらなるは性格のあらはれか。 10月21日 『今宮自彊会報』(※今宮中学教へ子同窓会報)来り、筒井信義君教頭となりしと見ゆ。東洋史研究会より案内。 11:30出て松崎医院への途、悠紀子よりの言づけもちて平田家へゆきみれば無人。 聖心女子大学へは13:10つき、途中にて買ひし支那饅頭食って1時間すまし、田中保隆氏に「端午考」わたし、2時限14:50にやめ(『西太后に侍して』を貸せと云ふがありし)、成城大学へ急げば15:40ごろ。 salaryここにてももらひ、大分まちて松浦氏を会計と教務課長に案内し、16:20よりの教室へと送り出し、今井氏の発掘整理にゆき見れば、丸重俊をり。渡辺三七子和服にて嫁入りしときき、21:00前送り出し、吉森夫人よりの電話ききて「あす13:00東京駅待合室にて会ふ」こととす。 10月22日 8:30成城大学へ登校。漢文教へ3p、耳鳴りしてやめ控室にて茶のめば止む。 栗山部長あす帰京と。松本一秀の電話10:00すぎかかり、「東京駅に来る」と。西川に電話せしに「今日都合わるし」と。倭(※倭周蔵)に電話せしに「17:00すぎになる」と。これにて止め、文2の漢文採点すまして教務課にもちゆき、出て東京駅。 吉森夫人子供つれて来り、松本来り、吉森君まちて「Pole Star」へゆきて昼食(990)。吉森夫妻と別れ、有楽町まで歩き、日劇の「白蛇伝」といふを見る。 そのあと喫茶店より電話し、倭と18:10渋谷「ハチ公前」にて待つこととなり地下鉄。18:30来りしに丸山の「長島」といふに案内され、 歌うたひbeerのみ、倭の家の前通り、信濃町で別る。 「西原と殿井と仲良く、ともに済ましや也」と。倭、松本は小学以来40年の友なり。松本令嬢の婿は日本レーヨン企画室の木戸氏とて、披露宴には増山重役も来りしと。 けふ悠紀子、渋谷へ3千円もちゆきし。(長沢美喜子帰京しをり。南洲碑文を写し来る)。 (石渡生父君「午后は概ね多用ゆゑ午前中来させよ!我は来ることいらず」と)。 10月23日(日) 起きて松崎医院へゆき、東方学会の「講演会11月4日関大で」といふと、聖心女子大学の「26日18:00より教授晩餐会」との案内見る。 悠紀子、京と織原氏へゆき、にほひ菫と菊と瑞香花ともらひ来る。(和田賀代氏より「夜学は公立よりなしと電話ありし」と)。 15:00銭湯へゆき帰りて午睡す。 10月24日 8:30家を出て成城大学。中国文学史の時間、私語してやまぬ男女あり「出てゆけ」とどなる。 栗山部長帰りをると思ひ待つこと1時間(昼食はすしやへゆき、久保靖彦に石渡経夫校長への紹介状かきて渡せし)。 帰り途にて大藤時彦教授に会ひて引返し、今井氏のこと云へば考古専攻をこさへんとの動きありと。 も少し話しつづかんとするところへ今井氏池田講師あらはれ、来年度の主任を大藤氏にすることとし、学科の組立てなど栗山部長にいひにゆかんとすれば、まだ帰京しをらぬこと判明。 落胆して出、(鎌田女史「沖縄にゆきし」と。「来年短大の講師とせん」と)。 三鷹で餡蜜くひ、松崎医院にて営養剤もらふ。 木村三千子女史より松茸1籠来あり。筑摩の井上達三氏来り、「3日後また来る」と中西夫人にいひおきしと。 けふ議会解散なり。(高橋邦太郎氏に久しぶりに会ふ。大の事件(※不詳。某女優との結婚話[女性誌のガセネタ]のことか?)しりをりし)。 10月25日 8:30出て聖心女子大学。busにて広瀬氏と一緒になり、あすの夜会に出ざるもよしとわかりしに、試験成績提出後「出席」の返事出す。 都電にて渋谷。成城大学へゆき筑摩井上達三氏呼べば、未出勤。「電話かけさせよ」と伝言し、大に電話すれば「父母出発せし」と。芸術祭作品のもめ、心配いらずと。 やがて栗山部長つかまへ来年度の学科の相談すれば、「今井氏の考古学と歴史哲学と止めさせよ。民俗学に重点といふにてもなし」と。わが研究出張には簡単に捺印したまふ。 篠原事務局長に研究出張願出し、井上氏の電話ききて「明日10:00ごろ来たまへ」といふ。話の内容は唐代政治を書けと也。 東洋文化史すませ(羽田(※羽田明)に「1日朝、電話す」とのハガキ出す)、姜女生と遭ひ、話をきけば卒業して帰鮮と。はげまして別れ、 coffeeをまみにゆき、『幸田露伴史伝小説集1(100)』買ひて帰校。 松村達雄とちょっと話し、教授会。 早くすみて大藤教授と話せば「今井-栗山2氏間は極めて悪し」と。考古学seminarのみ立つこととし(「池辺君を宥せよ」と云はれし)、和田先生に参る。 盛宣懐の伝記ありと教へたまふ。「神田喜一郎先生は博物館長をやめて自適さる」由。青山氏、横浜市大やめ中央大学専任と。京都行申上げて退出。下北沢下車。 『山西学術探険記(100)』、『豊臣秀吉(80)』買ひて松崎医院をへて帰宅。 (途中はっと気付き筑摩にまた電話し、井上氏に「明後2日(金曜)に来たまへ」といふ)。 美堂正義氏より『バルカノン』に寄稿を謝すと。夜、木村三千子氏に礼状かく。 10月26日 昨夜一睡も出来ざりし。9:00出てお茶の水よりbusにて東大前。 10:00ゆゑ琳琅閣にゆき顧康伯『中国文化史2冊(200)』を買ひ、井上にて長尾龍造『北満洲支那の習俗(180)』買ひしてゆけば田川氏来ず、神田、後藤、阿南君とで8人。 「わが『吏文』の単語帖、印刷にする」と。「和田先生の古稀祝賀6日は史学会への出張をねらって」と。 出てrice-curryくひに入れば声かけしは小野忍教授と藤堂高保氏。「竹内西下す」と。いろいろ話して笑はせ、林Dr.に電話すれば「往診」と。 いたし方なくbusにのり(※お茶の水)女子大前にて下車。阪本越郎を再び訪ねしに「教授会」と。松本善海訪ね「西下せず」ときき、立教大学の講師室にゆけば田中正義氏(東大正門にて令弟正俊に直ぐまへ会ひて噂せしばかり也)「池内先生の墓前で会ひし」と。 久保生、「石渡校長先生を訪ねしに「私学援助会の試験受けよ」と云はれし。御自身はその会の理事らし」と。 野崎生に私立高校の2部少しといへば、金子生の母校関東学院(横浜)にはありと。 4生と国鉄に同車、渋谷で下車して聖心女子大学へ17:00着。学生の演戯見せられ、19:00よりMother Britt(※初代学長)誕生祝賀晩餐会。中々■かりしも青山定雄・海老沢の2氏より話し相手なく、学生もわがことを知らず顔なりし。 すみて某老教授と渋谷までtaxi同車。雨ふりをれば吉祥寺より家に電話し、赤飯買ひ、傘もち来ると半途にて会ひて帰宅。 谷川眞佐枝より「小海線にのりし」と。けふ悠紀子「冬服を5,600で買ひくれし」と。 10月27日 9:30成城大学へ登校。史学研究法に渡辺、山田君江など欠席の届す。 すみて角川の朝比奈女史に電話すれば、「明日来る」と。栗山部長に「出張確定と考へてよきや」と問へば「よし」と。 教務課に「11月1日2日欠勤」をいふ。そのあと姜生と話し、高桑純夫氏の中共よりの帰朝談きく。明陵の発掘談おもしろし。 短大の漢文は「20分でやめよ」といはれ、15分でやめて出、松崎医院により『初代川柳選句集(120)』買ひて帰宅。 けふ出がけに速達にて「佐藤春夫先生文化勲章祝賀会を11月8日帝国Hotelにて」と。会費1,500と(「出」の返事す)。 畠山恵美子Demmarkより「愉快にやりをり」と。吉森夫人礼状。川久保悌郎より『燌酒考(※清代における焼酒の盛行について)』の抜刷。 (田中順二郎の転宅を出来心にてたしかめにゆきしに、1等良きところへ入りをり。子らと雅子とにて祖師谷大蔵まで歩き、chocolate買ひ与ふ。「和光幼稚園へ1日より通ふ」と)。 夜、明治書院より「原稿料 (1,250-180)送った」と。 p11 10月28日 10:00筑摩書房の井上達三氏来り、『世界の歴史』の第6『東アジア文明の変貌』に唐代の政治について400字30枚かけ、締切は12月15日と。承知す。東博氏と10年の酒友と。 ついで角川書店の朝比奈女史、詩集5冊返却に来り、初校もち来る。14頁。石渡経夫校長に贈るための『蕪村・一茶』も持ち給ふ。 「和田先生の祝賀を6日17:30本郷学士会館にて会費650にて」との通知来る。春夫先生の会とともに「出席」の返事投函。 聖心女子大学へゆく途、東横dept.にて「Camel(※タバコ)」買ふ(130)。2時間とも気持ちよくやる。 すみて靴はきをれば、なつかしげに稲富生来り、「先生お体は」と問ふに「悪し」といへば、よにも心配気なる顔せしに気の毒なりし。 けふ『聖心学報』もらふ。原田先生の『正倉院雑記』有益なり。字数勘定すれば、わが稿は5~6pとなる模様。 三鷹台にて下車。松村達雄に寄り話す。松崎医院にゆき「慢性ジンマシンに非ずや」と問へば、一言にて否定さる。「営養剤を3ヶ月つづくべし」と也。 10月29日 8:30成城大学へ登校。田中久夫氏に会ふ。山田俊雄氏、中国語の本買ふとて相談す。 漢文すまし、点ききに来しは皆出来る子なりし。会計にて出張旅費10,340もらふ。 河村政敏(※近代文学)来りしゆゑ逃げ出し、新宿にて炒飯くひ、古本屋など見ながら歩き、都電にのりて東洋文庫にゆく。 森克己博士より挨拶受けし。吉田金一、青山、須藤などの先輩と神田、護、田中などの後輩。山本達郎博士のソ連の東洋学会の報告のあと、森博士、共産学者にいぢめられし話す。そのあと期待せし小林元教授の話はさらに痴呆じみ、あきれて小憩に出、松崎医院に旅行ことはりて薬もらひて帰宅。 「阿南君より電話ありし」といふに、やがて来り、『満和辞典』『吏文』などもちゆく。林檎を母上よりと賜ひし。 (三鷹にて『朝鮮語研究(180)』、『アラビア辞書?(100)』、『国史上問題の女性(80)』、『記紀の研究(80)』)買ふ。) 10月30日(日) (※心配してゐた)悠紀子きげんよく、9:30送り出されて東京駅。「山本山」にて海苔2箱買ひ(350×2)、10:45の京都行にのり、14:56静岡にて下車。 駅まへ歩き松坂屋にて爪切ばさみ(60)と香水(150)と買ひ、15:53発の霧島に乗り、岡崎にて乗換へるつもりとなり、席ゆずりしあと幸田にて事故あり1時間50分またされ岐阜までゆく。21:00すぎ下車。 駅より伊藤賀祐博士に電話すれば夫人「阪大にゆきて帰り23:00」と。江口三五氏に電話すれば「夫妻にて外出」と女中さんの話。やむなく駅前の宿に泊り熟睡。 10月31日 宿より伊藤君に電話すれば「10時病院に来よ」と。9:00出て江口弁護士訪ねしにすでに依頼者待ちをり、ちゃんと服着て出てくるまで10分待たされ、「その節は失礼、昨夜はお留守にて残念」といひしのみにて出、すぐ近くなる市役所の組合にゆけば岩崎昭弥君「まだ来ず」と。 心当りに電話してくれしもだめ。「伊東博士に電話せよ」と書きて出、(※岐阜大学附属)病院にゆけば伊藤君すでにをり、湿疹のこといへば尿の検査され(正常と)、「原因不明のはむつかし」といひ、オルガドロン錠(三協製)を賜ふ。 「近々また東京へ来て山の上Hotelへ泊り菅祝四郎(菅文学部長の弟)に会ふ時呼ぶ」と也。 12:00昼食をともにせんとのことに1時間半の散歩をせんと、まづ長良橋へゆき、ついで金華山へのrope-way。御岳を見て感あり。 下山すれば12:00。病院へ再訪、昼食につれゆかれ14:30まで話し、「博士にはなった方が良し」ときき、auto呼んで貰ひ、駅にて15:15の第四比叡といふに乗り、16:53京都着。 思案してのち河原町三条に出て京都書房を見しのち、れんこんやにゆき(隣にてきつねうどんを食ひし)1本つけ、松茸にて飲み、『骨』の連中のこときけば「このごろ来ず」と。 出んとせしところへ依田義賢来り、喜びて話し、シナリオの相談するを横できき乍ら20:00となり、(羽田に電話して「2日の宿たまへ」といふ。「明日は彦根の見学、2日は楽友会館に森鹿三氏の講演きく。6日は上京できず」と。平中苓次氏に電話すれば夫妻ともに他出。女中さん?われをしりをり「出席の旨伝へて呉れ」といひし)。 駅へ出て20:40吹田へゆき山本(※山本治雄)に泊る。 11月1日 3日の夜泊をたのみてのち出て京都に引返し、丸物にて時計の革(500)買ひ、1,100のジャンパーよしと思ひ、鯖ずし食ひしのち、13:36の天王寺行にのり、奈良着。 busにて近鉄前下車。野崎家をのぞけば、その君のみをり、前川家へゆくといひ、途にて佐美雄氏に遭ふ。大阪へゆくと也。「夫人に会ひて宜しきや」ときき「宜し」とのことにゆきて保田のことを訊ねる。(※4文字略)とて保田を愛せしいとこ死にしと也。このごろ自信なくなりし様子に、われと同じきかと思ひ、野崎家の届けし飴の礼いひにゆき、「3日の同窓会に出席の旨、鍛治嬢(※鍛治初江)に電話する」といはれて出、busにて天理。 天ぷらうどん食ひ、時間よくなり八木家へゆきしに、母君松山へゆき、よし子君ひとりにて早々退去。 高橋重臣君にゆけば「昨日大分より帰りし。近日フルブライト留学第2次試験の為上京、通れば来年9月より9カ月間留学。小畑に世話たのめる」とのことなり。入浴後、1本飲みて熟睡。 11月2日 高橋君1時限の講義ありとて、わが荷物もちて出てゆく。あと夫人に挨拶してゆるゆると10:00まへ図書館に着き、八木よし子嬢の出納しゐるに挨拶し、もとの事務室へゆけば雑誌室となりをり。 富永館長(※富永牧太)に電話してもらひしに「少し待て」と。金子君あせって連れゆけば、ふりむかず。ややしてわが並より、やっと向きしと対座、「若気の至りを思ひしる」とわびすれば、きげん直りし模様にて、子の長女九州に縁づき、長男東京にあるをいひ、『稀書目録和漢書3』『Biblia17』『善本聚真』たまふ。 「眞柱によろしく」の伝言たのみ、藤井文庫のところにゐる島居、金子、西村の3君と話せば、鈴木氏(※鈴木治)呼びゐると也。 『曽良日記』は俳諧書の続に入れると也。ついで展観をみ、曽良日記の小本なるを知る。(新井トシ女史にも挨拶せしに、なつかしくなりしはふしぎ)。 鈴木氏の室にゆき、タバコ吸ひ、坊の大阪府立大に入りしをきき、高橋君の来るを待ち、八木女史の「渡米者選別にと出てゆく」をきき、高橋君と出て英文研究室に坂口允男君訪へば「すでに帰宅」と。 通りを下り、天理駅までゆけば12:02まで電車なく、鯖ずし食ひてのち東山三条まで買ひ(140)、西大寺にてのりかへ、東山三条(以前の京阪三条)に出てtaxi。楽友会館に着けば森鹿三教授「居延漢簡(※漢代の木簡)について」の講演中。 内田吟風博士「敢言之」を人名ととりちがへ、語法なることを慇懃に説明さる。神田、慶松氏などのゐるを見(羽田の出てゆきしあと)、総会となりしに北白川まで歩き、『朝鮮の風習(30)』、『神まうで(150)』、『樺太要覧(70)』、『北支の風物(50)』にて400払ひ?、喫茶せんとすれば「しんしん堂」に藤枝(※藤枝晃)、英国留学生をつれ来る。 われおごらんとすれば割勘ときかず(藤枝われのことをrather famous as poetとか云ひし)。 楽友会館に引返せどもはや上らず、待ちて表に羽田の来るを見、(慶松君とも話せし)、河原町三条までtaxi。 喫茶して話し、castilla(400)買ひ、れんこんやへつれゆきてのませ(450)、春豊園へゆく。鈴木俊、青木政代などの常連来ず、他よりは須藤、本田實信(北海道大にて鈴木朝英氏をしらずと)、佐口、神田、大淵の諸氏。 在関西は平中氏のほか(入口にて平中氏と話して去りしはあとにて栗原朋信博士とわかりし)、佐中壮、布目潮諷?、守屋、山田?ぐらゐなりし。 わが発議にて和田先生に寄せ書きし(菊咲くや師よ師よといふ弟子どもに)、出て二次会とかにて喫茶、羽田、本田守屋2君と永々と話し、はねのけられし佐口にわれ終戦のこときけば、新義州にて南下の光村班と留まる江上班とにわかれ、川久保は江上班なりしと。ふしぎなことに白鳥夫妻在洛と。 やっとすみし羽田を促してtaxiにて上賀茂。子らみな起きをり、乾葡萄1箱づつやり、入浴後、寝室に入る。 羽田、Iranにてきけば山崎忠、頭を自ら切りしと也。 11月3日 羽田とともに出て、彼は東洋史談話会、われは丸木町にて下りて彙文堂へゆきしに、しまりをり。夫人戻り来て「主人みかの原へゆきし。昨日は神田信夫さんら来り云々」。われ『小腆紀伝(720)』と『漢語史稿(280)』と買ひ、国鉄にて大阪。 荷物預け、地下鉄にて天王寺着。美術館へゆく途にてほほ笑みかけし子あり。 (※帝塚山学院短期大学同窓会)受付には原田(※原田運治)の妹をり(原田、ことしより同窓会長となると)、中井玲子、吉田■子(2服飾)両人の骨折りにて成り立ちしらしく、新学長蒲田政治氏の挨拶についで、望月信成博士の会場斡旋の辞のうち、野崎女史の電話にて来しとふ鍛治初江より山中、南隅などに連絡せしもだめ也し旨をきき、会場に入りて高岡博士より新学長に紹介受け、楳垣、守本両教授と沢井、岩橋、三苫などのほか、講師の岩田、川端、大伴、太宰、中西、藤井、藤原の老人講師のみなるを知る。 最後に自己紹介さされ、長沖一氏の来りしを知り、園遊会。 文芸ほとんど来ずなりしと。南日女史のみおぼえゐし。梅村己佐雄の嬢とかいふがゐし。兼頭は幹事ゆゑのこし、Ⅲ回の内藤、高野浩子?大菊佳代のほかに鍵谷洋子のゐしを知り、カヂ君まじへ6人にて新世界。 喫茶し、じゃんじゃん横丁をぬけて地下鉄にて南北に別れ、カヂ君のみさそひてナンバ下車。喫茶してのち渡辺三七子のこと藤本氏に電話、枚方御殿山ずまひと知る。 中馬女史に電話し、こはき声にて反対されし。いづもやの舟にゆき、吉田栄次郎君にjuiceおごられ、beerとうなぎ。 殆どのこして出、茶漬屋にてカヂ君に大との(※縁談)話のよりもどし云へば「もっと年長の人を」とのこと也。 別れて大阪駅より電話し、山本夫人に「来てよし」といはれ、ゆけばやがて(※山本治雄)帰り来し。 (けふ岩橋女史より川西良三心臓マヒにて10月17日急逝。喘息もちなりしときく)。 11月4日 関大の東方学会にはもとよりゆく気なく、湖東に電話すれば、田中順二郎より電話あり、美千子発熱と。 湿疹のこといへば「金持病」と。山本も同じ症状なり。これにて気持直り、ともに出て大阪駅。 五色豆2箱(100×2)買ひしのみにて時間なくなり、準急(11時発)にのり、名古屋着13:39。 畠山氏(※畠山六栄門)に電話なかなかかからず、会社へかければ「帰宅」と。三菱銀行中村支店の難波逸夫にかければ「他出、15:00ごろ帰店」と。困りてlockerに荷物預け、五色豆一つもちてbusにて神宮東門下車(30分かかりし)。 社務所に高松弘毅たづね「博士になった方よし」ときき、参拝ののちヱハガキもらひ、西門に出ればtaxiなく(すでに電話にて畠山氏と連絡とれをり)、歩き訪ぬれば17:30よりの宴席に出よと。 長男博光君、熱田高校3年にて成城大学へ入れたしと。援助約して愛知県衛生部長小川朝吉といふを18:00まで待ち、蒙彊にありしこととなり、ともに語る。20:00帰宅。 畠山氏のねしあと夫人よりその武勇談きき、端午の肉粽(バーツァンと)のこと聞きて就寝、眠れざりし。 11月5日 六栄門氏の出社の様子ききつけ、下りて行って挨拶し、夫人ならびにのり子君にかいがいしく世話され、8:00出て8:15名古屋駅着。 Locker荷物とり、のり子君の見送りにて準急に乗り、やっと席みつけ8:30発。 同席は尾張一宮の老女、青年、田紳にて不快。口笛吹き乍ら東京着。14:20。 予定をかへて三鷹よりtaxi(60)にて帰宅せしに弓子のみをり、やがて帰り来し悠紀子の挨拶せざるに腹立てつつ、夕食後「金欠病!」と湿疹のこといひしを、腹にすゑかねて追立てて寝る。 中沢生より「あす10:00見に来よ」の電話ありし。(柏井の法事は30人よびて11:00よりと)。 留守中、着きゐし〒。松本一秀君より(10.28出)「いづれ拝眉の上にて!」と。 木村三千子氏より「返しいらぬ」と(28日付)。古川政記氏より詩を作る「外大生佐藤君紹介した」と(30日付)。 伊藤信吉氏より礼にとアルバム(31日)。「一高の座談会に朔太郎の助講として出た(白井健三郎氏の記憶)か否か」(11月3日付)。 原義夫・知子夫妻より転居通知。鍛治初江女史より「東京へ来られず」。渡辺三七子より「西村姓となり枚方住」と。 山田君江生より「休講に心配す」と。不二歌道会より「1口500円」と。藤井祐介生より「欠席わびる」と速達。 筑摩書房より「現代詩集1000部増刷」と。春名一満より「年末のdept.にArbeitを世話せよ」と。 11月6日(日) 8:00起き、元気となり、松本一秀、伊藤信吉の2氏へ返事かき、八木よし子氏へ「世話してよきや」の問合せ書き、10:00といふに9:00依子と京つれて成城大学へと出、着けばほとんど無人。 文化祭ではなく困り、発掘展見せpão食はせてのち柏井(※義弟)へゆかせ(柳田先生お越し、われの名を今井氏に問はれゐし。楳垣氏の本のこと云へば「受取らず」と!)、 「日本の祭」の映画の出来に感心し、13mの幅員の穴居のslide見てのち柏井へ着けば、和田賀代女史「夜間の中学に心当りあり」と、感謝。 ついで岡田志紀翁(※義弟岳父)に15年ぶりに話し、3女のことたしかめ、「またの日伺ふ」をいひ、史の早退を見てのち平田君の「孫呉の体験」をきき、柿剥かれて酔さまし、平田夫妻について早退。 電話して丸にゆき話せしあと、本郷学士会館へ着けば17:30にてはや着座しをり。 川久保(※悌郎)、太田(※七郎)の近くに坐り、松本(※善海)の座をのこし、、やがて来しに阿南君を呼び寄す。 和田先生古稀祝賀(88人執筆の論文集目録贈呈)と、東洋史学科設立50周年祝とをかね、原田博士(※原田淑人)、中山久四郎翁、石田幹之助、岩生成一、青山公亮、潮田富貴蔵、外山軍治、鈴木俊、日野開三郎、平中苓次、仁井田陞、三上次男(わが名を出せし)の祝辞のあと、榎一雄君(台湾の会議より帰りし)ながながと話せし。 21:00散会。原田、和田先生に外套きせかけ参らせし。河原正博に「その中、会はん」といひ、太田、川久保、松本と4人にて喫茶(佐中壮氏の名をとはれて困りし)。地下鉄にて新宿、川久保「鎌田は松田氏の斡旋にて新博士」と。 これにて終りとなり帰宅。佐藤正樹といふ青年より「都合しらせ」と。 11月7日 9:00登校(よべ3:00まで眠れず)。中国文学史の時間、和田、佐藤両先生の話し、授業料値上と一流教授でないとの学内新聞への憤慨ぶちまけ、石渡生に父君へと『蕪村・一茶』托し、池田勉氏に富永牧太・楳垣実2氏への寄贈たのみ、高橋邦太郎氏と「近々松田家へ同行せん」ときき、 出て梅ヶ丘までゆき、日記帖忘れしに気づき、引返してとり、短大2A金子栄子生?と同車。 2Bの2人と4人にて風月堂にてしるこ食ひて(わが短大での評判よく、理由はコケティッシュと!?)別れ、松崎医院。 「金欠病」ではなく中年の病気と。Dr.にHumourわからず。 けふ栗山部長と話し、学科のことsmoothにはこびし。 11月8日 8:00覚めて朝食し、また眠りて11:00おこされ、そのまま登校(鞄ももたず風呂敷にて)。 松村、高田2氏に『果樹園』わたし、東洋文化史をやる。われの機嫌よきか否を学生に問へば「悪し」と。よき理由いひ、早めにやめて短大の成績呈出。 山田俊雄氏に天理の書目と『漢語史稿 上』貸し、大藤、池辺の2氏と連絡すませしあと教授会。 劈頭「私事ですが」と断り栗山部長、愛嬢の死の際の弔問を謝さる。おどろきて散会後くやみいひ、250を文化史より各々出せしといふに、今井氏に返却のこと田島生に托し、怨みに思ひし也。 時間早けれど出て、下北沢にて古本屋にゆき、留守居の奥さんに『わが龍之介像(220)』、荒松雄『インド(180)』、『老残遊記(100)』、『印度語会話(150)』その他、托し風呂敷包み預けて出、渋谷にてnews映画を見、まだ時間余りしゆゑ、宮益坂のとっつきにて『諺の研究(200)』買ひ、地下鉄にのり赤坂見附よりtaxiにて帝国Hotel。(※佐藤春夫先生文化勲章祝賀会) 浅野、中谷、芳賀、外村、中河与一、榊山の諸氏に挨拶。庄野英二、潤三の兄弟のそろひしをうれしく、林富士馬Dr.にきいてのち先生にお祝ひ申上げ、竹田龍児夫妻と嬢とに話し。堀口大学先生には挨拶できず。狂言に笑ひしあと、ぬけて下北沢。 古本を計算せしめれば金足らず1冊(土岐善麿!)ぬきて620に負けてもらひ、『成吉思汗は源義経ならず』たのみて帰宅。 立教大学野崎生より「帰郷して病気し、あすは出られず」と。 11月9日 また4:00すぎまで眠れず。ただし心気不快にてもなし。田中マサ子より「美千子いまだ休園」と。 木村三千子、田中マサ子に返事。守屋美都雄君に「荊楚歳時記を大藤、今井、池田3氏ならびに柳田文庫へ送り賜へ」と手紙。 昼寐できず、松崎医院へとゆく途、三鷹書店にて『女王閔妃(150)』、『蘭印諸島(40)』、『支那の家族と村容の特質(50)』、『ドイツ青春の歌(40)』買えへば、妻君250にまけて呉れし。 立教大学へbusにてゆけば5分遅刻、教授会とて菅部長に会ひ、荷物もちて教室へゆき3生相手に40分講義し、早慶戦見かたがた紅茶のめば引分けとなりし。 それよりまた古本屋。『川柳江戸姿(80)』、『中央アジア探険記(50)』買ひてbus、荒井薬師で下車。また『信濃伝説集(130)』買ひ、突当りで『年表(20)』買ひて中野駅まで歩きて帰宅。 けふ民主党のKenedy大統領に当選。 p13 11月10日 朝食後、また眠り、10:00起きて下北沢。羊羹(750)と紅茶(220)買ひ、栗山氏にゆき霊前に供へ、夫妻と喪子のこといふ。「長女にして病臥永かりし」と。 出て成城大学。高橋度(※高橋渡)君より礼状。組合より15,000借り、論文の勉強しゐし浅賀、四條2生とすし食ひ(青山定雄氏、全家留守らしかりし)、浅賀生にききしにより荻窪の古本市にゆかんと思ひ、下北沢下車。 散髪し(170)、大地堂に寄り『敦煌壁画選11枚(150)』買ひ、高井戸よりbusにて荻窪。 古本市に和堂の爺さんをりし。『東北の民俗(50)』、『日本に於ける性神の史的研究(350)』、『台湾土俗誌(200)』、『蕃郷風物誌(200)』、『セレベス民族誌(180)』にて一包みとし、また『満洲の民芸(50)』、『亜細亜言語集(100)』買ひ、駅前にて『日英アラブ会話(1400)』買ひて吉祥寺。 busにて郵便局前下車。たづねたづねして宮崎智慧女史訪ひ、紅茶と『敦煌舞天』1枚とをおきて春名一満の紹介たのむ。 古田房子より「鍋島生★にききしとて残念。15日より在京。浜谷を訪ふ」とハガキ。(★会場へゆく途あひて会釈せし美人、5回服飾なりし。なほ来りて話さざりしは平井昌子と青木(城戸)慶子ならん)。 (けふ小高根氏に「自叙伝かかせよ」といひ同人費2千円と高橋君に手紙かきし)。 1月11日 10:00出て(よべ睡眠不足)、西永福より矢野昌彦の会社に電話すれば「未出社」と。仕方なく渋谷に電話してゆくといひ、11:00ゆきて大にも会ひ、鍛治初江のこといへば「会って見ん」と。 写真もらひて出、聖心女子大学。 2classとも概ね「はなし」にてすまし(本多生、感激してトルコ史やるといふ)、渋谷より神田。山本書店にゆき、『元劇俗語方言例釈(190)』、『突厥人和突厥汗国(80)』、『大唐伝戴(30)』、『雲谿友議(50)』、『教坊記(40)』、『南唐二主詞校訂(90)』、『長安客話(120)』にて600払ひ、向達の『唐代長安與西域文明』たずねしに「なし」と。 極東書店にもなく、大安にもなく、大安にては『東京夢華録(340)』、『火薬的発明和西伝(60)』と買ひ、山の上Hotelに「伊藤博士(※伊藤賀祐)来泊するや」ときけば「せず」と。 丸にゆかんと思ひしも、やめて吉祥寺。駅前より電話して「伊藤より連絡ありしや」をきけば「無し」と。 帰宅して太田陽子夫人、筒井信義、羽田明の諸氏よりのハガキ見、上原和君の「11月10日の締切におくれし」との速達とを見る。 松本悦治君より「伊東静雄論」ののりし『日本文学9』。 11月12日 吉田栄次郎、羽田明2氏へハガキ。10:00出て下北沢より矢野昌彦に電話すれば「来てよし」と。 大塚駅すぐ近くにありし永田精機といふへはじめてゆき、(※10月15日の)佐々木恒清先生の卒年にて賭に勝ちし1千円貰ひ、駅前にて昼食・喫茶し、林Dr.に電話すれば「17:00ごろまたかけよ」と夫人。 『年中行事むかしむかし(120)』といふを大塚仲町で買ひ、池袋まで都電。古本屋見てまはりしのち、立教大学の史学会へゆけば久保生すみ、 三原氏といふが「匈奴の祖先」をやらいふのを了りかけてゐし。 そのあと西洋史きくふりして手紙かき、夜の晩餐会に出る。 高橋幸八郎(けふ講演にStokholmでの史学会の報告す。はなはだ公式的なり)教授は昭和10年出(清水博科長もまた)と知る。 わが「東洋史専攻へ女学生を」といふPRに反響ありし。遠矢氏(開成高校)の史学会批判に同感。のちほどそれを云ふ。 林Dr.に18:00電話して栗山氏の不幸なぐさめんといひ、久保生と大久保力(駒込学園)氏と喫茶して酔さましてのち、新宿より丸に電話し、busにてゆき、畠山氏の写真見せ、重俊に『年中行事』与へ、傘かりて出、駅前にて『日本の誕生(120)』買ひてのち、「赤ちゃん」にゆけば満員。High-ball 1杯のみて出て帰宅。 西村(渡辺)三七子より手紙。河野弘子より「古田、井上2生と16日ごろ家に来よ」と。(けふ和田節子夫人に電話して「14日(月)19:00来訪」と約せし)。 11月13日(日) ゆっくり寝てゐれば11:30。坂根生来り「山崎豊子氏へ紹介を」といふ。「長沖先生にたのめ」といひ、大阪の話し「青木弥与子また実家へ帰りし」ときく。鍛治君のこと(※弟との縁談)いへば賛成と。 19日(土)の舞芸座の切符おき、渡辺三七子への手紙と、寺本夫人訪問の斡旋引受けてゆく。(22日18:00池袋のしるこやにて待合せの予定)。 夜、バルカノンへ「秋の湖」のこと200×7かき、美堂正義君に送ることとす。 11月14日 晴。西宮一民君より「日本生命また1人採用しくれし。長沖先生のとりし写真にては笑ひゐる」と。西宮、松本一秀2氏へハガキ。 15:30出て松崎医院へゆく途、中野書店みつけ『Stanford Atlas(Asiatic Archipelago)(80)』買ひ、『うた日記(800)』問へば出し来り、止むなく買ふ。 渋谷へゆき吊書、母ごたごたいひしを父にかかせ、大、出てゆきしあと、すし食ひて出、(浜谷弘子に電話して「古田生、井上生との会、承知した」といひ、林Dr.に電話して、わがせわにて栗山氏の慰問会することとす)。 渋谷Clombin にてcookie(300)買ひ、taxiにて大橋の向ふまでゆき(70)、探し当てれば和田収一氏まだ帰らず。 (※弟の)写真と親類書わたして「鍛治君へよろしく」たのみ、帰り来し和田氏と囲碁。2番負けて帰宅。22:30。 11月15日 8:30成城大学へゆき、相良教授と9:00に304教室へゆく。前田教務課長の司会にて学科紹介。部長の挨拶ののち我、第一に「文化史courseの説明」。みな笑ひ、とりわけ相良教授笑ふ。 あと臼井、高田2教授の話うまくなし。(相良氏あとにて「貴下にHumourの特技あるとは知らざりし。南と北の放送よりよし」と)。 すみて文化史のnoteつくり、大藤教授よりも礼いはれし。 図書館より購入の本とり来り、昼食すまし、栗山部長に慰問の日取きけば「金曜以外ならよし。出張中の佐藤氏の肝入とて池袋の北京飯店にてせよ」と。 10分間にてcourseの会やり了へ、文化史にゆき、山田君江に『信濃伝説集』貸し、身体検査受け(血圧110~70)、成城堂にて『千一夜物語5冊(500)』とりて帰宅。 長沖氏より3日の園遊会のときの写真9枚賜ひ、渡辺三七子より祝返しに靴下2足。 林Dr.より入れちがひに「佐藤氏帰らば云々」。小高根二郎君より「54号まで同人費もらった。萩原葉子氏加入した。4~5枚なら自叙伝かいてよし」と。(定期の証明けふもらひし)。 11月16日 9:00出て渋谷より地下鉄。本郷の古本屋見て10:30かっきりに研究室。小山助手にいひて卒業生名簿(50)頒けてもらひ、上の研究室へゆけば松村君のみ。 ややして神田君来り、講師田川氏10:45来着。それまで吏文辞典の相談あり。(われ凡例をかくこととなりし)。 12:00すみて阿南君より誘はれ昼食ともにす。Sarhu戦の抜刷たまひし也。 今夕『吏文』返却に来たまへといひ、別れて木内へゆけば『朝鮮の年中行事(280)』あり、うれし。busにのれば松本善海をり、大学院の協議とて正門前で下りゆき、池袋にて時間あまり、宮崎女史訪いひしに不在。 置手紙して汁粉たべ、手塚教授に会へず、研究室にてまち、14:50ゆけば4生そろふ。 野崎生、横浜の浦島中学に話してくれといひしも、あまり積極的ではなかりし。金子生は出版社へゆくと也。眠くて30分して出、busにて中野へ出て松崎医院へよりてのち帰宅。 〒なく、19:00阿南君迎へ、昼食代の返却受ける。依子、年賀ハガキ400枚買ひ来り呉る。 11月17日 10:00成城大学へ登校。河野弘子に電話すれば「外出」と。「あとにて電話せよ」と伝言たのむ。 川本生に『朝鮮の風習』を30円にて譲ることとし、史学研究法すませる。 丸重俊また喘息の発作おきしとて休み。長沢美喜子「母のみやげ」と鱒ずし呉る。 栗山氏「佐藤氏、林Dr.と土曜17:00会することとなりし」と。 午後、短大の漢文うまくゆかず、1人採点もれありしを発見。すみて年中行事の会のため『東京夢華録』の于蘭盆の条写して置き、15:00帰宅。 ちょっと昼寝す。『訓読吏文語彙』の凡例かきし。入浴。楳垣実教授へハガキ。 けふ臼井、高桑純夫(名大教授と)氏らと語原読せしゆゑなり。 (河野弘子との電話で、あす聖心女子大学すみしあと訪ふこととす。家にも速達来ありし)。長沢美喜子のなれずし美味なりしとて礼状かく。 11月18日 悠紀子より100借りて出、下北沢より林Dr.に電話すれば、栗山氏の話しらずと。ともかくあす16:30ゆく約束して聖心女子大学。 岡田氏より「論文の大要を400字にて」といはれ、「土曜送る」といひ、海老沢氏来りしに天理の書目のキリスト教書ぬきがき見せれば「間に合はず」と。 2時間教へて出、駈足にて千歳船橋の河野家へゆけば井上律子生のみをり、17:30まで古田房子を待ち、来しに水炊きを食はさる。 2夫人とも大阪へ帰りたがり、井上夫人は2月、河野夫人は3月出産なりし。21:45の月光号にのるといふ古田生と井上夫人と3人にて20:10出て(柿多くみやげに呉る)、下北沢で別れる。 河野夫人「切手を1万枚もちゐる」と。『日本歌人』来をり、平塚敬一生より「京大の大学院へゆきたし」と。 林Dr.より入れちがひに「栗山先生は一升のまれるので佐藤氏気のりうす」と。不審なり。 11月19日 8:45成城大学(電車おくれし)。田中久夫、高田、池田の諸氏と話す。林Dr.に電話すれば「佐藤氏と連絡なし」と。「16:30ゆく」といひ、出て「すみれ」で昼食。 大蔵住宅に田中マサ子夫人を訪ぬれば「美千子、章博ともにはしかなりし」と。美千子「田中かつみ」と字書く。 出て祖師谷大蔵まで歩き『温泉案内(30)』買へばdoubleなりし。松崎医院にゆきて帰宅すれば弓子のみをり。 川勝重子より「浅田姓となりし」と。『端午考』のresumê書きて岡田純一氏に宛て、下北沢をへて大塚より林Dr.にゆけば、「往診中にて佐藤氏の連絡なし」と。 18:00まで待てば「栗山氏と30分後待つ」と。出て夕食してのちbarにゆき、佐藤氏の運転にて飯田橋。おでんやの2階にて飲み、栗山氏「池田、田中を信用す」といひ、林Dr.「伊東は田中の悪口いへば喜びし」と。 21:30われ先づ出て、あとつづかざる故、駅にてjuiceのみ新宿下車。切手を探しまはりて買ひ、速達boxに投函。小田急井之頭線にて帰宅。23:00 けふ留守に林Dr.電話たまひしと。吉井勇亡くなりしと夕刊に見ゆ。 11月20日(日) 朝食後ひるねす。依子遠足にゆく。午后、昼めしおそく食ひ、投票所(井之頭小)へゆき、共産党に投票し、最高裁判事みな×にす。考ふる所ありて也。 それより古本屋見てまはり何もなしとて竹内好までbusにてゆけば「水戸へゆきし」と。 この間の関西旅行は夫人同伴にて淡路にゆきしと。帰り途、焼き芋買ひ来る。 けふ帝塚山関係のたまりし返事かく。 11月21日 予習せずして成城大学。栗山氏に会へば礼いはる。角川の朝比奈女史に電話して「文庫できれば20冊買上げる」といふ。ついで平凡社に電話して『アジア歴史事典』のこときけば、「今月末でよし」と。 やがて東大東洋史研究室の後藤君より、『吏文語彙』の凡例について電話、末松教授の了解求よといひ、電話あるかと一時間待ち、salaryもらふ。 長沖一氏に礼状投函。下北沢で下車すれば休日なりし。松崎医院にゆき、中村へ寄りしも何もなく『千一夜物語13』買ひ来る。 けふ、ゆきがけ中西家(※大家)のマキ子嬢を夫人リヤカーにのせ来るを見て、きけば「首の骨はづれし」と。心配して帰り、問へば大したことなき様子。 山中タヅ子より「結納入った」と。太田陽子夫人より渡辺三七子夫妻の写真。井上夫人より挨拶。美堂正義氏より受取。 けふ衆議院の総選挙の結果わかり、民社は自民、社会にくはれ、1/3は社会・民社・共産(3名となる)にて保つとわかる。洋子より風邪と下痢と。 11月22日 人文書院の松本氏より「伊東全集のため、克己の己・巳いづれか」との速達。野崎正昭生より「校長先生にごあいさつさせていただきたし。23日来る」と。立教大学史学会より写真。 11:30出て下北沢にてラーメン食ふ。林Dr.へ電話かからず。12:30成城大学へすべりこみ、電話せしにまたかからず。 文化史の時間、郷右近生をのぞきて皆出席。内野生、成績もらひに来り、きけばアレルギーにて声嗄れ発熱し、「東大に入ってゐたら」といふ。浅野建夫(※友人医師)に来週つれゆかんといふ。 成城堂に本代払ひ教授会。学科志望国文19(男1)、英文57(男6)、芸術89(男30)、文化史27(男4)にて、わが熱弁の効果と栗山部長いふ。 芸術をふるひおとし文化史、国文にいれるとのことに我反対なれどきかれず。 すみて栗山部長にきけば「卒論指導を池辺氏にやらしてよし。西洋史の場合はそのため講師やとひ入れてよし」となりし。 待ちゐし3氏にその旨報告し、出て池袋。西武dept.宮崎氏のぞきしに不在。豚テキ食ひ、西口に出て電話すれば林Dr.「佐藤氏に連絡しをく」と也。「24日夕刻伺ふ」といひ、三原堂にて餡蜜くひて18:00かっきり表に来し坂根生と会ひ、土産にせんべい3袋買ひ(300)、大谷口ゆきのbusにのり、下車してわからず、うろうろしてまはりしあと向原住宅に着きながらまだわからず。 19:00かっきり寺本家に入り、坊やかはゆきを相手にす。「3月に和歌山へ帰る」と也。順吉氏帰宅し、蜜柑よばれてのち出る。 東口行のbusつかまへ、barにてhigh-ballのまんとせしも気持悪く早く出て喫茶。『千一夜物語15』買ひ(そろふ)て帰宅。23:00 古田生より武居生の住所しらせ来る。 11月23日 雨。『民間伝承』来りしのみ。13:00来訪の筈なりし織原夫妻より「来られず」の電話。 15:00野崎生来り、白鳥家の実情を訴ふ。来年、都立大学の工科へゆき、そのため夜間中学を志望すと。 夕食させて帰らしむ。「この間のわがハガキによりて白鳥夫人叱られたまひし」と。 11月24日 雨。10:00成城大学へ登校。史学研究法すませれば山田生、「昼食をともにせん」と。 全学学生大会にて短大午後休みといふに喜び、諾して出んとするところへ平塚生来り、「手塚教授にも話した」といふゆゑ「羽田教授に照会せん」といひ、参宮橋までともにゆき、松嶋正夫、武井伸子の2生とWashingtonハイツのMeigi parlourにつれゆかる。 けふはThanks-giving-dayと山田生の話なりし。甘きblunch食べさされ、自動車にて参宮橋まで出、3生と別れて池袋。 立教大学にて手当受取り、手塚教授と相談すれば「平塚生よりは話なし!野崎生は白鳥家にて9時に起きる」と。 不快にて出て丸物にてみやげ買ひ(240)、林Dr.にゆけば夫人、佐藤氏に電話し、「この間の割勘は1,000」と。 beerご馳走となり、大塚へ出て駅前で鯖ずし食ひ、都電にのれば上野へ出、「おかちまち」より国鉄にのり、高円寺下車。 都丸にて『異民族征服(30)』、『西南アジア文化(150)』、『摩尼教(80)』買ひ、赤川夫人の店(※「赤ちゃん」)にてhigh-ball2杯のみて帰宅。 (大塚の古本屋にて武田泰淳『司馬遷(40)』見付けし)。 11月25日 雨。朝、速達にて「浅野晃氏よりきき保田與重郎のこと知りたく土曜10:15成城大学へ電話す」と塚本康彦氏より。 12:00出て(中島悦子より「12月10日すぎ藤井寺の医師と結婚」と)、聖心女子大学。 2時間すませ新間教授?とともに出る。渋谷にて別れ東大佐藤君に遭ひ、神田へゆくをやめ、宮益坂登り結局中村書店にて岡崎義恵『鴎外と諦念(150)』といふを買ひ、 juiceのみnews映画見て(皇太子夫妻Iranにて歓迎と知りうれしかりし)、三鷹松崎医院に寄って帰宅。 11月26日 晴。8:40成城大学へ登校。漢文『李将軍列伝』をやる。守屋美都雄君より『荊楚歳時記』4冊来あり。池田勉氏「蓮田善明碑」の報告わたす。 その前、10:15かっきりに塚本康彦(東大大学院)氏より電話かかりし。蓮田善明碑にも醵出、『文芸文化』『日本の橋』など書くといふに、『木曽冠者』コギトの12年10月号にのりしと教ふ。 出て下北沢にてrice-curry食ひ(60)、渋谷より神田。 山本書店にて『従斉民要術看中国古代的農業科学知識(150)』、『唐太宗(50)』、『中国小説史初稿(200)』、『旧中国小説集(50)』買ひ、近隣にて『義経伝(150)』見付けしを手はじめに(成城堂にてQue-sais-je文庫の『現代の中国』、『インド教』、『古代エジプト』3冊つけにて買ひし)、宇野哲人『支那文明記(50)』、『新しき年中行事(100)』、『五節句の話(200)』など買ひ、古本市にゆき『朝鮮歳時記(200)』。 しるこ食ひてのち『千一夜物語8』買ひしを最後に帰宅。 悠紀子、渋谷(※実家)へ3千円もちゆけば母「(※大氏への縁談すすめ中の)鍛治君離婚の理由ききたし」といひしと。 春名一満より「家庭教師世話せよ」と。楳垣実教授より『民俗』3冊。齋藤はるみ生より「Des Livres」久保靖彦生来り「勉強に専心せん」と置手紙せしと。 白鳥へ電話し、野崎生に「あす9:20三鷹駅北口へ来よ」といひ、春名一満に家庭教師世話せぬ理由3条を書き、入浴せしところへ織原夫妻来訪。「明後日市川へ転居」と。 11月27日(日) 晴。寒し。悠紀子、日直とて出てゆく。われ9:00出んとせしところへ平田聡子より電話「10:00来てくれ」と也。 春名一満への手紙投函し、三鷹駅北口へゆけば野崎正昭生まちをり、biscuits1袋買ひ、北口の中村書店へゆき、『風俗画報2冊(100)』買ひして10:05平田家へゆけば水原秋桜子にゆきし和田賀代女史帰らず。平田氏と話し、「丸才司検事は父君の下僚」ときく。 10:45 和田女史帰来、高校に紹介せんとなり。出て駅前で別れ、我は松崎医院で粉薬もらひしのち、浅野建夫に電話して、着けば家より電話「和田氏来訪」と。「すぐ帰る」といひ、内野生の病状はなし、来診たのめば夫人すしを賜ふ。 この間つれ立ちて沖縄へ3日間ゆきしと。帰り三鷹駅よりtaxi(80)。 和田夫人の話にては「鍛治嬢もっと気楽なところを」と(※縁談)断り来しと。落胆し、またすし食べてもらひ、14:00悠紀子をして送らしむ。 けふ楳垣教授より「『伝承文化』ありがたく受手」と。河野弘子より挨拶。立教大学より「来年度の講義内容を12月17日までに」と。 11月28日 曇。ゆふべは悲観して下調べせず眠りしも、めざめて「カヂ嬢尤もなり」と思ふ。 9:30成城大学へゆき中国の小説につきnoteかき、講義。 すみて「すみれ」でcurrieDrice食ひ、郷右近生の登校せるに会ふ。年中行事会のため『荊楚歳時記』と『東京夢華録』とより抜書し、 鍛治初江嬢に「尤もなり」の手紙かき(八木よし子嬢に「一満君だめ」と来信同封)、 下北沢にて投函せんとゆけば、駅にて矢沢利彦教授に会ふ。6年在隊と。恰も『東西文化交渉史』をもちをりし。 下北沢にて『東大寺(30)』、『法隆寺(30)』、『山の辺の道(30)』、『春日社興福寺(30)』、『初瀬多武峯(30)』、『伏見桃山(40)』、『嵯峨野の表情(30)』買ひ、また『成吉思汗は源義経ならず』を探しにゆき、『李太白(70)』買ひて帰宅。 『Non-fiction全集9』を挿みあり。悠紀子、織原氏にゆきて帰りをらず。夜、『果樹園』に「半自叙伝の序」かく。 11月29日 昨日につづき寒し。齋藤はるみ、寺本和子2生へハガキ。 11:00大江叔母より「心配してゐる」とハガキ。野崎正昭生より礼状。塚本康彦氏より「電話の感じよかりし」と。 すぐ出て小高根二郎君へ速達し、成城大学へ中村屋のpaôもちゆき、東洋文化史また40分でやめ(藤井祐介より「不眠にて欠席」と電話。 上原和君『成城文芸』の原稿できぬと断り)、また出て炒飯くひ、15:30より学科の会。 すみて17:45まで待ちて「年中行事の会」。于蘭盆の話すみて帰宅。21:30。夕食す。満蒙史料の下よみのこる。 11月30日 9:00家を出、お茶の水をへて東京大学。10:00まへ三上教授来るをまち、我よむ。 すみていつもの通りrice-curry食ひ、busにて池袋。宮崎智慧氏に礼いひ、立教大学へゆき手塚教授に再来年の講師は考慮されよといふ。 一般教養の東洋史に石橋秀雄氏来ることとなりし由。 いつもの如く40分ほどやり、手塚生に「手塚教授に京大大学院の了解していただけ」と訓し、久保生に「一応考慮せよ」といひて出、地下鉄にて虎ノ門。 三水会に出、了りて新宿まで田村氏の自動車に齋藤晌氏と同車して帰る。 角川書店より「『現代詩人全集8』7,000部12月初旬に出版」と。『薔薇』に書けと村上新太郎氏。 けふ佐藤助教授酔ひて多弁、変なりし。 12月1日 登校9:40。八木よし子氏より「添削せよ」と童話来ありし。史学研究法に『吾妻鏡』の義経高館ならびに腰越やりて旨く出来し。 すみてすしやへゆき、ちらし食ひ(150)、帰りて添削。短大の漢文に杜詩3首、これも旨く出来、今井富士雄氏の嬢の顔おぼえし。 すませて大江叔母へ「元気」との手紙かき、『史記李将軍伝』の下調べして出、(内野生、元気になりしとて来り、うれし)、この間見つけし小矢部全一郎『成吉思汗は源義経也 続(280)』買ひにゆき、手前にて『東亜香料史(350)』、『史的素描(100)』買へば『飛鳥めぐり(30)』をまけてくれし。 それより南口にゆきて『大越史記全書』10冊(300)買ひて松崎医院をへて帰宅。 三浦久子氏より『平田春一歌集』とどけかたがた4日あたり来訪と。この間、林Dr.より噂ききをり。 『果樹園』来る。和田節子、林富士馬2氏へ礼状かく。 12月2日 浅野建夫Dr.へ礼状。渡辺三七子の結婚写真を藤本宗治氏より。「社長・専務も列席」と。三七子きれいに写りをり。 11:30出て(出がけ悠紀子「依子3月退職を父にいへといひし」と)、聖心女子大学へゆく途中、cocoaのみてゆき、新津氏(東洋大学にをりしと)71才ときく。すませて渋谷。鍛治初江氏の意向伝ふ。 すみてBaedeker『Italien(50)』、『建國大學研究院研究期報2(200)』買ふ。高橋匡四郎の論文のりをるが為なり。 寺本和代より挨拶状。20:00吉森夫人より電話「あす16:00来よ」と。諾す。 12月3日 8:45成城大学へ登校。田中久夫氏すでに来ありしゆゑ「放課後小高根家訪問」を約す。 12:00出て経堂にてラーメンともに食ひ、小高根家へゆけば陶碗だいぶ造れあり。(※小高根家太郎)『富岡鉄斎』出来しを2人に賜ふ。 14:00出て三軒茶屋の三茶書房。『新小説鴎外追悼号(350)』、『戦陣訓詳解(10)』買ひ、田中氏の先づ去りしあと三宿まで歩き、 『陸奥宗光伝(50)』また買ひて(以前買ひしは加藤定雄に与へし也)、玉川線にのり、渋谷-品川-大井町。 駅前より車庫行のbusにのり幼稚園と問ひしゆゑわからず。先までのりすぎ引き返して吉森家。 夫妻まちをり松阪牛を饗さる。19:30夫人に停留所まで送ってもらひ帰宅。入浴。 平塚生より「京大大学院の件、手塚教授の了解を得し」と。 12月4日(日) 西野直子、和田佳子、同じく日立の光仁apartに住むといふ故、西野生にハガキ。 『不二』来りしのみ。午后、雨降り、寝たままにて悠紀子、依子を買物に出せしに、16:00すぎ、三浦久子女史、文部省勤めの東洋大学法科2部生を案内として来る。「13:00より探しまはりし」と。「大島やめ理事長に勝承夫なり。日立よりの融資まちをり」と。 夕食してもらひ雨中帰りゆく。羽田明、藤本宗治2氏へ手紙。畠山博光くんへ入学の書類。 (けふ東洋大学学長に佐久間鼎きまりしと新聞に見えし)。深更、高橋重臣君へ鉄斎のこと書く。 12月5日 雨小止みとなりし故、傘もたず9:40成城大学へ登校。中国文学史教へ、高井、坪井、神戸の3生に卒論のthemeきき、すぐ出て神田古書会館へゆけば「台湾地図すでに売れし」と。 武内『台湾(150)』、那珂『支那通史(90)』買ひ、明治堂にて『比律賓の民族(150)』買ひしのち、筑摩にゆき、東博君呼び、手帖もらひ、喫茶に誘ひ出し、14:00より会議といふに別る。 都電にて渋谷。三鷹の松崎医院へゆけば「Dr.風邪」と。夕方「先生」と訪ひ来しは相馬弘。浅沼講師より「文化史の人間」といはれ卒論のtheme受取られざりしと。 きけば「外国語2単位しかとりをらず」と。夕食せしめて「あす調べて話す」といひて帰せし。 けふ西村美奈子より写真。堀之内歴より『詩と道元』を書きしと。 けふ新宿で声かけしは中野清見の姪の姉娘。「叔父けふ上京」と。「会ひたし」といひて別る。 平田春一氏に悼み状(夫人2月2日に不逞の夫をおきて逝去と也)。 12月6日 10:00出て成城大学。「朝鮮の文化」のnote作り、昼食して今井氏たづね当て「相馬のこと、のちほど教務課長前田氏と相談せん」といひ、中野清見よりの電話きき「17:00も一度かけたまへ」といふ。 文化史すませ、前田課長つかまへてきけば「文化史にのこし、論文すみてのち必要科目了らせん」といふことになり、浅沼講師にも了解を得る。 教授会にてはbonus21割と決定と。栗山部長、学長候補となりをるらしき様子にりし。 16:30すみて今井、池辺2氏と話しをれば(相馬つひに見当らず)、中野より電話「宝ホテルへ来よ」と也。ゆきて姪の妹の方、来り「詩人と恋愛しをり」と。そのあとまた女性鈴木氏といふのが来り、chicken-rice食はされ、丸と22:00出てtaxi、中野駅にておろしてもらひて帰宅。 影山正治氏より電話あり「明朝8:00またかける」と也。 12月7日 9:00影山氏よりの電話にて目覚む。『文芸文化』還すと也。「明日9:00~15:00に成城大学へ」といふ。 また寝んとせしもだめにて『Coxinga(※国姓爺)』調べ、昼食し、13:30出て松崎医院。手の繃帯とりかへてもらひしのみにて、立教大学へ10分遅刻してゆき、やや長くやりて「これにて今年了り」といひ、久保生にきけば「この間、私学連盟の試験受けし」と。 平塚生にきけば「手塚教授の了解はうそでなし」と。 教務へ来年度の教授内容「成吉思汗 前後」を届け、また希望日時を水曜5~6、7~8、金曜1~2、3~4と届けてのち手塚氏に会ひ、来週以後の休講をいふ。しるこ食ひてのち帰宅。 けふ角川文庫の『現代詩人全集8』2冊来る。 12月8日 9:00家を出て成城大学。史学研究法の時間に出席少し。すみて石渡生を呼びてきけば、「父は月曜午前中のみ在校」と。 「来週月曜ゆくこととしたし」といひ、ついで郷右近、渡辺2生の待つそばやへ武井、山田2生とゆき、帰れば影山正治氏待ちをられ恐縮。 菓子を賜ひ『文芸文化』の返却受け、ついで成城大学へと不二出版社の本6冊賜ふ。 礼いひて12:40早大生運転の自動車にて去るを送りて、短大すませ、手紙かきて出、駅にて富永次郎氏と遭ひ、話しつつ下北沢。Coffeeおごられ井之頭線にて三鷹まで同車。松崎医院へ寄りて帰宅。 山田生より「夫君帰来のため休む」と届けあり!?「庄野潤三氏の出版記念会を12日(月)18:00椿山荘で」と。「出席」と答ふ。 角川より文庫20冊着。美堂正義、林富士馬、佐藤和雄、木村三千子の4氏にと包む。 12月9日 11:30出て聖心女子大学。「端午考」の要約の英訳を見ささる。 青山氏をり、田中保隆氏に角川文庫1冊贈る。田辺教授(哲学)に相良教授の伝言す。 出て恰度来合せしtaxiにのりて青山車庫へ出、不二歌道会にゆき、鈴木氏に会ひて誌代1千円渡し、『大賀知周歌集』1冊頒布受く(350)。影山氏出て来られ、「保田君白内障」と。 出て古本屋見しあと、炒飯くひ(130!)、散髪し(130)、地下鉄赤坂見附下車。都市centerといふにゆきchorusきく。上手なり。 20:00になりて出、taxiにて四谷見附へ出、国鉄にて帰る。 帝塚山短大の同窓会の写真来る((※旧住所)中込アパート付)。 12月10日 昨夜3:00すぎまで寝られざりしも元気で成城大学。田中久夫氏に会ひ、角川文庫を呈し、漢文やる。20名余なり。 すみて郵便局へゆき見れば速達混みをり。引返して手紙かき高田瑞穂。上原和の2氏に角川文庫を呈し、相良、上原2氏と5月の修学旅行の件をいひ、田中久夫氏を待たしをれば、石渡生「父、12日は忙しく19日にせよ」といひに来る。 12:00となり、「bonus出し」と電話あり、大宮氏に次いでとりにゆく。59,210+24,000(研究費と)-9,470=73,740なり。 山田君江生「家へ昼食に来よ」といひしもことはり、本間、郷右近、西沢、渡辺などの女性と会ひつつ駅へゆき、下北沢下車。 ラーメン食ひ、南へ出てわれは『新生中国の顔(20)』買ひ、北へ出て『三国志演義(150)』、『国語の書き表わし方(10)』買ひてのち、気がつき田中氏を家に誘へば「行きてよし」と。 悠紀子にbonus渡してのち荻窪の古本市へ送りかたがた出て、『大日本分県地図(100)』、『内藤湖南先生追悼録(50)』、『Guide through Netherland India(150)』、『趣味の植物誌(80)』包ませしあと、芦田伊人氏の遺本を田中氏に教はり、その手写にて 『松岡は5万石昌勝公の城下町也。我が蘆田家の先祖、初めてここに召し出され其の屋敷この図に明なり。子孫永く保存すべし 昭和26年12月諏訪寓居にて 伊人識』 とある袋入の地図2枚買ひ(300)、駅前にてrice-curry食ひて別る。 杉並郵便局へ速達出しにゆき、駅前にて『白話本国史3,4(40)』買ひて帰宅。 けふ大江叔母より7日出しの速達。「警察病院の人間dockに入り、10日までゐる間に歯科小野博士の世話(※入歯作製)になる、よろしくたのむ」とのことなり。けふは10日なり。 12月11日(日) 松崎医院へゆくつもりなりしも出来ず。高尾書店の目録来り、田中萬兵衞『淡路方言研究(600)』昭和9年刊といふがあり。 大江叔母にハガキ。小野文彦医博に手紙かき、武蔵野郵便局へ速達しにゆき、帰り平田家へ寄りてみる。阿南惟敬氏来り、『満和辞典』返却を受け、bayara(※護軍)はniru(※兵士300人)の外なるや否を論じてみよと宣ふ。 麓教授(※麓保孝)より高校の転校につき伝言あり。「不能」と答ふ。 高橋重臣、武田豊の2友に角川文庫包む。(『南方読本(20)』買ふ)。 p14 12月12日 登校。中国文学史やり「来週は切る」といふ。昼食そとへ食ひにゆき(栗山、池田2氏に角川文庫贈呈、本棚のこと篠原部長にいへと也)。用もなくゐる中、雨降り出せしゆゑ、吉祥寺まで帰り、電話して悠紀子に傘もち来らしむ。 汁粉屋へゆきしあと三鷹。松崎医院にゆき、出て中村にて『郷土の伝説(50)』、『ソ連・中国の印象(50)』買ひしのち渋谷をへて目白。雨中busを待ちしあとtaxiにて椿山荘。 (※庄野潤三『静物』出版記念会)佐藤春夫夫妻に庄野兄弟(一族数名来しと)へ挨拶し、村上菊一郎氏より挨拶受く。佐藤、井伏、河盛好蔵、十和田操、吉行の諸氏の祝辞あり。亀井勝一郎と会ってのち出て、目白まで歩き、ついで椎名町まで古本屋歩きして22:00前帰宅。 林富士馬氏より「妬みかもしれぬが出たくなし」と。「藤田亮策先生、狭心症でなくなられし」と夕刊にあり。かなし。 けふ年賀状あつらへしに「18日(土)出来て650円」と。 12月13日 11:00登校。相馬のこと教務に問へば「電報戻り来し」と。Paô食ひいろいろ話しゐる中、12:30となり、東洋文化史を教へ、来週もやるといへば藤井生は帰郷すと。 猿渡生を呼び角川文庫与ふ。「父、三越本店」と。14:30より教授会。「部長候補者を各専攻にて選定せよ」となり。 大藤、今井氏と協議し、わが出せし百瀬教授案に2氏賛成。篠原部長にいひにゆかんとすれば他出と。 池辺氏を加へて卒業論文の審査と来年度の時間とを決定。 池辺君8時間となるらしく、桜田氏を7千円以上といふことにて呼ばんとのこととなる。 ついで外出して炒飯くひ、帰りて18:00近くより重陽のこと(※年中行事の会)。吉事を反対の意味にとれるとわが案示す。 けふ藤田亮策先生のこと頭をはなれず。帰れば吉森、和田、鍛治3生より手紙そろひて来あり。 けふ平凡社の荒井女史に電話して「Dragon」ならびに「Torghut」を20日までに書くと約束す。 12月14日 9:00悠紀子と出て靴屋に寄り、1,900のboots買ふ。お茶の水をへてbusにて東大。 卒業生名簿2冊買ひ、『訓読吏文語彙』出来上がれるを見る。 田川孝三氏、藤田先生の葬儀にゆかれしとて欠席、松村君之よみすみて、在金100円余りなるに気づき、ラーメン食ひて東洋文庫。 『説郛[弱/2]69』の歳時記抄し、田中正俊氏に会ひにゆけば青山定雄氏に会ひ「聖心女子大学の時間割のことにて話あり」と。「あとにて」といひ、田中氏に頼みて『東洋学報35-3・4』頒けてみらふ。 16:10青山氏にゆけば、「金曜は東洋史にて4時間となるゆゑ日をかへよ」と。「研究してみる」といひて出、駒込より水道橋に出、波木井書店にて『民族の起源(25)』買ひ、山本へゆき『唐代の長安と洛陽』学校へと注文し、榎一雄『耶馬台国(290)』買ふ。 出て蒲池歓一氏に会ひ、誘はれて一盃。お宅にて栗羊羹買ひ(140)、都電にて四谷に出て帰宅。 田中マサ子より「美千子通園」と。硲晃、手塚2氏へ名簿包む。 12月15日 晴つづき暖かさつづく。若葉弟と下北沢より同車してゆく。史学研究法に欠席目立つ。義経の北走は正月とす。 昼食前、篠原事務局長に会ひ、百瀬教授の部長推薦いへば「67才ゆゑ」と難色。 「国文英文は栗山部長留任」を申出でし」と。「それにてもよし」といひ退く。便所でのちほど坂本短大部長に会へば訊ねられし。 短大の漢文すませ、今井氏探せしも会へず。出て下北沢で『婦人記者の大陸潜行記(100)』買ひ、しるこ食ひて三鷹松崎医院。湿疹またおこりし也。 角川より送り状。田中順二郎氏より乳製品1箱。筑摩より原稿用紙。中西家の増築ほぼ成り、夫人痛心の態なり。 12月16日 高橋重臣君より8日付にて「フルブライト不急のthemaとの理由にて准候補となり落胆」と来ありし。 悠紀子、渋谷へ出しあと11:00すぎ出て松崎医院。それより聖心女子大学へゆく。木間瀬教授「卒論を審査せよ」と。 15:00まちて助野助教授にきけば、原田先生主査の民俗学的論文の福査と。 「日本古代宗教-蛇を中心とした動物神」といふ藤井映子の論文かくて1月19日までにと預かりて出、Hot-cake食ひて帰宅。 松原(西野)尚子夫人より「岩橋(和田)夫人を同窓と知らざりし」と。 悠紀子帰り来り、「寿一(※西島寿一)のpaô屋、ひまとなり千草困りゐる」と。「父神経痛」と。 栗山部長に1千円の品お歳暮とし、5千円のほか依子よりといひて父母に物贈りしと。「大、しばらく嫁もらはず」と。 12月17日 定期券きれ、切符買って成城大学へ登校。田中久夫氏と話す。 すみて『新唐書』借出し、出て駅にて神田信夫氏に会ひ、和田先生お訪ねすといふ。 下北沢下車。砂糖6斤(1,000)買ひ、重きに苦しみながらお訪ねすれば出て来られ、各国史叢書見せらる。 一年の御恩謝して別れ告げ参らすれば、「羽田、学位論文を提出せず」と。わが党なり。 下北沢にまた出てrice-curry食へば英文2年の4女生をり、coffeeのみちょっと話して出、帰宅。 けふ悠紀子、松崎医院へお歳暮もちゆきしと。夕方、おとなふは森良雄Dr.。大の写真もち去る。年賀状の印刷出来て750なりし。 p15 12月18日(日) 寒き様にて松崎医院へゆかず(昨日ゆき子お歳暮とどけしと也)。 床にて年賀ハガキ書きはじむ。山本嘉蔵氏より「藤田亮策先生の夫人智慧子」と。不二歌道会より「深沢七郎の風流夢譚につき答へよ」と。 西村公晴氏より「『風日』へ歌を」と。ゆき子の買ひ来し鋸つかひしあと、ねてゐれば正平、龍平兄弟来り、正平16:00約束にと去りしあと21:00まで龍平と話す。タバコ買ひにと出、藤田夫人、山本氏へ弔問状かく。 12月19日 晴、寒し。中国文学史きりて床にをり。賀状かく。(※賀状リスト) 羽田君より「羽田博士史学論文集なんとかなる。大学院の入試は外国語2」と。林富士馬氏より「文庫は野長瀬よりももらひし」と。 午后、松崎医院へゆく。藤田智慧子夫人へ現金書留す(45)。 12月20日 よべより書きし「トルグート」と「托歓」とをもち、10:00出て、市ヶ谷まで国鉄。平凡社の受付にわたし、成城大学へ登校。 大山教授より「編集会に失念」とのわび聞きゐる中、相馬生入り来しゆゑ、どなりつけ、研究室にてきけば教務にてadDressまちがへしらしかりし。ひとりで考へんといふ手紙受取りし(12日出)せししもあらん。 東洋文化史14人出席。「丸、内野、姜、藤井(帰郷とことわりありし)」など要注意生みなをらず。 勉強のこといへば、高橋通子「アメリカ史やりたし」といひ出る。すみて森田順子、比企野道子2生ついて来しゆゑ、本見せゐれば(あとにて2冊もちゆくと断りあり)、栗山部長「部長再任決定、民俗学の講師の履歴書見た上で、salary決めん。2コマは多し。池辺君の特講にては時間8となり多すぎる」と也。 専攻へ原案もちかへりをいひ、今井氏にちょっと話し、机の上にtobaccoとchristmas-cardおきありし山田君江生に礼いひ、教授会。 芸術専攻の学科改正に、文化史とのつけあひを早速、栗山氏いひし。 すみて池辺、今井、大藤3氏と話し、大藤氏「桜田勝徳氏は東洋大学にも話あり、ひっこめる」と。 仕方なく教務へ報告し、またおでんやりをる考古学の室のぞき、おでん一つ食べて出、(卒論の面接1月31日9:00よりとす)、江知勝へゆく途、前田教務課長と同車。新宿より地下鉄、本郷3丁目へ出てゆく。 前田氏、成城出なること、昭和11年東大農なることはじめて知る。 20:00散会まで茫然としをり。本郷3丁目よりまた新宿。高円寺にて丸夫人に電話すれば「重俊は風邪」と。 帰りて美堂正義氏より文庫の受取。小野博士より「大任すました。ヒデ子も噂す。売口さがせ云々」。 けふ16:00ごろ坂根生来り、Tris-barに出ず、Televiやりをる云々。宮崎女史も来り、「あす学校でお会ひす云々」といひしと中西夫人の話。 12月21日 10:00野崎正昭生より「浦島中学校の植田ヨシ氏より神奈川県だめと便りありし」と。 武田豊氏より文庫の受取。大江叔母より「小野博士のいれば(※入歯)上出来」。 よべ書きし3日ゆくとの手紙を摂津生に投函かたがた松崎医院。 西荻窪より立教大学に電話すれば山田助手出て「手塚教授はもう登校なさらず。Salaryもすでに出し」と。 中野より立教にゆきsalaryもらひ、裏みちにて『東海の先史遺蹟・三河篇(50)』また『Kartinnyi slovar'russkogo iazyka(※ロシア語の絵辞書) 2冊(200)』と関敬吾『民話(70)』買ひて西武dept.。 宮崎智慧氏に来意きけば「別に用なかりし」と。図入辞典1冊贈り、角川文庫1冊わたし食堂へ誘ひて話す。「子供が智慧を早く引取れと[仏]に書きし」と。 16:00出て三水会。みなそろひ勝部君の印度・Pakistan・Crylon紀行きく。旅行呆けしるし。 すみて赤坂の中国料理「栄林」へつれゆかれ御馳走となり、22:30帰宅。 立教より電報「講義内容スグタノム」と! 正平来りて「明日来られず」をいひしを、悠紀子すすめてタバコやりしと。入浴。、 12月22日 佐藤和雄氏に送りし文庫返送。10:30正平来り、この間九州へ「トロッキーズムとレーニズム」の講演にゆきし。大学へ残れといはると。意外なり。大江叔母への手紙ことづけ、13:30出て立教大学。 (手塚氏より「名簿受取った。野崎生たのむ」のハガキ入れちがひに来し)。教務に電報見せてなじれば学部・大学院に分れての手違ひなりし。(高橋幸八郎氏と見まちがへられし)。 それより成城大学へゆく途、山田信江のpartyにゆく中沢晴代生と一緒となる。 [基]金とり『唐代の長安と洛陽』3冊来をりしと杉浦正一郎『芭蕉』とをとり、「12月末にて退職、来春中馬君と結婚」といふ黒柳直子の挨拶受けて、男司書補3人と出て成城書店に払ひすまし、喫茶おごる。 ついで渋谷へ出れば山荘生まちをり、和田収一氏来るやもしれずといふにbiscuits買ひて待ちしあと、雨の中をゆけば在宅。 碁2番して4目どまりとなる。西荻窪の叔父宅にをりといふ山荘生に『芭蕉』貸して帰宅。23:00。 栗山氏より「香典返しを寄附」と挨拶状。 p16 12月23日 晴。橋本俊子女史より「木村姓となりし」と。平凡社より受取。 午后a-5(※賀状リスト)の賀状もって八丁郵便局へ投函、松崎医院へゆく。 帰り『平泉志(50)』、岩波文庫『一外交官の見たる明治維新』と買って帰宅。 小高根二郎君より「『果樹園』の忘年会した。会する者、福地、池沢、堀之内の3人のみ。貴稿声援の気息がだいぶありました。60号には6枚寄せよ云々」。 けふ丸より鮭の味噌漬。本多慈子生より葡萄酒2本。影山氏のいひつけと餅を不二農場より届けらる。 12月24日 暁方、洋子とのよきmed.出来しをゆめみて覚めし。賀状183枚にて了る。後藤均平、手塚隆義2氏へハガキ。 小野文彦博士へ礼状。小野ヒデ子、山田信江2生へ文庫。 京つれて三鷹。『Vocabularia erotica et amoris (130)』、『六昆王山田長政(20)』買ひ、松崎医院。 三鷹事件と共産党の冷酷ときき、出て『Satow 下』を買ひ、『アラジンと不思議なランプ(70)』買ひ(Burton版ArabianNightsそろふ)して帰宅。 夜、人文書院「(※伊東静雄全集)月報に伊東につき好随筆を」と速達。 12月25日(日) 寒し。史出勤。村上新太郎(※詩寄稿要請)、人文書院へ断りのハガキ。家居。〒なし。 12月26日 不二歌道会より礼状。藤田智慧夫人より弔問の礼。11月3日同窓会で会ひし山田夫人(早川麗子)よりハガキ。 松嶋正夫生よりChristmas-card。山田麗子、西村美那子2夫人へハガキ。 「唐代政治史」書かんとして困る。(※他の執筆者に)栗原益男「貴族政治から官人支配へ(※「貴族政治から文臣官僚体制へ」)」といふがあり。 『アジア歴史事典5』来る。花井彩よりCristmas-card。『不二153』。 12月27日 きのふにつづき快晴。『果樹園』へ「半自叙伝序(続)」6×200書く。野崎正昭生へハガキ。 本田茂光氏より「母の忌中」と。午后、松崎医院へゆき、荻窪まで出て筑摩書房へ電話すれば井上氏不在。 古本屋見て廻り『古代印度の文化(30)』、『北京の市民(30)』、『情郷禅(30)』、『濠洲の自然と社会(30)』買ひて帰れば、千草来をり、井上氏より電話ありしといふに、かけ返せば「栗原氏の原稿見てのち2,3日中に来る」と。 荒木利夫君より依田氏母堂の喪を印刷して来る! 昨日和辻哲郎博士逝去と。佐藤竹介の伯父也。 12月28日 花井彩、松嶋正夫へCristmas-cardの礼! 丸夫人へ礼。春名一満君より奈良漬1箱。家居終日。memento-mori! 12月29日 畠山博光よりの礼状。半田ゆり子、京都よりCristmas-card。午后、松崎医院へゆく。 12月30日 寒し。午前中、手塚教授より返事。平塚生より同。午后、硲氏より礼状。阿南惟敬氏、蜜柑一箱もちて賜ふ。『唐書地理志』鈔す。 12月31日 晴。11:30松崎医院へゆく。富士見えたり。4日朝まで休みとて、薬多くもらふ。Dr.「散髪せず帰郷」と。 われも之に倣ひてbarbarにゆかぬこととす。平凡社より2月末に8項目のこといひ来る。昨日より中西家に出入り多く、裏口の扉つけ、屋根の修繕すむ。 田中克己日記 1961 【昭和36年】  昭和36年は、わたし管理人の生れた年ですが、詩人にとっていろいろなことが清算される年となったやうです。  これまで離婚の危機をはらみつつ続いてきた不倫、つまり八木さんへの思慕ですが、最終的な清算が、詩人直々に大阪まで出向いて行はれたのが7月のこと。そののちストレスから来たと思はれる十二指腸潰瘍で詩人はダウンします。さらに父である西島喜代之助が9月20日に逝去してゐるのですが、激甚の日々が綴られたと思はれる、その期間(7月26日~9月27日)の一冊『東京日記11』が遺されてをりません。  日記の欠損は過去にも『コギト』創刊をはさんだ時期(昭和7年1月28日~7月16日)に一冊みられました。その時は大学構内で反帝国主義演説を聞いてゐて拘引された「留置事件」があったのでしたが、このたびはどのやうなことが書きとめられてゐたのでしょう。御遺族にも聞き取り中ですが未だ判然としません。  しかしながらこの年を単純に災厄の年と申してよいものかどうかには疑問があります。といふのも、新たなノートに書きはじめられた日記には、夫人同伴で教会へ礼拝に通ふといふ、これまでなかった習慣が現れるやうになるからです。 p1  不倫にまつはる心労のみならず、周りの学者連中が次々に“新制博士号”をとり始めたこと。とりわけ親友の羽田明氏とは、先学を辱める格落ちした権威なんぞには背を向けて、実力をみせつけて世渡りすることを共に確認し合った筈だっただけにショックが大きかったやうです。  また気安く接してゐた帝塚山短大時代の同僚、西宮一民氏も皇学館大学に招聘され(もちろん博士に、そしてのちに学長になられます)、「芳賀檀博士」との関係も、前任校東洋大学を相手取った齋藤晌氏の訴訟・証言に係ってでしょうか、このあたりから雲行きがあやしくなって参ります。羽田氏と同様、斯界の大家の2世学者である今西春秋氏に対しては「彼女に手を出すな」と面と向かって言へない苛立ちを禁じ得ないといった有様(笑)。  かうした精神的ストレスのもろもろが、蕁麻疹よりすすんで十二指腸潰瘍にまで詩人を陥れ、また睡眠剤にたよらねばならない不眠を経てこのさき宿痾となる躁鬱病にまで追ひ込んでゆくことになった。その過程であった父の死によって決定的に、宗教的改心にまで導かれてゆくことになった。そんな推測をしたくもなります。それを証する独白が見当たらないのですが、これまで隠しだてなく書き綴られてきた日記が不自然に欠落してゐるそのことこそ証左とみるべきなのかもしれません。  救ひを求めた宗教がキリスト教だったのは、悠紀子夫人が立教高等女学校出身であったことが与ったでしょう。戦後の一時期、物質的に援けられ、その教へも身近に見聞きしてきた筈の天理教でしたが、そこがそもそも不倫現場となった職場であってみれば、しがらみの多い宗教への帰依はありえないことでした。  けだし八木さん(※日記中では実名を避けて「○○子」を「八木嬢」と記しました)との出会ひは昭和22年、天理図書館への奉職までさかのぼります。  さうして実はそのずっと以前の昭和10年、結婚前の詩人の『夜行雲日記』に 「3月20日 郵便 八木あき子氏、北園克衞氏、衣巻省三氏、中村喜久夫氏。」  と、モダニズム詩人たちの名を差し置いて記される人があるのですが、どうやらそれが八木さんの姉君のことではないかと思はれるのです。  この姉君が、詩人の下阪時に最終的な話し合ひの場に同席して、  「責任をおとりになる必要なし。常識的にふるまはれ家庭に帰られよ」と、詩人に引導を与へてゐます。(7月24日)  ついで八木さんも「親戚中の反対の中をゆき、家庭建設の自信なし云々」。さらに「田中はかかあ思ひで有名」との噂を広められてゐることが判り、観念したやうです。  「愚行ここに終りを告げし也。」(7月25日)  このたびの入信、決意がひとに初めて洩らされたのは、関西旅行から帰ってきて夫人と大喧嘩したのちの4月23日のことで、そののちに記された  「この日ごろたよりよこさぬなれおもひそむかれしごと心いかれる。(5月8日)」  といふ歌から分かるやうに、心の整理がついたからではなく、煩悶のさなかに洩らされたものでした。このときは 打ち明けた旧友の奥さんから笑はれてをります。  また当時、保田與重郎の京都の新宅を訪問(4月5日)しておどろかされ、そこを『風日』歌会の場に定めて実質的な主となる彼とは、これ以後次第に疎遠になってゆくわけですが、青山で『不二』を主宰する影山正治とは通交を保ち、のみならず彼を三水会の講師に推薦(4月26日)してる位ですから、キリスト教と戦時中の文業に対する政治的改心とは、発心時に於いては趣きを異にするものだったといへるのではないでしょうか。  ともあれ欠落した日記の期間に、決定的な心情の転換が行はれたことは確からしく、その後の日記に表れる礼拝や関係書物の購入など一寸奇異にも感じられるほどですが、安心立命に向かふべく、(生来の癇癖こそ矯めることは難しかったものの、)成城大学教授として余生を送るための精神的基盤が、このキリスト教との出会ひによって確たるものになった気がいたします。  洗礼は翌年のことになりますが、これにより永年敬慕してきた堀辰雄の未亡人多恵子氏とは、悠紀子夫人をなかだちにした詩と信仰を通じた個人的な関係ができあがることにもなりました。  さて池田隼人が総理大臣となった宏池会が主催してきた勉強会「三水会」は、この年をもって解散します。三水会に招かれてゐた詩人は、社会人となった長男が官僚の道を進むことになり、人生の中で、最も政治の中枢に近しい位置にあった気がするのですが、「半自敍伝」を『果樹園』に連載開始したのも、公私ともに人生の大きな節目を前にして、半生を振り返ろうとしたのかもしれません。  また年末には大阪高校の同窓会が熱海の名旅館起雲閣で恩師を招いて豪勢に催されます。文乙クラスだった詩人はドイツ語の先生ロベルト・シンチンゲル先生の参加を周旋してゐます。ただこのクラスをまたいだ同窓会、竹内好は参加してゐますが、遠方からの参加組に、語学の秀才で朋友である筈の服部正己、そして保田與重郎と肥下恒夫の名前はありません。  もとより保田與重郎と母校のクラスメートたちの間には、肩寄せ合ふバンカラの友情が入り込む余地はありませんでしたし(そのためかうした際の断りの文言の歯切れも悪さうです)、皆より年長でかつては資産家であった肥下恒夫においても、世俗的成功者が集まる斯様な会に列席するのは憚られたことでしょう。  すでに経済的危機からは脱出してゐたといふ肥下家ですが、以前大阪で行はれた同窓会には会費が払へず、散会間際にやってきて皆を驚かせたといふこともありました。この年、日記に彼の名は『コギト』欠号に関する問合せしか記されず、同窓会の打診も行ってゐない模様です。愛知大学から大阪市立大学に移り、やはり博士号を取った服部正己に至っては、名前さへ日記に現れてをらぬのは少々冷淡に過ぎるやうにも思はれることです。  日記は、かうして旧制高校の友情が培ってきた『コギト』の終焉といふべき悲劇が待つ1962年へと向ふのです。 (追記:日記中の (※○字省略)は人名ですが、入学試験斡旋や試験結果に関はる一般人情報であり伏字といたしました。) 昭和36年1月1日~昭和36年2月11日 「東京日記 9」 25.4cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p2 1月1日(日) 賀状176枚。35枚を書く。午后また35枚(帝塚山の教へ子と立教・東洋)。 平凡社へ楊貴妃・楊国忠・熊廷弼・李永芳かくと返事。成城大学24枚に返事。 夕方、芳野清氏年賀にと来る。「長は中学1年、3児」と。 1月2日 賀状24枚。うち5枚を除く19枚に返事かく。 12:00、3女と悠紀子と渋谷(※弟宅同居の父母)・天沼(※悠紀子弟宅)へ年賀にと出てゆき、ついで史、出てゆきわれ留守をす。 22:30すぎ連中帰り来り、渋谷にずっと居りし、父神経痛ひどし、母疲れ、山田和三郎の孫、藤村弘文(電気通信研究所)といふが来をりしと。 1月3日 6:00起き出て8:00東京駅。せっつといふに乗り、混むを見つつ沼津下車。富士浅間神社を拝みてのち、千代の家といふにゆく。エンロの会員のみにて男2女2.勉強して酒飲む。 1月4日 11:00宿を出てbusにのり修善寺。散歩ののち昼食。またbusにて三島に出、喫茶する間もなくせっつ号(往復ともなり)にのり、買ひし駅弁くひて21:41品川着。途にすしを土産として帰着。 鈴木(正義?)生、海老を生きしまま持ち来しと。岡田志紀翁(69才と)結核にて入院中と。 悠紀子、キモノ雨のため着られざりしと。伊藤信吉氏より『朔太郎年譜』来る。 1月5日 晴。家居。賀状の返事すむ。本日来りしもの17枚。計268枚也。 国立公立学校の授業料も値上げときまりしと(大学9,000→12,000) 1月6日 和田賀代女史より電話「むつかしけれど野崎生の就職運動つづけゐる」と。 12:00すぎ久しぶりに松崎医院へゆく途、『富士山(40)』、『白馬及立山(40)』、ラトゥーレット『支那の歴史と文化 上(150)』、『諺文初歩(50)』買ひ、治療すみてのち国鉄にて阿佐谷。 瓶詰3ケ(305)買ひ、河北病院西2号館の岡田志紀翁を見舞ふ。安静時間なりしもあはせてもらひ、半羽織も受取ってもらひし。 そのあと『陣中の竪琴(30)』、『長耳国漂流記(80)』など買ひて丸屋市川にてまた『東北の民俗(100)』、『東北の玩具(100)』、『Chto takoe Sintoo?(※神道とは何か?[ロシア語])(50)』、『薬名辞典(100)』と買へば300としてくれし。 『白話本国史1(20)』見つけて買ひ帰宅16:00。 夜、俊子姉より電話かかり(阿佐谷にて数男に電話かけし)「日曜松田宅にてpartyやるゆゑ依子つれて来よ」と。諾せしあと依子にいへば「日直」と。悠紀子21:30ごろ帰来。 1月7日 快晴。賀状の返事17枚。他に7枚。 朝より寿賀子氏の電話2回あり。8日(日)13:00新宿小田急にて寿一と待合せ、宮崎龍介氏を訪ふこととなる。 夜、尾上教授より電話「問題受取りし」と。 悠紀子、田中俊子に電話せしに応答なしと。のちほどかけ「阜子(※たかこ)もゆけず」と言ふ。 p3 1月8日 (※新聞切り貼り「ウシにカケる未来」) また寿賀子氏より電話かかり「15:30新宿駅で」と。宮崎家の都合によりて変更と。 母、疲れてゐるとのことに悠紀子出てゆく。岸町よりの転送賀状44枚。他に18枚(返事など13枚)。 山田君江より「立原の愛読者だった」と。 14:30出て新宿で寿一待ち、目白の宮崎龍介・白蓮邸へとゆく。(※リンク写真あり) 白蓮女史「浪華の人」知りみ知らずみ(※知ってたり知らなかったり)なりし(※不詳)。龍介氏、3度中共へゆき歓待されしと。 月餅と『李太白』とおきて出、池袋で夕食。「寺島喜八郎翁昨年逝去」と。新宿で別れ、東中野で下車。『わが小説作法(100)』また買ふ。 1月9日(日) 雨。どこへも出ず。〒もなし。 1月10日 雨。賀状の返事3枚。他に4枚。 午后出て松崎医院。ついで成城大学へゆきしも無人。 阪本泉氏と糸屋氏の賀状受取り、定期券の証明もらひ、けさ電話かけ来し坂根生に電話して「あす午前中来よ」といひ、立教大学教務課に「もはや開講」とききてのちbusにて渋谷。 母に会ひ、千草のことかまふなといひ、父にも会ひしてのち、大さそひ出して「六兵衛」とかいふすしやにゆく。 (倉橋文雄氏のこの間会ひしとて伝言の名刺もちをりし)。おごられ礼いひ、「Colombin」にて喫茶して帰宅。 眠し。筑摩の井上氏より電話あり「明日また」といひし由。 1月11日 悠紀子渋谷へゆく。賀状12枚。11:00筑摩の井上氏より「月末までに書け」と。 そのあと蜜柑もちて坂根生来る。麻美子に会ひしと。このごろ手伝ひゐるトリスバーのこときき、出て古本屋見さし(雲呑くふ)てのち立教大学。 平塚・金子2生のみ。30分ほどして手塚教授に会ひ『羽田博士論文集』を羽田にいふこととし、「野崎生、中川講師には考古学をやりたしといふ」とききて出、 トリスバーてっぱ家にゆきてハイボール1杯のみ(180)、坂根生に5円借りて出、小銭作らんと歩く(『中国考古学の旅(350)』を飯島で買ふ)。 1月12日 定期券を並んで買ひ、成城大学へ登校。加賀山秀夫の賀状見る。(寿一へ23日11:00よりの叔父13回忌と叔母1周忌に出席の返事出す)。 史学研究法うまくゆかず「すみません」とあやまれば本間生笑ふ。 午后、漢文すませ(昨日、中川氏にききし通り、松村氏の歓迎会せしと。令嬢結婚せしと)。 帰らんとする途にて尾上氏に遭ひ、試験問題につききく。ついで鈴木生に会ひ海老の礼として文庫与ふ。 今井氏にも会ふ。(新城氏より『社寺と交通』預りしと)。 鎌田女史帰りをり沖縄へ吉田東伍(わが与へし)を置き来しと。 Frazer『金枝篇』成城堂に注文し、下北沢にて手紙投函してのち、寒がり乍ら松崎医院。 帰れば賀状8枚。おほむね返事なり。出雲生への賀状帰り来る。 夜、城平叔父より速達「平鋼治、早稲田と慶応の工科受けるゆゑ宿せわせよ」と也。依子、組合の会とて22:30帰宅。 1月13日 賀状9枚。他に金子喬彦生より「三彩社に就職」と。 城平叔父の件、悠紀子遠藤さんに電話して妹の旅館に世話するとのことに、すぐ返事かかしめ、出て速達。 聖心女子大学では試験問題提出、「ヌルハチについて」「鄭成功について」400字とす。 早くすませ、本田生さそひ「ケマル・アタチュルク」を卒論のthemaとするといふに賛成!喫茶店へつれゆきてのち、宮益坂。 『Daily Ex-press World Atlas(170)』、『The Background of Asia(130)』、『Buddhism in Pakistan(250)』買ひ、ついで『英訳ハイネ詩集(120)』買ひして寒がりつつ帰宅。 明日出発といふ依子に大江叔母へ「婿さがせ」の手紙もたす。 1月14日 6:40起され、7:45家を出て9:00少し前に成城大学につく。田中久夫氏をり、すぐ漢文。 そのあと年中行事のprint原稿作り、筑摩の井上氏に電話すれば未出勤と。 12:00田中氏と出て下北沢でラーメン食ひ『熱帯柳の種子(140)』、『正倉院(250)』、『彭湖風土記(70)』買ってのち筑摩へゆく。 お茶おごられ、他の人たちの原稿見せてもらひ、東博氏に会ってのち、国鉄にて渋谷。大宅へゆけば岑夫まだ来ず。 やがて悠紀子の帰りゆきしあと陽生来り、われ17:30出る。 依子、けふ夜行にて大阪へとゆく。西村美那子より「勤めやめる」と。太田陽子夫人より「原稿かけ」と。 けふ田中氏にきけば「奈良女子大の塩見薫氏、癌にて10日亡くなりし」と。7日は喉頭癌なりし内田暁郎氏葬式なりしと也。 史、渋谷の宴に参加して帰り来る。 p4 1月15日(日) 里井千寿子より「柳枝子氏は母方の祖母」と。10:00悠紀子、森dr.へゆき、大へとの写真と吊書もちかへる。 賀状の抽籤あり、4等に[1名]、5等に[9名](※省略)諸氏の賀状当りをり。 午后、電話かかり吉成、村田の2生蜜柑1箱もちて来る。 けさ速達にて角川より「Heineの13版の印紙1,500枚に検印せよ」と。 1月16日 頭重しとて成城大学へ休みの電話かけさせ、伊藤信吉氏の礼状、堀ノ内歴より手紙「半自叙伝を遠慮しないで書け」と也。 笠野芳子より歌2首。他に『民間伝承』など4冊の雑誌。 夜、史より電話「追加予算で帰れず」と。この日、地震たびたび。 1月17日 寒し。小田急衝突の為不通と。10:00出て松崎医院をへて成城大学。 丸重俊また休みをり(角川の朝比奈嬢に電話し、図説世界文化史大系の16巻ききあはせれば「あり」と。「明後日とりにゆく」といふ。) すみてアメリカ史やるといふ松島生叱りしにきかず「英語できざるも民俗学・考古学いやゆゑ」と。 そのあと文化史の会で大藤教授「引き続き主任やるべし」と、今井氏も賛成と。意外なり! 年中行事の会に出て21:00帰宅。 坪井より22日より2月5日まで滞在と。白鳥夫人より(令嬢)「服部夫人と会へ」と。増田春恵、西村公晴2君の賀状。 角川より10,500-1,575=7,037来しと。Heineの12版にて5ケ月目也と。 1月18日 晴。9:00出て東大前。西川英夫に電話して坪井の上京のこといひ、研究室にて和田先生年末危ふかりしときく。 三上氏の代りに後藤君『李朝実録』をよむ。三上氏12:00前来り、学術研究費申請の相談す。 すみて坪井へ速達し、「白十字」でlunch食ってのち西川家へゆき夫人に1年ぶりに会ふ。家改築しゐたり。 それよりbusにて大塚。研究所に松本(※松本善海)訪へば他出。またbusにて池袋。しるこ食ひて立教大学。 手塚教授に会へば平塚生、都立の大学院にすると。30分Coxinga(※国姓爺)やり、野崎生に白鳥夫人へ「明後日暇あり」との名刺托し、久保生とcoffeeのみにゆき、地下鉄にて霞が関。 宏池会へゆきて「三水会は24日」ときき、busにて渋谷。Frazerの『金枝篇』さがせしもなく、下北沢の大地堂にきけば「稀覯本」と。 『文学散歩 創刊号(90)』買ひ、2号ももらふこととす。 帰りて夕食に「はもの皮」と「すぐき」。城平叔父より「宿のこと宜し」と。山荘淑子より本の礼。 夜、山中タヅ子より電話「4月20日?結婚式」と。 けふ羽田君(※羽田明)へ「亨先生の論文集上下を手塚氏に頒け賜へ」と手紙。 けふ悠紀子渋谷へゆき「1興叔父の13回忌に山田出席、母も出るゆゑ、悠紀子出るに及ばず、留守たのむ」と也。 帝塚山文芸club会報へ300字。 1月19日 登校の途、短大生と暉峻博士と同車。中村幸彦発見といふ島原文庫を訊ぬれば「島原藩の写本の整理」と。 Zolbrad(※Leon Zolbrad日本文学研究者)のこときけば「期限きれて帰国した」と。 史学研究法すませ、高桑氏と話せば「新村猛、2号と同棲して東京に住み名古屋に通ふ」と也。 ちょっと鎌田氏よりFrazerの『金枝篇』借りて見たあと、聖心女子大学へゆき藤井暎子『日本古代宗教――蛇を中心とした動物群』にexcellentの評点をつけて渡す。題名も不可、研究も不十分なれど比較評点の尺度なければ也。 都電にて広尾橋-青山一丁目-九段上。角川へゆき朝比奈嬢の受付に預けし『図説世界文化史大系 中国2(16巻)(880×0.8=704)』もらひ、文庫5冊(500×0.8=400)買ひして、早大仏文出身といふ嬢と同行すれば、角川源義の嬢にて「アポリネール好き。村上菊一郎の許へゆく」といふ。荻窪まで同行して村上氏留守とわかり帰宅。 亀井昇より「長男をなくし「喪の正月」」と。 1月20日 晴。伊藤信吉氏より「萩原先生の愛人のことくはしくしらべる」と。新坂康子生より賀状の返事の礼。三野裕子生より診断書。 11:40出て聖心女子大学。また出来ずあやまる。すみて(salaryもらふ)しるこ食ひ、吉祥寺にて『北海道伝説集(100)』買ひて帰宅。 (けふ渋谷にて白鳥夫人に電話すれば令嬢の父君病気にて云々。News映画見る)。 1月21日 成城大学へ8:30登校。漢文すませ、前田教務課長より学長印もらひて東洋文庫田中正俊氏へ速達し、今井氏より吉成生の卒論引渡し受け、 田中久夫氏と今井氏の発掘予算獲得談ききてsalaryでるをまち、受取りて出、下北沢で別れ、 古本屋へゆき『文学散歩2(90)』受取り『続北京の市民(90)』見つけ『正倉院三彩(10)』買ひて(天丼60食ふ)松崎医院。 Dr.「鉄道員の息の経済入学につきたのまれゐる」と。古本屋にて鴎外『都幾久斜(※稀覯本つきくさ:月草)(2,000)』放置しあるを注意し、『猟奇(200)』買ひて帰宅。 東洋史談話会の通知来あるのみ。原稿かかず。 夜、永山より電話「鈴木とあす午后来る」と。浪中の教へ子なり。 (朝、城平叔父より速達「友だちもたのむゆゑ26日に来て宿みる」と)。 1月22日(日) 晴。佐々木邦彦君より「梓(満2才)の展覧会す」と。 城平叔父より万美子(※田中万美子)のdevueの写真。森dr.へゆき夫人に写真と吊書返す。 帰りて永山、鈴木の来るをまてば、18:00すぎ電話かけ来る。迎へに薬局へゆき22:00まで話す。カステラ1箱賜ふ。 1月23日 10:00までに渋谷へゆく悠紀子とともに家を出、成城大学。中国文学史はやくすませ、下北沢で雲呑くひてのち帰宅。 京、かぜにて休校しゐる故なり。悠紀子16:30帰宅。大も出て寿一宅の法事すみしと也。 1月24日 △登校。12:00。久しぶりに栗山部長に会ひて主任のこといへば「吾不関焉」と。 東洋文化史に丸重俊をり、時間はじめるとすぐstoveの火curtainにもえつき、藤井裕介消火す。 教務見に来りなどせしを機に「東亜の宗教」と試験問題いひ、研究室へかへる。 『成城文芸』の4月号を委員号とし、次を4月20日しめ切とせばいかにと山田、木桧両委員にいふ。 教授会にて遠足のこと出、2月4日までに出欠とると也。 すみて大藤、池辺2氏と連絡会(今井氏文部省へゆきをり、成城大学にて教授推薦出来るやうになりしと也)。今井氏と大藤氏と別に合ふでもなき様なり。池田教授心臓病とて見舞せんといひしに応へなし。 すみて地理の矢橋謙一郎氏まち、特殊講義交渉すれば「来週まで回答まて」と。 けふ昼食とらず、急ぎ帰る車中、そばへ来るは王子の子とて2B阿出川生ならん。『東洋史研究』来しのみ。 1月25日 朝のうち雨。午より晴れる。11:00まへ出て松崎医院。三鷹駅で浅野建夫夫人と遭ひ、同車して中野で別れ、立教大学。 1月分salaryもらひ、けふにて講義なきため、おほむね休講と知る。貫講師に会ひ挨拶さる。 30分やりて野崎生(学芸大へ願書出せしと)をまち、(doorをあけしが坂根生とておどろきて、のちほど「てっぱ屋」へゆくといひて追ひ返せし)、16:00といひて研究室へゆけば手塚教授も欠なりし。 挨拶すまして古本屋。『天平の文化 上下(300)』と『世界風俗大観(100)』と買ひ、4生と「てっぱ屋」にゆき見れば閉ぢをり。 喫茶してのち、またゆき坂根生に用件きけば「club活動をしらべるため成城へ紹介を」と也。「あす来よ」といひ、 4生にbeerのませ、にぎり飯くはせ(1470)、busにて中野(「てっぱ屋」のまへにて『民族学研究 新1の4(50)』見つく)。 丸に電話して坪井のことにてゆくといひ(先ほど電話して「土曜の都合よし」とききし)、新宿歌舞伎町の「春日」に電話してもらひしも不明。あすも一度電話するといひ、重俊、煦美子と話して帰宅。 北山(和田)章子夫人よりハガキ。「島田生も2世できし」と也。『聖心女子大学紀要』の校正来あり。 けふ賀状の賞品、八丁〒にて受取り「沢山ですな」といはれる。毎年のこと也。 1月26日 よべ6:00より7:00までねしのみ。出て成城大学へゆく途、また阿出川生、村田生と遭ふ。 暉峻、高桑2氏と話せしあと、史学研究法の最終すませ、関西旅行いへば10人以上ありさうと。 そこへ坂根千鶴子生、手塚日出子にる舞芸座生つれ来り、鈴木健司と野口駿雄とまちがへたりせしあと野口生にまかし、帰りて電話ありしといふ早川敏一に電話すれば、入学につきたのむと也。 そのうちゆくといひ、西川、室に電話せしにいづれも不在。(丸夫人より春日の室ありとききし)。 坂根生にsandwich買ひにゆかし、浅賀生より『本草綱目』のこときかれ、(この間、鞄とりかへし波形氏に西川への紹介状かきし)、短2Aの漢文打ち切りといひ、 帰りて睡眠不足につきふらふらとなり、出るところへ福島恵美子生「国文専攻と届け出でしも文化史専攻にかはりたし」と。 前田教務課長にききにゆき、「差し支へなし」ときき、(大藤氏「地理の講師に心当りあり」と)、ともに出て下北沢にて汁粉くはせ、思ひつきて矢野昌彦に電話すればこれも不在。 16:00より17:00までに電話たのむとことづけし、帰りて竹内好に電話すれば「出る」と。松村達雄に電話すれば不在。 19:00になりて西川に電話すれば「まだ帰らず」。坪井に電話して「土曜19:00中村屋2階で待合す」といひ、松村にまた電話すれば「トトヤホテルにて会あり」と。 倉橋文雄氏へハガキかく。けふ城平叔父10,000正平の案内にて来り、渋谷の宿の見分にゆきしと。 1月27日 西川より電話なく、21:30ねむりにつき、2:00目ざめ「半自叙伝1」として小林俊文の出てゆくところまで6枚かく。 ヤルタ会談のことと、小林のかつぎこまるるをつづきとせん。 また眠りて10:00さめ、すぐ出て渋谷へゆき、電話を原田(出席と)、紅松、横山(ともに不在。伝言たのむ)、 杉野(電話のもち主かはりゐし)にかけ、父に自叙伝見せよといへば、歌集の序文にて「わしのやうなものの出すこといらん」と也。 苦笑して出(東横にて防大平田俊春に呼びかけられし)、busにて聖心女子大学。 試験の日割発表見れば2月24日と3月2日。それにてまだ3週間講義あることを知り、教室にてあやまりしあと、またこれにて打切りといふ。 木間瀬教授より話あり、あとにて学生委員来り、史学会に楊貴妃の話することとなる。 出て下通より電話すれば、白鳥家にてはおそろひと。ゆきて南半整地中なるを知る。 令嬢服部夫人、仏女流詩人の宗教詩訳さると。いつにても拝見すといひ、野崎の就職たのみて(先生返事なかりし)出、新宿行のbusにのり「春日」へゆき見る。 コマ劇場の一つ前の通右折れ、右側なりし。秋田のすし(150)食ひ帰宅。 松村、竹内の二家に電話す。けふ山本嘉蔵氏より藤田先生の奥様「中野区鷺宮中山診療所内」と。 9:30就寝。「おぢば」(※天理教発祥の地)へどなりこみにゆきしゆめ見て覚むれば2:30也! 「玄宗と楊貴妃の世界」2枚かく。あと58枚也! 1月28日 その後ねむらず、だるきも成城大学へ登校。漢文教へて打切りといひ、矢野峰人「行春哀歌」うたふ。 眠く、矢野に電話せしもかからず富永次郎氏と遭ひ、八坂安守氏と知合ときく。 これにて伊藤佐喜雄思ひ出し、電話せしに「森良雄来会するや」ときき、「来ず」といひ、来ることとなりしならん。 吉成和也の卒論の要とり、教務に返却(鎌田女史、池田勉氏の見舞300立替へくれしと池辺氏)。 出て駅にゆけば吉成生をり、同車して下北沢。矢野に電話すれば「来る」と。 帰りて昼食し、ひるねす。青木陽生より「三島一教授と中学の卒業生会にて会ひし」と。名刺挿みあり。 相馬大の年賀状。16:00まへ悠紀子帰り来ざるも仕方なく出て新宿。 中村屋にて17:10まで待ち、来りし坪井(※坪井明)と「春日」にゆき、待てば18:00、丸(※丸三郎)、竹内(※竹内好)、矢野(※矢野昌彦)来り、これにて了りとなる。 20:00松村達雄来り紹介す。松村に森のいふごとき面あり。困りて21:00となり、出て新宿駅にて矢野、坪井と別れ、 中野にて丸下車せしあと、吉祥寺の昨日開店との焼鳥屋にてまた竹内におごられて23:00帰宅。入浴。 (新宿「春日」の近くに古本屋あり、坪井を誘ひて入り見しに長野敏一が平瀬己之吉に贈りし『支那の地方財政(10)』と坪井の『大和文学巡礼』とありし)。 1月29日(日) 山本嘉蔵氏へ礼。悠紀子、午后柏井尚子と高沢の叔母の見舞にゆく。 われ10枚として午寝。関口八太郎君への寄書に封をし、『果樹園』社へ原稿と同人費と封をす。 1月30日 2:30に原稿29枚として眠り、8:00起きて成城大学。中国文学史の最終やる。 今井氏、夫人の病気重しときき、藤井生、坪井生に見舞命じてのち、鎌田女史にきけば「ノイローゼにて自殺のおそれあり」と。 (けさ同車せしは戸田事務員にて「退職せし」と)。下北沢で下車。ラーメン食ひ干葡萄買ひて帰宅。 昼寝せんとせしもできず、19:00坂根生より電話かかり「のちほど伺ふ」とのことに、待てば22:00。 ■(※不詳)マチ子氏を天野愛一に紹介す(山崎豊子に紹介せよと也)との名刺わたし説教してかへす。けふ『果樹園60』来る。 1月31日 9:00より卒論の面接とのことに、7:00まへ起きてゆけば下北沢で大藤氏と同車。 10:00まで今井氏来ず。学生も来ず。3先生補講せしゆゑ捗らず。午前中4人のみすむ。 (われ吉成生の田島生に清写せしめしを難詰す)。午食ひsandwich食ひ、平凡社へアジア史のことはりいひ、筑摩の井上氏にあやまれば「来週月曜にてよし」と! 東洋文化史すませ、池田勉教授の父君の弔慰たのむこととし、矢橋氏(※矢橋謙一郎)より地理学の特殊講義できずときき((※岐阜県西濃地方の)大理石会社の社長となると)、 大藤氏推薦の小川徹氏のこと栗山部長に了解ささんとせしも会へず。 (7生みな良の採点)。(聖心女子大学の史学club電話「木曜3時15分に来てくれ」と)。松村達雄君やりすごして駅へゆけば池田有宏と同車。西鶴やりしと。 別れて下北沢にて散髪、松崎医院へゆけば浅野dr.の医師団出席の補診のためか満員。やめて帰り来る。 夜、早川敏一君より電話「土曜来訪をまちし。長崎海星高校の中位、水産会社長の息子」と。「来週ゆく」といひ、「願書出さしめよ」といふ。けふはきげんよき也。 石岡の夫の家へ移りゆく挨拶をせず去りし人づま。 2月1日 昨夜よくねて9:00渋谷をへて地下鉄にて本郷3丁目。古本屋2軒見てのち研究室へ定刻ゆけば、講師三上氏すでにあり。 神田、田川2氏も来り、三上氏よめず。来年度も水曜ときまり、田川氏より「藤田先生の奥様面会せぬ方よろし」ときき、rice-curry食ひてのち、 井上にて『朝鮮の服装(250)』、琳琅閣にて『五雑俎(880)』、『荊楚歳時記、開元天宝遺事(500)』と和刻本2種。他に写本『天工開物(5千円)』注文す。 田川氏、蘇東坡集何万円かを買ひし。ともに都電にて東洋文庫。『歳華綺麗』と『唐県志』ともに旨くゆかざりし。 松崎医院によりて帰宅。 白鳥夫人より「お土産わたすつもりなりし」と。佐々木邦彦君より「梓君の個展よく売れTeleviに出し」と。 黒柳直子氏より挨拶。(けさ比企野道子よりreport速達にて来る)。(西川より15:30電話あり「坪井と来てくれ」といひしと)。 2月2日 晴、11:00出て成城大学。栗山部長に会ひ、小川徹氏(法政・都立大)の地理学特講の件いへば「よし」と。 臼井・高桑などの諸氏と閑談、嶋中中央公論社長邸への小森少年(まだ17才と)の暗殺事件(※前日起きた嶋中事件)には批判的なり。 すみて大藤氏に会はんとせしも来ず、池辺君に伝言たのみ、吉成の代作問題となりをるときき、出て渋谷。 聖心女子大へ着きしは15:00まへ(途中rice-curry食ひし)。講師室にて原田、長寿吉、内藤の3老教授会さる。みな80歳前後になり玉ふ。 迎へ来ずいらいらする中15:30となり、Palace roomとやらいふ元宮御殿にゆき木間瀬教授列席のもと「楊貴妃」(※講演)。 16:30ごろすませ都電にて渋谷、帰宅。 城平叔父より「宿は渋谷の宝栄旅館にきめ23日上京し来る」と速達。 正平より土曜午まへの万美子のtelevi出演を電話し来りしと。他人事は心配いらぬ世となりし(依子あす休暇とりて軽井沢と)。 2月3日 家居(昨日、聖心女子大教務課へ休講とどけし)。黒柳直子氏へ祝状! 橋本貫一氏より転居通知。京、1日より流感休暇なり。 『不二』来り、小森少年犯行の原因とといふ「中央公論」所載の深沢七郎「風流夢譚」の批判をのす。 2月4日 9:00出て成城大学。浅沼氏に旅行参加者13人をとどけ、野田宇太郎氏の来ゐるを知る。 琳琅閣の本着けば留め置けと図書館にいひ、12:00山田、野田2氏と井之頭線まで同行。 吉祥寺にて12:40なるゆゑ喫茶して待てば12:00ごろすでに坪井着きをり家にも電話せしと。 つれ帰り、昼食すでにすませしとのことに茶をのませ、疲れゐるを見る。 16:00ともに出て西荻窪にて西川英夫に電話すれば「まだ帰らず」と。 阿佐谷まで送りて別れ、駅前にて『金瓶梅4冊(250)』、『白川集(120)』買ひて帰宅。 (けふ篠原部長に会ひ『寧楽遺文』の請求2重となりしを発見さる。小川氏を地理の講師に呼ぶことと、本棚増してくれとのこと申し出でし)。平塚敬一生より「京大大学院受ける」と。 2月5日(日) 晴。家居。「玄宗と楊貴妃の世界」59枚とす。絵画、彫刻、科学などかかず。依子20:00すぎ[焦]けて帰り来る。 2月6日 登校。中国文学史の試験す。「わが聊斎志異」かくもの多かりし中に横の友のを写すあり。 とがみてのち研究室へ答案もち来させ、大塚、佐藤、齋藤の3Dに来年よりの出席を申し渡す。効ありや否や。 12:30出て(筑摩の井上氏、主婦と生活社の早川氏に電話せし)下北沢でrice-curry。国電にて水道橋。 早川氏にきけば友人の友人の子と。やめよといひていやになり、筑摩にゆき原稿わたし12,000-1,500=10,500貰ひ、19:00池袋の「てっぱ家」でと井上、東2氏に約束して古本市。 『朝鮮人の衣食住(150)』、『民間伝承2(120×2)』、『普通植物図譜(80)』、『吉林全図(150)』買ひて帰宅。 松田亘代(浜田)の移転通知見て、出て「てっぱ家」に着けば坂根欠勤と。やがて東氏来り、井上氏おくれて来る。1,790払ひて出ればtaxi呼止め銀座へつれゆかる。 坂口安吾未亡人のやる「Krakra」といふにて23:00。向ひの「桑の実」にて0時すぎ、井上氏とtaxiにて帰宅。1:00なり(860)。 2月7日 01:30家を出て成城大学。12:00より東洋文化史の試験。丸重俊「時間まちがへし」とおくれて来る。 すみて教授会。小川徹氏(法政大学)の地理講師の件、池辺君の伝言変なりし故、履歴書なかりしも通り、 あと教授資格審査の教授会(栗山、坂本、高田、大藤、相良、田中、山内?、佐野、大山、臼井、百瀬――池田欠)。宮崎、山田2助教授のこと也。 今井氏のこと問題となり、栗山、大藤2氏より説明あり。すみて学科の会。池辺君の篠原氏よりききし芸術専攻の使ひすぎを文化史の剰余よりの件。 篠原氏にききにゆけば帰りしあとと。事務の3女史さそひて餡蜜くひて帰る。 小高根二郎君より「同人費58号まで受取った」と。 2月8日 悠紀子、流感らし。われ午后、立教大学へゆくつもりなりしに、小使reportもち来る。終日家居。 2月9日 登校。宮沢女に皮肉いはる?茶ものまず9:00より試験監督。短大漢文に時間まちがへしと竹内生を研究室に入れてかかせ、午后、経工の監督にゆきてどなる。 すませて大藤氏の案内にて小川徹氏来り、講師たのむ。大正3年生。武蔵高校より東大理学部地理学科出なりと。篠原局長に本のつけもちゆき「これにて」といはる。 琳琅閣の『五雑俎(850)』と『荊楚歳時記(500)』とわがものにし、『天工聞物(5千円)』を学校に買はすこととす。 鎌田氏に800円の立替払ひ、高校1Aの小川氏の女に会ひにゆきしに試験にて帰宅と。受付に託して来る(水曜午前希望を教務に届け出づ)。 松崎医院により薬もらひ、経済に預書出せし国鉄課長に会はさんといはれて帰り来る。 眠くてたまらず。(聖心女子大に明日休講届けんとせしも話中にてかからず)。立教の地図見る。出来てをらず(台湾の地図なきなり)。 2月10日 小高根二郎君に「今後200行と1千円送る」と。白鳥夫人へ「ハイネ服部夫人の」と。 聖心女子大へ電話すれば「教務課で打切り承知」と! 13:00出て下北沢、新宿をへて立教大学。研究室の女史に採点わたし、飯島書店にて芳賀矢一『東海道五十三次(120)』、『北京(50)』、『広州一大同(50)』、そのあと西川英夫に電話すれば不在。 歩きて目白に出、『李太白(150)』買ひ、高田馬場まで歩きて帰宅。 風吹きて寒くなる。依子、きのふは組合にて23:00帰宅。けふもおそし。 2月11日 7:20家を出て8:20成城大学。漢文の監督し、定期券の証明もらひ、中沢生に会ひて副手(※以下ページ破れ欠損。) 2月12日(日) (※ページ破れ欠損。) 2月13日 (※ページ破れ欠損。) 2月14日 (※ページ破れ欠損。) 昭和36年2月15日~昭和36年7月25日 「東京日記10」 24.9cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p5 2月15日 9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目(出口に改札あるやうになりし)。『Gedichte von Nikolaus Lenau(100)(※レーナウ詩集)』買ひて東大。 山本教授に挨拶し、10:45より宮原氏の読むをきく。12:10すみて(和田先生面会されると神田教授の話なり)地下鉄前へゆく途、琳琅閣に『開天遺事』きけばすでに売れゐし。 木内にて『朝鮮の年中行事(200)』また見つけて買ひ、『続今古奇観(90)』といふを買ひ、rice-curry食ひて(80)地下鉄にて新宿。準急にて14:00成城大学。 さっそく池辺君に遭ひて今井氏のこときき、たづねゆきて10万円ほどの使途きく。川田副手よりもききして、かたはら漢文の採点す。 すみて上原助教授より修学旅行の日程の説明受け、考古学の室へゆけば今井氏ばつの悪さうな顔す。 丸重俊に『朝鮮の年中行事』をあすもち来れといひ、出て下北沢をへて渋谷より虎ノ門。 三水会にゆけば浅野氏流感なりしと。「吉井勇」の話ききしあと話長くなり、次は3月22日にわれ「近世暗殺史」をやることとなる。 出てtaxi、佐藤、勝部の2氏につきあはされ新宿をへて渋谷(330)。帰宅。23:00なり。 2月16日 寒し。8:30出て成城大学。西洋美術史(富永教授)の経Ⅰの試験を監督せしあと、白井紘史よりの電話きき「15:00来よ」といひ、 出て高橋通子と猿渡祥子の2生とたんめん食ひにゆき、帰りて経ⅡAの採点すまし報告。ついで図書館にて「暗殺」をしらぶ。 すみて白井紘史と出て駅にて今井氏を囲む諸生を見、busにて三軒茶屋。喫茶後、三茶書房へゆけば今井氏引率下の山田君江、村田、吉成、川本、郷右近?、西沢?、渡辺らの諸生をり! 渋谷へやりすごしわれ『宝雲抄(80)』、『日本星座方言資料(250)』、『愛情の匂いと生命の味(70)』、『の烏孫歳時記(40)』を買ひ、渋谷へ出て喫茶。帰宅すれど仕事せず。 (けふ2A鈴木淳子生と同車し朔太郎の詩よみて泪もよほすことありとききし)。 2月17日 『伊東静雄全集』来る。よみつつ悠紀子と神山町の伊勢すみ江夫人の安産祝にゆく。母、鈴木夫人来をり。すぐ出て井之頭線駒場へ出、下北沢にてラーメン食ひてのち成城大学。 篠原局長他出とのことに中国文学と中国文学史の4年の成績のみ報告し、出れば鈴木睦美と三野美佐子生とに遭ひ、下北沢でしるこ食はせて帰宅。 高橋邦彦の出版記念会を28日(火)中村屋で18:00よりと。出席と答ふ。(帰り『仏陀の生涯(60)』、『The History of the World(130)』、『The Legacy of the Ancient World(120)』を南口で買ふ)。 2月18日 11:00登校。篠原局長に会ひ、今年度文化史の指定寄附割当90万円中、使用72万円?なるをいへば、年度変りても使用認むと也。 これに喜びて14:00まで研究室にをり(金木生の漢文を山高女史に届け、川田副手より「交通費のみもらひ3日出勤なりし」ときく)、 迎へに来ざるゆゑ予餞会に出ざることとし(わが遭ひし2年みな「出ず」といふ)、村田生に恰も遭ひて、これをいひ、下北沢下車(豪徳寺にて齋藤晌『日本的世界観(30!)』買ふ)。 古本屋見てまはり吉祥寺にてまた探し、最後に北沢にて『昭和犯罪史正談(100)』といふを見つけたり。帰りてこれを読み、assasinationについて書けさうとなる。 太田陽子夫人より「4月いつ来るや」と。寿賀子より写真送付し来る。この間見つけし『続今古奇観』といふをよむ。ふしぎなる本なり。 2月19日(日) あさがた高野明子夫人と姉、姪のゆめ見る、ふしぎ!小高根二郎、西島寿賀子へ礼状かく。 (※6字省略)氏より「186番で受けるほか、早大、学習院を受験。28日頃上京、丸弁護士とに一席設ける」と。 羽田明君より「吏文辞典受領。送料はいらず」と。 午后田中龍平来り、「兄と別れる故、家庭教師せわせよ」と。そこへ永山光文より電話「たのみごとあり」と。 来しと龍平をひきあはせ、話きけば「大新塗料とて50万円資本の会社こさへるゆゑ西川英夫に紹介たのむ」と也。 2月20日 悠紀子、京をつれて渋谷へゆく。母風邪なりと。弓子休みとて12:00留守におきて登校。(太田陽子夫人より悠紀子へ「了解を求む」とハガキ。) 丸重俊呼びて(丸家へ電話せしに夫人出て登校と知りし)report呈出を命じ(鎌田、池辺、今井の諸氏と会ふ)、池田勉氏の見舞にゆく。 低血圧にて最高80と。金川春三君はいま伊丹高校長と。帰り久しぶりに松崎医院にゆく。湿疹再発でもなきらしかりし。 中村にて『支那商店と商慣習(120)』。悠紀子かへり「この間、健、(※2字省略)家により土産もらひし」ときき来る。 2月21日 悠紀子けふも渋谷へゆく。われ1人となりて11:00出、12:00成城大学。上原、浅沼2氏と修学旅行の日程きめ、大和にて2日、京にて2日、文化史の自由の日を作る。 そのあと中沢よび副手のはじめとして考古学教室にゐる毛受呼ばしめ、日程につき相談せしむることとす。 そのあと採点ちょっとしてふらふらとなり、「栄華」へゆき雲呑くひ、ついで教務で経済学部の志願者数きけば「昨年の志願者にすでに達しゐる」と也。 15:30より高校連絡会。出来る男生はみなよそへゆく様子明白なり(富永次郎氏より『日本の菓子』もらふ。Salaryもとる)。(丸に電話せしに登校と)。 (昨日岩崎昭弥より学校に電話かかりしと也)。夜、早川君より電話。月火に先方の父兄に会ってくれと。深夜、(※6字省略)氏へ速達かく。 2月22日 5:00すぎ眠り、9:30目をさませば無人。そのまま郵便来るを待ち、3月20日の謝恩会通知のみなるを知る。 中村女史より電話、すぐ来て保険料とりゆく。そのあと戸じめして出てゆき中野よりbusにて立教。手塚教授在室。羽田よりのたよりに「原価にて宜し」とありしを伝ふ。 出て古本屋見てあるき、正林堂といふにて『地名アイヌ語小辞典(180)』、『日本博物学史(80)』買ひ、親子丼くひ、丸に電話すれば「夜来よ」と。 歩きて舞芸座にゆき坂根生に会へば「事なし。てっぱ家はやめた」と也! busにて新井薬師。古本屋を巡礼し『支那南北記(100)』、『和漢薬用植物(100)』買ひ、『大正犯罪史正談(100)』見つけて喜び、中野より丸家にゆきみれば無人。 高円寺にゆき「赤ちゃん」にてhigh-ball2杯(130)。出て電話すれば「丸、半時間して帰る」と。 また古本屋にて『思ひ出(河上肇)(20)』買ひて丸家へゆき(※2字省略)氏の上京の時の相談し、重俊のこと話し「最高裁図書館へ紹介す」とききて出る。 2月23日 悠紀子、渋谷へとゆく。われ12:00出て成城大学。教務前田課長にきけば(速達にて4C山際ミツ子report!を送り来し)「点やってくれ」と。 腹立ち止まざるも出て、思ひつき田中順二郎にゆけば雅子夫人、近くの夫人をあつめをり。この間、藤田夫人と電話で話せしと。 出て大江房子に会へば龍平の話ききて住み込みの家庭教師せわせしもだめなりしと。 経堂まで歩き帰宅。けさ遠足にゆきし京、ひとりにてねてをり。 2月24日 富永次郎氏へ礼状。成城大学謝恩会に「出席」の返事などかき終夜不眠。 京ねごとをいひ、朝計れば微熱。悠紀子と喧嘩して渋谷へゆかずと電話し(寿賀子、千草よる来る由)、浅野建夫dr.に電話せしむ。 『日本語再発見』来る。いやな本なり。 浅野dr.14:00来り、注射打ち薬持参し呉る。 出て聖心女子大。試験答案受取れば「Mother Britt会ひたし」と。2月分3月分のsalaryもらひ益田女史に会へば卒論審査費(あとであければ300円なりし)賜はりし。 出て成城大学へゆき、若葉兄と話しつつ森田、比企野2生に電話せしも共に留守。「28日12:00前に来よ」と伝言す。若葉兄と話して不安となり、梅見にゆくこととす。 11:00出て三鷹。ラーメン食ひ散髪し(160)、浅野dr.にゆき往診費とも230払ひて帰宅。「丸重俊来ざりし」と也。 2月25日 約束の梅見とて6:00起きて見れば雪降りをる!傘もちて7:30出て東京駅。少し早く45分まちて出発。熱海下車。待合せ来ぬ故、伊東へゆき夕食食べずもっぱらしゃべる。 しろじろとやみに梅咲き紅梅のあやなくありしくちをしがりつ。 わがさがかよそに咲く花手折らんととげある木にものぼらんとする。 この木には痛き刺ありひともまた刺さんといましとげをたてをり。 2月26日(日) (5:30起きしかど4:30まで眠れず)仕度して6:30taxiにて小田原。むかし来し城[趾]の梅見る。早咲きにてよからず。道も悪し(よべ以来小宮母君と姪といふに謝し500を姪に置く)。 税金のつくひる夜兼ねし飯を食ひ(beer小瓶半ばのみて疲れなほる)22:00帰宅。 東京はけふまた雨降りしと。里井千寿子より祖母君「西島さんか」と云ひし由。聖心女子大学より卒業式の案内。欠と返事せん。 早川敏一留守に来り、「受験せぬこととなりし。労を謝す」と挨拶しwhisky1瓶おきゆきしと。唯一の吉報なり。松崎dr.よりは電話かかりしと。 2月27日 『果樹園』へ速達。太田、鍛治2生へ4月3(月)4(火)ならと返事!八坂安守氏へ「電話せよ」と。 角川より本年度証票(10,829)。午后、松崎医院へゆく。湿疹再発しをり。夫人に会ひたしといへば病気と。 「のちほど電話す」といひ、子供の本4冊京へと買ふ。(往きに十返肇『文壇風物誌』買ふ。日本浪曼派復活に対する反対をのせをり)。 夜となりて悠紀子、渋谷より帰り、父また悪く、母、大に叱られ寿賀子を帰せしと。 折柄、森dr.3月3日の大高会にさそひに来をり。Pocket-momeyの問題にてせせら笑ひ、帰りしあと(※悠紀子夫人)「7年間に百万円をためる法云々、梅見か雪見か何見か」といふ。我きげんよく黙す。ふしぎ。 子らねむりしのち、ガリガリ縷々と論じ就寝2:30。 2月28日 10:00出て成城大学。採点報告すます。比企野、森田2女生来りまちゐしかば、reportのテーマに合はざるをいひ、不合格とし、丸よりの電話きく。 成城園へ雲呑くひにゆき、13:00より資格審査会(池田教授出席)。山田俊雄、宮崎孝一2教授の教授昇任、満場一致できまる。快し。 大塚生来りしゆゑ、題目に合はざるをいひ、佐藤、齋藤とともに不合格といふ。(丸重俊来りしゆゑ70点与ふ)。 14:00より教授会。短大より文化史に2人来ることとなりし。組合役員に木桧、後藤の2君新選。 疲れて出、駅前にてcoffeeのみ17:30中村屋へゆけば会場に誰もゐず。Fruits食ひてゆき見れば高橋邦彦『愛のcaricature』にと栗山氏来る。 開会待つまに話きけば「学位論文2千枚をかきし」と。「息子の義弟」の入学なら無条件にて許されんと。 宮崎孝一氏(その他、木桧、浅沼などの諸氏をり)の隣に坐り、昇任祝し、Byron、Dickensをともに語らんといふ。 幹事にたのみ「朔太郎と同郷同境」をいひ、出て(草野心平に遭ふ)地下鉄にて西銀座、taxiにてとどろき橋ぎは下車。 訛りし電話の名にて探しまはりしのち、丸夫人に電話して「治作」とわかり、ゆけば(※6字省略)、丸の2友まちくたびれし様子。意外にも「学習院大にコネつきしゆゑ心配無用」と。 飲み食ひして21:00自動車。丸に概ね話して帰宅。学校へ山本恭子の手紙来をり。「東京にある夜学教へよ」と。 古田房子より「飯坂にゆきし」と。坪井勝也より「予餞会盛会なりし」と。野崎正昭生より「Cathoric中学に1.4万円の専任となりし」と。このごろたのまれごと皆ぬけふしぎ也。 3月1日 家居。富永次郎氏よりハガキ。午后『ノンフィクション全集13』来る。悠紀子、友人にゆき、われ留守して憂鬱なり(昭和22,23年の日記よむ)。 夕方、龍平来り、城平叔父忙しくして会へざるをあやまり、おこし1箱おきゆく。依子、銀行をやめると也。 夜、就寝後、悠紀子われを「嘘つき」といひ、まこといはんとすれば「心臓痛し」といひ2:00ごろまでねむらしめず。 3月2日 9:00出て成城大学。英語を相良氏と、社会をひとりで監督す。出がけ(※2字省略)氏より電話「学習院自信なきゆゑ受けさし、明大も受けさす。自らはけふ帰名」と。 大藤氏と話せしあと眠きため帰り来る。(けさ行きがけの井之頭線で千草と遭ひし)。 森dr.に寄りしに帰宅と。(西川英夫に電話して常務昇任の祝いひ、あすの同窓会にてあふこととなる)。 『果樹園』来をり、堀ノ内歴われを「田中少佐(小児マヒ)」とあだ名す。 井階房一、名古屋支社長となりしと。佐々木邦彦「梓個展3~8日、銀座松屋7階であり、8日終日会場にゐる」と。 (下北沢の大地堂へゆけば、釣銭事件忘れをり『性風土記(200)』、『南方文化の研究(200)』買ひ、『支那民俗風景(60)』おもひしにたがはずdoubleなりし)。 (下北沢でまたPhilip Morris(130)買ふ)。夜は広大の小倉教授『最後の記録』をよも了へし。 3月3日 牧(志野)和子、野崎正昭2生へ祝ひのハガキ。服部美千代夫人より「立教の出講知らせよ」と。「きまればしらせる」と返事かく。 11:00筑摩書房の井上氏、校正をもち来る。13p.となりをり。「参考書4~5冊を挙げよ。明日とりに来る」と也。 『果樹園』東博氏へと托し昼食し、採点すませ14:00聖心女子大へもちゆく。田中保隆氏にと1冊ことづけ、出て都電にて信濃町。 時間あまりて聖堂の書籍文物流通会へゆき『真本金瓶梅(680)』、『日本東京所見小説書目(150)』買ひ、『中国菜(2冊160)』といふを買ひして西川に電話すれば「17:00来よ」と。 やむなく歩きて近くまで来れば玉村式索道KKの看板上りをり、3階まで上りゆき受付に聞けば「村田常務(幸三郎)は出張中」と。名刺置き、西川にゆき、今井氏をといへば、これも出張中。 17:30となりてNew Tokyoまで公用車でゆき(※大阪高校同窓会)、Schinzinger先生に挨拶し(残念乍ら(※旧生徒監)佐々木喜市氏にも挨拶す)、矢野、岡本熙、和田浩、福永、倭周蔵、原田運治と近く坐る。 桐山、中西(元労務省次官)、古川(法務政務次官)の講話きき、古藤会長、三浦貢、中村忠夫など東上の会員の話をききしあと飲食。 21:00すみて福永、矢野と西川に茶おごられ、地下鉄にて矢野と新宿。京王にて明大前まで同車して別れる。 けふ桐山、三浦2氏に挨拶す(三浦治、大阪高槻市天王町に在りと)。 帰りて桐山氏のこといへば史、「会ひし時、父を『知らず』といひし」といふ。反対に中西氏われをコツ(※諢名)と識りゐたり。 (大高同窓会名簿買ふ(300)。森dr.訪ぬれば欠勤。自宅に電話すれば風邪と)。 深更「楊貴妃と玄宗の世界」の参考書5冊をあぐ。 3月4日 きのふ暖かりしも今日は普通。9:00まへ出て試験監督に登校。2時間目の短大の英語、3時間目の文芸の社会。 すみて監督の野口生さそひて喫茶。日本古代史を考古学より見ると。別れて電車にのれば若葉弟(けふ若葉兄と羽入田と2人来て11日年中行事の会「追儺」やりてのち1千円にて会食すると。 一先づ出席と答へし)。また誘ひて下北沢でしるこ食ひて帰宅。 佐々木邦彦画伯より梓君の揮毫風景のせし『週刊現代』来り、23日東洋史談話会の案内来をり。 わがのぞみ半ばなれりとただひとりのみを祈るとたより来しゆゑ。 けふ筑摩書房より校正とりに来しと。 3月5日(日) 6:30起き7:45家を出て面接。百瀬、浅沼2氏と組になり12:00をすぎて午前の部すまし(けふより講師室勤務に松崎女来る。前のは悪かりし故よろし)、16:00午后の部すます。 篠原部長に会ひにゆき (※4字省略)の結果聞けば202番にて50万円出せば確実と。丸に電話すれば「その必要なからん」と。愉快でなし。 帰途井之頭線で宮崎孝一氏と同車。上田勤氏の死を知りをり「怒り虫なりし」と。 正平より「資本論よみゐる」と。渋谷へゆきし悠紀子21:00近くまで帰らず。鈴木元夫人、千草と遭ひて話しゐしと。 3月6日 山本恭子より電話あり。夜学駄目といふに10日訪ねてゆくこととす。午后聖心女子大の採点するにわが講義の「moodよかりし」といふが3人ありし。 15:00弓子に留守番たのみて出、聖心女子大へゆけば受付に徳富氏あり。採点わたす。「明日の謝恩会に出るや」と問はれ、「出ず」と答ふ。 歩きて大にゆけば居り、目もて「父にまづ会へ」といふに、会へば機嫌よかりし。昔の執筆の切抜見せらる。文にては情濃やかなり。 母に祝を500の会費にせよといひ、大と出て渋谷。coffeeのみて別る。母の言一々思ひ出せば不愉快なり。 日記よみ(2、3日前よりす)て昭和25年彦根の短大新任まで来る。 (石渡曜子生に電話して「ゆきて好きや」ときけば「宜からず」と)。年中行事の会へも出ざるをいふ。 3月7日 8:00すぎ出て駅より中野行にのり、蚕糸試験場前で下車。丸にゆけば「家へ電話せし」と。 9:15出て中野より地下鉄、まづ最高裁事務次長内藤頼博氏(高遠の旧藩主と)に紹介受け、小出図書館長(※最高裁判所図書館?不詳。)に電話してもらひ、午前中5冊借出す。 花井卓蔵博士の『訟廷論草(7)』の刺客論といふが星亨刺殺の伊庭想太郎を弁護せし也。その他に『湖南事件』を見、午すぎとなり、第一弁護士会へゆけば丸の被告食堂にてbeerとrice-curryと賜ふ。 そのあとまた法務省へつれゆかれ、人事課長西尾善吉郎検事より図書館(※法務省図書館)に紹介受け、別れぎは大高15期とわかる(文乙)。 図書館長松山貞夫氏親切にてcard見しあと司書女史と話し、前田勝太郎いま研修所と知る。 14:30出て(明後日再来といひし)、地下鉄新宿をへて成城。16:30の経済学部の発表みれば(※4字省略)(186番)通りをり。 下北沢駅より丸夫人に電話し、連名の祝電打つといひ、足立生と電車で遭ひ、電話電報に気づき帰宅。 95円にて「セイジョウゴウカクヲシュクス/マル/タナカ」とす。 永山光文より電話かかりし故、西川に話せしことをいふ。次に博光より電話、祝電着いたと名古屋より云ひ来しと也。 ついで20:15名古屋より(※2字省略)夫妻の電話あり「むりしたね」と喜ばる。 川本静江生より「四国を旅行し淡路を望見した」と。沢田博士より『近畿民俗27』。太田次男氏より『平安時代に於ける白居易受容の詩的考察』抜刷。 3月8日 8:40出て成城大学。入試判定会にて120人を成績にてとり、特別寄附50万円、30万円を十数人とり、次に縁故をとる。最低は(※2字省略)講師とかの女にて70点台なりし。 すみてうなぎ食はされ、出て鈴木健司と村田謹一郎とつれ立つを見(卒業式の答辞鈴木正義よむこととなりし!!)、鈴木をともなひて喫茶。 新宿へ出て地下鉄にて松屋。ゴムの犬(350)買ひ、7階の個展見てのち8階の食堂へゆき佐々木夫妻を見つければ梓ねてをり。 ややして同座の丸木位里夫妻紹介され、ソ連・中共にての「原爆の図」展の話きく。ソ連にては延長され、中共は喜ばず北京にてのみやりしと。 別れ告げて出、帰宅。悠紀子をらず。若葉東雄より『文学散歩3』送り来をり。けふ柏岡明に電話せしに「電話はづされをり」と交換手。永山光文より「西川親切なりし」と電話ありしと。 3月9日 9:00出て成城大学。庶務課にゆき3千円(5月末まで)借る。松崎女に会ひしのみ。 図書館で『故事成語辞典』借り、新宿をへて地下鉄にて霞が関に下車すれば声かけしは帝塚山短大の三苫事務長。「文部省へ出張」と。後刻といへばすぐ帰阪と。 法務省図書館へゆき3冊普通書かり、12:30に出て弁護士会下の食堂へゆき湯麺くひをれば「丸先生より電話」と呼び来る。 出れば田中ちがひにて「後刻会はん」とのことなりしも神兵隊事件の書(※三水会講演「暗殺史」の資料)は部外禁とて見せてくれず。 やめて出、喫茶してのち、丸に帰宅をことはる名刺置き、ふと思ひついて地下鉄にて不二歌道会にゆき、鈴木氏(※鈴木正男)に会ひたしといへば不在。 塾監長谷川氏出て『七・五事件公判記録(※大東塾出版部)』貸したまはる。他に『昭和維新の諸事件(30)』といふを買ふ。 再来を約して出、Baedeker『The United States(100)』、吉井勇『恋愛異聞(150)』、『満蒙鬼話(120)』買ひ、寒きゆゑcocoaのみて帰宅。 〒なし。けふ成城より大洋漁業に電話して大塚の寮きき、電話せしに「名古屋の人をらず」と也し。夜、久保靖彦より「くち見つかりし」と電話。 ついで丸重俊より「追儺の原稿とりにゆく」と。「11日出られざるゆゑやめよ。この間来まちゐしに」と返事す。 3月10日 8:00永山光文より電話「西川の世話にて仕事ありさう。丹波道久在京」と。「連絡とりて会はせよ」といふ。 午后、若葉伊奈緒より明日の会に出よと速達。鈴木健司生より「そのうち来る」と。 16:00まへ出て西荻窪より山本恭子に電話すれば「遠足にゆきし」と。「訪問またの日に」と伝言たのみ、永山に電話すれば「外出」と。 若葉に電話し「あすの会出られず」の伝言たのみ、荻窪の古本市にゆき『真山青果全集15(150)』、『施公案(250)』、『支那草木虫魚記(100)』、『日本の古橋(50)』、唐木『森鴎外(80)』買ひ、 永山の電話あるかと急ぎ帰れば、すでにかかり「丹波あす16:00電話して云々」と。 夜、アジアアフリカ作家会議日本協議会の関西支部より速達。 3月11日 16:00永山光文の電話まちゐしにかかり「のちほど丹波と会ひてまた電話す」と。17:30またかかり吉祥寺駅北口にゐると。すぐゆき「春日」といふに案内さる。 きびしき訓練受けゐるらしく21:00小金井の寮へ帰らねばならぬといふ。 鈴木なかなか来ず心配して永山迎へに出、20:00ごろ来しと飯くひて21:00近くなり、丹波を駅まで送り、taxiにのせられて荻窪「八重」といふbarにゆき22:30帰宅。 3人中、鈴木が保守派にて丹波、われ、永山の順なり。丹波『不二』をよみをる。 3月12日(日) (※4字省略)より電話かかりしゆゑ、出て羽織の紐買ひ(170)駅へゆけば中々来ず。11:00家へ電話し北口教へしことたしかめて北口へ出ればをり(これも家へ電話せしと)、つれ帰り昼食す(14:00)。 学習院も学科通りあす面接と。父は学習院のぞむと。『世界の歴史1』与へフランス語辞典を祝にするといひwhisky1瓶もらふ((※2字省略)氏きのふまで滞京と)。史に送りにやらす(わがゐるところにては史ものいはず)。 太田陽子夫人より「下阪を謝す。みなより集めし」と1.3万円、「金は受取れず」との手紙さっそく書く。 月13日 終日家居。伊藤佐喜雄より『春の日』といふ雑誌を青山虎之助氏が出すにつき出よとハガキ。(朝、(※4字省略)より電話かかり「嬢みな落ち親子ともに悲観、成城2次受ける」と)。 3月14日 雨、家居。10:00さむれば京、遠足に出てをり、佐藤春夫先生の名にて速達「『春の日』出版につき18日(土)17:00田村町新雅(※中国飯店)で会をす」と。 鈴木睦美生より岸町へハガキ。竹内好に電話しアジアアフリカ文学者会へ参加すべきや否ききしに「せよ」と。 午后きげん悪きゆき子出てゆきしあと(※5字省略)夫人来り「次嬢、上智をのこしみな入試に失敗」と。「」成城2次に栗山、池田、坂本、高田氏に云はん」といへば喜びて帰る。 この4、5日むかしの日記をよみ、昭和31年まで来る。依子きのふbonus出しとて、けふcake買ひ来る。 3月15日 8:30出て切符買ひしあと、けふの判定会14:00からと気づく。致し方なく経堂下車、矢野昌彦に電話かけ「日曜嬢をみにゆく」といふ。 そのあと久しぶりに小高根太郎君訪ね、いろいろ話す。『金瓶梅詞話』借り、北口の古本屋にゆき『山椒大夫と森鴎外(80)』買ひ、昼食に炒飯たべてのち成城大学。『明史熊廷弼伝』ちょっと見て14:00すぎよりの判定会に出る。 新baseきまり給与規定案見しに「教授を国立並にす」とあり助教授講師は規定なしとて上原、浅沼2君力説し、われら不快。 出て下北沢で下車。切符買ひ足しまた高井戸のあたり散歩して帰宅。 城平叔父より「平鋼治と阿部公二君とpassの予定ゆゑ下宿さがせ」と。齋藤晌教授より「証人申請は4月27日(木)10:00の予定。その前に会合に都合よき日を指定せよ」と。 夕食後、(※5字省略)君より電話「けふ饅頭もって史を訪ねしに国会。あす来る」と。「も一度史のところへゆけ」といひしがきかず。 そのあと早川敏一君より電話「この間留守に伺って失礼」と。ついで中村書店「けふ2時電話せし」と。「25日午に来たまへ」といふ。 けふ悠紀子、税務署へ確定申告にゆき「9千円未納」といはれしと。変な日なり。 3月16日 雨。けさねざめして9:30まで寝てゐしところへ(※2字省略)姉弟来訪。名古屋の酒まんぢう1折賜はる。 けふ学習院へ手続すると。父大喜びと。 12:30すし食はせて悠紀子に送りにやれば矢野昌彦より電話「速達したから見よ」と。 夕方、杉浦夫人より電話「次女上智大に合格した」と。空室きけば「なし」と。 このごろ金瓶梅をよむ。右原尨(※詩人)、沢田四郎作博士へ受領のハガキ。 夜、田中順二郎君より電話「(※2字省略)次嬢同志社落第、天理大へゆくか帝塚山へむり出来ぬか。明日電話してきく」と也。 p6 3月17日 9:30(※5字省略)君より電話かかり来てよきやと。来いといひ、伊東花子夫人より「29~30日東京へ来る。連絡方法知らせよ」とのハガキ見る。 (※3字省略)君と赤飯たべ、齋藤晌氏へ「4月16日の日曜あたり如何」と書き、城平叔父には「20日平鋼治君上京の由ゆゑ連絡させよ」との速達かき、 ともに出て郵便局へよりしあと、鴎外墓に詣り写真とってもらひ(※リンク)、busにて吉祥寺((※3字省略)氏の母校大成高校の前を通る)。 井之頭公園を見しのち喫茶、家へつれ帰り(猩々袴2×15買ふ)、夕食せしめ18:30悠紀子に送り出さす。 中沢生より電話「26日ごろ謝恩会す」とのことに「われには謝恩のおぼえなし」とことはる。 そのあと坂根生と話しゐれば(※2字省略)君より電話「帝塚山の2部に入れ(※しかるのちに)1部にかへよ」といへば「天理にやる」とのことなりし。気の毒にしてかつ不快。 けふ(※3字省略)君にきけば(※2字省略)氏も湿疹と。矢野君の速達見しに嬢「十文字高校にては優等なりし」と。 3月18日 (※2字省略)のことにて少し眠りがたかりし。朝がた成城大学のbase-upでわれ53395になり、上原助教授これを見て多すぎるといひ喧嘩せしゆめを見て覚める! 伊東花子氏へ「着京後電話せよ」とハガキ。田中雅子夫人より電話「成城第2次の願書とりにゆきし」といふに「(※2字省略)次嬢よこせ」といひ、はかばかしく返事せぬに「明夕ゆく」といふ。 アジアアフリカ作家会議より「22日(水)14:00東京会館別館へ来よ」と速達、「行く」と返事す。 15:30出て渋谷より地下鉄にて新橋。電話かけてきき田村町4「新雅」といふへゆく。 佐藤先生(※佐藤春夫)来られるまで話相手なく、来られても話相手なし。檀一雄の提唱にて太宰治賞を定める。 『春の日』は6月頃発刊、外村、中谷、檀、伊藤が編集同人にて青山虎之助氏は前にも2千万円出版に金出せしと。 木山、浅見、今官一、伊馬春部(大を識ると)の諸氏と名刺交換。帰りて入浴。 (佐藤先生筆の趣意書に「好色の徒なれどもエロ作家にあらず」とあり、同感をいひし)。 不二出版社より電話あり、留守といへば「明日またかける」と也しと。 3月19日(日) 雨。影山氏よりの電話「神兵隊事件の公判記録を渋谷へもち来りおく」とのことなり、礼いふ。 ついで矢野昌彦より電話「いつ来るや」と。「13:00ゆく」と答ふ。 悠紀子、依子、京、買物にと出てゆく。平塚敬一生より「京大・都大の大学院受け京大落ちし」と。 12:00雨中を出、下高井戸下車。矢野昌彦を訪ね、饗応され栗山部長へ紹介状かく。ついで西垣氏(※西垣脩)へ電話すれば「2部入試にゆきし」と夫人。 15:00出て上町まで電車。田中順二郎にゆけば雅子と湖東章子。湖東への手紙托し4月3,4日下阪をもしらす。17:30出てbusにて渋谷を経て帰宅。 けふ鈴木といふが留守中来りしと。 3月20日 よべ1:00に眠り、さめれば9:00すぎ。卒業式遅刻承知でゆけば11:00にて了る前なりしらしくみな寒かりしと戻り来る。 この間ゆめ見し上原君、「松村嬢、学割で新婚旅行に来し」と機嫌よく話しかけし。 salaryと手当と出る由にて待つ内、新卒6人来り、研究室への贈物といふをくれ、学科主任として礼いひ、謝恩会不参をいひ、 また新卒を囲むtea-partyと呼びに来し羽入田、若菜2先輩に贈物もたし、ゆけば「先生出ぬ会には他の教師も出られぬとの仰せ」といふに「出る」といひ、写真うつされ、 salary+年度末手当28140-所得税4510-住民税460-大学懇話会100-団体保険料20-組合費50-共済組合費 2496=60,704もらひ、 成城園で炒飯(150)食ひ、吉祥寺にて1万円札くづさんと大川周明『回教概論(300)』、『京城大学史学論叢2(250)』、『論語之研究(200)』、重光『昭和の動乱(350)』買ひて、 アワモリ草(30)1株買ひて帰れば、城平叔父より「フミミタ ゲシユクアツタ ゴアンシンコウ アトフミ」と来をり。 3千円とりて悠紀子にわたしてすむ(矢野に電話して栗山氏に番号56教へ来訪をいひしことをいふ。くはしきことは栗山氏にいはざりしが気がかり也)。 3月21日(春分の日) 山本恭子へ「当分ゆけず」とことはり。福地君へ西川への送本代200送る。きのふ悠紀子、天沼にて「船越章televi必要となり、母、妻をはたらかさすなりし」ときき来る。 渋谷へ悠紀子、京をつれてゆきしあと、『和田先生古稀記念論叢』出来上り3500円に割引するとの通知来し。 矢野昌彦君より電話「栗山部長に会ひ、会議に田中君に一言してもらふ」といはれしと。 散歩かたがた散髪にゆき(200)、太田金次郎『法廷やぶにらみ(100)』買ひ、あとで丸才司検事の名あるを見し。 平田家へ寄り一家にて墓詣りといふに父検事と浅野氏とのこといひて帰る。 悠紀子帰り26日に「伊勢よりは誰も来ず」と。父だいぶ元気と。 3月22日 9:00出てお茶の水よりbusにて東大正門前。時間早く琳琅閣に『五雑俎(880)』と『荊楚歳時記(500)』の代払ふ。 「愛媛大学の藤野氏の本60万とかで高知大学へ入り、今西春秋の本(※父、今西龍博士の蔵書)は800万円と見積られし」と。 『大清三朝事略(100)』買ひ、15分間閉ぢし研究室前で待てば阿南君来り、「本日の講師」と。『大清三朝事略』ゆづり、待てど誰も来ず『和田先生古稀記念論叢』見る。 やがて松村潤氏より電話かかり「けふ来られず。後藤君も遅れる」 とのことにて村山氏(喘息と。榎、山本2氏も経験ありと)と止めんといふところへ神田氏来り、後藤君と5人で12:00までよむ。 すみて出て立教大学。salaryもらひ手塚氏と話し、野崎生就職と話しゐざるを知りし。 中野泰雄『父中野正剛伝(100)』買ひ、地下鉄にて西銀座。東京会館別館のアジアアフリカ作家会議協議会といふに出る。 亀井勝一郎、阿部知二に挨拶(中島健蔵を見る)。石川達三、堀田善衛の話きき、井上、依田ら『骨』同人の推薦で呼ばれしことわかる。 茶菓摂りて出、毎日の桐山氏呼べば未出勤。歩きて日比谷公園をよぎり丸に会ふ。 はじめて「止めよ」といふ。また歩きて宏池会(三水会)。大鵬の柏戸に敗れしを見し(とりなほし後)。 暗殺史30分やり21:00出て浅野氏(※浅野晃)と渋谷まで同車、あひかはらずよそよそし(齋藤氏「小学館よりの漢詩叢書にかけ」と。出廷前の会合もある模様なり)。 太田陽子夫人より4月4日(火)大丸前東入ル「燕京」3階にて11:00~17:00と。 立原健至氏より道造23回忌を26日(日)10:00谷中多法院にてと。 城平叔父より「平鋼治、学校のすぐ近くにて宿みつけし」と。藤田亮策先生奥様より「百ケ日を了へし」と。 合服(10,500)けふ見つけくれ、悠紀子永山光文に遭ひ、家へ電話かけ、西川の紹介にて仕事あり、礼に来んとせし也と。 3月23日 曇。太田夫人へ「4月4日出席」と。立原健次氏へ「当日参れず」と。家居、無為。 3月24日 9:00影山氏より電話「いかがなりしや」とのことに「本にはならず」と答へ、午后ゆくといひしも心ひ直してすぐ出、 宮益坂のぼる中、玄誠堂にて金田一『アイヌラックルの伝説(120)』と上田敏『みをつくし(150)』買ひ、 不二歌道会にゆけば影山、長谷川2氏ともにあり、ややくはしく話し『昭和の動乱』2冊を贈り、 また中村(※中村書店)にて『有職故実(20)』、ついで『故事と成語(100)』買ひ(影山氏に『神兵隊公判速記録』いただく)、 news映画見てのちrice-curryくひ、成城大学へゆき、文芸の第2次志望者384になりしときく!! 鎌田女史と話してのち高田瑞穂氏訪ぬ。よき邸宅をもてり。『みをつくし』贈りて出、祖師谷大蔵駅前まで歩き、busにて吉祥寺(40)。 富士高校の内村氏より電話ありしと。夕食後またかかりて「久保生を人文地理8時間の講師にはいかに」と。本人に電話してきけば「宜し」となりし。 アジアアフリカ作家会議協議会より「寄付はいくらするや」と速達。 3月25日 8:30家を出、9:10成城大学へつき、恰も来し栗山部長に矢野の嬢のことたのむ。増田とやらいふ婦人待つとのことに、ゆきて会へば増田正元の令嫂。 「次嬢の受験につきそふ。のちほど忠氏来る」とのことに、朱子学関係の論文さがしゐれば忠氏お越し。 昭和4(5?)年の正元の葬り(※昭和6年1月)以来32年ぶりなり。娘も肺に陰影あり(長嬢は国文出にて栗山氏にたのみゐる様子)。 別れて英文の監督し、すみて内村氏よりの電話かかりしときき、久保生の家の電話番号さがしとて(渡辺氏に一応報告す)社会の監督におくれ、教務課長にがき顔しゐし。 すみて立教大学史学科に電話して久保生の番号きけば副手女史、わが声を識りをり。久保家に電話すれば妹出て、「兄、学校へゆきし」と。 千歳船橋よりbusに乗り吉祥寺。帰れば(矢野に電話して「384人中なれど部長承知」といふに「class会31日18:00」と)、西川よりclass会の通知ありし。 けふ京、井之頭小学校の卒業式なりし(けふ来年度の時間割もらひしに2時間目よりあとなり。うれし)。 20:40矢野昌彦より電話「書いたこときいて見れば出来てなし云々」。けふ池辺講師『四川』『江南』2冊持ち来る。 3月26日(日) 雨。6:00起き、7:20出て成城大学へ8:20着き、午前と午後と木檜、佐久間2氏と面接78人。立教女学院より2回目の女子が気の毒なりし。 すみてcoffeeのまされ、雪となりし中を猿楽町までbusに乗り母の70祝にゆく。(※リンク写真あり) 伊勢の治子2児をつれ来をり、父も早くより出てをりと。寿一のとりし映画とテープレコーダーにてあそび(我声、老人の声になりをり)、21:00まへ出て吉祥寺よりtaxiにて帰る。 丹波道久の礼状(21日出し)と鈴木健司生の速達(わび状)と来をり(父、亡母の50年祭のこといふ)。 3月27日 昨夜の雪つもりをり。母より電話「大、4人の姉を呼びて饗す。4時来よ」と。弓子、京をつれて14:30悠紀子出てゆく。 けふ〒2回。午後の便にて佐々木邦彦画伯より礼状。福地君より受取「元市(※最初の『果樹園』印刷会社)の自動車2台となり、主人会ひたがりをる」と。 安田章生氏より『白珠』とハガキ「小高根氏を訪ねし」と也。また速達にて「春の日の会を9日松葉屋見学、会費2千円」と。 (久保生より「内村氏たづね話きまった、1時間200円」と。) 19:00すぎ飯炊き20:30依子を迎へ、3人の帰宅23:30。安田、丹波2氏へ返事。けふ『金瓶梅』の校事すみ『玉燭宝典』をよむ。 3月28日 きのふ寿賀子を加へて5人でご馳走となりしは「阿比留」とて一ツ木町のすっぽん料理にて、大の愛人(同年と)ら3人姉妹のやる店と!! けふは夜間の遊覧busにのるとて悠紀子また京をつれて留守番にゆく。 われ〒なければ『半自叙伝3』書く。和田賀代女史より電話「野崎生を養子に世話せんと思ふが如何」と也! 中村書店より電話「30日午ごろ来よ」と返事す。 散歩に出て『昭和史(新版)100』買ひ来る。わがとがめし霧社蕃の叛乱かき直しあれどまだをかし。 帝塚山学院同窓会「総会を2日に」と。池田勉氏より「父、愛太郎氏の満中陰志贈った」と。 月29日 晴。中沢生より電話かかり「あす「武蔵野」にて会す」と。「4月3日創立22周年記念祭」と大東塾より。「無条件降伏3」を速達せしむ。 午后電話、小学館の某氏より中国詩全集の編集会を齋藤、蒲池2氏とで3日(月)にと。旅行といって断る。 午后、池田勉氏より香奠返しに風呂敷。武蔵野税務署より9,090の督促状(28日付)。 鍛治初江君より「class会にて待つ」と。悠紀子「帰れず」と電話あり、弓子の買ひ来しめざしを食ふ。夜、また電話。矢野君より心配して也。 p7 3月30日 8:30出て成城大学。10:10より入試判定会はじまる。縁故多きゆゑ250人とることとなり、90人の判定。 (※4字省略)320点にて34番、(※4字省略)は140点にて301番なる上、結核不合格2人の1人なり。 栗山部長「金はとらん」といひ、後藤君の「スヂ通らぬ」との発言にてやめとなりし (伊東未亡人に電話して成城へ来いといへば、庄野潤三と十合で会ふとのことゆゑ電話を栗山氏にせよといひし)。 380人中、欠29人。40人を上よりとり、寄附200点までと縁故250点まで、補欠も20人こさへし。 すみて矢野夫人に電話し、昨日電話ありしといふ京都新聞東京支局に電話し、筑摩井上君に3度電話せしもだめなりし。 村田、鈴木誘ひに来て吉祥寺をへて保谷の「武蔵野」にゆく。鈴木「田中先生には声ふるはせて叱られし」といひし。(※リンク写真あり) 出て学生7人と今井氏とで吉祥寺「田園」といふ音楽喫茶にゆき、1千円おきて帰宅すれば京都新聞より電話かかりをり。 「湖国についての原稿あす14:30とりに来る。短大にて習ひし」とのことなり。 悠紀子あす建の子らを上野のZooへつれゆくと。入浴。(矢野に電話かければ「栗山部長に会ひ成績良かりしとききし」と)。 3月31日 8:00伊東花子氏より電話「けふこれから田中光子氏に会ふので云々」と。 悠紀子の京をつれて出しあと滋賀新聞へと200×8書き、ごみ穴掘りなどして14:10ごろより表に出て待ちゐれば、 また電話「いま(※時間が)明いた」とのことに「すぐ吉祥寺北口まで来たまへ」といひ、14:20来し滋賀新聞柳野一郎君と写真技師とを迎ふ。 「県立短大にて1年話きき、早稲田の教育へ変りし。筑摩の『世界の歴史』にて成城大学を知りし」と。 「京都新聞にも書け」と。承知して15:00まへ自動車で駅のそばまで送られ、別れて伊東夫人待つまに大阪行往復買ふ。 15:10来し夫人の土産賜らんとするを伴ひてお茶の水下車。「大阪にて福地君に会へばマキのこといふべし」と答へ、 別れて筑摩、井上君に会へば『世界の歴史』送らせしと。また1冊もらひ原稿料のこといへば8千円呉る。 出て『台湾先住民之薬用植物(250)』みつけ、蒲池氏を訪れば「入浴中」と。 山本にゆき学校へと多く小説類を買ひ、われには『台湾番事物産与商務目録(200)』。 蒲池氏に引返せば齋藤晌氏来らる。『世界の歴史』贈り三水会やめんといへば車代ゆゑかまはずと。 「小学館との話合けふにせんか」といはれ「今よりまた会」と申し、busにて農学部前下車。あるきて会場にゆく。 矢野、西川、丸来をり、やがて室、中野、谷口、岡本にてそろひしこととなり、大阪への使者いひつかる。 矢野は栗山部長に5万円するつもりなりしと。3万円にせよといひ、会費1,600を矢野に払ってもらひ写真撮さる。 原田の同僚「面接にていひし先生あり」とに気づき速達せしと。それがまにあはず落ちしですみし。 けふ林富士馬長息千葉に入学ときき電話せしに全家留守なりし。それより「春日」までtaxi。またbeerのみ釣の話すると23:00までつきあはされて帰宅。 『果樹園』来をり、山本の電報おくれて来をり。 4月1日 8:00めざめ9:00出て東京駅10:00まへにつき、「阿蘇」の出るを見しあと「第2阿蘇」といふのがあるに気づき乗ればすいてをり。 浜松下車。『山東みやげ(10)』、『世界の奇習異俗(100)』、『京城(10)』、『寒具抄 :日本名菓撰(40)』買ひ(『浜松市街図(80)』そのまへに買ひ、住吉町の遠きを知りし)、しるこ(50)食ひなどして17:35の名古屋行にのり、18:33豊橋着。やがて来し「霧島」にて下りし山本(※山本治雄)と落合ふ。 今西春秋が礼2万円。他は130づつにてとのことに少なきをいひ、とりあひすとの宣言ききなどして不快きはまりなく、今西の悪口いふ。 4月2日(日) 10:00朝食くひ(2人にて2800を払ひし)11:54にのり13:47名古屋下車。「比叡5号」にのりかへて17:00京都着。 「丸物」にてアラブへの土産とて高価な物買ふにつきあひてのち、普通にて吹田着。土産に日記帖買ひ、夕飯くひてゆく。この日はわれ咎められて不快なれど言葉なし。 4月3日 起きて山本夫妻と話し、夫人の方謡曲熱心ときく。事務所へゆくみち「幽玄」との語を山本よりきき驚く。 元市印刷所に電話すれば「主人けふ都合わるくあすにてはいかが」と女事務員の話。「あすはだめ」といひ川崎に電話すれば不在。 出て(日本レーヨンに電話し小高根二郎君より「昼食に12:00に来よ」とのことなりし)淀屋橋まで歩き、きけば「堀ノ内と福地君と不和」と。「松本一秀の婿優秀」と。 われアジアアフリカ作家会議と「春の日」のこといひ、書かれる友と思ひし。 出て松本にゆき(日本生命)、階下の食堂にて5人のかかあの会員をもよばる。松本の去りしあとちょっと話して、ききし隣の万代千代蔵に会ひにゆけば不在。 名刺を托し、地下鉄にてナンバにゆき、鞄あづけしあと沢田四郎作博士に電話すれば「事故にて臥床」と。 おどろきて千島土地の山本嘉蔵氏に電話すれば「旅行中」と。困りて心斎橋筋を上って阪急別館にゆけば古田房子不在。室きけば「明かず」と。 困りて福地君に電話すれば「来よ」と。片町線までたどりつき、京橋駅の階段下るに寒気立ちし。ゆけば父君に会ひ、大東博士にゆけば夫人迎へて「泊れ」と。 博士の帰らるまで待ちて挨拶し、ナンバまで福地君さそひキツネウドン食ひてのち黒門市場前の汚きHotelに入る。 22:00まで話して笑はし、本与へて別れしあと3:00ごろより眠る(矢野、栗山、林の3氏にハガキ書く)。△(いづもやにてまむし食ひ吉田君に会ひし)。 4月4日 8:00起き9:00出て「五割引食堂」といふにて朝食(80)。(よべの泊り800なりし)。 天牛支店のあくを見て、よべ見しKâma Sûtraの訳(150)買ひ、米沢家へゆけば父母喜び迎へらる。この間帝塚山短大の木村(校務員)来て、わが西下をいひしと。 補聴器買ひて喜ぶ吉野の少年に泪ぐみ「Dega」にゆきて京都の版画ヱハガキの値問へば「しらべおく」と。 出て北上する中、佐渡島金属の梅本思ひ出し!!訪ねて「御門」で喫茶。30年会の話し、取締役となるとの話ききてのち別れ、「燕京」にゆき見れば無人。 川崎に電話して30年会了承せしめ、松田(伊藤)好治郎のaddressきき(西川のため)、 やがて来し鍛治君と郵便局にゆきしあと「燕京」に回りて太田夫人に会ひ1.3万円かへさんとすれば皆の出せし金と。 やがて10人位となりしところにて、またいへば「3先生にて分けよ」と。長沖先生14:00お越し。 そのころまでに武田(男児つれ)、西洞院(2児つれ)、後藤田(男児つれ)、塚本(児つれ)、谷、生田、野崎(男児つれ)、、浅野、橋本(男児つれ)、南隅、三治(男児つれ)の諸夫人と山尾、山中、山荘、相良の諸嬢。 道下夫人よりは電話にて「16:00来る」と。井上斌子よりは「16:00まで決算期にて」と。齋藤はるみよりは「腎臓炎と。」 14:00野崎夫人帰り、16:00道下夫人来しを機に散会。 「御門」にて西洞院夫君と会ひ、戎橋まで出て井上斌子とあひ、茶漬屋にはおくれて来し清水夫人の他は井上、鍛治、山荘、相良、山尾、山中の6嬢。 taxiにて3人去り、地下鉄にて井上、山中2嬢の去りしあと、鍛治嬢と同車にて玉出。 別れて19:15駅に来られし山本嘉蔵氏と沢田四郎作博士訪へば起きておいでにて、『阿波木頭民俗誌』と『沖永良部島民俗誌』と賜ふ。 「10月成城へお出で」と。山本氏は「17日成城へ」と。 大和の民俗は保仙氏、山城は井上氏に話しおかんと。紀州田辺の山本信江に電話かけたまひ、話せどあとにて泉佐野保健所へ5月転勤、2児として1週間前に女児誕生とわかる。 出て20:00ナンバより古田房子に電話すれば不在。「やかましき室はあり」とのことに、たのみて、 「Dega」を思ひ出してゆけば「聞きをらず、値はゆきてしらべよ」と中婆さんのいふに腹立ててどなり、 (福地家にて堀ノ内の手紙を見、妹君8千円にて和島事務所に勤めゐるとききし。 朝電話にて話せし湖東夫人より梅花女子大に次嬢入学の祝を、また電話して湖東にいふ(20:00))、 100円のヱハガキ6組買ひcoffeeのみて出、阪急Hotelにゆけば「母君入院中」と。房子生帰り来るをまちて入浴。 日記かためて書けば1:00(浜谷生また死産と!)。ふしぎなること多かりし。 (帝塚山学園短大にいまは左翼の榊原美文入りしと。西宮君のsalary去年10月より手取り3.9万と!万美子のことは知らず。 元市有泰(※元市印刷社長)、中島悦子の名を夜にいりて思ひ出す)。 わがことを愛するひとの多きゆゑくるしくなりぬわれが心は。 原田運治、井上達三2氏へハガキ。 4月5日 7:00目ざめ食堂へゆけばまだ開かず。中島生の結婚たしかめんと電話しらべしにわからず。 番号きかんと住山生に電話すればかからず。十時生に電話すれば「ちがひます!」と。これにてあきらめ高松生に電話すれば眠さうな声にて田中秀子の婚約をいふ。 朝食くひゐる中に秀子生より電話かかり「玉葱の出来るころ結婚」と。9:00房子生の起きしをまち会計きけば1,050と。 母上入院中にてその係の医師は新谷次郎と。ふしぎなることかな(太郎博士にゆき魚の目とってもらひ帰り来しあとなり)。 元市社長に電話し「そろばん出来る子いかに」といへば「写真送れ」と。伝田生と壽岳博士の媒妁にて話出来上りゐしがこはれしと也。 それより湖東に電話すれば反対せしも「先程の候補者は田中の子といひてのち、東京へ電話す」と。 10:00出てbusにて御堂筋。桜橋といひて車掌に「ちがひますよ」と教へられ、梅田新道で下車。歩きて店あけはじめし高尾書店へゆけば店主喜ぶ。 わが本1,990円に送料100つけて東京に送ることたのみ、学校へも少々買ひし。 大毎へゆけば天野愛一未出勤(長沖氏にきけば坂根よりたのまれし「ぼんち」の作者は渡欧中。権利はみな吉本興業にまかせゐると也)。 産経にゆき早川麗子と和田章子両夫人呼出し、茶のませて早川には出雲生、和田には島田の名刺托し、今沢幸呼ばんとせしも未出勤。 駅への途、阪神電鉄本社へ寄れば大河原倫夫常務取締役となりゐし。新京阪にて四条大宮。 それより電車にて鳴滝(西垣清一郎を思ひ出しつつ)保田家。御陵守の家そっくりなり。着けば伊東夫人をり。 白内障のこといへば「棟方志功の間違ならん」と。伊東夫人一緒に出しゆゑ宇多野療養所前よりbus、白梅町にて夫人下車。 われは千本今出川にて羽田博士(※羽田亨)への供物買ひ(羊羹2本450、保田へは大阪の菓子200)。busにてゆけば博士夫人、令妹とともにお出で。 羽田(※羽田明)は博士になると!!いやになりて引き留むるをきかず(石原、鎌田の「えらいところわからず」といふ故「えらくないもの」といひし)。 京都駅へ出、憤りつつ塔食堂といふにて鰻くひ、吹田の山本へゆく。ここにて学者を5分類す。 1. 博士にならざるを得ず。 羽田 2. 博士にならんとすればなるを得 今西 3. なれるかもしれず 金沢の慶松 4. なれず 5. ならずして博士以上の学力あり 第5種になれとの声きこえ、機嫌なほり安眠。 4月6日 出て駅のこみゐるに11:00の比叡2号にて名古屋。名店街歩く中、ふしぎにも建に会ふ。本庁にて昇任せしと(主任?)。 お茶おごりてのち、また散歩。飯くひて17:00の東海3号に乗りしに坐れず、豊橋で下車。 丸山薫氏に電話して途きき、cheeze2ケ(320)買ひてのち、市電にて競輪場前下車。 タバコヤにtaxi呼んでもらひ土産忘れてゆく(電話してもらへば「忘れてありし」と)。10年ぶりかにて隠者となり「校歌作る」と。 high-ball所望し、古本屋教へられ(宿へ電話すれば佐藤助平博士と同宿ゆゑだめなりし)taxi呼んでもらひて上傳馬町の白文堂、 白井一二とて東洋大学出の古本屋主(※白山詩人同人)、早川孝太郎(※民俗学者)と親友と!東洋大学に工学部出来てうれしと。 『北京事情(100)』、『俗諺集解(150)』、『中国農諺(350)』、『農諺(100)』と珍しき本あれど安くはなし。 金尾の『畿内見物(290)』と『富岡鉄斎(700を650にさせし)』をも買ひ、紹介されし青山旅館といふにゆきて泊る。 4月7日 室の係女中、新参にてきけば「恩師と恋愛、一線を越え親にも勘当受け死にたし」と。大正14年生れと也。 10:32に乗り、酔漢にからまれ、向ひの嬢(静岡へ浜松より出張のダイハツ社員)と仲よくなり、昼食を案内されしのち別れ、古本屋見つけて郷土史物4冊にて340。 また一軒にて『史話と伝説(70)』買ひ、田中屋dept.にゆきしあと高田宣武の名おもひ出せず人事課にて笑はれ、食堂勤務とわかり、ゆけば「清水出張中」と。 主任に「よろしく伝へたまへ」といひ、餡蜜くひしのち、出て沼津行にのり、東京行に沼津にて走りて坐り、帰宅すれば悠紀子「たのしいこともおありでしたらう」とねてをり。 茶漬くひ、子らに土産わたし郵便見る。 成城大学庶務課より「給料(調整給)51,000+暫定手当12/100 6,120+扶養手当(700×2+500×1)1,900=59,020」を4月以降より」と。 井上多喜三郎、藤野一雄2友より「江口」見たと。(※江口三五のことか、意味不詳。) 立教大学より「水曜7~8時限106教室」と。村山高氏より2月の「中国視察報告」。咲耶、治子の2妹より礼状。 齋藤晌博士(34年法学博士と!)このたび文学博士となられ19日(水)17:30学士会館にて祝賀会と。 森田順子生より「お休みを利用してHawaiiにあり」と! 橿原市の右原氏より「冬木氏ペンを折りし」と。万代千代蔵氏より当日おとしたと700円! 本田晴光氏より「家建てた」と。本多慈子生より「卒論のテーマをケマル・アタチュルクときめた。青年も講義きく」と。 棚橋泰氏より源太郎先生腸閉塞にて逝去されしと(立教講師90才をすぎられしならん)。 花井・山中両家より「20日東京会館にて披露宴」と。 (※悠紀子夫人に)「お疲れでせう」と、床のべられる。 4月8日 終日床にをりしも、歯いたければ20:00たづねまはりて8丁〒前の歯科医にゆき手当受く。 矢野昌彦氏よりワイシャツ贈られ仕立に出しあることわかる。 「八木さんに手紙出す」。「八木さんに買ってもらったもの依子には使はせぬ」。 「2人もとなりし!」「片付くまで」。「古本屋やればよろし」その他(※皮肉で)教へらる。 4月9日(日) ゆふべ雨風。万代君に礼状。花井・山中両家披露宴に出席、齋藤博士祝賀会に出席の返事。 矢野君に電話すれば「せかず。外に一席設けてよし」と。本荘健男君よりまた東京へ移転した由。 吉成和也生より礼状。西村美那子生より「8月子供うまれる。春休みに来てくれ」と。 渋谷(※西島大の宅)より電話「家見にゆくゆゑ春の日の会にゆけず」と。 あとからでも来よといひ伝へてくれといひ、14:00出て渋谷をへてゆけば、有楽町にて丁度の時間となりbusまちをり。(※佐藤春夫「春の日の会」) 浅野氏(※浅野晃)に挨拶。芳賀博士(※芳賀檀)にも会釈すればいやな顔す。 林富士馬、長尾良もをり、中谷氏(※中谷孝雄)と芳賀博士と同卓。われ神保の卓へゆけば福田清人、呉茂一、島田謹二、西脇順三郎、吉田精一の卓なりし。 富沢有為男、檀一雄、榊山潤の諸氏に挨拶。★ 69回の春夫先生の御誕辰とて吉原仲之町松葉屋の趣向こらしたるに笑ひ乍ら、beerのみ、余興了り、吉田教授の島田教授にくってかかるところにて出る。 (米沢)藤田章子夫人に電話して、大阪で父母より貰ひし菓子の礼いひ、渋谷に電話すれば、母「大と16:00別れし」と。 雷門まで歩き地下鉄にて渋谷。加藤定雄重役に遭ひ、次嬢渋沢家へ片づき、長嬢大学にのこり外交官と話ありと(coffeeわれおごりし也)。 ヱハガキ買ひて帰宅。悠紀子、永山光文に会ひ、お茶おごられjuiceもらひ、西川の手より100万円の仕事もらへさうときく。 けふ高尾より本来り、『聖心女子大学論叢16』2冊と抜刷と来る。 (★井上靖「卿(※おんみ)の詩はわが師」といひ、山本健吉、杉森久英に紹介す) 4月10日 晴、寒し。8:30出て浅野博士(※浅野建夫)へ健保証もらひにゆく。川畑貴浩博士(わきがの手術に新宿へ来り、5千円づつとりゐしと)死にしと。 小野忍訳『金瓶梅 上(300)』買ひ、帝塚山2回生への礼状かく。聖心女子大より5月17日の聖心会総長Mother Sabine de Valon歓迎会への出欠を問ふと。 小高根二郎氏より「62号まで同人費受取った。(※連載自叙伝)10枚づつ書け」と。 毛受順子生より「負傷して5月まで欠席」と。鈴木正義生より「講習を受けてゐる」と。坂巻藤子生より「何を目的に生きてゆかねばならぬか」と。 悠紀子、京の第一中学入学式へと出てゆく。「おつりのいらぬ世話」をする由。 竹田、羽田2教授へ『端午考』の抜刷。西村美那子、藤野一雄、吉成和也、小高根二郎の諸氏へハガキ。 入学式にと2人出てゆきしあと、ねてゐれば畠山博光君来り、母君あす来ると。 ソーセージと菓子と呉る。つれ出して白水社の『仏和中辞典(700)』祝として与へる。大塚の幾徳寮に入ると。夕方、山口歯科へゆく。恐怖症のけはひあり。 4月11日 晴。変な日にて子らみな出てゆき畠山母子来ると思ひsandwichの用意せし悠紀子、突如(※八木嬢へ)手紙かくといひ、そのあと顔色かはり、 わが「出来るだけ傷つけぬやう」との伝言せしに茶瓶と湯わかし投げつける。 (このまへ紅茶入れくれ14:00となり畠山夫人来らぬとてsandwich3片呉れし)。 正平より電話あり「15:00すぎ来よ」といひしゆゑ、表にて待ちしも来ず、出て高円寺へと国鉄にのる時、doorに指はさまれ、折れしと思ひ西荻窪で駅手に告げれば、 助役、病院へつれゆき賜ひ「何もなし」と外科のdr.にいはれ赤面。 高円寺より正平にゆけば留守。近くで散髪(80)、兵隊の話し、正平のぞけば帰りし形跡ありてまた不在。 丸に電話すれば全家留守。三鷹まで乗り(30!)、山口歯科にゆき4日ほど休むといひ、帰れば悠紀子、わが洋服かくし、あやまりて、八木嬢へ手紙かく。 正平来り待ち「平鋼治とは無関係」といひしと。菓子1箱呉れしと。 けふ、下駄買ひ(140)、古きを包ませてのち、どこやらに置き忘れし。今井俊三郎・三郎両叔父より祖父母の33回忌ならびに7回忌を5月7日に西大谷でと。 (社会思想刊行会の八坂安守氏より「挿画はこちらで考へる」と電話、「8月31日までに450×600を書く」と約束す)。 村山高氏へ礼状。 4月12日 よべ(※悠紀子夫人)3時間ねて起き、子ら出てゆきしあと「史の関西に転任の時ついてゆき、働く。京のみはこちらに残す」と不眠の結論いふ。 われ反対し、8:30出て、(東大前にてcoffeeのみ、『民謡風土記(100)』買ひて満蒙史料の会。 神田氏をのぞく三上教授ら集り、われ機嫌よく語りしあと出て哀れとなり、新宿にてすし食ひしあと)成城大学。 大藤氏より土曜に学科指導すときき『端午考』を今井、池辺と3氏にくばり、山田俊雄氏に山本書店の目録贈りなどしてゐれば、丸重俊現はれ父に電話せよと。 入学式に出て文芸学部250人中男生38人ときく。 帰りて丸に電話すれば「えらいことになったぞ、17:00新宿「春日」へ来よ」と。 矢野に電話して来校とわかり、つかまへて明日18:00より銀座にて栗山氏と会することとなり、松崎嬢に托して出る。 「春日」にゆけば17:00。丸すでにあり、けさ2時間半にわたり(※悠紀子夫人より)話きき「妻の座を下りるな」といひしと。わが話きき了解せしも軽挙するなといふ。 21:30となり払ってもらひ、taxiにて丸宅。煦美子、夫人、重俊と会ひしのち、疲れて帰宅。 眠れず坂巻藤子氏に「旨く答へられず。八木嬢氏にきけ」と手紙かく(悠紀子、丸の話にて熟睡)。 4月13日 黎明まで眠られず。10:00前起きてきけば「自己の感情をいつはらずに書いて出した」由。 丸山薫氏より「17日上京するも会へず」と。羽田明氏より「17日の午后あたり連絡する」と速達。 午ごろ悠紀子の形勢また悪きゆゑ、出んとすれば、軽挙妄動するなとのことに喧嘩。隣室に子どものねてゐるもかまはず叩きし、結局、京の帰り、泣くを見てやむ。 そこへ坪井、神戸、高井の3生来り、われ入浴し、本見せて話などして(カステラ?貰ひし)、つれ出し喫茶してのち駅にて別れ、 銀座裏の料理屋「新太炉」に18:00着き、矢野君と話すところへ栗山氏来り、20:30謝礼(3万)送るを見、次の会へとtaxiに乗る栗山氏を送る。 (女も艶夢見るといふ仲居の話面白く、暉峻博士、惚菓3種を常用すとの話をかしかりし)。あと地下鉄にて渋谷。 帰れば卓買ひあり「最後の願きいてくれ」と「依子、史の縁談すむまで軽挙妄動せぬこと」をいはれし。 4月14日 中沢晴代生より電話「副手の発令なし」と。「17日来よ」といふ。 悠紀子、史の恋愛しゐるをいひ、依子の恋愛しをらぬをいひ、丸家へ傘返しにと出てゆく。 (鍛治)武田富子夫人より「またおこし」と。竹内好より『魯迅友の会会報』3冊。 電話して在宅たしかめ、ゆきて人格陋劣、学の浅きを自告してのちWerner『A Dictionary of Chinese Mythology』貸し与へられ、 傘忘れて夫人にあと追ひかけられて恐縮し、藤井書店にて『故事成語大辞典(450)』、『古烈女伝(80)』、『怪異思想研究(80)』、『支那文学史 水野平次(130)』と買ひ750円払ひて出、 ラーメン食ひgolden bat(このごろ多く出をり)3ケ買って帰宅。 (昨日悠紀子、茶ダンスをも買ひ、下駄箱、紙屑かごをも注文しゐると。うろたへゐるも哀れなり)。 にくしみはきのふとなりてたかぶりし妻のすがたをあはれとぞ見る。 けふ八木嬢へ手紙。返り言まつとなり。悠紀子15:30帰り来り、三鷹の友を訪ね疲れしとて嘔く。 永山光文より電話「三越の猿渡氏に紹介せよ」と。17日登校後といひ、ついで悠紀子の紹介には日曜来ることとなる。 4月15日 悠紀子うつぶせになりをり、きけばよべねざりしと。やむなく子ら出しあと残り、成城大学教務課へ電話して大藤教授の学科指導に立会へざるをいふ。 ついで浅野建夫dr.に電話して午後の往診乞ふ。その間、種々の問答あれどおぼえず。 13:00京かへりしあと浅野dr.来り、ゆっくりと話きいてくれ、弓子も帰り、カステラ出してくる。 Dr.雨中かへりゆくを見送り、鎮静剤のみて悠紀子眠るまいろいろ考へ、夕食依子がせわするを見、 すみしところへ悠紀子来り、母子の問答きけば「石原慎太郎がyachtに招待す」と依子よみ、悠紀子「それに行きなさいよ」との答に勃然として怒り、依子泣く。 (※「女性なら誰でも自分のヨットに招待する」との雑誌文章に対する軽口に激怒し、母娘ともさんざん殴られた由:依子さん談)。 弓子その問答を黙ってききをり、史帰るをまちてみな引上げ、史引上げしあと悠紀子発作2回。 おかげで『成城文芸』への年中行事やめとなる。 しかるに夜半「本文を尽せ」といはれ、闊然また年中行事をひもとく。 4月16日(日) 悠紀子、早起きしをり、きのふの争論の中「学に専心する代り、一年間成城大学つづけること」にては如何にといひ、妥結し、眠くてたまらぬに永山光文来り、夏蜜柑呉る。 われ神経衰弱を申立てて説教され、悠紀子の友の夫に会ひにゆく。14:00誘ひてwhiskyもちてbusにて丸家。 夫人出て「丸、釣にゆきし」と。「そろひて来し」と伝へたまへといひ、北へ歩きて三和荘にゆけば正平龍平兄弟をり、「大江房子の世話にて家庭教師の口できし」と。 coffeeよばれてbus亭まで送られ、南善福寺行のbusに乗る。終点は竹内好の近くなる故、寄りて夫妻に歓待せらる。 出てラーメン食ひ、古本屋見て『年中行事むかしむかし(140)』買ひて帰宅。眠くてたまらず(勿忘草1株買ふ50円)。 けふ鍛治初江、塚本侊子2生より礼状。依子裏千家の会にゆき、弓子よく働く。 4月17日 8:30出て定期券買ひに並び9:00となり、西永福下車。羽田明博士に電話かけ17:00新宿駅出口でと約し、成城大学へ登校。 中国文学史の時間すませ松本善海君に電話し、教務課より来し成績をわたす。内野0なり。 午后の4時限目待つまに相良徳三教授にきけば戦争中北京にて教へ子の旧親王たちに歓待されしと、面白し。 姜生に電話して「あす来よ」といひ(16人が及第にて男生は山田1人)高橋邦太郎氏と出ればすしおごらる。 新宿にて別れ、中央出口にて待ち、松本、羽田とそろひキリンビヤホールにゆき話きけば別に何でもなき様子。わが『端午考』よみて気分だけ出しゐしと。 別れて下北沢。久保靖彦生に電話すれば外出と。「水曜立教で会はん」と伝へしめ帰宅。 悠紀子帰らず2女夕食の仕度しをり。田中俊子姉(※悠紀子夫人実姉)に電話すれば12:00ごろ去りしと。 21:00帰り来り、浅野dr.で夕食よばれしと。浅野夫人にいはすれば「dr.経営に無力」と。日下部産業の古林生より洋酒1箱。 4月18日 9:00出て登校。姜女生まちしも来ず、うろうろして過し、午后また相馬生待ち、おくれ来りしと黒澤明監督の略歴写さしめ、帰りて諸生にreport返却す(丸重俊来り「父ハガキせし」と)。 そのあと文化史専攻会議し(議事録とる)、池辺君にムカムカせしもいはず。 14:00すみて(中沢晴代の無給助手を25日の教授会まで「手伝ひ」とせよと栗山部長)、相馬生を「白樺」といふに案内せしめて喫茶後、別れ、吉祥寺まで帰り松本歯科へゆく。 山尾浩子より手紙来あり。けふ新2Dを検せしに前田正男代議士の令嬢あり。televiの岩下島(※岩下志麻)ありし。 福島妹に聞けば「姉、行方不明」と。三野生、毛受生に電話せしにギブスとれしと(名古屋への電話なり)。 われ中沢母子に電話して無給副手承知と知る。悠紀子16:30三越へwhite-shirts2枚の仕立出来しをとりにゆく。 依子けふ休み。炊事し風呂たく。京の胸ふくらみゐるを見る。入学式の日わがとりし写真3枚現像出来し。 4月19日 よべ3:00に目ざめしあと9:00起きて朝食とり、Mongol史のnote作り松本歯科へゆく。上の虫歯も見つけられし。一度帰りて昼食し、12:30出て下北沢、新宿をへて池袋。 西口きれいな広場になりかけをり。14:00まへ研究室へゆき山田助手、2副手(女)と話せしあと、本見て14:30となり、 5号館にゆけば手塚教授をり、高橋秀助教授と話す中、向ふより来りしは金沢良雄。「荊妻」の意味を問ふ。14:50に106教室にゆき見れば久保靖彦生1人。 この次より『Altan Tobci』と『蒙古源流』(※ともにモンゴル年代記)をよむといひ、富士高校定時制にて人文地理、世界史にて8時間もつときく。 「内村主事によろしく」といひ池袋駅にて別れ、西武dept.に宮崎智慧氏訪へば不在。都電にて神田。主婦と生活社に早川敏一訪へば不在。 大安と内山(※古書店)ひやかして学士会館(※齋藤晌博士号授与祝賀会)。 齋藤博士に祝辞のべ、宮崎幸三、郡司喜一2氏と坐る(郡司博士いま青山学院大学と)。 増原惠吉参議院議員(宇和島中の後輩)、安倍能成(同県人)、太田耕造(アジア大学学長、元文相と)、石田幹之助(藤野、岩本博士と2人にて国学院にて審査せしと)の祝辞のあと、 齋藤氏、故友佐渡タカイチ氏の為に法学博士となりしとの挨拶。 そのあと東洋大学学長佐久間鼎、菅太郎(同郷の代議士)、齋藤忠、大坪保雄(前文部次官)、北岡寿逸(国学院大経済部長)、藤沢親雄、小島威彦と話だんだん下り、小室栄一のゐるに気づき中座。 野溝七生子女史に挨拶し、田中忠雄氏とつれ小便「一切空」といひて出、都電にて渋谷。井之頭線にて帰宅。 依子と同じみちとなり鞄もち呉る。悠紀子「体重11貫600(※43.5kg)となり500匁へりし」と元気なし。永山光文より電話ありしと。 4月20日 よべ相談してmorningをbagに入れて登校。暉峻博士と同車。この間の媚薬の話にてをかし。 福島生来り「心配かけし」と泣く。姜生来り「一か八か」といふ故、さとし教務課につれゆきて試験受けることとせしむ。 短大2Aの漢文すませて浜谷生より「古田房子けふ来宅」との電話に「ゆけず。他の日にせよ」といひ、史学研究法に欠席多きを咎めしに、3年できくつもりの者ありと。 前田正男代議士の嬢「伯父この間よろしく」といひしと。前田隆一社長なり。 学生控室で挨拶せしは矢野光子とて、白水社の仏和辞典を祝として贈り(1千円)、坪井生「受験せしに点なし」と。 答案検して80つけあるを知り教務にゆかしむれば「(※貴方も)来よ」と。 Morningに着換へてゆけば前田課長こわき顔しをり、田島靖子も漏れゐしを訂正し、鈴木生と3人にて「白樺」にゆき喫茶後、坪井と下北沢まで同車(川口講師をり)。 (けさ短大の始まる前に池辺講師来り「学部の指定寄附3分は不当」といふに火曜再考せんといひ、短大と成城主義を強調する故追ひ出せば、のちほど大藤教授来り、話ききしと。のちほど腹立つ)。 渋谷にてbag預け、八木嬢への手紙投函し(けふ来りしは悠紀子の母の座の手紙よみしと今西の執拗なる求愛とをしるす)、地下鉄にて赤坂見附。 taxiにて東京会館(130)。(※花井家・山中家(たづ子氏)結婚披露宴) 帝塚山学院並びに学園長の森礒吉氏をり、話して開会まち、座きまれば主席の左端。隣は丸紅飯田の豊田恭三重役。 前法相、検事長、前検事長の挨拶ありしも、仲人木村法学博士の話にて新郎花井孝医学博士となりしにおどろく。 木村前法相、尾崎一雄の「よしべえ」の梗概を長々とやりし。森氏も話し、丸紅飯田の伊藤専務の話にて「2息の嫁ともに帝塚山」と。 あとにて豊田重役に問ひ、その一人は北沢みち子なりしに気づく(われ結婚披露宴に出しなり)。 20:30新郎新婦の出しあと、練馬区旭ヶ丘(※4字省略)稲田氏と姉のところきき(1階に住むと)、出口で山中父母君に挨拶すれば「父の代りになれ」と。 これにて悒鬱となりて帰宅。土産あければ匙なりし。 けふ畠山夫人、福島よりの帰途立寄り土産に梨とせんべい賜ひ、悠紀子いろいろと話ききしと。のり子君の苦労性を知る。 丸よりのハガキには「何もいふこともなくウイスケを呑みます」と也。 4月21日 山中裕氏より抜刷の受取。12:00昼食して松本歯科に寄り、12:45すませ経堂下車。 小高根太郎を訪ひ『金瓶梅』返却。訳を貸す。夫人不在にて母君帰りたまふ。(※日本レーヨン)重役に二郎君のなるを祝ひ、出て成城大学。 松崎嬢のみゐる講師室にて茶のみしあと、月曜の中国文学史のためprint切りsalaryもらふ。 新baseにて61,020-(所得税3460+共済組合費2340+組合費50+親和会150+団体保険料30+信用販費3500)9530=51,490。 下北沢下車。本屋にて『燕山外史(50)』、『Kama-Sutra(70)(※インド性愛書)』、『百万人の写真術(100)』買って帰宅。 依子また昇給せしとて「LM(※L&Mタバコ銘柄)」買ひ呉る。 4月22日 悠紀子より510もらひ久我山にて下車。丸に電話すれば「ねてゐし。月曜会はん」と。 登校。田中久夫氏に会ひ、中沢晴代に中国文学史のprintたのみ、相良教授より「芸術専攻も副手ほしく指定寄附より毎月3千円位出すは如何に」といはれて賛成。 高田教授より『成城文芸』の送料は予めいへばよし、聴講cardは一枚2円などきく。 中沢print刷ってくれ、藤井と修学旅行の相談をし、中国文学史の時間すみて、前田隆一伯父より「近々会はん」との伝言をきき、田中久夫氏さそひて下北沢。 ラーメンおごりて(80)のち『陸奥宗光伝(70)』、Humboldt『世界史の考察(70)』、『家畜文化史(150)』、『随筆大阪(100)』、『明治犯罪史正談(100)』、『白楽天詩鈔(150)』買ひて金なくなり、 田中氏と別れて帰宅すれば、正平縁側に坐りをり「城平叔父26日上京」と。 中庸の話し、依子をDanceにと誘ひしも、16:00となり帰るまぎは依子帰宅。 500借りて駅まで送り、松本歯科に寄り『古事記、日本書紀の探求(50)』買ひて帰宅。 悠紀子、けふ渋谷(※義父母宅)へ5千円もちゆき喜ばれしと。父元気にて3日西下と。林の叔父叔母5月上京と。 夕食中に速達、齋藤晌氏よりにて27日の出廷の打合せ24、25のいづれか学士会館にてと。19:00千野國丸氏に電話して24日(月)17:00と申す。 4月23日(日) 太田陽子夫人へあらためて礼状。湖東栄治郎君へ催促の手紙。金沢良雄へ「荊妻」の訂正。山本嘉蔵氏へ礼状。 午后『和田博士古稀記念東洋史論叢(3500)』来る。伊藤佐喜雄より4月31日までに詩2篇を『春の日』にと。 13:00出て浅野dr.。途中平田宅に寄れば夫婦をり「和田賀代女史、朝出て夜帰り来る」と。 浅野邸につけばdr.午寝しをり。夫人、わが入信の意をいひしに哄笑す。出て買物する悠紀子まち先に帰宅。 4月24日 成城大学へ9:20到着。丸に電話すれば「すでに出し」と。比企野、森田の2生来りいろいろ甘える。森田はHawaiiへゆきしなり。 2人にて「相模の祭」を合作とすと。「内野生退学する。就職せし」と西沢生。 野田宇太郎氏『文学散歩』くれんとせし。漢文すまし昼食くひ(相良教授と栗山教授に会ひ、池辺兼任でなし、指定寄附の配分は主任会議にて相談せん。 無給副手に輔導費として支払ふは考慮せんと也し)。 午后高橋邦太郎氏来り、賑やかなりし。松崎女の母は清水谷を出て帝塚山学院の幼稚園に勤めゐし。父、学位論文をといひつつ死にしと。 相馬生の中国文学史に出ゐるを見て、あす龍之介「藪の中」よまんといひ、千野國丸氏に電話すれば「けふ16:00より学士会館で」と。 14:00出て水道橋に下車。交叉点で声かけしは元東洋大学の渡辺道夫講師。「他日会はん」といひ、都電にて一ツ橋。 学士会館へゆけばすでに橋本女史を加へ福場、児島2弁護士も在席。20:00までいろいろ聞く。簡単に片づくらしきもわが心配症にて危しと思ふ。 新理事長渋沢恵三氏と雨中神保町まで歩き都電にて渋谷。吉祥寺に着けば雨止む。 台北の頼永承氏より「『台湾風物』に国姓爺進台300年記念に何か書け」と。 4月25日 9:30家を出て松本歯科。憂鬱なり。成城大学へ登校。宮崎幸三氏に電話して午后ゆくといひ、子ら相手とし(中村屋のpãoをもちゆきし)、 12:45相馬生に「羅生門(※黒澤映画)」は龍之介の「羅生門」と「藪の中」をあはせしやうなるをきく。 中沢生を無給副手に推薦紹介のためつれゆき、14:20より教授会。 すみて組合の報告あり、助教授、講師のbase低しと木桧委員より訴へられ高田教授「とても不公平ゆゑしらべよ」と。 これにて不快増し、主任会とて入試のやり方、専攻の増加(われ社会専攻を甲南大学に倣へといひし)など議して18:00となり、年中行事の会もとより出ず。 宮崎氏にまた電話してゆく。夕食はまだと答へ「ラーメン食はせたまへ」といひ、いろいろ聞く。20:30出て渋谷までbus(宮崎夫人に葡萄糖注射してもらひし)帰れば22:00。 入浴、予習できずして眠る。毛受順子より診断書と5月1日登校との手紙。 4月26日 満蒙史料の会なれど、立教大学の予習のためゆかず(はじめての欠席なり)。 坪井明より桜塚高校長に松浦氏のあとをつぎて転任と。筑摩書房より『世界の歴史』の稿料の残り6,227(28,737-18,200先渡-4,310税)。 「秋の湖について」をのせし『バルカノン15』2冊。12:00出て散髪し(170)、juiceのみてのち井之頭線。 下北沢で時間つぶしに大地堂へゆき『文学散歩5(90)』と『文身百姿(400)』と買ひ、池袋にて丁度よき時間となる。5号館の控室へゆき見れば金沢良雄をらず。 salaryもらひ教室へゆきて久保生相手にする中、女生2人来る。きけば英文3年と。次の時間も出るやときけば答へず。『蒙古黄金史』久保貸し与ふ。 16:00すませ久保生誘ひしも大学院新入生歓迎会とて来ず。研究室にゆき山田助手に手塚教授の欠講のことたづねしも知らず。 出てしるこ食ひ、地下鉄にて日比谷に下車。弁護士会に丸訪ひしも帰宅。 歩きて虎ノ門にて『アレルギー(100)』、『インドの神話(150)』買ひてゆけば三水会、高山氏をのぞきそろひをり。 すみて福田恒存、影山正治2氏の講師招聘をいふ。芳賀檀の悪口いひし(※明日の出廷に関り、東洋大学残留組の態度に対するものか?)。 佐藤、勝部、齋藤の3氏と新宿までtaxi、吉祥寺駅より電話かければ悠紀子、傘もちて迎へに出しと。待ちてともに帰宅。 けふ京の留守に阿南氏、入学祝もちて珍しき欠席を見舞ひに来たまひしと。 京都新聞より電話かかり28日か1日に「京都の思ひ出」を、と電話ありしと。 4月27日 7:30起きて朝食。8:30出て渋谷より地下鉄にて日比谷。 時間ある故、第一弁護士会へゆき受付に丸への名刺托し、地裁にゆきて待てば、まづ千野氏来り、ともに法廷へゆき、 10:30まで待てば三野弁護士より代理命ぜられしといふ谷弁護士現はれ、事情わからずと異議申立てしらしきもとり上げられず。 10:45開廷、3法官ならび千野氏宣誓の後、福場弁護士の質問に答ふ。われと齋藤、橋本女史の証言は採択されず。 11:30すみて松本楼にゆき昼食。われ喫茶して次回5月25日は旅行中なる故、児島平弁護士に手記送ることとす。また丸訪ねしに居らず。家へ電話すればおくれて着く筈と。 階下で昼食し、来ぬにあきらめて成城大学。 大藤教授と話し、14:10となりし故、史学研究法にゆく。女class委員、われを「皆面白がりをる表情する故」と。 帰りてヱンマ張はる中、大藤教授再来、われと結びつきをりと今井、池辺2君云ひをり、学生にも悪口いふと。無視せよといふ。 (けふ中沢生を篠原部長に紹介。通勤証明出すゆゑ履歴書出せと。健康保険のこといへば「考へをく」と。) 出て大藤、山田2教授と一緒になりしゆゑ、渡辺、西沢の2生さそひて喫茶。 (内野生、北海道放送に就職。退学願出せしらしと)。帰り松本歯科に寄る。(永福町より宮崎氏に電話、法廷の報告す)。『ノンフィクション全集15』来り。 花井たづ子夫人、熊野より礼状「主人も先生にお目にかかりたい」といふ由、うれし。 4月28日 晴。寒し。山中直隆氏へ「井上斌子たのむ」とハガキ。井上多喜三郎氏へ「戦友の歯科医教へよ」と往復ハガキ。坪井明へ「栄転を祝す」とハガキ。 阿南惟敬氏へ礼状。 10:30出て松本歯科に寄り、駅前でさばずし食ひ、渋谷をへて聖心女子大学。青山、田中などの諸氏に挨拶。海老沢氏来り、きけばdr.となりしらし。 東洋近世史は10人あまり。Ⅱは36人にて、みな笑ふ。本多慈子生より史学clubの講演会たのまれしも日あはず。 出て(けふsalaryもらふ。電車賃700となりし。)、都電にてまた本多生と同車。並木橋で下車。 父母居り「父元気にて散髪せし」と。母、三郎叔父の借金のこといひ泣く。船越章週給1.3万円と。めでたし。 出て古本屋見しも買はず。吉祥寺にて南口の資文堂にて『支那民族誌 上(300)』みつけしのみ。 帰れば京都新聞柳野君より電話かかり(われも12:00電話せしに他出なりし)、「1日2日でよし」と。 丁度滋賀日々新聞の稿料2千円来をり。井上斌子より手紙「勤先にては皆親切」と。けふ山中社長へたのみしあとゆゑふしぎ。 浅野亘子生より礼状。古林秀夫氏より「姪の入学ありがたし」と。東横dept.より送り状。 4月29日(祭) あさ「半自叙伝4」20枚書き了る。古林秀夫氏へ挨拶。 11:30武蔵野郵便局へ速達出しにゆき、帰れど白井紘史まだ来らず。 藤堂卓美夫人より「その節の手土産送った。嬢へ・・・の縁談如何に」と。 若菜東雄より変な手紙来をり、悠紀子「警告状か」といふ。 紘史12:30来り、sandwich食ひ「けふ9:00父着京の予定ゆゑ今まで待った」と。「大伯父松内則三氏とは会ったことなく、近藤妾美(歌人)には父泊る筈」と。 近藤氏に電話せしめしに「未着」と。誘って西荻窪へゆき古本屋にて『印度古聖歌(250)』、『大東亜の音楽(150)』買ひ、紘史にも500与ふ。 ついで荻窪まで歩き千代田謙『歴史学(60)』、『支那典籍史話(60)』、『民俗学(国学院雑誌59-1)(60)』と『楊貴妃とクレオパトラ(60)』と買ひ、 丸に電話してゆくといひ、駅前でjuiceのみてのち別れて都電。 丸家の前で夫人に会えへば「春日」の女、われに同情すといひ、自らは少しも同情せず。 別れてまた蚕糸試験場前に出、busにて吉祥寺に帰る。変な日なりし。 4月30日(日) 西川英夫君より3月31日の記念撮影送り来りしのみ。畠山博光君、電話かけ来しゆゑ「来よ」といひ、12:00来しに昼食さす。 悠紀子、見合さすとて13:30出て15:00まで音沙汰なき故、駅までゆけば会ひ、3人にて東佐見の松田家へゆき、みす子、春恵、まさ子の3姉妹に会ひ、 学習院大4年の息に博光君紹介し、元大蔵官吏の某夫人に紹介受け、whiskyのまされ駅まで博光君送ってのちbusにて帰宅。 依子けふ日直、そのあと正平の世話にてdance-partyと。われ風邪にてのど痛く、I(※今西春秋氏。5/28に後出)のことを妄想す。 5月1日 咽喉痛ければ浅野dr.へ悠紀子に薬とりたのみ、9:00出て成城大学。野田宇太郎、高橋邦太郎2氏ら来る日なり。 中国文学史のprint代50づつ徴収命じぜしに2,000ほど集りし。 けふ連休のためか休む者多し。午后は東洋文化史。これも休みをり。(伊藤佐喜雄に電話かけしに「ちがひます!」)。 藤井生誘ひて喫茶し、旅行の計画を相談す。下北沢大地堂へゆきしも『文学散歩』まだとり来らずと。 疲れて帰り3月30日の謝恩会の写真を浅賀生送り来りしを見る。「東大沖中内科の事務員」と! 悠紀子、浅野dr.にゆけば夫人2息と大阪へゆき、autoなくdr.留守番らしと。 けふ千草来り、この辺りに家さがすと。 5月2日 のど痛し。9:00藤堂夫人よりwhite-shirt(首廻り37にて史に与へん)来る。依子の縁談、もっと小き、もっと悪き相手にと手紙かく。 11:00出て三鷹駅前より成城大学に休講の電話かけ、浅野dr.。のどに薬ぬりたまふ。帰れば井上多喜三郎氏より返事。吉祥寺山下又治郎氏と戦友の歯科医教へらる。 相馬来るかと15:00まで待ち、出て松本歯科。そのあとalbum買ひ、花買ひ、新茶(100g 125円)買ひ来る。 (けふ三鷹にて『日本案内記 近畿篇上(80)』買ふ。)『果樹園63』来る。(京都新聞の原稿ことはる)。 5月3日 大阪へ「つばめ」でゆく父母を送りに悠紀子出しあと8:00すぎ、湖東博士より電話。 「元市氏へは話し親族会議してゐるが、本当に(※依子氏の縁談)希望するや」、「14日上京、17日下阪する」とのことに「われ14日出発、18日電話する」といひ、 依子にきけば「母も反対、ことわってくれ」と。悠紀子の反対は初耳なり。 10:30帰り来しとちょっと話してのち浅野dr.にゆき薬もらひ、湖東の上京いへば「森君にでも知らさん」と。 ついで富士見丘までゆき、伊藤佐喜雄を訪ぬれば「君とこへ行かうと思ってた」と。『春の日』編輯の労ねぎらひ、whisky1瓶おき、busにて吉祥寺。 古本屋にて『北越雪譜(90)』、『露西亜民族の研究(20)』買ひ、昼飯くはんと帰る途、悠紀子依子に会ふ。「相馬生来しゆゑ15:30ごろ再び来れといひし」と。 帰りてねて待てば15:00となり、両人帰り来り、飯くはさずまた喧嘩となり、結局元市氏は(※縁談を断るには義理あり)重すぎると湖東にことわりの手紙代筆さしてわれ眠る。 けふ『不二』来しのみ。 5月4日 湖東君への手紙速達してのち登校。短大の漢文40分やり、すませて大藤氏に天理保仙純剛氏、大阪市大平山教授へ紹介の名刺もらひ、 修学旅行の禅の講演たのむとの手紙かき、羽田君には22日(月)京大考古館の参観たのむハガキかき、 史学研究法も30分位にてすませ「高井、神戸2生に修学旅行補欠の件みなに伝へよ」といふ。 山田君江に電話せしも捉へられざりし也。 けふ宮崎幸三氏に電話すれば「病臥」と。田中順二郎君に電話すれば「雅子2児と帰省、湖東は14日第一こだまにて着京」と。 相馬生さそひて「車」にゆき喫茶。古本屋見しも何もなくて帰宅。 齋藤はるみ生より「8月3~5日上京」と。宮崎智慧氏より『花影』創刊号。22:00ごろ京都新聞柳野氏より電話「ぜひ書け」といふに「京都には恨み数々あり」といふ。 浅賀千里生へ写真の礼状。(けふ横山薫二(※大高同級生)の婿、北杜夫=斎藤茂吉令息なることを知る)。 5月5日(休日) 谷川真佐枝よりこの間の日生の会の写真送り来る。風邪だいぶよくなりねてゐれば13:00訪ひ来しは渡辺俊子、西沢悦子の2生。午食さしてのち太宰治の墓へつれゆく。 このごろ写真の稽古す。吉祥寺へ送りゆき、busにのせてのち帰宅。けふalbumに貼り了る。 5月6日 成城大学へゆく。中国文学すませ(毛受生出席す)、短大へ講演に来し大岡昇平氏に紹介さる。 武井伸子生に電話せしに「秩父へ採集にゆきし」と。修学旅行参加をすすめし。田中久夫氏と経堂へゆきて昼食し、高山寺の小川氏へ紹介の名刺いただく。 別れて((※久夫氏は)小高根氏へゆくと)われは和田先生へと思ひしも、風邪おうつしするやと、やめて経堂を北にゆき、 中山太郎『土俗私考(130)』、『印度民族運動史(150)』買ひ、散歩のつもりにて歩き、八幡山へ出る。 下高井戸まで京王線にのり、下車してまた古本屋見しも何もなく、明大前まで乗って帰宅(松本歯科に寄る)。 原知子より「3月以来、赤ん坊を入院さす」と、写真。本多慈子生より「インカ展」の切符。高松直子より「田中秀子13日住吉大社で牧追と改姓」と。 京都学大の山崎英夫といふより「卒論伊東ゆゑ『果樹園』くれ」と。 入浴。けふ依子は強羅、史は伊豆長岡へ一泊でゆく。 5月7日(日) 9:00朝食し、大掃除日とて4畳半の本棚とりかたづけ畳3枚のみあげる。 依子、史、午后帰宅。夜、宮崎幸三氏より電話、野尻貞雄氏の都合しらし給いひしもおそすぎるとて「火曜にせん」といふ。 5月8日 登校。中国文学史すませれば山田君江生「昼食を成城園で」と誘ふ。 ゆきて11日(木)同邸にて17:00より3年の歓迎会することとなる。 帰りて東洋文化史の仏教しらべ、すみて渡辺、西沢の2生に本貸し、東洋文化史了へて(前田代議士の令嬢に奈良行をいへば、野崎生よりわが講義きけとの伝言ありしといふ)、 高橋邦太郎、野田宇太郎2氏に誘はれ、busにて深谷。 喫茶し、古本屋に案内さる。(『Guide to Bankok(150)』、『Conquests of Tamerlane(※ティムールの征服) (50)』、『The Painted Skin(30)』) 野田氏と三鷹台まで同車。吉祥寺にて19:00とて松本歯科にゆかず。 保仙純武氏より「18日天理参考館にて待つ」。平山敏治郎氏より「21日(日)南禅寺なりとも案内す。13、14両日上京会はん」と。 依子、わが写せしを現像し来る。もなとれゐたり。入浴。 20:30野尻貞雄氏に電話すれば「あす多忙」と。 (けふ角川書店より電話「Cleopatraを- -全集に入れたし」と。承諾す)。 山田岩三郎氏より「詩の話」の抜刷と『詩人の話』所載の看護学雑誌。平田内蔵吉(沖縄で戦死と)とわが家を探しまはりしと見ゆ。 この日ごろたよりよこさぬなれおもひそむかれしごと心いかれる。 5月9日 9:00家を出て松本歯科に寄り成城大学へゆき、高田氏と栗山部長に忠言せしも心配なき様子。 すみて中沢生に漢文のprintたのみ、相馬生を食後さそひ出して茶のみ(父、会ひたしといふと)、本屋見てのち教授会。 仮進級に丸重俊を押し上げ役とし、独文の後藤氏より注意さる。そのあと指定寄附の分配にて110万円となる。 特別図書費3万円といふが出ることとなる。 すみて下北沢下車。大地堂にて『日本案内記中国四国地方(70)』と『文学散歩4(100)』買ひ、餡蜜くひて丸夫妻に電話し「丸重俊今夜よこせ」といふ。 帰りて待つも来ず。八木嬢に(※今西氏とのこと)問責せんとして勇なく、あやしき手紙かきて疲る。 (けふ宮崎幸三氏に電話すれば「一人にて書きてよし」と。平凡社に電話すれば「辞典の原稿いそがず」と)。 深夜、丸重俊より電話「家みつからず」と。「外国語必ずとれ」と応へて了る。 5月10日 8:30家を出て八木嬢と保仙氏に速達し、松本歯科。大分待たされし。お茶の水まで60円となりをり。 それよりbusにて東大。阿南君待ちをり、ともに上の研究室にゆき、神田教授のよむ番なりし。 すみて阿南君を誘ひて昼食。古本屋見て別れ、上野まで都電。松坂屋に「インカ宝物展」見る。金色燦然たるのみ。 それより山手線にのり大塚で下車。永田精機に矢野昌彦君訪ねしも他出、古本屋見てのち立教大学にゆき、松浦高嶺氏在室を見て挨拶。 ついで5号館その他にゆきしも手塚氏に会はず。 教務課に2週連続休講を届け、教室にゆけば久保生。やがて林女生来り(高木女生は欠)、松浦氏よりきけと云はれしらし。 すまして誘ひて喫茶。別れて西武dept.へゆきしも宮崎智慧氏不在。『大和めぐり(130)』買ひ国鉄にて目黒、学院職員会へゆく。 話相手は百瀬、佐野2老教授。早く出て上原氏より松村教授令嬢の結婚写真見せらる。 歩きて目黒駅へゆく途中、松崎女その他事務室4人に茶おごって帰宅。井上順子生、道後よりヱハガキ。 5月11日 松本歯科へ9:00ゆけば先患者あり。かぶせすみて「またあと」といふこととなる。 出て成城大学へゆけば時間丁度よかりし。 午の時間、旅行の打合せといひしに4人の女生のみ。ねまきとnote持ち来ることをいふ。 (八木嬢の手紙来をり「神の心」またわからずといふ。15日宿へ来る由。他にGeorge Urda氏より本夕の招待状)。 午后は後藤孝講師にbase-upについての疑点を問ひ訊せといひ、史学研究法の時間に梅原博士の講演の紹介をす。 そのあと大藤教授に指定寄附のこと一応話し、すみて梅原博士に18日(※天理参考館)登館のこといへば「日の寄進デーにて不在。学長にことわれ」とのことなりし。 博士の講演は柳田先生の弟子にて民俗学と考古学の関係、ならびに考古学発掘のあとの捜査の必要のことなりし。 すみて柳田、梅原、今井の3代師弟の乗る自動車送り、Urda邸。武井、郷右近、西沢、渡辺、丸、川本静江、石渡の7生と夕食たまひ、 台中のLevy氏によろしくと『楊貴妃』貸してwhiskyもらひ21:00退出。(Urda氏はチェッコ系にて上智大学を29年出し経済学士ときく)。 聖心女子大より電報にて「明日は休め」と。 羽田より「22日のこと午后見学と話しておったが、陳列館考古学教室あて一書を呈せよ」と。青木大乗氏より画展の案内。太田陽子夫人より16日上京と。 5月12日 雨風の止みをまち10:30家を出、歯みがきtube入り(30)買ひ、鳥打帽探せしも見つからずPomade1瓶(300)買ひて成城大学。 浅沼氏より「付添手当日曜に手渡す」ときく。京都大学陳列館考古学教室と天理参考館長へ参観願を栗山文学部長の名で書きtypeで打ってもらひ、 追試験の報告2名(中国文学)分やり、今井氏にきいて平山氏の実家に電話すれば「明日来ん」と。 明夜また電話するといひ、田中順二郎君に電話すれば「湖東兄上京せず」と。 大に電話せしもかからず、教務課長に休講25日までと念押しされ、出て渋谷にて昼食(100)、地下鉄にて高島屋。Hunting(※鳥打帽)きけば1,000なりし。 青木大乗展にゆけば画伯をられ、弥与子嬢三越へゆきをりと待たされ、帰り来しと話せば坂根生昨日来しと。 来客多く席を立てば四谷の歯科医へゆく途、同行せんとtaxi呼び、三省堂前にて別る。『蒙古源流』の製本たのめば6月4日出来(450)と。 それより古本屋見て『満洲の街村信仰(200)』、『南方民族の宗教(150)』、『南の星(100)』、 神保町の角にて『日本案内記近畿篇 下(180)』見つけてうれしく、水道橋まで歩き『35mmSS(200)』買ひて帰宅。 『Biblia18』来をり、これもふしぎ。聖心女子大より「休講となりしは教授会歓迎会のため」と速達来をりし。武蔵野税務署より「18日までに払へ」と最後的通告来をり。 けふ京、高尾山へ遠足にゆきし。(聖心女子大へ19、26日両日休講をしらせし) 5月13日 よべ12:00に目覚めねむれず。朝めまひせしも6:30起き7:40出て新宿につけば8:45。 水谷生来てをり9:20の出発まで甲斐々々しきを見る。 今井氏来り、鎌田、池辺は午后と。平山城阯へ着き、丘へのぼり、持参の果物その他多く、われ水谷生に感心しつづけ也し。 12:30先に出る。成城大学新聞の編輯といふとともに丘を下り、千葉県人会へゆく男女生と駅でともになる。 出欠とりしに欠は13名。出は男生は(※省略)の11人、女生は(※省略)の24人にて計35人。 けさ新宿でかけ、またコーヒー店(沙麗文)にてかけ、地下鉄(ふろしき買ふ100)にて西銀座。 児島弁護士に会へば、齋藤氏の公判6月22日(木)と。東洋大学の通知など置きて出る。 京都新聞にゆかんとせしも柳野一郎思ひ出さず(名刺入れにありしを!)、また地下鉄にて帰宅。 悠紀子「八木嬢への手紙」かき、わが将来の不幸をいふ。 田中順二郎君より電話ありしといふに、かければ湖東君あす第一こだまにて13:30東京着。すぐ水上にゆくとのことに悠紀子らゆかすといふ。 (電報には「18ヒアヒタシ」と来あり)。他に今井俊三郎、三郎2叔父より礼状。 20:00平山敏治郎教授に電話すれば「19日南禅寺南陽院へ電話す」と。(『古代前期の宗教(20)』、『古代後期の宗教(20)』を帰りがけに買ひし)。 5月14日(日) (※修学旅行) 6:30起き(眠り2時間)、東京駅八重洲口南口といふへゆき、茶のむ。そのあと野崎副手にめぐりあひ集合所教へらる。 郷右近、西沢の2生のおくれぐせあるをしらさる。Plat-formにて2年の岩田生juiceをくれ、小川生チョコレートフィンガー呉れしらし。他に中沢、浅賀の2卒業生、山田信江も来る。 11:00高千穂号(※西鹿児島行の急行)発車、名古屋着。出口に毛受生の母三野生を迎へに来てをり。 このころまでに参加者13名のgroup別わかる。20:20奈良着。busにて博物館前着、日吉館に入りbeerのまさる。夜半までさはがし。 5月15日 法隆寺へと2班に分れ、われ2班にて9:00出発。 法隆寺見、夢殿開扉に会ひ、ついで中宮寺見了りて池の畔にて昼食。法輪寺へつけばcameraのcap落せしに気づき、すぐ引返して池の堤で見つけ、井上夫人に挨拶し、末嬢35才ときく。 出て法起寺をへてbusにて薬師寺。脱帽拝礼の掲示あり不愉快。 門前の八百屋にて佐藤誠の思ひ出話し、唐招提寺にて案内の婆さんと話し講堂を見ず。 電車にて日吉館帰来。野崎その夫人に電話して日程いふ。今夜室生行は18日に変更ときく。 松井姉妹の来訪受け、ことわりて夕食。ゆき子に返事(「なるべく早く会ふ」とききて書く)。 5月16日 朝よりごたごたし、橿原考古館の休日なることわかり、まづ博物館に入れ、小野勝年氏の登館10:00ときき、 10:00すぎ(『大和の民俗(400)』と『奈良の町名(100)』と買ふ)事務所にゆけば小野氏いつ来るや不明と。 飛鳥園より天理参考館に電話かけ、日程変更いへば「来てよし」と。13人つれbusにて近鉄駅前より乗れば博物館前通りし。 11:30天理着。中大路より歩きて「親里館」にゆき4階の参考館にてきき、まづ昼食を3階でせんとす。 梅原博士の出がけに会ひ、日程変更に不快の顔されし! 今西のゐるをちらりと見しあと、5回よりはじめて3階4階を見る。われもはじめての物多かりし。 すみて喫茶せしめ、われうどん食ひ相談すれば「もう帰る」との声あり。 別れて高橋重臣君と会ひ、雨止むをまちhigh-ballのむ。同君6月末か7月初めに2年の予定にて渡米と。 案内されて保仙純武氏を訪へば帰らずと。18日の日程変更をわび、またbusにのれば佐藤虎雄氏をり「山田俊雄教授と令息同級」と! 博物館前にてともに下車。別れて帰館すれば、小野氏より電話ありし。鍛治さん訪ね来しと。 18:30小野氏来て話し、野崎母子鍛治さんと来り「けふ大和文華館にて16:00まで待ちし」ときく。 Tobacco1箱を鍛治さん、菓子1折を野崎夫人よりもらふ。雨中送り出して夕食すまし、文化史専攻の話きけば「他のcourseと別行動とりたくなし。仏も見たし」とのことに橿原考古館やめんといへば西沢、渡辺の2生は「見てよし」と。 藤井と4人にて別行動とることとし、もはやカンベン了れりと思ふ。 夜、眠りがたくて困る。この日、藤井にfilm現像を飛鳥園に頼ましむ。 (保仙氏より電話ありしゆゑ、わびいふ。5分後に帰宅されしと。沢田四郎作博士にも挨拶のハガキかく)。 p8 5月17日 よべ高田氏もおそく眠りがたかりし。朝食すまし買切busにて浄瑠璃寺。若奥さんに堀辰雄のこといひ、京都弁の嬢のこと問へば「40才になりし」と。 そのあと岩船寺。ともに城田生、高宮正生に写真の教乞ふ。 すみて日吉館へ帰り、昼食後たのみて西ノ京への旅行付添を辞退。野崎家へゆき父君の写真とり、女子大へゆき図書館に天野忠訪ひ写真とり、 学長選挙といふに名刺托せしところへ服部英次郎現はれ撮影し、すみて横田俊一氏に会ひ撮影、出れば竹内教授に会ふ。前川佐美雄邸門前まで送られ、夫妻に会ふ。 『日本歌人』出す由、すず子嬢帰省しをりと。出て山田新之輔の前通りbell押せしも応答なし。 日吉館に帰れば皆帰り来る。(『ハイネ詩抄(40)』、『正倉院御物棚別目録(80)』買ふ)。 夕食おそく飛鳥園へゆきみれば現像出来をり皆とれゐる。奈良女子大の2教官(1人は大宮氏義兄)と話し、浅沼、上原氏出てゆきしあと夕食。 郡山の松井dr.よりの電話にて八木嬢「24日最終電車にて帰る予定」をいふ。 飛鳥園にて『正倉院小史(50)』。岩田、中沢2生への礼状投函。 5月18日 よべ8時間ねて気持よく早起きし、飛鳥園に現像代(50)払ひ、日吉館より土産もらひ(奈良漬?)、みなと近鉄奈良駅。西大寺まで京都行にのり、 乗換へれば横田利平氏に声かけらる。わが送別会以来、長沖氏にも会はずと。 橿原神宮前下車。湖東君に電話すれば(9:05)すでに出勤。東京にて悠紀子依子に会ひしと夫人。 京都よりまた電話するといひ、9:15一行と別れ渡辺、西沢、藤井の3生と大和歴史館。岩本氏といふが説明し賜ひ、2女生noteとる。藤井生「卒論のthemaつかみし」と! 資料解説書買ひグラウンドの芝生にゆきて昼食。売りに来し林檎買ひ、藤井生の昼寝するを見る。 13:00すぎ出発。神武陵参拝(われそのまへに神宮にゆき、ついで畝傍山口神社の入口に「庚申」の立石ありしを撮り神社の階段を撮る)。 駅にゆきて連絡わるきゆゑ、八木に出て喫茶。桜井にて下車しFilm巻きかへてもらふ。 藤井生の知人にて大阪外語大の中国語学科生といふに外山軍治教授へと名刺托す。 (岩本氏も桜井の人。歴史館にて保田家へ電話すれば「遊びにお越し」といひしは槌三郎翁か?)。 桜井高校女生と話し秋永教頭転任と知りし。準急(13:38)に乗れば飛鳥めぐりの一行のりをり、本間生席をゆづり呉る。それより同行して橋本館に入る。3病生をり。 文化史1室もらひしへゆきて挨拶し、上原助教授と中村地平の話して12:00となり眠る。 5月19日 室生寺見学。温帯羊歯見にと石段を上りし。すみてbusにて室生口。桜井にて国鉄にのりかへ檪本の極楽寺の方を拝み、宇治着。 平等院を観てのち高橋妹、郷右近と抹茶のむ。それより京阪宇治前よりbusにて醍醐、三宝院の庭を見てのち、大宮氏のautoにて南禅寺南陽院着(本坊に挨拶す)。 平山氏より電話なく、電話帖見しも見つからず。明朝6:00起きて9:00に御所見学とわかる。 5月20日 6:00起床、7:00朝食、7:30出て天王町より市電。裁判所前で下車。御所にゆけば30分待たさる。説明よくてうれしかりし。 小憩後、烏丸丸太町まで歩かせ、堀川丸太町まで市電。二条城を見学して11:30となり、西本願寺前で別れることとせしに、概ね京都駅へゆく。 高田氏と学生4人にて西本願寺へゆき、瀧波生を祖母宅にひきとりし小山生と会ひて昼食。われきつねうどん(30)。 羽田に電話すれば夫人出て人文科学研究所と。研究所にかけ今夕南禅寺へ来さすこととし、寺にいへば突然の見学は許さず。 許しても廊下のみにて時間も10:00~11:00、14:00~15:00と。法主に電話せんとせしもやめて高田氏待ちて相談すれば「止めん」と。 市電にて東山。知積院見学。ついで博物館。国文専攻と別れて16:00まで観、東山三條にてfilmの現像焼付たのみ、南陽院に帰りてのち湯豆腐にゆく。 そこへ羽田来り、ともに食ひてのち藤枝晃が嬢つれ姪の松村生と来りしに会ふ。出て南陽院に帰り、高田氏以下にことわりて出、 平山教授の家へゆき、あす10:00ごろ来訪とききしあと、れんこんやへゆきて900ほど飲みてのち別れて帰院。 5月21日(日) おそく起き、別に飯くひ、他の班の出てゆきしあと10:00前平山敏治郎氏来る。菓子をみやげに賜ひ、 話より案内をといふに、参加せしは川本(静)、渡辺、西沢、石渡の4生のみ。藤井生1万円とり返して市中へと出てゆく。 われ11:00出て東山三條の薬局によれば「写真今夜出来」と。羽田に電話して「今夜また電話する」といひ、 京阪にのらんとして京阪書房へゆき『日本行事精説(200)』、『日本人のからだ(460)』、中島竦『清朝史談・雑爼(350)』にて1,000。 一旦出て駅までゆき忘れ物に気づく(『桜井町史』といま一冊図書館へと送らせし)。引返してとり戻し11:50発の特急にて京橋着。 湖東に電話かからず。沢田博士にはかかりて14:00一心寺にての近畿民俗学会にゆくといふ。 昼食し、玉造にて下車。散髪して寺田町下車。湖東に電話して16:00ゆくといひ市電にて一心寺。 沢田、保仙の2氏をはじめ20人集まりゐる。 『十津川の民俗 上下(700)』買ひ「今井の野祭」の映画見てのち豊岡の映画を見、話ききて16:00となり、沢田博士より『庶民の発見』頂いて辞去。 アベノ橋まで市電、湖東宅に着きしは16:20。 次嬢の世話にてbeerのみ茶漬くひ「商家はよせ」ときき、ことわりしききてのち1[7]:30辞去。 京阪三條より東山三條まで歩きてfilmの殆どすべて写りゐるを見る(690払ひし)。 21:00帰院。渡辺らに写真みせてのち羽田より西陣見学の案内の電話受け、それを高田氏に伝へて入浴。 5月22日 6:00目ざめしもゆっくりして9:00門前に集り、東山三條までゆきて市電。 (藤井生「金貸せ。よべ靴買ひし」と。一万円返せしばかりなるも、よべCavaretへ女生3人つれてゆきし仲間ならん。金なしと断る)。 京大へ9:45着き、東洋史研究室のぞけば考古学へ案内され、大学院学生の説明きく。 われ唐代の俑を写せし。そのあと民俗学の研究室見せられ、羽田と諸生に集合場所示せしのち昼食。羽田、払ひ呉れ、別れ告げてかなし。 古本屋2軒見しあと人文科学研究所分室へゆきしに桑原氏(※桑原武夫)不在。 すぐ出て待ち合はせれば川本(静)風邪とて帰り、藤井生不眠とて帰る。 三野生のおくれて来しをあはせ12人にて大原。 まづ寂光院にゆき茶のみしのみ。ついで門前にてうどん食ひ、京へ狸の人形(100)買ひて待ち、建礼門院陵見て三千院。案内の僧、不快なり。諸生の態度もよからず。 14:39発の京都駅行にのり東山三條より帰館。銀閣へゆかんといふが本間らなりし。 平山氏へ礼状かく。あと1日半となりしも朝起き2日つづくを思ひ不快。保仙純剛氏へ礼状。 5月23日 6:00起き、川本広美生けふ帰るとて桂へ高田氏の班とゆくを送る。 7:40出て平安神宮前より一乗寺修学院行busにのり、修学院離宮に8:30に着き、中にて待つ。 9:00まぎはに来りし会社員もあり。案内の男「…ですね」といふ口ぐせあり不快。すみて相談し、銀閣寺を見、門前にて解散(film入れかふ)。 藤井生と銀閣寺前にて豚カツ食ふ(360)。労をねぎらふと也。そのあと古本屋にて『東亜の衣と食(30)』、井上吉次郎『古代社会史談(30)』と『東亜人文学報1~3(100)』買ひ、 12:10点呼すれば風邪とて宿に帰りし川本静江生のほか、長沢、吉川、三野の3生の姿なし。 9人にて四条大宮より太秦広隆寺、ついで御室妙心寺。そのあと石庭(竜安寺)見て解散。 18:00までに帰館せよといひ、われ独歩して嵐電、市電にて帰り来る。連中はtaxiにて帰りしと。 この夜は最後とてwhiskyとbeer(寺より)のみ放談。同行4人をおどろかす。 5月24日 よべ眠り浅く、6:30近く覚め、藤井班と2班に分れ、蹴上にてbus待てば17:50よりなし。 四条大宮にて西沢生のわが班に入りをるに気づき、8人にて桂。離宮前に着きしは8:30をすぎゐし。 9:00すぎれば吉川生「9:00すぎてますよ」といひにゆく。案内者怒りもせず、親切なる様なりし。 すみて門前よりbusにて苔寺。麦とろろ(130)を食ひしも川本静江、石渡2生と5生と2店に分る! 門前よりbusにて京都駅。浅沼氏らすでにあり、荷も着きゐし。倉敷へゆくを見送ると入場。 13:30となりて別れ告げ、南陽院に帰り朝借りし傘返却。離れより荷物とり蹴上より京阪三條。京阪書房にゆき郵便局問へば包み直し送り呉る。 『漢土故事物語(180)』と『方言大番付(5×50)』買ひ、彙文堂へゆき見る。主人われを忘れし様なり。 『雲崗石窟(140)』、『敦煌壁画服飾資料(300)』、『竜門石窟(170)』、『瓷器(110)』のほか『李太白(100)』ありし。 それより南下して『明治笑府(100)』買ひ、3千円よりなきことに気づく。京阪書房にて預けし鞄とり「用心棒」観んとせしも250と。やめて古本屋2軒見しのちbusにて京阪駅。 鞄みがかせ夕刊よまんとすれば東理博。ともに河原町四条に引返し不二家にて夕食。万年筆贈られ、夕食代1700.また京都駅に引返し、吹田にゆきて(※山本治雄宅?)泊る。 東氏恩賜賞をもらひしと也。 5月25日 11:00宿を出て梅田。荷物預けて茶のみ、大江叔母に電話かければ「29日まで上京」と。 これにて用すみ、なにわ号みつけて乗り、名古屋まで日記よませてのち、下車するを見送り東京着20:15。 帰宅すれば悠紀子をらず、2女眠り、依子起きゐて世話し呉る(のちにて聞けば大江叔母のもとに家事見習にゆくを決心せしと)。 悠紀子10:00ごろ帰宅。大阪へゆき大江叔母、八木嬢、姉と4者対談にのぞみしと。坂根生2度来しと。湖東に会ひしとき、べろんべろんに酔ひゐしと。 講談社より抜刷20部。角川よりHeine14版の印紙1,500の受取。上田阿津子より「家治姓となり泉佐野に住む」と!齋藤博士より「未来を信ずるとともに過去を信じ」と礼状に。 山口広より「治療を中止するな」と。岩井先生古稀記念事業実行委員会より発起人にと。小高根二郎氏より「もっと沢山書きおけ」と。 父母帰り来り、母は父の死後はわが厄介になると云ひし由。大江叔母より「26日夕来よ」と連絡ありしと。「もう気力なし」とのこと也。 5月26日 午前中、床にをり。中村嫗、保険料とりに来る。 角川書店より『現代詩人全集Vol.8』の印税3,164-475=2,689。鈴木(山本)敬子より東京転任(大和町)と。 14:00出て成城大学。(Filmの現像焼付たのみしに「明日18:00出来」と)。3千円の借金返却(利子27!!)。 5月分salaryもらひ、松崎、中沢2女にヱハガキ与へてのち、大藤教授まちて簡単に報告し、 中沢生と風月堂へゆけば山田君江、田島、丸、川本静江の4生出て来り、また中へ入れて茶のます。 そのあとbusにて大江へゆけば艶叔母をり、18:00依子、悠紀子の来るをまち夕食ふるまはる。 高校出の一人息子に母のつく松浦家といふがありと。 20:00出て、けふ電話かけ来し坪井明に電話し「あす16:00中村屋2階で」と約束す。 5月27日 8:00起き9:00出て台北の頼永承・曹永和2氏に抜刷航空便で送る(125)。 成城大学へ登校。田中久夫氏に栂尾へゆかざりしを云ふ。小高根太郎にゆくと出てゆかれしあと中国文学の教室へゆけば20人あまりをり。 3行やりてのち、水谷生呼び平山城阯でのnega与ふ。そのあと相馬生来しゆゑ写真包みしのみにて、ともに出て「すみれ」で昼食。 (けふ定期買ふと2千円悠紀子より借る)。経堂で下車、小高根にゆきみれば田中氏より先となる。 坪井に会ふことをいひ、出て東洋文庫。佐口をり。 『望都県志』15分見しのち田川氏に会ひ、岩井先生古稀記念事業会の発起人承諾書わたし、出て新宿。 古本屋見しあと、中村屋へ15分前にゆき5分前に来し坪井と高野Fruits-Parlour。 喫茶後、向ひのbeer-hallにゆき、気づきて大に電話すれば、母出て青年座の移転祝賀会と。 坪井に「あす家へ電話せよ」といふ。新宿駅にて別れ、現像とりにゆけば385にて金足らず(経堂にて『捜神記(120)』買ひ駒込にてice-cream食べしため也)。 家へ帰りてのち弓子・京にとりにゆかしむ。耳梨を除く三山写りをり。 けふ井上幸子より「坂口姓となりし」と。Non-Fiction全集Vol.16来をり。辻政信氏の行方不明を新聞報じ、われ『インパール』をよみ了る。 (けふ中村屋にて四條治代生に遭ひし。八重樫生5月より出勤と)。 5月28日(日) 河出書房新社より『文芸』再刊と。 よべ1:30より悠紀子と話す。「別居は許さず。それは口実なり」と。 羽田明・東2博士に礼状。夕方までに「無条件降伏5」20枚かき了ふ。 5月29日 登校。坪井明に電話すれば「出し」と。天野忠氏へ写真。沢田博士へ同。 午后、高橋邦太郎氏来り、「京都の仏文学会に風邪のため出ず。松田みす子入院しをらず」と。 栗山部長に旅行の報告す。(午前中は図書館に本返却せし)。 意外にも八木嬢より手紙来り、「はっきりせねばIにゆく」とよめ、不快。 けふ風吹き、むしあつく悒々として帰宅。ゆき子、大江叔母を東京駅に送りしに「心安く来させよ」と依子のことをいひしと。 南禅寺よりの小包やっと着く。夜、頼永承氏に航空便。辻芙美子生へ見舞状。 5月30日 成城大学へ10:00登校。身体検査受く。血圧70~110.体重41.5kg。 八木嬢の手紙よみ直せば「はっきりせねばI(※今西春秋氏)に縁談世話されん」と也。 高田教授「来週火曜に思ひ出の会せん。皆に伝へよ」と。百瀬教授「本学にも国体観念強き人をりし。名を蓮田(※蓮田善明)といふ」といひ、われと親しかりしと教へらる。 大藤教授より指定寄附の使途原案見せらる。書籍費40万円。芸術に融通せしといふ20万円につき、いはれ、相良教授に問へば「しらず」と。 のちほど池辺も来りいふ。そのあと相良上原2氏来室「しらず」といふ。池田勉氏に訊ぬることとなる。 16:30出て栗山部長と同車。下北沢で別れ大地堂にゆき『かっぱの詩(40)』、『日本案内記九州篇(70)』買ひ、新宿「春日」にゆけば休業。女将出て「丸をり」と。 この間来、悠紀子にたのまれしとて「bonusにて別居よせ。今西にゆづれ」と説教す。 (※八木さん父君と今西龍博士はともに岐阜同郷、今西春秋と丸三郎は中学同級。) 21:00前出てtaxiにて丸宅。夫人に「縁談のもつれ」といひ、重俊・煦美子と話し22:00すぎ帰宅。 『果樹園64』来りをり(けふ200×40速達便にて送りし)。筑摩書房井上氏、留守中来て「『西太后に侍して』の原典貸せ」と名刺おきあり。 (けふ松村達雄にきけば「森良雄、自宅開業の挨拶よこせし」と。丸にきくに「知らず」と。帰れば「留守中来りし」と)。 5月31日 立教のため「チンギス汗の父と母」をかく。湖東へ写真送る。 『花影2(※宮崎智慧主宰)』来る。前川氏と別れしや。 13:00出て下北沢。新宿をへて立教大学。海老沢有道教授5月18日付博士号授与(東大にて)とあり。 菅部長も名誉教授となりしと。手塚教授と話してのち、salaryもらひ、田中正義氏の怒れるを見る(キリスト教行事は至上命令といふに対し、良心こそといふ)。 けふ高木女生(のちにて大阪育ちときく)を加へ3人に講義し、茶のむ。 お茶の水に出て筑摩に『Two Years in the Forbidden City(※紫禁城の二年:西太后に侍して原典)』もちゆけば「訳本必要なりし」と中島君。 井上氏と出て神保町でbeerのみ、中島君来りしにきけば堀川高校より京大仏文、羽田に習ひ桑原武夫氏にも習ひしと。 別れてtaxiにて新宿(190)。てっぱ家にて握飯くひ(290)、帰宅。 (東博氏、歌やめ恋愛中と)。 6月1日 『西太后に侍して』を筑摩に渡せといひ、9:00出て成城大学。 指定寄附の使用予定を篠原、栗山2氏に届け書き、篠原氏に会ひて「書籍はよろし」となり、本棚のこといへば要領を得ず。 大に電話して「けふ16:00青年座にゆく」といひ、短大の漢文すませて昼食。ついで鎌田女史、中沢生と話して史学研究法。 川本広美・長沢の2生にalbum見せ、15:30より文化史の打合会。 20万づつ4人にて本買ふこととし、修学旅行のこと話しいままでの購入を承認しあひ、届けかくうち16:30となる。 「20万芸術専攻にゆづりし」はいまだに判明せず、わがいひ出せしと大藤教授。 17:00出て渋谷。大と茶のみ、いへば「建よりききし」と。このごろ悠紀子わが悪口いひゐる故云々、史、気づきゐるにてはなきや云々。 帰りて鼻かぜひどきゆゑColgen青箱のみて眠る。『東洋史研究20-1』来しのみ。 けふ八木嬢・信子姉妹への信を信子へ出す。 6月2日 前川・野崎その2氏へ写真送る。羽田より「今西と毎週会ふ。一廉の人物で天理にゐても困ることは万々なささう」と。並びに昨春のわが禿げ上りたるを示す写真。 『ハイネ恋愛詩集14版』。「春の日」社より港区麻布今井町に移り、三好達治の娘を編集員とせしと。 10:00、note出来上り11:00すぎ昼食し、聖心女子大へゆく。院長秘書すぐ見つけ稿料2,700賜ふ。Salaryももらふ。 専任諸氏は愉快でなき様子なり。学生はきもちよく、了へて猿楽町。空腹ゆゑちらしずしとりしに父よく食ひ、元気なり。 出て渋谷までbus(増谷文雄『仏陀(130)』買ふ)。古本屋あるき『江戸生活百科第1集(130)』、『アジアの心(30)』、『蘭領印度(20)』、『くれなゐ(60)』など買ひて帰宅。 辻芙美子生より父絶望と、哀れなるたより。 6月3日 4大学文化祭とて休み。風邪ゆゑ臥床。故藤田亮策先生記念事業会より発起人にと。 6月4日(日) 11:00出て成城大学。4大学文化祭といふにゆき見しも教員の姿なく後悔。 すぐ出て渋谷、東横食堂にて豚カツとcoffee(200)。それより都電にて駿河台下、三省堂へゆき見れば製本出来をらず。「あす連絡する」と也。 それより古本屋見てまはり(吉祥寺にて『日支仏教交渉史研究(290)』)、『印度と其の国民運動(30)』、『印度民族誌(300)』を明治書房にて、 向ひの文庫屋にて『Indien(150)』、『The island civilizations of Polynesia(150)』。『Rashomon(50)(※羅生門)』を松村にて。 内山へゆき『西太后に侍して』心がけてくれといひ『敦煌(240)』、『明清史(240)』、『中国掛図(160)』買ひ、『北支名物夜話(100)』にて終りとし、都電にて渋谷、喫茶して帰宅。 白井紘史来て、こぶ一箱父の土産とておきゆきしと。 6月5日 立教大学より非常勤講師の辞令。中馬清福、黒柳直子2氏「15日結婚せし」と。 14:00新調の浴衣着て山下歯科へゆく。井上多喜三郎の戦友と。すみて竹内へ本返却にゆく。「今出しところ」と夫人。 けふ白井三郎・紘史父子へ礼状。 6月6日 8:30出て山下歯科へゆき、金曜にまた来よといはる。成城大学へゆき篠原局長に書籍費の請求し、昨年度の貸借なしときき、ついで大阪の高尾へ請求書のかきかへにて速達。 栗山部長より台湾大学へ9ヶ月日本近代史の講義にゆく適任なきやに「なし」と答へ、 午すぎとなり(松崎女、盲腸にて入院と)、学生たちと話すも相馬生来ず。城田生と猿渡生とより写真もらふ。 教授会、主任会、事なく(社会学専攻を作ると)、上原・浅沼2君のすむをまちて高田瑞穂邸。 22:30まで歓待受け(われwhisky、1瓶もちゆく)、2君の気焔きき、祖師谷まで歩きて帰れば0:00近し。 齋藤晌博士より訴訟のことと、白居易に(※小学館漢詩叢書執筆依頼)きまりし模様と。高橋重臣君より「7月3日出発」と。 6月7日 眩暈せしも推して出、高井戸にて手帖開き、満蒙史料の会、来週とわかり引返す!めまひ止まず。 12:00まへまた出て三省堂(電話かかり「昨日製本もちゆきしも家わからざりし」と云ひしと)、係の男をらず隣の係の男呼びて怪しげな抗議し、450払ふ(背文字入れあらず)。 それより都電にて池袋。立教へ着けば14:45にて茶のみすぐ教室。3人そろひをり、すみて誘へば女生不承々々つき来り、茶のみしあと金払はんとす。めまひするゆゑ三鷹までのりて帰宅。 前川佐美雄氏より「処女作らしくなかなかの腕前」とわが撮りし写真をいふ。林俊郎より「川崎市生田に新築」と。春の日社より「2号への執筆7枚を20日までに」と。 6月8日 成城へ10:00ゆく。途中、暉峻博士と同行、睡眠不足らしくをかしく、ともにjuice立ち飲みしてゆく。 後藤狷士氏「ハイネの田中氏とは同じでなきことを知りし」と、これも可笑。 短大生の代返を発見。史学研究法には「殿下の乗合」をprint使ってやる。すみて山田俊雄氏と同車。吉祥寺にて『平家物語の新しい研究と展望(90)』買ひて帰宅。 悠紀子の友、田中夫人来てをり。東博士より「白眉5娘ならば在東京」と。 けふ不二歌道会より電話かかりしと。齋藤晌博士へ「承知した」とハガキ出す。 (野田宇太郎氏「鴎外生誕100年に田中正平のこと50枚でも書け」と)。影山正治氏より電話ありしと。 6月9日 雨。11:00出て山下歯科。「次は来週火曜来よ」と。東横dept.でrice-curry食って聖心女子大へゆけば「本日休み」と。 老講師にも知らずして来し人あり。すぐ出て全線座で黒澤明「七人の侍」「用心棒」見て帰宅。 (けふ不二歌道会に電話せしに、鈴木正男氏も「用件しらず。あす影山主宰に聞きおかん」と)。 6月10日 成城大学へ登校。漢文やる。藤井来り「母、上京しくれし」とLM(※タバコ)2箱呉れしを1箱高田氏にわたす。写真も呉る。 相馬来り「帰郷しゐし。今月父上上京するゆゑ会へ」と。 12:30まで待ち(高尾書店より手紙来る)bonusもらふ。59,310+父母の会2,9510-税11,860=76,960。 田中久夫氏さそひ京王食堂へゆき海老食ふ(600)。そのあとともに古本屋、岩城堂にて『The Making of Today's Worid(150)』買ひ、不二歌道会へゆき影山氏に会ふ。 保田この間上京「白内障なれど云々」といひし。 肥下より『コギト』の欠本と1000円と送り来しと。(※自分も)1000円を3年間つづけるといひ(14烈士建碑基金)出て、青木正児『楚辞(420)』と角川文庫『今昔物語2冊(200)』買ひて帰宅。 野崎その、沢田四郎作2氏より写真の礼。けふ三省堂子安信雄氏、製本のことにてあやまりに来しと。 6月11日(日) 坪井明より理乙(※大阪高校クラス)の写真来る。白井紘史より転居したと。 午后、悠紀子と出て家具店。本棚あつらへしあとbusにて荻窪。 中央線古本市にゆき平岡訳『水滸伝15冊(700)』、『印度の神々(400)』、『日本歳時記2冊(100)』、『宋元明経済史稿(120)』買ひ、またbusにて帰来。 (丸に電話すれば悠紀子より「母や弟に(※夫婦危機について)いはん」と電話ありしを止めしと)。 西原直廉、理財局長にて退任と(史にきけば八幡製鉄に入ると)。 6月12日 9:30成城大学へゆく。高橋邦太郎氏「話あり」と。何かときけば「湖の辺のバリゲの村」とわが詩(※『南の星』の「湖辺」)おぼえておいで也し。 東洋文化史note忘れしゆゑ、紙にかきてすまし、すぐ出て下北沢。 大地堂にゆき『日本案内記 中国四国篇(70)』買ひ直し、『満洲文化史点描(100)』買ひ、『西太后に侍して』見つけてくれよとたのみ、餡蜜たべ、Camel(130)(※煙草)買って帰宅。 成城大学旅行解散会準備委員、高宮・信濃2生より15日17:30渋谷「鳥新」にて解散会をすると。 夜、速達にて集英社より24日17:30一ツ橋学士会館にて漢詩大系の企画編集会すと。 (岩波文庫『李長吉歌詩集 上(120)』出ゐるを見て買ふ)。 6月13日 山下歯科へゆく。35分待たされ痛し。「木曜また来よ」といはる。 成蹊前よりbusにて三鷹。浅野dr.に写真もちゆけばフランス語の本2冊賜ふ。秀才にして性質よきも患者みえざるに愁し。 出て成城大学へゆけば11:30。個人研究の書類作り「清代史の研究」とし『清史(24,000)』と孟森『清史研究(1,800)』ならびにcard4,000枚(4,000)とす。 相馬と般若心経よみしこととし、本間生にfilm貸し与へ、ついでcoffeeのみ『唐詩選 上(80)』、『李長吉 下』と、『唐詩選 中下』と予約す。 そのあと14:00まで松村と森dr.の話す。 すみて主任会。書籍は承認されしも器具は説明もとめられて出来ず笑はれものとなりしか。 大藤氏探せしもわからず(欠勤と鎌田女史の話なりし)、出て吉祥寺にて『支那風俗の話(50)』、『支那語蕃話(50)』買ひ、帰れば大安より「3,000払へ」とのみ。 このごろ不快不安なり。原因は八木嬢の便なき為なり。 6月14日 よべ0:30ねざめしてだるきも9:00出て渋谷をへて地下鉄。本郷3丁目で下車。『英訳猫町(60)』買ひて東大。 須藤氏の名にて研究費出しゆゑ5万円使えへると。つぎは我にて第1冊了るとなる。 田川氏より抜刷2種もらひ、阿南氏きそひて出れば太田常蔵君に会ふ。3人にて昼食し、琳琅閣見て阿南氏と別れ、「大安」へ和田先生の古稀論叢の3,500送る。 そりあと木内へゆき『海南島民俗誌(280)』、『南方民族と宗教文化(250)』、『淡水郡概況(20)』買ひ、『西太后に侍して』たのめば筑摩よりたのまれしと。大藤教授この間来しと。 学校へと『台湾旧慣冠婚葬祭と年中行事(1,200)』ともう1冊たのむ。 busにて池袋、研究室へゆき、ついで手塚氏に会ひ、会沢君に会ひして30分講義。郵便来てゐるといふゆゑ、とりにゆけばLeidenのBrillより書目。 裏通へ出てbusにて中野へ出て帰宅。〒なし。雨となる。 6月15日 よべ3:00まで水滸伝よむ。登校して木内に電話し、本の追加たのむ。 漢文やりて昼食し、史学研究法(満洲実録を中沢副手に刷ってもらひし)やりてのち、『史林』のそろひ13万を大阪高尾へ注文のこと図書館にたのみ、 (若菜生来て石川啄木のslideに野田・坂本2氏の協力せざりしをいふ)、本多・宮崎2女生をさそひて甘き物たべ、下北沢へゆき、 大地堂に寄り「風流夢譚」のりし『中央公論(100)』と『ミクロネシア民俗誌(150)』買ひて神泉下車。 「鳥新」さがしあててゆけば1,830もらひし(会費800)。文化史の参加者は本間生1人。鈴木恵子生よりfilm返却されて安心。 21:00すみて高田教授と国文の子ら5人、それに本間、山内と喫茶(550)。 すみて山内を姉のやるbarに送りゆきて帰宅。けふ松井博士に(※八木嬢氏からの)返事たのむと速達。 台湾の頼永承氏より『台湾風物11-4』その他来をり。海老沢氏の祝ひ24日(土)17:00江知勝にてと。 林叔父「今治織布をやめ東生田に移転した」と。 6月16日 山下歯科へゆく。レントゲン写真にて奥歯の神経をぬくこととなる。 出て渋谷。大急ぎにてラーメン食ひ(50)、聖心女子大。小林氏6、7月分のsalaryたまひ、8月分は20日より月末まで登校しをりと。 2時間すませ(海老沢氏に24日の会に出るといひし)、都電にて並木橋。 大の留守にゆけば上念の娘もらひしといふ井上氏来訪中。省三郎氏はパシフィックリーグの理事やりゐると。名刺わたして「よろしく」との伝言たのむ。 「林叔父叔母けふ挨拶に来し。敏夫君、理博となりし」と。大の「昭和の子供」は評判もよくなく、肉親相姦的にて見せたくなき様子わかり、出て道玄坂。 『Warren Hastings(50)』、鴎外『新一幕物(300)』買ひて三軒茶屋。参謀本部の地図42枚400(double10枚ありし)。 ついで三茶書房にて『風俗史研究指針(100)』、『南方民族運動史(180)』など買ふ。(『忘れられた国-外蒙紀行(110)』を新本で買ひし)。 帰れば税務署より59万円の収入として予定して税払はぬかと来あり。 6月17日 傘持ちて出、漢文教ふ。すみて「荒野の7人」を相馬生と見る筈なりしも来ず。田中久夫氏とともに出て経堂下車。小高根太郎を訪ひ『金瓶梅』とり返す。 出て田中氏より教へられ、梅ヶ丘下車。麥書房といふにゆく。明治大正の文学書を美しく並べをり。 『李太白(200)』ありしも買はず『大陸遠望(170)』、『畿内見物大阪之巻(600)』、『青い夜道(450)』買ひ、『コギト125(130)』見つけし。 小山正孝らと立原道造拾遺を編纂中と(※『詩人の出発(書痴往来社)』)。 帰宅すればやがて田中正平・龍平の兄弟来り、史帰り、依子熱海泊りと。夕食して帰る。 けふ〒なし。田中冬二氏へ『青い夜道』買ったと。肥下へ(※『コギト』揃のため)あと不足3冊とヱハガキ書く。 6月18日(日) よべ睡眠不足(不安にてねられざりし)。 午后ひるねしをれば永山光文来り、やうやく仕事順調と。矢野昌彦に紹介かく(矢野より電話ありしゆゑ、30周年の会のこといひ、近々ゆくといふ)。 その話中、山本嘉蔵氏より電話「あす10:00成城で」となる。 17:00出て川崎市東生田の林正哉叔父にゆけば、叔父また今治。としを夫婦と叔母とにて歓待してくれ21:00となる。新茶200g(200)買って帰宅。 依子よべ江の島に泊りしも帰りをり。 6月19日 9:30成城大学にゆく。八木嬢より手紙来てをり「尼ケ崎の姉(※明子氏)に会ってくれ云々」。 山本嘉蔵氏10:00来訪。「藤田亮策先生未亡人、分裂病にて三鷹の精神病院に入院」と。『大陸遠望』贈呈、chocolateいただき柳田文庫を見てもらひ、送り出して中国文学史。 すみて高橋、猿渡2生と昼食。栗山部長より器具の説明をとのことに今井氏さがしにゆき説明さす。「この間醜態なりし」と叱られ今井氏には「業績つくれ」との説教なりし。 すみて東洋文化史すませ、八木嬢の手紙よく見て「7月10日会ひにゆく」と返答。 そのあと鈴木睦美、淳子、福留泰子、若菜東尾の4生と高橋・野田2氏と喫茶。文学散歩の会のことなりし。 すみて両鈴木、若菜2生とを伴ひ、野田氏を麥書房に案内す。われ『別冊三彩正倉院(170)』買ひ、野田氏2女生も買ふ。 けふは太宰治の忌日なりし。(大阪高尾書店へ『大高寮歌集』くれとハガキ書く)。 6月20日 9:00すぎ出て散髪し(170)、山下歯科へゆき「木曜にまた来よ」とききて、下北沢にて中村屋の餡パン(50)買って成城大学。 2個くひ3個を水谷静子に与へ、ついで渡辺俊子より『畿内見物』の返却を受けて『ミクロネシア民俗誌』与ふ。 春の日社にけふ締切のessay書けずといへば「いつにても宜し」と。 相馬生に『羅生門』のdr.Montgomery評を4p訳してやりしあと、卒業albumの写真とられ、史学研究法のprint切り、14:15より教授会。 指定寄附の費途みな通り、ついで研究室の椅子机につき応酬ありしあと、社会学専攻の新設につき、浅沼・上原・木桧3青年の反対あり。 これに大山教授加はり、栗山部長苦境に立つ。大藤、今井2氏喜ぶ色あり。 来週までもち越しとなり、わが室にて文化史専攻の会。今井氏の請求書預り16:30となり、聖心女子大に電話して遅刻ことわりしあと、急いでゆけば17:30。 すでに宴はじまりをり。兼任講師の我、末席に坐らされ話相手は近江の人なる助野助教授のみ。 すみて田中保隆氏さそへば佐藤氏(上智大教授)に誘はれ、原田淑人先生と4人にてtaxi。 渋谷につきて東横会館の屋上にゆきbeer(550)のみ、そのあと田中氏をさそひて「六兵衛」にゆき、われすし食ひ(780)、またさそはれて,おでんや。そのあと茶のみ(190)てすむ。 太田陽子夫人よりたより。高橋匡四郎のことをほめてかきし吉田東洲氏の『古今評論』(けふ木内より小包来り、『成吉思汗は源義経に非ず(300)』も入りをりし)。 6月21日 集英社鈴木氏より速達「24日の会の出欠いかに」と。Note作り昼食してのち出、丁度よき時間となり白鳥先生に途で会ふ。 そのあと手塚教授に会ひ、山田助手に24日の祝賀会出席の返事わたし、茶のみてのち講義。 すみて裏の古本屋にて『人生処方詩集(150)』、『大阪物語(50)』買ひ、地下鉄にて議事堂前下車。宏池会(※三水会)へゆけば齋藤博士見え「証人遠慮しようかと思った云々」。 同博士の話すみて東大の移転、教育に主力を置くわれ皇居京都へといふ。 21:30すみて浅野氏と地下鉄にて渋谷。疲れをり『Non-Fiction全集17』来をり。 けふ太田夫人の礼状。木内へ300送る(送料25)。 6月22日 よべ眠り8:00めざめ、朝食くひて早々に出、渋谷。地下鉄にて裁判所へゆく途、成城短大山高女史に休講とどけ、千野氏見つけて待ち10:30入廷。 われと橋本俊子氏の証人不要。仮処分の必要不必要より齋藤氏に質問、月収は明大にて1.2~2.2万との答に3.5万の家計いかにするやといはる。 ついで物質的のみならず精神的に不安定とのこと答へらる。 11:00すみて別れ、丸を弁護士会に訪ねしに不出。家に電話すれば「けふは出ず。この間下阪した」と。 それより新宿中村屋、宮崎幸三氏に電話して報告し、堀口太平君に電話してcardたのんでよもやといへば「よし」と。 Rice-curry(150)食ひて登校。われを訪ねて教育大教授来しと。中沢をたづねprintきけば入手せずと。 探し出してたのみ、14:00来訪されしは先輩楫西光速博士。「一人むすこに嫁ほし」と。 具体的条件示せといひて別る。辻、松浦、早川などの名あげしも、山田氏にきけば「早川すでに決定」と也。 (山本書店に電話して清史8冊たのむ)。 義経伝を史学研究法にてやり、栗山部長にこの間のくやみいへばなんでもなき様子。 6月23日 9:30note作り了り、10:30山下歯科へゆく。「おくれてもよし、月曜来よ」と。 東横にてrice-curry食ひ、聖心女子大。われに兵の経験語る人あり。2時間とり蒸暑くて気の毒ゆゑ早くやめて老先生と下通りへ出れば本多生。 渋谷にて安楽生?とやらと2人さそひて喫茶。 下北沢へゆき大地堂にて茶のまされ、やむなく『東洋史統2(250)』買ふ。 けふ栃木県と富山県の地図買ふ(40×2)。 6月24日 9:30成城大学へ登校。図書館にては『史林』つきしと(2.5万の研究費ほぼなくなりし)。 加藤生来り「あす訪ぬ。卒論は蛇をthemaとす」と。 松井・東2氏より安心せる手紙!さっそく返事かく。 11:10漢文すまし来れば相馬父子まちをり、何も話さず。今井氏とよく識るごとし。 12:00送り出して田中久夫氏の帰りしを知る。 朝、神田信夫氏に電話すれば、和田先生向ひの病院に入院しをらると。 中沢副手にprintのことで呼び出せしにすでに配布せしことわかり、あやまりて石渡生と2人さそひて昼食にゆく(530)。 そのあと和田先生に花買ひ(210)お見舞にゆけば看護婦のみ。 つらくて出、鎌田、田島、重久3人とはなして悲しさ忘れ(重久生に地図貸す)、かっぱぶっくす買ひ(暉峻博士と金子登といふとともに「笑ひ」と題す)、出て新宿より地下鉄本郷3丁目。 古本屋歩き『台湾蕃族志1(250)』琳琅閣にて2冊学校へたのみ、17:30となりて江知勝へゆけばすでに時間なり。 井上氏の隣に坐り、聖心女子大の卒業生の前にゐる。原田先生に和田先生のこと申上げ、永々と海老沢、遠藤武(立教、昭和9,10卒と)の2氏の祝あり。 すみて田中保隆、西川2聖心教授と出、まづ秋田料理へゆき田中氏におごられ、渋谷に出ておごり返さんとすれば西川氏止め、田中令嬢と遇ひてすむ(22:30)。帰れば23:00。 本棚来をり(2800)。中馬君に600の買物籠送りしと。肥下恒夫より「影山氏の『コギト』引取りてよし。72、141、142別送する」と。 高尾書店より「大高寮歌集売れし」と。田中秀子より「5月13日挙式、高松直子は10月12日東京に来る」と。 竹田龍児氏より『欽定越史通鑑綱目註索引』。台湾より『文史薈刊1,2』。(けふ堀口太平氏にcardの見本送り見積りたのむ)。 6月25日(日) 加藤隆子11:00まで来ず。雨降る。上野薫子より「伊丹姓となり小山(藤井寺)に住む」と。 加藤生に蛇(神婚伝説)のこときき、内藤湖南『読史双録』貸し、 そば食はすところへ楫西光速博士、令息壽郎氏(昭和8年生富士重工太田工場勤務)を同伴「嫁せわせよ」と(菓子1折たまふ)。 やがて父君去りしあと令息と話せば成蹊出の経済学士。会社はもとの中島飛行機と。 松浦薫子いかにと思ひてまづ帰らしむ。その間、畠山博光君来り、東伏見での写真呉る。 夕食せしめしところへ寿賀子より電話、「来る」とのことに悠紀子迎へにゆき、寿一夫妻にて史へ就職祝にと清酒1本。 依子帰るまで待ってもらひ写真撮り呉る。われ疲れてあり。 6月26日 雨。9:00出て成城大学。池田図書館長に『史林』の端本売ることをいへば「止めよ」と。 栗山部長よりお中元の礼いはれ高橋邦太郎氏の話ききなどして疲る。 東洋史はやくすませ帰り来れば堀口太平氏より電話「card4,200枚できる」とのことなり。急ぎ吉祥寺へ帰りcoffeeのみて山下歯科へゆき「明日も来よ」といはる。 大藤教授より「明日の教授会出られず」とハガキ。阿南惟敬氏より「28日昼食をともにせん」と。 筑摩中島氏より電話あり「あす校正もちゆく」と。 弓子あす早く北海道旅行に出発と。われも早く眠る。 6月27日 朝、悠紀子泣く。わけわからず。不快にて山下歯科「次は木・金のうち」と。 10:00成城大学、やがて筑摩より来し校正見、のこり預り、仕事するつもりなりしも出来ず。『清史』3冊山本より着き9千円。 琳琅閣の本も着く。『史林』の請求書など栗山部長に渡し、相馬生に『羅生門』の筋書訳し、そのあと本間、山田2女生の話きき、教授会におくれて出、マスコミ専攻出来ることとなる。 雨の中、山田教授と同車。三上次男氏と遇ふ。 田中冬二氏より「『四季』みつけたらやる」と。本位田より転任通知「名古屋高検次席」と。 6月28日 雨。9:00出て渋谷で地下鉄待てば安西均氏に会ふ。Design-Centreといふに勤めると名刺呉る。 本郷3丁目下車。coffeeのみて東大東洋史研究室にゆき、小山助手に筑摩のことたのみ、神田、松村、後藤、宮原の4氏のみ出席のところにてわれ『李朝実録』よみ、第1冊了る。 白地図作製に協力すと後藤氏と約す。筑摩来ずといふゆゑ電話かけてゆき、出てbusにて池袋。 立教大学にて6月分salaryもらひしあと引返して『Heine恋愛詩集』と『現代詩人全集』と買ひ、昼食。 『南方全集7(200)』買ひ、一旦講師室に帰り14:50また雨の中ゆき講義すます。 久保生「9月一杯休む」と。林、髙木2生に本与へ、出て研究室にゆけば無人。 飯島にて『註解歳時記(50)』、『民俗学入門(150)』、『故事成語諺語辞典(200)』、『はだかの日本人(70)』、『おばけの歴史(50)』買ひて池袋駅に出て帰宅。 木内より300の受取。寿一夫妻より礼状。(けふ神田より池袋までのbusにて知念栄喜氏に遇ひ6日森亮氏上京とききし)。 相馬弘の父より中村屋の菓子。集英社より原稿用紙。肥下より『コギト』3冊。これにて皆そろひしこととなる。 6月29日 雨。方々に水害ありしと見ゆ(※通称「三六災害」)。9:30成城大学にゆき短大の漢文やる。面白くなきはなぜやらん。 早くすませしに楫西博士より電話、夫人も出られ「明るき人を」とのことなりし。 近々参るといひ、すし食ひにゆき、史学研究法のprint切り、松浦薫(※美紀子氏父君。のち昭和44-48年坂出市長)の家に電話すれば7月15日ごろ上京と。 妹(※美紀子氏。のち史氏に嫁ぐ)「もはや登校せず。写真はいつでも渡す」と也。姉君にきけば選挙にて忙しく云々と。 史学研究法すませて悒鬱がりつつ吉祥寺。17:00まへなる故、山下歯科へゆく(途にて悠紀子に遭ふ)。「月曜また来よ」と。 入浴。夜、悠紀子に「未亡人になったつもりでをれ」といふ。 6月30日 阿南惟敬氏より「一昨日国鉄不通のため遅刻した。7日来訪」と。高橋重臣氏より電話、あす朝日新聞前にて14:00会ふを約す。 午后、雨やむ。けふにて『水滸伝』よみ了り『古今小説』よむ。 7月1日 雨の中を成城大学にゆく(途にて丸に電話し楫西令息のこといひ、今夕ゆくといふ)。 楫西夫妻に電話し、あす10:00参るといふ。漢文すませ(山田生、本間、三野2生つれ来て指導さす)、田中久夫氏と出、 渋谷で飯くひしあと、西銀座に出、氷汁粉くひしあと朝日新聞のまへで25分待ち、高橋重臣氏に音楽喫茶へつれゆかれ、ともに出て歩きまはりしあとNew-Tokyoにてbeerのむ。 夫人、末女とCanadaの女史(東大人類学教室にて石田英一郎、泉靖一2氏に習ふと)。 写真とりやり16:00となりて女史と同車、三鷹にて下車。帰宅。 途中『モンゴルの砂塵(100)』買ひ、夕食、入浴、20:00となりて丸家へゆきしに夫人のみ。23:00まで待ち、 あす9:00再来をいひて出る(娘は中村生と会ひ、父は会合と。重俊われを怖がりて出ず)。 依子shirtを仕立ゐる。 7月2日(日) 晴。よべ眠れざりし為、9:00まで出られずcameraもちて丸家へゆく途、楫西家へ電話し「午后参る」といふ。 丸夫妻と煦美子と話すに、(※婚期)せかざる様明々たり!写真もちてbusにて渋谷。Restrant京王にてそば食ひbusにて若林。 楫西家にて夫妻、壽郎君に丸との交情いひ、見合ひと形式ばらずにといひ、後の返答まつといへばbeer出さる。まっ赤な顔して出、世田谷代田駅へ出しゆゑ矢野に電話すれば在宅。 ゆきて30周年の趣旨書をかくこととし、永山来しも計画なしと断りしときき、大島と紬売りに来し大丸dept.との問答ききて出、西垣氏を訪ひしに不在。怏々として帰宅。 悠紀子、浅野dr.に礼にゆく。本日28.8℃と。弓子北海道よりゑはがき。 7月3日 小雨。登校して暑く、中国文学史やり、あと殆ど何もせず(丸夫人に電話し、きのふ届けしとのみいふ)。 Sandwichと紅茶にて昼食。大塚生来り、地蔵のこといふ。 佐藤生来り、中国の駅伝制について問ふ。本間group来り『日本案内記』与ふ。東洋文化史は参考書あげしのみ。 木曜の史学研究法きることとし、出てまっすぐに山下歯科。あすも来よと也。 入浴し夕食。けふ学園名簿もらふ。 7月4日 10:30出て山下歯科にゆく。「木曜来よ」と。 11:20成城大学。柴山東宝重役(※大高同窓柴山胖)に電話すれば撮影所と。砧撮影所にかければ重役会と。究問すれば木曜9:30出所と。 また堀口印刷所に電話してcard自宅に届けたまへといふ。 指定寄附による書籍購入の届けし、今井氏に請求書の完備あれといひ、14:00まで相馬に『羅生門』よみ、『成城文芸26』出来しゆゑ編集委員会すといひ、 27号の締切を8月20日とし、次には一般教養部門より委員増加ときめて散会。 渡辺、西沢、川本、郷右近のgroupと喫茶。「8月23日?に新島にslideとりにゆくゆゑ援助せよ」とのことなりしならん。(大藤、鎌田2氏多忙らしかりし)。 帰れば岩井氏古稀記念会に金出せと(1,500也!)。 7月5日 晴。家居。中国小説よみ年中行事を注意す。 15:00畠山博光君来り、20:00近くまでゐる。金沢誠氏にわが名刺わたせしと。本位田昇へ名刺托す。(8月10日ごろまた上京し来ると)。 八木嬢へ20日すぎゆくと訂正の速達す。 7月6日 登校の途、filmの現像焼付たのみ、富永次郎氏と同車してゆく。短大の漢文は唯一人をり白百合より来し畠野生と。 coffee牛乳のませて話し、前田教務課長に会ひにゆけば「学科の説明かけ」と。 忘れゐしを思ひ出し書きつつ渡辺、加藤、坪井、佐藤、大塚(この2生は電話かけて呼びし)の諸生と卒論の助言し『白楽天詩集』4冊を借り出し、 今井氏よりcamera等の請求書受取り、印捺して栗山部長に渡し、外出との東宝砧撮影所長柴山の16:00帰るといふを待つ。 相馬と15:30出て撮影所にゆけば、所長室へ通され、相馬に資料探し承知してくれ、劇場の招待券10枚ほどくれる。 2人で歩けば祖師ヶ谷大蔵駅へ着き、氷しるこ食ひて別れ、中沢、加藤2生と同車なることわかり映画の切符わけて帰宅。 森亮氏より「あすあさ電話せよ」と。田中冬二氏より『四季』43,44送ると。『果樹園』65来る(送料60円!)。 弓子帰宅しをり、依子いれちがひに尾瀬へゆく。 けふ肥下にやっと礼状出す。 7月7日 8:00森亮氏へ電話すれば「本日ひまなし。あす9:00三鷹駅ホームにて会はん。あさっての鴎外・柳村の会にも参加す」と也。 野田宇太郎氏に電話して2氏の追加申込めば「よし」と。 悠紀子、鎌倉行さそひしゆゑ「行かず」といひしにより「尼崎春名姉に会ひにゆく」云々。 羽根田諦、伊丹(上野)薫子、牧迫(田中)秀子3氏へヱハガキ。山下歯科へ12:00前にゆけば午前中の受付11:00までと。恐縮して診察受け帰宅。 夜になるまへ悠紀子渋谷へゆき阿南氏bananaもちて来訪。島田好氏、鳥取大学に奉職と。 7月8日 8:10出て写真現像アキモトにゆけば20枚中19枚とれをり(315)。 三鷹まで乗り、待てば9:10前に森亮氏来り、渋谷まで切符買ひありといふも吉祥寺で乗換へ下北沢まで同車。 あすは上田敏の墓詣りに別口ありて文学散歩の会には同行せずと。わが「半自叙伝」ほめらる。 15:30渋谷の「Juchheim(※ユーハイム)」でと約し成城大学。 高井洋子来り「笑ひについて」の構想話す。暉峻式笑ひについて了解しをり。 他に誰も来ず、中沢副手のぞけばをらず、出んとするところへ(集英社鈴木氏に電話すれば月曜まで出張と)考古学の室にゐるといふに、 ゆきて丸重俊に煦美子の写真3枚わたし、12:45ともに出て中村屋。飯すみしあと「副手やめる」と也! 別れて渋谷。News映画見、Juchheimにゆき満員の中、森氏と小村光子氏見つけ、東急rest.にて喫茶後、さそひて我家に伴ふ。すし来るまでいろいろ本見す。 田中冬二氏より『四季』43,44賜ひ(※揃ふまで)あと17,66の2冊となる。 小村女史は東邦医大の講師にて荻窪に住むと。内田英成と森氏同級と。三鷹駅近くまで送りゆき帰宅。 けふ悠紀子、京、渋谷へ猫もらひにゆくつもりなりしと。史とまりがけにて出しと(恰も誕生日なり)。 けふ34℃、不快指数84なりしと。 7月9日(日) 睡眠不足なるも6:45起き、渋谷をへて9:00新宿駅西口着。(※文学散歩の会)松村嘉津子女史に紹介され、 最前席に坐り三鷹禅林寺(黄檗宗と)の鴎外墓よりはじまり、千朶山房あと、谷中の上田敏墓地などをへて上野公園で昼食(新宿駅のむすび弁当食ふ)。 それより墨田河を渡り千住宮元町、長命寺へゆき小憩。佃島より渡しに乗り麻布龍土町の龍土軒へ18:00着。 森杏奴さん、嘉治隆一、石田幹之助、啄木婿、高橋邦太郎などみな長く話す。わけても文学好きの素人の長話ききがたかりし。 われ田中正平、船越嘉一郎、金尾文淵堂の話し、杏奴さんうなづく。 21:00となりしゆゑ先に起ち、青山一丁目まで歩く。おつきあひもよいかげんにせんと思ひし。 けふ依子、尾瀬沼より帰り、悠紀子渋谷へゆきしに父弱りをり、報国寺に1万円を玉垣代に寄附すと也。陽生、寿一夫妻も来ゐしと。 7月10日 晴。風やや涼し。山本嘉蔵氏へ写真を送る。13:30山下歯科。帰れば角川より『世界の人間像1』。 10日までといひし堀口君のcard音沙汰なし。猿渡弘氏より缶詰1箱。 7月11日 3:00めざめて田中冬二氏に礼状。『詩人学校』来り「井上多喜三郎氏還暦祝に詩碑を建つ」とあり。 『詩人通信』に山崎実治「三人・線をめぐって」に『線』の投稿者に当時のCommunist田中恒夫(忠雄)散文詩を書くとあり。 缶詰もちて山下歯科にゆく。「明後日来よ」と。14:00ごろより雷雨、あと涼し。 堀口太平氏に電話せしに「card出来しも忙しく」と。「明日来たまへ」といふ。猿渡氏に礼状。 7月12日 昨日より悠紀子、家探しす。渋谷の家せまく暑くて父、耐へられずと也。 11:30無人ゆゑ郵便受取る。中馬(黒柳)直子夫人より祝の受取。鈴木正義生より「東京本部付となりし」と。 成城大学より宮本学長辞任につき21日14:00より3学部合同教授会と。(山中)花井タヅ子夫人より式の写真送り来り「孝さん法務図書館に通ふ」と。 中西夫人(※大家)見つけ、あとたのみて出、下北沢で中村屋のpão買ひ、登校して大藤氏と話す。中沢生(※退職)は考古班と旨くゆかぬも一理由と。 考古班のみく[び]しゐるを我より山田、丸にいはんといひ、講師室にゆけば山本の書目のみ。 『清史』2冊と『白楽天』2冊ととり、集英社に電話すれば「鈴木部長はお宅へならん」とウスヰ氏の話なりし。 筑摩の中島氏に電話すれば(※『西太后に侍して』共訳した故)太田七郎氏の兄弟、国連局にありと電話教へくれ、2月後の話ゆゑせかざりしと。 池田勉氏に学長後任につき問へば「詮衡委員会にてきめる」と。 折から年中行事研究会の山中氏来しにあはてて出、帰宅すれば田中順二郎氏より醤油1缶来をり。 弓子るすして「母、祖母を三鷹の空家に案内しゐる」と。やがて電話中島氏よりかかり「国連局の弟にきけば、太田七郎夫人再婚して貫井にあり。 嬢ももらはれゆきし」と。「(※『西太后に侍して』再版)印税の正当なる受取り人をしらべよ」といひ、18:00来るといふ堀口太平氏まてば丁度の時間に来りcard4,200枚(4千円)届け呉る。 夕食せしるしに敏感すぎる。家建てよなどいひ、創価学会ゆゑ安心立命をしゐる。金をためるがその基礎と。 駅まで送りゆき写真やきましとり帰宅。 けふ三鷹の家見しに母喜び、父も喜び「長沖(※友人である長沖一父君)にちかくなった」といひし直後、死亡通知来しと、あはれ也。 『水滸伝』のcard書きはじむ。 7月13日 朝、母より電話かかり「三鷹の家やめた、遠すぎる」と也! 集英社鈴木氏より「けふ15:00来訪」と。13:30山下歯科へゆく。「あすも来よ」と。水滸伝のcardにて疲る。 西島寿一より依子の写真。花井たづ子氏へヱハガキ。鈴木正義氏にハガキ。高橋雅子夫人へ写真。 16:00すぎ洋菓子もちて鈴木氏(出版部長)来り、12月ごろまでに6篇あつめるつもりと! 神田先生書けざるらしと。夜、龍平来り湿疹と。城平叔父へ無沙汰をわびる手紙を托す。 7月14日 暑し。9:00散髪にゆき(200)、山下歯科にゆく。「月曜に来よ。も少し」と也。 帰りて午睡。『水滸伝』のcardつづける。聖心女子大の本多生父君明氏より葡萄酒2本たまふ。 入浴してのち柏井(※義弟数男宅)へゆく。天津北京のこと記憶うすれたるゆゑききにゆきし也。 7月15日 風吹く。和田先生より全快祝?に砂糖賜ふ。矢野昌彦よりbeer1箱たまふ。 父より長沖父君(英一と)は2日死亡と。 『不二』来り「大賀知周翁、4月6日青酸カリにて自殺なりし」と! 坂根千鶴子より電話かかり「今夜来る」と。ただ一尾のこりし金魚も死ぬ。けふ37.5℃にて記録と(明治9年以来と)。 永山光文来り「方々義理堅いので恐縮しゐる」と。われにも煎餅賜ふ。 坂根千鶴子より電話「夜来る」と。坂根19:30来り食欲不振と。ギャラ6万円にて学校公演したしとて修徳学園石渡経夫氏(※校長)に紹介かく。 7月16日(日) 暑し。家居。『水滸伝』のcardつづける。依子、五井へ海水浴にゆきゐしが帰り来る。 八木嬢へ24日ごろゆくと手紙かく。 7月17日 暑し。悠紀子渋谷へと出てゆく。われ速達出して山下歯科「あと2回ぐらゐ、次はあす」との仰せなり。 山田信江生より「19日田島、武井2生と来て宜しきや電話せよ」と。「よろし」と電話す。 筑摩書房より(※『西太后に侍して』再版:世界ノンフィクション全集)3万4千部14日発行と通知。新聞にも広告あり。 西沢、渡辺2生東山梨牧丘町生捕部落といふより暑中見舞。 和田先生より「本復祝送った」と代筆。矢野昌彦より電話「beer栗山氏にも送った。明日より京阪出張」と。「30年記念会趣意書かいた故送る」と答ふ。 7月18日 長沖一氏へ弔状かく。悠紀子、渋谷へと出てゆく。山下歯科へゆきみれば満員。大高clubより「27日吉岡弥之助氏の漫談あり」と。 筑摩の中島氏より電話ありしと弓子の話にかけみれば「石井夫人すみ子(太田七郎未亡人)21日(金)15:00筑摩へ呼ぶ」と。 「われゆく」と答へ、竹内好に電話すれば「もう挨拶いらぬなりし」と。 悠紀子帰り「父好し。犬の仔1匹1万円。大帰宅。長沖家香奠いらぬといひ来りし。母、林の新築を羨む」と。 夜、「北京」18枚書く。 7月19日 晴。10:00の約束に外に出てみれば山田生と田島生と途きいてをり。呼びて話せば田島生勉強すすみゐる様子。『北方ツングースの社会構成』もちゆく。(2人にてとtobacco10賜ふ)。 楫西博士来訪に逃げ出せし也。予想の如く丸煦美子へのことはりいはる。理由は背高きより小さめがよしと。英国製biscuits1箱賜ふ。返礼に『ノンフィクション全集』1冊を進呈。 15:00となりて出(芳野清より暑中見舞。若菜東尾生より「文学散歩の会」の写真と講義面白くなしの手紙)、西川の会社にゆき天津のこときき、依子の退職いひす。 30年記念会の趣意書の件も了解得し。 出て奈良県の地図買ひ、また地下鉄にて国会議事堂下車。宏池会にゆけば早すぎし。田中忠雄氏にきけば山崎実治氏識りをり。昔、詩作りしを肯定。 齋藤博士来るや否や『白楽天』早くかけと。この間、京都で病臥の神田博士(※神田喜一郎)に会ひ「田中と小林入れしは宜し」といはれし。吉川幸次郎博士を京都でも悪く云ふと。 田中忠雄氏の話すみしあと池田勇人謹呈とScotch Whisky2本もらふ。 丸に電話すれば明後日16:00「春日」で会はんと。帰り浅野、佐藤2氏と同車。佐藤氏、沖縄へ講習にゆくと (けふ着きし『古今評論』に村松正俊氏東洋大学で学位論文通せしと。わけのわからぬ世の中なり)。 相馬弘生より速達「柴山胖氏より連絡なく、も一度催促してくれ」と。 7月20日 12:00出て果樹園社へ小為替(10)にて1千円送り、柴山氏へ「たのむ」のハガキ速達してのち山下歯科。けふにて了りとなり健保証返してもらふ。 渋谷東宝の切符2枚置く。それより下北沢新宿をへて立教大学。7月分手当もらひ研究室の様子きけば通りかかりし清水教授「手塚さん見えませんよ」と教へらる。 裏の古本屋へゆき『続古典語典(150)』、『アフガン記(50)』、『近世庶民文化10(100)』買ひしあと氷水のみ、busにて中野へ出て丸夫人に「あす17:00に変更と伝へたまへ」といひ吉祥寺。 35mmSS1本(200)買ひて帰宅。井上多喜三郎氏より「山下dr.より便りあった。野田宇太郎氏に会った」とたより。 涌井千恵子、鍋島友三郎、吉村俊子諸氏より暑中見舞。高橋夫人より「写真受取った」と。「北京」を書きをり。 7月21日 悠紀子、京と10:30出て夏の鳥打帽買ひ(500)、成城へ11:30着き、途にて神戸、高井2生と会ひ昼食をともにす。 それより大藤氏待てど来ず、谷氏、山田氏と話し、相馬生、若菜東尾生にハガキ。 八木嬢に24日「なにわ」でゆく。京都で待てと速達かきて投函。 筑摩の中島氏に電話せしに昼食に出しと。Salaryもらひ栗山部長に会ひ、けふの教授会欠席をいひ、14:00となりて鎌田女史と話せしあと出て、 15:00かっきり筑摩書房に着けば中島氏「成城に電話せしに教授会に出席中との返事なりしゆゑ石井文子夫人を16:30まで待てといひ出せし」と。 止むを得ず16:30まで茶のみ話して待ち、来られしと印税8%の半々分割を了承せしめ、嬢が来年1月石井まき子となるを聞く。 ともに出て淡路町より地下鉄、田中正平を知ると。ふしぎ。「春日」にゆけば開店しをり。丸、少し待ちしところと。 20:00までbeerのみ(楫西家の件、了解と)、そば食ひ1,300といふに500われ出しtaxiにのり、われ中野で下車。帰宅すれば「大阪行はいかがなさりし」と悠紀子の話。 本間生より吉川生の父15日に亡くなりしと。 7月22日 9:00京、悠紀子と出、悠紀子が貯金にゆくを駅にて待ち、来れば我包みを一つ忘る。悠紀子引返して取りにゆくを、我と京と東京駅にて待ち、 やがて横須賀線に乗る。坐りて11:00鎌倉着。 busにて名越四つ角下車。また我と京と先にゆけば和田賀代氏待ちをり、午食おそく我ふらふらとなる。 悠紀子、京の海にゆきしあと15:00和田女史の出てゆくを送り写真とる。 そのあと夕方になりて依子、弓子来り夕食。 すみて我、悠紀子と手塚教授宅へゆく。途にて我るると語り、玄関にて手土産おきすぐ出る。変な調子のつづきにて致し方なし。下駄と鎌倉地図(50)と買ふ。 7月23日(日) 朝、5人にて浜にゆく。悠紀子と我とおくれて出、ice-cream食べつつ上り来るをまちて写真うつし、busにて鎌倉駅。 それより鶴ケ岡八幡宮まで歩き(途にて氷食ふ)、近代美術館見、また歩きて切通しのトンネル抜けて帰れば皆をり。 けふ照富の記事あり35才にて5児と(※不詳)。悠紀子泣く。 7月24日 朝5:00起き、6:00すぎ出て鎌倉駅(悠紀子門前まで出て「しっかり」といふ)。 大船にて平塚行に乗り、小田原行にのりかへ小田原にて第2なにわのあるを知り、juice(10)のみてのち乗車(9:04)。 15:29京都に着き(豊橋にて弁当)、16:45ころまで待てば八木女史来る。 憔悴し、殆ど物いはず。姉(※明子氏)大阪駅にて待つといふゆゑ17:00大阪駅に着きしにをらず。あとにて電話し、はじめて出しを待ち、来りしと阪急屋上のbeer-hallにゆく。 「責任をおとりになる必要なし。常識的にふるまはれ家庭に帰られよ」と姉の説なり。 ついで八木女史「親戚中の反対の中をゆき、家庭建設の自信なし云々」。 姉に手土産わたし、八木女史と吹田、千代の家(※不詳)にゆき話きかんとすれば 「羽田夫人より今西夫人にしらせあり。この間見に来、その話にては田中はかかあ思ひで有名と。この一発で陥落せし」と。 われ狂ひしあと心臓動悸し困る。不眠。 7月25日 9:00出て大阪駅。pantieを八木女史買ふを見ゐれば、荒木利夫に会ふ。「元気相」と。 われ事実元気にて氷西瓜食べてのち名古屋まで送るといふに喜びて!!45分まち11:00発の準急に乗る。女史は眠りわれは起きをり。 大垣にて昼食。13:39名古屋着。宇治金時たべて泣くを見る。われ愛情深すぎ、神経質にて云々。 近鉄に送りしあと「なにわ」に乗りしに坐れる。一睡だにせざりしに元気なりし。帰宅21:30。 悠紀子まだ帰りをらず。愚行ここに終りを告げし也。 留守中の郵便、竹内好『不服従の遺産』、『春の日創刊号』。田島靖子生より礼状。波形政一氏より暑中見舞。 長沖一氏より父へ伝言をと父君の病状。武井伸子よりこの間来られざりし詫び状。 山田英樹より「先生ある雑誌に日本の中立主義についてお書きになったと伺ひましたが??」。 中島京子、推野二美子2生より「わかめ」と送り状。前田教務課長より吉川和子の父の香奠につき。 (※空白行のあとページ破り取られノート終る。) 昭和36年7月26日~昭和36年9月27日 「東京日記11」  欠損 紛失あるひは遺棄されたか事情不明。 この間、十二指腸潰瘍にて入院? 9月20日、父、西島喜代之助死去(78歳)。下阪して葬儀。 p11 昭和36年8月7日 悠紀子夫人と (於自宅) p12 昭和36年9月25日 肥下恒夫氏夫妻 (於自宅) 昭和36年9月28日~昭和36年12月31日 「東京日記12」 25.3cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p13 9月28日 よべHyminalを久しぶりにのみ、朝、悠紀子の起きるを知らざりし。 8:50出て成城大学へ9:40着く。近藤園枝生をほめ、教務にて短2の漢文の問題受取り、相良、山田2教授の顔見しのち201教室へゆけば補助の経済学部学生をり。 12問書けば及第といひ(欠1名)、25分位にてみなすませ、そのまま吉祥寺に帰り、佐藤dr.にゆき4日間の薬もらひ、出しところへ悠紀子来る。 ともに帰り井上靖の「詩を語る(13:30~14:00)」聞かんとせしに議会放送にて流れしらし。 ひるねせんとしてだめ。悠紀子起きて寝汗かきしといふに、浅野dr.に電話してゆき、レントゲン写真してもらふ(480)。 外出の夫人と同車にて三鷹駅(五百井、山本行常、浅野の3人出席と。湖東を加へて4人なり)。 帰りて洗濯し(朝も半ばやりし)、18:00夕食。 ガス代払ひに中西夫人に悠紀子ゆけば、22日「23ヒ大阪ニテアフ 八木嬢」の電報来り、発信者へ戻せしと。 今の手紙といひ、みな「だっておそすぎたんですもの」也。爽快。 弓子けふ尖りをり、依子きげん良く、京「お父ちゃんとお母ちゃんと仲良しにて中位なるをのぞむ!」と。 森dr.も留守中往診に来たと! 9月29日 留守中に来ありし田川孝三氏の見舞状に礼状かく。佐々木邦彦画伯へハガキ。洗濯すまし10:30ごろともに出て渋谷。 京王食堂にて昼食し、別れてわれは聖心女子大。試験問題つきをり。 田中保隆教授より「半自叙伝」はじめてほめられ、十二指腸潰瘍の披露をし、9月分手当もらひてのち2時間講義すませ、試験問題を教へて帰らんとすれば本多慈子生「お大切に」と。 都電にて並木橋。大の宅へゆけば悠紀子をり。仏壇買に東横dept.へ母のともをし、別れてきけば来月より母に小遣与へるを約束したと(父の記録については話なし)。 吉祥寺にて写真の現像たのみ、買物して帰宅(中道郵便局にて「ホショニンノケンイカニ」タナカの電報打つ70)。 大江久美子より「太宰治をよむ」とのたより。 古田房子より「学院に居られたときよりも何だか気分的にふっくらしていらっしゃるやうですし何よりも奥様とお二人で楽しそうに見えて」と。 荒木修教授より「『果樹園』よんだ」と。(けふnote作り了へてコンコンへの手紙の稿かく)。 渋谷より電話せし矢野昌彦より電話あり「来月初に打合せしよう」と。 けふ悠紀子をして東横dept.にて香奠返しとして今井富士雄氏に茶(400)送らしむ。 9月30日 6:30ごろめざめ8:30浅野dr.に電話してきけば「異状なし」と。その間、悠紀子コンコン(※八木嬢?)への手紙清書し、畠山夫人、大江叔母へも手紙かく。 田中俊子(高沢叔母の居所きく)、田中ナツ(けさ帰り、元気らし)、平林文子の諸夫人より悠紀子に電話あり。 11:00悠紀子速達しにゆく。大江久美子へハガキ。林俊子夫人へ連名のハガキ。 京の13:30帰るを待ち誘ひしもきかざるため、2人にて代田2丁目下車。沢辺家さがしまはり、ゆけば高沢えい叔母をり。柏井家の略系図教はる。(※系図) p14 和子の夫は正明とて全日本観光bus Co.の専務にて慶大出。先妻に2子あり離婚す(信州松本の医家の出と)。1男1女に挨拶され、叔母に送られて出る。 (村井せつ子の長女名古屋の財閥滝家に嫁し不幸と)。 東松原に出て吉祥寺にてすき焼の用意す。(八百屋の若い衆「イツモオマチドオサマ」といふ)。 帰れば帝塚山の名簿来をり、またも「中込アパート(※旧住所)」と記す。 電報来ありオヤサトヤカタ午后0:30発「カズミチノケン」ハナシチュウ」オマチコウ」ハルナ」とあり。爽快。 写真現像1本出来上り330(内焼付10×28)。依子22:00帰り来り、退職手当をふくめ23万円の預金出来しと。 10月1日(日) 立教大学より速達「本務をしらせ」と。「成城大学文芸学部教授」と答ふ。 9:20出て写真の焼付たのみ、日本基督教団吉祥寺教会にゆく。隣席の老人、Bibleと讃美歌集見せてくれる。 11:20すみて遠藤夫人に会ひ「来週の日曜に家見せる」といはる。それよりjuice飲み(35)て田中家。 昨日北海道より帰りし夫妻、rain-coat返却。アイヌ語手拭1本賜る。 帰途買物して家に電話すれば「田中雅子、子供の学校のことにて来る」と。 急ぎ買物して待てば14:30来り、「美知子、和光学園の幼稚園部卒へしあと区立の小学校にやる」と也。 [14:30(※ママ)]帰りゆくを悠紀子送り、写真現像焼付もち来る(280)。Albumに添付して夕食し、19:00出て丸邸。 三郎釣より帰らず。夫人と話せば「重俊また発作」と。われも歯齦炎にて数男に電話し薬のむ。 西川に電話すれば不在。都合教へよと夫人にいひてすむ。 21:00ごろとなり、帰途「赤ちゃん」にゆき赤川夫人(※赤川草夫夫人)に挨拶。帰りて田中雅子のもち来し梨食ふ。 けふ西宮一民氏より、弔ひ1,000と「神宮皇学館大学に転任きまった」と。 田中秀子(牧迫)より「熊取に帰る」と。都丸書店にて李亜農『中国の奴隷制と封建制(130)(訳なり)』。 10月2日 雨。9:30すぎ山下歯科へゆけば、歯槽膿漏と手当賜り、薬もらふ。 ついで無名書房に寄り『亜細亜の四等船室(70)』と『綜合歴史年表(30)』買ひ佐藤dr.。胃の痛みをいへば問題にされず。 帰ればNHKより「婦人の時間」の謝礼(1,000-100)(※不詳)。 14:00ごろ(※誰と?不詳)ともに出て、浅野dr.に保険証もらひにゆく(湖東の出席予定玄関に入れありし)。 ついで『全集叢書総覧(150)』買ひ、雨の中をともに帰る。 西川夫人に電話すれば「昨夜いふを忘れし」と。 母より電話あり「高阪氏、父の初期の詩と履歴とをほしがる」と。われ「金曜にゆく」といふ。ザマ見ろ也。 今日より火鉢に火を入る。金素雲おもしろかりし。 10月3日 雨。依子家にをり。午前の〒にて神田信夫氏の見舞。大江久美子の「太宰論」、大江叔母より「出戻り女の女中帰した」との手紙。 丹羽千年より写真。田中雅子よりの礼状と5通の手紙来る。 われ小高根二郎、西宮一民、神田信夫の諸氏にハガキかく。 13:30山下歯科へゆき、ひるねし午后の便にて鎌田正美より「原田運治君に11月3日の案内なし」とのハガキを見、 悠紀子と出るに、犬つきて来しゆゑ、途かへ、切手はらずに原田への案内投函。きげん悪くなりしも「らかん」に焼増しにゆき見れば休み(第一火曜を休む店多し)。 悠紀子と別れ古本屋にゆけばここも休み。 やむなく「丸善」前にて待ち、屋上の喫茶店にてわれは待ち、ついで「明日弟宅見にゆきてよし」とききしあと、買物すまして帰る。 夜、依子あすより4日間旅行とのことに(※憤慨して「お前が悪い」と:依子さん談)悠紀子を叩きて物いはず。(西川夫人よりも遂に連絡なかりし)。 鎌田へ礼状。Hyminal1錠のむ。 10月4日 雨。朝、起きがけ悠紀子叩き、子ら出しあと春名道子への速達「コンちゃん」気付にて書く(コンbaksiの手紙の写しを示す)。 丹羽千年、白井紘史へハガキ。11:00西川英夫より電話「19:003人にてゆく」ときむ。 清水文子より「滝本会ひたし。依子下阪の時しらせ」と。 小高根二郎より「送稿なく69号欠」と。それぞれに返事かく(『果樹園』には68号まで送りし也)。 けふ依子買物にゆく。依子用のヨーグルトことわる。 17:00夕食し、雨中、依子とわかれわかれにて写真焼付とり(225)、渋谷の東光にて菓子(400)買ひ、地下鉄にて本郷3丁目。 19:20上野駅に荷物預けし依子と会ひ、西川邸(※保証人の西川氏に富士銀行退職挨拶)。夫人ともども色々話し、20:30出て中華そば食ひしあとお茶の水にて依子下車。 22:00帰宅すれば京、弓子ねてゐし。 10月5日 鈴木恵子、西角先生、肥下へ写真送りの手紙かく。 大江久美子より「太宰の悶々日記中に“このみちを”の歌あり」と。 午后ともに出て富士見丘下車。(そのまへ山下歯科へゆき京の払ひすまし、ついで遠藤家を見にゆく)。山田俊雄氏の家探しまはり『玉燭宝典』を届く。医師来診中なりし。 それより南口の古本屋にて尾形亀吉『散楽源流考(170)』買ひ、佐藤dr.にゆきて帰宅。 夜、大江久美子、西村美那子2氏へハガキ。石渡生より電話「渡辺、西沢2生とあす来る」とのことに「明後日午前中にでも来よ」といふ。 10月6日 昨夜Hyminalのむ。9:30山下歯科へゆき「けふにて一時よし」と。シベリアの戦友の話きく。 帰りて悠紀子と大江叔母へ速達(16日依子ゆくと)。 林叔母、治子へ写真。11:00昼食し、渋谷へゆき、時間早きゆゑ、紅茶とエクレール(95)摂ってのち聖心女子大。 海老沢博士を久しぶりに見、あすバザーとておくれし3時間目と4時間目ともに早々に打切り、猿楽町へゆく。 大をり、香奠返しすみしと。母「1周忌には墓を」といふ。われ歌集をといひ、早々出て、伊勢すみ江訪ねしあと、東大前へ出て帰宅。 けふ北区より3,200円余りの35年度の税金催促来る。依子、裏磐梯より19:00帰り来る。 10月7日 雨。本位田昇へ礼状。西宮一民氏へ香奠返し小包とす。 11:30悠紀子買物に出しあと石渡、渡辺、西沢3生、父の弔ひにと果物1籠もち来る。 これと15:00ころまで話す(タン麺とりて食はす)ところへ阿南氏来り、『清史雑考』もうしばらく貸せと饅頭1箱たまふ。 李朝実録の会2回休み、わが病気(※十二指腸潰瘍)知らざりしと。 けふ『春の日3』来り、『果樹園68』来り、手塚教授より「どうしてゐるか」。田中久美子より「この間は逆上した」と。 横山、原田2氏より出席の返事。 10月8日(日) 7:00起床、洗濯してのち9:30家を出、無名書房にて『口語訳聖書(600)』見付け『讃美歌集』は教会にたのみ頒けてもらふ(200)。 竹森牧師の説教きき易く、いつも満員なるを喜ぶ。 帰りて昼食し、14:00また悠紀子と出て南善福寺よりbusにて阿佐谷車庫前(15×2)、柏井家へゆけば数男1人にて留守しをり、台所改築しをる。 写真贈り、悠紀子の俊子姉に電話するをききしのち、busにて荻窪。われは古本屋にて『世界の旅 日本の旅17(40)』。駅にて買物すませし悠紀子と会ひて帰宅。 けふ大江叔母より「よき家政婦見付かりし」と。田中雅子母子ならびに3生の写真、依子とり来る。 われ袴谷太郎氏に『果樹園』包み、手塚隆義氏へ詫び状かく。(柏井昇宅にありし柏井家過去帖の写しを数男宅(尚子筆)より借り来る)。 10月9日 5:30めざめ、友眞(※大高野球部クラスメート友眞久衛)の野球中のmissすなはちrule無視を思ひ出してふしぎ。 それより悠紀子と無益無縁の努力やめんといふ。(コンちゃんの一味への多幸を祈るの手紙かくこととす)。 悠紀子また臀の腫物いたみ出し、9:00出てゆく。われ田中雅子へ写真送る手紙かく。 佐々木邦彦画伯より見舞状。坪井明より「11月3日参加できず。16日20:00本郷真砂町眞誠館に電話せよ」と。 午后三好松子へ訂正のハガキ。16:00悠紀子に春名数義あて「カズミチクンノケンシラセマツ」の電報打たす(70)。 台風24号接近と。重荷ほとんど下りし気持。 10月10日 昨夜10:00尼崎より打電「ゴキボウドウリスル」アトフミ」ハルナ」朝配達。 台風10:00来ると。8:00すぎ台風、房総沖を通り2女休校。西角徳太郎先生より「片山林左右氏は近くゆゑ手渡す」と。 ちょっと午睡し、14:30ともに出て西宮一民君へ香奠返し送らせ(170)、佐藤dr.へゆけばdr.ひとりにて「もうそろそろ」といへば「そうね」と也。 入浴し、矢野昌彦より電話きけば倭周蔵ひとりにて88人に案内出し、恩師呼べといひしと。永山光文より電話「忙し」と。めでたし。 21:00神田信夫氏に「あすの李朝実録の会休む」と。 10月11日 片山林左右氏(高石町とのみ)より「西角さん写真ご持参」と。『史苑』22-1来る。宮本教授「露卯の下駄」のほか手塚教授の論文のる。 14:30出て田中ナツ子氏を訪ふ。東大小石川分院にて「異状なし」の診断ありしと喜ぶ。買物して帰宅。けふは悠紀子の誕生日也。 矢野昌彦より電話「日野月、本田、Schinzinger3先生への連絡たのむ。連絡なかりし文乙の5人には連絡する」と也。 10月12日 史より先に出て8:30本田先生を訪いひまいらすれば「11月3日承知した」と。 出て矢野夫人に電話し、ついで丸に電話す。帰れば矢野より電話。ついで日野月先生に御都合問合せの手紙かく(午后速達す)。 竹内に電話し、本田先生出席をいふ。鈴木啓子、林貞子2夫人より写真の礼。 午后山本実子より1日(11月)挙式と。 けさ春名数義より失礼な手紙。午后また「ホショウニンカエオワル」の電報。畜生ども也。悠紀子、文中の「14日の便りを見た」との箇所に不審かく。 (片根夫人より阿南君夫人の病気のこと悠紀子聞き来りしにより、見舞のハガキかく)。 (けふ名店会館にて座ぶとん5枚買ふ。2.500を6月月賦にす。依子の友だち4人日曜に来るが為なり)。 10月13日 (金)不吉なる日とて出ぬこととす。治子より写真の受取。川上恭正より『きりぎりす』。井上多喜三郎還暦記念会より「11月末までに1口500円」と。 田中夫人、浅野建夫dr.への帰りとて12:00来る。 ともに昼食し、悠紀子送りに出しあと佐藤dr.にゆき、看護婦さんより薬もらひ、film買ひ(山本実子、川上恭正へヱハガキ)て帰宅。 西宮一民氏より見舞状。筑摩の印税来ざるをのぞき、平穏にて幸福なり。 p16 10月14日 8:30出て成城大学。教務に軽快の挨拶し、『清史5』来りしを受取り、堀口太平君よりcardの請求書来をるを見、 栗山部長へと手続をし、『図書だより』に「図書館と私」ののれるを受取りて図書館に寄りしあと、栗山部長宅へ挨拶にゆけば(山田俊雄、堀口太平2家へ電話す)、福岡へ出張と。 経堂下車。小高根太郎を訪ひ写真とる(※リンクあり)。そのあと中華そば(45)食ひ、家に電話して高沢叔母宅にて待合すこととし、梅ヶ丘下車。 麥書房へゆき2冊予約し(紅茶のまさる)、歩きて代田、沢辺家にゆけば悠紀子未着。ややして着き写真とる(松田孝敬来会す)。 叔母過去帖のことあまり知らず。筑摩よりの印税あてにして急ぎ帰宅せしも来ず。平田春一の『歌集帰向』。 平凡社より『アジア歴史事典』の原稿10月25日までにと。 夕方、織原夫人より電話、悠紀子20:00まで出てゆく。(けふ経堂にて静岡県へ民俗採集にゆくといふ鎌田久子女史に遭ふ)。 依子、渋谷にて建に会ひしと。 10月15日(日) 平田春一氏にハガキ。9:30出てすし常に注文してのち、和田家へ寄り、(桑原)織原夫人に挨拶してのち礼拝にゆく。 11:00すみてまた和田家。2夫人1娘(第114銀行勤務)と同行、別れて12:00帰宅。 依子の送別に飯塚(都民銀、向丘同窓)、松原(押上支店)、伊藤、東條(中野北口支店)の4嬢来をり、すし食ひ菓子食ひす。 14:30夫婦して出、大江叔母へ海苔(1,120)2缶買ひ、instant cocoa(100)買ひなどして帰宅。 4嬢いれちがひに去りゆく。 けふ手塚教授より見舞。足立、本間、吉川、山内4生裏磐梯よりヱハガキ。 けふ弓子は運動会。片根夫人より藤原音松教授(成蹊大)脳溢血にて死なれしときく。入浴。 10月16日 曇。夫婦5:00まへに起き、われ大江叔母に母との関係かき、5千円を月々送ることいひ、7:00前、悠紀子依子を送り、出てゆく。挨拶もせざるがわが子なり。 (※これより依子氏、大阪の大江叔母宅に寄寓することとなる。) 8:30出て9:30成城大学。中国文学史のprint切る(白楽天)。そのあと筑摩の武本氏に電話すれば不在。 立教大学へ開講いひ(下北沢にて久保靖彦生に電話し「2女生に出講伝へよ」といひし)、昼食し、若菜生より野田氏『日本近代詩事典』もらふ。 昼食後、高橋邦太郎氏と話し、来りし野田氏より「高麗詩鈔」もらひ、そのあと武本氏よりの電話にて「明日とりにゆく」こととなる。 鈴木生来り、NHKのTelevi部と西島大を識ると。東洋文化史また30分にてやめ、早足に出て下北沢。 家に電話し16:00「丸善」まへにてといひ、大地堂に寄り『文学散歩10』買ひ、吉祥寺にて悠紀子と会ひ丸善食堂にて汁粉くふ。 けふ母に会ひしに疲れゐると。帰れば『不二』と『今中会報』。 日野月先生より「天理教祖伝英訳しをり。3日は四国へゆく」と也。坪井より電報「予定カワル明日シラス」と也。 19:20「依子ツイタ安心セヨ大江」の電報。 21:00すぎ坪井より電話「宿は湯島天神町カシワヤ」と。「あす連絡」と返事す。 (けふ楫西博士より電話「まだ嫁見つからず」と)。 10月17日 11:00牧(志野)和子の転居通知見て成城大学へ登校。 途中、下北沢にて中村屋の饅頭2ケを買ひて弁当とす。栗山部長帰りをり九州大学にて中村幸彦に会ひし様子。高田教授は高知にて荒木修氏に会へざりしと。 12:35相馬生の来るを見て誘ひ出し、梅ヶ丘の麥書房へゆき、この間とりのけもらひし西脇順三郎『あむばるわーりあ(180)』と春夫『まゆみ抄(140)』とをとり、300に負けてもらふ。 ともに下北沢まで歩きcoffeeのみ(100)て別れ、お茶の水をへて筑摩書房。 武本氏に会ひNon-fiction全集の印税ののこり貰ひ、18巻(※『西太后に侍して』)2冊買ひ清算してもらふ(51,765-7,474=44,291)。 出て西川に電話し、仁谷氏のところきき(銀座西新義産業ビル内芙蓉開発)、地下鉄にて西銀座。 ゆきて依子就職中の礼いひ、嬢の聖心女子大2年、お宅の成城町、北京の旧居は南長街なりしことなどききてのち退去(『果樹園』と『西太后に侍して』とを礼とす)。 近くの福助なるすしやにて、わさびきかぬすし食へば600! 出て西川の会社まで歩き、坪井の宿に連絡すればもはや帰りゐる。すぐゆくといひ、明神前で下車。訪ね訪ねしてゆき悠紀子に電話して「来よ」といひ、矢野、丸に電話す。 あす帰阪と。西川来り、悠紀子9:30来るを待ちて西川の自動車にてすき屋橋。地下鉄にて渋谷に出、喫茶して帰宅。 10月18日 9:30ごろ悠紀子さそひて出、佐藤dr.にゆく。「注射やめん。酒もう少し待て」となり。 「丸善」にゆきて悠紀子と会ひ、雑煮くひてのち、別れて井之頭線。下北沢で『Heine恋愛詩集』買ひ、小田急にて新宿をへて目白。 Schinzinger先生を官舎に訪へばお留守。婢「あす午前中お宅」と。 Heineおき名刺おきて出、大塚の矢野昌彦の会社へゆけば昼食時にて矢野他出と。答へる女の子の失礼に怒って出、coffeeのみてのち西武dept.。 文化Hallに宮崎智慧氏訪ひ、不在をよんでもらひ、われは餻子くひ(100)、ice-creamおごりて『日本歌人』との話きき、東博氏との喧嘩きく。 出て立教大学の教務に挨拶。会計にて9月分の手当もらひ、手塚教授に会ひてのち、教室へゆけば久保生と高木女生。誘ひ出して喫茶。 次週は体育祭と。別れて渋谷に出、吉田賢抗『支那思想史概説(20)』買ひ、浜田山にて下車。三水会欠席の電話し、吉祥寺にて藤田元春『歴史地理(60)』買って帰宅。 『東洋史研究20-2』来り60円不足と。矢野より電話かかり、熱海行準急券買ふとのことに「Schinzinger先生の都合わかりてのち」といひ、女の子のこといひて愉快。 10月19日 9:30成城大学へ登校。Schinzinger先生に電話すれば「出席」と。 喜びて「11月3日午后の時間確定すればまた連絡申上げる」といひ、矢野の会社に電話すれば未出勤。 きのふ河野照子生より電話ありしといふにかければ「class会する」と。26日16:00よりとほぼきまり、そのあと短大の漢文。すみて11:00昼食。 矢野よりの電話きき1等の準急券3枚買ってもらふこととす。13:00すぎの汽車と。 そのあと渡辺、中谷の2生と喫茶。あと史学研究法の下調べし、15:00すませて聖心女子大へゆけば「答案お宅へ送りし」と。 出て渋谷。宮益坂の古本屋へゆかんと中華そば食ひ何も買はず『37年度運勢暦(100)』買ひ、菓子買ひて帰宅。 大江久美子より「太宰全集にて金なくなる」と。林叔母より写真の受取。藤井生より欠席のわび。 夜、聖心女子大より答案の書留速達。 けふ悠紀子、額縁(200)買ひ来り、父の遺影を入れる。 10月20日 曇。あさより「北京(半自叙伝9)」20枚、11:00書き了へしところへ小高根太郎君よりハガキ。 「北京の評判よく日経学芸部の日根君から電話でほめて来ました。林富士馬君からもほめて来ました」と。ふしぎ。 Y(今baksiを仮称)の文竜撲りしところにて了り、橋川博士訪問はかき了ふ。 矢野より電話「classの名簿作れ。11月3日12:55の準急券手に入れる。寮歌集たのむ」と。 大阪の硲君(※硲晃:大阪時代の教へ子)に借用の速達書く。 午後、微雨の中を出て浅野邸へゆき、夫人に勇談し、昔に帰りしといはる(速達2通を八町郵便局にて出す。30+60)。 浅野dr.の帰宅せしを見て11月3日の大体を報告し、三鷹駅前にて買物。 平田へ傘借用に悠紀子をゆかせ、古本屋にて『上海漫話(50)』。われも平田にゆきともに帰宅。 本田喜代治先生へ「11月3日おひとりにて起雲閣へ」と手紙。 (咸子の夫槙口、喧嘩して勤め先やめしと)。 20:00すぎ中沢晴代生より電話「日曜class会するにつき見舞に来る」と。ノイローゼいひてことわる。 10月21日 雨。9:00にあはてて出、9:49下北沢より準急。 漢文すませクロちゃん(高橋通子)の卒論のテーマを「東南アジアの宗教とキリスト教」ときめさし、篠原部長と鎌田女史とを会はせ、 月給もらはずに出、東洋文庫にゆき(途中、正宗、鯨岡、水谷の3生と同車)、13:00よりといふ坂野正高氏の「清国行政法について」を13:30よりきく。 田川、神田、阿南の諸氏に見舞いはる。15:00すむを待ち、出て巣鴨(途中、駕籠町の岡埜にて汁粉くふ)、新宿、下北沢をへて帰宅17:00。 佐藤dr.にも寄りて薬もらひし。西宮一民氏より香奠返しの受取。鶴崎祐雄生より手紙。梅田ゑい子の随筆のりし雑誌来る。 (けふ松本善海の話出しにより、駕籠町にて電話すれば嬢出て18:00帰らずと)。 10月22日(日) 雨。吉祥寺教会へゆく。夫人牧師のお話よろしかりし。 〒なく、日野月先生へわび状。保田、梅田ゑい子夫人へハガキ。 夜、class名簿を作り、横山薫二の職名を片根令嬢にききにやれば「次長か」と。 10月23日 8:00ごろ史より先に出、成城大学。2時間目の中国文学のprintに「杜子春」きり、野崎副手に刷ってもらふ。 楫西博士より電話、来訪とのことに12:00待てば「臼井教授の長女と話あり」と。(そのまへ高井洋子に電話して神戸生に連絡せよといひし!)。 よき家族よき嬢なりといひてすみ、salaryもらへばbase-upしをり。 野田、高橋2氏と会ひ4時間目30分にてすますこと約せしに、東洋文化史の時間、正宗・水谷の2委員15分間相談す。 講義やめ出席のみとり「白樺」へ高橋氏誘ひ、野田氏若菜東尾生つれ来しところにて出、梅ヶ丘の「麥」へゆき、鴎外『稲妻(250)』、『埋もれた古代中国 : 明器(80)』買ひて帰宅。 平中苓次氏より11月2日の京都にての会に出るやと!(東方学会よりもまた。いづれも「出ず」と答ふ)。依子より手紙。 10月24日 藤井祐介、浅野晃氏へ近況。(きのふよりいぼ痔とわかる)。 11:00出て中村嫗と途で遭ふ。(小高根二郎君に同人費1千円送る。) 昼食にと下北沢で下車すれば中華そば屋あけず、饅頭2ケ買ってゆき1ケ食って相馬生と会ひ、卒論の章わけやらしをれば高井生来る。 早くすませ図書館にて廃棄なきや問えへば「無し」と。出て山田教授と同車。経堂で下り下高井戸まで歩き中華そば食ふ。16:00すぎ帰宅。  平凡社より「赤字3千円余、今度の稿料2,900にては払へず云々」。本多慈子生より見舞状。依子にけふ小包速達とせしと(230)。 10月25日 本多慈子へ礼状。田中久美子へヱハガキ。 9:00渋谷より地下鉄にて本郷3丁目(新運賃にては40円となると)。時間早きゆゑcoffeeのみ(50)、 『海潮音(50)』買ひして文学部3階研究室へゆけば後藤均平君をり、これも胃潰瘍やりしと。 神田、阿南、岡本、岡田の諸氏とにて6人。田川、宮原の2氏は朝鮮学会にゆきしと!(神田教授11月3日に京都へゆくと也)。 すみて(わがもちゆきし東亜輿地図は不要なりし)阿南君さそひて昼食。おごってもらひ、夫人近々寿美病院へ入る。 11月13日?に防衛大学の文化祭に呼ぶ。 麓保孝氏(※防衛大学図書館長)博士となるなどきき、琳琅閣にて『撫順史話(100)』見付けて贈り、『道教と神話伝説(200)』買ひ、 木内書店にて『大東亜の民俗と文化(20)』買ひ、菊坂にて愛新覚羅慧生のLove-letter集(100)買ひて金なくなり、また地下鉄にて渋谷をへて帰宅。 硲氏より『寮歌集』来をり(郵税190にて夕陽丘予備校の寮歌集10冊も同封)。 大江房子より「依子どうした。おぢ様の体悪しと浜松できいた故近々見舞にゆく」と。 鍛治初江氏より倉敷のヱハガキ。ついで梅田ゑい子生より「依子の婿に心当りあり、条件しめせ」と。 21:30速達、NHKより「井上靖氏の詩を語るは30日13:30に延ばした」と。 10月26日 9:00出て成城大学。松崎女出勤。昨日「河野氏より電話、class会に出よ」とありしと。電話かけしもかからず。 短大の漢文すませ(けふ研究室に椅子と卓のset入りをり)、今井氏より「明日京都へ出張」ときき、 ついで加藤生(龍蛇のこと卒論にしをり、本貸す)、西沢生と話し「大唐三蔵取経詩話」printに切る。(史学研究法すませて相馬生と紅茶のむ)。 16:00千歳船橋駅へゆけば悠紀子まちをり、河野(浜谷)邸へゆけば山本恭子、増田幸子(巨人軍の外野手が夫と)母子、竹内敏子とをり、 やがて井上律子来るを待ちて牛鍋。あす山本恭子妹実子の式に帰阪と。妹の嫁ぎ先は吉野の在林家へとか。 19:00矢野に電話すれば光子嬢出て研究室に来るを忘れしと。駅までとりに来るとなりしも、千歳船橋駅前より電話してもちゆくこととす。 20:30ゆきて書類わたし、土曜切符受取ることとして帰宅。 大江久美子より「31日来訪の予定」と。齋藤はるみ生より「11月10~11日に上京」と。ふしぎなることかな。 (けふ悠紀子、母に2千円与ふれば仏壇に供へしと!日銀旧友会に1万円寄附せしといひし由)。 10月27日 雨。角川書店より『Heine恋愛詩集15版』を11月上旬に出すと。検印紙2千枚を速達。 聖心女子大の採点を10:30まで行ふ。坪井より「名古屋へ寄った。理丙の写真同封」と。 硲晃氏より「寮歌集返却に及ばず。お世話になった。いつも颯爽としてをられた」。 浅野晃氏より「病気のこと知らなかった」。 昼食し、12:30ともに出て(依子より居住証明書の間違った生年月日につき速達来り、市役所出張所にてらちあかず北区役所へゆくこととなりし也)、 われは井之頭線にて渋谷。公衆電話にて大江勉に電話すれば中々かからず「房子の見舞とりやめて下され」といひ、依子の世話になりをるをいひてすむ。 聖心女子大へゆき教務に採点とどけ、小林氏より10月分の手当もらひ、広尾橋より都電にて専修大学前へ出、 山本書店にて『元典章辞典』注文し『剪燈新話(180)』、『元劇俗語方言例釈(140)』買へば、後者はdoubleなりし。 それより中央大学前のcard屋さがしにゆき『国訳一切経』見つけて問へば3.9万と。あす電話するといひ、card(120×2)200枚買ひ、 お茶の水の地下鉄駅に出て渋谷をへて帰宅(juice(60)をのみし)。 天理より『Biblia20』と『善本写真集16,17』来をり!館員消息に結婚また見え、Con嬢(※不詳、八木嬢のことか)の苦しみを思ふ。 夜、矢野より電話「あす、嬢に切符もちゆかす。文乙の出席者の名をあげよ」と。 10月28日 雨。角川への印紙と硲氏への礼状と速達にして登校。 矢野光子嬢、熱海行の切符2枚もち来しゆゑ、schinzinger先生に電話し、3日11:30に迎へに参る」といふ。 倭周蔵に電話すれば忙しとて出ず「11:30にかけよ」といひ、漢文に出る。 すみて待ちしに中々かからず。小高根太郎君へゆくとて田中久夫氏またし(高田瑞穂氏にきのふもらひし天理の荷風本写真与ふ)。 12:00まへかかりしに自動車よこしてとりに来るとのことに13:00まで待ち、田中久夫氏に小高根家へ先行きたまへといひ (きのふ約束せし『国訳一切経』3.95万円にて送れと電話せし)、教務へゆけば先ほどゆきちがへとなりしと。 外へ出て見れば運転手見つかり、写真わたし経堂までのせてもらふつもりなりしも住友社宅前とほりし故、下りて大江房子に会ひにゆけば正平もをり! 久美子30~1日までといふ故「1日に来よ」と伝言たのみ、小高根家へゆき見れば太郎不在。田中氏もそのまま帰りしらし。 経堂より新宿へ出て、柏井へ電話すれば「悠紀子来しところ」と。ゆくといひbusにてゆき、尚子と話す中、中村嫗来り、俊子姉裏磐梯へゆきて不在と。 数男に5千円(電気洗濯機代)托して出、荻窪までbus。われ南口の古本屋にゆき『変態・資料(3冊100×3)』と『源義経(200)』と買ひ、吉祥寺にて悠紀子に会ひて帰宅。 筑摩書房より『現代詩集』1500部を愛蔵版(470)にて出すと。織原氏より5日荻窪「こけし」にて14:00より披露宴と。 矢野昌彦より電話「出席者名簿に横山なし」と。あやまりてすむ。 21:00入浴。(古きcardみな使ひてすむ。快し)、体重39キロ。 10月29日(日) 久しぶりに快晴。9:30出て靴屋に寄りしあと教会。 宣教せよとの意味の説教にて我には向く。すみて「丸善」に悠紀子寄り、5日14:00「こけし」での織原令息披露宴の服求む(5,900)。 買物しつつ帰り小高根二郎君の原稿並に同人費受取。 齋藤はるみの「読売新聞の表彰式にと17日港区「奈良」に1泊、電話かけよ」とのハガキを見る。 午后、木村三千子氏より松茸1籠賜はる。 10月30日 よべ夜半めざめ睡眠不足なれど万年筆わすれて出てゆく。 松崎女われを見ずものいはず。『熊廷弼』写抄し(長与善郎氏73才で昨夜逝去と)、中国文学史に「大唐三蔵取経詩話」やる。 13:10放送室へゆき(藤井生と喫茶)、30分よりの井上靖「詩について」きく。伊東、我、安西と3関西詩人の作1つづつをあぐ。 中途にて帰り(山本書店より『元典章語彙そろはず』と)、東洋文化史やり、すみて高橋邦太郎氏にさそはれて「オリッサ」といふへ再びゆき、 水谷、正宗2生と一緒になり水谷生を紹介す。近所なりと。 出て下北沢下車。『通俗世界全史16(10)』、『日本の新興宗教(20)』買ひ、佐藤dr.に寄り薬もらひ、痔の治療に勝田dr.に紹介の名刺かいてもらふ。 Douglas『ソ連紀行(30)』買ふ。悠紀子「Gelbe Sorte(※タバコ)」2箱買ひ呉る。 保田より「この間上京したにつき熱海にゆけぬ云々、汝の病気は云々」。木村三千子氏より松茸の送り状。 本多慈子生より手紙。高松直子より「丸木姓となり大岡山に住む」と。 10月31日 10:00、熊廷弼・楊貴妃・楊国忠・李永芳の4項を『アジア歴史事典』のため書き了る。 木村三千子氏への礼状とともに中道郵便局に出して登校。速達来をり『国訳一切経』送り状なり。 相馬来ず、松村達雄の講義にゆきしあと退屈してprintに「三国志演義」切りしに、来週月曜は休みとわかる。 鎌田女史と会ひしあと三野生来り「神功皇后」を卒論のthemaに選びさうになる。 足立、本間、吉川3生も来り、西沢生来て変となる。 教授会。今井氏欠席(京都へ出張)。大藤教授と「来年桜田氏を呼び西洋文化史を固定ささん。年中行事の参考書買はん」などいひ、『成城文芸』に中国の年中行事をかくといふ。 主任会にて椅子机setに文化史6万円負担と決まる(けふ森田順子(4D)退学願を出し認めらる)。 出て、下北沢下車。金なくて大地堂に350ほどたのみて帰宅。 日野月先生より「年よりぶるな」と。塚本康彦氏より「保田について書いた」と。 依子より「大阪の友だちに会へず」と。『台湾青年2.28特集号(50)』買ひて帰る。入浴。 11月1日 7:30ごろ起きれば史も起き、珍し。 9:00散髪にゆけば満員。帰りて大江久美子と田中正平の姉弟来るを迎へ、話すところへ畠山ノリ子君より電話、「13:30来よ」といひ、 悠紀子と4人にて太宰治の墓へ参り(往復ともtaxi120×2)、帰りてすし食ひ、太宰の第一次の心中の真相きく。 『悶々日記』の小山清の解説に「このみちを」をわが作と記しあるを見る(塚本氏の保田論ひろひよみし、保田と太宰の近似をいふに感心す。Dadaismなるらし)。 14:00畠山姉弟来り、久美子ら出てゆく。夕食せしめ弓子の三井銀行よりの採用電報来ざるを少々気にす。 (けふ『満文老檔Ⅴ』来り、アジアアフリカ作家会議より韓国の新聞人3人の死刑に反対の署名するや否やに、すると答へし)。 21:20丸より電話「風邪ひいてゐる。熱海の宿しらせ」と。(太宰の墓より出しところにて阿南惟敬氏に遭ふ。夫人あす飯田橋の国立に入院と)。 深更、鶴崎、浜谷(河野)弘子2生へヱハガキかく。 11月2日 9:00成城大学へゆく。下北沢より富永次郎氏と同車。Gelle Sorte買はす。 短大の講義すませ福島県の吉成より文化史コースに来し小包(林の由)を野口生に引取らせ、 栗山部長に来年民俗学の講師1名と西洋文化史の松田氏一年講義とを認めてもらひ(昼弁当くひ)、Schinzinger先生に電話すれば無人。 出て下北沢下車、大地堂にて『南方民族誌(100)』、『南方開発史(150)』と『文学散歩9(80)』ととりて帰宅。 大安の書目来をり、原三七編今西文庫目録をのす!(『初刻拍案驚奇』の年中行事のnote了る。) 硲晃氏より見舞状。塚本康彦、丸木(高松)尚子2氏へハガキ。けふ矢野光子生に遭ひ父への伝言たのむ。 15:00また買物に出、藤井書店にて『樺太地誌(180)』、『東北犬歩当棒録(150)』、『歴史地理朝鮮号(180)』、『絵図玉嬌梨(80)』と買ひ、『讃美歌(50)』買へば旧版なりし。 佐藤dr.にゆき薬もらひ(写真現像17:00とのことにとらず)て帰り来る。 けふ京、相模湖へ遠足にゆきヱハガキ買って呉れる。よろしき家庭となりし。 20:00三井銀行より弓子に速達「合格、受付案内担当」と。 11月3日 9:00悠紀子と出て「らかん」写真店にゆく。Film中断のため15枚のみ焼付出来。 目白へ10:30着き、古本屋にて『朝鮮の今昔(100)』、『北豆小誌(100)』買ひ、11:00すぎSchinzinger邸にゆけば(学習院も文化祭)、夫人、令妹、子ら2人とみな出られ写真とる。 すぐ出てtaxi拾ひ東京駅(300)。Lunch摂る(300+250+100)。 汽車来る前にplatformへ出、12:40ごろ来し「いづ号」にのれば矢野をり(先生蜜柑を買って下さる)、 Gelbe-Sorteを先生に供し、佐々木喜市氏の批評きき、熱海着14:30(横山薫二も同車)。 (※大阪高校同窓会)taxiにて起雲閣に着けば(160)、山本治雄、川崎菅雄の大阪組すでに着きをり。 部屋割り矢野やり呉れ、入浴し、18:00より宴会(LA(※文甲)矢野、江間、相野、竹内、谷口、前田、室7人。 LB(※文乙)鎌田、川崎、紅松、後藤、田中、西川、原田、山本、横山9人。 SA(※理甲)奥村、鳥居、長谷川3人。 SB(※理乙)浅野、五百井、湖東、森、山本行常5人。 SC(※理丙)河田、内藤、福永、倭4人の29人)。 自己紹介し、日野月先生の手紙を矢野朗読し、撮影し、唄うたひなどして20:00芸者かへせしあと(江間、矢島弘一の犯気を披露す)また入浴(西川ほどの白髪を見す)。 囲碁将棋して就寝(鎌田、谷口は先帰りし)。われ、竹内、相野と同室にて竹内にHyminal与ふ(相野、附属小学の校長となりしと)。 p17 11月4日 11:00覚め、早帰りする西川、横山(娘婿はたして北杜夫なりし)を送り出し、朝食、写真とり10:00両先生(お車代として2,500,1,500)に干魚(500×2)わたし送りにゆき、 熱海銀座にて別れしあとGelbe-Sorte見つけ追ひかけて進呈。 われ矢野より立替1千円返却を受く。われも1箱買ひて宿へ引返せば皆出るところ。 東京へ電話する山本まつ間にLA組ゐなくなり、山本、川崎、紅松と箱根へゆくこととなり(山本、現夫人との新婚旅行におぼえある「お宮の松」の前にて撮影)駅までtaxi。 地図買ひて川崎、山本に与へ(80×2)遊覧券川崎に買ってもらふ(550)。 箱根山中にて霧となり、元箱根にて親子丼食ひ、芦ノ湖を船にてわたりrope-wayは霧中(33分間)、強羅へ下り日銀の仙石寮にゆく3人と別れ(山本にGelbe-Sorte贈る)、 湯本にて小田急にのりかへ、下北沢(190)にて丸に電話。2人の来ざるをいひ、吉祥寺下車。 雨降る故、丸善より電話、上の食堂にてcocoaのみて待ち帰宅。(本庄先生への菓子送りを宿題とす)。 田中久美子より正平の翻意できざりしを悲しむ手紙。悠紀子銭湯へゆく。 史より電話「あす7:00におこせ」と也。(母より電話あり「京都の隣組の写真くれよ」とのことに悠紀子焼増したのみしと)。 11月5日(日) 史7:00前かってに起き、悠紀子permanent-waveに出てゆく。 われ久美子、坪井にハガキ書く。教会へゆき聖餐式をはじめて見る。 谷川真佐枝生より見舞状。帰りてinstantラーメン食ってのち武蔵野祭とて賑ふ駅へ出、西荻窪の「こけし」にゆけば織原夫妻すでに在り。 正昭新夫婦に祝いひ、その向ひに坐り14:10ごろ来し平林、田中、和田の3友すべて単身、浅江夫人のよく勤むるに感心しつつも困る。 16:00織原氏先妻の父君たつをしほに了り、丸に電話すれば「仕事中ゆゑ会へず」と。 悠紀子と別れて古本屋、『魏晋南北朝通史(450)』買ひ、busにて吉祥寺「らかん」に現像たのみて帰宅。 深夜(1:30)悠紀子ゆきみれば史、帰りをり。 11月6日 曇。きのふの披露宴のこと不快。本庄実先生への小包造らせ手紙かく(200+10)。 悠紀子も依子あて書留小包出す。そのあと入れちがひに大江叔母より手紙「記録のことは咲耶にいった」と。 『果樹園』69号。集英社より「新築落成祝を27(月)16:00~17:00に」と。 大高倶楽部より寄附金応募状況「L7Bは15人13口」と。 悠紀子、渋谷へ写真とどけにゆき、われ午睡せんとせし処へまた郵便 畠山敬子嬢より「翌日御親類の方と一緒にとなりし」と。 17:00悠紀子帰来。熱海の写真15/36枚(150)。概ね不要のものは写らざりし也。 (9月24日の山口翁写しの宝国寺の焼増し貰ひ来る。) 11月7日 晴。福地邦樹、天野忠の2詩人にハガキ。いづれも礼状也。 10:00出て吉祥寺中休みなるに気づきしも駅前のcamera屋にて焼増したのみ、千歳船橋駅前より浜谷生に電話して「来よ」といへば、姉照子(京谷夫人)来てをると。 中途までゆき写真わたし、ゆきて母君に挨拶し、大阪外大のIndonesia語講師夫人に挨拶し、中西教授を教へ子といふ。SumatraのMedanの人に嫁ぎし也。 弁当たべさしてもらひ12:10出て成城大学。 相馬生「新城氏の集中講義に出る」と。元典章の字引3冊来をりしを、われに引取り、請求書かき、 『醒世恒言』の訳(辛島驍博士の)見などして時間つぶし、15:50より大講堂にての学科指導。 相良教授にhumoresqueとほめられること去年に同じ。(新城氏来り、本1冊もちゆき近々わが家へ来るとのこと也し)。 帰れば袴谷太郎氏より「北京」よんだ。Victorやめた云々。田中雅子より「10日ほどすれば電話つく」と。 羽田に元典章の字引の1なんとかしてくれとハガキかく。 11月8日 9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目(11月1日より渋谷間40)。 文学部研究室3階につけば10:30にて田川孝三氏のみ。朝鮮学会のこといはず。ややして神田、岡田、松村の諸氏来り、岡田君よむ。 すみて羽田の来るやもしれずときき琳琅閣にて学校の本注文し、本郷3丁目にて昼食し、地下鉄にて池袋(これも30値上)。 研究室の山田君に史学会に出席いひ、6号館にゐれば手塚教授来り、別枝教授より原稿念を押さる。 10月分手当もらひ、タッカーホールの教授室にて久しぶりに菅元部長に会ひ、令弟祝四郎氏のこと訊ぬれば三井鉱山勤務と。 ウーロン茶のまされて久保・高木2生に金元の戦講じ、飯島へゆき山田福田2氏の対談のせし『解釈と鑑賞(100)』買ひ、 『日本の染織(70)』、『中国陶器(80)』買へば後者はdouble。 『学習院文学部研究年報2(10)』買ひ、ぶ新本屋にて『文学アルバム太宰治(200)』久美子のために買ひ渋谷をへて吉祥寺、焼増しとる(465)。 (夜、シンチンゲル、本田2先生、原田、山本、紅松、川崎、湖東の諸友にと包む)。 久美子より手紙来をり、ふしぎ。 (けさ集英社より速達「鈴木豹軒先生の文化勲章受章祝賀を14日17:30学士会館にて」と、出席と返事す)。阿南君の夫人けさ手術したと。 11月9日 4大学体育祭とて休み。朝〒なし。『成城文芸』の原稿かけさうにてうれし。 13:00出て三鷹。悠紀子、平田家へ傘返しにゆき「岡山伯母の13回忌に船越章出ず」ときき来る。 われ古本屋まはり『韓国読本(50)』、『皇帝溥儀(80)』買ふ。午后も〒なし。 写真を2先生5友に送り(送料70)てすむ。久美子へ『太宰治』送る(50)。 11月10日 晴。Note作り10:30了り、昼食して出てゆき、聖心女子大にゆけば訓示あるらしく13:30まで学生をらず。 1時間目、太宰の話さされ、2時間目わりあひ講義出来、疲れて出、不二歌道会へゆけば影山主宰をり、 長谷川氏と2人に不眠症なほりしをいひ「恋愛するぞ」とひやかされて出、Bacdeker『Spanien u. Portugal(130)』買ひ、疲れて帰宅。 (東横dept.にてゆきがけ「Gelbe-Sorte」1箱買ひし)。 鈴木亨と西垣脩2氏、あす小金井にての会に出よといひに来しと。のちほど鈴木より電話ありしも十二指腸のレントゲン検査いはしめて断る。 また電話、山田生より「史学研究会のことにてあす来る」と。 11月11日 10:20山田生来り「史学研究会は文科的行動」と池辺助教授に叱られた。大藤・今井2氏とも同じと。『ソ連旅行』と『中立主義の研究』とを貸して帰す。 共青(※共産青年同盟)の北区責任者となり脱党せしと。久美子より「本代しばらく貸せ」と。 依子より「ぢいさんばあさんにとぢこめられをり」と。 14:00出て荻窪の古本市。『高砂族の話(130)』、『南方随筆(150)』、『朝鮮貴族略歴(100)』、『台湾陣(100)』、『鄭成功(稲垣其外)』おまけにつきをり。 15:00悠紀子と吉祥寺にてまち合せ帰宅。史、けふ役所の連中と旅行とて帰らず。 11月12日(日) 8:00まへ起き(よべ2:00ごろ久しぶりにHyminalのむ)、9:00家を出て教会。帰れば本田、シンチンゲル両先生より礼状。 11月13日 晴。寒き風吹く。成城大学へ登校。琳琅閣より本つきをり。中国文学史すませ3Dに香資の礼いひ、卒論のthemaきめよといふ(三国志演義やる)。 昼食し、野田宇太郎氏より「詩いらず(井上多喜三郎氏かきしと)、田中正平伝1月までに」ときき、 三野生の「神功皇后」やりたしといふをきき(生女姜と往きに同車、これにも韓国史やれといふ)、東洋文化史すませ、 「大安」より『癸巳類稿(480)』、『中国郵駅史料(140)』、『清代碑伝文通検(1,000)』来をるをとり(もち帰り検すれば碑伝文はすでにもちをり!)、寒風の中を急ぎ帰宅。 山本治雄より写真の受取。福地君より「詩かけず」と。 滋賀新聞より電話「金曜までに400×4」と。 11月14日 晴。寒し。12:00まへ成城大学へゆき図書購入の手続などす。 12:30相馬生来り、卒論かきをり黒澤明productionへ入社の試験受けると(あとにて今井氏世話しゐることわかりし)。 ともに茶のみにゆき(110)、高橋、猿渡の2生のため『東鑑』よみやり、松村達雄と話して教授会。 池田勉氏、東洋大学博士となりしと(赤坂全七2D退学せしと)。 すみて文化史会やり、民俗学専攻が主体ときく(山田生の歴史研究会を問題として也)。 松田氏を毎年兼任とすること、民俗学に兼任講師おくことなどきめしあと、今井氏「山内清男氏を専任にしたし」といひ懸案とす。池辺の無礼ありて出、17:30学士会館につく。 鈴木豹軒先生われをわすれ玉ふ。今関天彭氏、耳聾してひとりしゃべり玉ふ。 すみて齋藤、蒲池、辛島驍の3氏と喫茶。50円のcoffeeのみて20:00までをり、別れて都電。渋谷をへて帰宅。(喫茶の代200われ払ひ金なくなる)。 原田運治より礼状。 11月15日 紅松一雄より写真の受取。久美子より『太宰治』の受取、「墓前の写真くれ、正平とは義絶ゆゑもらへず」と。 睡眠剤のためか頭ふらふらし、昼寐せんとせしも不能。 13:00すぎ出て立教大学。久保生ことはりいひて休み。林、高木2女生に教へてのち喫茶に誘へば「忙し」と。 手塚教授に会ひしあと、飯島書店にて『国語改革論争(70)』、『猟奇画報2-4(40)』、『日本地理大系近畿篇(100)』買ひして時間つぶし、地下鉄にて国会議事堂前(40)。 宏池会へゆけばteleviをやりをる。外務省中東課長原氏の話と。 18:00すぎはじまり、佐藤、高山2氏欠。22:00まで付合ひ、浅野氏と渋谷まで同行。『春の日』金なくて出ずと。23:00帰宅。入浴。 村上新太郎氏『歌集 李愁』贈らる。 11月16日 寒し。9:00出て成城大学。唐詩選五言律詩了り、昼食し、久しぶりに栗山部長と話す。 そのあと成績票とりに来るかと待ちし3D来ず。宮崎氏と話す。史学研究法すまし、琳琅閣の請求書受取り「大安」の3冊を図書館にわたす。 (身体検査受けしに前にゐし尾上氏45キロ、あとに来し臼井氏82キロ。十二指腸潰瘍は1年かかる由)。 西沢、渡辺、川本静江、石渡4生さそひて資生堂にゆき喫茶(250)。 (けふ成城にてもGelbe-Sorte買ひし)。佐藤dr.にゆき薬もらひて帰宅。 本庄先生より「菓子受取った。5年ほど前軽い脳溢血にて在宅」と。中村書店の目録来り、『詩集西康省(700)』、『大陸遠望(200)』、『神軍(150)』と。 16:00楫西博士来訪「臼井教授令嬢大きすぎ年25才にてだめ」と悠紀子に伝へしと。 母より「大ゐなくなるゆゑ弓子泊りに来てくれ」と。 琳琅閣より来し『台湾叢書1~3(3,000)』、『大中華京師地理志(500)』、『正倉院考古記(370)』持ち帰る。 個人研究費より払ひもらふ也。 夜、「伊吹おろし」4枚かく。 11月17日 大江久美子より「[万]美子にわびた。Bibleよみをり」との手紙。 今関天彭先生より「会ひたし。『雅友54』奉呈」と。11:30昼食とって出、聖心女子大。 2時間すませ渋谷より地下鉄にて赤坂見附「奈良」旅館にゆきしに未着(16:00也。そのため東横dept.にてまづき松茸うどん(80)くひゆきし)、名刺に「電話せよ」とかきて帰宅。 15:00ごろ滋賀新聞来り「少なすぎる」といひしと。(吉祥寺北沢書店にて『民族(50)』買ひて帰る)。 20:00柳野君より電話「6枚しかなかった」と。 しらべるになし。仕方なくあとにて補充することとし、やがて齋藤はるみの電話きけば「すぐあと着いた。あす成城大学に電話する云々」。 21:00まへ柳野君よりまた電話、原稿よみて筆記さす。 21:30渋谷より電話、悠紀子にあす10:00下北沢へ来てくれと也。 大、関西旅行中にて弓子、けふより泊りにゆきをり。相馬の父(大館市、勇一)より林檎一箱賜ふ。 11月18日 9:00出て成城大学。短大教務の山高女史「会ひたし」といふと。 きけば福田氏の手紙わたされ妊娠して事業延期となりし人妻生のこと。「のちに会ひて」といひ、漢文すませ昼食し、 齋藤はるみの電話を13:00まで待ち、正宗、水谷の2生と話す。かからず。 両中を出て代々木上原下車。古本屋見てのち「紅谷」でエクレールと紅茶。そのあと立教にゆき、中川助教授の平泉の話きき、海老沢氏の話きく。 すみて石井孝博士の講演きき退屈す。そのあと懇親会。一向につまらず。(松浦助教授に松田氏に会ひたき旨いふ)。 20:00散会。明治生命の朝倉課長と石井博士と同車。石井氏大高教授たりしと。 帰れば鍛治君より見舞状来りをり。齋藤はるみ電話かけ来り「14:00までカン詰となりし。あす13:00ごろ電話して1時間来る」と。 (けふ佐藤君に締切24日までのばしてもらひし)。 悠紀子、母と会へば下北沢に家見つかりしとてゆきしに話ちぐはぐとなりしと。千草、姑と喧嘩しゐると。 (けふ矢野光子に会ひ写真わたす。文化史にきめしと。10人になりをり)。 p18 11月19日(日) 7:30目ざめ、9:40家を出て教会へゆく。(来週は参れぬことわが残念なり)。 すみて一旦帰宅。齋藤はるみの電話まち洋服のまま眠りをれば、千草来り、「大、結納おさめの為西下せし。買ひ与へし指環20万円云々」。 不快となりをるところへ齋藤の電話かかりし故、迎へにゆく。21:45の汽車に乗るとのことに家へつれ帰ることとし、悠紀子、買物の間喫茶(100)。 夕食せしめ夫婦して送りに駅までゆく。悠紀子東京駅までのつもり也し。 帰途よくきけば、千草ダイヤの指環の件を自慢にて語りゐる也と! 史、先輩が大平長官の女との結婚の祝にもらひ来しクリスタルの灰皿くれし。けふ鍛治嬢に近況報ず。 11月20日 よべHyminalのみ8:00起き、あはてて仕度し、10:00成城大学。『水滸伝』よみ3Dよびて成績表わたし、本間生と卒論thema話す。 昼食し、川本、西沢2生と林檎くひ、西村生の卒論「酒」とのみにて何も出来ざるをきく。 醸造史とせよといひ、相馬生来しにきけば黒澤productionは人採らずと。 林檎の礼いひ卒業せよとすすめしあと、学生会のすまざるを待てばRugbyの練習中なりしと。 青木生ら16:00来る。ともに準急にて新宿、喫茶店カトレアにゆけば皆まちゐし模様。 紅茶とsandwich食ひ、会費とられず18:00すぎ早退して帰宅。 依子より大江叔父の姪、離婚して来ると(20才)。東洋文庫の箕輪氏70才の祝せよと。川崎菅雄より写真の礼。 11月21日 曇。11:00出て成城大学。文化史専攻志望31人と。 『金瓶梅』中の捲棚を「すきや」と訓じあるを見、相馬生来をらぬゆゑ(『清史』7,8来る)、13:00出てsalaryとり、山田俊雄氏とともに井之頭線。 吉祥寺にて14:00なりしゆゑ、家へ電話せんとすれば悠紀子に頭叩かる。 けふ第3火曜とて店みな休むゆゑ一旦帰り、久美子の手紙(太宰治全集の解説す)と岡崎隆衛氏の「住所しらせ」とのハガキ。『東洋学報43-4』みて三鷹。 ここも休みなれど『太宰全集9』ありし店にゆけば売れしらしく『世界の古典語と名文句(80)』かひ、 三鷹書林にてハルトマン『蒙古シベリア踏破記(100)』、『三民主義(50)』、『台湾実況(30)』買ひて帰り、夕食後21:00までに『成城文芸』の原稿27×24×8としてCingis汗に移る。 (けふ和田夫人に夫婦して遭ひ「弟君転任ほぼ確実」ときく)(佐藤dr.にゆき明日夜、下剤かけることを看護婦さんにいふ)。 11月22日 雨。9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目。 coffeeのみ古本屋にて『沖縄への報復(50)』買ひて東大文学部3階の満蒙史料研究会。すみて阿南君さそひ昼食。 そのあと琳琅閣ひやかし木内書店にて『大陸征旅詩集(20)』、『支那の発見(30)』、『三韓征伐(50)』、『安南民族運動史概説(50)』買ひ(往きに長沢美智子に電話すれば「退学中止、卒論のテーマは山岳信仰とす」と)、矢野昌彦に電話すれば「忙し」と。 busにのり立教大学。11月分のsalaryもらへば丁度時間よくなる。3生そろひ、すませて誘って喫茶。英文の女生も1人来り(410)、帰り同車。 帰宅すれば「佐藤(古川)政記氏21日8:03逝去、告別式はあす10~12:00」と。 山下実子(桶谷)新婚旅行にアメリカへゆきしとBuffaloより。滋賀日々より19日の新聞3部(※湖国に寄せる「伊吹おろし」掲載)。 11月23日(勤労感謝の日) 風吹く。晴。『成城文芸』のための「元明小説中の春の行事」をかき、夜24×27×26とす。200字の85枚ほど也。 〒なく、夜、入浴せしのみ。けさ佐藤dr.に電話かけレントゲン検査のばしてもらひし。 11月24日 寒し。11:00出て岩崎、河村dr.に「滋賀日々」送り、東急食堂にてハヤシライス食ひ聖心女子大。 青山氏(※青山定雄)をり、京都・東京の会ともに(※羽田明が)われを「恐妻ガメツシ」と評判せしと! 和田先生のこと談りしのち2時間すませ、日赤の高阪氏訪ひしに不在。恵比須へ出て三鱗印刷にゆく。 これにて3つめと「年末刷上り可能」と。(東急より成城大に電話せしに佐藤君をらざりし)。 駅前の古本屋にて『古代の大阪(180)(複なりし)』、『南洋群島要覧(80)』買ひ(渋谷にてゆきに岩波文庫『三民主義 上(80)』買ひし)。 下北沢の大地堂にて『大東亜の生態(50)』、『中国近代史(90)』買ひして帰宅。 羽田より消息なく、齋藤はるみより「夫婦づれに恐縮」と。硲晃氏より午、電話かかり「夜またかける」と。 21:30硲氏より電話「あす学校へ」と。 羽田に「元典章放心(※『元典章辞典』安心)せよ。(※私に関する)悪い評判きくなら教示せよ」と。 11月25日 9:00出て成城大学。11:00までに中国文学すます。 そのあと硲君まちて正面入口をうろうろし、12:00かっきりに来たまひしを研究室へ案内、写真2枚とり「すみれ」へゆきて昼食(150×2+50×2)。 それより15:00ごろまで明くとのことに家へさそひ、吉祥寺駅より電話、 池辺にゆきて写真とり、家へともなひ、いろいろ話し『清史稿』2冊と『古代の大阪』『遊仙窟』など贈る。 親類の結婚で来て駒込で泊ると。(※自分についての)京阪の悪評はきかざるらし。 3人にて駅へゆき、神田の古本市にゆかずなり。阿佐谷まで送りて別る。 この15年せわになりしをたびたび謝し、認められしならん。 阿佐谷にて『北京の支那家族生活(200)』、『聚落史上の八王子(40)』、丸屋市川にて田村氏『満洲と満洲国(100)』、村上知行『北平(180)』、 ついで『太宰全集2(290)』、『東洋歴史参考図譜1-3(100)』買ひて帰宅。 けふ滋賀日々社より2千円来しと。1千円づつ分ける。 (阿佐谷より丸に電話せしに「大阪へゆきし」と。重俊生に「月曜研究室へ来よ」といふ)。 11月26日(日) 7:30めざめ、9:15出(写真機忘れ、とりに帰らす)、東中野下車。青原寺へ10:30着けば数男、俊子も来をり。10:45より読経開始。(われ之に不快を感ず。ふしぎ)。 11:30了り(大場、豊田両日歯の先生のほか、林(木下)理事長?も来をり)、中野「ほととぎす」へゆく。 普茶料理たべ14:30散会(賀代女史と平田一家多摩墓地へゆく)。 われらbusにて池袋。乾菓子(350)買ひ、十条下車。佐藤(古川)政記氏のくやみ。浅草の寺に夫人ゆきしとて留守の嫗2人にて脳溢血なりしと(48才)。 十条までまた歩くみち、いろいろのこと思出し、喫茶しながらミシン代の件、悠紀子にただせばはじめより定価わからず。われ勝手に1.8万円ときめしと。不快にて帰宅。 史、わが顔を見て席をはづす。22:00前より話して徹夜。 (けふ岡山伯母忌に来し広瀬夫妻の中、夫人はわが家に6ヶ月居りし少女と。悠紀子喜ぶ)。 p19 11月27日 9:30めざむ。6:00悠紀子起きてのち眠りし也。学校へは休講の電話すでにかけくれしと。 弓子へ三井銀行より父兄11日によこせと。 悠紀子14:00ごろ睡眠剤新グレナイトのみて眠る。われ保険、ミシン代払ふ。 16:30弓子帰来。京も同時。2人をすしやにやり、その持ち帰りしすし1人前くひて2人にて丸善(和田夫人に電話す)にゆき、 和田夫人にことわり(弟宅のこと)いへば「向ふもほっとするでせう」と也。 名刺あつらへ(30日出来)、帰りて硲君よりもらひしinstant-coffeeのむ。 史20:00帰り来しに「毎月4千円の食費いらず」といふ。殆ど外食なれば也。 11月28日 暖く、合over-coatに10:30出て成城大学。 昼食まへ『古今小説(金玉奴棒打薄情郎)』のprintきり、昼食しおへれば、高井、田島の2生来る。 卒論はげまし「白樺」へ喫茶にゆき(200)、考古学へゆきて丸重俊に「来よ」の伝言たのみ、山田生より茉莉茶台湾土産と1缶賜ふ。 茶のみcakeたべてわれのseminarに入るといふ姜に「朝鮮史の一問題」、高橋に「東南アジアの宗教の歴史的考察」、三野に「西紀前後の朝鮮の歴史」の題与へ、 丸生にテーマ出せといひ、本間生に明後日午前中に来よといひ、これにて一応すませ教授会。 文化史コース34人(男3人)、他に短大より4名あり丁度よしと思ひしに、英文の流れを貰ひ、各courseとも50人余りとなる。つまらず。 けふ見れば10月1日の決定にて休職中は原給の20%とわかる。 すみて主任会と思ひまちをれば、けふでなしと。(けふ委員会にて学長審議と)。 桜田勝徳氏を講師として呼ぶこと(松田教授は1月以後に決めると電話できまる)決定。山内氏は1時間ふやし、新城氏やめること今井富士雄氏申入る。 われ試験問題作製委員となり、一般教養の世界史は短大の藤本氏ときまる。 帰り雨ふり「丸善」の2階にてしるこ食ひ待ちをれば、悠紀子傘もち来りしころ雨やむ。 けふ角川よりHeine14rd.の印税(10,500-1,050=9,450)来りをり、「春の日」社新築のため延刊と。 (久美子に『太宰全集』小包にて90、果樹園社へ原稿速達50)。 「29ヒ730ハト11ゴ、ムカヘタノム」ハハと19:00。依子よりも受取来る。 11月29日 5:00悠紀子起き6:00迎へに出てゆく。9:00すぎ帰り来り「鳩は午后7:30」と東京駅にて判明と。 伊藤賀祐より速達「貴学に娘入学さすことは如何に」と。 井上多喜三郎詩碑費1,000。小高根二郎に同人費1,000。散髪して立教大学へゆく途中、しるこ食ひ時間なくなる。 小林、岩村両氏の誤指摘して早くすませ、手塚氏帰宅らしきにbusにて中野、阿佐谷で下車。 丸屋市川へゆき見しに『支那芸術史?』なく『日本及汎太平洋民族の研究(250)』(飯島にて『高山の植物(80)』、『南の植物(50)』買ひし)。 吉祥寺駅より家に電話すれば京出る。「東京駅へ同行ときめし」といひ、帰宅して夕食してゆく(目覚し時計註文せしは朝)。 19:30着の「はと」2分おくれ4ケの荷物もちて八重洲口へ出、taxi(340)で渋谷。 大在宅にて「なぜ報さぬ」といひし。母、岡山へゆきしを内緒にすと。そこの土産の柿もたされて帰宅。 「依子黒くなり元気。はもの皮買ひくれし。正月帰らぬ予定」とのこと也。史、きのふまで帰り早く朝食もす。 大江久美子より手紙。羽田よりは無言。 11月30日 7:30起き成城大学へ登校。 短大の漢文すませ本間、松島2生の卒論題目(「14-16Cの中西文化の日本への影響」「ピューリタニズム」)に印押し、全部卒論テーマ呈出すみしときく(石渡生より)。 13:00より話さんといひし今井、大藤2氏の来るまで、また渡辺、西沢2生と話す。2氏との話にては山内清男氏に1科ふやすこととなり、専任とはせずと。 すみて青田生に白詩のこと教へ、土曜に宿題のこして史学研究法。相馬生ききゐるを見て風月堂に伴ひシュークリームとcoffee。 別れて吉祥寺下車。悠紀子に電話し、会はずともよしとなり、国学院雑誌の『武田博士古稀号(130)』、『同追悼号(100)』買ひ、『先史のアジア(30)』、『慶州の美術(80)』買ひして帰宅。 太田陽子夫人より「山中タヅ子(花井夫人)妊娠か」と。西岡照子生より「山口姓となりし」と。 夜、中華そばの笛きき、買ひにやらす(50×2)。 羽田より便りなし。伊藤賀祐へ返事。(あす速達とせん)。 けふ中西夫人に切炬燵のこといへば喜ぶ色ありしと。転居(※計画)感づきゐしらし。 12月1日 11:00悠紀子に薬とりにゆかせ、少しおくれて出、切ごたつ買はんとせしに休店と。 250借りて雨の中ゆく(伊藤賀祐に入学案内送ると速達)。雨いよいよひどきゆゑ、洗足行busにのり、大宅へゆき母より傘借りる。 聖心女子大学へゆけば12月8日(金)休みと。2時間いつもの通りすませ本多慈子生より「洗礼受ける」ときき、老先生と都電に出て帰宅。 岡崎澄衛氏『揚子江』贈らる。加藤ハルミより「佐々木姓となりし」と。 12月2日 桶谷(山本)実子、太田陽子2夫人へ返事。服部三樹子氏へ「連絡乞ふ」のハガキ。 9:00出て成城大学。山田君江に卒論の構想きき『延喜式神名帳』見よと教へ、漢文すませて青田生に白詩教へ、11:50出て西沢生と英文の子2人と話す。 下北沢下車。大地堂へ寄り『支那文化史(100)』買ひ、渋谷へゆけば13:00に20分前。 やがて来し悠紀子と京王食堂にて昼食(200)。そのあと東横dept.地階にて(さきほど栗山部長に遭ひし)佐藤(1,300)を栗山氏に届けたのみ、 和田先生にと燻製詰合せ(1,000)。青山定雄氏には奈良漬(500)買ひ、青山邸にゆきしに不在。 令息に「恐妻つれ来し」との名刺托し、和田邸にゆけば先生おでましになりしも、もの云ひたまはず。悠紀子「泪出さうになりし」と。 早々退去して西島寿賀子に電話すれば「写真のfilmみつからず」と。下北沢にて喫茶してのち(90)吉祥寺。 忌中欠礼のハガキたのめば1,850と!500内金に置き「七日出来」ときき、丸善道具店にゆき大本棚3,100としてもらふこととして帰宅。 〒なく、史帰りをり、ラーメン2女におごりをり。夕食し入浴。 本棚来り、置く場所を子らの室ときめる(田中久夫氏と来週土曜小高根太郎訪問ときめる)。 羽田より便りなし。 (けふ梅ヶ丘手前の車中、顔見合せしは広西正己君にて名刺交換す。新嘉坡(※シンガポール)以来20年めなり)。 12月3日(日) 7:30起き10:00の礼拝にゆく。泪浮びしはJesusが死して4日目の者を生き返らし玉ふ箇所なり。Christmasもありがたしと思ふ。 出て道具屋(南海屋)に切ごたつの催促にゆき、昼食してのち、本棚の入れかへ16:00までかかる。 疲れていらいらせしも夕食後なほる。 立教史学会より記念写真来る。夜、村上新太郎、大江久美子2氏へハガキかく。20:00すぎ青山定雄氏より礼の電話。 12月4日 9:00出て成城大学の手前で雨降りだす。『古今小説』やり角川に電話してHeineの15版のこときけば朝比奈嬢出て「わからず」と。 昼食後、湿疹といふ高城君と話し、若葉東雄に「わが師朔太郎」かいて渡し『文学散歩11』受取る。 高橋邦太郎氏来しあと、研究室にて年中行事noteし、2Dに教へ、15:40福留、鈴木生ら7人の女生と野田氏と「成城文学散歩の会」の話合ひにつきあふ。「田園」に於いて也。 高橋氏とアド打ち、了りて鈴木生と久我山まで同車(天草版『平家物語』を卒論のテーマとすと)。 けふ来し山本書店の書目に『四時纂要』守屋教授校訂にて出すと也。 〒家に来ず。炬燵も来ざりしと。 p20 12月5日 10:00悠紀子とともに出て炬燵の催促し成城大学へゆく。鎌田女史をらず『朝鮮歴史地理』見られず、月曜のprint切り。 昼食し了へしところへ、今井氏来り、山内講師の件にて栗山部長と話し「皆と会ひたし」といはれしと。 その前に一度会せんといふこととなり、池辺、大藤2氏呼び来る。話かはりて4万円の手当出せと也。 また3本立ての件にて大藤氏と対立。教授会のあとにて再議せん、栗山氏には会談延ばさんといひ、コーヒー牛乳を猿渡ら4女生にのます(猿渡生、立教女学出と)。 教授会は理事長の高垣寅次郎博士を学長に交渉し、ほぼきまりしと報告なりし。 すみて尾上一雄氏に「松島生の指導、公的には不要」といひ、また会議。 われ栗山氏に新カリキュラムいふことになりし。 16:00出て野口生と同車。下北沢にてしるこ付きあはせる。 帰れば彦根の河村dr.より30日出しのハガキ来をり。入浴。(津田左右吉博士逝去88才)。 12月6日 河村dr.へハガキ。午まへちょっと寝る。珍し。 さめて昼食し、13:30出て立教大学。手塚教授見当らず。別枝教授に遇ひ『歴史地理』の原稿いそがずときく。 歳末助けの袋に100入れ女使丁と話す。 “Samarkand”と“長春眞人”をあとにのこし16:00すまし、西武dept.の宮崎智慧氏を訪ね、佐藤(古川)政記氏の弔問いふ。 東口にて『王維(130)』買ふ。尾崎秀樹氏より「文送った」と。 12月7日 9:00出勤。成城大学庶務課で6ヶ月分の定期証明もらひ750×6もらふ。 漢文は詩一篇の解釈鑑賞といふ。昼食し、栗山部長をつかまへんとして出来ず、山田生と話す(鎌田女史また怒りゐると)。 15:00大藤氏と栗山氏に会ふことときまり『中国文学報』さがしなどしてのち、史学研究法にゆき「わが曽祖父」800字かけといひ、15:00やめて栗山氏を待つこと40分。 大藤氏、今井君のことわるく云ひ、栗山氏「やはり民俗学を中心とせよ」と前言くつがへる。 「短大に今井君やり、池辺を学部にと考へよ」とわがいひしごとくなり憂鬱。山内講師の時間ふやすことはだめと也。 指定寄附の本の買ひ方、特殊といはる。すみて時間なくなり、駅へゆけば(『成城文芸』の校正受取る)、渡辺、西沢の2生をり、野口、小川の2生とも同車。 下北沢で3生としるこ食ひ、渋谷で夕食し、悠紀子と落合ひ、都市Center-Hallの合唱会へゆく。最後のHaydonの「四季」よく出来たり(3Cの山部独唱す)。すみて帰宅21:30。 小高根二郎より「散文の同人費1200~1500」と。尾崎秀樹氏より『決戦下の台湾文学』。すし食ひて眠る。 (切り炬燵の工事人来り、本多しといひしと)。 12月8日 伊藤賀祐より速達「会ひたし」と。 伊藤、尾崎2氏へ喪中ハガキ。12:30ごろ校正もちて出、成城大学図書館にて『金瓶梅』の訳見、訂正ののち佐藤副手のぞきしもゐず、 宮崎教授と話し「あすbonus13:00より」の掲示見て、岡谷講師に遭ひしのち、下北沢。 渋谷をへて恵比須、三鱗印刷へゆき工長に訂正、送りのわびいひ、思案して国鉄飯田橋へゆき都電にて山本書店。 3,020払ひ、成城個人研究費の残り3,550に請求書かき直さしむ(『清史8』とするも、実は『元典章索引』3冊550。 琳琅閣の11月8日の本代4,450をまだ請求しをらざりし)。Calender呉れし(あけ見ればdesk用)。 『台湾文献資料目録(360)』、『入華耶蘇会士列伝(310)』、『帝京歳時紀勝(100)』、『城南漢学(100)』買ひ、金なくなり、蒲池氏に寄りしに不在。 しるこ食ひ(40)、都電にて渋谷。帰宅18:00。 立教大学より「来年度講義内容16日までにしらせ」と。西村美那子より子供の写真。田中雅子より電話2回。 子供の小学校のことなりしもすみし、恰も帰宅せし順二郎とも話す。 けふ畳切り交渉にゆきしと。 12月9日 浅野晃、荒木利夫、饗庭源吾、天野忠、赤川草夫、浅野建夫夫妻へ忌中のハガキ。 9:30成城大学。今井君待ちしに来ず。齋藤愃、山田君江2生と会ひ『中国文学報』借り出せしも『爾雅』のことなし。漢文すませ13:00までbonus待つ。81,510-税16,300+30,850=96,060 田中久夫氏と約束通り出て小高根家(学校のラーメン(35)久しぶりに食ひし)、太郎をり、母堂(79才と)病院へゆきしといふに羊羹2本(320)。15:00までゐて教会へゆくを笑はる。 田中氏と出てcoffeeのみ、下北沢で別れ、吉祥寺南口の古本屋にて『続南方随筆(350)』見つけうれし。 帰宅。悠紀子に95,060わたす。ハガキかき「ア」のみすむ。 (けふ学校へ岩崎より速達「下呂に5階建の旅館つくりし。春夫返す」となり)。 (矢野の令嬢、熱海の写真もち来り、本田・シンチンゲル2先生に送付たのむと)。 12月10日(日) 8:30起き10:00まへ寒き中を教会へゆく。Christmasのお祝はその日でよしと。 すみて買物し、櫓ゴタツの工事人待ちしに来ず。 14:00出て南海屋に「あさってよこせ」といひ、荻窪より電話し、バスにて田中憲三郎(※悠紀子夫人の義兄宅)にゆく。 夫妻をり俊子姉に1.1万円わたし、電気洗濯機2.2万にてすみし。市野氏重態と。 われteleviの中央大学・関学のfoot-ballの試合見、関学1-0にて勝ちしを見てのちbusにて荻窪。 1千円もらひて中央線古書展にゆき『台南市街図(50)』、『台湾全図(50)』、『朝鮮全図(50)』、『朝鮮案内(50)』、『内陸アジア研究(300)』、『高麗郷由来(50)』買ひて帰宅。 けふ〒なし。伊勢丹より矢野昌彦出しの砂糖5.6キロ。(田中正義氏に遇ひ「伝記かけ」といはれし)。 12月11日 9:00出て成城大学。中国文学史の前、山田信江来り、「この前の講義面白かりし」と。 すませしあと堀辰雄かきし中島生来り、「神なく、しかも安心して死んだ」と。 そこへ若葉生来りしゆゑ、文学散歩の会にと600わたし、ついで来りし福留生らより横浜散歩の報告を聞く。 すみて高橋邦太郎氏と話せしあと、Shamanismのnote作りて東洋文化史。また三野、毛受の2生と会ひ、そのあと今井富士雄氏さがし廻り、山内氏の2時間はだめと伝ふ。 けふ悠紀子、渋谷より三井銀行へゆきし筈ゆゑ、新宿、市ヶ谷をへて山本書店。『帝京歳時記勝』とりかへ『南鮮と北鮮(200)』買ひて都電にて帰宅。 京、留守番してゐれば大工来しと。悠紀子、渋谷(※母宅)に4千円わたし「少し」との様子なりしと。『日の友』貰ひ来る。 大江久美子より千円封入「内緒でこれからも送る」と。山下幸男より相愛の女性の身許しらべよと。依子より「正月帰省」と。 角川の朝比奈氏よりHeineの15版は10日ごろ出来ると。 けふ三水会の米津氏に遇ふ。 12月12日 晴。忌中ハガキかく。大工さん来る。11:00出て藤田博士記念会へ1,000送り、切手200貼る。定期6月分7,020買ふ。 大藤氏に「今井氏に話した」といひ、『通俗篇』借出しなどして午休みすごし、相馬の来りしを見「(※卒論)書いてゐる」ときく。 鈴木健司は「1年のばした」と。14:10より教授会。文化史専攻第3次を入れて51名となる(31+16+4)。 『成城文芸』の編集委員を一新することとなる。すみて松村達雄と出てpudding食ひ(100)、Gelbe-Sorte(2箱買ひし)のます。 そのあと下北沢へ出て引返し紀伊国屋へ18:20着き、百瀬教授と柳田為正氏の間に坐り、御曹司よりいろいろきかさる。21:00帰宅。 服部三樹子氏より「占ひもってゆく」と。『果樹園70』来をり。寿賀子よりfilm。Coup d'état(※クーデター:不詳)の計画発覚と。 12月13日 8:00さめ大急ぎで出て定期忘る。東大へお茶の水をへてゆき、講師岡本君来ぬ中、松村君に岩井博士古稀記念論集代に1,500。箕輪老激励会へと1千円托す。 神田君に『果樹園』1冊和田先生へと托す。次回は1月17日にて講師われと。 阿南君と昼食し、そのあと喫茶す。17日ごろ『清史雑考』返却に来ると。別れてbusにて池袋。 立教の史学研究室へゆけば手塚氏講義中。アジア研究室に別枝教授訪ぬればこれまた講義中。 また研究室にゆき15:00手塚氏来りしに「来年度の講義を唐宋の年中行事」と届け、Samarkandの話してのち3生(久保、林、高木)さそひ、 三原堂にて甘い物くひ、busにて荒井薬師。『太宰治全集1(240)』見つけてうれし。 そのあと中野まで歩き『物語東洋史 完(50)』、『アジアの焦点(50)』買ひして帰宅。 山尾浩子より「17日上京、電話する」と速達(けふ喪中欠礼40枚投函)。 (林、高木2生全快祝にと茶碗賜ふ)。夜、喪中欠礼「ハヒフヘホ」まで書く(45枚)。 12月14日 9:00出て成城大学。短大漢文のまへとあとに山田信江の卒論をきく。 午后『玉葉』よまさるることとなり史学研究法は出席とりしのみ。アテネフランセ館長松本氏に挨拶受く。 西沢生に『玉葉』教へ了へしところへ加藤隆子来り、本返却す。鈴木健司ゐるといふに呼び4人にて下北沢でしるこ食ふ。 鈴木は教員となるため実力養成をかねて1年卒論を延ばすと也。帰宅。 奥戸武夫妻Los AngelesよりChristmas-card。角川よりHeine15ed.。田中久美子より1千円封入の手紙「大江の叔母、体わるし」と。 不二歌道会より新年の歌をあげよと。伊藤なつめ(賀祐夫人)より手紙。花井たづ子より「5月12日ごろ出産予定」と。 硲晃氏より「礼状酒のみおくれしも…」と。 21:00ごろ坂根千鶴子来訪。1月の公演切符2枚買ふ(300×2)。旗田巍、小野勝年2氏へ『果樹園』。年賀欠礼35枚。 12月15日 11:00出て渋谷より恵比須の三鱗印刷へ校正もちゆき、ここより日赤行のbusにて聖心女子大。 田中保隆氏に『果樹園』わたし、2時間ともChristmas-cardもらひ礼いふ。火曜slide見に来よの案内もらふ。 12月分salaryもらひ、渋谷行のbusにて青山学院前下車。不二歌道会へ年末の1千円もちゆく。 『太宰治全集3,4』見つく。絶版と印おし820とらる。〒なし。 炬燵の上の板1,100にて丸善家具店より買ひ来しと。 12月16日 9:00出て成城大学。漢文すませ、宮崎生を研究室にまたせゐしに相馬に会ひ、問へば「卒論かきゐる」と。喜びて伴ひ、やがて「白樺」へつれゆく。 宮崎女のほか本多、福留と4女生来る。先出て相馬と別れ、busにて大江にゆけば悠紀子着きしところと。 すしとり呉れしに弁当半分くひ、あとすしよばれ、夫を中心にせよといふ。 出て三軒茶屋までtaxi(130)。古本屋見しあと、しるこ食ひ渋谷へ出、東横dept.にて田中冬二氏へと海苔(500)。 帰り吉祥寺の古本屋も見、佐藤dr.によれば「便に出血なかりし」とのみ。〒なし。けふ久美子への送料160なりしと。 12月17日(日) 雨。教会へゆく。Cristmasには招かれずと也。帰途、畳屋へ寄り、たのめば「今日来る」と。 昼食し、待てば14:00前、山尾浩子生より電話、悠紀子出て東京駅よりの案内す。14:30駅へ迎へにゆき家へつれ帰る。 18:00けふの見合いやに上京せしとわかる。19:30駅まで送りて帰り『讃美歌(230)』買ひ、金100を途にておとす。 けふ寿一より悠紀子に詰責の手紙。小川雅也氏より送り状。本多明氏より「代々木のコーポラスへ移転」と。 「箕輪さんを促ます会」より千円の受取。史、22:00前帰り来て「渋谷へゆきし」と!(畳屋来り、寸法はかる) 12月18日 7:30起床。学校へゆかぬこととし、速達で来し硲晃氏の(※依子氏の見合相手として)福岡国税局勤務東大出の教へ子のことを「謝す、待て」と硲氏へ。 「いかがすべきや」と大江叔母へ速達かく。花井タヅ子、小川雅夫氏へハガキ。そのあと炬燵に入る。畳屋来て半畳入れくれる(750)。 坂口允男氏より「8月父死去」の喪中挨拶。聖心女子大Britt学長よりChristmas-card。 『果樹園』の原稿ちょっとかく。India軍、Port.領Goaに進入と。 12月19日 朝、大江久美子より悠紀子にCocoa1缶を送り来る。立教大学へ講義要項「中国の年中行事史」とし、時間割は「水曜午後、金曜午前可」とすること今年に同じ。 昼食すませて出、速達出して佐藤dr.「も一度検便し今年中に片づけん」と也。 成城へゆけば3Dの卒論テーマの印刷出来をり、見れば吉川生「婚姻制について」と題し、今井君のゼミとなりをり。 鎌田女史にきけば大藤氏来るとのことに待ちて、来しと「桜田氏の履歴書、修学旅行の打ち合せ」につき伝へ、 池辺君と廊下で立話([2]Dに短大6人来させて宜しきや云々)しをれば、吉川生通る。 つかまへて駅前風月堂にてきけば「乱婚制度についてやる」とのことに呆れ、問へば「馬淵氏より習ひし。今井先生は成城出の上、人類学教はりしゆゑ云々」。 聖心女子大のslide見にゆくをやめ原町田まで送り「先生神経質ゆゑ云々」ときき帰り来る。けふ〒なし。 12月20日 『不二』来る。服部三樹子氏より四柱推命。中山八郎氏より『太古のシナ人と塩(※抜刷)』。井階房一へのハガキ返送。 岩井博士の古稀記念会より1,500の受取。田中まさ子夫人より区立小学の件。 依子より29日の特急で帰ると。11:00出て11:55成城大学へつき、論文提出に印必要とのことに相馬まちしも来ず、12:10教務できけば未提出と。 池辺、今井、大藤3氏と審査分担の相談し(矢野光子あす父よりの刷物もち来ると)、山田、藤井2生と茶のみにゆき、野口と同車にて渋谷。赤坂見附まで地下鉄。 17:30高山氏来ず田村氏総理邸にありとのまま話はじまり、すみて階下の「ざくろ」にて(※三水会)忘年会。これにて一応解散となる。 浅野氏(※浅野晃)その直前キリストを非難し、食後齋藤氏裁判遅延を部長2人にせしゆゑといふ。 渋谷までtaxi(200)。22:00帰宅。 大江叔母より「話宜しきゆゑ云々」。大江久美子より「まかす」とまた1,000同封。 日野月先生よりおくやみ。田中まさ子留守に来り、木下病院のせわになりゐると。菓子とシャツおきゆきしと。 (けふ登校の途、風見章氏のくやみにゆく高桑純夫氏と遇ふ。田島靖子生倒れ、母に卒論もち来させしとのことに電話すれば泣く)。 (神田信夫氏に登校の途あひ『果樹園』を和田先生に渡したまひしときく)。 12月21日 9:00硲氏へ(※依子氏見合用の)写真とつり書の入りし手紙速達。悠紀子も大江叔母へ速達かく。 われ整髪店に行き250となりしに驚く。 それより下北沢にて葡萄パン(50)買ひて登校。相馬生、教務にをりといふにゆけば、文句なく卒業論文受領さる! 山田生来り、葉巻?1箱賜ふ(George Urda氏よりのChristmas-card挿みあり)。矢野家へ電話すれば光子生出しと。(田中雅子に電話し「26日午前にゆく」といふ)。 13:30まで待ち、14:00より入試委員会。退屈す。1月23日(火)10:00よりわが研究室にて卒論面接と教務に届けし。 出て下北沢下車。大地堂にゆき『赤嵌記(200)』、『家計簿(100)』買ひ、北の本屋にて井土霊山『白楽天詩集(130)』買って帰宅。 (けふ月給もらひしに年末調整にて6,400返付されし)。夕食後、不二歌道会より電話ありしといふに、かけ返して喪中新年なきをいひてすむ。 伊東花子氏より「喪とは何ぞ?」と。宮本正都氏よりハガキ。山下幸男、山尾浩子より礼状。 長沖一氏より盲腸手術のことのりし『文学雑誌30』。(『占領治下の闘ひ(30)』買ひてよむ)。 12月22日 山尾浩子、中山八郎2氏へハガキ。小高根二郎氏に「当分1,500づつ送る」と。本多生より電話、13:00吉祥寺北口で待合せることとす。 10:00出て八丁郵便局にて我は果樹園社に同人費1,500を小為替にて送る(小為替料20、速達料40)。 悠紀子は依子に5,000と大江への歳暮代2,000送る。 浅野dr.にゆきcookie1箱お歳暮とす。apartまだ落成せず。 別れてわれ『人民公社物語(100)』、『インド史(190)』、『湘南伊豆文学散歩(120)』買ひして昼食に帰り、すぐ出て本多生迎へに駅へゆけば同行は鈴木睦美。 ともに円覚寺へ坐禅にゆく途と。家に伴ひ帰れば本田生「この間まで先生こわかりし」と。 16:30ごろ駅まで送り『唐宋八家文4冊(150)』買ひて帰宅。高松生(丸木夫人)より「あす午後来る」と電話ありしと。 入浴し『通俗篇』よむ。集英社より電気potを贈らる。(2生、千草の落花生と房州の乾物と呉る)。 12月23日 晴。10:00〒。篠田統博士、和田賀代女史より喪中につき挨拶。東洋学術協会よりLevy『楊貴妃』の書評を37年5~6月頃200×20と。 猿渡弘氏より缶詰1箱。午后になり畠山六右衛門氏より柳葉魚(ししゃも)1箱。 14:30ごろ丸木夫妻来訪。父君は交通公社外国旅行課と。Pine-apple1ケ賜ふ。 17:00ごろ送りゆく。佐藤dr.にて薬もらふ。昨日とけふと『通俗篇』よむ。宮崎幸三氏より喪への慰問。 12月24日(日) 7:30起き朝食。猫をさがすとて京のこすこととし、9:00すぎ出んとすれば見つかる。 (※教会礼拝にて)われ1千円ゆき子500円を献ず。立つ人多く気の毒なり。すみて祝によばれず仕方なく帰宅。 (新受洗者、小児1、女子11人なりし。われ泪を催す)。『通俗篇』と『李朝実録抄』をよむ。 酒井清市氏より歳暮?帝塚山短大の同窓会を1月21日にすとて出欠問合せ。『東洋学報』2冊来る。 12月25日 晴。10:00ごろ出て平凡社2,444送り、国鉄にてお茶の水。 筑摩書房にゆけば東、井上氏などをらず受付の女子にたのみ、『太宰治全集5~10』を久美子に送ってもらふ(420×0.8×6+120=2,136)。 礼云って出、古本市にゆき『京城帝大十周年論文集(200)』、『台湾鉄道旅行案内(150)』、『変態風俗の研究(130)』、黒谷了太郎『台湾(50)』、 他に『満蒙』の合冊3冊(60+40)買ひ、金なくなり『伊奈』、『高遠』、『塩尻』(35×3)買ってもらひ、鰻丼と肝吸(150+30)食はしてもらひ、 神保町より都電にて渋谷。帰って昼ねしをれば犬吠え、不二歌道会より餅賜ひし。 けふ福地邦樹君より「詩集を出す」と。山口広先生より「長女死亡の忌中」と。 山尾政代氏より「礼に物送った」と。井上多喜三郎氏より「『骨』に書け」と。 田中冬二氏より「受取った」と。川久保悌郎、森中篤美、白鳥夫人より喪中の挨拶。 12月26日 9:00朝食し10:00まへ便もちて佐藤dr.(硲晃氏より27日以後、依子見合との速達にてめさめし)。 出て成城学園前より大蔵住宅。2児をり土産の赤飯団子くひて12:10われ出て成城大学。 『北平風俗類徴』と『四時纂要』借出し、そのあと卒論交換す。 松崎女にいひてcoffeeと菓子と風月堂より運ばしむ(450)。 14:00すませ図書館の忘年会に出さされしあと、山田(type)、高橋(経済研究室)2女に下北沢のしるこに誘ひしあと帰宅。 丸より奈良漬1樽来り、佐藤のぶ氏より「35日すみ香料を寄附せし」と。 『Non-fiction全集24』来り、「23」未着なることわかる。入浴。 2月27日 9:00ごろ起き、依子よりの速達見る。「硲先生24日にお越し」と。 10:00ごろ秋山夫人と千川稚泉氏より喪中への挨拶。『通俗篇』よみ、『李朝実録抄』よむこと昨日に同じ。 富士銀行本店山川さんといふより依子の帰京につき電話ありし。note5冊(100)買って来てもらふ。 12月28日 浅草鳥越の酒井清市氏へカステラの問合せのハガキかく。丸より電話「今夕17:00春日にて会はん」と也。 久美子より「4冊そろった」と。目疲れしか、だるくてたまらず。15:00悠紀子と出て佐藤dr.。「まだ薬のめ」と也。 下北沢をへて新宿へゆけば丁度よき時間となりしも丸未着。 近所の古本屋にて年中行事の本(150)買ひ、も一度「春日」にゆきbeerと酒と少しづつ飲み、1,750の勘定に1千円払ひ、駅前にて別れて帰宅。入浴。 (西川、丸夫人に「女と別れしや」とききしと)。山本幸子氏より悠紀子へ菓子1箱。 12月29日 9:00起き、史あさ8:00ごろ帰宅ときく。11:00朝食。大源より味噌をたまふ。 午后、坂根みつせ氏より肉の味噌漬。夕方山尾一氏より鮭を賜ふ。『通俗篇』と『李朝実録抄』をよむこと一昨日と同じ。 小野勝年氏より『果樹園』の受取に「小川環樹氏と噂す」と。 山尾敏代、室井幸太郎(美代子)氏へ礼状われかき、坂根みつせ、山本幸子氏への礼状を悠紀子かく。 12月30日 晴。史、10:00出といふにゆっくり寝、川本静江生の忌中ハガキと坂根母堂のくやみ見る。 やがて硲氏より「帰郷した本人が見合承知しなかった」の便りを見て落胆!「あとよろしくたのむ」の速達かき、悠紀子に武蔵野局へもちゆきもらふ。 久美子よりまた1千円来る。姉弟ならびに房子らとも縁切れし様子。夕食せんとせしところへ堀口太平氏来訪。「card代受取りし」と最中1折たまふ。 12月31日(日) 9:00起き、教会の礼拝にはじめて遅刻す。 あす6:30より早朝礼拝と。帰れば台湾大学図書館の曹永和氏より賀状。 依子より速達来り「3日の第2富士に乗って帰るかもしれず」と。母より電話、弓子に来いと。ゆけば腕時計(3,300) 買ってもらひしと。 19:30永山光文来り、金繰りに苦労するも3月までの仕事出来たとカステラ呉れる。 田中克己日記 1962 【昭和37年】  肥下恒夫氏の生涯については、さきに私も紹介文を書きましたが、澤村修治氏の著した2冊の評伝『悲傷の追想 「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯(2012)』『敗戦日本と浪曼派の態度(2015)』に詳しく、 彼の最期の日々をとりまいてゐた状況が所謂「経済的な窮地」ではなかったことが、遺族の証言から判明してゐます。  しかしながら(時運のなせるところですが)、養子に入った旧家の資産を一代にして失ってしまった彼が、日記に書きつけてゐた自恃自足の言葉の数々といふのは、清潔な世過ぎを心掛けた彼の内心=自責の念の裏返しの表れでもあった訳で、客観的状況とは別に、前途を悲観する心裡は積年にわたって蟠ってゐたものといへるでしょう。 田中克己の記すところによると死の直前、京都の保田與重郎邸まで相談しに行ったと云ひます。 「前途を悲観して、自殺の確か二日程前の日に保田のところへ行きました。「どうしよう。」といろいろ相談したのだけれど、保田は「さあー。さあー。」と言うばかり。 どうしろなんて誰にも言えなかったんだもの。ただ、もっと力になってほしかったなあ。」 (※『文芸広場』(第一法規出版)昭和59年11月「昭和文学うらおもて58」対談:田中克己×杉山平一「コギトの人々」) 「死の直前、京都まで保田を訪ねて行った由だが何を語したか。保田は葬式に列したが何もいわなかった様子である。」(※『コギト』復刻版(臨川書店)昭和59年「解説」) 保田氏没後の証言であり、澤村氏が聞き取りを行った遺族も未確認の情報なので詳細は不明です。保田氏の著書『日本浪曼派の時代(1969)』のなかでも、具体的な回想として取り上げられてはゐません。(※) 3月20日に農薬自殺した肥下氏の訃報は、翌日の夕刻、夫人からの電報「ツネオシス シラス ヒゲ」によって田中克己のもとにもたらされます。前年下阪時に会った折の印象から、酒の飲み過ぎに因るものかと思ひ、すぐさま在京の知合ひに連絡を取って報せるのですが、年度末といふこともあったのか、大学教授職にあった本人は葬儀に参列しませんでした。しかし解せないのは当時、東京・大阪間の移動は大儀であったものの、見舞ひのために下阪してゐないことです。  早速『果樹園』には追悼文(昭和37年5月75号「肥下恒夫を哭す」)が書かれたのですが、友人(丸三郎)からの追悼文を引き写した短いもので、とりいそぎの感が拭へないものに感じられます(もっとも当時さうした一文すら、柳井道弘氏が『風日』に書いた以外の文章がないやうなのですが)。 そしてそれ以後も、遺族と弔慰のやりとりは続くものの、彼ひとりに関する回想は書かれませんでした。夫人の思し召しである遺稿集の出版計画に対しても、なにかしら煮え切らない態度が気になります。 「西寛治氏に電話すれば「肥下文集の金あつめた」と。「手間だけ也」と反対す。肥下夫人に方々よりたかりをると。」(11月19日) そして遺稿集に付すべき文章を、夫人より直々に依頼されて、 「反対でもなし。書けず」(12月24日) と速達してゐるのはどうしたものでしょうか。 弔問休暇について同僚に相談してゐたやうですが、3月27日上京した小高根二郎から直々に伝へられた「肥下10日ほど半狂乱にて、夫人に悲しむ色うすかりしと」といふ話が気になって、とりやめてしまったのでしょうか。 その裏付けとも思はれたのかどうか分かりませんが、4月4日夫人よりの「心配いらず」の速達を、方々の友人に見せて回り、保田與重郎の上京を影山正治より伝へられるも、会って話をしようとはしてゐません。『不二』へは追悼歌を送ってゐます。しかしながらこのタイミングで彼と話をしないのは、もはや「共同の営為」と自他ともに任じた「コギト」の友誼決裂を意味する出来事のやうにも感じられるのです。 そも影山氏よりの電話(4月26日)で「保田われを傷けざらんといはずして帰りし云々」とあるのは、どう解釈したらよいのか。 赤川草夫氏からは「肥下家へ同行せん」と、また柳井道弘氏よりは、保田氏が「田中が来れば追悼会する」と言ってゐるとの伝言をもたらされ、遺稿集を一刻も早く出版したいから助力を願ふと、直接会って依頼されてゐる訳です。 費用に関しても、残された土地が道路収用を蒙り用意できること、具体的に人文書院より20万にて300部といふ話で進めさうなことまで夫人より聞かされます。 田中克己は『コギト』ひと揃ひを職場の図書館用に無心もしてゐますが、自分の手を離れて勝手に話が進んでゐることにヘソを曲げてしまったのでしょうか。夫人との関係がいまいち日記からは判読できません。 遺稿集については、未亡人からおそらく保田氏へも打診があったはずです。ともあれこの二者からはかばかしい協力が得られなかったことが、遺稿集が頓挫した一番の原因だったのではないか、そのやうに訝りたくもなってしまふのです。 けだしこの年には、日本浪曼派の同人であった山岸外史による親友太宰治との交遊の日々を綴った『人間太宰治』が刊行されてゐます。 肥下恒夫や保田與重郎についても同様に、彼らが文学に目覚めた少年時代にまでさかのぼって赤裸々な回想を書き記すことのできたのは、ひとり親友であり、同士であり、親戚でもあった田中克己だったといへるでしょう(未確認ながら、保田與重郎夫人とも遠戚関係がある由)。 たしかに小高根二郎氏の尽力によって伝記の大成をみた伊東静雄に比すれば、肥下恒夫が文学者として重きを置かれないのは仕方のないことかもしれません。しかし彼あればこそ、雑誌『コギト』は経済的にも実務的にも発行を続けられたのであり、その経営を通じて、プライバシィを描かれることを嫌った保田與重郎をはじめ『コギト』の全同人の群像があぶり出されてくる謂はばキーパーソンでありました。後世の文学史に書き遺すべき“隠れた人”であったことは疑ひの余地がありません。 この点、おなじく昭和初期にボン書店を興し、営利を顧みず数々のモダニズム稀覯詩集を刊行して蚤世した鳥羽茂もさうなのですが、物書きたちの無償の出版事業に関った人物に対する、報ゐることのまことに澆(うす)いこと、感慨を禁じざるを得ません。 思へば中島栄次郎の著作集の計画も中断したままです(※『中島榮次郎著作選』として1993年に刊行)。友人後輩の誰彼から詩を書くやう慫慂されるも、詩人廃業の気持は強く、田中克己はこの昭和37年には、すでに『果樹園』連載中の「半自敍伝」のなかで“無條件降服”このかた、自らの戦後の世過ぎについて総括を続けてゐたところでした。 さうして二年後の昭和39年から、おなじく主観的な視点で「コギトの思い出」といふ28回にも上る連載を開始します。 この連載が書かれただけでも、戦後ながらく戦犯扱ひにされた彼らグループの実態の開陳は、よほど世間に対して明らかにされたと思ふのですが、それでも事実関係を回想によって総括する田中克己らしい簡潔な文章は、(理念が強い保田與重郎の『日本浪曼派の時代』ほどではありませんが、)山岸外史のやうにエピソードをつぶさに暴露してまでして人物に食ひ下がることはしてゐません。 伊東静雄の青春を暴いて見せた小高根二郎と較べても物足りない憾みが残るのは、しかし交遊が浅かったからではなく、むしろ書き残すことが恥ずかしい程に深すぎたから、そして主観的に過ぎて書き遺す必要をさへ感じなかったから、だと思はれるのです。 結局、追悼文「肥下恒夫を哭す」の最後に、「いづれくはしく書く。」と約束された個人的回想は書かれませんでしたが、下世話な話題をあけすけに書く関係者に対し目を光らせてゐた癇癪持ちの彼が、同人中いちばんに長生きしたことが結果的に、さうした人間関係の機微を伝へる様々な回想を封じることとなってしまったといふのは皮肉なことです。(何でも話して下さったらう悠紀子夫人も、苦労を掛けられっぱなしだった夫の後を追ふやうに1992年、詩人の逝去から僅か2か月で亡くなられました。) こればかりは残念に思はれてなりませんが、さうした意味でも『大妻女子大学紀要(文系26号, 183-220p, 1994年)』で公開された「肥下恒夫宛保田與重郎書簡」の93通は、保田氏の肉声を伝へる貴重で興味深い資料だと思はれます。 博士号を取得した京都大学の親友羽田明との仲は、手紙の返信が来ず、悪口を仄聞したこともあって何だかぎくしゃくしたみたいですが、旧友たち(藤枝晃・服部正己・田村春雄)が相次いで博士号を取得した様子に、もはや依怙地になるのも止めたのか、友人らを介して11月11日に対面。讒言も解けて羽田明とは久闊を叙すことを得たもののやうです。 しかしながら新設された博士号について複雑な思ひを以て「○○博士」と記してゐるやうに引き続き勘繰られるのは、成城同僚で一番の友人と語ってゐた高田瑞穂氏だけが博士号をとってゐないことをわざわざ日記に記してゐること、またこのさきの著書にこんなことが記されてゐることからも窺はれます。 「進士の資格だけでは小官にしか任じられないようになっていたのでもあろう。わが国の新制大学の学士だけでは足らず、博士になってはじめて学者の仲間入りできるようになった変化が、このころ唐の官界でも起こっていたのである。」 『白楽天(コンパクト・ブックス 中国詩人選 4)』集英社刊1966年 また故郷に詩碑が建つこととなった井上多喜三郎についても、それは彼の人徳ならではの結果なのですが、全詩集なんて死後に出されるべきものと謙遜して心得てゐた詩人のこと、誰からも好かれた彼に対する懐かしさや祝賀の思ひとは別に、やはり複雑な思ひを抱いたのではないでしょうか。 私生活では、お隣の成城高校教師だった山川京子氏から、学園のHealth Centerを通じて呼び出され、その痩躯(体重40.5キロ)を心配されてゐることを日記に記してゐるなどは、可笑しくもありますが、懇意にしてゐた大家の女の子が肺炎で亡くなり大家さん自身も癌で入院、この年に起きた三河島駅での痛ましい大事故に教へ子が巻き込まれたり、或ひは親戚間に内訌があったりと、吉祥寺時代の生活も決して明るいものではなかったと長女の依子さんは語ります。 コギトの旧友に限っても、肥下恒夫の死、おなじく杉浦正一郎が死の床で受洗してゐた事実、また近在の紅松一雄がキリスト者であることなどを知った詩人は、この年12月23日に日本基督教団吉祥寺教会にて夫婦にて洗礼を済ませ(立教女学院卒の悠紀子夫人は聖公会系聖マーガレット教会からの転入会)、以後プロテスタントを以て自らを律し、余生を送ることとなるのです。 明るいニュースは、劇作家である弟の西島大氏の結婚(3月2日)、そして依子さんの縁談でしょう。高校時代の旧友たち(小高根太郎・竹内好・浅野建夫)をたよりに夫婦して奔走してゐますが、どうやらこのたびは竹内門下の「名古屋の青年」がそのハートを射止めた模様です。田中家の縁談はこれ以後、長男、次女、三女と続くことになりますが、半世紀前のこととはいへプライベートな事情に亘りますので、大学入試の楽屋裏や教へ子の成績のこと、図書館学の論文を書き始めた八木さんのこと等とともに割愛させていただきたく、昭和38年以降の日記は「選択抄出」のスタイルで参りたいと検討中です。ご了解ください。 昭和37年1月1日~昭和37年2月25日 「東京日記12」 25.3cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p13 【昭和37年】 1月1日 13:00ごろ寝て[午後]9:00目覚む。けふ教会の礼拝6:30よりといふにゆかざりし也。 賀状232枚来る。午后までに帝塚山と成城の教えへ子たちをのぞき欠礼ハガキ書き了へ疲る。 夕方より雨。珍し。史、出てゆき23:30自動車にて帰来。 1月2日 賀状9枚。西岡生のが無名、西菊代も同じくとわかる。 帝塚山関係80枚書き了へ疲れしうへ、脱肛となり風呂わかさせる。けふ京の友だち来り、母和菓子ひごろの礼にと呉れし。 渋谷(※義母が居る弟・西島大宅)へ電話し「2女あすゆかす。われらあさって」といひてすむ。 1月3日 賀状など15枚来る(高野夫妻しらずしてよこせし)。10:30賀状の返事一応すむ。 弓子と京と渋谷へやる。河野のユキヲに小遣ひもたす(1千円)。 井上多喜三郎氏へ『骨』の原稿ことわる(「父の骨」と題して250×6かきしもかききれず)。 筑摩書房へ『Non-Fiction全集23』の欠をいふ。 1月4日 東洋学報へ『Harem Favorites of an Illustrious Celestial』の書評(5~6月200×20)諾と答ふ。 10:00出て中道郵便局。小山都久子へ舞芸座の切符送り、久美子へ174円送り、(※名古屋の)依子へ賀状の廻送などし、佐藤dr.へ寄り(※痔の)薬もらふ。 父の葬儀の写真の焼増したのみてのち、東生田の林宅へゆく。 坂道で高城君に遭ふ。去年2月学位とりし俊郎(論文のthema「Experimental Studies on the Protoplasmic Streaming in characeae(車軸藻) 」)と抜刷くれる。 失業保険もらひにゆきゐし叔父の帰りをまち、父の納骨式に来し親類の名きく。一人以外わかり、すしよばれて出、準急にのり経堂下車。 みかん買ひて住友住宅へゆけば大江勉夫妻留守。busにて上町、歩きて西島寿一宅へゆく(経堂駅前にて予告しありし)。 来客中とて水のみしのみにて出(写真の件、了解せしめし筈、子らにと300の小遣包2ケおく)、寿賀子に若林町まで送られbusにて渋谷。 しるこ食ひ、すし持ちて猿楽町へゆけば千草をり「宝国寺に墓所与へられ健が金出す云々」。 すし食ひ、家に電話してのち帰宅。 2,500をけふ一日で使ひしと判明。賀状6枚おくれてつきしと。岸町(※前住所)より廻送10枚。 1月5日 晴。賀状9枚。小高根二郎君より受取「(※写植代かさむ故)ない字を使ふな」と。 田中勤氏へ『平和な社会と法華経』の礼かく。 午后昼寝せんとせしところへ服部三樹子氏来られ、夫婦してこもごも語をきき賜ふ。『宇宙学』上巻と菓子1箱たまふ。 悠紀子、服部氏を送りにと出でしあと、田中雅子夫人(※旧姓北野・田中順二郎夫人)より電話「(※帝塚山短大の)class会したきゆゑ、都合しらせ。場所は東京タワーとせん」と。 1月6日 賀状6枚。きのふ5枚かきし『北鮮のツングース地域』を書かんとす。小高根氏より『果樹園』合本5来る。 昼寝せんとせしところへ佐藤副手来訪。われら夫婦の話きいて23:30帰りゆく。 1月7日(日) 快晴。7:00起き9:30出て礼拝。けふも聖餐式ありてつらし。やみ米(135×3)買って帰宅。 賀状5枚。睡眠不足にてちょっとつらし。 史、渋谷へゆきし様子。入浴。他に事なし。 1月8日 百瀬弘教授より『果樹園』よんだ旨。白鳥清、江崎梅渓(尾張一宮、香草吟社)、山田岩三郎氏より賀状。 夜に入って平野黎子の『安家村の年中行事』よみ、入試問題3題を作る(21:30了)。 1月9日 5:00サイレンにてめざめ、悠紀子調べて仲町通の辺と。丸善和田夫人に電話せしにかからず。 悠紀子、田中夫人と電話すれば「丸善火事、疑なし」と。見舞にゆくこととなる。 8:30家を出、古道具屋にゆき、われは成城大学。問題提出し、すしよばる(田中雅子に電話し「class会を2月15日以後にせよ」といふ)。 14:00より卒論交換し、下北沢に下車せしのち帰宅。和田夫人まあ元気と。(新春以来消防庁最大の火事と)。 久美子よりの手紙によれば「1月2日房子と大江叔母より電話かかりし」と。賀状13枚。 夜、鈴木睦美生、海老もて来り10分して帰る。けふ史「大(※西島大)の結婚27日(火)にのびし」と伝ふ。 1月10日 小雨。10:00悠紀子、友だちと遠藤家へ見舞にゆき13:00まで帰らず。 (満蒙史料研究会を「清帝国形成過程の研究」といふことに分担承諾書を出せと田中正俊氏より速達来りし)。 昼食そこそこにして出、「手塚教授(※手塚隆義)にのちほど会ひたし」との伝言を研究室へ電話し、2女生と40分やり「成吉思汗関係歴史地図」をレポート題とす。 手塚氏に会へば「白鳥先生の転居承知。久保生を研究室副手に」と。 出て『民間伝承16-4(10)』とVernadsky『ロシア史2冊(350)』買ひて渋谷をへて帰宅。 悠紀子、夕食の仕度おそく俊子姉よりの電話に長々と話すを叱れば家計簿つける。けふ桑原夫人来しと。 (手塚氏「歴史地図の原稿1月末にてよからん」と)。 教会よりクリスマス献金の受取。賀状など9枚。本多慈子生よりクリームオードブル賜ふ。 1月11日 9:00出て成城大学に登校。短大すませ栗山部長(※栗山理一)に挨拶し、渋谷へ電話すれば「3月2日に(※結婚式)延ばした。大江より祝もらった。河野岑夫は高知へ転勤」と。 われ「2日は入学試験採点にてゆけぬかもしれぬ。祝は5千円にて如何に」といふ。 午、高井、田島、山田、野口、坪井など挨拶に来る。明後日Romaへゆくといふ卒業生来る。そのあと武田信玄しらべ史学研究法。福島妹欠席。 教務課長に研究員承認の印おしてもらひ、駅へゆくみち福島姉に会ふ。論文書き直しを命じられたと青き顔しをり。 下北沢で別れ高井戸よりbusにて荻窪の古本市にゆき『樺太及北沿海州(100)』、『太平洋圏 上(280)』、『毎日年鑑 昭和24年(50)』買って、またbusにて高井戸へ出て帰宅。入浴。 矢野より電話「中学入学の嬢につき手を打て」と。「栗山部長に会ひてたのみ、会ふ日ききおかん」といふ。鈴木(林)元夫人より電話あり、あす夜、帰阪と。 伊東花子(※伊東静雄夫人)氏より香奠1千円。賀状2枚。他に田中正俊氏よりまた研究内容を速達。 1月12日 晴。賀状4枚。文学散歩の会より鴎外生誕百年記念の会に出欠。 11:30悠紀子と出、みやげ買って東大前にて下車すると別れしあと、渋谷にてハヤシライス食ひ聖心女子大。 講師室無人。片山教授の告別式には西川氏出しと。2時間目すませてbusにて東大裏。 伊勢宅へゆき林夫人に挨拶。「東京へ来よ」といひ18:00出て、東大前のまちを見、吉祥寺の古本屋を見て帰宅。 けふ大江勉君に悠紀子電話すれば「房子まだ大阪。子は母が世話しゐる」と。 1月13日 よべ2:00ごろ覚め1時間ほど読書。8:00起され9:00出て成城大学。 漢文了へれば青木生「近々来る」と。急ぎ月曜の中国文学史のprintきり、山田女にもちゆく(あとにて月曜「成人の日」と)。 田中久夫氏さそひて下北沢、麺食ひ、古本屋まはり、柳田国男『なぞとことわざ(150)』、『フォモサニズム(10)』、『曚朧人物号(50)』 買ひて帰宅。 後藤孝夫より「山内四郎プラスチック会社のセールスマン」と。鈴木敬子夫人より「物送った」と。 今高より「同窓会する。寄附せよ」と。入浴。『李朝実録抄』よむ。 1月14日(日) 教会へゆきinstantのしるこ買ひて帰る。『東洋史研究』来り「年額900」と。 13:00すぎおとなふは新城常三博士にて「今井氏より退職のことききし」と。 ついで(※旧コギト同人)薄井敏夫君の長女はるな君「どなたが亡くなられたか」と果物たまふ。いづれも気の毒なり。 はるな嬢は電通社につとめゐると(服部三樹子と同社にて、この間はなせしばかり也)。悠紀子駅まで送りゆく。 1月15日 成人の日と。西村公晴氏より歌2首。高橋重臣君N.Y.より写真(12月13日出)。武田豊より詩集2冊(※『ネジの孤独』)。 曇りて寒きも悠紀子と大和町鈴木(山本)敬子夫人に見舞の礼にゆく。5月2度目の出産をしたと。夫君をり因島にをりし時の話す。 出て阿佐谷。駅前にて別れ古本屋3軒まはりしも何もなし。珍しきことなり。 帰れば西島寿賀子来り、帰るみち悠紀子に会ひし。母よりは「いろいろきげんとりをるに」といはれしと。Cake賜ふ。 分県地図『福島(40)』買ふ。賀状抽籤に当りしもの(※名前省略)の9枚。 1月16日 晴。寒し。11:00出て成城大学へ登校。栗山部長に矢野のこといへば「明日18:00新宿ではいかに」と。 電話して高野2階でとなる。相馬(※ゼミ生)来る。帰郷しをりしと。教授会すみ、また本多生に会ふ。 (けふ渡辺帰郷せしと西沢、川本と来る。電車で石渡に会ひし)。 帰れば福永英二より忌明けと。 (けふ山田新之輔、大阪より電話「このみちを」の歌のわが作なりやを問ふ)。 野上弘より霊前へと乾物1籠。(帰途八百屋にて村岡夫人と話しゐる悠紀子に遭ひ、ともに帰る)。 けふ伊東花子氏に礼状出し、酒井清一氏にカステラ返送す。 1月17日 9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目。東大の満蒙史料の会、われ当番にてよみ、田川氏に直さる。 すみて阿南、宮原2氏と昼食し、(※宮原鬼一氏)天理の高橋重臣氏と従兄弟と知る。ふしぎなることかな。 別れて古本屋、木内にて『黄禍論梗概(200)』、『沿海州一般(100)』買ひ、金なくなり、busにて立教大学。 手塚氏と会ふ。そのあと最後の講義をし、林嬢に『内蒙古史』貸す。駅前で別れ地下鉄にてお茶の水。 筑摩にゆき『Non-Fiction全集23回』の欠いへば「印もらってる」といひ、汚れたのを一冊呉れし。 そのあと古本屋まはり時間なくなり、あはてて新宿高野へゆけば矢野まちをり。18:10栗山氏来りしと。 松阪肉の「丸中」にてすき焼食はさる。「中等部は第一次通らねば手のうち様なし」と。 すみて靴下もらひ、まだ飲みにゆく栗山氏と別れて明大前をへて帰宅。 山本恭子より「男友達の劇やりたきがゐる」と速達。 1月18日 2:00ごろさめてまた眠り、8:00まで眠りつづけし。10:00登校。栗山氏にも会ふ。 昭和女子大の学生より「伊東静雄研究に諫早へゆき姉君より預り物した」と。「日をきめて会ふ日しらせ」と答ふ。 15:30より高垣新学長の挨拶「好学の模範となれ」と。 松田教授に電話すれば不在。「あとにて電話する」といひ西沢、渡辺、石渡の3生と出、 川上恭子生をまじへてしるこ食ひ、別れて大地堂へゆきしも本なし。(けふ成城堂にてBible(400)見つけてうれし)。 帰れば服部三樹子氏より礼状。朝日東京本社白取氏より「このみちを」の歌につきわび状。 伊藤桂一氏詩集出版記念会より案内。 夕食のあと山本陽子と坂根千鶴子と来り、22:00まで話しゆく。 1月19日 8:00起き、11:00までかかってnoteこさへ、きのふ野田宇太郎氏よりいはれし禅林寺の鴎外生誕100年祭にはゆけざりし。 12:00出て聖心女子大。salaryもらふ。試験問題「清の太宗について」「中国もしくは朝鮮のnationalism」400字とす。 本多慈子生に会ひ卒論出せしときく。道玄坂の古本屋見しも買はず(しるこ食ふ50)、漫画読本2冊買ひ、Ibn Battuta(角川文庫)見つけ買ひしに、隣の本とまちがへしに気づき、電車より出てとりかへてもらふ。 けふ伊藤桂一氏の『竹の思想』とどく。筑摩の「ノンフィクション」係に郵便箱は本入れるに小さすぎること書き、武田豊氏に「お祝おくれる」とハガキ速達す。 1月20日 9:00出て成城大学。漢文すませ青田女生の白楽天のこと忘れゐしに気づく。 田中久夫氏とsalaryまち、松田智雄氏に電話すれば「夕方まで不在」と。 野口生来りて物いはず。13:00となりsalaryもらひ、鈴木健司さそひて成城園にゆき湯麺くふ。 今井氏2人つれて来し。別れて帰宅。 依子より「大江叔母上京すれば同行するも美都枝氏を一人おくことできず。久美子母子いま来りをり」と。 筑摩の運搬のboy来り「郵便箱へ入れおきし」といふゆゑ、試せばたしかに入りし。筑摩へその旨ハガキ書く。 1月21日(日) 晴。教会へゆく。武田豊氏へ祝のcocoa(600)買ふ。浜治重子(旧住山)夫人より賀状。 坪井明より「本庄先生へ何かを」と。野上弘君に礼状。 午后速達にて久美子より(10日以来、藤井寺にゐる。何かいへと)。夕食後「わけわからず」と返事かく。 (けふ丸善道具店へ本棚2箇注文す)。21:00ごろ依子より「24ヒ ダイ2ツバメ8ゴウシャデカエル」と来る。 1月22日 京大東洋史研究会へ37年度会費900送らし、藤井寺にゐる久美子に「わけわからず、いふことなし」の速達してもらふ。 睡眠不足なれど9:45成城大学。卒論の面接の順序きめ、中国文学史の講義。吉川生、話やめずどなりしも平気。 12:00中休みの面接と昼食、12:30より午前の残りと午后の分やり、また東洋文化史。来週もやることとして面接にゆけば野口生、次は相馬にて書き直しを命ず。(単位足らず卒業できずと前田課長にいひしと)。 坪井勝也の「わらじ」よく出来ゐしと優とし、他は良。(加藤生負傷して面接出来ざる故留保、齋藤も留保)。 (昭和女子大のX嬢、木曜午后来ると)。疲れて帰宅。 佐藤dr.「ぶどう酒よろし」と宣ひしと悠紀子買ひ来る。けふ税務署員来り「前納は法律できまった」といひしと。 1月23日 朝、税務署来り「7月綜合所得は予定を申告する義務あり云々」、1回分2,130を払ふこととす。「咸北よりSiberiaにゆき共産政治だめ云々」といふ。 高橋重臣氏へ航空郵便。山本恭子生へ「(※友達の就職)世話やめよ」、坪井明へ「本庄先生のこと存じをる」。 白井紘史より「たびたび成城へ電話した」。日本歴史地理学会より「1月末にまにあはねば次巻まはし」と。 第100生命の中村嫗、微熱にて妹嫗集金に来る。 午后来ると思ひし2Dの男生5人、夕食すませしあと電話かけ来り、学校よりtaxiにて来しと。 吉祥寺よりまた電話、道まちがへて教へ心配せしにやがて来り、mass.-com.courseに移ると也。 青木譲二(立川の医師の子)、林昭興(タイル製品)、樺沢徹太郎(松竹支社)、本多忠利、山田耕二ならん。 21:30帰りゆきしあと入浴。22:30鈴木亨より電話、「伊藤桂一氏の出版記念会に出よ。直木賞もらった」と。 1月24日 よべ少し睡眠不足。「ツングース地域」ちょっと書き、11:00出て成城大学。阿部知二、高桑純夫氏などをり。 昼食くひ、12:30よりのMass-comi専攻の話を前田教務課長がするに立会ふ。男生13名、女生4名ききをりし。 (上原氏より「今年度の修学旅行の参加者、文化史33人、5月8日出発16日帰来」と)。 山口生のフランス語履修のことききゐれば大藤氏ちらりと覗きて去る。 やがて図書館へゆけば『柳田国男集』出来て柳田邸へゆきしと。 まつうち『朝鮮歴史地理』見了へ、鎌田女史帰り来て云々するに不快がりつつ、大藤氏に修学旅行の監督たのみて出、 15:00吉祥寺駅より家に電話して途で悠紀子に会ひて帰宅。 藤野一雄氏より武田氏の出版記念会と小林明美嬢結婚のことしらせ来しのみ。 21:00出て荻窪。雲呑食ひしあと、昨日開通の地下鉄にて東京駅。悠紀子、大江勉に遭ひ、ひげ生やしゐると話す。 23:00「第2つばめ」着き、家政婦と叔母と3人づれにて(※依子)下り来り、明後日朝、話ききにゆくこととなる。 依子の話にては「久美子、東京より房子つれもどし、いまも藤井寺にあり」と。 1月25日 よべ2:00すぎまで眠れず。5:30起きて成城大学休講ときめる。 芳野清君より「『果樹園』やめる気なし。朝日に注意した」と。苦しくてたまらず「新グレナイト」のみしもきかず。 依子と悠紀子と帰り来り(買物より)、夕食の仕度するころちょっと眠り、風邪ひく。 「(S ※省略)、房子を自殺するといひておどかし、方々の名所旧蹟みなゆきし」と依子に房子が語りしと也。 山田玲子生より「大阪文化みた」と。山本嘉蔵氏より寒中見舞。入浴す。  1月26日 8:30ゆめ見て起き、9:30出て経堂。大江勉宅へゆけば叔母待ちて電話かけさせしと。 房子の悪女なることを説明し離婚よりほかなきをいふ。房子と出刃庖丁の話せし(依子にききたりと悠紀子)。依子の性質操行聞きおもしろし。 (けふ行きがけ富永次郎氏と同車。帰り途、小高根氏へゆかんとして夫人の出て来るに会ひ、3人にて歩く中、依子の縁談心がけんとのことに喫茶してたのみ、月曜ゆかすこととなる。藤井生と遭ひ、電車で2D女生にあふ)。 悠紀子と相談の上、久美子の「叔母は何も知らず」を見せにゆくこととす。 1月27日 風邪なれど押してゆき漢文すます。そのあと野田といふ女性より2度かかりし電話の3度目まち、 成城文芸の出来上りしの届くを待ちして12:05となり(ともにダメ)、田中久夫氏またせしに負けて出、経堂にて昼食(130)。 小高根太郎を訪ひ、陶器造りの話きく。われ停年後と死後を話せしにいやな顔せし。14:00出て帰宅。 〒なし。風邪ひどくなり佐藤dr.より薬もらひ来るを待ちてのむ。 1月28日(日) 風邪ややよきゆゑ礼拝にゆき、帰れば太田陽子夫人より「文芸通信に原稿を」と。鍛治初江氏よりもハガキ。ふしぎ。 午后「半自叙伝」かきかけしところへ永山光文来り「丹波道久1ケ月間在京」と。 弟の教材屋を紹介せよとのことに石渡氏へ名刺かく。依子けふはじめて外へゆく。 1月29日 朝、久美子の手紙のこといひにゆかんとせしところへ電話かかり、依子さそひしに風邪と。 夫婦して駅南口よりtaxi、50分かかり440円なりし。 叔母「悪人どもでも約束は守らねばならぬ」と久美子に怒らず「入院中の事故もしりしゆゑ、叔父に来てくれのたより出した」と。 正浩と出て(叔母和光学園へゆくと)小高根家。夫人に近々参るとことわり、下北沢でしるこ食って帰宅。 饗庭夫人より「弟のこと吉森安彦氏によろしくたのんでくれ」と。 箕輪さんを励ます会より12万円余送ったと。武田豊氏より「祝、受取った」と。 昨日よりけふにかけて『文芸通信』に3枚、『果樹園』に20枚かく。歴史地理かけず不快。 1月30日 7:30ごろ起き、論文かくつもりなりしも出来ず。 11:00ごろ渋谷に電話して風邪のこといひ、3月2日に決定の結婚につき大に祝ひをいひ、成城大学へ教授会欠席をとどけてねてをり。 鶴崎裕雄生より広島へ転任と。『不二』来り「保田、やまとの兵主神社に勧進角力せんとしゐる」を記す。 けふ果樹園社へ速達。 1月31日 つひに出来ず、論文断りにゆくこととし、まづ満蒙史料の会の欠席を神田信夫氏へ電話してもらひ、ついで12:00出て立教大学。 中田氏帰宅。手塚氏不在。山田助手にことわりたのむ置書し、 飯島にて『日本の祭(300)』と『農業日本の女(100)』買ひ、椎名町まで歩き練馬で下車(10)。 busにて鷺宮2丁目(15)。ふと思ひついて仙蔵院(※学生時代の下宿先)へゆき、「さくらゐ」の標札見て帰らんとすれば、 夫人に呼止められ名乗り、和上と歓待受け、『釈尊物語』2冊たまひ、『日本の祭』おき、 府立家政駅より上石神井(10)、西荻窪行のbusにのり(15)国鉄にて帰宅。 内藤智秀博士の紹介にて海老原稔夫人来訪。white-shirtおきゆきしと。 夜、田中雅子より電話「明星学園に入れし。クラス会15日」と。「大江房子犯乱」と教ふ。 2月1日 海老原夫人の包みあけしに2万円入りをり。 悠紀子と依子と出てゆきしあと艶叔母より電話「房子26日また行方不明となりしゆゑ6日帰阪」と。 悠紀子、小高根家へ昼食後ゆき、夫人に依子見せ、太郎より「骨のある人間」と我のことききしと。 そのあと大江叔母に会ひ、叔父来り、離婚の手続せんと?帰りしと。 城平叔父を大江叔父訪ねたところ、発作(内出血)でねてゐたと。 久美子は房子の逃げし(母来りこれに云ひのこしたことありと追ふふりして出しと)あと泣きゐしと。ざまみろ也。 夕方、岩崎昭弥来り、いろいろ話してゆく。油と味の素をくれし。 2月2日 桜井和上へ礼状かき、睡眠不足なれど聖心女子大のnoteつくり、12:00家を出る。 昼食せざるゆゑ、支那饅頭2ケ(50)買ひゆきしも食へず、内藤智秀博士に海老原氏のこといふ。 (けふ成城大学より試験監督表来り、あたり少し)。 2時間とも鼻声にて35分やり、都電にて渋谷。お好み店にて団子買ひ(165)、西村へゆきlunch食って大江。 叔母「6日に帰阪、(※嫁のこと)まだ憎めず」と。腹立ち寒気して出、帰宅。 『成城文芸28』3冊来をり。高橋重臣氏、NewYorkより「眞柱に2回会ってゐる」云々。 夜、矢野君より電話「1次に3嬢通った」と。栗山邸へゆきおけといふ。 2月3日 悠紀子「子宮癌かもしれぬ」といふに11:00ともに出て(丹波道久より上京中と)、浅野dr.(※浅野建夫)へゆけばapart完成しをり。 祝にと味の素、油贈り、茶よばれ笑はれて出、『佐藤春夫詩集珠玉篇(30)』、『フランス印象記(30)』買ひ、 また『中国古典小説選(60)』買ひ、平田家へ寄りて帰れば成城大学より電話。「月曜出られぬなら試験問題しらせ」といひしと。 午后みな出てゆき、われ留守番。悠紀子「癌でなし」といひ、不遜。 2月4日(日) 朝、中野清見夫人より「成城高等部へ」の電話あり「あす12:00研究室へ来よ」といひやる。 教会へ悠紀子ひとりでゆき200献金してくれた由。 午后、熱出てだるし。『果樹園72』来る。小野勝年、手塚隆義2氏に『成城文芸』、鎌田正美君に『果樹園』つつむ。 海老原稔氏に「受験番号しらせ」とハガキ。依子けふ(※見合)写真とる(750)。 2月5日 8:30家を出、教務課に挨拶し、中国文学史の監督す。60人ほど受け、中に藤本生あり、叔父藤枝晃のこと問へば「博士となりし」と。 そのあと小山生に遭ひ「河野岑夫よろしくたのむ」の名刺わたす。 ついで12:00すぎ中野清見夫人来り「高校の入試すみしならずや」と。しらべれば5日発表と。 「そのあとでも採ってもらへるなら」とのことに引下がってもらふこととす。丸と長話せしと。 14:00よりの東洋文化史のnote提出させ、相馬生と研究室にはこび(13日教授会後『成城文芸』編集会の回覧かく)ともに風月堂にてcoffeeのみしあと帰宅。 太田陽子夫人より2月末『通信』出来上ると。依子けふ大江へゆけば手伝婆さん疲労困憊の様子と。 あす叔母帰阪。(S ※省略)と房子と同棲らしと。 2月6日 晴。寒し。悠紀子郵便局へ預金おろしにゆく留守に矢野昌彦より電話「3嬢、筆記面接わるかりしゆゑいかなる条件にてもと栗山氏へ」と也。 木内書店より『西太后に侍して(450)』と『畿内見物、大和之巻(950)』と来をり。 相良教授わが「年中行事」よみ、梅花は梅花点ならんと。 14:00までまち高垣学長の挨拶きき、そのあと入試問題の校正見るため16:00までまた待つ。 松田教授に電話すれば「来年10月までだめ。松浦君か、茨城大の三浦一郎助教授を」と。 けふ「(※西島)大と大島るり子の結婚祝を3月2日18:00~20:00丸ノ内日本工業倶楽部で」と森塚敏氏より。 なほ「挙式も16:00より同所で」と。ふしぎなる世の中なり。 2月7日 晴。家居。悠紀子、杉山産婦人科へゆきしに「異状なし」と。田中雅子の2児分娩をdr.おぼえたまひしと。 午后の便にて河野岑夫よりの転任挨拶つく。 18:00矢野昌彦より電話「結果を栗山氏にきいてくれ。あす10:00発表」と。 (手塚教授より「歴史地理に書いた。成城文芸受取った」と)。 若葉伊奈緒君に電話せしに「けふは帰宅せず」と。中学部に22:00電話せしも不通。 2月8日 8:00前、また中学に電話せしも不通。やむなく8:30出てゆけば小田急内にて矢野に遭ひ、ともにゆけば9:30すでに発表され、博子嬢合格のところにあり。 喜びて別れ10:00栗山部長に会ひ礼いへば、田中校長にも礼いはせよと。 都合きくまへ矢野に電話し、松浦高嶺氏に電話すれば「水曜午前に来[校]可能」と。 これも栗山氏にいひ、午后、相良守峰博士の試験手伝いにゆき、時間前に問題くばる。カンニングはせざりし模様なり。 すみてあやまり史学研究法にゆき、帰り来れば矢野まちをり「今日栗山氏に礼いふ」と。やがて会ひて5万円贈りしと。ともに出て帰宅。 吉森幸子夫人より「饗庭夫人のことは夫より云ふ。われはお見舞す」と。 帰りてねむくて困る。依子あす「第一こだま」で帰るとて昌三、硲、大江へ土産買はせ、硲氏へ寮歌集返却、礼の手紙かく。 2月9日 5:40依子見送りの弓子出てゆく。11:30ごろ出て聖心女子大、青山教授に会ひ「そのうち伺ふ」といふ。 Jesu会のこと話し(出席6人)、PhilippineのNationalismすまし早く出て帰宅。 途中『犯科帳(130)』買ふ。海老原好氏より「受験番号234」と。久しぶりに入浴。 2月10日 6:00起き7:30出て8:30成城大学。生物学を今井氏と共に監督。 ついで漢文。水谷生に浜松の法雲寺のことしらべたのむ。曽祖父の墓ありとreportに書きし也。 11:00すぎ昼弁当くひ、入試問題の校正のことききにゆけば必要なき様子。 出て下北沢にて散髪(250)。吉祥寺にて古本屋見てまはり、大高の寮歌集見出す(50)。ふしぎなること也(依子にもちかへらせし硲氏のもの、 悠紀子写し了へしあと也)。 他に『東蒙古の真相(100)』、『この眼で見たインドシナ(60)』を明大前で買ふ。 夜、西沢生より電話「玉葉を教はりたく」と。「あす午后来よ」と答ふ。 2月11日(日) 晴。暖し(5月の気候と)。9:30出て礼拝にゆく。 丸善道具店にゆき「本棚を火曜の14:00までに運ばれたし」といふ。名品会館へゆき帰りて昼食。 14:00西沢、渡辺2生来り『玉葉』の文治元年12月をよます。夕食して帰りゆく。 (けふフォト「ラカン」にて依子の写真出来上りしをとる)。 2月12日 9:30悠紀子と出て渋谷(吉祥寺にて老眼鏡買ひし。玉1260+つる650+ケース250)。 大に結婚祝5千円わたし母に2千円わたし、3月2日の式に出られずといふ。 ついで東急食堂にて昼食。小田急にて成城学園。森夫人に会へば早慶青山学院を次男受けるにつき心得をと。 (駅前の金物屋にてきけば「薄井夫人木曜に来る」と)。 バスにて農大前。大江へゆき女中さんにきけば「事なし」と。 小高根家へゆき夫人に依子の写真わたして帰宅。 吉祥寺中道の古本屋、代がはりせしに『むかしの歌(30)』買ふ。けふは寒かりし。 小高根二郎氏より同人費受取。井上多喜三郎氏より『骨』のしめ切3月末と。 2月13日 大江久美子より「絶交とのこと承知した。タヌキの恋愛は知ってゐると思った。ミサ子ひきとりにゆく。勉の件、叔母に云ったのはザンコク」と。 森塚敏氏へ「3月2日夫婦欠席」。吉森幸子夫人へ「お見舞を謝す」。久美子へは「4條ともしからず」と手紙。 遠藤道具店の番頭さんに「13:00より14:00に本棚持参たのむ」と電話。林桂子より「写真受取った。叔母長崎へ行った」と。 12:00出て13:05につけば、本棚はやく来て待ちをり。組んでもらひ山田教授のけふ欠席をきき置手紙見る。 教授会にて松浦高嶺氏の件すむ。(指定寄附ことしは全額献上するも、いるもの書き出せ7~80万円までと)。 『成城文芸』の編輯交代の茶話会すみしころ、山田俊雄氏刑務所より帰り来る。 藤枝晃より『果樹園』の受取。(本棚代金3,200×2) 2月14日 寒し。9:00出て本郷。木内書店に1,450払ひ満蒙史料の会に出る。田川氏負傷入院と。 すみて阿南氏と昼食し、別れて古本屋見しも何もなし。 busにて池袋。立教大学へ成績提出(久保生85、2女生90)。手塚、中田2氏のことききしも不在と。 また古本屋を見、渋谷をへて帰来。咲耶よりハガキ「あす夜にでも来よ。大江叔母よりみな聞いた!」と。 2月15日 9:30出て写真機にfilm入れ渋谷より東京tower行のbusにのり11:20着けば(※帝塚山短大の教へ子同窓会)、 田中雅子夫婦子供2人のほか吉川綾子(星野)母子、米沢(藤田)母子、吉原夫人、和田(佐々木)母子など来をり、疋田母子、山中(花井)タヅ子にて、欠席岸夫人のみ。 料理よばれbeerよばれ、塔に上り記念撮影受取り、会費免除されて礼いひ、16:00近く出て渋谷行のbus。 ついで経堂行のbusにのりて梅ヶ丘下車。寿一(※西島寿一)宅へゆけば寿賀子買物。仏前に何もなくお供して出、 猿楽町にゆけば咲耶、房子の件を話しをり(S ※省略)の名をいはず。高知支店長になりて預金増加さすつもりなりと。 20:00出て帰宅。池上生よりnoteの片を速達。寿賀子よりわび電話。鈴木氏より「白楽天の出来いつか」の電話ありしと。 2月16日 晴。寒し。noteつくり聖心女子大へ13:00着く。 salaryもらひ(2,760+700)源泉徴収票(36,000-2,800)もらふ。田中保隆氏の研究室に『果樹園』と『成城文芸』おく。 本屋見しも何もなく、吉祥寺の北沢のあとに入りし店にて森銑三『初雁(30)』買ふ。 けふ渋谷にてGelbe Sorte(※タバコ)みつけ2箱買ひ、赤玉port-wine買へば値上り(205→215)。 藤井生来り、あす送別会を銀座風月でと案内せし由。 猿渡生の母来り、妹(立教高女卒)受験ゆゑよろしくたのむと(番号373、茂子)。カステラ賜ひしと。 16:00集英社の鈴木氏よりまた電話あり「またあとでかける」といひしと。 筑摩の票2枚(Non-fiction全集115,033-11,503)、世界の歴史6 28,737-4,310)、角川の票 (10,500×3-1,575-1,050×2)来る。 夜、藤井に電話せしに留守。「あす行けず」と伝言たのむ。 2月17日 晴。朝、本多弘子生より電話、鈴木睦美生と来ると。永山光文より「大新工業と会社を変へし」と。 午后2生来り、夕食し19:00帰りゆく。 小西秋雄氏より電話「杉本長夫氏上京につきあす新橋苑にて18:00歓迎会する」と。 出席と答ふ。けふ『通俗篇』のnote了る。 2月18日(日) 教会へ礼拝にゆく。ルカ伝だんだんによろし。 名店会館へ寄り帰れば依子より「硲氏には会へず。家政婦やとってもらへず、いやなり。久美子来り帰れといふ」と。 松浦氏の履歴書転送さる。 16:00まで漢文の採点し、京と出て買物せしめしあと、悠紀子と遠藤道具店へ寄り、教会の前通り牧師様に挨拶す。 渋谷に出てpudding食ひして新橋。「お茶の間」休みをり。 「新橋苑」へゆき待つ間、悠紀子五目飯食ふ(150)。やがて来し小西氏と話し「朔太郎を好く」ときく。 杉本長夫氏来り、黒田といふ女詩人の京都女子大の先生、伊藤青山学院助教授とそろひ、松の実粥とスープと旨かりし。 杉本氏わるよひし、21:30まで引上げに困る。小西氏勘定とらず、礼いひ、酒まんぢう買ひて帰宅。22:40。 弓子起きてゐし。短大漢文の採点すます。 2月19日 晴、家居。採点すます。聖心女子大より3月8日の謝恩会の出欠を問ひ来る。欠と答ふ。 集英社に電話し「白楽天2月末には出来ず」と伝へてもらふ。 加藤隆子生より電話「卒論面接するやもしれぬに付、あす午来よ」といふ。 中西家(※大家)ふろわかし22:30入る。 2月20日 田中昌三・初江叔父叔母へ手紙(2人に憤ると也)。 10:00ごろ出て成城大学。ゆくみち高校連絡会なりしを知る。加藤陽子生来りtobacco呉る。 13:00卒論面接すまし、来年度指定寄附より70万円呉れよとの案かく。 note検査(東洋文化史)すまし15:30よりの連絡会に出て帰宅。18:00。 西村美那子より見舞。(栗山文博、堀川文博、柳田理博、山内清男文博などの掲示出てをりし)。 2月21日 神田信夫氏へ『成城文芸』、硲氏、西村美那子へハガキ。桜井和上より「夫人流感」と。 立教史学会より「別枝氏の学位祝を10日に」と。 10:30悠紀子と出て(近火につき田中夫人より電話あり)佐藤dr.へ薬もらひにゆきしあと田中家。 ちょっと話して出、昼食くはずに分れ、下北沢でラーメン食ひ(45)、成城大学へ採点報告す。 水谷生より浜松の法雲寺の所在をしへてくれし。 salaryもらひ、成城堂に聖書の代(400×0.95)払ひ、『悪の華(200×0.95)』買ひ、宮崎氏と駅までゆく。 きのふ高田氏(※高田瑞穂)、栗山部長に切言せしと。そのあと下北沢に下車。 『南方文化講座2冊(200)』、『仏様の戸籍調べ(180)』買ひ、吉祥寺で『ある日本人1(30)』また買ひ『満洲の民芸(400)』買って帰宅。 詩人連邦「100号で止める」と宣言、同じことをいふものかな。「月原橙一郎60才となりし」と見ゆ。 アメリカの人工衛星帰りしと。(丸夫人に電話しユミ子嬢3薬大を受けるときく)。 2月22日 8:00目ざめ何もせぬ中、安田(岸)明子夫人より「class会に流感で欠。そのうち転居する」と。 吉森安彦氏より「忙し。饗庭夫人とは知合」と。 立教大学へ手塚氏に会ひにゆかんとせし所へ千草来り「咲耶より面白い話あるときいた」と面白くなきこといひ、父の歌集、母の墓のこと、その気なしといふ。 14:00帰りゆきしあと、反省の問題につき悠紀子と話し、わが中国残留のこと(※敗戦後そのまま中国で暮らさうと思ったこと)「水くさく思った」由はじめて聞く。就寝1:00すぎなりし。 2月23日 9:45めざめ、すぐ丸より電話「中野清見滞京中」と。『骨』19来り、荒木利夫号なりし(お祝のハガキす)。 『バルカノン』来り美堂正義氏の「大陸遠望序説」載す(※部外者によるもっとも早い田中克己論)。 朝の〒には尾張一宮の江崎明治郎氏より『香艸』送ったと。田川孝三氏よりニコライ堂下名倉病院に入院中と。 14:00ごろ中西家(※大家)ゴタゴタするに、悠紀子「ゆき子ちゃん肺炎らし」と。浅野に電話し往診乞ひしに三鷹日赤に連絡とれしと。 浅野、郵便局よりまだ帰らずといふにことわって入院見送り、18:00よりの「春日」の中野歓迎会にゆく。 矢野・丸・福永にて話す中(讃岐セントラル硝子をやめしと)、20:00散会まへ悠紀子より電話「ゆき子ちゃん駄目らしきゆゑ病院へ行って徹夜す」と。 われ号泣し、矢野のpocketにつっこみし金あてにしてtaxiにのれば1万円札。病院へつき悠紀子に金出さし650払ふ。 往診の先生にきけば「いよいよ悪し」と也。taxiでも泣きしが看護婦さんに2千円わたさし、出て境より三鷹まで国鉄。ついでtaxi(80)にて帰宅。 弓子起きをり、病院入口で長男に会ひしゆゑ、中西家からっぽ也。憐れなり憐れなり憐れなり。 (新宿の古本屋にて『伊藤博文(50)』買ひ「春日」へわすれし)。 2月24日 12:15分ごろガタンと音せしも誰もゐず。われ「主の祈」くり返し、のちにはほぼ云へるやうになりし。 2:00すぎより眠り5:00目ざましでさめ、5:30悠紀子帰宅せしに「12:15絶命せし」と。 10:00ごろ柩車で帰るとのことなりしも8:00すぎ帰り来る。死顔きれいなり。夫婦して香奠(3千円)もちゆき、われ泣く。 藤原氏の夫人来り、自殺せし長男思ひ出す。あす16:00葬儀ときまる。 夫人ならびに3児のかぜ、予め注意せよといひ、浅野君呼び注射打ってもらふ。 今度の風邪は心臓を冒すと。夕食後、枕経の席にゆけず、あとにて話し22:40となる。 2月25日(日) 7:00までよく眠る。例の通り9:30となり礼拝にゆく。牧師様、礼拝の意義説かれ同感。 ゆき子ちゃん天国へゆきしを信じて帰宅。山尾浩子より風邪見舞。 (丸善家具にて電話かり、矢野に礼いひ、トベリウス『小鳥の歌と物語(10)』京に買ふ。これまた風邪気味なり)。 聖心女子大の本多慈子生より電話「東洋史の会は3月3日」と。 16:00まへ井之頭小学校同級生の追悼の辞きき、担任村野教諭に教へ子失ひしわびいひ、死顔に別れつげて留守し、東夫人の話聞く。広島県の人なりと。 骨帰り、夕食し、月原橙一郎(山尾浩子に返事す)に60の写真見たとハガキかき、別枝篤彦氏の学位祝ことわることとす。 (※以下、柏井家過去帖と交遊人名録にてノート終る。) 昭和37年 2月26日~ 8月31日 「東京日記13」 25.3cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 2月26日 (※「中西ユキ子を忘れじ」写真貼付あり。) よべ雨の音しをり。4:00さめ悠紀子ねむらざりしをきく。5:00になりて雪降れるを見る(2.26の追憶)。 悠紀子熱あり流感なることわかり6:00弓子おこし京、史送り出してのち、中西夫人にユキ子ちゃんの仏前へとたのみ、8:30浅野dr.に電話せしに「ゆく」と。 待つうち10:00まへお越し、まづ中西家の諸患者診察、すみて悠紀子に注射、一週間の安静命じらる。 岩波書店玉井乾介氏より電話「中国詩人全集続篇の蘇東坡のはさみこみを6枚今週中に」と。「小川環樹教授よりの指名なり」と。 諾して午食せしに中西家より呼ばれ、ゆけば福島県須賀川より上京の74の祖父上、倒れゐる。 脳溢血らしきも浅野dr.に電話して往診乞ひ、13:00すぎてやや安心なれば「序でに」と電話し、『果樹園』の原稿かく。 旧円最後の日なる21年3月6日、やっと帰京せしことわかる。 依子より手紙「大江叔母流感にて15日より23日まで臥床」と。 大に電話して「悠紀子倒れしゆゑ母見舞にゆけず」といひ、15:00弓子と買物にゆき、帰りて薬もらひ忘れしを憶ひ出し、 また出て中西家へ母よりの見舞として「うどん(280)」買ひ、『インカ帝国(90)』買ひなどして帰宅。 20:30浅野dr.来診。悠紀子に注射打ち、中西祖父診てゆく。そのあと岩波より速達『中国詩人選集2集』の広告なり。 (京、帰り来り、姉(※依子氏)よりの誕生祝1千円にこにこせしゆゑ礼状かかせ、われも中西家の不幸伝ふ)。 2月27日 晴。弓子学校へゆく。浅野dr.に38℃の熱のこといへば9:00来診。 依子より大江叔母1日の「はと」にて上京、土産の肉2日にとりに来よと。 松浦高嶺氏より「火曜午前しか空きゐず」と。本多慈子生より「3月3日18:00渋谷弥生にて会する」と。 12:00出て三鷹よりtaxiにて浅野dr.、薬もらふ。川崎円祐の子(慶大生)死なせしと。 出て成城大学。教授会にては入試志願者の数多く、われに仕事多く当りゐる。 山下太郎の孫娘を追加にて入れることとし、卒業判定に相馬生追試のあと残りをらば5月卒業と。 そのあとcunningせし女生の処分にて不快。栗山部長に請求書わたし、海老原234、猿渡茂子373の番号かきてわたす。 (けふ筑摩の武本氏より電話ありしといふにかけて「唐寅(伯虎)(※明代文人)のごとき風流人のこと7枚を今週中に」と也し)。 夕食すませしところへマキ子ちゃん「先生ちょっと」と。きけば「母38℃の発熱、先生呼んで」と。 早速浅野dr.たのみ20:00診察受け流感と。あと悠紀子みてもらひ、マキ子ノリヒコ2児に「祖父上に伝染ささぬやう」の注意す。 (『アラビア史(120)』買ひ、ゲルベゾルテ浅野dr.に贈りし補充す)。 2月28日 7:00ごろ弓子起き来る。8:30浅野dr.に電話「悠紀子35.9℃、中西夫人37.5℃」となり。 「午前中来診」とききも田中ダツ夫人よりの見舞の電話ききて出る。 赤門前にて『The Moons of Korea(100)』見つける。朝鮮歳時記なり。満蒙史料の会にて松村氏より地図出来上りしを受取る。 すみて神田信夫氏と阿南氏とにて昼食。「和田先生御元気」となり。阿南氏とお茶の水までbus。 杏雲堂にゆき、電話して名倉堂病院に田川孝三氏訪れ「来月8日退院」ときき、端午の扇のことききて出、 阿南氏と別れ、筑摩の武本氏に会ひにゆき、唐寅のこときく。『柳田全集』をたのみし。 地下鉄にて池袋。立教大学にて手当受取り、岡田甫『戯談(100)』、『女(180)』、『明石(80)-double』、『李容九の生涯 (50)』、『私の中国旅行(70)』など買ひ、渋谷をへて帰宅。 大江久美子より「9月23日まではしらず。その日これにて止めるときき信用し、その後もだまされつづけし云々」の手紙。 硲晃氏より「品受取った」と。悠紀子熱下って却ってふらふらとなり不快。中西家老爺帰りしと。 (けふ渋谷より安田家に電話せしに嬢病気と。流感の注意し3日出席をいふ。あさ速達書留にて答案来り、「採点報告を10日迄に」と)。 3月1日 よべ睡眠せざりしと。悠紀子変なり。 12:00浅野医院にゆき昨日までの払1,500を払ひ(雲呑麺70たべし)、古本屋にて『楠木正成(50)』、『南方詩集(50)』買ひなどして帰宅。 浅野dr.13:30来診「心配なし」と。雨降り来り、京迎へにゆかず。 16:00帰りて「買物にゆく」と。喜びて任せ、われ煮炊にまはる。 弓子帰り来り「あす大江へゆき呉る」と。「秘書課へただ一人まはされし」と。 3月2日 6:30弓子におこされ朝食し7:30家を出、試験監督3時間。経済1,700を越えし也。 社会の問題見ずして13:30また試験。問題見て単語集に鄭和と越南なきを知り、前田課長にゆけば「原稿にもなかりし」と。 岡田部長にいへばそのまま受けさせよと。すみてわが草稿にもなかりしを知り、採点より除外し、世界史の採点し計算すませしあと「入れるべき語句」といふを楯にせんと岡田部長にいへば(栗山氏ら国文にいへば「屁理屈だね」とありしも)、(※気に病まずとも)まづよからんと。 採点し21:30すませて帰宅。熟睡す。 (弓子、大江へゆき、はもの皮と牛肉ともらひ来し、「10日までお艶叔母ゐる。目ばかりの人だね」と。) (矢野より電話あり「あすまた」と)。 3月3日 子ら出しあと矢野より電話あり「銀行支店長の女、山根治子嬢813の及落早めに報せ」と。 ついで林敏夫より電話「母ねるところなく寿一のところへ泊るにつき、叔母来る」と。風邪をいひてことわる。 14:00岩波のための「蘇東坡のこと」200×12書き了る。京帰宅。講義要項書き了る。 午后千草より電話、渋谷よりにて、敏夫にいひしことくり返す。 弓子一度帰り(証書忘れしと)また出てゆきしにより、京と悠紀子のこして16:40出て久我山で下車。 岩波に電話かけ「蘇東坡のこと」弥生へとりに来てもらふこととし、渋谷で下車。 時間つぶしに『普通消息文典(20)』、『欧米我観(20)』、『椰子の実(20)』と安本買ひ「弥生(フランス料理)」にゆけば原田先生まちをらる。 ついで現はれし本多生にきけば、卒業祝のみならず原田先生の古稀祝、青山氏の学位祝と、岩越生の結婚前祝と。 20:30までゐて原田先生をトロリーバス停まで送り、青山氏と井之頭線同車、「収入宜しきゆゑ、奥さん機嫌直したのでせう」と。困る。 帰れば「浅野dr.来診なかりし」と。われはゆきがけ佐藤dr.に遭ひ、薬もらふ。 3月4日(日) 6:00起こされ7:30出て成城大学。栗山部長に「(※試験問題の件)心配かけて」といへば、「慎重にやらねば」と叱らる。 2時間目の前に問題を検し試験場へゆけば、呼び戻されて模範答案かかさる。すみて監督。 替玉かといひて野崎君に室代ってもらへば「然らず」と。採点すまし計算たのみて21:00すぎ帰宅。 「主の祈」を時々なすが日課となれり。史のたきし湯に入る、珍しきことかな。 3月5日 6:00起き7:30出て面接。一向に面白くなきもすませて帰宅。〒なし。 (『萩原朔太郎(30)』買ふ。ちかごろ開店の古本屋にて顔おぼえられし也)。 3月6日 8:00起き「中国の風流」を苦心惨澹14×200ひるまへに書き了へ、悠紀子と出て下北沢、経堂。 小高根家へ食用油(350)を土産にして、ゆけば夫人「昨日中待ちし」と。 わびて話きけば、軍人の遺児那波信久君とて昭和8年9月22日生。立教の経済卒、日立化工勤務、母健在。3姉の中、長姉また戦争未亡人。次姉大島家へ嫁ぎしは小高根夫婦が仲人。3姉梅沢家へゆきし末子と。 われら「賛成、(※依子)呼びよせ見合さす」といひ、大江へゆけば艶叔母「依子に姑むつかしすぎずや」と。(※弟の)結婚式に祝電うたざりしをたしなめられ、出て渋谷。 筑摩の[武本]君の16:40来るを待ち、原稿わたせしあと下北沢の古本屋見て、『英雄色を好む(30)』買ひ帰宅。 小沢由美子生「単位くれ」と来し由。(けふ矢野よりつくだに一箱来り、大江へもちゆく)。 悠紀子21:30動悸し、浅野dr.に往診たのみしに来客と。 22:00ことわりいひしあと、熱はかれば39.3℃、またいひしに来診すると。 3月7日 浅野dr.午前2時来診、薬おきてゆく。医師会なりしと。 6:00起きねむくてたまらず、昌三叔父より「本店勤務となりし。正平さん今川にゐる。依子を初枝叔母ベタぼめ」と。 集英社鈴木氏の代理薄井氏より「白楽天いつできるか」と。 京、帰り来しあと、ともに出て買物もたし、『果樹園』同人費1,500現金封筒にて送る。 そのあと東横dept.にてバナナ(270)かひてゆけば、母ねてをり「13日の下阪止め。その旨大江勉にいった。6月に(※父の)墓出来上るゆゑ1周忌をやらんと。その際歌集を」と。 われ早すぎると反対、きき入れられし。新婦に紅茶のまされて出る(史、昨夜来しと)。 下北沢下車。大地堂にて『海南島語会話(70)』、『東印度の土俗(120)』買ひて帰宅。 弓子帰りをり(集英社に渋谷より電話かけ「白楽天を4月末までに」といへば喜ばる)。 3月8日 浅野dr.に支払にゆく(1,300)。患者1人もなく夫人とも話す。 『世界民謡曲集(40)』買ひ、赤飯買って帰宅。『帝塚山文芸クラブ通信』来をり、齋藤はるみの文いやなり。 13:00出て佐藤dr.に寄り薬もらひて成城大学。小沢生来りしに東洋文化史の60やる。 そのあと福島生の母来り、谷氏の単位もらへればすむと。 判定会に女生は300点以上、男生は280点以上とし(20人確保のためと)、わが関係ある3人みな駄目。 ただ足利の海老原生は補欠となりふしぎ。今年より縁故1人だけ良しとなりしらし。 すみてbusにて大江。叔母に「孫のため大切にせよ」といへば「しんどくなった」が別れの語なりし。 小高根家へ寄り、夫人に「けふ速達出した」といふ、これまこと也。経堂より乗車、明大前、吉祥寺の古本屋見しも買はずして帰宅。 (矢野の会社へ電話すれば「新潟出張」と。家へ電話し夫人にだめなりしこといふ。「今夜帰宅」と。この間たまひし佃煮は悠紀子の見舞と。春日のmadameに電話し、礼いふ)。 22:00矢野より電話あり。点数、席次いひてすむ。 3月9日 10:30までねる。悠紀子働きをり。太田陽子夫人と美堂正義氏へ礼かく。 中野清見へ『果樹園』。15:00買物にゆく。けふ文芸の入試発表なり。 3月10日 8:00起き9:30出て聖心女子大へ成績表もちゆく。 教務のmotherにきけば「もとより来学年もお願いす。時間もと通りもお聞きせし」と。 3月分手当を小林氏よりもらひ、青山学院前で下車。古本屋見しもなく、花屋へゆき「りんどう」「しょうじょうばかま」「桔梗」「なるこゆり」と買ひ(50×4)、井之頭線にて高井戸。 すし(130)食ひ、荻窪の古本市にゆきHoworth『蒙古史Ⅱ(400)』、『日鮮解話辞典(100)』買ふ。(渋谷で『行事と風俗(150)』買ひし)。くさもち(50)買ひて帰宅。 矢野より電話ありしと。夕食後またかかり銀行支店長の嬢の点きく。 3月11日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。立教の林春江生より「九州一周した」と。 夜、永山光文より電話「石渡校長のもとへはまだゆかず。丹波帰阪せしらし」と。 3月12日 「岡田剛先生2月28日亡くなられ3月3日葬儀すみし」と奥様より。 12:00京、帰宅せしあと夫婦して出、三鷹よりtaxiにて浅野dr.。夫人に依子の写真わたせば「あてなし」と! 出て渋谷(苺持ってゆく)。母起きてをり、大江叔母を東京駅に見送りしと!るり子失業保険もらひにゆきしと。 すぐ出て買物しつつ帰宅。(『マナスル(30)』といふ、この間見つけをりしを買ふ)。 渋谷にて西川英夫に岡田先生の訃伝へし。 (けさ岩波より電話、藤州のこと問ひ来り、夜、星野綾子夫人より電話、2次試験のこと訊ね来る)。 3月13日 川崎円祐へくやみのハガキ。岡田先生奥様にくやみ(1,000同封)。 散髪にゆき(250)、昼食のあと成城大学の教授会。みな(※及第)点与へしあと「来年よりきつくする」ときまる。転入も拒絶せしは文化史のみ。 すみて16:00。 busにて大蔵病院。花買ひて(230)西塚俊一(糸屋鎌吉)氏を見舞ふ。肋膜なりと。中野清見の嬢の入学のことにて礼いひ、渋谷をへて帰宅。 けふ太田陽子夫人より桝田夫人の住所しらせ来り、寿一夫妻より17日渋谷で映写会すると案内ありし。 3月14日 晴。艶叔母より速達。(※見合の)先方について多くの疑問を出す。田川孝三氏より退院の通知。 小高根二郎氏より同人費受取。午后、悠紀子小高根夫人に訊ねにゆく。夜、聖書研究会にゆく。15人位なり。 (税金のことにて竹内寄るかと思ひ電話せしに「昨日すみし」と。我家1.4万円を出さねばならぬらし)。 夜、悠紀子、依子へ手紙かく。 3月15日 9:00より雨。珍し。月原橙一郎氏より「会ひたし」と。西垣脩氏より『少年聖歌隊(※鈴木亨著)』出版記念会の案内状。 杉本長夫氏より速達、令息青山学院失敗「成城の経済と文芸といづれが難しいか」と也。速達で「わからず」と答ふ。 夜、入浴。痔痛き也。白楽天かきたくなりをり。 3月16日 晴。午后の便にて佐々木邦彦、高橋邦彦と、両邦彦の手紙来る。出て『アララギ』の『茂吉追悼号(100)』買ひ来る。 正宗得三郎画伯逝去78才。白鳥の弟敦夫の弟にして、猪早夫の子、春江生は孫にあたる也。 3月17日 晴。母より電話「河野の次男、修学旅行にて今夜上京」と。「迎へに行ってくれ」ならんも応ぜず。 〒なし。午后三鷹書店にゆき『南方亜細亜の民族と社会(50)』、『法医学夜話(50)』。夜、入浴。 3月18日(日) 晴。寒し。礼拝にゆき、昼食後ねてゐれば、依子「第一こだま」にて帰り来る。 悠紀子、弓子の買物にゆき、帰って小高根夫人に電話す。 (けふ原田先生の喜寿祝賀4月7日と『東亜古文化論考(1200)』の代金を4月末までにと)。 城平叔父、大江叔父と会ひし由。 3月19日 晴。岡田先生奥様より丁寧な礼状。東洋史談話会より会すると。『不二』来る。 午后阿佐谷へゆかんとせしも止める。悠紀子、買物の途に創価学会につかまりしと。 夕方、高井洋子生に電話すれば「パーマかけにゆきゐる」と。夕食後、武井伸子生に電話すればこれも留守。 母君「十時からか」といふ。入浴。19:30高井生より電話「式は10:00より」と。 3月20日 6:00起き、(よべたびたびねざめせし)8:30家を出て成城大学。 浅沼講師と石渡生と同道。山田生に会ひ祝に『吾妻鏡』の訳をといふ。 式すみて寒き中を写真とらる。栗山部長にきけば1次の合格者にして入学手続せしは半分と。 coffeeのみにゆき高井、神戸2生と会ふ。われをこはしと也。 出て鈴木秀穂に遭ふ。「相馬気の毒にて、けふの式に出ず」と。帰校、salaryもらひ山田教授と同車。 経堂にて下車。すし食ひ小高根家へゆけば夫人「電話してあす13:00ここにて見合といひし」と。 出て新宿、四谷をへて山本書店。『台湾使槎録(200)』、『宛署雑記』、『元白詩箋証稿』とにて730払ひ、小雨の中を都電にて渋谷。 矢野に電話し(けふ成城堂にて中学の『英和』『和英』買ひし)、某銀行支店長令嬢立教に入りしときく。 大江久美子より「感謝しゐる」と。安田夫人より転居通知。けふ卒業albumもらひし(はじめて也)。 3月21日 雨やまず。悠紀子・依子ともにパーマにゆき、依子11:00に帰り来てすぐ出る。途中飯くふ時間なく(名店会館で羊羹500)、12:45に小高根家にゆき、いへばすしとってくれ、来しと那波家の着きしと同時なり。 依子と2人ほほばりてのち、母、姉と信久君に会ふ。酒タバコともにのむと。2人のみ座敷におき、こちらは話すに、秋田県が父方、母は芝の生れと。 男のやうなものいひする母君にかってちがひ、16:00先出て矢野に電話してゆけばすし食はさる。 この間の1万円の礼いひ、見合と流感の話して出、吉祥寺に18:00。買物悠紀子し夕食せしめしあと、 19:00出て写真焼付とりにゆけば9枚しかとれてゐず。聖書研究会、来週よりなく祈祷会と。 帰れば(ゆきに依子に会ふ。吉祥寺まで送ってもらひしと)やがて電報来り、 「ツネオシス シラス ヒゲ」と大阪松原16:50発なり。 丸に電話して西川にしらしてくれといふ(由美子薬専はだめなりしと)。 3月22日 9:30出て(肥下夫人へくやみ状に3千円同封す)阿佐谷、船越章を訪ひ、肥下の訃を伝ふ。赤川草夫に伝へてくれると。 10:30出て池袋(途中、西寛治に電話せしに出勤と。長尾良にかけしに他出。肥下のこと伝へてくれといへば、コギト編緝の肥下かと)。 立教大学へゆく途、田中教授に会ふ。salaryもらひ研究室へゆけば「誰もゐず」と。地理の中田氏「この次の歴史地理に書け」と、恐縮。 古本屋見てゾッキ本の『イラン史(130)』、『ロシア史(100)』買ひ、林富士馬氏に芳賀その他への(※訃報)伝言たのみ昼食(150)。 田村敏雄氏に「入学のこと出来るだけやる」と電話。小高根家へゆけば夫人忙しく、太郎「あとは知らぬ」との様子。 tobacco(400)置き、肥下の所教へて帰る途、伊藤佐喜雄思出しゆけば旅行中と。 次にbusにのり杉浦(※正一郎)夫人訪へば他出と次嬢。 帰宅すれば夫人来をりしと。17:00悠紀子帰るをまち、硲晃氏より「上京しをり、今夜来訪」ときく。 悠紀子にきけば「杉浦死ぬまへに洗礼受けし」と夫人話せしと。 (創元社の知念君(※知念栄喜)より「電報もらった。下阪するか」と電話ありしと)。 硲氏、道わからぬかと悠紀子たびたび外へ出、われも3度目にともに出しに偶然来合せし。 礼いひ、神のこといひ、汗かくを見、22:00送り出す。(教へ児、井上斌子と相思らし)。 鈴木睦美生より「鎌倉へゆきし」、杉本長夫氏より「坊や日大法科へ入れし」と手紙。 3月23日 曇。丸より電話あり「肥下の香奠あつまらぬ故、置とどける」とのことなりし! 井上多喜三郎、鈴木睦美、安田明子へハガキ。佐々木邦彦氏へ同。 竹内好に電話すればPTAと。夫人に「香奠御自由に」といふ(夫人「照子」と)。 高橋通子より「卒論頼む」と!鍛治初江生より「伊藤久子、去年夫をなくし今年3月再婚した」と。 春の日会より4月9日料亭柳生にてと。 鍛治君へ「近々は帰らず」と手紙。午后より雨。夜「長恨歌」を写す。(中西家より卒業祝の赤飯)。 3月24日 中西由美子(※ユキ子)ちゃんの命日と、果物買ひに悠紀子ゆく。 太田陽子夫人より「伊藤、峯2夫人のアドレス。下阪の日を一週間前に知らせ」。鈴木健司生より「相馬3月7日帰郷した」と。 バナナ高価にて洋菓子を仏前にそなへる。奥さん泣く。 大田、鈴木、高橋の3生にハガキ(太田夫人には「夏、建碑式まで下阪せず」と)。「父の骨」700字を『骨』にと書く。 午后、竹内訪ねしに不在。夫人感冒と。田中夫人訪ね「交際」につき教はる。別れて帰宅すれば阿南氏より電話ありしと。 3月25日(日) 2:30ごろ目さめ、悠紀子おこして語り6:30起床。8:30までに出る。 浅沼講師と同車。「このごろ楽し」といひす。試験監督2当り、午后あき、あすの面接もなし。 300代の教室にゆけば猿渡生の妹ふたたび受験しをり。「姉、付添にも来らず」と。 (※受験者数)経済800、文芸600、短大400にて2千人近き受験生にて、はじめてらし。 田中雅子に電話して伊藤生のこといひしのみ。 採点前、尾上教授に(※遠縁である肥下恒夫の弔問休暇について?)相談すれば「自分の親友といふことにせよ」と。 宏池会に電話せしに無人(日曜といふこと忘れし)。 栗山部長に猿渡生のこといへば「宜し」といはず。採点22:00までし、短大の分はあすとして帰宅。 風呂わきをり。小高根二郎君よりの便りにては「肥下20日に農薬自殺。27日高野にて会ひたし」と。 丸より1千円封入「夫人は翠光園の光子」と。花井タヅ子夫人より「井上斌子の縁談難行」と。 けふ悠紀子、依子の出しあと(悠紀子教会にて天理教のことききしと)、林叔母来り「母のところへゆきしか」と問ひしと。 悠紀子母に会ひ「船越叔母より肥下のことききし。河野京大工科へ合格」と。 そのまへ小高根夫人に会ひ「那波家有望」と。竹内好より電話かかりし由。(永島福太郎博士より令嬢聖心女子大に入学と)。 3月26日 8:30出て途中、丸に電話し肥下のこといふ。ついで西に電話すればかからず。宏池会も同。 田村邸に電話すれば「盛岡にゆかれし」と。10:00成城大学に着き採点。 意を決して松田生の番号を内田博士にいへば一覧表見てくれ「好成績」と。安心し、他の採点も手伝ひ18:00すみて、すしと酒よばれ、早く出て帰宅。 『福地邦樹詩集』来をり。(けふ西寛治氏に社へ電話すれば年鑑係と。「あす大阪よりの話ききてまた電話す」といふ。竹内にも電話し伝へし)。 (高井生よりあさってクラス会と電話ありしと)。 3月27日 晴。寒し。枡田、和田、星野、花井、藤井、藤田の6夫人へ写真同封し、「春の日の会」へ欠席通知。 井上多喜三郎氏に「父の骨」包む。立教昨年卒業の高田宣武生より礼状。近藤園枝生より礼状。 中野清見より「次男キリスト教大学に入学」と。聖心女子大より4月14日(土)13:30教授会と。 14:00出て郵便局。名店会館(入学祝400+500)、市役所出張所をへて下北沢。 宏池会へ電話して松田生のこといひ、東生田下車。 山道で嫁と子2人に遭ひ、叔父叔母と話して全田叔母の体悪きをきく。(全田叔父の17回忌に肥下来ざりしと)。 それより田中順二郎宅、祝し弓子への祝もらひして出、農大前下車。 小高根家へゆけば夫人「電話せし。せかぬならあと数回会はせよと那波家の話」と。 すぐ出て下北沢、大地堂へゆき『笑いの誕生(50)』、『ぐろてすく(70)』買ひ、rice-curryくひ、高井洋子に電話すれば外出と。 「あすの会に出ず」との伝言たのむ。 新宿高野へゆけば19:50で閉店。外でまちをれば(※小高根二郎)20:00来り、純喫茶へとゆく。 「肥下10日ほど半狂乱にて、夫人に悲しむ色うすかりし」と。 同人費わたし、駅で別れて西に電話すれば「助力する」とのことに「いま一度しらべてから」といふ。 帰れば22:00、依子「あす帰郷」と。 3月28日 9:00出て渋谷をへて本郷3丁目。田川氏負傷癒えて出席。 すみて卒業式とて父兄や女学生の服装賑やかなるを見つつ、神田、松村(日大理学部に就任と)、岡田の3氏さそひて昼食。 すみて都電にて日本橋。東洋経済社ひっこしをり、ゆけば原田運治不在と。 日銀にゆき、鎌田君より香奠とり、紅松君呼んでもらひ同。 西川にゆけば丸より電話かかる。梅本(※梅本吉之助)来りて家に電話し、悠紀子よりききしと也。 ここにても香奠預り、梅本のゐる佐渡島金属支社へゆかんとしtaxi待ちに待ちて乗れば舟町知らず。80払ひて下り、歩きてゆきjuiceおごらる。10月保田へゆくといふ肥下に会ひしと。帰阪弔みにゆくといふに地図かきてわたし、三越へ出て地下鉄。 帰れば『柳田国男集』3冊来をり(880×3)、福地君より詩集の評かけと。 藤田幸子夫人よりclass会の礼。神鳥あや(四方)より転居通知。 けさ依子7:00弓子に送らせて出てゆきしと。夜、19:50教会へゆき祈祷し恥かし! 3月29日 「肥下恒夫を哭す」200×3果樹園社に速達。肥下夫人に西川、丸、紅松、鎌田の香奠(4,000)を送り「様子しらせ。梅本にもいへ」と書く。 林俊郎より礼状。午后、郵便局へ出(肥下93、果樹園社40)速達し、ノート5冊(100)買ひ、『菜根譚(40)』買って帰宅。 杉本氏より再び令息日大入学を報じ来る。硲氏より「今後も心がける」と。 聖心女子大へ「4月14日(土)13:30の教授会に出席」と返事。高田宣武、福地、杉本の諸氏へハガキ。 3月30日 よべよりみぞれ。岩波より『中国詩人選集 第2 蘇軾』2冊来る。 柳井道弘より「肥下の遺書なかりし。西、長尾、伊藤にしらせ」と。集英社より注意書。 12:30出て成城大学。長尾に電話す。月原橙一郎氏に電話すれば会議中と。 森忠巳氏より電話。高田瑞穂氏と相談の上、特別承知せしめ篠原氏にもちゆけば「おそし。栗山氏にいへ」と。 会議の席でいへば成績悪き故と34番目の補欠。(猿渡生は姉のせゐで通りし)。 帰途(前田課長に4Dの学科指導を4月14日(土)9:00~10:00と届ける)山田氏と同車。 帰りて森夫人に電話し、夕食後かかりし電話、那波君よりにて、依子在阪を知らざりし様子。帰宅したら電話すると電話番号きく。 森氏より電話「明治学院の夜学受けるべきや」といふに「受けよ」といふ。日曜来訪の由。 けふ大学へ小野勝年氏より受取。のハガキ。『南方民族の生態(80)』複なりし。 3月31日 晴。霜よべ多くおきし。文学散歩東京友の会より案内来しのみ。このごろ『水滸伝辞典』のcardとりてたのし。 午后、京に留守番さして出、杉浦夫人に肥下の自殺告げ、杉浦(※正一郎)の死の床での入信をきく。 蕗子けさ東京駅までゆき金ぬすまれしとて出て来ず。 15:30となりて急ぎ帰宅。京、けふ17:00より井之頭塾へ通ひはじむ。 4月1日(日) 9:40出て礼拝。求道会出来るとて夫婦して曜時をしるす。帰りて枡田紀子より「写真ふけて写りをる」との手紙見る。 岩波より稿料700×6-420=3,780。昼食し、森忠巳氏に電話すれば「出た」と。ややして電話かかり「道わからず」と。 井之頭小学校へ迎へにゆき伴ひ帰りて「坂出秋彦旧理事にたのめ」といふ。津上製作所の社長にてはなかりし。 23:00電話、西垣脩君より『青衣』の出版記念会に名かせと。 4月2日 晴。9:30森氏より電話「子どもつれてゆく」と。やがて来り「養徳社にて貴殿のことを自他にきびしと噂せし」と。 英樹君、ひるめし食ひ15:00までをり(齋藤はるみ長崎よりヱハガキ)、直後森氏より電話「某代議士にたのめばいかに」と。「関係なし」といふ。 けふ弓子、柏井へ保証人の印もらひにゆき、祝として1千円もらひ、入行式に出しと。饅頭もらひ来し。 4月3日 雨。山田君江より「会、病気ではなかったか。短大専攻科へ入る」と。『果樹園』74来る。 午後風吹き、夜風やむ。『白楽天』にと「長恨歌」より(※訳詩)はじむ。 4月4日 晴、寒し。武蔵野教会より「13日以後金曜19:00求道者会」と案内。塚田満江(黒田しのぶ)なる女性よりハガキ。 京に留守させ11:30出て渋谷で昼食してのち第一銀行神田支店にて3,780受取りしあと、岩波文庫『吾妻鏡』探せしになく、国鉄にて新宿。 「伊勢丹」にて原田淑人先生の喜寿お祝(4月5日と)に湯呑一組(唐草模様1千円)を届けさす。 それより「二幸」にて茉莉茶みつけ1袋(160)買ひ、busにて荻窪北口。われは古本屋見し。吉祥寺南口にて『ありがたき神々(110)』といふを買ふ。 帰れば肥下みつる夫人より「心配いらず」の速達。 秋山昭子夫人より「光風会展に出品」との案内。森英樹来て「津上製作所社長室付」の名刺おきゆく。 悠紀子と議論のあと、西寛治氏に電話すれば福岡出張と。 4月5日 森忠巳氏より電話「鈴木氏より連絡あり、坂出氏に会ふ」と。これにて目さめ、『水滸伝』やり、 肥下夫人よりの死亡通知見しあと、竹内(※竹内好)に電話すれば「午后来る」と。15:00すぎ来しに肥下夫人の手紙見す。 『近畿民俗29』。谷省吾氏より「皇学館大学教授となり両帝塚山短大にもゆく」と。 三野生より「あそびゐる」と。立教大学より「水曜7~8時限(14:50~16:30)237教室にて」と。入浴。 20:30影山正治氏より「保田氏上京、いま会しゐる。肥下氏の死を知るや。保田氏に会ふや」と。「保田より肥下の死の事情きいてくれ」と答へしのみ。 (けふ原田淑人先生の御誕辰を祝する手紙かく。) 4月6日 曇。あさ森氏より「坂出氏と成城大学に行き補欠の人数きいたがまだわからぬ」と也。 午また電話、今度は小高根夫人にて「この日曜の都合いかにと那波氏来りての話」と。悠紀子依子へ「日曜までに帰るや」の電報打つ。 われ3:00出て高円寺赤川氏を訪ね(苺150もち)、肥下夫人の手紙見す。帰り紅松一雄君に電話して「あす午后ゆく」といふ。 16:00依子より返電「ツゴウワルシカエレヌ」と。 4月7日 曇。和田節子夫人より写真の受取。 15:00出て井荻の紅松一雄に肥下夫人の手紙見せにゆく。夫人大阪女学院(ウィルミナ)を出て竹森牧師夫人の1年下、結婚後26年にて長男早稲田を出て25才と。 金なきに気づきしは悠紀子の出しあとにて、丸に電話し「夜ゆく」といふ。 19:00出て丸へゆき、肥下夫人の手紙見す。次男東北大学の大学院へ入ると。 4月8日(日) 曇。礼拝にゆく。副牧師森田先生の紹介あり。この間お世話しくれし人也。 すみて帰り来れば原田淑人先生よりお礼状来あり。蒔田夫人「写真受取った。自動車の免状とった」と。 午后森良雄博士来り、悠紀子と信仰談す。法華経よしと。 4月9日 8:00出て久我山下車。西寛治氏に電話かければ「16:30来社せよ」と。 栗山部長訪ひ、森氏坊やのこといへば明治学院へゆかせよ、いま13人補欠出来たのみと。 成城大学まで歩き前田課長に問題提出の時のこといひ、山田生に電話すれば外出。 小高根家へゆけば悠紀子まだ来ず(けさ速達にて依子より「艶叔母またころび帰れざりしも今週末には帰宅」と)。 経堂駅にて悠紀子まち(途にて船越夫人に会ひ、高村賞の祝いふ)、青山家にてもらひしcocoa(栗山家の帰り寄りしに博士他出、25になる嬢ちゃんありと)わたし、昼食して別れ、宮崎幸三氏訪ひ、キリスト教の話伺ふ。 東京駅行のバスに乗り虎ノ門下車。給食協会に月原橙一郎訪ふ。昭和17年以来にて60才なりと。 それよりまたbusにて八重洲口、西川訪ふ時間なくなり産経まで歩き、西氏に会ひ、次の下阪に肥下家訪ふときく。 地下鉄にて荻窪。西荻窪の古本屋見、『西遊記(30)』、『支那書翰文講話(30)』買ひて18:00帰宅。 森夫人に電話す(けさ下阪との電話かかりし也)。安達潤子生長崎より。福島姉妹の母より礼状来あり。三田村泰助氏より『清初の彊域』来る。 4月10日 雨。9:30西沢生より電話「雨ゆゑ、本日の来訪やめる」と。 依子よりハガキ「12日第2ひびきで21:50東京着」と。成城大学より時間割。文2の中国文学とゼミと脱落! 午后散髪(雨やむ)。けふ私鉄ストなりし。 4月11日 9:00出て東大。われ鍵あけて待つ中、岡田、松村(日女大、日大)2君来り、田川、神田2大人の来るまでにはじむ。 すみて神田、岡田、松村氏と昼食。神田氏より『駿台史学13』もらひ地図の小型を松村氏よりもらふ。 古本屋見てbusにて大塚通り、矢野に肥下の死を伝へ、紅茶おごってもらふ。 立教大学へゆき手塚氏に地図贈り、白鳥邸の整地済みしときく。久保副手!に会ひしあと237教室へゆけば女生6人。 参考書あげ16:40すませて古本屋。『風流旅日記(130)』買って渋谷をへて帰宅。 不二歌道会より「歌か詩くれ」と。(けふ『満文老檔6』もらへると松村氏よりききし)。 22:00花井夫妻より電話「さ来週camera見にギンザへゆく」と答ふ。 4月12日 9:00出て成城大学の入学式にゆく。呼名ながすぎし。妹尾理事長、声嗄れ、ききづらかりし。 すみて時間割の増加たのみて出、鎌田女史に「沢田四郎作博士5月3日(※柳田国男米寿祝賀会)来会」ときく。 13:00まへ帰宅。「依子第2ヒビキ4号車ニテマツ」と大江叔母より電報来あり。 『Biblia21』来あり。夕方雨。20:00すぎ悠紀子東京駅まで迎へにゆく。 23:00依子帰宅。小鯛ずしを土産とし、大江叔母の手紙もち来る。「何も出来ず」とあり。 4月13日 雨。依子に那波氏へ電話かけさす。『文学散歩』来り「鴎外の遺言」のす。 『不二』へ「肥下恒夫を哭す」5首をかく。「長恨歌」訳す。 16:00西沢生より電話「雨ゆゑゆけず」と也。夜、雨の中を教会の求道者会へゆく。われら夫婦加へて5人。『ハイデルベルク信仰問題(120)』やると。竹森先生(※竹森満佐一)の訳なり。 (けふ薄井嬢に電話すれば、母君(※薄井敏夫未亡人)中川原の病院に入院しゐると。見舞にゆくゆゑ病院教へよといふ)。 4月14日 成城大学へとゆく途、一女性なれなれしくものいふ(帰りも同車、昼食ともにし宇和島出の西村生4Aとわかる)。 6人定刻に来しを相手にすまし、あとボツボツ来りしと研究室にて話す。本間生いくらかテーマ見つけ、高橋生ヒスおこす。 すまして(丸生高山へゆくと)時間割前田課長よりきけば、中国文学42教室にて木曜の第3限と。土曜なくてうれし。 西村生と別れて大地堂にゆき、鴎外『蛙』、『三田文学(400)』予約し、渋谷(※聖心女子大学)。 丁度よき時間にゆきBritt学長の訓示きき茶菓供せらる。原田先生に御挨拶し内藤先生に礼いはる。 出て同行せし老先生、電車にて教子より「宇野先生!」と呼ばれ哲人先生なることわかりし。 帰れば肥下夫人よりまた礼状。阿南氏より大分へゆきしと。 けふ留守中、猿渡夫人来り反物おきゆきしと。 4月15日(日) 寒し。9:30出て佐藤dr.にゆきし悠紀子と教会前にて会ふ。けふは「棕櫚の聖日」と。金曜が十字架にかかり玉ひし日。日曜が復活祭と。 帰りて昼食、そのあと〒も広告のみ。ハイデルベルク信仰問題の註の勉強もす。 (那波氏より電話かかりし故、依子渋谷(※義祖母宅)へゆきしと電話教へしに、あとにてパーマにゆきしことわかり、渋谷へ電話せしむ。けふ弓子ゆき母・千草に会ひしと)。 増田幸子より電話あり、銀座の日広皮革にて社長秘書求むと。「あす成城の就職係にいはん」と答ふ。 4月16日 11:00出て成城大学。就職課に日広皮革の求人をいふ。ついで前田課長に時間割のこといへば史学研究法を土曜1時限に廻さる。 古野清人博士の初講義にさはぎしと。天理以来の久闊を叙す。(大藤氏あすまた診察受くと。蒼白なり)。 成績表受取り、わたしかたがた説教す。高橋、本間けふは素直なり。 相馬、鈴木と来る。Juiceのませ高橋邦太郎氏に挨拶し、東洋文化史やる。疲る。 帰りて吉祥寺の古本屋にて『言志四録(80)』買ひ、きけば『吾妻鏡』5冊にて1千円に売りしと。 田中保隆氏、咲耶よりハガキ。依子友達にゆく(那波氏に電話せしと)。 けふ薄井嬢に電話し中川原病院ときき「見舞にゆくかもしれず」といひ、猿渡生にもゆくといふ。 4月17日 9:00出て成城大学。短大の漢文やり、今井氏と演習につき相談し、 昼食のあと(山田生挨拶に来る。松浦氏けふ1,2時限と)note返却などし、中国文学史やり3年D組の学科指導す。 帰り田中生と一緒になる。服部四郎博士より「業績しらせ」と。 けふ福島生、朝鮮飴家よりことづかり来る。 4月18日 朝10:00より立教大学のため「元旦雞羊を殺す」との「歳華綺簾」の駁をかき、 昼食後、雨ふり出せしのち立教へゆき、27日(金)の教職員会ことわらんとせしに、案内書ならびに探し出せし『四時纂要』なし。 教授室へゆけば14:45、あと1時間あまりあるとまちがへ、note補ひゐれば30分して伺ひにくる。 あはててゆき20分教へ、夏目その他古本屋見て帰れば17:30。自信をなくせしはいかなる故かしらず。 4月19日 寒し。晴。9:00出て成城大学。中国文学の時間満員にて、64に教室かへてくれといふ。 就職課へゆき山内課長に会へば篠山、神戸を推薦することとなり、日広皮革へ電話すれば増田氏外出、10:00帰来電話すると也。 弁当食ひて電話きき、そのまま出て吉祥寺。『平妖伝(落丁あとでわかりし30)』、『アメリカ史物語(30)』、『国学院雑誌56-5(50)』 買ひして帰宅。 けふ学校へ医科歯科の田中博士より眞野喜惣治氏のハガキ転送受け、梅本吉之助君より「肥下宅みまった」と。 平凡社より『アジア歴史事典9』出たと。「政治公論」社へ6月30日までに詩一篇承知のハガキ。 服部四郎博士へ抜刷送る(40)。よる、猫逃げ、京泣きてねしあと帰り来る。 4月20日 雨。〒なし。山内課長より電話「篠山生就職しをり、神戸生返答なし」と。 夜19:00教会へゆき講義受く。男3人女3人なり(他に1人欠席と)。白楽天「琵琶行」の訳すむ。 4月21日 8:30に成城へつき史学研究法を9:00よりといふ。すみて就職課へゆけば、神戸生10:00来ると。 田中久夫氏と話し、山田教授と話し、『唐会要』を図書館へかりにゆく。 大藤氏に会ひ、ゼミを演習に数へることを教務課長にいひにゆき、note返却、成績わたしなどして13:00のsalary待つ。 神戸生来しゆゑ、高井生と2人を月曜に増田氏に会はすこととし電話でいふ。 丸重俊(※丸三郎子息)に単位少なきをいひ、月給もらへば昇給しをり(給料56,200扶養手当1,400暫定6,500=64,600にて63,700に比べ900円)。 山田氏と同車、吉祥寺で『マホメット伝(100)』買って帰宅。 坪井(※坪井明)より「修学旅行中にて(※肥下氏宅への)弔みには夫人いった」と。 入浴。『不二』来り、保田と影山氏との写真あり(※対談記事)。 4月22日(日) 復活祭。家族同伴にて教会に来る人多し。 11:30すみ名店会館にて薄井夫人へみやげ(285)買ひ、地下にて昼食してのちbusにて千歳烏山。 京王にのり調布でのりかへ府中で下車。猿渡家へゆけば夫人と祥子・茂子2生と、みな留守。 やがて夫人と茂子と帰宅。祝のべ、京1女卒の夫人の話承る。 あす茂子生に来よといひ、分倍河原駅まで歩き、中川原駅より5分の病院につき、15:00よりの面会時間に看護婦室でまち、 15分ほどして来し(※薄井敏夫)夫人やせゐたり。2月22日入院といふに恰も2ヶ月めなり。 やがて2嬢来あはせ、病室見しあと別れ告げ、ハルナにきけば医療費は600円のみと。 帰りは府中より国分寺までbus、三鷹にて『無門関(50)』、『東京旋風(50)』と買ひて帰宅。 肥下夫人より礼状来をり(梅本弔問と)。坪井へ「渋谷のキョウ栄館なら紹介する」とハガキかく。 けふ来し『不二169』に影山氏の歌あり「3月21日終始コギトの署名人たりし肥下恒夫氏忽焉として逝くと聞く」と前書し  連翹の群れ咲き盛る花小道つめたき雨にぬれにけるかも 4月23日 午后登校。高橋邦太郎氏に会ふ。東洋文化史すませ、三野生、来しにきけば朝鮮の巫をやると。 就職課長山内氏に会ひ高井生のこといへば「就職内定しゐる」と。神戸生よりは電話ありしと。(猿渡茂子生に仏和辞典贈る)。 出て金物屋にゆけば「昨日薄井家へゆきしにおばあちゃんのみなりし」と。 下北沢下車。大地堂へゆき『蛙』と『三田文学』(2冊にて400)とる。 『蛙』は佐藤君にやることをけふ約せし也。他に『南太平洋諸島(40)』。帰れば岡田先生未亡人より香奠返しにハンケチ。 けさ大江叔母より小包、ふきの佃煮ありし。一昨日は山田氏、けふは高橋邦太郎氏「石田幹之助先生危篤」と伝ふ。 夜、高井生より電話「神戸きのふ自動車事故にて入院、けふ面会にゆかざりし」と。 4月24日 9:00家を出、成城大学へゆき山内就職課長に神戸生の負傷いひ(増田氏に電話せしに「会議す」と)、土曜ごろ伺ふといひして短大。 教科書来あらず明治書院にきけば5月10日ごろ出来ると。 午ごろ増田夫人より電話、神戸の見舞いひしゆゑ、依子の手伝いへば「よろし」と。 土曜11:30服部時計店前で会ふこととす。渡辺、西沢2生と話し14:00となり、教授会に出れば高田氏部長代理。池田博士(※池田勉)立案す。 16:30すみて高井生に電話せしに外出。川本生「姜生より成績表持参せよ、自由丘駅でまつ」とのことに、 17:00待合せbusにて二子山川、自由丘で丁度約束の17:30、姜生と喫茶。成績わたし登校促す。 おごってもらひ(川本生より「けふ平野黎子の結婚、田島は山陰へ新婚旅行にゆきし」ときく)渋谷をへて帰宅。 猿渡夫人来て縁談たのみしと。やがて電話、服部三樹子さんより、駅にありと。来てきけば「電通やめprintやる」と。 中国文学史のprintたのみ月曜1枚届けくれると。 けふ有給副手を英・芸とり、また山内博士の件にてもやみ取引ありしと今井氏よりききしも黙す。大藤氏11月3日の柳田先生の会の案内す。 4月25日 9:00出て東大。考古学研究室へ原田先生の本代1,200納め、成城大学にも1冊といふ。 (途中coffeeのみ、高井の電話番号さがせしに下宿業と!止める。) すみて神田、岡田、阿南の3氏と昼食(阿南氏の説によれば片根家すでに結婚すみしと)。 琳琅閣で見れば『清史稿』7,500、書目近々出来ると。木内にて『民族学研究4冊(100)』と『民間伝承20-2(30)』買ひ、阿南氏と別れbusにて池袋(※立教大学)。 研究室にて久保君に歴史地理学会会費1,000を托し、27日の懇親会欠席を庶務課にいひ、 14:50「237教室」へゆけば男生多く来り20名、この間の講義をくり返し「屠蘇」まですむ。 15:50すませ渋谷をへて帰宅。薄井夫人より礼状。片根氏より挨拶ありしと。 依子けふ小高根家へゆき勤めのこといひ、大江へゆき、そのあと母に3千円わたし文楽へともにゆきしと。 4月26日 9:00出て成城大学。中国文学の時間は諺を教ふ。すみて高校、高橋、猿渡、西沢の3生より教員免状の学科きかれ、定説をいはんといふ。 鎌田女史に柳田先生の会の予約せんとせしに、あとでよし、大藤氏たすけよと也。 猿渡生の傘かりて駅へゆき、下北沢にて古本屋まはり岩波文庫の『吾妻鏡五(100)』、『古事記伝一(80)、三(60)』見つけ買ふ。 『東洋史研究20-4』来り490不足と。 日記さがしまはり1月22日900フリカエにて送りしを云ふ(ハガキ)。石田博士より「日大停年となりし」と。 けふ影山氏より電話「保田われを傷けざらんといはずして帰りし云々」。 4月27日 花井タヅ子へ出せし21日のハガキ居処不明で返り来る。 12:00前出て聖心女子大へゆく。同窓会名簿もらふ(はじめて也)。4月分salaryもらふ。交通費800は増額? Ⅰに「清の世祖以後」、Ⅱに「阿片戦争以後」と提案。 新津先生に誘はれbusをともにし渋谷より都電にて不二(※歌道会)へゆく。鈴木氏(※鈴木正男)もをらず。昨日の電話の礼をいひて出、 『Sailing Directions for the Pacific Islands Vol.1(100)』と『The Koreans & Their Culture(200)』見つく。 前者はよべ南太平洋諸島のことよみゐしゆゑうれしく、後者も良き本なり。 (そのまへsandwich食ふ(100)。) 帰りて茉莉花見つけしと悠紀子いふ。増田幸子より電話「土曜都合わるし、月曜に」と。 16:00服部時計店前と約束せしあと15:40まで講義あることわかる(依子いらずとのことなりし)。 教会へ19:00ゆけば女4人男4人となる。質問われのみし、すみて茉莉花(250)買ひて帰宅。 服部さんより「あす来る」と電話ありしと。白井紘史より電話「日曜午后来る」と。 けふ京大東洋史研究会へのハガキ、夕方出す。 4月28日 6:30起き7:40出て成城大学。史学研究法の時間に5月3日の会(※柳田国男米寿祝賀会)に出ることをすすめ、あとにて席なからんと云はる。 田中家へ電話し、花井タヅ子夫人呼べば「きのふ妹の結婚式なりし」と。 月曜17:00銀座にて夫君に会ひたしといひ、出るとき毛受生と会ひ(図書館より『明清史料 戊・己(6,000×2)』はこぶ)、 ともに出れば散歩の柳田国男先生に会ふ。御挨拶す。 12:00帰宅。昼飯くひ『福地邦樹詩集(※書評)』を8×200書き、busにて武蔵野局へ出しにゆく。 服部さん17:00ごろ見え、原紙おき『詩経Ⅱ』と『楚辞』の原稿もちゆく。 けふ角川よりHeine(※『ハイネ恋愛詩集』)16版の検印2千部分の速達と。5月上旬出版定価80に改訂といひ来る。 青木大乗画伯の案内1~6日高島屋にてと。 柳井道弘より「23日満中陰した。保田『田中が来れば(※肥下氏の)追悼会する』といふ」と。 筑摩書房より『ノンフィクション全集』第28回配本来る。(けふ西川氏より昨日ききし谷氏入院を山田氏にいひ、高田氏、福田君に補欠ささんとせし)。 4月29日(日) 9:30出て教会。14:30白井紘史君来り、NHKと銀行やめて東洋運搬機に入社、東京支店勤務と。近藤芳美叔父の許へゆくとて夕食早めに食はす。 4月30日 10:00出て成城大学。相馬と鈴木来り、鎌田女史と話し前田課長と教員免許状取得につき尋ね、12:30よりsemiわが室にてときめ三野「朝鮮の巫と琉球の巫」、本間「王維の絵」ときまる。 高橋通子と姜とはこの次きめることとし(栗山博士来をり)、東洋文化史15:00前にやめて渋谷をへて尾張町へゆけば、 増田幸子と嬢、悠紀子まちをり、向ひの喫茶店でまち、増田氏来る。事務員要るは増田氏の会社でなきことわかりしは別れてのち。 17:00すぎ花井忠氏われらを見付け、理研光学工業銀座事務所でいろいろ案内うけ、リコーオート35Vカメラを11,100、皮ケース21,200にて頒けらる。 新婚は花井氏令妹と。そのあと天国にて天麩羅定食おごられ、ついで千疋屋にて果物おごってもらひ、恐縮せしのち尾張町で別れて帰宅。21:00。 (よべ史0:00に帰宅せしと。畠山家より土産もち帰る)。諫早の上村肇氏より『河』を出すと 5月1日 増田夫人に礼状かき、畠山夫人への礼状を悠紀子にたのみ、10:00成城大学。 print出来てをり、短大2国の漢文に常言(※中国の諺)やり、ついで鈴木睦美、本多2生と話し(鴎外すきになりしといふに喜ぶ)、 中国文学史すまし、大藤氏と話せば5月3日(※柳田国男米寿祝賀会)われに用なしと。 14:00より臨時の教授会。浅沼、渡辺の2氏の助教授昇格を相談し、そのあと雑談。高垣学長を理事長と提携す云々。 すみて山田君江へ伝言たのみ、そのこさへし柏餅くひ、丸重俊にきけば、ユミ子北里大学へ入れしと。『明清史料 巳』もちて帰宅。 西宮一民氏より新任挨拶(旧かななり)。 5月2日 起きて「年中行事」しらべ散髪にゆく。新しき写真機使用できぬと心配し、依子古きにfilm入れ呉る。 昼食し13:00すぎ出て立教大学。「人日」やりて時間あまる。 久保君水曜に来ずなり。牛久保副手親切にしてくれ聴講者を知る。 出て『十二楼(100!)』買ひ、池袋駅の地下通りぬけゆゑ、 西武dept.の早川夫人訪ねしに、あすの柳田先生のお祝には来ずと。保田にこの間会ひしと(前川氏と仲直りせしならん)。 渋谷をへて帰り来る(福島生の母より礼状来しのみ)。『十二楼』よみ了る。 5月3日(憲法発布記念日) 11:30出がけに『柳田国男集』第4回来る。 12:30(※柳田国男米寿祝賀会)ゆけばお祝1千円、夕食費500にて、も少しにて恥かくところなりし。沢田四郎作博士来てをられ、写真(旧きのをもちゆく)とる。 山本氏きのふ長男の結婚なりしと。講演13:20よりはじまり沖縄の話2つのあと、鹿児島の龍の話参考となりし。 休憩時間に牛尾三千夫氏の名みつけし(あとにてわからず)。 われに話しかけしは■■■■(※匿名)とて蒙古研究所のキチガヒ研究員。ラバウルにありし。いま前高裁書記の教官と。松本重広氏の話にて3つとなり立食会。 柳田夫婦若夫婦おそろひにて金田一博士のあと梅原博士、ついで高垣学長の祝辞。 前田課長にcopy機の話せしもだめと(100万円也と)。 見たことありと思ひしは、昨年会ひし平山敏次郎氏なることわかる。田中久夫氏とともに出てまた■■(※匿名)と会ふ。20才の長男、2浪と。 帰りて茶漬くひ、入浴。角川より検印2千枚の受取。 5月4日 早起きし、聖心女子大のnote作りゐれば、丸重俊より電話「石渡曜子生帰宅せず」と。 三河島駅の事故しりしあとゆゑ、川本にもきけといひ、10:00出て久我山より石渡家へ電話すれば、母君出てまだ消息不明と。 成城大学へゆき前田、大藤2氏と相談、11:00聖心女子大へ休講いひ、 下北沢にて、東京都立大大学院へゆきし立教の平塚生と遭ひ(※卒論テーマ)「中国への新教伝道」にかへときき、 渋谷にて別れ、浅草まで地下鉄買ひし(50) も上野で下車。 京成電で金町まで買ひしも(50)またお花茶屋で下車。石渡家訪ねゆけば母君をられ死体見つからずと。 やがて父経夫氏(修徳学園高校長)帰宅。15:00寺に身許不明者集まるとのことに待つうち寿司山もり注文さる。 大藤氏に電話し「来る」とのことに待ち、母君検分に出てゆかれしあと、外へ出てタバコ屋より電話すれば15:30出しと。 17:30篠原局長、大藤教授、渡辺、藤浪の2生つれて来られ、まだ見つからざる死者への見舞すまし(Handbagと定期すでにあり)、 自動車にて成城大学へ帰れば(大藤氏神田にて下車)、池田館長、学生部長、前田課長、今井、鎌田の諸氏のほか、学生10名あまりのこりをり。 そこへ死体発見の電話あり。あす見舞にゆくといふ鎌田女史の提案ありしあと20:00出て吉祥寺駅へつけば悠紀子をり(夕方より雨)。 けふ恋塚生「神なぞない」といふに「あり」と教ふ。ふしぎなりしは修徳学園の校主、天理教と篠原氏よりききし。 坪井明より「28日上京、駅前で泊る」と。 5月5日(子供の日) 8:00起き、石渡家へ電話すれば「昨夜12:00遺体、家へ帰りし。今夜はお通夜」と父上。 9:00成城の小使室へ電話し、鎌田女史へ伝言たのむ。 10:00出て下北沢より丸重俊へ「お通夜へゆくや」ときけば「仲好き女史のみゆくこととなりをり」と。 成城へゆけば池辺、重久、鈴木などをり「葬儀は7日、けふ17:00ここより自動車にてゆく云々」。 前田教務課長に池辺「香奠はいくらすべきや」ときき「まあ千円でせうね」と答へられ、ついで渡す時期を葬儀当日と教はる。 13:00出て高島屋の青木大乗展へゆく。夫妻と弥支子とそろひをり。 画伯72才にて7月ヨーロッパよりイランへ弥支子つれてゆくと。 弥支子「われに児ありし。18才で死に、いまをらば48才」と。すぐ出て思案せしのち帰宅。 すぐまた成城へゆけば16:30。重久わが講義短くて不熱心なりしをいふ。 今井君来り、ともにタンメンを食ひ、田辺元先生の葬儀にあす北軽井沢へゆくこときく。 17:30、taxi来り、山高女史をくはへて出発。池辺帰宅せしゆゑ、上馬の自宅前でひろひ、窮屈がりてゆく。 途中意外にも池辺予算なく、旅行の付添にゆかず。 大藤氏より、中送り(※棺の移動)にて500づつ香奠せんと。われ単独でするといひ(※千円の謂)、変な空気なりし。 ゆけば天理教東本大教会長の花環を一とし、一拝四拍一拝四拍の葬儀のごとき式あり。 7時まで生きてゐしことわかり、成城のキリスト教の子ら来りなどし、考へること多し。 20:00出て渋谷にて下され22:30帰宅。母、8日関西へゆくと、けふ弓子きき来しと。 5月6日(日) 8:20起き、いそぎ仕度して教会へゆく。すみて帰り、昼食せんとするところへ赤川草夫氏来訪(12:30)。 よろこびていろいろ語る。15:00ごろ写真とり、土産もちて水道々路を送り、帰りて昼食。 依子と悠紀子と買物に出しあと電話、大江叔父より「たのみあり来れ」とのことに、弓子にたのみて出、中道の八百屋と丸善にもたのみて大江。 意外にも「成戸生との縁談あるもおぼえなきか」と。「おぼえなし」と答へ、 依子ら来るをまち、勉のこさへし夕食くひしに、悠紀子ひとりにて来り、きけば依子のこりて仕度すと。 怒りしあと、あす依子来さすといひ、小高根家へ寄り、夫妻にいろいろたのみて帰宅。 弓子ふくれ、依子ふくれて、あす大江行承知せしあと、悠紀子子宮癌の症状をいふ。われはげまして就寝0:00。 (けふ9:30出がけに渋谷へ電話せんとせしに向ふよりかかり、あす西下と。依子の留守番(新夫婦旅行と)も断りてすむ。) 5月7日 よべ眠れず。依子出てゆきしときき8:00起き、服部氏へわたす原稿かき(李白)、悠紀子医院へゆきしあと、 帰りし直後11:30出んとすれば『果樹園』来る。肥下の写真よろしきがのりをり。(丸より電話、重俊発熱して葬式にゆけずと)。 井上多喜三郎の詩碑出来上りしと。国鉄にて亀有13:00着。駅前にてtoast食ひ、石渡家へ13:30着き、 香奠出し14:00すぎより始まり、16:00までつづきし式にキリスト教研究会の子ら、個人の好きしといふ「ああ主のひとみ」歌ふ中を出棺(渡辺、弔詞いふ)。 成城大学生15人と今井、池辺、鎌田のハイヤーにて青戸の火葬場にゆき、骨となってまた石渡家。 18:40まで式ありてすみ、亀有より7,8人となりて乗り、帰宅20:00。 服部さん2枚原稿もちて帰りしと(1枚2.5円にて遠慮しゐると、駅まで来し悠紀子の話)。 依子21:00帰り、富山より家政婦帰り来しゆゑ云々。(中野剛宣来しと、めづらし)。 5月8日 9:00家を出、成城大学へゆく途『果樹園』を赤川氏に送る(30)。 短大漢文「支那のことわざ」つづきやる。すみて栗山部長に会ふ。あす試験手当を給すと。 午后「中国文学史」あることわかり、20名にprintわたす(服部女史に「たのむ」の伝言電話す)。 14:00よりの教授会に石渡生の遭難報告し、そのあと卒業させよと学長いふとて審議、前例とならずと可決。 ついで教授のみの会。浅沼氏の助教授可決。また加藤、今井の2氏のこと議に上る。 16:00下北沢で下車。石渡家へ(※卒業の件)電話すれば母泣き、父喜ぶ。 帰りて原田先生の『東亜古文化論考(1.200)』来あるを見てわれ喜ぶ。花井タヅ子夫人より「もう一個買ってもよし」と。 集英社薄井氏より「(※白楽天訳稿)いつできるか」と。 依子・京にて夕食後、写真とりにゆき、あけ見れば石渡生を写さず?!永山光文より電話「石渡家へゆくな」といふ。 5月9日 6:00京、城ケ島へ遠足とて起され、9:00出て東大へゆく途、琳琅閣へ寄り『支那山水画史(9,500)』、『燃藜室記述(23,000)』、『李朝実録風俗関係資料撮要(7,800)』、『明刊本月令広義(6,500)』、『高麗史節要(5,000)』を学校へと注文す。 神田信夫氏よみ、明大の松村潤君出席できぬこととなりし。すみて神田、岡田2氏と昼食。 12:50都電にて東洋文庫『説苑』所収『歳華綺簾』を30分見、受付の小父さんより礼いはれ(古稀祝の)、池袋立教大学。 手塚氏に久しぶりに会ひて3年の東洋史専攻の多きを確認し、白鳥先生の研究所出来しをきく。 14:50より16:00までやり、雨降り出でし中を駅にゆきも吉祥寺「丸善」にて傘受取り、coffeeのみて帰宅。 けふ井上多喜三郎詩碑落成式に出られずと返事。 大藤氏と水谷・正宗委員、奈良の日吉館よりヱハガキ。京、油壷のヱハガキ買ひ来しも、雨のため何も見ざりしらし。 5月10日 7:00起床、成城大学へ出講。中国文学教へ、猿渡生母君より電話ありしゆゑ「むつかし。年齢の点弛めずや」といひ、 集英社薄井氏へ「4月末の白楽天遅れる」とことわり、 長尾良の「天理へゆく故、紹介たのむ」の電話(家へかけ来しと)に「鈴木治氏に保田の友といへ」といひ、 高橋生にゼミの補充し(共済組合証一応返し試験手当9千円もらふ)、一旦帰宅(岩波少年文庫3冊×30)。 16:00すぎ出て(鈴木睦美、本多2生、奈良より「山田教授にほれた」云々)、目黒の八芳園。文芸学部の出席少なく、高橋邦太郎氏に誘はれて出、 目黒まで古本屋3軒見て『地理と民族(70)』、『支那の絵画(130)』、『柳多留1(20)』、『フランス美術展解説(50)』、『支那言語組織論(20)』、『三人は帰った(20)』買ふ。 最後のものは高橋氏のすすめに由る。服部女史print2枚もち来り、次は月曜に来ると。 (けふ羽田に『果樹園』贈り、小高根二郎氏に1,500同人費送る)。 5月11日 〒なし。11:30出て(よべねざめせし)聖心女子大、田中保隆氏と海老原、西川氏との話に「成城ではみな博士となり高田君のみのこされし云々」といふ。 谷教授下谷病院に入院すと。2時間とも元気でやり、青山をへて都電で駿河台下。木原でcard200枚(130×2)買ひ、お茶の水、新宿、下北沢より井之頭線。 (筑摩の武本氏に会へば「5千円ほどあり当分柳田国男集心配いらず」と)。17:30帰宅。 18:30出て求道者会。異教の儀式参加につき問ふ。4人しか出席せず。中西家たきし風呂に入る。 5月12日 雨。8:00家を出て成城大学。丸に電話すれば「今日は忙し。重俊、葵祭にゆく」と。 史学研究法すまし鈴木健司、戸沢恪(2D弘前)の2生と話し、ついで松嶋正夫よびて勉強すすめ、 11:00出て東洋文庫へゆく途、堀辰雄を卒論とする片岡正美生(?)と話しゆく。時間早く駒込駅前で喫茶、 そのあと丹波鴻一郎(※丹波哲郎長兄)家のぞき夫人に異状なしときき、『説苑』の他の所見て歳華綺簾抄す。 すみて岡田氏を訪ひ、『満文老檔』6のこといへば、すでに送り賜ひしと判明。 coffeeのまされ、松村潤氏のaddressきき、雨中巣鴨まで歩き帰宅。 雨止む。山田俊雄氏、奈良日吉館より玉燭宝典のことあやまり来る。 5月13日(日) 礼拝にゆく。帰りて井上多喜三郎氏の挨拶状と『栖』と受取る。 税務署より「原稿料につき5日9:00来よ」と。竹内夫人に電話かけ「大掃除ゆゑ15:00ゆく」といふ。 悠紀子、中西一家と灰運びす。われだるくて手伝はず。 15:00出てfilmを新しきcameraに入れ、竹内家にて撮影。前田隆弘とて学習院大卒の青年と(※依子氏と)見合することとなる。 beerもちゆきしをのまされ(竹内あす西下と)、出て田中家よりまた撮影。古本屋に寄り『柳樽3(50)』と『曹植(90)』と買ひて帰宅。 けふ山下幸男より、友人の恋人の和歌山出身の身許きき来る。 (けさ鈴木正男氏より電話「影山氏の日本浪曼派の文のため中河与一氏の本の刊年その他教へよ」と。「なし」といひ「中河氏にきいてくれ」とのことに「できず」と答ふ)。 5月14日 柳井道弘君より電話「15:00すぎ成城へ来る」とのことなり。 10:30出て11:30成城大学へつきHealth Centerに電話すれば「すぐ来よ」と。看護婦「山川先生(※山川京子)が心配す」と。体重40.5キロ。すみて山川女史訪ねしに授業中。 柳井君15:00すぎ来ると名刺おき、昼食すまし、4生とゼミ。すみて東洋文化史15:20までやり、柳井君待つうち15:40来る。 山川女史に電話すれば「5分前に帰宅せし」と。柳井君、家につれ帰るに「肥下の文集出すゆゑ助けよ。道路収用にて700万円入り、1反のこりしを草生やす」と。 18:00服部女史(※服部三樹子)来りて夕食し、21:00駅近くまで送りゆく(1回250と)。 けふ服部正己文博になりしときく。 依子、那波家へゆき、帰り来ってふきげん。弓子「辞めさせねば銀行で(※結婚相手)みつかったのに」といふ由。 『Heine 16版』5月10日発行として1冊来る。白柳秀湖『日本民族論(30)』買ふ。 5月15日 雨。9:00ゆき漢文(短大)うまくゆきしあと、山田タイピスト英語習ひに来るかと思ひしに来ず。 中国文学史20人相手にやり、旨くゆかず。栗山氏に印刷機のこといふ。よき返事せず。 松村「肥下と増山と友だちなりし」といふ。 中川氏と話し『果樹園』のこと朝日にのりしをいふ(小高根母堂よろこびゐしと昨日ききし)。 あと国文研究会の千家元麿の詩についての坂本氏の話きき、高田氏の反論きく。 疲れて帰り来れば(中西氏と岩本君の歓迎会をかねしと)、梅田惠以子氏より随筆のりし『消息5』。 けふ竹内夫人と依子と会ひしと。 5月16日 午前中『満文老檔』第6冊来る。受取と松村潤氏への礼とかく。山下幸男の友に「不明」と速達かく。 note作り了へて13:30家を出、立教大学。副手にHeine15版呈し(小林君に会ひ研究室にさそはれしもゆかず)、別枝氏の出勤日きく。 16:00まへやめ、古本屋2軒みて何も買はず。駅にて切符買ひゐれば声かけしは坂根と黒めがねの村田温。 渋谷まで同車、お茶おごって貰ひ別る。18:30帰宅。 依子、悠紀子19:00竹内家へ前田隆弘氏(日本銀行証券田村町支店)に紹介してもらひにゆく。 22:00悠紀子一足さきに帰り、前田君[の]悪党ぶりしをいふ。 5月17日 曇。6:30起き9:00家を出る。『唐詩選』来り『史記』まだ来ずと。漢文すませ昼食くひ(相良教授登校)、 鎌田女史に大藤氏のことききにゆけば、彼女きのふ葵祭を見ずして帰り来し。9人ゆきしと。(花井氏に電話すれば「けふは登校せず不在」と)。 意外にも石渡は先妻の1人子にて、この間の家にゐしが今の夫人、50日祭ですますと也。 いろいろ話せしあと相馬の下宿へゆきみれば無人。 「車」(※喫茶店)によりて「来よ」の伝言たのみ、高井に電話すれば神戸生を板橋の病院へ見舞にゆくと。 帰りて悠紀子、竹内夫人に電話して(※前田氏と)交際すといへば喜ばれしと。 井上多喜三郎氏へハガキ2枚かきしもやめ、西保惠以子氏へヱハガキかき、気づきて梅田とぬり直す。 20:00柳野一郎君より電話「400×4ほ来週金曜までに」と。「井上詩碑のことかく」と肯ふ。 5月18日 曇。悠紀子税務署にゆき「あと5,440を補ふべし。平凡社のがぬけをり30%以上の必要経費は認めがたし」と也。 花井氏より電話「11日男児出生、印刷機は大沢氏に云ふべし」と。西保、井上多喜三郎両氏へハガキ。硲君へ『果樹園』。 11:30出て聖心女子大。『果樹園』はうり出してあり回収す。5月分手当もらふ。 帰り青山学院前で下車。『South Sea Adventure(150)』、『Cruises along By-ways of the Pacific(80)』、『1936Handbook of the Christian Movement in China(80)』買ひ、またの店にて『Christian Year-book 1947ed.(50)』買ひして帰宅。 赤川氏より「朝日14日に『果樹園』のことのりし」。小高根二郎氏より「同人費受取った」。 安西均氏より「現代教養文庫戦後詩に3篇のせてよきや」。 田村春雄君より「23日上野着、24日午后あくや。小島館へ9:30までに電話せよ」と。 19:00求道者会にゆく。女4人男2人。質問するはわれら夫婦のみ。 5月19日 7:35家を出、立ちつづけにて成城。山田俊雄氏帰りをり、史学研究法すませ山田氏に『通俗篇』貸し、田中久夫氏と出て渋谷で昼食、喫茶。 小高根太郎より依子のことききをり。地下鉄にて銀座。別れて理研光学にゆき、成城出といふ係長代理に面会求め、印刷機の見積りしてもらふ。 書類もらって出(局長、課長、部長に働きかけよといひし)、朝日新聞に高垣金三郎訪ぬれば出張中と。 受付の女の子にききて地方発送部で14、15両日の朝刊わけてもらひ(20)、また地下鉄にて渋谷。 帰宅すれば悠紀子、買物に出てをり、村松正俊氏より「出版記念会に名をかせ」と。東洋史研究会より「490は残金のまちがひらし」と。 東方学会より「宇野哲人博士の米寿に出るやいなや」。台南の林天宋氏より「鄭延平登陸地点之論叢」。 けふ依子、前田君とdateといふに竹内家へ電話、夫人に「夕食後ゆく」といふ。 19:00、juice1瓶もちて竹内家にゆけば夫人、責任を感じ、竹内(※この縁談に)反対す。 beerのまされて帰れば、相馬と鈴木来て「月曜研究室へ来る」といひしと。 史、けふ日光へゆく。依子22:00すぎ帰りしゆゑ、竹内夫人へ電話して報告さす。 5月20日(日) 依子、陣馬高原へと出てゆく。沢田四郎作、赤川草夫、中沢晴代の諸氏へ写真つつむ。 弓子同窓会へとゆき、京ひとり留守番させて9:40家を出、吉祥寺教会へゆく。 森田副牧師の就任式にて、神学大学長桑田秀延氏の司会にて式あり。すみて帰宅。 丸木夫妻(※丸木位里・俊)より「東大泉に家もちし」と。 午后、海老原稔氏夫人、嬢をつれて礼に来り、反物呉る。目白の叔母の家にゐると也。 夕食後、紅松一雄を訪ね『果樹園』わたす。長息結婚(10月)のため家増築しをり。椎名麟三貸し賜ふ。 5月21日 晴。福地君へ詩集評のうまくかけなかったわび状。10:30出て成城大学。 池辺君に写真やり、大藤氏まだ来ざるときき、本の見積りたのみ、 午食の時、旅行の付添の若手諸氏、栗山部長に大成功といふをきき、やがて来し大藤氏迎へしに見知らぬふりをす。 やがて古野氏つれ来り、栗山氏と何か話せし。10分ほどsemiを三野、本間とやりしあと鈴木(相馬病気と)と3人つれて喫茶店にゆけば武井に会ふ。 20分して引返し大藤氏に主任やめるといひ、ごてごて理由のべし。(佐藤副手みやげくれし) 4時間目の東洋文化史15:20すませ(月給もらひしは3時間目のあと)、 宮崎、都留2生と待つま、都留生「こんどの旅行、大藤氏眠り、本見にゆき、3年生の品行あしかりし」といふ。 高橋邦太郎氏おそきゆゑ、宮崎生とOrissa(※喫茶店)にゆき待ち、やがて来し先生、宮崎生の家の、鶴巻温泉陣屋なることを探る。 われ感心して出、下北沢下車。古本屋にて『李商隠(140)』買ひして帰宅。 めし食ひ入浴す。(けふ理研光学の写真印刷機のこといひしもダメらしく、池辺君、大日本古文書の価格表つくりし)。 5月22日 身体検査とて3時間目なく11:00すぎ出てゆき、仏語字典代はらひ(1,140)、話しゐるうち鈴木睦美と本多の2生、関西の土産もち来る。 (あとにてBolo1箱にて宮崎、村上の4嬢にてくれしこと判明)。 栗山氏に大日本古文書の120万円の申請出し、主任辞職いへば「よし」と也。 鈴木健司、相馬を「車」に来るやういひしとのことに、おそくなれば様子見に来よといひ、教授会。 (はじまる前、今井氏に主任交替をいふ)すみて主任会といふに、大藤氏に出席たのみしもきかず。 16:00までやりて今年度指定寄附より各専攻へ40万円(マスコミ100万円)、個人研究2万円となりし。 すみて急ぎ「車」へゆく途中、大藤氏の歩くを見て40万円のこといひ、ついで正宗、水谷2生に会ふ。 「車」にては相馬、鈴木まちをり、相馬を家へつれ帰り、夕食せしむ。 5月23日 ノート作りに早起きし、中途にて8:00起き、9:00出て東大へゆく途中、木内書店にて『民間伝承8巻9冊(30×9)』買ひしてゆく。 すみて神田、岡田、阿南の3氏と昼食。琳琅閣に本つきしをいひ、また木内にゆき『トンガ諸島事情(50)』買ひ、busにて池袋。 立教にて5月分salaryもらひ、ノート補足せしあと(別枝博士にキリスト教伝道のこときけば「フィリッピン、インドネシアなら本あり」と)講 義。 寒食すませ、出席男2(大学院、3B山内)さそひしに用ありと。女6人(平井、堀、清涼、杉山、三上、西田)さそひて学生食堂にてcoffee(40×7)。 うち杉山、堀は西洋史らし。雨の中を出て『タラワ(30)』、『史話と文話(180)』買ひ、中野までbus。西荻窪で小島館の電話番号しらべしのち帰宅。 村松正俊氏出版記念会の発起人177人!天川勇司より転居通知。大塚易信より就職通知。 聖心女子大より「25日(金)、聖Magdalena Sophiaの祝にて講義なし」と速達。 21:30田村春雄に電話せしに「まだ帰らず」と。「老蘇の詩碑(※井上多喜三郎詩碑について)」8×200それまでに書き了ふ。 5月24日 8:00すぎ小島館の田村春雄に電話かけ12:00有楽町でと約束しておちつかず。 那波氏への断りに悠紀子、小高根家へゆきしあと、家しめて出、12:00すこしまへに着き、まてば来り、すぐ昼食おごり呉る。 そのあと滋賀日々たづねて受付に原稿わたし、filmいれかへさして喫茶。それより(※田村春雄)わが家へつれ帰り、浅野建夫の本与ふれば喜ぶ。 「長男中学2年」と。 また来てよといひ16:30送りかたがた駅へゆき、ラカンにfilmの焼付たのむ。 外口にて『月ごとの祭(240)』買ひて帰宅。けふ田島靖子より「渡辺姓となりし」と。中沢晴代より「写真受取った」と。 村松正俊氏より詩集。宮崎幸三氏より「今中同窓会にて矢野健三、田中勤2氏とわがこと話せし」と。依子、夕方出てゆく。 5月25日 曇ゆゑ「唐代の年中行事」かき30枚とし疲る。昼食すれば天気となりしゆゑ、悠紀子さそひ高円寺下車。 馬橋の根本家みつけ写真とり、大和町252の肥下家探しにゆきしに、なくなりし模様。鷺宮仙蔵院(※旧下宿)へゆけば和上在宅。 この間、大蔵省前にて自動車事故、近々下部温泉へゆきたまふと。夫人は不在。嬢に写真とってもらふ。 都立家政前より関まで西武にのり、busにて吉祥寺に帰る。 留守中、赤川草夫氏より「肥下家へ同行せん」と速達、ふしぎ。 けふ『不二』来り、浅野、保田の2氏の歌のす。沢田博士より「写真受取った。令息夫人の妹、楠田嬢、聖心女子に在学」と。 疲れて求道者会にゆく。(田中雅子より子らの入学の写真)。(服部さん留守中、printもち来たまひしと)。 5月26日 6:30起き、7:30登校。田中久夫氏の来るまへ宮崎氏らと話す。史学研究法すませ福島恵美子見つけて話しかければ「退学せねばならぬかもしれぬ」と。 丸に会ひ猿渡茂子生に会ふ。(文部省への申請、経済にとられしと池田氏の話)。 10:00より田中久夫氏のすむまで講師室にゐて、前田課長や山田氏と話す。相馬、わが貸せし本ほうりみゆきしゆゑつかまへる。 宮崎氏と写真とりあひす。12:00出て下北沢で田中氏とラーメン食ひ、大地堂にゆき、李丙燾『国史大観(40)』見つけうれし。 別れて明大前のりかへ府中に着けば悠紀子をり、猿渡家へゆけば全家不在。大国魂神社の方へゆき植木市にて花買ふ(90)。 15:00中川原病院へゆき薄井夫人見舞ひしに、さらに痩せし如し。 浴衣贈りて出、また府中より小金井行のbusにのり三鷹より帰宅。(『子供の歳時記(50)』買ふ)。 けふ林富士馬氏より「1度来よ」と。『Non-Fiction全集』来る。富士鉱業より「住金溶接棒と改名、城平叔父会長となりし」と。 5月27日(日) 教会へ礼拝にゆく。〒なし。「唐代の年中行事」かきつづけ59枚(200字)とせし。 白井紘史より夕方電話「仙台へ今夜赴任す」と。 5月28日 成城大学へゆく前、畠山のり子嬢より電話、待ちて昼食し、12:00すぎ出て(18:00の特急にて名古屋へ帰ると)、 久我山より30分遅刻をいひ、ゆけば卒業albumにと写真とるとて4生そろひをり。 そのあとゼミすませ、東洋文化史すませ、高橋邦太郎氏と出て喫茶。 帰り来れば岡田先生夫人より「お国は群馬、盆に帰らる」と也。 坪井より電話かかりしらしく「満鉄会館にあり」と伝言しあり。 依子、のり子嬢を送りて、銀座に出て前田氏に電話せしに不在なりしと怒る。 風呂より帰り来しを叱り、すみしころ服部三樹子氏より電話「5月分俸給もらひし」とてcake一箱もち来りたまふ。 けふ成城を出しところにて、神田喜一郎先生に遇ひ、御挨拶しまいらす。 (佐藤君より『還魂録』たまひしを福留生預り、水曜蘆花公園への文学散歩の会に誘ふ)。 (畠山のり子君「史、東京に留まる」といふに、夜たしかめればその通りにて関東財務局と!) 5月29日 きのふ万年筆落せしゆゑ、ゆきがけに太字を買ひ修繕におく。 成城大学につけば「先生、また1人死んだ」と。おどろきて前田課長にきけば2D櫛田和子とて平出身の子にて、われおぼえなし。 今井氏、葬儀にゆくとて500円づつの香奠出すこととなりし。 短大の『唐詩選』まだ来ず。明治書院に電話すれば「2~30部注文4~5日前に受けた」と。 (成城堂の嬢、矢久保副手とまちがひゐし増田さん也し。松浦氏、臼井氏とそのこと話す)。気持わるく神田信夫邸へゆけば無人。 午后、中国文学史すませ(print代60円づつといふ)、神田家に電話せしに無人(西川に電話すれば「坪井にあすゆかん」と)。 キリスト教青年会にゆき石渡追悼会のこといふ。 出て和田先生のお宅を訪ひまいらせ、神田先生の御滞在のことたづねしも不詳。先生12人のお孫をもたれ、12月の金婚式をこの間なすったと。 帰り雨となり、丸善にて傘かりて帰宅。 田中久夫氏より『南方全集』5,500にてありと。(けふ佐藤君にきけば原稿6月4日ごろでよしと。けふ29号出来上る)。 5月30日 散髪にゆく前、果樹園社へ速達(50)。13:00出て下北沢下車。大地堂に寄り『婆羅門の像(1,500)』借り、古本市へ3冊たのむ。 克書房へ電話して『南方全集12冊(5,500)』届けてくれとたのむ。新宿をへて立教大学。 矢久保女史と話し、「ハイネを増田女史よりもらへ」といひ、手塚氏と鎌田重雄の話す。 朝日新聞の切抜おもちとのこと也。寒食と上巳講じ、男生3人を呼びしに、 田畑稔(大学院2年生、知多木綿のことやると)、小田道一(天理教会会長のむすこと!!)2生のみ来り、 いろいろ話し、別れて(古本屋にてゆきに『祭り風土記(130)』買ひし)地下鉄。 八重洲会館にゆけば坪井不在。西川に電話すれば、(林富士馬氏に電話「来週ゆく」といふ)「けふ来ずと思ひ、その旨いひし」と。 30分まち、ゆく先といひ、碁会所へ2ヶ所電話するところへ(※坪井明)帰り来り、ノイローゼの話す。わが経験語れば「西川よりききし」と! 東京駅内の喫茶店で話し(寮歌集わたしreprintしてみよといふ)、地下鉄まで送られて22:30帰宅。 けふ悠紀子、小高根家へゆき、那波氏のことはりの理由いはずしてすみしと。へんな日なり。 (集英社の鈴木重役、菓子もって来訪。留守の依子会へば「8月までに白楽天を」と)。 5月31日 8:00出て(よべ睡眠不足)、篠原局長に会ひ「どちらへ」と問はれ、神田信夫邸へゆけば「喜一郎先生、一昨日御帰洛」と。菓子おき成城大学。 集英社へ電話し、薄井氏にきけば8月中頃まで宜しきらし。「今度は必ず」といひ、漢文にゆけば5冊しか『史記文粋』来ずと。 すませて都留生と話す。(櫛田和子の出席とりし!白血球過多となりて死にしと)。 池田、池辺2氏と話しゐれば天野生来り、朝鮮民族の咸興の一軒の家祭と琉球と比べると。(あとにてこの夏、琉球へゆくとわかりし)。 鎌田女史に500円托し、外へ出て渡辺、川本、西沢、足立の4生と喫茶。 出て高橋、猿渡2生に遭ひ、猿渡生に「火曜に研究室へ来よ」といひ、明大前まで同車。 『佐久の草笛(20)』買って帰宅。写真出来をり20枚中19枚うつる。「滋賀日々」3部来をり。 浅沼助教授より松田智雄氏の媒妁にて結婚との挨拶状。(けふ栗山氏と話す。酒のみをりと)。 6月1日 田村春雄君へ写真送る。きのふ川田君にわたした「僕の詩」に神霊と書きしを聖霊と改めてくれよと高橋邦彦君へハガキ。 井上多喜三郎氏へ「滋賀日々」2通(20)送り、聖心女子大へ登校。 2時間目、楠田生に沢田氏の婚姻かと問へば「然り」と。 すみてまっすぐ帰宅。途中、悠紀子に会ふ。帰りてBibleよみ18:45吉祥寺教会の求道者会にゆき、帰り竹内夫人に電話すれば「まだ返事なく云々」。 (けふ渋谷へ電話すればるり子出て、5日ごろ帰京、いま京都にゐると母のこといふ)。 Eichmann(※アイヒマン:ナチス戦犯)死刑のまへ「神を信じて生き、神を信じて死ぬ」といひしと。 山本陽子より「俳優座新人会に入団、芸名を水瀬理恵といふ」と。 6月2日 山本陽子、田中久夫2氏にハガキ。朝食の時きけば史、関東財務局への辞令出しと也。 竹内夫人に電話するまへ、悠紀子とともに依子に「前田氏やめよ」といひ、同意せしと見て2人して出、名店会館にてすし買ひ、ゆけば前田家無人と。 縁なかりしことを旨くいってくれとたのみ「他に縁談出来しといふ」となり、12:00出てわれのみbusにて荻窪。またbusにて新宿。 地下鉄にて淡路町、明治書院にゆき小出氏といふに会ひ『唐詩選』20冊を成城堂に届けてもらふこととなりし(増田氏にわれ電話せし)。 『史記文粋』探すと也。出て山本書店、『清史』の落丁示し台湾にとりかへてもらふこととし、湖南『支那絵画史』その他たのみ、蒲池家へゆけば夫人「会にゆきし」と。 飲物注文せしにきかぬふりされ、ice-creamたのみて金払はんとすれば不要と! 集英社にゆきしに無人。都電にて渋谷をへて帰り(花井家へあすゆくと伝へてくれを田中家に電話す)、阪本姓となりし山内和子の挨拶を見る。 依子帰り来って変なり。服部三樹子氏来り「(※転業を)後悔す」といふ。夫婦してなだめて帰す。 6月3日(日) 雨。教会へ礼拝にゆく。帰り出口にて森田先生「竹森先生のところへゆけ」と。 ゆきて「お話承りたし」といへば「金曜求道者会すみしあと」といはる。 一旦帰宅し昼食せしあと二人してまた出、cameraにfilm入れ(145)、国鉄にて池袋。 新開店の東武dept.にゆきcastella(450)と苺(120)と買ってbus江古田行にのり、 花井家へゆけば山中母上をられ、大きな目をした赤ん坊(厚)。産重かりしと。写真とり妹さん(27才)未婚ときく。 井上斌子の話こはれしらし。江古田へ出て中野行のbusにのり、中野より丸家へ電話すれば由美子出しゆゑ、祝にsocks3足(620)もちゆく。 (父母ともに不在。母君煦美子の運転にて外出と)。帰れば夕食しをり。21:00「唐代の年中行事」了る。81×200。 6月4日 雨。原稿83枚とし、10:30出て成城大学。高橋生、父君退院にて休みしほか3生来り、semiやる。 (姜生の母、帰り来しとて人蔘茶1箱たまふ)。すみて相馬来り、5月末卒業のことわびしも笑ひて去る。 東洋文化史noteなく、はやくすませ、都留生よびて話す。 成城堂へゆき『唐詩選』来をるを見、岩波文庫『唐詩選 中』買ひ、矢野光子と話しつつ駅まで来る。 けふ丸重俊にも会ふ。帰り雨やみ『文藝春秋3月号(20)』買って帰宅。 高橋邦彦より受取。昭和女子大よりPRの雑誌、よみて不快なり。 6月5日 8:30出て成城大学。図書館へゆき琳琅閣と克書房の請求書とり来る。 (けふ買はんと思ひしバラの切花なかりし)。短大にてみな教科書もちをり、成城堂にて買はずともよかりしと。 すまして成城堂へゆき、明治書院の小出氏に電話すれば「引取る」と。 あやまりて出、午食するところへ重久武志、地図返却に来る。1冊与へて話し、中国文学史にゆく。 3Dの金(26×60)受取る。研究室に帰り、甲本生よび3Eの話きき、やがて来し福留、本多2生と話す中、松村達雄君来り、家建て増すと。 2女生とともに出んとして教授会なりしを思出し、ゆけばすぐ始まる。bonus、9日、1.7ヶ月分出ると。 文化史主任大藤氏となりしこと通告してもらひ、指定寄附の残金照合せよときき、今井、池辺2氏を研究室によぶ。 (大藤氏けふ柳田先生御夫妻と筑摩より箱根へ招待されゐると)。 SCAの委員来り、石渡生の追悼を10日14:00からと。篠原局長のところへ今井氏とゆきしに会議中。木曜にとなる。 われ琳琅閣の払ひしてもらふことをたのみし。相馬5月卒でなしと今井氏注意す。ふしぎ。 大地堂へ1,500払ひ、市にて『奉天史話(200)』のみとれしと。『台湾写真帖(200)』買ひして帰宅。 井上多喜三郎氏より「滋賀日々」の礼状。田村春雄より「写真受取った」。 松下きくゑ(文雄氏夫人)より「肥下の死のこと新聞で知った。ところしらせ」と。 畠山敬子より「坪井君名古屋へ寄った。関口も名古屋へ来るやもしれず」と。川久保より抜刷。 6月6日 松下喜久恵氏へ肥下夫人の住所。11:30家を出て立教大学。6大学リーグ戦にて法政との決勝をteleviにて見る人に手塚氏あり。 「学生殆ど不在」と。定刻のぞいてみれば早川生1人のみ。やがて西田生来りしゆゑ「4月8日」の話し、別れてtelevi見れば3-0と負けをり。 古本屋見しあと林dr.89(※林富士馬)に電話すれば「来よ」と。花市見、東武dept.でcheezeとham買ひてゆく。文芸日本の会でよく会ひし某君をり。 beer2,3杯のみて出、駅前にてうな丼くって帰宅。 『柳田国男集』第5回配本来をり。服部三樹子さんより「print出来ず、月曜に」と電話ありしと。 6月7日 朝から雨。10:00ゆき都留生と話す中、時間となり漢文教ふ。 11:35までやり(この頃、時間長くやることとす)、すみて昼食。 今井氏誘ひ、篠原氏と指定寄附の帳簿引合せれば、記載漏れとやらにて4万円余りしかのこりをらず。 すみて大藤氏探せしに欠勤と。『南方全集』5冊もちて帰宅(14:00)。丸より礼状。『南方全集8』よむ。 6月8日 午前中note作る。石渡夫人より電話「23日15:00自宅にて曜子君の50日祭す」と。 ついで西川英夫より電話「珍しき人あり」と取次ぐ。出しは小高根二郎氏にて「入社試験のため来て18:00の飛行機にて帰る」と。 15:00聖心女子大にてと約束し、昼食して聖心。 田中保隆氏に成城のbase表わたし、小高根君のこといへば「会ってよし」と。助野健太郎氏に「論叢にかけ」といはれ、滋賀日々に紹介すといふ。 15:00かっきりに了へて階下へ下りれば玄関に小高根氏をり。一服してのち田中氏に紹介、『群島』の同人なりしと。 PalaceHall(※旧久邇宮邸御常御殿)の案内たのみ、出て来しとハイヤーにのせてもらひ高樹町にて下車。 (「朝日」の(※『果樹園』紹介)記事のあと読者30人増え手紙100通以上来しと)。 青山車庫まで都電、『四千六百年的中国(100)』、『Out of this world to forbidden Tibet(80)』、『The Adventure of travel(50)』買ひ、『文藝春秋5月号(50)』買って帰宅。 京都新聞東京支局より2千円。白井紘史より「仙台に着任」と。坪井より「名古屋にて云々」、千川稚泉より「伊豆へ行った云々」。 18:00出て羊羹買ひ(220)、求道者会。すみて竹森先生夫妻に挨拶申上ぐ。 6月9日 7:00起き8:00出て混む電車にてゆく。けふ甲州へ民俗採集にゆきしらしく大藤氏ら見えず。 12:00まで待ちbonusもらふ(77,820-15,560+32,300=94,560)。 田中久夫氏と小高根太郎訪はんとゆきしに、経堂駅で遭ひ、昼食し、梅ヶ丘でわれ下車。 麥書房にて『文学 鴎外研究(400)』買ひ、雨にて「マルゼン」前より電話。 依子のもち来し傘受取り、真珠のネクレス買ひやる(2,000×0.9)。 帰れば母来をり、殿井の悪口いふ。大江へはゆかざりし。父の歌集は来年にと。(大江・田中へ7月22日の墓碑式の案内出さざれといふ)。 小遣ひ2千円わたし、帰るを見る。けふ『果樹園』来る。薄井夫人より礼状。 6月10日(日) 五旬節。雨にて寒しとゆくに礼拝中暑くなる。(柳野一郎、桜井栄章和上、赤川草夫氏へたより投函)。 一度帰りて昼食。シャツ着替へて13:00出、成城大学へゆけば、鈴木睦美・福留泰子2生をり。 14:00より始まりし追悼会に、われ石渡曜子のこと話す。思ひ出に「暗かりしもこの頃明るくなった」との評、多かりし。 あとにて「神さま恨む」恋塚生の言をいひ、成城教会平出牧師の話あり。 すみてわれ写真機出し3枚撮ってもらひし。教徒でなき2生を誘ひ、新宿をへて荻窪の市にゆき、 久保天随『朝鮮史(250)』、『日鮮会話三十日速成(100)』、『儒林外史(double,100)』、『レ・ミゼラブルⅠ(30)』買ひ、 吉祥寺より電話すれば「飯くはせよ」と悠紀子。すし食はせて(450)帰宅。 鈴木生に犀星『鶴』与ふ。(けふ彼女『鳥雀集』買ふ。) 福留生、村松教授の詩集もちゆきし。21:30雨の中を帰りゆく。 (けふゆきがけ夏帽買ふ350。ネクタイ買ってもらふ200)。 (けふ依子の留守番のところへ中野清見君、嬢つれて来り、学校へ電話するといひしと)。 6月11日 雨。中西夫人外泊をことわって出てゆく。 宮崎智慧(大伴道子夫人『道』の)、西村公晴(『大東亜戦争殉難者辞世歌抄』の)、安水稔和(『能登へ』の)受取かく。 11:00弁当もちて出、成城大学。 姜生来り、教会のこといへば「云ふを好まず。ブル(※ブルジョア)と思はれる」と。たしなめる。新羅史やると。 三野生に『朝鮮巫俗の研究』3冊わたす。高橋生は父の病気にてすすまず。本間生来ず。 juiceのみて、渡辺生らに23日の「出席20名位」といふことに同意し、東洋文化史すみてalbumのこと1つにせよと川本生にいふ(SLAとクラスと)。 大藤氏来り、あす帳簿引継ぎせんといひ、考古学の無給副手は認めずと栗山部長と相談し来る。 今中同窓会より電話といふに、待てば早大生中川君とて、あす11:30来ると。 高橋邦太郎氏またせ、定期の証明もらひ「オリツサ」にゆきpãoとcoffeeとご馳走となり同車、 吉祥寺にて『文藝春秋6月号(50)』買ひて帰れば、服部女史まちをり。1,560わたしprint1枚おきてゆく。 6月12日 10:00登校。山田夫人来り、旅行しゐしと。わが贈物の礼いひ、名古屋の外郎2本賜ひ、家庭の事情話す。 短大へ15分遅れてゆき、李白・王維やり、すまして11:25研究室へ帰れば、 今宮高校の同窓会支部作らんと、早大生2名来をる(中川君と岡本君)。しっかりした発起人とせよと19期は西川を推す。 帰りしあと昼食(松浦氏に松島生の欠席伝へし)。高田氏に問へば浜松一中の出身と。小池少尉の話す。 中国文学史早々にすませ、福島生呼べば、姉を奸せしは30数人をだませし男と。 外郎切り19人分のprint代もち来し3A生2人とprintとりに来しとを饗す。 そのあと恋塚生来り、網走の産と。伝言してくれし新谷生も同じと。 神の有ることを話し、礼いはれて別れ、大藤氏探せば丸をり、中野君への連絡父に尋ねてくれると。 猿渡生に昭和起重機のこと伝言たのみ、今井氏探しに考古学の室へゆき、 磯崎君、山田夫人、戸沢恪の外に女生1人ゐるを見、今井氏けふは来ずときき、 餅と茶と饗せられしところへ、山内講師挨拶に見ゆ。標本搬入を示さる。 出て高宮生さそひ「車」へゆき喫茶。相馬、一度帰郷ときき雨の中を帰宅。 高橋邦彦より「訂正承知」と。けふ鎌田生にも遭ひ、ものごと旨くゆくとうれし。 大江叔母来りをり、依子みやげの肉とりにゆき「房子、大阪にゐることわかりし」と。 6月13日 雨。10:30東大にゆき、われよむ。神田、田川、阿南、岡本氏と4人のみ。 神田、阿南2氏と昼食。すませてまた琳琅閣、木内と歩き、 木内にて『民間伝承13-1,2,3(80)』買ひ、busにて池袋(※立教大学)。 端午考よみ、すみて村上(宇和島南校)、藤森正一(諏訪清陵)、村田生(鹿児島産)と喫茶。 出て『標準世界地図(600)』買ひ、重くて困りながら帰宅。福地君と桜井栄章師より礼状。手帳を忘れし。 6月14日 雨の中を出てゆき中国文学。10人足らず教科書なしと。すませて池辺、大藤、今井諸氏に12:10より会せんといふ。 坂根千鶴子、青年1人伴ひ高等部へ「Veniceの商人」上演につき援助をと。断りてゆかす。 猿渡生「山中嬢の生年月日しりたし」と。「土曜来よ」といふ。池辺、今井2氏来り、12:30まで待ちしも大藤氏「あとにて」と。 待つ間、三野生現れいろいろ訊ねる。枡田副手(立教)、きのふ忘れし手帖届け呉る(けさ電話せし也)。 14:00大藤氏、今井氏来り、池辺君のいふ「柳田先生の会の5万円別途より」と篠原氏にたのみにゆけば「良し」と。 考古学の山内氏の副手の件、大藤氏ことはる。われ琳琅閣の払の件につき書き、大藤氏の印もらひ、出て久我山にて下車。 田中家に電話し、山中母堂より末嬢の生年月日きく。父上7月10日帰国と也。『西行法師全歌集(80)』買ひて帰宅。 (けさ大江叔母よりけふ一日外出の電話あり。悠紀子伝へ来し也)。 文学散歩の会より通知。入浴中、和田夫人より電話「中学へ知人の子を入学させたし」と。 6月15日 晴。悠紀子出しあと金なきに気付き、1円銅貨あつめしを30円ばかりもちて聖心女子大。 田中保隆君「けふ出る」といふ(渋谷駅にて松村達雄君に遭ひし)。 果して小林氏6、7両月分わたし賜ふ(2.8×20×2+800×2=7,240)。 2時限目早くすみ、出てtaxiつかまりしゆゑ農大前下車(420)。 大江叔母にお針の教へ子来てをり、あとにてきけば、嫁あす世話すと也。 手伝の嫗、村田幸子とて帝塚山の服飾の出の子の母と。房子、辻姓にかへりし。子どものことも云はずと。(S ※省略)わびしと。 16:30出て経堂へ出、吉祥寺へ帰りとんかつ食ふ(150×2)。 古野清人『原始文化の探求(80)』買ひしてのち求道者会に出る。内山書店より『西太后に侍して』見つけた、350円と。ハガキ。 6月16日 6:50起き、7:40出て成城大学。史学研究法を鐘鳴るまでせり。 死にし櫛田生の名、また呼び、あとにて唄[脩]氏よりも同じ失敗したとききし。 けふ文化史専攻の新入生歓迎会13:00よりときく。 11:45田中久夫氏まち、ともに出んとせしに山田夫人auto駆りて来り、のせしも武居生まつといふに駅まで送らせ、渋谷にて昼食。 湖南の『涙珠唾珠』探すことを約し、赤坂プリンスホテルへゆけば半数ほどをり(元の李王邸と)。 13:30よりはじまり、15:00近くなりしゆゑ出て駿河台下の古本市にゆき、 鈴木経勲『南洋探険実記(300)』買ひしのみにて、出て『和歌山県(40)』地図買ひ、神保町まで歩き、 『西洋蕃国志(80)』、『長恨歌評釈(50)』買ひ、都電にのりて渋谷をへて帰宅。 畠山のり子より「本位田検事正、山口へ出発」と。(鎌田女史より本位田重美氏上京中と。ふしぎ)。 硲晃氏より『果樹園』の受取。(けふ佐久間氏より父の香奠3千円もらふ)。 「らかん」(※カメラ屋)に焼付たのみにゆけばネジ故障とて預けし。 6月17日(日) 礼拝にゆく。竹森先生「洗礼まだ早し」ときこえる説教さる。 すみて帰れば10:00ごろ阿南氏来りしと『東亜人文学報1-4』おきあり。昼食後、電話せしに外出と。 14:30出て平田へ悠紀子ゆけば女たち不在。われ『其角句集(70)』買ひ、悠紀子と浅野dr.に電話すれば不在。 また本屋見て『朝鮮里程図(50)』と「バクダン」買ふ。 夕方電話あり「2-2貸せ」と。再来週の満蒙史料の会にもってゆくことを約す。 夜、写真とりにゆきしにカメラ直らず。14枚現像出来、追悼会の写真はみな写らず。 (けふ父の日として弓子、支那饅頭買ってくれ、本棚(200)買ひ、neck-tie(200)買ひし)。 6月18日 晴。10:30出て成城大学。栗山氏にsofaのこときけば「返却せよ」と。 前田課長にいへば「篠原局長の係り」と。「香奠返しせぬならはし」と。姜生休み、3生とゼミ。 本間生、内藤湖南『支那絵画史(3,500)』買ふと。そのためわれ『白居易詩評述彙編(300)』、『中国俗諺4000首(220)』、『神田博士還暦記念書誌学論集(2,000)』、『中国諺語研究書目(100)』、『王右丞箋注(670)』買ふこととなる。 電話かかり、今高の中川と。「17:30吉祥寺駅北口」でと約束し、東洋文化史に「三伏」と「七夕」すませ、 相馬来し(聴講card教務へ提出)と出んとすれば、高橋邦太郎氏同行さる。 われすすめて「車」へ誘ひ、高橋氏、中座するとて1枚ガラスの扉と衝突。出血におどろき病院へゆかんといへば第一病院の嬢のところへと。 これ元の陸軍病院にてtaxi甲州街道を走り700円余り。 われ持合せなく困りしに、高橋氏払ひ、やがて令嬢(皮膚科医らし)に引渡し、busにて大久保。国鉄にて17:10吉祥寺着。 家に電話すれば「服部さん来ず」と。「2人でゆく」といひしあと、17:30現はれしは3人(中川、岡本2君のほか慶応の住吉君)。 事務所を石本建築にせしと。夕食4杯づつ食ひて帰りゆく。あと高橋氏に電話すれば「絆創膏にて帰宅」と。 6月19日 9:00出て成城大学。短大の漢文すませ昼食して(朝ゆきしに「車」しまりをり、扉のガラスは入りをりし)、 高宮生さそひて「車」にゆき、ガラス代訊ぬれば1,300円と。高橋氏に伝へるといふ。 中国文学史すませれば1人print代もち来りしも「集めてくれ」とたのむ。都留生来ず(写真らかん今日休業にて焼増できざりし)。 (栗山氏に特別研究費2万円の請求出す)。教授会低調にて、すみてすぐ出、下北沢、渋谷をへて地下鉄、広小路下車。 松坂屋にて菓子買ひ(300)、花園町の高橋邸を訪へば外出と。そのあと水谷玲子に電話せしにかからず、交番にてきき、行きみれば呼鈴なく大邸宅ゆゑ、止めて七軒町にてtoastとcoffee(100)。上野まで不忍を廻りて地下鉄。 『果樹園』の合本第6来りしのみ。(けふきけば青木生、立川市の兄弟市へ招かれて渡米と)。 東方学会に1,600送る(600会費、1,000論文集代)。 6月20日 散髪にゆく。帰りて和田節子夫人より「大阪へゆきGroupに会った。伊藤元気にて子あり。成城大学入学の件はやめた」と手紙。 柳井一郎君より「助野氏にたのんでくれ」と。石渡恒夫氏より香奠返しに盆。 12:00すぎ猿渡夫人見え「山中家へ親類書と写真とほしの旨伝へてくれ」と。洋菓子一折たまふ。悠紀子と16:30を約束して立教大学。 枡田副手に『我国近世の社会経済(改造文庫)』贈り、手塚氏に会ひて「読売報知」の21.1.21の「叫び」欄の切抜き借る。 「隠れた戦時利得者」なる見出しにて東京理科大講師鎌田重雄と明記しあり。講義20人ばかり出席。 15:50すみ、古本屋見しに休み。駅前のbus乗場にて20分あるゆゑcoffeeのみ、16:30すぎに悠紀子あらはれしを叱る。 花井家にて姉さんも呼んでもらひ、田中家は昭和起重機の社員なることわかる。佐藤氏のこといひ「よければ写真を」といって出る。 中野へbusつけば丁度国鉄故障、busにて吉祥寺に帰り19:30。 京、塾にゆきをり。依子けふ理研光学へゆき「土曜にcamera直る」と也。 けふ焼増しとり330なりし。晩に子らの退きしあと、悠紀子叩き、退け、3:00ごろまで眠れず。 6月21日 よべは休まんと思ひしも、考へ直して登校。漢文旨くゆき、写真、都留と正宗2生にわたす。 大藤氏来り、この間立替への500円出せと。鎌田女史にわたせといひしあと、たづねにゆき云ってもらふ。 13:00、salary出るを待って出、「車」にゆきcoffeeのみ(50)、高橋氏のこといふ(けさ電話あり、ところきかる)。 ついで(平凡社に電話し『アジア史事典』Vol.8までの2,444は払ひしことわかり、Vol.9の代1,545を為替にて送る)。 busにて大江へゆき、東京の花嫁候補Rentgenにて曇あり、だめと。大阪の墓へゆかずといひ激論となる。 あとbusに同車、三軒茶屋にて下り(bus代40われ払ふ。24日浜松へゆきて帰阪と)、 三茶書房にて『柳の葉末(400)(※艶句集)』見つけうれしく、そのあと『ニューギニア探険(100)』、『歴史学の発達(280)』買ひ、 他の店にて『Tales of fair and gallant ladies(130)』、『理科年表(20)』買ひ、宮崎幸三氏に電話すれば「病気」と。 あとにて「来よ」とかはりしゆゑ、枇杷(250)買ひtaxiにてゆく(100)。「小さいことにはあまりこだはるな」と也。 出てbusにて渋谷(25)。Pork coteletteたべcoffeeのみ(210)、西川に電話すれば(20)、坊出て自彊会支部発起人のこと伝へると(6年生と)。 思案せしのち吉祥寺よりtaxi(70)にて帰宅。立教より講師の辞令。久美子より「Bibleよむ」と。 (けふふしぎにも三軒茶屋にて大阪へゆくといふ山田君江夫妻の自動車より声かけられし)。 6月22日 傘もちて11:30出、聖心女子大にゆき海老沢博士より再度Christian Missionの参考書きく。 すみて青山学院前にてbus下車。ice-coffeeのみて不二出版社。十四烈士顕彰碑の募金(2回目)1千円を寄附。 鈴木氏と話して出、『支那童謡集(20)』、『イエス伝(100)』買って帰宅。 小高根二郎氏より「磯花佐知男(※コギト同人、戦歿。池沢茂の義兄)は立野利男か」と。夕食して求道者会。 6月23日 晴。6:30起き、7:30ゆく。「1時間目を10:00にすませてくれ。瀬川清子氏の講演あり」と都留生来る。 諾してすませ、田中久夫より問はれし杜詩の註せし趙次公を探し、11:50了へて来し田中氏と出て(相馬生を叱りし)新宿にて昼食(180)。 国鉄にて亀有に14:15着。coffeeのみて重久生、山内生と会ひ14:25となりて大藤、鎌田2氏と会ひ、800の果物1箱買ひて(※故・ 石渡曜子生宅へ)ゆく。 きのふ50日祭すみ染井墓地に葬りしと父上の話なり。beerよばれ17:00出て(礼とsandwichもらふ)、 亀有より上野まで買ひ、神田に重久、中沢、川本の3生と下車。茶のみて別れ、吉祥寺につけば雨。 マルゼンより電話し、迎へに来し悠紀子と会ふ。白井紘史「秋田に出張」と。New-Fiction全集30回来をり。入浴。 6月24日(日) 晴。暑し。礼拝にゆく。悠紀子、立教女学校のclass会にゆく。 15:00ごろ三鷹の古本屋にゆき『亜細亜民族の研究(100)』買ふ中、雨ふり来る。平田にゆけば不在。 途中ラーメン食ひ帰り来る。鈴木正義生、室蘭へ転任の挨拶。 6月25日 傘もって出る。高橋邦太郎氏来られ、礼送ると。 栗山部長に特別研究費『明清史料(12,000)』と『南方熊楠全集(5,700)』請求の紙わたす。佐藤君「横光利一買ってくれ」と。 けふゼミの4生そろひ、姜生「新羅の善徳真徳両女王のことやる」、高橋生「フィリッピンのキリスト教」ときまる。 (図書館に『冠婚葬祭と年中行事』さがせしもみつからず)。 東洋文化史の時間早くすます。2D武田生の「母より」ともち来しさくらんぼを川本、牧野、本多生などに与へ、 最後に来し福島生に傘貸してともに出る。(家の営業安宅紹介のおかげにて助かりし由)。 大江久美子、武田マサ2氏へハガキかく。柳野一郎より電話、助野健太郎、野田宇太郎、護雅夫の3氏紹介す。 服部三樹子氏来るはずなりしかど来ず。雨はげし。(けふ学園名簿もらひしに中西家の電話しるす)。 6月26日 雨。13:30渋谷でと約束して家を出、2時限3時限のあることわかり、家へ電話して15:00と変更。 昼食sandwichくふ。3時間目、傘さしかけくれしは鎌田生。 松浦氏に高橋生を別枝博士に紹介してくれとたのみ、14:00了り、 成城堂に190の払ひし、東横へゆけば腹へり、和田・栗山2家へ砂糖送りしあと(1,000×2)、 すし買って渋谷の大のところへゆけば、母居り、るり子をり(※夫の)大は喧嘩して2日帰らずと。 花井タヅ子の姉、稲田夫人に電話すれば「大阪より相談来し」と。青山博士に電話せしに夫妻不在と。 帰り吉祥寺の古本屋を見、『アメリカの内幕(20)』買ひて帰宅。 (渋谷より服部三樹子氏に電話し「急がず」といふ)。 22:30大阪より電話といふにおどろけば山中母上。「写真送りおけ」とすすむ。 6月27日 9:00出て東大(『支那のユーモア(30)』買ふ)。宮原君よめず、神田、阿南2君と4人のみ。すみて3人にて昼食。 そのあと木内にゆき『支那の有用植物』など3冊学校へとたのむ。帰宅15:00。 (けふ出がけに猿渡夫人に電話す)。ひとやすみし夕食して、横浜市大と合同のchorusを都市会館へ夫婦づれでききにゆく。 山部生受付にをり。疲れて帰宅(22:10)。 6月28日 9:00出て成城大学、12:30出て(『文学散歩』受取り日曜不忍池集合と福留生よりきく)、立教大学。 6月分のsalary受取り、神田山本書店の払すませば、あとなしとて池袋。 吉祥寺をへて三鷹。『建国大学研究期報1(250)』と横光利一『無礼な街(200)』買って帰宅。後者は佐藤君がため也。 (けふ木内へ鴎外の美学関係3部4冊相良教授のために注文す。わが買ひし5万円の請求書見つからず払まだらし)。 高橋邦太郎氏より『National Geographic Vol.118No.2』来をり。西村美那子より「東生、新居浜へ嫁ぐ」と。 京、寝てをり風邪と。悠紀子帰り来て熱計れば39℃。浅野dr.に電話し往診乞へばすぐ来り、風邪と扁桃腺炎と。 夜、ふろ焚く悠紀子に代り薬とりにゆけば来客中。薬代その他にて350。 散歩して『Les Miserables2(50)』、京のために『シャーロックホームズ(50)』買ひ来る。川本生より電話「丸重俊と土曜午后来る」と。 6月29日 家居。午前中に「半自叙伝」20×200かき速達してもらふ。 午后、和田先生お宅より受取り。夜、求道者会にゆく。京38℃あまり。 6月30日 7:00起き成城大学。けふにて土曜の史学研究法をキリとす。 田中久夫氏に挨拶し、会計にゆきて弓子の就職いふ(扶養家族よりのくこととなる)。 図書館へゆき琳琅閣の請求書会計にまはりゐるときき、月曜午前中に整理たのむ。 成城堂で『わらべうた』と『柳多留5』とつけてもらひ帰宅。 山中母君より写真と書類来てをり。のちほど猿渡家に電話せしに「夫人外出」。 丸重俊と川本静江2生来り、12日にBangkokにゆく川本生に案内記貸し、丸に父親へと植物図譜わたす。 けふ足立生、島根県へ採集旅行にゆくを見送ると。佐藤dr.にゆき『小説新潮2冊(70)』買ひ来る。 7月1日(日) 雨の中を礼拝にゆく。貧血気味なり。帰りて本位田昇の山口地検検事正栄転の挨拶を見てひるね。 その間に猿渡夫人より電話。「あす午前中、写真とりにゆかす」と。16:30投票(参議院補選、野坂、小林珍雄)。 けふ角川より15版の印税来る。 7月2日 雨。10:00出て図書館。整理せかし高橋邦太郎氏に茉莉茶の礼いひ、 4生とsemi。姜生に『三国史記』『三国遺事』『新羅史』貸出さしめ、高橋生の別枝博士より借りし本見て安心し、 14:00本間生へともち来し『支那絵画史』貸すこととし、三野生のみ貸さず。 東洋文化史の時間、中元やりてすまし、15:00まへ4生と出んとすれば高橋氏、茶のまんとさそふ。 ことわりて下北沢まで同車。雨やみし中を4生家に伴ひ、夕食せしむ。 姜生も茉莉茶くれしゆゑ『京城』与ふ。創価学会全員当選(9名と)。(けふ猿渡生に山中さよ子嬢の写真と親類書わたす)。 7月3日 傘もって出、短大にゆけばこの前「きる」といひしこと忘れゐし。 午后、李白やらんとするに中本ら話しやまず。相内生のあつめし金と女生の集めし2人分と受取る。 (けふ山田君江うしろより自動車にて来り「うしろ姿若し」といふ!)。 福島生よびて話せしあと教授会。つまらず。 少し時間あまりしも出て薄井宅へ桃もちゆけば不在。 丁度の時間に向ヶ丘までゆき、百瀬教授と同時となればtaxiよび賜ふ。 文芸の懇話会つまらず、20:00出て帰宅。 坪井より寮歌集300円かかると。佐野和子生より云々。自彊会より6日(金)18:00発起人会すと。 (けふ果樹園社へ同人費並に製本代として1,600送り、山田美妙『アギナルド(60)』買ふ。) 千草来り、大阪の法事にゆけずといひしと。 7月4日 猿渡夫人へ電話し、あさってゆくこととす。(けふ14:00佐藤家より電話と)。山中母上(照子)へ速達(受取り)。 東京自彊会へ欠席。台南林天宋氏へ抜刷。『無限』編集部へ「詩できなかった」とことわり。花井厚のお礼に温度計。 昼食して竹内(※竹内好)夫人に電話し、14:00すぎゆく。「名古屋より(※お見合の)候補者来れば電話す」と也。 『文藝春秋7月号』と『漫画読本7月号』買って帰宅。 (中野清見に留守のわび云ひ、太田陽子夫人の石川喜久子帰国歓迎クラス会にゆけず。齋藤博士に承知のハガキ書く。9月20日公判の証人をと也)。 7月5日 雨中、成城大学へゆき漢文を教へる。都留生をらず、森生来る。 高橋生呼びてあすより来ずといひ、13:40出て3D村山生?と同車。下北沢で氷しるこ食へば140! 渋谷へ出、都電にのれば国会図書館へゆく岡谷元講師に会ふ。いま尾道にゐると。夫人は聖心の大学院にて朔太郎を論文とせし也。 山本にゆき6,790払ひ『王維(70)』買ひ、香港より『辞海』のとりよせたのむ(2千円と)。 集英社へゆき薄井氏に8月半脱稿を約束し、busにて東京駅北口。西川に今中自彊会発起人会への出席たのむ。 あと地下鉄にて渋谷へ出、17:00帰宅。鈴木睦美生、鮭と筋子と賜ひしと。 7月6日 きのふより猫ロミ、病気にて獣医にかかる。やむを得ずわれのみ猿渡家にゆき夫人に会へば「見合承知。佐藤氏の会社はテレビ器具製作。猿渡氏6月末三越製作所へ転」と。 「日曜に山中夫人に会ふ予定せよ」といひ帰宅。 依子、竹内家へゆき16:00ごろ帰り来る。19:00より求道者会。あと一回にて終りと。畠山博光より電話「あす午前中来る」と。 7月7日 雨模様。太田陽子夫人へ「福留泰子生、8月20日より一週間、300円づつにて泊めてくれる家なきや」と。 散髪にゆき古雑誌売れば27円。竹内夫人より電話「埴谷雄高夫人に依子生花を習はずや、あす13:00宅へ来れ」と。 11:00畠山博光来り、やがて依子獣医より帰り、ジステンパーと(450)。 昼食ともにせしあと高橋邦太郎氏より贈られし『世界の旅・日本の旅』既蔵ゆゑもって帰ってもらふ。(六右衛門氏糖尿と)。 中野で夫婦下車。茂呂行に乗り江古田駅前下車。花井家へゆけば「母君ら15:30東京着。家庭は9日帰国の父君独裁」と。 佐藤家のこと記して出る。17:00まへわれ帰宅。ロミひとりをり。 7月8日(日) 9:30菊川獣医へ猫かげてゆき、そのまま礼拝に出る。すみて一旦帰宅。 14:00まへ田中家へゆけば咸子、槙口修二夫妻のほか、数男夫妻、平田夫妻をり。あす9:00羽田発と。 そのあと松田みす子母子来る。16:30となりて出(あと和田賀代、史、来しと)、荻窪より紅松に電話すれば在宅と。 西荻窪より上石神井行にのり井荻3丁目下車。20分ほどゐて帰り、民俗学の本屋へ寄り『柳多留2、4(80×2)』買って帰宅。 夕食後、和田賀代女史より電話、依子の写真もってゆく(平田、玉野(※岡山県)へ転任命ぜられし也)。 けふ矢野より砂糖。永山よりタオル1本。 7月9日 終日雨。家居。〒なし。王維のこと本間生にと書きしも了へず。 7月10日 午前中は雨。齋藤博士より雑誌。午后、また『Biblia22』。Kon(※八木嬢)元気らし! 山中家より電話なし。 7月11日 よべ3:00までねられず。明小説よみし為なり。 9:00出て渋谷より矢野に電話し、中元の礼いひ、光子生25日ごろ瀬戸内海へゆくときく。 そのあと地下鉄にて楊井克己(経済学部長)みつけ、20年目の挨拶すればcoffeeおごり呉る。 ついで満蒙史料の会。けふは田川、神田2氏のほか岡田、阿南、教育大2君とそろひ、松村潤氏のよみ也。 すみて出れば山本治雄と遇ふ。ともに昼食し、東洋史諸先生とは話せず。 「15:30の富士に乗る。川島武宣に会ふ」とのことに矢野に電話せしむも外出。 13:20図書館前の芝生で会ふこととし、琳琅閣にわれ入れば「払ひし」と。 13:45山本出て来、矢野にゆかんとせしにtaxiつかまらず。迎へに来てもらひ三越までtaxi。 みやげに靴買ふを見、東京駅まで歩き発車前の富士に送りこむ。 そのあと地下鉄にて池袋。家に電話し、16:30花井家へゆけば不在。 稲田夫人に会へば「父君の帰国7日ほどおくれ、きのふ電話せしもかからざりし」と。 中野へ出、阿佐谷にて下車。丸屋市川にて『比律賓群島の民族と生活(100)』買って帰宅。 太田陽子夫人より福留生を「とめる」と。夜、猿渡夫人に電話して報告す。 7月12日 自彊会中川君と福留泰子生へハガキ。眞野喜惣治、今田哲夫2氏へハガキ。 山中母君より電話、留守のわびなりし。『東洋史研究』、『東洋学報』来る。 平凡社より『アジア歴史事典9』送ったと。『果樹園77』やっと来る。 16:00千草来り「大阪の墓は西島家の墓としるすのみ。建設費8万円にてわれにも負担さすつもり」と! 佐藤昭夫君より電話「校正出た」とのことに、もち来るやうたのめば浅沼家へゆくと。 それこそ途中といひ、17:00吉祥寺駅で待つこととし、来しをcoffeeのまし(120)、 校正刷受取って帰宅(16日再訪と。小高根二郎『はぐれたる春の日の歌』入手と)。 足立明子生より21:00電話「あす渡辺生と来る」と。 7月13日 けさ4:00さめ睡眠不足。足立生より電話「10:00に来る」とのことなりしゆゑ、待てば10:30来り、 牛尾三千夫氏の手紙と雑誌ともち、桃1箱もちて来る。 昼食せしめ、14:00渡辺生と3人にて、この間見つけし青樹社といふ古本屋へつれゆく。 渡辺生noteとる。足立生雑誌買ふ。われも『星座の話(80)』買ひ、また吉祥寺。別れて帰宅。 18:30教会へゆき、森田副牧師の『ハイデルベルク信仰綱領』の最終日をすます。 柳谷君といふに名刺わたす。他に元気よき青年1人。雷雨となる。 けふ『アジア歴史事典9』来る。「村松正俊氏の祝賀会を25日に」とまた。 竹内夫人より電話「名古屋の青年22日ごろ上京」と。 7月14日 依子を留守番とし、10:00出て南海屋にて旋風機(7,900の6月月賦)注文し、 渋谷へ出て(富永次郎氏と同車)、東横にて大阪ずし(230)買ひ、父の霊前に1千円とともに供へる。 昼食にすし分けてくひしのち、るり子帰来。青山博士に電話す。 東横にてつまみセット(600)買ひ、ゆけば博士も在宅。防大の礼いひ、悪妻を紹介す。 15:00帰宅すれば石井正己氏よりリプトンセット。牛尾三千夫氏に返事かく。福島夫人より詩集の礼の礼。 佐藤泰正氏(下関)より論集。小西秋雄氏より『韓来文化の後栄』転送。 (けふ母に「大阪へゆけず。依子の見合」といふ)。(三鱗へ初校速達す40)。 7月15日(日) 9:45礼拝にゆく。宮城学園の女生のchorusにて多く来てをり。 すみて帰宅すれば中沢生より電話ありしと。鈴木睦美生より海水浴と。井上多喜三郎詩碑建設会より報告。 16:30ごろ(※西島)寿賀子より電話、墓詣りの帰りと。やがて来り中西家より貰ひしおこわ食ってゆく。 「教会へ行って(※もいいのか、右翼の)影山氏に如何?」と寿一。 中沢生よりまた電話『冠婚葬祭と年中行事』など5冊貸しありと。安心す。 夜、ユキ子ちゃんの霊前に詣り、中西夫人と話す。beerたまふ。 7月16日 依子、午前中在宅とのことに9:30竹森先生お宅へ伺ふ。「求道者会にて話題作ってくれた」との仰せなり。 竹内家へゆけば外出するところ。諏訪氏(※「名古屋の青年」)22日より25日まで在京と。 礼いひて西荻窪までbus。森田副牧師訪ね礼いふ。嬢百日咳と。 帰り古本屋を見、藤浪『ハイネ伝(80)』買ひ、国鉄にて吉祥寺、juice1瓶(320)買ひて佐藤dr.に礼にゆく。「顔色よくなった」と也。 帰りて昼食し、午ねせんとするところへ(14:00)佐藤昭夫君来訪。小高根二郎『はぐれたる春の日の歌(300)』ゆづり受け『果樹園』あるだけ与ふ。 井上司書だめ也と。けふ三野生より「30日鹿児島発」と。長沖一氏より誉田へ転居と。梅田惠以子夫人より「8月5日来訪」と。 依子、スワ氏との見合むだと怒り、京、鎌倉へゆけざるを怨むと。 7月17日 家居。10:30突然おとなひ来しは鶴崎裕雄とて、帝塚山の卒業にて大映広島勤め。昼食して台湾へゆきし話す。 『東洋学報44-4』来り、赤字210と。福留生「20日に来る予定」と。 谷川真佐枝より「日生3人となりし」と。山中家より電話なし。PTAで京、成績少し上りしと。平田、岡山へ赴任したと。 7月18日 8:00ごろ山中父君より電話「9:30三菱3号館の事務所で会ひたし」と。 朝食し、その間に猿渡家に電話せしめれば午前中在宅と。荻窪より地下鉄にてゆけば9:40。父君まちをられ色々訊ねられ、 猿渡夫人に電話し「本日父上同士の会見は」と問へば、佐藤氏バイエルとの交渉にてけふはだめ。 近々大阪事務所へゆくとのこと也し。出て私鉄協議会訊ぬれば移転。 野村ビルへゆき寿一(東塩業とあり)訪ねて扇子わたし、1階上の野村建設へゆき竹井支店長に会ふ。 遠藤清在京と。出て東京駅へゆく途、交通公社ビルの前通りしゆゑ田中勤氏に会ひ、正平未亡人竹子、市川の友人宅にありときく。 この間淡路へゆき、おそうさんに会ひしと。西阪の日曜世界社より出し賀川豊彦『神と歩む一日』を推薦さる。 東京駅内のミカドで食事し(150)、丁度よくなりし時間に山中夫妻送りにゆき、姉上夫婦に紹介さる(通産省と)。 父君「いい会社ですね」とのことなりし。 三鷹行にのり、駅より電話して悠紀子と古本屋で会ひ(『用字便覧(80)』買ふ)、浅野医院へお中元もちゆく。 Dr.往診中。夫人草刈中にて(ライターおき忘れしこと電話してわかる)早々退出。入浴し、猿渡家へ報告してすむ。 (けふ神田氏「毛文竜(※明末武将)」21日東洋文庫でと通知ありし)。 夜、「花井」といふ電話に出れば大阪の花井彩生にて鶴崎と同級なり。あす夕方来ることとなる。 7月19日 服部三樹子氏より「近々来る」と。服部四郎博士より挨拶。 これにて思ひ出し多田順子生に父文男博士の都合しらせと。手塚氏に『果樹園』送る。 三野裕子生に「元気でゆけ」と。16:30花井彩より電話、迎へにゆき家へつれ帰り夕食せしむ(海老原氏より悠紀子に草履)。 賢き子にして27才となり。神を信ぜず。21:30駅まで送る。 7月20日 雨。ゆふべ3:00すぎまでねられず。8:30矢野光子生に電話すれば「29日出発」と。 あす夕方ゆくといふ。10:30福留生来り、太田家へゆくといふゆゑ、坊やのこと大切にといひ、紹介の手紙わたす(8月20日以後)。 咲耶にも会へといふ。本間生より切手10枚。 悠紀子、浅野医院へゆき忘れしライターとり来る。その間に深井母上来り、鎌倉行承知と。 今夜悠紀子やるといひしに、帰り来て疲れてゆけずと。 文学散歩の会より「7月28日露伴15年の命日のため(30日)13:00より云々」出席と返事す。 太田夫人へたのみ状。姜照美生へ新羅史の上限。森川平人氏へ紹介状。 7月21日 9:00悠紀子深井家へゆく。われ中野よりbusにて立教大学。 salaryもらひ飯島にて『南方閑話(150)』、『うるまの国(100)』、『カラコルム(200)』、『奄美の島々(200)』、『太平洋の歴史(90)』買ひ『その他大勢(70)』買ひなどして西武dept.。宮崎智慧氏訪ぬれば離席と。 昼食に鰻丼(150)くひてゆけばをり、8月12日(日)の会に出よと。林富士馬氏も呼ぶと。 東洋文庫へゆけば市古宙三君をり、挨拶せず。毛文竜の話を神田信夫氏より聞く。 すみて朝鮮史に10万円出ることとなり、退出して高井戸にて下車後、みち迷ふ。矢野光子生に尾道、土生と5万分1地図2枚わたし、森川平人博士への手紙托し、帰宅すればわれ20:00帰宅となりゐしらしく、悠紀子をらず。 平田春一氏より第6歌集。杜甫1250年記念会より発起人会に出るやいなや。水谷玲子、裏磐梯よりヱハガキ。 服部三樹子さん杜子春のprintもち来り、13枚目と。計算して(132×50=1,160)1,590わたす。菓子たまふ。8月初帰省と。 7月22日(日) 8:00すぎ弓子、京をつれ深井君つれて鎌倉へ出発。悠紀子とわれ礼拝にゆけば1列目なりし。 了りて帰宅。昼食し、依子に留守たのみ出て、竹内(※竹内好)夫人に電話すれば、名古屋のスワ君より連絡いまだなしと。 15:00鎌倉につきbus名越で下りれば、和田賀代女史に遭ふ。24日夜、帰り来ると。 夕食し18:00弓子送りて駅までゆき、古本屋にて春夫『青春期の自画像(100)』買ひ、草履買ひ、手塚隆義教授に「あす午前中参る」と電話す。 7月23日 手塚家へ参る。令婿岩国の税務署長としてあす赴任と。令孫との写真とる。 帰りbusのりつぎ夕食後、見つけし材木座の古本屋にゆき『レミゼラブル(200!)』買ふ。 悠紀子も本買ひ、京にと本買ふ。 7月24日 夜、下痢発熱せしゆゑ朝絶食し、午すぎくず湯。ついで粥食ふ。 賀代女史21:50帰り来る。この間『荷風日記』3冊よむ。関口八太郎第6管区総監に転任と新聞。 7月25日 8:00出て鶴岡八幡宮へゆく途、Filmいれかへ財布失ひしこと階段前にて気づく。 松岡旅館の前通りしゆゑ、自民党より参議院選に出て落ちしといふ館土元中尉に名刺をことづける。 21:44の横須賀線に乗り帰宅。手塚教授よりいれちがひにハガキ。鈴木敬子夫人より5月嬢出生と。 高橋生より「英語弱し」と。柳野一郎氏より暑中見舞。 白井紘史より秋田で買ったと『北阿の新戦線: モロッコ・アルジェリア・チュニジア』(すぐ礼状かきし)。 午后の便にて東京自彊会の報告。西原・西川の外にわれをも幹事とす。 依子、きのふスワ氏?と会ひしと。 谷川、鈴木敬子、高橋通子の3女性にハガキ。夕食後、竹内夫人に電話すれば「20:00来よ」と。小田原カマボコ(200)買ひてゆく。 諏訪氏、われらに会ひたしといひしと。 7月26日 暑いゆゑ、ゆふべ睡眠不足なれど9:00出て成城大学。前田教務課長と話せば「相馬生の10月卒業むつかし」と也。 松崎君来をらぬゆゑ、図書館へゆき『高麗史節要』、『燃藜室記述』、『月令広義』などの整理如何をきけば、わからず。 中山君に電話かけて未整理とわかりしを野口?中村君にてやってくれる間、成城堂へ払ひにゆきice-cream買ひ来って礼す。 姜生来をり、『アジア歴史事典』の「シンラ」写さす。足立生来会せ、西沢生も来るとのことなれど、 整理出来上りしゆゑ『燃藜室記述』のみもち(山本より『鄭和航海図』と『海道針経』来をりしをとる)帰宅。 「諏訪君、禿げ黒くやせをり」と。けふ富士登山に依子・弓子ゆくと。 堀ノ内歴、明渡淑江2教へ子より暑中見舞。坪井より「寮歌集の再版ちょっと躊躇」と。牛尾三千夫氏より受取。 (「車」へゆき相馬の居所教へてくれるやう雇はれのmadameにたのむ。Madame貧血と)。入浴。 20:00富士へ出発といふに弓子20:05まで帰らず、やきもきさす。 21:00悠紀子の持ち帰りし鎌倉の写真、現像されしは10枚。手塚家は教授単独のもの2枚に落胆。 7月27日 坪井へ「寮歌集の復刻やめよ」とハガキ。福島富士子夫人、本多慈子生(NHKの国際局につとめゐると)よりハガキ。 川本静江生、バンコックより21日出のヱハガキ。多田文男博士より「日時場所指定せよ」と。 夜、水谷玲子より「Forum」にゼミの説明をせよとの速達。 7月28日 台風近畿地方に来しと。野田宇太郎氏に電話し、けふの文学散歩にゆけざるを云ふ。 午后、東京も台風の余波あり。電報石川夫人より「連絡取れ」と。電話すれば松原旅館とて他出と。17:00散髪にゆく。 京、あす房州岩井へ3泊4日の旅行と仕度す。水谷生へ「かきたくなし」と返事す。 21:00前、自彊会の中川君より電話「西原出席して熱心だった」と。 石川夫人より電話かからざる故、21:30電話すれば「明朝7:00帰阪」と。 羽田より立つまへ会ふことときめる。 7月29日(日) よくねて8:30さめ、京の6:00出発を知らざりし。 暑き中を礼拝にゆけば竹森先生信州へとのことにて森田先生の司会なりし。 服部三樹子氏より「print12枚なりし」と。林春江生より「楽しい授業だった!」と! 花井彩より「ごちそうありがたう」と。(教会の帰り、山形県の地図買ふ。)  太田芙佐子氏(「車」の主人)より相馬の居所しらせたまふ。 この2~3日に『風と共に去りぬ』よみ了る。夕方、依子・弓子帰り来る。富士8合目までのぼりしと。 7月30日 あさ『果樹園』の「半自叙伝」かき11:30了る。 速達出し(50)にゆく悠紀子に『東洋学報』の会費800たのむ。3D安達生より暑中見舞。 林富士馬氏より「12日[の会に]出席して腹立てずや、この間、義理堅い保田氏に会った」と。「腹たてず」と返事。 多田教授へ「4日朝電話す」とハガキ。17:00散歩かたがた出てゆきGas-lighter見せれば石なくなりをりし。これにて気をよくし『文藝春秋8月号(70)』買って帰宅。 7月31日 風吹く。水道道路舗装の計画と隣組にて悠紀子きき来る。相馬弘に「来い」のハガキ書く。服部女史へは「あとの1枚分に」と。 山本嘉蔵氏より「令孫帝塚山幼稚園に入った」と。 8月1日 朝起きがけ眩暈し、浅野dr.に電話すれば往診したまふと。臥床し昼食し、本多弘子、大江叔父の暑中見舞を見、水谷玲子のハガキ見る。 高橋邦太郎氏の紹介にて国民懇話会に入れと。15:00浅野dr.来診。注射したまふ。京、17:00房州岩井より帰り来る。 けふ『柳田国男集7』来る。 8月2日 晴。高橋邦太郎氏と本多生へヱハガキ。果樹園社へ同人費1,500送る。兼頭淳子生より「兄東京にをり、その中訪ねる」と。 浅野dr.に往診いらずと電話し、18:00出てゆけば夕食中(途中『世界の言葉(80)』買ふ)。 19:00までにて宅診やめると。注射ことはり薬もらひ往診料(100)払って散歩して帰る。門司のcholera真性なりしと。 8月3日 家居。手塚氏より写真の受取。矢野光子生「森川平人さんに会った」と生口島より。中野清見君「八戸市経済部に勤めた」と。 悠紀子、午后渋谷に電話すれば母出て「22日?!に帰って来た。大江、城平・昌三叔父叔母みな呼んだ。当分来る必要なし」と。 8月4日 昨日東京34.3℃、山形で38.8℃と。あさ電話すれば「来てよし」とのことに8:30出て「池の上」の多田教授を訪ひまいらす。 順子嬢アルバイトして十和田湖へゆきゐると。 5万分1は法政大学にそろひをり、8日検べに来よ、また浅井辰郎氏(自然科学研究所、治平教授の息)に紹介状たまふ。 出て駒場町の後藤均平氏見舞へば「全快して東洋文庫」と。 道玄坂まで歩き、氷くひ(文庫の田川氏に電話すれば12:00と。神田氏に電話すれば応答なし)、 寿賀子に電話し「近日訪ねる」といひ、文庫へゆけば田川氏をられ冷たき茶たまふ。急ぐことなしとのこととなる。 出て(『文献6(80)』を頒けてもらひ金なくなる)大塚下車。矢野を訪ねんとしてやめ、渋谷をへて帰宅。 森川平人氏より田村春雄のことしらせよと。『風日』に柳井道弘の「肥下追悼」のりをり。 荒井平次郎、硲晃、田上由美子(2D)の諸氏より暑中見舞。白鳥夫人より芳郎氏のこと。 けふ『殷帝国(220)』買ひし。夜、梅田惠以子夫人より電話「あす13:00来訪」と。 矢野光子、森川平人2氏へたより書く。 今夜、弓子熱海へ泊りにゆき、史、渋谷へ泊りにやる。るり子女史面白くなしと大阪よりかへらず。 大、カンヅメの由にて、きのふ弓子に泊りに来てくれと母より電話ありし也。けふ37.6℃なりしと。 8月5日(日) 礼拝にゆく。避暑か長老達も少し。すみて水羊羹買ひて帰宅。 午后〒来り、永山光文、筑摩書房武本武憲氏以外は帝塚山にて東井氏、井上順子、東孝子、涌井千恵子。 他に東洋学報の受取。成城大学より「山本書店の書留預る」と。 13:30梅田惠以子夫人、Melonもちて来る。随筆2篇見よとおき、深大寺へ案内さす。 寺前にてそば食ひtaxi拾ひて三鷹へ帰る(220)。神を知る必要なき様子也。 史、今夜も渋谷泊りらし。弓子焼売みやげとして帰り来る。 (けふ礼拝にゆきし間に山中父上より電話あり。12:00再度かかり、佐藤氏しらべしによき故云々。 あすより一週間Hongkongに出張、本人と母とに見合さしてもよし云々とにて、猿渡夫人に電話すれば令家避暑、あす夜帰宅と。 その旨山中氏に電話す。留守中見合してよろしき由なり。) 8月6日 晴。家居。田中雅子夫人「大阪へ帰省中」と。小西秋雄氏より「三好達治氏に紹介してくれ」と。 われ平田家へたのまれゆく依子に多田博士への「8日法政へ参れず」の速達たのむ。 後藤均平氏より「失礼した」の電話。夕方、猿渡夫人より電話ありしゆゑ、山中家の意向伝ふ。 夜、林夫人(半田良平氏令嬢)より悠紀子に長き電話「阿部キョウ子(木村さん)肝臓癌にて仕方なし」と。 8月7日 小島ひかり(短2B)、鍛治初江、南隈夫人、加賀山秀夫(二名町-奈良市とあれど富雄なり)、西村和喜子(4A)の諸生より暑中見舞。 14:30悠紀子と出て経堂、小高根家へゆく。 (※王維の)江山雪霽図はしらず、長江積雪図といふがありしもアメリカへ出しと。会社社長のむすこを田中スミ子にいかにと也。 出て梅ヶ丘下車。寿賀子にゆき、盲の子猫見る。天理高校へゆくといふ弟の嫁を見し。 歩きて若林へ出、電車にて渋谷。田中三郎に悠紀子電話して帰宅。 8月8日 暑し。水谷・正宗の2生、飛島より。吉森夫妻、山口玲子(10月結婚と)、丸木直子夫人より暑中見舞。 福島生母より礼状。本田晴光氏より暑中見舞。神田喜一郎先生より秋に御上京と。 15:00都留生より電話「柳田国男先生御逝去」と。 (京、写真屋へゆきしに概ねとれゐたり)。入浴し、16:10のbusにて千歳船橋。 柳田家見つからず枡田嬢にききてゆけば池田氏をり。ともに大藤氏に会ひてきけば12日青山斎場で葬儀。10日お通夜となり。 帰らんとして青樹堂青木直記氏と話す中「何もありませんが」とbeerとうなぎよばれる。 関敬吾氏に挨拶せし。本郷彩画伯がdeath-maskとり、納棺のころ出て駅前にて池辺弥君に電話すれば旅行中と。 また千歳船橋より最終のbusにて帰宅。 8月9日 猿渡夫人に電話すれば「佐藤夫人軽井沢にゆき云々」。山中家に電話し報告させれば「兄さん北海道へ転任」と。 折から相馬来り、小見川へゆきゐし不足単位とり将来は自分で決めると。昼食せしむ。 佐藤昭夫君より「『成城文芸』21日受取れ」と。鈴木睦美生「母病気にて帰郷」と。 高井洋子生より「家を出にくし」と。高橋三千子(2D)、梅谷京子(2D)より暑中見舞。相馬にもらひし朝日新聞よむ。 けふ『果樹園』来り、半自叙伝いやになりし。 8月10日 学校より柳田家のお通夜今夜19:00よりと。 成尾禧佐子(辻本夫人)より「今月3人目生れる」と。千川義雄より「『俳句作家』当分休刊」と。 『歴史地理学紀要4(800)』来る。お通夜にと香奠2千円用意し、出んとするところへ竹内家の姐やの電話あり、依子出てゆく。 折から集英社の鈴木・薄井の2氏来訪。『白楽天』はやくと也。 下北沢にて池辺家へ電話すればまだ帰らずと。香奠御自由にといひて柳田家へゆけば、中沢、高井などの卒業生も受付に立ち、今井氏もをり、琉球より鎌田女史帰り来しと。 栗山、百瀬、岡田諸氏来あり、あさって14:00にゆきて宜しきらし。 20:00出れば栗山博士と同車。保田の瑞穂、父のことをボケたといふ由。高藤武馬の子よりききしと。 帰りて入浴。茶漬くふ。 8月11日 白居易かきゐしに11:30電話あり。齋藤はるみ生、小金井まで来てゐると。すぐ三鷹へ迎へにゆき、平田稔子にあふ。 平田君いま帰宅しをり「玉野、よし」といふ。15日出発と。 そこへ齋藤生来りしゆゑ、独歩の武蔵野の碑「山林に自由あり」見せ、busなきゆゑtaxiにのせて家へつれ帰る。 山形県の東根市に3日ゐしといふに自衛隊のこときけば「気がつかざりし」と。 16:30までゐて夫婦して荷物はこび駅まで送る。 けふまた帝塚山の日にて坂根千鶴子、浅田博子、山口照子(西岡)の3生より暑中見舞。 藤井生、佐世保より。城平叔父、丹波道久より同。 野田宇太郎氏より8月末日までに『文学散歩』に3~10枚かけと(電話せしに不在らしかりし)。 美堂正義氏より『骨』のことを『バルカノン』にかけと。 木村三千子氏より20日会ひたしと(のちほど父の忌日なることわかる)。 小高根二郎氏より野間光辰が「風格出て来た」といひしと。夕方、弓子帰り来り、るり子のこと知らぬ顔す。 8月12日(日) 礼拝にゆく。『エゼキエル書』よまる。悪人を戒め義人を戒めよとあり。 帰宅して城田生の暑中見舞を見、黒ネクタイして13:00出て渋谷をへて青山1丁目。 浅野晃氏に遭ひ、ともに斎場まで歩く。(前田課長20年ぶりに会ひしと喜びゐし)。 文化史専攻の子ら接待す。列立者の中に沢田四郎作博士あり挨拶さる。 五列にて焼香すみて沢田氏に弔意のべ、出れば高橋邦太郎、富永次郎、野田宇太郎の諸氏と会ふ。 岩井大慧その他名士多く、高橋さん富永氏と出てゆく。われ品川行の都電にのり、古川橋にて下車。 林富士馬氏に電話し(あさ電話かかり、まちがひ書きしと)、品川駅にて待ち合せることとし、駅着。 待つ中16:00前に宮崎智慧氏に会ふ。林氏来しと地下の食堂にてice-cream食べ、16:30taxiにてPrince Hotel(元北白川、竹田両宮邸と ※高輪プリンスホテル)。 5首ゑらんで評し(※歌誌『花影』納涼歌会)、18:00となり庭に出てバーベキューとやら食はさる。 近くにをりし高橋(『季節風』同人にて石川信夫氏一生独身と)、饗庭2夫人と話し、 林氏より、春夫先生「伊藤(※伊藤佐喜雄?)の首切れ」と仰せありし(われ山岸の会の待合せの時、新聞よみゐし)ときく。 20:00林氏と早退。渋谷まで同車。女と会ふといふに別れて帰宅。戒めることも出来ざりし。林氏両親ともに長崎と。 (品川駅より母に電話せしに8月20日いづこへも参会断りしと)。 8月13日 家居。涼しき風吹く。ソ連人工衛星2つを運行せしむ。西村美那子より東孝子の主人、住友関係と。 辻芙美子より「かねての相愛の大阪商大につとめる人と9月末結婚、女子高校へ2回英語教へにゆきゐる」と。 柳井夫人より「主人15~16日まで帰郷」と。山口勇より暑中見舞。家路阿津子より残暑見舞。 (悠紀子に木村夫人へ「20日着ホームで待ち、会へねば丸の内降車口待合室前にて待つ」との速達せしむ)。 平田へ転居の手伝にゆきし悠紀子、ひる帰り、午后またゆく。和田賀代嫗、この間の話またいふと。 (けふ朝早く悠紀子をして猿渡夫人に電話せしめしに「涼しくなるまで延すつもりなりし」と)。 午后の便にて福島恵美子生。高橋邦彦より『繭』の創刊9月5日と。 夕方修理出来しradioとりにゆく。川本静江より電話「あす15:00訪ふ」と。 8月14日 悠紀子、草とりしあと出てゆく。平田より電話「来てくれ」と也。 田中夫人よりまた電話。梅田惠以子夫人より「他人より良いことしてゐる云々」、悠紀子へは縁談。 松浦翠生より「中尊寺にゆき似たGuideに会った」と。神田信夫氏へ地図のことと喜一郎博士のこと。 午后、悠紀子また平田へゆく。 川本生15:00すぎ汗かいて来り、Bangkokの地図とananas1箇とうちわ1本、Wat Poの石ずり呉る。 『南方全集7』与へ駅まで送る。(小西秋雄氏より「三好達治への紹介状役立ちし」と)。 中央書房にて『インドの神話(110)』買って帰る。 8月15日 三野生より6日出しの航空便つく。「17日がウンジャミ(※沖縄の海神祭)」と。 けふ猿渡夫人に電話せしに「佐藤夫人より連絡なし」と。 16:00散髪にゆき、ソ連のVostok2台とも無事着陸とradio。 8月16日 三野生その他へ便りかき家居。白詩人名索引の半ばすみしのみ。齋藤はるみより「物送った」と。 田中雅子より「14日帰京(15日にclass会と齋藤のはがきに見ゆ)、石川の歓迎会、米沢夫人が世話する」と。 寿賀子より「20日本家へゆく。そこで会はん!」と。母ことわりしとは嘘なりし。 8月17日 家居。晴。竹内夫人、蓮台寺から「20日帰京」と。猿渡祥子生「近江、京阪にゆきし」と。 井上恵子「勤めゐる」と。齋藤はるみより海苔1箱。 夜、足立生より電話「西沢、渡辺とあす9:30来る」と。 8月18日 梅田夫人にことわりと写真。弓子けふ丹波清水へcampと。 9:30西沢、渡辺、足立の3生来り、明後日より西湖へsemi旅行一週間と。 渡辺生に『南方閑話』貸す。足立生、姉の縁談たのむとのことに、その中ゆきて会ふといふ。 柳井君より肥下の本は一周忌にと。岩田生より残暑見舞。 13:30、3人の帰りゆきしあと昼寝してゐれば、久保生来り「婚約せし」と。 駅まで送りcoffeeのませ、蘇峰『支那漫遊記(30)』買ひて帰る。 夜よりTyphoon12号の雨。7月末以来の雨なり。 8月19日(日) 台風の接近おくれ、雨降ったり止んだり也。 あさ多田文男博士より電話「ギリシアへゆく故、来週地図見に来ぬか」と。 あわてて神田信夫氏に電話すれば「火曜より旅行、岡田、松村2氏にたのみおく」と也。 礼拝に出席少なかりしも『エゼキエル書』有益なり。 帰りて林富士馬氏より「愉快なりし。『果樹園』はもらはず」のハガキ見る。 夜、多田先生に電話し、火曜13:00前、法政大学院前へゆくとなる。 史、よる黒部へ金曜までゆくと出てゆく。 8月20日 猿渡夫より電話「山中令嬢上京せぬか」と。福島恵美子生より「1万円位の下宿さがせ」と。 梅田惠以子夫人より「原稿送り返せ」と。山尾浩子より「石川夫人の歓迎クラス会に出られなかった」と。 けふ白楽天の江州までの旅をやる。14:00出て阿佐谷で下車。 東洋文庫の岡田君に電話し、あす12:30飯田橋で待合せいひ、ついで花井夫人に電話すれば「今夜大阪へ電話する」と。 阿佐谷の区役所前まで歩き、寿賀子に電話すれば「渋谷へゆきし」と。busにて東京駅。 coffeeのみて鳩bus案内所できけば、3時間半かかり22:00の汽車には無理と。 17:00の「なにわ」号到着、最先頭の車に木村(※木村三千子)夫人をり、八重洲口でjuiceのみ、東京towerへさそひ新橋よりtaxi(80)。 曇りて眺望わるく、食堂もよくなしとてbusにて新橋。銀座歩き天金にて定食550×3とbeer1本。 地下鉄にて上野まで送りて帰宅。下着もらふ。(けふTowerにて体重はかりしに42kgなりし)。 8月21日 8:00起き10:00出て立教大学。8月分手当もらひしに研究室無人。 中田氏のこと受付にて問へば、あとにて追ひかけて来らる。多田博士を識ると也。 古本屋を見、飯島にて『李太白(50)』、『ギリシアとスカンディナギア(50)』(あとにて虚子に贈りし署名本とわかる)、『移りゆく沖縄のすがた(180)』買ひ、『日本語の悲劇(100)』買ひして時間なくなり飯田橋。 12:30より50分まで待ち、東洋文庫に電話すれば11:30より待ちしと岡田君。 あやまりて多田博士に1人でゆき、お手伝受けて5万分1咸鏡南北道226枚と50万分1を4枚、20万分1を5枚借用し、駅前よりtaxiにて文庫(210)、田川氏にとへば、そばとってもらふ。岡田氏と調べしに会[寧]以東はなし。 17:00となり、ことわられて田川氏にいひて出、juiceのみ、家へ18:00すぎ着く。 筒井信義より同窓会の報告。鈴木睦美生、金沢へゆきしらし。山辺潤子より暑中見舞。 けふ竹内夫人より「高松へゆく」との電話ありし故、19:30出てゆけば松山、岡山のついでに寄ると也。ねえやの出にて夫人の眼でsignさる。 疲れて帰宅。 8月22日 9:00ごろ出て成城大学。松崎女史と会ひ研究室あくと安心す。 教務で月初より預りし呉れしは予想通り『清史稿』なりし。『成城文芸』きのふ出来上らず、今日丁度来しを2冊とる。 そのあと図書館にゆき馮応京『月令広義』さがし、白楽天関係3冊と借り来る。 階下に正宗、水谷2生と会ひ、やがて来し連中とにice-creamおごり、出てbusにて渋谷、東急食堂にて昼食し(悠紀子帰らざるゆゑ)、 山中嬢に会ひに明日夜19:00にゆくと花井夫人に電話し、吉祥寺駅よりtaxiにて帰宅。 国元生より残暑見舞。林dr.より『果樹園』の受取。ひるねしをれば悠紀子16:00帰宅。 阿部夫人(夫君乾六氏は昭和10年西洋史出にて深川高校長)死病を自覚せずと。 猿渡夫人より「土曜15:00築地東急会館にてはいかが」と。 悠紀子をして花井家へ電話し「よし」となれば猿渡家へその旨電話す。相手は祥子生なりし。 集英社の鈴木氏来り、小林太市郎の『王維』をまづ出さんかと。 22:30一睡後、猿渡夫人より電話「あす山中嬢に会ひたし」と。 8月23日 8:00花井家へ電話し「午前中にゆく。午后ともに猿渡家へ」といふ。 9:00すぎ出んとすれば猿渡夫人より「14:30以後来よ」と。11:00cameraもち花井家。 さよ子嬢われに会ひしこと2度と。厚君かあいく、13:00までゐて昼食よばる。孝博士大阪出張と。 電話かかり来り、母上「着物用意させなかったことを了解させよ」と。 15:00まへ猿渡家へゆき、御馳走うけ、あさって稲田姉上(夫君は大高・京大なり)と、われら夫婦付添ふこととなる。 16:00すぎ出て府中駅前で別れ、busにて小金井をへて帰宅。関口八太郎より着任挨拶。21:00史、帰宅。 8月24日 家居。田中久夫氏より「西太后みつけて買った!」と。木村三千子氏より礼状。 長沢生、加藤美智子生より残暑見舞。杉浦夫人にゆくつもりなりしも果さず。白楽天の「東南行」にて疲る。 8月25日 朝ね猿渡夫人より電話「佐藤家御本人と母上」と。江州の白居易かき、午となる。 鈴木淳子生、高遠りヱハガキ。13:00驟雨来り、出を控へしに猿渡夫人よりまた電話「東急会館ならず東急ホテル」と。 新宿より電話して東横口にて待合すこととし14:10稲田夫人とさよ子嬢来る。地下鉄にて東京駅。八重洲口よりtaxiにて東急会館(100)。 15:00に5分前、かっきりに猿渡夫人、ついで佐藤家。本人おとなしげにてアメリカ、ヨーロッパに旅行せし話す。 17:00まへ2人をのこして出んとせしに自動車呼び、「Lucky strike」10ケを賜ひ、東京駅にて分れる。 また夕立、吉祥寺にてありし様子。竹内夫人に電話し、諏訪氏わが速達見たが云々と。 8月26日(日) 賀代女史より電話、依子縁談をことわりしと。 大工さん来るかと思ひて礼拝にゆく。9月16日より求道者会と。『エゼキエル書』をよまる。 帰りて福留生より「咲耶に会ひ高知の悪口きいた。太田夫人には21、22案内受けた」との手紙。 笹井洋子生(2D)、帯広の十勝川温泉の家より。西湖畔の丸、渡辺、足立、西沢、川本の5生の寄書見る。 夫婦ひるねしゐれば、鈴木睦美生、わかめもちて来り、 房州の地代上る。9月より合宿して卒論かく。犀星の詩はやめ「杏っ子」以後かくと。送り出して駅までゆく。 8月27日 よべ睡眠不足。(ねざめして白詩人名索引つくりし)。 10:00出て杉浦家へ空き室ききにゆけば、名古屋の伯父■愁とて全家ゆきしままと。 小室家へ寄り、帰り佐藤dr.にて薬もらひて帰宅。 佐々木邦彦画伯より「青龍展」8.28~9.9三越にてと案内ありしのみ。 『不二』の鈴木氏より電話「書をとりに高知の人あす来る」と。われ「書かず」といふ。 午后ひるねし、辻芙美子より喜びと、服部(※服部正己)の博士号とをいひ来るを見し。 藤田夫人より、石川喜久子1日23:00の羽田発。同日8:00大阪発の汽車にて上京と。われ迎へにゆくこといひし。 折しも服部三樹子氏来訪。「前川佐美雄氏知りゐるには非ずや」と。京都にて保田家へゆきしと也。 22:00藤田夫人より電話「石川夫人1日9:30羽田着11:00出発」と。仕方なとしいひやる。 8月28日 9:00すぎ『不二』の鈴木氏、高知の福富吉也氏を伴ひ来る。断りしも色紙おきゆく。『浪花のれん』4冊速達にて来る。 宮崎洋子生より残暑見舞。「まるぜん」の妹の家、賄付はだめと。夜、福島恵美子生へ「賄付なし」とことわりかく。 8月29日 朝、『果樹園』へと「半自叙伝」10枚ぐらゐ書けば寒気し、ふとん着てねる。午后、浅野dr.の往診乞ふ。 竹田龍児氏より学術会議に松本信広博士立候補につき来信。 ひるねして寒気なほり、熱はかれば38℃となる。浅野君、注射打ってくれ爽快となる。 夕食後、「半自叙伝」18枚とし、これにて中止とす。 8月30日 3:00ごろ「半自叙伝」20枚にかき直しうれし。 大工さん来り、注文ききて帰りゆく。あと何もせずにゐて、午ねせしに、大工さんまた来て門作る(2,500払ひし)。 夜、高橋輝雄来り、校正見せゆく。風邪なほらず下痢す。 (あさ角川より『ハイネ恋愛詩集』17版の検印紙4,500枚を5日までにと)。 8月31日 晴。わが51回目の誕生日。桜井栄章氏より9月3日の講演の案内(速達)。 姜照美生、日光のカトリック教理講座に来てゐる。聖心女子大生に会ひ、わが評判宜しときいた旨。 16:00三鷹へゆく途、腐蝕剤買ひしに気が変り、帰りて木戸に塗る。『ノンフィクション全集』来る。 20:30藤田夫人より電話「石川夫人9:30羽田着、出発は14:00」と。 22:00花井タヅ夫人より「見送りにゆけぬ、よろしく」と。 昭和37年 9月 1日~12月31日 「東京日記14」 25.3cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 9月1日 6:00起き、7:30悠紀子とともに出て、駅前でcamera忘れしに気づき、とりに帰ってもらひ、 われひとり渋谷、大森、busにて空港。国内線の標幟めにつきし故、下車してきけば8:30発といふのがすぐ着くと。 待てば石川喜久子2児かかへて出て来る。悠紀子の来るを待ちていらいらし、姉上2人来しゆゑ空港入口までtaxiにてゆき、 見つからざるに帰り来り、田中雅子に電話し(花井、藤田2夫人にはかからず)、ついで出んとするところへ悠紀子来る(10:30?) taxiにて東京towerへ案内し(620)、順二郎君呼び出し、上りしも見る時間もなし、 下りてそば食はせ、来りし順二郎君、土産を与へてくれし。 busまで送り賜ふ(Olympicの時、石川の再来いへば「その頃はゐないかもしれぬ」といふ)。 新橋へ出、国鉄にて蒲田、またtaxiにて空港(200)。階上の改札へゆけば和田夫人、坊やをつれてをり、11:30ごろ来しとか。 石川ろくろく挨拶もせず空港のロビーに出て1[4]:00の発機をまつに林敏夫に遇ひし。 14:20すぎやっと出て来し喜久子、Daniel Deboraの2児かかへ、ふりむかず乗機。 和田夫人さそひ階上にてjuiceのみながら出発を見る。Pan-Americanのジェット機なり。 4人にてbusにて大森、品川、渋谷まで国鉄。別れて藤田夫人に礼の電話せしに他出。 暑ければ吉祥寺にて氷のみ、佐藤dr.に薬もらひて帰宅。 『浪花のれん9月号』来をり、林富士馬氏書く。齋藤はるみより石川歓迎class会出席少なかりしと。 帰りの電車にて悠紀子「石川Sandalばきなりし」と。哀れにてうれし。ただしわが礼拝の楽しみを嗤ひし也。 依子、国税の超過6,400払戻書わたす。竹内夫人帰宅。電話かけ来り、スワ家大家にて恐縮しゐる様子。 中西夫人、東大へ頚の病気の検査受けにゆきしと。感ふかし。 9月2日(日) 中西夫人の病気、藁の毒による奇病と。礼拝にゆき『エゼキエル書』に感ず。白鳥夫人より御帰宅「一度来れ」と。 杉浦夫人より電話あり「夕方またかける」と。 けふわれ、齋藤はるみ、太田陽子、藤田、田中と4同窓に石川喜久子の見送りをいふ。 竹内夫人に電話すれば「直接スワ氏に送れ」と。 (けふ森田副牧師先生より「洗礼受けるか」といはれ、「この次の機会に必ず」と答ふ。求道者会、さ来週よりまた金曜夜にと) 平凡社磯田秀子氏係に『アジア歴史事典10』代として1,545送ることとす。(写真、山中家の分出来) 9月3日 よべ杉浦より電話なかりしゆゑ9:00家を出て(猿渡夫人に電話すれば、おそいなと返事のこといひをりし。のちほど訊ねて申すと!) 久しぶりに会ひ「蕗子の就職、光塩学園にたのみあるも云々。名古屋の伯父83才」と。 鈴木正義「室蘭にありし」と。『柳田国男集』8回配本。 午后猿渡夫人より電話「嬢の気持いかに」と。「男の方よりいふが礼儀」といへば「お怒りになっても云々」と。 「佐藤家好感もつ、と前提してきいてみる」と答へ、夕食後、吉祥寺よりbusにて大泉学園。 それより西武にて花井家へゆけば「稲田夫妻下阪。妹はあまりよく云はれざりしも云々」。 写真多くおきて帰宅。バカらしきこと多し。 悠紀子をして猿渡夫人に電話すれば「女だから遠慮して云々と佐藤家に云ひし」と。 9月4日 よべ雨。朝、涼風吹く。『浪花のれん』へ「私は大阪人か」と200×6書き、高田和明氏宛送る。鈴木正男氏に写真送る。 果樹園社へ1,500送り「当分書かぬ」といふ。 阿南惟敬氏より「東海呼爾哈部について」かくため鳥取の島田好氏に会ひに行ったと。 福島恵美子生より「下宿の件了解」と。小室悦子氏よりも「無し」と電話ありし也。 昼ねし、いよいよ休暇の終りしを感じる。(中西家次男、嘔吐せしとて浅野dr.の往診乞ふ。奥さんより悠紀子へ浴衣地もち来り賜ふ)。 9月5日 暑し。眞野喜惣治氏より「講習にて20日在京。三宿寮にゐる」と。 13:00出てbusにて中野、またbusにて立教大学。 手塚氏に会ふ。学生、西田、田畑、西の3人のみ。西田、田畑の2君と喫茶。 田畑生は所沢に住むと。帰り、東洋文庫岡田氏に電話すれば「地図そのまま」と。 駅までゆき西武にて大泉学園。busにて吉祥寺へ出て帰宅。けふ32℃なりと。中西夫人悪性の瘍らし。 9月6日 曇。午まへ佐藤dr.へ薬とりにゆき、多田博士に地図の件の中間報告す。 福留生「8月29日太田夫人を再訪、よくしていただいた。10日までに来るかもしれず!」と。 藤田幸子夫人よりその中茅ケ崎の妹と来るつもりと。上村肇氏より「訳ならず。創作」と。キリスト教を識るものいひなり。 史にふときけば、この間渋谷にゆきしに母「克己なぜ来ぬか」と云ひしと!河野の子来をりしと。『白楽天』85枚。 9月7日 涼し。角の家(田島)引越す。鈴木正男氏より写真の受取。悠紀子、竹内夫人に電話すれば「もううるさくなった」と。 齋藤晌博士に「白詩100枚」と報告。松島生より「10日推薦書を」と。 20:00本田生より電話「あす13:00福留生と来る」と。吉川英治、肺ガンにて死去、70才と。 9月8日 涼し。白楽天かく。13:00本田、福留の2生、鈴木淳子つれ来る。福富、月ヶ瀬の茶、上野の漬物、土佐節賜ひ、鈴木生、高遠の饅頭、本多生は羊羹呉る。 16:00すぎ送り出し、ラカンへゆけばFilmの終りまた切れをる。けふは『民間伝承257』来しのみ。 9月9日(日) 礼拝にゆく。『エゼキエル書』すむ。帰れば『桃100号』と来てをり。 午ねし、悠紀子のとり来し写真の現像見了へしころ、山中父君より電話「サチ子嬢、交際いや。せ低く、女を見た云々」。 わが好感いひ、2~3度つきあってはいかにといふ。あす帰りていふと也。 散髪にゆき「白楽天」100枚を越す。夜、松島生より電話「あす12:00登校」と也。 9月10日 竹内夫人より9:00電話「昨夜スワ氏より電話ありし」と也。 中西夫人、腫物悪性とて弟君仙台より呼ぶ。気の毒至極なり。 竹内夫人来り、意外にもこの間、夫妻同に高松のスワ宅を訪ひしと也。 「(※せっかちな)田中にしては(※返事の)遅きは(※見合相手が)不満か」と(※竹内好の弁)。 写真その他おそくなりしとのわがわび状つけて速達することとし、10:30家を出て成城大学。 庶務で定期6ヶ月の証明かき、会計にて4,500もらふ。山本書店より『辞海(2,050)』の送り状。 松島来るまでに弁当食ひ、図書館にきけば木内の本3冊来をり、山本の本も来をりと。本間来りしと話し、他は来ざることわかりし故、帰らしめ、水谷・正宗と話す中、渡辺も来る。なぜか不快なり。 出て新宿とへて荻窪。古本市へゆき『続修台湾府志6冊(480)』、『新日本見物(200)』と『楊貴妃とクレオパトラ(180)』買ひしところへ太田常蔵君挨拶す。 『南方の実相(50)』買ひて喫茶。高校教員は社会と国語とあまると!三鷹まで同車(川久保「和田先生およびしclass会せん」といふと!)。 帰れば『果樹園』やっと来をり。夜、後藤君より「満蒙史料の会12日(水)やる」と速達。 けふ宮崎生(鶴巻温泉「陣屋」の嬢)、青木(アメリカより帰りしと)、今井氏などに会ふ。 試験の届け最後なりしと教務の話。 9月11日 6ヶ月分の定期買ひ(7,020)登校。短大教へ、試験「2首を選び解釈鑑賞せよ」とす。 鈴木健司(相馬まだ帰らずと)、都留(前田浩子結婚でやめると)、 福島恵美子(下宿見つかったと。菓子くれしゆゑ『楊貴妃とクレオパトラ』返礼とす)などと話し、 浜谷より「月末class会する」との電話きく(中沢晴代に電話すれば不在。父君に本の返却のこといふ)。 中国文学史すまし多田順子嬢に父博士への礼いふ。ものごと中々旨くゆかぬ乍らまあまあなり。 『文藝春秋(35)』買ひ、虫めがね(120)買って帰宅。 (けふ高橋通子来り、母卒倒云々と。木曜放課後をゼミにせんといふ)。肥下みつる夫人より「金渡り、税200万円」と。 角川より印紙4,500枚の受取。夜中、中沢晴代より電話「木曜来る」と。 9月12日 9:00前家を出て渋谷をへて本郷3丁目。「ルオー」にて喫茶。立教大学へ休講いひ、 花井タヅ子に電話すれば「会の女ごとにふりかへりしと妹いひし」と。 古本屋にて『魯迅(30)』、『野草と栄養(30)』買ひなどして時間つぶせしに、時計おくれゐることわかる。 ゆけば阿南、神田2氏をり、岡本、田川、後藤の諸氏にて了りとなり、学術振興会の10万円の件報告あり。 すこしよみて神田氏退出。阿南氏に昼食おごってもらふ(神田氏台湾へゆくらし)。 busにて駿台下、集英社薄井氏に会へば「五言(※絶句)は2段に」といひ来しことまちがひなし。5冊分ほどそろひて印刷にまはすと。 われ急ぐもあとにせよといひ、内山書店で『晋唐二大画家(150)』買ひ『楊貴妃とクレオパトラ』買ひ、 水道橋まで歩くつもりとなり、中教出版へ久しぶりにゆき小山正孝氏呼び出し「詩やめた」といひ、「止めるな」といはれて別れ、 主婦と生活社により長尾良よべば不在。早川君よべば来客とのことにそのまま出、 渋谷へ出、多田邸訪ひ、夫人に御元気でと旅行の御挨拶し、順子生へと『楊貴妃とクレオパトラ』おき、 歩きて大地堂。荷風『罹災日録(80)』買ひて帰宅。 萩原葉子氏より「半自叙伝よんでゐる云々」。小高根二郎氏より「詩でも書け」と! 小西秋雄氏「三好達治氏より詩もらった」と。 けふ悠紀子、中西夫人より癌との話きくと。石田幹之助博士へ『成城文芸』の送り状かく。 9月13日 晴。9:00家を出て成城大学。中国文学教ふるまへ、わがあと歩みし短大生、侮辱の語吐きしゆゑ叱りしに「笑談なり」といふ。 11:35すまし、栗山部長に『辞海』の支払ひ手続し、昼食し、中沢生来るをまつに13:00まで来ず。 菓子もち来り『台湾旧慣 冠婚葬祭と年中行事』その他を返す。結婚のこときけば某大学院の修士課程にていつのことやらわからずと。 やがて根岸、猿渡、高橋来り、中沢生去りしあと高橋生と比島のキリスト教のゼミを行ふ。 すみて鎌田女史のところへゆき(石渡の生母のところへ川本、郷右近と近日ゆくといひに来し)、 丸重俊に遭ひ「近日会ひたし」と父への伝言たのみ、足立生の姉の縁談出来ずといひ、そのまま出て帰宅。 八百屋の前にて悠紀子にきけば東夫人、中西夫人の扱ひ方をきめ、そしらぬふりをせよといひしと。弟11月まで講習にて在京と。やや安心す。 太田夫人より来信。聖心女子大より「18日より始まり10月10日までに試験問題を」と。 けふも山中家よりの連絡なし。弓子bonusにてport-wine1本買ひ来る。 (けふ藤枝晃の姪、村松純子に敦煌の参考書4冊かす。松沢秀恒よこにゐて『法隆寺』かす)。 9月14日 聖心女子大まだはじまらざるにより家居。服部三樹子氏より中林に転居。代々木の高山化学といふに勤めゐると。 諏訪氏より「手紙見、母に送った」と。 ひるまへ悠紀子と浅野dr.にゆき、中西夫人のこといへば「精神的なものもあらん。舌癌ならいたし方なし」と。 母より電話、依子きけば「林叔母たほれし!」と。 18:30出て求道者会。『マルコによる福音書』よむこととなる。 帰り来ればノリヒコ君、浅野dr.より帰りて発熱39℃と。電話して往診たのみ、母に電話すれば丹羽みさ子も来をり、 河野よりしれしと。明日見舞にゆく、そちらは訪ねてよきやといへば、来て不可といひしことなしと。 浅野dr.来てアレルギー体質と。花井タヅ子氏より電話「妹ことわりつづけゐる」と。 9月15日 6:20起き8:30成城大学。田中久夫氏に会ひ『西太后に侍して(450)』をゆづり受く。小高根氏へゆくと。 11:00出て下北沢。悠紀子と会ひ、鰻丼くふ。山中母堂よりことわり状来り、写真入りをらず。 12:30東生田へゆき林叔父、みさ子、和子に会ふ。6日に発病、近くの大平女医にかかると。嫁妊娠しをり。 (ゆく途、右側下より高城君に声かけらる)。渋谷東横dept.。 暑く、母にゆけば西島家に無関心。一周忌に来るなといはざりし。 大阪で城平・艶呼びしは青木陽生のせい、その他矛盾したこといひ、大、下り来しゆゑ話やめ(離婚調停に出すと)、 小遣ひわたして帰り、下北沢でわれ花井タヅ子に電話せしに不在。 帰れば小高根(※太郎)夫人、齋藤晌博士より電話ありしと。 悠紀子、小高根夫人に電話すれば「(※依子氏の)写真またよこせ」と。 花井よりの電話に写真返せといはす。齋藤博士「20日13:00証人出廷」と。19日16:00学士会館にて会ふときむ。 9月16日(日) 眞野喜惣治氏より電話「すぐ来る」とのことに13:00吉祥寺駅北口にてといひ、教会へゆく。 礼拝のあと武蔵野日赤の神崎三益博士の話あり。 石川達三の『使徒行伝』より説き(岡山県人と)、疫痢にて嬢を亡くし、あと坊の疫痢にてわかりしと。悠紀子泣きゐる。 求道者会で共になりし慶応藤原工大の嬢の洗礼祝をすると約束す。 そのまま駅にゆき待ちしに眞野氏来ず。 14:00家へ電話し、中道をゆく半途、悠紀子電話ありしといふに引返し、taxiにて家へつれ帰り、3男を肺炎にてなくせし話きく。ふしぎなること也。 18:00駅まで送り、竹内邸にて夫人にスハ氏のこと話し、姐やの話きく。 齋藤博士へ19日17:00学士会館へとのハガキかく。 9月17日 10:30出、齋藤博士へ速達し、成城堂で岩波文庫4冊注文し、 昼食して13:00来し本間、姜、三野3生のsemiを30分づつわける。 本間生のsemiやる。(三野生、下関の海胆1瓶たまふ)。すみて東洋文化史。卒業album用の写真とらる。 暑き中を経堂にゆけば駅にて太郎氏に会ひ、氷のんで時間の加減をし、夫人に会へば26才の電気通信出のNEDの社員。2姉あり、1人息子と。 悠紀子にあさって返答さすといひ、出れば大江スミ子と嫗とに会ふ。来月叔母来ると。いま鼻炎と。 帰れば『近畿民俗』来りわが「唐代年中行事」の講義を披露す。 9月18日 9:30成城大学へ登校。短大すませ大藤教授より教授会欠席ときき、栗山部長に伝へ、 中国文学史すませ教授会(村松生来り、敦煌の講義毎土曜日ときめる)。 岩下島(※岩下志麻)と前田浩子の退学可決。学科構成を教室の不足とにらみあはせ、次の教授会にいへと。 すみて松村達雄君と会ひ、ともにGrisiaにゆき喫茶。 齋藤勇博士の女婿平井正穂氏に紹介受く。日野月先生、新潟では不評判なりしと。 出て松村君傘わすれしと帰りゆく。(この間夫人盲腸炎とて森良雄氏に往診乞ひしと)。 悠紀子けふ天沼にゆき、数男「礼拝にゆきたし」といひしと。公平女史にほめられしと。 林敏夫より報さざりしわけいひ来る。依子「あのいひ方ではすなほに答へられぬ」といふ由。 (村上美智世(※卒論に)堀辰雄をかくと)。 9月19日 石田幹之助先生より「心臓病にて虎ノ門病院に入院中」と。 薄井夫人より悠紀子に来てくれなくとも可、体重ふえたと。 小高根夫人の話(※見合の件)、わがいひ方ではきけぬと依子いひ、断りにゆくといふに、悠紀子[が]叩けば 「それでクリスチャンか」といひ、よけい叩けば 「おまへもクリスチャンなら某女(※八木さん)を愛せよ」といったと。 出て駅前でライスカレー食ひ、時間足らずなり、立教大学に電話し20分遅刻といひ、 15:10ゆき16:00までやりて出、駅前より都電にて学士会館。 齋藤博士来られ明日10:30児島事務所にゆくこととなる。あまり自信なきやうなりし。 申立てて内山に『元白詩選(200)』買ひにゆき、都電にて渋谷に出て帰る。 けふ中西夫人入院せし日なりとて夫人癌研へゆかざりしと。 9月20日 9:00出て渋谷より地下鉄、新橋で下車。児島平弁護士にゆけば齋藤博士をられ、 いろいろ予行すませ、地裁にて別れ、第一弁護士会に丸訪ぬれば見つからず。 地下で昼食し、法廷探す中、児島氏に会ひ5階とわかる。橋本女史赤ちゃん(一穂と)連れて来る。 13:30開廷、2人にて申誓す。東洋大学側岡本理事(獅子吼会と)弁護士など。 証人は竜山氏と大野課長とともに欠席。われ旨く話せしと思ふ。人名はみな忘れしも助けてもらひし。 そのあと岡本よりの質問に「先程、下むいてゐたといふが多数どうしてわかったか」と。「そりゃわかる」と答へし。 早坂一郎博士を次回(12.6)に呼ぶこととなり、わが教授会記録確認委員に21日選出とのことよかりしと思ふ。 齋藤氏不満気なりしも、児島氏より「よろしかった」といはれ、別れ告げて丸にゆきしも連絡とれず。 渋谷(※弟宅)に電話し、宮崎氏訪ひ、キリスト者として勤めしといひ、お茶よばれて帰宅。 極東書店より「吏文の写真版出すが末松先生より語彙つけるのがよしときき、貴下作製のものつけてよきや」と。 宇宙風短歌会の名坂氏より「23日13:00の会に出てくれよ」と。 文学散歩友の会より「差額払へ」と。悠紀子けふ病友見舞しも会へず。 帰宅あたかも浅野dr.の帰りゆくところにて、栄養注射せしとて容態告げ入院すすむることとせしと。東夫人にもいひ、26日入院ときく。 9月21日 11:30出て聖心女子大へゆく。busにて新津米造先生とともになり、この間松村と話せし中島教授のこと話す。30年をられしと。 青山博士おいでなれば加藤先生のことかきし『果樹園』わたし、田中保隆氏に杉浦蕗子の履歴書わたし、2時間講義。 8,9月分のsalaryもらふ。15:00すませ(香港へゆく故、広東語習ひたしといふ学生ありし)、電車にて渋谷。 東横dept.にて二十世紀(300)買ひ、また都電にて虎ノ門。虎ノ門病院406号室に石田幹之助先生をお見舞し、また都電にて山本書店。  先日の『鄭和航海図(140)』、『海道針経(310)』の払ひすまし『明清筆記談叢(320)』、『七修類稿(640)』、『石点頭 (220)』買ひし、 新宿行にのり四谷より急行にて吉祥寺へ18:00つき、家へ電話し、 すし食って(110)教会で悠紀子と会ひ、藤井嫁と3人『マルコ福音書』の講義を受く。 けふ浅野君また来診、注射打ちしあと中西夫人悪寒生ぜしにより電話せしと。 竹内夫人より電話「26~28の3日間あけよ」と。 (けさ浜谷より電話「29日class会する」と)。 高橋通子より土曜登校できずと電話ありしと。極東書店へ「宜し」と返事。 9月22日 6:30起き、8:20登校。松崎女史おそく、会計せき立てし形にてsalaryもらひ、田中久夫氏に『西太后』の代金450払ひ、 史学研究法、鐘の鳴るまでやり、村松生まちしに来ず。本間、三野見て呼びしも来ず。 田中久夫氏と出て下北沢。チャーシュウメン食ひ『支那民族論(100)』買ひ、 分かれて吉祥寺、『何でも見てやろう(180)』買ふ。小田実は宮崎氏の同級生の子と。 帰りて悠紀子と相談、竹内(※竹内好)夫人に電話すれば外出。 19:00出てまた電話しきけば、埴谷雄高夫人をり、依子を「しっかりしてゐる」といふ。 中西夫人のこといひ、26、27日竹内家で諏訪氏と会ふこととす。依子、埴谷夫人に“美男子論”せし様子也。 9月23日(日) 礼拝。聖餐式あり。求道者会の同朋田口祥子嬢(吉祥寺1578)とわかる。 すみて帰宅。昼食とり国鉄にてお茶の水。高橋通子に電話すれば「父良し」と。 雑誌会館の「季節風」の会にゆけば名坂八千子夫人、安藤彦三郎氏のほか婦人2人。 14:30石川信夫氏来り6人となる。われ紅松家に電話すれば夫人、 「沼津の両親と会に出て夜帰る」とのことに15:30までゐて出、渋谷をへて帰宅。(丸に電話せしにこれまた不在。) 9月24日 10:30出て成城大学。浅沼助教授と同車。高橋邦太郎氏来らる。高橋、姜、本間3生を指導。 渡辺生に野田宇太郎氏に紹介のこといひ、のちほど電話せしも他出。 東洋文化史すませ、鈴木睦美、本多の2生と話す。鈴木、この間教会へゆきJesus Christを信ぜずといひしと。 本多座禅はよくなしと。三野生来り『朝鮮の巫俗』をくれといふ。3人にてOrissaにゆき喫茶して別る。けふ〒なし。 9月25日 10:00成城大学。短大にて「陽関三畳」うたふ。午、高田、栗山氏に杉浦蕗子のこといふ。 中国文学史すませ村上美智代に10月2日『四季』見に来よといひ、 多田順子に『ギリシアとスカンヂナヰ゛ア』与へんとすれば「勿体なし」と。 (大藤教授に学科のこといひ、柳田文庫を貰ひしと吉きしらせきく)。 出て「車」にゆき相馬のこと問ふもmadame代りしらし(旧太田氏)。 駅のプラットにて待ち(図書館に一時借りし芥川返すをわすれ電話す)、14:20来し悠紀子と卵もちゆく。 叔母ものをいへるやうになり脳膜炎と。叔父よりきけば調停委員の世話を叔母してくれしと。 毎月金おくりゐると。吉祥寺に16:30つき南口の古本屋にて本庄『日本社会経済史(30)』、『国史学特集号(80)』買ふ。 杉浦家に寄り「蕗子第二双葉に決まりし」とききしあと也。 (けふ成城堂にて岩波文庫4冊『大君の都 上・下』『わらしべ草』『西東詩集』受取り、帰りて柳田家よりの『先祖の話』受取る。) 渡辺より電話「野田氏にはまだいへざるも、あすゆきて会へ」といひ、京都新聞の柳野君の電話きき金曜聖心へ来るときく。 9月26日 中西夫人、癌研にゆくとて自動車呼ぶ。われ野田宇太郎氏に電話し渡辺生の世界文化社への紹介たのむ。 中西夫人出てゆき、われ9:00出て東大前『同和対策(30)』買ひ、田川氏らに極東書店の『吏文』のこといへば「売れざらん」と。 12:00すみて神田氏と昼食。台湾へは来月末らし。岡田君も同行か。 別れて『支那叢話2(50)』、『泰国風物詩(50)』買ひして地下鉄にて池袋。 手塚氏と話し、207教室にゆけば女3男1のみ。冬至まですませる。 (けふ卒論中間報告の表見しに東洋史2人とも地理に逃げし。) さそひて(けふsalaryもらひし)駅前で喫茶。国鉄にて西田、杉山(千葉市住)2生と同車、 さそはれて吉祥寺まで同車し、帰宅すれば竹内夫人より連絡なく、渡辺より「会へざりし」との電話ありしと。 18:00またかけるといふに45分まち竹内夫人よりの電話もなきゆゑ、悠紀子にかけしむれば、 「スワ氏いま東京へ着き、あすも忙しく、あさって」と。 渡辺より4時間目すむころゆけば野田氏講義なく帰宅と。家へ電話しゆけとすすむ。 小島樹氏より「神奈川県関係の詩歌なきや」と。 東京自彊会より10月9日(火)18:00より代表幹事会すと。名坂八千子より礼状。 (けふ立教にて手塚氏、西田生とともに柳田文庫の成城大学への寄付をいふ。朝日に出しと)。 9月27日 たまりゐしハガキかき、午后は山中母堂に「写真かへせ」といふ。 中西夫人ひるごろ帰り来り、通院いはれ同患を見てやや元気回復と。 〒なし。13:00高橋生より電話「semiの約束やぶった」と。 われ忘れしといひ家へ来よといひしもきかず。土曜登校のこととなる。 また三浦女史より電話「萩原葉子氏と日曜午后来る」と。 16:30出て写真の焼増たのみfilm入れてもらひ、佐藤dr.に十二指腸潰瘍なほり胃弱として扱ひたまへといひ、 薬かへていただき写真とりしも、まただめとわかる(正月とりて写らざりし)。 9月28日 あさ竹内夫人より電話「依子を13:30二幸によこせ。兄にも会はせる」と。 われら夫婦とは20:00竹内邸にてとなり、昼食たべて12:20聖心女子大へゆけば、 柳野より電話あり「12:30来る」とのことに、玄関にてまちしも13:00まで来ず、助野氏出て来て、 「すでに会ひ用すみて帰りし。貴下は欠勤かと思ひし」と也。 あすbazaarとてその準備とて週一回の講義のみありと。Ⅰを15分やりⅡも30分きりてすませ、 渋谷道玄坂の古本屋見て『世界市大年表1(50)』買ひ、しるこ食って帰宅。 柳田為正氏より夫人と1児つれてアメリカ留学の挨拶。 平田稔子より「物価三倍」と。悠紀子18:00近く帰り来て肝臓がんのアベさん見舞ひしも絶望と。 18:30出てbeer6本(70×6)買ひて教会。マルコ伝よみてtaxiひろひ竹内家。 スワ君と依子20:30着き、竹内22:00帰宅。その中(※遊びに)名古屋へやることを約して23:00帰宅。 9月29日 9:00出て成城大学。ゆく途猿渡祥子生と同車。昨日のわびと礼をいふ(出がけ猿渡夫人より電話ありし)。 高橋通子とGregorio F. Zaide『Philippine political & cultural History Vol.Ⅰ』よむ。 11:30すみしと思ひ、パン買ひて食ふ中12:30なることに気づき、 早々にして千歳船橋の駅にゆきしに、悠紀子、数男に礼拝の説明にゆき13:45来る。 河野(浜谷)邸へゆけば古田、二児の2上京のみをり、井上律子新中野へ転居とて来ずと。やがて山本恭子と増田幸子と来る。 船橋の「早っぺ」より電話、出て話せしもわからず。 16:00出て帰る(河野夫人よりタバコ入れと茉莉茶ともらひし)。 丸に電話せしにまだ帰らず。石川信夫氏より「宇宙風」にかけと。けふ『繭』もらひしも置き忘れて帰る。 9月30日(日) 礼拝に行き、帰り田口嬢に「この次の日曜受洗のお祝ひに呼ぶ」といふ。 12:00萩原葉子、三浦久子の両氏来訪。『果樹園』に三浦氏を加へんとの挨拶か(※写真参照)。われキリスト教に専念すといひし。 15:30両氏送りて駅へゆき、(その間竹内夫人より電話あり、依子ゆかす)、名店会館にて茶器(850)買ひて紅松家。 長男の結婚祝とす。洗礼の献金3千円位、会員の献金紅松君は800円と。 長男と花嫁の挨拶受け、竹内家まで歩き、夫人に会へば依子帰りゆきしと。 家へ電話して夕食くへといひ、話きけばスワ君より「両親何といったか」と。 3月頃結婚したきゆゑ早く話を運べと高姿勢なり。不快なれど早くはこぶをいひて退去。 このごろ『月令広義』抄す。田中雅子、和田節子2夫人に石川喜久子母子の写真送る。 10月1日 11:30出る。『不二』来しのみ。13:00より1時間ドイツ語試験の監督。 (大藤氏、栗山部長に話せば「西洋文化史来年休むこととせよ」といひしと)。 すみて三野生のsemi。姜生来らず。本間生も同。(渡辺らに写真わたす。渡辺、野田宇太郎氏に15日会ふと)。 帰り下北沢下車。大地堂に寄りしも本なし。若葉弟に会ひ「鴎外特集号ほし」といふ。 依子けふスワ兄、大江へゆきしあと渋谷へ泊ると電話。 10月2日 10:00よりの試験監督にて8:30家を出、短大2国の中国文学に10:00入室すれば早すぎたり。 すみて福島生の帰郷するといふをきく(姜生をゼミに呼びしも来ず。本間生に電話す)。 14:00までまちて教授会。新校舎にsteam設備やめんとのこゑありと。 松浦君の西洋文化史来年はやめとなるらし。出て帰宅。 けふ一日讃美歌284誦しゐしに悠紀子熱湯をとばせしを叩き、服部三樹子来しあといきさついひて嗤はる。 山中家より佐藤氏の書類かへり、こちらもけふ速達せしと。田中雅子より写真の受取来る。 10月3日 花井タヅ子に石川夫人の写真と「受取った」と。13:00出て立教大学。手塚氏と話す。講義に女生4人。 すみて『ことわざの真実(70)』買ひて帰宅。けふ散髪せしに280! 夜、田口祥子嬢に受洗祝を6日(土)15:00よりすとの案内かく。 10月4日 9:00村上美智世来り、堀辰雄のこと訊く。 12:30出て宮崎教授の補助にゆき、1時間待ち、中島銀兵(NTB入社と)、松沢(大洋漁業)の2人のC組と話す中、時間来れば宮崎氏「補助不要」と。 傘もちて帰れば村上生をり(山田俊雄氏、吉祥寺へ本買ひに来し)、16:00帰りゆく。 けふ『骨20』来り、わが「父の骨」1,3,4,2と組み、意味不明となりをり。 毎月500づつ会費出すこと賛否を問ひ来る。出してやめるといふ。 10月5日 雨。杉本長夫氏に『呪文』の受取。東洋文庫より朝鮮学会をかねて展観。13,14に行ふ旨ありしのみ。 11:30出て聖心女子大。すまし渋谷で古本屋を見て帰宅。求道者会にゆき帰れば坂根千鶴子来しと塩こぶ置きありし。 電話かかり「来よ」といへば来る。白水胖君を同伴す。 10月6日 8:30出て成城大学。岡田助教授の試験監督を手伝ふ。すみて待つうち高橋通子に電話すれば無人。 やがて来しに読んでやり、14:00となりて出て野菜麺くふ。 家へ帰れば15:30。村上美智代より礼状。田口祥子氏より「17:30来る」と。 18:00ごろ来訪。学説に長老うるさくなかりしと。 成蹊より藤原工大にゆき浦和に勤めゐる。母教師、父本郷薬局に勤めゐると。21:00悠紀子送りゆく。 けふスワ君より依子に手紙。小高根夫人より「月曜までに返事を」の縁談(悠紀子、猿渡家へ写真かへしにゆきし)。 10月7日(日) 9:30出て9:55まで教会の前にて数男まち、入りて礼拝了り、うしろ向けばをり。田口嬢にも挨拶し、駅への道教へて帰る。 高橋重臣氏のRoma9月30日出せし「10.7夜、羽田着、8日朝神田の明神館に電話せよ」とのハガキ。 鈴木睦美生の「キリスト教にはこだはりのない世界ありや否や」のハガキ見て、 丸三郎訪ね、煦美子の写真返却。勤めゐる由、証人の上申書は必要なからんと。 15:00出て赤川氏(※赤川草夫)を訪ね、問へば肥下旧宅ありと。 案内してくれるとのことに16:00ともに出て、ありか全く忘れゐしに気づく。 現住者にことわりて写真とり、すみて石丸静雄氏といふを探せば向ひの夫人「4年前、三鷹に移り、電話あり」と。 駅前にて別れて帰宅。けふ丸重俊5年生にかるつもりとのことにて失笑す。 10月8日 夫婦8:30出て、久我山より明神館に電話し、1時間してゆくといひ、渋谷よりお茶の水まで地下鉄。 ゆけば夫人と従弟と3児あり。朝食くひをり、絵ハガキ見せられアメリカの話きく。海老もかずの子もありと。 11:00写真とりて出(奈良漬1折もらふ)、駅前にて昼食し、新宿をへて登校。(悠紀子は小高根家へことわりにゆく)。 鎌塚氏の教育学の監督し、すみて帰宅。(大藤氏、田中久夫氏をへらさんといふ)。 大江叔母より依子に「3日たほれた。16日の上京未定」と。 『浪花のれん』来り、巻頭に「私は大阪人か」のせる。 梅田夫人の随筆を巻頭にのせし「消息」も来あり。悠紀子、大江より17:00帰宅。 この間の花嫁候補の父、住友アパートのききあはせに狂気のタヌキの評判よすぎて断りしと! 10月9日 よべ炬燵いれそめし。大江叔母へ見舞と「預ってくれ」。梅田惠以子、古今評論社へハガキ。 11:00出て成城大学。13:00まですることなく、都留生と話す。 百瀬教授の補助監督5分にてすみ、大藤教授と来年度科目につき教務課長に会ひにゆけば会議中。 14:00となりても高橋通子来ず。家に電話すれば「20分前出し」と。姜生に電話すれば不在。母上に「よこせ」といふ。 高橋生とよむ中、大藤教授再来。課長に会ひ来年度大藤氏の「民俗学特講」と田中久夫氏の「日本文化史」やめることを通告。 高橋生すまして16:30出て内幸町の住友銀行下の「大阪」といふへゆき、1千円寄附し、18:30より同窓会の相談。 西山安三氏と隣り、矢野兼三氏の向ひ、伊原宇三郎、佐伯誠三等5回生多く、 会長長川瀬一貫氏の下に矢野、佐伯2先輩とならび西原直廉を副会長とす。 21:00散会、われrain-coatを忘れて出る。 10月10日 よべ4:00まで眠れず。朝鮮の年中行事のnote作る。 7:30起き9:00出て東大。向ひの古本屋にて『不屈のうた(30)』買ふ。岡本氏読む。すみて昼食。阿南氏と喫茶。 地下鉄にて立教大学。1時間待つ。(けふ向島(※白鳥)邸へ電話せしに、芳郎教授出て、清先生目黒と。あす朝伺ってよろしと)。 16:00すまし、地下鉄にて西銀座。昨夜会せし「大阪」へゆけば「rain-coat幹事に渡した」と。 中川君に電話すれば「下宿かはった」と。岡本君に電話すれば「山へ行った」と。「rain-coat田中忘れた」との伝言たのむ。 けふ『果樹園』来り半自叙伝すみをり。眞野喜惣治氏より礼状。 10月11日 9:00家を出、渋谷へ10:00前着きしに店みなしまりをり、白鳥家へ「おくれる」と電話し、果物籠(1,000)買ひ、 busにて八幡小学校前で下車。新築のお宅訪ぬれば清先生このごろ目黒泊りと。夫人にキリスト教のこといふ。 芳郎教授に立教の後事をといひ、写真とりまいらせ、すしよばれ、 13:00出て自由ヶ丘駅まで歩き『文藝春秋』と新垣淑明『中国文学(40)』買ひ、電車にて帰宅。 服部三樹子氏より「ハガキ見た」と。自彊会より1千円の受取(コート預りをり)。夜、矢野君より電話「同窓会11月23日」と。 10月12日 11:30出て聖心女子大。青山博士に白鳥家の本のこときけば大切に保管してありと。芳郎氏にいふ故、仲介たのむといひてすむ。 写真「あとで学長と一緒に」と委員よりきき、1時間すませしあと、一人にてとられてすむ。 空腹のためだるがって吉祥寺。coffeeのみて帰宅。〒なし。 19:00求道者会に出、「奇蹟を新解釈する」嬢の話きく。(畠山のり子「あす午後来る」と電話)。 夜、スワ君より依子へ電話「母君22日上京」と。 10月13日 眞野喜惣治、鈴木睦美2君へハガキ。 齋藤晌先生に鳥山、辛島2氏と早坂博士の委員選出が多数の証拠なりしをいふべきだった。早坂博士にお願ひしようかと手紙。 石川喜久子へ写真を航空便で(80)、影山正治氏へ『果樹園』。 12:00畠山のり子嬢来り、関口師団長16日上京と。父と弟のこといふ。 15:00博光来り、500円を8千円とする法を説く。史、帰り来り相手する。 20:00悠紀子を佐藤dr.に薬とりにゆかしめしに、すでに閉づと。 数男より電話、あす教会へゆけず。9:00吉祥寺駅にて賀代女史よりの預け物わたすと。 22:00岡本君より電話、あす14:00rain-coatもち来り賜ふと。 肥下夫人に(※東京時代の旧宅の)写真を封し「『コギト』一そろひ呉れるや」と訊ねる。 10月14日(日) 悠紀子、数男に会ひに駅へゆく。教会で会ひ礼拝すませ、 (「主のあなたに求められることはただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」ミカ書6-8)、 竹森先生にクリスマスの洗礼の意思いふ。近日面会を指定されると。 雨ひどきゆゑ遠藤道具店にて傘借り、買物して帰る。赤川、萩原2氏へ写真つつむ。 姜生より欠席のわび。東孝子、上高地の新婚旅行よりヱハガキ。 花井タヅ子より坊や病気したと。矢野より11月23日のclass会宇治でと。 13:00中川君より電話「18:00来る」と。夜来り、夕食せしむ。(依子、竹内夫人に呼ばれてゆく)。同伴は住吉とて慶応なりし。 西原直廉へ副会長に推薦の事情いひし手紙かく。 10月15日 雨。ゆきがけ佐藤医院へ薬とり、写真差上げ礼いはる。12:00ゆきて河野(浜谷)弘子に電話せしに返答なし。 池田、高城2氏に自彊会のこといふ。12:30より14:00まで姜生に『三国史記』よんでやる。 14:10すませて東洋文化史。けふより「朝鮮の年中行事」なり。 15:10すませフランス語の新倉氏に相馬の点きけば55点なり。 三野生に卒論の概要きき、出て河野家に電話せしも無人。 吉祥寺にてRyukyuタバコ「Queen(50)」買って帰宅。 高尾書店より田中万兵衛『淡路方言研究』淡路へ売れたと。けふ矢野光子に会ふ。 10月16日 ゆきがけ下北沢駅にて矢野君に電話し「whiskyご馳走になりたし」といふ。 午、電話かかり「明日18:00来よ」と。帰宅して自彊会報見る。 記念の「生長」は11回笠置氏の作にて11期は寄附1人なり。 19期と5期とを多く出す。史、どこやらより松茸2箱。アレクサンドリア(※マスカット)1箱もらひ来る。 けふも河野夫人に電話かからず。古田嬢と2軒に写真つつむ。 (けふ大江へ寄りしに叔母14:30東京着とて村田夫人出てゆくところ、たのまれて正博にカギとどけ、 小高根家へ寄り『長江積雪図』借る。足達家のこと紹介す。 次いで山田昭一家たづね、相馬をさとす。佐野教授の英語21点、新倉氏のフランス語55点なりしとわかりし也)。 中央公論社へ電話し、倉石『中国文学史』の在庫を問へば「あり」と。 10月17日 依子をして松茸を矢野家へもちゆかす。大江叔母より電話なし。 依子出てゆきしあと「朝日年鑑」よりの問合せに答へ、 12:30出て久我山にて探し、交番でききて魚屋の安藤政吉上等兵(看護兵)に会ふ。思ひ出して詩人といふ。 Beer出さんとせしもことわり、立教へ大急ぎでゆく(ルマサキ会員名簿といふをくれし)。 3人の女生のみ。すませて松浦助教授に会ひ松嶋のわび伝へ、 来年度の講義のことにて大藤教授に会へといひしに9月より洋行と。 coffeeよばれ、古本屋見て『Reading from world religions(50)』買ひ、渋谷、 明大前をへて矢野家(渋谷にて本間生に「あす来よ」と電話せし)。兼三閣下すでにあり。依子の松茸持参しあり。『銃口に立つ』いただく。 帰れば依子「大江叔母あまり良き返事せざりし」と。あすゆくこととす。高橋生より「あすゼミありや」の電話ありしと。 (関口に電話せしに「椿山荘にあり」と。「丸に電話せよ」といふ)。 10月18日 登校。身体検査のため休みなりしことわかる。 (高橋通子に電話して呼ぶ。白鳥芳郎氏に電話して、聖心女子大に本無事、青山博士にいへといふ。清先生に辞任のことは通ぜしと)。 2Dの武田(山形)、笹井(小勝川)の2生来り話し、本貸す。Prince Hotelにて写真とりし子なりし。 フランス語の新倉講師と話し、いま一人と中島健蔵のこといふ。 出て川本静江らと逢ひ(丸重俊にきけば関口よりの電話なかりし模様)、「すみれ」にてcoffeeのみしあと大江へゆく。 艶叔母、田中城平一家と縁切り、勉の縁談も叔父ならびに勉にまかせしと。 辻夫人の親友といふが来り、タヌキを家政婦としておけといひ、叔父怒りしと。われ全面的に賛成せしあと帰る。 依子を伊勢に送れとなりし。 10月19日 依子「母君の意見など問題でない故、伊勢に早く手紙出せ」といふ由。竹内夫人「この好き縁談をのがすな」といふ由。 川崎菅雄より案内、高垣、杉野のを同封す。東方学会京都支部より案内。京阪東洋史会よりも出欠問ひ来る。欠席を答ふ。 (福地邦樹君へ、文学やめたのハガキかきし)。 18:30出て求道者会。藤井、小室2学生とわれら2人也。帰途悠紀子寒気し、われ入浴。 10月20日 雨。8:30ゆき9:00より史学研究法の講義。すみて山田俊雄氏より『キリシタン研究7』と『日本の文字』もらひうれし。 川本静江生『走湯権現記』をよます。副手になるやときけば、いやでもなかりし様子なり。 12:00すませ田中久夫氏と話しsalary出るを待つ。図書館へゆき『癸巳類篇』借出す。 若菜イナヲさそひ成城堂の払し(900×0.95)、若菜生と茶のみつつ文学散歩の会費払ふ。 了りて駅へゆけば悠紀子をり。林家へゆけば叔母ふとんの上に坐りをり、次女脱臼とて入院しゐると。 毎日14:30よりの面会ゆるされゐるのみと。出て下北沢散歩せんと思ひしに休店日。吉祥寺にて本屋を見、『心』5冊(120)買ふ。 けふ齋藤晌氏より「心配いらず」と手紙。11月11日東洋史談話会の出欠問はる。これも欠と答ふ。 (けふ極東書店より『吏文辞彙』の残部後藤君のもとにあるを頒けよと。水曜相談せんと答ふ。西川家に電話せしに英夫重役帰らず。電話かすかと。) 10月21日(日) 竹内夫人に電話してきけば、午后スワ君母君来ると。礼拝にゆき帰れば山口玲子、堀井姓となり日光よりヱハガキ。 萩原葉子氏より写真の受取。 14:00竹内夫人より「今出たのしらせあった」と。 14:30電話かければ来てもよし。15:00出て依子に菓子かはせ、わざと歩いてゆく。 父君頑固にてつきあひわるし。澄君もそれに似をりと。17:00までききて吉祥寺駅駅へともに出て別る。 24日依子、兄宅へゆく約束せし。史、ブドウもちて河口湖より帰り来る。 10月22日 よべ少し不快なりしも機嫌直して11:00家を出(天理の薮君より小説『魔像』来る)、姜生にゼミ。すみて西川英夫に電話せしに不在。 東洋文化史きもちよくすませ、越智生より卒業すれば洋行ときく。 大藤教授にあすの都合ききにゆく。京都の平山氏来会せゐたり。 ふと気がつき大江の艶叔母にきのふの見合の報告にゆく。タヌキはいやと勉いひしよし。 スワ夫人の言、愉快ならざりしをいひ、伊勢へ依子をやるといふ。叔母24日飛行機にて帰阪と。 帰宅すれば依子と悠紀子と竹内家へゆきしと。電話かければスワ3男君行方不明と。かまはずといふ。 肥下夫人より11月上京と(肥下の遺文集に30万円を用意すと)。 古田房子より「写真よく出来をり。浜谷の兄死に、帰阪しゐる。武居生結婚して東京にあり」と。 10月23日 9:00出て10:00登校(よべ少眠、アルコールきれて困りし)。 短大の漢文すませ、点ききに来し中に佐藤生は帝塚山に居り、長沖、西宮2氏識りをり。 午飯くひ(大藤教授に松浦氏紹介せしに、来年後期の後任に若き高校講師を推薦せしをことわらんと。 渡辺生、新聞よまざる故、入社試験に落ちしと。川本静江を副手賛成と。けふゼミの説明会と)。 中国文学史教へにゆく。(多田先生帰宅されしと。西川英夫「大阪へはゆかず。案内書転送するゆゑたのむ」といふ)。 高宮生と「車」にゆく。新々ダムに相馬との連絡の礼いふ。 帰れば三田村泰助氏より「初期満洲八旗の成立過程について」の抜刷。集英社鈴木省三氏より「白楽天いつ出来るか」。 依子、経堂(※小高根家)・渋谷(※叔父宅)をへて帰り来り、 伊勢せまくて駄目と母いひし。大江叔母とわれの猜疑心強きには呆れると泣きゐし。さとしてねさす。 川崎菅雄へ「11月23日ゆかず」の返事かく。(けふ白鳥先生whiskyもって午まへお越しと)。 10月24日 三田村泰助氏へ「初期満洲八旗の成立過程について」抜刷の受取。 8:30出て駅前で野田宇太郎氏に渡辺生のことたのむ。『文学散歩』送ったとのこと也。 渋谷にて白鳥先生に電話すれば「明日15:00来よ」と。地下鉄にて本郷3丁目。 大山堂にて『自由中国の表情(100)』買ひ、5名にて神田氏のよむをきく。 田川氏来り、極東書店の件われに「任す」となり。 写真とりて昼食。神田氏、岡田、松村2君と来週渡台と。琳琅閣にて『満洲国の習俗(150)』買へばdoubleなりし。 阿南氏と喫茶。立教にゆきsalaryもらひ、10人あまりの出席者に16:00までやり、4年生2人にreportの説明す。 小林君、階上にをりし。飯島にて『植物渡米考(120)』買ひ、駅前で散髪(120)。 帰れば岡田先生の奥様よりこの間「望の湯」まで来たまひしと。追悼文集の案内。 依子、スワ妹26才とききしと憤然。藤井寺へゆくこととなりしと。 10月25日 集英社鈴木省三氏へ1月初めに『白楽天』とどけると返事。小高根二郎君に1500送り「今後休む。1千円づつ送る」と。 9:30登校。漢文すませ、史学研究法のためprint切り、山田嬢にたのむこととす。 栗山氏(※栗山理一学部長)と話し、『コギト』一そろひを成城大学へ寄附のこと肥下夫人にたのむこととす。 矢野次嬢のこともいひし。試験問題作成委員のこともいひしもきかれず。 13:00高橋通子来り、(後藤君、東洋文庫より電話、極東書店来ゐるとのことに、10冊くれといってみよといふ)、 14:00までよんでともに出、(渡辺きのふ野田氏に会ひしと)、下北沢で下車。 渋谷よりbusにて白鳥家。清先生おひとりにて二階住まひらしく、1,200万円の税金(※相続税)払ったら云々。 依子に婿がね紹介あり、やむを得ず写真もち帰る。 渋谷にてprintおき忘れしに気付き成城の交換台にたのむ。 井之頭線にのりこみしに林敏夫来て難波兄と会ふゆゑ出よと。 3人にて階上にゆき次女の通院助けるといふ。beerその他ご馳走となり、別れて帰宅。 聖心女子大より試験答案来り、11月1日までに採点報告せよと。 (けふ成城堂にて小竹訳『史記』2冊(1,100)と、ル・コック『探検記(130)』とを買ふ)。 10月26日 晴。岡田先生奥様に返事。「安心した」と。河野夫人より電話「帰京した」と。武居豊子のことはしらず。 『東洋史研究21-2』来る(残金90)。『文学散歩15』、『詩人連邦80』来る。東孝子より堅田姓となり新居浜のアパートの4階と。 影山正治氏より「大和へゆきし。保田成功した」と。高橋、白鳥二家へ写真送る。求道者会に出る。竹森先生「来週会ふ」と。 10月27日 7:20家を出、経堂下車。相馬の下宿にゆけば出るところなりし。ともにゆきて山田、田中久夫2氏に点たのむ。 田中氏賜ひ、山田氏宿題あらためて出す。われ今井氏に卒論の副審査の印もらひにゆくやうし、前田課長に教授会に上程たのむ。 『玉燭宝典』を図書館に返却。『通俗編』を山田氏に転貸せしを忘れし。 12:00までまちて田中久夫氏さそひ、風月堂にてsandwich食ひつつ来年の1時間(演習)のみとなりしこといへば了解されし。 よべ眠り少くふらふら帰宅。昼ねす。 依子「コダマ第一」の切符買ひしと。自彊会より11月14日(水)、目黒の三条苑にてと出欠問ひ来る。 関口八太郎君より山形へ遊びに来よと。鈴木睦美より「卒論ほぼ書けた」と。 けふ肥下夫人へ「上京の時、電話たまへ。『コギト』のことはその時」と手紙。筑摩書房より『柳田国男集』第10冊目来る。 竹内夫人に「明日訪ふ」と電話。 10月28日(日) 雨。堅田孝子へ祝ひのハガキ。礼拝にゆく。竹森先生、瀧野川教会へ説教にゆかれしと。夫人先生に金曜お訪ねすと申上ぐ。 帰りて14:00出て竹内邸。あす依子、名古屋をへて大阪へゆく也。竹内君、宮城県へゆきしと。 帰り『大和路3冊(50)』買へば「初瀬」doubleゐし。『日華事変(90)』も亦。正宗白鳥翁逝去と。 (けふ成城より体育祭4日に延びしもあす休みと電話ありしと)。木村三千子氏より松茸1籠来し。 (この間、古本屋にて見かけしは箭内健次氏なりしと古本屋あかす)。 10月29日 雨。依子6:00出てゆきしと。10:00高橋通子来り、semiとて『比律賓史』よみ了り、和田先生の論文もて中比関係書けといふ。 肥下夫人より「(※遺稿集の件、)人文書院より20万にて300部(あと紙型とりおく)、上京せず。11月15日までに原稿かけ」と。 午后の便にて村松正俊氏より「(齋藤氏の退職)教授会では認めなかったと覚えてゐます」とハガキ。木村三千子氏へ礼状。 10月30日 登校。姜生に電話し「ゼミに家へ来よ」といふ。中谷生に電話すれば登学と(のちほど来る)。 短大の漢文すませ、中国文学史に三国志演義了へ教授会。相馬の卒業みとめられ、うれし。 文化史専攻の一次志望31人なりし。今井君久しぶりに演説打つ。 不二出版社よりの電話に18:00高知の人来るとのことに急いで帰宅。 (相馬に卒業のこといひしに写真屋するため2年間東京にゐて習ふと)。鈴木淳子生と一緒なりし。 19:00すぎ橋本高之氏来訪。「唐代の年中行事」の原稿もちゆく。われと同じく疳性の人なるを知りし。23:00ごろまで話してゆきし。 けふ史、bananaもち帰る。筒井君より岡田先生の弔意金26,500としらせ来る。 10月31日 晴。10:00出て聖心女子大へ採点もちゆく。会計小林氏不在にて手当もらへず。帰り宇野哲人博士を見る。 小高根二郎君より「あと10年しかないゆゑ詩かけ」と。(夜、あと10年しかないゆゑ書かずといふ。) 阿南惟敬氏より連休期間に来訪と。阪本和子夫人より「class会するゆゑ一言を」と。 柳井道弘君より肥下の文集のこと。(けふ出がけ中西夫人と同行、意外に元気なりし)。 11月1日 角川より『ハイネ恋愛詩集』16版(5月発行)の印税16,000-1,600来る。 帝塚山7回クラス会への手紙を阪本(山内)和子夫人あてに出す。 浅野dr.にゆかんと思ひしが点数勘定の日とて止む。 11月2日 7:30起き8:30出て成城大学。『Fornm2』とり、文化祭開会式に出れば役つき以外は臼井、山田2氏のみ。 山田氏にさそはれ、いそぎ柳田展、万葉展を見、紅茶のみ11:00となりしゆゑ新宿より地下鉄。 大手町より内閣文庫へゆく。展観見て『分類目録漢籍之部(1,000)』山田氏に借金して買ひ、産経ビルの向ひにて昼食。 電車にて山本へゆき3~4千円本を送らせ『白居易(陳友琴)(60)』買ひて都電。渋谷に出る。(昨日より渋谷、新宿への乗越ともに20円となる)。 帰れば紅松夫人、祝返しに来しと。和田節子夫人より写真の受取。辻芙美子より養子もらひしと。 山岸外史『人間太宰治』、太田浩『夏の画集』の出版記念会。 19:00求道者会に出、そのあと竹森先生に洗礼申出づれば12月2日(日)に試問会と。 11月3日(文化の日) 家居。悠紀子に「阿部夫人死去、式もすみし」と林夫人より電話。 竹内夫人に電話せしむれば「雨中会ひし」とハガキありし。スワ君の電話もありし。あまり期待するな!と。 15:00すぎ阿南氏来訪。『清史雑考』と満洲地図帳とをもちて辞去。入浴。 弓子「姉ちゃんをもっと自由にしてやれ」といふ。帰宅せば礼拝につれゆかんとわがいひしに反対せし也。(午后より雨)。 (辻夫人へ祝辞。『浪花のれん』へ「子どもの時の好きだったもの」ハガキにて。) 11月4日(日) 礼拝にゆく。森田副牧師、坊や誕生と。帰りてひるね。15:00出て西荻窪へゆきしに古本屋休み。 電話し、山田俊雄氏に借金返しにゆく。三鷹台より井之頭線。Whisky贈れば孝雄博士関係の印刷3冊賜はる。 帰り吉祥寺駅前で丸姉妹に会ふ。けふ「あす休みでなし」と成城大学より電話ありしと。 11月5日 11:30登校。福島生帰り来り、姉よりの人形もち来る。「支那の葬式」をやりたしと。 姉、県庁につとめ朗らかとなりゐる。恋人とせしは日大生なりしと。姜生来り、来週までひまなしと。 本間生来り、一向めどつかざる様子。家へ来よといふ。『国華』36年分を上原氏に借りしもだめ。 東洋文化史すませ『西遊記』のprint切り、16:15となって前田課長に会へば、相馬おほむね単位とれし。 9月卒業とすべきか3月とすべきかと。「9月とすべし」といふ。 帰ればPTAにゆきし悠紀子帰らず。『Biblia』の富永牧太氏来をり、Kon-kon(※八木さん)の論文のりをり! 『Non-Fiction全集35』来をり。天理へ「ありがたく拝受」とかく。 京「都立はだめ」といはれしと。太田浩、山岸外史2氏の出版記念会に欠席の返事かく。(肥下夫人、岩国より栗贈らる)。 11月6日 9:00出て成城大学。短大了へ昼食。相馬の礼、諸先生にいふ。 ついで文三の中国文学史に『西遊記』のprintを牧野生にたのみ、Heine与ふ。 これすみて出、下北沢で下車。大地堂へゆきしも何もなく、庄司浅水の文庫本(60)買ひて帰宅。 悠紀子、阿部夫人のくやみにゆきしと帰り来る。『果樹園』81来る。わが欠席の第1回なり。(けふ白鳥先生に電話せしもかからず)。 11月7日 13:00出て立教大学。手塚氏待ちしも会へず(松浦助教授にきけば後任は松田君とて大学院卒2年目、他になしと)。 講義1時間足らずしてやめ(西田生に白鳥先生への伝言たのむ)、手塚氏帰宅ときき、 busにて中野、三鷹まで乗り、浅野君(※浅野建夫)をり。岡田先生のこと忘れたと。久米軍医のこといひて帰宅。 悠紀子18:00帰り来る。立教女学校の洗礼、転会のことたのみにゆきしと。 けふ相馬父より林檎1箱来る。畠山敬子嬢より「京都にて羽田嬢に会った」と。 『浪花のれん』の稿料(2,400-240)2,160来りをり。 11月8日 悠紀子、杉山婦人科へゆきしあと、川久保悌郎君より電話「上京しをり。けふあきゐる」とのことに17:00吉祥寺北口へ来たまへといふ。 13:00すぎ悠紀子と出て西荻窪。森田先生にゆけば奥さんのみ。赤ちゃんの写真うつし、林檎おきて出る。(『キリスト教要義(200)』、『キリスト(70)』)。 そのあと北口の古本屋にて『元雑劇研究(300)』買ひして帰宅。 山田源之助(高原弦太郎)氏より、父のこと『骨』を井上多喜三郎氏より見せられて知りしと。 吉祥寺駅へ迎へにゆけば17:00丁度に川久保君来り、家まで連れ、すし食ってもらひ羽田との話す。22:00駅近くまで送りて帰る。 『果樹園』の「半自叙伝」のそろひと『成城文芸』とを贈る。けふ『果樹園』に同人費1千円送る。 丸より電話「中野清見上京につき明日出ぬか」と。「明日はだめ」とあやまる。 11月9日 羽田明君より速達「11日東洋史談話会で会ひたし」と!肥下、木村、相馬の3氏より送り状 11:00まで聖心の下調べし、まにあはず。(けさ5:00起き睡眠不足なり)。 悠紀子に休講の電話かけさすれば47かかりしと。午后ちょっと昼ねして気分なほり、求道者会。 すみて西荻窪へbusで出、川久保に電話すれば「先業と」と。 松本(※松本善海)に電話し、羽田に連絡せよといひやる。 またキリスト教本屋にて『病む友へ(140)』、『聖書地図(80)』買ひて帰宅。 (けふ悠紀子、竹内夫人に電話し、スワ君より「また会ったの電話ありし」とききしと。) 22:00前、川久保より電話「鈴木俊氏と会ってゐた」と。「羽田に会ふが宜しいか」ときく。 11月10日 10:00、千円もちて家を出、国鉄にて田町(70)。 慶大西5号館のオリエント学会の講演場受付にて羽田教授の在不在問へば「午後来るはず」と。 竹田龍児氏も不在と。電話かけに案内してもらひしも池内先生宅に電話なく、姉婿教授(故人)の名忘れ、 名刺に「御連絡乞ふ」の旨と「11日の談話会に出ず。川久保、松本には連絡済」と書きて出、キリスト教青年会の掲示みてゐれば竹内氏来る。 会場にて待てといはれ、やむなく佐藤奎四郎氏の話すみしところへ入り、蒲生礼一氏の「ゴリスタンの植物」きく中、中山正善氏来る。 三笠宮、桑田六郎のほか富永牧太らしき姿見し。 すみて(和田博徳氏に『中国と諭吉』もらふ)、中山氏に「おくやみもせずに」と挨拶し(腕に手かけし)、 富永なるをたしかめて「お祝もせずに」と挨拶し、竹内氏にたのみて出、電車通で『桃園庁志(100)』見つけ、うれし。 田町へ出、渋谷にてライスカレー、成城大学へゆき、図書館に来ゐし山本の本『諺話甲編(340)』、『李白詩論叢(360)』、『清平山堂話本(280)』、『六部成語(640)』、『石匱書後集(400)』、『中国小説戯曲詞彙研究辞典(600)』、『明清平話小説選1(450)』、 『瓶外卮言(650)』受取り、井上女史たちの写真とりしあと、素心寮へゆきて碁と将棋し、ともに負ける。 その間、電話のせわ小沢氏にたのみしもかからず、15:30になり食堂へゆけば上原氏ら大学の出席数人。Beerのみ寒ければ帰宅。 鍛治初江氏より「『果樹園』に詩でもかけ」と。 依子より6日名古屋へゆき、11、12日にスワ君、西宮へ来るとハガキ。 井上律子より柏木に来たと。21:30羽田君より電話「あす14:00慶応で」となる。 11月11日(日) 9:45礼拝にゆく。数男来をり、駅まで同行。悠紀子とわれと思案して高円寺にて昼食。 別れて丸に電話せしに応答なし。赤川氏にゆけば無人。渋谷ゆきのbusにのり、田町行のbusにのりつぎ、慶応前にて下りれば13:45。 待つ中、三上氏来り、14:15羽田、外人の嫗を案内して来り「しばらく待て」と。 出て来りしと15:15まで大学前のすしやにてbeerのみつつ話す。青山氏らに悪口いひしことなしと(※前年11月24日記事参照)。羽田母堂結核と。 われ兼任やめるといひしに「関学へ来ぬか」と!Busにて目黒へゆき恵比須まで歩き、『漢鮮日字典(150)』買ひて帰宅。 立教の史学会の案内書来しのみ。けふ竹森先生の『ローマ書講解説教Ⅰ(520)』買ふ。 鍛治初江氏へわび状。19:40姜生より電話「あすのゼミを火曜12:00に」と。 11月12日 カヂさんに「書かぬ」とヱハガキ。12:00成城大学へゆき、栗山部長潰瘍再発の電話きく。本間、三野の2生来りしも、何もせず。 藤枝晃の姪、村松生来り「よんでくれ」とのことに木曜といふ。白鳥先生に電話すれば「木曜午后来よ」と。 東洋文化史50分ですませ、まっすぐに帰宅(悠紀子けさ杉山婦人科へゆき検査料1千円とられしと。 午后三鷹のYMCAにゆき、久布白落実氏より矢島楫子嫗の話ききしと)。 石田幹之助博士より全快祝たまはる。柳野一郎より電話「われに書かせず松本夫人に書かせよ」といふ。 11月13日 9:00出かけ10:00成城着。短大すませ姜生まちしも来ず。藤井、小川など成績表とりに来る。 高橋、中国文学史すみしあと来り、けふより書くと。14:00すぎ出て帰宅。 益子輝夫氏「住金物産常務として東京支社長に着任」と。けふ相馬来り、来年3月卒業となりしと。 11月14日 9:00出て井之頭線にて松田みす子夫人に会ふ。東大にて写真くばり台湾へゆきし岡田英弘君より台湾よかりしとの話きく。 極東書店の件はっきりせざる由。 けふ阿南氏来ず、われ一人午飯を「la porte」にて食ふ。(琳琅閣に末松『新羅史の研究(1200)』を学校へと注文す)。 そのあと木内で『朝鮮新羅古蹟帖(30)』、『生類犠牲の研究(50)』、『東洋文庫十五年史(80)』買ひて東洋文庫。 田川氏より展覧目録3冊もらひ、天理のalbum2冊を呈することを約す。 そのあと立教大学。手塚氏つかまへ来年度の件いへば「専任の欠員なく困る」とのこと也。あす白鳥先生に会ふといふ。 ついで講義。すみてただ1人の男学生小田を呼びてbeerのむ。天理教東本末の教会のむすこにて可愛し。 目黒へゆき古本屋にて時間つぶし会場へゆけば矢野さんをり、娘の縁談世話すと。 柴山、倭、森田富弥、中村治光(電話かけ来し)、西川、金沢と来、宮崎氏来り、詩人上林猷夫、早川敏一など。 大阪より来し校長を見し。西川の車にて渋谷まで送らる。夫人病気と。 けふ田村春雄博士「会ふはず帰る」の電話ありしと。われ姜生に目黒より電話し、「あす来よ」といふ。 11月15日 川久保へ礼状出す。9:00出て成城。漢文すませ、小野胡桃生に『文学』貸し、姜生に(柿もち来る)仏教のこといひ、 高橋の3枚書きしを直し、中谷生教へ14:00すぎとなり、藤枝の姪『敦煌』よめと来る。 渋谷に15:45つき、白鳥先生を夫婦して訪ね、縁談おことわりす。けふ依子より「スワ君より申込うけた」のハガキ来し也。 帰りて矢野よりの電話にくり返してたのむ。(けさ岡田先生奥様より「上京しをり。けふ帰阪」と)。 11月16日 雨。竹内夫人より電話「依子返事せざりし。24日ごろ帰京」と。 学術会議に桑原、吉田精一、松本信広と投票。悠紀子のスワ君評に怒りて、聖心女子大。 10,11月分のsalaryもらふ(3,620×2=7,240)。田中保隆氏をbeerのみにさそひしもあとであやまり帰宅。(『聖心女子大学論叢19』もらふ)。 求道者会にゆくみち、また悠紀子を叱り、先へ黙りて歩むを見し。けふ寒く台風接近と。『大君の都 下(200)』買ふ。 11月17日 7:30出て成城大学。「吾妻鏡と義経記」やり、田中久夫氏休講ときく。 池田博士(※池田勉)に栗山博士(※栗山理一)の容態ききしもわからず「半自叙伝」つづけよ云々。 図書館にゆき都留生に「馬淵氏の話出ずともよし」ときき、出れば松島生、成城堂に『中国四大小説』注文にゆけば「品切れ」と。 松島生の「勉強きらひ」といふをたしなめ、同車して下北沢。 われは新宿に出、散歩せしあと池袋。また散歩し、14:45立教史学会へゆけば若原君の話。 すみて小林通雄君の話わけのわからぬことなりし。そのあと市古宙三君の話これまたつまらず、質問せんとせしに講演に質問なしと。 太平天国は儒教的となりし。晩餐会に出で(白鳥先生、芳郎君をと思ひたまふらし)、高田生の清水より来りしを喜ぶ。 海老沢博士に受洗予定いひ、指名にまた披露すれば喜びて来し学生「私も」と也。握手して「そのあと来よ」といふ。 市古君にキリスト教「的」といへば「一つもなし」と。そんな筈なし。この間和田先生に伺へば、夫婦づれで来しわが名を思出したまはざりしと。 すみて久保(富士高校来年も、となり)、高田生さそひて喫茶。 (高田生、静岡の茶くれ、神田信夫氏の台湾土産のウーロン茶とかへことせし。神田氏には『南方随筆』2冊を贈りし也)。 帰れば西寛治君より電話あり「月曜またかける」と。(『The Arabs』100で見つく)。 11月18日(日) 礼拝にゆく。傘をまちがへてもち帰るところなりし。 午后郵便、『笑の泉』にかけと!ことはる。他に事なし。 市古君への不快なくなりなれど誤りとは思ふ。広部精『亜細亜言語集』の常言、写し了る。 11月19日 登校12:00。栗山氏来りをり。高橋邦太郎氏また負傷して来をり。高橋、本間のゼミやり、三野生の数十枚の原稿預る。 東洋文化史早くすませ、本多生と話す。「死」をほとんど考へずと。 出て下北沢にて白鳥芳郎氏に電話すれば不在。君子母堂「写真の礼いまかきゐる」と。「あす朝またかける」といひ、 西寛治氏に電話すれば「肥下文集の金あつめた」と。「手間だけ也」と反対す。肥下夫人に方々よりたかりをると。 中村地平『あをばわかば(20)』、『朝鮮童謡選(30)』買ひ、汁粉くって帰宅。 薄井夫人より「肥えてゐる」と。増田夫人へ「連絡せよ」とハガキ。 11月20日 登校。短大すませれば「お好きなLorelei(※ローレライ)やります」とChorus部12月6日の切符呉る。 (白鳥芳郎氏に電話して15:00成城へと招ず)。 中国文学史すませ本間生、三野生来しゆゑ三野生に注意すれば、秋葉博士写せしのみなりし。来年へ延ばすといひし。 本間生も同調せしあと、わかりし様子にて『山水論』よます。 そのあと15:00より新聞部の座談会に入室せし直後、芳郎氏見え、 「適当な後任まだ見つからず。庫吉先生の刊行会云々。研究所云々。」、 16:00お引取りねがひ(電話してもらへると)座談会にゆく。 何としても覚悟必要といふ池田、臼井、上原、宮司氏と同坐なりし。17:00となり寒がりつつ散会。 川久保より羽田との仲直ったと慶す! (座談会のこと深夜、気にす)。 11月21日 白鳥芳郎氏より電話かからず。畠山敬子君へヱハガキ。 11:00白鳥氏より電話「河原正博、栗原某氏いかに」と。 田川孝三氏へ天理の写真集2冊(40)送り、立教へゆき、 山口広先生の「子なくしたUhlandの原詩おしへよ」の手紙もらひしゆゑ、独文の番匠谷氏(※番匠谷英一)の研究室見せてもらひしにドイツ語の本1冊もなし。 手塚氏に会ひて(※来年度の兼任辞退の件)いへば「仕方なし。小林君にいひて教授会にかける。後任はどうなるかわからず」と。 河原君(来がけ電話すれば法政は明日10:50よりの講義と)、和田久徳2君の名あげんと也。 けふ男生4人、女生3人なりし(西田、三上、平井と蜂谷、丸山、村上、小田)。すみて裏へ出、古本屋見てのちbusにて中野。阿佐谷で下車。 丸屋へ『朝鮮仏教史』探しにゆきしになく『比律賓の自然と民族(150)』買ひて帰宅。 (けふ山荘のいとこより21~23日のchorus団出る芝居の切符贈らる)。 和田賀代女史来をりて、中川明四氏の甥沢野生の大学進学について也と。「近々来させよ」といふ。 11月22日 9:00出て成城大学。法政大学に電話すれば「河原正博君13:00に来る」と。 漢文教へにゆきしに木造教室寒くてふるへ上る。 午飯くひ、後藤武君にUhlandのこといへば、訳者隣組と。たづねおくとのこと也。 salaryもらひにゆき(1万3千円ほど差し引かる)、成城堂に1千円余り払ひ、 折しも手塚氏の電話かかりしをきけば「和田久徳氏を後任にすることとなった」と。 三野生に卒論稿返し、本間生より訳あづかり、雨となりしゆゑ内村君訪ねて富士高校にゆくか否か迷ひ、 「車」にゆけば客なき日はやめたくなると新madameの話なりし。 相馬の礼いひ、寒きゆゑ帰宅。白鳥先生奥様より鄭重なる手紙。史、「きのふ徹夜にて麻雀せし」と。 11月23日(勤労感謝の日) よべみぞれ降り、早雪として昭和17年以来と。白鳥きみ子夫人に礼状。堀井(山口)玲子夫人「高槻に家もった」と。 山荘淑子君の招待の劇「赤穂浪士」見に12:00出て産経Hall。淑子氏をり、佳子も上京中と。電話すれば他出。 中間のchorusとおどり見て外へ出、淑子君に「あそびに来よ」といひ、juiceのます。佳子生結婚と。まっすぐ帰宅。 18:30出て求道者会。帰りて山荘佳子の電話にて「あす17:00吉祥寺へ来る」と。 11月24日 8:30登校。「史学研究法」すませ、田中久夫氏と小高根君訪問を約し、三野生のsemi。けふにてすみ、10日ごろ一旦帰省と。一難去る。 田中氏と経堂で昼食。小高根家にゆけば母上接待さる。すみて吉祥寺。 『支那研究(150)』なる『東洋』の抜萃買へば王維の「山水訳」の訳のりをり。ふしぎ。 山荘佳子むかへにゆき18:00会ひて家へつれ帰る。阪大大学院出し八幡製鉄所光研究所員と来年10月結婚と。 (依子より「26日ごろ帰宅」と。) 11月25日(日) 寒し。礼拝にゆく。来週試問会なり。(田中克己氏へ誤配の手紙を転送す)。 帰りて炬燵に入り、華語やる。岡田志紀氏より「退院した」と。 夜、矢野より電話「(※大高同窓会)30人集った。文乙成績わるかった。原田夫妻がゆきし。文甲、中野清見行った」と。 竹内夫人に電話すれば「せくことなし」と。悠紀子、田中昌三夫妻に礼状かく。 11月26日 雨の予報に傘もちて出、山田氏にきけば病気ではなかりしと。 佐藤君に『朝鮮仏教史』ききにゆけば「売れをりし」と。(きのふ河原正博氏より電話ありしと)。 姜生のsemiやり(三野生帰りゆく)一向わからぬ様子。『朝鮮仏教史』図書館で見つけわたす。「落第したら死ぬ」とのすてぜりふなりし。勉強もせで也。 (成城新聞のeditor来り、■■会の原稿見す。『耶馬台国』2冊貸す)。高橋生に「来よ」といふ。松村生「またたのむ」と。 文化史すませ(武田、笹井の2生も本かりに来る)、雨ふり出せし中Orissaへ高橋邦太郎氏とゆく。 松田夫妻また海外へ出るらし。帰れば依子より「ハトニノル」の電報来しと。 留守に林叔父来り、全快祝にハム詰合せおきゆきしと。 けふ後藤武氏に万足氏の原詩しらべてもらひしゆゑ、山口広氏に返事かく。 依子20:30帰り来る。3月結婚のつもりらし。勉のところへ嫁候補泊りをりと。 11月27日 雨。鈴木淳子と同車。成城堂へゆきHeine17版買ひ、短大の漢文の時間Loreleiうたひ、 山田氏より教授会ありと教はり、本間生に電話すれば、三野と旅行中と! 福島生themaを支那の冠婚喪祭とすと。(松浦氏にはテーマ一人も出さざりしと)。 高田氏に「露伴」を出しゐし子、新聞の座談会にて写真とりし子なりし。 教授会にて英文、芸術の56名づつとりしことをききし外、大したことなく、すみて下北沢。 『北支の自然科学(80)』買ひて帰宅。田中克己氏より転送の受取。 依子にきけば能勢(※同窓生能勢正元)、旧富士鋼業に転任。康平叔父と話すと。 (スワ君より電話あり。依子、渋谷(※叔父宅)にゆきをりしゆゑ、あす竹内家へゆくと悠紀子答ふ)。 11月28日 9:00出て東大。神田氏、田川氏おそく後藤、阿南2君と話す。(益子氏に電話し、小竹、丸と歓迎会すといふ)。 すみて神田氏と昼食。すまして琳琅閣にゆき『満和辞典』売るといふ(1万6千円位と)。学校に2冊注文し、『中国の社会風景(150)』買ふ。 『昔ばなし(60)』をゆきがけ買ひし。busにのり癌研前で下車。矢野にゆけば外出。 立教へゆき11月分手当もらひ、研究室へゆき『史苑』2冊成城へと受取る。 14:40手塚氏に会へば和田久徳氏に会ひし「市古教授の了解得るまで保留」と!河原君はだめらし。 朝鮮の年中行事すまし、また中国の年中行事にかかることとなる。男生2、女生2と喫茶。雨の中を傘もたずして帰宅。 太田陽子夫人より「福留生より物貰った」と。(けさ山中実君より電話「昭和起重機」の社歌うた直せと。筆記さされし)。 19:00出て親子3人成蹊前よりbus。駅前よりtaxiにて竹内(※竹内好)家。(※諏訪澄氏との結婚に)「Yes」の返答すれば夫人喜ぶ。 この間の三十年会に山内四郎来しと。あすスワ君より電話かからんといひ、whiskyよばれて帰宅22:00。 11月29日 9:00登校。漢文「商君列伝」下調べせずにやり好調、気をよくし高橋通子のもち来し卒論の原稿預り、15:00まへ駅にゆき、悠紀子に会ひ林。 叔父叔母をり、敏夫博士風邪でねてをり、嫁帰り来り、産おくれゐる。病児は佐藤家にをると。 叔父に案内され教会よこ通り、下北沢で悠紀子と別れ渋谷。 タバコ買ひ(400)内村君訪ねて富士高校夜間部へゆく。久保君を来学年も使ふと。 たのみて出、中野へbus。阿佐谷で下車。、『日本風俗史概説(90)』買へば在金14円となる。 11月30日 久保靖彦生の結婚披露宴12/18(火)14:30霞が関日本海運clubにてと。出席の返事す。 11:30出て聖心女子大、1時間目すまし、2時間目なんとなく新津米造翁のこときけば、助野氏亡くなられしをいふ。 いつのことかわからず、学生にきけば11月20日式なりしと。哀悼す。わが5年間、同行すること多かりし也。 帰途、吉祥寺中央書店にて『一読支那通(100)』買ひしあと『比律賓史2冊(350)』見つけ、あとでとりに来るといふ。 18:30ゆきてとり、求道者会。 けふ弓子、依子映画見るとて夜おそし。悠紀子けふ三鷹の杉山医院にゆき慶応病院の検査結果きけば「異状なし」と。 12月1日 8:30成城大学。史学研究法すまし、益子輝夫氏に電話すればGolfにゆきしあと。 11:00弁当つかひ、宮崎、浅沼、山田俊雄の3氏と同車して新宿。 山田氏と中村屋へゆき、われは喫茶。まだ時間余りしゆゑ、上富士前で30分で散髪させ(250)、東洋文庫で神田信夫氏の台湾旅行きく。 『明清史料』辛まで出しと。青山博士にまた遭ふ。出て新宿、下北沢をへて帰宅。『柳田国男集』第11回とどく。 室蘭の鈴木生より「ししゃも」賜ふ。 きのふ竹内夫人にスワ氏より電話ありしと。夜、依子に電話かかる。 12月2日(日) 礼拝にゆき、すみて試問会。小室君、柳屋君とわれと男3人。女数人。転会とて悠紀子と呼ばれ、入信の理由きかれ父の死を答ふ。 竹森先生「戦争中の国家主義者」と紹介す。すみて帰宅。 悠紀子に教会の献金のことでいひあふ。15:00出て吉祥寺高島屋でwhite-shirt2枚あつらへ(2,400の3月2賦)、 荻窪で菓子(220)、ハンカチ(285)買ひ、busにて岡田志紀翁に祝しふ。今井夫婦のほか尚子もをり。 双生の男女に送られ、松崎嬢訪ひ、母上に見舞いひ、日大二高前よりbusにのり吉祥寺にて炒飯くひて帰宅。 けふ依子、竹内家へ「ししゃも」もちゆき禅林寺の茶会にゆく。 きのふ16:15留守中来しと集英社鈴木省三重役の名刺ありし。 12月3日 11:00出て悠紀子と名店会館へゆき、久保靖彦生の結婚祝みにゆきしも、任せて登校。 本間、姜2生の指導す。本間生やや書け「こんないやな学校に居たくないもの」といふ。 東洋文化史の朝鮮歳事了り、都留生にprintたのむ。 高橋邦太郎さんと出て茶おごらる。「20日より長崎へ出張。松田氏は象牙瑰岸ゆき」と。 出て下北沢で別れ、吉祥寺にて『中国の民間音楽(80)』と『文藝春秋』12月号と買ひ帰宅。 安西均氏より『戦後の詩』贈らる。わが詩3篇あり。 (井之頭線にて伊藤佐喜雄に遭ひ『春の日4』もらふ。中谷孝雄への青山二郎の攻撃文をのす)。 けふ琳琅閣に電話せしに「主人、市へゆきをり」と。悠紀子、茶器郵便にて配達すといふにやめしと。山口広氏より礼状。 12月4日 悠紀子、中村嫗のところへ保険の証明とりにゆく。われ9:15まで駅でまち、 考へかはり渋谷で成城大学へ休講の連絡し、地下鉄にて本郷3丁目。琳琅閣へゆけば若主人にて『満和辞典』を1.5万円で買ふ。 木内へゆき『海南島地志抄(350)』、『満蒙風俗大観(100)』、『民俗と植物(200)』、『故事成語考註解(50)』買ひ、busにて駿台下。 明治堂にて『毎日年鑑26年版(30)』、『比律賓小史(300)』、『Chinese Characteristics(250)』、 木原へゆきcard300枚(130×3)買ひしあと、筑摩竹本氏に精算たのめば3,668の赤字なりし。 ふと社会思想社へ寄り、矢坂安守氏訪えへば松井君をり17年ぶりなり。 八坂氏に故事字典のことわりいひ、松井君と出て昼食(250×2)。凶酒のこと戒めんとせしもやめ、伊藤佐喜雄のこといへば校正係に紹介せんかと。 別れて『日本地理大系朝鮮篇(350)』買ひしあと、山本へゆき『醒世恒言(800)』、『警世通言(560)』、『喩世明言(640)』、『初刻柏案驚奇(950)』、『二刻柏案驚奇(670)』、『読史箚記(420)』、『敦煌変文二字通義(210)』、『語録俗語解(700)』、 『中国白話小説語釈索引・続(680)』にて5,630。 折から来し都電にて新宿。「春日」にゆけば小姐われをおぼえをり、益子氏へ電話すれば「あす帰京」と。 折からmadameの電話ありしゆゑ、来週くらゐの(※大高野球部同窓)会たのむといひ、国鉄にて吉祥寺。taxiにて帰宅。 岡田先生奥様よりご挨拶。(成城大学より電話ありしと依子)。千草来り、80すぎし姑の悪口いふ。 20:00三野生より電話「卒論かき上げた見てくれ」と。あす12:00学校へゆくといふ。 けふ14:00電話は大藤教授と。けふ悠紀子「伊勢丹」へゆき久保生に瀬戸物(1,100)贈りしと。 12月5日 雨。三野生より電話「立教へゆく」とのことに12:00成城へゆくといひ、昨日の電話は大藤教授とわかる。 11:00出てラカンにて写真とり(森田夫人と赤ちゃんとれをり。図書館うすくとれをりし)、 会計へゆき年末調整の届けし(鈴木集英社部長に1月早々わたすといふ)、 鎌田女史にきけばみな困りゐると。やがて三野生来り、月曜帰郷するまでに片付けると。勝手な話なり。 立教へ14:30つく。男生4人と西田生とのみ。すまして男生3人をさそひビールのむ。 (ゆきがけ汁粉屋より電話し、益子氏8日(土)または10日(月)良しときき、東亜鉄工所の小竹君に伝言たのみ、丸も不在となりし)。 雨やみしゆゑbusにて椎名町4丁目下車。『日本案内記中部篇(150)』見つけそろひし。 (飯島にて『韓国画報(50)』、『中国社会(70)』、『奄美のくらし(30)』買ふ)。 中野より電話すれば丸「月曜の方よし」と。高知の現代民族派諸名家書画展の目録来る。 12月6日 晴。10:00ゆき漢文教へる。 (下北沢で讃岐喜八氏に会ふ。「江の島へゆく。心配なし。家売るとて西川の世話になる。友眞の父君まだ元気」と。 富永次郎氏に会ふ。伊藤佐喜雄のこと知りをり。) すみて誰も来ぬゆゑ都留生と話しゐれば姜来り、15分しか時間なしと。 すみて村松生来り『敦煌石窟』をよんでやる。本間生来る。松沢生来る。(高橋は来られずといふに叱る。) 15:30すまし林双生児といま一人さそひて喫茶。(益子氏より電話「月曜にしてくれ」と。小竹氏より電話「出る」と)。 下北沢より西川家へ電話し、10日の席たのみ、西川家に電話すれば「いま出し」と。 来しと夕食し、都電にて春日町。文京会館の成城chorusきく。 野口綱雄ら少数の教へ子見しのみ。19:30出、地下鉄にて荻窪をへて帰宅。21:00。 (丸に電話せしに「中野清見、関西でいろいろ聞いて来た」由)。 12月7日 金曜とて8:00起き9:00よりnote作る。12:00前出て聖心女子大。海老原氏より「23日ですね」といはれ、しばらく考へて受洗とわかる。 田部先生と話し杉浦(※杉浦正一郎)にカソリックすすめしは先生とわかる。(悠紀子、杉浦夫人に遭ひしと)。 学生たちに本貸す(台湾1冊、中国音楽2冊)。 12月分手当もらひ、歩きて青山学院横に出、不二歌道会に寄り1,000を寄附す。(鈴木君、高知へゆきゐて受取もらはず)。 玄誠堂にて『The Foreign Relations of China(150)』、『An American Diplomat in China(100)』、『Durran(100)』、『The essence of Chinese Culture(150)』、『An illustrated guide to the Federated Malay States (100)』、『動物渡来物語(20)』と買って帰宅。 夕食いそぎしたためる。河原正博君より「多田先生と話す」と。『果樹園82』、『東洋学報45-2』、『春の日4』来る。 求道者会にゆき受洗をモーニングで受けてよしと森田先生にきく。 復活の意義承り(夫人と赤ちゃんの写真2枚差上ぐ)、帰宅すれば三治夫人より電話ありしと。 かければ夫君東京へ転任、まもなく海外出張と。Christmasまでゐるとのことに面会日きめよといふ。 けふ益子氏に「春日」への地図速達せし。21:00松沢生より電話「神宮外苑駅で村松と待合せよ。あす11:10」と。 12月8日 6:30に起こされ眠く、満員電車でゆき下調べなしで「義経記」やる。 すみて都留生さそひ研究室へ帰れば三野、高橋、本間3生来る。 月曜10:00よりまたゼミといひ、10:30出て(田中久夫氏に挨拶せざりし)下北沢。渋谷をへて外苑前(森棹子をさそひに来し)。 2生を先ゆかし村松純子まちしにおくれし故、先ゆきて秩父宮groundにての商船大学とのRugby試合を見る。 村松生Half-backにて主将なり。14-0にて勝ち、優勝とて名古屋へゆくと也。 前田教務課長来をりし。3生と雑煮くひ、都留生と宮益坂へ歩き、『Sketches of 南京(50)』、『Our Hawaii(50)』買ふ。帰宅15:00。 『東方学』来をり、宇野哲人会長の米寿を祝ひをり。北京大学総長たりしと。日本人教官にろくな者なかりしは何故ならん。入浴。 12月9日(日) 9:40礼拝にゆく。「イエスはヨシユアのギリシア語」と。すみて小泉氏に月なみの献金きけば「1,000位」と。 帰れば姜生より電話、卒論のこと。夕方、高橋生より電話、卒論のこと。われも高橋の下書見、三野の清書見て1日暮る。 依子へ名古屋より電話。 12月10日 10:00成城へゆく。(よべ3:00にねし)。三野、卒論を提出、帰郷すと。本間生、高橋生、原稿をおきゆく。姜生はじめて10枚の草稿を見す。 松沢生Rugbyの応援を謝しに来る。出て成城堂に借りなきことわかる(けふ月給くれし)。 下北沢をへて高井戸に下車。Busにのり荻窪北口へゆけば正16:30。 悠紀子と古本市にゆき、『北安曇野郡郷土誌稿4(480)』買ひ、地下鉄にて急ぎ「春日」にゆけば丸まだ来ず。 18:00やっと現はれ(※大高野球部同窓会)、本宮の土産話として山本(※山本治雄)の吹田市長候補のみ。 益子先輩来り、小竹先輩来ぬゆゑ、阪本泉氏に電話せしに未帰宅。 20:00小竹来り、自動車にて1時間半かかりしと。われ酔ひて笑ひ、22:00までゐて散会。6,200の払は小竹氏せし。 大江叔母より「依子いかがなりしや。勉宅は年内に」と。 12月11日 10:00成城へゆく。宿酔にてねむし。『唐詩選』これにて打切りとし、大藤氏の話きく。「鎌田女史を講師とせん」と也。 中国文学史すませて高橋生来しゆゑ、もっと考へて書けといひ、はんぱとりにゆかす。 教授会にては定員200名とせんと也。二学科とし、専任12人(内教授6名以上)とす。Courseをへらし50万円とせんと。 すみて4人にて会、われ川本静江の副手のこといふ。 田中久夫氏の顔を見、大藤氏と話させ17:00前となりしゆゑ、向ヶ丘の紀伊国屋へゆく。 80人会しをり。すみて田中、百瀬氏らと帰る。 西洞院淑生より義弟東京へ転任、幼稚園せわせよといふごとき速達。田中順二郎君より歳暮に海苔。 12月12日 8:00起き、渋谷にて田中雅子夫人に歳暮の礼いひ、渡辺鐐子のこといへば「おぼえなし」と。 大山堂にて『仙湖随筆(200)』買ひ、鍵を池田助手より借りて研究室あけ、まてば神田氏ついで宮原、岡本の二教育大、 よみはじめしところへ田川氏包みもってお越し。(あとにて『吏文』の複製とわかりし)。12:00よみ了へ、次回は1月16日とす。 ひとりにてrice-curryくひ(琳琅閣へゆけば親父つっけんどん也。『吏文』複製いへばこの間売れたといふ。『明清笑話四種(150) 』買ふ。)、 農学部前まで歩き『本草和名2冊(250)』買ひてbusにて大塚。矢野に会へば「けふ歳暮送るところなりし」と。 栗山部長のこと話し、池袋へ国鉄。手塚氏まちて『吏文』贈呈。和田久徳氏が後任と。 4月までやり(教務へreportの題を「中国の年中行事と日本の年中行事(600字2枚以上)」と届け出る)。来年は1月16日よりとす。 裏に出て瀬川清子『祭の話(50)』、『薬用植物と其の実際的応用治療(50)』買ひ、『屍室断想(30)』買ひて遠道し、busにて中野。 阿佐谷にてまた下車。駅前にて『黄海道(30)』、『朝鮮ってどんなとこ(70)』、『聖地の風俗と習慣(40)』買って帰宅。 『ノンフィクション全集36』来り了る。(けふ立教へ神田信夫氏より電話。地図を多田先生に返却にゆくと也。校数いひしに少し多かりしと)。 12月13日 9:00ゆきて成城大学。漢文すませ昼食し、姜生に電話すれば出しと。12:30来り40枚かきし(写せし也)草稿見す。 ついで高橋、本間2生来る。高橋生に移れば姜生だまって帰りゆく。14:30やめ下北沢へゆき(暉峻博士と同車)、悠紀子と会ひて梅ヶ丘。 和田先生の金婚祝もちゆく。(あすがその日にて身内にて夏すましたまひし也。座布団2枚にて伊勢丹3千円なりしと)。 奥様に玄関にてご挨拶せしのみにて渋谷へゆき(萩原葉子氏に電話せしも応答なかりし)、母に歳暮5千円わたす。 30日高知へゆくと。離婚、慰藉料の問題となりしと。 紅松家へ電話し、受洗記念の献金、直後もしくは次の礼拝にと教へらる。 疲れて譏嫌わるく、山中父君よりこの間の社歌の評いかにとの電話かかりしに「結構!」といふ。不随となりたまひしと。 12月14日 晴。沢田四郎作博士へ見舞。西洞院淑夫人へ「いま忙し」と。100もらひて11:30出、聖心女子大。 青山博士と話す。2時間すます。Christmas-cardⅡ組くれ、Ⅰ組はあとで送ると。 ゆきは神泉より歩き、帰り道玄坂へゆき、『 ※空白  (20)』買ひ、卵雑煮くひて神泉に出て帰宅。(矢野より歳暮に甘い飲物のつめ合せ)。 求道者会の前、竹森先生にお歳暮もちゆく。令嬢留守番なりし。遠藤道具店に1,250の本棚たのむ。けふにて求道者会すみし。 12月15日 6:40起き、登校。「義経記」やる。都留生のprint出来すぎ也。 すみて都留と話しゐれば武田、笹井、2生来り、ついで姜来り、40枚位かけしを見す。 本間来り、ほぼ書き了る。姜またhys(※ヒステリー)起し去りしあと、12:00すぎしゆゑ、sandwich食ひしところへ高橋来る。これもほぼすみし也。 けふ『三言二柏』図書館へ返却す。成城堂にて『三国志』2冊受取り、『故事成語ことわざ』といふを買ふ。 まっすぐ帰り来れば園田一亀博士の死亡通知。「10日亡くなりたまひし」と。海老原氏より帯揚げたまふ。夜、入浴。雨。 12月16日(日) 午前少雨。礼拝にゆき12月分月例献金(我1,000悠紀子700)す。クリスマス祝賀会出席の申込もす(300×2)。 帰りがけ呼びとめられし長老の第一人は北沢さんとて東京女子大・慶応の講師と。夫人と挨拶さる。 鈴木正義生より「返礼ならば詩くれ」と。 12月17日 曇。岡田夫人へ追悼文かかざりしおわび。小高根二郎へ同人費。10:00森田武夫先生にお礼にゆく。家主の坊、狂乱しをり。 古本屋にてChristmas-card22枚買ひ、吉祥寺へ引き返して成城大学。高橋、本間2生すむ。姜生またhysterieおこす。不快なり。 けふbonus議会の官吏昇給通過後出ることわかる。都留生(print多くして呉る)さそひて「車」。 豪徳寺前で下車。歩きて東松原へ出、吉祥寺にて『世界史地図帳(30)』買って帰宅。 西洞院君の義弟より『京都』送られ(2,600)、家たのむと(姓名わからず)。 柳井道弘君より「(※肥下恒夫遺稿集)進行状態いかに」と。 夜、隅田、和田、白鳥、原田の諸先生、手塚、海老原、浅野夫妻、宮崎幸三、中西義章、紅松夫妻へChristmas-cardかく。 12月18日 朝、林、大江、昌三、数男、和田賀代、西角、森中、薄井夫人、小高根太郎、矢野昌彦の諸氏へ「主の祈」のcard送る。 鈴木健司生より「川本弘美と長沢の2女友に会ひ、卒論かく気となりし!」と。 12:00出て散髪(280)。渋谷へ神泉より歩き時間つぶして14:10海運clubへ着く。 内村俊雄君来をり、やがて小林、清水、井上など立教の諸教授来る。 15:00より立食の披露宴。白鳥清先生の媒妁の辞にて花嫁吉原道子さん、立教の大学院学生なるを知る。 (われに兄上より乾杯の音頭とれとありし)。 16:00すみて内村氏と地下鉄同車、新宿にてわかれ、われ荻窪をへて帰宅。(※名古屋の)畠山六右衛門氏より奈良漬贈られしと。 12月19日 手塚氏へ23日受洗と。川崎菅雄より同窓会名簿。西洞院淑夫人へ具体的に条件示せと。曇のち晴。家居、昼ねす。 夕方『婦人公論』の井上靖「楊貴妃」のために寿王のその後について質問の電話。畠山氏へ礼状と(※名古屋へ嫁ぐ)依子のこと。 12月20日 9:00家を出て登校。本間、高橋来り印捺す。姜生12:00来りこれまたすむ。高橋婚約出来をりと本間の話。 あすbonus出ると書きあり。12:30出て帰宅。村松生と下北沢まで同車。 (けふ大学入試問題集5冊、成城堂よりとり、『中国小説史』上とる)。中央書房にて『魯迅の印象(80)』買ふ。 中西夫人2週間入院と。子らに用あればいへといふ。小川雅也氏(嘉昭父)よりCookie贈らる。 けふ大藤教授より丸重俊不提出ときく。尾上一雄氏より電話「あす入試座談会に来よ」と。 年賀状200枚の印刷750、26日出来と。(成城新聞よりPeace5ケ賜ふ)。 悠紀子けふ浅野dr.へ挨拶にゆき依子の診断書もらひしと也。 12月21日 川崎、山内、能勢へハガキ。みな野球部なるもふしぎなこと也。9:00すぎ出て成城大学。 試験問題作成委員会。大藤氏はじめて出をり、われ4問作成ときめ、また1月8日に提出ときく。 ひる食にうなぎ出され、鈴木生つかって卒論研究室にはこび、大藤、池辺2氏にわたす。 渡辺、西沢、足立の3生またせ、bonusもらふ。94,600+9,000(ベア)-税17,410=86,190(+33,800(父母の 会)-4,010) 成城堂へ本代1,000払ひ3生と喫茶。同車して下北沢。悠紀子と会ひ渋谷東横dept.にて1,200の砂糖を栗山氏へ。 busにて阿佐谷、紅松家へ電話せしに夫人不在と。 『四書書目(50)』買ひ、みかん(280)もちて船越こせん嫗を見舞へば顔むくみをり。 船越章と話して出、悠紀子帰らして丸屋『日本人の習俗・迷信(300)』、『明治の御宇(100)』、『世界歴史大年表(100)』、『成語考(30)』買ひて帰宅。 本間(cakeもち)三野(うにもち)来しと。大江叔母より24日勉君の再婚式と。 けふ依子、菓子と肉饅頭ともちて竹内家へゆきしと。Britt学長よりX’mas-cardいただく。 12月22日 大江叔母、祝の速達。本間、三野、小川と3通の礼状。猿渡家より缶詰1箱。永山光文よりHam1箱贈らる。 「白楽天」久しぶりにてやり14:00出て時計のband(300)とりかへ、busにて地蔵坂。紅松夫人に電話してゆき、礼いひ教会の慣習きく。 早々出て(佐治夫人が紅松の姉にて53才にて帰天と)、女子大前にて『家なき子(100)』、田中■夫人に会ひ、 『旅の苞(50)』、『An official guide to Japan130()』、『鴎外と露伴(100)』買ひ、中西フジオ君に遭ひ、亀井勝一郎氏に遭ひて帰宅。 山荘佳子より礼状。小高根二郎君より受取。沢井孝子郎君より喪中欠礼。21:00紅松君より電話「祝す」。 12月23日(日) 7:00起き、9:00すぎ家を出る。献金(100)のほかクリスマス献金(1,500+1,000)と受洗感謝献金、転会感謝献金す。 そのあとpartyにて5分間話ささる。 神崎院長三益、牧田航空常務などなり。15:00すみ北沢氏(熊本商工教授と)より握手求めらる。田口嬢おめでたうといふ。 帰れば肥下夫人より手紙。「金いらぬ故、書け?」と也。教会より聖書いただきし。 幼児二人の洗礼するといふに隣あはせ、幼児の如くよろこびてをり。わが罪ゆるされ、みなひと救はれんと祈りをり。 12月24日 肥下夫人へ「反対でもなし。書けず」と速達。 ひるすぎまでかかりて白楽天「代書詩」やり疲れ、ひるねせんとせしに、 中川明四(昭和7年東洋史卒、三井の番頭中川家の養子と)氏未亡人、甥(沼野dr.の4男、鷺宮高校生と)とつれ来る。 第一志望日大工科と。勉強いやにて浪人したくなしと。Banana1房おきて帰る。 けふ『文学散歩』来り、西角先生より父の昨年の歌 「今年またよろめく足をふみしめて幾山河をこえゆかむいざ」なりしとしらせたまふ。 12月25日 家居。中西夫人の父母来り、安心、ただし病院に見舞へば本人覚悟の様子と。干柿たまふ。 聖心女子大東洋近世史Ⅰ(芳賀馨子代表)と石井et(成城2D)より受洗祝ひのChristmas-card。 沢井孝子郎、村上菊一郎、平塚敬一3氏より喪中欠礼。宮崎幸三先生より受洗祝。(きのふ田口祥子さんよりも祝詞ありし)。 石井正己氏よりwhisky1瓶たまふ。ヒナ生の父君なり。夜、賀状出来しゆゑ、依子に宛名かかす(87枚)。 弓子ChristmasPresentにてマフラーくれる。 X’mas-card 隅田、白鳥、和田、原田諸先生 西角、森中 林、大江、昌三、数男、賀代、諸親戚 臼井、小高根太郎、手塚、海老沢、浅野建夫、宮崎幸三、中西義章、矢野昌彦、紅松一雄 賀状(※画像参照) 12月26日 「白楽天」書きふらふらとなり(170枚位)、午后出て賀状投函。 井之頭線で渋谷。都電で小川町。錦町1-21薬剤師会館に園田一亀博士令妹むつ枝氏を訪ひ、羊羹を霊前に供へる。 12月9日に亡くなられ69才と位牌に書きあり。われ昭和17年ごろ阿佐谷の邸を訪ひしのみ。 駿台下で悠紀子とわかれ(癌研に中西夫人を見舞にゆく)、 山本書店へゆく途中、巌南堂で『古典研究6冊(30×6)』買ひ、山本に3,620払ひ、 また少しく注文し、都電にて渋谷をへて帰れば18:30。『笑いの泉』来てをり!中西夫人明るかりしと。 12月27日 柳野一郎君より喪中と。小高根太郎氏より受洗につき云々、「王維絵巻珍しきものゆゑ返せ」と。 『柳田国男集12』来る。白鳥夫人より祝としてAlbum。お礼かき本間生へ「返しにゆけ」と速達。餅の配給あり。 『不二』見れば保田の悠紀雄、来年卒業にて就職三浦義一氏に依頼せしと。終日家居して「白楽天」書くも14枚。入浴。 12月28日 けふにて官庁の事務をはりと。午后三鷹へでもゆき見んとせしに、手塚教授お越し、ロールカステラたまふ。 詩を書けと紙もち来たまふ。5年間の礼いひ、今後もよろしくといひ、立教女学院の事務長関口氏のすぐ近くなるに案内す。 不二出版社より餅1枚を京にわたしゆかる。丸より牛肉の味噌漬たまふ。 日ぐれ集英社の鈴木氏、係を代りしといふ及川均氏案内し来る。あたかも「白楽天」かきをり。 1月10日ごろ本文だけでもといふ。菓子1折たまふ。 12月29日 家居。「白楽天」160枚。正宗晴江生、赤倉よりヱハガキ。園田むつ枝氏より礼状「来月熊本で納骨」と。 山中直隆氏より牛肉の味噌漬。 12月30日(日) 雨ふる中を礼拝にゆく。牧田氏に挨拶す。帰り「Gelbe-Sorte」久しぶりに売りをるを買ひて帰る。 高橋洋子(短大2年)より賀状。夕方、阿南氏、本返しに来たまふ。「蒙古八旗について」の原稿示さる。 夜になりて「遊悟眞寺」了り170枚を越す。中西夫人の母上、悠紀子の見舞の礼いふと。 (けふ『韓来文化の後栄(中)』贈らる。数男より悠紀子に電話 「船越こせん叔母の病状よくなしと賀代女史より。またツネオ春の転任ほぼたしかにて、あと我らに貸すつもり」と)。 12月31日 曇。家居。「白楽天」228と(※ノンブル)ナンバー打つ。 『Non-Fiction全集』37来る。筑摩の武本氏より手帖たまはる。京、腸を悪くす。 丸、山中直隆の2氏に賀状。高橋洋子生に同。 田中克己日記 1963 【昭和38年】  躁鬱病を生涯の宿痾と自任した詩人ですが、かつて斎藤茂太院長の斎藤病院を主治医としてゐたことは、私も本人から聞いてゐました。そもそもの発端は何だったのでしょう。前年に、歌人でもあった父親西島喜代助を亡くし、この年6月には東大東洋史学科の恩師、和田清を喪ってゐます。  当時「癌ノイローゼ」を患ってゐたとは本人の談でしたが、日記にも書いてあり、かつて「Mortality」なる長詩を書き「メメント・モリ」を女子学生たちに説いてゐた詩人にして、「死」に反応する過敏な神経を感ずると同時に、日頃「死んだほうがまし」を口癖にしてゐたことを思へば可笑しくもあります。  在版時代からの日記を顧みれば、師友・知人・関係各所への頻繁な訪問が日課となってゐた当時がすでに過度なストレスの状態だったのであり、謂はば自身の転職や恋愛の問題、学生指導に加へて、就職・縁談・特別入学の斡旋等、種々雑事に苛まれ続けてきた精神的なツケが、ここにきて一気に病気となって現れたといふ感じが否めません。  神経衰弱は、大学を休職しなければならぬほどの重症であり、詩人は武蔵野中央病院に入院することになります(10月12日)。そして病状が寛解して退院した後に通ふことになったのが、渋谷の義母宅との動線上にあった精神科、斎藤医院だったのでした。  斎藤茂太は斎藤茂吉の長男です。次男宗吉はすでに北杜夫の名で芥川賞をとり人気作家となってゐましたが、当時は兄の医院での診察も続けてゐました。  詩人の病ひはこのあと神経症の再発と寛解とをくりかえすなかで「躁鬱病」と診断され、斎藤医院に通ひながら完治しないと云はれるこの病気と終生つきあってゆくこととなります。次第に人付き合ひも減って、慢性化した「躁鬱」は「癇性」と並んでこの詩人を語る際の個性にまで凝ります。  晩年は薬も飲んでゐなかったのではないでしょうか。詩人との世間話で斎藤親子の話が出るときには、茂吉が第一詩集『詩集西康省』を「アララギ」誌上で褒めてくれた喜びとともに、主治医だった斎藤茂太の名が必ず挙がりました。北杜夫が同じ病ひだったこともあって会話では笑顔もこぼれ、不幸中の幸ひを感じたことです。  もっとも最初の発病が深刻だったのは、途絶した日記の記述からも窺はれます。8月に詩人を襲った神経症は10月に再び昂じ、八百屋を怒鳴り、その前を通るときに手がふるへるといふ前兆?を経て、本人記すところ「狂乱」の症状にて発病(10/12)。「洗濯しながら瞑想」して家中を水だらけにしたあげく即日入院させられますが、本人は前から大学の辞職や蔵書の処分を考へてゐたやうです。中断したノートは悠紀子夫人が書き継いでゐますが、夫人自身、心労から併せて斎藤医院の診察を受けるに至ったといふやうなことも、後日の記述から知られます。  厄災に見舞はれた吉祥寺の家ではまた、大家の母子家庭で、昨年娘が急逝したのに続いて当の大家の未亡人が癌で死亡し、田中家の涙を誘ってゐます。貸手の事情もあったでしょうが、不幸が続く陰気な環境からの脱出、再びの転居を一家が検討し始めるのは自然の成り行きだったと云へます。  退院の後、詩人が「コギトの思ひ出」を書くことを思ひ立ったのは、斯様な休職中の時間を、己の人生を回顧するために充てたいとの思ひがあったからではないでしょうか。大阪高校以来の交遊圏をめぐっては、多くの師友らの死目に遭った詩人ですが、以後3年近くに及んだ長い連載は、小高根二郎による伊東静雄・蓮田善明の評伝と並んで『果樹園』から発信された貴重な「コギト・日本浪曼派文学圏」の内部報告資料となりました。  良い話題と云っては、東洋大学内紛に係り、同僚先輩だった齋藤晌氏側の証人として二年前から加勢してゐた裁判がやうやくこの年に示談となったこと、次年に成る集英社版漢詩大系『白楽天』の原稿と亡父の遺稿歌集の編集がすすんだこと、そして何より、この日記解読にあたって多大な助言を賜ってゐる長女の依子さんが、竹内好夫妻の媒妁にてこの年4月に結婚されたことでしょう。名古屋に嫁いだため、日記に書かれたエピソードはこれ以降、伝聞による確認となります。  昭和38年の出来事を茲に記してみます。 【昭和38年】 4/24 長女依子氏結婚。 5/14 大高OB山本治雄、吹田市長就任。 6/22 和田清逝去。 8/18 ノイローゼ昂じる。蔵書を大学に引きとってもらふ計画を案ず。 8/23 三鷹中村病院に癌の検査入院。 8/30 診断書を提出して休講(9/16登校。) 9/19 羽田明のパリ日本館館長就任を知る。 10/4 手が震へ、10/10神経衰弱の再発を自覚。 10/12 「狂乱」。武蔵野中央病院入院。 10/19 寛解を申し出て退院。 10/24 大学に退職願を書く 11/2 テレビ入る。 11/6 中野の医師に「自分自身が病を作っているノイローゼ」と指摘され、癌ではないとはっきりされる。 11/14 斎藤病院斎藤茂太院長による診察。 11/27 「全快の歌」つくる。 12/9 悠紀子夫人心労発作。 12/15 「コギトの思ひ出」を計画する。 昭和38年1月1日~昭和38年3月15日 「東京日記14」 25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 【昭和38年】 1月1日 5:40起きて教会の新年礼拝にゆく。5分遅刻す。8:00前帰宅。 硲晃氏と小西秋雄氏のハガキとあり。雑煮をたべひるねす。 依子、竹内夫人(※竹内好夫人)へ年始にゆく。賀状281枚。(※省略) 賀状の返事かきて疲る。(※省略) 1月2日 賀状20枚。3女渋谷(※義母と同居する弟、西島大宅)にゆき夜、帰来。スワ君より電話、悠紀子きくに 「6日来訪。10日竹内家へ兄夫婦ゆく」と也。(※省略) 「白楽天」200を越す。 1月3日 賀状50枚。(※省略) 山内四郎君より「6児壮健」と。セルパン記念会を12日と。 白鳥芳郎氏より「夫人病気」と。 1月4日 晴。賀状35枚。(※省略)  「白楽天」252。 13:00出て渋谷で卵30(577)もちて白鳥家へお見舞に参れば君子夫人をられ、若夫人癌にてけふ手術と。2男児をらる。 出てbusにて東横学園前で下車。乾柿かひて宮崎幸三邸まで歩く。夕食たまはり、夫人八戸市の出にて福井姓なりしと。 20:00帰宅すれば青木秀樹来しと。 1月5日 賀状18枚。『日本歌人』久しぶりに発刊、小野十三郎をのす。(※省略) 帝塚山関係の賀状の返事かく。 散髪にゆく(220)。「白楽天」よる書く。 1月6日(日) 礼拝にゆく。ハガキ54枚買ふ。賀状18枚。帝塚山の返事すます。 17:00意外にも紅松夫妻祝に見え「荻窪教会にいつでも紹介す」と。聖書と飴たまふ。竹内夫人に電話し近々参るといふ。 17:20依子、諏訪澄君案内し来り、22:00までつとめて呉れる。簡単にやりたしとのこと也。兄弟たちもつとめる。 1月7日 よべ、ねむりにくかりし。「白楽天」少しやり、昼食後、有田歯科へゆくに竹内夫人に遭ひ報告す。(※省略)  帰宅。ハガキ50枚書き成城ほぼ了る。入試問題気にしをるところへ西垣脩教授、詩集(※『一角獣』)もち来訪。 「鈴木亨君は小林とて大長老より3代目。そのすすめにて西垣氏も受洗せし」と。22:20入試問題了る。 1月8日 入試問題もちて成城大学へ11:00。尾上氏と委員長松坂氏にわたし16:00出る。卒論の交換を大藤、池辺2氏とやる。 本間生ひる来をり「小高根家へけふ図巻返却にゆきし」と。賀状14枚来をり。 (経堂にて集英社へ電話し、原稿用紙50枚追加たのむ。320頁は本文その他にてと。) 1月9日 よべ眠りおそく9:00起き、出てゆく依子に立教の休講の電話たのむ。賀状5枚。(※省略)  依子21:00帰り来り「式場を私学会館にききにゆき、一人当り5千円位で15人づつの予定。日も3月20日にしたし」と。 そのあと「白楽天」ちょっと書き(けふ集英社の女の子原稿用紙もち来り、故事成語辞典の原稿見せよとの手紙もちし)。 20日排卵日と計算し悠紀子を叱る。 1月10日 9:30悠紀子わびずして竹内家へゆき、依子すぐあとを追ふ。 11:00竹内家へ電話し、夫人に「今日ゆかず」といへば「話もとへ戻す」と。 12:00すぎ悠紀子帰り来り「すまぬ」とわび、竹内夫人にもわからぬ所あり。依子「自由にしてくれ」といふと。 14:00ゆきて兄夫婦と来しに話合ひ、日は依子の体を考へ4月の幾日かとせん。会場は兄が見つけキリスト教なきところはゆるせと。 結納は一応出し、竹内夫人をへてキヨシに渡す。その他、母なる人の発言多き様子にて不快。 依子一言も発せず(披露宴3千円×18+19÷1/2、ただし5千円とみるが可と)。 17:00、taxiにて駅前より帰宅。けふ中央公論社より電話ありしと。 1月11日 晴。依子13:00発のスワ君送りにゆく。賀状など5枚。スワ亮平氏の返賀あり。 (※省略) 「白楽天」も本文296枚となり、メド見ゆ。 依子帰り来り「4月24日(水)12:00より私学会館で」と。 1月12日 6:00起き7:30出て成城大学。(※省略) 山本書店の本来てゐるをとりにゆく。 『湯若望伝(600)』、『金元戯曲方言攷(100)』、『常見別字訂正類編(220)』、『洗冤集録(100)』、『明代俗字攷(200)』、 『漢語語法論文集(450)』、『東洋文庫近代中国研究室欧文図書目録(230)』なりし。(※省略)  夜、弓子hys(※ヒステリー)おこす。 鈴木亨氏より電話「西垣氏の出版記念会の発起人に名をかせ」と。「Christian3世のあなたに任す」と返事す。 そのあと依子と結婚式と披露宴の費用につき話す。わからざる様子也。 1月13日(日) 起きれば悠紀子「俊子姉より電話あり、船越耐けさ死す」と。礼拝にゆきて祈り、帰りて昼食せしのち14:00阿佐谷。 俊子姉に電話すれば「すでに見舞ひ、花買ひし」と。ゆけばこせんおば起きをり、尿毒症おこし今朝死にし(死ぬ時を知らず)。 30日に発病、かぜと思ひし云々。香奠はあまれば養老院へ寄付す(船越家、神官の家ゆゑ神道にてすと)云々。 章帰り来しに挨拶して帰宅。小竹稔氏より賀状の返事。18:00悠紀子帰り来り、通夜にゆき香奠2千円もちゆく。 (※省略) 「白楽天」300枚すむ。 1月14日 よべ12:00ね、けさ8:00おきる。けふ船越耐の葬儀とて悠紀子をゆかしめることとす。(※省略)  14:00までsemiもなくsteam(※煖房)にあたり臼井、相良2教授と話す。 東洋文化史にゆくみち村上・宮崎2生に「堀辰雄夫人にゆかん」といふ。(※省略) 家へ帰れば宮崎生より「家へ来てくれ」と。 石山直一氏より「受洗を祝す。魂の遍歴の事情しらせ」と。(※省略)  1月15日(成人の日) 10:00かっきりに村井真澄夫妻見え11:00周旋屋へ悠紀子つれゆき、13:00まで方々見回せしと。 われ、その間に畠山六栄門氏へ礼状かき、西宮一民氏へ礼状かく。 依子、弓子をつれて冬over-coat買ひにゆく。史、けさ帰り来て睡る。年賀ハガキ抽籤12枚当る。 1月16日 9:00出て(よべ氷点下数度にて寒し)東大。いつもの如く赤門前で『近世叢談(120)』買ひゆく。 田川(※田川孝三)、神田(※神田信夫)、岡本(※岡本敬二)とわれの3人のみ。学術振興研究費の責任者をわれとせんと。 佐藤長委員長と。われ鎌田重雄副委員長のことをいふも神田氏外遊とてきかれず。 われよみてすまし、神田氏と昼食とる。和田先生ほとんど臥ておいでの由。西教寺をそはり農学部前まで神田氏と歩く。 別れて西教寺、藤枝晃の妹なる母君父君ともに出て靴下たまふ。 busにて池袋、立教へつきて12月分手当もらひ、(※省略) 裏の飯島にゆき『聖書事典(1300)』見つけてうれし。 他に『忘れられた日本(300)』、『性の巡礼(150)』、『花の文化史(70)』、『日本語の衰次(50)』、『暦と生活(50)』と買ひ、ふろしき(100)買ふ。 けふは10人出をり、男の子さそひて西武の「日本人のあけぼの(100)」展見にゆき、宮崎智慧氏よびて荷物預ける。歌集近々もち来ると。すみて5男生と喫茶。18:00帰宅。 夕食のあと婦人公論の春名氏より電話「井上靖氏いそがしくて会へず」と。けふ木村繁喜氏より「そのうち会ひたし」と。 1月17日 9:00出て成城大学。漢文やり大藤氏(※大藤時彦)より『近畿民俗』の「柳田国男先生」2冊受取る。(※省略) 大に電話し、船越耐の死と依子の婚礼といふ。母20日ごろ帰京と。 13:00出て成城堂で『杜詩1(150)』買ひ、下北沢で下りて大地堂へゆき『平家物語 上中(130)』買ひ、(※省略)  夜、「白楽天 註」2枚かき聖心女子のnote作る。 1月18日 8:00起き、寒きゆゑ炬燵入れしあと9:30家を出て千歳住宅のスワ賢氏宅へゆく。 高松の母より「1.5千円の料理にすべきも云々。仲人への礼を品物で云々」ときく。 11:00出て農大前よりbus。渋谷にて昼食し聖心にゆく。芝居見に来よと切符くれし。 あとの方にては沢田四郎作博士のゆかりの女生。『戦後の詩』で見た、詩の話せよと。ランボーと中也と似しといへば似ずと。 渋谷まで歩きて帰る。けふ『上田敏全詩集(200)』買ひ、途中でしるこ(90)食ひし。 東洋史談話会より前島信次博士の「鄭芝竜招撫の事情について」話さると。煩しきことかな。 悠紀子ら昼飯よばれ、私学会館にてわが割引あるとわかりしと。 1月19日 6:30起きて登校。田中久夫氏と会ふ。(※省略) 12:00帰宅。(※省略)  けふ伊藤徳子姉(※実母の姪)よりハガキ。「祖父伊藤重義、昭和19年11月7日100才で逝去。阿波藩士、明治時代の司法官。50年程恩給を受けて悠悠自適の生活を洲本で送り、93才頃堺に戻り、100才の寿碑(洲本八幡神社内にあり。平沼騏一郎男の揮毫で吉益氏建立)」と。 われ本の整理せし也。(※省略)  1月20日(日) 礼拝にゆく。(※省略) すみて帰宅。 悠紀子、東夫人と同行、中西夫人(※大家)を見舞にゆく。電話売るつもりらしと。「白楽天」の註かく。35枚目まで来し。 1月21日 ゆふべねにくく4:30より8:00ごろまでねしのみ。白楽天註かき、沢田四郎作博士に礼状かく。(※省略)  11:00出て成城。栗山部長(※栗山理一)に綜合研究のこといへば「宜し」と。西垣脩氏の記念会につき連絡なかりしと。(※省略) 高橋邦太郎氏と喫茶、船越のこといへば「終戦後ついてゐない」と。けふsalaryもらひ成城堂の払す(475)。 1月22日 9:00出て成城大学。短大の漢文すまし、(※省略) 14:20より教授会。鎌田女史の専任講師承認。中川講師、お茶の水へ転任と。(※省略)   17:00まへ大江勉宅へゆき、まさ子新婦に紹介受け、依子への祝1万円もらふ。39年に父母の歌集出すはなし、静江母にことわれと也。 帰宅21:00。辻千歳夫人(正信参謀の)より寒中見舞。 1月23日 (※省略) 白楽天の註やり、目くらむ。 けさ八王子-10℃、都心-4.9℃、今冬0℃以下5度目にて9年ぶりと(9年周期をこのごろやかましくいふ)。 13:00出て中野。(※省略) (※立教大学)研究室へゆけば手塚氏(※手塚隆義)をり、白鳥家のこといふ。 東洋文庫に電話し、神田氏に学術振興費の書類2月2日までといへば、文部省は2月15日までなりと。 手塚氏、印捺すことも伝へ、最後の講義す。男女あはせて12名ゐし。 (※省略) 1時間見そこね、あはてて小田急へゆき、気がつき下北沢で散髪(250)。古本屋3軒見しあと千歳船橋駅へゆけば依子まちゐし。 汁粉くひて時間合せ5分前にゆけばスワ君。兄(賢)まだ浦和より帰らず、待つうち帰宅。 父君母君と合はずとて、スワ君の性格を依子に説教し、whiskyよばれ20:00出る。(新婚旅行費3万円を依子あづかりし)。21:30帰宅。 (渋谷に電話してあすゆくといふ。あさってのまちがひなりし) 1月24日 登校。漢文すませ、来週切るといふ。暉峻博士「来年ここを休む」と挨拶す。 (※省略) 出て寒く、下北沢の大地堂にゆき、英文のQuotations 2冊(50×2)、『華北の風物文化(80)』、『遊文雑筆(150)』、『文藝春秋2月号(70)』買ふ。 悠紀子けふ教会の婦人会にゆき、渋谷に「あす」と訂正電話せしと。(※省略)  1月25日 白楽天すこしやり、11:30出て聖心女子大学。玄関で青山博士(※青山定雄)に会ふ。 海老沢(※海老沢有道)、田中諸教授と話し、2時間すませて(1月分手当もらふ)寒がりつつ都電にて渋谷。 東横dept.にて『官宦(200)』買ふ。悠紀子来り渋谷、母きげんよく千草家の母上家出をいふ。Televiにて大鵬の負けるを見て出、 われ『文藝春秋正月号(60)』など買ひて帰る。(※省略)  1月26日 6:30起き7:30出て成城大学。(※省略) 田中氏(※田中久夫)すみてともに出て新宿。小田急dept.にゆき昼食。 地下鉄にて東洋史談話会にゆけば早すぎ、吉田金一氏のみ。ややしてよこに坐りしを栗原明信博士と思出せず。前島信次氏の「鄭芝竜」きく。 竹田龍児、和田博徳の2氏来をり、すみて博徳氏に挨拶すれば「父(※和田清)よろこびて(※金婚祝の座布団)常用す」と。泪出さうになりし。 地下鉄にて荻窪(50)。帰宅すれば、猫の医者よびし(500円)と。夜、入浴。白楽天註67p。 1月27日(日) 礼拝 8:30起床。9:30猫つれて依子と獣医にゆき、礼拝。 竹森先生のお話、いつもの通りよかりし。すみて帰宅。教会の12月報を見る。白楽天の註88pまで。 夜、井上靖氏へ『詩集地中海』の礼と楊貴妃の参考書かく。 1月28日 9:00出て成城大学。11人の面接すまし大藤氏のおごりならん紅茶とcake。(※省略)  田中忠雄氏より「三水会と田村氏の会を13日17:30重箱でやる。返事せよ」と。結納10日に兄君、竹内家へもち来ると也。 (佐野学『日本古代史論(30)』買ふ。けふ高橋生に『フィリピンの民族』返せといへば返した顔せし!) 1月29日 8:00起き9:00成城へゆく。(※省略) 帰れば18:00すぎ、猫やがて帰り来り(けさより外出)、犬もらはれてゆき洋菓子もらひゐし。 スワ節子夫人より礼状。筑摩より『柳田全集』13回配本。けふ年賀ハガキの5等賞(5円切手4枚)12枚もらふ。(※省略)  (けふ小高根二郎君に同人費1千円、(※省略)へ幼稚園のコネことはり速達。) 1月30日 猫けさまた出てゆく。9:10出て荻窪より地下鉄にて本郷3丁目。 『大阪今昔(120)』買ひ、研究室へゆけば後藤君をり、伯父(満洲にゐし中将と)の葬儀にて云々。 神田(※神田信夫)、宮原(※宮原鬼一)、岡本(※岡本敬二)、阿南(※阿南惟敬)4氏と本読むうち、 田川氏(※田川孝三)来られ相談の結果書類預けられ、昼食(神田氏5月出発と)すまし、 琳琅閣にて豊田穣『唐詩研究(900)』学校へとたのみ、『東洋史研究』買ふときき、阿南氏と別れ、手塚氏に電話すれば「来てよし」と。 地下鉄にてゆき学部長の印もらひ承諾書1通出来る(15通必要と)。 成城大学へゆけば事務局長外出せしあと。(※省略) 帰宅18:00。(※省略) 夜、「石川さんのこと」11枚かく。 1月31日 (※省略) 東大前下車。後藤均平氏たづぬれば「文庫へゆきし」と。電話して「午后成城へ電話する」とのことに、 松嶋正夫生へ登校うながし、ゆきて越智・藤井2生と話さんとせしところへ教務より「すぐ来よ」と。 入試問題の校正を尾上氏とやり、すみて昼食。(※省略) 下北沢をへて帰宅。白楽天註ちょっとやる。 2月1日 よべ猫帰り、飯くってすぐ出る。Noteこさへしあと齋藤晌博士へ「13日出てよきや」と。 11:30出て聖心女子大学。青山博士に問へば「代表者は学長印がよからん」と。 東洋近世史Ⅰ組出がけに米人の華文よます。誤字だらけにてわからず。すまして渋谷。 電話かからざりしゆゑ呉竹町の阪急寮さがしさがししてゆき、安宅温(村田)夫人に会へば「ダンス塾の建物紹介せよ」と。 「悠紀子にいふ」といひて帰宅。 けふ速達2通、青山氏と宮原、岡本2氏の承諾書。夜、防大生、阿南氏のをもち来る。(※省略)  けふ『文藝37年8月号鴎外特集(80)』買ふ。 2月2日 猫よべ帰らず。(※省略) 7:30出る。茶を自分でのむやうにしてあり。(※省略)  成城堂により『西遊記』と『金瓶梅』来ありしを引きとる。(※省略) 夜、「白詩」註100pを越す。 2月3日(日) よべより雪降る。礼拝日たること忘れてめざむ。珍し。2月分の会費を献ず。 買物して帰り来り、白詩の註かき115pに至る。猫けさ帰り、夜また出てゆく。(久旱5日よりと) 2月4日 晴。『不二』来る。朝より夜まで「白註」やり127pに至る。元稹の「悼亡詩」わかりうれし。 2月5日 7:00起き8:30出て成城。(※省略) 短2の試験監督すませ弁当くひ、(※省略) すみて図書館へ本返し辞引ひくうち14:00となる。 (※省略) 教授会にて大宮助教授またお茶の水へ転任。「高城君、殆ど全快ゆゑ専任講師として復職」と。 松村達雄君と同車。久我山で下車。 (※省略) 帝塚山より「同窓会報にかけ」と。和田夫人「あすに」といひ来しと。 2月6日 「白註」やり10:30出て丸山小学校ゆきとのbus待ちしも来ず、関までのり、西武にて下井草までゆき、歩きて八成橋。 電話かけ和田夫人に来てもらふ。1千万円ぐらゐかかりし新住宅見、午食ご馳走となる。class会は3月にすると。 14:00出て井荻駅前より阿佐谷車庫ゆきbusにのる。(※省略) 帰宅。 また「白註」やり139pまで。帝塚山学院の同窓会報に近況かき、後藤均平君待つ。(※省略) 18:30かっきりに来宅。 夕食し、綜合研究の文案話し、鎌田重雄の話す。(※後藤均平)大分県竹田の人にて前より好きなりし。22:00帰る。 (土曜に文庫にゆくことときめる)。 2月7日 6:30起き(よべ12:00すぎねし)8:30成城へゆく。1時間目、校医の試験の輔佐、2時間目は中国文学。男生2人(4年他になし)。 すみて昼食、前田課長にゆけば「校正あす16:30」と。出て西沢、足立つかまへ茶のみにゆく。 だるく帰りいそぎしも14:30。立教大学より「採点手伝へ(2月25~28日15:30)」と。 同じくreport来る。(※大家の)中西の坊や世界史をききに来る。珍し。 2月8日 11:45出て聖心女子大。2時間すませ疲れて出、東急で喫茶して成城。(※省略) 20:00すみて帰宅。 雨ふりをる故、電話すれば悠紀子駅でまちをり。 末松博士(※末松保和)より承諾書来をり、『果樹園』来をり、写真うつりをり。(※省略) 本間生より14日「笹の雪」で姜生の送別会すると。(集英社へ電話し「2月末までに書き」了へるといふ)。 千草来て「姑に強くなりし」と。 2月9日 10:00出て渋谷をへて東洋文庫。11:30につき後藤均平氏を呼ぶ。田川氏きのふ出勤、けふまた休みと(博士にして神田氏は博士でなし)。 後藤氏とそば食ひつつ書類こさへ14:00了る。「月曜午后、成城へもち来たまふ」と。 都電にて東大前。琳琅閣へゆき『東洋史研究』売るといひ、「月曜午后とりに来る」と。「『宋元通鑑』買ふ」と約束せし。 ルオーにてcoffeeのみ「春日」へ電話すれば嬢出て「フェリスの丘へゆくつもり」と。「宜し」といふ。 帰宅して淡交社の村井氏より『京都の庭』『修学院離宮』もらひしを見る。入浴。 2月10日(日) 礼拝にゆく。山口広先生にコリント人への第一の手紙より「真理」をひき「真実」をひき、お祝のハガキかく。 村井真澄氏へ礼状。夕方、東京駅より斉藤はるみの電話「21:00帰阪」と。ロミ(※猫)夕方まで行方不明にて心配す。 2月11日 傘もち11:00出る。(白註のpaper忘る)。12:00ゆけば松崎女史休み、牧野副手に『京都の庭』与ふ。池田博士(※池田勉)と話す。 13:00となり、琳琅閣来ぬゆゑ電話せしに「出た」と。田中忠雄氏に電話し不在ゆゑ「三水会欠席」を伝へてもらふ。 校門にて待てば後藤均平氏来り、「15:00より会議ゆゑ」云々。書類受取り『修学院離宮』贈る。 そのあと琳琅閣来り、20分ほどで見せ了り「3冊足りぬと1万円引く」といひ、あとにてふろしきの下より出しゆゑ、 付録2冊として5千円引き11万5千円受取り『宋元通鑑』7千円にて買ひ10万8千円受取る。(※省略)  すみて篠原氏に書類預ける。中央書房へ寄り『江戸猥談(160)』、『法窓夜話(45)』買ひ、依子に7.5万円やる。 大江叔母より「結納10日に納まる由めでたし」と。『正宗得三郎遺作展』の案内来る。孫春江の配慮か。(※省略)  2月12日 11:30出て12:30成城大学。琳琅閣の書目見しに『東洋史研究』求めをり。探せば『直齋書録解題』出てきてうれし。 そのあと弁当くひ、中国文学史にゆく。(※省略)  15:00駅のホームにて悠紀子まち、林へゆけば敏夫君3月20日渡米2年間の予定と。しかも大阪より帰りて盲腸となりいま入院中と。 出て(赤ん坊昌三と名づけしと)、喜多見下車。 薄井家を訪ぬれば無人。隣家へ見舞ことづけ董子氏の発病しらざりしに教へし。途にておばあさんに会ひ好調ときく。 下北沢で下車。われはうな丼くふ。帰り茶(100g 400)買ふ。インフレおそろし。 疲れて立教大学の採点す。(※省略)  2月13日 3,500もらひて9:00出、荻窪をへて地下鉄にて本郷3丁目。 琳琅閣へ寄り『直齋書録解題』見せればprintたのみしと。 「500か1,000にてはいかに」といへば千円札出せしゆゑ『開元天宝遺事』写本ととりかへっこす。 満蒙史料、阿南、宮原、岡本、神田の4君。岡本君よめざること甚し。 すませて例の件の報告し、神田君だめといふに宮原(珍し)阿南の2君と食事す。 鎌田は委員でなくなりしや、戦後再婚せしと。教育大ゆびおりの秀才にて中国人もよみゐる由云々。 阿南君と歩き(※空白)にて閉ぢゐる和本のところあけさせ、成城へ届けさす。 (われにと『満洲写真帖(600)』と『年中行事(アルス)(250)』を買ひし)。 立教へゆけば手塚教授をり、この間の報告し、試験採点のこといへば問合せくれ、田中正義氏のまちがひとわかり、清水教授よりあやまれし。 (※省略) 「藤田亮策先生の本6月出来」と中川氏の話なりし。出て古本屋にて『中国故事物語(250)』床に落として買ふ。 成城へゆき読書のひまなきに気づき鎌田女史をさそひてゆくこととす。講師となりしも忙しきと也。 日比谷のpark-centerにゆき4年と話せぬ位置につき、すみて早々帰り来る。本間生に「笹の雪」延期をいひてすみし。 (※省略)けふ手塚氏にききしに上原淳道、和田先生の悪口をかきしと。 2月14日 晴。9:50藤森正一生より電話「吉祥寺北口にゐる」と。(※省略) 14:00までわが話きき昼食してゆく。 午后、栗山博士より其角の『虚栗』の和古詩「琴を焼いて水雞を煮る夜酒淋し」の出典(「『義山雑纂』の“殺風景”…煮鶴焚琴…」と答ふ。) 効白氏之隣女題(※白氏の隣女の題にならふ)「二星私(※ひそか)に憾むとなりの娘年十五」を白詩「上陽白髪人」よりかと(「長相思「十五即相識」ならんと答ふ」)。 (※省略) 夜、元気づき「白註」191p。 2月15日 Note作り12:00まへ出て聖心女子大。今年度の最終とて田中保隆氏を「帰りともに」といひしもきかれず。 (校門に入りて坂田礼子生より3月2日東洋史会ときき「喜びて出る」といひしもあとにて成城経済の入試とわかりし)。 2組すまし坂田生来しゆゑ「3月1日にしてくれ」と云ひ得し。2、3両月のsalaryもらひて道玄坂方向の古本屋2軒を見、 『故事熟語辞典(350)』と『故事成語辞典(200)』、『南洋の回教(50)』、『十八史略通解(30)』買ひ、汁粉くひて(50)神泉駅より乗車して帰宅。 (※省略) 成城の謝恩会3月20日と。「出」の返事す。(※省略)  2月16日 卒業生の採点報告なれどゆかず。10:00ごろロミひっくりかへり、驚きて菊川獣医に電話せしにすぐに来たまひ「毒物食べたらう」と。 死ぬかどうかに「さあね」と注射したまひ、その間も発作あり、午后ややよくなりし様なり。 竹内夫人より電話「結納入ったゆゑ、とりに来よ」と。20:00ゆくこととなり、菊川医師の再診うけ(1千円払ふ)、注意ききしも役に立ちさうもなし。 そこへ福島エミ子来り夕食。20:00帰りゆく(わが評あり、同女と安部生とによきことだけ判明)。 依子帰り竹内家へゆき結納7万円受取り来る。悠紀子風邪。猫23:00まで弱りをり。「白註」205p。 2月17日(日) 悠紀子、風邪をおして礼拝にゆく。ロミやや元気なれば菊川氏にゆかず。 帰りて10分ひるねし「白註」かき(琵琶行あとまはし)しのみ。 2月18日 晴。よべロミとこに入り来り、睡眠不足。9:30より短大2の採点し11:00了る。(※省略)  婦人公論の春名氏より電話「井上靖氏ひまなし。自らは明日来んか」と。大江叔母に「きのふ結納入った」と報告し12:00出て成城。 (※省略) 局長に会ひ「書類を文部省に持参する」といひ、印捺してもらひて出、渋谷より地下鉄で虎の門。3階の受付を1階入口に貼り紙しあり。 大学学術局科学振興課といふにゆき、書類納めすみ、 新橋まで歩くみち、東洋文庫の後藤均平君に報告の電話し、大阪書籍の旧姓武井女に電話すれば休み、会社も三崎町に移りしと。 しるこ食べ(80)、渋谷より下北沢、大地堂にて『江戸秘語事典(700)』借る。風寒く18:00帰宅。 ロミまた医師にて注射、元気になりし様子。畠山紀子嬢より祝状。依子22:00すぎ帰来。柏井にて24日船越耐女の埋骨と。 2月19日 晴。白註やりゐる中、電話かかり三治鐐子夫人。(※省略)  けふスワ君、関東出張と。竹内家へ礼にゆく筈なりしも三治氏とハル名氏(電話かからず)とにて行かず。夜「白註」250pとなる。 2月20日 スワ君より「上京した」との電話。「白註」ひるまでやり、昼食後、竹内夫人に電話してゆく。礼いひてのち出、 古本屋にてStopes『Contraception(※避妊)(350)』買ふ。散髪し、禿頭のおやぢ明治45年生れとわかる。 帰れば婦人公論の春名徹氏より電話「taxiにて来よ」と道教ふ。「井上靖氏朝鮮」と。Levy氏の本とこの間買ひし『開元天宝遺事』と貸す。 夕食後すぐ帰りゆく(昭和32年卒業にて和田先生をしらず)。(※省略)  2月21日 悠紀子婦人会にとゆく。われ「白註」263pにて成城。註の欠を一心にやり13:00となりしゆゑ出んとすれば栗山博士に会ふ。 (※省略) salaryもらひしに引き多く50,810(あとに税の-1.7万とわかる!)。 下北沢へゆき、駅前で天丼食ひ(130)、大地堂へ700払ひにゆき『一茶(70)』、『志賀直哉(70)』と成城双書買ひて帰宅。(※省略)  2月22日 14:00出て中野より立教大学。2月分手当もらひ、西武dept.に早川智慧氏訪ねしに(けさ電話かかり出版記念会3月10日と)中々みつからず、 3月10日は入試判定なることまたいふこととし、出しにおひつかれ、昼食しながら話きく。 「前川氏(※前川佐美雄)来る(還暦と)。伊藤佐喜雄、東博、石川信夫3氏は呼ばず」と。 出て都電にのり山本書店へ1,900払ひしあと『唐人行第録(540)』、『李白研究(200)』、『先秦寓言研究(70)』、『中国風土諺語釈説(210)』、『唐詩論文集(130)』、『魏晋南北朝小説(60)』、『張籍詩集(110)』。そのあと『荘子(漢籍国字解全書)500』買ふ。 (山本で前島信次博士に遭ひて、おぼえてゐられし。『太平御覧』たのみおきし)。 竜土軒へ電話し(17:20)、よろしといふに行けば(四谷3丁目のりかへ)福留、佐藤美岐子と2年中退の伊奈の子と2年1人。 野田宇太郎氏18:30来り、夕食しつつ20:30となり、先に出る。 帰れば前田教務課長より電話ありしと。(※省略) 日曜10:00より中西ユキ子ちゃんの法事すると。 けふ咲耶に「式に呼ばず」とことわり出したり。 2月23日 松嶋生の電話で起き「卒論26日もち来よ」といふ。 すぐ前田課長に電話すれば吉川の東洋文化史「80点やる」といひてすみ、西沢生の3人にて来るときき、白詩の註やる。 聖心女子大4年生より3月4日謝恩会の出欠問合せ来る。 14:00西沢、足立、渡辺の3生来り、女史の学生教授間を隔離するをいふ。ふしぎ。「善処を5年間にする」といふ。 渡辺生出版社に入社きまりしと。めでたし。夕方までをり、帰りしあと鼻風邪ひどくなる。 白註295pにてとどむ。 2月24日(日) 9:45教会へゆく。礼拝すませ帰りて白註かき300pまですませる。 (※省略) 夜、スワ君来るとの電話、21:00依子と竹内家へゆく。そのあと「琵琶行」の註すます。あと解説と年表と也。 2月25日 佐藤長博士に速達「綜合研究費よろしく」と也。依子、竹内家へゆく。われ鈴木睦美ら来ると思ひ白氏年表と略伝かき15:00をすぐ。 みな出来たやうでもあり出来ぬやうでもあり。吉川生より脅迫状! 筒井信義君より「2月末までに1500送れば岡田先生追悼集送る」と。村井氏より転居通知。 2月26日 9:00家を出て成城大学。図書館にて12:00まで調べ白註ほぼ了る。 松嶋生より卒論の書き直し見す。松浦氏の採点もち来らず。池辺君にきけば渡辺ひっかかりしと。 田中久夫氏、山田の採点もち来たまひ『ロザリヨ』についてきかる。辰野隆氏らの同人誌の由。 13:00より教授会(集英社に「あさって夕方とりに来よ」と電話す)。17:00までかかり川本、小川、松嶋のこる(■■■(※省略)は留年)。 雨ふり来り、高田氏(※高田瑞穂)と出、電車にては後藤武氏と同車。下北沢にて松嶋に電話、東松原にてまた電話「あす家へ来よ」といふ。 ロミ夜、負傷して帰りついで炬燵にて中毒し死にかけし。けふ矢野昌彦より電話あり、また朝かけると。 2月27日 矢野より電話あり(※省略)。けふ東大へゆけず仕方なし。白註、夜に至って了る。 (16:00松嶋生より電話あり、小川と来ると。17:30またかかりし故、迎へに出る。) 聖心女子大の坂田礼子、安田眞美2生より「去年の『弥生』にて3.1(18:30)東洋史の会をやる」と。 スワ君より電話あり、依子渋谷へゆきて留守(母、大ともに不在なりしと)といへば22:30かかり来し。 2月28日 午前中採点すまず(哲学の渡辺氏より電話「松嶋生点くれといふ、与えへても良きや」と也)、午后成城の教務に電話してことわる。 そのあと白詩やり伝記8枚、年表7枚とす。奈良の西村公晴氏より「歌くれ」と。 聖心女子大よりミサと卒業式の出欠問ひ来る。17:00すぎ集英社の薄井氏来り、原稿もちゆく。挿絵のことを3月半ばに相談することとす。 50年来、吉田老の無実の晴れたと新聞に出(※吉田岩窟王事件)、この間スワ君来しは栃木の実家へゆきしとわかる。 20:00相馬来り、横浜のcamera店の保証人たらしむ(※省略)。 21:30朝日新聞より電話「都知事選挙につき一筆を」と。「Caesarのものにつき関心なし」といひてすむ。 3月1日 朝9:00起き採点昼ごろすまし、佐藤長博士より「了解した云々」の返事見て成城大学。 短冊みつからず松崎女にこさへてもらひ、来年度講義要目かきもちゆく。(下北沢で渋谷に電話せしにかからず、金も出ず)。 下北沢大地堂へ津田博士『神代史の研究』、『古事記日本書紀の研究』もちゆき1,500で買はし『漢土諸家人物誌(100)』買ひ、『文藝春秋3月号(80)』買ふ。 そのあと渋谷に電話せしにまたかからず。柏井数男に電話すれば母「高知へゆく」といひしあと来ずと。 青年座訪ねてきけば「大ここへは来ず。今大阪ならん」と。 渋谷へ出(三軒茶屋までbus、三茶書房などみな休み)、hot-dogと紅茶とりしあと渋谷へ電話すれば、 母出て「病中、家政婦やとひをる。千草もみな来ぬがよし」と。 家へ電話し悠紀子に「依子もいやといひし」とのこといひ、30分早く『弥生』につけば原田、青山両博士と坂田礼子生とすでにあり。 家へ電話すれば「依子また私のせいにする」と怒りしもゆくと。 安田眞美生結婚してアメリカのbostonへゆくと。その他に本多慈子(NHKにつとめ、たのしと)、岩間夫人(?)と高野、湊元(父克己、母立教出と)と。 20:30すみて帰宅。悠紀子ら22:30帰り、母2人に会ひしと。   3月2日 9:00出て10:00登校。問題見しあと何といふことなしに時間すごす(松嶋生、松浦氏の「可」の評点もち来る。哲学の渡辺氏にもたのむ)。 鈴木睦美の弟受けをり。中谷生臼井氏にたのむ、ふしぎなること也。 午后203の監督し、すみて後藤武氏と話せば、中川・唄氏と3講師みな昭和7年生れの都立大出と。スワ君知りをらん。 採点いつもの通りすませ、尾上氏のすむをまち、岡田教務課長に鈴木の弟のことたのみ、20:30出れば下北沢にて睦美と同車、ふしぎなること也。 聖心女子大の答案来てをり。史、けふ渋谷へ見舞にゆき泊ると電話ありしと。けふ大学へ村田幸三郎スイス発のハガキ来ありし。 3月3日(日) ロミ帰らず。礼拝にゆけば聖餐式なりし。森田先生見えず、見舞にゆくこととし、休んでゐれば、林叔母来ると電話あり。 (福島泰子生より云々。服部三樹子氏より「そのうち来る。歌作るやうになった云々」。三野生より「下関に帰った」)。 15:00近く見え、依子に祝の反物、依子、京をらず、弓子、史とに会はせ17:00ごろまで話してゆく。 和田夫人より井之頭のclass会の下見に来るとの電話あり。午前中、畑山氏より電話ありしと。 送りかたがた駅へ出て、果物もち森田先生見舞ひしあと西荻窪。 吉祥寺の古本屋を見、『香山詩選(100)』買ひ帰宅。聖心の採点せしに4年楠田訓子「講義面白くなかった」といひ詩かきありし。 (畑山校長の電話は入学斡旋なりし)。 3月4日 6:30起き7:00出て成城大学。1時間半英語の監督せしあと世界史の問題訂正を申し込む。すみて採点、意外に早く了り21:00出て(※省略)。 3月5日 昨日に同じく8:30登校。午前午后40人あまりづつの面接を行ふ。男生みな弱々しくてつまらず。 16:00すまし早々帰らんとし、三鷹をへる。立原健至氏(※道造弟)より賀状の礼。立教大学「謝恩会をする。出欠問ふ」。 3月6日 悠紀子、午まへ出て林へ敏夫の洋行祝もちゆく。和田賀代女史より書留。長沢生幹事にて22日class会と。吉川生より礼状。 16:00紅松夫人、お祝もちて来らる。和田夫人より「class会を5月にのばす」と電話。林敏夫より「土曜の夜のみ在宅」と電話。 3月7日 ■■■■(※省略)より電話「次嬢成績わるく50万円出せと■■(※省略)博士より云はれ承諾した」と。 唄講師より電話「松嶋生10pの初等フランス語できず落第さす」と。 畠山次男坊より電話、「来い」といへば12:00すぎ「路に迷った」とまた電話。 夫婦して平沼園前までゆき、つれ帰り昼食さす。15:00までをり、われ下痢にて雑炊食ひしのみゆゑ出ず。 (けふ重光のもちしエジプト展の案内にて高垣金三郎、(※朝日新聞社)名古屋の編集局長と見ゆ)。 3月8日 10:00畑山校長に電話すれば夫人にいひ、また電話かかり来しゆゑ「何としてもいれてほしいか否か、返事を14:00までに」といふ。 14:00まで待ちしもかからざるゆゑ、けふ依子に留守番たのみてわかりし竹内の負傷を永沢外科へ見舞にゆく。 夫人もをり27日に負傷と。すぐ出てわれ荻窪へゆき米田祐太郎『生活習慣』を見しにやはり南支北支にて中支ではなかりし。 西荻窪へ出、また古本屋を見、女子大前で家計簿2冊見つける(180)。けふ「成人会を17日に」と。「出」の返事出す。『婦人公論4月号』来し。 畑山夫人より電話なく、松嶋生より「フランス語運動せんか」と。「やめてêtre(※である)とavoir(※持ってゐる)の変化でもおぼえろ」といひし。 3月9日 雪。8:00起き10:00ごろ出て■■(※省略)博士(畑山夫人より電話「承知した」と也)、「■■■■(※省略)英語18点なりし」と! 竹田嬢は140点しかとれゐずと。これにて気すみ、学校の話すこしして畑山夫人に電話せしに博校長出て「了解」と。 経堂で下車。矢野の会社に電話すれば未出勤と。大阪書籍の鐘ヶ江夫人(武井)に電話して「そのうち会はん」といふ。 豪徳寺より電話すれば矢野夫人「けふより旅行」と。(『日本人の骨』買ふ)。 家へ帰りて矢野の電話きき、あす夜帰宅ときく。入浴し『二刻拍案驚奇』(※明末短編小説)よむ。森田先生より礼状。 3月10日(日) 雨。成城大学。(※省略)172名きめて昼食くはされ、 出て赤坂プリンスホテル(※宮崎智惠『風祭』、大伴道子『冬の旅』『道』合同出版記念会)。前川夫妻をり(ゆきtaxi中谷孝雄氏とゆく)。 あとで林富士馬ついで長尾良を見る。来賓演説にわれあたりし。山川京子女史来をり、芳賀、浅野、蔵原、青柳瑞穂などの諸氏。 帰り林dr.さそって池袋。beerのみ、あとにて奥さん呼んでもらひ挨拶す。 矢野に電話かからず、丸夫人に電話す。帰れば矢野から電話ありしと。故障の様子なり。栗山部長に電話せしと。 けふ寿一夫妻祝に来り(2千円)、林敏夫も来しと。 3月11日 咲耶に電話かけさせしに「今日は来ず。依子よこせ」と! 畑山氏に竹田生の成績かき「齋藤晌先生と和解の手続を東洋大学にとらすことを望む」と書き、佐藤先生にゆき診察受ける。今後も投薬されると也。 帰りて昼食し、依子ゆきしあと出んとするところへ竹田夫人「畑山夫人に注意された」と礼もち来る。押しかへし「与へよ受けるな」との主義といふ。 そのあと出て渋谷。千草をり、咲耶「福留先生の家貧乏、民族主義者展見にゆけばわが書なく、あとにて出すと恐縮させし」と話す。 千草出しあと咲耶に「(※大の)離婚の調停に沢井・沢田2氏をたのみて早く片付けよ。大旅行の時はわが家に知らせよ」といふ。 15:00出て飯田橋の厚生年金病院に槙口君たづね、Bronica(※カメラ)の故障いへば代り渡さる。 出て集英社。薄井氏と及川氏(※及川均)とに会ふ。齋藤先生見られ第一回(※中国詩人選『新鈔唐詩選』)とすと。2段にできぬ箇所あり20p位余 ると。 地図入れることとなり1週間位で書くといふ。挿図全然わからぬ様子なり。 極東書店にて『唐音癸籤(200)』と『南部新書(100)』買ひ、大安にて『白氏諷諫(50)』買ひ、畑山夫人に電話し国鉄にて帰宅。疲る。 森川町文生書院といふより『東洋史研究vol.1-20』わ3万円にて買ふと!? 3月12日 9:00出て成城へゆけば無人。きけば「文芸の会は13:00から」と。図書館へゆき『清俗紀聞』と『事物起源』の整理たのみ、成城堂に 2,615払ひ、 『水滸伝』受取り、千歳船橋へゆき河野夫人に旧姓武井のこといひ、経堂まで歩き、悠紀子に電話して「早く帰れず」といひ、 駅前dept.地下でrice-curry(100)食ひ、成城へ帰り松嶋生に会ひ、唄氏にたのみ石渡夫人に電話すれば「篠原局長と夫君と話すみ し」と。 13:00の開会前、発表後いろいろ運動ありしときく。 及第会で松嶋のほか川本広美のこり、電話すれば「25日まで帰郷」と。 速達かきて「電報打つ」と前田氏にきき、図書館より2種受取りて世田谷代田下車。代田2丁目まで歩きて松田みす子、沢辺かず子姉妹に会ふ。 沢辺夫人下りしあと松田夫人にきけば「5月外任」と。 帰りて鈴木睦美の「日大法科へ弟入りし」といふを見る。スワキヨシ君より電話あり、依子留守。 夕方畠山兄弟より電話「兄は神谷町に下宿見つけ弟は早稲田落ちた」と也。「明日来よ」といふ。 松嶋生より電話「15日追再試」といへば「18日ときいた」と。(中西坊やも「早稲田落ちた」と也)。 けふ悠紀子、青木へ就職祝にゆき、婆さんに会ひしに元気にて多弁と!! 3月13日 畠山夫人より電話「名古屋へ帰ってあやまる様指導せよ」と。次いで畠山兄弟より。 11:00弟のみ来り、帰ってあやまれいふもきかず。15日の都立大すみてのちまたいふこととす。 矢野より電話「手続きすました。いつ来るや」と。本多生より電話「あす13:00福留、睦美と3人で来る」と。 けふ雪、午前中やまず! 〒なく、出前来ず。中西マキ子嬢、三鷹高校に通ったとて泣いて悠紀子に報告したと。これはめでたし。 3月14日 石渡夫人より「Album代や謝恩会費負担したし」と電話。畠山夫人より「態度かはった。16日帰ってもなぐらぬ様にする云々」と電話。 2月分電話代833。千川より「弟、東京に転勤」と。西洞院淑夫人より「村井家をよろしく」と。『果樹園85』来る。 13:30鈴木睦美と福留生と来る。本多生副手になるとて身体検査受けてをりおくれると。 福留生に石渡のこといへば「恋塚生Album委員にて1冊とりをり、代金その他にて5千円、石渡家へもちゆかん」と。うれし。 16:00福留生出し直後、本多生来り(大江勉の転任電話あり、叔父叔母喜ばんとうれし)、すぐ送り出して三鷹。 朝のまに書きし「冬の旅をよみて」を早川家へもちゆく。無人なりし。 服部三樹子より電話あり久しぶりに来り、わが話を笑ひながらきく。この間、森房子氏に会ひにゆきしと(石渡夫人に5千円のこといふ)。 薄井夫人より悠紀子に報告。天理教館よりエジプト展の案内。 3月15日 安宅温夫人より電話「あす13:00坂根と来る」と。青木陽生より「林敏夫の送別会を19日、大宅で」と。 『文芸通信』来り、石川喜久子わが写真撮らざる様子。太田夫人「もうやめたし」と。 西宮君「(※帝塚山)講師やめた」と。夜、川本広美追再試受けたらしく「卒業式には出ない」と。 けふ悠紀子、税務署へ申告にゆき、午后買物にゆきしあと杉浦夫人(※杉浦正一郎夫人)来り、蕗子の結婚問題につき長々と話してゆく。 昭和38年3月16日~昭和38年8月18日 「東京日記15」 25.5cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 3月16日 雨、■■■■(※省略)君より「けふ帰省」と。都立もおちしにて哀れ也。 朝日新聞へ「私は大阪人か」と調査票に記入して出す。太田陽子夫人に礼状。『帝塚山文芸クラブ通信』いやになりをる。労多くして気の毒也。 悠紀子、「生田夫人、中馬姓にかへりし」を発見す。われが石川に送りし写真やはり着かざるがカチなり。 きのふよりの「白詩地図」中々すすまず。西洞院夫人へ「中馬さんはげませ」をいふ。川本広美に「卒業式に出よ」とハガキ。 12:30村田温夫より電話。「雨ゆゑやめる。18日はいかに」と。ついで坂根千鶴子より「どうなったか」と電話。 3月17日(日) 礼拝にゆく。すみて佐々木久慶氏の釜石へ赴任の送別会。壮年会といふに出る。 20人ほどにて、他所への用とて早くNewYorkより帰りし衛藤瀋吉助教授の話あり。(礼拝にわが隣にゐし)。 13:00の予定15分延び、帰りて矢野に電話し「来よ」とのことに植物園前よりbus、烏山へ出て京王電にて下高井戸。 祝とて金包みわたさる(帰りて開けば5万円なりし!)。シームレスの靴下ももらふ。光子生、伊勢丹へArbeitにゆきゐる由。 新坂康子より「長友姓となりし」と。咲耶より「沢田弁護士にたのむと大、いひゐる」と。レマルク『凱旋門(上下60)』買ひ来る。 夜、入浴、丸木(高松)夫人に写真送る。 3月18日 地図の追加をかき、11:30悠紀子の留守に、安宅夫人、ジュン子をつれ坂根生とともに来る。 菜麺とり、食ってのち井の頭植物園へゆきしに、クマ(※家主の飼犬)ついて来し故、悠紀子入れず。 16:00まで遊ばせ『Comparative Religion(130)』買ひ、インク消し買って帰宅。 坂根生に「4月7日の披露に悠紀子とともに呼べ」といふ。 3月19日 散髪にゆく。店主と夫人とぜいぜいと喘息の気あり、気の毒なり。 帰れば西武dept.の宮崎女史より電話ありしと。13:00すぎ大江へゆく悠紀子とともに出て、われは市ヶ谷で下車。 平凡社へ水滸伝の脱丁かへにゆき、集英社へゆき地図わたし、及川・薄井2氏と何ら用意なきに困る。 「東洋歴史参考図譜でも買へ。齋藤博士と会はん」と云ひ出て、山本(※山本書店)にゐれば及川氏来り、前掲書の端本ありし。『太平御覧』つきしと。 出て大阪書籍さがしてゆけば鐘ヶ江夫人不在。前田社長も上京中なれど他出と。 渋谷へ17:00すぎゆけば(※林敏夫の送別会)、陽生と寿賀子とをり。大、他出。 やがて林敏夫来しゆゑ乾杯し、寿一20:00ごろ来て写真とるころ敏夫酔ひたり。 20:30出て帰宅。高宮生より身上相談。小川生より「あすの式に出ず」と電話ありしと。 けふ宮崎女史に電話すれば堀さんのこと話せと。 大伴女史への原稿は見ずと。山本で『太平洋と方今東西の交渉(80)』。他で『東北歴史散歩(160)』買ひし。 (丸に電話し「離婚訴訟の相談で会ひたし」と)。 3月20日 9:00前出て10:00前成城着。卒業式場に早く入る。大藤氏「石渡の父母来をり云々」と。篠原局長の報告中にそのことを入れし。 11:30すみて石渡氏さがしあて挨拶するも同級生誰も来ず、恋塚生見つけてAlbumのこといへば「あとで」と。 さてわれ渡し恋塚生と話さし、民俗学のところへゆけば老母たちをり、誰も挨拶せず。 13:00まへ天丼くってsalaryもらひ(高宮生と話し丸の内会館grillのwaiterになれとすすめる)、 albumもって出(成城堂に金払ひにゆけば『唐詩選』なしとの明治書院の回答あり)、経堂下車。 おもひついて家に電話すれば京出て「母をらず」と。PTAにゆきゐる也。 仕方なく小高根家へゆく途中、夫人に遭ひ(※太郎氏)在宅ときく。みかん(200)買ってゆき『礼記(国訳漢文大成)』かりる。(※省略) 出て上町まで歩き玉電にのり三軒茶屋で下車せしに古本屋みな休み。昭和女子大まで歩き、ここも休みなるによりまた玉電。 渋谷の古本屋も休みなり。『唐詩選下(200)』買ひ、悠紀子16:30に来しとしるこ食ひ、ベレー探せしに東横dept.になく、吉祥寺に帰ればまたなし。 写真現像たのみ帰宅せしあと、悠紀子名店会館で見つけし(1,500)ともち帰る。 夕食後、世田谷のスワ姉より電話「母より引物なければ淋しといひ来りしゆゑ、御意見いかに」と。 まづきcake、菓子もち帰らして何になるといひ、入浴より帰りし依子に伝へてのち「勝手にしろ」といふ。 (Album見しになるほど石渡のこと一か所もなく、気の毒せしと思ふと同時に福留・恋塚らの委員に腹立つ)。 鈴木俊氏より速達「503小林女たのむ」と。 3月21日 朝、田中マサ子夫人より電話「家族づれで来る。村田より依子のこときいた」と。マキ子君おはぎ作りて賜ふ。彼岸の中日となり。 14:00ごろ田中夫妻来り(悠紀子けふ婦人会へゆきしと)、依子に祝2千円賜ふ。「湖東博士の次女5月結婚」と。 和田賀代女史より電話「親友、入学のことにて16:00ゆく」と。17:00来り、笠井夫人とて鎌倉学院にての同僚にて末子(※省略)485番と。 慶応・上智に失敗したと。果物一篭たまひ、坊や呼びて顔見れば全くの坊ちゃん也。 帰りしあと鈴木俊氏に電話すれば教へ子の会社の重役の女と。 長沢美喜子より電話「あすの会に出るか」と。未定と答へる。夜、相馬弘と鈴木健司と来る。相馬の勤める大貫写真機械店の売上1億5千万円と。 折しも川本静江生より電話かかり、副手のことをきく。これにも「あす出ず」と答へし。 (鈴木にききてAlbumの最後に石渡の写真あるを見し。けふ石渡氏より缶詰もらひし)。 3月22日 石渡経夫氏、畠山六右衛門氏に手紙。宏池会田村氏の代理より電話、経済の入試にたのむと也。 13:30すぎ出て(依子はスワ兄宅へゆく)、悠紀子と池袋で別れ、 立教大学最後の手当もらひ、手塚氏と話し、久保君と会ふ(研究生として京大へゆけるらし)。 出て飯塚で『満洲・支那の土地と人(110)』、『別嬪と美人(50)』、『寝具の歴史(80)』、『南支之展望(50)』、『花香科学(50)』と安本買ひ、 池袋駅へゆけば悠紀子まちをり、癌研で「中西夫人(※住居の大家)絶望を妹君へ伝へよ」と主任看護婦の話なりしと。 惻然として畑山夫人に電話してゆき、御無沙汰わびしあと出て王子駅。 阿佐谷でわれ下車。(※省略) 『日本地理体系満洲篇(200)』、丸屋市川で『新入蜀記(180)』買ひて帰宅。 (けふラカンにて写真現像出来上りをとる。15枚まあまあ写りゐし。弓子一泊の銚子めぐりより帰り来る。 史、依子の祝に1.5万円わたす。けふ東大の発表あり中西長男坊ダメなりし)。 3月23日 曇。よべ1:30まで眠れず。6:30起きて成城の入試監督。文芸500人に足らざるらし。 今井氏(※今井冨士雄)と話し史学研究法の不要を云ひ、そのあと大藤氏に云へばいやな顔さる。 採点し、夕食くへず中西夫人を思ひまた惻然。21:00までやらされ帰宅22:00すぎ。小高根二郎君より「同人費とってわるい様」と。 『東洋史研究』も来る。本多生、長靴を留守中返しに来しと。千草、祝を5千円もち来しと! (けふ成城堂にて『インド(200)』、『ヒマラヤ(200)』賈ふ)。 3月24日(日) 雨。6:30起きて成城の面接。臼井氏、山中氏とcombiでやり、15:00すます。池田博士「謝恩会で松村達雄氏(※あなたを)さがしてゐた」と。 出て下北沢下車。中国写真集をさがし吉祥寺でまたみつからず『中国の顔(120)』買ひて帰宅。 坪井の紹介状もつといふ某氏電話かけ来り「あす18:00来る」と、短大受験なり。 3月25日 寒し。ニイ氏といふがまた電話「18:00再電話する」と。矢野へ案内状と礼。千草へ礼。健へことわり。 高宮生に「中小企業は再考せよ」と。本多生に菓子の礼。(※省略) 14:30不意にゼミの4生あらはれcup1組くれる。(※省略)駅まで送り喫茶して別れ、『世界周游Ⅱ(230)』買ひ、三鷹へ出て帰る。 18:30住友海上火災の新居金夫氏夫妻来訪。坂本浩氏に「坪井の推薦」とかく。大江勉を知りをると。ケーキ一箱賜ふ。 春の日の会より4月9日16:00案内の速達来る。 (木村三千子夫人より長男北野高校に入学した。紹介たのむと)。川本静江生より副手の勤務につき質問の電話あり21:00也。 3月26日 9:00起き、谷省吾氏より帝塚山退職との報告と坂根の結婚案内とを見てのち12:30出て(京けふ高尾へ遠足)、 荻窪よりbusにて田中憲三郎。俊子姉に4月24日の案内し、出たところにて高沢伯母に会ふ。 それより数男(※義弟・歯医者)に案内にゆけば患者来り、すぐ出て安宅に電話すれば留守。坂根のりんご園に電話すれば居住すと。 新宿のdept.へ同行するつもりなりしも、せいてわれは市ヶ谷へ出(伊勢丹にてcushion2枚3,600買ひて送りしと)、 山本書店にて『太平御覧(8,500)』と『シルクロード』2冊を学校へ送れといひ、久保生と遇ひし。 『卜弥格伝(170)』買ひ、隣にて北川桃雄『敦煌紀行(250)』見つけ、ついで『世界地理風俗大系2冊(830)』買ひて集英社。 一向わけわからぬ乍ら、われは杭州と洛陽の地志より挿絵見つけることを約し、鈴木重役より鰻丼と麦酒の饗応受け、 齋藤博士(※齋藤晌)と新宿までhyreで送ってもらふ(夫人、大腸癌と)。 裁判、早坂博士の証言よかりしも負けるやもしれずと。西義雄みな記憶なしといひつづけしと。 歌舞伎町で下車。30日17:00の都合を丸にきいてくれると。地下鉄で荻窪へ出、古本屋見しあと帰宅。 (けふ集英社へ角川の『世界文化地理体系16』と『世界美術全集15(史の本)』とを貸す) 3月27日 寒し。10:00ごろ電話、中西両男(※太郎・二郎)を呼ぶ(マキ子ちゃんは昨日より病院泊り)。 午后、畠山ノリ子嬢より電話14:30博光君と来訪。きのふ名古屋より来て、あす博光君の転居手伝ふつもりと。 史にwhisky1瓶、依子に祝として反物たまふ。重光君元気にて、六右衛門氏バカと一言いひしのみと。 夕飯出し中西兄弟のこと気にせしも帰らず。笠井夫人より電報「ドウナリマシタカ。ヨロシクネガフ」と。 3月28日 9:00起き6:00中西夫人死にしと2男児帰り来る。悠紀子やきばへゆくと近所の2夫人さそって出しあと、われ留守番する。 隣の東家へしらせにゆく。17:00悠紀子帰り来り、夕食後香奠(3千円)もちゆく。弟(仙台の)、故夫の父・弟(福島須賀川の)など来をり。 今後は3児にこの家をまかせるらしく葬儀はせぬ也。けふ3月10日の大伴・宮崎両女史の(※出版記念)会の写真来る。 3月29日 雨。9:00出て(中西夫人けふ納骨と)成城大学。文芸の第2次及落判定。1次の入学許可173名中、未手続90名と。 第2次は305点以上89名をとることとなり、わが面接せし(※省略)94番ゆゑ、云へば300点以上97名をとることとなる。 その他、縁故寄付、スポーツ、特選(臼井氏姪)とにて140名とりしあと、第2次補欠なるものあり。 12:20すみ、5名の3月末卒業、副手3名(本多、川本と英文1)などきまる。昼食後、経済の発表あり。 われ図書館にゆき神田本(※『白氏文集』)2冊『長安史蹟の研究』など借りる(高宮生に遭ひしも話せず)。三野生来をり、また来ると。 丸重俊に会ひしゆゑ、オリッサにつれゆき、ドイツ語高田外語でやれといふ。 千歳船橋で下車。鈴木俊氏に電話し、夫人に小林生だめなりしといふ。 折よく吉祥寺行のbusあり帰宅。山田君江新築落成をしらし来る。丸重俊と別れぎはいひし也。 夜「かすが」に電話すれば「丸、土曜はダメ」といひしと。 3月30日 家居。〒なし。午后、中西弥太郎氏の父と弟、挨拶して須賀川へ帰りゆく。 そのあと不盡男君、横浜大の発表見にゆき「合格だった」と電話かけ来る。 夕方帰り、一言報告す。よろこばしきことなり。われ『凱旋門』再読して癌の扱はれゐるを見る。 3月31日(日) 礼拝にゆく。帰りて仙台の中西夫人令弟に今後のこと問へば、3児おきゆくゆゑたのむ、この家は父の有と。意外なり。恰も横浜大学の合格通知来る。 入口のapartの一人、けふをもて出てゆく。大江勉より挨拶。坂根千鶴子より礼状。村上、宮崎2生九州より。 河野岑夫より祝送ったと。聖心女子大より来学年のSchedule。京、いままでの塾やさしすぎるとことわりし様子。 4月1日 11:00母より電話、祝に来ると。悠紀子迎へに出しあと集英社より電話「史料そろひし」と。 われも神田本のこといひ、3日14:00ゆくと決む。母来り、祝に5千円、大の祝1万円。丸弁護士にいってくれと。 ネエヤのこといひて出しあと丸より電話、会ふといふに手ぶらで出て「カスガ」へ16:00着けばマダムをらず。 「現金わたしあと月賦云々」。早くしてくれといひ5~6日以後、大と会ふこととし「カスガ」の払借りて帰宅。 新居氏より電話「入れた。坪井、天王寺高校に栄転」と。(けふ母と話す中を島ヶ原教会の男子、布教に来しゆゑ「また来よ」といふ)。 4月2日 俊子、柏井尚子2人にて祝に帯もち来る。われ13:00出て(角川より『ハイネ』17版の印税32,400。畠山ノリ子嬢より挨拶来る)東洋文庫。 田川氏に会へば、この間佐藤長氏に会ひしと。白楽天の挿絵にと洛陽県志、杭州府志など見比べダメ。田川氏の出し賜ひし写真帳もあまりよくあらず。 15:00出て新宿。「カスガ」へゆき奥さんに会ひしに何としても昨日の勘定とらず。 反対に雞の足2本もらひ、近所の古本屋にて『人類と婚姻の歴史(350)』買ひ、地下鉄にて南阿佐谷。古本屋みて帰宅。 久礼田房子氏へ詩歌よまずと。 4月3日 悠紀子、小平の墓地へ中西夫人の初七日とて遺児、東夫人と出てゆく。 神田博士(※神田喜一郎)へ神田本転写を乞ふ。谷省吾氏へ「帝塚山辞職宜し」と。 千川へ「東京広し」と。母より電話「(※離婚相談依頼の件は)大に直接いへ」と。大に電話し5、6日によき時間と所を丸にきくこととす。 12:30出て出て四谷より都電で神保町。内山へ寄れば元々社の本2冊(※『李太白』『楊貴妃とクレオパトラ』)あり、これと『麦積山』と買ふ。 集英社にて。神田本写さし大体すむ(『長安史蹟の研究』貸す)。(薄井氏、神田先生に手紙出し返事もらひしと。田川氏に近々ゆくと)。 帰り主婦と生活社に寄り早川氏とお茶飲む。国鉄にてまっすぐ帰り来し。 (けふ(※省略)夫人より「令息の成績教へよ」と。磯崎、川上2生四国一周の途中よりヱハガキ) (けふ買ひし『秘境の仏たち(320)』といふインド旅行記おもしろかりし。他に日本交通公社の『年中行事(200)』買ひし)。 けふ来し成城の時間割にては4日出勤、みな2時限なり。 4月4日 曇。9:30出て南口よりbusにて(千歳烏山のりかへ)成城(回数券買ふ)、前田教務課長、髭剃にて足に負傷せしと(図書館に神田本その他返却)。 篠原部長に(※省略)の点きけば275にて50万円出せばよかりし也。 定期券の証明書もらひ成城堂にて『日仏中辞典(1,300)』を春日井令嬢への祝にとり『インドの美術(200)』買ひてのちbusにて千歳烏山。 昼飯くふところもなきに感心し、吉祥寺行にのりつぎ帰宅。 折しも祝にと田中夫人来をり、しばらくして帰りゆく(われ(※省略)夫人に手紙かき、悠紀子に速達せしむ)。 集英社より電話、那波本は慶大にあり。わが願書なければだめと。東洋文庫には朝鮮の木板本ありしと云々。 夜、シンガポールの南村夫人に20年前のシンガポールをかく。 4月5日 集英社より電話「慶応内の斯道文庫に願書かけ、とりにゆく」と。大東急文章本か。 (丸に電話して、あす17:00「かすが」にて大に会ふと。11:00電話かけてあす16:00電話すると約す)。 10:30、I女史とりに来る。午飯のあと三鷹へ出て古本屋を見『李賀(150)』、『西力東漸の史的展望(50)』、『現代中国語入門(100)』買って帰宅。 和田賀代女史より「鎌倉彫りの手鏡贈る」と電話。夜、山尾浩子生へ「4月15日(辻昭氏と結婚)の披露に出られず」と返事。 4月6日 石田博士(※石田幹之助)へ『東洋歴史参考図譜』転載願ひ。本間生へ礼状。『Biblia』来る! 花井タヅ子夫人より「山尾生にたのまれた」と。午后、散髪にゆき15:00出て高円寺より大に電話し、新宿駅platformでまちあはせることとす。 (『大帝康熙(60)』買ひ、花見団子(150)買ふ)。 16:30おちあひ「春日」へゆけば、丸17:00かっきりに来て「50万円位出す」ときく。(ねえや高知へかへせしに途中で不明となりしと)。 20:00前出て地下鉄。 けふスワ澄君、竹内家へゆくとのことなりしも、田中家一同にてゆくこととりやめとなり22:00来て、あす15:30大に会ひにゆくと。 西沢、川本より「あす来てよきや」と電話ありしと。 4月7日(日) 雨。礼拝にゆく。棕櫚の聖日と。竹森夫人先生関節炎と。佐々木氏結婚して赴任と。 後藤瀋吉氏に挨拶して名刺わたせば「存じゐる」と。のちほど名店会館でも会ふ。田口嬢と話す。帰りて13:30西沢、渡辺2生来る。 渡辺の勤め先、昇竜堂とて数理の参考書出版す。西沢は東大理学部一号館の地質の教室につとめゐると。 15:30ともに出(神田喜一郎先生より「神田本の写真のこと承知」と御返事)、荻窪より地下鉄にて伊勢丹前。 Gas-lighterのgas1瓶(250)買ひ、厚生年金会館へゆく(※教へ子で青年座に入った坂根千鶴子氏の結婚披露宴)。 坂根母上、兄君に挨拶、安宅夫人に写真わたし、披露に大(※青年座脚本家、西島大)来る。父上よりも挨拶さる。 今後の生活どうするか心配で指名なきも最後に「茶漬食ひに来よ」といふ。山本陽子もおくれて来る。19:30出て帰宅。 けふ杉浦夫人(※杉浦正一郎未亡人)2女つれて竹内(※竹内好)に結婚の相談にゆきしと。 依子、三鷹の禅林寺での茶の会の送別受けしあとスハ兄嫁の実家へゆきし様子。 (けふ伊勢丹にて北川冬彦に会ひ20年ぶりの挨拶す。夫人、長男もをりし)。 4月8日 雨。睡眠不足で何もせず。依子出て午后スワ君より電話あり。 大伴夫人より「文見た。『花影』にのせる!」と。治子より「祝に傘贈る」と。 鈴木健司より「沼宮内高校(※岩手県)の英語の教師になった!」と。ふしぎなこと也。 4月9日 雨やむ。鈴木健司、渡辺治子、西沢悦子3生へハガキ。大友道子氏へ「『花影』へは書き直して」と速達。 スワキヨシ13:00帰名とて依子送りにゆく。京、帰り来りし故、竹内夫人に電話してゆく。杉浦夫人に「20才の青年にては」と反対せしと。 竹内原稿にて忙しと。一寸あらはれて逃げる。「24日自動車にて10:30迎へに来る」といふ。 帰れば大江叔母より「日をしらせ、電報打つ」と依子に(依子、大、下阪にてさびしとて(※渋谷の)母のもとへゆく)。 木村三千子夫人より「病気にてはなきか」と。本多生より「写真受取った」と。東大出版会金光君といふが来て「歴史学研究法」のこときく。 入浴。けふ『植物辞典(150)』買ってうれし。 4月10日 家居。今夜は弓子が渋谷の宿直と。悠紀子かぜ気味にて終日ねてをり。『果樹園』来る。高宮生「愉快につとめゐる」と。 千川より令弟吉祥寺中町に下宿と。大野知子より「4年になり大野晋氏のゼミ」と。青木弥与子より旅行記のりし新聞。 4月11日 高橋通子へ礼状。木村三千子氏へ藤井通雄氏への紹介状同封。大野知子、青木弥与子へ返事。 猿渡夫人より電話「卒業の礼に」と。15:00来り、佐藤氏婚約出来たと。(※省略) 出て竹森先生に見舞にゆき、帰れば『不二』の鈴木氏(※鈴木正男)より「大東合邦論につき書け」と。 夜、聖餐会にゆく。「Jesuの最後の晩餐を憶へ」と也。 川本静江より電話「大藤氏につれられ栗山、前田両氏に挨拶すみ、火・木・土出勤となりし」と。 4月12日 よべ寝にくく入学式よく考へてやめる。 午后出んとせしに千草来り、近々親族会と。帰り来よといへどきかず! 林(※叔母宅)へゆくことやめしあと、依子帰り来り、スワ姉と司会者の会合あす午后と。われくだくだ云ひて出ずときめる。 けふ鈴木正男氏にハガキ(『不二』にのせると也)。山尾浩子より「了解した。大阪へ来たら寄れ」と。 4月13日 9:30出て成城。前田課長にきけば「学科指導日をゑらびてすべし」と。火曜の2限とす。川本生けふは来ずと。 神田信夫氏に電話かけしに「綜合研究に30万出ることとなりし。来週水曜に会あり」と。 集英社に電話して「神田本使用許可を伝へよ」といふ。出て豪徳寺で下車。 矢野夫人に電話すれば光子明子2生、大学へゆきしと。「17日研究室へよこせ」といひ『世界史-東洋史(岩波小辞典)130』買ひて帰宅。 杉浦夫人より電話ありしに「午后かけたまへ」といひしと。 昼食せし後、阿南氏より電話、来りて「清初の東海虎爾哈部について」の抜刷もち来りたまふ。http://iss.ndl.go.jp /books/R000000004-I733385-00 (のちにて見ればWeji部=Hûrga部=Goldi?といふがごとし)。 悠紀子15:00出てスワ姉君ならびに新宿高校佐藤氏(※諏訪澄氏旧友の高校教諭、結婚式の司会依頼)に会ひに新宿へゆく。弓子今夜甲府へゆくと。京は音楽会にゆくと。 笠井夫人より何点なら及第かと。丸木直子生、船橋の団地に転居と。 4月14日(日) 復活節なり。起きて新聞見了りしところへ母来る。(※省略) 9:00すぎ母をさそひて復活祭の礼拝にゆく。 11:35すみ、partyといふに悠紀子母を送りゆく。薩埵嬢?に受洗の祝いふ。竹森先生と衛藤利夫氏のこといひ、田口嬢と出て帰宅。 (※省略) 満蒙資料の会より17日(水)の案内。18:00より中西の3兄妹よんで祝賀会。史、弓子すみて帰り来る。 4月15日 9:00出て山尾浩子(けふ辻姓となると)生に祝の電報(60)。佐藤dr.に(※痔の)薬とりにゆき、駅で悠紀子と会って林叔父叔母にゆく。 蕨とりに出しを待ち、敏夫の「アメリカの学会で報告せし」との手紙見、2児の写真とる。叔父叔母に24日の披露宴への出席たのみ、昼食よばれる。 千草の話せし(けふ渋谷母に電話すれば「秀樹来てしばらく様子見ることとなりし」と)。 13:30出て吉祥寺へ直行。駅南で『今日の印度(50)』と『キリシタン信仰と封建社会道徳(50)』買って帰宅。 けふ依子トラック便で5包出したと。(※省略) 湖東栄治郎より長女(22才、大阪女子大卒、高校教師)の縁談たのむと写真同封。山本治雄、吹田市長に立候補と。 4月16日 9:00出て成城大学。松浦高嶺氏をり、松村?氏(※松村一雄)の後任の件いかにと。 (※立教大学)手塚教授(※手塚隆義)、文学部長に選ばれしと。 そのあとはじめて中国文学の時間に出、教科書買へといひ、2Dのこして学科指導し、成績表12:00よりわたす。 立教女子校といふが3人をり、海老原生と猿渡の妹とをりし。 この間、大藤教授来り、本間生を柳田文庫に使ふと。川本生はいかにといへば「折合あし」と。 SCA(※キリスト者学生の会)の小島生(2Eと)来り、Poppenheim『近代人の疎外』読まんかと。 矢野姉妹来しゆゑ、妹明子つれて成城堂で『仏和中辞典』贈る。漢文売れし由。教授会に鎌田女史出、副手たちの紹介もすむ。 特別入学金8,800万円入りしと。新館の教授室わり当てにてすみ「P.」買ひて出る途、加藤英倫氏と遭ひ、栗山部長と会ふ。 加藤氏に矢野妹のことたのむ。けふ伊勢の山本夫妻来り、健(※弟)のこといひしと。 夜、矢野より電話「挨拶なにいふか」と。(けふ靴下半打もらひし故、礼いふ)。丸木夫人への手紙返り来しゆゑ包み直す。 長尾良へ『地下の島』包む。 佐藤長氏より「日比野氏(※日比野丈夫)「明清時代地方制度の研究」■(※不詳)に含ませ(※綜合研究費)30万円と内報」 4月17日 5:00起き、8:00出て井之頭小学校の投票場にて都会議員に実川(※実川博)、都知事に阪本(※阪本勝)を投票す。いづれも社会党なり。 三鷹駅へ出、荻窪より地下鉄にて本郷、9:30なるゆゑ古本屋見、琳琅閣にゆき藤岡勝二『満文老檔』と『武皇帝実録索引』にて5千円にて売り。 『支那仏教遺物(130)』と『生活習慣中支那篇(250)』と買ひ、井上へゆき『中国の風俗と食品(250)』、『白楽天(380)』と買ひ、 coffeeのみてゆけば田川博士らをり、昨日もらひし佐藤長氏の内報を報告す。申込み多くて困りしならんと也。 神田氏の送別宴を5月1日にやると。次よりは16:00より東洋文庫でと、よろし。 阿南、神田2氏と昼食。すみて阿南氏と本屋を見、『日本地理風俗大系・台湾(200)』、『日本地図帖索引(300)』買ひbusにて池袋。 西武dept.の早川智慧氏訪ひ『道』と『冬の旅』の批評かき直すといふ。映画の切符3枚もらひし。 立教大学へゆけば手塚氏部長会と。久保副手に伝言わたし、西田生に「遊びに来よ」といひ、 裏にて『極東大観(390)』、『大日本分県地図31年度版(300)』買ひ、busにて中野。重ければ吉祥寺よりtaxiにて帰宅。 木村三千子氏より「藤井府頭は北淀高校長に栄転」と。(けふ久保君より内村君も中学高校長となりしときく)。 石田博士より3月危篤となられしと。末吉栄三「花園高校へ転任」と。薄井英二氏より「電話のこときいた」と。 夜、国越生より「史学研究法は久保生についてゐた」と。 4月18日 晴。成城大学へゆき「史学研究法」やる。その前後に成績表わたせし。本多、川本両副手と話す。川本「柳田文庫わたしには務まらず」といふ。 集英社薄井氏に電話し石田博士許諾をいふ。校門にて多田博士令嬢に会ひ「壺井栄の子入学したゆゑみつけよ」といふ。 吉祥寺南口にて『アフリカの民族と文化(90)』、『インドシナの旅(70)』買って帰宅。 依子をして竹内夫人に電話せしむれば、竹内伊豆へゆきをり「簡単に話すゆゑ、家系履歴などいらず」とのこと也。 服部三樹子氏に電話し、あす『道』もち来ることとなる。 4月19日 鈴木睦美へ写真。佐藤長氏へ礼状。笹井夫人に「60点以上とらせろ」と。林叔父へ写真。湖東より長嬢の体重訂正。 筒井信義君より「岡田先生の本、金送ればよし」と。 夕方服部三樹子氏見え、歌作って『風土』に送ったと。久礼田夫人「歌のこと書いてない」と不満の由。 4月20日 よべ猫帰らず。2:00すぎまで眠れず。7:00起き9:00出て成城大学。 田中久夫氏来らる。東洋文化史すませ2D渡辺といふ以外はみな顔合せすむ。SCAの小島生けふも来て話す。 13:00まで月給出るを待ち(70,400-所得税4,120-共済組合3,900-組合費50-親和会150-国体保険40-信販 8,140=54,000)、 山田氏と下北沢まで同車。新宿より水道橋に出、大安にて『中華文史論叢2(280)』、『東洋学報』の費用払はんとすれば扱はずと。 山本にゆき大学へ『漢巍双書』その他注文し(『明清史料・辛篇』のとりよせもたのむ)、 わが分に『挿図本中国史(1,000)』、『通俗道経(50)』、『我歌旦謡(300)』、『高皇帝実録人地名索引(150!)』買ひ、 明治堂で『大南洋諸島の全貌(200)』買ひて帰宅。(成城堂に『仏和中辞典』2×1,300+α)。 5万円を悠紀子にわたす。けふ諏訪夫人、竹内家よりまはり来り、鯛の浜焼き賜ひしと。 竹森トヨ師より礼状。手塚部長よりハガキ。悠紀子、渋谷へ電話すれば「青木改めて親族会する」と。 4月21日(日) 9:00高橋重臣氏より「長男(正則高校3年)を下宿さしてもらへぬか」と速達。 礼拝にゆき、あと会員総会に出る。長老選挙あり、全員再選。途中で出て杉浦家へゆく。蕗子、萱子ともにをり、求婚者も出て来る。 15:00出て帰宅。〒なし。夜、国越訓子に電話すれば留守。高橋氏に「だめ」と速達かく。 新居夫人、令嬢をつれて礼に来り、花瓶たまふ。帰りしあと「『道』をよむ」200×8書く。 4月22日 晴。9:00出て登校。中国文学史やれば3D出をり。渡辺文子といふが来て2Dみな見る。国越訓子といふが来て採点表の訂正す。 昼食時、松崎女欠勤のため、山田女を呼ぶ。中国語初歩を勉強す。野田宇太郎氏来り、高橋邦太郎氏来る。福島生来らずsemi流る。 短大の中国文学の前に、光華女子大より転学希望の、中国文学と日本文学との関係学びたしといふ子に面接。国文専攻にゆくをすすめる。 すみて短大教へ、高橋氏を待たず出て下北沢の大地堂へゆきしも何もなく、『風景(台湾)(20)』買ひて帰宅。 けさ伊藤佐喜雄来しと。坪井より挨拶。西川(※西川英夫)より「嬢、共立女子中に入りし。(※吹田市長選)山本応援したし。肝臓わるし」と。 鈴木睦美より礼状。けふ依子、スワ母上に会ひ大阪ずし貰ひ来し。竹内夫人に悠紀子会ひて物ほしげなりしと! 4月23日 傘もたず登校。母に電話して「あすぜひ」といふ。老先生をり田中薫となのる。田中久夫氏などにも紹介しあふ。 中国文学『史記』つかひ、すみて昼食。帰らんかとせしところへSCAの小島生来り「けふ16:00より会する」と。返事留保し、 散髪にゆき、「車」へゆきcoffeeのみて帰れば、都留生カギもちゆき研究室に入れず。 (大藤氏にあさ松浦氏あはせ、松村氏を後任にと大体きまり、あと来年の学科のこといふ)。 紀子に途で会ひ、弓子・京叱りてのち、依子帰り来り、「佐藤氏に話した」云々。そこへ竹内夫人より電話。「2時間前に迎へに来い」と。 けふ角川より「『ハイネ18版』5千の印紙を月末までに(5月中旬刊行)』と。 伊勢の山本翁より挨拶。夜、田中万里子生より「29日10:30来る」と。 4月24日 依子結婚式。竹内夫人より「10:00に迎へに来よ」と電話。母より「式場はどこだったか」と電話。 われ依子、悠紀子におくれ、9:10出て竹内家へ電話し、ゆけば待たさる。夫婦きげん良く、taxiとめられず10:40私学会館につく。 12:00より式なりしことわかり、青木夫婦、柏井尚子、母、大とみな待つ。(千草、母と話す)。 式、簡単に了り(澄、誓詞よむ)、披露宴13:00にて待たさる。 佐藤氏の司会にて(※仲人)竹内をはじめ、矢野ら祝詞いひ、「依子、性格強し」が定評となる。 数男の飛入りの祝辞で了り、祝電披露で大江叔母ののみ読まる。 自動車うまくゆかず待つ中、賢夫人の父君けさ急死とわかる。68,181を2分し34,000払って母上と別る(あす竹内に礼にゆくとき清算 と)。 弓子、京、駅にて楽に席とれしと。松村潤氏より「神田信夫氏の送別宴を5月1日18:00松好で」と来あり。 集英社の及川氏より「明日14:00来る」と。(けふ竹内より「筑摩へ楊貴妃書かせといひ、のろしといはれし」と。) 4月25日 雨。9:00家を出て成城にて史学研究法やり、11:20了へてすぐ帰宅。 (ゆきがけ(※山本治雄に選挙戦)「ゴケントウヲイノル」タケウチヤノマルニシカワコツ(※竹内・矢野・丸・西川・骨)」と打つ。 そのまへ丸に電話すれば「明日15:00母、(※大氏の離婚のことで)来よ」と。 悠紀子14:30駅で待合せる約束す。西川にも電話し、山本への電報のこといふ。 悠紀子、婦人会より一足先に帰宅。竹内夫人より電話、スワ母上より体わるくけふ来られずとありしと。すぐ電話あり悠紀子のみにてゆきくれと。 14:20となり集英社の。薄井、及川2氏大きな包みもちて来宅。神田本の写真使へざる外はみな出来をり。挿入個所をきめる。 17:00、2氏帰りゆきしあと、出て京に留守たのみ、 八日市街道にてtaxi拾ひ、竹内家にゆき、夫人に2万円のGift-check(富士銀行本日作製)渡せばよろこぶ。 出て中村家へ寄りしあと四ツ谷。雲呑くひて諏訪弟氏にゆけば母君起きをり、 竹内家で受取りしをいひ、清算見せ2,511渡し(あとにて引物持込料にてまちがひしこと気付く。あと400追加すべし)、 斎藤家(義姉の父)への弔問はあとにて姉上にすることとす。 四谷三丁目より地下鉄にて帰宅。写真の現像焼付出来をり、よくとれゐし。 けふ早川夫人より『日本歌人』にのせるやもしれずと。 (けふ登校の途、坂本浩氏にきけば「新暦の出来すこし悪かった」と。かへり佐野教授と同車、名古屋の人なり)。猫かへらず。 4月26日 悠紀子、衣裳かへしに中村、田中2家へゆく。あと留守番しをれば竹内夫人より電話「受取る」と也。 大江叔母へ手紙かき、千草のこともいひ、写真入れしところへ悠紀子帰り来り、依子の写真も1枚入れ速達とす。 聖心女子の開講とてゆき、小林氏より4月分手当もらひ『論叢20』もらひ13:40教室へゆき、ゆるゆると時間一杯やる。 2時間目は時間あまり困る。すみて神父教授たちの話を陪聴し、田中保隆氏さそひて道玄坂。 beer-hallで一杯のみ、ついで「六兵衛」にゆき(980)、店主われを覚えゐるに感心す。帰宅18:30。 悠紀子、母送りて帰宅せしばかりにて「丸弁護士了解せし」と。(出がけ林叔母来り、ねまき2枚くれしと)。 21:00本間生より速達「あす14:00会する」と。 4月27日 早く起き7:00よりnote作製、一旦出て8:00すぎなるに気付き帰り9:00出て成城。田中久夫氏と同車。 11:20東洋文化史すみ(※省略)、牧野、川本2副手さそひて「すみれ」で会食。 帰りてカギなしと思ひ、鞄研究室へおきざりにし、14:00より柳田文庫へゆく。 本間、三野(明日帰郷と)、鎌田女史をり、写真とりbeerのむ。(丸、松嶋、郷右近、猿渡、長沢、渡辺、西沢)。 15:00出て伊勢丹へゆき婚礼の内祝、 畠山家へtowel(1,500)、紅松家へ同(500)、田中順二郎家へ同(700)と買ひ、7階にて七宝のTobacco-set(銀1万円)包ませて地下鉄。 荻窪にて悠紀子とわかれ、 『大和の名所旧蹟(30)』、『六甲の自然(50)』、『正倉院2冊(140)』、『The Korea hand-book(200)』買ひ、写真の現像たのんで帰宅。 (原田博士『古代人の化粧と装身具(600)』を成城にて買ひし)。 けふ試験手当1.1万円もらひし也。依子と澄、修善寺よりヱハガキ「他に優越感ぜし」と澄。 (矢野光子にいひ矢野夫人に電話し「あす在宅」ときく)。楫井栄養士より鑑賞会の案内。 4月28日(日) 矢野、紅松家への内祝もち9:20出て礼拝。杉浦夫人来ず。すみて階下で衛藤瀋吉氏と会ひ話してゆく。夫人、悠紀子と話し立教女学校の後輩と。 下高井戸にて12:00すし食ひ、古本屋にゆき『みみずのたはごと(250)』、『わが随筆(50)』買ひ、 矢野家へ電話して13:00ゆき内祝呈す。夫人「七宝焼みたい」といひし。 出て紅松家、無人の様子に松原まで歩き電話すれば在宅。 高井戸より荻窪にゆき(bus)、下井草ゆきにのり途中にて気がつき降りて歩き、 井荻にゆき、紅松に電話して上石神井よりのbusにて井荻3丁目とわかる。 16:30に着き18:00まで話す。「佐治良三氏(紅松の亡姉の夫)3児をおき大阪へ帰る。彼岸にわれ待ち玉ひし。4日夕来宅」とのことに電話を約す。 地蔵坂下の古本屋にて『太平洋民族誌(150)』ききて出されうれしかりし。『岡田先生追悼集』来をり。『柳田国男集』第16回来をり。 中西フジヲ君、香奠返しにワイシャツ地たまふ。田中万里子生より電話「あす11:00吉祥寺へ来る」と。 4月29日 悠紀子買物に出しあと11:00田中万里子より電話、迎へにゆく途中悠紀子に会ふ。アメリカ留学1年、香港台北を知る。 われ聖心の初年、みなDに採点せしこと判明。いまは甘き先生と。『韓来文化 中』貸す。 そこへ立教の村田生より電話、昼食のあと来る。爆竹を卒論のthemaとすと。『辞海』、『清俗紀聞』写さす。そこへ鈴木睦美生、初月給とりしと 来る。 3学(※成城、立教、聖心女子)みな代表を集めし。16:00さそひて悠紀子と禅林寺にゆくこととし、まちがへてbusにのり途中下車、 千草母子に会ひし故、3生とtaxiにて禅林寺。写真とりて三鷹駅まで歩き音楽喫茶(300)。別れて『文藝春秋5月号(50)』買ひて帰宅。 千草わが家に来てをり18:00帰りゆく。悠紀子に「中島より2.5万円来し」を話せしと。けふ湖東より「山本に1万円贈りし」と。 4月30日 8:00出て登校の途次投票。社会党後藤を市長に、隣組同武藤を市会に推す。 井之頭郵便局にて角川へHeineの印紙5千枚速達。 成城へゆけば集英社の及川氏より電話「5行詩をも1段にす」と。漢文すませ昼食に親子丼とる(130)。 そのあと図書館へ来ありし山本(※山本書店)よりの本2包とり来る。 (北平関係~年中行事関係と『漢魏叢書』とにて12,410と『太平御覧(8,500)』、『白氏文集の批判的研究(1,800)』、計22,710)。 そこへ文化史の男女4先生来り、人事と予算となり、池辺・今井・鎌田3氏みな変なれど仕方なし。 すみて松村達雄を見て、SCAに「けふ16:00よりの会に出たし」といひ、教授会。 ほぼ終りとなり前田教務課長、SCA多摩川へゆくと伝へくれしゆゑ、 出てともに川原にゆきて讃美歌うたひしも寒く、堤の茶屋にゆき(400寄付)自己紹介す。 われに関係する学生なし。3日箱根へゆくと。18:00出て帰宅。山田秀樹より「税務吏となりし」と。 20:00ごろ白水夫妻来り「九州一周、大阪に寄り28日帰京」と。22:30帰りゆく。 『明治大正昭和犯罪史話』3冊貸す。椎茸1箱たまふ。 5月1日 10:00澄より電話「けふより出勤、元気」と。浅野dr.に電話すれば「川崎の歓迎会す(9日)、湖東より写真来り、田中より説明きけ」と。 山中智慧子、宮崎智慧と『日本歌人』の両女史にハガキ。 田中久夫氏、山田秀樹、湖東博士にハガキ。(浅野つりがき預り「森dr.の愛人急死し死体解剖せし」と。「川崎円祐、三鷹に越してきた」と。) 浅野dr.に自動車、表口までのせてもらふ。16:00前、悠紀子の出しあと荷物持って出、途中にてかつぎて駅にゆけば送料170円! 2.230もらひて渋谷をへて本郷3丁目。時間ありと古本屋を見、交番でききて「松よし」わかりゆけば(※神田信夫送別会)、 神田、岡田、松村、阿南、岡本の諸氏すでにをり、田川博士と後藤、宮原の3氏定刻につき20:30まで漫談。 来年3月の帰朝をまつと挨拶す(5月8日出発と)。ともに出て地下鉄、周藤博士に遭ふ。赤坂見附にて別れ、駒場にて後藤君下車。 神田氏「和田先生いよいよ悪し」といふにて別る。(満蒙資料明代実録抄より三田村、今らの本出ると)。雨中22:30帰宅。 けふ会費1,900、Gelbe Sorte(150)買ひ危ふかりし。 (「松よし」にて夕刊、山本当選を知り西川に電話す。「19期会あす案内あらん」と。 けふ長尾良より受取。朔太郎忌より出欠を問ふ。西武案内に「立教大学教授」と。) 5月2日 曇。朔太郎忌に欠席の通知。9:30登校。大藤教授、予算内容を示し個人研究費3万円と。出版費より本出せと。 史学研究法すませ、class委員選挙とのことに短大より来し3年生5人と話す。久保生の家に電話すれば登校と。 14:00すぎまで待ちて来ざるゆゑ帰宅。(村越『植物辞典(50)』また買ふ。) 睡眠不足とりかへさんと寝てさめしところへ竹内より電話「本宮(※中野清見)来をり」と。 すぐゆき竹内にみな話せしをきく。22:00別れて帰宅。 (平凡社より本出すとて社員も同座しをりし)。茉莉花の鉢植え枯れしと思ひしに芽出てうれし。 5月3日(憲法発布日) 晴。終日家居。悠紀子同窓会へとゆく。われ昼ねし、夜になりて民俗学のnote作る。 安宅夫人より電話「青山通りに見つけた稽古所の開始式を7日に」と。 日比野丈夫氏より「(※共同研究者)4、5名を指名せよ。早くせよ。6月内に金(※綜合研究費)送れる」と。 井辺太郎より「とくり会5月9日(金)18:00泰興楼にて会費1,200」と。 田中雅子より内祝の受取。澄より「うす茶あられ」着く。夜、電話にて「第一便受取った云々」。 5月4日 新聞広告にて筑摩のGreen-Belt Seriesの『神々の誕生』が、日本民俗学を殷代考古学に応用とよみ、 早く出しも途中、日比野氏の便り忘れしに気付きもともととなる。 成城より後藤均平氏に電話「田川、後藤、松村、岡本敬二、我の5人を指名せし」を云ふ。 (成城堂に貝塚氏の本未着、井上・岩村『西域』買ふ)。 東洋文化史やり火曜の2時限をclass会に提供ときめる。田中久夫氏と昼食。「千葉に7千円2間の貸間ありなししらべてくれ」とたのむ。 けふ北平物みなもち帰る。村田「19:00来る」と電話ありしと。 17:00すぎ佐治氏に電話し、南王子に布教とわかる。松浦仙逸氏居住と。「御用あらばまた」にてすみし。 村田来り17:00~18:30ときまる(日比野氏に速達)。林敏夫よりハガキ。三治鐐子夫人より「おちついた」と。 山本信江の夫堀内博士「泉佐野市民病院をやめ玉出にて開業」と。(※省略) 5月5日(日) 悠紀子あさがたより下痢と。われ1人(杉浦母子来るにそなへBible2部もち)礼拝にゆく。聖餐式あり。 すみて帰れば角川より印紙の受取来をり。(渡辺)三治鐐子にハガキ。 小高根二郎に「栗山・池田2博士、奈良へゆく」と速達かく。浅野dr.に電話すれば不在。 19:30訪ひあり高知の橋本氏(42才と)菓子もちて来る。「福富氏の石油会社に変りし」と。浅野晃氏『岡倉天心』贈る。 はさみありし俸給表にて33年3月東洋大学の俸給(29,000+2,250)、手当2.8万余なりしを見る。 話中、名古屋より電話といふに、畠山六右衛門氏。 「内祝つきし。19日府中競馬にゆく」といひ、入れかはりてノリ子君と思ひして依子出る。(※夫は)魚きらひといひし由。 5月6日 修学旅行の出発見送りにゆかず(ゆふべ睡眠不足のため)、『齊民要術』の農諺ちょっと見て11:30家を出(小雨)、成城大学。 福島生来ず、高橋、野田2氏(※野田宇太郎・高橋邦太郎)来る。 文学散歩の会に出るを約し、図書館の本借り出してのち鎌田女史に茶菓ふるまはる。 けさ大藤氏ら見送りし由。吉川生来り、本間生より電話、きのふ石渡家へゆきしに父上洋行中と。 教務にあすの中国文学休講届ける(2D class会のため)。短大の漢文12名のみ出席。 すみて野田氏まち「オリッサ」にて喫茶(けさ出来し『文学散歩17』受取る)。福留生の如くなれと也。17:00すぎ散会、野田氏と同車。 スワ依子・母上よりの便りあり。炬燵に香ばしき匂ひすると思へば、タバコ入れおとして燃やせし也。 20:00集英社薄井氏より「神田先生、神田本の撮影ことわられし」と速達。 5月7日 8:00すぎ丸に電話すれば「ルリ子より便りあり、8月以降の生活費送れ」とのみありしと。 下北沢より母に電話していふ(のちほど大より家に電話あり、丸にきくこととなりしと)。 10:30に34教室にゆき2D class会といふをやる。醜き子なくなりし。森村学園と立教とが多し。 午后フランス語の山本氏の時間もらひ、列席乞ひ、ひば食ひ歌ひてすごす。そのあと山田氏さそひてオリッサにゆけば大藤、鎌田2氏をり、 山田氏より諺についてきく。(けさ『齊民要術』の諺かきぬきし)。 朝、集英社に電話、薄井氏に「神田信夫氏渡米」をいひ「古典保存会よりの複写お見せせよ」といひしに「小林太市郎氏逝去と新聞に出ゐし」と。 帰りて中川与一氏洋行すとのたより。前川佐美雄氏より「鳴上氏の(※鳴上善治歌集『花に坐す』)評かけ」。 17:00村田生来り大野、福島、京の家庭教師第一日。すみしころ出て挨拶す。浅野dr.より電話「クラス会出席8人」と。 5月8日 家居。明渡淑江より「4月増田姓となりし」と。14:00出て散髪。下北沢をへて東洋文庫へゆけば16:10。 置き忘れし閲覧券もらひ、松村氏の室へゆく。岡田君よみ岡本、阿南の2君と聴く。 17:10すみ、駒込にて阿南君と別れ目黒八宝園へゆけば成城時間やめとなり、すでにはじまりゐし。 新任の紹介あり。話し相手なく高橋邦太郎氏来ず、伊東や詩のこといふ高校2先生に「そのうちに」といひ、 古本屋見、Richthofen『支那Ⅴ(100)』買ひて帰宅。(『花に坐す』をよみて5枚かきて前川氏に送る)。 5月9日 9:00成城。山田俊雄氏「諺」の訓たまふ。史学研究法すませ、川本副手に研究室への本として『支那の民俗』など選ぶ。 完本なくわがsign必要なかりしことわかる。田上生も永尾竜造もち来り貸さんと。アレルギー性の湿疹と。 校門にて呼びかけしは安倍生にて「福島と2人わがゼミに来る。福島10日出発」と。さそひて風月にゆけば4年生3人をり。 出て帰宅の途、『ラテンアメリカ史(80)』買ひ中道郵便局より電話し傘もち来よといひしにゆきちがひとなる。 山田君江夫人台北よりヱハガキ。名古屋より「書留つかず」と電話。 17:00出て八重洲の泰興楼(※大高同窓、川崎円祐の歓迎会)。中村治光と階上に上れば、井辺太郎をり、中村は石川島へかはりしと。 金沢、清兼、田中幸三郎、広島、西川来り、倭ソ連へゆき、池田大阪へ転勤と。川崎、浅野(※浅野建夫)20:30来り、記念撮影のあと散会。 川崎に車さそはれ金沢、広島と乗る。川崎、商業desinerとして有名。3日して世界周遊に出発と。 2人となりしあと、くやみ云へば、令息腎臓病となり試験最後の日、死に、今度の旅にて石拾ひ来て墓へ入れる(外遊さすこととなりゐし)と。 5月10日 開校記念日にて京休み。悠紀子私学会館へ写真とりに出る。われ少しおくれて出、聖心女子にて海老沢、青山2博士に遭ふ。武島羽衣先生を見て茶つぎまいらす。 2時間とも時間いっぱいやり、15:10出て広尾橋よりbusにのれば、芝・新橋をへて銀座。4丁目よりbus、池袋行にのれば、つかへて神保町16:30。 集英社にゆき組見本に意見いひ、出て内山にて『李太白』きき2冊買ふ。史の部長・課長へ贈ると也。 ここよりbusまちしに来ず、都電にて渋谷。日比野丈夫氏より速達「上長の承諾書を出せ」と也。 けふ私学会館にて自動車代1.3万預けしが、1.0550。差引2千円余り返りしと。写真代5,800払ひし(20枚分)と。 田代継男君より電話かかり「明日朔太郎忌で会ふを喜ぶ」と。悠紀子「ゆかず」と答へ「そのうち浦和へ呼ぶ」とききしと。 5月11日 早めに出て成城堂にゆけば貝塚氏の本おくれると。庶務で定期の証明、会議で交通費補助(750)もらひ前田課長に綜合研究への学部長印もらひ、 東洋文庫へ電話すれば田川・後藤2氏欠勤。松村氏未出勤と。 東洋文化史すませ、いそいで後藤君にゆけば無人。文庫の岡田氏に電話すれば「書類もって来い」と。渋谷で親子丼くひ(120)、山手線で文庫。 岡田君にたのみ巣鴨まで歩き新宿で下車。 都busで荻窪、古本市にゆき『杭州奇譚(京本通俗小説)(30)』、『A general view of the present religious situation in Japan (10)』、Bartold『東洋研究史(150)』買ひて帰宅。 村田生、すでに教へに来をり。神田氏より外遊の挨拶。『果樹園87』来をり。面白くなし。けふ2Dで朔太郎を語る。 5月12日(日) 8:30出て杉浦家。夫人「さきゆけ」といひし故、古本屋見などして9:50まで待ち、新しく来し男女案内し、「罪人のかしら」のお話きく。 すみてふりかへれば悠紀子をり、杉浦夫人もゐたり。名店会館前にて別れ、帰宅。 昼食大食し、昼寝し、電話帳よみて亘理信一といふを見つけ、かけしもかからず。夜、石丸静雄を見つける。 けふ小高根二郎より「池田・栗山2博士には会はざりし」と。 5月13日 曇。9:30出て歩きて東町、亘理信一といふを訪ね、とりつぎに出し青年に父のこときけば51、2才と。木曜まで旅行と。 「高石小学校か否かきいてくれ」といひ、名刺わたし、 吉祥寺駅で定期券買ひ、下北沢で玉村式索道に電話すれば、村田幸三郎帰朝しをり「亘理とは卒業以来会はず」と。 登校してすぐ福島恵美子生来り「出生の行事」やると也。猪狩・宮崎2生来り「鏡」と「櫛」とやるとなり。 高橋邦太郎氏にpâoたまひ、短大すませて成城堂へゆけば『神々の誕生(190)』来をり。『史記』あまりしと也。 吉祥寺南口の古本屋にて『朔太郎の手紙(100)』買ひて帰宅。 千草来てをり「学生に1室貸したし」といふに高橋隆臣君に電話すれば外出と。 千草帰りしあと20:30電話かかり「今のところ(元入谷分教会)にをれる」と。ふしぎなること也し。 けふ坪井より「5.29(木)上京、6.2までに渋谷の宿せわできぬか」と。太田陽子夫人より「6日クラス会する、来てくれ」と。 5月14日 よべ少眠。8:30出て成城大学。100人とcard勘定して教室がへいひしもだめ。64番教室をけふのみ使用す。 すみて昼食、詩経をよみ、printを川本副手にたのみしあと、松村達雄に亘理のこときけば「堺中にて一年下、農林省にをり、いま日大教授」と。 SCAの会まちしも来ず。栗山部長(けふ帰りをり)待つ大藤氏と同席しゐしもだめにて、出て下北沢。 古本屋見しも何もなく、吉祥寺にて無名書房にて『成語小詞典(150)』買ひて帰宅。 高橋雍子夫人(※高橋重臣夫人)より「天理教会にて置いてもらへる」とハガキ。ふしぎ。 けふSCAの部員名簿もらひ、文芸はE、Aのみなるを知る。ふしぎ。 けふ村田に桑原・矢野2博士の火薬の項みよと。また『荊楚歳時記(守屋本)』貸す。 5月15日 家居。坪井に「宝栄館たのみあり」とかきしあと、団体出来て他に世話すと電話。硲、太田夫人、高橋夫人へハガキ。 『花影』(『道』『風祭』の出版記念会の辞、出てをり)。渋谷より電話「一度来てくれ」と。「金曜ゆく」こととす。 文芸新聞社より「類別日本詩集に「朝」・「鳶」・「寒鳥」・「鳥」のせる」と。史、けふ前橋へ出張とて帰らず。 5月16日 9:00出て史学研究法。すみて池田博士(※池田勉)の帰り来りしを見る。 (のちほど高鳥、柳井(※高鳥賢司、柳井三千比呂)らが清水博士(※清水文雄)案内するに遭ひしをきく)。 16:00までまちてSCAに出、ローマ書第2章よむ。受洗者横山君と我のみらし。すみて同車せしは小出?とて経1、吉祥寺南に住むと。 わが出しあと亘理君より電話ありしと。こちらよりかければまだ帰らず。20:00かかり近々会ふこととす。父君88才と。 5月17日 雨。11:30出て聖心女子大。2時間すます(田中万里子「25日来る」と)。雨の中を出て猿楽町。 母をり、大帰り来り(あすより1週間大阪へゆくと)、離婚調停いそいでくれるやう丸にいふこととし、5千円預る(丸に電話するもつかまらず)。 村田に亘理のこといへば「月曜吉祥寺へ来る」と。帰宅すれば集英社の及川氏より電話あり 「神田先生3校位とりてよしとの仰せ、とりてやるかの相談に月曜来たく、ついてはあす午前中電話せよ」と也。 坪井誠也の結婚披露、5.25に麻布プリンスホテルにて会費1.5千円にてと。『果樹園』合本来る。 夜、丸に電話せしに帰らず。夫人に電話してくれといふ。亘理に電話し「月曜あけよ」といふ。 5月18日 よべ、するめ食ひ胃あしく、雑炊くって成城大学。前田課長に教室のこといへばだめ。(『杜詩2』を成城堂で)。 松崎女、昨日けふと欠勤と。川本副手printし、茶出す。 東洋文化史すませ(集英社に電話、薄井氏に「月曜11:30~12:30成城へ」といふ。朝、丸に電話、都合きけば「日曜、夜」と)、帰宅。 山田女史、Vetnamよりヱハガキ。6月2日は聖降臨日(ペンテコステ)と教会より通知あり。 午后より涼しくなり炬燵入れる。村田生来る。けふ『祭祀と文学 国学院雑誌60-5(70)』買ふ。 5月19日(日) 礼拝にゆく。「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ」をきく。杉浦夫人をり、この次蕗子つれてくると。矢野光子・京よりヱハガキ。 鳴上氏より礼状「吉永氏生野高校教頭」と。大江叔母より「依子より佃煮受取った云々」。ひるねちょっとし、18:00出て福島・大野2家へゆく。 村田の教授よろこぶと(途中、京に会ふ)。丸にゆき5千円わたし調停にかけることたのむ。 中野清見より依子のこときいたと(長嬢よりきけば吉祥寺に中村生をりと。この土曜すれちがひし也)。 母に電話すれば「話たきことあり」と。水曜ゆくといふ。河野のタカ夫妻来をり。名古屋より電話あり「荷物着いた」とありしと弓子。 5月20日 雨。8:30出て成城大学。旅行帰り来り、芸術にノイローゼ1人、文化史は風邪2人のみなりしと。 薄井氏11:30来りしゆゑ『白氏文集神田氏本 巻4』の百練鏡の個所を追加にいただきたしと神田先生にいふことをたのむ。 そのあと野田氏、けふ蘆花公園へゆくときき、福島・安部2生とゼミやりしあと、短大30分して2生さそひbusにてゆき、 待つうち50人つれし野田氏来る(※文学散歩の会)。陳列室も見せられ、昭和女子大生4人を加へて千歳烏山に出て京王にて明大前。帰宅18:30。 (けふ村田より電話、あす19:00北口に来ると。亘理夫人に電話してその旨いふ)。末吉より平石芳太郎氏浪速高校長となりし祝ひすと。 坪井よりclass会いつにてもよしと。本間生より葵祭見に京都へ来たと。トクリ会よりこの間の写真。 5月21日 9:40成城大学。漢文すませ亘理信一より電話ありしときき、再びかかるを待つ。13:40までかからず。5月分俸給もらふ。手取59,620。 教授会にて修学旅行の計画変更の必要ほぼ定まる。すみて今井氏にご苦労謝し、 成城堂へ本代(1,040)払ひにゆき、中川与一先生に会ふ。洋行6月5日出発と。 帰りて夕食。すぐ出て駅に村田まち、19:00来しを夕食に案内し、いづこも休みとて大阪ずしに入れ、亘理に電話すれば父上入院。境の日赤にゐると。 家へ電話したまへといひ村田連れ帰りしに20:00亘理君来て20分話して悠紀子のつかまへしtaxiにて三鷹へとゆく(村田傘なくせし)。 農学部を出て農林省にゐしあと去年より日大と。けふSingaporeの南村夫人より返事。山田夫人には会ひをらぬ様子。 悠紀子、母に会ひしにルリ子の体のこと云ひたしと也。写真まだ出来をらずと。昨日山本より来し『明清史料辛編(4,000)』もち帰る。 けふ史「本省へ出向きを命ず(6綬2号俸、係長)」の辞令を見す。 5月22日 10:00に悠紀子と出、われは小田急dept.にwhite-shirt仕立たのむ(6月5日出来と)。 暑く、汗かきつつ渋谷の古本屋にゆき『1954 Yearbook of Jehovah's Witnesses (50)』と『Progressive Formosa(100)』と買ひ、 悠紀子に会ひ、東横dept.で健と寿一へ祝返し。母に電話すれば林叔父来ゐると。すしと苺を買ひてゆき、 丸に電話すれば来よと(戸籍謄本いると)。坪井の会30日「春日」でときめ、地下鉄にて西川。会のこといへば「よし」と。 矢野に電話すれば「室(※室清)にいふ」と。村田に傘なかりしと電話で伝言たのみ、ice-coffeeのみ、 (けふ暑く、夏の鳥打とシャツと東横で買ひ、着かへし也)、都電にて東洋文庫。1時間『李朝実録』やり、天丼くって(140)、 江上波夫氏の、皇室高句麗系辰王との話きき、出しところへ立教大小田生とも1人。また来よといひcoffeeのます。 帰れば集英社来り、本返し、坂根来り祝おきしと。22:00電話かかり、坂根にて、けふ帝塚山の同窓会ありしと。 市古宙三より鈴木俊氏の還暦祝の相談会を6月4日にと。矢野より「室出席、加藤不明、竹内にはわれいへ」と電話ありしと。 5月23日 出がけに竹内に電話すれば「痔瘻で入院」と。下北沢で横山薫二に電話すれば出勤と。史学研究法すませ(栗山部長に特別研究費3万円の申請す)、 紅松、鎌田に電話す。紅松出席と。横山不在のため伝言たのむ。原田はかからず。 今井氏の教科書の製本し、松浦氏の後任松村氏(※松村一雄)に大藤氏と面接(市川に住むと)。(※省略) けふ坪井に「30日会す。1日他に泊める」と速達。 5月24日 11:00出て(矢野に電話「奥戸呼べ」といふ)、渋谷にて原田運治に電話、不在とてclass会の伝言たのむ。 聖心女子大にて2時間目、Magellanのことのみにて時間あまる。小林氏に手当もらひ、母にあひ、戸籍謄本もらふ。 史、早く帰って2階でねてゐる由なりし。busにて蚕糸試験場、丸宅へゆけばもはや帰りをり、謄本わたし調停裁判所への願書預りて帰る。 硲晃氏より「北野高校に石田君といふがあり」と。福島生の母より「よろしくたのむ」と。 (阿佐谷にて古本屋見しも買ふことなく、吉祥寺中央書房にて『二都物語(50)』買ふ。) 上原君より、松村先生、阿佐谷の「北大路」にて飲みゐること電話ありしと。悠紀子、丸に電話かけしと。 夕食してすぐ出、「北大路」にゆけば上原、中川(立教大学考古学 ※中川成夫)をり、 酒飲む中、中川君「汝は藤田亮策先生の葬儀にゆかず、墓地にゆかず、未亡人見舞はず、しかも防衛大学教へしゆゑ軽蔑し、敵なり」といふ。 われ敵なしといひ、「帰れ」といふに出る。 上原君送り来り、わが受洗はじめて知りしと(彼は3月24日受洗と)。 帰りて入浴22:30也。(けふ井之頭線で高山岩男博士に会ひ挨拶す)。 きのふ悠紀子に婦人会で紹介されし斎藤イサム氏は地質学の先生にて、松村先生あす電話かけおくと。ふしぎ多く、ありがたし。 5月25日 夜半めざめ1:30なるを知る。悪酔ひにて水のみし。4:00ごろまたねる。予習せずゆきて東洋文化史に出て「やめん」といへば「やめよ」と。 田中久夫氏をまつ間に松村氏へ中村地平の小説集3冊を書留めとす(130)。11:50田中氏と出、「すみれ」にて昼食。 稲毛辺にては4.5で3,500円と。きのふの藤田先生のこといへば「千葉大にも来講」と。 別れて帰れば、田中マリ子生10:30ごろ来しを13:30また来よといひしと。 日比野氏より「後藤君の承諾書未着」と来あり。田中生、伊藤生をつれ来る。後者はふつうの子なり。16:00まで話しゆく。 (後藤君に電話すれば「すでに送りしも再送付する」と)。竹内を永沢外科に見舞ひ、会ひて痔瘻の話きく。 帰れば永山光文より電話「亀井上京、いま鈴木のところにゐる」と。「吉祥寺へ来よ」といひ夕食し、 19:30「春日」に来をりとのことにて悠紀子とゆく。「三並敏邦急死せし」と。末吉とは合はずと。22:00ごろまでゐて帰宅。 角川より「18edの写真つかへず」と。(けふ村田の家庭教師に折合はず、叱る。) 5月26日(日) 日比野文夫氏へ「後藤均平氏に電話せしに、すでに送ったがも一度承諾書送る旨返事あった」と。 礼拝にゆき、すみて齋藤夫人に悠紀子とゆき、松村一雄教授のこといへば先生にも紹介さる。まへより見識りをりし老人にて、けふは受付にをられし。 杉浦夫人、蕗子さそひて帰る。慶応の三輪福松教授の嬢いぢわるしと。 14:00まで話し(依子より写真送り来る。横山薫二より出席と。)悠紀子送りゆく。(※省略) 5月27日 母より早く電話あり「史、泊りによこせ」と。9:00出て成城大学。中国文学史の教室にゆけば、休講を誤示せしため林双生児ら数名のみ。 経4の男生つれ来って話し(角川に電話し「あす12:00成城へ来ればHeineの挿絵貸す」といふ)。 出れば林生らに会ふ。(※省略) 西武dept.へ13:00すぎつき13:30とたしかめ(宮崎智慧氏不在)、「立教大学教授」との掲示を訂正さす。 13:35よりはじめ14:00に5分あましてやめ、礼3千円もらふ。 立教裏の古本屋へ久々にてゆき、『俗信と迷信(350)』、『匂へる園(330)』、『文藝春秋6月号(80)』など買ひ、 busにて中野、またbusにて吉祥寺へゆかんとし、馬橋すぎしところにて下車。 堀夫人に電話すれば「13回忌をやるゆゑ、今年の墓参は内輪だけ」と。 5月28日 朝、母より電話「大帰り、ルリ子と会ひしゆゑ、すぐ来てくれ」と。 朝食せず出て渋谷で丸に電話すれば「書類既に提出」と。のちほど弁護士会に電話するといひ、 (※渋谷へ)ゆきて(※大より)話きけば「土曜来り会ひ、一層腹立ちし」と。 丸に電話かからず、22:30家に電話すればまだをり、話つく。(その間、成城に電話し「休講するが12時ゆく」といふ。) 11:30成城にゆき、福島生見つけてきけば「けふ来る」と也。 角川来ず、電話すれば「今、中沢君とといふをやりし」と。来しにHeineの写真のりし本貸し、福島生と3人にて「すみれ」にゆき昼食。 帰りて『柳田国男集』の17回受取る。坪井より電報「東京駅前に宿とる」と。悠紀子ことわりにゆく。 史、けふ渋谷へ泊りにゆく。大3日間再び大阪へとゆく。けふきけば史、6月名古屋辺りに赴任と。福島生と安部生と17:30来り、話しゆく。 福島生『南方の拠点台湾』呉る。(集英社より電話「明日か明後日ゆく」と返事す。寿賀子より祝返しの礼。) 5月29日 晴。Madisonの林俊郎へ航空郵便。散髪。昼食くひて成城大学。特別研究費による書籍購入申請し、新宿をへて集英社。 小林太市郎氏160p書きし原稿を枕許におきゐしと。集英社より出版のこと知られざりしと。齋藤先生わが王維の補訳賛成されゐると。 凡例かき、挿絵の説明かきて出、山本に寄り『シルクロード』2冊と『東西交渉史料』と学校へ送ることたのむ。 仁井田博士ゐて挨拶せし。都電にて新宿、下北沢大地堂へより市の買入れたのみしもきかず、『七世夫婦(30)』買ひて帰宅。 成城堂にて『ことわざ科学(220)』、『シベリアの歴史(250)』と買ふ。〒なし。入浴。 21:30「アス6ジ新宿中村屋で会ひたし坪井ダイニシ」の電報来る!? 5月30日 曇。9:00出て成城大学。栗山博士来ず。 史学研究法すませ(神保氏といふが暉峻博士の後任とて話す)、SCAの16:00よりといふに少しまちて止め、一旦帰宅。 ねむきも昼ね出来ず(丸より電話「中村屋待合せよ」と)、16:30出て明大前をへて中村屋の前にて待つ中、平石芳太郎氏に遭ひ、中村屋にて喫茶。 坪井の待合室にゐるを見つけ紹介す。そのあと「春日」にゆけば丸、横山、紅松をり、やがて藤田、矢野、奥戸、室、西川と10人(※大高class会)。 本庄先生の古稀祝あつめ預かる(8千円)。20:30散会となり、矢野に誘はれ民謡酒場といふに5人にてゆき、22:00すぎぬけ出す。-+ 5月31日 傘もちて11:30家を出、聖心女子大へゆく。海老沢博士をり、青山博士来る(鈴木俊氏の還暦祝の相談会のこといへば博士こそ今年還暦と!) 2時間すまし、空腹にて東急にてcoffeeのみて帰宅。 咲耶より「裁判を丸にせっついてくれ」と。やがて母より電話「調停裁判に26日大の出廷をいひ来しこと丸にいへ」と。 夕食し、19:30の約束に夫婦してゆけば坪井まちをり(松村一雄先生にこの間の興を殺ぎしわびかく)。 3人にて杉浦家へゆけば、夫人来客にて用意できをらずと。のちほどbeer4本と肴出したまふ。蕗子嬢帰り来り疲れし顔しゐる。 (坪井に9人分9千円ことづける。本庄先生古稀祝なり)。22:00近くなりカヤ子(※萱子)帰らず。 出て駅便所にて、つれ小便して(※坪井明と)別れる。 6月1日 四大学祭といふに9:00成蹊大学へゆく。出欠とりをり、9:30教務の前沢君(われは小林君と思ひし。1男の父と)つれ帰り茶のます。 10:30都留生、4B古田部生つれ来り、昼食しゆく。 (古書展に電話しウツギ書房にきけば、満洲国10万分1地図22枚、同50万分1ともに慶応を落して成城におち、誰かもちゆきしと。不審)。 13:00悠紀子と出てまた成蹊。地質展など見しあと佐古純一郎(二松学舎教授と)氏の「人間性の復活」をきく。龍之介、太宰のことをいふ、不審。 ついで成城教会平出牧師(81才と)の講演。大声叱呼さる。帰りて丸夫人に電話す。「咲耶よりもたのみ来し。26日の通知は知ってゐる」と。 けふ澄より「母上名古屋へ来て自律神経障害を起こせし云々」と写真送り来る。 6月2日(日) 9:50礼拝にゆく。(杉浦夫人「けふは参れず」の電話)。ペンテコステの転会者2人、聖餐式あり。 すみて齋藤先生に御挨拶し「けふはいかに」と問へば「孫来り疲れし」との仰せなりし。 帰りて昼ね、松村一雄先生より「地平の本もしばらく貸せ」と。史、箱根より帰り来る。 6月3日 朝から雨。森桂子と同車。中国文学史久しぶりにやり、詩経すませ、代返せしといふ短2生に会ふ(自白しに来し也)。 昼食まへ。福島生来り、野田氏に会へば「隅田川を文学散歩にかけ」と。「かくことなし」といふ。 ゼミの時間、安部生と3人にて写真とってもらひ、高橋邦太郎氏と話す。そのあと『唐詩選』すまし、高橋氏と喫茶。 東伏見の松田信隆、海外へゆかざるをいふ。サイゴンの地図見せよといはる。 川久保(※川久保悌郎)より「この間、一日滞京」と。『ノンフィクション全集』2冊来る。 6月4日 雨、登校。中国文学やる。高田教授、個人研究費の人中にわれのぬけゐるを発見、栗山部長にいふ。 午后身体検査受ける(血圧112-74、体重40kg)。 すみて山内講師の室にゆき城南古書展のこといへば、助手君ゆき5万分の1とり来しも満洲の地図は知らずと。 山内博大地図の蒐集家にて咸北東部の交通図もつことを知り、利用たのむ。 慶大の江坂輝弥氏といふがをり、市の慶応はこの人と。(大藤、今井2氏にも会ふ)。 史記のnote写せしあと15:45よりSCA、太宰のことを佐古氏、肯定的なりしといひ、その愛せられんとの欲望強すぎしをいふ。 16:45出て新宿・水道橋をへて(大安により『科挙(200)』買ふ。けふ川口組合委員より10日1.85出るときく)学士会館(※鈴木俊還暦祝の相談会)。 市古、窪(※市古宙三、窪徳忠)2世話役のほか吉田、中島、矢沢、河原(途中にて会ふ)、川上、和田久徳の諸氏をり、 あとにて榎、三上(※榎一雄、三上次男)の2博士来る。 奨学金出すか、記念論文集出すか、鈴木氏の本出すか、まとまらず。実行委員ゑらび21:00散会。羽田(※羽田明)あす来講らし。22:00帰宅。 悠紀子、史の高松にゆくらしきをいふ。JohanesXXIIIけさ昇天と。 (アーダ夫人に電話すれば主人出て「1時間ほどすれば帰宅せん」と。ヱハガキの礼伝へよといふ。その後まちしも電話かからず) 6月5日 午前中は雨。〒なし。16:00出て明大前下車。『らくがき文化史(150)』買ひ駒込。天丼くひ(130)、文庫へゆけば、ほぼ18:00。 聖心女子大の2生来をり。会場で阿難、松村、岡本の諸氏にあひ、けふ研究日なりしと(田川氏出張にて実は流会と)。 羽田来りわれを見つけて笑ふ。 準噶爾(※ジュンガル)考は、Khalkha(※ハルハ)蒙古のKhoshot(※ホショト)がはじめ優勢なりしと。 Durben Oirat(※オイラト)は実は4部でなくてよしと。難解なりしならん。(※清・ジュンガル戦争について) すみて(※羽田明)待ち、ドイツ人のGafaim女史と新宿まで同車。さそひてbeerのむ。長男コーイチ君大阪外大へ入学、ペルシャ語科と。 Kon baksi(※今西博士:baksi=巴克什=博士)石浜先生の講師ことわりにゆきしと。その他云々。地下鉄にて別る。 6月6日 雨。10:00登校。松崎女また欠勤。われprintに「史記における諺」切り、川本副手に刷らせて出、 成城堂にて『トンガ王国探検記(220)』、『南太平洋(390)』、『格言・ことわざ集覧(80)』買ひて帰宅。 日比野丈夫氏より「後藤均平氏の承諾書未着」と。文庫に電話せしも午后休館。 伊勢の治子(※健の妻)より「内祝受取った」と。入浴。弓子夜行にて尾瀬にゆく。 6月7日 雨。おそく起きnote作りて聖心女子大。田中保隆氏「clubあれど酒のまんか」と。忙しといふ(青山博士東方学会へと出てゆく)。 帰り渋谷に寄り咲耶より「20日以後警戒せよ」との手紙を見て出る。けふ〒なし。 6月8日 9:00登校。松崎女また休み。川本副手、茶をせわす。麝島生来り、本もちゆき、教室にて私語する故叱る。 11:20すませ川本生より「けふ鈴木正義結婚、橋渡しは山田君江」ときく。 田中久夫氏と出て昼食。下北沢の古本屋に同道。『現代紀行全集補遺篇(50)』買ひ、別れて吉祥寺にて『極光のかげに(30)』買ふ。 けふ村田生来り『台湾風俗志』貸す。京、大野福島2友を泊める。 坪井より礼状と寮歌集。田上生より手紙。自彊会より13日(木)17:30より第2回と。 6月9日(日) 9:20出てマルゼン道具屋にゆき、土曜にはかりし本棚の寸法わたす。一週間位にて出来ると。 礼拝すみて田口嬢・杉浦夫人を見しも、齋藤先生を見ず(衛藤氏当番とて受付にありし)。 帰りて昼寐せんとせしも果さず、三井生命の勧誘島田夫人といふに飯倉紀子への紹介状かく。apartの佐藤氏出るとて一女性来りし。 『不二』来り保田この間、宇都宮師団の藤原陸将に会ひしをしるす。 読売夕刊に熊野神社、豊橋に10社以上あり、熊野4姓といひ鈴木・榎本・宇井・荘田(正田)これ也と。 20:00弓子、尾瀬の花ヱハガキもちて帰宅。 6月10日 9:30登校。松崎女史来をりbonusのこと知らざりしと!中国文学史に「史記の諺」くばり、 すみて(山本への支払伝票を部長にわたす)山本より守屋君の本(※守屋美都雄『中國古歳時記の研究』)の広告来ゐるを見て、電話にて注文す。 安部・福島2生とゼミ了へbonusもらひにゆく。96,440-税19,280+PTA35,200=112,360也。 野田宇太郎氏と荻窪の古本市にゆく約束し、15:10までと約束し講師室にかへる。15:20までまちて出、準急にて新宿のりかへ、田中久夫氏に会ふ。 『満蒙パンフレット合本12冊(250)』と『昼永編(200)』と買ひ、野田氏の来るを見、福田秀一、村田生を見る。 田中氏帰るとのことに(徳永氏来ず)出て喫茶、また引き返し『比島事情(50)』、『南ボルネオの土と共に(50)』、『南洋大観(30)』と安本買ひ、 野田氏ゐざるゆゑ村田生を引きて南口にて『アフガニスタン(80)』、『トカラの島々(80)』買ひ、茶のみて帰宅。 弓子もbonusもらひしとcake1箱もちて帰る。けふ午ごろより暑くなる。(深更SCA誌に「感想」6×200書く)。 6月11日 9:30登校。漢文やり、疲れて昼食。また漢文やる。4年と浅田とにて8名か。中に徳田一穂の嬢あり。 露伴かく芝原生に「吉祥寺教会へ来よ」といへば「来る」と。すみて4Dに逢ひしも、われこはしと也。 14:00より教授会。新校舎に個人研究室みな遷れといふことにて山田氏正論吐く。栗山部長のちになり尻つつかれて篠原部長と善処をいふ。 散会19:00(けふ山本へ守屋の本と別に『英訳齊民要術』をとりのけくれ、『明実録』送れといひしも後者は売切れゆゑとりよせると也)。 空腹にて下北沢下車。またのり東松原にて天ぷらそば食ふ。あさ駅前にてたのみし焼増し25枚出来をりし。『果樹園88』来をりしのみ。 6月12日 9:30(※悠紀子夫人と)出て中道郵便局で果樹園社へ3,200現金書留で送り、井之頭線で渋谷。 白水ちづ子夫人に電話して誘ひしも、夫君外出のためゆかれざらんと。 高島屋8階の青木大乗外遊展見る。「最後の晩餐」の変画あり。 6階へゆく途中、弥与子生に遭ふ。父母にも会ひ、8階で買ひし画集(400)にsignもらふ。「ピカソの家の裏」といふがよかりし。 食堂へ券2枚もらひて別れ告げ、富士アイスで昼食。 都電にて小川町、筑摩に借りをきけば7,072、払ひて明治堂にて『太平洋民族学(250)』買ひ、隣にて地図5枚(桐生・高崎・深谷・熊谷)買ひ、 主婦の友社より集英社に電話して小林太市郎氏のこといひ(神田本の写真来しと)、昇竜堂といふにゆき、渡辺俊子たづねればをり。 社長斎藤氏に紹介され令息が木檜助教授と知合と。茶よばれて出る(鈴木の結婚祝を山田君江夫人邸にてやりし様子)。 お茶の水駅にて悠紀子と別れ、busにて東大前。琳琅閣にて学校へ本注文し、文庫へ都電。『説郛』かり出し、 田川博士に会ひ、地図と後藤君のこといひ、『東洋学報』の代1,010払ひ、『説郛』の「農家諺(崔寔)」と「呉下田家志(陸泳)」と抄し、満蒙資料の会。 松村、岡田、宮原とわれと5人のみ。17:10すみ夕食に出(松村、岡田2氏と)、和田久徳氏の話きかぬこととして帰宅。 山本恭子より「Pianoの弟子の世話せよ」と。 6月13日 成城大学へ登校。史学研究法すませ、昼食くひ、写真くばりしあと、山田教授さそって帰宅。 『礼記』よみ16:00となり出てゆく(駅前にまた焼付3枚たのむ)。 渡辺俊子よりのヱハガキ学校へ来てをりし故、ふしぎと絵葉書かき、投函して無切手に気づく。 自彊会第2回に19期われのみ。11期の森博士と隣る。建設相の技師といふは2年前彦根にをり、丸野木町の石島dr.の向ひに住みしと。 佐伯誠一dr.が司会者にて、森氏のあとわれ当り、19期欠席の理由のべる。 伊原画伯をしんがりに20:00となりしゆゑ出て帰宅。宮崎幸三、田中勤氏など出ず、むだなりし感じ也。 22:00近く村田夫妻より電話、この間の返礼に御馳走したしと也。 6月14日 午前中雨。11:30出て井之頭線神泉で下車。宮崎幸三氏に電話してきけば「昨夜、気がすすまざりし故ゆかず」と。 道玄坂の古本屋にて茂吉『石泉(30)』買ひ『諸子百家(100)』買ふ。渡辺俊子に電話して切手はりわすれしをいふ。 聖心女子大-ゆけば。海老沢博士あり「手塚氏の祝賀は史学会主催ゆゑ出てよし」と。Album用の写真とらる。来週金曜は休みと掲示にあり。 出て雨やみしを見る。帰宅16:00。薄井氏より「神田本の写真来て宜し」と。神田博士に礼かく。 硲氏より北野高校の石田氏、府教委の指導主事となりしゆゑ適当な人をたのみゐると。丸善道具店より「本棚出来た、月曜もちゆかん」と。 夜、齋藤齋先生に電話すれば「土曜だめ、日曜礼拝のあと来よ」と。悠紀子、同窓会なり。 6月15日 10:00成城大学。山本より守屋美都雄『中國古歳時記の研究(3,000)』来てをり、琳琅閣より『諺草』600と通知来てをり。 東洋文化史に周代の葬すませ、祭やらんとすれば止めよと。止めて帰れば薄井氏待たれ、神田本の写真見せらる。 岩井、石田2博士(※岩井大慧、石田幹之助)への礼として本送れといひ、神田博士には「ひとそろひのほかは(※何を礼すべきか)わからず」と答ふ。 近々小林太市郎氏の仏前にて原稿受取ると也。 田中久夫氏と約束せしにより経堂で昼食。小高根家(※小高根太郎邸)へゆく。2人とも音楽とりわけ教会音楽に詳しきに吃驚。『礼記』かへして出る。 眠くてたまらざるも吉祥寺駅より西荻窪にゆき、村田生に教はりし古本店にゆく。 別に買はずいつものところにて『北支の河川(20)』と『西ニューギニアの民族(50)』と買ひて帰宅。(けふ神田博士への礼状投函せし)。(※省略) 母より電話「ルリ子出廷の日を丸に訊ねたか」と。「あとにてきく」と答へ20:00電話かけしも不在。 6月16日(日) 礼拝。杉浦夫人けふも来る。齋藤齋先生「けふ来てよし」と。「1時すぎ伺ふ」といひ「一番」に五目そば3ケあつらへて帰宅。 食ってのち探しさがしし郵便屋さんにきき、番地まちがへゐしことわかる。御夫婦にて迎へられ、台北高校にて神田信夫・中村地平を教へしと。 2高出にて早坂一郎博士の教へ子と。内村鑑三より夫人(旧 田中千代子)あての手紙見、竜眼ご馳走となる。 (鳳梨(※パイナップル)もちゆき夫人オンライといはる)。16:00帰宅。 けふ依子より3月27日母上来宅の写真送り来る。(※省略) 20:00丸に電話すれば「26日の同日にルリ子呼ぶはず」と。渋谷に電話してその旨伝ふ。 6月17日 9:30登校。中国文学史すませ高橋・野田2氏ともに休講らしく安部・福島2生とゼミ?やりゐる中、マルゼン道具店の番頭さん本棚2つもち来る。 2生組立てを手伝ひ、よろこんで掃きくる。ついで短大の漢文すませ、柳田文庫へゆき『齊民要術』の訳の諺の部写す。 鎌田女史大声で話す。大藤氏来て邪魔らしかりしも16:45すみて出、経堂にて下車。高須『支那文学史十五講(10)』、『イスラエル民族史(100)』買ひ、 歩くうち桜上水へ出、明大前でのりかへの時、この間見つけし『復活(150)』買ひて帰宅。 藤田亮策博士『朝鮮学論考』来をり、われ1,000前納せし也。 6月18日 9:00車中にて林桂子に会ふ。病児をつれをり。金曜丹羽千年夫妻来ると。 成城入口近くに森夫人に遭ふ。本の積み直ししてゐれば福島生来り「夏休み早々帰省」と。 漢文2時間やる。疲れて出れば大川周子と木下とに会ふ。 木下は英文typeならひにゆくと。大川と同車せしに生意気にて「D組少しも好きな科なし」といひしは汝かと問へば木下と。 下北沢の大地堂へゆき『ヘボン博士(20)』を買ふ。(考古学にゆき「藤田先生の本注文するかいなか」問ひしも答は「今井氏と相談して」と)。 村田生、来週教育実習と。『宋代風土記』2冊貸す。 (けふ山田君江夫人来て、台北の茶とSingaporeの『中国史学研究法』と呉る。われ『ギリシア・スカンジナア遊記』を与へ、丸とわれと新居に呼べといふ) 6月19日 曇。けふは休みとて10:30竹内家へ電話すれば義弟「夫人病院」と。名店会館にてカステラ(550)買ひ、道具屋へよりしに無人。 永沢外科へゆけば竹内録音中。休みにちょっと見舞ひ、夫人と出れば「昨日空巣に入られ現金とられし」と。 別れて古本屋に寄り『世界の旅・日本の旅1,2(30×2)』、ロベリア買ひて帰る。 高知の福留生、「荒木(中尉)に会ひし。ミッションスクールで教へゐる」と(写真送る)。 角川より(※『ハイネ恋愛詩集』)18版1冊、写真の口絵きれいに入りをり。(※省略) (けふ午后、筑摩井上君より電話「あす午、成城へ来る」と)。 6月20日 10:00成城大学へゆく。今井氏に会へば「藤田先生の本2冊とれ」と。福島生来り「早く帰省したし」と。「7月半ばまでゐよ」とすすむ。 工事のため6月末より9月1日まで夏休みと掲示しあり。そのせいか史学研究法に不熱心なり。 すませて麝島生見かけし故「この間のこと根に持つな」といへば肯なふ。『五節句の話』貸す。 昼食了へ、琳琅閣よりの本受取り『諺草』は益軒の著にて不要といへば、山田俊雄氏買ふといひ650渡さる。 これを受取り『燕岩外集(1500)』、『謡曲と元曲(750)』のみ買ひしこととなる。 そこへ筑摩の井上君来り「楊貴妃」300×400を8月末までにと。 貝塚博士の『神々の生誕』売れざるらし。まづ肯ひ「オリッサ」へつれゆき茶のますところへ麝島生通りかかりし故、呼べどもきかず。 大藤氏へ会ひにゆく2氏と別れ、千歳船橋の古本屋見にゆきしに休業。吉祥寺へ帰り『地学の新辞典(30)』買ひゐしに声かけしは立教の久保副手。 『李太白(70)』買ひ『世界の旅3冊(120)』買ひ名店会館にて氷のませ、家へ帰り『蒙古語文法』貸してすむ。 けさ5:00京、京阪へゆく。澄より電話「写真受取った」と。『李太白』包む。夜、相馬来る。 6月21日 家居。「中国の農諺について」20枚あまりとす。途中、散髪にゆき、帰りて昼食。 末松博士(※末松保和)あて藤田先生『朝鮮学論考』2冊送りたまへとかく。 浅野医院に電話し、藤田君全快、川崎君来月半ば帰朝ときく。けふ東京暑く32.5℃と。 6月22日 成城へ登校。月給もらひ、篠原部長に指導費のこといへば申請書出せと。書きて松崎女史に托す。 東洋文化史に史学研究法のreport「わが町の歴史」1200字以上とす。 11:10すませ川本副手よりprint受取り柳田文庫へ本間とならび猿渡来るときき、寄り見る。 そのあと成城堂に1,100の払すまし、新宿中村屋でライスカレー(200)。 伊勢丹へゆけば悠紀子をり、栗山氏に角砂糖(1,100)、和田先生に砂糖(1,000)送らせ、 齋藤晌博士に手土産(500+玉露600)、薄井夫人に佃煮(240)買ひ京王電車(90)。高幡不動駅前すっかり変りをり(悠紀子、冷しラーメン食ふ)、 博士在宅『ヴェーダーンタ哲学入門』賜ふ。裁判は示談といふことになり、東洋大学けちにて話にならずと。夫人癌なりしも切除したまひて元気。 写真とりて出、中河原病院にゆけば、薄井夫人「元気」と。 「アキツ高校をやめ成城の『田園』につとめ、やがて劇団に入るつもり」と。 夕食時となりし故すぐ出て府中よりbusにて小金井。吉祥寺にて眼鏡屋、乱視と近視とのレンズ(2,400、つる1,300)20:00出来ると。 林叔母より「あす夜、(※丹羽)千年に会ひに来れ」と。寿賀子より「高校生立入禁止となりし」と。写真1枚同封。 けふ東京また30℃を越す。(成城堂にて『新星座巡礼(70)』、『花の山旅(180)』、『高山植物(190)』、『日本アルプス(130)』 と文庫本4冊買ふ。) (PauloⅥ新法王)。 6月23日(日) 朝9時電報、和田先生22日午后9:22御逝去の旨、久徳とあり。礼拝にゆき、そのまま下北沢、昼食して和田邸へゆけば、 森克己、岩井(※岩井茂樹)、松本(※松本善海)、村上(※村上直次郎)、青山(※青山公亮)、岩生(※岩生成一)などの諸学者あり。 13:00納棺とのことに待つ間、先生の御頭を拝す。ついで納棺なり。痩せ玉ひゐし。通知書の表書にと廻り、2階に鈴木俊氏などゐしを知る。 16:00了り、岩生博士と同車、一旦帰り、御香奠せざりしをくやみ、3千円包み、悠紀子さそひて出、下北沢で急行見しに気持変り、 林へゆけば丹羽千年をり、21:00までbeerのみ「できるだけ上京せよ」といひ置きて帰宅。 けふ日比野丈夫氏より「26日上京、27日東洋文庫で会ふつもり。内田直作氏の都合きいてくれ」と。 (京あさ修学旅行より帰り来る。20:00立教の藤森正一生来しと)。けさより眼鏡かはり遠く見え出す。 6月24日 登校9:00。内田直作部長のこときけば「4時限あり」と。東洋文庫の田川博士に電話し、26日のお葬式にて相談せんといふ。 中国文学史すませ、集英社薄井氏の電話きけば「校正出始めた。ふりがな多くつけよ」と也。 和田先生の葬儀に神田先生お越しやもしれずといふ。 (けふ聖心女子大の[匹]川教授に逢へば青山博士邸へゆきし、午后弔問すと)。 そのあと高橋邦太郎氏登校ゆゑ、Saigonの地図と『銃口に立つ』貸す。(※省略) 野田氏と16:00ムギ書房(※麥書房)でと約束し、短大の漢文すませ、図書館より本多く借り出し、15:50となり、ムギへゆきみれば野田氏先着。 『戦後吟(250)』買ひ、のちほど野田氏に贈る。「7月9日鴎外・敏忌に来よ。矢野峰人先生お越し、石田先生も来らるるやもしれず」と。 世田谷代田より乗車、帰れば史、28日、大阪国税局へ赴任と。 (けふムギ主人「堀之内歴に逢ひし」といふ)。畠山ノリ子嬢より電話、「名古屋のことききたし」といへば「あす13:00来る」と。 村田生「土曜19:00来る」と。京「川久保より電話ありし」と。こちらより川久保孝雄氏といふにかければ(※川久保悌郎の)令兄ならざりし。 夜、(※『白楽天』の)目次と序文と来る。 (午まへ日比野氏に速達し、午后内田博士に会へば「このごろ勉強しをらず」といひ、「27日15:00来校なら」といふこととなる)。 (SCAの小島生「8月28日より猪苗代湖にて合宿、参加されよ。恋愛問題にて部内に動揺あり」と)。 6月25日 朝、経堂より大藤氏乗り来りしゆゑ、農諺の原稿見せ、7月5日頃呈出といふ。 漢文2時間すませ、教授会にて今井氏に相馬のこといへば「心当たりあり」と。 研究室の問題は「3部みな損ささん」と学長申す由。帰りて日比野氏より「7月初上京と変更」とのハガキ見る。 他に「岩井博士(※岩井大慧)古稀祝賀を7月11日13:00より本郷学士会館にて」と。 (ゆきがけ川久保健夫氏方へ電話すれば悌郎をり「和田先生宅へ伺った。今夜会はう」と。紅松夫人に電話してきけば(※香奠ではなく)「お花代?とすべし」と) 夕食して出、梅ヶ丘駅にて松本善海と会ひ、(※和田清邸)2階にて仁井田博士より『李太白』のこといはれ、『白楽天』贈る気持となりし。 窪君「鈴木俊さんの祝賀論文集となりし」と。 19:00庭先へ出れば浅野忠允(龍野四郎)、植村先生(※植村清二)などをられ、平中、中山など東上の諸氏にも挨拶す。白鳥芳郎氏に近々伺ふといふ。 21:00すみ(御令孫13人と。その1人よく働く子をりし)、松本・川久保と出(藤井博士もをりし!)、喫茶。 300松本に払はし、地下鉄に川久保と乗り帰宅。けふ畠山ノリ子ちゃん来り、史おそくまで帰らず。 6月26日 朝、渋谷に電話すれば「調停の第一回は昨日にて委員たちお気の毒といひし」と。 「のちほど悠紀子ゆかす。われ和田先生なくなられ」といへば、母知りゐし。 悠紀子出しあと11:30出て(校正半分やる)、下北沢より角川に電話すれば、伊藤・西沢2君とも不在。 「Heine第1冊貸しあるを家に帰せ。印税さしひきにて『図説世界文化史大系』ひとそろひ呉れ」との伝言たのむ。 12:30和田邸につけばもはや満員。学士院長、東大総長、東方学会などの弔辞きき、うしろに立つ。 門下生代表は植村清二氏(文学部東洋史教室は須藤氏なりし)。 14:00まへ出て、道案内のところに立てば白鳥夫人、芳郎君とお越し。 お帰りつかまへ近々お伺ひすといふ。若夫人歩けるやうになりしと芳郎君の話なりし。 入口にゆけば阿南君をり、川久保の出るを待ち、聖心の西川氏学生をつれ来しを見、東洋大学の市村其三郎(部長?)来るを見る。 太田・内村・丹波・原口・岡部など1人も来ず。川久保さそひ、先生ののりたまひしbusにて渋谷。東急食堂にて先生に好かれしを語る。 川久保、『清実録』を富山大より借りをり、夏来らぬらし。 16:15別れ、久我山より集英社薄井氏に電話、「校正をとりに来させよ」といふ。 『座談の泉(100)』買ひ吉祥寺にて『世界の旅3冊(30+30+40)』買ひて帰宅。〒なかりしと。 悠紀子にきけば8月6日第2回はルリ子のみ呼ぶと。(けふ夏の分あはせ5千円を母に贈りし)。 夜、校正のこりすます。けふ炎暑35℃を越えしと。 6月27日 9:00出て成城大学。途中、森米子夫人に悠紀子よりたのまれしfilmもちゆく。 史学研究法早くすませ『農業全書』、『天工開物』を図書館より借出し、昼食すませ山田氏と出る。 吉祥寺中央書房にて『上方』151-4を3.8万ときく。史をり、あす14:30第2コダマにてゆくと。 小高根二郎氏より「同人費受取り和田先生を悼む旨」。篠田統博士より抜刷あまた。筑摩より原稿用紙来る。ちょっと昼ねし、入浴す。 (けふ集英社の使ひ来て、校正もちゆきしと)。史、地図呉る。 (けふ琳琅閣の請求書、栗山部長に出し俳書わたす。内田部長にことわりの手紙かく)。 6月28日 晴。聖心のnote作り、出て金なきに気づく。聖心にては懐中10円ゆゑ、会計小林氏にゆけば6、7月分渡すつもりなりしと。 もらひて青山博士にお宅への都合きき、2日夕方とす(夫人入院しゐしと)。 講義2組とも和田先生のこといひ、すまして不二歌道会まで歩く。鈴木正男君ゐず、河野君に14士建碑の3回目1千円わたす。 出て玄誠堂にて『Next Step-Peking(250)』、『 Westward the course! (80)』、『A short history of the Far East (300)』、『 The Redemption of democracy (100)』、『Free India(150)』、『India, Pakistan and the West(200)』と買ひ、総計1,080といふにうれし。 渋谷まで歩き国鉄新宿、地下道をゆき東京会館の喫茶室に入れば池辺助教授と丸重俊とをり。 喫茶して18:00近くやっと始まりし会にて、石川妙子といふ色白の子、洗足の山本恭子のこと心がけてくれると。これに卑弥呼styleさせなどして終る。 山田君江夫人向ひに坐りし。羽倉君「この間上京して電話みつからず東大にききしもわからざりし」と。 鈴木正義より結婚の挨拶。けふ田島(渡辺)来り男子生まれしと也。 史、14:30の第2こだまにて大阪へ出発せしと。角川より電話あり、あすまたかけると。 矢野より電話「本庄先生古稀祝賀を大阪の中村より云ひよこせし」と。 6月29日 8:00すぎ中央書房より電話かかり途きく。8:30出て成城へゆけばまだ来ず。 10:00近くなり001の金田一京助博士の「アイヌ」の講演ききに来る3D2Dを見る。教室にも掲示す。 田中久夫氏、早めにやめるとのことに図書館へゆき『旧唐書』借り「神田本」さがせしに見つからず。 『上方』の請求書を川本副手の机におき、大藤教授にわたすことたのむ。(藤田先生の本2冊来しゆゑ考古学教室にもちゆかす)。 武田美智子生来しゆゑ本貸す。山形へ帰ると也。 やがて田中氏と出て「すみれ」で昼食。Busにて三軒茶屋、古本屋見てまはり三茶書房で『俳諧歳時記栞草(50)』買ひしのみ。 田中氏と別れ、宮崎氏にゆき、さきほど電話でききし田中勤氏に受勲の記事見しにまちがひなかりし。 腹具合あしきゆゑ夫人dr.より薬いただき「逗子にゆく時は申す。野方の田中家へはあすゆく」といひて14:00出、busにて渋谷。 coffeeのみて国鉄、田端より15分歩き、動坂下の花家にゆく。中川講師来り「この間は失礼しました」といふ。 のちほど「田中氏よりももっと腹立てる」といひし。白鳥先生に伺ふといへば、あす御帰宅と。税2400万円が1300万円に減りしと。 18:30出て動坂より七軒町まで歩き都電にて虎の門に出て涼み、新橋まで歩き地下鉄。 帰れば神田信夫氏Harvard-Yenching Ins.より挨拶(けふ宮崎氏『imitatione Christi(※キリストに倣いて)』たまふ)。けふ村田君に礼したと。 6月30日(日) 礼拝にゆき齋藤先生に挨拶す。すみて田中教授のこといひ、竹森先生に御都合きけば「木曜の夜来てよし」と。 一旦帰り、和田久徳氏の会葬お礼を見、16:00出る。(京、白百合のbazarにゆく)。 荻窪までbus。Calpis(1,000)包ませ野方警察署までゆき、尋ね尋ねして田中勤氏宅へゆけば6月14日(執務中脳軟化症発作、入院1週間)逝去と。 同窓にも知らさずと。城平叔父この間来たと。われ同級生にしらすといひ、 出て中野へbusまつ間に白鳥家へ電話すれば芳郎教授。「来て宜し、八幡小学校前下車」と。 渋谷まで国鉄、飯くひ、castella買ひ、田園調布ゆきにのり、ゆけばSmith教授夫妻をり若夫人まだ出ず。子供さんたちかひがひしくやる。 母上目白と。あすMisaするやもしれぬ様子。清先生帰られざるらし。20:00別れ告げbusにて渋谷。 吉祥寺にて『父と子・処女地(50)』買ひ、(※20円の)牛乳のみて100円のつり30円、ただせば50円なりしといひ張る。不快。 (宮崎氏に田中勤夫人のこといふ)。 7月1日 9:30出て成城大学。父兄会名簿とり、『唐代随筆集』またもち、柳田文庫へゆけば川本、本間をり、藤江文子「飲食の禁忌」を勉強しをり。 二階の図書館事務室できけば「扇子はあり。白氏文集はまだ見つからず」と。来あはせし丸重俊に山田君江夫人訪問を秋に延ばすといへといひ、 出て『上方』の書類のゆくへ電話かけて川本副手にきく。大藤氏にわたせし由。『薬になる植物(390)』、『高山植物(200)』買ふ。 けふ指導費3千円を会計に催促してとりし。 帰れば「11:00電話かかり登校といひし」と悠紀子。誰なるや確かめざりしとに注意す。大江叔母へ田中の喪をしらす。 7月2日 朝、速達2通。1は成城大学図書館の千葉(井上)典子氏より「神田本みつかった」と。1は集英社より初校37-60p。 やがて福島生、阿佐谷より「今夜熊本へ帰る」と。悠紀子手習ひに出しあと11:30ごろ来り、14:00すぎまでゐる。 『清俗紀聞』5と『東亜』合本ともちて出、名店会館へ茶のみにつれゆき、われは西瓜。帽子買ふと別れて帰宅。 校正了へれば悠紀子帰り来り、16:00すぎ夕食して渋谷。青山博士にベリーセット(1千円)、夫人に枇杷(400)買ひてゆき、 われ和田先生御逝去にて聖心への義理すみしをいひ、夫人の子宮筋腫の話、悠紀子ききて出る。 祖師谷駅前にて『Far East-travel guide(130)』買ふ。 けふ坪井より「7回文甲乙会し、それに(※欠席した)本位田・関口・保田の3人分とで本庄先生古稀祝とす」とハガキ。 7月3日 家居。午前中、短大中西助教授より電話「新唐書旧唐書見たし」と。家へ来たまふこととなり11:30中道まで迎へに出、山上憶良の話するときく。 『唐書』2冊のほかほが本3冊貸す。『東洋史研究21-4』来り、-410と。 夕方、集英社へ電話し「あす校正とり来させよ」と薄井氏にいふ。けふ「中国の農諺」83枚となる。 (けふ今井氏よりも電話『朝鮮学論考』の支払ひをしてくれとたのむ)。 (けふまた見しに聖心女子大6月分より4,000-税240=3,760と昇給しゐし)。 けふ田中順二郎氏よりCalpis2本中元として賜はる。竹内夫人より「昨日退院した」と電話。(※省略) 7月4日 曇。時々雨。「中国の農諺」90枚で結論を残すのみとなり、11:00出て成城大学。OrissaでSandwichとcoffee(190)。 栗山部長に『明清史料 辛(4,000)』の請求書呈出。牧野・本多2副手と話し、川本山梨へゆきしときく。 そのあと図書館にて『月令広義』を見、4年の多く来りしを見て出、下北沢にて『露西亜3人集(80)』見つけて帰宅。 悠紀子買物に出れば集英社の使来る。(※省略) 18:30出て佐藤医院で薬もらひ、竹森先生を訪ひまいらす。帰り『世界の旅21,23(30×2)』買って帰る。 7月5日 曇。(※省略) 悠紀子胃病らし。田中順二郎夫妻へ受取かき、 午后、近くの西宮季九蔵氏を訪ぬれば、奥様北海道。農諺の不明のところ伺ひ、茶いただき「どなたでしたかね」に恐縮す。 秋田の出にて東北の農学校を歴任されしと。そのあと竹内に電話すれば「中国諺典もたず。Green Belt Seriesは3万出てゐる故かけ」と。 駅前までゆき『チベット日記(90)』、『婆羅門俳諧(40)』買ひ来り、神田信夫氏に弔悼状かく(Harvard-Yenching Institute気付)。 けふ薄井夫人より「好きなことが出来るので私はしあはせ?!」と。 天王寺予備校より岡田先生の『おもかげ』の精算書。今中19期51人?半数に近し。 けふ神田本によって新楽府の校訂表作る。(午前中、浜松の鈴木師氏より反物。午后猿渡夫人より缶詰賜はる)。 篠田統博士へ「唐詩植物考みたし」と。千草より電話「5千円値上ときまりし」と。 7月6日 雨。よべロミわが傍によく眠る。家居。史より芦屋に下宿したと。依子より「bonus10万円足らずで」と。「農諺」すます。109枚。 夜、「神田本白氏文集」と那波本の対校了る。『白楽天』の校正61-104p速達で来る。 7月7日(日) 礼拝にゆく。西宮夫人にこの間の礼いふ。帰りて〒なく、校正す。夕食後、杉浦夫人にゆけば何もなくサボった也。 三鷹までbusにのり『Pioneering in Kwangsi (50)』と『聖パウロ(10)』買ひ来る。 けふ村田来てくれしに17:00ごろまでゴタゴタいひしと。(朝、澄より電話あり「伊勢へ行った」とのみ)。 犬の子の佳き2匹のみ貰はれゆきしと。 7月8日 母より電話「法事を21日(日)とした!千草、下宿人見つかった1万3千円」と。猿渡道子夫人に礼状。 11:00出て成城大学。松崎女史休み。柳田文庫へゆけば2年7,8人をり、甲州へ鎌田女史とゆきし也。 「農諺」わたし、図書館へ本返し、集英社へ電話すれば「あす午前中に校正とりにゆかす」と。 出て飯田橋。角川へゆき中沢君呼べば『Heine』返しにゆかんと思ひゐしと。『図説世界文化史大系』はそろったら送ると。 九段より山本。学校へ『太平広記』と『冊府元亀(4.2万)』と守屋1冊とを送らすこととす。『明実録』はまだ来ぬらし。 われにと『庚子西行記』、『利瑪竇伝(※マテオ・リッチ伝)』、『Ch’i-min-yao-shu(※斉民要術)』と買へば1,010と。 ここより都電にて籠町。文庫の田川氏へ15:10着き、待てば16:05。日比野丈夫博士着。15万円をわが家へ送りしと。 使途と書類と田川氏にいふ。『岩井博士古稀論文集』1,500以上払ひし人に頒つ。 われには「500追加すべし」といひ、承知せしにあとにて1,500出しありしことわかり貰って帰る。 日比野博士8月東南アジアへゆくゆゑ、内田直作博士に会ひたしと也。電話せしに会に出てゆきしと。あす自ら電話せよといひし。 上富士停留所におきて帰る(湯島聖堂の原三七氏と仲好しと也)。 けふスワより野菜せんべい来る。白鳥きみ子夫人より礼状。(けふ神田にて『世界の旅・日本の旅』あるを見、No.3を30円で買ふ)。 夜中、中西氏、本返しに来る。 7月9日 10:30集英社山崎女史、校正とりに来る。105-132pもち来る。あす午后とりに来たまへといふ。よべ2時間しか眠れず。 『李朝実録』よみ、16:00出て、中央書房にて『古典のよみかた(10)』買って渋谷より六本木。 古本屋2軒見て竜土軒へゆけば17:40。(※森鴎外・上田敏忌) 於莵博士と野田君をり、18:00食事はじまる(石田幹之助博士歩けず、矢野峰人博士令嬢結婚にて来られずと)。 於莵博士、数年前に比し甚しく老いたまふ。われ類氏と話せば「芸術院が出来れば院長は田中」といひをられしと。 われ四師団凱旋歌の校訂をいひし。 嘉治氏(※嘉治隆一)、Christieの『奉天三十年』に鴎外出るをいひ、その訳者として衛藤館長。その息として瀋吉氏のこといふ。 於莵博士、露伴と鴎外のこといはる。宮芳平は宮柊二の従兄にて『天寵』の主人公と。 21:00於莵博士たたれて散会。われ野田氏とtaxiにのり渋谷にて別る。 けふ松浦高嶺氏、渡欧の挨拶状くる(7.7出発と)。佐藤dr.に途で会ひ、悠紀子玄関に魚忘れしと。帰宅してきけばまことなりし。 (けさ矢野兄上より斎藤拙堂「下岐蘇川記」さがせと電話ありし)。(婦人公論社春名君に「井上靖氏への本返却たのむ」と)。 7月10日 大藤時彦氏へ『冊府元亀(4.2万)』と『太平広記(3,500?)』学校で買ってくれとハガキ。(※省略) 14:00出て明大前。新宿をへて東洋文庫。研究費まだ来ぬをいひ田川、松村、岡田の3氏と購読。 (『東洋学報』和田先生の追悼号を出さぬことに編集会で決定と松村氏の話。) 松村氏『清初盛京の宮殿』抜刷たまひ、田川博士『庚辰字本孝経諺解と小学諺解』と『影印孝経諺解』とたまふ。 17:00すみcoffee(60)のみてのち渋谷、父の3周忌増上寺にて11:00よりと!渋谷まで歩きて帰宅。 山崎女史来りしとき千草をりし為、茶も出さずと!永山光文より中元来しと(油3缶)。 7月11日 雨。『古今評論』来し!11:00悠紀子と出て駅前で別れ明大前。 新宿をへて本郷3丁目。竹田竜児氏と遭ひしも「あとで」といひ、琳琅閣に急げば青山博士をり、 かまはず『東洋史研究』2冊を与へ、斎藤拙堂ありやときけば若主人2階へ上り、探し出して賜ふ。 そのあと『満洲実録』見せれば4千円と。喜び売り、青山博士と会場へゆき、竹田氏とならび、和田博徳君のこといへば「将来史学科を担はん」と。 松本善海来り(糖尿病の疑ありと。われ声出して笑ふ)、野原四郎氏わざわざ横へ来たまふ。尾崎秀樹氏と会せんと也。 岩井博士面白くなく、司会が宇津木・田川の2氏らしかりし。日比野氏来り、内田博士と電話で話し南方ですれちがはんと! 15:00まへ海老沢博士来しにビールつぎ、岡田君へと抜刷を受付に托して出、 地質教室に西沢生訪ねんとせしもやめ、赤門前の古本屋で矢野氏に電話すれどもかからず。 折から来合はせしは徳田一穂父子と気がつき挨拶し、紙魚書房にゆき、また会ひ、 そのあと『南方圏の交通(200)』、『満洲植物の寒地園芸的価値(180)』、『成語考集註(250)』買ふ。(『呉梅村(190)』をそのまへ買ひし)。 行きには「ルオー」でrice-curry食ひしが、手前にてcoffeeのみ矢野氏にかけしがかからず。 意を決して渋谷よりbusにてゆけば御在宅。電話の受話器をはづしありしらし。拙堂献じ『赤道標』またいただき、菓子いただいて出る。 (田中勤氏のclass3人死にしと。弔問にゆきし人にきけば未亡人へんなりしと)。 経堂に出、井之頭線にのりしに鈴木睦美声かけしゆゑ、明大前で氷しるこ食ひて別る。 けふ『婦人公論』の春名氏より電話あり、あすまたかけると。われ集英社の薄井氏に電話せしに「8月10日までに初校了る」と。 けふ矢野昌彦よりcoffee2瓶たまはりしと。 7月12日 曇。9:30出て悠紀子おもちゃ買ひ、西荻窪の森田先生にゆく。写真3枚とればfilmなくなる。 佐治氏の嬢、泉さんとて夫人の上級と。いま教師やめて原町田?にて兄弟の世話すと。 出て古本屋をわれのみ見て『帝国主義下の印度(60)』、『航海日記(90)』、『ゴビ砂漠紀譚(150)』と買ひて帰宅。 田中綾子(勤夫人)より香奠返しに盆。草薙かつ子生よりbeer1打。石川妙子父君勝四郎氏よりnecktie靴下。 婦人公論春名氏より「Levy氏の本、手許にある故返す。それと別に井上靖会ひたがってゐる云々」と電話。 (※省略) 散髪にゆき、運動不足の為か胃悪し。 7月13日 晴。佐藤医院へゆく。「尿の検査してみん」と。お中元を先生と看護婦さんとにおく。 硲晃氏より「大高12回文乙の寺田氏を紹介す」と。石川妙子生より「Pianoの弟子みつからず」と。 人文科研の会計係、山下晃氏より15万円来る。昨日来しも留守なりしと。田川博士に電話して報告す。 写真現像でき齋藤博士御夫妻、薄井夫人、森田先生みなよく写りゐし。福島母に送る。 婦人公論春名氏より電話「本送った。けふ井上靖氏との会なし」と。 村田君と話し、京ら3人の家庭教師旨くゆかぬを知るも仕方なし。(※省略) 7月14日(日) 礼拝にゆき、すみて齋藤齋先生「14:00訪ふ」と。衛藤氏と話す。(悠紀子、森田先生夫人に写真わたせしと)。 杉浦夫人と帰り、名店会館の本屋のぞきてのち帰宅。 掃除して齋藤先生まつ(本庄先生の古稀祝に28人で3.3万円せしと)。齋藤晌博士、杉浦夫人に写真同封の手紙かく。(※省略) 齋藤先生来訪。15日ごろより東北旅行と。箕山雅子氏(国際基督教大学卒業見込、英語科希望と)の履歴おきゆかる。 スワ澄君より電話「依子16日より4日間帰り来る」と。 7月15日 晴。永山光文、草薙、石川諸氏へ中元の礼。9:30出て東洋文庫。田川氏に15万円わたす。 (送金為替に裏書し、山下晃氏に「後半は東洋文庫田川博士気付田中宛としたまへ」と書き、受領書同封す)。 都電にて東大正門前。琳琅閣にゆき『漢代婚喪考』等3冊成城大学へ送らす。Busにて駿河台下。 古本市やりをりしゆゑ『日本民俗論(150)』、『河南省歴史地図(50)』買ひ、集英社へゆけば薄井氏欠勤。山崎女は休日と。 coffeeのみて及川氏の会議すむを待ち、話せども要領を得ず。 出て筑摩に中島大吉郎君訪ね、見本として『日本の説話』『朝鮮現代史』2冊もらふ。出てrice-curry食ひ、新宿まで都電。 ここよりbusにて吉祥寺南口。帰宅すれば神田先生よりハガキ。 7月16日 矢野・海老原・石橋3父母へ中元の礼。日比野丈夫博士へ受取。硲晃氏へ寺田正一郎氏紹介の礼。木村三千子氏へ同じく名刺同封・紹介。 集英社の山崎氏より「けふ14:00校正持参」と電話。亘理君の電話みつけ「けふ19:00すぎゆく」と。父君先月半ば亡くなられし由也。 依子16:00帰宅。(福島恵美子生、熊本より、阿南惟敬氏より暑中見舞来る。山崎女史144pまでもちゆく)。 悠紀子17:30買物より帰る。村田君教へに来しに3人集まらず。黒板もち呉れし也。 われ18:40出て亘理家へさきゆく。農林省より出征、大同に長くゐて上等兵となり、21年5月帰国と。 悠紀子来り、ややゐて依子の先ゆきし竹内家へおひゆき、30分して帰る。 7月17日 曇。家居。武田美智子生より暑中見舞。『白楽天』の初校228pまですみ。 7月18日 大塚易信・宮崎昭子より暑中見舞。史より調査査察部調査第5門へ転任の挨拶状。 夜、雨の中を宮崎智慧女史訪ひしに外出。依子、阿佐谷、渋谷へゆきし。 主婦と生活社より「朝」を使はせよと速達。(けさ尿を佐藤先生にもちゆかせしに「無胃酸、あす来させ」といはれしと。) 7月19日 朝食せず佐藤dr.にゆき、臍に金あてバリウムのまされX光線あてられ写真とらる。「異状なし」とのこと也し。悠紀子PTAに出てゆく。依子も出る。 夕方、悠紀子かへりしあと澄より電話「伊勢よりもう帰宅した」と也!けふ毎日新聞より書道展にわが「朝」を出しゐると(20~29日都美術館)。 7月20日 紅松夫人来訪。「次男都民銀行受けるにつき加藤人事部長に紹介を」と。「佐治氏いそがしく云々」。 12:30出て成城大学。富永(※富永次郎)、大藤(「原稿あとで宜し」と)、鎌田の諸氏と会ひ、山田君江・武井2生の大國魂神社の夏祭にゆくに会ふ。 会計にて末松博士の2千円托さる。成城堂の払し、お茶の水へ出て木原正三堂にてcard300枚(390)買ひ、 明治堂にてライシャワー『円仁伝(750)』、『Australien(100)』買ひ、氷あづき食べて国鉄にて帰宅。 齋藤博士、薄井夫人より写真の受取。梅田ゑい夫人より「8月6日頃上京」と。松浦翆、飯倉紀子より暑中見舞。 日比野博士より「受取り来ぬ」と速達、小高根太郎より「茶碗展に出品しゐる」と。 7月21日(日) 礼拝にゆかず、9:00家を出、渋谷のbusにて林叔父・叔母と遭ふ。東京tower下車。 増上寺にゆけば母をり。やがて大、千草夫婦、寿一夫婦とむすめ(※斎藤工母堂)、高坂氏(今橋さんは読経中に来る)。 東京駅へ廻りし依子・弓子とて読経。25分ですみ、六本木の中国飯店にゆき14:00前了る。 渋谷より紅松君に電話せしにまだ帰らず。吉祥寺歩き『世界地理風俗大系7(100)』買ひて帰宅。依子・弓子すでに帰りをり。 (※暑中見舞 省略) 夜、紅松に電話して「火曜にゆく」といふ。 7月22日 11:00東洋文庫に電話すれば、田川、松村両氏とも欠勤と。宮崎幸三氏より「小室教授の電話にて齋藤博士東洋大学に兼任として復帰」と。 諏訪亮平氏と澄夫婦とより暑中見舞。堀之内歴より「(※詩を)書かぬは云々」。 18:00出て後藤君にゆく(チョコレート2×50)。夫人にことづけして途に会ひ「田川博士午后出勤」と! 渋谷に出て『寧楽時代の文化史(150)』、『Bali(30)』、『花よおごるなかれ(30)』買ひて帰宅。 澄君より電話あり「帰りの汽車にて依子腹痛、3所の病院にゆき盲腸炎とわかりすぐに手術した」と。 けふ筑摩より三好『萩原朔太郎』賜はる。 7月23日 悠紀子手習ひに出てゆく。14:00集英社山崎女史より電話「校正持ってくる」と。(※暑中見舞 省略) 史より「大江叔母に依子をして連絡せしめよ」と。山崎女史280pまでの校正もち来り、悠紀子帰りしといれちがひに帰る。 紅松夫人より電話「犬もって来てくれ」と。 その犬をかしく菊川獣医につれてゆき、上顎につきし飯とり、皮膚病なほし、虫下して紅松家へつれゆくこととし、 悠紀子帰り、われ紅松家にゆく。加藤君へ紅松父子ゆき受験許されたが必ずとるといはぬと。 あす西川に会ひにゆくと。佐治氏応援500円でも送らんと。(けふ悠紀子、澄の会社あて5千円現金書留とす)。 7月24日 けふ澄よりまた電話「依子に赤痢菌ありしも内密にせし」と。 人文科学研究所の山下晃氏より「受取はやく」と速達。後藤君より電話「田川博士、引出しにしまひ忘れしを、いま速達せし」と。 われも日比野博士にわび状速達す。(※暑中見舞 省略) 木村三千子氏より「紹介いまのところ必要なし」と。 悠紀子出しあと田中夫人より「あす会する」と。けふ校正し『明清平話小説選』のcardかきせしのみ。 7月25日 悠紀子、婦人会とclass会とに出てゆく。紅松より電話「西川親切に話してくれた」と。京、帰り来りしゆゑ食パン買はす。 集英社山崎女史16:00近く来て校正交換す。送りかたがたタバコ買ひにゆく。羽田より電話「あすまた電話す」と。 (※暑中見舞 省略) 澄より「見舞受取った。経過良好」と。 7月26日 けふも昨日通り暑く、坪井より暑中見舞。悠紀子田中家へ祝にゆき昼食14:00。 羽田より16:00すぎ電話かかり18:00新宿駅中央口で会ふこととす。 入浴し(中西兄弟に犬をすててくれとたのむ)、17:00出て新宿。 中村屋で夕食し『東洋学報』の話し、『東方学』で和田先生追悼せよといひ、鈴木俊氏にたのみにゆくこととし、電話かければ在宅と。 千歳船橋よりゆけばbeer出さる。「『東方学』では頁用意しあり」と、これにてすみ、 池田一君、江上波夫博士の離婚きき、今西の青汁のことききなどし、20:00、busにて渋谷。千歳船橋より祐天寺をまはり40分かかると也。 渋谷で別れ22:00帰宅。角川より『図説世界文化史大系』来をり。けふ36.5℃なりしと。 7月27日 犬3匹すてることに気をもむ。(よべ『文化史大系』を見て2:00まで眠らず。けさ覚むれば10:00なりし)。 (※暑中見舞 省略) 弓子銀行の寮に海水浴にゆきて帰らず。角川の中沢君に礼。姜生に「来よ」と。 夜、『明清平話小説選』のcardすみ、あすより『古今小説』とせん。 7月28日(日) 礼拝にゆく。牧師夫人出てをられし。 齋藤夫人にきけば「この間、釜石の夜の礼拝にゆきしに佐々木副牧師夫妻とで3人のみなりしと先生のたよりありし」と。 「箕山女史をそのうちつれ来られる様に」といふ。16:00より村田君来り、すみて福島のもち来し(誕生日と)おこわ食ひ、処置なきをいふ。 折しも電話「成城高Bの滝沢の母にて、televi newsに航空事故に会ひし池上カズエの担任ご存じか」と。 礼いひ、飯倉生に電話してきけば「森村学園より来し、安田と仲好し」と。栗山博士に電話すれば「池上本門寺の大地主、後報まて」と。 (※暑中見舞 省略) 礼拝中に澄より電話「依子心配なし」とありしと京。 7月29日 新聞みてゆくことときめ、9:00(時計1時間おくれ、実は10:00なりし)出て西荻窪にて栗山部長に電話せしも無人。 矢崎に電話し川崎駅出口でまちあはすこととし、11:00来しとbusにて池上新田(20×2)、警察できけばすぐの大通りの大きな邸宅。 2人出て来し家人に見舞いひ、栗山部長も来しをきく!出てトレーラーbusにて川崎。金なく矢崎と東京駅で別れ、村田に電話すれば不在。 吉祥寺へ帰り家に電話して帰宅、昼食す。前田課長より電話ありしといふにかければ、大藤氏心配しゐると。 かけて報告し都留生よりの電話にも「致し方なし」といふ。(※暑中見舞 省略) 『柳田全集』来り、30回のびしと。 夜、茶色の犬つれて紅松家。途中こはがりてよだれをたらせし。 紅松優君「安田倉庫にほぼ確実となりらし」池上生バレーを習ひにゆきしとここできく。 (けふ山崎女史、校正301~351pもち来り、「これにて初校了り」と)。 7月30日 家居。悠紀子習字にゆく。コメット(※飛行機事故)の死体5ケ浮いてゐると。(※暑中見舞 省略)  早川女史より「長男に聞いたが半信半疑だった」と! 依子「規則によりあと一週間退院できず」と澄より電話。 7月31日 雨、家居。印度洋に死骸ぼつぼつ上ると。(※暑中見舞 省略) けふ『白楽天』の初校(351p)を了る。 村田君「御殿場高校長牧野太郎氏に面会し、ついで学校を訪ねし」と。 「卒論のthemaききて面白がり東大東洋史とわかりし」と。わが名しらざりし由! 8月1日 雨。岡田先生未亡人より礼状。井上恵子より「時間講師となりし」と。寿一よりも暑中見舞。午後雨やむ。 アラビア航空の死体20余漂着と。あす成城大学へ相談に行くこととす。 8月2日 晴。成城へゆかんと思ひ9:00すぎ、前田課長に電話すれば「来ずとよし。仕方なし」と。栗山部長にはハガキかく。 山田源之助(高原弦太郎)氏、筑摩武本君、立原健至氏、安永孝子より暑中見舞。 澄君より電話「依子あす退院」と。けふ写真送る。きのふより書くつもりなりし「楊貴妃」1枚もかけず。 けふ悠紀子、渋谷に電話かけしに母「この間は沢山もらってありがたう」といひしと。  8月3日 晴曇相半ばす。佐藤医院へ薬とりにゆき、ハルタへ散髪にゆく。「楊貴妃」かけず、〒来ず。 8月4日(日) 礼拝にゆく。数少なく4人かけるところへ3人がけす。知合も田口嬢、小室君ぐらゐなり。 帰りてよべ小犬3匹すてしときく(このふた月可愛がりし)。(※暑中見舞 省略)  京、大野姉妹とWien少年合唱団の映画見にゆく。 8月5日 家居。あさ和田賀代嫗より鎌倉の案内。われ浅野dr.に電話して川崎君の家きく(昨夜もゆかんと思ひし)。 そのあと相不変card作りのみす。悠紀子、渋谷へと出てゆく。(※省略) 悠紀子帰り、渋谷へ澄君の電話かかりしと。 梅田夫人より電話「あすあさ早く来る」と。夜、紅松君より電話「次男君安田倉庫に入社きまった」と。「犬も可愛がられてゐる」と。 8月6日 曇。涼し。紅松母子来られ「昨日安田倉庫に入社決定」と。益子氏の会社をかきCalpis2瓶もらひゐしに、 梅田夫人来訪。「高知中村に梅林つくる」と。令兄50万円にて離婚すみしと。けふは大の調停2回目なり。14:00送り出す。 その間、筑摩中島君より電話「何枚書けたか」と。「1枚もかけず、来てくれ」といふ。) 夜、丸のところへゆくつもりなりしも京のみにてゆかず。 (1昨日、村田君に8月これにて休みといひ承知させしとわかる)。(けふ旭爪より竹のれん贈らる。梅田夫人にmelon賜はる)。 夕刊に田村敏雄氏の訃報見ゆ。三水会にて3年3千円づつもらひし。よき人なりしと思ふ。 8月7日 家居。めづらしく郵便2回。紅林生「由紀子と改名。池上さんのことで御心痛ならん」と。本庄実先生より礼状。 羽倉氏「和田先生のおくやみのみで帰った」。真野喜惣治氏「絵をかいてゐる」。丹波道久より暑中見舞。(※省略) 夕刊とradioで池上生の死骸確認と。(※省略) けふ『東方学』より和田先生追悼を400×5、10日以内にと。 今日「楊貴妃」20枚となる。 8月8日 前田課長より電話。池上生の葬儀に11:30成城よりそろってゆくこととなる。(※省略) 依子より「畠山夫人、のり子と2度の見舞受けた」と。(※暑中見舞 省略) 大江叔母より「史にかまはず気の毒した」と。 石川喜久子より「29日羽田をたつ」と。夕食後電話し、丸家へゆく。 重俊この間池辺氏に付添はれ、山陰へ郷右近、本間らと旅行、とりしcolor-filmを見、「一度来い」といふ。 帰り和田夫人にかからざるゆゑ花井夫人に電話して石川のこといふ。 8月9日 (※省略) 13:00夕立風の雨のやみまに出て信濃町。時間あるゆゑ外苑をぬけ青山墓地へゆく。田村氏の葬儀盛大なれど齋藤博士など見当たらず。 都電まつに森克己博士に会ひ「満州での知合」ときく。大場少将も入院と。四谷三丁目より新宿までbus。また荻窪へbusのりかへ15:30帰宅。 (※暑中見舞 省略) 辻(山尾)浩子夫人よりHam詰合せ。 8月10日 よべ4時間位しか眠らず、珍しきこと也。「楊貴妃」休み(筑摩中島君来もせず集英社も来ず)。(※省略) (※暑中見舞 省略) 『果樹園』来り、『不二』来る。この頃鈍になりし神経に少しくわかるものありし。 (京「お化け大会を泊りがけ」といふを止め、弓子映画とておそし)。 昨夜、コー田といふ女性より電話かかり「田中克己さん亡くなられたのちがひますか」ときき、「イイエ」といへば笑ひて電話切りしと悠紀子けふ話す。 本位田「熊本へ転任」と新聞。 8月11日(日) 京あさ勉強す。礼拝にゆく。知合ほとんど休む。(※省略) (※暑中見舞 省略) 「文学散歩」の17日佃島へとの案内受取る。 15:00川崎君へに電話し、在宅とのことに夫婦してきき、みちわからず浅野の坊やに電話して教へらる。4児ありし長男を失ひしか。 帰り古本市とて何もなし。 8月12日 家居。京、学校へゆき、あとあすよりの軽井沢ゆきの準備するらし。われ「楊貴妃」をつづけ60枚くらゐとなりしか(「女禍」の項目了る)。 〒2回。井上源一郎氏『蛾眉の歌』と上田幸法『太平橋』といふと来る。(※暑中見舞 省略)  8月13日 梅田夫人へ写真送る。9:30出て成城(京、7:00ごろ軽井沢へと出てゆく)。研究室に副手たちをり『成城文芸』の表書しゐる。 「すみれ」へゆきrice-curry、成城堂で『ハイジ』買ひ、12:00ハイヤーでゆく。今井、岡田、学生部長(齋藤教授)、前田課長なり。 今井氏文化史コースで香奠をといふに、前田課長より1千円借り2千円包みて出す。担任とて庭の最前端に坐らさる。 池上本門寺の司式にて笙をふきし。すみて都留、矢崎、浅田と女生1人にて川崎駅に出、院殿号をもらひゐしときく。 駅にてcoffeeのみ中央線に出れば女生2Bの大桃といふ。 けふ学校にて集英社に電話し山崎女史に校正とりに来てもらふ。筑摩の中島君はあす午后来ると。 8月14日 家居。(※暑中見舞 省略) 15:00ひるねしてゐれば中島君来る。「楊貴妃9月10日でよし」と。京大を出て独身(昭和6年生)と。 白話小説字典のこと話せば「香港にいへ」と。(※省略) 8月15日 (※暑中見舞 省略) 和田先生の追悼文を考ふ。今年より日比谷で慰霊祭に両陛下お出ましと。田村氏の令嗣(田村浩一郎氏)より会葬の礼。 けふ「楊貴妃」100枚たらず。 8月16日 家居。和田先生の追悼考へる。聖心女子大でご一緒したのは39年1年のみなりしは意外。京、日中帰り来ず。 8月17日 5:30起きて和田先生の追悼かき、2回かきて9:00となる(朝刊読むを忘れし)。 出て水道橋に下り東方学会へゆく途中、大阪書籍の看板見る。ゆきて原稿わたし会費払へば100のこりをり500釣銭呉る。 出て極東書店のぞけば『唐明皇(270)』といふがあり、また角のゾッキ本のぞけば10円売場に『李太白』あまたあり。 美しきものを6冊買ひ中へ入れば60円のあり(『楊貴妃とクレオパトラ』1冊)。「まぜては」といふ故、著者といへばまだ中に幾冊もありと! 集英社へゆき薄井氏呼べば『唐詩選』の校正すすむと。この間、齋藤博士帰郷と。 出て大阪書籍にゆけば武井生(鐘ヶ江夫人)をり、すぐ屋上へ案内され会ふ(支社長鈴木氏と)。 30分話して出、中教出版に小山正孝氏訪へば出てきて「Köln」。そのうち夫人連れにて会ひたしと。気づきて高校長への推薦たのめば諾されし。 (主婦と生活社に早川君訪へばけふは自宅と。長尾(※長尾良)訪へば婆さん「やめました」と。早川へ名刺托せしがいかがならん)。 あと水道橋駅にて武井に会ひ、話きけば主人彫刻家にていま無収入、叩くと。そのうち2人にて来たまへといふ。 帰れば悠紀子まちをり「電話にて稲津といふ人より云々、15:00ごろ来よ」といひしと。また電話かかり、 外に出て待てば60位の人にて一向覚えなきに、支那事変中来て編緝せしは新生書房刊『近代名詩選集』とて定価7円、いま見つからず云々。 われ覚えなしといひ、探すゆゑしるせと氏名、書名かかせしあと出てゆく。 野田宇太郎氏に電話すれば夫人出て「留守、帰りはいつか不明」と。あす8:30ごろまた電話するといふに、 門の外からのぞきしは田上ユミ子にて、「探した。いそぐ」といふ。 10分と時間切りてあげ、野田宇太郎の子に家ききわからざりしと。鎌倉彫りのタバコ盆呉る。 三鷹まで送る途中「先生なぜキリスト教となったか」と。そのわけ話し、踏切まで送り『地形図の研究(50)』買ひて帰宅。 京、軽井沢よりヱハガキ買ひくれをり。(けふの〒鈴木睦美、館山より)。 8月18日(日) よべ3:00ごろまでねられず(「楊貴妃」のハジメ出て来る)。 5:00起き、8:30野田氏に電話すればイナヅなるは『新聞の新聞』の記者にて7月の■■を北隆館より出せしと。意外なりし。一家全滅も本当ならん云々。 礼拝にゆき、眠くてたまらず。(※省略)  岩井博士より礼状。『知己』創刊号来り、高橋渡氏のエッセーにわがこと載りたり。竹内編『アジア主義』。 悠紀子に遺言かかせて説明す。村田君のこと軽井沢へゆくまへわれ云ひしと。このごろバカとなりしらし。 (あす佐藤dr.にゆくこととす。胃わるしと思ふ。これもきけば7月初よりと)。スワより写真。(礼拝の帰り合服(8,000)あつらふ)。 (本) 成城に田中文庫を作ってもらう。 (寄付又は買取り)山本書店に見積もりを頼む。    (例外(私本、自筆本、自著) 日記 手紙) 山本書店3,000 琳琅閣3,000位 学校の本 通俗編(山田先生) 俳書(栗山博士)  昭和三十八年八月十八日 田中克己 昭和38年8月19日~昭和38年11月18日 「東京日記16」 25.4cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 8月19日 よべおそくまで話し、佐藤先生にゆく筈なりしも朝になりて気が変り、午まですまし、電話すれば「13:30来よ」と。 ゆきて「便もて来よ」と。注射打ってもらひ杉浦家へゆきしも夫人2女不在。 もりそば食って帰宅。臥床。この3日チクマやらず。赤川氏より「電話ついた」と。竹内家も全家不在(20日過ぎ帰宅)。 8月20日 朝、便もってゆく筈なりしも下痢気味、痛み少し。15:00出てゆけば、途にて往診の佐藤先生に会ひ「2時間後に来よ」とのことにて一旦帰宅。 野田宇太郎氏にゆかんとせしも止む。『文学散歩18』来り会費1,700と。田上生より手紙。猿渡姉妹犬吠埼より。 林富士馬氏「花影よんだ」と。大伴道子氏より「悲しくてならず」と。「悲しまずあれ」と書きて投函(田上生には先だってヱハガキ)。 15:30村田生来り「一旦帰郷する。あとにて母一人にて帰郷すすめらる」といひし。「9月早く帰り京は教へよ。あとの2人はけふゆきて相談せよ」と。 19:00夕食すませ、ともに出て佐藤先生のぞけば閉りをり。 8月21日 9:30成城大学会計課に電話し「病気ゆゑ現金書留にしてくれ」とたのむ。 そのあと出んとする京を止め勉強せしめ、午すぎ宿題見しも気合入らずと叩く。 (佐藤先生に便もちおけば「出血なし」と)。増田(明渡)淑江夫人よりヱハガキ。悠紀子へ山本八郎氏夫人よりハガキ。 けふより「楊貴妃」またやる気となる。 8月22日 6:30起き小便し、薬のみ1時間して尿とり、また薬のみ1時間して尿とる。佐藤先生「無酸ですな、困るな」といひしと。 11:00出て先生にゆき、注射打ってもらひ「2~3回便を見、レントゲン見ん」とのみ。 それよりbusにて三鷹、浅野dr. (※浅野建夫)にゆけば日赤に紹介の名刺くれ、中村病院の方よしと。昼にソーメンよばれつつ神経質いはる。 また歩きて斎藤斎先生に寄り、悠紀子写真をわたす。Coffee牛乳をのみて帰宅。 山本嘉蔵氏の暑中見舞みる。けふ(佐々木)和田夫人より電話「石川夫人25日?21:00着き23:00羽田発」と。 折しも悠紀子写真の焼増しにゆきをり、ふしぎ。 夜、後楽園circus(弓子公休)にゆき帰りし姉妹に説教せしも「わからず」と。竹内家へ電話すれば「帰宅のびた」と。 最大の苦悶は筑摩の中島君へのあやまり也。ふしぎなることかな。 夜、床に入り悠紀子に将来語り、けふの心配 (佐藤先生にて) (※癌の疑ひ)ききて夜目にも青くなりしならん。 睡眠剤なくwhiskyのみ、そのあと処置なし。  夜の魔王われをつれゆく助けよと子供ならわれ叫びたるべし  主のすくひいまこそまさに信ぜむと祈りてよあけ待たんとするも 8月23日 よべ1時間ね、8:00すぎ悠紀子そとより浅野夫人に電話、中村病院よろしとなる。われsalaryのことにて成城に電話せしもかからず。 仕方なく9:00出れば北口行のbus来て三鷹、中村病院へ9:00少しすぎに入れば、診察はじまらず、悠紀子帰し、われ10:30順番きけば次と。 院長2~3日お入りと。夕方ややあくと。たのみてtaxiにて帰宅。(『創世記』買ひて金くづす)。 丁度、悠紀子帰り、石川夫人に写真速達せしと(40)。午ねするも、われに眠らざるがよしと。 梅田夫人より写真ついたと。成城よりもsalaryつく。(電話にては昨日送りしと也) 『民俗文学』にかきし「中国の農諺の議論」19pつく。われ眠らぬこととし校了。 15:30京、深井女と帰り来しゆゑ、またし、taxi迎へにゆきし悠紀子まちて三鷹(※中村病院検査入院)。 室の掃除してもらひ、暑き室にて1日650(個室)と。夕食なしときめ、外へゆきて氷西瓜。 悲しく食ひて病院に帰れば院長、「夕食用意した。Rentgenとり、管のむのみにて帰ってもらふ」と。 夜、睡眠剤をたのみ、きかれしあと盲腸の男子の個室の横にて新聞よみ、粥食ひbanana半本くひ、蚊取線香買ひし(85)。19:00なり。 8月24日 ゆふべよくね(睡眠剤、看護婦さんもち来し時ねむりゐしと)1:00さめ、蚊取線香つけ、またねて5:00。 8:30悠紀子来て朝食出ざるゆゑ云ひにいってもらへば出し。注射打たれしのみにて午后となり、散髪(悠紀子一旦帰りしあと。160)。 週刊誌2冊よみ、残暑見舞みる。(朝、筑摩の中島君に(※原稿依頼)断り状、速達す)。 午后、先生にあす朝の礼拝に出るゆるしを得て、あさって朝バリウムのみ?と決めらる。 (同室に盲腸の青年入り、その父と話す中、中村dr.診察、症状きかれノイローゼひどきをいふ)。けふより同室故350と。 8月25日(日) 6:00起き、すぐ出て帰宅。悠紀子もう起きをり、9:00まで話し、教会へゆく。丁度の時間にて着席、泣きたくなる(わが信仰弱しと)。 けふにて詩篇すむ。斎藤さん礼いひて去り、田口嬢と歩きてのちpão買ひ、われのみ国鉄にて三鷹。昼食出る。 同室の青年もう水のむを許されしと。13:00悠紀子来り、ともに出て爪楊枝買ひ(ミルクコーヒーのむ)帰室。 わが帰天ののちもわが妻あさ早く窓みなあけて帰りをまたん。 ある日われ帰りて迎へつれゆかんけふのごとくにものいはずして。(午后大夕立す) 8月26日 朝レントゲン検査、右側に痛むところありやときかれ、ありと答ふ。(肋骨を抑へられし也)。そのあと問題なく(20分ですみ)、 午后浅野dr.、週刊誌3冊と花多くもちて見舞に来る。(中に夜来香あり)。朝からの検査いへば「きいて見ん」と。 午后悠紀子電話かければ胃液をとると。看護婦さん何もいはず。 busにて植物園へゆき久米病院といふを見つけ、入れば先生在室、おぼえなしといふに詩人といへば「思ひ出した」と。 出てbus、『トングー・ロード(130) (※ビルマ賠償工事の五年間)』買ひてよむ。 8月27日 朝食すませれば看護婦さん「(※今日の)胃内検査きいたか」と。きかずして朝食すませたといへば「明日か明後日にせん」と。栗山部長にハガキかく。 けさ渋谷の母より電話あり「帰来した。大、北海道へゆきをり、話あるにつきそのうち夫婦して来よ」といひしと。 午后、『文芸春秋』買はせ7日分の薬もらふ。夕方同室に見舞多く来り、散歩にゆき『星と伝説(30)』買ひて帰り来る。 (けふ集英社薄井氏に電話し、校正いそげといふ)。 8月28日 朝食くはず茶のみて胃液検査。8本採集さる。10:00すみて朝食。日赤より女医来りをり、このあと写真とるらし。昼食すみて帰宅。 『韓来文化の後栄 下』と『柳田国男集 第20回』もちて、竹内夫人に電話。ついで竹森先生に電話して参る。 この間、まっくらになりしこといひ、Bibleのよむべき箇所教へ玉ふ。出て(日赤いつでも紹介すといはる)busまちしも来ず。 悠紀子竹内家へゆく。駅へゆき病院へ帰れば、看護婦さんに叱られ注射打たる。 隣ベッド(吉田君)の慶応の友達来しも出られず。また夕立せしゆゑ電話すれば雨やみまちて来ると。毛布1枚もち来り、竹内夫人筑摩にいふと。 (けふ堀内民一氏の三矢博士賞9.11.13:00國學院大學にてとの通知、ならびに辻浩子夫人より「石川夫人の歓迎会出席5人なりし」と)。 (けふ『文芸春秋』買ひてよむ)。 8月29日 よべより台風来をり、9:00すぎ眠り6:00いつもの如くさむ。 詩4-7・8  あなたがわたしの心にお与へになった喜びは 穀物とぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした わたしは安らかに伏し、また眠ります。 主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは ただあなただけです。 悠紀子来り、診断書たのむ。夕方書いてもらへば「胃下垂兼無胃酸症にて9月2日より2週間の休養必要」と。 夜、診察に来られ「胃液の検査あすわかる。2週間やすめばよからん」と。 8月30日 成城大学教務課へ診断書、山下きよ夫人へ嬢のこと(2日欠勤と)。 詩23 ダビデの歌 主はわたしの牧者であって わたしには乏しいことがない 主はわたしを緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴はせる 主はわたしの魂をいきかえらせ み名のためにわたしを正しい道に導かれる たといわたしは死の影の谷を歩むとも わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです あなたのむちとあなたのつえはわたしを慰めます。 あなたはわたしの敵の前で、私の前に宴を設け わたしのこうべに油をそそがれる わたしの坏はあふれます わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう 夕方、中村dr.に悠紀子いひ、われもいひ「あす便の検査せん、そのあと2人に云ふ」と。 8月31日 52回の誕生日。また日記忘る。『トングー・ロード(130)買ひ来てよみしならん(※再出)。 9月1日(日) 6:20帰れば「昨日本多、鈴木睦美の2生来り、入院とききて帰りし」由。 猿渡の兄死したと川本生より電話ありしと。電話して「あすの葬儀にゆけず」といふ。 礼拝にゆき竹森先生に「御心配かけて」といふ。肝臓の検査のこすのみ也。国鉄で帰宅。昼食し悠紀子来しあと眠る。 9月2日 朝、悠紀子帰り、そのあとひるね。注射にてさめ、昼食し、14:00悠紀子来り、「福島来る」とのことにまてば16:00ごろ来り、熊本のみやげ呉る。 木曜来る由。悠紀子cardもち来り、4pほどやり疲れなほる。 9月3日 朝、悠紀子来り、11:00まで待ちて肝臓の検査すみて、朝食し昼食くはず。散歩に漫画読本2冊買ひ来てよみゐれば母来り、 「高知へゆきしのみにて誰にも会はず。病気せしも幸せ」と。すし呉る。 「10月7日に母(※実母これん)の50回忌やれ。キリスト教でよし」と金呉る。 そのあと(鈴木睦美より「もう来ず。キリスト教いや」と。満蒙資料より「11日やる」と)。 意外にも新井平治郎来り時計呉る。「三並酒飲みて翌日死にゐし」と。「11月まで講習にて東京にゐる」と。 9月4日 晴。注射せしのみ。悠紀子来てゐるま昼寝し、「18:00帰宅」といひ、中野書店へゆきしも何もなし。17:30帰宅。 山口書店より保田の本のこと。(※省略) 夜、京をつれて悠紀子来る。 丸より電話、留守中にありしと。森桂子より「病気か」と。小島共栄よりSCAの報告。 9月5日 (※記載なし) 9月6日 7:00中村dr.に退院いへば「けふよし」と。11:00尿の検査し、異状なく、払ひすまし(7,800+1,200)taxiにて帰宅。 福島生「安部生と来る」といひ、13:00来しを見れば横山、小島とSCAのmemberも来をり、16:00までゐる。 (福島生、校正わたせし由。電話益田生よりかかり「退学する」と。「あす来よ」といふ)。 9月7日 10:00中村医院にゆき注射打ってもらふ。13:00益田佳子来り「母病気、父失敗して退学したし」と。「山内氏にゆきてあと報告せよ」といふ。 17:30清水文子来り「会議で来た」と。「田中文子結婚、滝本行方不明」と。 9月8日(日) 朝、福島母上より梅干速達。礼拝にゆきし間に荒井見舞に果物もち来しと。水谷羚子、平田幸子より見舞のハガキ。。 9月9日 丸より電話「次男入院」と。「重俊来させよ」といひし。12:00出て猿渡家へゆく。長男結核らしかりし。気の毒なり。 かへり吉祥寺行きのbusに小金井よりのる。草薙生よりcastillaもらふ。 9月10日 午后中村病院へゆく。検査の結果「あまり異状なかりし」と。何があまりか不明なりし。 帰りて本位田の転任状見、ひるね。19:00竹森先生に「手術必要なし」との報告し、来年10月の母50回の記念会おねがひす。 9月11日 12:30中村医院へゆく。『Biblia』来し。19:10石田嘉子より電話「疲れて来れず」と。 9月12日 6:30石田生より電話「羽田をへて箱根へゆく」と。また眠り主婦と生活社より原稿料1,200。浅野dr.中村dr.にゆかず。 夕方、(※家庭教師の)村田来り「京いふこときかず」と。村上(宇和島)来り(※卒論テーマに)「花郎」やると。 9月13日 11:00悠紀子と浅野dr.に礼にゆく(ビール1打、返し岩納豆一箱)。「大して異状なしし中村dr.にいはれし」と。 注射打ってもらひ、投薬注射つづけることとなる。 9月14日 床屋にゆき(160)、中村医院。吉祥寺の古本屋見てくる。 9月15日(日) 礼拝にゆく。山田昌子生より見舞。村田来り、京やらず。福島家へより、村田赤飯ことづかり来しをみなで食ひしのみ。 9月16日 登校。前田課長に挨拶す。栗山部長にも同。福島生のsemiすみしあと疲れ、短大25分してやめる。大藤氏ねぎらひ500円渡さる。 三鷹に出、注射打ちて帰り夕食してすぐ寝、村田生の来しをしらざりしと。夜、浅野に1年入院を命ぜられし夢みてさめる。時に23:30。 9月17日 漢文2時間やり、教授会。すみて学科の構成につき19:00まで会す。 われ「東洋民俗学」と名を変へ、田中久夫氏を一般教養の歴史にまはってもらはんかと。 古野博士に「2時間とする。5月の修学旅行を東北方面にかへん」などいふ。 駅まで悠紀子来り、中村病院に電話して(※病院に)ゆかざりしを知りしと。 9月18日 朝、中村病院。便秘の薬もらふ。『Dairy Express World Atlas(150)』買ふ。前に買ひしを他に与へし也。 鈴木文平、亀井、天満の諸生に時計の礼状かく。集英社より速達来しゆゑ原稿送付たのめば「あす学校へ」と。 (※筑摩書房)中島大吉郎君来り(※断られた「楊貴妃」の原稿)「急がず」と。 9月19日 成城へ登校。史学研究法に国姓爺やることとす。川本生にきけば『上方』の請求書のことしらずと。 集英社より原稿来り、夜、校正すれば71~94足らず。羽田、Parisへゆくと見ゆ(※パリ日本館館長就任の新聞記事)。 9月20日 10:30出て中村病院。食欲出しといへばdr.よろこばる。あす、あさって休院をいひ、薬とらす。渋谷まで出て昼食。 聖心女子大にて青山博士に会へしゆゑ「そのうち参る」といひ、退職をまだあきらめずとす。 御挨拶下さりしは武島羽衣先生にて「友のうち残れるは佐々木信綱博士のみ」と。 2時間目早めにすまし女医さんにいへば「高単位マスチゲンB12」のめと。 古本屋みな休みにて(taxiにて宮益坂にゆきし也)、薬の安価売りにきき120錠(870)買ふ。 しるこ食べ、神泉より乗り下北沢に下りればここも古本屋休み。吉祥寺も同じにて10日20日30日を休みとせるらし。 渋谷に電話して「あすゆく」といふ。集英社に電話すれば「脱けし分、速達した」と。夜、71~94の速達来る。 9月21日 雨。ゆきて漢代の婚姻やり、note検査するとのことやめ、短大もreportと届けしを知る。 13:00までまち田中久夫氏とsalaryもらひ、来年度一般教養に2時間のこといふ。 渋谷に出て悠紀子と会ひ、母に礼いひ1万円返さんとすれば「預かれ」と。 出て四ツ谷より都電にて山本。守屋博士の本代払ひ、 他に『武則天』、『洛陽伽藍記校釈』、『封氏聞見記校釈』、『隋唐制度淵源略論稿』にて820払ひ、 山田?にゆけば「『李太白』25冊はあり。他は在庫」と。「早く出してくれ」といひ、1,200を24冊代に払ふ。 水道橋まで歩き、中道書房にいへば「本代いただいたこと云ひませんでしたか」と。7月に払ひし也。 弓子に遭ふ。「今夜霧ヶ峰高原にゆく」と。 9月22日(日) 礼拝にゆく。「33周年にして当時来し人一人をのこす」とのお話なりし。幼女洗礼ありうらやまし。 すみて茶の会。牧師先生より御紹介を多くの人に受く。紅松の姪、高杉百合子、東京女子大の笹渕博士に紹介受く。 満蒙資料の会の案内来る。悠紀子、婦人会の世話人(臨時)となりしと。夜、校正し23:00をすぐ。(丸に電話せしに「今月裁判なし」と) 9月23日 登校。中国文学史への『李太白』につき電話かければ「送る」と。集英社に電話すれば12時校正とりに来しも「次来てをらず」と。 漢文すませ大忙ぎにて中村病院へゆき、注射打つ。村田、卒論につき質問し近々中間発表と(礼3千円とせしと)。 9月24日 秋分の日と。京さそへどもきかず。中村病院へゆき、駅にて悠紀子と別れ、西荻窪より紅松家。 「佐治氏や父母と会ひにゆきをり」と。写真とりて帰り来る(犬にNessと名づく)。 途中『日本の敬語(100)』、『郷土の年中行事(100)』、『A documentary histry of the U.S.(100)』買ふ。 弓子帰り来る。風呂なほしに来ず、火鉢と炬燵と入れはじむ。 9月25日 終日家居。弓子風邪とて休む。悠紀子も風邪。 9月26日 登校。「あすより試験」と。(けふも松村君に会ひ、山田氏と同車)。 史学研究法に私語とがめしにあとであやまりに来る。松崎女(母高血圧と)休みをり、図書館の整理出来をらず。しばらくして帰る。 (前学長の本800冊を70万円で買ひしと)。 三鷹にゆけば中村院長出診のところにて「毎日の注射はゆるす。薬はのめ」と也。(『続 星と伝説(60)』) けさ「時の人 (※新聞記事) 」に羽田夫妻2男つれ2年の予定とあり。電話して出発きくつもりを忘れし。 9月27日 11:00ごろ散歩に出る(9:00朝食)。みちで竹内夫人に会ひしに(※竹内好)「風邪」と。 寄って見舞のべ、三宝寺池をめぐってbus。天沼を通りしゆゑ下車。堀夫人(※堀多恵子)を訪ぬれば追分と。加藤夫人に会ひ、来年のこといふ。 俊子姉を訪へば留守。光子のみをり。数男に来年の母の追悼会のこといひ、船越叔母へも伝はらんことをたのむ。 「賀代女史、尿崩症、統夫離婚したがってをり、(※省略)」わろきことばかりきく。 上田勤氏に電話せしにかからず。古本屋みて帰る。(※省略) 浅野dr.にいへば「注射やめるな云々」。 9月28日 10:00出て中村病院。Dr.に会ひ「浅野の云々」といへば「心配いらぬ」とでもなく「何食へばよきや」といへば「何くってもよし」と也し。 そのまま成城へゆき松崎女史の代りに川本副手のゐるを見る。 『李太白』来てをらず。請求書中『冊府元亀』8万何千円ありしを見る。われは忘れゐし也。 図書館への途、富永氏に会ひ「宮崎女史よりきかれし云々」、次に池田館長に遭ひ、本間のゐざるを見、 川本まちて風月堂へゆけば吉川、本間、鎌田の3女史をり! (丸重俊のこと川本よりききありしも本間より電話すると也し。3女史豪徳寺で下りゆき、帰宅。昼食14:30。) (※省略) 悠紀子「小田急線にアレルギー病院あり」云々。われは池辺君にいはさんかとて、丸に電話し月曜「かすが」にて17:00ときめる。 9月29日(日) 8:00悠紀子をおこし、老眼鏡みつからず。先ゆかせ(前夜遅くまで議論せし也)われ離れて坐る。 すみて(朝食くはざりし也)先頭にかへれば(悠紀子、田口嬢と帰りしと也)「丸よりさきほど電話ありし」と。 かければ「春日へ呼ぶより見舞にゆく」と。自動車の道おしへ、外にてまち、あとにてまたかけて運転するといふ煦美子に途教へる。 西垣脩氏よりも電話あり「夫人の幼稚園の先生に神保先生といふがありし」云々。 丸12:00来て、われ断食とき菓子くふ。(ホトトギス1鉢とcakeとをくれし)。 重俊をして本間、池辺の線(※教授の薦める線)よりすすめて受験させる。 小田急の医師へゆかす。父母妹の態度あらためるの三方向すすめし。(丸「大に事実上の再婚さすも一手」といふ。) 本与へ、煦美子のつれゆきし深大寺より帰りしハイヤーの前にて写真とり、帰りゆきしあと、 小田(天理教)来り『道教と中国社会』、『東西交通史論叢(藤森にと)』もちゆくまで全く可笑しかりし (藤森「タケヤ味噌本舗とて有名」と悠紀子の話)。夕食に弓子のおごりしラーメン旨がって食べ、 藤原家へゆき京のことたのむ。(吉祥寺学園に知合あり。故青松教授は武蔵野女子学園短大講師が最後にて(長男行方不明、三男近く洋行と)その方ならともいはざりしは幸せなりし)。 帰りてまた話しあひ3時~4時ごろ眠る。 9月30日 おこして6時30分。9時起き掃除す。福島生10:00すぎ来る。残酷物語の話をかしかりし。 あす教授会ありと、成城に電話して松崎女史(出てをり!)にたしかめ、15:00雨中悠紀子と出しあと村田君来て云々。 華南・河南の混同にて変なりし。けさ猿渡家より御花料の返しとてタオル一箱。 10月1日 bus代がないので歩いて病院。注射かはり痛し。投薬まつまにbeer1打、粗品として院長に贈るをたのむ(1,520)。 「Bambi」でice-creamと紅茶。Mixed Sandwichを食べて、4,000もって三鷹駅より成城。 『李太白』5冊来り(50×60+140-x=2,650)、これを電話して振替で送る(50料)。 今井講師と話してゐる中に電話の取次2度し、松崎女史(久しぶりにてきけば「母高血圧にて臥床」と。見舞ふや否やきく)に注意せし也。 この間、大藤教授、山本の払をすとのみ。あとにてと思ひ(福島生、宮崎、川本とも話そこそこ)、 柳田文庫にゆき猿渡副手にくやみと受取りといひ、 鎌田女史のにげしあと、大藤氏に会へずして出(富永氏に久しぶりに会ひ、ちょっと宮崎女史よりの件はなせし)、 坂本、高田の2君のゆくを見て、修学旅行につき話しかけ、逃げられて振替すまして小田急にのり経堂にて停車の間に、 けふ「都民の日」とて休みかときけば、夫人出て太郎君にとりつぎ、そのまま出ず。 夫人とも話したくまつ中、coffeeのみ持参のスキムミルク出せば太郎君自身わかして出、恐縮す。「お茶の日」に気づきし也。 逃げ出さんとすれば、夫人恰も弟子1人送り出し済みしに話せば、その後の御無沙汰咎められ、癌ノイローゼ話し「お大事に」と送り出さる。 途中気がつき家に電話し悠紀子に帰る予定いひ(「神田へゆきしと心配せざりし」と)、下北沢より丸家へ電話すれば夫人、 「裁判17日は承知しをり。この間はありがたし」と。渋谷の母にいひて「大は下阪したくなし」と。 帰宅して藤原さんの夫人に名刺わたしすみしをきく。(※省略) 紅松君に電話し、小高根家にて見た金崎忠彦の健在をいへば「忘れし」と。 10月2日 久しぶりに雨降りやみ(よべ不眠、夫婦ともに9:00ごろまで時々眠りとり)、 われ買物にゆき現像、果物、肴と買ふうち、八百屋にて松茸買はんとして不親切に怒り、 帰れば悠紀子泣きをり。病気わかりしと。われもわかり、すぐ来る荒井まつ間に久米軍医に電話すれば「17:00以後在宅」と。 荒井来て笑ひながら話し「一度下阪」とのことに「アドレスわかりしものに礼するも、順番に気をつけざれ」といひ、 笑ひ、たのしくしてのち夕食(18:30)出しに、あはてて(例の大阪遠慮なり)食べて。41,42才となりしと。 久米軍医に電話すれば迷惑げにて意外也(5日までの計算に忙しといはれ「はっ」といふ)。 弓子「ハモの皮」買ひ来り、史「小包送れ」、薄井夫人(14日手術する。「祈り」下されと)。 夜半、梓(※夭折次男)を思出し、精神的shockの大なりしをこらへしを悠紀子といふ。これにて万事わかりし如し。 10月3日 9:00までねてさめ、11:30出て成城。Sandwichとミルクコーヒーのみつつ唄・宮崎2氏と話す。「14:00よりの試験監督無用」とて大藤氏と話す。 「民俗学会は京都にて」と。福島生「わかった」由にてnote返す。そのあと出て下北沢下車。大地堂に寄り『紅毛海賊史(150)』買ひ、 吉祥寺にては中央書房にて『江戸東京風俗誌(240)』買ひて帰宅。羽田夫人り「館長出発は来年4月」と。 依子「入院で金いり高松へ10日ごろゆく」と。伊原・江沢・辛島3君へ礼状。写真17枚とれ紅松家のと加藤夫人と丸と也。 村田君来て「中川教授に爆竹と左義長との関係をいふは早すぎる」をいはれしと。 (けふ永福町の前島信次博士にゆく筑摩のX君に遭ひ、中島君へ「元気となりし」由ことづけたのむ)。9:30就寝、珍し。 10月4日 2:00ごろ覚め3:30ごろ眠る。8:00起き朝食し、長沖・中山八郎2氏へとりもちの手紙かき、よき学課指導のサジェスチョンを得てのんびり話し、 11:30ごろ300もちて出、タバコや何もいはぬに「新生」出し、切手買ひに何もならぬ親切なりし。手紙ハガキ投函。 松浦翠より無邪気なる手紙と作品のせた業界新聞。 大江叔母より「50年祭」にと3千円と「命日しらせ」!嫁女肋骨カリエス!と。新井平治郎より「快活が一番」とハガキ。 例の八百屋の前で手がふるへるはふしぎ。 渋谷にて京王食堂にてrice-curry食ひ、そのもち来る間に大に電話「弁護士に自分の行く行かぬをきけ」と也。母は不在。 聖心女子大へ久しぶりにゆきしに田中保隆氏みえず円坐して話しゐる。われ岡女史に薬(Mastigen B12)の礼いひ、 はなれてゐる海老沢博士・助野教授の話すのをきき、学会の不振をいふに相鎚うち、立教史学会に「欠席」の返事せしを忘る。 講義にゆき指導と自習とにてすませ、小林会計主任に会ひにゆけば岡女史と話中。やがて9月分(3,700)受取る。小林氏「忙しくて」と気の毒がる。 「和田坂」にて「有馬礼□(従三位)」の碑いまだ転がりゐるを見る(これ悠紀子の注意にて頼義の祖父??とわかる)。 岩村忍『元朝秘史』つひに買ひ、岡女史と同車。「和田先生の英会話のレッスンにカンニングしたまひし」をきく。 「ブラッセに会議の下準備なりし」と(いつのことなりしならん)。 別れて宮益坂の本屋にて『Holdfast Gaines』、『Commando』、時枝『古典の解釈文法』と20円の箱3冊、 『The Early cave-men(50)』、『Frontiers(50)』と総計160買えへば包まず。 ためしに『ソヴィエト極東民族史(100)』、『印度史(150)』買ひ足せばこれのみ包み、 「もとよりここに店ありし。玄誠堂は道玄坂より移りし。わが夫ハチ公より若し」と也。 玄誠堂にて『Naturalist's South Pacific Expedition: Fiji (300)』、『The passing of empire(180)』、『Trans-australian wonderland (80)』買ひ、 坐らんと2回目に乗る。「新生」また買って帰宅。 Thaiへゆく岩崎昭弥(夜、羽田発)、成城大学をへてわが家に12:30ころかけ来り「聖心へ出講」と答へしと。 「わが家へtelevi(その前に京さとす)を京の高校へ入学すれば買ふ。radio修繕す」などきめる。 柏井錦三郎伯父と伊藤徳の母ともに奇人なりしを悠紀子と話しあって了る。 (坂根(白水夫人)15:00電話「あす来る」といひしと。矢野より電話20:00「無事帰ってきた」と)。 (久米中尉に「心配いらず」のハガキかく)。(山村夫人?とか司書と話す)(青山博士の2嬢のこと悠紀子より聞く)。 10月5日 1:30大江叔母へ謝り状かく(「来年3月にする」予定と)。 2:10『東洋学報』へ守屋新刊の批評(400×20、10月31日まで)を「和田氏いかがにや。だめならやる」との旨書く。 みなねむりがたきが故なり。 7:00悪夢よりさめ、悠紀子おこし学報に書くこと承知ときめ、白水夫人の電話まつまに悠紀子出てゆき、われ東洋文庫に電話「承知を伝へよ」と。 13:30までまちしもかかざりし白水夫人再!電話「9:00かけ不在といはれし」と。出て「火曜以後にまた日を決めて会ふ」となる。 京帰り来り昼食とり、15:00すぎわれ散髪屋(300となりゐる)。悠紀子は史へ下着類送りにゆく。弓子19:00帰宅。 われ3食をとり(中村病院より健康保険証、悠紀子とり来る。「何も云はれざりし」と)。 小高根二郎より「名誉同人とせん」と。富士ハウスでの福地君との苦心思ふ。ハガキにはその名見えず。 10月6日(日) よべよく眠り、悠紀子と礼拝。婦人A会に任じられあり。竹森先生7を完全数と教へ玉ふ。 帰れば丸より電話あり。「ゆく途教へよ」といひしに、二人して駅へゆき35分ほど待ちしあと森のゐし病院の前を通り坂井屋に案内。 二階にて茶のみつつ大の件「16日午后、又は17日朝の飛行機の切符用意せよ」といふ。能勢の父に教へても不熱心は知りゐし也。 「ほととぎすどんないろにて咲くのやら」。丸を駅に見送り、線路渡りて杉浦家へゆき「田部教授の鎌倉転居」をわれいひ、 悠紀子「一度教会へも」といふ。外へ出て忘れし手帖と財布もち嬢の走り来るに苦笑。 駅までにて電話して弓子の許可を得、紅松家へ写真もちゆきしに夫人に招じられ、末弟のアメリカ留学にて相談受けしあと紅松帰り来る。 (「宅はこの間、山田判事に会ひしに変りし」との奥様の一言変に耳に残る)。 帰宅して悠紀子と話し(弓子いくらかわかりし様子)、有益なる一日と思ふ。よふけ養命酒のみ、反省するもわからず。 10月7日 (克己不眠)。10:10の試験にと弁当もって家を出、下北沢で渋谷に電話して丸の航空切符の件いへば「大いま旅行中、帰ってきたら伝へる」と。 登校して試験監督2時間。その中間に福島・安部2生が来て「弁当こさへて来し」と「喜んで食ふ」といひ、弁当のおかず交換。 福島に卒論の序論草藁をきかしくれ、われへんな顔をし乍ら之を訂正す。史の縁談?も曝露しゐるのに驚く。 池田博士・高城の言、不審。(経済Ⅱの補助監督でcunningの現場みつけしつもりなりしも、あとでそれでなきことわかり本人に返却して事すみし)。 帰宅しても不快のわけわからず、大要話せしのみ。 郵便は印刷物のみにて『桃』にダイヤのことあり不審。保田母子の歌見ゆ。『浪花のれん』も来あり。 夜半『花影』とり出して見るうち、早川智慧女史は早川氏の未亡人と思ひ出す。事実かどうか不明。 10月8日 朝、昭和24年(京都)日記をはぐって、故早川幸太郎の智慧女史の亡夫であること確認。 土産をもって(お茶漬けたべて)浅野先生(※浅野建夫)にお礼にゆく。全快報告をかねてなり。 (症状なき故、自己判断と荒井の暗示による)。夫婦とも喜びくれうれし。中村・佐藤2dr.への処置教へてくれ、「中村dr.には浅野より話す」といふ。 外へ出れば奥様追ひかけて来て、大阪よりの松茸のおすそわけにあづかる(お礼にもちゆきし缶詰アスパラガスの返礼か、いたみいる)。 駅からtaxiにて久米医院前(山谷下車。深大寺)にて下車(180)。 受付の奥さんに名前早速dr.に通じて上らしてもらったのが、患者が来たので待たさる。 (あとの子供は耳の病気)。Dr.に失礼のおわびし(植物園の羊歯類展のついでに来たことにする)『南の星』とり出してスマトラの思ひ出話す。 Dr.「だんだん私の記憶がわかった。奥さん、この方わたしより記憶力よいですよ」。悠紀子もよろこぶ。 羊歯展(入園料10×2)を見て悠紀子に説明、『羊歯の綵舟と培養(550)』欲しく1万円を両替させて買ふ。 写真とり(悠紀子とたがいに)、出口の売店(水仙の球根100、コタニワタリ100、油粕60)、 向ひのソバ屋にて深大寺ソバ(60×2)食ふ。美味なりし(空腹のため也)。Bus(25×2)にて三鷹駅まで帰り、歩いて帰宅の途中ラジオ屋。 修繕を問合す。 咲耶のハガキ来をり。外に大したものなし。帰りて子供たちと談笑。全快を自信すればなり。あすは栗山博士に礼にゆく予定。 白水夫人より電話あり「あす11:00ごろ来訪」のこととなる。 10月9日 7:00を待って徹夜、きれたタバコ買ひにゆく。11:00まで白水夫妻来ず、来しにパンを昼食に食ひ14:30帰りゆく。 翻訳したし。(Colin Wilsonのものをと。こは『Origins of the Sexual Impulse』殺人百科の著者と)。「出版社を教へよ。スピード一日50枚」と。 安宅温夫人のバレー教習所すぐやめ「夫より独立したし」と也。鎮静剤のみて15:00ね、21:00目ざむ。 集英社の女史『長安史蹟の研究』返しに来、薄井英二氏の手紙もって来て、よむも出版一向捗らずとのみ。栗山部長訪問とりやむ。 石橋又義氏より松茸一籠。(悠紀子、渋谷に電話し「丸の切符のこと返答直接する。大、風邪。史の縁談につき心当たりなし」と)。 10月10日 よべより雨。神経衰弱なりしと自覚。今後も再発せん。大江叔母より「3月なら上京する。2人分のフトンありや」と昨日来ありし。 石橋氏へ礼状。時計の礼状もすむ。悠紀子婦人会へとゆく。12:00帰り来り、14:00ともに出て西荻窪の早川智慧女史を訪問。 目を丸くして迎へられ、招じ入れられて『風祭』の批評を『花影』に書かんといひ、 ついでこの間より疑問の早川スサヲ(※早川須佐雄)のこと問へば「知らず」と。不審。「日記はあれど見たことなし」と。 幼児を3才にて亡くせし(今ゐれば21才、疎開中に疫痢にてと)。『風祭』もう1冊もらひ、 出て中村先生に遭ふ。「浅野君よりおききの通り」とあやまり頷かる。 買物して帰り来れば村田君来て「成績上らぬやうゆゑ、やめたし」と。 1時間教へて松茸飯くはす(隣にも)。もう少し子にも聞くといひ家族会議。結果は同様。 (けふ『果樹園』来り92号「小高根君の伊東論S社にきまった」と、めでたし)。澄・依子夫妻「高松に着いた」とヱハガキ。 10月11日(※この日の記載より、悠紀子夫人の筆。以下同。) 朝九時頃家を出て駅前にて土産買い、栗山部長宅に病気の為迷惑かけし礼をのべようと行けば、自動車もなく家中留守。 帰途青山先生の奥様の見舞により、主人は先生に聖心のこと(やめたい)とおねがいし、私は奥様と病気の事などはなして、 午近く、くだものいただき渋谷に着く。聖心の事はとうとう納得されたよう。 午食は、主人は玉子どんぶりをきれいにたいらげおどろく。母より今日は私の誕生日だから一昨日贈り物をとどけたことをきき、私は礼を云ひ、 主人はしきりに忘れたことをくやむ。考える事のみ多くて私自身も気がつかなかった様なことを主人は深く思ふ。 テレビを私がみたがっていると思ったらしい主人は、買うことにすると心に決めた様。 三時頃、母にしきりに先日のお金(実母のための供養の金10,000)の礼を云い、 出て家に帰れば京帰り、相変らず無口なのをしきりにきげんを取ってつとめている。 夜、すこしはしゃぎ気味。主人はじめて口に出して祈りをとなえる。(今までは黙祈しか出来なかったのに)。十一時頃、私ねむる。 10月12日(※悠紀子夫人筆) 明け方三時頃さわがしきにおどろき、とびおきればはっと胸つかれ思はず顔をかくして泣く。 主人はそれにおどろきうろたえるので、つとめて静かに「よくねむれましたか」ときけば君と同じ顔でよくねたと、 しきりに昔の友達の事など出て、くりかへしみんなわかったと云い、朝の早く来るよう、じりじりしながら「静かに寝てね」とたのむが寝ない。 「偕老同穴のわけがはじめてわかった」と云ひ、「君の中に僕が入り僕の中に君が入ればよいのだ」と云ひ 「タバコすってもよいか」と云ふので火をつければ私の口に入れる。しきりに「君がすることは僕のしたことだ」と云ふ。 六時頃「子供にグッドモーニングを云ふのだ」とおこしに行くが子供はまだおきない。「私が云ひますから寝ていて」と云へば少し横になる。 子供達それぞれ学校に出たあと外の電話で浅野先生に「きてくださるよう」たのむと「十二時頃」とのことで、家にかけてかえれば家中水だらけ。 洗濯しながら瞑想したとのことで一生懸命拭いている。ますます急ぐ様子で渋谷へ電話し、運よく大さんつかまえ、すぐとたのむ。 じりじりしながら一時間半まつうち、来てくれる。主人はデレビ屋さんがもってきてくれたと思ひ出てくる。すぐ大さんとわかり大喜び。 昼ごろ三人で浅野先生のところへ行き、自動車で入院する(※武蔵野中央病院)。注射にてねむる。 昭和38年10月12日~昭和38年12月31日 「武蔵野中央病院 (付)退院誌」 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 10月12日(田中克己筆) 入院。狂乱。大来り、浅野先生に紹介。自動車にのせてもらって武蔵野中央病院第三病棟に入る。 10月13日(日) (※ 「東 京日記16」末尾に悠紀子夫人筆。以下同。) 日曜日朝。八時頃出て病院へ「天国の如きところなり」と大喜び。急ぎ礼拝に行き瀬尾夫人に伝道費6口分渡し、渋谷へ行き報告し、帰る。 夜、弓子「お父さんへ」と好きなケイキ買ってくる。絵葉書も。 10月13日(日)(田中克己筆) 9:15ゆき子来る。礼拝前と。また1人でゆかす。「老の坂」 10月14日(※悠紀子夫人筆) 浅野先生へ報告、学校への書類いただき三鷹でネマキ、洗面具、シャツ買ひ、昼頃帰れば三時頃電話でノートと鉛筆、朝買ったものもって急ぐ。 元気なり。安心して帰る。松茸木村さんより。依子より松茸と魚。村田さんことわる。 10月15日(※悠紀子夫人筆) 朝、学校へ電話。お菓子買ひ病院へ。元気なり。なかなか帰れず先生より「もう一週間したら結果出る」そう。 渋谷へ行けば千草さんもいる。大さんにいろいろはなし帰る。 10月15日(田中克己筆) 院長先生の(よろし)許可が出たら帰れる。 学校や生活に関しあなた方(とりわけ子供)に不利はありませんか、お答えなければ神様にまかせます。 あすも9:00すぎに来て下さる由。ユキ子、村田君ことわったと。 やはり武蔵野市付近にあるを確認す。(証)菓子の色紙  ハクダイと覚えんとす。苦し。 火曜に注文、爪楊子、ゆのみ、近眼鏡、ハンカチ。(X院の前日国語国字の決定ありし?) 齋藤晌(齋)どちらも本物か。体温36.7度(入浴すみ) その人の名がいへない(失語症の一種か)。浜野氏飯島君 院長先生「しばらく待て」「看護婦さんにいへ」と。(16:00以前) みなにあやまらせていただく(浜のさんのおかげ)。食ありしや問はる「少しすすむ」。便所のよごれでなやむ ゆき子とわれの共通──子ども 10月16日(※悠紀子夫人筆) 朝病院へ老眼鏡とどける。聞けば静かにひとり言多いそう。タバコしきりにほしがるが日に六本にきめられているそう。 段々はっきりしているらしく、今後の事しきりに思はれて生きた心地もなく、家に帰るのも心痛く、渋谷へ行き母に色々話す。 子供たち別に気にもせぬ様子で、それのみ心なぐさめられる。夜、栗山先生宅へ届を出すため行けば留守。令息にたのみて待たずに帰る。 10月16日(田中克己筆) 目覚めるとすぐ体温 ?度 湯のみほし 新聞(よみうり) くさいおなら出る。ちと運動不足と。浜野飯島2氏 柴田先生、週三日、月木土この病棟にお出でになった時、看護師さんを通じて御面会お願ひする(小田先生)。 (飛松さん)Missせいたか・いぢわる 久米教育塾なりと。 悠紀子、この話中に来り、「成城大学やめん。あと大と相談せん」といひ泣きて去る(ハンカチもらふ)。 「子ら知らず」と。(われ金吉(※石部金吉?)にならんとす) 大阪へは丸のみ行きしと。 近眼鏡出来、(※あと足りぬのは)ゆのみ爪楊子となる。今に一財産出来ん。 午后、夷人さん退院、御主人喜ぶと。伴奏(Lorelei) テレビの団体の体操のところを見た。 サッカーの日英前半1-1を見て我を忘れし。 浜野氏(先生らし)より「釣せよ」といはれ、感心す(20:00)。 夕食後われを忘れてteleviの日紡貝塚のバレーボールの試合を見てゐし。(20:30まで) 浜野来問、大崎、飯島 10月17日(※悠紀子夫人筆) 朝、浅野ドクターより電話「栗山先生から電話あった」よし。「まだ色々検査せねばわからぬ」とおこたえになったそう。 病院へ行けばだんだんはっきりすると同時に「しきりに子供の事を心配するが、君さえよければいつまでもここにいてもよい」と云ふ。 10月17日(田中克己筆) HH看護婦さんに検温受ける(36.2℃) 万年筆。  甘味なくなる。 柴田先生にとたのむ(Mother看護婦さんに)。 (われより先に安全剃刀使ひしめがねの人、大に似てゐる。Mr.ワタナベ) 分離症といふがあるが、心ここにあらず (Immer dort!※いつもそこに) 体操する。 みな散歩に、国際キリスト教大学近くへゆく。われ許されず。悠紀子の面会もなく。 大崎さん万葉集よむ。ゆき子に似しおばさん「しょんぼりしてた」と散歩帰り来る。 ゆき子来て仕事も浅野に相談しろ「成城・聖心、前期末を以て依願退職」「まだ教会での姿勢も高い」 14:00入浴。 14:15買物分配(われもとよりなし)。と思ひこみしあと甘味看護師さん(小の田)もち来る。 16:00まで柴田先生にmental test受け(58)、ついで「もうしばらくゐた方宜し」といはる。 わがみちはつひにはてぬとおもふときおやをおもへることもおもへる 大正海上火災のMlle(おゆきさん)13時間眠ると。本当らし。 狂ひゐしこの病院もわがために組み立てられし舞台とぞ見し (手帖、日記:受洗のバイブル) わかくして万仞の谷のぞみしと思ひゐしかもこれぞ錯覚 いま丸き眼こ持てるが二人をりあとの二人は家[さ]かれども この妻しわれを病ひの家に入れこの六七日は[安]いしなさず 大いなるダリヤいけたる室にゐて画をかかんとぞ人にはいひし 大学への診断書 採点につき 栗山博士に・・・丸 東洋学報──守屋『中国古歳時記の研究』評 ことわり明日直接電話して下さる由(柴田dr.と電話) 小田正平先生、ゆき子もし来ずば「9:00以後電話せよ」と。時に18日1:30なり。大阪裁判の結果も知れをらん。 10月18日(※悠紀子夫人筆) 病院に行き、食事まづく不平なり。夕方、栗山先生宅へ行けば令息のみにて浅野ドクターの診断書渡したのむ。 今日は教授会の日とか。帰れば子供まだ起きている。渋谷へ電話する。 10月18日(田中克己筆) 2:10 着物。 浅野君を通じ通院願してもらふ(子らがため)。「新聞記事になったかい」 22日の件大藤教授へ。 5:00起床 上厠(出ず) 退職願 青山-原田-Britt(※聖心女子大学) 栗山-前田-学長(※成城大学) 7:00朝食。 8:00体操。  9:00おゆき来よ来よと念じて秋の朝 作業といふ長尾nurseに腹立てしあと山本nurseにつれられ、ゆき子に電話して東洋学術協会に断りいはしむ。あと爪楊子もちて来るとか? ゆにきく「和田先生の会」はあすか? 11:00「出廷、旨くゆきさう」と丸より電話(※弟の大氏夫婦、離婚裁判の件) 大来るべし。 飯折和子 クリスチャン。飯島君を慰む。  その上で栗山博士に悠紀子とゆき呉れると。(※不詳) 14:00くわしく試問され11~12日の意識を誌さる。ありがたし(岡部先生)。 17:00狂老女、家へ返せとさわぐ。 23:00小林女医に尻へ注射されて眠る。後原(アトハラ)(アンベ)さんとも1人のnurse。 10月19日(※悠紀子夫人筆) 病院に行けば「食事まづく廻りの人々気持ち悪く早く出してくれねばあばれるぞ」とかみつくようなので、急ぎ渋谷へ電話「来てくれるよう」。 先生は「今日は分院の方なのでどうもこまる」と云はれるのを無理にたのみ、小林女医先生にこんこんとたのみ、あと柴田先生に逢ひたのめば、 「仕方ないがまだまだ病状は良くありませんよ」と云はれるのをむりに出て渋谷へ電話。 自宅へ大さん来てくれ、色々話をして、雨降り出しカサ貸して四時頃帰る。夜、よくねむる。 10月19日(田中克己筆) 6:30めざむ。朝食1杯半にて炊婦(菊池?)に舌打ちさる。朝のラジオ体操なし。 屋上に上がり「犯った!」を連呼す。屋上に登り「南は国際キリスト教大学」と教はる。 9:00作業中、悠紀子来り、「栗山博士に不眠症届け出てあり。来週火曜午後に会って説明す」と也。大14~15に来院と。 小林女医に質問さる。悠紀子、柴田先生に会ふ。 10月20日(日) (※悠紀子夫人筆) 日曜日礼拝に参加させていただきありがたく、田口さんとともに帰宅。昼食ともにし。、 その後安部さん二十分見舞に、その後川本、牧野、松崎さんシクラメンを持って見舞にみえ 、連れ立ち自然文化園の入口まで行き、急ぎフィルムを入れてかけ出せば文化園は満員、入場できず。 公園へぶらぶらしながら写真とり、茶店でそばなど食べ駅まで送り家に帰る。 10月21日(※悠紀子夫人筆) 朝より中央病院へゆき写真とり、帰り富永先生宅へよれば夫妻在宅。 あがり、病気にてだいたいやめたいことを云へば、年寄りのボウケンをしきりに案じ、駅のバスまで見送られる。美しき奥様なり。 八百屋さんの写真もとる。夜、名古屋より電話。 10月22日(※悠紀子夫人筆) 朝、安部、福島生来る。「病気のため当分何も出来ない」ことを云ひ、駅のそばの店で共に食事して、 浅野医院へ行き、看護婦さんに礼を渡し涙ぐまれ喜ばれる。エビオスを買ひて帰る。 平中氏へ断り出し、ブロバリンを買ひて不眠にそなえる。 10月23日(※悠紀子夫人筆) 今日は大さんと栗山先生宅へ行く日。朝より主人しきりにこうふん気味なり。渋谷へ二人でゆき自動車にて先生宅へ行き、 「病気の回復にはぜひぜひ退職にしていただきたい」とたのむ。「来月五日の教授会にかならず意志通りになるようしてくださる」とのこと。 安心して渋谷へ帰り河野岑夫さんと十時頃まで話し、きげん良く帰れば、 電車の中で急に明日の事(学校へ月給をとりに私が行くこと)を安心できず、とおこり出す。 「先生が大丈夫とおっしゃった」と云へばますますおこり出しこまりはてる。 10月24日(※悠紀子夫人筆) 朝、急ぎ浅野先生宅へ書類をもらいに行き、主人残しかけ足で教会へ行き、無事婦人会をすませ「留守中大藤先生より電話ありし」とのこと。 主人残しかけ足で学校へ、栗山先生の前にて退職願い学長あてに書き、大藤先生にはお目にかかれず、主人の部屋の前通りし時は胸いたく、 会計にて十月分月給いただき、急ぎ帰れば主人は安心してよろこぶ。来月五日にははっきりすることとなる。 10月25日(※悠紀子夫人筆) 大藤先生「鳩サブレーをお見舞に文化史一同」とのこと。「ゆっくり静養されるように」と帰られると、生徒六人くだもの下げてくる。 電話(矢野、丸、村田幸三郎氏)、皆心配してくださる。 その後、藤原先生の奥様、京の高校の案内書を持って来て下さる。柿、ざくろを下さる。まだなにも話さぬことにする。 10月26日(※悠紀子夫人筆) 朝、集英社より山崎女史、『白楽天』来年の半ばの予定とのこと。及川氏の言葉(「心静かに校正をして下さい」)少し変なり。 一時頃、宮崎幸三先生宅へ寿司リンゴを持って行く。先生と奥様に色々話し、ひどい雨の中を帰れば子供達、火を起こし待っていてくれる。 彦根松村先生より本の小包着く。写真とってくる渋谷より(等々力行き三越グランド下車) 10月27日(日) (※悠紀子夫人筆) 朝、起きて腰の神経痛にきづく。昨日の雨の為かと思ふ。礼拝休む。 夕方、増田忠氏、令息とみえ話はずむ。玉川学園の有力な父兄とのこと。「11月の日曜に家族連れでおたずねする」ことを約する。 10月28日(※悠紀子夫人筆) 小高根二郎氏へ1,000と原稿「父の骨」送る。佐藤ドクターにまたかかる事にする。 京「この家ふるくてきたないから」と云い「いつかペンキぬりをしたい」と云ふ。眼鏡のふちをかえる。和田賀代おばさんの病院をきく。 10月29日(※悠紀子夫人筆) 村田昭三郎さんへ3,000と礼状を送る。益田佳子さんリンゴを持って見舞に、まだ職きまらないとのこと。矢野さんへそえ書きする。 富永次郎先生へ写真送る。SCAの小出生に電話をすれど不在なり。前の原稿の事、気になればなり。 10月30日(※悠紀子夫人筆) 病院へ出来上った写真持って行く。キリスト教大学前で下車して裏口まで秋の武蔵野をすすきをわけてゆく。 看護婦さんに渡しまた写真とり、会計にて余分に渡したものを返してもらう。 帰り小金井の古本屋にて本買いバスにて帰る。夜、やはりこうふんする。 10月31日(※悠紀子夫人筆) 猫のため不眠になるので(※猫を)渋谷に連れてゆくことにする。 カゴをさげて佐藤ドクターのもとにゆき、先生すこし不審顔なり。今日は阿部京子さんの記念会の日なのだが、とても心もとないと心配なり。 渋谷にゆき猫を出せば大へんにさわぎ可愛想。大さん睡眠薬を飲ますとよった様になり四時間位ねる。どこにもゆかず、私も休ませてもらう。 少しふらふらしながら帰る。佐藤先生に聖心の退職に必要な診断書をおたのみする。 11月1日(※悠紀子夫人筆) 青山夫人に診断書入れ速達にてお願いする。京、遠足。小田ドクターに写真送る。 益田佳子生より電話、小出生(SCU)の家に電話して南口の家まで行き、母上にお目にかかり花、くだもの(SCU一同)をいただく。 家に見舞に来てくれたのにわからなかったとのこと。安部生今月もきてくれるが1時間程なり。 11月2日(※悠紀子夫人筆) 朝、テレビつけに二人来る。その内、庭に声して、丸様お見舞に来て下さる。「元気らしい」と安心され、クッキーをいただく。 写真病院へ送り、竹森先生宅へ伺い、主人千円どこかへなくす。 11月3日(日) (※悠紀子夫人筆) 朝、教会へ礼拝。帰れば青山御夫妻いろいろとお持ちになりお見舞に来て下さる。御手作りの梅ジュース、黒砂糖の菓子など。 聖心退職の件のおたのみする。主人、通じなく坐薬使用する。食欲なし。 11月4日(※悠紀子夫人筆) 角川にハイネ(※『ハイネ恋愛詩集』)19版20冊送りたのむ。阿南家にてよき漢方の先生きき大喜び。 11月5日(※悠紀子夫人筆) 栗山先生に電話すれば「意志通り、退職認められん」とのことで安心する。矢野様より電話にて心配さる。 依子のところへ「18日頃ゆく」と手紙出す。丸夫人へ学校の報告する。 11月6日(※悠紀子夫人筆) 朝、阿南様の奥様よりおききした中野の道玄町の宮崎恭溥先生(※医師)宅へ(※二人で)ゆき 「自分自身が病を作っているノイローゼ」と指摘され、はっと気がつく。 薬は明日いただく。一か月4千円、二人分8千円おいて出て寿司を食べ、集英社にゆき藤井氏の言葉にはら立て、一人で日韓親和会へ行く。 この日の事が渋谷にきこえて心配のもとになる。 11月7日(※悠紀子夫人筆) 成城の中村優子生、見舞に来る。午後中野まで薬とりに行き先生にきけば、癌ではないとはっきりされる。 川久保様、見舞に来て夕方帰られる。 11月8日(※悠紀子夫人筆) 硲氏より依子にナプキンのお祝を下さる。山田、諏訪生、留守にレモンを、都留、ジャ島(※麝島)生、花と茶。 朝、聖心にゆきブット学長に御目にかかり直接退職を認められる。青山先生におせわになる。 竹内夫妻見舞に来て下さる。「大丈夫だ」と竹内先生(※竹内好)の言葉。 11月9日(※悠紀子夫人筆) 夜、十時過ぎ急に渋谷に電話。大さんは留守。11時頃自動車で弟夫婦、姉急ぎ来る。死後の事などたのみ30分後帰る。 この間、横須賀事故で不盡夫ちゃん鶴見の病院に入院、しらせまいと気をもみ、ねむれず。 11月10日(日) (※悠紀子夫人筆) 林叔母、くだもの、風呂敷を土産に見舞に。白鳥先生には電話で話をすます。 11月11日(※悠紀子夫人筆) 正宗、水谷、笹井、竹田生見舞。千草さん、くだもの持って見舞に。駅に集英社の「 」さん。駅前の店にて話す。「重役会にかけて」と。 11月12日(※悠紀子夫人筆) 西川様(※西川英夫)よりリンゴ一箱とどく。主人、渋谷にとまり「集英社のことは大さんにまかす」こととす。 11月13日(※悠紀子夫人筆) 後藤均平氏、留守中カステラを見舞に。日赤病院に高坂氏の紹介でゆけば「入院せよ」と。晴和病院にゆくが、やめて渋谷に帰る。 11月14日(※悠紀子夫人筆) 宮崎恭溥先生に電話、やかん持ち教会により、齋藤先生に行き、茂太先生(※斎藤茂吉長男、精神科医)と話す。母より2,000いただく。 11月15日(※悠紀子夫人筆) 白鳥清先生、自動車にてお見舞、金3,000下さる。「元気そうだから大丈夫」と云ってお帰りになる。 夕方SCAの横山、中村昌子生見舞に来る。 11月16日(※悠紀子夫人筆) 朝、牧師先生宅へお詫びやらお願ひにゆく。会計の方は清水さんにたのむから、しばらく静かにしている様におっしゃられる。 留守中増田夫人から電話。真紀子ちゃんの学校の事で里見夫人来る。主人「散髪屋にて漢方の話すれどうけつけぬ」と。 11月17日(日) (※悠紀子夫人筆) 主人、先日の彷徨の跡をと写真とりながら、夜は渋谷へとまることにして出る。 11月18日(※悠紀子夫人筆 「東京日記16」この日で終り) 朝、大さんと齋藤病院へゆく。北氏(※北杜夫医師)の日だったそう。夜は渋谷へとまる。 11月19日(以下より田中克己筆) 十一月十九日 大隠誌 起 母(明治25.4.6生)より船場言葉(※省略)  たけ祖母の親、天満の絹糸織屋 咲耶12.28 健4.8生 大11.24生 夜7:30林富士馬dr.へ「ほぼ全快」と電話、夫人も喜ばる。 「君永遠に眠り給ひし安らかなみすがた拝し恋しく■れし 妻しずえ」 調停裁判(丸弁護士より電話) (ストロボ) ← 寿一夫妻来訪(父の命日にと)。 帰宅15:00。(小発作♀♂とも)「責任感じ辞職願す」と悠紀子。 京、帰宅。 11月20日 母の語、克己に対し「買いたい症」。 大宝小学校長 俊一祖父。  西川英夫へ電話、会議中。 11月22日 コーナー買ふこと。 「欲求不満」と断定! 集英社より「大に会ひたし」と電話。ユ渋谷へゆく。 三和銀行と笑ひ、ガス集金に叱らる(25日午来る)。 中西太郎あやまったあと火曜まで旅行と云って出、金おかず!!! 中西二郎、仏前の飯そなへ、チンと鳴らす!!! 夜、20:30増田忠夫人に電話「明日の方よし」と、母曰く「克己行かすな」と、ユより。 賀状(4円×450)受取り50枚を子らに与え、釣銭(200)受取る。 自民総選挙に負けと判定(われ珍しく欠) 11月23日 (※賀状文案あり。)「不二」へ(※印刷を)願はんか おめでたい新年をお迎へのことと存じ上げます。 病気のため旧年末に成城大学、聖心女子大学を退職し、目下治療中ですが、漸次快方に向かひつつありますので、他事乍ら御安心下さいますやう。 なほ、今後の仕事は与へられますままにとは存じますが、合せて皆様の御教示いただければ更に幸せでございます。 まづは右御挨拶かたがたお願ひまで。 昭和三十九年正月              田中克己 祭日と! 朝、Kenedy大統領暗殺と知る。増田忠邸へゆく(お土産1千円、食品)。よみうり止め毎日とせん。 あす礼拝にとHeine19版(※『ハイネ恋愛詩集』)を悠紀子に托す。 渋谷へ電話、大出て「万事、丸にまかせた」由。大鵬負けしも「母、伊勢の客と周遊中」と。母よりの電話に「外出せずわれ」と答へし。 ユ、俊子姉に電話「明日ゆく」と也。 11月24日 じゅんさい菜(調子が好い)。(安受合して実行せず) ユ、小発作(弓子見?Hysterieといふ!) 柏井へゆかんとし、俊子姉に会ふ。(三郎兄もをり、すみ子の見合を待つ。Sexのこといふ。Televiの払いふ) あす歯科治療伝へよといふ。 大、在宅のことに16:00すぎ出、神泉より歩きて(※齋藤医院への)道わからず『李太白』を北杜夫dr.にといはる。 ルリ子をあわてさせし(家へつれゆかんといひ)こと面白かりし。 けふ大の誕生日とて、わがもち来し鯛食ひ22:00まで話しきく。 11月25日 朝、小雨。 西島本家は田舎で呉服屋、咲耶を息子にとろうとした(年下)ことわる。 大寅(※だいとら)あり(はもの皮)富士ヤの右側 「今日ワイシャツかえとくなはれ」と母、父にいひし。ふろきらひなりし、ぬる好き「乞食性」なり。 (浜谷、山本恭子2氏へ便り) 本日より我、家計預る。 齋藤先生とsex問答(4日間投薬)。柏井歯科(「あさって来よ」健康保険証了解)。 小発作(「おそばにをれません」。京曰く「お父ちゃんまえからこわい」) 会計われ預ることとす。荒井に〒。 中西真紀子嬢televi見る。 花井タヅ子より電話。 東方学会より「書留受けとりしや」「受取らず」と答へて狼狽(たしかに受取らざること、ユにより判明) 11月26日 ユ、渋谷へゆく途(文学散歩へ1,700)、「12月8日の特急券12月1日吉祥寺駅に発売」と電話。 東方学会より電話2回「武蔵野局より明日配達云々」。洗濯屋来り「470円の借りあさって出せ」と。 浜谷、山本恭子、福地邦樹へ便り。ガス屋払ひすます。筑摩中島君より電話「近々来る」と。 ユ、齋藤神経科にゆき北dr.に会へば「入院必要なからん」と也。 11月27日 L、2D 三好、宮崎、猿渡3生へ礼状。増田忠夫人へ礼状。依子へ速達。 全快の歌 わが病ひなほりにけらし富士箱根雪いただける峰秀を見れば ローレライ岩ほに立ちて魔女めらがうたふをきけばわれはたのしも わが声は老いてにごれりすみとほるこゑもつ子らし来り歌はな わが老いていよよにごれる歌声をたださんとして子らよ来れな すみとほる魔の歌声とわがおもふ乙女の子らし来り教へよ わが病みし夜々に来りしナハテガル(※小夜啼き鳥)いまはいづこの山へ行きしや わが床に歌ふをきけばたのしかり浄き声もつ鳥に似し人 わが病ひいよよはるけくこの日ごろたのしくをりぬ飯うましとて みなみきたはるかに来りわが床にかすけく歌ふ文おきゆきし 父母も妻子もをきて逝く我と思はざりけり癒えしこのごろ 澄より電話あり。あす柏井歯科へゆくと、うれし。 渋谷より電話「10万円受取り10%礼に渡せし!!!」と。 11月28日 朝寒し。 ユ、柏井歯科へゆく。われ「わが師」10×200書き了へ(のちほど果樹園社へ速達)、12:30昼食して柏井歯科。 途に中央書房に寄り『字源(100)』買ひ、金なくなり、俊子姉に売る。尚子より両替、50を俊子姉にと托す。 数男の手術早くすみ、荻窪より歩き餃子(70)買ふ。帰り中央書房にてまた『正宗白鳥集(50)』取る。 けふ朝、母に電話し「明日齋藤dr.の帰りゆく。8万円受取る」といひし。 Plat-formにて久保副手夫婦に遇ひ「日曜午后来訪」ときく。 わが眠りややに深けど師の眠りいと深うしてさめまさざりき 11月29日 年賀ハガキ(400枚)不二印刷所(1千円)12月3日受取。 『不二』にと歌8首おく(鈴木正男氏(愛知県大浜熊野神社(三河鈴木))に托す。) 『不二』187号もらふ。 大をり、小切手わたされず。 電車にて見し女学生の伊勢物語に「わび(恋しむ)」とあり「わびぬれば(元良親王)」「うらみわび(相模)」と百人一首(柏井の恋の本と)にてわかる。 松田夫人(みす子、皇太子と池田(※池田厚子)のこといふ。大もいひし(宮内庁)。ふしぎ)。 講談社にゐし神吉晴夫に紹介せんといふ。「高橋邦太郎氏ケチにて有名、猫7匹を飼ふ」と。 Hôtel de villeを市役所(※パリ市庁舎)とわがおぼえゐし。「Saigon地図催促せよ」と。 ブリキ屋(警防団)を見かけて挨拶せしに「柏井へ岡田のツルにて出入す」と。 ユ、柏井へ「風邪と電話せし」と。帰宅不在。(八木教諭に会ひ、進学に玉川学園不適云々)。 (井上靖、吉川幸次郎、坪田譲治、石川淳、尾崎一雄、獅子文六、福原麟太郎そろって芸術院会員と) 増田生より電話「就職できた。L2Dの担任は鎌田女史」と。 矢野光子へ電話、父へ増田のこと伝へよといふ。苦笑しをり。折返し矢野より電話「了解」と。「石本氏の死を[尊]王閣下に伝へよ」といふ。 中西フジヲ呼びてきけば「395なかりし」と。率直とほめて終りし。 4.5畳へゆけば1夫人2女televi見てをり、ここにても空廻りとなる!!!!(22:00記) 11月30日 9:00ユ、渋谷へゆく(都民銀行の通帖なしとて騒ぎしも、のちほど我、渋谷に置きしと電話)。 松田夫人より電話「だめなりし」と。中村氏より仝「あす来たまへ」といふ。 史にRussian借りるとハガキ。高坂清元氏にわびて送り状(歳暮として1千円の品、母に任す)。 15:00京、3人の友をつれ来り、室がへすませしと。われ依子の画もらふ。 あす1ヶ月振りに礼拝にゆかんとす。(ガスライターに油入らず)。 井上律子「清瀬に家もちし」と。丸の義姪なり。 麝島生「本返しに月曜15:30来る」と電話。 21:00川本静江より電話「伝承文化の校正し、誤植多く見た。内容は宜しからん」と。「その中に来よ。大藤教授によろしく」といふ。 22:00父の歌集の跋かく(200×4)。高坂清元氏の文を入れんと思ふ(大に相談かと)。 12月1日(日) 久しぶりに吉祥寺教会へゆく。ギリシヤ人にヨハネJ.S.をLogosといひ、ユダヤ人にはmessiahといひしと。竹森先生にHeine19ed.贈り参らす。 帰れば久保夫妻来り、4月より北海道札幌へゆくと。ガスlighterの操作ききに出て帰れば、林叔父「心配して見に来し」と。母より1歳長じたまふ。 読売やめ(Kenedy号外出さず選挙[圧]力のみ)毎日とる。(ユ「よみうりよむ人去りし」といふ) 12月2日 ユ、都民銀行と柏井歯科へゆく。俊子姉にtelevi代(3.9万)払ふこととす。 (都民銀行、印違ひにて出せざりし。「浅野dr.夫人に100借りし。(※全快を)喜ばれし」と)。 柏井歯科へゆく。「松井君によろしく云ひし。技工石井君も帰国」と。Heine進呈、尚子風邪と。 帰りて麝島生迎へ『李太白』『ハイネ』内祝に贈る。「鎌田女史Hysterie」と。「大藤semiとなりし」。われに予定せし7~8人みな去りしと。 「父、下田のsaboten国の重役」と。「Chorusの日取りしらせ」といふ。(都留生にもとHeine托す)。 鈴木絢子、宮本圭子、石川妙子、宮崎昭子、猿渡茂子、村田光子の6生にHeine包む。 夜、澄君より電話「6日夕方着く。史、帰省するなら寄らせよ」と。 12月3日 朝刊に(毎日)佐々木信綱逝去と見ゆ。 8:30出て齋藤神経科。ゆきすぎて戻り10:00前到着。11:00院長(※齋藤茂太)の診察。 「驚異的に快くなった」と云はれ、ついで「大学の進退は」の質問あり「やめときまり心軽し」と答へ、火曜一回来診、朝、夜2回服薬となる。 出て菓子買ひ不二、鈴木正男氏に会ひ年賀状の刷り上りまち、菓子食べつつ話す。 12:00渋谷にゆけば母と大と昼食すみし処、わが飯用意してもらひ、大、母に『西島喜代之助集』の跋見せ、母に年賀状進呈す。 「今後も学生の進物受取れ」の語気になりし処へ、ユ現はれしに、母同じ語くりかへす。 母もユと出しあと、大と話さず柏井歯科へゆき歯1枚抜かる。 ユの態度より詰れば、成城大学(※退職届出しておらず)休職と判明。 2:00すぎ渋谷より電話、大ほぼ了解「あす会ふ」こととなる。武田美智子生より写真の礼状来りし。 12月4日 柏井歯科へゆき(大部分、数男dr.に云ふ)、阿佐谷で「渋谷へ13:00ゆく」の電話し「ぴのちお」にて炒飯。 渋谷までの車代(20+15+40+15=100)。菓子(だんご)買ひてゆけば大をり。 12月末退職願の件了解、図書処分(田中克己文庫)、漢文講師の件は関係なしと(のちほど両方とも困難とわかる)。 母14:00帰り来る(われ入浴さしてもらひbeerのみて待つ)。父の歌集の件了解、伊勢の(※健氏宅にある父の)蔵書とりよせると。うれし。 15:30帰宅。ユ、眠らずにをり(よべ睡眠2時間!!) 荒井平治郎(ヌカガ生に会ひしと)、正宗2生より礼状。合唱団より招待状。 (渋谷より栗山博士に電話すれば不在。夫人わが「全快」を喜ばれし)。 ユ、蒲団買ふ(枕2)。2枚×1,950×2=4,420 浅野dr.にユ会ひ「その中につくり話せん、来よ」と。 ユをして柏井に電話せしむ。(洋傘2本おきあり)。弓子に5人の恩いふ(わが家3人、渋谷2人)。 12月5日 弓子、休みて依子を迎へる仕度す。われは本運びやりし。 10:00柏井歯科。患者なく、あとちょっと話し、出て古本屋にて『聖書の女性(120)』、吉祥寺にて藷買って帰宅(50)。 金なくなりカイタイ病(※古本買ひたい病)なほらず苦笑。(8:00栗山博士に電話、土曜ゆくこととなる。午前) 15:00来ると思ひし中島大吉郎氏(昭和29年京大卒、英仏の教師免状、独身、21~22のを求む。昭和6年生、京都生)17:00と約束とわかり苦笑。 ユ、柏井歯科へゆき17:30帰宅。中島氏そのあと来り 「『楊貴妃』やる、600枚のうち100枚出来、あと500枚、1日6枚×200にて3ヶ月後」と約束(月に1度来る)。 Heine伝書きたしと。『ハイネ恋愛詩集』1冊進呈。21:00まで大阪弁にてわれ云ひ、ユ、わが症状くはしく云ふ。 中島氏へ『Non-fiction』の第24のハサミコミ呉れ、成城合唱団へわびかく。 文学散歩友の会(1,700)、日本歴史地理学研究会(1,000)より受取。 浅田博子(帝塚山)より転居通知。本多弘子(副手)より「病気なほった」、 毛受順子より4月5日Prince Hotelにて挙式、出席するやと。「出席」の返事す。 あすの予定(※省略) 12月6日 快晴。竹内夫人に電話「3時すぎゆき、楊貴妃の疑処(訳文)訊ねる」と。 柏井歯科へゆく途中、みちに迷ひ田中憲三郎にゆけば俊子姉、みつ子居り、伊予柑賜ひ「televiの修理日曜によこす」と。 帰り『モンテクリスト上下(200)』買ひ金なくなりしも、ゆきかへり阿佐谷より歩けば却って早きを知る。 (幼方直吉氏とplatformで遭ひ、昨日[は]竹内と野原、平野2先生に伝言たのむ) ユ、柏井へゆき、われ200もちて15:00まへ出、名店会館で団子買ひ(125)、竹内邸へゆけばスワ母上、依子をり、澄はあとと。 先に出させ、竹内に「唐太宗」の訓、正され、駅前より歩きて帰れば悪口すみをり、ユ、依子の母上送りに出しあと京に風呂たかす。 18:00、2女史帰来「taxiなかなか拾へざりし。父まだ入院の必要ありと結論せし」と。 われ名古屋行の予定日に入院せしをいひ、 澄に、岐阜(江口三五)、名古屋(高垣金三郎、佐々木、入矢、宇都宮の諸氏)、伊勢(西宮、寺本)、上野(立川、太田陽子)紹介す。 高垣とはすでに知りをりと。おどろくに写真帖みせ、Heine19版見せ、井上正蔵しか知らぬにわれ驚く。 20:00出て渋谷、電話故障に大、おどろき帰り来り、門前にて遭ふ。寿一に電話し、依子に電話し「あす17:30」ときめしと。 「24才の憂鬱」televiに第1回かかりをり、しばしにて出てゆく。 われ母より父の歌集見せられ終戦後を一堆預る。年譜もあり。他に日記あり、咲耶知ると。母、あす栗山会談了解す。 寿一寿賀子に電話し、ユに電話し入浴す。時に23:30。 あす9:30下北沢にてユとまちあはす。10:00栗山邸、14:00スワ兄宅、15:00小高根夫人が宜しからん。 12月7日 5:00目覚む。母7:00起き来り朝食。8:40になり出て下北沢、ユ仏頂面して来り、祖師谷大蔵。 栗山部長に「全快近く、辞職したし」といへば、 「すでに休職となりをり云々。手当俸給は出せず云々。大君に連絡せん云々。金借りよ云々。 図書館への図書寄付は受付おく。来年4月より非常勤講師はきめおく」と。 ユと顔見合せ歎息す。「年賀状も出すこと見合せよ」と也。蒲池歓一、この間、集英社にゐあはせしと。 成城にゆき研究室の寄贈図書を川本に示す。『伝承文化』の原稿とりに来ると。 (けさ本間生にも遭ひ申せし)ゲタ1ありと也。(ゆきがけOrissaにてsand-wich食ひし)  田中久夫氏(山田教授帰り石瀬、池田2氏ユと話す)を誘ひ、小高根家へゆき、2人の写真とり非常勤講師の節は云々! 歩きて桜ケ丘住宅へつけば鈴木俊夫人、外に出てをられ写真とり参らす。 諏訪賢家にて母、妹に饗され、姉上にヲギノ式とりけしをいふ。 ここを出て南廻りbusにて渋谷。17:00大より電話「今宵会へず云々」。 栗山部長とのこといへば、承知なるゆゑ逃げし(蒲地歓一、林富士馬が震源、林dr.に電話せしに黙して答へず) 澄17:30すぎ来る。寺本(伊勢)、岩崎(岐阜※岩崎昭弥)の名教ふ。母、気に入りしらしくてうれし。 18:30出てゆきしあと、ユとちょっとのこり、われ今夜も渋谷泊りとす(あす朝、依子、天沼をへて渋谷へ来らん)。 丸夫人に電話。村田昭三郎に電話(「あす午后電話せよ」とことづける)。 12月8日(日) 「真実あり中々よき婿、あのタイプ好き」と母、澄をいふ。 本復祝の呼び人を親子、大、数男、寿一とす(9×500=4,500)。帰ればユをり、礼拝にゆかす。依子もゐて話し、渋谷の母の評伝ふ。 10:00われにせかされて出てゆく。村田昭三郎より午后電話あり「明後日来る」と。あとにてこの日齋藤dr.にゆくことを気づく。 (夜、電話していへば「卒論呈出ずみ、本の返却に来る故、いづれ」と)。 夕方、浅野dr.に電話し髭そって夫婦にてゆく。全快の診断を乞ふ為なり。「君は自己及び他人のことを考へすぎる。いいかげんにしろ」と也。 成城大学のことは了解せしらし?!(20:00すぎnote忘れしと電話し、ねむげな声にて返事されし直後発見!!) SCA横山生に礼状。Heine別に包むこととす。 父の歌集のための原稿用紙、ユに探させしあと見つかる(この類多し。夫婦とも老年の為ならん?!)。 昨日来ありし〒、猿渡茂子、都留純也、加藤(中沢)晴代とみな成城の子なり。 京に数学の教科書出さしめ、よむこととす。 川本副手に電話「明日14:00来る」と。戦争の追憶の映画をteleviにて見る(22:00~30) 12月9日 「自分でわからねば何病かわからん、あたしの病気は」ユ発作。 母は電話で「病人の思ふ通りになるから静かにしてた方がよい」。 「一枚も買へますかいな、人の金を預かったものまで使って自分の物買へると思ひますの[?]」。 「口に出していふのはあの後だと思ふから、あまり云はないでほしい。とてもつらい」。 「云ひにくいところ、私は」。 「ききにくいところ、私が、どうしても連想がそこへゆく。厭だ。女はエワ゛、蛇だといはれると。自分ばかりいへばよいと思ふ」。 「然るべき人(齋藤先生)に診てもらふ」。 柏井にゆき数男より依子に会へざりしあやまりきき、(※歯の)治療すみて渋谷へ電話。 母「思ふ通りになった。1万円は用立てる云々」。数男、尚子と話し、castella買って帰宅。 (千円崩すためにハガキ100、タバコ40買ひしあとカステラは100)。 ユ、譏嫌直り銀行より帰り来る。あす青山脳病院、渋谷への同行約し、川本よりの電話といふをきく。 (母上より「静江生脚にけが、けふ来れず明日来る云々」。われ「あすこちらより連絡す」。母上「のちほどまた連絡す云々」) 14:30川本生より電話「あす12:00渋谷井之頭線出入口にて待合せ」と定む。 服部三樹子氏より砂糖、石川妙子よりJam詰合。 17:00母より電話「すぐ来よ」と。ユとゆけば、栗山博士より大への返事に 「私学振興よりの“休職にて報告の70%を一年間支給、そのあと進退を決すべし”云々」、「致し方なく聴き入れしと返事す。」 12月10日 8:45出てゆけば雨降り来り、busにのりまたbusにて齋藤精神科。ユすでに来をり。開放性の男女をり。 10:30診察の番となり、また快調と。「移り気ですか」「5分ごとに変る」の問答、ユとの間にあり薬1回となる。 東横dept.にて時間つぶすつもりなりしも、あまり無きことわかり食堂にて早昼。 川本副手11:50来着、下の本屋見て来れば来をり、京王食堂にて喫茶。「農諺」の原稿わたし、 ユに研究室の本『支那商店と商慣習』『年中行事(和歌森)』のもち帰りと、Biblliaの欠本の調べたのむ(22,23と)。 われ地下鉄にて本郷3丁目、琳琅閣にゆき、さきほど電話して知りし3,500の払(漢代婚喪礼俗考、民間風俗年中行事、直[俗]補正)すまし、 『昭昧詹言(350)』、『おもしろい支那の風俗(600)』買ひ、busにて中大前。 筑摩書房へゆけば中島君不在。井上君出て来しに(※著者略歴を)休職と訂正す。 神保町角にて『楊貴妃とクレオパトラ』3×60。都電にて渋谷をへて帰宅。1円も余さず。 ユ、けふ成城のbonusもらひ(108,590-21,710+37,400=124,280)来る。われへの4千円この中より既に使ひをり。 夜、19:30より1時間、父の歌集の清書をユにせしむ。(「大、下阪につき来よ」との意、母にありと)。 本日より日々の小遣100。タバコ代40(柏井への交通費40)とす。 ねがけChristmas present会議す。われ(家計簿)、ユ(ショール)、弓子(手袋)、京は高価とて更へしめskirtとなる。 〒高坂清元、井上源一郎、『骨』、高尾彦四郎など多く来る。 12月11日 曇。〒服部三樹子、石川勝四郎氏へ礼状。ユより依子へ。 高尾書店へ『荊楚歳時記』の有無問ひ、傍ら金尾文渕堂のこといふ。 井上多喜三郎へ『骨』の受取。中沢晴代(加藤)へ祝婚。猿渡茂子、石川妙子、宮崎昭子へ『ハイネ恋愛詩集』、牧野副手へ『楊貴妃とクレオパトラ』 藤原夫人にゆき「吉祥女子の理事者は守屋一家」と。紹介状を前沢事務長に賜ふ。筑摩よりNon-Fiction48来る。 柏井数男・悠紀子姉弟にtelevi熱あるを発見。 渋谷へbus(50分かかり運転手に労を謝す)、大へと『骨22』置く。「依田の詩と後記とを見よ」と也!本復祝を22日18:00よりと定めん。 母『きさらぎ』146(34年9月)~167(36年~37年)出してもらひ、ユ、預金の高いはざりしと。われ「kira~10」と答ふ。 俊三郎叔父の礼いふ(三郎叔父の礼いはる。畏し)。 矢野へ20:30電話せしに帰らず(団交と。光子生)。夫人にkira~いひしもあす再電話せん。 高坂さん自宅に電話なく167『きさらぎ』の喜代助作わからず。入浴いつもに同じ。 21:30矢野より電話「団交すみ酔っ払ってゐる」とて「全寮歌」の合唱せしむ!!! (栗山部長には「退職金など併せて20万、それも時間かかると聞きし云々。丸と相談してゆかざりし」と。われ「労働者の味方」といひし。 来週われより電話して会ふこととなる。 12月12日 よべ少しく眠れず(12:00-6:30)。今後ここの泊り止めん。 起きて床あげ、猫1匹不明(朝食の時帰り来る)、片付けの手伝などす。 朝食して『不二』の鈴木正男氏に10:00ゆくといひ、日赤中央病院高坂清元氏には「すぐ来い」といはる。 出てbusにて渋谷、日赤行にのれば立大、聖心女子大の別枝博士あり。挨拶せしも退職しらぬ様、立大、聖心女子大のそれを仕上げす。 高坂氏すぐ食堂に案内され、coffee接待の間に『きさらぎ167(昭和36年6月)』の父の歌しらべるとてハガキ置き辞去。 不二印刷所へゆけば(taxi(80))恰も10:00、長谷川章男氏をり、ここにて休職と訂正。 鈴木氏より見積りあらためてきき「1000首近く入りさう。組(8p、2行のケ所)など心配いらず云々」。河野氏をふくむ3人に挨拶して出て、 玄誠堂に寄り補聴器かけし老主人見る。『戦争と平和2,3,4(20×3)』買ふ。Napoleonの戦争のところ見んと也。 12:00前、busにて祖師谷着、数男宅に入りpâo食べ治療受け、ユに電話して「入れちがひに」ときく。 13:45帰宅。外での清算し(まんぢう50とpâo30)、京にタバコ買ひにやらせし(ユの命)あと、万里子と少眠いへば「関係あり」と。 憤慨して叩く(「千草、女児たりしこといひし」と也!?) このごろ口ぐせの「まだキチガイ」の為なり。出がけ京に「晩まで帰らぬ。フロたけ」と!! 15:30「楊貴妃」かき直し9枚。Levirate(レビレート婚)に至ってやめる。あす『北アジア学報』を見るべし。 19:30訪ふ声して出れば朝賀、加藤(中沢)、村田の3生。「面会謝絶と病気このごろ聞きし」と。 みかんと花(1千円)もち来る。(『楊貴妃とクレオパトラ』をもたず)。相馬の勤め先も知らず。 ユ、「6畳に移る」といふ。 12月13日 3:00目ざめて『火■16』河野仁昭の「立原道造論」の訂正す。全快祝をSCA(※名前省略)にす。松崎佐知子君には『楊貴妃とクレオパトラ』包む。 宮崎恭溥先生にゆくこととし(柏井歯科休み)、名店会館で「あらまき(1千円)」買ひ、ラカンで父母の写真と絶筆の写したのむ(1週間かかり1千円と)。 行けば奥様出られ、様子変にて玄関払ひとなるところ押してたのめば恭溥先生出て来られ 「この間弟君よりの電話、他に良き医師見つかった云々、家庭の調整すむまで手相見ず云々」 謝れども「汝の罪に非ず」とききたまはず、写真(「必要なし」と)と「あらまき」置き、はふはふ出て茫然。 大福食ひ(100-80)、bus手前の古本屋にて『ベーリング海周航記(30)』、『鄧惜華(90)』買ひ荻窪。 帰宅の途、水道橋通りにて矢野光子、森桂子に会ふ。わが留守に見舞ひにみかんもちて来し也。 (矢野生、父君のイギリス土産のneck-tieをもたらす。川本静江副手より途ききまちがへしと也)。 矢野「道祖神」、森「たすけあひ」を卒論のthemaとすと(大藤ゼミ)。 ユに宮崎先生のお怒りいひしも通ぜず。大にはわれより教へることとならん。送りかたがた柏井歯科へと出てゆく。 けふ小高根二郎君より「24年8月頃、京都に住ひしや云々」の問合せ。服部三樹子氏より「正月に一度来る」。 高橋邦太郎氏より見舞状。今井富士雄氏より「夢に元気なお姿見た。抱石先生(※久松真一)『維摩七則』送る」と。ありがたし」。 高橋通子(クロちゃん)より「峯岸姓となり秩父セメントapartに住む」と。けふ別枝博士に会ひし也、ふしぎ。 (栗山博士にと礼状かき(原案ユ)、「本の寄附よろしや」、「図書もち帰りよろしや」の返信封入す。) 筑摩中島君より『Non-fiction全集24』のハサミ込み来り、6枚づつ書けと、けさ書き15枚とす。 ユ帰り来り[ワンワン]とす。やがて宮崎さんより電話「日曜、薬とりに来よ」と。 ユ曰く「数男がみな工作したのよ。面目だけの問題よ」。渋谷の母にも報告す。 12月14日 麝島敏郎、小高根二郎、峯岸(高橋)通子へハガキ。 柏井へゆきマーマレード2瓶礼にとわたす。「[イ※不詳]もあれどtiming宜しかりし」と宮崎恭溥先生をいふ。 出て古本屋にて『コロンバ(20)』、『Welt im Waffen(20)』、『菊(100)』買ひ、在金みななくなる。高橋邦太郎氏へ礼状。 ユ、柏井へゆきしあと訪ふブザーにゆき見れば山田俊雄教授メロンと祖父君『旧事回顧録』とを賜ふ。 田中久夫氏より「話きいてやれ」の指示ありしらしきも、シロコゴロフ『ツングース語辞典』をひかへゆき賜ふ。 風呂の煙突のスス払ひす。けふ田中順二郎氏よりの海苔賜はる。X’mas card 50枚購入と決定。歌集の削除ケ所を定む。 12月15日(日) 礼拝にゆく。会員1人昇天(ユにきけば令息をソヴィエトへ外交官としてやりし老婦人、仁科氏(堺の人と)、癌と)。 ユの婦人会、役員をやめざりしこと確認。帰れば阿南惟敬氏来訪。13:30会ありと出てゆかれしと(大分の椎茸賜ふ)。 不二歌道会の神尾二郎氏(宗湛23代の子孫と)より13:00来ると電話ありしと。昼食して待つ中、ガソリンstandにて待つといふに迎へにゆく。 農場より印刷所に助けに来をり、父の歌集組むらしきに、Arbeit鈴木正男氏にとたのむ(8千円にて通勤、書写)。 ユ、出てゆきしと入れちがひ(門口にて会ひしと)に村田昭三郎生来り、本返すと。 諭して矢野仁一『近代支那の政治及び文化』、『火薬的発明和西伝』、『民間風俗年中行事』もちゆかしむ。 この2人にて3時間費し疲る。宮崎昭子生よりまたCyclamen1鉢、届けらる。 ユ帰り来り、キゲン悪しく、宮崎大夫と話し「10日後に来よ」の伝言ありしと。不二のArbeitも「勝手にしろ」と也し。 『果樹園』のため「コギトの思ひ出」書くつもり也しも疲れをり。 12月16日 寒し、ただし暖冬と。力道山刺されて死にし(百田光浩)とtelevi。 宮崎昭子へ『新しい恋(※ゲーテ詩集)』包む。山田俊雄氏へ礼状。 9:00出て齋藤精神科。北杜夫dr.に診らる。「この間の本、ありがたし」云々。 都電にて角川へゆき鳥居昭男氏(“トリアキ”と受付電話す!)にHeine20冊と『伝承文化論攷』とたのみ出してもらふ(新書2冊もたのみし)。 「Cleopatraは世界の人間像に予定しあれど云々」、堀辰雄全集のわが宛書翰の日付「心得た」と茶ものまさず。 歩きて山本、『古代南洋史地叢考』、『譴拾評注(290)』、『楊貴妃とクレオパトラ』と『李太白』の山田にあるをいひ、山田へゆけば『楊貴妃とクレオパトラ』少く、4冊と『李太白』1冊と買ふ(60×5)。 都電にて不二印刷所、長谷川氏出てゆき神尾氏来る。鈴木正男氏にいひ、夫人あす11:00来てくれることとなる。 (礼7千円とし、『不二』への寄附1千円とす。これより先、大に電話し承諾を得あり。栗山氏わが手紙よみ喜びし云々)。 柏井歯科へゆき本復祝を延ばすこととす。村田謹一郎先生へ「相馬の勤め先わからず」と。 石橋又義氏より缶詰のつめ合せ賜はる。早速礼状かく。阿南惟敬氏へ礼状。林叔母より電話「史の縁談であす14:00ごろ来る」と。 12月17日 曇。高橋重臣君10:00来る日なれど来ず。11:00の鈴木夫人も来ず。 11:00すぎ高橋君より電話、駅構内と迎へにゆき、井之頭〒で待ち、来しと話しつつ家に伴ひ来る。 (※省略)の受験校、慶応にconne、たのみにゆきしも絶望(ただし受けさす)。 成城の何にと栗山博士に紹介する故2月末また来よ、『Biblia』送れ、O.Dapperの複写したしなどいふ。文・経いづれとも定めざる様子。 鈴木夫人、この間来り(11:30)、歌集の写しやる(150首位を4時間で写せし「明日早く来てよきや、子を烏山へ預ける」と)。 林叔母14:00来り、史への一等建築士松本氏の令嬢の写真もち来る。隣組なり。 日下家と林、西島両家とのつながり云ひ、祖父、父の品行暗示す。困ったこと也(中島大吉郎の件もたのみし)。 林叔母出しあと鈴木夫人出てゆく(16:00、ユ、途で逢ひしと)。 〒なし。 矢野昌彦氏よりまたcocoaとcoffee詰合せ。海老原稔氏よりBiscuit1缶賜はる。 17:00前、加藤隆子より電話「渡辺、西沢と18:30来る」と。 18:35、3人来り(「楊貴妃」40枚としあり)、加藤生は「今井富士雄氏の内意を受けて来し」と。 西沢生「義家と婚約のうはさあり云々」、渡辺「婚約近々」。20:00出てゆく(みかん1かご賜はり『Heine』それぞれ1冊もちゆく。)。 20:45矢野昌彦に電話かけ、贈物doubleしをいひしに「手違ひで云々」。「年内会ふを止めん」といへば「わしの方も忙し」とてすみし。 家計簿つき『夫人倶楽部』ユ、買ひ来る(240)。 12月18日 9:00出て森田先生、御一家の写真とりまいらし、按手式(「教授の資格あり」とユの話)のお祝申上げ、病気につきの御心配のお礼申上ぐ。 『キリスト教百科事典』といふを申上げしにご存じなかりし(あとにてカソリック関係のものとわかりし)。 待晨堂に寄りChristmas card 51枚買ふ(計算しそこなひしに1枚負けてくれし)。『中国写真帖(200)』見つけしもうれしかりし。 『果樹園94』3冊(!?)(福地邦樹君に「あと5冊くれぬか、法ありや」と問ふ)。今井富士雄氏より『維摩七則』、 田中マリ子生より「(ご恢復を祈りつつ)12月10日卒論呈出『ベルジャーエフにおける人間疎外と人格について─その現代史観の解明─』Christmasには京都にゆく云々」。 亘理修一、猿渡祥子茂子より喪中欠礼のハガキこし。今井、福地、海老原稔、田中マリ子の諸氏へハガキ。 鈴木夫人あす半日にてすみさうとなる(けふ信仰をいふ)。 けふ写真とりにゆきしに10枚しかとれをらず!(鈴木夫人をとる) 竹森先生に電話せしに「13:00来よ」と。昼食たべて行き、休職いへば喜ばる。笹淵博士「田中は有名な詩人」といはれし由。 Christmasに御紹介たのみ、ユより前に紹介すみし(齋藤齋先生より)ときく! わがのぞみあるひはかなひあるひはもはづれしとおもふおろかなりし日(ただ感謝あるのみ)。 筑摩中島大吉郎氏へ「手帖くれ」と。19:30小田生来り、卒論(道教関係)書き了へ、日の寄進にゆくと。 (Christmas-cardクレマツより)。22:30こわくて茶の間へゆかんとすれば已に消灯す。 Xmasのpartyでのspeechを空想してたのしく、0:00に至る。 12月19日 9:30鈴木夫人来るまでに「楊貴妃」48枚とす。 鈴木夫人、午食の1時間をのぞき、一応217枚の『歌日記』を17:00了ふ。 (7千円もち帰りを聞かず。これと年末募金1千円とを入れし鈴木正男氏あての封筒もちゆかす。受取を大あてにせよ、募金に大、われにて匿名とせよとしるす)。 11:00ごろ福島恵美子、意外にも芝原生(武者を書きしと。露伴2冊返却)をつれ来る。 風評は安倍より今井にゆきしも、ヤマダ女史にはしらずと!卒論かき白鳥芳郎氏の指示にて来しといふに、白鳥家に何かありしをもらす! けふ〒なく、竹内夫人(「依子より便りなし」と。)、渋谷(大出てあす午后逢ふこととす)、不二(カミヤ氏出て鈴木氏16:00帰来と)へ電話す。 Christmas-card 50枚かき了へ鈴木夫人に投函托す。 19:30白鳥家へ電話すれば坊や出て「おぢい様倒れられ、おばあ様と父と見舞にゆきをり」と。 弓子に1,150借りる。そのあと弓子の意思で明日に見舞延期。果物juiceもちゆかん。 京の進学につき家族会議。東京女子学園、吉祥女子学園、都立、中大附属の4校に受験ときめた。 三井銀行Batavia支店長藤森氏のこと弓子に問はすこととす。 12月20日 7:00起き、弓子、京に留守番たのみ、10:00出て『東洋史研究』を琳琅閣に送り(30)、ラカンにゆき『歌日記』の挿絵の複写(1,400)とる。 ユ、それより先、渋谷へゆき白鳥先生へのjuice買ふ(1,000)。bus停留所で一緒となり、母より1,400もらふ。 大、起き来り「題字かく」を約し、鈴木氏への8,000×1/2=4,000を出す。削除承認すみ、われ出て白鳥先生。 「手足うごく様になり、洗礼拒否したまふ。鈴を鳴らす」と奥様より承る。 先生に「気楽にして早くよくなりたまへ、われ受洗たのし。研究所にまたはたらかしてもらふ」といふ。 服部家の次女、京大仏文受けるとのことに手塚氏にいふを約し、TrapistのCookieいただきて出る。渋谷で待つユとともに出れば15:00。 鎌倉駅より賀代女史、手塚部長に電話、せんべい(350)買ひてゆき、令孫見る(吉井氏と)。ばばぢぢになつくがうらやまし。 出て『武蔵野夫人(50)』、『日向(100)』、『Chinese Literature 1~6,8(300)』、『ウラルを越えて(50)』を買ふ。 和田家にて船越章のこといひ、おさしみ御馳走となり、恭子の無邪気なる手紙もらふ。(※鎌倉泊) 12月21日 昨夜よく眠り8:00朝食。飯ボロボロにしてまづく一杯。珍し。笹井、X生の入試のため一度来ると。 9:00出て逗子までbus。買物、ユし、われヱハガキ買ひ(50)、菓子(30)買ひ、鎌倉行のbusにのり小坪下車。 馬頭観世音のよき写真とり、Sanatorium前まで引返し、防衛大官舎の阿南氏訪へば夫人のみ。阿南氏東京と! 夫人さそひて鎌倉駅前で昼食。われ天丼吸物付。 大仏へゆき(阿南夫人はじめてと)、filmいれかへ印度人のturban巻けるが観るを撮る。漸次写真よくならん。 由比ヶ浜通まで歩き、藤沢行にのり(阿南夫人と別る)、小田急江之島駅より普通にのり、新原町田で普通にのりかへ向ヶ丘遊園でユと別る。 (時に15:00にてユ、成城にゆけば15:15にてすでに会計しまりゐしと!) われ急行にのり下北沢下車。Starといふに散髪し、成城大学といへば音原の小野氏といふがあり自動車事故入院と!(あとで調べれば高校教師らし)。 30分ですましてもらひ、大地堂にて『大明奇侠伝(70)』と『39年度暦(30)』と買ふ。 主人「賀状よした。売立ならばいつにてもトラックの世話す!」と。駅まで同道。「詩人(※林二郎)として遊びに来たまへ」といふ。 帰ればユ、すでに帰りをり、疲れてどなる(われ「今夜をChristmas Eveとし、贈物せん」といひしにトガりし也)。 20:00すぎ機嫌直し京と出てゆく。〒多く来をり。 『花の詩集』天野忠編にて高橋重臣、堀ノ内歴、佐々木義紀(邦彦の亡児)、小林英俊、木山捷平、安西均とともにわが「リラと菊」をのす。 林叔父(丹羽千年、難波[逸]、夫々の生年月日をしらしたまふ)、糸屋鎌吉氏(喪中欠礼)、 栗山博士(一月より休職、図書はあのままにせよ、私物持帰りはいつでもよし云々)、 石田幹之助古稀記念事業会(年末までに2D出せ云々、発起人に羽田明、鎌田重雄あり)、 高尾彦四郎(『荊楚歳時記』売れた。文淵堂年譜くれ云々)、山田昌子(冬休みによむ)、 林北見・図南(卒論テーマきめた)、武田美智子(クリスマスカード)、 依子(前よりだいぶやせた様だがそれでも元気そうなので安心した云々。「弓子はお正月に本当にこちらに来るつもりかどうかきめて下さい」)、 横山薫二(三女、上智大学を受ける。良い知識とコネとを教へよ)、宮崎昭子(「声を立てて読みたくなりました」)。 留守に本間、猿渡、川本3生来り、夫婦茶碗1組、Cookie、Van Hoten’s CocoaとChristmas-card。 猿渡祥子に電話せしにまだ帰らず。母上出らる。われ鎌倉のこといふ。ついで姉妹より電話。よろこびくれし。本間、川本にヱハガキ。 21:00(20:00より京とユとX’mas present買ひにゆく)渋谷より電話、 健にて「史に会った。正月に帰省するや否やしらず。歌集(※編集で)で体こわすな云々」 「史に正月帰省せよと伝へよ云々」。23:00森亮氏に『イスラム』包む。夜食に雑煮食ふ。 森智慧子氏の話ききて(五人の友) 1 わがいのち果つるまではとオルガンを弾きつつつひに果てたまひしを 2 世の苦しみ多かりし人十字架を見つむる時したぬしといひし 3 教会の門をくぐらでなくなりて友どちのみに式をおはりし 4 ロサンジェルスの郊外にある墓地にゐる夫(つま)のかたへに埋められしひと 5 仁科さんはわがおそき友バイブルの研究会の宿をせし人 12月22日(日) 7:00起き、ノリヒコ君に留守たのみ、9:30、2女つれて教会。うしろより3~4列目に坐りし。転会者1、信仰告白1、受洗者18名。 Topは一橋大学法学部名誉教授(青山学院法学部長)田中誠二氏(68才)夫妻。佐藤dr.の2嬢などあり。献金2500円(弓子100円、京 30円) 12:00よりparty、笹淵友一博士の前に坐り、浪曼派のこといふ。中河与一氏のこといはる。そのうちまた会はんといふ。 15:00すみてくたくたとなる(紅松の姪、高杉百合子・紀久子2嬢に挨拶、あそびに来よといふ)。 帰りて弓子と京と追立てて、京のChristmas presentなるskirt地買ひにゆかす。 けふ政宗晴江よりChristmas card。天野美津子氏より詩集。永山光文より食用油。 横山薫二君に上智大学の白鳥教授のことかき、片根嬢に托さんとす。 栗山理一、林正哉、林図南・北見などに礼状。高尾彦四郎氏に『果樹園5.6』2部づつ包む。 12月23日 晴つづく。「楊貴妃」書きつづけ73枚となる。ユ、俸給とりにと出てゆく(10:00)。 田口祥子、紅松一雄、笹井洋子の諸氏よりChristmas card。鈴木正義生より喪中欠礼。鈴木希い夫人より写真受取。 『Biblia』22号来る(受け取らざりしをおもふ)。高橋氏に礼状かく。 Pâo買ひにゆき(35)、ハガキ買ひ(50)ハガキ出す(日中暖くなる)。猿渡氏より歳暮(乳製品1箱)。教会の清水さんより電話。 白鳥夫人にと中目黒へ電話し、ついで田園調布に電話か。「清先生いまだ受洗をきかず、経過およろし」と。 われ手塚氏に会ひ、早大やめたまへとすすむ。午后の便にて不二歌道会より礼状来る。 (『ウラルを越えて』よみ了り、大岡昇平『野火』よみ了る。中間、ユより電話あり渋谷にありと13:30)。 ユ「最期の月給」とり来る。 俸給72,400、所得税4,360、住民税3,100、共済組合費4,400、組合費100、親和会200、団体保険40、借用販売1,380 写真、厨子の馬頭観世音よくとれをり。京を叱る。『武蔵野夫人』よみ了る。 宮崎幸三氏へ『李太白』、『ハイネ』、田口氏へ『ハイネ』Christmas presentとして包む。 (けふ成城PTAより見舞金5千円もらふ。庶務課長より「電話する」と伝言ありしと)。 12月24日 あさの中、「楊貴妃」80枚とし、10:00出て荻窪より地下鉄。齋藤神経科にゆく。おそき故患者の顔ぶれ異なる。 12:00すぎ呼ばれ、この間の恐怖を語り、薬1日2回にしていただく。「正月7日まで来ずともよし」と也。 不二印刷所へ寄れば鈴木氏不在。河野氏に持参のハガキ400枚わたし、「賀春」の印刷たのむ (1月5日までにと也。のちほど電話の「呼」忘れしに気付き電話す)。 渋谷の母きげんよく、史の帰省の時のこと引受けたまふ。ユと京とにお歳暮たまふ。 東横にてalbum(300)買ひ、中野行のbusにのり、駅前にて丸見かけ、下りてともに喫茶。 「重俊20日卒論呈出、すぐ大藤教授の了解にて訂正許されし。25日再呈出」と。卒業後の就職に石渡校長に会ふことすすむ。 わが病気の話題、矢野、西川にて「春日(1千万円で売れしと)」できかんと。 「大とルリ子の離婚認められず、生活費2万円を送ることとなりし」と。意外なり。 柏井へゆき和田、船越のこといひ、大・ルリ子のこといふ。帰れば寿一よりX’masの祝賀電報(あと都留生よりも来し)。 村田光子、朝賀千里撚り礼状。牛尾三千夫氏より『田唄研究5』。 田上由美子ヤマダゼミと!三野生「本間より病気ときいた」と。 西荻窪で買ひし(4×6) Christmas cardにて都留、正宗、武田、笹井の4生へ返礼。 ユ、教会のChristmas Eveに出てゆく(20:00)。けさ会ひし清水未亡人の長男、猿渡長男と三越での親友と。ふしぎ! 弓子Christmas presentにと、われに坐り椅子、ユにセーター、京にも毛皮のヱリす。 12月25日 ユ、成城大学へゆき書類預り来る。浅野dr.の証明必要と。植木鉢買ひ来りて茉莉植ゑかふ。京、通知簿見す。(※省略) 石橋、高田宣武、永山光文、猿渡弘氏へ礼状。 牛尾三千夫氏(上田敏「小唄」いらずやと)、天野忠、佐々木邦彦、鈴木正義(ハイネ包む)、三野裕子、田上由美子へヱハガキ。 「楊貴妃」90枚としてクタクタとなる。 木村三千子・石山直一両氏よりChristmas cardの返事。水谷玲子より受取。和田久徳氏へ10月20日欠席のわび状。 ユ、浅野dr.へ診断書たのみにゆき、奥さんにたのみしと。 集英社より速達、「漢詩大系に三拝九拝いたします」と。 夜、片根令嬢、横山薫二君の手紙預り来る「上智の[表]門教へよ。北杜夫よりは何もきかず云々」。 12月26日 けふも暖し。ユ、宮崎先生に電話「来て宜し」とのことなりし。八木先生へタバコ(3×200)とハイネもちてゆく。 内申の為の挨拶にて「心配無用」とのこと也しと。姜照美、聖心女子大Britt学長よりChristmas card。 諏訪節子氏より16日付の手紙。河野仁昭(立原道造論かきしと)、高橋重臣2氏よりたより。 角川鳥居昭夫君へ新書2冊たのむとハガキ。集英社へ略歴速達かく。 昼食の時宮崎恭溥先生より電話「けふ差支あり、あす午后来よ」と。 松浦翠生より見舞のChristmas card。 12月27日 晴。鎮静剤のせいか午前中だるく何もせず。 桜井栄養士「鑑真和尚逝世1200年記念式典に中国にゆきし」と。 田中楠弥太氏宛のChristmas cardは転居先不明と返り来る。益田佳子生「日本楽器の横浜支社に勤めゐる」と。 大川周子生Christmas cardにて見舞。阿南節子夫人より礼状。 13:00出て宮崎恭溥先生を訪ぬ。「顔色良くなりし」といはる。 柏井歯科へとゆく前、古本屋見て『俘虜記(60)』、『江之島片瀬腰越(50)』、『金剛山探勝案内記(50)』買ふ。 留守中、畠山の坊や、数の子もち来り、後藤均平氏蜜柑たまひしと。 (畠山氏、名古屋より電話して予告ありし也、史2、3日に名古屋へゆく由)。横山城尚君より信仰につき手紙。 12月28日 曇。ユ11:00齋藤神経科へゆき証明書もらへざりしと帰り来る。石川妙子生より受取。 高坂清元氏より13日出のハガキ。「24~28」が父の作と。 今井富士夫氏より「相馬の勤先しらず」と。峯岸(高橋)夫人より喪中欠礼。 19:30入浴後、右足にむくみありと。近くの森谷外科へゆきしもdr.散髪とて帰り来る。丸より肉の味噌漬。 12月29日(日) 礼拝に夫婦ともにゆかず。齋藤dr.佐藤dr.ともに午前中診察とたしかめてのち、佐藤dr.にゆく。脚気らし。 午后、夫婦して杉浦家。 『資料と考証Ⅲ』に「杉浦(※正一郎)のこと書け。1月末日までに400×7」といひ来りしが為也。 蕗子出て来て愚なる顔して相手にせず! 古本屋2軒見て『源頼朝(80)』、『去年の雪(20)』、『花ごよみ(140)』、『シベリア横断4万キロ(100)』と買ひ来る。 けふ林叔父より美佐・香寿2嬢の生年月日。咲耶より見舞。 正宗晴江生より「興奮して」ハイネの礼状。夕食後、入浴。だるし。 12月30日 だるきを推し、10:30佐藤dr.、80歳の老婆の臨終にとdr.往診。鎌田女史に注射してもらひ「あと1月6日」と。 柏井歯科へゆき、かずのこを呈す。「あと6日」と。硲晃氏よりChristmas cardの礼。 依子より「memoなくした」云々。史に林叔母の縁談[話]いひ「東生田へゆき見よ」といふ。 17:30「矢野昌彦のアドレス教へよ」と益田佳子の母より電話。 (古本屋にて『丹波の話(100)』、『世界の旅・日本の旅12(30)』買ふ)。 (『果樹園』へ「コギトの思ひ出(200×9)」速達にす)。 12月31日 曇。よべ心悸するに畏れしも眠る。 ユ、齋藤神経科に診断書もらひにゆく(北杜夫dr.にとことわられしと)。 朝、速達にて澄より「高垣、会ひたがりをる。史、弓子来名の時は道筋云々」と。 「楊貴妃」書直しすみ、宋璟の伝に至りて止む(123枚×200)。 ユ、渋谷へ寄れば母、会ひたがりをり。転居したがってゐると。 和田久徳氏より喪中欠礼。多田喜子より年賀状。 田中克己日記 1964 【昭和39年】  昭和39年は、前年夏に発症した神経症によって、生活が引き続き灰色に塗りつぶされる雌伏の年となります。  完治したと思ひなし「全快の歌」を詠むも糠喜びに終り、ノートには「瘋癲日記」と副題して「遺言」を書き留めるほどに思ひ詰めてゐた精神の病ひ。 家族へ与へる影響も懼れてゐたやうですが、周りにあった旧知・教へ子の、詩人に対するまなざしは、しかしながら終始温かいものでした。  辞職願を握りつぶしてくれた文芸学部長の栗山理一氏をはじめ、同僚の理解に支へられ、詩人は専任教授だった成城大学を、回復するまで「無理しないやうに」と休職身分ですごすやう勧められます。家族は安堵したことでしょうが、この時期、渋谷に母と同居していた劇団青年座の脚本家、西島大氏(異母弟)の存在が、「母には本当に頼りになってゐたやうです」との長女の依子さんの回想は、日記からも十二分に窺はれます。  「暗い雰囲気が覆ってゐた」といふ、吉祥寺の借家からも4月に引っ越します。何かと転居の多かった田中家ですが、阿佐谷南の閑静な路地裏に建つ、悠紀子夫人の従姉の持家だった家が、詩人がその後の余生を過ごす終の棲家となりました。  教会と、斎藤茂太院長の斎藤医院とに通ひながら、病気の意味をキリストへの帰依と結び付け、堅信を守る詩人ですが、休職中とはいへ、人と会ったり古本屋めぐりをしたりといった日課は変りません。どころか、父の遺稿歌集『歌日記』が刊行されると故郷の大阪まで追善に赴き、長女の依子さんが嫁いだ名古屋にも遠出してゐます。発病前に校了した『白楽天』が、集英社の漢詩大系の一冊として1万冊刷られることとなり、今までもらったことのないような印税(百万円)も入ります。傍目には休暇をもらって執筆活動にいそしんでゐるやうにもみえるその様子は、一部の同僚から羨まれもしたやうです。  古本市に居るあひだは症状がなくなるといふのは確かに笑へます。授業ができなくなったら大学に迷惑がかかるから即退職、と決めてかかってるところもまた、身のふり方でこれまで度々損をしてきた、この詩人らしさの表れでしょう。神経を使ふ生活を改めないから、結局年末に斎藤医院に再入院する羽目となり、北杜夫“先生”から「2,3日バカになれ」と執筆読書を止められてしまひます。(復職にあたって診断書には正式に「躁鬱症」と記されますが、まさか同じ病で苦しむことになるとは、北杜夫もこの時はまだ思ってなかったでしょうね。)  壮年から初老へ、人生の半ばを越え次第に無理が利かなくなってゆく年代。  丸一年に及ぶ休養期間は、専ら自らの研究に充てられたやうで、学会誌を継続し仲間と輪読も行ってゐます。同業者の顔ぶれに変りはありませんが、報ぜられた松本善海や服部正己の病気は気にかかるところ。パリの日本館館長に就任する親友羽田明とは出発前に会ってゐますが、日記中を見渡せば、キリスト者として近所に住まふ紅松一雄や、弟の離婚調停に係り調停委員となってくれた丸三郎弁護士のほか、民間の出世頭である西川英夫(東京建物)、日銀理事鎌田正美、自衛隊師団長関口八太郎、吹田市長山本治雄、朝日新聞支局長高垣金三郎といった、斯界で活躍し始めた旧友名士の名前をみることができます。  田中克己自身、この年、著書は『白楽天』のほかにも『中国后妃伝』が刊行され、過去の『李太白』が“漢訳”され、(当時印税はありませんでしたが)台湾で出版されることが伝へられ、自分と研究テーマを同じくするドイツ人の少壮学者からは、学生時代の卒論を求められるなど、こと専門分野においては、病気の影響を全く感じさせない充実した収穫の日々を送ってゐるやうです。  ただし詩人としてはどうだったでしょうか。「詩」に向き合ってゐるやうな節は、この年の日記のどこにも見られません。  「キリスト教に入信して詩がだめになった」と引導を渡されたといふ、先輩詩人三好達治の訃報に接しての反応は冷たい限りですが、かつての詩友たちとの詩的交流も寂しいもの。といふか、詩の依頼や集りや、とにかく新しく詩作と詩壇に関はることには病気を口実に、来たものから拒んでゐるやうにもみえることです。  古巣の『果樹園』で「コギトの思ひ出」だけは連載を続けてゐます。しかし下阪して肥下夫人と会っても『肥下恒夫遺稿集』について進展があったわけでもなさそうであり、中島栄次郎の名も一言も出ない。そして『現代畸人伝』を新潮社から出して文壇の片隈に定位置を確保し、私生活でも相変らず女性歌人たちに絶大 な人気のある保田與重郎とは、同じく師と仰ぐ佐藤春夫の葬儀の席で会はうともしない、著書の交換もしない、といふ徹底ぶりに驚かされます。  保田與重郎を大人(うし)と崇める影山正治は、主宰の大東塾を代々木に構へて居り、かつて「大東亜戦争を熱祷(保田與重郎序文)」する詩集『神軍』を著した田中克己は、責任を感じ、敗戦時に自決した塾生を悼む献金を20年経った今も影山正治に届け続けてゐます。渋谷の実家にも齋藤神経科にも近いこともあり、年賀状や父の遺稿歌集『歌日記』を、機関誌『不二』を自前で印刷する塾の印刷所に依頼してゐるのですが、東洋史学者を任ずる「始皇帝の末裔」である田中克己と、生粋の民族派である保田與重郎・影山正治との間には、汎アジア主義の在り方・理想に於いて元来の想ひに差異がありました。  相撲や野球やの話題がそのまま日記には映されてゐますが、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業したこの昭和39年は、高度経済成長が始まった、実に国民生活の節目を象徴する年であったといってよいでしょう。  戦争の記憶を忘れようとする日本にあって、奉ずる神様まで異とすることとなった彼らとは、ますます疎遠になってゆくことが予感されます。  この年の出来事を記します。 【昭和39年】 2/11先考西島喜代之助の遺稿歌集『歌日記』刊行。 2/17ノートに遺言を書き留める。 2/21斎藤医院入院。3/18退院。 4/5三好達治死去。 4/12長男史氏帰京、本省へ戻る。 4/23渡欧する羽田明と会食。 4/26阿佐谷に転居。 5/6佐藤春夫死去。5/9葬儀参列。 6/5長女夫婦を名古屋に訪問。 7/26先考墓参のため飛行機で下阪。7/27報国寺墓参、7/29帰京。 7/30集英社版漢詩大系12『白楽天』刊行。 10/9オリンピック開会。 11/1自宅に電話引かれる。齋藤神経科再入院。11/10退院、12/1診断書に「躁鬱症」。 昭和39年1月1日~昭和39年2月9日 「武蔵野中央病院 (付)退院誌」 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き 昭和39年1月1日~昭和39年2月9日 「武蔵野中央病院 (付)退院誌」 25.0cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p1 1月1日 9:00起き、年賀状152枚受取る。 12:00吉祥寺駅を出て白鳥家へ13:00着き、先生軽快の趣き承る。芳郎氏「成城は学習院と気風似てゐる」。 帰りまたbus、東横dept.へとちがふ途とり、歩きて大(※弟:西島大)宅。俳優某氏をり、母より雑煮饗さる。 16:00出て渋谷で京と弓子を柏井(※妻の弟宅:歯科医)へゆかして帰宅。(※省略) 夜、父の年譜写して疲る。 1月2日 曇りたれど降らず。ユ(※悠紀子)「きさらぎ(※西島喜代助遺稿歌集の題目)」の写し了り、われ「あとがき(200×4)」書き了る。 史、林(※親戚)へゆき「結婚当分せず」といひし由。賀状31枚。 1月3日 〒なし。史、7:30出てゆきしか、9:00すぎ起きて見ず。昨日あたりより悪現症起る。 午すぎ青木美裟子来る(寺崎へゆく途中と)。 やがて服部三樹子女史来訪。夫婦して症状いふ中、ユ、めやぎ(※目やぎ?)のこと云ふ。 夜、経済を考へて憂鬱。弓子「5万円を貸す」といふ。「あす名古屋へゆく」也。 1月4日 弓子出勤、そのまま「名古屋へゆく」と。賀状158枚。 午后、青樹社書房青木氏来り「火野葦平の蔵書整理した。柳田先生安くうすい本出せといはれし云々」。 折よく山田俊雄教授来訪。『日本語の歴史2』賜はる。 ユ、郵便局にて5万円出し来る。(われ、そのまに佐藤dr.にて注射受けし)。 筑摩中島大吉郎氏より「原稿枚数どれだけふえるか云々」。(※省略) 1月5日(日) ユ、礼拝にゆく。われ11:00出て渋谷。ちょっとワリツケし、大よりの5万円と(※合せて)10万円もちて不二印刷所。 (※西島喜代助遺稿歌集の編集)神谷氏とX氏とでやれと塾長よりの厳命と。 河野・鈴木夫人も出て仮受取くれる。万年筆忘れしゆゑ帰宅。年賀状ちょっと書く。憂ウツ症少しよし。 1月6日 10:00、ユとともに斎藤神経科。診断書すでに送りしと看護婦さん(210)。 北杜夫氏に会ひユーウツ症起りしを云へば、薬変へたまふ。 (出がけ澄より電話あり「高垣(※高垣金三郎、朝日新聞名古屋編集局)20日すぎは上京」と) 新宿でライスカレー食ひ(140)、成城へゆけば無人。原田・石田両先生の本などとりて帰宅。 松村達雄君来り、「4月よりやめる。嬢ちゃん武長に勤める等。高田・栗山(※高田瑞穂・栗山理一)に復職話さん」と。(例の胃癌検査の話われす)。 (※省略) 弓子帰り来り「史、畠山家にては話にならざりし」と。(※省略) けふ賀状13枚。われも30枚位書く。 1月7日 晴。寒し。賀状10枚。親和会より見舞金5千円。 佐藤dr.へゆき注射。ついで柏井へゆく。(※省略) 1月8日 佐々木邦彦君より年賀として山の絵。 糸屋鎌吉氏より「ラマンチャの会へ来よ」と。ことわる。 けふ、午ね2時間、だるく柏井へゆかず。京、試験の願書もらひにゆく。『果樹園』95来る。 1月9日 ユ、斎藤神経科へゆき、診断書に印もらひ、成城庶務課へゆく。 さくら印刷所より電話「神谷氏来る」と。影山正治氏よりも「その中会ひたし」と。 家居、寒し。(※省略) 1月10日 晴。だるくて家居。 丸山薫氏より『パアゴラ』8号に詩をかけ、5千円与へると。 林俊郎Masisonより年賀状。他に賀状10枚。帝塚山の賀状半ばすむ。脚気また悪化。 1月11日 佐藤dr.に注射にゆき柏井歯科。帰り中央線古書会にゆき『野の花山の花(50)』、『雲荘随筆(50)』買ふ。青木氏に遭ひし。 けふも賀状6枚。安部照子見舞に来る。『李太白』与ふ。 1月12日(日) 礼拝にゆき会費献金。杉本恵美子生より見舞状来しのみ。賀状の返事にて疲る。 1月13日 暖かし。斎藤神経科へゆく。(佐藤dr.で注射打ってもらふ)帰り西荻窪の古本屋見しも買ふものなし。 筑摩の中島君より「京へゆき4~5日後来る」と。 1月14日 不二印刷所神屋氏(※神尾氏?)より「校正もち来る」と。「雨やめば来たまへ」といふ。 湯川松次郎氏より金尾文淵堂年譜稿の礼。原田淑人先生よりお見舞。17:00神屋氏校正もち来り、軍隊の話す。校正すませば22:30。 1月15日 寒し。家居。福島恵美子、鈴木健司の2生より賀状!服部三樹子氏より見舞状。田中久夫氏来らる。 1月16日 10:00出て佐藤dr.、ついで不二印刷所、「しばらく待て」とのことに渋谷へゆく。 あすの(※弟の)調停裁判に丸、大ともに出ず、離婚裁判にせんとすと。すしよばれ13:30不二へまたゆき150pまで校正受取りbusにて阿佐谷。 高沢叔母来をり(古本屋にて船越章に会ふ)。矢野閣下(※戦時中上官)より「Smatraの後遺症か」と。 1月17日 雨。家居。大より電話「河野岑夫堀江支店長、悠紀夫天高に転入したき故、坪井への添書たのむ」と。 山本幹子、今市佐恵、清水和子諸氏より賀状。 不二より電話、鈴木正男氏、道に迷ひしとおくれて来り、「原稿増加のため紙代500円を400円にするも22万円」と。「仕方なし」といひて困惑す。 1月18日 雨。憂鬱治らず。野田又夫より賀状の返事。17:00佐藤dr.にゆきヤマダ女史より注射受く。 1月19日(日) 雨。礼拝にゆかず。〒なし。 1月20日 佐藤dr.に注射していただき斎藤神経科。けふは茂太先生にて憂鬱をいひし。 青山博士夫人よりお見舞に1千円いただく。竹内好君来り、松村達雄君より電話「復職すすめよ」と也。 SCAの服部嬢来り、卒業生13人へのsignをす。夜、白水夫人千鶴子来り、cake賜ふ。 1月21日 ユ、成城へsalaryもらひにゆく。共済組合のまだ出ず学校の立替で、 休職者手当59,800、他に10~12月差額13,200を俸給15,000-税など9,830=18,370もらひ来し。 憂鬱治らず。ふしぎ也。 1月22日 昼食後、散髪にゆく(250)。太田陽子氏より「近況かけ」と。 『鈴木俊教授還暦記念文集』にかく気なくなる。 うづら荘へ3回電話し20:30やっとかかり「あす9:00までにゆく」といふ(福地君(※福地邦樹))。 1月23日 7:00起き8:00の電車にて目白のうづら荘へとゆく。 「栗山部長、小高根二郎に会にてなが病気話せし」と也。弟君これまた新婦つれて来るを待ち、10:30新宿御苑へゆき写真とる。 そのあと中村屋にて昼食「今夜湯河原泊り」と。 けふ青木母生より病気見舞。夜、神屋氏校正もち来り初校すむ。憂鬱止まず。 1月24日 ユ、不二へ校正もちゆき母に3千円もちゆく。留守、福島・安部2生来り、面接すみしと。 杉山平一氏より『四季』そろへてもちゐると。 栗山部長に「reportの採点せんか」と手紙かく。 1月25日 寒さややゆるき故、午后柏井歯科へゆきしに休診。 荻窪の古本屋にて『近代日本文学とキリスト教(70)』、『吉利支丹文学ノート(70)』買ふ。三鷹にゆきしも何もなし。 けふ『不二』来り、わが「全快の歌」のす! 夜、福地君へ写真包む。 1月26日(日) 礼拝にゆく。丸山薫氏より詩の受取。夕方、鶴崎祐雄より電話、中道まで迎へにゆく。海苔呉る。 1月27日 晴。9:00ユと斎藤神経科。北杜夫dr.躁鬱症の診断書たまふ(薬かはる)。 地下鉄にて南阿佐谷、昼食して数男(※義弟)にゆく。「船越章、再婚の希望あり」と。 荻窪まで歩きて帰宅。田中靖子より改名のこと。けふ太田陽子女史へノイローゼのことかく。 1月28日 曇。悒ウツで耐(※たま)らず。栗山部長より「教務一切放念せよ」と。依子より「金なら貸す」と。 筑摩の中島氏より電話「150枚以后すすまず」と答ふ。 1月29日 よべ書きし「コギトの杉浦君」200×14荒尾へ速達す。あとねてをり『ノイローゼ』よみしのみ。小高根二郎、市古宙三2氏へ原稿のことわり。 1月30日 夜半停電、こわくてたまらず。 宮崎恭溥先生に電話かけさすれば「3日(月)夫婦にて来よ」と。 終日不安、あす斎藤先生にゆくときめ、夜半port-wineと睡眠薬ブロバリン10錠のみて眠る。 1月31日 雨中をユと斎藤dr.。代診の先生「一月の入院必要」と。「ただし空室なし」と。睡眠薬もらって帰宅。(※省略) 渋谷へ夫婦ともに電話せしも「大、今夜大阪より帰り来る」と。よべ睡眠剤用ひわすれしも眠る。 2月1日 曇晴。鶴崎生より礼状。笠井千夜氏よりたのみ状! 東京教育大学より「雅護夫(※護雅夫)班の分担者となれ」と。夜、和田賀代女史より電話ありし故、笠井氏ことわりしと。 不二歌道会より表紙につき来る。(大、また大阪と) 2月2日(日) 藤井夫人より電話、入学斡旋のこと、ことわる。夕方相馬来て「秋田へ帰る」と。比留間元子生よりなぐさめ。 夜、兼清隆二君来訪。入学試験のことらし(会はず)。 2月3日 ユ、俊子姉へタカ子の祝もちゆく。われ柏井歯科。ともに出て南阿佐谷よりbusにて宮崎先生、「薬あす賜ふ」と。「閑院宮来られし」と。 2月4日 罪責観念つよし。(ゆき子にすまぬ也) ユと11:00斎藤dr.にゆき、13:00やっと診察受く。「入院の要なし」を自らいひしあと帰宅。 16:00ユ、宮崎先生へゆく。18:30帰宅まで心配す。 2月5日 よべより漢方薬のみはじむ。少し元気出る。大江叔母へ「49回忌3月にせず」と。 母より電話「藤村氏の女入学につき相談」と。「8日ゆく」といふ。 森良雄dr.見舞に来る。「松村より聞いた」と。兼清隆二君よりカステラ1箱、入学関係か。 2月6日 ユ、教会の婦人会にと出しあと、税務署の宮川といふが来り、「15:30ごろよこせ」と。 『歌日記』500刷りしことよべより気にかかる(150にてよかりし也)。 『果樹園96』来る。夜、電話、羽田明博士より。ノイローゼをいふ。 2月7日 横山薫二君へ白鳥芳郎教授を紹介す。午后散歩す。 2月8日 朝出て駅にゆけば雨。斎藤神経科の見なれぬ先生に睡眠薬もらふ。 雨ゆゑ新宿をへて渋谷の母にゆけば「千草(※『歌日記』奥付)連名に困りゐる」と。 大もノイローゼ気味にて京都に居ると。鬱々として帰宅すれば高橋君(※高橋重臣)より速達「面接いつがよきか」と也。 2月9日(日) 雨と雪と。ユ、教会の手伝にゆき15:00すぎ帰宅。高橋君へ「わが手よりはダメ、小高根二郎氏か林富士馬氏へたのめ」とノイローゼあかす。 2月10日 2月11日 2月12日 2月13日 2月14日 2月15日      記載なし。 2月16日 2月17日 2月18日 2月19日 2月20日 昭和39年2月21日~昭和39年5月18日 「瘋癲日記」 21.0cm×15.0cm 横掛ノートに横書き p2 2月21日 府中市浅間町4の1 斎藤病院入院。岸主任。渡辺、山田、大塚先生。毎夜睡眠剤。 2月22日 2月23日 2月24日 2月25日      記載なし。 2月26日 2月27日 2月28日 2月29日 ブドー糖 36.3℃ 食欲なし便秘4日目。 同室土淵君(23才)よく食ひよく眠る。下剤3錠のまさる(14:30)効き目なし。 3月1日(日) 礼拝日。山田看護婦に灌腸さる。入浴、10分ですませば昼食。 3月2日 悠紀子来り、大塚dr.に5日間の帰宅たのみゆるさる。 小金井よりのbusにて帰宅。西角桂花先生より礼状。聖心の謝恩パーティに欠席の返事。福島恵美子に早く返せと。 成城図書館に貸出し書目しらせと。 坂口允男君に心配の礼。青木儴二(4E)に就職祝。中野書店へ「あす9:00ごろ来てくれ」と。 3月3日 中野17万。よべ不眠にて不安、ユを促して三鷹へ出、駅で30分待ち蛇窪の病院に帰る。 院長来診、梅よしといふ。大塚先生にものいへば心配いらずと。 3月4日 よべ睡眠薬きかず2本め飲ませてもらふ。 3月5日 入浴。隣床の土淵君、わがせいでなきかといふ。 しゃっくりとまらぬをワタナベ看護婦につれゆけばカンタンに止まる。 3月6日 11:00ユ、菓子を多くもち来る。原dr.問診、15:00下剤をもらふ。ききめなく山田女史に灌腸(明日の)たのむ。 3月7日 夜、せき出て眠剤のみて2時間後おき、あとねむらず。 院長来院「自覚より他覚の方早し云々」。そのまへ原dr.に[schrock]療法受けし也。 けふ雨、午后より。22:00再び眠剤もらひて眠る。 3月8日(日) (礼拝)讃美歌集もつるをはじめて見る。内藤子爵令嬢といふもあり、入浴。夜、8:00睡眠薬のむ。 3:00ごろ再びもらひにゆきしもきかず。 3月9日 ユ来る。「一度帰宅といふことにして退院せしめることをたのむ」と。大塚dr.は「早すぎる」と也。 浣腸そのあと下痢2回。 3月10日 朝よき便出る。院長午后突然来院、われ苦笑して不眠のとれざるのみいふ。土淵君の母来り、退院申出しもきかれざりし様子。 3月11日 ユ16:00すぎ来り、ともに大塚先生にゆき1週間後退院と決める! 3月12日 同室の土淵君、母と外出、土曜日までと。 3月13日 ユ来り、食欲出る(但し便秘)。岸主任事務室にて診断書送り返された由云々、18:00すぎ看護婦室へ電話たのみにゆきしも相手にされず。 3月14日 清水君とて対室の人、外泊より帰り来る。院長来り、わが快調を喜び玉ふ。土淵君19:00帰り来る。 3月15日(日) 午前入浴。あす退院の田村氏・清水氏と話す。岡日呂志なる老人、眩暈せしとて心配す。国領といふの暴れて眠らさる。 3月16日 田村氏退院。ユ11:30来り、事務へゆけば請求書。要求の返送なりしと。大塚先生「退院いつにてもよし」と。 夕刻、院長来る。国領けふも眠らさる。 3月17日 あす退院とうその如し。内藤嬢「ワセダを出し」と。(父君にわれ、丸の紹介で会ひしことあり) 3月18日 Arbeit中、ユ来院、退院許さる。大塚先生に3千円、婦長2千円、岸・渡辺・山田3看護婦に2千円お礼し、taxi呼んでもらふ。 払ひ合計(2.21-3.18まで10,962)。taxi代580円。帰宅、向島君子夫人に歌集のお礼。 三鷹まで散歩せしに中村書店(※中野書店?)にはわが売りし本ほとんど見えず! (大に電話し、北さんへの礼、相談す)。夜、入浴。賀代女史より「統夫宅があくが入らぬか」と電話。 3月19日 ハガキ4枚かき、武井「山田君江とその中見舞に来る」と電話きく。宮崎昭子、西島寿一にハガキ。 午后散歩かたがた山田俊雄氏を訪ね翟灝の『通俗編』の図書館へ返還たのむ。 ついで中西進氏の転宅先ききにゆき、祖師谷(※省略)ときく。 西荻窪まで歩き古本屋見しも何もなく『文藝春秋新年号(20)』買って帰宅。高田宣武新婚旅行中のたより。 3月20日 (春分の日)夫婦とも10時に起きる。昨夜喘息性の発作ありし。 畠山六右衛門氏に「重光君入学祝に字引贈る故4月10日すぎよこせ」と見舞の礼状をかねて手紙かく。 中西進氏へ「新唐書16冊とりにゆく」とハガキ。楫西光速博士死去、58才と。(※省略) けふ苦心して排便す。 p3 3月21日 よべも喘息で苦しみし。ユ、成城へ手当もらひにゆくにつき『旧唐書』、『隋書』、『満洲国礼俗調査彙編』返却にゆかす。 本田喜代治先生より成城高校へ来年お孫さん入学についての御相談あり。16:00ユ帰り来り、散歩す。 3月22日(日) (礼拝)ユのみゆきわれを行かしめず。栗山・大藤2教授に前期休講継続の願書かく。西宮一民氏より見舞状。 13:00出て関まで散歩、busにて帰り『日本列島(75)』買ふ。 留守に中西進氏より「借りた本みな返した」と電話ありしと! 京けふもArbeitにゆく、をかし。 3月23日 藤田福夫氏へハガキ。13:00出て柏井、『歌日記』俊子姉へもと托す。「統夫の家、間貸しにする案あり」と。 歩きて西荻窪。夕食時、杉浦母子見え「洋間あいた」と。母より「あす羽田へ林トシヲ迎へにゆく」と電話。 3月24日 本田喜代治先生に電話すれば「けふ午后来よ」と。白鳥奥様より「令孫上智へ入った。先生左手動く」とのおたより。 高田瑞穂氏より「一度会ひたし」と。長沖氏に見舞の礼かき、本田先生にまいれば「西高校と成城とを受け、両方通れば成城に」とのお話。 伊達守雄氏ご存じとのことに大体申上げ、柏井歯科をへて帰宅。 3月25日 雨。夫婦にて斎藤神経科にゆき。喘息止め入れの睡眠剤たまはる。東横dept.より北杜夫氏にbeer1打贈る。 渋谷にては母のみにて、すし食ひ『歌日記』の受取見る。 京に留守せししめしも〒なく、電話もなし。夕食後、松村達雄氏に電話すれば「大阪にゆきゐる」と。 中西進氏より「みな返した」と。(日記見れば7月8日返却のことも記されあり!!)。西島壽賀子より退院祝。 3月26日 晴。松村達雄氏に電話すれば「クビの心配なく全快祈る云々」。中西進氏よに失礼のわびいふ。兼頭生へもハガキ。 横山薫二氏よりも「不眠入院1年近かりし」由。さっそく返事。 柏井歯科へゆき高田瑞穂教授に電話すれば「4月6日より関西旅行」と。「その前あそびにゆく」といふ。 (※省略) 排便あり、湿疹かゆし。 3月27日 9:00目覚む。10:00すぎタカ子の結婚式にとユ、出てゆく。4畳の本みな4畳半に移す。『新唐書』見つからず。 14:00より15:00散歩の間に小金井の青木といふ人「あす来る」と電話ありしと。 (※省略) けふ阿南君より見舞のハガキ。澄夫妻より京の入学祝の鞄、三井銀行へもち来り「15日また上京」といひしと。 3月28日 喘息なほらず昼寐す。珍し。高田宣武へ祝ひ状。昨日の電話は古本屋の青木氏にて喘息をいひてことわりし由。 4月8日般若園で佐藤先生の会「病気にて速達で断りし」と。 (※省略) 3月29日(日) 復活祭なれどユに止められてゆかず。青木直樹氏来り、菓子賜ふ。『末摘花』など2千円でもち帰り貰ふ。 そのあと15:30本間・猿渡・川本の3副手、三野生を案内し来る。(海苔呉る。毛受の結婚式に出る由)。 相良先生停年とて『富岡鉄斎』2冊返却し賜ふ。福島恵美子生「阿佐谷の親類とは古谷綱正氏にて卒業式にも出ざりし」と。 4生とユとにて深大寺へゆき写真とり、ソバ食ふ。(※省略)  都留純也、阿南惟敬氏へハガキ。(丸・正宗2生卒論不提出と)。 3月30日 10:00出て松村達雄に礼にゆく。そのあと成城図書館に返却にゆけばまた2冊不還出て来る。『清俗紀聞』5は研究室にあり。 鎌田、本間、前田課長に挨拶せしあと、高田瑞穂邸にゆく。帰りbusにてのりかへして帰れば斎藤宗吉dr.(※北杜夫)より礼状。 井上典子司書より『通俗編』返ったと折返しハガキ。(※省略) 3月31日 7:00起きだるし。9:00出て斎藤先生。北先生ではなかりし。 「9月頃までに瘉りたし」といへば「瘉るでせう」との事なりし。睡眠薬代請求され200円借用し渋谷。大をりし。 母より1千円借り、渋谷の古本屋見て『Creation myths of the Formosan natives(80)』買ひ< 道玄坂にて四鏡(2万円)(※『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』)買ひし。腹へらして吉祥寺駅前にて鰻飯(230)食って帰宅。久保靖彦 「札幌へ住んだ」と挨拶。 4月1日 食欲なく9:00、busにて成城。図書館へ『清俗紀聞』返せば『新唐書16』こぼれてありと。 喜んで『Biblia』事務室へ寄贈し、百瀬甫先生訊ね訊ねしてゆけば御在宅。『歌日記』贈りsemiその他にてなほ通学と伺ふ。 Sandwichとcoffee(180)とりてbusにてまた帰宅。(※省略) ユと荻窪より歩き、ユは田中家(※俊子姉嫁ぎ先)「咸子あと2年留学、離婚談はけふつける」と。 我、柏井にて治療受け、岡田次女(村田芳子夫人)に昭和20年より19年ぶりに会ふ。(※省略) 4月2日 太田常蔵君、見舞に来賜ふ。写真とり雑炊くひてbusにのれば財布忘れをり、あはてて下車。(※省略) 図書館に『新唐書』返し「当分来ず」といひ、またbus。吉祥寺に出て帰宅。 4月3日 (※省略) 昨夜久しぶりに睡眠薬をのまず。 移転せし不二歌道会へ「14士へとでも」と2千円もちゆく。河野・長谷川・鈴木夫妻に遭ふ。(※省略) 本間生より「あす渋谷でクラス会す」と。ひるね中にて出ると答ふ。(夜、川本生よりも同じく「池辺・大藤・今井の諸氏も出る」と)。 和田賀代女史より「統夫6日赴任」と。ユ、咸子送別に出しあと也。電話せよと。 20:20田中家へ電話し、ユに「そこより電話せよ」といひ、咸子に「ムリすな」といふ。 (けふ丸に電話し「訴訟の礼のこと西川にでもいへ」といふ)。 4月4日 鶴崎祐雄より「関大の東洋文学科へ入った」と!15:00出て阿佐谷。和田統夫夫妻に会ふ。汚き家なれど貸しくれる様子。 ついで隣の船越こせん伯母に遭ふ。出てbusにて渋谷。 17:15ボングーといふへゆけば、大藤・池辺2氏すでにをり、川本・猿渡・三野・長沢・根岸・本間・松島・丸・山田・越智と10人の男女あつまりをり。 料理旨く、池辺君に「完全になほれ」といはれて帰宅。 亀井昇より電話「あす鎌倉へゆく」といひてすむ。名古屋の澄より「第3席となりしこと高垣より報せといはれし」と電話ありしと。 賀代女史より牛乳のこと。 4月5日 毛受順子へ祝電打つ。久しぶりに礼拝にゆく。笹淵博士、田口、小室諸氏と挨拶す。福島生母より礼状。(※省略) 高校選抜見了へて出、鎌倉にてうなぎと天丼(550)。手塚部長に電話し、お賀代ちゃんへ電話きき、入浴。 西洞院淑子より「上京中、しっかりしろ」と電話。(三好達治、狭心症で死) 4月6日(日) 8:00出て野草とり八幡宮。一旦帰りてひるねし(ラーメン食ふ)、15:00出て小坪までのbus探しまはり、阿南惟敬氏訪へば登学と。 電話かけたまひしも通ぜず。夫人の写真とり、大町へ出て古本屋見などして疲る。 4月7日 10:00鎌倉駅より乗車。我は斎藤神経科。茂太先生に好調いひ、荻窪よりシブヤに電話し、ライスカレー食ふ。 『果樹園98』来をり。山口書店、保田のことききに来しと。仁井田博士の還暦祝4月19日と。三好達治氏の葬儀あすと。 ユ帰り来り、林俊郎夫妻の不孝をいふ。大も三好氏の葬儀にゆかざる様子。集英社の及川氏(※及川均)よりシブヤに電話ありしと。 p4 4月8日 雨。集英社へ電話すれば薄井氏出て、(※漢詩大系『白楽天』)5月『唐詩選』の次に発行と。 神田信夫氏より見舞状。礼状かく。亀井昇、西洞院淑子2生へヱハガキ。 4月9日 雨。畠山夫人より「依子に見舞たのまれたが云々。重光フランス語とる」と電話。(※省略) ユ、教会の婦人会の申送りにゆき、和田家へ引越し手伝ひにゆく。京、けふより吉祥寺女子高校へ登校。福島富士子氏へハガキ。 千草より電話「あとへ入らず」と。(※省略) ユ17:00帰り来り、「修繕すむまで家賃いらずと統夫はいひ、妻は金ほしがった」と。 4月10日 ユ、三鷹の銀行をへて阿佐谷へゆく。われ白水夫妻の電話まちしもかからず、写真もちて(※阿佐谷の家に)ゆけば汚しとも汚し。 ゴミもやし、賀代女史の昼食するところにて船越母子の写真とり、中村屋でrice-curry食へば(200)、14:00なり。 ノリヒコ君と『独和辞典(950)』祝に買ひ、写真現像たのみて帰宅。 18:00白水夫妻来るとのことに、フジヲ君に「あと貸すや、条件考へよ」といふ。(※省略) 19:00白水夫妻来り、「9500にて(※田中家退去後の)西側に入る」こととなる。気持よし。 涌井千恵子へ「5月に来よ」と返事。 4月11日 よべ睡眠剤のみ(3:00)、10:00起く。朝食させユ、阿佐谷へゆく。われ額二つもちゆき、家具屋の下見に来るに会ふ。屑屋来り140にボロを売る。 船越嫗カステラを御馳走し賜ふ。15:00出てIcecoffeeのみ、帰れば畠山重光君「蜜1瓶もち15:00ごろ来し」と中西令嬢。 入浴。このごろ元劇俗語方言をcardに作る。(手紙類の整理をせし)。 4月12日(日) 礼拝にゆく。畠山重光君より電話あり「12:00またかける」と。 史より「5日付で本省に戻ることとなり12日(けふ)帰京」と。(※省略) 園克己氏より共立女子大卒業生の問合せ「関係ありと坪井に聞いた」由! 17:00畠山重光君来り、『フランス語中辞典(1,000)』祝にと贈り、夕食せしむ。26日の転居手伝に来てくれると。 明和産業より見積(畳22,125、襖26,400、屋根24,000、瓦13,710、その他にて121,665)。賀代女史に電話す。 鶴崎祐雄へヱハガキ。21:00史帰宅。「大江にも寄らず」と。煙草Pall Mall、1箱呉る。 4月13日 よべ1:00にねて10:00起床。阿佐谷へゆく。15:00すませて天沼の俊子姉にゆき、「数男に19日にゆく」といふ。 明和産業といふにゆき5万円を22日に払ひ、26日移転といふ。(※省略) 史の荷物つきをり。(※省略) 4月14日 9:30出て斎藤神経科。茂太先生に快調申上ぐ。睡眠剤は強くなき由。 渋谷にゆき母に「丸への礼にせよ」といふ。ルリ子より衣類5点送れとの年賀ハガキ来てをり。 林叔母とよめとの話きき、スパゲティ食べてbusにて阿佐谷。1丁目にて降りればまっすぐ也。 200の散髪し帰れば「5分前に田上由美子来し」と。(※省略) けふは始業の日なり。(※省略) 夜、澄より電話「高垣、会ひたしといふ」と。「20日頃上京」と。(「佐々木六郎は東京へ転任しをり」と)。 青木母より「お嬢さん、世界のムードをゆく」。 4月15日 教へ子たちに礼状かきしてゐる中、突然青山定雄博士来訪。「大変よくなった。後期より聖心へ復職ささん」と。 すし食べていただき出てゆけば郵便局前で飯倉生に遭ふ。 阿佐谷にて、燃しまづ済み((※前住者が飼っていた)猫はきのふ捨て、犬はけふ引かれゆきしらし)、15:00数男にゆき歯直してもらひ帰宅。 依子よりけふ20:30帰宅のハガキ。園克己氏より「ともかく4年間の下宿しらべてくれ」と速達。 悠紀子迎へに出しと入れちがひに依子自動車にて帰宅。鈴木俊氏へ還暦記念論文集に書けざるわび状。(※省略) 4月16日 朝より大川周子・飯倉紀子の2人にて花扇もち来る。ユと依子とは阿佐谷へゆく。 12:00ともに出て井の頭公園にてソバ食ふ。(※省略) 柏井歯科へゆき亀井昇、河野岑夫のハガキ見る。 (筑摩の中島君より電話「『中国悪女伝』にす。6月半完成」といふ)。(※『中國后妃伝』のこと) 坪井明にも転居予定をかく。宮崎智慧(※宮崎智恵)、鹿熊猛へ同。 4月17日 10:00出て阿佐谷。紫檀の机の足まで燃やす。昼食にpâo食ひ、柏井歯科。光一入学祝に独和辞典(950)もちゆく。 広島バルカノンより「29日に11周年の会する。出席せぬか」と。本間、阿南夫人、松村達雄、三野裕子、四條治代の諸氏に写真包む。 4月18日 10:00前、阿佐谷へゆけば畳、フスマ修繕に来てをり。古畳6枚をユと街角まで捨てにゆく。 12:00昼食して柏井歯科。 河野岑夫よりクッキー1箱来る。礼状かく。 4月19日(日) 礼拝にゆき総会に出る。長老5人再選。13:00柏井にゆき光一の入学祝。 高沢叔母、和田賀代、田中憲三郎夫妻、タカ子、ミツ子とわれら親子4人(史はすでに退席しをり)、岡田父君の従卒といふが来合はす。 賀代女史29日に阿佐谷へ来ると。丸に電話すれば請求書われあてに送ると。羽田明君より「夫妻23日出発」と(※パリ日本館館長就任)。 松本(※松本善海)に電話せしに20日上京と。上田勤氏の名、思ひ出せず松村達雄君にきいてわかる。 『パアゴラ』3冊。(※省略) 21:00竹内家に電話すれば「依子あす参る」と。 4月20日 紙屑屋来て160円でもってゆく。そのあと阿佐谷にゆき、昼食してハガキ350枚買ひ、赤川草夫氏に転居通知の印刷たのみにゆく。 「末男家出して行方不明」と。帰り上田勤氏に電話かけしもかからず松本にいへば無関心の体なりし。 しるこ食ひ、上田夫人にきけば「あす夜つき、あさってはHotel泊り」と。 帰れば集英社より挿絵の説明ほしと及川氏より電話ありしを史ききしと。鍛冶、西洞院2生より見舞状。 4月21日 9:00すぎ出て斎藤神経科。10:30ごろ着きて12:30まで順番来らず。明日再来をいって都電にて神保町。 Rice-curry食ひ共立女子大へゆけば、高橋邦太郎教授あたかもすみしところ。久保田靖子嬢のことすでに産経記者しらべに来てをり。 出て「サンダル」といふにてcoffeeおごられ「船越章君も云々」とはじめてきく。 別れて集英社「挿絵の説明今週中に。月報の書く人も同」と約束し、近藤教授(北大と)といふに会ふ。 中教出版社にゆけば小山正孝君「小野忍教授にたのめ」と。礼いって出、帰宅。 (高橋氏より羽田の学生会館関係の送別会19:30よりありときく)。 宮崎智慧氏よりさっそく執筆依頼。阿南夫人より礼状。護雅夫氏より「25日14:00より会する」と。 松山嬢(交換手)筍多くくれる。史、同僚の印刷2人分たのまれ来る。園克己氏へ速達かく。 悠紀子、成城大学へ月給とりにゆき「渡辺氏といふが退職金もらひゐし」と、二郎博士か? 竹内好に電話して小野氏のこといへば反対。20:30上田家へ電話すれば昌ちゃん出、ついで奥さん「日程つまってゐるから明日電話する」と。 4月22日 羽田の奥さんよりユに「あすHotelにて」と。われ出て斎藤神経科。今日は空いてゐて一番に診察。 すみて新高円寺にて下車。史の同僚の移転通知2本を赤川氏にたのみにゆく。 明和建設に52,800わたし、あと11月までに分割払の証書を出す(和田統夫名義)。 途中で昼食し、柏井歯科へゆき、帰宅すれば『満文老檔Ⅶ』と福島母よりの手紙来をり。 (羽田に電話せしに「あす午后あきゐる」と。松本に電話し「あすまた聯絡する」といふ)。 4月23日 朝起きれば羽田夫人より「16:30~20:30まで五反田の『生駒』にゐる」と電話ありしと。 ユ、婦人会にとゆきしあと留守し、(弓子欠勤して阿佐谷にゆく)、本間厚子と田上由美子2生の手紙見る。 13:30出て柏井。それより東方文化研究所に松本善海を訪ぬれば「奇病にかかり8月より休みゐし」と。 羽田にゆくこととなり、新開通の地下鉄にて恵比須『生駒』にゆけば夫妻とも忙しく、 松本まづ帰り、われら残り、令弟、上田夫人、阪大山田教授らと夕食す。 (けふ東洋文庫の後藤氏に電話し「土曜欠席」をいふ)。帰り運送屋のため地図かく。 4月24日 藤原さんに礼にゆく。ユ、沈香花(※ジンチョウゲ:沈丁花)もちて出しあと『白楽天』挿絵の説明かき疲れ、集英社に電話し「14:00ゆく」といふ。 14:00すぎ途中にてユとゆきちがひ(鎌田女史より「旧文芸部長室へ本みな移した」と電話)、集英社。 神田喜一郎先生・川口久雄・太田次男3氏の名あげ、山本にて『酬世儀礼(150)』、大安にて『唐代文学(150)』買ひ、 それぞれ転居通知し、山口書店にも同(『戦後吟』はじめわが本もあり浪曼派の本多く並ぶ)。 国鉄にて帰れば白水夫人より「畳表もって来る」と。20:00来り、20:30帰りゆく。 (けふ藤原夫人に挨拶にゆく)。武蔵野、杉並郵便局へ移転通知かく。 4月25日 曇時々雨。運送屋10:00来り、3回往復してくれる。あとで「1回1千円としてくれ」と(PallMall1箱与へしのみにて昼食出さず)。 ラーメン14:00食べ、ユ帰り来しにより本詰め、風呂焚き、焚火す。 夜、畠山重光に電話し「あす9:00よりのArbeitたのむ」。ノリヒコ君にもたのむ。 けふ洗濯屋と保険とにあすよりの転宅いふ。 4月26日(日) 礼拝休み。運送屋まてば11:00来る。畠山重光君とノリヒコ君との2人に手伝はせ往復4回(昼食すし食ってもらふ)。 16:00すみ、白水夫人にあと引渡して阿佐谷。史、京は自分のもの片付けをり。 くたくたになり丸三郎に電話すれば「土曜発信せし」と。 船越家より赤飯たまふ(あとにてきけば「統夫の犬の餌にと置きし金の残りにて作りし」と)。睡れず睡眠薬のむ。(※連れてきた)猫鳴く。 4月27日 赤川草夫氏に電話し、移転通知とりにゆく。「田中克巳」としあり(600円)。 堤康次郎氏死に、子16人と。操夫人(※大伴道子)の苦労察するに余りあり。帰宅ぼつぼつ通知かき、午すぎ柏井歯科。 『金鈴塚(100)』買ひ本棚一つくみたて、渋谷に電話すれば「猫のかご返せ」と。夜「二」まで書く。 4月28日 斎藤神経科へゆき茂太先生に証明書いただく。この二日間睡眠薬を用ひし。猫、夜うるさきも一因なれど疲れし也。 帰りて戸田謙介氏にハガキ10枚もちゆく。他の10軒はユ、廻りし。けふ移転通知かき了り少し余す。 青木直樹氏、戸田家の帰りとて寄る。これ新居の第一の訪問者なり。けふ本棚の2つ目を組立つ。 4月29日 晴。朝より本棚作りなどし、午后三鷹浅野家へ挨拶にゆけば夫妻とも不在。 中西家に15:30ゆき白水夫妻未着なるを知る。花掘り、郵便物受取る。 丸より「礼として2万円貰はん」と。兼頭淳子より「4、5、6の3日を空けよ」と。 (けふ園克己氏より「西寛治氏にしらべさした云々」)。赤川氏、午前10:00来て史の同僚の移転通知(900)2種もち来る。 夜、和田賀代氏来り、立替の52,600返却さる。猫放せしも午、帰り来る。 4月30日 久しぶりに陽の光見るも寒し。朝、小西秋雄、海老沢有道2氏より、午后榎一雄氏よりハガキ。柏井歯科へゆく。 ユ、痔わるしとて不快。専ら『醒世恒言』のcard作る。(大に電話し、丸への礼のこといふ)。 5月1日 雨。タバコ買ひに出しのみ。浅野建夫dr.より注意状。(※省略) 丸三郎、白鳥きみ子、増田忠、相野忠雄、石田幹之助の諸先生、諸友、諸生より転居通知の返事。 船越小母、これん母(※実母)を悼む政一郎小父と父との短冊賜ふ。史、タバコ呉る。和田文子母子より挨拶。 5月2日 11:30散髪にゆく。涌井千恵子より4日の「ひびき」で来ると。澄より新聞記事の切抜。 川本静江、高橋重臣、川村欽吾、浅野晃、植村清二、小高根二郎、鍛冶初江の諸氏よりたより。(※省略) 柏井歯科へゆき帰宅すれば芳野清氏、ややして林叔母、難波和子母子にて来る。 弓子、裏磐梯へと出てゆく。そのあと渡辺道夫君来り、22:30まで話しゆく。 5月3日(日) 礼拝にゆく。聖餐式あり。すみて白水にゆきみれば、ちづ子君、神経痛と。 三野裕子、前田(毛受)順子、松浦翆、堀ノ内歴、西川英夫(ニューヨークより)の便と、高田宣武より茶1缶。 岩田信次氏より『続望羊』、角川より(※『ハイネ恋愛詩集』)19版22,954など来あり。 三鷹駅への途にて明大生の定期券拾ひ、駅へ届け、浅野建夫dr.に電話す。「クラス会やれ」と也。 帰れば田代継男(朔太郎忌には柄わるかりし故ゆかずと)、石山直一(豊中高校に転任と)、千川稚泉、沢田直也(島稔と仲直りせしと)、高田宣武、岡田和枝の諸氏より便り。 夕方、時間表(※時刻表)買ひにゆく。けふ本みな片付け了る。 5月4日 11:00柏井歯科へゆく。(よべ少し痛みし)。帰りて14:30、阿佐谷駅にゆけば涌井、兼頭2生16:30頃着く。 連れ帰りて17:30中村屋へつれゆきライスカレー食べさす。今夜とあす泊ると。 (京、朝より発熱。学校休み医師迎ふ。脱肛は篠原病院へと紹介さる)。 神田喜一郎、宮本正都、藤井通雄の諸氏よりハガキ。(『武蔵野案内記(50)』) 5月5日 (休)8:00起き、2生と9:00出て横浜へ電話かけるを待ち、吉祥寺。井之頭公園より三鷹へ歩き、小スコウプ買ひ多摩湖。 村山、山口両湖の中間で昼食。Busにて立川に出て高尾山にゆく。 曇時々雨。展望台へゆかず、帰れば今度横浜へゆくといふ。阿佐谷駅前ですし食はせ送り出せば服部三樹子氏来訪。 高坂清元、高原弦太郎、富永次郎(「近々会ひたし」と)、木村繁喜、坪井明の諸氏より便り。 和田文子より「統夫6~8日上京、一日位泊るやもしれず」と。弓子ヱハガキもち裏磐梯より帰宅。 けふ『週刊新潮』にて堤操夫人の立場よむ。 p6 5月6日 9:00すぎ出て地下鉄より栗山博士に電話すれば「今日あいてゐる」と。「来週水曜ゆく」といふ。 斎藤dr.に10日間の薬もらひ、部長にあふこといふ。帰りbusにて柏井歯科。 松田の子、学士院の同窓とけふ結婚式、俊子姉と尚子とゆくと。帰りて昼食。 野田宇太郎、原口武雄、木村三千子、坂口幸子諸氏の便りみて、赤川氏にまた転任の通知たのみにゆき、 『文藝春秋』、『むかしばなし(50)』買ふ。後者はdoubleをりし。 (高田宣武に礼、加藤隆子に「披露宴に出る」との返事出す)。 ユ、篠原病院へゆき「入院の必要なし」もいはれしと。壁の塗料買ひ来しゆゑ、塗ればきれいになりし。 5月7日 佐藤春夫先生仕事中に急死されしと。大伴道子(堤操)夫人にやっと弔状かく。富永次郎氏へ道筋かく。船越章ちょっと来る。 午、兼頭・涌井の2生来り「今夜泊めよ」と荷物おきゆく。柏井歯科へゆけば9日夕、岡田の父上に会ひに諸妹集まると。 和田統夫、夕食後来り(その前に涌井生、葛山夫人(旧山田為久子)連れ来る)、憐れなり。 5月8日 林富士馬氏に「お通夜にゆくべきや否や」電話できく。厭人症承知、受付は庄野潤三君とのことにゆくこととす。 (2生9:30出てゆくを地下鉄入口まで見送る)。 13:00出て高島屋の青木大乗展にゆけば母上をられ、「母(モト)嬢昨日下阪」と。すぐ帰り来る。けふ丹羽千年よりハガキ。 郵便局より転居承知とならん通知送り来る。 5月9日 堤操夫人、前川佐美雄の師弟より便り。16:00出て柏井歯科。岡田志紀氏へと土産ことづけ、新宿までbus。 「二光」でさしみ飯食ひ、目白より歩けば蔵原伸二郎に遭ふ。尋ねて佐藤邸につけば、受付に尾崎秀樹氏居り、記帳して御花料(5000)置く。 焼香(両陛下よりの供花あり、先生喜び玉ふらん)のあと、竹田竜児氏に「和田先生と春夫先生とで師なくなりし」といへば「2階に保田らをり」と。 出て林富士馬、高鳥賢司と話して帰る。 赤川草夫氏、史の同僚の転任通知もち来る。このごろ『醒世恒言』をもっぱらやる。 p5 5月10日(日) 夫婦とも礼拝にゆかず。母の日とて午后母に電話すれば「21日調停裁判の呼出しあり。丸さん不熱心」と。 15日に林叔父叔母と来るや否や問うてくれとたのむ。 井上多喜三郎、姜照美(京城より)、川久保悌郎、田村春雄、白鳥芳郎の諸氏よりたより。 満蒙資料研究会より「13日16:00より読書会やる」と。夕方、思ひ立って丸宅へゆく。(※省略) 5月11日 よべ3:00までねられず(睡眠剤きれをり)。9:00起き14:00昼食して柏井歯科。(図書新聞の安田氏来り、竹内好君の高校時代を語らす)。 『果樹園99』、『婦人公論』など来る。夕方、白水夫人あらはれ郵便もち来る。(※省略) 中西家ガスプロにせしと。 (千草来り、「青木嫗倒れて鷺宮にあり」と。ユ、渋谷に電話すれば「15日林叔父叔母も都合よろし」と)。 けふ岩田信次氏へ著書の礼状かく。 5月12日 睡眠剤なくなりし故、斎藤dr.にゆく。少し強きのをと8服たまふ(船越へ母より電話「青木嫗死にし故、ユ行きくれよ」と)。 12:00前やっと診察すみ、急ぎ帰り昼食。柏井歯科へゆけば岡田志紀老をられ、静岡の話とZeya河(※アムール川支流)に征戦せし話承はる。 涌井・兼頭・葛山3生よりそれぞれ礼状。花井夫人「2度目の妊娠」と。浜田恒代夫人「夫NewYorkへ転任」と。 (けふ病院より西川夫人に電話し「無事帰国」ときく)。田川孝三、、松村達雄、岡本和子諸氏よりそれぞれ便り。 「鈴木俊氏の還暦記念祝、6月末までに2千円以上」と。ユ17:00出てゆき(土山邸)、密葬し17日本葬と。 5月13日 8:30栗山夫人に電話「午后来よ」と。鍛冶初江氏(昨日奈良うちわと菓子賜ふ)に礼状。柏井歯科にゆく。歯根腫れたり。ヒロ子(尚子の妹)に遭ふ。 12:00出て青山邸に寄り夫人に会へば近々またお見舞するつもり也しと。恐縮して御長男へSportShirt、砂糖2キロ贈り、 栗山邸へゆけば「年末まで休め。あと1~3日坐りに来て、あと1年兼任講師」といふことらしかりし。 聖心後期のこといへば「断れ」と也。わが「本はみな庫に入れあり。夏休には洋行」と。 知らぬ顔して登学、前田課長に研究室のカギ返し、図書館にて俳書4冊、栗山博士の許にあるをいへば「その通り」と。 今井講師の歩くを見て挨拶し、研究室へ案内される途、牧野副手にあへば、松崎君やめ妹来てゐると。 矢野に会ひ「父によろしく」といひ、本多副手にきけば「鈴木睦美婚約せし」と。 大藤氏に会ひ、講義といふに出て駅で前田代議士の娘に会ふ。「赤羽に住み、子供生れて4月」と。 大地堂にゆけば「note忘れてなかりし」と。これにて帰宅。 伊藤徳「停年退職」。(※省略) 夜、春夫先生のお言葉radioできけば「幸ひに(無関係とて拘引されずと)」が絶語なりしこと判る。 けふ田川博士に電話して「研究会この次出る」といへば「出られますか」とおどろいた様なりし!歯痛む。 5月14日 柏井歯科。「岡田翁きのふ静岡へ帰り玉ひし」と。野崎その生へ菓子のお礼。 午后、難波和子にあすの案内たのみにゆく。夜、雨。けふ『基督教の起源(40)』買ふ。 佐藤方哉氏より「春夫先生の香奠、鴎外記念館に寄附す」と。 5月15日 9:30柏井歯科「歯はあす抜く」と。帰りて大阪ずしbeer等買ひにゆき、12:30母、林叔父叔母、こせん小母とそろふ。 「甚城祖父、岩屋で南海屋とて北海道の物産扱ひしあと、芸者屋やりし」と。こせん小母の話。 15:00にて散会。筑摩より本代12,590の請求。田中万里子より「2年間アメリカで勉強する。本も出す」と。 青木サケ嫗の葬儀にわれゆかぬこととす。 5月16日 朝、柏井歯科で奥歯1本ぬいてもらふ。伊藤徳子に「(※実母)これん記念祭は9月末か10月4日」とハガキかく。 午后、柏井へまた薬もらひにゆく。けふ〒なし。珍し。京、遠足にとゆく。 5月17日(日) 礼拝にゆく。ペンテコステ(五旬節)なりし。転会の少女4代目と竹森先生のご紹介。 すみて青木サケ嫗の葬儀に渋谷の母の許へユゆき、われpâo買ひて帰宅。 全田の叔母、体わるしとて手紙。白水夫妻、奈良尚(定期拾ひやりし礼)、鈴木敬子、西川英夫、千川稚泉より便り。(※省略) 5月18日 柏井歯科へゆく。帰って昼食。白鳥清先生のお見舞にゆけば坐ってをられ、「両手両足とも動く。右の方が不自由」と。夫人は田園調布なりし。 (渋谷駅階段で大藤氏に遭ふ)。渋谷で『濁水渓(20)』買ひ読み了る。〒なし。(※省略) 筑摩の中島大吉郎氏来りをり、6月末までに書け、『史記』訳本は送ると。借金の中1万円を托し見合を承知せしめし?! 昭和39年5月19日~昭和39年10月31日  「欠記」 25.3cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p7 [※先頭ページ一枚、破れ残りの痕跡あり。] 遺言 まだ頭のたしかな中にかいておく われは三位一体の神を信ずる われは今度の発病がわれがためなりしことを信ずる しかもわが関係学校ならびに学生に心配をかけたことを申しわけなく思ふ 悠紀子よ 汝は善き人であり良き妻であって最後まで私を愛してくれた 4人の子よ その中の3人はすでに成人したが 母を扶けて京を一人前にしてとって下さり わたし[は]悪い父だったが その性質のいく分もなんぢらに及ばさるを望む 大江の叔母さま ユキ子を助けてやって下さい 大よ 体を大切にし 母を大切にして下さい 数男君 おろかな姉ユキ子を助けてやって下さい 2月17日 申しわけなき罪人 克己(今は赦されたり) 5月19日 9:00すぎ柏井歯科へゆくみち、Seoulの姜照美に航空郵便出せば30円。他に南陽夫人、田中万里子生へヱハガキ。 (※省略) 「森田先生、雪ケ谷教会の牧師となり玉ふ承認せよ」と教会より。 全田喜美子叔母へ見舞状。午后畠山博光君来り「いまの下宿気にいらず」と。夕食せしめ送り出す。 5月20日 斎藤dr.にゆく。茂太先生に来年よりの非常勤講師と悪女伝(※の執筆・出版)いふ。 Busにて阿佐谷。筑摩より1万円の受取。集英社より『漢詩大系』のビラと送り先しらせと。 薄井氏に電話し、あす人よこせといふ。(神田博士「神田本について」書き玉ひしと)。 船越章君来て東邦大学講師の口あり、ゆくつもりらし。 5月21日 柏井歯科へゆく。数男胆石にて苦しむと。次は月曜に来よと。 依子より便り「賃上げ斗争未解決」と。(けふ集英社より住所録借りに来る)。ユ、5月分手当とりにゆく。 5月22日 柏井歯科なしとて10:00出て三鷹の浅野dr.に報告にゆく。coffeeのまさる。帰り駅より竹内夫人に電話し、「6月名古屋へゆく」といふ。 午后またcard作り。夕食後、渡辺氏にこの間の礼に菓子もちゆき、ついで松崎嬢に退職祝もちゆく。俊子姉、数男宅へ寄りて21:30帰宅。 『朝鮮地名姓便覧(100)』買ふ。 5月23日 午前中散髪。〒なし。筑摩の中島君に電話すれば「史記送りし筈」と。スワへ「5~7日ゆく」と手紙。 5月24日(日) 礼拝。森田副牧師、雪ケ谷教会にゆくとて臨時総会。すみて帰ればチクマより『史記』2冊。 『民間伝承』も送り来りあり。戸田夫人に500もちゆく。 5月25日 雨。柏井歯科へゆく。次はあさってと。(※省略) 世間一般にのろし。チクマより『諸葛孔明』もらふ。 牛尾三千夫氏より「上京する。大藤氏によろしく」と。「呂后」を20枚ほど書く。 5月26日 けふは寒し。ユ、渋谷へゆく(あとにて無人なりしといふ)。(※省略) 丸屋市川にゆき『韓非子鈔(20)』買へばdouble。夕方、羽田よりの伝言、松本に伝へれば藤枝(※藤枝晃)来てわがこといひしと。 日野月先生より「転居を祝す!」と。 5月27日 寒し。午后柏井にゆきへゆく。歯を入れてもらひ、busにて高田馬場をへて駒込。東洋文庫にゆけば田川、後藤2氏ともに不在。 神田信夫氏と話し、4人にて研究会。文部省より70万円来り、その中3万円ほどをコンの異域録(※今西春秋撰『校注異域録』)に出すと! 帰り後藤君に会ひ見舞の礼いふ。(※省略) けふ〒なし。 5月28日 ちょっと寒し。10:00すぎ斎藤dr.にゆき12:00まへ診断書もらふ。〒なし。高円寺まで散歩。 5月29日 依子より「差支なし」と。ユ、渋谷へゆけば「この間、大阪より婚姻費用につき云々。林の嫁、大と母とに態度を改めるといひし」と。 善光寺行の小遣をふくめ5千円置いて来たと也。白鳥芳郎氏へ近況。 5月30日 家居。「呂后」了り30枚なり!  吉祥寺より2回に転送、三田村泰助『ムクン・タタン制の研究』、白鳥夫人、朔太郎研究会(10日の会の案内を岸町にせし由)。 5月31日(日) 礼拝。雪ケ谷教会に牧師として赴任の森田武夫先生の説教なり。嵐のこといひ玉ふ。あと「いつまでもお忘れなく」と御挨拶す。 『不二』来り影山正治氏『戦後吟』の評し玉ふ。17:00東田町の公団の方へ散歩せしのみ。鈴木教授刊行会へ3000申込み。 6月1日 鈴木正男氏に「影山主宰へお礼を」と。宮崎昭子生よりヱハガキ。午后、荻窪へ散歩。 6月2日 よべ久しぶりに眠れず。睡眠剤半服のみ9:30覚めしも一日頭痛し。坪井より「服部重病にて入院したらし(※服部正己:白血病)」と。 硲晃氏より「山本重武君、佐野高校教頭に転任」と。夜、畠山兄弟に電話すれば「父上に会ひにゆきて帰らず」と。 けふ澄より弓子に電話「高垣、土曜夜会食せん」と。 6月3日 風雨。〒なし。夜となりて加藤隆子君来る。「父君、産経新聞甲府支局詰め」と。 渡辺生つとめ止めて大阪へゆきし様子なりと。「16日の披露にゆく」と約束す。 けふ「趙飛燕」書き了る。また30枚なり。 6月4日 よべ3:00まで眠れず。また薬半包のむ。昭森社より『本の手帖(※佐藤春夫追悼号)』に書けと速達(ことわる)。 午后busにて石神井公園へゆく。けふより植木屋入る。 6月5日 斎藤dr.にゆき某先生の診断受け、地下鉄にて東京駅。東京建物の西川に心配のわびいひ「池田君、史に縁談もち来る」ときく。 『週刊朝日』一冊読みplatformにゆけばユをり、のりこんで弁当食ひ了りしのち発車(準急東海4号13:25)。 名古屋へつけば澄まちをり、すぐ自動車にて虹ヶ丘住宅。夕食くはしてもらひ覚王山の「井清寿」といふにまたtaxi。 このごろ毎夜睡眠薬をのむ。ただし1袋を1/2、又は1/3に分けて也。 (畠山家に電話、あす午后伺ふといふ)。 6月6日 よべ雨降りしも、澄たち来し10:30には止みをり。東山公園へtaxiにて案内され、あと目貫きへ帰りてうどん食ふ。 熱田までbus、畠山家へゆけば紀子君、畠山氏(新湯より帰りしと)ともに会へ、今夜御馳走すと。 高垣風邪にて発熱、会ふことは会ふが云々とのことに、畠山さんの招待受けることとなり、16:30まで熱田神宮(「高松君、多賀大社へゆきし」と)。 名古屋城へ案内してもらひ、朝日新聞にゆけば高垣会議中。18:30云々とのことに置紙し、「蔦茂」といふ料理屋に案内受く。 高垣より電話かかり、来れば山形へ電話、関口師団長(※関口八太郎)呼び出してもらふ。高垣とは久しぶりの話らしかりし。 意外にも「伊丹へ転任きまりし」と。坪井喜ばん。池田この間ゆきしと。 畠山氏、大洋中日戦見に出しあと20:00すぎまで御馳走となり、宿に帰れば騒ぎをり(あとにて東北大の20年会とききし)。 また薬のみて眠る(岩崎昭弥に電話し「岐阜へ来い」「ゆかぬ」の問答す)。 6月7日(日) 8:30目覚め10:00岩崎君、坊やつれて来るに遭ふ。 そのあと依子夫婦来り、われは岩崎君の自動車にて駅へゆき(江口三五2億円の長者となりしと)、自動車おき、栄町のdept.にゆき、 朝日新聞へ12:00ゆき、すし食ひ、駅まで歩き時間丁度となる。 畠山母子見送り賜ひ、また物たまふ(岩崎君、ういろ5本賜ふ)。東京駅より地下鉄にて阿佐谷。 写真屋に寄れば兼頭・涌井2生、植木屋さんよくとれてをり。 加藤隆子より礼状来ありし。(植木屋さんまだすまずと)。西川へ電話して関口の栄転伝へし。 6月8日 『果樹園100』来る。きのふの「外郎」船越へ贈り、ユ、章より礼いはれゐし。 竹内、田中ナツ子、遠藤さんへとユ、出てゆく。坪井、小高根二郎2氏へヱハガキ。 京帰り、昼食さしてくれ(15:00)、そのあとユ帰り来る。竹内好「10月より(※復職して)行け」とすすめゐる由。 数男のところへ土産もちゆく。(章君来て「再婚の条件として助手たること承知の人を」と、長く話しゆく)。 夜、camera屋へゆき名古屋の写真とり来り、丸夫人に電話し「重俊君一度よこせ」といふ。 6月9日 朝card作り10:00林富士馬dr.に電話すれば「13:00より空きゐる」と。 すぐ出て西武dept.にて加藤隆子への祝の額ぶち贈り(1,500)、歩きて林邸。 夫人ともどもに病気語る。佐藤先生の葬儀の話ききし。出て渋谷の母に電話し、ゆけば林叔母をり。 丸より来し「(※弟大氏の離婚)調停不成立とならん」の手紙見、(※菩提寺)宝国寺後援会にと2千円置く。けふ影山正治氏よりハガキ。 柳野一郎君より「京都本社へ転任」の挨拶。高橋重臣君より印刷2種。大阪の兼頭・涌井2生への写真出来る。 p8 6月10日 涌井生より写真来る。姜照美Seoulより。丸木直子よりハガキ。丸木・高橋重臣2氏へヱハガキ。 「則天武后」書き直し(21枚)、昼食してのち14:30出て駒込。丹羽鴻一郎氏邸に寄れば夫人も不在。文庫で市古君きけばをらず。 (田川博士、天理へゆきしままと)。榎博士に会ひ「鈴木俊教授会いくらとすべきか」問ひ、病状問はる。 松村氏の室に神田・阿南2氏ゐるを見て入り、話す中、岡本氏来り、松村氏帰り来て阿南氏のよみきく。 あとCon(※今西春秋)の本もらひ、神田氏と同車して新宿。帰れば18:30なりし。 6月11日 よべ眠剤1袋のむ。川久保悌郎へ近況。井上多喜三郎氏よりヱハガキ。影山・井上両氏へヱハガキで近況。 「則天武后」20枚かき、荻窪の古本市。青木・中野両店主と挨拶。『厠風土記(280)』買ひ、帰途5万分1地図8枚買へば4枚は家にありし(10×8)。 船越章君また再婚談に来る。18:30畠山博光君に電話すれば「19:30帰宿」と。20:00電話かけ「たぶん月曜、関口坊やと来る」と博光。 重光君は月曜に大塚に移りし也。畠山氏に写真包み礼かく。 p9 6月12日 よべも眠薬半分のみ、残りなくなりし故10:00出て斎藤神経科。小金井の婦長さん来合せ、おぼえゐたまひし。dr.X「執筆差支へなからん」と。 午后「則天武后」20枚かき、出て富永次郎氏ゐるやと成城短大にきけば「見当たらず」と。 集英社に「住所録返せ」と。『唐詩選 上(※漢詩大系第一回配本)』本日出来上りし由。 筑摩中島君に電話し、原稿用紙補充たのむ。また出て古本屋。『Guidede Saigon(10)』地図つきをり。『文藝春秋6月号(45)』、『花の宴(30)』など買ふ。 6月13日 「楊貴妃」かきさし、成城に2回電話し、やっと「会議中」の富永次郎教授つかまへ「月曜の昼食」よばれることとなる。 渋谷国忠氏より『萩原朔太郎書誌』贈られ、わが4篇をいひ、古本屋またみて『ソアーナの異教徒(10)』、『方丈記(10)』買ふ。「楊貴妃」20枚も了る。 6月14日(日) 礼拝にゆき、帰れば加藤隆子より贈り物の受取。兼頭歌子氏より「娘喜びて泣きゐし」と。 市古宙三氏より「(※鈴木俊氏祝賀会カンパ)2千円で宜し。3千円、5千円もあり」と。 山本恭子より「岡本姓となりし」と。小高根二郎氏より「書け」と。影山正治氏へのヱハガキ「不二歌道会」と書かざりし故返送。 12:30畠山博光君来りし故、ラーメン食はし、難波経夫君につれゆきしに不在。1時間散歩してゆけばゐて「三菱系受けるならコネとならん」と。 チクマより原稿用紙来り、富永次郎氏より「15ヒオマチス オクサマモオイデコウ」と電報。 televiの巨人広島戦2回とも観る。 6月15日 雨上る。ユ、難波家へ傘返しにゆき11:00二人で小金井。富永家にゆく。鹿児島の鶏雑炊食はせたまふ。傷癒着にて調子悪しと也。 15:00写真とり「いづみクラフトハウス」につれゆかる。ここに石川欣一氏未亡人をり、東山千恵子の妹と。 爪楊枝立て(50)と赤ベコ(120)買ひて別る。 けふは広告のみ。船越章来り「結果いかに」と。帰りしあと「楊貴妃」書き継ぎ22:00となる。 p17 6月16日 9:00出て散髪(300)。ユ、吉祥寺へと出てゆきしあと11:00出て美濃・加藤両家の結婚式にと大隈会館へゆく。 短大卒の久野弥生夫人(旧姓菊池)といふが挨拶し、「住宅新報」社長の中野周治氏の隣に坐らさる。3甥成城経済に在学と。 右隣は同社の蒲地氏とて佐賀高校にて杉浦正一郎に習ひ、富士川英郎とピカ2人なりしと。東大西洋史の出身らしかりし。 「大蛇になれ長蛇になれ」と着換えの間のspeechに婿にいひ、14:30出てビールの赤ら顔さましに歩き、 『南方植物記(90)』と『風流滑稽譚3冊(120)』と買ひて帰宅。森田武夫先生より御挨拶来あり。 「楊貴妃」書き12枚となる。けふ13:30新潟地震。 6月17日 曇。むし暑し。斎藤茂太先生に眠れぬこといふ。佐治良三氏より再婚の通知。 前橋図書館長渋谷国忠氏より『不二』呉れと。集英社より『唐詩選 上』だけ呉れると(午后くる)。 「楊貴妃」書きつづく。紅松一雄に電話し佐治氏への祝品相談す。「何でもよし」と也。 p11 6月18日 中村漁波林氏より『詩人連邦』にかけと(よべ、久しぶりに眠剤のまずして眠れし)。 午后速達にて集英社より住所録返却を受く。「楊貴妃」書きつづける。ユをして森田武夫先生に挨拶かかす。 電話屋来り、蛍光灯なほす。『GoldenGuide(50)』地図5枚(50)買ふ。 6月19日 『不二』来り、影山正治氏へのヱハガキまた返り来る。青山南町と北町とをまちがへし也。 兼頭淳子よりやっと受取。また古本屋にて地図かひしもダブリ2枚(4×10)。 電気屋来り、6畳に蛍光灯つけ代金あすと承知し呉る。「楊貴妃」19枚かく。 鈴木正男氏に『不二』151号の残本ありや問ひ、兼頭母子にヱハガキかく。章君けふも来り、Saigonの話す。 6月20日 ユ、成城へ月給もらひにゆく。bonus(8.9万円)ももらへ「診断書来月より いらず」と。 「楊貴妃」15:00までかかり20枚とせしところへ京、帰り来る。荻窪へ地図4枚(4×10)買ひにゆく。 6月21日(日) 佐治良三氏へ祝1,000を現金書留で贈る。鈴木俊(3,000)、石田幹之助(2,000)両祝賀会へカワセ。 蒲地観一氏へ礼状。よべより歯痛み「ケロリン」のみ、朝またのみ、数男に電話せしめしに応答なし。Ringl(200)買ひ来しもまた痛む。 (※省略) 弓子「父の日」祝にパーカーの万年筆呉る。 6月22日 丸より「体わるし」と。影山正治氏より「会ひたし」と。丸山薫・村上新太郎氏へ雑誌の礼と転居と。 柏井歯科へゆく(よべ痛みてねられず)。どこ悪きやわからず頓服もらふ(視神経の使ひすぎらし)。 古本屋へゆき地図また10枚(10×10)。「楊貴妃」計算すれば290枚なり。 p16 6月23日 10:00斎藤dr.。「いらいらせぬか」と問はれ「する」といひ、薬かへていただく。 都電にて木原にゆきcard買ふ。130が180となりをり、200枚にす。帰れば〒なし。 「楊貴妃」12枚しか書けず(中島君に7月7日ごろまでのばしてもらふ。『諸葛孔明』4版となりしと)。 青木陽生より香奠返しにシーツ。大工さん来り、窓ガラスのこといふ。 ユ「斎藤dr.にbeer、栗山部長に砂糖贈り、母に会ひ5千円わたせし」と。 6月24日 「西太后」15枚かく(よべ眠剤のまず)。辻浩子より「本まだか」と。天満正雄より「元気出せ」と。涌井千恵子より写真の受取。 『不二』2冊来しゆゑ、鈴木正男氏に切手106円送らせ、14:00出て前橋図書館へ『不二』送る(20)。 busにて新宿。東洋文庫へゆく途、時間つぶしにcoffeeのみ、田川博士に会へば「無理すな。Con博士(※今西春秋)心悸昂進にて倒れた云々」。 研究会。神田氏よみ、田川、岡本、宮原、松村の4氏とで6人。この次は9月16日なり。岡本氏と新宿まで同車。 帰れば集英社より(※漢詩大系『白楽天』の)1万100枚の印紙もち来しと。(※省略) 弓子にけふ澄来て「手紙かけ」と依子にいひゐると。ふしぎなること多し。けふよりParler使ふ。(田中万里子より「マリとココの留学記」) 6月25日 よべも眠剤のまず。9:30起き、全田叔母よりのハガキ見る。「西太后」10枚かきしところへ章君来る。 出て地図また10枚(10×10)買ひ「西太后」つづけしも20枚に達せず。 大鵬休場。(けふユをして集英社に電話せしむれば「月曜までに欲し」と)。田中万里子へ礼状。 6月26日 よべ4:00まで眠れず眠剤のむ。10:30目ざめ、全田叔母のハガキ見る。 午后また地図また10枚(10×10)買ひ、角力のtelevi見しあと(ユ、近くの同窓会にゆく)、夕食して丸見舞にゆけば「大したことなし」と。 (西川より「朝日の切抜来しは丸の差金」と)。「重俊よこせ」といひて「西太后」すこしかく。 6月27日 よべ眠剤のまず。「西太后」すこしかき、地図買ひにゆき(10×10)、もはやなくなる。 大雨降り、廊下の本移す。弓子「あす那須へゆく」といふに止めしもきかず。ユ、吉祥寺女子高校のPTAにゆく。 6月28日(日) 礼拝にゆく。(弓子はやく出てゆきし)。帰りて地図了へしところへ村田(安宅)温、嬢と弟(慶応高校2年)つれ来る。 弟古本屋へつれゆき、われ『河原操子(80)』買ふ。諏訪澄より「此間、阿佐谷へ来しもわからざりし」と。 (けふ竹森先生に御都合ききしに「来週土曜のみ空きをり」と。竹内に電話かけしに「午后会にゆく」と)。 夜、「コギトの思ひ出」9枚かく。(※省略) p17 6月29日 曇。よべユと議論し眠薬のみ10:30起き、朝昼兼帯くひ、荻窪の古本屋にて地図2枚(10×2)買ふ。 (集英社1万100枚の印紙もちゆき家具屋ガラス戸2枚入る)。 栗山博士より「渡洋8月4日より」と(砂糖の礼也)。日本歴史地理学会へ会費1000送り、これにて大体すむ。 夕方、写真出来、富永次郎氏へ送り(石川欣一夫人の分も托す)安宅夫人へも包む。「西太后」かく。 6月30日 斎藤dr.にゆく。北杜夫氏の随筆よめば「不食」と。最後の証明書もらひ食欲不振いふ。 都電にて集英社へゆき薄井・及川2氏不在ゆゑX女史に寄贈名簿わたす(31冊?)。 なほ「再校の謝礼いかにすべきやきいてくれ」といふ。山本へゆき『武進礼俗謡諺集(150)』買ふ。 新宿まで都電。Rice-curryくひ(90)、『北海道地図帖(40)』買ふ。けふの〒、岩井大慧博士あたかも転居通知。(※省略) 「西太后」5枚ほどかきて疲る。(よべまた眠薬のみし也)。(斎藤先生beerの礼いはる)。 7月1日 よべ眠剤のみ、ユ外出のまに水道屋なる者2人来る。あげて話し、ユ帰り来てことわる。 (※省略) 雨にて野球なきゆゑ夕食後出て紅松夫妻を訪ぬ。「鎌田(※鎌田正美)日銀理事とえらくなりし」と也。 味岡氏より電話留守中にありしと。けふ「西太后」わりあひと書けし。 7月2日 前橋図書館より『不二』の受取。10:30さめしにより、ねてゐる間に味岡夫人より「交際中ゆゑ云々」とことわりの電話ありしと。 屋根のヱ゛ンチレーター買はせてつけ、壁ぬりす。(栗山氏に「7月中に一度会ひたし」と手紙かく)。 集英社に電話して「わが家へ5冊送りたまへ」といふ。「再校は社内でやりし」と也。(※省略) 7月3日 『果樹園101』来り、浅野晃氏の文に戸田謙介氏の名あるを見て訪ぬれば「医者へ」と。「夕再訪」といふ。 午后夕立止みしゆゑ赤川氏にゆく。帰りてまた「西太后」かき(田中雅子に電話せし)、 夕食後戸田氏を訪へば「大藤好かず。鎌田は情婦、柳田先生の女好きと似てゐる云々。船越章挨拶せぬ云々」。 7月4日 〒なし。午后ユと出て水道屋にゆき、百日草(100)、サギソウ(150)買ひ来る。夜、「西太后」かく。150枚にまだ足らず。 7月5日(日) けふは寝坊して礼拝にゆかず。「西太后」かき直し167枚となる。午后『文藝春秋7月号』買ひにゆきしほか、中日巨人戦と相撲のtelevi見る。 矢野昌彦より贈物ありしゆゑ夕方光子生に電話すればthemeは「救荒植物の民俗」と。「参考書やる」といふ。 7月6日 〒なし。午后出て『奉天三十年下(50)』、『戦争文学集(80)』買ひ来る。矢野光子に本2冊送る。「救荒植物の民俗」とのthemeの参考書なり。 水道屋来り、直してくれしも(1,800)、21:00まで断水。 7月7日 吉森安彦氏「三菱商事ニューヨーク支店へ転任、幸子西宮に住む」と。(※省略)  「西太后」200枚にてかくことなくなり、高円寺の古本屋へゆきしも何もなし。 7月8日 9:30出て斎藤dr.へゆけば満員。10日間の薬いただき神田まで都電。 山本にて溥儀『我的前半生Ⅰ(220)』買ひ、冷ラーメン食って帰れば、中島大吉郎君来り、「味岡令嬢ともはや見合すました」と。 「14、15日に電話かけ原稿とりに来る」こととなる。賀代女史よりも電話「チクマの教へ子は鈴木千枝子氏」と。 7月9日 雨。かき了りて計算すれば524枚しかなし。(※省略) 7月10日 曇。荻窪の古本市へゆき、日露戦争関係4冊(390)買ひ、『ボルネオ原住民の研究(100)』阿佐谷にて買ふ。 午后、集英社の薄井氏まづ出来上りし5冊もち来り賜ふ。「再校は社内にてやりし」と。「齋藤氏の本(※漢文大系『唐詩選』)みななくなりし」と。 7月11日 ユ、渋谷へ出てゆく。(母「集英社の金入りしをもち来しと思ひし」と)。 よあけまで眠れず9:00まへ起きしゆゑ昼寐せしに畠山重光君来る。仕方なく起きて時間見れば14:00なり。 14:30ともに出て荻窪の古本屋にゆき『西太后絵巻 上(100)』、『幕末明治大正史6冊(端本なり300)』買ひ、coffeeのまして別る。 「19日より一週間帰省」と。(※省略) p12 7月12日(日) よべ眠剤のみ礼拝にゆかれず。高垣、天野、山本文雄3新聞社(※朝日、大毎[天野愛一]、産経)に依頼(※漢詩大系の文芸欄とりあげ?)かく。 永山光文君に礼状。「楊貴妃」269枚となる。 横山より「一度遊びに来よ」と(電話かける)。丸に電話し、夫人に「夜ゆく」といふ。 夜、丸にゆく途、蒲地観一氏に電話すれば「あのひどかったのが云々」。丸「重俊、湯河原へゆきし」と。 7月13日 家居。35℃と。船越章来て話す。あと昼寐す。珍し。「三好達治の百日忌を19日」と。「欠席」と返事す。 7月14日 家居。ユ、丸家へ傘返しにゆき、帰りてより血圧高しと臥床。 7月15日 朝よりユ、医者へゆけば「心臓脚気か」と。青木直樹氏、戸田氏の帰りよりゆく。 われ昼食くひ、606枚として筑摩に電話してゆけば中島君来客あり。 匆々出て集英社に電話すれば薄井・及川2氏とも不在。某女史の言にては「5冊のみ送りしと!(※寄贈分は未送付と)」。 古本屋にゆき成城4年生に遭ひ、海老沢博士に会ふ。『星の美と神秘(50)』買ひ、地図2枚かひ、氷あづき食って帰宅。 p19 7月16日 昼食して竹内好に電話すれば「来てよし」と。ゆけば『白楽天』まだつきをらず。「ひと月の避暑代10万円以上」と。 田中夏子夫人、亘理信一ともに不在。白水夫人に電話すれば「独り」と。 古本屋で『Russiainthe Far East(90)』買ひ、ユと別れ、西荻窪で『長崎の殉教者(90)』買ひ荻窪まで歩く。 集英社、及川・薄井2氏とも休暇と。夕刊にまた広告のせ、現品なきはいかならん! 出川皮膚科といふへゆき、塗薬と飲み薬もらふ。「土曜17:00すぎ来よ」と也。 7月17日 ユと信仰問答す(よべ眠剤)。ユ、昼飯くはず。古田房子より帝塚山の名簿とハガキ。富永次郎氏より写真の受取。(※省略) 『詩人連邦』来る。原稿ことわらん(「俵青茅なくなりし」と見ゆ)。 (※省略) けふ集英社の薄井氏に電話、寄贈せかせばあやふやな返事なりし。 7月18日 集英社の薄井氏より「本の出来おくれ15日に入った由」の速達、隣家の婢とどけ来る。 よべ眠剤のみ11:30斎藤dr.にゆけば代診先生10日分の薬くれ、眠剤4日分くれ「湿疹は関係なし」と。 渋谷にゆけば大、仕事しをらず、15:00までゐて昼食うまく食ひ「27日飛行機にて大阪へ母とゆくこととす!」。 古田房子へ礼と「27日下阪」と。 p13 7月19日(日) 礼拝にゆくとよべ眠剤のみ6:00前に起きしため、礼拝中ねむかりし。田口嬢、齋藤齋先生など見ゆ。 帰り阿佐谷駅前で『新沖縄案内(60)』といふを買ふ。ひるねむきもねられず。 けふ古田房子へ「27日ごろ下阪」、中村漁波林氏へ『詩人連邦』にかけずとハガキ。(※暑中見舞来信 省略) 7月20日 曇。葛山・宮崎2生へヱハガキ。山田俊雄氏にゆかんと土産買ひ電話せしも無人。 午后、ユ柏井・田中(※義弟・義姉)へゆき帰らず。(※省略) けふ『小さな灯』といふの来り、堀辰雄のことかく。 7月21日 よべ眠剤のむ。ユ、学校へ手当もらひにゆき普通にもらひし。名簿ももらひ来る。 (※暑中見舞来信 省略)田中久夫氏より『白楽天』受取。『小説新潮』きのふよりよむ。 7月22日 朝、栗山氏に電話すれば「あす午后来い」と。母に電話し、ユと10:30渋谷。 東横dept.休みゆゑ、Calpis2瓶(500)とサボテン盆植(1,000)ともちて参れば白鳥先生坐ってをられ「聖心の本とり返してくれよ」と。 11:30おいとまし(芳郎君Sovietへ1月半ゆくと)、渋谷へゆけば河野タカ夫来をり。 そば食ひ26日全日空にて下阪ときめ、渋谷の交通公社にて26日12:50の券2枚1万円を内金とす。 ユ、さき帰り、われ帰宅せば吉祥寺へゆきらしき。柏井へ歯痛とめてもらひにゆく。けふ〒なし。 7月23日 よべ歯痛の薬のみし為か10:00まで眠り、高田瑞穂氏の受取見る。清水文子買ってくれた由。 昼食して栗山家へ餞別(3千円)もちゆき、青山博士に全快祝もちゆけば「御夫婦とも軽井沢」と。 帰ればユ、渋谷へゆきてゐず(小田急にて上原助教授と同車)。夜、柏井歯科へゆく。航空切符、ユ買ひ来る。 中島大吉郎君来り、「12~13枚ごとに小見出しつけよ」と原稿おいてゆく。「25日とりに来よ」といふ。(上原君「詩人に帰れ!」と) 7月24日 暑く、裸になって「楊貴妃」の小見出し作る。夜、柏井へ歯のためゆく。 7月25日 10:00斎藤dr.にゆく。X先生眠剤たまふ。帰宅して「コギトの思ひ出」かきゐるところへ中島大吉郎君来て原稿もちゆく。 けふも暑く32℃。(※暑中見舞来信 省略) あす下阪だるくてたまらず。 7月26日(日) 10:00出て新橋の全日空待合へゆけば母、タカ夫をり。Busにて羽田。12:50発にのる。三保松原、知多半島など見えしのみ。14:05伊丹着。 梅田まで100円(新橋-羽田120)。暑く、岑夫・ユキ夫来てをり、taxiにて天王寺。 恵我之荘へつき、梅本に電話かければ不在。「わけは手紙にて」と。 7月27日 10:00母と出て宝国寺。父の墓にタバコ挿す。十合へゆき「店長、神戸へゆきし」ときく。 歩きて戎橋下出雲屋にてうな丼くふ(土用丑なり)。吉田栄次郎君に挨拶す。 高野線にて全田叔母。元気也。渡清孝君白髪となりをり。16:00坪井(※坪井明)を訪ねしに「胃の冷めるし」と。 うどん注文し19:00となる。駅まで送り呉る。小高根二郎君を訪ね「コギトの思ひ出」おく。「明日より家族同伴軽井沢」と。22:00河野へ帰る。 7月28日 10:00出て肥下夫人。「手紙よんで来てくれたか」と。娘音楽大へやると。 出て藤井寺へゆけば伊藤徳、田中とく叔母、はつえ叔母と来をり。beerのみ、9月20日をこれん祭(※田中これん[実母])と決める。 長沖一氏に電話すれば「来よ」と。「また」といひ、清水文子呼び、谷川まさ江と連絡とれしとのことに16:00出てナンバにて会ひ、 戎橋筋ゆけば田中(岡田夫人)文子に遭ふ。4人にて夕食し、氷くひ、別れて20:00田村春雄家へゆけば21:00までdr.帰らず。 「ゆっくり飯くへ。全身体操せよ」と教はる。9月15日パリへゆく故、羽田(※羽田明)に紹介を約す。 7月29日 10:00出て梅田。特急券「第2こだま」買ひ得て、高尾へゆき『日本婚礼式(100)』、『類要婚礼式(700)』買ひ、『浪速叢書』3万5千ときき、 出て山本治雄に電話すれば不在。夫人に電話すれば「人間ドックに入りし」と。『南太平洋』といふを買ひ、sandwich食ひし。 14:30まで待ち「第2こだま」に乗車。麻布の花屋の坊やと同座、「cyclingにて東海道を五日間して下りし」と。22:00帰宅。 (※暑中見舞来信 省略) 小高根二郎に『白楽天』つきしを聞きしに他よりは受取りなし。 7月30日 船越へゆき話す。山田俊雄氏より「伊豆下田へゆきをりし」と。よべ5:00までねられず、10:00さめしゆゑ朝食し、13:00斎藤dr.に参る。 途中、天野君に電話せしに「欠勤」と。大に電話すれば「ルリ子の所知らず」と。大工来り、書庫作り了へ1万円を渡す。 戸田氏に遭ひ挨拶す。「この辺り小字清水」と。夜、苦心して羽田君へ「田村春雄君9月15日の宿舎、通訳たのむ」と便かく。 7月31日 田村春雄氏へ「羽田へ紹介した」と速達。天野愛一君へ「西川に連絡せよ」とハガキ。 山本昌三郎、諏訪澄へハガキ。栗山・今井・池田・坂本・浅野晃・田中久夫の諸氏より『白楽天』の受取。(※暑中見舞 省略) 坪井明へヱハガキ。16:30柏井へ歯の治療にゆき、帰り郷右近生に会ふ。「阿佐谷に住み図書館司書となる」と也。『フランス語語源漫筆(30)』買ふ。 8月1日 快晴、暑し。(※省略) 高垣金三郎、大阪編集局長と見ゆ。(※省略) 角川より速達「ハイネ第21版3千部の検印を8月10日までに」と。(※省略) 午后、堀内太平君来訪。「詩見よ」といひしも断る。 17:00送りに出て柏井歯科。帰り『新入蜀記(20)』、『モンゴル人民共和国便覧(20)』買ふ。 夜、村田幸三郎へ暑中見舞の礼。台風11号鹿児島に近づき、気温32.4℃と。 8月2日(日) 礼拝にゆき最前列に坐る。竹森先生「あす午前中来よ」と。松村潤氏より『白楽天』の受取。澄よりも同。転任まだかかず。 (※暑中見舞 省略) 8月3日 史、「日本アルプスへ6日まで」と出てゆく。(※暑中見舞 省略)  9:03出て竹森先生にゆき「9月20日14:00すぎより、これん母の追悼会よろし」と。帰れば(※暑中見舞 省略) 今井善一郎氏より展覧会の案内。京、15:00帰宅。「富士山頂に登りし」と。(※暑中見舞 省略) 8月4日 きのふ眠剤のまず。(※暑中見舞 省略) 宮崎智慧氏より『花影』にかけと。大藤教授より『白楽天』の受取。 畠山重光より「父よりstick預ってきた」と。矢野光子より「本受取った」と。散髪にゆく。 大江叔母、伊藤徳子へ「9月20日に決定」と。(※暑中見舞 省略) 山田俊雄氏より『日本語の歴史4』賜ふ。 柏井歯科へゆく。夜、山田俊雄氏に電話「明後日夕方ゆく」と。畠山重光に同「あす17:00来よ」と。(※暑中見舞 省略) 8月5日 曇。やや涼し。肥下夫人より礼状。(※暑中見舞 省略) 竹田竜児氏より「保田(※佐藤春夫の)法事によく来る」と。鈴木睦美生より「20日すぎなら1,000円であり」と。(※暑中見舞 省略) 17:00畠山重光君「父より」と藤のstickもち来る。 8月6日 よべ4:00眠剤のみ9:00起床。11:30斎藤dr.に診察受ける。(※暑中見舞 省略) 『近畿民俗』、『果樹園102』来る。18:00出て吉祥寺をへて山田俊雄氏へ全快祝にゆく。High-ballのまされ『日本語の歴史3』賜ひ駅まで送らる。 高井戸よりbusにて荻窪、『昭和文学史上下(100)』買ひ、歩きて帰宅。 阿佐谷七夕の装ひして満員。(※暑中見舞 省略) 8月7日 沢田四郎作博士へ『近畿民俗』の礼。曇。(※暑中見舞 省略) 畠山六[栄]門氏へstickの礼。柏井歯科へゆく。 8月8日 暑し。坪井へ『白楽天』送る(120)。大江と徳女史の土産つく。岩井博士より『白楽天』の受取。(※暑中見舞 省略) 都留純也より「戸田謙介氏と関係ありや」と。史、ヱハガキ2袋もちて帰宅。 (※暑中見舞 省略) 19:00すぎ涼しくなりて柏井歯科へゆけば、土曜18:00までにて、夫婦子供とdriveに出るに遭ひて帰宅す。 (※暑中見舞 省略) けふ34℃。 8月9日(日) 都留生へヱハガキ。礼拝にゆき坪井のハガキ。鈴木文平の暑中見舞と『婦人公論』。糸屋鎌吉『パラダイス』へ受取。 原田淑人先生の手紙見んとするに、どこかへなくせし!けふも34℃と。 8月10日 暑し。16:00まで高校野球みて(このごろcardやる)、皮膚科にゆき、荻窪古本展。地図60枚(10×60)とヱハガキ(150)と買ふ。 青木直樹氏をりし。busにて柏井歯科。(※暑中見舞 省略) 角川より印紙受取。(※暑中見舞 省略) 「室内35℃」と京の話。 8月11日 (※暑中見舞 省略) 浅野晃氏「志摩にゆきし」と。地図をよみ、card作りし。 柏井歯科へ19:00ゆけば患者次々と来る。けふ後藤均平氏より『Fifty years of studies inoraclein scriptions』賜ひ、礼状かく。 角川よりHeine20版の印税32,000-3,200=28,800来る。『文芸 佐藤春夫追悼(100)』買ふ。 8月12日 (※暑中見舞 省略) それぞれ返事かき、14:00出川皮膚科(「内服朝夕2回でよし」と)をへて地下鉄にて淡路町。 木原正三堂で図書card200枚(170×2)。筑摩の中島君呼び出し喫茶。「この間piano弾きと見合せしも返事せず。も一度会ふ」と。 『中国烈婦伝』とすることとなりし様子(※結局『中国后妃伝』となる)。 『Far East-Europe(30)』買ひ、「石川・福岡県地図(50×2)」「八ヶ岳(35)」買ひし。新宿まで国鉄。Busにて柏井歯科。 帰宅すれば堀口太平氏より暑中見舞。けふ西川英夫に電話し「全快祝する。天野愛一東京栄転、関口10月末」などいふ。 8月13日 暑苦しく4:30眠剤久しぶりにのみ10:00さめ、12:00斎藤dr.にゆけば満員。薬のみもらひ渋谷に電話すれば母居り、busにてゆく。 「9月帰京、体わるく今度は面白くなかった。印税9日入りしか」と。大に相談すれば「5万円礼せよ」と。そのあと1割母弟に礼するといふ。 野球の成徳学院負くるを見てroom-coolerのあまりきかぬに出て、新宿東口までbus。西口より柏井歯科。(※残暑見舞 省略) けふ35.2℃。 8月14日 暑し。萩原朔太郎研究会より「特別会員」との会報。近畿民俗学会より『渋沢敬三先生(※沢田四郎作編)』。福地邦樹君より母上逝去の感。 (※残暑見舞 省略) 伊東まき生より「9月来たが(※新居がどこか)見つからなかった」と海苔。 それぞれに返事かき、16:00出て出川皮膚科より柏井歯科。ついで鷺ノ宮まで歩きて渡辺古書店探せしに見つからず。 「府立家政前」より「鷺ノ宮」まで西武、ついでbusにて帰宅。 8月15日 岡田(田中)文子、沢田四郎作先生へ礼状。福地邦樹氏へ弔み状。(※残暑見舞 省略)それぞれに返事かく。 16:30柏井歯科。左奥上歯の欠はめて貰ふ。(けふ集英社より『王維(※小林太市郎,原田憲雄著)』来る。) 夜、これをよむにeroticに解釈あり、可怪。 8月16日(日) 朝日の広告に『王維』目加田誠とあり! 礼拝にゆく。(※残暑見舞 省略) 栗山博士よりヱハガキ。千草より電話といふに船越へゆけば母「丸の都合きけ」と。 19:00電話せしに「他出」と。ユ、友達のところへゆく(帰宅23:30)。 8月17日 (※暑中見舞 省略) 中馬敦子より弟の展覧会の案内。海老沢博士より『エピストラ』。けふ柏井歯科へゆかずcard作り。 ひげ剃り(17:30母を高円寺駅で待合せ、丸へゆくこと、ユに電話せしめてきまりをり)をるところへ中島君来る(本の題、数種考へささる)。 そのまへ集英社の薄井氏来り、(※『白楽天』印税)1,100,000-(税)110,000-全巻22冊分21,120=968,800置きゆく。 あす「鈴木重役に礼もちゆく」といふ。あとにて寄贈分おちゐることに気づく。中島君と高円寺まで同車。 母まちをり。北口までtaxi探しにゆき、丸家へゆき8月5日大阪調停不成立、同日東京にて調停受理の書みせ、一応1件了りしことときめる。 「ルリ子の道具、送り返してよし。内容証明書は丸かく。」ときまる。蚕糸試験場まで母送り、busに乗す(家へ来ず)。 8月18日 よべ眠剤のむ。鈴木睦美生へ「千倉へゆかす」と返事。ユ、三井銀行へゆく。 返り来れば5万円のGiftcheckなし。(手形交換まだゆゑ、都民銀行と郵貯おろし、30万円を半年定期にせしと)。 促してゆき見れば渡さる。(川本・西沢2生、岐阜県楢谷よりたより)。 地下鉄にて斎藤先生にゆき「全快はいかにして判るや」と問ひ奉れば「周囲の判断による。も少し来よ」と。 10日間の薬いただき都電にて山本書店。 『我的前半生2,3(220×2)』、『北京風俗図譜1(450)』、『天主教十六世紀在華伝教誌(650)』、郭沫若『武則天(380)』と買ふ。 ついで『A Histryof India(30)』買ひ、冷しラーメン(80)食へば14:00近し。薄井氏呼べば「鈴木重役けふも休暇」と。 買上げの記帳なきをいひ(近日送ると)、蒲地氏へと1冊また買ひ、5万円を及川2氏に托して出、 蒲地氏にゆけば在宅。『白楽天』贈りcoffee御馳走となる。 栗山に「狂気せしにて嫌ひになりしではなし」といひくれし由。「齋藤博士(※齋藤晌)親類に同病人あり。話ききたし仰せ」と。 駿河台下までゆき「千葉」「東金」5万分1(35×2)買ひ、都電にて新宿。busにて柏井歯科。帰れば20:00前なり。 けふ福地君に弔品送りしと。(阿佐谷にて『イスラエル(70)』買ふ)。 8月19日 よべも眠剤のむ(2:00)。船越小母来り、いろいろ話す。毎日新聞より「24日までに800字を茶の間欄へ」と。(※残暑見舞 省略) 河野岑夫へ第2回の調停のこと。昼寐し17:00柏井歯科へゆけば「火曜まで休め」と。大江叔母へ「伊藤徳の縁談は他に考へん」と。 8月20日 よべ眠れる。羽田より「9月15日承知した。白鳥清先生モスクワへゆかれしや」と。 (※残暑見舞 省略) 田村春雄へその旨しらせ「ボンとハワイの案内いかに」とききやる。 父の忌日とて渋谷に電話かけさすれば「来ずとよし」と也。昼食後、郵便出しにゆき、丸屋市川にゆけば「暑中4時まで休み」と! 『風俗通(250)万治本』2冊を駅前で買ひ来る。けふ驟雨たびたび降り、水源地に40ミリと。気温も26℃余と低し。 8月21日 よべ2:00すぎ眠剤のむ。(※暑中見舞 省略)  『安江不空歌集』を高原弦太郎氏より贈らる。(臨終の医は沢田四郎作博士にして刊行は住吉大社なり)。 午后、古本屋にゆき、ユに渋谷に電話さすれば「明日来よ」と也(けふ8月分の手当もらひにゆかしめし也)。 田村泰雄君より「Paris着は9月18日13:30」と! p20 8月22日 『史苑25-1』来る。10:30出てbusにて渋谷(筑摩の中島君に電話すれば「校正速達で送る。挿画の件、月曜午前中来る」と)。 東横dept.にて西川に快気祝(砂糖500)贈り、母にゆく。岡山の孫来をり「迎へに来よ」の電報打つ。 丸に礼もちゆき、嫁の荷、返送の件、相談することとなる(2万円を大の名にて包む)。 15:30出て不二出版社にゆき、1,000を御花料と置き『新軍歌集(100)』買ふ。けふ(※昭和20年自決)現場祭とて、河野君のみなりし。 それより古本屋みてbusにて蚕糸試験場。丸に礼わたし、荷物の件きけば「一度送れ」と也。 重俊に睡眠薬用ふるには医師の指示によれと諭しつつ、高円寺の通りまで送られて帰宅(19:30)。 やがて筑摩の速達来る(64pまで)。けふ渋谷より電話し、齋藤晌博士に「月曜午后ゆく」といふ。 8月23日(日) よべ校正了り6:00近くまで眠れず。礼拝休む。大江叔母より「17日上京。服装はいかに」と。 山田源之助(高原弦太郎)氏より「『白楽天』くれ」と。ユ、依子・大江叔母へ手紙出す。 (けさ病院へゆきしもしまりをりしと)。午后、ユ、病院ならびに紅松長老に電話し、まづ紅松邸にゆく。「この間、白井来し」と。 「西島これん記念会に献金5千円、牧師先生に3千円せばよからん。われら夫婦も出席す」と。 偶然『Two Years in the Forbidden City』の原本あることわかり(父上の所有)、借りて青梅街道に出、busにて荻窪、地図11枚買ひて帰宅。 8月24日 杉浦美智子夫人より暑中見舞。大江叔母より「城平・康平・昌三3叔父にしらせおけ」と。 ユ、電話局へ申込みにゆく「6ケ月位かからう」と。その留守、中島大吉郎君来り、挿画用にと本もちゆく。 12:30出てbusにて代田橋。のりかへして高幡不動につけば駅前大いに変りをり。齋藤博士(※齋藤晌)に明大生来をり、1万円の小切手お礼に渡し、 「東洋大学調停にかかりて180万円支払ふこととなりし」と。府中に出て猿渡家に寄りしに教子2人ともをらず。 母上に挨拶して出、氷小豆食ひ、北口よりbus、小金井行にのれば蛇窪通る。荻窪へ出て地図15枚(15×10)買ひ、歩きて帰る。 途中、宮崎幸三氏に齋藤氏のことしらせれば「近々会はん」と。 8月25日 暑し。西川英夫より快気祝の受取。柏井歯科へ光一への礼(5,000)もちゆく。城平・康平2叔父へ9月20日の案内出す。 西川・杉浦夫人へ挨拶。田中昌三叔父へハガキ。夕方、美濃(加藤)隆子夫人の使として河野嬢?葡萄もち来る。 夜、『初刻拍案驚奇』のカードすむ。(けふ毎日新聞学芸部へ25日締切と思ひちがへしと「茶の間」欄のことわり電話す)。 8月26日 美濃夫人へ礼状。斎藤dr.へゆかんとせしも止めしところへ、2回に分けて『悪女伝』の校正126pまで来り、 ついで田上生、福地邦樹、阿南惟敬氏などのハガキ来る。校正やり了へて疲れしところへ、集英社の女史22冊分とりに来る。 「もう1冊くれ」といひ23×960=22,080わたす。夕方、郵便局へゆき、夜、田上由美子に電話すれば「今のところ来る予定なし」と。 (全田叔母より「この間話したいことあった」云々)。 8月27日 堀口太平君へ「card、3千枚を」と手紙。9:30出て斎藤dr.、服薬3錠もらひ10日分の薬もらふ。 帰り紀伊國屋へゆき『風景9月号』探せどもなく、売子にきけば無代でくれる。 (待合室にて見れば庄野潤三君『歌日記』を大より貰ひしと也)「木更津(※地図)」1枚買ひ、busにて柏井。 右下歯すみ「左上歯は神経ならん」と。帰りて昼食。 ユ、吉祥寺へゆき中村嫗に保険料もちゆきしを叱れどもきかず、のちほど中村嫗来れば立ちてことわりて帰らす。 8月28日 羽田博士へ田村君の着く日変更の旨しらす。梅田夫人より「紀の川」のりし雑誌。 坪井より『白楽天』の受取。午后高円寺までゆき『麦積寺(70)』、『運命の島々(50)』、『英和新約聖書(50)』買ひ来る。けふも涼し。 8月29日 曇。涼し。丸木夫人に「近々はゆかず」と返事。坪井に「ルリ子のことしらべてくれ」と書く。 集英社の薄井氏に電話すれば「『白楽天』もって来さす」と。堀口太平氏より「注文承知」と。 このごろcard書くのみなり。佐々木邦彦画伯へ「運命の島々」の絵を見たと。 午后、ユ荻窪の医者へゆきし留守に阿南惟敬氏「味の素」など賜はる。17:00すぎ出川外科へ魚の目癒してもらひにゆく。 (『果樹園』に「コギトの思ひ出」10枚かき速達す)。 8月30日(日) 礼拝にゆく。竹森先生に「9月20日のことで」といへば「金曜午前来よ」と。帰りて『柳田全集』来しを見る。 午后和田賀代女史来り、近くの佐藤嬢pianoやりつづけるゆゑ家あるならとの返事きく。 「船越章22万円足らずの抵当に置き、いまだ返さず」と。けふも話つかざりし様子なり。 8月31日 曇。わが53回目の誕生日なり。依子より「14日(月)帰省、交通費くれ」と。(※残暑見舞 省略) 海老沢氏に切手100円。 慶応大学言語文化研究所に『柳田国男方言文庫目録』くれと200円。 14:00中島大吉郎氏来り初校みなとなる(232p、9月30日発行)。夕方までかかりて校正了ふ。「木曜に地図とりに来る」と。 渋谷に電話すれば母「丸より便りなし。金もって来るかと待ってゐる。(※省略) 大5日帰京」と。 19:00すぎタカ夫来り、きげんよく話しゆく。2千円やる。 9月1日 10:30王子へゆき北区役所にゆき(構内にて永山光文に会う)、戸籍謄本の閲覧を乞ふ。 わが44年8月31日入籍、田中これん大正3年6月25日隠居家督とのみわかり、気の毒とて閲覧金とらず。 渋谷母に電話かけ「西島家の戸籍謄本あり」との故さがしてもらふこととす。「千草文句いふ」と。 有楽町まで国鉄、毎日新聞に天野愛一君訪へば出て来、「甲陽高校2年の子あるゆゑひとりぐらし」と。 「茶の間」欄いつにてもよしと也(ともに昼食す。2月に赴任せし也)。地下鉄にて帰宅すれば恰も訪ひ来しは葛山夫人。 「舅姑と折合あしく別居さがせ」と。駅前の案内所へゆき「(※省略)あす夫と決定す」とて帰る。 清末地図かき手間どる。(千草に「近々来よ」との往復ハガキ書く)。集英社より『白楽天』1冊来る(葛山夫人Melonくれし)。 9月2日 曇。朝から「地図」作り疲る。庄野潤三氏よりハガキ。山田源之助氏へ『白楽天』送る(120)。 午后葛山夫人来て、昨日のapartは「夫、気にいらずことわった」と。 母より電話「戸籍抄本」には記載なきゆゑ住吉区田辺西之町西島健の戸籍謄本とったら、と。 9月3日 山田源之助(高原弦太郎)氏へ送り状。 それ出してのち疲れに昼ねせんとするところへ中島大吉郎君来り、初校と地図と原稿ならびに挿絵の参考書もちゆく。 けふ〒なし、珍し。船越章君来て越南の話してゆく。 9月4日 竹森先生を訪ね「西島これん略歴」わたし、「20日2時半より1時間、讃美歌3を歌ふ」こととなる。 「オルガン大塚氏も謄写版山内氏にたのむこともして下さる」と。帰り道道具屋にて整理箱をわれ注文し、ユも2品。「日曜もち来る」と。 古本屋にゆけば『世界地理風俗大系2北支那(150)』あり、珍し。千草より「土曜午后来る」と返事。杉浦母子より「軽井沢へ行った」と。 9月5日 〒なし。ユ、安生医院にゆく(発熱39℃)、「風邪」と。午后千草来り「家中3人で来る」と。全快祝わたす。 14:00出て生田の林家。全快祝を置き「20日13:30までにわが家に」といふ。 (林叔母にきけば「コレン母戌年」と。然らば明治19年生なり)。 9月6日(日) ユ、まだ熱とれず、われのみ礼拝にゆく。齋藤齋氏に会ひ「近々お願ひに上る」といふ。『果樹園103』来る。 近藤家具店、card箱代用の箪笥もち来る(1,800のところ1,600)と。渋谷に電話すれば「大まだ帰らず電話もなし」と。 9月7日 ユ、大腸炎にて発熱。弓子欠勤して家事をす。ゴム印(180)とりにゆく。午后、市川書店で『日本語の歴史Ⅰ(400)』買ふ。 夜、白鳥芳郎氏に電話せしに不在。 9月8日 子ら出でゆきしあとユ、39℃とて安生dr.に往診乞ふ。1時間して37℃となる。 けふ『展望』再刊号来り、わが『中国烈女伝』を「240円、29日発行」としるす。夜、また白鳥家へ電話せしも応答なし。 (大より電話ありしゆゑ「ユよければ明日ゆく」といふ)。杉浦母子へハガキ。 9月9日 9:00すぎ出て斎藤dr.、3番目なりし。「よく眠れる」といひ、2週間分の薬いただく。 渋谷に電話してゆき5万円を大・母に呈し、荷物送り返しを云ふ。林叔母来り、息子夫婦との別居をいふ。 14:00出て『流れ雲は生きている(20)』、『大名華族(30)』買ひて帰宅。城平・康平叔父より「10月7日大阪にて追悼」と!(※省略) 山田源之助氏より『白楽天』の受取。田村春雄君「5日出発」との挨拶。 畑山校長(※畑山博)「渡欧するにつき寄附」つのり来り、海老沢氏より切手受取。 けふ白鳥清先生に電話し芳郎君と青山博士の仲介のこといひ、夜、電話せしに「まだ帰らず」と夫人? 9月10日 ユ、安生医院にゆく。「熱はなくなり腸悪し」と。竹森トヨ先生より「早坂、笹淵、塩沢、木村、小泉、瀬尾6長老出席したまふ」と。 午后、史帰り来し故、荻窪の古本展。 『及川恒忠先生追悼文集(50)』、『物類称呼(150)』、『宮場現形記2冊(250)』、『支那の口語文学(80)』、『梅松論(50)』、『北京の歴史(80)』などと地図21枚買ふ。地図2枚とBaedekerの『Österreich und Ungarn(※オーストリア、ハンガリー)(100)』doubleをりし。 山田源之助、竹森トヨ先生にヱハガキ。 9月11日 ユ、相変らず也。朝は地図の整理す。(※省略)  夕方、三鷹の齋藤齋先生に電話し「20:00参る」といひ、19:30ゆけば20日のこれん記念祭に出席したまふと。 けふ中島君、来り、再校の一部と地図もち来り「明日午前中再来」と。浅野dr.に電話すれば夫人出て「留守」と。 9月12日 成城へゆくつもりなりしも止め、栗山部長に電話すれば「帰朝」と。月曜あそびに登学といふ。 林富士馬氏より「コギトの思ひ出」よむとハガキ。葛山生より「家探しに熱出てゐる」と。 午后、京帰りしゆゑ、ユと2人して荻窪のdr.にゆく。体重ユ42キロ、われ38キロ也。「異状なし」と。 本屋にて地図12枚買って帰宅(10×12)。夕食時、白水夫妻来り、鰻飯くって梨呉る。「中西長男また自動車事故で入院せし」と。 史、けふ静岡まで新幹線に乗りしと、おそく帰り飯くふ。 9月13日(日) われのみ礼拝にゆく。トヨ先生に入口でお礼いひ(※省略)、礼拝すみて竹森先生に齋藤齋氏へ出席たのまる。 Print出来をりしもオルガン弾く大塚氏出られず刷り直すと。齋藤氏とともに帰り「紅松君をよく知る」ときく。 松村潤氏より14日われ購読と。一日、地図の整理し、夕食前また荻窪へゆき、地図12枚(12×10)買ふ。 紅松君に電話し、感謝献金のこときけば「すみて牧師様にわたすが宜しからん」と。 9月14日 『東洋学報』と『文学散歩』と来り、出んとすれば中島君来り、校正の疑問点問ひ、わがnoteなどもちゆく。 祖師谷大蔵までautoに同車、講師室でまづ上原・高城2君に遭ひ、いろいろ話す。都留君に会ひ、またし、白鳥芳郎君きけば「柳田文庫」と。 ゆきて講義すむまで待つことを約し、栗山部長に会ふ。痩せゐたり。「保田に不潔感なしと宮崎・山川(※宮崎智慧・山川京子)2女史云ふ」と! 都留生にゆけば田上生をり。都留とにぎりめし食へば2女生も同席。14:00まへ柳田文庫で白鳥君まち、出れば後藤武氏挨拶に来る。 白鳥君の話きけば「清先生、空手形数千万円もち、家と土地300坪の維持に困惑」と。「本の引き取りも止めん」といふ。 言葉なく別れて阿佐谷。地図2枚と『沖縄渉外史(100)』買ひて気すむ。 帰省せし依子とユ、買物に出、史、帰りをり。角力のtelevi見了へて井川皮膚科へ手の皮むけしを見せにゆく。 9月15日 ユと依子と渋谷へゆかんとせし処へ柏井尚子、老人の日とて船越叔母に物もち来り、しばらく話しゆく。 出たあと中島君来り、貸した本みな返し校正了る。「明日より京都へゆく」と也。 大江叔母より「アスアサ9ジノル12ゴウシャムカイタノム」の電報来る。 京、帰りしゆゑ荻窪へゆけば古本屋休み。寄贈者名簿作りしに50人を越す。 9月16日 ユと依子と大江叔母歓迎の準備に出てゆく。林富士馬氏よりハガキ。 13:30出て東洋文庫。『歳華紀麗譜』写して15:30となり研究室へゆけば、宮原・岡本の2君のみ。 後藤均平君外出と(神田君は学長選挙とて先に帰る)。松村潤君の帰り来しを機に散会。新宿で下車。 『三重県(50)』、『白河(35)』、『大田原(35)』(※地図)買ひて帰り、大江叔母と話す。 4人の叔父叔母より1万円を香奠にともち来る。史、われとbeerのむ。 9月17日 よべ3時までねられず6時起き、9:50山田千代、田中綾子両家に電話し「城平妹艶詣る」といへば「13:00ごろよし」と。 船越母子に挨拶せしめしあと、近くの飯島[バン]司の女といふに寄りて、赤坂見附の藤井寺町長夫人の見舞に、依子案内しゆく。 宮崎智慧氏より「原稿たのむ」と「27日(日)13:00~16:00赤坂プリンスホテルへ来よ」の速達。 立教史学会より11月14日(土)の案内。ともに「出席」の返事す。(ユ、千草へ「19日13:30までに来よ」と速達出しにゆく)。 12:30叔母と出て阿佐谷北口よりtaxi、大新横丁通りすぎ、電話して野方小学校まで迎へに来てもらひ、 田中勤未亡人綾子、山田千代、天谷夫人といふ勤氏次女と話す。(※省略) 15:00出てbusに叔母のらせ、われそのあと紀伊國屋にゆき地図3枚(35×3)買ひて帰宅。 p21 9月18日 10:30十合へと女3人出てゆく。城平(康平連名)・昌三叔父へ礼状かく(速達)。(※省略) 午后、ユ帰り来りしゆゑ、荻窪へゆき地図(12×10)買ふ。夕方、大江叔母帰り来り、冷蔵庫2.9万とて注文し「あすもて来る」と。 中国后妃伝寄贈者 浅野晃、青山、阿南、植村、太田陽子、太田常蔵、小高根二郎、太郎、庄野潤三、浅野建夫、岡本敬二、岡田文子、神田喜一郎、信夫、 鍛冶美和、北杜夫、紅松一雄、後藤均平、齋藤晌、斎藤茂太、白鳥芳郎、清水文子、鈴木俊、諏訪澄、竹内好、竹田竜児、田川孝三、 田中万里子、高田宣武、原田運治、硲晃、原田淑人、古田房子、福地、堀ノ内、堀敏一、丸三郎、松本善海、松村達雄、林富士馬、谷川真佐枝、 坪井明、辻浩子、手塚隆義、西川、西宮、野崎その、羽田明、井上靖、松村潤、宮原鬼一、美濃隆子、森亮、山本文雄、横山薫二、天野愛一、 高垣金三郎、和田博徳、吉川幸次郎(60冊+20冊(※手渡し分) 9月19日 大江叔母、依子と渋谷へゆく。われ散髪にゆき、帰れば(11:00)伊藤徳来をり、船越の悪口云ひしあと船越叔母来る。千草来て叔母たち帰り来る。 3人にて吉益へとtaxiにてゆきしあと、われ吉祥寺へ菓子の予約にゆき、2千円予約置き「14:00もて来い」といひ、busにて荻窪。 地図11枚買ふ(11×10)。叔母18:30帰り来り「徳、船越章に会はざりしを怨む」と。「弓子をあとつぎにしたし」と。 けふ福地邦樹氏より香奠返し。十合より冷蔵庫とどく。 p22 9月20日(日) 9:30出て熊本商大教授の長老と同車(新高架駅となる)、話しながら着けばすぐ始まる。 礼拝すみて(受洗者2小児、洗礼1)、34周年に出、長老方に挨拶す。齋藤齋氏さそひて昼食し、別れて雨ゆゑマルゼンにて傘借り、 教会の前にて立ちて待ち14:00となり、門あきしゆゑ入れば菓子来り、ユ現はる。菓子屋に払ひにゆき、依子の自動車着きしも史のtaxi来ず。 (※実母西島これん追悼会)10分おくれて始まり、終りて感謝献金5千円。 お礼5千円。Print代1,000、オルガン1,000お渡しし、大江叔母に記念撮影さしてすむ。帰りてすしとbeerの会。母、弓子つれて帰る。 大江叔母と史に、湖東長女を(※史氏と見合させたし)との坪井の手紙見せ、家族会議。22:00退室、けふは楽しかりし。 9月21日 大江叔母とこへ章君来て話す。そのあと朝食し、11:00名古屋へ帰る依子、渋谷へゆく大江叔母と新宿まで同車。 成城大学へゆけば「昨日体育祭にて休み」と。帰り船越家に電話し、ユに伝へてくれといひ、新宿紀伊國屋へゆけば集英社及川氏に会ふ。 地図5枚買ひ帰りて齋藤齋、小泉幸生、木村和郎、笹淵友一、瀬尾健二5氏に礼状かく。 佐々木邦彦君より「梓君元気」と。夜、叔母帰り来り、三十子医師と結婚と聞き、福地君に手紙出さんといふ処へ叔母の弟子来る。 弓子「上高地へ25日まで」と出てゆく。 けふ堀口太平君に電話すれば「3,000枚にて4.5千円」と。人心と物価と平均す!「5日ほどしてとりにゆく」といふ。 9月22日 近所の飯島幡司の女、迎へに来り、叔母中村屋へと 10:30出てゆく。川崎菅雄より名簿の問合せ。 成城に電話すれば「今日は普通」と。武蔵野中央病院、キリスト者経営とわかる! 9月23日 (休日)あさより雨模様。お艶叔母、近くの吉村家へゆけば留守!帰りて船越叔母と話す。 11:00われ駅前にtaxiひらひにゆき、有料道路をへて東京駅(900?)。 大丸の食堂にてbeerのみsandwich食ひし、12:40、platformにゆけば母と千草待ちをり。発車間際1人だけ弟子来る。 帰りもtaxiにて渋谷に寄り(420)、大に丸への連絡すすめ電話すれば「不在」と。 千草と渋谷駅まで歩きしも礼云はず。新宿紀伊國屋にてまた地図2枚と『福井県(50)』と買ひて帰宅。 齋藤齋先生、葡萄もちて来たまひしと。この間、礼云ひし四十物谷(アイモノヤ)ひさえ嬢より「今後ものばしてゆきたい」と紙。 p23 9月24日 9:00すぎ寄贈者名簿、中島大吉郎氏に速達し、斎藤神経科。11:00まで待ち好調申上ぐ。新宿をへて成城大学。 笹井生と同行、講師室のぞけば栗山・宮崎・薄井・山田・大山の諸教授あり。研究室へゆけば麝島生もをり、「大藤教授は柳田文庫」と。 ゆけば鎌田女史の鶏料理食ひゐる。挨拶して庶務課長すみ、会計課(長不在)にて手当受取りしあと、加藤教授に遭ひて礼いひ、新宿まで直行。 紀伊國屋にてまた地図3枚買ひ(角川文庫『醒睡笑 上(160)』買ふ)、地下道にてrice-curry。 帰れば田村春雄、ParisのMaison du Japonより「羽田夫妻と会ひし」とのヱハガキ来をり。けふ火鉢入る。11月半の温度と。 ユ、婦人会にゆきしも齋藤夫人出ず、電話もかからざりしと。夕方電話すれば「甥の結婚式で忙し」と齋先生。 けふ史、渋谷泊り。京のみ在り。(20:00弓子帰り来り、上高地のヱハガキ呉る)。 9月25日 台風の余波の雨風。ユ、医者へゆけば神経痛と。福地君へ香奠返しの受取りかき、七人社より「コギト時代の杉浦君」のりし雑誌。 小泉長老より5千円の受取りととる。弓子けふ休暇。 9月26日 9:00すぎ、堀口印刷所に電話すれば「card出来てゐる。いつ来てもよし」と。10:30出て新宿より豊島園行にのり山吹町下車。 2階建てとし、4,500の受取作りをりし。飯時とてbusにて四谷へ出、紀伊國屋にて地図1枚買ひ帰宅。 依子より「物送った」、林叔父より「火災保険に入れ」と。14:00訪れしは相馬弘。「故郷大館の中学校で英語教師してゐる!」と。 夕食まで散歩し、19:30送り出し、出川外科にて火傷の手当してもらふ。(堀口のcard薄くなりをり!) 9月27日(日) 礼拝にわれのみゆき、この間の母の記念日に列席の人に礼いふ。衛藤氏ソヴィエトより帰りしと。齋藤齋夫人に挨拶もす。 出て帰宅。昼食し(影山正治氏より執筆の『京大新聞』来をり)。 13:00出て赤坂プリンスホテル(※宮崎智恵『槿花集』出版記念会)。 Elevator-girlに脱帽をいはる。婦人12人に中市弘(甲鳥書林にゐし)、齋藤正二の2氏のみ男。 われ、父の歌集を大伴・宮崎(※大伴道子(堤操)、宮崎智恵)2氏に贈り、欲しき方はハガキでといへば佐藤のぶ女史のみその場で申し込まれし。 Hyre呼んでもらひ16:20出て新宿。荻窪にゆきbusにのれば北廻り。松崎嬢に遭ひ、また荻窪にて地図買ひて帰る(160)。 留守中、畠山兄弟、紅松夫人、和田賀代の諸客ありしと(章君、病気とてまた会はず)。 けふ前川氏(※前川佐美雄)『捜神』もらひフランスへ嬢に会ひにゆく大伴女史に歌4首餞けとす。史、この3日間渋谷泊り。 9月28日 雨。寒し(11月半の陽気と)。棚町知弥氏より「雑誌送った」と。 「麦」の広告雑誌(※『本』麥書房発行)伊東静雄の特集にて『わがひと』1万円に近く、中原、立原追悼号(ともに『四季』)2,200と記す。 外科へゆけば「火傷ふかき故あすも来よ」と。史、渋谷から帰り来る。 9月29日 秋晴。影山正治・前川2氏へヱハガキかく。筑摩へ電話すれば中島君未出勤。「13:00ごろ本とりにゆく」といふ。 高橋重臣君より『漢訳漢名西洋人名字典』。佐藤[坊]哉氏(※佐藤方哉)より先生(※佐藤春夫)の原稿の写真版来る。 12:00出て地図買ひ、図書card(170×2)して筑摩へゆけば中島君未出勤。20冊もらひ東博氏呼んでもらひしも話さず。 美濃隆子夫人より「悪阻やんだ。転居する」と。大藤時彦氏より『東遊日記』来る。『果樹園』に「コギトの思ひ出」(200×10)かき速達す。 出川外科へゆけば「中々癒らぬよ」と也。夜、城平叔父に「3千円御花料送る」と。艶叔母に「本4冊送る」と。 9月30日 起きて「宮崎智恵論」12枚かき、城平叔父より「まみ子、汝が母に似ずや」との手紙と、チクマ書房より「1万2千刷る」とのハガキみて成城。 途にて大藤氏に会ひ(※『中国后妃伝』)1冊わたし、講師室にて松崎(妹)嬢にきけば「栗山博士関西旅行」と。 本托し、山田・高田2氏にわたし、短大にゆき坂本・富永・池辺3氏に渡し(鎌田女史の分托す)、研究室へゆけば鎌田女史をり。 講師室に帰り池田博士(※池田勉)に会ひてまたわたし、山田氏とOrissa(※喫茶店オリッサ)にゆき、むすび食ふ。都留ほか1男来る。 「われらにも一年休暇与へよ」との言なりし。下北沢にて別れ、新宿をへて西武dept.に宮崎氏訪へば「軽井沢」と! 原稿托し、時間余りしも金なく、丹波夫人に「30年記念会せん」といひ、東洋文庫にて岩井博士に1冊贈れば喜ばる。 時間余りし故、田川氏に紙もらひ『咸淳歳時記』写して16:00、松村氏の室へゆけば神田氏のみ。 独人のDr.BodoWiethoff博士呼び来る。「明末清初の支那沿海の研究室す」と。「あさって18:00阿佐谷交番前にて待ち、家へ来」さすこととす。 田川博士の講義長く18:00近くなり、腹へりて帰るに切符失ひ、神田氏に譲られて一旦外へ出、買ひ直して帰宅。 けふ常陸宮創立。出川外科にて痛き目に遭ふ。「風呂即金ならば2万2千円余にてかはる」と也。夜、花井タヅ子夫人より柿賜はる。 10月1日 朝起きしは9:00。船越章の保証印にてユ、実印証明とりにゆきしに「代理人にては不可」と。われゆけば「保証人いる」と。 船越父子とゆけば、その改印にまた別の保証人いると(この間林叔父来り、東京海上火災保険に100万円入り2,800を払ひし)。 荻窪まで国鉄でゆき区役所出張所にてこれを貰ひ12:00まへ帰宅。花井邸へ電話かけしも無人、礼状かく。 高橋重臣氏にも同じく礼状。出川外科へゆく前散歩す。 10月2日 3:00さめ5:30出てDr.Wiethoff博士迎へにゆきしも来ず(a.m.とかきしと思ひし)。帰りてまた寝、さめれば11:00。 昼食せしのち新宿へbusでゆき紀伊國屋にて岐阜、京都2県の地図と「三崎」、「長沼」買ひて帰り、出川外科にゆけば「経過よし」と。 けふ今井富士雄氏より「后妃伝受取った。相馬に会った」と。田舎漢にもこのたくみありし也。 佐々木邦彦氏より「大丸にて個展2~7日」と。17:30再び駅にゆけばWiethoff氏も「早く来すぎてぶらぶらしゐし」と。 つれ帰り、卒論(※帝国大学時代の「清初の支那沿海」)見せれば「貸せ、帰国までに返却」と。ライスカレー食ひ、喜びて帰りゆく(21:00)。 「33才にてKölnの生れ」と。「台湾銀行発行の本、殆ど集めし」と。わが『后妃伝』とふろしきともち帰れといひてわたす。 10月3日 このごろ夢しばしば見て変なり。『東方学28』来る。会費切れなり。松浦高嶺氏より「9月24日帰国」と。 山本喜蔵氏より「東京へは日帰りにてしばしば来るも云々」。 ユ、医師へ出るとすぐ大江叔母より速達「坪井に会へば湖東より話出た。近々母娘と会ふ」と。夕、城平叔父より御花料の受取。 10月4日(日) 久しぶりにユとともに礼拝にゆき、帰り叱りてマルゼン道具屋に支払ひにゆかす。坪井より「7日~11日在京」と。 『Biblia28』来り、『柳田国男集』来る。(笹渕教授に『中国后妃伝』わたす。けふ竹森先生高知へゆき、トヨ先生の講話なりし)。 散歩に出てヱハガキ(60)買ふ。京、級友のバレーの見物に出、18:30弓子天城よりヱハガキ、竜胆などもちて帰る。 10月5日 よべ3:30ごろ目ざめ、またねて8:30。『果樹園』来り、伊藤徳子より「10月7日の会に出ず。縁談ありや」。(※省略) けふ「朝日」に広告のる。佐藤ノブ氏へ父の歌集包む。10:30出て地下鉄にて大丸。 係の見喜氏といふに梓君へのcakeわたし初日のみ佐々木画伯来しときく。 地図2枚買ふ。横に『中国后妃伝』積みあり。帰ればいれちがひにWiethoff氏来り、卒論返しゆきしと。 p23 10月6日 ユ、柏井歯科へゆく。やっと手塚・林・青山諸氏より『中国后妃伝』の受取来そむ。 宮崎ちえ女史より「若林女史にこわい人と云はれた」由。3氏と棚町知弥氏へヱハガキ。 けふの「朝日」に(※同名異人の)田中克己氏の近著『遺伝相談』といふが出てをり、ややこし。 午后、高円寺の古本屋散歩し西川に電話すれば外出(大江叔母より「湖東令嬢に会った。この上なし」と速達)。 横山薫二君より受取。16:30西川に電話し、坪井に連絡電報たのむ。けふ地図すむ。 10月7日 曇時々小雨。太田常蔵、浅野晃、宮原鬼一の諸氏より『后妃伝』の受取。出版ニュース社より「わが著書を語る」欄に書けと。 文学散歩の会より「24日(土)清澄庭園で総会」と(出席の返事す)。パアゴラ社、安田明子夫人に返事。 荻窪へ散歩、『后妃伝』売れずにあり。夜、21:00坪井より電報「アス6時来ヨ」と也。 10月8日 雨。斎藤先生に症状なきをいへば「学校へ示威にゆけ」との御様子也。帰りて林富士馬、清水文子、丸、竹内、松村潤、鍛冶美和諸氏の受取見る。 「鈴木氏の会、11月6日」と。「出席」の返事す。 山本喜蔵、今井富士雄、松浦高嶺、林富士馬の諸氏へヱハガキ。16:30出んとせば庄野潤三氏より受取。 坪井に会へば「あす史に会ひたし」と。「ルリ子のことはしらべつかず」と。紅松に電話して本の礼いふ。 渋谷電話すれば大、不在。あす9:00~10:00に坪井電話することとなる。 10月9日 よべ3:00眠剤のみ、8:30目覚む。トクに電話すれば「15日まで多忙」と。 原田淑人先生(ご病気なりしと)、竹田竜児氏(春夫先生の20年8月の荒木隊宛のおハガキ同封)。太田陽子より受取。それぞれにヱハガキ。 けふ風呂桶買ひ(22,500)、船越より5回に2千円づつもらふこととし1回分受取る。史、坪井と会ひ「13日田中順二郎宅にて湖東令嬢と見合す」と。 10月10日 晴。ユ、浅野へ耳の治療にゆく。川久保、佐藤ノブ2氏より受取。鍛冶、福島母へヱハガキ。 11:00荻窪の古本展。期待の地図なく(渡辺書店この次に出すと)、 青木氏よりTagalog語(800)と高校生用の『故事熟語成語集(50)』といふを買ひて帰り、第18回Olympicの入場式をteleviで見しあと、 (ユ、中耳炎と浅野dr.診断せし。わが本着かずと)、東京駅前の坪井の宿へゆけば女中失礼、色をなして怒り海苔(950)置いて来る。 けふ田中順二郎に電話かからず、散歩のあと(18:30)丸に電話すれば重俊「試験に出し」と。 10月11日(日) ユに坪井の宿に電話かけ礼云はす。大江叔母に速達し、史のこと、徳のこと云ふ。 礼拝にゆき、竹内夫人に電話すれば「来よ」と。ゆきて本の出し礼いふ。帰りてOlympicのtelevi見る。 けふ城平叔父より10月7日の50回忌の報告、佐々木邦彦氏より梓君への贈物の礼、齋藤晌博士より(※裁判終結につき)「20日礼の会する」と。 10月12日 ユをすすめて浅野dr.にゆかしむ。Olympicのtelevi見、かたはらcard。齋藤晌博士へ「20日出席」の返事。(※省略) Olympicの重量挙にはじめて日の丸揚る。畠山博光君、新潟より松茸みやげにもち来り、televi見て帰る。就職きまり(大東水産?)のん気也と。 10月13日 大藤時彦氏へ『東遊雑記』の礼状。和田博徳氏より西太后の箇所の誤(植を含む)多く指摘。 山本文雄氏より「文芸部長やめた」と『新聞編集論』贈らる。硲晃氏よりも受取。午后散歩に出るまでOlympicのtelevi見る。 鶴崎祐雄より『白楽天』『后妃伝』ともに読みゐる由。夜、史に「あす菓子もちゆけ」と云へば「何しにゆくかわからぬ」と暴言吐く。 「行くをやめよ」といひしもきかず。(けさ和田先生の論文よみ、あすの研究会の用意すむ)。 10月14日 よべ12:00眠剤のみ覚むれば9:30、televi見、炬燵切りと応対し、白鳥芳郎氏より「南詔はロロ族の国」と。齋藤晌博士より「20日会ふ」との手紙。 『骨』、『不二』受取り、和田博徳氏へ「訂正を謝す」との手紙かき、午后また高田宣武、西宮一民2氏の受取ハガキ見て、 東洋文庫へゆき、われよみて『李朝実録抄』第2冊すむ。神田氏「和田博徳氏より栄禄の西太后の甥は怪しと伝言ありし」と。 (『醒睡笑 下(140)』出てをりしを買ふ。『后妃伝』は全く売れず)。阿南氏に「一度来よ」といへば「来し」と。 Wrestlingの国旗3本揚るを看る。史11:30帰宅。 10月15日 とく女史「13:00来宅」と。史「よく考へさしてくれ」と。鶴崎祐雄、山本文雄2氏へヱハガキ出す。川久保悌郎、高田宣武2君へも同右。 青木母生へ同。植村清二先生より「どっしり構へてゐる云々」のおほめ。『骨』山前実治君へ(※いつまでも送って下さり)「心苦し云々」。 14:00とく女史あらはれ写真とり、吊書かかす。池田勉博士より受取。平中苓次氏より「11月3日入洛すや」と(「せず」と答ふ)。 (※省略) その中、真蒼となりしと。この間中の疲れみな出しらし。眠剤のむ、時に21:00。 10月16日 眠剤よくきき、目覚むれば9:30。頭少し痛く、伊藤徳紹介の状、大東博士夫妻にかき、NHK教養部の遠藤滋氏の来訪。 21日清末史座談会に野原四郎氏の推薦といふを断り、和田博徳君を推薦す。諏訪澄君より「大叔父にたのんだ云々」。(※省略) 坪井より湖東の親類書。艶叔母より伊藤重義(徳女史の祖父100才)の書付受取る。田中保隆氏「小金井に新築」と。 14:00散歩に出(花井タヅ夫人に「あす午后ゆく」と電話を朝の中せし)、大宮公団にゆき疲れて中野行のbusにのり、 乗換へにて順乱せし高校生を叱りて小倉博士『おさんずいひつ』買って帰る。史「断る」と返事。 10月17日 よべ眠剤2錠のんで眠る。9:30起き、ユ浅野博士へゆく。われ〒受取れば田村春雄氏、白浜より「帰朝、羽田博士に礼いってくれ」。 外山軍治博士より本買へ。(※同姓同名の)田中克己博士より「お宅あてなり」と日下部某氏のハガキ。 東方学会より天理での総会の出欠問合せ! 大江叔母に手紙かき、坪井に書類かきとめにて「断る」の返事速達す。 『大清歴朝実録』の太宗・世祖・聖祖の部を買ふことをユ、許す。(斎藤医院にゆき、担任の先生より眠剤5服もらふ)。 池田勉博士へハガキ。14:00山本書店へ電話「あさってとりにゆく」と約束。ユと出て花井家へゆく。(※省略) 花井家の坊や可愛し。 柿また貰ひて出る。(cameraの直したのむ)。相馬弘へ写真送る。田村春雄へ「帰朝おめでたし」とのヱハガキ。福島生母君より『五十四万石』着く。 10月18日(日) 雨。よべ眠剤のみ6時間眠る。福島恵美子生母君へ礼状。齋藤晌博士へ「20日差支へにてゆけぬ」と速達。白鳥芳郎氏へ「南詔ロロ説初耳」と。 礼拝にゆき笹淵博士より面白かったと『后妃伝』の評きく。帰れば、ユ宛羽田夫人よりヱハガキ。松村達雄より「忙し」と。 (教会の9月月報に「亡母50年記念感謝献金5,000」と記入しあり)。杉並電話局より「22日9:30出頭せよ」と、これもうれし。 木村三千子氏より松茸1カゴ賜はる。 10月19日 よべも眠剤のみ8:00前起き9:30ユと三井銀行へゆき3万円おろし、地下鉄にて斎藤病院。待合室にて国領といふ同院患者に会ふ。 意外にも北杜夫氏の診察にて「大して心配いらず」ときき、「横山君によろしく」といひ、 電車にのれば「先生」と丸玖美子。けふは丸弁護士調停に出てくれることとてふしぎ。 山本にとりのけてもらひし『大清歴朝実録』3代にて11冊。28,500払ひ、鰻丼くひ、筑摩の中島君に電話せしあと、 集英社へゆき『薜涛・魚玄機』を木村三千子氏へ送ることたのみ(1,080)、渋谷へ電話し、近々会ふことをいひ、 筑摩へゆき『后妃伝』5冊と『ノンフィクション全集18』1冊とを買ふ。近々電話引けるをいふ。帰れば14:00。 仁井田博士より『白楽天』の受取! 美濃隆子より「『后妃伝』を夫婦でよむ」と。松村達雄・木村三千子の2氏へヱハガキ。 ユをして徳女史に写真送らす。(けふ地図2枚買ふ)。硲・美濃・辻浩子へヱハガキ。ユも羽田夫人にヱハガキ。 p24 10月20日 よべ眠剤1袋のみ3:00すぎより9:00まで眠る。葛山為久子より「泣き寝入りした。体わるし」と。谷川真佐枝より『后妃伝』の受取。 集英社より4回配本の受取。坪井より余と史へ速達。集英社及川氏に電話し、第5回配本『薜涛・魚玄機』を送る様たのむ。 葛山・谷川2生へヱハガキ。頭痛し、この日記よみ返せば名古屋へゆきし頃とほぼ同じ也。 けふ田中克己博士へハガキ返信。別便にて『后妃伝』送る。白水夫人来る。ともに出て紅松家に電話かけ関行、青物市場で下り、 ゆけば夫妻ともにあり。『ノンフィクション全集18』呈すれば俳句見せらる。「虫の音のやがて韻律となりにけり」といふがあり。 (※省略) 史あての坪井の手紙に「ゆっくりでよいから返事くれ」とあり。 10月21日 曇。よべ眠剤1袋のみ9:00覚める。渋谷より「咲耶あす帰る故来よ」との電話ありしと。 radioの番組みれば、紹介せし和田君出ず、坂野正高、野原、池島の3人にて「北清事変」を語る! 西宮一民・植村清二先生へヱハガキ。11:00出て成城駅にて12:00。講師室1号館に変り上原・高城などとまた会ふ。 松崎嬢休み、牧野副手に後藤、加藤英倫、田中久夫の3氏へ『后妃伝』托す。 文化史研究室へゆき大藤、今井の匆々逃げるを見、川上副手と話しゐれば麝島生現はる。 2人と昼食約し、講師室にゆけば池田教授をり、栗山博士へと『Biblia』托す。 手当66,000もらひOrissaにて2生と13:30まで話して渋谷。車中アベベ(エチオピア)Marathon第一位ときく。 東横の売店2軒見しに『后妃伝』売れゐるらし。14:30渋谷につき(busにてユと遭ふ)Marathonのtelevi見る。円谷3位となりて倒れし。 林叔母あり千草夫婦は現る。「きのふの調停にルリ子出ざりし」と。16:00帰る岑夫を送りて咲耶17:00現はる。 われ林叔母と渋谷まで同行。(「熊本県」、『悲劇の皇帝溥儀』買ひし)。 ユ、出しあと「大阪の高橋」とて果物もち来しは高橋重臣君ならん。澄の履歴書送り来て大「会ひてのち」と云ひし 10月22日 よべ眠剤2服のみ8:00目覚む。ユ、電話局へ9:30にと出てゆく。伊東マキ「結婚して坂東姓となりし」と。 伊藤徳子「大江叔母25、6日頃まで佐渡」と。萩原葉子氏『木馬館』出版記念会と。 きのふ買ひこし本にては「溥儀の母は栄禄の女」との系譜あり。船越伯母にきけば昨日来しは大阪の高橋一好らし。 斎藤dr.の薬ねむく、さめれば20:00。夕食し、入浴し、melon食ふ。(けふ電話(314)2783ときまる) 10月23日 眠く、目あけられず終日臥床。堀ノ内歴の詩集、吉祥寺をへて来る!高橋一好へ礼状かく。 夕、艶叔母より「この縁にがすな」と越後の旅中より速達。 p25 10月24日 雨もよひ。よべ眠剤のむ。円周率を3.14165489とし、ギリシアの3哲人アリストテレス、プラトンまでにてソクラテス思ひ出せず困りし也!! 9:00柏井歯科へゆき。、帰れば花井タヅ子夫人より「カメラ直りをり」と。野口駿雄より「結婚した」と。 小包にて萩原葉子氏の『木馬館』来り、野崎その氏より奈良の菓子と奈良漬けと手紙。「夫婦でよんだ。癒ったと認める」。 ユ、斎藤dr.へ薬もらひにゆく。坂東まき、堀ノ内歴、萩原葉子の3氏へヱハガキ。 ユ、帰り来り、昼食にラーメン食ひ、紅松君に写真送る「菊の花咲くや山辺も家の庭」。(※省略) 露伴『洗心録』買ふ。(※省略) 萩原葉子氏に「出版記念会にちょっと顔出す」と。鈴木俊氏の会とダブリをり。 10月25日(日) われ礼拝休む。田中克己博士より「1冊買ったが研究室の女の子云々」。(※省略) 木村三千子氏より「本、たのしみに待つ。小林英俊の寺へゆきし」。 『伝承文化』渋沢敬三追悼号来る。(※省略) 午后総理大臣池田隼人辞意表明。 手塚隆義部長来訪「白鳥清先生9月で退職」と。天理の高橋重臣君に紹介かく。「来月9日以後に芳郎君と鼎談せん」と。(※省略) 10月26日 柏井歯科へゆき、帰れば大工さん来をり。(※省略) 田中久夫氏より『后妃伝』の受取。ユ、花井タヅ子夫人に電話しカメラとりにゆくこととなる。 (※省略) また出て『国史の研究法(250)』買ひにゆけば、学校に置きしあると同じ也し。 花井家よりユ帰り「カメラの故障はおとしたため」と。嫁一人話ありと。田中久夫氏へ「荻窪の市の帰り寄れ」とハガキ。 p27 10月27日 このところ眠薬連服のためか2、3日前より便秘。(※省略) 近くの外科へゆき内科なりと教へられ注射うってもらひ、11:00排便して斎藤dr.。 「少し良くなった様だな、薬かへよう」と。待合室で見し『産経Olympic号』ほしく、近くの本屋へゆけば「売切れ」と。 山田憲太郎『香料の話(250)』といふを買ひ、雨気の中をいそいで地下鉄阿佐谷。本屋に読売のOlympic特集(200)ありし。 これと汽車時間表とを買って帰宅。昼食す。(※省略) 出版ニュース社より掲載誌。都島工高文芸部より「一筆を」と(「この道を」書いてやる)。 池内先生追悼会「13回忌にて7日19:00より」、東洋史談話会(8日植村先生の「山西旅行談」)と2つの会の案内来る。池内先生の方に「出席」の返事。 台湾の詩人、呉瀛涛氏より「交換を乞ふ」と散文詩集『海』。織田喜久子氏へ「秋の日のおちゆくあとを片羽蝶」。 夜、呉瀛涛氏へ『ハイネ』買ひに出て『后妃伝』売れゐるに気づく。弓子、母へ硯箱造りてくれし。 10月28日 雨。都留生へヱハガキ。古田房子、庄野潤三氏よへも同。柏井へつぎ伯母の写真もちゆく。数男、「俊子姉につれられて灸すゑにゆき休診」と。 帰宅して13:00となり、杉並郵便局へ大江叔母のFilm書留と、 呉瀛涛氏へのヱハガキと、あと台湾への開封(※書籍小包)の出し方きく中、係り金をわたせしこと忘れて了ふ。 結局『Heine』は第一種にすべきらしく、出て電話局。工事請負人に電話して「たぶん明日」と云ふ。busにて新宿、東洋文庫へ15:10つく。 『咸淳歳時記』を35分写し、松村氏の室にゆけば神田信夫氏のみをり。 台湾への郵便の話する中、松村君帰り、岡本、宮原2氏と田川博士とで読み合。 帰路、岡本氏の車にのせてもらひ中野まで来て10月にてすみし。 NHK教養部の遠藤滋氏より「和田博徳氏は電話なかったので云々」。賀代女史来てをり夕食してゆく。(柏井の帰り『三好達治特集(25)』買ふ。) 高橋重臣氏へ「手塚部長ゆく」と速達。手塚氏にも同意味のハガキ。『果樹園』の「コギトの思ひ出」半ばかく。 10月29日 よべ眠剤2服のみてやっと眠り、起床8:30。郵便局へゆき高橋君への速達(40)、台湾への航空便(140)。 ガス出張所にガスレンジの修繕たのめば「午后来る」と返事よし。帰りて散髪にゆけばまたまた350と値上りしをり。 堀ノ内歴君より「瀕死の床にあって出した詩集」と!すぐ見舞の手紙かき「見舞の物、別送する」といふ。 午后、柏井歯科へゆき、尚子と林芙美子の閲歴にてカケをす。「15日か21日に支那料理にて記念会せん。会場さがせよ」と也。 帰途、林芙美子の明治37年生、昭和26年死としらべる。外山軍治博士へ「満蒙資料研究会にて10冊買はすことにした」とハガキ。 (※省略) タバコ買ひかたがた出て阿佐谷の中華料理店を歴訪し、駅前の「新京」といふが14:00~16:00、1卓3,000(5名)といふに当る。 夜、「コギトの思ひ出」200×11書き了へ、数男に電話して「新京」のこといふ。 10月30日 よべ眠剤のみて数時間ねむれず。6:00前目覚め(一度羽田をゆめに見し)、 『果樹園』にと思ひて「花と息吹の作者(200×9)」書き、思ひ直して堀ノ内歴に送ることとす。 (※省略) 咲耶よりユに「兄、わりあひ呑気に見えた」。他に大高同窓会より名簿\800と。 出て『文学アルバム林芙美子(250)』、『うづ潮(110)』と買ひて柏井歯科。俊子姉の意見にてすしやかうなぎ屋にせんと。尚子探しに出ることとなる。 午后、電話局来るかと待ちあぐみ、赤川氏へ散歩にゆけば心悸す。その話すれば夫妻心配し、近藤医院につれゆかる。 Dr.「神経」と。鎮静剤たまふ。赤川氏を家に伴ひ、いろいろユと話し、斎藤病院の薬と併用すべきかききしにやれば「単用すべし」と也。 心悸やや収まり、ユの説では去年の今頃と同じ症状と。(※省略)  ユ、北鎌倉に土地もつ夢あるを知る。わがゆめは召しに応じて安らかにパライゾウ(※天国)にと足ふみ入るる。 10月31日 よべ眠剤半服のみ、1:00~6:00就寝。起きて元気なれど排便2回。 涌井千恵子より「長沖先生に会ひ、下阪聞いた。9月より十二指腸潰瘍で入院中、大和柿と芋送る。『白楽天』よんだ」と也。 集英社出版部より『世界名詩選集』に白詩2首とハイネ2首を入れさせよと。「承知」の速達投函。 11:00赤川草夫氏「心配した」とて見え、ついで青木直樹氏来訪。自家製のラーメン「うまし」と食って帰る。(赤川氏りんご賜ふ)。 15:00涌井生より芋と柿来る。折しも木村繁喜氏来訪。敗戦後はじめての面会と。『果樹園』にて住所知り吉祥寺へも一度来訪、訊ね当てずと。 稲毛屋に案内し鰻食ひて別る。(昭和電工次長49才と)。 昭和39年11月1日~昭和39年12月31日 「伸記」 25.3cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p28 11月1日(日) よべ眠剤半服のみ(11:30)2時間ねて目あき、そのあと仕方なく『溥儀伝』よむ。つまらず。 朝起きし時、元気なりしも、そのあと心悸せし故、ユと共に教会の聖餐式には出ず、斎藤神経科。 富永先生といふ日直に病状はなせば結局「入院するがよし」となる。 2婦長(朝香さん?)と話し6畳の個室に案内受け「半金の2.5万と保証人として西島大の印もらひ来る」こととなる。 付添なかなか来ず、隣々室の森さんといふにいろいろ教はる(ユの再来14:30。けふ大工さん、電話、月賦屋とみな来しと)。 (富永先生午后の回診に「武蔵野中央病院にて診た」との話、恐縮)。あすあさ再来いひてユ、匆々帰る(よそへは渋谷泊りといふと!)。 そねまず、ひがまず、呟かずあらん。むつかしけれど。岩波文庫の『福音書』ゆるゆる読むこととす。 (けふ弓子「ついて来る」といひしと。瘋癲の児と呼ばれむを虞るれば、旅に出しといつはり云はん)。 17:00前、矢口さん(茨城県人)といふ付添来り、夕食。「タバコは食後1、2服とせよ」と云はる。薬、夕食後のみ、20:00のみ、足らねば追加0:00と。 11月2日 よべ1:00追加のみ6:00前目覚む。雨降りをり。 「朝起きて主の名唱ふるかく弱きわれ罪の子を強くなさしめ」 朝食8:00。矢口さん石岡と。「けふは北先生(宗吉ソーキチ)の番にて、朝の中まはられることあり」と。待ちしも来られず。石岡在の坪8000円と。 11:30ユ、来り、昨日帰りに渋谷にゆき印もらひ、ハクセンコウ貰ひしともち来る。 折しも宗吉先生お越しあり「2、3日バカになれ」と、執筆・読書とめらる。ユ帰りぎは矢口さんに1千円わたし、1千円チップに与ふ。 (井上多喜三郎、外山、伊藤徳子の諸氏よりハガキ。『Biblia29』。) 11月3日 一日退屈してすごす。ユ、11:30ごろ来り、井辺太郎の転居通知もつ。この次金曜に来ると。 けふ院長回診なしとて看護婦さんに便のこといふ。けふは明治節也。(体重38キロ!) 11月4日 曇。午后院長先生回診「週刊誌よんでよし。日記よし。明後日心電図とる」との仰せ也。早速買ひにやりて『週刊朝日』よむ。 「折にふれ御名をとなふるその時し われが心はすなほになるも」 11月5日 曇。よべ8:00眠剤のみ、5:00まで眠りし。 「かたきをばわれ討ちたりとゆめみゐる うたれよと主はのたまひしもの」 矢口嫗、意外にも看護婦免状もち脈搏はかってくれ65と。同女タバコのむを発見す。 「菊の花咲く晴天を病室に神思ふことすくなきわれは」 「ひとごとにうそつくことをとがめじとゆるしたまひし主は強ければ」 「父の日に買ひもち呉れしパーカーを使ひつ思ふめぐし弓子を」 「わが室の隣にいねし女子大生われにあはせて歌ひし日あり」 「旅に来よ待てりといひし友ありき青島の図を見つつおもふも(中村地平)」 「口とがらせ物いふくせのありたりしスジャラ・ムラユの主幹はいづこ(北町一郎)」 「わがよはひ高くしなれり茂吉大人(うし)のまな子の建つる病院にをり」 「いのちあるかぎり1首を一日にといひし友も早く死にしか」 「わがつとめなほありとかや父なる神けさもとくより覚めしめたまふ」 午すぎ便少々あり。それを先生にいふ。「外出しばらくして」と云はる。入院以来食事旨く、とりわけ漬物佳し。 11月6日 よべ20:00にね、2:00目覚め6:00~6:30またねて快適。ユに電話すれば「出るところ」と。「チクマの印税2回に分け1回分は入りし」と。 ユ11:00来り、三浦先生回診。心電図とり玉ふと也。 ユのもち来し松茸飯は大阪の辻浩子より贈られし松茸と。高橋重臣氏より「手塚教授の接待心得たが令息上京の意なし」と。(※省略) チクマより印税2回に分け1回分12万円入金したと。文学散歩の会に「欠席」の返事す。 けふ電気コンロ買ふ(1千円)。心電図とらる。ユ「来週月曜に来る」と。 昨日?「澄来り、大と会ひし」と。GelbeSorte2箱みやげにくれ「世田谷に泊る」と出てゆきしと。 11月7日 眠れず21:00、22:00、0:00と3回眠剤のみ、目覚むれば5:45。(※省略) 「ゆめのまとうつつを分かぬわが病ひ妻のおどろきまことに可なり」 「なにゆゑにねられぬよひとひと問ふもわれはしらずと答へにあぐむ」 「罪ふかき太宰治の死にざまをひとはゆるしてたたふるらしも」 午后入浴。「パンがなくとも人は生きられる・・・あなたの主なる神を試みてはならない・・・主にのみ奉仕せよ(マタイ4-4-10)」 「「わが道はけはしき道」と人みなの思ふとわれは思ひしものを」 16:00井上dr.回診。「天気よくなれば散歩す。血圧125~90」と。けふ立冬と。 11月8日(日) よべ9:00眠剤のみ4:30目覚む。けふ散歩20分すと矢口嫗の話。 「わだの原越えていくたびわがゆめはベツレヘムへと誘(いざな)はるるも」 「ゴルゴダの丘よ死海よそにそそぐヨルダン河よ一目見まほし」 「朝の虹わが生涯にいくたびか見しとかぞふる老いにしわれは」 けふの回診の先生は吃音か。「落ち着きなきを見よ」との婦長の指示にて中国語について質問さる。 11:00千駄ヶ谷のガード下まで矢口嫗と散歩。12:30午飯食へばユ、不意に来り「速達など来たから教会の帰りに」と。 速達は『図書新聞』の保田『現代畸人伝』の書評をと也。「病気のため不可」と返事す。『果樹園105』来り『中国后妃伝』の広告は見えず。 毎日の「茶の間」は「いつにてもよし」と。 川久保「松本善海大病にて初めての外出とて鈴木俊氏の会に出た。池内先生の会には夫人と令息と出たまひし。11日まで在京」などといひしと。 (※省略) 「あす若先生に外出乞ひ、今週一杯にて退院せん」と相談きまる。 井上多喜三郎、井辺太郎、高橋一如、宮崎昭子の諸氏へヱハガキかく。小高根二郎氏へ「その中、金送る」旨。 11月9日 よべ9:00眠剤のみ11:00追加のみ、覚むれば4:30。快便あり。11:30若先生の回診あり、 「横山君に本性きいてくれ」といひ、外出願へば許され、ユに電話して12:30帰宅。 高橋重臣氏の「鈴木治氏またよせあつめか云々」の手紙見、辻裕子夫人、手塚部長(「高橋氏の世話にならざりし」と)、 福地君(「引越した」云々「二書ともよんだ」云々)、田村春雄博士などの便り見、柳田全集34冊となりしを見、筑摩の中島君に電話番号いひ、 山本書店に『説郛』、『続説郛』(ともに精製本5,000×2)「月曜までとりおいてくれ」といひ、 14:00出て古本屋にて『町医三十年(30)』、『愛新覚羅浩子(30)』、『全植物図鑑(350)』など買ひbusにて帰院すれば矢口嫗、午の薬わすれたともちゆき帰りしがあと。ユ、斎藤院長と話すとて「明日14:00再来」と。高橋氏へ「礼状出したが云々」 11月10日 よべ21:00眠剤のみ5:00前めざむ。まづ良き方なり。福地君、山尾夫人へたより。『町医三十年』有益なり。 午后回診まで矢口嫗に誘はれ、御苑の菊見にゆく。 14:00前帰院すれば、ユ来てをり、院長先生にゆき16:00やっとすみ、「いつにても退院してよし」とのこと也と。 やがて回診の先生にGelbe Sorte差上げ、本日の帰宅お許し受く。 そのまま荻窪へ直行。陸地測量部の地図20枚と『タガログ語語彙(200)』買ひて、18:00帰宅。 川久保に電話して兄上に「帰宅したら電話したまへ」との伝言たのみしに、やがて新宿より電話「成田君と会食、帰りに寄るつもり」と。 20:00赤川氏に電話して見舞の礼いふ。川久保、成田君をつれ来る。『異域録』贈り、三田村博士の論文貸す。『清朝実録』そろへしと也。 成田君「山田雲太郎の収入、億を越す。大衆は賢し」と。21:30出てゆきしあと入浴、22:30眠剤のみ2:00目覚む。 11月11日 早川智慧氏へ電話(※自宅番号)しらす。母より年賀ハガキにつき電話かかり、わが事たづねず、出て退院のこと云ふ。 また荻窪の古本屋。地図12枚、『近畿案内記 上(50)』その他買ふ。 台湾の呉氏より「50才になる公務員。汝の『李白』を友人訳しをり、今に本になる」と等々。 織田喜久子氏より「そのうち何か書け」と。古本市にてシャッキリしたるはふしぎなり。 12:00すぎ出てbusにて四谷三丁目。斎藤神経科につけば矢口嫗「もう退院してもよろし」と。「あと一日」と云ひてすむ(けふ回診なし)。 11月12日 ユ、来り「金足らず」と。矢口嫗の払ひ借らんとする故追ひ返し「13:00再来せし」と出る。田中久夫氏きのふわれに一足おくれて来たまひしと。 矢口嫗1,500+食費+自動車迎へ賃なりして計18,730(チップやらず)、入院料・付添食費料26,800+治療費10,740+付添フトン?2,160+ガス使用料360+看護婦礼3,000+先生礼(ビール1打)1,560+・・・ 涌井千恵子より「月末まで入院」と。船越家にて『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』預りくれをりし。 NHK教養部の遠藤滋氏へ「電話引けた」と。白鳥芳郎氏に電話せしもかからず。 11月13日 よべ11:00すぎ眠剤のみ、覚むれば6:00前也。9:00高橋重臣君より電話、「10:00来る」と。10:00ゆけば弟(阿佐谷北口の斡旋屋に勤む)と話しゐる。 家へ案内して色々話し、訊ね、昼食くはせれば「肝臓悪し」と。 13:00丸屋市川に案内し、われも『大和の年中行事(150)』、『TheSoviet regime(50)』買ひ、柏井歯科へゆき入れ歯してもらふこととす。 22日のこときき出て『東洋の政治経済(30)』と安本買ふ。けふ宮崎智慧氏のことかきし『花影』来る。 (高橋君待つ間に「旧婚旅行」200×4書き毎日新聞「茶の間」へと天野愛一君に速達す)。丸夫人に電話の番号しらす。 11月14日 よべ眠剤11:00のみ、5:00前さめる。田中久夫氏への投函たのみ、涌井千恵子生へ見舞かく。ユ、きのふより中耳炎再発。 12:00出て新宿までbus、秋葉原行といふにのり飯田橋でのりかへて山本にゆく。(紀伊國屋で『鳥取県(50)』買ひし)。 『説郛』『続説郛』ともに仮装にてあり、喜びて『四時纂要(1,800)』買ひ、神保町よりまた都電にて池袋。 宮崎智慧氏に会ひ「処女歌集くれ」といふ。「大伴女史まだ帰国せぬ」と。 立教へゆく途、田畑副手に会ひ、またしばらくして高田宣武夫妻(妻の名カツヨと)に会ひ、茶おごる(その前、東武の喫茶室にてcream-sodaのみし)。 我来ぬと見て出、慶応病院の兄訪ぬと。立教へゆき講演二つきく。井上教授をり、すぐ懇親会(500)となり、手塚部長に白鳥、高橋両家の説明す。 井上、高橋(元東洋大学)の二君、(※東洋大学紛争時における)わが正義派の証明せし。 海老沢・若原2氏の間に坐り、beerのみ(村田昭三郎来をりし)、西田副手に「来よ」といふ。教へ子わづか3人なり。 すみて裏通へ出、『南太平洋ひるね旅(100)(※北杜夫著)』、『東西文化の交流(40)』買ふ。(小林通雄『后妃伝』くれと云ひし!)。 帰れば村田より電話かかりしとユ、迎へにゆく。『古詩源』着きをり。村田に『アメリカ史物語』与へ「三鷹の兄の家へゆく」といふに通りまで送る。 11月15日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。 行き帰りに本屋のぞき見しに『后妃伝』売れぬでもなき様なり。帰りて『東洋学報』と柳井道弘『道』とを受取る。 畠山重光君より電話「父からの預かり物もちて来る」と。待つ間、突然現はれしは安部照子(トヨタ自動車に勤む)と、そこに同居の福島恵美子。 それぞれ菓子もち来る。「古谷綱武氏は父の友達」と。鎌田女史「成城の恥」と云ひゐると。来週2人泊りがけで来ると約し、15:30帰りしあと、 蜜もらひし重光君と散歩。夕食せしむ。外山博士より『金朝史研究』贈らる。 11月16日 よべ12:00眠剤のむ。「その前ちょっと眠った」と也。『説郛』東洋文庫本と全く異なる故、失望するも抜き書す。外山軍治氏へ受取。柳井道弘氏へ同。 小高根二郎氏より「訂正承知、200号まで出す」と。成城へ電話かけ「明日ゆく」といふ。浅沼氏出たり。 午后赤川氏に電話すれば「今日、用あり」と。水曜ゆくこととす。 11月17日 よべ10:00眠剤のみ、6:00起く。8:30出て斎藤神経科。院長先生学会とて北杜夫dr.なりし。よべ『南太平洋ひるね旅』よみし也。 その中「証明書かいてもらふかもしれぬ」といひ、一週間分の薬もらひ成城大学。ゆく途、福田君と同車になる。 ゆけば1時間目すみしところにて高田、高桑氏などをり、今井、大藤らは14:00来るらし。 都留生つかまへ、にぎり飯オリッサに食ひにゆき、図書館にて高井洋子生の卒論「笑ひについて」なりしをしらぶ。 「井上夫人、図書館やめし」と。「本間生、体わるくす」と。猿渡生に茶のまさる。ついで成城堂にゆけば「次嬢赤ちゃん出来し」と也。 13:00出て帰宅。「今中19期生会22日にやる」と出欠問ひ来りしのみ。電気stand(1,500)買ってもらひし。明武谷、大鵬を破る。 11月18日 晴。久しぶりにcardやり、今中同窓会の案内に欠席の返事をし、12:00出て柏井歯科へゆく。 混んでをり尚子と話す。14:30すみ、高円寺まで歩き、赤川氏に礼もちゆけば不在。 11月19日 ユ、婦人会にゆく。わが『李太白』訳せし『台湾文芸1-4』呉瀛涛氏より来る。堀ノ内進君「贈物まだつかず」。林富士馬氏「花影よんだ」。 ユに堀ノ内へ菓子送らせ、林君に返事かく。赤川氏より電話「復職心配するな」と也。ブー(※不詳)より電話「けふ来る」と。 午后高橋君へ「漢訳洋名」かく。ブー15:00来り、安部18:30来ると。古谷綱武氏に電話すれば「病気」と。 安部照子18:30来り泊る。けふ堀ノ内歴にcookie送る。 11月20日 14:00前、竹内夫人来り、「トンビ呉れる」と。福島恵美子そのあと出てゆく「今夕白鳥家へゆく」と也。 「キリスト教と限らず他の宗教の悪口いふはきらひ」が最後の一言也。 11月21日 8:30起き床屋へゆき、10:30出て成城。田中久夫氏と山田俊雄氏を昼食にさそふ。大藤教授に2回会ひしも話さず。 13:00俸給もらひ、山田氏と下北沢まで同車。(※省略) 東大前にて下車。後藤均平夫人見舞によれば殆どよくなりし様子。 『地中海(80)』買ひ、地図3枚買ひて渋谷。ユ、来しところと。 相撲のtelevi見了り、東横にて高井洋子に(※結婚祝に)武者小路の額送る(1,200)。19:00帰宅。 (「16日再調停開かれしもルリ子また出ざりし」と)。(※省略) p30 11月22日(日) 夫婦とも礼拝休み、弓子まづゆかし11:30母来るを待ち数男宅。松田みね・つぎ・岡山こう・柏井小光・船越たいの合同追悼会。 島田牧師の司会にてすみ、船越こせん、高沢叔母、静江母の3老人をはじめ、つぎ伯母の友小宮山氏といふが来る。 17:00すみ、船越伯母送りて帰宅。夜、大江叔母へ「大東博士夫人に電話してくれ」とかく。 11月23日 祭日。タバコ買ひにゆきし間に、竹内夫人より電話「トンビとりに来よ」と。 12:30出て荻窪よりbus、トンビもらひ、ユの外套とりかへ礼金5千円出す。出て白水家に電話すれば「在宅」と。ゆきて狂気の話、ユ長々とす。 (※省略) クマの子を白水夫妻飼ふ。三鷹に出て別れ『トルストイ日記抄(30)』買ひて帰宅。福島生より電話ありしと。(※省略) 11月24日 斎藤dr.にゆく。「もう学校にお通ひか」と。「近々証明書お願ひするやもしれず」と云ひ、眠剤8日分もらへば500円請求され100円借りる。 『不二』来りしのみ。尚子君来り、22日の割当5千円もちゆきしと。長沖一氏をteleviにて見る。安部照子より電話。 そのあと中島君に電話して「明後日18:30ごろ来る」と。安部生にまた電話「来る」となる。宮崎洋子を案内して福島生来り20:30までゐる。 「高井の披露に大藤氏も招かれゐる」と! 長沖氏に「televiで見た」と。 11月25日 よべ眠剤2服のむ。(※省略) 母に電話せしに「大まだ帰らず」と。松村君に「研究会休む」の伝言たのむ。 東方学会(800)と文学散歩の会(2000)の会費払ふ。「コギトの思ひ出」12枚かく。その速達出しにゆき『北京風俗図譜2(450)』買ふ。 夜、ユをして紅松夫人に電話かけしむれば「佐治氏、今夜あたり帰阪」と。 11月26日 5:00一旦さめ、またね入りて10:00起き、朝食し、写真屋へゆけば17枚写りをり。数男宅へもちゆけば「歯科医一日休業とて集りをり」と。 (『蹇蹇録(30)』買ふ)。帰りて待てば18:00安部生来り、18:30中島大吉郎君来る。中島君、whiskyとbeerに酔ひ、 わが「成城に同化せざるを変へよ」といひ、22:00安部生送りて出てゆく。渋谷に電話すれば大、帰りをり「近々栗山部長宅へ同行し来る」と。 11月27日 けさ10:00さめ(よべまた2服)、母に電話すれば「来てよし」と。ユとbusにてゆき「近々栗山氏に会ひ、そのあと考へん」となる。 帰りて安部に電話すれば「近々来ていふ」と也。そのあとしらずしらずひるねす。 11月28日 10:00までねる。ユ、栗山氏に電話すれば「明日来よ」と。兼頭、岡田(田中)文子、萩原葉子の3女史よりたより。2生にヱハガキかく。 中村嫗来る。ユと話し(※成城大学進退につき)最悪の覚悟きめる。賀代嫗来り、19:00史の吊書だすこととなる。 11月29日(日) よべ眠剤2服のみ、9:00さめる。ユも礼拝にゆかず。(※省略) 12:00出て羊羹虎屋にて買ひ、13:00かっきりに栗山博士に会ふ。 「20日までに主治医の診断書だせ。復職さす」と也。 出て青山博士に寄れば「1月または4月より聖心に帰り来れ」と。ことわる。下北沢にてユに電話し、昭和40年の暦(40)買ひて帰宅。 ユ「大に電話せし」由。 11月30日 9:00松本善海邸へ電話せしに嬢出て「父ねてゐる」と。けふにて7ヶ月月賦すむ。 (よべ眠剤1服にて12:00すぎより8:00までねし) (※省略) 堀ノ内歴君より「全快祝送った」と。宮崎洋子、萩原葉子、田代継男の諸氏にハガキ。 丸屋市川にゆき『ラオスの旅(160)』買ふ。後藤均平氏より『東洋学関係書誌書目』もらふ。 ユに賀状印刷たのみにゆかせしに「350枚にて1,750。5日に出来る」と。 夕方、松本君より電話「朝起きられぬだけ」の由。「めでたし」といひやる。後藤氏に礼状。 12月1日 よべねぎ食ひ、枕許に置き、眠剤のみしも3:00までねられず。セデスのみやっと眠り、9:00さめ、ユと斎藤先生。 12:00かっきりに診察の番来り、診断書願へば、 「病名 躁鬱症 頭書の疾病により加療中のところ、今般勤務に就くこと可能の域に達したものと認める。 上記の通り診断いたします。昭和39年12月1日」とあり。 これもちて渋谷までtaxi(220)。親子丼食ひ、大(2階でねてをり)に見せてのち成城へゆき前田[種]芳教務課長に会へば「教授会始まりをり」と。 (『果樹園』の「有心」のこといひかけしは今井信雄氏にて「蓮田氏に諏訪で習ひし」と也)。 了るを文化史研究室でまつこととし、川上、宮崎両副手、都留のほか野田宇太郎氏の坊やと話す。16:30前田課長来り、書類受取る。 栗山部長に会へば「まだ見ず」と。カマ田女史ていねいに「見舞」をいひし。 (「成城堂の主人死にし」と。23日?)。疲れて帰り来る。丸に電話し報告す。母に報告し「正月の留守番承知」といへば「考へる」と。 12月2日 よべ眠剤のみ12:00ねて9:00さめれば青木書店主来訪。話しゆく。法帖もち来し也。12:00帰りしあと朝食くひ、 大江叔母へ「(※史氏見合の件は)縁なきものと思へ」の意かく。坪井「11月末に藤井寺に転居」と。高井洋子生より恰も受取。 ユ、大江叔母へ5千円出しにゆき14:00帰り来る。仕度して出、市ヶ谷で時間余り散歩してゆけば大藤教授来て「昨日復職きまった」と。 和歌森博士に紹介さる。新郎手島巌君は都大大学院修士課程在学中にて高井洋子生とは柳田文庫での知合と。(※省略) 色直しのあと一言挨拶に「無心の笑ひをする子を産め」といふ。われらが前に坐りし老夫婦は白馬で愛息なくせし新郎の登山部友人の父母と。 最後にこの人の話にて終りとなる。 12月3日 晴。村上新太郎氏より『薔薇』に詩を、と。大江叔母より「大東夫人の電話にて方角わるく一周忌たてば小高根二郎氏よりたのめと福地君の話」と。 チクマより「10万円送った」と。堀ノ内歴君より奈良漬。村上氏へことわり。 午后荻窪まで散歩。『文献地図(50)』買ひ『后妃伝』買ひ来る(1冊売れゐたり)。(※省略) 12月4日 晴つづく。9:00めざむ。大江叔母へ返事。『通俗世界全史ローマ上下(150)』買ふ。 12月5日 晴。寒し。史、休みとて13:00出てユと白鳥家へ全快祝(東横商品券3千円)もちゆく。先生奥様おそろひにて「聖心の本とり返したのむ」とのこと也。 渋谷へより母に一万円渡す。「正月の旅行やめた」と。busにて1時間以上かかりて帰れば「筑摩の中島君より電話ありし」と。 (よべ眠剤のまずして眠る。数十日ぶり也)。 12月6日(日) よべ眠剤半服のみ9:00覚む。大東博士夫妻へ礼状。礼拝休み。 『后妃伝』の訂正す。鈴木俊氏より受取り(※間違へて)馬橋の田中克己氏に送った趣。(※省略) 蔵原伸二郎『岩魚』の出版記念会の案内(断る)。『文芸年鑑』のアンケート。 平田春一氏『薮蘇鉄』転送料90とらる。北口へゆき『千島概史(100)』、『地図の読み方(100)』買ひ来り、鈴木、小林2氏へハガキかく。 12月7日 大江叔母より「睡眠3時間」と。成城大学への履歴書業績かく。ユをして松崎温女の家にもちゆかしむ。小林へ『后妃伝』贈る。 午后、宮崎智慧氏より歌集『花泉』贈らる。新宿へゆき紀伊國屋にて地図4枚買ひ来る。章君来て「忙し」といひしのみ。 賀代女史より電話「史の縁談につき水曜会ひたし」と。あとねられず眠剤半服のむ。(※省略) 依田義賢氏より「出版記念会15日」と(「欠席」の返事)。 12月8日 家居。ユ、Christmasのヱハガキ20枚買ひ来り、疑問きけば、はかばかしき返事せず。午后、生あくびして医者へゆく。 「藤田亮策先生未亡人、全快ならず9.26永眠」と実弟小野田氏より通知あり。史、咳するに風呂に入るを咎むれば「自分のからだ也」と。 21:00賀代女史に電話し「あすユ、行かず」といふ。 12月9日 眠剤のみ(1服)、10:00覚む。小高根二郎君より後藤末男博士につき問合せ。 12:00出て鷺宮の病院に勤務中の小野田dr.訪ね、御花料(2千円)差上げる。帰り駅前にて『后妃伝』見つけ、数男宅により茶のみて帰宅。 電話料12月分1,600と。(『中国西部考古記(60)』買ふ)。小高根・松浦氏にハガキ。大東dr.に『后妃伝』送る。 夜、紅松長老に電話(矢野君よりchocolate1箱賜ふ)。 12月10日 よべ眠剤半服のみ、9:00起き斎藤dr.。「あまり気にするな」との仰せに「気にしません」と答へ眠剤10錠?(700円)いただく。 紀伊國屋に寄り国鉄にて帰れば、澄君より電話「いますぐ土地買ふ気なし」と也。大江叔母より「冷蔵庫代金いそがず」とハガキ。 Dr.Wiethoffより『Die chinesische Seeverbotspolitik und der private Überseehandel von 1368 bis 1567』送らる。 美濃武正氏より「月の雫」贈らる。『果樹園106』来る。矢野に礼の電話かける。 12月11日 よべ半服のみ、8:00起きる。(※省略) ユをして伊勢丹にゆき斎藤dr.、栗山部長、大藤教授に歳暮送らしむ。(※省略) ユ、風邪らし。 散歩に出てGoncharov『日本渡航記(100)』また買ひ来る。本間生より「『伝承文化』10冊送った」と。 12月12日 よべ眠剤のまず12:00より8:00まで眠る。午后『伝承文化』10冊来る。「今年の…」が「去年の」と訂正しなければならず。 美濃隆子夫人より「月のしづく」の送り状。(※省略) 田中順二郎氏よりbutter賜はる。 12月13日(日) よべ眠剤1服のみ、8:00起こされて礼拝。笹淵博士、小室君と挨拶す。西宮夫人に先生へと『伝承文化』1冊ことづける。 一昨日あたりより年賀状とChristmas祝とをかく。(※省略) p34 12月14日 よべ眠剤のまず。不二歌道会へ誌代として2千円。戸田氏へ『民間伝承』代として500もちゆき、263号欠けゐしをもらひ来る。 (※省略) 『石点頭』のcardすむ。沢田四郎作博士へ『伝承文化』2冊包む。(大東塾より風呂敷来る)。 12月15日 よべも眠剤のまず。10:00散髪にゆき(350)、西荻窪へChristmasのヱハガキ買ひにゆき(6×30)、荻窪の本屋にゆきしに『后妃伝』2冊となりをりし。 帰って『金瓶梅』のcardにかかる。年賀状とChristmasの挨拶とかく。『后妃伝』訂正して台北の呉瀛涛氏に包む。 21:00すぎ渋谷より電話、丸君に「あすの調停旨くいってくれ」(大、北海道と)、5万円の受取のありやときく(ありと)。 学校にてわが「近日の出講の掲示」ありしと。 12月16日 よべ眠剤1服のみ(大のせい也)、9:00さめ、賀状Christmasの祝状かき了る。小高根二郎君に3千円送料として送る。 呉氏に本送る(航空便なら980と。普通240、1月かかると)。16:30出て竹森先生へお歳暮もちゆく。 (藤岡謙二郎『近畿の風物誌(100)』買ふ)。田代継男より電話かかる。 12月17日 久しぶりに雨寒し。よべ眠剤のまず8:00起く。渋谷より電話「丸君より報告あったか」と、「今夜きく」と答ふ。(※省略) 16:00母より「丸氏にきいても私にいふな。大帰り来て他人のことかまふなといふ」と。(※省略) 12月18日 曇。よべ中途起き半服のむ。伊勢丹より送り状3通。(※省略) 大江叔母へ「吊書返送あった」と。 12月19日 よべ2:00起き4:00眠剤半服のみ、ねてをれば9:30羽倉啓吉氏令嬢と共に来訪。(※省略) 土産賜ふ。 毎日新聞より掲載紙と4,000(-税400)。『不二199』。 午后(高橋)鈴木睦美生より電話「本多弘子とともに来る」と。駅まで迎へにゆく。16:30までをり羊羹くれて帰りゆく。 われ送りにゆき『日本の海賊(180)』、『川柳・年中行事(200)』、『江戸艶笑文学の探求(250)』買ひ来る。そのころまで眠気のこる。 坂根みつせ氏より蜜柑賜ふ。 p35 12月20日 Xmasの礼拝にゆけば3列目(献金2000+1000)。転会者3人、小児洗礼2人、洗礼者12人。すめば12:30なりし。 齋藤齋先生に駅で会ふ。「令息医師開業にて改築」と。(※聖心女子大学)Britt学長と川本静江生よりChristmas-card。(※省略) 川本静江に電話すれば「女性民俗の会にゆきをり」と。あとにて電話かかり「鎌田女史1月1日より先生復職といひし」と。 けふ『文藝春秋新年号(120)』買ひ来て読み了る。 12月21日 よべ半服のみ10:00朝食。手島洋子夫人より祝返し受取り、成城に電話せしのち13:30ごろゆけば、 駅にて高城君(「復職おめでたう」と)、坂本浩教授(わが本その研究室にありと)と遭ふ。 会計にては川田浩、池田博士などに会ひ、手当とともに貰ひ教務へゆけば、前田課長しらべてくれ、丸重俊卒論不提出とわかる。(※省略) 柳田文庫のぞけば鎌田女史一人をり、他の先生帰りしらし。出で福島に遭ひ「1月まで在京」ときく。「帰りには挨拶にくる」と。 『日本の地名(260)』成城堂で買ひ、中村屋でrice-curry食ひ、 紀伊國屋で高橋、本多2夫人への贈物に『后妃伝』買はんとすればもはや2冊しかなく、 1冊買ひ、地図2枚買ひ、阿佐谷で『后妃伝』また1冊買ひ疲る。 今日Britt学長に「Christmasおめでたう」と書き、Dr.Wiethoffへ誤植訂正半ば書きし也。母に電話し、丸のこといひ「大在宅の時ゆく」といふ。 12月22日 よべ一服のみ10:00出て斎藤dr.、「旧婚旅行」よみたまひしと。「年内もう一回来い(30日午前中、7日より始診)」と。眠剤500払ふ。 紀伊國屋にて地図2枚。午食すませれば電話にて電報「山本理事長死去。森院長に弔電打て」と。城平叔父よりならん。その通りす。 坂根みつせ氏にみかんの礼かく。 12月23日 よべ眠剤のまず9:00起きWiethoff博士への手紙片付け、大よりの電話きけば 「丸より報告なし。北杜夫にはwhiskyせよ。斎藤先生には大して張る必要もなからん」と。母に「近日ゆく」と電話す。 沢田四郎作博士より『伝承文化』の受取。山本文子氏へ御花料1千円同封の弔詞速達す。城平叔父にも報告の速達。 (※省略) 麝島生に電話すればローマ留学願書のことにて鎌田・大藤2氏に「卒業ささぬ」て云はれしと。 史、「あす5:30より26日まで志賀高原へゆく」と。竹内夫人より「七面鳥いらぬか」との電話ありし。 12月24日 よべ眠剤1服のみ10:00までねる。本間厚子よりChristmas-card。 中島君より電話、「来れ」といひ、聞けば「3度会ひし」と。 帰りしあと安部生に電話すれば「仕方なく会ったが云々」。「一度来い」といひ憂鬱となる。 『どくとるマンボウ航海記(130)』買ひ来って読み了る。賀代嫗来て泊る。 12月25日 よべ眠剤のみ、起きて渋谷に電話し「眼鏡屋へ寄りてゆく」といふ。大をりしが話なし。 郵便受取りしまま京に留守たのみ出てbusにて道玄坂のイワキであつらへ、10,800の内金5,000払ふ。「7日出来る」と。 母に年末の小遣5千円与へ、鰹節もらふ。この間の調停にルリ子出て来り、金次第にて離婚の意ありといひしとの手紙。 出てまたbus。『日本人の体質(20)』、『温泉案内(40)』買ひて帰る。後者は学校にあるらしきも「箱根の下の湯、神経病によし」とてゆく気となる。 海老原稔氏よりbiscuits、水谷玲子、紅松一家、海老沢博士よりChristmas-card。(※省略) 大東塾より例年の如く餅賜はる。日本歴史地理学会の紀要6来る。(※省略) 12月26日 石山直一、咲耶よりChristmas-cardの返事。相馬弘より苹果1箱贈らる。羽田より「西太后が面白かった云々」。 河北病院にて卒中入院の父の友、毛呂清春翁を見舞にゆく。87才と。 12月27日(日) よべより咳し、早く床に入りしもねられず。ユとあす斎藤dr.にゆかん。陰性なればとのこと也し。史、12:00すぎ帰り来しと。 斎藤dr.やめ、相馬、小川嘉昭の2生にヱハガキ。小高根二郎氏に「正月復職。金受取ったか云々」のヱハガキかく。 大藤教授より「4月より史学研究法、白鳥君にやってもらふ。教科過重なれば云々。担任classなど、その中相談す」と。 賀代女史来り、我と話さず帰る。小林通雄氏よりカステラ貰ふ!小林氏へ礼状。大藤氏へ「正月会ひたし」とハガキ同封。 12月28日 やはり風邪らし。長友(新坂)康子よりChristmas-card。終日家居。のど痛くなる。 夜、「Heine22版の印紙3千枚1月9日までに」と角川より速達。 12月29日 9:00起き、ユと斎藤dr.にゆき少し躁にしてもらふやうたのむ。帰り二幸ですし食ひ、硲晃氏よりChristmas-cardの返事。 大東塾の賀状(中に年末支援金2千円の受取あり)。羽田へ返事かかんと航空郵便買ひ来る。貝塚『中国の歴史 上(150)』買ひしも面白からず。 澄より電話かかり「依子偏食。関口令嬢の結婚に、畠山紀子嬢と京」と。 12月30日 高橋(鈴木)睦美夫人より「本受取った」と。前野直彬『陸游(※漢詩大系)』来る。 10:00電話、安部「来る」と。やがて来り「縁談ことわる。あはず」と。 福島生もあらはれ「安部の父の会社に手伝ひす」(古谷綱武氏に会へばわが阿佐谷の住所知りをり)と。 『果樹園』に「コギトの思ひ出」12枚かき、羽田博士への航空郵便とともに出さしむ。宮崎幸三氏に電話し「復職した」といふ。 12月31日 のど少し痛み、午后浅田飴買ふ。栗山氏より13日書き27日出しの受取。本多弘子より同。 田中克己日記 1965 【昭和40年】  この年は詩人の躁欝病が寛解に向かひ、授業も再開するのですが、それでも年の前半は、喘息も夜半に併発するなどして気分は最悪だったやうです。表向き詩筆を折ってゐた詩人は、「コギトの思ひ出」を『果樹園』にて連載中でしたが、種本である日記と『コギト』の該当号とを机上に並べ、逐次的に語りゆく姿勢はどことなく、同じく鬱病休養中にあった中村真一郎が、頼山陽の日日を記した膨大な伝記資料に向きあった精神療法の態度を髣髴させます。集りも、参加しなくてはならぬものには参加してゐますが、 文学系統の集会では「師・友」への対応の差が目を惹くところです。 p1  すなはち、多恵子未亡人に念を押して13回忌に参加した堀辰雄や、悼詩を書き地元研究会からの講演依頼を受け快く前橋まで出向いた萩原朔太郎といった「師」に対する思ひの篤かったことが窺はれる一方で、同じく13回忌を迎へた伊東静雄については『果樹園』の盟友小高根二郎がこの年、畢生の大評伝『詩人、その生涯と運命』をまとめたものの、そして同じく同人の浅野晃も、戦没者鎮魂詩集として名高い『天と海』を「果樹園叢書」の一冊として世に問ふてゐるのですが、対する「詩人としての反応」がさほどには感じられない。  殊にも『現代畸人伝』で文壇に返り咲いた盟友保田與重郎に対する態度はどうしたものか。その出版記念会の発起人に名を連ねることを求められ、「出席」と返事をするも、3月8日の会の当日、お金だけ出してドタキャンしてゐます。しかし直前の2月27日には、南北社からの依頼で季刊同人誌『批評』の関係者を相手に講演を行ひ、ここでは求められてゐる話題を察して「保田の話」をしたと云ひます。  浅野晃の朗読レコードお披露目の会で挨拶した時(1967年4月)のことですが、「三島由紀夫に“伊東静雄の友達の田中克己です”と挨拶をしたらそっぽを向かれた」とも述懐してゐる詩人です。『果樹園』114号での、上記小高根二郎新刊の誌上出版記念会では 「わたしは相変らず感情過多で、すなほでなく、生きてゐれば伊東さんに“畏れられて”ゐると思ふ。このいやな性分」  などと記してゐますが、癇性の裏面に併せ持つ、この詩人独特の見え透いた卑屈を示すことがなかったか、私の心配するところです。  詩人がこのやうな態度に終始したのは、元はと云へば、保田與重郎が『祖国』の伊東静雄追悼号(昭和28年7月号)で、昭和の三大詩人を「蔵原伸二郎、宮沢賢治それに伊東静雄」と書いたことにあります。これが『日本浪曼派』に田中克己を誘はなかった彼の本音ととった田中克己は、以来「詩を書く気がなくなった」と「コギトの思ひ出」でもハッキリ述べてゐます。 p2  この年亡くなった蔵原伸二郎についても回想文の依頼を断ってゐますが、『芥川全集』月報記事に添へる「肩書」を問はれれば「詩人としてくれ」と言ってゐるわけですから、あくまでも詩を以て任ずる気持が一番だった彼にして、日本浪曼派の面々への思ひがことのほか薄いことが私には気になって仕方がないのです。日常生活でも、『民族派の文学運動』を刊行した影山正治とは交際が続いてはゐましたが、彼が西島大のことを田中克己の実弟と知りながら名指しで「転向者」と非難したことは、自らすでにキリスト者として改心をとげた身にすれば、内心ショックを受けたのではなかったかと思はれます。  ともあれ挙げたやうに、この年は実に日本浪曼派関係の出版物が豊作の年でした。『現代畸人伝』を出した保田與重郎には、早や『選集』計画が南北社から持ち上がり、新聞社および戦後の知識人読者層からは白い目で見られてゐたそれらの書籍を篤く扱ひ「保田與重郎書店」と自称して憚らなかった神田神保町の山口書店の主人も、この年の日記に初めて現れてゐます。  また論壇でも、政治的な判断停止からの脱却を言揚げる新しい世代の批評家が現れ、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』はその濫觴と云へますが、詩人が著者本人から照会を受けてゐたのを知ってビックリしたことです。ことほど左様に日本浪曼派や、そして四季派の「再旗揚げ」の気運も また、この頃になってやうやく高まって参ります。  一方、彼らの対極として「アジア主義」に立ち、プライベートでは娘婿の師として、そして初孫の名付け親にもなってくれた同級生の竹内好こそ、保田與重郎をライバル視することとなった田中克己が、一番近しく思うやうになったリベラル文学者だったやうです。この年には体調を崩して入院した竹内を心配する様子が窺はれます。 p3  また同じく大高時代の野球部仲間で、自衛隊幹部として西部方面総監にまで昇りつめた関口八太郎の祝筵にも列席してゐます。ですが、そのすぐ後に白血病で亡くなった、在阪時代には毎日自宅に立ち寄り夫人とも親しかった服部正己の葬儀には、下阪までして参列しようとしてゐません。日記には、肥下恒夫や中島栄次郎の名前も現れず、西川英夫や丸三郎といった在京メンバーの名前も、以前のやうには頻繁に出て参りません。  萩原朔太郎の前橋実家への訪問や、三島由紀夫が来ると思った講演、そして自著を参考文献にして小説「楊貴妃伝」を執筆した井上靖夫妻との会食をはじめ、有名人との関係や、逆に気が張らない帝塚山学院時代の教へ子による同窓会等は無下にせず、概して自分の気持を浮き立たせること以外には関らないやうにしてゐるところから、その「鬱」症の程度は察することができるでしょうか。新聞の切抜きも減ってゐます。  一方の「躁」症状は、新聞の値上げに無茶なクレームを入れて購読紙を変更したり、夫人と共にお見合の斡旋に気を揉んでゐる様子に、それをみてとることができます。長女の依子さん曰く、夫婦してのこの“お節介”は、この後も変はらなかったとか。元『コギト』同人(三浦常夫)といふより富岡鉄斎研究の権威になった小高根太郎とも、気易かった夫人同士を通じて斯様の相談ごとに終始してゐた模様です。息子の見合相手をあれこれと探しあぐねる記述の間に、実は知らず未来の嫁となる学生の名を記してゐる箇所などには微笑まれます。  そんな中、「李白詩の現代語訳」といふ、専門の造詣と詩人の特性を活かした仕事が『四季』の同人だった小山正孝よりもたらされます。田中克己が『白楽天』を担当した集英社の叢書「漢詩大系」がベストセラーとなったのを見てのことだと思ひますが、この企画は4年後の昭和44年に、今度は平凡社によって「中国古典文学大系」といふ全60巻にもおよぶ叢書中の一冊『唐代詩集 上(李白・杜甫)』として結実します。戦時中に書いた評伝が評判をとったこともあり、田中克己は李白の部の担当を求められ、そして杜甫の部は小野忍との共訳として小山正孝の名が並んでクレジットされることとなり、これまた漢詩出版の分野で大いに売れた一冊となったのでした。 p4  けだし上京以来、会ふ機会は多くなったものの、『山の樹』に移り『果樹園』を脱退した小山正孝は、実作者としては既に一廉の現代詩詩人となってゐましたから、二者の間には「堀辰雄亡き後の四季派の残党同士」という関係だけが残ってゐたやうにも思ひます。詩を通じての繋がりしかなかった二人が、かうして専門分野によって再びお互ひを認識しあう関係になり、晩年まで至ったのは面白いことに思ひます。  この年の出来事を記します。 p5 1月 「鬱」症状の悪化。 2月1日 堀多恵子宅を訪問。 2月9日 堀辰雄と立原道造の手紙みつからず(紛失?)。 2月27日 南北社『批評』関係者に講演(日本出版クラブ会館)。 3月8日 『現代畸人伝』出版記念会(上野精養軒)。当日新学社へ欠席電話。道造27回忌へも欠席の返事。 3月17日 影山正治より講演を依頼され断はる。 3月20日 旧友、関口八太郎自衛隊西部方面総監就任の祝賀会出席。 3月22日 安西均より蔵原伸二郎についての執筆依頼され断はる。 3月30日 電報にて服部正己の訃を知る。(4月25日 夫人に手紙。) 4月6日 懐妊した長女を見舞に名古屋へ。岐阜にも立ち寄る。 4月13日 井上靖「楊貴妃伝」完結につき、婦人公論社の仲介で井上夫妻と会食。 4月14日 田川孝三『李朝貢納制の研究』出版記念会出席。 5月28日 堀辰雄13回忌出席(六本木「廬山」)。 6月11日 浅野晃『天と海』受取。 6月12日 夜間の喘息始まる。 6月22日 山口書店来り『炫火(伊藤佐喜雄旧蔵)』見せらる。 7月13日 長女に初孫男子誕生(のち竹内好により命名)。 7月30日 谷口静夫(大阪高校同窓生)告別式出席。 8月16日 林富士馬を介して橋川文三から手紙で照会あり。 9月8日 長女夫妻、初孫を連れて訪問。 9月19日 小山正孝来り、平凡社の企画について相談、承諾す。 9月26日 新聞値上げを怒り購読紙を変更。 10月10日 萩原朔太郎研究会にて講演(前橋図書館)。 10月12日 肺炎にて入院中の竹内好を見舞ふ。 12月30日 斎藤茂太院長より「去年の年末とは大違ひ」と診察さる。 昭和40年1月1日~昭和40年5月19日 「伸記」 25.3cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p6 1月1日 賀状135枚。返事かく。大藤氏より「1、2、5、7はだめ。電話せよ」と速達。角川よりHeine21版の印税21,600。 母に電話で挨拶、京、弓子の2人をゆかす。 1月2日 10:00起く。賀状15枚ほど。4枚に返事かく。午后久保靖彦君来り『三省堂世界史小事典』といふを賜ふ。「すでに父となりし」と。(※省略) 1月3日(日) 賀状28枚。11:30朝食くひ、12:30弓子、京、帰り来る。ユと渋谷へゆき母に年賀云ふ。昨日までの咽喉炎ほぼよくなりしらし。鬱とれず。 (けふめがねとり来る。渋谷イワキにて10,820なりし)。 1月4日 9:00起床。賀状6枚。栗山博士に電話し「午后早くゆく」といふ。12:00三井銀行の1万円小切手もちてゆけば、 「(※週)4時間でよし。今井富士雄氏は一般教養に廻り、民俗学の若手1人入る。人間関係で気をつかふな云々」。 まっすぐ帰宅すれば木村繁[樹]氏まちをり。和田賀代、船越章の御両人あす午后丸弁護士にゆくと。19:00大藤氏に電話すれば留守。 あす9:00までにまた電話することとなる。 1月5日 ユをして大藤氏に電話かけさすれば「都合あし」と。速達にて用たすこととす。賀状14枚。(※省略) 賀代嫗来り、昼に茶漬くひ章君と丸弁護士にゆき15:00帰り来る。丸、学校関係何も云はざりしと。けふ午后鬱の底辺の如き感あり。 1月6日 よべ2:30に覚め、また一服のむ。悒すこしのく。賀状の中に竹田竜児氏「Parosへゆく。羽田氏をるや云々」。 福地君「父上にも話した。一周忌まて」と。鬱はたしてややのく。 1月7日 よべ1服のみ、きかず輾転反側す。9:00より支度し斎藤神経科に参り「眠剤かへて下され。復職になりしも仕事なき故、御心配いらず」と申上ぐ。 帰りて臥床。20:30のみ、ききめなしとて21:30またのむ。大江叔母より手紙ありしのみ。 1月8日 起床12:00。賀状数十枚。吉祥寺廻りが一つのみあり。夕方やっと元気になり、大江叔母に福地君のハガキを送る。 1月9日 朝起きてわりあひ気持よく、午すぎ散髪にゆき帰りてのち鬱はげしく、無形の恐怖感あり。夕食し入浴し、ユとともにこれを鎮めんとす。 (吉本青司氏より詩集『標的』。あさ速達にて「17日の『花影』の会に出よ」と。宮崎氏に電話して「出るつもり」といひし)。 1月10日(日) よべ1服にてまあまあねむり、礼拝にユをゆかしむ。〒なし。 福地君へ「(※出産)祝送る」と。手紙出しかたがた出て『北の火山(60)』を買ひ来る。(※省略) 吉祥寺より転送の賀状やっと来る。夜、竹田竜児氏に電話すれば「来年3月出発のつもり」と。 1月11日 8:00起き、眠剤もらひに斎藤dr.。北氏の当番にて「横山君、ちとわるし」と。 11:00成城大学へつき(紀伊國屋にて『道教百話』買ふ)、前田課長に挨拶。栗山博士に会ひてききてのち篠原局長に挨拶にゆき、 高橋邦太郎氏と久しぶりに会ひしのち柳田文庫。白鳥君をり、挨拶し、 本間嬢と待つ中、鎌田女史(古野博士より「いくぢなしめ」の叱りあり)、池田博士と話し、大藤教授来るをまちて来年度2年担任ときまり帰宅。 賀状の返事かき入浴。(※省略) 1月12日 船越嫗、話ゆく。その間に年賀ハガキなくなる。午后散歩『日本の外来語(100)』買ひ来る。能勢正元より「生駒に住む」と。 高橋百合子さんより「あさって友だちと来る」と。大阪高尾書店へ『台湾史料集成(1,200)』の有無問合せ。 けふ、ユをして福地君に祝送らしむ。喘息の薬として龍角散も買ひ呉る。 1月13日 龍角散ききめありさう。(※省略) 10:30出て成城。大藤氏にあひ、今井氏の室を見る(今井信雄氏へ『果樹園』4冊わたす)。 卒論3冊とり、オリッサにゆきにぎり飯くふ。松浦美紀子に会へば「姉6月出産」と。 経堂下車。小高根太郎を訪へば入歯こはしをり「田中久夫氏近々結婚」と。ともに出て池袋まで同車。 駒込にて時間余りcoffeeのみ田川博士に『伝承文化』わたし、神田、松村潤、田川博士とで岡本君のよみをきく。 「来年度の計画に部長印の必要あり」と。阿南氏おくれて来り、ともに阿佐谷まで同車。 服部三樹子氏より電話あり「久礼田博士夫人房子、嫁の世話する。生命保険会社の係長にて30才」と。 丸に電話すれば「関口家のおめでた知らず」と。 1月14日 晴。賀状25枚かきあと20枚となる。小高根二郎君に「2千円づつ送る」と。(※省略) 服部三樹子さんに電話し、弓子せの高きことをいふ。けふまた賀状来る。(※省略) 1月15日 晴。10:00ユと伊勢丹。Whisky(5千円)買ひて斎藤先生。いま躁鬱の中間なるを申し上ぐ。 帰りまた伊勢丹。Old Parr(4,800)北杜夫dr.に贈らしむ。『文学散歩23』来しのみ。(※省略) 1月16日 成城に10:00つき、『伝承文化』の校正本わたす。論文3冊を返却。 高田、佐野2教授と話し11:00田中久夫氏講義了りしゆゑ、今井講師より論文2冊受取り、久夫氏とOrissa。小高根太郎の電話番号教ふ。 太田陽子氏へ「ノイローゼ一部始終(200×7)」送る。宮崎智慧氏へ「あすゆく」と電話。京帰宅をまってユと2人高円寺。 われ赤川氏にゆき訊ねて、近藤dr.とわかり注射投薬を受く。「タバコ止めんか」「止められぬでせう」月曜またゆくこととなる。 『南方民族の婚姻(600)』、『昔の南洋と日本(100)』買ひて帰宅。 1月17日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。途あとより斎藤先生。すみて笹淵博士に挨拶す。神田博士(※神田喜一郎)よりの賀状に『后妃伝』の受取ありし。 13:20出て渋谷までbus。東京tower行にのりかへ東京プリンスホテルへつけば歌会始まりをり。わがほめし歌は宮崎智慧氏のなりし。 夕食よばれ、隣席の画家勝本富士雄氏と話す。「中学のときcogitoの読者にて佐々木邦彦を識る」と。 18:30出てbusにて渋谷。国鉄にて帰宅すれば「のり子嬢15:00ごろ来て蜜置き16:00川口へ帰りし」と。本位田の写真置きあり。 「関口令婿35才の銀行員にて転任は3月」とききしと。青山博士より速達、電話して来年の聖心の講義ことわる。(※省略) 1月18日 久野やよひ夫人は旧姓菊池やよひと。北杜夫氏よりwhiskyの受取。山本幹子夫人よりユへ。 寒し。西川英夫に電話し「天野愛一の歓迎会せよ」と再びいふ。(※省略) 佐々木邦彦画伯より山の絵もらふ。きのふ勝本画伯と噂せしばかり也。 夜、星野夫人に電話「class会せよ、文芸通信にかけ」といふ。 1月19日 関口八太郎君へ「大高のpicher浜野一佐あり」と。高尾より『台湾史料集成』売切れと。花井夫人・松村達雄に電話。 12:30出て成城大学。14:00まで待つ間に栗山部長に会ひ、「教授に復職」と。 協同研究の印を前田課長にもらひにゆけば局長と。篠原局長は帰宅後なりし。 (※成城堂にて)『エゼキエル書』買ひ、「主人11月に癌で死に、淡路洲本の人なりし」と次娘にきく。 教授会劈頭、わが帰任の報告あり、礼いふ。あとcunning問題ひまどり、 教授会で心理の専任助教授とすべきか教授とすべきか、山田、田中良久2氏に審査ときまる。 帰りて林富士馬氏より「詩集送った」のハガキ見て電話す。林璋子より「名古屋へ来れば会ひたい。鳴海に住む」と。(※省略) 『果樹園』へ「コギトの思ひ出(200×9)」かく。 1月20日 小高根二郎氏へ「重役就任・『鷭』は2号まで」と。田中雅子(靖子)夫人に電話。 林富士馬氏より『夕映え』。宮崎智慧氏より「7×400を2月15日までに」と。午后近藤dr.へ。「明後日また来い」と。 『通俗世界全史6(50)』買ひて帰宅。西島寿賀子に電話(「今より父の霊前にゆく」と)。畠山敬子嬢に礼状かく。 1月21日 10:00出て斎藤dr.。他に誰もゐず、薬もらひて紀伊國屋ちょっと見、 成城駅前のrestrantに入れば渡辺佐都子、中村優子、永田(?安田)か3D3人入り来る。 研究室へ卒論4冊返し、栗山部長と伊東13回忌の話し、本間生に『王維』を貸した確認をし、池辺君に会へば「日本史11人」と。 salaryもらひ(花屋休みにて成城堂へ寄らず)、下北沢にて『日本語の歴史5』探せばなく(古本屋休み)、また紀伊國屋へゆきて探し求む。 松浦元一氏(※松浦悦郎兄)より「近鉄百貨店四日市店長(?)」と。服部三樹子氏より「婿候補身長162cm」と。 筑摩書房より「芥川全集の挿み込み1500×5を10日までにかくや」と。 高杉百合子嬢より「好いことでもした様な気分になれた」と。成城大学より「中国文学史・中国文学・東洋文化史の概要かけ」と。(※省略) 松浦元一氏へヱハガキ。久礼田夫人に電話すれば「歌会に」と先生。 1月22日 (※省略) 服部三樹子女史に電話すればかからず、やがて向ふよりかかり「日曜午后来る」と。 12:30堀夫人(※堀多恵子)に電話して「近々参る」と。筑摩に原稿承知の速達。午后近藤dr.へゆく。「火曜来い」と。 高円寺散歩、『西方の人(110)』買ふ。(※省略) 財布見つからず。入浴中、田上生より電話。西島寿一君より電話。財布、上ポケットより出て来る。 1月23日 武田生に電話すれば「13:30来る」と。讃岐喜八氏より「京都に転居」と。13:30すぎ来てcamera film入れ、 『風媒花(30)』、『アジアの帝王(30)』、『アイヌの生活(150)』買ひ(あとにて包みあければ『移りゆく沖縄の姿』入りをり)、 13:35、2生を駅前で撮し、家につれ帰り『歌日記(※西島喜代助遺稿歌集)』1冊づつもち帰りもらふ。 1月24日(日) めざむれば9:20。ユすでに礼拝にゆきをり、豊田夫人より電話「午後早く来たまへ」といふ。13:30来訪。 東京教育大教授豊田章博士夫人にて長女の受験のこと。帰りたまひしあと服部女史来り、ともに角力の最終日を見る。明歩谷勝ち佐田山優勝。 そのころ寿一父子来り、12月20日の東京新聞にのりし小沢信男の「わが忘れなば(※小説)」を教へ賜ふ。 1月25日 7:00起き(眠剤1服半)、8:00出て、9:30より20人の卒論面接。ひるうどん、coffee2回出る。 その間、野田宇太郎氏に会へば「坊や拓大付属高校に就職」と。 栗山部長に呼ばれ「1月1日付復職命令」をもらふ。終了17:30。畠山敬子嬢よりヱハガキ。 月26日 7:00起き、8:00出て、9:30より20人の卒論面接。ひるうどん、coffee出る。 池辺・鎌田女史と3人にて17:00了り、駅前まで出て菊4本(70×4)買ひ、成城堂旧主人への霊前へともちゆく。 けふ研究費申請書の印を篠原局長にもらひ、松村君に電話して「あす文庫へ速達する」こととす。(※省略) 集英社『韓愈』来り、われを助教授に下げをり。 1月27日 7:00起き、9:00まで成城郵便局の前に立ち、松村氏へ速達、大矢夫人ハガキ投函。 12:00までに了り、12人を優、2人を可、未定1人。矢野生を副手ときめる。 14:30出て『芥川龍之介(350)』、『日本婚姻史(430)』、『ニッポン400年(240)』買ひて帰宅。 母来をり船越小母と話しゐる。久礼田房子夫人よりハガキ。『パアゴラ21』など来をり。 18:00丸に電話かけ「重俊を齋藤神経科にゆかせよ」といふ(昨日来学、卒論未提出は父母知らざりし様子、調停は昨日出てくれしと)。 (※省略) 丸山薫氏に住所変更を再びかく。 月28日 10:30斎藤dr.。一週間分の眠剤もらひ、紀伊國屋にて『北海道』買ひて帰宅。疲る。 ユ、朝より37℃あり近藤dr.へゆく。流感と。われを「神経過敏」との説なり。 けふ〒なく、夕方買物にわれゆく。久礼田夫人へ『歌日記』送ると手紙。 1月29日 ユ、熱なくなりしも臥床。われ『果樹園』に「コギトの思ひ出(200×11)」かき、 午となりて成城大学に学科試験監督のこときけば「今回は免除」と。「あすゆく」といふ。 外へ出てラーメン食ひ(70)『歌日記』送り(70)、電話料払ひ(1,190)、散髪にゆく。帰り『文藝春秋2月号(70)』買ふ。 吉本青司氏より『標的』評400×2を2月15日までに送れと。平凡社より『新版世界百科』新版の寸志(1,555-155)送り来る。 (※省略) 麝島マリ子に電話するに、われにいひたしこと忘れし様子、バカらし。 1月30日 10:30登校、前田教務課長に礼いひ、宮崎生に『アジアの帝王』与へ、来週の登校日きめる(試験監督免除)。 ゆきは矢野光子、帰りは丸重俊と遭ひ、さそひて新宿にて中華料理食ひ、齋藤神経科すすめて別れ、紀伊國屋にて『鹿児島県(50)』買ひて帰宅。 よべは雪降りし也。(※省略) 丸夫人に電話すれば重俊話しをりし。 (けふ高田君(※高田瑞穂)と話せば、彼も「平凡社の礼金もらひ」しと。明治書院「教科書まにあふ」と。中央公論社「しらべつかず月曜再び電話す」と。) 船越家より4回目の風呂代くれしと。 1月31日(日) 8:20起され、われのみ礼拝にゆく。「来月より第一聖日に必ず聖餐式を行ふ」と。北沢佐雄長老より『后妃伝』のこと云はる。 他には識りあひなき様なりし。〒なく、ユの風邪、頭痛、鼻づまりとなり来る。西島寿一夫妻へ礼状。 2月1日 9:30起床。高橋元吉氏死亡通知、丸山薫氏より移転承知のハガキ。年賀状の整理をするうち豊田夫人より電話。(※省略) そのあと堀夫人に電話すれば「午后早く来い」と。13:00まへゆき14;00すぎまでをり 「葛巻義敏氏は龍之介の甥。堀さんよりの龍之介の手紙なし。堀さん(※キリスト教)信者ならず」ときく。 『四季』堀文庫にもそろってゐずと。帰りてまた賀状の整理をし疲る。 2月2日 ユ、朝より医者。われは12:00出て成城。14:00よりの教授会17:00までかかる。かへり考古学教室の山内・今村・磯崎3氏のつれゆくをぬく。 中央公論社より『中国文学史』25,26日ごろ新版でき360円と。久礼田房子氏より歌集の受取。賀状整理して22:00となる。 2月3日 9:00起き10:00出るところへ〒。「堀ノ内歴君、30日0:30日赤病院で心筋梗塞にて急逝」と小高根二郎氏よりのハガキ。 10:30成城堂に寄り夫人と話せば「故主の母(※淡路島)賀集の出」と。 矢崎源九郎『世界のことわざ(200)』借り11:00より卒論最終審査、小野生「可」となる。 署名捺印し高田教授と話し、山田清男博士よりの抜刷受取りて新宿へ出、歩きて斎藤dr.。 一週間分の目薬と鎮静剤いただき、歩きて途中hamburg-steak食ひ(190)、紀伊國屋で『島根』、『大分』、『宮崎』(50×3)とそろへ、国鉄にて駒込。 coffee(70)のみて「東洋文庫、松村氏の室の渡辺女史、成城学園中学部の社会科教師面接にてはねられし」と。 後藤均平君久しぶりに来る。「夫人Christianになりたがりゐる」と。「いま予備校講師のほか辞典編集、本1冊書くことになりをる」と。 新宿で別れて帰宅。21:30鈴木文平に電話かけてきけば「堀ノ内は識らず。44才位ならん」と。 2月4日 10:00朝食、ひるねの如きものして14:00ちかくなり、うどん食ひ、堀ノ内歴未亡人に弔状(お花料3千円)、小高根二郎氏にハガキ。 けさ戸外-5℃、室内5℃終日家居。賀状の整理すむ。(※省略) 月5日 角川より「昨年Heine3版出した」と。新学社より「保田の畸人伝出版記念会3月8日17:00上野精養軒の発起人になれ」と。 12:00登校。今井、大藤、鎌田の諸氏に会ふ。成城堂にて『日本の苗字(390)』買ひ、下北沢にてラーメン食ひ『南十字星(100)』買ひて帰宅。 井上源一郎氏より「山村順氏(糖尿病)を慰める会した」と。山田迪孝(広島)より立春大吉祝。依子より産の準備についてハガキ。 2月6日 森中篤美先生より『中国新聞』に「泉(『神軍』にのす)」のこと出しとお手紙。近況御報告す。 午后、依子へのハガキ入れにゆき吉田精一『芥川龍之介(70)』買ふ。 夕食の時、船越小母来り「章君、家田dr.にかかり3日間のまずくはず」と。数男に電話し胃の専門医なきやきき、見舞にゆけば「ねてゐる」と。 19:30家田dr.来り「あす弟代診してもよし」と。豊田夫人より電話(※省略) 2月7日(日) ユ「章君すこしよし」ときき9:55教会。「ダビデとヨナタンの友情」とヨハネ伝の「わが友」につき説教。佐藤dr.夫妻と令息転会。 北沢長老に『李太白』贈り、衛藤氏に詩人田中克己といへば、「蔵原病気、その詩を書きし『福島次郎旅行記』手に入れたまひし」と語る。 帰りてひるね。われ『婦人公論』よむ。電話料(1,232+「12.22電報料」145)。井上源一郎氏へヱハガキ。(※省略) 「章君、快方に向ひし」と柏井へ電話。 2月8日 堀内寿恵子夫人より弔報。10:30朝食ゆゑ、数男にゆき章の話す。きのふはボーリングとゴルフにゆきし由也! (『風媒花』再読。)『福翁自伝(50)』、『煙草と悪魔(30)』買ひ来る。夕方、川久保悌郎より電話「元気か」と。松本善海のこといふ。 2月9日 終日家居。「芥川さんと堀さん」7枚かく。堀内寿恵子氏より手紙「1月15日ごろより入院、肝臓わるかりしことはそれまで不明なりし」と。 紅松一雄君より「パシフィックコンサルタンツKKに転職」と。 堀夫人より「ハガキの原稿みせよ」と。家中さがせしも堀さんと立原の手紙とを見ず! 夜、「安部生来る」との福島生の伝言思ひ出せしも遂に来ず。ユ、依子へ手紙かく。 わが「花の便り」とりし吉田精一『日本的詩歌風土記 上』来る。 2月10日 10:30目覚めの朝食くひ、「芥川・堀」のこり3枚かき、堀夫人に「現物みつからず、宛先きハガキに書いてしらす」といひ、12:00まへ出て斎藤dr.。 「薬変へたまへ」と。京、流感とて休む。都電にてチクマにゆけば加藤勝代氏不在。代りの淡谷淳一氏に渡す。 『テニアン(20)』、『レイテ(20)』、『信濃歳時記(130.)』買ひて、湯麺くって帰宅。 堀夫人に「天沼と彦根市尾尻町33」とをハガキにて書く。(※省略) 2月11日 10:30朝食(堀夫人にハガキ出す)、12:00登校。大藤、鎌田2氏に会ふ。教授要項かき、栗山博士に会へずに出て下北沢。 『タガログ語(100)』買ひ(ラーメン50)、帰宅。 南北社の常住郷太郎氏(16:00)来るを待つ中、畠山兄弟よりも「来る」の電話あり。 常住氏にきけば南北社より『批評』出るにつき三島由紀夫氏ら30名に話せよと。「25~27日の3日の中を選べ」といふ。 畠山兄弟来り、博光君13日帰宅と。卒業祝にセーター贈る。重光君は国語学の試験勉強に来し也。 よべ『テニアン』よみ、けふは『レイテ』よむ。愚かなることかな。(※省略) 2月12日 税務申告用紙来る。午后タバコ買ひに出しのみ(ユ、また鼻医者にゆきし)。 『ローマ史 下』よむ。夜、「標的の作者」(200×4)書く。けふ青木氏『世界地理風俗大系3(200)』もち来る。 2月13日 10:00めざめるまへ(よべ眠剤半服)、ユ、鼻医者にゆき吉本氏への速達投函せしと。 チクマより電話「肩書は」と問はれ「詩人としてくれ」といふ。『果樹園108』来り、堀内の詩集出版記念会をし、その死を追記す。 保田『現代畸人伝』送り来る。南北社より電話「日を27日14:00ときめた。場所未定」と。 『懐風藻・・日本古典全集(70)(※懐風藻、凌雲集、文華秀麗集、經國集、本朝麗藻)』買ひ来り、ついで『畸人伝』よみ了る。 夜、澄より電話「依子順調」と。紅松君に転職の祝いふ「土木関係の会社」と。けふ『Heine 22ed.』(1.30発行)見本来る。 2月14日(日) 9:50めざめ礼拝にゆけず。チクマの加藤氏より「新かなづかひに改める」と。『古詩源 下』来る。 14:00出て丸。犬の散歩にゆきしといふま、夫人にきけば「試験はだいぶ受けし。医師にはゆかず」と。 丸帰り来り「ルリ子出廷50万円を当座にわたして離婚書に印捺させ、あと2年毎月2万円づつ生活費を送るとの話にすすめゐる」と。」 「今中同窓、汝がNeyroseをひどく云ひゐる」と。 帰途、赤川草夫氏に会ひしに「自転車にて事故。20日間通院しゐる」と。 21:30入浴中、矢野光子生より電話、出てきけば「3月15~18日中に文化史の会するが都合いかに」と。「いつにてもよし。早くしらせ」と答ふ。 2月15日 よべ半服にて眠りつきおそく、10:00起きる。依子より「18日で5か月目にはいる」と。 目がすっきりしてより懸命にかき「前川佐美雄『捜神』をよみて(200×14)」12:00了る。 ユ、近藤dr.へゆく(朝、鼻科へゆきし也)。13:30角川より電話かかり『世界の人間像 クレオパトラ』につき「あす14:00ごろ来る」と。 15:00出て西武dept.、宮崎女史に原稿もちゆけば不在。カリントウ買って帰宅。 2月16日 宮崎智慧女史より電話「原稿あれにてよし」と。午まへ、赤川氏見舞にゆきしに不在。 角川の鳥居氏来り『世界の人間像』現在の出版部数4,500と。「150枚位しかかけず」と答へ「期限その他再議ののち命じたまへ」といひてすむ。 赤川草夫氏より「近藤dr.へゆきゐし」と電話。母に電話すれば「大、流感にて臥床1週間」と。「丸に電話して調停の様子きけ」といふ。 2月17日 眠剤1服のこりゐる故、斎藤dr.にゆくをやめ、午后柏井へゆけば入歯まだ出来てをらず。「その中電話する」と。 (『白楽天』の誤植訂正す)。〒なし。 2月18日 11:00出て斎藤dr.。「25日は茂吉先生13回忌にて午前中」とのことに「24日うかがふ」といふ。 busにて渋谷(20円に値上り)、東横dept.休みゆゑ手ぶらでゆく。「十日間涅上り下り」といふ。大と午食にうどん食ふ。 この間中島健蔵に会ひ「田中克己の弟」と自己紹介せしと。母「山本の弟(山梨大工科出26才?)と弓子といかに」といふ。 またbusにのり(30円に値上)帰宅。吉本青司より受取。『白楽天』の誤植訂正をつづけてやる。 2月19日 成城大学庶務課より「保険証もって来い」と。集英社出版部より『世界名詩選集』の印税計算。午后散髪にゆく。『白楽天』の訂正もつづける。 夜、税金計算すれば45万円位払ふことになりさう也。集英社より校正来る。 2月20日 曇。よべ眠れず。堀多恵子夫人より返事。「保田の出版記念会3月8日上野精養軒にて2千円の会費」、「出席」の返事す。 10:30出て成城。庶務課に共済組合員証返し、柳田文庫にゆき猿渡生と話す。(※省略) 教務の前田課長にゆけば「入試監督あてる」と也。(けふ文芸852。3部中、最も多し)。 大藤氏来らず、会計でsalaryもらへば(8万-XX)、税務署への申告は30万円余なり(共済組合よりの分は見舞ゆゑ申告せずともよからんと也)。 成城堂に1,500払ひ、下北沢下車。雲呑くひ(70)、阿佐谷駅前にて瀬川清子『しきたりの中の女(160)』、『中国永楽宮壁画展(100)』買ふ。 福地邦樹君より祝返しにハンカチ。福地君へ受取かく。 夜、矢野光子生より「3月16日17:00新宿にて4年生の会す」と。(※省略) 2月21日(日) 久しぶりに夫婦にて礼拝にゆく。帰り笹淵博士と話せば『明治文学全集』に柳田国男先生の文学的作品収載を遺族拒むと。 われのみ帰り、昼食後、丸屋市川へゆき瀬川清子『きもの(170)』買ふ。『白楽天』の訂正すむ。 けふ史とユ、北鎌倉の塔頭にて神谷母兄嬢と見合して帰り来る。 2月22日 きのふより下痢気味なり。(※省略) 集英社に「新カナヅカヒにせんか」といひ、源泉徴収票たのむ。 チクマ経理にいへば「送った」と。「も一度」とたのむ。集英社に『コンパクトブックス』の校正速達。『果樹園』のつづき4枚かき、今月分速達す。 国際電々より電話「聴衆は35,36才の男子に女2人。題はいかに」と。「歴史より見た中国の女性」とすべしと答ふ。 「当日三鷹よりtaxiにのれ。依頼書は所長名にて出した」と也。(※省略) けふ母より電話。「あすの調停に証人として出る。大も出る」と也。 2月23日 朝速達。南北社常住氏より「27日(土)14:00『コギト』『四季』のころといふ題にて(※講演依頼)、当日13:30迎へに来る」と。 筑摩、毎日新聞などより印税支払書来る。12:00出て図書館にて書名、著者名教へ14:00までまちて教授会。 入試監督・面接の割当てあり。意外にも「後藤武君、東京工大へ転ず」と。(※省略) 栗山博士に豊田章博士のこといへば「明日在宅」と。 ユ、渋谷に電話すれば母子、丸と夕食し帰りしところ。「50万円まづ渡し、あとにて慰藉料の相談せん」とききし(丸より)「ルリ子は不参」と。 豊田夫人に電話してあすのこといふ。 2月24日 よべ眠剤のみしに3:00まで眠れず、サリドンのんで寝、9:20起こされ豊田教授夫妻に会ひ、栗山部長に紹介の名刺と地図とかく。 賀代女史来り、ユ「気がすすまぬ」との史の返事を伝ふ。12:00出て斎藤dr.へゆき眠剤、鎮静剤ともに変へてもらふ。 2月は病気に悪しき月也と。渋谷までbus。五色炒飯くひ(150)、鱧の皮2包(80×2)買ひて母にゆけば「健けふ来る」と。 東洋文庫へゆくをやめ(神田氏に連絡)、17:00健来りしと久しぶりに逢ひ、17:30ユ、来るといろいろ話し19:00帰宅。 「豊田夫人より礼の電話ありし」と。福地君より「嬢に夕起子と命名せし」と。(※省略) 月25日 よべよりのど痛く臥床。ユ、税務署へゆき臨時収入の書もらひ来る。朝、豊田夫人より「栗山部長によく話できた」と電話。 渋谷母より「50万円の件につき話に来る」と。(※省略) 史「けふ渋谷に泊り賀代女史に改めて断りいひし」と。 2月26日 8:00目覚め風邪気のかず困り、10:30近藤dr.にゆき注射打ってもらふ。 3月2日国際電々、3月16日PM5:00~新宿ビル6階レインボーホールの謝恩会、同20日パレスホテルの謝恩会の案内来し。 母より「日曜午后相談に来る」と。あす出しの『果樹園』同人費2千円包む。 2月27日 南北社常住氏13:30電話かけ来り、駅まで出てtaxi、日本出版clubへ14:20着く。 『批評』の同人6~7人をり、しる人一人もなし。保田の話してすむ。礼、hyreにて帰りてあけ見れば1万円ありし。 風邪やや宜しきらし。成城大学謝恩会に「出席」の返事かく。「豊田夫人より蒲団賜はりし」と! 2月28日(日) ユ、礼拝にゆく。われ頭重きも本よむ。(※省略) 吉本青司氏より批評『果樹園』へ送ったと。(※省略) 3月1日 経済学部の入試監督にゆく。718人にて文芸より少なきこと初めて也(文芸1,033、短大570)。 2時間目社会は大藤・宮司氏と組み、すみてすぐ出、高円寺下車。近藤dr.に下痢のこといへば薬かへ玉ふ。福島富士子氏より礼状。 国際電々の長嶺氏よりまた「あす必ず」との電話ありしと。 3月2日 8:00さめ10:00国際電々の長嶺氏より「夕食たまふ」とのことに「風邪にてくへず」と断り斎藤dr.。(※省略) 17:10家を出て三鷹駅北口よりtaxiにのれば電々公社へつれゆかれ、歩きて国際電々研修所へつけば18:00。 「広島[適]部長はききたがってゐた」と。「歴史より見た中国の女性」を20:00に5分前までやり8千円もらふ。Taxiにて阿佐谷1丁目まで送らる。 3月3日 曇。9:10出て2回試験監督。疲れる(後藤武氏と話す)。影山氏の『思ひ出』前半出版される故「感想かけ」と。 『東方学29』来る。『文藝春秋3月号(60)』買へば林富士馬氏「文芸評論家」として写真のりをり。 3月4日 7:00起き、8:45学校につき、高城君とともに木桧君をたすけて70人ほど面接。栗山部長と話せば保田の会の案内ありしやう也し。 久礼田博士の甥の話はありしもわがことは云はざりしと。 成城堂にて『アラビア科学の話(150)』、『アフリカ史案内(150)』と岩波新書2冊買ひてえきにゆけば矢沢俊彦君をり、話しつつ新宿まで来る。 神田博士より『日本における中国文学Ⅰ』贈らる。「真野喜惣治君より電話ありし」と。 夕食すませれば畠山六右衛門氏より電話「夫人、癌にて入院」と。 3月5日 8:00起き、船越嫗、遺言をユにし、家族より放棄されゐるをきく。(※省略) 14:00柏井尚子と嫗を見舞ふ。 わが帰りしあと章君出ておのが病状のみ訴へしと也。(※省略) 小高根二郎氏より受取。 3月6日 あさ、真野喜惣治君より電話「13:00来る」と。神田博士の本よみつつ待つに14:00頃南阿佐谷より電話。迎へにゆき19:30まで話し且つきく。 「長男京都市立大へ入り、次男今年受験」と。奥村厚一画伯のことほめてゆく。 3月7日(日) 礼拝ユのみゆく。寿賀子より「史と麻雀した」と。立原健至氏より「道造の27回忌を3月28日11:00より谷中多宝院にて行ふ」 不二歌道会へ『日本浪曼派の問題(※『民族派の文学運動』)』の推薦の辞かく。 こせん嫗、朝の回診に医者「心臓次第」といひし由。午后、田中三郎俊子夫妻、数男と来り、三郎「持ち直す」と賭せしと! 賀代女史より電話、これも流感と。史、渋谷へ泊りにゆく。「渋谷の母も流感らし」と。(※省略) 3月8日 「こせん嫗、よべ水のみし」と。数男に電話かけ報告。 新学社に電話し「(※今日の保田與重郎出版記念会) 欠席、会費送る」といふ。道造27回忌へ「欠席」の返事。 保田の会へ会費2千円速達し、齋藤神経科へゆけば北杜夫先生。「躁なり」と申上げれば「鬱でせう」と眠剤強くして賜はる。 帰れば影山正治氏より「29日13:00 5大人の会にて倉田百三先生の話せよ」と。電話にて長谷川幸男氏に「鬱症」いひて断る。 「こせん嫗、あと3日」と医師いひ「章、教会葬を承知した」と。賀代嫗「あす21:00来る」と22:00電話。 3月9日 よべ1服半のみ8:00起き10:00まへ成城。(※省略)「縁故として無寄附にて通る」「チエ子夫人、栗山部長に長き手紙かきし」由。 昼食くひ、今井君一般教養の主任となり、組合のベースupにつき長々ときき、電話家にす。 ユ、豊田家へ電話せしあと博士よりも電話あり「喜びし」と。(※省略) 関口八太郎、西部軍総監発令を夕刊にのす。夜、神田信夫氏より電話「田川博士と相談の結果、今までの概要を分担説明することとなった」と。 3月10日 依子より「畠山夫人のこと知らなかった。11日ごろ見舞にゆく」と。『果樹園109』着く。 神田喜一郎先生へお礼のみ書きし手紙。けふは「カーチス・ルメー(勲一等)東京大空襲の日」と朝日新聞に見ゆ。 賀代女史、よべわが家に寝、10:00浦和へと出てゆく。ユ、税務署へ変動申告にゆく。「7万円ほど返還される計算」と。 13:00荻窪の古本屋にゆく。青木氏『鴎外全集』は自分で買へと。 井上智勇『地中海世界史(80)』、『The Hittites (150)』のほかクロちゃんにと『比律賓史 上(100)』買ふ。 阿佐谷にてヱハガキ40円買ふ。大まだ帰らず、弓子今夜も泊る。調停18日、母「月末、林叔母と下阪」と。 3月11日 晴。よべ3:30まで眠れず(眠剤1.5錠)。そのあとも夢か幻覚かわからず。8:30起き10:30朝食。13:00昼食。〒なく横臥。 『福翁自伝』大ぶよむ。ユ、税務署へゆき7万円返還の申告出し来る。 「主の教つらしといひし老嫗の10日になりていまだ召されず」 15:00前、田中久夫氏来訪。「うつぎ書房と知合」と。(田中氏の故郷は大垣在と)。 こせん嫗22:00死す(※船越小仙。母これんの従姉にして妻悠紀子の義叔母。船越章の母)。明治16年1月12日生。わが父に先立つ1か月の生れ也。 和田、柏井に電話でしらす。医師、大会にてdr.来らず。 3月12日 渋谷母に電話し「御花料1千円を承知」と。宮崎智慧女史より住所変更。「『捜神』をよみて」をのせし『花影』来る。 葬儀屋来り、大体6万5千円と。大江叔母へしらせ。散髪し、昼食くひ、15:00駅前の古本屋にゆけば立教の西田生に会ふ。 山口書店に会ひ、「わが家に来る」といふにつれ帰り、コギトの保田目録作り帰りゆく。 賀代女史と数男とで6万円、田中三郎の5千円とで葬儀代出来上る。史、けふも渋谷へゆく。 「あす10:00牧師来る」と。(※省略) 澄より「畠山夫人見舞ひし」と電話。 3月13日 10:00より告別式。われ出ず。ユ、ときどき帰り来て笑ふこと限りなし。11:00まへすみて堀之内火葬場へとゆく。 本家勇(城小碓)氏より詩集『望郷歌』。美濃隆子氏より礼状。本家氏に4月1日よりの杉並区阿佐谷南の住所にて礼状。 12:30みな帰り来り、賀代女史わが家で茶漬くひ、15:30「教会へ昇天感謝献金1.5万円せよ」と章にいひて帰る。 (※省略) 丸屋にて『五月富士』買へば1割引いてくれる(90)。20:30豊田博士父娘来訪。保証人の印捺す。「調停4月にのびし」と。 月14日(日) 8:30起きて礼拝にゆけず。ユのみゆく。畠山六右衛門氏より「夫人1週間後退院、関口の任地熊本」と。 昼食後、ユと洋服屋へゆきみれば休店。史、14:00帰り来り、「大、帰京。母下痢」と。横山薫二君へ見舞状。 3月15日 8:00起き9:00出て都民銀行へ寄り、われは斎藤dr.。北杜夫先生に薬もらひbusにて渋谷へゆけば、ユすでに来てをり。 税金申告にゆく大とうどん食ひ、阿佐谷までbus。『日本国家の起源(200)』買ひ、冬外套、合外套予約してすむ。 依子より「畠山夫人20日退院」と。佐々木邦彦君より厚咲君の『つくしんぼうのつんちゃん』来る。畠山、佐々木両氏へヱハガキ。 母より電話「親猫帰り来りし」と。(けふ母より、史「三郎家の娘のやうなのを」といひしときく)。田中雅子より22:00電話「class会5月にす」と。 3月16日 8:00おき9:00出て及判定会。長々と12:00までかかる。丸重俊落第。矢野光子副手きまる。 Over-coatきのふ買ひ、けふ出来上る(8,000)。きのふは合over(7,800)買ひし。 (※省略) けふ成城堂にて『フランス語辞典(1600)』買ひ『忠臣蔵(150)』買ふ。 一旦帰宅。17:00新宿にゆけば大藤・鎌田の御両人を17:30まで待たさる。(※謝恩会)19:30すみ20:00帰宅。 p7 3月17日 久しぶりに雨。眞野君より「風邪ひきし」と。税務署より7万円余返還。『批評』、『近畿民俗』来る。 沢田博士、眞野君へヱハガキ。蔵原伸二郎65才で亡くなりしと。15:00雨中を散歩。 北口にて『日本民族(280)』買ひ来る。影山正治氏より五大人追悼会の出欠問合せあり「鬱症」いひて断はる。 きのふけふ弓子渋谷泊り。 3月18日 よべ数ヶ月ぶりに眠剤のまずして眠る。「コギトの思ひ出」11枚かいて送る。丸より電話「20日関口総監の祝賀会」と。「出席」と答ふ。 郵便局あてと出版社その他へ、町名番地4月1日より変更(※表示変更)の通知かく。 ユ、豊田夫人見舞へと出てゆく。京、試験終り帰りしと留守番とし、高円寺へ古本見にゆく。何もなし。 一度かへり京、買物より帰りしあとまた出て『江戸秘語事典(700)』買ふ。ユ帰宅17:40。豊田夫人「卵巣までとりあす退院」と。 西川夫人「夫、来年停年にて憂鬱、肝臓わるく酒ものまず。長男、下町より妻とりし」と。 3月19日 10:00西川に電話すれば「あすの会場まだ決まらず」と元気なき声なり。(※省略) ユ、30万円10年がけの簡易保険に入る(3年にして死ねばもらへる由)。『軍記物語の母胎と環境(140)』買ひ来る。 『芥川龍之介全集8(はさみこみに我が文のりをり)』来る。京、渋谷へ泊りにゆく。けふより『金瓶梅』のcardはじむ。 3月20日 よべ10:00、1服のみ、8:00起き、9:30成城大学。『記念論文集』もらふ。母の館寒く、山田君の姿なし。 11:00すぎすみ(※省略)「蘭」へ直行すれば12:10、誰もをらず。12:50に関口、池田徹、西川現はれ、丸おくれて来る。われ写真とる。 西川「藤田久一の女をせわしも望高くだめなりし」と。東京駅にて西川、池田とわかれ、われ国鉄御茶ノ水に下車。 山本まで歩きしも何もなし。礼の『荊楚歳時記』増井経夫氏とともに見しに朱書きの註にてわがより美しく「眞頼」の印捺す。ふしぎ。 謝恩会に出るをやめ、帰りて鈴木俊氏よりの「25日集まれ」のハガキ見る。(※省略) 『文藝春秋4月号』の保田の文見る。不快なるはふしぎ(けふの会費は西川払ひくれし)。 3月21日(日) 久しぶりに礼拝に参ず。吉祥寺の古本屋見て『ユダヤ王ヘロデ(120)』買ひて帰る。全田の叔母より心細きらしき手紙。(※省略) 全田叔母へヱハガキ(林叔母、母ゆくと)。堀多恵子夫人に写真。弓子7:30「伊豆へ」と4日間の旅に出てゆく。 3月22日 8:00覚む(よべ1服)。笹井、武田2生、眞野、田中久夫氏に写真送る。京、母より小遣ひもらひ来る。母「4月8日名古屋へゆく」と。 安西均氏より「蔵原伸二郎についてかけ」と。「病気」と断はる。『文芸通信16』来る。 大江叔母より「船越へ2千円香奠とした。3ヶ月病気した」と。(※省略) 午后古本屋にゆき(朝も齋藤先生にゆき北杜夫dr.に血圧はかられしに115。帰り新宿、阿佐谷の古本屋見し)。何もなくて帰る。 池田、西川に写真送る。船越章来て「あと3年生き、本2冊出したし」と。不快とまらず。 3月23日 6:30起き7:30家を出、地下鉄にて新宿。小田急おくれ9:30に着く。試験監督(文芸545-欠あり)、短大2時間目もやり昼食。 3時間目また文芸すみて菓子もらひ(月給昼食時にもらへば8万円-1.5万)、他大学より給与低きに感心して出、下北沢にて古本屋見しも何もなし。 帰りて麝島生の手紙見、蔵原伸二郎の令嗣惟光氏(足利に住む)よりの死亡通知見る。 関口へ写真送り『果樹園』へ2千円送る。麝島生へヱハガキかいて疲る。 けふ他大学の本俸との比較にて東洋大学よりはましなるに感心す。 3月24日 6:30起き7:30出て成城大学。面接やる。意味なし。岡田直之君(マスコミ原論)と組み、午前午後とも一等早くすます。 上原君より「亀井勝一郎、咽頭癌の手術せし。釈迦三尊に随喜す」と基督者らしからぬ言に呆れる。 前田課長、本選び「1日より5日までの間に」といふ。家族の申告を会計課にす。 赤川草夫氏より「清瀬に入院して20日となりし」と。大江叔母、藤田幸子へヱハガキ。史、ski22:00出、弓子帰る(19:30)。 けふユ、渋谷へゆきしに「船越より挨拶来をりし」と。「1万2千円渡せし」と。 鈴木俊氏に電話してきけば「あすの会、学術会議のこと」と。「疲れし」といひて断はりすむ。 けふ面接中に都留生この間の謝恩会の写真album呉る。史、靴忘れたと帰り来りねる。 3月25日 早朝、史、妙高へゆき、弓子早番にて出てゆく。われよべ半服のみてうつらうつら。7:00まで眠りし。丸へ写真送る。 ユ、婦人会にゆき12:30帰宅。われ気分やや直り、国鉄にて神田。 あさ話しおきし『端午礼俗考(320)』と『中国学誌1(500)』と買ひ、ちょっと本屋見て都電にて四谷三丁目。地下鉄にのりかへて帰宅。 矢野昌彦寄り丁番変更。丸善より「Chinese Repository復印16万円にて秋出る」と。 帰ればユをらず「名古屋の澄より電話、依子体悪しとて手伝に京ゆかすこととなり新幹線の切符を買ひにゆきし」と。 19:30澄より電話「今は脇の下痛がる」と。「15:27着2号車」とわかりてその旨いふ。 渋谷へ電話かければ「大、帰り来し。名古屋へ寄る」と。金瓶梅cardすこしやる。 3月26日 よべ2/3服のみ、8:00前起きる。依子へ「伊藤賀祐(※岐大病院勤務旧友)に名大へ紹介たのみ、保険はずして診療受けよ」と手紙かく。 11:30、ユ、京を東京駅まで送りゆく。赤川草夫氏へ見舞状。(白鳥清先生より「50万円出す男紹介す」と電話あり!) ユ、14:30帰り来り「京、食堂車へゆくを楽しみゐる」と。18:00澄より電話「あす診察受ける」と。京は無事着きし也。 3月27日 よべ12:00半服のみ、3:00また半服のみ9:00前起きる。鎌田女史より「進学指導いつにするか教務にいへ」と。「15日13:00」ときまる。 母より「あす西下」と電話。午后古本屋にゆき『猪・鹿・狸(50)』、『エジプト美術(180)』買ひ来る。 夜、澄より電話「伊藤賀祐上京中(明日帰名と)、あす名大の大先生に診てもらふ」と。「whiskyでも贈れ」といふ。 (白鳥先生より経済受験とて「不能」とことわる)。史、skiiより帰る。 3月28日(日) よべ12:00前1服のみ、7:00目覚めて礼拝にゆく。受難節なり。外人来り500円献金せしを見し。けふ母、西下(13:00ひかり)とてユ、送りにゆく。 田川博士『李朝貢納制の研究』賜ふ。東洋文庫へ受取、田川博士に礼状かく。金瓶梅のcardつづける。 うつぎ書房に雑誌売り(70)、『武蔵野(150)』買ひて帰宅。やっと見つけし『満洲基督教史夜話(850)』とり置かせ、帰りてまた出て、これを買ひ、 『昭和史 新版(80)』買ひ帰る。前者によれば「竹森師は満洲育ちにて衛藤利夫氏と識り、昭和10年上京。東洋文庫に通ひし」と也。 3月29日 6:30起き、9:00家を出、10:00よりの判定会。 12:00すみて昼食前の教授会にて今井・唄2講師の昇格につき審査を命ぜらる(大藤氏と前者、高田氏と後者)。 無給副手・主任教授に薄謝せよといふ。『支那文化史観(50)』買ひて帰宅。「依子入院の必要なし」との診断と澄より電話ありしと。めでたし。 金瓶梅card作る。史、外泊。 3月30日 よべ眠剤のまざりしらし。11:30眠り、7:30覚む。(※省略) 斎藤dr.へゆき「躁なり」と申し上げれば「さうは見えません」と。 紀伊國屋によりアナトール・フランスの文庫本探せば角川文庫のみにて、しかもなし。帰って昼食。 (※省略) 赤川氏より「見舞に来ずともよし」と。『パアゴラ12』に桑原武夫「四季の会にて山岸と田中とよくしゃべりし云々」。 電話電報にて「服部正己死す。葬儀あす自宅にて11:00-12:00」と。弔電ウナにてうち、小高根、西寛治、西川英夫にしらす。 西氏は不在なり。(のちほど電話かかりし故、家教ふ。『中国后妃伝』よみ『李太白』よみたしと也)。夜、丸に電話かけ服部の死を告ぐ。 豊田夫人に電話すれば、夫人も出て「退院した」と! 史、水野成夫訳『神々は渇く(※アナトール フランス)』をもちたり。 3月31日 矢野より「贈物ついた」と礼の電話。小高根二郎氏より同人費の受取。『杜甫』刊行10日おくれると集英社より速達。 服部夫人に御花料2千円送る。杉本美恵よりいれちがひに『成城文芸』送り返し来る。 午后出て古本屋にて『舞姫タイス(35)』、新本屋にて『赤い百合(100)』とアナトール・フランス集める。けふも金瓶梅card作る。 (※省略)「依子けふ入院するにつき、京返す。19:33東京着」と澄より電話ありしと。ユ、迎へにゆき20:40連れ帰る。(※省略) 依子「来る必要なし」とわれらのこと云ひをる由。 4月1日 9:30成城大学の前田課長に電話すれば「けふ午后、本はこばす」と。12:00着き図書館にて話し、課長にゆけば監督して庫より出し了りくる。 研究室に積上げ、4人の校務員に礼3千円す。 成城堂にて『日本の歴史Ⅰ(450)』、『南ヨーロッパをゆく(360)』、『エジプト・アフリカ(480)』と買ひ、 明治書院に『史記文鈔』30日出来送るといひしこと伝ふ。(唄君と話す「アナトール・フランスを柳田先生好きしは大藤氏よりもききし」と)。 帰り下北沢の古本屋にて『写真登呂遺跡(70)』、『アフリカ史の曙(80)』買ふ。(※省略) 4月2日 よべ12:00、3:00と半服づつのみ、12:00前さめる。 筑摩の東博氏来り『明治文学全集』の漢文訳せよと。「この間の保田の出版記念会に前川氏来た」と。 (※省略) 松村潤氏より「田川博士の出版記念会を14日(水)17:30より」と。「出席」と返事す。 東博氏より電話「芥川全集 第6いらずや」と、「いる」と返事す。 4月3日 よべ10:00ね、朝5:00前さめ、朝食後ひるねす。 大高後輩、南史一君より「陶淵明につき千枚の原稿あり、みてくれ」と。「鈴木・斯波・吉川3博士見たか」と返事す。 弓子、鎌倉の寮へと出てゆく。午后散髪、寒し。『果樹園』の「コギトの思ひ出」今月分15×200すむ。 金瓶梅card作る。眠剤のまず。 4月4日(日) よべ半服、7:00目覚む。礼拝にゆく。齋藤夫人、高杉嬢らに会ふ。竹内(※竹内好)夫人に電話し「来週ゆく」といふ。その中あふこととなる。 角川よりHeine22版の印税(24,280-2,428) 21,852来る。 松村潤氏より「4月17日(土)10時第一回研究会」と。成城大学より今井富士雄氏の業績表送り来る。 紅松へ電話、服部正己の死をしらす。夜、船越へゆき「服部死に赤川病気」としらす。アナトール・フランスのことをきく。 4月5日 よべ半服(0:30)。西宮一民氏より転居通知。石川信夫(明治41-昭和39.7.9脳溢血56才)追悼号来る。 (※省略) 中島大吉郎氏に「ご縁なかった」と電話す。(※省略) 婦人公論の春名徹氏より「さっき伺ったらお散歩中だった。楊貴妃完結したので井上靖氏と一餐をともにすべし、13日夕はいかに」と。「よろし」と答ふ。 澄より電話「市立東病院に入り経過良好。肉以外の煮付もち来れ、面会は20:30まで。6日執務は21:30まで」と。 「6日まにあふや否やいまのところわからず」と答ふ。丸に電話してきけば「2日これまでの生活費50万円わたした。離婚訴訟は改めて」と。 4月6日 9:30出て(京、留守番)斎藤dr.。「旅行宜し」と。眠剤6服のこれるを見せれば、給はず。 11:30東京駅にゆけば「新幹線16:30まで売切れ」と。12:20「なにわ」に乗り別々に坐る。17:27着。澄に電話して病院へゆく。 依子やせ「飯まづき故、母のこって呉れ」と。畠山家へ電話し、麺くひてtaxiひろふ(400)。また探して畠山家。 夫人元気にて(この間5千円の見舞たまひしと)「親類の応対に疲れる」と。21:00出て名古屋televiで下り、澄のhyreにて虹ヶ丘。 風呂に入り12:00眠る。(※省略) 4月7日 9:30澄出てゆく。われ10:00に出て病院にゆき、ユの色ごはん依子食ふを見て、栄町あたりの古本屋を見るに何もなし。 駅へ出て(昼食に炒飯くひし)名鉄犬山まはりにて岐阜。伊藤賀祐に電話すれば「不在」と。 助手、家の電話おしへくれしゆゑ電話すれば「また上京中。長嬢は学習院に入り長男も云々」と。 県労組の電話教へられ岩崎(※岩崎昭弥)に電話すれば他出と。「夫人も勤めゐん」と。 駅へ出、江口(※江口三五)夫人に「よろしく」といひ、国鉄にて帰名。 歩き疲れて東市民病院にゆけば、澄来てをり、あす12:00母、大阪をたつと。 新幹線もっとも遅き時間のを買ひ呉れをり。栄町へまたゆき彦次郎「方丈記と支那文学…」のせし『帝国学士院紀事1-1(330)』買ひし。 bus通りまで澄に送られ腹すかして帰り、母の友の南団地探しにゆき足挫く。 4月8日 8:00さめ(このごろ半服づつ也)、よべ23:00かへりしといふ澄を朝食におこせば「休みとった」と。 10:00ユと出てわれ古本屋見しも何もなし。病院へゆけば膵嚢炎ゆゑ胆汁とりゐる最中。Dr.くはしく説明したまふ。胆汁つひに出ず、胃液吐く。 われ出て12:00の急行にのり静岡で下車。前に見し古本屋へゆき『朝鮮民謡選(50)』買ひしのみ。 普通列車の沼津行にのりかへしも大決心して湯河原で下車。駅前の案内所にて福寿美別館といふへ、はふりこまる(taxi260)。 女中に500、風呂番に200。芥川龍之介のせい也。 「主の愛はうらみにくしみかなしみをやはらげんとてこころみたまふ」 けふ名古屋も久しぶりに小雨。 4月9日 よべ入浴2回。20:00半服のみ、6:00前起きてまた入浴。熱し。 「せせらぎをうるさしといひしはしためにわれはそむきてふかくねむりぬ」 9:00前、出んとせしに金庫あかずとて待たされ、2,470の計算に茶代500払ひ、湯河原駅までのbus代あたかも30なり。 浜松発、湯河原9:56に乗る。茅ヶ崎より乗りこし父母嬢「学芸大小金井分校へ新入」と。母は淡路の人と。 12:30阿佐谷着。中村屋のrice-curry(200)食ひ帰宅。 (※省略) 成城教務より月曜1(中国文学史)、2(東洋文化史)、木曜3(中国文学)、金曜3(短大中国文学)と来をり。 豊田夫人「嬢の入学うれし」。「潰瘍に死を思ひし」の歌のりし『花影』来る。 『婦人公論』5月号「楊貴妃」の最後に「長恨歌」のわが訳ひく(こはすでに名古屋で見し也)。 Anatole France岩波新版に訳ひとつのみあり。もとより絶版なり。芥川2冊(50、100)古本新本にて買ひ来る。 18:00弓子をさそひてOlympic映画見にゆく。21:30了る。 4月10日 よべ12:00半服のみ、6:30一度さめ、9:00起きれば無人。 9:30渋谷の母より電話あり「ユ返す」と。(※省略) 堀夫人に電話すれば「5月5日の朔太郎忌にゆく」と。 「今年の辰雄13年必ず呼べ」といへば「呼ぶ」と也。ユ、12:00前帰りて昼飯に茶漬食はす。角川より「35部の検印せよ」と。 (※省略) 春名氏より速達「井上氏との会食13日13:0築地の田村にて」と速達。海老沢博士へ『エピストラ』の礼状。 朔太郎の会へ「出欠未定」と返事。荻窪の古本市にゆき、『解剖台によりて(2冊150)』、『北京風俗問答(100)』、『文草小成(2冊50)』買ひて帰宅。 ユにきけば史、この間2回渋谷にゆき「労働省に決まり2年後には税務署長。 ルリ子50万円とり、あとは5万円だけ払ふつもりにてハンコ押す」と也。けふチクマより『芥川龍之介全集6、7』来る。 4月11日(日) よべ23:00半服のみ、8:00覚む。礼拝にゆく。すみて総会。長老12名となる。13:00了り、名店会館にて竹内夫人に電話し、ラーメン食ひ、 『和英字典(550)』買ひてゆく。澄より一昨日か電話ありしが依子の病気云はざりしと。(※省略) 阿佐谷にて『東洋史講座5,7,10(30×3)』買ひて帰宅。(※省略) 史、けふ友達の結婚式にと京へゆく。明日登庁のつもりと。 4月12日 よべも半服8:00起こさる。成城大学の入学式にゆけば教師の出席寥々。唄、山田2君と語り、寒きによはる(毎年の例なり)。 庶務にて定期の証明もらひ、会計にて2,700もらふ(大藤氏、教務部長となり、岡田教授図書館長となる)。 13:00帰りて影山『民族派の文学運動』、南史一氏の『陶淵明研究参考書目』、(※省略) など見、昼食すれば、婦人公論春名氏より電話「あす17:00迎へにゆく」と。 出て『茂吉の体臭(500)』(※齋藤茂太著)、『日本地理体系 旧北海道樺太篇(400)』、『印度支那における邦人発展の研究(200)』買ひゐれば、山口書店来あはす。 『季節風』の主宰石川信夫への悼みのハガキ返送されし故、名坂八千子夫人に電話かければつづけて吉祥寺で会すとなり。(※省略) 史、京より帰り来り「労働省に出勤せし」と。(※省略) 0:50地震までねられず。 4月13日 8:00覚め、ユを赤川家へ見舞にゆかす。植村清二氏より「退官。逗子に住まふ」と。(※省略) ユ帰り来り「夫人不在。赤川氏、肥えてゐるとききし」と。 12:00出て斎藤dr.。茂太先生に署名お願ひす。来週学会とのことに2週間分眠剤10服いただく。都電にて神保町。 『李太白(60)』買ひ、Franceの『昔がたり(50)』、『我が友の書(50)』を文庫で買ひ、木原正三堂にゆきcard200枚(170×2)買ひ、国鉄で帰宅。 関口より「写真受取った」。大地堂より「France2冊見つけた」と。「とりのけてくれ」と電話す。 不二歌道会へ「(※『民族派の文学運動』)4冊売ってくれ」と電話。『果樹園』の原稿包み、西寛治氏へと『李太白』包む。 17:00春名君迎へに来り、築地の田村へつけば17:30、18:30井上靖夫妻来るまで1時間、三枝編集長(女)、出版部第一課長と待つ。 「少し書き直して本にするゆゑ参考書教へよ」と。夫人「小学校で藤枝晃と同級たりし」と。 21:30になりbarへつれゆかる。大岡昇平の姿見ゆ。そのあとまた一軒bar、別れてhyreにのる。運転手「Smatraの高射砲隊なりし」と。 4月14日 よべ1服のんで2:00眠り10:00覚む。(※省略) 田上博士より電話「泰緬鉄道の話ききたし」といへば「承知した。胆嚢炎は多し」と也。 母に電話せしに「元気」と。大阪庄野英二君より電話「21日学校へ」と。あとにて「10:00共立の人々と来る」と。 きのふ不二歌道会へ電話「4冊買ふ」といひ、けふ影山氏へ訂正指摘す。西寛治氏へ『李太白』送る(40)。『果樹園』原稿速達す。 17:00出て地下鉄、御茶ノ水のりかへ浅草橋で下車。たづねてゆけば両国のこちら側のあひがも屋。(※田川孝三『李朝貢納制の研究』出版記念会) 殆どすべて集りをり、われの叱声で乾盃し、機嫌よく話し21:00散会(護、神田2氏のほか8名?)。 地下鉄浅草橋より新宿まで買ひ、銀座でのりかへを新橋までゆけば買ひ直さる。 帰宅12:00。風呂へ入り1服のむ。けふ定期買ふ(4,900にて3か月分)。 4月15日 8:00覚む。『金瓶梅』やる。(※省略)12:00出て成城大学。学科指導を30分やる。40名位しか出をらず。(※省略) 大地堂へゆきFranceの『バルタザアル(150)』、『柳の衣桁(70)』取る。 4月16日 よべ半服のみ、8:00起きる。(※省略) 鬚そり弁当つめしところへ成城大学教務課より「短大2A旅行の為休講せよ」と。 (※省略) 高田瑞穂君に電話「唄君助教授通さん」といふ。昼食後、赤川家へゆけば夫人留守(9:00-13:00、15:00-面会時間)。 『すまい(30)』、『磐井の半反乱(100)』など買ひて買り来る。 4月17日 よべ21:00すぎ眠剤のまずねしも11:30史帰りしころ目さまし、半服のみ、8:00すぎ起き、東洋文庫へつけば10:45。 「75万円研究補助出る」と。「朝鮮の地図みなそろひし故、満洲細地図買ふ(25万円)。」 輪講のほか梗概のわりあてあり、論文をも書くこととなる。 12:15出て(途中「婦人公論の春名君15:00来宅」との電話あり)、阿南君と昼食、ちらしずし(200)、丹波家へ寄れば嬢出て「両親留守」と。 春名君来しゆゑ『成城文芸』貸し、年中行事の参考書教ふ。 『杜甫』『元好問』同時に来る。(帰途古本屋にて『民家と住居(100)』ね『参考東洋史(30)』買ひし)。(※省略) 夜、高田瑞穂君より唄君のprint速達。 4月18日(日) よべ半服づつ2回のみ、8:30起き、復活聖日に出る。新受洗者4人+BABY2人、転会者2人。克巳献金(1,000)。 茶会に出て齋藤夫妻、田口嬢(慶応二科助手となりしと)と話し、竹森先生に「御著書のsignお願ひす」といふ。 帰れば高田君よりハガキ。(※省略) 畠山紀子嬢より電話「13:30」来ると。来て「ユを退院後手伝によこせ」と畠山夫人よりの伝言。 博光君も同伴「あす帰宅」と。高田君に電話「火曜早めにゆき会ふ」といふ。『柳田国男集13』によりnote作る。 4月19日 よべ半服づつ2回のみ、6:50起され8:20登校。「中国文学史」「東洋文化史」とやり疲れて昼食くふ。 栗山博士と話し、久礼田夫人まてば栗山博士に会ひ「講義すぐすむゆゑ待て」といはれしと。学生課、chorus部に案内して帰宅。 televiのこはれ直しをり(2,000円とられし)。けふ丸生に会ふ。 不二歌道会へ電話すれば、長谷川氏出て『民族派の文学運動』送りし筈と。「21日金もてゆく」といふ。 アナトール・フランス年表かきかけ疲れに疲る。 4月20日 8:00覚めFrance年表作る。(※省略) 10:00出て11:00登校。 前田課長に庄野英二のこといへば「承知してゐた」と。明日登校せず、前田課長に案内せよと矢野光子にいひ、 図書館のFrance関係本しらべれば4冊のみ。高桑純夫講師に服部正己の死をいふ。12:45より高田君と唄講師の件打合せ。 本棚に本ならべ14:20より教授会。すみて資格審査の会。講師より助教授に昇格、 岡田直之(マスコミ)、川口喬一(英文)、佐久間信(同)、関本まや子(同)、唄(フランス語)、福田秀一(国文)、山中正剛(マスコミ)、7人。 加藤英倫・今井富士雄2老講師は見送りとなり、わが閉会の促しにて18:30すみ、帰りて夕食20:00。アナトール・フランスみな史に与ふ。 4月21日 半服のみて0:00眠り、8:00覚める。10:00成城大学に電話し、「庄野・三苫両氏来訪の時には前田課長へ。話すめば電話くれと伝言せよ」とたのむ。 太田陽子へヱハガキ。『果樹園110』来る。24pとなり定価60円となりをる。 13:00ごろ庄野英二氏より電話「初芝に4年制こさへる」と。「学長によろしく」とのこと也し。われも「長沖先生によろしく」と伝言す。 不二歌道会鈴木正男氏に「本未着なれど明日ゆく」といふ。散髪にゆく(傘まちがへし)。 帰り『Decameron1(40)』、『Arabian Nights6,9,11(50×3)』買ひて帰る。けふ冷たき雨降る。小高根二郎君へ「2千円送る」と。 4月22日 よべ0:00起き2:00半服のみ8:00起きる。ユ、吉祥寺教会婦人会へと出てゆきしあと、赤川氏より見舞物の礼状。西寛治氏より『李太白』受取った。 海老沢有道氏より「キリスト教史学会に入れ」とのたより受取って登校。 前田課長に会って礼いへば「ジャバでの知合、潤三と似てゐる云々」。学長への面会かなはず残念といひしといへばよろしくいっておくとのこと也し。 中西進博士に神田博士の著を見せ買へとすすめ、唄君に内報し、 漢文すませてsalaryもらへば、4月より大教9号給(80,040)となりしとて(※省略)78,410もらひ、 成城堂へ1,226払ひ、小高根二郎氏に2,000送り(55)、渋谷へ出て歩きて不二歌道会。鈴木君出て「2千円でよし」と。 途中の古本屋にて『世界紀行文学全集第16巻ギリシア・エジプト・アフリカ編(200)』、『花の文化史(350)』、『ユダヤ史研究余談(300)』買ふ。 また歩きて母のところへゆき、依子のこといふ。母元気なり。(大のこと影山氏『不二』次号に書き玉ひしと)。 18:00となり急ぎ帰れば不二出版社より4冊(※『日本民族派の文学運動』)着きをり、その旨電話す。 20:30浜松より澄の電話にて「ユ、来ずともよし」と。その旨また母に電話す。 けふ竹内夫人、むすこの就職斡旋やめよに近きこといひしと。(※省略) 小高根二郎氏に影山氏の著書小包とす(120)。 4月23日 畠山敬子嬢へ「手伝にゆかず」と手紙。海老沢有道博士に東洋キリスト教史学会に入会承知と返事。南史一君より「聖徳太子は亀井以外の著」と。 (※省略) 12:00出てゆけば佐野・友瀬の2老先生のみ。13:00より短大の中国文学に19人出席。 早々すませ柳田文庫にゆき、大藤教授より用件きけば「『成城文芸』の編集員になれ」と。 まっすぐ帰り南阿佐谷うつぎ書房にて『東洋史講座2(150)』買ひて帰宅すれば、俊子姉来てをり。「数男胆石にて河北病院に入院」と。 ユ、尚子に電話し東病棟311ときく。 4月24日 よべ夜半さめ半服のみ8:00目覚む。竹内夫人より電話「竹内skiiにてまた捻挫、本人を9:30よこす」と。10:00前迎へに出れば来り、履歴書持参。 すぐ畠山氏に「人事課へ紹介の為、面接の日時場所指定したまへ」との便りかく。 河上利治(大日本生産党党首、『風日』同人)の歌集『龍洞歌集』を風日社より送り来る。保田の長文の跋あり。風日社へ受取。 12:00ユ、渋谷へと出てゆく。京、史帰り来る。 われ散歩に出て丸屋で『The Malay peninsula(530)』買ひ、他で『Decameron3,4,5(80+50+80)』買って帰る。 京、出てゆく。対Philippine戦のdoublesに勝ちしを看る。 (堀夫人に電話せしに他出。竹内夫人に見舞いふ。竹内skiiの土産呉る)。ユ、帰り来り、「大まだ帰宅せず」と。数男の手術来週水曜と。 4月25日(日) 覚めれば8:30(よべ半服)。ユも礼拝休み大掃除してゐる中、賀代女史より船越に電話「体悪し」と。ユと11:30河北病院東病棟311に見舞にゆく。 帰りて服部さの子夫人(※服部正己夫人)に手紙かく。赤川草夫氏にヱハガキ。 昼食後、高円寺にゆき『艶婦伝(230)』と加藤博士『支那経済史(20)』と買ひ来る。(※省略) 4月26日 よべ半服のみ、6:40起されて登校。「中国文学史」すませれば栗山博士をり、影山氏の本贈り、2時間目すませ本並ぶ(あと半分!)。 関本女史にChang-hi張喜とでもあてておけといひ、助教授のお祝いふ。そのあと池田博士と今井信雄氏とに影山氏の本托し、下北沢に下車。 『デカメロン6(150)』買ひ、大地堂に『岩波文庫千一夜』たのみて帰宅。 赤川静子夫人より礼状。南史一氏より転社。尾崎和郎(成城仏文講師)・熙子(松崎)夫妻より新婚の挨拶。(成城・帝塚山に心当たりなし。) 朔太郎の会より案内。17:00名古屋の澄より電話「退院した。心配いらず」と也。(大伴道子氏より歌集『鈴鏡』贈らる)。 けふは大掃除なれど午后、雨降る。(『文藝』5月号に亀井勝一郎食道癌と見ゆ)。 渋谷に電話すれば「明日の調停に大、帰京できず、丸君に代人たのんだ。名古屋のノガキ嫗には手紙出して頼みおく」と。 4月27日 よべ半服11:00のみ、8:00前に目覚む。大伴道子氏へ『鈴鏡』の受取。 ユ、郵便局へゆき依子に1万円と写真。野垣伸子嫗へも写真とともによろしくと頼む。 11:00出て新宿。紀伊國屋で『デカメロン2(100)』買ひ新潮文庫、角川文庫の目録もらふ。 斎藤dr.へ12:00着き、7日分の薬と眠剤5服(500)いただく。ユ、午后数男見舞にゆく。(※省略) また出て『新潮』5月号買ひ来る(130)。保田の出版会をヤユ的に書きあり。 4月28日 よべ半服12:00にのみ、8:00起く。数男午后手術ときまり、ユ立会へと也。 10:00出て地下鉄にゆけば私鉄ストに加はりゐる。阿佐谷駅にゆき池袋より大塚坂下町まで都電。 タバコ屋に教へてもらひ、ゆけば敏夫dr.診察の合間に泰緬鉄道の話さる。面白く、帰らんとすれば引留められ午食にすし賜はる。 (『中国后妃伝』を池袋にて買ひ、電車賃足りずなり診察は受けざりし)。(※省略) 14:30帰れば電話にて「隣に5千円預けありガス代。手術これから」と。(※省略) 18:00夕食すませ、河北病院へゆけば「胆石3ケ、手術に2時間要せし」と。(※省略) 21:30ユ、帰り来る。(※省略) 4月29日 よべ3:00一度目ざめ、ゆめばかり見し様なり。昨日案内ありし5月文学散歩、佐渡越後の旅といふに断り出す。 生存者叙勲に勲一等宮本和吉、花井忠、勲五等松内則三と田中万米とあり。9:00ユ、弁当もちにて病院へゆく。(※省略) 昼そば食ひ病院へゆけばユ居らず、数男礼いふ。すぐ帰れば齋藤齋先生来てをられ、16:00まで禁煙は苦し。 矢野峰人先生とお会ひとのことに「よろしく」と伝言お願ひす。5人のお子様の中2人受洗とユの話。(※省略) けふは終日雨。 4月30日 8:00テレビで「国鉄私鉄スト止みし」ときく。朔太郎忌の詩をつくる(速達)。 11:00登学、「唐詩選」すまし(川本生来をりしゆゑ『流転の王妃』ほか1冊与ふ)。 大藤氏用ありとて柳田文庫にゆけば「今年度個人研究費3万円専攻別87万円」と。 「文部省よりの助成にて買ふ本ありや」と「なし」と云ひ(60万円以上なら半額助成と)雑件きき、 図書館へ2年間借りし本返してすむ(けふあけざるは2箱となりし)。 『杜詩3(100)』成城堂で買ふ。(※省略) 帰れば統夫の妻来ず「数男まだ水のめず」と。 (池田勉博士に会へば「本ありがとう。小高根二郎に伊東の書信3通、新しく出て来しをわたせし」云々)。 けふ澄より電話「金、受取った。依子食欲旺盛」とありしと。夜、尾崎和郎氏は成城の仏語専任講師とわかる。 ウドンの漢字「饂飩」とわかる。「饂」は和字なり。雲呑、餛飩(むしもち)、餫飩(同)と煩悶せしむ。「麪」がこれに当る。 5月1日 晴。6:00すぎ覚める(よべ0:00半服)。〒なし。(※省略) 河北病院に数男見舞へば好調らし。(※省略) 駅前にて『広東名勝史蹟(100)』買ひ来る。尾崎和郎氏へ祝ひ状。(※省略) けふ田中2軒にて数男に見舞ひ5千円。 弓子「銀行不快ゆゑ蓼科高原へ夜行でゆく」と也。 5月2日(日) よべ11:00のみ7:30起き、礼拝にゆく。帰り竹内夫人に電話かけ「名古屋畠山邸へゆくか」といへば「オヤオヤ」となりし。 ユ、13:00~16:00まで尚子の代りに付添に河北病院へとゆく。われ散歩に出て『鳩翁道話(30)』買ひ来る。 上林暁の『武蔵野』赤川氏にと思ひ、よむうち服部(※服部正己)と共訳の『ヒアシンスと花薔薇(ザイスの使徒)』を引きあるを見つく。 5月3日 雨。(※省略) ユ、病院へゆき、賀代女史へのテープレコーダー(還暦祝)早く持ちゆかんと也。 筒井信義君「今宮高校教頭より堺工高の校長に栄転」と。 野垣嫗より「時々依子を訪ねる。手伝さん心がける」と。母に電話し、その旨いひ、ルリ子の件きけば「しらず」と。筒井君へ祝状。 『果樹園』の次の原稿書きはじむ。18:00すぎ宮崎智慧氏より電話『鈴鏡』の批評200×13を15日までにかけ。取りにゆく」と也。 5月4日 よべ11:00半服。10:00まへ出て斎藤dr.。「時には眠剤1/3にしてみよ」と。5錠もらふ。新宿駅まで歩き成城学園駅でrice-curry(120)。 校務員に本棚組み立てたのみ(Peace×2)、本ほぼ並ぶ。 柳田文庫で『李朝実録』見れば朔の記載なく、探しまはって『明実録』見つけ10冊借りる。『太平広記』の門に並びをり。これもよし。 14:00より教授会。17:30までかかり個人研究費3万円(テーマ出せと)、学生用2万円(みな納本書1枚、請求書2枚必要と也)。 今井富士雄氏の研究室きまり、野口君がわが室に来ることきまる。帰れば18:00。 河原正博氏より抜刷。弓子の友、放出(※はなてん)の友、斉藤女来り泊る。『李朝実録』の年表つくり始む。 5月5日 よべ歯痛み1錠のみて8:00まで眠る。史、扇山へとゆく。ユ咽喉炎のため医者に遠出止めらる。(※省略) 12:00出て河北病院へゆけば数男、椅子に坐りをり尚子ゐず。「鎌倉へゆく」といひtape-corderもち(2,500×3)、鎌倉まで国鉄。 14:30着き文子と2孫とに会ふ。祝のべてtape-corderためせしも旨くゆかず。ハレルヤ唱へて16:00鎌倉駅。 古本屋2軒見てRimbaud『Poésies complètes (200)』、『朝鮮語母音の記号表記法print版(50)』、『イスラエル文学史(100)』買ふ。 帰りて『果樹園』の原稿包む。ユ、咽喉より頭痛と。 5月6日 曇。よべ半服のみて眠りしも歯痛く「ケロリン」飲む。9:30出て数男にゆき、歯科への紹介たのむ。後輩北沢歯科へ紹介され、3人待つ。 「あす9:30来い、神経殺す」と也。11:30登校(『果樹園』へ速達出す)。12:30より「中国文学」100人近し。孫武すませる。 そのあと歴史研究法の本、大藤氏に処分たのみ、『朝鮮史』37万買ふべしといふ。 成城堂にて『漢文の世界(250)』買ふ。(※省略) 夜、麝島マリ子生に電話し「日曜の午后、田上生と来よ」といふ。 5月7日 よべ1/3服のみ8:00近くまで眠る。9:30北沢歯科へゆき11:00近くまで待たさる。「あす17:30来よ」と也。 『花影』来る。西島寿賀子より喜代三郎喜寿の写真の複製贈らる。 短2Aの漢文すませ、閻魔帳作りゐれば矢野生に電話「渡辺俊子(高山夫人)、成城駅に居る」と。 「すぐ来い」と伝言たのめば、わが在校たしかめて来しと菓子呉る。丸、川本と4人にて喫茶。 西沢(桜上水に移りしと)に頼まれて『柳田国男集』とりにゆくを駅で待ち『祭の話』と『大和古寺巡礼記(90)』とを与ふ。 (※省略) 丸重俊「中国文学史とりてよきか」と。「4単位かせげ」といふ。 寿一、寿賀子夫妻へ写真の礼。(けふ琳琅閣へ電話し『説郛』続とも2.5万送れといふ)。22:00永山より浪中の卒業証明必要と電話。 5月8日 よべ半服のみ、けさ6:00起きる。Cardちょっとやり時間つぶしをれば阿南惟敬氏来り『満洲帝国分省地図』返し、buiscuit賜る。 「母上、胃潰瘍の手術されし」と。[9:00]ともに出て東洋文庫へ10:05着き、 25分より田川博士(東大の専任講師に転と)と松村、阿南の4人にて始むれば、 神田氏、宮原鬼一氏(今度、成城にて社会教育法教ふることとなりし)来る。 田川博士に高麗大学図書館長、李弘稙博士来しとて中途にてやめとなる。後藤君「新潟大学専任講師となりし」と。めでたし。 李弘稙博士に会ひにゆき写真とる。12:00阿南、宮原2氏と昼食(100)。 赤川氏にゆくつもりなりしも面会謝絶時間(13:00~15:00)にかかることわかり帰宅。(※省略) 小高根二郎氏より原稿、同人費の受取。「本は5月10日すぎ賜ふ」と。けふ『明清史料』中の僊界令の条の写し(70)松村氏より受取る。 14:30出て中村橋。西武にて清瀬下車。Busにて東京病院清瀬病棟第15棟8に赤川草夫氏を見舞ひ、菓子と『芥川』3冊贈り写真とる。 帰り阿佐谷にて『日本水路誌 第1巻(50)』買ひ、17:40北沢歯科へゆけば1時間かかる。「明日数男を見舞ひ賜ふ」と。 5月9日(日) よべ1/3服。礼拝にゆく。帰りて昼食すませれば、高橋重臣君、神田より電話「来る」と。 麝島・田上生の2生の来ると同時に「道に迷った」との電話。 迎へにゆけば伊太利旅行の話し、麝島生のゆくPerugia市のことくはしく話す。 2生と写真とり、帰りゆきし(麝島生に『伊太利語第一歩』贈る)あと、(※高橋重臣氏が)躁症にかかりゐること判明。 坊や岡山にてautobye事故、教授会にて教授昇格否決されしが理由らし。 北杜夫博士にかかることすすめ、駅まで送り、『日本語会話教科書(60)』といふを買ひ来る。 けさ金井君より『花筐評釈』といふをもらひ、依子より「野垣さんの世話になった。心配いらず。おしめ洗ひに来れ」、 畠山氏よりトロール部次長江又貞治氏へ紹介の名刺。「先方へ云ひおく、試験は昨年は9月20日なりし」と。 夜、渋谷へ電話すれば「丸さんより報告なし」と。すぐ丸に電話すれば「重俊この間会ったさうだね、27日の調停ルリ子欠席、次回は6月3日」と。 また渋谷に電話し「野垣嫗への礼した。依子よりキシメン来た」と聞く。(※省略) 竹内夫人より菓子1折(けふ小高根太郎夫人より「史の写真と書類送れ」と電話ありしと)。 5月10日 6:40起され(よべも1/3錠)、成城へつけば8:45。55教室にゆき出席とり『詩経抄』くばる。80枚で不足の様子也。 ついでの「中国の年中行事」にノート忘れ、『豳風』の『8月』のみやる。30分ですみ、本棚片付け民俗学の本とりのける。 宮原氏来りしに「抜刷(李弘稙教授に贈る)見付らず」といふ。あと中国文学の(※受講)card整理し(これも100人位)、 図書館にゆけば高西嬢「国際キリスト教大学より『コギト』のこと問はれた」と。 昭和7年3月創刊137号にて了りし。発行所発行者かきてわたす。ソラゆゑ誤りあるやもしれず。 柳田文庫にゐし白鳥芳郎氏「南方史研究会にゆくまで」とOrissaにゆきjuiceのませたまふ。 けふ高橋邦太郎氏よりも「茶のむ故まて」と云はれし。 まっすぐ帰り、うつぎ書房にて『日鮮会話30日独成(100)』と、『食後の唄(50)』買へば前者はdouble。 宮崎智慧氏より「あす15:00来る」の電話ありしと。「北沢歯科、数男を見舞に来たまひし」と。 夜「『鈴鏡』読後」13枚かく。畠山六右衛門氏へ礼状。けふ『果樹園111』来る。 5月11日 北沢歯科にゆく。まだ神経ぬかず。10:30までかかる。「あさって午前ぬく」と。 アジア・アフリカ作家会議日本協議会へ「脱会、未納会費払はず」と返事。渋谷国忠氏より「朔太郎忌にわが詩よみたまひし」と。 午后、講談社の町田氏より「佐々木梓君につき聞きたくて来る」と。14:30西武の某君「宮崎女史欠勤故、代りに原稿とりに来る」と。 町田氏まづ来り「幼児教育の例として」云々。われは「天才+環境」といふ。西武の人そのうち来し故、原稿わたす。 史の縁談とて小高根夫人(※小高根太郎夫人)に会ひにゆきしユ帰り来り「7人兄弟、お茶水出て勤めゐる。校務員希望」と也。「史に断りにゆかす」と。夕方、雨。 5月12日 10:00すぎ出て斎藤dr.、仕事に差支なきを云ひ、眠剤5錠、薬10日分いただく。帰り新宿まで歩けば2千歩ほど也。 ゴーティエの『或る夜のクレオパトラ(20)』買ふ。けふ〒なし。東君、漢文まじりの校正もち来る。「火曜までに」と。 宮崎氏より礼の電話ありしと。賀代嫗「東大にての診断にて心配いらず」と船越へ電話。柏井数男見舞にゆけば「土曜退院」と。 帰途『万載狂歌集(30)』買ふ。 5月13日 よべ眠剤のまずねて中途起き、半服のみ8:00覚む。角川より速達『Heine』の印紙4千枚。東博氏より電話「漢文たのむ」と。 9:40北沢歯科にゆき10:40すませ、成城へは12:30着き、昼食のひまなし。 「中国文学」すませ図書館にてチクマの漢文しらべゐるうち停電(けふ民俗学の本、研究室へと数十冊出す)。 出て下北沢下車。大地堂へゆき『A History of Ceylon(190)』、『民族学入門(140)』と買ふ。主人不在にて『千一夜物語』出しあらず。 古野博士来り、服部正己の死を知りをり。〒なし。 この頃『明実録』と『李朝実録抄』とを対照して年表作る。(けふ試験手当6,500税込みもらふ)。 5月14日 8:00さめる(よべ1/2服)。9:50理髪店へゆき10:30了る。角川より「4千枚を20日までに」と。13:00かっきりに登校。 今年の短大感じよし。すみてチクマの漢文しらべ、図書館にゐれば山本より『明実録』来る。(※省略) 帰れば咲耶よりハガキ。 5月15日 (よべ1/3服) 8:00さめ『明実録』と『李朝実録抄』とやる。 堀多恵子夫人より「5月28日13回忌を18:00赤坂の「廬山」で行ふ」と。「出席」の返事出す。 篠田統博士より「四条畷学園に転任」と。(※省略) 『長崎(150)』、『聖母マリアの伝 図解(30)』、『支那東岸水路誌(50)』買ひて帰宅。 5月16日(日) よべ数ヶ月ぶりにて眠剤のまず、22:30ねて7:30覚む。 畠山博光君より電話「父、副社長の葬儀にて来る。17日お通夜18日15:00より葬儀につき18日午前会ひたし」と。 礼拝にゆき、帰り阿佐谷にて『支那語文法詳解(30)』買ふ。 立教大学より「手塚部長退任、林君学位とりし故、6月5日私学会館にて17:00より会す。会費1,500」と。 博光君よりまた電話「12:00会ひたし」と。重光君呼び「12:30新宿中村屋3階までお連れせよ」といふ。 けふ吉祥寺にて竹内夫人に電話せしに「杉君、面接せし」と也し。篠田統博士へヱハガキ。 夜、竹内夫人に電話せしに「杉君、空手の会にて今夜帰らざらん。あす中村屋へは多分ゆけざらん」と。 5月17日 よべも眠剤のまず。6:00起き、京の関西旅行(金曜5:30東京に帰着と)にゆくを知る。 2時間すませ12:15地下道歩けば畠山氏に遭ふ。「中村屋定休なりし」と。二幸につれゆき台湾料理饗せんとせしにあらず。 まちがへてもち来し鰻と他一品とともに食ひ、支払ひ許されず、海苔賜ひ、のり子君の吊書わたさる。「松沢君にてもよし」と。 帰り『那須の植物(450)』と『宋詩概説(180)』と買ひ、帰宅すれば竹内夫人。伸一郎君と中村屋へゆき休みと電話し来りしと。 竹内家へ電話すれば「夫人、妹の家にあり」と。チクマに電話し「東君にあすの校正あさってまで待ちくれ」といへば 「けふは欠勤、電報しおく」と也。ユをして難波家へゆかしめのり子君の話たのめば「心がけん」と。(※省略) p8 5月18日 よべも眠剤もちひず。22:00ねて6:00覚む。朝より年表・cardやる。 「6月5日の会に出席」と立教史学会へ返事す。北沢歯科へゆき、(※省略)研究会なるに気づく。11:00ゆき退屈す。 昼食し散歩し、帰り来れば福地邦樹君来る。 「教授会すます故17:00家へ」といひ、教授会でひまどり17:00組合の話となりしに出て、電話すれば「もはや来宅」と。 準急にのり17:40帰宅。いろいろ話しBoxingのtelevi見ささる。 学校へチクマの校正忘れ来り、あすとりにゆくこととす。(あす午后もちゆくを約せし)。 角川の『短歌』より「大伴夫人の歌集評かけ」と(6月5日、400×6)。 5月19日 よべ22:30となり、1/3服眠剤のみ、6:00まへ覚める。年表などやり、7:30福地君のさめるを待ち、9:00ともに出て新宿まで国鉄。 甲州口にて出て、新宿のかた指さして教ふ。「けふ午后鎌倉見物、藤沢の弟に泊る」と。(階段にて宮崎智慧女史に遭ひし)。 成城へゆけば校正たしかに忘れあり。『列子』所引の条に訓つけ、チクマに電話すれば誰もゐず。 「ゆき見る」といひて国鉄に出、ゆけば竹本、東2氏来り、校訂の点などいひ、また次の分受取る。「月曜までに」と。 恰も正午にて雲呑麺くひ(100)、『源平盛衰記(100)』買ひて帰宅。 13日消印の赤川氏の「写真送れ」、14日出しの坪井の「19日例の宿へ来れ」ともに来る。 17:00坪井に電話すれば不在。やがて電話かかり「西川よりも連絡なし」と。「けふ散歩にゆかん」といへば止めて「26日(水)17:00来よ」と。 昭和40年 5月20日~昭和40年12月31日 (副題 屈記) 25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き p9 5月20日 よべよく眠る(眠剤用ひず)。8:00西川に電話すれば「26日坪井との会承知」と。10:00出て『楚辞』のprint切る。 野口君と話せば「岩井博士より都大にてshamanismの講義受けし」と。 中国文学50分にてすませ、『杜詩4(100)』、『ヴィヨン詩集(250)』、『辞典のはなし(40)』を成城堂にて買ひて帰る。 角川より「Heine23版の印紙4千枚受取った」と。(※省略) けふ服部夫人(※服部正己夫人)より返しに灰皿来る。 5月21日 よべも眠剤のまず、途中、目をさませしも1時間位してね、8:00起きる。京、関西旅行より帰り漬物、五色豆、ヱハガキを土産としてもちかへる。 [22:00(※不詳)]出て成城へゆけば、中国文学史のprint2回分出来をり。チクマに電話し「とりに来よ」といへば「けふか明日かに来る」と。 紅松君の次男の同窓、泉君といふが来り、学生課へ案内すれば掲示むつかし。月曜再来と。 帰宅すれば集英社より『李白』と『世界の名詩』来る。後者は丸山薫氏編にて、わがHeineの訳3、白楽天の書き下し2をのす。 年表すでに後藤君の分に入りをり中止す。夜、紅松君に電話し、ニューオリエントエキスプレス社の泉君の件をいふ。 5月22日 よべ2:30まで眠れず。1服のんで8:00起きる。小高根二郎氏の本の広告やっと新聞に出る(2,400)。 赤川草夫氏へ「写真近々送る」と。けふスハ母君来りたまふ由なり。10:00に早く喫茶してゆく。 田川氏、地図集めの報告す。われ110枚の年表わたす。後藤君来り、わがあとやると。1時間半よまされて疲る。 そのあと阿南氏とスープとtoastとり(100)、別れて都電にて東大前。 井上にて『養餘月令(250)』、琳琅閣にて『海遊録(300)』買ひ、菊坂にて『千一夜5(60)』買ひて地下鉄(40)。 北沢歯科へゆけば1時間待たさる。「次は水曜午前にてそのあと1回にて柏井へゆけ」と也。 諏訪母上来り「体わるくて出産の手伝できぬ」と也しと。(※省略) 5月23日(日) よべは眠剤のまず、8:00さめ、礼拝にゆく。吉祥寺にて『朝鮮民俗史(950)』みつけ、とりのけたのみしあと。ユに駅で会ひ、買ひ来る。〒なし。 16:00数男来る。あす午后歯をぬいてもらひにゆくこととす。きのふよりまた(年表すみし故)『金瓶梅』のcardとる。いま35回のところ也。 赤川草夫氏へ写真つつむ。(※省略) 5月24日 よべ久しぶりに1服のみ、6:00起され6:30出て登校。Touristのビラ配り、中国文学史は『楚辞』了る。 栗山博士に会へば「小高根二郎の本(※『詩人、その生涯と運命 : 書簡と作品から見た伊東静雄』)受取りし」と。 東洋文化史にては漢の春の行事のみすませ、またチラシ配る。 宮原鬼一氏来しゆゑ、李博士の写真わたさんとせしに見つからず。その帰りしあと見つかって松崎女に托す。 成城堂で『死海(200)』買ひ、新宿よりbusにて数男にゆき、歯ぬいてもらふ。 帰り歩きて『更級日記(30)』買ふ。あすもゆくつもり也。(※省略) 小高根二郎氏に2千円包む。 5月25日 よべ半服のみ8:00起く。斎藤dr.にゆけば「安定剤を寝ぎはにのめ」と。「横山君発狂」とも。 往復歩き紀伊國屋にて『千一夜物語5(100)』買ふ。〒なし。 堀夫人に電話すれば「何ももって来ずとよし。会者40人」と。ユ、午食させてすぐ渋谷にゆく。電話かければ「伊勢の母上(※健の義母)来たまふ」と。 福地邦樹君へ写真送る。京、帰り来し故「うつぎ」に『史記』売り『民間伝承』の欠本あつめたのむ。 柏井へbusでゆけば「けふは患者11人」と。 5月26日 よべ眠剤のまず。寝しや否や不明。9:30北沢歯科にゆき1時間まちて施術「あと一回にて了る」と。帰れば田中雅子夫人より電話(※省略) 『果樹園』にと清徳保男の歌を記す。護雅夫氏より『カルピニ,・ルブルック旅行記(※中央アジア・蒙古旅行記)』賜はる。 名古屋より電話。「母上来てゐる」と。16:40出て坪井の宿にゆけば西川すでに来てをり、服部夫人よりの手紙見す。 22:00まで話し、西川に地下鉄の切符買ってもらふ。 5月27日 雨。よべ半服のみ8:00前さめる。10:00出て在研究室の本をcardと引合はし、12:30より漢文。 すみて帰りぎは栗山博士に遭ふ。『千一夜2冊(100×2)』成城堂で買ひ帰宅。宿酔気味でだるし。(※省略) 和田経夫より電話「今夜21:00来る。泊めてくれ」と。21:30来る。64キロと肥えてをり。 5月28日 よべ半服のみ7:00さめ、『唐詩選』予習す!護雅夫氏へ礼状。『不二』来り、西島大の転向を叱る。 11:30麺食ひ登校。すませれば鎌田女史「文化史教員会を7日(日)紀伊國屋で17:00より」と。出て西武にゆけば宮崎氏ゐず「春夫展準備中」と。 林富士馬氏への名刺托し、渋谷へゆけば大ゐてキゲンよく『不二』見たしと。 1,000借りtaxiにて六本木の「廬山」(140)。18:30なれど大分集り居りC席といふのにあてらる。(※堀辰雄13回忌) 丸岡明夫妻、河上徹太郎(立教停年、埼玉大の数学教授と)、深沢紅子、加藤俊彦、深田久弥の席なり。 丸岡氏に『なのりそ』のこといへば「母上昨年亡くなられし」と。 川端(夫人とわれとのみお花料を捧ぐ)、中野重治、河上、佐々木茂索先生の挨拶あり。 あと中野重治、芥川比呂志、恩地三千子、萩原葉子の諸氏と話す。小山正孝の隣は加藤周一とて医師兼文士なり。わが病を診断せし様子。 外にてtaxiひらひ新宿(280)。帰れば宮原君より電話ありしと。かけて頁しらす。(※省略) 5月29日 微雨。史、箱根へと出てゆく。(※省略)。 林富士馬氏に電話すれば、昨夜外診にてねてをり、夫人出て「昨日の会、宮崎智慧氏にすすめられしも出ざりし」と。 10:00北沢歯科にゆき1時間またされ、すみて「もう一度来よ」と。「来週水曜」と約す。 「うつぎ」にゆき『民間伝承』入らば電話せよといひ、王瑤『李白(90)』買へばdouble。 佐伯(※阿佐谷南口佐伯古書店)にゆき『朝鮮語学史』成城へといへばしぶりしも「6,350の中1,350払へば送る」と。 京、帰りし故『不二』もちて渋谷へゆかす。健の義弟は24才と、けふわかる。昼ねして安まる。『金瓶梅』のcard39回に至る。 小高根二郎氏より『伊東伝』賜はる。小高根氏へ礼状。 けさの新聞に見し「日本生命重役となりし松本一秀君」へ祝ひ状かく。けふ4月の陽気とて行火入れる。(※省略) 5月30日(日) けさ夫婦ともに起きれば9:00すぎ(よべ半服)。久しぶりに礼拝にゆかず。寒く雨降る。11:00駅前の佐伯にゆき1,300わたせば本わたさる。 麝島マリ子より電話「別れにゆくひまなし」と。6月10日出発也。終日『金瓶梅』のcard作る。 5月31日 よべ半服。6:30起き8:40登校。2時間やる。宮原君に写真わたす。『社会科教育法(1000)』を図書館に寄附すともちゆき、帰り、1時間午睡。 角川書店の『短歌』の編集石本君といふが来る。わがハガキ6と2と怪しき故たしかめに来し也。 和田夫人より「南隅大人着いた」と。「すぐゆく」といひ、荻窪よりbus、大分さがし17:00前着きしに和田氏早く帰宅。 この間の世界一周の写真多くとりをり。われも写真とり(けふきけば「ストロボ1万回位にて7,000」と)、 18:00宿に帰る約束せしといふみね子夫人に電話かけさせ、南隅博士にパリにて「日本会館に寄れ」といひ、羽田博士への紹介状かく。 「明後日より2日滞在」と。南隅夫人と荻窪までtaxi、地下鉄にのせて帰宅。 6月1日 降ったり曇ったり(よべ1/3服)。小高根二郎氏より同人費受取。『東洋学報47-3』来る。 11:30南隅、和田2夫人来り、昼食中、和田夫人変となりおどろかす。 14:00地下鉄まで送り「うつぎ」で『レイテ湾の日本艦隊(70)』、佐伯で『天皇紀(30)』買ふ。 (けふ成城大学に電話「急用あり教授会欠席」といふ。珍しきことなり)。北沢歯科にもゆかず。疲労感あり。 和田夫人「昨日忘れ玉ひし」といひて“Laurens Orange(スイスタバコ)”、“Grossglockner(オーストリー)”と2箱もち来り玉ふ。 南隅夫人よりは佃煮たまふ。両人来しとき宮崎女史より電話「保田夫人に会ひし」と。(※省略) 6月2日 曇。9:00すぎ散髪にゆき、けふ休みと気づく。坪井、赤川2氏より礼状。午すぎ出て『French-English, English –French Dic.(100)』買ひ、 佐伯にきけば「請求書まだ送らず」と。14:00より2時間午睡す。(※省略) 夜『短歌』にと「鈴鏡」200×12書く。豊田三千子生に「明日研究室へ来い」と電話す。 6月3日 よべ眠れず1服のみ、9:00すぎ起きる。成城への途中chocolateとsandwich買ひ、豊田三千子生に与ふ。 一昨日の教授会は柔道部の暴行事件(「毎日」に出しと)についてのみと。 漢文すませ疲れて成城堂より『日本語の歴史6』受取りて帰宅。(※省略) 佐伯へゆき『説郛』を7500で売り、代りに『日本書紀新講3冊』、『白楽天詩解』、『事文類要啓箚青銭』、『日本行刑史』、『民俗年令文化総論』などにて100払ひて持帰る。 藤田久一より「呉の工場次長となりし」と。鶴崎祐雄より2回電話あり「けさ来て19:00帰る。16-17日再来」と。(※省略) けふ服部の灰皿を研究室におく。畠山敬子嬢より写真来る。手[撮り]にてふけて写りをり。 夜、友田マツ氏より電話、ユに長々とす。敬子嬢に「他のを」と速達かく。 6月4日 昨夜より雨。半服のみしに殆ど眠れず。9:00東博氏より電話「来る」と。角川の石本氏に電話「原稿とりに来たまふや」ときけば「来る」と。 東氏来り、石本氏来りす。(林富士馬氏に電話、『果樹園』に書けといふ)。 赤川草夫氏より「春夫展見にいったか」と。「見にゆく」と返事す。12:30出て西武dept.の「春夫展」見る。カタログ買ひ、宮崎智慧氏に会ひて帰宅。 母より電話「昨日の調停にルリ子また欠席、大、京都へゆきし」と。南隅夫人より礼状。 茉莉花3年目に咲きしが、けふの雨にて了りとなる。夜、杉伸一郎君来り「太洋の船にて夏休遠洋にゆくこととなりし」と。 6月5日 佐治良三氏より「吉祥寺教会へ通ふ太田義明君(住銀行員)とつきあへ」と。 小高根二郎氏に原稿送る。立教の副手田畑君に電話し「本夕の欠席」いふ。(※省略) 午后ちっょと散歩に出しまに松本一秀君より「直ぐ帰る」との電話ありしと。田中雅子夫人より「9日11:00より同窓会9人出席。古鷹ビルにて」と。 6月6日(日) Pentekoste(聖霊降臨祭)の礼拝にゆき、帰り白水チヅ子に電話し、佐伯に寄りて帰宅。「請求書送りし」と。 吉祥寺で『Eichendorff Gedichte(80)』買ふ。田上生より手紙。 13:00白水夫人来り、17:00近くまで話しゆく。途中、安宅夫人に電話せしに「事なし」と。 6月7日 よべ半服のみて眠り足らず。6:00前覚む。〒なし。15:30むりして出、うつぎ書房によれば『硫黄島(180)』渡さる。 会場紀伊國屋につきしは16:35。(※文芸学部文化史学科教員会) これより18:00まで待つ。間に来しは小川徹氏一人。20:00白鳥君来て飯となり、21:00散会。つまらず。 帰宅したとたん疋田紀子(旧姓)より「9日の会欠席」と電話かかる。これもつまらず。 6月8日 半服のみて9:00起き、10:00出て斎藤dr.。鬱症なりと申し上げれば赤玉入りの薬となる。帰り新宿の古本屋見、『波羅(50)』、『季節の手帖(50)』買ふ。 阿佐谷にて難波和子に会ふ。きけば畠山ノリ子嬢の写真とりにわが家へと。ユキ子の非礼たしなめしもきかず、写真の写りもよくなし。 また出て古本屋。2.26事件かきし『人物往来(30)』買ひ来しもさっぱりわからず。Mood的叛乱なりし也。『花影』2冊来る。 けさ花井夫人に電話し、あすの会場きき斎藤病院の帰りに見し。田中雅子夫人より「あす10:30ごろよりをる」と。 6月9日 10:00すぎ出て新宿より歩き、養浩館といふへゆく。(※帝塚山学院教え子同窓会) 田中、藤の2夫人をり。安田夫人娘つれ、佐々木、星野、岩崎坊やつれ、 最後に花井夫人[厚]坊つれ来る。咳しをり。14:00散会、会費高かりしらし。われ田中、藤田、安田、星野、佐々木5夫人と新宿にて喫茶。 鬱々としてをり星野夫人より叱らる。帰宅後も疲れて午睡し、覚めて夕食したくなし。 6月10日 よべ半服のみ10:00すぎ出て成城11:00。昼食前、中西博士に『雄略天皇』見す。『全唐文』買ひたしと也。 昼食しをれば「卑弥呼」やるといふ1生来り、湖南を貸すこととす。ついで漢文やりしに途中で声出ず。疲れ30分でやめる。危きことなり。 そのあと古野先生来り、「李弘稙博士はニオラッツェ訳せし牧野弘一くんなり」と。はふはふ帰れば不在。吉祥寺へゆきしらし。 けふbonus出し、と財布忘れ印なければ取らず。 6月11日 田上由美子へヱハガキ。『果樹園112』来る。誤植多し。早昼くひてゆく。出がけ15日休みとの通知もらひし故、教務へゆけば18日の誤りと。 短大の唐詩選1時間やりて耐らずなり、研究室へ帰れば野口君をり、話しかける。「夏休みにはタカラ島の一島にゆく」と。 bonus手取り15万円近く。20にはならざるらし。 家へ帰りて目つぶりをれば、やや落ち着く。夜、松村君に電話すれば「夜学」と。明日の研究会欠席を伝へてもらふこととす。 (※省略) 浅野晃氏より『天と海』来る。葬送歌集なり。 6月12日 よべ3:00すぎ喘息おこり目覚む。「これで3日目」と。10:00近藤dr.にゆき注射打ってもらふ。 南隅、和田夫人に写真送る。高橋重臣君より電話ありし。 6月13日(日) 礼拝休む。10:00高橋君来り、Max Brod『Heine』英訳本おきゆく。「水曜に帰宅。この間も一度帰りし」と。「医者、鎮静剤をくれしのみ」と。 その前後、民俗学の予習をし、疲る。信州のクリルタイ(※集会)への招待状来りしも断る。 6月14日 よべ半服のみ4:00ごろ喘息おこりて覚む。斎藤dr.の薬のまずに出て2時間やっとすます。苦しければすぐ帰宅。 横臥せしあと近藤dr.にゆけば皮下注射さる。(※省略) 夜、澄より電話「予定日一週間あとになりし」と。 6月15日 よべも半服。9:30出て三越にてOld Parr (5,000)買ひ斎藤dr.。「眠れず、仕事できず、気力なき」をいへば赤玉ふやさる。 「二幸」にて昼食し、ユは渋谷へ1万円お中元にもちゆく。 われ滄浪と登校。教授会に出、そのあと文化史の会議といふのに出さされ、新宿にてcoffeeのみて帰宅。 伊勢の治子よりユに反物の礼。母、建と林叔母より50万円ただ取りされたといはれし由。(※省略) うつぎ古書店に『民間伝承』とれしやときけば「まだ」と。『真珠湾(30)』買ひ来る。 6月16日 よべ半服、喘息は5:00前に作(で)る。10:00近藤dr.にゆき帰りて昼食。よこになりゐれば少しねし由なり。都民税1.5万×4の通知来り、 庄野英二君の『帝塚山風物誌』来り、大伴夫人より礼にミステリーcheck来る。 成城図書館より『芸文類聚』の(※図書)分類きいて来る。「0門(※総記)に入れよ」と答ふ。 6月17日 よべも半服、4:00喘息にて覚む。大伴道子、浅野晃2氏へ礼状。10:30出て11:30成城。『史記文抄』2pやり、1時間。疲る。 今井信雄氏より「学校で会へず」と礼状。杉浦夫人より電話「長女の婿を心がけよ」と。 夜、萩原葉子氏より朔太郎先生のこと書きし雑誌につき「わが方になし」と答ふ。 6月18日 よべ半服のみ、2:00はげしき咳に覚める。1時間してまた眠り、8:00覚む。近藤dr.にゆき注射と投薬と賜はる。 成城大学にては概ね野口君と話し、ともに身体検査を受く。(※省略) 帰れば東博氏置きゆきし校正あり。(けふ古本屋も見して底をつきし感あれど体重37kgなるに驚く)。 夜、これをやり、東君宅へ電話「あす午前中に来たまへ」といふ。(辻政信『ノモンハン(40)』をうつぎにて買ふ)。(※省略) 6月19日 涼し。9:30チクマの東氏来り、校正もちゆく。そのあと散髪し、帰れば畠山ノリ子ちゃんの写真もう一枚来をり、ユ、難波家へもちゆく。(※省略) 13:30出て新宿の厚生会館へゆく。柳田先生のお孫さんが委員の一人。 4年生より猿渡、渡辺、宮本、石川の4人出てをり、色々遊戯さされ、わが不器用なるを暴露す。 帰れば大木惇夫氏より『失意の虹』といふが来りをり。 6月20日(日) 礼拝休む。よべ眠剤のまず眠れしも2:00喘息強くてさめし也。ユ、杉浦夫人へ「難波の弟いかに、と話しにゆく」と。 午后、駅前の佐伯で『現代の台湾(30)』、『植物名彙(70)』買ひ、帰れば「鶴崎祐雄より電話ありし」と。 あとにてまた電話かかり「駅にゐる」とて迎へにゆく。「大映の労組のことで来た」と。送り出してうつぎで『地理と民俗(70)』買ひ来る。 気分やや宜しくなりし也。(※省略) 6月21日 よべ喘息軽かりしと。6:30起され8:40登校すれば研究室あけくれをり。 中国文学史は「陶淵明をのこしてこれで切る」といひ、東洋文化史は「荊楚歳時記の半ばまでやってあと1時間やる」といふ。 栗山部長より大藤主任への伝言きき、高橋邦太郎氏よりバラの蜜つきパンいただき、salaryもらひて帰る。 阿佐谷にて『高麗史節要』見つけ1,000といふに買ふ。大友道子氏より礼状。 服部夫人(※服部正己未亡人)より「米Texas大学のレーマン教授と南山大学の滞独中の小島公一郎教授に論文送った」と。(※省略) 立教大学史学会より「手塚教授の還暦記念号に書け」と。「承知」と返事す。 6月22日 よべ半服のみ喘息5:00ごろ。7:30起きて斎藤dr.へ10:00すぎゆけば、待たずして診察され「不安なくなりし」とお礼申し上げ、 眠剤4服いただいて神田山本へゆく。『中国諺語論(1,200)』買ひ『李白論叢(160)』はdouble。他に『晩清宫廷与人物』買ふ。 帰れば丁度12:00。昼食のあと近藤dr.にゆき4日分投薬受け『京本通俗小説(330)』買ひ来る。 臥てをれば神田の山口書店来り『炫火1-10、13』を見す。伊藤佐喜雄が売りし也。夕食さして帰らす。 けふ坪井より「梅本、自宅療養」と。(※省略) 6月23日 ユ、10:00すぎ出て栗山部長にお中元してくる。花井タヅ子夫人より時計のカタログ。(※省略) 午にユ帰り来り、昼食して『中国社会(30)』、『西洋と東洋(30)』買ひ来る。憂鬱ほぼなくなる。 6月24日 よべ半服のみ1:00ごろ喘息。また半服のみしもねられず、考へたあげく10:00すぎ欠勤の電話す。 花井夫人に電話して腕時計のこといひしにあとにて向ふよりもかかる。終日横臥して夜、アレルギーとの判定をユに下さる。 集英社より『世界の名詩』の印税来り、『白楽天』1冊分引きあり、不審。 6月25日 よべ1服のみ、ふらふらにて(喘息発作3回)11:00登校。 大藤教授「会ひたし」といふにきけば「2Dの7生、高田教授の授業受くるに及ばずの掲示出てゐる」と也。 ふらふらと「唐詩選」すませ、鎌田女史に連絡たのみ、1時間半まつまの長かりしこと。(coffeeのみにゆき『花の歴史』買ふ)。 野口君よりこの夏ゆく島のこときき、Vetnam戦争のことききして16:30となり、4生来る。 「土曜の1時間目にてもはや疲れゐる故」とのこと也。 帰り来り、耳鳴り。心悸。その他みな斎藤先生の赤玉のゆゑときむ。けふ大藤氏より「受験問題作成を免ず」ときく。 6月26日 よべも眠れず。(※省略) 服部さの子夫人にユをして弔文かかせ、われ(※服部正己の回想を載せる「コギトの思ひ出12」)『果樹園(※112号)』を包む。 ついで高田君に電話、わびいへば中途で電話切らる。 午后極端なる恐怖を感じ、歯をガタガタいはす。「あす斎藤dr.へゆかん」といふ。名古屋より産婦の状態電話かけ来る。 6月27日(日) 礼拝にゆかず。(よべ1服半のみ、喘息の発作2回ありしも識らず)。ユと10:00出て斎藤神経科。Dr.見覚えなきも親切にて薬賜ふ。 そのあとcoffeeのみ、阿佐谷へ帰り、うつぎ書房見て『奉天(20)』、『安東(20)』の(※地図)2枚買ひ来る。これにて逃げこまんとする也。 けふ日中、室内32℃。16:00ごろ山口書店また来しも「気分あし」といひて会はず。 6月28日 雨。特別剤のみ(よべ喘息3回)、9:30成城大学。「荊楚歳時記」すませ、あと7人呼べば山口令子のみまた欠。 6人の話きけば「ゴルフ、ボーリングなどに時間とられし」と。高田君の方やめさし、他の先生にもたのめといふ。 帰り来れば恰も電話かかりをり小倉生の母「阿佐谷まで来て途わからず」と。(※省略) 近藤先生に喘息のこといへば夜間に薬のめと。 6月29日 よべ高良武久『神経衰弱と神経質(50)』をよみ、大体承知す。そのせいか1服のみて眠り喘息もおぼえず。 大木惇夫氏へ『失意の虹』の礼。朝日新聞に小高根二郎氏より大著を批評す。斎藤dr.に11:00ゆき、小金井にて会ひし産婦の坊や相手となる。 先生に「這ふはふ休暇となりし」ことをいふ。中村屋で喫茶、sand(150)食ひしのち成城。(※省略) 14:10より教授会。「20人にて芸術専攻18日出発、8月22日帰国」と。「大学院を英文国文の修士課程にて42年度より開設の予定」と。 すみて時間あまり退屈す。(Hearth-centerより異状なしとの報告受く)。先出て「二幸」にて氷あづき食ひ「Golden Akasaka」といふにゆく。 小川徹氏、野口、鎌田氏と同席。小川氏より野口君の義父Singapoleの戦犯ときき、本人より「諏訪澄の名知る」ときく。 バーベキュー食ひ、danceを矢野副手らするを見て、19:10退席。けふより喘息日中に起ることとなる。0:00眠剤半服のんで眠る。 (栗山部長より受取。小高根二郎氏より問合せ)。 p11 6月30日 むし暑し。(よべ半服のみ、喘息発作ありしが自分では気付かず)。青木より転居通知。 影山正治氏より55才の記念詩歌集贈らる。午后近藤dr.にゆき注射。帰り国鉄にのり佐伯に寄り『昭和18年文化人総覧(30)』買ひ来る。 杉浦、保田のことのりをり。杉浦夫人来り、難波の弟の写真もちゆく。 7月1日 よべ12:00半服のむ。杉浦夫人より「難波の弟なぜ今まで結婚しなかったのか云々」の電話。 (※省略) けふよりまた『金瓶梅』のcardとる。午后出んとすれば角川の石本君『短歌』7月号と『前川佐美雄歌集(文庫)』もち来りたまふ。 花井家、防水33石の時計(6,650)にて頒けたまふ。 7月2日 よべ咳せざりしらし。眠剤は半服。小倉生11:00来り『日本書紀新講 中』と和田先生の本ともちゆく。 15:00近藤dr.「大分よくなりし」といひ4日分の薬もらふ。高円寺北よりbusにて柏井。歯どうにもならざるらし。患者ボツボツあり。(※省略) 『海の国境線(110)』佐伯にて買ひ来る。店先にて旧姓松浦翠に会ふ。「もはや臨月」と。 7月3日 雨。午后やみし故、柏井へゆき歯みてもらふ。「火曜または水曜に来よ」と。けふ『朔太郎会報』来りしのみ。 7月4日(日) けふ礼拝に参らんと便所へゆきしに便意ありて通ぜず。止む無く行くをやめ、弓子に薬買ひにやらし、たびたび上廁。14:00すぎ出るまで七転八倒す。 「志田不動麿氏、停年退職につき寄附せよ」と。14:30昼食し、 うつぎへゆきて地図100円にて10枚といふを買ひ来しに、あとにてまちがひわかり『秋田県管内地図(100)』と『九州全図(30)』のみとり他を返す。 史、よべわが眠れるまに出てゆき今日午后帰り来る。参議院議員選挙なれどゆかず。教会「pipe-organ購入のため会費の10倍平均を出せ」と也。 7月5日 けふ低気圧にて気分あし。便あり。(※お中元 省略) ユ午后吉祥寺へゆきしあと、われ昼寐せしまに難波和子来りしと。 (※省略) 大木惇夫氏の詩集出版記念会の案内来る。2千円と。総選挙と村越吉展ちゃんの事件(※遺体発見)でさはがし。 7月6日 よべ半服6:30起きる。(※省略)8:30出て斎藤dr.にゆけば一番乗り也。便秘云ひしも手応へなし。高円寺で下車。古本屋見しあと近藤dr.。 4日分の薬賜はる。麝島マリ子「Perugiaに着き暑し」と。(※省略)  ユ俊子姉へゆきしあと昼寐す。17:30帰宅せし故、数男へゆく。「あさって来い」と也。『東洋の名言(140)』買ふ。 7月7日 けさ4:00ごろ喘息と。8:00すぎ覚め朝食し、『金瓶梅』のcard作る。(※お中元省略) 『果樹園113』来る。 午すぎ佐伯へゆけば「成城より金払ふ、とりに来い」と来たと。『発掘(300)』買ふ。 及川氏18:30来り「高青邱の折込に400×8」と。 7月8日 よべ12:00起き半服のむ。「けさ喘息せず」と。 不二歌道会鈴木正男氏あて1千円送る。10:00柏井歯科へゆく。「この次いれ歯す」と。 太田陽子夫人より「大阪のクラス会13日行ふ」と、「欠席」の返事す。花井タヅ子夫人より28になる花嫁のこと電話あり。 午后、長尾良君より『太宰治 その人と』賜る。花井夫人来りて写真見す。美人なり。 7月9日 よべも半服。佐治良三氏へ1千円送る。母に電話すれば「来て話す」と。11:00来り「丸に見込きいてくれ」と也。 (※お中元省略) 花井氏より紹介の某嬢は父母の年ゆきすぎ、マツ氏よりのは父母なしとわかり不機嫌となる。ふしぎ。(※省略) 7月10日 よべ久しぶりに喘息発作3回。眠剤半服のみしもその都度目ざめし。9:00出て成城大学。 図書館にて『高青邱詩集』1冊借りてすぐ出(前田課長に遭ひしのみ)、新宿にて氷あづき食って帰宅。高橋君より『芸亭』来る。 昼寐し、15:00さめて近藤dr.にゆけば他出。薬もらって帰りteleviに観角の畠山氏を観る。そのあと丸に電話すれば在宅。 「19:00ゆく」といふ。19:00ゆきて「(※離婚拒むなら)同居要求」「不遜の言質とる」の2手段と、探偵社に調査とを教はる。(※省略) 7月11日(日) 「よべも喘息止まざりし」と。われはおぼえず。おかげにてユ寝坊し礼拝にゆかず(眠剤半服)。 10:00難波宅へゆけば「逸男君golf」と。和子に杉浦のこといひ、帰りて杉浦夫人に電話。 服部さの子夫人より「『果樹園』見た。肥下夫人と会った」と。(※省略) 高青邱かけずにいらいらしてユに当たりしあと、荻窪の市にゆけば、ふしぎや4冊本(150)あり。 和田先生編の『世界歴史辞典(50)』とともに買ひ来り、蒲池氏(※蒲地観一)に電話して書く気となりしも、また気がかはり及川氏に電話せしに留守。 夕刻電話あり「なるべく早く」とのことになる。「高垣金三郎、(※朝日新聞)名古屋本社の代表責任者となりし」とアサヒに見ゆ。 7月12日 雨。よべ喘息なかりしらし。ユまっさん、花井両家へことわりにゆく。そのあと「蒲地さんの高青邱」7×400 かき及川氏に電話すれば「帰路とりに来る」と。 依子より「臨月となった。名前考へておけ」と。竹内夫人に電話すれば「杉君、月末に北洋へ出でし」と。(※お中元省略) けふ午后ひるねしゐれば集英社の薄井氏来り、「41年3月までに高校生用の『白楽天』182×400書け」と。 そのあと近藤dr.にゆき注射打ってもらひ薬いただく。(丸家に傘とりにゆけば夫人「重俊にもちゆかすつもりなりし」と) 7月13日 雨。9:00さめ(よべ喘息発作なかりし也)、朝食くって斎藤dr.にゆけば閑散。「今、最悪の時期」と先生の仰せ。 氷金時たべてbusにて数男宅。外出とて30分まち入歯かぶされ、『唐宋八大家文8冊(500)』と『皇居に生きる武蔵野(130)』買って帰宅。 海老原稔氏より(※お中元省略) 柏井へユより電話「けふ12:00依子男子生900匁」と。(※省略) 昼寝す。 7月14日 よべ喘息なし(眠剤半服)。竹内夫人来訪。畠山ノリ子ちゃんのことたのみしもきかず。散髪にゆき竹内夫人と饅頭くひて別る。 (※省略) 『Heine23版(5月30日発行)』来る。また昼寝し入歯はめたり外したりす。豊田夫人に電話して礼いふ。 平松幸彦より電話、昭和18年より22年をへたり。 (難波和子、夫婦の留守に来り、依子への祝置く。電話すれば「ノリ子ちゃんの話ことわる」と)。 7月15日 よべも喘息なし。眠剤半服。東博氏来り『明治文学全集83』もちたまふ。礼に『森鴎外全集8冊』を賜へといふ。 ユ、渋谷へ電話すれば母「夕方までに来よ」といふ。14:00出てbusにて渋谷へゆけば林叔母をり。われ仏前に坐りしのみ。 林叔母すぐ帰りゆく。17:00大、帰る前に出て下痢気味とて何も食はず。帰りて豆腐くふ。「京の作りしrice-curryまづし」と史いふ。 (渋谷へ澄より電話かかりし故「ユいつにてもやる」といへば「18日来てくれ」と聞こえし。(※孫の名前候補に)「高」の名をいひしがピンと来ざりし様子也。) 7月16日 朝、喘息(よべ眠剤半服)。下痢気味なり。南陽夫人より「夫君元気で帰国」と電話。昼寝し、梅雨明けの夕立のあと(15:30)、近藤dr.にゆき、下痢いひ、 4日分の薬もらふ。国電にのり阿佐谷、佐伯にゆけば「金支払ひ受けた」と也。けふは終日粥食。(※悠紀子夫人、名古屋へ行き不在。) 7月17日 雨。涼し。柏井へゆき入歯を入れ直してもらふ。(※省略)  不二歌道会の鈴木氏より電話「漢文教はりたし」といひ、「けふ来よ」と云へば「月曜夜来る」と。(※省略) あす見合の難波の弟は住谷吉郎とて群馬出の同志社総長の親類と。35才なり(巳年)。 7月18日(日) 8:00杉浦家に電話すれば「差支へなし」と。難波家へ電話すれば「弟、午前中に来る」と。(※省略) 12:40杉浦母嬢来りしゆゑ、難波家に電話すれば「弟まだ来ず、来たら電話す」と。13:20ごろ「来た」とのことにつれゆき、16:00前まで話きく。 「住谷総長とは遠縁、児玉実用君に英語習ひし」と。調味料を作る会社の販売と。途中2人にして散歩にゆかさんとせしもきかず。 ともに出し故、阿佐谷駅への案内たのみ、われ帰宅。和子より電話「あとにて返事する」と。杉浦夫人よりも電話ありし故「男側の返事まて」といふ。 京、買物して夕食旨くくはす。弓子は19:30帰宅。焼売買ひ来る。 7月19日 よべ1服のみ12:30ごろねて7:00すぎ起きる。弓子の朝食くひしあとまた眠る。吉祥寺教会より「大体10月分をOrganの献金とせよ」と。 小高根二郎氏より「住居番号変更」と。小椋慧子より「手紙ついた」と。 午后澄より「名きまらず。竹内よりとるなといはれし。乳まだ出ず云々」。鈴木正男氏より「けふは来れぬ。明日の夜いかに」と。 7月20日 9:30斎藤dr.にゆく。「大分良い線ですね」と。眠剤3服もらひ、すぐ地下鉄。「うつぎ」に寄れば『民間伝承』12年より18年までそろひ8,500と。 『友朋堂文庫 神皇正統記他(90)』買って帰り、木村三千子氏よりの暑中見舞に返事かき、また出て(昼寝のあと)『人物往来』を買ひ来る。 19:00鈴木正男氏、宮川氏をつれ来り『明治維新百人一詩』の訓をきかる。21:00までかかり雨ひどくなる。 澄より電話「依子、貧血にて退院ややおくれる。名、まだきまらず」と。(※省略) 7月21日 雨。よべ2回に分けて1服のみ、7:00起きる。10:00近藤dr.にゆき、喘息また起りしをいふ。検診にては「さしてわるくなし」と。 その間にチクマの東氏来り、校訂謝礼30,000-『芥川』2冊608-税3,000-『鴎外』4冊1,248=25,144置き、今日に署名さした由。 電話して礼いふ。(※省略) 12:10出て成城大学。白鳥、大藤、野口、高田の諸氏と会ひsalaryもらひ、 成城堂の払ひし、『大航海時代叢書1』以下予約す。矢野副手『民俗学語彙』をわが名にて図書館に入れしと。われ知らずといふ。(※省略) 14:30京との約束にあはてて帰宅すれば京、5千円を細かくしたとて不在。吉祥寺教会会員名簿と、 佐治良三氏より「信仰とはゆだねること、従うこと、ささげること、捨てること、自分が死んでしまふこと」と教へらる。 7月22日 雨。よべ喘息なく、7:00起きる。10:00数男にゆけば外出。(山口基(※山口書店主)のかきし「保田與重郎書店」のため『新潮8月号(170)』買ふ)。 佐伯により、あとにてまたゆき仁井田陞『中国法制史研究』2冊、『難波の宮(330)』、『Calender of annual events in Japan(100)』にて5,500払ふ。 (※暑中見舞 省略) また佐伯にゆき『路傍の性像(1,550)』買ひ来る。けふは5月の温度と。 7月23日 雨。よべ半服のみ朝おきがけ喘あり。(※省略) 松村赳氏に『大航海時代双書』のことかく。 (※省略)  成城の山口書店に『総合日本民俗語彙』注文せずといふ。ついで戸田謙介氏にゆき『民間伝承』11巻より22巻まで4,390を4,000にてわけてもらふ。 帰れば角川より『短歌』の稿料、2,400-240=2,160来る。うつぎ書店へ『民間伝承』のダブリ本20冊もちゆきしに主人留守。預けて来る。 『朝鮮詩集(80)』、『虜囚第21号(30)』買ひ来る。集英社より『歴代名詞選』来る。ユより便りなきが不安なり。 7月24日 よべ半服のみ6:00起き、名古屋市民病院産婦人科病室依子あて「ヨウスシラセ」の電報打ちしに8:00すぎ入れちがひにユの速達来り、 「退院おくれる。赤ん坊ミルクあまりのまず。弓子8月1日より来れるや」と。また一眠りして(※省略)昼食して近藤dr.。念のため薬4日分もらひ、 大石書店にて『日本語の系統(630)』、『生活の中の遺伝(30)』、『ヂオット(100)』買ひ来る。 16:00澄より電話「泰と命名、竹内(※竹内好)による。依子、金の点でブウブウいふも、もうしばらく入院さす。高松の母上来たまひをり」と。 「うつぎ」へゆけば主人不在。20:10難波和子より「弟、交際す」と。 「明日」といふに杉浦家へ電話し「あす14:00吉祥寺南口でのdate」と定む。 7月25日(日) よべ3:00起きてねられず(?)礼拝に参らず。終日家居しttelevi見たりねたり也。夜、母に電話すれば「大、高知よりけふあす帰り来る」と也。 教会へハモンドオルガン献金2万円(4回分納)の届けかく。 7月26日 よべ半服にて眠りし(7時間)。9:00「コギトの思ひ出」12枚かき、難波和子より「きのふ2人散歩し夕食は杉浦家にてせし」ときく。 10:00出て柏井へ。賀代女史28日上京の宿たのむ。 往来に『史前史A・B(150)』、『中国考古学A・B (120)』、『中国艶ばなし(160)』、『アンコールワット(150)』買ひ、 小高根二郎氏へ原稿速達。同人費2千円現金封筒にて送る。帰れば堀夫人よりこの間の礼状。軽井沢より来てをり。 澄より電話「もう一週間位入院とて依子ブツブツいふ」と。(※省略) 修道女来り『Les Contes de Noël (150)』の訳、売りゆく。夕方母より「調停は来月、ただし大は帰り来し」と。 7月27日 『近畿民俗』来し故、礼状を沢田博士にかく。 9:30斎藤先生にゆき便秘をいひ下剤もらひ、気にせし躁鬱症の遺伝きけば「100人に2人故そんなこと云へば誰もなし」と。 「近親に患者なきと結婚すればよし。反対の性質の人がよからん」とのこと也し。 新宿まで歩き、紀伊國屋で『帰化人(200)』(※上田正昭著、中公新書)、阿佐谷で『中等日本文典(60)』買ひ帰宅。 『帰化人』よめば秦・漢、両氏ともに朝鮮人らしく吾意を得たり。夜やっと下剤きく。 出て「うつぎ」にゆけば『民間伝承』600と。500でよしといひ『大阪弁入門(130)』、『風涛(370)』としてもらふ。 けふ澄より泰の写真4枚来り、「弓子よこし、ユ再度よこせ」と。 7月28日 終日家居。出口京太郎氏(王仁三郎孫、直日の子)より『エスペラント国周遊記』贈らる。(※暑中見舞 省略) 出口氏の本はよみ了へし。けふ賀代女史来らず。 『文学散歩24』来る。ゾルブロッド幸子の名見ゆ。世界名詩選にわが詩を入れるといひ来しZ氏の妻か(※Leon Zolbrad昭和34年日記参照)。 7月29日 けさ6:00起き、喘息性のせき出る(昨日薬切れし也)。出口京太郎氏へ礼状。藤野生へヱハガキ。 文学散歩の会へ『武蔵野』1冊くれ、代金は12日持参すと。9:00近藤dr.にゆき4日分の薬もらふ。 そのあと国鉄にのり佐伯で『広辞林(200)』を買ひて帰宅。(※省略) けふ角川より『世界の人物像』につき来るとのことに「明日来い」といふ。 賀代女史、船越へ「2、3日中に来る」と連絡ありしと。地代の払ひたのみおく。 矢野君より電話「谷口静夫君急死」と。西川へ電話すれば北海道出張と。紅松に電話し「御花料1,000づつ出すはいかに」といふ。 7月30日 横山、鎌田、原田、竹内に電話し谷口のこといふ。大東運輸に電話して「けふ14:00-15:00自宅で告別式」と。 角川の鳥居君に「午前中に来てくれ」の電話す。城平叔父より暑中見舞。吉祥寺教会より「8月1日の礼拝に出よ」と。 12:40出て新宿三越で喪章買ひ、大森駅よりbusにて車庫前。谷口邸へつけば列作りをり。大阪高校在京クラス会として1.1万円の御花料わたし、 霊前にゆき竹井眞君のところへゆけば、「出棺まで待たう」と。矢野に報ぜしは同君なりし。 第一銀行監査役生垣君と3人にて竹井の自動車にのせてもらひ、生垣君(8文甲)の管理する(常務と)鉄会社にゆき、冷たい茶のましてもらひ、 新橋まで竹井君の自動車で送られて、19:00帰宅。「留守に澄より電話ありし」と今日の話。 弓子帰り来り「明日新幹線に乗車。ホームへ迎へに澄来る」と。ユは明日17:00東京着と。1万円渡す。 夜、矢野に電話し、寝んとするところへ(20:00)賀代女史来り、税金、保険引いて8千円わたす。 7月31日 昨日よりやや涼し。弓子送り出す。原田運治君より現金書留。日経へ電話すれば「そんな人ゐず」と。東経へ電話し直せば昼にて休みとなり、 事務室へ電話してみよと。受取り家へ出す。 角川の鳥居君来り『世界の人間像』11回で中止と。澄より電話「荷物多きゆゑ京、迎へに来させよ」と。 原田君へ受取出しにゆき佐伯で『日本外史(150)』、『明治文典1.2』、『明治文典入門』、『奔向自由』の4冊で100とて50借りて帰る。 (※暑中見舞 省略) ユ17:30帰宅。「依子神経質、赤ん坊は元気」と。 8月1日(日) 晴。渋谷への使を京にたのみ、夫婦久しぶりに礼拝にゆく。竹森先生の御都合伺ひ「水曜午前に伺ふ」こととす。 竹内夫人に電話してゆき、名古屋への礼いひ、谷口君への花代もらふ。帰れば(佐伯に借金50払ひ、また大槻『日本文法中教科書(30)』を買ふ)。 (※省略) 澄より電話あり「弓子の帰る頃、上京する」と、史きく。京「渋谷へ海老もちゆき500もらひし」と。 8月2日 朝、西川に電話すれば「金送る」とのみ。鎌田正美より1千円。(※暑中見舞 省略) 鎌田へハガキ。 角川書店に電話して印税より『堀辰雄全集』買ふといふ(390×8)。午后、尚子と恵来り、史への写真もち来る。 中川与一氏「7月末より元箱根へ移転」と。 8月3日 9:30出て斎藤dr.「わが友死にし」といへば「死にたくなれば云へ」との仰せ。帰り、高円寺の近藤dr.へゆく。けさまた喘息ありし故なり。 途中『神経衰弱の治し方(150)』、『家庭生活の歴史(20)』、『現代国語の書き表し方(50)』買ふ。帰れば西川より1千円。 小高根二郎氏より受取。けふ大江の叔母へ「福地君に云って見ん」との手紙出す。 松浦美紀子より「翠姉7月8日男児出産」と。縁談ありとてユ、夕食前出てゆきしあと、平田母子来り天沼へと家へは寄らず。西川へ受取かく。 (澄より「弓子8日に返す。ユも一度来てくれ」の電話ありし)。 8月4日 よべ半服、喘息ちょっと。10:00竹森先生に参り御著書にsighnお願ひす。「笹淵博士1年間アメリカの大学へ出張講義」と。 我は佐治さんの事いふ。帰れば丸より千円。丹波鴻一郎氏ほか(※暑中見舞 省略) 野田宇太郎氏の『武蔵野』復刻来る。夕方散歩に出て「うつぎ」で『杜少陵(135)』、『郷土文学選(30)』、『法医学ノート(30)』買ひ来る。 8月5日 暑し。午前中『果樹園』へ「コギトの思ひ出」12×200書き、昭和11年度分やっと了る。 郵便は荻窪古本展の案内ありしあと、速達にて依子より泰のcolor写真7枚来る。 けふ「電話代未払ひ」と電話局より通知あり。ユすぐもちゆく。手塚教授へ暑中見舞。丸善家具店へ昨日たのみし整理箱来る(2,500)。 8月6日 よべ数ヶ月ぶりに眠剤のまず眠る。けふは広島原爆の日なり。野田宇太郎氏へ『武蔵野』代金1,300送る。(※暑中見舞 省略) けふも「コギトの思ひ出」数枚かきし。 8月7日 よべも眠剤のまず。(※暑中見舞 省略) 角川より『堀辰雄全集』8×380×8=2,432来る。ユ「新幹線の切符買へざりし」と。 澄より電話「あす来て泊る」と。ユ、俊子姉に電話すれば「ノリ子ちゃんの写真帰り来し」と。 8月8日(日) よべも眠剤のまず。朝方おきしもまた眠り、ユの出てゆきしを知らず。8:00パン1枚食ひ9:30出て礼拝。 芝原敦子生、来てをり、声かけ呉る。「この頃ずっと来てゐる」由。(※暑中見舞 省略) 佐伯にて『孟子集註(100)』、『文藝春秋(20)』買ふ。澄17:00すぎ来り「渋谷へ寄りし」と。 8月9日 澄8:00、史とともに出てゆく。区役所へ区民税払ひにゆき延滞料110とらる。帰り「うつぎ」にて『中ソひとりあるき(70)』買ふ。 京けふよりまた炊事係なり。『果樹園14』来る。夜、難波和子より「行く」と電話せしも「主人まだ帰らず」とのことに止める。 8月10日 きのふは眠剤半服。9:00出て荻窪の古本市。『青森県五戸語彙(650)』、マーク・ゲイン『ニッポン日記(170)』、『ソロモン諸島とその附近(350)』、 『独学韓語大成(500)』、『今日の郷土史・埼玉県(30)』、『古典と大阪(50)』、『太平洋戦争の全貌(100)』、『性神考(850)』買ふ。 大江叔母より「徳のこと成行にまかせ」と。 8月11日 よべも眠剤半服。9:30出て斎藤dr.。11:00まで待ち「眠剤なくて眠りし日あり」といひ、眠剤3服いただく。 荻窪へゆき『Fanny Hill(420)』買ひ、古本市で『指導者(30)』、『支那史講座(30)』買ひて帰宅。(※暑中見舞 省略) 柳井道弘君より「近江大津に転居せし」と。史「明日より17日まで剣岳へゆく」と。 夜、難波和子より電話「逸夫氏在宅」と。ゆきてちょっと話して帰る。 8月12日 (※暑中見舞 省略) 真野喜惣治氏より蜂蜜もらふ。史、午すぎ「立山、剣、黒部へ」と17日まで出てゆく。散髪す。 澄より電話「お手伝の応募4人、ユ今週末返す」と。 8月13日 むし暑く、よべも半服、8:30起き、京起きるを待ち、きけば『ヴェトナム戦記(320)』を紀伊國屋で買ひ来し也。大江叔母へ「徳のこと中止」と。 手塚氏より「白鳥先生お見舞した」由。竹内夫人より「信一郎君けふ来訪」と。 矢野昌彦より「立替5千円を送る」と。午后杉君来り「航海愉快なりし」と。 澄より電話「手伝ひさん18日よりとなればユ18日帰る」と。「杉君のことユ、畠山家に礼いひおけ」と伝言たのむ。 杉君来訪中、あたかも夕立。池田勇人氏けふ12時すぎ死に、高見順も瀕死と。みな癌也。(※省略) 8月14日 よべ大雷雨にて、けふは涼し。半服のみて8:00起きる。(※暑中見舞 省略) 矢野より6千円! 1千円送り返すこととす。 安田徳太郎『人間の歴史1-5(100×5)』買ふ。夜、京に買物にゆかされ『中国に囚はれて(100)』、『日本しんぶん(120)』買ひ来る。 8月15日(日) やはり半服0:00にのみ8:00起き、茶漬一杯くって礼拝にゆく。オルガン1回分(5千円)を献金す。(※省略) (※残暑見舞 省略) 午后、船越章来て話しゆく。澄より電話「ユ、畠山家へゆき杉君のことたのむ。18日の新幹線の切符買った」と也。 夜、うつぎにゆき何もなく『岩畔部隊長の本(90)』買ひ来る。 8月16日 よべ半服、7:00起きる。(※暑中見舞 省略)  渋谷へ電話すれば「丸より電話にて「家裁判事下阪のついでルリ子に会ひたまふ」とありし」と。「大いま大阪」と。 『果樹園』へ原稿送ることとす。(※残暑見舞 省略) 佐伯にて『残さるべき死(100)』、『明治文典3(30)』買ひ来る。 (※残暑見舞 省略) 林富士馬氏よりの紹介とて橋川文三氏「コギトは何号までか」と。20:00史、帰り来り「メシ食はせ」といふ。 8月17日 よべ半服。7:00起きる。8:00角川より「24版4千枚の検印を24日までに」と。京Arbeitとしてやる。われは洗濯。 (※残暑見舞 省略) (※省略) 夜、紅松に電話して佐治氏のこと問へば「上京の予定なし。矢野に金送る」と。 高見順、癌で死す58才と。Singaporeの帰り中村地平らと旨く寝場所とり、われに挨拶し酒つぎしことあり。 8月18日 8:00すぎ出て斎藤dr.。一番乗りなりしも10:20まで待たさる。先生「KO大へゆきて」とわびらる。「眠剤以外は変調なし」と申し上ぐ。 12:00すぎ畠山夫人より電話「ユ荷物多きゆゑ15:00東京駅へ7号車の迎へにゆけ」と。京迎へにゆかす。 『骨』来り、「天野美津子氏(未見)癌再発にて死にし」と。16:00ユのみ帰り来り「家政婦はわが人選」と。京、友だちと2人にて迎へにゆきし也。 8月19日 よべも半服。ユ疲れてよく眠る。矢野に電話すれば夫人出て「十文字へ早くゆきし」と。現金封筒つきし模様。 横山薫二氏へ谷口の御花料につきハガキ。このごろやっとアサガホ咲く。山前実治氏へ『骨』の受取。 ユ、俊子姉より小高根夫人にゆき紀子嬢の縁談たのみ来し(われ讃岐喜八氏に電話せしに「六さんおぼえなし」と)。 8月20日 暑し。よべ眠剤のまず。一度起きしも6:00まで眠る。(※残暑見舞 省略) 『東方学30』来る。夕方ちり紙買ひに出しのみ。 ユ、柏井へゆき「旅館の女の話ことわり来し」と。 澄より電話「泰、左足脱臼しをるも心配いらず」と。われ「孫見せにまづ高松へ行け。10月に見にゆく」と答へる。 8月21日 台風のためか雨。Salaryとりにゆくを止める。 (※残暑見舞 省略) 平凡社より印税(444-44)。雨、終日やまず。 8月22日(日) よべ眠剤半服。6:00覚め、傘もちてユと礼拝にゆく。帰り雨降り来る。「17号台風接近」と。 けふ自家用に乗る芝原生より挨拶さる。辻芙美子夫人より残暑見舞。佐伯にて『The Decameron(100)』。 8月23日 17号台風よべ大雨をききしため8:00目覚む。成城へゆくつもりなりしも矢野光子副手に電話すれば「けふはゆかず」と。「あすゆく」といふ。 (※省略) 8月24日 曇。あつし。(よべ眠剤半服)。9:00出て成城大学。 成城堂で『台湾-その苦悶する歴史(290)』、『アメリカ黒人の歴史(130)』、『トルコの歴史(250)』、『孫子(100)』買ふ。 『大航海全集』は隔月刊と。研究室へゆけば無人。矢野、川上副手をさそひOrissaにてsandwichとcoffee。 12:00になり、別れて成城堂に本2冊(NHKの『台湾』と『中共』)注文し、下北沢にて下車。 大地堂にて『倩笑至味(550)』、『舶来語・古典語典(180)』、『日本の謎(120)』買ひ、渋谷で氷宇治くひ、渋谷(※実家)にゆく。 大、昼食しをり母に5千円贈る。「16:00に京出る」とて帰り来りしに出しあと也。(※省略) 8月25日 よべ眠剤のまざりしらし。斎藤先生へ参れば「9月3日より中南米Canadaへ視察にゆかる」と。眠剤5服あるゆゑ頂かず。(※残暑見舞 省略) 小高根二郎氏へ2千円送る。東方学会会費800。(※省略) 『ことわざ故事金言小辞典(140)』買ふ。 夜、佐伯へゆき『栄花物語3冊(150)』、『漂海民(100)』買ふ。安西冬衛氏死。60才と。 8月26日 よべも眠剤もちひず。7:00さむ。『手塚教授(※手塚隆義)還暦記念号(史苑)』のため「遷界令と五大商」かきはじむ。 大江叔母より「祝返しもらった」と。『史苑26-1』、『漢詩大系 杜牧』来る(わが「高青邱論」はさみこみなく蒲地氏奥州大学教授と見ゆ)。 昼寐できず15:00母より電話「ルリ子荷物とりに来るゆゑ、ユよこせ」と。昼寐しをりしユゆかす。 19:00すぎ電話「ルリ子、シャアシャアといままで居りし」と。 ユ帰り来て「ルリ子にこにこして猫こはがりし。豊中-堂島2丁目間の定期もちゐし」と。 8月27日 晴。よべも眠剤のまず。丸三郎に電話せしに「調停不成立、離婚訴訟につきては考へてのち」と。 母に電話し「私立探偵に依頼してのち訴訟に出さん」といふ。 「遷界令」ちょっと書き、ユの留守に京に200借りて東洋文庫。松村、田川2氏とも不在にて『明清史料 丁篇』写すうち12:00となり、 近くにてsandwich(100)。午后またよみゐれば松村、岡田英弘2君来る。 岡田君、嬢や出来「麻里」と命名と。「聖心女子大へゆけ」とすすむ。15:00すませて一茶『父の終焉日記(100)』買ひて帰宅。 「長尾君の(※『太宰治』)出版記念会9.14」と。「欠席」の通知す。けふ澄より「手伝のおばさん好し」と電話ありしと。 8月28日 眠剤もちひず。このごろ2度目ざめ9:00起きる。京をつれユ、西武へと出てゆきしあとLouvre (※ルーブル)をteleviで見る。 (※残暑見舞 省略) 依子より「泰4.100g」と。小宮根夫人よりノリ子ちゃんと史の縁談につき電話。ユ「あす参る」と返事す。(※省略) 8月29日(日) 眠剤用ひず。このごろ朝夕涼しくなる。7:00起き9:30出て礼拝にゆく。すみて笹淵博士に挨拶すれば「9月1日出発」と。(※省略) 帰れば文学散歩の会の案内来しのみ。澄より電話「高垣金三郎にノリ子ちゃんの世話たのまんか」と。「無効」といふ。 ユ17:00帰り来り「昭和10年8月30日生。34年都立大経済学部卒、トヨタにつとめ主任。5人姉兄の末」と。 畠山氏に電話し「書類送るゆゑ返事すぐに」といふ。丸に電話し「19:00ゆく」といふ。 「うつぎ」へまた『婦人公論』などもちゆけば、この間のとで70円と。『花ごよみ(180)』買へばdouble。 丸家へゆき(※省略)「礼いらず。興信所にしらべさせよ。本訴訟する」と也。 8月30日 涼し。吉祥寺教会より「9月23日10:00~16:00東京神学大学にて35年感謝会を催す」旨来りしのみ。 夜まで原稿かき遷界のみ了ふ(25×200)。あすよりは五大商のこと也。 8月31日 わが54回の誕生日なり。眠剤もちひざる代り寝覚めす。「五大商」ちょっと書き、散髪にゆく。硲晃氏より祝状。(※省略) 横山薫二君より「矢野とboat部会石山であり払った」と。賀代女史来り「中島大吉郎君、結婚相手あり」とわかる。 澄より電話「依子、無人の時恐怖するゆゑしばらく預れ」と。難波和子来り「義弟いやでもなきさう。杉浦家では何といふか」と也。 弓子誕生祝に革band呉る。 9月1日 秋らしくなる。10:00斎藤神経科。北杜夫先生なり。依子のこといひ「産後に多し」ときく。 『二・二六事件(中公新書200)』買ひ11:30までの待合せに読み、変な気す。 (けさ杉浦夫人に電話せしに蕗子「予想と大分ちがふ」といひをる由、早く結論出さすをいふ)。(※省略) 畠山家より電話「ノリ子ともかく上京する。父母は話に同意」と。ユ「すぐ小高根家へ電話せし」と。 京、誕生祝?に湯呑呉る。その担任久山先生「24日15:30ごろ話に来てくれ」との電話なりし。 9月2日 「五大商」2枚かき『史記列伝』ちょっと見て11:00登校。 (成城堂にて『台湾フィリピン(360)』、『中華人民共和国(420)』、『仏教の東漸と道教(480)』買ひ)庶務会計にて定期の補助2,700もらひ、研究室。 矢野光子をり(けさ父に電話せしに「旅行中」と)、置きある本のcard整理して時間つぶし、 昼食すませ山下一海講師(早大と)と話す栗山博士に会へば「肥えないね」と。13:00より『史記』やり、 すませて宮崎教授、山田氏らと会ひ、大藤、鎌田2氏とあふ。十島よりかへり鎌田氏『成城文芸』にかく由。 帰宅すれば『不二』新秋号。依子より泰の写真と苦心かきし手紙来をり。東洋文庫護雅夫氏より「11日(土)10:00来よ」と。 小高根二郎氏より原稿、同人費の受取。(※省略) 9月3日 よべ9:30ねて11:30ごろめざめ、窓明るくなりしにより1/3服のむ。9:00さむ。(※省略) 畠山夫人より「のり子ちゃん6日にやる」と。小高根夫人にもその旨云ふ。11:00出て地下鉄にゆけば定期4,940と200足らず。とりにかへる。 12:30成城堂に昨日の『中華人民共和国』の落丁とりかへたのみ、教務に短2Aの試験届し、佐野、百瀬氏と挨拶し、13:10より短2A 。 (※省略) 14:10すみ、そば食ひ、柳田文庫にゆけば休講の大藤、鎌田2氏をり、本間生ゐて『王維』返すと。 「泰山を太山といふことなきや」との大藤教授の問に「なし」と答へ、しらべて「泰[宗]、太嶺、東嶺といふことあり」と答ふ。 地下鉄にのらんとすれば言かけしは天野愛一。ともに喫茶して「成城経済部出来ず」ときく。「子と妻とまだ呼ばず」と。(※省略) 9月4日 よべも11:00ねて寝覚めし。1/3服のみ、朝9:00に起き頭痛し、出て佐伯にゆき 『紫式部日記(25)』、『季節の科学(50)』、『東北温泉風土記(100)』、『フランスことわざ(50)』買ひ、「小島憲之の本、成城買はず」といふ。澄より電話「依子、長ゐせず」と。 9月5日(日) このごろよなかさめ1/3服のむこと3日也。9:00朝食。礼拝休む。青木母女史より「9月末、父君と中国へゆく」と。 ずっとねてをり、夕方タバコ買ひに出て中村優子母子に遭ふ。『石川岩吉先生(国学院元学長)追悼号(30)』買ふ。 疲れて中国民俗学のnote出来ず。夜、畠山ノリ子ちゃんより電話「あす8:30発つ」と。葛山夫人より電話「来週来たまへ」といふ。 9月6日 よべ4回に分けて1服のみ0:00眠り6:00起き9:05入室。 『陶淵明』やり、つかれ『玉燭宝典』簡単にやり『唐代の年中行事』3月上巳まですませ疲れに疲る。 家へ電話すれば「ノリ子ちゃん来てをり帰るまで待つ」と。途中coffee(60)のみ財布なきに気付き名刺おく。 帰れば縁談あまりのり気でなささう也。ユとすすめてゆかし19:00ユ帰り来り、ノリ子君19:30「乗車」と電話かけ来る。 『ビブリア31』来り「con女20年勤続をほめられし」と。他に高橋君の旅行記のりし『架橋』。疲れに疲れたり。 9月7日 晴。『ヴェトナムの断想』平松君より送られ電話で礼云ひ「遊びに来たまへ」と云ふ。 薄井夫人より「退院、半年ほど休養する」と。朔太郎研究会より「10月10日又は3日に来てくれ」と往復速達ハガキ。 10:30出て12:30またされ斎藤神経科。薬かへてもらふ。帰り歩きて昨日のcoffee代払ひ、帰れば14:00(畠山夫人より電話、礼いはる)。 午后、井上靖氏より『楊貴妃伝』。(けふ志田不動麿氏に1千円送る)。夜、竹内夫人より電話「竹内微熱、杉君に合格通知来た」と。 (きのふ林博士に20日ごろまでよしときき『史苑』10日までにと催促来る)。 9月8日 曇。よべ1/3服。8:00起き、前橋市立図書館長渋谷国忠氏に「10月10日の会のため9日ゆく」と速達。 立教大学史学会に電話すれば、また林博士出て「おくれること申した」由。けふ『遷界令』註了る。 午后、散歩にゆき帰れば杉浦夫人来て「性格合はず」とのことに住谷君断る。その間に澄夫婦来る。泰こえをり。(※省略) 母へ電話せしむれば「10日来る」と。 9月9日 よべ1服半のみ9:00起きる。雨にて眠剤のせいかつらし。『Biblia』図書館へ寄附し、昼食すれば、(※省略) 漢文すませフラフラとなり、 山田俊雄君と話し『日本語の歴史7(500)』と『中華人民共和国』のとりかへ本をとり、山田氏に『事文類聚』をもちゆくと約す。 夕食中、杉君来り、(※省略)「15日より3月までまた航海に出る」とのことに「12日竹内夫人に祝いひにゆく」といふ。 けふ名坂夫人より「19日の歌会に出よ」と。(野口君よりきけば「喜界島の開利枝に鎌田女史会ひし」と)。 9月10日 よべ半服のみ、たびたび覚める。(※省略) 山田氏に『事文類聚』もちゆき、掲示みれば松崎女史の母君の葬ひはけふ13:00よりと。栗山部長ゆく。 台風23号の音さはがしく講義早くやめる。鎌田女史会ひしは「郵便局にて浜谷なりし」と。 野口君、沖縄のタバコ「pink」1箱たまふ。上原君「Lucky strike」たまふ。 「本位田昇、法務省保護局長に転任」と夕刊に見ゆ。難波和子に杉浦夫人のことわり伝ふ。 9月11日 よべ半服にてよく眠り、9:00出て東洋文庫。満洲の地図の複製を行ふこととなり、阿南君よむ。 12:00すみしに高橋邦太郎氏の室をのぞくに会ひ、ともに出てソバ食ひcoffeeのみ「富永次郎君、入院せしももはや退院」ときく。 「田中正平博士の記事のりし新聞の写真やらん、松田信隆の電話しらせ」と。 荻窪の古本市にゆき『橋と塔(300)』、『民俗叢話(300)』、『東洋史会紀要5(100)』、『パキスタン古代文化展(60)』買ひて帰宅。(※省略) 弓子、夜「大菩薩峠へ」と出てゆく。澄22:00すぎ帰り来り、わが眠りを妨ぐ。 9月12日(日) 礼拝なれどゆけず11:00澄夫妻出てゆく。われ午后1時間ねて元気つき、夜までに「遷界令と五大商」書き了る。予定通り200×50なり。 弓子ヱハガキ呉る。けふ竹内夫人に電話せしに「竹内微熱とれず」と。 9月13日 6:30起き8:30登校。2時間教へ高橋邦太郎氏と話す中、4生来りsemiの相談す。東洋史、西洋史はやめよといふ。すみて出て帰宅。 志田不動麿氏記念会より受取。渋谷国忠氏より「宿せわせん」と。清書する中22:00となる。 9月14日 よべ23:00半服のみ、7:00さめる。睡眠不足なり。斎藤dr.にゆけば当番の先生「4服づつのめ、睡眠薬もこれ位なら害なし」と5日分たまふ。 歩きて中村屋にてrice-curry(200)、ゆっくりと登校。本棚とcardと比べる。14:00となり野田宇太郎氏と一寸挨拶し、教授会。 大学制立審議案にて「博士もしくはそれに相当する学問と教化の力ある者」との箇所に失笑す。 出て成城堂の増子氏に『大航海時代叢書2』わたされ、祖師谷大蔵にて下車。 青山博士に電話すれば「来てよし」と。ゆきて聖心への復職ことわり、傘忘れしを帰宅後、電話にてしらさる。 けふ井上靖氏に「寧王は玄宗の兄にて開元29年63才で死去」とハガキかく。 9月15日 よべ1服のみ、よく眠り、清書す。台風24,25号のため終日雨なれど、葛山夫人、祝にと夏着もち来り(送りにゆき原稿、立教大学史学会へ速達す)、 白水夫人「近々大阪へ産みに帰る」と来る。暴雨にて帰れず、夫君より電話あり。18:30帰りゆく。 (葛山夫人送りぎは『どんな不眠症でもぐっすり安眠できる(200)』買ひ来る)。 9月16日 「24号台風来る」とおどかされ、登校の途、青山先生に傘返していただきにゆく。(※省略) 矢野副手に「李白」のprintたのみ、『史記 項羽本記』の初めやりて帰宅。台風、海上をすぎし也。(※省略) 9月17日 傘もって出しも(よべ1服)雨なく、短大すませて帰り来る。山口、石橋2生「体育の欠席の輔導せよ」とのことに夜、電話す。 9月18日 晴。9:30斎藤dr.へ依子つれゆけば「しばらく東京に置け」とのこと也。立教大学史学会より案内。「欠席」の通知す。 9月19日(日) 礼拝欠。23日の50周年も「欠」の届す。『東京夢華録』note作る中、平松嵬郎君より「14:00来る」と。 14:00小山正孝君を駅へ迎へにゆけば「東大小野忍氏より、われの李白と氏の杜甫にて1冊作れ」といはれしと也。さ来年にとのことなれば「諾」といふ。 小山氏帰りしあと16:00平松君より電話、駅まで迎へにゆきつれ帰り、角力をteleviで見る。柏戸の優勝なり。 平松君「白血症にて昨年夫人なくし、東外語Russia語科の女とをり、12月又は3月にVetnam,Cambodjaへまたゆく」と也。 9月20日 6:50起され、薬のまずして登校。2時間教へて疲れしに3年生「田中久夫氏の教材の漢文よめ」と来る。(あす11:00よんでやることとなる)。 高橋邦太郎氏、論文を『成城文藝』にと賜ひ、そのあと白鳥芳郎氏「講義すむまで待て」と。待ちてOrissaへゆきcoffeeとpuddingごち走となり、 「先生の負債はわれ一代にてすます。庫吉先生の全集、岩波より出ることとなりし」などきき、新宿まで同車。 帰宅せしに依子ゐず、飯おそくなりしためか気分あしく(便通2回)夕食くへず。依子「四谷の叔父叔母宅へゆきしに不在なりし」と。 小高根夫人より電話「のり子ちゃんの話、他へする。史への話、一応打切る」と也。 竹内夫人より「好先生、肋膜と腎臓わるし」と。このごろ泰可愛くなりゆく。後藤均平より「新潟に着任」と。 9月21日 よべ1服半のむ。フラフラなれど3D田中生らとの約束にて11:00登校。 田中久夫先生のtextよんでやれば12:30となる。高田君に久しぶりに会ひ、野田宇太郎氏と話などして13:00俸給もらひ、 成城堂に4千円払ひ『インド(世界の文化)(480)』買ひて帰宅。 平凡社酒井氏といふのより電話ありしといふにかければ留守。のちほどかかり「さ来年秋刊行」と。「それまで生きてをれば」と答ふ。 けさ集英社薄井氏より速達「謡曲佐保川に背燭共憐少年春なとし投書ありし」と。電話し「あり。投書者に直接返事す」といひしも留守。 9月22日 よべ1服。中夜おきて泰見にゆく。8:00すぎ目ざめ依子を小高根夫人、渋谷へと使に出す。(※省略) 午后佐伯にゆき『ヴィナス(150)』、『社会科法典(30)』、『続お伽草子(30)』、『ノモンハン空戦記(150)』、『昭和7年毎日年鑑人名録(30)』と買ふ。350としてくれたり。 満田女史に「佐保川」にありと返事かく。(※省略) 9月23日 眠剤1服のみ頭痛し。9:30出て花買ひtaxiにて日大二高前までゆき松崎家へゆく。三姉妹そろひをり。父上9.9高血圧症にて歿63才と。 「庄野英二君にしらす」といふ。(※省略) 柏井へゆき健保証返してもらひ帰宅。 (※省略) 西川より『比較文学』贈らる。矢野より「10月16日箱根」の出欠問ひ来る。西川に電話せしにgolf。 (※省略) けふ渋谷国忠氏へ「9日夜の宿、自分で見つける」とハガキ。 9月24日 よべ半服のみ22:00ねて6:00起きる。庄野英二氏へ「松崎淑氏の死亡通知」。 10:30出て成城大学。昼弁当くひ、池田教授の美男たりしことまた百瀬先生にいふ。 短大漢文13:30すませて出、新宿でcoffeeのみ西荻窪の吉祥女子学園にゆけば14:05。 校長はじめ10人余の先生をられ高校と大学との連絡なきを知る。若い男女先生みな雄弁。校長先生は早大の漢文?らしくcake1折もらひて帰る。 けふ成城堂で『印度・西アジア(480)』、『中国・東南アジア(480)』、『イザヤ書 下(100)』、『鹿鳴集(60)』買ふ。最後はdoubleをりし。 (百瀬先生『学士会会報』よめば、桑原武夫博士「竹内・保田・われ」の名をあげ賜ふと)。(※省略) 9月25日 雨。11:00出て斎藤医院。「眠剤きつく赤玉なくて云々」と申上げればその通りしていただく。近くですし6ケ食へば270。Taxiにて渋谷(220)。 母と話さんとすれば大をり。来客ありししほに大阪の興信所の件話して帰る。(※省略) 富永次郎氏より去年6.15の写真賜はる。 試験監督表来をり。けさ竹内夫人に電話すれば「肺炎併発してヒデ島外科に入院」と。浅野建夫に電話すれば「体わるし」と! 矢野に電話し「本位田に電話せよ」といふ。夜、紅松夫人に電話すれば「土日と沼津の父君見舞にゆく。高杉嬢婚約なし」と。 9月26日(日) よべ眠れず。2服のむ。起きれば10:30。ユ礼拝へゆかざりし。 矢野に電話、竹内の入院伝へ、朝日新聞の金とりに来りし故、値上とがむれば「配達は関係なしと。」 営業部へ電話し「テレビラヂオにて大体わかるゆゑ、その欄のみにて100円にせよ」といへば「さういふ新聞あり、それに買ひかへたまへ」といひなさる。 『果樹園』に11枚かきて13:30の午食となる。 ユ「心臓いたし」とねをり。桐山眞氏に電話すれば「ラジオテレビ部」と。 散歩に出て『キリスト教と諸宗教(50)』、『チベット潜行十年(50)』、『Japan Literature Review(50)』買ひ来る。 9月27日 6:50起され(よべ1服)、9:00前、成城大学。「中国文学史」すませ栗山部長と話す。あと「東洋文化史」10分以上遅刻の連中を入れず。すませれば小西泰子生来る。 昼弁当くひ、田中靖子夫人待つに13:00すぎあらはる。成城堂にゆき辞典ゑらび、われは『東アジアの美術(230)』買ひ、 Orissaへcoffeeのみにつれゆき、立川夫人より「3人東京へ来をり」のハガキ見る。「chocolate子らに」と与へて帰る。(※省略) けふユをして小高根二郎氏に原稿速達、2千円を現金送りせしむ。(※省略) 9月28日 よべ眠剤のまずして眠り、2:00に目覚めしもまた眠る。平松君より礼状来り、畠山敬子嬢より写真と手紙と来る。 午后『朔太郎のうた(150)』、『人形文化資料展覧会目録(150)』買ひ来る。澄16:00着、whisky1瓶呉る。 9月29日 よべも眠剤のまず。平松、畠山敬子2氏へハガキ。家居。 午まへ依子夫妻斎藤神経科へゆく。北杜夫先生にて「来週また来よ」となり。林叔父来り家具への火災保険もちゆく。 散髪し「コギトの思ひ出」4枚かく。 9月30日 10:30出て成城へゆきしに「試験前日にて休み」と。 川上恭子に菓子供せられ、成城堂にて『日本迷信集(290)』、『葬制の起源(240)』買ひ、阿佐谷にて『東海道(160)』買ひて帰る。 夜、服部三樹子氏より電話「来月帰洛」と。「すぐ来い」といひ、来て笑ひゆく。(澄「12:00すぎ帰名」と)。 10月1日 よべも眠剤のまず。これにて4日目なり(湯タンボのせいか)。国勢調査票かく。 13:15より短大の中国文学の試験とてゆけば鎌田女史、「火曜の教授会に欠席の理由は」と。わがnoteになかりし也。 試験すませ、まっすぐ帰る。(※省略) 山本書店、大森博士『卑弥呼の研究』と『琉球南島中国交通史』註文す。 福地君より健康タワシ2ケと菓子多数贈らる。夜、久しぶりにcardやる。 10月2日 眠剤のまざること5日。Cardやり10:00斎藤dr.。眠剤もらはず薬10日分。角川より『Heine23版』の印税(32,000-2,400-2,432)26,368来る。 (※省略) 朔太郎研究より10日13:30~16:00「朔太郎とコギト」をわれ話すと。 17:00松本一彦より電話「18:00新宿駅西口で会ふ」とす。宮尾しげを『年中行事(220)』「うつぎ」で買ひ、 ゆきてちょっと待ち天ぷら屋で30分まち少し食べ、倭へゆくこととし、電話して原宿近くへ来しあとそろそろす。 「この間、倭夫人、長女同伴にてフランスへゆきし」と。松本に帰りのtaxiにて史とのかけはしたのむ。 10月3日(日) よべ眠剤半服のみしらしきも効なく、ちょっと眠りしのみ。久しぶりに礼拝にゆきオルガン献金2回目などす。 かへり『絵本江戸風俗往来(390)』、『シーザー(120)』、『二人行脚(100)』買ひて帰る。(※省略) 渋谷国忠氏へ「草津2号」または「あかぎ」に乗るとかく。 10月4日 福地邦樹氏より送り状。午ねし、さむれば松本一彦君、羽田より電話「倭の娘まだ結婚の意思なし」と。(※省略) 難波和子にユ電話し「17日の見合承知」と。史「4日間岐阜へ出張」と。泰だんだん物事わかる様子也。 10月5日 宮崎智慧氏より速達「17日保谷ムサシノにて『鈴鏡』の記念会」と。(※省略) 集英社へ『白楽天』の誤植表送りにゆき、帰れば服部三樹子氏より電話「Arbeitありや」と。「なし。遊びに来たまへ」といひ、 来しところへ母より電話「大、旅行中、弓子よこせ」と。「服部女史にてはいかが」といふに「気がはる」とことわらる。 松茸もちて葛山夫人来り、すぐ帰りゆく。(※省略) 小山正孝氏に電話すれば「あす15:30ごろ来る」と。 夜、服部女史送りに出れば野村美智子より「望月家の葬儀9日14~15:00上野寛永寺で」と。(※省略) 10月6日 9:30出て成城。学生課、教務課、文書課と歩き、PTAよりの弔金(2千円)もらふ。山本書店より本2冊来をり、図書館へ整理たのむ。 busにて玉川学園駅へゆき東急にのり大岡山下車。望月家をたづね、くやみいひ、千鶴子生(ひとり女と)に試験のこといふ。父君われより若き様子なり。 目黒へ出、新宿にて昼食し帰宅。小高根二郎氏より「合本(300+X)いるや。森亮氏の漢詩の訳出るゆゑ紹介せよ」と。「合本いる」と返事かく。 平凡社の酒井春郎氏、小山正孝氏に伴はれて、2人の『李杜詩抄』は企画の早き方なり。『西太后に侍して』の再版はいかに、などいひゆく。 (※省略) 10月7日 6:40起され、9:30登校。副手ら未だ来らず。1時間目問題くばりしあと「不要」と。2時間目斎藤清衛博士の手伝。「伊東の友の…」と自己紹介す。 すみて博士より「小高根氏は60才か」と。(※省略) 12:30出て桑原武夫『人間素描(430)』買ひ、よみつつ丸重俊と同車。Coffeeのんで別る。 集英社の薄井英二氏より「白楽天の正誤表受取った」と。『近畿民俗43』沢田四郎作博士より。 10月8日 雨と曇。(※省略) 西武dept.の宮崎女史に「17日多分参る」と電話。沢田博士、本間厚子へ受取。 午后「コギトと萩原先生」のためあらかた費す。松村瞭氏に電話し「あすの研究会欠席」とことわる。 野村美智子に「14:00前寛永寺前にて待つ」を約束す。 10月9日 ユキ子パーマかけにゆく。野村生より電話「望月家の葬式13:00~14:00と変更」と。 萩原葉子氏に電話して「父君の話しにゆく」といふ。「この間(※前橋に)帰り叔母にも会ひしゆゑ別に云ふことなし」となりし。 12:00出て上野寛永寺に13:05すぎに着き、盛大なる葬儀に土建屋さんなりしことを知る。 14:00まへ野村生ら3人来り、本堂に席与へられ、一般焼香に参加し、3生を京成電車にのせ、地下鉄入口にて別る。 ユ、(※上野駅の)待合室にをり、着車せる長岡行にのり1時間たちてのち坐る。偶然にものりし前部4両は両毛線へ分れ前橋へ着きtaxiにて住屋にゆく。 寒く、夕食くひ風呂へ入りしあとすぐねむれし。 10月10日(日) 6:00すぎ起き8:00朝食、ひげそりなどして9:30出る(宿賃4,890+チップ1,000+茶代50)。敷島公園へbus。 朔太郎詩碑写し、赤城、榛名とり、新大橋とりしゐる中cameraのsackなくなりゐるに気付き、碑前に引返して探せしもなし。 時間なきゆゑ図書館へゆくこととし、下りしところ前三dept.前なりし故、ユに津久井家への土産買はし、われは図書館にゆき館長渋谷国忠氏に挨拶。 保田の『朔太郎詩抄』を贈る。ユ、来り3人にて津久井家へゆき、先生の次妹ユキ様(明治27年)に挨拶す。 床に晶子の歌かけあり「入沢達吉博士が対診に来られ父君密藏氏(のちに戸籍謄本見しに蜜蔵となりをり)に 『君は上州一の医師だが朔太郎君は日本一の詩人だよ』と仰せありし」ときく。 そばやにゆき(ユは風邪気かババ気か先に帰京)、13:30近くなり、おくれてゆけば朔太郎会の幹部の人ら4、5人あり。 これを加へて聴衆15人位か。高橋元吉氏の朔太郎評を群馬大の山田桂三教授話され(30分)、すみてわれ先生の純粋の詩人なりしことをいふ。 16:00すみ、17:29前橋発に乗ることとなり館長に夕食供せられ、駅へつけば電車まちをり。菓子を土産にといただく。 坐れしも小便こらへがたく上尾で下車。次の汽車30分おくれ、赤羽まで立ち池袋新宿をへて帰宅21:30。 茶漬くひ、松本一彦君より「同社の同僚の22のお嬢さん如何」の手紙を見、『果樹園』よみなどして眠れず。久しぶりに1服のむ。 10月11日 8:00さめ、泰見て朝食。小高根夫人に電話し「けふ15:00ごろ参る」と云ふ。 12:00出て成城大学。Cardの整理し、13:15より14:15まで試験監督の補助。(大藤氏に会へば「来春の修学旅行5月に」といふ)。 まっすぐ出て小高根家。夫人「ノリ子嬢の写真足りなかった」云々。「史の候補者はこれきまってのち」といひ、小高根君と新宿まで同車。 coffeeおごられ阿佐谷「うつぎ」にて『啄木の悲しき生涯(200)』買ひて帰宅。 ユ、賀代女史に電話かけ、あす名古屋へ帰る依子の土産に「いま1人に話しゐる旨」伝へさすこととす。 矢野より電話「小田急14:30の切符とれた故、送る」と也。(けさ花井タヅ子夫人に電話すれば「予定日11.17」と)。 10月12日 10:00出て斎藤dr.。院長先生御元気にてお帰りの様子、満2周年経過を申上げ、眠剤もらはず。 昼食後、竹内の秀島病院を訪ぬれば13:30まで受付しまりをり。ゆけば扉に「面会5分」とあり「夫人けふより通ひとなりし」と。 駅前にて『蘇連地誌(50)』買ひ、佐伯にゆきWinstedt『Malaya(300)』、Fowler『Netherlands East Indies and British Malaya (100)』と 『ベトレヘムよりカル[ヴァ]リオへ(30)』買ひ100借りる。東洋史研究会へ「欠席」の返事出す。 10月13日 眠剤のまず21:00すぎねて2:00目覚む。あとまた眠りて8:00。気にかけゐし松本一彦君への断り状速達し、佐伯へ100返す。(※省略) 矢野より速達にて小田急第3金時号の乗車券着く。永田精機に電話し「受取」の伝言たのむ。 14:00集英社の薄井氏『白楽天』の進行状態見に来たまふ。「1枚も書きをらず。2月末までには間にあはす」と答ふ。(※省略) 森亮氏『白居易詩鈔』贈らる。住宅公団副総裁宮川新一郎((※大高)9回LA?)脳卒中で死亡と夕刊に見ゆ。 10月14日 寒くなり来る。森亮氏へ受取かく。赤川草夫氏より病院の歌『松籟』、小高根氏より『果樹園』合本(300+80)届く。雨となり一日家にこもる。 10月15日 晴、家居。渋谷氏より『コギト』書留にて返却受く。夜、写真機屋へゆく。津久井ユキ様とれをらず「包袋なし」と。 紅松に電話すれば夫人出て「10日父上昇天」と。 10月16日 よべ1服のむ。8:00起き、渋谷国忠氏よりの手紙に「3千円を高橋元吉碑に」と予約す。(※省略) 13:30出て新宿。矢野の切符にて第3きんとき号(255+220)にのり湯本よりbusにて温泉荘下車。下りぎは挨拶せしは文甲の田中政雄なりし。 ゆけば6、7人をり福永英二を最後に、文甲(室、江馬、中野、矢野、坂井、富山、前田、岡本)8名。 文乙(原田、山本、鎌田、本位田、川崎、丸、われ)の7名。理甲佐野、理乙中村、理丙(倭、河田、福永)3名、計20名(※大阪高校クラス会)。 気にせし森良雄来らず。よる本位田の雷の如き鼾声にねむれず(眠剤きかず)、手拭もなくなり散々なり。 10月17日(日) 朝食前、山本帰りゆき、われ本位田と同車(向ヶ丘遊園まで)。畠山ノリ子ちゃんのこと云ふ。 帰りて昼寐1時間半。ややなほりしも「武蔵野」に電話し宮崎女史に「不参」いふ。(※省略) 高橋助教授より『史苑』を立教大学史学科40年記念号と改むと「校正の時改めん」といふ。 10月18日 よべ1服よく眠り、6:40起されて成城。新宿にて本宮清見(※中野清見)に遇ふ。「いま帰るところ」と。 2時間すませ望月生まちしに来らず。(※省略) 小倉生来しゆゑ図書館にゆき『魏志倭人伝の研究』借出し、小倉生に貸し紅茶おごる。 東方学会より「例会早稲田にて」と。「欠席」の返事す。(※省略) けふ成城堂にて『からもの因縁(360)』買ふ。 10月19日 小雨(よべ2日ぶりに眠剤のまず)。薬4服ありし故、斎藤病院あすとし、影山正治氏より『民族派の文学運動』再版につき申入れ通り訂正したと。 木村三千子氏より「漢文の手引書を」との手紙みる。(※省略) 出て成城大学、教授会にて春の修学旅行の案ねり直しとなる。 出て高桑純夫氏と同車。「一昨年の今ごろでしたね云々」。(※省略) 成城堂で漢文の手引書2冊買ふ。 夜、萩原葉子氏より電話、「前橋のこと」いふ。 10月20日 曇。傘もちて出、斎藤dr.。「肥えたし」といへば「米と芋を食へ」と。 地下鉄にて霞が関。法務省に本位田保護局長訪ひ、ノリ子ちゃんの写真わたしてたのむ。 出て日比谷より都電にのり、時間午なる故、神保町歩き「大安」にて『文史小札(160)』、『四民月令校注(160)』、『唐詩研究(180)』買ひ、 例の山口書店にゆけば、色々『コギト』『浪曼派』の本ならべをり、「不二歌道会」の鈴木正男氏に遭ひし故、さそひてライスカレー食ひ、 13:00集英社へゆき薄井氏の出て来るを待つ間に及川氏と遭ひ、名刺もらひて倉庫へゆかんとすれば、薄井氏付添ひたまふ。 おかげにて『白楽天』1冊手に入れ、『漢語と国語(50)』途で買ひ、水道橋をへて帰宅。(※省略) 影山氏の『民族派の文学運動』再版出来しを贈らる。後記に訂正のりをり。 10月21日 『Heine24版』来る。誤植訂正しあらず。ユ、婦人会にゆき、われ11:00出て成城大学。採点わたし、4年生の補試することとなる。 大藤、鎌田2氏に会ふ。大藤主任、学科の説明に腫物のため我やれと也。 成城堂に3千円余払ひjuiceのみ、cardならべして時間つぶし、補試に75つけてやる。 15:50より上原、宮司、宮崎、山田の諸主任と伍して説明す。つまらず。すみて一散に帰る。 夜、ノリ子ちゃんより電話「土曜に見合し翌日ゆっくりしたし」と。反対して「日曜に」とす。 10月22日 散髪にゆく。(※省略) 川崎へ『白楽天』包む。昼食くひて出、梁嘉彬の本を鎌田女史に貸す。短大の点ききに来しはみな優等生也し。 下北沢で下車。高建子『北京の季節(80)』買ふ。麝島生Perugiaより何も書いてない手紙くれ、渋谷満史氏より「元吉碑は12月までに」と。 平中苓次氏より「下洛するや否や」。夜、田上由美子に電話すれば不在。神田信夫氏に「あす研究会ありや」。ときけば「あり」と。 10月23日 9:00出て東洋文庫へ10:00まへに着く。岡田、岡本、我とにて神田氏の読みをきく。 (大島豊、中国の秘密結社は本支部やりをる由。植村清一先生「いま無職」と)。12:00出て新宿にて昼食、高円寺の本屋にて『北京横丁(70)』、 国鉄にのり佐伯にて『南洋遊記(300)』、『生活と心境(30)』買ふ。けさ我出しすぐあと「田上生より電話ありし」と。 14:00ノリ子嬢より電話「あす泊りにて来よ」といへば「重光よこす」と。やがて鮭1尾もちて来る。田上「デザイン学校へ通ふ」と。 10月24日(日) 久しぶりに礼拝にゆき、Organ献金3回目をする。すみて芝原生まち「おめでたう」云ふ。 浅野(※浅野建夫)に電話すれば「ねたりおきたり」と。「近々見舞にゆく」といふ。ユ、竹内家へ電話すれば「(※竹内好)来週退院」と。 森亮氏より「5日上京、東洋文庫に紹介せよ」と。(※省略) 15:00畠山ノリ子嬢来り、夕食し18:00すぎ来りし佐藤君と中川夫人と話す。 20:00すみて駅まで送り、ノリ子嬢22:30代々木の友だちのところへねにゆく。弓子、関西旅行より帰りヱハガキ呉る。 10月25日 晴。森亮氏へ「着京後連絡せよ」と。影山正治氏へ礼状。長沢(美喜子?)より「水曜来る」と電話。 13:00浅野dr.、見舞にゆけば近くにて夫人に会ふ。Dr.「心臓病並びに肺気腫にて6か月の休養必要」との診断書見す。 中野書店を見、駅前にて『朝花夕拾(30)』買ひて帰る。竹内夫人より「退院しても絶対安静」と。 (午后銀座よりノリ子ちゃん電話「明日帰宅」と。夫婦してわびいふ。可笑)。 10月26日 9:00畠山六右衛門氏へわび状「御返事なくとも断る」旨速達し、斎藤神経科へ健康保険証見せにゆき、先生に「良好ゆゑ2週間分薬たまへ」といふ。 帰れば「大高名簿とりに来れ」と郵便局より。ユをしてとりにゆかす。すでに動き多くあまり役立たず。 『旧約聖書の人々(100)』、『坂翁大神宮参詣記(80)』買ふ。 10月27日 木村三千子氏より「本、受取った」、川崎菅雄より同。昼『果樹園』の原稿200×10速達にゆく。 帰れば三田村泰助博士より「『清朝前史の研究』贈る。諸方へ推薦たのむ」と。(※省略) 午まへ長沢美喜子カステラもち「政経コンサルタントへ転任の試験受ける故」と保証人の印鑑さす。 10月28日 「川崎菅雄君へ脳悪く考へるのいや」と返事。小高根二郎氏へ「同人費と製本代2,400送る。森亮氏は商売敵にて具合わるし」とかく。 畠山夫人より「手紙みた」と電話。ユ、賀代女史に「中川さん心当たりなければ写真返せ」と電話。 10月29日 このごろ眠剤もちひず、さめてのちも眠し。泰、相手になりいろいろ物云はんとす。 午后丸屋市川へゆき『古代白話短篇小説選(80)』買ふ。川崎の紹介にて茶碗屋見本を送り来る。 夜、大江叔母より電話「日赤の木崎人間ドックに入りたし」と。すぐ湖東君に「木崎dr.への運動」たのむ。 10月30日 昨日川崎よりの紹介にて小坂屋より茶碗送り来し故「馬と声」にては思ひつかずといふ(簡単なデザイン也)。 福島恵美子の母より「検事(東京)に縁談あり。本位田に紹介を」と。 角川の服部氏より人物伝叢書復刊『楊貴妃』くれと。断る。数男宅へ泰と3人でゆき、われ抜歯してもらふ。 帰り市村『支那史要3冊(150)』佐伯で買ふ。依子、友だち訪ね、史、山へゆく。 10月31日(日) 雨。礼拝にゆく。ハモンドオルガン近江兄弟社より来る。「宗教改革記念日」と。芝原生と帰りいっしょになり「11月2日13:00学校で」と約束す。 中川寿恵子氏より書類。畠山紀子ちゃんより「今年中会へず」とのハガキ同時に来る。 夕方、小山正孝氏より電話「『唐詩』二つに分け、1に李杜までを入れる」と。 11月1日 正午まへ柏井歯科へゆく(よべ痛み、薬のむ。)。志田不動麿氏より礼状。「兵庫県三木市に住む」と。(※省略) 11月2日 10:30柏井歯科へ痛み止めにゆく。帰れば「芝原生より電話ありし」と。 こちらよりかけ13:30と約束し、文化祭にゆけば、大藤、鎌田、野口の諸氏に会ふ。 民俗学の人形展見てSCAにゆき音楽ききながら芝原生を14:00まで待ち、成城堂で山岸外史『人間太宰治(200)』買ふ。つまらず。 22:00すぎ田中順二郎君より電話「湖東兄奔走、たぶん8日に入院出来やう。同じ日小児科学会にて上京。11:00、towerへ来る」と。(※省略) そのあと藤井寺に電話すれば艶叔母承知しをり、坪井の住所聞く。そのあと眠れざりしも薬のまず、さむれば10:00近かりし。 11月3日 明治節の常とて午前中晴る。午、佐伯へゆき『ハイネ(60)』、『孟子集註(30)』、『アメリカ発展史(60)』買ひ来る。 林俊郎より電話「14日15:00、42才の厄落としの会する」と。けさ文学散歩の会より電話で通知ありし(11日雑誌会館?)。 11月4日 晴。西川英夫より電話「松本健次郎上京、第一ホテルに在り。今夜17~18:00連絡せよ」と。 「岩井大慧博士退職慰労会を12日(金)13:30~16:00学士会館で」と。 本位田保護局長に電話し「ノリ子君たのむ。松本健次郎に逢ふ」と。 16:30出て第一ホテルにて45分まてば、松本dr.帰り来り、ともにbeer小壜3本とつまみとおごり、本郷並びに浅野建夫邸への地図かく。19:30別れて帰り来る。 (けさ読売新聞より電話「田中克己博士の反戦論の批判」を12、13日までに4,5枚かけと。「見せれば承知」と答ふ) 夜、田中雅子夫人に電話すれば「湖東dr.7日(日)11:10東京着」と。 11月5日 川崎菅雄より「本受取った。第2信も見た」と。手塚隆義氏より礼状。 9:30浅野邸へ電話すれば夫人出「客中」と。「松本ならん」といへば呼び「今ついた。本郷へは川崎が自動車で送る」と也。 泰、はじめて散髪し、みっともなくなる。12:00出て成城大学。 3文化史とのみ話す。「近々卒論のテーマきまるにつき東洋文化史の場合は注意した」と大藤教授。 (よべ1服半のみしゆゑだるし)。けふ植木屋来て生垣植木の刈り一日にてすます。 11月6日 晴。植木屋すみ、きれいになる。小高根二郎氏より「同人費受取った」。読売より「田中克己博士批判の材料送る」と電話。 午后柏井歯科へゆく。『キリスト伝説集(60)』、『日本国家の起源(90)』買ふ。後者は研究室にあるらし。 ユと依子・泰にて「兄宅に来る」といふ諏訪父に会ひにゆく。18:00ユのみ帰り来り「会へず。依子まだ待つ」と。 花井タヅ子夫人より「28日女児出生」と。19:00依子帰り「父君キゲンよかりし」と。 夜、速達にて田中博士の「戦争は人類の素質を低下させるか」を送り来る。同博士に電話す。 22:30田中雅子夫人より電話「あす11:30東京towerへ来い」と。 11月7日(日) 礼拝にゆかず。(よべ眠剤久しぶりにのみしも眠れず)。ユ1,500置きて出てゆく。『科学読売』速達にて来る。 森亮氏より電話「東洋文庫の都合月曜22:30聞く」と也。松村潤氏に電話すれば「文庫へゆきし」と。 文庫に電話し「火曜の案内よろし。三田村博士に本預けをる」ときく。10:00出て新橋。 busののりば変りをりしも11:30東京towerにつき、幹部応接室にて待つ中、子ら雅子ら来る。湖東「taxiひろへざりし」とちょっとおくれ、 われに「岩おこし」呉れ、食堂にて会食。(順二郎氏、部長になりをり。「新潟の次女に孫生れ、この間はそっちへゆきし」と)。 浅野、矢野、倭の電話教へ、会場にゆくtaxiに便乗、赤坂見附で下りて地下鉄。「うつぎ」で『菜花集(350)』、『世範(100)』買ひて帰宅。(※省略) 11月8日 6:40起されて8:30登校。松崎妹来ず立ち往生し、1時間目おくれてやる。(※省略) 栗山部長の許へ相馬生につき問合せ来をり。 帰り同車せしは野村生らしかりし。帰れば三治夫人より「練馬に来た」と。(※省略) けふ帰り『秘められた文学(250)』、『蘭領印度史(200)』買ふ。後者はなくなりをりたればうれしかりし。 三治夫人、福島富士子氏へたより書く。けふ川久保より電話「あす朝電話せよ。講談社の成田節夫氏急死せし」とありし由。 11月9日 よべ2:30、1服のみ9:00起き、川久保に電話すれば、雨中来る。 「松本善海よくなきらし。成田君は8月26日阿佐谷駅で倒れ、通知ありしは9月末」と。三田村泰助氏の抜刷返して帰りゆく。 折しも「大安」来り、青木母嬢の11月3日上海出しのヱハガキ来る。『果樹園』も来しゆゑ1冊わたす。「あす水戸へゆき、あさって帰宅」と。 13:00出て成城教授会。(※省略) 帰宅。 海老沢博士より『Epistola』2冊来をるのみ。 けふ新宿にて『続日本の戦歴(350)』買ふ。夜、湖東、高輪prince-hotelより酔って電話かけ来る「雅子よき嫁、汝人間dockに入れ」と也。 11月10日 晴。よべ眠剤のまず。全田叔母より「天理教本部へ行ってつかれた!」(※省略)  斎藤dr.に会ひ「快調」申上ぐ。帰り「うつぎ」によれば『民間伝承』6冊を600と。借りて帰る。 午后散歩に出「うつぎ」に600もちゆき、海老沢博士に『ゑぴすとら』の礼出す。(けふユ、年賀ハガキ200枚、弓子も200枚買ひ来る)。 15:30船越章来り、話すうち小山正孝君来る。「岑参・王維を李杜と同巻にせよ」といふ。 (けさ和田賀代女史より電話「28日法事す」と。「中川夫人によき候補者あり」と。) 22:00すぎ、森亮氏より「2日間、松村、岡田2氏の世話になった。今回は会へぬ」の電話。 11月11日 今朝より寒し。集英社より『世界の名詩』再版3,000部(計18,000部)と通知。 11:30出て登校。昼食一口食って教へ、弁当食ひ了へ教務前田課長に「相馬弘の調査書」たのむ。 鎌田女史より『成城文藝』への原稿「400×42」受取り、佐野教授の室へもちゆく。成城堂にて『路傍の石仏(280)』買ふ。 20:00すぎ大江叔母より「2~3日で退院。湖東博士見舞ってくれた」と電話。 11月12日 よべねつき悪く9:00すぎ覚む。(※省略) 11:30成城大学。13:00まで講師室にをり、百瀬甫先生より「史の相手につき条件」きかる。 短大40分ですまし地下鉄で本郷3丁目。学士会館に15:00つき、席なく会費払ひしのみ。同級生は岡部のみ。挨拶せしは青木富太郎。 15:30すみて早々地下鉄にてお茶の水。国鉄にて新宿、地下鉄にのりかへ16:20帰宅。 明武谷の勝つを見し(二横綱、一大関を倒す)。けさ10:00までに「神のみぞ知る」を書き『科学読売』へ速達す(70)。 11月13日 史、よべおそく帰りし故、久しぶりに1服のみて眠り、9:00覚め、飯くひて東洋文庫。 田川氏の購読にて神田、松村、岡田、岡本氏ときく。すぐ出て新宿にて昼食(130)。帰宅すれば『Biblia』、『らまんちゃ』来をるのみ。 (けふ松村氏持帰りの三田村博士『清朝前史の研究』受取る)。友田マリさん長女つれ、史へ「27の医師の女の写真と吊書」もち来り、梅酒多く賜ふ。 散髪にゆく。夜、小山正孝氏より平凡社の本『初盛唐』と『中晩唐』に分けよとの意見通った旨、電話あり。 11月14日(日) 礼拝にゆく。帰り『ダビデ(30)』、『ソロモン(30)』買ふ。13:30出て新宿。Ham(900)買ひchocorate(100×3)買って生田へ15:00着けば母をり。 大江叔母の入院のこと知りをり。やがて難波夫婦来り(「寿一出張」とて寿賀子のみ)、青木夫妻を最後に俊郎の42才の厄払ひをす。 18:30、taxi呼び母と3人のり、渋谷で下し駅まで1,140払ふ。帰れば澄来てをり。万歩計を賜ふ。 夜、湖東dr.より電話、 「叔母訪ねれば退院してゐたのでKarte見れば腎臓悪く、血圧は高低あれど患者主治医の高低なしとの方を信じゐる。 検査を肯んぜざりし足は脱疽か。目も殆ど見えず100m歩くに困難す。あまり心配しすぎるな」とのことなりし。 11月15日 登校。2時間目の年中行事早くすませ、栗山博士より『史記』につき質問受け、出て家に電話すれば依子まだをり。 (白鳥氏に会ひ「近々父君お見舞す」といふ)。14:00東京駅につけば、下の控室に祖子孫4人をり14:16上に出、新幹線ひかりの1等に乗せる。 最後には泰笑ひをり。(※省略) けふ歩度計1,100歩となりをり。 11月16日 曇。よべ早くよりよく眠る。大江叔母より速達「湖東のところわからず礼速達せよ」と。すぐ両家へ速達かく。(※省略) 成城より電話「三橋氏死去、けふ通夜、葬儀あす」と。体育の停年講師なり? 11月17日 曇。ユ、俊子姉のところへ高子(※阜子たかこ)の生みたる女児の祝もちゆく。三田村博士へ受取かく。 11月18日 寒し。ユ、渋谷へゆく。11:00出て成城、「前期の成績くれ」と田中滋生いふに、教務にゆけばなるほどあり。 弁当食ひ、これ5枚わたし、漢文すませてまたくばる。 白井紘史来り待ちくれしゆゑ、coffeeおごり「月給3万以上26才」といふに、家へつれ帰ればユ、まだ帰らず。 駅まで送り出し「今年中に一度来よ」といふ。 11月19日 寒し。弁当もたず小高根家へゆくユと経堂まで同行。うどんとってもらひ13:10より『唐詩選』やり10分前やめる。 (大藤教授の説に「1人東南アジアの神話やる子あり。白鳥君が見る」と)。 けさ大に電話し「あす夫婦とてゆく」といふ。「小高根夫人、写真1枚かへしてくれ元気なかりし」とユの話。 けふ身体検査受け、体重39キロ。澄より電話「母子、変わりなし」と。けふは歩行計6百歩。 11月20日 よべ寝ぎは「母のところへ弓子、銀行やめて手伝にゆくつもり」ときき、眠れず眠剤のむ。 9:00起きしも頭痛く、マツさんに断りにゆき「渋谷へ参る」といふユを見送り、渋谷へその旨電話すれば「母ねてをり」と男の声。 (※省略) 山本より案内来しゆゑ『盛京通志(5,400)』、『吉林通志(18,000)』、『黒竜江志稿(14,400)』の注文す。「本まだまだ来をらず」と店主。 正午、柏井へゆき歯の治療。田中へゆき高子母子を見る。ついで荻窪まで歩き、歩行計の単位まちがへゐしを知る。 阿佐谷佐伯にて『天平工芸の研究(50)』(荻窪にて『名古屋(50)』)。ユ、帰り来て「母、大した心配いらぬ様」話す。 (けふ弓子に辞職のこときけば「渋谷の方、楽なり」と!)。ユに命じて「マツさんに断り」の電話せしむ。 11月21日(日) 礼拝、ユをしてゆかしむ。(よべ睡眠断続す)。年中行事のノート作りに1日を了ふ。 11月22日 よべ眠れず。眠剤なきゆゑ数男の痛み止めのみ(4:00)6:30起きる。登校。2時間やり、サラリーもらひ(77,600?)、成城堂に3千円払ひ、 弁当くって高橋、栗山2氏と話してのち、斎藤dr.に直行。北先生にして眠剤5服(弱しと也)たまふ。 Busにて渋谷、菓子買って大宅へゆけば、林叔母来をり、(※義母を)さすり呉れをる。医師来て「痛み止まらん」といふと。 大と母とに「夫婦して泊る」ことを求めらる。(大、下阪の4日間なり)。 busにて新宿。阿佐谷佐伯にて舟木『詩人ハイネ(2,500)』買ひ『淡路島全図(130)』買ふ。けふ大江叔母のこと話せし也。 11月23日 寒し。炬燵にねて『李朝実録』よむ。10:00すぎ弓子渋谷へゆき、ユ14:00帰り来る。 昼寐せしところへ章君来て「斎藤茂太博士の本おもしろし」といふ。その間、ユ昼寐し、16:00「バナナ買ひ来れ」との電話に渋谷へ出てゆく。 夕方、受箱に杉眞一郎君より「ホノルルにあり。29日サンディエゴにゆく」とのヱハガキ来あるを見、竹内夫人に電話す。(※省略) 11月24日 10:00出て柏井。(※省略) 渋谷へ12:30つき昼食す。母やや宜しきらし。17:00大、大阪へと出てゆく。われ眠剤もちひず12:00眠る。 (渋谷にて『よろめき歌舞伎(130)』、『マラヤのジャングル(50)』買ふ。) 11月25日 よべ0:00ねて9:00起きる(眠剤用ひず)。陽生より電話あり「けふ帰宅して千草に伝へる」由。 母の希望にてユ、井上病院へ薬とりにゆく間、母に話相手すれば痛み少なかりし様子。10:30出てsandwich買ひ成城大学。 研究室にて小川、古野2氏に会ふ。 けふまで成績表とりに来ざりし滝口生と山口生の家に電話すれば2生とも来り、家にては欠席しらざる様子なりし。 滝口母14:00すぎ来り「わが子のことしらざりし」と。帰り東急会館にてむしずし(280×3)買ひて家へ帰る止める。台風接近の様子なり。 11月26日 よべ眠剤のみ8:30起床。10:00千草来る。けふは家に泊ることとして荷物もちて渋谷道玄坂を歩き 『古代ローマ散歩(140)』、『東海道昔と今(100)』、『印度の文化(100)』買ひ、しるこ屋にて弁当(80)買ひ、しるこ食ひて神泉より井之頭線にのり、成城へつけば13:00。 短大の講義すまし弁当食ふ。大藤教授「石田幹之助博士の古稀祝賀会に出し」と祝賀論叢見せらる。「鎌田重雄、挨拶をむりにした」由。 われに案内なかりしはふしぎ。成城堂で『アマテラスの誕生(190)』買ひ、よみながら新宿。柏井歯科こみゐる様子に素通りして帰宅。 京、まだ帰らず。「ララミー牧場」見、「チコちゃん日記」見て渋谷に電話すれば「母宜し。林叔母も来し。あすの帰宅は夕方すぎ」とユ。 (※省略) 澄より電話「泰、元気」とありし由。(※省略) 『果樹園』にと10×200書き了ふ。 11月27日 よべ久しぶりに家にねしせいか眠剤2服のみしもあまりきかず。うとうとして8:00おこされ、朝食して。東洋文庫。 岡田君のみゐるを見て、東洋学術協会の会費(800)払ふ。松村君を最後に岡本、岡田、阿南、神田、宮原君とにわれ訓読す。 来年度『李朝実録』のcardと『清太宗実録』の2班に分かれるとのことに、われ後者に入るといふ。 (岡田君に「鎌田、今西きらひ」をいふ)。阿南君と出て新宿。天丼くひて別れ(けふ文庫入口にて写真とってもらひし)、busにて柏井。 あすの会者8人と。帰り『人類の誕生(50)』買ひ、佐伯へゆけば『二十五史人名索引』あり内儀900にまけてくれし。 (けふ岡田君にしらべてもらへば「石田博士の頌寿記念費」われ出しをり)。 夜、澄より電話「6:00まで泰、眠るやうになりし」と。「乳母車代送る」といふ。 11月28日(日) よべ眠剤のまざりしも眠れ(時々さむ)、8:30起され礼拝にユのみゆかす。オルガン献金第4回(5千円)を献じて終りとなる。 「12:00高円寺駅出口にて待合せ」とのことに途中、古本屋見『国史眼7冊(200)』買ひてユと会ひ、根津会館といふにゆけば13:00よりと書いてあり。 13:30寺より三郎、数男夫妻、船越ソノ子と賀代女史と来り、われらにて7人。岡山幸伯母の17回忌(「岐阜にてはマゴマツリといふ」と三郎の話)。 挨拶われし、14:00すみて小金井墓地へ数男の自動車にてゆくといふと別れ、酔ひざましにKrauss『日本人の性生活(350)』、『ユダヤ人(50)』買ひ帰宅。 歩行計全くだめとなる。千草の肝いりにて「知合の家にかかりつけの家政婦」呼ぶこととなりしと。 11月29日 よべも眠剤。ユの話によれば「このごろ躁」のよし。「2か月毎に来る」と也。いつもの如く8:40登校。9:00よりはじめ昼食せずして出、 成城堂で『原始宗教(250)』買へば、『杜詩5』出しといはれる。 新宿でライスカレー(100)食ひ斎藤dr.にゆけば「当分月火水の3日は診察受付午前中」と。 婦長さんにいひ眠剤2服もらひ、渋谷の母にゆけばユ居り、千草のいひし家政婦「一目見て逃げし」と。母の代筆、咲耶と広崎皋吾氏とへし帰宅。 (※省略) 青木大乗氏より中国旅行画展の案内来る。 11月30日 炭屋の払ひすむ。森米子より「classmate脳卒中で死にし」と。「渋谷へ電話せよ」といひやる。残金2万円しかあらず。 白井紘史君の下宿へ「連絡せよ」とハガキ。便所汲取代280。炭代690。ユに電話すれば「けふ家政婦来り、あす朝は帰る」と。マウさんより電話。 11:30出て電力社へ1,623払ひ、電話局へ2,058払ひ、松本健次郎へ約束の中野清見の本送る(50)。「家のあり金1万円にてこれでよし」とユの話。 成城(新宿でライスカレー100)庶務課へゆき「半年の定期の証明するや」ときけば課長不在にて「さあ」と也。 14:00までcardやり、野田宇太郎に「文学散歩の会費送る」といひ、教授会に出れば長々とつづく。 「理事長ケガし、bonusの決裁まだなく10日に出る予定、2倍が最低」と也。いそぎ帰り「ララミー牧場」見る。 留守中薄井氏来り「白楽天の改装2千部のための印を」と印紙おきあり。けふ美智子氏皇太男を産む。重さ3kiloと。 12月1日 よべ眠剤のみ8:00まで眠る。9:00渋谷に電話すれば「そろそろ帰る。大は今夜」とユ。10:00出て斎藤dr.。「来週は13:30まで受付」と。 院長先生に躁状態申上げ薬変へていただき、帰ればユ、をり「母、おとなしくなりしも20:00になれば家政婦休ます故、夜ゆく」と也。 (※省略) 薬のせいかねむし。「大江叔母、歩きまはってゐる」由、「咲耶とこの姑も大したことなし」とユの話。けふ散髪。 12月2日 よべのみし薬にて眠剤いらず。喜びのみて帰り来しユに印おさしめ、出来上りし故、集英社に「とりに来さしめよ」の電話し、 11:30出て新宿で天丼。そのあと薬のみて登校すれば眠くてたまらず(薬のせい也)。 歯の間より声もれて早々にやめ、渋谷へ眠さ抑へてゆけば、林叔父をり、挨拶ききて出て帰宅。 眠り30分、(※省略) ララミー牧場見、夕食後くすりのめばまた眠く、入浴もせず8:00眠る。0:00さめて自ら湯をわかし入浴す。 (けふ900×6=5,400を定期代補助としてもらふ)。(集英社薄井氏16:30来りしも会はず「3,300のこりし」とは電話の時の話なりし)。 12月3日 豊田博士よりお歳暮に炬燵のかけぶとん賜ふ。ユに定期券買ひにゆかす。豊田御夫妻に礼状。『東方学31』着く。 12:00昼食すませて出、研究室にゆけば大藤、鎌田、野口の3氏にて「今井富士雄氏、山内講師とも合はず一般教養のみにする。栗山氏も同意見」。 われ黙ってきき、短大の『唐詩選』すませて早々と三越へゆかんとすれば豊田美智子生をり、新宿まで同車。(※省略)「父母君へよろしく」といふ。 青木大乗展にゆき「郭沫若氏に会ひ夫妻にてもてなし受け、詩かいてもらひし。行先は広州、桂林(肇慶?梧州?)、北京、杭州、蘇州なりし」 を写真みて説明受け、菓子もらひ、しるこ食ふ。16:00出て急ぎ帰宅。夕食してユを渋谷へゆかす。「熱海へ母と家政婦とゆかさん」とユの案。 (けふ印刷屋へ賀状400枚の印刷たのむ。1,920?)。 12月4日 家居。歯、気になってたまらず斎藤先生の薬のみて臥床。依子より「泰もてあそぶやうなりし」と。服部三樹子女史より「帰郷した」と。 詩集『詩人学校』、志田不動麿教授退職慰労会より精算書など来る。午后、柏井へゆけば「前歯この間ぬけしが根のみ残りをり」とぬいてくれる。 佐伯にて『三浦半島』もらふ。契沖筆『山家集』といふを見せらる。夜、豊田夫人より電話。 12月5日(日) 久しぶりに礼拝に参る。(よべ歯痛の薬と眠剤と両方のみてよく眠りしもまだ眠し)。 齋藤齋先生に遭へば「アメリカ籍の台湾の教へ子に会はせたかりし」と。名店会館で雲呑くひ(70、まづし)、歩きて竹内邸へゆく。(※省略) 起きてをり「夫人全快内祝に出てゐる」由、いろいろと話し、busにて帰宅。服部三樹子、井上多喜三郎などにヱハガキ。 帰りて『堀辰雄全集』につき加藤俊彦夫人に電話すれば「姉にきかん」と。われ「きく」といひて電話すれば留守。 渋谷に電話せしむれば「明後日より熱海へゆく。林叔母つきゆく。準備にあすユ来れ」と也。夜になりて躁状態ひどくなり困る。 12月6日 よべ眠剤2服のむ。頭痛し。ユに『果樹園』へ2千円送らすこととし、出て2時間すます(閻魔帳見当らず)。 「春の旅行費用2万5千円か」と委員の話。 「chorus部、杉並講堂でやり、呼んでくれる」と臼井教授。「名古屋公演を23日に」といふに高垣金三郎君へ紹介状かく。 スワにも云ふこととなる。柏井歯科に寄り帰宅すればユ、「母と叔母10日、あと11日ユゆき13日弓子ゆく」と也。 気分悪しき故、入浴すればやや直り、角川へ『堀辰雄全集』9回たのむ。(けふ成城堂にて『アフリカの創世神話(300)』を買ふ)。〒なし。 (弓子「3月前に予告せし辞職を父の反対でと、とりやめにし、許されし」と也)。(七日目に「礼宮文仁親王」と命名と。) 12月7日 堀多恵子夫人に電話「今も昔も変也」といふ。白井紘史に電話「あす夕方来る」と。年賀ハガキ400枚出来しをとり来る(1,900)。 筑摩の東博氏へ電話し『鴎外全集』あと4冊送り玉へ、清算はする、といへば「保田上京中」と。 山本書店に電話すれば『吉林通志』など3冊、年内は来ずと。今井(松浦)翠夫人に電話し「土曜に花ならひに来る妹(※美紀子氏)来させよ」といふ。 松本健次郎より「西川重役的だった。神経質やめよ」と本の受取。 佐々木アヅサ『さるのキヤッちゃん』、堀口太平詩集『雁かへる』来る。12:00前、母に電話す。アヅサ、太平2君にヱハガキかく。 躁の微候なり。澄より電話「泰ひとみしりす。依子痔となりし。chorは社会性もたせれば」と。 12月8日 あさ眠し(よべ眠剤1服)。10:00ユ誘ひて斎藤dr.。「あと1週間ゴマかします」といひ、薬ゆるめてもらふ。 busにて渋谷、東横にてbacon(210)買ひ、 大に会ひ「母、近々わが家に移り(「荷を倉庫に預ける」と)、大自らも地下鉄荻窪線の沿線のapartに移る」ことと決める。 離婚のことにて4条いひしもよくきかず。13:30出てbusにて新宿、われのみbusにて阿佐谷車庫。キムチ漬(30)買ふ。 柏井歯科に入歯の型とられて帰宅。(『昭和の横顔(20)』、『神兵に非ず(30)』、『中国四国(30)』を買ふ。) 17:30白井紘史来り「2~3年結婚の気持なし」と。大阪の父に電話すればすでにこの話ききて意見のべし如く、我の狂せしをも知りをり。 19:00帰りゆく。渋谷国忠氏へ送金状(3千円)。 12月9日 よべ眠剤1服。12:00眠り8:00覚め、湿疹の治療に井上病院にゆき11:30成城大学。 エンマ帖、講師室に置き忘れしことわかり、講義20日ありとわかる。会計課にゆけば「保険証もち来れ」と。 臼井教授に名古屋のこといへば「印度神話が基本となりをり」と。われ『アマテラスの誕生』に感心したこといへば冷笑さる。(※省略) 帰り成城堂に『大漢和辞典』の予約と教科書とのこといひ、新宿でまた汁粉くひ、阿佐谷でink買へば50となりをり。 『出門一笑(90)』買ふ。大江叔母より「エノケンと同じ病気(※脱疽)なれど切らずとよからん」と。(※省略) 筑摩書房より『東アジア文明の変貌』500を4版にして1,140-114送り来る。林叔母「熱海より帰った」と電話。 ユ、「けふ吉祥寺の村岡夫人にノリ子ちゃんの写真わたせし」と。大へ電話し「後悔した。帰れ」といってみよといふ。 夜、スワ賢夫人明子に「中部テレビ(※名古屋テレビ)のところしらせ」の電話かけしに「知らず。夫に聞かん」と。田上生にも電話し「遊びに来よ」といふ。 12月10日 スワ明子夫人より電話「わからざりし」と。大江艶叔母へ「足切らずとすめばよし」とヱハガキ。賀状「オ」まですむ。(よべ眠剤2服)。 万年筆忘れて登校。(昼食にうどん食ひてゆく)。会計課にゆけば用すまず(「先生お疲れの御様子」と主任の女史にいはれてくさる)。 短大2Aに「けふにて了り」といへば「あと1週あり」と。疲れて講義すませ、野口君に誘はれてbonus(16万円余)もらひにゆき、 chorus部の女生との約束忘る。いつもの通り新宿にてしるこ食ひしも疲れ直らず、数男へゆき歯1本入れてもらひしも同情せず。 元気出て荻窪までbus。古本展にゆき『世界風俗志(350)』、『絵図石頭記2冊(500)』、『文選索引1,2(700)』買ふ(『文選索引』は端本なりし)。 出て岩森支店にて『天山紀行(130)』、『古代社会と思惟(170)』買ふ。 駅にてbonusのありかわからずなり、阿佐谷駅にて「切符失ひし」といひ、あやまりにゆきて見付ける。 家にては京「数叔父さん(※数男)に電話せよ」と心配しゐし由。 12月11日 よべ1服のみ8:00さめし故、むりして東洋文庫。(ユその間買物し預金し、母よりもて来との(大より電話あり)物もちて熱海へゆく)。 松村君、入学試験にて忙しく(「鎌田の代りに問題作る」と也)、11:30すみ、『不二』を阿南閣下(※阿南惟幾陸相)の霊前にと阿南君にわたし、 ともにそば食ひて別る。新宿にて『北京篭城日記(450)』買ひて帰宅。 昨日けふの買書のcard造り14:00となりし故、電話して松浦美紀子生に駅前に来てもらひ、今井邸へゆく。 敏ヒロちゃん美しき児なり。(※自分の)癌neurose聞こえをり。 16:00まで話して帰り、気がつきて「14日の杉並公会堂のコーラスに美紀子生誘ふ」電話かければ「すでに帰宅せし」と。 書留速達にて「遷界令と五大商」の校正来る。 12月12日(日) よべ12:00、1服のみ8:00さめ礼拝にゆく。芝原生と帰り一緒にといひしも青年会にてだめ。 (行きの電車北沢長老令姪と同行するに同車、史の嫁のこといへば「あり。近く書類送らん」)。 代りに田口祥子嬢さそひて喫茶。書店にて『わが愛する詩人の伝記(110)』買ひて帰宅。矢野より七丘会の写真来をり。『果樹園118』来をり。 船越章来り『鴎外伝』に「後藤末雄博士に会はん」と。帰りがけ「金借りる」といひのこす。 けふ弓子、熱海へ代りに出、午后、史、林叔母へと出てゆく。矢野、藤本時喜子へヱハガキ。咲耶より「母同居たのむ」の手紙。 「遷界令と五大商」夕方校了。けふ名刺注文。 ユ、18:00帰り来り「弓子と入れ違ひになりし」と。 大の電話は「金もてゆけ」とのことに6万円もてゆきしに「足らず」といはれし。 火曜、咲耶来り1泊。「水曜1人で帰京、渋谷にゆくつもりらし」と。 林叔母に電話して史への礼いふ(あとにて注文ききしのみとわかる)。ユを呼びて「千草と母との仲介せん」と也。 12月13日 6:40起され、速達忘れて登校。1時間目すませば(※省略) 「あす教授会のあと忘年会を新宿で」とはじめて知る! 成城堂にて『カラコルムへの道(200)』買ひ、 下北沢の大地堂にへ久しぶりにゆき『玄奘法師西域紀行(520)』、松田『東西文化の交流(300)』と『長安汲古(10)』と買ふ。 柏井へゆけば「明後日の午后、歯できる」と也。ユ渋谷へゆき金はもらへず「水曜咲耶と3人にて母の我家へ来るをすすめよ」と云はれしと。 電話すれば「咲耶と2人にてもはや了解ずみ」と大の話。ユに章「3千円貸せ」といひ「貸した」由。 吉祥寺女子学園の記念号、京もち帰り、見ればわれ何も話しをらず。(けふユを斎藤dr.。にゆかせし。眠剤1服もらひ来らしむ) 12月14日 よべ12:00、1服のみ7:30覚める。 出んとして焚火しゐれば章君「X’masおめでたうをフランス語にてJe(Nous) vous souhaite(-on)mon(notre) Noël!」と教へ来る。 出しところにて戸田謙介氏と同行、われ朝2枚かき11枚とせし「コギトの思ひ出(40)」速達に。戸田氏も速達出す。 (「中に何も入ってないでせうね」との局員の言葉に「それを云ふは失礼」と咎む。躁症の傾向あらは也)。 戸田氏に近々伺ひ『民間伝承』の欠本いただくといへば「宜し」と也。新宿三丁目下車(定期券忘れし)。 伊勢丹にて斎藤先生へScotch Whisky1本(4,800)とり、栗山部長に白鶴一樽(2,400)を送らしむ。この酒は先考の好みし物なり。 斎藤先生に「冬休み中に治しましせう」といはる。眠剤6服(600)いただき、ユと別れてきしめん(80)食ひ、 成城大学会計課に保険証見せ、教務に試験届すます。(図書館より『史林』の研究室貸出しを大藤主任教授にいってもらふ。「館長と相談する」と也)。 明治書院と中央公論へ来年度の教科書採用をいひ「大丈夫」とのことをきく。 14:10より教授会。専任にわが好かざる堀川博士採用ときまる。成城堂に教科書のこといひ、(※省略) 出て時間つぶしに紀伊國屋にゆけば、今井富士雄氏「もうお元気ですか」と。 17:30西口会館「隨園」といふのにゆけば、席マスコミのところとなる。(※成城大学忘年会) ここに『日本浪曼派』好むといふ青年講師あり「南北社より保田選集出る」と。 この間の会は三島の名出し如く「同じ左派にして西島大とは酒のみしことあり」云々。「近々遊びに来たまへ」といふ。 けふ痔の手術せし栗山博士、酒のみをり。「しらずして酒贈りしも飲むな」といひ、 高田君より「歯を入れよ」、大藤氏より「元気になられましたね」ときき、service了りて20:00帰宅。 けふ京、風邪にて留守番し『鴎外全集』4冊受取りしと。東氏わざわざ持ち来りしが如し。小山正孝君より電話ありし故「留守」といひしとユ。 「田中順二郎君より歳暮賜ひし」と。20:00神田信夫君に電話せしに不在。夫人に「来年の研究日きまれば教へたまへ」との伝言たのむ。 12月15日 よべ1服のみ、8:00起き「青山博士より電話ありし」ときく。お宅へかければ「中大のdemo騒ぎに6:00より出てゐたまふ」と。 9:30かかり「聖心女子大のことにてあさって15:30参る」こととなる。小山正孝氏に電話すれば「『唐詩選』のことにて日を改めて来る」と。 10:30出て新宿よりbusにて渋谷。咲耶をり「母来るは暮前」となる。大にきけば『結婚入門』くれしは石川弘義(社会心理)講師とわかる。 咲耶にも紀子ちゃんの縁談たのみ、讃岐の令嬢のことたのみして13:00出、伊勢丹にて乳製品(800)買ひ、14:15竹森先生のお宅へゆき今年の御礼申し上ぐ。 出て村岡夫人(誠氏が夫君と)にノリ子ちゃんのこと改めてたのむ。1千円もらって西荻窪。 Christmas-card 30枚(300)と『愚者の楽団(50)』、『聖者の歴史(50)』、『民族学入門(50)』、『新漢和大辞林索引(50)』と買ひ、 阿佐谷まで来て気がつき柏井歯科にゆき左上の入歯し「当分ぬくな」といはる。 言語ますます不便となる。帰れば矢野君よりまたまたchocolate1箱。山田教授より『新潮国語辞典』賜ひをり。夜、Christmas-cardと礼状かく。 12月16日 ユ、婦人会へとゆく。俊子姉より「ノリ子ちゃんの写真ほし」と。本位田に電話せしに「よそへ廻りをり」と。 小高根夫人に電話し「とりにゆく」といふ。青山博士より「けふ来られぬか」と。「明日に」とお願ひす。 年賀ハガキとChristmas-cardと投函。(※省略) 中国文学の試験の指導し、古野博士と話せば「元気になりし」と也。 松崎女「青山博士より、やはりけふ来よと電話ありし」と。ゆけば「聖心の武庫川短大廃止となり、そこにゐる狩野直喜先生の孫君専任として来る故」と。 「主のおかげ」といひて出、小高根邸によれば応答なく急ぎ帰宅、「ララミー牧場」見る。(※省略) 夕食して杉並公会堂へchorusききにゆく。ミサ曲、聖歌多くうたひし。20:00中退。 (ユをして小高根夫人に訊ねしむれば「あす午前よし」と。筑摩東氏にも「あすゆく」旨、電話せし。) (けふ「武蔵野税務署より38、39年の滞納1万3千円にて差押えに来し」と。「明日明後日払ふ」といふ。) 12月17日 よべ12:00 1服のみて10:00さむ。11:00出て小高根家にゆき、ノリ子嬢の写真1枚とる。太郎君と20分話し出て成城。 35円のsandwich買ひ、学校へ着けば13:00。『唐詩選』の講義すまし臼井氏のchorus招待の礼いひ、まっすぐ筑摩へゆけば東博氏をり。 『鴎外全集』4冊の払ひし、『柳田国男談話集 正続』2冊買ひ、茶のむ。(中島大吉郎君来ず。) 一昨日来しは『ハイネ伝』書けよと也(400×300以上)。話して帰り「ララミー牧場」を見、疲れゐる。 「林叔母、千草に会ひしに云ひ分ありてきかず。日曜夫婦してあやまりにゆく」と也しと。けふユ、武蔵野税務署に13,500払ひしと。 12月18日 10:00さめ、パン。ユ、出てゆく。猿渡弘氏よりお歳暮賜ふ。神田信夫氏より「来年度も研究会土曜」と電話。 読売より稿料(5,000-500)。猿渡氏へ礼状。羽田夫妻へChristmas-card。野田宇太郎(『文学散歩』会費)、小高根二郎2友へ2千円現金書留。 郵便局より西荻窪、待晨堂にてChristmas-card30枚買ひ、荻窪よりbusにて柏井歯科。busにて帰り『文藝春秋正月号(120)』。散髪して17:00帰宅。 ユ、帰り来り、林叔母も来り、「大の家もつことやめ、千草夫妻あすあやまりに来り、猫1匹ももたず母6万円もちて正月前来る」と。 留守中、丸と高田宣武生より歳暮来をり。俊子姉の紹介の婿「長男にて寡父」。けふ貧血めまひ度々。Christmas-card 21:00、58枚了る。 12月19日(日) 22:00眠剤半服。8:00起されDr.WothoffへのChristmas-card、局へ出しにゆき切手25枚買ひて出し了る。 9:30阿佐谷発、教会へゆけばstoveのあと。唱ひて疲れ、帰りて飯せかし、ひるねせんとせし処へ「畠山兄弟来る」と電話。 重光22日帰省、博光君「初めてのbonus38割にて母にプレゼントし喜ばれし」と。「この間、六右衛門氏上京、本位田君に会ひし」と。 beer 3人にて1本のみ16:30帰りゆく。(博光君にwhite-shirt、重光君にhandkerchief等プレゼントす)。 渋谷国忠氏ならびに高橋元吉詩碑委員会より3千円の受取。(けふクリスマス献金5千円す。) 猿渡夫人より贈り状。栗山博士より受取。芳野清君より「喪中」と。「川端直太郎氏11.9永眠」と未亡人より。谷口夫人よりも喪中の通知。 母に電話すれば「千草夫婦わびに来ざりし」と。 12月20日 よべも22:00半服のみ、すぐ眠り7:00すぎ起され、8:45成城大学に着き、小使さんにカギ開けさし、2時間すまし、うどん食ふ。 みな卒論出せし様子。(※省略) 成城堂にて『朝鮮の役(570)』、『キリスト教とイスラム(480)』受取りて帰る。南阿佐ヶ谷にて雨晴る。 川端直太郎未亡人小ゆき氏に弔状かき、賀状かき「サ」まですむ。硲君へのChristmas-card切手貼り忘れ返り来る。 けふユ、区役所に滞納税軽(15,040)払へば「2期分にて12.31にまた払ふべし」と。浅野建夫博士より全快祝来る。 船越章来り、帰りユに「3千円あす返す」といひしと。哀れ! 12月21日 よべ久しぶり眠剤のまず。渋谷より電話、ユすぐ行く。 われ11:30出て(六百田幸夫『転移の記録』といふを贈らる)、成城へ13:00つき、本のcard整理す。 16:30まで時間つぶしに困る。栗山部長を最後に篠原、穂積、山田(初等校長?)、佐山祐三の諸職員と岡田正社長経営の横浜西口の料理屋にゆく。 料理まづく話相手なく(※省略)、佐山君ふり切って駅に出、新橋より地下鉄にて21:30帰宅。靴まちがへをり岡田家へ電話す。 集英社より『白楽天』の売残り1冊来り、吉森夫妻NewJerseyよりChristmas-card。(※省略) 母、動く気なしとわかる。 けふ成城堂にて『古川柳(150)』、『大阪(230)』、『日本の祭(230)』買ふ。大藤氏「眼底出血にて2,3日安静」と。鎌田女史見舞にゆく。 けふsalaryのほか年末調整にて7千円余、返さる。をかしなことばかりなり。 12月22日 よべ1服。8:00起され9:30出て成城の事務局に靴もちゆき、(※省略)  斎藤dr.超満員にて12:00より13:50までまち「年内も一度」と申上げ、眠剤6服もらひて帰る。杉浦夫人より「娘可愛や」と。(※省略) 小山正孝君より「あす来る」の電話ありしと。植村清二先生より『教養としての中国史』賜はる。賀状「ト」まで書きて止む。(※省略) 12月23日 雨。京、渋谷へ手伝に呼ばる。われ賀状かき「ニ」までにて疲る。咲耶より「ノリ子ちゃんの候補2人(※省略)」と。 速達かきゐるところへ小倉慧子の祖母、物もちて来たまひ、史の写真と吊書(ユの字なり)もちゆく。大に「あす夫婦してゆく」の電話す。 15:00京、帰り来る。16:00すぎ小山正孝氏、平凡社酒井勝郎氏?と来り、「唐詩の訳(※現代詩訳)の例をつくれ(1.10ごろまでに)」と。 「初盛唐と中晩唐の分担を通じて(前野直彬氏に)もらふやう」たのむ。17:30小山氏、電話かかり帰りゆく。(※省略) 夕方より雨止む。六百田幸夫氏へ「九死に一生を祝す」と詩文集の礼。 12月24日 よべも眠剤のまず。7:00まで眠る。ユ、渋谷の片づけにゆく。(三井銀行の2千円切手おきゆく)。(※省略) 賀状「ヒ」まで書く。 (鎌田女史に電話してきけば「大藤教授心配いらず」と)。14:00京、帰り来り「成績下りし」と。(けさ校長先生へ『白楽天』もちゆかせし)。 白鳥邸へゆけば先生「右眼見えにくくなり玉ひし。奥様は高血圧にて病院へ」と。Christmas-cardおきて出、渋谷へゆけば16:00。 母「30日来る」と。(ユにきけば「昨日、大と喧嘩せしも30日、建上京を期待せる」也)。 森君をして伊豆の滝温泉に電話せしめしも話つかず、とりやめとなる。 「ララミー牧場」見て帰り、弓子の鶏食ひ、22:00Christmas-Eve礼拝にゆき、茶のむ。 北沢長老「史をみせよ」と。小室、田口2隣人の外、話し相手なく21:30出て帰宅。 12月25日 晴。よべも眠剤用ひず。澄より電話「泰、坐るやうなりし」と。(※Christmas-card 省略) 京、渋谷へ手伝にゆく。 田中順二郎の坊やへ雑誌、ユ送りにゆく。午めしに藷くひ、戸田謙介氏へ『民間伝承』の切れ本4冊もらひにゆき切手代1千円置き、 返り来れば赤川夫人挨拶にみえ、「寒山寺の軸」賜はると。折しも集英社より『世界の詩』6編重版印税(1170)来る。 柏井へ歯の治療とお歳暮もちゆく。(※省略) 佐伯にて『高崎博之 還暦記念(90)』、『太平記註釈2冊(90)』買ふ。 12月26日(日) よべ眠剤のまず。ねつきおそく覚むれば8:30。礼拝休む。(※省略) 小高根二郎君より「会社不況」と。 依子より泰の写真4枚来る。賀状50枚以上不足とわかる。午后海老原稔氏よりbuiscuits賜はる。 夜、丸木夫人より電話「喪は主人の祖母81才、正月来るやもしれず」と。 12月27日 眠剤のまず。8:00まで眠る。京、30日まで松本へskateにゆく。野田宇太郎氏より受取。木印造りたのみにゆく「29日出来」と。前金850円払ふ。 賀状「ヤ」の半までかき印刷賀状なくなる。不二歌道会よりbutter2ケもち来る。影山氏長男といふに挨拶す(23才と)。 永山光文より砂糖賜はる。吉森夫妻へ年末の挨拶(航空便)かく(80)。本棚の模様がへに疲る。 小高根二郎氏よりくり返し受取。柏井歯科にゆき「俊子姉に年賀ハガキあり」といふに寄れば不在。 12月28日 曇。眠剤のまぬ日つづく。8:00起く。俊子姉に電話、ユすれば「賀状30枚あり」と。賀代嫗より「けふ来る」と。 羽田夫妻(※羽田明)パリより年賀状!太田陽子夫人より愛息の写真!依子より夫婦へshirts着く。俊子姉より「賀状余りゐる」と15:00。 荻窪まで国鉄、busにて天沼3丁目。40枚分けてもらふ。「スミ子の餞別に洋服を」と。 柏井へ寄り17:00帰りて、近藤医師にゆきしユをねさしゐれば賀代嫗あらはれ「Permanent-waveかけて22:00帰りて泊る」と。 「俊子、数男にあすゆく」旨云はす。相馬勇一氏より苹果1箱贈らる。 12月29日 よべ久しぶりに眠れず3:00すぎ1服のみ9:00起きる。 大阪の山本治雄「上京、2児と紀尾井町のHotelにあり」と。「すぐゆく」といひ、四谷より歩きて見つけ11:00前となり荷物もちて出る。 丸に電話せしも「気分あし」といひしと。東京towerにつれゆきしも四面朦々。昼食し「神田の宿屋へ移る」といふに案内し都電にて新宿。 伊勢丹、中村屋にて買物。喫茶。中村屋の月餅みやげとし(矢野昌彦に電話さす)「国鉄水道橋でのれ」といひ(「あすZ機にて帰る」と)、 「ララミー牧場」見んと急ぎ、ハンコ屋にてハン出来上りし印肉買ひて帰宅。(※省略) 『東洋学報』来る。 母より「観念した」と。澄より「color-film送った」と電話。21:00賀状すむ。 12月30日 曇。11:00出て斎藤dr.。13:30診察受ければ院長先生(※斎藤茂太)。2週間分と眠剤7服いただく。「去年の年末とは大違ひですね」と。 キシメン食べbusにて14:30渋谷へゆき、大にtaxi呼んでもらひ、母つれて帰宅。 紅松一雄より電話「佐治氏在宅」と。「ゆく」といひ、菓子もちてゆき色々話して献金3千円置く。すし御馳走となり18:30帰宅。 夕食に茶漬くふ。(※賀状欠礼 省略) 12月31日 晴。8:00覚め、母と朝食。「文学散歩友の会」より2千円の受取。高橋尚子生鹿島鎗のスキー部合宿よりヱハガキ。史、渋谷へ留守番にゆく。 富士カラーフィルム買ふ(12枚どり270)。 田中克己日記 1966 【昭和41年】  昭和41年。この前後の年代、詩人が迎へるのは転機といふより、宿痾の躁鬱病と引き換へに手にした、ある意味人生の収穫期と呼べるやうな実りある業績と幸福の数々といった気がいたします。  詩人にして東洋史学者であった田中克己の才能は、詩才の面では文学的な出発と同時に絶頂を迎へ、「早熟の天才」と伊東静雄が畏れましたが、『コギト』創刊(昭和7年)の頃から『大陸遠望』を刊行したの昭和10年代の前半に極まっています。  社会的な名声は、その直後『楊貴妃とクレオパトラ』で透谷賞を受賞して以降の昭和10年代後半の時期、日米が開戦し軍属に徴用され詩集『神軍』が何千部も増刷(日本出版文化協会推薦)、 所謂皇国詩人として名を馳せた敗戦に至るまでの4年間余りといふことになりましょう。  その結果、戦後は中央詩壇から遠ざけられますが、詩に見切りをつけ、自分を導いた保田與重郎とも疎遠になり、学究の道を歩むこととなった再上京以後は、彼ら日本浪曼派の再興運動とも距離を置くようになります。 専ら『四季』とあった幸福な時間を大切にするようになるのです。  私生活はどうでしょう。若い頃から転職・転居を繰り返し、戦後は経験したことのなかった愛憎(不倫)の炎にも焼かれ、物質的にも精神的にも不安定な生活を、自分だけでなく家族にも強いたことは、田中家の皆さん誰もが苦々しく回想される所です。  しかしこれもまた、彼が現役詩人の看板を下ろし、宗教的改心を経、経済的に安定した教員生活に入ることで、物質的にも精神的にも安定した生活を、現世的な生甲斐と幸せとを手にするやうになります。 専門分野における執筆依頼も続いて、世間的に一番実り多き時代として報はれたのがこの頃、といふことになるのではないでしょうか。具体的にみてゆきましょう。  この年の初めより、義母との同居生活が始まり、見合い相手を探してゐた長男史氏が結婚して独立してゆきます。 夏休みには、学生時代に訪れた台湾を33年ぶりに夫婦そろって旅行し、台湾の楊雲萍、頼永承2教授に歓待されます。そして年末にはここ阿佐谷に定住(住居買取り)の意思を固めます。  文芸面でいふと、「田中克己」の名が世間に広く知られることになった『ハイネ恋愛詩集』が53版(刷)の末に改版されてゐます。 萩原朔太郎研究会の月報に、知られなかった詩人朔太郎の一面を伝へる回想文を寄せ、大手文芸誌『新潮』に載った「四季の人々」は、雑誌の目次最初に掲げられます。 そしてこれら気運の乗じた年末には、たうとう『四季』復刊の話が丸山薫を中心に持ち上がり、潮流社から発刊されることが決まります。  反面、良いことばかりではないのは、詩人の躁鬱症状は収まるどころか慢性化の兆候を見せ、自律神経失調症と思しき体調(胃痛)も現れてきたことでしょう。  癌で死んでゆく知人の情報に過敏となり、台湾旅行で初めて飛行機に乗るのに「遺書」を書いてるのは可笑しくもありますが、斎藤茂太先生の精神科への通院は、 日曜ごとの教会と共にもはや、詩人の精神安定のためには欠かせない儀式のやうにも思はてきます。  癇に障った編集者を追ひ返したり、長きにわたって連載してゐた『果樹園』の「コギトの思ひ出」を突然で中止してしまふのもこの年。 こちらは「地雷」を踏むと激怒し、臍を曲げる、この詩人生来の癇性(かんしょう)を表す出来事ですが、新たに加はった躁鬱病が以後、この癇性の恰好な「棲家」になってゆくのです。  中断した「コギトの思ひ出」の最後に本人が並べた、書かれずに終った章立ては以下の通り。 〇詩集西康省の反響 〇松下武雄の勇ましい死に方 〇保田を中心とする事変、戦争中のコギト 〇太宰治ら日本浪曼派とのつきあひ 〇蓮田善明、伊東静雄氏らの文芸文化との交流 〇佐藤春夫先生の師恩 〇中河与一先生との関係 〇徴用中の思ひ出 〇帰還後のわたしとコギト  まことに興味深く、詩壇にデビューしていろんな人々との交歓が始まる面白くなるところで途絶しまったことが残念で仕方がありません。  もっともこの途絶ですが、戦前の『夜光雲』日記が丁度途切れたところにさしかかったところで「もういやになったのである」と音を上げてゐて、 のちに『コギト』を復刻した際に書かれた解説でも、同じ昭和14年の個所に至って「もうシンドクなった。」と抛擲してゐます。  つまり思ふに、裏をとるべき資料を欠き、思ひ出す苦労が先に立ったから止めてしまったのかもしれないのですが、 当時の回想の前面に立ちふさがる保田與重郎のことが、この当時、年とともに気に障り、蟠りを募らせていったらしいことは、日記のなかで来訪者(保田與重郎信者)が口にする彼の名を、一々書き留めてゐることからも窺はれる気がします。 共通の師である佐藤春夫の追善会を欠席し、『保田與重郎年譜』を持参してくれた山口書店主に何故かイライラ。そして就職のために彼を紹介してほしいとやって来た訪問者には、直接「音信不通」を申し伝へて断るといふ仕儀に至ってゐます。  章立てまでして整理されたこれらの回想計画は、すでに『祖国』『果樹園』誌上で連載した文章、またこの年『バルカノン』から依頼されて書いた「文芸文化との交流」や 、先ほど申し上げた『コギト』復刻時の解説文でも折々にものされてはゐるのですが、同じ『コギト』同人であった小高根二郎による伊東静雄の評伝『詩人、その生涯と運命(昭和40年)』、 保田與重郎による『日本浪曼派の時代(昭和44年)』、伊藤佐喜雄『日本浪曼派(昭和46年)』、長尾良『太宰治(昭和42年)』のやうなかたちで彼の回想譚がまとめられ公刊されることは終になく、 没後あらたに原稿が篋底に遺されることもありませんでした。鼎談・対談の話者次第では、いくらでもエピソードが引き出されてゐるのをみるにつけ残念に思ひ、最晩年に謦咳に接し得た吾が力量不足に不甲斐なさを感じずには居られません。  さてこの年の初めには、その人柄を懐かしみ慕った詩人の井上多喜三郎が交通事故によって亡くなってゐます。 その直後、修学旅行付添の下阪時に京都の詩友たちと集まって彼を偲んでゐますが、詩人として最後の踏ん張りを見せた関西在住時代が、遠い過去になってしまったことも、同時に実感されたことでしょう。 この時には懐かしい“八木さん”と会ふこともありませんでした。別世界を生き始めた自分の道行きに、もはや動揺はなかったものと思はれます。  癇性は確かに若い頃からのこの詩人の名物でしたが、大学に根を下ろし、子供達も自立してゆくに従ひ、それによって自分や家族の物質的・精神的生活基盤が昔のやうにひっくり返ってしまふやうなことは無くなっていったやうに思はれます。 さきほどは棲家に譬へましたが、躁欝病といふ「一病息災」のもと、詩人は自分を護りながら余生を平穏に生き得たのだ、といへるのかもしれません。  この年の出来事を記します。 3月 9日 『月刊国民百科』座談会。なだいなだ、檀一雄ら6名と。 3月    夫婦して知人令嬢の見合周旋。また長男・次女の見合い相手も探し始める。 4月 1日 詩友井上多喜三郎、ダンプカーに轢かれ死亡(64歳)。 4月 6日 修学旅行の付添にて下阪。自由日に単独で天理、京都、倉敷を訪れる。14日帰還。 4月10日 依田義賢宅で、荒木利夫、山前実治と、録音テープにて井上多喜三郎を偲ぶ。 4月20日 徴用時の同僚(元毎日新聞社会部記者)田代継男と再会。 4月21日 筑摩書房の岡山猛重役(のちの社長)に対して癇癪をおこし執筆原稿とりかへす。 4月30日 佐藤春夫の「春日忌」に欠席。 4月26日 台湾旅行計画につき、斎藤茂太dr.の許可を得る。 5月12日 新潮社より「四季の人々」の執筆依頼。(『新潮』7月号に掲載) 5月14日 教へ子姉妹と途に遇ひ、妹の美紀子氏を家へつれ帰る。長男の史氏と後日正式に見合。 5月23日 NHKでクレオパトラの話を録音。(6月6日10:05「みんなの茶の間」にて放送)。 7月    『ハイネ恋愛詩集』25版を以て改版(3千部刊行)。検印廃止され12月には7千部を再刷。その後も増刷を重ねた。 7月31日 『白楽天』集英社 中国詩人選4 (新書版)を刊行。 7月10日 『果樹園』連載の「コギトの思ひ出」を28回で中断。 8月 3日  妻と台湾旅行。飛行機が墜落した時のため「遺言」を書く。9日帰還。 台北、基隆、野柳、烏来をめぐり、現地では楊雲萍、頼永承2教授に歓待された。 10月16日 長男史(ふびと)氏が別居・独立。11月18日 仲人に村上孝太郎官房長夫妻をたてて結婚。 11月14日 友人の照会に対して、保田與重郎との音信不通を伝へる。 12月13日 綱町三井倶楽部にて『四季』復刊につき相談。 出席者は丸山薫、神保光太郎、阪本越郎、田中冬二、大木実、小山正孝の諸同人と、潮流社から八木憲爾、長谷川氏。 この年、前年に入居した阿佐谷南の借家に定住の意思を固める。 またTV「おはなはん」と「ララミー牧場(再放送)」を好んで視聴した。 昭和41年 1月1日~昭和41年 8月 2日 (副題 躁記) 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 9:00賀状来る。みな阿佐谷あて也。15:00史、帰り来る。(※省略) 角川のHeineの印税28,800。母あての賀状10枚代筆す。『果樹園119』来る。(※省略) 1月2日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 賀状の返事すませ『戦争と日本人(100)』、『泰西本草及び本草家(40)』買ふ。(※省略) 1月3日 (※省略) けふの3人みなわが教へ子にして出身校別なるもふしぎ也。けふときのふにてcolor-film12枚とり了る。(※省略) 依子よりcolor-filmの泰2枚つく。 1月4日 よべ23:00史、鼻唄うたふ故叱る。半服のみ起きれば雨。(※省略) 14:00金沢良雄迎へにゆき『新大陸の神話(90)』買ふ。(けふ『白楽天』かきはじめる)。金沢「東大へ来り、北海道大兼任となる」と。 Beer2本のませ嬢にHeineもたせて帰す。(※省略) 1月5日 11:00母、大声で「どろぼう」とねごといふ。そのあと半服のみて眠り、史に「ことわりにゆく」といひ、10:30taxi駅前に呼びにゆく。 大、ふきげんにて女詩人をり「一度あそびに来よ」といひ、天ぷらそば食ひ、 渋谷の古本屋にて『Russia(150)』、『King-doctor of Ulitch(100)』、『When iron gates tield(180)』、『John Sung(100)』、『東南アジア(280)』買ひ、 busにて新宿。しるこ食ひ、豪徳寺前で下車。交番でききて萩原家へゆけば慧子をらず。 背低きをいひ「浅野にでも世話せんか」といひて出る。 帰りて「ララミー牧場」見をれば金沢夫人来り「長女の縁談せわせよ」と。増田忠氏にたのむこととなる。(※省略) 1月6日 晴。よべ眠剤のまず。(※省略) 京、あそびに出てゆく。『白楽天』10枚となりて疲る。(※省略)  佐伯にゆき『征清忠烈美談(30)』、『中庸章句(30)』、『浮世絵(130)』買ひ来る。母より電話あり大に出てゆけよがしにされゐる様子。 (※省略) 1月7日 ユ、母に電話すれば「また体痛し」と。(※省略) 『白楽天』かき疲る。(※省略) 1月8日 午前中、菊池眞一博士に電話かけしに研究所と。午后散髪。『白楽天』は七言絶句に入る。夕方、芳野清君来り、夕食してゆく。(※省略) 澄より夕方電話「あすあさって出張にて上京」と。 1月9日(日) よべ0:00、1剤のみ8:00起され畳屋来るとてわれのみ礼拝にゆく。(※省略)  喜多村生より電話「3月京大の梅棹君に会ひ『東南アジアの星の神話』やるつもり。父もゆきし地」と。17:00喜多村生帰る。 18:00澄来り、21:30竹内家に電話すれば「好、いねし」と。 1月10日 寒し。10:00澄出てゆく。(※省略) 『白楽天』七言絶句の作成順まちがひ書き直しとなる。 小山正孝君より電話、気乗りせぬ返事す。 1月11日 澄君10:00起き、めし食ひ、せかされて出てゆく。color-filmとる。この3日眠剤連服し苦し。簡易保険20万円に入る。(※省略) 1月12日 よべ眠剤のまず。『白楽天』七絶の書き直しす。11:00千円もちて出、成城駅ビルにてrice-curry(120)。 会計に扶助届出し、図書館に寄り研究室にゆけば鎌田、野口の二氏にて『民俗学雑誌』の発送に大はだぬぐ。 「大藤教授快癒せず、昨日卒論の副査きめし」と。 我2~3冊にて宜しきらしく、鈴木恵子の『日本庭園史の研究』もち、成城堂にて『犬つくば集(160)』とりて帰宅。 小山君より「15~16日に来訪」と。昼寝して気分よくなる。 1月13日 よべ0:00半服、11:00斎藤dr.にゆけば院長先生にて眠剤いただかず。 成城にてマカロニ食ひ(150)、漢文教へ、しるこ(70)食ひて帰宅。 棚町知尓氏より『資料と考証4』。漢詩大系の『王漁洋』来る。(※省略)  けふ大江の叔母より史の縁談いひ来る。母への咲耶の電話にては「讃岐の娘99%話出来ゐる」由。 1月14日 よべ2回に分けて1服のむ。(※省略) 集英社より『世界の名詩』3版と。11:30昼食して登校。(※省略) 『唐詩選』で初めて赤字出す。織田喜久子氏より『響8』来り、「安西冬衛氏勲4等を受けし」と。伊東花子氏へ礼の伝言たのむ。 (※省略) 菊池眞一博士に電話すれば「研究所へ来よ」と。 1月15日 成人の日。8:00覚む(よべ眠剤のまず)。9:00立教史学会より再校の速達来る。すぐやり10:00了る。 「堀口太平氏の詩集出版記念会2月4日」と。「欠席」の返事す。午后、小山正孝氏来り、見本かかさずして帰る。(※省略) このごろ空腹時に胃に刺激あり。佐伯で『ソ連紀行(30)』、『大学章句(10)』その他買ふ。われは幸せなる男と思ふ。(『白楽天』36枚な り) 1月16日(日) よべ半剤、8:00すぎ起きれば礼拝やすむ。(※省略) よべわが検せしに切手当りしは13枚、郵便出しにゆき『東京近郊ハイキング(60)』買 ふ。 (※省略) けふ本屋にて桑原武夫たちよみせしに「三好氏離婚の原因は朔太郎氏の末妹明子」と。 あす速達することにして大江叔母へことわりの手紙夫婦してかく。(※省略) ユ、史に談判して「別にさほど選り好みしをらず」と也。 1月17日 よべ2回にわけ1服。11:00ねて6:30起され登校。松村君と同車となり卒論の副査申出づ。 高橋邦太郎氏来り『成城文藝』出来上りをり、20冊わたす。 帰り船越章に会ひしに3m先にてまだ識別不能。危なきことかな。(※省略) けさ太田陽子夫人へ『文芸通信』の原稿速達し、大江叔母に写真返しなどユをしてなさしむ。「腎盂炎ほぼ良し」と近藤先生より云はれしと。 1月18日 よべ史「見合してよし」といひ、けさ「今月の日曜あきをり」といひしを萩原夫人と石井夫人に電話す。(※省略) 青木母嬢より『大阪朝日』(※「娘さんの見た中国」)の切抜。母、午飯にと大阪ずし持ち来り、当分来る気なきを示して14:00帰りゆく。ユ、新 宿まで送りゆきし。 1月19日 よべ眠剤のまず。10:30出て鎌倉。駅より電話すれば「退院・在宅」と。東横dept.にて果物(1千円)買ひ、昼食湯麺(70)。 浄明寺へbusでゆき「明日会議に呼ばる」ときく。 「御大事に」といひ帰りがけ夫人に「お名前かねがね」と云へば「卿の詩も知る。わが歌見せんか」とのたまふ。 駅前にて『元寇(150)』買ひ、賀代嫗に電話すれば不在。 まっすぐ帰り阿佐谷「うつぎ」にて『大学教授(20)』、『山中放浪(20)』、『完全なる結婚(50)』買ひて帰宅。 1月20日 晴。寒し(よべも眠剤のまず)。(※省略) 10:30出て成城大学。町の店休みにて野菜sandwich(35)買ひて昼食とす。(※省略) けふ大藤教授登学。(※省略) 丸に電話し「重俊君を28日午后面接によこせ」といふ。(※省略) 1月21日 7:00起き(眠剤のまず)『枯山水』よみ了へ、小山正孝氏に「16:00ゆく」といひ『卑弥呼考』よむ。 依子より泰の近況と写真。(※省略) 11:30昼食くひて出、卒論2冊返し、短大の講義40分にて了ふ。(※省略) salaryもらひ成城堂に払ひし、(※省略) 中教出版にゆけば小山正孝氏外出。 「大安」にゆき『中国人名辞典』、『中国文筆家辞典』、『讀史方輿紀要地名索引』たのみ、 われは『北京語語彙(110)』、『明季北略(150)』、『明季南略(350)』、『蠻書校註(340)』、『唐詩別裁(430)』と永山光文 の為『簡用字典(50)』買ひ、 出て小山君に会ふ。「Köln」につれゆかれ「短すぎる」と也。別れて『日本の東と西(250)』日本書院で買ひて国鉄、地下鉄をへて帰宅す。 けふ依子より泰の写真2枚来り「元気」と。澄の手紙入りをり。(※省略) 1月22日 (※省略) 10:00出て東洋文庫。神田氏ら3人のみをり、やがて田川博士を呼びて『李朝実録』よむ。あと2回にて止めなり。 出て渋谷にて野菜入り麺(130!)食ひ、本屋見て、外苑前の寺にゆき山田教授の名刺置き、お花料(1千円)置く。(※省略) 歩きて母に会へば大、代官山のHotelに住み「その荷物預れ。咲耶来りて始末す」と也。「預かる場所なく倉庫借れ」といひて帰り来る。 (※省略) 『Firenzeの歴史』2冊見て疲る。金沢夫人に電話「も少し写真貸せ」といふ。 1月23日(日) 8:30覚め礼拝休み、北京の年中行事のノート作る。午了る。 大江叔母より「史、好きな人あるのとちがふか」と。12:30出て、(※省略) 歩きて田中三郎宅へゆけば誰もをらず。 14:00ごろより食物出はじめ、われ写真とりしも旨くゆかず。和田統夫離婚の決心し、ついては家を我に売らんと也。 家より電話「木村繁喜氏来訪」と。「30分まちくれ」といひ、帰りて酒に苦しみ乍らキリスト教の話す。17:00すぎwhiskey1瓶おいて帰 りゆかる。 われ出て古本屋3軒歩きDanteの『神曲』探せしもなく、『人間の歴史6(200)』と『西洋史概説古代中世(100)』買ひ来る。(※省略) 1月24日 よべ22:00眠るため半服のみ『中国文学史』、『北京の年中行事(明代まで)』ともに了ふ。 鎌田女史「大藤教授の代りに何かいふゆゑ待たしおけ」と電話ありしに忘る。 あとにて「審査の際、根本問題は学生の前にて云はぬやう」と。何いふか也。 出て成城堂でDanteの『神曲(650)』買ひて帰宅。(※省略) 写真現像出来16枚写りをり。 1月25日 寒し。よべ2:00半服のみ10:00前起きる。ユ、きのふ渋谷の母のこと語る。(※省略) 11:30斎藤dr.に参り「胃の感じ」申上ぐ。「胃酸過多か」と也。1週間分いただき、出て新宿でrice-curry(100)。 成城堂で三品『大阪、今と昔(230)買ひ直す』。14:10より教授会。すみてまっすぐに帰り来る。 萩原夫人より26才の候補者。伊東花子夫人より「江川みきさんに伝ふ」と。(※省略) 1月26日 よべも半剤(0:00)。8:00すぎまでねて10:05着校。17:00まで昼食、1時間をおいて卒論面接。疲る。 咲耶より「28日上京」と。(※省略) 成城堂で『占星術(250)』買ふ。 1月27日 10:05着(よべ眠剤のまず22:00すぎより8:00すぎまで眠る)。ぶっ通しで面接了る。 あす丸、矢崎、浅田の3傑あり、書き加へさして31日には卒業ささんといふこととなる。 韓国出身の4年生と一緒となる(吾をまちゐし也)、卒業後あそびに来る。家業につくと也。けふ〒なし。(※省略) 『果樹園』原稿14枚とす。(※省略) 1月28日 よべ眠剤半服のみ8:00起き、成城大学へ早くつく。大藤氏をのぞき今井氏入れて面接。鎌田女史中心として了る。 丸、矢崎、浅田すべて3.31卒業となる見込。けふ午、浅田夫人来られしにより「頭良く家事出来、客の対応出来る」と畠山紀子嬢のこといふ。 10分余にて写真おきて退去。帰途、駅近くにて青山博士夫人に遭へば「見ちがへるほど血色宜し」と也。(※省略) 1月29日 晴。8:00起き(よべ半剤)、(※省略) 母と咲耶に会ふ。うなぎとりて食ふ。千草に説教せんといふ咲耶止め、 14:00地下鉄まで送りゆきしユの帰るを待ち写真現像たのみ、散髪(史の写真1枚とりしも同じくオヤジ顔なり)。 京に柏井までスミ子へ渡す写真もちゆかし、黒田夫人より「畠山家のくはしき血統教へよ」の電話受け、名古屋へ電話し、「この話とりやめ」といふ。 夫人「この間2日、坊とまり可愛くて」といふに恐縮す。 咲耶より電話「3,4,5の中に荷物とりに来させよ」とのことに「畠山ノリ子嬢の写真かへせ」といはす。母の身は2月末か、ふしぎなることばかり 也。 ロミを近所の犬猫病院につれゆきしにレントゲンとり(800)、その結果治療のこと電話すと也。 1月30日(日) よべ半剤のみ8:00起き、萩原夫人へことはりの手紙かき、速達す。竹内好に電話すれば「体悪し」と。 『骨25』来る。礼状かき読売の印税徴収書みれば3.2万-3,200とあり明日訂正申込むこととす。 『日本行刑史』もちて13:00出、歩きて丸宅。14:40出て中野坂丘にて本位田15分待つ(自動車の運転は玖美子なり)。(※相撲観戦) 15:35入場。池田徹来てをり。色々と酒肴出され、我はbeerのみ、明武谷のはじめて琴桜に勝つをみて喜ぶ。 taxi拾ひて銀座のふぐ料理「山下」といふへゆき20:30まで飲食す。 中村次郎氏は仏様のやうなる人にて千葉の検事次長をやめしと。豊橋の人にて本位田よく知りをれば問合せあらばよく話しおかんと也。 Hyreにて東高円寺にて下車。帰宅21:30也し。(※省略) 1月31日 よべ1:00半服。8:00起き本位田へ電話かけ、ユに写真とりにゆかす。新郎候補者の母、波子氏は俊子姉の同級生と。 山本治雄にハガキかく。きのふ悪口云ひし也。咲耶へ写真送る。母より電話「クロ死んだ」と泣きの涙也。 ユ帰らず、出んとするところへ集英社の薄井氏、進行状態を問ひに来る。「2月末までに」とのこと也。 読売新聞に電話かけ納税伝票の誤いひ、11:30会場にゆけば田中、藤田、吉川の3夫人まちをり。 12:00ごろ南村、安田、道下、花井、星野、三治と8夫人と2児と集り、われ宿酔とて道下夫人とbeerのみ15:00すぎ屋上にて color-filmとり、 南村夫人のhyreにて甲州街道に出、新宿駅platに藤田、花井、三治3夫人を置きて地下鉄。 「うつぎ」にて『東海道中膝栗毛(160)』買ひて帰宅。(※省略) 畠山家より「書類返した」の電話ありしと。「猫あす朝つれ来よ」と獣医より 電話。 小池玲子とて自殺せし国立高校生の詩集来り、父君へ「よめず。くやむ」とのみ書く。 池田徹君へきのふの礼いひ、史の縁談いへば「今のところ心当たりなし」と。バカらし。 2月1日 よべ半服、8:00起き『白楽天』2首やり斎藤dr.。眠剤7服いただく。キシメン食ひて帰宅。 小高根二郎氏へ現金2千円。田中楠弥太氏へ「再来週あたりゆく」と。夜、小山正孝氏電話「平凡社不足といふ」と。「あすよこせ」といふ。 2月2日 曇。寒し。よべ半服。『白楽天』やる。『文芸散歩通信3』、芳野清氏の礼状来る。(※省略) 寿賀子に電話すれば「寿一に云へ。喧嘩はよくなし」と。(※省略) 平凡社酒井君来らざる故、電話すれば「不在。伝へおく」と也。 咲耶よりノリ子嬢の書類速達にて返る。同じく浅田夫人より「ムスコしばらく手元における云々」! 小山君より「酒井君と連絡つかず、けふは来らざらん」と。15:30酒井氏より電話「明日17:30来宅」と。(※省略) 2月3日 『白楽天』ちょっとやり、登校。10:00より11:30までまち、「大安」に本未着をいひ、高橋邦太郎氏に5冊送らせ001で試験。 すみて2人「時間まちがへし」と来りしを追ひ返す。(※省略) 16:00前出て帰宅。 和田統夫「女こさへて別居」と。おどろく。けふユ、渋谷へゆき事なかりしと。(※省略) 18:00平凡社の酒井氏来り「五言絶句ばかり」といふに七絶、五律を書き加ふ。夕食くひ20:00すぎ帰りゆく。 2月4日 よべも眠剤のまず。8:00起きる。(※省略) 10:00すぎ成城へゆき (※省略) 鎌田女史、丸に矢野副手をして電話せしめしに父出て「ねてゐる」といひし。後藤講師には聴講card出しをらず。(※省略) 試験すまし下北沢にゆけば本なく、『ハイネの橋(180)』買ひ来る。(※省略) 夜、畠山家へ電話すれば「北海道出張、今夜定山溪泊りの筈なれど」と133名の大事故(※全日空羽田沖墜落事故)心配しをり。(※省略) 2月5日 眠剤のまず。3:00起き6:30起き8:00まで眠る。史の写真返り、畠山家よりも写真返る(六右衛門氏の名133人の中になかりし)。 10:00運送屋来り、11:30運び込む。森君相乗りし来る。14:00また来り、8畳へ運び込む。「まだ2回ほど運ぶ」と! (※省略) 澄より電話、畠山家のこと知らず。 菊池眞一博士に電話「会はん。」といふに「27日(日)午」と約束す。「Catholicに戦後なりし」と。 2月6日(日) よべより4畳半にね、ユ眠りにくかりしと。われは半剤のみ7:30起き礼拝にゆく。すみて「壮年会」。19人出て一向に面白くなし。(※省略) 浪中の同窓会名簿など来る。(※省略) 2月7日 6:40起き、8:30登校。中国文学史2教室に分かれて試験。すみて短2国と高との採点わたし、しるこ食ひて帰れば賀代嫗「パーマすまして来 る」と。 やがて来り、経夫(※統夫つねお)と妻との手紙見す。Barの女給にて「ともかく離婚」といふに対し「なるべく別居で」との主張らし。 章も来りし故、リツコに家あけわたしの必要あるを云ひ、1万円賀代嫗にわたし、ユ渋谷へゆく。 電話かけ「早く来よ」といへば「偖も片づかず云々」。(※省略) 2月8日 寒し。母より電話「猫の袋ぬいに来い」と。ユことわる。9:30起きる。(※省略) 立教大学より『史苑』の3校。章来る。(※省略) 立教へ『史苑』の3校速達し、教授会に出る。事なし。(※省略) 炬燵にて一張羅やく。(※省略) 2月9日 10:30出て斎藤dr.。長与義郎先生の例を引いて「眠剤のむを恐れるな」といはれ、あと7服わたされし為、金なく、ことわれば窓口3服のみ賜 る。 小高根二郎より受取。(※省略) 『白楽天』あまりすすまず。 夜、畠山氏より電話「13日の日曜、松沢専務来名のため都合悪し。そのあとならいつでも良し」とのことを俊子姉にいへば困り、会場まかさる。 Prince Hotelにでもすべし。けふ角川より電話「組直しにするにつき当用漢字とし、仮名づかひも改めてよきや云々」「宜し」といひて一切任す。 2月10日 角川より「『ハイネ』の25版の検印3千を15日までに」と。史、京大美術史ことわる由。母よりユに電話「来てくれ」と也。 ユの出てゆきしあと焚火して11:30出てゆき、新宿でrice-curry(100)食ひ、成城堂へゆき、『サビエル書翰抄 上(200)』ま た買ひ、差額2万余もらふ。 (畠山夫人より電話「夫のゆくゆかぬはあてにならぬ故、本人だけにてもよし。本人は自信なくしてゐる云々」)。 丸と矢崎のみ3.31卒業ときまり、それぞれ審査票に印捺す。すみてまっすぐ帰れば『石田博士頌寿記念論叢』来をり。(※省略) ユにきけば母「一興忌にゆかずときめし」と。弓子旅行より帰り来る。丸に電話31日卒業予定としらす。 2月11日 よべ半服のみ9:00まで眠る。母より電話「日曜に運送屋よこせ」。(※省略) 水島尓保布未亡人へ母の代書にて「暖かくなれば参る」といふ。丸より憤慨の手紙。午後出て荻窪の市場。『達海の碑(20)』、『仏印文化史 (30)』、『変態崇拝史(600)』買ひ、ポマード(135)、かみそりの刃(80)買って帰る。(※省略)  賀代嫗、福岡より帰り「女は大阪の出、37~38才、同棲中」と。「文子に泊り愛想つかせし」と。 夜、畠山家へ電話し「敬子嬢18日ごろ来よ」といひ、本位田夫人に電話。(※省略) 2月12日 よべよくね、9:00覚む。ユ、史に日曜のバタバタ(※オート三輪)乗りを命ずるをきく。岡田氏に「満蒙史料の会休む」旨電話す。朝食昼食夕食み な京がす。 われ『白楽天』133枚とし、佐伯へ散歩にゆけば仁井田博士の『刑法』入手と。その他に『星(100)』見つけ「近々とりにくる」といふ。 「明日は13:00バタバタに史のりて1回にてすまし、あと21日にでも来る」と。 2月13日(日) よべ1:00半服、9:00さむ。(※省略) 『独逸日記』を抄し田中氏に会の準備す。12:00すぎ出て赤羽より鳩谷行にのり仲町で下車。 探しまはり14:10ごろ着く。『音楽Encyclopaedia』に「田中正平」の項あり、写す。田中一郎翁のかきし系図あり、わが方の写しよ り良し。 伊藤完夫氏への紹介の名刺もらひ、写真とり、bus亭まで送ってもらふ。(※省略) 佐伯にて『刑法(1,250)』、『日本の星(200)』買ふ。けふもcamera地面へおとせしが如何にや。史、バタバタにのり荷物また来「あ とは20日」と也。 (※省略) 2月14日 晴つづき寒し。よべ10:00すぎ半服、8:00さめ試験監督2時間。(※省略)  『サビエル書翰抄 下(150)』買ひて出(昼sandwich80)、 渋谷へゆき東急ビルの9階のロシア料理に「20日13:00より6人にて1室(cartainしきり)」たのむ。(※省略) 畠山夫人より「六右衛門氏、新潟へゆく。のり子ちゃん19日の切符しか買へず。10:08東京着」と。麝島マリ子Romeよりヱハガキ。 (※省略) 賀代女史より「経夫(※統夫つねお)、(※家を)売る不安あり。名義汝が家にかきかへよ」と。史に相談すれば「出来ず」と。(※省略) 2月15日 曇。9:00すぎさめ、堀敏一氏らの『教養人の東洋史 上』受く。さっそく礼状かく。(※省略)  永山光文に「家のことにて相談したし」といへば、「土曜午后」と。 『白楽天』やり七言絶句了ふ。(144枚となる)。永山より「地面の権利はどうか云々」。 佐伯へゆき『ハイネの言葉(100)』買ふ。 (※省略) 2月16日 よべ1:00ごろ1服(半服づつ2回のみ)9:00まで眠る。〒なし。(※省略) ひるね10:30~11:30。尚子に「土地のことききにゆ く」と電話す。 15:00ゆけば「覚えなし」と。(※省略) 帰宅してN.Y.の浜田亘代夫人にAir-mailかく。 2月17日 よべ眠剤半服。9:00起き、ユをして登記所へゆかしむれば家屋は昭和21年より松田つぎ、岡本幸、船越章をへて松田統夫に贈与されあり。 船越所有の間に数回抵当に入り、今はなし。地所は松田つぎの借地のまま也と。(※省略) 2月18日 よべ2回にわけ1服。9:00起き、だるし。ユ渋谷へゆく。角川より25版印紙3千枚の受取。(※省略) ユ帰り来り、「きのふの電話は母」と。 大の本みな売る25~26の夜が宜しからんとのことに佐伯へゆけば主人留守。内儀に「24日午、大に電話せよ」といふ。 『白楽天』168枚。 永山光文より「あす13:00二幸前にて会はん。専門家つれ来る云々」と電話。地下道にて、といふ。 『敏、白村、次郎(50)』。(※省略) 2月19日 よべ眠剤のまざりしと。9:00起き、ノリ子ちゃん待ちしに便りなく、12:00出て新宿二幸前にて永山まち、13:00来しと近所の restrantにゆき、 平和生命財務部不動産担当調査役原武弘氏に紹介さる。統夫より賀代女史に売買の手つづき聞く。 スパゲッティ3人分(250×3)払ひ、永山に酒1本わたして礼いふ。帰れば入れ違ひにノリ子君を俊子姉の所へユ、つれゆきをり。 (※省略) 2月20日(日) 9:00すぎ起き、11:00家を出て第一Hotel。 ノリ子ちゃん来りしを東横dept.につれゆき2人でsandwich食べ、12:45ロゴスキーへゆけばユ姉妹まちをり。 会場に入り13:00かっきりに中村浪子夫人、弘道母子来る。温和しげのよき青年なり。札幌へ赴任の時、釧路へゆく本位田と同車なりしと。 浪子夫人は美しく若く無邪気なり。14:40浪子夫人「2人で散歩に」といひ出てゆきしあと、土産に残りつつみ(6,000)、渋谷へゆくユと別 れ、 帰ればノリ子ちゃんより「帰りしか」の電話ありしと。(※省略) 弘道氏に送られてノリ子ちゃん帰り来り、(※省略)  ユ、帰り来ればすぐ俊子姉より電話「中村夫人2、3回で交際を」といひしと。杉君帰りゆき、ノリ子ちゃんお茶漬食ひ、第一Hotelへと帰り、 「あす10:00すぎの新幹線にのる」と也。くたくたに疲れて入浴。23:00ごろ史、skiiより帰りしを知りて眠る。(※省略) 2月21日 曇。俊子姉より電話のあと中村夫人より電話「むすこニヤニヤして何も云はず」と。 「土日ならいつでも」とのことゆゑ「木曜位に予定電話くれ」とユ返事す。(※省略) 竹内夫人へ「昨日、畠山ノリ子君に、伸一郎君の目の前でたのみおきし」旨、電話す。(※省略) ロミ4日間絶食といふに、ユに獣医へゆかす。 畠山氏より礼の電話。ロミ(※シャム猫)、注射4本にて800とられ「毎日つれ来よ」と。夜、母より電話、大の住民登録もここに移すと也。俊子姉に礼いふ。 けふ佐伯へゆき、主人に渋谷の本売りの件、再びたのみ、比屋根安定『埃及宗教文化史(250)』買ひ来る。『白楽天』182枚。 堀夫人より電話「沢西健氏、死んだのとちがふか」「生きてゐるやうに思ふ。小山正孝君にききたまへ」と答ふ。ロミしづかにしをり。 2月22日 よべも眠剤のまず9:00起く。曇。散髪にゆく。ロミを医者へつれゆくユに会ひ「小高根夫人より電話ありし」と。すぐかけて史、弓子のことたの む。 山本より書目。赤川氏『病院歌集』。ロミまた700。12:30出て成城へゆきsalaryもらひ、講師室へゆけば「10:00から教授会」と。 わが入ればすぐすみ、昼食たべる。(※省略) 大藤氏に山本書店の『四部双刊初篇縮本440冊12万円』のこといへば「買ふ」と。 電話し、『盛京通史』などきけば「すでに送りし」と。図書館にゆきみればあり。 三包みの中1包だけとり、あと28日まで柳田文庫川上嬢に預かってもらふ。成城堂の払ひすまし、新宿でしるこ食ひ、 丸に電話して「ゆく」といひ、行って重俊に「教員免状は通信教育にてとれ」といひ、一先づ卒業を承知せしむ。(※省略) 傘借りて帰る。 (※省略) けふ『日韓併合史』買ふ。(※省略) 母へ電話すれば「建に健保証のことたのんでくれ」と。早速にかきおく。忙し。 2月23日 よべねむりがたく久しぶりに1服(2回に分け)のむ。さむれば10:00。畠山ノリ子嬢に「今週土日に会ひたし」といふ旨伝へ、奥さんにもと話 す。 大に電話し「26日14:00~15:00に佐伯来させよ」とのことに、その旨つたへ『史記(600)』買ふ。 図書館の野口君より電話。山本よりの速達にて『四部双刊』440冊の請求書来しも「現物はまだ着かず」と。山本に電話すれば「現物も送りし」旨。 『盛京通史』以下はわれ払ふといふ。集英社に電話し『白楽天』の〆切きけば及川均氏「急がずとよし」と! 今189枚にてあと110枚書かねばならず。ヤレヤレなり。 真野喜惣治氏より電話「26日来たし」と。「けふにしてくれ」といふ。ロミ18:00獣医へゆく。次第に元気にてうれし。(※省略) ノリ子ちゃん21:00ごろ電話せしに「まだ帰りをらざりし」と。22:00すぎ入浴中、菊池博士より電話「日曜12:00中村屋前にて会ふ」 と。 2月24日 よべ1服。10:00起き、すでに自動車屋ゆきしときく。11:00出て斎藤dr.。8日分と眠剤5服もらふ。 新宿まで歩きタンメンたべ(120)、busにて渋谷にゆけば14:00前。森君にtaxi呼んでもらひ15:00前着。畠山敬子嬢より礼状。 (※省略) 佐伯にて『風俗の歴史2,3(60×2)』、『ハワイ(60)』、『続金瓶梅 上(50)』買ふ。(新宿にても『京都(90)』買ひし)。 『佐藤春夫集』を大、くれるゆゑ26日14:00~15:00共に運んでくれる様たのむ。成城大学へ追試の問題送る。 カメラ屋へ修繕たのめば「1週間以上かからん」と。 2月25日 よべ1服。9:00さめる。雨。建より母に電話「今夜くる」と。集英社より『世界の名詩』4版となりしと。(※省略) 小高根二郎氏へ同人費2千円送る。電気屋「後日来る」と。19:30建、松坂肉もちて来り泊る。(※省略) 2月26日 よべ眠剤のまず。8:00覚む。。建、母つれて代官山の病院へゆく。大、古本屋をおぼえをりと。金沢良雄の女を史にいかにと思ふ。 「コギトの思ひ出」眞野吉之助との喧嘩かきて12枚とし、13:30速達にゆき、佐伯へゆけば「今しがた出た」と也。 「あとでまた来る」といひ、『快心編3冊(90)』、『旅の手帖(30)』買ひて帰宅。萩原葉子氏より町名変更いひ来る。(※省略) 萩原葉子氏より『うぬぼれ鏡』、集英社より『詩経 上』来る。ユ、ロミを医者につれゆく(600)。 ノリ子ちゃんより電話かかり「博光にも紹介し今より2人で夕食、川口泊り」と。中村氏呼び「よろしく」とたのむ。 大に電話すれば「佐伯来てまあまあの価で買った。現品はあすまたとりにくる。『春夫集』もその時」と。(※省略) 23:00眠剤のまんとするところへ賀代嫗より電話「統夫男児2人は引取る。支店長は本店へ報告する。某氏調停にゆけず云々」。 2月27日(日) よべ1服のみ8:30さめ頭痛し。ユ礼拝にゆく。(※省略) 11:30出て12:00かっきりに中村屋へゆき菊池博士と会ひ3階にてsand- wich食ふ。 14:00となり港区六本木の東大生産技術研究所までautoにのせられ、写真とってもらひ、すぐ出て赤坂見附まで送ってもらふ。 雨ふりをり。Demoけふ方々で見しが全逓のらしかりし。地下鉄にて阿佐谷に帰り、佐伯によれば早、帰りをり。「本よく売れる本」と喜ぶ。 『陰名語彙(500)』買ひ『四目屋考(1800)』借り、『春夫集』は預け母の荷物のみもち帰れば、(※省略) 賀代女史「今夜来る」と也。 賀代女史22:00来り、とまり近々文子の兄と会ふこととなる。(※省略) 2月28日 よべ1服のみ9:00起き、10:00出て成城へ成績呈出す。(※省略) 図書館にゆき未だ返さぬ本2冊いはれ「栗山部長への又貸し」といひ、 柳田文庫にある『盛京通志』、『黒竜江志稿』9冊(14,400)、『吉林通志10冊(1.8万)』もち返る。 (川上副手をらず柳田文庫無人なり。) 成城堂にて『杜詩6(150)』買ひ、重きゆゑ一先づ家へ帰ればノリ子ちゃん来をり、 「きのふ13:00中村弘道君より電話かかりしに、まち切れず外出してゐた。もうだめ。」との話なり。 『萩原朔太郎研究会会報6』来り、わが話の半ばのす。成城より試験監督変更の通知来り、1時間減りをり。 ノリ子ちゃん駅まで送り、佐伯へ『春夫全集』とりにゆき、昨日の借り払へば礼にと『春泥集(600)』を呉れる。章来り「よろしく頼む」とのこと 也。 ユを増田氏へゆかせ、大より「運送屋まだ来ず」の電話きき、「ララミー牧場」みて電話すれば18:00ごろにはゆきをる筈と也。 折り返しユ、帰り来り「増田氏令嬢婚約解消されて云々」と。東さんにて1時間まちし由也。 けふ写真を田中楠弥太氏に送る。集英社の薄井氏より電話あり「及川氏急ぐに及ばずと云ひしも3月末にわたす」といふ。 筑摩の東君に電話すれば不在。中島大吉郎も不在。「原稿用紙送れ」といふ。夜、俊子姉に礼いひ「わびいってくれ。3月1日の誕生祝贈る」といふ。 夜、こちらより畠山家に電話すれば「ノリ子ことわられると心配しゐる」と。東京住ひいかにといへば「早大のさわぎで4月より室あく」と。 3月1日 よべ23:00、1服のみ6:40母に起され、成城へ試験監督にゆく。文芸1,000人余。2時間目あき国文の諸先生と話し (※省略) 図書館の関戸司書『双書集成初篇』つきしとのことにて、大藤教授に請求書渡す。栗山博士に漢詩集2部貸出しのこともいふ。 午后また1時間やり、(「旅の友」社より電話かかり「9日17:30本郷にて檀一雄らと旅の座談会せよ」と、「承知」といふ。) (※省略) 帰り『史観2冊(120)』買ふ。帰宅すれば(※省略) 筑摩東博氏より電話「原稿用紙400枚送れ」といふ。(※省略) 物事みなうまく行く様にてうれし。 3月2日 よべも1服のみ6:30覚む。午前と午后と30人づつに面接し1人にAつけて外はみなB。一番早くすみしなり。(※省略) 帰り内田経済学部長に遭ひ「50万円出すゆゑよろしく」といふ。母機嫌よく散歩に出てゆく。 帰りうつぎ書房に寄り『風俗の歴史4(120)』買ふ。「4~5、駿河台にて展覧会す」と。 3月3日 よべ23:00一服のみ、6:30起され、3時間の入試監督。 すみて大安に『Chinese-English & English-Chinese dictionary . of Astronomy (6,800)』注文せしに未着と。 菓子くひ、木桧(※こぐれ)氏に来年嘉悦女子短大家政への紹介たのみ、成城堂にて岩波文庫『神曲3冊(500)』、『栽培植物と農耕の起源 (150)』買ひ、 うつぎに寄り、明後日の市の『台湾征討史(400)』前金にてたのみ、camera屋へゆけば修繕できをり500円と。帰れば (※省略) 畠山夫人より「伸一郎君の就職きまりゐる」とのことを竹内夫人に電話す。 「東博氏、留守に来し」とのことに電話すれば「内容ききに来た。原稿用紙は送った。中島大吉郎君憂鬱げ」と也。 (※省略) 夜、野崎その夫人より速達「奈良にてクラス会する故、日を指定せよ」と。「天理参考館へゆく、8日」と返事かく。 22:30賀代嫗より「6日9:30渋谷ハチ公前にで逢はん」と。 3月4日 よべ0:00一服のみ、8:00前さめ、代官山へゆく母よりあとにて家を出る。 『月刊国民百科』より速達。「9日17:30の座談会は「なだいなだ、檀一雄、桂ユキ子、金子智一、上野の旅館の番頭さん、司会は栗栖良夫氏」に て赤門前料亭「のせ」にて」と也。『月刊国民百科』3冊も同封「何も話すまなきらし、税込み7千円」と也。 野崎その夫人への速達出し、斎藤dr.。けふは一等信用せぬdr.にて眠剤5服もらふ。 都電にて拓大前に下車。山本に払ひ37,800し『中国通史簡編3-1(450)』、『唐明皇評伝(200)』買ひ、探しまはりて高■書林といふ にゆき、 『韓国民俗考』買へば1,400を1,200に負けてくれし。国鉄にて新宿、帰宅すればやがて母帰り「週刊買ひ来よ」とのことに佐伯へゆけば、 『星の方言集 日本の星』呉る。『路(90)』、『思ひ出草(30)』は買ひたり。(※省略) 立教大学より「遷界令と五大商」のりし『史苑26-2.3』来をり。(※省略) 21:30山口書店より電話「保田年譜作った。見てくれ」と。「送りたまへ」といふ。 けふユ、登記所へゆきて見しに抵当にまだおかれあらずと。(羽田にてカナダ航空墜落、また死者数十人。) 3月5日 快晴。よべ一服、7:00さむ。『白楽天』きのふ1篇、けふもつづけてやりをれば集英社より『世界の名詩』印税(1,560-156)来る。 『果樹園121』来る。午すぎ散歩に出て『風俗の歴史8(100)』、『はだか風土記(40)』、『白秋詩抄(30)』、『春夫詩抄(30)』、 『東西古今集(30)』買ひ来る。 けふまた富士山に旅客機落ち、乗客全員即死と。俊子姉に電話かけしむれば「中村氏にノリ子ちゃんのことまだ云はず」と。(※省略) 『大和めぐり(90)』をも買ふ。 3月6日(日) よべ1:00、1服のみ7:00起きる。礼拝休み、まつ中「9:30渋谷にて待つ」との賀代嫗の電話あり。 すぐ出て会ひ、busにて下馬3衣笠家へゆけば兄、母ともよき人にて(※省略) taxiにて帰宅(520)。賀代嫗parmaにゆく。 山口基より「保田年譜送る」とハガキ。夜、畠山家へ電話かければ「9日、父子にて上京」と。 中村弘道氏へ電話すれば「その夕19:00以降在宅」と。わが座談会に17:30より本郷に出る日也。『白楽天』205枚となる。 3月7日 よべ眠剤のまず。23:00すぎ寝て6:30覚める。雨。『近畿民俗44』沢田博士より賜ふ。 泰の写真多く来り、「依子、肝臓わるく、父君5月渡米、世田谷の兄夫婦久我山へ転居」と。14:00林叔父、赤羽よりの菓子、母へともち来る。 午、佐伯へゆき『二十六聖殉教者(50)』、『呉船録2冊(100)』買ふ。寒し。澄より電話「依子病気ゆゑ来てほし」と也。(※省略) 3月8日 よべも眠剤のまず8:00前さめるる小雨の中を母、医者と大のHotelへといそいそと出てゆく。 山口基『保田與重郎著作ノート』贈らる。手塚教授より「白鳥芳郎夫人、交通事故で重傷」と。気の毒つづき也。(※省略) そのあと矢野光子より電話「あすの判定会10:00から」と。 3月9日 7:30畠山氏より電話「都合あしく上京できぬ。来週」と。8:20中村家に電話し、その旨いふ。 9:00出て成城大学文芸入試判定会。点高く、この前(※省略)にて会ひし(※省略)の父300万円出すとのことにて、その節の某氏の子、最低に て入学。 昼食くひて用なく、帰り『白楽天』一篇やりしあと16:30出て本郷赤門前の平凡社の宿の「のせ」にゆく。 同席なだいなだは北杜夫氏と同級。ただし大学は北氏東北大学出と。(※弟の西島)大をしらず。檀一雄『斗雞』の資料くれと。 古本屋にて『風俗の歴史2(170)』にて買ひ、金なくなりしも20:00すぎhyreになだ氏と同車、36才と。 けふ、章に途で会ひ見えざるを確認す。(澄より電話「昨夜、畠山氏父子来り、(※結婚に)自信なしといひし」と。こまごまと説明し疲る。) 大江叔母より「歩行困難」と。 3月10日 よべ1服のみしも3:00ごろまで眠れず。9:30中村夫人より電話、普通なり。(※省略) 斎藤先生に参り、刺激あれば眠れずと申上ぐ。 帰れば14:00すぎて、母2時間前よりまちゐしと。北口よりtaxiにてゆけば(※省略) 膿める歯茎切ってもらひ帰れば、(※省略) 3月11日 よべ眠剤のまず9:00近くまで眠り、『白楽天』232枚までやり、服部さの子夫人(※服部正己未亡人)より「次嬢の就職たのむ」との手紙。 太陽崇拝の大川新九郎氏の著書を受け、12:30出て14:00水島尓保布氏未亡人幸子嫗を訪ふ。愛嬢豊能氏の「暫」といふのみやを探しまはり し。 写真とりしあと母のこして本屋まはり(『台湾征討史』ゆきがけ「うつぎ」にて受取る。) 『民間伝承5冊(5×50)』、『南溪山城の開城史(100)』、『ガダルカナル敢闘記(60)』、『中国古代宗教系統(100)』、『世界地理 風俗大系23(150)』買ふ。 「暫」へかへれば母、くたびれてをり、(※省略) 促して出て17:10帰宅。(※省略) 水島夫人より「毛呂清輝氏去年9月死去」と。『なのりそ』の丸岡九華の息、明氏夫妻時々飲みに来ると話ありし。 われ、西川(※英夫)宅に寄り、夫人に史の縁談いひしもきかず。(※省略) 3月12日 よべ1:00すぎ眠剤1服、9:30さめ、焚火しをればリコーの松井氏来り、皮包もちくれRicoh halfといふを使ひくれと。(※省略) 堀内民一氏より「文学博士になりし」と。母、難波和子へ挨拶にゆく。服部夫人へ「次嬢の世話できず」と。(※省略) 散歩にゆき佐伯にて『石仏巡礼(180)』買ひ来る。(※省略) 3月13日(日) 7:30覚め(眠剤のまず)、久しぶりに礼拝に参る。帰り吉祥寺の古本屋見しも何もなし。佐伯で『明治玉篇(80)』買ひ、帰れば川久保悌郎より 抜刷2冊。 楳垣教授停年記念会より「1口500円」と。澄より電話「悠紀子いつ来るや」と。「畠山ノリ子今週中によこした方よし」といはす。 金沢良雄より「史に26才の才色兼備の娘いかに」と。史をよんで会はせ見合を承知せしむ。(※省略) 史にRicohの古きを3,500にて売 る。 3月14日 8:00覚め(眠剤のまず)、(※省略) 〒なし。川久保へ抜刷送る。午后、ユを花井夫人にゆかしむ(皮包を2割引して1,200にしてくれし と)。 われは柏井歯科へゆく。「この後、時々歯茎はれ、遂には抜歯を要す」と也。帰りに佐伯に寄り『南蛮資料の発見(130)』買ふ。 (※省略) 『白楽天』「長恨歌」にてくたくたとなる。すでに260枚とはなりし也。 3月15日 6:00さめ、またねて10:00近く。「長恨歌」すませ本文終りとなる(269枚)。 12:00前、集英社の薄井氏に電話し「あと2~3日待ってくれ」といひ成城へゆく。(※省略)  鎌田女史の助教授審査の件、鎌田女史まちておそくなり急ぎ帰り (※省略)  『白楽天』の「まえがき」書きゐれば、(※省略) その間、畠山氏より電話「娘どうしてもいやとてあやまりに来る」と也。本位田に電話すれば「仕方なし」と。 3月16日 よべ渡辺君のおかげで1服のむ。川久保に先日送りし外、松本善海、松村潤、神田信夫、和田博徳諸氏に抜刷包む。 中村夫人より電話あり「近々名古屋へゆく故」と。ユにげる。 鎌田女史より電話「無給副手を小山にせん」と。『白楽天』の「まえがき」10枚書いてフラフラとなり、散歩に出て『承香殿の女御(140)』買ひ 来る。 『文芸通信17』来り、みな、子ら2~3人となり家族円満と。(※省略) 3月17日 よべ久しぶりに1服のんで10:30眠り6:30起され8:00前小田急dept.前にゆけば池辺、鎌田、野口の3氏来てをり、8:20busに て出発。 横浜からのりし大藤教授を加へて20人。(※省略) 湖尻のHotelで飯くひ芦ノ湖、船で渡り、元箱根より乗車。新宿につきしは18:00すぎ 也し。 依子より長き手紙で「のり子君、積極的な人を好み、もう会ふのもいや」と。(※省略) 3月18日 畠山重光より電話「中国文学の試験について教へよ」と。「暇なし。父君に、来るに及ばずと伝へよ」と答ふ。(※省略) (※省略)氏より電話、「1次200点なりし子を入れよ」と。「500万円出せ」といへば「ともかく来る」と。 昼ねせし外、何もせず。楳垣教授停年記念会に2口振替かき、『伊豆箱根の旅(120)』、『いろ艶筆(30)』買ひ、(※省略)氏の電話に居留 守。 (※省略) この家に居すわりと定む。 3月19日 朝、畠山氏より電話「9:30東京着、すぐ来る」と。ユをして郵便局にゆき楳垣教授停年記念会に1,000送らしむ。 そのあと重光つれて畠山氏来り、「ノリ子いやとて泣く」と、俊子姉と我とに金一封(あとにて1万円づつとわかる)。 後藤専務来て退職申し渡され5千万円位の売上の新会社こさへると。父子地下鉄まで送り、俊子姉にゆきしユの昼食まつため(※省略) 丸屋にて『太平記詳解5冊(300)』買ひ、(※省略) そのあと佐伯へまたより『駱駝祥子(180)』、『ナポレオン伝(100)』買ひしてユ の帰り待つ。 竹内宅へ電話せしに、杉君出て「1級免状とるため勉強中」と(紀子あんなのならと云ひし由)。 金沢に電話して「史の書類返せ」といふ。宇高夫人に会ふ必要なしといふ。『白楽天』すすまず、疲れたり。 けふ大より電話「あす来る」と。建より電話「願書〆切いつか」「けふ」と答へて了りとなる。 夜、本位田に電話し、重光君の海老もちゆきしわけいふ。 3月20日(日) よべ一服、ユ、教会へゆきしあと成城大学に電話せしも通ぜず。金沢君来て「書類とり返しにゆく。向こうのも返せ」といふ。探せどわからず。 加藤俊彦氏に電話すれば「宇高教授は4~5才年上にて、ソ連経済の専家」と。高円寺に散歩して帰れば、金沢君来り写真の返還すむ。 夜、まえがき32枚+題8枚+本文268枚とし、小包とし『白楽天』すむ。 大「けふ来る」といひて遂に来らず。(けふまた山口基来り『保田與重郎年譜』もち来り、午飯くひ、いらいらせしむ。) 3月21日 よべ1服(ユ、鬱症といふ)、9:00起き、成城より試験監督表受取る。文芸800人、短大400人余にして1時間目の監督免除さる。(※省略) 原田運治に電話し嫁たのむ。佐伯に散歩し金沢にあやまりにゆきしユ待つ。 その間、文学博士小沢文四郎とて東洋大学やめさされしのち新潟鉄工所の教育顧問つとめゐるが姪の入学たのみに来る。 「境めになれば」といひて帰す。澄より電話ありし故「1万円送る故、婿さがせ。なければ返せ」といふ。 Heineの生れし Bolker str.さがし当てて入浴。 3月22日 よべ1服。松村潤氏より「神田信夫君と夏、台湾へゆく」と。「手続き教へよ」といふ。 11:00、ユと出て斎藤dr..。鬱症といひ薬かへてもらふ。川久保より抜刷受取り。山野井秀子生Hawaiiより。 3月23日 試験監督にと9:30出て木桧氏と同車。平山某女はやはり敏治郎博士の姪と。大藤氏らに云へといふ。 2時間すませ成城堂に払(903)すまし、まっすぐ帰り来る。 3月24日 6:30起き8:30登校。仏語の尾崎君と組んでいつも一番に片付け、早く家に帰れば電話。「欠」とし、早大とかきありと。「出」「B」と改めさ す。 鬱にてかなはず母も林へ逃げ出す。(※省略)  3月25日 よべ2服のみ、ユに起されしは9:30。大いそぎにてゆけどすでに試験問題くばる直前。図書館の野口君代りゐる。すみて昼食。 午后は上原君とやり、すまして帰る。鬱ややよく、佐伯によれば仁井田『土地法』見つけたと。「あすとりにくる」といひて帰宅。(※省略) 3月26日 よべまのずにねしに1:30さめてそのまま朝となる。中野清見より『大高時代の思ひ出』編緝せよと。 楳垣教授退職記念会より受取。(※省略)  中野清見へことわりのハガキかく。 母、林に2泊して帰り来て、すしもち帰る。われ佐伯へ2度ゆき仁井田氏2千円払ひて4冊そろひしこととなる。 3月27日(日) よべ1服を22:00のみ、6:00にさむ。ユ、風邪とて礼拝にゆかず。和田博徳氏より抜刷の受取。 午すぎ散歩して『長崎市(10)』、『広島市(10)』買ひしのみ。 あす助教授審査のため鎌田女史よみ、少しも面白からず。鬱症やや軽くなる。賀代女史「福岡へゆく」と。 3月28日 雨。よべ1服半のみ、7:00にさむ。鎌田女史の『日本巫女史考』見るため9:00成城大学。 10:00よりの入学銓衡に (※省略) 終始ものいはず。すみて教授のみの銓衡会に面接に共同せし尾崎君と鎌田女史ともに助教授ときまる。 わがいひしは「能田、瀬川清子、大藤雪子のあとをつぐ人也云々」。昼食12:30。食べて早く帰り、(※省略) 母、ユと1日、西下の予定にせし様子也。22:00田代継男より電話「水曜に会ひたし」と。「4月半ば以後」といふ。 3月29日 曇。朝の中、賀代女史より電話「登記所見て来てくれ」と。「平田とし子、中の嬢つれて来をり、今夜柏井へ泊る。賀代女史けふ14:00出発」と。 『果樹園』にと辻野・中原2同人の死去かき速達。現金書留にて会費も送る。 佐伯より箕作『ナポレオン時代史 下(50)』、『あなたはどこまで正常か(120)』買ひて帰る。 神田信夫氏より抜刷受取と『(※『満文老檔』に見える)毛文龍等の書簡について』の抜刷。(※省略) 船越章より、経過を訊ねに来る。けふ税金申告認められ、2千円余の追加支払をいひ来る。 3月30日 よべ1服。7:00さむ。旅行の用意をさす。佐々木邦彦「個展1~6日大丸にて。初日には在席」と。 吉祥寺教会より「受難節10日。克己献金せよ」と。正午まへ柏井に今夜泊るといふ平田総子に家賃1万円もちゆく。 藤山豊『大和大観(30)』買ひ来る。 3月31日 曇。10:30出て斎藤dr.へゆく途まちがへ千駄ヶ谷駅に出る。 先生に「漸次のぼりつつあり」と申上げ、眠剤かへてもらひ、「旅行にゆく前日に再来」と申上ぐ。食欲なけれど食べらる。便意もなし。 けふちょっと年中行事しらべる。昇りなること疑なし。ユ、10:00駅にゆき、あす14:00の新幹線買ひ来る。「名古屋まで2人5,050」 と。 夜、治子より母へ電話、母「月半ばにゆく」といふ。 4月1日 よべ新しき眠剤1服のみ8:00さむ。10:30原田に電話し、竹村氏のこときけば「返事なし」と。 在巴里の陳祚龍博士より、わが著書何かくれ、との手紙、筑摩の中島大吉郎氏より転送さる。 12:30、ユと3人にて出、新幹線の入口まで荷物もち、大丸4階の佐々木邦彦展見にゆけば画伯をり、「10~12日、依田邸裏にゐる」といひ し。 すぐ別れて筑摩。中島君不在。東君にたのみ『中国后妃伝』10冊買ふ。「ハイネは6月31日まで」と約束し、 帰り来れば「集英社の薄井氏と白水夫人より電話ありし」と。集英社に電話すれば「薄井氏まもなく着かん」と。 16:20来しにきけば「訳をおとせし詩一つあり」と。「余分にある筈」といひて抹消す。(※省略) 日本教育新聞といふより電話かかり「5枚を8日までに」と。漢字の統制につきかいて送るといふ。(※省略) 河野岑夫より電話「母、いつ下阪か」と。丸父子に電話、卒業を祝し「一度よこせ」といふ。 4月2日 よべ21:30すぎ1服。8:00まで眠る。「常用漢字について」4枚かきし頃、寿賀子より電話。5枚目になれば丸重俊より電話「すぐ来い」とい ふ。 あとにて丸夫人より電話かかり「よろしく」と。もなかもちて来し重俊に京sandwich作る。折から小沢博士よりcastilla1箱とワイ シャツと来る。 丸つれて佐伯へゆき『はだか太閤記(70)』買ひ、青梅街道にて別れ、日本教育新聞へ「漢字について」速達す。 井上源一郎氏より「老いた」との手紙。やはり某女史との関係か。 夜22:00すぎ、大野新氏より速達「井上多喜三郎氏4月1日13:10ダンプカーに轢かされ即死」と。電話にて「クコキ」打つ。 4月3日(日) よべも21:30に1服、8:00まで眠る。10:00佐伯へ京の本売りにゆき(50)、『縮本篆字譜(180)』、『詩文半世紀(500)』、 『はだか随筆(30)』買ひ、 『琉球』を丸重俊買ひしらしきをきく。末松栄三より「下阪、加賀山よりきいた。会せん」と。 (※省略)  陳祚龍教授に『中国后妃伝』と『遷界令と五大商』包む。 田上生より長き電話ありしもいとこと史の縁談については知らざる様子。(※省略) そのあと末松栄三君より電話「(※修学旅行で)女の子づれゆゑトンボ会(※同窓会)だめ」と答ふ。 4月4日 よべ9:30、1服のみなかなかねつかれず。0:00ごろねしか。7:00さめ、雨ふり出す。(※省略) 9:10喜多村生来り、semiの指導1時間半(ネープルもち来しゆゑ本2冊与ふ。我を「みな女子学生ぎらひと称する」由)。 その帰りしあと姜照美の「去年10月結婚、4月には再び来日」。服部夫人の「鏡子、羽曳野サナトリウムに就職」との便り見て、 出て成城駅にてrice-curry。会計にて(※修学)旅行手当もらへば30,100(野口君と同額)。 13:30ごろ22名中17~18名集り、切符受取り3人にて1.5万づつを委員の高橋へ渡し、切符受取る。 「単独行動するな。我を母、野口君を父、矢野副手を姉と思へ」といひてすみ、雨中を下北沢下車。 古本屋にて『鸚鵡七十話(300)』、『南方民族誌(150)』買ひ(成城堂にて『八丈島(280!)』買ふ。)、帰れば無人。 途中(※手配してもらった)切符の学割なるに気づき、某案内所にてきけば3千円の罰金と。 矢野光子に電話すれば「普通のとまちがへて渡せしならん」と。「しらべてくれ」といひ、弓子、京帰る。 (けふ陳教授に『中国后妃伝』と『遷界令と五大商』船便にて送る。45円なりし!) 20:00すぎ矢野副手より電話「八重洲口の新幹線の入口にて切符交換せよ」と。 4月5日 雨やむ。よべ1服のみ7:00起き茶漬くひ、井上多喜三郎夫人へ弔み状かく。 10:00出て斎藤dr.。長くまたされ先生に「少し躁にして下さるやう」お願ひし、午の分に赤玉入ることとなり、眠剤も強くしてもらふ(「野口 君いびきかく」由なれば也)。 帰り古本屋にて『世相残酷異録(90)(大東塾の自刃をもしるす)』、『星を追ふ人々(130)』、『風俗の歴史5(100)』買ふ。 ユよりもらひし金8千円となる。散髪し、古本屋みて帰れば集英社の薄井氏来て「57枚へらせ」と也。 (夕方、及川氏に電話し「はじめ本文260枚とありし」をいひ、「旅行中ゆゑ削り足らぬ分は勝手にせよ」といふ。) ユ17:30帰り来り「高松の母上、老来世話になるといひしとてブウブウいひをり。泰はやり易く、畠山ノリ子嬢の縁談はあてあり」と。 多喜さんの急死新聞で見し由なり。 4月6日 6:00さめ7:00おき、8:00出て東京駅新幹線口へゆけば伊藤生あり。 ついで矢野副手来り、鎌田、丸、水谷、川上の4先生ならびに卒業生の見送り受け9:30出発。 12:20京都着。天ぷらうどん食って近鉄急行にのり日吉館に入り(車中20名)、1名を加へて新薬師寺へゆき帰りて夕食。 その間、野崎その夫人に電話し、山田新之輔君思ひついて電話すればやがて来る。 「停年の年、欧州旅行にゆく」と。きけばきくほどノイローゼの趣きあり。かなし。 4月7日 7:00さめ(1服半のむ)、9:00ごろ出て法隆寺への班へ加はり、興福寺の博物館見て阿修羅を好き、三条通りを下り奈良駅から法隆寺まで汽 車。 Busにのり下りると浄瑠璃寺へゆきし筈の野口組と一緒となり、雨中を見て中宮寺にてよしとし、busで薬師寺。われは菓子屋にとどまり、 佐藤誠のここへきて北海道学芸大学教授として6、7名つれて来、また来るといひしと、名刺托すれば、おかみ我のこと思ひ出したと也。 その時の赤ん坊が橋本ギヨウ胤(※橋本凝胤)と今東光とを悪僧といふに笑ひゐし嬢なりと。おかみその内に米買ふをたのみし男と思出せしと。 次で唐招提寺をともに見、西大寺まで電車。2班に分れて秋篠寺にゆき、奈良駅で別れ、 われ7、8人に「湖月」でしるこおごり、野口君と遇って古本屋が1軒になりしを知る。 前川佐美雄夫妻を訪ふ。「旧姓西保(梅田)ゑい子来り、われの奈良へ来るを知りゐし。佐治良君NHKに入りすず子ちゃん茅ヶ崎住ひ」と。 17:30宿へ帰り、19:30写真現像とりにゆきしにまだ出来をらず。 4月8日 よべ1服にて眠り、4:00さめ、また眠り野口氏に起さる。8:00朝食、9:00天理にゆく一行を見送り、写真のこときけば結局わからず。 50円置き、研究所に小野勝年博士を訪へば、所員隣の博物館事務所へ案内しくる。藤田亮策先生の話をす。小野君会議中とのことに名刺おき、郵便局 たずぬれば東向北町までゆかざるを得ず。ここにて皆の挨拶を大藤、鎌田2氏に速達し、野崎家にゆけば父君66才と。 鍛冶嬢来り出て、南円堂にて仏誕甘茶かけを見れば、野崎良男君追ひ来る。 春日茶屋?にゆきて待ち山荘、榎本、西洞院、吉野(赤ちゃんづれ)、南隅、塚本(坊)、今市(嬢)、武田、辻とそろふ。相良嬢よりは不参の電話あ りし。 小便盛んにし、みなに一首づつ歌をかき与へ、16:00出て記念撮影。またモチドノ通り「湖月」にゆき、あと17:00すぎしを知り、あはてて帰 れば小野博士まちをり、羽田の帰国や否を反対に問はる。本1冊呈し、18:00帰宅されしあと、加賀山より電話「末吉と明日来る」と。 夕食後、みなに帝塚山の菓子やることとす。(※省略) あす吉野行6名の付添となる。 4月9日 9:00出て6名の吉野行の付添をす。(※省略) 電車の便わるかりしゆゑ11:00つき、特急14:15を10枚買ひ、 ケーブルにのりbusにて奥千本入口にて村田まき子ヘバり、石田ら2人だけ西行庵へゆくをまち、u大生と話す。 帰りbusにて中千本のあと韓国人の花見をどりを瞥見し、馳走にて払戻しうけ、橿原へつけば雨降り来り。 解散せしにあとにて6人みな神宮にゆき印象ふかかりしと。われ出来心にて天理図書館までtaxiとばし(1,030)ゆけば、土曜とて館員かへ り、 木村三四五のみをり、入口にをりし「高橋首相」のむすこ、いやにからみしも受け流す。橋本、八木嬢に電話す!もとより来ず。 16:00出てhyreにて天理駅(130)。bus来ぬゆゑtaxiにて日吉館へ17:00つく(720)。 18:00末吉、加賀山2生来り、夕食時すぎ、話合の前まで永生天国説き、菓子おかれ、本2冊もらひ、 あす御所見学力説し、宿へまづゆき、御所へゆき、あと「set」の予定了る(20:00)。 4月10日(日) 復活祭。9:15奈良を出て駅よりtaxiにて「若づる(290)」。すぐ御所へゆき12:20解散。 われは野口君と寺町へゆけば彙文堂休み(あとにて主人病気とききし)。『肉眼天文学(250)』、『暦の本質とその改良(250)』買ひ、京阪書 房。 野口君今年度研究費より本買ふ。われはカメラ屋へ行きfilm入れさし(現像あす17:00出来と)、 京阪書房の主人をはじめ方々を撮し、市電にて宿に帰り、依田義賢にゆけば帰り来る。安藤真澄を同伴、弓子に在京の依田の坊やへの仲介たのみ、 荒木、山前(※荒木利夫、山前実治)に電話かければ来る。多喜さんの声の録音きき、泣きしあと、われの録音きけば亡父にそっくり也。 宿に17:30帰れば佐々木画伯より電話「川端龍子画伯死に上京」と。あす1班を率ゐて8:00飯くふこととなる。 (『星恋(30)』を買ひ、靴ベラ買ひ忘れ『京都案内』なくせしらし)。金チップ1千円をおきて丁度1万円なくなる。 「池田博士夫人こわかりし」と室つきの女中頭(お菊さん)の話なりし。20:00依田君ら来り、多喜さん追悼の詩かく(2千円と)。Beer代向 ふもち也。 4月11日 修学院へゆくに8:00飯くひ、taxi(190)にて9:00にまにあはせ6人と入り写真とる中、雨降り来る。電車にて八瀬、busにて大原下 車。 茶店呼び止め1,200の保証金にて傘3本貸す。三千院の庭見て、とろろそば食ふあり。われはにぎり飯(150)。小金なくなり借る。 あと傘貸屋にてやむなく団子食ふ(10)。Busにて御蔭橋、一旦宿に帰り、臨川にゆけば中国の本なし(主人体わるしと)。 『支那の天文学(400)』買ひ、京大前まで歩き北白川の汚き古本屋にて服部の本(50)、『世界の神話(90)』、滝川『酔人粋学(280)』 と買ひ、 電車にて三条河原町、桜井やにて状袋買ひ、五色豆2袋(200)買ひ、カメラ屋に16:00ゆけばまだ出来ず。 追加1本現像焼付たのみ、宿に帰りお菊さんと話す。(※省略) 羽田家へ電話すれば「帰宅あす夜おそし」と妹君。 野崎そのへ礼状かく。夕食了りmeetingすまし、あすの自由行動21:30(観光busにのるものは少々おくれ矢野副手に責任もたす)とす。 淡路の人の会にゆき一郎、正平の一族と自己紹介す。そのあと舞妓の踊り見にゆき祇園小唄のHummingマイクに入りしとて恐縮。 4月12日 6:00さむ(よべ眠りつきおそかりし)。7:00顔洗ひにゆけば、ゆふべの連中は淡路の真珠核作りと。 われ永田秀次郎に似をり、Humming聞こえざりしと。みな出てゆきしあと『民俗学』の割符する野口君に遠慮し、本買ひに出て 『ギリシア神話(クセジュ)(100)』、山室『ギリシア神話(130)』、『宇宙と星(100)』買ひ、極東書店まで歩きて『中国通史簡編 3-2(390)』買ひ、 帰りてまた出、たづねたづるして野田又夫にゆく。(桑原、外山2氏とも電話知らず、京大文学部に問へば電話なしと)。 出しあとにて医学博士に嫁ぎしとふ長女茶をのます。『ハイネ恋愛詩集』24版おき、いろいろ話して帰りrice-curry。 野口君仕事すみ、包み紙買ひ来りしゆゑ、本一まづ送りに田中の郵便局にゆき(200)、臨川に案内して迷児とし、 『内村鑑三随筆集(40)』買ひて帰れば、taxiにのりて帰り来しと野口君。お菊さん新村博士亡くなりしといふ。中々のintelliなり。 (※省略) 外山博士(※外山軍治)より電話「『則天武后』書いた。出来たら送る」と也。「羽田博士の会あす」と。 (けさ依田家へ奈良漬を礼にもちゆき、多喜さん追悼のわが詩のとりけしたのむ)。 野田博士来り、いろいろ話す中、羽田博士(※羽田明)夫人とともに電話呉る。野口君帰り来り、写真1巻分だけなりし。(※省略) 4月13日 6:00起き8:00すぎ東京へ帰る子らの写真とり、依田夫人に写真わたし、taxiにて写真屋にゆけば全部写りをらず、がっかりして市電にて 駅。 西明石まで切符買ひ、高槻にて急行にのりかへ、大阪駅にて急行券買ひ(200)、車中にて倉敷までのりこし(500)、 玉色家にゆけば外人をまじへし一行すぐ前に出てゆきしと。大原コレクションのみ見、民芸博物館見ず。 古本屋にて大鹿卓『野蛮人(40)』を記念に買ひ、宿に帰り、門限きちきちに帰りしを叱る。 都大の菊池君とてPhilippineにゆきし野口君の後輩と、RogerといふMinesota大学よりの短期留学生なりし。 20:00まで相手し、gas stoveつけ、澄に電話すれば「ゆっくりしてゆけ」と。近鉄にて(※名古屋には)16:13つく。睡眠剤切れしこと云ふ(200)。 けふ駅売場にて、国体記念の市街地図もらひしがうれしかりしと。宿の孫娘オヂチャンと膝に坐ると。 夜、Rogerの部屋にゆき、未開放部落につき議論す。野口君の後輩は堺の出にて舳松以外をしらず。わが佐伯部を否定すること野口と同じ。 (※省略) マッチの3人づけも20年前より忌む(戦争の体験ならんと)。 4月14日 夜1:00眠剤、宿の孫、幼稚園に出てゆくに挨拶す(泊り千円、チップ200、ガス代150)。宮崎ら2人hyreまちをり。あとは汽車。 われひとりbus特急にて姫路行に岡山より乗る。岡山にて「第一しおかぜ」つかまへ神戸まで立ち、南方歴戦の重役と名刺交換。(※省略) 鶴橋までのり越し(30)、近鉄の特急13:00にのり(900)、名古屋へ1時間早くつき、澄に電話すれば呼びゐる自動車にて16:00前に来 ると。 16:00来て駅前のHotel New Nagoyaにて喫茶(澄払ふ)、依子に4千円やらんとすれば2千円のみとる。 畠山ノリ子の縁談たのみ、地下にて買物(外郎、きしめん)。 新幹線に出(ひかり36号11号車13D1200+1340)、泰の動くもの好き「高い高い」好きを見る。空腹満腹の時のみものを云ふと。 客席ガラ空きにて地下鉄にて20:20帰宅。(※省略) 書翰、『果樹園』、『日本教育新聞(「漢字のこと」のす)』など見て、眠剤用ひず22:00ごろ就寝。 4月15日 寒し。(※省略) ユ、畠山家へ速達す(60)。「春日忌4月30日般若苑にて15:00より3千円にて」と。「出」の返事す。(※省略) 斎藤dr.へゆき5日分(躁を中庸にとたのむ)と眠剤5服とり、古本屋にて『天文と地象(100)』、『遊星(180)』、『婚姻法入門 (90)』買ひ、 紀伊國屋にて『ユダヤ民族(550)』買って帰り、早大中国文学大野研究室「中国古典研究会」よりの来信見れば『ざくろ』欲しとのことなりし。 昼食にきし麺くひ、筑摩の岡山君(※岡山猛)の電話まつも、なき故、筑摩にかければ「座談会にゆきし」と。(※省略)  けふ地下鉄にて戸田謙介氏と同車、「陰名考」かけと。 4月16日 7:00さめ(よべ眠剤)、野崎その夫人へ写真だめなりしを云ふ。8:30駒込につき丹波鴻一郎に寄りしに在宅。(※省略) 文庫に行き神田、岡本、松村、阿南の4人にて岡田英弘君に『太宗実録』よます。今後毎土曜日10:00と也。『八旗通志列伝索引』もらふ。 出て阿南君と天ぷらうどん食ひ(100)、別れて新宿に着けば鈴木俊夫妻をり「松本善海、問題となりをり」と。(※省略) 14:00帰宅すれば大江叔母より「足まだ切らず。母喜びゐる」と。(※省略) 筑摩岡山氏より電話「『展望』に中国文学についてかけ。月曜14:00来る」とのこと也し。 16:00カメラ屋へゆけば最後の2本のみとれをれり(42枚+120)。佐伯へゆき『生きてゐるユダ(70)』、『南方記(120)』、『ドイ ツ史(250)』買ふ。 「白水社の『仏和中辞典』2~3日まて」と。夕方、澄夫婦に写真送る。(※省略) 弓子、吊書かく。安藤真澄に送らん。 4月17日(日) よべ2:30、1服、6:30目ざむ。加賀山秀夫に礼状。9:20出て久しぶりに礼拝。「永遠」の語よみたまひ、野田又夫をおもふ。(※省略) (加賀山に『浪中誌』にわがこと皆無なりしを云ふ。)  16:00出て古本屋、『白楽天』再版に1,000とつけゐしを高しといひ、片山敏彦『ハイネ(30版!)』買ひ、 「うつぎ」へゆき『玉耶女経(10)』、『日本人の性生活(150)』、『独逸史総説(30)』、『天文年鑑(20)』買ひ、小高根太郎『富岡鉄 斎(500)』借る。 帰ればautoにて白水夫妻来をり、自動車置場教へ、鰻丼食はす。祝もユ渡す。『ハイネ』10枚となる。 4月18日 よべ0:00ね、2:00起き眠剤のみ8:00さむ。野田又夫博士へ『果樹園』そろへる中、〒来り、平凡社より『旅の心』の礼 (7,000-700)来り、 田代継男より電話開通のしらせ。こちらより電話かければ「あさって17:00すぎ南口より電話す」と。 丸に電話すれば三郎くん休みをり「重俊よこせ」といへば「諾」と。筑摩岡山君「今夕との約束なりしも早く伺ふ」と。 重俊来り「まだ石渡校長に会はず。教職の手続もせず」と。そこへ岡山君来り「中間的なもの書け」と。 具体的に云へといへば困り「『コギト』を18才の頃まはし読みせし」と。結局「日本人のハイネ愛好」を400×14~17、5月16日までとな る。 帰りしあと山田と村田の関係をわれ鎌田よりききしが反対に云はれゐるを知る。野田又夫博士へユ『果樹園』小包送りしに160とられしと。 重俊に『八丈島』やり、早く手続すませよと送り出し、ララミー牧場みる。 けふ西川より電話「奥戸の幹事にて22日18:30三田桂にて大高会す。会費2千円」と。まづ「出」と返事す。 旗田教授(※旗田巍)より『人文学報51』送らる。小高根二郎へ挨拶。 4月19日 よべ1服。7:00さむ。あす時間なきゆゑ斎藤先生にゆくこととす。9:30出て患者の順序反対となる。 先生に旅行の苦心申上げ一週間分の薬いただき、新宿にてrice-curry(100)食べ登校。 図書館にゆけば「大安」の本未着。川上嬢と話しゐるは学長にて、倉敷にゆきしことを云ふ。 講師のぞけば野田宇太郎氏をり「田中正平のことかかせよ」といふ。山田爵さん(※森茉莉長男)を「森先生」と呼びし! 高田、山田2教授と話し、山田氏に「大学院に漢文教師としてわれを入れよ」と云へば「漢籍の目録つくってくれ」と。(※省略) 16:00となり旅行の報告し30,100しかもらへず、学生に喜ばれたが、家庭と連絡の要あることいひ、 大藤教務部長の出席まって2Dの松本、山口の2生をおとす。 了りて成城堂に寄りモルガ『フィリピン諸島史』受取る。帰りてララミー牧場みながら夕食す。 福島恵美子より便り(class会する由、水谷生よりききし。「水谷生を文庫に残せ」といへば「学生に評判悪し」と鎌田女史)。(※省略) 4月20日 よべ22:00眠剤、4:30小便に起きあとねられず7:00すぎ出て8:09の準急にて成城着。(※省略) 8:45より中国文学の講義し、了って1時間目に池田、堀川、百瀬、高田の教授連ならべしを知る。 2時間目まで堀川博士と話せば高垣ほめず佐々木六郎をほめる。坂本泉氏、日大教授となりしと。 2時間目10分遅れてゆき『北京』『年中行事』の解説をし、参考書あげ、喜多村生来ると話しcardのとり方より教ふることとす。 天ぷらそば食ひ(100)、出口で前田隆一令弟の次女に会ひ、この間、野崎に会ひしをいひ、図書館手伝のX生としるこ食ひ、麝島の話すれば心配 す。 杉並郵便局にてヱハガキItalia行に50とられ、帰りて筑摩の岡山氏よりの電話14:00にかかりしをきけば「ハイネ雑記」14枚を23日夜 までにと。 一応、諾し昼寝し、賀代嫗よりの電話にめざむ。ハイネのnoteとる中、ララミー牧場。 17:30田代継男(※元毎日新聞社会部記者)、阿佐谷交番前にをりとのことに、タバコ買ってゆけば、白髪なり(あとにて我より4才年上と知 る)。 マラヤ・スマトラの話し、シンガポールにて吾「いのちあらばまたかへり見んふるさとのあられたばしる那須の篠原」の歌かはしと。 田辺良雄(camera屋)会ひたしと池上本門寺前にて云ひをり。産経に鄭成功の孫ゐるとに会ひたしといひ22:00地下鉄まで送る。 弓子、史の吊書とりゆき、『歌日記』と『ゲーテ詩集』と『遷界令と五大商』ともちゆく。北支の老兵西尾司郎の名思ひ出し生死の調べたのむ。 4月21日 よべ23:00すぎ眠剤のみ、朝方ちょっと起き8:00まで眠る。成城教務課にきけば「あす体格検査で短大ぬける」と。(※省略) 安藤真澄より「依田令息に会って云々」と返事。「ただ依田夫妻にわたせ」とハガキかく。 東博君あそびかたがた催促に来る。丁度「ハイネとわたし」12枚となり、佐伯へゆかんとせし処也。岡山君は重役と(※岡山猛:1977年より社 長)。 『梶井全集』旧版高く売り、わるしとて金返しにゆくと。 我も悠紀夫へ白水社の『仏和辞典』とりにゆくところ也しゆゑ、ともに出て価きけば1,040。 100借る(蘆花『自然と人生(30)』、『遊星から恒星へ(30)』にて100の借りとなる)。 16:00「ハイネとわたし」200×28となり、筑摩の岡山重役!に電話すれば「夕方とりに来る」と。(※省略) 18:00ごろ筑摩の岡山重役来り、わが原稿気に入らぬ様子につき、とりかへし帰らす(beer1本のませし)。 4月22日 よべ22:00眠剤のみ、6:00起き8:50出て成城大学。 会計課へゆき、大教10号給86,600+扶養手当(2×700)+暫定手当8,660の辞令と 96,660-所得税5,790-共済組合費6,070-組合費100-親和会300-国体保険料60=84,340受取り、 成城堂に(2,280-114)2,166の払をし、研究室にゆき2時間目やり、すませて教務へゆき記点のまちがひ正し、 成城新聞記者に学生食堂値上げ反対の談話す(その前に署名せし)。(※省略) 矢野光子副手より矢野長官京都へ移住ときき、busにて農大前下 車。 参れば夫人「句会にゆかれ、大原へ6月転居」と。「お別れにまた参る」といひ、『東南アジア(290)』と光子生の抜刷わたし、 小高根太郎によれば夫人「写真送るところ也し」とて預り、小高根と新宿にてcoffee(60)としるこ(70)にて別る。 けふ大高会なれど朝、西川英夫に電話して経済会議らしき故ゆかず。 17:00ララミー牧場見に帰宅すれば玄関に岡山重役の名刺おきあり。「改めて手紙にて」と。(※省略) 小高根二郎君より「会社合并にて受取おくれし」とゆきちがひのハガキ。(※省略) 高田瑞穂君より電話「『日本浪曼派創刊号』『作品』ありや」とのこと故「なし」と答ふ。 小高根夫人よりの写真「船越の次女にそっくり」とユいふ。 30日の「春日忌」に改めて欠席の通知。「天わたり海かけるとも忘れじとのたまひし師に会へぬかなしさ」ユの忠告に従ひし也。 吉祥寺教会より「墓地献金中止」と通知!けふ日本民俗学会へ入会(700)。 4月23日 よべ眠剤のまずねむり6:00前後覚む。(※省略) 9:00出て東洋文庫。松村氏『康煕本太宗実録』の写真とりくれ、2,960と。 「台湾へは飛行機にて往復6.9万円」と。神田氏来り、岡田君よむ。『ハルハ五部の世系』を書きをり、東洋学報にのせざりしと。 阿南君来り、4人にてたのしくすませ、12:00阿南君と昼食。(『朝鮮戦争(200)』買ふ。死傷400万以上とあり)。 帰りて昼寝せんとせしも出来ず。夕方、佐伯にゆけば白水社のconciseまだ来ず。『文選正文(600)』と『日本の上流社会(150)』買 ひ、 他にて亀井『大和古寺風物誌(30)』買ふ。けふ安藤真澄君より「依田義賢夫妻尚早」といふと。 「高橋元吉詩碑完成、5月7日来よ」と。「ゆけず」の返事す。 ユ、小高根夫人に電話すれば身長152cmと。他にも良き処一つもなきはいかがならん。史に「ことわる」といへば肯く。 22:00ねむいところへ賀代嫗よりユへ長々と電話。0:001服のむ。 4月24日(日) 6:00覚め8:00台所にゆけば速達。岡山重役より「怒らぬやう云々」。「ご縁なし。『失恋詩人ハイネ』もとりやめ東君に云へ」とハガキかく。 午后電話かけ「稿料いらず『展望』そろへて送りたまへ」といふ。矢野長官よりハガキ。 16:00前、丸木(高松)夫人より電話「松本一秀重役の夫人亡くなりし。21日」と。弔辞かく。 午后、ユ「小高根家へ丈低し」とことわりにゆく。われも18:00北沢の伊藤完夫氏にゆく(電話にて都合ききし也)。 田中正平博士の書類みなあり、写しに写す。伊藤氏京都女子大教授にて純正調オルガンをそこにて弾く。 家にもあり、昭和20年にはMalayaの奥地よりSingaporeに出て来て、復員すれば博士心痛にて亡くなりしと也。 21:00礼云ひて帰り入浴。茶漬くふ。小高根、われのことを熱高しといひ、野田博士を羨みゐしと也。 ユ、小高根夫人よりまた写真1枚預り来る。田中楠弥太氏へ報告(下北沢にて『蝦夷草紙(200)』買ふ。)。 4月25日 曇。よべ0:30、1服のみ6:00すぎ目覚む。史に「小高根夫人のもち来りし台湾引揚嬢と見合せよ」といふ。 「原田に写真返させん」といへば「まだ話すすまず」と。安藤真澄君へ橋渡しの役目についてハガキ。 近畿日本touristの野崎君に電話「28日14:30ゆく」と。筑摩の東博氏に「ハイネとりやめ」といへば「来る」と。 15:30東氏来り、わがいふこときき、ハイネとり止めとなる。 佐伯へゆけば白水社のコンサイズまだ来らず、『日本の戯画(100)』買ひ来る。 夜、花井タズ夫人より電話「山荘嬢、大阪に候補あり」と。「丁度けふ出て来し写真と吊書送る」といふ。 4月26日 よべ22:00ねむり(1服?)、5:30さめて8:00までに「コギトの思ひ出」をかく(野田又夫との面会をしるす)。 国鉄ストにてさはがし。下條康麿氏の死亡広告を新聞に見る。山荘嬢の写真をタズさんにユをして速達せしむ。 けふ地下鉄とまりし故、国鉄にのらんとすれば改札止め。佐伯へゆきて『キリストの生涯(30)』買ひ、改札あけゐるに入ればまた止まる。 千駄ヶ谷まで切符買ひしも、斎藤dr.まで歩く(途中coffee(80)のむ)。ふしぎにも先生、裏口より通したまひ、夏の台湾行いへば賛成さ る。 6日分薬もらひ、登校。12:00。 喜多村生とsemi写真をとり、図書館に本かへし、田中正平、田中館愛橘、丹波敬三の伝ほかを『大人名辞典』より写し、(※省略) 高田、栗山2氏より著書にsignもらひて教授会。わが云ひしことみな通らず。 16:00すみて紫大根花を垣ぎはにみて小田急。地下鉄まだスト中とて国鉄にのりて帰宅。ララミー牧場みる。 母より「体よくなし。克ちゃん明るくなりてうれし。竹村氏は北村住職のいとこ」など。 (けふ原田より「別のを世話したと電話ありし」とユ)。(※省略) 矢野閣下より2枚目の礼状。(けふ野田宇太郎氏に「正平伝」かくと云ふ) 「コギトの思ひ出」速達し、散髪せざりしと昼の薬のまざりしとが不満のみ。 タヅさんに電話し「山荘嬢のこと重ねてたのむ」と。「親類の35才かの人あり」と。 4月27日 7:30出て地下鉄にゆけば故障と。国鉄の切符わたさる。登校8:10。まちて8:40より中国文学。5行ほどやり家からもちゆきし不要本と抜刷 を文化史、国文の副手に渡す。「北京の年中行事」元旦ちょっとやり研究室にて昼食。 きのふ図書の分配にて、文化史の会するつもりを我かへせしと、大藤氏に鎌田女史叱られしと。 エンマ帳に名箋はりゐれば『玉葉』よんでくれと14:00になり15:00帰宅。 (けさ史をして原田に電話かけしめ「今夜よくみて返事す」とのこととなる)。庭のスズラン咲く。 母へのヱハガキかき「早く帰れ」といふ。ララミー牧場みてのち新宿「関亭」にゆく。39年卒の文化史の嬢、夫人21人集まり、(※省略) うち3人は柳田文庫の常連なり。Beer1杯のみ、成吉思汗料理ちょっと食ひて21:00となり帰来。 けふ清水常臣生、台北の龍園大飯店と義兄弟と。「台湾にて会はん。紹介しおいてくれ」とのむ。 4月28日 よべ眠剤のまず。23:00ごろねて6:00覚む。 史に原田君よりの5尺1寸の娘ことわらし、人事課よりの大阪府副知事の女と小高根夫人の2番目の話と同時に受けよといふ。 9:30散髪にゆき待たされ11:00了る。400に値上となる。外山軍治氏より『則天武后』贈らる。辻浩子夫人より筍。 『国民百科』の座談会記事のりしが来る。山荘嬢へハガキ。数男に「めぐみよこせ」と電話。ちょっと昼ね。 14:00起され近畿日本touristへゆけば野崎勝己氏は外国部長!いろいろ書類くれ「船なし」きらしき様子なり。 「うつぎ」にて『奉天市要覧(50)』、『支那文学史要(50)』買って帰れば野田又夫氏より受取。 野崎その夫人へ礼状。「カヂさん怒ってるのとちがふか」と書く。恵17:30来り、三省堂の『concise 仏和(800×0.8)』贈り注意す。 この日より鬱となる。 4月29日 よべも眠剤のまず5:00さめ、1時間ほどしてまた眠り、8:30さむ。喜多村生より電話「10:00家を出る」と。 石田幹之助(73才)、岩井大慧(79才!)、久礼田博士などみな勲3等をもらはる。 喜多村生10:00来る。初等教育し、父上と5月2日18:00会ふ約束。Sandwichたべ12:00すぎ帰りゆく。 『萩原朔太郎研究会会報7』来り、わが「回想の朔太郎先生」了る。竹内好より筑摩刊『評論集3冊(4月、5月、6月刊)』贈ると。 15:50東京会館の土屋晋、西沢規子結婚披露宴にゆく。東工大斯浪教授(※斯波弘行)の媒妁にてわが隣は新郎の師。 (※省略) 4月30日 よべ0:30、1服のみ8:30覚む。10:00丸重俊に電話すれば「自信なく石渡校長にまだ会はず」と。 筑摩の岡山重役に『展望』のこといへば「大宮の倉庫より取寄せ中」と。 佐伯にゆき『グリム童話集(50×3)』、『草の葉(30)』、『砂と太陽の世界(くれる)』。 午后の便にて佐藤方哉「知恩院にて(※佐藤春夫)3周忌、保田の墓石建立にいたるまでを附してしるす」! 和田統夫14~15日東京出張と和田嫗より電話。 5月1日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。芝原敦子を家へつれ帰る。全田叔母より「脳軟化症」と。日本教育新聞社より稿料(5,000-500)。(※省略) 「うつぎ」にて『われわれは来た、そして見た(50)』、『降雨術(100)』買ひ、釣銭なしとて100円借り、 「佐伯」にて『英雄偉人の検討(150)』買ひ「うつぎ」に100円返し『ギリシャ神話(100)』買ひ、『風俗の歴史』9,10みつけ「あす来 る」といふ。 5月2日 よべ10:00、1服7:00起きる。よべより高津『ギリシャ神話(岩波新書)』よむ。 佐々木邦彦画伯へ「竜子先生うしなって奮起せよ」と。10:00出て〒。小高根二郎氏へ2千円送る(55)。 斎藤dr.へゆけば満員。12:00すぎ「ちょっと」と呼ばれ立ったまま病状申上げ8日分と眠剤4服いただく。胃の鈍痛けふは覚えざりし也。 (※省略) 帰り『風俗の歴史9,10(390)』とり、6,7をとりのけてくれとたのむ(300)。 けさ丸に電話すれば「体よくなし。重俊法政で教職科目とることとせし」と。近江詩人会へ「悼詩」送る。 集英社に電話すれば及川氏「そろそろ校正でる」と女の子に云はしむ。雨ひどし。17:00出て梅ヶ丘の喜多村家へゆく。(※省略)  電子治療器かし与へたまひ、ぬれし靴下の代り貸したまひ、taxi呼びたまふ。小雨になりし故、青梅街道にて下車。(※省略)  弓子『太宗実録』の製本しくる。 5月3日 よべ23:00、1服のみ7:00覚む。9:00ごろより健康器つかひ、わからざる点、喜多村父上にききながら「詩人学校の校長先生」を『骨』に とかく。 12:00電話すれば松本善海出て「よくなし。ただし人に会ふをいとはず」と、「近々ゆく」といふ(日記帳を読みゐて思ひ出せし也)。 きのふたのみし本屋へゆき『風俗の歴史6,7(150×2)』と買ひて、そろふ。 「多喜さん追悼」を『骨』にかかんとして日記よみゐれば、林叔母来り「東大助教授にて46才の人しらべよ」と。(※省略) 夕方買物に出て『グリム童話集1(30)』買ふ。(※省略) 5月4日 早起きし8:30登校。薬のみ忘れ気になり13:00帰宅。(※省略) けふ『グリム』2冊買ひ(200)7冊そろふ。 15:15出て近藤dr.「なるほど胃わるし」と薬2日分たまふ。 帰れば角川の佐々木君来り『ハイネ恋愛詩集』くみかへ(※改版)につき、ソネットの組みにつき訊ねる。 夜、帝塚山の2回生の滝本とて「あす夜くる」と。「迎へにゆく」といふ。 5月5日(休) よべ22:00眠剤のみ6:00さむ。胃の感じ少し良し。田村春雄より「大阪府立身体障害者福祉センター所長となりし」との挨拶状。 10:30足立明子来り、家までつれ来る。中島大吉郎氏の話し、早速紹介状かく。あす速達せん。 山本幸子女史より「仕事にはげむ」とことわり来し故、林トシヲに電話すれば「東大助教授と結婚の気なし」と! 古本屋へ昼食後ゆき『白楽天再版(960)』買ひ来る。喜多村氏に贈らんが為也。 18:00夕食せんとする処へ「滝本」と電話かかり思ひ出す。不二家まで迎へにゆく。(※省略) 思ひ出すこと多く胃痛をやや忘る(タバコ呉 る)。 5月6日 朝、和田夫人に電話して奈良のこと云ふ。「この間のクラス会に用ありし」と。 9:00出て成城大学。中国文学史をよみ、「この次よりよます」と云ふ。 昼食の時『詩経』の原稿作り矢野副手にたのみ、大藤氏に買ふべき本云ふ。午后は13:00よりはじまり短大2A今年は39人。(※省略) ついで喜多村のsemiやり乍ら研究室の子らに漢文の訓教ふ。 16:30すみて(喜多村生父君の同僚の娘の写真もち来る。25才なれど醜し)、新高円寺下車。 近藤dr.にゆくみち『連合艦隊(30)』、『北方渡来(50)』買ふ。注射打たれやや良くなりをりと4日分の薬たまはる。 集英社より「校正速達した」と。けふ我も足立の写真中島大吉郎君に速達せし(50)。毎号送らる『赤道標』にて名前思ひ出せし数人あり。(※省 略) 和田夫人より「8月の台湾あつし」と忠告へ電話あり。 5月7日 23:00すぎ眠剤、6:00起き9:00出て東洋文庫の太宗会。 頼永祥・方豪とりわけ楊雲萍教授に会ひたく、神田、松村、岡田の3氏のゆく8月3日に出発と内定す。 出て池袋でうどん食ひ(120!)、宮崎智慧氏に会へば「前川氏より便りなし。「智慧伝」400×6枚を月末までにかけ」と。 帰れば(※省略)『高青邱(月報にわが文のる)』、『展望』15冊来をり。(帰り『小公女(40)』、『悪の生態(80)』買ふ。) 『白楽天』の校正半ばやり、夜「佐伯」その他へゆき『小公女(30)』、『ハイヂ(80)』、『絶対健康法(40)』買ひて帰り来る。 5月8日(日) 礼拝にユゆかしめ、われ『白楽天』の校正し、疲れて写真張り、学生のため焼増したのみにゆき、 帰りてまた「(※写真を貼る)コーナー」買ひに出『あしながおじさん(50)』買ひ来る。 〒なく暑し。西沢繁夫に24年目の便りかく。夕食前『白楽天』86pの初校了る。 5月9日 よべ23:00、1服のみ6:00覚む。滝本女史に電話すれば「木野夫人、妹(25才)を史にといふ」由。 集英社及川氏に電話し「校正できた」といへば「次また出し」と。角川の佐々木氏より「ソネットの組みかたにて相談に来る」と。 きのふ『小公女』よみ『ハイヂ』よむ。おろかなるが如し。ユをして戸籍謄本とりに北区役所へゆかしむ。『果樹園123』来る。 『桃』来り10年の礼かく。坪井より「法蓮仲町へ帰った」と。小高根二郎氏より「桑原博士この間喀血した」と。 鍛冶美和生より「おくさまに宜しく」と。『詩人学校』より詩(久しぶりなり)の受取。 11:00角川の佐々木君来り(未婚と)、ソネットにつき訊ねる。「4-4-3-3」と教ふ。『堀辰雄全集10』もち呉る。 おりから集英社の薄井氏来りしも上らず、87pまでの校正もちゆき162pまでの初校もち来る。散歩に佐伯にゆきヱハガキなど買ひ来る。 王子まで片道80に上り戸籍謄本(80)2通とりてユ、帰来。夜、焼増とりにゆく(39×10)。 矢野光子副手より電話「あすの懇親会に出ぬか」と。「出ぬ」と答へ、矢野兼三閣下に「御移居前に会ひたし」と書く。 5月10日 暑し。9:00出て斎藤先生。胃わるく内科へかかる旨申上ぐ。新しき靴にて痛く、すぐ家に帰り近藤dr.。 「胃も肝臓も下垂す」と。4日分ののみ薬もらひ『王子と乞食(40)』買ひて帰宅。(※省略)  足立明子に電話「中島君の吊書送る。兄姉妹8人にて母なきもそれは云ふな」といふ。 5月11日 よべ22:00すぎ1服のみ6:00前さめる。8:09にのり足立生へ中島君の吊書速達し、漢文と年中行事。 例の台湾の子来り「旅館へいひおく。飛行場まで迎へに来る」と。試験監督手当もらへば17,000-3,400=13,600。 栗山部長へ個人研究費申請書出す(『大漢和辞典』3万円と)。12:30出て荻窪の古本市。 『西洋近代史3A、B(20×2)』、『西洋古代史1B (20)』、『明治大帝(50)』、『アンデルセン童話集(80)』を店頭で買ひ、 朝鮮、台湾を含む府県地図56枚(1,800)、『朝鮮雑記(200)』、『朝鮮風土記(150)』他に韓語の本5冊(200)、 『日本婚礼式(200)』買ひして帰宅すれば、柏井尚子来てをり。「田中光子の婚礼大阪で」と。〒なし。 小高根夫人より電話「この間のむすめだめ、代りの写真送る」と也。 5月12日 6:00さめ(よべ21:00眠剤)、『白楽天』162pまでの初校了る。朝鮮の年中行事の補ひをなす。昨日買ひし地図はつまらず。 集英社の薄井氏に電話すれば「次の校正出てをり今日来る」と。足立明子の母に電話して「早く返事せよ」といふ。ユ、耳の医者にゆきし間なり。 高橋重臣君より「伊東のハガキ(僕あて)見つかった」と。佐伯へゆき『即興詩人 下(30)』その他買ひ、きのふの地図のダマサレ云ふ。 留守中『新潮』より来ると。「三好達治をめぐる女人」のため『文藝春秋(130)』買ふ。 新潮社の田辺孝治氏来り、26日までに『新潮』に100枚、「四季の人々」書けと。 ついで集英社の薄井氏来り、199pにて了りとなる初校もち来り玉ふ。20:30校し了る。足立生より電話「今週土曜よし」と。 5月13日 よべ0:30ね(1服)、6:00さむ。(※省略)  阿南惟敬氏より速達「あすの軍事史研究会に出ぬだらう、平和主義者ゆゑ」と。写真同封さる。ことわりのハガキ。 9:00すぎ登校。Juiceのみ国文研究室にて鴎外の『航西日記』写し『詩経』のprintくばれば足らず(うまく訳せし)。 研究室に本箱入り客室旨く出来をり。小林君に篆字隷字の参考書2冊を托す。午后の短大も旨くゆき、喜多村生に写真返し 『詩経』の星すみ『楚辞』の星すむ。『論語』『孟子』には星なく、次は『礼記』のつもり也。 16:30阿佐谷「うつぎ」へゆき地図にだまされた話す。『十五少年漂流記(70)』買ひ、ララミー牧場みしあと、写真屋へゆけば1枚もとれをら ず。 (※省略) 母より「わが家!よし」と。中島大吉郎に連絡つかざりしと。集英社の薄井氏来り校正もちゆきしと。けふ竹内の『評論集 巻3』賜は る。 19:00出て田中三郎へゆけば誰も居ず。やがて胆石再発の数男、ゴルフ帰りの三郎と集まりて光子の婚約者の引き合わせす。(※省略) 足立家に電話し「中島君と連絡つかず、あすの見合は来週にせん」といふ。 5月14日 よべおそく1服、6:00さめ9:00出て文庫。田川博士出て阿南氏来ず。「注射は聖路加病院がよし」とのこと也。 今西、三田村その他の史料もちゆきし。12:00前、防大の軍事史研究会へゆくといふ3君と別れて紅茶(パン2枚付)のむ。朝もjuiceのみし 也。 高円寺にて『平妖伝(80)』買ひ『即興詩人 上(100)』新本にて買ひ、疲れて帰る。 中島君「家もつ気なし。断るつもりなりし」と。ユ「ぜひ来よ」といひ、承知せしと。 西沢繁夫君より詩集!(※『馬頭琴』) NHKの内に勤めゐると。硲晃君より「21~23上京の予定」と。午后『高青邱』を蒲地君より贈らる。 竹内、硲2君へハガキ出し、佐伯にゆき『朝鮮通史 上(700)』買ふ。 帰り途、旧姓松浦翆と美紀子とに会ひ、美紀子、家へつれ帰る。身長167cmと。 (あす滝本美津代氏「木野夫人をつれて来る」と電話ありし。) 弓子、縁談のことで不機嫌ゆゑ、田代継男に電話して「一度再来を」といふ。 柏井に電話すれば恵出て「父、異状なし」と。今夜「四季の人々」書き出し200×8。 5月15日(日) ユ、礼拝にゆかずとてわれもゆかず。昼まへハガキ出しにゆき佐伯にて『平妖伝(50)』買へば家にあり! 「四季の人々」のつづき三好達治かき25枚とせしあと疲れ、14:00来る滝本生と木野夫人まつ中、 田中克己博士に天然痘の予防注射のこと云へば「touristビューロー」にたのめといふ。澄より電話あり「仲人こりごり」とのこと也し。 木野夫人来れば「泉大津の出身、親類は大方綿織屋」と。17:00まで話して帰る(洋菓子とふきん賜ひし)。 5月16日 22:00一服のみ、6:00さむ。史さして不満でもなささうゆゑ木野夫人に「令妹よこせ」といふ。 「四季の人々」丸山すみ朔太郎。昼食後20分横臥(近藤dr.4日分たまふ)。佐伯にゆき『近世小説史江戸編(30)』買ふ。 ユ、小高根家へことわりにゆく。近畿日本touristに電話すれば「種痘は保健所でやれ」と。 山中=花井タズ子夫人より電話「山荘さんの候補は既約あり他に探す。26日に下阪」と。「山荘に会へ」とすすむ。 夜、澄の友小林氏来り、畠山紀子(※敬子のりこ)の拒絶について色をなして叱る。平身低頭してhysterieたりしを知らざりしと詫ぶ。 5月17日 10:00出て斎藤dr.。12:00諸診察、胃下垂のこといひ、1週間分薬いただく。高野にてsandwich(130)食ひ、小田急に乗れば しんどくて耐らず。 Caramel買ひて登校。図書館にて本4冊かり、研究室にゆけば三野生来る。野田宇太郎氏に会へば「茉莉・葉子の会、盛会なりし」と。 正平のことまた書くといひ教授会。『成城文芸』編集委員われをのこして総変り、池田、渡口、石川、岩田、関本の諸氏となる。 そのあと組合委員の選挙。大藤氏病気とて主任会に代理として出、5万円にて本箱その他買へと也。 台湾旅行のこといへば栗山部長「大丈夫か、届出せ」と。福田君と同車。岩波文庫の『川柳拾遺』見てほしくて耐らず阿佐谷の本屋見しもなく、 帰れば永山より電話ありしと。まもなくかかりて「新宿へ来い。荒井きてゐる」とのことに、病気いひて断る。 (けふは『日本民俗学1-44』4,800にて頒布受く)。(※省略) 木野夫人より「吊書くれ。滝本生よこす」と。 5月18日 晴、寒し。6:00さめ大阪府副知事の娘「長男いや」と断り来りしときく。(※省略)  阿佐ヶ谷北口の本屋へゆきて『柳樽拾遺』注文し、150払ふ。今夜までに来る由。佐伯にて『日本の歴史(20)』、北口にて『流人の島(50)』 買ひ、 帰れば俊子姉と賀代嫗来てをり。母より岡山、伊勢へゆき23~24日帰宅と。全田叔母より「この間、母来りし」と。 ユをして建(※伊勢在住)気付母にハガキかかしめ、朝たのみし本屋へゆけば『柳多留拾遺(150)』来をり。 (丸重俊来て「考古学山内先生の手伝ひしてよきか」といふに「主任大藤、同鎌田女史の了解を得てからにせよ」といふ)。 帰れば和田統夫来り、母の体弱れるをいふ。数男に電話すれば「20:00すぎ来よ」と。 統夫に夕食さすうち、松浦生より電話「明日、姉と午后来る」と。20:00船越の説教終へさしてユと3人にて柏井へゆけば数男体悪く盲腸かと。 統夫の話きく中、衣笠の母、強迫症とわかり慄然。出て22:30帰宅。賀代女史に電話かけさし入浴。(※省略) 5月19日 よべ23:00、1服のみ7:00さむ。西沢繁夫君より電話「23日NHKで会ふ」と。 近藤dr.にゆき、「やせた人は、神経質、胃下垂なほらず。健康帯といふのがあり」と4日分薬もらって帰る。 (津村秀夫『映画と批評(30)』買ふ)。保健所できけば「麹町保健所は天然痘予防接種毎日やってゐる」と。 留守に滝本生より電話「木野夫人アタミよりまだ帰らず」と。「四季の人々」津村かき立原に入る。 5月20日 よべ1服。7:00さむ。身体検査で2時間目なきも11:00登校。 card4枚書き(矢野副手出勤日なりし!)、13:00前来し田中夫人に雑誌わたし、短大早くすませ喜多村生のsemi『礼記』すみ28宿の書 直し与ふ。 ギリシア文字おぼえしを喜ぶ。Gasたまりて苦しく帰る(諸橋『漢和大辞典』第1冊、成城堂にて受取る)。 (けさ今井氏に電話せしも出ざる故、松浦家へ電話すれば母上出られ、日曜見合承知と)。 今井夫人に電話し、貴宅もしくは牛込でがよからんといへば、その通り「牛込にて日曜14:00に」とし吊書持参。今井氏は高田の人にて無口也し。 けふ硲氏より22日(日)14:00ごろ来宅とのことに「われは(※見合には)ゆかず」といふ。(※省略) 京都の中島君より電話、恐怖症らしき故、なだめて来週のweek-dayときめ、夜、足立家へ電話す。佐伯にて『漢字語源辞典(4,200)』借 る。 けふ依子より泰の初端午の写真来る。 5月21日 よべ22:00のみ5:30覚む。咲耶より「弓子に新聞記者を」と。「四季の人々」94×200。8:30出て東洋文庫。 阿南、岡本2氏来ず。田川博士はじめ5人。12:00前すみ、パン2きれ付きの紅茶(80)。成城大学へsalaryとりにゆく(※省略)。 成城堂に寄り請求書かき直させ561払ひ『インドネシア(150)』、『基督教評論・日本人民史(200)』、『日本の民謡(150)』買ひ代々 木上原で下車。 『熱河宣教の記録(250)』買ひてよみつつ帰宅。午后、雨。(※省略) 咲耶より史には167cmの嬢、弓子には毎日新聞の164cmの人を紹介し来る。ユ、俊子姉に着物借りにゆく。明日の見合用にと也。 5月22日(日) 雨。一度さめ、8:00すぎ起きる。松浦母堂より電話、われにも来よとのことに硲君のこと云ひて断はる。 福島恵美子より「熊本に遊びに来い」と。桑原、神西、井伏3氏を書きて109枚。 14:30硲君迎へにゆき『大高の歴史』に(※昭和4年の)ストライキの話し『かぎろひ』貸し、昆布いただき、 17:00妹夫婦のところへと帰りゆきしあと、松浦家より電話「ユ、10分前に出し」と。史あとにのこり、話好きの父兄に酒のまされゐると。 本位田に電話し「タケダ検事より問合せあればよろしく」といふ。山田俊雄氏に電話すれば(朝かけし時は他出)、かくあるべき書目を作れと也。 けふ木野夫人より電話「令妹24~26日Hotel New Otaniに来る。見合そこにて」と也し。 5月23日 よべ1服半のむ。松浦家へ電話し、けふ18:00ごろ「御交際を」といひにゆく(今井翠夫人にはその前電話せし)。 木野夫人に「25日Hotelへゆく」と返事す。咲耶へ「史の方は断る。弓子の方はしらべよ」と速達す。雨にて寒し。 『クレオパトラ』note午すむ。澄より電話「けふ15:00母、東京着」と。ユ、14:00すぎ迎へにゆく。 15:00来る筈のNHKの自動車来ず。電話かければやがて来てドブへはまり16:10、NHKに着く。 茶のむ写真とられ『クレオパトラ』話せば28分と。編集たのみ、西沢繁夫来りしと会ふ。昭和17年12月より24年ぶり也。 茶おごられ「話下手」といへば「頑固」といふ。また藤原君にたのみ自動車にのり牛込薬王寺町へゆき、 松浦家へ寄れば父、母、美紀子に「交際したし」といひ、出てtaxiにて新宿(140)。NHKの講演料は7,000-700なりし。 母帰り旅行談す。(放送は6月6日10:05「みんなの茶の間」と)。 5月24日 よべ残りし頓服のみ夫婦とも早くさむ。近藤dr.にゆき斎藤dr.にゆく。「ちょっと躁」といへば「その方が仕事できる。Goetheは云々」と なりし。 帰途、紀伊國屋にて『父萩原朔太郎』を文庫で買ひ、昼食後留守番す。 佐伯に講談社『春夫全集(2,900と紀伊國屋で見し)』たのみ、赤岩『キリスト教入門(15)』、『ウズベック、クロアチア、ケララ紀行 (15)』買ひて帰る。 新潮社より電話かかり、こちらよりかけ「かく気なくなりし」と云へば「26日来る」と。父を憶ひて落涙し鬱なるに気づく。 田代継男に電話し「史のよめいらず。鬱なぐさめに来よ」と云へば「明日来る」と。 (けふ澄より電話「婆ちゃんにおみやげもらった。小林氏にはあやまる。松浦家は知らず云々」となりし。泰の声かすかにきこゆ)。 5月25日 よべ22:00、1服のみ6:00前さむ。田代氏に「15:00すぎ来てよし」との電話、ユにいひのこし登校。 Card書きし12:30出る。松浦家より「母上あす来る」と。大工呼びおほさはぎしゐる。多喜さんの「悼詩」のりし『詩人学校』来る。 (※省略) 田代継男氏15:30来り、色紙かかせbeer2本のみて帰りゆく。「妥協せよ」とのこと也し。 史、けふ松浦家へ電話せし様子とユの話。西沢繁夫氏「その中、のみにくる」と船越次女にことづけし由。 けふ澄より電話「『不二』の読者になりたし」とのことに20:30鈴木正男氏に電話すれば「承知した。『百人一詩』送る」と。 (けふ白鳥芳郎氏やせゐると4年生の話すをききし。哀れ!) 5月26日 午前中新潮社に電話し、田辺氏に「すぐ来たまへ」と云ひ、11:30来しに「書く気なし。神保に書かせよ」といひ、 「み心のままに」といひて(※「四季の人々」原稿の書けた分だけ)もち帰らす。 滝本生より「新幹線不通にて云々」「御心のままに」と云ひ、中島大吉郎30日(月)18:00の見合承知ときき、足立家に電話せしにかからず。 木野夫人に「20:00 New Otaniへ来よ」とのことにゆけば疲れ、ユのとり直しにてお辞儀して帰宅。足立に電話すれば「承知」と。 けさ咲耶より「一度大阪へよこせ」と。小林氏来り「せわたのむ」とお辞儀してゆきし也。 篠原事務局長より亡夫人の碑に「此処には永遠がある」と刻むと。ふしぎなることかな!建より小包5ケ1,940配達払、父の軍隊手帖あり。 19:30地下鉄四谷にて史をまち、New Otaniへゆき木野一家に挨拶してtaxiで新宿(180)。入浴す。 足立明子へ電話すれば「30日18:30来宅」と 5月27日 よべ23:00母子帰り来しあと眠剤。本位田夫妻に電話し「よろしき場合、仲人に」といふ。 10:00登校。3時間教へ鎌田女史よりMelon1ケもらひ、成城堂にて『宝島』買ひ、4年生3人と茶のみ、古本屋にて桑原『詩人の手紙 (190)』買ふ。 渋谷へゆけば17:00、ハチ公前にて10分まち「南国酒家」へゆけば丹羽夫妻、林叔父叔母をり。難波夫妻、寿一夫妻とわが家3人。(※省略) 丹羽夫妻の銀婚祝と。(※省略) 帰りtaxiにて丁度500なりし。全田叔母、阿南氏、松本良雄よりハガキ。 (※省略) 川久保より電話あり「会へず」とのこと也しと。 5月28日 「太宗会」とて9:00に出る。松村君の坊4階より落ちしとて休み、阿南君来ず、岡田君のよみを田川、神田、岡本氏ときく。 山田信夫君上京とて「羽田によろしく」と伝言たのみ、竹早町までtaxi(180)。 木野家へ電話し滝本生に迎へに来てもらひ「提灯に釣鐘」とことわる。(※省略) 宮崎女史訊ねしに不在。 近藤dr.に寄り薬もらひ『アンクルトムスケビン(80)』買ひて帰宅。(※省略) 夕方佐伯へゆき『神皇正統記(30)』買ひ、ヱハガキ(100)借りて来る。 5月29日(日) ペンテコステ(精霊降臨日)。ユを7:00おこし、ともに礼拝にゆく。齋藤齋氏に「7月に台湾にゆく」といへば「頼永承氏は教へ子」と。 (※省略) 帰りて昼寝2時間し、さめて散髪にゆき(400)、金子にて『藤村詩抄(50)』買ひて帰れば、木野夫人あり「思ひ直せ」と。 「御縁なし」といひてかへす。(※省略) 宮崎智慧女史より電話「『花影』の原稿6月2、3日でよし」と。 夜、「コギトの思ひ出」12×200かく。 5月30日 『果樹園』の原稿速達弓子に托し、ユに「宮崎智慧女史」6×200と『果樹園』会費2千円出しにゆかす。 硲君より「お大事に」、Parisの陳祚龍教授より『中国后妃伝』の受取。 小林君より電話「一度本人つれて来よ」と云ふ。原田運治へ「史の心配いらず」と取次たのむ。 18:30足立生来り、中島大吉郎19:45来りしゆゑ叱りつけて家まで送らしむ。 (けふ佐伯電話かけ来り、雑誌1万円にてもちゆく。母と分つ)。 5月31日 9:00出てユと斎藤dr.。「(※旅行中)心配あらば電話かけよ」との仰せ。薬変へらる。 伊勢丹へ(※パスポート)写真とりにゆきしに「(※それでは)通りませんよ」との女の子の声に「大統領づらするな」といひ、 ユと別れ小田急dept.にて写真とる(2枚200円58秒なり)。ふらふらと登校すれば教授会議題なく、すみて大学院会議。 これもつまらず「学長ここへ呼べ」といひてすみ、近藤dr.に寄れば注射打たる。Gasでなくなる由也。 けさ足立母より、夜足立生より電話。「しらぬ顔して答へまて」といふ。折しも新潮社の田辺氏来り、不審問はれゐし也。 (ユ西武dept.にて写真とらんとせしに「無効」とききてとらざりしと) 6月1日 雨。5:30さめ、早くゆき第1時限の遅刻とがめて叱る。早々すましcard調査出来ざるを小山明美副手にやらし、2時限すませて飯くふ。 定期の証明もらひにゆけば不要となりしと!帰りて宮崎智慧女史より「葬式きらひにて出ず」と。楳垣実教授の『あの道この道』来る。 (※省略) けふ中島大吉郎君より「身分ちがひ」との返事ありしとのことに、そのままを足立母堂に伝ふ。 坪井16:00に来り、18:00小竹稔より電話「あさって学校へ来る」と。19:30坪井の三鷹妹宅へかへりしあと、本位田局長より電話。(※ 省略) 6月2日 よべこはく、ついで感謝してといひて眠る。(史、帰りし(2:30と)を知りをり)。 「コギトの思ひ出」をよみ返して重複■なるを気づく。坪井のせい也。伊藤徳子氏へ「令祖のことを書いてくれ」と。 史をしてミキ子女史に明日のdate約束せしめ、排便後、大学へ「明日休講」の電話せしめ、斎藤先生に湯河原か湯村への旅行願ひにユをゆかしめ、 小竹稔氏に「明日の約束一週間のばしたまへ」といふ。松村潤氏に速達「見舞と太宗会欠席」。 佐伯で本4冊(100)。おかみさん「この間は」と礼いふ。 ユ帰り、斎藤先生「どこへなりとも行きて宜し。火曜には来い」となれば、 母に留守たのみ、新宿駅でsandwich(100)食ひ12:30急行にて甲府着15:15。美濃君に電話せしめしにかからず、taxiに乗れ ば奥湯村の「三井」につれゆかる(350)。ここにて泊り2千円とし、美濃隆子、正母子、夕食中に来る。正、数語を話しタバコの煙を喜ぶ。 「明日、夕食をともにせん。卒業生のホテルにゆかん」ときめ、hyre呼びてかへし、東京に電話すれば母「安心せよ」と。 (けふ車中にて一女史の忘れし『犀星詩集』を拾ふ。ふしぎなることかな)。 6月3日 よべ美濃氏より電話かかり「湯村ホテル」とユ、きき9:00すぎ出てbusにのり舞鶴城、武田神社、積翠寺などへゆき退屈し、 食ふに困り、駅まで来て古本屋、10冊ほど買って湯村ホテルへつけば、 NHKの藤原氏より電話「クレオパトラは7世」と。「大したことなし」といひあとにて困る。 美濃女史よりの電話にては「朝、三井まで迎へに来し。宿は他にとりありし」と。 18:00母子来り、20:00夫君来りbeer1本のみて3人にて帰りゆく。 6月4日 また雨。6:00さめ8:00の朝食すませ、taxiにて産経支局へ美濃坊やの忘れ物とどけ9:40の急行にて帰京。 佐伯にて傘借り、『性風俗法(1,000)』買ひ『張船山詩草』もらひ(城北書房より同業といひて100引かれしこといふ)、帰宅。 角川よりHeineの印税(24,000-印税-『堀辰雄全集』)。楳垣実教授より礼状。(※省略) 6月5日(日) 晴。5:00起き(昨夜も2服)、ユ出てゆかんとするに訊ぬれば「まだ9:00」と。 『新潮』速達で来り、原稿料のちに来る(81,600-8,160)。 その間、佐伯にゆき、父の本の残り4冊出せば200と『Ukiyoe(180)』とかへことしてもらふ。 昼食後、佐伯へまたゆき『長吏と特殊部落(1800)』、『日支小辞彙(100)』借りて帰り、夕方下痢し、佐伯へ3度めにゆき借金返し、 Camera屋にて現像とり来る(230)。中島大吉郎へ「写真返せ」の手紙かく。(※省略) 6月6日 よべ22:00、服2服。4:30さめ、新聞見ればradio(※NHK「みんなの茶の間-おはなし女性史」)わがCleopatraはtopに して、 あと楊貴妃、マリーアントワネット、エカテリーナⅡと4人のみ。 あと眠くてたまらず8:30出て近藤dr.。(※省略) 船越よりradio借る。 (※放送を聴くに)西沢の云ひし如くタドタドしくて、聞かすと船越もいひ、われもしか思ふ。(※省略) 『果樹園124』と『東洋学報48-4(前金切れ)』来る。(※省略)  午后、ユ出しあと佐伯へとゆく途中、小山明美副手に遭ひcardのこときけばわが本[たな]に!と。 佐伯に本おき(不在)、あはてて家へ帰り矢野副手に「card山田俊雄教授にもちゆけ」といふ。(美濃夫妻に礼状。) 15:30、NHKに電話し「CⅥとⅦ(※クレオパトラ6世と7世)のまちがひ指摘電話なきや」ときけば「なし。いま安西女史の録音中」と。 早慶戦にKeio負けしを母と見、ともにKeioぎらひなれど理由別なるにをかし。(※省略) 入浴中、天野愛一君より「聞きし」と電話。(松浦薫氏よりも「聞きた」の電話。) 6月7日 よべ1服にて眠りしらしく、4:30覚む。「北京年中行事」のnoteちょっとやり、8:30出て斎藤dr.。すでに3人あり先生のお出は 9:30。 「radio半ばきかれし」と、朔太郎の性質ご存じなりし。薬かへてもらひ眠剤2服もらひしに金いらず。10:30帰宅。(※省略) 佐伯へゆきて昨日の本100と。『春夫全集巻1』まだ来ずと。橋川博士『楚辞(280)』買ふ。 21:30電子機にかかりゐれば筒井より電話「東京へ遊びに来い」といへば「去年結婚した」と。 6月8日 よべ豪雨。22:00のみて眠り、5:30覚む。7:00出て普通にのり、気がつけば喜多見まで乗来しをり。(※省略) 2時間目すませ、成城堂にゆき、『常山紀談(230+220)』買ふ。「井上主計頭は殺されし」と。 帰りて新潮社より送り来し抜刷に訂正し、原田運治君より「史のこと承知した」との手紙。 依子より「高松へ一度ゆく」。集英社より月報の礼(2,500-250)。阿南君より「この間の太宗会出た。Radioきいた」。(※省略) ヨコハマ録音室より「tape-record代金引換なら送る」と。美濃隆子より「また時間に失敗」と。(※省略) 丸屋市川にゆきて『Balkankrieg (100)』その他3冊(20×3)。和田賀代嫗来りし故「構ふな」といへば不満らしかりし。 (沢田博士より『近畿民俗40』) 6月9日 曇。よべ数週間ぶりに眠剤用ひざりしらし。5:30さめ9:00近藤dr.。下痢いへど注射打ちたまはず。母、渋谷のdr.へゆく。 田代継男氏より『四季の人々』の読後感を電話で。(※省略) 丹羽千年夫妻より「物送った」と。芳野清君より「新潮よんだ」と。 佐々木邦彦画伯より「青竜展解散」と。午后、岩崎昭弥君「国会より」と電話。沢田四郎作博士へ『近畿民俗』の礼状。 6月10日 よべ眠剤のまず22:00ごろ寝て覚むれば4:00前!(※省略) 「詩人学校の校長先生(※井上多喜三郎追悼文)200×11」かき、山前君に 送る。 毎日の桐山眞氏より電話「radioきかず。一度会ひたし」といふに「家に来よ」といふ。佐々木邦彦君へも「序であらば来よ」と。 9:00出て国鉄をへて登校。(※省略) 宮崎智慧氏より電話「題変へる。『くれなゐ』呉れ」と。短大すませ、(※省略) 新宿をへて荻窪の古本 市。 『林園月令 正続(850)』、『日本文化史点描(480)』、『中国婚姻史(450)』、『台湾旅行案内(50)』と買ひて帰宅。 けふ夏季手当(127,600+48,330)175,930もらひしも税31,900の外、年税額50,550と決定の紙もらふ。 松浦薫氏より「仙台へゆきし。美紀子帰れば訪問」と。山前実治君へ2千円現金封筒。 6月11日 よべも眠剤のまず21:30眠り、3:20覚む!9:00出て山前実治氏に2千円送り、東洋文庫へゆく途、時間早すぎてcoffeeのむ (70)。 神田、田川博士、阿南、松村と5人にてはじめ岡田君おくれて来る。すみて阿南君と昼食(80)。 池袋の西武dept.に宮崎智慧氏訪ぬれば、題を『悪口』とせんと。別れて古本屋にて『本 3冊(120×3)』。よくゆきし本屋なくなりをり。 (※省略) 阿佐谷にて『カトリックの歴史(100)』買ふ。 小高根二郎氏より「『新潮』の扱ひよし」と。 安藤君「依田夫人は、私は返したといふ。依田渡支中、帰ればきく」と。 山野井生よりアルジェンティンのラ・プラタより。竹内の『評論集2』来る。佐々木喜市氏死せしと朝刊にあり。 6月12日(日) よべも眠剤のまず0:30、4:30と2回さむ。山野井生へ返事かく。ユ、礼拝にゆく。 佐伯へゆき『いで湯の旅(150)』、『風流お色小咄(20)』。(※省略) 6月13日 よべも眠剤のまず1:00より3:00までさめ、8:00起く。船越来り『父萩原朔太郎』返す。藤野一雄、宮本夫人より『新潮』よんだ旨。 松浦ミキ子より「帰宅した」と。「午后来い」といふ。 近藤dr.へゆき「大分快し」とお礼申上ぐ。井上多喜三郎氏の香典返し木村三千子氏の礼状来る。 松浦ミキ子15:00来り、母に紹介し、今井家にゆけば妹2人と叔母1人とその子ら来をり。 帰りて夕食後、小林氏、資生堂の犬山氏つれ来る。条件多くて話にならず。 6月14日 眠剤のまず、22:00眠り5:00起く。出がけ山前君より「原稿受取ったがまにあはず、次号に!」と。野田又夫氏より『果樹園』よんだと。 筑摩の中島大吉郎君に電話すれば不在。斎藤dr.へゆき眠剤もらはず。新宿三越にてやきそば(130)食ひ、成城駅にてice- coffee(50)のみ、登校。 (※省略) 山田俊雄氏『言語史研究入門』賜はる。教授会なにもなくてすみ、16:30よりの『成城文芸』のひきつぎ会をすぐに行ふ。 池田、石川、関本、佐野、唄、福田、山中の諸氏と副手5人にて15人×500飲み食ひす。 (五十周年記念の出版「中国民俗語考」400×50 かくこととす(9月末)。) 佐伯で『ひのえうま(80)』買ふ。 6月15日 6:00さめ7:00すぎ出て研究室自分であける。2時間すまし(山田君へ文典物数冊もちゆく)、成城堂で『日本春歌考(260)』買って 13:00帰宅。 (※省略)  6月16日 雨5:00ごろさむ。畠山六右衛門氏より「相談役に左遷」と。中島大吉郎君より足立生の写真返送。(※省略) 横浜のtape-recorder社より現金引換にて着きしとのことにユ、雨中をゆく。夜、『白楽天』の寄贈者名簿作る。 6月17日 雨やむ。早くさめ『高麗史地理志』の写し了る。8:30出て成城大学。堀川氏「やはり癌だった」と打明ける。「元気で」と握手せしのみ。 (※省略) 『東国輿地勝覧』3冊、図書館より借出し、semiすみてまたpuddingをAlpsで吃ふ。 けふ『今昔物語集本朝仏法部2冊(220×2)』買ふ。荻窪までのり越し、帰りてララミー牧場見る。 植村清二先生、桜台へ御転居(栗山部長7月横浜へ転居と新名簿に見ゆ。) 前橋の梁瀬氏より「新潮よんだ」と。(※省略) 『花影』2冊。 6月18日 曇。傘もちて9:00出、(※省略) 田川博士と同行。茶おごりて10:00より4人で太宗会。 すみて昼食代なく、急ぎ帰ればユ、花井家へゆきてをらず。100とりて炒麺(130)食ひ、 柏井へゆけば、統夫、松田みさ子、俊子、章をり、数男は来患のため殆ど出ず、章しゃべる。(※省略) ユ14:30来りし故、章と出て帰宅。 今中より「記念費寄附せよ」と。滝本生16:30来り『李広列伝』よむ。夕食途中に入り19:30帰りゆく。 ユの話によれば「統夫、慰謝料としてこの家を文子にわたすつもり。松田女は3児育てる気なきらし」と。 6月19日(日) 母、妹へゆくとてユ、礼拝のこといはず。 佐伯へゆけば『春夫全集1(2,500)』来をり。『シャム語英晤辞典(50)』頒けてもらひ、『春夫全集』もち帰る。 集英社より『杜甫』来る。200p250円なり。全部で5冊なり。われの『白楽天』が第2となるか。 (船越にゆき「家買ふかせねば相当の覚悟いる」と話す)。午后、佐伯へ金払ひにゆき、西瓜1/4(100)買ひ来る。他に事なし。母、妹泊り。 6月20日 雨。母帰らぬうち9:00出て地下鉄にて麹町保健所へゆき種痘行ひ証明書もらふ(130×2)。 向ひの「毎日」にゆき桐山君呼び出せば肥えをり。茶おごられ「令息進学のことにて夫人よこす」と。 ユ、西川にゆき、われ天野愛一につれられ、原稿かき了りしをつれ出し、牛鬼との罵語きかる。 12:00 sandwich食ひ了り『性の石神(280)』買ひ、国鉄にのり、佐伯にて『日本女性史 上(25)』、『李花集(25)』買ひて帰宅。 宇田良子夫人より「新潮よんだ」と。足立明子生より中島君の書類返却。ユ、西川に会ひて仮処分の手続きき、夜、賀代嫗の許可を得し。 澄より電話「依子、泰をつれて高松、26日迎へにゆく。それまでに上京する云々」。 松浦薫氏より「むすめいつも御馳走になり云々」。 6月21日 このごろの常として5:00さめ『史記』の予習をす(『東国輿地勝覧』第1冊すむ)。(※省略) 斎藤dr.へゆき、帰ればユ「登記所にて住民登録証(統夫の)なきため出来ざりし」と。(※省略)  昼寝してさめ散髪にゆき『東関紀行・海道記(50)』買ひ来る。 6月22日 よべ22:00にねしは普通なれど2:00めざめ「東洋文化史(台湾の年中行事はじむ)」のnote作りなどいろいろす。 7:00すぎ出て8:20成城着。(※省略) 高田、池田2教授をれど堀川博士居らず! 「日本民俗学会を10月1日に前橋にて」といふに「出席」の届す。けふsalaryもらひ『日本民俗学会報』44冊分(4,800)払ひ、 成城堂に1,700払ひ、Hippocrates『古い医術について(100)』買ひ、帰りて昼寝す。(※省略) 田代継男氏来り「西沢大尉生還して学校教師」ときく。握り飯1ケ食ひて帰るを送り『平賀元義歌集(100)』、『星と伝説(50)』、を北口にて 買ふ。 けふ鍛冶美和、杉本長夫2氏より『新潮』よんだと。西川満氏より「本贈る」と。 坪井より「元気出せ」と。澄より電話「(※省略)、富士山麓にて見つかりし」と。 6月23日 曇。よべ2:30目ざめ、1時間ほど眠りしあと朝食。成城大学より電話、『説文解字注』もつやと。中西博士の問なり「持たず」と答ふ。 『不二』5,6月合併号来る。紀元節運動につき忙しかりし也。午すぎ出てユの写真、小学校の壁を背景にとり、 「うつぎ」の主人にきいて長命寺といふへゆく。「石神井駅より400mほどのところにて石仏多し」となり。 『ロシア革命運動の曙(90)』買ふ。 昼寝し『東国輿地勝覧』了ふ。 6月24日 12:00前ね、4:00さめ「コギトの思ひ出200×11」かく。9:00すぎ出て成城にて速達出し、堀川教授の癌研入院をきく。「手術は来 週」と。 午后、短大すませて帰宅。『天皇ヒロヒト(680)』買ふ。昼寝し18:00荻窪へ成城のfamily-chorusききにゆく。(※省略)  写真でき、長命寺の仏像まづ写る。 6月25日 4:00さめ、古田生へハガキ。そのあと「コギトの思ひ出200×12」かき了へ、30日出すこととす。その旨二郎氏へハガキ。 『天皇ヒロヒト』読み了る。2.26のころの右翼を非難す「秩父宮擁立の企てありし」と。 9:00出て菓子もちて東洋文庫。太宗会の最後として話すのみなりし。出れば野原四郎氏わがまへを歩く。挨拶すれば「仁井田博士の死因は?」と。 「交通事故の後遺症」といまききしままを云ひて別れ、駒込駅前でcoffee(80)のめば、卵1ケとpâo1片とつく。 目白で下車。古本屋2軒見、目白3丁目より中野行busにのり14:10帰宅。焼きそば15:00すぎ食ふ。 西川満氏より詩集(catholic臭なり)。原田運治君より「竹村氏の書類受取りわたした」旨。(※省略) 和田統夫より家裁には「同居申請なりし」と。夕方、渋谷へゆきし母を寿賀子女史送り来る。 永山光文より「元気か、家はいかがなりしや」と問ひ呉る。 6月26日(日) 3:30目覚む。9:30出てcameraにfilm入れ方おそはりにゆき、佐伯に寄り主人を写す。 『大喪儀記録』、『御大礼記録』、『日露戦史』みな父の本にして30なり。 他にDante『新生(30)』買ひ、帰れば『維新百人一首』不二歌道会より来る。 6月27日 10:00出て近畿touristへゆけば部長不在。ユの写真とほり、わが写真だめ。 旅券下付金は1人900と。写し直すには三越か伊勢丹がよからんと。8月3日には14:20発のcathay航空のがあり、台北着2時間後と。 須田町まで歩き(地下で冷麺(180)吃ふ)、都電で駿台下。 黒板博士『欧米文明記(30)』、『Nankin contre Tokyo』、『世界の猶太人網(150)』、『Heimatkunde-Unterricht (100)』買ひ、 地図屋休みにつき、向ひで『星空のなぞ(150)』買ひ、三省堂で『名古屋 南・北(60×2)』買ひ、 歩いて御茶ノ水駅前で『新撰姓氏録と上代氏族史(30)』買ふ。帰れば林叔母来をり。 『骨』の多喜さん追悼号にわが文・詩ともにのす。山前君に礼かく。澄より電話「(※省略)は父母と澄の家3人とですませし云々」。 京、学校のせわにて、あす中小企業の電気会社の就職試験受くると。担任の先生よりしらせ下さる。 6月28日 3:30めざむ。台風性の大雨ふりをり。10:00出て三越にてKing George(3,500)(※ウイスキー)お中元にもち斎藤dr.。 お礼いひ、台湾行けさうといふ。雨ゆゑゆきかへりとも都電。伊勢丹にて写真とる(400)。「7月1日出来」と。 7階にて高き豆soupのみ、持参のpâo食ひて登校。佐野教授、この間の写真たまふ。 教授会、案件なくいつもの如く話すもの話す(堀川教授の癌入院公表さる)。すみてただちに出る。 (山田教授より履歴書、業績表、時間表出せといはれ同車)、けふ台湾行の届すべき故、真珠婚祝にといふ。 帰りて業績かかんとかれば『李白』『李太白(元々社)』見つからず。(※省略) 6月29日 3:30さめ、写しをし、また1時間ねむりしか、5:00おき6:00朝食、登校7:10。野口君よべ徹夜せしとて来てをり。 昨日見し仮屋は流れてなし(明大教授の家と)。1時限2時限すまし(※省略)、 清水生より「龍園大飯店 太原路」と教はる。台北駅北口のもとの大稲堤(※大稲埕)なり。 成城堂にて『中国古代の科学(210)』と『天正少年使節(260)』買ふ。暑くて小田急終点にてjuiceのみて帰宅。 大江叔母より「台湾行きいた」と手紙。 6月30日 よべ20:30ね、4:30起く。8:30出て『果樹園』へ原稿。集英社へ『白楽天』の寄贈名簿とを投函。 歩きて山田俊雄邸(2階建となりをり)につけば10:30。 お茶ごち走となり、履歴書、業績手わたして井之頭公園までのり、吉祥寺まで歩き中央線にて帰宅。 (※省略) 午后、近畿touristより「月曜10:00写真もて来よ」と。けふ昼ね2時間。(※省略) 7月1日 よべ22:00前ね、5:00さむ。萩原葉子氏に「『新潮』よんでくれ。『天上の花(※三好達治回想)』くれ」と。 10:05喜多村生来り「京都へゆく」といふに、友枝に紹介の名刺かき、つまらぬなら東洋文庫へゆけと松村君へも紹介す。きしめん食ひて帰りゆ く。 佐伯へゆき『朱子文集10冊(1,200)』、『鄭端簡公今言類編3冊(500)』、『酌中志2冊(350)』かり『大越史記全書』もちゆく。 (※省略) 夕食後、澄来り、「18社のtelevi会議にて上京」と。この前の本栖湖にての(※省略)を語り、 「泰賢し」と自慢し、台湾行の餞別1万円おきて兄宅へゆく。 7月2日 よべ久しぶりにねつき悪きもくすりのまずうとうとしつつ8:00さめ、松村氏に電話すれば「アルタイ学会にて京都へゆく。(※省略)」。 萩原葉子女史より「気にしてゐる」旨いれちがひに来る。矢野兼三閣下「大原に転居」と。(※省略) 佐伯へゆき昨日の1,600払ふ。『堀辰雄全集9』来る。入浴。夕食しゐれば滝本生来る。 7月3日(日) よべ1:30さめ、うとうとし、メヤギ(※不詳:雌八木?)を許せしゆめ見て起き、9:10出て久しぶりに礼拝。「足をあらひあへ」との訓なり。 (※省略) 帰りて寒きゆゑ(16℃)ユタンポ入れ、ねてゐれば『東方学』『果樹園125』来をり。 佐伯より『大越史記全書』3千円でといふをとりかへし『聖書入門(90)』買ふ。(※省略) 澄より電話「台湾の土産に印材を」といひ来し。 7月4日 10:00との約束に9:00出て近畿touristへゆけばユも同行すべき也し。Signさされ(Cathay航空とれ、500弗づつの書類も とれしと)。 一人と同行、有楽町の営業所へゆき近くの外事課にて手続すませ「11日旅券下付」と。帰宅、ユをゆかしむ。 杉山平一氏より「事業やめ家かはりし」と。篠田博士より「多喜さん気の毒」と。竹内の3冊そろふ。 ユ、touristにて「帰り名古屋まで」といひ「10日15:00台北発の日航予約す」と電話ありし。(※省略) 小山正孝君より電話「会ひたし」とのことに「早く来たまへ」といふ。夜、堀多恵さんより電話ありしゆゑ「蔵書目録賜へ」といふ。 けふ又古本屋にゆき『もはや高地なし(50)』買ふ。(※省略) 7月5日 (※省略) 〒なし。昼中ねたまま也。夜、「年中行事」語集に『酌中志』抽く。松浦父君より電話「あす14:00来訪」と。 7月6日 2:30さめて上厠。4:30またさめて上厠。水のみすぎ也。『酌中志』cardとり「第3種とれ」と小高根二郎氏にかく。 14:00松浦父上みえ「結納、仲人のことまかせ」と也。 夕方散歩に出れば佐伯休み也し。 集英社の薄井氏より電話「寄贈者名簿受取った。60部買上げとなる。10日出来」と。角川の佐々木氏より「Heineの原稿出来た。8月初刊行」 と。 宮崎智慧さんよりglass器たまふ。 7月7日 9:00出て斎藤dr.。眠剤用ひざるを云ひ13日分いただく。(来週より木曜院長先生ならず。月火水と。) 国鉄千駄ヶ谷よりのり、佐伯にて『民謡歴史散歩(80)』買ふ。(※お中元 省略) 角川の佐々木君「口絵写真にて来る」と。諏訪父上より「香奠返し送った」旨。佐々木君来り、HeineのWerkeⅠもちゆく。「検印廃止」と。 大阪の饗庭源吾氏より電話。「民俗語集」の『長安客話』了る。 7月8日 2:00さめ4:00さむ。中野清見をゆめ見し也。頼永承教授へ「8月3日台北着、龍園大飯店に入るとて楊雲萍教授にも伝へてくれ」と航空便。 9:00かっきりに柏井へゆけば患者あり、ちょっと話し患者たえまなく5人待さるを見て出、『帝王(60)』、『大名華族(50)』買ひて帰れ ば、 堀夫人より『蔵書目録』来てをり、よみゐれば角川の『堀辰雄全集』の係の人より電話「佐々木氏よりきいたが」「送る要なし、訂正せよ」といふ。 堀夫人に礼状(「あすまた帰京」と)。 (※お中元 省略) 7月9日 4:00さめ『宛署雑記』cardにとり、『吉林通志』検す。饗庭源吾氏より電話通りのハガキ。社会思想社より『山のうた』に詩2篇くれと。 午后、母「大丸」へゆくにつき、はもの皮たのむ。(※省略)  7月10日(日) 2:00さめ3:00までに『果樹園』の「コギトの思ひ出200×10」終了の辞かき、今後、詩かくといふ。讃歌かかん。 命あらばまたかへり見ん東路の小夜の中山越えし日のこと 睡眠不足にて礼拝にゆかず。西沢繁夫に電話すれば「順天堂病院神経科に入院中」と!(※省略) 依子より4月末とった泰の写真送り来る。 タバコ買ひに出、また佐伯にゆき『広島(50)』、『Fatima(25)』、『Corea industry(25)』にて15円借りて帰る。 史、松浦家へゆき、弓子横浜へゆく。大、Hotelを引き払ひ居処不明とて母hys(※ヒステリー)。 7月11日 21:00弓子の帰宅に先んじて眠り、手塚教授、八木司書のゆめ見てさむれば1:20なり。昨日先妣のノート見出しを(千草生れをり)憶ふ。 2:20大江叔母へハガキかき台湾行ことわる。守屋美都雄博士きのふ脳出血で死にしと。(※大阪大学)文学部長たりしと「朝日」に見ゆ。 10:30近鉄案内所にゆく途中、フジテレビに電話し、大へ「母犯気しさう」と伝へてもらふ。 旅券2通交付受け、20日前後に航空代支払ひかたがた弗換へにゆくと茶のみながら原沢勝君にいふ(あとにてきけば茶代600)。 都電にて一ツ橋下車。集英社及川氏を見かけ、追ひて『白楽天』のこときけば知らず。「13:00すぎ再来」をいひ、途にて鈴木重役に遭ひ、 うな丼一つに胆吸2つとる(240)。集英社にゆき薄井氏に会へば「まだ出ず」と。65冊のこといひてtaxi。 山本へゆき守屋部長のこといへば「Irakへ去年ゆきし」と「Iranことした」としゃれ云ふ。『四部叢刊初集』成城に入りしと。 薬王寺にて下り松浦家へゆけば父母君と美紀子と出て「diamond platina台にてよし(十合にて見し) 返しにcameraとgolf道具とする」と。 20日頃持参といひ、またtaxi(140)、伊勢丹にて鱧の胆さがせしも見付らず、ユより1,000もらひ紀伊國屋にて『清俗紀聞2 (600)』買ひ、 阿佐谷にてOdeon座にゆきNapoleon-solo(300)見て佐伯に25払ひ、帰れば大より電話あり千駄谷の宿にゐる由。 史に招待と学士会館まかす、指輪まかせよといひ、大江叔母に電話すれば「東京店に紹介する」と。(※省略) 朝、電話で叱りし喜多村生「あす午前来る」と。躁なり。 (※省略) けふ16:30集英社の薄井氏『白楽天』15冊もち来りしと。解題われながらよく出来をり。 7月12日 よべ「感謝々々」といひて2:00まで眠れず、安定剤のみわすれしに気付きのみて眠り、6:00さむ。 喜多村生来りし故、英文typeに漢字入れ、昼食くはし『白楽天』父君へと托す(美紀子にも1冊わたせと托す)。 澄より電話「ストにて家に帰らず。京来られぬか、ノリ子君来をり」と。 昼寝3時間、さめて機嫌よくなり、(※省略) 佐伯へゆき阿部能成『芸術の国と自然の国(30)』買ひ来る。母「名古屋へゆかん」といふ。 けふ林叔父来り「史の式に出てくれ」といへば、保険会社の保証人の印捺ささる。けさの朝日に羽田母上の死去見え、ユと相談。(※省略) 7月13日 きのふ昼寝3時間せし上、よべ21:00より5:00までねて睡眠不足をとり返せし。 10:00出て俊子姉にゆき(※省略)、柏井にゆき歯の治療受け、(※省略)  佐伯で『働く女性の日常百科(80)』買ふ。((※飛行機事故等で)わが帰らざる時は、山本と立会ひにて(※蔵書の)値をつけよと内儀にたの む)。 (※省略) 大に電話し「母のhysterieなほすため無関心やめよ」といふところへ「大丸」までゆきし母帰り来る。 けふ松浦薫氏より電話かかり「18日の学士会館200人の室とれた云々」。(※お中元 省略) 16:00小山正孝氏、河出書房の『山の樹』同人松田一谷氏つれ来る。送り出せば聖公会(※キリスト教の教派)と。 『白楽天』に「香鑪峰の雪のごとくに白かれと浄くしあれと主はのたまへる」と書きて与へし也。 (小山君の話にては「津村信夫の娘、結婚して主婦の友社にはたらく。この間23回忌ありし」と。) 7月14日 フランス革命の日。4:00覚む。(※省略) 宮崎智慧氏より「present怒らずに受取られホッとした」由。 帝塚山学院より50周年の記念に50人書くとて原稿用紙(200×6)。花井夫人に電話。(※省略) 和田夫人に電話すれば「今日来る!」。12:00かっきり阿佐谷北口より電話ありし故、迎へにゆき、 西瓜と桃と餞別を賜はんとする故、「餞別だけは固辞す。ユもちと変」といふ。 ともに14:00吉祥寺へゆき、駅前で別れ、竹森奥様牧師にお会ひし、台湾行いひ、未信者の息子の結婚のこといへば「承知す」と也。 『白楽天』と「もらひものです」とbuiscuitsおき、ユと名店会館前で別れしに、白水胖君によびとめられ、疲れしに家までゆく。 坊やとクマと可愛ゆし。(※省略) 16:00白水君運転の車にて青梅街道に出て帰宅。(※省略) ユ帰り来る。 松浦姉妹に遭ひ「美紀子の指10.5」と。「日曜より逗子にゆく」と。史は「けふより山へゆく」と也。(※省略) 夜、入浴中、竹森先生よりお電話あり「台湾の牧師紹介せん」と。烏来(※新北市内)の李先生のこといひてすみし。 7月15日 よべ20:00ねて5:00さめ睡眠不足とり返す。畠山氏へ礼状。庄野氏に「短大の思ひ出(6×200)」。散髪にゆく。(※省略) 母、増上寺へゆきしと。松浦家へ電話し「けふ指輪買ひにゆく」といひしも母上にては埒あかず。母12:00帰りしゆゑ13:00出て十合。 松本店長、店内巡視とて待たされ、やがて電話にて指図あり、某氏の案内にて貴金属売場にゆけば(※省略)。 ついでに台湾行の夏服のこといへば承知され、1.8万円の生地にて24日出来1.5万円となる。 喫茶してユと別れしも、扇子売場にゐるを見、とりまぜる本買はす。「毎日」の天野君呼べば下りて来て「毎日の支局、台北になし」と。 『白楽天』未着と。別れて国鉄。佐伯にて『人種の問題(40)』、『日本のうたごゑ(40)』買ひ『青雲齋書目』貰ひ、 台湾より帰らざる時は山本と対合値ぶみたのむ。(※省略) 7月16日 よべねいりたるは早けれど1:30さめ、あと眠り足らず。小高根二郎より「コギトの思ひ出とりやめ宜し」と。 角川より「『Heine』8千を8月10日出す」と。「保田8月半ばすぎ筑波神社の講習に出る」と新聞教育日本に広告す。 けふ集英社へ電話かければ薄井氏「寄贈本は12日に出せし」ときき呉る。眠くて臥床、12:30昼食。 ユを促して14:00十合へゆかしむれば「17:00まで出来ず」と。折しも滝本生来り、『史記 李陵』すむ、次は『項羽本紀』と。 ともに散歩にゆきcamera屋にfilmの入れ方教はりしもわからず。 佐伯へゆき『文選2帙(2,000)』借りて来て家にて滝本生にbeerのます。17:20帰りゆく。史「常念より燕へ」と出てゆきしに夜、帰 来。 7月17日(日) よべ1:30さむ。7:00ユ、起し飯くひ9:40出て新宿駅にて緑の窓口こむを見しあと、taxiにのれば(※省略)、180にて下車。ユ 200わたす。 母上、頭痛とかで中々見えず、見えしにと結納のdia.わたせば「nameとdate入りをらず」と美紀子云ふ。 史に云ひて「十合に入れてもらへ」と云ひ、夫婦のみ赤飯よばれ、冷酒3盃のみて名をきけば「白つる」と、喜代之助父の愛飲酒なり。 Cameraもらひgolf道具預ってもらひ、新宿までtaxi。緑の窓口にならび、ユおきて帰宅すれば母をらず。 『史苑』来り、平凡社の見本刷来しを見しに誤りだらけ也。(※省略) 松本氏より電話といふにかければやがて向ふより「来る」と。 待つ中16:30来て大鵬の優勝きまる直前なりし。beerのみmethodist(※プロテスタント一派)ときき、郡の監視付きの軍属なりしと きき、 最後に「すべての宗教は一」とききて呆然。20:30駅まで送り出す。(※省略) 7月18日 よべ1:30尿意にて覚む。水のむこと控へん。 西川英夫に電話し「天野愛一の歓迎会せよ」といひ、平凡社の酒井君(不在)に「刷見本の配布やめよ」の伝言たのむ。〒なし。 母13:30出てゆきしもわれ昼寐して知らず。平凡社より電話「心得ん」と。ユ、17:00帰り来りわれに代りてカメラ屋にゆく。14枚とれゐ し。 その内の佐伯の写真もちてゆき『文章規範(70)』買ひて帰れば賀代嫗をり。 わが家28万円余立て替て、あす本多氏に40万円渡す旨云ひにゆく。(※省略) 柏井に泊る筈なりし賀代嫗わが家泊りとなる。(※省略) 『神仏大観』と『悲歌』とをニンジン(※俳優座の木島新一)に托せしこと大に云ふ。 7月19日 よべ賀代嫗の帰り来るを待ちて(23:30)、5:00覚む。賀代嫗の歌バカ懇々と説諭し(今井夫人に「来よ」といふ)、その効なきを知る。 浅野晃氏より『白楽天』の受取。こはno.1なり。(※省略) 昼寐せしに賀代嫗来り、林叔母来る。林叔母は「史の式は遠慮す」と也。(※省略) ユ、貯金を下し40万円つくり来る。われは佐伯へゆきて『水島尓保布(50)』買ひ来る。他に『杉浦重剛座談録(10)』。 近畿touristの原沢君より電話、 「日航の10日便ナゴヤに下りず大阪へ下りるやも不明。調べて知らせる。携帯の500弗は400弗にてもよし1日25弗あれば十分」と。 夜、本多喜一氏に40万円もちゆき仮受取もらふ。 7月20日 曇。暑し。5:00さめ9:20出て斎藤dr.へゆく途中cameraにて方々とる。先生には好調申上げ2枚とり申し、またcameraもちて新 宿。 紀伊國屋にてWeigallの『クレオパトラ(190)』買ふ。32枚とりしにfilm断れずカメラ屋にゆけば20日の休み! (※『白楽天』受 取省略) 肥下夫人「新築した」と。(※暑中見舞 省略) 7月21日 5:00すぎさめ丁度よく(よべ1:30一度さめし也)、青山定雄博士より電話「『白楽天』の礼に『歴代地名要覧』送る」と。 神田信夫氏にきけば「Cathayにて8.3出発、向ふでは1日20弗にて十分」と。「頼永承氏にはしらせたれどよろしく」と宿しらす。 8:30出て成城大学。「三菱より金出るとかにて図書館2億円にて改築 (※省略)」12:00動議中止を提案(堀川博士、癌にてはなかりし 由)。 ソバ注文せしに来ず外へ出てrice-curry(100)食ひ『大漢和辞典2』と『大航海時代叢書6(2500)』成城堂で受取り『金枝篇』注 文す。 青ヶ島なる鎌田女史より電話大藤氏にあり、野口君も奄美と。 午后は研究室不足26とのみはっきりし、14:00すぎ打切り、salaryもらひ成城堂へ払ひし、card100枚矢野副手よりもらひ、 帰宅の途、古野博士に会ふ。ヨボヨボしをり。帰れば(佐伯に『文選』の2千円払ひ『偉大なる航海者(200)』買ふ)、 (※『白楽天』受取省 略) 夜、建より「東京出張」と。母のナゴヤ行知らざりし。 7月22日 夜中に3度さむ。ユ腎盂炎にて寒がる。9:00に近藤dr.にゆかす。(※省略) 林叔父、昼食前に来り、海外旅行傷害保険東京海上火災に500万円(960)×2+治療2000弗(432)×2に入る。史にgolf保険証贈る と。 7月23日 史、相変らず感じ悪し(golf保険に関しての対話)。けさは5:00覚めしも夜半に2度起きし也。 ユ登記所へゆき本多夫人契約書もち来る。(※省略) 野田博士より『デカルト(新書)』贈らる。(※省略) 滝本生来る。 佐伯にて『源氏物語1(70)』、『食物の社会史(70)』買ふ。ユ、老眼鏡買ふ(1,800)。われcamera屋へゆき現像たのみ1本入れ入 れ方大体わかりし。 (※省略) 名古屋より「st.長引く故月曜母子来る」由電話あり。書類そろひ売却権の登記にゆき4日間位して通知ありと。 7月24日(日) 5:00起きる。北杜夫氏、医師やめしと新聞に見ゆ。 礼拝にゆく。4外国女牧師の来会ありThai,Hongkong,Australiaの英語、わがNewZeelandの英語わからざりし。(※ 省略) 川久保(※川久保悌郎)より電話ありし故「松本(※松本善海)にともにゆかん」といひ、昼寝しをれば16:00すぎ来る。 夕食せしめbeerのませ17:00出て金沢良雄に寄れば不在。阿佐谷6丁目まで歩き中村橋行のbusにのり(20)桜台まで西武。 途にて松本夫人に会ふ。ゆけば「坊や国鉄に就職、大阪に住む」と。「末端神経わるく出勤せず執筆せず」と。 わけわからず体重48kgといへど痩せ腰曲りをり。Beerのまされ19:00すぎ出て20:00帰宅。 7月25日 4:00さむ。9:00写真屋へゆけば茂太先生ピンボケにて落胆す。 (※『白楽天』受取省略) 中山桂子(曽根)夫人より「22日毎日の朝刊に日記かいた」と! 午后、庄野氏へ『白楽天』贈る(55)。留守に名古屋より電話「あす1:10 着」と。 社会思想社より『中国の詩』出せと。電話すれば「係り外出」と。やがて電話あり「あさって11:00来る」と。 十合より「洋服できてゐる」と電話。(けふ「うつぎ」で『イプセン集(100)』、『中古三女歌人集(70)』買ふ)。 夜、松浦父上より「九州四国へゆく。諏訪父上にも会ふ」と。 7月26日 21:00ねむり3:00さむ。「依子13:10東京着」と。田代継男氏より「夫人子宮癌にてけふ手術」と電話。 10:00十合と東京駅と近藤dr.へとユ連立て、佐伯へゆく。 杭州の写真4枚(200)、『和漢詩選(200)』、『日本永代蔵(60)』、『社会研究論叢(30)』と買ふ。 帰れば(※『白楽天』 暑中見舞 受取省略) 夜、弓子『おはなはん』買ひ来る。 泰、きげんよく、澄よりも電話ありし。向ひより乳母車借る。(※省略) 7月27日 5:00さめ朝食し、また1時間眠る。集英社より電話「岡田英弘君あての返り来し」とのことに現住所にかき直してもらふ。 (※『白楽天』 暑中見舞 受取省略) 夜、beerのみて金沢良雄、川久保をつれ来る。帰りゆきしあと川久保の財布忘れあり、届けにゆきしにま だ帰らず、嬢にわたして帰り入浴しゐれば「受取った」の電話ありし。 けふ社会思想社の2人(八坂安守氏と福原氏)来り『中国の詩(原文入り)』12月までと約束す。松井保治君まだつとめゐる由。 7月28日 1:30さめ5:30さむ。ユ、泰を柏井へつれゆく。(※『白楽天』 暑中見舞 受取省略) 7月29日 この3、4日30℃を越す暑さ也。9:00すぎ出て「三井銀行にて40万円下せ」といひしに駅にて30万円とわかり叱り再びゆかしめユ、傘忘れ来 る。 10:15近鉄bureauへゆけば(※省略) 相談の上、勧銀御徒町支店で600弗かへる(360×600+600)。 ついでbureauへかへり航空券141,700買ひ、準備了り。野崎部長より台北のtouristへ紹介の名刺もらひ、 12:00出て有楽町の十合で昼食(rice-curry200×2)。鞄買ふ(2,300+2,800)。ついで土用丑のうなぎ(500)買 ひ、われ先に帰宅。 『女性自身』より電話ありしと。(※省略) ついで角川の佐々木伸行君来り、Heineの改版10冊おき、署名さす。「中国文学出す気あり」と。 「台湾より帰れば相談にのらん」といひ、萩原葉子氏よりの『天上の花』の読後感いふ。山口広氏よりも『万国博物語』もらふ。 17:10『女性自身』の電話きけばハイネの「落日」を皇太子夫婦の写真につけると也。 夜、喜多村生より電話『石氏星経の研究』購入すと。統夫より電話「会談は鎌倉で」と。尚子に電話し自動車たのむ「10:30までに来る」と也。 7月30日 5:00まへさめ、萩原葉子、山口広氏に礼状。7:00朝食後いつのまにかまた眠り、さむれば12:00前なり。 ユ、class会にゆき、けふ18:10に着く母迎へにゆきしと。林叔父より航空保険証来り、(※『白楽天』 暑中見舞 受取省略)  笠野半爾より山岸、太宰とふぐ友達たりしといふ詩集(※『象徴の森』)。 母帰り来り、きげん良し(咲耶と仲直りせし也)。写真15枚とれをり川久保写る。依子、月曜に帰宅となりし。 7月31日(日) 5:00前さめ、pâo焼いて食ふ。10:00船越さそひて出(Sabdwich、3人分依子弓子作る)。 ちょっとまちて12:15鎌倉の和田宅へつき、統夫まてば(文子海水浴と)、この間、子供を連れて来しを返し(2度)、2度目には財布と切符入れ し上着とられ、教会の人を仲に入れて「女と別れる、同居する」の証文かきしと! やがて兄来り「悪口いふなら1児こさへた頃に別れれば宜しかりし」といひ腹立たせ、「離婚ならいくら出すや」ときく。 14:30出て16:00すぎ帰宅。(※『白楽天』 暑中見舞 受取省略)  ユ、本多氏へゆき、土地の借金、松田つぎより和田賀代に代る手続すむ。 8月1日 5:00さめ、pâo焼いて食ひ、麦茶わかして冷やす。7:00泰さめ10:00出てゆく(京おともす)まで色々芸す。 ユ、家屋の登記書とり来る。3千円が手数料と。賀代女史より電話 (※省略) 京かへり来り「泰、眠らずにひかりにのりし」と。(※省略) 松村氏より「台北にてあさって逢はん」といふ。 8月2日 5:00前さむ。9:00出て齋藤神経科へゆけば「茂太先生7月末より3週間海外旅行」と。代診先生に1週間分と眠剤10服もらふ。 帰りて昼食。(※暑中見舞 省略) 『果樹園』へ2,500送りにゆきTokyo、Peace、Hope土産にと買ふ(360)。 佐伯にて『ちぎれ雲(50)』。FujiSS(※フィルム)5箱買ふ(130×5)。(※省略) 近畿touristより電話「あす13:00には羽田にゆき近畿の派出者に会へ」と念の入ったること也。21:00賀代嫗来りし故、章を叱咤す。 神田氏より「あすの出発如何」問合せの電話。 わが行くは主のみ心にまかせつつ南の島に祈りにとこそ わがゆくは三十年間つれそひしをろかなる妻(め)を賢(さか)しくせむと わがゆくは炎瘴の地と人はいへど幼きゆめを抱きゆきし地★  (★昭和8年) わがゆくはかの死を決し見し星★のかがやく光またも見むため  (★昭和17年) わがゆくはおのが罪とがよく知りて道に死なむと思ふによりぬ わがゆくは陛下万歳いひ死にし本島人に罪謝さんため 主よ主よと日ごと呼ばひてみ答へのままにし行かむ何ためらはず (7.21 教会席上) 遺言 1.葬儀は吉祥寺教会(竹森牧師司会)で、すんでのち教会へ献金5万円、牧師さんへお礼2万円すること(梓(※次男)の骨を埋め墓地を買ふこ と)。 2.案内はAdress bookにある人みなにすること(成城大学には即刻電話でしらす)。御花料はもらってもよし、辞退してもよし。 3.本の整理はゆっくりする。一括してある著書は永久に家にのこす。 その他執筆雑誌は『コギト』『四季』『果樹園』『祖国』を保存、四畳半押入れに雑誌あり、執筆せるもの多く注意(史と澄とで検すること)。 4.日記はのこし(note類、cardも同)、福地邦樹君辺りには見せてよし。 5.史の挙式は11月18日に予定通り行ふこと(父母代りは柏井夫婦にせよ)。 6.航空保険1,000万円(林叔父の会社)、他に通帳証書類みなカード箱最上段にあり。これらの分配は4子等分せよ(母に10%づつそれぞれ贈 れ)。 7.書籍類の処分は急がず必要あらば山本(神田)、佐伯(阿佐谷)にて見積もりさせ、成城大学に寄附し相当の礼金もらへばよからん。  (大学研究室にも千冊はあり。一応もち帰れ本棚4ケ「欲しき同僚に」とのこせ) みなcardとりあり(貸出20冊あり。返却せずば仕方な し)。 8.この家には残れるだけ残り、あと皆結婚の暁(10年後)はしらず。家賃現在1.5万なれど19ヶ月分前払ひしあり(買取るも可)。賀代嫗と相 談せよ。 9.父母の昇天を信じ、機会あらば信仰に入るべし。 昭和41年 8月 3日~昭和41年12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 8月3日 3:30起き、あと眠らず。5:30pao焼き7:00ユ、起きるを待つ。 喜多村生へ電話し来ざりしを責め、丸に電話して「台湾へゆく」といへば大のこときく。 10:00前、家を出て地下鉄にて新橋。Mono-railにのり(250×2)浜松町より空港につけば11:00。氷しるこ食ひ、そば食へず。 13:00近鉄の人来り、世話し呉れ、年をきけば19才と! 13:30税関と出国官吏所を通る。(戸田謙介氏に途で会ひ『民間伝承273』まだ着かずといへば家まで伴ひ1冊賜ふ。「汽車中でよむ!」と 也)。 14:20出発、10分ほどして機、揚り四国、霧島など見え、沖縄らしきものも見え時計1時間遅らし16:00すぎ台北空港に着く。 税関吏、親切にfree passとしてくれ、出口へゆけば、神田、松村、岡田の3氏のほか楊雲萍、頼永承2教授あり。 龍園大飯店の番頭のほか、李さん(交通社)も迎へてくれtaxi 2台にて龍園大飯店といふへ着く。市中也。 beer、果物など出しくれ、われ2教授に本頒ち、夜、頼夫人来る(あとにて明日夜と電話す)。明後日は楊邸へゆくこととなる。 夕食(入浴後)19:00すぎ食ひしに、soup以外は食へず、室へ来し沈淑女(のちにて令嬢とわかる。国軍の将校と10月結婚と)の puddingたまひ、 夜の散歩の案内され、木瓜くひしにおごり、つり銭までくれる。すぐ帰り、淑女に来てくれといひしに来ず(boy李さんとわかる)。 婢、梅さんわれらを祖父母と思ふと愛嬌よく、木瓜、竜眼(※パパイヤ、ライチ) (途中にて買ひし)ともにユ食はざる故、彼らに与へ11:00就寝。 8月4日 4:00さめればユ、扉のあけ立てに不眠なりしと。外の空気涼しくroom-coolerとまりをり。 7:00すぎまで待ちて卵とtoastをわれ、粥と漬物ユとり、ユに「眠れ」といひ、出て、李touristへゆけば8:30にてまだしめをり。 前の露店で氷水のみ、曲がりしところの本屋で『台湾地図(1.50元)』と『耶蘇伝2冊(40元)』買ひ、 あきしを待ちtouristへゆけば、王さんといふがをり「野崎部長より恩師ときいた」とて「土曜、烏来の周さん宅に泊めてくれる」といふ。 そこへ昨日迎へに来てくれし李総弁帰り来り、土曜の午前后、北角のdriveを約す。烏来にもつれゆくとのこと也し。 宿のpang助たちのこといへば「他に大Hotel用意しありし」と「departは『第一』といふがあり」と。 自動車で送られれば10:00にて室掃除中と。沈小姐の婚約者に紹介され写真とり、贈物(ナイロンの靴下と真珠のbroachと『ハイネ』)し、 喫茶し(20元)、ヱハガキ(20元)買ひ、印材店にゆけば、彫りてsackを入れて10弗。あす出来ると。 弓子と青山、大藤、栗山3教授にヱハガキ(7×3元)。昼食に炒麺(30+3元)。 第一dept.へtaxiでゆき(6元)、弓子に中国服(180元)、切手(28元)、竹のbroach(8×2元)。 われ本『中国笑話選(20元)』、『圓明園興亡史(12.6元)』買ひ、出て漢口路にてみちわからずなり、 三輪車に2人乗りして飯店に帰れば8元。taxiより高かりしも辛苦とて也。coffeeとteaにて20円、beer代66円にsignす。 16:00頼さん夫婦見え(夫人若く見え風邪ひきしと咳す。母は内地人にて青山学院を出しと)、2組に分かれて出、われらは古本屋にゆく。 『支那人の宗教(120元)』、『台湾銀行経済研究室編印本(21×5=200)』、『Bible中国文(23)』その他3冊買ふ。 約束の18:00に西洋料理店へゆき19:00までごちそうとなる。夫人集会のorganひくとて出てゆきしあと、 昔の栄町歩き『台北市全図(6元)』贈られ『家庭生活8月号』贈る。taxi(6元)にて旅館に帰る。 夫人より賜はりしは『山の人(高砂族)』のsymbolizeと茶托と也し。よく気のつく夫婦なりと感謝してユと語りあふ。 8月5日 よべ23:00久しぶりに眠剤のみ8:00まで眠り、楊雲萍教授を待つ。夫人同伴すぐ出て士林の故宮博物院。 (旧邸の近くにあり先生園■邸宅にて数千万円の長者と。安心、夫人はやはりchristian)。 殷鼎より始めて乾隆帝旧蔵の書画骨董を3階まで見(途中、喫茶にゆく。館外に茶店あり、喫煙も許さず蒋中正の命と)、 13:00出て四川料理を昼食にたまひ、宿まで送りたまひし故、夫人に扇子と靴下とを贈る。 われ、それより17:00まで昼ねし、起され、近所の観音■の祭見にゆきしも休み中也。 出て古亭街の古本屋にゆき『台湾府志』と『新化県志1』ととりかへてもらひ(鈴木清一『台湾旧慣冠婚葬祭と年中行事(150)』買ひし店にて教は る)、 茶店で洗濯石鹸(1.5元)買ひ、第一dept.への三輪車つかまへてもらひ、母へ帯じめ買ひしに買ひそこなひしと(200元)。 taxiにて宿へかへり、われはLuncheon(30)、ユは炒飯。けふ大甲panama(※帽子)買ふ(35元)。 8月6日 早くより用意してまてば9:00すぎ李弦管来てくれ(そのまへ旅行社へ電話す)、基隆、野柳へゆきcamera感光せしに気づきcolor- film買ふ(150元)。 日本語の出来る女よりなり。野柳の先に44人のせし艦沈みをりといふ。 ついで淡水(ガラン鼻(※鵝鑾鼻?)の灯台見しのみ)のgolf-clubにて昼食おごってもらふ(30元×2)。恐縮しつつ北投、新北投、陽明 山をとほりぬけ、 14:30宿につき一旦別れ(16:00迎へに来ると)、われは中山路まで看板撮り歩き本1冊買ふ(10元)。 16:30李さん来り、梅女つれてゆく許しを得て出発。17:00すぎ烏来へつき、美麓園飯店(Paradise Hotel)に入る。 主人周さんは教会の長老にて山上と山下と二つあり。あすは山上にゆくこととす。 (夜、人を集めて話さすとのことなりしも夕食20:00をすぎとりやめ。穿山甲の皮950円にてとりやめる。) 8月7日(日) 5:00さめ6:00より買物。向ひにて毬二つ(7元)。美麓園起き出せし故、蝶のtableかけ(35)、太鼓(30)、茶碗しき(35)買 ひ、われpipe(10)買ふ。 よべ眠剤半服。朝涼し。礼拝に8:30出、宣教師(25,26才)ではなく周さん司会して「山の上の説教」のところ一行よみ、あとわれに話さす。 山の上の浄く、高砂族の純粋なりしこといひ、天国にての再開を祈って終る。あとBibleうしろの婦人に与へ、写真とり、 長老といふ婦人(滝の所に店出し34才、6児と。日本語巧みなり)と話しながら山下り、また写真とりてbusにゆく。 (Paradise Hotel、李さんにいはれしと、金とらず、やむなく穿山甲800元1枚買ひ、われは蛮人像買ひ(20元)匆々に出し)。 bus代2人にて14元。taxiにて飯店に帰り、現像出来しを見しにところどころ写らず(現像代20元)、ただ楊さんのみ写りしを喜ぶ。 頼夫人に電話すれば「来る」と。竹森先生、矢野昌彦にヱハガキかく。15:00頼夫妻来りし故、夫人にユ、浴衣贈り、案内たのみ、 われは頼氏と古書店1軒(20元)、『乾隆地図(90)』買ひしを主に本あまた買ひ、三輪車で帰り6.9元払ふ。 ユもまもなく帰り(17:30)頼夫人に金借りしを返し、あす14:00の約束す。 8月8日 丸三郎へヱハガキ。よべ半服のみてねざめすまし5:00起き7:00朝食。写真とりつつ李氏旅行案内社まで中山路を歩く。 途中、風鈴(45)買ふ。着けば朝のgolfにゆきしとて李氏不在。やや待つ中、帰り来り、はじめて空filmなりしことわかる。 color-film入れてもらふ。三階の室に案内され3児のpiano弾き讃美歌をうたふをきき、旅券わが分ユもたざりしとわかり、 戸外にて家族の写真とりしのち李氏に送ってもらひ、visaわたす。 留守中、頼夫人より電話かかり、あとにてかければけふの日本婦人合流会、植物を見にゆかんと也。 昼食2人でsandwich 1つ食ひ、市場へ写真とりにゆけばcameraまた動かずなる。14:20頼劉夫人ユを連れゆく(洋傘楊教授に贈りてよしと)。 李touristに電話すれば「大阪行あす14:30か16:30か不明、明朝にはしらす」と也。 ユのゆきしあと、1人にて17:15まで待てば楊氏の坊や迎へに来り、洋傘贈り、宝物見せらる。桂小五郎の書あり。わが『悲歌』とどきをり。 多くの食たまひしあと、楊・頼両教授に即席の詩かき、21:30 taxiよんでもらひて宿に帰る。 8月9日 5:00さむ。7:00朝食。勘定たのめば10弗。梅ちゃん烏龍茶2缶くれる。boyたちに荷物はこばせ、李氏に9:00電話すれば不在。 11:00まで待ち、頼永承教授の地図見せてゆく。途わからずくるくる廻りしあと着き、昼食よばれる。 この間、李氏にはたびたび電話す。12:00まへ楊雲萍夫妻見え、いろいろ物たまひ、北園克衛と松枝茂夫への贈物と名刺ことづかる。 昼食大御馳走にて写真とってもらひ、15:00すぎ出て空港。泰航空にて17:15発と。 30分まちて入場。李、楊、頼3氏に帰ってもらふやうたのみ、乗りこむ(頼さんBauun語の『マタイ伝』賜ひ『讃美歌集』たまひうれし)。 夕食、機上でし、気がつけば大阪の五彩見え21:15伊丹空港着。やがて衛生検査すみ、税関すみ、 taxiにのり22:00前、阪急Hotelにつけば(900やる)、冷房の室なく、大阪空前絶後の暑さらしきと。 眠剤みつからず古田房子嬢に買って来てもらひし。大江に電話すれば叔母出て(マサ子その前に出る)「工合わるし」と。 「明日10:00見舞にゆく」といひ、そのあと眠剤みつかる。 8月10日 5:00さめ7:30朝食し。、新谷太郎にゆけば「発狂のことこの前もききし」と。老年の徴候といひ、荷物預けしまま大江へゆく。 9:30に着き咲耶、初江叔母呼ばれて来し故、史の式に出席たのむ。冷やしうどん食ひ12:30出て阪急Hotelに帰りtaxi呼んで貰ひしに 中々来ず。 来しにきけば「旧盆前で忙し」と也。「名古屋までゆくか」といへば「ゆきたし」といひしも、結局近鉄15:00特急にのり(600+300×2) 17:13ナゴヤ着。澄親子来てをり、駅前の料理旅館にゆき大急ぎで会食。包ませ払ひ6,062+60払ふ。17:38発のひかりにのり泰の笑ふ をみて発車。 (依子に中華服ピタリと合ひし故、買はす1,800也)。東京に20:40着。taxi代怪しければ中央線にのり阿佐谷よりtaxi(100)に て帰宅。 青山博士の本、賜ひあり。 8月11日 5:30さむ。(※ヱハガキ宛名 省略) 松枝茂夫氏に電話かけ11:00荻窪古本市で会ふこととす。松浦家へ電話し「明日参る」といふ。 10:00すぎ荻窪の古本市にゆき『無花果(500)』、『モルモン教(200)』、『蛙(500)』買ひし処へ、松枝茂夫氏来られ 「楊氏とは学生時代の友」といはる。ことづかりし物わたし、家へ伴ひ、beerのませ『白楽天』贈り中国ゾーメン(雞絲麺)くってもらふ。 昼がほの咲きし国より帰り来てあさがほの花われは見にけり・ (※ヱハガキ宛名 省略) ユをしてcamera屋へゆかす。母、弓子と映画見にゆきおそく帰りしを夢中にきく。 8月12日 いつもの如く5:00さむ。(※ハガキ宛名 省略) ユpermaかけにゆき、われ戸田氏に台湾土産もちゆき松浦家へ電話す。 ユ帰りし故10:00すぎ出て新宿甲州街道より松浦家。武田検事在宅。10:30出て市ヶ谷までtaxi。 秋葉原dept.でwhisky買ひ(1,350)、野崎氏に礼いひ「李氏上京の際よろしく」とたのむ。 勧銀で残りdollかへてもらひ、松坂屋まで歩きしも食べられず、ユのこして帰宅。葛湯、母にのましてもらふ。(※省略) 『果樹園』も来をり。 水様の下痢す(4回目)。けさ6:30眠りゐし花井夫妻に電話せし罰也。市ヶ谷駅で知念栄喜君に会ひし。 午ねし、賀代嫗の電話で目さまし(来週水曜来ると也)、三鷹の齋藤齋先生へ頼永承氏の贈物もちゆく。夫人出て「仙台方面へ旅行中」と。 頼教授への受取たのみ、隣の若先生の診察受く。血圧100なり。高性能の薬たまひvitamin注射さる。 急ぎでて駅への途(ゆく途中『讃美歌集(250)』買ふ)、喫茶店でjuice(100)のみ薬capselより出して飲む。これ亦失敗也。 竹内の長嬢に遇ひ「小母さんいままでゐた」ときく。帰りて鯖ずし食ってまた下痢。湯たんぽして臥床。 写真80枚とれをり。烏来の全会員写る。 8月13日 5:00さめ朝食くひ(粥)、7:00すぎ、弓子に荷物もたし母出しあと、また眠り9:30さむ。下痢やっと止みたり(2回)。 北園克衛、田中昌博の小包作り、(※ハガキ宛名 省略)。 頼永承、楊雲萍2教授ならびに夫人に礼状。 ユをカメラ屋にゆかしむればcolor-filmおほむね写りをり。 8月14日(日) 5:00覚む。林素梅(龍園大飯店の婢)に写真送る(60)。そのため早く出て吉祥寺へ9:20にゆき、 遠藤道具店の店開くをまち本棚(2,800)と時計band(200)買ふ。本棚午前中に届けくれる由。最前列近く坐り礼拝すませ、齋藤千代夫人 に礼いひ、 竹森先生に挨拶し、出口にてアメリカよりお帰りの笹淵博士に挨拶すれば台湾行知りをらる。芝原生誘ひしも来ず。 帰れば村山高氏より「大阪へ帰りし」と。小高根二郎君より同人費受取。(※省略)昼食に焼きそば食ひ、 ユの昼寝中、澄より電話「事なし。泰ひとり立ちするやうになりしのみ」と。Camera屋に寄れば「焼付け210円、colorは明日か明後日」 と。 ユにあとでとって来さす。(けふ佐伯にて箕作『西洋史講話(30)』、『古文真宝 後集(30)』、『金剛山(30)』買ひ、『基督者のなぐさめ (50)』新本屋で買ふ。角川文庫のより原本に近き也。) 8月15日 5:00前さめ、床敷かしたまま竹内夫人まてば11:00すぎ来り、紳一郎君のこといふ。ノリ子と結婚させよとすすむ。 (※ハガキ 省略) けふ研究室のカギ見つかる。夕方、阪急Hotelより鉄道便にて本着く。コイさんに『白楽天』包む。けふ久しぶりに小雨あ り。 8月16日 6:00さむ。平凡社より組見本来る。昼寐しさめて昼食。(※省略) 佐伯へダブリし『鳳山県志』と『彰化県志』もちゆきしに主人留守。 『堀辰雄(270)』と『唐詩、宋詩、宋詞(470)』借り来る。統夫より電話「今週中に話合する故出てくれ」と也。 楊雲萍氏に写真送り(110)、color-filmのとれしをもち帰る(19×80=1,520)。あとは李氏旅行社への礼のみ残る。(※省 略) 8月17日 昨夜21:00眠り6:00さむ。暑中見舞の返事やっとすむ。9:30佐伯にゆけば1,500にて買ふとのことにて昨日の借金740引き、 『朝の歌(400)』、『黒い目と茶色の目(250)』、『昼顔(40)』、『日本遠征記1(60)』頒けてもらひ帰る。 北園克衛氏より受取。服部さの子夫人より残暑見舞。賀代嫗来りし故、統夫のこといへば電話かけ「今夜来る」こととなる。(※省略) 夕方統夫来る。夕食ふるまひしのち船越章と2人にて「弁護士にかけよ」とすすめ、土曜衣笠兄妹との会合にゆくことを断る。 8月18日 5:30起きる。8:30出て齋藤神経科。2番目に診察受け血圧計ってもらひしにまた100。2週間分の薬もらひcoffee(80)のみ 「うつぎ」にて『神人イエス・キリスト(100)』、『帝王と墓と民衆(120)』買ひ、帰れば『増補改訂伊東静雄全集(1,800)』来てを り。 斎藤晌博士より「中共帰りの蒲地氏の話きかん」と。(徳永昭子)秋山夫人より「絵かいてゐる」と。 北園克衛より電話、楊氏の住所きかる。けふにてcolor-filmの現像すむ。 8月19日 よべ21:00ね、2:00さめ、また眠り5:30起く。ユ、頼劉慶理夫人へ写真送る。小高根二郎氏へ『伊東全集』の礼。野崎部長気付李名楊氏へ 写真。 清水常臣生へ龍園大飯店への礼。(※省略) 集英社より印税11万円。平凡社の酒井氏より電話「小山氏と近々来る」と。写真貼り大分すすむ。 8月20日 よべ20:00ね、22:00さめ2:00さめしてだるく、朝食、散髪後ひるねす。食欲少なく、成城大学へゆけば無人。会計で池田博士に会ひしの み。 成城堂で『金枝篇1(150)』と『オルドス口碑集(450)』買ふ。Melon買ひて祖師谷住宅へゆけば田中靖子子供を連れて水浴へ出るとこ ろ。 順三郎とのこされ、われも十二指腸潰瘍、手術の要ありといふことになる。 出て成城駅に引返し宇治小豆くって(120)帰宅。(※省略) 集英社より前野直彬の『李白』来る。烏来美楽園飯店の周長老へ写真包む。 8月21日(日) 曇。5:00さむ。8:30周長老への郵便出しに本局へゆく(160)。鍛冶さんより「香港は云々」。 成城大学より「中間考査やるや否や」「やらず」と答ふ。ユ、礼拝にゆきBible買ってくる(850)。 だるく困りゐしに14:00すぎ滝本生来る。雨ゆゑ、送りかたがた出て佐伯で『川柳辞典(370)』買ふ。 8月22日 台風の余波にてにはか雨しばしば。よべ何度も起き、だるく皮膚科出川にゆけば16:00からと。いやいや出直し薬もらふ。 ユ、吉祥寺へあそびにゆく。弓子休暇なれば也。 8月23日 9:00すぎ喜多村生来り『石氏星経の研究』見す。滝本生より電話「帰阪する故今週土曜は来ず」と。 西武の宮崎智慧女史よに電話すれば「入社試験すみしも大伴さんと相談せん」と。田中順三郎氏に電話すれば「売子承知ならばあり」と。京泣く。 16:00近藤dr.にゆけば「慢性胃炎」と、青き薬たまふ。眠くてたまらず。 8月24日 けふも5:00すぎさめ、ユを促して吉祥寺女子学園へゆかしめ、そのあと田中家へゆくこととなる。(※省略) 11:00大阪ずしへゆき待たさる(180)。帰りて食べ野球みる。中京商業優勝し監督選手泣く。 ユ、京帰り来り、東京towerへの試験は10月。(※省略) 8月25日 この3日間、胃不快。ユに云はせれば6月24日まで近藤dr.に通ひし時と同じ。去年の秋とも同じにて鬱の症状なりと。 『東洋学報』来り、「『満文原檔』台北にあり」と。神田氏ら、これを見にゆきし也。 8月26日 胃やや好し。よべ2:00さめ7:00までうとうとす。俊子姉より電話「賀代嫗、日曜泊る。母を京都に送りとどけし」と。 美堂正義氏より「金曜土曜に会ひたし」と。 8月27日 よべ10:00に起きあと眠剤半分のみうとうとす。久しぶり也。美堂氏の宿へ電話すれば「まだ着かず」と。 近藤dr.にゆき「まだ直らず」と4日分もらひ、vitamin注射打ってもらふ。夜『果樹園』に「山の礼拝」かく。 夜、美堂氏より電話「あす9:00来訪」と。弓子外泊。 8月28日(日) 4:00さめアルヘンチナ(※アルゼンチン)の山野井秀子へたより書く。ユに郵便局へ行ってもらひし留守9:30美堂氏来り、 「この前(※の上京)は大東亜戦争勃発の前日で井之頭へゆきし」と。来年停年とて秀才の末男東大文三を受くるなど話し伊香保みやげおきてゆく。 頼永承氏より雑誌4種、中に浅井恵倫氏注『Siraiya語宗教問答』あり、ありがたし。(※省略) わが方、胃の調子一向によくなし。 8月29日 8:00すぎね、21:00帰り来し史に目さめ、あと眠剤半服、6:30さめ楊雲萍氏へ礼状かく。 賀代嫗9:00前に現はれ章君と3人にて統夫の悪口いひてすむ。昼ねし覚む。(※省略) 胃悪く何もせず。 8月30日 よべ2:00起き7:30まで眠りし自覚なし。斎藤先生にゆくを止む。宮崎智慧氏へ「京たのむ」の速達と『果樹園』同人費2,500。 8月31日 よべまた2:30覚め(胃痛くユに脊椎こすってもらへば直る)、あと眠剤1服。斎藤先生に夫婦にてゆけば「(※薬)赤丸入り」となる。 集英社より『世界の名詩』6版の4,000。全田叔母より「会ひたし」と。帰り近藤dr.にゆき背に注射2本打ってもらふ。 午餐くひ本よみ歯痛むゆゑ柏井にゆき治療受け、統夫の話す。帰りのbus荻窪まはり(※省略)帰宅すれば母予告なしに帰り来り、元気なり。 弓子宛の依子の手紙。誕生日祝2.5千円とて佐伯にゆき『ニーベルンク族の厄難(1,100)』買ふ。 弓子もneck-tie呉る。けふ林叔父祝もち賜ふ(3千円)。 9月1日 よべソボリン(※頭痛薬)のみ眠剤1服のみしゆゑ、よく眠りしも覚めず。夕方までフラフラす。 小高根二郎氏より「大稲堤(※台北地名)」の問合せ。(※省略) 西沢繁夫君より「用心してゐる」とたより。 9月2日 下調べせず登校。中国文学史、唐詩選ともに30分位ですませ喜多村生のゼミ『晋書天文志』よみ、15:30出て帰宅。 美堂正義(死ぬ死ぬと云ふな)、(※省略) の諸氏よりハガキ。『婦人公論』を見てユ、わが病気を自律神経失調症と発見す。 (けふ佐伯に寄りしに『伊東全集』新版出しゆゑ(※旧版)4~5千円なりしが1,100と。1千円もらひて帰る)。 9月3日 よべ眠剤半服のみ7:00まで眠る。午まへ佐伯にゆき『Wang-wei(450)』、『外国旅行案内(200)』、『物語東洋史4(50)』買 へば50まけて呉る。 そのまへ新本屋にて『偉大なる航海者たち(280)』買ひ直す。14:30ユ、京をつれて西武へゆき受験許されし様子。けふも鬱やまず。 9月4日(日) 午后、佐伯へゆき『物語東洋史 元明清(50×3)』3冊借る。他には何一つせず日をくらす(ユ、礼拝にゆく)。 9月5日 よべも眠剤半服。歯を感ずる故busにて柏井。右上奥歯の残欠ぬいてもらふ。帰りてユ、留守の間に難波和子氏来り、史の祝もち来る。 成城より電話「あす臨時教授会14:00より」と。佐伯へ150返す。(※省略) 富永次郎教授より「ききたきことあり水曜学校で」と電話。 9月6日 9:00出て柏井、歯の手入してもらひ斎藤dr.。1時間半待たされ「横ばひか、自律神経失調症は手当しあり」と。 途中五目冷麺くひ、まづし(150)。14:00前、成城につけば教授のみの会。 大学院の予備に一般教養の教授なしと。われ下りんといふ。その他は特に5名あげんと也。17:00まへすみて疲る。(※省略) 野田宇太郎氏「兵道善雄3月に死にし」といふ。帰れば「寿一鬱症」と寿賀子来てをり。 9月7日 よべ1服のみ7:00起き7:30出て8:30登校。9:00まで待ちて漢文やれば「8:40かっきりよりやる」と(※言ったと)叱りし也。 散々にて30分してやめ、東洋文化史に出ればnoteなく、これもあやまりてすむ。金曜にsemiの説明会やる由。 富永次郎氏来り、蘇東坡の詩のよみきく。天ぷらそば食ひ(100)、はふはふ帰宅。 9月8日 福島恵美子、弟をつれて13:00ごろ来り、尾上一雄教授に会ひに来しに会へずと。「挨拶しておけ。英語の勉強せよ」といひ、朝鮮飴もらふ。 不快感、底に達せしらし。 9月9日 登校。4時限目の喜多村生、元気なく、われもくさり、card預けて帰る。 そのあと3Dのゼミ指導会。山内、大藤、鎌田、野口、われと出てそれぞれ説明す。17:30了りて帰宅。 9月10日 1服のみ21:00より7:00まで眠る。そのあとも眠くて何もせず14:00滝本生来り、しばらくして饗庭源吾氏より電話、南阿佐谷まで迎へに ゆく。 「仕事にて月に一度上京」と。滝本生帰り(あす再来と)、アエバ氏も去る。鬱症のき、白紙的となる。 9月11日(日) よべ眠剤のまず。3:00さめ礼拝にゆかず。ユ返り来て暑しといふ故、滝本女史に電話し「明日来よ」といふ。 9月12日 9:00荻窪廻りのbusにて柏井歯科。(※省略) 帰りて滝本生来るをまち『史記』やる。夜、台湾の年中行事のnote造る。 9月13日 9:00出て斎藤dr.に参れば先生『快妻物語』に署名して賜ふ。眠剤7服いただき中村屋にてsandwich(150)買ひて登校。 『史記』のよみをつけしあと、茫然と14:00の教授会まち、大学院規定の読み合せして17:00となり、 登戸の紀伊國屋にゆく。20:00最先に出て帰宅。入浴。 9月14日 8:40より中国文学。東洋文化史はnoteあましてやむ。昼食して早々帰宅。頼教授夫妻より信あり、にこにこす。増田忠氏より「株主になれ」 と。 9月15日 はじめての敬老の日とて休み。散髪にゆき『蘇東坡』と阿南君の2論文受領。 ユ、青木ミサ子への祝に高島屋へ5千円の切手送らせに母と出てゆく。何もする気なく困る。柏井夫婦、母のところへ果物もちて来る。 9月16日 よべ半服にて眠り10:00登校。来週祭日なることを知る。喜多村生のsemiあやまり、来週水金2日やることとす。 帰れば坪井より大高記念行事の件。阿南氏より論文の送り状。(※省略) 9月17日 9:00出て東洋文庫。松村、岡田、神田3氏とわれ。田川博士顔見せて「体悪し」と。 すみて国立中央研究院の図録あづけ『東洋学報』の金千円払ふ。金なくなって帰宅。昼食して成城14:30より教授会。(※省略) けふ松浦美紀子来り、史、鳩山氏に仲人たのみことわられしことわかる。夜、澄より「岩崎昭弥、岐阜県議補選に出、有望」と電話。 9月18日(日) 雨中、久しぶりに礼拝にゆき時間早きゆゑ洋服ダンス注文す。 礼拝すみて齋藤齋先生らと36周年会の茶会にて話し、頼永承氏の義弟盧氏のこといひ、帰りてそのadressと電話とをしらす。まだ鬱なり。 9月19日 雨。タバコ買ひに出、佐伯にゆけば修繕中。(※省略) 古田房子生より帝塚山の名簿来る。 9月20日 斎藤dr.にゆき意気上がらざるをいふ。成城堂にて『大漢和辞典3』受取り、『英英辞典(350)』頼令嬢へと買ひ、弁当食ひ 『新唐書』図書館にて借り14:00になるを待ち、今井氏の昇格審査、教授は6:4にてだめ。助教授4:6にて合格となる。山田氏とともに帰る。 (※省略) 9月21日 6:30起され7:30出て早く着く。2時間前期最後の講義すませしあと13:00まで待ちてsalaryもらひ、喜多村生と『星経』よみて 14:00すぎ出れば、 高橋邦太郎氏に遭ひ、オリッサで喫茶。喜多村生、野尻抱影翁への紹介状もらふ。高橋氏と別れて帰宅。 頼美理嬢への字引390で飛行機便となりしと。(鎌田女史「矢野光子今年限りやめる故斎藤生いかに」と。「よく見てくれ」とたのむ)。 9月22日 よべ半服、7:30起き柏井へゆき1本抜かれ、1本入れらる。「土曜来よ」と。 山川京子女史より「弘至のこといつまでもお忘れなく云々」。頼永承氏に「字引送った」と手紙。 佐伯で『詩経2冊(100)』、『長生殿伝奇2冊(30)』買ふ。 9月23日 よべ半服、8:00まで眠り10:00来し喜多村生のため『星経』よむ。安藤真澄氏より依田氏の「勿体なし」の手紙入れて弓子の写真返却。 立教史学会より出欠問ひ来りし故「欠」と答ふ。古本屋へゆき『日本霊異記(20)』、『古代の探求(80)』買ひて帰れば、 齋藤齋先生より「盧さんつれて来る」と。David James Lu(盧焜照)の名にて「松岡洋右のことかきし」と。頼教授によく似てをり。 9月24日 雨中、東洋文庫太宗会。神田氏出ず田川氏出る。11:30すみ新宿でrice-curry(130)。成城堂に払はんとすれば900にて金足ら ず。 14:00より教授会。岡本、宮地、加藤3教授出来、今井氏助教授辞退せしらし。すみて『成城文芸』の編緝会。帰り柏井にゆき歯の型とられる。 9月25日(日) よべ半服のみて大風雨を知らざりし。タバコ買ひに出て佐伯にて『歴代詩選(450)』買ふ。 滝本生来り『項羽伝』殆どすむ。京、千葉での西武dept.の入社試験に遅刻とならざりしと(ユ、付きゆきし)。 9月26日 よべも半服。佐伯へゆき『鶯の卵(30)』買ふ。「ハイネと私」を『果樹園』に送ることとす。安藤真澄氏に礼としてタバコ包む。 夜、喜多村生より電話あり「明後日14:15研究室で」といふ。 9月27日 9:00出て(よべも半服0:30にのむ)斎藤dr.。12:00帰り15:00柏井にゆき歯入れてもらふ。文子「阿佐谷の家もらへるなら離婚承 知といひし」と。 9月28日 よべ半服12:30のむ。9:30出て成城大学。社会の試験監督。(※省略)喜多村生のsemiに『晋書』よみ、了へれば(※省略) 10:13九十九里浜へゆく約束を鎌田女史とす。(成城堂へ903払ひ、Lindley『太平天国4冊(1,650)』買ふ。) 野口君も50周年の原稿少しも書かずと。賀代嫗より電話「阿佐谷の家売買予約出来をるを知りて文子血相変へ今夜22:00より談判」と也。 松浦薫氏より「明日来訪」と。西武より「京採用内定」の電話電報。 9月29日 よべ23:00まで電話あり眠り不足。章来り「旨くおだてん」と也。 松浦父上15:00武田坊やつれてお越し。「新婚旅行は新幹線、仲人はなければ本位田氏に」とのこと也し。 夕方やや元気出しゆゑユと吉祥寺(缶詰1,600)。郵便局までbus、探し探しして早川(※宮崎)智慧氏に礼いふ。「大伴道子氏にも礼云へ」と 也。 けふLa plataの山野井生よりたより。 9月30日 よべ半服、9:45出て成城。「旅費出てをり」といふにとりにゆけば1,820。法学の監督すませ、池田氏に原稿延期ことわる。 すぐ帰りて意気揚らず。(けふ『果樹園』同人費送り、大伴女史に礼かく)。 夜、澄より電話「岩崎昭弥、県会議員となりし」と。 10月1日 9:00出て東洋文庫。阿南君久しぶりに見ゆ。田川博士おくれてまにあはず。 阿南氏と出しに前を神田、岡田、松村3氏ゆき、あとつけて豚カツライス(180)食ふ。 帰りて1服せんとせし処へ滝本生。「項羽本記」すみこの次は16:00に来ると。(※省略) 10月2日(日) 8:00さめ、上野へゆき10:31発の前橋行急行にのり13:00会場につき、たっぷり民俗学の話きき17:00散会。 busにて17:20発の上野行鈍行にのれば野口君来る。弁当買へず、五加棒買ひしを頒つ。20:00すぎ帰宅。夕食、入浴。 10月3日 疲労とれざれど「明末の北京の年中行事」と題して「はしがき」7枚かき「明清」とかへんと思ふ。 佐伯にゆき『創造十年(80)』、『支那時文教程(30)』買ひ130払ふ! 母、林へ相談にゆく。 青木との問題にて大と齟齬せし故とユの話。昌三叔父より電話「式に出る。初江叔母の服装いかにすべきか」と也。 10月4日 よべ2:00また半服とり8:00まで眠る。午前中だるく、午后散髪にゆく。 頼永承氏より『使徒行伝』、『ガラテア書(アミ語)』贈られ、安藤真澄氏より受取。大伴道子氏より歌会軽井沢でとの手紙。(※省略) 10月5日 半服のみて10:00斎藤先生。鬱直らざるをいへば薬かへたまふ。帰り紀伊國屋でヱハガキ2枚買ひ、帰宅。 全田叔母より病状と肥下の新築と伊藤穂、北村叔母の問合せのハガキ見る。平凡社より原稿来る。 鬱またひどく早ねせんとすれば、母「大と絶縁した。原因は青木の披露宴に出るため」と。けふ15:00ごろ建よりも電話ありし也。 10月6日 よべ1服!朝、大の宿へ電話し「起きればかけよ」といひしにかけず。反対に建の電話伊勢よりあり、母と話す。 頼さんへ礼状。全田叔母へ返事。(喜多村生10:30来り、12:00前帰りゆく)。(※省略) 依子に電話「10月末に来るはよせ」といふ。けふ佐伯で『日本歌選(100)』買ふ。父の本なりし也。史、松茸もち帰宅。 10月7日 よべも1服のみ弁当もちて10:00出、3時間試験監督す。『月令広義』また借る。三笠宮29.30~11.12.13講演に来ると也! 祖師谷駅まで歩き(『アジア歴史地図(5,800)』注文しをりしことわかる)、青山博士へゆかず。 帰れば(※省略) 小高根二郎氏より「ハイネ2回に分載す」と。 10月8日 よべ1服を2回に分けてのみ、眠りしや否やわからず。9:00すぎ『大清一統図(90元)』もちて東洋文庫の。太宗会。 田川博士久しぶりに出、「天理の朝鮮学会に重体いひて出ず云々」。12:00前すみ、阿南君と豚カツ食ひにゆけば松村、岡田、神田3氏も来る。 先に食ひて出、『乾淳歳時記』ちょっと写し、苦しくなりて帰宅。 福地君より『白楽天』の礼状長くかきしが来をり。梅焼酎のみし処へ弓子帰り「滝本生と同車らし」と。 その通りすぐ来り『史記』よむ内、小山正孝氏来訪。「中教出版社やめる」と也。おどろきてわがことふりかへる。50才と也。 帰りたまひしあと滝本生とよみのきりをつけ、松茸飯くはす。横浜へゆくと也。わが犯気(※ママ)ききて笑ふのみ。 けふ史、小金井市貫井の官舎見にゆき3間と「月末転宅」と電話かけをり。 (※教へ子 省略)男児とガス自殺はかり重体と夕刊に出てゐるをユ見付く、哀れなり。 10月9日(日) 礼拝にゆかず。何もする元気なく困る。 朝、電話和田文子よりかかり「来よ」と。「行けず」といへば、3児つれて来り「(※この家から)出てくれ」と也。 「出ず」といへば「調停にかける」と也。 10月10日 同じく鬱。石田生より電話「水曜19:00に宿へ来よ」と。三浦貢氏より「(※大高時代の)野球部の報告せよ」と。 目つぶりて1日中をり。『果樹園』来り、わが「コギトの思ひ出」了となる。「山上の礼拝」ものりをり。 10月11日 斎藤dr.へ。ユとゆき赤玉2錠にしてもらひ、すし食って(120×2!)帰宅。 10月12日 朝、滝本生へ電話し「石田生と会ふこと止めた」といひ、賀代女史に会ひ「離婚の費用援助せん。この家わたすこと止めよ」といひ、送り出し、 午后、気持変り「石田生に会ふ。19:00本郷三丁目へ来よ」と滝本生にまた電話す。弓子、友の披露宴とて和服着付けきれい也。 松浦薫氏より電話「22日18:00官房長へ6人でゆかん。カステラもちゆかん」といふに「土産は我にまかせよ」といひ、帰り来し史に云ひて whisky(5千円)ときむ。 17:50出て本郷三丁目へ18:35つき、やがて来し滝本生と宿探しにゆく。大阪弁なつかし。石田生きれいになりをり。 喫茶にさそひ出し話きけば我を好きしと。他に変人さがせと云ひて笑ふ。久しぶりの笑ひなり。 席変へ21:00となり奈良漬もらって宿まで送り、本郷三丁目にまた出て帰宅。眠剤きき目おそくて困る。 賀代嫗より電話「文子も調停申し立てし由」。 10月13日 朝起き気分なほりゐるに気づく。和島岩吉氏還暦記念『虚像と実像』を南隅Bちゃんより。硲君「本庄先生に会った」と。 裁縫してくれし中村妹嫗、心臓病で急死とてユ通夜にゆく。(※省略) 10月14日 鬱やみゐれど何もせず。〒もなし。畠山博光君「福岡に転任」と電話。 10月15日 9:00すぎ出て太宗会。(※省略) 田川博士、阿南氏をり12:00前すみて出、駅近くにて青山博士に会ふ。阿佐谷にて炒飯くひ(130)帰 宅。 ユ、中村嫗の葬式にゆきをり。史あす転宅とわかる。滝本生帰し夕食せんとする処へ増田忠氏来られ(※省略)出資となる! 澄より電話「泰まだ歩かず」と。 10月16日(日) 9:00すぎ運送屋来り、史の物はこぶ。その出しあと美紀子より電話「1時間して来る」といひ、11:30母と来り、すし食ひユと4人にて公舎へ ゆく。 佐伯へわれゆき『孔子家語(70)』とり『父親としての森鴎外(50)』見つけうれし。史、美紀子を送り20:00帰り「今夜小金井にねる」と出 てゆく。 10月17日 ハガキかき『史記』の予習せしのみ。 10月18日 9:00すぎ出て斎藤dr.。眠剤かへていただく。12:00すぎ成城へゆき野田宇太郎、山田、池田、白鳥の諸氏と話し、教授会。 長く続きて疲る。石田生より「も一度電話かけたかった」と。増田氏来り5万円もちゆきしと。澄より電話「泰、歩き出した」と。 10月19日 眠剤きかず眠りおそく短きも仕方なく登校。2時間やりかへり16:00ユと出て三越にてwhisky(5千円)、田中松浦両家の包みにし、夕食せ しあと、 恵比寿駅のplat.にて30分まち史来り、松浦一家の来りしと官房長村上氏(※村上孝太郎)の家をたづねたづねして丁度19:00に着く。 50~1方位にて伊予大島の出と。松浦父上、大平氏(※大平正芳:蔵相)よりの名刺もち、よく話し1時間ほどして出る。 美紀子cartainかけたしと也。帰りて史「1人当り5千円の予定」といふに心痛む。1:30ごろまで眠れず4:00さめる。(※省略)  10月20日 よべ眠剤きかず。3~4時間ねむりしや否わからず。教会婦人会へユゆかし、帰り斎藤dr.へとたのむ。 ユ15:30まで帰らざる間に母、足ふみはずしわれ困惑す。ユ帰りしにおじや母炊く。弓子つまらぬ顔して帰り来る。夜食20:30。 史、けふ松浦家へとゆく。(※省略) 帰り来り「4千円にて挙げる」とのこと也。 高橋重臣氏より電話「あす会ひたし」と。「8:30阿佐谷駅で」と約束し自信なし。 10月21日 よべ23:00ごろ眠りにつき5時半さむ。悠紀子、史ねむりがたかりしと。朔太郎研究会へ「感想」をかく。 8:30出て阿佐谷駅にて高橋重臣君に会へば『青い花』出してくれんとす。「もちをる」といひてsignし、地下鉄にのりまちがへ、 高田馬場より高円寺に引返して新宿。中国文学史と唐詩選うまくやりしあと疲れをれば喜多村生も疲れてsemiせずsalaryもらひて帰宅。 けふ松浦一家小金井にゆきしと。(池田、大藤2教授に50周年記念号執筆のことわりすみ、夜、電話にて太宗会のことわりす)。 10月22日 よべ1服のみ20:00より7:00近くまで眠る。大江叔母より祝2万円。出られればとの由なり。(※省略) 滝本生来り「お加減また悪きや」といふ。夜、美紀子に電話し「あす13:00来よ」といふ。母ひるより林へゆき泊ると。 10月23日(日) よべ1服のみ11時間ほど眠る。礼拝に久しぶりにゆき、竹森先生に「火曜お願ひに参る」と重ねていふ。 帰れば依子より祝1万円来てをり、泰ワルサすると也。松浦家よりの招待に出席の返事1枚。 美紀子15:00来り、道具重ならぬ様話し、すみて史と出てゆく。 10月24日 よべの1服もよくききし。8:30覚め10:00大に電話かけ母の不快をいひ、11:00田中俊子姉、柏井へ結婚式の案内にゆき13:00帰りて 昼食。 福地山より出席の速達ありし(税務署長らし)。社会思想社より催促の電話あり「2pに1枚の写真を」と也。 俊子姉「5万5千円の電気器具買へ。内1.5万は祝ふ」といひ来し由。 10月25日 よべ1服。8:30ユと出て竹森先生。学士会館へお出で下さる。金土の夜に両人よこせとの事也。 ユと別れて斎藤dr.。14人待ちをり家に電話してユ呼ぶ内、順番となり薬のところにてユ来る。すし屋に入り別れて成城。 評議員に教授中1票もなきは我と2、3人のみ。すみてカリキュラムの相談し、出るところにて喜多村生に会ふ。 帰れば滝本生帰阪、会ひたしと木野の坊やより電話ありし。竹内の『魯迅』の3冊目来る。艶、昌三叔父叔母へ速達かく。 10月26日 よべ1服。うまく眠り6:30起され成城へ20分前につき2時間うまくやる。(朝鮮の話ちっともしらぬらしかりし)。 土曜の学生会の学科指導を鎌田、野口2氏にたのみ、帰りて弁当食ふ。出席の返事来り、中に鳩山氏(※鳩山威一郎:経済企画庁官房長)あり。 林叔母来りしゆゑ、千草一家の創作を話す。(けふ印刷屋へユ行けば校正あさって代金3,500と)。 夕方、讃美歌430の譜かきて練習す。 10月27日 よべ1服。眠りつき悪く8:00まで眠る。出席7枚来る。ユ道具屋へゆく。史「あす竹森先生にゆく」と。疲れてふきげん也。 雨ゆゑ終日臥床。食欲はあり。ユ帰り来て和田道具展だめといふ。 10月28日 9:00出て2時間やり、喜多村生来ず(柳田生探しにゆく)。『大航海時代叢書』第7回受取る。 和田文子調停に出し「11.10出頭せよ」との公文書来をり、ユ「出ずとよし」といふ。 17:00すぎ美紀子来り、夕食し、ユ、史と竹森先生へゆく。(先生夫妻披露宴にお出でになる由)。 澄より電話「color-filmとるゆゑ、学士会館に青いlightありや否やしらべてくれ」と。 10月29日 よべ0:30ころまで眠れざりし。8:00起き東洋文庫。岡田君来るまへ我よみ、少しよみしのみにて了り、阿南君とカツ定食くひ(180)、 成城へゆき三笠宮の「古代オリエントの祭儀と神殿」をきく。(※省略) すみて帰宅すれば、統夫来り泣きしあと帰りしと。 史、けふは小金井泊り。(※省略) けふ机上に池辺弥氏『和名類聚抄郷名考証(4,800!)』おきあり。『歴史地理学紀要8(1,000)』も 送らる。 10月30日(日) ユ、礼拝にゆく。田中雅子より電話「午后来る」と。史、小金井より帰り来る。我ハガキ4枚かき、 田中夫妻嬢坊迎へれば祝なりし(White-shirt)。その1時間して帰りしあと無為。 10月31日 朝10:00雑本佐伯へもちゆけば600と。『国語(350)』、『解釈と鑑賞(230)』、『罪と罰(50)』もち帰る。主人首の筋痛めしら し。 滝本生より「木野家をやめ帰郷、11月また上京」と。(※省略) 社会思想社の福原氏より「来る」と。「2日来たまへ」といふ。 11月1日 8:00覚む。10:10斎藤先生にゆき「快くなりし」といへば丸一つ朝の分よりのけたまふ。帰れば(※省略) 〒なし。 結婚式次第の印刷出来上りしを見るに誤植直らず。 11月2日 河野岑夫より祝1万円。角川よりHeineの印税その他来る。 社会思想社の福原氏13:30来り、いろいろ云ふに「あす原稿見本送る」といひ、考へ直す。(※省略) 河野へ礼状かき「宿、大が世話するもいかに」といふ。ユ道具入れに小金井へゆき18:00すぎ帰り来る。(※省略) 11月3日 文化の日。無為。史、松浦家の荷物入るとて小金井へゆく。依子より電話「9日上京、月末までゐる」と。 あす社会思想社に断りにゆくこととす。 11月4日 よべ0:00すぎまで眠れず。9:45社会思想社の福原君に電話すれば「まだ来ず」と。あとにて電話かかりし故都合きけば「15:00より」と。 白水ちづ子に電話かけ青木大乗展見にゆくを誘ひしも「子どもに手かかる」とことわられし。 「蘇東坡伝」を『祖国』に3回かきゐることをたしかむ。13:00出て三越の青木大乗展見て(※省略) 都電のりつぎて小川町。 社会思想社へゆき平身低頭し東大の前野直彬助教授へ「相談きいてくれ」と書き、はふはふ出てcard200枚(170×2)。 御茶水より国鉄にて帰宅。(※省略) 11月5日 けさ千葉に支店開設に来ゐる昌三叔父より電話「大江、われら2人出欠未定」と。9:00出て東洋文庫。阿南君来ず、田川博士出席。 すませて帰宅。昼食す。〒結婚披露宴の出欠のみ。 松浦美紀子より電話「池田教授(池田勉:恩師)にお話(※席上挨拶)たのみあらず」と。「当日父上よりたのめ、われもたのむ」と答ふ。 17:00すぎ長男村生来り序文見す。よく出来てをり。せしめ夕食、明るきところまで送りゆく。弓子下田へ旅行。 11月6日(日) 久しぶりに礼拝にゆき聖餐に与る。(※省略) 成城大学より「水曜の第2限なし」と通知。 森法正君来り「嫁せわせよ」と。170cm70kの壮士也。(大より電話「15日ごろ来る」と。咲耶より「18日の宿民生会館」と。) (※省 略)  11月7日 電気器具三郎兄入れるとて、午后ユ小金井へゆく。(※省略) われ佐伯にて『ベルツの日記 2上(30)』買ひ来しのみ。(※省略) 母、大の祝を代払しくる。 11月8日 9:00簡裁への欠席届もちゆくユと共に出て斎藤dr.。やや上向きになりしをいひ、登校。(※省略) 教授会に出る(池辺氏に会ひ本の礼い ふ)。 図書委員にはじめてわれ4票ありし。『成城文芸』の編集会あり。すみて山田教授と同車。松浦家へ祝送りしと也。 美紀子に電話し「池田博士にも話させよ」といふ。20:00建、祝に真珠のカフスをもち来る。史、帰り話し22:00となる。ねむし。 (ユ、本位田夫人を訪ひ、畠山ノリ子嬢の縁談の相談受けしと)。(賀代嫗より文子の行状につき長き電話ありし)。 11月9日 よべ眠りにくかりしも6:00さめ、建に挨拶して登校。1時限の漢文やり喜多村生のsemi。少しより書き来ずつづきをやらす。(※省略) 教務で「あす15:50、001教室で学科指導」とききて帰る。14:00ユ迎へにゆきし泰来り、澄に似しを見る。 澄より電話「畠山家に史の結婚のこといひし」と。 11月10日 9:30散髪にゆき14:00出て成城大学。学科指導をす。他に用なく帰れば諏訪賢氏より祝もらひて依子帰りをり。 阿南君氏よりも鎌倉彫祝にと貰ひしらし。『台湾文芸13』来り、わが『李太白』の訳了る。楊雲萍氏、台湾文芸社、阿南惟敬氏へ一筆かく。 (※省略) 11月11日 8:00起き「おはなはん」見てのち登校。大藤教授「13日三笠宮のお話すみしあとちょっと会する」と。 矢野光子「縁談きまって落着かず」と。中国などの「龍の信仰」やるといふ子1人ありし。(※省略) 帰宅。 全田叔母「咲耶より聞いた。祝送る」と。依子「竹内夫人にゆき着物もらひし。杉君のsalary毎月3万円とどく由」。 12月9日簡裁調停係より呼出しあり。賀代嫗より電話かかりし故その旨つげ「探偵にしらべさせよ」といふ。 11月12日 8:00起き9:10出て東洋文庫の太宗会。田川博士出席、阿南氏欠、中途にて阪大の山田信夫助教授来り、池内邸の羽田博士に電話す。 われ出て「会ひたし」といへば「12日に」と也し。新宿にてrice-curry食ひ(100)、成城大学。 14:00からの三笠宮の「回教の祭儀と社殿史」きき、あすの結論きくこととす。(※省略)  東中野の田中生(「竜」をテーマとすと也)とまた同車して帰り、「月曜学士会館へ松浦氏と同行」ときく。史、小金井へ泊ると也。 20:00大江へ電話すれば「16日10:00新幹線にて艶叔母来る。昌三叔父も来るならん」と也。 11月13日(日) 7:00さめ9:10出て我のみ礼拝。すみて壮年会といふに出て創世記のお話きく。(※省略) 13:50すみて井の頭線。 餡pâo買ひ(30)、成城へゆき1個食べて講演会場。16:00まで三笠宮話され、あと学長お礼いひ、古野、白鳥氏など来をるを見、雨中を帰 る。 母けふ小金井へゆけば翠姉つきそひにて荷物入りしと。「あす18:00学士会館へゆく」と松浦父上に電話す。 (けさ諏訪亮平氏より祝。伊藤徳氏よりも祝、ともに5千円也)。 11月14日 7:00さむ。真野喜惣治氏より「長男の就職につき保田に紹介せよ」と。「音信不通」をいひて断る。 諏訪父上、賢、伊藤徳氏へ礼状かく。昌三叔父、朝電話して出席と返事し来る。母、依子、泰にて四谷の叔父のことろへゆく。 われ16:30出て地下鉄にて竹橋、学士会館で30分まち松浦薫氏と牧師さんへのお礼は我もち、仲人へのお礼は折半、式場代は人数割ときめる。 史来り、式場主任をまつ間、夕食おごられ、20:00帰宅。けふ亀井勝一郎死に59才と。 11月15日 9:00出て斎藤dr.。婚礼にまにあひしと先生喜ばる。昌三叔父より祝5千円。 悠紀子、電気器具代すでに払ひて金なしといふに「無断で」と怒る。 けさ竹森先生より電話「■■先生体わるく出られぬ」と也。 11月16日 6:30起き7:30出て成城。漢文の時間に10分おくれて出る。給仕おくれ茶おくれし故也。2時限目も10分までやり(小正月すみし)、(※省 略) 昼食に。天ぷらそば食ひゐれば(※省略) 14:00帰宅。史より電話「透谷賞何でもらひしや」と。 大江叔母迎へにゆきしユより電話16:00すぎあり、叔母出しゆゑ「御苦労」といふ。ユ18:00帰り来り、10畳の寒き室にて900円と。 夕食後、依子に電話せしむれば「あす泊めて」との悲鳴也。(田中初江、灯をけし人をこはがりゐると)。(※省略) けふ和田賀代嫗来り「ツネ夫に会ひて話す」と也。史帰りてユに「くそババア」といふ! 11月17日 7:00さめ「おはなはん」見て浜松町。女子会館の大江叔母迎へにゆきtaxiにて家(960)。弓子より電話「10万円出来たが20:00帰 る」。 数男より電話「胆石いたみ、あす出られぬやもしれぬ」と。大江叔母ギンザへと出てゆく。わりあひ元気なりし。 11月18日 7:00さめ昼食赤飯。14:30出て学士会館。竹森先生を門口に迎へしに田中憲三郎先づ来り、16:10竹森先生すでに階上にと。 17:40村上夫妻来られし故、式開始。指環はめらるとき美紀子ふるへしが可愛かりし。 仲人村上孝太郎官房長の紹介のあと、佐藤一郎次官、鳩山経企庁官房長(※鳩山威一郎)、青木労働者法規課長らが新郎側、 新婦側は最高裁判事、柏原語六、池田、山田両教授ら。話し長かりし。 乾杯は労働省労政局長、三治重信氏なりし。20:30すみて、われ親戚代表で挨拶す。新郎新婦、帝国ホテルへゆき2台に分れて阿佐谷に帰る。 母、大に送られて咲耶の宿より23:00帰り来る。就寝1:00。 11月19日 昨日『バルカノン』より『文芸文化』について400×15を月末までにと云ひ来りし。 けさ咲耶より母へ8:00に電話あり目をさまし「おはなはん」見、10:00竹森先生にお礼(1万円)もちゆき、大塚氏の車代3千円も托す。 帰りて12:00村上夫人に電話すれば「14:00よし」と。駅前にて羊羹930買ひてゆけば、松浦薫氏故郷の名菓といふをもち来り double。 御礼すみてすぐ出、「茶のまん」といはれ、入れば室代1.4万円と印刷代立替7千円との請求書わたさる。 よべ依子、京ソロバン入れ5千円ほどなりしが大分返さねばならぬこととなりし。 佐伯に寄り傅芸子『支那語会話篇(100)』、『比律賓の宗教と文化(130)』買ふ。 澄、竹内へゆけば碁会開会と。夜、賢氏へ出てゆく。けふ母、艶叔母と東京towerへのぼり不二見えしと也。全田叔母より祝のneck-tie来 る。 11月20日(日) 礼拝に夫婦そろってゆき、ユに竹森先生へお礼云はす。(※省略)  帰りて22:00大江叔母の帰るをまつま、澄と話す。「あとぐされなきやう依子を叩くと也」。 川久保君より電話「松本(※善海)、失禁心配にて欠勤。問題となりゐる」とのことゆゑ松本に電話し「あす夜ゆく」といふ。 けふ『ハイネ恋愛詩集(※改版)2版』7千を12月中旬に出すと角川より云ひ来りし。 11月21日 6:00さめ、弓子のもらひし券にて歌舞伎に依子と母とゆきしあと、大江叔母の許へ飯島幡司博士の女来る。(※省略) 13:10阿佐谷駅へtaxi拾ひにゆき荷物と叔母とをのせ東京駅へ14:10つき、 赤帽探し荷物預け、地下へゆき崎陽軒の焼売買ひしあと弁当買ふを了へて、雑煮食ひ、新幹線plat.に出れば14:50赤帽来る。 西川の会社によりしに休暇と(夜、電話すれば長男出て「下阪」と)。電話して松本(※松本善海)にゆくといひ、16:00ゆけば元気な顔してを り。 ただし「便意ありて外出不能」と。佐伯といふが間に入りて、夫人の電話に怒り、窪に云ひしらし。「善処せよ」といひて中村橋をへて帰宅。 18:00 丸に電話かけ簡裁のこといへば「明夜来い」と。 11月22日 6:00さめ「おはなはん」見て斎藤dr.。無事大役すましたとお礼のべ、丸、松本のこときけば「ともに神経」と。 登校。天ぷらそば食ひ(120)、salaryもらひ成城堂の払ひすまして『源義経(270)』、『日本の発掘(250)』、『近代中国史 (300)』、『日本社会とキリスト教(180)』と新書買ひ『大漢和辞典(4,300)』第4回受取り、山田・池田2教授に礼いひ、「キジ」と 「コウライキジ」とのこと調べ、 成績表渡し、矢野副手に「おめでたう、同級生ですってね」ときき、教授会。 林助教授、喉頭癌ときき、年末bonus2.3倍ときき、文化史専攻63名志望をそのまま受入れよといひ(※省略) 了りて早々に帰り、 「ララミー牧場」を見、飯くってのち丸弁護士。(史と美紀子、白浜よりヱハガキ「まあまあ」と史!) 「12月9日代りに出廷承知、委任状かけ!(※省略)」ときき、帰れば美紀子より電話、村上、松浦2家すまして家へよると也。 めでたし(赤川夫人に寄りてきけば(※赤川草夫)27日退院と!)。途中『世界風俗奇聞大観(300)』と『昭和42年暦(50)』買ひて金なく なりし。 11月23日 よべ泰、便して泣き眠られず。成城大学より「社会科試験委員会を29日17:00より」と。ユ、縁談にて吉祥寺にゆき、依子友達の処へゆく。 史夫妻、村上夫人、松浦家、柏井、俊子姉に挨拶にゆき、18:00すぎ来り、夕食す。ごきげんよろしくうれし。(※省略) 佐伯にて『回教世界と日本(30)』買ひ、喜多村生の論文直せし。 11月24日 6:00さめ、よべ1服にてよく眠れし。午まへ歴史地理学会会費(1,000)を振替にし、 Morse『日本その日その日(150)』を「うつぎ」で買ひ、tobaco800を荻窪税務署長(篠沢恭助氏、披露宴の幹事役してくれし)にも ちゆけば「会議中」と。 のちほど「ご丁寧に」の電話あり。美紀子より電話「小金井局の電話つきし」と。ニンジンより母に電話、ここも電話つきし也。 18:30喜多村鈴子より電話「『晋書』天文志かきし」と。21:00賀代嫗に電話せしに「文子調停に出ざりしらし」と。 11月25日 6:00さめ9:10出て成城。(※省略) 13:00となり『唐詩選』教へ、喜多村生のsemi。 けふ東洋文化史ゼミに4人来る。「東南亜の発生神話」「印度の美術」「中国の美術」「龍の信仰」なり。 帰れば赤川氏より「27日退院」と。(※省略) 20:00美紀子来り、差額1.7万円もちゆき、史来り同じく余りもちゆき定期忘る。 11月26日 8:00さめ、「おはなはん」見て髭そり東洋文庫。祝返しせんと思ひし阿南氏来ず、神田氏も来ず、田川、松村、岡田の3氏と太宗会。 11:30すみてまっすぐ家に帰る。(史、けさ忘れ物とりに家に来し)。 佐伯にて『記録写真太平洋戦争2冊(300)』買ひてよむ。喜多村生の卒論読み直す。(※省略) 弓子帰宅。京、大和のヱハガキ呉る。 11月27日(日) 7:00さめ、京の出てゆくを見る。televiで国際マラソン見(午前中には「文芸文化とわたし」15×200書きし)、そのあと相撲の千秋楽 を見て疲る。 15:00ごろ、史夫婦荷物とりに来り、今井家で飯よばれると出てゆきし。 出口京太郎氏より父、日出麿氏の著書贈らる。保田家にて会ひし直日女史はその母なりし。(※省略) 赤川氏よりは退院の喜びいひ来り、賀代嫗よりは文子飲酒すといひ来りし(船越章にも伝へよといふ故、午まへ呼びて話す)。 11月28日 午前中に400×15かき了へ、『果樹園』の詩「この道」もかきて、泰母子を送りにゆきしユまち、昼食13:00食ひ了れば帰り来る。 2原稿速達す(85+65)。佐伯にて『うらなり抄(30)』買ひ『発禁本(640)』2冊借り来る。 夕食すませ小金井に電話すれば史、靴まちがへし故寄ると也。丸に電話し「あす9:00迎へにゆく」といひ、 松浦氏の電話きけば「もらっても宜しきや、教会の方は如何に。X’masには弓子、京を呼ぶ」と。 澄からも「母子帰りし」と電話。母、父と関係せしは父鬼の北野カツ女史(亡)にて、その娘は大工の橋本へやりしと話す。 弓子、披露宴にて前に坐りし社長に見染められ息子の嫁にと課長宿まで来りしもことわりしと依子に話せし也。 11月29日 8:30家を出て8:50丸家につき、ひげそるを待ち、久美子運転の自動車にて斎藤dr.。丸の診察結果は「1週間に一度来よ」と也。 丸喜びて「重俊もかかれば良いに」といひし。われ礼いひ、診察受けて丸を四谷三丁目まで案内し、帰れば美紀子来てをり。 昼食くはす。大江叔母より写真来る。15:30出て成城大学。大藤氏血圧高しとて欠席。鎌田女史『ロシアの祭り』賜ふ。 入試問題21日までに作ることとなり、20:00帰宅。 美紀子また来て写真見す。史も来て荷物もちゆく。弓子の話ことわると也。 11月30日 6:00さめ、7:20家を出て成城。漢文の時間10人となるまで待ち50分やりてすませ、毎日新聞見れば「松本一彦心臓病で死」とあり。 西川に電話し香奠のこといへば「相談せん」と。姉尾ら怠け者3人ゼミに印捺さす。総計7人か。(※省略) いつもの如く天ぷらそば食ひ、 原稿用紙を教務でもらひ成城堂で受験参考書もらひ(3冊)、帰れば西川より電話あり「香奠集めやめん」と。 倭を思ひ出して電話すればこれも知らず。浅野建夫dr.に電話すれば往診中と。夫人出られしゆゑこまごまと云ふ。 けふ母、大のところへゆき金もらひ12月20日の大阪行切符買ひしらし。泰帰りて3日目なるに数十日たちし如し。 (『齋藤茂吉の恋と歌(850)』買ひ佐伯へ払ひす)。 小山正孝氏、夕食前に来り、平凡社注文あり会すと也。江頭彦造は生きてゐる(静岡大学助教授)こと承知と。夕食くはず帰りゆく 12月1日 8:00さめ、ねまきにて「おはなはん」見る。 昨日焼けこげせしズボンの修理と、家賃受取帖など、ユに云ひ、丸に電話すれば「19:00ごろ帰宅」と夫人。 (※自民党総裁公選) 佐藤(※佐藤栄作)289票にて再選。藤山の票少なけれど(※藤山愛一郎89票)300を越さず批判票の多かりし也。 ユ、昼食前に帰りて400円にて焼けこげ直ると。浅野建夫に電話すれば「松健か」と。松本一彦といへば「30年会はず」と! 谷川真佐枝より、松本は前日まで診察受けをりしと。急死なりし也。 小山正孝氏より電話「昨日云ひし貴家の同級生は清水氏!」と。『茂吉の恋』よみ了り、木戸郭子(松本一彦遺児)夫人へ弔み状に1,000同封。 19:00丸家へ電話し、9日の出廷依頼す。かへりtaxi(140)。 12月2日 8:00さめ、「おはなはん」見て成城大学。中国文学史すませ浅沼氏より、木桧助教授衰弱して手術不能ときく。 『唐詩選』と喜多村生のゼミとすませ、帰ればユ、田中雅子に会ひにゆきて帰らず。 夜、(※テレビ) 新嘉坡談(※シンガポール談)を中島、井伏、堺城一郎でやり、中島わが名を云ふ。 田代継男氏に電話せしに「その放送局(12チャンネル)にあり」と夫人。 12月3日 6:30さめ、「おはなはん」見て東洋文庫に向ひしも時間早く、coffeeのみ神田氏通るを見てゆく。阿南氏来ず。田川博士を入れて5人也。 すみて池袋に降り、西武dept.に宮崎智慧氏を訪ひ、昼食ともにす。あす午后『鴎外』見に来ると也。 帰れば田代継男氏より電話「きのふの放送はわれの計画」となりしと。(高円寺下車。赤川氏によれば外出、のちほど電話ありし)。 丸重俊に電話すれば「夜学」と。森君に3人用意でき「あす来よ」と母、電話す。 12月4日(日) ユを礼拝にゆかし、家にをれば11:00静岡の村田生電話かけ来る。駅へ迎へにゆき雑煮くはす。(※省略) 史夫婦来り、美紀子にあす母の伴して看戯にゆくことをすすむ。 母の許へと森君来り、織原令嬢よしといふに電話かけ、土曜渋谷にて見合ときまる。 美紀子の同行いへば母困る。(和田嫗24日来ると也)。杉浦の次女萱子、小沢姓となり、母姉と同居と通知来る。 けふ丸木夫人(高松)電話かけ来り、「松本君の死、母より知らされし。9月に会ひしときは後ぞひせわせよと云ひし」と也。 弓子、伊豆より帰りしは森君の来ると同時にて、火災保険の人との見合すすむ。俊子姉を通じクロちゃんの節也。 宮崎智慧氏は「あす10:00来る」と也。 12月5日 11:00電話かかり駅まで宮崎智慧女史迎へにゆき『鴎外1』、『東京文学散歩2冊』、『戦後吟』貸し、土岐善麿与ふ。 帰りしあと昼食くひ、林叔父14:00来りしと、史の火災盗難地震保険に入り1,068払ふ。 ユ、その間俊子姉(留守と)、丸へゆき帰りしところへ美紀子来り、16:30母と日生劇場へと出てゆく。 われも17:45出て紀伊國屋buil.4階のNew Tokyoにゆく。池辺弥氏『和名類聚抄郷名考証』の出版祝と懇親会とを兼ねし由なるも会場19:00までといひ、池辺氏18:20来り、われ挨拶し、答 辞ありしのみ。池辺弥氏、山中氏(史料編纂官)老眼となりゐるを知る。(※省略) 19:20散会1,150の会費払ひ、菓子もらひて帰宅。史来り、美紀子を待つ。丸より電話「書類不完全。あす斎藤dr.にゆかず」と。(※省 略) けふ小高根二郎氏に2,500送り「木戸氏たのむ」とかく。 12月6日 7:00前起き、「おはなはん」見て斎藤先生。3番目なりし。「宜しき様なり」と昼の薬やめらる。おしんこずし(100)買ひて登校。 喜多村生をり喜ぶ。13:30前まで教へ、茶のみにゆき(3×80)、成城堂にて『日本キリシタン史(730)』買ふ。 教授会にて木桧氏酸素吸入ときく。(白鳥氏に会ひ「母堂つねに目黒『庫吉全集』9月刊行」ときく)。 帰れば〒なく、統夫より電話「あす15:00来る」ときく。丸に会ひ、書類すみしと。 けふ国家教職員に準ずる給与表もらひしも何号俸か不明。 12月7日 6:30起き成城大学。堀川教授に枝松毎日編集局長のこと云へば「美男の俤なし」と。(※省略) 15:00来ると思ひし統夫18:00前に来り「健康すぐれず」と飯くはず帰りゆき、家のことガンバル気なき様子につき賀代嫗に電話す。(※省 略)。 12月8日 外出せず。午后滝本生来り『史記』よみゐる中、丸生来り、いやがるに「石渡校長と会へ」とすすめ手紙わたす。 その帰りしあと滝本生と漢文つづけ夕食くはし、金沢文庫へ帰らす。 名古屋より電話かかり「泰もはや這はず」と。美紀子より電話「あす11:00写真とどける」と。(※省略) 大戦記念のtelevi2つ見る。 12月9日 「おはなはん」見て登校。午食せしあとだるく、(※省略) 20日18:00より忘年会。渋谷のロシア料理でと案内あり。 短大の『唐詩選』つらがりてやり、喜多村生のゼミ15:30までやり、しるこさそひて帰宅。 けふ『バルカノン』より速達の礼状あり。守屋未亡人澄子より喪中見礼。 小山正孝氏より電話ありしゆゑ、こちらよりかければ「丸山薫氏主催にて『四季』の会する。別に案内あらん、13日」と也。 けふ午まへ美紀子、結婚式の写真もち来し。丸君「調停に出て文子欠席、話しにならずと調停委員の説なりし」と電話ありし旨、賀代嫗にも伝ふ。 12月10日 「おはなはん」見て東洋文庫。10:30まで岡田君来ず。田川博士、神田、松村と4人にて太宗会(あと1回やると!)。 ゆきがけ齋藤晌『唐詩選(250)』買ひ、新宿二幸にてrice-curry(120)食ひ、成城への入口で野口君に会へば「(※ボーナス)予想 より少し」と也。 187,410-37,480(税)+50,860(父母の会研究費)もらひ、井之頭線にて高井戸。Busにて荻窪古本市。 『支那風俗3冊(2,000)』と『陶淵明(150)』買ひて帰宅。(Christmas-card※省略) 婦人会Aは「22日 Christmas-party」と! 大江叔母より「handbagはユへ」と。(※省略) 『果樹園130』来る。 丸弁護士より「ユは統夫のいとこにして、(※家は)買取るがよろしかからん」の意見書その他来る。 ユ、森君と織原令嬢との見合に渋谷へゆく。 12月11日(日) 8:00さめ、ユ風邪ぎみゆゑ、ひとりにて吉祥寺。時間早く丸善道具店へ寄り本棚註文す(夜、番頭さんもち来り2,800にまけて呉る。) クリスマスの歌の練習すみて階下にて婦人会Bと壮年会のX’mas-party。(※省略) 14:00すみて帰り来る。 夜、本ならべ田中正平の史料みつかる。澄より電話「写真送りし。泰風邪」と。(※お歳暮 省略) 12月12日 読売新聞より電話「いつ訪ねてよきや」。「木曜13:00」と答ふ。昨日本棚置きしゆゑcard整理して疲る。ユも風邪にてねる。 母あすmassage(スワピン)と大とにゆくと。神田氏目を痛めし故、夫人より「返し受取し」と。 佐々木梓の『りすのりっちゃん』来る。矢野へ弔み状と礼状。不二歌道会より「正月号に5、6枚、23日までに」と。 夜、丸山薫氏の代理とて潮流社のひと「明日16:30~17:00、三田の三井clubにて『四季』の会す。丸山氏上京、田中冬二、神保、大木 実、小山と我と也」と。「出席」と答ふ。 12月13日 6:30さめ、またねて8:00起き「おはなはん」見る。母、諏訪叔父へmassageしてもらひ、大に小遣ひもらふとて出てゆく。 われ9:30出て三越にてHighland Queen(※ウイスキー) (5,000)もとめ斎藤dr.。混み来る。出て紀伊國屋にてX’mas-card 6枚(70×6)買ふ。 帰宅。昼食。散髪にゆき、帰りて台湾の楊黄月裡夫人、頼永承・頼劉慶夫人、李名楊経理に夫婦連盟、在米の河野、浜田、吉森3夫人にしるす。 15:30出て(※X’mas-card)郵便局で航空便にすれば、台湾向は210、米国向は330づつなりし。 地下鉄にて虎ノ門。それより都電にて麻布二ノ橋下車。 歩きて三井clubへゆけば隣にて、丸山、神保、阪本、田中冬二、大木実、小山の諸同人と八木、長谷川の2氏まちゐし処なり。 (※『四季』)季刊にて4~5月初号、同人として15人を選ぶ。1月7日に再会合。 堀多恵子、萩原葉子、室生朝子の3女流をそれぞれ交渉せんとなり。 20:00、2台のtaxiにのり、われら5人は新宿行。丸山、神保はpalace-hotelへとゆく。 帰りて堀夫人に電話し、同人考慮したまへといひ、織原正明氏の出産手伝に滝本生たのむと電話し了る。けふ浅野晃氏より『忘却詩集』来る。 12月14日 6:30起され(よべ3:00ごろまで眠れず)成城大学へ8:30着く。漢文、東洋文化史ともに了り、喜多村生来ぬゆゑ家に電話すれば「出し」 と。 13:00まで待ち結論もかきをるに安心し、最後の直しをし、しるこ食べ、駅にて「村八分」夫人(※不詳)と会ふ。 帰れば寿賀子来てをり、その帰りしあと美紀子来り、友だちのとりし写真みせ「16日父母来訪」とのことに断る。写真忘れてゆく。 喜多村生に電話し年表をしへ、夕食食ひ了れば中西博士より電話、本の名問はる。柳成龍の『懲毖録』のみ、そらでいへし。 『不二』12月号来をり。(※省略) 12月15日 8:00まへさむ。この2日ほど朝寒し。(※お歳暮、礼状 省略)  読売のインタヴィューアの女史来り「1月無料でよますゆゑ批評せよ」と。「忙し」といひて断る。 ユ栗山部長へ歳暮に出しあと佐伯へゆき『智恵子抄(35)』と『中国風雲禄(30)』と買ひ来る。 夕方賀状出来上りしゆゑ16枚かきて疲る。丸に電話して礼のこといへば「いらず」と。 12月16日 よべ入浴せず「カイゲン」のみてねる。9:00出て登校。「木桧助教授逝去」といふ。(※木桧禎夫:こぐれさだお45才) (けふ美紀子来りて母と出し也。) 喜多村生の卒論すむ。(※お歳暮 省略)  木桧氏のお通夜あす18:00より、葬儀日曜12:00よりと大学より電話あり。現職にて亡くなりしは学部はじめて也。 12月17日 9:00出て東洋文庫。岡田君つりにゆき、田川、神田、松村3氏にて、われ『清実録』よみ、11:30すまし、家へ帰りて昼食。 14:00滝本美津江生来り『史記』すませしあと、松浦父母つれだちて写真持参、土産もたまひ、写真を村上官房長にもちゆけと。 夕方来し史に1枚不足をいへばユ、どならる。 けふ木桧助教授のお通夜にゆくつもりなりしも疲れ出てやめ、あす葬儀にゆくこととす。滝本生を泊める。 12月18日(日) 8:00さめれば滝本生も起きる。飯くひてまた語り、咲耶より「物送った。母待つ」。 小高根二郎氏より「松本一彦、木戸君の岳父と知らざりし」と。佐治良三氏より「いづみ教会の採算立ちし」とのたより見て、 11:00滝本生と共に出て新宿で別れ、千駄ヶ谷駅下りれば成城大の自動車clubのせてくる。 関本助教授と同車。「(※省略) 富永次郎氏もお悪きならずや」と。池田、山田氏らの立つを見、 今井、鎌田2氏の間に立ちて「curie eleison」となへ、焼香せず青山通りへ出て地下鉄。 四谷見附にてrice-curry(120)食ひ、赤阪Prince-Hotelへ13:00つき、(※大伴道子歌集『秋の旅』出版記念会) 齋藤史『魚歌』贈り『秋の旅』もらひ、歌の批評ささる。よき歌なかりし。 すみて16:00すぎ大伴、宮崎両女史に挨拶して帰る。けふ弓子はじめての見合せし也。 12月19日 8:00前起き、賀状「こ」までかき、和田夫人の電話きき「忙しくてゆけず。来たまへ」といふ。 林素梅、頼永承夫妻よりChristmas-card。(※お歳暮、礼状 省略)  和田節子夫人電話かけて(2回)迎へにゆく。川合氏といふ教育大出(小笠原出身)に今夜話して見んと弓子の写真もちゆく。 夜、やって入試問題かかり3題作り了へしところへ、尾上委員長より電話「問題もちより1月7日13:00尾上研究室にて」と也。 けふ「いづこ教会」へ1,000の献金す。 12月20日 けふ11:00下阪の母に「気をつけて」といひ、9:00あと斎藤dr.。「(※年内)もう一度来たまへ」とのことに1週間分もらひ、成城大学へ ゆき、 天ぷらそば注文し、12:00となり野田宇太郎氏と話す。文学散歩の会にて話ささんと也。 教授会にて(※省略) 早く出て渋谷の玄誠堂にゆき『世界の歴史9(360)』買ひ、 (高田馬場の教会へゆくといふ子「台湾よりBibleもち帰りしや」といふに「見に来よ」といふ。山田ゼミと。可愛き子也)。 ロゴスキーへゆく(※学科忘年会)。まづく面白くもなし。(※省略) busにて帰宅。(※省略) 弓子、この間の見合の返事おそかりしにむくれて断ると也。 12月21日 堀多恵さん(よべ電話ありしと)へ、四季参加めでたしと。海老原稔氏よりbiscuits。卒業生よりは珍し。 午ごろ潮流社より電話かかり、堀、萩原、室生3女流の参加にかはりなしと。丸重俊生来り、石渡校長に会へずと。 ともに成城へゆき、山内清男先生の慨談承はり困却す。「川久保君と友とて貴下を信頼せし」といはる。(※省略) 成城堂に払ひすませ、しるこ食ふ。解散近く忙しと也。(けふ『粤語指南(80)』を佐伯にて買ふ)。織原嬢を森君断り来る。 けふsalary見れば教授10号俸(91,200)に臨時昇給と。(※省略) 12月22日 ユ、教会の婦人会へとゆく。われ年賀状かき、足らなくなりしを知り郵便局へゆきしも年賀ハガキなし。 やむなく「は」より後の教へ子に出さず、普通ハガキ100枚買ふ。全田叔母より「東京へ来る」と。 けふ箕作元八『ナポレオン時代史 上(30)』を佐伯でみつけ上下揃ふ。(※省略) 「明治生れ」を『不二』のため書き了る。 夜、依子に電話すれば泰の泣声きこゆ。「ノリ子ちゃんの縁談知らず」と也。 12月23日 8:00まへ覚め9:00すぎ出て10:10白鳥邸へゆけば、きみ子夫人をられ 「清先生20日受洗、Josephと教名えられし。この邸にゐしsistersのすすめによる」と。お祝ひいひて渋谷へ出、都電にて青山5丁目に 下車。 不二歌道会にゆけば鈴木氏塾長と旅行と。長谷川塾監おられ、わが年末資金2千円受け玉ふ。 歩きて『聊斎志異1(100)』買ひて帰宅。(※Christmas-card、礼状 省略) けふ「み」まで賀状かき了ふ。 『花影』にと「夏の旅」かき、宮崎女史に電話かければ「400×6かけ、とりにゆく」と也。 12月24日 (※Christmas-card、礼状 省略) 「ま」以後とばしとばしして賀状500枚かき了ふ。京に西武より「29日出て来よ」と。 賀状出しにゆき陳祚龍氏へ航空便(55)。ユ写真の焼増しとりにゆく。われ見事に痩せてとれをり。(※省略) 弓子、京、18:00よりの松浦家のX’mas-partyにゆき、「22:00来る」といふ賀代嫗を待つ。来りて大声で話し、就寝0:00す ぎ。 (大木実氏よりはじめて詩集贈らる)。 12月25日(日) 9:10出て教会、うしろで美き声で歌ふは神崎anouncerなりし。(※Christmas-card、礼状 省略)  中野清見君、留守中電話かけ、またかけ来て「17:00 New Tokyo前で会ふ」約束す。宮崎女史より「明朝来る」との電話あり。 16:00出てNew Tokyo前で中々会へず。屋上に上りなどしたのち見かけて鍋料理くひ、rice-curry食ひ(370)、pudding-salad(300)食ひ て別る。 丸重俊と絶食療法せよと也。 藤田福夫氏より『文学雑誌「小天地」総目録と金尾文淵堂(※紀要抜刷)』来り、亡父(※西島喜代之助)「南峰」と号せしを知る。 12月26日 (※お歳暮、礼状 省略) 宮崎女史10:00すぎ来り『花祭』賜ふ。保田の原稿もちをり。 母より「大江へ行った。勉ちゃん病気。艶叔母と20日宝塚へゆく」との便りあり。戸田氏へ切手代500もちゆき『民間伝承』30巻3,4号もら ふ。 12月27日 美紀子来り「今夜より蔵王にskiiにゆくにつき、19:00ごろ再来」と。斎藤先生に丸のこときけばよき返事したまはず。 和田統夫よりshirts、白鳥先生より角砂糖(全快祝と)。(※お歳暮、礼状 省略) 足立明子生より「交際してゐたのと話こはれた。世話せよ」と。「すぐ来い」といひやる。 集英社より『世界名詩集6版』の印税4,500余。李長之『陶淵明』来る。松枝茂夫氏に礼かく。 足立明子来しに「候補者ある故写真とり直せ」といひ、吊書かき直さす。 ユ、寺田夫人に電話し「吊書写真見たし」とのことに足立母君にいひ、写真せかすこととす。 史夫婦1月1日まで蔵王へskiiにとゆく。篠田博士をteleviで見る。南支中支よりの文物(鮓)の渡来をいふ。けふ議会解散。 12月28日 9:30散髪。留守中大東塾よりbutter賜りしと。饗庭源吾氏よりcalender賜はる。小高根二郎氏に「ジョゼアの」を消してくれとハガ キ。 足立明子よき見合写真もち来る。喜多村生より電話「30日に来る」と。住所録買ひ直し(300)。 京、帰り来しあと、トンビ着て洋服屋にゆき、体に合せ冬服買ふ(1万円)。ユ、寺田夫人に電話し「あすゆく」といふ。 12月29日 京、西武へ8:00出勤と出てゆきしと。われ8:00にさめ、弓子の出しあとユをせかし、寺田夫人へゆかす。 『文学散歩通信6』来り(5来らず)「前金9月に切れし」と。(※省略) (朝、潮流社より「1月7日丸ノ内Hotelにて会費500、時間17:00より」と。同人予定者に伊藤整見えしは如何なることか。) ユ、帰りて寺田夫人「大学出など」と謙遜した由。佐伯へゆきVan Loon『芸術の歴史(150)』買ふ。 京21:00前に帰り来りタオル売場にゐしと。 ユ、和田統夫と話し、26日に文子また(※自分を)ここへ入れよといひしとて、(※家を田中家へ)売買せんといふ。 12月30日 8:00おこさる。京、けふは9:30までにゆけばよしと也。 大東塾鈴木氏より原稿受取。梅棹忠夫氏より「本送った」と。『サバンナの記録』来る。卒論4篇読みて疲る。 喜多村生より「忌のため来られず」と電話。丸山薫『日本の名詩』来る。わが詩3篇をのす! 12月31日 8:00さむ。卒論2冊を見る。寺田夫人、俊子姉に「見合承知」と。足立家に「書類送る」といふ。 午后美濃(加藤)夫人、坊やつれて来る。澄より電話「畠山家へゆきしも話さず」と。 『高麗史』により「元代の自治」かき出し10枚でくたびれる。 田中克己日記 1967 【昭和42年】  前年の解説にも記しましたが、日記を書き写しながら、次々起こる出来事に、運気の正に円頂にさしかかったことを感じてゐます。  これは田中克己個人においてだけでなく、時代は空前の出版ブームの最中にありました。それが詩の世界にも押し寄せてくるのです。 p1  先づ、この年のエポックとして雑誌『四季』の復刊が挙げられましょう。  当初より復刊計画に参じた詩人は、早速二つの座談会※に参加します。復刊に併せて戦前の『四季』も日本近代文学館から復刻されることになり、詩人は所蔵する原本を提供して協力することになりました。  そして中央公論社による一大詩歌叢書『日本の詩歌』全30巻の企画です。  なかで田中克己はその一角に、近代詩を担った“最若手詩人”として、立原道造と共に名を冠することになるのです。  第24巻に収められることになったのは「丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎」の5人。  別に巻を立てられた「三好達治」「中原中也、伊東静雄」を措いて、「四季派」と「コギト派」と、等分にとの配慮が窺はれますが、座談会※のなかで神保光太郎が不満げであるのはともかく、この度の復刊『四季』に於いて“遺臣団”の中心にあった丸山薫は、三好達治と合せて一巻にすべき詩人だったと思ひます。  津村信夫や神保光太郎を押さへて田中克己が選ばれたのは、おそらくこの叢書を監修する編集委員の一人に井上靖があったからでしょう。長篇小説『楊貴妃伝』が完結した際、著書から裨益を蒙ったとして夫妻で食事に招かれたことは前述しました(昭和40年日記参照)。  しかしながら同じく編集委員であり、復刊『四季』の同人としても名も連ねることになった日本近代文学館の館長、伊藤整を差し置いての抜擢であり、同人として詩歴の長ずる阪本越郎が「田中克己」篇に於ける解説を買って出てくれたことと共に、特段の運命が働いたと言はなくてはなりません。  後に見る如く、阪本氏による各詩篇ごとの解説は、これまでとかく誤解されやすかった詩人をフォローして余りある配慮に満ち、詩人は生涯の恩誼に感じます。そして座談会※で知遇を得た大岡信氏がまた、敵対する現代詩陣営の立場にありながら、歴史的見地から最大限の理解を示す解説を巻末に書いてくれました。  敗戦を経て永らく黙殺されてきた戦前の詩業が社会的に認められたといふべく、伊藤整が座談会※のなかで語った、所謂「一般の読者がわかる詩」最後の世代の代表詩人として、田中克己が文学史的に報はれたことのやうに、私には思はれるのです。 p2  一方の東洋史の仕事はといふと、前年に集英社による『漢詩体系(全24巻)』叢書の一冊『白楽天(第12巻)』を任された詩人でしたが、今度は文芸春秋社が「社命を賭けて」臨んだといふ『大世界史(全26巻)』の一冊『大唐の春(第4巻)』を、斯界の先輩石田幹之助から指名を受けて共同執筆してゐます。  ホテルにカンズメにされる経験も初めての事ながら、執筆にあたっては、周辺民族に対する研究業績を以て隋唐の対外関係史を、そして詩人として李白・楊貴妃の評伝あるを以て、敢へてドラマとして面白い玄宗皇帝の時代を割り振ってもらってをり、これまた特段の配慮といふべく、前年の『白楽天(この年再版4千部)』、改版『ハイネ恋愛詩集(角川文庫)(この年3版1万部)』、そして『中國古典文學大系』の一冊に結実する平凡社『唐代詩集(昭和44年)』と共に、これ以降「田中克己」の名は、戦時中の「ウルトラ右翼詩人」のイメージとは全く違った形で一般の耳目に触れることになります。  10万部刷ったといふ『大唐の春』の印税は、阿佐谷の自宅取得に消えますが、先考西島喜代之助の7回忌法要も済ませ、豊橋に税務署長として栄転した長男史氏には娘が誕生し、さきに生れた初孫が「ぢいちゃん」と呼んでくれるのを手放しに喜ぶ好好爺の詩人にとって、この年の前半は、昨年に続き良いことばかりが並びます。  祖父のいのり 四か月ぶりにまた孫に会った せは変らないが手足はやせたやう 頭が大きいのも祖父ゆづりだらう 祖父は菓子をやったりくすぐったりして できるかぎりのご機嫌をとった 最初に入れ歯をはづして見せると 孫は目を丸くして見つめた はめるとまたはづせといひ これを二、三回くりかへすと 自分の歯をもぬいてくれといふ 祖父にはそんな力はないが おまへが入れ歯をするやうになるまで 世界が無事で平安なことを祈らう    (果樹園 140号)  教育者としての田中克己には、「家にくる学生たちは必ず一度は泣いて帰ることになった」と夫人が述懐された通り、厳しい一面がありました。  下心ある歳暮や付届けを断ってゐますが、同時に面倒見の篤さについては、卒論指導の様子がこと細かく記されてゐる日記に見られる通りです(一般人のプライバシーにもわたるため多く割愛しました)。  ただ絶頂を極めた者に対して「亢竜悔いあり」といふ諺があるやうに、やがて年の後半に至って「躁」症状によるところか、多忙を極める詩人に彼ならではの圭角が顕れるやうになります。清濁合わせ飲むと言うことが絶対にできなかった人ですが、教育の場以外で癇性の爆発をみるやうになったのは、残念なことでした。 p3  たとへば同じく『四季』同人となった小山正孝に(『新潮』11月号の一文に端を発して)“絶交”を言ひ渡してしまひます。  また寄稿した各社に対して原稿の扱いをめぐりしばしば激昂してゐますが、前述文芸春秋社の、後に社長となる田中健五氏が詩人に気を遣ふ様子も日記には写されてゐます。  小山氏は旧くからの知合ひであり、前年から平凡社の唐詩口語訳の叢書計画に関り何度も自宅へやって来てゐますが、決して夕飯を食べていってくれないと詩人が日記にこぼしてゐるのは、詩人に対する氏の処世訓だったでありましょう。  詩人田中克己についての、「躁鬱で癇癖の激しい近寄りがたい詩人」といふイメージは、そして年末に至って潮流社と絶縁し、復刊したばかりの『四季』から創刊号だけで脱退してしまった「事件」によって、決定的に詩壇に広がり定着してしまひます。  折角萩原朔太郎と堀辰雄との晩年に関係を持ちながら、そして『日本の詩歌』では昭和初期の代表的詩人の一人に選ばれながら、現代詩が評論と共に全盛時代を迎へた当時、「詩人の戦争責任」が問はれる際には必ず俎上に上ることとなった詩人です。月旦評が悪く作用し、喧伝されたことは想像に難くありません。  さうして大手文芸誌から、かつての「四季の人々」のやうな扱ひで迎へられる事は次第になくなってゆきます。  古巣である『果樹園』は昭和48年まで続きますが、この時期「中央の抒情詩壇」と呼んで差し支へなかった『四季』から早々に飛び出してしまったことで、「コギト派」のスポークスマンとしてひろく発信する機会も失ってしまひます。  もっとも以前にも親友肥下恒夫に対する同様の振舞ひがあったことを記しましたが(昭和20年日記)、せっかちな“絶交”は一種の癖のやうなものであり、小山氏とはすぐに仲直りし、彼がもたらした平凡社の漢詩叢書の共同執筆計画が流れなかったのは幸ひでした。  そして第4次『四季』の誌面に、すでに亡き木下夕爾と田中克己の作品がみられないのが私には残念でなりませんが、終刊号(丸山薫追悼号)に至るまで二度と寄稿しなかったものの、田中克己の名が「同人名簿」から外されることもありませんでした。  (当時のことを『四季』の編集にあたられた故・八木憲爾氏にお訊ねしたところ、「詩人らしい純粋に満ち、さばさばした人柄ゆゑむしろ好きであった」と咎めもされず、懐かしんでおられるのを知って胸をなでおろしたことです。) p5  しかしそのやうなイメージがあったのはそれとして、運気上昇中にあり、さらに大きな「田中克己」像へのステップとなる筈だった正念場と呼ぶべき当時の文業に対し、(精神的に不安やストレスをかかへてゐたにせよ、)幾らか詰めの甘さはなかったかと不満、といって悪ければ望蜀の感も弟子である私は抱いてゐます。  詩作の不調について、年齢相応のポエジーの枯渇がみられるならば、それは仕方ないことです。  しかし文章については、これは石田幹之助氏の文章と読み比べると分かることですが、ホテルに缶詰めになって書いた為ばかりとは思えない、詩人独特の(歴史的教養を前提とした)簡略な説明や事項記述には、依然として学識とプライドの高さが顕れて、強面感を演出し、時に読む者を畏縮させます。  詩ではそれが歯切れよい効果となり功を奏したのですが、戦後教育を受けた新しい読者層が育ちつつあった当時にあって、田中克己の文章は敷居が高く、次第に敬遠されていったのも故なきとしません。  時代の趨勢に応じる身のこなしは持してゐますが、前述の一刻者のイメージと共に、時代におもねることのない文体に対する読後感もまた、出版ブームが終熄してのち、徐々にですが文壇メディアの仕事に影響していったのではなかったでしょうか。  また詩人はこの時点で、『四季』に保田與重郎や芳賀檀が参加しなかったことを喜んでゐますが(彼らは一方で創刊された『浪曼』に拠りました)、成心といふより、畏友と黒歴史とを使ひ分ける保田氏に対する複雑な視線(嫉妬と呼んでもよい)については、忌避してゐる筈の彼を讃仰する『保田與重郎著作集』の月報文章を読むと興味深いものがあります。  浅野晃の『天と海英霊に捧げる七十二章』朗読会の会場で、三島由紀夫にそっぽを向かれてしまったといふ逸話がありますが、さうした文脈で語られるものでありましょう。  教育者としての信望とプライドの揺らぐことはなかった詩人自身は、そのことに気がついてゐなかった(気づかうとはしなかった)のでは、とも思ってゐます。  この年には、続いて学研から単行本執筆依頼があったのですが、断ってしまったのは、やはりオーバーワークだったのでしょうか、(一度執筆を断ると縁遠くなり、)勿体ないことでありました。  年末に至って、詩人には親戚に係り心労の事が加はります。しかしながら昨年の井上多喜三郎に続いて知友の不幸が重なるなか、詩人個人に於いては、運気はむしろ、更に上向きになりさうな気配を感じさせて翌年へと続きます。 (上記したやうに卒論指導の模様について多く割愛しましたが、それでも中々の分量になってしまひました。)  この年の出来事を記します。 1月7日 丸ノ内ホテルにて『四季』の会。       (丸山薫、田中冬二、竹中郁、神保光太郎、田中克己、阪本越郎、小山正孝、大木実、杉山平一、小高根二郎、堀多恵子、室生朝子、萩原葉子、八木憲爾) 2月17日神保光太郎、伊藤整、伊藤桂一、丸山薫、田中冬二、萩原葉子、八木憲爾と「これからの四季」につき座談会(『四季』創刊号に掲載※)。       また当日あった編集会の後、阪本越郎より中央公論社『日本の詩歌』掲載を打診さる。 4月 5日 日本生命日比谷ビル7階にて浅野晃『天と海 英霊に捧げる七十二章』の、三島由紀夫による朗読会。 p6 4月 8日 丸山薫、黒田三郎、大岡信と「三好達治 人と作品」について座談会。(『四季』創刊号に掲載※) 4月29日 大高旧友の山本治雄、吹田市長に当選。 5月 5日 白金台般若苑にて佐藤春夫の会。出席者70名。 5月13日 文芸春秋社にて池島信平と則天武后について『婦人画報』の対談。 5月27日 清水文雄の上京歓迎会を湯島にて、栗山理一、池田勉と。 7月 9日 空き巣に入らる。 7月24日~27日 信濃追分にて卒論指導。 7月29日~30 文芸春秋社の指示によりニューオータニホテルで執筆。 8月 4日 日本近代文学館へ『四季』79冊を復刻のため貸出。 8月18日 田中健五と赤坂の石田幹之助宅へゆき対談。 8月19日~21日 名古屋経由して下阪。亡父西島喜代助7回忌 8月24日 豊橋税務署長に栄転の長男史氏に長女誕生。 9月13日 文芸春秋社『大世界史』出来上がる。 9月15日 台湾旅行で知遇を得た頼永承と再会。 9月25日 蒲池歓一逝去。 10月17日 文芸春秋社にて池島信平と西太后について『婦人画報』の対談。 11月11日 帝大旧友、松本善海を川久保悌郎とともに自宅へ見舞。 11月14日 中山正善逝去。 11月22日 近代文学館『四季』復刻版2箱届く。 11月28日 小山正孝よりの電話に『唐詩選』やらず、『四季』もやめるといふ。 12月 7日 やってきた小山氏に皮肉を言って帰す。 12月11日 第4次『四季』3冊来る。 12月17日 潮流社へ『四季』脱退通知(ただし同人名簿からは削られることはなかった)。 12月25日 小山正孝へ電話。絶交申渡す。28日 小山氏来り、絶交とく。 昭和42年 1月 1日~昭和42年 7月15日 25.0cm×17.9cm 横掛ノートに横書き p7 1月1日(日) 7:00すぎさめ雑煮くひ、9:20阿佐谷駅へゆき9:50教会。竹森先生「日本の国」のこと云はる。かへり雨降り出す。 でがけに来し賀状見しに260枚。その整理と返事に疲る。20:00泰に電話して声きく。(『果樹園』来る。) 1月2日 晴。7:30起き賀状の返事すむ。31日出しの1枚来る。滝本生来り「泊る」とのことに散歩にゆく。 史夫婦20:00前来り、美紀子21:00まで話きき系図もち帰る。 1月3日 7:30起く。賀状98枚。(※省略) 16:00ごろ滝本生の去りしあと三治夫妻怪獣かきの子をつれて来る。われ疲れしも賀代嫗来ず。 1月4日 賀状了り、出し了へて一休みしてをれば53枚来る。午後賀代嫗3孫つれ来り、(※省略)  年始に出てゆきしあと子らさはぎ明るくなりをり。夜、柏井、田中へ分宿すと出てゆく。けふ弓子訪問着きて行く。 船越章「専修大のマスコミで専任講師として放送学教へることとなりし」と。めでたし。 1月5日 晴。賀状41枚。(※省略) 午后ユ、足立明子へとゆき17:00まで帰り来らず、叱りて叩く。(※省略) 1月6日 8:00さむ。試験問題最後作り、頭痛す。賀状29枚。足立明子の見合の席きまる。日曜14:00と。京Arbeitすみ3,900もらひしと。 1月7日 8:00さむ。賀状28枚。12:00すぎ出て成城。給仕たち来をらず。 高校の樋口氏とうろうろし13:20松村、尾上氏とそろひ、うだうだと16:00すぎまですごす。 すみて「丸の内Hotel」へ直行(※『四季』の会)。竹中、小高根、杉山(竹中郁、小高根二郎、杉山平一)と大阪よりの3人来をり。 葉子君を最後に14人となる。(※?丸山薫、田中冬二、竹中郁、神保光太郎、田中克己、阪本越郎、小山正孝、大木実、杉山平一、小高根二郎、堀多恵子、室生朝子、萩原葉子)  2月末締切、同人費1千円と。堀多恵子さんと地下鉄にて阿佐谷。帰りて眠剤のみしもねつき悪かりし。 1月8日(日) 聖餐式なれど休む。賀状19枚。ユ、足立明子の見合に新宿へゆく。佐伯へゆき『暦(600)』。賀状午后また15枚。 滝本女史「けふは行かず」と。澄「auto買った。泰、動物園にゆきlionを犬といひし」と。 1月9日 7:30さめる。寒く外出せず。喜多村生11:30Morozoffの飴もちて来る。昼食さす。けふ賀状来ず。滝本に電話せしも通ぜず。 1月10日 ユをしてクロちゃんに電話し弓子の縁談ことわらす。9:30出て斎藤dr.「鬱」と申上げれば昼の薬入れらる。 時間余るゆゑ帰りて昼食し13:00成城大学。問題を教務課へ出し了る。鈴木健司より賀状来あり(鎌田女史「今年結婚す」と知りをり)。 帰り樋口高校教諭と同車(成城堂で『印度古代史(600)』買ふ)。阿南君(※阿南惟敬)と大学院で同級たりしと。 太田夫人より「藤堂夫人に『文芸通信』まかせた」と。他に賀状数枚。喜多村生に風邪うつされ鼻汁出る。 1月11日 7:00前おこされ「改源」のみて登校。漢文やり出席者に5点ましをいふ。文化史は「朝鮮の年中行事」了り、これにて切ることとす。 昼食に天ぷらそば食ひ、帰る途、大藤氏に会ふ。16:00野口君より電話「面接26~28の3日間とす」と也。 1月12日 終日無為。(※省略) その他賀状まだ来り。 審美社より『回想の日本浪曼派』かけと。「学年末多忙」と断る。そのあと『日本浪曼派研究Ⅰ』(※審美社)来る。 小野博士『燕京歳時記』も来る。夜、「文学散歩の会」にゆくつもりなりしもとり止む。 1月13日 9:00出て成城大学。大藤氏「大学院の準備に書目つくれ」と。矢野光子「式は24日」と。 2時限の中国文学史をすませて、これにてキルといひ、来学年のゼミの子ら呼び、妹尾生に「中国の童話はむり」といふ。 短大の『唐詩選』いやいやすませてすぐ帰宅。松浦薫氏より「旅行中」とヱハガキ。Argentinaの山野井秀子生より「新年おめでたう」。 突然小山正孝氏来訪。みやげ賜ひ「丸山薫氏68才」と。いつもの如く夕飯くはず帰りゆく。 1月14日 8:00起き太宗会にゆく。阿南、田川、松村、神田氏となりてわれ読み、岡田君おくれて来ってよむ。 池袋まで切符買ひ宮崎女史訪ひしに「欠勤」と。rice-curry(150)食ひて阿佐谷に帰り、この間より見し『白楽天(490)』買ひ、よみ了る。 澄より電話「20日上京ちょっと寄る」と。 1月15日(日) 9:00すぎ起き、弓子も出しとて夫婦ともに礼拝にゆかず。11:30滝本生より電話「17:00すぎなら居る」といひ、出て成城大学の民俗学会。 煖房なく寒きに皆外套をぬぐ。直江博士(※直江広治)の「中国民俗学の問題点」といふをきき絶望す。滝本生18:40来り宿す。 1月16日 寒く、行火に終日をる。滝本生『史記』よみ昼食して帰りがけ学士会館に写真の焼増したのみくれると。 京、帰りて寒がり心配せしも、本当に寒きらし(正午3℃と新聞に見ゆ)。 1月17日 寒く11:00出て斎藤dr.、「鬱」と申上げる。 帰れば畠山六栄門氏より手紙。「賀状(※番地)1-4-8とせしため戻りし。ノリ子ほぼきまりし」と。「式の日しらせ」とかく。 小野勝年氏へ礼かく。『帝塚山文芸通信』へ200×4書く(藤堂卓美夫人あて)。 1月18日 寒さややゆるむ。7:30出て登校。漢文教へて文化史切りあればすぐ帰り(『大漢和辞典5』成城堂で受取る)、午食す。 台北の梅さん(※林素梅:龍園大飯店店員)より「龍園大飯店にありて忘れず」との便り。山本治雄君より「丸(※病状)気がかり、4月新邸祝ひす。来い」と。(※省略) 1月19日 やや暖かく、タバコなくなりかけたれば散髪にゆき、佐伯にゆき『女性服装史(50)』買ふ。(※省略)  角川より速達「20日までに古今集一首をゑらび400×2.5かけ」と。電話2度かけて石本氏呼びしにゐず、 あとにてかかりし故「なぜかかす」ときけば、「『戦後吟』2冊もちをり。24日ごろまででよし」と。首すくめ「かく」といふ。 けふ文学散歩の会会費2千円送り『通信5』くれとかく。賀状の抽籤に5等13枚当りをり、(※省略) の分なり。 夜、依子に電話かけしに「澄、明日上京、兄に泊る。ノリ子ちゃん縁談成立の顔しゐる」と。泰泣く。 1月20日 朝、西川より電話、丸の病状訊ね来る。「その中(※うち)しらべん」といふ。2時間目切り11:00登校。 大藤教授より「本代残った。買へ」とのことに3種ばかり雑誌を挙げる。矢野副手より高橋邦太郎氏『蜻蛉集考』もらひ、 『古今集』『金槐集』見て「短歌」のしらべすまし『唐詩選』了る。「恋愛詩なきはなぜか」の質問ありし。 帰り駅前の古本屋で伊藤生に声かけられ家へつれ帰る。原口君病気退職との事なり。(※省略) 20:00澄来り、泰の話してゆく。(※省略) 1月21日 よべ眠り浅く、東洋文庫松村研へ電話すれば神田氏出る。「来週も休む」といふ。 11:50出て成城大。成城堂で時間つぶし混みあふ中をsalaryもらふ(101,720-18,760=82,960)。成城堂に4,655の払ひすまし、しるこ食ひ(80)、 平馬副手?と同車、佐伯にてApollodoros『ギリシャ神話(20)』買ふ(成城堂にて『インド文明の曙』買ふ)。 滝本女史10分前よりまってをり『淮陰侯列伝』すませ帰りゆく。 1月22日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。芝原生見えず。〒なし。賀代嫗より電話「文子より家ほしき旨云ひ来りし」と。 1月23日 終日家居。中野清見君より「むだと思ひ丸夫人に云はなかった」と。(※省略)  『不二』来る。『朝日夕刊』を見れば「死んでもらはねば」と影山塾長云ひしとあり。不快(※記事不詳)。 船越章来り、賀代嫗の電話のこといひ、帰りがけユより3千円借りてゆく。 けさ平凡社の渡辺氏より電話かかり「来たし」とのことに「来週月曜在宅」といふ。 夜、丸に電話すれば出て来て「調停代理にて出る」と。西川に電話かけて云へば「角力にさそひしも断りし」と。 1月24日 10:00すぎ出て斎藤dr.。「鬱」といへば「さうでなき様に見える」との仰せ。新宿でcurried-rice(120)食ひ、13:00すぎ登学。 『古今図書集成(35万円)』買ってもらふこととなる。あと教授会。唄君「cunningせし子は不正入学につき責任なし」といひ、困る。 すみて(※省略)『成城文芸』の編集会。別に事なく、4月よりわが離任きまりしのみ。 1月25日 6:00さめ7:30出てゆく。漢文やりて、(※省略) 帰り佐伯に寄り『うき世絵ばなし(550)』借り来る。(※省略)  夜、依子より電話「母、伊勢にて風邪らしき。東京へ直行す」と也。 1月26日 卒論の面接とて7:00すぎ起きる。集英社よりコンパクトブックス『白楽天』増刷につき誤り示せと速達。9:20登校。 日本史了り考古学了る。考古学に丸写し2人ありしは未曾有のこと也。山内講師の愚痴われのみきく。 帰り佐伯に寄れば昨日借りし本450で宜しと也。夜、伊勢より電話「母あす15:30東京着」と。 1月27日 よべ何度もさめしらしく眠りし感じなし。8:30出て登校。喜多村生面接すまして喜びて手紙呉る。 大藤教授「大学院の為、日本史専任に田中久夫氏にいひ九大の新城博士(※新城常三)に交渉中。池田君(※池田勉)にいふな云々」。 竹内博士来しゆゑ早々に逃げ帰る。けふ富士見療養所の楽恕人氏より『新日本雜事詩』贈られ『お雇い外国人(240)』買ふ。 母帰りをり、大より電話「月末転居、赤阪へ」と。大江久美子より「内緒で1~3万円貸してくれ」と。「内緒で1万円やる」と返事せし。 1月28日 7:00さめ8:30出て午までに面接すむ(大藤、鎌田、野口とわれ)。(※省略) 『聊斎志異』5冊成城堂でとり帰宅。雨久しぶりに降りし。 『花影』1月号来て保田かきをり。『水滸後伝』のこと気になり『水滸伝』よむ。120回本はじめて也。 1月29日(日) 雨やみをり、礼拝にゆく。(※省略) 史夫婦久しぶりに来る。われ選挙にゆき、帰りしあと相撲すみしを見て2人帰りゆく。夜「梅さん」かく。 1月30日 選挙発表のtelevi22:00まで鳴りしゆゑ睡眠不足のところへ平凡社の酒井・渡辺両氏、小山正孝氏と来り、 「地図つけよ。年表・さしゑつけよ。注かけ、概説400×50かけ。原文つけよ」との注文にいやになり相手にせず。 その際『東洋文庫』に『続水滸伝』ありといふに、出て第3冊買ひ来り『成城文芸』にかくことまたいやになり「聊斎の神」でもかかんかと思ふ。 午后丸より電話「統夫に家渡すと云はすな、本日も文子欠席、来月22日で打ち切る」と也。 夜、賀代嫗より電話かかりし故それを伝ふ。足立生来り写真返す。「(※縁談話)せいぜい心掛けてくれ」と也。 1月31日 9:00ユを斎藤dr.に薬とりにゆかせ、10:00われ成城へ卒論の合否決定にゆく。喜多村生「優」となり12:00すみ「優」11人、3.31卒1人。 ちらし食ひて帰り来れば赤阪へ大移るとて、ニンジン((※俳優座の木島新一)その他荷物とりに来り、母もトラックにのりてゆく。 集英社より『日本の名詩』の印税(3,240-324)来をり。(※省略)  けふ教授要項の用紙もらへば大学院の『中国文学と日本文学』当ててあり。母、夕飯もらはず帰り来て大の貧乏をいふ。 2月1日 7:00まへさめ、7:30出て8:30成城大学。漢文と東洋文化史の試験監督し、まちがへてうどん食って帰る。 (「大安」に電話して『蒲松齢集』きけば「売切れ」と。) 山本に電話して『蒲松齢集』明日とりにゆくといひ、明治書院、中央公論社に教科書ありやときく。(松枝茂夫氏の『中国の小説』に聊斎の悪口あるをよむ。 2月2日 10:30出て地下鉄にて九段下。山本にゆき『蒲松齢集』2冊(2,150)買ひ、 『東洋文庫朝鮮本目録(1,000)』、『満商招牌考(1,000)』買へば1,800にしてくれし故、登校。 個人研究費あまさず使ひしこととなる(わが台湾旅行をしりゐたり)。14:30まで待ちて試験監督。矢野光子来ゐたり。14:45すませ帰宅。 『薔薇』に西保恵以子と前川緑夫人とをならべて村上新太郎氏ほめをり。大江久美子より受取。「わが病気知らざりし」と。 松村潤氏より電話「太宗会に出よ。陳寅格貸せ」と也。 2月3日 曇。8:00さむ。〒なく佐伯へゆき寺田范三『論語(50)』買ひ来し。午前中、美紀子へ電話すれば「傘あす返す」と。 宮崎智慧氏へ電話し「あすゆく故本返せ」と。「野田宇太郎のみ1年間貸せ」と也。(※省略) 2月4日 8:00さめ9:10出て東洋文庫。松村氏のみ。われよみゐるうち岡田氏来り、11:45すませ、 西武dept.にゆき宮崎智慧氏に本返してもらひ、昼食おごる。「大伴氏と友人でなきことわかりし」と。 われ「人のたのむべからず神を信ず」といひ、新宿で雑踏に『戦後吟』おとせしを女学生ひろひ呉る。 帰りて角川の年末伝票見れば詩人集の金もらひしこととなりをり? 大、ニンジン氏と来り、母と出てゆく。賀代嫗より電話「調停に呼び出されし」と也。(※省略) 史夫婦来らず。「志異雑記」200×14かく。 2月5日(日) 晴。暖し。礼拝にゆく。聖餐式もあり。(※省略) 帰り佐伯に寄り『芭蕉と中国文学(300)』買ふ。 14:30滝本生来り『史記』よも了へしころ木野代議士の長男来る。医科1年生にて神経太きらし。けふ『東方学33』来る。(※省略) 2月6日 美紀子11:30来り、昼食くひ、本もたせられて買ってゆく。(※省略)  けふ「志異雑記」200×37にて了りとなりし故、引きのばすこととす。 2月7日 10:00すぎ出て斎藤dr.。満員にて12:00まで待てば家より「野口氏教授会ありといひ来し」と。診察受けて天ぷらうどん(60)食って登校。 教授会にては哲学の岩田君(※岩田靖夫)、北海道大学へ転任とのほか議題なく、しかも長く、 了れば入試問題の校正。これも長く18:00すみて帰宅。『不二』来り、紀元節(※建国記念の日制定)の苦心せしをしるす。(※省略) 2月8日 けふも暖し。「志異雑記」200×50に仕上げし、散髪にゆき散歩して帰り来る。 けふ小山正孝氏より『立原道造詩集(※弥生書房「世界の詩」)』賜はる。尾上氏より「10日14:30再校、刑務所行(※印刷)は15日」と電話ありし。 2月9日 雨。芝原敦子「結婚式に16:40来てくれ」と。『果樹園』来る。(※省略) 2月10日 さむれば雪。9:00出て成城。学科内容かき(教科書かへる)、池田教授へと原稿ことづけ11:30より中国文学史の試験監督。 すみて研究室に一杯ゐる訂正を見てやり、午后短大の漢文すませ、わが研究室にて入試の校正すませ(18:00)帰宅。 潮流社より同人名簿と1月7日の写真来をり。保田・芳賀はともに入りをらず。めでたし。 2月11日 雪。はじめての「建国記念日」。京、学校ありとて出てゆきしと。 雪の中を滝本生来り17:00までゐる。その間に史、一人来て母らとカルタして帰りゆく。 2月12日(日) 午前中、雪つづく。ユも礼拝にゆかず。短大と4年の採点せしのみ。 2月13日 雪とけず。梅田夫人より受取。筑摩より『展望』。けふは終日0℃以下にてタバコ買ひに出しのみ。 2月14日 寒し。斎藤dr.にゆく。薬かへたまはず。正午まへ帰れば母、大のところへと出てゆく。(※省略) 2月15日 よべ時々眠りさめし。6:00さめ7:30出て8:30成城大学。 喜多村生のゼミ85点とつけ4年と短2Aの成績呈出了り、9:30、taxi3台に分乗し13人にて府中刑務所。係員せかせしため尾上委員長もせかされ、 13:30すみtaxiまちて日本料理へゆき16:30またtaxi。一旦成城へ帰りあと野口君に阿佐谷まで送らる。 佐伯にて『日本史3冊(290)』とりて帰宅。けふ上野君のイギリス留学談面白かりし。(※省略) 母けふも大のapartと。 諏訪仁氏の電話きくため名古屋へ電話すれば「紀子ちゃんの式4.24」と。矢野光子と同じ日也。賀代嫗より23日に調停に出る由。 2月16日 よべも眠りにつくこと浅く7:00には早やさむ。10:00まへ昨日かかりしといふ潮流社よりの電話あり、 「丸山薫氏上京─池島文藝春秋社長祝と─ゆゑ神保・阪本・田中冬二・伊藤整?・萩原葉子にて座談会する故あす出よ」と。 午后また電話「潮流社へ来よ」と。 母帰り来て「大の顔色わるくやせをり」といふ。社会思想社より速達、安西均氏等編『詩歌でつづる女の一生』に「青春」採ると也。 2月17日 よべも眠り浅く5:00すぎに覚む。10:30出て潮流社へゆき、神保・丸山・伊藤桂一・田中冬二の5氏集まれるにゆく。 萩原葉子さん来り、伊藤整氏来りしに「城」といふ天ぷら屋へゆき座談会。伊藤整氏bon-sense、桂一氏も2sかくといひ(※不詳)、 14:00になり潮流社へ3編集人とわれゆき、阪本越郎氏来るをまち編集会。三好達治につき座談会すと也。 阪本越郎氏「用あり」といふに同行すれば中央公論社の『現代詩全集(※『日本の詩歌』)』にわれのす。履歴いへ、『悲歌』くれと也。 別れて東京建物に寄れば「西川常務16:00まで外出」と。空腹なりし事わかり、しるこ食ひ(100)地下鉄にて帰宅。 山田教授より「大学院、修士課程にて通りし」と。 坪井明君「上京、第一ホテルにとまりあす帰る。2月27日吹田市長に出る山本(※山本治雄)応援の同窓会す」と也。 本位田夫人に電話すれば「4.24の畠山のり子嬢のこと報せありし」と。 けふ小高根夫人にユ電話して、のり子嬢のこといへば、180cmの歯科医世話といはれしと。 松村氏に電話すれば「明日の太宗会出られず。神田氏に云へ」と。神田氏に欠席いひてすむ。 20:00すぎ岸和田より滝本生「月末までに帰郷」と。 2月18日 よべ0:00すぎまで眠れざりし。「あと咳せし」と母。5:00にさめ、苦しければ母の髪結に出しあと、ユを斎藤医院にゆかしむ。 母12:00帰り、ユ14:00帰り「風邪ひきをり」と寐る。弓子14:30帰り不機嫌なり。(京きのふ母より卒業祝5千円もらひしと)。 京16:00帰り弓子に叱らる。われ夕方近くになれば元気出る。 小高根二郎氏に「嬢いかに。『悲歌』の残り万に一あれば送りたまへ」とかく。(※省略) 2月19日(日) 『バルカノン』来る。丸に電話して13:00ゆくといひ、13:05着き「調停第3次あさって」と聞き「宜しく」とたのみ、 重俊呼びてきけば父の見つけし「山梨はいや、教師には合はず」と也。懊々として出て赤川氏に寄れば外出(のちほど電話かかる)。 本位田に丸のこといへば「この間会った」と。矢野に電話すれば「20:00ごろ帰宅」と。(※省略) 2月20日 高橋重臣より電話「2~3時来る」と。よべもよく眠れし故、これをこはされてはとふと思ひし。 林富士馬氏へ電話を13:00にかければ在宅。とり次には長息の奥さん出し。13:00林叔母来り、14:00高橋氏来る。長嬢慶応受験と。 『悲歌』のこといへば手帳にかく。堀辰雄の蔵書目録返礼とするといふ。(※省略) 2月21日 10:30出て斎藤dr.。眠剤のこといふ。徹夜採点の事もいへば先生(※斎藤茂太)心配げなりし。うどん食ひ(60)しるこたべ(70)紀伊國屋のぞきて登校。 Salaryもらひしに今年1年の納税額14万余。成城堂に払し、『金枝篇3』、『小福音書』上下とりて帰宅。 ユ、母と赤坂の大にゆき、やがてユのみ帰り来る。 (けふ梅が丘にて下車。麥書房に『本 三好達治特輯(90)』買ひにゆき『悲歌』見しもなき様なりし)。(※省略) 2月22日 暖し。昼間15℃になりけらし。花井夫人に電話すれば『悲歌』東京にもち来ありしと。 阪本越郎氏より『わが途上の花』もらひ外山軍治氏より『東洋の歴史』もらふ。外山氏には礼状かき、阪本氏に電話かけしに不在。 丸弁護士より電話「文子出しも調停不成立」と。近々礼いふこととす。(※省略) 2月23日 「おはなはん」見て登校。大学院の修士課程きまりしも経済不合格にて再審査には博士課程と。山田君怒る。 われに東洋史の一般教養当りしも不審。昼食すみて教授のみ集り、高城君や松村君の助教授審査。 松村君には立教松浦君にたのむこととなり「資料出せ」といひにゆく。 そのあと新宿より都電にて山本書店。1万円余の本買ひ、送ってくれと頼み、われには『李白研究論文集(480)』買ふ。 小高根二郎君より『悲歌』みつからずと。白蓮女史81才にて死にしと。新聞に見ゆ。 2月24日 雨。花井夫人より電話「今日来てよし」と。 12:30出てゆき(※『悲歌』譲られ)3児の賑やかなのを見て仲の子ノリ子ちゃん連れ帰る。飯くはず弱る。 阪本越郎氏に電話し「詩集送る」といへば、丸山・蔵原・X氏と4人で1冊と(けふ中央公論よりも電話ありしと)。 『果樹園』へと「初孫」作る。入浴後milkのみ床へ入るにノリ子ちゃん泣き、電話かければ祖父母上上京しゐると。 21:10駅前にて花井博士のautoにて引渡す。 2月25日 東洋文庫へゆく。松村君来ず、岡田、田川、神田の3氏のほか岡本君来会す。けふにて了り4月8日にまたと。 帰りて飯食ひ、中央公論社よりの電話きけば「挨拶に日曜14:00来る」と。けふ『悲歌』書留速達にて阪本氏へ送りし。(※省略) 2月26日(日) 7:00さめ久しぶりに礼拝にゆく。(※省略) 帰れば澄より電話ありしと。 赤川氏より電話ありし故「来たまへ」といふ。折しもユ、丸へ礼にゆきしあと也。船越の悪口いひおく。 採点漢文すませ(点まへよりきつくす)、ユは賀代嫗に電話し「不貞の事実あらば離婚容易」といひ、「また借金時効にかからず」をもいふ。 「不貞の証人出来さう」と賀代嫗の話也。澄に電話し泰の泣くをきく。「その中よこす」と也。 (東洋文庫の石田君より電話、前田勝太郎となつかしがりゐると。土曜に文庫にゐるといふ故「近々会ふ」と答ふ。) 2月27日 採点概ねすませしに中央公論社の近藤氏より「いまからゆく」と。15:30来り『日本の詩歌』の計画書見せらる。 第24巻に丸山、田中冬二、立原、蔵原とで解説を阪本越郎氏担当。伊藤整氏も阪本、神保、津村もなし。感謝す。 (編集委員は伊藤信吉、伊藤整、井上靖、山本健吉の4氏なり) 2月28日 9:30出て斎藤dr.。中央公論社の『日本の詩歌』のこと申上げればご存じなかりし。 12:30教務に採点提出、講師室へゆけば池田博士、ついで栗山博士、『バルカノン』の話し、図書館へ山本より来りし10,625の本もちゆく。 帰り佐伯に寄れば『漢和辞典』たのみありと。集英社より『日本の詩』、『世界の詩』の増刷通知来をり。小山正孝氏より電話ありしと。 散髪にゆき、夜、小山氏に電話すれば「来週来る」と。けふ船越章『ラジオテレビ放送研究必携』もち来り、5千円借りゆく。美紀子妊娠らし。 3月1日 6:40起き7:30出て8:30成城大学。(※省略) 11:00より試験監督。欠席あり女史の方多し。すみて昼食。 14:30まで待たされ採点18:00了り夕食し、20:00まで待ちて自動車にのれず帰宅。(※省略) 角川より56,440-5,644『Heine20版』として来る。 集英社より『白楽天』再版4千部を3月10にと。『地球』2号に小川和佑「津村と田中」をかく。 服部夫人より電話「高円寺泊り、あす来る」と。(母、大にゆき2泊と)。 3月2日 8:30起き「おはなはん」見しあと髭そり服部夫人(※服部正己夫人サノ子氏)を迎へにゆく。昨夜泊めし元■大教授送り来る。 つれ帰れば、大学書林より本出すにつきの苦心談話し(※『言語学の基本問題』昭和42年2月発行)、 昼食後、川崎の姉の家へゆき「夜帰る」とのことにユ、送りゆきしに帰らざる様子。 みな精神異常あり、可怪。 3月3日 6:50起き成城へ7:30着。前々日の手続をへ、監督了り採点し18:00にはすむ(500名以下)。 『邪馬台国(480)』ひまつぶしに買ふ。20:00早く出て帰宅。(※省略) 母「けふも大の処に泊る」と。 服部夫人「きのふ川崎の姉宅に泊りし」と電話ありしと。 宮崎智慧女史「あす来訪」と。松浦母上来り「美紀子妊娠まちがひなし、8月末出産」と。 3月4日 休み也。11:00弓子出てゆき新宿で京と落合ひ富士吉田へskatoにゆくと母に電話すれば7日まで帰らずと。 佐伯にゆき字引のこと云へば「けふ来る筈」と。芝原生より電話。 宮崎智慧氏より電話「前川佐美雄氏あす来る」と。「けふ伺ふつもりなりしも伺はざる方宜し。西武にはもうをらず」と。 「いつにてもお越し」といひしあと、佐伯氏『長沢漢和辞典(1,300)(※三省堂漢和辞典)』もち来り、1,000にて分け呉る。 3月5日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 帰りの電車にて柳谷義君と会ひ、ともに佐伯にゆき、 『研幾小録(7,800)』と『日本近代文学と外国文学(230)』借りて帰り、昼食ともにす。来週香港より帰りし衛藤瀋吉氏の話ありと。 午后より雨となり(朝のうちは風)。(※省略) 3月6日 雨降り斎藤dr.にゆかず。午すぎ弓子、京帰り来り、風と雨にて宿にこもりゐしと。 山前実治君の紹介にて上田氏来り、教科書出版のこといふも「ゼロックスにて間にあふ」といひ、阪本、丸山2教授を紹介す。 小山正孝氏来り「西脇(※順三郎)一派は朔太郎の正統つぐ」といふ由。夕食すすめしもきかず帰りゆく。(※省略)  母けふも帰れず。弓子の呉れしMisa音楽の切符つかはず。高橋重臣氏より『悲歌』来り「高知大へ出講の為おくれし。嬢同志社へ入りし」と。 川久保悌郎君より電話「卒業式の為来し。松本(※松本善海)を羽田(※羽田明)も見舞ひ、4月より出勤したしと云ひをる云々」。 3月7日 ユを斎藤dr.に薬とりにやらすことにし9:50成城大学。 275人-80人のうち150人+55人とることとし、縁故云はさず寄附だけにてすみしあと昼食し、栗山部長「任期満了(三期)後任を選挙せよ」と。 高田、堀川、池田の3人にて再投票、高田、堀川にて3度目の投票して過半数に達せしも高田承知せず。 考慮してもらふことにてすみ、(※省略) 14日の編入試験の問題作る。(※省略) ユにきけば母一度帰り来しと。 3月8日 弓子早番にて7:00出てゆく。服部さの子夫人より「まむし旨かりし」と。 小高根二郎氏より「原稿同人費受取し」と。今井翠生に電話し「湘南白百合2~3人通りし」といひ「美紀子よこせ」といふ。 けふ佐伯へ『研幾小録(7,800)』の代払ひにゆけば200負けてくる。(※省略) 3月9日 雨。教会より12日壮年会の通知ありしのみ。 夜、ユをして依子に電話せしむれば「畠山ノリ子の婿は公務員にて東京住ひ、関口、本位田、われわれ夫婦呼ぶ」と也。 泰「ババ、ババ」と云ひし由。21:00すぎ松浦高嶺氏より松村赴君の業績批判の速達来る。 3月10日 曇。調布鵜ノ木町の松村赴君に「電話せよ」と電話電報す。 阪本越郎氏より電話「三好達治につき問合せたがわかった云々」、われも礼いふ。 10:00松浦氏より資料も返還受けしあと11:30松村君より電話ありし故、その旨云ひてすむ。(堀夫人に電話せしも不在らし)。 大より電話「8月の父7回忌10万円でやる。絶対に物貰はぬ事」と也。母帰り来りきげんよし。 阪本氏に『果樹園』数十冊を小包にして送る。京、高校の卒業証書もらひかへる。(※省略)  夜、前田勝太郎氏に電話「あす雨止めば文庫へゆく。石田君にも伝へよ」といふ。 3月11日 晴。15:00出て東洋文庫。 石田君を総務部長室に訪ね、前田君来りしと出て駒込駅前でbeer3本、白鳥先生と敗戦後は合はず、鎌田にのせられしと。 帰宅の途『李賀(200)』買ふ。阪本氏より「彭沢令」の意味。(※省略) 朔太郎の会より「5月7日(日)前橋に来るや」と。けふ美紀子来り、元気さう也と。 3月12日(日) ユ風邪とのことにて1人礼拝にゆき小室君と同車。「立教大学院修士了りし」と也。礼拝すみて3人の地方教会への送別。 ついで衛藤瀋吉氏の香港の話あり。すみて名店会館食堂込みゐるに出てゆけば衛藤氏に会ふ。 古本屋見て13:40教会に帰れば、ユ来る。14:00より田口祥子・長島昭氏の結婚式。披露宴立食にて疲れ17:00帰宅。 まもなく滝本生くる。ユ仕立て3着たのみし。けふ『友へ贈る山の詩集』といふが来り、わが詩2編のす。(※省略) 3月13日 晴。10:30出て斎藤dr.。「躁の方が仕事できる」との仰せ也。帰り12:30になりし故、家に電話し「美紀子またせよ」といひしに昼食しをり。 16:00ごろ迄話してゆく。悪阻その他全然なき様子。生垣直しすむ(2.9万)。(※省略) 史セビロ取りに寄る。 夜、澄より電話「4月1日頃、水戸出張の時、母子つれ来る」と。松村赴君の業績検討すむ。 3月14日 9:30登校。転入学の試験監督を11:30までやり面接し、(※省略) 。 教授会。高田瑞穂君、条件をいひ学部長を断る。(※省略)  教授のみの会。松村赴君の業績われ説明し、松浦暢君問題なく助教授。 高城楢秀君の精神につき我れ聞き苦しく「同病相憐む」といふ。結局3人とも認めしあと、 大学院設置のため今井富士雄、山内清男2講師を教授とせしこと問題となり今井教授成立す。 研究室に帰りて高田君を再び推すこととし被選挙者を教授にせんといふことになりし様子。朝香生をさそひて帰る(成城堂で『三好達治』買ふ)。 京「府中市役所へArbeitにゆく」と。(※省略) 3月15日 母、国立劇場へと一人にてゆく。あとにてきけば「今夜、大のところに泊る」と。 賀代嫗より電話「統夫、今月限り会社やめ九州へゆく」と。夕方下痢。Televiにて大阪場所見物の長沖一氏を見、こゑもきく。 3月16日 散髪にゆき帰れば美紀子来てをり「明日母迎へに来る」と。昼食まへ今井へゆく。15:30出て地下鉄にて竹橋、学士会館へゆく。 16:45まで待ち讃美歌うたふ。(※芝原敦子生結婚式 省略) 了りて1人hyreにのり新宿まで来る。 3月17日 ユをして名刺注文さす。「450円にして21日出来」と。(※省略) 18:00夕食すませし処へ水戸に梅見に林叔父・叔母とゆきし母、美紀子帰来。 3月18日 こぬか雨の中を佐伯へゆき木崎国嘉氏『女のあくび(150)』買って帰れば滝本女史の後ろ姿を見、20:30まで話してゆく。 けふ「成城大学大学院の教授会議を29日13:00より」との令状来る。文芸判定の日也。 3月19日(日) 礼拝にゆく。田口、芝原2嬢結婚と週報にしるす。「大安」来りしのみ。 けふ澄より電話「春闘にて上京未定。この間岐阜で影山正治、鈴木正男に会ひし」と。『果樹園133』来り、わが「梅さん」を文章とす! 夜、高橋重臣君「嬢、慶応大学入学、小山正孝氏の電話教へよ。『四季』にこの間の詩だめか」と。「だめ」と答ふ。 3月20日 8:30出て成城大学。卒業式新築母の館で行はれ、学長の辞短く、理事長の辞なく、卒業生名の列挙なくてよし。その上暖かなり。 記念写真写さず研究室に帰れば矢野光子結婚式の案内状呉る。4.24(月)17:30学士会館にて (※省略) salaryもらひ、 教授会にて学部長選挙規定承認の上「正教授会」高田13、池田3、臼井1、堀川1にて一般教授会となり、高田当選。 今井教授、松浦助教授、松村助教授の披露もありし。(式場にて『四季』にと「晩年」つくれし。) 喜多村生と約束せし故、Albumもち帝国ホテルの16:00よりのtea-partyに出席。筆箱もらひ18:00退出。 古本屋にて『印度美術史(500)』買ひて帰宅。賀代嫗より文芸2次受験生のこと頼まれしといふに「断る」と返事。 母けふも風邪なほらず「寿一の長男、千葉大受験して落ちし」と。 3月21日(春分の日) 斎藤dr.にゆき薬もらふ。「学校このごろいやでなし」と申上ぐ。帰り名刺(400)とり『文藝春秋』買ふ。(※省略)  井上多喜三郎一周忌の案内。全田叔母より「キリスト教の誰かを教へよ」と。頭わるくなるほど日記よむ。 3月22日 雨。全田叔母へ佐治牧師のこと書く。多喜さん一周忌に「ゆけず」と返事。(※省略)  平凡社より百科事典増版印税300! 『花影』は『紫珠』と改名、宮崎智慧氏はづさる! 堀夫人に電話すれば「四季の原稿かきゐる」と。潮流社へ詩「近況」かく。賀代嫗14:00来り、統夫と意思疎通せざる様子。 折から諏訪母上来たまひ(ユ駅へ迎へにゆく)、船越へとゆく。母上は孫の音楽会にて来たまひしらし。 潮流社より電話「三好座談会に大岡信、加へるゆゑ4月の17:30より(※日未定)」と。 (午まへ潮流社へ3千円と詩速達す。佐伯にて『啓禎野乗』2冊もらひ『印度、印度支那(50)』、『ドイツ文学史(70)』買ひし)。 夕方澄より電話「中部地方のintelli夫人教へよ」とのこと、秋山(徳永)昭子夫人いひ見る。 3月23日 6:00すぎ覚め7:45出て成城。第2次試験文芸・短大やり13:00すぎより採点(樋口、松村氏らと)。18:00には終りしも調整の為、再採点。 beerのみて22:00帰宅。畠山紀子(※敬子)嬢の式の案内来り「4月24日16:30ホテルオークラにて」と。(潮流社より受取の電話ありしと)。 3月24日 この頃日記よみ返す。(※省略) 角川より『短歌』の稿料(1,500-150)。 (※大東塾)鈴木正男氏より「宮中奉仕20周年につき第一次に西島大出しや否やしらべさせよ」と。電話教ふ。 美紀子、今井翠母子つれ来る。(※省略) 3月25日 8:40登校。ぶじすみ採点(大藤氏「29日の矢野君の送別会に出てくれ」と)。18:00夕食し、さっさと帰り来る。 (28日の入学試験委員会10:00からと。) 井上多喜三郎氏『曜(※遺稿詩集)』1口1千円と岩佐東一郎氏より。(※省略) 3月26日(日) 復活祭とて夫婦にて礼拝。すみて茶party(田口)長島夫人をり。(※省略) 帰りまた礼拝委員の一人と同車。 (けふ竹内令息のこと、ユ豊中にゐる足立生に速達す)。われきのふをとつひより日記よみ、をかし。 21:30よりのtelevi「大学批判」に出て来し桑原武夫博士、死人の如くやせて見えし。 3月27日 9:00まへ潮流社より電話「4月8日18:30座談会」と。原稿みな短きなり。ユ、三鷹へと出てゆき帰らず、母も大のapartへゆく。 16:00ユより電話「浅野dr.(※浅野建夫)邸にをり」と。帰り来り「浅野やせし」といふ。(※省略) 京、学習院にての西武dept.の講習にゆく。 名古屋へ電話せしに「泰、風邪とかで畠山家へ2日に祝にゆく」と。 3月28日 6:00さめ9:00出て成城堂に時間つぶしに入れば大藤氏来る。 会議の室わからず10:05ゆけば、池田、唄、戸口、佐久間と4専攻の代表来をり、山中氏のみ来ず。 部長の案きき295人位とるやもしれずとなる。(内寄附26人にて、まへの29人に合せても4千万円ほど也。但し点高く気持よし)。 (※省略) 昼食たべ研究室にゆけば鎌田女史あり!早々出て帰宅。(※省略)  (けふ名古屋の畠山家へ1.5万円祝に送り、ユ斎藤dr.に薬とりにゆきし也)。 20:00よりteleviにて吉川(※幸次郎)、貝塚(※茂樹)、桑原3博士の説をきく。 3月29日 10:00より第2次入試及落判定会。例になくスッキリとゆき11:30すみ昼食まち、食ひしあと14:00よりの大学院会議といふを待つ。 わが大学院教授をふくめ8コンマとなり、大藤氏漢文講師いれんといふ。 宮崎氏と出て原宿の南国飯店、栗山部長、山田、大山、宮司、上原、岡本の5主任と宮崎、我の代理出席。矢野副手の結婚退職を祝して乾杯す。 (栗山博士、我の有名詩人なりしことを披露す)。山田氏のさそひ断り阿佐谷駅にて家に電話(21:00)、ユ未帰宅としり岡田家へゆく。(※省略) 21:30挨拶して帰宅すれば「澄より電話ありし」と。かければ「依子母子風邪にて腸こはしゐる」と。ユをゆかすこととす。 3月30日 朝起きれば頭痛く「宿酔」と母いふにwineのむ。「忙しい日」を『果樹園』にかき、同人費と速達し(125)、 佐伯にゆきて『支那美術史論(500)』、『古川柳艶句選(800)』もらひ、都民銀行にて2万円おろす。(※省略) 島居清氏より「天理図書館やめ神戸の女子大に移りし」旨しらせられし故、祝辞かく。 澄より電話に母「(※悠紀子夫人名古屋へ)もう着く筈」と答ふ。熱37℃台と也。(※省略) 多喜さんの『曜』に賛助費出せと山前氏よりも通知あり。(※省略) 咲耶より京に卒業祝来る。(※省略) 15:30山田俊雄教授来訪。貸せし本返し「来年度の大学院講義やめんか」と。 16:00和田賀代嫗来り、疲れに疲れをり。文子入院費とて2万円もちゆく。 17:00澄より電話「ユ着いた。依子・泰には心配いらず」と。(※省略) 大に午電話し辜鴻銘の閲歴よんできかす。「西洋文化を知り、しかも弁髪を切らざりし」と。孫娘来日を大が知りし故也。(※省略) 3月31日 家居。〒なし。暖かし。20:00澄宅へ電話すれば「病人心配いらず」と也。(※省略) 4月1日 9:00滝本生より電話「病院につとめゐる。18:00来る」と。(※省略) 堀内民一氏より「名城大学教授となりし」と。(※省略) 15:30京より電話「生活club所属となり、帰り18:30」と。喜多村生より電話「つとめひま也」と。 18:00すぎ滝本生来り、夕食し、漢文に疲れて帰りゆく。 4月2日(日) 礼拝にまいる。(※省略) 「寿一の坊や、埼玉大学に通りし」と! 4月3日 6:30覚む。昨夜来りし畠山六栄門氏より祝受取「本位田夫妻、関口娘夫妻出席」とのたより見る。 8:00まへ名古屋へ電話すれば澄出て「よべ帰りし」と。ユ出て「あす泰つれて帰る」と。(※省略)  寿賀子に電話し「入学祝に字引贈る」と。(※省略) 午后、潮流社より電話「8日18:30西新橋の中国飯店にて」と。 けふより『金瓶梅』のcard作り、疲る。18:30名古屋より電話「ユと泰と14:22発のこだまに乗る。迎へたのむ」と也。 p8 4月4日 斎藤dr.へゆき「眠剤用ふるのみ異常」と申上ぐ。薬かへたまはず。 帰りて14:30澄より電話にて「14:22発17:05着こだま6号車」と也。待ち兼ねて東京駅にゆく。 泰いたって機嫌よし。けふ「うつぎ」にて『新々朝鮮語会話(100)』買ふ。 4月5日 (※省略) 北口の竹内家見にゆき、母、大へとゆく。泰ひるねの時間に眠らず。 けふ「朝日」に『日本の詩歌』9月発行の予告出る。堀夫人、軽井沢町追分より『蔵書目録』賜ふ。 (※省略) 堀夫人に礼状かき日生七階の浅野晃・三島由紀夫のPoemusica(※『天と海 英霊に捧げる七十二章』)ききにゆく。 中谷孝雄、富沢有為男、河盛好蔵、戸田謙介、田中冬二、神保光太郎、芳賀檀、佐藤春夫夫人(「竹田龍児氏帰朝」と)を見、 三島氏に挨拶し、安岡正篤の手紙、堤清二氏の挨拶にて退出。Juice 1盃、tobacco 2本のみしのみ。 4月6日 京、西武の休み、留守番さして矢野家へ祝にゆく。新郎は日石系の技術者29才と。 目出度し目出度しといひ泰荷物ゆゑすぐ出て甲州街道にてtaxiひろひ帰宅。京、吉祥寺公園へと出てゆく。(※省略) 村上新太郎氏よりわが詩歌ほめし『薔薇』来る。成城大学より大学の時間割来る。(※省略) 高橋重臣君に『堀辰雄蔵書目録』送る(30)。 『宋詩概説(150)』、『紅楼夢1(30)』買ふ。丸屋市川(※古本屋)つぶれしを知る。(※省略) 4月7日 ユ、泰と柏井。尚子にくやみ云ひ直し、卒中後2日半意識ありしときく。 30日賀代嫗、わが家へ来しあと入院ときく(夜、平田に電話し「今週にて退院」ときく)。(※省略) 『民間伝承』受取り菊池(芝原)敦子よりの挨拶見る。澄より電話「畠山一家満足す」と。母、夕方つくしもちて帰り来る。(※省略) 4月8日 6:00さめ9:00出て東洋文庫。コーヒー途中でのみをれば、田川博士の通る見え、 出て松村研にゆけば神田、松村、岡田3氏已に来りをり、岡本、阿南2氏も来る。 すみて阿佐谷。駅前の佐伯できけば「丸屋市川先月死にし」と。『ナチスの時代(70)』買ひて帰宅。 「けふ母の留守しゐる処へ山田教授、本返しに来玉ひし」と。 『三好達治』よみ14:30出て、西新橋(もと田村町)の中国飯店へ15:20つけば速記の女史のみ。(※『四季』座談会) 16:40に丸山氏を案内して八木氏(※八木憲爾)来り、ついで黒田三郎・大岡信の2氏来り、座談1時間余り。帰宅22:00かっきり也。 泰ユともに眠りをり。(※省略) 4月9日(日) よべ0:00近く眠り6:00さむ。礼拝委員とて8:00出て吉祥寺駅前にてコーヒーのみ(80)、教会へ9:10着く。 はじめてのこととて疲れ壮年会には出ず。12:10帰宅。 畑山敬子(※のりこ)君より礼状。「私にすぎる婿」とかきあり。夕方、依子より電話。「13日夕方上京」と。 4月10日 疲れて8:00まで寝、あとも横臥。(※省略) 堀多恵さんより「書目もう1冊送らうか。軽井沢へまたゆく」と。 田代継男より「一度浦和へ来よ」と。ユ、泰をつれてタカ子のところへ遊びにゆきし也。(※省略) 澄より「依子13日14:00乗車」と。史来り、卒業免状もちゆく。 4月11日 雨。10:00出て斎藤dr.。「相変らず好調ですね」と薬かへ玉はず。12:30帰宅。ユ、今井翠宅へゆく。台北の梅さんより日本語の便り。 山本文雄氏より「産経やめ東海大学教授となりし」由。 4月12日 午すぎ1,000もちて佐伯へゆけば『紅楼夢(1,150)』とりのけあり。本売り『内外蒙古の横顔(650)』とともにもち帰る。(※省略) 夜、美堂正義氏より「むすこ東大文3に入りし」と電話。『果樹園134』恰も来りをり。 4月13日 曇。寒し。林素梅へ『果樹園』の切抜おくり「頼永承夫人によんでもらへ」とかく。服部夫人より『言語学の基本問題』贈らる。 依子、14:05のひかりにて上京。とたんに泰おとなしくなる。 その前ユ、俊子姉より帰り賀代嫗発狂ときき、統夫聡子に電話す。夜、鎌倉へ電話せしに統夫宅へゆきしらしく応答なし。 4月14日 9:00船越章来しゆゑ賀代嫗の病状いひ見舞にゆくこととなる(統夫にユ、電話にて住所きく)。 戸塚下車大船行のbusにて下倉田のapartにゆけば、みさ子と賀代嫗とあり。(※省略) 章と出て戸塚駅前で昼食し、別れて鎌倉。 藤沢行のbusにて鎌倉高校前下車。鈴木病院につき(※省略) 、統夫宅に帰り斎藤dr.にゆくこととし、電車にて(※賀代嫗)つれ帰る。(※省略) 統夫・聡子より抗議の電話あり。けふ「志異雑記」の校正出る。8p。鎌倉にて『支那の仏塔(150)』、『横浜地図(130)』買ふ。 村上新太郎氏より「何か書け」と。小野勝年氏より「奈良国立博物館を3月末退職」と。(※省略) 成城学園より「50周年記念会を5月5日10:30に開く、出欠を4月20までに」と。 4月15日 8:30出て地下鉄にて斎藤神経科。院長先生外出の処を望見、代診先生「お年ゆゑ回復するか否か不明」とのことにて火曜までの薬いただく。 「志異雑記」の校正送り、台北の林素梅小姐への手紙出して帰宅。平田聡子より「斎藤病院にゆきしも帰りしあと」と来ることを云ふ。 やがて来ていろいろ話きき、躁の症状あらは也。あとにて統夫より電話かかり母子喧嘩して了ふ。 折しも滝本生来り「癌患の看病しをりし」と。夕食くひ、宮崎智慧女史の来るを見て帰りゆく。 宮崎さん大宮八幡の婚礼所勤務。『日本歌人』続刊にて同人に加へられをりと。 仏滅の日休みとて近々しらべて参るといひ、帰り玉ひしあと、京「残業ゆゑ遅くなった」と電話。時に21:00。(※省略) 4月16日(日) 雨。よべ賀代嫗、便にたたんとして倒る。ユ、滝本女史を看護にと電話かけしも睡眠中。数男を呼ぶも眠りをりとて10:00再びかける。 賀代嫗入浴、ガスを大いに出す。服部夫人よへ礼状。宮崎智慧氏に「29日(仏滅)の都合いかにや」と問ふハガキかく。 数男、俊子の姉弟来り、わが話ききしあと賀代嫗と14:00まで話しゆく。亀井昇来り昼食す。永山光文を電話にて掴へ話さす。 「15:00の汽車にのる」とてこれも14:00出てゆく。間に滝本生起き、電話かけ来る。 集英社より『世界の詩』、『日本の詩』増版と。(※省略)  中野清見より「丸重俊の就職むつかし」と。丸に電話かけその旨いへば「手紙にて承知した。本人がその気になるまで放置す」と也。 ミノベ都知事当選。(※省略) 母、大宅にて風邪ひきをり。(※省略) 4月17日 よべ23:00病人入浴とて眠りつきわるかりしも7:00前さむ。(※省略) ユ、経夫(※統夫)に電話すれば「あのまま家におけばよかった」と怨み、 「今夜来ず。明日斎藤神経科へ来るかもしれず」と。中野清見へ「途方にくれた」と返事。 11:30滝本生来てくれる。折からユ呼ばれて美容院にゆけば「統夫の為に100万円(2間)の家あり」と也。 母12:00すぎ突然帰り来り「諏訪仁氏のmassageにかかりし」と。 様子見て15:00までにと大への貯金下さんとせしも判みつからず3万円借りてゆく。 賀代嫗、約束手形を取り出しその他財産のありかを云ふ。この間、滝本女史、泰つれて出る。(※省略) 4月18日 6:00さめ滝本女史の起くるを待ちてたのみ、8:00出て地下鉄にて8:30斎藤神経科に着き、外の掃除する婦長さんに挨拶し、 no.1として9:20院長先生にお目にかかりたのむ。9:30すぎ外に出て待てば俊子、ユ、滝本生、病人をのせし車来り、その旨云ひてわれは帰らんとし、 駐車場さがす尚子に会ふ。一旦家に帰り茶漬食って登校。成城堂のマス子さん、夫大阪へ転勤とて曽根に住むと。 成績表とりに来る学生に暇なく14:10の教授会。大学院の案内くばられ20日入学試験と。 修学旅行の土産に飛騨半紙もらひ(定期の補助金もらふ)、早々帰ればユ、帰りをり。章も来り、患者のぞみ3週間と入院し、滝本生つきくれしと。 (※省略) 美紀子より電話「今井よりきいた。明日あさっての中に来る」と。(※省略) 澄より依子に「あす21:00ごろ来て兄の家に泊る」と。 4月19日 雨。9:00出て阿佐谷駅にて3ヶ月定期買ふ(5,400)。登校の途、田中滋生と同車。 副手をらず「東洋文化史」をやるにつき講義要項のべて11:00了り、昼食の天ぷらそば待てば坂出秋彦氏逝去。けふ告別式と掲示あり。 (※省略) 午后また中国文学の講義要項のべ(※省略) これも早く了り14:00に退出。帰ればユあらず。しばらくして帰り来り、(※省略)  斎藤神経科にて聡子に遭ひ「何もかも田中に預けあり」と病人云ひしと。ついでユの外出せしまに滝本生より電話「西島大の家賃3万円も立替へし」と病人が聡子に云ひし旨。便とらしをり、雑巾ほし、雑誌ほしと也。 美紀子来るかと思ひしに来ず。川久保君より電話ありしとのことに17:00すぎかければ、 「羽田に江上波夫還暦祝にて会ひしに、田中に信とどかずと云ひをると。松本善海休職となりし」と。 行くか来るかといへば「あす来るつもり」と。澄21:00来り、兄の家へと40分にして出てゆく。(※省略) 4月20日 章来りし故、日曜の親族会議の議長となれといふ。川久保に電話すれば「11:00ごろ来る」と。 来りて松本のことくり返しいひ、羽田の名士となりゐるを云ふ(ユ、斎藤神経科へ入院料2万1千円を立替へにゆく)。 依子すし出し、美紀子の来りしを見て川久保を佐伯に案内し、神田へゆくと別れて登校。 山田教授に会へば大学院の本年度の講義免除されしと。池田大学院科長より辞令(4月1日付)をもらふ。 短大の『唐詩選』すまし研究室に帰れば、 古野清人博士(耳遠くなりをらる)、小川徹講師(東大地理学科を昭和13年卒と)おいでにて、古野博士より例の如く苦言を受く。 15:30出て帰宅。ユ帰りをり「昨日、経夫夫婦病人を見舞ひ、転居のため付添へずと滝本生にたのみゆきし」由。 美紀子、泰を今井姉につれゆき、依子あと追ひしといふに電話すれば「帰りし」と! 川久保、傘忘れしをとりに来りbeerのんでゆく。 けふ『文芸クラブ通信18』来り、(※省略) 22:00まへ澄来り疲れゐる。 4月21日 よべ23:00すぎ寝、6:00まへ起きて火おこし餅やきなどす。泰、依子8:00すぎ起き、われ9:00まへ出て成城大学。 1年の東洋史を出欠厳重にとるといひ、(※省略) semiまで休み1時間あり。大藤氏や新任の毛利氏(演劇)と話す。 その間、松浦高嶺氏への謝礼預り、8人のsemiそろひしにそれぞれ本貸す。そのあと貸すべき本を考へsalaryもらふ(※省略)。 手取りは9万円余にして成城堂に払ひし、益子さんに別れいふ。(中国文学史4時間目とて50人足らず也。) 疲れしも下北沢にてのりかへ駒場町の松浦邸たづねたづねしてゆけば夫人の妹出て来らる。 18:00依子より電話「泰わが家おぼえゐし。Cameraうっかり持ちゆきし」と也。けふ京とがり、帰りてもの云はず。 足立家へ電話かけ「家なし。写真返せ」といふ。けふ泰の汽車に新婚見送りに来ゐし由、哀れ!(※不詳) 4月22日 よべユ早くね、我も入浴後ねし。8:00松浦高嶺氏に電話すれば「ご丁寧に」と。「栗山理一氏に受取を」とたのむ。 9:00出て東洋文庫。阿南、岡本2氏来り、田川博士入院(成人病ホームへ)と。 すみて(松本善海「アジソン病」と)阿南氏と昼食にゆけば、松村、岡田2氏も来る。帰りて散髪。ユ、帰り来り「賀代嫗、滝本女史と入浴」と。 (※省略)  4月23日(日) 6:00まへ目ざめ、ユのを礼拝にゆくを見送り、花井夫人に電話すれば「class会に出席する」と! 母に電話すれば「帰宅す」と。  益子、沢田、小野勝年諸氏に返事かく。10:30出て新宿。駅にて新橋centre3号館ききゆけば金鶏菜館いまだ開かず。(※クラス会) 16:00になり喫茶代をわれ払はんとすれば星野夫人に突きのけらる。帰れば統夫より電話、入院費、家賃にて立替へてくれと也。 (※省略) 本位田より電話ありしといふにこちらよりかけて「明日モーニング着ず」といふ。(※省略)  坪井明君より大手前高校長に変りしと。集英社より5千円余の印税。足立和子より吊書返却。 4月24日 よべ喘息おこりしらし。ユ眠れずといふ。章来りしも「ユ眠りをり」との事に柏井に電話してすみしらしく「あす斎藤神経科へつれゆけ」と。 横田俊一氏より転居通知。スワへ電話し「電報打つか」といへば「打ってくれ」となる。駅前郵便局にて電報(35)。 『武家法制(30)』買ひ来る。ユは祝着かりにゆきパーマかけにゆく。(※省略) 16:10ホテルニューオークラにつけば本位田夫妻と嬢とあり。 (※畠山敬子嬢の披露宴) 受付に博光重光と関口令嬢。席下につけられ話相手もなく、新郎癌研外科尾崎秀郎博士の挨拶ありし! また四谷までtaxiにのりて帰る(140)。阿部、宮崎両女史より電話ありしと。(※省略) 4月25日 9:00前、章君さそひ斎藤神経科。10:45診察の番まはれば先生「和田賀代氏、近々退院できる。統夫即刻退院を云ひし」とのことに非礼謝し 「も少しおいて頂き小金井へ」といふ。われ喘息起りしをいふ。 病室にゆけば高々と話しをり、滝本生に「要るもの買ひし故いつまでにても」といふ。「けふみさ子来る筈」といひて出る。 成城阿部女史に電話すれば「校正出をり」と。(※省略) ユ、この間より熱あり医者にゆけば腎盂炎と。(※省略)  滝本生来り、賀代嫗の命にて4月分月給26,600とり来り「欠勤届しをらぬことわかりし故、5月末まで欠勤とす」と。 「月給も渡せば和田夫婦にわたす恐れあり預れ」と数男に電話せしのち、預りの手紙かきてわたす。 夕食くはず金とらず19:00病院に帰りゆく。気の毒なり。 けふ西川英夫より電話あり「変りなきや」との事なりし。われも風邪にてあす出勤つらし。 20:00松浦薫氏より「あす15:30高島屋8階にて会ふ」と電話。(※省略) 京、初のsalary9,000もらひしと。(※省略) 4月26日 9:00登校し、阿部副手の来るを待ち、校正し了へ責了とす。 東洋文化史に朝鮮の信仰講じはじめ1pにて了り、昼休みの時間は図書館へ本とりにゆく。 ついで『論語』(室に満ち、後ろ向きの男生4人を「出ろ」といへば出てゆく)。(※省略)  高島屋へ直行すれば15:35にて、武田明氏(民俗手拭などやりをり、大藤氏を知ると)に紹介され、 讃岐展を見、うどん6玉買ひ、方言手拭買ひして、うどんおごられ、紙鳶うちわと菓子ともらひ、美紀子つれて帰宅。 ユ、ねつ盛んにいひ18:30帰りゆく。 (※省略) 4月27日 ここしばらく晴つづく。10:00前、母、京を伴として東京駅へ、ユ近藤医院へ出てゆく。 11:30ユにうどん煮させ登校。(※省略) 14:00まへ学科の予算を大藤教授より示され「20万円の本をそれぞれ買ってよし」と。 短2Aをすませて研究室に戻ればArgentinaより山野井生帰りをり。「インカの遺跡も見し」と。167cmの大きさ也。 疲れて阿佐谷へ直行、佐伯へゆけば『独和辞典(700)』つきをり。『比律賓民族史(130)』買ひて帰宅。 集英社より『白楽天』4,000部の印税(80,000-8,000)届きをり。(けふ大藤・鎌田2氏に多度津の武田明氏のこといへばよく知りをり。) 賀代女史、ミサ子の付添にて熱出せしと、滝本生よりユに電話かかる。 4月28日 5:00すぎ起き、8:30登校前に小高根二郎氏へ「実況(詩にならず)」と同人費2,500速達す(125)。caramel買ひ(20)て登校。 東洋史は「清朝前期」すませ、semiにては増田和貴子生のみcardよみ教へ、中国文学史は『詩経』のprintやり、 「Rowhide(※ローハイド:テレビ番組)見るために」早くやめしあと、名箋をエンマ帳に貼り、恰もR.の時間に帰宅。(※省略) 集英社より『王維』来る。ユ、ややよく夕飯してくれ18:30出て洋缶詰(2,020)買ひ『独和辞典(700)』買ひ『叢書集成初篇日録(150)』買ひて乗車。 三鷹へ19:15つきしも迷ひて約束の20:00の5分前に早川家につけば知慧夫人(※宮崎智慧氏)帰りしところらしく、話し出せば止まず。 「堀内民一博士、前川師(※前川佐美雄)より破門となりし」ときき、失笑す。徳薄きことかな。 21:10すぎ出てbus教へられ三鷹駅に出、帰宅は22:00也。入浴(早川夫人より世界教養全集版『猪鹿狸』いただく)。 4月29日 天皇誕生日。雨。よべ眠れず。疲れたり。Televiにて「Vergiss-mein-nicht(※映画「忘れな草」1959)」見る。まへに見しとユの話なり。 7回坂口生より「5.20、class会する。大藤、鎌田の2氏も出席す」と電話。笠井夫人よりも「あす来る」と電話。 寿一の長男来しゆゑ入学(埼玉大学教育学部)祝に『独和辞典』贈る。京、残業とて遅し。山本治雄、吹田市長に当選。 4月30日(日) ユ、腎盂炎の熱とれず、われのみ礼拝にゆく。帰りて笠井夫人に株券わたし、ユ病院へ電話すれば払ひ3万7千円。小遣ひなくなりしと。 そのあと文子より電話かかり「子どもゐなくなった」とのことに「訴訟して吾とは縁切れし筈」といひて切る。 26:00依子に電話かければ「畠山六栄門氏、(※披露宴での父の)不愛想を気にしてゐる」と。泰の入浴中なりし。 5月1日 8:30、8万円もって家を出、税務署へゆき26,150不足を払ひ、電話局へ電話料払ひbusにて四谷三丁目。斎藤先生へゆく途、滝本生に会ひ、1万円わたし10日分の払ひすれば「息子さん払ふとの事なりし」と婦長さんいふ。 滝本生と出て喫茶(子供とりしこと統夫いひ、平田へ賀代嫗手紙出せしと)、11:30帰宅。軍事史学大会への案内、阿南氏より。 よべも睡眠不足(2:00半服追加してのみし)にてだるし。ユ、近藤dr.へゆき「熱引かず」といへば「抗性菌ならん。困った」といはれしと。 弓子帰り「あす銀行休む」と也。 (買物にゆきし間に西川より「山本の(※当選)祝どうせう」とありしと。19:00かければ未帰宅。) 5月2日 9:30斎藤dr.に参れば「(※息子の)統夫の承諾なくば小金井(※病院)へは入れられず」と。 賀代嫗病室にゆけば元気にしてをり「鎌倉へ退院、滝本生には(※家庭教師生徒?)中学生2人つける」と。 「それ迄少し休め、6月より働け、小金井へ入るがよからん」といふ。 子供とられしあと文子病院へ電話せし様子なり。10:30出て三越にてサバズシ(80)買ひて登校。 大学院の及落会(国文)男1、女3とり男1人おとすこととなる。14:10よりの教授会にては何も問題なく、すみて田中滋生さそひて喫茶。 帰りてユにいへば柏井より統夫に電話せよと数男にたのみ、その通りなる。 田代継男に「ゆかん」といへば「明日」といひ、あとにて「明日は都合わるし」と。けふ弓子休みて家事やりくれし。 5月3日 家居。Televiのみ見てすごす。滝本生にユをして電話せしむれば「昨夜統夫5人にて訪ひ、平田母も見舞ひし」と。 斎藤先生には会へざりしらし。「入院につき協力せよ」と数男に云ふ。(※省略) 『曜(※井上多喜三郎遺稿集)』3冊、山前氏より来る。 5月4日 7:00さむ。弓子、朝食してくれる。9:00滝本生より電話「賀代嫗、府中へ移るにつき統夫の同意の為呼べといふ」と。 「日曜、姉弟会ふ由なればその時でよからん」といふ。アマドコロ・ナルコユリ咲く。 岩佐東一郎氏に礼のハガキかき、けふ定休の京に塩コブ買はし茶漬食って登校。『成城文芸46』出来をり(あとにて誤植多く見つく)。 大藤氏に伺ひ立て(『四部叢刊初集』買ひあるを検す)、『百衲本二十四史(8万円)』の予約を山本(※山本書店)にいふ。 自家買入の本も主任教授の印必要、家庭用の本買ふ人あれば」と大藤氏の話なり。(※省略) caramel食ひつつ帰宅。 賀代嫗を土曜に府中に移すと院長のお話ありし由なれど、統夫、聡子ともに転居先に連絡つかず。 柏井、俊子ともに手伝へず、ユがやることとなる(けふも熱あり)。 けふ大学へ折よく婦人画報?より電話「13日13:00ごろ池島信平氏と則天武后につき話せよ」と也、「諾」と答ふ! 5月5日 8:00前さめ9:30出て登校。栗山博士ら会場へゆくを見、研究室に荷物おき成城学園50周年祝賀会に出る。 妹尾理事長、人工ノドより声出して祝辞のべ沢柳博士のこといふ。 そのあと30年以上勤続者20年以上勤続者の表彰あり、佐野、臼井、阪本、池田、栗山諸氏その中にあり。 坂東三津五郎の三番叟といふに感心す。12:00より立食。(※省略) 記念品もらひて出、小高根太郎を訪ふ途、夫人と次女(女子体大に入学と)に遭ふ。14:30までゐて出、五反田よりtaxiにて般若苑。 (※佐藤春夫の会。) 神保、井伏2氏を写せしところにてcameraとまる(まきかへを知らず)。 竹田竜児、林富士馬、庄野潤三の諸氏に挨拶。(佐藤先生夫人、林dr.の診療にて血圧200とて欠)、 浅野晃氏隣席に坐り、富沢有為男の女の歌などきく。昨年は4月30日なりしも今後5月5日を定例とすと。 出席者70名(井上靖氏は欠)。帰りは歩き19:00帰宅。(※省略)  中野清見氏より「山本治雄に電話せしに丸のこと援助すると云ひをり」と。丸に電話し「重俊の決意おくさんにきかしめよ」といふ。 ユ、統夫と連絡とれ「あすの府中転院承知」と。小高根二郎氏より「福地君、次女生れし『四季』おくれる」と。 5月6日 8:00おき9:10出て東洋文庫の太宗会。神田、松村、岡田の3氏とわれ(3氏ことしは台湾へゆかずと)。 『内閣本清実録』のprintたのみ『清鑑易知録』そろへてもち来ることとなる。 すぐ浦和。駅近くで天ぷらそば食ひ、公衆電話さがしつつ本太一丁目にゆき電話すれば、 田代(継男)氏「ここは仕事場、別所の自宅へゆかん」と出て来る。駅までbusにのりtaxiにて田代家。(※省略) 夫人出てもてなされ15:00出れば駅前の「つばき」といふ料理屋にて御馳走となり土産賜ふ。 われ「東京新聞に北白川宮3代をかけ」といふ。帰れば滝本女史をり「府中の病院より17:00ごろ帰り来し」と。 ユは疲れをり、滝本氏は泊る。(※省略) 5月7日(日) 9:36発の荻窪行にて礼拝にまにあふ。人の望むは「限りなき命と新しい命」とのお話、その間に「柳田国男先生」との詩の想を得たり。 帰り佐伯に寄り『未解放部落の研究(4,400)』、『漢魏詩の研究(4,000)』、『唐王朝の賤人制度(2,300)』、『支那史学史(2,500)』借る。 個人研究費よりと也。帰れば滝本生をり看護日誌わたす。午すぎ「あす来る」と帰りゆく。 清水文雄氏停年記念『河の音』賜ふ。(※省略) 5月8日 ユ、俊子姉に府中の見舞たのみ、林叔母に母のこと云へば「10日より大の留守番のための帰京」と!(※省略) 潮流社に電話せしもかからず。午后滝本なま来り『信陵君列伝』5pやりてくたくたとなりしと帰りゆく。その直後母帰宅。 大に電話せしもかからず。(※省略) 夜、小山正孝氏に電話すれば不在。 あとにてかかりし故、『四季』おくるると小高根二郎君の情報伝ふ。(※省略) けふ俊子姉、府中に見舞にゆき「食事も結構、23日?に退院、克己宅へ泊り翌日滝本さんと鎌倉へ帰る」と病人(※賀代嫗)いひしと。 5月9日 6:30さめ、子ら出しあと斎藤dr.。賀代嫗のこと申し上ぐれば「けふ往きて診る」との仰せなりし。 婦長「奥さまお疲れでせう」といふ。母、大に「明日ゆく」と電話し、美紀子の京土産もち来ぬを咎むれどユと我わらふのみ。 潮流社に電話すれば、けふはかかり「『四季』発行遅れしは原稿集まらぬため。今一応神保氏にあり」と。 「詩一篇追加す」といふ。「柳田国男先生」かく。眠くてたまらず仮眠せんとせしところへ八木氏より電話、 「山岸外史氏の詩とessay問題となりし。河盛氏への催促たのむ」と。河盛氏に電話すれば「夕まで不在」と。 16:00すぎ美紀子より電話かかり、すぐ来て土産おき母の機嫌直る。(※省略) 17:00美紀子と出て新宿st.buil.7階の成城国文学の会にゆく。大藤氏をのぞき20人近く集り、 われ野田宇太郎氏と栗山博士との間に坐り、野田氏(白秋『思ひ出』復刻す)と高桑純夫氏の話きく。 帰り酒井森之助氏に「もはや宜しきや」ときかる。 5月10日 8:30出て成城大学。東洋文化史のnoteかき足し、『論語』しらべ14:00了りて帰宅。 散髪して銀座。東京会館の途わからずなり、おかげで『則天武后(200)』見付く。 本間厚子、高木幹雄(東大研究所助教授)披露宴に普通のcivil-suits着しはわれ一人。(※省略) けふの会者200人、わが出し披露宴の最大なりし。帰れば小山氏より電話ありし。(※省略) 5月11日 雨、9:30登校。10:00よりの大学院入学式に列す。写真とりしあと小倉脩三夫人(旧姓尾山)研究室に来り、わが詩集2冊にsignし、 多喜さんの詩集贈る。この間対応せし弓子を美人とほむ。 昼食し中国文学史のprint切り(『楚辞』)短大の唐詩やる。すみて15:00なれば山田氏に倣ひて帰宅。(※省略) 夜、矢野に祝返しの受取いふ。「山本の吹田市長を知らざりし」と!(※省略) 5月12日 5:00まへ目覚む。よべは『東邦近世史』のnote作り了へ用なし。(※省略) 9:30登校。3時間やり疲る。(※省略) 帰れば婦人画報内田氏より「車迎へによこす」とありしと。「東洋文庫へ12:30来たまへ」といふ。 けふ『果樹園136』来る。「忙しき日」の詩をかきをり。夜、則天武后を通鑑にて見る。(※省略) 5月13日 9:00出て駒込。紅茶のみて東洋文庫。田川博士検査の結果よかりしも出ず、岡本氏を加へて4人(print177p出来上る)。 『中国地方志目録』貰ひ、けふの座談会。植村先生のご推薦とわかる。そば屋へゆき帰りて12:30館外にてまてどもhyre来ず。 (※省略) 13:00来り、文芸春秋社(紀尾井町)へ13:30すぎ着き、池島社長他用とて少しまち、 1時間余りにて話題なくなり『歴史よもやま話』4冊もらひ礼20,000-2,000もらひ、hyreに送られて阿佐谷着。 佐伯で『東洋美術史研究(900)』買って帰れば、ユ、府中の病院へゆき、大掃除は滝本女史母の命でやりしと。 けさ河盛好蔵氏に『四季』の執筆たのめば「承知した」と。 5月14日(日) 9:10ごろ礼拝委員として教会。(※省略) 帰りて滝本生に『信陵君列伝』教へ、(※省略) 松枝茂夫教授に電話かければ不在。 『中国文物図説』役立たずと伝言たのむ。依子より泰の写真と「大分らくになった」とのたより。 5月15日 けさ8:00まで眠る。母、大の宅へ泊りにゆく。田代継男へ写真包んで礼かく。 5月16日 9:00すぎ出て斎藤先生。「賀代嫗、鬱になりし」といへば「さもあらん」と。ばってら買って登校。 直江博士『中国の民俗学』を成城堂に注文すれば、野口君これを出して「批評紹介せよ」と。14:00までまちて教授会。 (※省略) 15:00すみてまっ先に帰宅。 (けふゆきの小田急にて柳田生と同車、祖父君を詩に作りしと話す。アメリカ行らちあかず母よろこぶと。『歴史よもやま話』4冊貸与す。) 5月17日 8:30出て登校。2時間やりしあと八木(※省略)生の相談受ければneuroseなること明らか故、 困りしに「北杜夫氏の診察受けたし」といふゆゑ斎藤先生に紹介の名刺わたす。 帰れば横山薫二君より「定年退職、井之頭に転居」の通知来りをり。『則天武后』の対話の原稿来てをり挿絵もほしと。 これと『中国の民俗学』の書評とでいやになる。ユ「鬱なり」と診断す。羽倉君より「あす来る」との京都よりの電話あり。 5月18日 文芸春秋社田中氏より「伺ふ」と電話、16:00以降といふ。婦人画報社寄木氏に電話し「けふ16:00以后に来たまへ」といふ。 10:30さばずし(90)買って登校。(※省略) 齋藤清衛先生と話し、山田教授と時間変りし短大の講義了へ、print切り、 野口氏に直江博士の本の書評断る。そのあと池辺氏に会ひ『成城文芸』の原稿のこといへば「次号に」と! 15:30帰宅。「母帰宅あす」と。婦人画報社寄木氏より「今から伺ふ」旨電話。文芸春秋社田中氏「19:30伺ふ」と。 (※省略)  17:00婦人画報社の人来り、本2冊もちゆく。 「太平天国」のnote作りしところへ羽倉氏の電話あり青梅街道まで迎へにゆく。 帰りつきし直後、文芸春秋社の出版部次長田中氏来り、 「石田博士(※石田幹之助)にたのみある魏晋南北朝隋唐史400×400を7.15までに書いてくれ。植村先生並びに神田、松浦、岡田諸氏の推薦」と。 「石田博士にかきつづけさし、のこりを我かく」と云ひ、帰りしあと羽倉氏をまた地下鉄まで送りゆく。 八木生より電話「肝臓わるきことわかりし」と。野口君よりすでにききしことなり。 5月19日 9:00家を出、すし買へずハンバーグパン2ケ買ひ(35×2)て登校。東洋史に「洪秀全」の話はじめ、昼食にパン1ケ食ひ、 小倉夫人と「詩は何か」の話し13:00柳田文庫外にてゼミ写真とる。すみてゼミ。(※省略) すまして漢の詩のprintの話すれば「詩はきらひ」と男生。「時代に逆行」といひてすむ。 林富士馬氏より写真の受取。(※省略) 5月20日 8:50家を出、東洋文庫へ9:30着。石田氏みれば未出勤。 松村研究室にゆき蒙古史2冊見せゐれば石田氏出勤の電話あり。「近々前田勝太郎氏と3人で飯くはん」と約束し、 岡田君と3人にて清実録のprint代7,500円余の代りに、先ほどの2冊と江實『蒙古源流』、『蒙古慣習法の研究』もち来ること約束し、 読み始めれば阿南氏来る。(岡田、松村2氏神田氏の明清史に協力、われはやはり植村先生の推薦なりし由)(※文藝春秋社の大世界史)。 阿南氏と11:30出て昼食し、別れて成城へ直行。 今日より超勤手当3,000つくこととなり、試験手当48,200もらひしも税ひかれ、手取り13万円ほどなりしらし。(※省略) 成城堂の払ひ『論語(150)』と『中国文明の伝統(380)』となりし。聯合出版中心東京支店といふを探せしに閉りをり、 水道橋に出て山本まで歩き、学校へ10冊ほど送らせ、 大安にて『北朝胡姓考』、『道教徒的詩人李白』、『五代十国』、『大支那大系(600)』とにて1,500ほど払ひ『新唐書』見つけ包ませ(8,500)、 山口書店に寄りしあと、駅内売店にてjuiceのみて帰宅。すぐ出て『王維(200)』を高木厚子にと買ひ、 佐伯にゆきてキリスト教の本7冊(30×7)と『隋の煬帝(300)』買ひ、『中国の美術』とりのけたのむ。 山田俊雄教授より電話ありしといいふに、かければ『東方学報』東大京大のそろひ75万円にて買ふゆゑの断りと。 南北社より『コギト』2冊見たしの電話あり「月曜午前に」といふ。 今宮高校より「著書しらせ」と。獣医より来診催促の電話あり。昨日と今日にて900+700払ひし也。 5月21日(日) 夫婦して礼拝にゆき、帰り長島夫人(礼拝委員)より忙しときく。佐伯にて『中国の美術(1300)』買ふ。夜、滝本生大阪より電話「24日夜帰京」と。 5月22日 牛尾三千夫氏より「上京中25、26、27の3日中ゑらべ」と。「電話かけられたし」と速達。(※省略) 午后、審美社の韮沢氏来り『コギト』の目次の欠補ひ、菓子たまふ。散歩に出て『十八史略講義(200)』買ふ。 文芸春秋社田中氏より「19:00来る」と。ユ、医者へゆき風邪と診断され、斎藤医院へゆき賀代嫗に会ひ「25日退院、柏井へゆく」ときく。 夜、20:00文芸春秋社田中氏再来「石田先生とは連絡なきも唐史をかけ、文化史4章はへらしてもよし」と也。 猫ロミ、夜に入りて死し、母涙をこぼす。(※省略) 5月23日 このごろ午すぎまでだるくてたまらず。13:30出て斎藤dr.。府中へゆきたまひ15:00まで帰られず、 16:00診察に出れば「この間文子電話かけ来て統夫の所ききし」と。お礼いひ、眠剤少しうすくしていただく。 文芸春秋の仕事いへば返答し玉はず。帰れば牛尾三千夫氏より電話「26日夕方阿佐谷まで来玉ふ」とありし由。(朝、ロミを庭に埋む)。 5月24日 よべの薬宜しくだるさへり9:00出て10:00まへ登校。図書館に『新唐書』返しにゆく。 山本の本来あり『戯曲叢譚(100)』、『鳳麟龜龍考釋(100)』、『中国伶人血縁的研究(200)』、『紅楼夢人物論(230)』、『宋金雑劇考(310)』、『唐史考弁(600)』、『支那劇と其名優(600)』、『中国方志所録方言匯編(1000×4)』、『道教(マスペロ)(1000)』、『支那文化論叢(1000)』、『雲崗瀨石仏群(2000)』。 午食のときに大藤主任教授の印もらふ。高田部長に呈出しおき、漢文14:00まへすませて帰宅。 西川より電話ありしといふに、こちらよりかければ不在。(※省略) 井伏鱒二氏より写真の受取。羽倉啓吉氏より礼状。 夜、西川より電話「丸のむすこのこといってくれ」といひ、丸家に電話し、重俊生に「吹田の就職たのんでよしか」ときく。 文芸春秋社より原稿用紙13冊とどきあり。矢野よりも山本の歓迎会いひ来る。21:30山本自ら代理と称して「明日あはん」といひ来る! 5月25日 丸に電話すれば「4:00より会あり、出席のつもりなれど…重俊のことたのむ」と也。矢野に電話して会費きけば「1500位ならん」と。 本位田に電話すれば「会議中にて連絡なかりし、会場は」と。ユ9:00出てゆく。(※省略) よべ李樹桐『唐史考弁』よめば太宗のこと大分引き下げてあり。則天武后の尼寺入りも怪しと也。4枚ほどかきしをかき直すこととす。 ユ、教会にゆき、帰り賀代嫗退院さし柏井へつれゆくと出てゆく。京、休みにて母帰り来り、(※省略) 堀夫人に電話「いま神保より電話あり、(※『四季』)今月末原稿を印刷にまはす」との旨しらす。神保の電話は写真の受取なりし。 11:00出てすし食ひ、代々木までゆき台湾の地志注文し『中国道教史(300)』買ふ。学校へは12:30つき昼食し、(※省略) taxiにて17:30紀伊國屋につき18:30白鳥芳郎氏来りてそろひし処にて中座、経済club訪ぬれば2次会をしてゐると。 うなぎやへゆけば山本を囲み十人をり20:00近く散会。われは会費1500他は4000~5000なりし。 西川の社用車に竹内(※竹内好)とのり阿佐谷にて下してもらふ。(※省略) 小高根二郎氏より『四季』につき問合せ。 けふ高藤氏より「清水文雄氏上京、27日お茶の水会堂にて会す」と電話ありし。 5月26日 9:00出て成城へつき山本にて買ひし本のcard作り「太平天国」教ふれば3~4人参考書借りに来し。(※省略) すみて中国文学史、了へてすぐ帰り、まてば夕食にかかりしところへ牛尾三千夫氏来り(駅前交番にて待合せ)、20:30まで話ききてゆかる。 古本屋見て『わがひと(※わがひとに与ふる哀歌)』4万円なりしと。(※省略) けふ成城堂に『漢和大辞典7』来をりし。(※省略) 夜、丸に電話し「履歴書もちて重俊来る」となる。松村氏に電話すれば「本なんでも持ち来れ」と。 5月27日 9:00『蒙古社会制度史』、『金帳汗國史』と江實『蒙古源流』もちて東洋文庫(出る前「前田君と3人で飯くはん」との電話ありし)。 すぐ石田君に会ひ「昼食うなぎかすしか」ときかれ「すし」と答ふ。 久しぶりに神田氏出、岡本氏来り11:30すみて2氏と昼食。「そのうちアジア研究所の在京者集めん」と石田氏。 われ「7.15に原稿かき了へればおごる」といふ。石田君5,500万円あつめし由。 散髪し帰宅すれば賀代嫗、滝本君と来てをり17:00出て湯島聖堂。われ一番乗りにて、清水文雄氏最後に高藤武馬、栗山、池田諸氏と教へ子3人。 会費1,100円にて21:30中央線にのりて帰宅。けふ梅さんより英文にて「会ひたし」と。 5月28日(日) けさ十数日目に小雨。夫婦とも礼拝にゆかず。滝本生9:00に出てゆくを見送り、母と3人臥床。(※省略) 滝本生に漢文教へ20:00帰りゆくに「気をつけよ」といふ。明日より鎌倉大町の賀代宅の留守居なり。(※省略) 原稿かけず気になる。 5月29日 朝『果樹園』へ「天職」送り、そのあと唐史15枚かきてフラフラとなる。庄野潤三氏より写真の受取。 丸重俊履歴書もち来しゆゑ、山本に「就職たのむ」と速達にして出す(よべもねられず、朝がた2時間のみと!)。 郵便局にて昔のヱハガキ規格にあはず15円はらはねばならぬと、バカらし。 滝本生より電話「鎌倉の電話とまりをらず。電気とまりゐる。」(※省略) けふ佐伯に『白楽天』2種と『安禄山』と注文す。 5月30日 televiみて10:00すぎ家を出、斎藤先生にゆけば満員。賀代嫗の薬もらひしも診断書必要につき13:00まで待ち、 成城へ「教授会欠席」の旨電話し、すぐ順番来りし故診断書(300)もらって、そば(150)食って帰宅。 「花は舞う長安の春」27枚とす。(※省略) 母、大のところへ泊りにゆく。(※省略) 5月31日 9:00家を出、2時間やる。きのふの教授会にては「入試1回を表向きとす」と也。 台湾聯合出版中心東京支店よりの49冊(9,800)つきをり。(※省略) Rawhide見しあと『唐の太宗(490)』、『玄奘三蔵(500)』買ひに出、 佐伯によれば『安禄山』来てをり(440)。けふ東京30℃を越し名古屋32℃を越せしゆゑ電話すれば澄「風邪ひきをり」と。 (※省略) 夜、植村清二先生より「君は一日20枚書ける由」と。とんでもない話なり。 6月1日 5:00ごろめざめ、また眠り8:30目覚む。ちょっと唐史かき11:00となり、さばずし(90)買って登校。 台湾地誌のdoubleとまちがひ知る。古野博士『原始文化ノート』に署名して賜ふ。明日の中国文学史にとprint陶淵明を切り、小倉生と話し、 田中生の竜よみ、疲れに疲れしも南新宿で下車。台湾本[■]にゆけば主人不在。夫人にその旨話し、中央線に代々木よりのりて帰り、 体中かゆきを云へば「また病気」とユ。強ひて硫黄(※ムトウハップ)買ひにやらし行水してすむ。 けふ集英社より『日本の名詩』3版(875)、『世界の名詩』6版(2,106)来り、母に300わたす。 6月2日 5:00ごろさめ8:00起き9:45家を出る。昼食に天丼くふ。小倉夫人に「日曜17:30来よ」といふ。ゼミすまし帰り『貞観政要』借出し、 清水常臣生見つけ『満洲看板考』貸す。 けふ羽田明君より「秋、祖父となる。部長となった。四天王寺大学に岡辺長章君せわせんと思ふが近況知るや」と。 「知らざるも世話してくれ」とたのむ。鍛冶美和さんより「司書講習受けんと思ふがいかが」と問合せ。 高垣金三郎君より東京転任の通知。依子より「泰、なぜ、どうしてとうるさし」と電話ありしと。 6月3日 9:00すぎ出て東洋文庫。『南漢山城の開城史』を研究会に呈し、文芸春秋のこといふ。11:30すみて帰宅。(佐伯に寄り『六国史』ほしくなる。) 13:30滝本女史来る。そのあと文芸春秋社田中健五氏より返電あり「石田博士にゆきてのち来る」と。 滝本女史19:00帰り、鍛冶美和生に「図書館に就職きめてのち講習受けよ」とかく。花井タヅ生より「奥さんしゃべりによこせ」と。 田中氏20:30三笠宮の本(※『大世界史 第1巻(ここに歴史はじまる)』)持ち来り、「石田博士にはわが事いひ、了承されし」とて原稿見す。 忙ぎ書きたまひ60枚+上元の行事也。「月曜、博士を訪はん」といふ。23:00田中氏より「月曜、14:30社に来れ」と電話。 6月4日(日) 礼拝にユ、ゆく。われ9:00にさめし為ゆかず。石田博士の原稿よむ。(※省略) 13:30出て西荻窪「こけし」へゆけばすでに大分来あり、能田多代子氏に挨拶し、のちほど「青森県五戸語彙」にsignしてもらふ。 山田俊雄教授、意外にも下宿しゐしとて来会。青木直記氏、大間知篤三、大森志郎、瀬川清子、橋浦時雄、戸田謙介、比嘉春潮の諸氏、名のみ知りし来会。 大藤雪子夫人に挨拶、あとにて牛尾三千夫氏を案内して大宮八幡へゆき俄雨のなか歩きて17:31帰宅。(※省略) 小倉夫妻、菓子もちて来り『果樹園』そろふだけもちてゆく。宮崎智慧さん挨拶に寄り、西武の居残り(土日)は事実と。 6月5日 8:00さめ、ユを斎藤dr.にゆかしめ佐伯にゆき『六国史』1600×4借りて来る。(※省略) 中野清見へ丸重俊のこと報告。 花井タヅ子夫人に鍛冶さんのこと云へば「大阪はなれられないのとちがふか」と。 ユ、斎藤dr.より2週間分の薬もちて帰宅。13:30出て新宿より都電。 coffeeのみて文芸春秋社へ14:30着き案内乞へば、田中健五氏の代りに松村氏出、やがて出版局長上林吾郎氏出「奥さんに」と包たまふ。 (帰りてあけて見れば携帯radioなりし。) 15:00すぎてhyreにて六本木のmanshionにゆく。 石田博士(※石田幹之助)迎へられ、先生にごぶさた謝すれば『長安の春(東洋文庫)』たまひ「六朝の文化」、「隋の煬帝」、「長安の荒廃」、「朝鮮関係」、「沢国の江山、戦図に入る」の5章かけよ、と。 もしそれですめばと云ひつつ、四谷駅前で下車。帰りて小山正孝氏に電話し「杜甫伝返したまへ」といへば「あすもち来り」玉ふ由。 (けふきけば『世界史』15万部刷る由、「社命を賭けたり」と云はん!) 6月6日 せっかくの休みなるに6:00まへさめ、だるくて何もせず。小山正孝氏15:00来り玉ひ、送りて駅までゆきしのみ。 6月7日 9:00出て登校。(※省略) 14:00すみて2時間あり『全唐書』と『隋書』をさがしてもち来り、史料みなそろひたれど持帰れず。 新入生歓迎会といふのを17:30までやり、すみて庄田、田中、柿崎3生と同車。 夜、滝本生に電話すれば「母子4人にて逃げ、近所の人も同情せし」と。柏井へその旨を報告。 やがて植村先生よりお電話「石田さん半分ゆずりしか」と「1/3のみ」と申上ぐ。母、大へとゆく。 6月8日 朝ちょっとかき、佐伯へゆき『白楽天』大・小2冊(1,300)とり、またかきて200×17とす。「杜甫」のことのみ也。これにて昼食。 出て川本静江生に郵送(70)。大学にてprint切り、宮崎生の知らぬ字よみやり(大分きく様になりし)、(※省略) 16:30出る。 大藤主任教授に台湾地志の購入の印もらひ、庄田生に東洋文庫への紹介かく。 けふも母、大どまり。夜「太平天国」のnoteのみ。Parisの陳祚竜博士より「著書くれ」と抜刷。 『不二』より「『全国行脚20周年』の原稿くれ」と。大高野球部より「松江と試合して勝ちし」と。(※省略) 6月9日 雨。9:00出て成城大学。(※省略) 4時間すませて帰れば母帰宅しをり。 滝本女史「あす15:00来る」と。「文子を強制入院せしめよ」と賀代嫗、電話にていふ。 6月10日 朝のうち書きて12:00すぎ出て成城大学。bonus199,100もらふ。成城堂にて『大和朝廷』、『教養としての中国史』買ふ。 佐伯にて『六国史』の払ひすれば6,000に負けてくれる。『中国の笑話(600)』、『アラビア科学の話(100)』、『北魏洛陽の社会と文化(1,000)』買ふ。 帰宅すれば滝本生来てをり、この間の子とられの話す。われ決死の覚悟なかりしを云へば「わかりし」と。 文芸春秋社よりまた三笠宮の本来てをり、滝本生に与へ、漢文教へ、夕食せしむ。 「隣のライスカレー屋の息子40才にして滝本生に話に来る」と。(※省略) 文芸春秋社の田中健五氏よりも電話「印刷所に火曜まで入りをり」と。 6月11日(日) 礼拝に出る。衛藤氏の長老就任式となり。帰り佐伯に寄り『概説支那仏教史(750)』買ふ。 午后雨となり夜、ユ帰り来しゆゑ原稿かき第11章了る(61×200)。けふ田中章博より「今後も本はやくくれ」と。 6月12日 家居。中山八郎氏より『八大山人の出自と名号』来る。 午すぎ出て『日本社会史(50)』、『鴎外の子供たち(100)』と写真のcorner(50)買ひ来り、台湾の写真貼り了る。 夜「武宗の排仏」までかき第14章20枚を越す。 夜、松浦薫氏より電話「村上局長に会ひしに(※史氏を)豊橋よりこっちの税務署長に7月1日付にてする」と。 美紀子に電話すれば「仙台へ出張の土産の桜桃もち来る」と。 6月13日 朝、赤川氏来る。われ昂してをり失礼なりし。そのあと美紀子桜桃もち来る。(※省略) 12:30出て成城大学。『アラビア科学』doubleゐし故、宮崎教授に呈す。教授会に議事なし。 帰途、柿崎生に会へば「土曜午后庄田・田中生と来る」と。図書館で書画の本探す。 6月14日 9:30登校。東洋文化史の時間に代返を認めて叱る。あと昼食する鎌田女史にいへば「月給とりに来てゐるといはれれば反感もつ」由なりし。 13:00まで待ち体格検査。血圧110、体重39キロなりし。けふ母、大のapartへゆく。 〒なく、『志異雑記(※成城文芸46号抜刷)』を松枝茂夫、中山八郎2教授に贈る(25×2)。佐伯で岩波文庫『保元物語(40)』、『平治物語(40)』買ふ。 依子に電話し「8月、金出す。大阪へゆくか」といへば「ゆく」と也。 6月15日 12:00家を出て(『大世界史』2章かき了ふ)、台湾の頼永承、楊雲萍教授に『志異雑記』を送る(260)。print「子夜歌」など切り、(※省略) 短大教へて阿佐谷につけば大雷雨。Gold街で電話して待ち30分してユに遭ふ。京も出し也。夜「太平天国」かき「朝鮮史」14枚かく。 けふ田中健五氏より「石田先生、大分かかれ土曜に見せる」と電話ありしと。 6月16日 9:00出て成城大学。「太平天国」すませ、午飯くひ堀川教授より「失礼ですが」と体重問はる。 鎌田女史より柳田先生『郷土生活の研究(360)』借りる。小倉夫人に『果樹園』わたす。(※省略) 中国文学史はやくすませて帰宅。 牛尾三千夫氏よりの礼状を見る。昨夜滝本女史より「カレー屋へ就職、来られず」の電話あり。母帰宅。 夜「新羅の大外交家、金庾信」29枚となる。 6月17日 散髪すまし、またかき40枚とせし頃、柿崎、庄田、田中久子の3生来る。論文の書き方教へるうち美紀子来り、茶もちて出る。 15:00ごろ3生帰らんとする所へ田中健五氏来り「石田先生順調」と、神田君(※神田喜一郎長男神田信夫)よりと『中国書法の二大潮流』もち来り、わが60枚もちゆく。 われ気ぬけし、佐伯へ散歩にゆき、帰りて仕事せぬ事とす。けふ弓子「軽井沢の寮へ」と出てゆく。けふ海老沢博士より復刊の『えびすとら』来る。 6月18日(日) 礼拝委員ゆゑ8:40家を出、11:30すまして帰宅。堀敏一氏転宅と。角川より「『Heine』(※改版)3版8,000部を6月下旬に」と。 植村清二先生より玉関の詩の作者をきかれ「王之煥と岑参」としらべてお答へす。「わが原稿検したまふや」ときけば「そんなことせず」と。 朝鮮関係に勃海つけ突厥つけんかと思ふ。夜、喜多村鈴子に電話し機械のこときく「血行よくなりて熱し」と也。値段1,600と、安心。 6月19日 9:00田中健五氏に所感を問へば「これからゼロックスにとって午后いふ」と。佐伯にゆき『大和絵史論(800)』、『肉蒲団(300)』借り来る。 大阪の能勢正元より電話『大高50年史』に書けといふに、日記さがせしも見つからずソラにてかき、帰る途中「高田一」を思ひ出す。 (※省略) 15:00ごろ田中健五氏「杜甫のところ見しも結構なり」と。弓子霧ケ峰へ2泊3日ゆき、ヱハガキと松虫草とをもちて帰宅。 6月20日 3週間ぶりにて斎藤dr.。三越で買ひしscotch whisky(4380)もちゆけば「最好」といはる。2週間分の眠剤いただく。 帰りcoffee(70)のみ佐伯に1,100の借り返しにゆき帰宅すれば、ユ「友達へ」と。 先ほど佐伯で見し『隋唐仏教史の研究(2300)』ほしくなり買ひにゆく。 松枝教授より誤り2ケ処教へられ、田上由美子生より「本よめず」のたより見る。(※省略) 6月21日 5:00起きて東洋文化史のnoteかく。昨夜まちがへて「太平天国」やりし也。 睡眠不足なれど仕方なく登校。東洋文化史の時間「不平あらば云へ」といふに云はず。 午后の論語早くすまし俸給もらひしに都税9,000に近し。成城堂の払ひ6,000あまりし、 小田急にのれば萩原葉子女史、経堂にて我を見つけより来る。成城に仕事室おく。税金80万円なりしと。 新宿にてともに氷くひ帰れば母、赤坂へ泊りにゆきし(水・木ゆくこととなりをり)と。 16:00妹尾、岡田、増田ビワもちて来る。史、夕食時来り、ビワもち帰る。 6月22日 昼食くひて登校。野口君「税金5,000」といふ。われ15,000也。短大すませて帰宅。雨ふり来る。(※省略) 夜「国際見本市の開祖」20枚とし、依子に電話すれば「泰ふろより出て牛乳のみをり」と。 6月23日 モーニング着て9:00登校。ゼミに岡田、増田休み、(※省略) 森谷均氏(昭森社)来しゆゑ、20年前にわたせし原稿(※昭和23年『ザイスの学徒(ノヴァーリス)』)いへば「忘れし」と。 小倉夫人に弓子のこといへば「母に云はん」と。大藤、鎌田2氏も川本静江に呼ばれゐることわかり安心す。 4時限すましてゆけば丁度よき時間なりし。池辺君も呼ばれをり、郷右近、西沢2旧生来りゐし。 21:00すみて同車せし川本母の叔母とやらは矢崎美盛先生の妹にて「兄16~17年前、癌にて56才にて亡くなりし」と。 さういへば長男(成城小学部)われ叱りし也。弓子、美紀子と芝居にゆきて帰らず。鍛冶生「就職むつかしければ図書館講習止める」と。(※省略) 6月24日 家居。朝、歌6首を作り『不二』にと速達す。それより第7章かき夕方50枚となる。 滝本生来り、仕立物もち来る。そこへ母帰り来り「芝居見に便利ゆゑ赤坂へ来て泊れ」と滝本生つれゆく。 夜、文藝春秋の田中氏より電話「月曜連絡に来る」と也。 6月25日(日) 礼拝にまいらず。眠くて夕まで無為。夜、第7章61枚とす。けふ森源太郎氏より退職挨拶。成城高等部の講師なりし。京salary2.2万円と。 6月26日 タバコ買ひにゆきしのみにて第6章かき五胡十六国の表つくり了へしに白幡、小西2生、桃1箱もちて来る。(※省略) 佐伯へ散歩(文学散歩社より柳川版『思ひ出(※北原白秋)』来る)、 文藝春秋の田中氏来りし故、2章60枚わたせしに「石田先生短きゆゑゲラ出るまで待つ必要あり」とて「水曜再来まで書く要なし」と。 televiの世界放送見て21:30となる。(※省略) 『果樹園』へと「計算」かく。 6月27日 ユ、母に電話すれば(※省略) 果樹園社へ同人費と原稿速達(135)、文学散歩友の会へ800(25)。 13:00登校。(※省略) 日本民俗学会に260欠を払ふ。教授会事無く、夜の親交会欠席いひあり帰宅。母けふも帰らず。 けふ講談社の齋藤、垣内2氏来り、台北の『中国文物図報』もちゆきしと。 6月28日 9:00出て登校。2時間教ふ(※省略)。すみて帰り(※省略) 田中健五氏より「石田先生には明日会の約束なりし」と。(※省略) 6月29日 史、豊橋税務署長ときまりし由。「送別歓迎の酒のみすぎるなと云へ」と美紀子にいふ。 登校(11:45家を出る)して短大教へprint切り、かへり田中久子に会ふ。田代継男氏に電話すれば「日航の課長にけふ会ひにゆきしも会へず」と。 母帰り来り「(※夫喜代助の)7回忌を小さくする」といふ。ユによれば大も「金なし」と云ひしらし。哀れなり。 夕方、田中健五氏より電話「石田先生の締切5日までのばした。仏教かきてよし」と也。「太平天国」のノート作りしあと5枚(200字)かく。 6月30日 最後の講義にゆき、小倉夫人に贈物咎めれば云々(大藤氏大学院の件につき鎌田女史と2人呼ぶ)。semiに軽井沢の白樺荘のこといへば、 3人ゆくかゆかぬかはつもりせず。学生課へ云ひにゆけば「10日締切なりし」由、庶務へゆけば「満員」と。 24~29日都合してくれしあと、学生はっきりせず、まかしてすます。小高根二郎氏より受取。牛尾三千夫氏より「鴎外記念送った」と。 夜、滝本生より「日曜午后来る」と午電話。けふ『能狂言(3×200)』買ふ。 7月1日 よべよりチクチク痛みし歯を午電話し、柏井にゆき神経ぬいてもらふ。 帰り佐伯にゆき雑本買ひ、歩きて帰り古本見る。(※省略) けさ美紀子膀胱炎とかにてユのみお花の師匠にたのみにゆきし也。 「仏教史」夜まで25✕200かきし。(※省略) けふ牛尾氏より小泉八雲、西周、森鴎外の旧居の報告来り。(※省略) 能勢より「原稿受取った。康平と連絡あり。娘22才」といひ来る。丸に電話し「能勢にたのまうか」といひ、「よし」といふにハガキかく。 (※省略) 美紀子に電話すれば「発熱、母泊る」と。「あす午后見舞にゆく」といひ、賀代嫗に電話すれば「滝本、木野泊り」と。 名古屋へ電話し「史、転任、ユゆく」といひ、松本善海に電話すれば嬢出て「父、4月より入院。いま大塚分院」と。(※省略) 7月2日(日) 礼拝にゆく。帰り雨ふり出しさうにて急ぎ小金井駅へゆき、busにて公務員宿舎前で下車。 すぐ前の4階の室にゆけば松浦母上をり、いろいろ気をつかって下さる。1時間して傘借りて出、taxi(110)にて駅前、昼食して帰宅。14:30。 16:00ごろ滝本女史来り、漢文やらず泊ることとなる。夜、松浦父上より電話「移転は日通にまかす」と。 7月3日 滝本生7:30出てゆく。ユ、小金井へ電話すれば「松浦母上けふもゐたまふ」と。午后、林素梅へ航空便出し(35)、 柏井歯科へゆけば俊子姉をり、統夫・賀代嫗母子のこと伝ふ。(※省略) 「仏教」36×200となる。 7月4日 9:00ごろ出て斎藤dr.、11:30まで待たさる。出て都電にて新宿。二幸にてすし食ひ、 成城大学庶務課に「24日13:00~29日11:00白樺荘」の申込すれば600×5。山本書店より送り状。 成城堂にて『大化改新』、『古代殷王朝のなぞ(250)』買ひ、氷宇治、新宿にて食ひて帰宅。 ユ、小金井へゆきをり、夕方帰り「豊橋に公舎なく(※史氏夫妻)市営住宅に入る」と。 井上靖氏より詩集『運河』来をり。(※省略) 7月5日 (※省略) 佐伯へ『奈良朝』見にゆけば店あかず。新本屋も休みなり。のちほど佐伯へ電話すればここも休みなりし。 能勢正元より「昭和13年11月生れの船員のむすこに弓子いかに」と。(※省略) 午になりても田中氏来ぬゆゑ電話すれば「今から」と。 散髪にゆき帰りて、来たまひしに「仏教」わたす。「植村先生の校了11日、わが方は20日までに(※共訳者)石田先生の出る」と也。 帰りゆき玉ひしあと柏井へゆき、入歯の型とらる。帰り北口にて『三省堂年表(150)』、『日本文化史(100)』買ひて来る。 夜、真野喜惣治氏より「講習にて上京中」と電話ありし。依子に移転の手続につきユ、電話し、われ松村氏に東洋文庫本の挿絵たのむ。 7月6日 雨。母、赤坂の大へと出てゆく。永山光文より「満洲での上司、いま安宅産業に顧問、長男の嫁に弓子いかが」と。「吊書送る」と答ふ。 ユ、小金井に電話すれば「美紀子微熱とれず、史あす豊橋へゆく」と也。「六朝の文化」12×200。 7月7日 朝よりまちて午、松浦家に電話すれば「美紀子病院より帰らず」と。 「六朝の文化」30×200とし、柏井歯科へゆき、帰り『朝鮮通史 上(50 諺文)』買ひ、televi見てゐれば羽田(※羽田明)より電話「上京中」と。 新宿で待合すこととし、ゆきて「松本を9月に見舞ふ」20:00の汽車に池内先生夫人と来るとてtaxiひらひて乗す。 『奈良時代の文化(250)』買ひて帰れば、滝本女史をり、ユ「日曜小金井の荷物出しにゆき、日曜スワ夫婦と受取ることとなりし」と。 賀代嫗に家の売買損といへとのことになり、23:00過ぐ。(夜、松本夫人に電話し「9月羽田上京の時、見舞にゆく」といふ。) 7月8日 雨にて終日外出せず。弓子休みとてタバコも買って来てくる。(※省略) 何もせず。 田中健五氏、夜来り、石田先生「各国との人物交流をかかすべし」といはれしと。承知してbeerのませて帰す。 7月9日(日) 雨なれど栗田に森克己『遣唐使』あるゆゑ10:00ゆきてみればしめをり、佐伯にゆきて云へば電話かけくれ「14:00ごろあける」とのことなり。 礼に『中国文学入門(240)』買ひて帰る。けさ弓子と母と小金井へゆき、母のみ「帰れ」といはれしと帰り来る。 電話かけ「史、別れに来させ」といひしに、19:00雨の中を来る。 松村赴氏、台湾の物価聞きに来し故、ユと二人して話し、栗田へともにゆき『遣唐使(350)』買ふ。「夜おそき故、おそくあける」と店主の話なりし。 送別の飯くひゐる中、音して史ら気付きゆけば、6畳の窓あき、弓子のhandbagなど2つとられをり、木戸あきゐる。 警察に電話し、史帰りしあと依子に電話し、豊橋の官舎に泊りくれることとなりし。 警察の若きが来り、「変態の仕業か」といふ。盗難届われかき、帰りしあと文子の時の盗みDと同じとわかる。 けふ「書聖と画聖」53×200で了りとし、第9章「各国との人物交流」21×200とす。 p9 7月10日 8:00さめてユ、外見まはれば立派な洋傘に弓子の下着まきつけておいてあり。風呂場も少しあけあり。 痴漢の疑ひ濃くなりしとて、ユ警察にとどけにゆく。10:00まへユ出てゆき、われ31✕200とし、 午后柏井へゆき「あさって又来よ」といふに佐伯へゆき『宇治拾遺物語(80)』と、週刊雑誌買ひ、 よみゐる中、福永英右衛門(58)の妻英子(49)1億4千万円の寸借詐欺せしと出あり。朝日の上役の娘らし。 本位田に電話すれば「北海道」と。小山正孝夫人に「おめでたう」といひ「御心配かけて」といはる。 名古屋へ2度電話し、ユ14:30には着き泰、チエ熱とわかる。松浦家よりも夕方「小金井の立ちのきすみし」旨。 けふ頼永承氏より「渡米の帰り9.18もしくは21夕に」とたよりあり。「待つ」旨書く。 7月11日 母、赤坂の留守にゆくとて、われタバコ買ひにゆきしに、午前ねむく困りゐれば今井翠「アリちゃん」つれて写真もち来る。 折返しユより「豊橋の官舎とまれず、たのんで来た。あす帰る」と電話。その旨松浦家にゐる美紀子にもいふ。 15:00ごろ文芸春秋田中氏へ「かき了へし」の電話す。(夜、齋藤禎氏といふがとりに来し。200✕47+200✕53なりし)。 西川(※西川英夫)けふ面接しゐしに電話し、夕方かけ来しゆゑ「福永英子1億4千万円」の話きく。 7月12日 母に電話せしに出てをり、やがて帰り来る。柏井へゆく前、永山光文の家に電話し、夫人に砂糖の礼いひ、弓子のこといへば「けふ先方の父に会ふ筈」と。会社に電話すれば同じ返事なりし。柏井へゆき上歯いれかへれば痛く昼飯くへず。 (佐伯に『朝日年鑑』2度に4冊(400)買ふ。) ユ、7:00帰り来り泰の賢き事いふ。 (けふ陳祚龍博士に『ハイネ3版(28版なり)』送らんとせしに開き封にせざれば1,000以上と。) 丸に電話すれば「歩けずなりし」と也! (※省略) 7月13日 10:00出て丸にゆく途中、赤川家へ桃もちゆき夫人と話し、丸家へゆけば夫婦出て丸、元気なりし(重俊まだダメと)。 帰り赤川家に寄らんとすれば(※赤川草夫)法華経誦しをり。(昨日入れし歯になじまず物云へず食へず困る)。 文芸春秋に電話し田中氏に原稿受取りしやときけば「留守、わからず」と。ムッとして植村先生に「ともかく仕事了りし」と云ひしあと、 田中氏より電話「来る」との事に、「植村先生に会ってのち来よ」と云ふ。 17:00来り、「むりを承知でたのむ」との事に機嫌直して「よし」と云ふ。(※省略) けふ能勢より「むすこ帰れば見す。丸の白髪おどろかず」と。 7月14日 朝beer1打、増田家より来り、また電話して礼云ふ。(※省略) 松浦母上、美紀子と来り、「日曜に西下の予定」と。滝本生「明日10:00来る」と。 25×200「玄宗」をかき、止めて柏井歯科へゆけば「上の歯に馴れる迄、下入れられず。来週来い」と也。 7月15日 曇。終日家にをり、午ごろ文芸春秋社に電話し、やがて田中氏の印刷所よりの電話に「出来た。日曜来られたし」といふ。 『日本の詩歌』予告来り、1回藤村、2回啄木と。『山の樹』2冊。集英社より『世界の詩』11版7千部と。 阿南氏より「Artai学会にて植村先生より噂ききし」と。 滝本生、午来り漢文教へ、去りしあと賀代嫗来り、24万円余の前家賃の受取り認めてゆく。戸田謙介氏へWhiskyもちゆく。 昭和42年 7月16日~昭和42年12月31日 25.2cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p10 7月16日(日) 昨日32℃をこえてね苦しく、朝また暑きゆゑ礼拝休む。「玄宗」かき了へて65枚とす。(※暑中見舞 省略) 夕方散歩に出てタバコと長野県地図買ひ来る。22:00田中健五氏より「あす午前中来る」と。 7月17日 暑し。田中健五氏11:00ごろ来り原稿もちゆく。熱海へゆきたしと云ふに午后電話かけ「金土なら熱海、その前なら湯河原と」面倒となり断る。 けふは増田晃君の25周忌とて、母上の出したまひし『断章』。 (※暑中見舞 省略) 京、映画見にゆきおそし。美紀子より弓子に礼とてジャンパーくれし。 7月18日 斎藤dr.にゆき、こみゐる故、診察受けず薬のみもらひ、佐伯にて『文芸春秋』買ひ、よみ了る。 夕食せんとする処へ(中馬生)「吉野夫人、道下方にあり」と電話「すぐゆく」と云ひ、新宿に出れば小田急混雑す。落雷にて不通となりしと也。 長くかかりて喜多見下車。(※省略) 7月19日 暑し。(※暑中見舞 省略) 何もせずをり夕方柏井へゆく。滝本生より「統夫の2男児来し」と。「1万円をこの間賀代嫗に貸せし」と。 下歯出来、上歯直され、話せ食へるやうになりし。京、八ヶ岳へと出てゆく。 夜、また滝本生より電話「汚く飢えて旋風機とりに来し」と云ふに「湯に入れ飯くはせ、旋風機渡さず帰らせし」と也。 潮流社より『四季』発刊9月とせしと。 7月20日 近代文学館の笠井女史より電話「『四季』複写につき来たし」と。 散髪し昼食して待ち、14:00来りしに『四季』見すれば44号2冊あり、これと『コギト』1冊とを贈り(立教大学院国文出と)、 日大芸術科と昭和女子大とに(※『四季』の)そろひあるをきく。『有島武郎画集』といふを貰ひし。(※省略) 依子より電話あり「豊橋、蚊帳吊る」と。夜、澄よりも電話「史の家に電話つきし」と。 田中健五氏より電話「石田博士やっとすみしらし。追分へ来週木曜ごろ来る。熱海へも行かん」と也。 7月21日 田中城平叔父より暑中見舞。(※暑中見舞 省略) 澄より「豊橋にて母上帰り、美紀子発熱」と電話ありしと。 (salaryもらひゆき『織田信長』買ふ。山田、大藤、野口、古野の諸氏と会ひし。) こちらよりも電話かけしに澄より「いまからゆく」と。滝本生来りをり。高藤武馬氏(南蛮寺万造)『馬の柵』賜はる。 史より電話あり「入院させよ」といへば、松浦母上より「熱37℃に下った。入院の必要なし」と。 7月22日 家居。滝本生12:00出てゆく。われ参考書目つくる。依子より入れ違ひに泰のこと。(※省略) 15:00和田統夫来り、賀代嫗16:00来りて「この家を船越よりはづし即金100万円にて」と。 7月23日(日) 礼拝委員として8:00家を出、1時間半あるに気づき困る。すみて帰宅。 山本治雄に返信はがき入りの手紙かく。小山正孝氏に電話し「月末会はん」といふ。 7月24日 7:30起き「旅路」(※NHK連続テレビ小説)見て、山本治雄への速達、悠紀子にたのみ、9:30出て羊羹2棹(150×2)駅前で買ひ10:20上野駅。 丁度坐れし。[12]:36信濃追分着。 途きき2度して白樺荘着。すぐ来し4生text1冊ももたざる故、夜あらためて来させることとし、すぐ出て追分宿の堀家、探し当てる。 夫人「昨日は東京」と。「丁度30年になります」といひ、いろいろ思ひ起し「物覚えよし」と云はる。 16:00白樺荘に帰り風呂に一番に入れてもらふ。『紅楼夢』一心に読めど中々埒明かず。(※省略) 4生19:00来り、階上の室にて15分づつやる。(妹尾、岡田、白幡、増田) 7月25日 7:00さめ10:00まで待てば4生来る。午すみ15:00再来。17:00すみ帰りゆく。(※省略) 夕食に堀川直義教授夫妻あり。(※成城)小学校の菊池先生と長く話し別館へかへりゆく。菊池先生、柳田文庫を成城へもち来し話さる。(※省略) 7月26日 7:00さめ朝食せしあと、妹尾の姉君より「昼食、万平Hotelの中国料理を」と。 9:00すぎ4生来り、12:00まへすまし、岡田生の運転するautoにて「つる屋」より廻りて万平Hotel。四川料理とて旨からず。 妹尾姉君来り、みな食はざるに恥づかし。出て剃刀の歯かひ、喫茶せしあとtaxiひろひ、その気になりて油屋までゆく(530)。 堀家を外側より写真とり、寄ることできず。途中にて喫茶し、帰り来る。(※省略) 家へ電話せしに「美紀子、予定日8月初め」と。「金曜帰宅」といふ(84円)。 7月27日 よべねつき悪く、4生9:30に来てあくびする故「けふ帰郷」といへば喜び、16:00別れのpartyと云ひ午、帰りゆく。(※省略) 「田中さんより電話」と呼びに来る。田中健五氏にして「連絡の要あり」といふに「明日午前中来宅あれ」といひ、 午食に堀川教授に帰宅いへば「原稿用紙分けよ」と也。妹尾生に電話し「15:00すぎ迎へに来よ」といひ、15:15来しと喫茶。 中軽井沢駅へ16:10着けば並びをり。座席指定券買はんとせしに「売切れ」と。のりこめば坐れし。19:00高崎にて夕食す。(※省略) 20:00すぎ赤羽、池袋をへて帰宅。(※省略)  田中健五氏より「あす午后」と電話ありしと。 7月28日 ハガキ5枚かき「四季の会」『果樹園』に速達しにゆき、Heine1冊を買ひ、佐伯にて『中国回教史』の記(600)、買ひて帰宅。 14:00田中健五氏、初校の大部分もちて来られ、色々要求されしにより「明日より3月間NewOtaniにカンヅメ承知」といふ。 野田氏の文学散歩改造のしらせ来り、平凡社の中国文学全集『水滸伝』を10月にと。 けふ母、西武へゆきしに京、なかなかしっかりしをる由、ふしぎ也。 7月29日 母、出て赤阪へとゆく(田中健五氏より「12:00文芸春秋へ来い」と電話)。11:00出て妹尾生にHeine送る(35)。(※暑中見舞 省略) 文芸春秋社へと四谷よりtaxi(100)、丁度12:00なりし。「午食まだ」といひ天ぷらおごってもらひ、NewOtaniまで歩く(池内先生のお宅見えし)。 14:00となり、田中氏出てゆき16:00ごろ天地晦冥となり豪雨。 このころ仕事やめて入浴、葉巻買ひ(200)などせしあと、televi見てゐれば田中氏より電話「すぐ来玉へ」と云ひしに19:00来り、 打合せして、すしご馳走となりゐれば井上光貞氏来合せ、17年卒と。 「阿南大将の息と同級」云々「上田勤教授は上田敏先生の子にして」と。すみて帰宅21:00。 写真20枚ほどとれ、集英社より印税1,053。けふ目痛く、文芸春秋にて薬買ってもらひしに、ユによればものもらひと也。 7月30日(日) 礼拝にとゆく。(※省略) 帰りて支那饅頭くはんとする処へ田中健五氏より電話「13:00 NewOtaniへゆく」といひ、その通りゆき16:00までに了へて帰る。 (※暑中見舞 省略) 吹田の秘書課長より「受験させよ」の手紙来あり、丸に電話し「重俊よこせ」といふ。(※省略) 豊橋に電話せしに「美紀子あさって帰京、あと史なんとかする」と也。 (けふ『中国の法と社会と歴史(680)』を佐伯で買ひ『白楽天』を新本屋で買ふ。) 7月31日 8:00まへさめてねむし。母11:00赤阪より帰り来る。(※暑中見舞 省略) 岡田生に『白楽天』と写真と送る。堀川教授と矢崎生にも写真送る。 依子より伊良湖豊橋の写真来る。田中健五氏より電話「けふは仕事なし」と。あとにて2度正誤の電話かかる。 小山正孝氏より「近々午前中に来訪」と。19:00まへまた田中健五氏より「石勒は石虎ならずや」と。資治通鑑しらべ「その通り」と訂正す。 (けふ丸重俊に書類わたし「父より山本市長に電話せよ」といひやる。(※省略)) 8月1日 丸に電話し、きのふしらべし山本の電話番号教へ「一度かけよ」といふ。母9:30出てゆく。月末まで帰らざる也。(※暑中見舞 省略) 田中健五氏より電話「昨日徹夜した。けふ石田先生へゆく」と也し。 梅田ゑい夫人(※梅田惠以子)より電話「上京中。この間、保田に会ひ男児(※三男直日氏:6月20日)死にしとききし」と。 8月2日 10:00斎藤dr.(※齋藤茂太)4週ぶりにお会ひし「前向きですね」といはる。帰りて大に電話し「一度来い」と云ふ。 田中健五氏より「関西へゆく。諸民族の交流はとりやめ」と!腹も立たず。 (けふ帰途「うつぎ」にて『水滸伝2冊(100)抄訳』買ふ。) 中央公論社の鈴木みゆき氏来り、『伊東静雄』と『哀歌』とを阪本越郎氏にともちゆく。夜、美紀子と松浦母上より「帰京」と挨拶。 8月3日 (※省略) 午ねしをれば、平凡社の渡辺氏来り「9月中に」と。近代文学館伊藤整氏より「『四季』の複製」きまったと。佐伯に散歩にゆきしのみ。 8月4日 暑し。近代文学館の笠井女史より電話あり「早く来れ」といふ。(※暑中見舞 省略)  12:00かっきりに笠井女史とも1人来て『四季』79冊、9月末迄ともちゆく。滝本生、木野長男つれ来り、ゆるゆるゐる故「暑し」と帰す。 小山正孝氏より「明日15:00」と。美紀子に「あすユゆかす」と電話す。 田中健五氏帰京「漢の長安の図を」と。「もはややる気なし」といひしあと、家に電話し「あす電話くれ」といふ。 「ヤルタ会談」といふ映画見て23:00近くなる。 8月5日 暑し(34℃と夕方発表)。小山正孝氏来りし故、『唐詩選』やるといふ。沖縄より柿崎、田中、庄田の3生。『果樹園』来る。 夕方、ユ松浦家へ出てゆき19:00田中健五氏、校正もち来り、挿絵、地図の相談す。ユ22:30帰り「史の俸給5万円」と。 8月6日(日) 礼拝にゆかず、校正100pやり止める。(※暑中見舞 省略) 夜、ユ史に電話し「美紀子に小遣ひ与へる」ことを云ふ。 8月7日 7:30覚む。ユ、よべ吐くこと4回と。すすめて山住医院にゆかしめしに、すぐ寒気訴へしにより来診乞ふ。17:00再来、マイシンのますと(800)。 田中健五氏来り、初校ずみの分もちゆき「あす再来」といひて帰る。みればわが稿きれぎれになりをり。石田先生むりして書き加へたまふ。 8月8日 午前中校正すまし、午pao食ふ。咲耶へ弓子の写真と吊書送り(85)、佐伯など見て帰る。(田中氏より「けふも夜」と。) 夜、齋藤氏来り、地図見せ、校正おきゆく。(澄より電話「あす上京」と。) 8月9日 齋藤氏11:00来り、校正もちゆく(数カ所訂正さす)。(※省略) 統夫より「兔も角150万円くれ」と! けふ京「吉祥寺に泊る」と出てゆき、弓子より「おそくなる」の電話あり。澄、上京の筈なれど音沙汰なし。 (竹内夫人来訪。シン一郎君のみやげとて鮭くれ「弓子の縁談を」といへばあざ笑ひて去りし)。 8月10日 朝、台湾の頼教授、羽田より電話「14:00アメリカへゆく。9月20日すぎに来訪」と。 悠紀子「大阪へゆけぬやもしれぬ」といふに、松浦家に電話し美紀子に「14:00ごろゆく」といひ、肥下夫人の手紙を見て出、 (ユ、高井戸の諏訪家に電話せしに「澄、今夕泊る」とのことなりし)。新宿伊勢丹よりbusにてゆく。 武田の姉、迎へられ「父母に」と美紀子に2万円わたす。すぐ出て帰宅。 ボヤッとしてをれば17:00前、澄来り、ユ買物おそく心配す。「途で友と会ひし」と。帰り来りすし食ふ。 澄「最後の新幹線20:50に乗る」とのことに、すしせかし、19:30地下鉄まで送り依子に電話すれば「泰きのふより便を告げるやうになりし」と。 (あさ船越章来り、久しぶりに永々と話し「5千円、出来ねば3千円明日まで貸してくれ」となりし)。 21:30田中健五氏より電話、文の疑問の点なり。わが文かくも曖昧かと思ひし。 8月11日 暑し(夕方の発表にては37℃3と)。(※暑中見舞 省略) 田中久美子より「卵巣悪きらし」と。散髪やへゆけば冷房あり。 8月12日 暑し。村田昭三郎より「三鷹にをり10:30来る」と。やがて来る。「婚約きまった。10.15の式、静岡でする故出席してくれ」と。一応承諾す。 齋藤氏(文芸春秋社)来り、地図見せて直さす。 そのあと西荻窪より中央公論社第一出版部長、滝沢博夫氏より電話「校正文芸春秋社にてす。月曜14:00ごろ来れ」と。 8月13日(日) 礼拝にゆく。(ユ「体この2~3日わるし」とてゆかず) すみてまっすぐ帰る。大より電話 (※省略) 8月14日 あさ美紀子より「ユの体いかに」との電話あり。田中健五氏より黎陽の位置につき電話「あとで答へる」といひ、(※暑中見舞 省略) 文芸春秋社へゆく。おほむね石田先生のところの校正を見、15:00すぎすみてhyreにて阿佐谷。「Raw-hide」いつもの如く見る。 文芸春秋社より第3巻来る。夜、稲垣浩邦氏に電話せしに留守。やがてかけ来り(※南方文士徴用)25年ぶりの声きく。 賀代嫗に電話せしに「けふの調停にて文子、離婚に応ぜず婚姻費用と阿佐谷の家をと云ひし。次回は9.15」と。 田中健五氏より「あす工場へゆく故13:00迎へに来る」と電話ありし。 p12 8月15日 televi終戦記念をしつこくやる。(※残暑見舞 省略) 13:00文芸春秋社の齋藤君迎へに来り、hyreにて凸版印刷志村工場。 1/3すまし、あとは2:00出るとのことにまたhyreにて帰宅。統夫より電話あり調停のこと云ひし故「9月末に金わたす。手続は早くする」といふ。 ユ、経理士にゆけば「1月くらゐかかる」とのこと也。 太田常蔵君より大著『ビルマにおける日本軍政史の研究』賜はる。 8月16日 ユをして斎藤dr.にゆかしめ、ついで西荻窪の税務事務所へゆかす。12:00帰り来り、昼食せしに文芸春秋社より連絡なく、13:00電話すれば田中健五氏「志村へ来れ、迎へにゆく」と。 齋藤君来り「昨夜は4:00までやりし」と。ゆきて達磨その他直し、夕食にそば食ひ20:00文の難解箇所きかれ、粛宗の張良娣と張后との区別に困る。(李宝臣の前名は『アジア歴史事典』にて見つく) 20:30帰り、張良娣見つからずその箇所抹消たのむ。(あとにて陳寅格(※の著作)を見てわかりしほか、広平王の代宗なることわかりしも仕方なし)。 (※残暑見舞 省略) 8月17日 9:00田中健五氏より正誤問ひ来る。あと憂鬱甚し。暑きも甚し。裸になりをれば美紀子来り、豊橋のちくわ持ち来る。(※省略) 夜、スワに電話し「20日朝出発、宿いらず」といふ。映画をteleviで見てをれば23:00田中健五氏より電話、王羲之についての質疑也! 8月18日 田中健五氏より「石田先生(※石田幹之助)に写真とりにゆかん」と。拒み得ず14:00文芸春秋社へゆき、赤坂のapartに訪ひ参らす。 2時間近くお話伺ひ、sandwichいただきて帰る。(※本冊付録記事となる) (※残暑見舞 省略) 澄に電話し、あすの宿たのみしと。母にも電話す。 p13 8月19日 成城大より試験予定問合せ。『薔薇』より「白詩の訳くれ」と。依子に電話し「弓子帰れば出て、訪ねる」と電話す。 15:00前、弓子帰りし故、地下鉄にて東京駅へつけば16:00に5分前。 「ひかり」自由席買ひ16:30にのれば浜松近くまで空席あり、その後もち主あらはれ30分ほど立ちてすみし。 busにて千種団地にゆき、泰の映画見、くすぐり、歯ぬきておどろかせ、(※名古屋市)東区葵町38の藤久観光Hotelの402号室にゆく。 8月20日(日) 7:30の電話にて起き、3,500+350の払ひすませ、呼びしtaxiにて駅にゆけば澄ら待ちをり(駅内にて朝定食くふ)。 9:02の「ひかり」にのり10:10新大阪着。taxiにて宝国寺(※菩提寺)にゆけば、おほむね来りをり。(※亡父西島喜代助7回忌) (城平叔父、えん、康平、初枝、元木氏、朝場重三氏、山本昌三郎、建夫婦子2人、咲耶夫婦子2人、林叔母、渡、片山(喜美子叔母来れず、肥下夫人よりとどきをり)、大、諏訪3人とわれら夫婦にて23人。) (諏訪、史より2千円づつ、柏井・田中俊子より1千円供ふ)北村院主いま上宮高校と高津の講師と。「再建する故よろしく」との挨拶ありし。 山本治雄に電話せしに夫婦留守。山本の吹田の家に電話して(※省略)、山本出て「来よ」と。電話きれ、夫人出てはじめて途わかる。 千里丘駅よりtaxiにのり、4階建ての長寿丘の無名の家と(taxi1,000)。折から雨ふり来り、 ゆけば来客中にて部長格の就職を夫人のいとこ世話しをり、同席して「まむし」ちょっと食ひ、 ついで部長に自薦の者ありとの件にて22:00まで隣室にて話をり。(※省略) そのあと枕ならべて眠る。 8月21日 10:30迎への車来り、山田村をへて京阪国道。吹田駅前で夫人と下車。新大阪へゆけば「自由席しかなし」と。「こだま」11:05の臨時にのり帰宅。 雨ふり来る。cameraユもちゆき空なりしことわかり失望落胆す。夕方、丸父子に電話し「受験せよ」といふ。 8月22日 9:00成城学園に電話し「サラリー9:00~15:00」ときき12:30出て貰ひ、成城堂へゆけば『大航海時代』来りをらず。『ユダヤの民と宗教』、『南太平洋の環礁にて』と新書2冊買ひ、田中滋生に会ひ、(※省略) 午飯にさそひ、別れて帰り、 佐伯にて『支那史学史(2,300)』と『アッシリア学(50)』と買ふ。「この間、加藤家へゆき1万円の本買ひし」と。 8月23日 台風低気圧となりしと。10:00出て斎藤dr.。途にて賀代嫗に遭ふ。 『生きている象形文字』買ひしに西夏文字ではなかりし。dr.待たずに会へ「中位ですね」と云はる。すみてすぐ前よりbusにのり松浦家。 7回忌の香典返しもちゆき、坊やの土産賜はる。「史、あす位来さう」と也。(※省略) 夜、美紀子より「史ゐるや」と。依子に電話し「史来たか」と問へば「来ず」と。 8月24日 朝、暑し。京、休みなれどice-skateにと出てゆく。史、午まへ来り、「美紀子入院」と。16:00電話かけ来り「女児生れた」と。 18:00また松浦家より「体重2,500g」と。 8月25日 暑し。白楽天の「楊家南亭(56才秋)」を訳して村上新太郎氏へ送る。佐伯へゆきしになく、栗田でArlington『支那の演劇(700)』見つける。 佐伯は暑しとて休みゐし也。(※省略) 帝塚山学院同窓会報に「わがふるさと」書きて送る。 今井翠(※美紀子氏姉)に電話し「あすユと病院へゆかずや」と。(※省略) 8月26日 ユ、10:00と約束し今井翠と女子医大病院へ(※史氏長女誕生)祝3万円もちてゆく。13:00松浦家へゆきしと電話かけ来る。 弓子帰りしに茶漬食ひ、散髪にゆく。そのあと烈しき夕立。赤ん坊美紀子に似をりと。 (けふ松村赴氏、龍園大飯店より24日付の航空便来る「台湾にてAmi族の歓迎受けし」と也。) 夜、岩崎昭弥君より電話「北海道へゆく。9月に上京の時、会ふ」と。 8月27日(日) 朝やや涼しく8:50阿佐谷駅。礼拝当番として9:20より教会にをり。すみて昼食後、賀代嫗来り、章とちょっと会ひしあとpermaにゆく。 「滝本生、けふ22:00鎌倉へ帰り来る」由。われ150万の基礎云ひ、納得せしや否や不明。 (※省略) 賀代嫗20:00弓子を伴として西荻窪へと出てゆく(章とは話出来ず)。 8月28日 賀代嫗、章と話し「36万円を5千円月賦で払はす」こととなる。滝本生、電話かけ来り「2人にて軽井沢へゆく」と。 〒なく、昨夜誕生祝に依子より2,500貰ひし故、佐伯へゆき『古代中国の都市とその周辺(900)』、『いんよう石(1,300)』と買ひ来る。 この間、加藤女史へゆきしとき買ひし本の良きものを見せらる。夕方宮崎智慧女史より電話、来たまひて『Odysseia』よませたしと。 筑摩の本教へ、弓子の写真と吊書ともってゆきもらふ。 田中久子より電話「竜かけず」と。「書け」といふ。京「試写みにゆきおそくなる」と電話。 8月29日 朝、母より電話「岑夫の妹死に、帰りおくれる」と。松浦母君に「あす7夜ゆゑ病院へゆく」といへば「腎盂炎また起った」と。 浦和の田中久子生に「来い」といへば11:00来る。卒論の章を示しをれば、 佐々木三九一氏、東京建物より電話かけ「一度会ひたし」と。35年ぶりの声也。林素梅小姐より「義父母へ」と便り。(※省略) 「祖父の祈り」を『果樹園』にと書く。けふも京「帰りおそし」と電話。 8月30日 9:30出て斎藤dr.にゆけば、意外にも満員。薬6日分もらひ、新宿二幸前にゆけば休みと。 伊勢丹にて赤飯・鯛・桃などを買ひ、taxiにて河田町の女子医大病院にゆく。2人室にて「相部屋はきのふ7夜なりし」と。 松浦母上来られるまで赤飯くひ、小さき赤ん坊cameraにとり(あす史、命名に来る由)、busにて新宿西口。 疲れてUniversiade見てをれば賀代嫗・滝本生と来る。われ避けて会はず、帰りしあと全田叔母の「佐治牧師への紹介を」とのハガキ。 硲氏の誕生祝のハガキ。近代文学館より「(※『四季』)欠17号なりし」とのハガキ見る。 8月31日 9:00すぎ出て成城へ10:00すぎつき、あすの準備に白楽天のprint切る。伊藤助手来る。10:30すみし故、 成城堂にて『江戸名所図会3』買ひ、小高根太郎家を訪ふ。「母上83才となられし」と。令息用のautoおきあり。 出て11:30新宿。家へ電話し、12:10地下鉄へ来よといひ、rice-curry食ひ、 銀座へ出て有楽町千代田劇場にて「日本の一番長い日」見る。阿南陸相に三船敏郎扮しをり。 すみて帰れば服部夫人よりたよりあり。夜、美紀子より電話「史、(※名づけに)“ヤス子彰子”をあげて豊橋へ帰った」と。 ユ電話し、われ電話し「ヤス子はスワの泰とまぎらはし。彰子は隣の船越章をり、美を下につけては」をいへば「バーの女給に多し」といひて了る。 9月1日 8:30出て成城大学。3時間やる。(※省略) ゼミは従って柿崎、田中2生のみ。小倉夫人来らず。4時間目白楽天すまし、山野井生と同車。 新宿でjuiceのみて帰宅。角川書店より『現代詩人全集8』の印税1,314来りをり。(※省略) 疲れてteleviのUniversiade見しのみ。 けふ美紀子より電話あり「雅子となるらし」と。 9月2日 10:00佐治良三氏に「全田の叔母に福音伝へたまへ」の速達出し、 佐伯に寄れば『達磨の研究』来てをり「加藤治子氏の売却手伝ひし礼にもち来るつもりなりし」と。こばみて千円置き『蝦夷地(230)』もらふ。 帰りて松村潤氏に電話すれば「東洋文庫休み」と。山根忠雄氏より『竹梅抄』贈らる。 15:00ごろ小山正孝氏来らる。「唐詩の訳は題とともになるべくわかり易くせん」と提議す。17:00ごろ夕食せずして去らる。(※省略) 硲晃氏「『炫火』のこと書け」と。 9月3日(日) 礼拝にユとゆく。小高根二郎氏より受取。疲れて何もできず。夜、依子より電話「母来り、豊橋に電話せしも出ず」と。 ユ松浦家に電話すれば父君出て「史、来てをらず。雅子ときまりし。まだ退院せず」と。 9月4日 速達にて大高同窓会より原稿用紙くる。やむなく「かぎろひのこと」2.5書く。名古屋に電話すれば依子・母出て「けふ豊橋へゆく」と也。 佐伯にて『唐詩三百首詳解(150)』買ひ来る。〒他になし。 9月5日 8:30出て定期3ヶ月(5,400)、千駄ヶ谷にて下車。道に迷ひしあと斎藤dr.。「鬱」を申上ぐれば赤玉まし玉ひ、眠剤も強くし玉ふ。 新宿まで歩き、二幸にてすし食ひ(100)、登校。 『二十四史』と『地誌』とを図書館にわたし、中国文学史のprint切りなどして、時間つぶし14:10の教授会(松村赴氏『台湾案内』の新版賜ふ)。 すみて大藤、野口、鎌田3氏と「大学院を文化史とすべきかいな」につき相談。帰りて丹波道久君より「中央公論社の広告を見た云々」。 諏訪母上より「祝送った」。ユ母を迎へに東京駅へゆき、美紀子より電話「2,500gが2,800となりし故、退院許された」と。 Sharmanismのnote作りに閉口す。 9月6日 8:30出て登校。天ぷらそば食ひて2時間教ふ。(※省略) けふ母、大の所へゆく。「滝本生、電話かけ来しも月末まで断はりし」と。夕、林素梅に手紙かく。 9月7日 よべはわりあひ眠れし。朝、唐詩を2首やりはじめしところへ佐治良三氏より「全田へゆくこと承知」と。 12:30出て成城大学。短2Aに試験の要領はなす。田中久子生の質問受けゐる処へ鎌田女史来り『柳田文庫蔵書目録』たまふ。 「全教員には与へぬこととなりし」と。成城堂でグラネーの本行きがけに買ひ、貸しをること判りし故返しにゆき『文選(650)』買ふ。 9月8日 9:30登校。semi全員出席なれど小西生が1枚かき来しのみ。(※省略) 佐伯で『淮南子註(200)』、『鴎外全集』出て10万円と。(※省略) 9月9日 9:00すぎ出て東洋文庫。松村氏50周年記念の相談にて席を外す。あと『大世界史』の苦心話して帰宅。(※省略) 9月10日(日) televiに衛藤長老出たまふを見て礼拝に参れば、長老出席。昨夜とりしらし。(※省略) 13:00すみ、阿佐谷にてすし買ひ(110)て帰宅。〒なし。夜、諏訪に母上よりの祝の礼かければ泰出て物いふ。(※省略) 9月11日 小雨。睡眠剤1服なくなりし故、ユに斎藤dr.に寄る様たのむ。赤坂へゆき母と松浦家へゆき「美しき子」とほめられし由。 牛突きに負けし牛はも肉となるために船にとのせられゐるも。 9月12日 雨。10:00出て斎藤dr.。13:00近くまで待たされ、わびらる。昼食してのち成城大学。大藤氏「血圧高し」とて来られず。 文化史といふ大学院作るべきや否16:30まで討議「作る必要なし」と戸口君云ひし。硲君より「原稿受取った」。 田中健五氏来り(※『大世界史4』)30冊置きゆきしと。「頼さんHotelよりも電話ありし」といふにかければ外出しをり。 9月13日 9:30登校。『大世界史』を、高田、山田、野口、鎌田の諸氏に分つ。 台風との事に早く帰れば、南北社常住氏といふが来て「15:00再来」と。「『保田與重郎選集』の挿みこみかけ」と也。 (けさ近代文学館の笠井女史よりも「『四季』の説明かけ」と。「田中冬二氏にかかせよ」といふ。神保の持ち本にてそろひしと也)。 「台風来ず」とのことに虎の門Hallの成城大chorusききにゆき、早く帰る。 9月14日 (※省略) 美紀子に電話すれば「雅子3,200gとなりし」と。12:30出て硲、諏訪へと『大世界史』送る(90×2)。 田中健五氏へ「本3冊ついでに返し玉へ」とかく。登校。栗山、池田、坂本3氏に本わたし、田中久子にも1冊与ふ。 あとのsemi7生にもやるつもり也。(※省略) 佐伯に寄り「鴎外全集買はず」といふ。けふ山田、高田諸氏に云ひしもその気なし。(※省略) 9月15日 よべ眠り少く、起きしより胃を感ず。むつかしき顔してをり明武谷勝ちしを見てはじめて笑ひし。 18:00頼さん(※頼永承)、駅より電話、迎へにゆき『大世界史』その他贈り、夕食すます。「戦争中、山形の部隊にて主計なりし」と。 齋藤齋先生に電話して「あす夜ゆく」と頼さん云ふ。送りにゆきまた胃を感じ、膏薬貼って眠る。 9月16日 胃、感ぜずしてさめる。(※省略) 夕方、和田統夫より「文子離婚100万円出せ、子供はわたさず」と報告。われ「金は今月末まで待て」といひ、鬱となる。 (朝、東洋文庫に電話、神田、岡田2氏出、神田氏「頼さんの歓迎会せん」と。岡田氏「履歴書、業績書承知」と)。 庄野英二氏の「星の牧場(紀伊國屋ホール、劇団民芸)」見にゆかず。鎌倉の賀代嫗に電話すれば「文子、条件付き離婚承知」と。 神田氏21:00電話「頼さんの歓迎会火曜か水曜に」と。(※省略) p14 9月17日(日) 8:00すぎさめ、礼拝に我はゆかず。午后より「こわくなる」。夕食後ふるへとまる。 (けふ松浦家より電話し来る)。今井翠夫人23:00火事見舞の電話。 9月18日 「朝日」に『大唐の春』と『日本の詩歌 第1巻』発売と出をり。(※省略) けさ8:00さめ、こはさなくなりし。(※怖さ無くなりし) (※省略) よべの火事はゴールド街なりし。母、大のところへ出てゆく。(※省略) 9月19日 齋藤dr.にゆき「薬も少し強くし玉へ。本のことにて悩む」といひ、1冊みていただく。10:30になりし故帰宅。(※省略) 教授会事なく、堀川、大藤2氏欠のため主任会もなし。山田俊雄教授「『大世界史』一気によみし」と!(前田教務課長、総務部長に陞る)。 成城堂にて『和■の友8月号(150)』とりよせ来る。佐伯に寄り『柳柳州全集(130)』買ふ。(※省略) 9月20日 8:30出て成城。(※省略) 潮流社の八木氏より『四季』を10月半ばに出すにつき、座談会に手を加へよと電話。 帰れば『四季』の内容書来てをり、やがて鈴木女史来り(※座談会の)原稿おきゆく。 けふ諏訪澄より電話、『大世界史』受取った。よみ易しとユ。(※省略) 9月21日 雨。寒し。三好達治座談会にちょっと手を入れる。潮流社に電話すれば鈴木女史「17:00ごろ行く」と。 登校。print切りし処へ田中、岡田2生来り、卒論の原稿かき直す。salaryもらひ短大教へ(成城堂へ払ひ1,800余)、16:00帰宅。 鈴木女史来りしに原稿わたす。 9月22日 きのふ寒く合シャツとせしに、けふは暑く上衣なしにてゆく。(※省略) 帰り山野井生にPhilippine関係の本貸し、来年度のsemi考へさし、ともに餡蜜くって別る。母帰りをり。海老沢博士「役づきやめ仕事す」と。 9月23日 9:00出て東洋文庫。石田、前田2氏に『大世界史4』1冊づつと机上におき、7人にて清実録よむ。 すみて頼氏来るをまちtaxiにて中華料理(西片1丁目万歳楼)へゆく。和田久徳氏と助手の女史とで7人也。 14:00すぎ宴ははてて神田氏払ふを見れば1万2千円ほど也し。われ頼氏と都電にのり四谷へゆく頼氏と別れ、 山本にて小さき本3冊と『満洲叢考』といふを買ひ700円余り払ひ、地図屋にて『大阪府(70)』買ひ、 card屋にて(木原)200枚(180×2)買ひ、国鉄にて帰宅。滝本女史来りしも会はず。 9月24日(日) 礼拝やすみ、美紀子に「明日ゆく」と電話す。22:00岩崎昭弥君「あさって訪ねるかもしれず」と電話。 9月25日 午すぎユと出て駅前で果物買ひ、13:30松浦家。雅子、目鼻立ちよろしく小さけれど元気さうなり。(※省略) 出てtaxi(120)、新宿にて別れて佐伯に寄り帰宅。(※省略) 中野清見君より「27日17:30朝日新聞玄関で会ひたし。竹内、丸にも伝へよ」と。 田中健五氏17:00来り、貸しし本返され「10万部刷った。来月払ふ」と。18:00出てゆき「写真挿みあり」と電話。 20:00丸に中野の件電話すれば「重俊の願書年令超過」と印押して返し来りしと。竹内に電話すれば嬢出しゆゑ伝言たのむ。 9月26日 齋藤dr.にゆく。「不安なくなりし」を云ふ。(※省略)  岩崎昭弥氏「日光より帰りし」とて電話。18:00すぎ駅へ迎へにゆく。 竹内好君より中野清見のこと問ひ返せしに答ふれば「あすゆく」と也。(※省略) 9月27日 竹内より電話かかりし故「中野上京17:30朝日前で。われもゆく」といひ、いやとなる。(※省略)  televiで『裸者と死者』やりをり。 (「蒲地ですが、父亡くなり(25日)けふ密葬、29日通夜、30日葬式」と坊やより。「母君も入院」と也。)(※蒲池歓一氏訃報) 16:00すぎ出て「うつぎ」見しに何も本なく地下鉄銀座。朝日の前に25分立ち中野、竹内、後藤と来り、丸来らず、 ふぐ料理「大雅」とかいふへゆき、だんだん悒鬱になり、5千円おきて帰らんとすれば竹内つっ返す。 地下鉄にて南阿佐谷。『ノーマンメーラー(220×2)』買ふ。 9月28日 「電話」かき『果樹園』に速達。北口古本屋で『鄂倫春語(※おろちょん語)(20)』買ふ。午后また2,500の同人費を出しに行く。(※省略) 9月29日 (※省略) 台北の林素梅より「又一度転居す」と便りあり。 19:00まへ出てcamera屋にて5千円札にかへて地下鉄九段下。 蒲池歓一氏のお通夜といふにゆけば、集英社の鈴木省三重役「急な病気にて」と。饅頭と五勺瓶わたされ帰宅。 不安なくなりし! 賀代嫗より電話「文子につき情報入り離婚費用少くてすむ。くはしくは水曜に」と。 9月30日 ユ6:00前に目覚ましかけおき、起され不機嫌なれど頼教授の歓迎会の借ある故、10:00東洋文庫松村研究室。 阿南氏久しぶりに来り『明と清の決戦』たまふ。すしおごり帰りて臥床。眠れず。母、赤坂へゆき統夫より「2日に150万円とりに来る」と。 10月1日(日) 礼拝委員としてゆく。すみて佐伯に寄り『歌舞伎の話(50)』を持金43円にまけてもらふ。 『果樹園』来る。立教史学会より出欠の問合せ。「欠」とかく。 夜、賀代嫗よりユに電話「文子に計画みなもれるゆゑ話さず」と統夫いひ「50万円わたせ」とのこと也。不快。 けふより『唐詩選』やる筈なりしもできず。 10月2日 雨。ユ午后出しあと角川より(8×8,000-6,400)来る。『唐詩選』やる気にならず。夜、澄より「税、天引きしてをけ」と電話ありし! 10月3日 雨。齋藤dr.「去年よりまし」と申し上ぐ。けふより薬代30円×7とらる。「来週月曜来よ」と。 二幸にてすし食ひ登校。(※省略) 和田統夫来るかと思ひしに来ず。小山正孝氏に電話「『唐詩選』できず」と。(※省略) 後藤孝夫より「天国予約ある故元気出せ。丸の息子のこと山本に話しみる」と。(※省略) 田中健五氏に「竹内、後藤、中野、阿南氏に送本を」とたのむ。 10月4日 久しぶりに晴。11:30よりの試験監督にと10:00家を出る。(賀代嫗より「50万円わたせ」とのことに「受取を」といひし。) (※省略) 出て気がかはり東北沢下車。近代文学館へゆき伊東の詩集と原稿あるを見る。笠井女史みやげに切符3枚くれし(喫茶室でcoffeeのみゐしに)。 帰りて「母のゐる時、賀代嫗来り50万円渡せし」ときく。硲君より「孫へ」と毛糸あみ。依子より写真来をり。 10月5日 小高根二郎君より「蒲地氏にはこの春会ひし」と受取。13:00出て成城大学。(※省略) 17:00近く帰宅。(けふ澄へ『果樹園』、「大高」へ速達す。) 10月6日 曇。13:00まで待ちね頼教授へ写真送る(110)。南新宿で下車。『佩文韻府(1.1万)』送ってくれとたのみ登校。(※省略) 英語補講の試験監督、うしろ向きし男生の答案とり上げ退室命ず。(※省略) すみて鬱々と帰り来る。 岩橋女史(帝塚山短大)より電話「笑へばもとの声」と也し。 10月7日 雨。3:00めざめ苦しく、ユ松浦家、母スワより赤坂へ出てゆきしあと、東洋文庫に欠席申す。神田氏出し。(※省略) 「聖心女子大(前学長)Brittさん69才で昇天」と新聞に見ゆ。ユ帰らざる前に、下歯なほしに柏井へゆく(bus30に値上げ)。 帰ればユ帰宅。「大野家へゆき信州の人と10日見合きめ来し。美紀子10日豊橋へゆく」と。 「スワ夫人わるきゆゑ電話せよ」といふに、依子へ電話すれば「澄12,13上京」と。「泰テレビ見をり」と。(※省略) 10月8日(日) 礼拝にゆかず。中野清見より「この間はありがとう」と!成城大学より「14日12:30大学院教授会」と。 統夫より「5千円受取った」と。角川より「Heine(※改版)3版1万部を10月中旬に」と。(※省略) 10月9日 7:30起き、8:30出て斎藤dr.。「少し上向き」と申上ぐれば「いつよりか」と問はれ困りて「昨日より」と申上ぐ。 新宿西口まで歩きbusにて阿佐谷車庫(30)。柏井歯科へ11:00すぎ着き「下入歯来週月曜に出来る」ときく。 弓子12:00すぎ「友人の披露に」とあはてて出てゆき、「明日の見合のため」とpermanentにゆく。(※省略) けふ林素梅より小包来り「通関料80とられし」と。手紙入りをり「出国の友に託した」と。ふしぎ。9.18出し也。 10月10日 ユ、弓子の見合にと9:00すぎ出てゆく。Berlin Olympicを30年ぶりに見し。(※省略) 岩崎昭弥君より「おかしおくれた」。(※省略) 大高春秋会より「案内いるや」と「いらず」と答ふ。(※省略) 弓子、午食くはず12:30帰り来り、ユその後帰来。「共かせぎをいひし故だめならん」と。 美紀子より電話あり「別れに参る」と。15:30来り、雅子笑ふやうになりをり。今井一家も来り、16:30外に出て写真とる。 taxiにて帰ることとなりし。夜、澄より「12日、泰つれて来る」と。(※省略) 10月11日 (※省略) 頼教授夫妻(劉慶理)と嬢(眞理)より礼状。後藤孝夫より山本へ電話すれば「力及ばざりし」といひし由。(※省略) 澄より「あす11:10、3号車にて」と。(※省略) 夜、丸に電話すれば「夫婦にて旅行」重俊出しに吹田の事いへば「さうでせう」とおどろかず。 10月12日 10:00出てユ、カメラ屋にゆきしもあかずと。東京駅で11:10につくを40分待ち、四谷の諏訪氏までtaxi(240)。(※省略) 澄と別れて地下鉄四谷三丁目より来りて帰宅。白幡生より電話ありしと。『婦人画報』婦人画報「17日16:00文芸春秋社へゆく」こととなる。 白幡夕方電話かけ来り「あす13:00来る」と。 21:00ごろになりて泰むつかしき顔しだせし頃、澄、竹内家より来り「Balconiに出す」と叱ってねかす。 小山氏より「(※平凡社『唐代詩集』原稿)締切12月末となりし」と。 10月13日 依子より電話ありし故「預かれず」といひ、9:00ごろ起き来りし泰見て散髪屋。ユ、泰つれて吉祥寺。 我帰宅すれば澄も起きをり12:30出てゆくを写真にとり、ユと母と送りゆく。 14:30白幡来り、初めの方のみかく。「あす民俗学会年会にゆく」といふ。(※省略) 10月14日 9:00出て成城。はじめの話は「奈良坂は夙」といふことなりし故「夙の証拠ありや」といひしに答へられず。あとにて名刺くれ東洋大学教授荒井貢次郎氏と。 沢田四郎作dr.ゐるを見、挨拶し『大世界史』進呈す。(※省略) 平山氏の話半分きき、鹿児島の村田煕氏の「薩摩盲僧について」きき、総会に出、夕食に出る。鎌田女史挨拶せし。(※省略) 立教の宮本氏(※宮本馨太郎)、教育大の直江博士(※直江広治)と話して18:00となりしゆゑ帰宅。 けふ成城堂にて『大漢和9』受取り『奈良県の考古学(1,500)』買ひし。 家につきし時、滝本生出る寸前にて「弓子の口あり、写真よこせ」との(※賀代嫗よりの)使なりしと。 この間見合せし信州の人「交際したし」といひ来し由。弓子は旅行中なり。 10月15日(日) 6:40起き7:30出て東京駅。新幹線こだま自由席9:25にのり坐る。静岡着。早しとて喫茶hot-cake(50+60)。taxiにてNew八重洲へと10:30。 つけば11:00新郎新婦出で来り写真とる。(※立教教へ子村田昭三郎氏披露宴) (※省略) 「能登へゆく」といふ新郎おきてtaxi拾はんとせしに、新郎呼びゐし車にのせてくれる。 それより駅に出てヱハガキ買ひ、前より知る古本屋へゆき、『王士禛(200)』、『李太白(90)』買ひ、土産に安倍川餅とワサビ漬(300+100)買ひ、 14:49発の急行にのれば1時間おくれ19:00東京着。佐伯によみ了へし『文芸春秋11月号』売り(70)、すし買って帰り食ふ。 石田先生(※石田幹之助)より「一席設く」とのことに、田中健五氏に電話し「18日の東洋文庫のお話すみてのち」といへば、先生「それぢゃ来月にでも」となりし。 弓子この間の見合の相手断ると也。 10月16日 晴。9:30出て(よべ睡眠感なし)齋藤dr.。「躁」と申上ぐ。都電にて往復しbusにて阿佐谷車庫。 柏井歯科へゆけば「技師病気のため入歯出来をらずと電話せし」と。時に10:00。茶のみ田中克己『基礎人類遺伝学(250)』など買ひて帰宅。 中野清見君より『北湖2』来り、島とわれとのことも書く。(※省略) (けふ林素梅に別便にて衣料送るとヱハガキ(35)。賀代嫗に弓子の写真送る。) ユ、大野さんに断りにゆく。「父兄らえらき故といはれし」と。夕方colore-filmとりにゆきしに雅子写りわるく3枚のみ也。 10月17日 11:30より及第会議とて10:00出て成城大学。(※省略) 『佩文韻府』7冊来をり(1割引なり)、高田部長に個人研究費よりと手続す。 『二十四史』と『明実録』の書類不足とて山本書店に電話す。(※省略) 天ぷらそば食って大学院につき相談。われ「東洋民俗学または東洋文化史」として申請さる。14:00すみて一旦帰宅。 小高根二郎氏よりの「『四季詩集』ありや」と、中野清見の「11.5山本の新宅祝か」とのたより見る。 15:00まへ出て四谷より歩きて文芸春秋へゆけば30分前、田中健五氏呼出せば、のみもの飲まし社長に電話してくれ「来てよし」となる。 15分前にゆき話す中、婦人画報社来り(※対談)、社長つかれて早々にすむ。taxiひらひて四谷まで乗り帰宅。 (けさ賀代嫗より「(※見合相手)名古屋の人?にてよきか」とあり「よし」と答ふ。) 母、赤坂へゆきをり。 (佐伯へ寄り『仏像の起源(3,300)』借りて来る。礼18,000を小切手でもらひし為也) 10月18日 登校(雨)。高田瑞穂氏『近代耽美派』たまふ。14:00帰宅。小高根太郎のハガキ見る。珍し。電話すれば嬢出て「不在。22:00まで帰らず」と。 17:00出て東洋文庫。18:15より石田先生の「モリソン文庫と東洋文庫」のお話きく。紹介は新文庫長、辻直四郎博士なりし。 すみて先生に御挨拶し、田中健五氏を見る。 「この頃もうよろしきや」と問ひしあり、中川成夫(※歴史考古学者)なり。「いやまだ」と答へ出しに、駒込駅でまたあひ「つきあってくれ」といはれ、ことわらず池袋下車。料理屋にゆき、 また「詩人を専業とすべし、東洋史もかけ、その出来が悪くなき才子なれば困る」といはれ、はうはう出んとすれば仲居助けくれしも外までつきそひtaxiとめてくる。「500円にてゆける処まで」といひ中野駅につけば300なりしもつりやる。 けさ建電話かけ来り「赤坂に母をり」と答へし。 (※省略) 10月19日 「金星にロケットゆき40~120の高温」と。「溥儀氏死に64才」と。小高根太郎に電話。漢文採点中、母帰り来る。 12:30登校。(※省略) 早くすませて庄田を少し教へて『佩文韻府』もちて同車。新宿にてここより史料写させつつ餡蜜食ふ(20×2)。 「史、豊橋にて評判」の由。佐伯にて『太平天国異聞(550)』借る。 けふ登校して「あす4大学、体育の日にて休み」と知る。京「短大などごめん」と也。(※省略) 10月20日 大学体育祭とて助かる。賀代嫗より調停に「統夫のみ有利となりし」と。井階房一氏より今中19期生名簿来る。 「秋明」と白楽天の「楊家南亭」を訳してのせし『薔薇』91号来り、大伴道子女史より「11月15日までに400×7を」と。 婦人画報社来り、(※17日の対談)速記見せ「10枚書きたせ」と。14:00田中久子、柿崎の2生来り卒論の相談してゆく。 柏井歯科へゆけば「来週義歯できる」と。佐伯にて『台大哲学科研究年報4(30)』買ひ来る。「吉田茂死す。近々国葬」と。(※省略) 10月21日 8:00さめ8:50出て東洋文庫。読合せの終頃、田川博士来る。『東洋文庫50周年展』もらふ。 なくせしと思ひし『明鑑易知録』そろへて貸してあり。 12:10出て新宿にてrice-curry。成城大研究室へゆけば大藤氏「11月のcourse説明に出てくれ」と。 柿崎生をり『檀君考』貸す。成城堂に6千円余り払ひ『大航海叢書9』受取り、柿崎生としるこ食ひ、佐伯に借り3,850払ひて帰宅。 (※省略) 10月22日(日) 久しぶりに礼拝に出席。大野家へゆくユと別れ古本屋2軒見て買はず。 佐伯にて『キリスト教と諸宗教』、『キリスト教■朝』、『国語に及ぼしたる英語の影響』で150。(※省略) 「けふ梅さんへ布送りし」と(180)。 10月23日 泰へと写真。狩野和加子へ見舞。牛尾三千夫氏隠岐島より『四季(※復刊)』の問合せ。四季社に電話すれば「11月になる」と。 10月24日 牛尾三千夫氏に「『四季』出る」とハガキかき、10:30斎藤dr.にゆけば満員。薬もらひ(805)、小田急にてさばずし(90)買ひて登校。 (※省略) 栗山氏に『東洋文庫展』進上。成城堂に2度ゆき『岩波新書』2冊買ひ、中国地誌研究室にはこび、教授会すみて帰宅。 福地氏(※福地邦樹)より「「祖父のいのり」よし。大東亜史、中国文学と御活躍うれし」と也。(※省略) けふ『新潮』にのりし小山氏の文(※新潮 1967年11月号p196~197「 「四季」の復刊と復刻」)よみしによくなかりし。 10月25日 9:00出て成城大学。2時間みな短く切り、(※卒論指導 省略) 帰り柏井歯科へゆき林檎おき、 佐伯にて『梁塵秘抄』、『平安朝時代の詩』、『日本歌謡の展開』、『北米大陸をゆく』にて170にまけいもらふ。(※省略) 浅野晃氏より『流転詩集』来りをり。「賀代嫗来りて調停有利の話せし」と。 10月26日 われに〒なし。12:00出て成城大学。(※省略) 夜、泰に電話すれば「ヂイチャン」といふ。 10月27日 雨。ゆきに小倉夫人と同車。午また来り、卒論「立原道造」としたしと。ゼミに来週休みなるも休む勿れといふ。柿崎「父上京」とて休む。 帰り佐伯にゆき『日本古代国家(200)』買ふ。 (近代文学館より「『四季(※復刻版)』11.20出来る。同人に1部づつ与へる他は申込め。価格28,500」と。) (※省略) (山野井生「母入院中急死、取調中。学校はやるつもり」と。総務部で香料預かる)。 10月28日 9:00出て東洋文庫。田川博士早く来、阿南氏来り、岡本、岡田、神田、松村氏と我にて6人。 すみて都電にて(白木屋)東横日本橋店の「東洋文庫展」見、案内100にて買ひ、地下鉄にて新宿をへて帰宅。15:00。(※省略) 文芸春秋社より(※『大世界史』印税)170万円来をり(20%税)。笠井女史より電話「『大陸遠望』の刊年を」と。滝本生「あす午来る」と。 10月29日(日) 夫婦とも礼拝にゆかず。13:00滝本生来り14:30帰りゆく。あと母、赤坂より帰り来る。(※省略) 夜「ヤマトにゐたころ」を作る。 10月30日 9:00すぎ駅前郵便局にて『果樹園』へ同人費ゆ2,500よと原稿速達(125)。 佐伯に寄り久保得二『支那文学史 下(20)』買ふ。この間の『鴎外全集』8万円にて仲間に売りしと也。 けふ三井銀行支店へ小切手もちゆけば「定期にせよ」と店と家3回すすめられし。(※省略) 大伴女史より礼状。 角川より(※『ハイネ恋愛詩集』)新4版1万部の受取と見本1冊。(※省略) 13日とりし泰の写真出来しゆゑまた包む。 10月31日 9:30出て新宿より都電四谷三丁目下車。斎藤dr.にゆく。先生「白楽天の母狂死なりや」と問ひ玉ふ。 帰り佐伯に寄り『風筝誤(200)』。依子より「泰『なあに』を訊ねるやうになりし。『二つ』と指2本出す様になりし」と。 けふ13日の写真送りし也。狩野和加子生より「経過よろし」と。けふ吉田茂の国葬也!(昨日、正調オルガン(※田中正平発明)ひく伊藤教授をteleviで見し)。 11月1日 お花料1千円包み9:00出て成城。2時間教ふ。(※省略)  講義中カギ中へ忘れしまま野口君に帰られ、カギ来るまで待ち14:30となり、山野井生に電話「おそくなる」といひ、 新宿より神田のりかへ御徒町で下車。上野公園前まで歩き都電にのる。「根津宮永町」が「根津一丁目」と改称。すぐ見つかれば父君往診中。 姉上出て「成城国文で習ひし鈴木睦美と同級」と。父上帰られ胃下垂との診断うけ、せんべい頂いて辞去(母君わが死を予言する歌つくりをり)。 御徒町の「江戸っ子」にてアンミツ(90)食べて帰宅。 母、赤坂へゆきをり。賀代嫗よりの電話にて30万円定期とし三井銀行阿佐谷支店喜びし「数男にも10万円返せし」とユの話也。 (佐伯に朝鮮本2部(54×2)と『十三経注疏(1.5万)』を学校へとたのみし)。 11月2日 (※省略) 近代文学館の笠井女史に電話すれば「買はねばならぬと誤読せしは大木実」と。ユ、立教同窓会へとゆき、休みの京、昼食の世話す。 (※省略) 佐伯へゆき『日本之裏面(30)』、『Book of Etiquette (30)』買ひ来る。ユ、日くれて帰り来る。 二度、加藤税理士(公証人)に電話し「地面の検査まだか」と云ひしも埒あかず。(阿南氏に『サルホの戦』の正誤かきて送る)。 11月3日 散髪し、11:00高円寺の古本市へゆく。何もなく『太平洋戦争』2冊買ひ家へ電話して赤川氏に寄りしに「歌会にゆきし」と。 帰りて疲れしもユ、出てゆきし故、RugbyとFootballのtelevi見る。運動会にゆきし弓子帰宅せしあとユ帰り来る。 母に電話し「4万円やる」といへば喜ぶ。夜、松村氏より電話「あすの研究会なし」と。神田、岡田氏ら京都へゆけば也。 11月4日 (※卒論指導 省略) 16:00やっと了り、われ疲る。(白幡まつまに『紫珠』にと「この道」7枚かきし)。 散歩かたがた送りに出て、佐伯に寄れば『外来語辞典(1,620)』来てをり、もって帰る。 けふ小高根二郎氏より「この頃の詩よし。誤植した云々」のハガキ受取りしに夕刊に日レ総務部長取締役としての談話出てをり。 陳祚龍教授より「『大唐の春』受取った他も送れ」と。成城大学より「15日(水)2時限身体検査で休み」と。(※省略) 11月5日(日) 礼拝委員として8:40家を出、つとめ了る。『果樹園』141来る。母帰宅につき4万円贈る。(※省略) 11月6日 よべ雨降りし。妹尾生来ず、杉本長夫氏より『四季』復刊ありがたしと。(※省略) 足立生に電話し「(※披露宴)夫婦出席、祝ひ何にせん」といふ。 潮流社へ『四季』のことで小高根の叱り伝へれば、しばらくして社長出、神保の後記おくれし。20日に出来。」と。 『紫珠』正月号のための「この道」(200×14) 書き了ふ。(※省略) 11月7日 9:30出(よべ眠りおそく、朝早くさめる)、斎藤神経科へゆけば茂太先生御不在。代診の先生に「眠りあさきは薬に慣れしか」といひ、かへてもらふ(210)。小田急構内にて幕の内買ひて登校。柿崎、庄田の2生を見る。14:00より教授会。 すみて『成城文芸』の編集会「50号を200pとし12人にかかす。2月末しめ切」ときまる。 (けふ堀川博士「船越章氏とはいかなる関係か」と。「成城よほど好き学校らし、田中つとまる故」といひし由)。 帰途、佐伯に寄り、請求書1枚追加にとり、『支那文学史』doubleをりを返せば、 Granet『支那古代の祭礼と歌謡(2,100)』と『婦■のはやし(300)』とにとり代へて呉る。(※省略) 11月8日 9:00出て登校。鎌田女史に佐伯の書類わたして大藤主任の印たのむ。「名古屋で大会あり」と野口氏の話也。 けふ小西、田中、増田の3生問ひに来る。帰れば「大伴女史の使ひ来て5千円の礼と手紙と手帛と賜ひし」由。 「賀代嫗も来り、(※家屋代金の既払い分50+)100万円もちゆきし」と。白幡生より電話。 11月9日 大伴氏へ礼状。早川智恵(※宮崎智慧)氏に「一度遊びに来られよ」と。 日本近代文学館の笠井女史に電話すれば「20日すぎ出来上り、(※『四季』原本)返却す」と。12:00出て成城。(※省略) 11月10日 9:00出て成城。久しぶりに昼食に天丼(150)注文し、午食すませて研究室にゆけば「小倉夫人帰りし」と。 けふ大藤、鎌田、野口3氏そろひて名古屋の民俗学会にゆき、われ1人也。(※省略) 川久保より電話「上京中」とのことに「善海見舞はん」といひ、電話かけしむれば「明日14:00~15:30まで」と「東洋文庫にて会ふ」こととなる。 11月11日 婦人画報社へ問合せの電話ユにたのみ2,000もちて東洋文庫。岡田君来ざる故、田川博士われによます。 45分おくれて岡田君来り、松村君来りしも、川久保来ず。神田氏にたのみて出、昼食とり(星博士、前田勝太郎君と会ふ)、ゆるゆる池袋へゆき、 cheeze買ひて14:00かっきり松本(※松本善海)家へゆけば、川久保をり、2時間ほどゐて松本の病気の名わからず。億劫なることのみわかる。 中村橋より阿佐谷行にのり、帰宅すれば阿南氏のハガキ来てをり、川久保夕食して帰りゆく。「けふ家の調査やっと来し」と。 11月12日(日) 夫婦とも礼拝にゆかず。日中雨ふる。宮崎智慧氏より「ハガキ見た。忙し」との電話。 けふ日中われだるくて困る(善海に同感せし也)。『大世界史6』来る。 11月13日 (※省略) 婦人画報社に「本返せ」の電話せしも埒明かず(ユ15:00電話すれば「速達にて送る」といひしと)。 13:00出て中野3-23-38文徳書房といふを探しまはり、しもた家なるに『山海経2冊(100×2+70)』送れといふ。 14:30成城大学。(※卒論指導 省略) われ一等短く「おはり」といへば笑ふ。 11月14日 9:30出て斎藤dr.。待合室には1人もゐず、先生おでまし「眠剤代へていただき宜し」と申上げ帰宅。小西生来り2時間ほどして帰る。 硲氏より『大高』来る。夜、蒲地(※蒲地歓一)夫人より電話「『果樹園』を小高根氏より送られし」と也。 p14 11月15日 悠紀子気付き中山正善氏の死を告ぐ。「管長」よりわが(※天理図書館に)ゐる中に「眞柱」と名、変りし也。 やまとなる布留の川べにゐし時にわれをヌルハチとあだなせしはや。 11:30出て、すし買って登校。食ふ間なく『論語』教ふ。帰途、中野で下車。北口の古本屋にて『かくれキリシタン(260)』買ふ。 あはれなり生き神として歯を痛め妻をふたたび失ひしひと。 けふ婦人画報社より本2冊返る。夜、泰に電話すれば「ぢいちゃん」と云ふ。 11月16日 硲氏へ礼状。天野隆一氏より『山』来しゆゑ、これにも礼状かく。(※省略) 12:00出て成績表わたし、print切り、増田の卒論なほしなどす。 漢文すませ山田教授と話さんとせしも、printのこりてだめ。(※省略) 桂信子女史より『句集晩春』贈らる。 けふ「小笠原復帰、その代り…」と日米交渉。夜、小山正孝氏に「唐詩すすまず」と電話す(不在)。 (※省略) 藤猛boxing西独を破りChampionship守る。今井翠写真もって来てくれし故、泰の分3枚包む。 11月17日 太平天国の歴史にて洪秀全を死なし、午、小倉夫人に「つまらん、死にたし」といひ(田中教授より15級俸ときく。われより後輩にして3級上なり)、(※卒論指導 省略) 帰りて硲氏より「『大高』私の分送りました」とのたより見る。 11月18日 母、赤坂へと出てゆく。(〒、天理より眞柱の「出直し」通知。きのふ貰ひしは『Biblia』也)。 あさ9:00すぎ近代文学館の笠井女史より「(※『四季』復刻版)徹夜の校正しゐる」とて『四季』の特集号につき質問。「申込み150ありし」と。 小山正孝氏より「(※唐詩の訳原稿)おくれてもよし」と。(※卒論指導 省略) 11月19日(日) 夫婦とも礼拝にゆかず。夜、小西生より「水曜卒論みてくれよ」と。川久保よりさびしげなハガキ。 11月20日 雨、終日家居。(※卒論指導 省略) 近代文学館の笠井女史より「22日夕、『四季』もち来る」と。 11月21日 11:00出て斎藤病院。診察受けず薬のみもらひ、嫗と同行。「先生に何でもいへ」といひ、すし(90)買って登校。(※省略) 14:00となり(※コース分け)専攻別見れば文化史77名で1位(「歓迎す」といひし由)。面接することとなり、salaryもらふを忘れて帰宅。 母帰りをり。妹尾に電話し「あす来よ」といひ、文徳書房に電話すれば「品切れとりよせ中」と。 11月22日 9:30出て成城大学。月給もらひ、2時間教へ、その間(※卒論指導 省略) 帰り成城堂に払ひし『大漢和』10回の書類もらひ、 『熊野路』、『秘境のキリスト教美術』買ひ、佐伯に寄り『きりしたん・ばてれん(300)』、『きりしたん大名(300)』買ふ。 美紀子より「雅子ああ、ああ云ふ様になりし。」と。(※省略) 19:30近代文学館の笠井女史(立教で「植村眞久」かきしと)、(※『四季』復刻版)写し2箱と3万円とを持ち玉ふ。 3万円を近代文学館に寄付し、立原のハガキ1枚礼に贈る。(※省略) 11月23日 (新嘗祭を勤労感謝の日といふ) 10:30庄田生来り、12:00まで漢文史料よます。 午后散髪にゆきね北口の古本屋にて『伊豆七島(70)』、『現代人の仏教概論(60)』、南口にて『民俗学手帖(250)』買ひて帰り来る。 蒲地廉一郎君より茶。けふユ、風邪にて臥床。林叔父来り「火災保険に入れ」とのことに賀代嫗にきけば「統夫入りゐるならん」と也。 (※卒論指導 省略) 11月24日 9:00出て成城大学。木桧氏の追悼会に出席の届けし、東洋史の時間に「太平天国」すまし、相談の結果「西太后」やることとす。 (文化史に志望の学生挙手せしむれば7~8人なりし)。午、天ぷらそば大藤氏と食ひ、そのこと云ふ。(※省略) 小倉夫人来し故「時間つぶしに来てゐるか」といへば泣く。(※省略) 堀夫人に電話せしに不在。あとにて電話かかり『四季』つきしと也。けふ母、赤坂へ泊りにゆく。 (紅松君に電話すれば夫人出て「佐治さん12月12日上京」と。「会はせてくれ」とたのむ。) 21:30ごろ澄よりの電話に京出て「兄のところに泊る。本送ってくれる由、年末また来る」ときく。 11月25日 朝がたさめてゐれば弓子「タレカ」と叫ぶ。見にゆけば誰もをらず。あと半眠りして8:40起さる。 賀代嫗より電話「火災保険に入りをらず」と。われも電話して「滝本よこせ」といへば「月曜ゆく」と。 東洋文庫に電話すれば岡田君出て「書類いまかきゐる」と。「ねすごしてゆけず」といふ。 「眞柱の死後」かきし『週刊文春』買ひにゆき、佐伯に寄り石川弘義君訳の『Sexual pleasure in Marriage』買ふ。 『立原全集(4千円)』を買ふ約束す。林叔父来り家に100万円の火災保険つける。史の家財保険も更新し5千円あまりもちゆく。 長野敏一より「月曜視察に成城大学へゆく。会ひたし」と也。しんどし。(※省略) 11月26日(日) 7:00さめ8:00までまた眠り、礼拝ユのみゆかす。田代、岩崎、能勢に「(※縁談)見込みなければ写真返せ」とハガキ。 杉本長夫氏に『四季』複製できたとかき、滝本生来しに泊らすこととす。(※省略) 夜、長野敏一より電話「午后和光へゆく」と。「10:00登校」といふ。 11月27日 9:00出て成城。駅の階段にて長野と同車なりしことわかる。 前田部長に案内し、増田生の文直す内、長野来り「飯くはん」といへどきかず「長女に孫2人あり」と。 午となり野田宇太郎氏■■にてsandwichくひ、別れて下北沢。近代文学館に電話して、伊藤整氏ありやときくに不在と。 仕方なく秋晴れを『星座遍歴(200)』買ひて、井之頭線駒場東大前で下車、書庫の案内してもらふ。 利用者なく『四季』は172人申込ありしと。(※申込者の)内に小倉夫人、成城大学ともになく、彦根の二人と深沢紅子さん、臨川書店4冊などをおぼえし。 帰れば服部(※服部正己)夫人より長きハガキ。田中健五氏より「石田先生のお招きにて来週土曜(12.9)とせん」と。 本位田、西川に電話すればともに在宅。夜「生きのこり」『果樹園』にと書く。 松浦家へ電話し美紀子に「こちらよりゆく」といひ、依子に電話し「『四季』送らず預かる」といふ。 11月28日 (※省略) 母早く帰り来り「ルリ子電話もかけて来し」と。10:00出て斎藤dr.。薬かへていただく。さばずし(120)買ひて登校。(※省略) (午、澄より電話「(※省略)」といふゆゑ、姉弟をり。その要なし)といふ)。小西の家より歳暮。母入浴の間に依子に電話すれば「澄と史とゆく。新聞televiに大きく出し」と也。坪井明より「華鉄クラブへ明日夕来れ」と。「まづゆく」と云ふ。 澄よりまた電話「(※省略)はみなせられた云々、家族をなぐさめにゆくつもり」と也。 11月29日 9:00出て成城。仏教の伝播の話し、(※卒論指導 省略) 1A、Bの文化史志望の選抜17:00までやる。 すませて東京駅前の華鉄clubの坪井たづね「あす近代文学館へゆく」とて笠井女史に紹介かく。「12.10吉祥寺教会壮年会を12:00より」と。 母、赤坂へゆきをり。(※省略) 岩崎昭弥より「心当りあり生年月日云へ」と電話ありしと。 11月30日 母より電話「大帰らぬゆゑ家賃5万円もち来よ」と。宿酔にて成城やすむといふ。(※省略) 「母、気付かず」と。 京15:00すし買って来て食はせしもひもじくてならず。あすも休むこととす。 12月1日 治子より速達来る。「史にもたのんで呉れ」と母に云ふ。 庄田、田中久子の2生、教務へゆき「先生をたほした」といはれしと。「月曜よりゆく」といふ。 大より澄に会ひ「あす16:00まづ阿佐谷に来る。弁護士たのみし」と也。 12月2日 いずみ教会より受取。杉本長夫氏より「『四季』鶴首しゐる」と。(※省略) 近所の医者にゆきしに糖尿の疑ひありと検査し「なし」とわかり、風邪薬くれず注射2本打ち胃薬くれる。 大、豊橋へより史と酒のみ今夜帰京「あす来る」と電話。岡田生より「あす来る」と。 12月3日(日) 13:30岡田生と増田生と来り、(※卒論指導 省略) 15:00大より電話「熱海に泊った。ゆく。」と。 17:00すぎ来て酒のみ「咲耶と伊勢へゆき往復せしのち名古屋に泊り、豊橋へゆき、熱海に泊りし」と。依子にきかれし由。 三好達治かくとて萩原朔太郎関係の本と『四季』『果樹園』もち20:00taxiにて帰りゆく。(※省略) 12月4日 (前略)成城大学に電話し「あすゆくと山田教授に云へ」といふ。酒井賢先生より追悼詩のりし『天理時報』来りし故礼かく。(※省略) だるき故、熱はかれば36℃の微熱あり!小山正孝氏よりの電話に「『唐詩選』やらず、『四季』もやめる」といふ。「近々来訪」と。 (※省略) 12月5日 9:30出て(平凡社より月刊『百科』に「帰郷」のせよ。稿料3千円と。稿料不要との返事出す)、斎藤dr.。「やつれましたね」と也し。 さばずし(120)買って登校。(※卒論指導 省略)  さばずし食ひ乍ら野口君に付添の危険話し14:00よりの教授会。(※省略) 九大教授新城博士採用ときまりしあと、文化史4人と話す。(※省略) 17:00すみて帰宅すれば、澄電話し来り「大、宿賃払ひし。野垣嫗の葬儀に出し云々」とありしと。(※省略) ユ、加藤登記所にゆけば「近々ゆく」と。河北病院にゆけば数男(※柏井歯科院長)居らず、家にゆけば「病間に(※歯科)診察す」と!(※省略) 12月6日 よべnoteつくらず10:10登校。(※卒論指導 省略) 柿崎生と3人を成城堂にまたし定期代3月分(5,400)もらひ、岡谷公二氏と同車。 下北沢にて別れ、3生に新宿であん蜜くはせ、柿崎生を伴ひ『柳田国男集1』貸し、茶のませてかへす。(※省略) 12月7日 12:30出て定期券買ひ(5,400)、ゼミの学生の相手をし、すぐ唐詩やり14:00となり浦島子譚よまされ、研究室へ帰れば小西生をり、泣く。 (※卒論指導 省略) また柿崎、庄田、田中生と帰る。大に電話通ぜず母イライラす。 小山正孝氏より電話「19:30来る」と。(※省略) 小山氏に「二流詩人、反動詩人はこの次には入れざるがよし」「唐詩の訳は到底できず」と(※自嘲皮肉)いひ、beerのませ帰ってもらふ。 「数男けふ入院した」と。 12月8日 朝、不快にて迎へ酒し、大学へ「休講」いひ、午まへまた伊藤副手に「妹尾生に本かせ」といはす。 大に母電話かけ11日上京の澄と会ふこととならん。小高根二郎氏より受取と「事件収まった」と。(※省略) 母に電話し「風邪にて日曜のおめでたに出られず」といふ。 12月9日 10:00すぎ小西生来り(※卒論指導 省略) 全田叔母より「佐治先生来りし。ありがたくなし。娘、婿に感謝す」と。 服部夫人(※服部正己未亡人その子氏)より「眞柱の出直しつらし。服部に別れて以来、毎日の生活つまらぬ」と。 『黄山谷』来り、講談社より菓子来る。夜、柿崎生に電話すれば「新聞の校正にゆきし」と母上の言に唖然とする斗りなり。 『果樹園142』来り、依子に電話すれば「18日まで(※省略)」と。大に電話すれば「11日来る」と。 母とユと数男の見舞にゆけば「餓鬼」と。年賀ハガキ400枚(2,150)出来る。 柿崎生21:00電話し来り「先生に見てもらってからでないと清書してはならないのでしょう」と。 p15 12月10日(日) 礼拝当番とてゆきし。(※省略) すみて階下にゆきXmas祝会に出る。(※省略)14:00まへ了る。(※省略) 帰りて茶漬一杯くひ、15:20来し小西生に5枚かかし(※卒論指導 省略) 澄より電話あり「あす19:00くる」と。 12月11日 9:00出て成城。bonus23万余もらひ、柿崎生まちてすまし午めし食はず出て中野にてrice-curry(100)。 佐伯に寄り『今昔物語(4千円)』、『立原道造全集(4千円)』買ひ、届けてもらふ。 帰れば増田生の父上よりbeer1打、大伴道子氏より忘年会の案内。(※省略) 第4次『四季』3冊来る。堀夫人に電話し、 19:00来し澄、大と23:00まで話す。(※省略) 12月12日 澄ねてをり、9:30出て祖師谷の酒屋にbeer1打包ませつつ1千円しかもたざることわかり「明日来る」と名刺おき、 増田家探しまはり、たどりつけば「夫人病気」と会はさず。「のちほど物届ける」といひ、(※卒論指導 省略) また例の酒屋にゆき地図かきて届けてくれと云へば「承知、配送料いらず」と。 けふユ、斎藤dr.にお歳暮のwhisky(5,000)もちゆきしと。 小西生来り「書けるでせうか」と。あす16:00より2時間と約し、(※卒論指導 省略) 田代継男氏に電話すれば「外出中、私は何もきいてをらず」と夫人冷たき声なりし。「17日の会出られず」と大伴道子氏の台所に伝言たのみ、 澄よりの情報の電話きく。(※省略) 松枝茂夫氏より『紅楼夢』抄訳いただき、頼さんよりChristmas-cardと切手一そろひたまはる。 12月13日 9:30出てのろのろ運転にて10:40成城大学着。文化史の時間は補講することとし、昼食しおしゃべりす。 鎌田女史「矢野副手よりイヂワル婆さんの贈物受けた」と大いに笑ふ。(木桧氏の15日の会に出られずと2千円わたし受取かかす)。 中国文学3行やりてすまし研究室に帰れば、鎌田女史紅茶たまふ。 『世界の宗教』、『日本仏教思想史』成城堂で買ひ、阿佐谷駅にて小西生に遭ひ、先に帰らしGas-lighter直さし、ゆっくり教へゐるところへ、 佐治さんより電話「祈り下され」とたのみ、下痢とて雑炊くふ。(※省略) 「数男明日退院」と。 p16 12月14日 10:00妹尾生と会ひだいたいすむ。短大中国文学すまし、小西生に「家へ来よ」といへばきかず、にらみつけ、来させることとし、 夜20:00名古屋に電話するまで神戸に3回かけ、澄の教へし番号にてはわからざりしを神戸の人教へてくれ、小西の母承知す。 12月15日 9:00出て東洋史やり、西太后の時代あとまはしとす。午、妹尾生来り、(※卒論指導 省略)  帰れば小西生来てをらず、18:30まで待ち21:00まで6枚かかし22:00ねさせる。 ユ、登記所に和田の三文判わたし、『大高(2,700)』とり来る。 12月16日 8:00すぎ小西生おこし、書かせ、散髪にゆき(400)、一旦帰宅せしめて、丸にゆく。 (『大高』もちゆく。「末女薬大卒業、重俊2日講師としてこれでよし」と)。 帰り財布と風呂敷をなくせしと思ひ騒ぐ。夜22:00ごろまでやり眠らせれば0:30、妹迎へに来てユ、緑屋まで送りゆく(滝本生来る)。 12月17日(日) 礼拝にゆかず。小西母より「9:00ごろ娘ゆかす。祖母大したことなし。娘泊めるな」と。9:00より15:30まで小西生教へ、 きのふ叱りし『四季』の(※原稿)「柳田国男先生」返却を受く(※前日日記に該当電話記事なし)。 夜、台湾の頼、楊2教授と菊池夫妻にChristmas-cardかき、四季編集所へ脱退の通知をす。 『不二』へ3千円賛助ときむ。数男わが言ききて「月曜より再入院」といひ来る。 12月18日 9:30小西生来り10:00よりはじめ(『不二』へ3千円、頼、楊2教授にChristmas-cardユに送らせ、われいづみ教会に3千円献金し)、 『島木赤彦(50)』買ひ、(※省略) 帝塚山同窓会より会報ページ35pにてのせられずとのことわり見る。 16:00小西生追出し、またしばらくして2冊とりにくる。17:00出て四谷見附。taxiつかまらずNew Otaniにてつかまへゆけば松村君まちをり。 「羽田、この間より度々上京」と。龍土軒にゆけば谷田博士御夫婦、令嬢またる。『文芸春秋』よりは田中健五氏ほか4名。 岡田(医科歯科大学長の息とわかる)、松村、神田3氏とで『大唐の春』の感謝の会。石田先生20:30までつとめらる。 四谷見附までハイヤーで送らる。(※省略) けふ澄より「(※省略)」と電話ありしと。数男より「入院せず」と電話。 12月19日 小雪の中を傘もたず、9:30出て斎藤dr.。患者1人。先生「来週も来よ。便意ある薬なり」と。 出て小田急駅内にて鯖ずし(120)買ひ、12:00着き印押す。14:00より教授会。卒論のthemaおくれしを問題とし、ついで世界旅行の説明あり。 上原氏「今年もやる。57万円で26日ギリシャ、イタリヤ、フランスを主とす」と。専攻4人あつまり短大より受入れ「1人とせん」となる。 「忘年会欠席」とて帰宅。(※卒論指導 省略)  けふ上原教授はじめて研究室へ来り木桧氏の追悼会に出ざりしとて『追悼文集(500)』置き1,500返還さる。 林素梅より「品物受取った。クリスマスを喜ぶ」と。弓子『文芸手帖』呉る。もとよりわが名なし。 (卒論題目集にて来年の大藤ゼミ12人、田中ゼミ5人、池田ゼミ8人、鎌田ゼミ12人、野口ゼミ8人、山内ゼミ3人。) 12月20日 8:00起き登校。(※卒論指導 省略) 午后、中国文学やり咳しつつ帰り来り『興宣大院君と閔妃(260)』佐伯にて買ひ、帰宅。 中野清見より7回生の思ひ出を出すとの案内来る。「小西生家には電話せし」とユ。澄より漬物。『大世界史7』『日本の詩歌4』着く。(※省略) 12月21日 駅にて鼻おほひ(30)買ひて、登校。9:30なり。10:20に291教室へゆけば17人のみ。仏教各派の説明し11:30となるも質問もなし。 柿崎生に遭ひて貸本返却受け、昼食に四川羹(350)のみ、(※卒論指導 省略) 別れて佐伯に寄り『日本に於る中国文学Ⅱ』、『支那俗語文学史』買ふ。(※省略) p17 12月22日 8:00起き(よべ9:00眠りし)10:00成城大学。中国文学史の補講をす。午35分休み(『平妖伝』成城堂で買ふ。) (※省略) すまして帰り阿佐谷の新本屋で『誤訳愚訳』を買ひて、賀状20枚ほど(恩師長上)にかき、ユに入れにゆかせ、 (澄より「建、大、史と4人名古屋で会せし」旨、電話ありし)。『誤訳愚訳』よめば前野直彬の唐詩の訳を指摘す。(※省略) 妹尾姉より「夏は受取ったではないかも一度送る」と。「夏のは御返しのことした。(※お歳暮)送れば送り返す」といひてすみし。 母より建の手紙につき電話ありし故「その中に上京するとありし」といへば「皆変なり!」と。(※省略)。 12月23日 6:00すぎさめ、9:00をまちて下痢止めに医者へゆきしに往診中と。(※省略) 建より「本位田局長に云々」の電話、黙殺することとす。柏井数男にも「むりするな」と重ねて云ふ。 庄野英二氏に「同窓会の(※寄稿没の)非礼咎めよ。原稿返させよ」とハガキ速達す。 赤川氏来り、塩せんべい賜ふ(beer3本もちゆきもらふ)。潮流社にその前電話せしに「社長まだ来ず」と。 赤川氏「このごろ正宗白鳥邸へ掃除にゆきをり」と。潮流社八木氏より電話ありし故、「(※『四季』同人)脱退の届受取り3人に知らせた」と。 贈呈181人を300人といひしを咎めしに、「それは私の知合」と。これにて電話きり、 小山氏の電話きき「『誤訳愚訳』よみしや」ときけば、「半分よんだ」と。「そのうち」にと切り、(※省略)、 「うつぎ」にゆき、『星の研究(500)』買ひ、一度帰りまた出て佐伯にて『八犬伝(30)』、『御伽草子(20)』買ひ、すし(110)買って戻り食ふ。 ユの出しあと岡田父より歳暮しゆゑ「受取らず」といへばもち帰る。そのあと岡田家に電話せしに「夫人不在」と。京、jar買って呉る。 12月24日(日) 6:00覚め礼拝への途、北沢長谷川夫妻と同車。受洗4名幼児1名。かへれば笠井かほる女史よりChristmas-cardいただきあり。(※省略) 蒲地夫人より歓一氏の宗教と征服否定の詩のりし『斯文』来りをり。 佐伯にてきのふ買はざりし『仮名草子(40)』買ひ、母に電話しなどせしのみ。寒し。(※省略) 名古屋に電話すればトボ「クリスマスおめでとう」といふ。 12月25日 6:00さめ茶わかし新聞よみteleviにて「旅路」見て朝食pao半片。 ユ、眼医者にゆきがけ、田中マリ子Ghosh姓となり帰国、夫と子と3人の写真入りChristmas-card。(※省略) 古本屋にて『江戸と上方(230)』、『俳文学集(220)』買ふ。18:00小山正孝君の代りに鈴木みゆき氏来る(「お茶の水大出て2年目」と。話にならずとお茶のませて返す)。 「小山正孝君すぐ来い」といへば「家内病気」と来ず。絶交申渡す。山本邦子生よりの贈物、郵便屋にことわりてもち帰らす。 12月26日 10:00ユと阿佐谷駅にて会ひ(※省略)、斎藤dr.。12:00近くまで待ち、すこし躁と申上げ、この一年のお礼いふ。次は1月9日なり。 薬とるユに先立ちて出、歩いて紀伊國屋にて『誤訳(250)』探しあて入口にてユ待ち、二幸にてとろろそば(140)食ひ、 佐伯にて『文芸春秋正月号(100)』、村松剛『ユダヤ人(100)』買ひて帰宅。(※省略) 学習研究社より電話「則天武后、楊貴妃かかぬか」と「かかぬ」と云へば「誰か代りを!」と。「無礼を云ふな」と咎めしあと、田中健五氏、茶1箱もち来たまふ。『文芸手帖』のこといひ笑ふ。夕食後、母に電話せし。恰も大帰宅と。(※省略) 12月27日 6:00さめ(※省略) 小高根二郎氏より「同人費受取った。(※復刊『四季』の活字の)大字に吃驚した。四季の方は何とヘマか云々」。 成城大学図書館につとめゐる西田氏より「彦根での知合」と。(※省略)  中国文学史に聊斎志異の狐を教へゐるところへ、佐野竜馬氏(中公出版局第一出版部)(※山岸外史娘婿)来り、横堀談義きき15日以後再来と!(※省略) 小武守生送りて佐伯へゆき聊斎なき故、かねてよりある『李白』買はす。われも『正月の行事、島根県岡山県(900)』買ふ。(※省略) 12月28日 6:00前さめ賀状かき、楊雲萍教授夫妻と青山定雄教授夫妻とのChristmas-card受取る。2回に分けて賀状出し「ハ」まですむ。 (※省略) 17:30小山正孝君来り、絶交とく。(※省略) (不二歌道会よりbutterもちて来りし塾生にきけば、旅順生れと)。 12月29日 6:00さめ(※省略)、植木の手入れに本多さん2人にて来りしゆゑ、けふ「一日にて」と松の枝伐りたのむ。(※省略) 小西泰子生より「結果!を待つのみ」とる笠井かほる氏より『日本の近代詩』贈られ、礼の電話かければ「きのふより休暇」と。 数男に電話かければ「診察中」と恵。(※省略) 賀状出しにゆき、歩きゐれば関東大径鋼管専務日原喬夫氏、帝塚山同窓会長代理としてあやまりに来り、物呉れんとする故つっ返す。 佐伯へゆき今年最後といひて『流行うらがえし史(330)』買ひ『シルクロード美術展』もらふ。(※省略) 夕方、(※鶴巻温泉)陣屋東京営業所に電話かけ1月9日(火)14:00より1泊3,500以上の室2人と予約す。 12月30日 よべ23:00すぎ京帰りしと。6:00前さめ賀状かき、柏井尚子ひるまへ来しとめしに。「銀行午まで」と逃げゆく。(※省略) 母のとりつぎにて宮崎智慧女史「大宮八幡にて一人退屈」ときき「あとでゆく」といひ、賀状了へ、阿佐谷よりtaxi(220)16:00まで説教す。「はじめ酔って来たかと思ひし」と!色紙2枚かき、保田の自殺せしむすこはハルヒ(※保田直日氏)と教はる。帰途歩くつもりなりしもtaxi拾ひ、阿佐谷駅まで120! けさ松浦母上に電話せしに「元日午后お宅へ」と。「よこさずともよし」といふ。大より母へ「元日午后来る」と電話ありし。 夜、母に3万円借りてベニヤに30,800払ひにゆかしむ。 12月31日(日) 早く起き、ユを促して本多さんに植木代払ひにゆきしに留守。われのみ駈け足にて礼拝にゆけば齋藤齋先生の隣り。(※省略) 本多さん5,200なりしと。平凡社より「御意にそふ。本送る」と。数男見舞にゆけばやせてをり。 (けふ澄より電話「史ら下田にあり。1~3日当直。4日3人にて高松へゆく」と。) 田中克己日記 1968 【昭和43年】 p1  承前、昭和42年の解説に記しましたが、この年いよいよ叢書『日本の詩歌』第24巻(丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎)(中央公論社)が刊行されます。  同様のアンソロジーは翌年、角川書店からも刊行され(『現代詩鑑賞講座』第10巻・現代の抒情)、こちらは11人の選集ですが(三好達治・丸山薫・田中冬二・伊藤整・伊東静雄・立原道造・津村信夫・神保光太郎・蔵原伸二郎・野田宇太郎・阪本越郎・田中克己)、日記にあるやうに、詩人に最も親炙した後進である福地邦樹氏を解説者に推薦した詩人は、自らも新たにエッセイ「「コギト」の思い出」を書き下ろしてゐます。  ベストセラーの角川文庫『ハイネ恋愛詩集(改版)』は、この年1万冊の増刷が二度も掛ります。すでに刊行されてゐる集英社『漢詩大系:白楽天』、文藝春秋社『大世界史:大唐の春』、筑摩書房『世界の歴史:東アジア世界の変貌』、そして翌年刊行される、平凡社『中國古典文學大系:唐代詩集 上』と、新刊本書店の文芸・歴史コーナーに大手出版社各社からの著書・訳書が並ぶやうになったこの時期、詩人田中克己の名は、東洋史学者としての“箔”を付けた格好で、この『日本の詩歌』『現代詩鑑賞講座』2冊により、近代抒情詩人の生き残り代表として認知されます。(詩人自身はこれを“詩壇と学界とどっちからも疎外”と卑屈にとったりするのですが。)  5月19日に前橋で行はれた萩原朔太郎研究会への出席は、運気の為せる最も象徴的な表れでしょう。(※写真参照。集合写真に戦前からの抒情詩人は見当たらないやうです。現代詩詩人の面相が分からないので御教示をお待ちします。)  研究会へは昭和40年に一度講演してゐますが、今回は往路の車中、向かひに座った西脇順三郎と一言も口を利かず、同席した萩原葉子氏をハラハラさせたとの面白い逸話があります(※杉山平一との対談参照)。抒情派の旗色が悪かったこの時代の詩壇で、モダニズム派の巨擘と目されてゐた西脇順三郎が、現代詩の発祥者たる萩原朔太郎の後進代表を任ずるやうな格好になってゐたことについて、  (前年3月6日、小山正孝氏来り「西脇一派は朔太郎の正統つぐ」といふ由。)  との記述があり、彼ら旧『四季』同人なりの不満を語り合ったのではないでしょうか。  しかしその小山氏ほか、『果樹園』の盟友である小高根二郎、また『日本の詩歌』の解説を書いてくれた阪本越郎からも、脱退した復刊『四季』への慰留を望まれたものの、詩人は四季派の牙城となった潮流社(具体的には編集にあたった八木憲爾氏)との関係を修復することができませんでした(昭和42年解説参照)。 p2  さうして一方の日本浪曼派関係の面々の誘ひからも、何となく距離を置かうという姿勢が窺はれます。  さきの角川書店アンソロジーに付す解説文章「コギトの思い出」を書き了へ「面白くなし」と記してゐますが(7月28日)、保田與重郎に対する屈折した感情からなのでしょうか。そうであれば手放しの賛辞も何だかよそゆきの言辞に見えてしまひます。  12月17日には、「『Politeia』来をり、ゲロ吐く思ひしてよみ了る。」 という激烈な書込みがあります。こちらは東洋大学運営に関はる紛議により犬猿の仲となってしまった元同僚、芳賀檀が載せる文章、および杉山美都枝(若林つや)の回想「高原の星二つ 立原道造と沢西健」において、芳賀檀に配慮した描写と、ことにも田中克己のことが「誰かの詩集の出版記念会」、「「四季の人々」という誰かの書いたもの」 などと故意に伏せられてゐることを指してのことかと思はれます。(文中にある、立原道造の枕辺に弥勒菩薩像の絵葉書をもってきたのも田中克己であれば、ここでも直後の芳賀氏の発言にピリピリ反応したことでしょう。よく読むと若林つや氏はどちらかに肩入れしてゐる訳ではないことも分かります。当時のエピソード満載の文章ですので一読を。)  不二歌道会との付合ひは相変らず続いてゐますし、北海道勇払に建てる浅野晃詩碑の発起人にもなってゐるのですから、このあたり、キリスト者としての思想的なものではなく、あくまで対人関係における相性・好悪によるものといへさうです。  一方、「津村信夫詩集の秀夫兄の文見てをれば、あまり気持ちよくなきはなぜかわからず。(2月26日)」  とあるのは、角川文庫『津村信夫詩集』の解説「弟信夫の追憶」を指すものでしょう。読んでみるに、昭和19年2月ごろ津村信夫の病状が一時悪化した際に「兄さんが早まって大騒ぎをしたので四季の連中が沢山見舞ひに来てくれて驚いたよ」との条りがあり、  自分にはその速達通知がなく、2月6日堀辰雄を訪問した際に同席した塚山勇三、鈴木亨、小山正孝とともに彼の重篤の報せを聞いたのに、見舞に赴かぬまま亡くなってしまった――このことを指してゐるのではないかと思はれます。(後年の『津村信夫全集』栞の文章「敬愛する詩人」には、この悔いを糊塗するやうな文章「私はそれ以前から病気の人を見舞うのは大変嫌いだった。というのは私の見舞った病人はたいてい死んでしまう。」と綴られてゐます。)  「自分が思ってゐる程には思はれてゐないのではないか、といじけることが多かったのでは」と言ってゐた詩人ですが(長女依子氏談)、  このたびは萩原朔太郎を顕彰する場に、謂はば抒情詩派から唯一人の代表として招かれもしながら、抒情詩復興の気運をともにすべき詩人たちと歩調を合はせて行動することを得なかった事情は惜しまれ、癇癖と躁鬱とを抱へてゐるとはいへ、やはり「亢竜」だったのでは、との思ひを抱かずにはゐられません。 p3  さてプライベートでも、田中家に男子が誕生し、阿佐谷の家屋も正式に購入・改修と、喜ばしいこと尽くめなのですが、 「悠紀子を3ケ撲る(1月4日)」、「二つ撲れば逃ぐ(1月22日)」。 と、残念なDVの記述が「躁」症状に付随して顕れてゐます。  斎藤茂太院長へと相談におもむき、わざわざ日録に記してゐるのは、自戒の意味を込めてのことでしょう。ですが明治男の気質はキリスト教に改宗しても渝ることはなく、斎藤ドクター自身が「うちでもスローモーションで時々やるが後味わるくてね」なんて回答するところにみられるやうに、(もちろんそれは相手が“患者”であることを気遣ってのことなのですが、)家長が振るふ暴力に寛容ならざるを得なかった当時の家庭と社会とを念頭に読むべきことかと思ひます。  職場では相変らず外面よろしく、躁状態にあっては、流行りのボウリングに興じてのち学生に内緒を強いたり、仕事で来てゐる女子編集者にも立原道造や堀辰雄の手紙を気前よくあげてしまったりしてゐます(羨ましい!)。  教授が教へ子を呼んで泊りがけ前提で卒論を指導するなどといふのも、今では考へられぬ古き良き大学生活の姿であったかもしれません。もっともその実態について悠紀子夫人は、 「泣かされなかった子は一人も居ませんでした。」と述懐されてゐる訳ですが(笑)。  この年の日記でも、私生活で世話になってゐる卒業生に出入差止を言ひ渡し、去年の小山正孝への絶交と同じく、間もなく撤回してゐます。父親に対する次女弓子さんの遺恨についても記されてゐますが、「縁なきゆゑ後妻となれ」とか滅茶苦茶で(苦笑)、自分勝手で強引な見合相手探しにはさぞかし閉口されたことと思はれます。  人のことを言へた義理ではないですが、詩人は一体に人物を見る際に、猜ふこと(危機意識)薄く、脇が甘い(やうな気がします)。度重なる転職の荒波を、学芸上で結ばれたコネクションに助けられてゐる詩人は、肩書(権威)にたいへん弱く、弓子さんの見合相手を探し回る際にもそうなら、一方で、この年関西在住の服部正己未亡人を自宅に何日も泊らせ、亡き級友の著書再版計画に助力するやうな、旧制高校の友情を理屈抜きで尊ぶ永遠の青年らしいところとも無縁ではありません。(だから面白くて日記を写す作業が苦になりません。)  後年、詩人が逝去するとすぐ、天理図書館時代の元同僚から厭味満載の人格攻撃を文章で被ってゐますが、傍目にはいい気な感じにみえる詩人的性格に反発を覚えた人は少なくなかったことでしょう。ですがこの年、その人物が雑誌に応募して落選したと田中克己本人に伝へる詩人評には、讒言など一言も書かれてゐなかったことと思ひます。運気が天を突いて巡ってゐるとは、さういふ事なのだなあ、と、日記を写しながら思ったことでした。 p6  この年の出来事を記します。 1月 8日 鶴巻温泉陣屋宿泊。 1月22日 「高見順『昭和文学盛衰史』買ひしに、保田を畏れをり。蓮田善明、田中克己は記載なし。」 2月13日 「20:00ごろ小山正孝氏来り、『四季』脱退残念と!」 2月26日 「津村信夫詩集の秀夫兄の文見てをれば、あまり気持ちよくなきはなぜかわからず。」 3月10日 『日本の詩歌』解説担当の阪本越郎と面談。「花をも賜り『四季』に還れと云はる。」 4月 2日 浅野晃詩碑発起人を受諾。 4月10日 『四季』2号来り、同人名簿に名前残るを知る。 4月28日 角川書店より「『ハイネ恋愛詩集』5月中旬1万部増刷。」 5月 7日 「栢木喜一氏より「8月桜井にて講演しろ」と。「体弱り出来ず」と答ふ。」 5月19日 前橋で行はれた萩原朔太郎研究会へ出席。 6月 3日 角川書店『ハイネ恋愛詩集』改版5版1万冊の増刷掛る、計30版。 7月 6日 「入江春行君より『群像』に「詩人とは何か──田中克己について──」応募せしも3次で落ちたと!」 7月17日 「中央公論社の鈴木女史来り7月8日とりし写真賜ふ。頬こけ写りをり。礼に立原のハガキ1枚。」 7月29日 角川書店『現代詩鑑賞講座』第10巻 (現代の抒情 現代詩篇 第4)への掲載依頼。解説者に福地邦樹を推す。 8月 3日 「小高根二郎氏より「中島栄次郎のことかけ」と。」 8月21日 「けさ保田のこと南北社のため10枚かく。」 9月1日 筑摩書房『世界の歴史6・東アジア世界の変貌』(「玄宗と楊貴妃の世界」収録)増刷5千部。 9月 2日 「小倉女史来りし故、道造の筆蹟与ふ。」 9月16日 新刊『日本の詩歌』を手にする。 9月24日 「海江田副手に堀辰雄の昭和21.6.3のハガキ与ふ。」 10月12日 角川書店『ハイネ恋愛詩集』改版6版1万冊の増刷掛る、計31版。 10月19日 長男、史氏一家に男児誕生。 11月2~5日 服部正己未亡人滞在、亡夫の『ゲルマン古韻史の研究』の再版に奔走するもならず。 12月 1日 義母、弟宅へ移りゆく。 12月17日 『Politeia』記事に不快感。 p7  p8 p9 昭和43年 1月 1日~昭和43年 3月31日 25.2cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p10 1月1日 9:00雑煮くひ、そとへ出て杉並郵便局へ林素梅小姐と吉森夫婦への航空便出す。 (ユとのかけにかち1,000円とる。ただしよべの紅白歌合戦はユのみ勝ち50×4とりし也。) 賀状みて難波和子の来しに銀行の無礼咎め、滝本生来しと話す中、史夫婦、雅子をつれて来る(15:00)。 松浦家へ追出せしあと17:00大来り21:00まで酒飲み話す。 角川文庫より72,800(ハイネ)の印税来り、史にきけば「12.28出しの小切手1967年度に入る」と。 1月2日 母、滝本生につれられて東京駅(10:59発、湯河原へと)。大によれば「年末陽生2万円返金に来り、あと千草のhysterieの電話ききし」と。 賀状出しにゆき賀状受取。(※省略) 田代継男氏呼べば来り「新聞社員に弓子を」との結論いひて16:00出る。 駅まで送りハガキ40枚かひ『屈原(150)』買ふ。目加田誠氏、九大より早大へ移りをれり。 平凡社より『日本──歴史と文化』稿料代りに賜はる。18:00まへ、大やっと悪態つきて出てゆく。 20:00東都書房より「花の便り」組上げすみ「承諾たのむ」との速達。 1月3日 東都書房へ断りかく。(よべ21:00眠り6:00さむ。) 賀状の返事かく。 9:00賀状出しにゆき堀多恵さんに夫婦してゆき(留守に早川智慧氏(※宮崎智慧)来り、茶碗くれしと)帰りて昼食。(※省略) 賀状朝夕見しに松本善海なきゆゑ、(佐伯に2度ゆき1度は青木書店見、家につれ帰る)電話して、 夫婦して会ひにゆき「震戦マヒ(※パーキンソン病)」ときき、斎藤dr.にゆかんといへどきかず。 むすこ嫁とり19:30来るをまてずtaxiにて帰り来る(480)。 松浦父上より電話あり「史ら5:20のりし」と。電話かければ母上出しゆゑ礼いひ武田兄の賀状なきを案ずといふ。 (けふ佐伯にて買ひし雑本、夫婦にて6冊、青木氏によれば「佐伯を意地悪爺と業者いふ」と)。壽賀子に長電話して叱る。 1月4日 晴。4:00さむ。弓子7:00ごろより和装しかけて美容院にとゆく。9:00ユ、松本夫人に電話せしに「変りなし」と。 林叔父より電話「けふ母ゆく」といふ。ユ俊子姉に電話すれば「光子産院に入りし」と。散髪にゆく。 大に電話し、この間の晩の電話咎め「3人にて来い」といへどきかず。(※省略) 賀代嫗来りし故、非礼なじり(母と大船で何とか会へしと)、滝本生の出入差止を云ふ。船越にゆかさず。 1月5日 9:00林叔父叔母に泊りしユに電話さす。「寿賀子に寄りて夕方帰宅」と。タバコ買ひ、佐伯にゆき『インドで暮らす(80)』買ひ、賀状整理。 午となり太田温子に賀状出さぬを問へば「成田へきのふゆき風邪なれど来る」と。林富士馬君に電話、文章咎め、 宮崎智慧さんに一昨日のわびいふ。「7日来るつもり」と。 太田温子を迎へに家のまはりにゆき13:25に会ひつれかへる。日本髪にて来る。面接のNo.1なりと脅かしゐるところへ母をつれて寿賀子来る。 17:00喜多村鈴子生、会社ひけたとて来る。cakeもち来り『人間の星』もちかへる。寿賀子の帰りつきしをきく為、電話すれば寿一出て来る。 田中久子生に20:30電話し「あす午前中来い」といふ。 1月6日 久子に「洋装で来い」と云はせ、畑山博に電話すれば「洋行3回。12月3日理事やめた。塩山の三沢老師いざとなれば東洋大へ出てゆく云々」。 田中勤未亡人に電話すれば「正平博士23回忌に案内なかりし」と。 午まへ田中久子と話す中、(※省略) ボーリングの前で待つといふ太田治子、菱田槇子と保坂生とへゆき5人でやる。 保坂最上位、太田最下位、われ4位にて茶のみ、走り帰れば豊田智慧子・美智子の母子まちをり。(※省略) 天野忠より去年9月の詩集(※『動物園の珍しい動物』)、竹内の『魯迅友の会会報40』、中井清『丸山薫の世界』来る。中井氏著を(※豊橋の)史に送ることとす。 夜、太田治子に電話「ボーリングのこと他言無用」といふ。 1月7日(日) 弓子をボーリングにさそへどもきかず。寿一に「よけいな世話やめよ」の電話すれどきかず。 佐伯へゆき『東海道新幹線(110)』買ひ来る。(ユ、われが礼拝にゆくを許さず)。 12:00ユ、帰り来り、14:00出て数男みまへば憔悴しをり。三郎家にて「5日朝光子男児生れし」をたしかめにゆけば、61才と孤居しをり。 (※省略) 帰途今井家を通り、尚子の妹に北京にてといへば「どこかわるきや」と、わがstickに不審起す。 かへりて賀状見て佐々木邦彦の元旦詩筆の画を見、母のすぐ赤阪へ逃げしを知る。 「宮崎智慧さん19:00来る」とて大阪ずし食ひて待つまに (※省略) 19:10宮崎智慧さん、弓子に縁もち来たまふ。 1月8日 3:00さめ(22:00ねむり)ゴタゴタ、ユと話す(弓子ききつけて怒り早番とて7:00出てゆきしと)。 6:00散歩に出、ハガキ10枚駅売店で買ひ帰宅。8:00陣屋に2泊1人を申込む。「けふは3,500以上の室ありなしわからず1万円にてよし」と。 9:00まへ悠紀子より先に出て齋藤dr.。松本善海の病気につき申す内に悠紀子来る。「天才と思ってはダメ」と也。 出て二幸にてユとそばくひ、別れて東豊書店にゆき『天工開物(150)』、『台湾島々歴史輿地誌(350)』買ひ、また小田急にのり東北沢で下車。 近代文学館の笠井女史を訪へば「兄は牧師で詩人、いま雪中で孤りゐる云々」と。Lunch饗しつつ聞き、井之頭線で下北沢下車。 古本なきにおどろく(「暦」を買ひし)。 よしと思ひ、14:20鶴巻温泉陣屋をたずねあて室に入り、係り女中にきけば宮崎邦子(38Aにて本多弘子、鈴木勝美のクラス。高田semiにて直哉かきし画の上手)婿とり(準養子紫藤姓)、1.7才の女児ありと。のちほど丸まげにて来り、beer1本出す。 「20:00名古屋より史帰る」とのことに「娘つれて来よ」といへば20:30電話かけ来て「来訪せよ」と。「入湯する」とことわり22:00就寝。 1月9日 5:00さめ6:00帳場に電話し、ガス煖炉つけなどし、9:00の配膳まで待つ。(きのふ常務のもち来し柏餅みなくひし)。 10:30来し常務に「書画見せよ」といへどきかず、「二度と来る勿れ」となり。はふはふ出て成城着12:00。 研究室開きをり、鎌田、野口2氏とあひ、論文3冊とり、(※省略) 野口君電話して陣屋にまたゆき、すしとらせ(180)、髭そって出、帰宅。 (※省略) 1月10日 10:00眠り5:00さむ。ユ姉に電話し、写真のこといひついでに数男入院とわかる。(※省略) 9:30佐伯へゆき留守の坊やより『北郊雑記(50)』買ひ来る。(※省略) 午食すしとりしあと、太田治子よびボーリングしてわれNo.1。(※省略) 今日、京2日泊りにて苗場山へと出てゆく。20:00すぎ澄に電話すれば呆けた声にて「高松滞在は4日間」とのみ。 1月11日 よべ21:00就寝、4:00覚む。(そのまへねぼけて門まで出し)。 茶のみ菓子くひ、またねむり「トボ」ねごとにいひ、岡坂一福(※浪速中学校校長)と遭ひしところにて覚む(9:00)。 12:00まへ午食して登校。彦根より図書館に来し西田氏(55~56才と)訪ねしも会へず。(※省略) 短2A「長恨歌」1/3すまして了へしに小林生ききに来る。疲れて母に電話し(44才と)家へつれ帰り19:00までなり、あとは土曜となる。 (ユ明るいところまで送りゆく。) (※省略) 1月12日 1:30覚め眠れず。炬燵に火を入れなどし、7:00ユの起きるを待てば、よべ宮崎(早川)女史より電話「見合はいつか」と逆に問はれしと。 9:00出て成城大学。(※省略) 小倉生『道造全集』ゆづれといふに否といひ、中西博士からかひ(彦根より来し西田氏に逢へば藤野(※藤野一雄)の友といふ)。 すみて小田原へ三好達治の趾見にゆきしも寒し。さむざむと箱根の山におほはれし夜の町にゐてわれは歌はず。 天津の栗を欲りせし女をばあはれ知るかにわれは見やりぬ。 (※省略) 建より「弟を弓子に合はせよ」と。弓子、母を芝居につれゆく。われ夕方より低調となる。数男手術せしと。 p8 1月13日 6:00さめ(母「帰り来て声かけしに返事せし」と)、火おこし7:30小林生に来よと云へば「午后」と。 8:30松村潤君を面罵して「研究会にゆかず」といふ。9:30佐伯にゆき朝鮮僧の詩集「若槻礼次郎閣下に献ず」とあるを3,500とつけあるを嗤ふ。 東洋文庫に電話すれば岡田君出て泰然自若、われの欠席を認む。『明と清の決戦』の評を『東洋学報』に書くといひ「よし」となる。 (※省略) 17:30ユ帰り来り「惚れた」様子、月収4万2千円2DK1,000の家つきと。大に電話すれば在宅。 けふ母と話し、わが「失敗を父、知らざりし」と也。20:00京、帰宅。20:30弓子、帰宅。機嫌よし。 21:00まへフト数年にての還暦祝を上野精養軒で行ふこととし、招待者を定む。 親子弟妹、斎藤dr.、北杜夫dr.、栗山理一dr.、大藤時彦夫妻、浅野建夫dr.、竹森先生夫妻、森田先生夫妻、集英社鈴木重役省三、齋藤晌dr.、横山薫二dr.、田中健五dr. (わが還暦祝) 43.1.13 弓子の見合の日 1月14日(日) 5:00まへ覚め茶をわかし「サルフの戦」きのふ200×3書きしつづきをやる。 6:00より老母と今井たけ祖母のこと話し「維新の時江戸へ逃げる身分ある夫婦が中川(与力?)にわたし神前家で育てられし」と。 俊一祖父とのこと話し涙出づ。7:30ユ起き出、8:00ひげ剃り9:00出て吉祥寺(Americanといふ菓子とjuice240)9:20教会につき竹森先生と話まいらすれば『大世界史』は見てをられず「9月渡米、Christmasはドイツで」と。 その中お伺ひすといひ、礼拝委員つとめ、帰り『人は何で生きるか(20)』買ひ、竹内好夫人に電話すれば「風邪で臥床」と。「その内お見舞す」といひ、 ユと電車同じくなり、佐伯にて『神皇正統録2冊(100)』と『地下墓所の殉教者(20)』と買ひ帰宅。 百瀬弘氏より「その内に松本を見舞ふ」との便りあり。『民間伝承279』来ありし故、戸田謙介氏へ礼にとbeer3本もちゆく。(※省略) 13:00伊藤生来り、わが「竜之介論」ききて阿部生に会ふと帰りゆく。そのあと田中健五氏海苔もち来り、近々増版と喜ばしゆく。(※省略) ユ『芥川全集Vol.8』にわれ自ら「発狂せし」と書きしとのことに、野中氏との縁なしといふ。 磯田生にきのふ電話せしが、けふ21:00すぎ母泣き乍ら電話し来り「娘、家出しをり!」と。「鎌田担任にも云へ」といふ。 一方、伊藤生、近(新潟 小川未明やると)、阿部(米沢 伊勢やると)の2生つれて22:00近くまでわが話きき「勉強する」と約束してゆく。 1月15日(成人の日) 3:00前覚む。(※卒論指導省略) 8:30出て各停で千駄ヶ谷下車。睡眠不足と躁と甚だしきを申上ぐれば斎藤dr.、苦き顔さる。 投薬中に眠剤入りをらぬを発見、看護婦にいひmorning serviceのcoffee(60)のみに入りしに、ひまかかる故やめ、新宿まで歩き佐伯にて『若き日の芸術家の肖像(100)』、『日本語の種々相(90)』、『cama-stra(400)』買ひ、史に『一姫二太郎考』送れとユを追い立つ。折しも美紀子より本の礼来り、(※省略) 19:30近く(※省略)君、宮崎智慧氏につれられて来り、(※省略) 弓子に「交際せよ」とすすむ。 (※省略) 鎌田女史より電話「磯田生、家出同棲。(※省略)」と。「仕方なし」と答ふ。 p9 1月16日 23:00ごろ眠り7:30覚む。斎藤dr.のおかげ也。 10:00麝島マリ子に電話しRomeよりの帰国喜び「けふ13:00ごろ来てみよ」といふ。 ユをして宮崎女史に電話すれば「澁谷君、先生をもしろいが本人わからず」と。「つきあひせよ」と云ひやる。 佐伯へゆき『ガーンディー聖書(30)』買ひ『海上の道』、『江戸文学と中国文学』、『大世界史4』註文す。 高原弦太郎(山田源之助)氏より賀状!。 『日本の詩歌5(朔太郎)』、前川佐美雄『日本の名歌』来る。 帝塚山同窓会の田原氏に電話すれば「空席」と。 中央公論社に電話せしに11:30鈴木女史と竜馬(※佐野竜馬:山岸外史娘婿)とあらはれ「直接石原八束氏と話さん」と。 田原氏「今中に非ずや。われは21期」と。西下して庄野英二氏らに会ふとて後日を約す。 12:30出て成城。鎌田女史に「磯田生のprivacyかまふな」といひ、(※省略) 244での臨時教授会。(※省略) 帰途、関本助教授と同車。新宿でjuiceのませれば「旨し」と也。 20:00ごろ聖ヨゼフ寮の土田生に電話せしに「不在」と。入浴中に電話かかりし故 「20日13:00高田文芸学部長の譴責を受く。主に感謝の祈してもらへ」といふ。 けふ午すぎItariaより帰りし麝島マリ子来り、盗難の時の話をす。知らぬ間に財布前におちゐしと。 われ見し瞬間「buon giorno!」と挨拶す。 1月17日 7:30覚む。9:00出て成城。東洋文化史にて答案の書き方話し「Torna a Surriento」と「おくめ」と歌ひ、 天丼ほぼ食ひ「論語」すませ帰りがけ柳田文庫あきゐるを見て入り(※省略)、 電車に清水常臣生来しゆゑ「革命状況に於るコミュニケーションの機能(岡田ゼミ)」のため、 東豊書店に伴ひ、主人帰る迄にわれは『台湾語典(180)』買ふ。主人「そのうち一食せん」といふ。 帰ればユをらず西角文雄氏より「父桂花儀10月3日死去」と。(※省略)、 西角文雄氏に弔辞かき、花料母と2,000送ることとす。(※省略) 『果樹園』にと「大鉄鎚」作る。「ポリテイア」批判也。 1月18日 5:00前覚め、火おこし湯わかす。7:00ユ起き弓子出勤。(※省略) 10:30柿崎、田中久子2生、広瀬生を伴ひて来る。(※省略) 13:00、4人にて出て(うどん食はせし)成城大学。(※省略)短2Aの唐詩「長恨歌」をわが「コンパクトブックスで見よ」といひて廻覧し王維の「送元二使安西」を再び歌ひてすませれば、 男生1人、漢文の無効を抗議に来て叱られてすみしあと、 文2A石田篤子「熱海よりむりして通学」と泣きて抗弁し、「先生に侮辱された」と失言せし故、 「叱られた」と云ひ直させ、涙ふかせ試験受くるを許す。「クリーニング屋にて家の手伝ひす」と也。 (※省略) 了りて田中久子、庄田2生を誘ひ下北沢下車。風月堂でしるこ食ひ、 佐伯に寄りて『日本語の年輪(65)』買ひ金なくなる。 『大世界史7』来り、村上正二1人にてかき、挿込に岡本敬二かくを見る。 けふ京のさそひにて母芝居にゆくと也。 20:00まへ弓子帰り「(※省略)氏に会った。お父さん変った人ですね」と也。(※省略) 名古屋へ電話すれば「縁談の事きいた!」と。 1月19日 京と母と帰るをまたず、22:00前ねむり5:30覚め、火おこし茶のむ。 きのふ叱りし石田生(熱海)に歌3首。(※省略) 9:00出て成城。清水常臣生と同車、「革命前の報」かき、わが1年の東洋史に「幌子考」かくと也。 2時限『中国后妃伝』よめといひ、semiの時間誰も来ず。 (東豊書店より本『舟車所至』など27,680着きをり。大藤主任のもとに書類わたす) 妹尾生に電話すれば外出、岡田生に電話すればこれも外出と。13:40ごろ来り、増田と共なり、 面接No.1とて心得話し「2.12強羅へゆかん。他の小西、白幡に連絡せよ」といひて茶おごる(320)。 4時限の中国文学史すましsemiの4生(坂、山野井、小武守、山本邦子)と出て成城堂。 (※省略) 同車して聊斎の「嬰寧」などにcheckす。 「大安」来をり。けふ宮崎智慧女史の電話にて「澁谷君、父こはし」といふときき、武蔵関へゆきみしに地主らしとユ。(※省略) 京、(※省略)某の悪評きき来りし故、弓子にstopを命ず。 『サンデー毎日』1.14号を見て成城文芸の9.7は日本一むづかしき事わかる。 依子に電話し「山本利生の方早く」と母とユとこもごも云ふ。 1月20日 6:30覚む。散髪にゆき、(※省略) すみて『週刊朝日』1月26日号買ふ。「大学授業料を監査する」を見んが為也。 野中夫人より「上品すぎる」とことはり、われ宮崎女史に「縁なし」とことわる。(※省略) 依子より電話「山本利生あす伊勢へ帰る」と也。11:30出て12:30成城大学。 妹尾生をり、待たせて土田生の高田部長譴責に立会ふ。すみてsalaryもらひ、 成城堂で『性と愛情の心理(100)』買ひ、土田生に『世界の詩』買はせ、 「すみれ」へ2生伴ひて喫茶せしめ、われはHamberg-rice。520払ひて土田生と同車。 代々木上原にて下車するを見て南新宿下車。東豊書店にゆき店主と長々と話す。 「妻は日本人、易学生として滞在許可受けアメリカ法を大学院で研究。林素梅(※日本へ)呼ぶ法あり」と。 本多く買ひてまた南新宿よりのり16:00すぎ帰宅すれば林叔母をり。(※省略) 夕刊に鎌田日銀理事(※鎌田正美)停年退職と。西川(※西川英夫)に電話すれば夫人出て「まだ帰らず」と。 (※省略) 西川より電話あり「鎌田、日本証券金融副社長となりし」と。 西川に電話すれば笑ひて相手にならず! p11 1月21日(日) 7:30覚む。斎藤茂太先生「長男」とのteleviに御出席。9:00出て礼拝。 すみて古本屋。『性神風景(470)』、『涙眼集(30)』、『謡曲(30)』買ひ佐伯に寄り1万2~3千円の本を成城にといひ、『川柳小話集(80)』もらふ。 昼食後、金沢良雄に電話してゆき2月28日婚礼といふ長女に説教す。 金沢停年後は成蹊大にゆくと也。家まで送り来しゆゑ『Kama-sutra』1冊贈る。 母、数男の見舞に行く。(※省略) 明武谷1勝のあと6敗つづけしがけふは勝つ。 「鈴木きみ」のpen-nameにて「春の風景」8首は『炫火2(昭和5年4月)』より写す。(※省略) 大伴道子氏に電話すれば「『紫珠』5日前に送った。稿のった。毎週第3日曜が会合」と。「来月ゆく」といふ。 田中正己氏あての賀状放りあるを知り、悠紀子を3ケ撲る。 賀代嫗に電話し「滝本生に羽織せかしてくれ」といふ。 1月22日 よべ23:00ごろまでねられず。4:30覚む。阿南君「サルフの戦い」評200×14となる。 6:00すぎ新聞とりに出て、よべ雪少々降りしを知る。「大鉄鎚」送ることとす。 8:30出て千駄ヶ谷行にのれば金沢嬢と同車!「まだ愛憎わかず」と。「ゆっくり確実に」と説教す。 齋藤dr.に悠紀子撲りしこといへば「うちでもslow motionで、時々やるが後味わるくてね」との事也し。 「大安」に電話し『金瓶梅(20,000)』買ふ。ヱハガキもらふ。 山口書店のぞけば『楊貴妃とクレオパトラ』1,000と値つきゐし。 水道橋より帰りink買へば小瓶60となりをり!杉山平一氏より詩集『声を限りに』来り、(※省略) 昼食にうどん食ひ、郵便局に『果樹園』への2,000出しにゆけば昼休み。 駅で待ちユのうろちょろするに怒り、また二つ撲れば逃ぐ。本局にゆき現金封筒速達とし、(※省略) 『金瓶梅』のcardやらんとすればユ帰り来り悪態つく(13:30)。 ふと数男見舞にゆく気となり河北病院202号にゆけば1.20手術、10日たちたれど経過宜しからずと見ゆ。 匆々出て栗田にて『大東急記念文庫初公開展解説(100)』買って帰る。 16:00宮崎女史より電話「来て宜きや」と、「宜し」といふ。 17:00来訪。歌8首もち、お礼すなほにもちゆきたまふ。「早川孝太郎先生(※夫君)のcard寄附しても宜し」と也。 河野浩子夫妻へ返信かく。福地邦樹氏へ「詩が出来る」とかく。 京のもち帰りし『紫珠』の「この道」誤植だらけと大伴道子氏にハガキかく。 夜、建より母に電話「弓子と(※省略)と名古屋で見合させん」と也。(※省略) 22:00までかかり「サルフの戦い」評200×18書き了ふ。 1月23日 6:30覚め、茶わかし火おこしす。(※省略) 松村氏に電話すれば「『東洋学報』は和書紹介はだめ『東方学』にと神田氏に話さん。岡田君大丈夫」と。 松本善海に電話すれば「夫人出勤」と。(※省略) 佐伯に寄り『Botticelli(250)』、『裸婦(200)』買ふ。 (※省略) 神田教授より「『東方学』に書評欄なく『史学雑誌』ではどうか」と。 12:00母、赤坂へゆくと同時に出、代々木上原下車。東豊書店へゆき1冊重ねて買ひし本返して、 『琉球与鶏籠山』とり、『中日民族文化交流史(330)』、『太平天国革命史(110)』買ひして南新宿より乗り成城大学。 (※省略) 教授会にて。佐山教授を認める。(※省略) 国井夫人と海江田助手とにて汁粉。駅構内dept.で食ひて帰宅。 1月24日 6:30目覚む。(※省略) 8:30出て9:20成城大学につき10:00より卒論指導。 日本史午前中にすみ(※省略)3生すみしところにて昼食(ちらしずし)。13:00より東洋史の残り(※省略)すまし(※省略) 成城堂にて『大漢和辞典11(4,300)』、『中国2(490)』、『源氏物語(150)』、『浮世六記(100)』、『隠語小辞典(280)』買ひ『灯火の歴史(40)』もらふ。 帰り佐伯に寄り『芥川龍之介拾遺(900)』とりよせたのむ。(※省略) 帰りて炬燵に火入れ『紫珠』の誤植訂正して大伴道子氏宛に包む。 (※省略) 柏戸の負けるを見て大笑ひし、赤坂に電話すれば「大、一仕事せし」と。 佐伯へまた赴き『大唐の春(450)』、『三人の仲間(100)』、『黒いアフリカの宗教(100)』など買ひ来る。(※省略) 坪井明へ「賀状なきはいかが」と『果樹園』の「いきのこり」を送ることとす。 1月25日 7:30覚む。東北工大学長に内田英成(56)を専任とアサヒに見ゆ。 また昨日ナゴヤ駅でソ連副首相バイバコフを木刀もて襲ひし「すりだて某、父は愛宕山自刃の一味にて、いまは不二歌道会なりし」と。 澄のことしきりに思ふも便なし。(※省略) 10:00田中久子、庄田の2優等生来り、一分おくれて柿崎来る。(※省略) 柿崎生去り、ユ帰らざる故、家しめてBowlingにゆけばわれ2位にて66と悪し。 帰りてユ15:30帰るまで待ち、honey-wineのまし、庄田生の観劇に去りしあと田中生に弓子の吊書と写真とわたす。 けふ、この間叱りし石田生喜びて「仏教の話ききたし、家は破産に瀕す」との手紙よこす。うれし。 Bowlingの帰り「うつぎ」にて『弛緩機能(50)』、『恋愛と性的健康(50)』、『日本と比律賓(70)』買ひし。 丸重俊呼びて話すうち准養子可といふことにして「また来よ」といひて21:00帰らす。 ゆふべより弓子skiiにゆきて3人にて淋しければ也。(※省略) 1月26日 7:00覚む。寒し。『金瓶梅』のcard、1オ5すむ。(※省略) 10:00大宮八幡の早川智慧氏に電話すれば「孝太郎先生のcard運賃先払ひにて送る。ただしゆっくりと待て」と。 出て11:00成城大、面接中の室を見やり12:05入ってゆき庄田、田中久、柿崎の3生を優とす。(※成績 省略) 14:00帰らんとすれば大藤主任「他言無用」と。佐伯で駄本見てゐれば今井翠うしろより来る。「美紀子の筆無精叱れよ」といひて別る。 佐伯で雑本買ひ忘れて電話かけてのち取りにゆく。集英社より『詩経 下』にて『漢詩大系』完成の挨拶。 小高根二郎氏より同人費の受取。元気なき明武谷、高見山を投ぐ! 澄より電話「(※仕事の報道で?)すりだてにて手柄立てた。弓子の見合の世話す」らしかりし。 夜21:00「サルフの戦い」の評28✕200草し阿南氏に送ることとす。(※省略) 23:00電話、山本達郎博士より「太田常蔵君、肺癌で亡くなりし」と。礼いひ同級に知らすといふ。 1月27日 4:00.さめ、級友の住所かきぬき、「鴎外の友田中正平」4行かく。 6:30太田君に電話すれば嬢出て「結核といふことにしておいた。葬儀まだきまらず」と泣く。「のちほど伺ふ。同級生にはしらす」といふ。 7:00電話すれば内村不在。松本夫人「悼む」と。岡部出て「いま一人ぐらし。葬儀の日取りしらせ」と。 弓子「早番」と出てゆく。10:00出て三鷹駅より調布行のbusにのり途中で降りて西北へと尋ねてゆけば兵学校の同僚(埼玉大学名誉教授)と見とまり、 涙ながらに挨拶し、学芸大の同僚(桜井芳郎君タンコブつけてをり)来り、葬儀は自宅にて29日13~14:00。 葬儀屋の見積り8万円会葬礼状500枚などときまり、われ山本達郎博士に悼辞たのむこととなる。 12:00甥の運転する車に乗り禅林寺の鴎外墓にゆき見れば於莵先生の新墓なし! 天ぷらそば(130)食って浅野医院にゆけばdr.をり(※省略)、coffeeのまされ、宅診ひとりすみてのちautoにて三鷹駅。 帰宅すれば鎌田より「謝す」のハガキ。阪本越郎氏より「天下茶屋生れは?」との便りあり。 山本博士に電話すれば「悼辞承知」と。鈴木俊氏に電話すれば「29日差支へあり」と。羽田・川久保・原口3級友に速達にて通知。 阪本氏には「三原郡賀集村」といふ。「正平博士」3枚とし、大江叔母に甚城祖父の生卒年を問ふ手紙かく。 松本健次郎へ「浅野の出版を創元社にてはいかにや」と問ふ。(※省略) 躁の症状われながらいちじるし。(※省略) 21:00すぎ岡部より電話あり「29日12:00三鷹駅南口にて待合す」こととなる。 1月28日(日) よく眠り8:00覚む。礼拝休む。(※省略) 10:00すぎ佐伯へゆき『English through Pictures(50)』、『現代結婚入門(50)』、『神を尋ねて(30)』、『世界の能(100)』、『雨月物語(70)』買ひ、「うつぎ」にて『標註神皇正統記(100)』買ひ帰る。(※省略) 19:00賀代嫗来り、「数男の見舞にゆけば経過好し」と。20:30賀代嫗去るまへ「田中正平2」(200×3)書き、「田中氏系図」作り了る。 21:10田上生より電話「母、癌でなくなった。告別式30日14~15:00自宅にて」と涙声也。 冬ぞらに行方もしらず去るひとをなげきておもふわがしあはせを。 p12 1月29日 6:00覚む。睡眠感なし。「田中正平1」(200×7)で了る。9:00前出かけて10:00すぎ斎藤dr.より帰る。 先生「眠剤きつくなきや」とのお問ひに「きつくなし」と答ふ。岡部より電話「(※省略)待合12:30にしてくれよ」と也。 12:00出て三鷹にゆくまへ佐伯にて『雨月物語(20)』、『アメリカの制度風俗研究(20)』買ひ、三鷹駅にてMarble(30)買ひて待つ内、 12:10になりしゆゑ「岡部・内村2君先にゆく」と伝言板にかき了へしところへ和田久徳君と長岡新治郎氏(外務事務官Indonesia研究)。 誘はれてラーメン食ひ駅にゆけばBurma国境より帰りしといふ白鳥芳郎君、自動車にあり。のりかへて大沢橋にて下り、(※省略) 和田、白鳥君ともに忙しとて煙香すまし、13:00より弔辞となり、学芸大学長の次に山本教授、あと主任、親友と長く、葬儀屋いらいらす。 2~300人の焼香すみ15:00すぎ出棺。(※省略) 美紀子より「翠姉に電話で叱られた」と写真送り来る。(※省略) 川久保より電話「2月上京」と。「善海のことあり必ず来よ」といふ。 沈丁花階に植えおき書斎のみ飾りし友のことをば念ふ。 あす公証人加藤勇に談判にゆくこととす。 1月30日 6:00起き8:00朝食前後に滝本生(よべ泊りし)と話す。縫物代に4,500払ふ。10:00前佐伯へつれゆき文庫買はせ『紫式部日記(20)』買ひ、 加藤勇事務所へゆきガンガンどなれば電話かけ、けふ16:00会ふこととなる。 原口君より「ガン年齢になったか」と。小高根二郎氏より「「正平のこと」かいて宜し。同人費はそのまま。白内障になった」と。 小高根・原口2君へたより。大伴道子氏より「きびしい事わかった」と。 (澄より電話「4日見合さすにつき3日によこせ」と。) 12:30出て池袋より歩き田上博士邸。 ユミ子を呼出し「泣け。けふは泣くな。われ仏像に礼拝せず」といひ「御心のままに」と称へて帰り、雑本8冊買って帰宅。(※省略) 妻を癌になくせし医師の頬のこけかなしくわれはながめたりしか。 み心のままにといひて一礼しひとのまなこを見ざりしわれは。 1月31日 6:00覚む。よべ久しぶりに小雨ありしと。8:30藤原畳店より電話「職人に金わたしてくれ5,000」と。10:00より畳屋始業。 (※省略) 岩崎昭弥へ「写真返せ」とハガキ。(※省略) その中加藤司法書士より中根建築士来り「早くすます」といひ、和田の印押して帰る。(※省略) 「有高厳博士84才で脳出血の為逝去」と。夜、和田統夫より電話(※省略) 親戚表作り了る(20:30)。 2月1日 京、棚卸しと23:00帰り来しあと寝つき5:30覚む。9:30ユ、飯田橋の拾得物係へと、10:00母、赤坂へと逃げてゆく。 よべ23:00帰りし京、留守番也。(※省略) 坪井明より「松田明自重する」と。 12:00まへ出て成城大学。『日本書紀新講』3冊もち帰ることとす。(※省略) 短2Aの試験にゆき「梓弓春あさきとき漢文の試験にまどふ子らのかなしき」態の歌を黒板にかく。(※省略) 帰宅すればユ帰りをり。(※省略)より電話「(※省略)2月より3ヶ月の休職にてすみし」と。めでたし。 けふ大地堂へ切手売りにゆきしに買はず。『一葉青春日記(40)』買ふ。 図書館に『東洋文庫朝鮮図書目録』貸す。岡田館長に「司書の手伝ひさせよ」といへどもとより相手にされず、6日教授会のあと「17:00より国文大学院の会、700以上」と。(※省略) 2月2日 寒し。7:00さめ火入れ。(※省略) 賀代嫗より「統夫の委任状こさへ印の実印証くる」と。9:30出て途中小田急で学生と話しゆく。 11:30よりの東洋史すませれば、家より電話「羽田カルピス会社にゐる」と。電話して16:00新宿駅で会ふこととす。 帰宅して大江叔母より「祖父甚城明治43年5月9日かぞへ年53才で歿」と。 松本健次郎君より「浅野君の原稿当たってみる他人の事に気をつかふな」と。16:00前、新宿駅東口で待ちし羽田来ず。 2回池内一邸に電話し「家へ電話またくれ」といひをく。けふ岡部より「会ひたし」の電話ありし由。 18:00夕食すまし、羽田へ「行き違ひが残念」とかく。(※省略) (けふ成城堂にて高見順『昭和文学盛衰史(250)』買ひしに、保田を畏れをり。蓮田善明、田中克己は記載なし。) 2月3日 4:00さめ東洋史の採点すます。小高根二郎氏へ「鴎外の友田中正平1」(200×9)を包む。 8:00弓子cameraをもちて通勤。今夜は名古屋泊り也。(※省略) ユの吉祥寺の浅野君へゆきしあと阿部・伊藤2生来り、小西生来る(すぐ帰りゆく)。 2生にユ、うどん食はし、われ『歌日記』にsignの歌つける。 増田正元の兄より電話「家内亡くなった。あす15:00よりルーテル武蔵野教会にて葬儀」と。 佐伯へ2生とゆき伊東生の為に『芥川』注文す。 Vietnamのかご(150)を共産党書店で『小川未明童話集(50)』と買ひ、いやな本屋で『家庭の医学(150)』買ふ。「震顫痲痺」の項あれどよくわからず。 鬱となり『金瓶梅』card、7枚ウラのみ。18:00川久保より電話あり「来い」といへば「明日午后」と。「台湾地名」のつづきやる。 2月4日(日) 5:00さむ(よべ9:00すぎ眠りし)。立春と。寒し。躁止めの白玉のまぬ知慧つきし。元気出て礼拝にゆき、詩2編つくる。 帰れば太田夫人より「(※香奠は)癌センターに寄附した」と。(ユ増田忠夫人一恵の告別式にゆきし) 15:00川久保君(※川久保悌郎)来り、わがすすめに従ひ、松本善海電話すれば電話口に出て来し。 30年の思ひ出縷々と話し、姪の結婚式まで在京とわかる。すしとり20:30帰りゆく。 20:00ユ、澄に電話すれば「見合すんだ。結果本人よりきけ。6日上京、7日わが家に泊る」とのこと也し。(※省略) ユまた電話して「弓子にトボ(※泰)つれ来らせ」といへば「不安」と依子きかず!   キリスト者 けふ節分の日もViet-namでは戦闘があり 血が流され火が燃やされてゐる その血を流すものは その火を燃やすものは 共産主義者であり仏教徒であり とりわけキリスト者だ この最後の者がわたしの心を痛ましめる 主はいはれた 「右の頬をうたれた時は左の頬を」と どうしてキリスト者がすぐれた殺人者で 敵すなはち隣人を殺して生きながらへ 主に感謝の祈りができるのだ 愛を身をもって示せないのだ わたしはキリスト者として祈ってやまない Viet-namに平和を いな地に平和をと。 2月5日 4:00さめ火おこし茶のむ。けふ立春と。 9:30齋藤dr.に「鬱」申し上ぐれば薬変へたまふ。善海の震戦マヒにはお答へいただけず。 往復とも都電にのり、佐伯にて『日本地理体系関東篇(150)』、『同 大東京篇(200)』、エミル・ルドヴィヒ『クレオパトラ(230)』買って帰る。 阿南君より顧みて他を言ふ返事来る。みそこなひしらし。 (加藤事務所へゆけば受付の女史愛想よくなり、ほめれば笑ふ)。名古屋より電話「トボ来るやもしれず」と。(※省略) 「トボ乗ったが、おばちゃんとではいやと泣いてゐた」と13:15依子より電話あり。16:00には家につき至って機嫌よく、その旨ナゴヤの電話に答ふ。 大と澄と会ってのち東京へ澄来ると也(われ寒気す)。トボ夕食を食はず、間食にて補ひゐるらしも、一刻も静止せず。 2月6日 21:00就寝。3:00覚め、いつもの如く火おこし茶わかす。  老いの眠りはさめやすく  子らと孫とのいびきをきく  何たるしあはせ  いつこんなことを予想したらうか  主よ この感謝を受けたまへ 8:00まへ出て9:00まへ登校。(※省略) 教授会に出しに一般教養の不満を長々ときかさる。(※省略) 疲れしにcastillaもらひ出て、 駅で庄田、庄司、田中久子と同車。(※省略) 『果樹園』来る。(けふ神田教授に駅で会ふ) ユ、けふトボつれて今井翠宅へゆきしに、われと母との悪口ききしと。(※省略) 2月7日 21:00眠り5:00覚む。火おこし茶わかし、色ごはん食べんとせしも旨からず。 8:30出て成城。庄田、庄司訂正す。午前中、東洋文化史、午後漢文の試験をし、庄田生の卒論受取り、教務に呈出。(※省略) 帰れば母来をり。トボけふ高子母子と遊びしと。「澄15:30名古屋発、18:00東京着、大と会ふ」と也。(※省略) 22:00澄来り、トボ眠くなる。健のこと弓子のこと話し23:00すぎ床につきしも眠れず。 2月8日 2時間ほど眠り6:00起き火おこす。10:00澄さめ11:00トボつれて竹内家へとゆく。 鬱の最低となり、澄父子帰り来りしのち、ふとんかぶってゐればトボ来て添寝す。 登記所より人来り、ユ相手をす。(※省略)  なぜしらぬ畏れにわれはふるへをり主はみ近かにてすくひ玉へよ。 夕方より気分やや直り風呂に入り21:00寝につく。 2月9日 1:30さめ寒しと思へば雪ふりをり。けふはトボ帰る日なり。 はしき孫遠くより来て咳しつついたづらしつつあをなやますも。 この孫の嫁とらん日をわれはゐず神のさだめとよくは知れども。 母に電話すれば「山本来る日きまれば帰る」と。10:30澄より電話「今から来る」と。 12:30別れつらく出てゆき1時間待ち試験監督。4生(来学期ゼミ)「あす15:00ごろ来る」と。(※省略) 帰れば恰も澄より電話、トボの玩具もちあそぶ音聞こえしと。 愛するはかなしかりけり3日間遊びゐし子はとほくに遊ぶ。 別れぎは祖母をつれゆき国鉄の動きしなべに忘れしといふ。 20:00松浦父上より電話「日曜今井へ来て寄る。午前がよいか午后がよいか」と。「午后」と答ふ。 2月10日 寒し。21:00すぎねて3:30さめる。4年の採点いやいやすまし、柏井歯科へ電話すれば「けふより始業」と。折しも露出せし神経にとび上りし也。 11:00荻窪廻りのbusにのり柏井。歯一本抜いてもらひ歩いて帰る。15:00、4生来り、16:00までつらくて堪らず。 帰りゆきしあと床へもぐる。(※省略) 2月11日(日) ユも礼拝ゆかず。寒し。5:00覚む。(※省略) 折しも松浦父上、武田検事の坊やつれて来訪。武田明氏「四国路」を見よと。もろみ一ケと菓子とを賜ふ。 山本和生君も来り、16:00まで「かぜ」と面白くなき顔しゐる弓子に困りはて、すし食はせて帰り、荻窪の姉を見舞ふとのことに、弓子送らすれば茶のんで帰り来し。 赤川氏より「印刷会社に就職」と。 2月12日 寒く、9:00すぎ出て斎藤dr.。眠剤かへ平行線とて薬かへたまはず。 帰りて昼食旨くなく、早くすまして柏井歯科。「さらに抜くはあとにせん」と数男君も疲れたり! 歩きて帰り芋食ひたくなりしといふ。ユの買ひに出しあとに電報。河内狭山局より 「石浜純太郎先生昨日逝去13日1時自宅にて葬儀。帝塚山学院大学庄野英二」也。(※省略) ユ弔電を打つ。 2月13日 『石浜論叢』見て先生明治21年生を確認す。「伯夷叔斉と狐」なる論文あり。(21:00ねて11:30さむ。) 岩崎昭弥君より速達にて弓子の写真返送!20:00ごろ小山正孝氏来り、『四季』脱退残念と!(母帰り来る。) 2月14日 6:30さむ。(22:00ごろねつきしか)(大工さん下見に来る由也)。(※省略) ものいはず母気味わるがる。 2月15日 22:00眠り8:00覚む。雪降る。(※省略) 2月16日 21:00眠り7:30さむ。庄田生より電話「温泉行とりけし。3月にでもせん」と。 雪、朝の中まだ降り電車まびき運転也。終日無為(母、風邪にて臥床)。 2月17日 雪とけず。10:00『日本』を佐伯へ売りにゆけば3,200に買ひくれし故、『五山文学集(950)』、『帰化人』、『漢文入門』買ふ。(※省略) 庄田生、田中久子と小田急へ払戻しにゆき「遊びに来て宜しきや」とのことに喜びて「来い」といひ、ボーリングにゆきしに満員とて喫茶して別る。 けふ川久保より「太田夫人にあった」とハガキ。 2月18日(日) 6:30さめ炬燵つめたき故、起きて火おこす。7:00ユ起き例の通りsoupのみパン1枚食べ9:00出て教会。(※省略) 古本屋見しも何もなし(ゾッキ本、新本ばかりとなれり)。12:10帰宅。夕方より鼻汁出る。 何かしらずかなしくなりて主にすがる心ほとほと忘れてゐたり。 2月19日 7:30さめ、9:30出て齋藤先生。好調申上ぐ。帰りbusにて柏井歯科。(※省略) けふ白酒、昆布茶、干柿買ふ。 『大世界史9』来る。(※省略) 2月20日 よべねつき悪く、朝はやく覚む。(※省略) 建より電話「山本利生結論出ず」と。(※省略) 成城の入試委員会にゆけば特別寄附の申込みわづか6人(1270人中)と。長々と話あり疲れて、 busにて柏井にゆけば数男青い顔してをり「入歯あさって出来る」と。whisky-bonbon(100)買ひて帰宅。 村田幸三郎の話にては「西野変になって死んだ」と。何事も面白くなし。 2月21日 よべよく眠り7:30覚む。午すぎ野上より電話「25日午后来る」と。(※省略) 2月22日 23:00ごろ眠り7:30覚む。(※省略) 12:30出、成城にてsalary受取り成城堂へ5,700払ひ、教務へ採点出し、14:00からの教授会。 試験監督老人並みの扱ひ受く。(※省略) 帰り柏井歯科へよれば「入歯月曜に出来上り」と。(※省略) 佐伯にて『芥川龍之介未定稿集(810)』受取る。(※省略) けふ加藤事務所に2.8万円余払ひてすみし由。 2月23日 よべ眠り浅く睡眠感なし。(※省略) 昨日池田博士にほめられし故『漢詩大系白楽天』を出して見しに誤植多く残念也。 伊藤雅子、田中美紀子、小山正孝にハガキ。ユ16:30帰宅。母、地下鉄にのりちがへ浅草までゆきしと。(※省略) 2月24日 よべくしゃみ2度せしと。日中就床18:00起きて夕食とる。気分直りし。 金嬉老といふ2人暴力団射殺の後、山中の温泉にこもりしが5日目につかまる。 2月25日(日) 覚むれば8:00。ユもともに礼拝にゆかず。散髪にゆく。福地邦樹君よりハガキ。(※進路相談 省略) 2月26日 9:00出て斎藤dr.。珍しくすきをり。すぐすみ、10:00すぎゆゑcoffeeのみ歩きて赤坂見附までゆけば11:25。 星野田中2夫人をりあと和田道下2夫人の来しと「ちゃんこ」へゆけば階段に3児つれ花井藤田夫人をり、藤井夫人とで7人。(※省略) 15:00すぎまで御馳走になり、我殆ど物云へず、室の次ありとて花井ノリ子ちゃん抱いて出、新宿までtaxi。中野で下車するを見て柏井歯科。 みやげの菓子おき上歯出来上る。津村信夫詩集の秀夫兄の文見てをれば、あまり気持ちよくなきはなぜかわからず。 (※角川文庫『津村信夫詩集』昭27年の解説「弟信夫の追憶」を指すか。) ユに云はすれば「躁ひどかりし故あたりまへ」と。けふ税務署で「納税多すぎた」由なり、これもふしぎ。 2月27日 よべ睡眠感なく8:00さむ。(※省略) 朝、阪本越郎氏より速達あり、「電話しろ」との事にかければ「3月10日来訪」と。 美紀子より写真2枚、田上由美子より嘆きの手紙。ユ18:30帰り来る。 2月28日 昨日と暖し。駄本佐伯へもちゆき(1300)『南洋日本町の研究(1250)』、『大唐の春(450)』、『芥川未定稿集(810)』ともち、 太田家へゆき、この間の菓子の返礼に『大唐の春』置く。治子不在。 帰りて昼食了へしところへ賀代嫗来りし故、家の売買すみしを云ふ。(※省略) 2月29日 家居。暖かし。(※省略) 藤井陽子夫人よりclass会の礼状。躁でもなく鬱でもなくて困る。 本多さんの夫人来り「船越地代おくれる」とことわりし由。夜、ユ5万円を本多さんにもちゆく。 3月1日 6:00さめ8:00起きして9:00家を出、地下鉄にて新宿へゆき成城大学。短大にわり当ててあり世界史1時間監督し、幕の内食って帰り来る。 暖かけれど元気出ず。藤井夫人にハガキ。(※省略) 3月2日 21:00就寝。6:00めざましで起き、地下鉄にて(この3日間国鉄ストなり)成城大学。8:30に試験本部にゆき文芸の入試監督。 男少し、公立多し。すみて12:00帰宅。昼食す。鬱なり。 母より電話弓子にあり、あとにてきけば「大、弓子、京をつれて苗場へskiiにゆく」と也。太田の父より「本ありがたきもよめず」と。 3月3日(日) 9:00出て高校へ試験監督。すみて大阪ずし。旨くなし。(※省略) 帰れば美紀子より雛の礼。 伊藤桂一氏より『定本竹の思想』。柿崎生より「3.21 13:00~15:30八芳園にて謝恩会」と。「出」の返事す!(※省略) 弓子、今夜より大の招待にて苗場へskiiにゆくと出てゆく。(※省略) 山本利生君より「横浜へ帰った」と挨拶。 3月4日 6:20起さる。よべ寝つきわるかりし。8:00出て成城大学。 監督のclassで一番に出せし子、八王子の医者の息子にて一字もかきをらずふしぎでたまらず。 昼、弁当出るとのこと也しが野口講師の業績もちて一散に帰宅。(※省略) 3月5日 よべよく眠る。(※省略) 午まへ税金の過剰2万円返り来り、筑摩より『世界の歴史』(昭和36年刊行『世界の歴史6・東アジア世界の変貌』「玄宗と楊貴妃の世界」を収録)増版と。プラスマイナスなく終日臥床。 西川より電話「大高の後輩のむすめの採点しらす」と約束す。 3月6日 定期けふにてきれる。12:30出て成城大学。寄附申込10名余にて128点までとることとなる。西川の云ひし中川女は30点足らず。 帰りて西川に云へば「(※省略)」。賀代嫗来りをり「孫の生ひ立つまで20年生きたし」と! 3月7日 8:30出て成城大学。及落会議簡単にすみしあと、教授のみの会にて前田課長のまちがひ陳謝(※省略)、 つづいて大藤教授の65才にて一旦退職、手当もらひ再任とのこと決議す。われふしぎにも同氏の年齢しらざりし。 また他の教授たち最高給になりゐるらしきこと気付かざりし。帰りてプラスマイナスなしにてをり。 (『展望』に中山正善の功罪のりをり。かなし。) 3月8日 「4月末の陽気」と。汗かきながら炬燵に入りをりし。西川に電話すれば「短大2次受験すすめる」と。 田中健五氏より仙台のかまぼこ、『果樹園145』来り、『Politeia』のこと証明す。つまらんず止めんと思ふ。 入浴前、阪本越郎氏より電話。「10日14:00ごろ来る。履歴書かきおけ」と也。 夜、(※省略)君、弓子に電話し日曜横浜で会ふらし。 3月9日 8:00覚む。「よべ雪ふりし」と。母帰宅。夕食後年譜を書く。 3月10日(日) 20年のけふの大空襲を野田宇太郎「午前3時より」といふ。9:10出て教会。第一列にてPãoloの話承はる。 帰り全学連に怒りたまふ齋藤齋先生とつれ立つ。 15:20阪本越郎氏より電話。「小公園のところにあり」と。70pにて『西康省』より多く引き玉ふ。花をも賜り『四季』に還れと云はる。 通りまで送り、『コギト』見て(※選ばれた各詩の)掲載号しらぶ。 3月11日 齋藤先生へまいり診察中、悠紀子より電話、「阪本氏より2度電話ありし」と。 新宿駅まで歩く中かければ「詩の選改めんか」と。「改めずともよし」と答ふ。 けふは寒し。渋谷国忠氏へ「5.19(日)13:00前橋市立水道会館の朔太郎忌に参る」と返事。(※省略) 3月12日 よべ雨ふりしを覚めてきく。朝は晴れをり。井上文夫氏より「サンケイ大分局へ移りし」と。 中央公論社の鈴木女史より「挨拶に来る。あす14:00」と。14:00田中久子母子お礼にと来り、恐縮しゐれば庄司生も松坂肉もち来る。 喜びてボーリングにゆかんと着換へせし処へ野上夫妻来り、2生逃げ、(※省略) これも物くれ憂鬱となりしあと、ぬるま湯に入れば譏嫌直る! 3月13日 よべ眠剤きかず。(※省略) 図書館より「岡田館長、『東洋学報』買はんといふ」と。「柳田文庫にありといへ」といふ。 14:00中央公論社第一出版部長山崎正夫氏、鈴木女史と挨拶に見える。鬱なれば手持ち無沙汰に困る。写真ほしき由。 散歩かたがた美紀子に「行けず」のハガキ出しにゆけば今井武田姉妹に遭ふ。ふしぎ。 夕方、宮崎智慧氏より電話「19:00来訪」と。来たまへば「瀬越氏の縁談いかに」と。 3月14日 弓子「瀬越氏ことはる」と。(※省略) 12:00出て成城大学。落第者なくなり3.31卒、英文に1人となる。卒業Albumもらふ。 そのあと7人の講師、助教授となる。われ独文の野田倬(あきら)氏をわからず相良守峯博士の判定を伝ふ。 疲れて紅茶のましてもらふ。大藤氏も「疲れし」と。(※省略) 母赤坂へ泊りにゆく。 3月15日 8:00昨日2度電話ありし早川敏一君より電話「長崎の佐藤氏たのむといふ」と。「あす14:00来る」と也。 午后出て登校。(※省略) 代々木八幡よりbusにのれば遠し。依子より3月3日写せし豊橋の写真来る。 3月16日 平仄なくなりし様也。14:30早川敏一氏来り、「佐藤氏は長崎県知事」と。直接の知合でもなき様也。長野敏一の名おぼえをりし。洋菓子呉る。 帰りゆきしあと『インド古代美術展(300)』、『ニューギニア高地人(200)』買ひ来る。夕方より雨ふり来る。 夜、澄より電話「四谷の叔母さん癌で死んだ」と也。 3月17日(日) 晴。ユ礼拝にゆく。11:30澄より電話「今夜お通夜、明日葬儀。トボ依子来ず」と。 母帰りふきげん也。(※省略) 筑摩より「Non-Fiction全集再版」と。 18:30ユと母と四谷の諏訪家へ弔問に出てゆく。19:30弓子帰り来る。 3月18日 8:00さめ9:30出て斎藤dr.。「好調ですね」と薬かへ玉はず。都電にて新宿。成城大学へゆけば前田部長会議中。 女の子に書類預けて古本屋見、駅にて鎌田女史に遭ふ。新宿にて昼食(180)。帰れば母をり(佐伯にて『インカ帝国探検記(80)』買ふ)。 (※省略) 『日本の詩歌』7回は宮沢賢治。 15:00訪ひ来しは岡田、妹尾、増田の3生、果物もち来りしゆゑBowlにつれゆき負け、喫茶して帰る。 3月19日 8:00さむ。11:30散髪にゆく(450)。帰れば母、赤坂へと出てゆく。平塚生へ「就職心がけるもむつかし」とかく。 3月20日 8:30出、地下鉄にて新宿。成城母の館へ一番に入る。式すみ写真とる。(※省略) 岡田ら3人と校門を出、栗山博士と下北沢まで同車。けふ見えざりし庄田生より反物もらふ。 3月21日 雨。小山正孝氏、奈良よりヱハガキ。12:00前、飯くはず出て目黒。時間あまる故歩きしに古本屋閉ぢ都電もなくなってをり。 13:00少し前につき相模女子大の謝恩会のふりそで見る。野口、鎌田2氏着きしところにて贈物(帰りてあけ見れば1万円の図書券なりし!) 大藤教授おくれて来り、感謝の辞のあと「30年後」につき話す。みな悠紀子と同年の52才になるなり。われ昇天しをらんと思ふ。 15:30記念撮影してすみ、雨中taxiなくbusにて目黒駅へつく。けふ庄田生来をり、記念よせがきにと一筆す。 3月22日 『風日』来り、「保田の三男直日、去年6月20日逝去」とあり、典子夫人に慰問のハガキかく。 午后、本やへゆき『草花(250)』、『中国伝来物語(450)』、『西夏文字(300)』を図書券にて買ひ来る。釣銭だめと也。(※省略) 3月23日 9:00出てsalaryもらひ、成城堂の払ひすまし、経済の佐藤君と世界史の監督。すみて昼食せしところへ野田倬君来りしゆゑ、相良博士の批評わたす。 わがHeineの訳あるをこの間はじめて知りしと也。(※省略) 帰り、きのふ見つけし平凡社『大百科事典日本地図(2,000)』買ふ。(※省略) 3月24日(日) 6:00すぎ起き、8:30かっきりに登校。(※省略) 国語の試験に戸口助教授いたはってくれる。2次に指定寄附ふえしと高田部長。男生の英語よかりしと大山教授。 11:00昼飯もらひて帰宅。『東京年中行事1(450)』と『考古学の窓(580)』とを図書券にて買ふ。 肥下夫人より9回忌と皿。(※省略) 佐々木邦彦君NHKの用にて上京と。夜、電話するといひてかからず。 3月25日 雨。9:00出て成城堂『吉利支丹文学・上下(980)』買ふ。高校にての試験監督。教授はわれのみ。すみて昼食。(※省略) 帰れば柿崎生、叔母と礼に来る! 淡路の湊の菊川兼男氏より『正平伝』来る!礼状かき菊川兼清野、こたまの写真あるを云ふ。 歴史地理学会へ会費(1,000)払ふこととす。 3月26日 雨。4:00さめ5:00さめ6:00起き成城大学へ8:20着く。欠席2割? (※試験監督)すまして弁当もらひ、成城堂休みとてまっすぐ帰る。 (※省略) けふにて謝恩会の礼状すむ。佐々木画伯へもハガキかく。母はまだ赤坂にをり。 3月27日 斎藤dr.へ9:30ゆけば丁度すいてをり。出て都電にて山本書店へ1.2万円払ひ2万円ほど注文す。 帰り山口書店に寄れば『楊貴妃とクレオパトラ(1,500)』、『神軍(1,000)』、『元々社楊貴妃とクレオパトラ(500)』とみな高くつけをり。 『黄色い葉の精霊(500)』図書券にて買ひ、(※省略) ユ眼科へゆきしあと犬に吠へられ、(※省略) 荒川・佐山の2生bowlingにさそへどきかず。 3月28日 ユ教会の婦人会へとゆく。京休み也。鈴木文平より「三鷹に店独立せし」と。12:00登校の途、成城堂によれば註文と『太平記1』わたさる! (※省略) 入学試験委員会に出れば高田部長苦しげ也しも、たのまれしもの皆入る。 帰りて長崎県教育長が来しとて大カステラ置きあり。三郎兄、千葉県の寮長に平田(※賀代嫗の娘婿)の世話にてなりしらしく数男より「日曜に祝せん」と。 (※省略) 西洞院夫人「20:00すぎ来る」と。 (けふ集英社鈴木重役より相談─recordつけんかとの─の電話あり齋藤晌博士と同じく「反対」といふ。) 母も留守に来て、すぐき持ち帰りし也。西洞院夫妻来て迎へにゆき凡ねユ話す。(※省略) 3月29日 9:30出勤。助教授昇任を告げしあと佐野教授の停年挨拶あり。及落を発表。浅沼、戸口ら助教授より抗議ありし。沢崎君退職(フランス語)。 昼食のあと1号館会議に鎌田女史出てもらひ、山本よりの本もち帰れば入口に立教の平塚敏一生をり「関東学院へほぼ転職の見込み」と。 山本の包みあければ『新年風俗志』と『平安朝日本漢文学史の研究』のみなりし。(※省略) 3月30日 曇。9:00まへ一家目覚め、京あはてて出てゆきし。(※省略) 11:30来訪。「佐藤知事寄附入学を子にしらせたくなし」と。「尤も」といひ、(※省略) 下痢して気分すぐれず。 3月31日(日) 7:00さめ8:30家を出て最後の礼拝当番にゆく。(※省略) 175人と礼拝参加者多数にて、了りしあと受洗の試問に長老会あり。 礼拝当番(若き人多し)新しく集められてをりトヨ先生の指図受く。一礼して出、成城大学へ井の頭線のりてゆき、 経済の発表みれば(※省略)の3026なし。(※省略) 小田急DXにてrice-curry食ひ、(※省略) 佐伯にゆきしに『本朝文粋』あれどわが註文ではなき様也し。(※省略) 昭和43年 4月 1日~昭和43年12月31日 25.2cm×17.8cm 横掛ノートに横書き p13 4月1日 近くのタバコ屋へ約束のGolden Bat10個もらひにゆく。Johnson米大統領Viet-nam北爆停止を呼びかく。 われキリスト者として喜ぶより不景気になるを恐れる、ふしぎ! 4月2日 晴。家居。「浅野晃氏の詩碑の発起人に」と。「諾」と返事。大高会「欠」と返事。昨日よりSiraya語の『公教要理』写す。 『不二』の鈴木正男氏より「蓮田善明」かきたく伊東静雄伝云々と、「浅野晃氏にあり」と教ふ。 ついで社会思想社より速達。「李白」を9月30日までに400枚と。 4月3日 野上夫人より電話「あすの汽車なく、あさって10:30の光に乗る」と。9:00すぎ出て斎藤dr.。薬かへ玉はず。 新宿まで歩き、佐伯にて『文芸春秋』買ひて帰宅。午后、翠氏より電話「豊橋にゆき土産預かった」と。ついで来りチクワ呉る。 澄より電話「高松より帰り依子くたびれ倒れた」と。 (社会思想社福原清憲氏に電話し、「李白物語はいや。杜甫物語ならかく」と。「再考せん」との返事也。) 4月4日 野上夫人に電話すれば「指定寄附のこと家に来た」と也。(※省略) ユ、母の為新幹線の切符買ひにゆく。 澄より電話「14日の出張に旅費出せば依子母子来る」と也。肥下夫人へのハガキ返り来る!(※省略) 坪井明へ「肥下夫人のところしらせ」とかく。 4月5日 (※省略) 〒なし。母帰り来り大に怒る。(※省略) 野上弘14:00来る筈が15:15来て「道わからざりし」と。 成城教務に電話し「待ちたまへ」といひ、阿佐谷駅前よりtaxiにのれば道ふさがりて中々進まず16:00に20分前に区役所前につき、会計、教務、文書の3課に案内す。徳川一門入学せしと前田部長。佐藤氏も4日手続了へし由。16:10すみ茶のみ電車にて帰り来る。 けふ講師室におきありし山本(※山本書店)よりの本もち帰る。 4月6日 滝本女史久しぶりに来る。喜多村生縁談もち来る。本3冊貸して返す。沢井孝子郎君「扇町商業やめ東海大学に出講」と。 けふ母の76才の誕生日。(※省略) 4月7日(日) ユ礼拝にゆく。われ滝本女史と話す。『果樹園』来る。午后、弓子(※省略)と会ひにゆき、滝本女史帰りゆく。 (母の諏訪massageにゆきしあと大に5万円預りを云ふ。「建の休職2~4月」と。) (※省略) 4月8日 沢井孝子郎に祝ひのハガキ。(※省略) Golden-Bat10箱買ひにゆけば「今日はこれで了り」と也。 母、神経痛おこりしとまた諏訪へゆく。佐伯へゆき『ロシアの歴史』と『ロシアの経済地理』もらふ。 4月9日 朝、佐藤知事より服地来る。早川氏に電話せしに「すでに出勤」と。散髪にゆき帰れば(※省略) 澄より電話「11日8:45に乗る」と。夜早川氏より電話あり「感謝してゐる也」と。 4月10日 8:30出て斎藤dr.。下痢申上ぐれば「関係なし」と。賀代嫗来り「俊子夫婦喜びゐる」と。 紀伊國屋にて『和漢朗詠集・梁塵秘抄(1,000)』買ひ帰宅すれば母とユと出る処なり。(※省略) 『四季』2号来り、(※削除されず)同人に名をつらねをり。けふ京「新入社員歓迎旅行」と。20:00母より「着いた」と電話。 依子にユ電話すれば「迎へに来ずて宜し」と。 4月11日 雨。14:00依子と泰と来り、母より「大阪着」の電話(20:00)。野上母子来りドイツ語字典送ることとす。菓子呉れし。 入れ違ひに澄来り「明日竹内訪問」と。 4月12日 7:20覚め8:30出て雨中成城大学の入学式にゆく。野上生をり、すみて写真いつもの通りとらず。 成城堂に寄れば『日本書紀2冊(3,000払ふ)』、『懐風藻(1,000)』、『大漢和辞典12』とどけしと。とりて帰る。 澄「竹内家へゆく」とまだをり、けふは兄の家泊りと。けふ田中於菟弥氏に「鴎外の友田中正平1」を送る。花井夫人より「弓子一度見たし」と。 4月13日 11:00ユ・依子・泰、井の頭動物園へゆく。弓子昼食の世話しくれしあと、田中久子生より電話「庄司生とともにあり」と。 「bowlingに来れ」といひ、弓子茶をして出てゆく。 14:30澄、泰をつれて帰り、ユ依子帰り来りしゆゑbowlingにゆけば庄司生うまし。 すみて帰り澄に聞けば「竹内(※竹内好)仕事せず、奥さんきげん悪し」と。17:00澄、名古屋へと帰りゆく。(※省略) 文化史4回生「4.26(金)クラス会す」と。 4月14日(日) 復活祭の礼拝に出る。(※省略) 夜、早川氏「佐藤知事に会ひし」と。 4月15日 (※省略) 坪井明より電話、「韓国へゆくにつき忙し。肥下夫人のところ知らず」と。 太田常蔵夫人より「本500冊刷り200冊しか売れずと通知あり。いかがせん」と。 「われに任せよ」と云へば「本屋に云へば通知せしのみとて心配いらず」と。(※省略) 4月16日 9:00出て10:00図書館。中国書の著者名教へ、『解釈と鑑賞』に保田のわがことかきゐるをよみしあと、栗山氏(※栗山理一)に言はれ「赤面」といふ。13:00より大学院国文科3新入生と顔合せあり。すみて新城博士に挨拶す。 14:10より教授会。組合役員の選挙などあり。例の如くわれには1票もなし。すみて『大漢和辞典第12冊』と『日本書紀』2冊もちて帰る。 けふ依子外出し、ユ一人にてトボ守りせし也。 4月17日 9:00出て斎藤dr.。帰り佐伯に寄りしも何もなし。硲晃氏より『世界史要表』来る。(※省略) 4月18日 雨。10:00出て新宿にて幕の内弁当(150)買ひ12:00これを食べ、岡田英弘氏来るを待ち、山田主任、高田部長に紹介す。 「鎌田重雄博士日大部長やめられし」と告げられ迷惑す。(※省略) 「河野岑夫来る」とのことに早く出て帰りtelevi見る中、来り「腎臓悪し」と也。 「18:00より会あり」とてユ、南阿佐ヶ谷まで送りゆく。(※省略) 大塚生に「4回のclass会に出られず」と電話す。 4月19日 朝のうち雨。9:00出て成城大学。東洋史(1年)の諸論やり、(※省略) くたくたとなりて帰宅。 日野忠夫氏より「おりにふり思ひ出します」とのハガキもらふ。 けふ依子留守の間、ユ泰を今井翠につれてゆき色々気をつかはせしらし。けふは渋谷の西武開店也。(※省略) 4月20日 「依子泰13:00に乗る」とてユとともに出てゆく。我臥して待つに14:00ユ帰り来る。(※省略) 依子より「安着」の電話あり。 ユ買物に出てゆけば弓子の縁談につき電話「慶応出の1人息子」といふにユ断る。 (※省略)『大世界史』来る。食欲なきを案ずればユ笑ふ! 4月21日(日) よべ眠りし故9:21にて吉祥寺。礼拝に出、外人の説教きく。そのあと総会。(※省略) 齋藤齋先生の質問長く13:30となり、はふはふ出て中華そば(60)食ひ、 阿佐谷に帰り『ハイネ』小林圭子に買ひ、出しところにて伊藤雅子姉妹に遭ふ。 『ポリタイア』より「愛誦吟を」とのことに朔太郎「わが草木とならん日に」と答ふ。 4月22日 眠気さめざるも11:00出てさばずし買ひ(90)登校。月給貰へば「12号俸」と昇級。 すし食はずして中西博士(※中西進)に「太平記やる。日本書紀やめる。」とことはり、東洋文化史に出れば出席よし。 「朝鮮の婚礼よりはじめる」といひてすまし、大学院にては「太平記」よむこととす。(※省略) 帰り高橋邦太郎氏に会ひ、共に喫茶。「70才になり玉ふ。蒲池歓一氏の埋骨式に出し」など承り、 成城堂に7.9千円金払ひ、佐伯にて『太平記3(950)』買ふ。 4月23日 雨。無為。 4月24日 朝より大鬱となる(起きて炬燵ひっくり返し畳までこげゐるを見る)。斎藤先生に悠紀子をゆかし、薬採らしむ。先生おどろかれし?(※省略) 4月25日 11:00登校。(※省略) 『法苑志林』さがし図書館の小泉君と話す。午すぎゼミに2人。(※省略) ユと入れ代りとなり、京に夕食してもらひ、televi見てゐれば母子21:30帰宅。(※省略) (人物往来社より「女人伝」かけと。いやといへば「何か男でもよし」と。相手にせず。) 4月26日 『Politeia』と『文芸広場』来しを見て11:30登校。(※卒論指導 省略) 講義にゆき『詩経』よめば最前列の男生「ねむかった」と也。鬱々として帰り来る。(※省略) 4月27日 起きて斎藤夫人お見舞にといひ、9:30ユと出て三鷹。参れば斎藤先生御在宅。夫人「よくなりし」と茶の用意したまふ。 帰れば建より「(※省略)気に入り弓子の気持きいてくれ」と。 小山正孝氏、詩集もちて来たまふ、「相変らず出来ず」と申す。夜、弓子に建の手紙見す。 4月28日(日) ユと礼拝にゆく。雨。弓子のこと祈りしも聴き玉ふや否。帰り佐伯に寄り、成城への本送りたのみ、『漢学速成(100)』買ひ『龍の星座(400)』借り来る。 丸重俊来り「高校クビとなり民俗調査す」と。いふこと無し。(※省略)  『文芸広場』に「書くことなし」と返事す。(※省略) 4月29日 坪井明より電話「サッカー試合に団長として今より羽田出発。(※省略)」と。 弓子「どうしてもいや」といひ出てゆきしあと、嘆息し、『龍の星座』の代払ひに佐伯へゆき、40円が最後の「新生」5箱買ふ。 夕食の時、弓子帰り来し故、建へ「縁なかりし」との手紙かき、ユと弓子に見す。 4月30日 ユをして建への速達と、青木母(在巴里)への航空便出さしむ。 下痢3回、昼食して出しもかったるく、途中にて引返し、教務へ「教授会欠席」の電話す。(※省略) 小高根二郎君へ同人費のみ送る。 5月1日 2週間ぶりに斎藤dr.に9:30参れば先客4人。「時間を」と先生いはる。帰り佐伯に寄れば「けふ本、成城堂へもちゆきし」と奥さん。 帰宅すれば畳屋来てをり16:00ごろすむ。(※卒論指導 省略) 弓子帰り来て夕食すませしあと、本棚に本入る。(※省略) 5月2日 朝、渡敦子より「肥下夫人の住所、上田町○○○に違なし」と速達。朔太郎研究会より19日の案内あり。 「青木大乗近作展5月7日~12日、日本橋高島屋で」と。 11:00出てすし(90)買ひゆき、semi了へ、岡田講師に茶のませ、佐伯の本来るを見、小泉司書に渡す。(「天理の目録譲れ」といふに「否」といふ。) 大藤主任「大学院のため漢籍を用意せよ」と。岡田氏を待ち会計。庶務に案内す。 われも受験手当もらひ(2万2千-税)、佐伯にて『植物図鑑』買ひて帰る(900)。 5月3日 散髪にゆく。シャンプーしてもらひ(500)、タバコやに寄れば「golden batは8日まで来ず」と。値上げ(50)となりし新生1箱買ひ、(※省略) 高田寺の古本市。『台湾山地医療伝道記(230)』、『パウロ伝(500)』買ひて帰る。 弓子展覧会にと出てゆき「喜多村生よりまはりし」とて、仲人買ひ出し夫人より長き電話あり。 5月4日 『文芸春秋5月号』買ひ来てよむ。石田博士より「羅香林の本を」と。「田中健五氏に渡した」といふ。 5月5日(日) さむれば8:00すぎ。礼拝夫婦ともに怠り、われは佐伯にゆき『帝範臣軌(30)』、『日本歴史評林(100)』買ひ来る。 角川より「『ハイネ』5月中旬1万部増刷」と便りあり。夜、トボに電話すれば「動物園にゆきし」と。 5月6日 登校11:00。山内博士「右半身不自由なるも仕事まだ出来る」とて抜刷を各員に著書を研究室にともち来られ、われ1人ゆゑ「ご無理無き様に」といふ。 午飯の時、中西博士より「妃」の字のこと、福田助教授より中国の星につき質問さる。(※省略) 帰りいつものごとく新宿でjuiceのみ「新生」2箱買ひて帰宅。川久保より『満洲馬賊考』来あり。 夜、松田すみ子夫人より「弓子の縁談あり。見合するや」と電話。「する」と答ふ。 5月7日 雨、小高根二郎より同人費受取ったと。栢木喜一氏より「8月桜井にて講演しろ」と。「体弱り出来ず」と答ふ。 午后、若い人社より詩の依頼あり、これも断る。 5月8日 雨。きのふけふ寒く湯たんぽ入れる。9:30出て斎藤先生。薬そのまま也。 帰ればユ、名古屋に電話し「母10日来り、史夫妻12日来る」ときき、松田すみ子夫人に電話し「京大2人のうち弟(※省略)」となりしと。 『インドでくらす』よみ了へる。(文学散歩の会より「21日(火)17:30龍土軒で会」と。出席することとす。) 弓子の帰宅直前、松田夫人より「金曜21:00~21:30に来れ」と電話。 5月9日 晴る。10:30出(京、休み也)、『インドパキスタン現代史』成城堂で買ひ、図書館にゆけば宇井伯寿『禅宗史』3冊はすでに2部ありとの話。 大藤主任の印もらひ、すし食ひ、岡田君と会ひてのちsemi「ダルマ」の初めを小武守生に書いてやり宇井伯寿貸す。 semiすみて岡田氏まちてprint切る。岡田氏の説にては「河出書房2回目の破産にて大世界史も11回は10万どころか」と也し。(※省略) 佐伯に寄り『ローマ(80)』、『原始基督教史考・基督教の成立(40)』買ひて帰宅。1年の東洋史のnoteを夕食後つくる。 5月10日 9:00まへ出て成城。1年の東洋史第1章「明の興亡」半ばやり野上生の機嫌よきを見る。すみて「楚辞」のprintとり2時間半たちてやり、 そのまへ「眠し」といひし男生に「けふは」ときけば「眠くなかりし」と! 民俗の子らの問ふ漢字・地名の訓おしへ、新宿にてjuiceのみて帰宅。『Biblia』の「眞柱追悼号」来をり。 あはれなる「人」とおもへばわが神のおしへとわれはあはれみゐるも curie eleison!(※キリエエレイソン) 20:00すぎよりの見合にと弓子をつれユ、19:20出てゆく。 21:00すぎ名古屋より母「元気」と。美紀子、雅子をつれて来てをり、これも電話に出す。母子22:30帰り来り、(※省略)。 5月11日 8:30ユの(※省略)に電話するに目をさます。「交際する」と也。 10:00出て高島屋の青木大乗展見にゆく。画伯夫妻木曜に帰りモト生1人でパリぐらしらし。ヱハガキ80×3。(※省略) 佐伯へゆき『日本の自然(40)』、『伝説・瑞兎号(80)』買ふ。釘本久春氏死去、東京外大教授60才と(足立明子の舅也)。(※省略) 5月12日(日) 礼拝にゆく。聖餐式あり。竹森先生「神の宮」と人間を説きたまふ。(※省略) 小高根二郎氏より「15日(水)17:00第一Hotelに来れ」との通知見る。televiにてDavis Cup比律賓との試合見てゐれば、増田より電話あり。 迎へゆき、日記(昭和30年の)見てユともども思出しゐるところへ滝本生「あす来る」と電話。 「16:00以後に来よ」といひ、すし食はせて増田生を返す。夜、名古屋より母14~15:00に東京着と。 5月13日 11:00出て成城大学。大学院気持よくすませて帰り、母より涙話きく(建、河野へ来しと)。滝本生20:00近くまでゐて帰りゆく。 (けさ喜多村生へ弓子の縁談ことはり、大より久しぶりに電話あり、母とりて「あすゆく」といふ)。 5月14日 9:00小武守生より電話「父よりの贈物もち来る」と。ことはれば「すでに阿佐谷に来てゐる」と。やがて鯛の浜焼もち来り、2時間目ありとすぐ去る。 10:30出て斎藤dr.。薬のみもらひ(満員なりし)、千駄谷へ出て代々木で車。 東豊書店にゆき3万円余の本買ひ、ラーメン(100)食ひて出れば成城大学着13:30。14:00の教授会に大藤氏欠席。(※省略) 17:00までの時間潰しに『砂漠の文化(200)』成城堂で買ひ(佐伯にて『ドイツ語聖書(200)』買ひし)、 17:00になり、池辺、新城2氏とtaxiにのれば、向ヶ丘の紀伊國屋わからず迷ひて400払ふ。 大藤氏の代りに挨拶し、白鳥芳郎君の気焔きく。清先生食卓にわれと手塚、宮本馨太郎の3人の名、記しをらると。 田中久夫氏と久しぶりに話して新宿まで同車。 5月15日 8:30さめ(よべねつき悪かりし)、ユにタバコ買ひにゆかす。(※省略)「会議は踊る」のLilian Harvey何年ぶりかに見て新宿より地下鉄、 第一Hotelにゆけば、小高根二郎氏、すしと飲物ご馳走してくれ、「『果樹園』あと2年つづけるつもり」と。(※省略) 22:00弓子帰り、そのあと京帰宅。 5月16日 母、大の再婚につき怒りしあと林へと出てゆく様子なりしも10:30われ出て、すしなきため幕の内(150)新宿駅で買ひて登校。 昼食せず12:30岡田氏来ぬうちsemi始め写真もとる。了りて「史記項羽本紀抄」切り、 一昨日の車代400もらひて岡田氏の了るをまち、coffeeのみにゆき(100×2)、別れて帰宅。(※省略) (けふ十勝沖地震、入厠中にあり。余震ときどき。) 前橋より19日の往きの切符来りをり。浪中同窓会より(※省略)、 『軍記物語の母体と環境(200)』買ふ。21:30、picnicにと朝早く出し京、帰宅。弓子もおきし。 (丸(※丸三郎)に電話し、「八戸(※中野清見の住所)いかならん」といへば「心配するな」と。「汝は」と問へば「元気なし」と。) 5月17日 8:50ごろ大阪の山本治雄より電話あり「八戸いかに」とのことに「ケガナキヤ・シンパイス」と電報打てといふ。 そのあと出て(けさ5:30覚め、だるし)登校。1年すまし、また2時間半あき『太平記(朝日の日本古典全書)』買ひしに後藤丹治氏校なりし。 やっと「史記抄」よみ、(※省略) 成城の下より来し2人に「先生の講義おもしろし」ときき、新宿へつけば財布忘れをり。 帰宅すれば「三輪君より忘れありの電話ありし」と。 早くねんとせし処へ宮崎智慧女史お来し「(※見合不首尾に終った)渋谷氏の写真を」とのことに恐縮す。「この間、保田にゆき徹夜して話せし」と。 けふ中央公論社の(※『日本の詩歌』)『斎藤茂吉』来りし。 5月18日 だるく午前中ねてをり、午后、散髪しGolden Bat買ひにゆけば配給なしと。阿南惟敬氏より「論文評を『軍事史学』へ」と。 『詩人連邦145』来り、齋藤晌博士「『誤訳愚訳』は愚著」とかきあり。(※省略) p18 5月19日(日)  (※萩原朔太郎研究会) 5:00すぎ覚め、仕方なく8:30出て中野、新宿で降りして上野10:10の急行にのれば、西脇順三郎氏の隣。萩原葉子さん世話やいてくれる。 12:00新前橋着。taxiなく、来合せしautoにて水道会館。大岡信君をり、伊藤信吉氏来ず。 渋谷国忠氏に『新潮』(※昭和41年7月号「四季の人々」所載)贈り、13:30朔太郎研究会総会へと出、14:00すみて記念集会。 満員なるに喜びしも西脇、石原八束(!)の2氏の話つまらず、市長の話あり(広瀬川をきれいにせしと)。 そのあと「朔太郎の友」と自己紹介す。齋藤総彦氏は奇術の弟子なりと。その話おもしろかりし。 すみしあとお墓へ案内され、父上の銘のみなるを見る(旧榎町の寺と)。 また水道会館へ引返せば、われにsignせよといふ人ありし。『西康省』きれいにて8,000といへば肯ふ。 すみて記念撮影すまし、渋谷氏に夕食代返し、busにて駅。 Golden batなく菓子(300)と市街図(150)と買ひ、齋藤氏と同車にて赤羽。20:00帰宅。 (けふ松井好夫博士の『月に吠えるの病理(300)』買ひしに金返さる。) 5月20日 けふも5:00さむ。太田常蔵君の葬儀委員長たりし桜井芳朗教授「耳下腺腫瘍にて死去57才」と朝日に見ゆ。 10:30出て登校。忘れし財布返してもらひ、前橋の菓子を伊藤副手に託す。山田教授「大学院の研究費5万円」と。 午、東豊書店の簡氏、この間注文せし本もち来る(計31,460)。「Tungusの婚礼」早くすませ、すし食ひ、 大学院にゆけば桜井克子休み、池田茂都枝と荒本生とのみ。candy買ひくれし故、萩原さんの会の話し、ちょっとやりてすます。(※省略) あさ小高根太郎に電話し「大岡信の説に、三浦常夫(※小高根太郎)伊東の朔太郎論かきゐしを云ふ」といへば、「云ひしことなし。伊東に会ひしも2、3回と」。 弓子23:00ごろ帰宅。 5月21日 (※省略) 13:00出て成城。salaryもらひ成城堂の払ひし(826)、野口君と高砂族の話し、大学院教授会に出て「手当5万円を図書費で6月中に」ときく。 16:30となり渋谷に出て都電にて竜土軒へゆけば恰も17:30。(※文学散歩の会) 野田宇太郎、北原隆太郎、宮柊二などの近くに坐る。村松正俊、佳津兄妹もをり。 大悟法利雄の話きく中、便意催ほし逃げ帰る。新宿までtaxi(220)。佐伯にて『朝鮮西教史(1500)』買ふ。 5月22日 ユ、薬とりをかね伊勢丹へと出てゆく。(※省略) 澄より「27日上京」と。賀代嫗2回電話かけ来り「修理との名目で住宅金融公庫より金借れ」と。 太田常蔵氏夫人より『追悼文集』来りし故、受取り出す。佐伯休み。他にて『特定国宝目録(100)』、『日本の過疎地帯(150)』買ひ来る。 すが子より「妹、東京で結婚につき忙し」と母へ電話。 5月23日 渋谷国忠氏より籠贈らる。夕食代返却せしが為也。(※省略) 10:00出てすし(90)買ひ成城大学。 佐伯にて5万円の受領書作ってもらひ『諺苑(880)』、『下学集(2180)』、『元人雑劇序説(1730)』借る。 すし食ひ了へしところへ岡田英弘氏来り、「用あり」と。きけば「今年9月より2年の予定でアメリカへゆく」と。「後任まかした」といひてすむ。 semiすませprint切り「山田教授土曜出勤」とのことに海江田副手に5万円の受領書托す。岡田氏に茶のませ帰宅。(※省略) 5月24日 8:30出て東洋史。また2時間半に困る。(けふ大藤氏に新城博士のこといへば「16号俸なりし」と。「成城のbase低」をいへば同感と也し)。 中国文学史の出席50人位なりし故、早くすまし、新宿でjuiceのみてのち西武dept.の古本市にゆく。『西康省』8,200にて中村の出品にありし。 帰れば筑摩より限定版「現代日本文学全集4,000を印税0.16支払、銀行口座示せ」と。 萩原葉子氏より電話ありしと。弓子ふくれ面しをり。仕方なし。 5月25日 午まへ佐伯へゆき30円の本2冊買ふ。ユ、permaにゆきしあと美紀子より電話「松浦家へ着いた」と。「あす午前中来よ」いひ、 父上出しゆゑ「雅子お世話になる」といふ。母帰り来る(18:00ごろ)。けふ『河9』来り「蒲地観一氏42.9.25肝臓手術後死す」と。 小高根二郎氏より「『果樹園1』呉れ」と。しらべしに3冊のみ。 5月26日(日) あさ待ちしに10:30美紀子、雅子をつれて来る。写真とり1万円やり、高い高いすれば喜ぶ。 13:40ともに出て阿佐谷駅にてtaxiにのるを見て、荻窪へ出、taxiにて東伏見。松田邸につけば夫妻出て話す中、(※省略) busにて吉祥寺、ついで古本屋見しのち新宿の聚楽につけば林叔父叔母をり日下の出なる曽祖母の名を知らず。 17:30丹羽千年の学会より着きしを最後に、佐藤夫妻、わが家3人、難波夫婦、丹羽夫婦、寿一夫婦と敏夫父子(女子2人のみ。大きくなりをり) そろひて金婚と叔父の喜寿。われ叔父とさりげなく話せしも飯まづく困る。別れぎは丹羽千年「金井寅之助と話せし」と。 帰りて洋画劇場見る。(※省略) 平凡社より辞典の印税300。(松田家に「rain-cort忘れし」をいふ。「先方気に入りし」と)。 5月27日 10:00母は赤阪へ。ユはrain-cortとりに吉祥寺へゆくとて、我まづ出て新宿で弁当買ひ、成城で忘れてpão買ひ登校。 東洋文化史早くすまし、大学院すますや、池田生欠伸す。高橋邦太郎氏、研究室に入りをり。本来週写すと也。さそひてOrissaにゆき帰宅。 (佐伯で『文芸春秋』買ふ。) みす子氏(※松田みす子:悠紀子夫人の従妹)「弓子次第」といひしと。 福地君(※福地邦樹)より「叱られること覚悟で『Politeia』に詩かいた」と。22:30澄来る。 5月28日 澄12:00近くまでねてをり。福地君へ「『Politeia』に吸収されて可也」とかき、2,500と「詩人の墓」とを『果樹園』社へ包み、 近代文学館の笠井女史に「伊藤整館長来るや否や」きけば「未定」と。 「自邸へ電話せん、用向きかくかく」といふ(渋谷国忠氏より「市長へハガキでも」といひこしによる)。 成城大学へつけば13:45。(成城堂で『大漢和辞典』の最後の配本受けし)。 大藤氏、わがいひし『原刻影印百部叢書集成』を文部省へ手続きしてくれよとのことに、山本(※山本書店)に電話し見積書速達たのむ(180万円と)。 「17:00から」といふ大学院懇親会に1時間半あり。うろうろして成城大飯店といふへゆく。学生男2女4にて小倉女史来ず。 われ昭和初の流行歌おぼえゐるを証し20:30すみて駅へゆけば池田博士「大藤氏を助けよ。新城博士心配しゐる」と也し。 帰りて澄に電話すればトボに礼いはす。 5月29日 8:00起きがけ宮崎宮子生より電話「父、卒中にて死んだ」と。斎藤dr.へ薬もらひにゆき、山本へゆき『百部叢書集成』の見積書念のためもらひ、1万何千円の本、学生用にと買ふ。また都電にて新宿。pão買ひて成城。大藤氏にいひ文書課へゆけば「見積書3通、申請書2通いる」と。 typeにうってもらふことにし原稿かく。typeにもちゆき山田女史にたのみpão食ふ。 あと用なく『いろは字類抄』大学院にあるを見しのち山田女史に2部受取り、semi中の3先生に先だって帰ることとし、 宮崎宮子に電話すれば「けふ来てもよし」と。busにて二子玉川。(※弔問省略) 帰り自由が丘にてのりかへ渋谷。西武dept.みて阿佐谷。 佐伯にて『異民族の支那統治史(400)』買ひて帰宅。ユまだ帰らず。「Rowhide」また見て待つ。弓子帰り譏嫌わるくなし。 渋谷国忠氏の「前橋市長へ一筆を」との旨を伊藤整氏にかく。 5月30日 10:30出て登校(すし90買ひゆく)。Semiに山野井生来ず。『今昔震旦』の部分4をすまし、狐(※『聊斎志異』)もめど見え、天竺と比島と不十分なり。 「Semiの会を我家で15日に」と定む。岡田君と茶のみにゆき、帰れば坪井明「6月4日夜上京」と。 5月31日 10:30出て登校。2時間目すまし午食のとき、 日本文化史の大学院につき、新城、大山、池田の諸氏、悲観論吐くところへ大藤主任あらはれ「心配いらず」との顔す。 図書館へ『国訳大蔵経』など仏教全集見にゆく。帰れば山野井生来り、「伯父Argentinaより来り、云々」。 折しも大藤教授「事務局長と話し『双書集成』の私学補助、国文よりも出てをり山田教授と話しこちらへ貰った」と也。 山田教授の申請には芸文印書館と出てをり琳琅閣の見積書あり。第4位とてかまはぬこととす。 9学会連合にて皆出てゆきしあと中国文学史了へ、帰りの電車にて萩原葉子氏に会ふ。 「(※山岸外史との)悪い恋愛については10年後にかく。週刊誌こわし」と也。「伊藤整氏に渋谷氏の要請伝へし」を云ふ。 けふユ、「大のもち来し新聞の内容いひし」と。(※省略) 6月1日 大に電話すれば「けふ下阪」と。母帰り来る。夕食後、賀代嫗来りし故、「船越の代りに本多氏に地代払はん」といふ。 (けふ『軍事史研究』の校正来り、(※書評を書いた)阿南君に気の毒なり。) 大工に電話かけさせしに帰らず。 6月2日(日) ペンテコステ。ユは大掃除とて母、弓子とこれにかかる。われのみゆき転会1人、受洗3人を見る。 animaとて座より下りて来たまふをわれは待ちをり信うすくとも。 帰れば「澄より電話ありし」とて掛けしに「事業部に左遷、部長は社長の妾の子にて30才」と。「ひとり狼となれ」といひし。 大工さん「16日にかかる」と電話ありし。 6月3日 東洋文化史のnote不足のため『黒龍江志稿』もちゆきやっとごまかす。(※省略) 『果樹園』つきしらしく、栗山博士「やめたか」と問はれ「やめず」といふ。 万葉の5説(※不詳)中西博士説く中、「あす国文の会に出る」こととなる。「太平記」も早めにすまし荒本君、池田嬢を研究室に呼ぶ。 池田嬢『続日本紀』よまねばならずと也。帰れば『ハイネ』新5版来てをり、計30版なり(1万部)。 けふ松田みす子女史より「弓子泊りがけでもよし、よこせ」と也。(けふ文書課の戸田末子女史に「10年前は40代なりし」を云ふ。) 6月4日 ユ、みす子女史に電話かければ「弓子、おっちょこちょいと云ひてことはりし」と! 『果樹園』相変らず10冊来る。13:00ゆけばまた柿崎生と同車。Heine与ふ。 (※国文科の会にて)「大学院の紀要つくる。名は田中考へよ。各人50~80枚かけ」と也。 大藤氏にも伝へ、『成城文芸』に杜甫伝かかんと原稿用紙もらひ来る。母、赤坂へゆきをり! 「懐昔」と題してかきしも旨くゆかず。(※省略) 6月5日 斎藤先生にゆき薬8日分いただき診察うけず。この頃水曜は佐伯休みなり。「懐昔」書き直し「杜甫の晩年」とし、56才以降をかくこととす。 渋谷国忠氏より松井好夫氏「月に吠えるの病理」評のりし上毛新聞来る。 母に電話すれば「大帰らず」。坪井よりも電話にし。美紀子より「雅子へおこづかひ貯金しました云々」と。Robert Kennedy[撃]たる。 6月6日 11:00すし(110)もちてゆきしにsemiに(※卒論指導 省略) すみてprint切り(大藤主任に山本の本21,000の請求書わたす。) 岡田君まちてOrissaにゆく。「羽田夫人、片耳きこえず也」し由。帰れば「Kennedy死せし」と。 夜、中野清見より電話「息子の結婚にて出てきた。図書館倒れた。日曜にでも会はん」と。矢野に電話すれば「日曜娘へゆく」と。 丸に電話し「中野に電話せよ」といふ。 6月7日 9:00出ていつもの如く天ぷらそば(130)注文し、東洋史教へ、陶淵明の予習せしに、(※卒論指導 省略)  そのあと坪井より電話かかり「17:00阿佐谷駅にて」と。(※省略) 小武守生と出て新宿駅で氷くはせ、佐伯へ借り4,790払ひ坪井と会ひて家へつれ帰る。「三鷹の親類にゐる」と也。 beerのませ、鰻食はせ、西川と電話さし、20:00駅まで送り、佐伯の内儀より『日本文学小辞典(2,150)』、『日本浪曼派批判(750)』買ひて帰る。 「ユ、けふ便秘にて半死の苦しみせし」由。天野忠よりわがこともかきし『わが感傷的アンソロジイ』贈らる。 『不二』も来り、「蓮田善明」のす。 6月8日 8:00中野清見より電話、「日曜、丸宅へ同行せよ13:00高円寺駅にて」と。天野忠へ手紙出しにゆき、佐伯にて中村元『東西文化の交流(800)』、栗田にて『蜀碧・揚州十日記(280)』買ふ。母しびれきらして赤坂より帰り来る。 6月9日(日) われ礼拝休み、ユ出てゆく。12:30ユ帰りしと同時に出て高円寺。杉野祐二郎(尤次朗と改む)来りをり、中野清見来しとtaxiにて丸宅。 1時間話し煦美子の運転にて高尾山。麓にて姫鱒10尾釣り(1,000)、cableにて頂上(180×5)。 すぐ下りて八王子城阯の方へゆき、荻窪へ19:00すぎ着けば急行なし(とろろそば150×5)。 別れて佐伯にて『御物倭漢朗詠集(5,600)』と『Hammond’s Universal World Atlas(900)』とりて帰る。 岩崎昭弥氏より、以前5千円にて買ひくれし春夫本返却を受く。 6月10日 雨。11:00出て急行・準急にて13:05成城。『御物倭漢朗詠集』見せし。Shirokogoroffの『満洲族の社会組織』より婚姻1時間やる。(※省略) 大学院にゆけば3学生「授業やめよ」といひ、賛成して茶のます(330)。bonusもらひしに22,350-45,270+46,440=227,520也し。 その他に都民税の紙入りをり「205,960払ふため6月20,650、7月以降20,590」と。甚しい哉! 6月11日 10:00出て斎藤dr.。満員にて1時間半まつ。躁の30才の男われに話しつづける(お中元にハンドレッドハイパー(4,800)三越にて買ひもちゆく)。 成城、パンにてライスカレー(130)食べ、野口氏よりGolden Bat10箱頒けられ(300)、教授会。すみて国文研究室にBatおき忘れ、 中西進博士の「人麻呂と杜甫」きく。「人麻呂つまらず杜甫よし」と思ふ。(※省略) (けふ大藤氏よりも『山海経』に「鬼門」の語ありやと問はれ大漢和の写しし、四部叢刊の『山海経』もちゆく) 佐伯によれば『キリスト教大事典』来をり、『明治音楽物語(900)』とにて8,700払ふ。 6月12日 岩崎昭弥君より「前から送らうと思ってゐた」と電話、云ふ事なく手紙にて礼かく。午後散歩。 6月13日 ユ、鎌倉へclass会にてゆく。われよべ眠れず。2服のみ11:00母に起され、急ぎゆき成城にてrice-curryくひ、 岡田氏に会へば「後任交渉中。けふは会ありてつきあへず」と。semiすまし4生と喫茶(330)。15:00帰宅。(※省略) けふ中央公論社より『日本の詩歌10回』と宮崎教授『小説の世紀』たまふ。母と書庫片づけ『韃靼漂流記の研究』見つく。 京、甲府より帰りヱハガキ呉る。 6月14日 8:00さめ9:00出て成城。昼休み成城と経堂の古本屋にゆきてすます。母へ河野より小遣ひ来し故「また赤阪へ出てゆきし」と。 佐伯にて『太平記2(900)』と『ハイネ序説(900)』買ふ。(※省略) 6月15日 本位田の最高検検事となりしと新聞。けふ9:30ごろさめし。14:00ゼミの4生来り、18:00ごろまでをり。 その間『日本浪曼派研究3』来る。『歌日記(※父西島喜代助の歌集)』1冊づつもってゆきもらひ、佐伯にゆきしも何もなし。 6月16日(日) 本位田に祝の電話すれば「子どもらのための東京どまり」と。北の古本屋にゆき『李太白(60)』、『新島襄(180)』買ふ。(※省略) 6月17日 11:00出て、すし(90)買ひ登校。Manchusの婚礼了へ大学院桜井生休みし故、独講。高橋邦太郎氏essaist賞に出てゆきし故、2生と喫茶。 佐伯にて『儒林外史英訳(300)』買ひ一旦帰宅。母帰り来る。夕食の後、写真とりにゆく。高尾山のもの也。 これを丸、中野、杉野に包み、埼玉大学に転任との田中楠弥太氏への挨拶見しも返事かけず。televi22:30まで見る。 (南口はづれの古本屋にてBebel『婦人論(150)』、『本州東部の方言(100)』買ひ、阪本越郎氏より昭和8年の台湾旅行につき質問の電話受く。) 経済学部の尾上一雄教授より「入試委員会引受けよ」と電話。 6月18日 尾上氏より同じ意味の速達。田中楠弥太氏へ於莵丸氏あての手紙同封。10:30出て斎藤dr.にゆけばこみをり、薬のみもらひユに電話し、 「12:30渋谷での待合せ」いひ、busなーにて渋谷。2軒古本屋見しも何もなし。 ユと会ひてItalian Macaloni(180)食ひbusにて白鳥邸。清先生もの云へずなられ握手さる。 30分ほどして出、立教に電話し、手塚教授へ「ひまあらば見舞はれたし」とことづけたのむ。 新宿までbus、紀伊國屋と古本屋と見しも何もなく、阿佐谷へ帰り佐伯で駄本5冊(950)買ふ。 ユ、「伊勢丹より栗山氏に中元送りし」と帰り来し。けふ阪本越郎氏に返事せしに、また問あり。電話せしに「蓮田善明の詩を」と也。(※省略) 6月19日 「胃わるし」とてユ出しあと、母赤阪へ出てゆく。チクマより印税1,300!ユ「母に10万円かせ」といはれし話す。 手塚教授より電話ありし故、白鳥先生のこと話す。依子よりcolor写真来る。午后と夜とに滝本母子より仕立てにて電話。 6月20日 われ下痢。10:00出て成城。semi了り岡田君見つけ「7.13(土)わが家にて送別会す」といふ。 上原君「松村先生上京、末嬢ソ連留学許され困りをらる」と。まっすぐ帰り(けふ行きがけ佐伯にて『遊仙窟全講(1,100)』買ふ。) 阪本氏に「倭寇の詩(蓮田善明氏の)」を写せしを送る。ユ「土曜胃の検査」と。 6月21日 ユ9:00に起し、あはててsoupだけにて登校。教室へゆけば「鐘まだ鳴らず」と『蜀碧』をすすめてすまし、13:00まで待つ間に(※省略) 13:05、salaryもらへば都民税20,650をはじめ所得税8,010と共済組合費7,240など37,360引かれ手取り78,730。 南新宿下車、東豊書店へ杜甫関係の本見にゆきしもなく、『鄭成功紀事編年(300)』、『唐代文化史(400)』、『呉耿尚孔四王全傳(150)』買ひ、 茶よばれて出る。阪本越郎氏より質問状来をり「イザリアの花」といふのわからず。 浅野夫人より「むすこことわった。礼送った」と。けふ依子より電話「畠山六栄門さん福島へ帰る。送別に5千円もちゆかんか」と也しと。 6月22日 ユ8:30河北病院へ胃の検査にとゆく。われ「杜甫の晩年(200×16)」とせし処へ帰り来る。 東洋学術協会へ会費1,000送り、佐伯にて『解釈と鑑賞6月号(230)』買ふ。成城の国文科の紹介あり。(※省略) 浅野夫人よりの小包に礼かく。今井翠より「読売の記者紹介」と。 澄より電話「畠山邸へ送別にゆきし。東京に5時間とどまるも子女に会ふ故会へず」と挨拶ありしと。大あす帰京らし。 夜、川久保より電話「月曜10:00に来る」と也。 6月23日(日) 夫婦して礼拝にゆき、竹森先生にお伺ひしてよろしき日きけば「7月3日14:00」と。 佐伯にて『文芸春秋』買ひてよみしのみ。「杜甫の晩年(200×27)」にて講義のnoteも作らず。 阪本越郎氏より電話あり「近代文学館の『文学』4(※厚生閣)を見させし」とのことに「2にもかきをり」といふ。 (※省略) 吉祥寺教会より「竹森先生の御辞退にてtape –coderもってゆきもらふのみ」と。 6月24日 9:00川久保より電話「朝、来られず12:00ごろちょっと来る」と。ユ、河北病院へとゆく。そのあと川久保よりまた電話「午、成城へゆく」と。 10:00すぎ出てすし買ひて成城。午来し川久保と栗山博士と話さし、穂積高校長へと送り出し、東洋文化史に「ソロン族の社会」紹介し、 すぐ研究室へ帰りて待てば川久保来り、「山内博士に会ひに」と出てゆく。(※省略) 川久保を山内博士の研究室へ迎へにゆく。「ドルメン」時代よりの知合と「成城の不平こぼしたまひし」と。 高橋邦太郎氏にいはれ3人にてOrissa。Coca-colaのみて川久保と地下鉄南阿佐谷にて別る。 あとにて電話かかり「松本(※善海、見舞にもう)来てほしくなしと云ひし」と。牛尾三千夫氏より『大田植と田植歌』賜はる。 渡辺道夫氏より「呉越国の支配構造」の抜刷。ユ「胃炎に過ぎざりし」と。 6月25日 9:30出て千駄ヶ谷より斎藤先生。「好調ですね」と。出て雨降りつづく故、新宿で傘(780)買ひ、 東豊書店へゆき『諸羅県志(240)』、『杜詩錢注(1,000)』買ひ、マカロニ食って登校。大藤教授に山田博士の不平伝ふ。(※省略) 44年度より学費値上げを高田部長いひ出せしも「資料不足にて来週臨時教授会」と。(※省略) 鎌田女史と新宿の支那料理屋へゆく。わがtableみな逃げて新城博士1人となりしを見て逃げ帰る。 阪本氏より質問状。栗山氏より礼状。 6月26日 阪本氏へ速達しにゆく。佐伯へ寄れば「1.7万円成城より来た」と。4万円余りまた買ひ、 われは『ネパール王国探検記(50)』、『恋愛解剖学(450)』買ふ。母に電話すれば「大まだ帰らず。阿佐谷転居すすめる」と。(※省略) きのふ学校へ来ありし竹内正夫氏「専修大学につとめ鎌倉に住む」といふ挨拶に祝辞。(※省略) 6月27日 あさ依子、トボに電話し「大の帰京来月初め。雨やみし」ときく。10:00すぎ出てすし(90)買ひ登校。semiに山本生来ず(写真くばる)。 すみて佐伯の本もち来しをかぞへしに宇都宮博士の本2冊あり。 (岡田君をしてわざわざ来し山田教授に挨拶さし「倉石博士の女婿池田温君を後任」ともめる。) 李白詩抄printし、岡田君、野口君を7.13(土)15:00阿佐谷に招くこととし、岡田君の出づるを待ちてjuice(260)。 別れて佐伯へ本返しにゆけば『台湾文化史』3冊そろひあり。6千円と。喜びて『日本の憑きもの(200)』とともに買ひ、 帰れば『中国』に「秋晴れ」のせてよきやと。「よし」とかき、夕食して佐伯へゆきたしかめしに「6千円にてまちがひなし」と。 わがもちゆきし『台湾文化史 上』を1,200でといふに『郷愁の民俗』と交換して帰る。 吉川・桑原・貝塚3博士と3名の対談、ユ聞きをり。(※省略) 6月28日 雨中、9:00出て10:20東洋史。「福王立ち、史可法の死(※明末史)」にて止む。野上生来ず。 午休み下北沢へゆき『本』3冊(90×3)買ひ、みつ豆くひて帰校。雨やみをり。中国文学史「李白」やりてすまし帰宅。 「杜甫の晩年」つづけ21:30(69枚×200)、死後のみを残す。けふ安藤真澄(※詩人)の3子より「父6.22、am1:16死去」と。 『中央公論』の鈴木女史より「阪本先生と来る。2かと8日といづれよきや」に「8日」と答へて了る。 小高根二郎の恋を語りし「若い人」来りし。(けふ「杜甫」と同人費2,500を速達せし)。「関口、西部軍総監退職」と夕刊に見えをりし。 6月29日 晴。10:00までに「杜甫」73×200とし、出て成城大学。伊藤副手より原稿用紙受取り、田中久夫氏まち、ともに昼食す(470)。 別れて『成城文芸』の委員会。6人出席。池田博士ゆっくり話し、中西氏ら新委員のまはりもちとなる。 中野にて下車、カロン『日本大王国志(410)』買ひて帰宅。比嘉一夫沖縄より「創価学会となりし」と。 白鳥夫人より「手塚、宮本2教授26日見舞はれ安心した」と。成城大学より「5日13:00、3部合同の教授会」と。 6月30日(日) 夫婦して礼拝にゆく。cristianでなきものの批判は神にまかせてよろしきらし。televiのsports見てすごす。 7月1日 雨もよう。畠山六栄門氏より「福島市に住む」と。論説資料保存会より「志異雑記」掲載すと。12:00昼食して成城大学。 研究室当番制となりをり。『玉燭宝典』と『二十四史』の記入せしのみにてクタクタとなり帰宅。 母帰りをり。滝本生来り、中川夫人と五来教授の情事はなし「近々止めん」と也。 7月2日 8:30出て散髪(500)。斎藤dr.にゆき、永続睡眠をお願ひし、雨中、新宿に焼売(100)買ひて登校。大藤氏来てをり、国文英文の書目の見本見せたまふ。 けふ阿部・海江田両副手とも美紀子と同級なるを知る(あさ「秘書課長補佐に陞任」と電話かけ来し也)。 15:30までcard箱かりて写す(小泉君に連絡す)。疲れし故、出て成城堂のぞき『南北朝論(490)』買ふ。(※省略) 母、建のことにて涙声出す。 7月3日 9:00出て成城大学。11:50までcard写す。新宿にて12:15rice-curry(100)食ひ、阿佐谷にてユと会ひ、竹森先生を訪ひ参らす。 「Michigan洲のHollandにゆかる。」と。「Gravius研究の日本人あり」と伝へ玉へとお願ひす。(※省略) 帰れば澄より電話「大憔悴しをり。けふ辺り伊勢へゆきて帰京」と。建の三重県鰹鮪組合就職を知らず(けさ便り来て母喜び赤阪へゆきし也)。 母より電話「喜びゐる。祝ってくれ」と。ハガキ書く。 7月4日 曇。9:00出て成城大学。引きつづき書目かく。午、天ぷらそば食ひ、14:00まへ来し山野井秀子生と出て新宿で喫茶(140)。別れて帰宅。 浅野晃氏編の『現代日本詩集』にわが詩3篇「秋晴れ」「鳶」「戦友に」を入れたり。 7月5日 雨中9:00出て成城大学。午、天ぷらそば食ひ、あすにて220代(※日本十進分類法(NDC)区分の東洋史)すむこととなりし所にて教授会。 未曾有の3部連合にて妹尾理事長「4.5万円あげ、今のところ東京一の高額にせん」と云ひ、賛成せし様子なりしところへ 戸口、毛利など若手「反対給付を考へよ」「寄附入学やめよ」「高校以下のあり方も考へよ」といひ、「ご尤も」との事にて散会。 母帰り来り、建の手紙見す。(※省略) 22:00史よりユに「松浦家に泊る。あす帰宅」と電話。 7月6日 雨。傘もって出、14:00までに220代了る。(※省略) 14:30帰宅。 中央公論社の鈴木女史より「8日14:00、camera氏と来る。蔵原伸二郎とコギトのこと知りたし云々」。 入江春行君より『群像』に「詩人とは何か──田中克己について──」応募せしも3次で落ちたと! (※省略) 成城堂にて受験参考書とり『人間茂吉』2冊買ふ。 7月7日(日) 晴。8:00すぎさめ礼拝にゆかず。ユも亦。角川書店より「原稿かけ」と。バカらし。(※省略) 蒲地夫人もと子氏より追悼文のりし『青芝』2冊と『春夏秋冬』贈らる。肝臓癌なりしことをはじめて知る。 朔太郎忌の写真来る。(※省略) 依田義賢氏より『骨』同人5人死に『骨』と改めしと! 夜、小武守生「帰郷」と電話かけ来る。「留年覚悟し父に云へ」といふ。躁也。 7月8日 8:00すぎさめ登校。292(※NDC区分のアジア地理)やり、12:00天ぷらそば食って帰宅。(※省略) 14:30、阪本越郎氏、鈴木女史とcamera-manと来り、相当写されしあと「(※『日本の詩歌』詩篇解説)蔵原のみ残り、渡欧」と。 自動車まで送りゆき白鳥先生の奥様に礼状かく。(佐伯にて『源氏物語の魅力(250)』買ふ。) よべ母に小遣ひやりし(5,000+弓子3,000+京2,000)に「赤阪へと出てゆきし」と。(※省略) 7月9日 松浦母上よりユに「史けふ泊る」と。9:30出て斎藤dr.。薬のみもらひ11:00登校。(※省略) 292すみ、あとは図書館でやることとし、14:00退出。 『果樹園149』来りしのみ。史18:00来り、入浴夕食後「松浦家へ」と出てゆく(公舎は大橋と)。比嘉一夫生へ公明党大勝の祝かく。 (※省略) 賀代嫗より「あす14:00来る」と。弓子「友だちと富浦へ2日泊りでゆきし」と。 7月10日 7:30さめ成城へゆかず四部叢刊の書名うつす。浜田耕作『東亜考古学研究(150)』買ひ来り、のり付す。 手塚教授より「15日より夏休み」と。白鳥先生のことさしておどろかざる様子。澄より電話「あす上京、兄のところに泊り、あさって朝来る」と。 15:30賀代嫗来り、隣家のことユと話す。本多さん来て木斛の移植してくる(beer4本+1,000)。 短大夜学の木村静子生、滝本生の話にては「今東光の妾となり銀座に新聞やりゐる」と賀代嫗。 7月11日 7:30さめけふも成城へゆかず。大工の鈴木氏より電話かかり「材木店遠く、頭領の手あかず云々」と。叱れば「明日より始める」と。 (※省略) 服部夫人(※服部正己未亡人)より、 「論文typeしアメリカへ送った。すでにregume送りしも反響なし。俳誌にかいてくれるや。肥下夫人、立派な邸に住んでゐる云々」。 (※省略) ユ、本多さんへ地代滞納(賀代嫗名義)2万円余もちゆく。(※省略) 真野喜惣治氏より電話「来たきも道しれず」と。 7月12日 10:00すぎ澄より電話「来る」と。そこへ真野喜惣治氏より「南阿佐谷にあり」と。迎へにゆき帰れば澄来をり「東京へ転任ほぼ出来るらし」。 トボへの土産もたしかへす。齋藤千代夫人より「見舞返し送った」とハガキ。 昼食すまし真野氏送りがてら出て成城。図書館にて目録写すうち前田勝太郎氏来り「来年停年、大学に職ほし」と。 青山博士につれゆけば「鈴木俊氏にたのめ」と。(けふ柿崎生と同車、「田中久子生イタリアへゆく」と也)。 7月13日 登校せず。タバコ買ひ、澄に雑誌送る。14:45家を出て阿佐谷駅。まもなく岡田君来りしも野口君来ぬゆゑ、家へ帰れば電話かかり迎へにゆく。 Golden Bat賜ふ。21:00まで話し「愉快なりし」由。野口君『歌日記』もちゆき(『近代神仙譚』とともに)、岡田君『龍の星座』もちゆく。 7月14日(日) 礼拝にユとゆく。(※省略) すみて佐伯により『コンサイス(50)』買ひて帰らんとすれば、 頭領、手にけがして出て来り、救急病院たづねて篠原医院にゆき手当すみ、指おとさずすみしも仕事出来ずなる。 夕方、鈴木大工来り、材木請求のためと負傷のこととひ、鈴木文平の家に電話し、来りしと夕食ともにす。(※省略) 7月15日 永山光文の会社に9:00電話すればをり。転居せしは事実也。斎藤夫人と山の上Hotelへ礼状出す。諏訪母上より「入院中」と。 母に電話すれば「あすちょっと帰る」と。televiに堀川直義氏出てをり停年退職の話す。(※省略) p19 7月16日 9:00出て斎藤dr.。「眩暈す」と申上げれば血圧はかり120故、薬かへ玉ふ。 登校。図書館にてcard写し12:30坂、阿南(道長かくと)2生さそひて成城パンへゆき昼食。 14:00来りし山本生に『法苑[珠]林』8冊貸し、ともに研究室へゆきみれば鎌田女史semi生を督し『柳田国男集』の索引のcardを拾はしをり。 帰宅。母帰りをり。「あす中央公論社の鈴木女史14:00来る」と。 7月17日 朝、鈴木文平より電話「材木代15万円となるが宜しきや」と「宜し」と答ふ。10:00まへ頭領来り、材料運ぶ。 14:00中央公論社の鈴木女史来り7月8日とりし写真賜ふ。頬こけ写りをり。礼に立原のハガキ1枚。(※省略) 7月18日 けさも5:00さめ朝風呂に入りダルく成城へゆかず。(※省略) 織田喜久子氏より「杉山平一氏芦屋の金持とのことば恨みゐる」と。 『骨30』杉本長夫氏号也。『日本の詩歌』の春夫よみ了る。大に丸よりききし「家庭イ(2043)」伝ふ。 老人けふ1人来り、夕方までコンクリート流しやる。 7月19日 平凡社の渡辺氏より電話あり「午后早く来たまへ」といふ。保田夫人より「(※直日氏の)1周忌すみし」と。 坪井明、北村鈴子より暑中見舞。暑く30℃を越えしといふに家居。 13:00渡辺氏来り、「李白の訳の写しだけにてもよし。9.15まで」と。 14:30柿崎・田中久子2生来る。田中久子「8.18出発。フランス、イタリヤ(ドイツはフランクフルトのみ)へ男女60名でゆく」と。(※省略) 20:30豊橋に電話すれば史出て来「22日転居」と。「ユ手伝はす故、電話しろ」といふ。けふ母来り「大貧乏」といひしと。 7月20日 9:00まへ出て青山博士に味の素もちゆく。 10:30より1時間半list作りクタクタとなり、鎌田女史に「いつまでやれば宜しきや」と問へば「8月中」と。 成城パンにてマカロニ食ひ、野口君とちょっと話せしあとsalaryもらふ。成城堂に払ひし(『中華飲酒詩選』と『江戸参府紀行』と買ふ。)、 佐伯に寄れば「払ひ受けし」と。『スペイン語4週間(200)』と『東京今と昔』2冊(200)買ひ、帰宅して散髪し、そのあと『文芸春秋』買ひ来てよむ。 7月21日(日) 6:30さめて庭の木に水やり9:00出て礼拝。受洗・転会あり。笹淵博士「そのうち日本浪曼派のことききたし」と。 竹森先生より旅程ならびにその後のことお話しあり、名店会館のイワキにて老眼の検査してもらふ。「30日ごろ出来、15,460なり」と。 1万円だけ前渡しす。帰宅すれば老人の頭領、仕事了へて帰る。関口八太郎君より「練馬に住む」と。 (※暑中見舞 省略) けふも暑く2度入浴。美紀子よりユに「あす9:00手伝に来てくれ」と電話あり。(※省略) 7月22日 ユ8:30「池尻の転宅手伝ひ」にと出てゆく。そのあと来し老爺にわれ麦茶を供し、ハダカにてゐれば17:30帰り来る。 カス本佐伯へもちゆき、『芭蕉文集(800)』、『日本古俗誌(600)』、『Verhalen en legenden van hindoeisme & boeddhisme (600)』とかへてもらふ。 (「池尻3階にて涼しく、美紀子秋に第2児分娩」と武田姉云ひしと。) 7月23日 9:00出て斎藤dr.。薬もらひて出るところへDr.行き合はせられ「来週月曜より日まはり夫人といふ題にてやるゆゑ奥さんに見てもらへ」と。 11:00すぎ成城図書館、3門やり民俗学のところよりとなり14:00。(昼食成城pãoにてrice-curry、130)。成城堂にて『倭の五王(150)』とりて帰宅。 (※暑中見舞 省略) 京帰宅。「上高地へ23:30に乗る」とて20:30出てゆく「帰宅は26日」と。(Camera直しにやる。「1週間ぐらゐかかる」と也。) 7月24日 7:30起き8:30出て成城大学図書館。午前中閲覧者なし。成城堂にて『沙門空海』買ふ。参考書に榊亮三郎博士のなきがふしぎなり。 14:00になりクタクタにて帰宅。(※暑中見舞 省略) 母帰りゐて扇風機もって「赤坂へ」とまた帰りゆく!(※暑中見舞 省略) 20:00河童忌にtelevi、井上良雄、中野重治の2氏見る。トボに電話かける。 7月25日 晴。咲耶より「河野母上元気」と母へ、(※暑中見舞 省略) 今井翠より電話にて「弓子の縁談せかす。見合はわが家にて」と也。 ユ、婦人会へゆき13:00帰宅。吉祥寺のイワオより「眼鏡出来た。残金5,480」と電話ありしゆゑ16:00出て吉祥寺へゆき眼鏡とり、竹森先生に遭ふ。 (※省略) (けさ「コギトの思ひ出」16×400かき、角川の鈴木序夫氏に電話すれば「月末でよし」となりし)。 高森文夫氏の詩集(※『昨日の空』)来り、筑摩の『世界のノンフィクション30』来る。 7月26日 9:30出て入歯忘れしに気付き、とりにゆき、10:30成城。 12:00までに和書すみ、マカロニ・ナポリタン(150)いつもの如く食ひ、洋書card見ればほんの少し。 前田部長につかまり「履歴書の増訂せよ」と写しわたさる。成城堂にて『昨日は今日の物語(400)』買ふ。眼鏡に慣れし。けふ工事一部すむ。 「澄より電話ありし」と。高森氏へ礼状出し(堀川博士と同級)、澄に『世界のノンフィクション30』送らす(140)。(※暑中見舞 省略) 京、上高地よりヱハガキ買って帰宅。 7月27日 7:00目ざむ。大工鈴木氏来り、42万円余の見積りし、内金9万円もちゆく。大藤氏へ「洋書少く45部」と報告す。 美紀子、雅子をつれて午食し、雅子ねむりしを置きて犬とりにゆく(5千円)。雅子さめし故、ユこれを今井につれゆき「taxiにて牛込へゆきし」と。 (※暑中見舞 省略) 夕方、タバコ買ひに出て夕立にあふ。成城大学(文化史)大学院のための書類をととのふ。 7月28日(日) 夫婦とも礼拝やすむ。(※暑中見舞 省略)  「コギトの思ひ出」20×400書き了へ、面白くなし。(※省略) 7月29日 よべ0:00ごろねつき、8:00すぎさむ。角川書店鈴木氏に電話し「原稿みた上にて採答決せよ」といひしに、 のちほど渡辺氏といふが来り、(※翌1969年刊『現代詩鑑賞講座』)第10巻にわれの欄も設く。解説は誰にとのことゆゑ「福地邦樹君に」といふ。 (※暑中見舞 省略) (渡辺氏「近ごろ保田に会ひし」と也。) 福地君に「角川よりたのみあればきかれたし」との速達かき、ユに出さしめ、夕方佐伯にゆき『文春オール読物』7月号の杉森久英「奥野信太郎」よめば母方の祖父は橋本網常(佐内の弟にて軍医総監)、父幸吉氏は弘前師団長たりし。淡路銀行破産に関係ありと、ふしぎ。 夜、『果樹園』へ詩かき了へし途端、田上生より電話「史をことはりし叔母やはり大蔵省へ縁談まとまりし」と。 7月30日 5:00小便に起き(珍しきこと也)、そのあとゆめを見る。8:00起床。ユが耳鼻科より帰るを待ち、駅前郵便局にて果樹園社へ速達(125+2,500)。 斎藤dr.に参れば病室回診か診察とぎれ11:30先生に「ひまはりおばあさん見た」と申上げ、成城教務へ履歴書とどけ、 野口氏研究室にゐるを見て「洋書少く大藤氏に云ひし」と告げ、『太平記』本2部とり、成城堂にて『蝦夷(580)』買ひ、袋もらひ帰宅。 澄より『中国5月号』来てをり、(※暑中見舞 省略) 大「見舞欲し」と、高熱にて云ふときき、ユに地図かかせしもわからず16:00案内させてゆく。 医師よび熱下りしを見て、阿佐谷転住すすめ、虎ノ門より地下鉄にて帰宅。(アメリカ大使館の西側なりし)。 7月31日 他出せず。立原達夫氏より暑中見舞。野上弘より塩こぶ賜ふ。氷見印刷所より「杜甫の晩年」の校正来る。 中西博士に電話し阿部副手(電話かからず)むちゃくちゃと云ひしも、原文は眞漢字、訳などは当用漢字、カナヅカヒは旧制とするといひ、辞引ひきて疲る。 澄より電話「世界ノンフィクション」の『西太后に侍して』着きし礼。村松正俊博士『蛇』来る。 8月1日 ユをして氷見印刷所に速達せしめ、村松正俊博士に『蛇』を思想詩といひ、「太平記と白楽天」かきはじめ、 『中央公論』の小山正孝氏に電話せしに「13:00出勤」と。「16:00ごろ電話を」といひ、数男に歯なほしてもらひにゆく。「あさって再来すべし」と也。 (※暑中見舞 省略) 小山氏14:30電話かけ来り「今夜来る」と。来りて「李白やれ。渡辺氏喜びゐる」となり。 8月2日 televi見すぎならん。疲る。遠藤篤子生「海外旅行する」と。清水文子より暑中見舞。 8月3日 暑し。小高根二郎氏より「中島栄次郎のことかけ」と。(※暑中見舞 省略) トボ「電話かけよ」といひしと依子、「夏休みに来よ」といへば「澄忙し」と。 母より電話「大まだ癒らず。月曜帰る」とのことに、「6日の裁判の結果ききて帰れ」といふ。(※省略) 白楽をやめ李白やる気となる。 8月4日(日) 夫婦して礼拝にゆく。上着つけず。参加者少かりし。帰りて昼食せし処へ母帰り来り「大、仕事はじめし」と。 滝本生来り「非キリスト教徒はせめず」といへば喜ぶ。(※省略) 8月5日 鈴木文平、材木運び来り大工、頭領、老手伝とにて玄関こはす。辻英美子、笠野芳子より暑中見舞。(※省略) 午后、柏井歯科へゆく。あと2回ですむと也。阿佐谷七夕saleにて賑ふ中を、松崎君眼鏡かけて歩みゐし。 8月6日 9:30出て斎藤dr.。薬のみもらふこととせしに後まはしとなり結局同じ時間とらる。写真Album(200)七夕大売出しの最後にて買ふ。 鈴木大工頭領とにて玄関あたりのみならず方々もぎとる。停電し東電より来し人「工事屋呼べ」と仮手当してゆく。 「李白」やる気となりしもすすまず。あと25日なり。 8月7日 午前、李白すこしやる(福地君より速達「旅行中に速達来た。引受け19日ごろ来るやもしれず」と)。(※暑中見舞 省略) 数男にゆけば「来週できる」と。佐伯けふ休みをり。母、調停のこと聞くと夕方、赤阪へ出てゆく。 夜、医科歯科の田中博士「南北社より電話かかりし」と。 8月8日 美紀子より電話「14日来る」と。けふは鈴木大工1人にてやる。南北社へ電話せしに「係をらず」と。(※暑中見舞 省略) 「李白」の清書し「杜甫」の再校を見、夜、佐伯へゆき『陶淵明集(90)』買ひ来る。暑し。川久保君より「上京した。あす帰る」と電話。 8月9日 母11:30貸家見に帰り来り、ユとゆきしも空きをらず不便にて汚しと。鈴木大工がけふも1人なり。 南北社へ電話すれば常住氏来り「22日までにコギトのこと10枚かけ」と。(※暑中見舞 省略) 暑く「李白」22枚となりしのみ。 8月10日 朝、福地氏より速達「『南の星』貸せ。40枚のうち10枚書けた。18日頃来る」と。 澄より電話「あす来る。トボつれるやもしれず」と。(※暑中見舞 省略) 20:00依子に電話し「トボ月末まで来るをまて」といふ。李白47×200以上。 8月11日(日) 夫婦とも礼拝にゆかず。大工さん水道屋つれ来る(7.5万円と)。「早くしてくれ」と云ふ。李白の訳、本文64枚×200くたくたとなる。 (※暑中見舞 省略) 澄ナゴヤより電話かけ来り「トボつれぬ。兄宅へ泊る云々」。 昨日より弓子、静岡へ海水浴にと出ゐるに台風近づき雨ふる。運わるき女なるかな。夜、田中久子へ電話し重ねて「気をつけて」といふ。 8月12日 澄よべ兄宅へ来る筈なりしも、大の電話にて「昨夜出発できず、けふはここへ来る」と兄宅へ電話してわかりしと也。(※省略) しばらくして大「澄と7~8時までゐる」と。依子より夕方「夫つきしや」の問合せあり。20:00すぎ澄来る。 8月13日 よべ23:00ごろまで澄televi見をり眠れず。10:00すぎ新宿までともにゆき我は斎藤先生。薬いただき傘忘れて新宿よりbus。 天沼車庫より柏井歯科へつきしは12:05。(※省略) 上歯できしを入れてもらひ帰宅して斎藤病院に傘のとりのけ電話にてたのむ。 阪本越郎氏より「15日Moskwaへ出発」と。(夕方電話して「平安を」といふ)。服部夫人より「童話の訳見てもらひに来る」と。(※省略) 8月14日 屋根ふきを鈴木大工さんつれ来る。12:00まへ美紀子、雅子をつれ来る。物いひねいたづらになりをり。今井家へとつれゆくに母も赤阪へと出てゆく。 (※暑中見舞 省略) 鎌田女史「7月26日よりずっと修善寺泊り」と。(※省略) 大より電話「母、宝国寺のこと気にしゐる」と。「も、しばらく待たん」といふ。 8月15日 福地氏よりハガキ「これこれの詩ぬいた」とのことに「悲歌」の掲載誌速達せしめしに午すぎ福地氏来り「「大陸遠望」の掲載誌しりたし」と。 中央公論社の鈴木女史に「『コギト』ありや」ときけば「あり。あすもちゆく」と。 けふ鈴木文平生材木もち来り、鈴木大工「3日休む」と8万円もちゆく。。 8月16日 8:30さめ(よべよく眠れず)、午ごろ中央公論より帰り来し『コギト』にて福地氏の仕事すみ、あと聖霊の話、ユと3人にてす。(※暑中見舞 省略) ユ19:30の新幹線の切符買ひ来り、18:00まで夕食すまさす。福地君酔って話しやまず駅まで送りしあと「上衣忘れた」の電話ありし。 8月17日 よべ早く眠りよく眠る。母帰り来りしゆゑ、ユを松浦家へ中元もちゆかす。(※暑中見舞 省略) この3日間李白やらず。夜、松浦母上より電話。 8月18日(日) 竹森先生とお別れに参りしに22日お立ち(10:00)との由。齋藤先生(※齋藤齋?)胃潰瘍なりし由。(※残暑見舞 省略) 筑摩より『Non-Fiction』の印税(21,000-2,100)18,900三井銀行に入金と(3千部なりし)。 けふ名古屋の千種団地の事故云々との事(※飛騨川バス転落事故)に依子に電話すれば「きのふ蒲郡へゆきし」と也。 8月19日 (※省略) 『東洋学報50-4』来りし。角川へ立野利男の名書き加へたのむ(係ね鈴木氏)。 東洋文庫岡田君より電話、後任の池田温氏出て来玉ひし故「8.31までに履歴書、業績簡単に。木曜3.4時限と孟子、史記の申送りたのむ」旨云ふ。 京18:30帰宅。「早いわね」のユの言葉に(※悠紀子夫人に対して)激怒す。小山正孝氏より電話ありしに「李白100枚かいた」といふ。 8月20日 8:30出て斎藤dr.。久しぶりでお目にかかり、この前忘れし傘返していただく。帰り『暮しの手帖』の戦中記念号買ふ。 暑くて汗流しをり。(※残暑見舞 省略) 『四季』3受取る。母、増上寺へゆき林泊りと。 8月21日 福地君より速達「角川へ送稿した」と。(※省略) 大伴道子夫人より云々。 13:30出て登校。salaryもらひ大藤氏に会へば「洋書、東洋史はなくてもよし」と。 成城堂に払ひし、『長岡京発掘(280)』買ひて帰宅(氷あづき食べて)。(けさ保田のこと南北社のため10枚かく。※「少年の日のことなど」保田與重郎著作集 第2巻月報) 8月22日 よべ22:00眠り8:00さめ、ユに竹森先生送りにゆかんといひ、出たあと何時出発かわからずなり、 道具屋に寄り茶のみて10:30ゆけば男4人女20人ほど集りをり。 先生「高砂族の本は何といひしや」といはれし故「向ふへお着きになった時お手紙す」といふ。11:00、Hyer来り、先生御夫婦お立ちになる。 帰りて『朔太郎会報』見る。(※省略) 池田温氏より書類来しゆゑ山田主任教授に電話し「9月より新任」と定む。 夜、岡田英弘氏に云へば「もとよりそのつもり」と。けふ「田中正平」を伊藤完夫氏かきしをユ見付く。池田温氏略歴(※略) 8月23日 ユ8:30史宅へとゆく。あすの雅子の誕生祝にと也。 母に「3万円われ出し、大2万円出し、年5万円(10年年賦)とせん。建の名義」にといひ、午食まへに史ら外出とて帰り来る。 (山田教授に書留にて池田氏の書類送る)  (※残暑見舞 省略) 母赤阪へと出てゆき京、下田へよべよりゆきをり3人家内也。 (澄より電話「依子、泰をつれて29日来る。云ふ事よくきく故4~5日泊めよ」と電話あり。) 中村嫗より保険での借用8万円出来し。けふにて「日まはりおばあさま」了り、チエコの騒動3日目なり。 (午后、長尾良君より「高円寺の伊藤病院に入院。徽宗かきたし。あす退院」と電話あり、すぐゆき何年ぶりかに会ひ来る。 帰りて保田直日追悼の『風日』を見る。イスラエル・アラブ戦争の直後に自殺と。) 8月24日 屋根屋遠藤氏に3.5万払ふ。木山捷平氏、昨日午后食道がんのため64才にて死と朝刊。中西進博士より紀要の休みみとめると。 夕刊には丸岡明氏、肺がんのためけふ午前61才にて死と見ゆ。 けふ中央公論社の鈴木女史より保田の土井晩翠論につきとはれ『詩人全書』ならんといひ、新潮文庫にもある事あとでわかる。 京、けふ21:00友つれて来て泊めると也。 8月25日(日) ユ礼拝にゆき、われねてをり。帝塚山学院同窓会報にかけと云ひ来る。何もせずどこへもゆかず。京、友だちと横浜へゆきしと。 夜、美紀子より「奥日光へゆきし」と電話。 8月26日 8:30雨一時止みし時、鈴木大工さん電話かけ、午近くまでゐしも雨また降り帰りゆく。(※省略) Politeia社より「佐藤春夫」につき問合せ。『FOU』を一番好きと答ふ。 中央公論社の鈴木女史に「保田の土井晩翠論、新潮文庫にあり」と答へしに、のちほど蔵原氏の『岩魚』もつやと問はれ「なし」と答ふ。 (※省略) 8月27日 雨(朝のうち)。母帰り来ると同時に出て斎藤dr.へ薬とりにゆく。 新城博士より電話「文部省よりの補助金450万円中65万円あるも買ふ本ありや」と。「東洋史はいらず」と答ふ。 本位田昇より転任挨拶。潮流社より「『四季』同人に高森文夫氏加へし。この間の会に杉山平一氏出し」などいひ来る。 8月28日 雨。家居。澄より「あす9:00又は9:30に乗る」と。荒木利夫氏より「安藤真澄の追悼文かけ」と。 18:00滝本生「来てよろしや」と。「来よ」といひ夕食くはせしあと非常識とがめ、早々帰りゆきしあと賀代嫗来り、訴訟の話す。 けふ「日記」と題し26日の木山、丸山2氏のことかきし也。『骨』30みれば安藤氏の倒れしことかきあり。 8月29日 朝の中晴れて暑し。賀代嫗出入し、昼寐し傍若無人なり。阪本越郎氏伯林より。 渋谷国忠氏「朔太郎旧宅(※保存運動)何とかならう」と(夕刊にてダメにて云々とあり)。台風十号にて夕方より急雨。 けふ12:00、澄より「母子阿佐谷駅に迎えられたし」と。ユ行けば丁度也しと。京につれられて新宿にゆき帰りて機嫌よくなる。 (『果樹園』へ2,500と「日記」、荒木利夫氏に「われ1人は不可」と速達す。) p19 8月30日 大工さん2日休みしもけふは来る。母、赤阪に林叔父来をりと出てゆく。 澄10:00まへ来り「11:00に乗りて高松へ行く」と出てゆく。よべ竹内邸へゆきし也。 トボ、ユにつれられて今井家へゆき、依子迎へにゆく。 新潮社の『日本文学小辞典』見てゆく中、丸岡桂と丸岡九華とは別人とあり。福地君に訂正申込む。(※丸岡桂:丸岡明の父) (大より電話「宝国寺へ30万円申込むは反対」と。われ1人にて出すといへば納得せし)。夜、鈴木文平へ「屋根裏の板たのむ。請求書もち来れ」と。 8月31日 わが57回目の誕生日也。「たなかまさこ」と美紀子、誕生祝のcard呉る。 大工さん来り、廊下ほぼ出来しに午すぎ鈴木文平屋根裏板もち来り、8万余の請求書見せ、大工さん検すればぬけをり10万円もちゆく。 大工さんにも10万円払ふ。船越章呼び、文子の訴訟の事いへば「統夫損得には明るけれど一度ゆきて話せ」と也。(※省略) 高松より澄と母上と電話に出「まだ熱とれず」と也し。 9月1日(日) 荒木利夫氏より速達「阿原、依田氏にも書かす云々」。 ユと礼拝にゆく。竹森先生まだMichigan洲Hollandに入り玉はずと。布買ひ麺食ひて戸塚busに乗り、葛の口で下車。茶屋あり松田屋と。 姪なる可愛き子に道きき50mはなれし「味よし」にゆけば統夫夫婦をり。 訴訟の覚悟はなせし故、安心し、もてなし受けてbus待つ内、taxi来しに乗せらる。帰宅16:00すぎ。(※省略) 9月2日 9:00出て登校。三輪さん下へゆき、代りに臼井といふ子入りをり。月見そば(100)あつらへ、3時限目なるに気付きしは教室へゆきてのち也。 新築の図書館見にゆき、定期券代(1か月2,030)もらひ、成城堂にて『問はず語り』採る。後深草院の妾にて他に3人と枕かはせし女の記なり! 桜楓社より中西博士の2著『万葉集の比較文学的研究(7,840)』と『万葉集の研究(7,840)』来をり。3時限に中国の婚姻ちょっとやり、 池田茂都枝に「家持論」のため『続日本紀』よんでやらんといふ処へ小倉女史来りし故、道造の筆蹟与ふ。 高橋邦太郎氏来られ「15:10まで待て」と。池田生と話し高橋氏来られしとOrissaにゆき喫茶。 けふ〒なく、大工さん来り、依子母子、美紀子のもとへゆきをり。 「11月23日に式挙げる。ぜひ出よ。先生どこか悪いのではなきや。北杜夫氏にゆくならずや」と喜多村鈴子生より電話、「あす来る」こととなる。 澄より「名古屋へ帰った」と電話あり。母、依子に同行して西下したき様子也。 9月3日 ユ、斎藤dr.へ8日分の薬とりにゆき、電話局へ泰つれて電話料払ひにゆく。泰もっぱら大工さんになつく。 喜多村生来り「11月23日明治記念館にて挙式」と。「semi休む。祝ほしきもの云へ」と云ひ、送りて駅にゆき、佐伯にて胡曾『詠史詩(150)』買ふ。 『桑原隲蔵全集5』いまだ来ずと。夕方より泰荒れ、ねて了ひ、澄より電話ありしに明後日帰宅と依子いふ。 あす赤坂より母帰宅と也。けふ成城教務課より電話ありしゆゑ「岡田氏のreportあさって我受取る。けふにて受取止めよ」といふ。 9月4日 ユ、依子、泰、吉祥寺の動物園へとゆく。文芸春秋社より電話「詩かけ」と。「十何年ぶりですよ」といふ。 泰うるさく云ふ事きかざる故叱りし(※観ているテレビを何度も消された由:依子氏談)。澄より電話ありし時、依子切符買ひに出をりし。 9月5日 あさ澄より電話、依子母子13:00に乗ると也。山野井生の資料ちょっと訳し、出てゆく時、泰にこりともせず。 すし(90)買ひ、成城堂に『田中正平』注文し、教務にて岡田講師へのreport受取り、午食すまし池田温氏迎へ、高田部長にゆきしに会議中と。 教室教へsemiに出て小武守生の原稿なほし、研究室に帰り明日の中国文学のprint「杜甫詩選」切りをれば、 山内清男博士来られ、大学院に協力求められをり。考古学教室ならびに標本室移転につき話しありと「われしらず」といひ、予定の柳田文庫へ案内す。 すみて研究室へ戻れば池田氏reportの記入やりをり。わがprintすみしと同時に茶のみにゆき話せば、終戦の時中学2年、新制西高校より京大と。 和田先生の思ひ出のみ話して新宿まで同車。泰、京につきそはれにこにこして帰った由。(※省略) けふ角川より文庫の増版印税(1,456-145)1,311来り、和田統夫・美佐子より礼状。(※省略) 夜、中央公論社より速達にて履歴の校正来る。 9月6日 晴。9:45出て成城。東洋史に鄭芝龍出ず銭謙益の悪口いひてすます。(※省略) 風月堂へゆく途中、キリスト教は邪教と、毛沢東信者也。中国文学史にて杜甫すます。 けふ浅野氏(※浅野晃)詩碑建設世話人会へ5千円ユをして送らしめしに、同会代表小松清氏より「用意できた」と。 三島一氏より「専修大停年、二松学舎に移りし云々」。 9月7日 8:00さめだるし。『文芸春秋』を午后送り来しゆゑよみ了る。青山博士、軽井沢の桃1箱たまふ。母、赤阪へと出てゆく。 今井翠に電話し「国政氏の都合好き日にいつでも」といふ。 9月8日(日) 9:00近くさめ礼拝にゆかず。大工さんも来ず。浅野晃氏詩碑への5千円受取り来る。 9月9日 桜楓社へユをして15,680送らせ10:30まで東洋文化史のnote作り、すし(90)買って登校。山田教授に池田氏の講義はじまりしを云ひ、 東洋文化史すませ、帰途、図書館員に会ひ、本つきをりをきき、見にゆけば山本よりの『明実録』なりし。 鎌田女史つかまへ、山内博士のこといへば、ダメと。東豊書店へゆき、洋書のreprint8万円余と『王国維全集』25,900とを注文す。 (ゆき佐伯にて『文芸春秋』と『展望』とをおき『広隆寺(150)』買ふ。) けふより涼し。(※省略) 9月10日 鈴木正義生、東京へ転任と。11:30出て12:30つき、中国文学史のprintしゐれば大藤教授来り「山内博士にかまふな」と。 (成城堂にて『田中正平と純正調(560)』とる) 14:00より教授会。「漢文岡田氏の代りに池田氏を」と山田教授諮り、 授業料値については「部長、前田部長、池田評議員に任せよ」と。 すみしあと大学院「庶民文化専攻」とにて大藤、鎌田、新城の3氏とわれにて話すうち、海江田副手呼びに来り、 国文大学院の会に出、ひとまづ成城大学国文学論叢とすることとなり、文化史へ帰ればまだ話つづきをり。池辺君をsemiよりはづすこととなる。 18:30夕立の間をぬけて帰れば、雅子をつれて美紀子来しと。(※省略) 9月11日 9:00出て斎藤dr.。薬いただき「役付きにてなき故云々」と申上げて帰る。televiの2つ見てをれば母帰り来る。 西川満氏にハガキ。夜、田上由美子生より電話「三鷹にをり、来る」と。(※省略) 田上生を駅まで送り、入浴すれば22:00なり。 9月12日 (※省略) 10:10出てすしやによれば「まだ出来ず」と。pão買ひて登校。図書館に新着の本のlistたのみ、semiに出る。(※省略) 鈴木女史より「けふ来る」との電話に「17:00帰宅」といひ、池田温氏と同車にて新宿。帰宅してややすれば鈴木女史。 「印刷追ひ込み」と訓きかれ、掲載誌きかれ『コギト』2冊貸す。(※省略) 『成城文芸』51号出来、抜刷30部もらひし故、小山正孝氏にと鈴木女史に托す。 9月13日 早朝さめ、ふらふらと登校。「10月7日の試験監督免ぜられたし」と教務の前沢氏にたのむ。東洋史にて国姓爺教へ、2時間半また困りゐしに、 小武守生来り「長恨歌伝」よませ助かり、Orissaへつれゆきjuiceのませ(260)、「杜子春」のprintよむ。すみて図書館にて書目受取り帰宅。 〒なし。鈴木女史より松下の「芸術哲学」のこと問ひ来りし故31回つづきしShellingの訳といふ。20:00すぎトボに電話すれば元気と。 (けふ大藤教授のすすめとて李錦順semi申込みに来る)。 9月14日 雨。よべよくね、朝『文芸春秋』のため「わたしのうた」を作る。〒なし。televiの洋画を3本見る。 9月15日(日) 5:30覚む。雨止みをり。『コギト』の整理をす。(鈴木女史に創刊号他1冊貸しあり。) このごろ子猫わが家に泊りをり。礼拝にゆき山内副牧師の話きき、竹森先生のadressもらふ。 帰れば美紀子より電話「渋谷へ本買ひにゆく故来る」と。史も来り、雅子「高い高い」すれば喜ぶ。 夕食時になりても悠紀子、飯出さずして帰りゆく。昨日休みし大工さんけふは来る。 9月16日 よべねつき悪く、早くより床に就きし甲斐なし。11:00出てすし(90)買ひてゆく。 山田教授「田中久夫氏の評伝ふ」。十和田湖見たしと。大藤氏のために伊藤、長谷川に2人にて電話すれば宿満員らし。 「漢代の婚礼」中途にて了へ、久しぶりに大学院。(※省略) 帰れば中央公論社の鈴木女史より電話「山岸外史氏の芥川龍之介出版記念会はいつなりしや」と。 昭和13年と答へしあと「山岸に電話して聞け」といふ。けふ『大世界史』、『日本の詩歌(※自分の回)』来り、山中智恵子氏の歌集(※『みずかありなむ』)来る。 今井翠より「見合を土曜の19:00より自宅にて」とかけ来る。鈴木文平に材木の注文す。 竹森先生にGraviusの本のこと書きまいらす。(天理より『Biblia』来り「新井トシ女史60才にて定年」と。) 9月17日 よべ22:00までtelevi見しもねつきよくなし。午后「安藤真澄さん追悼」400×5かき、ユに出しにゆかしむれば普通便にて出せしと也。 母赤坂へ出てゆき、大工さん午后、雨とて帰りゆく。 早川智慧さんに山中智恵子氏のこときけば『日本歌人』同人と。礼状かく。 9月18日 10:00斎藤dr.へゆき薬かへていただく。鬱となり。帰れば姉俊子来をり、咸子退院しても下宿すとて3万円(敷10万円)で大に貸すと也。 赤坂の母に電話すれば新宿に4間のあり云々。 小山正孝氏より「杜甫」受取った。李白のすすみ如何にと。文芸春秋の羽田女史より受取。(※省略) 9月19日 登校。すし(90)食ひに講師室へゆけば池田温氏すでにあり。試験時間割くばりてあり。(※省略) 池田氏と茶のみてともに帰る。けふ眠剤ききて眠くて耐らず仕事もできず。あすは「国姓爺合戦」の話せん。 9月20日 9:30登校。「国姓爺合戦」の話し、午休み、柿崎生来る。ついで清水常臣生来り『中国報史』よます。 そのあとオリッサへjuiceのみにゆき『ヴゥレリー詩集』買ひね中国文学史に「白楽天と日本文学」やり、「杜甫の晩年」くばる。 今井翠に電話し「あすすしもちゆく」といふ。澄20:00来り「あす高松へゆき岡山に入院の母見舞ふ」と。 (村田幸三郎より酔った様な電話「船富光より120万円借りし」と。) 9月21日 平凡社渡辺氏より李白の催促。月給とりゆくを止め、保田選集(はさみ込みに「少年の日のことなど」のす)来りしを見、 14:00ごろ来りし滝本生に留守たのみ、19:00今井翠の家へ親子3人にて見合にゆく。 電話かかりなどして21:00来りし北野一東大出の読売記者と1時間足らずして別る。すぐそばの駐車場に読売の車またしをり。 帰りて23:00寝につく。 9月22日(日) 8:00さめ礼拝にゆけず。滝本生10:30出てゆく。福地君より「校正にて訂正した」と。弓子けふは「縫物の試験」とかにて早くより外出す。 9月23日 休日也。大工来ず。母帰り来り「俊子の家に入るをいかに」といふ故「止めよ」といふにいやな顔す。 弓子に「縁なきゆゑ後妻となれ」といへば嫌な顔す。(※省略) 9月24日 8:00さめ9:00より入試問題4問つくり、昼食くって登校。教授会すみ入試問題の会。18:00すみ「次は10月22日」と。 『続・北魏洛陽の文化と社会(1,100)』佐伯で買ふ。 広島宇品の松尾静明氏より「原爆反対の詩かけ」と。(けふ海江田副手に堀辰雄の昭和21.6.3のハガキ与ふ。) 9月25日 10:30斎藤dr.にまいれば満員。薬もらひて帰る。竹森先生よりおたより。(※省略) 京、塩原へ1泊旅行にゆく。母「田中俊子姉に会ひ、借家の話きめし」と。きげん良し。 9月26日 雨。鈴木文平来り、3万3千円余もちゆき「これにて了り」と。山野井生来り「Amazon川に住む男にゆきたし」と也。「来月2日再来」と。 母赤坂へとゆく。京、日光のヱハガキ買ひ来る。 9月27日 曇。「スマトラ記」200×10と同人費を『果樹園』へと送る。(※省略) 水道屋、夜に入りて来り水洗出来る様なりしも便所の扉まだつかず。 (夜、西川英夫より「29日大阪での昭六会にゆくや」と電話、「ゆかず」と答ふ。) 9月28日 家居。服部夫人より「東京おくれる」と。『芸亭』来り天理dayなり。 「スマトラ記」のつづきかきしのみ。鎌田女史より電話「東洋史書目多すぎる」と。「何冊へらせば宜しきやききくれ」と返事す。 9月29日(日) ユのみ礼拝にゆく。(※省略) けふ大工さん来ず。ひげのばしゐれば田上生「父と来り、道わからず」と。 ユのつれゆくまにひげ剃り「来年4月結婚」ときく。泰緬鉄道の軍医としてゆきしと云ふ父上(55才)に恐縮す。 (「スマトラ記」に富久軍医のことかきし直後也。) 9月30日 曇。鈴木大工さん相手に終日。依子より京の仕立にて電話。夜、白水夫人より「その中来訪」と。 10月1日 終日家居。新城博士より「柳田文庫中の東洋史書目を臼井助手に預く」と電話ありしのみ。「二十三年」を広島に速達す。 山野井生より「その中来訪」と。 10月2日 終日家居。筑摩書房より『世界の歴史』改訂版来る(諏訪澄に送る)。 小高根二郎氏より「スマトラ記の散文ありて好都合」と。「李白」(150+40)×200となる。 10月3日 5:00さめてねられず。7:30出て試験監督。池辺氏まちをり研究室の『平城遺文』3冊もちゆく。次の時間は齋藤博士の時間。 すみて月見そば注文し野口、高田諸氏と話す。(※省略) 前田部長をらず「書目64位にしてほしき」由のみききて小倉副手の出勤しゐしを見、宮本生「国会図書館へゆきし」といふに会ふ。 成城堂にて『東京にのこる江戸』とハイネ1冊とを買ふ。14:00帰宅。〒なし。(※省略) 10月4日 6:00すぎさめて7:20出る。講師室の女の子また変りたり。教育原理の監督すまし定期代5,700もらひて帰れば11:00すぎなり。 「大、肝臓わるくした」と。澄「9:00来る」と。 中央公論社の鈴木女史に11人の贈呈たのみ(池田博士をぬかす)「のこり9冊家へ」といふ。 夜、母に電話し見舞いふ。前田部長に云いひしごとく530部に目録を削る。 10月5日 けふにて2日雨。鈴木大工さん来らず。角川より掲載依頼書。全田叔母より「意地悪をする人もあり」と。 佐々木邦彦画伯より「真野氏にきいた云々」。(※省略) タバコ買ひに出て佐伯に寄りしも本なし。 (国分直一『台湾の民俗』新本屋にて1,300)。けふ今井翠より電話「美紀子、松浦家へ入る。国政氏忙しきも15日すぎひま出来る」と也。 10月6日(日) 晴。久しぶりに礼拝にゆく。(大工さん来り、玄関出来る)。 (※省略) 高尾(大阪)の目録来る。 10月7日 『果樹園』152、『東方学』来る。鈴木大工来る。11:00出て虎の門よりtaxiにてHotel Okura。(※教へ子披露宴 省略) 南阿佐谷にて傘、ユもち来らす。(※省略) 松浦家へ電話し美紀子に云へば「新郎田尾唯一のアリミノ」を知りをり(※不詳)。 10月8日 朝、成城大学教務に電話すれば「けふ15:00より教授会」と。12:30出て定期3ケ月分買ふ(5,800)。 栗山博士、文化史の3人ら欠席多く議事もなく新築の図書館見しのみとなる。 夜、小山正孝氏に電話し「今月末までに訳し了へる」といふ。「あす鈴木女史ゆかん」と也。(※省略) 10月9日 壁ぬり来り、鈴木大工来る。午后鈴木女史より電話「16:00ゆく」と。『文芸春秋11月号』来り「わたしの歌」のす。 鈴木女史11:30来り、9冊もちくれ「来月15日三井銀行阿佐谷支店へ支払ふ」と。『日本の詩歌』次は「日本歌謡集」と。 澄19:00すぎ来り「あす朝6:00起きる。依子来年出産」と。けふユ、薬とりにゆきくれし。 10月10日 体育の日と。けさ5:30さめ、ユ起し、澄を送り出せしに睡眠不足とてクタクタ也。横臥しゐしに赤川草夫氏来訪。みかん賜ふ。『日本の詩歌』呈す。 柴野利彦といふ『山の樹』の同人「父は60年富士にて事故死『南の星』の装釘は姉の絵」と。 文芸春秋より稿料来り、赤川氏の眼前にてあけ見れば(11,111-1,111)、1万円にて15年たちしもさほど上りをらず。 美紀子より「来る」と電話、しばらくして来しを見れば史とも3人。雅子ものいふやうなり。わがままなり。 依子「6月出産に1月より来る予定」を云ふ。帰りしあとinternational beauty contestといふを見て疲れに疲る。(※省略) 10月11日 大工さん来、ぬりや来る。斎藤虎五郎翁(90才と)『その折々(※銀行員生活随筆)』賜はる。よみしに父のこと書きあり。明日横浜へ礼にゆかんと思ふ。 母久しぶりに帰宅。 10月12日 大工さん来るを見てユと出、なめこ5缶買ひて根岸までの切符買ひ、11:30駅着、taxiにて1番地におろされ150番地探してゆく。 「西島(※喜代助)の長男」といひ「5分間」といひてとり『その折々』に署名もらはんとせしに、すし出され食べずといへば麺出さる。 2時間近くをり「亡父、中根貞彦氏の三和へゆき[一乃田]支店長いやにてやめし」ことわかる。 「幼き恋書きし原稿着きしや」との問ひに「着きし」と答へ、群馬の出といふに萩原密蔵、朔太郎のことを「主治医、道楽息子」といはる。 「夫人82才にてchristian」と。「再来」といひ途、令嬢に教へていただきしもtaxiにのりてまた根岸へ出、帰りて飯くふ。 角川より『Heine』「6版1万冊を11月上旬に」と来あり。 10月13日(日) 8:00さめ、夫婦とも礼拝にゆかず。我だるくて困る。(※省略) 本位田に電話すれば「心臓わるし。国政検事しらず」と。 母、赤坂へ出てゆきがけ「大の病気なら見舞はず」と我を咎める如し。(けふ川村欽吾氏より電話あり「来玉へ」といへどきかず。) 10月14日 Olympic(※メキシコシティオリンピック)の放送うるさし。母より電話「大のところへ斎藤さんの本もちゆけ」と也。(※省略) 依子に電話せしに「中央公論社より本(※『日本の詩歌』)まだ着かず」と。(鈴木大工に10万円わたす。あす辺り本棚架けんか。) 10月15日 Olympicに三宅兄弟、金・銅(Weight-lifting)。母帰り来り「下北沢のOdeon座向ひの福原病院に入院の大の許へゆく」と。 成城大学より大学院志願者外部よりなく「内部より英・国1名づつ19日11:30より面接に来れ」と。 平凡社の渡辺氏来りしゆゑ「小山君と連絡とれざる」を云いひ、本文170枚(註とも)、原典44枚わたす。 鈴木大工、本棚を了へ、いやいや障子入る。鈴木みゆき女史に達治ハガキと静雄手紙1通を書留速達す。 今井翠来りし故『日本の詩歌』やることとし、献字かきそこなふ。 「国政君15日(けふ)弓子に連絡する」由なるもあてにせず。 10月16日 9:30斎藤dr.。「鬱」を云ひて(※斎藤茂太院長へ)『日本の詩歌』贈りまいらす。 帰り下北沢の福田病院に大[を]見舞ひ「鬱」云ふ。織田喜久子氏より「詩くれ」と。「書けず」と答ふ。 今井翠より電話「国政氏に電話せしもかからず」と也し。 けふ門柱掘りに本多氏たのみしに来てくれ、松茸(南北社より貰ひし)とbeer2本とにてすましてくれし。 筑摩より『世界文学全集 陶淵明』のおりこみに「400×7を23日までに」と。断れどきかず。 10月17日 8:00さめ、まもなく速達『世界文学全集』編集部より懇切なメドかきてあり。 山野井生のため1枚訳して10:30となり、ひげ剃りバッテラ買ふ(100に値上げ)。ゆきて大藤氏に遭ふ。「森鹿三氏、民族学会にて話す」と。 野口武穂氏に『日本の詩歌』贈り、久しぶりに会ひし池田温氏と話してsemiにゆけば山本生、風邪とて休み。山野井生をり、すまして手当もらひしとふ池田氏とまた話し池内博士の机に『日本の詩歌』置き、成城堂に『日本の詩歌』と『文芸春秋』と見す。悒せし。 帰宅すれば札幌の早川勝美氏より「八月の詩のりし悲歌ほし」と15円切手3枚入れあり。『日本の詩歌』見よといひやる。 (※省略) 筑摩より「『世界の歴史巻6』を5千部9.1発行した」と。夜、集英社より電話「折り込み(明清史の)書いてもらふ為23日来る」と也。 10月18日 Olympicちょっと見て8:30出、経堂にて平馬副手と遭ふ。野上生ゐず「欧人の東航」を講じ、 大学院の桜井克子生と話し『日本の詩歌』買へとすすめ、これもちて下北沢の大のところへゆき、volley-ballに日本team Czech(※チェコ)に負けるを見て出る。 中国文学史printせず。佐伯より来し本の手続を伊藤副手にたのみ、帰り佐伯に寄れば『台湾の民俗』来てをり1,140と。 『中国歴史故事』と巌南堂目録と呉る。家の手前にて車に荷物つむ鈴木大工見かけ「金とりに来よ」といへば「いづれ又」と去る。 けふ『中央公論』の春名徹氏より「我社の本ながらよき出来」と。(※省略) 夜、万事をすてて筑摩書房のため「陶淵明を好いた人」400×7をかき了る。 10月19日 史より電話「男児誕生」と!9:30出て筑摩へ原稿送りにゆけば「10円多納」と。 10:30成城につき、成城堂にて『大和考古学散歩(480)』、『近江路(280)』、『耶馬台国への道(280)』買ふ。 『日本の詩歌』は1冊も売れをらず。11:15大学院へゆけば「入りてよし」と。(※省略) 山田、坂本2氏に『日本の詩歌』つきしらし。研究室へ帰り田中久夫氏に久しぶりに会ひpão贈り、 ともに帰らんといへば「新城博士呼びゐる」と。2人にてゆき「11月9日(土)我家へ来たまふ」と也。 13:00まで待ちsalaryもらふ高校の国文の先生にて「文春の詩よみし」といふ人あり。成城堂へは「つけ未成」といふに払はず。 (けふ『大世界史』14冊を基本図書にといひしに「もう金なく買ふな」と佐伯のツケ見て大藤氏より注意されし)。 新宿をへて御茶ノ水、木原正三堂移転しをり。探しあてて180のcard200枚買ひ、ラーメン(80)食ひて地下鉄のりかへ中野に出などし、 佐伯の夫人に1,140払ひ「雑誌とりかたがたあそびに来たまへ」と云ふ。廊下の書棚に本入れ、本棚3つ移す。 けふ筑摩より『non-f.全集』の印税(14,000-1,400)「三井銀行に納金」と。銀行よりも「受入れ」の通知あり。 中野清見より「文集にかけ」と。中公の春名氏より電話「随筆かけ」と。ゆっくりでよきこととなりし。 夜、ユ疲れ、われteleviのOlympic見る。(※省略) 坂本教授『明治という時代』返しに賜はりし。 10月20日(日) 8:00さめ、夫婦して聖餐式にゆく。(※省略) 帰れば中野清見より「丸の消息なく心配」と。喜多村・富山両家の披露宴案内(※省略) (朝、松浦家に電話し、ユともども母上に礼を云ふ。「雅子泣きて困る」由。) 15:00すぎ田中楠弥田氏、『田中正平と純正調』と菓子もちてお越し。 大変せっかちにて『大唐西域記』の訳きかれてこまり「長澤和俊訳桃源社本(※『玄奘法師西域紀行』)」をやっとお教へして 「高円寺よりbusあり」と出てゆかれしを送りだす。「一男一女」と。「田中家は産後わるく、また養子すぢ、田中館秀三氏の媒妁は父」と。 また「糖尿」とて菓子さし上げられずこぶ茶出せしのみ。夕方さっそく礼状かき2冊送ることとす。夜、大江叔母にハガキかく。 昨日けふ少し「躁」となり李白も200×14かく。 p20 10月21日 史より「松浦母に挨拶せよ」と電話あり「けふゆく」といふ。ユpermaにゆき母、赤阪へ出しあと、 集英社の三浦君に電話すれば「けふ13:30~14:00来る」と。澄より「本ついた。読んだ」の電話。 14:30集英社の三浦洋君(青島生まれ、終戦の時中学1年と。慶応出なり)、ゲラもち来り、明清のはさみ込みの文「400×6を月末までに」と。 文化史のことをといひしも、ことわり台湾のこと書かんか。 ユ18:00すぎ誕生祝に5万円とどけ帰り来り、「雅子泣かず」と。けふ〒なし。反日共系のDemo夜、盛んらし。 李白また少しかく。(けふ大江叔母に本、ユ送る。95と。) 10月22日 国電中央線15:00ごろまで停止とtelevi。松浦母上に電話し「25日のお七夜に鯛と赤飯もちゆく」といふ。「美紀子24日退院」と也。 中央公論社に電話し「5冊送れ」といふ。入試問題清書のあと「李白」をちょっとやり、13:00出る。 成城堂に寄れば長嬢「坊やの如き」次子つれて帰りをり。次嬢に本代きけば『大航海時代叢書10(2,500)』来てをり。3,895円払ふ。 田中楠弥田氏にと『大唐の春』一冊買ひ、『ヨブ記』、『舞踊の文化史』と『岩波新書』2冊(150×2)買ひ、卒論のかき方講義にゆけば35人位出てをり。 (※省略) 帰りせき(※急き?)19:00、すぐ電話母にあり「河野千鶴嫗、卒中にて倒れもの云へず」と也。 「Apolo7号地球につきし」と。Olympic反戦斗争などにてtelevi忙し。(※省略) 京「いまより映画見にゆく」と19:30電話かけ来り、叱れどもきかず「きのふの余波にて国電マビキなる」を云ひしも、なり。 10月23日 雨。母赤坂へとゆく。ユ斎藤dr.に薬とりにゆく。われ「李白」つづける。11:00ユ帰り来り、昼食後13:00出て臨時教授会。 「来年度入学金より4.5万円に学費上げ23万7,840円とす(文芸)」との案出され、2時間余りかかる。そのあと賃上げbase表もらふ。(※省略) 10月24日 夜中、雨ふりつづく。『ヨブ記』のせいか2:30すぎても眠れず。眠剤半服、こわきゆめ見6:00ごろ起床。 10:00まへ山本生より電話「けふのsemiわたし1人」と。「15:00ごろ家へ来よ」といふ。(※省略) 河野岑夫へ見舞かき、魚屋に鯛あつらへ(1,000+α)、強飯あつらへす。 桐山眞君に「アサミ丸(氷川丸也)」きくため(※省略)「スマトラかく」と云ひしらべたのむ。15:00山本生来り、(※省略) 佐伯へ雑誌もちゆけば80と。雑本1冊とかへ来る。けふ松浦薫氏、高松より「男児と詩集と祝ふ」と。 10月25日 6:00さむ。昨夜21:00ごろよりねしらしく気分よし。6畳の書棚みな外へゆく。喜多村生に電話「(※結婚祝に)何かほしいものを」と云へば、 「鎌倉彫りの盆」と。「婿つれて来るなら、よし。然らずば来ずとよし」といふもきかず。 13:00すぎ雑誌もって出、cameraにfilm入れ「44年暦(60!)」買ふ。佐伯へゆけば『展望』のみゆゑ350と。 『名詩評釈(450)』買ひ、そばにありし『むらさき(昭和12年10月号)』とりあげれば、亡佚せしわが詩「秋薔薇」のりをり。 50円にまけて呉れ「明朝雑誌とりに来る」と。ユと落ち合ひ新宿まで国鉄。西口よりbusにのれば「乳のましゐる」と。 雅子出で来り、動作はげし。級友2人来をり、1人はいま豊橋在と。おこわと鯛われらもちゆきしを母上出したまひ、みな1碗づつ食ふこととされし。 武田検事にも礼云ひtaxiに乗りしに四谷三丁目へ運ばれ地下鉄にて帰宅。留守に『日本の詩歌』5冊おきあり。 西川英夫より電話、『日本の詩歌』よみゐると。本位田の心臓病しらざりし。(※省略) ユ、運送屋にゆき「30日、大の宅、本天沼へ移る」こととなる。数男に電話し、その旨いふ。田中小弥太氏へ小包造る。(※省略) 10月26日 けふも晴。佐伯来りし故『文学散歩』そろひを渡す。今井翠より電話「国政氏、蔵相について西下、けふは会へざるも近々」と。 13:00母帰り来り、大の転居通知の原稿かかし、 「河野嫗、水がのどを通るやうになった」と喜ばざる様子に、笑って咎めしところ「聞きそこなひ」「云ひそこなひ」と争ひとなり、出てゆく。 佐々木邦彦君より『文芸春秋』の詩よくわかった、と。中野清見より「『日本の詩歌』よんだ。長生きしてくれ」と。(※省略) けふ「スマトラ記」200×11かき了ふ。(※省略) 10月27日(日) 8:00さめ快晴なれど礼拝やすむ。松浦父上より電話「まだ名きまらず」と。浪中12期卒生のつどひ(47才と)の案内来る。「欠」の返事と近況かく。 (※省略) 女子Volley-ballでSovietに3-1で敗ける。(※省略) 弓子、久能山のヱハガキもち帰る。昨日行員clubの旅行に加はりしなり。(※省略) 10月28日 6:00さむ。Olympicすむ。俊子姉よりの電話にて「天沼の家、31日修理」とて大の転宅また延びる。 花井タヅ子より電話「読売記者が世話する故、弓子に会はすか」と。「たのむ、日を早くしろ。『日本の詩歌』買へ。医師の後妻せわせよ」といふ。 10:00すぎ出てすし(100)買ひ、『果樹園』へ同人費と原稿送る(130)。(※省略) 新築大学院研究室に荒本生の案内受け「白氏文集と太平記」教へはじむ。池田生休みをり。 15:40すまし高橋邦太郎氏の再び来玉ふをさそひ小武守生と風月堂にてごちそうとなる。 「潜艦にやられしは太洋丸」と云はる。Malay語われよりくはし。同車して新宿で別れ、小武守生を家に伴ひ「楊貴妃(今昔物語の)」すます。(※省略) 帝塚山大学!に充てしBrigham Young Univ.(Utah)の上原幹夫生より「満蒙に対して日本の政策1912-1915の史料教へよ云々」回送され来る。 21:00まへ小武守生了り地下鉄教ふ。その間『上野』の記者より「詩くれ(10日までに)」と電話、「(※掲載する)雑誌くれ」といふ。 けふ眠薬1服のこりゐるを知る。この間飲み忘れしらしく稀有の事なり。服部夫人より「2日来る」とユに電話。 10月29日 7:30さむ。大より電話「河野嫗死し、母喪服とりにゆく」と。9:00母、滝本生と来り、用意ととのへ出てゆく(滝本生東京まで送りし)。 集英社へ「紫禁城の古物」400×4速達す(130)。佐伯へ寄れば『文学案内』2,000と『やまと耶馬台国(1,950)』、『医心方房内(570)』と代へる。 滝本生帰り来る。15:30滝本生帰りしあと萩原葉子女史より「代々木のレジデンスへ移りし」と。(※省略) トボたち「5日来る」と。17:00河野より「母ついた。赤坂へも知らせ」と電報。ユ弔電打ち大に電話すれば不在! 「近況」帝塚山2回生の『文芸通信』にと書く。(※省略) 夕刊に「心臓移植の北海道の青年死す」とあり。 20:00桐山眞君に電話し、夫人に「わかった。放心せよ」との伝言托す。 けふユにきけば「梓の代りにお前が死ねばよかった」とわれよく弓子にいひ、いまだ本人おぼえてゐると。 夜、『上野』より速達「11.9までに20~25行の詩を」と。 10月30日 晴。6:00まへおき、9:00まへ斎藤dr.。薬かへたまひ「1週間目に来よ」との仰せ。「『文芸春秋』の詩おもしろかった!」と。(※省略) 帝塚山よりの回送の上原幹夫君に「答へられず。Babojab,Gunsangnorbu(※モンゴルの独立運動家、貢桑諾爾布モンゴル族の王族)知らず」と答ふ。 (※省略) 平凡社の渡辺氏あさ電話くれ、またくれし故「少しより出来をらず」といひ「夕方来る」と也。大工さん来り、38,100円もちゆく。 その間、集英社来り、写真と台北の『故宮博物院写真帖』もちゆく。(※省略) (鈴木大工、「河南省西坪にをりし重砲隊、ここより青島に出し」と。) 山本生来り『日本の詩歌』買はし、『法苑珠林』よむ中、平凡社の渡辺氏来り「訳良し」とほめ、訳文245枚、本文64枚めまでもちゆく。 「一週間毎に訊ねる」と也。桐山氏よりたより「カマクラ丸、白川丸、ひかわ丸か」と。 「わたしの上野」20数行かき了ふ。山本生19:30夕食しをへて帰る。 けふ京より「鎌倉彫、渋谷店になし」と。弓子より「年賀ハガキ何枚必要か」と、「500枚」と答へさす。 10月31日 朝刊に角川の広告『現代詩鑑賞講座全12巻』3「美を夢見る詩人たち」11月末刊行とあり。「中村幸彦、九大文学部長!を辞任」と。 (※省略) 出がけ中野清見よりハガキ「76才とはハレー彗星見るため也」と。 ゆきて池田温氏より「お体大切に」といはれ、名簿買って来てもらふ様たのむ。 (※省略) semiにても「眠し眠し眠し」といひ(神保五弥氏『春臠折甲』の写真版たまはる)、(※省略) 洋書typeの校正し了へて帰宅。 成城堂にて角川文庫『都名所図会 上(260)』買ひ、久志学生のもち来し『日本の詩歌』にsignせし。 依子「澄の沖縄行とりやめとなりし故上京して来ず。母上まだ入院」と電話ありしと。 夜、喜多村鈴子に電話し「南斗は」と聞けば「射手座」と即座に答ふ。感心。 11月1日 晴。7:30さめ8:50美紀子に電話かければ「淳一ときまりし」と。「早くしらさず」といふ。「トボの上京のびし」を云ふ。 ユ、喜多村・太田両家への祝買ひに、池袋西武へゆく。千川稚泉より『俳句作家』200号突破「送る」と。 『近代文学館報』来り「『四季』復刻版品切」と、めでたし。ユ帰り来り「鎌倉彫2,800のを2つ買ひし」と。 午后散髪にゆき500わたし、本位田夫人に電話すれば「春、娘よめにやりて血圧上りしもこのごろ出勤、ふつう15:30帰宅。」と。 宮崎(早川)智慧さんにも電話すれば「来たく思ってゐた」と。花井夫人に電話し「本買ふ。医師の後妻候補は妹の小姑37才、その内書類来る」と。 18:30宮崎さん「永楽町にあり」と電話。宮崎さん来り21:30近くまでをり。(※省略) 11月2日 北爆停止。大河内学長退陣などが話題の日。7:00さむ。 小高根二郎、福地邦樹2君より『日本の詩歌』の受取。いづれも「多忙」と。 『うえの』編集部より原稿受取。「李白」いま299枚。14:00山野井生来り、15:00まへ服部夫人(※服部正己未亡人)来り、 養徳社より37年出せし服部の学位論文『ゲルマン古韻史の研究』呉る。 11月3日(日) 服部夫人起くる1時間前さむ(よべ8:00に眠り6:30さめし)。ユを置きて礼拝にゆく。(※省略) 礼拝すみ、前をゆく齋藤齋先生に「茶のまん」といはれお宅へゆき『早坂一郎先生喜寿記念文集』の抜刷いただく。 齋藤先生「旧二高より大正12年東北大卒、大正14年早坂教授台大へ赴任、台湾にてchristianなるを隠さずにゐたまひし」云々。 「いまの早坂長老はその末弟」と。三鷹より帰り(※省略)、われ服部夫人と話しつつtelevi見る。 ユ、暗くなりて帰り来る。(※省略) 夜、肥下夫人へハガキかき服部夫人に托す。竹森先生への手紙書き直しして封す。 11月4日 5:00さめ、服部夫人の為「Der Kongress Tanzt(※会議は踊る)」思ひ出して書き、8:00起きしに集英社鈴木省三氏への紹介状かく。 高桐書院で出せし北欧神話の改訂版なり(※ ✕高桐書院〇養徳社『ニーベルグ族の厄難』の再刊計画)。 ユ、天沼へとともにゆくに竹森先生への航空便托す。 服部夫人、帰途高円寺の鹿島宗二郎教授(もと愛大、今国士舘にて脳血栓と)へ見舞にゆく由。 12:00まへ服部夫人より電話「鈴木さん会ってくれ、係不在ゆゑ預かるといはれし」と。(※省略) ユ14:00移転状とりにゆき天沼へ手伝にゆくと。(※省略) ユ帰りしあと鹿島夫妻に駅まで送られしと、夕食すまして服部夫人帰り来る。 21:00まへ依子に電話して大の電話しらす。「トボもうねをり」と!23:30大より電話、ユ出て「滝本生今より帰る」と。(※省略) 11月5日 6:00覚む。服部夫人「姉の家へ」と9:00出てゆく。「李白」317×200。 筑摩より「Non-fiction 2千部を10月31日発行」と。林叔父より大の保険のことと明治37~38年の今宮の地図書き送らる。 電話にて礼いふ。大に電話「母のことにて一度来てくれ」といふ。(※省略) 12:30出て登校。成城堂にて『銅鐸(480)』、『実在した神話(480)』買ひ、教授会に出、前田部長の苦心談きく。 けふ16:00~18:00また説明会、「12日も13:00より授業打ち切って説明会」と。話し相手もなく鬱々と帰宅。 ユにいはせれば「母一先づここへ帰らん」と100円賭けたり。 佐々木梓君の『コロスケのぼうけん』贈られ父子に礼かく。京18:00帰り「帝劇へ」と駆けてゆく。 ユと「台湾の工業化」テレビで見る。(※省略) 11月6日 6:00さめ9:00まへ斎藤dr.。躁直り仕事出来なくなりしといひ薬換へていただく。 『江戸切絵図集(200)』見かけ、買ひ来て井上河内守邸(※悠紀子夫人母方先祖の江戸屋敷)の3ヶ処にあるを見つく。ユ赤坂のことは知りり。 佐々木邦彦氏へ『日本の詩歌』、泰へ『コロスケのぼうけん』包む。雨となる。羽田君より町名、電話番号変更。 井上源一郎氏より「文春の詩みた」と。(※省略) 鈴木省三氏より「単発にてはだめ故、小学館にでもきいて見んか」と。礼いひて了る。「小学館もだめ」とすぐまた電話ありし。 タバコ買ひに出て(雨やむ)佐伯にて『ロシヤ(40×2)』と『信仰(20)』買ふ。 11月7日 21:30眠り5:00さむ。アメリカ大統領、接戦の末Nixon(共和党)ときまり騒がし。大岡信君へ挨拶状。(※省略) 11:00まへすし買ひ(100)登校。池田温氏来をり。(※省略) 前田勝太郎君来り鬱陶しき顔しをり。(※省略) 池田温氏に紹介し茶のみて別る。帰宅後すぐ平凡社の渡辺氏より「あす来る」と。(※省略) 服部夫人より電話「弓子この土曜よこせ」と。 11月8日 5:00まへ覚む。「李白」ちょっとやり9:00出て登校。午の時間に文学界の戦中号見にゆきしあと、「猿蟹合戦」の漢文の訓み教へ、 (※省略) 16:00となり帰宅。平凡社の渡辺春輔氏来り『日本の詩歌』にsignせしむ。 折から『果樹園153』来をり父の『歌日記』と『李白』の原文86枚と訳319枚と迄をわたす。 飯食ひて疲れややなほる。「浅野晃の詩碑、来年2月まで水野成夫氏の快癒を待ちて延期」と。 ユ、新幹線買ひにゆき8:30とれしと。壁ぬり風呂直しなどしをり。 夜、服部夫人にユ電話すれば「大阪駅まで迎へに来てくれる」と。万一の用意に大江の叔母への手紙ことづける。 (美紀子に電話「淳一、体重3,000g、われ風邪なれど土日に雅子つれて来る」ときく。「来週に」といふ)。 11月9日 6:00さめ、弓子6:30に起し7:40出てゆく。花井夫人より「後妻候補にあはせる23日午后」とす。 本荘健男に「スマトラ記」包む(25)。11:30成城大学につき田中久夫氏探せしも見ず、 12:30高田、山田2氏と卒業生2人で成城パンにゆき昼食。高田部長おごり賜ふ。 帰りて前田部長室にゐ玉ふ森教授(※森鹿三)、鎌田、大藤3氏と会ひ、森教授には久闊を舒ぶ。 森氏昼食のあと002へゆき、大藤、高田2教授の紹介あって「中国の歳時記と風土記」をきき、16:00となりtaxi来る迄はなす。 「羽田(※羽田明)やはり教養部長」と。「水野清一氏、癌ノイローゼ」と。鎌田女史「石田英一郎氏逝去」を伝ふ。 あす『敦煌遺書』をもち来る約束をし、都留生を見て帰る。(※卒論指導 省略) 『集落の歴史地理』来をり、田中久夫氏来玉はず、「天沼空巣多く富子心配す」と。 20:00生駒の服部家へ電話すれば、弓子機嫌よくをり! 11月10日(日) 5:00さむ。ユ、礼拝にとゆく。大に10:30電話かけ「高子に鍵預けよ。母のこと旨くいひくれ」と。(※省略) 集英社より服部の原稿書留にて返り来る。(※省略) 12:30出て成城大学。『敦煌遺書』もちゆき森教授にわたす。(※省略) 鈴木正義氏6年目に会ひ握手す。森鹿三氏の話すみ部長室へゆけば、藤野岩友教授と名刺交換。「柳田文庫見玉ふ」とて別れて、 田中久子と柿崎生のゐるAlpsへゆき久子の欧羅巴旅行の写真見、pudding食ひ、金払はんとすれば財布なし。 2生にすすめられて大学に戻り探せしもなく、家に電話すれば「鶴崎祐雄生来をり、財布着物の袖にあり」と。(※省略) 2生と新宿で別れ、飯くひて鶴崎生まち「あす14:00すぎ成城高等部参観ののち大学研究室にて会ふ」こととなる。 20:00すぎ帰りつきしあと入浴。 11月11日 6:00さむ。東洋文化史のnote作り10:40出て大阪ずし(130)買ひ登校。魏晋南北朝の婚姻講じ、昼食すまし、(※省略) 大学院の3生に教へすまし、16:00待てば鶴崎生来り「高校遠足とて中学見学した」と。ともに出て新宿にて喫茶。 銀座へ地下鉄にて出てわからず、鶴崎生に案内されみゆき通り見つけて別れ「皇家飯店」にゆけば佐藤太田両家の披露宴始まりをり。 (※省略) われ野口君の祝電披露し学園の歌うたふ。(※省略) 21:00すみ青梅街道へ5人乗り荻窪へゆく2人残して南阿佐谷で降り帰宅。 弓子帰りをり「宮崎県の人にて父母その地にあり普通の人」と。母より電話「風邪ひきゐるゆゑ少しおくれる」と。 11月12日 秋晴れ。8:00さむ。宿酔にて呆然たり。(※省略) 昼食すればユ「松浦へ」と出てゆく。肥下夫人より「来年来る」と手紙。 角川より電話「あす『西康省』『大陸遠望』の写真とりに来る」と。道教へ「早く来たまへ」といふ。 ユ16:30帰宅。(※省略) 「李白」330枚。 11月13日 服部夫人より速達「(※省略)氏、弓子気に入りし」と。鈴木序夫氏(角川書店、栄三氏の令息)来り、10:00より13:30までゐる。 早大出にて話のわかる青年也。但し「『詩講座』は1月末出る」と。詩集(われと伊東の)写真とり、わが写真1枚とりゆく。 (※省略) 福地君へ角川の『現代詩鑑賞講座10』第三回配本として1月末と通知す。(※省略) 服部夫人より「先方25日過ぎ出張を命ぜられし」と。また「肥下夫人遊びに来し」と。 11月14日 弓子に(※省略)氏のこといひしに照れたる様あり! 11:00出てsemi(※省略) 「きのふおそくまで授業料値上につき学生大会ありし」と。 (※省略) 池田温氏まち1千円わたしprintの礼と東洋史談話会の名簿代とし、喫茶して帰れば、 母、風邪ひきしまま大とあり、近所の女医にゆかしねかす。大、河野嫗の55日に下阪と。 11月15日 9:00出て成城大学。東洋史Macaoの話し時間余る。午、月見そば(110)食ひしあと清水常臣生来り、学生大会の暴なりしを云ふ。 (「きのふも学生Hallで殴られし」と。) 茶のみに連れ出し成城堂で『Heine』買ひて与ふ。 理事長名にて希望にそはんの掲示と。暴力決議反対の各級有志の掲示とあり。(※省略) けふ中国文学史すみしあと葉、吉田の2人にsemiの印押し、米山生と李生とにて4人となる。(※省略) 弓子年賀ハガキ500枚買ひ来る。 11月16日 朝、喜多村生より電話、披露宴の写真のこと。10:00すぎ出て成城にゆき田中久夫氏に会ひ「この間風邪」ときく。 福田助教授「川村多実二博士は伯父」と。 13:00近くなりて森鹿三氏待ち、すし一緒によばれ「荊楚歳時記」の話きき、わが蔵書紹介されて了りとなる。 柿崎生と隣し、すみて慶応大伊藤氏、馬淵東一氏と大藤氏と5人にて渋谷道玄坂の「古里」といふにつけば、古野清人博士あり。 座のとりもちよくせられ、われ笑ふのみ。21:30閉会となり浅賀千里生とtaxiひろひ駅まで来る(560)。(※省略) 『骨31』3冊来り『大世界史18』来をり。「母熱下りし」と。 11月17日(日) 夫婦して礼拝にゆき、竹森先生の録音半面ききて出、新宿にて月見そば(180)。13:30成城大学。 森教授5分前に着、すみて送り出せしあと重久、川本、羽入田、丸らの卒業生と会す。丸生伴ひて帰る。(※省略) 滝本生来をり。母相変らず臥床。(※省略) 11月18日 (※省略) 10:30出て成城大学。東洋文化史に「唐代の結婚」教へ、ついで大学院講師室にゆけば紅茶のましくる。 すみて成城堂に『コロスケのぼうけん』とり(※省略) 帰れば服部夫人より「原稿預かれ」と。 佐々木邦彦氏より「『日本の詩歌』夫人買ひをり云々。コロスケ推薦となりし」と。「母熱引きし」と。 11月19日 母起きて掃除す。中央公論社より(572,160-税64,432-寄贈7,680(※『日本の詩歌』印税))「500,048三井銀行に入金」と。 筑摩より『世界の歴史』(12,924-1,292)11,632支払と。 平凡社の渡辺氏より「あす原稿とりに夕方来たまふ」と電話。12:30出て成城。「今昔物語」の「達磨」のところ訳しやり教授会。 暴行なかりしも運動部勝ちしと報告あり、すみて16:00来年度の学科編成につき会。 新城博士の意見通り「池辺semiを認める」こととなる。帰れば『日本の詩歌』歌謡篇来をり。 「けふ澄より電話ありし」と。夜、ユ電話すれば「トボ迎へに来てくれ」らし。 11月20日 10:00出て斎藤dr.。「散薬のまずとよし」と。月見そば(180)新宿で食ひ、「今昔物語」の「達磨」の続き (※省略) 18:00近く学校より電話すれば平凡社の渡辺氏「けふ来られず。あす来る」と云こ来しと。 11月21日 11:00出るとき母も天沼へゆく構へなりし。池田温氏より『東洋史卒業生名簿』受取りつり銭もらひ、semi30分ほど多くやる。 (※省略) すみてsalaryもらへば8月1日付12号給111,500と上りしと差額もらひ、 成城堂に払ひ2,754すまし、「水滸伝」のprint切って帰宅。 佐伯にて『吉川博士退休記念文学論集』、『朝鮮常識問答』、『仏教日常語解説』、『比律賓の民族』とにて4,800ほど払ふ。 母「京つれゆきTELEVI見ゐし」と18:00京帰り来ての話なりし。渡辺春輔氏に「けふダメ」の電話。(※省略) けふ澄より電話「依子流産」と。諏訪父上よりは「母退院、通院す」と偶然電話あり。 「高松よりみかん来し」とて今井翠もち来り「読売記者ダメ」といひしと。(※省略) 11月22日 8:00起き9:00出て登校(下痢しをり)。「Formosa under the Duch」少し講じ、(※省略) 成城の古本屋にゆき、 『中国文学の受容と翻訳(120)』買ひ、pudding(60)食へば丁度16:30。漢文学史に『水滸伝』講じ、急ぎ帰れば、 「渡辺氏18:00来らる」と。待ちて恐縮して本文365枚まで原文99枚までわたし「楼蘭の註おとせし」を云はる。 「11月中にすます」と云ひ、ユより母の高飛車きく。(※省略) 20:00ユ、依子に電話し「トボ早くよりねさされゐし」と。可哀。(※省略) 11月23日 眠し。6:00さめ8:00起き、野上夫人よりの電話「元気、folk-song clubに熱心」と。花井夫人より「弓子にも来い」と、ことわりし。 13:00夫婦して出しところへ雅子抱きし史来る。(『詩人連邦』終刊150号来る。) 印刷屋に年賀ハガキ500枚わたし名刺とともにあつらへる。(2,900と)。緑屋の前で待てばユ、下り来り、なしとて、 「よだろく」家具店にてsofa 2(24,500)、卓子(3,700)と現金で払ひ、われのみ中村屋にてchocolate 1千円買ひ、 中村橋までbus、西武にて江古田(20)13:40着けば「岡島通子氏いま出る」と電話ありしと。やがて弟に運転してもらひしとて来し。(※省略) 江古田駅までたづさんに送られ、中村橋より中野行busにのれば長くかかる。 『朝鮮の芸能(850)』買ひ18:00近くなりてsofaもち来る。服部夫人より「しばらく預れ」と原稿について速達来あり。 けふあすと滝本生、天沼の手伝ひしゐる筈なるも音沙汰なし。雅子今井へゆきし美紀子とともに帰りしらし。 11月24日(日) 礼拝にユのみゆく。われ「李白」訳す。13:00(※省略)氏より電話「阿佐谷駅まで来れ、迎へにゆく」と弓子答へし。 母帰り来り「大の誕生祝す」と赤飯と鯛買ひにゆく。 (※省略)氏来り「宮崎県の山間に父をり」と。「張家口の引揚げ」と。弓子をして送りにゆかしめ京に電話すれば「22:00まで勤務」と。 ユとゆきてcakeの祝もちて帰り来る。(※省略) 小武守生より「あす来る」と。「夕食をかけて来よ」といふ。 11月25日 「李白」すこしやり、前田勝太郎氏より「あす15:30山本文雄氏に会ひに成城へゆく」ときき「われも15:00居り」といひ、 登校。「宋代の婚礼」すまし「太平記」やり了へて帰宅。ややして小武守生来る。21:00まで教へて疲る。(※省略) 服部夫人より「話せざり。夜きく」と電話あり。 11月26日 母、洗濯に帰り来る。5千円を小遣ひにわたす。田中久子より詩集の受取。14:00成城堂にて『日本食生活史(800)』買ひ、 大学院2年の中間発表に出、(※省略)  前田勝太郎君を山本文雄教授に紹介し、学校に帰り野口助教授とともに出、(※省略) 夕方、滝本生来り、「母と天沼へゆきし」と。 服部夫人に電話すれば「写真を(※省略)氏、故郷へ送り1月弓子つれて父母に見せたし」と! (※省略) 「李白」やっと安禄山の乱に入る(420枚)。(※省略) 11月27日 7:50畑山博氏より電話「詩集出す。定年後つとめ先3つあり」と。(※卒論指導 省略) 14:00出てゆけば、 尾上氏「他の箇所すみし」と。1時間半semiとて去り、帰らざるゆゑ前田部長に涙して帰り来る。(※省略) 11月28日 朝から「李白」ちょっとやり、今月中にはむりとわかる。11:00すぎ出て(※教へ子披露宴 省略) 15:30すみて帰る。 弓子へ(※省略)氏より電話「忙しくて手紙かけず云々。」けさ野村美智子生より(※披露宴招待 省略)。 「スマトラ記」むりして書く。けふ集英社より1,500×5来り、帰り『李太白(100)』買ふ。 11月29日 8:00さめ9:00出て東洋史を教ふ。すみて「清[平]山堂本」のprint切り、 入矢義高訳『雨窓欹枕集』さがしに経堂へゆきしも見つからず(『明治天皇・昭憲皇太后集(70)』買ふ。) 成城堂にて『中国古小説集(650)』、『カラコルムを越えて(190)』と買ふ。了へて帰れば母をり。(※省略) 11月30日 早朝さめ、また眠りて松下武雄のゆめを見し。服部夫人より速達「(※省略)氏、弓子の意思表示のぞむ」と。 (※卒論指導 省略)鬱々たり。(下痢止めに女医にゆき注射打たる。) 福地君より「ひまになりし」と。今中十九期生会の便来り「江口春男昨年12月亡くなりし」と。 ユ天沼へゆきしあと電話かけ「明治天皇のお歌」400×4を不二歌道会へ速達しにゆき(65)、 国府犀東『菩提達磨(200)』買ひて帰れば、ユも帰着しをり。「滝本生神経痛」と。夜、小武守生に電話し「明日夜来よ」といふ。 12月1日(日) だるくて礼拝休む。速達にて『うえの』2冊来り、ついで稿料(1万-1千)、集英社よりも『日本名詩』3篇(810-81)来る。 12:00まへ出て(運送屋来り、母のものもちゆく)、佐伯に寄り『支那絵画史(7千円)』と和歌森『女の一生』と買ひ、 新宿にゆくに早く高円寺で下車、『牡丹灯籠(70)』買ひて、(※忘年会)会場エル・フラメンゴへゆく。 鎌田女史「八重樫離婚、来年度副手に浅賀いかが」と。荒川生幹事にて来りしは(※省略)13人か。 16:00出て古本屋みて高円寺より帰宅。弓子の同僚来をり。「滝本生、神経痛にて帰りし」と母より電話ありしと。 (竹森先生(※省略)Kirchwaldstraße 42 WestGermanyと)。 18:30小武守生来り、21:00まで教へ、疲れて風呂に5分入り23:00になりしにおどろきて眠る。 12月2日 小武守生より坂生の電話きき「午后来よ」といひ学校へは「休講」の届す。 不二歌道会より5枚あり前後わからずと「よろしく」とたのむ。小武守生帰りしあと、宝国寺(※大阪菩提寺)より10万円の受取来る。 午食少しして古本屋見にゆき『日本女性史 下(50)』見つけ、賀状と名刺の印刷出来上りしをとり来る(2,900)。 坂生来り、大分書きをるを見了へてまた疲る。(けふ渡辺氏「水曜午后来る」と)。 12月3日 「母来る」とのことに10:00すぎ出て、斎藤先生。 廊下にてお会ひせしせいか2人目に呼んでいただき、欝申上げ薬かへていただき、国鉄にて代々木。 東豊書店へゆき『十六世紀之菲律賓華僑(500)』見つけ、『婚俗志(150)』、『中国天主教伝教史(100)』と買ひ、 とってもらひし中華そばちょっと食ひて出、教授会。 「福田助教授、成蹊が母校にて文学科出来る故ゆく」と。その後任と英文一般教養の講師とをとる。 けふ専攻申込わかり英文70マスコミ90文化史49なり。 帰りて(※省略)夕食するところへ山野井生来り「鄭氏の対比交渉かけ」とすすめ、23:00ねしむ。 12月4日 速達にて野村美智子「山崎武と9日17:30Hotel Okuraにて」と来る。山野井生の英文訳して16:00すぎフラフラとなり帰らす。 (弓子きのふ「縁談ことわる」と云ひしに(※省略)氏より封書来し)。花井夫人より「女史いかに」と。 Ottawaの土屋(西沢)悦子夫人よりChristmas-card。けふ渡辺氏より電話「都合わるし」といへば「明日は来られず」と。 (※省略) 12月5日 10:30出て登校11:30。print切らず池田温氏を山田俊雄氏に紹介し「今週にて了り」といふ。後任もきまりし也。 (※卒論指導 省略) 大藤氏「この間学長に和田文子会ひ、また家にも子供つれて来り、夫人同情しをる」と。 久しぶりの雨の中を帰り、疲れて何も出来ず。ユ、賀代嫗に電話すれば「弁護士示談をすすめゐる」と。 弓子、(※省略)氏への電話に「返事出した。あまりよくなし」といひゐる(けふ入試問題の再校、松村氏と了ふ)。 12月6日 10:00登校。noteなしにて鄭成功了り、午食すませれば(※卒論指導 省略) 山野井生に「あとにて来よ」といひ帰宅。 (成城堂にて『ヴェトナムの詩と歴史(900)』見つく)。 ぶどう酒飲み了へしところへ山野井生来り、『明史』呂宋伝と蘇禄伝よまされ、にこにこして帰りゆく。 (※省略) 浪中12期生会の通知。 12月7日 家居。〒なし。17:00来る筈の小武守生来ず(高円寺古本見にゆきし)。電話にて叱り呼びつけ22:00までかかりて「達磨伝」。 12月8日(日) 夫婦とも礼拝休む。小武守生9:00より13:00までかかりて50枚とし了へ、帰らせクタクタとなり(よべ3:00に覚めし)、 散髪にゆき帰れば史、マツ連れて蜜柑もち来り「天沼へゆきし」と。入れ違ひに母来る。 池田温氏より「史記の参考書買へ」と。(※省略) 夜、ユ、服部夫人に電話し「縁談ことわる」と云ふ。 12月9日 疲れて登校。山田教授に『史記』のこといふ。文2DにてMongolsの婚姻早くすまし、 成城堂に小川教授の『中国小説史』とりよせたのみ、大学院にて「太平記」すませAlpsにて荒本・桜井2生と茶のみ、 時間ぎりぎりにHotel Okuraにゆき区会議員の隣となり(※省略) 雨の中20:00出て帰れば山野井生より電話。「明日泊りがけ」ときまる。坂生午后となりし也。 成城堂にて『中国詩史』2冊と『宋詩選』とを買ふ。 12月10日 8:00松浦薫氏より電話「一週間高松へゆくので美紀子を留守番にする」也し。12:30散歩に出『文芸春秋』1月号買ひ来る。 坂生来り「狐」の直しする。『果樹園154』来る。 ユをして薬とりにやらせ一休みし、夕方来し山野井生に「比律賓の華僑」かかせ22:00となり休む。 12月11日 山野井生、午近くまでをり送り出して佐伯に寄り荻窪の古本市、何もなし。Ghosh万里子よりChristmas-card。 織田喜久子女史より「わかづる」で会ありしと。(※喪中欠礼 省略) 年賀状2,3日前より書き出しをり。(※省略) 12月12日 雨。10:30出て成城大学。短大よりの編入につき会議あり。 すみてsemi、山本、坂2生すむ。小武守生一つも書きをらず「夜来い」といふ。 bonus25万余。佐伯にゆき『李朝五百年史(1000)』、『馬来史研究(200)』(成城堂にて『義経伝説(200)』)買ふ。 母、蜜柑たべすぎて医者にゆきねてをりしも、わが顔見て「帰る」と。小武守生19:00来り「楊貴妃」了へて眠る。 12月13日 晴。9:00出て成城大学。1年教へnote検査のこといふ。 午食すませて下北沢。大地堂へゆきしも何もなく『未開社会の女たち(150)』買ひ、しるこ食べて帰校。(※卒論指導 省略) 小武守生まちをり20:30すまし帰らす。 12月14日 8:00まへ覚める。(※Christmas-card省略) 母ちょっと医者の帰りに来り、 11:00山野井生来り、午后小武守生来り14:00帰りゆく。(※省略) 佐伯へ散歩にゆき『仏印研究(100)』、『老化の問題(20)』買ひ来る。 山野井生、京・弓子の帰り来しあと去りゆく。 12月15日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。Christmasは桑田孝延師の説教となり。ユをして栗山氏へ歳暮送りにゆかす。 大来り「おかげまいり」もちゆく。新学社より印税830-83来る。田中順三郎氏よりお歳暮。 12月16日 7:00まへ覚める。11:00すしや不在。pão一ケ食ひ「元代の婚姻」教ふ。(※省略) すみて東豊書店へゆき前後の買物といひ『歴代社会風俗事物考(530)』、『占婆史(170)』、『中国服装史綱(720)』、『北属時期的越南(480)』買ひ来る。 (※喪中欠礼 省略) けふ歴史地理学会に1,000、今中十九期生会に500ユをして送らしむ。(※省略) 12月17日 9;00出て台湾の頼・楊2家へChristmas-card(35×2)。 斎藤dr.へのお歳暮買ふ為、三越のあくのを30分まち5,900のwhiskyもちゆき11:20御診察すみ、 新宿駅にてmacaroni食ひ(150)、成城大学。前田部長にききて(※入試問題の)校正、松村君の室ですませ、研究室に帰り、 「中華飯店で3Dclass会しゐる」とききゆけばまもなく了る。14:00より教授会。(※省略) 小武守生と帰る。 『Politeia』来をり、ゲロ吐く思ひしてよみ了る。 (※芳賀檀の文章および杉山美都枝(若林つや)の回想「高原の星二つ 立原道造と沢西健」に於る、芳賀檀に関はっての描写と思はれる。) 12月18日 (※省略) 服部夫人より「向ふの両親・先生・友人みな反対なりし」と。午后、山野井、坂、小武守生次々と来り、 小武守生夕食して帰る。夜、ユ依子に電話すれば「神経痛、高松の母上見舞にゆく云々」。(※省略) 12月19日 雨。9:20教務課より電話「10:00府中刑務所へ(※入試問題印刷に集合)」と。 すぐひげ剃り小金井よりtaxi(320)、10:30成城より大勢来り、(※省略) 17:00出所。魚刺身くふ。 18:00出てhyerにのり小金井、三鷹高井戸をへて阿佐谷。(※省略)「松浦家にて22日Christmas eve」と電話ありしと。 12月20日 8:00さめ9:00出て前を大藤教授歩くを見る。(※省略) 図書館に『法苑珠林』返し『聊斎志異』借り来る。 聊斎のprint切り大学院の荒本・池田2生と喫茶し、帰りの電車で池田勉博士と同車。 (けふ『成城国文学論集』出て、もらふ。) 『日本の詩歌』、『大世界史』の献本も来る。 12月21日 8:00起き賀状かき11:00登校。卒論読み分けをす。月給もらひ成城パンにて昼食。 ユに電話し「14:30渋谷にて待つ」こととし、卒論2冊重がってもち、ユと会って白鳥邸。 夫人「この夏、癌かと思ひ玉ひし」由、先生握手されるのみ。 佐伯に寄り杉本直次郎『東南アジア史研究1(2,100)』買ふ。(※省略) 高橋重臣氏「壽岳博士(※壽岳文章:旧同僚)にわが教会へゆくをいへば吃驚されし」とChristmas-cardにしるす。(※省略) 早川智慧さんより「山中さんの歌集への礼喜ばれし」と。 12月22日(日) 朝、雨中を礼拝にゆく。桑田秀延博士の説教のあと聖餐式。外へ出れば雨やみをり。(ゆきがけに阿佐谷郵便局に賀状ほうり込み了る)。 (※省略) ユ、松浦家のChristmas-eveへとゆく。22:00帰宅。「松浦父母帰らず。息子も来ざりし」と。 12月23日 (※省略) 筑摩に「陶淵明(※はさみこみ原稿)つきしや」ときけば「本日出来」と。(※省略) 東豊書店より礼。(※省略) 佐伯にゆき『オール読物正月号』買ひ来ればすでに読みゐし。(※省略) 京の友来り、出てゆく。(※省略) 12月24日 9:00すぎ出て斎藤dr.。「1月11日より1月程アメリカへ」と。 帰り神田へ廻り「大安」へゆきしも目当ての本なく『雨窓欹枕集(500)』買ひ来る。(※Christmas-card、喪中欠礼 省略) (神田の山口書店にて『戦後吟』2千円とつけありし)。18:00すぎ角川の鈴木序夫君来り、校正見せ「哀歌」を写し足しゆく。 (『コギト』そろひ西武の古本屋で35万円なりしと)。弓子お歳暮とて手袋買ひくれる。京Gelbe-sorteh呉る。 12月25日 10:00出て成城へ卒論とりにゆく。佐伯にも本なく、石山直一氏のChristmas-cardと筑摩の『陶淵明・文心雕竜(1200)』と受取る。 卒論2冊よみ「スマトラ記」かけず山野井生に電話せしも不在。母来り「医者の薬代払へ」と! 夕方ね畑山博氏より「詩集出た」と。「正月すぎ学校へとりにゆく。出版祝賀会やれ」といひ、村松正俊、緒方昇などの発起人を提案せし。 山野井生に3度目の電話すれば「あす持ってゆく」と。 12月26日 曇。林素梅よりChristmas-card(21日出)。(※Christmas-card省略) 『日本歌人』秋季号来る。 福地君より「訂正承知」と。15:00山野井生来り「これより名古屋の人と会ふ」と。(※省略) 12月27日 曇。郵便局にゆきしのみ。(※省略) 平凡社の渡辺氏より「年頭に」と。 そのあと不二歌道会より「青梅街道にあり」と。緑屋まで出てゆきbutterもらひ、酒贈る。 12月28日 無為。夜、賀代嫗来て泊る。(小武守生「あす帰郷の前来る」と)。 12月29日(日) 礼拝にゆかず。菊島恒二氏より「『大世界史』と『不二』よみし。『Madame Blanche(※マダムブランシュ)』の同人たりし」と。 同氏の友村瀬春弥氏『御歌に表れた歴代天皇の御心』といふをも贈らる。 佐伯にゆき『隲蔵全集附(900)』買ひ来る。朝、花井タヅ子氏より電話「縁談世話する人に会ひに来よ」と。 14:00すぎ(※悠紀子夫人と弓子氏と)2人して出てゆきしあと、 母来り「Peace」一箱呉れ「新年用の着物あすあさってもち呉るるやう」といひて天沼へ帰りゆく。 電話帳にて菜畑正見を見、欝甚しきに気づく。18:00ごろユと花井夫人とより「今より会ひにゆく」と。 餅二つ焼きて食ひ「スマトラ記」やめることとす。22:00思ひ直して200×10書き了る。(※省略) 12月30日 「スマトラ記」と2,500を『果樹園』社へ速達(130)。賀代嫗10:30帰りゆく。筑摩より(1,500×7-1,050)来る。 『不二』来り、Vo.間違へしためか意味通ぜず。(※省略) 夜「李白」久しぶりにやる。 12月31日 8:30覚む。『東洋学報』来り、角川のHeine(80,152-8,015)来り、硲君より「叱られた夢2晩見た」とのハガキ来る。 和田夫人より入学につき3度電話あり「いとこ近々来訪」と。 田中克己日記 1969 【昭和44年】 p1 ベトナム戦争が続く中、アポロ11号が月面着陸を果たした1969年。  日本では沖縄返還が決定し、アメリカ発祥のフォークソングブームの洗礼を浴びた若者世代は、大学紛争の只中でもがいてをりました。  一月の東大安田講堂における攻防戦の実況中継が有名ですが、学生運動は各大学に燃え移り、成城大学でも6月に学長に談判を求めての学生集会、そして11月には全学部のストライキにまで発展してゐます。  当局と学生との間に位置する教員には様々な対応があったやうです。田中ゼミは平常運転を心がけ、民族の歴史を究めんとする外国人の教へ子にも、 懇切丁寧かつ厳しく指導に当ってゐる様子が日記から窺はれます。  文芸界では、四季派に関して言ふなら、加藤周一の『羊の歌(岩波新書)』が広く読まれます。日本を代表するインテリ文化人ですが、マチネ・ポエティクの一人としてかつては詩も書いてをり、尊敬する堀辰雄の弟子だった立原道造・野村英夫の二人への対照的な評言は、四季派に対する複雑な思ひを感じさせます。田中克己がこれを読んで「反駁の文かきたく(7月4日)」なったのは、どの部分だったでしょう。  岩波書店が代表するやうなリベラル教養的な史観が社会に浸透する一方で、サブカルチャーに賛同を示す学生運動はまた、フォークソングだけでなくマンガや演劇、任侠映画と並んで日本浪曼派に対する再考の気運をも、戦後生まれの若者らに促しました。  三島由紀夫の華々しい活躍はもとより、往年の総帥と目されてゐた保田與重郎も、学術誌である『国文学:解釈と鑑賞』に「回想日本浪曼派」を連載。大学時代に学生演説を聞いてゐて拘引された田中克己のことも書かれてをり、単行本『日本浪曼派の時代』に収録されてゐます。  ベトナム戦争に対する批判が巻き起こってゐた当時、親米体質の与党政治家たちとは異なる保守系の論陣から、影山正治の『日本民族派の運動』や『大東亜戦争肯定論(林房雄)』が放たれたのもこの年のことでした。10月25日に行はれた蓮田善明の25回忌には田中克己も出席しましたが、発言が場を白けさせたのは、もはや浪曼派の闘士とは距離を置いたところに立つ自分に思ひを致すことになったかもしれません。  昨年秋に刊行された中央公論社の『日本の詩歌』第24巻(丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎)は好評で、上品な藤色で表紙や函が装釘された叢書は刷を重ねました。のちに文庫にもなり、累計10万部近く刊行されたとのことで、現在でも古本でよく目にすることができます。  同じ藤色の文字で本文下に印刷された鑑賞コメント。これを書いてくれた阪本越郎が6月10日突然に亡くなり、詩人はたいへんなショックを受けます。一年前の対談の席で、機嫌を直して『四季』に戻り一緒にまたやらうと言ってくれた恩人の急逝でした。  同書の巻末の解題は大岡信が書いてゐます。「田中克己」論として新刊『現代詩人論(角川選書)』にも収められましたが、対象となった23人のうち14人が昭和戦前期の詩人。すでに発表されてゐた「保田與重郎ノート(『超現実と抒情:昭和十年代の詩精神』に所収)」と共に、戦後世代から存命の旧世代“現代詩人”に対し提起されたハイブロウな評論として話題を呼びました。  抒情派からは三好達治・丸山薫・立原道造・田中克己の4名が選ばれてゐます。田中克己については昭和初年代の時代相に踏み込んだ考察がなされてをり、詩人もこちらには好感を抱いたやうで「また会ひたい」と著者にハガキを書いてゐます。  ただ、阪本越郎や小山正孝の説得、そして阪本越郎の追悼会では潮流社の八木憲爾とも同席したのですが、詩人は『四季』に戻ることはありませんでした。  躁鬱がベースの精神的不調は、過去の病状を(38年)日記の中で振り返ることができるほど寛解したやうにみえます。しかし癇性は直らず、小山正孝らと李白・杜甫を分け合って訳出した平凡社の一大叢書『中国古典文学大系:唐代詩集 上』の新聞広告をみて、自分の名前だけがないことに激怒。 取締役まで謝罪に訪れる騒ぎに発展してゐます。  前年解説にも書きましたが、この年には『日本の詩歌』に続いて、「田中克己」を単独で立項した角川書店の『現代詩鑑賞講座(第10巻・現代の抒情)』が刊行され、東洋史学者としてではなく日本近代詩の掉尾を飾る抒情詩人の一人として詩人の名が認知される年になりました。  その解説を書いたのは、戦後の在阪時代に最も親しかった後進の詩人福地邦樹でした。氏が選んだ亡き愛児を歌った「哀歌」を読んで、 詩人は慟哭します。  教育者として生き甲斐や社会的ステータスを得、文学者としても数々の著書にめぐまれ、家庭にあっては孫たちの成長を夫婦して目を細める生活が今後も約束された現在、報われることの薄かった来し方の半生を自作詩によって振り返るとき、一人不在の次男のことが無性に悲しく思ひ出されたのではないでしょうか。  「この連作の詩篇にくどくどしい説明は不要であろう。詩は本来、説明を必要としないものではなかろうか。そういう本質的なポエジーの世界をこの 田中克己の「哀歌」は厳然と示しているといえるであろう。」(福地邦樹) この年の出来事を記します。 【1969年】 1月18日 東大安田講堂のテレビ中継を観る。 2月4日 平凡社の新聞広告に激怒。 2月6日 『現代の抒情』受取り、「哀歌(※『悲歌』所載)」に号泣。 3月17日 『現代詩人論』寄贈、大岡信へ葉書。 3月21日 松本善海を病気見舞。 3月30日 大東塾創立30周年記念祭に寄附。 4月1日 肥下恒夫未亡人、養女と共に上京、一泊。 4月11日 長年にわたって詩作を慫慂された村上新太郎死去。 4月15日 保田與重郎「回想日本浪曼派(『解釈と鑑賞』連載)」の自分の記事を読む。 4月25日 肥下恒夫養女里子氏上京、三泊して帰る。 5月31日 影山正治『日本民族派の運動』寄贈、弟西島大について批判記事を読む。 6月11日 小山正孝より阪本越郎の訃報を受け、通夜におもむく。 6月26日 臨時学生大会。学長と対立。 7月4日 加藤周一『羊の歌』を読む。 7月7日 長男岳父、松浦薫が坂出市長に選出。 7月15日 同僚、富永次郎逝去。 7月21日 アポロ11号月面着陸のテレビ中継を観る。 8月15日 平凡社『唐代詩集 上』受取り。 8月27日 京都での帝塚山学院同窓会に出席。 9月18日 阪本越郎追悼会が高輪プリンスホテルで多くの詩壇関係者を集めて行はれる。 10月25日 荻窪にて蓮田善明25回忌。散会時の発言にて座を白けさす。 10月29日 臨時学生総会。翌日臨時教授会。成城大学、ストに入る。 11月6日 成城大学のスト、短大以外の全学部に。 11月18日 教授会紛糾。学生大挙して経緯報告を要求。 11月22日 佐藤総理、アメリカより沖縄返還を確約される。 11月27日 「授業妨害は処罰」と決まり、29日スト解除。 12月5日 長女依子氏、胆嚢手術のため入院。11日、次女三女が輸血に名古屋までおもむく。 12月21日 次女弓子氏の縁談まとまる。 昭和44年 1月 1日~昭和44年5月31日 25.3cm×17.7cm 横掛ノートに横書き 1月1日 速達にて松本紀久子といふよりお歳暮、考へれば善海夫人なり。賀状341枚。史、美紀子、雅子来る。夜、電話して松本夫人に礼いふ。 1月2日 けふも晴。賀状30枚あまり書き投函。午后林叔父叔母と大と来る。「李白」ちょっとやる。鬱なり。 1月3日 快晴。京、出勤。弓子遊びに出る。賀状64枚。みな歳末または元日のものなり。 午后、母来り、飯炊きてもってゆく。本屋にて『十二支物語(580)』買ふ。美濃隆子、子をつれ鯣(※するめ)もち来る。『果樹園155』来る。 1月4日 弓子、晴着をきてゆく。9:30東洋学術協会に1,000送り、佐伯にゆき『ハイネ新詩集(70)』買ふ。賀状17枚。 けふは来客なし。「李白」少しづつやりをり。 1月5日(日) 礼拝にゆかず。〒もなく終日無為。 1月6日 賀状60枚余。午後柏井歯科へゆく。母来会はす。「(※入歯は)はずさざるが宜し」と也。 夕方、太田(※太田常蔵:帝大東洋史学科同期)未亡人より「19日14:00一周忌」と。「級友にしらす」といふ。 17:00岡部に電話すれば留守。内村は「出る」といひ、丹波(※丹波鴻一郎)とは「13:30三鷹駅南口にて」となる。 畑山博氏より電話あり、やむなく「あさって19:00ゆく」といふ。 (西川(※西川英夫)より「かはりなきや」。平凡社渡辺春輔氏より「明日午后来る」と。) 1月7日 9:00出て斎藤先生。「渡米お大事に」と申上ぐ。帰り高円寺の古本市へゆき『斎藤茂吉の恋と歌(500)』また買ひ、福地君(※福地邦樹)にその旨いふ。 賀状26枚。渡辺春輔氏来り、本文477枚めと原文140枚めともちゆき「来週来る」と。 本田喜代治先生より「令孫成城の人文(?)学部受験」と。(※省略) 「李白」に疲れ、畑山博氏(※筆名畑山浩。芥川賞作家とは別人)に「けふ19:00訪ふ」と電話す。17:30出て(夕食すませ)王子に着きしに道わからず、 迷ひに迷ひて簡易裁判所のよこの畑山邸につき『詩集驟雨』見ればヨーロッパ旅行の詩よく、 「出版祝賀会に出る」といひ、夫人に弓子の写真と書類おきて出る。畑山氏、滝野川の都電駅まで送ってくれ、大塚をへて帰宅。 1月8日 よべおそくまで眠れず畑山氏のせいなり。電話かかり「発起人となれ」と。坊城教頭も電話口へ出る。(※省略) 松浦母上、電話かけて来られ年始のpresentさる。 1月9日 4:00さめしあと又眠り9:00近く起きる。『今週の日本』へ「17日までに詩承知」の速達しにゆく。 午食あと浅野dr.(※浅野建夫)にゆかんとせしも止め「李白」かく。賀状20通ほど来る。 1月10日 けふにて晴了りか。11:00決意して浅野建夫に原稿返却にゆく。「往診とロータリー」とて出てゆきしあと、夫人と話す。 「次男、恋人のpianistと結婚して福島」と。「長男、福島より帰り孫できた」と。(※省略) 本田喜代治先生にも電話「成城はむつかし」と申上ぐ。夜、依子に電話し「トボつれて来い」といふ。 1月11日 8:30さめ「李白」ちょっとやりて疲れて、午食のあと、荻窪の古本市へ往復歩き、 『太陽系とこよみ(30)』、『タイ王国(50)』、『南蛮記(300)』、『星座神話(500)』買ふ。(※省略) 1月12日(日) 5:00ごろさめ、つらくて礼拝にゆかず。ユ、雨の中を出てゆく。賀状の返事まだ来る。川久保より電話、太田の一周忌のこと、松本善海のこといふ。 夕方、澄より電話「skiiにゆく間、依子母子よこす」と。依子も出て「あす15:30~16:00つく予定」と。 1月13日 いやいや10:40出て、すしやのぞけば売らず、成城にてpão買ひ、山田教授(※山田俊雄)に『南蛮記』のこと書込み見せれば「新村博士ならず」と。 東洋文化史やり大学院にゆけば、(※指導 省略) 池田生としるこ食ひて帰る。(※学生消息 省略) 泰、何事にも反対いふやうになりし。『軍事史学』への執筆依頼、阿南氏より来りしも「多忙」とことはる。 夜、小武守生より電話「16日坂、山野井と別々に来る」こととなる。 1月14日 10:30出て定期1ヶ月(2,030)買ひ、斎藤病院。先生11日渡米なれど、こみをり薬とり、すし新宿にて買って登校。野田宇太郎氏に会ふ。 14:00教授会までstoveに当り、(※省略) 永々と16:30までつづき、つまらず帰り来る。(※省略) ユ「依子、泰つれ天沼へゆきし」と。(※省略) 平凡社渡辺氏より電話「土曜に来たまへ」といふ。 畑山氏より電話「案内状ついたか」「つかず」と也。 1月15日(休) よべ眠れず。(※省略) 〒『驟雨』出版祝賀会のみ。(※省略) 依子、泰、弓子、天沼の母とさそひ合ひ、美紀子の赤ん坊見にと出てゆく。 東大共斗会議に労働者加はりdemoせしもけふは機動隊入らず。 年賀郵便しらべ5等(※庄野潤三、田中冬二、西垣脩ほか14名)の諸氏よりの当りをり。 1月16日 よべ書きし「夜の祈り」を『今週の日本』社、元淵満雄氏に京をして速達せしむ。「李白」ちょっとやりしも江陵まで也。(※省略) 14:00依子映画見にゆきしあと小武守、山野井2生来り、小武守生全然卒論の内容いへず、夕方になって帰りゆく。山野井生「21日再来」と。 京「skiiに霧ヶ峰へ」と出てゆく。 1月17日 よべも殆ど眠りし感なく、10:00の東洋史にゆきnote提出をいへば5人ほど出し皆出来てをらず。(※省略) 出て斎藤病院へ12:00少し前につき鈴木dr.に眠薬追加4日分もらふ(400)。帰りて中国文学史了りとし「魯迅しかなければよめ」といふ。 3生の卒論返りをり、これをもちて帰宅。全田叔母より「来てくれ」とハガキ。羽田博士(※羽田明)より「令妹逝去」と。 1月18日 よべよく眠りしも東大にて戦斗ありteleviの前をはなれず。夕方、安田講堂をのこして停戦。お茶の水方面にても市街戦あり。 『大世界史』来る。澄より電話あり、夜、思ひ出して丹波に電話、お花代のこといひ「三鷹へゆく」と約束す。(※省略)内田夫人に「3人ゆく」とい ふ。 (午后入厠中、平凡社の渡辺氏来り「訳しのこしあり。注なし一つ」と指摘され、あやまって書くこととす。我老衰矣!) 1月19日(日) 聖餐式とて礼拝にゆき一旦帰宅。飯くひ2千円の御花料用意し三鷹につけば13:05。 古本屋見、まつ内、丹波君令息の車にて来り、地図見せしも甲 州街道に出、bus通る道とて車すてれば深大寺町。探し探しし、地主さんに訊ねてわかる。(※太田常蔵一周忌) 内村君既に来をり、旧同僚など4人と嬢息2人とにて、戦後の出家の僧?に長々と読経され閉口す。やがてすし来り、手造りの御馳走ならぶ。 われ食はず茶のみ、拝りて奥さん泣かす。内村君雄弁なり、東大(※安田講堂事件)のこといふ。丹波君と3人出て2人境までtaxiひろひ(290)、荻窪にて別る。 ユ「スマトラ記」に賛成せず。止めんか。 1月20日 よべ京、友と帰り来りしと知らず、朝ヱハガキ呉る。新聞見れば「東大入試したし」と。安田講堂の荒廃を映すがteleviなり。 (加藤学長代理「死人が出ても云々」といひしことはじめて知る)。入試中止ときまり「影山氏の弟子、神道復活で(※日本遺族会会長に)乱暴せしとteleviに出し」とユ。 われ東洋文化史20分やり『太平記』下の四条畷すませ荒本生としるこ食ひ、家へつれ帰りwhiskyのませ21:30まで話す。くたくたに疲る。 (「けふ依子・泰帰りし」と。) 1月21日 10:30出て斎藤病院。若き先生に薬もらひ雨の中を帰る。 昼食して散髪し帰宅すれば坂・山本2生あり、面接のこといひ、小武守生の来しを機に2生帰りしあと18:00まで予習す。(※省略)。 1月22日 9:30出勤かと思ひてゆきしに10:00なりし。12:05すみ、ちらし食ひ、午后考古学2人東洋文化史4人すむ。あとわがよみしは1人のみ。 すみてあす日本史に悪き2人予め見せられ、東洋文化史4人に安心す。成城堂にて払ひ150。『出エジプト記(100)』買ひ、(※省略) 帰れば全田叔母より「会ひたし」と。平凡社渡辺春輔氏より「原稿つづかず」と。(※省略) 1月23日 けふは10:00出勤。うなぎ食ひ、誤字訂正につとむ。16:30すみ、小田急dept.の「平城宮展」にゆかんとせしも止めて帰る。(※省略) けふ学校にて池田温氏に遭ひユネスコ東ア部文化研究センターの『台湾香港アジア学者名簿』もらふ。全学連の騒ぎ京大に移りし。 1月24日 10:00ゆきて面接、午までにすみ、採点合議。わがsemi山野井生「優」(※省略) より電話「16:00研究室へゆきし。note呈出期限しらず」と。叱って「note送れ65点やる」といふ。 (※省略) けふ帰途「平城宮展」を見、280の案内買ふ。 1月25日 起きしとき雨ふりしも止み、ユpermaに出てゆく。(※省略) 15:00まへ二人して出、霞ヶ関下車。 霞ヶ関ビル34階の『驟雨(※畑山浩詩集)』出版祝賀会にゆけば(※職場の高校関係者)200人以上の大勢にて立食。 田中喜一郎元日比谷高校長の 祝辞のあと、草野心平の乾盃のあと、 山本和夫夫妻と話し27才となりし大野トモ子に遭ひて、うれしきはこれのみ也し。早く席を立ち帰りて夕食。日記よみ返す。 (※省略) 21:00畑山氏より礼の電話。声かれをり。 1月26日(日) 7:00さめしも礼拝にゆかず。(※省略) ユ16:00まで帰らず。帰りしと母対策を話す。弓子も同座。 宮崎智慧さんより電話、来て癌ノイローゼの話す。『花影』再刊。「ユに歌作れ」と也。 1月27日 よべ眠れず。honey-wine3盃のみしが為ならん。喘いで東洋文化史の試験監督す。(※省略) けふ池田大学院科長、大藤・新城2教授、文部省へ「常民(※日本常民文化専攻)」の説明にゆくと也。 成城堂で『ヒトーパデーシャ(150)』買ふ。ユ、午すぎ来しタカ子に小遣ひ5千円を托せしも大宅、空と。(※省略) 1月28日 10:30出て斎藤dr.。代診の先生に申上ぐれば「酒のめばきかず」と。はじめてのこと也。新宿にて月見そば食ひ(120)、14:00成城へゆき、 堀川、大藤らの諸教授に土田宜子のこといふ。(※省略) 教授会つまらず、すみて教授の会。「たてわり、せよ」といへば「むつかし」と逃げらる。 (けさ角川の鈴木君に電話し「寄贈1冊」とのことに「合計1冊を」といふ)。夜noteを検査し1E橋本由美子をほめて専攻をきけば文化史と。 1月29日 7:00さめ9:00出て『果樹園』へ「スマトラ記」と2,500送る(130)。4年半数来をり訂正の指導す。(※省略) 橋本由美子noteとりに来し故95点といふ。眼鏡かけをり。13:00出て帰宅。福地君より「ハガキ見た」と。吉森夫妻のChristmas-card。 『今週の日本』1.27号来る。タカ子にユ電話すれば「母5千円受取り、すぐき呉れし」と。 1月30日 雨。寒し。10:00登校。小武守生の結論了りしを見て帰宅。『今週の日本』より(12,000-1,200)。 夜、豊田母子より「卒論通過」と。「祝す」といふ。 1月31日 寒く雨。眩暈するとて「成城の試験監督休む」とユにかけさせ、(※省略) 平凡社渡辺氏より電話「出来ず。欠送った」といひ、あとにて「机の上にあり」とあやまる。花井タヅ子夫人に「写真返せ、写真返す」といふ。 (※省略) 午まへ母来り、われにかまはずユに怨みを云はんとするに、われ出てゆけば棄てぜりふして帰りゆく。 ユ、曰く「千草さんと仲戻すつもり」と也。televiの「十代の幸福」に西島千枝子眼鏡かけて出てをり。「李白」よみ、またクタクタとなる。 2月1日 6:00さめ7:00起く。千川稚泉より「定年」と句集送り来る。佐伯にゆき吉田光邦『錬金術(70)』買ひ来る。千川へ礼状。 青木母より賀状代りに「パリー滞在記」。 2月2日(日) 朝寝坊し夫婦とも礼拝にゆかず。小高根二郎君より受取「堀之内歴未亡人より夫君宛の伊東のハガキ見つかった」と。外出せず。 2月3日 斎藤dr.へゆけば女dr.「中にしませう」と。佐伯によりしも何もなし。山野井生来る。(※省略) 夜、賀代嫗より電話「売買について証言を弁護士に」と。 2月4日 晴。朝刊見しに平凡社『唐代詩集 上』小野忍・小山正孝他編訳と見ゆ。9:30平凡社に電話し、2人に「原稿返せ」といひしも埒あかず。 午后4人来り、あやまりしもきかず。 ユ、経夫(※統夫)の弁護士に会ひにゆきし「留守」のこと也。17:00ユ帰り来り、弁護士たのもし。文子側の弁護士と文子怪しと美紗子いふ」 と。 2月5日 9:30平凡社に電話すれば「渡辺春輔氏ゆきし」と。10:00すぎ来られ、いろいろ話し「李白」とりやめときまる。 「原稿返さずば会社あてに交渉す」といふ。タバコ買ひに出、ユ登記所へと出てゆく。 角川の鈴木君に電話すれば「不在」、14:30過ぎてかかり「月曜送らせし」と。 (※平凡社の件につき意見聞けば)「新聞広告より先に著者に見するが礼儀なり」といふ。 澄より夕方電話「近々来る」と也。(※省略) 2月6日 寒し。ユ、三鷹へ弓子の縁談たのみに吊書もちゆく。『現代の抒情』5冊玄関におきあり。 今井翠母子来る。帰りをユ、送り出しあと「哀歌(※『悲歌』所載)」よみ返し声を立てて泣く。(15:00澄より電話「17:00のコダマに乗る」と)。 (※省略) 20:00すぎ澄来り、ユ帰り「母、大と合はず、家出を決意」と。(※省略) 2月7日 8:00起き、澄と話せしあと9:00出て成城。10:15よりの新城博士の日本史の監督し、 15:45まで東洋史のnote検すませ、中国文学史の試験監督すませ、17:00、2女生と出てしるこ食ひ帰宅。 萩原葉子氏より賀状の返事。大高同窓会より「2月20日総会」と。 澄と林より「大、結婚する」につけ母に出てくれ(※と言った)、とわかる。 けふ内村祐之氏の本(※『わが歩みし精神医学の道』か)、成城堂に注文し、(※同姓同名著者の)田中克己『遺伝相談』買ふ。 (「中国研究会の顧問となる」との印押す)。(※省略) 2月8日 寒し。ユ、母に電話かければ出ず。やがて林叔母より電話かかり「いま母来る」と。 竹中郁氏より『詩集そのほか』。(※省略) 平凡社渡辺氏来り「あす局長来る」と。「その要なし」といふ。 小武守、坂、山野井3生来り「預餞会」とてすし食はす。林叔母より「母来り、大阪へゆく」といひしと電話。 叔母のいひつけによりユに電話せしむれば「今夜、大に電話し、その結果にて大阪にゆく」と。 2月9日(日) 晴る。久しぶりに2人にて礼拝にゆく。(※省略) class会に出し美紀子より「史来しや」と。「来ず」といふ。(※省略) 西城-Gomez(※西城正三-Pedro Gomez)のboxing「西城判定勝」と。あやし。 2月10日 9:30出て斎藤dr.。アメリカより帰りてをられ、眠剤のみとさる。かへり白酒買ひ、午后(※授業指導 省略) 夕方散歩に出『文芸春秋3月号』買ひ来りよむ。(※授業指導 省略) 2月11日 9:00近くさめ、成城より「2.16臨時教授会」の通知速達。本田喜代治先生よりお孫さんの受験番号。美紀子より「来る」と。 赤川氏(※赤川草夫)に電話し『シライア語宗教問答』の製本取りのけにゆき、帰れば史夫妻4人来てをり、すしとりて食はす。 13:00すぎ(※卒論指導 省略) 赤川氏、仮製本したまひて持ち来り玉ふに『現代の抒情』お礼に進上す。(※省略) 夕方、弓子帰り来り、京、夜、志賀高原へskiiにゆく。 2月12日 眠り浅く7:00起く。散髪にゆく(この2日間暖し)。そのまへユ、母に電話すれば「大いまだ帰らず」と。『果樹園』来り『不二』来る。 午后、佐伯にゆき『平戸蘭館日記』たのむ。1,500にて4冊出ると。 ユ、買物に出しに、平凡社の友野重役(※友野代三)来りし故「原稿返せ」といふ。(「戦争中成城高校の教師にて堀川博士と同級」と。) (※教会行事予定 省略) 罪多きわれとぞ思ふ安らかにねむれとのらす主にしたがはで。 2月13日 9:00出て成城へ4年生の成績呈出。成城堂にて『ベトナム民話』買ふ。(「内村祐之氏の本未着」と)。 帰らんとすれば自動車にて「先生」と李生(※李錦順)。家まで運転させ朝鮮関係の本貸す。そのあと散歩に出て『比較言語学(30)』、『イラク(10)』買ふ。 帰れば俊子姉来をり「婆さん(※継母)とのことまかせて」と。(※省略) 電話かけ来し吉田美智子生に「来い」といひ、 17:00すぎ迎へにゆき肉饅頭食はせて食物史の書き方を指導す。「帰り地下鉄東西線にのれ」といふ。 2月14日 8:00起く。星斌夫(※あやお)君より中道邦彦『清初靖南藩と台湾鄭氏との関係』贈らる。(※省略) televi見をれば、池田生reportもち来り「漢」を草かんむりに書きをり。そこへ渡辺氏来り(※陳謝)、しばらくして去り玉ふ。雨降り来る。 2月15日 よべ23:30弓子帰りしを知らず。7:00起きて朝食後、また眠る。珍し。 古谷久里嫗より歌集『野の隅』贈られてよみゐれば「橋本学生部長夫人の母」と。成城に電話し、会議中の課長にところたしかめる。 ユ14:00まで散歩にゆき中央公論の騒動(※1968年末の労働組合闘争)のこと話す。「三枝女史、嶋中社長に殉ぜし」と。(※省略) 中央公論社より(572,160-64,432)の源泉徴収書。福地君より「校正ミス3ケ所(角川のに)ありし」と。 2月16日(日) よべ雨なりしに7:00さむれば雪となりをり。 森田先生のお話ききに夫婦して吉祥寺教会。先生すこし老け玉ひし。ご挨拶して吉祥寺にて麺(130)食ひ、登校。 新城・大藤2教授と同行。13:00より文藝学部の教授会。 2月1日逮捕されし元学生(「すりかえ試験にて退学となりし」と)の件にて学長と会見求めしに、その回避の為の会とわかりしのち18:00すぎまで延々とつづく。 すみて雪の中帰れば20:00近し。〒なかりしと。 驢馬にのり五日目につく十字架を知りて来ませしわが主イエスは。 2月17日 斎藤dr.に会ひ、教授会での中立申上げ「よろし」といはる。帰り佐伯にて『文芸春秋2月号』買いひ来りよむ。(※省略) 賀代嫗より「裁判にて家の売渡し認められし云々」。 2月18日 よべ睡眠剤なきも雨降りゐしを知らず。〒なし。電話もなく、弓子の『小学館世界原色百科事典』をアからウまでよみ疲る。(※省略) 入浴中、小山正孝氏より電話「門閉りをり」と。来りしに「村中測太郎君、この間死んだ」と。「(※平凡社の仕事)今まで出来たところにて止める」 といふ。 2月19日 雨。太田常蔵未亡人より電話「来る」と。『大世界史』来り、太田夫人迎へにゆく。「1.5坪不法にとられた」と也。 家へつれかへりユに生を説かす。14:00帰る。(※教へ子結婚 省略) 2月20日 雨。聖心女子大68年度東洋史専攻生より「3月6日会す」と。「欠席、原田先生によろしく」とかく。渡辺さんより「来る」と。そのまへ田中久子来り、柿崎生待つ。 渡辺さん『百科事典』(※お詫びに)もって来しゆゑ(※貰はず)借用証かく。 他に『ドーソン蒙古史Ⅱ』とサントリーwhisky2本賜はる。李白(※原稿)59才半ばまで渡し「これより校正見る」といふ。 (帰りがけ、ユに「あとやりくれ」といひし由)。二生、菓子おき夕食して19:00去る。 2月21日 寒し。傘もちて9:30登校。成城堂にて羽田明『西域』買ふ。内村祐之氏の本まだ来ず、教務国文にて大学院審査の場所問へどわからず、 野口助教授来り、「常民文化大学院審査に7人来る」とわかる。(※省略) 13:00salaryもらへば7,000余、昇給分としてもらふ。 成城堂に1千円余払ひ、5人さそひて喫茶(720)。新宿にて猩々袴2株買ひ、 佐伯にて『葡萄唐草(320)』買ひ、平凡社の百科事典のこときけば「2.8万円で古本屋売りゐる」と。 ユをらず、猩々袴植えて帰り来しにグッちゃんのむすこの押しかけよめの話きく。Bibleの「しへたぐ」「ちゅうぶ」ともに山田君の辞典にあり。 (※省略) 2月22日 よべ睡眠感なし。雨止み、ユ洗濯す。10:00葉雅美生来り、cardのかき方教へ、佐伯へつれゆき『台湾文化志』予約せしむ(6,500と)。 退屈まぎらさんと吉田生に電話すれば「料理学校」と。ユをして服部夫人に原稿、書留にて返さしむ。 けさ主婦と生活社より速達『旅』に「山麓」を採るが諾否をと。(※省略) わがいのち永くしありぬ数多く罪犯しつつけふまで来しに。 (弓子けさ早くより妙高へskiiにゆきし)。(※省略) 2月23日(日) 9:00さむ。久しぶりに晴れ、ユ礼拝と総会とにゆく。日野忠夫氏より「印度へ行った」と。 新見正彰といふ人より「お電話できいた。山本文庫見つからなかったがNovalis見て用済んだ」と。おぼえなし。 14:00米山生迎へにゆきつれ帰り『十二支物語』を二人でよみ「十干十二支をちぢめよ」といひしも「考へる」と。18:00送り出し、暦買はす。 ユのすすめにて神戸のaino(※相野)番町(2.2万で全国最大と)へ入り込みし元キリスト者夫婦をteleviにて見る。(※卒論指導 省略) (米山生の前後に「スマトラ記」200×11書き、送りにゆき『易(420)』買ふ。) 2月24日 3:00めざめ、昂りやまず。7:00起き9:30成城大。(「スマトラ記」速達135)。10:00より卒業生の及落判定。(※省略) すみて、すし出、 そのあと3年よりsemiをとのわが提案につき長々とやり、「来年度までの議題」とす。 14:00家に電話すればユ「松田みす子に呼ばれゐる」と。「ゆけ」といひ、 成城堂にて『漢和辞典』買ひ、もちて田上由美子に祝にゆく。父君に「嫁がせしあと気をつけよ」といひ、15:00出て新宿。 busで柏井(※義弟の歯科)までゆき、まづスープたのみ、ついで一本歯ぬいてもらふ。 平田来をり、弔みいひしも母上なること忘れし。恵「出版社へコネを」と。「OK」といひ、 ユより電話なきに歩きて帰ればユ、恰も帰りをり。(「あすも来よ」と数男dr.の命)。池田温氏より「3、40名60点以下をつけた」と。 2月25日 寒し。7:30さめ成城大へ15分前着き、大学院の面接。(※省略) すみて山田氏をさそひてHennessyのませ飯くはす。「冷血」といひ、 わが「病症見に来た」由。 18:00送り出し数男にゆき「来週来よ」となる。母来り(午前中)、「5千円いらず。勝手にする」といひしと。焼芋食ふ(100円で2本)。 佐伯に寄れば葉生、自動車にて『台湾文化志』もちゆきしと。(※省略) 弓子、折から妙高高原より帰りヱハガキ呉る。京「あす穂高(群馬)オリンピア(※スキー場)へゆく」と。多事也。 (けふ山田君より「幸せな人」といはれ有難し)。坂泰子生に電話「写真受取ったか。山本の式出られず祝電打つ」と。 2月26日 9:30斎藤dr.、新聞のヒステリー調査票のこと申上げしに「誰にもあり」と。 佐伯に寄り『漢方医語略解(2冊にて10)』、『イエス伝詩集(30)』買ひ来る。 李生より「3月帰韓、けふはだめ、あす吉田生と来る」と。山本邦子へ「欠席、主のめぐみにより結ばれしを喜ぶ」と。 澄へ「岐阜の碑三つよんだ」と。中村八鬼氏へ詩集の礼。きのふ来し羽田博士の『西域』の礼かく(山田氏に与へし)。(※省略) (5日、斎藤先生のあと雅子の雛人形見にゆくこととす。) 2月27日 6:00さむ。「雪降りをり」と。10:00すぎて李に電話すれば「寝坊した」と。深谷に電話すれば「13:00来る」と。(※省略)  12:00まへ李来り「破門かんべん」と。 「孫晋泰・李弘稙(牧野弘一)2教授に指導たのめ」といひ、深谷生も来しに飯くはし、越族のこと話す。 14:00帰りゆきしあとtelevi見るに雪止まず。(※省略) 京22:00すぎ帰り来る。 2月28日 京、「残業」といひて8:00出る。雪積りしまま晴る。丹波哲郎とその兄といふを見れば鴻一郎の異腹なり。 佐伯へ散歩。本なし。(易の本、佐伯にも新本屋にも俗本ありし)。『世界原色百科事典』4冊よみ疲る。(福地君へ「駒井」通訳としたまへとハガキ。) 〒なく、電話なし。あすは国鉄ストなる由。左眼にメバチコ出来る。 予定。God bless me!(※しまった!)  シロコゴロフ『ツングース語辞典』訳、  『中世中国語辞典』  シライヤ語『公教要理』訳による語彙並びに文法 なれ逝きて久しくなりぬ天つ国われものぼらん時たちにけり(25日作)。 20:00「試験延期校若干」とteleviできき、成城大学にかけしも出ず。柿崎生にきけば「母の縁類にかけ8:30登校とのも指示ありし」と答へ来る。 3月1日(※「2月29日」と誤り記す) 7:20覚め、ユ「国鉄異常なし」と。地下鉄にて成城大学(9:10)。試験問題検しまちがひなく、大藤教授より『雑誌5』もらひ試験監督(岡田清氏と)。 12:05すみて昼食(幕の内)。すみて整理まつ間に海江田副手、押しピンにて血噴く。「すぐ治療を」といひのこし、採点にゆき18:00まへ了る。 (滝沢英雄君より「「スマトラ記」見たし、田中館秀三氏(※は昭和26年に)窮死せし!」と)。 一番に夕食にゆけば、内田直作部長をり「ごくろう」といへば恐縮せし様子?「電子計算機いれよ」といふ。 あと残りてひとり食ぶる尾上主任を除き、夕食われ1/10(ちらしの)わけ内田氏にきかれ「胃下垂の上、お菓子多くとりし」といふ(こは信じられず)。 けふ実はわれらが採点室にわが注文のブドー酒来り、あとにて聞けば他はwhiskyなど採ると。18:00すぎ「お先に」といひ、前田総務に挨拶して帰宅。 (目バチコ―関東弁「山田辞典」にては「めばちはものもらひ」と)。 終日気にし目薬(150)登校の途中買ひ、電車の中でもさせしも気持ち悪く薬局で眼帯(50)買ひしに歩けず。家に帰ってはずす。 バアさん(※義母)「自分の荷物もってゆく」と来しと(夕方)。澄、電話にてハガキの礼喜びて云ふ。(成城堂にて5冊本買ひし)。(※省略) (山本幹子夫人より近況。小高根「蓮田氏の『西康省』買ひしわかりし」云々。「田上由美子の結婚(大野敦と)29日(土)赤坂ホテルニュージャパン」との通知 (※省略) 松浦薫氏四国より。『四季』来り、堀夫人のドイツの便りのす。) 3月2日(日) (※「3月1日」と誤り記す) よべ眠れず、7:00ごろまでに1~2時間ねむりしか。ユの太田夫人さそひに教会にゆきしあと、斎藤先生にゆかず、bedにあり。 14:00ユ帰り来り、太田夫人「亭主関白によろしき家あり」と弓子の縁談すすめ「太田の無比なりし」こといひしと。服部夫人より受取。 わが発狂は38年なることを協議す。依子結婚(※1963.4)、和田先生亡くなられ(※1963.6)、池上生[墜]死(※1963.7)のあと『白楽天』かき了へ、中村医院の不親切(※1963.8)にて昂ぜし也。 永山より電話「西武線上に家建てをり。4月新築落成の時招く」と。 賀代嫗より「統夫家買ふ件につきあす18:00ごろ来る」と。午睡30分とる(きのふの弁当に中毒せしか。朝より烈しき下痢、午くづ湯、夜粥なり)。 井上書店に『台湾高砂族系統所属の研究』のとりのけたのむ。「8.500にて4~5日以内にとりにゆく」と也。 3月3日 (※「3月2日」と誤り記す) 7:00おこされ(よべよく眠る)、9:00まへ出勤。試験問題見了へ、高校へゆく。(古谷久里嫗の手紙につき橋本長四郎氏に語らんとて也)。 ぶじすみ(付添の女生、短1と!)、前田部長にきき、橋本氏にゆけば昼食中、古谷嫗やはり田中博士とわれとまちがへゐしこと判明。 下痢ゆゑとてとりし月見そば13:00すぎまで来ず、食べ了へて採点(午食の席にて西洋史の先生とわれをほめし老教授あり)。 田中薫博士向ひにをられ、高砂族の話承りしに全然ご存じなく(「Siraia語(※Siraya)」「高砂族の帰属」ともにお忘れ、 「Siraia語字典」の出版ご存じなし)、 却って質問受く(齋藤齋先生の名いへば「知る」とのみ)。 また一番にすみ(白酒をもち来るやうたのみ教務部長二つ返事にてくれしも、そのまへ「成城にては造らず」との返事ありし)。 sandwich包ませ挨拶して出しに返答なく入口にて2、3人のhelmet見て、教務に云ひにゆきしに「前田部長にいふ」といふ。 出て見ればすでに影なく前田部長も来ざるゆゑ「見えずなりし」といひ電車に乗る(19:00ごろ)。 納豆を新宿駅にて買ひ(100)帰宅(20:00)。(※省略) 丹麦の首都「哥本哈根」(※デンマークの首都コペンハーゲン)と尾上氏の質問しらぶ。 太田夫人へユ行き、弓子のことたのむ。諏訪澄へ弓子の吊書かへせの電話かければ依子、泰出、澄やっと出て「吊書ねおきで思出せず」と。(※省略) 池田温君より電話「(※成城大学には)4月末までゐる」とのことに「一度来たまへ」といへば「その中に来る」と。 (けふ山川女史(※山川京子)に久しぶりに会ひしに「保田夫人に会ひ、保田に会はず」と。宮崎氏(※宮崎智慧)次男の就職のことでたづぬれば「保田の会社(※新学社)ならん」と)。 (統夫19:00ごろ来り、売買の価格と坪数をきき「裁判の結果、子供は帰らず扶養料月6千円―一年毎に増額―、慰藉料10万円、判定は次回」といひしと)。 3月4日 (※「3月3日」と誤り記す) きのふ前田部長に伝ふるといひしは宇野君也。牛蒡またしらぶれば「牛蒡子、牛蒡根が薬用にて欧洲原産」と。明代に入りとならん。古谷久里氏へハガキ。 (けさ7:00さめ雪降る) ユ、太田君の方が美男といふに写真見ればわれより低く、しかし病中のわれ化物の如く写りをり。 10:00雪中、地下鉄にて本郷井上書店にゆき『臺灣高砂族系統所属の研究(8,500)』買ふ。 (家にて検すれば台湾総督府の著となり移川子之蔵、馬淵東一、宮本延人3氏の著なりし)。 他に大学へ『大武鑑(2.8万)』、『龍飛御天歌(1.8万)』届くるやうにたのみ、『シライア語辞典』見つかればすぐ報ぜよと名刺たのむ。 ついでに琳琅閣に寄れば主人われを覚えをり、仕方なく『本草綱目』、『鄭成功』その他大学へとたのむ。 白十字にて喫茶(60)、雪中『朝鮮の年中行事』問へばなく、年表は三省堂の他、吉川弘文館にて売りゐる由! 歩行困難を侵し本かかへて帰り焼きそば食ふ。 14:00恰も戸田女史より電話「中国工学の本、訳しくるるや?」と。「見ねばわからずtextもちてよこせ」といふ。 ユも食中りなり。松浦薫氏、観音寺町よりヱハガキ。「2日ほど探せしタバコ入れ炬燵の横にあり」とユ。 内村祐之博士の著(※『わが歩みし精神医学の道』)にユ、うるさくいひドナル(松浦夫人に礼の電話かけてスカせしに聞かざるゆゑ)。夫婦とも奇応丸(※癇の虫薬)のむ! 2女早く帰る。『差別』(※東上高志著)よみ了る。 夕刊に「4日2:30am衞藤瀋吉評議員がたんのう炎の発作を起こして「東大駒場」構内の保健 センターにかつぎこまれたほか云々」機動隊4日8:00am救出と。 『部落の歴史』よみ了る。 3月5日 7:50覚む。5千円もち9:30出、斎藤dr.(ユ、山住医院にゆき血圧130-80「胃腸カタル」といはれ下剤もらひし)。 「今のままにしてくれユ云ひし、われ天才と思ふ」といへば薬かへ玉はず7錠(700)。「現金いらぬはず」といへば「貴重薬なり」と。 出てtaxiにて渋谷東横(200)のれん街地下食堂にてとろろそば(150)食ひ、『日本今昔飲食考(340)』買ひ、新本屋にて年表きけばなし。 若林行のbusにのり池尻住宅前にて下車。引返しタバコやにて道きけば、ユの「八百屋」なりし。 (※史氏新居)すぐわかりRD33へゆけば美紀子、雅子出迎へ、雅子人見知りせずヂイヂイといふ(一度だけバーチャン)。 土産の菓子あけず、白酒われのみ、写真とり、とらる。淳一目覚めおとなし。 「この間クラス会にて皆われとのこと云ひし」と。出て(14:00)busにのり渋谷。新宿まで国鉄。busにて杉並車庫。 柏井歯科、人なきも尚子に池尻住宅前八百屋で買ひしサツマイモ(50)ふかさす。数男食ひたがる。われ1本食ひて歯型とらる。 すみて恵のエンの就職の相手、文芸春秋の田中健五、主婦と生活社の早川敏一、平凡社友野代三の3人をあぐ。みな自信なし。 (ユに電話すれば心細き声なれど喜んでみをらず)。歩きて年表たづねまはり『日本疾病史(450)』買ひ、『庚申信仰(400)』買ひし。 佐伯へゆき『三省堂年表』と『台湾高砂族語彙』とたのみ、semiのこといへばsemiのnoteとる。『台地・農耕・女性(640)』買ふ。 白酒とって帰宅。マキヤ印刷米沢氏来るを待つ(戸田末子女史の紹介)。19:30来り、「三菱自動車工業のengineの説明書の中国訳をしてくれ」と。 われ「読むは得意なれど訳はできず」といへばユ「(※台湾の)頼さんにたのめ」と、手紙かく。(※省略) 帰りしあと入浴。アクビ出る。就寝23:00。(雛人形5万円余となりし)。 3月6日 薄曇。朝方小便にゆき8:00さめ9:30鎌田女史に電話かけ、馬淵東一氏のところききしあと、 はっと気付き東洋文庫岩崎氏に聞けば「Van der Vlis 1時間たてばしらす」と。1時間して11:40きけば「東洋文庫にはなし」と。 Mannheimの竹森満佐一先生に「お帰りまつ」とのみ航空便かく。地図見ればM市はHeiderbergの隣なり。 ゲーリークーパーの「摩天楼」見ゐれば滝本生より電話「ユに会ひに来る」と。 米沢氏より電話「航空便に入れる筈なりし日本切手だめ、他に方法考へる」とユきく。 15:10滝本女史「心不全にて母上1月13日9:40pm逝くなられ、解剖せず(22:07発見)共産党葬にて仏式64才なりし」と。 17:00ユ、滝本生をさそひて出てゆく(この3日前より賀代嫗、家にゐる由)。 京の友、成宗の小沢嬢出てゆく。わがことを「出席きびしき先生」とききゐる由也! 16:40意外にも!池田温氏ひとりで来られ「道わかった」と也。20:30退去までに善海、鈴木(北海道)などの話し、 「加藤先生(※加藤繁)こわかった」とわがいひしあと、帰りぎは「浜口博士(※浜口重国)低血圧にて健在」の由いはれ、「お大事に」と去り玉ふ。 (「志異雑記」「遷界令と五大商」の抜刷呈す) 大秀才なり。 「善海の著書整理には加藤祐三氏がよからん。1920年代以後共産党史の研究あり」と。(※省略) 3月7日 よべ22:00に眠り快眠7:00さむ。8:30出て成城。(※省略) 大藤教授と同行「ご苦労様」と入試委員を謝し、 成城堂へゆき平凡社の大百科事典26冊のうち「日本地図」と「世界地図」とのことに「世界地図」たのみ、『近代日本と朝鮮』と『中国文学十二話』 買ひ、 小田急売場にて『東大と日大教授に高額所得者が多い理由(※『週刊文春』11巻10号p40~45)』買ひ、 (※リスト省略) とあり。 「私大の教官は国立大学の教官とくらべて一人当たりの学生数は10倍、授業時間は3倍だという。しかも月給は国立より安い。」 「私大経営者は大不在地主。工・医の教授連は、多少は自作もやっている大地主。」 「文科系のタレント教授は自作農。たまにいい“品種”を植えると収穫(印税)が倍増する。」 「私大教官は小作農。助手、大学院生は水のみ百姓――といったところ」と車中よみ了る。 登校すれば大藤、鎌田、野口、伊藤副手をり、茶のみて会議室にゆき人気なきところにて前田部長にきけば「あとで!」といはる。 (この前後に「この間のヘルメットは学校側」と洒々たり)。やがて呼ばれ[他見不要](※入試成績 省略)とわかりしも、他の教官はきかず。 しかも及第者に金つきなし!これにて及第会議了り、判定会のむしかへし(一事は再議せずの民主主義の玉条無視)。 われ「採決」呼ばはり、ややにして挙手(賛成13人)にて、むしかへしとりやめとなる。労組の話、上原君やり、すみて飯(ちらし)。 そのあとDクラスよりの卒業生代表判定を大藤さんにたのみ(新城博士も同)、伊藤副手より書類もらひ、(※省略) あとは駅にて見れば琳琅閣の納品書2通、見積書2通、請求書2通、あり25,850。 『本草綱目(1,500)』、『南方文化の探求(8,800)』、『交廣印度兩道考(450)』、『安南志略(9,800)』、『鄭成功(2,500)』、 『兩漢迄五代入居中国之蕃人氏族研究(2,000)』、『中国倡妓史(800)』と、但し現物は見ず。 井上書店のは書類現物ともに未着なり。 佐伯によれば「主人、高円寺の市へゆきし」と。おかみさんに「本、来ありや」といへば「来ず」と。いやいや『草の葉(200)』買ひ、14:00帰宅。 (駅前で本田先生に電話すると先生、声嗄れたまふ。ユにも電話) (※頁頭) 「山田[躁鬱病] 躁状態と鬱状態とをくりかえす精神病。躁状態だけの場合、鬱状態だけの場合もある。 遺伝的な内因性精神病。発病年齢は15~25歳の間が多い。クレペリン (Kraepelin)が「単発性痴呆(精神分裂病)」に対立させた。」 (※頁頭) ユ「老年期鬱病」老年なる時、ホルモンのアンバランスになる時に起る。自殺することが多い(西条八十のお婿)。遺伝しない。(※省略) (※頁頭) 「主のめぐみを知れ。何の為に洗礼を受けたかわからない。病ひに克つことなければ宗教は生きてないチンバ…くだらないことかくの止めよ。」 ユ「鬱陶しくなる。」 われ「主はほむべきかな。」『何でも相談せよ』他人はダメ、わたしにだけ。 林崎の妹にも電話し「姉とあそびに来い」といひ、床屋にゆき、非常に怒る産婦人科医に会ふ。シャンプーしてもらひ(500)帰宅。 着物にきかへ、ユ買物にゆきし間に米山電話し「あす10:00来る」といふに「待ってゐる」といふと喜ぶ。 ユ、衣架け(2,800)買ひ来る。懇々と説教「(人間を)変へる」とわれいひし。 『これが大学教授だ(60)』佐伯にて買へば、野田又夫(京大西洋哲学)を「有名教授年間所得一覧」に哲学系(筆頭は多湖、三位は金田一春彦の次にしるし)(※省略) 『果樹園157』来り、渡辺春輔氏より「体の具合わるく受取りおくれた」と来る。入浴の前後に進退きはまる。幸ひなるかな。ふとん敷き眠剤のむ。 3月8日 よべ一度起き(ユ「4:00」と)、8:00さめ、天気よき故、庚申様とりにゆきcamera屋見しもあけをらず(「10:00あく」とユ)。 タバコ買ひ(向ひの酒屋見れば「hennessy」8千円)。米山生10:04来り「十干十二支」やる。新城博士の『迷信』を買ひをり! 「辛酉年表」作り、アジア歴史事典の「干支」うつしてすむ。(貸出表を作る) 村田幸三郎より電話「愚息大東文化学院大経済受けるがよしや」と。「よし、一度遊びに来い」といへば「ゆく!」とドナリて電話切る。 ユ、本棚と洋服箪笥を月賦屋にあつらへにゆく。14:30ユ、本多家へゆきしあと、米山生帰りゆく。 15:00ごろ困ってつひにユに云へば斎藤先生「先生お留守、明日来てよし。それまで安定剤を食後にものめ」と。 その通りchou à crème(※シュークリーム)たべてのみ、とたんに眠る。さむれば洋服箪笥と本棚と来をり。うれし。 夕食くひて旨く、すぐ眠らんとせしもダメ。入浴しまた戦慄。 出てteleviの前にをれば松島生「6年間ごぶさたしをれど覚えをるや」と。 「覚えをらず」と答へれば「NET首となり転々し失職し、3月就職の金いる貸せ」と。「一文もなし」と答へれば「先生相変らずですわ」と言ひて切る。 昨日より枕頭に史(※長男)の手帖、依子(※長女)の写真をおく。けふ梓(※亡き次男)の写真加ふ。 3月9日(日) 6:30覚む。平凡社の『世界地図』『日本地図』doubleにつき史にやることとす。(あとにて弓子欲しがる故とりやめる)。 9:00すぎ弓子にいひて夫婦して地下鉄にて斎藤先生。4番目とて11:00入り、代診先生にユ説明すれば「宇宙・世界計画ありや」と。 計画思い出さうとすれば話かはり「全力投球せぬこと」(高級自動車でもブレーキ大切。自分でブレーキ作れ)承り10分ですみ、薬もらひ「火曜朝また来い」と。 「はもの皮」買ふとユ云ひ三越まで歩き(しる粉屋に入りごぜんしるこ(80)食ふ。) 「はもの皮」無く「くらげうに」買ふ。 「hennessy(ユ、別といふ)」7,500とみて帰宅。焼売買ひて昼飯とす。(弓子わかりをり)本棚に本詰めてたのし。 宮崎さん(※宮崎智慧)に電話すれば「19:00」と。怒って早く飯食ひ19:00すぎユと飯くひ了るをまち、歌の話。 「フルタニクリ嫗(※古谷久里)の歌集もらったがよまない。」「息子の就職たのみたかったがいひ出せなかった。」(※省略) ユの歌待つことわかりし故われ写し千円ユわたし帰りゆかる。ユ送りに出る。 全力投球に近くなり入浴して讃美歌うたひ眠る(22:00)。マキヤ印刷より頼氏への書翰の写し来。 3月10日 2:00ごろ大より「あにきに同じになりさう」と電話ありユ、「あす来い」といへば「来る」といひしと。 弓子に馬淵東一氏への往復ハガキと高坂清元氏へ『きさらぎ』われに呉れよのハガキ托す。 晴れて9:00となり、corner買ひかたがた佐伯にゆけば『平戸オランダ商館の日記1(1,500)』来をり、借り、 『をとことをんなの民俗誌(150)』、『キリストと神話(25)』、『日本社会とキリスト教(25)』買ひ、corner買はず、しんせい2ケ 買ひ来る。 大まだ来ず。10:00ユ、電話すれば伊勢の甥、母、大と電話口に出「何事もなし。会議あり。すめば19:00~20:00来るやもしれず」と。 大笑ひしてユ、池田茂寿枝の「勉強の邪魔した」。新垣淑明、山川京子連名の業績とりて登記所へとゆく。両氏に受取かく。(※省略) 「スマトラ記7」5×200書き、くたくたとなる。(※省略) 川久保より電話「12日13:30来る」と。あとにて気付き「すぐゆく」といひ、ユ同道。〒の角曲れば岡邸、 その裏の川久保邸見つけて上がりしに 新築の応接間、嬢接待にいそがしく「(※松本善海の見舞)あさって13:00阿佐谷駅」にと待合せをきめ 「共産主義が本当と云々■■」といへば川 久保■■くなる(ユの観察)。 (※省略) 大よりの電話かからざりしと。 3月11日 8:00さむ。3月10日の大空襲の記録ありといふに見えず。9:00出て地下鉄にて斎藤dr.。 「天才ですね。薬かへません。何日分よろしきや」と。「一週間」と答へ(先生も一服あまるを承知なりし)305円払ふ。 初めてbus(東伏見行)に乗り、区役所前で下車、11:30帰宅。炒そば食ひ散歩に出て戸田謙介氏訪ふ。(※省略) 在宅にて「上がれ」とのことに「2,3分待ち玉へ」といひNikka Whiskyもちゆけば機嫌よく 『The illustrated ethnography of Formosan aborigines (the Yami tribe)』賜はる。「写真版はあれど原本はこれのみにて貴殿もつ方よろし」と也。 鎌田女史にきいてくれとの本しらぶればC.G. Campbell『Tales from the Arab tribes . Lond.,1949.252pp』なりしことはすぐ返事し了る。 けさユ、われと地下鉄入口まで同行、税務署へゆき5.75万を払ふこととなりしと。(※省略) すす払ひに1時間かかり、われ入浴。夕食すませし処へ京帰宅。馬渕教授へ礼状。 岩生博士に(※借用)諾否のとひあはせ(「新港文書(※台湾のSiraya語文献)」につき)かき了ふ。 3月12日 よべ22:00ね、けさ8:00さむ。「雪降りをり」と。9:30川久保に電話し「雪だね」といへば「(松本の見舞)止めよう」と。 山の上ホテルに電話し「雪につき来ずとよし、話さん」といへば「叔母留守、帰りてのち電話せん」と。(※省略) 東京で史上最大の大雪と(※33cm)。(※省略) 魚屋来る!戸外見ればなるほどしんしんと降り積もる。 (ユ、岩生博士へと馬淵教授への状、投函しchou à crèmeのみ買はず。凍傷となるとさはぐに、われぬるま湯与へてすみ、反対にわれカミソリおとし趾に傷つく。) 和田夫人より長電話「山本文雄氏の紹介にて独協へ入りしといとこ中川いひし」とふるへ上りをり(ユ受ける)。 長火鉢の位置かへれば『三省堂年表』出て来り、佐伯へことわりの電話す。「よろしかったですね」との挨拶なりし。 15:00京帰り来り、ポンポン云ひしあと会社に「地下鉄8本待ちて乗れし」といふ。弓子より電話「1人つれ来る」と。 「雪よりも白く」との歌うたひける母はみ国にゆきませしらむ televi「明治34年以来の大雪」といふ。「16:30大雪警報解除151年ぶりの台湾坊主(※低気圧)のせい。国電マヒ。17:00まで送電stop。 18:00に30%開始。乗車券発売禁止、地下鉄ラッシュ」と。 17:00「雪止み雨となりし」とユ。 いまさらに何の師よとぞ無言にてわが手はらひし人はありにき(デメ金主事) 19:00まへ弓子、悠々と帰り来る。「三井銀行におそくまでつとめし故、楽なりし」と。 入浴せんとせしにユ、伊集院斉(相良徳三先生)のこといひ出す「金田一京助の舎弟にて狂死せしが親友なりし」と。(※省略) 3月13日 7:00さむ。弓子、雪中を出てゆく。京、休みなり。浜口重国『唐代の賤人(※唐王朝の賤人制度)』で学士院賞もらふ。 平凡社渡辺氏に見舞の電話すれば「未着」、女の子笑ひをり安心。(※省略) 空珍しく美し。 何事もみそなはす眼ぞ晴れわたる空の下にて一瞬思ふ。 12:30出、雪なき道とてタバコや(染物屋)に出、新生2ケ(100)買ふ。つり銭もらはんと手出しをり嬢に笑はれ気づき、焼芋屋に会ひ100買ひて佐伯。 『歇後語語彙編(4,200)』、『豫言集解説(700)』、『性における笑の研究(500)』、『日本古代の国家形成(150)』にて50円出し帰り着き(春蘭2株(100)買ふ。)、 「渡辺氏より検査の結果まだわからず」と電話ありしと也。蔵書cardの並べかへし1/4了る。 明武谷4勝1敗、大鵬入院(判定で不満と思はれるが最もいや、扁桃腺) ユ使ひに出て「電気stove見当らず」と、電気ゴタツ直し(100)、 5日の雛と恵、8日の庚申との写真とり来る(1350!)。すぐに貼り 「われ知りぬ愛のアの字のおのづから開きたる口不意にしたるを」と即詠、あとにて直さん。(※省略) 『満文老檔』5冊、和田先生(※和田清)より賜りしに欠きゐしを知り、いまさら師恩と忘恩とを識る。 21:00川久保より電話「あすいかに」といへば「教授会で判定する故だめ」といひしに「あさっては」と。「判定のあとゆゑだめ」といへば「お大事に」と。 われ「なぜ?」と問へば笑ひこけて「奥さんづれでステッキもって来たから」との事に、われも笑ひに笑ひて電話切る。 3月14日 8:00覚む。(よべ1服半のむ)。上厠して出、庶務へゆき3ヶ月分の定期代もらひ、浅香・土肥(断りなし)両副手の紹介あり、 卒業判定12:00までと急ぎ、部長時計ばかり見、12:10すみ、教授会。高城ほか2名の判定委員きまる。(※省略) (国文博士課程・庶民文化修士課程ほぼ確実──12:00ごろ学長も加はり決定中) 琳琅閣の本と井上(4.6万)ともちて出んとすれば、飯島・中西2君(風呂敷1,050)とかはるがはるもち呉れ、駅前にてtaxiにのればヤミ 800と。 阿佐谷交番前へといひつのる中、20.8.26付入隊予定の少年航空兵志願とわかり、急に態度かへし故、本多氏の地堅め見、千円わたし、 家へ持帰り、柏井へゆく途中、佐伯に寄り、相当の本買ひ、busにて柏井。数男坐らして不意に歯ぬくといひ、中途で折れ止めるといふ。 あと今井ひろ子来りをり、北京以来の話して握手す。明武谷の負け見たり見なかったり。(※省略) 古本屋に寄り中国の衣服の本きけば『服飾事典(田中千代)』その他も買ひ、次いでアーケード本屋『キリスト教問答(50)』と『国文学解釈と鑑賞(600)』2冊買ひ、 タバコ屋(染物屋)で主婦より買ひて帰宅。本多氏に「おめでたう」といひ、ユに祝酒いへば「不要」と。 本のcard作り、夕食し、内村鑑三の本card作りて了る。(※省略) 3月15日 7:20さむ。(田上生の卒論「3月15日の行事」なりし。) 加藤、大内、涙をためて辞表呈出と。 陳祚龍教授博士(われをも教授博士と誤解しをり)へ「クリスマスcard在中の論文、今天開封」とわび状かき、 『和田博士追悼禄』と『志異雑記』と2航空便をユに托す(160と55)。 数男に電話かけ、宏子に電話かけ「来い」といふ。雪にてと絶えし郵便一度に来る。池田温氏より『卒業生名簿』。わが「山麓」のせし『高原』。 八木新太郎あての往復ハガキにて「18日13:00Hotel New Otaniにて卒業生の別れの会す」と。「欠」の返事かく。 織田喜久子『響』来り、見れば「『果樹園』146~155受贈」と。(※省略) 南隅Bちゃんより「原稿ほぼ集った(和田夫人をのぞき)。還暦の祝する故、下阪せよ!」。 田上由美子生より「ジャジマも出る『あちら』も喜ぶ。鎌田出ず。当日先生のお言葉たまわりたし」と。 田上生にも電話「何を披露にいへばよきや。3月15日につき話さんか。良き子なることをいはんか。」といへば返答なし「思ひつけば電話せよ」といふ。 次に和田夫人に「Henneseyも一本よこせばゆるす。Bちゃんに電話せよ」の二つ云へば「子供進学できなかった」云々。「早くBちゃんに電話を」といひ切る。(※省略) 和田夫人、Bちゃんに電話し、もう書きある原稿送ることとした。還暦をしつこく云ふ故、山荘、Bちゃん、鍛冶、(佐々木)和田、野崎と好きの順云ふ。 「会ひたければいつでもゆく。赤いちゃんちゃんこなど迷信いや」と断言す。 ユ、出がけに「しつこいのはきらはれる」とJealousyを旨く云ふ(宏子に対して也)。詩2篇あり。「わたし」と「老人」と也。のせるところ考へあぐむ。生涯はじめて也。 他に広島に未載の「二十三年」あり。 尚子の説で「柏井で哄笑するは平田と我」とユ。西荻窪の待晨堂にゆき『その人は慰められん』、野辺地天馬『日日の光』を太田夫人の為、ユ買ひ来る。(※省略) 京、日光へskiiにゆき月曜帰るとユ。(※省略) 3月16日(日) (聖日、めぐみの日「日々是新」)。(※省略) 予定の如く聖餐式へといさみ出る。(※省略) 吉祥寺より教会までノロノロゆき前奏はじまりゐるにユ見えず、長島夫人来しあと前後を見しに人影なく、仕方なく階を登り受付の木村博士夫人にふときけば「入りをり」と。 いそぎ入り、丁度stove前の最後となる。(※省略) 讃美歌74,268,142,140みなむつかしきも一心に高らかに歌ひ、541の「ときわにたえせず」で声嗄れる。 了りて長島夫人を探しゐしに太田夫人現はる!長島夫人に「夫君は?」ときけば「skiiに野沢にゆきし」と。 「わが家の京も日光へゆきをり逢ふこ ともあらん」といひ、「一度お二人で」といひ、柳谷牧師に礼いひ、太田夫人のわれに話かくるを逃げれば長島夫人をり。 やがて花屋に見おきしエビネ もち、切符3枚買ひて乗車、阿佐谷駅にて2人と別れ佐伯にゆき本2冊買ふ。 ユに『男の操縦法』太田夫人に『キリスト教入門書』あはせて100円、 金なく負けさせしあとエビネ一株与へてすます。 佐伯「植える処なし」といふに「物干しに」といひ、平凡社のエビネの項見す。帰りてユにエビネ渡せ ば「田代継男2時ごろ来る」と電話ありしと。(※省略) 田代継男(※軍属派遣時の同僚)来る。われX老人の名を聞かんが為Henessyのみ尽くさせ、弓子さらにTorys出せしも遂に出ず。(夜、『果樹園』見て楊老人と記しあるを識る) Medan入院の我を見舞ひしとうそつく。「あられたばしる那須の篠原」とSiam猫のことしつこくいひ、菜畑正見を知らず『果樹園』忘れて帰る。 「平野正実」のこといひ、阿佐谷の先生(われ)と清水町の先生(井伏)と純粋及び難しといひしも、酔ひての世辞にて聞きにくければteleviのRugby見てゐし(日韓試合)。 独協に神保(※神保光太郎)の子入り、田代の子国学院の中文にて田中克己semiとなりたきも夫人いやがりてよこさず、とか。(田代の子、われの本を母より金もらひ集めゐる由) 帰りしあと入浴。池田温氏よりの封筒整理せしに手紙入りをり、聊斎志異の誤植示し、鴎外文庫に見にゆきしも性的興味のみと。 鴎外先生愛読し圏点つけられゐしを岡田氏云ひしと。再び(※池田温氏の)送別会を山田教授宅にてやらんと手紙かく。 これにてユに薬のまされ「夜中トボと同じくユを半分畳に押し出せし」と。睡眠感なく7:00まへさむ。 3月17日 『果樹園』そろへ、よべユに見せし『畿内見物』片付ける。きのふ寝がけまで気にせし鈴木俊氏の電話の本人(100~1000万)つひに来ず、 ユにきけば「心配いらず」と。(ユ、昨夜「民俗夫人に二人して画習はん」といひ、弓子「汝の墓地のこと葬式承知(※心配するな)」といふ。) (昨日来し克己献金、ユ「けふより100づつ2,100す」といふ)。 (『日本の詩歌』2来り、「三木露風カソリック吉祥寺協会にて葬儀執行、死因昭和39年76才で12月21日三鷹市下連雀郵便局前でtaxiにはねられ29日死去。 葬儀は40年1月18日、井之頭公園大盛寺の牟礼墓地に埋葬。戒名は穐雲院赤蛉露風居士」と松村緑かく)。 (昨日『現代詩人論』来り、大岡信の「田中克己」論少しかき足す)。 大岡信へ「また会ひたし」とヱハガキかき、出しにゆく途、十津川姫母子に遭ふ。「乳屋(※牛乳屋)に途きき来る途中」と。家へ案内しレース呉る。 野崎そののこと云ひ、送りて自動車まで案内す。別れて佐伯へゆき本5,900、長雪隠まつ間に見つけ借用証かく。 『日本のきもの』、『日本社会とキリスト教』、田中薫『台湾の山と蕃人(3500)』、鳥山喜一『勃海史上の諸問題(2200)』、『結婚(900)』、『浮気の味覚』、『簡明歳時記』と也。 「いつでも払ひはよし」と。(3月17日付借用証かく)。和田賀代嫗より電話。(※省略) 「山田先生まで国文学研究室懇談会につき出欠を18日夕方迄にせよ」と。山田氏に電話し「出」といひ、序でに池田温氏のこといへば「4月10日前後にせよ」と。 復活祭と入学式の間なれば、その旨池田氏にかき「日を選べ」とかく。岩生博士に電話すれば「伊豆へゆき不明」と奥様。「大喜びの意お伝へあれ」といふ。 14:00まちこがれ山野井生、坂生と来る(阿南生、「恥かしい」とて来ず)。録音してくれたあと「本物の声より若い」と2人いひ、坂生ゐたたまれずないて去る。15:30 山野井生に石川弘義訳『結婚入門』贈る。(※省略) 夕食出来しとて山野井生、家に電話すれば姉出「鎌倉の件云々」 20:30出るゆゑ送りかたがたタバコ買ひ出る。風速18mと。(※省略) 入浴せず床敷き、弓子の写真1枚加へしを枕頭に置き20:30眠る。(枕頭の袋に弓子の写真加はる)。 3月18日 6:45さむ。新聞まだ来あらず。昨日日光!のskiiあり帰りおそくまでtelevi見ゐし京「いま何時」ときく。(※省略) 岩生成一博士に「ありがたし。いただきにあがる」とヱハガキかく。9:30夫婦して斎藤dr.。 わりあひすいてをりdr.、われとユにちゃんぽんに質問せしあと虎の巻出し薬かへたまふ。われ「神さまの次に謝しまいらす」といひ、ユ薬とれば1週間分805。 二人して歩き200もちて別れ、本位田官舎に訪ねしに戸開かずbell鳴るも応答なし。やむなく近所にてFrench toast食べ(120.このごろ何もかも旨し)、 引返せども、もとのまま。名刺に「いかがにや」と12:26の時間かき郵便入れに投げ入れ帰宅。焼きそば食ひ薬のみ芋食ひ、田中久美子より「とくおば骨折った。見舞出せ」と。 肥下みつる夫人「20日過ぎ発掘の手伝やめし。里子とともに上京する。都合しらせ」。(※省略) とく叔母に「御入院、久美子よりきいた。神に祈りをる」と速達。肥下夫人には「3月30日以后ならずっとあいてゐる」と速達。 すぐ駅前に出しにゆく。佐伯に寄り中国関係の本3冊(東洋文庫)を榎並生のためとりよせたのみ、帰る(「阿佐谷の先生」の顔したり)。 山本の書目来りをり。(※省略)『北国帯』に「中村三千夫(※渋谷中村書店)詩店主死にし」と出をり。 トトカマ15:00まで待ちしも来ず。16:00柏井へ電話し「来い」とて10円もちて歩みゆけば数男dr.ひとりをり、 「岡田翁の3周忌28日やる。時間未定、仏寺にて」と。われ(国分節子に会ひたきゆゑ)「出席」といふ(文芸の判定の日にて17:00にはすまん)。 懐にせし菓子おき宏子に会はんとせしに風をくらひてゐず。折しもユより電話「飯島生まつ」と。(※省略) 帰れば飯島生をり(※省略)、カマトトの反対なるを知りトトカマと渾名す。(※省略) 21:20去る。(※省略) 飯島生に関西訛いはれ柿・牡蠣を字引ひきて教へし。老了!20日の卒業式欠席を前田部長に伝へんと喜々として肯ふ。 京、炬燵に来り眠る(21:30)、夕刊見れば「羽田明教養部長が・・・病気を理由に辞任した」とあり。 数男、永々と話せし、われに(※終戦時に)中国永住をすすめしは「京大卒、トルコ語、夫妻のねやに隣りて眠れざりしとありし人物」、 帰りて忘れゐしも、呉れし『中華分省地図』の署名にて「佐藤誠」と判明す。 3月19日 入浴して23:00眠りにつき8:00めざむ。(昨日けふにて足に電気ゴタツの火傷気づき、メンソレつけ、豆炭行火とかへることとす)。 快く、朝の祈りす。李方子(垠殿下の妃、梨本宮の王女)の伝『動乱の中の王妃』ユにつづきよみ了り、朝食し、花に肥料かく。 李方子の系図つくりをれば〒。「4月5日16:30中村屋4階にてclass会す」と加藤・浅賀より。「出」の返事かく。 10:00米山生来り、(※省略) 次に村山生来り、(※省略) ついで小武守生来り吉備団子呉る。(※省略) 定期(5,800)買ひ、3生と新宿まで同行、乗りし車に荒本・池田2生をり、成城大学院の不認可をしらず。(※省略) 成城堂にて『世界地図』弓子へともらひ、3生をわが研究室に案内すれば、海江田副手も来り、荷造り呉る。 17:00Madam Changといふにゆけば、齋藤・池田・大藤・福田・坂本浩・高田とそろひ、山田主任の挨拶に齋藤清衛博士の乾杯。 結局福田君の転任を祝し、海江田のおめでたを祝す。われ春哀行歌うたひ、栗山の来し直後、辞去。 駅前にて『獄中記(250)』、たけしまゆり(80)買ひて帰宅。(※省略) 夜、本位田より電話「循環系の病気。丸、関口どうしてゐるか。中野、山本は両悪老人」と。同感して安心す。 3月20日 7:00さむ。快し。朝刊に「仰げば尊しわが師の恩、教の庭にもはやいくとせ、おもへばいとと(疾)しこの年月」とあり。 これまで「いくとし」と歌ひゐし也。 但しこの歌は『蛍の光』につぎ(明治17年)出しもの。『蛍の光(明治14年)』とともに追放されつつあり」と。(※省略) 弓子の買ひ来し自動秤にて41k!(※省略) 10:00吉村生来り『易入門』もつ。村松生来り、(※省略)昼食して13:30ひと先づすませ駅近くまで送り、 佐伯にて『文選索引』を『西洋占星術(150)』、『エチケット(70)』、『禁じられたパズル(120)』と引きかへ帰宅。 14:00より「恐怖の報酬」なる映画を見る。見るもの食ふものみな美し(たけしまゆり植う)。 田中順三郎より横浜への転居通知。(※省略) 京、遊びより帰り来りしにplayerに「楊貴妃」も一度かけてもらふ。 radioを兼ねをりにより、ふと気付き文春の(※文藝春秋社からもらった)radioをきけば「役に立たず」と。昭和の唄きかんとradio借る。(※省略) 3月21日 春分の日。7:00さむ。多忙多恵の一日也。8:30出て足の赴くままに赤川氏訪れしも戸を閉めをり。丸(※丸三郎)にゆけば夫人出て「ようこそ」と。 山草野草みななくなりをり、やがて丸起き来り、「次男金沢大学講師となりし」「依頼者なし」「山本治雄にても言ひてみん」といひ、出て駅。 練馬行にのり野方駅南口下車。途方にくれ、あけゐし店でcoffeeのみ、 道とへば「練馬行にのれ!」と。ややして来りしに乗り、練馬駅-桜台(20)。松本善海邸にゆけば、お手伝さん出て目を丸くす。 (あとにて夫人よりきけば「文士」と思ひしと也)。善海ややよくなりをり「主はほむべきかな」。坊や里帰りしをり、これにキリスト教の入門書わたす。 「もってゐればいいのでせう」と也。再開を約して雨ふりをりしも傘あれば困らず。夫人坊やに途案内され、桜台南より荻窪行にのる。 「ボヤボヤ立ってゐると危し」と。ふと気付き阿佐谷北で下車。放尿後、柏井へゆけば光一もゐて4人。にぎりめし食はさる(善海邸ではカステラ2ケ)。 サッカー見て笑ひに笑ひ前半1-0と勝ち(対メキシコ)ゐるところにて出る(「あす歯で来よ」と也)。 途中、墓地近くの古本屋のぞき、ついでの古本屋の50円の山にて『レミゼラブル1』見つけ喜びて帰宅(残金10円)。 池田温君「もう(※送別)会したくなし」と。主婦と生活社より(3,000-300)「旅情」の礼として呉れ、われを職業「詩人」とす。 千川義雄より「再雇用された」と。ユに促され矢野に電話すれば「大危機」と。 われ幹事して日曜に集まる(矢野、関口、丸、本位田、倭、西川)。会の日未定のままにて関口に電話すれば「汝の電話のあと会ひたくなったが」 云々。 丸のこと、本位田のこといひ、われ幹事して本位田邸に集まることとす。 17:00静岡より電話あり「会ひたし」と。「会ふ要なし」といふ。あひまにcard整理してクタクタとなる。 成城より速達「23、25両日9:00出勤を」と。『大世界史』来る。ユ入浴われついで入浴しcard止め、千川稚泉に「況丁の咲くや庭木の蔭ながら」とかく。 20:34、card了る!!大藤から「大学院の概要2~3枚かけ。23日にわたせ」と。ねぼけてわからず。 3月22日 6:30覚め、8:00出て成城の会計課にゆけば「課長未出勤」と待たさる。ふと気づきて教務にゆけば「Album講師控室」と。 控室にゆけばなく、3人の女の子と笑ひてのち「先生!」と飯島生。会計にゆきサラリー(手取り8万)もらひてのち成城堂あけさせ、 『筑摩 世界の歴史6』にsignして与ふ。(姉よりのタバコ呉れし)。南新宿で下車。東豊島書局にゆきしにまだあかず。 新宿駅西口上あるきbusにて天沼車庫(途中、あやしげな喫茶店にtoiletかり60円のCaféのむ)。 柏井歯科へゆき「26日に歯なほしにゆく」こととなる。尚子俊子の会へと出てゆきしあとすぐ出、電話すれば「事なし」とユ。 佐伯に5,900払ひこの間の清算して(1,000-270)といふに『現代人とキリスト教』ほか2冊買ふ。昼食すませ(12:00) 『筑摩 世界の歴史』探せしもわからず。 (※省略) 14:00すぎ田上博士に電話し3月15日につき旨く話すといふ。(※省略) 夕刊に中ソ「珍宝島(ダマンスキー島)」での3.15の衝突の写真のす。 和田嫗より電話「文子が美沙子あてに訴訟起し100万円要求す。良風美俗の破壊者として。呼出は5月」と。 3月23日(日) 6:00ユを起こす。茶わかし飲みユsoupのまし、8:00まへ家を出、成城につけば既に2~3人来をり。問題の検査すみ、ついで模範解答例。 成城堂休み。飯島生に遭ふ。深見義一博士と名刺交換す。一橋大名誉教授経済博士と! 10:30より斎藤尚武君と組んで監督に出しも「先生お体宜しくなき故やすめ」と。肯ひて山口女史と出版の相談す。「ただです」と也し。 12:00に20分前となり、ゆきて斎藤君と代る。けふ答案の取扱に不都合ありし(2人)とて大騒ぎなりし様なり。 昼食うなぎ、ちらし夕食。(※省略) いつもの如く早くすみ、ユに電話かけ「帰れ」とのことに帰らんとすれば、伊藤和子副手追ひ来り、 「永々お世話になり物贈った」と。われ感謝の祈す。(伊藤生amenをいはず)。 帰ればもはや贈物ついてをり、電話して礼いへば母と出られ「返しの品いづれ和子にいはす」と也。筑摩より『西太后』12,600入金したと。 卒業albumもち帰り見てゐる中、坂生に電話「あす来よ。おばさまと」といへばきかず。 「ボーリングしよう」といへば「おおうれし」と来ることとなる!これわが友人也。(※省略) 3月24日 2時さめ上厠。7:00まへまた覚む。伊藤和子へ礼状。白鳥芳郎君へ『上智史学』の礼状かき京にもちゆかし、ハガキ5枚買ひに出る。(※省略) 「スマトラ記」10枚(200字詰)とし、訂正足しユをして2,500出させ、入れにゆかしむ。仇討ちにユ「好きな人の」といひて某女史のハガキわたす。 すぐ「南方考へるのも思ひ出すさへいや」とかく。 待てどくらせど来ぬゆゑ午食くひてのち電話かけ、坂生にゆく。途わからず番地ユにきけば新番号。 電話帳見れば古い番地。また電話し坂生待ち、来ぬに電話すれば叔母上芳子「来る」と。15分泰子来て途案内するに、芳子殿もお越し。 「ギンギンギラギラ」歌って泣きたまふにわれも暗涙催し、お礼に手をとりて拭ひ、山野井生に電話すれば「留守しゐる」と。 「すぐゆく」といひ、(※省略)山野井家。(※省略) busにのり鶯谷駅。豊田家へ電話し「今まいる」といひ池袋駅。(※省略) 豊田博士帰宅。男同士の話に移りしのち暇告げ、母子の見送り受け駅。(※省略) 22:00買って来し納豆で叱られ日記つけず眠る。(※省略) 3月25日 日々是好日。9:00に10分前に学校へつく。成城堂休み。(※省略) 尾上氏来をり、問題見る。この試験ふしぎに各科とも訂正なし。 成城堂また見にゆき帰り来れば車出るところとて乗りて高校、2時間茫然として待つ。(※省略) すみて慎重に枚数数へて呈出。またバタバタに乗りユのもたせし昼食くひ、あとにて採点室にありしウドン食へば尾上委員長のなりし。 (※省略) 出て佐伯。『秘境の仏たち』、『高山植物』、『次の一手』、『占いの科学』をわれのために買ひ、有り金5円となり、榎並生のため850の本借る。 その他に注文『地名語源字典』、『東方見聞記』、また納豆100円買って叱らる。(※省略) 3月26日 7:30さむ。快し。散髪にゆきしゃべりちらし、早々すまし、豊田智恵子夫人に電話すれば「11:00来る」と。(※省略) 12:15阿佐谷駅まで送り柏井歯科。「尚子、宝塚みにゆきし」と。数男ゆで卵とcheezeとを賜ひ、言葉改めて「恵の就職にむりするな」と。 歯、上すみ下はまたとて出て平田に遭ひ、墓の古本屋で服飾(中国の)探せばなく、あり金70にて『アサヒ芸能』!買はさる。 帰りて(※省略)、ユの昨日もらひ来し苔植わり、桜葉つぼみもつ。(※省略) 大東塾より「創立30周年記念祭を4月3日18:00大東塾にて」と。ふと『毎日年鑑人名録(昭和7年)』にて「子爵海江田幸吉、京大仏法科、侍従…」といふを見つけ 海江田家に3度電話せしに老女の声にて「維新の時の功」と「波留美君によろしく」といひて切る。 17:00東京駅より佐々木画伯「近々はじめの『骨』集まらう」と也。「ユの予言的中す」とて帰り来り、大いに笑ひ「咲耶のスジガキ」といふ。 (※省略) われよべ火傷せしらしく繃帯してもらふ。 3月27日 6:00ごろさめ茶わかす。本多さん来て前の溝なほす。9:30終了。その前佐伯にゆき850の借金払ひ、『江戸の刑罰(100)』、『京都文学散歩(50)』買ひ千円なくなる。 午食くひ200もち出かけbusにて蚕糸試験場で下車。歩いて坂宅。坂生出で来り「お上がり」といひ、上りてとりちらかしをり。 toiletに2度ゆき出かける坂生と同道、busにのり地下鉄ギンザ、阿南生と1人をり、60のcoffeeのまんとせしに満員。 不二家へゆき、120のice coffeeのみ3生と別れ、有楽町より歩きて(※東京建物)西川英夫を訪ぬ。大阪支店長もをり。(※省略) 忙しとて出て家に電話すれば京出でし故「すぐ帰る」といひ、直行。(※省略)帰宅。『サンデー毎日』買ふ。(※省略) 夜、出来心にて花料1,000もち、柏井へゆく。(電話にて数男、節子を呼びくれし)。子をつれをり『大和文学』を破らんとす。 はふはふ帰り途につき、本多家をすりぬけて帰宅。ユ起きをり「床しけ」といふ。恵多き日也。(※省略) 3月28日 6:00さめ8:00柏井尚子に電話し「法事にゆけず」といへば「それでよし」と。8:30出て成城大学。研究室あけさせ『朝鮮の葬儀』包み「3月の行事」の大要見る。 あすの田上生の卒論披露の為也。9:50になり誰も来ざるに日程表見れば「文芸の査定はあすにて、けふは短大」と。富永次郎氏ら来るに手をあげて逃げ、 教務にゆき「明日の会議欠席」をいふ。成城堂で道きき、礼に『字典』買ひしあとbus2回のりつぎ深大寺につき、柏屋訊ねて菓子買ひ、着きしは11:10。 寒き中ふるへてをれば12:30に上人はじめ一行つき18名となる。上人と向ひてわれ、隣は今井老人、岡田老人はすじ向ひ。次に数男夫婦向ひあふ。 われ半ば食ひ了へし食事はこばせ、また続けて食べ、ソバ来ぬ中、席を立つ(数男の挨拶中々よかりし也)。busにて吉祥寺。国鉄にて帰宅せし。 頼さんよりマキヤ印刷の仕事する人見つかったとの事に、すぐマキヤ印刷に電話すれば「ヨボヨボのヂイサマ云々」電話切れしあと15:30、 社長不明瞭な電話あり。福地邦樹君へ「先生よばはりは止せ」とハガキ。くちなし(ガージニア)ユ、買ひ来る(100)。 (けふ赤川氏より電話「用あるなら日曜に」とありしと)。米沢氏来り、たくみにだまされ頼教授の手紙わたす。カステラいただく。邪気なき浜松産なり。 (トボに電話せしに「ヂイサン今日ワ」とのみ)。 3月29日 春寒この2日つづく。4:00すぎさめ海江田波留美に挨拶かく。茶わかし火をおこしEisenhauer死せしを聞く。 透きとほり遠き空へとゆけるひとわれもしかりと思ひつつをり。 躁甚しく11:00 morning着て赤坂Hotel NEW JAPANへゆき、麝島生と会ふのを喜び(※讃美歌)66番歌ふうちに13:30。 やっと宴始まる。(※田上由美子氏結婚式 省略)中座し、忘れ物とりにもゆかず、まっすぐに帰宅。 高坂翁より「父の側面ゆゑのせず云々」。岩生博士より『台湾大学紀要』2-1来りをるを喜ぶ。 ユ、「あす太田夫人に会ふ」とてpermaに出てゆく。(麝島生「16日来訪」を約せし)。岩生博士に電話せしに御不在、嬢に「よろしく」と願ひをく。 祈りかつうろうろそわそわとするわがさがはつひのさだめと妻子よ知れや。 都留生とわが狂へるを見舞ひし子いとけなきまま年たちにけり。 ウェディングケーキもとらずメモ忘れ狂ひしままに立ち去りにけり。 おちつきの場所と帰りしユキの下すなはち去りぬパーマかけんと。 あるは泣きあるは笑まひし五十年わがみじかき日あといく十日。 あをみとりそを忘れゐし軍医殿いまは亡き身となりたまひつる。 わがユミの縁定めむと亡き友の妻のユいましも心なやます。 わが神が選ばずままに月日たちわがユミの目は曇りたらずや。 ちちのみの父の酒乱をうたひしと父の友すら怒りますらし。 ひたすらの事をうたへとますらをのわれにのらすは何のまがごと。 小武守京子夫人へ「重子生卒業を祝ふ」とハガキ。小野井秀子生に電話すれば「ゆっくり待つ」と也。19:00赤川氏へ電話「あす伺ふ」といふ。 統夫よりユに「あす午后来る」と。21:00麝島生「ごきぶん悪かったか。フラフラと歩き玉ひし」と電話。「悪かったが歩き方はいつものくせ」と答ふ。 「16日来よ」を再びいふ。 3月30日(日) 6:00雨。9:30赤川氏に電話。「雨にてゆけず。問題解決」と。居眠り時々し12:00。 「昭森社社主森谷均氏直腸ガンで死す、71才」と。わが服部(※服部正己)との訳稿(※昭和23年『ザイスの学徒(ノヴァーリス)』)そのままとなりし也。 依田義賢の「小僧っ子のはなし」出てをり。ユ、12:00すぎ雨中帰り来る。「太田夫人には会へざりし」と也。 13:30和田統夫来り、「すぐ帰る」とのことに問へば「美沙子待たせをり」と。「共に来よ」といひ、ユと話し「登記所より家の登記書とる」こととなる。 岩生博士にとりあへず礼状かく。高坂翁に280の切手入りのわび状かく。 16:00村田幸三郎より電話「むすこ日大芸術科映画専攻へ入った。住友商事に知合なきや云々」「なし」と答へれば電話きうる。(※省略) 不二歌道会より「寄附申込め」と。「3千円」とす。三鷹市武藤夫人より親切なるハガキ来あり。18:00眠くて耐らず(けさ少しむし也も)。 3月31日 曇。6:00まへ覚め湯わかし、火おこす法知らず、たま火す。 『エチケット』を前田光子に贈らんとす。草木の芽ふく。10:00にユと阿佐谷駅で会ふといひ、〒3千円を不二歌道会へ送り、佐伯へ寄れば『唐代伝奇集2冊(720)』来をり。 ユ10:00かっきりに来り、新宿で喫茶し、霞が関ビルへ11:10つけば前田会長来られをり「やあ」と挨拶し、 ユを引合せし処へ前田光子生、前田夫人とお越し。(※省略) 昼食ご馳走となる。(※省略) 途中写真とり御夫妻とりして20枚とり了へ、 ユと別れて柏井歯科。歯型とられてすむ。帰宅すれば墓地前の店にて『らくがき文化史(150)』買ふ。ユをらず船越の長女「和田嫗来し。あとにて再来」と。 向ひに預りし書留小包どしどし叩きて渡さる。本多夫人にタバコ啣へしまま挨拶せしむくひならむ。 角川書店へ電話すれば「鈴木序夫君不在」、営業の齋藤氏出て「5部送る。多謝」と也し。 ユに云はすれば、あすわれ「李白」やる気ありと。不審。 和田嫗来り「滝本の愛人の末弟、見込ありさう。いまは千葉市原の病院のムツミに付添ふ。その中来る」と。18:40帰りゆく。 先生と呼べば答へずゐたまひし師をば思ふもその年となり(朔太郎2首)。 先生より永く生きむと若き日に思はざりしを永く生きたり。 (けふ野崎その生来ると思ひしは全く誤りなりしとわかる。記憶、耳覚ともに悪し。) 20:00前田光子生へ礼状。21:30西川より電話「本位田退官。わけしらべよ」と。やむなく電話すれば本人出て「公証人となる。皆呼ぶ」と也! 西川にすぐそれを告ぐ。 4月1日 2:00歯痛のためさめ、また眠り、茶わかし、いつもの如くし、7:00すぎユを起こす。すぐ仕度して斎藤dr.。高貴薬を用ひたまひ(805)、ユと別れて成城。 (新宿でhot-cake100食ふ)。教務の児玉女史に「新港文書」の複写たのむ。 『ジンギスカ汗伝(190)』買ひ、神奈川県地図(100)買ひして躁なること明らかなり。柏井へ草餅運ぶ(100)。痛み止めの薬くれ「あさって来よ」と。 ユに電話すれば帰宅しをり、竹森先生Heiderbrgの近くゐてGoetheのWaimar邸を訪はれし話かき玉ふ。 喜多村生より電話「狩野和加子、新婚式に大藤、鎌田出る」由なり。 (けさの新聞に「畑山(※畑山博)、石神井高校長退職」と見ゆ)。ユ、使ひに出しまに肥下夫人より電話「阿佐谷駅南口にあり」と。 喜びて迎へにゆき、里子嬢にいろいろ話す。就寝前、歯また痛み止めの薬のむ。 4月2日 6:00さめ、「翠紅園の光ちゃん(※結婚前の肥下恒夫夫人)」を云ひし丸のこと山本治雄に「たのむ」といふ手紙かく。ユ6:30さむ。 里子ちゃん○○君との結婚すすむ(※思ひ違ひ:里子氏〒より)「国は高松の独りっ子、住友重役の子で朗らか」と。9:52 肥下母子、新所沢へと出てゆく。 写真とり来る(408)。堀内太平より電話ありしをユことわる。夫婦ひるねして宮崎より大野由美のヱハガキ。海江田波留美「法務大臣をしたりか」。 小高根二郎「チクマの小高氏注目してゐる云々」。17:00米山生より「あす午后来る」と。18:30太田夫人より「土日に都立大の人」と。 けふ午前午后と2度昼ねす。前田光子生に電話すれば母君出て「5日すぎ来る」と。弓子きれいな顔して帰り来る。 麝島生より電話「シャボテン券2枚 16日に持って来る」と。アチャコ伝に長沖一氏出て来て元気なり。 4月3日 長沖一氏へハガキかく処へ角川より5冊来る。往復最短距離を歩き柏井歯科。茶2斤(200)とり、帰れば伊藤雅子「出版社につとめた」(※省略) (肥下夫人より電話あり百済を高麗といひなほす。けふ夜、再泊の様子也)。 11:00すぎ栗山博士より「蓮の詩」どこにあるやと。「陶淵明」と答へ、蓮は恋といふ。すぐ電話し宋の「周敦頤の愛蓮説」「恋は君子」と訂正す。 うつぎ咲き良き庭となり故友らの手紙もやすもむかしおもひて。 筆とればうたとなりゐるさが授けたる父をばおもふ春さりにけり。 (※省略) ユ、税務署に5万7千5百円収めしと。 けんげうも咲けりとわれがしあはせを語ってゐるも妻にかしづく! 山つつじふくらむも見つわが庭の幸せここに極みて[そ]すれ。 13:30米山マチ子生来る。佐伯へつれゆき『庚申信仰の研究』『百鬼夜行』ゼミにとたのみ、もちゆかすこととす。 (※省略) 何事もさきまはりしていふくせのわれたしなめしこの子かなしも。20:00肥下母子来ずとて扉閉める。 4月4日 6:00さめ快し。周敦頤調べ直し、山田君に『現代の抒情』もってゆく気となる。 わが庭にもろもろの花咲き出づる時とはなりぬ朝の光に(昨日百合見つけし)。 12使徒10戒、12月、12単衣、12ローソク、12部族を思ひつく。マチ子のため也。8:30出れば丁度よき時刻となり(「新港文書」の複写に2,800払ふ)、 3人の面接。1人がDの小正月やりし竹内祥子にて「3人とも入学可」となり、昼食にちらし食べて帰宅。 (※省略) (佐伯へゆき「新港文書」の製本たのむ。) (「小高根二郎君来泊の予定なしと日レ(※東レ)荘より電話ありし」由)。(※省略) 4月5日 6:00さむ。けげんは怪訝なることを知る。9:20咲耶来る。10:00葉先生来る。母は京都人と。12:30昼食して帰りゆく。 太田弘毅君、母上と来らる。14:00帰りゆきしあとすぐ仕度して中村屋に16:20着けば誰もゐず、定刻にて大藤、池辺2氏来り、 教務課長の定まりし話をし、(※省略) 浅賀・加藤(中沢)の2監事と鎌田女史と来り、八重樫(離婚と)、四條と2人つれ立ちて来る。 八重樫に「遊びに来よ」と名刺わたす。鈴木正義来り滔々とcamera-manの意気を述ぶ。吉成風邪にて来られず村田謹一郎、今井富士雄ともに遅れて来る。 われ19:30別れを告げしに大藤氏「会費立替へん」と!(※省略) けふ渡辺氏「李白」のつづきもち来らる。少し足さんと試み、宮崎智慧氏を21:00まで夫婦して待つ。(※省略) 4月6日(日) 復活祭。太田夫人来りをり、長島夫妻誘ひて来ていただく。前田光子より電話「けふ写真来る」。 ついで来りし故、長島夫妻帰りしあと鎌田女史に電話すれば「古谷兄弟十津川へゆくとて前田光子にたのみし也。昨日の会費千円は大藤氏立替へし」 と。(※省略) 母に1万円長寿祝とす。弓子友達の婚礼へ帰り来りきれい也。福地邦樹君よりハガキ。 快便すませ17:35阿佐谷駅ホームへ上れば母、咲耶をり、四谷まで電車。「てっぱん焼あしたば」といふへ行く。 林叔父夫妻、としを、義一夫妻、千草来りをり、建、大、われらにて11人となり盛んに歌うたふ。 (※三遊亭?)歌奴といふが来てをり(※西島大を)「西島先生」といふ。21:00すみ、生田組と天沼組とに分れ、飲んべえ4人残す。22:00 帰宅。 (※省略) けふ、諏訪(※娘婿)より「11日上京」の電話あり。復活祭の恵なり。 4月7日 6:00さめ、(※省略) われまた詩かく。咲耶14時、建15時帰ると也。14:00李錦順生来り、双六呉る。「朝鮮の年中行事」に付け加へるものなしと! これを買へといひ『李方子』与ふ。時間割来り、月火木にて月曜1時間あくのみにてよし!美紀子より電話「弓子この間ゆきし」と。 佐伯へ『展望』もちゆき雑誌とかへ来る。『正倉院御物図録(120)』買ふ。不鮮明なり。(※省略) 木瓜咲き、ムラサキ大根花盛りなり。(※省略) 宮崎女史ことわりなくして今日も不来。坂芳子氏の京都よりのはくせんこう8ケ食ふ。旨し。 4月8日 6:00さめ8:00すぎ出て千駄谷より斎藤dr.。薬かへ玉ふ。渋谷行のbusに乗り岩生博士を訪れれば「前橋へゆき玉ひし、法政」と。新港文書返却。 Whisky置きて出、中野行のbusにのる。ユ、浅野dr.に前田光子の写真もちゆく。(※省略) 15:30昼寐より目さませば滝本生と『果樹園158』と来たり。神戸ルーテル教会の某氏より「詩集の出版社見つけよ」と。ことわりの手紙かく。 滝本、隣家へ来るつもりらし。送り出し『現代の抒情』買はせ、帰り来れば宮崎女史より電話「雨降り出せしゆゑ明日来る」と。 あとにて見え歌の夫婦となるちかひす。柿崎生に電話すれば「12日の入学式に来、17日より聴講生となる」と。 ね入らんとする処へ浅野夫人より電話「せの高き子を」と也。 4月9日 6:00さめ「李白」ちょっとやる。ユ、サルビアを植う。早昼食ひ12:45成城堂にて『ポケット日本地図・世界地図』買ひ(靴ベラ100)、 (※省略) 柏井歯科。茶代200渡す。尚子ゐず「船越宅の案件むづかしからん」といふ。可笑。(※省略) 集英社より『日本の名詩』7版刊行と。夜、「李白」ちょっとやり疲る。北落師門をFomalhaut (南うお座α)と注つけるに数書を検する也。 4月10日 6:00さめる。オモト、黄菊、アセビ、苔、沈丁花、チューリップ、[ポットム]、山吹、レンギョウ、サルビア、榊、ツツジ、庭水仙、南天、前庭にあり。 ユ、ダッちゃんへとゆく。桜草の赤と黄とかへる為也。上村肇『みづうみ』来る。10:00マチ子来る。15:00送り出し17日semi修了後下田行承知せしむ。 内庭に木瓜、ムラサキ大根、桜草、三色菫、雪ヤナギ咲き、カヘデ、山椒芽吹く。 われたのしみづうみのごとわき来るうたを書きつつ謝しまつりをり。 ユの提案にて田中久子に下田行すすめしに「庄田生さそってみる!」と。澄19:30来り、茶漬くふ。「明日、大に会ふ」由也。 4月11日 よべ0:00眠り5:00さむ。「李白」1篇訳しねそべりをれば10:00澄起き、母よりの電話に「すぐ行く」といふ。「都市の論理」のこと長々と話す。 「村上新太郎氏死去」と薔薇短歌会より。「青木大乗展15日-20日高島屋で」と。(※省略) 肥下みつる氏より「岡田邸に2泊、全田叔母、牧師様をまた呼ぶつもり」と。佐々木邦彦氏よりの便りに1日の骨の会のこといはず。 14:00大、澄とともに来り、見まはして帰る。肥下夫人へ「里子を夏によこせ」とかく。 平凡社渡辺春輔氏に「19日原稿そろへる」といふ。服部教授、[岩橋]夫人、松村衣栄(『薔薇』主宰)の諸氏へ歌。 もろもろのわが罪のうちたかぶりをとむるすべをしわれはたづぬる。 4月12日 よべ22:00眠り6:00起く。入学式にゆきしに佐伯の本、来をり図書館へもちゆき第一に着席す。すみて『錦とギロの話』買ひて帰宅。 ユ、弓子とすぐ出てゆく。楳垣実教授より「1年半の入院中に奥様亡くなられし」と。昼ねせんとせし処へ統夫来り、茶と角砂糖とおきゆく。 弓子、ユのあと帰り来りきげんよし。われ夕食2度す。(※省略) 4月13日(日) ユ礼拝にゆき、われゆかず。散髪500となる。(※省略) 『Biblia』来り、コン(※天理図書館八木女史)20年勤続をほめられし。 眞柱追悼に金井寅之助、この髭のこといふ。可笑! わが天にのぼりし時にわが髭のことを語らむ人ありやなし。 ユ買物にゆき相手の父母に町で会ひしと。(「李白」少しやり疲れ佐伯へゆき『ヱ゛トナム史(30)』買ふ。岡本氏といふ何でも書く男なり)。 『大世界史23』来る。けふ5月の陽気にて、田中久子・米山マチ子2生に下田行の誘ひとりけさんとす。米山喜び、田中久子は鎌倉行にて不在。 母上出られ「邪魔」といへば笑はる。麝島生に「あす来よ」といふ。弓子もけふ鎌倉の三井寮へとゆく。 4月14日 晴。9:00まで「李白」やりへとへととなり、大のところへ散歩にゆけば母来るところと。 帰りて昼食すませし処へ滝本生来る。折しも電話かかり麝島生地下鉄より。迎へにゆき、イタリアの写真見せられPerugia(※ペルージャ)の1枚もらふ。 わがひいきにして諸師よりも愛されゐる也。(藤田久一より電話「(※学生照会、省略)」)「2、3日まて」といふ。(※省略) 麝島生「20日、都留生のHimalaya行の別れに来るに会ふを期待す」と也。 4月15日 曇。10:00前方を大藤教授歩くを見る。新任に大山教務部長、学生部長も変る。 予算成立前とて2→3年の進級早々にすみ、浅沼教授、黒崎助教授を承認して12:30了る。 外へ出てspagetti食ひ(150)、高島屋の青木大乗喜寿展初日を見る。母(モト)嬢をり、やつれをり。juice(50)のみ、東西線にて中野まで来る(50)。 百瀬弘氏より『西学東漸記』来をり、すぐ礼状かく。池田温氏より在京中の礼状。藤井通雄氏「今宮高校長となりし」と。(※省略) (けふ成城堂にて土井正興『イエスキリスト(230)』買ふ。) 「李白」けふはやらざるもすみさう也。(※省略) 保田『解釈と鑑賞』3月号にわが逮捕されしをかく。(※「回想日本浪曼派:ひとつの文学時代  連載23」) 4月16日 雨。6:00起き藤井通雄へハガキ。浅野建夫より電話「夫人、画を習ひをり、昨日留守した。今夜電話す」と。10:00出て千駄ヶ谷より斎藤dr.。 薬のみもらふ(805)。歩きて新宿に出、帰宅。『N.F.全集(※ノンフィクション全集)』3版3,000部とチクマより。(※省略) 「李白」あと3首となる。 4月17日 雪!「李白」やる。浅野夫人「あす来る」由。11:00出てすし買ひて登校(130)。中国文学史少く40~50人。ゼミ葉、李、米山、深谷、吉村の5人。 吉田生、別れに来るかと思ひしに来ず、村松、榎並休みをり。15:30すまし、米山生としるこ食ひて帰る。 岩生先生より「礼これにてよし」との意のハガキ。京、終日在宅せしらし。昨夜より歯痛む。岩生博士に礼状かく。 楳垣実教授に弔み状かく。夜、松村氏に電話すれば「『万暦武功録』よむ。今週より毎土曜日10:30より」と也。吉田美智子「月曜に別れに来る」 と也。 4月18日 午前中「李白」の「上雲楽」にてすみ、渡辺氏に電話すれば「夕方来る」と。浅野夫人駅より電話かけ来り迎へにゆく。(※省略) 鈴木治氏より『中国后妃伝』見たしと。チクマに電話すれば「在庫あり」と「著者買上として5冊送れ」といひ、鈴木氏に「贈る」といふ。 (※省略) 柏井へ歯直しにゆき(ぬかず)茶のみ、母の方へゆき見しに、あかず帰り来れば渡辺氏来をり、155pまでの初校見す。 つづきわたし「李白」の伝記かきてすますこととす。「今スト中」と、帰りゆく。(※省略) (佐伯に愚本もちゆき『ルイ14世(75)』、『ローマ法(75)』、『アジアの十字路(50)』とかへんとす)。 (柏井で「歯を外すな」と説教さる)。ユ、花井夫人へ電話「近々ゆく」と。 4月19日 晴。9:00出て東洋文庫へゆく。時間早ければ石田君のぞきしにゐず。神田君来り、茶入れ賜ふ。「学部長代行」との由。 ついで阿南、岡本、田川氏とで『万暦武功録』われよまさる。12:00すみしところへ松村氏来る。われ村松瞳を気にしてすぐ帰りしに電話かかり「永福町にをり」と。 (※省略)「春夫先生の6回忌を5月7日(水)12:00~15:00般若苑にて」と。「出席」の返事すむ。 村松生来り、池田弥三郎の『男と女の民俗学』返し、ゼミに漢文教ふ。出来わるく無邪気なり。 (東洋文庫の掲示に「青山定雄博士の令息死去」とかかれあり、ユ新聞にてガス中毒と見し「大学講師31才」なり) (※省略) (けふ駒込で菊池眞一博士に会ひ、亘理とまちがへて恥かく「曙町に住む」と也)。 4月20日(日) 夫婦そろって礼拝にゆく。(われ4:00に覚め、茶わかし6:00にsoupこさへさす)。 総会とて21:00すぎまでかかり長沢夫人の祈り上手なりに感心す。鴎外碑建設委員会より「1口1000円」と来しのみ。(※省略) 美紀子より電話あり「けふ来る」となりし。ユ、弓子の写真とり15:00となる。 宮崎智慧氏に電話し「泊りに来よ」といへば「前川佐美雄氏と上京、赤坂プリンスホテルにあり!」と。 15:30、史一家来り「よろひかぶと」と云ひしを「馬」とかふ。White-Shirt地与ふ。 村松生より「春の日の会のハガキ失った」と泣声の電話あり、出ぬこととす。17:30史一家帰りゆく。(端午の祝にゆくこととす)。 4月21日 9:00前出て10:00登校。入歯気にしながら東洋文化史やり、午食すみて飯島生と話し、別れに来し吉田生よりカステラ貰ひ「野口君のみ披露に呼ぶ」ときき、 漢文のprint切り、浅沼教授!に年令きけば「38才」と。東洋史「チンギスハン」やるといひcardとる(50名近くをりし)。(※省略) 帰れば『日本の詩歌』来る。(※省略) 『民間伝承』に浅野晃氏の「蔵原伸二郎悼記」のりをり。 肥下里子より「倭の朝鮮半島侵略」やると也。(※省略) 4月22日 よべ雨ふりしらし。9:30眠り6:30さむ。竹森先生へ「タバコやめられず」とかく。9:30出て成城堂へ寄り『中国の歴史 中』買ふ。 大学院の講義に柿﨑、麝島、竹内洋子の3生出て「五帝本紀」黄帝のところよみ「三皇本紀」にかへることとす。 あと風月堂にてpuddingおごる(320)。佐伯にて青木一夫訳『東方見聞録(700×9)』注文しありしをとる。 丹波道久より「警部となりし」と。祝状かき、「スマトラ記」10×200書き了ふ。 けふマキヤ印刷より電話、「台湾の件うまくゆきし」との礼なりしと。 4月23日 晴。8:30ごろ斎藤先生へ参れば丸をり、「のど乾く」と也。すみて我入り「朝早く目覚めて困る」といへば「夜おそくねよ」との仰せ也(805)。 都電にてチクマにゆき240×80×5払ひ、聞けば「大宮の倉庫にあり」と。受取り呉る。 お茶水駅前にて喫茶。卵くひ(90)、佐伯に寄りて帰宅。ユ、外へ出をり、 ややして電話かかり母「来る」と。大と来りてガス釜あつらへ4、5月分1万円もちて帰る。「今月末西下」との話也。朱介凡『中国諺語論』よむ。 4月24日 佐伯へ寄り2冊「大安」の本注文す。すし買ひて食ひ、渡辺卓氏と話すうち時間となりprint50枚もちて出れば80人位中国文学史に出てをり。 (※省略) 歯、大分なれて声出る様になりし。1行だけ『詩経』よみ、次に追加印刷することとす。野口君と話して時間まちし。 semiに出れば7人そろひをり。葉「軽井沢に別荘あり」と。夏の合宿をいふ。米山生以外はみな弱くて困りたり。 米山生「庚申信仰」すみしと返す。家へつれ来り、苺くはせ、朝来りし『中国后妃伝』1冊与ふ。ユに云はせれば「又々肥えたい」と。 ユの撮りし弓子の写真出来よからず(よべ「山本(※義叔父の親戚)いや」と大にいひ来りしと也)。雅子、淳一のはよくとれをり。 肥下夫人より電話「里子2晩泊めよ」と也。『花影』来り、ユの歌6首のす。こは優待なり。鈴木治氏へ『中国后妃伝』包む。 4月25日 8:00起床(早くよりさめをり)。ユ、三鷹へ弓子の写真もちゆく。旗田巍氏より転居通知。母より電話「ガス釜ついた。弓子きかず」と。 武田豊氏へ『鬼(※詩誌)』の礼。北狄のnote作る。平凡社渡辺氏へ電話すれば「連休前に来訪」と。わがハガキ昨日つきし也。 ユ、太田夫人にゆき「令息の友だちを」とのことにて悠々16:00すぎ帰り来る。われ14:00すし買ひにゆき(130)、note(100)買ひ、タバコ買ひて帰る。 (※省略) 肥下里子より20:00「新宿にあり夕食して22:00までに来る」と也。 4月26日 9:30東洋文庫。神田君来られず阿南君来ず。松村君よみ、岡本、田川氏と4人なり。11:30すみ国鉄にて有楽町。 銀座飯店さがして12:30つけば花井、岸(安田)、吉原、星野、和田、道下(平山)、藤野、田中、藤田、匹田(桝田)の諸夫人来り、中華料理くひ、 14:30となり(※省略) 大阪の南隅夫人に電話すれば「連休あけに通信出来る」と。太田令息より「あす14:00来る」と。里子嬢風呂に入る。 4月27日(日) 8:30里子「考古学会」へと出てゆく。ユ、礼拝にゆく。われ昨日よりやりし「李白の星」のlist了る。泰、電話かけ「栗鼠飼ひゐる」と。 里子嬢「夜おそくなる」と。賀代嫗来り、「隣の家だけは孫にのこす」と。ユと二人して書きし設計書もちゆく。 小武守生より電話「あす夕方来る、父と」と也。里子嬢23:00すぎ帰るを知らず眠る。 4月28日 9:00里子嬢つれて登校。小田急にて「けふは(※大阪へ)早く帰れ」と車[中]警告す。 午食にまちがへてそば食ひしらしく山田君天ぷらそば食ふ。(※省略) 『古墳文化と古代国家』を買ふ。「邪馬台国九州説」也。 「printあさって出来る」との話なりし。けふ沖縄奪還demoに騒然としをり。給仕早く帰る。われも東洋史早くやめ、米山生さそひしもきかず。 佐伯に寄れば注文の『中日辞典』と森三樹三郎とりよせるとのこと也し。筑摩より『后妃伝』また5冊来をり。 渡辺氏14:00来り、跋文の写しと注のぬけしとを置きゆく。さっそくやり了ふ。 ユの話にては「昼食、母と3人にて外食せし」に「里子帰着」の電話なく、18:00近く小武守dr.、2嬢をつれて鯛もちて来訪。 「姉は好かれ妹は秀才」といふ。西島東大教授より1年下にて、海軍軍医止めしあと結婚」と。姉妹、母似らし。 夜、銀座にて大学生とmob(※暴徒)と乱闘と。 4月29日 天皇誕生日。平凡社へ速達出しにゆきユ、午すぎ帰り来る。和田夫人(※忘れ物の)rain-coatとどけ18:00までをり(※省略) 藤井陽子夫人より礼状来り「村山仁氏の7回忌」の案内あり「欠」と通知す。 (和田夫人、野崎カンヅメ社長が叔父とてカンヅメ多くとバナナと賜ふ)。 4月30日 6:00さむ。だるし。狩野和可子(あす結婚)に「富士若葉うつくしく子のとつぎゆく」と打電。ユ、薬とりに出る。 われ去年のnoteとりに母にゆけば、寿一の妻来をり、写真くる。「娘、新宿駅にて掃除のArbeitす」と。 探せしnoteなく一連のnote引下げて帰る。小高根二郎氏より受取。京けふ休みなるも出てゆく。「村山仁氏7回御花料」として1,000送る。 ユ17:00帰り来り「富士山の画を淳一にやり、史東京どまり電話つく、今井翠妊娠ときき来りし」と。 母より「あす東京駅へ送りたのむ」とのことにユ「諾」といふ。 5月1日 さむること8:00。ユ「胃痛みし」と也。散髪にゆく。ナルコユリ、スズラン、アマドコロ咲く。佐伯にやりしエビネ(蘭科)咲きをり。 10:30出て成城大。会計にて試験監督費受取る。税引き4.3万余にて意外に少し。饅頭くひて午食とし、中国文学史教へ、30分前にすまし、 エンマ帳、帖りするうち時間となり、semi。皆出席しをれど専ら村松生のことわざの解釈にて了り、あと風月堂へさそひしに、(※省略) 南新宿より東豊書店にゆき台銀本17冊と『杜工部集2冊(1,200)』、『史地叢考(150)』とにて4,410払ひ、 佐伯へゆき『五体清文鑑譯解2冊(2万)』とし『書経(50)』の外、『壇之浦軍記』くれし! 重きをかかへて帰宅すれば向ひの武谷家より移転の挨拶にハガキ。ユ「母を送りて発車2分前にすべりこみし」と也。 5月2日 『杜詩鏡銓』見つかる。7:30さめ、山野井秀子に電話すれば「連休も忙し」と。小武守のところ聞く。日野開三郎氏へ6,230、送る手続す。 (※省略) 宮崎智慧氏より「あす来訪」と。(栗田へゆき『ギリシヤ語入門(200)』買ふ)。〒なし。 5月3日 憲法発布の日とて休み。弓子「三浦半島へ」と出てゆく。10:00村松生来り、諺よまし、午となれば疲れをり。帰りしあとだるきを押して三鷹。 浅野dr.へゆく。「坊まだ結婚の意思なし」とて前田光子生の写真返さる。 浅野dr.帰り来り、「歯、全部抜いて入れよ。タバコやめよ」と。ふたつながら聞けずといひて帰宅。 20:30宮崎女史来られ『花影』のtopにわが拙き歌のせらる。慚愧にたへず。『炫火3』doubleゐしをもち帰りもらふ。 5月4日(日) 夫婦して礼拝にゆく。連休の為か出席者寥々たり。帰りて午食後ひるね1時間半す。本位田昇「大森に公証役場、家は目白のmansion」と。 竹森先生より「タバコのことは余り苦にせぬやうに」と。「『ハイネ』また8千部5月中旬に」と角川より。「杜甫の星」探す。 5月5日 子どもの日とて休み。終日在宅。『軍事史学』来ぬかと阿南君より。「欠」と返事す。 4回生より「26日class会を13:00より」と、これにも「欠」と返事す。泰より「子どもの日だよ」の電話あり。 夜、今井翠に電話し、あす夕方前田光子の話もちゆくこととす。 5月6日 9:30出て成城大学。大学院に柿崎生来ず。麝島竹内2生に『中国后妃伝』贈る。「呂后本紀」やり、すみて媽祖のことしらぶる藤浪生助く。 (午休みSiam文字の軸もち来し図書館員あり)。教授会にて文化史の赤字40万円以上なるをきけば「民族文化」のせいと也。 今年度の予算見せられ(※省略) 19:00今井翠にゆき弟に前田光子のこときいてくれとたのむ。 「春雨物語」が翠の卒論なりしと。帰り寒く、炬燵入れてもらふ。 5月7日 鬱となり、斎藤dr.ユにゆかす。12:00すぎ帰り来り、鱧の皮を三越にて買ひ来る。李白、杜甫の星すみ、白楽天の星見しに少し! 岑参すませ『晋書天文志』写すこととす。17:30坂泰子生より電話「初月給もらひし故来る」とのことに18:30来りしと夕食す。 49kgありと、美しくなりをり。送りかたがたはじめて外出、佐伯へゆき『支那官話字典』きのふ見つけしを買へば180にまけてくれし。 けふ八木重吉よむ。あまり感心せず。主によらむ心あはあは歌ひつつ若くてゆける人とぞ思ふ。 5月8日 よべ電気ゴタツせしに朝方停電して目覚めだるし。8:00起き10:30家を出、『楚辞』よむ。 大藤氏に佐伯の受取「5万円也」わたせば、「新城常三博士にももらひてくれんか」と。中国文学史の時間にmyk入る。却ってやり辛し。 semiの時間みな出席。(※省略) 疲れて帰る。(※省略) けふ『果樹園』来り、肥下夫人より礼状。 川村欽吾氏より「転任」の挨拶。(※省略) 朝鮮の葬儀の参考書、家にもなく気がかり也。 5月9日 8:00起き、だるく白楽天の星ちょっと見しのみ。成城へゆくつもりなりしも、あす文庫やめてゆくこととす。 手紙ハガキの整理す。あさ美紀子より電話あり「電話架かりし」也。「だるく結核にあらずやと検査受くる」と也も、2児の養育に音を上げしと認む。 『成吉思汗実録』見つかる。「けふ日中30℃を越えし」と。 5月10日 8:00さむ。不快指数甚しく、だるきも成城へゆき「端午考」ひらふ。(※省略) 佐伯にて『蘇軾 下(150)』見つけて買ふ。(成城pãoにてmacaloni Napolitan食ふ。150) けふより阿佐谷-新宿、阿佐谷-吉祥寺間ともに40円に値上りせし。鈴木治氏より変なること書きし受取と「菓子送った」由。 昼寐してやや元気出る。けふも30℃なり。坂泰子生へ礼状。肥下夫人へ返事。(このごろ不用のハガキ手紙焼きをり)。 5月11日(日) 礼拝、聖餐式にゆかず。雨。佐伯へゆき新城博士の件たのめば「よし」と。松崎佐知嬢来り、片岡夫人の紹介にて見合す。 比島戦死軍人の令息にて背高き人也。散歩にと送り出し、疲れしを知る。(※省略) 2女、「母の日」とて万年筆を贈り呉る。 5月12日 9:00前出て登校。東洋文化史にて朝鮮の葬儀みじかくやり、すみて山田教授と話す。「神田喜一郎博士の関係にて信夫君識りをり」と。 『史記』のprint切り、(※省略) 帰り、服部の記念のタバコ盆とり、灰皿(120)買ふ。ユ、けふパーマしをり。「明日弓子見合ひ」と(18:00より)。 片岡夫人より電話「太っちょゆゑいや」と。松崎姉君に電話し「縁なかりし」をいふ。(※省略) 5月13日 6:30覚む。(※省略)「午后より雨」と。弓子その中を見合なり。10:30出、米山生と同車。 朝、下痢2回せしもpão2ケ買ひ1ケ食ひ、(※省略) ユ、16:00すぎライスカレーこさへて東急へと出てゆく。 佐伯にて『催眠薬(100)』買ふ。「天理の鈴木治氏より天理羊羹2本賜りし」とて礼状かく。20:30ユ帰り来る。 5月14日 晴。斎藤dr.へ一番にゆき「鬱」申し上げ、薬かへてもらふ。帰り三井銀行前にてユと遭ひ、午、すし買ひに出しのみ。 一日中時間つぶしに弱る。〒なし。弓子きのふの見合の結果、ことわられもせねど「忙しくて交際できず」と也。 5月15日 わが庭に鴬来鳴くうれしさを告げやる人もなくなりにけり。 3時間目『史記』やり、4時限のsemi村松生につかまりつづけ「止めませう」となる。(※省略) つかれて佐伯に寄り4,400の書債あるをきき「あす」といふ。新城博士の書籍費のことたのみ快諾されし。日野忠夫氏『日本の詩歌』見たと。 賀代嫗より「嫁世話せよ」と電話ありしと。山野井生にいへば承知したと。柿崎生「ことわる」と。 折しも大阪の南隅夫人より電話「6月6日のクラス会に出られぬか」と。「出られぬ、8月なら」といふ。 京に金借り佐伯へ『中日大辞典(3,120)』と『中国古代神話(1,320)』とりにゆき、新城博士の書類もらひ、その旨お宅へ電話す。 5月16日 朝よりこわくて耐らず(5:30覚む)。薬かへたまひしと弓子の断られしが原因か。蒲団かぶり伏しBibleよみす。(※省略)下痢し、午食、粥とす。 ユ、前川佐美雄の『捜神』に昭和30年の作として「四十五の田中克己がやうやくに唐辛子うたひ人生を歎く」との吟、見つけ出す。 夜、平凡社より速達にて「李白」32p来る。良くなし!睡眠薬のむまでふるへをりし。 5月17日 7:00さむ。こわさやや残る。10:00すぎ平凡社渡辺氏に電話し「原稿も送りたまへ」といふ。 山上に説き玉ひつる訓へをば忘れてゐたる時もありけり。 わが心感謝忘れてゐたりけり十字架のかげ身に負ひながら。 賀代嫗来り、2時間ほど章(※船越章)と話し「話つかざりし」と。17:00帰りゆきしあと、山野井秀子生来り、写真と吊書おきゆく。(※省略) 夕食して帰りゆくまでわれ疲れに疲る。 (けふ『山の樹』、村中測太郎追悼号来り、その急逝なりしを知る「晩婚にして2才の遺児あり」) 5月18日(日) 鬱、甚しくユに礼拝休ます。平凡社より原稿速達にて来る(32ページ以上)。あすのnoteすすまず「李白」の校正やる。 『不二』来り、3千円寄附に名出してあり。(※省略) 5月19日 ユを斎藤dr.i8td。鬱いはしめ、われは登校。 朝鮮の葬儀「納棺」まですまし、print切りCingis汗を歯咬みしながらnote作り「1206大汗即位44才」とまでやる。声通らず気の毒也。 倉橋文男氏いまも法政大教授とて甥の倉橋生(1A)名刺もち来る。 帰れば柏井尚子来をり、帰りしあと製本代500もちて佐伯へゆき、きのふ弓子のもち帰りししじみをも頒く。 (※省略) 斎藤dr.「鬱わからず」と夜の分、強くし、眠剤もかへ玉ふ。(※省略) 5月20日 10:00松浦父上、前田光子の写真返却。(※省略) 鬱のこれど登校。「史記 三皇本紀」了り「夏本紀」を次にといふ。教授会(※省略) 浅野晃氏の詩碑に「水野成夫もうかけず南喜一書きて立つ」と也! スワより「トボ自転車に乗れる」といひ来しと。 5月21日 鬱やや退く。中央公論・文藝春秋より配本あり。(※省略)12:00すぎ賀代嫗より電話「柏井にあり」と。ユ山野井生の写真もちてゆく。 15:00ごろユ帰り「候補39才!」と。「他に話す」こととす。 5月22日 主のたまひしいのち短くなりにけり永遠をおもひて安くしあらむ。 わがいのち永くしなりぬほどほどにおそれつつしみありて行かなむ。 ユ、浅野建夫にゆきしあと、出てすし買ひて登校。けふはmyk旨くゆきしらし。 すみてsemiの前、米山生来り、虎のところよます。あと誘ひい風月堂にて茶のます(李生欠)。(※省略) 佐伯に寄り『瀛涯勝覧(1000)』、『満支習俗考(950)』買ふ。けふ成城堂の払ひせしに3,000余にて少なかりし。 ユの話す浅野夫人、悪妻の鑑たり。桝田紀子より写真の受取り来る。「李白」64page迄校正すます、よくなし。 5月23日 家居。平凡社渡辺氏校正もち来り「地図ほし」と。鬱、ややうすらぐ。南隅夫人に礼状かく。ユ、浅野夫人の悪妻ぶりを披露して不快なり。 5月24日 9:00出て平凡社に半分校正を速達し東洋文庫。1時間まちて岡本、神田(成城大学荒れし由)、田川の3氏来り、『万暦武功録』よむ。 みな大学問題に悩まされゐるものの如し。出て根津二丁目で下車。月見そば(120)食ひ、山野井家へわびにゆく。(※省略) 茶よばれて出、都電にて秋葉原へ出て帰宅。南村夫人に茶賜ふ。弓子「9:30になる」と電話「これにて(※デート)3回目」との由。 5月25日(日) 精霊降臨の日と後でわかりしもゆかず。Cinggis汗よむ。ユ帰り来り「出席少なかりし」と。弓子昼寐しをり。われ鬱にしてnote作れず困る。 5月26日 鬱こらへて登校。2時間やる。東洋史の時間、やっと声通るやうになりし。(『ベトナム民族小史』2冊買ふ)。(※省略) 帰りて夕食し了へたるところへ宮崎智慧女史来り、ユの同人費1千円もち、夕食して帰り玉ふ。(※省略) 花井夫人より「本人同士のみ会はさんか」と。 5月27日 床にゐれば米山生来り、虎(『太平御覧』の)よます。昼食してすみ、帰りしあと柏井尚子、恵の履歴書もち来る。「平凡社の事務へ」と也。 夕方になって美紀子、雅子をつれて来る。「その中、淳一預れ」と也。これにて疲れ切る。(けさ金川春三氏より電話「このみちを」の歌教へよと也)。 5月28日 斎藤dr.に参り、鬱はげしきを申し上ぐ。「下痢は関係なし」と也。 伊勢丹開店を待ち書籍card探せしになく、お茶の水へゆき木原正三堂にて200枚買ふ(200×2)。帰りて呆然としをり。 澄より夜、電話「トボつれて来る。迎へに来よ」と也(1日)。前田光子より「写真返せ」と。あす14:10「成城大学へ来よ」といふ。 5月29日 10:30出て、すし買って登校。中国文学史の時間マイク通らず、声をしぼりて陶淵明やり、print代集めしに69名出し矣。 教務へもちゆき semiの前に来し前田光子に写真返す。semi「蛙とかめ」つき、米山生『古今図書集成』の引くべき処示せと。 疲れて渡辺氏と話せしに浅香副手お茶と菓子出し、(※省略) 渡辺氏と同車にて新宿。帰り佐伯に寄り『支那学』来てをり。1割引くと。 帰宅すればユの友2人と滝本女史と来てをり。「木野代議士に雇はれゐるも今夜は泊る」と也。 「スマトラ記」休むこととす。「『ハイネ』32版8千部」との通知あり。 5月30日 朝、「スマトラ記」あきらめて小高根氏に同人費のみ送る。平凡社より李白地図来りし故かき直す。滝本女史10:00出てゆく。 福地君より「五葉松わからず」と速達、「それにてよし」と速達し、ユ、平凡社よへ地図と恵の履歴書もちゆく。 いよいよむつかしき様子なり。夜、母より電話「2日帰京」と。 5月31日 9:00出て東洋文庫。駒込駅前でcoffee(60)のみてゆけば松村氏来をり、神田田川2氏と4人にてよみ、岡本氏来る。12:00すみてまっすぐ帰宅。 13:00弓子の留守しゐるに焼きそばこさへてもらひ食ふ。 影山正治氏より『日本民族派の運動(1,300)』贈らる。大のことかきてあり、電話かけしにずっと留守らし。 ユ、吉祥寺へ遊びにゆき夕食すむまで帰らず。 昭和44年 6月 1日~昭和44年12月31日 25.8cm×18.3cm 横掛ノートに横書き 6月1日(日) 快晴。大掃除とて便器、戸をはじめ色々すてにゆく。名古屋へ電話すれば依子出て「トボ風邪ゆゑよこさず」と。大に電話せしもかからず。 夕方までにnote作り了る。『文藝春秋5月号』買ひ来ってよむ。大学教授の苦悩をしるす。 『太平洋諸島の民族(200)』買へば佐伯「『支那学』あす成城へもちゆく」と。 6月2日 8:00さめ9:00登校。山田教授とあすの合同教授会のこと話せば強硬なり。print切り、米山生の史料よみ、疲れてチンギス汗。 (研究費出しとて通知あり。もらひにゆく。)『新約聖書(230)』成城堂にて買ひ、 佐伯に寄り(けふ『支那学』もち来し)『中国人名大辞典(5,500)』、『東洋文化史上の基督教(1,350)』買ふ。母帰りをり、澄夜来る。 6月3日 10:30出て新宿にてすし(130)買ひて登校。大学院へゆく『禹貢』の説明書旨く出来ず「この次に」といひ、14:10より文芸教授会。 山田教授「9月より渡米」と。「富永次郎氏、瀕死となりし」と也。16:10より20:00まで永々と合同教授会。 「学友会会長、山中史雄にかける」とのこと也し。夕食も出ず疲れしに、鎌田女史菓子出し、茶いれてくれ雨傘貸したまふ。 21:30駅にユ迎へに来てくれゐし。 6月4日 よべ12:00すぎまで眠れず。7:00さめ斎藤dr.へ9:40ゆけば患者多くをり。先生、薬を強くしたまひ1,505払ふ。地下鉄にて本郷三丁目。 琳琅閣へゆき3月3日に買ひし本代25,850払ひ『東洋文庫漢籍叢書分類目録(4,000)』買ふ。午食せず、地下鉄にて四谷。 中央線にて代々木下車、東豊書店へゆき『台湾地名研究(3,200)』、『中華全国風俗志』、『西域人与元初政治(400)』買ふ。 注文せしラーメン2時間近くまち皆平げて帰り来る。竹森先生より「Düsseldorfにゆかれし。Heine大学出来る」とのお手紙いただく。 不二歌道会より電話あり、一先づ礼云ひ「2冊欲し」といふ。「その中来る」とのことなりし。 半田良平氏の全歌集、長女林悠紀子夫人より送り来り、見れば「2児を結核に1児をサイパンに失ひ20年5月悶死」らし。気の毒也。 6月5日 10:30すし買ひ、大東塾出版会に2冊分3,000送り登校。「マイク修繕中」とのことに、なしにてやり50円のprint代また集め、 semi村松の諺すます。 (※省略) 疲れて帰りしに19:00大東塾の神谷氏(※神屋二郎)電話かけ「来る」と。区役所前まで迎へにゆけば朝鮮龍興?閔氏の系図もち来る。 年号をのせず干支のみ示す昭和2年のものにして閔妃の一族たり。 Whiskyのみ『日本民族派の運動』2冊置きゆく。(佐伯にて旗田巍『日本と朝鮮』買ふ。) 6月6日 葉生、10:00来り昼食し台湾の開発やりゆく。13:00帰りしあと14:00榎並生来り、亀のことよます。 不二出版部へ歌2首かき署名わすれしらし。渡辺氏(平凡社)より「訊きたきことあり明日4:00ごろ来訪」と。 6月7日 9:00出て東洋文庫。阿南氏久しぶりに来る。次回われよむこととなり、出る時、前田勝太郎君見てその後きけば「口なし」と也。ともに茶のみ帰宅。 渡辺氏来り、誤記誤植をきかる。「笑談」は「冗談」がまこと也と。 6月8日(日) 久しぶりに教会にゆく。太田夫人もユの電話にて来をり。「弓子のこと心がけたまふ」と也。 帰り佐伯に寄り『支那文化談義(550)』買ふ。小高根二郎氏より「2年間在職確実となった。8月号蓮田善明特輯とする」と也。夜、note2つ作る。苦し。 6月9日 10:00登校。2つやりprint切る。「あす文化史の会を目黒です」と。『星座手帖』といふを買ひし(わが忘れし詩をのす)。 帰れば栢木喜一氏より「夏期講座に来い」と。萩原葉子氏より「坊や(朔美)結婚」と。『書経』の「禹貢」殆ど写す。 6月10日 11:00すし買ひ登校。大学院、麝島生来ず。(※省略) 竹内生にきけば「やせゐる」と。 17:00まで待ち、学科の指導する大藤氏より先に新城、鎌田、池田の3氏とbusにて目黒(1,010)。香港園といふにゆく。 「元川崎男爵の邸なり」と。田中久夫、白鳥芳郎、古野博士など見えをり。 学科指導了へし大藤氏来りて開会、白鳥氏、上智の騒動話し、古野氏学士院の思ひ出話す。21:00すぎ了り帰る。鬱なり。(※省略) 6月11日 ユ、薬とりにゆく。小山正孝氏より電話「阪本越郎氏急死、お通夜にゆく」と。われ「葬儀にゆく」といふ。 午后、鈴木女史より電話、吉祥寺よりの路、教へられ、お花料5千円もちてゆく。 (母来り「ルリ子(※大氏の元妻へ)即金100万円、月額70万円にてよしいひしと。建の歎願状に署名せよ」と)。 夫人をられ、急死の模様いはる。通夜の席狭く、早々出てbusにのれば三鷹へ出る。『則天武后(150)』買ふ。 6月12日 登校。mykeまた役に立たず。やっと聞こえる声出るやうになりしらし。 昨日の全学集会800人余出席し200人の要求にて「全学職員と話合ひの場もちたし」と也。(※卒論指導 省略) ユ「けふも胃わるく医者にゆきし」と。堀さんと三好さんとのことかかねばならぬ事、思出し困る。 6月13日 母来り、建の件につき嘆願書に署名さす。(大よりも電話ありし)。 佐伯へゆき浅見淵『昭和文学側面史(650)』買ふ。(※卒論指導 省略) 筑摩の東博氏にことわりいひしもきかれず4、5枚かく(「三好さんと堀さん」)。 夜、小山正孝氏に電話「阪本越郎氏のことしらしてくれてありがたう」といふ。 6月14日 よべ睡眠感なきも当番ゆゑ東洋文庫にゆく。駒込にて神田氏と遭ひ、きけば「阪大の山田教授と会す」と也。本屋ひやかし大熊規矩男『タバコ』見つ く。 (※省略) 山田氏白髪になりゐたり。10:30よりわれよみ11:30了る。『週刊朝日』の大学紛争記事よめと也。帰りて映画見、『週刊朝日』買ひ帰ってよむ。 (ユをして筑摩に速達せしむ。) わがむすめわがまごどものみちたれる体思へば泪ながるる(サリドマイド中毒児のteleviを見て)。 6月15日(日) よべもねつき悪く、3:00すぎねて8:00すぎ覚む。ユも礼拝にゆかず。 14:00葉生来り、すぐあと史夫婦来る。史夫婦と雅子と高島屋へゆき、ユ淳一つれて天沼の母のところへゆき乳母車にのせて17:00帰り来る。 をりしも史夫婦も帰り夕食19:00して史ゐばり美紀子哀れなり。雅子「ヂイチャンバアチャン」といひ、淳一も可愛し。 けふ角川より『現代詩』の印税(17,045-1,704)来りし故、美紀子に1千円渡せし。あとにて聞けば「bonus7万円」と。気の毒なり。 成城大学より「全学集会行ふも20日にこだはらず」と速達来る。(※省略) 二女「父の日」にと万年筆買ってくる。 6月16日 よべよく眠り、成城へゆきしに2時間め東洋文化史野生司生ら「大学法案をどう思ふか」に「反対」といひ、「理事者にもそれを云へ」とすむ。 13:00より学生大会教務で認めしとて4時限休みとなり、李杜のprint切りて帰り、佐伯で田中克彦訳『蒙古の歴史と文化』買ふ。愚著なり。 (※省略) 〒なし。岡田英弘氏へ「会ひたし」と返事。 6月17日 8:00さめ、斎藤dr.へ10:00すぎゆけば満員。薬もらふ(1,005)。すし新宿で買ひ、大学院へゆけば麝島真理子出てをり。『始皇帝本紀』よむ。 14:00すぎしに気づかず教授会へ出れば学長「学生の無礼に怒りをり」と。あすまた「学生会に各専攻よりも出よ」とのことに野口氏にたのむ。 すみて文部省の図書費100万円に『朝鮮学報』15万円をたのむ。 (『コギト』そろひ製本ずみ50万円と臨川の書目に出てをり。けふ佐伯書店、金とりに来るに遭ひし。) (※省略) 6月18日 6:00すぎ覚む。花井夫人より「弓子の見合あすかあさってか指定せよ」と。雨止む。11:00出て全学集会にとゆく。 定期1月分2,330もらふ。13:00まへより母の館へゆき山田教授と並んで坐る。 13:30よりはじまり15:30「成城大学学則に真善美とあり。demoは美ならず」との発言で休憩となる。空気わるき故出て研究室。 鎌田女史にハングル初歩教へてそのまま帰宅。(※省略) 弓子「あす」と花井家に伝へる。 6月19日 登校11:00。myke使へしも李杜の詩に私語多く、叱りてやむ。semi前に葉生、茉莉茶多くもち来し故、研究室へ寄附す。semi少しもやらず写真とりしのみ。 雨降り来しゆゑ電話して緑屋までユに傘もち来さす。(野口氏『朝鮮歳時記』貸し賜はる。) 6月20日 史より電話「大蔵省の研修に衛藤瀋吉氏呼びたし」と。佐伯へゆき『日本民族社会の研究資料(550)』買ふ。 筑摩の東博氏より原稿の受取。真野喜惣治氏より愚痴いひ来る。 夜、衛藤氏に電話すれば「(※依頼は)電話でよし」と。美紀子に電話せしに「今夜おそくなる」と。 6月21日 9:00さむ。ユ「花井家へ」と出てゆく。13:00村松瞳生来り、(※卒論指導 省略) ユ帰り来り、われに炒そば食はし。、村松に茶出す。村松生15:00ごろ「疲れし」と去る。(※省略) 全田叔母よりハガキ。吉田美智子生より「下河辺姓となりオホーツク海沿ひの門別に住む」と。 6月22日(日) 8:30さめ礼拝にゆく。人少なく衛藤氏も見えず。太田夫人来られ(※省略) 『連合艦隊の最後(150)』買ふ。(※省略) けふ成城大学より「火曜臨時教授会」と電話ありしと。 6月23日 雨。16:00出て向ヶ丘遊園地の紀伊國屋(※料亭)にゆく。われまづ先にて次に来しは築島東大教授、古野、堀川、上原、大藤諸氏と4生とにて河魚料理。 話はずまず21:00すみて築島教授と帰る途「松本善海氏と似てゐる」といはる。 6月24日 晴。よべも睡眠感なし。salaryもらひ(※省略) Heine1冊買ひ、大学院にて竹内生にやる。 14:10より図書館にて教授会、学長弱腰にて「学生と会はず」といひ、学部長また専攻決定を1年のばし3年にせんといふ。(※省略) 佐伯に寄り『はこやのひめごと(650)』と『ベトナムの農民(400)』と買ふ。 花井夫人より「先方も少しわかりたく直接電話かけて会ってよきや」と「よし」といふ。(※省略) 6月25日 よべ久しぶりに安眠。10:00出て三越にて4,800(箱代+100)のwhisky買ひ、斎藤dr.に贈呈。 「睡眠感なかりし」と申し上ぐれば「のど乾きますよ」と薬変へたまひ1,850(1週間分!)。 代々木まで国鉄。東豊書店にゆき『安禄山事迹(150)』、『花村談往(340)』、『台湾土著族的文化語言分類探求(1,560)』にて丁度2千円本買ひて14:30帰宅。 (ラーメン80とりて食ひし)『元典章』の誤字訂正しをれば平凡社渡辺氏お越し。「本文の校正これにて皆了り」とわたされ、次は原文なり。 6月26日 10:30出て、すし買ひ登校。夕立のごとき雨、成城にてあがる。 「けふ学生大会臨時にやる」との掲示ありしが「認めず」とのことに中国文学史にゆけば30人斗り。出席とりてあと「自主性もて」といひて帰らす。 研究室にも来て文句いひしゆゑ「大会に出ていへ」と野口君ともども云ひ、semiに来りし李、米山らにも同じこといひてやる。 学長「学生を信ぜず」といひて面会ことはりしと也。15:30まで待ちて帰り、山野井、坂、小武守3生まてば皆それぞれに苦労しをり。 すし食はせ21:00すぎに帰りゆく。 6月27日 喘息おこる。「花」を『果樹園』社に速達す。夕方、丸重俊に電話し「あすゆけず」といふ。「姜、高橋(旧姓)2人も来り、12人集まる」由なり。 6月28日 風邪らしく、はな水出る。東洋文庫石田君より電話ありし故、松村氏のことわりたのむ。 6月29日(日) 夫婦ともに礼拝にゆかず。午すぎより鼻水のみの風邪となる。深谷多鶴子生に電話してきけば「昨日投票あり。スト派負けし」と。 「越南史やりに来よ」といふ。 6月30日 5:30にさめ、眠きも9:00出て10:00成城。2Cのみストすると掲示し、学生会の役員総辞職(学長を呼べざりしとてスト叫びしも投票にて敗れし也)。 14:10まで待ちて1年の東洋史にゆき風邪にて声出ずといひ出席とりて止む。米山生「水曜に来る」といひ、夕方「榎並生も来る」といふに困る。 7月1日 よべよく眠る。斎藤dr.にゆかんと云へばユ止め、12:30出て成城堂にて『ムガル帝国』とり、図書館4階にて委員会。(※省略) 学長「理屈通れば会ふ」といひし由。 7月2日 ユ、薬とりにゆきしあと(※省略)10:30米山生来り、馬の史料よみしも採れるもの少し。午ユすし買ひて帰り来り、食はせしあと榎並生来り、 同じく『古今図書集成』よみしも亀のところはおほむね採れるとわかる。18:00近くになりて帰りゆく。 ユ病院にてきけば「引けなくなりしと1,805やはりとられし」と。けふ『不二』来り、福地君より「1万9千円貰ひし」と喜び来る。 林俊郎夫婦「相模原市に別荘せし」と。 7月3日 午前中、柏井歯科へゆきしに「明日ぬく」と。(※省略) 村松生来り「女」少しやり帰りゆく。 母来り、「林叔父の家に下宿生せわせよ」と。 小山正孝氏来り「杜甫せかる。地図一枚にせん」と也。 7月4日 午前中、柏井へゆき左の奥歯の根とってもらふ。帰り加藤(※加藤周一)『羊の歌(90)』買ひ来る。14:30榎並生来り「亀」よませ、米山生の来しとともに帰りゆく。 『羊の歌』よみ了り反駁の文かきたくなる。松村氏に電話すれば「あす万暦武功録の最後」と。宮崎女史『花影』もち来り、「保田夫人歌集出す」と。 7月5日 よく眠れず。9:30出て東洋文庫へゆけば岡田英弘氏アメリカより帰りをり。 「野尻のcamp(※日本アルタイ学会:野尻湖クリルタイ)にゆきしあと、松村、神田2氏ともども台湾へゆく。無圏点老档(※『満文老档』)出版となりし」と也。 帰りてみれば村松生来てをり『婦女生活史』の漢文よます。送りかたがた出て柏井へゆき、歯みてもらひ「来週もいちど来よ」と也。(※省略) 7月6日(日) 雨。礼拝にゆかず。和田夫人より「道満生上京中」と。このごろ『元典章』の校をす。 7月7日 雨。ユ、美紀子腎盂炎なれど松浦父(※薫氏)坂出市長となりて留守ゆゑ、淳一見に薬王寺へとゆく。15:30米山生来り『太平御覧』の馬すます。 折からユ帰り「淳一けふは翠姉見てくれる」と。(数男より電話「恵ほとんど書けざりし」と)。 7月8日 ユ、風邪ひどく淳一とりにゆけず夕方ことはれば「美紀子なほりさう」と也。 東豊書店より『通俗編(3,720)(※清代辞典)』入手したと。「送れ」といふ。 朝、速達で来し「李白」原文35p、20pやりて疲る。(榎並生「亀」よませ吉村生来しもゆづらず)。 7月9日 雨。千駄ヶ谷より斎藤dr.。立ち話にて薬かへず。1,855とらる。130のすし買ひて登校。 米山生に「蛇」の写すべき箇所いひ、「李白」原文校了し、すし食ひ米山生に速達出しにゆかせ、 また「蛇」おほむね写せと書置きして委員会に大藤氏と出しに高田部長案の「今年度1次志望みなとる」こと通せしあと(※省略) けふ淳一、美紀子つれゆきし由なり。 7月10日 雨止む。佐伯へゆき『世界浴場物語(100)』、『南方民族の生態(100)』買ひ来る(よべ眠剤きかず!)。村松生来り (13:00)15:00「約束あり」と走り去る。 (※省略) よべ岩崎昭弥君、江東の都議選(※社会党)応援に来てゐるとて「けふ来よ」といひしも「来られず」と。 平凡社渡辺氏来り「山中吟」doubleゐると。けづりて「相逢行」入れれば「よし」と。 中野清見「次の書店より本出しわれに献呈しゐる」と。田中久子生より奈良漬もらひ礼状かく。田中順三郎氏よりbutter。 7月11日 久しぶりに曇。深谷生来り「さ来週よりやる」と。榎並生より「下痢」と。『たばこの話あれこれ』買ひ来り田中順三郎氏に礼状出す。 東豊書店に電話せし直後『通俗編(3,720)』来る。葉雅美の母より紅茶贈られ電話して「一度来れ」といふ。 7月12日 曇。9:00さめ東洋文庫へゆきDapper(※Olfert Dapperの図譜)の122pまで複写たのみ(1枚65)、「10日して出来る」ときき、松村君の室へゆき、 明日より野尻のクリルタイの印刷する岡田・ 神田・松村氏に会ひ、石田君に会はず。東豊書店へゆき『通俗編』の代金3,720払ひ、『台湾今古談』買ひて帰る。 林叔父、火災保険に来てをり。『果樹園』来り面白くなし。李生「来られず」と電話せし由。 7月13日(日) 曇。礼拝、聖餐式。竹森先生夫婦「10日ドイツを出、ギリシア、エルサレム、アラブ連合をへて8.15御帰国」の由。 衛藤長老(※衛藤瀋吉)にこの間の電話の失礼わぶ。(※省略) 新学社より印税(830-83)。松浦薫氏より四国新聞「(※坂出市)市長に辛うじて也し」と。 浅野医院より暑中見舞。南隅Bチャン留守中に電話くれ、(※省略) 『元典章』のみやる。榎並生より「明日来る」と。 美紀子に電話し「お祝のしかたしらせ」といふ。 7月14日 斎藤dr.。眠剤のこといへば首かしげたまひ1,505。15:00榎並生来り「亀」よませ卒論できるや否心配す。学科7を残せる也。 (けふ新宿で小高根太郎に遭ふ。「停年近し」と也。)小高根二郎より「次号40p」と。村松生「あす朝来る」と。 7月15日 暑し。村松生10:00来り「軽井沢へゆくまで強行する」とのこと也。 (朝、池田教授(※池田勉)より「富永次郎氏逝去、16日通夜17日密葬19日大学で葬儀」としらせらる。) ユ、午後母のもとへ子供らの中元5千円もちゆく。留守に尚子来り「平凡社よりダメと通知ありし」と。(※省略) ユ「松浦家へお祝に3万円もちゆく」と也。 7月16日 暑し。午後榎並生来り『古今図書集成』の「亀」すむ。 17:30出て小金井の富永家へくやみにゆく。古谷綱正氏をり池田氏に案内され仏前に坐りしあと古谷氏と話して帰る。 (※省略) (佐伯にて『平戸蘭館日記(1,450)』借り『山ゆかば苔むす屍』と『秘境西域をゆく』とにて260にして呉る。) アポロ11号発射にてtelevi 22:50までさわぐ。京「マツナエ家に泊る」と。 7月17日 10:00すぎ葉生来り「台湾の開発」やることとす。午食せしめしところへ榎並生来り「亀」了り「すっぽん」やり、「けふにて止め」と帰りゆく。 ユ、中途松浦家へ祝もちゆき17:00美紀子電話にて「今から帰す」といふ。京帰り来り20:00すし買ひにゆくと入れちがひにユ帰宅。(※省略) 立原達夫氏「八王子へ転宅せし」と。平凡社渡辺氏、地図もち来り、校正させ「あと小山氏に見せる」との由なりし。 7月18日 朝、散髪にゆき佐伯に払ひす。午后米山生来り16:00まで「蛇」やりゆく。午より咽喉いたく飯くへず。(※省略) 松浦薫氏より礼と「史を留守番にする」との電話きく。 7月19日 のど痛く富永氏の友人葬にゆかず。滝本生来りしとユ話すをきく。(※省略) 夕方、山野井秀子来り「木曜見合せし」と「近々京都へ姉とゆく」といひ、医師会の文書直さす。のど大分なほりし。 7月20日(日) 睡眠不足にて礼拝にゆかず。南隅夫人より「8月27日11:00より京都にて(※帝塚山学院)クラス会。鍛冶さん、井上斌子出る」とのこと也。 7月21日 4:00さめ、アポロ月着陸のtelevi見る。あと眠れず10:00出て斎藤dr.。 薬かへたまひ「普通に見える」とのことに成城にゆき、マカロニ・ナポリタン食ひ(150)、大藤教授と話す。 13:00すぎsalaryもらひにゆき成城堂に払ひし『広辞苑第2版』買ふ。佐伯に寄ればあり、残念。 新本屋で岩波文庫『易経』上下とクセジュ『ベトナム史』と買ふ。アポロにて騒しき一日也。 7月22日 暑し。10:00米山生来り午まで「巳」よみしも面白くなく気の毒なり。 午食せしあとともに出て、われは東洋文庫。Dapperのprintきけば、あと1週間後と。 石田君をらず、岡田君をり「明日神田、松村2氏と台湾へゆき来月27、28日ごろ帰る」と。斎藤先生の薬また渇く。(※省略) 7月23日 きのふよりやるはずなりし「女の夜」出来ず。(※省略) 平凡社渡辺氏より「校正送った」と電話。 途にて会ひし戸田謙介氏へwhiskyもちゆき、欠号もらひゐる間に、また電話ありしと。 あとにてかかり「困った」といへば明日来る様子なりし。葉生よりも「あす10:30来る」と。 7月24日 葉生来り、あすより軽井沢と。12:00素麺くひて帰りゆく。 「女の夜」かけず、televi映画見てゐれば渡辺さん来られ、欠行示され恥ぢて訳加へ、李白の説明またへらしてかんべんしてもらふ。 夜、小山正孝氏来り、地図見す。駅まで送りゆく。 7月25日 10:30深谷多鶴子来り「8月1日再来」と。「滝本生来る」といふに淳一つれ今井翠来る。あせもだらけ也。滝本に「薬王寺町のはなれに入るや」 ときく。 7月26日 よべ9:00に眠りしも、ねむくて困る。13:30出て東洋文庫。Dapperの写真122pにて5,025払ひ、石田君さがせしも見つからず。 coffeeのみて帰り来る。 (午、今井翠来る。「12月出産」と。) 7月27日(日) 弓子3日間休みにて、その間淳一ゐる也。ユ疲れて薬王寺に電話せしもいつ帰るや不明。われDapper殆ど役に立たざることわかり落胆す。 21:00史夫婦と雅子と来り、淳一つれ帰る。 7月28日 30℃以上10日もつづく。斎藤dr.にゆき湿疹いへば「裸でねよ」と。1,505払ひtelevi見ゐる中、吉村生来り、 大百科のうらなひ写さし『台湾風俗志』貸せしもよめざる様子。京、高知より帰り来りねる。(※暑中見舞 省略) 7月29日 「スマトラ記」かけず(※暑中見舞 省略) 佐伯に寄りしも本なし。夜食の時、奥歯痛み、数男にゆきしも抜かず。(※省略) 7月30日 34℃を越す暑さ也。柏井へゆき歯みてもらひしも抜かれず。[坂]本美登里(※故阪本越郎)夫人より「9月18日を100日とて追悼会す」と。 (※暑中見舞 省略)  坂本へ「ぜひ出席さしてくれ」と手紙かく。(※省略) 7月31日 暑し。(※暑中見舞 省略) ユ、花井夫人に「先方より連絡なし」と電話す。夜、深谷生より「あす10:00来る」と。 8月1日 柏井歯科へゆき奥歯ぬいてもらふ(大の本『近松浄瑠璃 上』借る。いま下阪中と)。帰りて深谷生の指導す。 筑摩の東博氏『堀辰雄・三好達治』もち来らる。「前川氏の日本歌人会、伊豆長岡であり、われ出席す」と! 和田夫人より「27日のこだま8:00にてよきや」と。「会場は岡崎」と。 坪井明より「体直り沖縄へゆく」と。(※暑中見舞 省略) 田川博士に電話し「ソール大学の李崇寧(言語学)、延世大学の閔永[柱]、高麗大学の李弘[鍾]3教授に紹介たのめ」といはる。 美紀子より電話「3日午后父在宅」し。滝本生に電話して「ユと3人にてゆく」こととなる。 8月2日 李錦順生に航空便出し(60)、柏井歯科。帰り歩く。原伴子生、次女つれて来る。(※省略) 渋谷駅までのbusにのせて帰れば滝本生来をり。 8月3日(日) 礼拝に夫婦ともゆかず。ユのpermaにゆく間、滝本生の相手をし、11:00来し三浦女史といふに会ひ、ユの案内にて松浦家にゆかせしあと、 美紀子より電話「父の飛行機おくれし云々」。 16:00ユ帰り来り「翠の産すむまで貸せず」といひし由。腹立ちてたまらず19:00ごろ滝本生また電話かけ来り「計画おくらす云々」あやまりてすむ。 8月4日 きのふけふと涼し。何もせず午后柏井へ歯でゆき、母に会へば「70万円の税金にて心配」と。(※暑中見舞 省略) 『日本歌人』より「夏行伊豆長岡」での案内「24日午前ゆく」と返事。けふ宮崎智慧女史に電話せしに「12日まで休み」と。 8月5日 午まへ午ねし午后とまちがふ。米山生に電話せしも応答なし。 8月6日 暑し。深谷生に電話し「あす来い」といふ。(※暑中見舞 省略) 小高根二郎氏より「蓮田善明25回忌にゆく」と。 松浦母上より「来る」と電話あり、汗ふきふきことわり聞く。(※暑中見舞 省略) 8月7日 暑し。深谷生来りしに「ヴェトナム書け」といひ、(※暑中見舞 省略) あす白鳥先生にゆき「淳一とりにゆくこととせし」に、葉生「軽井沢より聞きに帰った」と電話、「あす10:00来い」といふ。 8月8日 暑し。10:00来し葉生に、とっておきの20万分の一台湾地図貸す。(※省略) 13:30出て渋谷東横にて買物し、洗足行にのりちがへ引返して短波前よりbus、白鳥先生をお見舞ひす。ものいへたまはず。 渋谷へ出てbusにて史宅へゆけば2姉手伝ひくれをり。 今井翠母子とtaxiひろひ、淳一つれてtaxi(580)。あともてあまし20:30弓子帰り、すぐあと京帰りしに助かる。 8月9日 8:00さめしも午までねてをり。吉村達代生来り「あすより北海道へゆく」と。淳一の始末に困る。 8月10日(日) 我のみ礼拝にゆく。竹森先生御夫妻「14日夜、羽田へお帰り」と。14:00すぎ淳一もてあましユtaxiにて送りにゆき8:00帰宅。 8月11日 眠剤きかず、淳一と大学院紀要とのためなり。斎藤先生にいへば「書いてみよ」と。「美紀子けふより今井家(※姉宅)へゆく」とユの話。 澄より電話「母上夫妻の見舞にてよくなりし」と。「27日の宿そのうちたのむ」といふ。 夜「女の夜と印地打」2×400かき、ねる。(※省略) 8月12日 家居、寿一夫妻「小諸にゆきし」と。(※省略) 滝本女史来り「15日ごろまでに転居す」と。「女の夜と印地打」8枚となる。televi直し1,700払ふ。 8月13日 8:00さむ。滝本女史、ユと家探しにゆき「2万円にて成宗に見つかりし」と。(※省略) 筑摩より7千円ほど(前借引きあり)。 けふは「女の夜」かかず。平凡社渡辺氏より電話『唐代詩集』3冊あさってもち来ると。 宮崎智慧氏に電話し「日曜(24日)泣く泣くゆく」といへば「亀井勝一郎夫人と同行」と。(※省略) 8月14日 8:00さむ。暑し。「うつぎ」にゆき駄本2冊買ひ「女の夜」かかず。京休みなれど2度3度と出歩く。〒なし。母より「暑し」との電話。 8月15日 無為。柏井尚子、茶もち来る。(※残暑見舞 省略) 渡辺氏16:00ごろ『李白(唐代詩集)』3冊もち来り『南の星』小山氏よりもらひしとsignせしむ。 8月16日 無為。(※暑中見舞 省略) 夕方「関口八太郎夫人逝去、19日雑司ヶ谷で葬儀」と。本位田、丸に電話し「香奠、西川とで1万円とせん」といふ。 滝本生ら「ひっこし了へし」と箒借りに来り、あとにて返しに来る。ともに会はず。 8月17日(日) 夫婦して礼拝にゆき1年ぶりに竹森先生の聖餐式を受く。あと茶話会にて先生御旅行の足どり話さる。太田夫人と話すユに先だって帰宅。 14:00午食。ややして来し松崎淑さんに縁談話し「会ってみる」こととなる。 西川に電話すれば「下阪、あす帰宅」と。池田徹思ひ出して電話すれば「西川にしらす」と也。けふ前川佐美雄氏より「遊びに来よ」と。 姜照美生より暑中見舞。 8月18日 暑し。高校野球決勝の引分け見をり。弓子帰りきのふ干しし海水着盗まれしことわかり不快。 (『果樹園』来る。辻浩子夫人より「クラス会で会ふ」由)。澄より電話かかり「26~28日親子にて上京す」と。 滝本のapart夫婦して見にゆきしに不在。池田に電話すれば22:00かへり「13:00の告別式でよし」と。香奠3千円づつときめ本位田にもその旨伝ふ。 8月19日 ユに喪章と1万5千円用意させ10:00出て斎藤dr.。鬱と申上ぐ。薬代1,720(8日間)。地下鉄にて新大塚下車。大廻りして雑司ヶ谷墓地につく。 13:00西川来り、池田またず焼香了ふ。(畠山ノリ子、六栄門父子に会ふ)。池田に会へば3千円出し帰りゆく。 西川の車にのり「この間、大阪今中の19期生会にてわが事みないひし」と。(吉村が「よろしくといひし」と)。 東京駅で別れ昼食して地下鉄にて帰宅。坪井に関口夫人の死を告げ(「脳軟化症にて短期間にて死なれし」由)、(※暑中見舞 省略) 京、GelbeSorte2ケ呉る。(佐伯にて『星座(300)』買ふ。) (※省略) 8月20日 暑し。丸より3千円送り来る!(※省略) 14:00出て柏井へゆく途中『文藝春秋』9月号さがせばなし。数男「歯根骨を削らねば」と脅かす。 母のところへゆけば、ユすでにすしと花とを買ひて着きをり。すし食ひしあとユ「松崎女のところへゆき途迷ひし」と1時間近くして帰り来る。 busにのりて荻窪を廻りて帰れば、京「中へ入れず」と怒りをり。 8月21日 10:00出て(李錦順生より「大学で史料あつめてゐる」云々、林素梅(※台湾旅行で知遇)より「右手けがしてご無沙汰した。おみやげの店してゐる」云々)。 成城大学図書館にて『大言海』など見、柳田文庫のぞきしも本なし。大藤教授に会へば「野口君在台。9月10日帰る」と。 salaryもらひ坂本教授より『唐代詩集』の礼いはれ、伊藤講師?より『全唐詩』、『白香山集』などの有無問はれ、 成城堂に『広辞苑』と『良心的兵役拒否の思想』の払ひ(2,993)し、 柏井へゆけば、むつかしき故「9月末まで手術のばす」と。助かりて母にゆき父のモーニングもち帰る。 『日本の詩歌』来る。山田俊雄氏より礼の電話ありしと。滝本・三浦2女史「転宅の挨拶に来し」と也。 8月22日 8:00すぎさむ。林素梅へ航空便。伊勢丹へ雅子のすべり台買ひにゆくユに托す。母上まだ在京也。 (本位田より速達にて3千円来しゆゑ脳軟化症と関口夫人のこといへば自分もそれと)。(※暑中見舞 省略) われ加藤周一『続・羊の歌』買ひ来りよむ。夕方、和田夫人より電話「27日8:00の新幹線券とれ。速達す」と。 8月23日 8:00さむ。古谷多恵子より「9月2日東京ヒルトンホテルで挙式」と速達「出席」の返事す。集英社より『日本の詩』の印税1,620-162来りをり。 午后散髪にゆき、佐伯に寄り『未解放部落(950)』買ひ来る。 8月24日(日) 5:00さめ、ユ促して国鉄にゆけばまだ急行なし(沼津まで買ひし)。こだま7:55に乗り三島にて下車。伊豆長岡まで電車。taxiにてゆけば朝倉に遭ふ。 前川夫妻、宮崎智慧女史のほか横田俊一教授に挨拶し、茶のみ前川主宰の追悼の辞のあと、われ弔辞と再会とを喜ぶをいふ。 若林百合女史「川田順先生の姪にて夫、京大を退官」と(あとにて大高の先輩、光夫氏夫人と気づく)。 埜沢宏氏(大阪読売論説委員)に挨拶受け「池澤君(※池澤茂)来年停年」ときく。天野忠氏への伝言を横田教授にたのみ、 13:30、busにて西伊豆海岸にゆく人たちと別れ、taxiにて長岡駅(ゆきは220、帰りは180)。 折しも14:25三島始発のこだまに乗り、帰宅すれば、和田夫人27日8:00のgreen券来てをり、礼いふ。「駅まで椿下、ピーちゃん迎へに来てくれる」由。 (「けふすべり台つきし」と美紀子より電話ありしと。)(※省略) 澄より電話かけ来り「26日泊る、27日兄の家にゆくゆゑ名古屋に寄れ」と。「寄らず」といふ。 けふ横田教授より「本出しましたね」といはれ驚きしに、19:00近く帰り来しユに、朝日朝刊に大広告のりをりしを教へらる。 (前川師より『名歌鑑賞』もらひし) わがひとみ常にかがやきわが心つねに躍るとけふは知りにし。 年をへて主の血染のむ身となりしわが身ばかりかもろびとともに。 ヱ゛トナムにわがゆきし時つるぎ帯び人殺さむとおもひしを恥づ。 わが悔いはつねに罪をば思ひつつ救はれしをば忘れゐること。 (※省略) 8月25日 涼しけれど眠くてたまらず。ユ、母へとゆきちがひに大より電話「母ゆきし」と。午睡し高田瑞穂氏の礼状見る。 『立原道造研究(※小川和佑著)』買ひ来り。読み了る。だるし。 8月26日 雨の中を斎藤dr.。「文春にてお書きになりし犯人の直りし」と反対にわれは上官反抗せしこと申上ぐ。 佐伯にて『詩における現代(250)』買ひ来ってよむ。浅野晃・栗山理一氏より受取。内海琢也氏より「蓮田善明論」。澄21:00すぎ来て「依子妊娠」と。 8月27日 5:00すぎ起き6:00ひげそり食事し7:00出て8:00のGreen車にのる。(※省略) 11:00京都着。 迎へ来てをらずtaxiにて会場「竹中」へゆけば10人ほど既にをり。13:00昼食出る。(※帝塚山学院同窓会) 伊藤、井上、榎本、鍛冶姉妹、相良、太田、塚本、安村、山尾、椿下、中田、野崎、本多、和島、奥村の諸旧姓、あとにて菊池、中馬諸旧姓来る。 中馬の坊やかわゆき年頃也。 15:30出て平安神宮へ中馬、菊池2夫人と中田母子とゆき、中田夫人帰りしあと17:10近く西洞院氏(※菊池氏)車もち来り、京都駅まで送り呉る。 homeに諸夫人諸嬢をり17:38発、アメリカ人多きGreen車なり(帰りの汽車賃ねじこまる)。 『文芸通信(※帝塚山学院文学サークル誌)』われの還暦祝としてわれ編集発行ときむ。 太田夫人necktieくれ、中田夫人細工くれ、みないろいろ貰ひ土産買はず。名古屋出て弁当食ひ20:30東京着。中央線立ちて帰宅。 小高根二郎氏より「本受取った。10月よりユニチカ東京副支社長として単身赴任、2年つとめて止め」とハガキ。 8月28日 花井タヅ子夫人に電話、井上さんの話す縁談見込みないらし。藤野一雄氏より速達「小林英俊詩碑の発起人になれ」と。「諾」の返事し。 『星座の楽しみ』、『朝鮮史入門(600)』買ひ来る。coler-filmの出来上り「土曜夜」と。 賀代嫗来り「11月3日11:00父の50年祭に出よ」と。滝本のapartment見にゆき帰りてまた出てゆく。 真野喜惣治氏より電話「出張中」と。小林英俊詩碑のこと伝ふ。20:00また痴漢来りしを京みつけ、事なし。 8月29日 ダルさつづき何もせず。午すぎ警官来り、痴漢のこときき「ビルマ弓兵団より帰りし群馬県人」と、長々と話してゆく。 船越家、屋根のフキカヘしをり。『世界晴歌考(300)』買ひ来る、可笑。浅野(今村)羊子生へ「こらへよ」とハガキかく。 8月30日 「京都」かき『果樹園』にと速達す(2,500+125)。母来り、昼食代りに団子食ひしのみにて、だるくて困る。 ユに写真屋へゆかせれば10枚[茫]然ととれをりてよろし。夕食後、滝本生来りwineくれる。中野清見より「10月19日ごろ上京」と。 8月31日(日) 58回目の誕生日。「ダルし」といへばユ、礼拝にゆかさず。吉野(中馬)敦子より誕生祝の電報ありしのみ。 ユ16:00ごろ帰宅。「三鷹の本多喜一姉へゆきし」と也。 9月1日 暑し。10:00登校すれば学長との対話要求のプラカードのみあり。中西教授(※中西進)「紀要は明日締切り厳守」と。 「回教徒の葬俗」をあとにするといひ、3月分の定期代もらひ、保田の「ある文学時代」了りしを知りなどして4時限「長春眞人西遊記」ですます。 美紀子の字にて雅子淳一の誕生祝ひの手紙けふつく。(※残暑見舞 省略) 夜、一心に書きしも400×25で了りとなる(女の家と印地打)。(けふ日本民俗学会に1,050払ふ)。 9月2日 8:00さめ、『史記始皇帝本紀』やり、10:30出て成城。morning熱し。大学院早めに了へ(池田博士に『唐代詩集』贈り礼云はる)、教授会。 (※省略) 「この間は日大生50名来りしも警官隊に追ひ返されし」ときく。「女の家と印地打」中西博士にわたせば「他は未提出」と。 「採否おま[かせ]」といひてすむ。15:30出て日本Hilton Hotelへ17:10着く。(※古谷多恵子氏披露宴) 新郎は関医博の長男にてサンフランシスコの某大学院に在学中。(※省略) 雨中、赤坂見附まで歩く。弓子頭打ちしと也。 9月3日 雨止む。5:00一度さめ安定剤のみ9:00起き斎藤dr.へ10:30ゆき12:00御診察。「軽き躁」と申上ぐ。(※残暑見舞 省略) 神田信夫氏「台湾より帰りし」と受取。阪本越郎夫人より「9.18高輪プリンスホテルにて18:00より百ケ日を」と。「出」の返事す。 古谷家への万年筆の受取り来る。(※省略)諸生へ写真送る。 けふ夜来るといひ玉ひし宮崎智慧女史「気分わるくて」と電話。 (けふ平凡社より『中国古典17』初版(※『唐代詩集』印税)1/3=325,700-32,570=293,130来り三井へ入れる)。依子より電話「名古屋で生む」と也。 9月4日 朝、母来り「大より音信なし、河野の式には1万円出しユ行くことにてよし」と也。 出てすし買って登校。渡辺氏と会ひ、山田教授の渡米の日きかる。平凡社より「7千部刷りし」と。ゼミの時間、李生のみ質問し、あとは怠け。(※省略) 成城堂にて『第二次世界大戦夜』、『習俗』、『杜甫(高木正一)』買ふ。夕方新しくつきし電話にて滝本生にかければ三浦女史出て「いま留守」と。 あとにて滝本生来り、母のかたみの布多くユに呉る。われ『堀辰雄・三好達治』与ふ。躁にて元気かつだるし。 賀代嫗より「(※息子の)離婚認められ判決まつ」と。今井翠より「山田教授を羽田に送る」と。「このごろはやらず」と教ふ。 ユ14日13:30市ヶ谷駅まで松崎女史つれゆくこととなる。北ヱ゛トナムのホーチミン胡志明(阮愛國)死す。 9月5日 8:00さめ、(※省略)写真送る。小高根二郎氏より詩や受取。松村潤氏より「楊雲萍教授に会った。『万暦武功録』を6日より」と。 ユ、松浦家にゆけば母上をり「兄この間坂出へ飛行機にてゆきし」と。縁談決まりしならん。「史、逗子へ講習にゆきをり」と。 「畠山紀子を見かけし」と。(※省略) 9月6日 8:30起き東洋文庫へ11:00着く。岡田、松村、神田3氏台湾より帰りをり「楊雲萍氏、喜びし」と。阿南氏来り次を読むこととなる。 coffeeのませ「祐天寺へ葬儀にゆく」といふに新宿にて別る。(※省略) 今中十九期生会より「金払はねば縁切る」と。 9月7日(日) 礼拝にゆく。先生こはくなられしも出席少し。(※省略) 米山生来り「蛇」2時間よます。 ユ「弓子に縁談あり」と吉祥寺へ出てゆき夕立。小山正孝氏より電話「詩人仲間には『唐代詩集』評判よし。阪本越郎の会には出られず」と。 (※省略) 夜、山田教授より電話「あす立つ、お大事に」と。「今井翠の妊娠中にてゆかれぬ」といへば「手紙もらひし」と。 note作りやっと了へし21:00也。 9月8日 10:00登校。L2Cスト一週間と貼紙す。午休み山田氏の補助として学習院教授土井洋一氏に福田氏(成蹊大)より紹介受く。土井忠生氏の後嗣ならん。 printに「長恨歌」切り、Cinggis汗を死なして一般教養すむ。阪本越郎氏の追悼『文藝広場』来る。詩の選者の後任は神保光太郎也。 ユけふ成宗の相手の家見にゆき「相当」といふ。(※省略)礼状。 9月9日 8:00さめ『史記』よみ、礼状かく。10:00『果樹園』163号来る。(※省略) 大学院早々にすまし帰宅。(※省略) 佐伯に寄れば注文せし本まだ来ず2冊追加す。(※省略)礼状かき了へる。19:30宮崎智慧女史来訪、「伊豆行の2日前心悸せし」と。 9月10日 10:00すぎ斎藤dr.。薬のみもらふ(1,400)。佐伯にゆき『新編食物史』、『部落』買ふ。(※省略)礼状。(夕方より雨)。 14:00榎並元子来り「亀と鼈とで了りにせん」と、しきりにくさみして帰りゆく。 9月11日 10:30出てすし買って(130)登校。大藤教授に聞けば「武田明氏、民俗学会に来ず」と。mykeのはめこみ忘れて大声にて中国文学史。 semiにては村松生つき、李生つかれし顔しをり。葉生力なし。「学生総会15:40よりあり」と。 われは成城堂にて石原『文禄慶長の役(440)』買ひ、小倉副手と同車、茶おごりて別れ、佐伯にて『みことばの糧(180)』買ふ。 母10:00に来て「熱あり」と寝てをり。羽田より「次嬢結婚、離れなきや」と。(※省略) けふ諦めゐし角川のHeineの印税90,567-9,056=81,511来る。入浴中、山野井秀子生より「姉と14日来る」と電話あり。 9月12日 今中十九期生会へ千円送る。母やつれ疲れをり。『骨』33来り、八尋不二氏わがことをいふ。村松生より「あす14:00来る」と。 9月13日 9:30出て東洋文庫。石田君不在。神田、松村、岡本、田川諸氏そろひ、阿南氏よむ。12:00出てcoffee(80)のみて帰宅。昼食す。 14:00村松生来り『中国婦女子の生活史』の宋まですむ。佐伯にて借りし『中国の漢文暦法(2,000)』払ひにゆき、『平和の発見 (100)』買ひ、 新本屋にて『朝鮮の民俗(1,400)』買ふ。夜、滝本生、三浦女史をつれ来り弓子の洋服の寸法はかり21:30までわが話きく。。 9月14日(日) 礼拝にゆく。婦人席少し。帰りて昼食。ユ「松崎女と阿佐谷駅で待合せ」と出てゆく。帰り来れば山野井姉妹来り「父の方すみ、秀子は心当りなし」 と。 ユ、弓子をつれて吉祥寺へゆく。山野井姉妹帰りしあと、留守番す。京帰り21:00ユ帰り、弓子いやいやの顔をす。 電話かかり「明日も会はん」と也。松崎女史より電話「相手よくあすも横浜へゆく」と。(※省略) 弓子の相手横山氏「けふも会ひたし11:00阿佐谷駅」でと也。 9月15日 だるく午までねてをり。ユ、老人の日とて母のところへゆく。「大あす大阪へゆく」と也。(※省略) 弓子17:00ごろ帰り来り、早ねす(きけば「新宿御苑にゆきし」と也)。 宮崎女史より20日歌会「駅よりユに電話す。柳田国男先生の野草雑記ありや」と。「あり。20日ユにもちゆかす」といふ。 9月16日 10:30出がけ伊藤和子生より「大藤、鎌田2先生を招く。来ずとよし」と。(※省略) 教授会。野口助教授帰り来り、比島、台湾の話し、中国地図賜ふ。 夕食後、滝本生来り、トルコ煙草とハンガリー煙草と呉る。(※省略) 9月17日 ユ、斎藤dr.にゆき近鉄事業部長野崎氏へ弓子の吊書ともちゆく。(※省略) 松崎女史より「一度話ききたし」と。(※省略) 4:00ユ、帰り来り「先生に会ひし、野崎部長には会へざりし」と。(※省略) 前川佐美雄氏より「この間はわざわざありがたう。中谷、浅野2氏来て泊りし」と。(※省略) Hungaryとのサッカー見てたのし(0-0)。けふ散髪にゆく。あす阪本越郎氏の会の為なり。 9月18日 はれ。10:40出てすし買ひ登校。文学史の時間さはがしく出欠とり、『敦煌遺文』中途でやめ、semiには吉村つく。「土曜午后、吉村来る」 と。 すみてゆっくりし南新宿下車。餡蜜(120)食ひて品川。(※阪本越郎追悼会) 高輪prince Hotelへゆく途、土砂運搬のトラックの途に入り、泥まみれになりそのままHotelへゆき、阪本越郎氏の令妹?の世話にてぬれ雑巾かけしも駄目。 同卓には亀井勝一郎夫人、室生朝子、小山正孝、川口敏夫(初見)が向ふ側、同じ側には三井ふたばこ、大木実、四季八木社長(※八木憲爾)、我。 福田清人の司会の前に夫人の挨拶あり、波多野完治(お茶の水大学長)、西脇順三郎、伊藤信吉、木俣修などの話あり。 田中冬二、竹中郁(「小野十三郎の詩の講義の種本は阪本氏」と)なども話し、令息の挨拶にて21:00すぎ了る。 帰り品川駅にて中央公論の鈴木女史と同車。五反田にて別る。 札幌の早川勝美氏よりたより。千川より「物故者法要に出し」と。『東方学』会費切れと。箕輪生「唐の文化」やりたくゼミに来ると。 9月19日 ハガキ5枚かく。(※省略) 宮崎女史に電話すれば「あす12:00阿佐谷駅にてユと会ふ」と。『ユダヤ人(300)』買ひ来りdoubleとわ かる。 その前『大化の改新』、『沖縄文化叢説(770)』買ふ。夜、松崎女史来り「沢(金)氏、気に入りし」と話す。須川知(ノリ)子生より(※披露宴案内 省略) 9月20日 9:30出て東洋文庫。けふは神田氏休み、岡本氏よみ「次はわれ」と。13:30阿佐谷へ帰り、天ぷらそば(150)食ふ。ユ、宮崎氏の歌会へ出、(※省略) 『日本の詩歌3』来る。吉村生来り『太平御覧』返し、亀と占ひのことやりゆく。 ユ17:00帰宅。前川氏「宮崎・大伴2女史の不和に宮崎氏を叱りし」と。 9月21日(日) よべ眠剤半分しかのまざりしに、保田のゆめ見て苦しく8:00すぎさめ、礼拝怠る。 けふは聖餐式あり。入信者の祝あるはずなりしも夫婦ともにゆけず。残念也。弓子掃除し13:00出てゆく。 15:00滝本生より「来るに非ずや」と電話(19:00まへゆきし也)、亀井夫人斐子より歌集(※『終ひ薔薇』)送られ礼状かく。 19:00夕食し、入浴の前後にnote作り苦し。史、美紀子2子をつれ来る。淳一太りて可愛し。 母来り「離婚費100万円を大江叔母より借りるやう話してくれ」といふ。弓子に雨靴おきて帰りしあと也。 松浦母上まだ在京「父市長工場誘致にて市議会を与党のみにて開き成案せしめし」こと新聞に見え「母上来るな」との由也。 まるまると肥えし孫はも誕生を前に祖父母を喜ばせ去る。 上一つ下二つ生えし歯を見せて笑ひて去りし孫をおもふも。 9月22日 9:00出て登校。月見そば(130)たのみ、ソロン族と漢軍の葬儀教へ昼食。1時限あきをりし故『詞抄』printせしに「来週木曜は休み」 と。 米山生のため『四部叢刊』の『山海経』と『論衡』2冊を図書館より借用し来り、 Cinggis汗すませしあと、Ögedei(※オゴデイ)の伝にかかり、Batu(※バトゥ)の征西に入らずして止め、 研究室に帰り来れば中西博士「女の夜と印地打」かきたせと返しをり。 馬淵東一氏と話して鎌田女史(お彼岸とて柳田邸へゆきし)まち、竹内生に餡蜜くはす(240)。「小正月をくはしく書く」と也。 雨降る中、佐伯へゆき『枕草子』、『東洋史講座』2冊と島田正郎『アジア(800)』にて1,100払ひて帰れば『アジア』以外はみなdouble。 福地君より「右手の手術せし」と。鍛冶美和生より茶贈らる。夜、飯倉紀子より「10月23日椿山荘で結婚式に出よ」と。(※披露宴案内 省略) 9月23日 下痢す。滝本生に「25日賀代嫗来泊」いひにゆきしに三浦女史のみをり、佐伯にまたゆき『万葉植物図説(400)』と『アメリカ西部開拓史(80)』と買ひ来る。 端午かきたさんと本多く見しも『朝鮮の年中行事』noteみつからず。 9月24日 下痢なほらず。note見つかりし故、ユを斎藤dr.にゆかしむ。雨にて古谷多恵子サンフランシスコより航空便。 9月25日 下痢ぎみなり。午后佐伯へゆきdouble本売り(500)、愚本2冊(430)買ひ『週刊朝日』買ひ来る。松本清張の「鴎外の碑」のれば也。 米山生「あす13:00来る」と。滝本生より「賀代嫗を地下鉄口にて迎へつれ来る」と20:00電話ありし。 「端午の節供」稿なりて1筆も下さず。21:00すぎ2女史賀代嫗と来り、賀代嫗大声を発して泊りゆく。 9月26日 花井夫人の妹の縁談ことわり賀代嫗の用なりしと。(※省略) 「統夫の離婚裁判10月第1回」と。齋藤晌博士よりやっと受取。 夜、礼の巡査長来り「相手吊書わたさず」と。 9月27日 9:00まへさめ、眠き中、朝食し東洋文庫へつき、田川、松村、岡本3氏相手に『万暦武功録』よむ。 12:00すぎとなりcoffee(80)駒込駅前でのみ、帰宅。母来をり「大江へ100万円の借金申込しや」と、「申込まず」と答ふ。 今井信雄氏(※諏訪中時代の教へ子)より10月25日17:00荻窪「桃山」にて「蓮田善明25回忌」す「会費3,500」と、「出」の返事かく。 佐伯にて『中国永楽宮壁画展(70)』買ひ来る。午后筑摩より「『non-fiction全集』増刷、印税21,000-2,100を三井銀行阿佐谷支店に入れし」と。 滝本より「19:30来る」と。宮崎女史「22:00までに時間あれば本返しに来る」と。(※省略) 夜、滝本・三浦2女史、弓子の洋服仕上がりしをもち来をり(宮崎女史『柳田国男集』返し、前川氏の手紙見す)。 9月28日(日) ユ「月賦の屋根屋来る」とて、われのみ礼拝にゆく。(※省略) 午后、飯倉紀子生、電話かけ来り、駅まで迎へにゆけばfiances田島英明氏と来り、菓子呉る。(※省略) 「蓮田善明25回忌」に、「欠」の返事かきしあと、須川知子生に電話すれば他の先生も招き「出」の返事ありと。 蓮田氏のこといひ、改めて「欠席」をいふ。夜「スマトラ記9」書く20×10。福地君宛に送ることとす。屋根屋即金なら17万円、分割なら17,7000と。 9月29日 下痢こらへて9:00まへ家を出、成城大学で上厠、2時限と4時限とフランス語の試験の補助。 間に李錦順生来りし故、本貸し『韓国文化人類学叢書』と『韓国の民俗』とり返し、他の4冊貸す。(※省略) けふユをして福地君に速達せしむ(135)。けふ成城堂で『三朝の風俗と文学(670)』、『南方熊楠(600)』買ふ。 9月30日 けふも下痢。10:30出てすし買ひ12:30これを食ってのち「ヴェトナム史」の深谷生教ふ。米山生も来てをり。14:30より英語の試験監督。 けさ出がけに買ひし『週刊朝日』は古にて帰り10.10号買ひ直す。『果樹園』164来り、10月号なり。(※省略) 10月1日 雨。9:30斎藤先生にゆきしに満員。下痢申上ぐ(1,400)。帰りは千駄ヶ谷に出、佐伯にて『インドの説話(160)』買ふ。 夕方出て『Erotica4(480)』買ひ来る。Londonの池田温氏より「11月帰朝」と。夜、高橋重臣君「阿佐谷へ来てをり、あす午前来る」と。 10月2日 10:00すぎ高橋君より電話、迎へにゆく。「大浜君、文学部長」となり。昼食に麺くって「神田へ」と出てゆく。(※省略) 太田夫人より「中央大学出の34才の長男と、この日曜見合するや、即返を」と、「す(※する)。あすユ祝ひにゆく」といふ。「長男13日結婚」 也。 10月3日 8:00すぎ覚む。ユ、9:00すぎ出て太田家へ祝(1万円)もちゆく。14:00帰り「成宗2丁目の34才の長男に日曜弓子会はす」と也。 論説資料保存会より「晩年の杜甫」収録可なりやと。「可」と返事す。 10月4日 10:00出て東洋文庫。『万暦武功録』岡本、松村とわれに田川博士よむ。『文藝春秋10月号(70)』買ひ来りよむ。 10月5日(日) 9:15出て礼拝、ユ、弓子の見合(※小林氏と)にてゆかず。14:00帰り来りて昼食くはす。『不二』来る。 夕方竹内(※竹内好)より電話「中野・後藤(※大高同窓中野清見・後藤孝夫)来る故、会せん、20日ごろする」と。「西川(※西川英夫)にもいへ」といふ。 10月6日 8:00起き10:00登校。試験監督。12:00深谷生来り、ベトナム史よます。 中村生「八幡太郎義家やるにつき漢文教へよ」と、「水曜来い」といひ深谷生は「木曜10:00に来る」となる。15:00疲れて出る。 けふワシントンの山田教授より「退屈す。今井翠、美紀子によろしく」と。関口八太郎君より「七七日すみ寄附した」と。 小高根二郎氏より「原稿受取った。13日よりユニチカ世田谷寮に住む」と。 夜、松崎嬢来り「叔父叔母反対、この話とりやめたのむ」と。そのまへ今井翠に電話し山田教授の伝言つたふ。 けふ太田夫人より「多額の祝にておどろいた。弓子の件、先方9日帰来、10日ごろまた会ひたし」と也し。 10月7日 ユ、須川知子、飯倉紀子2生の結婚祝ひに新宿へゆく。われ下痢し「端午」考へしのみ。12:00ユ帰り来りし故、昼食して登校。 図書館へゆきしも『金光明最勝王経』みつからず、がっかりす。(※省略) 15:00より教授会、「土曜おそはれし2Aの女生まづ大丈夫ならん」 ときく。 すみて「相良徳三先生を兼任教授とすることとなる。72才」と。大藤氏の室に集り1号館移転後のこと相談す。われ「2階がよし」と主張す。 (※省略) 出口王仁三郎の孫より小説(※出口和明『大地の母』)もらふ。 10月8日 雨、だるくユに薬とりにゆかす。中村美智子生来り『義家史料』よまし18:00帰りゆく。野崎氏より電話「候補者せ低くてダメ」と也。 小高根二郎氏より「13日より世田谷区代沢2-1-11ユニチカ世田谷寮にあり」と。(※省略) けさの中に「端午の節句」400×35とし、中西博士に電話すれば「池田、栗山2博士未提出ゆゑ来週でよし」と。(※省略) 10月9日 雨。母、早くより来り「ルリ子の品物一つもとどかず」と訴へをる由。受取なく送状もなき也。(※省略) 下痢つづく。 15:00深谷生来り「ヴェトナム史」いやいややりゆく。庄田泰子より「あす朝、田中久子と来る」と。弓子銀座から電話(21:00すぎ)。 10月10日(体育の日) 葉生来り「新竹市史」やれといひて本貸すところへ柿崎、田中久子、庄田泰子の3生来る。葉生帰りしあと12:30に待合せと3人とも去る。 『人間の星』(※西川満著1959)来り、山川弘至のことかく故、訪ねてゆけば面会日でなしと。「台湾地図」置き、 佐伯で『結婚論(30)』買ひ『李王朝六百年史(450)』借り来る。(※省略) けふ新聞に「鎌田重雄死、60才」とあり。神田氏より電話「松村氏葬儀委員長とてあすの研究会とりやめ」と。 けふ角川よりハイネ6版8千部(9×8000+x)送り来る。 10月11日 散髪にゆく。佐伯へ450もちゆけば150呉る。帰りてユの買物まち、12:00出て成城の民俗学会。沢田四郎作博士に会ひてのち開会、 都立大の法科の教授某の話おもしろくなく、来年度「元典章」やらんと思ふ。 丸重俊、都留純也来をり、都留生Nepalへゆきしと。夕食立食にて沢田博士に写真とられ、 博士とならぶをとりくれしは、桜井の松本俊吉氏とて、この夏、栢木喜一氏にいひつけて呼びしに不快といひてことわりしとおぼえをり。 beerちょっと飲みてまっ赤になり困る。帰途、東洋大学大島健彦氏と同行、駅で平山敏治郎博士とともになり「大学院へ来らんか」とよけいなこときき不快となり。 帰宅すれば松崎佐知嬢の姉と叔母来をり「佐知嬢電話に出ず、母とも話さず」と、夫婦してあやまり代り探すといふ。 (白鳥芳郎君「父にもわるきところありし」と鎌田の死にしを知りをり。詩人須崎梅濱氏(※不詳)80才で亡くなられれしと通知あり、鬱気味となる)。 10月12日(日) 寒し。9:20ユ、出てゆきしあと工事人来り、10:00われ茶出す。「鎌田重雄死!、葬儀本日調布市延浄寺にて」と通知あり! 『立教大学史学会名簿』、『人間連邦(詩人連邦の改版)』とともに西川満氏より「火、土以外に来よ」と。 弓子10:00より高尾山へゆくとかいて出かける。山田俊雄氏へ近況かく。ユ、この手紙出しにゆく間に史の一家来る。淳一可愛くなりをり。 買物にと3人出かけしあと淳一眠る。けふ工事一応すみしと也。弓子多摩へゆき寒かりしと也。 10月13日 晴、9:00ごろ悪夢見てさめる。葉雅美に電話「立教史学科出の姉に手伝はせよ」といへば「家にをらず」と。姜照美へおくればせの礼状。 けふは太田弘毅君の結婚式なり。服部夫人へ昨日贈られし梨の礼状。 本田浩生より『室生犀星』贈られ、朝子君離婚の由知る。母来り、ユと買物に出てゆく。 佐伯へdouble本もちゆき150円といふ故『近代文学研究史論(250)』と『ロシア語-英語辞典(100)』買ふ。 (郵便出しにゆき三上次男『陶磁の道』買ひ、滝本によれば留守なりし。帰れば電話かかりをり「近日来る」と。) (※省略) 西川満氏に電話し「その中ゆく」といふ。鎌田重雄のことなど思ひ出して鬱となる。(※亞細亞文化研究所時代に不和の同僚。) 小高根二郎氏に電話すれば25日の「蓮田善明の会にて会ふ」とのこととなる。 10月14日 9:00まへ大工さん金とりに来り、ユ銀行へと走る。われ下河辺美智子に電話す。13:00李生来り『朝鮮語辞典』もちゆく。 そのあと金子書店にて『日本語の系統(250)』買ふ。鬱ひどきとき滝本生来り、憎悪の念を改むることをいふ。21:30となり帰りゆく。 10月15日 だるきも9:00出て斎藤先生に参れば14:00~16:00と変更と。帰宅してつまらぬ顔して昼食。13:00出てまた斎藤先生にゆき20分まちてお目にかかり鬱はげしといへば薬かへ玉ふ。 都電にのり新宿へ出て帰宅。今宮高校の校長に藤井君なりし。 10月16日 だるがり乍ら10:20出て、すし買ひ登校。教務へゆき311のmykeのこといへば、その時間にゆきくれると。 序でに『朝鮮歳時記』のcopyたのめば、あとにて1,200と出来をり。311ひびきて聞こえざりしと也! 15:50よりの専攻説明会に出れば国文と文化史とにて60人足らずらし。国文の諸氏の説明すみ、話合ひ呼びかける学生あり。 中西助教授とらへられて困りゐるに「文化史の説明せよ」との女生の声あり。なほも呼ぶゆゑ「黙れ、あとで話しに来い」といひ、 大藤教授(歯の治療と)の代りに専攻の性質いひ、ついで鎌田、野口、新城と3氏の話すみ、 わがゼミのこといひて先ほどの学生呼べば4人来り(中に1人タバコ吸ふ女生あり)、理想の社会をといふ。 野口君来り「田中先生は前年体をわるくされし故、われに云へ」と。30分ですみ、鎌田女史に茶菓よばれて帰る。(※省略) 10月17日 だるし。佐伯へゆき『中国古典全集』の既版本納入を奥さんにたのみ、 『中国政治制度史(350?)』買ひて帰れば、榎並生来をり「すっぽん」の古今図書集成の箇所よます。われ3度放尿にゆき17:00までやりて帰す。 成城大学2生課長より電話「あす13:00臨時教授」と。松村潤氏より電話かかりしに、その旨告げ「欠席するやもしれず」といふ。 けふ硲晃(※今宮中時代の教へ子)より「交野へ転居」と。 10月18日 けふ朝より上厠3回、10:00成城教務へ欠席の届せしところへ新城教授より電話、これも休むと也。(※省略) ユ、渋谷へゆき母と京と西武で会ひ、着物見繕ひしと14:30帰り来る。 夜、肥下夫人より栗一籠たまふ。鬱ややのきし。弓子、会社の遠足にて外泊と。 10月19日(日) 小雨。われくたびれて礼拝にゆかず。Ögödeiの時代のMongolsの征西のノート苦心してつくる。(※省略) 19:00片岡夫人、沢氏つれ来り「松崎女史と沢氏とまだ切れず、応援たのむ」と。われ長[広]舌ふるひ鬱を忘る。 21:00、2氏帰りしあと李錦順生より電話「あす学課なし」と。「来い」といへば「13:00来る」となりし。弓子、那須より帰り来りヱハガキ呉る。 澄に電話し「金ついたか」と問へば「ついた、すぐ返す」とのことに「10万円はやる。弓子の分だけ返せ」といふ。 硲君に「内憂外患」とかく。 10月20日 李生より電話「けふ来ず、あさって来る」と。何も出来ず不安でをり、佐伯へゆき駄本買ひ、学校への本注文す。 竹内(※竹内好)に電話すれば「中国の会」と夫人。2回目電話通じ「22日18:00するが台下すずきうなぎにて会す」と。西川に電話すれば「19:00すぎ行く」と。 矢野の会社に電話し、遠足とのことに夕方かければ「まだ帰らず、その旨伝ふ」と夫人。 滝本生来り、わが躁うべなふ。(そのまへ松崎女史来りし故「主のみめぐみあらば」といふ)。 けふ肥下夫人より「里子の貸し本まだ残りをり」と送状。(※省略) 『日本の詩歌』25回来る。 10月21日 8:00起され朝食後『史記』note作りゐれば矢野より電話「新潟へゆく故出られず」と。(※省略) 成城に電話すれば「午后の講義とりやめ」と。青木母に電話して「遊びに来い」といふ。 母より「西島家の歴史(※https://cogito.jp.net/tanaka/jikaban /NishijimashiRekidaiko.html)かせ」と。河野の婚礼用なり。 わが家に2冊あり1冊は父の訂正本なり。それでなきを貸すこととす。 新宿方面でdemo隊、警官と対峙す。2女早く帰り来り、21万円母に与へ17:00ごろ帰り来る。 (竹内に電話すれば「ねてをり。あすゆく」と。) 十時生電話かけ来り「山本恭子より聞いた。一度来たし」と。 折しも文化勲章に獅子文六ら4人、文化功労者に吉川幸次郎博士とともに島枝師長の名あがる。(※省略) 10月22日 雨。10:00斎藤dr.。成城へゆきsalaryもらひ、教務へゼロックス代1,200払ひ、成城堂にて本3冊買ひ、帰れば李生待ちをり。 『東国歳時記』少しよんでやる。服部さの子夫人(※服部正己未亡人)より便り。河野岑夫より「登夫の結婚式通知あり」(※省略) ユの買物了りしあと中央線にてお茶の水「寿々喜」といふうなぎ屋にゆけば竹内をり、中野、後藤(※中野清見・後藤孝夫)来り思ひ出話す。 21:30すみ、中野をHotelに送り竹内と同車。 阿佐谷にて下りる時1,000わたす。あとにて夫人より礼の電話あり。けふ佐伯にて『西上総民俗誌(300)』買ふ。 10月23日 京、母の荷物もちに出、家見つからず「大が起きて東京駅までゆきし」と。ユ、滝本生の式服のあつらへにゆきしあと、 村松生来り「15万円をKO生に貸し、しかも断られし」と。card見せて泣く。哀れなり。 昼食くはせしのみにて新宿で別れ、目白駅より徒歩にて椿山荘。鎌田女史と石川生と来をり、あとは名をおぼえず。 15:00近くより(※飯倉紀子氏)披露宴はじまり、われ新婦側の筆頭とて「この子良き子」といふ。「18:00北海道へ羽田発」と。 歩きて帰り来る。(※省略) 10月24日 10:00すぎ、葉生来り『蘭領スペイン領の台湾』すます。『民間伝承286』来る。 佐伯へゆき『ネパール民俗美術展』、『話の事典』、『世界史年表』など買ふ。ユ、西武へ電話して洋服注文す。河野へ「11月23日ユはゆく」と返事す。 10月25日 6:00まへ起き(よべ0:00ごろねつきし)ダルク、東洋文庫休む。11:00前、松浦薫父上、雅子美紀子と来り、市庁でのつき上げ話して帰り ゆく。 (※省略) 雨の中出て荻窪の普茶料理「桃山」へとゆく。中谷孝雄来ず。(※蓮田善明25回忌) 小高根二郎、林富士馬との和解してくれし。みな蓮田善明のよき人なりしことを云ふも、終戦neuroseに触れず。 池田博士(※池田勉)の散会の辞のあと、われそれを云へば小高根二郎「戦局の大勢刻々と入ってゐたから」云々。座を白けさしてすみしのみ。 22:00帰宅。飯一杯食ひ、入浴すれば杉本女史より「明日来たし」と。「14:00すぎ来よ」といふ。 10月26日(日) 6:00まへ起き、ねたらず礼拝休む。(※省略)榎並生14:00来り、われ忘れをり。「太田母子14:30来る」とのことにて、 その旨云ひ元亀のところよみゐれば太田弘毅・節子夫妻来り、節子「詩を作り美人にて高松市の出」と。 「母上にやきもちやかすな」と云ひ了へしところへ文夫人来り「飛鳥旅行す」と。17:00ごろ機嫌よく帰りゆく。(※省略) 夜、村松生より「恋愛やめた」と。「喜ばし」といふ。 10月27日 22:00眠り(眠剤1服半)8:00さむ。だるきも登校。 東洋文化史、古きノートにてすまし、中西博士をほめ、printに『三国志演義』の劉備三顧の箇所切り(「文化祭中止」と)、 浅賀副手に紅茶のまされ1年のMongolsの欧州遠征すまし、ふらふらと帰宅。(※省略) 李生教へる中19:00となり、あはてて女医さんにゆく。「血液しらべしもむ異常なし」と。「太らせてくれ」と薬たのみ帰りて、 李生の夕食すませしを見てまたちょっとやり帰らす。入浴2回、『史記』の予習明日にのばす。 10月28日 悪夢を見てさむ。8:00なり。『史記始皇帝本紀』よみ、14:40出て成城大学。佐伯よりの本来てをり。14:10より教授会。 この間の学長の訓示やぶきし男生の戒飭を議し、(※省略) 夜、深谷生に電話し「あす14:10より臨時学生総会あり、葉生のみ」といふこととす。 (山本達郎『安南史研究』5.5万と『北平風俗類徴』とを琳琅閣にきのふ注文せしもいかがにや)。佐伯に本つきしをいひ、『韓退之集(220)』 買ふ。 10月29日 8:00出て斎藤dr.。35分待ちて眠剤かへていただく。新宿まで歩き柏井へゆき下入歯けづってもらふ。帰りて昼食。 13:30葉生より「歯痛みこられず」とのことに(※仮病と断じて)「臨時学生総会に委任状出せ」といひ、佐伯へゆき『絵馬巡礼と俗信の研究(650)』買ひ、 滝本へゆけば2女史そろひをり茶のませてもらひ帰り来る。〒なし。夜、松村潤氏より「この土曜なし」と。 10月30日 10:30出てすしや未だといふに新宿にて焼売買ひて食ひをれば「けふ12:00より臨時教授会」と。 出れば昨日文芸学部ストに入らんとし「けふ15:00までに学長の会見なければスト」と。高田部長「学生会員に告ぐ」文を見せ、 12:40にて一旦打切りしに藤田槇子来り「11月29日の式に出よ」と。あとにて気づき311教室にゆき見れば女生20名をり、すまずといひ、 コーヒー飲みゼミの子たちに「わが家で」といひ15:40再教授会に出れば「死馬にむちうつな」と「高垣学長の頑固いたし方なし」と。 若手の連中承知せず、学生課に4~50人の押しよせゐるを見て帰宅。食欲なくてゐるところへ十時フサ子(いま堺姓)より電話「主人旅行中」と。 20:00来りしを迎へにゆき、不自然なる夫婦生活の話きき、ユともども呆れて23:00送り出す。(天野忠より詩集(※『昨日の眺め』)来る。) (「前橋の渋谷国忠氏肺腫瘍にて逝去」と。) 10月31日 成城のスト新聞にのらず。よべ眠りがたく夜半、半服追加。 10:00すぎ米山生に電話すれば「13:00来る」と。来りて『内閣文庫漢籍目録』引き了らざるにわれ疲れ、16:30もち帰らす。 〒なし。『果樹園』のしめ切り全く忘れゐし。澄より電話あり「ユ11月22日ゆきて泊り、翌朝出て式に出、帰京」と予定いふ。 11月1日 よべ9時間近くねて8:00さめ、朝食して散髪。吉村達代来りしに「アジアの占ひとせよ」と書きかた教へ、午の麺くはせ帰りしあと、 李錦順生に正月元日の項よんでやる。佐伯へゆき駄本2冊買ふ。(※省略) 小山正孝氏に電話すれば「平凡社、残りくれし」と。「われももらへば渡辺氏を宴せん」といふ。 11月2日(日) 7:00さめ、秋山昭子夫人にハガキかき、ユと聖餐式に出、帰りてまてば榎並生14:20来り、わが叱りしにしぶしぶ勉強し帰りゆく。 李生より電話「榎並生をりや」と、「をらず」といへば全学スト反対の為、連絡したき様子也。 有島生より電話「意見ききたし」と、「電話でいふ」と「今頃ストするは高校並」といひ「4日夜来る」こととなる。 滝本生、三浦女史つれ来り、ユの寸法とり22:00帰りゆく。沢田博士の祝賀会の出欠問ひ来る。 11月3日 8:30覚む。10:00ユ、多摩墓地に、弓子dateにと出てゆく。葉生来り、台湾の歴史のはじめやり、すし買ひ来り食はす(13:30)。 村松生来り、「共闘派の女学生を助けるため」云々と。叱りて15:00帰り来しユとともども送り出す。(※省略) 沢田四郎作博士の古希祝に「欠」の返事す。夜、『史記』の「始皇帝本紀」始皇の死までよむ。 11月4日 7:00さめ9:00すぎ斎藤dr.にゆき病状申上ぐ。「急ぎの時は看護婦にいへ」と也。高桑純夫氏より「豊橋大学閉鎖中」と。 大学院にゆき麝島、竹内2生と『史記』よみ始皇帝の死にて了り、高田部長に大藤主任(「採集にゆきし」と)の代理として出、 文芸学部長名義にて「無期限ストは反対」の告示することを了解し、大学院の修士論文の中間報告をきく。池田生に「于」「干」「千」の区別を教へ、 影山生より「油屋焼けしあと堀さん川端康成の別荘に入りし」ときき首をかしぐ。成城大飯店にて桜井生と高田部長の間に坐り大いに笑ふ。 11月5日 8:00さめ『週刊朝日』買ひにゆく。松本清張の「鴎外の婢」よまんと也。帰り来り、米山生に電話かければ「12:00すぎ来る」と。 ユ、滝本へ喪服あつらへに出てゆく。ユ帰り来しあと米山生と麺食べ16:00帰りゆく。 (村松生に電話せしに「序文かく」と。よべ出し慶応の小川生といふが怪しむべし)。 平凡社の渡辺氏来り、残金(137,162-13,761)123,446おきゆかる。22:00小高根二郎氏より電話「兄の就職云々、停年は65才」と。 11月6日 8:00さめ、10:00すぎ出てすし食ひ成城大学。経済もストに入り、短大のみをあます。中国文学史の教室を245に変えへしも来らず。 2人立ちゐるを見つけ呼び来る。3B、3D、2人也。『三国志』すませ、ゼミに4人来しを教へをれば2Dの某来り、不足いふ。 立たせて榎並と卜ひのcardよみ「あすの学部総会に出よ」といひて帰宅。 来週、民俗研究会に3人ゆくらしく暢気なることかな!夜、李生より電話あり「あす来られず」と。倭周蔵より「大宮前に転居」と。 11月7日 ユをして新聞にゆき藤田槇子生に祝(3,500)贈らす。帰り来り昼食す。『果樹園』来りをり、丁度小高根二郎氏に2,500送りし也。 夜、李生より電話「あす16:00来る。けふ決とれず月曜再び大会」と。「あす14:00葉生来る」と也。 大藤氏より電話「大学院の漢文試験問題作れ。月曜までに」と。(夕方高円寺の古本市にゆきしも何もなし)。 11月8日 7:30さめ、10:00まへ出て東洋文庫。岡本、松村2氏とで田川博士のよむをきく。「次はわがよむ番」と。 13:00阿佐谷に帰り佐伯にて『Erotica2』とり、葉生に14:30まで台湾史の概説をす。「李生の姉、今井翠と同級たりし」と。 翠母子、河野への史の祝2千円もち来て話す。(※省略) 19:30送り出して佐伯へ『Erotica』のそろひ5冊もちゆく。 中河与一先生より「従軍のおまけつきにてはなかりし」と透谷賞の授賞につきハガキ貰ひ「(※詩集でなく)雑文にてもらひガッカリした」と返事かく。 11月9日(日) 礼拝にユゆく。14:00榎並生来りしもnon-poliにて叱りしのみ。帰りしあと佐伯にゆき1,250受取り、 電話ありし川久保にゆき「卒論に原典つかはず」ときく。中河与一氏より「角川の全集に解説かけ」と。「stにてだめ」とお断りす。 11月10日 10:30登校。東洋文化史の教室にゆけば12~3人(男1人)クラス討論しをり。中にLeaderをりて齋藤かよ子といふ。終始しゃべりてやま ず。 「あとにて来よ」といへば来って「教授の学問的熱心なし」と例あげ、人骨発掘せしを云ふ「3号館の新築工事中のこと也し」と。 14:10になり143号室の前に待ちをれば1人来りし故「学生大会へゆけ」といひ、ゆき見しに「傍聴すなり」と。教授会との面談を要求しをり。 柏手あり。出て諸教官探せしもゐず、大藤氏見つけ(※省略)。 夕方、大に電話すれば「あすより韓国へ5日間ゆく。離婚はそのあと」と。 18:00齋藤かよ子に電話すればやがて帰宅。「教授と面談」ときまりしと。スト解くはそのあと也。 われ「あす出ず」といひ「無礼になるな」といふ。 咲耶より電話「23日出るや」と、「出られず」といひ神式かと問へば「然り」と。けふ都庁の男「ダメ」といひ来りしと。 弓子ハガキ500枚買ひ来る。 11月11日 9:00出て山住dr.、薬かへたまはず。斎藤dr.にゆき薬とり(1,400)代々木まで歩き東豊書店にゆきcoffeeのまされ、200の本 買ひ、 食事の時間も食欲なくpão買ひ、大学院の前後に食ふ。16:00すぎより教授会。 高田部長辞任を申し出でビラの見本見せる。(あとにて堀川教授の書きしものとわかり、新評議員となりしとていよいよ複雑なり)。 (4D、3D、2Dの全員との話合に5人出ることとし「日は民俗の3人帰京後の来週」となる)。(※省略) 天野忠の詩集出版会に「ストにて出られず」といふ。 11月12日 9:00出て10:00登校。11:20より30分監督し14:00面接。国文4人英文2人庶民文化4人を皆入学許可とす。(※省略) 夜、滝本生来り不満をいふ。 11月13日 晴。5回生の名簿送り来りし礼を吉田恒子にかく。(※省略) 12:00出て佐伯により13:30ごろ成城大学。 途に会ひし男生「講義なきや」と。「身体検査にて休みとの事也」といひ、semiまで待ち、写真とらる。(李生「歯医者へゆく」とて来ず)。(※省略) 11月14日 10:00深谷生来り、ヱ゛トナム史少しもわからず。昼食くはせしところへ李生来り、これまた何もわからず。 早々に追ひ返し鬱々とをれば 20:00近く宮崎智慧女史来り、わが顔色見て帰りゆく。 松村潤氏に電話せしに「まだ帰らず」と。「万暦武功録 東三辺 二、三」早くなくなりしらし。 11月15日 暖かし。無為にして村松生来るを待ち、少しやれば「くたびれた」と。藤田槇子母より祝の礼状。 11月16日(日) 礼拝に夫婦してゆく。帰りてユと竹森先生のお話について話合ひ、かみあはず。 突然、史親子来り、(※省略) 淳一、雅子あばれまはり早々に帰りゆく。伊藤整死す。 11月17日 ユに「風邪」と成城へ電話かけさす。雨降り寒く、ユ河北病院へゆけば「あさって9:00バリウムのます」と也。 深谷生より「水曜10:00葉生来り13:00ごろ来る」と電話。雨漏り相当といふに電話せしに不在。 11月18日 9:00出て斎藤dr.。学校騒動申上げ、薬8日分賜ふ(1,600)。11:00すぎ成城へゆきprint。大学院へゆき柿崎の実習の話きく。 麝島マリ子「こぶとり爺さん」ゆると。帰りて教授会。堀川たびたび出入りし、室外に学生坐りをるを見、高田の「無期限ストとかねば停学1年」の案にぎりつぶし、 皆立ち去りしあと学生ら37~40人出入し、高田に経緯報告要求す。呼びにゆきしも来しは中西と小倉副手のみ。 20:00帰りて小倉とスパゲティ食ひ(300)帰りて飯食ふ。歯わるく咬めず。 11月19日 ユ、炬燵に火入れて河北病院へバリウムのみにゆく(9:00)。10:00葉生来り13:00帰りゆき13:30深谷生来る。ともに指導旨くゆかず。 柏井へゆき下歯抑へてもらふ。けふ京「中央道路にて万国博へ」とゆき、「あす名古屋へ寄る」筈也。 夜、李錦順生に電話してきけば「文化史の諸先生、きみたち尤もといひ、スト反対派何も云へざりし」と。 11月20日 10:45出て、大阪ずし買ひ登校。大藤教授にきのふのこときけば「皆了解してくれ心配いらず。西洋史の卒論希望者4人あり云々」。 12:30(高田部長会議とて会へず)会へず311にゆけば女生1人、ややして小山生(3D)来り、「ストできめた授業反対」といふ内、 女生4人来り、1人小山生に抗議せしあと[を]つけ「あすの総会に出よ」といひ、李生につかまる。 人参また1箱もち来し也。少しもよめず、semiに7人そろひしところにて「下書きせよ、見せに来よ」といひ、ジャンケンにて土日の順きめし。 帰りて夕食するところへ滝本生がもち来しユの洋服の色、気にいらずポンポン云ひて帰らす。 ユ、依子に電話し「行けず」といへば「ああそう」と。京まだ着かざる也。 けふ中央公論より「端午の節句」の校正来をり。(明武谷全負にて休場、引退か。) 11月21日 午前中、校正すませしところへ林叔父、火災保険とりに来る。昼食せしめ、駅まで送り、校正書留速達にて中央公論社石崎晃氏へ送る。 帰れば文芸春秋校正部の関根弘氏(※著名詩人とは別人)、カステラもちて来たまひ、われに作品を示す。「短く」といひて送り出す。 ユ、河野へ1万円と3千円の為替うちにゆき、美紀子に史の参列たのむ。けふ「まづ十二指腸潰瘍」と診断されし也。 京、名古屋にをり、たよりなし。けふ学生総会なり。関根氏にもらひし『諸君12月号』よみstudent powerさっぱりわからず。 20:00すぎ河野岑夫に電話し「史、代りにやる」といふ。(美紀子より連絡つく筈也)。 11月22日 朝、李生より電話「けふ来られず」と。深谷生来り午飯くひ5:00すぎまでをり。この間の文化史の教授と学生の懇談会「ご尤も」ばかりなりしと。 「昨日、議長選に勝ちしもあと教授団との会見をきめしのみにて18:00となりし」と。 佐藤総理、アメリカより「沖縄返還受けた。韓国、台湾、南ヱ゛トナムについては考慮す」といひ来りしと。 11月23日(日) 夫婦とも礼拝休む。14:30吉村達代来り「うらなひ」もう清書すと也!カステラ1箱母よりともち来る。田嶋紀子より式の写真送り来る。 11月24日 10:00登校。あす臨時大学問題審議会の第2次とて11:00校庭を出、六本木より日比谷公園までデモ。文部省前にて牛歩とのビラ呉る。 くさりて東洋文化史にゆきしに5名来り、また待ちて4時限の東洋史に出れば男生3人、女生2人のみ。出席とりて帰る。 この間、葉生来り「家へ来る」と。「16:00よりあと」といひ帰宅。電話すれば歩きて来る。21:00となりユ返す。 けふ成城堂の払3,530-176。「佐伯の請求書、図書館へまはらず」と浅賀副手いふに寄りてわび『白鳥庫吉全集』と『平戸蘭館日記3』たのむ。 11月25日 女医にゆき注射され「診断書いただけるや」と問へば「出す」と。散髪にゆきユをして「大学院と臨時教授会の欠席」を届けさす。 石山直一氏より「停年、帝塚山短大に紹介を」と。杉山平一氏に名刺かきて入る。けふ弓子「寒き中をdate」と。京もおそし。 11月26日 9:30出て斎藤dr.。薬かへたまはず(800!)、混むゆゑ「木曜に来る」と申し上ぐ。フラフラ帰り何もせず。 中央公論より諺文の扱ひと建武年中行事について問合せあり。夜、滝本生来り「平田(※賀代嫗娘婿)免職、家売りて鎌倉へでも来るか」と。不快にて相手できず。 11月27日 10:40出てすし買ひ登校。文芸学部長、教務部長、学生部長の連名にて「12月1日以後の授業妨害は処罰す」と掲示せし由。 中国文学史10人ほどにてやり、semiにてあと1週間の割り当てし「箕輪、西岡2生のsemi承知」と印押し帰る。 夜、鎌田女史より電話「松村助教授のsemiといひし子、1人来るやもしれず」と。けふ外大より満洲口語の採集記来る。岡田君のせい也。 11月28日 寒し。午后榎並生来り『古今図書集成』をウソ[様]にて写しゐるを叱りゐるところへ山野井秀子来り、(※省略) 20:00すぎまで話しゆく。 葉生より「あす李生の代りに来る」と。 11月29日 11:00すぎ出て赤坂見附よりHilton Hotelの藤田槇子生の結婚披露宴に出る。(あさ教務課より「スト解除」の電話ありし)。(※省略) 16:30帰り、葉生の来るのを待ち、卒論ほぼ形をなせしと喜び帰る。 11月30日(日) 9:00さめ礼拝に参らず。雨の中を深谷生来り16:00までをり(3Dの中山順子来り「太平天国やる」と)。 夜、李生より電話「一家留守にて来られず。あす朝、原稿もち来る」と。 12月1日 「けふとあすと休講」の電話かけ、12:30来し李生の論文半分なほせし処にて「13:30より約束あり」と帰りゆく。 米山生14:00、Chou a crèmeもち来り、干支のみすみしこととなる。「あと何か十二支の一つ書け」と注文つける。 12月2日 ユ、斎藤dr.に薬とりにゆき「前の不足分とられし」と。帰りしに女医さんにゆき睡眠薬のこときけば「出します」と也。 午食の時、呼びし村松生来り「腎臓悪きかと浜松へ帰りし」と也。叱りゐるところ葉生来り、年中行事のみをのこすこととなる。 台北の頼永承・劉慶理夫妻よりXmas-card来る。 12月3日 年賀ハガキの印刷たのみにゆく。「15日出来2,500」と。 12月4日 21:00すぎねて4:00ごろ覚む。  とほい山と湖とのある異教の国を  わたしはときどき思ひ出す  わたしは刀をもち甚だ高慢であった  いま母国の市にゐてわたしはうなだれる  十字架を握ってゐるからだが  わたしの心は明るくまるで若くなったかのやうだ   ×  ぼくの詩をちょっと愛し  ヴァレリーに打ち込んでゐた  フィリピンで戦死して帰ってこないので  一番の親友と今でも思ってゐる  彼は子供をもたず著書もなく  やがて皆から忘れられるだらう  わたしと再会の日はいつだらうか 高橋重臣君より電話「10:00より会議。出て来ぬか」との様なりし。寒し。9:30来り、夜また来る様子にて帰りゆく。 10:30出てすし買ひ登校。「高田部長わが休みしを気にしてをり」と。 中国文学史、有島らをり、わが愛読書「アンナ・カレーニナ」、「復活」といふも手応へなし。 やめて李生の論文直し(葉と榎並生と休む)わが家にてのsemiわり当てし「何としても通す」顔す。(※卒論指導 省略) あすゆり返しの学生大会なるもわれ不関焉。帰りて飯くひ了れば高橋君、長女足達眞理つれ来る。「児童文学やる」となり。 駅まで送りゆき寒し。ユけふ河野へ電話すれば「母京都へゆきをり」と。21:30澄より電話「依子調子悪し」と。 12月5日 午前中、深谷生来り「秦漢と越南」ほぼすまし昼食して帰りゆく。15:00榎並生来り「亀」やり50枚に近くなる。(※省略) 頼永承・劉慶理夫妻にXmas-cardかく。夕方、澄より「依子入院、胆嚢の手術す」と。ユ「泰つれにゆく」といふ。 12月6日 ユ8:00起き(よべ23:30澄より電話「トボつれに来い」とのこととなりしと)。9:00すぎ貯金帳と印と1万円置きて出てゆく。 榎並生11:00近く来り、(※卒論指導 省略) 三鷹の小林君に弓子「母をらず、来い」といへば来り、柿呉る。 「史と同い年にて栗橋に疎開しゐし」と。営団地下鉄の技師となり。「近々母上に会はせよ」といひてすし食はせる。 澄よりこれに先だち「依子、手術の要なきかもしれず。ユあすトボつれて来る」と。(※省略) 12月7日(日) 礼拝にゆく。長島さん「お茶にさそはる」、われ「4~5歳の感情」と自己紹介す。弓子「三鷹の母上に」と出てゆきしあと、ユより電話「点滴療法つづけをる故帰れず」 と。 わがむすめ昇天の日を祈りつつわれは泣くらむなんの涙か。 (※省略) 滝本生に電話すべく三浦女史にゆけばかけてくれ「夜食ともにす」と也。17:30来り、まづきすし買ひ来る。 滝本生whiskyに酔ひ雨の中を帰りゆく。澄より電話「依子、危機脱せし様子」と。(※省略) 12月8日 弓子soup作りくれし故、食べ、京より先出て成城大学。2年生出てをり齋藤カヨ子呼びて来年度semiに出よといへば顔上げず「ハイ」といふ。 中国文学史のprint切り1年に出て「家に来よ。アクビするか私語すれば止める」といふ。 帰りて石山直一氏より「杉山平一君に会ひしもダメ」と。(※省略) 浅野晃の詩碑拠金報告見る。保田3千円出しをり!三島由紀夫5千円! 0:00ユに電話すれば「明日あたりおもゆ食ふ様になれば1度帰る」と。 12月9日 8:00京に起され(春夫先生のゆめみゐし)、すし買って登校。大学院semiにて雑談せしあと麝島・柿崎2生と蜜豆くひて帰宅。 20:00電話せしに澄出て「依子食ふ様になりし」と。ユ出てあす帰ると(「小林氏のことにて三鷹の某女史より電話ありし」と母いふ。) 12月10日 さめて8:00京おこし10:30出て斎藤dr.にゆけば満員。婦長さんにたのみcarte書いていただく(※通院の終了)。J&B(5,000)をお歳暮とし、永年のお礼いふ。1,600なりし。 帰り滝本生に寄りユ帰るをいひ、昼食作ってもらひしも食はず、干柿と干菓子と食ひて深谷生の直ししゐるところへユ弓子にて泰つれて帰り来る。 「依子の容態ややよくなりしも良くて1年間の仕事」と。 米山生来り「馬」の論文おきゆく。「月曜返す」といひ直しをしてゐるところへ、三叉神経痛とて滝本生来る。(※省略) 12月11日 8:00ごろまで横臥。「O型の輸血に京、弓子ナゴヤへゆく」と。哀れ也。トボ喘息気味にして弱く黒し。 10:00出て「すし未だ」といふに成城駅にて雑煮食ふ。けふ高田部長(※高田瑞穂)に久しぶりに会ひ、互ひに心配しあひしを云ふ。東大の同級生なればなり。 bonusと増俸とにて30万円余もらふ。佐伯に寄り『白鳥庫吉全集1』、『古代朝日関係史』、『平戸オランダ商館日誌3』とにて5千円払ひ、痴婆子伝の訳も買ふ。 (※卒論指導 省略) 澄より「弓子の輸血すみて依子元気となり、京は風邪にて輸血できざりし」と。2人とも21:30帰り来る。 泰「喘息」とて山住先生にゆけば、滝本よべ遅く電話し「発作再発せし」と。母来り、夕食して帰りゆく。 12月12日 ユ出てゆきしあと、李生来り、ほぼすまし14:00出て雲呑麺くふ(100)。米山生来り、これもほぼすむ。 ユ15:00ごろ電話かけ来り「母、神経痛にてひっくりかへりし」と。17:00ごろ帰り来る。(※省略) 大東塾より「年末献金を」と。 (※お歳暮 省略) ユの話にては三鷹の仲人「来年正月に結納」とせんと。(※省略) 阿南惟敬氏より「蒙古八旛の指導を早大大学院生に」と、そのひまなし。 12月13日 葉生10:00来り、雑煮くひしあと去る。榎並生来りてデタラメすむ。「村松とともに勉強す」と也。 12月14日(日) ユのみ礼拝にゆき、泰、弓子と遊ぶ。午、ユ帰り来り、泰つれて天沼へゆき、弓子出てゆく。(※喪中欠礼 お歳暮 省略) 12月15日 9:00出て「周代の葬礼」ちょっとやり、昼食して来し米山生と李生とに2箱づつ本つめさす。1/10にも足らず。葉生来ず。 1年生の「東洋史」Carpini(※イタリアのフランシスコ会士)に托せし教皇の手紙のことのべ、Güyük(※元帝国3代皇帝)の返信はあとにまはしChristmas待つ。 「新年を君たちに」といふ。いつも一番前にゐる男生、吉川博士「李白の田中云々」と。 杉山平一氏より「丁度(※帝塚山短大の欠員)ふさがりし故、(※再就職希望の)石山氏ことわりし」と。(※喪中欠礼 お歳暮 省略) 渡辺春輔氏へ1万円贈ることとす。泰、風邪とて山住女医にゆき、ユ斎藤先生より睡眠薬の申し次ぎなきを悟る。ふしぎなること多し。 詩2篇を『果樹園』に写す。諏訪父上より泰の食はぬみかんなど賜はる。 12月16日 10:50出て大学院にゆき柿崎・麝島2生に本包ませ昼食にさそふ。14:00教授会、新城博士休み。すみて学生代表と対談と。 バカらしくしるこ(130)食ひて飯島生と同車。GoldenBatの礼いふ。母入浴したがりしと。(きのふ出来し賀状500×5)。 12月17日 賀状かきそむ(できるだけ少く)。ユ、白鳥、栗山2家への歳暮に泰つれて新宿。泰やっと鼻汁とまる。今井翠男児出産と。(※省略) 諏訪父上より11日出しの見舞状、恐縮して返事速達し、滝本に寄れば「21日に賀代嫗に会ふ」と。(※省略) 白鳥先生夫人に電話していただき物の礼いひ、新年に伺ふといふ。 12月18日 登校まへ賀状投函。中国文学史(午食雑煮くふ130)に『今古奇観』やり、すみて榎並、村松、葉、深谷生らに卒論呈出の印押し、李生来ざるをふしぎがり、 家に電話すれば母出て「兄、アメリカより癌にて帰国、その前後のことにて云々」「ともかく呈出だけはすべし」といひ、 帰れば米山生、本返還に来る。(※お歳暮 省略) 夜、葉、深谷生より「あす来る」と。 12月19日 寒し。泰、叔母らとね、早く起され泣く。(※省略) 吉村生より「午后来る」と。(※省略) 李生、本返しに来り、吉村来り、午后深谷生来り本返さず。 帝塚山の花井生より電話「2月渡米、1月来る」と。三鷹の仲人より「あす14:00結納、その他の相談は小林氏来り、式は一月に」と弓子のこと也。 16:30澄より「2時間ほどしてくる」と。 12月20日 澄10:00出てゆく。午食くひて(前田光子より推薦ハガキ20枚送られ難儀して書き了へ郵便局へゆき速達95)、暦買ひ(65)、散髪し、ユのパーマかくるとに泰つれて天沼へゆく。 母まだねてをり。(※省略) 比嘉一夫より選挙運動。姜照美ソールより娘李銀喜と来る。めでたし。(※省 略) 12月21日(日) Christmasとて泰ねてゐるまに出、第一列に坐る(献金5千円)。転会者夫婦と入信者4人みな女なり。 すみて衛藤長老に挨拶すれば令嬢成城文芸受験と!太田夫人来をり、礼いひ、 帰れば比嘉一夫より来ると。公明党の応援の為なりと。中支・南支・仏印・泰と転戦、大阪にて滝川慶治郎の母に会ひしと。感心す。 小林善一郎君来り、弓子に申込み1月に挙式したしと。神前結婚はゆるしてくれとのみいひ、あとはあす来る仲人さんより聞くこととす。 弓子羽田にゆくを送りにゆき帰らず。深谷多鶴子生来り、本返す。(※省略) みんなみの海にちりにしさくら花惜しみて思へ会ふ日近きも。 12月22日 晴。9:30にと登校。salaryもらひ研究室へゆけばもはや運びをり、小使ひたちに5千円やり11:30までにすみ、午食たべ、 卒論わけ、わが分野口君。交換16日ごろ、面接21~23日ときまる。(※省略) 汁粉くひ、本郷三丁目より琳琅閣。先客藤井宏にていま国士舘大学と。 64,500の払ひし、喜ばせ『中薬浅説(100)-日本薬草学のexなりとわかる』。 来会せし洪順隆氏の『謝宣城集校注(1,650)』にsignせしめ、『石氏星経の研究(2,200)』にて買ひ、茶のまされ、 いまの主人は養子にて息子と見しは義弟とわかる。いろいろ話して出、帰りて山住女医に眠剤2倍にしてもらひ、20:00近く来し武藤夫人に話きき、(※省略) 結婚式は私学会館にてとなり、帰られしあとこちら側14人+x、向ふがは40人と。(※省略) 食ふもの。見につかずソワソワす。 12月23日 よべ2:00まで眠れず。3服分のみ、さめてユに山住女医にゆかしめれば医師スト。電話かけてもダメ。 (※省略) 武藤夫人、午に電話「土曜に結納」と也。田口久世の『海の妖怪』といふをよむ。モユラといふがあり。(※省略) 私学会館に電話すれば(※省略) 弓子に電話すれば申込みしと。手まはしよきことかな。 十合のこともいひ「早く帰れ」といひして、美紀子に電話「25日式に出てくれ」といふ。母上「依子に蜜柑送りし」と也。 母「27日の結納とりに泰預かる」と。(※省略) 12月24日 寒し。よべ4錠分のみて眠る。(※省略)女医さんにゆき「2服のむ」といへば目を丸くし困らる。「夜また来る」といひ、ユを斎藤dr.にゆかしむこととす。 諏訪節子様より泰へやさしき手紙。 (※Christmas-card省略) トボつれて諏訪母上へ礼状速達、浜田恒代ニューヨークより来春帰国と。佐伯へ寄れば成城大学より金もらひしと。トボに絵雑誌呉る。 14:40ユ吉祥寺の痔医へゆく。山住先生へゆけば斎藤茂太先生に電話し、安定剤で加減したまふ由。 12月25日 朝、気持よくさめし。出がけ武藤夫人より電話かけ来りしに来客ととぎれ、 出て成城へゆき、卒論とり、試験の届けし、佐伯へ寄り300払ひ、駄本2冊「これにて今年しまひ」といひ、帰りて昼食。 武藤夫人より(※省略) ユ、泰つれて薬王寺町へゆくと也。武藤夫人に電話すれば「当日弓子のみ仏壇に礼せよ」と。 平凡社渡辺泰輔氏より速達で受取。知念栄喜、細川武子2氏に受取。田口久世『海の妖怪』よみ了る。(※省略) 泰へ澄よりChristmas-card。(※省略) 15:00滝本にゆけば不在。三浦女史、茶2杯のませて呉る。 帰りて母に電話すれば「ねてゐる」と。「あとで子供づれゆく」と云ひしに、 ユ帰り来り、翠の友達母子送りて阿佐谷に帰り来りしと。腹立ち太田夫人に土曜の予定いふ。ユ母に電話し「あすゆく云々」。 12月26日 曇。ユ出てゆく。(※省略) 加藤生の「八化け狐」よむ。藤浪泰生に「正月返上」を報告す。ユ14:00帰り大阪うどん食はす。旨し。母ねたままと。 佐伯へ駄本やりにゆき駄本2冊買ふ。15:30ユ3人づれにて渋谷西武へと出てゆく。(※省略) 19:00ユら帰る。弓子より「permaでおそくなる」と。 12月27日 トボ、ユとねる。われ眠剤適度にきき8:00さめ、9:30来し太田夫人に詩人たりしこといひ11:00すぎ来し武藤夫人より結納書もらひ、返ししてすぐ出、 下連雀(※省略)小林克治氏へゆく。(※省略) 心配せし仏壇拝みなく、昼食出され父上1杯をうまさうに飲まる。 太田夫人と弓子を乗せて送りゆくを見つつ三鷹駅へ帰る。(※省略) 神尾小夜子『巫女』よみ了る。 12月28日(日) 6:30さめteleviの選挙見る。前田正夫当選。11:00速達出しにゆき三浦女史と待てば滝本女史帰り来り、29日が仕事おさめ。(※省略) 『成城国文学論集2』2冊来る。佐伯へゆき『アジア文化の基調(150)』買ひ、『南洋日本町の研究(1,000)』借りて帰れば学校におきあり! 弓子、小林君に呼ばれて出てゆく。(※省略) 12月29日 6:00まへ覚む。京帰り、武藤夫人より礼の電話ありしを知らず。代議士選挙の結果、自民300社会40公明47民社31共産14とわかる。 (※省略) 『アジア民族の中心思想(250)』買ふ。1269ページありし西垣美知子の「野原の民俗」(※卒論)よみ了る。「柳」の字を知らず。 (※省略) 『論集』の「五雑俎」(※誤植)につき中西博士に抗議す。「王漁洋の系図」かくこととす。弓子1.25の式の案内もち帰る。 母、大、柏井夫妻・俊子夫妻、諏訪澄・史夫妻、(仲人望月弘夫妻)、太田文・武藤夫妻、友人11名を宛名書す。 12月30日 8:00さめ、茶わかす。10:00阿佐谷郵便局へ9通出しにゆく。(※省略) 滝本女史と入れちがひに佐伯へゆき『中国地方志総合目録』注文す。(※省略) 滝本女史、泰つれ去り、ユ天沼へゆきしあと、太田夫人より1月17日追悼会と。(※太田常蔵三回忌) 17:30母に電話すれば「河野、建にもいへ。ユの手紙では間に合はぬ云々」「大躁を知らずや」といひて電話切る。 ユ入れちがひに帰り来り、われ河野、建に出席いらず祝いらずとかく。18:00われ、さばずし食ひしあと織原夫人、次女をつれ来る。 すし食はせ片岡夫人のつれ来りしX氏とわれと話す内、見合となり、立教3人で引込み、われも滝本女史の泰つれて帰りしを機会に引上ぐ。 12月31日 河野と建に速達しにゆき、書翰箋(80)とマッチ(50)買ひて帰宅。 織原次女「小父さんと話してる間の方が楽しかった」といひ、そのまへに片岡夫人より「つきあひたし」とありしとユ。片岡夫人にことわりてすむ。 (※省略) わがむすめひとりはとられいまひとりのこされんとはわれは思ひし。 東大の講堂の上赤旗のひるがへりしもゆめにはあらず。 韓国と台湾の上ことあればわが教へ子らゆく年たちぬ。 主のめぐみあつしと思ふさまざまに計画立ててみちびきたまふ。 12月31日詠  賛美歌284、285を歌はすこと。 田中克己日記 1970 【昭和45年】  画期の年にして多忙の秋となった1970年。すでに2年前にGDP世界二位となったニッポンですが、世の中が大阪万博でもりあがる一方、炎上してゐた学生運動は、過激派による「よど号ハイジャック事件」によって新たな局面に入ります。  そしてその対極において、といふべきでしょうか、文芸の世界では、三島由紀夫による自衛隊籠城・自決事件が起きました(11月25日)。  三島由紀夫の蹶起は、エキセントリックなパフォーマンスにもみなされた「切腹」によって、関係者のみならず文壇全体、いな社会全体にゴシップめいた衝撃を与へましたが、彼の精神的な揺籃ともいふべき「日本浪曼派」の人脈からは丁度、中心人物だった保田與重郎が、時代の証言である『日本浪曼派の時代(至文堂)』を刊行し、あたかも三島由紀夫が一番に仰いだ師の評伝『蓮田善明とその死(小高根二郎著:筑摩書房)』の出版記念会が行はれたところでした。  大学教員であった田中克己も当然この事件に驚きます。しかし日記からも窺はれるやうに、憑き物の落ちた、冷めた目でながめてをります。三島由紀夫が盟友浅野晃の詩集朗読をし、東大全共闘と討論会を 行ったことも知ってゐる筈ですが(日記には記述なし)、その人柄については「2度会ひしのみなれど感じわるかりし。」と書いてをり、かつて「伊東静雄の友人です」と卑屈に挨拶したバツの悪い思ひ出と共に、良い思ひ出を抱いてはゐません。  ただし、三島が永年私淑した蓮田善明については事情が異なったやうです。  雑誌『日本浪曼派』の同人にはならなかったものの、自ら謂ふところの“院外団”として執筆して関った国文学同人誌の『文藝文化』。その先頭に立ち、ウルトラ右翼として名高かった蓮田善明に対しては、彼が敗戦時に執った最期の行動(上官を射殺して自決)をこそ、異常な精神下で起きた不幸な事件として悼んでゐますが、かつては自分も当事者であったところのロマン派的心情を十二分に把握した立場から、あくまでも先輩を弔ふ立場を堅持してゐるのです。  蓮田善明と田中克己との間には、蓮田が最初の詩集『西康省』を愛読し、詩人もまたそれを受け第二詩集『大陸遠望』の冒頭献辞にて蓮田善明に捧げるといふ、蜜月の記憶が存在してゐます。そして戦後、終の栖となった成城大学ですが、『文藝文化』四人の同人のうち、栗山理一・池田勉が先輩として在職してをりました。大阪から上京し身分不安定だった彼を専任教授として同僚に引き入れてくれたのは彼らですが、元はといへば、蓮田善明が戦前の成城学園に奉職してゐたことを始まりとした縁しであったやうにも見受けられます。  かうした経緯もあって、雑誌『果樹園』の盟友小高根二郎が伝記連載「蓮田善明とその死」を55回で完結させ(1968年11月)、伊東静雄伝に続く611pといふ一冊の出版にまで漕ぎつけた際には、田中克己は同人誌の掉尾を飾る業績として特別の意を払ひ、出版記念会を東京で執り行うべく段取りから周旋の労を執ってゐます。右翼活動を鮮明にし始めた不二歌道会とのつながりを断ち切る様子がみられないこともさうですが、キリスト者としてはまことに奇特の信条と云はなくてはならないでしょう。  一方、『四季』の関連事項についてはどうかといへば、何と平凡社からの自叙伝依頼を断り、思潮社より打診のあった『伊東静雄研究』『立原道造研究』についても協力を断ってゐます。小高根本に劣らぬ浩瀚な研究書として金字塔と名高いこの二冊は、翌年多数の執筆者了解を取り付けて刊行されますが、麥書房から出す予定だった田中克己の「四季の人々」「コギトの思い出」をまとめた回想本は、どうして出版されなかったのか。  『日本の詩歌』ほかの選詩集、そして大岡信や天野忠の詩人論によって、新たな読者研究者を獲得するチャンスがあった田中克己ですが、愛好家に向けて自らアピールする斯様の類ひの単行本は、竟に一冊も日の目を見ることがありませんでした。この年の日記の中で、詩人は「どの古書店からも好かれるやうになった」と、自分に対する斯界の待遇が一変したことのやうに喜んでゐますが、出版ブーム、現代詩ブームはいつまでも続きません。抒情詩史上の当事者として、もっとできることはなかったのか、私の読書歴のなかでの「田中克己なる詩人を知るまで」を振り返ってみても、まだまだ初老であった筈の田中克己の1970年代は、詩人として惜しまれる10年間であったやうに思はれてなりません。  そして田中家ですが、世に騒がれ始めたウーマンリブもどこ吹く風。妻や娘たちに相変らず遠慮のない暴力を以て叱責する詩人は、教育現場、ゼミ指導でも教へ子を泣かさなかったことはなく、たうとう気弱な学生は発作騒動まで起こす始末。キリスト者らしからぬ「明治の男」ぶりを遺憾なく発揮してゐます。この年も複数の教へ子から結婚披露宴に招かれてゐますから、親身に懐かしまれる先生であったには違ひないのですが、裁縫仕事を依頼するやうになった滝本女史にしても、如何なる話で恩師の遠戚のお婆さんの面倒までみるやうになったのか不明ですが、元教へ子も足しげくなると、身内のやうに気安く頤使できると思ひなしてしまふのでしょう。  たださすがに孫たちへの視線は甘いのですね。どこへ行くにも連れて歩き、家ではテレビを独占され、親元へ帰っていったあとには「孫ロス」を日記に書き綴ってゐます。これには彼らを長く預かることとなった事情も手伝ってゐることでしょう。  といふのも、次女の結婚・出産により新たな孫も増へ、多子多福の田中家なのですが、好事魔多しといふべきか、次男を出産する依子さんが同時に膵臓の病に倒れ、手術のち退院養生を図って帰ったつもりの実家でも気の休まることなく、父親が世話になった斎藤病院に一時入院することになります。 この短期間の入院(療養)についてはこのたび依子さんから電話にて、日記には書かれてゐない事情、すなはち家族にとって腫物の如き存在だった父親に関する御苦労の一斑を伺ひました。  そして話し合ったことには、家族や教へ子を巻き込んでの記述も、詩人・学者としてピークを迎へたと思しきこの1970年あたりを区切りとしたい、以後の公開内容については、依子さん自身は構はないと仰言って下さったものの、現存する関係者のプライバシー配慮を優先し、文芸に関りない記事についてはさらに取捨選択して完結を急ぎたい、といふことでした。  これまでご覧頂いたやうに私生活における詩人の修羅場は、すでに大阪時代の日記のなかで曝し尽してをります。日々の収書については引き続き細かく記録してゆきますが(この時代、行きつけの佐伯書店、成城堂の他、先だって(2019年6月)閉店した中国書専門の東豊書店の記載が目立ちます)、まだまだ残り20年あり先は長いです。ご意見あれば承りたく、皆様には御諒察を願ふ次第です。 この年の出来事を記します。 【1970年】 1月25日 次女弓子氏結婚。 2月3日 長女依子氏、次男出産。 2月6日 平凡社より自叙伝の執筆依頼。 3月5日 小高根二郎『蓮田善明とその死』刊行。3月22日出版記念会。 3月31日 日航「よど」号乗取り事件。 4月30日 佐藤春夫の会。 6月17日 麥書房より「四季の人々」と「コギトの思い出」の出版打診。 8月14日 長女依子氏上京、斎藤病院入院。9月17日退院、11月名古屋へ帰る。 9月18日 思潮社より『伊東静雄研究』『立原道造研究』の出版計画。協力を断る。 11月25日 「三島由紀夫自衛隊にて割腹自殺」テレビで知る。 12月10日 次女弓子氏、長男出産。 12月28日 義弟河野岑夫氏逝去。下阪葬儀出席。 昭和45年 1月 1日~昭和45年5月25日 25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 8:00さむ。賀状269枚。大江の叔母より祝でなく5千円、「靴買へ」と也。 「(※賀状の宛名)アイウエオ」の返礼出しに行く。小林英俊詩碑建設会より5千円の受取。 澄より電話「(※急性膵炎にて入院中の長女)依子、便所へ通ふやうになりし」と鼻声也。 14:30滝本三浦2女史、年賀に来る。18:00泰(※依子氏長男)風呂に入れるとつれゆき呉る。 賀状の返事150枚書き疲る。20:00滝本女史、泰つれ帰り「3日にまた来る」と。 今日弓子終日臥床。就寝まで「カ」~「ト」まで返礼かく。 1月2日 6:00さむ。8:00ユ起き雑煮くはす。賀状了る。美紀子より「午後来る」と。花井タヅ子夫人「電話で年賀します」と。 弓子14:30小林家に年賀に行き、17:00美紀子電話を天沼よりかけ「すぐ来る」と。夕食してそわそわと帰る。 25日の式に出るとなり。(※省略) 大よりも何かいひたげな電話、25日出るとなり。 1月3日 4:30さめ(よべ22:30弓子帰り、向ふの親族殆ど武藤氏にゆき、けふ大と史のところへゆくと也)、茶わかし 8:00パン食ひ、女医先生(※山住医院)にゆき体重40キロとなりしを云ふ。賀状35枚。(※省略) 滝本、トボ(※泰氏)つれゆき呉る。13:30小林君来り弓子と天沼(大をりと)薬王寺へとゆく。 14:00、permaより京帰り、ふり袖の着付に肚たて出てゆきしあと、ユ、返信もちて天沼へとゆく。(澄より電話「依子、肝臓をも悪くせし」 と) 「戦争と平和」前編televiで見る。(※省略) 母、大ともに式に出ると也。 京帰り、振袖ほめられしらしく鏡の前をはなれず。18:00滝本女史「泰、入浴せしめしゆゑつれ来る」と。 探しゐし『五雑俎考』みつかる。昭和13年1月の旧作なれば書き直して『成城文芸』にのせんと思ふ。 餅食ひすぎて胃薬のむ。ユもしかなり。小林家より電話「いとこ日本放送にて待つ」と。入れ違ひに帰り来し。 滝本女史来り、21:30式服の話して帰る。(泰、甘くなりて撲らる)。 1月4日(日) 2:30さめてねられず。9:00駅までタバコ買ひにゆき(京、初出勤)、10:00小林君よりの電話に弓子「まだねてゐし」と。 「吉祥寺へ服地買ひにゆき、小林君と会ふ」と。(※省略)  「戦争と平和」televiで2日間に殆ど見し。けふ賀状58枚。(※省略) われ『五雑俎考』200×13かく。肥下里子より貸本返却受く。矢野仁一博士逝去と。弓子21:00帰り、(※注文服の為)滝本に寄りしと。 『五雑俎考』補語つけて200×25とす。爽快。澄より「依子につき従兄弟も来り、処置きめる」と。 1月5日 7:00さめ、大江叔母へ礼状かき速達しにゆき、佐伯に店あけさせ、われに4千円、学校へ4万円ほど買ふ。 ユ、買物にと泰つれて出てゆく(11:00)。沢田四郎作博士『山でのことを忘れたか(1,800)』着く。われは3千円贈りし也。(※省略) ユ、帰り来て昼食せしあと諏訪の姉さんサチ子をつれて来れば、泰「ゆく」といひ下衣もちて出てゆく。年賀にカステラ貰ひし。 けふ賀状なし。滝本女史、直しもって来て呉る。 1月6日 京、成田へゆくとて7:20出る。下痢す。『果樹園167』来る。佐伯にて『女へんの文字(100)』買ひ滝本へゆけば「木野へゆき1時間して帰る」と。 午后ユ、吉祥寺へと出てゆく。諏訪賢氏宅へ電話すれば姉さん出て「トボきげんよし」と也。 「王漁洋の一族」かく気となる。夜、滝本生「弓子と田原町へゆきしに問屋しめゐし。明日またゆく」と也。 1月7日 寒く晴る。7:00さめ10:00ユと弓子と買物に出てゆく。滝本より「必ず16:00に」との電話おくれし。 小川博氏より「鳬」といふ字ありやと。「「鳧」の俗字にてあり」といふ。 「王漁洋の一族」やりて時間過ぐ。12:00賀代嫗、祝ひもち来てくれ(※省略) 折しも澄より電話「1月末まで経過見る。弓子の祝送った」と。「トボ兄宅にあり」といふ。(※賀状省略) 佐伯にて『神武東遷(100)』、『易カード(150)』買ひ、『食生活の知恵』もらふ。 ユ帰り「十合で夜具、家具高島屋で(※省略)」田原町で生地10,500買ひし」と。弓子、銀行の送別会にゆきしと。(※省略) 1月8日 8:00まへさめ「王漁洋の一族」のつづきやる。午すぎ柏井へゆけば数男ゐず、(※省略) 佐伯にゆき保田の『日本浪曼派の時代』注文す。(※省略) 諏訪姉上にユ電話すれば「トボいたって手かからず」と。 (※省略) 夜21:30小高根二郎氏「15日来訪」と。 1月9日 10:00出て成城。図書館へ返本と同時に『國搉6』、『漁洋山人精華録』借る。管財課へゆき西田課長と彦根の話す。(※省略) 成城堂に『大世界史』ののこりを入館たのみ、『女帝と道鏡(200)』、『南方熊楠随筆集(700)』、『中国戦乱詩(600)』、『日本と朝鮮(490)』買ひ、 『新城県志(王漁洋等撰)』見に東洋文庫へゆき(新宿でrice-curry(130)みな平げし、珍し)、ほぼ抄し了へて神田信夫氏に会ひ、 『籌遼碩畫』つまらずといひて帰宅。 夕食に飯1杯半。(※省略) 澄より「15日休み来たし」といひしをユ断りしと也。 弓子の月給(※省略)はじめて聞く。22:00諏訪姉より「トボ喘息はじまりし」と。 1月10日 2:00起き5:00さめユを叱り、トボ迎へにゆかしむ。黙って出、soupとpãoわれにやらしむ。不逞なる女也。京より1千円借る。 土屋夫人に航空便出しにゆき佐伯へ寄る。弓子、家族がき書かせ北区役所へと出てゆく(戸籍謄本4枚をといふ)。 10:30泰、帰り来り風邪らし。母に電話すれば「あす祝ひに来る」と。柏井(※歯科)へゆき下歯しめてもらふ。 澄より旅行鞄、祝ひにもらふ。電話かかり「依子良好」と。折しも喘息・風邪にて帰りし泰のこといふ。 滝本生、ぬひ直し持って来る。賀状69枚来る。18:00再び女医さんに電話し「37.5度以上なら」と薬3服もらふ(65円)。 69枚の返事かき了り、弓子帰り来る。 1月11日(日) 6:00起き礼拝にゆく。時間早すぎ遠藤道具店の番頭さんと話す。帰れば母、大との祝もちて来をり。諏訪姉より電話「いかが」と。(※省略) 弓子けふ仲人へとゆくと。14:30外へ出しまに石油ストーヴ家中まっ黒とす。母さはぎに帰りしあと、花井彩「アメリカへゆく。別れに来る」と五反田より(13:30)。 滝本女史、助けに来り、弓子仮縫にゆく約束と也。弓子19:00まへ滝本へゆきしも和服にてだめと三浦女史。(※省略) 1月12日 6:00さめsoupつくりpão焼き、8:30出て成城大学。中国の葬式のnote忘れ、他の本にてまにあはす。(※省略) 午食の時、中西博士(※中西進)に「端午の節句」わたせば7月号になるやもしれずと。「チンギス汗」の時間に次は「のばら」といふ。(※省略) 佐伯に寄れば「あす学校へ本もちゆく」と。『支那戯曲物語』ありといひ、他の本ととりかふ。 宮崎女史(※宮崎智慧:西武デパート勤務)に電話し「名前がき」たのめば「宜し。今夕来る」と。宮崎女史19:00すぎ来たまひ、われ歌2首かき夕食してもらふ。 式場の名札書き玉ふ由なり。(けふ澄より電話「依子歩きをり。小さき洗濯もす云々」とありしと。) 明武谷、年寄中村となりてteleviに出る。うれし。滝本女史よびて酒のます。弓子の仮縫ひすみし也。23:00すぎ京帰り、滝本去る。 1月13日 10:00すしやに寄れば130~150と値上しをり。会計に届けし大学院「けふが最後」といふ。教授会なく(※省略)  けふ佐伯より個人研究4,000、文化史37,100の本届けくれしに大藤主任「金なし」と。 佐伯へ寄れば『中国地方志綜録(3900)』来をり。卒論2冊よむ。(※省略) 1月14日 佐伯に10:00ゆき3,900払ひ研究室にゆき、日本史の卒論の残り12冊とって出る。泰、滝本にゆきたがり、ユとゆけば木野の息子来てをりと。 1月15日 9:00起き11:00鈴木敬子の電話きく。榎並元子より「帰京した」と。小高根二郎20分して本郷へと出てゆくを地下鉄まで送り、卒論の誤字訂正す。 (※省略) 小林君来り、弓子風邪にて送らず。(※省略) 1月16日 よべ京帰りしを知らず。8:00さめ卒論2冊見る。優なし。(※省略) 庄田、沢田四郎作、武田明の諸氏に「端午の節句」抜刷送ることとす。(※省略) 寒し。16:00卒論見了る。新城ゼミに優なし。(※省略) 小高根太郎より『鉄斎研究』。富沢有為男氏逝去と夕刊。松村、神田、田川、竹■氏に抜刷送る。 1月17日 7:00さめ火起す。泰、8:30起き来り、グズつくゆゑ叩き、10:20登校。新城ゼミの論文返し野口君より3冊受取る。帰りて昼食。3冊見る。 成城堂で『日本書紀研究1-3』買ふ。弓子友達の披露宴にと出てをり、泰1万円前払ひとし、滝本生つれられてゐず。ユ、弓子の道具買ひに出てゆく。 14:00出て太田家30分探しまはりゆけば半田教授をり。立教で神学教えへし也。9:00次男の運転で三鷹まで自動車。滝本生をり、前田光子より「30人の名教へよ」と。 宮崎女史21:30来り、名札書き23:00すぎ帰りゆく。京外泊。 1月18日(日) よべ睡眠感なし。9:00起き10:00起き来し滝本とsoup、paoとり、弓子とユの荷造りするを見やる。泰、風邪。 滝本と出てタバコ買ひ、丹前のほころび縫ってもらふ。〒なし。 1月19日 10:00登校。話し相手なし。2Dの「中国の葬式」すまし来週休講をいひ忘る。 2時間、本棚の並べかへにてすまし、1年に「Heidenröslein(※野ばら)」教へ、来週休講といふ。 畠山六右衛門氏より「糖尿で死ぬところだった」と。澄より電話「24日夜来る」、ユ「28日にゆく」といふ。 依子、胆石で17、19と呻きし由。(※省略) 桑原武夫氏に「南都と西京」のことハガキ。 1月20日 6:00ごろより覚める。松浦母上「祝に来る」と。滝本・三浦女史「式服納めに19:00来る」と。 雑煮くって出、野口君より4冊帰り来し卒論、李のを見、教授会。長々とつまらず。すみて柳田国男先生の女婿、堀一郎博士京大停年にて来るほか専任4人。 すみて紅茶のみ茶のみて帰る。(※省略) 19:30滝本・三浦2女史、出来上りもち来る。(※省略) 1月21日 7:00まへ起き8:00出て9:05登校。卒論面接の憎まれ役買ひ、誤字訂正。疲れる。成城堂に7千円払ひ帰宅。肩凝る。 弓子けふは休みゐし。京きのふより休みとりて越後岩原にskiiにゆき、明晩帰ると也。 1月22日 よべ21:00に寝、5:00さめ8:30成城へ登校。中国文学『紅楼夢』と『魯迅』と『聊斎志異』とでもよめといひ、帰りて研究室にてちらし食ひ、 卒論面接にゆけば1人すみしのみ。肩凝らせて帰り、佐伯にて『日本浪曼派の時代(2,750)』とりて帰る。(※省略) あす冷蔵庫届くとてみなすみし由。泰にtelevi独占さる。 1月23日 よべ睡眠感なし。8:45成城着。礼の如く誤字訂正をやり、(※省略) おくれて草稿出せし藤波と宇津とを半年落第。 (※省略)新城博士義兄逝去と、われと同車にて祝いふ。 弓子の荷物入れ了りしユを見、泰、つれてゆきし滝本生に礼いふ。 1月24日 朝、ユ、色をなしてわれを叱る。母より「式に出られず」と電話。ゆき見れば神経痛にて入湯できずと。 大、火を起こし茶を飲ます。出て柏井に寄りあすのことたのむ。俊子姉と4人で自動車で来ると也。 帰り歩きて佐伯に寄りオドリコ『東洋旅行記(300)』買ふ。寒し。18:00澄来り、泰、態度全然変る。(※省略) 1月25日(日) 8:00さめ泰を澄にたのみて散髪にゆかし、われも散髪にゆく。京、弓子みな10:00起き11:00弓子permaにゆき会場へ直行すと。 澄、銀座へcameraとりにゆき、われ最後となり、佐伯にて『私の歩いてきた道』買ひ私学会館。(※次女弓子氏結婚式) 仲人夫婦に挨拶し、俊子姉より祝(1万)受取り、会場係より「神式にしてくれぬか」と。クリスチャンといひて断り式すみ17:30披露はじまり19:30了る。 (やとはれ仲人何も云はず)。史、中座し、新郎の大阪の伯父挨拶して中座す。美紀子taxiひろひ天沼まで6人乗り母に礼いひ、またtaxiにて帰宅。23:00ねる。 1月26日 8:00さめ疲る。松浦母上より「祝電ついたか」と。小林母上より荻窪11:30と。11:00泰父子、ユ出てゆく。 昼食に鯖ずし買ひ(100)、滝本女史に特講中止いひ、三浦女史に礼いふ。佐伯にて『織物(320)』買ひ、他にて『漢方(120)』買ふ。 ユ16:00帰り来り仲人への礼すみ、(※省略) 小林父上より別府着の電話あり。19:00また本人達より同じ電話、めでたし。 1月27日 寒し。8:00さむ。ユよべ23:00ごろ京帰りしより眠れざりしと。11:00雑煮してくれゐるところへ久我山の姉上、祝もちたまひ、すぐ帰るとてともに出てゆく。 依子よりお粥のみとのたより。(※省略) 夕方ごろ、怪しき男、船越とのあひまに来しとソノ子ちゃん。(※省略) 三井銀行総務課池田さんより「株券できたゆゑ印鑑もって来よ」と。依子へ平安と感謝をと手紙かく。ユ20:00帰り来り飯くはす。 澄に電話し「あす早く発つ」とユいふ。 1月28日 ユ8:00にさめ9:00出てゆく。澄より電話「いつ着くや」と。13:00ごろまでといふ。(※省略) 1月29日 8:00さめ雑煮くひて12:00登校。13:15より中国文学史の監督す。142人受験。すみて麝島生のreport受取りて出る。〒なし。 京、留守し、ユ母子三鷹へゆきしと。京、試写見るとて夕食まへ出てゆく。太田令息来り、(※省略) 21:00澄より「2月2~3日に早産さす」と。 1月30日 9:00出て10:00成城。誤字訂正17::00近くまでつづく。帰れば『日本の詩歌 俳句』来をり、桂信子なし。山田俊雄よりならん角川の『国語辞典』。 弓子「帰りし。あす来る」と電話かけ来る。53日目の雨の中を京、志賀高原へskiiにゆくと也。 1月31日 よべより53日目の雨降る。右下奧の歯痛み、柏井へゆく。 18:00親類廻りの最後に善一郎夫妻来りし故、『字典』与へ土産いろいろもらふ・(※省略) 2月1日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。〒なし。来年度の教授要項かく。夜、滝本女史来る。(※省略) 2月2日 11:00すし買ひてゆき13:15まで待ち、法学の試験監督を助く。帰り柏井歯科へ寄る「も一度来よ」と。(※省略) 『オランダ語4週間(200)』見つけありしを買ふ。京skiiより帰り来る。(※省略) 2月3日 10:30澄より「(※依子氏)産気づき分娩室へ移った」と。ユすぐ出てゆき(※省略) 15:00澄より「ユと泰つきし」と。まだ聞かずと。 17:00「生れた。母子健全、男児」と。母に電話し美紀子に史の検血たのみ、弓子にも同じことたのむ。 20:00入浴中、高松の諏訪節子母上より礼の電話かかり、けふ終日寝て飲食せざりし京出て挨拶す。 2月4日 市賀生への書き直しハガキ送り返し来り、憤慨し杉並郵便局にゆけば「書き直しだめ」と。 「宝典見せよ」といへば「無し」と。「封筒に入れて再送す」と。滝本にゆき不快いふ。 京にすし買って帰り、来りし滝本生と居れど面白からず。20:00ねる。(入浴中、澄より電話「良き名ありや」と)。 2月5日 晴れ、寒し。のど痛く山住先生にゆき薬もらひ、「大学院入試、風邪のため休む」と成城に電話す。諏訪父上より「かまぼこ?」。 澄に電話し「名つかず」といへば「ユら、けふ帰り来る」と。14:00松崎佐知さん来り「2月11日YMCAにて(※省略)結婚式する。出よ」 と。 澄より電話「16:00の新幹線にのった。依子好調」と。19:00ユ帰り来り、滝本生より「けふは伺はず」と。 2月6日 8:00さめユを11:00小林家へゆかす。清算の為なり。11万円わたし、あす清算に来るとなり。午すぎピーコックへゆき屋上で泰あそばし、滝本へゆけば留守「夜来い」といひ、帰りて山住先生に薬もらふ。夜、滝本生来る。 (渡辺さん(※平凡社渡辺春輔氏)来り、本5冊たまひ「4月までに自叙伝300枚かけ」と。) 2月7日 11:00弓子里帰りする前、ユ、泰をつれて松浦家へ祝返しにゆく。〒なく17:30ユ帰り来り、(※省略) われ風邪まだ直らず。概ね家にをり。(※省略) 2月8日(日) 弓子11:30帰りゆく。滝本生、泰つれて出、ユ、天沼へゆき17:00まで留守番、何も出来ず。 2月9日 7:00起き、9:00出て東洋文化史の試験。すみて14:30まで待ち、東洋史の試験。帰り小倉君と共となり、喫茶さそへどもきかず。 柳谷義氏より許婚者つれ来り、「3.15の式に仲人を」と。ユ出て「娘の看護にて出られずやもしれず」と断る。 柿崎生よりふざけたるレポートと写真と来る。 2月10日 寒し。15:00よりの教授会「風邪」と休む。畠山六右衛門氏転居と。宮崎宮子生より「3.14(土)17:00Hotel New Otaniにて」と。 夜、望月千鶴子生より「3.17Hotel Okuraにて」と。ついで柳谷君「教会の某先生に仲人たのみと」と。 2月11日 弓子、小林(※省略)君と12:00前に来り、泰つれ出し呉る。早々に支度しお茶の水よりYMCAにつきしは13:55。すぐ式はじまり仲人片岡夫妻にみちびかれ新郎新婦入場、式すみて(※省略) われ祝盃の音頭とりをさせらる。(※沢家・松崎家結婚披露宴 省略) 2月12日 9:00ユ、澄に起され朝食支度す。われはだるくて困る。望月千鶴子の式「3.17(火)13:00 Hotel Okuraにて」と案内来る。 2月13日 よべ数年ぶりに睡眠剤のみ忘れて半夜しばしば覚む。10:30澄、泰をつれて竹内家(※恩師の竹内好)へと出てゆく。 卒業生の採点をし、14:00成城へもちゆき、帰りてユが泰を今井へつれゆきしを知らず、ぼやっとまちをり。夜、滝本生呼び疲れて22:30眠る。 2月14日 8:00さめ、9:00集英社より「残部800に改印して出す」と速達来る。(※省略) 加藤定雄より「東京都民銀行を退職、都民興行社長となりし」と。 (けさ小林母上より「弓子病気」とのことにユ、泰をつれてゆけば「風邪にて大したことなかりし」と也。) 2月15日(日) 礼拝にゆかず。だるし。(※省略) 2月16日 同じく終日無為。諏訪セツ母上より見舞文来り「八朔送りし」と。夕方現物つく。ユ、泰をねさせて『白楽天』の印紙800枚押す。 2月17日 無為。ユ、泰を母と柏井へつれゆき16:00帰る。弓子より「鏡台かけ作ってくれ」と電話。 天野忠より「『骨』にかけと荒木利夫より云はれしを云ふ」と。 2月18日 新学社より稿料表来りしのみ。八朔もちて泰と小林邸へゆけば、弓子とともに父上出られ、しんどくてならず早々駅まで弓子に送らせ、 柏井へゆき泰の歯とともにわれのもしめてもらふ。 佐伯にて泰用の雑誌30円でもらひ、帰れば集英社の小川由美子嬢来をり、印さかさまに押せしと。ユに押させ話きけば「伊藤整夫人の兄の子」と。 わが幸せをいひ、伊藤氏の冥福祈る。19:00田無へと帰りゆかる。泰のせいにて何も出来ず。 2月19日 宮崎智慧女史より電話あり「早川孝太郎全集出る。臨川よりも『花祭』出したし」と。臨川ことわれといひ、 泰をつれて滝本へ函もちゆき、代議士の次男来ゐるを見て、今井翠にゆき(3生の結婚式出席の返事と「一日」を『骨』に400×2.2速達65)、 アリちゃんつれ帰る。画うまし。翠女史つれに来りしあと、山住先生へゆき鬱はげしきを申し上ぐれば4回のめと薬賜はる。 入浴中、染谷美重子より電話「3月25日17:00挙式」と。出席といひ、太田温子赤坊つれて帰宅ときき電話す。(※省略) 2月20日 服薬4回にてよく眠る。泰をつれてユ天沼へゆきしあと、太田温子坊や(4ヶ月)つれ椎茸もちて来る。 夜、滝本・三浦2女史来る。坂生「あす9:00来る」と。 2月21日 小雨の中、伴生来り(※求人)会社の要人書をもち来りしに覚む。 佐伯にゆきクラヴィホ『チムール紀行(300)』、『日本誕生の謎(50)』買ひ、封筒買ひ、竹内祥子、麝島眞理子に写真送る。 澄より13:00電話「依子、胆嚢の手術にかかり15:00ごろすむ」と。17:00電話かかり「手術すみし。膵臓わるかりし」と。 大藤氏より電話「24日10:00編入試験に出よ」と。 2月22日(日) 曇。滝本女史おこし三浦女史とともに署名捺印せしめしあと天沼へゆき大、母にたのみ、ついで野中君にもたのみ柏井へゆけば全家留守。 佐伯へゆけば4人分署名して泰へと本呉る。4千円のみ成城払ひし也。すまながって帰宅すれば、署名無効とわかりがっかり(※後出:佐藤誠死刑囚再審請求か)。 夜、澄より電話かかり「順調ゆゑ来ざるがよし」と。 2月23日 よべ眠剤きかず疲る。3月5日クラス会いひ来る、欠席と答ふ。 佐藤先生の7回忌につき『Politeia』よりアンケート。13:30大、来り父(※西島喜代助)の遺稿整理す。『日本の詩歌』来る。 2月24日 7:00ごろよりウトウト覚め、ユを起し10:00まへ成城大学。会計でサラリーもらひ、就職課へゆけば「(※坂生より依頼された求人に)心当た りなし」と。 10:00より試験監督。(※省略) 13:00よりの教授会まへ、坂本浩氏にきけば「岩野泡鳴は洲本の武家の出」と。「部長改選につき正教授会5日にあり」と。(※省略) 図書館購入、文化史は超過して来学期まで佐伯に払へぬとわかり、あやまりいふ。天野忠君より「おからだもひとつの様子、案じてます」と受取。 坂生にいへば「中山達子に直接いふ」と電話。望月、保阪生へ平服のことわりす。弓子けふ里帰りして泊る。 2月25日 昨夜も眠りよからず。澄より電話「O型の検血5枚欲し」と。 ユ、弓子、泰にて天沼へゆかしむ。(「いのしし」3枚よべかく)。「望」つくる(※長女第2子の名前)。 ユに小高根二郎へ5千円封入速達たのみ出てゆきしあと、滝本生に電話すれば以心伝心「来るところ」と。 澄より電話、あはてて経過よく、赤ん坊もガラス(※保育器)より出るとならん。史の検血証つきしと。 ユ帰り「今井にて遊びし。土曜より兄宅へ預けろ」と。滝本生「O型ゆゑ、よければ献血す云々」。 米山生より電話「アルバイトしゐる。卒業ありがたし」と。(※省略)坂泰子に「中山生と見合って採用してくれ」とたのむ。 夜、澄より電話「3月下旬退院、通院の見込みついた」云々。「泰そろそろつれて来てよし」と。「2日すめば」といふ。 2月26日 よべ泰、他のへやにゆき京と同室、よく眠る。午前中採点すまし、あと記帳となる。ユ、京を武蔵野日赤へつれゆくこととなる。 母より「けふルリ子の(※離婚)調停の最終回にて大、出てゆきし。(※省略)」 13:00、3人帰り京、献血すみしと。ユはだめ。血液型に係らず宜しと。滝本も低血圧ではだめと。 女医さんにゆき尿の検査(異常なし)、血液検査とともに血液型検査(300)たのめばO型と! 米山生来りし故、坂生に電話し「あす面接13:00」となる。(※省略) 2月27日 5:00さめ6:40ユ起き、7:20出て成城。(※省略) 弁当食ひ高田氏に「自叙伝かく」といひ、(※省略) 18:00米山生より電話「坪井工業に決まりし」と。 澄より電話にて「輸血あと2人分でよし」と。けふ採点出し了ふ。(※省略) 2月28日 6:30さめ雪降りゐる中を成城。監督すましcoffeeのみて帰る。(※省略) 澄より電話「依子経過宜し」と。2日午后、泰つれユゆく旨を伝ふ。 佐伯にて『川柳江戸名所図会(380)』買ふ。13:00ユ、泰をつれて諏訪姉に吉祥寺で引き渡しにとゆく(けふと明日半日)。 小高根二郎君より「蓮田善明(※『蓮田善明とその死』)5日発売3,600円×1,200。歓迎会この間ですんだと思ってゐた云々」。(※省略) 3月1日(日) 泰をらず6:30旨くさめ、8:30登校。2時間監督し(※省略)、すみて中食もらひ大学院入試用の漢文問題作製、成城堂で『信長記(280)』 貰ひ、 南新宿下車。東豊書店へゆき来年度払ひとて2万円余買ひ、『清初流入開発東北史(120)』買ひ、劉助教授と話し、 佐伯に寄れば『樹皮布印文陶與造紙印刷術發明(1000)』、『民族学研究所集刊2冊(400)』とし、駄本1冊呉る。 (※古書店から)どこにても好かれるやうなりしか! (※省略)『風日』は高雄山の小川[義]彰上人(田中久夫氏好く)追悼号、もと東大の学生主事らし! 泰帰宅、きげん好くふざけをり。 3月2日 6:30さめ急いで飯くひ入試にゆく。無事すみ、昼飯もち帰れば泰喜ぶ。坂生より電話「米山といふよい子を世話してくれて」と也。 3月3日 澄より電話「午まへに来る」といふ。(※省略) 11:00ユ、泰をつれて名古屋へと出てゆく。(※省略) 佐伯にゆき『義和団(260)』買ひ、栗田にゆき『日本事物誌2冊(800)』、『女妖啼笑(140)』買ひ来り読む。 赤ん坊のbedもち来しを預りしと向ひの夫人わたさる(今井?)。17:00今井翠より電話「赤ん坊のbedもとは泰用なりし」と。 山田俊雄教授「画をかきゐる」と。 3月4日 また雪。昼飯用野菜もち来れと滝本生にたのめば「30分」と。wineのみて帰りゆく。午后また買物にdept.へゆけばArbeitの学生に当る。 (※省略) (※遠方通話割引)20:00になるをまち名古屋に電話すれば澄、病状を語る。ユ呼び出せば「あす帰来」と。(※省略) 3月5日 7:00さめsoup自分で作り8:10出て成城。第一次入試の及落、243点まで167人えらび、(※省略)119点まで33人、他にsports(※推薦)2人採る。 すみて正教授会18人にて堀川(5)、高田(5)、池田(4)の3人を学部長候補とす。われは最年少の浅沼とするも1票のみ(栗山、大藤などなく大山に票2ありし)。 文化史あつまり来学期より単位に入らぬsemiを新3年に。また新2年の級担任は我ときまり、主任交替は出ざりし。 帰れば京をり「ユ13:00乗車」と。 小高根二郎氏より「京都の染色会社の会長に5月末なる。出版記念会兼歓送迎会の希望日時は5日しらす」と。「丸山学氏(蓮田善明の友)2月27日逝去」ともあり。 帰り東豊書店よりつきし本重くtaxiに乗りて本[多]宅前で下車(610)。値上げ後とて文句いはず。(※省略) 夕食後、東博氏『蓮田善明とその死』もち「小高根二郎氏より」と。 3月6日 8:00さめ速達、追試65とつけて駅に出しにゆき『白鳥庫吉全集2(2,250)』佐伯に来てゐるをとる。 午后ユ泰、今井家へゆきしあと、母「阿佐谷へ買物に来し」と電話。夜、歯痛とて泰つれてユ、柏井へゆく。 3月7日 寒く晴る。9:00出て散髪。田中久夫氏へ高雄の小川上人追悼号送り(35)、佐伯へゆき『水滸伝と支那民族(450)』買ふ。 弓子夫婦、苗場へskiiにゆくとて寄る。弓子送りに皆出しあと澄より「外科をはなれ2~3日中に一般病室へ。望2600gとなりし」と。 夜、小高根二郎氏を寮でつかまへ「蓮田善明の会」3月21~22日にと。浅野晃氏に発起人承知してもらふ。(※省略) 3月8日(日) 久しぶりに礼拝にゆく。レンテけふよりと。すみて知る人ほとんどなきに気付く。(※省略) 河野岑夫、腎臓病にて回復おぼつかなしと医師にいはれし由。 3月9日 7:00さめなすことなく15:00鈴木治氏の怪文みてタバコ買ひに出、 帰りて『蓮田善明とその死』出版記念会につき東氏に電話し、あさって筑摩に名簿見せてもらひにゆくといひ、 池田博士(※池田勉:元『文藝文化』同人)に電話せしも研究べやとてかからず。今井氏に電話すれば短大と。かければ「(※本)未着、お手伝ひす」 と。 ついで栗山博士(※栗山理一:元『文藝文化』同人)に云へば「22日(日)午后1時がよし、新宿にせよ、今井君に手伝はせよ」と。 3月10日 母より「河野岑夫見舞にて西下」と電話。ユも出てとめず。 今井信雄氏に電話し「22日の会の発起人となれ。会合の案内手伝ひくれよ」といへば承知。「あす13:00成城大学にて」となる。 泰つれてユ新宿へ染谷美重子への祝出しにゆく。滝本よりユに電話「鏡かけ早く」と云ひしに返答なし。夜、滝本ふくれつらしてもち来しにわれ出ず。 3月11日 けふも2:30さめて睡眠不足。阿佐谷郵便局へゆき往復ハガキ60枚買ひ、地下鉄淡路町にて下車。 筑摩書房にゆけば東君不在。部長出て(※『蓮田善明とその死』)寄贈名簿探しくる。国鉄にて新宿。 中国料理店探し、紀伊国屋ビル4階にてNewTokyoといふが1卓1万円を4卓、前日電話して人数たしかめると。 成城大学にてrice-curry食ひ、今井氏来るをまち「会費3千円にて」と池田博士も立会ひにて定む。案内われ書き、印刷発送今井氏やり呉ると。 出て成城堂にて『文芸春秋』買ひ、帰宅すればユ不在。今井家へゆきしと。小高根氏の人名表も来あり、ほぼわが原案と会ふ。 19:30小高根氏と会しゐる東氏より電話あり「22日の会に10冊ほどもち来たまへ」とわれ云ひ、小高根氏に大体のこと云へば「宜し」と也。 3月12日 8:00さめて10:30登校。大学院2次入試。2時限目の外国語の監督す。3名(※省略)。すみてドイツ語、漢文と採点す。あす10:00面接となり。 帰れば(※省略) 新学社より印税700余。(※牟礼事件)佐藤誠再審委員会より受取と「署名捺印を」と再び来る。鴻上シゲ子といふは母なるらし。 山住先生へゆき薬もらふ。小高根二郎氏に22日の会の案内かく。 3月13日 7:00さむ。ユ、今ね入りしところと。9:30成城着。10:00より3人の大学院生面接、みなよしとなる。ちらしずし食ひ帰宅。ユ留守。 今井、滝本に電話かけしにゐずと。税務署へゆき5万円余、銀行払ひとなりしと帰り来る。(※省略) 佐伯へゆき、さきほどとりし『肉蒲団』代りにもちゆき『関漢卿戯曲集(1200)』買ひ、えびね鉢入り(150)買ひして帰り来る。けふ寒し。 (※省略) 夜、今井信雄氏より「20冊ほどその場に必要」と。われ「写真とるはいかに」といふ。東博氏に電話せしに未だ帰らず、夫人にその旨云ふ。 3月14日 7:00さめ、万国博のteleviみて12:30家を出、成城教授会。宮崎氏とともに宮子の結婚式にゆくとて高田部長に早く部長選をとたのむ。 (※省略) 堀川氏19、高田氏14、池田氏8の票決となり堀川氏引受けるとの態度示す。 すみて宮崎氏まちしも先に出てNewOkuraへゆき紅茶のみて矢野宮子の喜ぶ様子みる。われ2番目の祝辞当りミヤコチャンと呼びてすむ。(※省略) 澄より電話かかり「朝日に入りたし。高垣にきいてくれ」とありしと。困る。 3月15日(日) 6:00起き、soupこさへ9:20出て礼拝にゆく。すみて(※省略)竹内家へ歩き、澄の転職(※希望)いへば「朝日新聞よからん」といひ、筑摩に世話するといはず。お祝ひ(望の)といひて夫人5千円賜ふ。早々出て西友にてrice-curry吃ひ(200)、南口の本屋探せば移転しをり。 探し当てて『日本文学アルバム堀辰雄(250)』買ひcoffee(60)立ち飲みして 教会へ再びゆき、14:00より柳谷・近藤英子の結婚式。讃美歌うたひ階下の披露宴に列席。(※省略) 帰り来れば(※省略) けふ『蓮田善明とその死』の会に伊藤桂一氏「出」の返事来る。 夜「澄のコネ承知か不承知か」の返信つき手紙を高垣金三郎にかく。 3月16日 雨中を10:00登校。2時間半監督す。帰宅17:00。母より電話「河野岑夫萎縮腎」と。百科事典みれば療法なし。〒なし。葉生より19日午食すと。 澄に電話し、高垣、竹内(※竹内好)のこといへば、「依子コレステロールとれず両親の血しらべよ」と也。岑夫に「ニワトコのませよ」とハガキかく。 3月17日 寒し。試験監督免除され、井上文夫氏より日本経済新聞新潟支局長となりし挨拶のほか、『蓮田善明とその死』の会の出欠受取り。 12:00まへ出て咲耶に速達、滝本のぞけば仕事しをり。まづHotel New Okuraの望月千鶴子の結婚式。(※省略)すみて2時間ある故、小高根二郎訪へば出張と。 西川(※西川英夫)に寄れば「またやせたな」と。令息けふあたり学位貰ふとなり。 有楽町まで国鉄、帝国Hotelにゆけばもはや大分集りをり。保坂文子の母方の叔父岩手より来しと話し(※省略)、銀座の地下鉄乗場に、迷ひ迷ひして帰宅。 午後の便にて片岡久、中谷孝雄、中河与一、小高根太郎、金沢一、岡、青木の諸氏より出席と。阿川氏(※阿川弘之)病気とて会費のみ送り来る。電話して「小高根氏に」ときく。 田中久夫氏より『風日』の礼。ユ、けふ山住先生にゆき萎縮腎とは末期のこととききしと也。 3月18日 家居。小高根二郎氏ひるまへ電話かけ来り「きのふ下阪せし」と。朝、速達にて蓮田夫人、御長男来られず(清水氏(※清水文雄)も来られずと電話ありしと)。 夜、高藤氏より出席と、20名近くなりし也。滝本女史来る。(けふ弓子来りしも、ユ泰天沼へゆきて帰らず。) 森廉三博士定年とて3千円出せと也。 3月19日 東博氏来り「20冊もち来るも小高根氏買上げとしてくれ」と。去りたまひしあと米山生来り「葉生、自動車で待ちゐる」と。 成城より1時間近くかかり(※自動車の)置場もなしといふに、すぐ出て「田園」といふ中華料理へゆく(李生を成城で拾ふ)。村松生まちをり榎並生来ず。(※省略) けふ女医先生より「タバコ5本にせよ」といはれしにタバコ吸殻入れ皿と眼鏡さしと賜はる。(※省略) 田園調布まで葉生に送られ、米山生と新宿まで同車。 (※『蓮田善明とその死』の会)西岡武■氏出席とて21名となり、あと来られずの通知のみ。 3月20日 3生に礼状。(※省略) New Tokyoより人数きき来りし故、3卓にへらす様たのむ。ユ泰、久我山のスワ賢氏へ送別にゆく。(※省略) 新ゼミの4生に電話せしに1人もゐず。母親恐縮す。18:00まへ、久我山より帰りし泰「歯いたし」と柏井へゆく。 高垣金三郎より速達「この機を延ばせばだめ」と也。夜、澄に電話せしもかからず。 3月21日 小口氏より「出」の速達。澄に電話せしもかからず。蓮田新夫氏より電話「欠」と。 吉祥寺教会より29日復活節、克己献金をと。夜、今井信雄氏より電話「小口氏出られず成城中等部の石井宗吾氏出席」と。 21:00澄に電話すれば「依子あす外出許された」と。今井氏よりまた「早大の川添国基氏と堀内[達]夫、出よきか」と。 3月22日(日) 7:00さむ。礼拝やすむ。依子家より電話し呉る。11:00すぎ出て佐伯で茶のまされ、紀伊国屋ビルのニュートーキョーにゆけば、今井氏既にあり。 (※小高根二郎『蓮田善明とその死』出版記念会)中谷孝雄、小高根太郎、伊藤桂一諸氏と話し、八木四季社社長(※八木憲爾)に「伊藤整追悼かく」 といふ。 今井氏入試判定にと去りしあと15:00勘定せしむれば6×8,618(税共)、2000円と会費を定めし為5.9万より金なく、 筑摩の東博氏より1万円借りて払ひすまし、3冊今井氏にと東氏より借る(11冊ほど売れしと也)。 小高根二郎、東2氏と茶のみ小高根氏払ふ。帰れば保田より「欠」と来あり。今井氏に電話し決算報告いふ。「2冊でも3冊でも欲し」と也。 わが本なくしニュートーキョーに電話すれば「しらべおく」と也し。 3月23日 10:00出て成城大。短大今井氏に精算書と3冊おき(月給もらふ)、新宿ニュートーキョーにゆけば『蓮田善明』とりありし。 (成城堂に払ひし『呪術』買ふ。) 13:00すぎ筑摩にゆき東博氏不在につき小宮氏に1万円と風呂敷ことづける。 山本(※山本書店)まであるき茶のまされ、『台湾民俗(1080)』買ひ、九段下より地下鉄にて帰宅。田中冬二氏の欠席通知来あり。 中山生より「太平天国」につき電話あり「あす12:00すぎ研究室へ来よ」といふ。 3月24日 6:00さめ9:00出て登校。判定会は221点まで109人と寄附つき107点まで38人とり他に体育1人。(※省略) いやになりそのあとまた教授会のみの会にて昇任選衡委員きめ、ちらし食ふ。中山生来りし故「太平天国」の参考書3冊わたし、 今井信雄氏に研究室に3冊放置されしままの『蓮田善明とその死』のこと電話す。 副手たち5人やめ「あとちゃんとせよ」と捨てぜりふ云ふ。(※省略) 佐伯に寄り『江戸っ子(250)』買ふ。成城堂で『薬』買ふ。 賀代嫗来り「船越近く家賃払ふ」といひし由。(※省略) 3月25日 7:00起く。京、早く出てゆく(skiiの為らし)。9:30武蔵野日赤へとユ出てゆき10:00西岡典子生迎へにゆき12:00過ぎまで指 導。(※省略) けふユに「礼拝」と2,500小高根二郎氏に速達せしむ。 16:00まへ弓子来り(万国博行の小遣ひもらひに来しと!)、出て大手町で下車。Palace Hotelの染谷美重子の披露宴にゆく。(※省略) けふ大山澄太、林房雄、蓮田新夫の3氏より欠席通知。美紀子来り、史の生地聞く。(※省略) 淳一可愛く泰も可愛がりしと。 大より離婚手切れ金借りたく保証人となれ、実印証明と成城の支払証明とくれと。(※省略) 3月26日 柏井尚子より電話「2妹の北京在住の証人となれ」と。 やがて来し今井宏子に「昭和17年1月より21年3月19日仙崎上陸まで同居」証人旗田巍と書く。(※省略) 女医先生にゆき下痢薬ももらふ。(※省略) 3月27日 午后、大来り、書類と印もちゆく。ユ、泰、今井へゆく。中山生より「あす14:00来る」と。 3月28日 中山生来りし故「太平天国の年表つくれ」といふ。夜、依子「一時退院ゆるされし」とユに長き電話。 3月29日(日) 復活記念礼拝にゆく。すみて喫茶後、(※省略) 帰れば太田弘毅君来り、(※省略) wineのまし長話す。 3月30日 7:30さめ9:45成城。成城堂にて『騎馬民族の遺産』買ふ。大探検時代双書まだ来ずと。 出がけ原田運治君より句集『花八つ手』受取る。中西教授、八木、毛利2助教授の審査すみ、阿佐谷まで帰って雲呑くふ。 ユ、母のところへゆきをり。澄より電話「依子の退院せかさず。検査の結果いかに」と。 小高根二郎氏より受取。木村三千子氏より『骨』に参加したと。咲耶より「云はれた通りする」と。(※省略) 3月31日 佐伯へ白鳥博士もちゆき2,700の払ひせんとすれば700に買ひ呉る。日航「よど」号乗取り事件にてtelevi終日なり。 4月1日 日航「よど」号金浦飛行場に釘づけ也。成城より時間割来る。(※『四季』への)伊藤整追悼の詩かけず。 4月2日 塩崎生の来るまへ、丸重俊来り『校註荊楚歳時記 : 中國民俗の歴史的研究』返し、信州の道祖神の本呉る。 塩崎生と入れ違ひに丸帰りゆきし故、13:00まで指導『太平御覧』貸す。けふも終日「よど」号の騒ぎにて20:00学生乗客を出すことに同意したと也。 4月3日 滝本生来りし故、泰預けてユ、赤十字へゆく。われ「鳴海仙吉」を四季社へ速達せしむ。 よど号、乗客を下し山村次官のせて北朝鮮へゆく。その後北朝鮮より無条件返還取り消しと云ひ来しと。 竹内好より『中国を知るために2』贈られ、春夫忌30日17:30といひ来る(出の返事す)。 4月4日 曇。西島順来る。早大の政経に入学と。練馬に下宿す。われドイツ語中辞典やるといふ。 ユ、買物にともに出てゆき帰らず、澄より電話「あす14:00までに来てくれ。自分は22:30来て泊る」と也。 弓子来り、万国博の土産呉る。散髪にゆく。 4月5日(日) 礼拝にゆくまへ「よど」号羽田帰着を見る。礼拝すみて参会者98人。100人を下りしは近年のレコード。「よど号」のせいと也。(※省略) 15:00史夫婦来り、洋行の鞄貸せと。1万円と神田氏より贈られし『白鳥庫吉全集3』とを与ふ。淳一丸々太りをり泰やきもちやきいじめる。 22:00すぎ澄来り、23:00まで話す。「日本televiへかはる運動す」と也。(※省略) 4月6日 9:00澄起きて出てゆくを知るも起きず。西川満氏より電話「水曜13:30にゆく」といふ。阿南惟敬氏来訪。 夜、川久保(※川久保悌郎)より電話「あす帰る。松本善海(※病状)いかん」と。 4月7日 11:00よべ外泊せし澄来り、泰つれ帰る。ふりかへらずしてゆく。 (※省略) 『果樹園170』来り、69才とわが年を誤記す。「望」なる詩なり。20:00電話すれば「疲れて帰着、血液検査たのむ」と澄。(※省略) 4月8日 朝より心がまへして13:30西川満氏に会ひにゆく。茶菓出され夫人出らる。台湾行すすめしも忙しと也。松村一雄先生のこときかる。 帰り薬と茶とたまふ。(※省略) 20:00電話すれば依子帰宅しをり。泰も電話に出る。 今井翠に電話すれば松波夫人離婚して小川姓に戻りしと也。毎夜、吉岡弥之助氏に電話すれどかからず。 4月9日 泰恋しくてたまらず、午すぎ「望」のりし『果樹園170』名古屋へ送る(20)。 三浦貢氏より速達にて(※大阪高校)野球部の会の世話、安達遂氏とわれにたのむ由、 いらいらし安達氏に2回電話して神崎、加福、武田、瀬戸の4氏の外、応援団の我部山、岸野2氏にも連絡乞ふ。 小田幸康氏に電話すれば夫人出られ「申し伝へる。東工大の先生」となりし。(丸に電話し「出る出る」ときき、紅松に電話し「まだ帰らず」と。) 躁ならん。『薬(岩波新書)』買ひdoubleとわかる。(※省略) 竹森先生奥様に電話し礼拝当番おことわりす。 4月10日 8:00さめ(京、伊豆へ旅行)、紅松、丸へ速達し、安井正己、長井孝太郎、笛吹泰三、加納一明の諸氏に返信(速達ハガキ入り)付きの案内し、 高垣、益子、小田の諸氏にハガキかき、阿佐谷南へゆき滝本生と50分話し「泰恋し」といふ。(けふ澄より電話「幼稚園へゆきし」と)。 帰れば関口、小倉脩三より転居状、筑摩の東氏より借用証の名刺2枚返る。高尾書店より『書林』。 夜、関口に電話し「本位田の脳軟化症見舞ってくれ」といへば「人ぎらひとなる。妻もそれにて3年」と。 4月11日 雨、家居。ユ、パーマかけにゆきタバコ買ひ来る。安達氏(法政大工学部教授)より「方々へ知らせた」と。結果を「あす夜しらせたまへ」といふ。 夜、加納氏より「出席」の電話。 4月12日(日) 8:30家を出て登校。入口にて渡されし学園新聞に学長面責の記事ありしも学長挨拶し、入学生代表挨拶し、記念写真写し、 大学院にゆけば堀一郎教授もあり。署名すみ写真とり、学科の指導了りて鎌田女史より菓子賜ひ、 出て成城パンにてマカロニ食はんとする処へ重久武志生来合せ喜びておごり呉る。 家まで伴ひドイツ語のLiedと星と好きときき「会議は踊る」の歌二つ教へ、歌舞伎年中行事与へて帰らす。38才となりしと。 18:00安達教授に電話すれば出席者の名あげ玉ひ、三浦氏には「東京支店の電話かれ」をいひ玉ふ。出席者の中に神崎清、加福達郎のほか仁谷正雄氏の名あげ玉ひ、われとの関係もしり玉ふ様子也。19:30京の友大野嬢、漢文好きといふ弟つれて来る。(※省略) 4月13日 益子輝夫氏に電話すれば「欠」と。笛吹泰三氏より「出」とありし故、ミウラ化学東京支社に電話し「15人出、名簿送る。責任者は田中」と大阪への電話たのむ。そのあと15人の名かき三浦貢氏に速達。 帰り佐伯に寄り岩波の『朝鮮資料による日本語研究』たのみ来る。ユきのふ立会ひし見合、双方よろしとなり。 京都府知事に社会・共産推しし蜷川氏6選にて自民がっくりと。 ユ、今井へゆき昨日夫婦の留守に阿佐谷へ来し松浦市長の土産とり来る。夜、安井正己氏より「欠」と速達。 弓子「(※省略)君宿直」とて泊りに来る。あす留守番出来たとて美紀子に電話し「孫見にゆく」といふ。(※省略) 『史苑』来り「手塚先生謝恩金を5月10日まで」と。 4月14日 長井孝太郎氏より「欠」と速達。弓子来り、京休みし故、薬王寺町に電話かけ「午飯何よろしきや」と問へば「イナリズシ」と。 11:00出て薬王寺へゆけば雅子、淳一庭遊びしをり。 14:00近く大阪の能勢(※能勢正元)より電話「三浦氏に代り万事せわす」と。「幹事以外は18:30集合でよし」と也。 14:00出て15:00まへ帰宅すれば弓子もうゐず。ユ、天沼へゆかず帰り来る。(※省略) けふ依子より電話「6月上京などせず云々」澄より「あす望退院」らしき電話ありしと。宇宙船13号故障して月着陸できず云々とtelevi。 4月15日 よべ寝つき悪く教授会欠席の通知し、午すぎ佐伯に借金(400)払ひ、北口の古本屋できき新本屋で和裁の本(500)買ひ来る。 (※省略) アポロ13号帰路につきしと。 平凡社渡辺氏より電話あり「(※自叙伝)ユ反対につき」といへば「思ひ出す人々」としてもよし。近日来玉ふと也。 4月16日 よべよく眠る。松浦友久氏より『李白』贈らる。 電電公社万国博運営本部より「大高野球部の会、委員は17:30霞ヶ関ビル30階電電公社総裁室広報部電気通信館制作室へ来い。他の参加者は18:00中二階三井不動産PRコーナーに集まれ」と。 通知4枚かき、安達氏にもその旨電話し、丸にゆくこととす。滝本生12:30来り「三浦女史不機嫌」と。(※省略) 19:00夕食すませ地下鉄にて丸、道迷ひ『乾山』贈れば喜び「出る」と。帰り滝本のゐぬを知りて三浦女史に会ひなだめ云ふ。(※省略) 4月17日 9:00すぎ出て成城。鎌田女史に会ひ、主任教授時代の苦労いひ、大藤主任をつづけさすこと可といふ。(※省略) 大学院にゆき本草やるといひ、出か出ぬかきめよといへば3人出るといひ、(※省略)そのあとsemiし鬼のよみやり、字引買ひ手伝ひて帰宅。 澄より電話「望、夜泣き乳のますに依子neurose、預かるところありや」と。 高円寺ベビーホームにきけば「母親の診断書必要、2ヶ月児では云々」と。今井翠に愛育病院のこときいてくれとたのむ。(※省略) 4月18日 7:20さむれば花井タヅ子夫人より「孔子の師は」と電話、「周公」と答ふ。 澄に電話し「東京ダメ、名古屋日赤にたのめ」といへば「さうする」と。(※省略) 澄より「日赤承知」ときき、美紀子に電話し「姉上へあやまってくれ」といふ。 寒く少し雨降る。午后、安達教授に電話し「大阪62才より38才まで」といふ。「速達未着」と也。 4月19日(日) ユ、不眠とてわれのみ礼拝にゆく。主の最も愛したまひしはヨハネと也。すみて総会。(※省略) 雨中、阿佐谷へつき佐伯にて傘借り『森鴎外の研究(550)』買ふ。61才にて腎萎縮にて死に玉ひしと也。(※省略) 20:00澄に電話すれば「望けふ入院、(※省略) 一家ぐっすり寝、泰風邪にて38℃」と。 4月20日 10:30出て大阪ずし(150)買ひ、成城大学。けふは堀博士のみなるも鎌田女史来り、大学院生宇野と話す。 国文学の大学院12~3人をり多すぎるゆゑ3~5人となる様祈る。ついで2Dの東洋文化史。45人位。(※省略) 澄より電話かかり(※省略) 泰、熱とれ幼稚園へゆきし由。 4月21日 12:00出て成城へ月給とりにゆく。(※省略) 成城堂へ3,705払ひ、順へと独和辞典1冊買ひ、村松助教授と同車。もっと話しかけよといふ。 南新宿で下車。東豊書店へゆき『Cathay and the way thither』、『東西洋考』、『天妃顯聖録(150)』、『太平天国暦法考訂(300)』にて7千円余払ふ。 葛飾商高の堀江忠道氏来合せ花房氏の弟子とて李白研究すと。「遊びに来たまへ」といふ。 佐伯で『虞初志(280)』買ひて帰り、今井家の留守番より帰りしユに20分先だつ。 夜、葉雅美生へ電話せしも不在。あす欧米旅行へゆく史に「気をつけてゆけ」といふ。 けふ小林氏(※小林英俊)詩碑建立式に来よと速達あり「ゆけず」と返答す。 4月22日 葉雅美に電話すれば「Albumまだあるかしら」と。「もういらず」といふ。ユ池上家弔問にゆき帰れば西島順来る。(※省略) 『日本の詩歌』の最後来る。けふユをして咲耶に(※義弟河野岑夫に)接骨木のませよと速達す。 4月23日 7:00さめ8:00起き9:00家を出て成城大学。大藤主任「昨年度の残りを入れて20万円。個人購入は6万円なれど税つく」と。 中西博士に「五雑俎考」のこときけば「組みゐる。払ひした」と。真珠湾の時5才だったといふ米人と話し、短大にゆき(※省略) 中国文学史の時間にゆけば12~3名。英文と芸術の学生のみなるに失望困却す。 (けさたき火しゐれば安達氏より「米田のオッサン呼べ」と。帰宅。三浦工業支社に電話し「米田、藤沢、長沖の諸氏にぜひ出てもらふやう社長に伝言を」といふ。) 女医先生に「ちと躁」といへば青丸一つへらさる。夜、滝本来り「忙し」と也。 4月24日 5:00さめ本草のnote作る。11:00すぎ登校(すし150買ひゆく)。大学院控室で本よみ、13:00より1.20講義。菖蒲と石菖とすます。ついでsemi。 これも10分前までやり疲れしも月曜のprint切る(※省略)。 ふらふら出て新宿にて蜜豆食ひ帰宅。依子より手紙と写真。硲晃氏より「旭高校に転任」と。立原達夫氏より「電話つきし」と。 4月25日 成城教務より電話「中国文学史」を金曜2限にすることとなる。 9:30三浦貢氏に電話すれば「藤沢、長沖氏うんと云はず。熊野啓五郎同窓会長出てくれる由。その旨安達教授に伝ふれば宜し」と。 歯茎いたむ故、柏井へゆき膿出してもらひ、帰り『北京(250)』、『父親としての森鴎外(720)』買ふ。(※省略) 小武守圭子より5.17結婚と。披露宴出られずと断る。(※省略) 依子より「まだめまひする」、「澄の情忘るな」とかく。 田川博士よりprint3枚。夕方また歯痛みし故、柏井にゆき雨中、茶もちて帰る。京、吉祥寺へ泊りにゆく。 4月26日(日) けさ4:00にさめ、眠くて礼拝にユのみゆく。午すぎ散髪にゆけば雨降り来る。宮崎智慧さんより「旅行に15日ほど出る」と。 薄井はるな嬢より5.13スエヒロ築地店で結婚と。 4月27日 朝、小田幸康夫人より集会所はどこと電話あり。10:30すし買って登校。大学院の国文で『和漢朗詠集』の解説よまし、保留、合格をいひわたす。 あと高田教授の渡仏を訊ねしに皆知らず。東洋文化史でちょっとよみ、クラス担任の注意をしクラス委員選ぶを知りて出、 佐藤春夫年表(講談社全集の)を作る叔母(※内山百合子氏)をもつ、われにも贈るといふを誘ひて餡蜜食ひ(わが2科目ともに95点をとりし3年生)、 霞ヶ関ビルへ着き、夕食ちょっと食ひ、30階の電電の広報室へゆきいろいろ話す内、安達教授見え挨拶し、 大阪よりかかる電話待ちしに三浦氏出、大体の段取り云ふ。中二階の集会所へゆけば神崎清氏はじめ大分そろひ、丸もをり、紅松をり。 白井きのふ大阪の対松江戦に出、けふは上京と。紅松喜ぶ。さて対面の場には川勝、能勢、渡辺、豊田、石浜恒夫をり、全寮歌うたひ万歳三唱。 (※省略) 茶またはbeerのむこととなりしも丸(※病中にて)不自由ゆゑことわりて、 仁谷氏に挨拶され、坊やのこときけば文学にすすまずと。依子のこと礼いふ。 丸とtaxiひろひ丸宅まで送り、上りて茶よばれ出れば重俊追ひ来り、駅前で茶のみ説教す。(※省略) けふ原田先生(※原田淑人)より「花蕊夫人の宮詞」いただく。ありがたし。眞野君(※真野喜惣治)より「楽し」と。 4月28日 雨降る。11:00出てすし(150)買ひて登校。庶民文化大学院のprint切り、14:00より新学部長堀川博士の下にて教授会。 高田君30万円もらひて欧州へゆきしと也。すみて文化史の会、(※省略) 16:00すぎよりの新入生歓迎会に50人計り出るを見、coca-colaのみて早退。 佐伯に寄り『文芸春秋5月号(80)』買ひて帰宅。(※省略) 夕食する中、電話かかり、この間東豊書店にて会ひし都立工商2部の教諭堀江忠道君迎へにゆく。 小石川高校より京都府大を出しと。22:00すぎまで話しゆく。(けふ相良先生と話す。「伊集院斉(※の著書)はまちがひだらけ」の由。) 4月29日 天皇誕生の日。けふも早くさむ。午前中、佐伯へ本注文にゆく。(※省略) 鈴木亨より「跡見学園女子大学文学科に勤めることとなった」と。 ユをして果樹園社に速達せしめ、原田淑人へお礼かく。(※省略) 集英社より旧奥付800枚返却を受く。 4月30日 国鉄ストにてまびき運転と。8:00出て改札止め10分。3台目に乗り成城へ9:30着く。東洋史11:30までにすまし、13:00試験手当取りにゆけば1.3万。 南新宿で下車。東豊書店へゆき『全唐詩』など9千円買ひ15:00帰宅。ユに3,500返し、 蓮田善明の教へ子神谷忠孝氏より阿佐谷転居の通知見て、出て南の古本屋にて700円ほど本買ひ、滝本に寄れば留守。三浦女史出るところと。 スト解除となりし営団地下鉄にて虎ノ門下車。霞ヶ関ホテルへつけば既に多数集りをり。(※佐藤春夫の会) 中谷孝雄、林富士馬、佐藤夫人、竹田竜児、井伏鱒二、庄野兄弟に挨拶し、立食しゐる中、浅野晃氏、尾崎秀樹を紹介す。 年表作製の内山百合子氏に会ひ、姪に蜜豆おごりし礼云はる。文芸春秋社社長、河盛好蔵と知る限りの挨拶し、 (井上靖われを忘れをり。伊藤桂一、杉森久英などを見て挨拶し)森本ヤス子夫人にからまれ神保(※神保光太郎)見て退出。 帰れば美紀子2孫をつれ来をり。(※省略) 5月1日 8:30出て成城。中国文学史の教科書そろはずとて男生を前に並べ礼を教ふ。国文出るやうなりし。 昼休み2Dの身上調書くれと教務にゆけば、月曜用紙を渡すにつきかかせよと。 大学院にて「ヨモギ」やり、すみて次は「ニラ、ニンニク、ネギ」のたぐひやるといふ。 semiにて成城出の西岡典子を罵り「曰」を教へ、示偏を「ネ」とかくこと教へ、西岡、塩崎つれて図書館にゆき参考書を教ふ。 疲れて帰り佐伯に寄り学校へと10冊ほど注文し、われには『鑑草(50)』、『理科年表(100)』買ふ。けふユ、今井へ菓子もちゆき(※省略) 澄より電話、きのふ夫婦して幼稚園へ泰迎へにゆきしと。(※省略) 5月2日 早くさめ9:30佐伯へゆき『ぼらぼらざ・ソロモン(200)』買ひ、昨日成城にと買ひし本、総計せしむれば3万円余なり。 滝本16:30に3嫗つれて来るとのことになりしも19:00になりしと。叱りて止めさす。(※省略) 5月3日(日) 早くさめ、われのみ聖餐式にゆく。帰り佐伯にゆきまた本注文し、 躁とて堀夫人(※堀多恵子)に電話し、応答なきに加藤夫人(※多恵子氏の弟夫人)に電話すれば「堀夫人音楽会、今年の墓参は未定」と。(※省略) 43Aの阿部生電話かけ、来り「いとこの夫に誘惑されをるや」と。「されをり。罪を犯すな」と夫婦して22:30まで話し、出せしあと京帰り来 る。 5月4日 5:00さめ8:00まで待ち京おこし、よべの帰り遅きを責めて叩く。10:30出てすし買ひ、(※省略) 11:16の準急にて登校。 大学院にて国文7人のcard受取る。2人来りしゆゑ、むりするなといひ、5分遅れて東洋文化史。北京の元日のprintすまし、身上調書かかす。 紅茶を研究室にて飲みて帰り、佐伯にて百田宗治『ハイネ青春の書(41)』買ひて帰宅。(※省略) 5月5日 子供の日。よべユ、安定剤のみて眠りし也。われ6:00起きsoup飲む。(※省略) 12:00すぎ山野井秀子来り、13:00片岡さんにつれられ加藤君来る。われ専ら話し「上野のスペイン展へゆけ」と追出し、 滝本へ昨日のカステラ半分もちゆき「運ついてる」と云はれ「ハイヂ」見に15:30までに帰宅。 ユ、菖蒲湯わかす。夜いやいやnote作り、加藤、山野井両方とも「感じよかった」と。最後に加藤母上よりの電話にてすむ。 5月6日 早くさめ休日なるに気づく(よべnote作りし)。山野井生に電話すれば話変り「結婚する気なし」と。「も一度会へ」といひ、夫婦ともに呆然たり。 11:00東洋文庫に電話し松村氏きけば「不在」と。田川氏いへば「不在」と。 勃然と怒り、Dapper (※Olfert Dapperの図譜)の影印1/3なるも融通きかせといへば渡辺氏といふのが出て「承知した」と。 女医先生に行けば赤2粒にしたまひ4度のむこととなる。昼食後、滝本にゆき2女史に猥談し、 すぐ堀多恵さんにゆけば不在らしく加藤俊彦教授出て来しにベル押しもらひ「軽井沢か」ときき、28日!に呼べといふ。 日本の勝利を喜びゐしを嗤はれ、夫人帰宅して茶だし玉ふに出てまた滝本。(※省略) 帰りてユと山野井生のこと考へ、阿部生を19:30訪ぬれば不在。全躁なり。 5月7日 雨、登校。東洋史を教へ渡辺卓氏を待ちしに会はず。 (大藤氏にきのふ加藤俊彦夫人に会ひしを云ひ、法政学長松田教授などを学長候補に挙げれば栗山教授やる気ありと)。 printあすの庶民文化大学院に「ねぎ、おほにら、こにら、おほひる、こひる」切り(※省略) 『日本の医学』買ひ、佐伯に寄り『天壇』いらずといひてすむ。(※省略) (入口にて片岡さん来しゆゑ、山野井高慢ゆゑ気をつけよと云ふ。) (※省略) 堀夫人電話ありしといふに滞独記面白し、かけとすすむ。 5月8日 霧雨のこる。8:20出て9:20登校。東洋史すませ講師室にをれば佐伯書店、本をもち来る。13:00までうだうだ話し、月曜の東洋文化史のprint切り。 研究室にて『岡正雄教授古稀記念論文集(2,000×0.8)』頒つを見て1冊買ひ、南新宿で下車。東豊書店へゆき『八旗通志初集(128,000)』を予約す。 滝本、三浦来り、躁を認めて22:00帰りゆく。 5月9日 10:00すぎ母に贈り物もちゆき父の袴買ふこととし、はきて帰る。 佐伯に寄り『静盦漢籍解題長編(6,300)』、『俗語典(1,800)』、『唐詩辞書類集(2,600)』買ひ、ユに銀行より金出して払ひにゆかせ、 西岡生に本貸せしあとまた佐伯にゆき6万円の受取かかす。(※省略) 散歩かたがた『文芸春秋6月号』買ひに出て滝本、三浦2生と茶のむ。(※省略) 5月10日(日) ユのみ礼拝にゆく。袴代のことにてぷんぷんしてゆく。(※省略) 兼頭淳子来り、弓子夫婦来るまでをり、京の買ひしすし食ひ弓子らと入れちがひに去る。 弓子「妊娠12月12日が予定日」と。ユ帰り来り、16:00に2人帰りゆく。 5月11日 曇り時々雨とのことに母に電話し、(※省略) すし買って登校。日本文学と中国文学を1時間やり、疲れてjuiceのみ(※省略)、 北京の年中行事やり(※省略)、栗山博士用ありといふに会へば「古人いへらく鶴、煙を避くの出典は」と。 宿題となり雨のはげしき中をtaxiひろひ(※運転手の)戦犯にて重労働10ヶ月後レンバン島にゆき、またシンガポールに戻りし少年航空兵たりしとの話きき、 630円に1,000わたせば400つり呉る。薄井家より受取来しのみ。 5月12日 午后ノートとりに学校へゆくつもりなりしも阿部生来り、昼食し帰りゆく。 15:30までわれ戦争映画見て、ユ眠れるを見、『果樹園』依子に送りに郵便局へゆき(20)、滝本にゆけば三浦女史ひとりをり、帰れば滝本ゐて神経病らし。 『魔女狩り』、『漢方薬入門』買ふ。17:00入浴せんとしゐれば米山生来り、シュークリームとユに札入れと呉る。坂生に電話して報告す。 けふ石山直一氏より大阪キリスト教短大に就職と。日野忠夫氏より「小冊子送った」と。(※省略) 5月13日 10:00出て登校。「西洋人の東洋渡来」のnoteもち民俗の子2人に漢字の訓み教へ、 12:30(クリームパン1つ食ひ)出て、築地のスエヒロ8階の田岡子・薄井はるなの披露宴にゆく。新郎は労組副委員長、身長180cm以上(※ 省略) 挨拶して新婦の衣なほしの間に退出。間違へて高円寺に下車。古本屋見れば『岩波文庫和漢朗詠集』200であり、戦中版なり。 けふ成城堂にて安藤昌益『統道眞伝』上下買ふ。狩野亨吉を『文芸春秋』にてよみしが為なり。 5月14日 5:00さめsoupこさへnote作り、ユのさめるを待ち10:00出て登校。東洋史「景教」の中途までやり、あとprint2枚切り(※省略) 高円寺下車。帰れば京とつれて弓子来り、慢性盲腸炎とわれ診断す。18:00帰りゆきしあと善一郎君より電話あり。(※省略) 5月15日 6:00さめsoup作り9:00出て登校。佐伯の受取を池田博士の函にさし、中国文学史大声でやる(62人)。昼食12:30まで来ず。(※省略) semi大声にて太平天国よみ、帰り佐伯に寄りしも本なし。(※省略) 楊雲萍氏の掛軸やっと出来、もって来る(2,500)。 李錦順「あさって渡米」と挨拶に来り、オモニにも会ひ「先生若し」といはれし。内村俊雄君より「校長やめ文化財調査する」と。 5月16日 6:00さめ電報を電話で小武守にうち、9:00滝本訪へば2女史をり、(※省略) まっすぐ母にゆき茶のみ、名古屋までユと同行せよといひ、 大の起き来しを見て出、柏井へ寄れば尚子「新茶の時にて茶おくれる」と。佐伯休みをるを見とどけ12:00前、家に帰り、 東洋文庫の松村氏に電話すれば『籌遼碩画』つづけてよみゐると。神田氏呼んで白鳥全集の礼いひ、 坪井(※坪井明)より「20、21両日上京、関口(※関口八太郎)と会ひたし」といふに、関口に電話すれば「2日ともあけおく」と。(※省略) 史「Loreleiの岩に上りし」といふに美紀子に電話すれば「家には便りなし。依子わりあひ元気なりし」云々。(※省略) 久志学の「緑屋前にあり」といふを迎へて夕食せしめ、勉強せよといひ、20:30送りかたがた古本屋2軒見せ『宦官』買はす。(※省略) 5月17日(日) 4:00起き8:00ユ起し、京起し、8:30出て雨中教会へ礼拝当番とてゆく。精霊降臨の日なれど出席138名。 (竹森先生夫妻『果樹園』よみたまひしと。佐伯に寄り赤司道雄『聖書(110)』買ふ。) televi見てをればユ昼寐しをり。〒なし。 5月18日 5:00さむ。soupつくりtelevi見て8:15関口に電話すれば嫁君出て「すでに外出」と。10:30すしやにゆけば10分まてと。散歩してまたゆく。 11:16の準急に立ちて登校。国文の大学院にて川口久雄の訂正し、284(※讃美歌)歌ひてすまし、(※省略) 上元すまして茶のみ帰宅。 佐伯にて『無名白書(100)』買ふ。在日米人の戦争記なり。(※省略) 滝本生来り、三浦女史出てゆきうれしと也。(※省略) 5月19日 6:00さめ8:30出て成城。10:00に月見そばあつらへ12:00より大藤教授の相談といふをきけば3委員会の委員を出せと。われは一般教養委員となる。 中国文学史の『詩経』のprint切り了へざる内14:00となり、教授会にて10万円の書籍費、部長に出せと(請求書3通、納品書1通)。(※ 省略) 帰り久志生と同車。疲れて薬足らず。依子より「赤ん坊土曜退院、ねいす(※寝椅子)送れ」と。(※省略) 5月20日 5:00さむ。11:00美紀子、雅子をつれて来り、三鷹の弓子へと出てゆく。われ13:30出て登校。中国文学史に『詩経』切り、 佐伯の請求書もちて大藤教授まちしも会はず。16:00来らるといふ波多野太郎博士まち、 研究室に男生2人と女生2人と来しゆゑ中国語研究会をこさへよといひ、あす学生課へゆくこととす。 博士、広東にて宣伝将校たりしと也。18:00解散して疲れて帰宅。(※省略) 夜、景教のnoteかく。(※省略) 5月21日 6:00さめ8:30出て登校。大藤教授に佐伯の書物の本、捺印してもらひ、東洋史の出欠とり景教了る。張騫の再征の年きかれ訂正せんといふ。 渡辺卓氏に久しぶりに会ふ。print月曜の分まですます。 (午休み村田学生部長と会ひ中国語研究会をわが研究室でやることとす。) salaryもらひ大学院の入試手当4千円もらひ成城堂に払ひし、 神田へ出て図書card200枚(420)買ひ、筑摩の東博氏れば訪ぬれば不在。婦人之友社にて『青春を長もちさせる(490)』買ひ、喫茶(100)。 野尻抱影2冊(40×2)買ひて国鉄。佐伯にて『支那省別全誌(700)』、『日語大学(300)』買ひ、『軍歌集』もらひ『世界名歌170曲集(490)』買ひて帰宅。 坪井より「17:00来る」と電話ありしをきき17:00すぎ関口に阿佐谷まで来れといひ、坪井の17:20来しと話し、ともに関口迎へに駅へゆく。 本位田に坪井をして電話せしめしに不在。21:00、2人帰りゆく。 5月22日 5:00さめしも、よべおそく眠りだるし。仕方なく登校。3時間やる。箕輪生に『玄奘法師西域紀行』を300でゆづる。 弓子来てをり「悪阻にて料理やりたくなく(※省略)君と外食」と。佐々木画伯(※佐々木邦彦)より「8月上京、会ひたし」と。 5月23日 6:30さめ9:00すぎ滝本にゆき一旦帰りて10:00開きし写真屋に弓子の式の写真の現像たのむ。(※省略) 佐伯へゆき『和漢三才図会』と『牧野富太郎全集』のとりよせたのむ。(※省略) 宮崎女史電話かけ来り、11:00来しとすし食ひ、ユをつれて哲学堂の教会へと出てゆく。 われ金もたず天沼の母訪へば「月曜より神経痛起りし。もうあかん。」とのこと也。 大起き来るを見て柏井へゆけば、俊子姉をり、山住先生の診察すすむれば「月曜に」と帰りゆく。 また歩きて帰れば京の友、大野嬢来てをり「卒業試験にはDebussyひくつもり」と。2人、物云はず。夕食して帰りゆく けふ〒なし。20:00依子に電話すれば「望、退院した」と。 5月24日(日) 6:30さめ教会へゆかずときめゐればユもゆかず。 ひる前、横浜の鈴木女史といふが来り、(※省略)「教師と医者の子、出来悪し。国語勉強せよ」といひて返す。 (※省略) 美紀子より「史、あす夜8:00帰る」と。 5月25日 6:30さめtelevi見てをれば母より「11:00ごろゆく」と。(※省略) われ11:00まへ出てすし買ひ12:00成城大学。 栗山氏に会ひてきけば「国文の会あす」と。大学院、眠る子あり止む。東洋文化史、同じく眠る子あり中止す。 成城堂にて『非ユダヤ的ユダヤ人』、『火縄銃から黒船まで』、『ロマ書の研究』と買ひ、南新宿で下車。東豊書店にゆき『八旗通志初集』10万円の請求書、納入書かかせ、残り28,000と『静嘉堂文庫漢籍分類目録』のどろ棒版(※海賊版)(7,500)とを借用することとす。 帰れば母13:00より15:00まで臥て、あす11:00また来診と。(※省略) 写真の現像出来しをとり来り(2,040)、貼り了ふ。 けふ諏訪よりの(※出産祝ひ返しの)砂糖あければ、わが詩「望」を刷りゐたり。21:30美紀子より「史、帰着」と電話。 昭和45年 5月 26日~昭和45年12月31日 25.4cm×17.7cm 横掛ノートに横書き 5月26日 晴。母来り、山住先生の診断「結核でなし」と。留守番させてユ、半田女史と公平夫人へと出てゆく。 入れちがひに中山順子来り、忠王の2年やり、母の出せし雑煮食ひて帰りゆく。東豊書店教へ地図買へよといふ。 あと佐伯のぞき14:00滝本へゆき、茶のみ帰れば母、昼寐より覚む。 16:30いやいや五反田へゆき、歩き近鉄大飯店(旧藤山雷太邸)へゆけば、古野博士まちをり。 堀、大藤、新城、田中久子、白鳥芳郎、池辺、鎌田、2副手、野口、小川徹と皆出席。四川料理まづし。 21:00前散会となり、白鳥氏の止めしtaxiにて目黒駅。帰宅して関口に「けさ本位田に電話し、関口とゆくと云ひし」と云へば喜ばれし。(※省略) 5月27日 晴。7:00起き8:00にユ起き来る。母、午まへ帰りゆき、われも滝本にゆけば藤沢より19才の手伝ひ来り、仕事なしと。 (佐伯にて『故事とことわざ辞典(250)』買ひ、ウツギにて『三省堂年表大正2(100)』買ふ。) 珍しく昼寐せしらし。山住先生に「躁と鬱の間」と申し上げしに薬変へ玉はず。 5月28日 晴。東洋史Carpini(※修道会士)やり昼食、(※省略) 波多野博士より本5冊おきあり。(※省略) 東豊書店へゆけば引越し中。2万8千9百円払ひ、あと又といひて出る。けふ〒なし。(※省略) 波多野博士へ礼状かく。 5月29日 登校。きのふ波多野博士来られしと、また本もち来る。中国文学史「楚辞」すみ、東洋文化史「柑橘と石榴」すみ、次は水虫の薬やりくれと。 ゼミの時間、図書館へ『四部双刊』よりの『淮南子』と『太平広記1』借り来り、質問もなし。 帰り佐伯に寄る。夏のbonus、2.45らしく、佐伯などへの払ひなし。『東方学』来り、1,800払へと。弓子来て泊る。(※省略)君、日立へ出張となり。 5月30日 5:00すぎさめ、『果樹園』に「めぐみ」を書く。9:00駅前郵便局のあくを待ち2,500の現金速達し、東方学会へ1,800の会費も払ふ。 10:00成城、山本文雄氏に久しぶりにあひ、田中久夫氏に「待つ」といひて東洋文化史のprint切り、田中氏とマダム・チャンにて昼食。 小高根太郎へゆくといひたまふと別れ、東洋文庫へゆけばしまりをり。(※省略) 神田、松村2氏昼食らしきに14:00まで待てば松村氏、怒り顔にて逃げ、神田氏は相手す。 渡辺氏(図書部)に名刺ことづけ、coffeeのみ(80)、駒込駅前にて大塚敬節『漢方薬(1200)』に水虫の療法あるを見つけて買ひ、帰宅。 坪井より「眠剤やめて酒のめ」と。森本ヤス子氏より「小説見てやれと中谷氏いひし」と。月曜下北沢駅より電話することとなる。 (けさ滝本生、起きがけに来しと也。) 5月31日(日) 6:30起き、坪井へハガキかき、9:10夫婦して礼拝にゆく。礼拝当番ゐず、われ代りとなる。すみて佐伯に寄り衛藤瀋吉氏に云はれし『蔵原伸二郎選集(1800)』と『牧野富太郎選集1,2』、『朝鮮資料による日本語研究』、『唐話辞書類集2』とをとり、(※省略)。 南阿佐ヶ谷にて『一千万人の漢方医学(150)』買ひ、日ソバレーボールに勝ちしを見る。(※省略) 「手塚隆義先生退任の会6.29(月)17:00私学会館にて1,800の会費にて」とのハガキ来り、「出席」と返事す。 6月1日 また5:30さめ、ユ7:30起きるを待つ。10:30出てすしやにゆけばまだ開かず。新宿にて200の焼売買ひ登校。国文の大学院ねむく(※省略) やめて15:50下北沢「富士屋」で餡蜜食ひ、森本女史に電話かけ、迎へにきてもらひ小説預って帰る(林富士馬氏中風になりしと)。 けさひどき雨なりしも帰りは止みゐたり。佐伯で『岩野泡鳴(450)』買ふ。成城堂で『松浦宮物語』買ふ。 6月2日 早くさめ眠きも森本女史の作よめば香道のこと書き面白くなし。昼食して午すぎ出、下北沢を通り過ぎて登校。30分まちて教授会。(※省略) これにて17:00すぎ大藤主任に付添の旅費もらはんと鎌田女史探せしも見当らず、帰り途にて2Cの女学生2人に挨拶され、風月堂にておごり(400)、 森本女史にゆけば「21:00ごろまで外出」と。原稿返して帰宅。けさ澄より「依子ノイローゼ」とのことに20:00ユ電話かけ「あすゆく」となる。 6月3日 『半田良平の歌と生涯』つく。昭和20年1月8日「床中にて昨日読み始めし田中克己の『李太白』を読み、却々面白し」とあり、この年5.19逝去し玉ひし也。 ユ、印通帳など置き12:00まへ名古屋へと出てゆく。(※省略) 昼食雲呑(100)食ひ、televiの洋画見る。澄より電話ありし故「ユ行った」といふ。 夕食大阪ずし食ひ、20:00名古屋へ電話かれば依子出て「母着いた」と也。note22:30までかかる。 6月4日 よべ23:00眠り7:00さめsoupこさへpão京に焼いてもらひtelevi見て8:30出、登校。東洋史Rubruk(※修道士)すむ。 中国文学史「史記項羽本紀」、東洋文化史「水虫の薬」、月曜の「北京年中行事」と3枚print切り、bonus2.4ヶ月分ときまりしときき、 東豊書店によれば3階に移転しをり。本、欲しきものなく帰れば京、買物にゆきをり、やがて滝本来り土産にシュークリーム! 美紀子に電話せしめしに母と出て留守。京の買ひ来し茶巾ずし食ひて帰る。 母より電話「薬とりに来る」とのことに、もちゆきてユの名古屋へゆきしこと云ふ。20:00すぎ諏訪に電話すればユ「あす帰る。望つれられず」 と。 6月5日 7:00さめ、soupこさへpão京に焼いてもらひtelevi見て、8:30家を出て3時間教ふ。あす午后中山順子来ると也。 佐伯に寄りしに主人ものいはず、われも何も云はず。帰宅すれば矢本貞幹氏『白骨の想念』といふを贈らる。 (けふ牛山(※内山)百合子女史の姪『佐藤春夫年表』手渡す。) 折しもユより電話「あす午前中、望つれて帰る。6畳きれいにせよ」と。 京よりも電話ありし故「夕食たのむ」といひ、(※省略) シュークリーム食ひまつ。 堺君、牧健二の助手としてteleviに出をり。 ひとたびは主とともに死によみがへりとはに生きむとわれはおもへる。 6月6日 7:00さめ10:00澄より「12:35着く。迎へよ」ときき、11:00すぎ出て連れ帰る。愛嬌よくてよし。小高根二郎氏より「受取った。五孫とは」とのハガキ。 母より電話、心細き声で「手伝ひにゆかうと思った」と也。(中山順子生14:00来て16:00まで太平天国よます。) 6月7日(日) 礼拝にわれのみゆく。衛藤長老に『蔵原伸二郎選集(1800)』わたし金いただく。(※省略) 菅野静江生よりクラス会を13日13:30赤阪TBS会館地下「ざくろ」にてすと。「出」と答ふ。 『果樹園172』来る。史、美紀子、兄を連れて来り、兄と話す。 6月8日 よべ21:00眠り7:00日向に当り眠く大学院。東洋文化史ともに匆々にすます。(※省略) 東豊書店来るとて匆々に帰りねまてば18:00ごろ来り、『八旗通志初集40冊(128,000)』届く。 木曜に2.8万+7.5千わたすといひ、本見せwhiskyのませ20:00となりて帰りゆく。滝本生来り、「美紀子、友だちつれて来りし」と。 眠し。望のせいか。 6月9日 12:00すぎ出て東洋文庫。渡辺氏呼べばDapperの残りのcopy出来をり。18,675払ふ。渡辺氏に礼云ひ、閲覧券書きかえへしてもらひ、 巣鴨、大塚と歩きて林富士馬氏訪ぬれば夫妻にて歓迎。「病気はうそなり。孫まだ」と。 15:15出て池袋まで歩き成城大学へ16:10着き、一般教養委員会といふのに出る。18:30すみ紀伊國屋へゆけばみなそろひをり。 (堀川、上原、大藤、新城と常任のみ)。われ望に会ひたく早々に帰らんとするも20:30まで引き留めらる。(※省略) (けふ文庫『読史余論』買ふ。)弓子きのふにつづきけふも来しと。 6月10日 7:00さむ。9:00女医さんにゆき鬱と申し上ぐ。『新蓬』(※見原種歌集)出版記念会、栢木喜一氏へともに「ゆかず」と返事かく。 ユ、賀代嫗に1.5万送りにゆく。〒なし。卵買ひに出(10ケ135)しのみ。 6月11日 8:30家を出(6:00さむ)、成城にてbonus30万余受取り「東洋史」。(※省略)print3枚切り、箕輪生さそひてプディング食へば『旧唐書』写しにとまた帰りゆく。 南新宿で下車。(※東豊書店にて)3万5000払ひ『清朝初期的八旗圏地(500)』買ひ『民俗双書』2種注文し、 阿佐谷へ帰り佐伯に行けば「まだ払ひなし」と。『発禁本百年(400)』買ひて帰宅。けふも弓子来しと。 夜、船越の長女「(※近所に)怪しき人影ありし」と。恰も京帰宅。(けふ小倉副手より木原信輔『冬眠帖』受取る)。(※省略) 6月12日 8:40出て登校。中国文学史、大学院へ。semiにて鬼よむ。(※省略) 帰り佐伯に寄り『和漢三才図会』買ふといへば1万円余と。 雨そぼ降る中を帰宅。林富士馬氏より会へて宜かった由。(※省略) 三浦・滝本2女史、ユの夏衣の寸法とりに来る。 6月13日 12:30出て赤坂見附TBS会館下へ13:00前につきIce coffee(120)のみ、やがて幹事(川本)菅野夫人来り、17人来る由。大藤、鎌田2氏来り、姜照美むすめ李銀喜つれ来り人参呉る。他に旧姓毛受、 根岸、クロちゃん、小川、本間、中谷、郷右近、三野、猿渡、、丸の諸生来り、16:00閉会。 教師1,000づつ出す。帰り佐伯へ寄り『和漢三才図会(10,080)』買ひ、受取りもらふ。 6月14日(日) 8:00さめ礼拝にゆく。長島昭氏の受洗を祝す。雨ふり出て帰宅。(※省略) 午后、松本善海夫人より「姪、斎藤先生(※斎藤茂太)にかかりたし」と。「われもはや通はず」と道筋教ふ。善海の病状には問答なし。(※省略) 6月15日 雨。11:00近く出てすし買って登校。大学院にて「高田瑞穂の詩は津村信夫に似たり」といふ。早くすませ東洋文化史「端午」すみ帰宅。 けさは羽田明らの『大学ゼミナール東洋史』と大伴道子『野葡萄の紅』もらひ、高田瑞穂君に礼状。羽田君にもハガキかく。 6月16日 雨。弓子来る。教授会にとゆき、すみて専攻会。またすみて一般教養の会。18:00までかかり「50分授業とせよ」と提案す。 帰り来れば弓子をり「今夜泊る」となり。庄野英二君より『ユングフラウの月』貰ふ。 6月17日 雨。弓子けふもをり。善一郎君大阪へ出張と也。世田谷梅ヶ丘の書房(※麥書房)より「四季の人々」と「コギトの思い出」とにて1,000部の本出すと也。 牛山(※内山)百合子氏『春夫年譜』にわがこと附け加へんかと。李錦順より「手紙呉れ」とアドレスなしのハガキ。賀代嫗より受取。 6月18日 朝方めづらしく望の泣き声をきく。おかげで眠がり乍ら登校。「マルコポーロ」短く切り上げprint2枚切る。(※省略) Weigallの『暴君ネロ(角川文庫)』買ひて帰る。弓子「1万円貸せ」といひて帰りゆく。 ハガキ4枚かく。1は(※全集編集中の)角川よりの「津村信夫の書翰ありや」に「1枚もなし」と也。 平凡社より『唐代詩集 下』もらふ。びっしりと組みをり、上とは趣を異にせる故、渡辺春輔氏に礼いふ。(※省略) 6月19日 7:00さめ、ねむがり乍ら登校。午すぎ葉雅美生来り「姉も渡米中」と。李錦順のアドレス教へ呉る。NewYorkにゐる也。 大学院早くすませ、ゼミに出し甘い物食べてprint切らずに帰宅。『四季』7号おくれて7月頃出ると。阪本越郎氏の会7月2日と。(※省略) 6月20日 傘もちて登校(この頃7:00起きとなる)。山本文雄氏に会へば「東海大学スト」と。(※省略) salaryもらはず帰宅。(※省略) (※天理大学図書館より)『Biblia44』来る。いろいろの事思ひ出す桜かな也。 夜、滝本女史、ユの夏衣をあはせに来り窮屈とわかる。『半田良平の歌と生涯』かきし阿部氏より挨拶ありし故『李太白』喜び読まれし縁をいふ。 6月21日(日) 礼拝当番とて9:20雨中を教会にゆく。男47名女80名出席。帰り佐伯に寄りしに主人旅行。成城よりまだ金来ずとてはふはふ帰宅。 望ますます可愛し。京、同窓会にゆきマツナエ家に泊ると也。(※省略) 6月22日 傘もちて10:20出て女医さんに望の診断料払ひ(500)、すし屋開けざるに餡パン4ケ買ひて登校。salary11万余もらふ。(※省略) 大学院早めにすませ「これで切る。夏休み遊びに来よ」といふ。(※省略)早くすまして帰宅。 真っ暗となりをる空の下、佐伯へゆき『書誌学(3.6万)』買ふ。(※1933-1942年日本書誌学会10冊揃、汲古書院復刻版)あすもち来ると也。 けふ母来り、岑夫見舞にゆきしも「絶望」と。(※省略) スカルノ死す。 6月23日 天気曇。11:00佐伯書店『書誌学』もち北海道の菓子もち来る。一読せしに一向面白くなし。 13:30出て成城大学。大学院の博士課程の相読に出る。一向につまらず。すみてまた一般教養の会に出、つまらぬ顔して18:30すぎまでをり。 帰りて飯くへば依子「ノイローゼひどく上京できず」との電話。(※省略) 6月24日 けふは降らず。李錦順生へのヱハガキかき9:30出しにゆき滝本、佐伯へ寄り、帰れば塩崎律子生まちをり。15:00まで(午食出す)やりて疲る。 ただし鬼ほぼ掴みし様子なり。金曜のsemiに本とることいひて帰す。〒なし。ユ疲れをり。(※省略) 6月25日 9:40登校。「マルコポーロ」試験に出すとす。『和漢三才図会(10,600)』の請求書4枚と納品書1枚とに佐伯の受取そへ大藤主任の印もらふことを浅居副手にたのむ。 帰り東豊書店にゆき『台湾民俗』たのめば『八旗通志』の10万円受取りをり。夜、滝本生来る。(※省略) 6月26日 登校。最後とて夏休みに最善をといひしのみ。semiの4人わが前の家に下宿したしとの様子なりしも便所いかにや。ユをしてあす訊ねさせんと思うふ。 きのふ白井三郎より川西市へ転居との便り来り、けふは薄井董子夫人(※薄井敏夫未亡人)より娘夫婦と同居のこといひ来る。 わがしあはせを思ひ、松本夫人に電話せしに「寝たり起きたり」と善海のこといふ。(※省略) 6月27日 雨降らず。散髪にゆけば600円となりをり。比嘉への手紙、航空便にと郵便局へゆけば30円と。これは安し。 滝本へゆきユの洋服今夜もち来るとききて帰宅。大伴道子氏より「7月中に『野葡萄の紅』の評を」と。一向に通ぜざる也。 18:00ごろ滝本生、ユにもち来り縫代4千円と。これも安く気の毒也。(※省略) 向ひに4生泊めること止めんと思ふ。(※省略) 6月28日(日) 京、結城の友だち来しをしらず。8:00ごろ覚め、礼拝休む。『Politeia』の「春夫先生追悼号」来り、われ歌よみをり。 けふ久しぶりに晴れて30℃を越えしと也。 6月29日 起きて「春夫先生追悼」作り『果樹園』に速達せしあと登校。箕輪生来ずして14:00となり、夏休みの注意をしをへて研究室へ帰れば箕輪生をり。 「貸家だめゆゑ(※わが家へ)月火木金を4人にて分けよ」といひ、帰る途、柿崎生に遭ふ。(※省略)  柿崎生と喫茶し、私学会館へ17:30かっきりにつき、手塚隆義夫婦に挨拶す。この間白鳥先生へゆかれしと。無給名誉教授に推薦と。 林英夫史学科長よりの話あり、わが傍は遠藤武博士也。白鳥先生の話す。20:00帰りて茶漬食ふ。(※省略) 6月30日 曇。(※省略) 牛島洋子「南山大学人類学科に夫赴任」と。12:30出て成城へゆけば山田俊雄氏帰りをり、教授会うだうだつづき、(※省略) 16:00文化史の会にて高知県吾川郡へゆくといふ民俗学の4氏に別れ告げ、教員すべてにゼミもたせよ云々の会に出る。 中西、新井2君談じあひて話終らず。17:00ぬけ出して帰宅。ユ疲れをり。 7月1日 休暇の第1日。オランダ語のよみはじめ疲れしところ、午后阿部生来り「誘惑としれど甘きことば避け難し」と也。 17:00「あす帰郷。世界ハイクにゆく弟の夕食に」と買物に出てゆく。(※省略) 7月2日 午前中、雨。呆然としをり。『八旗通志初集』をよむのみ。12:30意を決して出、渋谷にゆき東急百貨店にて白鳥先生へsheets2枚(2千円)買ひ、 栗山氏に砂糖(2千円)送りたのみ、迷ひて野沢行に乗り白鳥邸。奥さんをられ郁郎君のこといはる。先生「痩せたね」の語のみわかりし。 われ「天国にて研究所を」といひて出づ。佐伯に寄り『離婚(300)』買ふ。愚本なり。成城より払ひありしとて安心す。 小高根二郎氏より「同人費受取った。子幼し云々」。われ幸せなるかな。望、女医さんにゆけば「物食はせよ」となりしと。(※省略) 7月3日 晴。塩崎律子生「午后来る」といひ13:30来り『太平広記』上すむ。帰りしあと依子へ手紙出しにゆき佐伯へ寄りし途にて塩崎生に会ふ。。 望に雑食せしめるとてユ、忙し。(※省略) 7月4日 台風、石垣島を荒し北上中。寒し。「星」の洪承疇の伝記を成城大学国文学論集にかくときむ。(※省略) 「アルク」より原稿かけと。 7月5日(日) 傘もたず駅にゆけば西空くらし。1番の先に坐り聖餐式。すみて長島氏に会釈し、竹森先生に「水曜午前お伺ひす」と申上げ、外を見れば雨。 (※省略) 望、日々に知慧つく。彦根の川村純一dr.より歌集『曲肱』、17年よりSingaporeにありし也。 7月6日 雨。11:30中山順子来り『忠王伝』あと1回にてすむと也。白鳥夫人より紅茶3缶返礼に来り、弓子の素麺来る。 7月7日 曇。7:00さむ。諏訪父上より中元。(※省略) 河村dr.へ手紙出しにゆき4:00来し箕輪生を6:30まで教ふ。(※省略) 諏訪母上より長い手紙「自律神経失調症」と。澄に電話して聞き直せば「今週土曜3人で来る」となりし。 7月8日 傘もちて9:00家を出、calpis3本買ひ(1,000)、竹森先生お訪ねし「御外遊をこの次には3ヶ月間に」とお願ひす。 出て三鷹まで歩き、(※省略) 弓子送りに出て「お父さんまた痩せたね」と。(※省略) 山野井生15:00きっかりに来り、17:30帰りゆく。(※省略) 7月9日 曇。(※省略) 筑摩より印税2千円余!(※省略) 西岡生10:00すぎ来り14:00までやりゆく。(※省略) 7月10日 曇。山野井生より写真速達にて来る。午すぎ立腹してユを撲れば、飯くはさず望つれて出てゆく。 澄より電話「あすおそく着く」と。塩崎律子生来る。午食せず一心に教へゐれば、波多野太郎博士より電話「荻窪にあり」と。 「お越し待つ」といひ、塩崎生教へつづけしに1時間ほどして見ゆ。粵語 客家語、閩語などシンガポールで買ひしを差上ぐ。 阪本越郎氏に似たりとユの話也。(乳母車買ひ来りし「奮発」といふ語は是なるべし) 『国榷』の「洪承疇」ほぼよみ了り、あとかきぬき早くし「星」の第1人とすべし。 麥書房の広告見しに堀夫人の本出しわが本も予告しをり。 『大陸遠望』2,300、『コギト詩集』7,500、『神軍』600、『コギト7-1』1,200、『青い花』800、『ハイネ詩抄』650、 『コギト』122冊24万円、増田晃『白鳥』3,800とあり。 わが本出す。堀夫人のは出せりと。 7月11日 雨。大掃除とてユと大部すてにゆく。午後弓子来る。 成城大学より大学院庶民文化博士課程に業績かけと。かきて出しにゆき佐伯に寄れば『白鳥庫吉全集6』来りをり。 角川より『現代詩人全集8』の印税1707-170。18:00澄、依子、泰来る。弓子も泊る。 7月12日(日) 6:00さめしも礼拝にゆかず。久しぶりにユをゆかしむ。(※省略) 澄、午食せず元気なく帰りゆく。 けふ『果樹園』来る。「めぐみ」とて弓子妊娠告知をかく。弓子夕方まで泰つれて出、電話かけて阿佐谷駅まで送り来る。佐伯にゆき2,250払ふ。 7月13日 曇時々雨。家居。洪承疇の明代記事了りに近くなる。ユ、今井へと泰つれゆきしあと、美紀子より電話「史、銀行局課長補佐とて在京」と。(※省略) 7月14日 午すぎ和田夫人より電話、阿佐谷にありと。迎へにゆけば「8.10Prince Hotelに11:30までに来よ」と。ice-creamを泰に賜ふ。夫君いまManilaにありと。 箕輪生16:00まで勉強してゆく。阪本美登里夫人より『未来の海へ(※阪本越郎遺稿詩集)』賜ふ。(※省略) 夕方、滝本生、泰へとものもち来り、三鷹より帰りしユ泰の顔見て帰りゆく。 7月15日 晴。家居。『国榷』の「洪承疇」すみ、『清実録』見る。ユ、今井へゆけば「アリちゃん眼病」と。 7月16日 晴。10:00西岡典子生来り、元旦の『古今図書集成』よりの史料よます。書き誤り多きもまあまあなり。 ユ、外科へゆき天沼ゆき17:00まで帰らず。(※省略) 7月17日 中山順子来り「忠王李秀成」一応すむ。ユ、保土ヶ谷にゆき「山野井生、母なきゆゑどうかと思ひゐし」と也。(中山生4月結婚と。石鹸呉る。) 7月18日 ユ出てゆきしあと母来り「(※岑夫氏)接骨木のむや」ときけば「のむもの多くてのまず」と也。(※省略) 7月19日(日) 泰の喘息にて早くさめ、久しぶりに夫婦して礼拝にゆく。暑し。滝本生来り、泰つれゆきしと。 夕方佐伯にゆき『龍の星座(300)』買ひ直す。Valignano『日本巡察記(300)』も買ふ。滝本生21:00ごろ泰返し、ねつくやまた喘息起りて泣く。 7月20日 暑し。滝本女史午すぎ来り、泰ついてゆく。(※暑中見舞 省略) 東京の日本歌人の雑誌出ると。宮崎女史よりも電話かかりユ「会員になる」と返事す。 弓子来る。21:00澄来る。 7月21日 7:00さめ8:30澄より先に出て散髪。帰りて箕輪生来り『旧唐書』の西域よみて『新唐書』と較べ13:30ごろまでかかる。 けふ澄、日光へ旅行。依子母子に帰れとすすむ。(※省略) 7月22日 9:00出て成城へ『書誌学』もちゆきsalaryもらふ。本代(『和漢三才図会』10,800)もわたさる。 成城堂で『文芸春秋』買ひ、今井教授と同車。「この間、小高根太郎に会ひし」と也。南新宿で下車。 東豊書店へゆき『燕都叢考(2.250)』、『Eminent Chinese of the Ch'ing Period(3,840)』、 『台湾地区公蔵方志目録(360)』、『泉州府志選録(180)』、『漳州府志選録(180)』買ひて帰宅。望、風邪と。泰も吸入せしと。 われ山住正己氏、本出されし(岩波新書『教科書』)祝いひしも、(※母堂)先生あまりかまはず。京はやく帰り、澄も日光より疲れて帰り来る。 あす3人帰名の予定らし。(※省略) 7月23日 昨日、山住先生に注射してもらひし故か泰、喘息やむ。ユ、婦人会と太田夫人に会ふため教会へゆき、諏訪夫妻と家を守る。 ユ13:00すぎまで帰らず、いらいらして待てば太田夫人の推す花嫁候補は母なしと。(※省略) 諏訪親子の出てゆきしあと西岡生来り17:00までやりゆく。洪承疇と「星」と旨くかけるや否や危むやうになりし。 7月24日 けふは下痢。学生来ず。暑く33℃。堀多恵子氏より「本送った」と。狩野和加子生より「ルバイヤットよみし」と手紙。 7月25日 暑し。33℃台つづく。堀多恵子氏『葉鶏頭』賜はる。高価なり。美紀子雅子来り、茶もって帰る。 7月26日(日) 礼拝当番とて9:30にゆけば相当番の嫗来ありし。(※省略) 出て森田先生夫人と一緒になり「奥さまによろしく」といはれ「お名前を」といひ恥かく。 吉祥寺駅にてcoffeeのみ、佐伯に寄り『黒人(50)』買ひ、新本屋にて『名画に見るキリスト(250)』買ふ。けふも仕事できず。望にユ困りをり。 7月27日 けふも33℃を越す。8:00望つれてユ、山住dr.にゆけば涼しき処にては望、乳のみしと。何かとまぎれて仕事出来ず。(※暑中見舞 省略) 7月28日 10:00箕輪生来り、機嫌よく教へ昼食せしめゐるに依子より電話、ユ出て「お父ちゃんちょっと」と。 われ聞けば「わたしもうだめ」と泣く計りゆゑ、「ユあすゆかす」といひて切ればユ、早速支度し、望つれて出てゆく。 呆然として箕輪生15:30まで教へ「椿山」へ茶のみに入れば中谷孝雄氏をり「けふ16:00より外村繁氏の年忌」と。「われキリスト者」といひ、 箕輪生とも別れ、途方に暮れて滝本にゆけば、やがて木野代議士の長男来りしゆゑ、また誘ひて茶のまし、別れて帰宅。(※暑中見舞 省略) 京の帰りまてば滝本生20:00ごろ電話かけ「来る」と。餡パンたのみ、来しと話す内、京、帰り来る。23:00滝本beer1本平らげて帰りゆく。 (澄に20:00電話せしに「ユに1~2日ゐてもらへば心配なし」と。) 7月29日 大伴道子氏に書評速達。澄より電話「Hysterieは前々より。霧ヶ峰へゆきてのち東京へつれゆく」と也。 ユに16:00電話すれば「あす、あさって帰る」とのこと也。午、母すし持ち来り、滝本に仕立さしをり。滝本帰りしあと大へとすしもちて帰る。 (※省略) 佐伯へ5千円にて買ひし本、3.5千円にて売り『未解放部落の歴史と社会(1000)』買ひ、三浦、滝本2女史をさそひ夕食。1千円 おごる。 (けふ山住正己氏の『教科書』買ふ。よく書けをり。)  洪承疇まだ書かず。22:00京帰る直前、2女史帰る。 7月30日 10:30ごろ来るといふ西岡生来ぬまに京、touristへと出てゆく。11:00来り、昼食を中華料理屋にて採り、勉強了りしあと西岡生ひるねす。 われ『果樹園』へ速達しにゆく。帰りたのまれしシャーベット買ひ、起して食べさし、 房州への切符とりにゆき帰り来しと話せば「母親、弟たちをひいきす」とのことなりし。17:15追出し、18:00鰻買ひ来し京に飯たかす。 澄に電話すれば「名古屋豪雨にてかへれず云々」(※暑中見舞 省略) 7月31日 ハガキ5枚書き、澄より「10:15のひかりに乗った」との電話きき、外へ出て滝本に遭ふ。雲呑くひ、佐伯に寄り13:00望抱きしユ見る。 霧ヶ峰へゆくは澄の好き勝手にて、諏訪母上家出と。(※暑中見舞 省略) 弓子来り、小林父上入院、母付添と。(中山順子に電話すれば部の合宿と。母上に叱言いふ。) 8月1日 晴。34.8℃となりしと。家居、呆然としをり。(※暑中見舞 省略) 筑摩書房より竹内好『予見と錯誤』送りしと。 8月2日(日) 礼拝にゆく。すみてまっ先に帰り、佐伯に寄りしも何もなし。(出がけ母来りしも5千円もちて去りしと)。 昼食すませしあと千川の紹介にて大阪鉄工団地事務局の上路親喜君といふが来り、散々話せしあとまっすぐ帰阪とのことに憐れなりし。 弓子来り、小林翁やや宜しき様子と。 8月3日 けふは30℃以下なり。外出せず(タバコ買ひにゆきしのみ)「春夫と中國」200×14かきしところへ中山順子電話かけ来り「すぐ来る」と。 13:00来り、15:30まで「李秀成」よます。原稿かきをり注のつけ方、点の打ち方教ふ。(※暑中見舞 省略) 8月4日 10:30箕輪尚子来り、『旧唐書』天竺をのこしてすみ、次は『資治通鑑』とせんといふ。14:00麥書房電話かけ来り、駅まで迎へにゆけば、 来りて「四季の人々」と「コギトの思ひ出」書き足して何ページとすべきかを云ふ、とのことに、年末までに書かんといふ。 竹内好『予見と錯誤』来る。中央公論社との絶縁などを記す。 大伴道子女史より原稿受取の速達。(※暑中見舞 省略) 澄夫婦、霧ヶ峰より17:00来る。望、寝返りうつやうになる。 「厦門志」に「茘鏡伝」あり。 8月5日 34℃以上となりしと。「春夫と中國」200×29とせしのみ。〒なし。佐伯にゆき佐古『私の政治的発言(70)』、『忘れられた南の島(30)』買ふ。 8月6日 けふも室内34℃以上と。山住dr.にゆけば夫君の本にsignして賜ふ。10:30西岡典子生、浜口真千子生を伴ひ来る。(※省略) ハガキ出しに泰つれてゆき、公園にて運動神経なきを知る。けふ〒なし。 依子・弓子にて誕生祝に本棚買ひ呉れし。夜、本棚を組み本入れ、ねをりし本凡ねかたづく。(※省略) 8月7日 雨降りすずし。午后、万国博へゆきしとふ塩崎律子生来り、熊本の朝鮮飴呉る。『太平広記』の幽霊あと1回位で了りとならん。(※暑中見舞 省略) 『民間伝承289』来り、元建国大学教授、大間知篤三氏の追悼号なり。元左翼、帰国後柳田先生より破門となりしと。 昨日より右蹠に水虫出来、酢ぬることとす。 8月8日 けふも涼し。佐伯へ『文芸春秋』売り『パプアの亡魂』、『犯罪と刑罰』買ふ。Dapperよむ。 8月9日(日) 7:00さむ。ユを礼拝にゆかしむ。Dapperよむ。滝本生来り、泰預りゆき、午すぎ返しに来り「100円貸せ」と。 8月10日 オランダ語やり10:00すぎユ泰と出て赤坂パレスホテル。和田夫人をり、藤野、平山、田中、吉原、山中、疋田の諸旧姓来り、 星野、岸、藤田、渡辺の4人を欠く。「これにてクラス会に出ず還暦祝の文かけ」といひ、写真和田夫人の坊やにとってもらふ。 (※暑中見舞 省略) Dapper19ページにてnote1冊すむ。 8月11日 Dapperやりつつ箕輪生待てば10:30来る。ユ、望をつれて依子と斎藤神経科にゆき泰を滝本に預けし。電話かかり午飯用意して帰ると。 すし買って12:00帰来。恰も『資治通鑑』の隋のところすみ、唐代を午食のあと紙挟み、疲れに疲る。(※省略) 〒なし。 きのふよりまた「新生」吸ひしも変りなし。斎藤先生の診断にては怕死の観念の圧へつけゐしが出しと也。 8月12日 3:00ごろ望、乳のため泣きしに覚め、あと悪夢見しゆゑ眠りしとわかる。7:00起く。けふもDapper写しをれば午まへ中山順子生より電話。 wineもち来り忠王伝ほぼメドつく。(※暑中見舞 省略) 弓子来り、今井へ泰つれゆけば万博へゆくところと也。 8月13日 けふも涼し。Dapperやり、待てば11:00浜口真千子来り、競馬の漢文よます。午食くひ13:30ごろ帰りゆく。澄の電話に依子出し。 18:00すぎ来りし西岡生の正月行事1時間ほどやり、帰らせば依子また泣きをり、ユ斎藤病院へあすつれゆき入室ささんと。(※暑中見舞 省略) 佐々木邦彦画伯「あすより大丸で個展」と。 主のめぐみゆたかに受くるありがたさ語らんひとのあれとぞおもふ。 8月14日 ユ、泰をのこし依子をつれ望と斎藤病院、午すぎ帰り来る。そのあと依子、室にとぢこもり泣く。 そこへ塩崎生来り、幽霊『太平広記』はこの次にてすむこととなる。その間、依子斎藤病院へ入院ときめ、ユ出てゆく。 塩崎生帰りしあと泰つれて公園。滝本にゆき帰り来れば弓子入りをり。(※省略) ユ帰り、ともかく入院せしめしと。夕食つくる元気なしとのことに、すしわれ買ひにゆく(480)。そのあと付添さんより電話、入用のもの多くいひ来る。 8月15日 10:00望を残してユ、泰と病院へものもちゆく。昨夜2時間しか寐ざりしと也。 その間、美紀子より電話あり、諏訪澄に10:30電話せよとの史の伝言をいふ。わけわからず、今井翠に泰つれてゆく。(※暑中見舞 省略) 20:30澄より電話かかりし故「史あさって10:30電話くれ」といひし旨伝ふ。 8月16日(日) 聖日なれど夫婦とも礼拝にゆかず。成城大学より前期試験について問合せ。(※暑中見舞 省略) 8月17日 けふも30℃。Dapper4冊目となり52p。鄭氏の項に入る。午まへ裸を見られ、大伴道子氏の書評の校正見る。5千円礼として石鹸一箱とともにたまふ。 (※暑中見舞 省略) 澄より「明日上京」と。依子の面会はユ帰りて聞けといへば夕方電話し来る。 『不二』来り、25年記念号なり。われと同感の人なし。けふ来る筈の中山生水曜にまはし、西岡生「あす来られず」と。(※省略) 宮崎智慧氏より20日すぎ来る。『日本歌人』東京支部会と別に雑誌つづけると。「ユ、双方に入らす」といひやる。 8月18日 Dapperにかかる。澄上京。斎藤病院へゆきしか。17:00前「来る」と電話。(※暑中見舞 省略) きのふより「echo(※エコー)」のむ。50円と安き也。 澄、夕方来り、泰あやし望抱いて20:30の「こだま」にて去る。 8月19日 写真屋へ現像出しにゆけば、金払ひあとでとcolor-film入れ呉る。弓子来り、掛取り来りしに払ひ呉る。 澄より電話かかりし故「けふはゆかず。明日ユゆく。17:00ごろ電話せよ」と答ふ。(※暑中見舞 省略) 泰、理屈いふ故叩く。 (けふ中山順子来り、10:30より13:00まで忠王伝李秀成やりゆく。)  Dapper朝夜やり64pまで写す。 8月20日 Dapperやりて待つうち箕輪生来り、13:00帰りゆく。(※残暑見舞 省略) 川久保より電話「上京しゐる」とのことに、「松本を19:00見舞にゆかん」と云ひしあと、泰迎へに薬王寺町へゆき、玄関にてつれ去りtaxi(190)、 川久保19:00すぎ来り、二人で葡萄買ひ(500)見舞へば歯ぬけて言語不明。歯科医へゆけとすすめ歎息して帰宅。22:30。 (けふ虫眼鏡買ふ。500を450に負けてくれし。) 8月21日 けふもDapperやる。ユ、望をつれて病院にゆく。塩崎生来り、『太平広記』第4冊を拾はす。もう1冊ありと。 ユ帰り来り、クリームパンを昼食にくふ。まだ紀要の原稿に手つけず。Dapper写しに懸命なり。マカオを過ぎて福州に着く前となる。(※省略) 8月22日 10:00出て成城大へsalaryもらひにゆき(※省略)、帰り佐伯に寄り狩野直喜『支那文学史(2400)』買ふ。良からず。10:30西岡生来りし故(※省略) 西岡生教へる中、白鳥夫人より「依子いかに」と。「日本一の医師にかけをり」といふ。西岡生のcard少なく、帰りゆく。 母、咲耶宅に3日ゐしと。望やや賢く(うるさく)なりし。(※省略) 8月23日(日) よべ眠剤のみ忘れ一度目ざむ。この数年来なきことなり。昨日台風にてとまりし釧路ゆきの船出るとて京、マツナエとともにゆく。帰りは飛行機と也。 親の心子しらず。(※省略) いらいらしつつ「春夫と中國」200×37となる。善一郎夫婦17:00ごろ来り、誕生祝を早めにせしと。 8月24日 またDapperにかかりをる中、賀代嫗来り、1.5万もちゆく。船越の1.5万はまちがひなかりし。 福地君(※福地邦樹)より「小高根氏『果樹園』200号まで出す」と。(※省略) ユ、泰つれて斎藤神経科へゆきしあと賀代嫗訴訟のこと話してゆく。 ユ帰り来り、「依子きげん良し」と。10日の写真みなとれをり。 8月25日 船越次女の保証人となる。昨日「勝手な時だけの隣人」と話せしばかりなり。(※省略)佐伯へゆき『牧野選集』4,5借り『華僑(100)』買ひ来る。 東京自疆より9月17,18日の私学会館で会と。出席と答ふ。(※省略) 『牧野選集』のハサミこみ見をれば田中克己のエッセー集出すと予告しあり!「春夫偏論」200×53にて了る。 8月26日 庶民文化の紀要かかず。10:30中山生来り、12:30終り昼食して帰る。浜口生の母より礼状。角川より「ハイネ新9版6,000出す」と。 8月27日 やや秋の気す。午后西岡生来り「正月行事」やる。(※暑中見舞 省略) ユ、2人の子供に疲る。『牧野選集』2冊分払ふ。 8月28日 ユ、望をつれて病院。母入れちがひに来り、宝国寺(※菩提寺)に3万円わたし、「生きてゐる中に」と云ひし由。 12:00ユ帰り来り、滝本化粧して来りしと母の話。帰りしあと昼食し塩崎生の『太平広記』すむ。夜、焼増し出来(880)、7夫人に包む。 この間、千川の紹介にて来し上路氏より「貴台に会ひしに「満足」」と。 8月29日 暑く35℃越えしと。箕輪生来り、菓子もち『資治通鑑』よます。14:00帰りしあとユ、今井へ泰つれゆきしに松浦へアリちゃんとともに預けにゆきしと。 20:30すぎても音沙汰なし。けふこの間のクラス会の6生の写真送る。 (成城大学より電話「山内博士(※山内清男)亡くなられあす自宅にて告別式15:00より」と。) 保田夫人より『くちなし』送られ、礼状かく。 8月30日(日) 7:00起され9:00出て礼拝当番。すみて森長老と「よき先生に当りし」と話して帰る。13:00すぎ出て香奠の紙買ボールペン買ひし。 成城大学へゆけば当直、山内博士の家知らず。駅につけば黒服の連中をり、これについてゆき、 14:30鎌田女史より一括して香奠出せしとのことに記帳し黙祷して出、卒業生ら見、栗山、池田、高田諸教授と話して帰る。 若葉伊奈緒より電話あり(※省略)、jazzやりすぎて学校へ出ず(英文志望)東洋史の点くれと也。 8月31日 59回目の誕生日なれどユ、2人をつれて午に出てゆく。17:00澄より電話かかりし故その旨伝ふ。(※残暑見舞 省略) 澄より電話かかりし故「2児つれまだ帰らず」といへば「薬王寺ならん」と。案の如く薬王寺へ電話すれば「今帰りし」と。 斎藤病院の払ひは10日目。付添さんは「けふはいらず。来週ぐらゐ退院ならん」と。(※省略) 9月1日 29℃と。だるくゆくのいやになり、「春夫璝記」も捨てることとす。(※残暑見舞 省略) 9月2日 30℃をまた越す。けふも登校せず。民俗学会の専任幹事をゑらぶとて電話ありしと。弓子来り、2人の守をしてくれる。ユ全く参りをり。 9月3日 35℃を越えしとあとにてわかりしにワイシャツし、上衣きてゆき扇風機とjuiceとにて「東洋史」35分、print2枚やり、中西博士に「春夫璝記」出せずといふ。 山内博士勝手に代講おき(東大助教授)、礼はせず、大学におきある資料2千万円で売るとの大藤氏の話なりし。(※省略) 佐伯にて駄本2冊買ふ。(※省略) 9月4日 小高根二郎君に同人費送り、中国文学史「李白」までゆく。大学院和泉圭子1人にて成城の世界旅行に参加したと也。 雑談してすましゼミ4人そろひしに「もうそろそろかけ」といふ。(※省略) 林富士馬氏よりハガキ。 ユ、けふ2人つれゆきしも会計わからず、依子あと戻りして退院おくれると。落胆。 (※省略) けふ『モンゴルの征西』、『台湾』買ひ、『草の葉』よむ。きのふよみし海戦に負けたると照らし合はせれば自尊の強き民族なりアメリカは。 9月5日 よべ泰の喘息でさめて眠れず。下痢せしとて山住先生にゆき3日分もらふ。(※省略) 澄より電話あり、ユ今井へゆき保育所に入れるがよからんと云はれしを伝へれば、ユを出せと。 9月6日(日) 11:00託児所とユゆき12:30太田夫人写真もって来る。(※省略) 託児所満員とユことわられしと。(※省略) ユ帰りしあと餡パン食って佐伯。複本3冊うり、『煬帝と玄宗(250)』などもらひ来る。(※省略) 佐々木邦彦氏より「依子いかに」と見舞。 9月7日 (※省略) 11:00出て登校。国文の大学院出席よく30分ですまし、休みて東洋文化史。これも出席よきもわが質問に答へず。 いやになりてやめ帰宅すれば水道の修繕に来てをり。託児所はゆけざりしと。北杜夫氏「躁」と自ら記す。泰いよいよいふこときかずなる。 9月8日 ユ、母と泰とにて斎藤病院へ払ひにゆく。(7万円ほどと)。われ11:30出て雲呑食って登校。 教授会まへに大藤氏に呼ばれ、山内博士の代講、佐藤京大助教授をひと先づつづけてもらふこととなる。鎌田女史に「春夫偏論」わたす。(※省略) 帰れば(※暑中見舞 省略) 川久保より「また来る」と。澄21:30来り、23:00ごろまで泰さはぐ。 9月9日 10:00澄起き、泰つれてゆき斎藤病院を出て御苑に寄り15:00ごろ来ると。依子は鬱状にて鬱症でなしと斎藤先生いはれしと。(※省略) 16:00すぎ名古屋へ帰りゆく。気の毒なり。 9月10日 9:00出て登校。むし暑し。東洋史「オドリコ」やり、あとprint切り乍ら山田俊雄君と話す。『北平風俗類徴』わすれ『杜甫詩抄』のみにて退散。 新宿にて京と同車。依子まだねてをり。16:00京、泰とにて病院へゆく。澄、Golfの用品を買ひしと也。バカげをり。 小高根二郎君より通勤3時間以上と。真野喜惣治氏より「万博見た」と。『果樹園175』つき小高根氏によればあと25冊なり。 9月11日 9:30登校。3時間教へて疲る。帰りて何もせず20:00眠る。 9月12日 室内25℃と涼し。山野井生来るとのことに昼食して待てば14:00ごろ来り、縁談のこといふ。17:00近くまでゐて帰りゆく。 その間、角川よりHeineの印税5万円来り、依子の払ひすませばこれだけのこると、ユ喜ぶ。 9月13日(日) 礼拝にゆく。父なる神はうしろ姿だけ見える。その姿を見たものは生きないと教へらる。けふは暑し。 澄、高松より電話「依子ゆっくり置き玉へといひしか」ときけば「いはず」と。 9月14日 登校。午食に支那饅頭1ケ半のみにて疲る。帰ればユ、2孫をつれて斎藤博士に会ひ、17日退院願ひゆるされしと也。 9月15日 暑し。西岡生来り、13:00より15:00すぎまでよまし疲る。 9月16日 眠剤のためか、だるくてゐる処へ16:00中山順子生来り、「太平天国の外交」よます。(※省略) 9月17日 けふも眠く8:00起され床上げせずに登校。1年の東洋史早々に切上げ、printに北平の年中行事やればず。2枚切りて逃げ出す。 帰れば喘息の泰ねてをり、まもなく依子つれてユ帰り来る。恐怖症也。困る。21:00澄来る。 9月18日 睡眠不足にて登校。東洋文化史のprint切り、田中東北大教授(物理)と話せば最高俸までなりゐると。大学院けふにて打切りといひ、ゼミ出て家へ来よといふ。 後藤均平氏立教へ来しと。思潮社といふより伊東・立原研究出す云々。澄20:30帰り来し直後、寝に就く。 9月19日 朝、澄名古屋へ帰りゆく。気の毒なり。無為。前川佐美雄氏より茅ケ崎へ転居の予定と。今中十九期生会より通知。(思潮社へことわりの電話す。) 9月20日(日) 礼拝にゆく。教会40周年にてその頃の人2人はありと。受洗者2人、1人は80過ぎの老嫗にて涙出づ。お茶の会ありしも帰り来る。 澄より冬物送るの電話あり。北辰内論説資料保存会より「杜甫の晩年」採録と。(※省略) 9月21日 ユ、郵便局へゆくとて出しあと10:40すしやのぞけば出来ずと。饅頭2ケ買ひてゆき早くくひ了り、大学院へゆけば「中西博士の講義長く飯くふ間待て」と、10分おくれてゆき、牽牛織女の話し(※省略) 月給もらひL2Dに臘八など話し、すまして成城堂へ払ひ、 東豊書店へゆき『唐代長安与西域文明』きけば、なしと。『飲食須知(500)』、『台北市歳時記(500)』と買ひ、 佐伯へ寄り『白鳥全集』第5回未着をいひ、『日本と南洋(250)』とり帰宅。(※省略) 依子また鬱しをり。あす斎藤先生へゆけといふ。 (けふ母、弓子来りしと)。琳琅閣に向達(※向達著『唐代長安与西域文明』)来ある旨電話すれば「あす電話す」と。(※省略) 9月22日 ユ、依子をつれて斎藤dr.。京休みとて2人の孫預かる。12:00帰り来り「先生もう宜しと退院さしたのでなし」といはれ2日間の薬(700) 賜ひしと。 帰りて依子また泣く。佐伯より白鳥全集の欠、電話できき来り、夜、東豊書店より「琳琅閣の向達品切」と。 9月23日 (老人の日!) 10:00箕輪尚子来り、14:00近くまでsemiやりゆく。依子に母来しも泣き、泰つれて出、やがて返しに来る。 夕方、史、雅子4人にて来りさはぎ、「帰らう」が史。とりしうどん食って帰る。(依子出て美紀子と話せし)。 泰、休みなるに山住先生によべの喘息のこといひにゆき、あす幼稚園に紹介すと也。史の来りしあと送り返したまひ恐縮す。雨降る。(※省略) 9月24日 登校。大学院の為の書籍購入につき、我に話なきことわかる。東洋史「イブン・バットゥータ」少しやり、中国文学史のprint「白楽天」すまして帰宅。 けふは依子1人にて斎藤dr.へゆき途中の不安をいひ叱られしと。あす幼稚園の手続し、9月入学となると澄の電話にユいふ。(※省略) 『藤原道長(150)』、『藤原仲麻呂(700)』成城堂で買ひてよむ。 9月25日 9:00出て雨に遭ひ、高校樋口氏に傘きせてもらふ。大学院切りし故、午食のあと塩崎生に古今図書集成の「鬼」の部を選びやる。 すみてsemiまた塩崎生、写しに誤字あるらしくよめざる箇所あり。(経済の中川助教授逝去)。弓子出張とて泊り、京休暇にて珍しく3女そろふ。 9月26日 雨。弓子をるにつき2児のこしてユ出てゆく。われ箕輪尚子に唐の仏教の流入教ふ。(※省略) ユ、柿生より17:30帰り来る。 9月27日(日) 礼拝にゆかず。潮流社より「四季の会す」云々。池内先生(※池内宏)の『日本上代史の一研究』改版と。 9月28日 4人にて山住さんへ注射打ってもらひにゆきしところへ澄より電話あり。『不二』来り、佐伯にゆき『白鳥全集4』借りて帰る。 9月29日 午食し、佐伯へ2,250払ひ、登校。教授会15:40なり。学長、学園長ともに留任したしとなり。 評議員選挙。高田、上原、栗山(われに2票ありし。開闢以来なり)3氏当選。(※省略) 鎌田女史より「春夫偏論」とりかへす。「茘鏡伝」のこと書き加へんと也。(※省略) 9月30日 雨もやう。10:00箕輪生来り、16:00まで唐朝の渡天僧やり義浄まですむ。弓子ゐてくれ、ユ依子と斎藤神経科。大分よくなりし様なり。 向ひで遊びゐし泰帰りて「寒し」とふるへ、計れば40℃以上とて山住dr.にゆきすぐ眠る。『風日』来り、保田の還暦祝歌会せしと。 10月1日 7:30起され、急いで飯食ひ腹具合あしく新宿にて上厠。大学へ9:30ゆき10:10まで塩崎生教へ、001で答案かかせ(101人出席と)、 塩崎生教へゐれば遅刻せしといふ1年女生来り泣く。教務課長に会へば「reportにせよ」といひしと。 また塩崎生教へ、佐伯へ寄り(東豊書店へゆけば店主簡氏ゐず。夫人に『茘鏡記』のこといへばわからず。『中西文化交通小史(290)』買ふ)帰宅。 4日聖餐式との通知見る。泰、熱下りし。 10月2日 幼稚園へと泰ゆき、手続すませすぐ帰り来る。われ山住dr.に礼云ふ。(眠剤弱くしあると也)。242号となりし『詩人学校』来る。 東豊書店より電話「『茘鏡記』貸しある人よりとり返す」と。「来週木曜ゆく」といふ。 10月3日 涼し。(※省略) 散髪し13:00来し塩崎生に「鬼」の定義せよといひ、16:00まで史料よんでやる。けふ泰、幼稚園へゆき譏嫌よし。 『四季』の伊藤整追悼号2冊来る。 10月4日(日) 雨。礼拝当番とて9:00まへ出て教会。けふは聖餐式なれど140人ほど也。阿佐谷古本市にゆかず。泰、風邪なほらず。夜、箕輪生より電話「明日来る」と。 10月5日 曇時々雨。10:00すぎ箕輪生来り、この次より書きだすと也。 夕方佐伯へゆけば『白鳥庫吉全集5』、『平戸オランダ商館日記4』、『牧野富太郎選集5』来りをり4,250! 近江詩人会へ20年経ちし!と便りかく。 10月6日 7:30起き、午食して11:30佐伯へゆき4,320払ひ、カリキュラム委員会に出る。中西博士感じわるく「大学院かけもち止めよ云々」。 結局1年入学時、各人にゼミもたすとなりし。18:00すみて帰り来る。依子、機嫌よくなり泰、まだ風邪なほらず。(※省略) 10月7日 8:00起く。依子、斎藤dr.にゆく。塩崎生に電話すれば「午后来る」と。ハイネの新9版来る(通計34版なり)。 塩崎生14:00菓子もち来り、17:00近く帰りゆく。 10月8日 7:00起き9:00出て成城。「詞抄」のprintし、11:30より試験監督。すみて昼食し、(※省略) 東豊書店へゆけば『茘鏡記』来てをらず。杜新吾『中日関係簡史(100)』買ひて帰り来る。 けふ能勢より「小竹稔きのふ死に、けふ葬式。東京の野球部(※大高OB)にしらせ」と電話ありし故、 夜、丸に電話すれば「離婚した妻、子を連れ岡山?にあり」と。2人で香奠3,000送ることとす。(※省略) 紀伊の國小竹の祝(はふり)の血を引きし強き男も死せりといふも。 10月9日 けふ来るかと9:30電話すれば西岡、中西2生とも不在。昼食後『漫画読本』4冊(100)買ひ来り、(※省略) 集英社より印税4千円来り(母15:00まへ山住dr.へと来り、われ朝ゆきHeine呈す)、夕方、東豊書店より『茘鏡記』手許へ来しと電話。 能勢正元へ「小竹宅へ見舞、丸と2人でゆく」と書く。む 10月10日 8:00起き、小竹夫人へ悼辞かき、3千円同封速達す。(※省略) 浅野晃氏より『観自在讃』来る。 12:30東豊書店へゆき『茘鏡記』など見せてもらひ花茶もらひ、『台湾府噶瑪蘭庁志(360)』、『台湾志略(180)』買って帰る。 このごろまたDapper写しをり。夜、十時(※ととき)巫佐子「浜谷より電話ありし」と喜び来る。 10月11日(日) 8:00さめ礼拝ユにゆかす。Dapper108pまですすむ。13:30西岡典子生来り16:00ごろまでやりて参る。(※省略) 夜、浜谷生より電話「十時に電話し喜ばれし。11月に新築落成」と。 10月12日 雨。Dapperよむ。千川より「class会した」と。佐伯へゆき『東西交渉史(2500)』注文し、大学への本注文す。 夜、藤田秀子来り「11月9日17:00学士会館で披露宴」と。出席を約束す。(※省略) 10月13日 ユ、三鷹の小林妹の出産祝にゆき吉祥寺で遊ぶ。われ西岡生を13:30より16:00まで教へ、佐伯へ払ひにゆく(2,800なりし)。 10月14日 雨。澄、母上つれて第一ホテルに来りをり、夕食をと依子呼びしもゆかず。『東方学』来る。Dapper119pとなり、あすにてすますこととす。 けふ中山順子生来り、原稿10枚ほどかきゐるを直す。 10月15日 依子、泰を幼稚園に送り出してのち斎藤dr.へゆく。京、泰を迎へにゆく。 ユ、諏訪母上の世話するつもりなりしも電話かかり「四谷の叔父宅より通院」と。われ午后散歩に出、Dapperひとまづ了りとす。 原田先生より『考古漫筆』いただき御礼かく。(茘枝は竜眼肉との仰せなり、ともにムクロジ科なれどもややちがひあり。ただし茘枝竜眼は後漢にならべてしるし、同一なるやもしれずと思ひ、原田先生への礼状は延ばさん)。 山住先生へゆき「木曜に参る」と申上ぐ。 10月16日 4:00さめ原田先生の茘枝竜眼につき考ふ。登校。詞教ふ。出席50名足らず也。大学院休みとて『御堂関白記』のかきぬきし、ゼミにゆく。 すみて16:30よりカリキュラム委員会の最終答申出来、夕食18:30ちらしとってもらひ、21:00了り、帰りて疲れて眠る。(※省略) 10月17日 雨、家居。何もせず。夜、澄来る。あす母と病院へゆくと也。 10月18日(日) 晴る。依子、泰を幼稚園の運動会につれゆく。澄、起きて朝食し、四谷の叔父宅の母へとゆく。依子より午飯の催促あり。 西岡生来り、原稿みせしゆゑ直す。澄より「斎藤先生をられざるにより鬱なれど入院如何は火曜に。われ風邪ゆゑ帰名す」と電話ありし也。 成城大学より「けふ運動会中止となりし」と電話あり。あすやるや否や不明。 10月19日 家居。原田先生への礼状かく。 10月20日 教授会にとゆき(※省略)、ついで文化史の会、新城氏欠席わび、われ責任負ひて第6course不成立などいはる。 20:30すみ、大藤氏主任やめたしの発表あり。「3月まで」といふこととなる。帰りて雑煮くひ眠る。 10月21日 5:00歯痛でめざめ、水で冷やし冷やしして9:00柏井にゆき治療受く。「あさってまた来よ」と也。歩きて帰り、眠く、夕食後やっとnote作りす。 10月22日 9:30学校へゆく。大学院のことで文部省へゆく池田前田の諸氏と会ふ。2Dに答案返し満点なきをいふ。(※省略) 『閲微草堂筆記』上なし。大探検時代双書の索引、吉田書店よりわが名宛に請求書来をり、大藤教授にたのむ。(※省略) 南新宿にて東豊書店へゆけば波多野博士も昨日見えしと。台湾の地方志10冊と『通制条格(2,500)』と買ひて帰る。(※省略)『日本詩人』来る。 10月23日 晴。Dapperちょっとやる。箕輪生教へ「明日誰か来させよ」といふ。ユ、太田夫人に会ひに三鷹へゆきし也。 夜、坂泰子生、吊書もち来る。ユ「ふけた!」と也。 (柏井へ歯にてゆき『乱世の皇帝(330)』買ひ、佐伯に寄れば『バタヴィア城日記』来てをり490にまけ呉る。) 坂生、「米山生より」と虫眼鏡もち来る。 10月24日 柏井へゆき歯みてもらふ。「月曜また来よ」と。高円寺まで散歩して帰ればユ、同窓会にと出てゆく。13:30丸重俊と西岡生と同時に来る。 丸よりの1,500(花代)受取り、重俊をかへし西岡生教ふ。けふもDapper。 10月25日(日) 2人とも礼拝にゆかず。ユ13:00より母と四谷へ望をつれてゆく。われねまきにてtelevi見しのみ。 10月26日 9:00出てprint切り、(※省略) 疲れて帰り柏井へゆくを忘れる。山田教授「『書誌学』を国文に買はん」といひ呉る。3.8×0.9となり。 10月27日 柏井へ歯にゆき「あさって来よ」と。佐伯へ寄り3、4、2万の支払ひ票かいてもらひ登校。1時間待ちて大学院の発表きく。 大藤教授、高血圧とて休み、堀博士司会。17:00了り寒し。(※省略) 10月28日 よべ2度目ざむ。10:00箕輪生来り、14:00までやりて帰りゆく。干瓢をくれし。 10月29日 9:00出て成城。イブン・バットラーダつづけてやり点云ってやる。(※省略) 鎌田女史「明日より沖縄」と。 print3枚切りて成城堂にて佐口博士の本とりて帰宅。佐伯に本つきしをいひ『大君の使節(100)』買ひて帰る。(※省略) 美紀子、淳一をつれ来る。望、歯4枚生えたり。中川氏と手塚氏にハガキ。小高根氏へ「老来」。 文学館の笠井女史より「これこれの本ありや」と電話、「なし」と答ふ。 10月30日 「老来」(※発送)ユにたのみ登校。3時間つとめて帰る。(※省略) 中川成夫氏への手紙かきなほす。 けふカリキュラム委員会9日15:00と学部長よりの命あり。藤田秀子の披露宴とて出られずといはん。 45年度人事院勧告による給与表おきあり。われ13号ならば本俸145,000となる筈也。 10月31日 家居。午すぎ『白鳥全集(2,200)』払ひに佐伯へゆき、中川成夫氏に手紙かく。(※省略) 池田怘氏より「小竹氏、心筋梗塞にて駅にて倒れし。遺族未亡人と高校生。3千円集める」と也。丸に電話せしに「受取りし」と。 11月1日(日) 久しぶりに夫婦にて礼拝にゆく。受洗者1人、聖餐式あり。すみて長島昭氏と喫茶して帰宅。三島一氏より転宅通知。 11月2日 よべも歯痛みしゆゑ9:00にゆかんと思ひしも中山順子生教へ、14:00すみて柏井へゆく。(※省略) 11月3日(休) 眠くて午前中臥床。午后、ユ、縁談の世話にて三鷹へゆく。塩崎生「京の土産」もち来り、殆どやらず帰る。(歯痛みケロリンのむ) 本荘実先生83才にて10.21、pm4:17逝去と奧さんより通知。坪井より「東京どうするか」と問合せ。 紅松、本位田に電話し「東京10人1万円贈らん」といふ。夕方、小林夫婦来り、夕食して帰る。(※省略) 11月4日 柏井へ10:00歯でゆき別のところ悪しと。「あすまた来る」こととなり帰宅。西川に電話すれば「忙し」とて(※香奠の件)たのむと。 高垣に電話すれば出て来て「1千円賛成」と。坪井に「東京で1万円作る。君と川崎とで吊ひにゆけ」と速達す。 あとにて西川より電話「同僚の死にて失敬した」云々。けふ西岡生教へ、大分かかる様子なり。中山の婚約指輪知りをり。(※省略) 関口に電話すれば嬢「7日まで旅行」と。 11月5日 Dapperやって待ちをれば箕輪生来り、用意不足にてすぐすむ。午食し「土曜」と帰りゆく。柏井に歯の治療にゆき「土曜また」と。(※省略) けふ能勢より小竹のこと。(※省略) 戸田謙介氏、不意に来訪whiskyにてもてなせば、(※省略)北海道よりの野菜賜はる。(※省略) 11月6日 登校。中国文学史の出席少なく叱る。大学院、重久来らず演習にならず。すましてゼミ(※省略)。帰り雷雨。家に電話すれば依子の声、ユと同じ。 京、傘もち来る。山本の古本展catalog来る。(※省略) けふ川久保より「学会に来た」と電話ありしと。 11月7日 川久保に電話かくるを忘れ散髪し、柏井へゆき「次は水曜」ときき帰れば、依子名古屋へ帰りしと。ユ、泰を幼稚園へ迎へにゆく。 また喘息起りをり。母来て「大阪へゆきたくなし。岑夫奇蹟的によろしきらし」と也。箕輪生着物で来て、たっぷりやりゆく。 夜、川久保に電話すれば「今夜都合わるし。11日までゐる云々」。20:00依子名古屋へ着きしと。 11月8日(日) 礼拝当番とて9:00ごろ教会へゆく。(※省略)帰り来れば弓子、京にて留守し、泰、山住先生宅へ遊びにゆきしと。午食もよばれ夕方帰り来る。 この前千川の紹介にて来し詩人「来週日曜来て宜しきや」と「午后あきをり」といふ。夜、白詩見るにあすは「上陽白髪人」と「長恨歌」となり。 11月9日 川久保に電話かけてゆけば独りをり。わが如く「太田夫人に頼め」といへど聞かざる様子。午食電話で注文し大学院へゆく。(※省略) 14:00までやり、疲れたといふ顔せし故「長恨歌」の日本文学への摂取を宿題にし帰宅。 『果樹園177』来り、頼永承氏より『台湾史研究-初篇』贈らる。16:00モーニング着て地下鉄にて学士会館。藤田秀子の結婚披露(※省略)。 カーネーションもらひて帰れば、大川周子生「12月5日17:00ホテルオークラの披露に出よ」と。 11月10日 関口八太郎より1千円来る。受取かき佐伯にゆき『デカメロン物語』貰ひ13:00登校。高田瑞穂氏『佐藤春夫年譜』もらひしと。 14:10より大会議となり18:00となりて散会。「われ辞任」、宜し、代りに堀博士に出てもらはんと思ふ。 新城博士と同車。「杉浦、教へ子の人妻と恋愛し自殺せしめし」と。駭然としてユにいへば「服部の奧さんより(※すでに)聞いた」と也。 中山生に電話「あす来るな、あさって研究室に来よ」といふ。 11月11日 よべ眠り浅く、肥下と妹のゆめ見てさめしは8:00。10:50の試験監督にゆく。(※省略) すみて16:00よりの審査会に大藤教授の代りとして堀博士たのみ帰宅。頼永承氏に礼状かく。依子帰りをり。松浦薫氏、何となく来訪。 1年の東洋史のnote作りをはる。(※省略) 11月12日 8:30出て登校。研究室の鍵失ひしを文書課に届ければ早速呉る。1年東洋史すまして疲れ、print「水滸伝」のみやり、 中央公論社事業部の女史しもち来り5pの「五雑俎考」責了とす。西岡典子と同車。柏井歯科へゆくを忘れ山住先生も忘れかける。(※省略) 11月13日 疲れ朝とれてをり(この頃おきがけゆめ見る)、2時限「水滸伝」の魯智深よみ昼食。鍵出て来たり。(※省略) 『物類称呼』よみ泉州方言思ひ出す。semi疲れて飴くひ早くすまし、土日に来るをきめる。『イエズス会書翰集』佐伯に注文し、 帰宅すれば高垣より千円来り、主婦と生活社より「Ein Märchen」転載をと。山住氏の『日本の子どもの歌』再版を買ふ。 11月14日 朝早くさめ睡眠不足なり。柏井にゆき歯直してもらひ、佐伯にて漫談そろへくれしを5冊とる(150)。箕輪生14:30来り、唐の仏教ほぼすむ。 共に出て新宿で別れ、立教。夜会費(600)払ひ、明治維新とフランス大革命とを比べる公式論に呆れる。手塚氏来ず。中川君も発掘とてをらず。 延々とつづく質問中、退席、裏通りの古本屋見て新宿にてmacaloni(150)食って帰宅。 11月15日(日) 雨。家族連れの礼拝をとのことなりしも夫婦ともゆかず。10:30塩崎律子生来り、14:00近くなりて「他用」と帰りゆく。夕方弓子夫婦寄りて帰る。 われDapperまたつづけをり。 11月16日 10:00昼食を電話で注文してタバコなくなりしゆゑ登校。大学院で「上陽人」の引用いひ、「長恨歌」の引用きく。 早めにすみ、ダルくて北京の婚礼早くすませばL2D「ねむしねむし」といふ。腹立てて帰り、荒本生と同車。金にくてcoffeeおごらず帰宅。 大阪の坪井より電話「12月10日ごろ川崎と本庄先生にゆく。1,000づつにてよし」と也。 成城堂で石田茂作『法隆寺雑記帖(580)』買ふ。望、風邪にて機嫌わるし。泉靖一氏逝去、55才と新聞。手塚、中川成夫両氏に手紙出す。 11月17日 10:00西岡生来り、13:00までやりゆく。山野井生より電話「2人とつきあひ、どちらともきめられず」と。14:30出て成城へゆき、(※省略) 専攻説明会。去年とちがひ静かにてわれを除く各主任説明し、堀川部長よりわれ「上手」といはる。帰りてハガキ6枚「川崎へ1,000送れ」とかく。 11月18日 10:00塩崎生来り、16:00近くまでやり「すすみてうれし」と也。疲れて柏井へゆき神経ぬいてもらひ「あさって来よ」と也。 本庄先生のハガキ投函。夜、Ibn Battutaのnoteつくる。望うるさく泣く様になりし。けさ隣の歯科医の奧さん死にしとて讃美歌の声す。 昨日死にゐしを大工さん発見せしと也。 11月19日 8:30起され急いで登校。(※省略) 東洋史Ibn Battutaまだすまず、昼食し、あすのprint切りつつ渡す。 清浦といふに「奎吾は」ときけば「曾祖父」と。一日中、雨降り、〒なし。望よく泣く。(角川文庫『十字軍(280)』買ふ。) 11月20日 7:30起され10:00登校。昨日借りし昼食代払ひ、大学院博士課程申請の身分書に6ケ所印押し、3、4年の中国文学史。(※省略) すみて昼食、成績書とりに来ず。大学院へゆき「棗」教へしに食ひしこと見たこともなしと3年の話也。 早くすませ研究室にてAlbum用の写真とるとて待つ。15:40了りsemiやる気なく明日より4日間の家でのsemiの順番定む。午后雨やむ。 『不二』『骨36』来り、成城大学より「学長選挙委員会を作り云々」と。 慶応より「前嶋信次教授の著作集予約6,000」と。四季社より「野田宇太郎を同人にした」と。 『健康』編集部より「詩1篇(5,000)を12月15日までに」と。「諾」の返事す。 11月21日 柏井へゆき歯直してもらふ。昼食して成城大学、salaryとベースアップ6ヶ月分とをもらひにゆく。手当代 (169,260-37,280)131,980。 成城堂に払ひし、高円寺下車。『歴代名画記(600)』買ひ(成城堂『元禄時代』、『妻は囚われているか』買ふ)、大川周子を51:00まで待ち、 万年筆(3,000)選ばし12.5(土)17:00Hotel Okuraでと案内もらひ、(※省略) 帰れば美紀子、七五三の飴もち雅子、淳一つれ来をり。 箕輪生も待つ。原田運治より「川崎に送った」と。東豊書店「向達(※『唐代長安与西域文明』)入荷」と。 11月22日(日) 礼拝にゆく。13:30塩崎生来り、17:30までやりゆく。この間、今井翠来り、父よりと蜜柑もち来る。林叔父保険とりに来しもわれ出ず(柿くれしと)。 小竹ヨリ子未亡人より丸へと香典返し来る。 11月23日 勤労感謝の日とて連休なるも、西岡生来られずとのことに昨日小竹夫人よりもらひし返しもちて丸にゆく。(※省略) 栢木喜一氏より「歌集送った」と。松浦薫氏へ蜜柑の礼。(※省略) 11月24日 川崎菅雄に関口、高垣の分と合せて3千円包む。中山順子「忠王」すみしゆゑ「太平天国概説かけ」といひ12:30去りしあと3千円送れば75。 13:30登校。鎌田女史に大川周子の舅、宮本教授なりしといへば「前に申した」。14:10より教授会。 学長推薦委員会の投票あり、教授にて1票も無きは我と2~3人。2人選出し早々帰る途、荒本(国文修士2年)とL2D高橋直嗣さそひて喫茶(240)して帰る。 中川成夫氏より「人事の件了承」とハガキ。ユ血圧最低とて依子斎藤病院へゆきしあと疲れしらし。 けふ成城堂にて『知られざる台湾(200)』と『バビロニアの科学(280)』買ふ。(※省略) 栢木喜一氏より歌集『飛鳥びと』贈られし。『植物祭』にユの歌のせあり。本庄先生奥様へ3千円と弔詞、栢木喜一氏へ歌2首。 11月25日 4:00さむ。あと眠れず。9:00本庄先生未亡人へ弔花代送りに郵便局へゆき、近くの印刷屋に年賀はがきの印刷たのむ。540枚3,200、 12月10日出来と。 西岡生教へゐればteleviききしユ「三島由紀夫自衛隊にて割腹自殺」と。あとにてteleviきけば狂気の沙汰なり。 楯の会5人にてゆき総監しばり演説ブチしあと割腹、副手首斬り、副手も首斬ってもらひしと。2度会ひしのみなれど感じわるかりし。 『東洋学報』来る。東洋学術協議会に2.2千円おくることとす。 11月26日 ユに5,200もらひ9:00出て駅前郵便局。『東洋学報』に2.200送る(〒50)。朝刊みな売切れをり、登校。 米人講師に「三島君の事件しるや」ときけば「しる。いかなるわけにや」と。「狂気の沙汰、われ2度会ひしがabnomalなりし」といふ。 1年文化史の時間に「三島の愛読者ありや」と問へば「なし」。 午休み子安、松野2生来り、ゼミをと。「中国の食物」「中国の結婚」とテーマ与へ判押す。 東豊書店にて『唐代長安与西域文明(2,800)』買ひ2,795しか金なく、doubleし『台湾地誌』置きし処へ簡木桂氏(※ 店主)帰り来り、 3冊買戻しくれし故、『明季荷蘭人侵據彭湖殘檔』、『晩清宮廷実紀』買ひて帰る。(※省略) 11月27日 “斎藤家へよばれすき焼きいただく”夢みて、覚むれば6:00。(※省略) 望の相手をし、5,100もち駅前郵便局へゆき中国食品事典代と東方学会と為替として登校。(『朝日ジャーナル』買へば三島を皆非難しをり)。 中国文学史すませ、午休みドヤドヤと来り、橋本美子「アジアの精霊」、小林某「台湾の民俗」、柳川真名子「台湾の通過儀礼」、 斎藤幸子「朝鮮の葬儀」、増田礼子「中国の物語」にハンコ押し、内山百合子氏の姪橋本由美子生迷ひをりと。 植村先生『東洋史十話』、『中国文明の伝統』かし、「月曜までに決心せよ」といひ、疲れてゼミ。あす中山、あさって塩崎、水曜箕輪ときめ、 西岡と同車。佐伯に寄り予算なくなり払ひおくれるといひ、『エジプトの生活(250)』、『西イリアン(500)』借りて帰る。 桂信子の『草花』来をり、宮崎智慧女史来り、「甲鳥書林の男、損をし電話代もてといはれ止める云々」と云ひし由。 和田夫人より東大医学部のインターン28歳に嫁をと。田中久子に電話すれば母親出しゆゑ「その気あらば写真と吊書を」といふ。 11月28日 朝、佐伯へ750の借金払ひにゆき、『沙翁傑作集(50)』買ひて帰る。11:00中山生来り、昼食し、医者に行くと帰る。塩崎生に来よといひ、 (※省略) 17:30までやり、原稿預けて帰りゆく。夕食後直し、(※省略) 「春夫偏論」200×67として了る。躁なり。(※省略) 11月29日(日) 礼拝休み、望を乳母車にのせ『週刊サンケイ(三島号)』買ひにゆき、佐伯に寄れば本来らずと。 これにて午前中すみ、13:00過ぎ来し箕輪生を19:00まて教へ、「大望いだくな」といひやる。(※省略) 11月30日 電話かけて昼飯たのみ11:00登校。佐久間氏に「春夫偏論」わたし、橋本生に「中国の年中行事」かくときき、印押し大学院。三島由紀夫の話す。 (控室で中西博士「あなたと池田氏とだけに」といひ『柿本人麻呂』賜ふ。) 前後塩崎生教へ、その下書もちて帰る。 (成城堂で『国家神道』、『埋もれたシルクロード』買ふ。) 『週刊読売』買ひ、三島の分裂症なりしを記すを見る。 けふ『果樹園』忘れゐしに気づく。(※省略) 12月1日 臨時教授会の前に来る筈なりし中山生来ず。(※省略) 叱れば泣く。神田喜一郎先生に「五雑俎考」包む。 12:00すぎ出て佐伯に寄れば『唐話辞書類集3』と『イエス会通信1』来てあり。研究室に塩崎、中山2生を指導し、下書き預る。 また2人「中国の年中行事」とて来り、ゼミ9人となる。14:00よりの教授会、学長候補選。2度やり高田教授、堀川博士を抑ふ。 ついで専攻の発表あり、文化史は40人、国文は20数名、うと芸術、英文(60+x)、マスコミ(102+x)なり。すみて専攻の会。 次期主任を新城博士と大体きまる。(※省略) 12月2日 寒し。7:00さめ待ちをれば10:30西岡典子生来り「元宵」やらす。「ガンバリきく。恋人は良なりし」と也。 帰りしあと柏井へゆき13日の継男父50年忌を午后にしてくれといふ。(※省略) ついでに母見舞にゆけば大をり、ともに駅まで歩く。 帰れば中山八郎氏より「八大山人の生涯と別号』、「土牛考3篇」と機り、力作なり。(※省略)『健康』より「詩受取」と。(※喪中欠礼 省略) 12月3日 冬over着て8:30家を出る。池辺教授にうしろより声かければ「経済、高垣寅次郎を出しけふ会議」と。 成城堂に寄り『週刊朝日(売切れ)』をたのむ。(※省略) 大藤、野口2氏と話しprint2枚切る。14:00了り阿佐谷着。 古本屋のぞけば漫画読本終刊号あり(60)、大学左翼教授名鑑(150)といふを買ふ。波多野太郎博士ものりをり。(※省略) 山住dr.にゆけば往診中、30分待ち帰り来られしに「躁」と申上げ薬へらさる。 (けさ小高根太郎に電話し、八大山人にまちがひ指摘されをるを云ひしも怕ぢる色なし!) 原田先生、田川、神田、松村、中山八郎の諸氏に「五雑俎考」包む。楊・頼両教授にXmas-card(110×2)。 12月4日 定期3ヶ月買ひ、成城駅で神田信夫氏に会ひ「五雑俎考」わたす。(※省略)「八大山人考」を太郎に送り、 後期試験「付添不必要、noteその他すべて持参可、板書」の届し、中国文学史に「」の狐やり、出席欠席を散々にやっつける。 大学院も散々にやり、ゼミに中山順子泣かして帰り来る。澄より「18:00に乗る」らしき電話。帰途、池田茂都枝と同車。 下北沢の汁粉屋へゆかんといへば「新宿にあり」と案内され、甘くて弱る。Arbeitに教師すと。 けふ成城堂で『百人一首(150)』買ふ。躁にして浪費癖とおしゃべりと出る。 12月5日 晴。7:00起き8:30出て散髪屋、いつもと違ふ所へゆき「30分でしろ、洗髪いらず」といへば550。(※省略) 10:30塩崎生来り、11:00望をつれて依子、澄出てゆく。(望、名古屋ではしづかといひ来し由)。ユ、幼稚園へと泰迎へにゆき、 母へと出てゆきしあと、16:00前となり、塩崎生と地下鉄。虎の門よりホテルオークラへゆき宮本馨太郎教授の長男瑞夫と大川周子との披露宴にゆく。 立教の中川君をり「白鳥清先生の喜寿記念出版につき手塚、白鳥芳郎2氏と相談せよ」と。(※省略) 20:30帰り来れば泰、きげんよし。けふ能勢より「小竹未亡人鹿児島へ帰るらし云々」。(※省略) 夜、箕輪母子をからかふ。 12月6日(日) 晴。9:00起きして礼拝にゆけず、佐伯にゆき、能勢へのハガキ投函せしあと、大学院にと白楽天ちょっと書き、箕輪尚子来るを待つ。 19:30までかかりほぼメドつきし故、泊める筈なりしも帰宅せしむ。(※省略) 渡辺春輔氏より「3男、車にひかれし(5月)」と。早速弔み状かき3,000送ることとす。(※省略) 12月7日 10:00電話して弁当たのみ幼稚園へゆきしユ、帰らざる故、カギかけて出る。 躁はげしく、栗山、山田2氏を驚かし、大学院をふるへ上らし、L2Dを叱りつける。(※省略) 『図像(590)』買ひて帰れば阿部和子電話かけ来り、「来てよろしきや」、「すぐ来い」といへば来て、通産省の堺出身の男と付合ひをると。 (※省略) 滝本生来る。 12月8日 7:00さめ10:00来りし西岡生のsemiやり「元宵」了る。中川生わがまま也と。て昼食して新宿まで同行、13:00前につき躁のやり場に困る。 14:00より2号館の会議室にゆき14:20学長銓衡会。高田教授にほぼきまりしと。(※省略) 委員会となり、文化史専攻の会。 新城博士1月1日より主任教授と。カリキュラム委員には堀博士となる。成城堂にて買ひし戦記集、2冊読みつつ帰宅。(※省略) 12月9日 7:00さめ10:00すぎ中山生来り、15:00まで「太平天国」やりゆく。間に前田共子来り「1月16日16:30大阪ローヤルホテルで結婚披露に出てくれ」と。 うっかり「出る」と返事。弓子来て泊ると。(※省略) 佐伯にて『ハノイの微笑(50)』買ひ来る。(※省略) 夜、ColonよりVasco da GamaまでL1のためnote作る。Magalhaensまでやるつもり也。 12月10日 7:00さめ9:00出てVasco da Gama了りprint切り14:30出てbonusもらふ。261,660+αなり。 東豊書店に寄り『西湖佳話』、『台湾六記』と安い本買ふ内、地図出され4冊(7,200)買ひ、重がり、佐伯にて『康煕大帝(1100)』買ひ、 年賀状440枚とりて帰る。 弓子産気づき入院。泰とジュン子ちゃん見えずとユ、うろうろしをり。叱って三鷹へ物とりにやらせ、泰さがせば裏庭にゐしと蟹江夫人。 20:00河北病院より電話、「男児出生、母子健全」と。ユ、泰つれて見にゆく。小林母上、母、依子に電話す。 山野井生より「あす来る」と。受話器はづしゐし松浦、美紀子出しゆゑ男児誕生をいふ。 12月11日 10:00登校。よべ1:00にさめ、あと寐しや否や不明。中国文学史で中共汉字教へ、すみて昼食。大学院早くすみ、薬草の民俗採集を課す。 semiすぐすまし、家出のわり当すみ、箕輪、塩崎2生と喫茶、帰れば家しまりをり。(※省略) 長尾良君より「母の喪中」と。(※省略) 12月12日 7:00起き10:00来る箕輪生まち10:00すぎ来しを19:30まで相手し、メドつく。 その間、ユ病院、幼稚園、パーマにゆく。善一郎君帰宅し病院を見舞しらし。渡辺春輔氏より「そのうち来る」と。けふ白鳥、栗山2家へ歳暮送らせ、 賀状ア-イ。 12月13日(日) 7:00さめ9:00ごろ出て礼拝委員つとむ。(※省略) 出て吉祥寺の古本店見、荻窪にても同。『おんな』2冊買ひ、『池塘春草』買ひ(1,050)、 柏井へゆけば松田、和田賀代の2女史あり。(※省略) ユ15:00ごろ来りしを機に帰り、佐伯に『池塘春草』と『東洋の歴史9』とかへてもらふ。 17:00中山生来り「先生のことば通りせし云々」「度々説変る」と泣き、手足動かずなりしといふに電話かけて母呼ぶ。 19:30来り、家でも発作ありと。あすより書き直し21日呈出せしむることとす。21:00帰着との電話あり。けふ〒なし。 12月14日 朝から西岡生をよみ、疲れて学校に風邪休講の通知す。 16:00中山生、母と来り「卒論やめた」と。その中やる気となり、母帰し「忠王李秀成」やることとなり1章を直す。 電話教務よりあり「明日臨時教授会に出よ」と。 12月15日 午後、佐伯にゆき『池塘春草』300にてとり返して登校。 14:00はじまりし教授会、16:00まで本論に入らず。妹尾理事長、高田教授の学長任命を拒否せしと。高垣氏を学園長にする為ならんと。 16:00家へ電話し17:30出て中山生に電話して「来い」といひ、帰りて夕食しをれば来る。22:00近くまで書く。 (善一郎君、玄関へ来て「宏一郎」と命名せしと)。 12月16日 不快にてをれば中山生来り、忠王やりをる内、浜口生来り、酒の粕など呉る。(※省略) 鎌田助教授より電話「来週火曜再び臨時教授会。若手の一言居士たち何も云はざりし」と也。小高根太郎よりカンチガヒのハガキ来る。 12月17日 7:00さめ9:00大学へ「風邪にてけふあす休む」と電話し、塩崎生来しゆゑ序文跋文のこといひ、すみて帰りしあと中山生「けふは来られず」 と。 ユ、病院へ往来し16:00(※省略)君と弓子母子来り、祝5万円わたす。(※省略)七夜の赤飯くふ。 12月18日 中山生来ざる故、西岡生来させてすみ、13:00来し中山生すませる。神田先生より「五雑俎」は楽府にありと。(※省略) けふ賀状みなすむ。佐伯にて『采女(100)』買ひ来る。今井翠来り泰つれゆく。 12月19日 家居。澄、竹内好にゆき転任すすめられしと。 泰、幼稚園の餅つきより帰り、泣き乍らユをつれゆく。ユ阿佐谷駅にて逃げしと語るまでわれ泣きをり。(※理由不詳) (※省略) 前川佐美雄氏「茅ヶ崎へ転居」と。(※省略)19:00電話かかり「泰、家へ帰りし」と。 12月20日(日) 8:00起き、ユ促してXmas礼拝にゆく。(※省略) 『新潮』探せしも本屋にはまだ出ざるらし。(※省略) 「泰、元気になりし」と電話ありしと也。(※省略) 入浴中、中山順子生より電話「印もらひに来る」と。22:00前来り帰りゆく。 12月21日 9:00家を出、10:00成城堂にて『イスラム帝国の遺産』とり、11:45まで箕輪生の未提出なるにいらいらす。 本戻せしも足らず西岡、中山はすでに呈出せしと本おきあり。帖面と調べれば1冊づつ足らず。 教授会にて妹尾理事長「高田氏以外なら受取る」と。他の候補出さざることとなり、16:00研究室にて卒論分配。 (けふsalaryもらひ14級俸なることわかる。)(中河与一氏に午すぎ成城堂で会ふ。) 帰りて腹たちてならず。(※省略) 12月22日 午后、塩崎生、学校の本以外みな返しすぐ帰りゆく。(※省略) 小林母子来り、宏一郎見てゆく。陳作龍博士、台北へ帰りしとXmasの賀状。(※省略) 12月23日 午睡したり、散髪したり。夜、川久保令嬢来り、正月5日ごろ父子にて太田夫人に会ふと。太田夫人にその旨電話す。 12月24日 阿部和子午前中来り、通産省の某君との話長々とす。野崎その生より「来阪知った。クラス会する云々」と速達。 美紀子2孫をつれて来る。野崎その生へ「クラス会に出られず」と返事。XmasEveにはじめて出しに長島夫妻の外、語る人もなし。 12月25日 雨と雪と降り来る。午后本屋にゆき『香港の水上居民』買ひ来る。森鹿三氏『東洋学研究』来る。(※省略) 12月26日 寒し。ユ珍しく歯痛しと柏井へゆく。我も午后ゆく。けふ筑摩『一茶(※日本詩人選:栗山理一)』来る。(※省略) 新潮『三島由紀夫読本(380)』買ひ来り、よみ了へ不快。 12月27日(日) ユ礼拝にゆき、われゆかず。午后渡辺春輔氏来り、三男柏の橋ぎはにて轢き殺され、橋ぎはに木標立つと。われ不覚の涙す。 栗山博士へ『一茶』の礼状かく。 12月28日 寒し。5:00ごろ母より電話、「(※義弟河野)岑夫4:40逝去」と。8:00ごろ電話し「われあす葬儀にゆく」といふ。 田中久子母子来りし故、織原氏の嫁の弟の吊書わたし「父上と相談の上返事せよ」といふ。午、帰りしあと歯痛み柏井へゆく。(※省略) 「水田先生亡くなられし」のハガキ後嗣より。(※省略) 12月29日 6:30起き、ユ買ひ呉れし8:20の「光」にのりて大阪。13:00直前にすべり込み写真とらる。西島寿一来をり、骨上げに瓜破葬場でまつ間、 幸夫の婚約者の父吉塚勤治氏と話す。日本評論社員たりしと。4.11挙式に出るといひ、骨上げの後「サラバ・ラバウル」うたふ。 咲耶(※克己妹・喪主)わりあひ元気なり。帰って夕食出され18:00出て西島寿一とナンバで別れ、20:45にのりて23:00東京着。入浴して眠る。 『筑摩書房の三十年』来てをり、酒と金と本の話なり。 12月30日 野上弘夫人より電話、長々と夫と子との間のこといふ。「正月上京の時、同行せよ」といふ。(※省略) 『前嶋信次論集』にと6千円送り、『李煜(120)』、『佛遊天竺記考釋(120)』佐伯で買ふ。 12月31日 雨。午后止む。死刑囚より再審要求のハガキ3枚来りしのみ。Dapper写す(p.352)。(※省略) 田中克己日記 1971 【昭和46年】  先年の三島由紀夫の自決(11月25日)を受け、「憂国忌」と名付けられた追悼の夕べが毎年命日に催され、恒例行事となるのはこの年から。 彼が師と仰ぐ蓮田善明の苛烈な生涯を詳述した唯一無比の伝記本『蓮田善明とその死(小高根二郎著・筑摩書房)』の刊行を受けてこの年、 蓮田が盟主だった国文学雑誌『文藝文化(1938-1944)』が雄松堂から復刻されました。  また3年前に企画されたものの、一冊きりで頓挫した保田與重郎の著作選集も、大手出版社講談社に場を移し、あらためて全6巻の陣容で刊行が始まります。 彼および仲間達が拠った雑誌『日本浪曼派(1935-1938)』も、同じく雄松堂で復刻が行はれます。  この時期、かうした出版が相次いだのは、印刷技術の向上と出版ブームとが背景にあるのはもちろんですが、 戦前戦中知識人の文業が大学における国文学の研究課題に上せられるやうになったといふ、文学史的存在として客観視され始めたことが大きいでしょう。 専門学術誌『國文学解釋と鑑賞』が初めて「昭和のロマン主義」を特輯でとりあげたのはこの年の11月号のことでした。  しかしながら『日本浪曼派』は文献資料として雑誌がオフセット復刻されるだけでなく、『四季』と同様、 新たに「復刊」の計画が旧同人ら(浅野晃・田中忠雄・中谷孝雄・保田與重郎・林房雄・檀一雄)によってもち上がり、 その結果『浪曼』といふ雑誌が翌年創刊されることになります。  これは、戦後文壇のホープのなかで唯一、ジャーナリズムから忌避されてゐた「日本浪曼派」を出自として公言して憚らなかった三島由紀夫、彼の存在抜きにしては考へられないことだったと思はれます。  三島由紀夫がその死にざまをして国民に問ひ質しめたのは、敗戦の結果一般大衆にはもはや同意を得ることができなくなった皇国の大義を語る思想でした。 その思想を戦時中に純粋に突き詰めて、却って軍部から疎まれるやうになったのが日本浪曼派の文業だったのですが、 不思議なことにそれが、高度経済成長期の日本において物質文明を背景とする教養主義に反発する若い知識人の共感を得、 またその共感に呼応するやうに旧同人達の燃え尽きんとする命に火を点けたのでした。 思想的には反対にあるべき三島由紀夫と学生運動ですが、三島の死と運動の挫折とをめぐり、文学シーンの一角では極めてロマン主義的な「志を得ない知識人」同士の驚くべき親和が、若者世代と祖父世代との間で醸成されてゐたといふ訳です。  詩の方面では伊東静雄が、昭和詩史の総括に際して、戦争讃美的傾向から切り離されて、口語抒情詩における指標的な高峰として認められるやうになりました。 故郷の諫早では詩碑が立ち、「菜の花忌」が恒例行事となったのはこの日記にも記されてゐます。  左翼系の批評家詩人が牛耳る日本の戦後詩壇にあって、代表的な詩誌『ユリイカ』で伊東静雄の特輯が組まれ、同じく代表的な詩集出版社である思潮社からも、浩瀚な研究文献資料集『伊東静雄研究』が富士正治の編集により(中村真一郎による『立原道造研究』と同時に)この年に刊行されたのは記念碑的な出来事でした。  伝統的抒情精神の爪痕を残す最後の機会に恵まれてゐた晩節の抒情詩人たちが集まる第4次『四季』も、丸山薫を擁してなほ継続中です。 いつのまにか潮流社と和解して再び寄稿できるやうになった田中克己ですが、彼はこの年いったいどうしてゐたでしょう。  懇切な読解(阪本越郎)と解説(大岡信)を付して刊行されたアンソロジー、さきの中央公論社版『日本の詩歌』が売れに売れ、 『ハイネ恋愛詩集』の訳本も、3月に6千冊、9月に8千冊、12月に8千冊(新12版・通算37版)と増刷が決まってゐます。 李白、白楽天など中国詩人関係の著作ですでに一般大衆読者の耳目に親しい名前となってゐた田中克己は、まさに当時、詩人としても昭和詩史上、今なほ存命する一人として、詩ブームによる若い読者にとって目新しく映るさなかにあった詩人と考へられます。  しかし日記を見ると、新たな出来事は起きてゐないやうです。 むしろ日本浪曼派再評価の流れに冷淡といふか嫉妬といふか、伊東静雄や保田與重郎をめぐっては、何かお義理的なものが日記の記述から感じられ、 「躁」も手伝ってか、先の2雑誌の復刻元である雄松堂からの電話取次で「先生」と呼ばれなかったことに癇癪を起こしてゐます。 さりとて旧友山本治雄の吹田市長選落選を「保田陣営の敗北」と記された朝日新聞の購読を中止するなど、アンビバレンツな心情を写してゐます。  関係が続いてきた不二歌道会とも、機関誌『不二』が「キリスト教批判特集号」を出すにいたっては、この先「冷笑」で応へるだけで済むでしょうか。  そして日本浪曼派に関しては、再評価の動きがあれば、当然それを叩き潰そうと批判する動きも起こります。 すでに単行本では、和泉あきによる『日本浪曼派批判(1968)』が出てゐましたが、 この年、知友森谷均亡き後の昭森社から、なんと田中克己を戦争詩人の代表として冒頭に据ゑ、詩人の戦争責任を糾弾する『太平洋戦争下の詩と思想』(鶴岡善久著)といふ一書が刊行されてゐます。 詩人がそれを知るのは一年後の古本屋の店頭、心穏やかで居られるのでしょうか。  また日記を読んでゆくうち判ったのですが、詩人自らの発案による『わたしと田中克己』なる還暦記念誌が企画されていたことにも驚きました。 原稿依頼は年賀状に托され、歴代の教へ子たちから陸続原稿も集まったのに、ふたたび詩人の心変はりによって刊行中止になってしまったもので、本来ならこれがこの年の大きな出来事となった筈でした。そのコピーが6部ほど、教へ子に配られたことが記されてゐます(未見)。  かつて文章にも書きましたが、田中克己は、目を掛け、また向ふからも慕ってくれた後輩詩人たち(増田晃・薬師寺衛・大垣国司)を早くに亡くし、自分について何か書かうとする同時代人には、悪罵を憎み惧れ常に牽掣の姿勢で対して執筆を敬遠せしめ、またライバルだった伊東静雄と異なり長生きしたために、結局当時のエピソードを書いてくれる者が居なくなってしまったこと、これが一番の不幸であったと私は思ってをります。  しかし伊東静雄のやうな有力な発言者を教へ子にもつことがなかったにせよ、教育者として、ゼミ学生からはたいへんに愛された先生であったこと。 おそらく意に染まぬ原稿を目にしたか、改めて手前味噌に思ったのか、嫌気がさして取止めたのでありましょうが、この『わたしと田中克己』。 原稿だけでも残ってゐれば証左を示し得たことでしょう。  理智に勝った強面・変人のイメージが固定されがちな田中克己の人となりですが、癇癖・躁鬱の面からだけでなく、人情に厚かった側面を、ユーモアを交へて語られることで、誤解に満ちた悪評を多少なりとも緩和する絶好の物的資料となる筈だっただけに残念でなりません。前年に麥書房より出版打診のあった「四季の人々」と「コギトの思い出」も結局実現してゐません。  日記には、名物の学生泣かせのほか、五人の孫達を、何かと心配する好好爺の姿が髣髴して参ります。  「躁」は、四~五月ごろがひどかったらしく、肉屋と喧嘩、かかりつけの医者宅へ謡の稽古に行ったり、3ヶ月の台湾旅行計画を立てたり(これは縮小して3年後に実現します)、奥さんに再び浮気を勘繰られるほどの状態は、とうとうかかりつけ医から匙を投げられ元の斎藤病院に通院する羽目に・・・以下は本文をご覧ください。日記はさらに続きます。  この年の出来事 1月1日 賀状328枚来、教へ子に「わたしと田中克己」(※自らの還暦記念文集)原稿依頼。 1月15日、16日 名古屋経由で下阪、クラス会に参加。 2月14日 前川佐美雄歓迎会。中谷孝雄、浅野晃2氏の外、芳賀檀来り、挨拶されるも受けず。 3月13日 「菜花忌(※伊東静雄忌)に」諫早上村肇より出席依頼。行かず。 4月2日 『文藝文化』復刻の栞執筆依頼。 4月15日 かかりつけ医の父、山住克己(山住閣下)に会ひ意気投合、謡を教はりにしばらく通ふこととなる。 4月16日 雄松堂の取次に怒鳴り、躁の甚だしきを自覚。山住邸の山住正己(息子)に会見申込めば居留守。 4月26日 山本治雄(※吹田市長選)落選、「保田陣営の敗北」と朝日夕刊にしるされ、朝日新聞購読中止す。 4月28日 嫁の姉に加勢して肉屋と喧嘩。 5月11日 翌年の台湾旅行を計画す。(※74年に実現) 5月12日 「わたしと田中克己」の出版とりやめる。 5月13日 妻に浮気を疑われ、かかりつけ医からも病気の亢進を疑はれる。 5月14日 かかりつけ医に入院勧められ、謡の練習中止、診察断られ、通院先を斎藤医院へ戻すことになる。 5月19日 2年ぶりに斎藤医院。院長斎藤茂太より「投薬多すぎる。病状なし」との診断。 5月22日 『四季』旧同人、塚山勇三の訃報。 6月28日 浅野晃より「『日本浪曼派』の復刊計画を知らされる。参加承知す。(翌年『浪曼』として創刊。) 7月29日 硲晃(戦時中に親しくした最初期の教へ子)逝去。 8月29日 家族で還暦祝。 9月11日 知念栄喜より「講談社より保田選集刊行をきき、栞の原稿依頼さる。 9月17日 『ユリイカ伊東静雄号』買ふ。 10月4日 名古屋経由で津の披露宴出席。 10月7日 角川書店より『中国の詩集』全10巻の李太白を、との依頼を断る(※1973年、藤原定訳で刊行となる)。 10月17日 宮崎智慧より伊藤佐喜雄の訃報を聞き、赴く。 11月15日 憂国忌発起人として日記に浅野晃、小高根二郎、影山正治、齋藤晌、林富士馬、保田與重郎の名を記し「平林たい子まで」名を連ねたるに驚く。 11月24日 『不二』の影山正治が中河与一と仲直りしたとの文に驚く。 12月30日 『不二』「キリスト教批判特集号」に「失笑」する。 昭和46年 1月 1日~昭和46年12月31日 25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 9:00起き雑煮くへば賀状328枚来てをり。(※省略)一般への返事かき了へ、学生生徒に4月末までに「わたしと田中克己」(※自らの還暦記念文集原稿)かけずやと書く。 1月2日 よべ2:00より宏一郎啼き、さむ。賀状の返事午后まで2回にてすむ。(※省略)坂生来り、史一家、善一郎君来る。 1月3日(日) 出たとたん小雨。夫婦して礼拝にゆくは久しぶり也。(※省略) 笠井女史の弟詩人、立教と。 1月4日 よべ雪。(※省略) 『果樹園179』来り、小高根君、三島に弔電打ちしと。 1月5日 雪つもる。午すぎ賀状数十枚来る。(※省略) 1月6日 雪つもる。賀状また来しもかき了る。(※省略) 森中先生昨年亡くなられしと也。 1月7日 晴。歯痛み、柏井に電話すれば「午后開く」と。賀状数十枚かき了へ、ゆきて歯ぬく。 入れ歯間に合はず大学休まうかと思ふ。夕方来りしは大学院の岐阜出の正木好宏生。(※省略) 1月8日 8:00さめ9:30柏井にゆく。(※省略) 川久保(※川久保悌郎)来てport-wineのまし、嘔吐し午たべしインスタントラーメンの中毒とユの診断。(※省略) 1月9日 9:00、ユに「けふの教授会病気欠席」と届けしむ。(※省略) 17:30泰つれて澄来り、夕食後、大と出てゆく。(※省略) 1月10日(日) 家居。ユ泰をつれて三鷹へゆく。(※省略) Dapper Note 9冊目となり365p(高雄に蘭艦来りをるらし)。(※省略)  1月11日 柏井へゆき上歯はめてもらひ、幼稚園より帰りしユに昼食つくらせ(母来をり)、12:00出て準急にて13:00(成城大学に)着きし。 4時限すませ成城堂にて三島newsの最後の3冊買ひ、卒論2冊下げて帰宅。(※省略) 1月12日 卒論2冊見了り、これもちて登校。(※省略)14:20よりの教授会。(※学長選議論 省略) 坂本浩教授と新宿まで同車、三島のこといへば「ふれたくなし」と。帰れば『和漢朗詠集』見つかる。 立教の中川成夫氏より学習院出の永積昭、市川健二郎の2人を発起人に加へると。白鳥芳郎氏に電話し、(※省略) 1月13日 (※省略)竹内夫人(※竹内好夫人)1時間かかりて探せしと午食3人前もち来る。姪御の嫁入り口さがせと也。(※省略) われ出て佐伯休みゆゑ、西友の書籍部にて大阪地図(100)と『南ヴェトナム戦争従軍記(150)』とを買ひ来る。(※省略) 1月14日 8:00(※省略)中川成夫氏より白鳥清先生のこと「20日16:30より2号館で」と。 1月15日 12:00すぎ出て佐伯にて『文藝春秋正月号』『日本の奇祭』など車中用に買ひ13:20の新幹線ひかりにて名古屋15:00すぎ着き、 依子にみちきき犬のオモチャ買ひ、地下鉄出口にゆけば澄まちをりしと。 つけば望笑ふ。すぐ暗くなり、望あやしつつ夕食にタンメン食ひ21:30電気ブトン内にて眠る。 1月16日 望の声して夫婦起きる。われ早くよりさめをり睡眠感なし。 9:00ごろ出て地下鉄にて澄と別れ近鉄にゆけば特急1時間に1本にて55分まちて10:30といふに乗る。 桜井の駅前に5階建てのbuil.建ちをり。耳成のふもとも住宅地となる。12:50ナンバにつき戎橋の出雲屋さがし(天牛に入りしも何もなし)、 肝すひ並にて450!十合前まで歩き書籍部にて『にっぽん語』帰りの車中用に買ひ、 クラス会場大成閣へゆかんとすれば、うしろより南隅夫人。会場には野崎、鍛冶、井上、奥村、今市など待ちをり。 16:00まへ椿下来て15人集まりしか。会場前にて写真とられ、タクシー呼びくれ大阪Royal Hotelへ。 一方通行にて!まはりしてゆき、うろうろと披露宴の控室さがし(※省略)、 20:00近くなり中座してtaxiひろひ20:30の切符買ひしも20:05のひかり発車前なるにより車掌に云ひ、これにのりて(※帰京)24:00入浴就寝。 1月17日(日) 寒し。8:00さめて礼拝にゆかず。(※省略) 1月18日 登校まへ弁当の電話かけしも文書課出しゆゑ、すし買ってゆく。堀川部長「大林氏を学長ときめし」と。(※省略) 帰れば17:00。(※省略) 1月19日 5:00さめ8:30登校。(※省略) 17:00短大よりの面接すまし山住先生へかけこめば扁桃腺はれをりと。早ねを命ぜらる。(※省略) 山本書店へ月令集のこときけば「もう現物来をり」と。「すぐ送れ。書類は6通」とたのむ。 1月20日 朝、熱36度以上あり面接午后にと電話かけ11:30出れば幼稚園より帰る泰とユに遭ふ。 午后わが見しを含め8人きき、挨拶して出、立教へゆく。 中川、宮本馨太郎、手塚隆義の3氏と相談する内、石橋君来り、結局手塚氏とわれとにて原稿つくることとなる。 19:00出てそばとbeer中川氏におごられ21:00帰宅。37度あり。(※省略) 『健康』2月号来り「体重」のす。(※省略) 1月21日 8:30出て10:00より卒論審査。16:00すみ優15人。(※省略) 『不二』の2月号、三島之命号にて浅野、保田かく。不快。 (※省略) けふ佐伯にて『白鳥全集』第3回(2250)、『馬来亜叢談(200)』。 1月22日 10:00雨の中をゆき(※省略)、大学院に出席の和泉、重久2生と喫茶し、新宿にてまた重久生と三島の分裂症を論ず。(※省略) 竹内夫人来て竹内のいとこの娘の縁談もち来しと。依子、望つれ来る。夜泣きまた始まりし故と也。 1月23日 朝、山住dr.へゆけば扁桃腺炎なほりをらずと薬かへ、月曜また来よと。タバコ止めずといへば「主人も」との仰せ。(※省略) 1月24日(日) 前田春枝夫人より御車代一万円。返却す。阿部生在京中と。ユ「18:00ごろ来よ」といふ。夕食頃来り。(※省略) 1月25日 (※省略) 母来り、風邪ひきをり。「三十五日(※五七日忌)に下阪」と。(※省略) 1月26日 柏井へ歯なほしにゆく。金曜できると也。15:00依子母子来る。望また賢くなりをり。(※省略) 1月27日 手塚隆義氏より白鳥清先生の原稿の写し方について問はる。(※省略) 特殊な語のみ作字させ、他は印刷屋に任さんとの意見かく。(※省略) 1月28日 (※省略) 母来り、あさって大と三十五日にゆくと。われけふ『果樹園』へ「1970年」送りし。(※省略) 関口八太郎君より「畠山博光の結婚披露に出し。再婚せしが相手は女医で某会社医務室勤務、本位田元気にて国電にて通勤しゐる」と。 1月29日 柏井へ歯の治療にゆく。(※省略)竹内夫人、昼弁当もちて再来、竹内の姪の世話せよと也。(※省略) 夜、東豊書店に『星槎勝覧校註』の有無をきく。値段150円位らし。 来年度講義要項。大学院博士課程「諸蕃者」、修士課程演習「星槎勝覧」。 3年は例年の如く倉石『中国文学史』。2年は「台湾の民俗print」、1年は17世紀のアジア(康熙時代やりたき也)。(※省略) けふ写真焼付すみ、全然とりをれず、あやまり状かく。(※省略) 1月30日 講義要項もち10:00前出て成城大学。(※省略) 竹内夫人、近所の犬の仔もらひし人つれて返しに来り、美紀子よびてもち帰らす。 順一と望に泰、意地悪くあとにて大いに撲る。咳出て眠りし也。(※省略) 依子、遠くの友だちへゆきし也。 「Ein Märchen」のせし『愛の世界』来る。(※不二歌道会)鈴木正男氏より電話「小高根二郎のところしらせ」と。 1月31日(日) 朝方、不二歌道会森田先生のことなど夢うつつに見、睡眠感なく、8:00すぎ起され、礼拝やすむ。 2月1日 寒し。(※省略) けふ山住先生に扁桃腺切らる。12:00出て14:30よりの「東洋文化史」の試験監督す。(※省略) 佐伯にて見つけありし『高砂族伝説集』買ひにゆけば7千円にまけくれし。(※省略) 久しぶりに澄より電話あれば依子ポンポンと物云ふ。(※省略) 2月2日 煙草買ひに出しのみ(山住先生にのど吹きかけてもらふ)。小高根二郎氏より「受取った。文章書いてくれずや」と。 2月3日 晴。12:30散髪にゆき柏井へ歯直しにゆく。(※省略) 湯川秀樹『本の中の世界(80)』佐伯にて買ひてよむ。けふは望の誕生日と也。 2月4日 8:00起き9:00出て成城。002にて東洋史の試験100数名。すみて昼食。成城堂で『禁煙ゲーム』買ひ、(※省略) 17:30帰宅。山住先生にゆき「禁煙したし」と笑ふ。 2月5日 8:00起き、また002にて中国文学史の試験。12:30出て帰宅。途中眼鏡拭き買ひにゆけば呉る。 前川佐美雄氏歓迎会14日17:00より学士会館分館にてと。「出」と答ふ。『果樹園』180来る。きのふ白鳥先生の原稿来り、けふ了る。 (※省略)平凡社の渡辺春輔氏より「唐代詩集上1000部増刷」と電話ありしと。 2月6日 終日外出せず。〒なし。白鳥先生の原稿見了へ、平凡社へ訂正一カ所申込む。(※省略) 2月7日(日) 久しぶりにユと礼拝にゆく。和田賀代より11回目1.5受取りしと。鍛冶さんより「一度上京したし」と。 佐伯へ『書誌学』とかへてとたのめば諾して3.4万円にて引取り『唐令拾遺』『楽府詩集の研究』『中国学芸大辞典』『讀史総攬』にて3.56万円。 差額1600渡して済む。早速『楽府詩集』検せしも神田先生と近藤圭士氏のいふ「五雑俎」なる楽府なし。 2月8日 朝、柏井へゆき13:00出て成城大学。 庶民文化博士課程の審査に『骨』の鈴木尚氏らあす来り、新城・堀2博士(※新城常三・堀一郎)が大藤氏の輔佐として当ると。 考古学の山内博士の資料よそへゆくらしと。17:00になりてやっと解放さる。(※省略) けふ白川静『詩経』買ふ。新説多し。 2月9日 8:00起き10:00出勤。誤字訂正にわれ一人当り16:30より教授会。すみて人事の教授会。天丼出る。帰れば21:00。 依子、澄より「部屋かはる、3室となる」とのことに「金もなきに」とふくれをりと。 2月10日 けふも10:00登校。論文かき直しすむ。(※省略) 影山正治氏より歌集(戦後吟なり)。(※省略) 山住先生にゆけば「(※夫の)正己氏会ふ」と。禁煙の友とならんといひ、中国旅行の写真見せらる。 三島氏を団長とし毛沢東、郭沫若などに会ひしと。リストにのりし所以なり。(※省略) 2月11日(休) 歯齦いたみ外出せず。何もせず。(※省略) 2月12日 寒き中、歯ギン痛む故、柏井へゆけば千葉にゆきて休みと。(佐伯へ『南方全集』引取れ、平凡社の新刊採りくれとたのむ。) 外山軍治氏より『中国の書と人』たまふ。(※省略)  佐伯『南方全集』を5千円にて引取りゆく。37年に5,700で買ひし也。 2月13日 9:30柏井に電話して歯直しにゆく。 ゆき帰りに『日本統治下の朝鮮(150)』、『精神科医三代(250)』、『馬来西亜(※マレーシア)華人史(300)』と新本・古本買ふ。(※省略) 2月14日(日) 8:00すぎ起き礼拝休むこととし、麝島の修士論文もちて新城教授宅をさがしまはり、ついで弓子宅探しまはる。 善一郎君をり、すしとりくれ、carにて阿佐谷まで送り呉る。 古本市にゆき佐伯の本『中国小説史料(500)』買ふ。帰宅して16:30出て新宿より地下鉄。 本郷三丁目の交叉点で早川、亀井両未亡人に会ひ、学士会館へ案内す。17:30近くして前川夫妻すでにあり。(※前川佐美雄歓迎会) 中谷孝雄、浅野晃2氏の外、芳賀檀来り、挨拶せしも受けず。歌会了りて立食会。豊田智慧子夫人「美智子まだ嫁にゆかず」と。「暖かくなればゆく」と前川翠夫人に挨拶し20:00前出て帰宅。(東博君に『戦後吟』呈せしも話すこと無し)。 2月15日 雪・雨となる。影山正治氏へ『日本と共に』の礼状。(※省略) 「原田運治君を励ます会」へ欠席通知。 依子、望をつれて明日帰名と。うそ泣きおぼえし也。 2月16日 晴。ユ、依子望を東京駅に送りにゆく。主婦と生活社より「Ein Märchen」掲載料2千円。(※省略) 田中万米(※賀集村[南淡町]元村長)氏より「田中甚四郎の正統なるゆゑ正平博士記念費に拠金を」と長々と便り来る。 1200万円中一族にて200万円出すと也。依子より「着いた」と電話ありしあと、美紀子3人つれて来り、翠姉も来しゆゑ正平碑の文わたす。 万米氏へは心ばかりの金出すと返事す。 2月17日 聖心の東洋史の会に出席と返事す。新城博士より文部省の金にて10万円づつ買ひてよしと。山本に電話すれば図書館へ送りしと。 図書館に電話すればわからずと。千川より中西博士心配いらずと。畠山博光君より結婚の挨拶。(※省略) 2月18日 晴。暖かし。ユ、泰を幼稚園へ送りしあと、母へチクワもちゆく。諏訪母上よりの贈物にて送り状をもつき、足わるしと也。 (※省略) けふ佐伯にて買ひし『タバコはやめられる(木々高太郎訳30)』をもち山住先生へゆき正己先生にわたす。ちょっと喫煙へりをり。 「スマトラ記」つづけることとす(200×10)。(※省略) 依子に電話すれば「望おたふく風邪」と。23:00すぎ京3日間の大和旅行より帰り来る。 2月19日 眠し。(※省略) 『塔影』といふが来り河井酔茗の弟子たちと。巻頭に小林政治(天眠)翁の女植田安也子女史の文のりをり。 『正倉院夜話(180)』買ひ来りよむ。天理の鈴木治氏、鞍の研究せしと也。白鳥清先生の原稿、中川成夫氏に送り、「スマトラ記10」果樹園社へ送る。 2月20日 7:30さめ10:00登校。浅賀副手来らず困る。(※省略) salaryもらひ(※省略) 東豊へゆき『明氏中国与馬来亜関係(400)』買ひ『星槎勝覧』4冊ほどとりのけたのむ。(※省略) 依田義賢氏より『京のおんな』賜りをる。(※省略) 2月21日(日) 7:30起き9:00出て礼拝当番。すみて斎藤齋先生久しぶりに見しに御挨拶。(※省略) 2月22日 歯茎の痛み止めに柏井へゆく。ユをして顕彰会へ1万円送らしむ。15:00帰り来る。鹿島宗二郎といふ国士舘教授、愛知大にて服部正己と知己と。 2月23日 家居。(※省略) 千川より中西胃癌!を悟りしと。(※省略) 2月24日 ユの幼稚園より帰り来るをまちて登校。(※省略) 常民文化の修士卒論面接。麝島生泣く。和泉生ともども9月再提出とせんと。 2生のところへゆき「もっとsemiの先生につけ」といふ。(※省略) 18:00澄来り、風邪と。 2月25日 澄、飯くふ間に泰幼稚園へゆく。9:30出て行きしあと成城へゆけば11:00かっきり。試験了り面接。麝島生来り「大藤先生に誤解された」と泣く。 教授会長くかかり大林学長挨拶に来る。18:00すみて(※省略) 帰れば雲仙の石田スミ氏より電話。(※省略) 津田侑生(※小倉脩三)より「わたしと田中克己」のNo.1来る。(※省略) 2月26日 朝、雪。のち雨となる。16:00散髪にゆく。東博氏より『戦後吟』の礼状。(※省略) 2月27日 6:30起き。新宿へゆけば準急あり。(※省略) 大学院の採点表出して泉井博士の『言語の世界(3500)』買ひて帰り、 東豊書店に寄り「5万700円の本あすもち来る」ときく。北大の中哲の助教授といふ佐藤震二氏に紹介さる。池田温氏京大の研究所へ来ると也。 佐伯に寄り『白鳥全集9(2,250)』来りをり。借りて帰る。 2月28日(日) きのふと同じく6:30起き登校。(※省略) 3時間すぎて東豊書店より本つきゐしゆゑ浅賀君さがし請求書わたす。 帰れば無人。「わたしと田中克己」のNo.2、詩也。田中正平博士顕彰会より受取。(※省略) 天沼(※義母と西島大の宅)へゆきし泰、夕食までに帰り来ず、大送り来る。 3月1日 よべ夢みつづけか眠し。午后、果樹園社へ2,500、佐伯へ2,250払ひにゆき 『明治大正の翻訳史(130)』買ひ、横塚祥隆氏の論文2と訳4編をさらさら見る。ドイツの戦後文学の悲惨なるを知る。 宮川祥二郎氏より三島、山口二矢、保田直日を同志として追悼せる『奔馬のこころ』贈らる(※書誌不詳)。(※省略) 澄より電話「やどがへ昨日すませし」と。 3月2日 10:00出て成城大学教務課へ大学院常民文化修士入試の漢文とドイツ語の問題もちゆき、清書す。それより歩きて烏山へ出、上北沢下車。(※省略) 佐山栄太郎教授の蕃地しらべてゆけば不在。2部ありし抜刷と「ジェームズジョイスと現代」訳置き、京王線に乗り新宿に下車すれば、 偶然佐山教授に会ひ「甘くせん」といひて帰る。(※省略) 3月3日 雨。泰、熱あり雛祭(幼稚園)休む。澄より東団地5階に移りとの状と電話。(※省略)  横塚祥隆氏のためLeForeとLanggesser、2女史の伝記しらぶ。(※Gertrud von Le Fort (1876-1971)、Elisabeth Langgässer (1899-1950)) 3月4日 8:00起され、9:00まへ出て成城。(※大学入試査定会議 省略) 大藤教授「大学院の主任を堀博士に」と、「考へおく」といひて帰る。(※省略) 3月5日 寒く外出せず。(※省略) 『骨』37に佐々木邦彦氏「徳之島守備隊を語る」。わが歌と「25年たちましたね」と。 (※省略) 泰、扁桃腺炎と。(角川よりHeine、6千増刷と。) 3月6日 寒し。泰、幼稚園へゆかず。(※省略) 佐伯にゆき『知里眞志保の伝(370)』買ひてよむ。 3月7日(日) 寒し。礼拝にゆく。信仰告白1、転会1なり。すみて長島氏に誘はれ茶のみ、ワリ勘とす。14:00すぎ塩崎・箕輪2生来り、(※省略) 小高根二郎君より「散文にて助かりし」云々。(※省略) 依子より「澄あす夕方」と。 3月8日 ユ、寺田家の婚礼とて柏井へ式服とりにゆき、京、午食の仕度し、泰をジュンちゃんの所へはふりこむ。あとにて本もらひ来る。 ユ17:00帰り、魚屋へゆきしまに澄来る。あすあさ泰つれ帰ると。(※省略) 3月9日 10:00泰きげんよく父と名古屋へ帰りゆく。(※省略) 母より「咲耶より電話にて康平叔父心臓マヒにて死す。葬儀はあさって。夜、電話せよ」 と。 4兄弟そろひ兄と弟とよく喧嘩せしも城平叔父悲しみゐるならん。(佐伯より『閩南采風録(50)』採る) 母よりまた「大と2人にて5千円と咲耶に云へ」と。花井(※タヅ子)夫人より「わたしと田中克己」につき質問。 沢田四郎作博士に『閩南采風録』の「石敢當」の項所説、貴著とあふとハガキ。夜、咲耶に電話すれば「弔電打て」と。 3月10日 よべ1:30さめまた睡る。10:00すぎ澄より「泰、元気にて幼稚園にゆきし」と。 電報にてきわ叔母へ「ゴゲンダツタオジサマノゴキュウセイオカナシミイカバカリカトオクヤミモウシアゲマス。カツミ」と打つ。(※省略) 17:00寒き中を出て渋谷の二葉亭にゆけば青山博士、狩野直禎助教授あり。(※聖心女子大の会) ついで荒松雄講師来り、卒業生12人。20:30写真とりて散会。荒氏よりきけば(※東洋文化研究所)松本善海退職となると。(※省略) 3月11日 7:00さめ9:00前出て成城。浅賀副手監督しをり、立正大学卒業見込の1人。(※省略) 午食くひて帰宅。 『果樹園』181来り、宗左近の記事にわれ「朔太郎の伴をし16.2一高文芸部座談会に出し」とあり。(※省略) 20:30滝本来り、今東光大僧正となりしことを知りをり。(田中楠弥太氏より電話あり(※拠金の)礼いはる。) 3月12日 9:00まへ出て成城。(※省略) 「伊東静雄忌に来よ」と案内あり。(成城堂にて『耶馬台国研究総覧(2800-140)』買ふ。)(※省略) けふ大藤教授、大学院の主任やめたしといふを皆反対す。「69才にてあと2年なればこれだけにてもやれと也」(※省略) 3月13日 寒さややゆるみ、午后散髪にゆき、佐伯へゆけば服部四郎『言語の系統と歴史(1,600)』あり借りて帰る。 けふ旧姓喜多村生より電話「かくべし」といふ。(※省略) 咲耶へ立替の1万円送る。「菜花忌(※伊東静雄忌)に出よ」と諫早上村肇氏より。 『不二』来り、伊沢修二の孫甲子麿と三島との関係を影山主宰かく。大木実氏より『冬の仕度』第10詩集と。 夕方、今井翠、雅子預かりて来り「還暦祝の文いつまでか」と。ユに泰の帰名とききて連れ帰りし(美紀子夫婦skiiにゆきしらし)。(※省略) 3月14日(日) 古田房子より上京、高松と連絡ありしと。「けふ帰るゆゑ会へず」云々。 久しぶりに2人して礼拝にゆき「柔和と謙遜」を説かる。note5冊(200)買ってもらひ佐伯に1,600払ひ14:00来し池田生18:00まで話す。(※省略) 滝本午食あと来り、ユのcoatの寸法とりて帰る。 夜、吉森生、電話かけ来る。思ひ出かいてくれとたのむ。秀才にて熱田神宮の剣を盗みし弟(東大生)死せしと也! 松本善海夫人に電話すれば「1月退職せし」と! 3月15日 7:00すぎ起き急ぎ登校。(※省略) 午食せずして帰宅。竹内『中国を知るために(2冊1200)』成城堂で買ひ、よみつつ帰宅。(※省略) 3月16日 (※省略) また速達にて「春夫偏論」来る。13pになりをり。校正すまし要再送り返す。(※省略)  柏井へ歯(上)出来しをはめてもらひにゆく。高橋重臣氏よりすぐき賜ふ。わけわからず。 3月17日 6:30起され、眠がりつつ登校。(※試験監督)3時間あててあり。すみて烏山まで歩きて帰る。(※省略) 3月18日 (※省略) われ7:30出てまた3時間監督。すみて菓子くって帰宅。高橋重臣氏よりすぐきの送状。井上文夫氏日経本社地方部次長に陞任と。 (※省略) 立教宮本教授より「24日13:00立教6号館宮本研究室まで来れ」と。けふ『日本外史(100×5)』買ふ。(※省略) 3月19日 晴、暖し。(※省略) 田中きわ・大江艶両叔母にやっと(※康平叔父の)くやみ書く。(※省略) 3月20日 卒業式にゆき壇上にのぼらず。新学長ドイツ語でゲーテを引く。すみて記念撮影なくsemiの主任よりそれぞれ卒業証書わたす。 中庭でparty、(※省略) 2号館で4Dクラスの謝恩会、album箕輪生よりもらふ。(あとにてもらひしは我のみとわかる)。 albumに詩歌を書き、万年筆もらひ16:00、4生さそひて喫茶。(※省略)  箕輪生は成城の学長秘書候補と。 佐伯に寄り『キリシタン書・排耶書(1280)』買ひて帰る。京けふ結城泊り。松浦祖父危篤にて美紀子・翠姉妹見舞にゆく。孫預かれとの由。 (※省略) 南村夫人より「田鶴さん(※花井)の父上逝去と新聞にあり」と、見れば「山中直隆氏19日江古田病院にて死去」とあり73歳。 3月21日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 午すぎ弓子より電話、善一郎君風邪なほりしと。 3月22日 春らしくなる。家居。松浦祖父亡くなられしとのことに今井翠へ御花代1万円ユもちゆく。孫は雅子武田家で預り淳一はつれゆくと也。(※省略) 前島信次『東西文化の交流の諸相』来る。 3月23日 7:00すぎ起き10:00登校。第二次入試決定会議。(※省略) 午食出されしあと高田瑞穂邸にNapoleonもちゆく。whiskyでなくliqueurなりし。 肴多く出され雨の中を駅まで送られ昆布もらふ。〒なし。(※省略) 3月24日 晴、あたたかし。(※省略) 午まへ母来り「6日の誕生日に下阪する」と。ユ帰らざるゆゑ留守番頼み13:10立教大学。 宮本馨太郎、手塚隆義2氏と協議、『日本、中国古代法研究』200pにする、発起人1口2,000とし、広く案内する、 印刷所の都合で4月組み出し、内容の大体をかき、発起人を立教、亜研、蒙研、学習院の諸氏にたのむなど決め、 西武dept.にて大塚光信『キリシタン版 エソポ物語(260)』買ひ来る。(※省略) 大江叔母より「城平叔父嘆きし」と。夜、滝本女史来る。 3月25日 (※省略) 『印度尼西亜采風録(180)』買ひ帰り、(※省略) 近森敏夫氏より中公新書『土佐の民謡』贈らる。(※省略) 3月26日 土佐の近森敏夫氏へ礼状。(※省略) 3月27日 『民間伝承』来り、宮本馨太郎氏より先日のとりきめ事項の印刷来る。発起人問題につき古郵便物をひらく。 「人間の星」社より「金について」とancateもとめ来る。よべ睡れず。22:00までmoskva攻撃見しためか。(※省略) 3月28日(日) 礼拝当番の最後とて9:10ゆき、拭き掃除手伝ふ。(※省略) 大高卒業40年の同窓会を8月14日15日長良川方面にてと。(※省略) 諏訪母上名古屋へ来り、望よき子と電話あり、あす澄来り泊ると。 3月29日 「スマトラ記」200×11かき果樹園社へ送り、(※省略) 午后松井保治君来り、思ひ出話し夕食すませし所へ澄来り、帰りゆく。 佐々木邦彦氏よりシルクスクリーン画3枚来る。美紀子2児つれて来し故1枚やらんといひしに持ち帰らず。 3月30日 雨気配。澄10:00出てゆく。われ家居14:00すぎ来りし山野井生に4月24日15:00夫婦にて披露宴に出、祝に座布団と決める。 宮本(大川)周子生より「(※父の山中直隆)突然の死にて却って悲しからず」と。 朝日新聞大阪本社広告統計月報4月号に「春旅」掲載を、と。諾の返事す。 3月31日 雨。澄10:30出てゆく。某社より電話「『文藝文化』の復刻す。保田與の推薦にて400×10を20日までに」と。「一考させよ」といひてすむ。 Dapperすすみ、あと2~3日にて第2次遣使の部すみさうなり。 4月1日 ユ、三鷹へ出てゆく。太田夫人より「川久保令嬢の見合うまくゆかなかった」と。 あとにて川久保(※川久保悌郎)より電話あり「松本(※松本善海)にゆかん」といへば「日曜午后」となる。不在投票に区役所へゆきミノベ(※美濃部亮吉)に1票。 あと佐伯に寄れば『南方熊楠全集1(2,620)』来てをり。『危険な食品』買ひて帰れば野上夫人より電話ありしと。 山住dr.にゆけば青玉1つふやされ「ハタノ(※秦野章)票かと思った」と也。(※省略) 税務署より4.7万円返金ありし也。 4月2日 曇。雄松堂書店より(伊藤敏彦)、『文藝文化』の復刻のはさみこみ「三島と蓮田」400×10以下、4月30日しめ切り稿料税込1万円をと。 海老沢有道博士より『えぴすとら』。還暦祝すました由。弓子「赤ん坊の泣き声にまいりをり」と。 Dapper第2次回遣使すみ、あと訳にかかるつもり也。夜、滝本女史来る。 4月3日 曇。8:00起き10:00すぎ成城へゆき(※省略)、 東豊書店へゆき主人不在に『家常食譜(230)』買ひ『植物図鑑、福建通志、島夷誌略』を、と書いて帰れば『島夷誌略』なき様子の電話あり。 小倉脩三君より「わたしと田中克己」No.4来る。(※省略) 4月4日(日) 棕櫚の聖日に夫婦してゆく。今年度わが定例献金2,500ユはもとのまま1,000。帰り長島氏と荻窪まで話し佐伯にて『土佐日記(90)』買ふ。 小高根二郎君より漢詩(古詩)! 栗山博士(※栗山理一)名にて『文藝文化』復刻の挨拶。(※省略)  Dapperゆっくりよむ。 4月5日 11:00近く川久保来り、荻窪まはりのbusとて松本宅へつきしは12:00すぎ。夫人不在。 いふこと余りわからず『支那地方自治制度史』再版出、copy版も出るとのみわかりし。12:30出て荻窪。チャーシュー麺たべ『永楽帝(400)』買ふ。 東豊書店へゆくといふ川久保と別れ、15:00来る2生まつ内、母来り、(※省略) 草壁焔太氏より「この詩集500配本した云々」。(※省略) 4月6日 10:30ごろ集英社よりと「齋藤晌先生の奥様亡くなられ12:00葬儀」と。ユに半紙買ひにゆかせ3,000御花料と包み、11:00出てbusにて代田橋。 高幡不動へゆけば駅前一変して晌先生邸わからず、まはってたづねあてしに神主来ずとて13:30ごろまで待たされ、 集英社鈴木副社長、及川均(馘になりし)、薄井氏と3人のみ。榊進上を喪中といってせず。饅頭もちひ、代田橋で昼食して帰宅。(※省略) 八木沢生より電話あり「あすかけよ」といひしユを叱る。 4月7日 8:00起き10:00散髪にゆけば八木沢生来しとユ。西武dept.の前にまちゐるをつれ帰り「日本の年中行事をまづよめ」と2冊貸し、 『燕京歳時記』買へ、研究室の『太平御覧』と『古今図書集成』とを写せといふ。父母なく兄のところにをり駒込に住むと。 東洋文庫の地図かき与ふ。地下鉄にて大手町の銀鉤令嬢の茶本啓助と長沢美喜子の披露宴へ出、祝辞のぶ。(※省略) 帰れば末吉栄三の文来りをり。宮崎智慧女史来らる。 4月8日 電話で起き(8:30)聞けば松浦薫市長より香奠の礼。末吉に受取かく。午后橋本生来り、(※省略) 佐伯にて『奈良時代の特性(130)』、『インドシナの底流(100)』買ひ来る。(※省略) 4月9日 (※省略)小雨の中、齋藤章子「朝鮮の民俗」、柳川真名子「台湾の通過儀礼」のsemiとて来り、本貸しcardのとり方教ふ。 2生ともミノベ好きとなり。帰りがけ郵便函見れば「偶得」をthemaとせし須知徳平氏「星めぐりの歌」のせし『小説ジュニア』5月号。 (※省略) 夜「春夫偏論」の再校速達にて来る。けふ南村、花井2夫人に電話す。坂生11日午后ここにて見合ときまる。 西川(※西川英夫)に電話し宮崎女史の就職たのめば、ありさうな返事す。天野忠より「20年ぶりで定年退職」と、めでたし。22:00再校了る。 4月10日 よべ赤玉のまざりしためか4:00さめて眠れず。宮崎女史に電話して履歴書のこといへば「けふ19:00来る」と。 ユparmaかけにゆき10:00すぎ帰りしと座布団もちて2人にて地下鉄根津に下車。探しさがしして山野井医院。 dr.出て来られ「秀子留守なれど上れ」と。ことわりて地下鉄(※省略)南阿佐ヶ谷に出て帰宅。新学社より700余。 名古屋の沢田庭園研究所より白氏「懐仙歌」の原文をと。白氏全集目録見しもなく『佩文韻府』引きて李白の作とわかる。 『ハイネ恋愛詩集改訂10版』来る。計35版なり。宮崎女史19:30来り履歴書2通書く。山野井生に電話すれば「あとすぐ帰宅した」と! 4月11日(日) 6:00起き、大に電話すれば「今出る」と。やがて来りしと8:00の新幹線にて大阪着(12:00)。きつねうどん探せしになくいなりうどんとて140。 食ひて天王寺(※河野家・吉塚家披露宴 省略)。 また母、大、咲耶(克己異母妹:河野家)とともに河野家へ帰り、大江叔母に電話すれば来て「嫁に苦労」と泣き、康平云々にて泣く。 正平記念会に負ひてゆかんといひ帰せしあと眠れず。 4月12日 6:00階下にて音するゆゑ起きて茶わかし、8:00出てふと梅本吉之助訪へば退職して次の職もつと。 東京の旧友の消息つたへ京橋よりtaxiにて関目団地へゆき、探しまはりて、きわ叔母に会ひ、くやみ云ひ、 キリスト教ゆゑ香奠でなく返しいらずといひ般若心経を10回誦むといふを聞き、録音テープにて清元の声きくうち午飯出されしも食へず、 バナナ2本平らげ、羊羹もらひて出る(康平叔父、喘息・疾疹・改心と、われと同じ也)。(※省略) 新大阪までtaxi。前の運転手は核軍備賛成、あとの運転手はミノベ当選をいふ。13:45の新幹線にのり(800)名古屋へ14:35着き、絵本1冊買ひ新団地へゆき泰に絵本与へしもダメ。望は下痢しをりと。(※省略) 澄18:00すぎ帰り来り、hyreそのまま呉る。 ミノベ当選を賀し19:13発のひかり(1,500)にて21:15東京着。(※省略) ユは「昨日坂泰子の見合失敗にて眠れざりし」と。 4月13日 ユ、坂生の縁談にて吉祥寺と三鷹へ出てゆく。滝本生呼び午食まで居らしめモーニングの裏の修繕たのむ。(※省略) 13:00来し小林洋子「台湾の衣食住」、子安好美「中国の食物」にsemi了へ、(※省略) 通りへ出て和歌森太郎『日本風俗史考(280)』 買ひ、 エビネ1株買ひて帰宅。(※省略) われ山住dr.に名古屋土産もちゆき躁といへば「青を2丸とせよ」となりし。(※省略) 4月14日 6:00さめ眠り足らず。(※省略) 西川に電話し、会ひたしといへば14:30と。(※省略) 宮崎女史に「13:00来たまへ」といひ、来しと話してのち13:30出て東京駅。 juiceのませ14:20となりしゆゑ(※東京建物)受付へゆけば西川常務(※西川英夫)なり。 会ひて就職たのみしに「女の子の監督は」ときかれ「男の子なら」といひガッカリす。業界紙の校正・編輯などいかにと。 すぐ電話してくれしもラチあかず「宜しく」とたのみ、大伴道子氏訪ねんと地下鉄にて広尾に出、土地勘なくイライラす。 邸へ入りゆけば先客あり。やがて宮崎女史を識る取次出てわが名刺もち内へ入り紅茶出し待たせ、つづいてまた一人来て「会へず」と。 疲れて欠伸しつつ帰宅。(※省略) 戸田謙介氏に電話して夕食中といふに20分後ゆき「堀博士よき人、早川氏は好色漢」ときき、毛沢東を非難して帰宅。(※省略) 4月15日 4:00さめ、(※省略) 『果樹園』182来り、これをよみし庄野英二氏よりスマトラのこといひ来る。 (山住克己氏(※山住正己父)に会ひにゆきしに、大蔵省より馬来の財政長官に派遣され無事帰りしと。  南方での作詩見せられ「大鹿卓氏と同窓、似をり云々」気持ちよくして帰り来る。  その前、山住dr.に躁いへば「斎藤先生(※以前通院の斎藤医院)の薬」に変へ玉ひし也)。 ユ、日曜に望迎へにゆく。スワ母上名古屋へ来て泰みたまふとなり。(※省略) 4月16日 (※省略) 雄松堂の取次の女史「田中克己様でございますね」に「田中克己先生だ、バカ」と電話切る。『文藝文化』復刻の書店なり。 4月17日 5:30さむ。雨降りをり。躁甚だし。山住dr.にゆきその旨云ひ、正己先生(※山住正己)に会見申込めば「外出する」と居留守くらはさる。 (※省略) 佐伯にゆき『華僑史論集(350)』借り来る。 4月18日(日) 礼拝にわれ一人ゆく。この世は寄留地と也。11:30すみしゆゑ三鷹までゆき10分のみといふ松村達雄に会へば嬢の結婚日と。 「東大より4,500万円もらった。大山とは路ちがふゆゑ、成城へは来る気なし」と。出て横山家探し12:20ゆきしにしまりをり、 (※省略) 杉浦家(※故杉浦正一郎)へゆき夫人のよき相となりをるを見、(※省略)16:00となりあはてて帰宅。 西保幸子の「先生とわたし」そのままにして池上カズヤの一周年記念会へゆく。聖歌集、礼拝、日本教団と異なり、(※省略) すみて退出せんとせしも夫人に日本調査KK東京支社の40男のまへに坐らさる。「乾杯」の発言あり。 この男の「イエスキリストも大酒飲み」の一言に抑へし怒、発して神を汚せしを咎め、座を立ちて出しに、池上由紀枝夫人追ひ来り、 あやまりしもきかず「あなたと故人の昇天はたしか、しかしわが教会に移れ」といひて帰宅。 ユに電話すれば「望、発熱してあす帰れず」といひ、池上家のこといへば怒りて電話切る。 三浦女史呼び22:00滝本生帰りしを呼び、京帰りしあと滝本生と1:30まで話して就寝。 4月19日 5:00目ざむ。滝本生に11:00すし買ひにゆかす。岡美恵、花井たづ子2生より文。12:00ともに出て成城へ登校。(※省略) 成城堂で瀬川清子『食生活の歴史』買ひ、南新宿より東豊書店。『中国婚姻史』『鄭和遺事彙編』『中国90』買ひて18:40帰宅。 三浦女史呼びてすし食はせゐれば山住dr.、心配と薬3日分たまふ。ありがたし。 (東豊書店に中国語やる中大生をり「竹田教授健在」と。わが中国語の師なり)。ユよりたよりなく、(※省略) けふ講義要項見しに博士課程、大藤、新城、堀、田中、築島、堀川の6教授にて上原君はづされをり。(※省略) 4月20日 8:00さめ眠くてたまらず。青玉のせい也。午食注文して登校。研究室にゐしsemiの2生叱り、(※省略) 追試に落ちし芝生?cunningとわかり、1年留年をいへば「1ヶ月の停学が内規、1罰に2罰なし」と。山田学生部長わが提案を感情的といふゆゑ、 「アメリカではいかに」といへば「答へる要なし」と。怒りゐれば大山博士欠点とし1年留年と。皆これに賛成せし様子。 あとくだくだしければ新城博士にことわりて帰宅。途中、山住dr.によればユも心配しゐると。「やはり青玉のみ安静を」と也。 ユにニセ予言者とそのさくらどもの話し、滝本に電話してユ、並びに山住dr.に告口せしを叱って切る。 佐伯にて『安禄山』他2冊買ひし。望来り、扁桃腺炎とてむづかし。 4月21日 よべ青玉のみしゆゑ21:00すぎより8:00までねて不快感なし。杉浦夫人より電話「手帖忘れありしを送る」と。 池上夫人より「貰ひ物に還暦の祝ひと手紙入りありし。あのあと自由な教団を皆で喜びあひし」と。「手紙送れ、自由のはきちがへめ」といふ。 (※省略) 佐伯にゆき『毛沢東著作選讀(100)』買ひ来る。下歯茎いたみし故、柏井dr.へゆきし也。 4月22日 よべ途中さめ時計みれば11:30。夜半放送生れてはじめてちょっと見、再び眠る。8:30出て(※省略)大学院へゆけば館野女生、新米なり。 重久と鈴木通大、館野みどり、松田精一郎の4生相手に『星槎勝覧』やることをいひ、了へてsalary(※省略)もらひ昼食。(※省略) 佐伯へゆき『茂吉随聞(3冊3,500)』買ひゐしに1女生あり。東邦医大の3年生にて山形県かみの山へ帰ると。つれ来て色々さとす。 箕輪生に似て吉田みち子と也。宮崎女史より「その中西川さんへ伺はうか」と。「伺へ」といふ。 母に電話して「大躁」といへど心配せず。 4月23日 8:00さめ爽快。望より風邪うつりしユを山住dr.にゆかせ、帰りしあと我も薬もらひにゆけば「父上あす朝、謡教へたまふ」と也。 天沼へゆき母より幸夫の結婚式の写真みせられ筍もらひ、往来とも小印刷屋にゆき、きけば1p7円にて製本代は50円と。 原稿用紙3冊(150)買ひ、芙蓉堂により『米の文化史(1,000)』、『奈良(150)』、『パリコミューン(150)』買へば、 店主『私の知っている人達(1,200)』呉れ、わが名をいへば知りをり。帰宅すれば竹内夫人、姪を連れ来り話しゐる。(※省略) 午后、ユを助けんと望の乳母車押して赤川家。夫人をられ「19:30ごろ主人(※赤川草夫)帰る」と。印刷のことで相談すといひ、 駅前の古本屋にて『肉眼恒星図(100)』買ひ『Heine全集』きけば独文のまだあり9千円と。予約し成城大学の世界地図とどけよといふ。 「もしや…言語学たまひし田中克己ならずや」と番頭いふ故、「それは服部正己」といひ、疲れて帰宅。 15:00滝本生morningの修理して来る。弓子、美紀子より電話あり。佐伯にて『使徒行伝(300)』買ふ。(※省略) 堀多恵さんに電話すれば「日曜午后来訪」と。麥書房の堀内達夫氏に電話し文学アルバム『堀辰雄』41pの立原道造のハガキのこといふ。(※省略) 23:00まで西部劇見て一日了る。 4月24日 8:00出て散歩し8:30あけし散髪屋に入り30分ですまさせ、家に帰りて羽織来て「鶴亀」習ふ。むつかし。『南の星』少し借りるとのことに帰宅。 ユより1万円もらひ『ハイネ詩集2冊(34.2.3に吉祥寺にて1,200で買ひし)』を見せれば番頭9千円のTempel verlag版8,800とす。 『松の芽(100)』、『竹内好著作ノート』『星の宗教』とにて500増して払ひ、成城へ『世界地図』と世界史もの2種とどけよといひて帰宅。 ユ午食せしめて弓子へ宏一郎の初節句祝に3万円もちゆく。美紀子もゆくと也。われ13:30出て滝本へゆけば三浦女史。(※省略) 坪井(※坪井明)より「金蘭短大教授となりし」と。(藤原)吉森夫人より「PTAにてかけず」と、罵倒して止む。 堀夫人に「あす15:00以後来たまへ」と留守番にたのむ。(※省略) 本荘健男(『セントヘレナ日記』没収されしと)に電話す。 4月25日(日) (※省略) 礼拝にゆき総会にて13:30となる。(※省略) 帰れば留守中赤川氏来り、再訪と。(※省略) 堀夫人(※堀多恵子)15:10電話かけ来り、迎へに出れば赤川氏に遭ふ。A5版100p120部オフセット上質紙70kg製本並製にて10万円足らずと。 「原稿を白紙に黒インキでかけ」と也。赤川氏帰りしあとも堀夫人残り17:30ユ帰り来しあとも話してゆく。杉浦夫人より手帖返り来し。 けさ佐伯で『ツタンカーメン(40)』、『キリストと人生(200)』買ひし。夕方また佐伯へゆき本の注文す。(※省略) 21:00すぎ入浴中、早川敏一君より電話「ごきげんよろしいな」と也。 4月26日 6:00さむ。8:30出て成城。(※省略) 漢文の問題わたし印刷せしめprint切らんとせしに浅香副手来をらず、 大学院へゆき池田部長(※池田勉)に会ひ『文藝文化』のこといひ蓮田の発狂気づかざりしを云ひ、三島のことに及べば気を悪くせし様子。(※省略) 2Dの講義叱りつつ了へ、研究室に来し佐々木啓悟(※省略)今後のこと戒めて成城堂で『日本の薬学』買ひ、東豊書店にゆき4万円足らず買ふ。 そこへ来し国学院の女生教へて帰宅。集英社より詩掲載著作権料(3,000-300)来り、古田房子より文章来をり。(※省略) 山本治雄(※吹田市長選)落選を「保田陣営の敗北」と朝日夕刊にしるす。(榎原一夫といふ革新系新顔に46839~45394にて敗れし也)。 夜、菜畑正見より電話「東京新聞につとめをり。台湾より来し元教員は花岡。われをやっつけよと手紙よこせしは室千松」と教へ呉る。「東京新聞も値上げしたが購買の手段とり呉る。」と也。(※省略) 23:00まで「天皇70年を見る。」 4月27日 6:00さめ8:30出て登校。(※省略) 12:30よりsemi。(※省略) 築島博士と松本善海、Malayの話す。 東豊書店より本来てありしが高円寺の都丸も本もち来り、書類作る。(※省略) 文化史の会、大藤氏の大学院主任を堀博士に代へ「7万円づつ本買ひてよし」ときまる。 帰途、佐伯に寄り350円の本買ひ帰宅。(※省略) けふ花井夫人来り、不平いひ、また文おきゆきしと。(※省略) 4月28日 6:00前さめ8:30望を乳母車にのせて郵便箱へ。(※省略) 11:00まへ佐伯へ。(※省略) 丸木直子より速達にて文章。松本一彦のことかく。 ユ、母と寿一(※西島寿一)見舞にと12:20午食せずして出てゆく。(※省略) けふはnicotine含有量をtobacco屋にはりあるを見、echoやめepoch(100)とかふることとす。タバコ代1月1,500値上りしわけ也。(※省略) 角川より印税(ハイネ9版72480、現代詩人全集11版)66979三井銀行へ入金せしと。15:30までteleviの映画を見、 ハガキ投函かたがた今井翠にゆけば前半かき了へしと。幼稚園入口の肉屋と喧嘩しをり。 警察へゆくといふ故ついてゆけば保安係は優柔不断。交通係にもよれといはれ佐藤係長といふに会へばとりあげす。われ怒り翠も怒り、 外村家のまへ通りて別れ、幼稚園の前へゆきみれば「少しover」かと思ひ、帰宅せしにユ帰りゐて電話かかりしと。 翠と電話で話す中、望目を覚ます。寿一ガンならず結腸のふさがりゐしを切り、あす退院と(三浦義一の葬儀に出席せしと也!(※4月10日逝去))。 20:00すぎ「スマトラ記」200×10書き了ふ。 4月29日 天皇誕生日(70才)。(※省略)  「スマトラ記」速達しにゆきtelevi見んとしゐるところへ山住克己閣下より「謡の稽古に来よ」と。 「天皇70年」を12channelにてやりゐるといひ、ともに見ゐるところへユより電話。(※省略)『南の星』の批評もらひて帰宅。 11:00また山住邸へゆき「鶴亀」ちょっとやり「鉢の木」「羽衣」ききて帰宅。(※省略) 『不二』来り、終戦自殺教師出版社ありと(※不詳)。 ユ疲れて望われアヤせしに早くねる。日本対マレーシアのサッカー競技4-0で勝つを見るうち歓声をあげ、ユにどならる。(※省略) 3D井上育子生にCambridgeでの心得かく。麝島生より「婚約成った、式に出よ」と。「われ1人なら。2人で来てたのめば」と答ふ。(※省略) 名古屋に電話すれば諏訪母上出て「ご迷惑をおかけして」と。「反対なり」といへども疲れしユのHysterieに悩む。(※省略) 4月30日 晴。4:00さめ6:00タバコ買ひに駅へゆく。山住克己閣下、大鹿卓と東京府立一中の同窓とわかり追悼号もちゆく。(※省略) 佐伯に『切支丹史の研究(2500)』来りをり『中国名菜譜(180)』とともに借りる。 (※『文藝文化』復刻)雄松堂の伊藤編集長来り、わが躁に呆れて帰る。夜より「東京新聞」来る。(※省略) 5月1日 6:00さめ朝日新聞ことわる。(※省略) 望バンザイし、ウマウマ、バアチャンをいふ。 タバコ買ひかたがた幼稚園にゆき保母・園長と話し、出んとするところへ鳥✕のおかみ出しゆゑ話せば、 「咬んだでなく…」といふところへ若い衆出て無礼の言吐く「年寄に向って何ぞ」とて勝ち、今井へゆくみち翠に会へば「一緒にゆくとこわい云々」。 帰りて速達4通、(※還暦祝い原稿)合計55。礼状出しにゆきハガキ買ひ、謡曲のレコードをさがしまはって帰ればまた速達。 昼食買ひに出て西友dept.にまたゆき、祝物1,000を500予約払ひす。5日すぎになると。(※省略) 翠より電話「肉屋カンカン」と。 夜、「東京空襲を記録する会」に(※昭和20年3月の)日記10-16日分写す。 5月2日(日) 4:00さめ7:00速達受取。9:00すぎまでcoffeeのみてねばり礼拝にゆく。聖餐式あり。 すみて佐伯に寄れば『南方全集2』来をり、『浮生六記(150)』、『中国名菜譜3(150)』、『非行少年の心理(100)』買ふ。 (※省略)祝賀の文来る。(※省略) 14:00麝島・都留2生「6.18仲人となれ」と。「大藤教授にたのみ。断られたら」といふ。(※省略) 5月3日 2:00さめ8:00起きる。(※省略)12:00まへ小林母子来り「伊豆へゆく弓子母子預れ」と。「epoch」買ひにゆく。 佐伯へ『南方全集2』の払ひにゆき『日露戦争(100)』、『旧約各書の読み方(100)』買ひ、 『ノイローゼ(490)』新本屋にて買ひ、『大唐の春(380)』山住閣下へと買ふ。(※省略) 望と宏一郎と2孫をり、宏一郎大きな目をして笑ひ、望ややに邪気を生ずるも可笑し。還暦記念のprintす。(※省略) 名古屋より「依子退院したが通院のため望まだ引取れず」と。 5月4日 雨中9:00出て山住閣下に「梅花一両枝」とわが『大唐の春』もちゆく。桂信子の歌集もちゆく。10分上りて『天皇』と『不二追悼号』と返却受く。 このごろ急行に乗りうれし。会計へ行けば試験手当わづか1.6万円。semiにてみな叱り研究室に戻らせ(※省略) 佐伯へ寄り『南方熊楠全集』返せといへば7千円と。「あすもちゆく」と也。(※省略) 夜、山住閣下に電話すれば「梅花一両枝よし」と。「あす11:00鶴亀習ひにゆく」といふ。(※省略) 5月5日 2:00さめ、また眠り6:00さむ。10:00まへ佐伯へ『南方熊楠』と『安禄山』もちゆけば700と。 『論文レポートの書き方(130)』、『名ごりの夢(270)』、『言語学(200)』買ひ、西友へレコードのことききにゆけば未着と。 『林房雄・保田・亀井・蓮田集(720)』と『東京裁判 下』と買ひ来る。 11:00西友より祝謡のrecord着きしと電話、ユとりにゆき、われ山住閣下に3回目の稽古。大鹿卓の歌集もちをらる。 帰りて午食し、televiのchristian映画見てをれば宮崎女史来訪。伊藤佐喜雄の『日本浪曼派』の誤りいふ(癇たちてユを叱りし)。 (※省略) 5月6日 2:00さめ8:00さむ。すぐ出て成城。(※省略) 小倉君と話し雨中気持変り東豊書店へゆく。 『春夫細説(※春夫偏論)(本日『成城文芸60』出来し也)』店主に呈すれば「簡木桂(※店主名)」を「文桂」と誤植す。この間の40,330の外7万円近くたのみ、 (※省略) 丁韓良(※宣教師William Martin)買ひし高校教師「Christianか」といへば「然り」といひ竹森先生(※竹森満佐一)を知りをり。 電話、神田信夫君からかかり「いかが」といひてのち簡氏にとり次ぐ。 小高根二郎氏より「スマトラ記面白く、も少し長くてもよし」と。(※省略) けふ西川より電話かかり「山本(※山本治雄)来りをる」らしかりしと。 神田喜一郎・信夫御父子、牛山百合子氏に「春夫偏論(※『成城文芸60』抜刷)」包む。竹田竜児氏(※佐藤春夫甥)にも同。 牛島・渡辺両夫人より還暦祝!に赤いベレー帽贈らる。 5月7日 晴。6:00さめ9:00になりて、山住dr.に弛緩剤もらひ五十肩に注射打ってもらふ。「春夫偏論」の送料20✕4。 佐伯に寄り雑書2冊(150)買ひタバコ買ひて帰宅。 西川(※西川英夫)に電話すれば昨日山本来て「共産党に負けた!」と方々に電話せし由。山住閣下に電話かけ「13:00参る」といふ。 母来る。寿一に電話すれば寿賀子出て「草とりしをり」と。(※省略) われ山住閣下に「鶴亀」ならひ(4回目)30分して帰る。(※省略) 5月8日 6:00さめ、なす事なく(※これまでに届いた原稿)「わたしと田中克己」写す。Ball-pen買ひに出て、これだめといへば店主むっとして実演す(50)。 (※省略) 折しも来し都留の母、麝島母子迎へて当日仲人を夫婦にて承知す。「祝に何贈らん」ときけば「いらず」と。本棚にせんと思ふ。(※省略) 5月9日(日) 礼拝親子づれにてとのこと也しも休む。タバコ買ひに出、佐伯に寄り(小川眼鏡店で腹立て沢野眼鏡店であつらふ17,000)。 『修道者(30)』、『高青邱詩集(800)』買ふ。「わたしと田中克己」今井翠を写し殆どすむ。(※省略) ユ、滝本に赤いヴェレーを黒にと高島屋へ交換にゆかせしと也。三浦女史に「まにあへばけふ持ち来るやうに」とたのむ。 20:30滝本生来り、800なりしと! 5月10日 12:00出て佐伯に本註文し13:00成城大学。(※省略) 増田に「姉に会ひたし」といへば家までつれてゆく。 紅茶と茶のみ姉に「少しきれいになったといひ」、carにて八芳園までのせてもらふ。 (成城堂で買ひし『村で病気と戦う(150)』、『魯迅詩話(300)』、『女百話(780)』、『イエスキリスト(320)』と『清史資料三輯 10冊(2万円)』とをもちて重かりしも助かる) 礼いひて下車。学生課次長の隣に坐り新任の諸氏に柏手(※省略) そのあと都留、箕輪、館野みどり3生と話しbusにのり帰れば20:00也。 躁にて楽し。けふ佐伯、本もち来り、都丸の本も図書館に入りし。 5月11日 9:00家を出、(※省略) 14:20より教授会。(※省略) われ「昭和47年6月15日~9月14日まで50万円の台湾旅行」の申請書を堀教授(委員長)に出す。(※省略) 佐伯へ寄り『金文の世界』、『月と不死(東洋文庫)』来りしを借り、『図説日本服飾史(400)』をも借りて帰宅。(※省略) 浪速学園同窓会報来り、(※省略) 『植物祭』発行所へユの脱会届かき、岸和田のかわばたようこなる歌人に「気持ちの悪い詩集」と評かく。 増田礼子に電話すれば留守。滝本生21:10に来り、22:30まで話きって帰る。 5月12日 7:00ごろ覚む。「わたしと田中克己」の出版とりやめときめて安心。(※省略) 柿崎生来しゆゑ出席といひ万年筆祝にとゆけば定休。 西友dept.へゆき『新版広辞苑(2,200)』買ひて送る。 帰り山住閣下に「午后1時に」といひ、昼食して伺ひ、橋本徳寿『素馨の花』借り来る。大洋丸にのりし軍属なり。 佐伯へ金払ひにゆけば『字源(2,000)』来てをり、また借金として帰り来る。 滝本生、望の乳母車押し、あとにてちょっと寄りて帰る。(※省略) ※別紙にて教へ子人名リストあり。日記中の到着便等記述は(※省略)した。 1津田侑 2林璋子 3中村左都子 4小倉脩三 5末吉栄三 6北山章子 7和田節子 8道下重子 9山脇英子 10山荘佳子 11西保幸子 12岡美恵 13花井たづ子 14田中靖子 15藤田幸子 16石田嘉子 17今市佐恵 18高山俊子 19長友康子 20谷信子 21藤井陽子 22河野弘子 23古田房子 24富山鈴子 25美濃隆子 26平井昌子 27大野由美子 28丸木直子 29原知子 30阪本和子 31浅田博子 32清水文子 33箕輪尚子 34井上恵子 35今井翠 36林崎栖子 37南隅美弥子 38牛島洋子 39渡辺靖子 40鈴木敬子 41鈴木正義 42池田茂都枝 43藤井美知子 44白水千鶴子 45鍛冶美和 46辻芙美子 47土肥雅枝 48塚本侊子 49川上恭正 50庄田泰子 51平本規子 52戸山桂子 53森田宏子 54安田明子 55荒井平次 56小倉佳子 57兼頭淳子 58田中久子 59江沢敏 60野崎その 61増田(明渡)淑江 62涌井千恵子 63桝田紀子 64相良紀予子 65齋藤はるみ 5月13日 6:30さめ8:30出て成城。大学院「星槎勝覧」の演習(※省略) 東洋史「(※清の)太宗Hongtaiji」をゆっくりやる。帰り東豊書店に寄りまた本買ふ。 渡辺卓君と成城で別れしばかりなるにまたここで会ひし。西友dept.5階へゆき謡曲「鶴亀」と「楊貴妃」求めしも発行所しらべよと也。 楽器屋・書店みなこれを売らず、ふしぎ也。『展望』来をり。(※省略) 和田節子に還暦記念文集「わたしと田中克己」の出版とりやめを云ふ。 ユ、見合にて坂泰子に電話す。あす帰り来ると。われ(※明日)16:00より霞山会館の東方学会にゆくこととす。(※省略) 夜、ユまがほにて「滝本とわれと怪し。山住女医も病気を疑ひゐる」と也。失笑し、同時に滝本の精神状態を疑ふ。 5月14日 (※省略) 私鉄ストにて騒がし。麥書房に電話すれば夫人出て「夫、午前中はねてをり云々」便通あり。 山住dr.にゆけば「1週間入院せよ」と「バカいふな」と睨みて薬もらひ帰る。山住閣下夫人にエロ話せしとユの説なり。 麥書房堀内君起きて電話「笠井女史と小倉副手に(※自分より差上げた)道造の信あり」といふ。(※省略) 花井タヅ子に電話し「出版とりやめ」といへば「和田夫人よりききし」と。橋本生(※省略)13:00まで指導し、 帰りしあと出て霞関の霞山会館へと新橋より歩く。(※東方学会) (※省略) coffeeのみて第3部にゆけばJoy Gluckなるアメリカ青年「Dashgai nomad of far」なる題にて話し聴衆数名。司会山本達郎氏なり。 すみて地図さしCaspi海かといへば「然り」と。Iranの少数民族の話なりし。また紅茶のみ、 John Whitney Hall(Yale大学日本史教授)の「Thirty years of Japanese studies in the United States」をきく。 隣は久松潜一名誉教授にて吉川幸次郎博士も来をり。話のあとお座なりの質問す。 荒木修、鈴木俊、青山定雄などの人々出席のことなりしも見当たらず。晩餐ただといふを断り出る。 (『東方学関係著書論文目録』を買ふ。Gluck青年の話中に詩一篇つくる。)(※省略) 帰れば松本健次郎より「漱石論」ぬき書2冊来をり。『動乱の中の王妃(300)』、『サラリーマンの漢方医学(150)』を金子書店で買ひ「高いぞ」といふ。 夕刊に大鵬31才で引退とあり。 (けふ講演の時、久松潜一教授「杉浦(※杉浦正一郎)はよく勉強しましたね」ときこゆる語発したまひし。人すでに罪を赦せし也。神は早くゆるし玉ひし) われ異教徒にまじはり 日々呪咀と狂気の書を開く わが妻はわれを信ぜず われが神を信ずることをも信ぜず 異教徒は游牧の民ならず 米と兵器をつくり 営々として日々を営む われその余りを享け 神に感謝すと日に一たびこふ そは眠りに入る一瞬のまへにして その眠りよりさめし時はおどろく わが主にまだわれを異教徒の中に置きたまふや 5月15日 8:00まへさめ、ユと口論し、望つれて滝本へゆきしを見送る。薄井陽子夫人に電話し、文集印刷やめしをいふ。 母に電話し、ユのhys(※ヒステリー)をいひ、坂生より「見合ことわる(※省略)」との電話きき、 滝本より帰るユに会へば「三浦を誘惑するな」といひし云々。佐伯へゆきdouble本(1,000払ひしと)返し 『年齢考』、『幕末英人殺傷事件』、『俳句への道』、『地名地理辞典』、『日本女性史』、『佐藤春夫集(筑摩)』にて980となり、20円つりもらひて、 山住閣下に参り『歌日記』1冊もらってもらひ「楊貴妃」の謡きく。けふにてしばしとりやめとの事、了解さる。 佐伯『安達原』、『熊野』をくれし。夫人より「通茂」との落款の書のこときかれ中院通茂(寛永中死)と電話し、また佐伯へゆき『楊貴妃』と『鶴亀』註文し、『諸子百家(80)』、『日本語文法要綱(250)』買ひ来れば、母門口にをり「学生来りをり」といふに見れば南村裕子なり。(※省略) 16:00帰らしめタカノ花、清國に負くるを見てをれば、 麥書房堀内君来り、「立原の引きし詩はHeineなりや否や」と。われ「このソネットちがふ」といふ。 その間に山住dr.より電話「診察ことわる」と也。ユにいへば「斎藤先生にかへれ」と也。あかね書房より『世界名詩集』の印税1,272来る。 5月16日(日) 礼拝にと6:00起き8:00出て天沼へゆけば大、起きてをり、机を叩きて怒りしにおどろく(河野岑夫の葬式のこと也)。 busにて荻窪へ出、時間早きゆゑ喫茶すれば卵と昆布茶つきて100。(※礼拝)長島夫妻見えず竹森先生に会釈してのち、 阿佐谷へつき佐伯にて『聖書を中心とする教理研究(150)』買ふ。 大高より年会費払へと来る。(この間つきし報告には前田善太郎死にしと!けふのには能勢正元「山本治雄の市長選挙の応援せし」と見ゆ。) 青山博士より電話かかりしと云ふにかければ、昨日の東方学会のことと松本善海のことにて洋行は8月出発と。 televiの映画見、Davis Cupに複インドに負くるを見、タカノ花また負くるを見る。(※省略) 1-48田中克己あて徳島の樋井氏といふより小包来しゆゑ、間ちがひならんと受取らず。 19:00弓子に「ユ来しや」と問へば「来ず。一度赤ん坊見に来よ」と。(※省略) 5月17日 6:00まへ起き、望の乳母車押して散歩。和田賀代嫗より、またみにくき女(※見合の斡旋)たのむとユへ速達。『果樹園』183来る。 池田温氏より転任挨拶。四季より「隔月刊とす。6月末までに詩かけ」と。12:00昼食してゆき「楚辞」(※print)切る。(※省略) 5月18日 スト、国電と小田急をのぞき24時間と。9:30出てメガネ屋起きざる故、佐伯のぞけば『中国農村の家族と信仰(1250)』来をり、 (※省略) 登校。 (※省略) 疲れて帰宅。 (※省略) 賀代嫗より宝生流「鶴亀」来る。 5月19日 よべ9:00に眠り5:00さむ。美紀子と依子とに写真包む。8:30出、2信投函、ユ来らざるに電話すれば地下鉄と。斎藤dr.にゆけば門前にをり。 dr.(※斎藤茂太)「投薬多すぎる。病状なし」と2週間分投薬。初診料200のみ。2年ぶりと。(※省略) 帰りて饅頭くひ、涌井千恵子よりの電話きけば「徳島より椅子送らしめし」と。 この間の「桶井」とありしがそれにて「荻窪駅の小荷物におきあり、とりにゆけ」と也。 神田信夫氏より「抜刷みた」と抜刷2部来る。(※省略) 鎌田女史より電話「沢田四郎作博士逝去、下阪」と。御花料3千円の立替たのむ。(※省略) 5月20日 国鉄ストと。5:00起き8:00出てゆけば母に遭ふ(猫つれて見舞に来しと也)。登校9:00ごろ。研究室あきたらず(※省略) 立教の宮本教授に(※省略) 沢田四郎作博士の訃を語り、 電車に乗るまへ坂泰子のところへゆくこととし、(※省略) やがて立てば叔母さん眼鏡かけauto運転し佐伯の前まで送らる。 『千島小笠原島史(420)』、『馬来亜捜奇録2(150)』買ひ、傘かりて帰宅。安宅温より「古希を祝す」と(※還暦の誤り)。(※省略) 5月21日 5:00さむ。(※省略) 安宅、谷川2生へハガキ。散髪し佐伯へ傘返しにゆき『ゆたかな言語生活のために』その他買ひ、一旦帰宅。(※省略) 帰りて昼食し、ユが望つれて三鷹へゆくを見送り「魔女」といふtelevi見る(※「奥さまは魔女」再放送か)。面白く、 そのあと与謝野宇智子さん(※晶子5女)(明治44年生と)の『むらさきぐさ(荻窪岩森で200)』よみ了る。(※省略) これにてスマトラ記のつづきに「父-小林政治-晶子」かくこととす。「前川佐美雄歌碑建つ、1口2千円」と手紙来る。 5月22日 よべ京11:00すぎ帰り、ちょっとねて11:30起きしにユ心配す。やむなく山住dr.の薬のみ6:00近くまで寝、 televiつければ中野清見、江刈酪農の話してをり。丸夫人に電話し(※省略) 「歴史地理学会昭和46年度会費納入せよ」とありしをみつけいやになる。涌井千恵子に受取。8:40白鳥芳郎氏より電話。(※省略) 佐伯へ「唐書買ひに来よ」といひにゆく途中、山住閣下に遭へば「楊貴妃来てをり。お大事に!」と也。 漢薬屋へ酸棗仁湯(※安定剤)買ひにゆけば「月曜来よ5日分1,500~2,000」と。ユ怒りbanana買ひに出てゆく。 (けふ麝島への本棚1万円なりしと。今井翠に出版とりやめと云へば「史、喜びをり。(※原稿)一度みたし」と也。) 四季社より「塚山勇三君19日8:30心臓病にて死、23日(あす也)14:00自宅にて教会葬」と! 夜、飯くひて望つれて佐伯へ『唐書』もちゆくみち滝本に遭ひ「ヨウ」といひあとも見ず。 佐伯にては値段つかず、出て電話かけ来し眼鏡屋に1万円払ひ、望にアメ2本もらふ。帰りて(※滝本氏への応対ぶりを)話せばユ、呆然たり。 牧水の歌を刻んだ碑の向う 海に近くあなたは住んでゐた わたしは一度訪ねて忘れない わたしの勤め先へ一度来て いとこ伊達信が死んだので悼みにゆくと 陸奥宗光の一族である わたしは中途まで同道し 車代はあなたが払った あなたは招かれ わたしは残り まだつぶやきを止めず たえず祈りたえずゆるされつづける 招かれる日はいつか あなたは知らされてゐたか わたしはまだ知らされてゐない 20:30矢野に電話し「本宮(※中野清見)見たか、横山のこといったか」といへば「きき、金わたした」と。増子よりたしかに貰ひし也、呆けたりや! 5月23日(日) 6:00さめ、礼拝にゆかず、ユに許されて山住閣下に電話せしも不在。 運送屋のぢいさん(※郵便局留置きの)椅子もち来り、羊羹を(※運賃)120につけてやれば喜びて帰る。televi見ゐしも面白くなければ古本市にゆき、 『南方圏の体臭(100)』といふを買ひ、挨拶せし太田弘毅君、家へつれ帰り話せしあと 15:00ごろ佐伯へゆけば『新唐書』5,500と。「宜し」といひ『斎藤茂吉全歌集(4500)』、『杉田玄白(490)』、『東洋の名画(510)』買ひて帰り来る。 けふ神田喜一郎先生より「論文よろし。呉守礼氏に送れ」と。(※省略) 望ちゑつきし。美紀子より電話「来週来る」「来ずとよし」といふ。 神田先生へ「呉守礼氏に送る云々」。夕方これを包む。 5月24日 12:00出る。山住閣下にゆき「楊貴妃」いただき後半きき、『東京裁判』2冊お貸しす。(※省略) 東豊書店より『福建通志』来をり(3.2万)。浅賀副手に手続すれば「個人研究費丁度10万円となりし」と。(※省略) 東豊書店によれば『鄭和下西洋之宝船考(300)』来をり。(※省略) 帰れば安宅温よりハガキ。「古希」といひしをあやまり来し也。 漢方薬屋にて酸棗仁湯5日分(1800)買はさる。けふユ電話すれば依子「通院やめれば望ひきとる」となりしと。(※省略) 23:00眠れぬとて酸棗仁(サネブトナツメ)煮させ24:00のみて眠る。 5月25日 5:00さむ。9:00出て登校。『史記』70枚刷る(85人)。すみて教授会まで一休みしsemiの自己紹介さし、 早くすみし教授会に「星槎勝覧」の下調べ (※省略) 5月26日 6:00さめ、(※省略) 12:30披露宴と思ひ11:00出て佐伯へ寄り本来をるを見、桑原武夫『発展しつつある国々(50)』と『公教聖歌集(50)』と買ひ、 地下鉄にて悠々とゆけば花嫁花聟すでにあり。(※省略) 新婦の最後の恩師としてわれに祝辞と乾杯の音頭とりと当り 「混沌とせし地の創造神話かきし、天の造り主を知らず云々」を笑ひ声の中にすます。(※省略) 地下鉄にて帰り佐伯へ寄れば、 『アイヌの世界(6,000)』謡曲2冊(300×2)預けらる。『四季』より「塚山君の葬儀に花輪代、小山正孝氏立替550送れ」となり。 夕食までに「スマトラ記」10枚(200字)かき、父のことと晶子夫妻のこと記す。次はBattak族のこと也。(※省略) けふ水野清一氏死去66才と見ゆ。上原君の成城に呼びたがりゐし人也。 5月27日 早くさめ9:00〒あくをまち、550を四季社に送る。(※省略) 成城へゆきいつもの如く月見そば註文、大学院にゆき重久来ゐしに、演習あてれば出来ず罵倒し(※省略) 16:30まで勤務の箕輪生さそひ喫茶、4万5千円もらひゐるといふにおどろく。丁度時間となり向ヶ丘の紀伊國屋にゆく。古野博士sentimentalとなり、われ男らしく歌ひ「来年度は日本民謡史をやれ」といふこととなる(堀博士提案)。 重久生結婚したしといふに嬉しくなり「Wein und der Wein」歌ひつつ下北沢まで同車。(※省略) 神田博士の初対面思出す。「五雑俎」の「古楽府」にあるを念入りに教へたまふに感激。 千川より「明治45年3月生れにて還暦に同感せず」の文見る。色々なる世の中かな。望、6月にもつれ帰らざる様子。(※省略) 5月28日 大江叔母より電話「女子医大の中山恒明先生に脱疽の手術受けたし、コネたのむ」と。高橋邦太郎氏に電話すれば「(※省略)マスコミ関係に頼め」と。 思案して今井翠に電話す。(※省略) 「スマトラ記」小高根氏へ速達し『イラン(100)』、『Indonesia(50)』買ひて帰宅。 また西友へゆき「鶴亀」のrecord!(900)とり来る。『不二』来り、保田とわれの文のす。(※省略) 今井翠より電話「中山先生死にて代りの先生紹介せん」と!艶叔母に「ナカヤマセンセイシンダ、カツミ」のウナ電打ち、母にもいひて笑ふ。 何事もをかしくてたまらず。(神田先生へ「御教示ありがたし、和田先生恋し」の手紙かく。) (※省略) 美紀子より「大江の叔母どうした」と。「大阪まかせにせし」とユ答ふ。 5月29日 雨。8:00床にゐる中、八木沢生駒込より来りsemi。12:00喜んで帰りゆく。午后佐伯へゆき■み本2冊買ひ、ユが望背負ひて天沼へゆくまteleviの映画見る。17:00ごろユ帰り来り、やがて賀代嫗来る。隣人と教へ子とのこといひ、ユ怒る。(※省略) 5月30日(日) 聖霊降臨祭日とて礼拝にゆけば1列目。五旬節なりしが名称かはりし也。すみて(※省略) 帰れば母来をり。 南村啓子来ると。礼拝サボりしといふを咎め漢文よませしに常識なし。歎息しつつ了へて「歌合掌しませう」となる。物怖じせざること感心なり。 帰りしあと佐伯へゆき退屈どめ2冊買ひ来る。 5月31日 6:00さめ9:00『元史』もちて佐伯へゆけば4,000と。『中国文学的故事』、『近古中国文学故事』、『日本神話論』にて2000買ひ登校。 (※省略) 東豊書店へゆき『明監國魯王壙誌之研究(200)』、『清営 譚()』買ひ、鄭和関係と北京大(※の)民俗学とを大学院にと購入たのみ、 代々木より乗車して阿佐谷。佐伯へゆき高すぎるといひ1,000置き『白居易研究(4,320)』借りて帰宅。(※省略) 大江叔母より「湖東博士女子医大に問合せ中山外科健在と。克己また(※たばかった)か」云々!今井に電話すれば中山「内科」死にし也と。 辻芙美子より「市大やめ立命大の夫のため京都に転居す云々」。20:00前入浴。大江叔母についで電話し、ユ出て話す。(※省略) 6月1日 7:00まで眠る(望も同じ)。覚めて用意し10:00登校。(※省略) semiやり小安生つく。「休み来よ」といひしに誰も返事せず。(※省略) 立教へ15:05に着き宮本研究室(※宮本馨太郎)にて手塚、中川2氏(※手塚隆義、中川成夫)と榎君(※榎一雄)のことなど話し、 (※白鳥清の喜寿記念出版)発起人酒井氏(学習院)を加へ5人とし会員200人にハガキ同封して出すこととなる。 「清先生やはり千葉出にて鈴木姓」とはじめてきく。18:00よりの講義とゆきしあと手塚さんと帰り誘はれてice-cream食べ、払へば困らる。 帰りて望相手に喜びゐるところへ佐藤達夫氏見え、「何事も本ならよむ。買ふ。48才」ときく。23:00羊羹おきて帰りゆかる。 けふ『植物祭』来り、宮崎さん格下げとなる。「隅の親石」のたとへ(※聖書)通り也。 6月2日 7:00さめ9:00出て斎藤神経科。薬そのままとなり『精神科医三代』にsignしていただき新宿まで歩き(cold coffee130)、佐伯に4320払ひ、 14:00来し古田房子迎へにゆき14:30まで話す。(※省略) 18:00電話新宿よりかけて来し浅賀、館野みどり2生にすし食はせ羊羹もちゆかす。 望昂奮して20:00までねず。(※省略) 6月3日 寝につきしは10:00すぎか(京の帰宅しらず)。夜中に望の泣くに目をさまし5:00起き望つれて犬見にゆきしもゐず。眠がりつつ登校。 大学院ウエズ生と重久とくひ下り気持よし(鈴木休む)。すみて栗山氏らと話し12:30となり、中国文学史「楽府」すまし、 身体検査にゆけば尿みられ「糖あり」と。dr.別に意見なし。(※省略) 大庭教授と同車、南新宿で別れつげ、東豊へゆけば我の借金少なくまた1万円余買ひて帰宅。 小高根二郎氏より『伊東静雄』来り、われとの出会ひを昭和8年と誤る。 糖尿とのことにバナナやめ飯少なくし菜くふ。うまし。ユによれば酸棗仁湯のせい也と。 小高根氏へ礼かね「昭和7年」といふ。 (※『コギト』創刊が昭和7年3月だが当時の日記紛失。昭和8年日記に「三月十八日には中島と伊東静雄氏を訪れたり」とあり。)(※省略) 6月4日 雨。7:00さめ、ねおき目まひす。小高根二郎氏へのハガキ投函に出、佐伯にて1,000足らず買ふ。主人も糖尿なれどかまはずと。 ユの留守、山住dr.に電話し(※省略)「あす食後3時間に再来せよ」と也。午食してのち佐伯に払ひにゆけば、主人ゐず。 『楊貴妃哀史(230)』、『三国人物論(270)』買ひ、 『失楽園(※ミルトン)』買ひに荻窪岩森にゆけば売れ、支店にゆき、コギト伊東知り池田勉の愛読者といふ男に会ふ。(『海原にありて歌へる3版(600)』買ふ。) 気味わるく哄笑してついて来、堀邸あたりにて[紙]買ひ、家へつけば大人しくなる。山際といふ製本屋の子と。15:00帰してtelevi見、 夕方また佐伯へゆき金払ひ『内村鑑三』買ふ。夜、坂女史に電話すれば「弟子の件2日待て」と。(※省略) ユすぐ竹下夫人に電話す。(※省略) 6月5日 6:00さめパン2ケ食ふ(7:00)。(※省略) 10:00山住dr.にゆく。「糖なし。血とり検す。水曜朝食後2時間して来れ」と也。 ユ13:00まへ中野へ坂生の相手のことにてゆく。(※省略) 『大王と古墳』買ひ来る。方角にて王系きむる也。 6月6日(日) 7:00さめ雨中礼拝にゆく。(※省略) 佐伯へより1冊買ひて帰宅。 弓子より「来る」と。まちて宏一郎の写真とる。善一郎と19:00までをりcolortelevi見つく。(※省略) 望日々に智慧つき、しかも可笑し。 “As U will”「みこころのままにと祈るみちからの限り知られぬ大きさゆゑに」 前の空き家の庭にある花ムシトリナデシコと調べつく。 6月7日 5:00起き9:00出て佐伯にて『ヴァチカン市国(80)』、『現代人は愛しうるか(490)』買ひ『キリストの御後に』もらひて成城。(※省略) 成城堂で『死の壁の中から』、『5日でタバコをやめる本(325)』買ひ、山田氏とちょっと話し(佐藤氏のことなり)、 東洋文化史にゆき前の子の眠るを見て止め、(※省略) 東豊書店へゆき『小説詞語匯釈(1200)』買ふ。中共の某氏のドロボー版なりと。 堀博士へと道教本の広告もらひて出る。(※省略) 帰れば「けふ坂泰子18:00に来る」と。(※省略) 山際文雄君より礼状(Milton(※『失楽園』)さがすと也)。18:00坂生来り、金曜新宿御苑にて見合すと。(※省略) 6月8日 よべ早く寝て(22:00)5:00さむ。printせんと9:00出て登校。(※省略)鎌田女史『柳田国男集』索引編たまふ。14:00より16:30まで教授会。 すみて茶のみ帰る。(※省略) 20:30入浴中、中川氏より電話「金曜15:00宮本研究室へ聖心のしりあひもって来よ」と。(※省略) 6月9日 23:00ねて6:00さむ。9:00まへ郵便に入れゆくと出て、山住dr.に逢ひ「検査の結果よかりし」ときき、 「湿疹みて下さるや」ときき「よし」といはれ、散髪すみて山住閣下にゆき「楊貴妃」またきかせて戴く。 出てdr.「ジンマ疹」といひなほし薬たまふ。(※省略) 6月10日 23:00ねて5:00覚む。四季社へ「聖霊降臨日の前」包む。塚山勇三追悼なり。9:00出て10:00登校。 大学院ウエズ生休み重久相手に5分前までやり、すみて昼食。(※省略) 出れば3年の男生をり喫茶せんといへば女生2人つれ来る。(※省略) 下北沢まで同車。佐伯にて『動乱の昭和史(100)』、『滝田樗陰(100)』買ふ。20:00ユが依子に電話すれば「あす15:00ごろ来る」と。 望いよいよ賢くなる。(※省略) 6月11日 5:00さめ本よみ6本吸ひ12:20ユの飯して出てゆくを見る。(※省略) 14:00出て立教。宮本研究室しまりをり(※省略)「18日」とわかる。出て古本屋のぞき疲れてcoffee(120)16:00阿佐谷へ帰り、 佐伯にて『日本の歴史・年表・地図(500)』、『木山捷平わが半生記(550)』買ひ1万円にてつり貰ふ。ユの方、先帰り、依子・泰16:00つきしと。 望譏嫌よし。澄より電話に泰の喘息いふ。(※省略) 『果樹園』184来る。 6月12日 家居(5:00さむ)。〒なし。13:00南村来り、(※省略)15:00帰りゆく。20分ほどして都留・麝島来り、式次第と仲人の挨拶の原稿おく。(※省略) ユ、三鷹へ泰・望つれゆき依子あとにてゆき望をユつれ14:00ごろ帰宅。(※省略) 荒本生「推薦状かけ」と、来いと云へば18:00ごろ来り、 (※省略)京阪より広島へゆく証明書とって送ってくれといひのこして出てゆく。 「無法者」なるauto-byの不良の終末笑ふを見了るまで不快がりつつ見る。依子あす午后2児つれて帰名となり。 6月13日(日) 6:00さめ礼拝休む。9:00望を抱くわれを京に撮らし、母来りしと11:00泰を入れてまた写真とり、ユの東京駅まで送るを見て、 12:00出て写真現像たのみ、雲呑たべ(100)、佐伯へゆき『火山(600)』、『樗牛全集5(250)』買ひて帰宅。(※省略) 望まだゐる如き感じあり。(※省略) 6月14日 6:00すぎ覚め10:00登校。「明史和蘭伝」切り図書館へゆき「四礼通考?」と「喪礼通考?」と探し出してもらふ。和本のガラス内に入りゐし也。 (※省略) 佐伯へ寄れば「きのふ本もちゆきし」と。ふしぎ也。探しまはり『ポンペイ展(300)』買ひて帰宅。〒なし。 「望、泰と仲良くし譏嫌よし」と澄より電話ありしと也。(※省略) 6月15日 よべ11:00までアメリカインディアンの善戦を見、7:00まで眠る。9:00出て成城、print切る。12:30よりsemi。(※省略) 帰り東豊書店へゆき『台湾家庭生活(360)』、『清初史料四種(1500)』買ひ『植物図鑑』の書名、発行所しらせて取り寄せたのむこととす。 佐伯へ寄り『イエスキリスト』100で売り『大阪(10)』、『杉浦明平(80)』にて10円もちて帰る。 矢野より「8.14(土)岐阜Grand Hotelに集り一泊、翌日17:00名古屋駅にて解散(※大高同窓会)」と。「不参」の返事す。(※省略) 6月16日 6:00さめ9:40出て三越へゆき「マクドナルド(5,000)」(※ウイスキー)みつけ「御中元」とかき斎藤先生。 組合証出し薬だけといひしも11:30近くまで待たさる。(※省略) 2週間分もらひ傘まちがへんとし、持主に注意され無事にすみし。 帰りどこへも寄らず12:00かっきりに帰宅。 山際文雄氏スペイン語出来ると見え、Santayanaといふ未知の著者の全著作より拾ひしといふ『思想のアトムズ』といふ本送り来る。 橋本由美子生来り「中華全国風俗志」のcardよます。(※省略)帰りゆきしあと、和田夫人の来るをまてば18:30来り、21:30まで話しゆく。 (※省略) 入れ違ひにて京、尾瀬より帰来。(※省略) 6月17日 7:00起き9:30出て成城。(※省略) 帰り急行にのりどこにも寄らず帰ればユ留守、京をり。(※省略) 6月18日 7:00すぎ起きユ10:00天沼へゆくを留守番す。(※省略)午食せしあと14:00出て立教。(※省略) 白鳥芳郎君来り、学習院の名簿作りをり。 われ先生の年譜作ることとなる。7月上旬にまた会すと。(※省略) 別れぎは芳郎君Burma土産の灰皿賜ふ。(※省略) 泰・望あて写真送る。 6月19日 7:00さめる。駅前郵便局にて1円切手買ひ、先着6人に(※未刊となった「わたしと田中克己」)原稿の写し送る。みな地方なり。 (※省略) 田中久夫教授より電話かかり来訪と。14:30ごろお越し、わが茶のまれ帰りゆかる。年よりとて同じこと話せしかと気がかりたり。 山際文雄氏より「『失楽園』山口(※山口書店)で見つけたが1500なりし故やめた。岩波文庫にある故さがす」と。(※省略) けふ西川より電話「新宿の会社に宮崎さん世話した」と。「8月の会、われちょっと顔出す。泊らず」といふ。 6月20日(日) 曇。7:00すぎ覚め(※省略)、9:00すぎ出て久しぶりに2人にて礼拝に出る。(※省略) 帰り吉祥寺できつねうどん食ひ(130✕2)、 帰り佐伯に寄れば「成城払ひ1回ありし」と。televi映画見てをれば、川久保より「上京しをり。娘のこと報告に」と。 来りて「娘、心決まらず交際ちょっと休みをり」と。ユにきけば「相手他の女と見合し交際はじめし様子」と。「はやくことわれ」と暗にいひて帰す。 その間、宮崎女史来り「新宿の信越企画集団といふに見習にゆきをり。まだ月給きまらず」と也し。 『不二』三浦義一追悼号。73才にて1億円以上の遺産みな寄附といふことにして死にしと也。(けふ千葉県地図買ふ。150) 6月21日 雨。10:00すぎ出て靴屋さがし2,300の靴買ふ。そのまま渋谷へ日赤ゆきのbus探せしになしtaxiにて聖心女子大。玄関大いに変りをり。 まごついて受付でいへば西川事務長に会へ、海老沢博士に答へしもと、しらべて白鳥先生27年より32年まで大学院と学部の専任と。 ここやめて立教へゆきたまひし也。(※省略) 渋谷までbus、井の頭線で下北沢、古本屋へゆきしに休み。ギョウザ食べ(100)、成城。(※省略) 雨の中帰り来る。ユ、名古屋へ電話せしも望のことくはしくは云はず。 6月22日 曇。9:00出て学習院大学。図書館へゆき司書の人にいへば、末松保和先生に案内され、 先生電話したまひ書類まつ中10:30となり、女の人に案内され、教務へゆけば「きかず」と。(※省略) 先生(※白鳥清の履歴)書類で送ると。 目白通りあるき堀博士『民間信仰(250)』買ひ、代々木まで乗り東豊書店へゆき、ラーメンくるまで13:10となり、 堀江忠道に遭ひ『巴金年譜』作れば来ると也。教授会16:00すぎまでつづき、ついで大学院の会。(※省略) 6月23日 曇。8:00起く。佐伯へゆかんとせしに水曜にて休み。白鳥清先生年譜を作り、11:30白水、丸木両夫人来り、(※省略) 和田統夫より「離婚成立し6月4日美佐子入籍できた」と。 6月24日 曇。9:00まへ出て成城。大学院にて重久にきけば「縁談の世話いらず」と。恋人でもあるならん。午後も2時間やりすませて帰宅。 (※省略) 佐伯けふも休みゐる。末松先生より(※白鳥清の)履歴書つき、くはし。(※省略) 『南方熊楠(笠井清)』よむ。(※省略) 6月25日 よべ睡眠感なし。6:00起床。末松先生に礼状。(※省略) 『南方熊楠全集』よむ。75才で萎縮腎で亡くなりし也。母、午すぎ来り、われ散髪。 15:00よりユの着付けし16:00駅へゆき私学会館。coffeeとcakeにて110。17:00前、都留、麝島2家に挨拶し、 17:10すぎより式。盃事やめ両家の挨拶、都留重人教務は明治45年生れ。夫人は木戸孝允の孫と。55才なれど30代に見ゆると。 17:30よりわれ花婿花嫁の紹介し(※省略)20:00暑がりつつ帰宅。 6月26日 5:30さむ。9:00南村裕子来り(※省略)、午すぎ佐伯へ『二十五史』もちゆき写真帖3冊と代ふ。(※省略) 眠さこらへてtelevi映画見る。 6月27日(日) 夫婦とも礼拝休む。佐伯へゆき『世界地理風俗大系1満洲(500)』買ひ来る。ユ、午后縁談で出てゆき、 われteleviを見てをれば16:00ごろ都留・麝島2家の母上と新郎新婦来り、礼(あとで10万円とわかる)とカステラ置きゆく。 彦根の河村dr.(※河村純一)の『曲肱』よみ返し、苦労少なく佳作ならざるを知る。手紙かきしも投函やめとす。(※省略) 西島寿一に電話すれば寿賀子出て「首廻らずなり会社休み整形にかかりゐる」と。 6月28日 佐伯へ寄りdoubleし本100に売り長沢規矩也博士の汽車の乗り方かきし愚本買ひ(130)登校。(※省略) 疲れて帰宅。栗山博士より受取。 前川佐美雄記念会より「7月末までに」と。参議院選挙自民低調、社会党反自民の波に乗り下りとまりらし。 浅野晃氏より「『日本浪曼派』林富士馬氏と保田とにて復刊、昨日その会あり。貴君も参加勧めよといはれし云々」「承知」と答ふ。 恰も「スマトラ記13」書き了へしばかりなりし。 6月29日 9:30ユと出て新宿三越。本棚(8,500)買ひ、服地もちゆき仕立てたのむ。(※省略) 食堂へゆき飲物あつらへ、紀伊國屋見しあと昼食きしめん(130)。 成城へゆきsemiの子らに「休み中来よ」といふ。(※省略) カリキュラム委員会 (※省略)つまらざれど一般教養なくなる故やむを得ざる也。 18:00すぎすみ帰り来る。(※省略) 6月30日 8:00さめ9:30出て斎藤先生。4週間ぶりで診察受け、癬出来ゐること申し上ぐれば薬かへたまひ、保健医辞退のこといへば2週間は続くまじと。 (※省略) 帰り新宿まで歩き高野5階で紅茶のめば200! 昼食におじや食ひ了へしところへ白水夫人来る。帝塚山短大の同窓会すと。(※省略) 木村三千子氏より『骨』39号の原稿7月末日までにかけと。宮本氏より白鳥先生の論文目録来る(不完全なり)。 『福建通志Vol.20』のむ神ひろへば人的神多し。 7月1日 曇。5:00まへさめ睡眠不足の心配し乍ら白鳥先生の年譜了へ、また福建の神拾ひ、『骨』へ「体重」200×6書きユに郵便局へもちゆかす。 けふより保健医辞退、10日頃まで解決せざるらし。 12:00出て渋谷よりbus。14:02白鳥家に着き、研究所のこと、孫さんのことなど「のせて宜し」となりしなり。 奥様に白鳥博士夫人の逝去の日などきく中「けふは郁郎逝去の日」と。アッと驚き、令嬢のことなど聞きおき玉へといひ、 「白鳥先生受洗は一昨年、霊名Josefh」と承る。 帰り宮益坂に出、玄誠堂にて『When iron gates yield (230)』、Goodrich『A short history of the Chinese people (150)』と買ひ、 紅茶のます処なきに目くらみ、駅にて森永juiceのみて帰宅。(※詩歌古書店)中村書店主人亡くなりしも未亡人やりをり。不相変高価なり。 けふ畠中哲久といふ詩人より「仮名づかひにつき注意ありがたう」と。林富士馬、今井翠、東京新聞配達所などに電話す。躁? 7月2日 雨。8:00さむ。(※省略) 13:00松野生来り、14:00までやる中、米山まち子より「新宿にあり来る」と。松野生帰りそのあと和田夫人来る。 米山生「栃木へ帰る」と也。16:00ごろ帰りゆき和田夫人のこり、われ「立原を金の詩人」とかきし高校の先生来させよといひ、 帰りゆきしあと体悪し。けふ亀井斐子夫人より『亀井全集』送ると。きのふ講談社より田中克己の「己」のことユに聞きしと也。(※省略) ことごとに望をおもふ一日ごと賢くなりし月日すごして 7月3日 曇。終日televi見てをりし故、ユに散歩にゆけといはる。新城博士より『庶民と旅の歴史』、野田又夫氏より『デカルトとその時代』賜はる。 小高根二郎氏より受取。(※省略) けふ佐伯で『日本の中の朝鮮文化(370)』買ひ、新本屋へゆけば野田博士の本とともに売りゐし。 7月4日(日) 8:00さめ夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 長島氏と喫茶。「(※慶応義塾大学)工科日吉へ移転にて忙し」と。(※省略) 澄、依子ともに電話「望つれて来よ」と。ユ、あすより泊りがけでゆくこととなる。けふも『阪本越郎全詩集』『亀井勝一郎全集10』賜はり(※省略) 7月5日 ユ11:00出てゆく。(※省略)15:00まで内閣改造と(前田正男氏またダメなりし)。飛行機墜落とのtelevi(※ばんだい号墜落事故)。 15:00本棚の底板もち来しと電話あり。(※省略) 本棚見ゐる中、底板発見されあやまりてむりに500わたす。 増田生自動車にて来しにて17:30帰りゆく。われチャーシュー麺食ひ(150)『文藝春秋』買ひ来てよむ。20:30ユより電話「あす帰る」と也。 けふ坪井より「金蘭へ話しに来よ」と。松本健次郎より漱石論と大高なつかしと。 7月6日 8:00さめ9:30出て竹森先生(Calpisもちゆく)。30年記念に本出したまふと。末日思想はモルモン教と。30して出、 亀井斐子氏に電話すれば留守。帰り来り、缶詰の炒飯ののこり食へばユ「牛乳屋の前にあり」と。 迎へにゆき船越父子に遭ふ。望歩けるやうになり物分れども云へず。小便2度して20:00ごろ寝つく。けふ〒なし。 坪井、松本、亀井夫人に信かく。(※省略) 7月7日 台風の余波の雨風時々。母来り「咲耶あさって来る」とかいひて掃除す。 望慣る(※狎れる)。(※省略) 讃岐喜八氏「石巻鉱害事業団理事長となりし」と。 7月8日 姜生へ礼状。望いよいよ悪し。咲耶夕方電話「あす来る」と。あとにてまた電話「大江叔母、脱疽にて阪大入院、カンナ付添ふ。見舞の電話せよ」と。 電話すれば出て来て「元気で入(※ママ)る」と。(※省略) 7月9日 晴。この3日間暑し。11:30咲耶、母と来る。3児の祝返しもち来り折よく美紀子より「来る」との電話に帰りゆく。 けふ矢野より「Heidelbergへゆきし」と。中央公論社より「『日本の詩歌』再版2,000部の印税送った。」と。(※省略) 7月10日 暑し。下痢つづきだるく出ても仕方なしと思ひカリキュラム委員会欠席を教務課長にいふ。けふ〒なし。「台湾の神々」書けさう也。(※省略) 7月11日(日) 礼拝休み何もせず。亀井斐子氏より長い手紙。(※省略) 16:00小林夫婦来る。宏一郎大きな目をしてをり。すし食ひ20:00ごろ帰りゆく。父上退院と也。(※省略) 7月12日 暑し。疲れてをり、わけわからず終日ねてゐし。 亀井夫人より茶の湯の雑誌来り、見るに渡辺春輔氏、俳句の評をしをり。そんな話ひとつもしなかったとハガキかく。 石田嘉子生へ「祝返し何せんか」と問ふ。(※省略) 7月13日 少し涼し。白鳥奥様へ電話し(※省略) 14:00家を出、中野よりbusにのりて宮本研究室にゆけば中川、白鳥芳郎、手塚氏とそろひをり。 350pを越す故、発起人3,000、頒価3,500とせんとなる。わが「略歴稿」を芳郎氏にわたし校正見る。 発起人の表書われも手伝ふといひ、17:30出て手塚氏とice-creamのみて帰宅。山本治雄より弁護士やりゐると。(※省略) 7月14日 10:30斎藤先生にゆけば満員。cooler寒く廊下に出て(※省略)不眠症の若夫婦をり、はじめて来診と。話してやれば喜ばる。 先生「経過よろしいですね」とてすみし。(※省略) ユに電話しマカロニ(200)と紅茶(120途中にて)採り、古本屋にて『縄文人の入墨(450)』買ひ帰宅。 『果樹園』185来り、『立原道造全集1』来る。(※省略) けふ諏訪母上よりユ宛に来し「2万円は澄に渡すな」と。21:00澄来る。望、眠りをり。 7月15日 澄10:00出てゆき19:00すぎ坂泰子叔母とともに来り「縁談たのむ」とのこと也。咲耶より「(※省略) 大江叔母手術すみ麻酔中」と。(※省略) 7月16日 きのふけふ暑さややゆるむ。(※省略) 夕立し、望の体温計れば38℃、山住dr.にゆかせれば風邪と。 7月17日 9:00望の熱下らざる故、ユ山住dr.にゆき(※省略)、夕方、マッチ、タバコ、麦茶買ひにゆく。 けふ諏訪節子氏へ悠紀子、望の発症にて疲れしとわれ手紙かく。協会の長島氏より「あす来てよきや」と。「あす教へ子あつまる故他日に」と返事す。 (※省略) 7月18日(日) 望、熱下りしもわがまま日ましにはげし。10:30咲耶来しに大江叔母の見舞託し、散髪にゆき、午食をといへど咲耶帰りゆく。 12:40、谷川(高松)、丸木、立川(川崎)宏子、阪本(山内)の4人来り、ついで吉森(藤原)夫人来る。 還暦祝に万年筆くれし外、谷川生立替へて平岡、清水と3人にて清水焼呉る。すし代叱りてとらず夕立前に帰りゆく。 望、盛んに失尿す(この間より云へばする様になりゐしをユ疲れて失念せし也)。(※省略) 7月19日 タバコ買ひに出て、佐伯にゆけば、堀博士の本、来をり5千円と。 『モンゴル帝国史3(500)』買ひ来る。『草の葉 下』も出をり。(※省略) 望、困らすゆゑ山住dr.へ19:00ゆかせれば風邪なほらずと也。(※省略) 7月20日 望わりあひおそく起きる。けふも涼し。(※省略) 佐伯へゆき堀一郎『我が國民間信仰史の研究2冊(4,800)』買ひ、岩波文庫『草の葉 下(250)』も買ひ来る。(※省略) 7月21日 朝より下痢2回。元のLevirate(※レビラト婚)を『元典章』などより書かんとして自信なくなる。(※省略) 山住dr.へゆき3日分の下痢止め剤もらふ。望も咳どめの薬もらひにゆく。 7月22日 望、元気なれどくしゃみ盛んにす。林富士馬氏より『鴛鴦行』。 Levirate昭和18年殆ど書き了へしに気づく。また「台湾の神々」とすべきか。鬱なり。 7月23日 望もうすぐ全快せん。午まへ山住閣下に電話し、 坂家よりもらひしwhiskyもち、『素馨の花』借りにゆく。橋本徳寿氏が河村軍医大尉のおかげにてもち帰りし日誌なり。(※省略) 7月24日 『素馨の花』読みづらく(※省略)、宮崎さん、赤ラベルのwhiskyもちて(※就職斡旋の礼に)来らる。月給5.4万円と。 7月25日(日) 礼拝にゆく。長島氏来ず。まっすぐ新宿にゆき合セビロの仮ヌヒしてもらふ。31日届けると。まっすぐ帰りteleviの映画見、『素馨の花』読み了る。 河村博士の力なるもシブトク、皆より好かれる人なり。(※省略) 河村純一博士へsingaporeのこと書かん。 7月26日 ユ、風邪ひどくなる。スワへ電話し「依子早く来よ」といへば午后電話あり「泰病気にて来られず」と。母来り京休み、望喜ぶ。 われ外科へゆき注射按摩放射など治療受く。「鬱なり」と医師にいふ。〒なし。(※省略) 母より電話「大江叔母喜びをり、経過良好」と。 21:00すぎ福地君(※福地邦樹)より「8月3日20:00ごろ来る」と電話。 7月27日 外科へゆきまた治療受く。動かせとのこと也。望よくなり買物につれてゆく。ユもややよくなる。(※省略) 林富士馬氏より「癌かと思ひ手術受けし」と。(※省略) 川久保電話くれ「娘の縁談旨くゆかざりし」と。坂生より「ユいかに」と。 依子より「泰40℃の熱出てをり。30日澄来る」と。 7月28日 依子に電話し「泰大切にせよ」といひ10:00出て斎藤dr.。「鬱となりし」といふ。先生台湾へゆき玉ひしと也。 月見そば(170)食ひ(文藝春秋8月号買ひ、読みて待ち時間すごす)帰れば「間違ひし薬入りをり」と薬局より電話ありし也。(※省略) 21:00近く、中野清見より電話、盛岡からより也。 7月29日 8:00ごろか硲晃(※浪華中学在職時の教へ子)夫人より「主人死にし、胃潰瘍云々、先生にだけ」と。 云ふことなく、ただちに弔辞かき5千円同封して速達することとし、家庭教師してもらひし史にも知らす。 外科へゆき「大分よくなりし」といひ帰れば、(※省略) 川久保来り、わが頬のそげしを云ふ。あと3年位で定年と也。松本(※松本善海)夫人に電話しあさって13:00以後ゆくといふ。松本わるきらし。 (※省略) 7月30日 他出せず。鬱々としてをりしに澄18:00ごろ甲府より来り、夕食もせず名古屋へ帰ると也。望、後追ひて出る。 (泰、けふも熱高しと、気をつける様いふ。) (※省略) 山前実治君「山科に転居」と。この風邪しつこく癒らず。(※省略) 7月31日 ユ、体悪く母に電話すれば大、出る。大けふまた伊豆へゆくとて母来てくれ働きしも15:00まで飯食はさず。18:00猫に飯くはすとて帰りゆく。 (※省略) 帝塚山短大5回生より「8.24クラス会す」と。(※省略) 池田温氏より「集賢院」につき抜刷。杜甫その待制なりし也。(※省略) 8月1日(日) 礼拝、聖餐式とてゆく。帰り長島氏誘ひ氷宇治吃ひ、帰りて母に炒ソバ食はしてもらひ忽ち下痢す。夜、ユの粥にてすます。 きのふ母36キロわれ37キロなりし也。(※省略) 8月2日 朝、スープとパン自ら作り、下痢す。(※省略) 母来る。ユやや軽快。(※省略) 辻芙美子より暑中見舞。 8月3日 ひきつづき暑し。(※省略) 20:30福地君(※福地邦樹)より電話あり、迎へにゆき23:00ごろまで話す。「詩集を『果樹園』あるうちに出す」と也。 8月4日 6:00さめ6:30福地君も起き来る。9:00すぎ母来り、庭の草とり、よべ外泊せし京も10:00帰宅、手伝はさる。 福地君、本・草の話ききて参考書写し14:00ごろ去りゆく。(※省略) 夜、川久保訪ひて東洋史談話会名簿返却。夕食前にて早々に帰り来る。 松本夫人ほがらかなりしと。千川より「中西博士レントゲンの中毒にて指数本切りし」と。(※省略) 8月5日 semiの2生に電話すれば不在。今市佐恵夫人より刊行取り止め承知と。末吉栄三より9.26日に「浪中12期会す、来よ」と、断る。 帝塚山5回生の会、古田恭子へもことわり。(※省略) 望つれてゆけば佐伯へ『唐話辞書類集4(2700)』来をり。(※省略) 8月6日 9:00八木沢来り、冷たいもの飲み12:00ごろ『中華全国風俗志』すまし『太平御覧』もって帰る。タバコ買ひに出て帰れば塩崎生来り、 「市谷会館で9.2式」と。「大学休んで出る」といふ。(※省略) 望つれて万年筆(3000)買ひて贈り、佐伯へ2700払ひにゆく。 澄より電話「依子、泰つれて12頃来る」と。(※省略) 椿下生よりも「中西博士指切り元気」と。 8月7日 外食せず。ずっと30℃以上の暑さつづく。(※省略) 母に電話すれば元気と。けふ「台湾の民間信仰」2~3枚かく。(※省略) 8月8日(日) 礼拝休む。連日30℃以上、けふは33℃と。小林生来り台湾のテーマつかめず迷信といふに匡して「衣食住」とせしむ。(※省略) 弓子来り、京家事やる。ユ、風邪またぶり返せしらし。(※省略) 最上ヤス子より5回生の会の出欠問ひ来る、欠といふ。 8月9日 けふも暑し。母来る。外出せざるも論文かけず。12:30八木沢生来り『太平御覧』返しに来しゆゑ『古歳時記の研究』貸す。(※省略) 望ものいひ吾儘なり。 8月10日 けふも30℃を越す。散髪し久しぶりに外科にゆく。マッサージしてもらふ。ついで注射。11:00すぎて帰宅。 (けふ富山、美濃2成城夫人に(※「わたしと田中克己」)写し送る。)『果樹園』186号と谷川真佐枝より写真来る。 弓子より還暦祝のwhite-shirt来る。 8月11日 9:00出て斎藤dr.。すいてゐしも薬もらひのみして千駄ヶ谷に出、代々木下車。東豊書店へゆけば店主簡文桂氏「渡辺卓氏1日に死にし」と。 6月末ここにて会ひ「成城やめたし」とか聞きし也。『民俗台湾』学校へと注文し、ラーメン食ひて13:30になりし故、南新宿へ出て祖師谷。 青山博士邸へゆけば夫人迎へられ、博士も42キロと。餞別おけばMelon賜ひ駅まで送らる。(※省略) 帰れば成城より前期考査の問合せ来てをり「3学科みなやらず」と答ふ。 8月12日 外出せず。暑し。澄より電話「依子、泰けふゆく」と。15:00ごろ来り、望とあそぶ。(※暑中見舞省略) 坪井明Düsseldorfより 8月13日 外出せず。暑し。ユ依子ら天沼へゆく。(※省略) 夜、電話あり「19:30来る」と山際文雄氏詩集(※『凍死と風』)の校正見す。 「naïveでよし」とほむ。英詩あり。ほめられしと。 8月14日 暑さつづく。午后、和田賀代、統夫、美佐子の3人来り、礼とて果物缶詰おきゆく。泰、皮膚科へ行き外出するなといはれしと。 『四季』来て次号塚山勇三追悼号と。わが詩あとになる。(※省略) 8月15日(日) 礼拝にゆかず。オランダ語よむ(夜までに大半よむ)大江叔父より「叔母退院、養生中、見舞金ありがたし」と。(※省略) 夕方、美紀子2児つれて来り、雅子「本買ってくれ」と。千円渡さす。ユのつくりしすし食って帰る。 8月16日 やうやく秋の日ざしなり。外出せず。「17世紀台湾の民間信仰」かけ出す。(※省略) 夜、速達にて「大自然(※社会スポーツセンター)」より「酒と私」400×4を8.31までにと。 南隅夫人より電話「クラス会は来年出席」といひ和田夫人の電話番号教へてすむ。 8月17日 涼し。ユ、依子泰望4人にて吉祥寺三鷹へ出てゆく。われ午食くひにゆくも休み多く、月見そば(80)食ひ、 佐伯へ寄れば『南方熊楠全集7(2,520)』、『イエズス会士中国書翰集2(540)』来てをり。(※省略) 吉祥寺教会より「長老、南出弘氏、心筋梗塞にて逝去。あす12:30葬儀」と。(※省略) 8月18日 けふも涼し。家居。論文42枚とし疲れしところへ小安生来り、2時間ほどsemi。「中国の主食」やることとす。 スミ子2児つれて来り、物云はぬ子どもなり。ユに1万円祝わたされ帰りゆく。 けふ硲夫人(寿子と)「膵嚢胞にて5月21日入院、1ヶ月目に手術せし。朝早くに電話し云々」と逝去の日かかず。(※省略) 沢田庭園研究所(名古屋市千種区)より白楽天につき教示あり。印刷になったら云々と。 8月19日 涼し。佐伯へ3,060もちゆき平凡社の本2冊また注文す。末松栄三より平石・園田氏とわれを招くつもり云々、級友名簿を同封す。(※省略) 依子あす帰ることとなり11:00の新幹線の切符買ひ来る。 8月20日 依子らの出発まへに外科へゆき注射2本とマッサージ、大分楽となる。ユ12:00帰り来り、13:30柳川生(北鎌倉と)台湾の冠婚葬祭のsemiに来る。 依子より望新幹線で眠らず帰名と。美紀子より「還暦祝いつか」と。「子孫は加へず」といひ、(※省略) 筑摩の東博氏より「あすの箱根の日本歌人の会にゆくや」と、「ゆけず。体重過少」を答ふ。(※省略) 角川より「ハイネ11版8,000を8月下旬に出す」と。 8月21日 よべ11:00ね4:00さむ。橋本生来り『太平御覧』よむ。昼食して帰る。あとtelevi見て鶴崎生17:00来る。関大の博士コース(※省略)夕食して帰る。 けふ母来り襦袢くれ、千草と仲直りしてほっとしたる様子也。 寿一・寿賀子夫妻29日の還暦祝に出席の様子とのことに夜、電話せしも不在。娘に伝言たのむ。 8月22日(日) 7:00さめ久しぶりに夫婦連れにて礼拝にゆく。南出長老の顔思ひ出せず。すみて帰り来りtelevi見をり。 桝田紀子より「(※「わたしと田中克己」印刷したら送れ)」と。あやまり書く。影山正治氏より『神話に学ぶ』。 8月23日 5:00にさめ8:00すぎ青山博士に「お別れに参れず、御元気にて」といふ。(※省略) 13:30橋本由美子生来り『太平御覧』の端午と三伏やりゆく。 8月24日 よべ雨。よく眠る。朝、外科へゆくマッサージ「毎日来れ」と也。(※省略) 和田夫人「クラスメート何か贈るといひしも反対せし」と。(※省略) 松野百合子来りて「支那風俗」よます。雅子より電話「ヂイチャンバアチャンの洋服買った、30日もちゆく」と。 澄より電話「泰、ノゾムにやきもちやく」と。馮應京の『月令広義』と『台北市歳時記』と合せれば祭日会ひゐるもの多し。 (昨日はメンドーサの『シナ大王国誌』見てDapperに引きゐるに気づく)。(※省略) 8月25日 涼し。斎藤dr.へゆき1月ぶりに診察受け「躁でも鬱でもなし」と申し上ぐ。11:00帰宅。昼食後、13:00外科へゆけば14:00やっとマッサージさる。 けふ相野より「岐阜の会」の出席者しらせ来り、大庭教授上信国境よりヱハガキ。澄より『唐代詩集 上』送れ、避暑にゆく云々。 8月26日 やや涼し。10:30川久保来り、悄々と弘前へ帰ると。嬢の吊書と写真とをおいてゆく。 佐伯へ『唐代詩集』のとりよせたのみ、『朝鮮歳時記(490)』かり来る。母来る。月手当とりに来し也。(※省略) 『不二』来り(※昭和二十年八月自決)十四士の最期をしるす。 けふにて還暦祝の返事すむ。14:00外科にてマッサージ。保田より『木丹木母集』来る。京、軽井沢の10日勤務了へて帰り来りヱハガキ呉る。 8月27日 10:00まへ外科へゆき12:00まで待たされマッサージのみにて帰り来る。(※省略) 近藤博子より印刷とりやめ云々。(※省略) けふ寿賀子来り、祝にnecktie-pinとnecktieとくれ、出席できずと云ふ。 8月28日 晴。暑し。12:00葛山夫人と涌井生と来る。(※省略) 福地君より「妻の家にゆきをりし」と。(※省略) 8月29日(日) 晴。暑し。礼拝休みtelevi見てをり。論文かかずイライラす。ユ新宿三越へ買物にゆく途、偶然坂生に遭ひ「見合す」とききしと。 本田喜代治先生病気につき金集めると西寛治氏。高橋重臣君「また洋行」とパリより。(※省略) 17:30母と大と来り、champan(※シャンパン)とnecktie呉る。20:30帰るところへ京帰宅。わが還暦祝なり。 8月30日 10:00外科へゆきマッサージと注射。「風呂へ入るな」と若い医師。(※省略) 花井夫人より「時計、cameraいかに」と。問ひ返せば「祝に呉るつもり」と。「岸さんにことわれ」とたのむ。 8月31日 台風のおかげで雨風。8:00すぎより岸、吉原、疋田など帝塚山在京2回生に「還暦祝」の品やめてくれといひ、了解得し様子。 美紀子にも「けふはよせ」といふ。「酒と私(200×8)」書きて『大自然』に速達しにゆく。(※省略) 14:00雅子・淳一より祝電。(※省略) 9月1日 和田夫人より電話あり、岸生と吉川(星野)夫人らどうしても祝送りつけると也。(※省略) 午まへ東豊書店に電話し『封神演義(350)』ありとのことに代々木へ買ひにゆく。あまり役に立たず。ゴンザレスの記録の引きうつしとわかる。 これまたMartin de Radaの記よりとりしと也。どうやら書けさうとなりしに18:00すぎ、美紀子2孫とあらはれ、22:00近くまでをり。 雅子泊るといひ京と入湯せしあと帰ることとなる。史夫婦・諏訪夫婦と京にて冬のJamperと3,000呉れし。taxi代1,000わたし返しせずといふ。 9月2日 10月末の季候のせいか5:00まへ覚める。9:00すぎ散髪にゆけば700に上りをり。 夏のモーニング着て11:00すぎ出、市ヶ谷会館へゆけば式まだ始まらず。12:40より披露宴。成城大学よりわれ入れて9人となる。 休講にしてきたといへば柏手さる。(※省略) 川本父上よりも礼云はれて出、15:30とて東豊書店へゆけば簡氏不在。『東周列国演義』見つからず。 佐伯に寄れば『唐代詩集 上(1,350)』来てをり。論文かけずおちつかず。(※省略) けふユ、三鷹へゆき弓子4月に2番目出産と也。(※省略) 9月3日 寒し。他出せず。ユ、朝三鷹へゆき、田上dr.にゆけば痔の療法教はり「五十肩の治療するゆゑ日曜に来させよ」と云はれしと。(※省略) 和田夫人すし1人前と菓子、ユの肩掛けなどもち来り、(※省略) 20:00ごろ帰りゆく。 9月4日 (※省略) 14:30?兼頭生あらはれ「涌井も(※「わたしと田中克己」)印刷せぬことになったと怒りゐる云々」。 小使さんによろしくといひて17:30ごろ出てゆくを見送る。(※省略) まことに人を信ずるは悲しみのもとと知り得たり。(※省略) 9月5日(日) よべねつき悪く、山住dr.の薬1ケ余分にのみ7:00さめ、早めに礼拝にゆく。ユ3:00まで不眠とてゆかず。長島氏ゐず一人にて狐うどん食ひ(130)、 三鷹へゆき氷coffeeのみ(80)、30分まちてユと田上dr.にゆき、飲物のまされてのち鍼うたれマッサージ(電気)受け14:00すみし。(※省略) 小林家へゆき弓子妊娠3ヶ月と。宏一郎大きな目をして可愛くなりをり。腹へりしと云へばすしとりくれ、(※省略) 自動車にて吉祥寺。 佐伯に寄り『中央公論 歴史と人物 創刊号(120)』買ひしあと帰宅。けふ〒なし。 9月6日 7:00さめ9:00出て登校。(※省略) 成城堂へゆき『47年度暦(95)』買ひ、本重がりて帰宅。 ユ、をらず『文藝春秋』よみをれば、菱川夫人より「ユ出し也」と電話。出て(佐伯にて『南蠻廣記2冊(1000)』買ふ。)、雲呑麺(180)食ひ、 焼き明礬(40)、蚊取線香(300)、『永生への願ひ(750)』買ひて帰宅。『果樹園』つき小高根氏の受取来り、「Heine11版8,000」との通知来る。(※省略) 9月7日 登校。田上dr.にゆく。古本屋2軒を見る。 9月8日 斎藤dr.にゆく。薬かへたまはず。coffee(120)飲みて帰宅。庄司陽子より10月4日16:00津市商工会議所で(※披露宴)と通知来りしのみ。 (※省略) 川久保夫人13:00来り「川久保と娘とで話こはす」と也。 9月9日 8:30さめ大急ぎで登校。3時間教へて疲れて帰り、ブドー酒飲みてのち田上dr.。すまして夕食。けふ鍛冶さんより「祝贈った」と。 (※省略) 夜、坂母子来り、またたのむと也。 史の結婚式の雇はれ仲人たりし村上孝太郎参議院議員逝去(52才)、野末陳平繰り上げ当選。 9月10日 ユ、class会で吉祥寺へゆく。3人電話かけ増田生13:00来ると。山住閣下に本返却にゆく。 午食雲呑(120)食ひ、13:00来りし増田教へ15:00帰りしあとtelevi。野崎その生より祝文印刷すと。ことわりの返事かく。 9月11日 9:00に覚む。南村ユウ子より11:00来ると。 来りてBruxellesよりの母の手紙わたし、London Parisにゆきしと色々話し、昼食のうどんうまがりて食ふ。Napoleon(Cognac)その他土産呉る。 televi見、18:30田上dr.にゆき胃下垂や否やレントゲンかけ大したことなしと。『文藝春秋』買ひ来てよむ。(※省略) 知念栄喜君より「講談社より保田の選集出す。はさみ込み今月中に4枚かけ」と。 9月12日(日) ユ、礼拝にゆき長島夫人と話せしと。13:00まへ柳川真名子来り14:00まで「台湾の結婚」よます。今井翠、茶とりに来る。 鍛冶美和子生よりチョッキ賜ふ。夜、長島夫人より電話「夫君来られず」と。 9月13日 鍛冶さんに礼状かき10:30登校。print2枚切る。(※省略) 18:30田上dr.にゆく。薬かへ賜ふ。佐伯に寄りしも買ふ本なし。 9月14日 登校前に午食注文す。(※省略) semiすまし(※省略)教授会16:30すみて帰れば南隅夫人Amsterdamより。(※省略) 9月15日 老人の日。9:00八木沢生来り、重陽やる。午前中来るといふ都留夫妻12:00に2分前に来り結婚式の写真と、ドイツ語とおきゆく。 午后、母に老人の日の祝にゆく。帰れば和田夫人写真おきあり、弓子入りゐる。弓子に「万年筆を夫に」と托す。和田夫人再来、(※省略) けふ『大自然』より6,000-600来り『万葉の草木花(450)』、『韓国文化史序説(100)』買ふ。涌井生より写真と「兼頭と絶交となり し」と。 (※省略) 知念栄喜君より「9月末日までに400×4」をと。note作りに23:00までかかる。 9月16日 疲れて登校。大学院「Java」で時間一杯やる。中国文学史「杜子春」よませればよめず。東洋史疲れてフラフラとすます。 どこへも寄らず帰れば京、留守番。ユ、帰り来り、(※省略) wineのみて田上dr.にゆく。『メレヨン島記(150)』買ひてよむ。 9月17日 朝、疲れとれず。ねどこで鶴夫人の為text一枚訳し、13:30松野生のsemi16:30までやる。(※省略) ユ疲れて早ねす。 夕方散歩に出、『ユリイカ伊東静雄号(390)』買ふ。 9月18日 疲れとれず9:00八木沢生来り、重陽と冬至すまし12:00帰る。佐伯にゆき『キャプテンキッド(90)』買ひ、帰れば南村ユー子来をり、 ともにtelevi見しあと漢文教へ疲る。17:00すぎ出て田上dr.にゆき斎藤dr.にかかりゐるを云ふ。左手大分楽になる。(※省略) 帰り荻窪で下車。『失楽園(500)』みつけ次の店にて『英蘭・蘭英辞典(1500)』買ふ。 けふ平凡社より『唐代詩集 上』1000部再版とて7.5万-7,500来し也。 9月19日(日) ユと礼拝にゆく。(※省略) 帰りてtelevi見、夜、都留夫人のため翻訳せしも時間足らず(きのふのオランダ語辞典まにあふ)。(※省略) 泰、望、風邪とのことに電話すれば「よくなりし。澄22日来る」と依子。きのふより京、十和田湖へとゆく。本田先生に5,000贈ることとす。 9月20日 朝、松浦薫氏より電話「吊書と写真とをもってゆく」と。ユ、田上dr.にゆき満員とて帰り来る。 われ都留真理子のため訳し日本の瘤をあざと誤訳されゐるに気づく。(※登校。)ゆきて増田生ちょっとよみ、(※省略) 帰宅、相撲見てユと入れ違ひに田上dr.にゆき『泰緬鉄道(読売刊)』よみゐるときかさる。 けふ白水夫人より手紙。NHKより大岡信氏の「李白」の酒の詩2つ朗読と。 9月21日 駅にて野口君に会ひ「4日ゆくや」ときけば「3日まで学会とてゆかず」と。ダルく、増田生、橋本生など教へてsemi。(※省略) 成城堂で『月下の一群(155)』買ひて帰宅。野上夫人より「亀井全集に汝が名のりしを見し」云々。中山八郎氏より抜刷。 夜、庄司生より電話、「出席」と答ふ。 9月22日 斎藤dr.へゆき薬もらひ、伊勢丹にて『泰緬鉄道(750)』みつけて買ひ、帰りてよむ。(※省略) 和田夫人に見合の場所のこといへば「帝国ホテル本館玄関ロビー」と。松浦家にも話してすむ。21:30澄来り「あす8:00起き」と。京けふも帰らず。 9月23日 8:00澄起き9:00出てゆく。われ散髪し帰ればユ、三鷹へゆきてをらず。出て地下鉄にて神田、山本書店へゆきしも何もなく、 高麗書林さがし「韓國의女俗(※韓國の女俗) (600)」買ひ、有楽町へゆき午食。帝国ホテル階下でちらしずし食へば850。 上りて一階ロビーで待ちをれば大月夫人ゆきよ嬢に見つけらる。そこへ和田夫人来り、(※見合 省略) 大月市用意のhyreに乗る。 薬王寺につけば和田夫人カンチガヒして松浦家まで来り、美紀子と2孫見て去る。われbusにて帰宅。疲れゐるに気づく。 (※省略) 澄早く帰り来る。 9月24日 30℃と暑し。(※省略) 澄、竹田家へと10:00出てゆく。 夕方散歩に出て買ふ本なし。佐伯にて大間知篤三氏編の愚本(※『愛情の周辺:日本人物語』か)買ふ。(※省略) 9月25日 八木沢生けふも来らず。和田夫人、黒田氏へと嫁の話もち来り、18:00までをり。田上dr.にゆけば「(※50肩に)danseせよ」と也。 9月26日(日) 礼拝にゆく途中、ユ、電気アイロン気がかりとて吉祥寺より引返す。長島夫人に遭ふ。夕方Dapperの第2部写しはじむ。(※省略) 9月27日 (※省略) 13:40橋本生来り「七夕」と「中元」すます。「あさって13:30来る」と。 17:30三鷹の田上dr.にゆけば不在。にて「明日再来」といひて帰宅。けふ天皇訪欧の旅に出発。16:00AlaskaにてNixon米大統領と会ふ。 『不二』来り、池田温氏より「講師承諾」と。夜、都留マリ子の独文訳し了ふ。 9月28日 9:30林叔父来り、還暦祝賜らんとするを「もうすぎた」と辞退す。火災保険増額には特別の書類必要と。 成城大学講師室に電話し午食に月見そばたのみ、10:30出て成城大学。 池田温氏の手紙もち山田国語主任探しまはり学生課で探しあててわたせば「そちらにもたよりあり、半年のみ」と。(※省略) 教授会 (※省略) 池田氏の講師の件通りて散会。(※省略) 羽倉啓吉氏より令嬢の展覧会の案内。和田夫人より「史の評判よし」と電話。(※省略) 9月29日 午前中「スマトラ記」かき、了りとす。橋本生来りsemiすまし田上dr.にゆく。再びレントゲンとらる。帰れば和田夫人来をり、大月家期待すと。 けふ染谷一夫氏より「『西康省』見に来たし」と。 9月30日 佐伯へ午まへゆき『文藝春秋』と桑原武夫氏の中公新書とかへ来る。けふsemiなく〒なし。知念君へ「2、3日おくれる」と電話伝言。 成城堂へ中国文学の教科書とりよせたのみ、池田氏にその旨かく。角川にハイネの印税のこと調べよと電話す。 10月1日 雨。13:00まへ松野生来り『太平御覧』よます。(※省略)われ雨中、田上dr.にゆき6日分の薬もらふ。 10月2日 8:00さめ9:00より八木沢生のsemi。11:00すぎ了りて帰る。(※省略) 林叔父より家産保険(※ママ)申込用紙。雪谷教会より新築落成につき24日祝賀の礼拝の案内。 10月3日(日) 6:00さめ「保田與重郎君の歌」200×8かき了へ郵便局にもちゆき(※講談社へ)速達す。 10:00出て11:20の光にのり名古屋。cake買ひ千種へゆく。望ことばおそく泰はおぼえをり。17:00あすの為散髪にゆく(750)。 ちらし食ひ、今夜の宿電話してもらひ、栄町の国際ホテルといふへゆく。地図わからずやっと探しあてbathに入り眠る。 10月4日 6:00さめ、出て(3000+x)また千種。朝食とり澄の出社せしあと泰の幼稚園へとゆく。われ退屈して10:30出て新栄町まで地下鉄、 あと散歩して津の地図買ひし(200)。名古屋駅地下にてやっときしめん見つけて食ひ(100)、『干支物語』といふを買ひ、 13:00まへ津新町下車。喫茶2回して雨中を歩き商工会議所。控室に田中久子ほか6~7人来り。16:00より披露宴。(※省略) 津までhyreで送られ名古屋駅泊りといふ友人たちと別れ特急にのり名古屋で20:53の光にのり帰宅24:00まへ。入浴す。 10月5日 雨。ユ、田上先生へと出てゆく(※省略)。ユ12:30帰り、14:00出て文化史専攻で待ち、(※省略) 野口氏よりタバコ入れ貰ふ。 けふ成城堂で『森鴎外(2400)』、『唐詩新選』と借る。(※省略) 帰り浅見大学院講師室の少女と同行、喫茶せしむ。詩を作る子なり。 10月6日 曇。9:00さめ斎藤dr.にゆかず。池田温氏に教科書送るなど〒多く書く。佐伯にゆき『白鳥庫吉集10』近々出るときく。 柳川生鎌倉より13:00来り16:00ごろまでゐる。母来る。そのあと北口の本屋にゆき『末摘花3冊(2800)』また買ふ。〒なし。 10月7日 9:00さむ。雨。斎藤dr.へゆけば代診なるに満員。薬のみもらひ、千駄ヶ谷に出て代々木下車。 東豊書店へゆき方豪『中国天主教史人物伝2冊(1200)』買ひて帰る。午食すみしところへ和田夫人、ゆきの嬢つれて来る。 まもなくsemiに松野生来り、そのあと角川より『中国の詩集』全10巻の李太白をかけと。平凡社のこといひてことわる。 松野生帰りしあと和田夫人らしばらくゐる。(※省略)『大自然』11月号来り、知念氏より「原稿受取った」と。 10月8日 9:00宮崎女史来り『早川孝太郎全集1』賜はる。三鷹の田上dr.にゆき3日分の薬と湿疹の薬とをもらふ。 大月氏、松浦父上に会ひたしとのことに両方の都合きき18:00パレスホテルのロビーで会ふこととなる。 松浦父上20:00ごろ会ひしと美紀子より電話、ついで大月氏より同。そのあと和田夫人「3月挙式、学士会館で」ときまりし由。(※省略) けふ午すぎ弓子母子来り、昼寐させしあと帰りゆく。 10月9日 9:00中央公論社より『写真集 日本の詩歌』に「冬海のほとりに住む」掲載許可せば5000と。八木沢生来りsemiやるうち松浦父上来り、われにカステラ、和田家へ菓子包み置く。今井翠同道、茶の袋(600)とりゆく。ユ、午まへ出、八木沢生帰りしあと、 角川の福田女史来り、ねばって筑摩の李白を採るならよしといへば泣く(※1973藤原定訳で刊行となる)。和田夫人より受取の電話。(※省略) 10月10日(日) 7:00さめ雨中、夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) うどん食べ(130×2)、busにて早川家へゆく。寒く早々出てbus停で長島氏まち、 坊やに絵本、返しに衛藤利夫『乾隆御製盛京賦』もらひ、三鷹まで歩きて帰る。夕食まへ和田夫人来り、桂林作戦譚す。 その時、大月氏来らるとのことに『文藝春秋11月号』よみをれば21:30夫婦にて来られ、礼にと菓子賜はる。松浦家とよく合ふと夫婦して笑ふ。 疲れてすぐ寝る。(※省略) 10月11日 雨。疲れてぐったりしてをれば、ユsoupのまして出てゆく。(※省略) 早めに来いといひし松野生13:00来り、 しばらくして和田夫人来り、ユが帰るまでをり。(※省略) けふ4日払込みの角川の印税6万円余の通知来る。 10月12日 雨中9:00すぎ出て田上dr.。帰りて待てば12:00近く旧姓庄司、母とともに来り、松阪肉呉る。我の祝辞旨かりしと也。 13:00に乗るとて上がらずに帰りゆく。佐伯へゆけば鴎外全集2,500で30冊?出ると。(※省略) 『林則徐』買ひてゆるゆる成城大。 図書館にて白鳥先生の会の住所7人つかまへる。16:00より大本ほか1名の卒論審査。(※省略) 18:00散会。けふ小安生に遭ひ『詩経』貸す。 10月13日 八木沢生来り午食してゆく。立教宮本研究室へ速達(85)し、佐伯にて『東大紛争』買ひ来てよむ。(※省略) 吉祥寺教会より竹森先生(※竹森満佐一)『ハイデルベルク信仰問答講解説教(1200)』を11.23教会牧会30年記念として出版と。 今中19期生会より来年のクラス会のアンケート、「石川先生、越智威男君逝去」と。 10月14日 10:30出て田上dr.。寒く小雨。先生早々に片付けたまひ、阿佐谷に12:00つき昼食す。 金沢より電話かかりし故、かけ直せば「大阪の今中19期生会に出ぬか」と「出ず」と答ふ。来年大阪で午~夕食までのクラス会やれと返事出せし所なり。 13:00柳川生来り、台湾の結婚と生育とよます。(※省略) 前川佐美雄歌碑に金200万円以上集りしと。保田と我とはともに5千円、堤操氏の拠出金見当らず。 18日間の旅了へ天皇帰国。ドイツでもHirohitlerと云はれしと。 10月15日 久しぶりに晴。13:30橋本生来り17:00すぎまでsemi。(※省略) 10月16日 晴。11:00田上dr.にゆけば待ち人あり11:30あきらめて帰宅。『四季』来る「塚山勇三追悼」なれど淋し。小安生来り「五穀考」よみ、本貸す。 その帰りゆきし(16:30)あと田上dr.にゆき。簡単に鍼すむ。『騎馬』といふ本について訊ねらる。新刊と也。(※省略) 10月17日(日) 7:00さめ1人で礼拝。竹森先生門司へゆかれしと也。まっすぐ帰り待てば13:00まへ、花井、桝田、道下、和田4夫人来り、 三治夫人途わからずユ、迎へにゆく。2児つれをり。15:30までゐて写真とり(南隅夫人へよせがき)帰りゆく。 その間、宮崎さんより伊藤佐喜雄死ときき、やがて中谷孝雄氏より「今夜自宅で通夜」ときき、 19:00三鷹駅で待合せと定め、3,000御花料につつみ、18:40北口でまてば宮崎さん来り、歩き乍ら20分ほどして見つかる。 夫人に挨拶し死顔見せらる。『潮』?への連載小説かき、保田に出版たのむと也。 一男あり、外にゐし自動車にのせてもらひ宮崎さんと吉祥寺まで同行せしもこれにて別れ帰宅。葬儀に国立の大宣寺で火曜13:00と也。 10月18日 (※省略) 西川より電話、伊藤佐喜雄のこといふ。午すぎ出るまへに大江叔母より「退院、100mほど歩けるやうになりし千草のところしらせ」と。 西寛治氏より「5,000の受取。70万円を本田先生に差上げし」と。1時間東洋文化史教へ疲れはなはだし。帰宅。一服して三鷹。 本屋見しあと田上dr.にゆき左手だいぶん上るやうになりしを喜ぶ。(※省略) 10月19日 登校。(※省略) print『諸羅縣志』の葬儀の箇所切る。semiすませ下書き見せよといひ来宅日定めさす。(※省略) 了りてまっすぐ帰宅。(※省略) 10月20日 斎藤dr.。先生外より帰らるところ見しも薬のみ貰ふ。帰り東豊書店へゆけば6月の大学院にと買ひし本未払ひ(5万円)と。 朝鮮民俗関係一そろひとも一つ注文し帰宅。ユ同窓会へゆき京、昼食さす。小安生来り、角川書店の福田女史来る。「1月までに鑑賞かけ」と也。 (※省略) 小安生すませれば17:00となる。(※省略) 10月21日 8:30出て登校。(※省略) 東豊書店より本来りょり。(※省略) 帰りて田上dr.。(※省略) 松浦父上より23、24のどちらかに大月家訪ねユキノ嬢に会ひたしと。和田夫人に電話せしも即答なし。 10月22日 晴。9:00起き、(※省略) 14:00増田生来り17:00まで「巳」のsemi。「太平広記」をよまさる。 ユ、痔手術の為入院ときめ、依子に電話し向ふもよろよろときく。(※省略) 10月23日 9:00斎藤生来りはじめて漢文よます。(※省略) 13:00斎藤生とともに出て雲呑くふ(150!)。帰りて待つ中、(※省略) 恰もユ帰り、火曜、痔の手術に入院のつもりと。浅野dr.(※浅野建夫)にゆけば森良雄、脳軟化症にて夫人よりほか見分けつかずなりゐると。 (※省略) けふ田中正平博士碑落成式を11月3日にと。出欠問ひ来る。麥書房より『八木重吉』来り、1000なり! 10月24日(日) 7:00さめ礼拝にゆかず。14:30よりの森田先生の雪ケ谷教会落成式にゆくつもりで(※省略) 疲れてゆけずなる。(※省略) 10月25日 登校は昼食後。箕輪生に遭ひしも笑ふのみ。(※省略) 帰りて増田生のため「太平広記」よむ。斎藤生19:00来るといひしとて急ぎて田上dr.。 電気鍼にてだいぶん左手あがるやうになりしと云ひ、帰りて夕食。ユ下剤きかず、斎藤生を21:00すぎ送り出し、22:00すぎ京帰る。(※省略) 10月26日 朝、雨。10:00までゐしもユ用意できず2万円もらひて登校。print切り昼食し、(※省略) 早く出て帰宅。 末吉より「11月2日浪中12期生の会す。田中先生への記念品料を」と(※印刷に)あるに気をわるくす。汝ら貪る勿れとなり。 小泉外科へゆけば母、柏井尚子来てくれをり。「今夜は母付添ふ。あすは京泊らせよ」と也。礼いひて出、雲呑(150)食べて帰宅。(※省略) 10月27日 9:00京とともに小泉外科。母を起さざりしと。婦長に2千円包み、京のこして帰り散髪。中村屋で買ひし焼売ひるめしとし、13:00まへ京帰りしも午食いらずといひしところへ松野生来り「中華全国風俗志」の昏姻よます。17:00帰りゆきしあと斎藤生に電話(※省略)。 京の夕食すませしところへ。斎藤生「けふは来ず」と。田上dr.へ19:00まへゆき鍼うっていただく。(※省略) 中野書店に寄れば『コギト』10号(1,000)あり。店主おぼえをり。大の『メドウサの首(50)』と『ラバウルの落日(200)』と買ひて帰れば京をり。 「泊り要らずと婦長いひし」と也。けふ大江叔母より「退院祝ひ諏訪へも送った」と。夜、電話すれば望泣きをり。 10月28日 7:00さめ京にsoup作ってもらひ、9:00前出て(※省略)9:30登校。大学院鐘のなるまでやり、昼食後、短大にゆけば富永次郎氏追悼文の〆切と。 (※省略) 帰りて桝田(疋田)夫人の見舞状と天野忠氏の詩抄「人嫌いの歌抄」と。(※省略) 小泉外科へゆく。(※省略) 大江叔母より史・弓子への退院祝返しと同封してわれあてのをあけ見れば西陣織に茶掛けの歌かきあり! 佐伯で『タイ族(1450)』買ふ。 10月29日 7:00さめ京にあとたのみ、登校。2時間目の史学研究法、50名中、出席者30名余。説教し、了へて昼食すれば2生よまし、 16:30池田温氏登学をまち、山田教授に案内たのみ、またよまされ、17:30となりて来りし山田氏と待つうち、池田氏帰り来りし故、案内してわが家。 小林夫婦来をり、ユを見舞ひしと。Napoleon出せしに池田氏は飲まず、すし出しAlexandria(※マスカット)出して21:00送り出す。母とまる。 Alexandriaは昨日笠原さんにもらひ、ユにもちゆかせしが帰り来し也。(山田氏Melon賜ふ。) 10月30日 母ゆふべ泊り9:00すぎ美紀子に電話かけ「冷たし」と。すぐ美紀子より電話「水曜に来る」とのこととなる。 9:30八木沢生来り、途中televi映画見17:00までゐる。田上dr.にゆき4日分の薬もらふ。 けふNHKより李白の朗読料(3,200-320)2,880来る。(※省略) 中村真一郎編の訳詩集(※あかね書房『世界名詩集』)来る。わがハイネの訳ちょっと採る。(※省略) 10月31日(日) 7:00さめ、友達の披露宴にと京出てゆきしあと、ねまきその他もち小泉外科へゆく。ユ経過宜しきらし。借りし蒲団返す。(※省略) 駅前にゆき佐伯で『性神探訪(300)』と『鴉片戦争の研究(1800)』と買ひ、雲呑(150)食べて14:00までtelevi見てゐれば斎藤生来り、美紀子来る。 京に道ききて小泉外科へゆきしあと、史、淳一をつれて来り、途うろおぼえにきき小泉外科へゆき、途わからずと電話し来りしも結局わからず。 高円寺で美紀子と待合せ帰りし也。。 11月1日 9:00橋本生来り、12:30までやり、共に雲呑(150)食ひにゆき、(山住閣下、玄関まで大鹿卓『松の実』もち来たまひ、そのまま帰らる) 帰りて14:00すぎに来りし小林生に「台湾の食物」のtextよむ。17:00了り、午買ひし蜜柑もちて小泉外科。隣の2児の母癌なりしと。 (松浦家へ電話すれば、きのふ史と病院玄関で遭ひ、ユの枕もとへゆきしと也。) 出て飯屋。(※省略) 帰りて山住閣下に電話すれば「入浴するゆゑ来るな」と。(※省略) 11月2日 晴。9:00すぎ八木沢生来りsemi。京休みとて昼飯出す。帰りしあと郵便局へ2,880とりにゆき、小安生来るをまち読みしも疲れしか旨くゆかず。 (※省略) 坂泰子生18:00すぎ来り「見合考へる」と。新入社員斡旋を学生課にたのむと也。京の作りしライスカレー食ふ。 ユの見舞に来し西島寿賀子、蜜柑食ひ、京の案内にて2人出てゆく。われ疲れをり。(※省略) 11月3日 斎藤dr.へゆけば休診。婦長さんより薬もらひ、高円寺で下車。都丸支店で『大陸遠望(2000)』を見せらる。 『支那の自然と文化(30)』、『ふるさとの祭(170)』を買ふ。小泉外科へゆけば「坂生、左官屋と交際」となり。母来ると聞き、帰りて(※省略) 13:00青山博士来られ各地のお土産と聖心の定年とをきく。14:00柳川生来しゆゑ、博士帰りたまひしあと17:00まで教へ、 北鎌倉まで帰るとのことに雲呑食はせ、帰れば19:00斎藤生来り、21:00まで朝鮮の婚礼すまし『喪礼備要』ちょっとよます。疲れたり。 11月4日 7:00起き、(※省略) 角川の福田女史より電話「来て相談きかん」と返答せしところへ増田生来り、(※省略) 福田女史来り、 「土曜あけおく」といひ、福田女史に案しめし12:05になりし故「新京」へゆき思ひ出話し別る。 佐伯へちょっと寄り『東西文明の交流2』出しときき、帰りて鈴木夫人「(※省略)還暦祝に何買はん」と。「ユ退院のあとお越し、祝はいらず」といふ。 そこへ来し松野生、右下りの汚き原稿見せしゆゑ叱り、父三菱商事の部長ときく。疲れて16:30帰ってもらひ、出て田上dr.。 坊ちゃんにも会ひ、方々に鍼打たれ、やや元気出て小泉外科。ユ「あす退院ならず。坂生より電話ありしや」と。「なし」といひ、 いつもの飯屋にていつもの飯くひ(190)帰りて(※省略)、やがて美紀子より電話かかり「退院の世話承知」と。(※省略) 11月5日 ごみ出し8:10家を出て阿佐谷駅前郵便局にゆけば、1人の老翁椅子もち出してかける。(※省略) 成城郵便局通れば20人ほど並びをり。 600枚7円の年賀はがき買ひ10:20より史学研究法の2時間目やる。われ乍ら毒舌多く躁なりと思ふ。すまして午食食ひ、print切り、 まっすぐ帰宅すれば三治夫人より礼状。(※省略) (※同姓同名の)田中克己博士より「立野保男よりの便来りをり、心当たりありや」と、「あり」と答ふ。精神病なりしを云ふらし。 和田夫人より「雪野嬢、泰彦君に悩まされしときき笑ふ。『果樹園』189来り「スマトラ記」了る。 堀博士より「大学院の漢文・独語の試験問題を月曜にもち来れ」と。 11月6日 増田生来り(9:30)、字よくかけをり。斎藤かよ子3年生つれ来る。ザビエルと海老沢有道と貸し12:30増田生すむ。 14:00まへ母、美紀子、ユをつれ帰り来る。(きけば泰彦、毒舌にてふらると)。16:30までをり、夕食の仕度して帰りゆく。 古野博士古稀記念1口3,000と。(※省略) 11月7日(日) 8:00さめ礼拝に出、吉祥寺駅前でcoffeeのみてゆく。帰り途、竹内夫人に会ふ。伊藤佐喜雄の葬式に竹内出しらしかし。 帰りて大学院の試験問題、漢文はよけれどドイツ語に困る。20:30すます。(※省略) 11月8日 9:00大学院の試験問題もちて登校。(※省略) 山際文雄君の詩集(※『凍死と風』)来り、『日本浪曼派』のreprint、3.9万との広告くる。12月の気候にて田上dr.にゆかず。 11月9日 けふも寒し。semiに3人来り、(※省略) 教授会 (※省略) 帰宅。寒ければ田上dr.さぼり石油stoveいれて暖し。 旧かな新かなまじりし『骨』39来る。(※省略) 岩井大慧博士逝去と新聞。 11月10日 11:00出て田上dr.。朝食食べらるとて待ち、注射もしていただく。けふは暖し。12:00すぎ佐伯へ寄れば『白鳥庫吉全集10(2,700)』来てをり。 次は20日発売の『鴎外全集』なり。13:45小安生来り、ユの心配する中を18:30までゐる。 弓子あさ京に迎へに来さし、宏一郎大きな眼をし「ウマウマ」を云ひ、笑ふ。 坂生来り、ユと話し夕食のあと話してゆく(ユ、話ききて世話やめしと也)。 善一郎迎へに来しは21:30、入れ違ひに澄来り、望もの云ふやうになりしと。(※省略) 11月11日 9:00出て登校。よべ睡眠感なけれど大学院入試とて仕方なし。堀博士とかはるがはる監督す。12:20すみて採点。(※省略) 15:00となりて退去。帰りみちにて旧姓山野井に追い付かる。 澄10:30までをり。午后来ると思ひユ、外出せざりしと。「ゆっくりせよ」といひのこし田上dr.。脳天に鍼ささる。 帰れば山野井生帰るとのことにユ、色々物やり送りゆく。 田中克己博士より転送されしは(※東大阪)上小坂の精神病院にゐるといふ立野保男の論文集(※『社会科学方法論研究』)にて、 弟利夫(※ペンネーム磯花佐知男)は呉で戦死と。(※治安維持法で検挙服役の後、)終戦後復職し再発病せしと也。(※省略) 11月12日 9:00出て佐伯に『白鳥全集』の払(2700)すまし登校。2時限の史学研究法すませれば女生ばかりsemiをと来る。 午食のあと来よといへば9人来り、初めて来し白仁よう子「中国の舞踊」やりたしといふに断れば泣く。(※省略) 「中国の医薬」なら引受るといへばまた泣く。(※省略)帰宅。斎藤生19:00来り21:00まで漢籍の韓の民俗写させ訳す。(※省略) 佐伯にて『唐話辞書類集(2700)』、『天工開物(650×9)』、『香港台湾いい店うまい店(200)』買ふ。 11月13日 9:30斎藤生来り12:30までsemi。ユ三鷹より帰り昼食中、松野生来り、下書の写しのみなるをいへば泣く。 16:30までゆり帰りしあと、田上dr.へゆけば閉めあり小林へゆき自動車にのせてもらひ帰宅。(※省略) 11月14日(日) 8:00すぎ覚め夫婦とも礼拝にゆかず。午后和田夫人来るといふに川久保来り、令嬢話なしとて悄然としたり。東洋史談話会へとゆく。 その間、和田夫人来りユと永き話しゆく。疲れたり。立野保男へたよりかく。あす見舞金(2,000)いれて出すこととす。 けふ渋谷あたりでdemo、(※省略) 11月15日 8:00さめ9:00まへ田上dr.に(※省略)。土曜は「トインビーの会」に出たまひしと也。10:00すぎ帰れば斎藤生来り12:00までsemi。 13:20登校。東洋文化史教へ、17:00との約束に急ぎ帰れば八木沢来り、下書き直してまたtextよむ。20:00帰りゆく。 週刊誌買へば三島由紀夫記念祭。発起人に浅野、小高根、影山、齋藤晌、林富士馬、保田の名あり。平林たい子まで名を連ねをり。(※省略) 11月16日 10:00登校。(※省略) カリキュラム委員会に出、「semiを各教員にもたせよ」といふに「基礎学科をしっかりやらせろ、漢文特に必要」といふ。 16:30すみて帰宅。大月夫妻見えて雪野嬢「とてもついてゆけぬ」といふゆゑ解消をと。(※省略) 川久保、丁度電話かけて来しゆゑ、ゆきて「土日休みに家へお越し」と嬢にいふ。 11月17日 9:00まへ出て地下鉄にて斎藤dr.。久しぶりに(※斎藤茂太院長に)お目にかかり「五十肩は」ときかる。 千駄ヶ谷に出て三鷹に直行。13:00まへに田上dr.にゆき鍼してもらひ尻の腫物に薬つけていただく。 14:20柳川生来り、直ししtextよむ。16:00帰りゆく。けふ「23日竹森先生の出版記念会」と吉祥寺教会より。 11月18日 9:00まへ出て登校。3時間すまし斎藤生に遭ふ。「日曜午后来る」と也。(※省略) 帰りて夕食すまさぬ中、小林洋子生来り、下書きさせtext21:00すぎまでよます。(※省略) 11月19日 9:00まへ出て成城。史学研究法すまし成績わたす。堀、新城semi多く民俗学少きらし。われに男子二人来ると也。 自動車で来し松野生待たし月曜のprint切る。(※省略) 松野生、環七に出て家へ来り15:00までに直しよんでやり章節作ってやる。 夕食して田上dr.、4日分薬たまふ。すみて浅野建夫にゆき、奧さんより椎茸と柿ともらひ帰宅。 11月20日 晴。寒し。ユと2人、西友百貨店にゆき3万円の冬服三つ揃ひの修理たのむ。13:30小安生来り、(※省略)17:00帰りゆく。 けふ三治夫人よりDjakartaへ帰ると挨拶ありし。田中克己博士に礼状かき、出さず。 11月21日(日) ユ、礼拝にゆく。われ床上げねてをらず。川久保令嬢より「来る」と。林叔父来り箱根の土産など賜ふ。川久保令嬢来り16:00まで話してゆく。 われ切手買ひに出て帰り、夕食せしあと19:00斎藤生来り、直しを正しなどして20:30帰りゆく。(※省略) 11月22日 9:30小林生来り11:30までsemi、母来りしをおきて出、print切る。(※省略) 帰らんとすれば高橋邦太郎氏に遭ふ。73才になりたまひしと。『成城文芸』の掲載誌とりに来たまひしと。(※省略) 帰れば母「大の貧乏に、この家へ来りたし」と也しと。(※省略) 駒井和愛博士逝去66才と。冬服出来上る(3万円)。 11月23日 角川の福田女史よりの速達にて起さる(中国詩集編集方針きまらずと)。11:00すぎまでtelevi映画見て散髪。すみて帰宅。 佐伯へ寄り、新調の服着て教会、30周年(竹森先生の教会) の感謝なり。すみて竹森先生、森田先生に挨拶して帰宅。(※省略) 松本健次郎より「漱石は狂人ならず」と。けふ頒けられし本3冊は竹森門下の記念論文集なりし(1200×3)。 11月24日 晴。9:30までに来ざる橋本生に電話すれば「今からゆくと」。11:00来しに書き方教へ、 母来て、ユに「大と別れず、庭向かひの小家かりたし」といひしと。その帰りしあと柏井へ歯直しにゆく。(※省略)帰りみち尚子に逢ふ。 けふ『日本浪曼派』『文藝文化』の復刻せし雄松堂の榊原氏より挨拶状来る。 『不二』に中河与一氏と仲直りしたきらし(※影山正治の)文のる! (※省略) 11月25日 大学院で慶応の気賀経済学部長(※気賀健三)と会ふ。40分早くすませ昼食。栗山氏「三島忌にゆかず」と。 どうやら来年もsemi6~7人らし。ただし男生2人あり。「中国文学史」「東洋史」すませ帰り、佐伯に寄れば『鴎外全集1(2,000)』来てをり。 (※省略) けふ山野井生26才の嬢つれて和田夫人にたのみにゆきしと。下書き多くもち帰り21:30までよむ。(※省略) 11月26日 登校。L2Dで出席とり、semi問へば堀semi多く10人以上、次がわがsemiにて男2女5?、大藤、鎌田、野口、新城の4氏少くなりたり。 3人に本貸し、(※省略) けふ駒井和愛博士の葬儀に大藤、鎌田、堀の3氏ゆくとなり。東豊書店により『台日大辞典(7000)』借り一旦帰宅。、 (※省略) 荻窪までbus、田上dr.に17:00かっきりにゆけば先客あり。子供来り先に診察させ、 18:30そこそこに帰りて夕食するところへ小林生来り『台日大辞典』ひきてよくわかりしも忽ち21:00すぎし故帰宅せしむ。(※省略) 11月27日 家居。8:00さめ9:30橋本生来り、すすまず「2~4月とせん」と。午の映画見しあと斎藤生来り、下調べすむ(誤字脱字は山ほどするも恬然たり)。 ついでtelevi見しあと松野生の誤字だらけの大部の下書、大半直し腹立つ。あす、お幸伯母の21回忌を寺でやり、そのあと会食と也。 11月28日(日) ユ、礼拝にゆく。われ下書の直しをしてすごす。『果樹園』にと「老齢」かく。 11:30松浦夫妻、美紀子と2孫つれて来り、ユ帰るまでをり。あすHawaiiへゆくと。(※省略) 小林生へ電話かけ「18:00来よ」といひ、 佐伯へ『鴎外全集(チクマ版)』8冊もちゆき古本市ときく。13:30根津会館にゆけば皆をり。勇喜一夫人と娘夫婦とをり。 88才の老教授と71才の日歯事務嫗と話す。北園克衛(※日本歯科大学に)まだゐる。林教授はなくなられしと也。 16:00ちかくすみ、古本市を見、佐伯、青木の2氏と挨拶。(※省略) 小林生来しに雑煮食ひ『台日大辞典』よりindex作りしを与ふ。「あす17:00来る」と也。 11月29日 田上dr.にゆき、よべ眠れざりしを云ふ。帰りて生垣を切り疲る。1万円もちて出(下書の直しすまし)成城にて『果樹園』に送り、(※省略) あはてて帰りしに小林生まだ来ず。(※省略) 小林生来り、下よみすむ。「檨」はマンゴーと教ふ。 11月30日 下書の直しして昼食後、教授会のため登校。すみて野口、新城、鎌田と4人にて「semi3年よりやる」ことときまる。 帰りて斎藤生呼び下書の不正確咎めしに案の通り泣き出し18:30より22:00すぎまで居る。 けふ立野保男君より「物贈った。利夫の婦(池沢(※池沢茂)の妹)再婚」と。(※省略) 12月1日 よべ、たびたび目ざめ山住dr.の薬2回のむ。10:00ごろ柳川生来り16:00までよませ、ネをあげて「土曜を」といふ。 佐伯に寄れば『南方全集』4回来りをり。田上dr.にゆけば待合室に夫人、おはぎ賜はる。すみて帰り(※省略) 12月2日 元気なく登校。大学院を30分早くすませ昼食の時、中河与一論、栗山博士す。(※省略) 帰ればユをらず、火をおこし17:00まへユ帰りしにすぐ斎藤生来る。(※省略) 12月3日 よべも眠れず。ふらふらとゆきL3Dに史学研究法の講義ほどほどにすまし、昼食の時、専攻の会すといふに、 12:30野口君を除く5人集まり、民俗学大藤氏はじめ反対してsemi3年よりの案もちこしとなる。 浅賀副手「今年で辞職」と。新城主任に申出で、鎌田氏にきけば「意中の人あり40才」と。 ふらふらと帰り、17:00まへ田上dr.にゆく。(※省略) 八木沢来り22:30よみすみし。「水曜18:00再来」といひて帰る。(※省略) 12月4日 24:00眠り5:00まへ覚む。10:00すぎ柳川生来り16:00すぎ帰る。柏井へゆけば16:00までと。直してくれ「水曜来よ」と。 夜、鈴木敬子夫人より「あす14:00三人で来る」と。久しぶりにゲーリークーパー見る。休まんが為なり。 12月5日(日) 礼拝に夫婦でゆく。televi見てをれば鈴木(山本)敬子、増田(明渡)淑江、小松崎(油谷)歯科医夫人3人にて果物もち来り、(※省略) 斎藤生来り『四礼備要』の著者きく。(※省略) 12月6日 小林生10:00ごろ来り11:30まで直さす。生あくびたびたび出る。12:00すぎ出て印刷屋にて賀状570枚(3500)受取り、登校。 麝島、増田2生教へL2Dの東洋文化史すます。(※省略) 佐伯にて『英西・西英辞典(200)』買ふ。(※省略) 小高根二郎氏より「元市夫人癌にて入院」とのハガキ見る。(※省略) 朔太郎の会報見れば萩原家は阿波の出とあり。(ユ、本多家へゆきて聞けば庭向ふの空き家かさずと。早速母に云へば「家探せ」と也。)(※省略) 12月7日 起きて10:00ごろ田上dr.。帰りて昼食、登校。(※省略) 箕輪生を学長室に訪ね、美しくなりをるを見る。(※省略) カリキュラム委員会 (※省略) 名古屋より電話「泰、(※脱腸の)手術すみし」と也。(※省略) 12月8日 柏井へゆく。月曜、入歯出来ると。佐伯も休みにてnote4冊買って帰宅。(※省略) 白鳥先生の発起人64名と。 宮本教授に電話すれば「学習院の名簿古かりし」と。「年末会して相談せん」といふ。八木沢来り、下書すむ。 12月9日 9:30登校。(※省略)小林生来り下書直させし也。(※省略) 佐伯にて『江戸小咄集2冊(1100)』。けさ寒く冬over着はじむ。 12月10日 寒し。きのふより冬外套きる。(※省略)東豊書店へゆき『台日大辞典』の代払はんとせしに、 平凡社の池田氏(※池田敏雄)をり、黄氏鳳姿の夫にてわが家にも来しと。 『水滸伝120回本』、『北平風俗類徴(2000)』、『常用中草药(薬)手冊(1200)』買ひて帰宅。(※省略) 『不二』来り、来年度援助を、と。(母来り、大も関西放送と打ち合わせの為、西下と。) 田上dr.にゆき(※省略)帰宅。 佐伯に寄り『陽気なニッポン人(120)』買ふ。中央公論社より『日本の詩歌』増版にて29376三井銀行に入れしと。 酒屋にてJohny Walkerの赤(5000)を注文す。(※省略) 12月11日 一度さめ9:00さめ橋本生来りし時、朝食中。 福田女史より電話、11:00来り「(※角川『中国の詩集』)註なしにする。いまより鈴木亨にゆく。訳者みな詩人」と。 午食してゆく。橋本生も一度来て「4月の行事」かくと也。 12月12日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。帰り佐伯にて『テモテ前後書・テトス書(100)』買ふ。(※省略) Emil Jannings,「嘆きの天使(※1930年独映画)」の再映見る。 12月13日 10:00出て成城。都留夫人に漢文よまさる。増田生あとがき見せ批評す。(※省略) (けふ不二歌道会へ3千円贈り、古野博士記念会に6千円出す) (※省略) 帰りて柏井へゆき下の入歯新しく出来しをはめ、busにて荻窪。田上dr.にゆく。帰れば弓子夫婦帰りしあと。(※省略) 下歯1本ぬけまたやり直しとなる。鈴木夫人留守に来しとおきがきありし故、電話すれば還暦祝にtransister radio買ひしと也! けふ頼永祥氏よりChristmas-card。角川より羊羹!(※省略) 八尋不二氏より『京の酒』。佐伯にて『騎馬民族史1(540)』と金いること多し。 12月14日 斎藤生9:00来りニコニコして帰りゆく。11:00柳川生来り13:00ともに出る。学校でまた増田生らにつかまり教授会に14:20ゆけば(※省略) 職員規定46年より65才。ただし大学院の専任は70才と。(※省略) 帰り駅前にて橋本生に会ふ。(※省略) けふ鈴木敬子けふ自転車にてtransister radio還暦祝にもち来り、山本陽子、谷端慶子、辻芙美子、家治阿津子、松本由子、増田(明渡)、赤松真千子、小松崎(油谷)と鈴木敬子の9人の贈物なりと。電話で礼いふ。。 12月15日 whiskyもちて斎藤dr.。「7月に少し鬱なりし」と記されをり。4週間分の薬いただき帰りて13:00に来し橋本生教ふ。(※省略) 16:00田上dr.に「チェリー20箱」もちゆく。患者ややにふえる様子なり。帰れば角川よりHeine新12版8,000部と。 福田女史に電話すれば欠勤と。けふ賀状アイウ書く。(※省略) けふ澄より電話「泰、退院、休園さす。望スワ母上になつく」と。 12月16日 9:30登校。大学院教へ、reportのこといひ、午食し、3~4時間すませば八木、大庭2氏をり語学漫談す。(※省略) 12月17日 9:30登校。L2Dに「わが家(町)の歴史」を課す。(※省略) 折から角川の次長、福田氏と来り、訳見本を見す。誤訳指摘し「あとまはしならやる」といひて帰らす。(※省略) 帰りて母に会ひ、河野への5千円お花代と渡し、京の母へのbonus3千円もわたし、よい機嫌なりし。(※省略) 夜、4Dの田中康来り、田中久夫氏の古文書よます。 12月18日 暖し。賀状かく。13:00すぎ小林生来り、結論かく間に散髪。代金もちゆくを忘れ、帰れば美紀子、和田夫人来をり。(※省略) 帰りゆきしあとまた賀状かく。亀岡の山田静雄といふ人より保田蓮田コギト日本浪曼派ののこりあらば譲れと。「なし」と答ふ。 夜、戸田謙介氏へwhiskyもちゆく。あす駒井博士邸へゆき中川君と追悼号の相談すと也。 12月19日(日) 7:30起き9:40教会。Christmas礼拝とてうしろ立つを知る。小児洗礼1人、受洗3名。齋藤齋氏、麻布学園の騒動にて憤慨す。(※省略) (献金6000)、帰りてtelevi見、賀状ほぼすみし。 12月20日 10:00登校。みな提出せし。13:00校門にてsemi写真。別れて14:30まで待ち、われ8冊、大藤氏6冊など副査わける。 帰りて田村春雄の『たわごと』受取る。帰れば笠原氏の令息来り蟹たまふ。ゆっくり話せといへば「自動車またせをり」と帰りゆく。(※省略) 12月21日 11:00田上dr.にゆく。4日分の薬たまふ。帰り佐伯のぞきしも『鴎外全集』その他なにも来てをらず。 14:00まへ立教宮本研究室へゆき180枚案内せしに応64枚、返答なし100枚と。も一度催促せんか。発起人再募せんかとなり、後者となる。 中川教授おくれて来り殆ど発言せず。手塚氏と出れば中川君「のみませんか」と「busにのる」といひて逃げる。(※省略) 12月22日 午前中に賀状すみ、白鳥先生奥様へ「15:00参る」と申上げ、12:30夫婦にて出、西武渋谷店の京の職場のぞき毛布(5000)買ひてお宅へ参れば、 先生ややよくなりをらる。石田博士、桑田博士などの見舞ありしらし。(※省略) 帰り新宿までbus、ユと別れ高円寺の古本屋見て帰る。(※省略) 12月23日 午前中、駅前郵便局へ切手買ひにゆき、佐伯へ寄れば『鴎外全集』未着。住所録(400)とインク(40)と買ひて帰宅。栗山博士より受取。(※省略) まさこ・じゅんいちよりChristmas-card。 12月24日 寒し。午后佐伯へゆきしも『鴎外全集2』まだ来らずと。(※省略) Eveの礼拝にゆくつもりなりしも歯痛みやめとすれば小倉夫人来ると電話。 ユ、道教へて教会へゆく。20:30までをり詩集とリンゴ1ケもちて帰る。伊藤佐喜雄未亡人より会葬の礼来をり。 12月25日 歯痛み5:00さむ。9:00出て柏井へゆき治療受け、茶をもち帰る。(※省略) 『東洋学報』来り、1600会費未納と。 12月26日(日) 礼拝夫婦ともゆかず。televi見て日を送る。(※省略) 不二歌道会より受取来る。 12月27日 10:00すぎ出て田上dr.、2日分の薬たまふ。佐伯に寄りしも『鴎外全集2』未着。帰りて昼食すませれば雨降り来り、 花井たづ子、姉をつれて来り『日本浪曼派研究(1000)』賜ふ。その直前『保田選集2(われ挿み込みに書く)』来り、浪曼派classといひ夕食せしむ。 習志野市に住むと也。(※省略) 角川よりハイネ新12版8,000部の検印証来る。 12月28日 北風吹きて寒し。busにのりて柏井へゆき「あとは来年」と。歩きて帰り佐伯に寄れば『鴎外全集2(2000×0.9)』来をり。 無為にてゐるうち、昨日外泊せし京帰り22:00近く松浦父より電話「泰彦(※省略)婚約ととのひ1月7日結納入れる。媒妁つとめよ」と。 今井翠に電話し「神式仏式ならダメとの伝言を」といふ。 12月29日 朝、また松浦薫氏より電話(※省略)、翠よりの伝言にて式のことも承知と。10:30出て田上dr.、今年最後とて6日分の薬たまふ。 佐伯に『鴎外全集』の金払ひ、宮崎音弥『天才(80)』買ふ。われは概ね躁の天才なるらし。(※省略) 12月30日 朝、「年末感慨」をかき果樹園社に送る。佐伯へ寄れば「今年中、本来ず」と。午后televi。 池上未亡人来り、われ公平参謀夫人とまちがへて昇天を祝す。(※省略) 『不二』来り「キリスト教批判特集号」なり。失笑。 (朝、埜中清市氏の歌集速達にて来りしに覚む。『くれなゐ』発行してわれに書かし、いま『白珠』同人「特輯号に1月まで6枚かけ」と也。) 小倉夫人21:00すぎオセチもち来る。八木生「井上生とあす13:00来る」と。 12月31日 やや暖し。(※省略) 13:00井上生より電話かかりし故、迎へにゆけば北口に八木生とをり。つれ帰り聞けば、井上生は双葉より短大に入りしと。 (※省略) 八木生は小野勝利「燕京歳時記」もちゐると。岩波文庫と『北平風俗類徴』と貸し、16:00ごろcake置きて帰りゆく。 (けふ葉雅美生に電話せしに母出て不在と。姉片付きしと也。李錦順生に電話すればアメリカより帰りをり「つとめてゐる。5日午后来てハングルよんで呉る」と也。) 夜、依子に電話すれば2孫とも元気と。「10日ごろ澄について来よ」といひやる。年越しそばにとろろ入れて食へば旨し。 田中克己日記 1972 【昭和47年】    この年の出来事 1月19日 亀井勝一郎夫人を訪ふ。 1月29日 小山正孝『詩集 山の奥』寄贈に来訪。 2月3日 北園克衛より電話。 2月4日 帰還兵横井庄一の話題。 2月7日 日仏会館で萩原朔太郎研究会。萩原葉子、神保光太郎、伊藤信吉、大岡信ほか。 2月26日 ホテルグランドパレスで中村地平の会。神保光太郎、井伏鱒二、亀井夫人、宇野千代ほか。 4月17日 川端康成自殺。 4月29日 長尾良死去し、夫人を見舞ふ。遺稿集に協力する。 5月21日 古本屋で鶴岡善久『太平洋戦争下の詩と思想』の刊行を知る(「田中克己論」あり)。 5月28日 台湾より楊雲萍氏、羽田経由時に会うことを得ず。 6月2日 賀代嫗死去。 6月10日 お茶の水で与謝野寛・晶子の会。野田宇太郎、小堀杏奴、深尾須磨子ほか。 6月 躁甚しく、家族・学生、被害被る。 6月18日 竹内好訪問。 6月28日 大東塾の行動につき警察が影山正治について訊きに来る。 7月2日 学生の噂で「成城大学のNo.1先生」を中西進と聞く。 8月~9月 鬱に転ず。 9月5日 浅野晃より『浪曼』への執筆依頼。 9月11日 東豊書店で李君奭訳『李白』(※田中克己著『李白』の海賊版)もらふ。 9月24日 教会よりドイツの讃美歌を訳すよう依頼される。 10月10日 『浪曼』創刊。 10月26日 阿佐ヶ谷自宅を登記。 12月5日 新城教授に代り4月より学部主任教授となること決まる。 昭和47年 1月 1日~昭和47年10月24日 25.2cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 9:00さめ、雑煮の前に賀状412枚来る。(※省略)ユも腰痛なり。 筒井護郎(※浪速中学校教へ子、戦中交遊頻繁)、住吉区長となりしと也!泰の賀状に笑ふ。 1月2日(日) 8:00まへ起され、パン焼きひとりで礼拝にゆく。(※省略) 16:00善一郎、弓子、宏一郎来り、ついで美紀子、淳一、マサ子来り、夕食して帰る。(※省略) 1月3日 晴。(※省略) 『果樹園191』来る。ユの風邪ややよくなりしらし。 荒元邦保、広島より電話かけ来り「成城変りなしや。殴ってよくなる生徒と悪くなるとあり」と。ユをも電話口に引出す。 15:00すぎ白仁よう子来り、ややして小倉夫人来る。(※省略) 久谷元子氏に電話すれば未来派の詩人にて北川冬彦にいはれて詩集贈りしと也。 (※省略)松浦泰彦君より「9日の結納は学士会館にてし、あと昼食せん。キリスト教は不可か」と。「不可なり。宣誓式にせよ」といふ。 西島寿一に電話すれば廃されをり。(※省略) 1月4日 5:30さめて下痢つづく。(※省略) 大聖博美生を呼べば自動車。(※省略)「世界の女性・日本の女性をよめ」と本貸す。(※省略) 賀代嫗来り「船越(※章)、本ふへゐる」と。(※省略) 京、外泊にゆく。 1月5日 雨。傘もちて三鷹の田上dr.にゆく。(※省略) 賀状また来りし中に松本善海夫人より「入院中、心配いらず」と。喜びて夕方川久保(※悌郎)に電話せしも無人。(※省略) 池田温氏より「来年は(※出講)ダメ。田仲氏(中国戯曲史専攻)にたのべばいかに」と。山田俊雄氏にその旨通ふ。(※省略) 19:00すぎ丹波(※鴻一郎)より電話かかり「白鳥先生の発起人承知、磯部が文学部長なり。いって見ん。競馬やりをり。短大の教授になりたし」 と。 (※省略) 1月6日 (※省略) 丸(※丸三郎)にゆけば(※省略) 森良雄、本位田、関口の話し、伊藤佐喜雄のことなどいひして、 重俊(※子息)呼び「副手になる気あれば鎌田女史に推薦す」といふ。加古の発掘了り土方仕事に疲れたと也。帰り小松崎歯科に寄り(※省略) 14:00佐藤達夫氏に案内され2生来り、勉強すると也(阿部生は馬術クラブ、山本生は教職とると)。本貸し、脅かして帰りしあと賀状すみ、(※省略) 「今井まで車で来た。歩いて伺ふ」と泰彦・正子現はる。21:30までわが話きき、笑ひつつ帰る。(※省略) 何事も旨くゆき感謝。 1月7日 田上dr.へとゆく。寒し。(※省略) 13:00山際文雄氏より電話、「来い」といへば「午食して」と。小林・柳川2生の来る寸前来り新作の詩見す。「出版記念会の計画なし」と。 箕輪尚子生来りしを機に帰りゆく。(※省略) 3人帰りしあとけさ借りし佐伯(※古書店)へ『中河与一研究』『諸君2冊』その他の代2,900払ひにゆく。 母より電話「帰京、泰、大きくなりし」と。豊田博士よりport-wine賜りしゆゑ「美智子嬢おめでたか」と問へば「まだ話なし、たのむ」と也。 松本夫人に電話すれば「肺炎にて入院、死なざりしも床ずれと衰弱にてシンセンマヒの薬はしをらず云々」、 川久保民子に電話すれば「父上京中」と。松本のこと伝へよといふ。(※省略) 1月8日 卒論4冊もちて成城へ和服トンビでゆき、残り5冊もち帰ることとし、李錦順生のオモニに電話し「ゆきて宜しきや」「宜し」となり、 成城堂にて本3冊買ひ、(※省略) 上がれば李生もをり、英晤会話と出てゆく。 オモニ、ちゃんとよんでくれるを筆記し12:00となりし故出れば(※省略) 14:30、李、葉雅美、深谷多鶴子来り、(※省略) 帰りしあと躁甚しく、川久保に電話すれば「今夜父子づれにて(※松本善海を)訪問」と。寿一に電話すれば嬢出て「夫婦にて外出」と。(※省略) 金沢に電話すれば嬢出て「父、宴会にゆきをり」と。「年寄りの冷や水とめよ」といひ(※省略)そこへ金沢酔ひし声にて電話あり「すぐゆく」とい ひ、 ゆけば夫人オスローにをり三女世話しをると。(※省略)21:00すぎ近道教へられて帰宅。 けふ埜中清市氏より執筆お礼。織田喜久子女史より曾祖父淡路守長裕と。武鑑しらべしになく柳本の分家ならんと(※返事に)書く。(※省略) 1月9日(日) 夫婦とも教会にゆかず。川久保家訪ぬれば無人。散髪して帰れば母をり「卜ひ(うらなひ)したら今引越は禁物」と。 16:30出て学士会館へ17:03に着き (※結納 省略) 帰れば弓子母子来てをり、(※省略) 1月10日 岡部長章の電話にて起され、出れば「酔ってゐて失礼した。白鳥先生の発起人承知」と。(※省略) 坂生より電話「米山家出した。来てゐずや」と。「他人のこといふよりわが事話せ。夕食前に来よ」といひ、(※省略) 角川書店より電話「この間は福田が失礼」と。「何いふか、もはや書かず。誤訳すれば投書す」と電話切る。 花井夫人より「鴎外全集けふしめ切、なぜ買はねばならぬか云々」、坂生、夕食中に来り、話すうちもはや6ヶ月になり手にぎられしと。 21:00になり送り返しかたがたタバコ買ひにゆく。(※省略) 1月11日 5:30さめ、8:15小松崎夫人に電話かけ「診察ありや」と問へば「あり」と。卒論1冊と健康保険証もちて受付の夫人に200わたす。(※省略) 2本歯ぬかれ「明日も来よ」といはれ、出て魚屋まで来し時、卒論包み忘れしに気づきあはてて引返せば傘置き場にあり。(※省略) (※成城大学)12:05すぎゆき、山田氏に池田氏のハガキ見せ「誤字かかぬやうせん」といひ、月見そばあつらへしに来ず。 14:00すぎより学科の会。われ2年に中国古典語学必修、野口君4年に古野博士の代りに教ふることとし、中国史断ることとす。(※省略) けふ講談社より1万円-1,000来る。 1月12日 斎藤先生(※斎藤茂太)へ雨中ゆき「躁なり」と申上げ3週間分の薬もらひ、 千駄ヶ谷に出て代々木の東豊書店にゆき、朝食せざりしゆゑラーメンとってもらふ処へ、 波多野太郎博士来り「(※成城大学の)漢文の先生に時間ありや」と問へば「あり」と。32,180の本を注文し、 帰りて庄田より3月11日結婚ときき出席答へしあと、(※省略) 小松崎歯科へゆけば「明日も1本抜く」と。(※省略) 坂生より「米山生帰宅した。」(※省略) 山本書店に『北京案内記』見つけ、たのめば「明日返事す」と。 1月13日 殺されしゆめ見て5:30覚め、睡眠不足のまま雨中卒論3冊もちて登校。 大学院にて重久生に正しき字教へよといへば「簡略化をたどる日本語に逆行」と。「しからば不完全なる字にてreportかけ」といひてすまし、 昼食後、午后の2時間講義す。(※省略) 帰宅。宇田良子より詩集。齋藤晌氏より未亡人の歌集来てをり。(※省略) 1月14日 朝、宮本馨太郎氏に電話し4人発起人となりしといふ。原田先生の序文いただけしと也。8:30出て成城大学。重久生に会へば頭下げる。 (※省略) 松田実生NHKの八戸局のproducerと。中野清見に会へとすすむ。(※省略) 帰りて(※省略) 田上dr.、すみて古本屋にて漫画雑誌買ひ、おかみを大笑ひそして帰宅。 (東豊書店、本もち来り、角川より『Heine』11版の(96,528-9,652)86,876来る。 1月15日 雨。2:30さめ眠剤のみて7:30さめ、朝食して12:00すぎまで眠る。ユ、見合の付添にと出てゆく。われtelevi見、16:00出てゆ けばユに遭ふ。 北口にて『中国列女伝(100)』買ひ田中克己といふ。また北にゆき『琵琶湖(100)』買ひ佐伯に寄り『下着の文化史(100)』買ふ。(※省略) 1月16日(日) 礼拝にユ出てゆき、われ丸に祝3千円もちゆけば荷の出るところ。由美子ごきげんよく三島の製薬会社社員に21日嫁すると也。 重俊降りて来しゆゑ「火曜午ごろ成城へ来い。新城博士に会はす」といふ。煦美子も顔見す。出て古本屋まはり(※省略)、 12:30ユ帰り14:00笹淵夫人みつの葬儀と。ゆくことにして(※省略)7年前の癌の再発にて本人は招天をしらずと也。紅松夫人をり紅松をらず。 17:00すみて外に出れば紅松夫妻をり。尿催して早々に帰り佐伯により帰宅すれば17:00。津留夫人来り、誤字訂正。母まちをりと喜びて帰りゆく。 その間、美紀子より「兄20:00ゆく」と電話。(※省略) やはりわれを仲人としキリスト教にてやると也。 前川佐美雄氏の歌集『白木黒木』、植村武氏の歌集『青波』来る。 1月17日 12:00すぎ出て成城大学。L2Dで私語やめぬ子叱り、けふで終講としらさる。 山田俊雄氏に波多野太郎博士を「中国文学」の後任にてはいかにといへば、兄忠雄氏と知合と。所しらせと也。 出て野田宇太郎氏に会へば「16年勤めしも止める」と。Echoにつれゆき茶のませて送別とす。少し元気なかりし。(※省略) 1月18日 (※省略) 9:30の急行にて成城大学。(※省略) 12:00丸重俊来り、新城主任に会はせ大藤・鎌田にも会はせてすみ、 14:00の教授会に10分おくれてゆく。「20年間教授をし功績あれば名誉教授とす」との理事会決定にみな苦笑す。(※省略) 丸重俊の副手の件につき大藤・鎌田猛烈に反対し、われ親友の息子と名指しされ、新城主任のはからひにて2週間見習させてのちのこととなる。 20:00帰宅。(※省略) 丸重俊に電話し「すぐ来い」といひ、2週間見習の件説明し、土曜妹の披露すみてのちとなり、新城博士にその旨電話す。 羽田(※羽田明)より「外遊中なりし。白鳥先生の件承知」と。山川京子女史より「(※亡夫山川弘至の戦歿地)台湾へゆきし」と。 1月19日 よべ21:00に寝て1:30に起き、ユを起して問答す。9:00出て田上dr.にゆく途、佐伯にて『心療内科(90)』買ふ。 田上dr.歯痛にて眠れざりしとなり、憮然として宏一郎見にゆく。可愛くなりをり。妹婿に紹介さる。 吉祥寺まで歩く中、亀井(※亀井勝一郎)夫人に寄れば喜びて招ぜられ、茶を供さる。『日本浪曼派』の話をし癌の話をし(初孫3日に生れしと。太宰 の死因は精薄の子を生みしため、淀野隆三夫人は財産ひとりじめにせしと流言ありと。亀井氏『文学界』に入るまへに『日本浪曼派』つぶれしと。) 駅まで送られて帰ればユまだ帰らず。黒田夫人来りしと入れちがひに帰り、(※省略) 宮本馨太郎氏に電話し、副手嬢に連絡とらせよといひ、 かかり来しに(※白鳥先生の発起人)羽田(※羽田明)・榎(※榎一雄)・丹波(※丹波鴻一郎)・岡部(※岡部長章)・石田正憲・平塚敬一に礼状をといふ。 佐伯にて『東西文明の交流2』受取り『世界都市大観(200)』買ひ来る。(※省略) 1月20日 よべ斎藤先生の珠1ケ飲み8:00までぐっすり眠り、佐伯に1,600×0.9の払ひして登校。高田瑞穂氏に『日本浪曼派(※復刻版)』贈る。 (※省略) 山田俊雄教授より「池田温氏の後任推薦の田仲氏採る」とのことに了解といひ、波多野太郎に電話すれば不在。 「いづれ手紙にてわびるが」といひ今年度講師依頼とりやめとす。(※省略) 1月21日 早くさめ9:00出て成城へゆき(※省略) 14:00出て(※省略)16:00すぎ小松崎先生にゆき歯ぬかれ(※省略)帰宅。 20:00ごろ和田夫人、志波嬢つれて来り「クロちゃんに斡旋を」と也。「白百合出し」と。 植村武氏より『夜光珠』のこと。 1月22日 5:00さめ卒論の訂正をす。10:00すぎ南村裕子久しぶりに来り、(※省略)昼食し帰りゆく。(※省略) 田上dr.(※省略)鍼してもらひ腕の上るところを見す。dr.も喜ばる。 帰り中野書店にゆきひやかして出れば主人あとを追ひて2月1日~6日の大古書市の目録呉る。『西康省』8,500とあり。 佐伯に寄り『七娘媽生(2,500)』と『台湾宗教と迷信陋習(6,500)』ととってくれと頼み『中国漢方医学概論』と『文字と文化史2版』とを借り来る。 躁なり。19:00東豊書店簡木桂君来りし故、32,180払ひNapoleon飲ます。明日は難物の横書き卒論の訂正に充てることとす。 1月23日(日) ユ、礼拝にゆかず。われ山崎生の写しのみなる卒論の誤字訂正に半日すごし、花井タヅ子が3児をつれて来るに会ふ。「花井博士、金土日と大阪へゆく」と也。 その帰りしあと山崎生。(※省略) 大相撲、平幕栃東が優勝。 1月24日 8:00ユを起し急いで登校。(※省略) 17:00すみて帰りぎはまた山崎生の卒論もち訂正つづけ半ばすむ。(白鳥芳郎氏、Thaiより「2月末帰国」と。) 1月25日 7:00起き9:30成城、丸重俊けふも来てをり。わがsemiみなダメ。 17:00すみて帰れば、頼永承氏、羽田より電話「家族連れにてHarvard大学にゆく」とユききし。(※省略) 中村地平を偲ぶ会2.26 17:00より九段下Hotel Grand Palaceにて会費3千円と。発起人に井伏鱒二あり。 18:00小松崎歯科にゆき20:00近く帰宅。「明日も来よ」と也。 1月26日 よべよく眠り9:00出て成城。茶のみ面接すまし判定に入り、わがsemi小安、小林が優、橋本を可とす。堀博士に恨まる。山崎生良となる。 小松は大学院を放棄すと也。新城博士、史料の不備と教育下手とをいふ。鎌田「国会図書館にゆかせよ」といひ、われも反撥す。 波多野博士より『漢郷現存雑劇研究 第2篇』賜はる。浪中12期生会カフスボタン呉れしらしく送り状来る。 1月27日 傘もちて小松崎dr.にゆく。「土曜に義歯出来る」と。13:00橋本由美子生来りしゆゑp分かかせる。森三千代氏恰も来り吉祥寺教会をほむ。 その帰りしあと田上dr.にゆき、いよいよ好調、4日分の薬賜ふ。三鷹駅前で『カリマンタン紀行(50)』買ふ。 この2日間、Guam島で生きてゐし横井軍曹の話でもちきりなり。 織田喜久子氏より信長の七男信高の子孫と。弘化4年の武鑑に淡路守長裕みえ、表高家2千石糀町に屋敷ありしとしらべて返答す。 けふ小林生より電話「も一人の優は小安ならん」といひあてる。 1月28日 8:00ごろさむ。白鳥先生の初校来り、午后佐伯へゆき『第3の眼(130)』(※省略) (※中学教師時代)浪中12回生より還暦祝にカフス釦来りしゆゑ、末吉(※末吉栄三)に「篤志者の名をしらしてくれ」とハガキかく。 1月29日 (※省略)8:00さめ9:30小松崎歯科にゆく。「水曜に来よ。義歯出来」と。白鳥先生のため『古事記』さがしに高円寺に出、新本屋あたかも開きしを見れば岩波文庫の改版(150)あり原文を付す。うれしくなり古本屋を廻りしもみな店を開けず。 帰れば南村裕子来てをり、漢文ちょっとやり歌うたふ。午食し、ともに出て西友dept.5階にて中央公論社の『日本歌謡曲集(680)』買ひ与ふ。 『ぶらい編集部』より「詩呉れ、稿料なし」と。 televi映画見てをれば小山正孝君来り、1万8千円の150部限定の詩集(※『山の奥)』)の105番呉る。相変らず無神経なり(※記番のこと)。 『果樹園』の原稿休むこととし、白鳥先生の校正やっと半ば出来上る。 1月30日(日) 8:00さめ白鳥先生の校正、ユに手伝はせしも出来上がりしは杉並郵便局のしまりしあと。手塚氏に電話してわび云ひ明日開局と同時に送ることとす。 (※省略) 佐伯へゆき『沖縄の習俗と信仰』と『中国通信』と『文芸春秋2月号』と借り来る。 花井夫人より「博士日本リースに転じ、大阪へは金土日とゆく」と泣く。母上上京中とのことに「話せ。子供のこと思へ」といふ。(※省略) 木俣さち子生に電話して「来よ」といへば「12日にでも中野へ稽古の帰り来る」と。あとにて木俣修氏の娘なることわかる。 マルレネ・ディートリヒの「情婦」を夫婦して見て面白がる。『果樹園』に詩書きあす送ることとす。 1月31日 5:00起き、眠がりながら9:00すぎ郵便局へゆき(※省略)、佐伯に寄り、帰り来り、早昼たべて成城へ登校。 堀博士にWestermarckやFrazerの本、柳田文庫になしときく。(※省略) 帰りてwineのみ田上dr.。便秘の薬もらひて帰宅。 2月1日 5:00さめ8:00出て成城。訂正の指導し「一生忘れねば宜し」といひ小教授会に出、(※省略)20分休みて教授会(※省略) 楊雲萍氏(本名友濂と)厳父敦謨翁87才にて逝去の航空便来り、簡木桂氏に相談し「弔電宜しからん」とのこととなる。(※省略) 2月2日 7:00起され9:30登校。(※省略)午、鎌田女史と話しゐて(※教え子の縁談周旋につき)感心さる。(※省略) 成城堂で『間違いだらけの漢文』など4冊買ふ。(※省略) 小松崎歯科にゆき6人まつ間に吉田実『中国』ほとんど詁み了る。 松浦泰彦より「牧師さんたのむ」と美紀子の電話ありし旨。 2月3日 とんび着ず田上dr.。4日分の薬もらひ尿検査、異状なしと。郵便局に行列するは札幌Olympicの記念切手か。 11:00東豊書店へゆき、弔電の打ち方教はり、ラーメン食ふとてユに電話すれば北園克衛氏より電話ありと。 「のちほど電話せん。番号きけ」といひ、(※省略) 佐伯にて『法顕伝(450)』、東豊書店にて『中国豆腐(320)』買ふ。 2月4日 9:30成城大学。丸重俊廊下で立ってをり、浅香と英文の副手と来り研究室あく。(※省略) 帰りて小松崎歯科にゆく。 横井軍曹の話televiに出る。「戦陣訓」をおぼえゐしなり。 2月5日 9:00出て散髪。帰ればまもなく南村来る。午食して帰る。(※省略) 丸重俊来り、一応相生へ帰る。副手も一年やりたしと也。 ユの帰りしをまち荻窪の電信局へゆき楊友濂(雲萍)先生あて 「カミノ ミモトニ チチウエノ メサレマシタ コトヲ ハルカニ カンシヤシ イノリオリマス タナカ カツミ」 と打てば明日着ならば972円と。楊さんの吊状忘れて帰れば「とりのけをく」と電話。 2月6日(日) 夫婦づれにて礼拝。聖餐式あり。すみて(※省略) 荻窪下車。電信局へゆけば忘れし訃聞状返さる。歩きて阿佐谷。 (※省略) 2月7日 雪積りをり。9:30出て竹森先生(※牧師)。仲人として式に困惑すといへば「一度花嫁花聟にキリスト教の話きかせよ」と。 喜びて帰り、松浦に電話すれば武田姉出て伝へると。織田喜久子氏より「系図のこと『西康省』出して見た」と。(※省略) 宏一郎慣れて可愛くなりをり。 17:00出て日仏会館へ17:30つけば葉子さん(※萩原葉子)外套ぬがせて呉る。神保来り前にまはりて覗きゆく。 伊藤信吉「保田が最後の先生」と。「木俣修のところに白秋あての朔太郎の手紙120通あり」と。 浅見女史来ざるにより大岡信君の話はじまりし処にて退席。(※萩原朔太郎研究会) coffeeのみて帰れば善一郎君迎へに来てをり。(※省略) 2月8日 小松崎歯科にゆく。(※省略) 美紀子に電話すれば「兄ら承知」と。日曜礼拝に渡辺正子と2人でくるらし。(※省略) 2月9日 山住dr.の薬追加にのみ8:00すぎさめ、11:00田上dr.。 帰り荻窪で下車。『文芸春秋50周年記念号(180)』など買ひ歩きもどる。(※省略) 2月10日 鼻風邪1服にてなほり11:00出て佐伯へ払ひし成城。(※省略) 2月11日(休) 寒し。家居。『辞海』の植物名採る。夜、高橋重臣君より電話「あす午前中来る」と。 2月12日 やや暖し。南村裕子来り「一時退学ときめし」とユに云ひしと。 恰も15年後最後の審判来る派の痩せし女人来りしをあげし処へ、高橋重臣君来り『大陸遠望』等にsignさせられスグキ呉る。 林富士馬にゆくとのことに送りかたがた出れば佐伯で『渕上毛銭詩集』など買ひゆく。(※省略) 昨日と同じく『辞海』のnote採る。浅野晃氏より『岡倉天心』賜はり佐伯古本市で『七娘媽生(2,500)』とりくれし。 (※省略) 2月13日(日) 8:00さめ9:00家を出て吉祥寺駅で来し松浦泰彦、渡辺正子の2人をつれて礼拝にゆく。 すみて竹森先生に紹介すれば「金曜20:00にお宅へ伺ふ」ときまる。(※省略) けふにて札幌Olympic終りとなる。寿賀子より電話(※省略)。 2月14日 暖し。(※省略)11:30昼食して登校。卒業生の採点呈出。 13:00より16:45まで延々とつづくcunning問題に「処罰」側にくみし25:15で勝つ。(※省略)すみてまた正教授会。(※省略) 小高根二郎氏より「不二君受験するやもしれず」と。 2月15日 手塚氏よりの白鳥先生の校正速達にて覚む。寿一君よりの(※省略)速達も来をり。 田上dr.へゆき湿疹の手当うけ4回分の薬賜はる。(※省略) 高円寺をひと廻りして小松崎歯科。(※省略)帰宅。 校正、夜すむ。手塚氏にその旨報告。 2月16日 8:00さめ(京、よべより赤倉へskiiにゆく)、斎藤dr.にゆけば閑散矣。(※省略)千駄ヶ谷より東洋文庫。Frazerと Westermarck借り出せしも白鳥先生の引用pageに見つからず。 Ogilby借らんとすれば午休みと。ラーメン食べてOgilby写しDapperとちがひあるらし。 疲れて出、代々木まで乗り東豊書店にて『聖書(2,000)』のほか5千円余り借りて帰宅。(※省略) 賀代嫗「1.5万の22回目受取った。入院するかも」と。 2月17日 家居。『辞海』の植物名採り林夫人の修士論文よむ。(※省略) 母来り「明日の一興夫妻の年忌に出る」と。 午后高円寺に散歩に出る。『伊東静雄全集』来りし故、小高根二郎君に「立野利男の戦死、誤ならずや」とハガキ。(※省略) 2月18日 ユ風邪とてわれ一人荻窪駅で母まち9:50来しと乗れば寿賀子来り、境で乗りかへ多摩墓地。 一興叔父の叔母の墓のうらにZorge尾崎秀実の墓あり。(※省略) 2月19日 8:00さめ成城へゆき総務部より特別入学の用紙もらふ。(※省略) 花井夫人来り「寝室ともにす」とのことに先づ安心。 (※省略) 田上dr.にゆく。2日分の薬賜ふ。(※省略) 2月20日(日) ユ、礼拝にゆく。われ校正しをれば南村裕子来り、漢文教へ、coffeeのまし午食すると帰りゆく。(※省略) 『辞海』の植物写しに疲れる。19:00すぎ弓子母子をつれて善一郎君来り、茶のみて帰りゆく。 2月21日 弓子母子泊る。(※省略) 午まへ白鳥先生の校正出しにゆき佐伯に寄れば『唐話辞書類集(3,200×9=2,880)』来をり。 帰れば笠原dr.夫妻来り速達入違ひと。比島に軍医としてありしと也。札幌Olympic記念の貨幣賜ふ。 寒き中、三鷹の田上dr.にゆけば「五十肩なほりし」と。湿疹の手当のみしたまふ。 2月22日 8:00さめ9:00出て成城。修士の卒論面接最初より最後までつきあふ。 『今週の日本』社より「前野直彬氏の本の批判せよ」と。引き受け「本送れ」といふ。(※省略) けふ見しに文芸志望24人を越えをり。(※省略) 2月23日 よべ睡眠感なし。粉雪降り速達で来し白鳥先生の校正見る。 熊本の野島和利氏?より「来てよきか」と電話あり、来しと話せばユ、うどんとりて呉れる。 写真とりたし録音したし、字かいてもらひたしと云ふをみな拒み、雪の中を送り出す。校正すみ『辞海』の植物名かきぬき了る。 5日間軽井沢の山荘に学生籠り勇戦す。人質の山番の妻の生存か否か依然不明なり。(※あさま山荘事件) (※省略) 前野直彬氏『唐代の詩人達』を速達にて『今週の日本』社、元淵満雄氏より「書評400×2.5」を3月末までに書けとなり。 2月24日 6:00さめ8:30小松崎歯科。(※省略) 入歯していただく。出て帰宅。 11:00すぎ出て5千円もち佐伯へ寄れば『鴎外全集』第4回来てをり。合計4,900払ひ立教へ12:30つき、芳郎君来るとのことに喜ぶ。 手塚氏おそくなり来りしと苦心いひ、芳郎君text見てくれることとなり、われは頌寿記念会の刊行の辞かくこととなる。 山本達郎氏にも発起人の件たのむこととなる。鬱々として帰れば前田正男夫人をり『文芸春秋』の上林氏は夫人の親類と。 ユと長々と話しをりしと。笠原氏の件あまり心配いらずと也。 帰りたまひしあと寿一のとりし写真と、庄田生の案内と見、「3月11日名古屋の披露承知」と返事かく。 2月25日 6:00さめ9:30成城へゆき編入試験場のぞけば一杯をり。(※省略) 総務部長に笠原氏の書類とどけにゆき、 教授会開ければ及落会議もめ、午近くまで議論沸騰。12:45午の休憩となる。(※省略) すみて丸副手の件「使ひにくし、1年だけ」となり、鬱々と成城堂に払ひし(2,000余り)、思案しつつ高円寺下車。 帰宅。『骨』来しのみ。けふ寒し。軽井沢の籠城一週間となる。20:30丸家へ電話すれば煦美子出て「みな留守」と。 (新城博士「使ひにくし」とのことなりし。われ鬱なれば返答に困る)あとにて丸より礼の電話あり(※省略) 2月26日 雪降る。7:30さめ鬱のきかけしところへ笠原夫人200万円預けると来る。断りて午すぎ帰りしあと、 ユと中村地平の会いやといひ、中野清見より「3.16会ひたし」といふハガキ見、 16:00すぎ出てホテルグランドパレスへ17:00つく。(※中村地平の会) 神保、井伏、亀井夫人、宇野千代など来る。われ松村一雄先生を月原とまちがへしをはじめ、ヘマつづき、色々の人の話のあと、マレーの地平さん話さんとし支離滅裂となり絶句すれば上原君そこにて、と止めに来、あと鬱々として帰宅。 ((※西島)大の友、伊馬鵜平氏、心配気に名乗り握手して呉る。) 2月27日(日) 5:00ごろ覚め6:30床をはなれ、いやいや登校。3時間当りをり。 午食の時、栗山博士(※栗山理一)「よべ小高根二郎君より電話、むすこ文芸に受験、マスコミ志望」と。 「特別入学のこと話したか」「話さず」と。ついで午后また監督。 上原君に「ゆふべは」ですまし、こらへつつすまして帰る途、中野で電車とまりし故、 丸宅へゆき「重俊のことまかせよ。1年間でかたづけん」といふ。帰り立小便して古本屋に寄り帰宅。 躁か鬱かわからず。山住閣下より「餘暇」もらひしとのことに電話で礼いへば「会ひたし」と。「近日参上」と申上ぐ。 2月28日 よべよく眠り7:00さむ。急ぎて登校。経済学部の入試監督。(※省略) 高田教授相手に中村地平氏のこといひてつかへ下りし。帰りまた喫茶。高円寺下車。 帰宅すれば軽井沢の赤軍派5人、最後まで人質ならびに人数わからず警官2人を射殺し、人質とともに18:00すぎ逮捕さる。 中野清見に「16日会ふ」と返事かく。 2月29日 晴。10:00小高根二郎氏に同人費2,500と令息指定寄附の手ありとかき速達。 田上dr.にゆきnewroseの手当してもらひ2日分の薬もらひて帰宅の途、 佐伯に寄り『続古今奇観(800)』借り『大東亜神話(350)』買って帰る。 渋谷の東急本店といふを探しまはり会場にゆけば入口にまちしといふ6人先づ来り、小林斎藤おくれて来る。 松野生われにガスライター、ユに手提げ呉る。 日本料理すみ2次会にcoffeeのみにと云へば松野skiiにゆくと小安生と去る。喫茶後、別れて帰宅。20:30。 3月1日 9:00さめ10:00すぎ斎藤dr.。12:00まで待ち「この間の戦友の会以来鬱」と申上げれば「他人は余り気にするな」と。 茂吉忌には出たまはざりしと。東豊書店に寄れば「教科書まだ来ず」と。「着いたらしらせ」といひ帰宅。 3月2日 9:00さめ今年のsemiに次々に電話すれば皆留守。一人在宅なれど来る気なく落胆す。ユまた縁談にて出てゆき、 美紀子「新築落成、雛祭りに来よ」と。(※省略) 沢田四郎作博士の『追憶』6×200かく。 3月3日 8:00さめ9:30登校。成績提出し第一次及落会。(※省略) 栗山氏に「小高根君に指定寄附のこといはんか」といへば「サアね」と也。(※省略) 和田統夫より「賀代嫗、癌にてだめ」と。可憐!(※省略) 3月4日 9:00さめ10:00すぎ来りしは大聖博美。(※省略) 阿部良助より電話(※省略) 2人帰りしあと13:00山住正己閣下に電話してゆき『楊貴妃(※謡曲)』全部聞かしてもらふ。途中たまらず小用に立つ。 (※省略) 16:00菱川夫人岡部嬢をつれ来り夕食になべ焼うどん食ひゆく。 小高根太郎夫人に電話すれば「不二の留京を二郎君あまり喜ばず」と。安心。 3月5日(日) 8:00起され礼拝にゆく。泰彦・正子の来るを待ち5分前に来しと着席。すみて竹森先生につれゆけば「司会承知」と。 喜びてうどん食ひにゆき「教会関係はわれにまかせよ」といふ。(※省略) 佐伯に払ひし帰りてtelevi見る。京、帰り夕食してくれ、ユ帰り「賀代嫗、死を知らず」と。(※省略) 3月6日 8:00さめ10:00来し井上和子生にsemi。(※省略) 阿佐谷北へ散歩し古本屋見しのみ。熊本県の野島氏よりさきの礼状。 宏一郎ややなつく。(※省略) 3月7日 8:00起き10:00来し麻生陽子にsemi指導す。荻窪に散歩にゆけば古本屋休み。 庄田泰子より(※名古屋への)往復の切符贈らる。夕方、前田夫人、笠原夫人つれて来訪。(※省略) 京skiiへゆく。 3月8日 9:00近くまで眠る。終日家居。 統夫の妻ミサ子より「賀代嫗の手術すみ癌は胃より肝臓に転移しをり。退院後好きなことさせよが医師の言葉なりし」と。可憐!(※省略) 西川(※西川英夫)より電話「中野清見の会16日18:00学士会館で。竹内(※竹内好)にしらせ」と。竹内夫人にその旨云ふ。 夜、宮本馨太郎氏に白鳥先生の醵金のこといへば「芳郎君100部引き受けし」と。「20日すぎに会する」と也。(※省略) 3月9日 9:00近くまで眠る。花井夫人時計もち来り、13:00すぎ帰りゆく。中野清見より「会ふの楽しみとす」と。 篠田博士より「台湾へゆきし」と烏来のヱハガキ。京、湯沢より帰り来る。 3月10日 8:00さめ宏一郎やうやく抱くを許すを喜ぶ。14:00山住閣下に電話してゆき『羽衣』を御夫婦にて唄はるをきく。 小高根二郎氏より「来年も受けさす」との如き手紙来りしゆゑ、「関学へゆかせよ」と書く。 千川よりのハガキにて「11日伊豆長岡で昭四会」とわかり金沢に電話すれば嬢?出て「出席」と。「宜しくみなに伝へたまへ」といふ。 赤軍、仲間われし多数の殺人せしを発見さる。可憐。 3月11日 7:00さめ9:00出て東京駅。1時間待つをいやとて列車変更にゆかせ1汽車早く名古屋着。(※省略) 土産にいちご買ひ、地下鉄busに乗り池の端の東団地にゆけば泰待ちをり。依子・望、階上より見下す。 望の小さきに驚く。物も十分いへず。15:00出て名鉄Grand Hotelに15:40ゆけば(※教へ子披露宴 省略) 東団地まで来て澄より前に泊りし国際Hotelに室とりありときき21:00出て入室。隣室の水音でねつき悪かりし。 3月12日(日) 8:00さめ払ひ3,500余し(tip500昨夜わたす) 東団地。朝食し、望・依子をつれて泰の入学祝品を買ひにユ出しあと、澄と待つ。 13:30、4人帰りしゆゑ17:15の汽車までユは一寸眠り、16:00出て望のくっつくをふしぎに思ひ、写真とられてのち駅にゆき50分待ちて乗車、東京着19:15。阿佐谷につけば20:00なり。弓子母子まだをり、宏一郎おぼえをり。(※省略) 梅田恵以子夫人より「そのうち上京」と。22:00までtelevi見て就寝。 (金沢良雄君より電話「昭四会で小杉(内山)われをなつかしがりし」と。) 3月13日 8:00さめ、白仁生に電話し「来い」といふ。ユ、見合にと出てゆき、 (昭四会に会費1千円送り、佐伯にて漢方の本(200)買ふ)13:30白仁生来る。(※省略) 白仁生指導し、茶菓与へしに片付けて帰りゆく。 八木生に電話すれば「帰宅中、また入湯」と。「cardとれ、とり方、井上和子にきけ」といふ。 ユ帰り「またむだ骨折りらし」と。俊子姉より「賀代嫗、見舞なきはなぜ」と怪しむ由。(※省略) 末吉より「還暦祝3.8万(※集った)」と。中に(※元同僚)園田教諭あり、早速礼状かき投函。(※省略) 3月14日 8:00集英社の『白楽天』の速達・書留にて起く。直し多く「盩厔県」をチウチツとす。 その他集英社に電話すれば「古山氏に充て送れ」と。ユ10:00出てゆく。昼食にワンタン食ひにゆく。(※省略) 東豊書店より『国語読本』50部入手と。澄より「あす21:00ごろゆく。夕食いらず」と。 美紀子より「坂出へゆき大江、河野へゆき名古屋にも寄る」と。(※省略) 3月15日 8:00さめ、9:00出て成城の卒業判定。12:00すぎまでかかり昼食出さる。 13:30出て東豊書店にゆけば「教科書4月半ばもち来る」と。『鴉片戦争史事考(300)』買ひて帰り来る。(※省略) 丸家に電話すれば「(※省略) あす中野清見の会にゆかず」と夫人。22:30澄来る。 3月16日 8:00さめ創美社より『白楽天』を訂正せよと。澄出てゆきしあと、見て速達す。昨日より還暦祝の礼状かく。(※省略) 17:00出て地下鉄にて竹橋、学士会館へゆけば矢野、竹内をり、加藤、奥戸も来りをりと。(※中野清見歓迎の会) やがて18:00すぎ中野、後藤、藤田、西川、原田とそろひ、階下食堂。 丸重俊のこといへば中野「子持ちの醜き娘に世話するも、きくや」と。「きかず」といひ、肩の荷下し、 会費1,000払ひ20:00すぎ出て、うれしさに道まちがへ地下鉄の駅に辿りつく。澄まだ帰らず。 3月17日 6:30起され、澄に送られ7:00すぎ出、成城大学第2次試験の監督。(※省略) 栗山氏に小高根不二のこといひ、午后すまして帰宅。(受験生中に蔵原伸二郎の孫見出し友だちといひし)。 3月18日 6:30起き7:00すぎ出て8:00成城。舟越講師(※舟越清)にけふ来るときき、ユに電話し15:00ともに出て帰宅。 創美社梅谷馨氏より校正受取り。笠原夫人より「四月上京の時は来訪」と。 舟越君ナポレオンのみ、わが独文学の教へ方に賛成して20:00春日部へ帰りゆく。(※省略) 3月19日(日) 7:00さめ、礼拝にゆく。(※省略) 帰宅。八木生、家に入れれば岸和田の某君来り、八木生にcardの書き方(字旨し)教えふるよこにをり。 詩集を見せればなってなく、ダメといふ。土産置きて帰りしあと、八木の兄のcar来て帰りゆく。(※省略) 3月20日 けふも暖し。11:00嬢来り、賀代嫗の教へ子守屋君と見合。賀代嫗の病気いへば見舞にゆくとユと3人づれで横浜へゆく。 われ佐伯にゆき『硫黄島(130)』買って帰り、白鳥先生の校正211p.p.をすます。 天理より「富永館長の古稀祝1口1,000」と。20:00善一郎君、弓子宏一郎をしばらく預けに来る。(※省略) 3月21日 寒くなる。7:00さめ、きのふの見合ダメなりしをきく。(※省略) 高田君より「棣棠(ヤマブキ)、山礬につき教へよ」と。サンバンのままにせよと答へん。横塚講師の助教授昇格のしらべすすまず悒鬱なり。(※省略) 3月22日 10:00斎藤dr.にゆけば代診。carteはじめより見られ2週間分たまふ。 紀伊國屋へ寄り独文学見しもBrochが最も新しきか。文学史も新しきところ見えず。帰りて(※省略) 横塚講師の業績見る。(※省略) 3月23日 9:00すぎ第2次入試発表にゆく。300万円出すといひしものあるらしく合計100名を発表。皆手続すれば330人になると也。 12:30まで議論し、昼食後13:30より人事委員会。(※省略)  横塚講師の助教授昇格認めらる。 浅賀・館野2副手の送別会とて飯店にゆき20:30すみて新宿まで来れば大混雑。遵法斗争のためらし。(※省略) 井本木綿子氏より『骨』に「3月31日までに書け」と。 3月24日 美紀子より電話「来る」と。「おそくせよ」といひ13:00出て吉祥寺(※教会)。茶買ひて竹森先生に5月13日のこと云へば「承知した」と也。 大塚さんの奏楽もたのみて帰る。(※省略) 『鴎外全集5』を佐伯に借りて帰る。山住閣下に途で遭ひし。 17:00近くまで美紀子まち、来りしに大江叔母通院ときき、夕食せしめ、泰彦君への伝言托す。式関係をわれに任せよと也。 丸重俊より電話あり21:00ごろ来り「浅賀よりまだ(※副手の)事務引継しをらず」と。ムッとして浅賀に電話すれば「不在」と。 蔵原伸二郎令息より「娘入学云々」。 3月25日 9:00さめ10:30来し井上和子にcardの書き方教へ『太平御覧』貸す。昼食して帰りしあと、佐伯へ『鴎外全集』の払ひしにゆき、帰りて茫然としをり。 (※省略) 善一郎君来り、慣れし宏一郎つれて弓子帰宅と。22:00すぎ帰りゆく。 3月26日(日) 8:00すぎさめ、礼拝にゆかず。ユは風邪にて同。寒く雨降りしゆゑ中野清見に手紙かき「丸重俊の養子の件いかに」と。 善一郎君より「弓子あす夜来る」と。 3月27日 9:00近くさむ。(※省略) 太田夫人来り「縁談は私も参加」との様子。うどん食べて友人宅へとゆく。 タバコ買ひに出れば戸田謙介氏に遭ひ「茶のまん」と。ピーターパン階上へゆけば満員。240おごりこの間の送本の礼すむ。熊本の血統となり。 富永館長古稀祝に3千円を送ることとす。山際文雄氏より「あす19:30来る」と。 3月28日 終日家居。宏一郎来りなつき出す。浅賀千里より礼状。 夜、山際君来り「狂気して度々入院せし。父の店は文京区」と。詩集(※『凍死と風』)の礼状見す。川村欽吾(※モダニズム時代の盟友)ほめをり。 3月29日 佐伯へゆきしも本、来りをらず。(※省略) 夜に入って『今週の日本』へ前野直彬『唐代の詩人達』評400×2.5かく。(※省略) 3月30日 10:00すぎ西洞院夫人来る。「主人は講習」と。12:00まへ送りにゆき『今週の日本』社へ速達す。西洞院氏より電話ありしゆゑ「今度はお越し」と云ふ。 小高根二郎君に2,500送り「詩できず」といふ。ユ、弓子宏一郎を田上dr.へとつれゆく。宏一郎次第になつく。 中央公論社より『日本の詩歌』写真版出しと「5,000-500」三井へ入金と。依子より写真「望、大小便を告げるやうになりし」と。 (※省略) 夜、丸生来り「1年以内に積極的に見つけよ」といふ。 3月31日 中野清見に「(※丸生の縁談)またたのむ」と。 楠本へ「木本に萩原家の墓あり、鷲教礼をしるや」とのハガキ出し、早昼たべて東洋文庫へゆけば月末とて会議中なり。 知る者大概名札より外されをり。出てcoca-cola(100)のみ、東豊書店に寄り、5千円余りの借金たしかむ。佐伯へ寄り帰宅。 夜、坂生来り食事してゆく。「見合4回うち3回は私の手」とユの話、気の毒なり。 4月1日 きのふまで暖かかりしにけふは寒し。9:00浅野建夫より「森良雄の死んだこと湖東より報せられた。中村忠夫の電話しらぬか」と。 けふ京休みにて伊勢の恵子来り、早大文科の入学祝す。 (大(※西島大)つれ来り、この間伊馬春部にききし。影山正治氏会ひたがりし故会ひしと也)(※省略) 長尾良夫人より「29日、夫死に、本出したく『コギト』見に来る」と。 4月2日(日) 復活聖日礼拝にゆく。(※省略) 善一郎君夜食に来ると也。来って帰りぎは宏一郎むづかる。 4月3日 美紀子に電話して大塚先生のところいへば泰彦君より電話「今夜来る」と。(※省略) 『金瓶梅』のcard4ページほどやる。『日本歌人』来り、昭和10年にわが「古典」のせし由、塚本氏いふ。しらべればその通り。(※省略) 4月4日 弓子0:30破水せしとて河北病院へつれゆく。215室6人部屋と。帰りて眠り8:00善一郎君来しに目さませば母子見て来しと。(※省略) 出勤おくらしてゆきしあと (※省略) 弓子元気なり。(※省略) 共産党書店にて『江戸の離婚(150)』買ひ来る。(※省略) 浅野君より「森良雄の病歴45年1月27日よりインド旅行8月13日よりアフリカ旅行、帰国後1か月して高熱を発し数日後脳症を併発、(※省略)  47年3月27日永眠」と。(※省略) (近代文学館の笠井女史より「角川の『立原道造全集』にハガキ出してよきや。結婚した」と電話) 21:00湖東より電話「森死んだ。おまへ元気か云々」。しかたなく丸にも知らす。  花 日本の桜はことし満開のとき色がうすかった。 わが家の紫ダイコンはよく咲き 一軒おいた隣では茉莉花を三株植えてゐるさうだ あすこではキリスト者が人殺しをし ここでは祈らずに人が死んでゆく むかしの花よ、ぼくは生かされすぎたか 六番目の孫が生まれた日に思ふ 4月5日 9:00さめ斎藤dr.、「躁うついづれでもなし」と申上ぐ。紀伊國屋に寄り『讃美歌集(400)』2冊買ひ求む。帰りぎはタバコ見しに「Echo」なし。 館野副手よりこの間の会の礼。『白珠』来りわが「くれなゐのころ」載す。(※省略) 宏一郎、膝よりはなれず入浴してのち帰りゆく。(※省略) 4月6日 あたたかくなる。母80才の祝くれとてユ1万円もってゆく。(※省略) 京、弓子にすしもってゆきし。 4月7日 終日雨。宏一郎この家になつき善一郎来ず。(※省略) 毎日のスクープにて佐藤首相面目をつぶす。(※西山事件) 『金瓶梅』のcard第3回までゆく。夜O.Hepburnの『Romeの休日』見る。弓子「月曜退院予定」と也。 4月8日 雨ふり寒し。午すぎ弓子に物もちゆき「Echo」あるを見つけて買ふ。(※省略) 宏一郎いよいよなつく。 4月9日(日) 9:00さむ。雨にて寒し。(※省略)  宏一郎いよいよなつき、夕方善一郎君来しも帰り泣かず。われ『金瓶梅』第3回了り近くなる。語彙豊富なり。 (※省略) 4月10日 9:00起き、弓子の退院またず、山本印刷で式次第100枚に6千円払ひ、成城へゆき渡辺家を訪へば正子君出て来、母上とに式次第申し、 大学へゆきしも茶のみしのみにて(※省略) 新宿へ出、薬王寺へbus。2孫にchocolate与へ式次第置き、披露宴の書き物もらひ、 送り出し2孫にまたchewing-gum与へて帰宅すれば弓子退院してをり。善一郎君「克次朗と命名す」と。おこわもちて帰りゆく。(※省略) 『果樹園』194来りし。成城堂に払ひし『辛亥革命』と『安禄山と楊貴妃』買ひ、佐伯にて『世界史夜話(200)』と『秘められた世界 (200)』買ふ。 (※省略) 4月11日 天理の橋本君あて富永古稀祝に3千円送る。(※省略) 午后、河本(塩崎)律子、式の時の写真とアメリカ土産もちて来る。7ヶ月と也。 送りにゆき山住閣下に遇ふ。17:00玄関までゆき『斎藤茂吉全集』と『不二』の『大鹿卓歌集評』とをもちゆけば睡眠と夫人。(※省略) 17:00澄来り、時計呉る。20:00中野の宿所へ帰りゆく。 あはれなる孫二人ゐて時々に鬱となるてふむすめ思へば 依子に電話すれば「異状なし」と。 4月12日 寒く雨降る。外出せず。『金瓶梅』のcardのほか『英和大辞典』の植物名とる。21:00笠原恵生、母児と来り反物、茶菓子賜ふ。(※省略) 4月13日 晴れて暖く9:00さめしも10:00すぎユと宏一郎つれて東京駅の大丸へゆく。(※省略) (※反物を)「三つ揃ひにしてくれ」と云へば「仕立代5万円に1万円足すべし」と也。「20日午后以後仮縫い」と。(※省略) 帰れば小高根二郎氏より「同人費受領、森亮氏お茶の水大に転任」と。 14:00井上和子生来り『太平御覧』よます。17:00「よくがんばった」とユにほめられ帰りゆく。(※省略) 4月14日 8:00さめ早昼食って東洋文庫。3月31日で閲覧証きれしも『Atlas Sinensis』見せてくれ15:30退館の時、49年までの新しき証呉る。 老人と女子学生のみ。東豊書店に寄りまた借金す。神戸大学の山口一郎氏と名刺交換す。(※省略) 帰宅。 4月15日 朝、散髪し、教授会とて成城大学。15:00まであり、そのあと「丸、役に立たず無給副手を2人とし民俗学会の仕事さす」との鎌田提案ききづらかりし。(※省略) 4月16日(日) 夫婦して礼拝にゆく。(※省略) 佐伯に寄れば内儀「きのふ弟様(※西島大)に本売ってもらひし」と礼云はる。(※省略) 14:00ごろ矢野明子来り、駅まで迎へにゆく。(※省略) タラコ沢山に貰ひ、ユとともに出てゆく。(※省略) 夕食後、長尾夫人より「毎日客ありて来られず。火曜にも一度電話す。『コギト』の掲載しらべてくれよ」と也。(※省略) 4月17日 7:30起され、川端康成自殺と。老年性鬱病なり。9:00すぎ登校。(※省略) ゼミ開講すれば4年5人と3年1人よみてすまし(※省略)疲れて帰る。 KKベストセラーズより詩集に1篇とると!(※省略) televiの洋画、川端の『雪国』に変更、岩下志麻が主役なり。 4月18日 10:00ごろこちらより長尾夫人に電話し「長尾忍(息子?)よりの49日の案内状もらった。出席できるかどうか」といひ、『コギト』のこといふ。 『浪曼派研究』をもらひ来し、保田より本出せといはれしと也。あとにて「30日の七七忌にはゆかぬ、その前後詣る」との返事を投函す。 講談社より「亀井勝一郎の書翰ありや」と。「なし」と答ふ。東京空襲を記録する会の黒田秀俊氏来訪との電話あり。 12:00来られ、第4巻文士の日記類のところにのす、とのことに日記見せれば「清書して送れ。print代も出す」と也。 14:00出て立教へゆけば手塚氏すでにあり。川端康成が女人とマンションへゆくを見たあと自殺をききしと也。ふしぎなることかな。 芳郎君来るをまちて思ひ出を話す。(※省略 記念誌) 70万円 の見積りなりしも云々と。 あとにて出版社の2人来合せ(※省略)200部は引受けるとのことなりし。われの書きし跋直され、芳郎君帰りしあと18:00近く裏へ出て、 けふ東京空襲を記録する会に速達す。 中野行のbusまちて帰宅。(※省略) 夜、昭和18~19年の日記をよみ返す。(※省略) 4月19日 よべ眠りにくく薬を足してのみ、9:00目覚め地下鉄にて斎藤dr.へ薬もらひにゆき、帰り新宿まで歩く。暑し(24℃なりしと)。 14:00八木生来り「cardのとり方わからず」と。山本生も一人つれ来り、シルクロード関係の本3冊返す。これも一向にわからぬ様子なり。 (※省略) 4月20日 きのふ、けふ暑きほど。(※省略) 昼休み、成績わたしし、八木生来しに「ムラなり」といふ。(※省略) 八木生さそひてjuice(240)のみて帰る。 (※省略) 4月21日 よべ眠剤足してのみやっと眠れ9:30さむ。藤井通雄より「北野高校長となりし」と。末吉より府教委員会に転任と。 『今週の日本』社より原稿料1万5百円来る。タバコ買ひに出、空襲記録写し出す。 4月22日 空襲記録写し、手痛みし故、午后散歩かたがた天沼の大(※西島大)宅へゆく。無人。田中家(※義姉宅)へゆき出て来し咸子と話す。(※省略) 柏井歯科へゆけば増築中も診察つづけゐる。(※省略) 夜、200✕74写し了る。送付先「(※省略)東京空襲を記録する会 黒田秀俊氏」 4月23日(日) よべ0:00まで眠れず。山住dr.の薬足してのみ7:00起され、ユ置きて総会にと礼拝にゆく。(※省略) 夜、あすの予習をす。(※省略) 4月24日 7:30起され登校。salaryもらふ(15万余)。成城堂にゆきしに「まだ請求書出来をらず」と。(※省略) 丸重俊に会ひ「関口女史に会ひしや」といへば「まだ」と。「ぐすぐすするな」と叱る。(※省略) 東豊書店にゆき6,900の払ひし、本2冊買ふ。このごろ春斗にて国電少く困る。横井軍曹、佐藤首相に会ひあす退院と。 4月25日 家居。午まへ地上天国派の眼鏡の女史来り、書斎へ上げれば仲間の男女2人外でまち、そわそわして30分で出てゆく。 大学院のnote『天』をつくり疲れる。リラ咲き匂ふ。横井軍曹31年ぶり帰宅。 4月26日 午まへ佐伯へゆき『未解放部落』3冊と『鴎外全集6』とにて5,120借り、写真屋でcorner(90)買ひ来る。(※省略) 井上和子生来り『太平御覧』の牛すむ。白鳥先生頌寿記念会より記録。中山八郎氏より「国士舘大学に来り、狛江に住む」と。(※省略) 4月27日 金いれ忘れて8:00家を出、駅にゆけば「乗れず」とLoud-Speaker青梅街道にて気がつき家へ帰り、駅前よりbus渋谷行にのる。(※省略) 成城へつけば10:30。(※省略) 教務へゆけば午后もダメと。外へ出ればアメリカの17才の高校生つれし学生に会ひ、喫茶して別れ、(※省略) 帰宅。今井翠来り、弓子に見舞呉れ、茶もってゆく。吉野弘氏より「「グッドバイ」掲載詩集(※『悲歌』)をしらせ」と速達。 けふ草下英明『星の百科』買ひ、住所わかりし故、わが星の詩の掲載誌知らんと往復ハガキ買ひし。(※省略) 4月28日 大聖博美生来るとのことにまてば11:00すぎ来る。(※省略) 則天武后やることとなり、わが『中国后妃伝』もちゆく。午食にうどん食はしcakeくはせして14:00ともに中央線に乗り、新宿にて別れ、東京大丸へ仮縫にゆき、三つ揃用に1万円払ひて帰れば、 16:00来るといふ宮崎女史すでに来をり。「長尾の49日にはゆかず。ぐろりあそさえては入れちがひ」と也。 ユ送りにゆき長尾夫人は檀一雄の妹にて『主婦と生活社』より西武へ出向きをり、子は4人とも娘と也。(※省略) 長尾夫人に「あす14:00伺ふ。道しらず」といへば「中村橋より電話せよ。石神井公園駅にて待つ」となり。 田上dr.、夫人より「先生も私も逢ひたし。来よ」と。『果樹園』に「遺書」かく。依子あて也。 4月29日 9:00すぎ郵便局『果樹園』あて速達出す。13:30出てbusにて中村橋。14:00石神井公園駅につき長尾夫人に電話して、 しばらくすれば高校3年の嬢来り、ついで夫人(忍)迎へに来られ10分余り歩きて長尾家。御花料(3千円)供へ病気の話、家族の話きく。 3嬢、姫路の姉、夫人の弟などに会ひ、すし出され辞退して出れば近藤達夫君(※『ポリタイア』同人)に遭ふ。引返してともに駅に出る。 「栢木喜一君高校長となり、保田の父母ともになし」と也。保田もこの間来しと。 (あすの追悼会には出ぬわけありといふに長尾も幻影見しと也)。busにて阿佐谷一丁目で下車すれば大林学長と遭ふ。けふ『今週の日本』3部着く。 4月30日(日) ユ、弓子にすすめられて礼拝にゆく。(※省略) 山本生より「午后来る」と。来りて『張騫』やることとなり『アジア歴史事典』写さす。(※省略) 善一郎君迎へに来り、宏一郎帰りさびしくなる。 5月1日 8:00さめ9:00駅に出、雨風の中を成城大学。試験手当もらひ東洋文化史教へ、昼食す。同窓会名簿はじめてもらふ。(※省略) semiすまして女学生2人さそひ喫茶。(※省略) 東豊書店へゆけば『中国薬学大辞典2冊(1,720)』は安し。 阿佐谷にて佐伯に借金払ひにゆけば、内儀5千円として呉る。南史一氏より「徳不孤、必有隣(※『論語』)」と喜び来り、 吉野弘氏より「Goodby」の相手が彦根の町であったとは」とハガキ。 5月2日 松浦母上(※美紀子氏母堂)来るとのことに待てば道まちがへしと12:00近く来り、12:40に今井(※美紀子氏姉宅)へと去る。 教授会にゆきすみて大学院の会。研究費6万円と。あとにて学科の会2,500づつ金出し無給副手のbus代と。(※省略) 17:00近くなり腹立てて帰宅。(※省略) 田上dr.。薬沢山出され針打たれ19:00すぎ放免されて帰り来る。(※省略) 5月3日(休) 9:30すぎ覚む。田上dr.のせい也。速達にて白鳥先生の再校来り、ユの母の許へゆきしあともやりて了ふ。 20:00田中貞雄氏より電話あり「(※省略)氏の孫来りをり」と。迎へにゆけば母ととも也。短大なれば3年より学部の芸術にでも変れといひ、 栃木へ帰るといふに送り出せば10万円の商品券をおきゆきしと也。(※省略) 5月4日 7:00起され8:30出て佐伯により(※省略)登校。大学院にて『中国の天』ちょっとやり、午の時間、池田主任に佐伯の書わたし、(※省略) 3人のsemi教へてのち喫茶。東豊書店に金払ひ、追加注文すれば金少し余る。 個人研究費1万2千円ありしをけふ丸にわたせし故、また2万円ほど買ひ『岑参研究(150)』のみ現金払ひて帰宅。『中国植物図鑑』写す。 (※省略)氏に10万円返却の手紙かく。 5月5日(休) 雨止み11:00すぎ渡辺夫妻お越し。月曜13:00吉祥寺教会での予行に承知と。(※省略) 5月6日 7:00起き『中国植物図鑑』写し10:00に白仁生迎へ「人参」のこと指導し、午食に炒麺食はせ14:00に麻生陽子来しといれかはる。 麻生生は筝すませよといひ、帰りしあと佐伯に小島憲之を注文に行く。(※省略) 5月7日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 夫婦して出、北京飯店にて麺たべる。(※省略) もなか買ひ、 宮崎女史(※宮崎智慧)訪ぬれば、亀井夫人に話せしと。杉山女史と平林英子は仲良しと。わけわからず。父の第一歌集の出版承知と社長いふと。 秋ごろ原稿わたすといひ、出て教会に引返せば13:00かっきりに衛藤長老出て来られし故、蔵原氏の孫のこといへば「蔵原氏の詩よし」と也。 (ユにきけば(※省略)氏夫人、補欠入学をわがせいと思ひをられるらしと也。) (※省略) 5月8日 9:30登校。丸重俊来をり福田女史と電話せし由、slow-motionなれどまあよし。いつもの通り相良先生と話す。semi表もらふ。(※ 省略) semiすまし、金子一郎さそひてcoffeeのます。交通公社のArbeitして日本中まはりしと。地名などよく知りをり。(※省略) けふ草下英明氏よりやっと返信「『文学界』昭和19年3月号にのりし20行位の詩の一部なり」と。(※省略) 5月9日 (※省略) 田上dr.にゆけば大分待たされ、すまして帰宅。14:30出て松浦家。祝2万円わたし2孫に送られて帰宅。 北口にて林語堂『則天武后(200)』買ふ。(※省略) 5月10日 10:00井上生来り『古今図書集成』の牛の条りよまされ14:00帰りゆく。途中、宏一郎をユつれ帰り。やせをり。公園へつれゆけば喜ぶ。 宏一郎を三鷹へユつれゆきしあと、(※省略) 矢野夫人に電話す。Nixon越南の各港封鎖を宣言す。 5月11日 7:00起き9:30登校。『中国植物図鑑』返却す。大学院3人の女史に朔太郎30年忌といひ「過失を父もゆるせかし(※詩 篇)」を写してやる。(※省略) 144教室にゆけば30名ほど立ちをり。教務課へ交渉にゆかし01に代りmykeもちて講義すればchalkなくなり止めて出る。 『廣博物誌7冊』をもちて3万円の本みな持ち帰りしこととなる。佐伯に寄りて『生きてゐる兵隊(100)』と『南蛮寺興廃記(350)』と買ひて帰宅。 『白楽天』の再版6冊つきをり。山住閣下にもちゆき喜ばる。 5月12日 6:00さむ。10:00まへ麻生陽子生来り、14:00まで筍よまし、つぎは薤葱蒜にせよといひやる。中野清見に丸重俊の中間報告し、 佐伯へゆき『西部戦線異状なし』、ルネグルッセの『ジンギス汗(※角川文庫)』、『ベリリュー玉砕(200)』買ひ来り、 巻紙にあすの新郎新婦の紹介の原稿かき、(※省略) 矢野に「11:00少し前に来てくれ」と電話す。 5月13日 8:00覚む。ユ、パーマへゆき帰り来しあと、矢野夫人と明子嬢と来り、11:00津田君ただ一人にて来る。(※省略) 送り出し(※省略) 長尾夫人より「家島(※長尾良の故郷)へ行った。むすめまた会ひたしといふ」と。 ユの着付けまち15:00出て地下鉄にて15分前に学士会館にゆけば竹森先生はじめ男みなをり(※結婚式 省略) 夫婦下りれば丁度21:00、京帰りをり。(※省略) 疲れて入浴。 5月14日(日) 8:00すぎさめ礼拝にゆく。(※省略) 地下にてきつねうどん食ひ吉祥寺を久しぶりに歩き、成蹊通りに出て途中より曲り、 (※省略)大塚長老を訪へば令嬢出られて玄関にてお礼わたし(※省略)、banana(128)買ひて小林家。(※省略) ゆるゆる帰れば松浦渡辺二母君玄関にあり。16:30まで話し菓子とお礼と賜はる。(※省略) 5月15日 8:30出んとするところへ竹森先生より電話。(※省略) くさって出て眠がりつつ東洋文化史すまし、 午食まへ関本さんに「シェークスピアのお礼」と『白楽天』進呈すればsign求めらる。(※省略) 14:00沖縄自衛隊派遣反対のdemo見にゆき、山本生を除く8人のsemiに1人飛入りあり。(※省略) 疲れて佐伯に寄れば中国古典文学も少し足らずと。峠三吉『原爆の歌(50)』買ひて帰宅。(※省略) 5月16日 8:00さめ、武氏の系図作り10:05来りし大聖生に与ふ。午食せしめ、ともに出んとせしも元気なく 「教授会欠席」を電話し、荻窪まで散歩にゆけば古本屋休み。 歩きて阿佐谷北口に出『文芸春秋』6月号と航空郵便2枚とを買って帰宅。 佐伯へゆきに寄り(※省略)『アイヌ語方言辞典(6,400)』借り来る。森克己『遣唐使』見つかりしゆゑよむ。 5月17日 8:30斎藤dr.。1月分の薬たまはり、 歩きて代々木の東豊書店へゆき、わがためと基本図書とを注文し、ラーメン御馳走となりて帰宅。(※省略) 帰り来しユ、小林母上白血病らしく善一郎はじめ皆心配しをりと。依子に電話すれば望に火傷させし。自分も体よくなしと。 (※省略) 5月18日 8:00さめ9:30登校。(※省略) 大学院3人相手に『天』了へ、午食後手当6万円もらひ。成城堂に払ひし、武部利男『李白(1,600)』 ほか4冊買ひ(※省略)、金子生と茶のみにゆけば部長室附の石井紀子も来る。 金子生と下北沢で下車。古本屋につれゆき『柳樽全集』買へば1,300と200まけて呉る。 帰り佐伯にアイヌ語の借金払ふ。(※省略) 5月19日 8:00さめ9:00すぎ宮本馨太郎氏に3万円送り(170)、 佐伯にて『赤と黒(30)』、『中国文学講話(120)』、『顧炎武文』、買ひして帰れば、ユ、矢野明子の縁談にて出てをらず。 (※省略) 弓子より電話「母上入院につき来てくれ」と。出てゆきしあと今井家より正子の電話(※省略) 来てDunhil3ケと果物と呉る。(※省略) 賜ひし果物とDunhilもちて雨の中迷って小林にゆけば 「母上ホジキン氏病にて6月中、あす医科歯科大学病院へ転院」と善一郎あはてをり。駅まで自動車で送られ、宏一郎を雨中つれかへる。 京、房総より帰り来る。『戦争と平和』のHepburn見て眠ることとす。依子の話にては「望の火傷は手伝のせい」と。 5月20日 阿佐谷郵便局へ3円切手買ひにゆき笠原夫妻にヱハガキ出す。母来り、恵子1万円にて下宿さしもの云はずと。 生垣刈り疲れし処へ麻生陽子生来り「蒜」よませ、せんべい置きゆく。 5月21日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 古本屋にゆき鶴岡善久『太平洋戦争下の詩と思想(1,250)』よめばわがこと書きあり。 帰ればユ乳母車ともにあらず、荻窪へゆき、帰りてきけば数男(※悠紀子氏弟)の所へゆきゐしと。(※省略) 吉祥寺まで祖父母宏一郎ゆき、鶴岡買ひ帰り来る。母上あす入院となり。 5月22日 傘もちて登校。(※省略) 「中日交通史」noteなしでやり、早くすませて高円寺下車。echo買ひしのみにて帰宅。 (※省略) 柏井の娘に遭ふ。賀代嫗、横浜の病院へ光一の車にて入院、これもここ数日のこと也と。 『今中同窓会報』来り、金杉(林)医博1月25日肝硬変で死せしと。下駄屋の息子にてわれにはじめて春画見せし友なり。 5月23日 宮本馨太郎氏より受取の電話あり。麻生生来り、筍かたづく。(※省略) 鷲教礼より太田の柏原の令嬢が保田夫人(※典子夫人)と。宏一郎あす帰ると。 ユ賀代嫗の見舞に土曜ゆくといへば統夫の妻もゆく。13年間に200万円を(※前妻との離婚の為)払ふこととなりしと也。 5月24日 11:00大聖生来り、則天武后をよまし、14:00去る。われ東洋史のnote作りしのみにて16:00出、 (松枝茂夫氏より『紅楼夢1』贈らる) 向ヶ丘遊園前下車。築島教授よりtaxiすすめられ、紹介の時も「松本善海とそっくり」と云はる。(※1969.6.23にも料亭「紀伊国屋」にて同じ会合あり不詳。) 20:00すぎすみ21:05の急行にて新宿に21:25つき、佐藤達夫講師と同行すれば茶おごらる。(※省略) 5月25日 けさ6:00にさめ眠し。8:00すぎ大工さん来り、水栓のもれ箇所発見せしを見て登校。大学院semi2人しか来ざる故、coffeeのみにゆき古本屋にゆき、佐藤達夫氏に入口で会ふ。午后の2時間はちゃんとすまし、 東豊の本かかへて東豊へ寄り『新年風俗志』6冊分払ひ(900)、佐伯へ寄れば小島憲之氏の本3冊来てをり。 (※省略) 天理図書館の河内良弘氏より『東北アジア研究論文目録』もらひをり。(※省略) 夜になりて阿部良助電話かけ20:00すぎ来り、勉強するといひwhiskyのみnote忘れて帰りゆく(22:00)(※省略) 5月26日 6:30さめ河内君と松枝氏とに礼状かき、佐伯にて雑誌受取り、帰れば麻生生待ちをり。ユ、三鷹のへ田上dr.へ鍼うちにゆく。 12:30になれば麻生生止めしに帰り、ユまた帰り来り午寝す。 われ16:30出て田上dr.へ鍼と薬とをもらひ宏一郎の塗薬もちゆけば父上出られ、献血手帖ほしと弓子にいはる。(※省略) 『東京大空襲展』の写真帖もらふ。(※省略) 5月27日 ユ、午后賀代嫗の見舞に横浜へゆく。 山本生来るまへ、楊雲萍氏より「あす午后6:40羽田着」と電話あり「出口にてまつ」と答ふ。 山本生来りしあと、宮本馨太郎氏より「校了した。来月半ばまでに出来上るゆゑ、3人にて白鳥先生にもちゆかん」と。 山本生、ユの帰るをまち焼売など食ひ20:00帰りゆく。(※省略) ユ「(※省略) 賀代嫗、死のおそれなし」と。 5月28日(日) 8:00さめ、ユの礼拝にゆくを見送り、(※省略) 15:30出て佐伯へ寄り『スイスの山(80)』買ひて羽田国際空港に着きしに、 18:40着といふ。(※省略) 飛行機なし、あとにてアメリカよりの電話はなかりしかと気づきしも国内線にゆかず。 家に電話かけしに「ユ天沼へ」と京。カッとなりドナリしあとまた電話し、 台北、香港、ロサンジェルス、ワシントンと着く人々を見て20:40macaloniたべて帰宅。22:00.(※省略) 5月29日 登校。(※省略) ユより「楊さん第一ホテルに室とるつもり」と。 semi早く切り16:20すぎ家に帰れば楊さん「333号室にあり」と。「すぐゆく」と返事せしところへユ帰り、 土産に財布(1,500)求めて第一ホテルにゆき333号といへばわからず。しらべてくれて電話かけ夫婦にて迎へに来てくれ、 室にゆけば早大の松枝茂夫氏、平凡社の池田敏夫氏をり、土産もらひ「そば食ひたし」といふに探しまはり鴨南蛮くはす。 払ひはわれし、そのあと本を土産に買ひ与へ、汁粉くひ、Hotelへ松枝氏と帰り、 わがしらべし(日本歯科大に電話して)電話番号にて北園克衛に電話し、あす18:00会ふこととなる。 別れて松枝氏と地下鉄荻窪線に乗りてすむ。(※省略) 5月30日 7:00さめ9:00「遺書」を果樹園社に送り、三鷹の田上dr.にゆけば「1時間まて」と夫人。 弓子にゆき宏一郎を乳母車にのせてひと廻りして帰り田上dr.。(※省略) すみて帰り、北園克衛氏より楊雲萍の字を問はれ、 川久保に電話すれば「あす午前来る」と。出て11:30登校。(※省略)教授会3号館にて開かれ、 退席。二子玉川まで松村助教授とゆく。(※北園克衛の記事なし。) 佐藤達夫氏をり、野口君よりサウナとトルコの差別聞き、佐藤氏と阿佐谷まで同行、喫茶して別る。(※省略) 5月31日 川久保10:30来る。ユ外出。われ茶出し酒出し鴨南蛮とりしところへユ帰り来る。「話進行中」と。 井上和子生来りしと引きちがひに帰りゆく。和子生3時間にて参りし故、駅まで送りゆく。 佐伯へ寄り帰宅。ユ帰り来る。(※省略) けふ長尾夫人より「家島の学校に寄付した」との挨拶状来る。 6月1日 5:00さめ生垣を刈り疲れて登校。大学院で「関帝」すませ(※省略)、急ぎ帰るところへ麻生生来り『古今図書集成』にcheckせしむ。 17:00前に田上dr.。まづ足の裏を削りたまひ魚の目でなくタコなりと。そのあと電気鍼。またmassageと手をつくし6日間の薬たまふ。 帰れば山本生。(※省略) (朝、松本善海夫人に電話かければ「4月退院、床ずれひどく言語は夫人にも不明瞭。嬢は結婚して一児できた」その旨川久保へ伝ふ。) 6月2日 10:00大聖生来り、午后同窓と会ふといふゆゑ叱りて帰らす。そのあと『野蛮人』もちて山住閣下にゆき、『白楽天』承り昼食。 散歩に荻窪へゆき帰りてユより1,000もらひ本2冊買ひ来る。 15:00「賀代嫗死す」と数男より電話あり、ユと阿佐谷駅で待合せし、横浜の病院へゆきしあと、金子一郎より「駅にあり」と電話。 「臍の緒」の資料ありといひ肴1人前余計にとり、夕食させwhiskyのませしあと写しゐるに、京帰り来しをしほに出てゆく。 ユ23:00帰る前、俊子姉より電話あり「香奠2人にて3万円とせん」、日曜お通夜にゆくと也。(※省略) 6月3日 垣根刈り了へ9:00すぎ川久保に電話しゆけば夫人をり。茶のまされて帰り休憩しゐれば麻生生来る。(※省略)帰りしあと映画一つ見て(※省略) 16:35来し山本生の飯おそきにいらいらし、20:30タバコ買ひに駅まで出る。(※省略) (小高根二郎君より「『果樹園』200号でやめる」と。) 6月4日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。聖餐式すみて清水嫗に挨拶す。帰り佐伯へ寄りまた『三品彰英論文集4』借り、16:00ユ出てゆきしあと雲呑くひにゆき、 帰りてnote作る。京帰りマカロニグラタン食はす。旨し。 今年の卒業生、小林、子安、齋藤に電話しIllinois州Winston(シカゴ北郊)の荒川夫人に「テルアビブ空港の殺傷の影響なきや」とかく。(※省略) 6月5日 5:00さめ、ユを6:20起し、7:00前に駅にゆかせし。(※省略) 9:01の急行に乗り丸重俊と同車なりし。semiに出席少く(※省略)、 成城堂にて『南京虐殺』借り、5,000位の借りと。テルアビブ虐殺の自殺者2人とも京大関係と判明す。 けふ高原法太郎氏より父の戦記ぜひ出せ云々。(※省略) 『沢田四郎作博士記念文集』来り、高原氏と並ぶ。 楊雲萍夫妻より「あす羽田発」と電話ありし。 6月6日 7:30宮崎幸三氏に電話す。「奥さんに感謝せよ」と也。 26,000もらひて佐伯に払ひし、成城堂に払ひすます。(東豊書店に寄れば忙しくしをり、成城払ひしと也)。 (※省略) さてカリキュラム委員会またひっくり返り2外国語やるとのことゆゑ、委員改任をいふ。(※省略) 研究室に学生多くゐるを見て17:00閉室を令し、丸・高山の2人に蜜豆くはせれば高山は野上を泊めしことわかる。丸と高円寺下車。 都丸ひやかしてのち家へつれかへると開々堂にて飯おごりしあとwhiskyのませ「仕事せよ」といふ。京帰宅後、丸帰り。 統夫より遺産と葬儀代のことで電話あり。悪人の尻尾をおもふ。 6月7日 朝5:00にさめ、朝食自分でし、生垣了り、ユを田上dr.へゆけといひ、busにて本天沼の母の家へゆけば大、ケイ子ともにをり。 大出てゆきしあと12:00まで母と話す。(あと5年生きるとのこと也。田上dr.へゆけとすすむ。) 帰り今井に寄れば数男、尚子をり(※省略)。21:00澄来りしに(宏一郎わが家にしばらく留まる)敏夫より電話あり。(※省略) けふ新安保の時負傷せし(鈴木)佐々木転任の挨拶よこす。 6月8日 2,000ユにもらひ登校。大学院鈴木のみ。やめて来し松田と会ひ、午食まで何となくすごし、13:00研究室しめさせる。(※省略) まっすぐ帰りしも三鷹まで特急に乗り引返し『春瓶梅』買ふ。ユを促して天沼へゆかせ、帰りしと飯くへば笠原母子。 息子の自動車待つといふゆゑ母一旦帰らせ、文恵に飯くはす。ドイツ語の歌好きと。そこへ母息迎へに来り「月曜来る」と文恵いふ。(※省略) けふ中央公論社より『日本の詩歌』増刷の1.3万入り、山中智慧子氏より『三輪山伝承』来る。 6月9日 5:00さめ7:00すぎ、ねてゐる京起し、よべ23:00に帰りしを咎め「この一年間に適当なる相手見つけてつれ来よ。来ざればわが言に従へ」といふ。 撲りしを咎めしユをも撲り、9:00まへ出て田上dr.。ねんごろに電気鍼とmassage受く。われ先に出て小林家。父上迎へ入れらる。 宏一郎喜び迎へ克次朗も可愛くなる。ユ来し故「林叔父来る」とて12:00まへ帰宅。(古本屋にて詩集2冊と雑本1冊買ふ。) 林叔父果物もちて来しゆゑ「えびすめ(※塩ふき昆布)」もたせ母の所へ案内す。終りて荻窪まで案内、本屋ひやかして帰宅。(※省略) 6月10日 10:00白仁生来りし故「semi了り」といふ。13:00ともに出てお茶の水。 与謝野寛・晶子の会なれど野田宇太郎主催とて小堀杏奴氏の話のあと記念撮影。深尾須磨子次に話し、野田君の話。同じくmykeの調子わるく暑し。 深尾女史誘ひて喫茶し、帰宅。保田與重郎より『日本の文学史』来りをり。 6月11日(日) ハガキ出しかたがた佐伯へ寄り『江戸文学と中国文学』、『西域の秘宝を求めて』、『西域シベリア』にて4千円借りを作る。(ユ礼拝にゆく。) 12:00すぎ統夫夫妻香奠返しに来り、(※家屋代金として)あと60万円を払ふとユいふ。離婚その他にて200万円を払ふと也。船越へゆき柏井へゆくと也。 その帰りしあと花井邸に15:30ゆき、子供らに『シートン動物記』贈り、やや元気出しを見る。帰れば疲れをり。 Marlene DietrichとGary Cooperの『Morocco』見てnoteいい加減にす。 6月12日 8:30出て成城大学。声かれ「東洋文化史」もう止めてよしといふ。(※省略) 夕方、戸田謙介氏来り、Napoleon飲みゆく。(※省略) 檀一雄氏より『来る日去る日』賜はる。 6月13日 12:00すぎ、飯くはず出て月見そば食ひ14:00からの教授会にてカリキュラム委員会委員長の報告に異義をしつこく唱へてのち中坐。 けふbonus403,100三井銀行に入る。 6月14日 7:30さめ10:30ユとともに斎藤dr.。三越にて買ひ求めたwhiskyをいつもの如く贈り、ユと代々木で降り東豊書店にゆけば波多野太郎博士ゐあはす。 『新華字典(300)』と『多爾袞徴女朝鮮史事(650)』求めて帰宅。井上、麻生二人を帰らせ八木生は母病気の故semi休ます。白仁、大聖2生はストとなりてもsemiすることとし、18:00ともに出て田上dr.。 (矢野夫人と西川より「昌彦急逝(※大高クラスメート)」としらせあり。加藤が葬儀に出るとのことに電話すればをらず。香奠各自と也。) (※省略) 6月15日 9:00に登校。大学院修士2年の近藤昭一の出席少きを咎めれば「群馬より通学」と。考古学専攻とのことに「通学に本よめ」といふ。 昼休み我に話しかけるものなく、野口君にきけばあのあと散会と。(※省略) 悲しくて耐らず井上、大聖2生をアン蜜にさそひ、豪徳寺前にて下車。とぼとぼと矢野家にゆき夫人、3娘の前で哭く。 加藤、室、野村建設の重役と来り、庭に出れば長官お越し。3人に紹介し読経ききて「体悪し」と帰宅。 (大、来しはユと京と叩きしをききてと也。) 6月16日 7:00覚め、散髪にゆき葬式にゆく。西川来をり、矢野長官の挨拶にて出棺。夫人娘たち泣く。 西川の自動車にて東京駅。coffee(150)飲み、地下鉄にて新宿。 順法闘争の国鉄に腹立てて佐伯。『イエズス会士書翰集3』とり『扶桑行』なる愚本180にて買ひて帰宅。 昨日の出席カードを見て中途にて逃げし連中を電話にて叱る。最後に演劇志望の子22:00に電話かけ来り出席を証せしゆゑ承認してすむ。 家永牧太氏より礼状とAlbum。けふ俊子姉来る。 6月17日 5:30さむ。10:00来るといひし白仁生、国鉄順法闘争にて10:30来り、「「人参」のみにても書ける。先生の「依子死ぬ」に泣いた」といひ、 午食してゐるところへ七島万砂美と本郷美恵子とescapeのわびに来る。七島は鎌倉女学館にて賀代嫗の英語の家庭教師を受けし也。 ユのpermaに出てゆきしあと2生にこにこして去り、われは田上dr.に鍼にゆき5日分の薬もらひ弓子宅へ寄る。克次朗笑ひ、宏一郎喜ぶ。 帰ればユ疲れてをり、依子よりの電話いへば、望バアチャンといひしと。 竹内、関口、本位田の三人に電話し矢野のこといふ。躁甚し。(保田へ『日本の文学史』の礼かく)。(※省略) 6月18日(日) 7:00さむ。ユ10:00になりても戸塚へゆかざる故、松村達雄に電話し都合きけば明きをりと。ユ土産をもたせし故、吉祥寺、三鷹に下車すべきをまちがへて下車。太宰治のことを学習院生と話して松村家。「わが性よく知れりや。高田に云へ」 東大フランス語の小林にカリキュラム委員会で対立せしことをいひ「了解、月曜高田に会ひて云はん。頭を低くして長生きせよ」と也。 12:00に15分前となりて出て、杉浦家探しあて孫女に「オヂイサン来た」と云はせ次嬢、夫人と永々と話し、 杉浦(※杉浦正一郎)の写真に「矢野おまへのところへゆく」と報告。出て冷やしラーメン(130)食へば全くだめ。 竹内好の家探すうち迷ひに迷ひ楊井克巳家に飛びこめば(※省略)、そこより迷ひに迷ひ竹内家の(※表札を掲げた)一軒の夫人に教はりしもわからず、 coffee牛乳のみ、飴買ひ、やっと岡田紅陽の家の筋をゆきて竹内家到着。「あすの葬儀にゆけ」といひ、楊雲萍のこといへば、「会ひたかった」と也。 肥満し、夫人は白髪となりをり。パン食はさる。吉祥寺駅前に帰り佐伯により陳舜臣『阿片戦争』借りて帰宅せしもユ未帰。 また出て佐伯にて『経外奇穴考』『昭和文学史の構想と分析』にて5千円借り、今井家へゆけば夕食つくる翠忙しく、夫いつもの如くものいはず。 2児と話し家へ電話すればユ帰りをり。(※省略) 京、父の日とてプレゼント呉る。 6月19日 4:00さめ9:00登校。大山教授われに味方す。(※省略)午の休み、鎌田久子氏、矢野の葬儀におくれしと。丸の代りに番し盛んにjuiceのむ。 (※省略) 早くやめ帰らんとすれば1Eの3人あやまりに来る。みな出席cardに不要の辞かきし也。 雨ふり来り、帰りて蔵原の孫娘に電話すれば下宿の嫗「電話のたびにゐず」と。実家に電話すれば母親出て「しらべん」と。 6月20日 7:30起き、山住閣下に電話すれば「10:00外出、来てよし」と。大鹿卓の『野蛮人』返却受け、滝川政次郎博士に同窓と『吉原の四季』貸したまふ。 山住dr.に咽喉の薬もらひ12:30出て佐伯へ寄りbusにて池袋へゆく。池袋の本屋で長与義郎『青銅の基督(20)』買ふ。 (林富士馬に電話すれば「子どもの初宮参りに息子の自動車にて全滅するところなりし。檀一雄も体わるし」と。 栗山博士より「今後お中元無用」と。) 立教大学へゆけば「森永不買」のビラあり。23日に行動と。手塚氏来られ、ひとまづ10冊を白鳥先生へ届けることとし、ゆけば喜ばれし模様。 途中、左足捻挫せしらしく、渋谷よりbusにて阿佐谷1丁目に下車。 片足にて帰り山住dr.に治療受け、正己先生へと『日本中国の古代法』1冊進呈す。(※省略) 大聖生に電話すれば登校、未帰と。やがて帰りしを叱る。 大場選手(※大場政夫)パナマ人をやうやく倒すを大笑ひして見、痛み忘る。 6月21日 早く起き9:00山住dr.にゆき「足なほりし」を報告。正己先生「高価な本を」といはれしと。(※省略) 北口の新本屋にゆき『ホイットマン自選日記』2冊買ひ来る。河合仁氏の著書くれしを問へば店員われを知りをり。(※省略) 氷coffeeのみて帰宅。胃わるし。弓子より電話あり「ユ行く」と答ふ。ユ胃病の薬のませ三鷹へゆく。京、13:00出てゆく。(※省略) 14:00大聖、井上2生、まくわもちて来り白鳥先生の本もちゆく。(※省略) 16:30雨やみしのち宮崎智慧氏、田中氏をつれ来る。 父の『戦中吟』を30万円までにて凸版にて、といひ、しらべんと。『十八史略』をもちた田中氏帰りしあと、宮崎さんうどん食ひて21:00ごろまで話しゆく。 6月22日 早起きし(2:00さむ)、斗争と思ひてゆけば8:40始めの1時限教師講師室にをり。(※省略)午食し中国古典にゆけば出席者29人。 あとは遅刻とて入れるなといひしに次々に入り、叱りをれば(※省略) 中国語教育の大切なることを説教し、研究室へ帰れば丸。(※省略) 野田と餡蜜くひ、このまへ逃げし子を次々に呼べばをり、すませば笠原生「noteのblankわからず」と。「来よ」といへば来たき顔せし子らよこにをり。 土曜か日曜といひ、帰りて(※省略)、就眠にひまかかりし。 6月23日 9:00佐伯へゆき(※省略)、山住閣下に本返しにゆき滝川博士の本1冊お貸ししいろいろおしゃべりす。西原の新円張本人なりしことを云ひ、 11:00になり帰れば尚子来をり。八木生より「中野にあり」と。ユのうどん買ひ来るまでにつき、研究法教へ、最終的に本貸し、 14:30「sentimental journey」ともに見、16:00了りしとともに市川に帰りゆく。(※省略) 夕食して「大砂塵(O’Hara主演)」見る。(※省略) 6月24日 5:30さむ。9:00小泉肛門病院へゆく。(※省略) イボ痔と。塗薬、坐薬ともらひ帰り来る。(※省略) 佐伯へゆき『永遠のシベリヤ(750)』借り、 televi見ゐるところへ笠原文恵1Bの2人つれ来り、noteの穴埋め、笑ひつつ帰る。 佐伯へ750払ひにゆき『現代のエスプリ儀礼』の編集者大林太良氏の家見にゆきしに学長と同居らし。(※省略) 6月25日(日) 洗礼式ありとユ教会にゆく。われ躁とてゆかず。沢夫人よりの返事なきを気にし姉の家へと本天沼にゆきしに見つからず、大の戸を叩けば返事せしもあけず。 「あとにて来る」といひ、自動車の掃除する岡田氏に出征の時のこと話せば忘れをり。隣の岡田嫗も姿消す。数男の仮居にゆき、茶のましてもらひ、墓地帰りの新築祝は不吉といひ、出て大にゆけば「来客就寝中」と。ハバカリ借り、ともに出て佐伯へゆかんとし駅まで来れば11:30。 大慌てで引返す。12:00かっきりにユ帰宅。きつねうどん食ひ映画をteleviにて見、午寝せんとせしにユの丸への電話。2回とも怪しく丸へゆくこととし、まっすぐゆけば散歩に出ゐし重俊帰宅しをり。丸に「5、6月は昔よりわれ変なりしならずや」といへば「応」と。 重俊に副手の任務は教授間ならびに教授学生間の調整と教へ、(※省略) 21:00就寝。 6月26日 5:00まへさめ7:30ごろ(※教え子2人に電話 省略) 8:00すぎ5千円もちて登校。売店にてjuiceのみ、(※省略) 池辺君来りしゆゑ『富永次郎追悼録』は学生課でもらひし、森三千代をかしといふ。10:20教室にゆき、(※省略) 喫茶店にゆけば2生笑ふ。坐りてice-coffeeおごる(1年生の時は説教せざりしに、結婚結婚といふと也。一人は静岡二葉より来しと)。 出て帰宅。(※省略) 西川満に電話すれば「執筆中にて会へず」と。山際文雄に電話すれば「散歩に出た」と。 「帰れば電話くれよ」といひ、まつ内16:30かかりし故「岩森の奥さんの店でまつ」といひ懐中しらべしに60円。 やむなく国鉄に乗り、岩森(※岩森書店)に「わが本なし」と娘からかふ中、「奥さん」帰り山際君来しゆゑ 『歌日記(※西島喜代之助)』与へ、家までとゆく中、途まちがへ、(※省略) ユ帰りをり、(※省略) やがて山際君来り21:30まで話してゆく。(※省略) 沖縄知事選革新派の屋良勝つ。ザマ見ろ也。 6月27日 5:00さむ。佐伯へユとゆけば『鴎外全集8』と『三品彰英2』と来をり。2,700もらひて登校。(※省略) 大学院教授会にゆけば、(※省略) 堀川部長に痔の手術ありとて教授会欠席の許しを得、新宿より代々木、東豊書店へゆき、 個人、学部、大学院の予算と買入れにつきわからなくなり、650本買ひ、(※省略) けふ八木生来り桜桃くれ、枇杷食って帰る。 6月28日 4:00さむ。8:00まへ出て地下鉄にて雨中8:40斎藤dr.。(※省略) 四谷三丁目に近き井上和子呼び出し家へゆけば母親出られ「父親のめぐし子」と。(※省略)、 bus停にて案内され早大行にのれば若松町に出、薬王寺にゆかず新宿に引返し、 田上dr.にゆきしといふユに狐うどん食はされ、蔵原はま子氏よりの小包あければscotch whiskyと肴の缶詰。 山住閣下の昼食了るをまちてもちゆき『天鼓』きき白楽天の子を失ふところで止めまいらせ、 14:00来し大聖生に『則天武后』の通鑑本を検し、 ほぼすみし処へ滑川巡査部長、若き刑事とともに影山正治氏のことききに来る。 『不二』と『歌日記』わたし「何もなからん。われ知らず」といひ不快。 田中角栄、福田より優勢なるらし。思ひつきて金沢にゆき夫人と列席のところにて洋酒のまされ疲れて帰宅。 (『東京都区分地図(200)』買ふ。cardなくなる)。 6月29日 9:00ごろ登校。(※省略) 図書館へゆけばわがsemiの卒論を丸がもちゆきしと。(※省略) 東洋史も出席とらず早くすませ、16:30まで石野田、高野2女まち「東宝」にてみつ豆くはせて帰宅。 6月30日 朝方より堀江氏の郭沫若『李白和杜甫』まち、もち来られしに300払ひ、放談し、 14:00引きちがへに来し井上和子生に『古今図書集成』の中の部訳し、 17:00帰りゆきしあと散歩に出、家に向へば前をゆくは太田夫人。(※省略) けふ〒なし。 ユ、三井銀行にて30万円貸すとききしと。 7月1日 休みに入る。箕輪尚子より「大林太良氏、学長宅に同居」と。(※省略) ユ、三鷹へゆき、われ散歩に出しも暑く(31℃)佐伯までゆきて帰り来る。 7月2日(日) 5:00さめ礼拝にとゆく。聖餐式あり。すみて狐うどん(130)われ食ひ、ユそば(100)食ひ別れて帰宅。 13:10映画見てゐれば箕輪律子、崎山正子、今井美津子の3人「太陽銀行まへにあり」と。 迎へにゆき「本学のNo.1は」と問へば「中西進博士」と。15:30ユより電話あり、出て新宿にて別れplatformにて待ち、 (※省略) 上野毛にて電話し純也生迎へに出て五島美術館まへを通りMansionにゆく。(※見合打合せ) 19:00しゃぶしゃぶ出されて食へず、西瓜、ice-creamなどdessert食って21:00すぎ駅近くまで純也生に送らる。 雨降りをりしも阿佐谷につけば止みをる。ユの引合せ両方合意せしと。 7月3日 三鷹の田上dr.1時間以上またされ湿疹と病名定まる。弓子より電話「コークン眠りをり」と。(※省略) 長尾夫人より『コギト』reprintに娘よこすと。森亮氏より「東久留米市に住む」と。 7月4日 少し風ふき涼し。ユ、疲れし顔しをり。小高根二郎氏より「遺書」に異議。 長尾夫人のこと気になり文房具屋のぞけば電子機にてコピー代40,35,30と書きあり。佐伯に寄りて散歩すむ。 鎌田氏より香奠返しならん、Melon3ケ来る。(※省略) けふも『金瓶梅』のcard採る。 7月5日 7:00さめ朝食(いつもの通り茶、梅干し、スープ、パン1枚)して斎藤dr.。目加田博士と劇とのこと問ひたまひ「しらず」と答へ、 一週間分いただき小川町までbus。card買ひ(※省略) 代々木に下車。東豊書店にゆきラーメンとってもらひ帰宅。 佐伯へ借金払ひにゆけば、また1冊来をり。けふ角川より「『ハイネ13版』7月中旬8,000部出す」と来をり。(※省略) けふ田中角栄、高等小学校出、大正7年新潟生れと。右翼選挙に示威運動せしと。この間の刑事の来宅(※大東塾の行動につき警察が影山正治について聴取に来たこと)はそのためなりし。 7月6日 雨、ユ田上dr.にゆく。半身しびれると也。12:00すぎ帰り来しゆゑ昼食して登校。(※省略) 『東方学』来る。郭沫若よむ。わが反論多し。(※省略) 7月7日 風吹きやや涼し。9:00まへ散髪にゆきお花料用の封筒(20×5)買ひて帰宅。『金瓶梅』やり12:00前出て東高円寺まで歩く。 途中チャーシュー麺(150)注文、ほとんど食はずcoca-cola(30)のみて道きき、環七沿ひの大寺とわかり 13:00丁度つき「父母の会」の香奠(3,000)とわがお花料(3,000)とを受付にわたし、 阿部良助来るをちょっと待ちしあと地下鉄にて1本待てば向側に阿部をり。呼びて「来ずや」といひしも来ず。 けふ某社より稿料1,000来る。統夫より電話あり、隣りをapartにしたきらし。 (※省略) 夕食後「あとがき(200×4)」書く。山本より会葬の礼の電話。 7月8日 ユ神経痛。午すぎまで柏井へゆきて帰らず。13:00帰宅。昼食せしむ。『金瓶梅』7回すむ。 16:00宮崎さん来り、田中英一氏と名教ふ。信越企画となり。表紙と扉とに父のハガキの署名を貸す。(※省略) 7月9日(日) ユも我も礼拝休み。ユ見合にと出てゆく。われ11:00出て佐伯に寄り、雲呑(150)を「新京」で食ひ、帰宅してtelevi見る。 角川書店より味の素来る。なにゆゑかしらず。(※省略)  けふも『金瓶梅』のcard採りし。『中国の神々』にせんと思ふ。 ユ、多摩墓地より帰り南多摩墓地といふがあり1平方米3.5万円と。 7月10日 雨。9:30白仁生来り、午食し、13:30までをり、出来ず。井上生の賢きをいふ。ユ風邪とて山住dr.にゆき臥床。 (※新聞に?)保田の『日本文学史』の書評のりをり宮崎女史に貸せしらしく見つからず。 『果樹園』来り「遺言2」のす。5までのるらし。白鳥君子様より「(※文集刊行の尽力に)主人泣きし。物送った」と。(※省略) 手塚氏に電話すれば「残り90部も着きしと夫人より便りありし」と也。大岡昇平の『俘虜記』よみ了る。 7月11日 雨。小雨になりし時『文芸春秋(200)』買ひ来りよむ。(※省略) 『ポリタイア』来り長尾良追悼。1,400の会員募集と。 雨中、大工来り(二度目)風呂の囲ひす。 7月12日 雨中9:30斎藤dr.。11:00すぎ呼ばれ(※院長斎藤茂太より)「天女は中国にありや」と問はれ「インド西域の流れ」とお答へし、 千駄谷より駒込。月見そば(170)食ひ東洋文庫。前田勝太郎君「痩せた!」と也。(※省略) 写し疲れて帰宅。 7月13日 雨止む。白鳥奥様より海苔。芳郎君に電話して『東方学』か『東洋学報』に紹介をといふ。 宮本馨太郎氏より電話あり「90部は芳郎君もちゆき書肆に任せた分売れればよし」と。(※省略) 7月14日 8:00さめ雨止みゐる。山本秀樹生15:00来るゆゑ13:00すぎ柏井へゆき新宅みて歯の治療、「抜かず」と也。歩いて帰宅。 山本生来しに『漢書張鶱伝』よみ、16:00帰りゆく。(※省略) 雄松堂より『西洋の書物』もらふ。 川久保より「白鳥先生の本みた」と。藤田貢「大宝通商社長」と。 7月15日 台風6号来り、大雨にて東京の水飢饉なくなる。『金瓶梅』のcardにて疲る。(※省略) 海老沢博士『Epistla』46号。 澄より電話「(※省略) 依子ら8月来る」と。 7月16日(日) 晴。夫婦とも礼拝にゆかず。統夫来り、本多・船越2家にゆき返地か買地か悩む。 長尾夫人より「『コギト』もちゆきたし。火曜来る」と。 7月17日 西川に矢野明子の吊書もちゆく。帰れば12:00。(※省略) ユ清水さんにゆき花聟候補2人もち来りし故、矢野夫人に電話(※省略) 7月18日 8:00さむ。京、西伊豆へゆくとて遅刻。長尾良の次女来り、上智大でprintすると『コギト』もちゆく。 松浦母上と美紀子2孫来りしあと、長尾嬢再来、2冊もちてcopyにゆく。(※省略) 7月19日 矢野明子会社に意中の人あること判明。(※省略)この2~3日大工来り工事すすむ。 7月20日 眠し。ユ眼医者へゆき「眼鏡屋呼ぶゆゑあつらへよ」と云はれしと。大工すすむ。 14:00すぎ七島生、本郷生をつれ来り、17:30ごろまでをり。(※省略) 西垣脩君、『コギト』の詩人につき電話で質問し来る。 7月21日 けふも大工来り、おほむねすむ。(※省略) ユ15:00三鷹へゆく。山本生来り『張鶱伝』すむ。 ユ帰り来り、宏一郎祖母を忘れしと也。(※省略) 宮崎さんより電話「和本仕立とし、箱に入れる」と也。 7月22日 台風気味。よべも睡眠感なし。9:00すぎユ、矢野明子のため出てゆき、井上和子生semiに来る。(※省略) 午すぎユすし買ひ来るまで待って帰りゆく。けふも『金瓶梅』のcard採り、大工室ほぼ了り、あとガス風呂入るを待つのみの線也。 7月23日(日) 雨しばしば降る。台風のせい也。夕方ユと三鷹。父の留守にて宏一郎喜ぶ。克次朗肥えをり。夕食出され20:00帰る。(※省略) 7月24日 曇。白仁生10:00来り、人参のよみほぼすみ「書け」といふ。14:00近く帰りしあと柏井へ歯の治療にゆく。 帰ればgas屋来てをり。すみて出せしwhisky1瓶のんで帰りゆく。(※省略) 7月25日 風呂場の壁はりはじまる。12:00電話かかり伊勢スミエ女(※省略) ユ迎へに行き昼食さしてつれ来る。 昭和11年の隣家鈴木家の長女なり。(※省略) ユ、スミエ氏送りにゆき川久保嬢に会ひ「2~3日前、父上京」と聞きしと。 7月26日 きのふまで30℃越えしにけふは涼し。『鴎外全集』きのふ払ひ(1,800)、(※省略) 塩崎家に電話すれば母上出て「けふ退院の予定」と。「無理をすな」といひ柏井へゆけば「数男、河北病院に見舞にゆきし」と。 (※省略) 京、三鷹へゆき「けふ善一郎君帰宅」とて帰り来し。けふ暑中見舞の返事大分かく。 7月27日 ユ神崎三益院長夫人の告別式に教会にゆく。(※省略) 大聖博美生10:30より14:00までをり『則天武后』の3年(旧唐書の)分よませ鬱いひて帰らす。 ユ15:30帰り神崎夫人の模範的クリスチャンなりしこといふ。(※省略) 7月28日 矢野夫人に「岡夫人にあす挨拶にゆかずや」と夫婦していふ。(※省略) 佐伯に「本買ひに来てくれ」といへば内儀「あす」と。 ルリ子(※大氏前妻)といふより電話3回かかり相手にせざりしに、柏井へゆきて歯をと思ひしところへ、 ユより「4回目の電話にてところわかりしを云ひし」と。 訪ねゆけば母をり「大21:00帰宅」と。(※母を)わが家へつれ帰り「相手になるな」と泊める。 (けふ角川よりHeine13版来しゆゑ「coverに(※名前を「克己」でなく)「巳」とす」とハガキかく。) 『果樹園』に「遺書4」書く。大21:30ごろ電話かけ来る。 7月29日 『果樹園』に速達(同人費2,500)出しにゆき佐伯のぞけば「今いくところ」と。 あとにて来り母の見てゐるところにて6千円買ひゆく。(※省略) ユまた見合と出てゆく。(※省略) 17:00ユ帰り来る。(※省略)  『金瓶梅』にて頭痛し、語彙豊富にてcardとりきれずと思ふ。 7月30日(日) 礼拝にゆかず。10:00林叔父来り、火災保険3,100立替もちゆく。(※省略) 統夫来り、本多地主200万なら出すと。船越は「三間風呂付の便利なところへ移りたし」といひしと。夕食して帰りゆく。 川久保より電話あり「話うまくゆかざりし。来て話す」と也! 鬱また始まる。紀要のせい也。 7月31日 暑し。9:00すぎ区役所へ印鑑証明もらひにゆき(※省略) 柏井へ歯にてゆく。大、母ともに音信なし。 8月1日 『金瓶梅』捨てず『台湾の神々』書けず。(※暑中見舞 省略) 8月2日 暑し。川久保に電話し「涼しき内に来たまへ」といひ、来しと12:00近くまで話す。「令嬢つきあひてのち断りし」と也。 (※暑中見舞 省略) 佐伯へ寄れば『南方全集(2,520)』来をり。 統夫より電話あり「本多より200万円もらひ船越に150万渡すか2軒建てて一軒に住まはす」と也。感心す。 成城同窓会より電話「東豊書店より本来あり」と。「校務員室へお願ひす」といひしあと旧制一回生とのことに恐縮し、 東豊書店簡木桂氏に電話すれば「もちゆきし。台湾へ来週ゆく」と。京、四日まで軽井沢へと出てゆく。 上田稔翁より「『きさらぎ』300号記念号に斎藤虎五郎・篤2翁、(※父、西島)喜代助を詠ず」と。 8月3日 暑し。依子より電話「あす10:30に乗る」と。ガス風呂もち来り、ガラス戸電気を残し大工仕事すむ。 ユ、母に初風呂に招きにゆきしも大をり「あす」と。『台湾の神』考へゐるも書けず。(※省略) 京帰宅。 8月4日 暑し(33℃を越えしと)。母11:00来るまへ、ユ出てゆく。京、在宅。握飯ふたりで作りしを食ひ、出ず。 14:00依子、泰・望をつれてユ、帰り来る。望忘れて中々つかざりし。入浴し暑きを忘る。(※省略) 依子突然「佐々木邦彦画伯癌にて死亡と新聞に出をりし」と! 夜、七夕祭とて混雑する通りを100m歩き、佐伯へ『南方全集4(2,520)』の代金払ひにゆく。(※省略) 8月5日 けふも暑し。望やうやく慣れちょっと物食ふ。諏訪澄、高松にをり母上「御苦労様」と電話いただく。 きのふの壁塗り「入浴」けふは駄目といひし由。(※暑中見舞 省略) 山本生に武帝時代の「西北アジアを一章にせよ」と直しつつ教ふ。夕食まへに帰りゆく。 8月6日(日) 夫婦ともに聖餐式にゆく。午后小林夫婦来り、(※省略) 宏一郎、克次朗と従兄2人とよく遊ぶ。 善一郎君の買ひ来し西瓜甘し。夜、迎へに善一郎君来り、帰りゆく。『台湾の神』まだ書けず。 8月7日 台風来り雨降らす。(※暑中見舞 省略)  『台湾の神』書かんとす。(※省略) 8月8日 7:00覚む。9:30白仁生来り『牛蒡』よます。ユ、泰・望をつれて出、依子も友へとゆく。 13:00白仁生を午食に新京飯店へつれゆく。けふ35℃と。風ありて堪へ易し。(※暑中見舞 省略) けふ三井銀行より30万円引出し工務店に払ひす。71万円かッきりとしてくれる。 8月9日 7:00さめ、だるく斎藤dr.にゆかず。(※暑中見舞 省略) だるきも依子、母のもとへゆくとて案内し(望のみ従ひ、泰は京につれられて映画見にゆく)柏井にて治療受く。(※省略) 8月10日 8:30出て斎藤dr.。代診(※省略) 帰宅すれば宮本馨太郎教授より「白鳥清先生昨夜なくなられ1:00にしらせあり。けふお通夜」とありしと。 宮本邸に電話すれば夫人出て「18:00よりお通夜」と。16:30出て祐天寺より歩く。昔を思ひ出す。 手塚・宮本2氏来しところと(門前にゐしは立教の教へ子なり)。 夫人の話相手去るをまち、お花料(5,000)お渡し中川教授といれちがひになりて帰宅す。澄来てをり。(※省略) 8月11日 晴。風吹く。ユ、三鷹の田上dr.に泰つれゆく。(※省略) 依子、美紀子へとゆく。 12:00出て東横多摩川園前にて下車。角のそば屋に月見そば注文すれば小林教授入り来る。61才と。 途中にて「気を悪くしたか」ときかれ困る。カソリック教会にゆけば手塚・宮本2氏もあり。 告別式はじまり「主よみもとに」1節のみ。あと音響効果わるく荘厳なるもうろうろす。献花すます前、芳郎君と挨拶。 「とりわけ論文集を教へ子の力に刊行されしを喜びたまひし」と。火葬場へ招かれし手塚・宮本2氏に挨拶し、 阿佐谷までまっすぐ帰り、駅前で氷宇治(150)食ふ。けふは喪の日とす。 ユ、矢野夫人に「明子の話ことわられし」と電話す。(澄けふ帰りし也) 8月12日 涼し。物見の塔(※エホバの証人)の女史来り「1975年に地上楽園来る」と。(※省略) 『台湾』1038pに「地震は地中の地牛が動くから起る」との記載見つけ、うれし。 8月13日(日) 夫婦とも礼拝にゆかず。よべ泰、喘息に苦しみしと。(※省略) ユ、清水さんにゆきてまた長っ尻なり。(※省略) 8月14日 10:00すぎ井上和子生来り『太平御覧12』を麻生生よりとり来りしも話せずと。(※省略) 松浦父上より「坂出工業都市となる」と。井上生のもち来し大阪ずし食ひ、涼しくなりてより柏井へ歯の治療。(※省略) (佐伯へ2,700払ひ『蒙求(250)』買ふ。大工の払ひすみしをいふ) 澄より電話「霧ケ峰へ美紀子もゆくか」と。 泰、喘息に朝ゆきし山住dr.に遭ひ礼いふ。雲仙石田スミコ氏より洋服地一着送らる。 8月15日 (※暑中見舞 省略) 柏井へ歯の治療にゆく。芙蓉堂に寄り『灯台社の戦時下抵抗』買ひ来てよむ。敗戦記念日なり。 母来り「咲耶と嫁と不和」といふ。 8月16日 朝夕涼しけれど日中は30℃を越す。13:00まへ大聖生来り『則天武后』の『旧唐書』をよます。15:30帰りゆきしあと入浴し柏井へゆく。 (※省略) 川久保に電話すれば「松本に行きし。帰れば云々」と嬢。豊島園へゆきし依子母子3人と京と帰るまへ電話あり「あす11:00弘前へ帰る」と也。 8月17日 9:30依子母子、ユに送られて出てゆく(写真うまくとれず)。14:30依子ならびに澄より「名古屋へ帰った」との電話あり。 (※省略) 小高根二郎氏より「『果樹園』12pにしても少しつづける」と。ユ神経痛にて山住dr.にゆく。 8月18日 朝夕涼しくなる。ユ、依子に電話すれば望も出て「バアチャン」と云ひしと。泰の喘息も止みしと也。 夕方柏井へ歯の治療にゆく。(※残暑見舞 省略) 夜、宮崎智慧女史来り『早川孝太郎全集2』たまひ、田中社長と喧嘩すると也。 8月19日 母来りしにユ、送り出す。大、televiこはれ電話もなく困りゐるをユきき、夜話す。われ三鷹へゆきしユの留守番す。 (※省略)  8月20日(日) 6:00さめ9:10家を出て礼拝。(※省略) 清水嫗まちユと帰る。(※省略) 罐にて手切り出血に驚き山住dr.に電話すれば「来てよし」と。血止まりしあとゆき恥ずかしがりつつ手当受けて帰り来る。 母待つらむも大、憐れにてゆかず(父の命日なり)。『台湾の神』にとりつかれ弱りし也。 8月21日 涼し。7:30さめしところへ咲耶電話かけ来り、ユ聞けば「けふ上京、大の家教へよ」と也。 10:00まへ大聖生来しをみてユ、母にしらせにゆき、帰り来し12:00まへ、大聖生帰りゆく。(※省略) 柏井へ歯の治療にゆき「金貸したか、母に」といへば「貸さず」と。鬱々として何も出来ず。 8月22日 はげしき雨降る。何もせずにゐれば雨中、咲耶来り、次男夫婦の不和をいひに来しに大の窮乏と母の苦難とをいふ。 大、仕事をおきて大阪へ汽車賃もらひて和解の為ゆきしと。18:00すぎ帰りゆく。「大、仕事もうすぐ片づき金入る。そのあと金儲けする」といひし由。 8月23日 雨止み、涼し。(※省略) 山際文雄君より「いつ来て宜しきや」と。「けふ来たまへ」と云ひ、Cakeもち来しと話し笑ひをれば長々とをり、うす暗くなりて帰りゆく。 もはや紀要書かずときめしつもり也。(※省略) 8月24日 斎藤神経科へゆき代診の先生に薬ふやさる。帰り佐伯へ寄らんとせしもしのりをり。 8月25日 けふも涼し。午后柏井へゆけば「間に合はせする故、月曜8:30に来よ」と。(※省略) 大にゆき見ればしまりをり。帰りもbusにて荻窪まはりて来る。 薬強すぎると思ひ、いはれし丈はのまず。呆然としをり。 8月26日 けふも涼し。八木沢維子来り「9月17日(※省略)結婚式披露宴に出よ」と。「出る」といひ、祝に万年筆贈り、佐伯へゆき『鴎外全集』10回の払ひす。 中央公論社より『日本の詩歌』の増版印税1万2240円を三井銀行に入れしと。(※省略) 8月27日(日) ユ、けふ礼拝を忘れたり。無為。鬱なり。ユ眼鏡買ふ(1.2万)と。 8月28日 7:00起き、8:10柏井へゆき入歯の上とられ丁度9:00に阿佐谷郵便局にて古野清人博士へ記念品代1,000をす。 10:00ごろ南隅、椿下、山荘の3女史、信州をまはって東京駅と電話かけ来る。(※省略) けふ『台湾の神』少し直す。 8月29日 午后、柏井へゆき入歯出来わるしとて「金曜また来い」と。(※省略) 8月30日 井上和子生来り元気なかりし。ユ出て三鷹へゆき、休みの京、うどん煮て少しうす味なりし。13:00すぎ井上生帰りゆく。われ『果樹園』社へ1,000送りにゆき、 帰り佐伯に寄れば『漢語辞彙9』来てをり。3,420の借りとなる。薬のためかダルく、紀要あきらめることとす。 8月31日 暑し。久しぶりに32℃と。母、下着を祝にもち来る。61才となりしなり。ユ、15:00三鷹の田上dr.へ神経痛の治療をしてもらひにゆく。 (※省略) Olympic100m平泳ぎに日本の田口1分4秒9世界新記録を作り優勝す。体操個人も男子3人medalをとる。 9月1日 けふも30℃を越す。8:30柏井へゆけば「あす技工に歯とりに尚子やる。13:00ごろ来よ」と。歩いて帰宅。 平凡社より『百科事典』の稿料3,000-300。西川に「矢野明子たのむ」と手紙かく。 9月2日 小高根二郎氏より「同人費受取った。佐々木邦彦氏7月31日胃癌で逝去。8月1日自宅での葬儀に出、梓君を夫人より紹介されし」と。 佐々木夫人富子・梓君より会葬の礼状同時に来る。14:00柏井へゆき、上入歯入れてもらふ。(※省略) 弓子、宏一郎つれて来り、ぢぢおぼえゐるらし。大聖生来りteleviにてbasketの試合見る。女子、北鮮に勝ちし。 大聖生『旧唐書』の「則天武后」をよまし了る。 9月3日(日) 7:30さめ、televiにてMünchen Olympic見、礼拝にゆく。帰りてtelevi見てゐれば野上父子来り、(※省略) わが推測通りのことなりし。 喜びいひて帰らせしあと、花井夫人より電話。泣きながら「愛想づかし受けゐる」と。ユ「あすゆく」といひ、弓子の服買ひに出てゆく。夜は涼し。 9月4日 7:00起きてtelevi見8:30出て定期買ふ。昼食注文し東洋文化史教ふ。すみて昼食し、相良先生より教はりて故富永次郎氏の同級生安原さんに礼云ひにゆく。 (※省略) 樋口伊素氏に会ひに(※成城)高校へゆけば「8日まで休み」と。semiの時間、金子一郎生の韓国旅行談きく。 すみて渡辺家へ寄れば(※省略)、飲物出さる。帰りて花井家へ慰問にきしユの帰り待ち入浴。(※省略) 夜、19:30、televi見ゐしところへ「ものみの塔」の男の人つれて女史来り、22:30まで講じてゆく。 9月5日 やや涼し。佐々木富子未亡人に御花料(5,000)送り、佐伯に寄れば『五雑俎(2,700)』来てをり。けふ〒なし。 隣の処置につき俊子姉より電話あり「スミ子一家を入れたし」と。森みちえ氏来り、この間かりし500円返却しゆく。 Arab GuerrillaにIsrael人Olympiadで殺され、人質とられしと。(※省略) 澄より電話「岐阜支局への転任とりやめとなり栄町のbuil.管理やられるらし」と。 浅野晃氏より「『日本浪曼派』にかいてやってくれ、云々」の電話。 9月6日 9:30出て国鉄にて斎藤dr.。久しぶりに診察受け、薬へらしてもらふ。帰り東豊書店に寄れば簡木桂氏不在。300の字典買って帰宅。 八木生13:40来り、正月の行事よます。宮崎女史20:00ごろ来られしも、校正すましわれが「阿片戦争」のnote作りしたきを見とり早々退去。 Arab Guerrillaの人質みな空港で死にしと。その葬儀でOlympic一日休みとなる。(※省略) 9月7日 7:30さめ8:30佐伯に金払ひ登校。(※省略) 昼食し (※省略) 東洋史教へに001へゆけば暑くて耐らず30分ほどして逃げ出し帰宅。 岩国の杉本春生氏より小学館の『百科事典』にわがことのせるとて質問、速達にて答ふ。けふ残暑31℃を越す。 Israelの死者帰国せし。ソヴィエト遺憾と云ひしと。 9月8日 朝7:00さめて女子Volley-ballのUSSRに負けるを見し。午后、柏井へゆき、歯、入れ外し出来るやうにしてもらふ。(※省略) 9月9日 7:00さめ男子Volley-ballのBulgaria teamに辛勝するを見る。(※省略) 12:00加藤ひろ子より「頼みあり来る」と。「自動車にて近くまで来た」と。やがて男つれ(紹介もせず)にて来り、 「リトルエンジェルス」なる韓国舞踊団の講演に協力を卒業生にたのみゆくと。 筆にて推薦状かかし、学長にもたのむゆゑ学生課長をへると、嶌野課長と大林学長への名刺かきて渡す中、麻生生来り、 (※省略) 2時間して菓子出せば匆々去る。田中雅子と電話して葡萄もちて靖子夫人来り、(※省略) 9月10日(日) ユ、礼拝にゆく。12:00「あゆみの塔」のこの間の男、高円寺の会に誘ひに来る。(※省略) ユ帰り来ると同時に帰りゆく。三位一体否定説なり。 「統夫来る」とのことに待てば、八木生より電話、来しを教へ「元旦」ほぼすむ。 (※孫)順一より電話あり、ユ出て、母のところ教へ、18:30来り、夕食し、眠がりて21:00帰りゆく。 9月11日 7:30さめOlympicみて8:40ごろ出て登校。(※省略) 午食ののち高校に電話し樋口氏に会ひにゆく。(※省略) semi白仁、八木、金子の3生来ず。麻生生の声低くやせゐるを心配す。大聖生終えへる直前に来る。 帰り東豊書店に寄り李君奭訳『李白』(※田中克己著『李白』の海賊版)もらひ、今までの買上げ教へてもらひ、われのと学部とへの『三才圖會』の届けたのむ。 帰りて『李白』よめば『台湾文芸』にのりしままの誤植多し。 9月12日 『李白』もちて(9:30さむ。珍し)登校。丸副手に東豊書店の書付わたす。14:00まで高田瑞穂君に会ひ「松村と話せし」ときく。 教授会わりあひ早くすみ専攻の会。白鳥芳郎君に御花料1,000づつ出すこととなる。野口君(※野口武徳)『沖縄池間島民俗誌』賜ふ。 茶もちて来し高山紀子生に「力になる」といへば喜ぶ。(※省略) 帰りて加藤生に電話在寓。この間の同伴は日大生、訪ねしは「旧制成城高校2回生の農協総連合長」と。呆れてさとせば「木曜話す」と。無戦派の筆頭なり。 けふユ、母のもとへ伊勢(※の弟)の子とゆく。あす咲耶のもとへゆくとのことに1万円渡せしと也。 9月13日 家居。眠くてたまらず。(※省略) 夜、八木生にsemiの休み咎むれば「病気」と。戸田謙介令嬢、浅野晃氏の『現象詩集』届けたまふ。 9月14日 午后雨と。置き傘ある故ゆく。東豊書店より本届きをり。丸副手に白鳥家への1,000わたせば(※省略) 加藤生ゐるを見て問へば、 「一昨日全農協の三橋誠会長に会ひてslide写し「堀川部長に会へ」といはれし」と。部長室のぞきしに「帰宅」と。 東洋史の時間すみて加藤生つれ雨の中を新宿までつれ「あす来る」とて別る。 帰りて南方熊楠の『十二支考』の「酉」見しになく『太平御覧』検すれば「泰山の雞」2カ所にあり、うれし。 9月15日 老人の日。10:00加藤生より電話「けふは来れず。水曜友人つれて来る」と。 13:30雨の中を長友(新坂)夫人、脇本豊子夫人つれて来る。(※省略)ともに2女ありと。ユ、子供と孫の話し、16:00雨の中を送り出す。 夜、笠原文恵生、雲丹もち来り、兄のautoまつといひて上らず。 けふ林叔母より「全田叔母わるく入院、丹羽の母も同じ」と。角川より「『Heine新版』の印税送った」と。まことに老人の日なり。 9月16日 台風と低気圧にて雨ふる。(※省略) 林叔父14:00ごろ来たまひ「地震保険加はり(※省略)」と。雨の止みしをりに帰りたまふ。天気予報(※省略) 9月17日(日) ユ礼拝にゆきしあと、散髪にゆけば満員。(※省略) 木村理髪店といふにゆく(800)。 12:00出て巌太郎と八木沢維子の披露宴にゆけば13:00ごろより始まる。(※省略) 佐伯へ寄りしも本なし。けふ弓子、宏一郎つれて来しと。 9月18日 登校。午后のsemiを金子一郎の「朝鮮論」にゆづる。「二つに分かれてゐる不幸を直視せよ」と也。 出たところにて加藤生に会ひ原理学会につきて話せといひて別る。21:00ごろ眠くなる。 けふ『芸文類聚』、『詩詞曲語辞匯釈』もち帰る。 9月19日 秋晴れつづく。7:00すぎ起さる。12:00すぎ出て成城。大学院修士近藤昭一の話をきくため也。 長友夫人の(※中村)地平識りをりしことより、またアガリのこと話し、あとにて憂鬱となる。 「金屋の石仏は古しとも新しともいはる」と近藤生の話なりし。(※省略) 9月20日 9:30斎藤dr.へゆく。薬もらひてすぐ帰宅。佐伯に『和刻本中国随筆2』来てをり『輟耕録その他(2,700)』なりし。 17:00すぎ加藤生、宣教師つれて3人にて来り、三位一体を認めずと。ユと問答して20:00帰りゆく。 けふ大藤氏より「泰山の伝説」教示を受けしと。『骨』41、42来り佐々木邦彦画伯の葬儀に会衆400人と。依田義賢氏にハガキかく。(※省略) (速達にて『健康』に10月30日までに随筆400×2をと、「諾」と答ふ。) 9月21日 電話かけて弁当たのみ11:30登校。大藤、栗山、大山の各教授と話し中国古典すすめ東洋史やり了へれば加藤生来る。(※省略) 加藤生と喫茶、「主の信仰に入りしより4ヶ月」と。新宿にて別れ、 松本健次郎より漱石、大川周明の病気の有無につき毎月かきしを送られ「体の調子はいかが」と問はる。ア・ア研より『言語文化研究5』賜はる。 松本に病歴かく。 9月22日 佐伯へ2,700払ひ、予算つかひしことをいふ。ユ、三鷹へゆきしも「宏一郎ねたまま」と。 19:00阿部良助来り、遠大なる計画見す。呆れて「やってみろ」といひ羊羹くはして帰らす。 9月23日 秋分の日。佐伯へ金払ふ。12:00まへ「Watchtower」の布教師の人また来り(45才)、16:30まで話してゆく。三位一体否定な り。 川久保、羽田弘前よりよせがき。巌・維子、志摩の合歓の里より。(※省略) 京、結城の友つれ来り泊める。 9月24日(日) ユのこし礼拝にゆく。すみて竹森先生より呼びとめられ「ドイツの讃美歌を笹淵博士・大塚長老らとともに訳せよ」と。 このごろ『金瓶梅』の語彙またcardに採る。眼疲る。 9月25日 曇。寒い位。「田中首相、8:00出発して北京にゆく」。(※省略) 木村三千子氏より『骨』に「佐々木さんのこと書け」と。 東方学会より10月6日国際文化会館にてBoxer氏らの講演と。「出席」の返事す。『四季』より丸山薫氏の詩碑、山形に建つと。「欠席」の返事す。 野長瀬正夫氏より『晩年詩集』。『果樹園』よみしと也(伊藤佐喜雄追悼の詩)。 9月26日 門外不出。寒くなる。(※省略) 夜、「医者の不養生」を『健康』にと書く。ユ、山住dr.にゆき神経痛か否か調べると也。(※省略) 9月27日 10:00井上和子生来る。中山(青木)正子より電話「New Otaniにゐる。来る」と。12:00すぎ阿佐谷に着きしゆゑ迎へにゆく。(※省略)  つれ帰れば、わが斡旋にて入社せし太陽堂の若主人と結婚、前田隆一氏の向かひに住むと。還暦祝にnecktie止め賜ふ。 ユ、三鷹保健所へゆくとの弓子の電話とともに出てゆく。井上生も疲れし顔して帰る。(※省略) 9月28日 矢野夫人より故人のnecktie贈られ電話して礼云ひ、西川に電話すれば気のなき返事なりし。ハガキ買ひかたがた外へ出て佐伯へ寄れば『鴎外全集』。 帰りて中山夫人に礼かき「前田夫妻によろしく」といふ。けふも『金瓶梅』やりもうすぐ1冊目すむとなる。(※省略) 9月29日 雨降り寒し。11:30『果樹園』社へ「日中国交成る日」送り、佐伯へ『鴎外全集』の払ひす。 雨止みて寒く、日中国交成り台湾と断交、貿易旅行はつづけたしと也。(※省略) 9月30日 田中首相、上海より帰り来る。伊藤信吉氏より「朔太郎の手紙(われあて)『コギト』よりとりし」と。 夕食後、岩崎女の紹介せし「ものみの塔」氏来り、「主を愛するはおきてを守ること」といひゆく。(※省略) 10月1日(日) 夫婦して礼拝にゆく。聖餐式あり。すみて竹森先生に寄れば「まだ相談きまらず」と。 帰りて統夫来るとのことに待てば(※省略) 16:00統夫来り「船越へ25万円わたす。立ち会へ」と。 ゆきて統夫の気持云ひ「10日以内に立ち退く」と受領証にソノ子かく。鬱症と也。統夫地主の本多家へゆき「借地権返せば280万円」といはれしと。 俊子姉に報告せしむれば我とユの意見きかる。「早く片付けば良し」といふ。 10月2日 俊子姉より金1か月以内に都合する。本多氏に云へと「来れ」といへば「あす来る」と。 『健康』より4千円来りし故、ユと折半し『詩篇』『北村透谷選集』を新本屋で買ひ、佐伯にて『宋代の経済生活』、『毛沢東』買ふ。 ユはparmaにゆき2千円とられしと也。 (宮崎の中国人料理店主よりわが「李白の訳を店前の碑にしたし」と。「諾」といふ。) 10月3日 曇。俊子姉、午まへ来り、本天沼の離れをタカ子に売ったこととし金作ると也。本多さんへのwhiskyを置き、ユ、その旨いひにゆくこととなる。 小高根二郎氏より受取。「東京空襲を記録する会」より「諾」の署名を、と。俊子姉より電話「家、数男の抵当」と。 10月4日 10:00斎藤dr.。わりあひすいてをり。薬ゆるくしていただき歩いて代々木。東豊書店にゆけば外出! 阿佐谷にて雲呑食ひ(120)、帰りて大聖生まちをれば14:00来り、交通巡査に止められしと。自動車の免許証とり上げらるとなれば「宜し」と いふ。 『則天武后』の生ひ立ちよりはじめ原文ひかず怱卒にかきをり。16:00帰りゆきしあと(※省略) 俊子姉よりユに電話「11日再来」と。 10月5日 10:00登校。丸に残金きき『三才図絵(32,000)』を個人研究費にまはし(※省略)、箕輪に会へば「も少し肥えよ」と也。 帰り研究室にゐし金子と日月潭にゆきし男生と「話あり」と。喫茶店につれゆけば「韓国旅行せん」と也。「春にせよ」といひ、 出口にて渡辺氏に会へば「嫁入院」と。葉雅美の家へゆきしにまた無人。『果樹園』来る。200号なり。堀内の7回忌と後記にあり。 戸田謙介さん梨もち来たまひ、呼びとめしも眠しとて帰りゆかる。葉生に電話せしに無人、李に電話すれば「葉雅美おめでたの為二人で来る(※省略)」と。 (けふ東豊書店にゆき『管子(940)』買ひ500円払ひて、『三才図絵』を個人研究費とす。佐伯にて2万円余り本注文す。) 『金瓶梅』20回のcardすみ、「台湾の神仏」清書しをり。(前田隆一氏より「本送りし」と。) 10月6日 雨、寒し。東方学会へゆくつもりなりしも止む。(※省略)『河』来り、山根忠雄氏より論文来る。 佐藤生に台湾よりの来航手続につき金子一郎生に電話すれば、のちほど佐藤「東豊書店にゆき日語学校に入れよと云はれし」と。(※省略) 目疲れ『毛沢東伝』を地図見ながらよむ。(※省略) 10月7日 母よりまた電話、大の電話番号訂正す。電話すれば応答なし。船越転宅一日遅れしと。山本生10:00前来り、漢代の北狄かきはじむ。 帰りゆきしあと(※省略)井上の母来り(※見合話 省略)、16時すぎ帰りゆく。 けふ井上靖『楊貴妃伝』文庫本買ひ来る(200)。石田博士の跋文にLevi氏の『漢宮専寵』受取りしとわが名あり。 『日本人はどこから来たか(250)』買ひ来ってよむ。「O型は南太平洋より」と也。夜、葉雅美より電話「12月1日挙式。11月に来る」と。 10月8日(日) よべ中途にてさめ、眠くて礼拝にゆかず。ユも休む。14:00ユの出てゆきしも、あと臥床しをり。 16:00すぎ統夫来り「第3者として本多さんに返すをいかに」と云ふに「三郎兄の一生懸命となりしは珍し」といひをるところへユ帰り来り、 美さ子にも電話し、柏井へ統夫ゆきしあと数男にも力説す。 川久保夫人来り、川久保駅前にてまちゐる様子と。やがて来て史の同年の諏訪の男の吊書もちゆく。羽田へのわがたのみとどきしと也。 夜、ミサ子と姉と喧嘩せしことわかる。 10月9日 (※省略) 数男よりユに電話かかり、統夫に同情し「それでもキリスト人か」と。 われ「穏やかに話すゆゑ心配するな」といひしあと、ユ俊子姉に「損になるゆゑやめよ」といひてすむ。 けふ山住閣下にゆきしに留守。前田隆一氏より「収容所にて数学教へし」と。巧みなる歌のせし『南方記』つく。(※省略) 10月10日 10:30大聖生来る。われ眠く頭働かず、ユ12:00出てゆくとて狐うどん食はせしあと元気出て15:30欠伸するまでやり、 帰りしあと佐伯にゆき『文芸春秋12月号(60)』買ひ来りよむ。『浪曼1』来り、保田かく。 19期生会より(※省略) 欠席の他なからん。 10月11日 ユ、山住dr.にゆけば「御隠居をり」と。ゆけば『大鹿卓追悼号』すでによみしとて返さる。「経正」一段誦されて帰宅。 森亮氏より詩集来り礼状かく。(※省略) きのふの見合、女より断りしとユ不機嫌なり。(※省略) 10月12日 朝『金瓶梅』のcardとり「台湾の神」かき11:00来し大聖生を14:00まで14:10来し八木生を18:00まで教へ疲る。 (※省略) (船越父子、別れの挨拶に来る。) 10月13日 『国語辞典(毎月4,500、11月第1巻)』を佐伯にたのみにゆき、echo10ケ買ふ。(※省略) 山際君、第二詩集の校正もち来り、夕食近くまでをる。「台湾の神」ほぼ了りとなる。 ユ、前田家へ電話すれば「夫人けさ大和へ。孫の嫁まだをらず。」と母上。 船越けふ中村橋へ引越。(※省略) 10月14日 門外不出。「台湾の神」の本文了り近くとなる。今井翠、茶をとりに来る。痩せてをり。 矢野夫人に電話し「明子君のことであすゆく」といふ。竹森先生より「讃美歌の相談を29日」と。 10月15日(日) 夫婦で礼拝にゆく。(※省略) 狐うどん(150に値上り)食ひ、 下高井戸まで電車賃30円といふに驚き、公園にて休み12:30になりて矢野家。 夫人、明子嬢に2時間話し「なるべく会へ」といひて出る。「台湾の神」の本文ほとんどすみ、あと注をのこす。 10月16日 登校。(※省略) 丸に本の処置たまみ、文化史すませ、井上生を指導しsemiにて書き方教へ、すみて帰宅。 (※省略) 和田統夫来り、本多地主に云ひ借地返還、家ともども280万円もらふと。(※省略) 10月17日 寒くなる。朝、散髪せんとゆけば阿佐谷、高円寺と皆きのふけふと連休なり。 疲れて帰り教授会欠席を電話で云ふ。ユ、三鷹へゆく。俊子姉より電話「統夫、本多へ返した」といふ。 森亮氏より「四■山のことかきし手紙よんだ云々」。集英社よりまた『白楽天』3冊来る。怪訝なり。 10月18日 炬燵に火を入れよといひ斎藤dr.。すぐ呼ばれ薬へらさる。(※省略) 集英社より『世界の名詩』15版2千部16版8千部との通知受く。 八木生pine-appleもって来しゆゑ『白楽天』やる。京けふ絨毯を書斎に入れし。 本多さんユと話し、船越の家こはし自動車置場とすと。(※省略) 10月19日 昨夜、京とtelevi映画を23:00まで見、朝7:00起きて元気なく登校。(※省略) 早くすまし11:50より大藤、鎌田、野口3氏呼ばれ新城主任より専攻のタテワリの相談受け、第一志望を入れよといふ。 (※省略)早く帰宅。楳垣実教授より「柳田文庫の本のcopyとってくれ」と。(※省略) 10月20日 よべ途中起き、山住dr.の1丸のみてまた眠り6:00さむ。「佐々木邦彦氏追悼」の文かき木村三千子女史に送る。 10:00麻生生来り「筍」よます。タケノコとかけず体悪ければ就職せよといひしに泣きし様子。 午食のうどん食ひて帰る。13:30大聖生来りこれは元気にして文筆あれど字のまちがひ多し。 昨日また京信州へ行く。(※省略) 比島ルバング島にて小野田少尉、小塚一等兵の2人のこり1人射殺されしと。哀れなり(特別番組)。 (※省略) 前田夫人より電話、光子出て「夫Düsseldorfにあり(※省略)」と。 10月21日 疲れてだるく東洋文庫にゆくつもりなりしも止める。夕方、地主の本多さん「19:00に話し合はん」と奥さんをよこす。 ゆけば「仮の塀こさへる。4月ごろ土地の測量す」と也。(※省略) 10月22日(日) 雨。夫婦とも礼拝にゆかず。ユ、午后見合ひさせに出てゆく。(※省略) 射殺されしは八王子の小塚一等兵と判明。われは「バスターキートン物語」見てをり。 チャップリン、ロイドとならびしsilentの喜劇俳優talkieにて売れなくなりし物語なり。 赤川草夫氏より電話「朝日に森亮氏の詩集評のりし。『浪曼』出せしは勤先の重役兄弟」と也。 10月23日 東京新聞に本田先生(※本多喜代治)御逝去とのす。 (よべ向ひの扉為りユ、止めにゆく。3:00ごろか雞鳴きしを知る)。 ルバング島にて比軍兵発砲せぬこととなりしと夕刊。(※省略) 午食の時、相良生といつもの如く話し、 大聖、八木2生の原稿直ししところへ麻生生、他人にかかせし原稿もち来しを発見、落胆して清書の心得のprintわたし、(※省略) 金子生と東豊書店。720の『中国生育礼俗考』買ひて与へ、(※省略) 金なくなりて新宿まで歩く。 けふ『文芸春秋』11月号50円に佐伯に売り『唐話辞典類集(2,880)』借り、東豊書店にても『中国食経双書 下(12,000)』借る。 (※省略)井上生に本田先生の告別式いへば「25日9:30来る」と也。 10月24日 よべよく眠り9:00出て東洋文庫。Arnoldus Montanusの『Atlas Sinensis』なく、Ogilby写し、 榎博士に会釈し東豊書店にゆき2項きき昼食して本2冊買って成城。 Montanusの『日本史』借り出し大学院の館野、宇野、近藤3生の発表きき、17:30退出。 (※省略) 東洋史談話会より「11.12(日)17:00より2,000」と。「出席」ときめしところへ川久保の電話あり「また婚礼にて来た」と。 けふ留守に電話3あり。(※省略) 長尾夫人より「本出る。案内に名貸せ」と。 宮崎さん来り『征塵(※渡辺年応歌集)』の原本見たしとて探せしもなし。 あすまた探すといひ後藤氏の本(※後藤興善『又鬼と山窩』)のこといへば探してみると。(※省略) 昭和47年10月25日~昭和47年12月31日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 「EXPO’70 NOTEBOOK(コーアの万国博ワールドノート)」 10月25日 起きて小野田少尉のことで「藍よりも青く(駄作なり)」(※連続テレビ小説)見をり。 9:30来し井上和子生に「豚」よみやり12:15帰りゆきしあと、本多喜代治先生の告別式にゆく。 200人近く集りし人の中、知りをるは教へ子代表として話せし西寛治氏のみ。無宗教にて献花す。 出棺をまちをる中、兼清隆二君来りつかまへて話す。本田先生に習ひし時、先生は32~33才なりしことわかる。 待たせし社の車までともに歩き、別れて中野。帰宅して16:00になり、 宮崎さん『信越通信』の緒方氏といふをつれ来り、これに『征塵』の原本わたし、 扉・表紙などの見本組見て、こちらの云ふこと一つもきかざるに感心す。改めてくれといひ渋沢敬三氏の追悼会にゆくといふに後藤氏『又鬼』たのむ。 3D佐藤健より「台湾の蔡氏(※)の娘、日本留学の保証人になれ」との速達、電話して「よし」と云ふ。 10月26日 8:45出て登校。近藤来ず松田、鈴木に台湾の神72をいへば「Hongoeを金剛ならずや」と松田いひ、感心す。 午食忘れられパン一切食って「中国古典」2冊目すます。 大聖生来り「東洋史」早目にすませしあと、「則天武后」少しよみ干支表作りなどしてフラフラとなり、 東豊書店にゆくみちsandwich(100)買ふ。波多野博士へと『白楽天』托して帰宅。赤川氏へ礼状。 けふユ、統夫、本多夫人、周旋屋と法務省出張所へゆき登記すませしと。(※省略) けふユ、宮崎女史に駅で会ひ『又鬼』みつからずとききし由。 10月27日 6:00まへさむ。よべねつき悪かりし。蒲団しき時々『台日大辞典』写し、televiのMaurice Chevalier(老人なり)見をはり、佐伯へ2,880払ひにゆき『鴎外全集11』とり、田中薫・千代『きもの(80)』買ひて帰れば、(※省略) けふ〒なし。小野田少尉見つからず、小塚一等兵の老父母死体に会ひにゆきし。 躁にて紅松に電話すれば夫人出て「会社の旅行、兄胃癌」と。(※省略) 倭に本田先生のこといへば「広州へゆきゐし。前田正男をおぼえゐる(※省略)」と、くだくだと巻く。 10月28日 3:00めざめ、ユと議論す。7:30またさむ。11:00山本生来り、引用文をかなづかい教育漢字に直しをり。 帰りしあと15:00近くなり浅田(近藤)博子駅にをり。(※省略)仕方なく矢崎昭盛に紹介の名刺かく。 けふ田中首相の政権演説に防衛費の項ぬかせし。(けふ篠田博士より『五雑俎』わかったと。) 10月29日(日) 7:00さめ礼拝にゆく。(※省略) ルーテル新教設立400年のお説教あり、すみて長島氏に合図し、委員会に笹淵博士とともになり、(※省略) 帰れば葉雅美来ると。まづ弓子母子来り、ユと出てゆく。次に葉雅美、柴崎昭良といふ婚約者つれ来り、(※省略) 「お祝す。ヒルトンホテルでの披露宴にての祝辞承知」といひ、帰りゆきしあと(※省略) 3D佐藤、日月潭の商工卒の女生の日本語学校留学につき保証人の印押し21:00去りゆくまで話す。 父と台湾旅行の時の知人とかく。(※省略) 10月30日 ゆめ見て早くさめ、茶のみて「アルバム1」かく(200×4)。頭わるく体わろし。 8:40佐藤より願書、父の名になってをり。「書き直せ」といひ登校。 成城堂につけきけば「なし」と。『文学』鴎外特集号たのみ『実録阿片戦争』と『日本の天文』借り、 「正月礼俗考」すませ井上生のかき直しし、昼食のあと大学院のドイツ語、漢文の問題作る。(※省略) 金子一郎さそひて出、家へ帰りport-wineのみて元気出し『産育』の序文よみしあと鬼子母神やることとし、いろいろと本出し夕食さす。 帰りゆきしあと佐藤生より電話(※省略) 青木氏に電話し『又鬼』ありやなしやときけば「なし」と。 著者(※後藤興善)は柳田先生の親類にて破門されし。故人ならんと。(※省略) 10月31日 7:00起き矢野夫人に電話(※省略)。10:00来し大聖生に「則天武后」指導し、12:45ともに出、新宿にて別れ成城大学。 (※省略) すみて堀、野口2氏と話せしあと帰宅。(※省略) きのふ戸田謙介氏にもらひし物の礼にwhiskyもちゆく。「海老で鯛を釣りし。浅野晃氏この間来て、田中へんな奴と云ひし」由。 11月1日 9:00まへ出て斎藤dr.。4:00さめしを申上ぐれば「おそくまでteleviでも見てゐられずや」と。「ダメです」と答へ薬ましてもらふ。 井上生来り医師へゆくと帰りしあと、母に電話し「写真返せ」といふ。(※見合斡旋したものの)恋人あるらしき也。 巌夫人維子より披露宴の写真来る。うれしく礼状かく。ユあす三鷹へゆくと也。(※省略) 五眼(※不詳)みつけ「台湾の神仏」かけさうになりし。これもうれし。 11月2日 よべ眠剤かはり熟睡。さめれば9:00!「台湾の神仏」かけ21:00まで概ね註かく。 高橋重臣氏より「長女眞理嬢の結婚披露宴(※省略)」出欠問ひ来る。(※省略) 夕方窓わくもち来り(※省略) 11月3日 雨。外出せず。眠剤のこりしか、だるし。(※省略) 前田夫人より「縁談」への手紙。 11月4日 外出せず。白仁生来り、婚納成りし、あと卒論と。麻生生気遣って呉れといひて帰す。(※省略) 高橋重臣氏に「披露宴に出る。祝送る」と返事。けふ窓框屋来て1000円で打ち付けくれし。 11月5日(日) 夫婦して礼拝にゆく。大聖生の父母よりチーズ来りし故、電話して「火曜に来りもち帰れ」といふ。 17:00統夫夫妻来りし(※省略) 大藤氏へ楳垣氏の手紙同封し「本かしたまへ。コピーさせよ」といふ。 「台湾の神仏」400×59かき了る。(※省略) 11月6日 登校。東洋文化史の時間に落第の予定をいふ。昼食すまし研究室にゆけば大聖生をり。訂正し次いで井上生訂正し、 山田教授と話しをれば阿部生来り、(※省略) 成城堂で『文学』の鴎外特集号入手、Heineを思想家として愛せしと也。 帰りてHigh-Jackのtelevi見てをれば、つかまりて47才の米国住ひの日本人と。(※日本航空351便ハイジャック事件) 金子生来り「鬼子母神」よみ、すませてthemaを秩父の交通路にせんかと。鮮使の江戸時代の江戸旅行はいかにといひやりしも固くは云はず。 21:00かへりしあと大宅の咲耶に電話し「あす8:30ユと会ふ」といふに「メソメソするな」といふ。 全田叔母日生病院に入院。(※省略) 大聖生夕方来てcheezeもち帰る。 11月7日 ユ、咲耶に会ひにゆき「来年、大に金入り家賃も家主と話つき(※省略)」といひしと。 12:20矢野明子母子来られ、小笠原某君母子と見合。二人出て行きしあと小笠原嫗、立正佼成会の話す。矢野夫人より電話「娘帰宅」と。 長尾夫人より「文集2千円」と。楳垣教授藍綬褒章と。 11月8日 10:30井上和子semiに来り、昼食後、八木橋来りしを見て帰りゆく。疲れたり。 『山本博士還暦記念東洋史論叢』来る。笠原夫人より鰈贈られ、向ひにユもちゆく。 けふ旧船越家との間の塀(仮)出来上る。(※省略) 11月9日 登校。大藤教授、本貸したまひ午食まへcopyとり120払ひ、包み礼いひて返す。 東洋史のnote忘れ醜態となりしも出欠、丸ら3人にてとりくる。(※省略) 11月10日 登校。(※大学院入試問題)ドイツ語の問題の一誤植を見つけ、も一つあるを見逃せしも1人は0点、1人は30点(100点満点にて)。 (※省略) 國學院大より来し一人を落とす。大藤氏知合にて2次には通すこととなりゐるらしかりき。 14:30出て『文芸春秋』買ひて帰宅し、佐伯によれば『和刻本漢籍随筆集3』来をり2,900と。(※省略) 11月11日 よべ殆ど眠れず。白仁生来る前、前田氏にユ、吊書送る。(※省略) 白仁「人参」ほぼすみしも書き方知らず。 宮崎さん来り、西川に後口世話して貰ひしも地下室にて気分わるくことわりしと。 『征塵』の表紙、扉、脊文字出来、発行日を12月8日とせよといふ。100部作り30万円以下とす、と。(※省略) 11月12日(日) よべよく眠る。夫婦とも礼拝にゆかず。われは麻生生まちしに午后来り、清書の仕方も何も出来ず。 「2枚かいてあす来い」といふところに史の一家来る。 麻生生帰りしあと川久保より「(※会へ)けふゆく」との電話ありしゆゑやむなく地下鉄にて東大の学士会館分館にゆく。 山本達郎氏の『還暦記念論叢』の贈呈式を榎君やり、そのあと青山、植村2先輩の挨拶。 石田幹之助先生の「乾盃」すみて2千円の立食、講演になるまへに逃げる。 河原君、松本の病気を知らず、岡部白鳥先生の業績を知らず。帰りて金子のsemiの予習了へ、麻生の原稿よみいやになる。 11月13日 早めに登校。「東洋文化史」すませ、麻生の下書みて時代順を知らざるに気づき教ふ。成績表3人にわたす。 (※省略) base-upの4~10月分9.1万円貰ひ、(※省略) 東豊にゆき1.2万の払ひし、『西域南海史地考証訳双』5冊と『培梅食譜』と買ひ、佐伯に2700払ひして帰宅。(※省略) 11月14日 散髪にゆき(800)、帰り本多夫人に会へば船越の家こはしをれば嘉兵衛の位牌すてありしと。賜へといへばあとにてもち来る。 初代 船越嘉兵衛(片田北邨勘右エ門八男乙助)宝暦七年1月2日(73才)   妻 酒屋氏 享保2年7月晦日   後妻 従本川島庄左エ門の参居、徳島産 寛政7年1月14日 2代 船越太四郎 初代三男 明和6年3月17日(61才)   妻 船越氏(片田本家春助娘名類) 天明3年12月23日(64才) 3代 船越嘉兵衛(2代嘉兵衛二男 幼名平太郎) 文化7年9月22日(72才)   妻 山口氏(福良浦山口吉兵衛姉娘 名 於増) 天保4年2月20日(88才)   船越徳十郎 三代嫡男 幼名瀧之助 天明4年11月16日(19才)   船越虎之助 三代四男 安永8年9月19日(3才) 4代 船越嘉兵衛(3代嘉兵衛三男 政之助 後宗九郎尚勝) 天保15年9月21日(74才)   妻 船越氏 綿屋常左エ門嫡女 名 園 享和3年5月14日(27才)   後妻 同  綿屋常左エ門四女 名 磯 弘化2年7月22日   嘉次郎 4代嘉兵衛二男 慶応3年3月12日(71才)   同人妻 伏見産 茨木屋娘 名 矢野 天保11年10月22日   百蔵 4代嘉兵衛三男 寛政12年11月5日(百日)   彦蔵 4代嘉兵衛六男 文化7年7月24日(4才)   ミツ 4代嘉兵衛八女 文化12年7月22日   婦喜 4代嘉兵衛九女 幼名ツヤ 明治4年3月17日(57才) 5代 船越源蔵 4代嘉兵衛四男 弘化2年4月6日(43才)   妻 山口氏 (福良浦山口吉十郎次女 名 ヤソ) 明治7年2月14日(62才)   ヌサ 5代嘉兵衛三女 安政6年5月27日(22才)   フサ 5代嘉兵衛四女 嘉永6年11月14日(16才) 6代 船越文太郎 5代嘉兵衛嫡男 元治元年9月2日(35才)   妻 菊川氏 湊里村菊川太兵衛嫡娘 名 イト 明治7年(新暦)1月10日(41才) 7代 船越嘉兵衛妻 仲野氏 伊加利村仲野孫惣三女 名 蔦 明治20年9月12日(29才)    新一 7代長男 母仲野氏 明治14年8月21日(4才3ヶ月)    素一郎 7代長孫 父政一郎 母 小千 明治40年2月5日(1年8ヶ月) わが祖母こしげは6代船越文太郎と(菊川)イトの娘ならん。 12:00すぎ出て成城。教授会にて昇進の手続と新任の手続きまり、 英文に厨川文夫博士(明治40年生・慶大)、芸術に高田修博士(明治40年生・京大)の2教授候補指名さる。 15:30すみ専攻説明と。われ成績表少しわたし、成城堂にて『王維詩集』と『平安朝の年中行事』買ひて帰宅。(※省略) 11月15日 雨。地下鉄にて斎藤dr.、薬のみとり帰宅。信越出版に電話すれば女の子のみ。「早くしたまへ」と伝言たのむ。 13:00井上生来り、大分すすみゐる様子。帰りしあと西武dept.にゆき万年筆みれば80%に下りをり。仕方なく3,200のparker買ひて帰宅。 (※省略) 「閻魔と地獄」しらべしあとSweden映画中途まで見る。 11月16日 7:00まへさめ9:30家を出、研究室にて『望月仏教大辞典』見てのち大学院。近藤生に卒論かくため出ずともよしといふ。 (※省略) すみて石井紀子さそひて餡蜜くふ。16:00すぎ(道に迷ひ)葉家へゆき祝わたし干菓子など出されて恐縮。(※省略) 11月17日 高橋重臣氏へ祝3千円贈り「披露宴に出られず」といふ。 13:00麻生生来りしゆゑ字のかけざると成城のくせに打ち解けずと叱り15:30まで教へ帰りしあと 角川より来し印税1,965の中、500をユのpermaに渡し、あともちて佐伯にゆき『抗命(250)』買ひ、 北口の古本屋見しあと『ベルツの日記』4冊(100×4)買ひして帰宅。(※省略) 11月18日 大聖生10:30来て14:30まで「則天武后」の下書とよみ。(天ぷらうどん2×250)。 山本生16:00来り、張騫の歴史的意義考へをらず。17:30去りゆく。(※省略) 11月19日(日) 夫婦して礼拝にゆく。帰れば弓子2児をつれて入りをり。宏・克ともに笑ふ。丹波(※丹波鴻一郎)より電話ありしと。 うどんとりて食へば掛かり「教師の口世話せよ」と。「履歴書送れ」といふ。(※省略) Dapperと中古語辞典やりたく来年semiなきを祈るや切。(※省略) 11月20日 登校。東洋文化史教へ、(※省略) けふ妹尾理事長の勲三等の祝にゆかず。成城堂で『中国語と日本語(400)』また買ふ。 金子一郎、熱ありとてsemiやめる。丸「副手を来年もやれるか」と、「やれず」と答ふ。 帰りて金子より電話。(※省略) ユ風邪とて山住dr.にゆく。葉雅美より礼状。 夜、佐々木生より「semiとりたし」と。4年生よりはダメなり。 11月21日 10:30大聖生来りしを教へ、麻生生来るまでとめ、麻生生の誤字だらけなるを教へ、16:00ごろ帰りゆく。(※省略) 頼永祥氏「夫人、嬢とマサチューセッツ州ケンブリッジにあり、来年6月まで」と。(※省略) 近藤昭一生より「五眼は金剛夜叉」と。(※省略) 11月22日 井上和子13:00来りsemiやりゆく。頼永祥氏への航空便出す。長尾夫人より(※『長尾良作品集』の)勧誘状10枚来る。 『浪曼12月号』来り、三島由紀夫特集号なり。 17:00金子、佐藤の2生、林マリ子つれ来り、林「わがsemi」といふ故、3,4年連続でなければだめと云ひ、 夕食せしめ、21:00まへになり、新城博士民俗semiの金子のsemi4年参加を許せしとのことに唖然となる。 11月23日(休) ユ、見合の立会に出てゆく。12:30林叔父、火災保険とりに来る。 折しも麻生生来り『古今図書集成』の筍の部ののこりのcopyに印つけさす。 『長尾良作品集』の広告を浅野晃、中尾三千夫、相野忠雄、小高根太郎、小高根二郎、杉山平一、坪井明、芳野清の9氏に「切手代負担、われには2部」とかく。 (※省略) 和田統夫より「蜜柑送った。柏井にも分けよ」と。松浦よりも蜜柑来る。今年は豊作なり。 佐伯にて小学館『国語辞典1(4,320)』、『鴎外全集13(1,800)』借り来る。 11月24日 ユ、山住内科へ薬もらひにゆく。安静とる。午、意外にも野上夫妻、実資、高山紀子来り、結納入れた由。 10月挙式とのことに(※省略) そのあと午食して三鷹へ蜜柑と菓子ともちゆき古本屋によれば『神軍』売れをり。 帰り佐伯に寄りさっき置きし5千円に1,120加へ『落語の歴史(290)』買ひて帰宅。 影山正治氏より『不二』と『大東塾三十年史』と来り。(※省略) 澄より電話かかりし故、(※社会党より立候補の)岩崎昭弥のこといふ。雑誌『中国』休刊と。竹内らしきも心配なり。(※省略) 11月25日 家居。千川より「中西に会ひ、田中よりの便りありやときかれし」と。(※省略) 高橋重臣君より「娘夫婦阿佐谷北に住む」と。 11月26日(日) 礼拝にゆかず。寒し。弓子夫妻2児つれて来り、揺り椅子もって帰る。白仁生より「65枚書いた」と。(※省略) 岩崎昭弥君へ「1万円応援費として送る」と。(※選挙)及第の境らし。 白鳥先生夫人より「出版記念会を12月2日15:00ご自宅で。宮本、中川2氏に伝へよ」と。(※省略) 11月27日 9:15に乗りて登校。(※省略) 帰り高円寺の古本屋2軒見る。(成城堂の払ひ2,500余り。身体検査日にてやせすぎ、神経使ひすぎとあり。 16級に昇給しゐる辞令もらふ。本俸186,400円中、扶養手当2,400暫定手当18,640計207,440なり) 帰れば林マリ子生より「来る」と。来りて『中国の思想』とthemaかかし印押す。金子生来り、(※省略) 高橋重臣君より電話かかり「阿佐谷北の娘宅にをり、来る」と。 来ていろいろ話し、2生に飯くはし、本返しなどして帰りゆきしあと20:30までゐて帰りゆく。 11月28日 10:00麻生生来り、清書みせ書き方咎めると「先生がさう教へた」と大声出す。12:00うどん出せしも食はずして帰る。 12:30出て成城の教授会。(※省略) 新城博士ちょっとと云ひてわが研究室で密談。「丸、来年も1年やらすはいかに」とのことに「反対、御厚意を謝す。今後もよろしく」といひ、 丸重俊つれ帰り20:30まで話せば「来年も一年副手やるか、成城の中学教師になりたし」と。 呆然として「やってみろ」といふ。(※省略) 11月29日 国鉄にて斎藤dr.。「別に変りなし」と申上げ早く帰り、佐伯に寄れば『南方全集5』来をり。金田一京助『自伝(100)』買ひ来る。 13:00白仁生来り、ユをして「アルバム2」(200×4)『果樹園』へ2,500とともに速達せしむ。 11月30日 登校。大学院、近藤来り松田休む。すみて中国古典、風邪とて休み多し、これもすまし東洋史は太平天国。 出て帰れば八木橋来てをり。21:00まで『北平風俗類徴』よます。 長尾夫人より「ぼつぼつ申込あり」と。林檎一箱相馬弘より来る。諏訪母上よりも物贈られし。 12月1日 寒し。9:00散髪にゆき、井上生(※省略)やがて来ッてsemi。註をのこして殆ど出来をり。弓子2児つれ来り、克次朗おきて同窓会へとゆく。 井上生14:30ごろ克次朗抱きくれ、やがて去る。 われ16:30駅まで宏一郎抱き、新宿より地下鉄にて国会議事堂前で下車。Hilton Hotelにつけば17:30。 (※柴崎昭良・葉雅美の披露宴 省略) 会者120名位にて豪華なること従来の一番なりし。 成城校歌うたひ21:00前すむ。あす布哇(※ハワイ)へゆくと也。 12月2日 寒し。ユ、矢野夫人へゆく。母より電話「帰京」と。「あす午后ユキ子をり」といふ。 依子より電話「6~7日諏訪母上来訪」と。望も電話口に出る。(※省略) 12:15ユ帰宅。出て渋谷東横会館前に集り、喫茶後busまちしも来ず。taxiにて15:10白鳥邸へつき、(※白鳥清出版記念会) 手塚、宮本、白鳥芳郎、われの4人にてお菓子料1万円を供ふ。中国料理と茅台酒、遺産相続の件につき話あり。 18:00になり手塚氏と出て(芳郎君、明後日糖尿病治療のため入院と也)、渋谷。帰宅して入浴。(※省略) 12月3日(日) 夫婦ともに礼拝にゆく。X’masが聖餐と! 帰りて来りし大聖生教ふるに、(※省略) 「則天武后」の皇帝となるまでは出来しと帰りゆく。 田中英一氏31冊『征塵』もち来り、18万3,456円と請求書。 中倉印刷に「月曜あと20部、30部ならいくらとや云へ」といひ、帰し、母と大に2冊もちゆかす。 送り先の勘定すればやはり30冊では足らざる様子なり。 (※同姓同名の)田中克己氏「父上87才で亡くなられ喪中」と。 12月4日 7:00さめ9:01にのりて成城大学。東洋文化史の時間に話せしとて井上和子を叱る。午休み、白仁、阿部良助、麻生の下書き指導し、山田俊雄氏に『征塵』わたし、佐藤誠に「家へ来よ」といひ帰宅。ユをらず山住閣下訪ねしも不在。 帰りしユと同時に八木生来り(※省略) 金子生来り、semiすみしあと、 佐藤生来りしゆゑ「あさって国際学友会へ同行せん」といひ、夕食すませば震度4の地震あり。(※省略) 岩崎昭弥君より印刷の受取。(※省略) 12月5日 9:00家を出、山住閣下に『征塵』1冊を呈し、生田の林叔父叔母に会ひ『征塵』わたす。(※省略) 金賜はんとするもことわり成城、大学院へゆけば(※省略) すみて成城堂にて『日本人と中国人』、『朝鮮』買ひ、14:10からの教授会。(※省略) 厨川、高田2氏の主査副査きまる。 あと専攻の会にて(※省略)新城教授に代り4月より学部主任教授となり、丸副手は3月限り解任ときまる。 帰宅19:00すぎ。(※省略) 12月6日 10:00と約束せし佐藤生と大久保駅にて会ひ、国際学友会の加藤女史に会ひ、佐藤検定料1万円払ひ、われ念書書かさる。 「卒業後の進学を世話する」と也。用意せし書類は法務省へとなり、東豊書店によりしに簡文桂氏不在。夫人留守。 仕方なく法務省へゆく佐藤と別れ新宿駅まで歩き、東中野下車。古本屋さがせしも見当たらず、高円寺にてもまた古本屋何も買はず帰宅。 おそめの昼食にすし食ひ、信越出版に電話し田中英一氏に「金とりに来たまへ」といへば印刷屋と2人して来り、 「宮崎さんのことあり損失覚悟で云々」と。(※省略) 麻生生予告なしに来り、100枚位になりしと。 18万2500払ひて2人の帰りしあと八木電話かけ来り、阿部40枚位もち来る。 18:00帰りゆきしあと、note作り寄贈者名簿作る。(※省略) 12月7日 登校。大学院4人にてやり、あと1週は休講とす。(※省略) 渋谷に出、代々木一丁目にて地下鉄下車。北青山3丁目まで引返し鈴木君(※大東塾鈴木正男)に会ひ『征塵』と3千円とわたす。上田一雄君は地方で喧嘩せしと也。 渋谷まで歩き中村書店のぞきしもわが本なし。疲れてcream餡蜜(230)食ひて19:00帰宅。 集英社より『中国詩人選 白楽天(300)』5冊、大岡信氏より『たちばなの夢』李白のわが訳引きあり。(※省略) 斎藤虎五郎翁に『征塵』包む。(※省略) 12月8日 時々覚め7:00起床。(※省略) 佐伯によれば『和刻本随筆(2,250)』来りをる。 (集英社より太陽銀行に『世界の詩』1万部の印税(3,900-390)を入金したと)。『果樹園』202号来る。 ユをして上田稔翁に『征塵』郵送せしむ。大より受取の電話。「山際文雄と遭ひし」と。 夕方、本局へ齋藤、高坂2氏へと『征塵』もちゆけば145×2!夕食後、笠原文恵生、蟹もち来りすぐ帰りゆく。(※省略) 12月9日 井上和子10:00来り、註のみを残す。12:00まへ出てゆき14:00白仁生来り、誤字訂正。 了りしところへ柴崎(葉)夫妻Hawaiiの土産もち来る。(※省略) 集英社より『白楽天』300×0.8×3,000を12月25日に払ふと古山氏より。けふ柴崎氏に1冊贈り、大岡信氏に1冊包む。 12月10日(日) 夫婦ともに礼拝にゆかず。宏一郎風邪らしく善一郎君のみ来て『征塵』わたす。母上の快気祝もち来りし也。 佐伯へ払ひにゆき『ゾルゲ事件(90)』買ひ来りてよむ。夜23:00まで選挙開票見しに、前田正男氏当選、岩崎昭弥君は見込なきらし。 12月11日 登校。時計10分ちがひ詩業の鐘ならぬ内に入り『新年風俗志』うまく読めず。よべ4:00ごろさめし故也。 bonus前期分の差額3万円ほどもらひ、東豊書店に寄りしも本なく、『蘇東坡集(1,920)』と『台湾史事概説』と買ひて帰宅。 金子生19:30来り「神田の古本屋にゆきし」と。夕食くはせsemi始めしところへ早川智恵さんお越し。 1冊もち帰りもらひ、この間借りし本と、けふ来し『浪曼3』とわたす。(※省略) 岩崎君5万票余とりしと。共産党よく、公明民社惨敗。自民は現状維持となる。 杉並の松本(※松本善明)共産党20万票をとり全国一らし(※第33回衆議院議員総選挙) 12月12日 斎藤dr.へJohnnie Walker紅大5,000を三越で買ひもちゆく。新宿にて昼食し登校。14:00より教授会。 柳田先生未亡人亡くなられしとて大藤、堀、鎌田3氏欠席。(※省略) 宮崎教授に『白楽天』呈し帰宅の途『文芸春秋』買ひ来りよむ。 19:00より荻窪の花屋鈴木夫人と次女を寺田夫人つれ来り、20:00すぎ太田次男つれて夫人来る。息子殆どもの云はず疲る。(※省略) 12月13日 きのふの見合、双方とも「よくわからず、も一度会ひたし」と電話。10:00すぎ大聖生来り、ひまかかって訂正し、字引ひく。 午食のあと13:00末吉栄三(※大阪時代の教へ子)来るとのことに「明日また来よ」と大聖生を駅まで送れば、 末吉来り、17:00に出発と。ゆるゆる話しゆく。「来年下阪の時、浪中で狐うどんの会せよ」といふ。 そのころ彼は高校長となりゐる也。送りかたがた年賀状とりにゆき(4,000)、 「今から来てよきや」に「よし」といひし井上生の「まへがき」「あとがき」直しゐるところへ山本生来る。 20:00近くまでをり、張騫伝説かけといひ『栽培植物の起源』貸す。(※省略) 12月14日 鼻水出しゆゑ休講届けし、諏訪母上来しとうどん食ふ。14:00出てゆかれし(名古屋へは寄らずと)あと、大聖生来り、 semiやりをる内、美紀子来り『征塵』もちゆく。子らは今井へあづけしと也。大聖生帰りゆきしあと今井へ帰りゆく。 6月選挙、7月出産と也。(※省略) けふ西川、高坂、上田3氏より『征塵』の受取。(※省略) 12月15日 午前中だれも来ず。14:00井上生来て註の直ししゐれば八木生「来る」と。井上生いやな顔して帰りしあと八木生直す。 大聖生来しに「則天武后」の最後の章とあとがきとを教ふ。(※省略) 田中英一氏より菓子来る。(※省略) 12月16日 炬燵にゐること多し。白仁生来り「すんだ」と也。大聖生来りこれもすんだと也。この間、弓子母子来り、2児とも賢し。干柿もち来る。 (けふユ、栗山氏にwhisky、長尾君夫人に4,500送りし。) 12月17日(日) 風邪気味にて反日臥床。午后井上和子来り、参考書目の書き方教へしあと、2母に歳暮として弓子、諏訪、京のものともちゆく。 大、正月はどこかへゆくと也。(※省略) 風邪か頭痛す。 12月18日 よべ2:00にさめ睡眠不足にて登校。「新年風俗志」の年末やり、午食の前後にsemiの出席の印捺す。 韓国の留学生来しも日本語できず英語で話す。(※省略) 14:00出て帰宅。山際文雄より詩の題ない故事。(※省略) 12月19日 午前中、賀状の「ア・イ」かく。13:30八木生来り、(※省略) けふ寒し。小高根二郎氏より「受け取った。いくらでわけるや云々」。 城平叔父「警察病院に入院中」と。文芸春秋臨時号の島野女史より「23日までに」と。 12月20日 10:00登学。阿部来ず大聖12:00まへに来し。(※省略) 新城博士より「鎌田女史の教授申請はいかに」と。「本人よりの申出なく、論文のみにては」と反対す。 帰り都留生と同行しcoffeeのめば「(※成城)中学に定年あり」と。丸を石井校長よりきかれし時は「良き人」とのみ云へといふ。 (※省略) 丸重俊に電話すれば夫婦出て「まだ帰らず」と。(※省略) けふ崔吉城碩士(※修士)に『満州族の社会組織』貸す。全田叔母けふ15:00死すと林をへて母より電話。 12月21日 よべ3:00すぎまで眠れず。だるく年賀状すこし書きしのみ。長沖一氏より『征塵』ついた。父の上官たりしとはきかず云々。 前田夫人午食中お越し写真返し「大阪に候補あり」と。ユに財布、我に月桂冠賜ふ。(※省略) 大聖生「参考書目かき忘れた」と泣く。古宮生より「あす14:00来る」と庄野潤三の坊龍也つれ来るならん。 「西太后」かくか否かでいらいらす。(※省略) 12月22日 7:00まへさめ9:00すぎ山住dr.へゆけば扁桃腺炎と、ぬりぐすり、のみぐすり、うがひ薬たまふ。 帰りてボヤッとしてをれば都留夫妻けふ来ると也。まちし処へ現れし故、すしとり、学者になるか教育者になれと説教し、 前田夫人よりもらひし一級酒もち帰らす。(※省略) L2D古宮生(※省略) 駅に迎へにゆけば庄野潤三のむすこ龍也とともにをり。つれ来ればwhiskyのみ帰りゆく。中村地平追悼会の時のこと父よりききをりしと也。 文芸春秋より「万葉集と漢詩を中西進かく」ときき「西太后」かかんかと思ふ。 12月23日 よべ3:00すぎまで眠れず。さめれば9:30。文芸春秋より電話「かけず」といへば「月曜まで待つ」と也! 丸三郎、物もち来り「重俊、学校の先生つづくかな」と。「よこせ」といふ。(※省略) 丸重俊来りしに「早く手を打て」といふ。 12月24日(日) 雨中、夫婦してX’masの祝賀礼拝にゆく(献金5千円)。帰りわれは前席にゐし長島氏をさそひ、ユは(※省略)菊池氏さそひて喫茶。 帰りてマサ子よりのX’mas-cardに電話かける。ユ、見合にとまた出て17:00まで帰らず。(※省略) 12月25日 9:00すぎ山住dr.にゆき風邪の下痢の薬もらふ。西太后かきをれば文芸春秋の島野女史より電話あり「12:00来よ」といへば12:00かっきりに来る。 書きたくなかりしと云ひ、題も与へずもち返らす。佐伯へ『鴎外全集』とりにゆけば来てをらず。(※省略)  庄野潤三より息子の礼。 山川京子氏より「姉の喪中」と。前川佐美雄氏より「至孝大孝」と。(※省略) けふ来し『草苑』に伊東静雄の昭和4年4月の住所「住吉区北田辺町522宮地方」と。小川和祐の調べ也。京Gelbe Sorte 5函呉る。 12月26日 家居。(※省略) 相野忠雄より「長尾良申込みし」と。 12月27日 10:00斎藤dr.へ薬もらひにゆく。昨日よりきげん悪し。(※省略) 佐伯にて『鴎外全集14回』と『好奇心と日本人(230)』買ふ。(※省略) 12月28日 朝、山住閣下に電話すれば「外出したまふところ」と。13:00白仁、井上、大聖3生、貸本返しに来る。(※省略) 猿渡夫人より「末女1.15結婚、披露宴に出てくれ」と。「めでたし。2人は出席せず」と答ふ。鎌田氏出席の由なればなり。 角川より「ハイネ7千部刷った」と。長尾夫人より「コギトのcopyに末女あすよこす」と電話。集英社より『白楽天』の印税来る。 12月29日 無為。長尾末娘12:00来りコギトcopyしゆく。母来り「城平叔父死ねば葬式にゆけ」と也。大、温泉にゆきしと。 「アルバム」書く気なくなり讃美歌(前誦歌)訳のしやうなく困る。 12月30日 『果樹園』の「アルバム」書かず讃美歌の訳了ふ。電気屋来り、修繕とice-box。 12月31日(日) 夫婦して礼拝にゆき、すみて讃美歌委員会にのこる。わが作概ねとられ14:00了ふ。麻生生ユの帰宅を待ちて返本に来をり。 15:00山本生も返本に来る。夜、寿一より『征塵』つきをりしと。 田中克己日記 1973 【昭和48年】    この年の出来事 2月 『長尾良作品集』出版記念会。 3月 『果樹園』廃刊(205号)。 4月 今年度の文化史コース主任となる。 6月 墓地を上川墓地に定む。 8月 『浪曼』8月号にて伊東静雄の座談会(林富士馬、西垣脩と) 10月 下阪、同窓会と教へ子披露宴出席。 昭和48年 1月 1日~昭和48年12月31日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 10:00さめて雑煮を11:00ごろ食ふ。母来るも賀状350枚の整理をす。知友親戚すみ、浪中・滋賀短大・立教すむ。阿部生電話して「あす朝来る」と。雨降り来る。 1月2日 阿部来り「30日卒業承知、かき足す」と。午后橋本ユミ子来り王子製紙の研究所につとめ相手なしと。 そこへ井上、大聖、白仁、八木、麻生の5女生来り、麻生にさとせば泣く。(※省略) けふ史夫婦来り、子ら京とユより1,000づつ貰ひ貯金すと。京、母を送りてゆき泊ると也。賀状、成城の在校生をのこしほぼすむ。 1月3日 寒し。賀状すむ。午后、弓子夫婦来る。宏一郎風邪ひきをり。 1月4日 賀状来りしも返しすむ。事なし。中島健蔵「中国との関係」を東京新聞にかきそむ。無恥。(※省略) 1月5日 丹波鴻一郎君来り「(※講師の口を依頼)来年でもよし。税金分だけでもまうけたし」とwhiskyなど呉る。賀状まだ来る。(※省略) 1月6日 暖し。賀状まだ来る。13日正教授会と。X出版社より「月曜14:00-15:00社長と2人で来る」と。(※省略) 1月7日(日) 雪より雨となる。礼拝にゆけば讃美歌600わが訳となりをり。すみて帰れ来れば肥下夫人「全田叔母の葬儀壮んなりし」といひ来る。 1月8日 暖し。郵便局へゆく佐伯に寄ればMongol語の聖書あり(1.2万)。 帰りて鳳出版まてば16:00城田君といふが途わからずと。中途まで迎へにゆく。馬琴の日記出したしと。早大東大にもありと答ふ。 晩に伊勢の兄妹来り、5千円づつユ小使ひを与ふ。(斎藤堅太郎氏『静観の詩人ハーディ』はるみより贈らる。) 1月9日 ユ、三鷹へとゆく(田上dr.と弓子)。14:00帰るとのこと也しに、そのまへ電話かかり山際文雄君来り、笑ひをる中3時間して腹痛くなり下痢して山住dr.にゆく。 1月10日 けふも暖し。斎藤dr.へ10:00。こみをれば薬もらひ、往復とも千駄ヶ谷。研究室へ見し2冊置きのこりみなもてば4冊のみ! 成城堂に寄れば借金あり『女性の歴史』2冊(800)と『文芸春秋2月号』ととりて帰宅。 夜、斎藤堅太郎氏へ『ハーディ』の礼かく。ユ、けふも風邪。 1月11日 8:00さめて登校。大学院、鈴木、松田にけふ限りといひ、崔修士にきけば留日6ヶ月と。2時間すませ崔君さそひて喫茶(成城堂の払ひすます)。 (※省略) 『浪曼』佐藤春夫特輯来る。(『果樹園』に2.5千送る。夜、矢野明子の相手「なじまず」と断りし由。岡さんより。) 1月12日 寒し。本多地主、隣の計測行ふとて立会はす。卒論6冊みなよみし。ユ、三鷹へゆき14:00帰り午飯くはす。2孫の風邪なほりしと也。 1月13日 9:00まへ出て佐伯に大学院用として1.5万足らず注文し、成城にて定期代7,670もらひ正教授会。 厨川文夫教授きまりしあと、30才の東京外語大出の講師の教歴不足を承知し(※省略) 東豊書店にゆき教科書注文し、来客多きに感心す。 夜、川久保(※川久保悌郎)より電話「土曜までゐる」と也。 1月14日(日) さむれば10:30(友眞柢久衛をゆめに見し)。一日card作り。Dapperちょっとかきしのみ。弓子より電話「2児の感冒宜し」と。 1月15日 成人の日とて休み。けふも10:00すぎ覚む。「羽田(※羽田明)の退官記念会に発起人となれ」と。年賀状の切手に当りしは10枚(※省略) 1月16日 定期1ヶ月分買ひ、風邪おして登校すれば専攻の会すみ、鎌田助教授を教授に推すとらし。13:45より崔修士の入学面接。(※省略) 教授会にて厨川、高田修2教授の就職決定、30才の英語教師も同。くしゃみし鼻汁出しながら最後までをり帰宅すれば川久保来しと。 川久保に電話し「あす10:30来る」となる(けふ山住dr.に風邪薬2日分もらふ)。 1月17日 外出せず。10:00速達中央公論出版より来る。川久保10:30に来り羽田記念会へ5千円せんと約束し、口むつかしきことを云へば「それより娘の縁談」と。 電話かかり、午后帰りゆきしあと校正し、疲れて耐らず。夜、明日のnote作り了ふ。 (母来り「全田の葬式に東京より一人も来ずと大江の叔母云ひし。13回忌は云々」と也)。(※省略) 1月18日 雨。9:00山住dr.にゆき薬もらふ。「2~3日休めよ」とのことに「学年末」と断り12:00登校。(※省略) 熱あるらしく、台湾より帰りし佐藤、崔君らのこして出、帰宅。不二歌道会より寄附の受取。 1月19日 終日家居。『金瓶梅』のcardとりしのみ。母、京につれられ「恍惚の人」を見にゆき泊る。 1月20日 10:30母帰りゆきしあと起床。11:40山住dr.にゆき薬もらふ。けふも『金瓶梅』のcardとりしに鼻水出、熱計れば36.8℃。 池田徹より姉友子氏の歌集『峡の月』贈らる。西川の序文。岡山巌氏の弟子と。旨し。 「ものみの塔」の小杉節子女史来り、上らせば逃げる。 1月21日(日) 昨日とけふと風邪。36℃まで下りしも苦し。弓子夫妻、孫2人つれ来り、可愛し。俣野博夫、癌で死せしと「東京新聞」。 1月22日 風邪を押して登校。東洋文化史を最後といふ。4人ほど女生来り来年のsemiにと。丸重俊と話しゐる中、鎌田女史「堀博士、黄疸にて入院」と。 相良先生「けふ限り」と2人に挨拶さる。成城堂に払ひし、『仏像図典(1500)』借り、佐伯にゆき4冊買へば950とし呉る。 西川(※西川英夫)に電話すれば「俣野のこと加藤らに云った」と。「大阪より話あるまで香奠またん」といふ。 佐藤生来り、日月潭の土産と先方(渡日あきらめしと)よりの礼の水牛の像呉る。 1月23日 10:00より卒論面接はじめ麻生と阿部(麻生態度わるし)、あと5人?すまし11:50より兼任講師の披露。中川君、博物館講座となる。 午飯すし。すみて13:00よりやり概評にては井上もダメにて総体に低調なり。疲れて帰宅。大聖の卒論見る。(※省略) 1月24日 9:15にのり登校。新城博士と同行。鎌田、大藤2氏来らず早くすすみしも午后のろのろとなり疲る。わがsemiは大聖のみ。参考書目をぬかしをり。 最後の男生最低にて助かる。佐藤、阿部、片山らと同車して帰宅すれば(※省略)。 ニクソン「ベトナム停戦」を発表。 1月25日 中央線故障とて新宿手前で停車、ややしてむりに新宿までわが列車ゆき10:00前に登校。八木生もまにあひ、面接の最後すみ、 評価優少く、八木生は、われひっこめしも鎌田氏云ひて優に入る。阿部は書き加へればあとにて卒業。麻生は可、大聖も可となる。 「31日に崔修士17:00駅に迎へにゆく」と約す。中央公論の付録の地図のため買ひ(320)帰宅。(※省略) 金沢より電話「特別入学ありや」と。「あり」と云ひしも、金額いへば吃驚す。 (帰途、東豊書店にゆけば『隋唐日交通史』は註文せし。国語はむつかしけれど云々と)。 1月26日 けふも暖し。10:00ユ、三鷹へゆき宏一郎つれ来る。(※省略) 散髪しゐる中、ユ宏一郎をつれ帰す。『金瓶梅』やるのみ。佐伯にて『鴎外全集』借り来る。 1月27日 ややに寒し。俊子姉来り「三郎兄の再就職を西川にたのんでくれ」と也。帰りしあと佐伯へゆき『鴎外全集』の払ひし(※省略)『標準星図(500)』買ひ来る。 (昨日より地ならししをり隣地に4台入りをり)。ベトナム停戦の調印をアメリカ、北ベトナム、南ベトナム、抗戦軍の四者にてやる。 1月28日(日) 寒し。晴れて富士山見ゆ。ユを置きて礼拝。「讃美歌600番」歌ふ。すみて駅売店にて『楽浪(250)』買ひて帰宅。加藤生来ず。(※省略) ユ、諏訪に電話すれば「異状なし」と。 1月29日 10:00登校。丸副手、鎌田女史の試験監督につかはる。(※省略) 帰れば加藤より「きのふ一日教会の人をり、金子と共に来る」と。 「アルバム3」200×4.5かき了る。『金瓶梅』のcardも作る。(母来り、5千円もちゆく。) 1月30日 8:00すぎさめ寒し。10:30より『金瓶梅』のcard作り、『長尾良作品集』出版記念会より「2.12(月)讃岐会館3階にて会費3千円」と。(※省略) 12:00出て成城。阿部、麻生の卒論の訂正をし、15:20より専攻会。阿部のみ訂正みとめる。他の2人は9月再提出と。15:50より教授会。(※省略) (民俗学研究所出来る。鎌田教授審査に堀、大藤の2氏と。) 寒き中帰り来れば丸重俊より「もう一年云々」と。「ダメ。早く就職して一人前となれ」といふ。あすより「北京の神仏」を紀要の予備として書くつもり也。 1月31日 起きてすぐ斎藤dr.にゆく。(※4月より文化史コース)主任となりしといへば(※斎藤茂太)少し心配気な顔をし「あまり熱心にならぬやう」とのこと也し。 東豊書店に電話かけてゆき教科書定め、山東出の老翁と話し、出てラーメン食ひ(90)、成城。 新城博士をられ丸のこと云はれしゆゑ「やめさせたまへ」といひ、崔修士の試験手伝ひしゐるといふにゆけば、丸と小倉君とをり。 崔君への伝言を宇野修士にたのみ帰りて16:45に駅にゆけば見えず。17:00に現れ「20分ほど前に着きし」と也。 つれ帰り、凌純声とシロコゴロフ貸す。ユ、歓待し茉莉茶と紅茶を贈る。 鈴木治氏より『白村江』贈られ礼状かく。(※省略) 2月1日 『金瓶梅』やり11:00出て成城。 途中にて買いひしパン2ケ(50)午食とし、13:15よりの中国古典と14:30よりの東洋史の監督す。崔君助監たり。 すみて研究室にゆけば都留をり、つれ出して喫茶。(※省略) 2月2日 寒し。成城大学図書館より「本返せ」と来しのみ。(※省略) 午后、山住閣下に電話すれば「来てよし」と。『畿内見物』3冊もちゆき「国栖」聴き『一高八十周年記念』外一冊借りて帰り来る。 『北京の神仏』の標題のみかき『金瓶梅』のcardとり越南戦争の実写を見る。 2月3日 寒し。午后佐伯へゆき『和刻本漢籍随筆集5(2,250)』借り来る。池田友子女史より「詩の話を小坂できいた」と。 2月4日(日) 寒く、われ疲れて聖餐式にゆかずといへばユも休む。(※省略) 諏訪兄より名古屋の転居尋ね来る。われ北京の寺廟しらべをり。 2月5日 試験監督に登校。丸にきけば水津わがsemi希望と。 試験用紙もち来り講師室にをれば、箕輪尚子「3月11日12:40より湯島会館で挙式」との案内(※省略)「出席」と答へ、 試験監督にゆき水津にきけば「然り」と。(※省略) 丸追ひかけ来り「石渡校長には不快感ありてゆかざりし」と。「会社でも秘書課ならよし」と。呆れて帰宅。 14:00金子生来り、論文の書き方教ふ。「高校の英語の先生自殺せし」と也。 2月6日 依子に電話し「ひっこし(土曜)にユ風邪にてゆけぬ」といふ。10:00出て成城大学。 4~3年の成績提出し、成城堂で本2冊買ひて帰宅。浅間爆発つづく。(※省略) 2月7日 9:00すぎ覚む。寒し。(※省略) 佐伯休み。集英社より印税34万?をくれしと納税申告書。 西川より「子会社に電気関係にて三郎の面接を通知す」と。(※省略) 2月8日 9:00前さむ。寒し。佐伯へ寄り『仏像図鑑(5,000)』と『騎馬民族志2』と借りて帰宅。 (※省略) けふ国鉄st.と也。(※省略) 2月9日 よべ4:00まで眠れず8:00さめ(※省略)、ユ午ねせしも、われダメにてteleviなど見をり。 (※省略) 永山より浪高のガラス割事件のことでわが事思ひ出せしと電話。 夕食せんとするところへ丸重俊来りしゆゑ、夕食くはし、ノロマの頑固のといひ、宇野の卒論受取り20:00すぎ帰りゆく。 『浪曼』来り木山捷平の日記に肥下と我と並べて記す。 2月10日 官公労のst.と、この2~3日さはがし。午后『文芸春秋 万里の長城から毛沢東まで』来り、わが西太后旨くかけをり。 中西博士は駄目。『東洋学報51』来り会費1,600と値上りも甚し。 宇野修士論文見てをれば「ものみの塔」の男性来り、昭和20年18才にて神風を信ぜしと。(※省略) 2月11日(日) 夫婦して礼拝にゆく。寒し。「600番」定着せしらし。(※省略) 12:00帰りてtelevi見つつ宇野の論文読む。(※省略) 2月12日 宇野の論文よみ了り、安心して審美社に「長尾良の会出席」といひ、 17:00出て田町より讃岐会館といふに歩きて定刻に着く。(※『長尾良作品集』出版記念会) 浅野晃、檀一雄、林富士馬のほか保田来をり、保田の話(今夜帰京と)で始まり中谷氏の音頭で乾杯。 意外なことに松村達雄「(※長尾良と)同級生にて一番の仲良しなり」と。 『朝日』の井沢淳司司会にて(高垣の大高閥にて定年後も残りをり。山田新之輔もしか也と)はじまり、浅野氏ら話し、 松村話し、檀一雄挨拶し、われ挙手して立ち高円寺の入院、Gloria Soc.(※ぐろりあ・そさえて)の本、『コギト』の同人のこと云ふ。 あとにて不快にて麻布一の橋へ出、busにて新橋、地下鉄にて新宿をへて帰宅。(※省略) けふ母来り「躁」といへば「躁の方よし。父の13回忌」云々と。(※省略) 2月13日 7:00さめ9:30登校。月見そば注文し10:30まで卒論の書き直しの指導し教授会に出れば、(※省略)。 一度帰りて指導し丸に履歴書の誤字直せと返し、また教授会に出、(※省略)。 講師室に帰りてのびし月見そば食ひ、石野田やめるときき、あとにて送別会にと1,000わたし、(※省略) 帰ればユ外出、火おこし、 小高根二郎氏より「元市印刷1p4,000にてもダメといひ、205号にて『果樹園』廃刊」と。勝手にしろとなり。 依田義賢より『祇園のまち丶一噺(※ちょぼいちばなし)』もらひ、不定形短歌もらふ。(※省略) 澄より転居通知、弓子より「2児風邪直った」と。けふユ「吉祥寺で外出の竹内夫婦に遭ひし」と也。(※省略) 美紀子よりも何となき電話かかる。 2月14日 斎藤dr.にゆき薬もらひ成城大学へ10:30つき、月見そばあつらへ、誤字訂正に立ち会ふ。 野口君来り、鎌田女史あらはれ、今より東大病院にて胆石入院の堀教授を見舞ふ。5千円の見舞したしと。了解す。(※省略) けさの新聞にて池島信平社長死せしと知る。わが一年先輩にて、昨日は東大新総長に1年後輩の林健太郎選ばれしと也。(※省略) 2月15日 4:00一度さめ7:00また覚む。日野開三郎氏へ本代1.4万小為替にし書留。(※省略) 聖心女子大東洋史専攻の4年生より「3月3日の会に出よ」と。「出られず」と返事。(※省略) 弓子2人つれて来り克次朗笑ふやうになりし。(※省略) 2月16日 (※省略) 鎌田女史に電話すれば「堀博士見舞った。退院しばらくかかる。1,200づつとる」と。 柳田文庫に「李朝実録の半ば末松保和先生にいひて取寄せよ」といへば「すぐ手配する云々」と。(※省略) 角川より『ハイネ』の14版96,660-9,666=86,994来る。 宮崎智慧女史より電話「お二人で夕食に来よ」と。「来たまへ」といへば来り、 「津和野の母上明治十一年生れにて重態。日曜の日本歌人の会に前川さん来られる筈ゆゑ夫婦して来よ」となりし。 2月17日 けふも暖し。佐伯へ午后金払ひにゆく。(※学生指導省略) 2月18日(日) 礼拝夫婦とも休み、10:30来し伊勢母子と話す。芸大3ヶ所受けると也。 14:00宮崎女史より電話「前川先生風邪にて来られず宜しくとのことなりし」と。 17:00近くHotelへと母子帰りゆく。目疲れて困り入浴。 2月19日 雨。阿部父子melonもちて礼に来る。「及第すればOxford辺りへゆく」と也。千川よりハガキ。『草苑』に伊東静雄の住・衣のことかきあり。採点大方すむ。 2月20日 7:00起され8:00出て成城へ9:00前つき(※省略)、午食くひて採点75,85,80となり「大甘」と諸教授いふ。(※省略) 中央公論出版の小倉氏に電話 (※省略) けふ『日本常民文化紀要』ときめ大藤、新城、築島、上原の4氏に「原稿3月中に」といひ(※省略)、山住閣下にmelonもちゆき、すぐ帰宅。 2月21日 家居。『金瓶梅』のcard作り、第2冊ほぼすむ。16:00ごろ丸重俊の案内で修士3人来り、(※学生指導省略) 丸に帰りぎはきけば「あす職員会にて10時間の高校教師と決らん」と也! 2月22日 雨。(※省略) 中央公論出版の女史より校正につき電話あり、答えてきけば「3月15日ごろ出来」と。 「篠原重役と同級生の詩人の田中也。3月初めに請求書出せばいかに」といふ。(※省略) 2月23日 曇。春めく。(※省略) 潮出版社より詩集に「詩くれ」と承諾を求む。恋歌選なり。 夜、依子に電話すれば「広くてガラガラ母とは喧嘩せし云々」よこに望をりしと。 2月24日 晴。風吹く。ユ母のもとにゆきしあと散髪すまし(800)、杉並産業会館の古書展にゆく。幸ひにして何もなし。(※省略) 『金瓶梅』のcardつづけDapperもちょっとよむ。(※省略) 2月25日(日) ユ石橋嬢の結納にと、われのみ礼拝にゆく。帰り伊勢丹にてParkerの万年筆探せば男用の3,500しかなく送らす。 古本屋見、きつねうどん(150)食ひて竹内家。夫人をられ「今よりまた病院へゆく」と。「お大切に」といひ西荻窪まで歩けば電車賃30円。佐伯に寄り楽恕人氏の『動乱二十五年(200)』買ひて帰宅。(※省略) (諏訪へ電話せしに「竹内家へ見舞の電話かかりし」と夫人)  (※「竹内好氏けがで入院」の新聞記事切抜) 2月26日 9:00までに登校とて急ぎゆき、鎌田、山中2助教授昇進投票にて決まり、あと及第判定会議。 松村助教授の東京外大へ転任の報告あり(※省略)、macaloni(250)食ひ(成城堂の払ひ3,500す)、 東豊書店にゆけば教科書来てをり『隋唐五代中日交流史』を1冊もらひて鈴木治氏に送りて帰宅。(※省略) 2月27日 9:00すぎ出て10:00成城大着。日本史の試験監督。(※省略)午后1時間半の国語の監督『コギト』の語出をり。 すみて茶と菓子出さる。けふゆく途買ひし『日本人と植物』面白かりし。 帰り佐伯に寄り『鴎外全集』受取り石井良助『吉原(90)』買ふ。雑学甚し。(※省略) 2月28日 9:00すぎ出て10:00成城大学。(※省略) 『中国植物図鑑』写し午食し、国語の試験監督。(※省略) すみて菓子食ひ採点にゆく高田君引きとめて話し帰宅。松浦康彦君より「22日女子出産2,900g木曜あす退院の予定」と。 「寿一長男興三3.26目黒雅叙園にて太田洋子と結婚」と。 3月1日 風吹き寒し。文芸春秋より新社長沢村三木男氏の挨拶。(※省略) 午後佐伯へ『鴎外全集』の金払ひにゆけば、中国駄本3冊呉る。 3月2日 寒し。(※省略) 原田淑人先生米寿記念会より1口6,000にて御文集発行と。ユと相談1万円とす。 昨日の新聞?に竹内某会に出席者の中に挙げられゐし故21:00電話すれば、嬢出て笑ひ夫人出て「面会謝絶中」と。 3月3日 寒し。家居。鈴木治氏より切手にて本代来る。(※省略) 羽田教授退官記念事業会より「1口1千円」と発起人の名簿来り、先輩諸氏の名はなし。松浦康彦君より電話あり「名はまだ定まらず」と。 けふ西川に電話すれば竹内の(※入院の)こと知らざりし。「順天堂への見舞には我も入れよ」となり。 3月4日(日) 7:00すぎ起されしも日曜のため成城へ10:00すぎに着き、 すぐ入試判定会かと思ひしに、1億円の特別寄附にて池田、栗山、浅沼などの教授連文句つけ(※省略) 2修士の副査の印押して放免となる。帰途、佐伯にて『解釈と鑑賞』の「川柳・吉原」号(450)買いひて帰宅。 京「あすskiiより帰る」と。けふユ三鷹へ行きしと也。 3月5日 寒し。家居。近江詩人会より「杉本長夫氏2.28より意識不明、危篤」と。みな我に先だつ。 母風邪とてユ午后出て三鷹の田上dr.につれゆき「他に異状なし」と18:00すぎ帰り来る。けふも概ね『金瓶梅』のcard。 3月6日 寒し。(※省略) 日本近代詩論研究会より「詩のための雑感(『文藝文化』15.8所載)を載せてよきや」と。 「可」のハガキ出しにゆけば佐伯に『南方全集9(2,520)』来をり。これを読みをり。 京skiiより帰り来る。22:30寿一に電話し「祝もちゆかす。寿賀子君の在宅は」と問ひ10日午前と決む。式は神式となり。 3月7日 寒し。丸重俊より電話「(※成城高校)面接すみ身体検査ありそのあと通知」と。(※省略) 川久保、夕方前来り「十日過ぎまで(※東京に)ゐる。学部長となりし」と。(※省略) 松本夫人(※松本善海夫人)に電話すれば「ねたきりにて物云はぬかもしれぬが」と。「明日か明後日の夜ゆく」といふ。 (※省略) けふ山田源之助氏より「16日東上、17日深大寺の歌友の歌碑建立に出る2,3日平塚辺りにゐるゆゑあきし日をしらせ」と。「19日21日とあく」と返事す。(※省略) 3月8日 風あり。(※省略) 竹内夫人に電話し「14:00より面会許さる。花もち来よ」と。 13:30出て14:00順天堂病院新館にゆけば白髪の鬚だらけ也。花代5千円置き、髭そりに看護婦来しゆゑ出て、 東豊書店。4.8万借りる。(『明元清系通紀(1.2万)』、『愛書(1.2万)』、『明清史料乙編(6千円)』が高きものらしき) 丸重俊より電話「競争相手は(※省略)」 3月9日 10:00さめ、ユ午后、弓子の義理の従姉の見合にて三鷹へゆきしあと留守す。(※省略) 電気屋来り『泰緬鉄道』まだよみゐると。『ビルマ作戦』2冊貸す。応接室に1灯増やしくれ勘定は月末と。 神田君らの『満文旧老檔』と『雍正镶红旗档』とを貰ひ神田君(※神田信夫)に礼かく。 西宮一民君より『古事記』もらひこれも礼状かく。呉濁流氏の詩集の礼はまだかかず。 22:00ユ効なかりしと帰宅。3.18大船にて『日本歌人』の「前川佐美雄氏古稀祝歌会」とユに案内来しもわが名にて断る。 3月10日 寒し。4:00さめ火起しなどしてをれば夜明く。(※省略) 丸重俊より「成城高校ことわられた」と。(※省略) 川久保より電話ありし故「17:00来て飯くはん」といひ、来しに本見せ、うどんとりwineのんで、 19:00ごろ松本宅に(※見舞に)ゆく。「嬢、ドイツにて結婚出産して11ヶ月と。依田新とつけし坊や可愛ゆし。夫君も音楽家」と。 さて2階の寝室に案内さるれば、(※松本善海)歯ぬけ、やせ物いはず。生ける屍の如くなりをり。 階下に下り憮然として暇つげて帰宅。(※省略) 3月11日(日) 8:00さめ散髪にゆき『金瓶梅』2pほどやり、11:00出て地下鉄にてお茶の水。 医科歯科大をぬけて湯島会館にゆけばまだ式中。(※教へ子箕輪尚子結婚式) わが番来り「優なれど小心」といふ。14:30すみ新郎に「大事にしてやってくれ」といひ箕輪母より「Hyre」といはる。 九州へ新婚旅行と也。やがて父君Hyre示したまひ阿佐谷まで。(※省略) 3月12日 8:00起され地下鉄にて新宿。小田急すきをり大学院2次の修士博士面接。堀川部長に「面接旨し」とほめらる。 (※省略) 佐伯に寄り『李太白集3冊(9,000)』にしてもらふ。 福地君(※福地邦樹)より「元市の主人(※『果樹園』印刷所主人)死にて」云々。 3月13日 雨時々降る。(※省略) 後藤均平氏よりの論文「高力士は広東省の蕃酋の子孫なり」と。 3月14日 8:00さめ斎藤dr.へ地下鉄でゆき(60)診察受け薬かへ給はず。新宿まで歩く途中coffeeのみ(100)、急行にて成城。(※省略) 成城堂にて『日本国家の起源(140)』、松村雅明『沖縄の歴史と文化(980)』買ひまた地下鉄にて帰宅。 戦災の会(※東京空襲を記録する会)より「空襲抄の校」来をり。堀辰雄・坂口安吾の項消されをり。 校正し佐藤(村上)美智世生へ『思ひ出』の詩かき、枕頭の書『鴎外の即興詩人』とかき、 投函に佐伯に寄れば『文芸春秋3月号』とりのけくれをり(100)。仕方なく『桃花扇(450)』買ひて帰宅。躁なり。 丸岡明未亡人『なのりそ』全巻を近代文学館に寄贈せしと也。 3月15日 1:30さめ『南方熊楠全集』よみ7:00起され登校。9:15なりし。 45分待ちて第2次進級会議。みな及第となりて評議員選挙。(※省略) 山際文雄君より電話「高橋新吉の授賞を喜ぶ」と也。 3月16日 家居。10:00さむ。(※省略) 井上書店より「本売れ」の便りありしのみ。 3月17日 7:30起され9:00出て地下鉄をへて登校。(※省略)  佐藤(村上)美智世生より『花信風』の原稿ついたと。 高橋重臣君より電話あり、阿佐谷の嬢の家にありと。「すぐ来い」といひしに道迷ひしと来り「あす出発、今夕婿と夕食ののち羽田のHotelに泊る」と。『ポリタイア』に矢山哲治のことのりしをもちゆく。 夜、新城博士より電話「丸荒れ女の子みなこはがりし」と。電話せしもかからず。 3月18日(日) 晴。9:00家を出、地下鉄にて成城。2時間試験監督。鎌田女史にきけば「退職の正式通知なく引きつぎせず云々」。 丸にけふの採点補助断り家へ来いといふ。待てども来ず。(※省略) 探しあて連れ帰る。 「(※助手はもともと)1年限りの約束なりし。自分にても探す気になれ。履歴書10通書け」といひ話すや落涙す。 夕食くはせて帰宅せしめしあと井上和子生「あすそろって来る」と。山田氏来る故「だめ」といふ。(※省略) 3月19日 晴。11:00すぎ「今日は」と声し阿部生はじめ麻生、八木、井上、大聖、白仁の6人礼もって来る。 「来るな」と云ひしにと叱り、あげて写真とる。(※省略) 午まへ帰りゆく。 そのあと山田源之助(高原弦太郎)氏まてば14:00すぎ電話かかり「ピーコックの先にて待つ」とのことに迎へにゆく。 『歌日記(※西島喜代助歌集)』など差上げ話すうち(※省略) 佐伯に寄り帰宅。 けふ波多野太郎博士よりまた『中国方志所録方言匯編9』賜はる。夜、ユ竹内夫人に電話すれば「退院まだ不明」と。 3月20日 卒業式にとゆけば式の前、学長訓示のあと退職教授の履歴ならびに前途につき紹介あり笑止。 class主任として免状わたし、広場の宴会場へゆけばわがsemiバラバラ也。(※省略) 研究室にゆけば丸をり履歴書1枚わたす。帰らんとすれば阿部生来り、写真といひ(※省略) 帰りて『史苑』を見、televi見て16:00前また出て赤坂見附にゆき「栄林」といふ中華料理屋に一番に着く。 村田謹一郎の会社のツケと也。20:30すみて帰宅。(※省略) 3月21日 寒し。10:00にさむ。丸重俊に電話すれば「13:30四谷にて会する故来られず」と。「すぐ話すむ故来よ」と云ひ、 来しに西川(※西川英夫)に会はさんといひ、(※省略) 佐伯へゆけば『和刻本第6集(2,500)』来てをり。 借りて帰りしところへ「ものみの塔」の人来り「4月1日の阿佐谷の集会に出よ」と。 「出る」といひ、また三位一体説むしかへし、科学と信仰と現世と天国のこと論じあひ夕食せしめ20:00ごろ帰りゆくを礼いひて帰る。信仰ますます堅くしたまはんとの御心ならし。 けさ小高根二郎君より『棟方志功』2冊賜ふ。なぜならん。 宮本馨太郎氏より「便り見た。白鳥先生の本100冊売れたが白鳥芳郎君にゆき、やっと受取った。そのうち精算す」と也。 3月22日 春一番吹く。羽田の会へ5千円出しにゆき、佐伯へ借り払ひ、帰りて映画を見をり。(※省略) 西川に丸のこといへば「15:00よこせ」と。18:00ごろ丸より電話「3枚履歴書受取り面接一カ所にてさしてもらった云々。」 松枝茂夫氏より『紅楼夢2』。大阪読売より「『果樹園』終刊の感想を」と。「新人出ざりしが残念」といふ。 3月23日 8:00起され10:00寸前に登校。1回の金、たくさん入りしとて指定寄附を少なくし(※省略) 午食のとき(※来年度の)文化史の主任の披露さる。(退任の臼井佐山2教授よりは挨拶あり。大藤教授届けなくして欠) 丸副手への退職の挨拶金、新城教授より渡さるるを見、高山ゐざる故、出て東豊書店。 琉球大学の教授に紹介受けて本2冊買ひて帰宅。(※省略) 羽田(※羽田明)へ松本の病状、神田博士(※神田喜一郎)、信夫君へ抜刷包みてすむ。『果樹園』の終刊号、『不二』来をり。 3月24日 (※省略) 佐伯に寄り『燕山外史』の訳(250)買ふ。面白くなし。(※省略) 前川佐美雄氏より「脳軟化症」と。向ひの蟹江夫人転宅と挨拶に来る。 3月25日(日) 寒し。3週間ぶりに夫婦にて礼拝にゆく。すみて齋藤齋先生と話しつつゆき駅にて松村達雄に会ふ。「茶のまん」といへば「用あり」と。 佐伯へ寄り『三省堂の年表(250)』買ひて帰宅。ユの見合にゆきしあと散髪、本屋見、タバコ探して見つからず帰宅。 3月26日 けふも寒し。郵便局へゆけば抜刷25円なりし(※送料)。川久保、波多野2教授へ抜刷。 高原弦太郎氏へ『石上露子』の借り状と写真。 (この間の5女生とユの写りし1枚と卒業式後の写真の焼増したのむ。) 15:30出て目黒雅叙園に16:30着き親戚紹介に間に合ふ。(※寿一長男結婚披露宴) 20:00となりてすむ。林叔父敏夫とともに帰りゆく。 3月27日 けふやや春めく。午すぎ羽田、山本達郎2氏に抜刷出しにゆく。弓子母子来り宏一郎賢くなり克次朗われに抱かる。 (※省略) 天野忠氏より「杉本長夫氏長逝『骨44号』に追悼文5~10枚かけ」と。「承知」と返事かく。 22:00すぎ寿賀子より「昨日は」と(※礼の)電話。 けふ佐伯に『鴎外全集17』来をり、林房雄『神武天皇実在論(220)』買ひてよむ浅野、保田帯封に推薦の辞かきをり。(※省略) 3月28日 ユ、斎藤dr.へ薬とりにゆき(※省略)われ佐伯へゆけばしまりをり。水曜休みなり。『金瓶梅』のcard、54回まですすむ。 (※省略) 3月29日 暖し。(※省略) 花井家へ電話せしも「タヅさん留守」と子供。21:00花井夫人より電話(※省略)『果樹園』終刊を知りをり。 3月30日 封筒(40)切手(100)マッチ(70)買ひに出、午すぎ山住閣下に電話すれば「お留守」と。 神田信夫君より(※抜刷について)年代と靖南王、耿継茂の指摘あり。(※省略) 成城大学より来年度の時間割送付。水木金の3日間也。『金瓶梅』55回まですむ。 3月31日 終日家居。山住閣下夫人、返本に来られし故『棟方志功』進呈す。(※省略) 電気屋来り5千円余とりゆく。 4月1日(日) ユ聖餐委員となりしと8:00まへ出てゆく。われ9:40教会。聖餐すみ礼拝了りしのち(※省略)まっすぐ帰宅。 着がえへせず13:30出て阿佐谷北3丁目の「ものみの塔」の会にゆけば途中にていつもの教師に追ひつかれ、 紹介うけ『讃美歌集』貸してもらふ。女子供ばかりにて説教は「ものみの塔」をよみしとわかる。疲れて帰宅。(※省略) 4月2日 ユ床几買ひ来りしゆゑ垣根ちょっと切る。堀教授に電話すれば「まだ入院、東大病院第一外科」と。 14:00出てお茶の水より東大病院、迷ひに迷ひお見舞品なく『成城文芸』のみ差上ぐ。(※省略) すぐ出て東大ぬけ琳琅閣。「主人、神田信夫君と同年」と。 お茶出され竹内への土産に『中国年表(1,000)』とヱハガキ(150)と買ひて順天堂医院。 竹内夕食中なりし故、見舞に本とヱハガキ置き、俣野博夫の死を告ぐ。お茶の水より急行混む中を帰宅。 楊雲萍氏より「10.22帰国」と。(※省略) 4月3日 よべ眠れず。朝になりて一寸眠り9:00さむ。 丸に電話すれば夫人出て「気分変へに重俊旅行、来週帰り来る。大学院に副手のあきありみなすすめゐる」と。 「とんでもなし」といひ「帰れば来させ」といふ。『柳田国男(170)』買ひよみ了る。(※省略) 4月4日 8:00起され、ねむき中起き斎藤dr.へ雨中ゆく。(※省略)帰れば美紀子母子来をり。(※省略) 孫達アリちゃんに迎へられて今井にゆき美紀子、京より籐の編み方教はる。 15:30高橋生来りしゆゑ「同級生の美人はほぼ恋愛中にてダメ」といひやる。whiskyのみ(※省略)喜びて帰りゆく。 けふ藤野一雄君より「杉本長夫氏の追悼文呉れ、でなければ芹川堤(※彦根旧宅辺り)の詩のす」と。(※省略) 4月5日 9:00さむ。寒し。終日家居。『骨』の佐々木邦彦画伯の追悼文は依田、我、天野忠の3人にて、杉本長夫氏の死のす。病名をいはず。 藤野一雄君に「昔の詩を再録せよ」とハガキかく。(※省略) 4月6日 成城より速達「16日9:30出発、富士急Hotelにて一泊、翌日16:03帰着。講師は中沢教授」と。 (※省略) 21:00和田母子来り、0:00夫君の電話にあはてて帰りゆく。 4月7日 よべ眠れず。6:00ごろ自動車放置の「犯人出ろ」の声にさむ。 丸重俊、夕方来りしゆゑ北園克衛(※医科歯科大)に電話すれば不在。製本屋には向かざる顔す。夕食前に早々に帰り、 21:00ごろ来し「ものみの塔」と0:00まで激論す。躁のせい也。 京、松田スミ子女史のすすむる縁談に「よし」と云ひし由。 4月8日(日) 晴。9:00さめ礼拝にゆけず。北園克衛氏に電話すれば「いまあきなし」と。「そのうち会はん」といひ丸夫人にその旨伝ふ。 14:00弓子より電話、やがて善一郎のautoにて小林母上全快祝と善一郎の従妹婿来り、(※省略) 23:30までtelevi見をり。 4月9日 9:00さめ気分すすまず、ユに1.8万もらひ佐伯へゆけば『蒙文聖書』1.2万を千円負けてくれし故『書経(1,000)』買ひて帰宅。 『浪曼』来る。不相変三島崇拝なり。(※省略) 庄野潤三芸術院賞をもらひしと也。 4月10日 6:00さむ。雨。眠り足らず。(※省略) 竹内夫妻より電話「土曜退院し信州松本の温泉に治療にゆく」と。 4月11日 9:00までに一度さむ。金子一郎より電話あり「来たし」と。来りて『江戸名所図会』7冊もちゆく。(※省略) あす登校、大学院の宣誓式に出ることとす。丸重俊に電話し履歴書かけといふ。 4月12日 8:00さめ(よべ不眠)10:00登学。入学式に出ず。(※省略)  入学式すむをまち、(※省略) 成城堂に払ひし、『朝鮮の民話(孫晋泰)』、『古代朝鮮』買ひ午食せずに帰宅。(※省略) 佐伯へゆき『西域思慕(600)』買ひて帰宅。 4月13日 9:00さめ10:00来し高橋重臣君の嬢奥山夫人より病状きき、ユ山住dr.につれゆき帰り来らるをまてば 「腎臓病にて早速入院すべし」と河北病院に電話しくれ賜ひしと。(※省略) 昼食せずして成城、駅前にて月見そば(150)食ひ登校。(※省略) 教授会に出る。 高田修、厨川、塩川3新任の紹介のあと新旧副手(※飯塚・丸)の交替の挨拶。(※省略) 鎌田女史、石丸無給副手のことけふはじめて云ひ教務に届けしめしあと、けふ18:00来宅と。 東豊書店に寄り『中国名菜大全(480)』、『中国婦女活動記(340)』と買ひ(※省略)、帰宅。 鎌田女史Melon3ケと浜納豆もち来り19:30まで話しゆかる。「高校にて民俗学無視のことなし」云々。(※省略) 22:00すぎ高橋重臣夫妻より礼と「高橋君19日上京」と電話。 4月14日 晴。8:00起され自動車で迎へに来るといふ奥山マリ君にことわり9:30ゆき河北病院に入院せしめ11:30帰宅。(※省略) 善一郎、母上を大阪へつれゆきしとて弓子、宏、克2児をつれ来る。ともに可愛し。夕食して帰る。望、泰を思ふこと切なり。 4月15日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 南村母子来るといふにGrimmの英訳抄画本を佐伯で買ひてまてば14:30来り「Napoleon」呉る。 「ギリシアよかりし」と。(※省略) 4月16日 7:00起され8:30ごろ成城に着き、9:30富士急busに乗り伊藤教授と並んでゆく。うしろに堀川教授をり。 12:00忍野の富士急Hotelに着き昼食。雨、東京と同じく降りをり。夕食までの間に学科指導といふがあり、鎌田に群衆す。 すみて夕食。校歌練習のあとガンガンひびく楽ありて、 われ横塚助教授のところにて自己紹介の最後にて「Torna a Surriento」歌ひしも誰も感心せず。 Guitarにて新しき流行歌うたひて21:00となり701号室。(※省略) 4月17日 雨やまず富士5合目とりやめとなり、鎌田の話きかず池田、伊藤、八木の3氏とバカ話し 10:30となりてあはてて階下に下り11:00出発。(※省略) 15:00成城大学。茶のみて帰宅。(※省略) 小高根二郎より『コギト』18年1月号の保田の文のりをれば貸せと(「保田にかきて借れ」と答ふ)。 筑摩の季刊雑誌来をり、藤原定氏訳の角川の『李白』来をり。(※省略) 4月18日 よべ眠れしも8:00さむ。斎藤dr.へはユ往かせ、われ佐伯へゆけば『日本語大辞典3』来をり、払ひして帰る。 竹内好より「浅間温泉にあり」と。(※省略)  藤原定氏に受取かく。 4月19日 6:00さめ眠し。西川に電話し三郎兄の(※転職探し)のこといひ、竹内の転地しらすれば「丸の息子のこと(※転職探し)ひきつづきやりをる」 と。 木村三千子氏より「天野忠の詩のりし英本400にて予約するや」と。「する」とハガキかき、佐伯へゆき、(※省略) 高橋重臣君18:00かっきりに苺などもち来り、会へと出てゆく。ユに命じ夫人を河北病院にゆかせればやがて来訪。 すし食ひ21:00夫君河北より電話かけるまで話しゆく。(※省略) 高橋君21日までをり一緒に帰らざればわが家に泊れといふ。京はじめての見合「土曜18:30(※省略)」となる。 4月20日 7:00さめ高橋重臣君来るをまちしに10:30来り、母も来る。11:30出て午食にさそひしにまだ開かず。 12:00すぎ成城に着き(※省略)、13:00より134教室ほぼ満員の1年生に教授内容話し国文学にゆけとすすめ、 14:10すまし研究室にて鎌田氏に会へば大藤送別会1万200円と。定期代もらひ金子、佐藤2生と喫茶。 「下北沢の古本屋知らず」といふに案内し『唐代の楽器(700)』買ひさらに北にゆけば1軒はつぶれ易専門の店は休みをり。 駅にて2生と別れ帰宅。(※省略) 藤田勝夫より「名古屋の椙山女学園にかはりし」と。 高橋君電話かけ来り20:00来りCognacあける間、ユ阿佐谷北4丁目の奥さんに会ひにゆく。 23:00ユをのせて婿来り高橋君帰りゆく。京あす見合。 4月21日 佐伯へ寄り駄本のかへことし12:00まへ成城につき、シュークリーム買ひて研究室にゆく。 鎌田女史「今年度が文化史の文部省の金出る番」と。『叢書集成』買はんと思ふ。(※省略) 会計にゆけば2級上り教授18級となる。(※省略) 月見そば食ひ下北沢下車。 南の大地堂にゆき『東海道今昔旅日記(250)』などゾッキ本買ひ京王dept.。 屋上の青空古本市みればこれもゾッキ本ばかり。高円寺に下車。都丸にて田中克彦訳『シャマニズム(2,200)』買ひて帰宅。 (※省略) 中央公論社より『日本の詩歌』3版とて6千円余三井銀行に入金と。 小高根二郎君より「保田にきけば『コギト』手許になし」と。 夜、富岡鉄斎を語るteleviに太郎(※小高根太郎)出ゐし故、すみてより電話すれば「日帰りにて京都往来」と夫人。(※省略) 4月22日(日) ユ聖餐式当番にて7:30われを起し出てゆく。 高橋君に電話し「五十而知天命」といひ、別れ告げ9:00出て佐伯へ寄り『歌謡集』2冊採り教会へ行く。(※省略) 小高根太郎より電話あり野上、安達2家の鉄斎画のこといへば見にゆく『鉄斎研究』は10冊となりしと。(※省略) 小林より電話「来る」と。やがて親子4人来り克次朗ものいふやうになりし。高山家よりもらひし甘き飯くひて帰りゆく。 われ01:50までtelevi見て入浴。 4月23日 晴。7:00さめ10:00『コギト』のcopyとりにゆき佐伯に立ち寄りしあと1枚40円とnote300円買いひて帰宅。 早速小高根二郎君に速達せしむ。(※省略) 丸重俊に履歴書持参せよといへば2通もち来る。(※省略) 4月24日 9:00さめ、斎藤dr.こみをり。帰りは千駄ヶ谷へ出、東豊書店へゆきしに主人不在。 『荘子白話句解』、『老子講釈』、『老荘哲学』3冊買ひて丁度1,000払ふ。帰りて(14:00)午食し、(※省略) 阿部氏逝去(※阿部知二死去の新聞切り貼りあり)。成城講師の時、話してわれを好きしなり。 丸重俊の履歴書に手紙つけて原徹氏に「(※明星学園に)空きあれば講師にても」と頼む。(※省略) 4月25日 10:30順法闘争とて国鉄をさけ地下鉄にて新宿。成城にて雲呑くへば喉焦く。 3時間目のsemi5人出、も2人出るとて教科書なくなる。佐藤生に「東豊書店にとりにゆけ」といふ。 中国古典は40人余りか出席なし。(※省略) 昨夕より方々の駅にて騒動起りしも解決つかずるあすも順法、あさっては私鉄ストらし。 4月26日 10:30国鉄にて新宿。成城に11:40着き、月見そば食ひ登校。(※省略)教授会にて予算通り個人研究費12万円と。 民俗研究所4月1日付にて成立。臼井、大藤両名誉教授の称号ありしとすみしあと、大学院教授会。(※省略) 18:00帰宅の途につき国鉄に乗れば19:00阿佐谷着。佐伯に『鴎外全集18』来をり。(※省略) 小高根二郎君より「copy受取った。保田は掲載忌まざらん」と。「勝手にしろ」也。 4月27日 国鉄私鉄はじめ春斗つづき京、出勤を免ぜらる。 佐伯に午后金払ひにゆく。主人をらず。松村潤氏より紀要抜刷3種速達にて来る。寒くなる。 4月28日 終日家居。春斗了り京、出勤。(※省略) けふ杉本長夫氏の追悼文5枚かく。 4月29日(日) 9:10家を出、礼拝すみて総会。(※省略) 佐伯に平凡社の『中国古典文学大系69』以後をたのみ、『ソビエト民族学入門(600)』買ふ。(※省略) 帰りてcardとりteleviのサッカー見、18:00帰り来しユと夕食すます。(※省略) 4月30日 はじめての追かけ休み(天皇誕生日が日曜とて)(※振替休日)。終日家居。 坪井(※坪井明)より同窓会名簿に「故友の連絡先しらせよ」と。薄井夫人(※薄井敏夫未亡人)に手紙かく。 5月1日 午后、ユ、母のところへゆく。佐伯にゆき雑書3冊。主人は市にゆきしと。美紀子、茶とりに来り6,600もちゆく。 ユ20:00すぎ名古屋へ電話すれば望「サイタサイタ」を歌ふ。 川久保、弘前より電話「羽田の祝にゆくや」「行かず」と答ふ。(肥下夫人に名簿に書入れたのむ)。 5月2日 10:30出て成城大学。sandwich(100)買ひてゆき入試手当(22,500-3,600)もらひ(※省略) semiにゆけば(※省略)また中国古典。これも早めにすまし、林生に『老子』貸す。成城堂の払ひすまし(『白村江』来てをり)、 林生誘ひて喫茶(『自殺』といふを買ふ。ふしぎな子なり)、紀伊国屋書店へゆくといふに同車す。 帰り雨の中、佐伯に寄り6万円の受取と払ひすます。末吉(※中学教師時代の教え子)より「八尾高校教頭に任ぜられし!」と。(※省略) 5月3日 晴。弓子2児つれ来る。2人とも可愛し。宏一郎つれて佐伯へゆき本3冊買ふ。3人とユと出てゆきしあと善一郎より電話。(※省略) あすのnote作り、昔の日記よむ。よくも歩きまはりしことかな。(※省略) 5月4日 9:00起き登校。(※省略) 畑嫗にmacaloni(150)買ひにゆかし新城、鎌田2教授と顔合せ(※省略)、 東洋史にゆけば134教室相変らず一杯にてnoteとらぬ女生とがめ聴講cardのこといふ。(※省略) 東豊書店に寄れば大学院に3冊、semiに2冊送り、(※省略) echo(※タバコ)探しつつ新宿まで歩けば駅売店にありし。 きのふけふと日記よみ、伊東(※伊東静雄)と最後に会ふ3日前に、正法寺の近江詩人会で杉本氏(※杉本長夫)に会ひし也。 5月5日(子供の日) 終日家居。天理より『Biblia』と『全本写真集』もらふ。中に無記名の手紙あり、富永館長らしきに礼状かく。(※省略) 近江詩人会より『杉本長夫氏追悼号』と小林英俊13回忌をやると。 大和去り近江にゆきて浪速江に送りし日々の空しさ思ふ。 けふまた「ものみの塔」の女史来りしゆゑ「もうわかった。老人に用なし」と云ふ。 5月6日(日) 5:00ごろ覚め礼拝にゆけず、televi見、card少しやり、ユ帰り来りしあと高円寺へecho買いひにゆき、帰りて昭和30年までの日記見る。 杉本長夫氏追悼文のためなれど思ひ出すこと多く中々よみ切れず。ユを小林英俊追悼会にさそひしも20日(※世話した)結婚式にてダメと。 5月7日 昭和26~30年の日記よむ。杉本長夫氏追悼の為なりしも色々の事思ひ出してすすまず。(※省略) 佐伯にゆき原富男『老子(200)』買ひ『琅邪代酔編(4,050)』借り来る。けふ浪中の同窓会報来る。相野忠雄より「杉浦の遺族のこと知らせ」と。 夜、日ソバレーで日本負けるを見る。 5月8日 春嵐と。朝「古書展目録」来り、午后東方学会の案内来る(欠と返事)。 母来り「これが最後」と岡山の墓参にゆくと也。大の借金返済破約を銀行よりいひ来し故、高飛車に返事せしと。これも不快。 折も折、ユ足達家見舞にゆき60分外出を許されし留守にゆきあはせしと。2時間して帰り母とウダウダ話す。 夜、堀川部長より電話「民族学研究所員を命ず」と也。 5月9日 雨傘もちて10:30出れば佐伯休み。sandwich食ひ新城博士まちしも来ず。池田博士に天理の『源氏物語』進呈。semi(※省略) すみて2号館へゆけば短大部長となりし高田君(※高田瑞穂)の室に招じられる。(※省略) 茶のみて雨中帰宅。成城堂に『白村江』なし。(※省略) 肥下夫人より「十月会ひたし。同窓会には通知した」云々。 5月10日 佐伯へ払ひせんと寄れば『琅邪代酔編』の価格不詳と受取らず。昨日よりユのこさへしsandwich食ひ、(※省略) 「東洋文化史」よみ、大学院予習せずしてタドタドよみ、了へて16:00より教授会。 すみて180万円の基本図書より30万円プールし各人30万円づつ5名に等分とす。 雨降りし中を高田、山田2君とゆき18:00より新旧任者歓送迎会をかねし会。 傍にゐる飯塚副手を池田、高田2君に紹介すれば叔父唐木順三両君とも知りをりて喜ぶ。臼井、大藤、佐山3氏の退任(丸副手最後に来る)、 厨川、高田修2氏の新任その他を部長紹介す。(けふ鎌田女史よりきけば堀博士東大病院へ再入院と。) 5月11日 『西太后』のnote作りて登校。(※省略) 1年の東洋史相変らず134教室に満員なり。すまして林生来ざる故、出、東豊書店により『中国方志所録方言匯編8(1,500)』、『壬辰倭禍(720)』、『中国近代史常識(250)』買ひ佐伯へ寄れば『琅邪代酔編(2,500)』と『現代の迷信(100)』買ひて帰る。 (※省略) けふ弓子2児つれ来り、ユ吉祥寺の動物園につれゆきしと。 5月12日 重岡氏の電話にてさむ。「夜、来たまへ」といふ。散髪し佐伯へ2,500払ひにゆき、日記をよんだりcard採ったりしつつ14:00来る井上生待つ。 相変らず可愛きも勉強するつもりなく大聖、八木の2生ほむ。感心な子と思ふ。15:00帰りゆきしあと18:00飯くひ、 19:00来し重岡氏の今後の計画きく内、(※省略) 20:30帰りゆきしあと西部劇見てすむ。けふ竹内より『中国を知るために』第3冊来る。 5月13日(日) 8:00起され礼拝にゆく。すみて竹森先生に『17世紀の台湾の神仏』の抜刷おわたしし、阿佐谷にてトヨ夫人の親戚の嬢にまた会ふ。 佐伯にて『小学類1冊(150)』まけてもらひ、帰りてtelevi。映画と日ソvolley-ballとを見、日記よみし。予定のnote一つも出来ず。 5月14日 8:30さめ終日家居。televi、card、日記よみにて了る。(※省略) 5月15日 8:30さめnote、card作り14:00来し林(百済)夫人を三井銀行まで迎へにゆく。(※省略) ユやさしき故云々といひ16:30ともに出てゆく。 われ佐伯へゆけば『騎馬民族史3(630)』来りをり。(※省略) また古き日記よむ。 5月16日 9:00さめ700もらひて出しに大学院研究費出てをり。持参のsandwich食ひsemiに時間くれよといひ金子生、娼婦論をす。(※省略) 帰り佐伯まで直行し『朝鮮の鬼神(4,400)』、『中国の民話(1,100)』、『秘境西域八年の潜行(800)』と買ひて帰宅。 card一寸やり日ソvolley-の最終戦を見る。若く小さくて日本軍完敗す。 5月17日 9:00起され『西太后』のnoteちょっとかき登校。成城駅前で挨拶せし美人考へて立教の中山副手とわかる。 持参のsandwich食ひ新城、築島教授に紀要の原稿の催促す。2時間教へてクタクタとなり16:00よりの立割委員会に出、(※省略) 帰りて(※省略) 高橋重臣君より電話「夫婦して来てゐる」と云ふに「すぐ来い」といへば来り、whisky飲み22:30帰りゆく。 「土曜の夜また来るかもしれず」と。頼永承の消息、鉄斎の絵を小高根太郎に見てもらひたし、云々など話せし。林璋子より礼状。 けふ母帰り、大江の孫娘婚約。 5月18日 9:00すぎさめ(※省略)、新宿駅にてsandwich(150)買ひ、半ばを食べ東洋史。相変らず学生多きによりmyke使ひてすます。 林生来ず、大学院の試験手当4,000もらひて東豊書店。 『清太祖満文老檔(1,680+2,160)』、『三国遺事(2,800)』、『中国近代史(650)』買ひて重がりつつ帰宅。(※省略) 5月19日 8:00起きる。佐伯へゆき『春信(1,500)』買ひしがつまらず。学校へも注文す。 ユ、婚礼へと出てゆきわれ午食自分でこさへて食ふ。京「泊りがけで事故見舞にゆきし」と。 高円寺に出て古本屋みて帰り来る。(※省略)。日記よみ昭和35年夏まで来る。(※省略) 5月20日(日) 8:00さめ、礼拝にゆけず。ユ帰り来しに、この間母よりききし大の病状云ひて不安となる。(※省略) 松浦の父君(※長男史氏の岳父)再立候補止めしと也(※坂出市長1期にて退任)。 夕方散歩とていつもの如く古本屋。『ああ戦場(100)』、『新約の歴史と文化(300)』にてやっと袋くる。 北口の古本屋も見てまはり夜となり(※省略)。 5月21日 ユ、三鷹へと昼食代200おきて出てゆく。われ中国飯店にゆきしに雲呑なく冷し八宝麺といふを食へば350。佐伯へ寄りて帰宅。 丸重俊14:00ごろ電話かけ来り「報告にゆく。今、阿佐谷にをる」と。来しに聞けば校長会ってくれ「小学に来年3月より」と。「原さんに礼かけ」と云ふ。 帰りゆきしあとユ帰り、弓子歯科へゆき留守番にて宏・克を見し。宏一郎、箸を使ふと也。 けふ水曜の予習しcard少しやり日記35年不眠症にて苦しみしを知る。 肥下の自殺この年3月にて小高根二郎上京して報告ききし也。 5月22日 昨日note作り、けふは何もせず。11:00ごろ白水、丸木2夫人押上佳子夫人つれて来る。(※省略) 『文芸春秋』6月号もらひ来しゆゑよむ。紅衛兵の実話といふがのせあり。 きのふ天野忠氏へ「杉本長夫氏追悼追悼」速達せしむ。原徹氏へ礼状かく。 5月23日 4:00さめまた眠り8:00起され睡眠不足の感じにて斎藤dr.にゆけば満員。薬のみもらひ千駄谷に出て切符失ひ30また出して東豊書店。 『古都変遷記略(2,000)』、波多野博士『中国小説戯曲詞彙研究辞典9冊(4,500)』、『中国哲学史2冊(1,520)』にて7,000 にしてもらひ(現金払ひ)登校。 持参のsandwich食ひ、飯塚副手より「叔父唐木順三氏われによろしくと云ひし」ときく。 4時間目すみ高田瑞穂君に会へば「来月松村と3人にて高田邸にて会すること承知」と。(※省略) 崔吉城君にあひし故、茶にさそひ永々と話して帰宅。寒く4月初めの季候と。 5月24日 きのふにつづきて寒し。(※省略) 佐伯により登校。 東洋文化史教へればpageとばして教へしと也。(※省略) 教授会、タテワリ委員会の報告を池田委員長永長とやり(※省略)散会。 帰り佐伯へ寄り『唐話辞書類集12(3,250×0.9)』と『鴎外全集(2,000×0.9)』をとりて帰宅。 疲れてnoteできずtelevi見る。 5月25日 8:00さめnoteちょっとやり午食とてうどん一口食ひて成城。 学生控室にて50円のsandwich買ひ、食ひて13:00となり東洋史。 (※省略) 成城堂にて『韓国(265)』買ひて帰宅。(※省略) 英一16:30来り、この間の電話で気を悪くせしも門口までと来てみし由、21:00すぎまでゐて6月再来を云ひて帰りゆく。 (※省略) 成城大学より「民俗学研究所員を命ず」と「同運営委員を命ず」の辞令を4月1日付にてもらふ。 5月26日 9:30さめ、ユ11:00に見合に出てゆくを見送り、佐伯へゆけば主人留守。 『朝鮮の占卜と予言(4,400)』、『朝鮮の風水(4,400)』、『朝鮮の類似宗教(6,300)』と買ふ。崔吉城君のせいもあり。 『金瓶梅』のcard作りしのみ。(昭和37年の日記身了へる。) 5月27日(日) 賀代嫗の一周忌に多摩墓地へゆくユをのこし礼拝にゆく。 知合殆どなくすぐ帰り来り、ユの作りおきしすし食ひ午ねしをれば和田統夫夫妻来る。 塀代立替こめて半年分9万円受取かかせて残金5万円渡す。(※省略) 向ひの嫗「地代1坪275円と云はれし」と来る。 18:00帰りしユにきけば「我家すでに280円要求されをり」と。(※省略) 吉祥寺で『日本語の起源(780)』買ふ。 5月28日 ゆっくりねて9:30さむ。日記よみ昭和38年の狂乱に到る。(※省略) 森脇昭吉氏より詩集。 浪曼社より「伊東静雄の座談会を6月8日(金)18:00より」と。「林富士馬、西垣脩を呼べ」といひて承知す。また不眠の一因たらん。 けふ佐伯にて『嬉遊笑覧上下(4,000×2)』、『馬琴日記1(4,500)』を学校へといひ、『春信』と『三好達治研究(1,350)』とと りかふ。他に『スポーツの歴史(150)』にて丁度となりし。 5月29日 家居。(※省略) 加藤ひろ子来り、(※省略) けふ泉正二郎氏より『旅雁』といふ歌集。今中の後輩の国語教師にして、 きらはれゐしも高校長となり帝塚山学院理事となりしと也。 中山八郎氏より「水金土以外に来よ」と地図。(※省略) 竹内より全快祝に盆。(※省略) 5月30日 よべ眠り浅く電話でさめ9:00起され11:00前sandwichもちて登校。 中国古典すませsemiすませれば沖縄の宮平生「話したし」と。「家へ来よ」と誘ひ20:00まで本見せ『清実録』1冊貸す。(※省略) 5月31日 10:30出て12:00より大学院会議。(※省略) 東洋文化史にゆけば灰皿にecho1つおきあり、可愛きことをするものかな。(※省略) 昼食のsandwichの残り食ひて元気出し、佐伯に寄れば「まだ請求書出さず」(※省略) けふ近藤生、渋谷国忠『萩原朔太郎論』くれし故、大学院の浅見女にやる。 6月1日 11:30に家を出て成城大学。東洋史の時間mykeならず金子生呼べば来り直し呉る。(※省略) 崔吉城君さそひて喫茶。梅原末治博士の『朝鮮の墓制』もちゆき3冊返却。Shirokogoroff(※シロコゴロフ)は忘れゐたり。 帰り佐伯へ寄れば「けさ請求書出せし」と。『沖縄案内(150)』買ひて帰宅。 原夫人より「高校に結核の職員出、1年間の補欠に丸重俊をと思ふが消極的、不熱心ならずや」と問はれしと。 2度目の電話にクミ子出、4度目の電話に重俊出「川崎より呼び戻されて明日面接」と。「消極的ならざれ」と注意す。 本多地主、地代値上ゆゑ、ユゆきて地利の他と異なる云ひしあと2千円引かれしと。 6月2日 11:00ごろ朝食、弓子2児つれ来る。二人とも可愛ゆくなる。 教会の原夫人より電話「原理事、高校長(鈴木氏)ともに丸重俊に会ひ好感もち講師として一年間高校の16時間もたす」と。 礼云へば「あす教会で」と。 丸家に電話し夫人(※丸三郎夫人)にその旨伝へ丸生の来るをまてば「酒のみをり」と。 来りて「来年度は必ず専任に」と云はれしと喜びをり。 夕食まへに佐伯にゆき『唐代詩集上』と『白楽天』と各1部づつとりよせたのみ(『Heine』1冊買ひ) 『馬琴集(450)』買ひて帰る。夜、丸より電話にて礼云ふ。(※省略) (朝、東豊書店に『清朝実録』そろひありやと云へば「あり」と。学校へ註文す。17万円以下と也。) 6月3日(日) よべ眠れず。斎藤dr.の薬1粒追加して少したてば8:00。 起され教会へまいれば(※省略) 礼拝すみて原夫妻に礼云ひ『ハイネ』1冊渡し「高校長先生にもいづれ」といふ。 ユと別れ、佐伯へ寄り医書買ひて帰宅。客なく〒なし。(※省略) 6月4日 けさ起きれば10:00すぎ。米山まち子へ(※茶器の)礼状かく。 午后、小柳夫人、一女つれ来り(※縁談話 省略) 夜televiにて「ガミガミ先生の話」。珍しくキリスト教的、教育的なり。 6月5日 9:00起き斎藤dr.へ10:00すぎゆけば満員。仕方なく13:00近くまで待ち隣の夫人と話せば(※省略) 千駄谷駅より電話してまっすぐ家に帰る。 『Biblia』来りをり。やがて緒方親母子兄弟の歌集来る。(※省略) 6月6日 笠原dr.への礼状投函。10:00登校。(※省略) 新城semi鎌倉へ一晩泊り見学旅行とて、わがsemiもしたしと。「行かん」ただし休み前をいふ。 成城堂に『白村江』2部届けよといひ前田直典『元朝史の研究』買ふ。 (※省略) 飯塚、石丸両副手呼び餡蜜食はし、丸と飯塚の喧嘩の子と聞けば大したことなかりしと也。 また鎌久(※鎌田女史)の中傷ならん。(※省略) 6月7日 登校。sandwich半分食ひ、東洋文化史よみ、大学院へゆけば小松よむ。すみて教授会。(※省略)18:00閉会。 けふゆききとも雨。(※省略) 6月8日 雨。成城へsandwich(150)買ってゆき、(※省略)すみてすぐ出て帰宅。hyerより電話17:00に迎へに来ると。 16:30より待てば来り、九段のすぐ近くの料理屋につけば林、中谷孝雄の2氏と『浪曼』の編集長と来をり。 西垣君の来るまで雑談し18:30西垣君来り、司会すれば、林君酔ひ、話にならざる様子なりしも20:30すみ、 薄謝(2万円)もらひ3台に分乗、われは西垣君と新宿まで同乗。帰りてpão食ひ入浴。(※省略) けふ『浪曼』恰も来り、朔太郎の座談会、葉子さん出て面白かりし。 https://shiki-cogito.net/tanaka/sanbun/itoshizuo-kaiso.html 6月9日 晴。傘もちて11:30出て佐伯へ寄れば『唐代詩集上(1,200×0.9)』来りをり、『花の本(150)』1冊買ひ成城大学。 (※省略) 13:00すぎより会議。(※省略) 堀教授見舞にと成城堂で軽き読物2冊買ひ、(※見舞 省略) 帰る。 丸に電話すれば「重俊帰り来ず」(※省略) 原さんより電話「校長気に入り花嫁世話せん」とのことにまた丸に電話すれば、 「帰りてすぐ出し」と。20:30やがて電話かかりし故「経過報告せず。バカと我は思へど向ふでは気に入り嫁の世話あらば一応話にのれ」といふ。 けふbonus2.5三井銀行へ入れしと(※省略)。 6月10日(日) ペンテコステ。7:00ユ起こしてくれ聖餐式の仕度にと出てゆく(原夫人へと『唐代詩集上』托す)。 8:00すぎ出て佐伯へにゆき『中村地平全集(2,600)』といふを買ひ、預けて礼拝にゆく。(※省略) 夜、緒方親氏へ受取。畠山六右衛門氏へ近況かく。 6月11日 曇。水曜の下調べしcard作る。(※省略) 武田豊氏『長浜の灯』来り、和田統夫より転居通知。 われ松村緑女史に「会ひたし」と往復ハガキかき、佐伯へゆけば「白楽天まだ来ず」と。 夕方、美紀子より「産気づきしらしきも云々」と電話。ユ20:00「行く」といひ矢野家の御花料置きて出てゆく。  わがうまで七人となるめでたさを主にひたすらに祈りてをらむ。 相良徳三先生、中村地平と旧知とのことわかり「7月に参上」とハガキかく。 6月12日 8:00京、電話に出「3:00男児出産」と。soupとpão用意してくれ出てゆく。 そのあとまた寝、11:00起きて1時間予習し12:00出て佐伯に寄り『堺歴史散歩(200)』買ひ、 ゆっくり京王dept.にて麺食ひ、14:00少し前(京王dept.の本屋で『かぐや姫の誕生(250)』買ひてゆく)矢野家に着き、 (※前年6月14日逝去の大高クラスメート矢野昌彦の)仏前に御花料(5,000)供へ、光子と夫人と話す。(※省略) 14:30出て東豊書店へゆけば山根幸夫君をり、東京女子大とのことに「松村緑先生に」と名刺托す。あす教授会にて会ふと也。 『南方土俗』影印本われと学校とに2部注文す(1.7万円と也)。松浦家へ電話(※省略) 林富士馬君よりハガキ。伊藤信吉氏より転居通知。(※省略) 6月13日 あさ早く「赤ん坊死にし」と電話あり、ユわが朝食用意して出てゆく。11:00出て登校。悲しくてならず。(※省略) 帰れば西垣氏より電話「かき足す」と也。林氏に電話すれば「不在」と電話出られし故かき足しかき直したまへといふ。 矢野夫人に電話してけふのこと無事すみしといふに気付き、墓地の世話してもらはんとユと相談す。 梓(※昭和18年逝去の次男)と次彦(急いで命名と)の骨を入れんが為にして「史に内諾を待て」といふ。 ユ、諏訪に電話し、小林へはあすゆくと也。  みづのごと消えゆくものと知らずして待ちにし日こそあはれなりけり。  天国に入らんすべもなき叔父と仲良くねむれ迎へあるまで。 坪田多美子生に電話し「29日1泊2食、男2人と女6~7人の2室たのんでくれ」といへば「宜し」と也。 6月14日 11:00登校。(新宿でsandwich150買ひゆく)。3時間目東洋文化史の時間は居眠り多し。大学院よめず。(※省略) 16:00より大学院の会あり。(※省略) 了りて帰れば20:00。佐伯にて『国語辞典』と『白楽天』とにて5,740払ふ。 丸重俊に電話し「鈴木校長に土曜の午前伺って宜しきやきいてくれ」といふ。 けふ、墓地を八王子の教会の墓地と同処にせんかと。これも一案なり。(※省略) 6月15日 10:30出て登校。(※省略) 茶のみに誘ひしも皆断りし故15:00出て下北沢下車。 大地堂主人(※林二郎:詩人)と話し、高円寺南口の古本屋みて帰宅。 ユ帰り来り、「美紀子、八王子の墓地の件承知した。検査のあと退院」と。 丸重俊より電話「鈴木校長あす15:00在校」と。 けふ松村緑女史より「『李太白』にて知りをり。山根教授より聞いた後ハガキみた。7月4日14:30に女子大研究室に来よ」と。 (※省略) 坪田多美子より「東伊豆のHotel4千円以下にできず」と。田中ユカリに電話すれば「それにてもよからん。semiの諸生に相談して水曜までに意見まとめる」と。 6月16日 内田英成(※大高野球部同窓)死にしと東京新聞で見、丸に電話し「けふ明星学園鈴木校長にたのみにゆく」といふ。 5:00起きにて眠り足らず、何もせず14:00となり吉祥寺下車。 『中国雑誌(80)』買ひ明星高校を探し探してゆけば、 15:00受付にて小学校事務室に電話ありしといふに、ゆきて『李太白』呈す。 『コギト』『四季』同人たりしこと知りをられ、丸を「熱心」といふ。 何にても教へて下されとたのみ、また吉祥寺南町へ出しゆゑ、西瓜(500)買ひ、 尋ね尋ねして杉浦家へゆけば(※杉浦正一郎の)夫人をり。 次嬢カヤ子嬢をつれて帰り来しを見て出、荻窪の本屋見て帰宅。 けふ『東洋学報55-2』来り、阪大大学院の森川哲雄生わが「ハルハ5部」のこと引く。 京、下田の民宿1,800にてありといふ故、田中ユカリに電話すれば「遠すぎる」と。「勝手にしろ」といふ。 6月17日(日) ユ、礼拝にゆき、われは休む。終日card作りtelevi見しのみ。 6月18日 美紀子に電話かけ「あす午ごろ見舞にゆく」といひ甘精堂東京販売所に電話かけ、田中氏に「あと払ひで注文してよきや」ときけば「よし」と。 13:00出て成城大学。(※省略) けふ林富士馬氏より「原稿みて恥じ入りし」云々。 筑摩より増補現代日本文学全集『現代詩集』1,000部との通知ありし。 丸重俊より電話ありしといふにかければ何のこと無し。われ「校長に挨拶にゆきし」といひしのみ。 6月19日 8:00起され9:30出て三越新宿支店にゆき「Johny-walkerの赤、大で」と。 薬もらひ「(※斎藤茂太)先生へ」とwhisky置き四谷四丁目の本屋にて子供の本2冊(1,500)買ひbusにて薬王寺町。果物屋でMelon3ケ(150)買ひ次彦の霊前に供ふ。 美紀子出て来て、史、怒りて茶碗投げしと泣く。われ梓のこといひ八王子の墓地のこといひ、母上に田中家の墓地なかりしわけ話して出る。13:00帰宅。 午飯くひsemiの下調べす。(※省略) 山本(※山本書店)の書目来しゆゑ金土にゆく故『北平廟宇通検(7,000)』と『中華諺海(3,500)』とのとりのけたのむ。  なにゆゑと主のみさとしを知らずして泣くわが嫁に心ふたがる。  わが死なば284番を声高らかに歌へとぞいふ。 6月20日 9:00出てnote検査し半分すみししころにて午となる。 3時間目のsemiにて田中生はじめ下田行はとりやめ8月下旬にどこかへと也。(※省略) 17:00近くなりてすみ、下北沢にて下車。『日本の詩歌』松村女史に贈らんと買ひ(300)、氷coffeeのみて帰宅。 (※省略) 1c中野優子生のnoteに「何のためにこんなことしてるのかわかりません。こんなことなら速記学校へ行った方が良い」とあるを電話すれば「わかった」と泣く。「金曜会ひに来い」といふ。 6月21日 地震あり7:30さむ。(よべ眠剤きかず、粉のむ。) 11:00出て登校すれば大学院、野球試合と也。(※省略) 教授会18:00となり(※省略)。 6月22日 11:00より大学院日本庶民文化の会といふに10:00出て、 文芸学部長室にて上原君より堀川、新城、築島諸博士と我とにて懇談。(※省略) 12:10すみsandwich食べんとすれば研究室の前に中野優子をり、 1片あたへて「速記とはちがひ常識的漢語を教へるのが目的」といへば、 「わかった。大先生と話できるとは知らざりし」と也。(※省略) bus岩本町行に乗り山本書店へゆき予告せし2冊とり学校へと数冊たのむ。 16:00すぎとなり水道橋まで歩くみち、山口書店(※日本浪曼派の古書店)に寄れば喜ぶ。 (※省略) けふ大(※西島大)にあへば十二指腸潰瘍と也。 6月23日 よべ睡眠感なく弱りしも14:30出て佐伯へ寄り成城へ着けば15:30近く。 高田家探し廻りて着きNapoleon呈上すれば、松村達雄青山学院へゆきて帰り寄ると也。 森良雄と3人にて話したかりしと松村云ふ!(※省略) 6月24日(日) よべも眠りがたく眠薬追加し、ユが教会にゆくに遅れると云ひ、10:30ゆけば満員にて竹森先生のお説教の了りに近かりし。 すみて墓地へゆくもの16名残り長老たちの自動車に分乗、1時間余りかかりて八王子北端に近き上川墓地にゆき1部1-7の教会の敷地見しあと(24の10㎡を田中家墓地とすることとし(他の人はみな帰りし。手付1万円置く。(※省略)) 帰れば鈴木正義より電話「来る」と。19:00来りwhiskyのませ大藤教授還暦記念論集出すとのことに「御苦労」といひ送り出す。眠気つづく。 6月25日 美紀子に「あすゆく」と電話。矢野夫人へ「見合せよ」とユ。「墓地八王子に買った」と我。(※省略) 6月26日 雨。ユ、薬王寺へ美紀子見舞にゆく。弓子より母上また医科歯科に入院と。(※省略) 宮本馨太郎氏より『めし・みそ・はし・わん』賜はる。 6月27日 雨。10:30出しも電車(小田急)遅れをり。sandwich 1片たべてsemi。(※省略) 中央線で中野止りを幸ひにecho探しに北口へ出、3ケ買ふ。 佐伯へ寄り『鴎外全集』来りしを借りて帰る。東京桜井甘精堂より送状と現物と来をり。 (※省略) 角川より7月中旬『ハイネ15版』1万部と。 6月28日 傘もちて出、11:00成城大学。sandwichたべ東洋文化史すます。(休み多し)。 1時間半まつ間、成城堂にゆけばechoなし。(※省略) 大学院教授会16:00より。(※省略) 澄「あす来る。泊めよ」と。 6月29日 11:00出て成城大学。(※省略) 東洋史、日清戦争直前までやり(芥川也寸志の嬢届けに来る)、これにてと云ひて出ればsemiの2人に次々と遭ひ、信州に8月29-30の2日間semi旅行を水津生計画しをりと。 成城堂で『シンガポール(650)』買ひて帰宅。19:00澄来るをまちて夕食し23:00までtelevi見る。 けふ今中19期生会より梅村巳佐雄、木下義三死にしと。隅田先生85才にて御存命と。 澄、朝日にのりし「果樹園終刊」の報もち来る。 6月30日 『中国植物図鑑』とcardとで一日了ふ。佐伯へ散歩にゆき『風流たべもの誌(320)』買ふ。 夜、山住閣下より「あす観世能楽殿の「楊貴妃」見にゆかずや」と電話、(※省略)切符もち来賜ふ。 けふユ、電機大出の31才と矢野明子と見合せしめ付合ふこととなりし。 7月1日(日) けふ聖餐式の為、ユ7:30起きわれも同時にさむ。8:00出てゆきしあと京、欧州旅行にゆく(50万円と)といふ。 礼拝に出、受洗者2人あり11:30了り、(※省略) 急ぎ渋谷に出、松濤の都長官邸前の能楽堂に12:30着き、席わからず(※省略) 山住閣下みつけ、済むやそばにゆきて礼云ひ、「飯食ひをらず」と断り外に出て月見そば(190)食ひ、道玄坂(日曜天国)の古本屋にゆき『ある老兵の手記(350)』買ふ。 北清事変の兵隊の記録にて珍し。 (けふトヨ先生『礼拝と音楽』1973.5賜ふ。竹森先生讃美歌600番のことかき玉ふ)。 7月2日 終日家居。日中雨降り、ユ三鷹の田上dr.へゆく。堀博士より全快通知あり。 夜、相良徳三先生に電話し「あす伺って宜きや」といへば「夫人火傷にて入院、永くかかる故その内通知す」と。(※省略) 7月3日 9:00起され10:00すぎ斎藤dr.。混みをり12:00すぎ先生に会へば「(※西島大の所属する)青年座のラク(※千秋楽)にゆき山岡久乃はじめ1時間ほど話せし」と。 成城の教師も見えしと也。まっすぐ帰宅。cardと『中国植物図鑑』の写しす。 夜、平壌の実況に金日成の肥えゐると、岡本兄ら「よど号」の8人の革命を待つ話きく。 7月4日 9:00起き弓子「孫たち預けに来る」との電話きく。 13:00出て西荻窪。(※省略) 古本屋見てまはり東女大の松村緑教授の室のまへにて15分まち、来たまひしにわが詩人なること(山根君云はざりしらし)をあかし、父の手記と歌集2~3を見せれば石上露子とのことわが推測通りと。 その後の研究賜ひ、「父の手記と歌集を貸せ。石上露子集は滅多に見ねど探したまふ」とのことなりし。 帰りて研究よめば島田謹二、矢野峰人、藤田福夫など御存知なりし。 宏一郎と克次朗と手を焼きゐしに19:00前夫婦来り、京に旅費5千円呉る。(※省略) 東豊書店、簡木桂氏より「丸善経由、本手に入った」と。「われに送れ」といふ。 7月5日 9:00起き10:30竹森御夫婦問ひまいらせ墓地買ひしこといふ。(※省略) 出て古本屋にゆけば本多喜代治先生の半自叙伝『旃陀羅の子(350)』といふがあり、竹内へゆく気になりて夫婦相手に話す。 12:00出てbusにて西荻窪。南側のキリスト教の本屋さがせしもまた見つからず。 帰りて午飯。『中国植物図鑑』の写し半ばを越す。 佐伯にて『南方全集6(2,520)』借り来る。 7月6日 梅雨、九州にて明けしと。終日家居。cardと『中国植物図鑑』。 20:30高橋重臣氏来訪。23:00すぎ嬢より電話あるまで話しゆく。 7月7日 晴。午、『鴎外全集』の払ひにゆく。ユ、京の旅費立替に銀行へゆき七夕の催しの幼稚園にあるとて薬王寺へ母とゆく。 きのふ高橋君より死亡とききし鳥居久靖氏の還暦記念会よりの通知来る。 けふも『中国植物図鑑』の写しとcard。 7月8日(日) 8:00さめ礼拝休むこととす。ユ出てゆきしあと阿佐谷中へ投票にゆく(都議会議員)。 帰りてcardと『中国植物図鑑』。ユに午食くはせられ出てゆきしあと14:50笠原文恵L2Dの蟹田裕子つれて来る。(※省略) ユと入れ違ひに帰りしあと30℃を越す暑さとわかる。(※省略) 7月9日 『浪曼』来り伊東静雄の鼎談わりあひ旨くゆきをり。同時に林富士馬編『伊東静雄詩集(旺文社文庫180)』贈られし故、電話して礼いふ。 東豊書店より『嶺南人物考(3,300)』、『邊例集要上下(4,290)』、『修信使記録(1,320)』来る。 7月10日 けふも暑し。(※省略)林叔父、火災保険の集金に来る。この間、大の芝居見にゆきたまひしと也。(※省略) 7月11日 けふも暑く33℃となりをり。(※省略) ユ三鷹へゆき午飯はpão一枚にてすまし、夕方echo探しにゆきしもなし。 『中国植物図鑑』の写しとcardを相変らずやる。 7月12日 けふも室内30℃を越す。televi故障し、夜、代りの小型をもち来り修理にもちゆく。 われ夕方散歩かたがたechoを高円寺まで探しにゆきしもなし。 けふ『中国植物図鑑』の抄写すみてうれし。 7月13日 30℃を越す日一週間と。cardとり(※省略) 俊子姉来り、スミ子夫婦別居と。気の毒なり。 佐伯へ95円もちタバコ探しにゆく。「hylight」仕方なく買ふ。 7月14日 家居。けふも30℃を越す暑さにて梅雨明けを気象台11日と宣す。(※省略) 羽田(※羽田明)の退官祝「109万余集り、内90万円を記念品料として貰ひ海外旅行す」と也。 けふ10:00朝食、16:00すぎまでユ三鷹へゆきしとて帰らず。 7月15日(日) さめるのおそく礼拝休む。山本秀樹より「あす10:00来る」と。林マリ子より「あす午后来る」と。 けふも30℃を越す。cardあまり進まず。築島教授より「原稿送った」と。 7月16日 暑し(30℃以上)。山本秀樹、朝食しゐる最中来りスリッパ呉る。休みにはbasketの監督に来りゐると。昼食まへ出勤とて帰りゆき15:00林マリ子来り、『荘子』よみをり「中国語そのうち読みやらん」と云ひ涼しくなりて帰りゆく。、(※省略) 増田晃母上(82才)より『日本新記(※遺稿)』。  あらひと神われと同じくあがめつつ死にし人をばかなしく思ふ。 7月17日 晴。8:00さめ9:00斎藤dr.。診察はじまらず30分たち薬もらひ、 代々木の東豊書店にゆけばWernerの神名辞典あり。竹内好に借りし本のドロボー版(※海賊版)にして1,600円と。1,010のつりと引きかへにしてくれる。 けふより論文かくつもりなりしも旨くゆかずcard作りしのみ。(※省略) 角川より去年につづきお中元来る。 7月18日 けふも30℃を越す。夕方高円寺へ歩きecho4ケ買ひ来る。 松本善海夫人紀久子より「五月末入院させた。dept.より物贈った」と。 佐藤美智世より『花信風』の感想をと。(※省略) 7月19日 けふは涼し。暑中見舞などの返事。ユ三鷹へゆき2孫を入浴せしめ疲れて帰宅。 佐伯へゆきしも本なし。(※省略) 7月20日 けふも涼し。よべ2:00まで眠れず眠剤追加のむ。 田中ゆかりより「8月29日30日すずらん高原へゆく」と。 丸重俊より電話あり14:00すぎ来り「1ヶ月大過なく了へし」と也。 「休み中勉強しろ。新城先生に報告にゆけ」といふ。 折しも竹内より『日本と中国のあいだ』来る。雑記を集めしも却って面白し。 夜、田中ゆかりに電話し「一度来よ」といふ。(※省略) 7月21日 けふも涼しく雨時々。(※省略) 肥下夫人より「咲耶と付き合ってゐる」と。松本善海夫人よりガラス器一そろひ賜ふ。 ペルシア湾頭にHi-Jackあり騒がし。(※ドバイ日航機ハイジャック事件) 7月22日(日) 礼拝にわれのみゆく。(※省略) 鎌田女史より「堀博士、関東中央病院に再入院(※省略)」。 夜、丸夫妻来りて物もち来しゆゑ(夫人付添は珍し)、原さんと衣笠理事長とのこと話す。 Hi-Jackのこと一つも進展せず。(※省略) 7月23日 けふも涼し。ユ母へとゆき14:00帰り来る。史、大阪へゆきをりと。 佐伯へ『ドーソン蒙古史4(810)』とりにゆく。Schinzinger先生にと5千円贈りし序で也。 西川英夫より電話「富山忠雄死にし」と。竹内に電話せしに嬢出て「父も母も不在」と。 (※省略)  Hi-Jack一つも進展せず日本人一人をり京都の男らしきことのみわかる。 7月24日 21日Dubaiにて着地せし日航機 (※省略) 皆おろして爆破するまでおちつかず。 (朝、竹内より電話、富山のことにて「酒のむばかりだったからな」に呆然とす。) 山前実治君より転居通知。 (東京新聞に「保田の次男自殺に至らしめ、その骨をEgyptにもちゆきしは大阪外語出の嵯峨野高校の教諭にて7月初め外遊せし。自殺は焚死」と見ゆ。惨たり!) 7月25日 下痢つづきダルく山住dr.にゆけば休業。(※省略) 7月26日 腹巻して寝、下痢とまりし如し。(※省略) 夜、新城博士に電話すれば「8月初めまで待て。一度会せんか」と。「お任せあれ」といひてすむ。 藤野一雄君より「『浪曼』見た。8月の『詩人学校』に来よ」と。ハガキ入れありしゆゑ「秋にでも」と断る。 (※省略) けふは増田晃母上へ歌3首。(※省略) 7月27日 9:30朝食すまし、10:30中央公論社に電話し小倉氏といふに相談すればけふ人よこすと。 あとにて「17:00阿佐谷住ひの者を」と。DubaiのHi-Jack機みな無事にて着くを見しあと、中公の人、江部君来り大藤、築島2氏の原稿もちゆく。(※立原達夫ほか暑中見舞 省略) 7月28日 晴。午后散髪にゆく。(※川村欽吾ほか暑中見舞 省略) 佐伯へゆき『唐話辞書類集13(3,150)』と某大先生の東洋史講義のprint(700)借り来る。 けふは下痢止る。相良徳三先生より「奥様の病気通院にて秋まで来ざれ」とのハガキ。(※省略) 7月29日(日) 9:00速達書留にて新城博士「日本史上に見られる海神への供犠(試論)400×66」来るをみて礼拝にゆく。 (※省略) われも何か書かねばと思ふ。京いよいよ出発の準備す。依子「16日2児つれて来る」と也。 7月30日 台風ぬけし。13:00佐伯に払ひにゆかんとすれば、今井翠声かく。やせをり。 中公事業へゆけば元の中央公論社なり。原稿揃ひしといひ(小倉氏)、100p以上にしてくれといふ。50万円以下でできるとのことなり。 すみて篠原梵氏に面会求め35年前に入社試験落ちし以来といひ、石上露子集のこときけば「持ち合せず」と在庫ききたまふ。 礼いひて出、西川にゆけば「また痩せたな」と。宮崎女史(※就職)条件むつかしくてダメと。 (※省略) 電話篠原氏にて「見つかった。江部君にもってゆかす」と。喜びて夜、松村緑教授に電話し「入手できるとて喜びゐる」といへば「父上の御原稿非常持ち出しにしをり『コギト詩集』も見つかった」云々。 丸重俊に電話すれば「魚釣りにゆきし」と。あとにてかかりし故「西川の所へ挨拶にゆけ。ことづける物あり」といふ。 けふ松枝茂夫氏より『紅楼夢3』賜はり『金瓶梅1(岩波文庫)150』と『背教者の系譜(180)』と買ひ来る。(※暑中見舞 省略) 7月31日 5:00さめ眠く斎藤dr.にゆかず。何となしにけふ22:00に欧州旅行にゆく京のことを気にしつつ15:00まで待てば佐藤生、崔吉城君つれ来る。19:00より三鷹にて鮮語の講義すると也。今まで貸せし本みな返しbeerのみ佐藤と我との話ききをり。 17:00ともにゆく経師屋の娘来り美人なり。「気をつけて」といひ送り出せしとほぼ同時に篠原梵氏より『石上露子集』もち来りし故、天理の善書集3冊をお礼にと托す。 (※省略) 京ゐざるをさびしく思ふ。ふしぎなることかな。 8月1日 8:00起き、9:00すぎ地下鉄にのり斎藤dr.。10:00御診察。「宜しいですね」と。 東豊書店に寄りしも本買はず。(※省略) 京Romeに着きし筈なり。 8月2日 日中暑く夕方より涼し。終日家居。(※省略) 藤野一雄氏より「10月来彦承知した」と。 8月3日 10:00さめすでに暑し。また下痢。cardやり『中国の植物』かかんと思ふ。Dapperもよみをり。 (※省略) Dietrich(1904生)をteleviで見る。 8月4日 けふも暑し。(※暑中見舞 省略) 16:00ごろより雷雨。論文まだ書かず。 原田淑人先生喜寿記念会より論集来る。 8月5日(日) 聖餐式のためユ7:30出てゆく。われ夜明けざる前より蚊に起され、礼拝休む。 論文かかんと思ふも中々考へまとまらず。19:00弓子夫妻来る前に夕食し、やっと来しを風呂で遊ばし20:00帰りゆく。 けふ『大英和辞典』の植物名採りしも頭休めの為也。 8月6日 暑し。9:30出て高円寺へecho探しにゆきしも見当たらず。100のタバコ2ケ買ひ来る。 (※暑中見舞 省略) 夜、丸重俊に電話し「来い」と催促す。 8月7日 けふも暑し。終日家居。まだ主題決まらず。(※暑中見舞 省略) 14:00石屋来り、希望いへばその通りにし26万円と。10万円をユ渡す。 「9月10日頃出来」と。ユ美紀子に次彦の骨引取るといへば「明日は横浜」となりし。 夜、丸重俊来りし故、西川に『旃陀羅の子(本多喜代治先生自叙伝)』もち西川に会ひにゆけといふ。 (小沢俊夫氏に「書類受取った。後期10月15日より講師願ふ。一度それまでに将来につき希望ききたし」と手紙かく。) 8月8日 暑し。(※暑中見舞 省略) 木村三千子より「彦根やりやで骨の会する」と。木村氏にはことはり返事。 丸重俊「東京建物へゆけば西川2日間休暇」と。物事早くするやうになりて感心とほむ。 (けふ中公事業に電話し「校正いつ出るや」といへば「再来週」といひ、すぐ築島博士にその旨伝へれば「月末」と訂正し来る)。 (※省略) 金子一郎来り『読史総覧』写し『辺例集要』上下2冊もちゆく。 『浪曼』来り平林英子夫人『わがひとに与ふる哀歌』の出版記念会に伊東、中原つれだって先に出てゆきしと。 8月9日 暑し。(※暑中見舞 省略) けさ美紀子に電話せしに「次彦の骨、墓地出来るまで手許に置く」と也。 8月10日 暑し。一日家居。あすより「北京の神」か「ことわざ」かと思ひゐしに夕方竹森先生より「日曜讃美歌委員会」とお電話。(※省略) 8月11日 暑し。午まへより『詩篇』よりの讃美歌3つ訳す。(※省略) 8月12日(日) ユを置き礼拝にゆけば讃美歌委員会来週と。(※省略) 13:20昼食す。草木考か諺考か北京の神考か決まらず。 けふも暑けれど台風近々来るらし。 8月13日 暑く光化学警報引き続き出る。家居。論文まだかけず。(※省略) 筑摩書房より『日本文学全集現代詩集』増版印税1,345-134=1,211来る。 8月14日 暑く早起きして斎藤dr.へ地下鉄でゆけば9:00前。薬のみといへば9:15呼ばれて受取る。 (※省略)東豊書店へゆけば店主郵便局へと。まちてまた2冊ほど注文しecho買ひて帰宅12:00かっきり。 菱川(山野井)夫妻来るとのことに鰻あつらへて待ち18:00ごろ来しと話しwhiskyのます。(※省略) 依子母子「あす17:00東京へ来る」とのことに丁度よかりし也。 けふ「中国の諺──を首とする──」を200×6かき出し気持よかりし。 (※省略) 木村三千子氏より「やりや」へゆかぬこと承知したと 。 8月15日 やや涼し。13:30田中ゆかり、荻田真理子2生松本行29日9:00の急行券800と乗車券1,050と2枚づつもち来り、(※省略) 宮崎女史来り(依子母子その直前に来り、望、寝起きて不機嫌也)、すすめて夕食せしむれば京、帰り来る。Romeよかりしと。 ヱハガキ3組とタバコと襟巻とを買ひ呉る。 ナポレオン4,800、2本買ひ来しと。1万円にて買ふといふ。 泰と望と風呂を喜ぶ。台風来りしとてやや涼し。 「中国の諺」12枚となる。(※省略) けふteleviきけば、敗戦記念日とannoncerのいふがありし。 8月16日 午まへ弓子来り、2児と泰と望と遊びゆく。弓子への土産少し気の毒にてわが貰ひし襟巻わたす。 けふ「中国の諺」16枚。(※省略) 楳垣実氏より『日本の忌み言葉』もらふ。(※省略) 8月17日 ユ、依子母子、母のところへゆき午飯ぬかさる。(※省略) 『大漢和辞典』などよみ諺の訳拾はんとす。 夕方、佐伯へ『国語大辞典』5冊目とりにゆく。 (母「京の土産なかりしや」と問ひし由、老い呆けの証拠也。) 8月18日 美紀子にさそはれ午后、依子母子弓子母子公務員のプールにゆきしと。 (※省略)楳垣教授に礼状。佐伯に『諺の辞典(2,800)』市に出をるを採りくれよと頼みにゆく。 竹森先生より「訳2つでよし」と。已に訳せしを清書して済ます。 8月19日(日) (※省略) 礼拝にゆく。すみて讃美歌研究会。われの訳、誤訳を竹森先生訂正され、Ohの箇所を「ああ」とトヨ先生のため直しなどす。 次回はわが文語訳と笹淵博士の口語訳とを比べることとなりし。 おすしとっていただく。 笹淵博士と共に出て別れ、暑き中echoさがせしも見つからず。 「中国の諺」のnoteほぼすむ。依子ら母子、京暑がりながら寝につく。 8月20日 やや涼し。「中国の諺」また続く。角川より「ハイネ新15版」1万部出来しと。5月の出版と奥付に記す。 泰つれて高円寺へ歩めばechoありし。 澄より写真着き歯痛みゐるとのことに依子木曜に帰ると切符買ひにゆく。 泰の喘息また起る。菊池真一氏より突然電話「23日11:45新宿駅で待つ午飯くはん」と也。 8月21日 依子、午后、望をつれて兄の家へゆく。泰ゼイゼイいひ山住dr.休みとて家に残らせれば喜びをり。 〒なし。「中国の諺」明日より書かん。 澄、二度電話かけ来り「体わるく早く帰りくれよ」との様なり。 8月22日 依子、午まへ駅へゆき15:00のけふの新幹線の切符とり来る。 丹波鴻一郎に電話し「写真短大に話してみる。4.5万はむり」といふ。 弓子2児つれ来り、ユの依子母子送りに出しあと、京と三鷹へ帰りゆく。 17:00望より電話「おばあちゃん着いた」と也。(※省略) 8月23日 「中国の諺」読み返し11:00出て新宿にゆけば菊池真一博士まちをり。 駅ビルの中華料理にて麺たまひ、ついでcoffeeのみにゆく。 キリスト教にてcatholicなるらし。パリの日仏会館の羽田の前の前の館長たりしと。 丹波の履歴書わたす。学部を鶴川にこさへ建築史専門ならとのこと也。 そのあと広間にゆき15:00まへ別れて佐伯へ寄れば『鴎外全集』まだと。 名古屋へ電話すれば泰・望ともに出しと也。(※省略) 8月24日 雨降り涼し。佐伯へゆけば『鴎外全集』まだ来らずと。『文芸春秋』7月号(50)買ひ来りよみ「中国の諺」かき直す。〒なし。 8月25日 雨時々降るも水飢饉解消せずと也。 「中国の諺」かき直し200×20となりしところへ川久保より電話「明日帰る」とのことに「夜来い」といふ。(※省略) 川久保おそく20:00電話かけんとせしところへ来り、夫人と代る代る改築の監督に来をりと。 whiskyのませ松村緑教授のこと話すれば「嬢習ひて知りをり」と。 8月26日(日) 竹森先生の電話ありし為、礼拝中も『詩篇』を見、誤訳自ら訂正す。 笹淵博士も見つけて誤訳提出さる。ともにかへり泥縄の話申上ぐれば感心してきかれし。 帰りて「中国の諺」少しかき足せしも疲れたり。 丹波に「建築史講ずるや」といへば「自信なし」と。 8月27日 『詩篇』の訳中Shinaiの山と思ひしはZion(シオン)なりしと気づき訂正の電話す。 鶴崎祐雄より電話あり。「夜来い」といへば17:00来り、(※省略) 好学を喜ぶ。 (※省略) けふ『骨44』来り、杉本長夫氏追悼をのす。 佐伯へゆけば『諺語辞典』盗品くさくてやめたと也。『鴎外全集22』とりて帰る。 8月28日 朝よりかき続けて「中国の諺」56×200とし、くたくたとなる。 (※省略) 夜、今井翠関係の見合にとユゆき21:00かっきり帰来。 8月29日 一睡もできず7:00起き8:30新宿駅1番ホームへゆけば石川・熊本2生をり、指定席へゆけば田中・荻田2生をり、9:00特急出発。 12:30過、松本へつくまで冷房ききすぎ飲まず食はず裏口へ出て腹へりしとてホテル・マウントといふへマカロニ食ひにゆく。 林眞理子もつき来り、すませて中々来ざりし迎へのバス来り、水津生の知合のホテル「梓」へとゆけば梓川のdam三つ超えし向ふのすずらん高原といふにて乗鞍の雪の峯見ゆ。 19:00ごろ夕食とり、あと「あす9:00出発」と打合せ、われらと女生5人と水津生と3室に別れ、そのまま床引きて眠る。 8月30日 8:00朝食出来しとて摂り、写真うつし各人3千円払ひ、われビール代とともに6,500。 迎へのバス別人にて上高地へつれゆく。ここにてfilm入れ穂高の雪を背景に写真とる。寒くて車中にをりしのみ。 松本へゆく途中、そば食ひわが誕生日の前祝とておごり、松本駅へつけば昨日のbus代と合せて1.4万。1人千円づつ出す。 特急なく急行臨時の座席空きをりとて15:09のを買へばみなも買ふ。 1時間足らずの間にわれ古本屋にゆくといへば水津生、案内してくれ、『中国の諺(600)』新本の安売買ひ、ユは羊羹屋に入りわれも一軒にゆきしも買はず。 乗車し急行、車内売なく弁当1本Coca-cola4本買ひし。 八王子でわれらをり阿佐谷へ19:30着けば京に遭ふ。 8月31日 暑くてだるく9:00起きれば母、誕生祝に下駄もち来る。大阪、岡山の話す。 石上露子と従妹と父(※西島喜代助)と写りし写真もち来り、話せば「何でもきいてゐた」と平気なり。(※不詳) (※省略) けふ戸田氏に「お母さんへ」と梓ホテルで買ひし菓子もてゆく。 中公事業出版に電話すれば小倉氏出て「大藤氏の初校のみ出し。盆にて遅れし」と也。 9月1日 東豊書店にゆけば主人をらず。奧さんききをりて『中日大辞典1(2,400)』出しくる。わかりし諺──ありし。 末吉より電話「10月9日同窓会す」と。 9月2日(日) 聖餐式のため7:30ユ出てゆく。われも6:30にさめし。ゆけば笹淵博士の訳(口語)を渡さる。来週601の発表あり、そのあと研究会と。 原さんに誘はれしも論文いひて帰る。電車に弓子と宏一郎のりをり。今井へ椅子返しにゆくと也。帰れば京出てゆく。 (※省略) 鎌田女史より「堀博士退院」と。(※省略) 9月3日 8:00さめ「中国の諺」ほぼ終りに也し。(※省略) 9月4日 「中国の諺」つづけ70枚とす。今井翠、茶とりにくる。 9月5日 雨。9:30家を出て登校。藤井紫影先生の『諺語大辞典』見しも旨くゆかず。(※省略) 大雨の中を出て成城堂にて『金瓶梅2』と『大工道具の歴史』と買いひて帰宅。 (※省略) 明日の予習してゐれば戸田謙介氏来訪。あげてwhiskyのませ無宗教論きき21:00帰りゆきしあとtelevi見る。 9月6日 5:00までねつけず。薬のみ直し10:00まへさめ登校。(※省略) 15:50よりの教授会。われ小沢氏の講師招聘をいひて通りし。(※省略)  下北沢下車。echo買ひて帰宅。 wineのみ夕食し、高原弦太郎氏より送付の『折口信夫歿後二十年記念』と梓ロッジの写真焼付とを見て21:00ごろねつく。 9月7日 6:00まへさむ。11:00出て登校。東洋史は日清戦争やり、すみて崔吉城君を茶にさそひて帰宅。 野田宇太郎氏より『詩歌風土記 下』贈らる。(※省略) 自衛隊は憲法違反と福島裁判長判決す。 9月8日 晴。大藤時彦氏へハガキ出しにゆき佐伯へ寄り佐藤佐太郎『斎藤茂吉(2,000)』借る。 山住閣下へ久しぶりにゆきシンガポール地図返してもらふ。正己氏の都立大転任は来年と。松村緑氏より「忙し。も少し書類を」と。 9月9日(日) 7:30さめ夫婦して礼拝にゆく。「主イエス・キリスト」を銘記すべしと也。すみて601を練習せしに皆うまく歌ひくれうれし。 久保元長老に見舞いひ、讃美歌委員会。602は笹淵博士の口語訳とわれの文語訳とともに歌うふこととなる。 われの少食にけふはソバ採りたまひしものこす。『文芸春秋9月号』買ひて帰宅。televi見る。(※省略) 澄「あす夕食すまして来る」と。 9月10日 よべ眠り足らず呆然としてゐし。(※省略) 『浪曼』来る。16:00「今よりゆく」と澄。17:30来り夕食まにあふ。(※省略) 澄、竹内家へ電話すれば夫人出て「中国の会にゆきをり」と。 9月11日 8:30澄出てゆく。われ9:00出て斎藤dr.。満員なるも11:00すぎまで待ちて診察受け、青玉一つふやし玉ふ。佐藤佐太郎よみしこといへば「いま病気」と。 紀伊國屋へゆき『乗鞍(110)』買ひ佐伯へ寄り『切腹の話(150)』買ふ。(※省略) 9月12日 よべ眠りつきおそく朝8:00にさめ9:30出て登校。図書館にて『里諺集覧』のさがしたのみsemiちょっとやり写真とり(album用)写真わけ、 ついで「中国古典」すませ池田教授とちょっと話して出れば鎌田女史に会ふ。(※教授会で講師招聘した)小沢氏は「大変な小心者」と也。 coffeeのみてフラフラと帰宅。東豊書店よりつきし5冊のうち『金瓶梅語彙(3,000)』、『中国薬用植物(4,000)』、『泰山』とをもつ。(※省略) 20:30?澄、竹内家より帰り来り、竹内の不機嫌いひてねる。(※省略) 9月13日 よべ3:00すぎさめ「十七条憲法」ちょっとやり再びねてさめれば9:00。澄、朝食とりて早々出てけふ帰名と也。9:45出て成城大学。 (※省略) 研究室へ帰れば林眞理子をり「父母と相談の上、出版社へ紹介を」と。やむなくつれ帰りユの居ぬ間に茶わかし、帰り来しと話し、 講談社の知念栄喜、集英社の鈴木省三重役に紹介文かく。けふ『東方学』来り、大藤氏より「校正送った」、鈴木正義氏より「大阪へ転勤」と。(※省略) 9月14日 9:00起され 「日清戦争」のnoteつくり10:30出て登校。(※省略) 出て成城堂で『戦争の追憶(くらしの手帖)』また買ひ、タバコ買ひて帰宅。 中央公論事業社小倉氏に電話し「表紙、目次、奥付の校正みせよ」といふ。(※省略) 墓地16日15:00八王子駅にて待合せると美紀子に電話す。(※省略) 9月15日 けふは老人の日とて銀行休みのことわかりユを叱る。散髪にゆきすぐ着物にて新宿にゆき三越伊勢丹見しも2~3万円のよき壺わからず。 帰りてtelevi見てゐれば14:00すぎ野上、大阪ずし5人前とその他もちて来る。(※省略) 16:00思ひつきて母にゆくといひ、すしと洋菓子もちて出、 (※省略) 柏井へよればメグのみをり菓子置き、ゆけば大をり。4人にてすし食ひ西瓜くひ、 われ急ぎて19:30帰りつけば案の定、入れ違ひに京帰り来り、すし一人前のこりしを探し出して食はしむ。 夜、脱獄の映画見、神を呪はしむるアメリカ人のあることを知る。 9月16日(日) 礼拝にユ郵便局へゆき3電車おくれて来るをまち入場。わが訳せし601番をうたふまへ泪催せしはわけわからず。 すみてうどん屋探しつつ、ユをして母に「来ざれ」といへば「たのしみにしてゐたのに」と。よけい腹立ち電話切り、狐うどん食ひ、 駅へゆけば12:00にて1時間早きことわかりしも仕方なく八王子駅につき14:21に着きしを見れば史・美紀子・雅子・淳一なり。 busにて15:00上川霊園口につき、どんどん歩きて事務所につき、休みてのち花と水桶(2,000)もちて自動車にのり124にゆけば石屋を り。 梓の骨と次彦の骨とを納め「主よ、みもとに」を1.5番うたひ、事務所へゆけば車あり。八王子駅まで1,010なり。 阿佐谷に寄ることとなり準急にて荻窪のりかへに淳一を便所へつれゆき、先に歩きて鍵あけ、高見山勝ち貴乃花の負けるを見る。 史、帰る帰るといひcamera忘れ、京の土産のNapoleon喜びてもちゆく。 あとにて電話せしもまだ帰らず。かかりて美紀子、京に礼いふ。(※省略) けふは八王子の市街図(200)買ふ。(bus代は120×4) 9月17日 7:00さめ茶わかす。佐伯へ『老乞大諺解』売りにゆき2,500にて買ふといふに『天工開物(2000×0.8)』、『神体山』、『平均有銭(200)』貰ひて帰り『老乞大・朴通事』の2,500なりしに気付き電話かけて『天工開物』返しにゆき『玉田県図(250)』貰ひ来る。 あとにて気付けば台湾本には解説なかりし也。けふ3月貰ひ楊雲萍氏に「帰国を祝す」と航空便出し、ユに335,000を後藤石材店へ振込ませてすむ。 (※省略) ひまにまかせ来診の整理をし芥入れに2杯とも満つ。(※省略) 9月18日 9:30ユ、高山紀子に会ひに出てゆきしあと「中国古典」のnote作り了へ12:00まへ佐伯へゆきしに店主不在。帰れば弓子2児をつれ来りをり。 12:30ユ、紀子をつれて帰り、壺やめ銀製の茶器一式28,500買ひしを見せに来しと。(※高山紀子披露宴打合せ省略) 機嫌よく15:00までをり帰りゆく。弓子母子も帰りtelevi見てをる。(※省略) 9月19日 順法闘争とのことに早く出れば10:00すぎ着校。国文の研究室にて『増補里諺集覧』写し、アの部すむ。(※省略) 金子、佐藤さそひて喫茶。 帰宅すれば中公事業の小倉氏より「あす9:30目次と奥付の校正持参」と電話あり。(※省略) 9月20日 よべ4:00さめてcardとりまた臥床。9:00起き11:00まへ成城へゆき『増補里諺集覧』のイの部写し昼食し、前期最後の「東洋文化史」。(※省略) 教授会(※省略) 高山紀子に籐あみて贈るとてユ電話かく。(※省略) 9月21日 順法闘争3日目。11:00まへ成城大学へつけば「柳田文庫に小沢氏をり」と。ゆきて会ひ「鎌田女史来るまで待て」といひ、 国文研究室へゆけば『里諺集覧』研究室へもちゆきて宜しと。写すうち古野博士来り、白鳥君来り、鎌田女史とトンカツ屋にゆくと也。 現はれし鎌田女史に小沢氏のこといへばつれ来り、月金の2日来る。来年はドイツへゆくと也。 懸案片付き安堵して1年の東洋史にゆき、(※省略) 経堂にて途中下車。駅前にて小高根太郎氏に電話すれば坊や出て「1時間ほど外出」と。 北側の古本屋見て阿佐谷まで順法闘争に腹立てて着き、佐伯へ寄りしも本なし。傘貸すといふを断りユに傘もち来させて帰宅。 末吉より「9日18:00大阪ミナミ料亭鳥よし643-1230」にて「なにわ13期生会す」と通知あり。出席の返事かき、 京の高山紀子の為の籐あみすみしを見、日曜16:00橋本生来訪ときめる。 9月22日 よべ睡眠感なく6:30起床。9:30出て成城。成城堂に1,120払ひまた『里諺集覧』写して昼食し12:40高校へゆく。 やがて戸口、宮崎、宮司、池田と5専攻そろひ前田校長、樋口、滝沢などと3年担任列席のもと80人余(男生5人)に専攻の説明す。 入学時に志望きめんが為也。14:30すみて雨中われ一人となり経堂の変りしにまごつき小高根太郎宅へゆけば白髪にて『鉄斎研究13』となりしと。 和泉・河内も重点的にやるつもりと。右目の視力なくなりしといふにおどろき、高橋重臣の紹介いへば10年以来二郎よりききをると。 今夜来宅の時、電話せしむといひ、(※帰宅し、)睡眠不足にふらふらしをれば(※高橋氏)19:00ごろ来り、『狐の詩情』に署名さし昆布多く賜ふ。 令嬢里帰りにてapart無人なりと。whiskyのみ葉巻あけ「あす10:00ごろ小高根家へゆく」旨、電話して21:30帰りゆく。 9月23日(日) 7:00さめ(※省略)、礼拝。来客ありとて早々に退出、帰りてtelevi映画一つ見了りしところへ竹腰清子来り、きけば上原reportに必要の本借りに来しと。(※省略) 14:00まへ帰らす。 14:00かっきりに有川といふ許婚つれて橋本ユミ子来り、(※省略) 祝ひにと西友dept.につれゆきParkerの万年筆買へば3,500を2,800にまけられ恥かく。別れて佐伯へ寄り『北海道植物名鑑(470)』買ひ『讃美歌研究(450)』買ひて帰宅。 夜、橋本生「婿いかに」と。「結構なり」といへば母出て礼いふ。11.11東京会館で披露。式は目白のBaptist教会でと也し。 9月24日 11:00山住閣下を訪ひまいらせ「楊貴妃」きく。帰りて(※省略) 松浦薫氏「道迷ひ今井にあり。のちほど」と。14:00ごろアリちゃんつれて来り、「(※坂出市長職の)4年の任期にたへず。他人にゆずりしも四国住ひ」と。 そこへ弓子母子来り、マスカット食べて松浦氏去り、弓子ら18:00去る。(※省略) 東豊書店に電話すれば簡木桂氏帰りをり「あすゆく」といふ。『歴代宝案』は10月1日ごろ着くと。 9月25日 7:30さめ斎藤dr.。薬2週間もらひ東豊へゆけば都立大の齋藤女生(元曲をやると)を使ひをり。研究費より5,000余り買ひ『歴代宝案』つき次第送れといふ。 帰りて昼食とり、高円寺の竹岡にゆき藤井紫影『諺辞典』きけば10月1日ごろ有無わかると。帰りて(※省略)、夜、林眞理子より電話、(※省略) 「明日学校へ来よ」といひやる。 9月26日 7:30さめ9:30出てゆきしに国鉄通りをり。10:30前に成城につき。(※省略)『俚諺集覧』ちょっと写して仏語2Dの試験監督すまし疲れて林眞理子生にjuiceのませてのち下北沢下車。 南口の本屋に何もなし。(※省略) 9月27日 暑し。佐伯へゆき(※省略)帰り来れば『鴎外全集』着きしと。16:00白仁生来り、田中家(文京区白山下)に既に入籍しをり赤坂プリンスホテルにてと案内もち来る。 「出席」といひ西友にゆきParkerの万年筆贈る。これも新婚旅行はHawaiiなりと。(※省略) 9月28日 9:30出て成城。採点1A1Bと2年以上とすませ、『俚諺集覧』もちょっと見て(※省略) 帰宅。国鉄st.了る。(※省略) 中公事業より電話ありしといふにかければ「500部と抜刷30部×3」かと。「然り」と答ふ。(※省略) 9月29日 晴。card作りDapper写しなどし、(※省略) 投函かたがた岩森など見しも諺辞典なし。午食せしあとユの母にゆきしあと留守番す。 18:00彦根の真野君「会議にて東京に来てゐる」と。「来よ」といへば夕食のすみしころ南阿佐谷より電話かけ来り迎へにゆく。 4年ぶりなりと。白髪になりをり。自慢の長男八幡工高の教師にて嫁ほしと也。20:30帰りゆく。 (ユ、母よりききしに寿賀子、甲状腺ガンと也。哀れなる天理教)。 9月30日(日) 傘もちて礼拝にゆく。601にamen!をつけることとなる。了りて12:00家に帰りtelevi見、Dapperのオランダ遣使いよいよ北京へゆくこととなる段まで来る。 10月1日 山際文雄君より電話「安西均に会へばなつかしがってゐた」と。「つれてきたまへ」といふ。 西岡生より電話「11月挙式、出てくれ」と。(※省略)「出る。家へ挨拶に来い」といへば「土曜来る」と。 (※省略) 藤野一雄氏より「(※彦根へ)来られぬ趣、承知した」と。 10月2日 晴。家居。橋本由美子より「11日(日)17:30東京会館で」と。近藤昭一生より「九州を調査中」と。 10月3日 家居してDapper写す。ユdept.より癌研にゆきしに寿賀子好調、日和佐へ帰郷すと也。 夕方佐伯へゆき駄本買ひ来る。けふ平凡社より「『唐代詩集 上』1,000を増刷す。誤植訂正せよ」と。(※省略) 10月4日 11:00登校。(※省略) 新城博士に「堀博士見舞にゆかん」といへば「夫人喜ばず」と肯はず。 庄野の坊やとhallでjuiceのみつつ会ひ、西下いふ。「12月来る」と也。3号館で教授会。(※省略) 西洞院夫人より「12日の園の祝に出てくれ。11日の夜泊める」と。(※省略) 10月5日 雨。終日家居。ユpermaにゆく。京、休みなりとて午飯くはせしあと団子屋の娘の嫁ぎ先へゆき夜更けまで帰らず。 10月6日 家居。『唐代詩集 上』の誤植訂正とDapper。依子、白血球多く大阪へゆけずと。ユをして早くゆくと云うはしむれば「手伝ひ雇ひゐる故よし」 と也。 伊勢夫婦(※弟夫婦)、下の娘(中学1年)つれて21:00来り、23:00すぎまでをり。(※省略) 夕刊に花井忠氏逝去と見えしゆゑ、和田夫人に電話しタヅさんへよろしくとたのむ。 10月7日(日) よべ睡眠感なく、ユ聖餐式のパン葡萄酒の当番にゆく時、礼拝休むといふ。 ダッペルやうやく北京行になり来る様子。(※省略) ユまた見合にと16:00出てゆき18:30帰り来る。 10月8日 ユ、先に出て名古屋にゆく。われ市ヶ谷へゆき平凡社探し探しして中国古典大系の係呼べば長谷川女史と。 説明して正誤表わたし、四谷へまっすぐときき、出て東京駅。12:15発の光の切符買ふ。(1,520+1,500)。 ナゴヤ駅構内より電話すればユ「赤福餅買って来い」と。250の買ひ一社へ地下鉄にてゆき第二団地に着きelevaterで11階までつきしあとマゴマゴしてゆけば澄をり、二孫をり、依子入院となり。澄に床しいてもらひ眠る。 10月9日 澄、泰をつれて登校せしあとさめ、望つれて山口病院へとゆけば依子顔色よし。 3人にてtaxiにのり伊藤dept.(※松坂屋か)へつけさせれば休みと。中村といふへゆく途中、団子食ひ、別れて名古屋駅、近鉄特急にのる。 元飛行兵といふにsandwich分け、畝傍高校ときき、ツルハシ(※鶴橋)にて下車。咲耶宅へゆけば孫をり。大江叔母に「あす9:00ゆく」と電話し、 天王寺よりナンバに出、天牛のぞけば諺の字引あり。きけば8千円と。 首をすくめて出、(※省略)千日前をうろうろし「鳥よし」といふにつけば既に平石、園田2先生お越し(平石名誉校長は83才、園田氏は71才と。) 卒業生だんだんと来り、田中三治といふが高石町のbossになりをり。高橋一好わが隣にをり。20名を越す同窓会となりMiss大阪といふが座敷持ちに来る。 21:00近くなりし故、咲耶に電話すれば、ユ来てをりと。別れを告げんとすれば3拍子を打ちて祝ひ呉る。21:30恵我ノ荘の咲耶宅に入り入浴し二階に上りしあと眠れず。 10月10日 7:00さめ茶のみ、咲耶の孫のさめしところにてmorning coatに着かへ藤井寺。 叔父に祝1万円を依子との連名にて出せば叔母、お前がしたねとお察しなり。 孫美しくなりをり。地下鉄にて渡辺橋とかいふに出てtaxi。Royal Hotelにゆけば大藤、鎌田2教授やがて来り、筒井護郎来りて開宴、新婦の色直し3回(※省略) われ第三番目に祝詞のべ、筒井長すぎるといひし。鎌田教授のあと色直し、いろいろありて新婦やつれをり。筒井に泊ることとなりしも筒井も一つ祝宴ありと中座す。 19:00南千里駅にて待合せといふに時間つぶしに困り18:00より南千里駅にをり。 時間となりて電話かければかからず住吉区役所に電話してきき、かければ迎へに来る。 大団地の中に平屋のよき家建てをり、夫人は京都人、子なし犬2匹を飼ふ。3:00まで話して眠る。 10月11日 よべ野上家へ電話し新郎新婦の乗車見送りにと筒井とゆけば両方の親のみ。9:50の発車までゐて、筒井に地下鉄まで案内受けナンバにて下車。宗右衛門町の大和殿にゆけばみな集りをり。梅田(西保)夫人の隣に坐り、鍛冶さん呼び、服飾の子3人を加へて20人近し。今市佐恵のみ形かはりてわからず。16:00すぎて狐うどん食ひにと南海高島屋の食堂にゆけば野崎、カヂ、南隅、山荘、梅田となる。 南隅夫人に発車まで送られ駅に迎へに来し西洞院(菊池)淑子の弟の運転にて丘の上の極楽寺にゆき音楽好きの娘に帝塚山大の文芸よからんといひ、坊やに高校進学明星にすとききし。立原・堀など好きといふ文昭(これが副団長にて団長は時雄元子爵と)夫妻に「汐の井」といふ旅館に送られお粥と梅干注文し、名古屋に電話すれば「母まだ帰らず」と依子退院しをり。熟睡す。 10月12日 新築祝の幼稚園に長谷秀雄といふ彫刻家の幼児像たちし祝なり。きけば小高根太郎を知りをり「蕨に住む」と。 10:00の開式まで書斎にゐていよいよといふに出れば菊池の母挨拶す。われ写真とり宴会に祝辞多きに閉口し、すみて長沖さん(※長沖一)まてば12:00ごろお越し。たのみて帝塚山大学にゆけば三苫事務局長のみ。 写真とり長沖さんに駅まで案内され(学園のbusにのりし)、ナンバに出て近鉄のナゴヤ行き特急50分待ちナゴヤ着16:20。切符なく駅員に話せば出場券呉る。依子元気に働き、澄ゐばり返しをり。孫らバアちゃんと云ひしも結局あつしとbedにゆく。 10月13日 Golfにと9:00澄の出しあと近鉄百貨店にて泰に本買ひ、望に自動車買ひ1,000与へて夫婦して逃げしあと、光の空席12:48とか。1時間半時間余り待合室にて退屈す。 東京駅着後ユとはぐれ中央線にのり阿佐谷にて会ひ、改札出て帰宅。定期なきを知る。(※省略) 10月14日(日) ユ、礼拝前に局にゆくに「通知書忘れし」と。差出人云はず出してくれしをさはり定期らしと電話し来る。 行けば末吉より定期の書留なりし。「鳥よしにて拾ひし、盛会にて嬉しかりし」と。 帰りて末吉、筒井に電話す。(※省略)14:00西岡生来り「来月2日披露に出てくれよ」と。(※省略) 祝のParker買ひにゆき、佐伯に払ひす。 10月15日 きのふ七福(※便秘薬)のみ便2回ありし故、山住dr.にゆき薬もらふ。 午すぎ出て北口の本屋にて『ルネサンスの絵画(180)』買ひ200出せしに吊銭くれず。 昨日けふと浪中の会の礼かく。(※省略) 10月16日 (※省略) けふ目覚めしは10:30!浪中の連中への礼状投函にゆき、佐伯にゆけば『国語大辞典(4,320)』来をり。 ユ、三鷹へゆきて18:00まへ帰り来り、母上病院にて「毎日見舞に来る孝行息子とその嫁の内助之功」と評判になりをりと云はれしと。(※省略) けふ今中19期生会より「11.18より1泊にて清水にて会する」と。(※省略) 俊子姉より「安芸のbuilding管理人として2~3年ゆく」とユに電話あり。めでたし。 10月17日 恵子来りし故、叱り「父母の事知るか」と云へば泣き出す。京に着物借りに来し也。 食欲なく午食くはずsemi叱りて(※省略) 金子と喫茶しプリン食ひて帰宅。あす休まんと思ふ。 園田博光氏より「もっと食へ」とハガキ。 10月18日 高橋一好あての礼状返り来る。思ひ合せて心配なり。午后散歩に出んとすれば途にて「ヂイちゃん!」と宏一郎。弓子克次朗を抱きをり。 佐伯に『国語大辞典』の金払ひecho探しかたがた荻窪へゆく。(※省略) 途中、堀さん宅を通り越し加藤俊彦君訪はんとせしに入れず、堀さんのbell押せば老女出て「Europeへ旅行」と。「加藤さんは」といへば開けてくれ夫人出て「田中さん」と覚えをり。「多恵さん12月帰国」と。俊彦君は出勤と。 挨拶して荻窪へゆき古本屋3軒見て国鉄にて帰宅。(※省略)夕方、丸重俊より電話あり「来よ」といへば来し故、色々説教す。(※省略) 10月19日 ノート重く阿佐谷駅までユに一包みもたして登校。1年各classにとりに来させ2年以上は面接してわたす。 (※省略) 野上夫婦よりの羊羹、鎌田女史より貰ふまへ2副手と話し業務多すぎるときく。新城教授に相談せんと思ひしもきかれず。(※省略) 10月20日 数男より電話「姉夫婦、岩国の宮浜Hotelへゆく故、送別会す」と。18:00すぎゆくといひ14:00すぎ来し田中敬子を阿佐谷駅へ迎へにゆ き「昔は詩人」と、堀さん、立原、太宰のこと話す。帰りしあと歩きて柏井へゆけば姉夫婦、スミ子の女2人つれて来りをり「70まで働け」といふ。 鰻出してもらひAmbon島の自活隊長なりしをきき20:00すぎ別れを告げて帰る。三郎兄「泰、利口なり」とほめる。 10月21日(日) 雨中をわれのみ礼拝にゆく。4人掛けにて竹森トヨ先生の説教。601番もはや歌はず。佐伯へ寄りて12:00帰宅。 14:00遠藤、七島、笠原の3生来るを迎へ16:30までsemiを選べといふ。 10月22日 晴。ユ、高島屋へゆくとてぐずぐすし午すぎとなり、熊本生電話かけて来しゆゑ、迎へにゆけば加藤生をつれをり。(※省略) 15:30ごろまでをり帰りゆく。(※省略) 10月23日 晴。起きてすぐ斎藤dr.へゆけば9:30にてすぐ診たまひ、ねつき悪しと申し上ぐれば薬足したまふ。 東豊書店にゆき『The Moon Year(3,080)』、『成語典(1,080)』、『Account of Missionary Success in the Island of Formosa (3,800)』、『漢語成語小詞典(280)』にて個人研究費ほぼなくなりし予定。 帰りて昼食。予習し佐伯へゆけば『鴎外全集(1,800)』来あり。けふは映画なし。(※省略) 10月24日 よべよくねて登校。与謝野夫妻の会のposter貼りあれど国文の研究室無人。(※省略) semiなりしゆゑ、金子生来しあと6人つれて喫茶。(※省略) 10月25日 山住dr.に血液とられて登校。(※省略) 疲れて紀伊國屋書店別館にてcard100枚(230)買ひて帰宅。 (※省略) 10月26日 田中ユカリの父君より「(※文化史専攻の会)小田急別館地下2階の「はせ甚」にて1千円にてよし」と電話賜ふ。(※省略) けふ青山博士古稀祝5千円送り、史学会に「石田博士の書評、諾」返事投函。(※省略) 入浴後、22:00近く飯塚副手に電話し「11月10日の会の案内まはせ」と筆記せしむ。(※省略) 10月27日 (※省略) 弓子2児つれて来る。(※省略) 15:00すぎ出て地下鉄にて赤坂見附。Prince Hotelにゆけば(白仁)蓉子の祖父祖母、母みな挨拶す。花嫁側の最上席に坐り、花婿側の最上席の祝辞ありしあと「優秀なれど2年生の時、山中湖にて恋人出来しため人参のみしかかかざりし」と云ふ。 (※省略) ヨーコと握手して帰宅。22:00すぎ京「外泊」と電話。 10月28日(日) よべ眠りがたく礼拝に大雨の中、ユの出てゆくを送り、朝方ゆめに見し松本善海(元気に話せし)夫人に電話すれば「河北病院に入院」と。ふしぎ。 ユ15:00帰り来り、さばずし食ふ。夜、オードリーヘップバーンの映画見る。 (山住dr.より血液検査の結果よかりしと電話) 10月29日 10:30森ミチ子来り、子供の転学につき話す。(※省略) われ13:30河北病院にゆき松本善海見舞へば鼻より営養とりをり。付添外出、医師の往診に答へず。医師も我にものいはず。菊(800)もちゆきしを5人の同室にといひて出、岩波文庫『詩篇』さがせしも見当らず。 鬱々として松本夫人に電話し、丹波夫人に電話す。(※省略) 夕食後、丹波(※丹波鴻一郎:松本善海ともに東洋史学科卒)電話かけ来りし故「近々会はん」といふ。 10月30日 丹波に電話すれば令嬢出て「外出」と。「帰れば酒のみにゆくが可否電話してくれ」と云ひ、 14:00電話ありし故「15:00石神井公園駅前にて」といひて出れば2孫と迎へてくれ、写真大学の(※講師の)こといへば「世界史としてくれ」と。手当の少なきを云ひしも「かまはず」と。 夫人外出にて帰るを待つうち酒出され、夕食饗されて20:00すぎ帰宅。(※省略) 10月31日 11:00登校。semiすまし(※省略) 佐伯に寄り2万円余買ひ、帰りて長沖氏の写真とれざりしを見る。 (※省略) 竹内(※竹内好)より電話あり「新宿のbarへ来い」と。近くまでゆき電話かけて迎へに来てもらへば竹内酔ひをり後藤孝雄も体よくなし。11:00taxi拾ひ、竹内を家近くへとどけて帰宅。taxi代1,700に2,000払ひし。 11月1日 よべ眠りつけず。9:00まへ佐伯書店主6冊の本届けし(23,500)に目さめ、朝食するまへに高橋重臣君来り、小高根太郎その内来訪とて電話かけて去る。 12:00出て登校。学長候補選挙に高田、大山、堀川の3人推薦とまで4度投票す。すみてまっすぐ帰宅。。 11月2日 (※省略) われ菊池真一博士に本田先生に『旃陀羅の子』送り、西洞院瓔子に写真送る。(※省略) 15:30追立てられて帝国ホテルの西岡典子の披露宴にゆく途中、招待状忘れとに気づきとりにかへり(※省略) 帝国ホテルに着きしは17:20。(※省略) 11月3日 新城博士からの電話に起さる。(※省略) 佐伯へ15,700また本買ひにゆき(※省略)、 午すぎとなりて三田村生、阿佐谷駅より電話ありしゆゑ迎へにゆけば横山学とともにあり。(※省略)伴ひ帰ればユ、接待の用意して出、帰り来しあと横山生出てゆき三田村生のこりてわが病歴ききて夕食して去る。(※省略) 11月4日(日) 聖餐式とてユ早く出てゆく。われ、よべ不眠にて起きず9:00朝食し13:00すぎユの帰るを待つ。 元気なけれど散歩に高円寺にゆき『江南春(450)』買へばダブりをり。 よべ近くのapartの火事なりしと。 栢木喜一氏より『桜井歴史散歩』贈らる。来迎寺に「大阪にて戦災に遭ひし」われゐしと記す。 佐藤誠生より日月潭の瑞嬛の父蔡伯嵩急逝と。電話かければ「くやみ云ひし」と。 11月5日 9:00すぎ出て登校。教務にて紙もらひ大学院入試問題、華、独、英とみな易く作り疲れる。(※省略) 東豊書店にゆけば欲しき本見当らず『基督教与中国文化(300)』、『明清史論集上下(1,300)』と買ひて帰る。 安西均氏より手紙と詩集。22:00長尾夫人忍より電話かかり「平林さんにききて緒方氏の小説のる『コギト』貸せ」と。「他人には貸さずあなたか令嬢に貸す」と答ふ。 11月6日 きのふの疲れとれずユをして斎藤dr.に薬とりにゆかしむ。(※省略) 11月7日 寒し。Gas-stoveつくやうになりし。(※省略)中国古典すませ菊池生に「わがsemiに来るや」と3度目問ひし。まだきまらずとききて研究室。 帰り佐伯あきゐし故、寄りて『日本民俗社会史研究(2,500)』にて精算すむ。(※省略) 11月8日 寒気して登校。研究室にGasつくゆゑゐて鎌田女史と崔君との話きく。堀博士へゆくと也。 (※省略) さっさと帰り山住dr.にゆけば扁桃腺はれをりと。注射投薬受け夕食後眠りをれば(※省略)中央公論社より「あす紀要納める云々」の電話ありし。 11月9日 10:00登校。試験問題点検し(※省略)、『日本常民文化紀要』くばり、(※省略) 雨降る中を霞が関へ地下鉄でゆけば虎の門が霞山会館への出口とわかる。 山本博士話し続け18:00会場追出されて立食。「鈴木俊さん体わるし」と。 中島敏、波多野博士のほか小林高四郎氏おぼえてをり、神田、岡田(頼さん台湾へ帰らずと也)、松村潤氏らと一寸話して退出。(※省略) 川久保へ電話し(※省略)松本のこと話し最後の見舞せよといふ。 11月10日 10:00すぎ中央公論社の小倉氏に電話かければ印刷代479,000+封筒代2,250計481,250と高し。 (※省略)12:30まで新宿地下街うろつき「はせ甚」にゆき2万円払ひ、領収書もらひ待つうち鎌田、飯塚、石丸、久住、新城、野口、白鳥、田中久夫と諸氏来り、小沢主賓来り、松村君来りてそろふ。池辺、佐藤、小川の3氏欠なり。 beer2本位出しも料理少なく15:30散会とし、野口君と4講師をわが家に伴ふ。 白鳥君いろいろ話して座をもち17:30退出。けふ肥下夫人より咲耶の世話せし人より断られしと吊書写真来をり。 11月11日(日) ユ礼拝にゆき、われ9:00起きしてゆかず。 長尾夫人に電話して来よといへば12:00すぎ末娘と来り、 『コギト』のcopy娘のしにゆく間にユ帰り、娘も帰り来り、14:00ごろまで話してゆく。 「保田月に1回上京す」と也。 16:30出て国鉄にて有楽町下車。途わからずなり訊ね、東京会館12階へゆく。 有川・橋本両家、知合なき様子にて気楽にしてゐれば宴はじまり成城・双葉の友だちと並ぶ。 花嫁側の3番目に話しの番来り、簡単にすます。(※省略) 11月12日 11:00山住dr.にゆけば扁桃腺前より悪しと。うがい薬わたされ注射打たる。 14:00ごろ川久保来り、(※省略)「いま河北病院へ松本見舞にゆきし。付添婦をり鼻よりの給食なくなりをり」と楽観的なり。(※省略) 11月13日 けふも山住dr.にゆき注射打たる。克己閣下御夫婦にて下洛と。(※省略) 18:00すぎ2青年来りMormon教の話してゆく。茶もcoffeeも飲まずと也。金曜再来と。 11月14日 休講の電話せしめ(よべ眠れずとユを叱る)、呆然としてをれば、林眞理子より「なぜ休んだか」と。 17:00山住dr.にゆき注射してもらひしもよくなく、(※省略)。 11月15日 家居。18:00七五三とて飴と赤飯もちて美紀子2児つれ来り夕食し、ユより祝に3千円もらひて帰る。 けふイギリスのAnn王女の結婚式をteleviで見る。 11月16日 石油危機となり。けふ来るといひしPost君ら来ず。(※省略) けふまた西川満氏より詩集受贈。佐伯にゆけば『馬琴日記』2冊と『南方全集』と来をり。 11月17日 家居。(※省略) Mormonist来し故「次の金曜に」とユ云ふ。(※省略) 11月18日(日) 9:00さめ礼拝にゆかず。ユ12:30帰宅。(※省略) 11月19日 けふも寒し。13:00筒井に「肥下里子の縁談たのむ」と速達出しにゆく。賀状600枚あつらへれば5千円にて30日出来と。(※省略) 佐伯に寄れば『白楽天』手に入らずと。(※省略) けふ弓子2孫つれ来り、宏一郎かしこく克次朗をいぢめる。(※省略) 11月20日 けふも寒し。林マリ子15:00来り『老子』のみにて大丈夫と。20:00近くまでをり。 泰、風邪にて発熱と望電話にていひし。 斎藤dr.に参り薬もらひ、東豊書店にてシャヴァンヌ『泰山(3,400)』、『植物学大辞典(1,440)』、『中国礼俗研究(500)』と共に借り来りし『Chinese Proverbs(720)』第2冊45,46p破れをり。 11月21日 けふは暖かし。久しぶりに登校すればbonusの差額ありと。(※省略) 帰途、東豊書店にゆき『Chinese Proverbs』返し、のこり払ひ佐伯に寄れば『白楽天』来てをり。(※省略) 11月22日 登校。(※省略) 紀要を妹尾、大林2氏と図書館にもちゆかす。(※省略) 成城堂にて岩波文庫『詩篇(350)』買って帰宅。(※省略) Ann王女の式の時歌はれし独乙国歌の曲はユ194番「さかえにみちたる」と見付く。 11月23日 朝の中、林叔父来り火災保険(※省略)。 toilet-paper並びに砂糖、叔母に買ひ来るやら頼まれしとのことに、ユふしぎに2品とも与へて喜ばる。 午食して佐伯にゆき『長崎オランダ日記(2万円)』を注文してくれとたのみ、小田急dept.にゆきて田中重役きけばelevator-girl「ハルクにあり」と教へくれ、探し充てれば不在。『白楽天』置きて高円寺。 都丸にて村上知行『龍興記(400)』買ひて帰宅。歴史地理学会より「退会承知」と。 (※省略) 丹波に電話して菊池学長のこと伝ふ。田中ユカリより『白楽天』の受取の電話。 けふ丸重俊来り「世界史の先生病気直り地理の教師になる予定」と、妹の栗土産もち来し。 (※省略) 夕食後、Mormon教2人来りし故「false prophet Smith(※偽預言者スミス)」といひて帰らしむ。ユ心配しをり。 11月24日 寒し。午すぎ散歩かたがた佐伯へゆき『中国の少数民族(1,080)』買ひ来る。 田中内閣Arabの石油政策に屈したるところへ愛知揆一蔵相肺炎にて急死し弱気となり大改造と。 夜、マリリン・モンローを見る。(※省略) 11月25日(日) よべ23:00すぎ眠り8:00起され久しぶりに礼拝にゆく。(※省略) 帰り吉祥寺の古本屋を見、『沖縄の伝統文化(450)』を買ひ来り、佐伯に寄りて帰宅。 大相撲九州場所横綱輪島2日休場のまま優勝となる。夜アメリカ映画「隊長ブーリバ」見る。 Dapper浙江省に入る手前なり。 11月26日 一日家にゐて「中国の諺」の本文200×98となりしゆゑ終ることとす。時に夜半に近し。(※省略) 11月27日 9:00すぎ山住dr.にゆき吸入してもらふ。「あすも来よ」と。(※省略) 「中国の諺」の註かきゐる最中、金子生より電話かかり「来る」と。 卒論の下書なほし註つけよといふ処へ佐藤より電話かかり帰りゆく。 夕食後も註かき21:00ごろすまして入浴す。心地よし。(※省略) 11月28日 よべ2:00まで眠れず。眠剤忘れたるに気づき、のみて10:00さめ、朝食後、山住dr.に吸入にゆき12:00登校。 (※省略) 17:00まで研究室、講師室にダベり、きぬた書房へゆけば引越し広く明るくなりをれど本なし。 Madame張の新店にゆけば大藤氏時間1時間まちがへしとをり、やがて新城、佐藤、堀川、上原、築島と諸教授来り、(※省略) 20:00すぎまで食べ、佐藤、築島氏と同車。中島健蔵の話す。 佐藤君と阿佐谷で喫茶して帰る。(※省略) 11月29日 よべねつき悪くしかも8:00さめ、朝食後(※省略)山住dr.にゆき喘息の吸入してもらふ。扁桃腺の腫れとれずと。 10:30出てまっすぐ登校。午食の時、栗山博士に原稿出した。旧カナヅカヒといへば「その旨明記せよ」と。(※省略) 14:00小会議室にゆけば堀博士、大林学園長と話しをり痩せをられるのに吃驚する (※省略) 鎌田主事、民俗学研究所の予算示す。(※省略) 15:30すみて別室にまちをられし堀夫人を我呼びて「お大事に」といふ。 (※省略) 教授会(※省略)けふ大藤名誉教授記念会より新刊の本渡され野口君も1冊くれ、成城堂にても何かと買ふ。 (※省略) 飯塚副手、堀semiより預りの子たちのreport鎌田女史に渡せし筈なるに点つきをらずと泣顔なり。よくしらべて善処せんといひて帰宅。(※省略) 11月30日 9:00さめ山住dr.で吸入すまし、佐伯へdoubleゐし『朝鮮の鬼神』もちゆき『鴎外全集(1,800)』と『野村英夫詩集(2,000)』とにとりかへる。(※省略) 登校して(※省略) 鎌田女史の独走なりしらし。(※省略) 帰らんとすれば舟越君(※舟越清)女性づれにて労金の貯金82,945返金さる。喜びて東豊書店にゆき『広博物志(12,800)』、『涵芬楼秘笈(10,000)』、『大唐詔令集(3,000)』、『清史集腋(20,000)』、『三雲籌俎考(2,000)』、『淮南子(840)』にて48,640払ひ、あとにて届けてくれると受取もらふ。(※省略) 12月1日 10:00さめ、朝食後山住dr.にて吸入すます。「坊や数学きらひにて云々」「我は体操以外みな出来し」と答へ、賀状とり来る。 佐伯へゆきShirokogoroffの『Growth among the Chinese (450)』を見付けて買ふ。以前よりありしも最下段にてみつからざりし也。 喜びて帰宅すれば金子生より電話。(※省略) 14:00来る。その間われDapperの浙江省記録を写しをり。来しに手をとりて教へ月曜再来といひて帰りゆく。 (※省略)けふユ、母のもとへ手当もちゆき「この間、史一家を訪ねし」ときく。(※省略) 12月2日(日) 8:00起され礼拝にゆく。寒き途なり。礼拝に来会せし原さんに「丸がお世話になってをります」と挨拶し、年末ゆかすこととす。すみて竹森先生にモルモン教のこといへば「聖書にありや」ときけとの仰せなり。 帰り佐伯に寄り3万円余、学校へと買ひ、『文芸春秋12月号(80)』買ひ、『牧野植物図鑑』来をりと見せられ、昼食後電話して値を5,500とききてゆけば奧さん5,400にして呉る。 15:00来ぬかと思ひゐし林マリ子来り、50枚余かきゐるを直し、3年semiの点つきをらぬといへば泣き出す。「野口君に点もらってやる」といひて帰らす。(※省略) 12月3日 8:00さめ快し。朝食し山住dr.に吸入にゆく。帰りて東豊書店に未着をいひし直後、運送屋もち来り、また電話して「着いた」といひしあと検すれば『広博物志』昨年5.1に12,800で買ひをり。 けふは順法闘争、あすは国鉄全st.なれば地下鉄にのらん。(※省略) 12月4日 8:00さめ9:00山住dr.に吸入にゆき、帰りて10:00すぎ地下鉄南阿佐谷にゆけば切符買ひの人山の中に大林学園長すぐ前にをり。 四谷三丁目で下車。斎藤dr.すいてゐたれど薬のみもらひ(※省略)、歩きて千駄谷駅前でcoffeeのみ、東豊書店につきてdouble『中国交通史』と『広博物志』とを返しね『百部双書集成索引(1,800)』、『仝分類目録(2,200)』、『栽培植物考2(960)』、『記明季朝鮮之「丁卯虜禍」與「丙子虜禍」(600)』、『唐代藩鎭與中央關係之研究(3,120)』、『唐代嶺南發展的核心性(500)』、『鄭開陽雜著(5,000)』として1,100払ひてもち、新宿まで歩きまた地下鉄にて帰宅。(※省略) 14:00金子二郎来り、漢文よます。「土曜再来」といひて17:30帰りゆく。(※省略) 12月5日 10:00山住dr.で吸入すまして登校。佐伯と東豊の本来り、(※省略) 野口君に点くれよといへば「あのあと各自でやることとなりし」と。教務課長にきけば「御随意に」と。semi水津をのこして皆出席、おくれて来し林にsemi点80やる。3年もみな80といへば喜び(※省略) 成城堂でまた『声曲類纂(350)』買ひ、佐伯に寄り「本ついた」といひ『説苑』ありし故、買へば250として呉る。(※省略) 父の友「斎藤篤翁11.18老衰と心不全で86才で急逝」と御遺族より。(※省略) 夜21:00の映画までに予習了る。(※省略) 夜、高橋重臣君より電話あり「上京中、小高根太郎氏のお立ち寄りをもはや歓迎せず」と。勝手なことかな! 12月6日 5:00ごろ尿たまりて起き、そのまま眠れず9:30山住dr.にゆけば薬かへたまふ。 11:00登校。健康調査報告書にわれは2、ユは3と評しあり、気をよくして新城博士に「大藤の後任、野口君」といへば「鎌田推されをり」と。 (※省略) 「金沢われのこと友情に篤し」とくり返して堀川博士いふ。(※省略) まっすぐ帰り佐伯へよりて『歴史読本』買ひ、(※省略) けふ〒なし。湿疹おこる。 12月7日 けふも寒し。山住dr.にゆき吸入し(※省略)、登校すれば新城博士「台湾行承認された」と。鎌田女史「学長は大山博士ときまりし」と。 (※省略)林眞理子より「15:30に来る」とのことに急ぎ帰れば1時間おくれて来り、ほぼかけをり。「日曜午后再来」と。 夕食すませしところへモルモン教来り■の神を信ぜず、キリストも信ぜずといふにパンフレット渡し■もちて帰りゆく。(※省略) けふモルモン教、クリスマスの歌二つともに歌ひ、終りに祈らしむ。 12月8日 高橋重臣君、娘婿奥山荘太郎君をつれ3人で来る。(そのまへ、われwhisky1瓶もちて戸田謙介氏にゆきしに奥山君、秋田の酒くれ、可笑し)。 暮の買物にと父子3人でゆきしあとtelevi見ゐしも金子一郎来ざる故、散髪にゆきせかしてやれば「30分まちゐし」と。夕食までやりそのあと了り「月曜下書もち来る」と也。(※省略) 12月9日(日) 9:00起され礼拝休み、(※省略) 重岡保郎君より電話、(※省略) 林マリ子15:00来り、すぐ重岡君来しゆゑ「いま別キといふが候補」といへば「ダメならイタリヤへゆく」と也。葉巻たまふ。けふ年賀状かき出しア-エまですむ。 12月10日 山住dr.にゆき薬へらされ吸入受け秋田酒を出せば「主人も父も」と也。 けふ学生来るかと思へば来ず、鈴木治氏へ「小高根太郎17日登館ゆゑ宜しく」と速達しにゆき、佐伯に寄り陳安仁『中国近代史要(400)』、『露和袖珍字彙(50)』にしてもらひて賀状かきDapperやり『金瓶梅』やる。(※省略) 12月11日 山住dr.にゆき吸入受け小高根太郎へ「鈴木治氏へ知らせた」とのハガキかき、出しにゆきて佐伯休みを知る。(※省略) 14:00すぎ田中ゆかり、荻田まり子の2生来り、(※省略)ユ、三鷹へ蜜柑もち出てゆく。 (※省略) 2生に讃美歌うたはせ帰りゆきしあと年賀状ケまで書く。 (※省略) 12月12日 8:00さめ山住dr.にゆかず。10:00ごろ佐伯を見ればしめてをり。 登校。『韓国民俗双書』をしらべてくれと飯塚副手にいひ、(※省略) 小沢講師の民俗学演習1時間を前期よりと申出で、中国古典はやめにすまして帰宅。(※省略) bonus665,910 (※省略) 12月13日 寒し。9:00さめ10:30の小田急準急にのりて登校。(※省略) 15:48となり急ぎて教授会。(※省略) 寒き中、築島博士と同行、(※省略) 新宿で別れて帰宅。 波多野博士と小川和佑氏よりの送本数日かかりて来をり、(※省略) 西洋史は成蹊大学の教授推薦の都立大付属高校のマツトシヲ君を1月査定と。 12月14日 寒し。雨なきことのrecordと。(※省略) 1年休み多きに出て日露戦争を説き了へ、普通に乗りて南新宿。東豊書店にゆき『行神研究(330)』買ひ、1月10日ごろにと大学院に本註文す(1.4万)。 (※省略)帰れば無人にてユの帰るをまてば母来り、1.5万円渡せし「正月は大阪で」といひしと。 大東塾より「年末寄附を」と。(※省略) 不二歌道会へ5,000の為替かき、野口君へ「わが過失」とわび状かき、来ぬやと思ひしにMormon教2人来り、この前の約束と「Smithの預言者たるを信ずるや」といふに「信ぜず」といへばすぐ帰りゆく。もはや来ぬらしきも何しに来しや我は覚えなく、ユは「来週来い」とわがいひしと。物忘れひどくなりしらし。 『浪曼』来り、谷崎君(※谷崎昭男)といふが肥下の追悼かきをり。 12月15日 (※省略) 午后伊勢玲子来り、都留家、麝島家(※お歳暮 省略) 重岡君に短大に昭和47年講師せし都立高の「松俊夫君内定」とハガキにかく。 山田雅彦氏(詩人、高校教師、八王子)より詩集の批評の礼。 12月16日(日) 8:30起き、いそぎ礼拝にゆく。(※省略)会衆少く暖かきも急いで帰り、Dapperと『金瓶梅』と賀状(タまで了る)。(※省略) 12月17日 10:00ごろユ、便秘にて苦しむといふに山住dr.にゆけば、まづわが扁桃腺みて好しといはれ、ユの病状いへばすぐゆくと。(※省略) そのあと年賀状郵便局に出しにゆき(※佐伯書店にて)『台湾と蒋介石』、『新詞典』にて500払ひ、450借りて帰る。 夕方、鈴木治氏より速達「月曜登館できず高橋君より館長と金子君とに頼みくれし筈」と。小高根家へ電話すれば夫人「天理へゆきゐる筈」と。 けふ澄上京。「Hotelに泊り各方面に折衝、史家に泊れといはれし」云々と電話ありしと名古屋より。「望よくものをいふやうになりし」と也。 12月18日 8:30小高根太郎よりの電話でさめ「高橋君の鉄斎は本物。鈴木治氏へ、午ごろわざわざかけつけた」と。めでたしめでたし也。 10:00すぎ斎藤dr.に参れば殆ど無人。すぐ診察受け(※省略)4週間分の薬たまふ。 新宿まで歩き、帰りて昼食。(※省略) (※松本善海入院の)河北病院5階4階と探し3階と教へられてユとともにゆけば付添をり1,000と石鹸とをユわたし、きけば床ずれひどく小便もれると也し。顔色よきも腕細かりし。 佐伯へ寄れば主人午ね『国語辞典(4,800)』借りて帰宅。 山住dr.にゆき(※省略)扁桃腺は直りしと也。(※省略) 12月19日 登校。野口君に会へば了解と。(※省略) ゼミ田中、熊本、加藤の3生つれて喫茶し、中国古典はやめにやめて帰宅。 東京空襲を記録する会より稿料(5,400-540)18枚のため来り、近々発刊の本、受取よこせと也。 シンチンゲル先生の会332万円集りし(※大阪高校)7回乙は14人の申込にて全額も少なき部なり。(※省略) 賀状23:00書き了る。400枚足らず也。(※省略) 林マリ子生に電話せしに外出と。「あす12:00までに出さねば落第と伝へよ」といふ。 12月20日 (※省略) 登校して12:00まへに林眞理子の出すを見、大学院の竹腰生をのぞく三田村、横山、小松3生と喫茶し、「東洋文化史」教へ、しばらく待てば卒論積みをり。 野口、鎌田、新城、池辺4氏とわれとにてほぼ10冊づつ分け15:50よりの主任会。 (※省略)。 12月21日 9:00さめ10:30登校。机に置きある卒論、フロシキに包み12:00まへ阿佐谷につき佐伯のぞけば何もなし。(※省略) 帰りて柏井歯科に電話すれば尚子出て「いつ来ても良し。茶来てゐる」と。 歩きて西川満邸前をとほりぬけ柏井へゆけば光一をり。(※省略) 歩きて北口の本屋見、『文芸春秋11月号(80)』買ひ『紀行朝鮮使の道(500)』買ひしてのちXmas card1枚買ひて山住閣下に逢ふ。「年内に一度来よ」とのこと也し。 帰れば弓子母子来りをり、克次朗ものいふやうになりし。(※お歳暮 省略) 丸夫人に電話して礼いひ、重俊呼び出せば「あす来る」と。 12月22日 9:00起き散髪にゆく。1,000となりし。11:30午食し、郵便局へ年賀状投函し、ユとともに渋谷の名店街にてしるこ1,500買ひ、紅茶とともに白鳥家へゆけば表門あきをり。 (※省略) 阿佐谷に帰り北側の本屋にて探せしも欲しき本見つからず、西友の5階の本屋にもなく南側にて『金瓶梅』と『日清戦争』と買ひて帰宅。 丸重俊よべば19:00ごろ来り、講師にて2~3年の男ありと。大学院へゆきゐる也。「原さんにたのむ。お前も挨拶にゆけ」と云ひて帰らす (21:30)。 12月23日(日) クリスマス礼拝とてユの起きるまへ4:00ごろさめ、7:00その出てゆきしあとゆけば、1番前の席なり。(※省略)原氏も来りし故、丸の礼いひかたがた伺ひたしといへば「正月6日~10日の間に」と。答にあいそなきゆゑユにきけば欠員なきらし。 金子生「あす10:00まへに来る」と。丸重俊に「校長にゆけ」といふ。 12月24日 寒し。金子生に10:30電話すれば「ねてゐた」と。「あす来い」といひ、(※省略) (※山住dr.父君に)ゆきて「善知鳥」ききをれば、ユ表へ男の子つれ来りしと。「待たせよ」といひ、終りて帰ればまちをり。 卒論見しといひ「出来わるし」と叱り、帰りゆくとともに出て柏井。(※省略) 12月25日 卒論よみ、ユの三鷹の武藤夫人見舞に出しあと、躁はげしく、蔵原夫人に電話し「嬢、学部に進む気なしや」と問へば「わからず」と。(※省略) 20:00になりしに山際文雄氏来り、キリスト教になる気なし、鴎外より朔太郎より新川女史?の方が偉しとの言ひ方して帰りゆく。 12月26日 卒論よみなどしてゐれば山住閣下「本返し、これを」と安積得也の『一人のために』賜はりすぐ帰りゆく。 安積氏は吉祥寺東町に住む元知事にてこの詩集29版と。著者にハガキかき、ユより1,000もらひ『ヨブ記』、『サムエル記』、『エレミヤ書』とみな見つかり、『中国民話選』といふを買ひて今井家訪へば、女児出て「母不在」と。母のところへゆけば「大ねてをり」と。「咲耶風邪ゆゑゆく」 と。 柏井歯科へゆけば患者なく光一、下歯をわたし「造りなほす方がよし」と。礼云ひて出、帰りて卒論よみ、(※省略)。 12月27日 よく眠り、(※省略)佐伯にゆき『農業大辞典』を買へば300と。気の毒にて1,300の『近代詩集』買ひ、あとにてユにもちゆかす。(※省略) 夕方、伊勢スミエより電話かかり「娘ゆく」と。やがて電話かかりピーコックにて待ちゐるをつれ来る。 泊れといひ20:00京帰り来しと話さず24:00近くなりて書斎でねる。 われはけふ「松」かき14枚となり、あと考へてねむれず。 12月28日 朝方一寸ねむり8:30さめ伊勢潤の起きゐるを見る。15:30までゐる中、洗剤買ひに二人で出る。 われ松村緑教授のハガキ受取り、電話かければ女子大に講師、茨城に専任との名にてゆくと也。(※省略) 鈴木治氏より「60定年後は月給の40%にて在職。小高根太郎は紳士的云々」(※省略) 疲れて何も出来ず、きのふの「松」と潤のせいとならし。(※省略) 12月29日 8:30さめ、(※省略)阿佐谷局へゆきアルバイトのほりこみし「書留送金に不在」といふを抗議し局長と主任とを平あやまりさせ受取れば平凡社より『白楽天』1冊1,280の代金返金なりし。 卒論見て多きに憤慨し、山住閣下に電話すれば「不在」と。けふ受取りし『戦災記録』もちゆけば正己先生出て受取らる。 坂泰子16:00来て「1.19半蔵門会館にて」と。ユに買ひにゆかせしParker(2,700)祝に贈り、夕食するところへ八木生「来る」 と。19:00来る直前、坂とユと出てユPilot(3,000)買ひ来る。 22:00すぎ咲耶に電話し「母ついたか」ときけば「ついた」となりし。 けふ讃美歌の訳でき不眠にても礼拝にゆく決心す。 12月30日(日) 3時間ほど眠り竹森先生の電話8:00にかかり「笹淵博士欠席なるも讃美歌委員会やる」と。 大急ぎでゆけば10:00に5分前。(※省略) わが訳せしを歌ひもらひゐる中、混乱しゐるに気づく。 (※省略)15:00帰宅。クタクタになりしも竹之内生の「倭寇」の誤字訂正しゐる内、いよいよ混乱し、電話すれば母出て「外出中。一度ゆかす」 と也。televi見て欠伸なほりし。けふ郵便来る。ふしぎ。 12月31日 8:30さめユの銀行にて金出せしあと午食。13:00佐伯へゆき9,600の本、最後といひて買いひ、あとにてユをして払ひにゆかしめ、(今井翠、茶とりに来る)ついで柏井へ茶代払ひにゆかせ、宮崎智恵氏に「『日本歌人』のうた下手。むすこよこせ」といへば19:00母子来り、宮崎女史帰りしあと弥彦のこし、息子にすると叱りゐる中、宮崎女史より「ガラスみがきに帰らん」との電話あり。「おれも一緒にやる」といひ、百八つの鐘すみしあと出て宮崎家。弥彦「母が何といふか」とこはがる。果たして夜半すぎれば顔色変へて怒り、むすこもわれを「邪教」といふ。 共に出てあきゐる喫茶店にてcoffeeのみ、初日の出といふに13階に上り、我は太陽に向って放尿、弥彦は南向きてす。そのあと母の歌集と保田典子の歌集わたし、三鷹駅南口に地下道を出る。弥彦帰宅す。 田中克己日記 1974 【昭和49年】  昭和40年代の残りをまとめて記します。  相変らず家族や教へ子に対する人当たりには、瞬間湯沸かし器と呼ばれた“癇性”が認められます。躁鬱の躁の時に顕著な現象で、子供ら全員が巣立ったあとも、妻を叩き、知人・同僚に絶交を言ひ渡しては取り下げを繰り返してゐます。些細な原因による一時の激情は、あとから思ひ返せばバツが悪いものばかりだった筈です。  それを一々書き留めてゐるのはもちろん忘れぬためでしょうが、詩人にとってキリスト教への改宗と堅信とは、そのやうな自らを律することができない性分を以て、戦争に翻弄され、生き残っては不倫に惑ひ、精神的な寄る辺を失ひ通院するまでに至った不器用な自己救済といふ感じの強いものであり、他者への寛容の精神を養ふ修行の場ではなかったのかもしれません。  それでも帰依の気持は一心であり、(後年、針金かトンボのやうな自分が長生きできるとは思へなかったと語ってゐた詩人ですが、)何度となくやって来るものみの塔(エホバの証人)やモルモン教の伝道者を門前払いせず、その都度論争して向ふから匙を投げさせるに至っては可笑しさを感じてしまひます。  泣かされなかったゼミ生はなかったといふ怖い先生ですが、変りなく慕はれてをり、多くの教へ子が結婚式への出席を要請してゐます。学生に対する面倒見は、(今では難しくなりましたが、)大学から自宅にも場を移し、学業から私生活までの煩瑣にわたってをり、大半を省略しましたが、特に心を砕いてゐたのは大阪高校野球部OB親友、丸三郎の長男氏の就職についてです。私学高校の講師の口を得た後も専任になるまで温かく見守る様子がみられます。就職については自身が苦労しただけあって、他にも大学同窓の丹波鴻一郎(丹波哲郎実兄)や川久保悌郎について周旋してゐます。  旧友の訃報については、長尾良や浅野建夫が亡くなってをり、回復の見込みのない松本善海のもとには近所でもあり4度も見舞に行ってゐます。  また生まれてすぐの孫をなくし、幼い身内の不幸を再び経験した詩人は、戦時中2歳で死んだ次男の御霊とともに田中家の墓地を教会墓地の隣に求めることにしました。昭和48年のことで、現在も八王子市上川霊園に変はらずあります。                        ★  さて、先ほど記したうち、戦争協力についての悔悟ですが、前回の解説で記した、日本浪曼派の残党が活気づいて創刊された雑誌『浪曼』への態度に、明確に現れることとなります。  すなはち、同じく戦争に翻弄されたといっていい『コギト』同人、伊東静雄について回顧するやう依頼された時には、自分を立てて話をしてくれる林富士馬・西垣脩の二人を指定して「鼎談」に応じたものの、三島由紀夫との縁を朗読レコードによって深めた浅野晃からの執筆慫慂は無視し、以後この雑誌にみなぎる「三島崇拝」の傾向を嫌ってゆきます。津村信夫の詩碑建立祭は不参加、行くつもりだった平林英子(中谷孝雄夫人)の出版記念会も「いよいよ右翼くさくなった」とドタキャンします。  尤も『コギト』の仲間だった長尾良の遺稿集出版を発願した未亡人には、大高の旧友として協力するのですが、同じく長尾未亡人が序文を仰いだ保田與重郎とは一線を画し、彼と彼の取巻連との接点を事毎に避ける節が窺はれるやうになります。  それまで戦没者鎮魂の趣旨に賛同して寄付を続けて来た不二歌道会との関係も、当然のことながら三島事件の際の騒動を契機にして疎遠になってゆきます。それまでも主宰者影山正治の発言には日記に不満を記してきた詩人でしたが、母体である大東塾の政治行動につき警察が影山氏との関係を訊ねに来たこと(昭和47年6月28日)を境に、こののち会談のオファーが再三にわたってあるものの、応じることなく接触を避けるやうになります。  これらには昭和46年に刊行された『太平洋戦争下の詩と思想』といふ本のなかで、未知の評論家詩人である鶴岡善久から名指しで戦争責任を問はれたことが追い討ちになった可能性も指摘しておいた方がいいでしょう。  一項を立てて論じられたその論文「自然と観念の乖離」において、鶴岡氏は田中克己のことを、 「彼は自己の魂の暗い過去へおりていってきびしく自己を問いつめることを回避している」と、  そして戦時中に翼賛詩歌を書いたことに対して、 「戦後キリスト者に転身したような事実では、とうていぬぐい去ることはできないのだ。(中略) キリスト者になることなどよりも田中克己は自身やりかけた「哀歌」のような自己へのきびしい責任追求がなされねばならないのである。」  と指弾してゐます。  『日本の詩歌』の巻末で、初期作品群に対象を絞り、急速に翼賛圧力を強めてゆく時代のデスパレートな青春像を描いてみせた大岡信の解説とは異なり、鶴岡氏の一文は、その後の詩の生成方法が変化してゆく様子を、目に映るままの「自然」と要請されるままの「観念」とに疑問もなく乖離していったと斬り込む内容となってをり、著者の反体制的な姿勢も手伝って戦争責任をきびしく追及するものでした。  昭和20年代を政治的圧力の薄い近畿圏の詩壇で暮らしたのち、上京してキリスト教に改宗、同人でもなかった日本浪曼派からはすっかり離脱したつもりで昭和30年代40年代を、大学教授として、中国詩人の伝記著述家としての肩書を得、いつのまにか「コギト派詩人」として詩史上の席も与へられた格好となった詩人です。すでに昭和42年に発表されてゐたこの論文の初出誌(『地球』44)はもとより、単行本の存在を1年近く周りの誰からも知らされず、自分の戦争詩が冒頭に引用されている現物の本を古本屋で手にとり初めて目にした時のショックはさぞかし大きなものだったに違ひありません。  そんな中、小高根二郎がライフワークとして伊東静雄・蓮田善明の浩瀚な伝記を連載してきた雑誌『果樹園』が、昭和48年205号を以てたうとう終刊してしまひます。体裁を創刊から些かも変へることなく17年の長きに亘り発行を続けた、小高根二郎と田中克己とのホームグランドでした。  〝保田與重郎抜きで立ち上げた『コギト』同窓会〟。さう呼んで差し支へない雑誌の性格は、小雑誌ながら近畿圏にあって非政治的精神を貫いたといふべき一孤塁でしたが、その最後を看取った創刊者であった田中克己の感想は日記に書きつけられた「勝手にしろ」といふところが本心だったやうであり、『コギト』終刊時に肥下恒夫に対して抱いた気持と同じく、まことにさびしいものでありました。                        ★  しかしながら職場での詩人はいたって意気軒昻です。  所属する文芸学部文化史コースの主任をも務めるに至ります。ですが調子に乗った詩人には、昭和49年に台湾旅行を単独で決行したことが「精神病の再発」といふ大凶となって返ってまいります。  旅行中、ホテルで騒がしい客とトラブルがあったやうですが、なにゆゑ悠紀子夫人を同行されなかったのか。全て一人で解決しなければならぬ心労が、帰還後にいちどきに吹き出した形で、9月10日に帰国してのちは日記を記すこと叶はず、9月28日入院前後のことは、夫人の覚書によって断片的に消息が窺はれますが、本人の手で日記が再開されるのは11月20日、退院後もひと月を経てからのことでした。    この年の出来事 2月 幼なじみの懇意医師、浅野建夫死去。 4月 大学同窓、松本善海死去。『浪曼』と距離を置く。精神不安定となる。 7月 佐藤春夫の会。 9月 2日~9日 台湾へ一週間の単独旅行、帰還後再び精神不安定となり 9月28日 斎藤病院に入院1ヶ月。年内休職。 昭和49年 1月 1日~昭和49年 9月 1日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 昭和49年 1974年 1月1日 弓子の家のBell押せば父上出られ、弓子夫婦をおこす。二人ともねまきにて宏一郎、克次朗はさめをり。雑煮の仕度するを断り自動車も断って帰宅。 ユ途中まで出をり、弓子より「父酔ひゐる」と電話ありしと。 (※省略) 1月2日 (※省略) 山口書店に3日開店の時『詩集悲歌』買うふといひ、宮崎女史に書入れ大切ゆゑ残してくれといへば「承知」と。(※省略) 金子の相手進藤生とわかり、(※省略) 便秘四日目に気付き、灌腸ユにしてもらひ死ぬ思ひで脱糞。(※省略) 1月3日 (※省略) 探せばわが家に宮崎女史よりもらひし歌集あり。山口書店にては「売れてなし」、も一つの書店も同。(※省略) わがいたむ腹をし笑ふ子を産みし痛さをれら知らざりしなり。 詩を作る心もあらず神祈る悩みもなくてありにし人よ。 1月4日 (※省略) 佐伯にゆき『母を訪ねて三千里』もらひ『恍惚の人(500)』買ふ。(※省略) 16:00史来りしゆゑNapoleon一杯飲み葡萄酒一本呉る。美紀子に『恍惚の人』やり、子らにと5千円渡し(※省略)、 1月5日 ユをつれて山住dr.。(※省略) 帰りてユを促し宮崎家へ歌集もちゆかせば12:00すぎ帰り「いらざりし」と。『悲歌』は返さすつもりと。(※省略) 1月6日(日) (※省略) 和田夫人より電話かかりし故『悲歌』もちあす11:00来たれ。自筆の写しをやらんと云へば泣く。 (※省略) 1月7日 9:30柏井歯科へゆく。(※省略) 筒井護郎夫人代筆にて「肥下里子の婿候補を野上に頼みし」と。(※省略) 1月8日 (※省略) 佐伯へゆき雅子用に英語の本(1,300)と『現代神仏事典(200)』買ひ600枚の賀状了りとなりしをすます。 (※省略) 23:30に近く「中国の植物漫録」200×19にて了る。次は「竹」なり。 1月9日 (※省略) 三越本店に開店5分前につき7階の展覧会場に着けば伊勢母子まだ。われ「大江山」を描きし佐々木邦彦の画見に来たといひ名刺を受付に托すれば目録呉る。 隣の古書籍展にて春夫『FOU』2万円。『富永太郎詩集』同じく2万円。立原の手紙15万円とあるを見る。 急ぎ成城につきて、(※省略) 1月10日 柏井へゆき(※省略)成城へ11:00すぎ着き、成城堂にて『好色一代男』、『中国笑話集』、『アイヌ人物語』買ひ、(※省略) 宮崎智恵氏より保田典子夫人の歌集くれ『悲歌』のかきこみ写しくる。「返しいらず」と電話す。 (※省略) (けふ中河与一氏に会ひ「今年喜寿」と。恰も渡辺家の門前にて也し。) 1月11日 9:30出て柏井、(※省略)出て成城大学成城(※省略)、 1月12日 10:30出て柏井歯科、(※省略) 帰りも歩き、西川満に会へば「台湾へゆけば楊雲萍を紹介せん」と。「その要なし」といひ古本屋三軒見、(※省略) 丸重俊来りし故「も少し親孝行しろ」といへば「父(※丸三郎)、伊豆のリハビリテーションセンターにをり」と。見舞書くこととす。 9:30出て柏井、(※省略) (太宰施門博士焼死のこと東京新聞にのり84才なりしと。amen!) 1月13日(日) ユを置いて礼拝にゆく途中、佐伯に寄り『日韓辞典』見つけ仮る(1,600)。(※省略) 1月14日 (※省略)国鉄にて斎藤dr.。(※省略) 東豊書店にゆけば青山博士来られ『中国地名要覧』の台湾版売らずにくれといはれしと。 (※省略) 個人研究費ゼロにするため『古今事物考』、『金元北曲語彙之研究』に30円追加して、6.9万円のこりゐる学生用の本注文し2.7万円のこす。(※省略) 柏井歯科、(※省略)『伊東静雄詩集 新潮文庫(50)』買ひ、また北口にて『カーマスートラ 角川文庫(60)』買ひ、(※省略) 1月15日 (※省略)佐伯へ『漫画読本』など60冊もってゆけば600円にて買ふと。 『道鏡と居酒屋』、『天平の甍』、『一日一生』と雑誌にてすみ帰宅。午食して山住邸、(※省略) 夜、依子に電話し「8.1~10上京せざるや」といへば「す」と也。 1月16日 (※省略)柏井歯科、11:00登校。(※省略) 帰途、金子書店に寄り店主の無礼に腹立てつつも野上弥生子『ギリシア・ローマ神話2冊(200)』買ふ。(※省略) 1月17日 (※省略)11:00登校。(※省略) 帰りぎは今井教授より『海の聖母』複製もらひ、高田君より『朔太郎研究』もらふ。(※省略) 1月18日 (※省略)12:00すぎ成城大学につく。(※省略) 午休み古野清人博士に癌ノイローゼと、天理図書館での中村(※中村幸彦)の告口話し、(※省略) 望つれて依子来り、浮かぬ顔してをり。「マリリン・モンロー伝記」をteleviで見て入浴。 (※省略) 1月19日 (※省略)半蔵門Hotelにつく。(※教へ子披露宴)、(※省略) 川久保15:00来り、17:00すぎまで話して帰りゆく。「本多く買ひあるを見て猛然と民俗学やる気となりし」と。(※省略) 1月20日(日) (※省略)礼拝にゆく。(※省略) ホテルオークラ別館まで寒き中をゆき(※教へ子披露宴)、(※省略) 阿佐谷にて『松竹梅』買へば奈良女子大の先生、大森志郎氏に協力す。支那の松竹梅行事はかかず。安心す。「けふも弓子ら来り3人の孫にて荒せし」 と也。 1月21日 (※省略)10:00まへ成城大学。(※省略) 佐伯に寄り『正倉院書帖』を予約し帰れば、井上書店より案内来をり『正倉院薬物』買はんと思ひ電話す。(※省略) 1月22日 雪つもる中を長靴はき、佐伯に井上書店の案内見せ『正倉院薬物』ほしいといひ登校。(※省略) モルモン教また来り「ドイツ語できる」といふ新顔をり、煙にまかれて退散す。 1月23日 (※省略)成城につき、(※省略)崔吉城修士の誘ひにてcoffeeとわれはtea。崔君(「藤沢に住む」と)の払ふといふを叱り、(※省略)柏井歯科。(※省略) 松枝茂夫氏より『紅楼夢5』来りをり。 1月24日 14:00登校。(※省略) 成城堂にて『毛沢東語録』の訳と『倭の五王』、矢沢君の『中国とキリスト教』買ふ。(※省略) 大学院の常民文化より美術史の2教授抜ける件につき相談。(※省略) 1月25日 (※省略)午后、佐伯へ散歩にゆき『和刻漢籍第13巻(3,420)』とりて帰宅。(※省略) 1月26日 (※省略) Dapperよみ淮安を過ぎるところまで来る。 1月27日(日) (※省略)ユを残して教会へゆく。(※省略) 佐伯へ寄れば『鴎外全集』と『日本語の語源』と来てをり。(※省略) 「14:00来る」といふ和田氏と田中正俊君とまてばかっきり来り、21:30まで話しゆく。(※省略) 1月28日 8:00起され、佐伯に払ひし、登校。(※省略) 柏井歯科、(※省略) 西川満氏よりわが評のせしパンフレット着く。 1月29日 8:30起され斎藤dr.。(※省略) 代々木の東豊書店へゆきしあと成城へ登校。(※省略) 城平叔父より「これん姉(※克己実母)の骨はどこにありや」と。「宝国寺にあり、詳しくはきかず」とハガキかく。 1月30日 (※省略)潮出版社より詩の校正来りし故なし了へ投函。13:00成城へつきし。(※省略) 3副手さそひて喫茶して帰宅。(※省略) 1月31日 (※省略)11:00成城にゆき (※省略) 魯迅未亡人の日本人迫害の日記、新書にて買ひよみ了る。 2月1日 9:30さめ11:00すぎ登校。(※省略) 柏井歯科、(※省略) 美堂君(※美堂正義)の来るを待てば18:00かっきりに来り、会社の一行と「湯島に宿りをり」と。 20:30通りまで送り出して帰る。(「われより1才下。次男東大仏文を出し。香港廈門にゆきし。」と也) (※省略) 2月2日 (※省略) 小林政治氏の嬢より『晶子特輯』の雑誌賜り「石上露子の記事某所にあり」と挿紙。 母「咲耶の勘当せし孫のところへゆき憎まれし。岡山で死にたし。大の気持わからず」と。 建※に籍移し、大※に「早く別れよ」といひ(※ともに弟)、ともに出て(※省略) 白鳥清先生頌寿記念会(宮本教授)より「3月末解散」と。 2月3日(日) (※省略)われ教会へ5分前につきし。(※省略) 2月4日 終日家居。(※省略) 2月5日 午后より雨。終日家居。(※省略) 2月6日 よべ雪となりしと。終日家居。(※省略) 14:00熊本、石川、加藤の3生来り、(※省略) 伊勢すみえ来り、(※省略)娘来り絵見す。(※省略) 2月7日 笠原文恵来り、(※省略) 14:00出て成城。(※省略) 2月8日 きのふの雪けふは止みしらし。(※省略) 14:00庄野、古宮2生来りwhiskyあまりのまず食ひに食ふ。(※省略) Singaporeにてhy-jackせし一行旅立ちAdenにゆくらし。 2月9日 9:00起され斎藤dr.。(※省略) 森ミチ夫人来り、(※省略) 2月10日(日) 8:00起されわれのみ礼拝にゆく。(※省略) 桂信子より『新緑』といふ句集を贈らる。 2月11日 「けさ一番寒かりし」と。(※省略) 伊勢淳子15:00戸田夫人の許より来り、(※省略) 石油一罐もちて小林夫婦来る。伊勢スミエ来り夕食。(※省略) 2月12日 (※省略)出て成城一次入試の監督。(※省略) すみて『鴎外──家長としての(690)』(※『鴎外闘う家長』か?)成城堂で買ひ来り半分よむ。鴎外哀れなり。(※省略) 高橋重臣君より電話あり22:00来り22:30帰りゆく。 2月13日 よべ眠れ、また試験監督。すみて佐伯に寄れば主人まだ風邪ひきをり。(※省略) けふ美堂正義君より礼状。高橋重臣君「しめ出されし」と電話し来り、すぐ「途で逢った」と泊らざることとなる。 2月14日 10:00近くまで眠り疲れとれしも試験の採点ちょっとやり、(※省略) けふ丸重俊来り「入学試験の手伝ひ命じられた」と。クビでなき様子なり。 2月15日 家居。寒し。(※省略) 2月16日 (笠井)川島夫人より「日本近代文学館をやめた」との便りあり。 14:30出て成城の入学試験委員会に出席。(※省略) 夕食前に相談すみ、佐伯へ寄れば、(※省略) 2月17日(日) 目ざまし鳴らず8:30ユさめて起し、あはてて髭剃り登校。(※省略) 2月18日 暖し。野上卓志(実資改名)紀子夫妻より写真来る。(※省略) 2月19日 暖し。採点すまし14:00成城大学へゆく。(※省略) 2月20日 10:00に5分前登校。修士卒は土肥孝と矢口裕康の2人のみ。ともにわれ誤字訂正しをれば質問す。(※省略) 2月21日 8:00起され眠がりつつ登校。(※省略) 教授会。(※省略) 角川より「Heine16版160円とし2月下旬1万部刊行」、笠原夫人より「一度お越し」とのたより見る。(※省略) 2月22日 疲れて大学院の入試問題月曜に延ばすこととす。(※省略) 2月23日 11:00さむ。〒なく、夜「住吉」といふに23日には必ず集まるとて『骨』の会の木村三千子女史よりはじまり荒木君を最後に天野忠、山前、依田の諸氏より「会に来よ」と(※電話)。初めの同人の残り全部なり。 2月24日(日) 夫婦ともに礼拝休む。家居。夕方兼清より電話かかり「浅野建夫死せし」と。川崎よりの通報ならん。 金沢、西川(※金沢良雄・西川英夫)ともに不在。倭にいひて「あすお通夜にて会はん」といひ浅野家へ電話すれば「納棺中」と。室にも電話す。(※省略) 大正3年以来の友にして、わが発狂に最も心配しくれし也。(※省略)  わが罪を許さむと神ののたまふといひしに笑ひし妻もちし友。  まっ暗き辻にまちゐるわれ迎へ戦負けて帰りし話。  われらみな若く望みも暗がりも知らずしてゐぬ五十年まへ。 2月25日 11:00さむ。新城博士より二度電話あり。(※省略) われ浅野の通夜に出てゆき(御花料1万円)、金沢と並んで夫人に挨拶し、われ哭すれば夫人も泣きゐし。兼清来り、西川来りしも枕経の席にをらず、 われ先立てば中村治光、列奈河り呼び留む。 (※省略) 金沢22:00来りNapoleonいっぱいこぼし乍ら飲み「君あまり悲しげゆゑ心配で来た」と。「われ狂気することあり」といへば帰りゆく。 (※省略) 2月26日 10:00少しまへに登学。浅野のこと思ひ出しながら舟越君(※舟越清)と学生部長と組になり29人の高校生の文化史志望の面接やる。 東洋史に適せしが1人あり。(※省略) 2月27日 ユをして薬とりにゆかせ、問題(独・漢)作り、午食してのち登校。(※省略) 2月28日 寒し。外へ出ず。(※省略)あすより書くつもりの石田先生の大著紹介重荷となり来る。(※省略) 3月1日 寒し。伊勢の山本光男氏より香奠返し来り、Heineの16版来る。終日家居。(※省略) 京、25歳の誕生日なるも出勤、23:00やうやく帰り来る。 石田先生の論文集の紹介けふよりはじめるつもりなりしも手を焼く。(※省略) 3月2日 外、暖きも外出せず。(※省略)長尾夫人より「3月24日3回忌」と。欠席の返事す。鬱なり。 3月3日(日) ユ、聖餐式とて8:00出てゆく。京、朝食してくれ、(※省略) 礼拝中、院殿居士となりし浅野建夫を切に思ふ。(※省略) 3月4日 9:00家を出10:00まへ大学院へゆきしも入試の試験室への案内などなく、50分遅れて始まる。(※省略) 昨日堕ちしトルコ機300人を超す死者にて日本人40人のりをりしと。(※省略) 湖東と松本健次郎の2医に浅野の通夜の感想したためる。 3月5日 8:00起せといひしつもりが7:00起され、髭剃りゆき、(※登校。) (※省略) 今中19期会より「思ひ出かけ」と。浅野建夫君の死去も知りをり。われ鬱とまらず始末に困る。 3月6日 雨。ユ10:00すぎ我に朝飯くはし南雪が谷の伊勢家へ3万円返しにゆく。 われダルくじっとしをり。依子、ユの出し直後電話かけ来りし故「夜かけよ」といふ。(※省略) 依子に電話すれば「矢野明子への花婿候補ふられて明子を姉紹介す」となり。 3月7日 雨。外出せず。呆然たり。夜、湖東より電話「ハガキみた。浅野建夫の死はまことか」と。「7人の孫でき酒やめてゐる」と。 3月8日 雨止む。弓子2孫をつれて来り克次朗「ヂイチャン」といへるやうになる。(※省略) 『大法輪』社より3月16日までに400×2をかけと。「観音」の男女につきかかんとて挿入の速達ハガキに「諾」と書く。(※省略) 3月9日 9:00起され10:00斎藤dr.へ地下鉄でゆく。代診女先生にて薬かへてもらふ。「悪ければすぐお越し」となり。(※省略) 佐藤美智世より「詩をくれ。北川冬彦の弟子」と。 3月10日(日) ねすぎて夫婦とも礼拝にゆかず。(※省略)旧姓村上に北川冬彦のこと詩にして投函。(※省略) 3月11日 8:00すぎ起されて登校。(※省略)昨日けふと小野田少尉の投降で大騒ぎなり。 松本健次郎より「横浜の娘の産にいってゐた」。 「行きながら死人になりてなりはてて思ひのままに生きる楽しさ」と歌記し「いづれはたれかあとやさき」と心境をしるす。湖東とは異りをり。 3月12日 筑摩書房より『現代詩集』1,000部増刷と。八王子の上川霊園より無料バスの案内来る。 11:40柳川真名子生来り、(※省略)学士会館の披露宴に出よ、と。西友5階にゆけば万年筆売り場なくなりをり。(※省略) よべ睡眠感なく、小野田少尉に加ふるにNobel賞の江崎博士の帰国、沖縄空港の300人乗り日航機乗っ取りとさはがしき日なり。 3月13日 6:00起こされ、7:30までtelevi見て登校。(※省略) 中西博士より返りし保田の『日本文学史』(中西博士「わからざりし」と)もちて帰宅。(※省略) 3月14日 6:30近くユ覚め急ぎて朝食。(※省略) けふ青山博士古稀記念宋代史論叢刊行会の「発起人名簿」来る。羽田の名あり川久保はなし。中河与一氏の袋書にて『Sujet』といふが来し。 3月15日 (※省略) 夕方「観音様の性」400×2書き了へ、あす大法輪社へ速達をユに命ず。(※省略) 夜、川久保より電話といふに出て見れば川村欽吾にて「東奥義塾につとめ出張中、月曜夕方戸田さんの弟のところへ来るつもり云々」。 3月16日 9:00まへさめればユ、不在。郵便局へ速達出しにゆきし也。(※省略) 午まへスミ子2児つれ来り、1児は幼稚園、この間調停裁判に出て「離婚の意思なしといひし」云々、哀れなり。ユと出てゆく。 (※省略) 3月17日(日) ユに8:00起を命じ、日曜とて礼拝にゆくユを見送り、餅やき11:00。(※省略) 13:00より2次入学試験の査定会。(※省略) 帰りて川村欽吾君より「明日夕方必ず戸田部長宅で」と電話ありしときく。(※省略) 3月18日 (※省略) 戸田氏に来るといふ川村欽吾より音沙汰なく、ユをしてゆかしむれば、奧さん(謙介氏の)弟分なりと。 ややこしく昔話をきき、最後に「川久保の娘を」といへば川村君困りし。22:10帰り来る。 けふ新学社より印税500余り来し。 3月19日 10:00さめ杉本長夫夫人よりの一周忌の返し受け、(※省略) 3月20日 (※省略) 卒業式に出席。新学長の訓示あり。(※省略) 研究室にゐれば金子一郎、母と彼女とつれ来り挨拶す。(※省略) 帰宅。川久保の娘に20:00電話かかりしゆゑ川村欽吾のこといへば「ごぶさたしてをり」と迷惑げなる返事。「勝手にしろ」と也。 3月21日 (※省略) 「佐藤春夫先生の碑を三田に建てるに付き5,000以上を」と〒。 3月22日 (※省略) 高橋重臣君の来訪待てば14:30来り、会ありとてNapoleon忙しくのみて出てゆく。(※省略) 3月23日 9:00さむ。終日家居。来客もなし。(※省略) 石田先生の本にやっと入り「言語編」の紹介すむ。次は「宗教編」なり。 3月24日(日) 3週間ぶりに礼拝にゆく。(※省略) 3月25日 9:00さめ母より電話あり。「来させよ」といへば来て「いよいよ伊勢へ行く。荷物預れ、死なばユにやる」と也。14:30依子、望をつれて来る。(※省略) けふ平林英子(中谷孝雄夫人)より『夜明けの風』『Biblia』56号貰ひ、(※省略) 3月26日 gene-st.の日なり。佐伯へゆけば主人不在。(※省略) 南隅夫人と2女を和田夫人案内し来り18:00近くまでゐて 「あす17:00学士会館へ和田夫人と来い」と。(※省略) 3月27日 雪降りをり8:00起き地下鉄にて斎藤dr.。先生「よくなりましたね」と。(※省略) 雪の中を学士会館へゆき17:00まへ和島岩吉ご夫妻、南隅母子とお越し、地下食堂にて400の定食!いただき紅茶いただく。(※省略) 3月28日 (※省略) 桃の会より4.28「二十周年の会す。会費4,000」と。『浪曼』より平林英子氏の『夜明けの風』の出版祝を4.9学士会館で3,500でと。ともに出席の返事することとす。(※省略) 岸辺成雄君より「某社の女性史に書け。東洋史の女性を60枚」と。「承知」と答ふ。(※省略) 3月29日 (※省略) 評論社より「中国の后妃」60×400を8月末までにと書類来る。 夕食後、石田先生(※石田幹之助)の本の紹介20枚書き了る 3月30日 晴。暖し。(※省略) 佐伯へ寄り『倭から日本へ』買ふ。上原利君、鈴木治氏の説を素知らぬ顔して引きをり。 (※省略) 望、けふ依子とパンダ見にゆき押されて駈け足なりしと。夜、澄より電話「skiiより帰った」と也。 3月31日(日) 8:00さめ、ゆるゆると望と依子を見て礼拝にゆく。 (※省略) ユややして帰り来り「11:00に乗りし」と。やがて泰より電話あり「14:30頃帰宅」と。(※省略) その頃、史より電話あり「美紀子病院にゆく故あす留守番に」と。(※省略) 湿疹ひどくなり硫黄(※ムトウハップ)の行水2回す。(※省略) 4月1日 (※省略) 丸重俊来り「地学の先生より法政の日本史の講師いかにといはれし」と。「考古学やめて勉強にゆけ」とすすむ。 4月2日 暖し。家居。(※省略) 『民間伝承』来る。(※省略) 4月3日 暖かし。斎藤虎五郎翁より「木蓮の咲く庭に立ち心なごみ征塵よみし」と。(※省略) 京、帰りて「お祖母さん元気なし」と。ユをして見舞にゆかせ、(※省略) 大と別れて伊勢へゆくに悄然たり。(※省略) 4月4日 5,000もちて登校。山田俊雄君『新潮社辞典』の改版やる、と也。10:00より教授会。(※省略) 佐伯に寄りて帰宅。ユ不在。19:00ごろ帰り来れば「(※スケートで骨折)美紀子のギブスとその他にて遅くなりし。同室はみな腰痛の老嫗」と。 (※省略) 4月5日 (※省略) けふ金沢に電話して不在。浅野夫人よりハンカチを香奠返しに贈られふしぎに腹立ちし也。 4月6日 春やっと来る。(※省略) ほるぷ出版といふより「『日本詩集22』に貴詩を。選者は鶴岡善久先生!」と。 早速コトワリの速達出す。 4月7日(日) 8:30近くユ起き、あはてて礼拝にゆく。われ家居しゐしに12:00数男より電話「高沢の叔母さん死んだ」と。(※省略) 4月8日 (※省略) 『大法輪』わが書きし「観音の性」のせて来る。早し。 4月9日 (※省略) けふ平林英子(中谷孝雄夫人)の『夜明けの風』の出版記念会にゆくつもりなりしも『浪曼』来りいよいよ右翼くさければゆくを止む。 あす富士山麓へゆくと也。 4月10日 6:00起きて7:30駅へゆけば国電急行にのれて(※省略)8:30成城。(※省略) 定刻より少しおくれて出発。(※学科にて一泊旅行) (※省略) 12:00ちょっとすぎに河口湖上Mt.Fuji Hotelにつき昼食後、学長、学部長、学生部長の話あり。 ついで各教授の紹介と自己紹介。(※省略) 4月11日 築島教授のcurtainあくる音に目をさまし、あはてて髭そり食堂へ行けば、もはや皆着席しをり。(※省略) 10:00より塩川君をさそひBowlingにゆく。築島教授も来り、1度目われの全く忘れしに恥かく。塩川君は旨し。(※省略) 払ひすませて階下に下りればもはや出発用意しをり。第4車にのり新宿まで出、甲州街道口に下車。(※省略) 4月12日 5:00まへ覚む。炬燵こさへ10分ほど眠りしらしく、醒めて夜昼わからずなる。午めし前たばこ探しに出、(※省略)。 4月13日 よべこはがりて困る。9:30急に思ひつき山住閣下に電話すれば「散髪」と夫人。「1時間して参る」旨申上げしところへ母来る。(※省略) ユをして薬王寺に電話せしむれば「美紀子退院しゐる」と也。ストやっと解決せしと。この間中の不愉快ひとまづ解消す。 4月14日(日) また早くさめ、ユ最後の聖餐当番に出て行きしあと呆然とをり。(※省略) 井上和子15:00かっきり来り、(※省略)「5.11(土)12:00より東京会館にて披露」と。ユといろいろ話しをる間われ呆然としをり。 (※省略) 帰るといふにともに出てParker万年筆を贈る。またこはくなり「斎藤先生にゆけ」とユ。 4月15日 春となる。(※省略) 弓子2孫をつれて来る。(※省略) 北口で『日本の詩歌』みつけて築島博士に進呈することとす。 4月16日 よべ雨降る。(※省略) けふ真野喜惣治君より「浜寺へ転居」と。(※省略)今中19期生会の原稿かきそめしも旨くゆかず。 4月17日 5:00すぎさめ9:30出て成城大学。(※省略) 田中比佐夫氏と話す(田中氏「この間、西宮一民君に会ひわがことききし。滋賀県より来し」と也)。 (※省略) semi、8人の新来あり。(※省略) 澄けふ「21:00来る」と。(※省略) 4月18日 澄9:00電話かかりて覚む。「大蔵省へ行き課長代理の史と会ひし」と。(※省略) われ出て金沢良雄宅へゆき無人ゆゑpostに「恩師のこと」さしこみ、佐伯に寄りて帰宅。(※省略) 登校。(※省略) 教授会。(※省略) 4月19日 8:00さめ眠きも早々に出て佐伯へゆき(※省略)出勤。帰宅。「アルク」より「万歩計やる故2,000字かけ」と。「疲労」をいひて断る。 4月20日 5:00まへさめ、8:30散髪にゆけば、(※省略) 一橋の学士会館にゆく。(※柳川真名子氏結婚披露宴出席 省略) 4月21日(日) 雨降る中礼拝にゆく。(※省略) 4月22日 8:00さめ斎藤dr.。(※省略) 帰れば今さき「松本善海けさ死す」の電話ありしと。 松本家に電話すれば坊や出て「まこと」と。丹波鴻一郎、太田常蔵夫人、内村俊雄夫人に電話し、川久保に電話すれば夫人をり「26日嬢と弘前に帰る」となりし。(※省略) 丹波より電話あり「19:00桜台駅出口にて」と約束し、(※省略) 夫人も迎へに出られ、柩前に写真まだなく令息と孫女とに挨拶し、夫人にかかる電話の合間に話し、睡眠薬中毒にて震盪マヒとなりしとわかる。けさ急に心臓とまりしと也。 西本願寺より光明院釈善海との法名つきしをききて、丹波と退去(われの御花料1万円)、(※省略) けふ櫻井歴史散歩の会の案内、山川京子氏より「29日話を」と。ともに断ることとす。 4月23日 松本のお通夜に関し電話あり「われはすませし」と断る。(※省略) 佐藤春夫詩碑に1万円送ることとす。5月3日の櫻井歴史散歩の会ことわりかく。 4月24日 (※省略) 春夫詩碑に1万円ユ送金せしと。 4月25日 (※省略)午前中、大の引越とて(※同居してゐた)母の荷物来り、大、伊勢の西島順と来る。(※省略) 4月26日 (※省略)帰りて夕食後、山川女史に「桃」の会出られずと電話す。佐藤春夫先生詩碑一万円の受取来をり。 4月27日 晴。佐伯へゆけば(※省略)。televiみてすごす。庭先の新宅の夫婦、菓子もちて挨拶に来る。珍し。弓子2孫をつれて来り(※省略)。 4月28日(日) Schmidt先生送別会といふに礼拝に夫婦してゆき、すみてS.女牧師のこときけば、 「東京女子大定年にて帰国。昭和12年来日。北海道のミッション(※スクール)よりはじまり、 開戦20日前に比島にゆき日本人に捕へられ、バプテストの牧師たちの殺されしを見し。 終戦後すぐまた来日、明治学院より東女に移りし」と。(※省略) 4月29日 8:30さむ。晴。午后佐伯へ金払ひにゆき(※省略)。 4月30日 晴。よべよくねしも眠し。(※省略)藤田貢より横浜に転居とのたよりあり「浅野を悼み西川と酒のみし」と也。 5月1日 まちがへて2時間目にとゆき、(※省略) semiにゆき、すまして水津と七島、清水をさそひて喫茶し、(※省略) けふ史学会より「石田先生の推薦ならず」と。 5月2日 (※省略)けふ牛尾三千夫氏より『田吹研究』たまふ。 5月3日 5月4日 (※省略)帰り佐伯によれば「高円寺の市」と。 『富永太郎詩集』5万円となりし書目(小田急にて展覧会しをると)呉る。 5月5日(日) ユ風邪ゆゑ、われ一人にて礼拝にゆく。601番うたはせ玉ふ。(※省略) 母、疲れしと大の家に泊る。(※省略) 5月6日 母来り、忘れゐしところへ井上斌子、花井夫人と来り、花井夫人突然泣き出して弱る。(※省略) 5月7日 斎藤dr.に薬取りにゆき東豊書店にて3冊本買ひ、(※省略) 母「ユを迎へに来よ」といひ20:00すぎ来る。大も荷物運びWhiskyのみてゆく。 5月8日 尿たまり早くさめ、あと少しねしもダルし。10:03成城大学。(※省略) 津田生つれて帰ればユ不在。母に茶出させ、(※省略) 5月9日 ゆっくりして12:30家を出、(※省略) 早くすみ雨の中を帰り来る。(※省略) 金沢良雄より電話「一番街のVolgaといふに来い」と。 ゆけば流しをつかまへをり(※省略)23:30家まで送り来り雨の中を帰りゆく。 5月10日 (※省略)池田勉博士と話し堀博士の危険なることをいふ。 5月11日 (※井上和子氏結婚披露宴出席 省略) 高橋重臣君来り、Whiskyのみ酔払ふ。ドイツ語の訳教はり(※讃美歌)605の訳出来てうれし。 5月12日(日) 9:51高橋君に「Heine伝みよ」といひ礼拝。(※省略) 帰れば弓子2児つれ来をり。(※省略) 5月13日 (※省略)けふ『浪曼』来り、堀辰雄の話を神保らす。 5月14日 (※省略)中野書店へゆけば詩人賞をもらひしといふ人あり、自らなのりてきけば村上成実(草彦との名で国分寺に不二書房といふをしをり)氏と。 わがこと知りをり匆々と去る。 5月15日 雨。母9:00に出んとし、荷物の多きにあきれ(※省略) 10:30家を出、成城大学にゆけば、(※省略) 5月16日 午食して登校。(※省略) 教授会。(※省略) 日本常民文化の書籍費を我発案し50万円を、 堀川、築島2博士にて15万円、文化史、堀、佐藤、新城、我に7万円づつ、高田博士に7万円、(※省略) 5月17日 ユ、雅子の新宿御苑遠足の付添とて出て行きしあと9:00出て成城。(※省略) 5月18日 (※省略)この間、三鷹で遭ひし村上成実(草彦と改む)氏より『詩集』来り礼状かく。 5月19日(日) ユと礼拝にゆく。笹淵博士作の602唱ふ。(※省略) 帰れば刺繍1冊と青木母より「梅若流の能に“葵の上”演ずる」と入場券来りをり。6.8 10:00開始にて葵上は最後なり。 5月20日 (※省略)丸夫人に電話すれば「重俊月給少なきも通勤」と。「一度来させよ」といふ。 (※省略)『縮冊日本文学全集10日本詩歌篇(100)』に阪本越郎氏わが詩選びゐるを知る。(※省略) 5月21日 (※省略)斎藤dr.。三番目なり。代診の若先生に「いつも躁」といひ薬もらひ、歩きてNewOtaniにゆけば10:45梅田夫婦(※梅田恵以子)もはや出口にをり。(※省略) 東京駅の新幹線入口まで送る。 5月22日 8:30出て9:00すぎ登校。salaryもらへば(※省略)。 津田小百合より「伺ひて宜しきや」と、「宜し」といへば七島、外丸、横江、菊池の5人にて、(※省略) 4人に父の『歌日記』やり、(※省略)17:30帰りゆく。(※省略) 5月23日 (※省略)築島博士とも会ひて話しゆく。築島氏に基本給24万円と話せば目を丸くさる。(※省略) 丸生、電話かけ来りしゆゑ見合承知せしむ。 5月24日 (※省略)夜、今井翠より電話「祖師ヶ谷大蔵の下駄屋の娘一人と母一人の家に丸いかに」といふに「一度会はせよ」といふ。 5月25日 (※省略)私学会館へ2:35着き、2階へ上がれば小沢氏電話かけをり。来年より専任にといへば「承知」「2週間Swissへゆく」と。(※省略) 5月26日(日) ユ礼拝にゆき、(※省略)「川久保上京しゐる」とのことに「すぐ来たまへ」といひ、けふの「善海の35日にゆかん」とさそへば「きのふ参りし」(※省略) いそぎ着かへてゆけば経はじまりをり。(※省略) 百瀬(※百瀬弘)、中島、米澤嘉圃、野原四郎などの諸先輩、池田温君が最も若く野原さんが最年長なり。増井さん来られて握手さる。 中村治兵衛「九州より東京へ帰り、われを松本の弟かと思ひし」と。(※省略) 婿と話せば6月嬢のリサイタルの切符もらふ。荒正人君にも渡せし也。 最後に来しは村上正二にて、われ殆どもの云はず。小便に立ち帰れば婿氏よりドイツ語で釦の空きゐるを注意され「よくやる」といひ、本富士・坂本署の話してわれ立てば皆出、「石田博士亡くなられし」と。(※省略) 5月27日 朝、金沢に電話して石田先生のこといふ。「朝日新聞に訃報のりをり」と。わが家の東京新聞にはなきゆゑ駅に買ひにゆく。 眠くて困りをり。午すぎ藤野一雄、小林和尚のあとつぎつれて来り、いろいろ話す(※省略) 5月28日 9:00堀多恵さんに電話し、辰雄忌のこといへば「来年23回忌をす」と。(※省略) 13:00家を出て信濃町の千日谷会堂へゆく。 古野博士、百瀬氏らと話し階上の告別の辞などきき14:00よりの献花行ふ。(※省略) 川久保家へゆけば南半によく建て直しをり。(※省略)「弘前引き揚げよ」といひ(※省略) 5月29日 (※省略)丸重俊に電話すれば20:00来て吊書かく。「あす来る」といふ翠に渡すこととなる。(※省略) けふ渡辺家の前にて福永武彦夫人の見舞にゆくといふ堀多恵さんに遭ふ。きのふ電話せしばかりにてふしぎなりし。 5月30日 6:30さめ13:00に家を出、佐伯に払ひし、登校。(※省略) 5月31日 7:00さめ登校。午休みに「きぬた書房」にゆけば主人出て「明治34年生のもと詩人」と。(※永島不二男) 「成城の歴史を柳田先生にいはれてかきし」と。1冊は「堀博士に」と呉る。 (※省略)丸重俊の件、「方角と年まはり悪し」と断り来りしと也。 6月1日 晴。家居。〒なし。(※岩佐東一郎逝去の新聞記事貼付) 6月2日(日) 聖霊降臨日。夫婦にて聖餐式すませ、ユは賀代嫗の三回忌にゆく。(※省略) 6月3日 石田博士の文集紹介の校正了り、追悼の辞かき加へて史学会へ簡易書留速達す。(※省略) 早いがよしと百瀬氏に電話し「15:00参る」といひ高幡不動まで急行(京王dept.千疋屋で果物もちゆく)。 1階のmansionの居間に坐り川久保令嬢の縁つかざるわけいひ、百草駅前までの途送られ、(※省略) 近江詩人会より「23日の彦根行承知」と来をり。(※省略) 6月4日 ユ、斎藤dr.に行きくれ、午になりて弓子2孫をつれ来る。(※省略) 藤野一雄氏1泊して彦根へ帰着と。 『金瓶小札』半ば写し了る。夜 Pro-boxingに輪島13回knock-outとなるまで見て疲る。 6月5日 10:00ごろまでcard作り、雨中傘も持たずに登校。石川生傘さしかけてくる。 午后の東洋史002にてmyke使ふ。(※省略) 夜『禁じられた遊び』といふ名映画みる。退屈なるものなり。 6月6日 12:30出て登校。(※省略) まっすぐ帰るつもりが下北沢で降り、久しぶりに南側の古本屋見しも何もなし。(※省略) 6月7日 9:00登校。間のあきを経堂の古本屋にゆきしも何もなし。 (※省略)帰宅すれば高橋重臣氏まちをり。23:00入浴さして眠る。 6月8日 高橋君、神田へゆくを送り出して散髪。(※省略) 白水夫人とユと三人で東中野の宝生会館(※能楽見物 省略) けふ『浪曼』来り「津村信夫の詩碑建立祭に来るや否や(否と答ふ。)」 6月9日(日) 礼拝休む。高円寺へゆき改造文庫の生田春月訳『ハイネ恋愛詩集(200)』見つける。 (※省略) 6月10日 雨少し降り家居。武田豊氏より「長浜に泊れ」と。 千葉の大沼功氏より「『コギト』大学に145冊あり、発行部数知らせ」と。 赤川草夫氏に電話すれば夫人出て「ガンにて豊島病院に入院、早期発見にて助かる。」と。 6月11日 入梅と。武田豊氏へ「長浜泊はゆるせ」と手紙。 大沼氏へ「『コギト』はっきりせざるもはじめ300あと1000部か」と。一日家居。 6月12日 10:00家を出て成城大学。(※省略) 16:50栄華飯店にゆく。新城博士まもなく来り「入試時間を一様にせんか」と。(※省略) 築島、高田、堀川の3博士と古野、大藤2大人とにて会食。20:00まへ終り3博士街頭でPandaの玩具孫にと買ふを見捨てて駅。(※省略) 6月13日 note作り午食して登校まへ佐伯に寄れば『本草綱目4冊(17,820)』来ありと。「学校払ひにしてくれ」とたのみ登校。(※省略) 6月14日 9:00まへ出て出勤。2時間めすまし午食のあと鎌田女史「会ひたし」とのことに待てば来り、 「堀博士、森岡清美氏(大正12年生、今年より教育大教授)を宗教史の大学院ならびに学部の講師に」と。 「将来は専任にしたく小沢氏と欠員2人ある筈」とのこと也! 4時間めすませて帰宅すれば鎌田女史にききし如く猿渡祥子「新村博士の長男に嫁ぎし」と挨拶あり。(※省略) 6月15日 晴。石川生9:30来り、(※省略) ユ、午食させて「東京駅に見合ひに」と出てゆく。(※省略) 6月16日(日) 出がけ速達入りをり見れば「火曜大学院会議16:00」と也。我のみ礼拝にゆく。(※省略) 父の日とて京、財布買ってくれ、史夫婦、枇杷もちて来り、夕食すませしとてすぐ帰る。 6月17日 9:00ごろさめ朝の郵便見しに「千川義雄6.5.am6:00逝去」と。かなしくて耐らず倭、西川に電話す。(6月6日葬儀すみしと)。(※省略) 6月18日 新宿三越を10:00すぎ覗きしも「10:30開店」と也。(※省略) 14:00成城大学。(※省略) 「常民文化に堀博士のいふ2人いかに」と。(※省略) 井階房一より「写真送れ。藤田貢死亡」と。千川のことは知らざるやうなりし。 6月19日 家居。京休み。夜鎌田女史より「あす堀博士出られず」と。 6月20日 (※省略) 午食して登校。(※省略) 横山生より台湾旅行の話きく。「台湾弗が7円見当」と也。(※省略) 鎌田、新城2氏と話し結局「月曜堀邸にまいり真意きかん」となる。(※省略) 6月21日 (※省略)藤田貢夫人より「5.28不慮の事故にて死亡」との通知来しゆゑ、西川に電話すれば不在。夫人に出てもらひ、きけば投身自殺となり! 望より電話「おばあちゃんあす来るや」と、ユ出て依子に「あす午后ゆく」と返事す。 6月22日 (※省略)17:00に十分まにあひ名古屋駅より電話すれば澄出て「夕食あり」と。(※省略) 6月23日(日) (※省略)出て10:35のこだまにのり米原11:14着、11:34の普通にのりかへ彦根に11:40着き、尾末町の旧公舎にゆき前にて写真とり神社前に出来し公営の食堂にて午食とればトボ食はず。 われ「城山へゆけ」といひて出、(※省略)河村医院あり、入りて夫人にdr.はときけば「在宅」と。「菊買ってくれ」と1,000わたし、まつ間(※河村純一と)いろいろ話す。 浅野建夫(※河村純一)少佐しりをり。そこへ武田豊、中川いつじ2君来り、花つくをまち雨中を河村dr.の車にて正法寺町円満寺へゆく。 (※小林英俊の)お墓薮の中とて仏壇にゆき花供へ「坂田山心中」3番うたひ、詩人学校にゆけば見覚えあるは宇田良子さんらのみ。藤野君の紹介のあとこの間の詩の批評し天野忠のことなど出る。武田君一心に演説する中に15:30となり故、小林2世の車にて詩碑(西条八十の字)にゆき、駅につけば望泣きをり。 鈴木寅蔵、藤野一雄(若森君来り詩の話になれば中坐せし)、小林2世の改札口にゐるに手ふり16:24発。(※省略)望ひとねむりして譏嫌直りし故、名古屋駅で別れ19:55東京着。(※省略) けふ河村dr.の歌「酒のめぬ田中克己がふるさとを恋ひて泣きたる昭南思ほゆ」我かかることにては泣かぬなり。 6月24日 (※省略)河村dr.への礼状かき、春夫先生の会に「出る」と返事かき(※省略) 6月25日 京、出がけ「来月15日にて西武やめる」といひし由、めでたし。(※省略) 6月26日 (※省略) ユと「あすの音楽会(依田)に有楽町にて18:30待合せ」ときむ。(※省略) 千川未亡人にお花代5,000を包む。 6月27日 ユに千川へと、入矢・小川両教授退職記念会への五千円づつをたのみて登校。(※省略) 帝国劇場、ユと招待席に坐る。sopranoよくとほりてうれし。(※省略) 6月28日 登校前、成城堂のしまりをるを見、(※省略) 成城堂にゆき、(※省略)。 夜、松本善海夫人より礼いはれ「名簿つひでに送りたまへ」といふ。(※省略) 6月29日 河村純一dr.よ「この間の坂田山心中の高唱宜しかりし」とのハガキ。珍し。(※省略) 6月30日(日) 雨、よべより降る。われのみ礼拝にゆく。「東急dept.20日より開店せし」と。四辺一変しをり。(※省略) 7月1日 梅雨止みしも寒し。(※省略) けふ小林英信君(※小林英俊の息)より小包と手紙。(※省略) 「詩人学校」来り、わが「堂々の輸送船」うたひしをのす。 7月2日 9:30地下鉄にて斎藤dr.。(※省略) すみて雨中、千駄ヶ谷駅に出、代々木会館の簡木桂氏に会ひ、台湾嬢との結婚の手続きく。(※省略) 7月3日 (※省略) 千川寿美夫人より「お花代の受取り。初七日に同級生たち来し」と。皆われとは親しからざる連中也。(※省略) 7月4日 (※省略)赤坂葵町のHotel大倉へゆけば4千円の会費払ひてすぐ(※佐藤春夫の会)開会。 浅野、中谷氏(※浅野晃・中谷孝雄)見えしも遠く、われ森本女史、井上靖、柴田錬三郎、尾崎秀樹のtableに坐る。井上、尾崎2氏われをおぼえをり。 井伏鱒二の音頭にて乾杯、進行係は長谷川氏、庄野潤三、池田弥三郎代理白井浩二、文春鷲尾洋三、新潮社は女史、河出の某君浅草のbarに先生をつれゆきし話に失笑す。 石坂洋次郎「先生を知らず」と也。吉田精一博士の辞、最低なりし。 「(※甥の)竹田竜児氏北海道へ養父の見舞、方哉君は滞米」と。 中谷氏、夫人に代りて謝辞のべて了る。 われ雨中坂を下りて帰る。万事皆真剣ならず。 7月5日 雨。寒し。9:30登校。(※省略) すみて午食時、池田博士にきのふの佐藤先生の会のこといひ、(※省略) 7月6日 (※省略)13:00すぎ小田急出口にゆけば佐々木氏(※佐々木邦彦)来り、会社の車またせあり、乗りて相模原市へ1時間ほど乗る。(※省略) 7月7日(日) (※省略) (※第10回参議院議員通常選挙岐阜選挙区で社会党より立候補した)岩崎昭弥君落選と決まる。百姓ども皆自民に入れし。相手は財閥の長老藤井丙午なり。(※省略) 7月8日 よべよく眠れし。佐伯へ払ひにゆくといへば「嬢の世話する」とユ、いひし故、その旨いへば、 「29才にて」と、35才の婿にて宜しと也。写真と吊書わたし「よければ(※見合させたし)」といひと帰宅。 (※省略) 石川生来り、教ふる中、佐伯夫人写真もち来る。ユすぐ寺田家へもちゆく。(※省略) 川久保嬢をもせかすこととし電話かければ、のろき返事にユ、「あす20:00Albumもて来る」といはす。(※省略) 7月9日 9:30出て佐伯に寄り「嬢の書類届けた」といひ、(※省略) けふ今中19期生会より「1万円送れ」と。今年中の死者4人、石割良英もと。相見ざること46年か。 藤田は徳島よりのフェリーより飛込みしと也。 7月10日 (※省略)  今中19期生会に送る写真のことにて金沢(※金沢良雄)、倭(※倭周蔵)、西原(※西原直廉)、万代(※万代千代蔵)、西川(※西川英夫)に電話せしもみな不在。西川夫人とユと長々と話す。(※省略) 7月11日 8:00西川に電話し準卒の写真のこといへば「送れ」と。(※省略) 帰宅20:00。けふ百瀬さんより「川久保嬢につき骨折る」と。 倭より電話ありし故「会ひたし」といへば「お前友達思ひ」といはる。(※省略) 7月12日 よべ疲れしも7時間眠り、さめれば元気恢復。けふも雨天にて涼しく登校。(※省略) 7月13日 けふも涼し。神田喜一郎先生あて抜刷り(※「中国の諺」『成城大学文藝学部短期大学部論文集(創立20周年記念号)』)送りまいらせ、(※省略) 7月14日(日) 礼拝にゆく。すみて竹森先生に伺へば「台湾の2教会へ紹介状すでにかき玉ひし」と。「8月末か9月」と申上げ帰宅。(※省略) 7月15日 曇。時々雨。京けふ西武最後の出勤。(※省略) 百瀬氏より「一度川久保の嬢見たし」とのことに「21日午後在宅」とたしかむ。(※省略) 夜、川久保に電話すれば(※省略)「土曜、道教へる故、同来したまへ」といふ。(※省略) 7月16日 7:00さめ、8:30千駄ヶ谷着。(※斎藤医院)10:00近くなって代診先生より薬もらひ、成城大学へゆき(※省略) 京、退職して家にをり。 7月17日 (※省略)八尋不二氏の会「7月30日18:00」「出席」と返事かく。(※省略) けふ美紀子より「史、国税庁に転」と。 7月18日 家居。ユ三越にゆき、われ来客もなきに退屈す。(※省略) 7月19日 4:00さめ一寸cardやり、(※省略) 佐伯主人、本もち来りくれし故、忘れし「来週の土曜13:00ここにて見合」とのことユいふ。 頼惟勤氏より「諺苑のもち主喜ばん(※抜刷の感想か)」と。(※省略) 7月20日 (※省略)風邪ひきゐし京、出来上り急ぎし籠もちて久我山の先生宅へゆきしあと、田口といふ男性より電話かかる。 7月21日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 昼食せしあと倭周蔵に電話かけ途きけば「荻窪よりのbusに乗れ」と。(※省略) 地図見つつ行けば3家族入りをり。 (※省略) 帰りふと思ひつき家に電話し山際文雄君の町番きき迷ひつつ辿りゆけば一人留守番しをり。「来月Sur-realismの話にParisへゆき2月ほど滞在」と。(※省略) 7月22日 (※省略) 都留夫妻バラ束もちて来る。(※省略)「丸重俊、明星にて評判よし」と也。(※省略) けふ神田先生より「「中国の諺」よみ興味つくるところを知らず」との評賜はる。 7月23日 長野敏一より「熊本商大・同短大の学長に就任」と。西川に電話すれば「電報打つ」と。(※省略) 河出書房新社より「詩大系に現代詩を加へ文庫とす」と。文庫の時代となりし也。 7月24日 歯疼く。12:30出て柏井へ歩きてゆけば「下2本抜く。そのあと1か月して型とる」と。落胆す。(※省略) 7月25日 (※省略)この間、東豊書店で遭ひし藤木俊郎氏より『漢方』と『万葉植物考』の抜刷賜はる。 7月26日 (※省略) 午后、意を決して柏井(※義弟の歯科)へゆき光一より(※下の)2本抜かれ、尚子と一寸話して帰宅。 (佐伯へ寄りしも嬢(※見合より)いまだ帰らず。) (※省略)けふ1万円を今中19期生会に送り写真送りす。 7月27日 ユ三鷹の田上dr.にゆくといふに「佐伯令嬢帰宅せしや否やたしかめよ」といひ、(※省略) 赤川草夫氏来て胃2/3切取り職やめしと。(※省略) 12:00すぎユ帰り来り京もまた(「あす恋人来る」と也)。(※省略) 7月28日(日) きのふの見合の相手「けふ14:00きのふの喫茶店で」と返事ありし故、ユ佐伯典子嬢に伝へ、われも礼拝にゆくとて家を出、(※省略)教会にては603番唄はれ(※省略) 帰りて「14:00来る」といふ、京の選びし西武の稲田哲雄君まてば丁度来り背高き好青年にて(※省略) 『歌日記』1冊わたし京と出てゆき夕食前に京帰宅。夕方佐伯典子嬢「合はず」と写真吊書返し来る。 7月29日 (※省略)川久保夫人より電話「夜学の方が宜しなどいひしため(※見合相手)娘不承知」と 「川久保くるまで返事まち、そのあとつきあへ」と我家の例あげて説教せしも効あるや否や不明。 (※省略) 7月30日 (※省略) 八尋不二氏の出版記念会にゆけばみな上衣着用。挨拶すみしあと八尋氏に自己紹介すれば『京の酒』と『時代映画と五十年』にsignし賜はる。 井沢淳君呼び寄せ賜ひし故、高垣のこときけば「(※朝日新聞)退職したらし」也。 7月31日 (※省略) 川久保、午すぎ来り「今より百瀬さんへゆく。」(※省略) 百瀬さんより電話「川久保、娘の結婚にのり気でなし。説教しろ」と。 (※省略) 川久保電話かけ来り「気乗りせぬがこの日曜に会はす」と。(※省略) 8月1日 (※省略)川久保にゆき夫妻に(※娘の見合につき)説教して12:00帰り来る。(※省略) 丹波道久より「娘、立原道造の研究しをり」と。(※省略) 8月2日 暑し。(※省略) 京の友2人、籐の稽古に来をり。ユ神経痛とて前沢外科へゆき手当してもらひ、(※省略) 8月3日 午すぎ佐伯へ4,950払ひにゆく。息子里帰りしをり。(※省略) 夕方、伊勢親子来り、夕食おそくとってゆく。 8月4日(日) 夫婦そろひて礼拝にゆく。久しぶり也。(※省略) 葉雅美に電話して「新竹へゆくゆゑ宜しく」とたのむ。 8月5日 (※省略) 午后来る美紀子を待てば16:00ごろあらはれ史の名刺を見す「国税庁直税部所得税課課長補佐」となり。(※省略) 夜、堀川博士へ紀要のお伺ひ立て「松」のところ書き直す。 8月6日 5:00電話、善一郎より「弓子5:00男児出産」と。(※省略) 「竹」の箇所かき了る。次は「梅」なり。 8月7日 (※省略) 渡辺芳紀より中島栄次郎についての質問。 8月8日 (※省略)14:00依子「泰と望」つれて来り、はじめ静かなりしも石川生のsemiすむころより騒ぎ出し、 林眞理子生来ればユと京と依子とにて4人の騒ぎ抑へ難くなる。 林生に鱒ずし食はし「すなほになれ」といへば泣く。(※省略) 主の愛をわれは信ずる幼な児もかく罪ありとわれにさとせり。 十字架をたのみにせよといひてのちすなほとなりしマリ子わがゼミ。(※省略) 中央公論社より『日本の詩歌』4版の印税30,240入金通知。(※省略) 8月9日 曇、涼し。依子「弓子の産褥見舞にゆく」と。(※台湾旅行を前に)ふと思ひつき西川満氏に電話すれば「来てよし」と。 12:00になりしに帰らんとすれば素麺出され、わが食はざるに呆れて薬食多くたまひ、楊雲萍氏に詩集2冊託さる。 われの星をふたご座のカストル、ユをポラックスと占はる。(※省略) 小林母上危篤つづきをるらしく「弓子、退院後わが家へ里帰りす」と。(※省略) 8月10日 朝、眠気さめざるうち鎌田女史より電話「堀一郎博士急逝(0:00)」と。(※省略) 「梅」少しかき茫然と孫たちの相手してのち12:30成城大学へゆけば野口君をり「ビザとれず未だにをりし」と。 14:00まへ出て堀川博士の母堂告別式にゆけば無宗教の献花のみにてすむ。(※省略) そのあと新城博士と堀邸さがせしも見つからず、(※省略) 納棺すみをり線香立ちをり一礼して夫人と母堂にくやみのべれば「心臓弱くて急逝」と也。 (※省略) 疾風のごとく死の手のさらひゆくこの日々をひと思はずあらし。 8月11日(日) 礼拝にゆく。(※省略) 8月12日 暑し。「弓子けふ退院」と。(※省略) 堀家へゆけば新城博士すでにあり香奠取りをり。(※省略)  森岡清美氏に鎌田女史より紹介受け国学院大の平井直房教授に紹介受けなどしてのち受付に立ち監督す。(※省略) 別れて東豊書店。留守番の夫人と話しをれば小高根太郎と同僚といふ都立大山高校の浜久雄教諭より「でしょう」と。「です」といひ「宜しく」といふ。 簡木桂君、婁子匡氏に紹介の名刺呉る。(※省略) 毎日新聞社より「『堀辰雄と四季の人々』を9月にやる(西武dept.)。協力を」と。(※省略) 思ひし如く神田信夫君、「松村、岡田2君と4日より在台」と。ユ赤飯もちて帰り来り「7夜の祝もして来た」と。 8月13日 8月14日 (※省略) 新宿まで歩き、駅の京王観光出張所にて書類もらひ帰りて、(※省略) 4孫やかましく騒ぎしも「cardにさはらぬ」やう叱る。(※省略) 8月15日 (※省略) 伊勢丹5階にて渡航用の写真とる。(※省略)京王旅行案内所にゆき阿部健部長に会ひ、 「運賃77,800と印紙代3,000、visa料1,000、注射料1,000、手数料5,000とを用意せよ、園田千尋君が有楽町まで同行せん。 Cathay航空明きゐるは9月2日10:30の便にて、台北13:30、持参弗は1,500弗、三井銀行支店にてvisa見せれば両替し呉る。 云々。保険金1千万円につき4,366円」と也。(※省略) 依子、宏一郎つれて帰れば望噛みしと歯型見せしゆゑこっぴどく叩く。珍しきこと也。 8月16日 (※省略) 「うつぎ」に『神軍2版』のこりゐしゆゑ600に負けさしてもち帰る。 8月17日 (※省略) 夕方、善一郎来り「3男、孝行と名づけし」と。(※省略) 論説資料保存会よりわが「17世紀の台湾の神仏」掲載如何にと。「諾」の返事す。 8月18日(日) 母来る。われのみ礼拝にゆく。 8月19日 (※省略) busにて伊勢丹、10:30開店即時に入り写真とり京王観光にゆけば(※省略)、注射は天然痘のみ「今日明日飲酒入浴」を禁ぜらる。 (※省略) 丸重俊来り36枚どりのcolor-film代として3,000托す。(※省略) 20:50小林嫗絶命と。 8月20日 京、小林へ手伝にゆく。(※省略) だるきも18:30三鷹小林家。(※省略) 8月21日 だるきは種痘のためと判明。(※省略) 夜、丸重俊film買ひ来り、cameraの入れ方教へてくる。 8月22日 終日無為。母来りし故、上田稔翁の死告げ、(※省略) 60枚の『后妃伝』かく気にもならず。(※省略) 8月23日 暑し。(※省略) 京出てゆき22:00丹下氏に送られて帰宅。克、宏なつくにつけ望、泰あはれ也。 8月24日 10:00出て11:00有楽町の東京都庁出張所へゆき手続。中国側のみとなる。清算して2万円返却を受け、11:05なる故、西川の会社にゆけば、ゐて、ひまらし。 そのあと東豊書店に寄れば恰も方豪教授来訪と。やがて下の喫茶店で会ひ東京大飯店にて昼食。おごられしも何も食はず。 教授1910年浙江省生れと。「台北にて再見」といひて別れ帰宅。何もせず。 8月25日(日) 礼拝にゆく。帰り竹森先生に台湾旅行申上げれば「紹介状かき直す」と。(※省略) 8月26日 台風接近と。(※省略) 夜、川久保嬢に電話すれば「4回あった。結論まだ出ず」と。(※省略) 8月27日 (※省略)けふ渡部芳紀君より「中島栄次郎明治43.8.18生、大阪市天王寺区北河堀町96が本籍」と。(※省略) 8月28日 (※省略) (旧姓葉)柴崎雅美に電話し「新竹への紹介状父上にたのむ」といふ。『成城文芸65号』5冊つきたり。 夜、新竹、台北の寺庙写しゐしに高橋重臣君「金曜夜来てよきや」と。「よし」と答ふれば、ユ「困る」と也。 8月29日 8:30出て斎藤dr.。(※茂太)先生御自身の検診とて満員。11:00近くに番となり台湾旅行申上げ3週間分いただく。 慶応案内所へゆけば園田君ゐず旅券その他一切貰ひ、(※省略) 葉火炷邸訪へば「雅美perma」と母上。やがて帰りしより父上の新竹市北門街84大同医院、李敦仁先生と元市長鄭雅軒先生への紹介状もらふ。 既に話しある様子なり。(※省略) 8月30日 9:00すぎ克つれてユと三井銀行にゆき40万円卸し(※省略)306円が1弗と。39万円わたし travellers checkと現金とにして帰宅。(※省略) 三井重工爆破の騒ぎみてゐるうち21:00高橋重臣君来宅。(※省略) 高橋君「あす16:00小田急出口にて小高根君に見てもらふ鉄斎(※真蹟)あり」とて、われもそこに立ち会ふこととす。23:00まで話して高橋君眠る。(※省略) 8月31日 (※省略) 高橋君起き来り「国会図書館へ出てゆく」と。ともに出て、(※省略) 小高根太郎16:05来り、高橋君5分して来る。地上二階といひし故うろうろせしと也。 小田急9階食堂にて高橋君beer大ジョッキ、小高根太郎小ジョッキ、われコカコーラ高橋君のおごりにて飲み、別れを告ぐ。(※省略) 9月1日(日) 雨の中、礼拝にゆく。(※省略) 戸田健介氏を訪ひ(※省略) 関口、丸、本位田に電話す。(※省略) 堀川部長に万一の場合の手紙かき「川久保を後任」と推す。野崎勝己氏に礼いへば「旅館Orientを推薦するつもりなりし」と。  みこころをためすにあらずわがよはひ朽ちざるまへとわれはゆくなり  台風の上をはるかにとぶわが機40年のまへの船旅 (本位田、神戸港に見送りしをおぼえゐし) 58 昭和49年 9月 2日~昭和49年 9月 9日 (副題 台湾紀行) PDF(8Mb) 9月2日 3:00起床8:30ユと別る。10:30出発。 手荷物checkにしないで2個もちこもうとし、おかげにて13:30着後最後となる。 東龍大飯店の迎へ来てをり、喜びて入館。 楊雲萍さんに電話しようとして苦心惨澹ふと思ひつき東方大飯店にゆかんとし雨中boyにtaxiひろってもらふ。 8円とのことなりしも400元と。100元叩きつけ帰国せんと決心したが、 眼鏡店廖文雄氏「向ひですよ」「どこにでも悪い奴はゐる。カンベンしなさい」 東方大飯店太太より主人にたのむべきとのこと。 名刺に野崎勝己氏の紹介とかき、土産物差出せば、フロント呉守禮氏に電話かけ、子息出て「滞米中なれど楊雲萍君の番号350081」とわかり、 かければ奥様出、楊さん出、coffee2杯飲むまにいらいらし、また電話してもらひ、 遇へば譏嫌直り、贈物と西川満氏の話などにて20:00。 東方大飯店に帰れば「主人夫妻、他の客と宴会。他日」と。 楊夫妻と夕食。少食信じてもらへず。21:00退出。眠剤のみしも眠れず。 22:00電話すれば「あす龍山寺へ」と。「あとは本屋へ」とたのみてすむ。 冷房寒く眠れないかと心配す。 9月3日 さめればam3:00。舌打ちしつつ先ず野崎そのへ「弟のおかげ」と(※ハガキ)かき、ユにも一筆。 髭そればまた出血、切れる。歯、旧のと交換。 10:00廖眼鏡公司開門を待ち小輩に云へば「主人没来」と「寸心」と作文す。 (待つ間、隣人に聞けば「雙」は吉、「奇」は不吉と。) 楊さん来る前に筋向ひの銀行にゆけば支店長会ふ必要なきやうなこととなる。 帰れば楊さん来り、支配人の鄧栄鐘さんと話しくれる。 楊さん、北園(克衛)、松枝(茂夫)、西川満君に合書するところをNo.1No.2とフラッシュ焚いてとる。 No.3.4.吃麺「小吃店」Y.中華書局Y.&T.No.7-8。(※不詳) 楊先生より300元借用!No.9-10「中山堂」。14:30Y.先生より借用の300元と新竹行の為30弗を1,137NTD(※台湾ドル)とし、Y.先生に300元返却。 「広禄死にし」とY. Y先生「20:30再来」と。時に15:00也。(但しわがつぎし茶のみ16:00近くなる!) Y.先生曰く「外出禁止」。「安平門」は非常口とY.に教わる。 鄧先生に失礼を云はんとすれば外出と。16:00。筆談にて太太より筆6本買ふ(180NTD.)。西瓜(8元)。 帰りて鄧支配人の「不在、不知道他的所在」との受付の話にて弥々心配し、玄関、横の喫茶室(わが求めし茉莉茶なし。 靴ベラとこれとを百貨店にて見つけん)二階の餐館などにて待ちに待ち21:00やっと楊先生来しに「鄧先生の面子傷つけた。もはやここへは帰れず」といへば「知らぬ顔してここに留まる方が良し」と。少しも気持変らず「君は我よりまだ小心」と嗤はれ、部屋へ帰り、先生の持ち来しbanana3本のうち1本食ひて待てば21:30近く廖さん来り、階下に下りて彼呼びしtaxiにて梅子餐館といふにつれゆかる。「松竹梅」書きし後ゆゑふしぎ。 湯とり麺吃ひ海老くはず。「柔いよ」といはれしも蝦子=假子と食はず。 23:30になり両先生促して出、果物一個(7NTD)外にて買ひ、taxiに乗り廖先生に室へつれゆかんとすれば受付の男「これ忘れてあった。 幸ひ。返したよ」と、札束その他の入りしNETテレビの札入れ返却を受く。 中の名刺にて大倉商事の許興雄(日本語旨く日本人と思ひし)君の卓にて共食勧められ断りて接待生の来りしを機に起ちし時、落とせしか。(※省略) 2先生のおかげで客待ちの接待生(日本人が相手か)巣なることはじめて判明。老年の徴候著し。 同乗のelevatorにて話しかけし人に「失礼お名前は」といへば「昨日話し合ったでせう」と也。 ともあれ廖さんboyにいひ室内暖くなり、あす10:00「楊さん太太の来るを待つ」となる。 楊さんに返却せんといひし岸辺君の訳もよき土産となるやもしれず。 bath暖くし毛布一枚多くかけて眠る。 9月4日 目が覚めれば6:00にて8:00起床の鈴時計また不用となる。廖さんに太太へと渡せしは京小物たくみの風呂敷なりし。楊先生には買物袋にて不要となりし和紙の西川君より預りの手さげ袋を強請してもちゆかす。 汝「小心翼翼」を知れりやと楊さんにききをきし。嗚呼われPaoloの雄気なく、イスカリオテのユダではなきも娼なりしMariaに最も良く似たり! (よべ梅さんのこといへば「よくある話」と一笑に付せられし。) 8:30楊さんに電話すれば「300元しか残ってゐない筈。礼いらない。」と。 10:00に人とあひ明きをれば粥注文し、歯を外して吃ひ、バナナ1本食ひしも蕃石榴(※バンジロウ:グァバ)(昨日廖さん買ひ呉る)、香のみ残りしも皮の硬きを知る。 永遠に没食汲飲有唱の国に招かれん。 12:45蔡先生に紹介受く。(※省略) 14:30龍山寺着。20枚とり了へまきとりに皆ダメとなる。但しヱハガキ(40元)によくとれをり。「買へばよし」とわかる。 15:00観音、向かって右普賢、左文殊。(※省略) taxi 呉濁流先生訪ねしに不在。令息夫人に名刺わたす。そのあと頼みて懐かしの龍園大飯店に寄りしも知る人もなく「林素梅は心配いらず。令嬢も忘れしならん」と。 鬱々として帰れば11日Cathayの航空券とれしと。 また両替してあすの12:00発の急行にて新竹にゆくこと決り、蔡先生、元市長の鄭先生に電話すれば令息出て待つと(18:25)。 蔡先生より本日下午の費用精算書2通賜り恐縮。きびしき人なり。われよりも若き為のみならじ。傘、靴ベラ共に買へてうれし。 9月5日 目覚めしは3:00!昨日約束せし楊夫人に7:00電話し徒歩にて今より訪問といへば一時間かかる故車にて迎へにゆくと。我歩くと主張、双方妥協せしは総督府前。 憲兵にきけばここにて喫煙不可と。女子中高前にて坐りゐれば通りかかりの人、あちらの四つ辻にLady下車せしと。ゆけば楊夫人をり。東方大飯店へ往復したまひしと。 楊家にゆき午食たまひ明日より新竹へゆかんといへば通訳探すと也。 9月6日 曇。6:00目覚む。昨夜喧しかりしは冷房装置と判明。 ふらふらと駅にゆき「中国時報」買へば昨日の包公像の写真のりをり。 「火車時間表」「幸福家庭」「女性週間」買ひ7:45発台北行見送る。 李大夫の仰せ通り一寸フラフラ。(蔡先生の五指山撮影、曇にて不可)。 「女性95」買ひコカコーラ飲みしあと、フラフラと交通安全広告牌、 「新竹県上週発生車禍統計」「発生10件受傷8人死亡3人」写し了れば8:00の時報鳴る。 わが見しは林森路と判明、中正路前公園にて「新竹県上月…発生18件受傷24人死亡8人」と再写、躁なり。李大夫の云はれし通り。 李大夫に参り血圧98。御注射受く。 (※省略) 夜間騒がしく、日人、台湾人の客つれ来る。接待と。 あとにて話つけるとのことに駅の憲兵詰所まで跣足でかけつけるも無人。 黒板に「助けて!」とかき来りし可悪通訳に「あの星」を見よと、さししも航空探知灯なりし。 宿に帰ればもはや暴漢見えず。また飲みに出しらし。 9月7日 6:00起床、by bus with Mrs.Yang,(she came at 9:00 oclock) very much interesting. then before came his Highness and uncle Yang葉. 葉的令息来、2人相抱きて撮影すみ、駅へとのことに新竹書店にゆけば落とせし金、本の下から出て来しと。 280元買ひ、駅にゆけば既に昨日の憲兵への訴文は抹消しあり。 葉さんと別れ、迎へに来たまひし楊雲萍夫人と台北行のbusに乗り、3時間程して東方大飯店に帰着。あす教会の礼拝を約す。 9月8日(日) 老兵残身是天佑 休憩一時榕樹下 大人令陪賜温顔 却怨敎我哀容痩 老兵、身の残るは是れ天佑にして 休憩す、一時、榕樹の下 大人、(※われを)陪せしめて温顔を賜ふも 却って我をして容(かたち)痩せることを哀しますを怨む。 9月9日 楊雲萍夫人来り、華服の寸法とりたまふ。 (※以下 ノート記載なし。) 【貼付】※婁子匡書翰(台北市中國民俗學會書籤使用) 田中克己教授著席:久仰 光斗,恨未識 荊。月前東京東豊書店簡木桂先生来函稱 文旆莅台。嗣得楊雲萍教授電告 尊寓東方飯店,當須趨前拜謁,適以 駕往新竹,未遇爲悵。兹定本月十五日中午敝 会餮饕餐飲研究中心挙行中秋傳統飲食發 表会,拟請 閣下届時撥冗参加,請予 指教是幸。附贈最新出版「礼俗半月刊」 一冊,敬禮哂納是幸。專肅並頌 旅安  婁子匡 拝上  (※1974)九.九 田中克己教授著席: 久しく光斗(※星のやうな貴殿)を仰ぐも未だ識荊(※お近づき)せざるを恨む。 月前、東京東豊書店の簡木桂先生、函(※書簡)を来して文旆(※有名文人)の莅台(※台湾来訪)を稱す。 嗣いで楊雲萍教授の電告を得る。東方飯店に尊寓と。 當に須らく趨前(※おもむいて)拜謁すべきも、適(たまた)ま新竹(※県名)に駕往するを以て未だ遇はず、悵みと爲す。 兹に本月十五日の中午を定め敝会餮饕餐飲研究中心、中秋の傳統飲食發表会を挙行、 閣下を擬請(※招待)せん。届時撥冗(御多忙中)参加され、予、指教を請ふれば、是れ幸ひなり。 附するに最新出版「礼俗半月刊」一冊を贈らん。敬禮、哂納いただければ是れ幸ひなり。 專粛(※ご自愛)並びに旅安(※ご無事)を頌します。   婁子匡 拝上  (※1974)九.九 (※以下●は悠紀子夫人の覚書に基づいて当人が後より 『帰国日記』 1975年6月20日の後に書き添へた記述。) 9月10日 ●羽田着。帰宅。山住邸へ筆と墨とどける。 9月11日 ●佐伯休。葉山家へ電話し写真もちゆく。阿佐谷までhyre、父上運転。母上とともに送らる。 9月12日 ●佐伯、西川満(但し留守)。斎藤先生よりお叱り受く。柏井歯科休み也。 【帰国日記】 昭和49年 9月13日~昭和50年 6月20日 (副題 帰国日記) 9月13日 よべ先生の薬のみ10:45床に入りしばらくして眠る。起床8:45。 9:01ユ、糖の検査もちて山住医科へとんでゆく。柏井より電話9:20 (※省略) ●閉門。 9月14日 髭そり風呂に入り(※省略) 8:30ユ、(※斎藤精神科の)婦長さんに電話すれば「12:00前に来よ」と。 10:04に乗って紀伊國屋にcard買ひにゆけば書名用cardしかなく、京王観光に阿部部長に礼云はんとすれば引き留められ、(※省略)  わが話「面白く、も少しゐよ」といひしに、ユとの「11:00病院で」との約束思出しtaxi(220)。病院につき婦長さんに「ユあとで来る」といひ、交叉点で待てば来る。 順番あとらしきゆゑ喫茶にゆきcafe noirのみ、店名にちなみMerci!といへば変な顔す。 隣の嫗13年かかって治らず、若様の番なら2~3人待てばとかこつ(※喞つ)故、ユと代り『諸君』の昭南のことよめば意外のことばかり。 盛に節(横線)つけ山住克己閣下(昨日偶然花屋の前でお遇ひし (※以下尻切れ記述なし。) ●斎藤dr.。夫婦とも叱られ「贈物(老酒)一時預かる」と也。佐伯より2冊本とりてはうはう帰宅。 9月15日(日) ●礼拝休。10時間眠り10:00さむ。大を呼ぶ。新本4,500、佐伯より5,000借11,900 『諸君』を山住閣下にもちゆく。 戸田氏を訪ひしに酔ひをり「浅野晃と絶交」といへどきかぬふりする。(※戸田謙介(1903-1984)『民間伝承:六人社』編集) 9月16日 ●山住閣下へゆく。熊本生のsemi断り、佐伯へ雑本1,600売る。河村先生へ1万円托す。 9月17日 ●朝日の井沢淳に電話す。山住閣下に伺はんといへば「他用」と断らる。 佐伯にて2,250買ひ学部へ3万買ふ。 9月18日 ●ユ、山住dr.へ。われ山住正己氏に台湾小学唱歌につき質問す。 石川生semiに来る。13:30新城先生来らる。帰られしあと東豊書店にゆき、竹内の中国文学の会にゆきしも不在。また東豊書店に帰る。(※省略) 9月19日 ●10:00起床。(※省略) 11:30熊本去りしあと加藤来り。(※省略) 竹内好に「日曜に来よ」と電話す。 9月20日 ●10時間眠り10:00さむ。10:30熊本生来り、12:00昼食。田中ユカリ12:30来り、(※省略) 駅にゐる竹内つれ帰りwhiskyのませ諌めて22:00帰す。 「あす14:00(井上)和子5か月の腹抱へて夫婦来訪」と。 9月21日 ●8:00起床。9:00斎藤dr.に横から入り御診察受け5日間の閉門を命ぜらる。 京王touristに寄り、井上和子夫妻の来りしと話す。18:00公園にてドイツ人父子に会ふ。 9月22日(日) ●8:15起床。礼拝。ユ気分悪く駅より帰宅。聖書朗読にて哭く。 先生に(※台湾の)士林教会の書類お渡しし「讃美歌600-603」を士林へ送る為もらふ。(※省略) けふ49日と赤ん坊入れて写真とる。(※省略) 20:30ユ、楊夫人に電話すれぱ「楊雲萍あれから礼拝にゆかず」と也。(※省略) 9月23日 ●8:00起き9:00出てユと駅で待合せ。 10:00竜胆の花もつユと会ひ『やせる法(590)』買ひ、 11:00八王子へゆく途、米人と話せば「お前の英語なってないぞ」といふ男あり。 地団太踏んで怒り、ユ怒らせ帰らせしあと、交番にて1,000借り、写真とり、 11:06のバスに乗り上川霊園着(240)。 1区教会墓地に車のりすてあり、苦心惨澹、田中家の墓見つけ、 アザミと唐辛子と供へ、交番で礼いひ16:30佐伯へ寄る。カメラ屋「29日出来る」と。 戸田家へゆき「浅野晃のこといはずにくれ」とたのむ。 ユ追出せば数男つれ来り、21:30数男帰りゆく。 「野田武徳君24日帰京」とBorneo Sarawakの美人のヱハガキよこし「24日帰京」と也。 9月24日 ●7:00起き9:00出発、登校。車中空きゐるに、抱きあひゐる若き男女たしなめしに日大生あと追ひ来り「皆憤慨してゐる」と也。 校門にて「入れ」といへば逃げ去る。 教務に「明日よりの欠勤」届け、講師室の畑女史の写真とる。 滝川先生より礼状来をり。(※省略) 熊本らと新宿で別れ、荻田生のsemi14:00-16:30(※省略)。 荻田生を送り佐伯に寄る。琳琅閣に電話し「あす午后来い」65万円をユ用意すと也。 神田信夫氏「京にをり、母やや宜し。(※喜一郎)先生はお元気」と。 9月25日(※この日、悠紀子夫人の代筆。) ●8:00起床。銀行で65万円(三井)出す。朝、小高根太郎に電話。 石川10時。南口古本屋から2,800円買ひ、家に連れ帰りくれば大もゐる。 本を見せて3,5000といふので止め、大帰り、石川サンドイッチを午飯として出す。 そこへ本屋(琳琅閣)来り、65万円を渡す。 『大越史記全書』1万円、『明清史料・戊編巳編辛編』3千円、『安南史研究1』5万円、『辞海』『佩文韻府』2万円、『和漢朗詠集』『あさぢが露』7千円を合計9万円にて売る。 外丸、家によれば留守。丸家にて4千円借り、家に帰り小高根太郎に酒をのまし8:30頃帰る。 途中にてコーヒー飲む。K女史より電話にて秋の会は心配なしと。 丸重俊来り、叱りて途中まで送る。 (太郎の話)堀一郎先生の式の時、池田博士が成城精神をのべたのであきれたと。 松村緑先生より電話「父(※西島喜代助)の日記みな送る」と。 本日楳垣先生より『Taboo Words in English』いただく。 9月26日 9月27日(※この日、悠紀子夫人の代筆。) ●8:15起床。われフラフラして目も明かずこまる。 9時10分前、山住先生の所へ行き、のどの手当をしていただく。 大が来る。文芸学部長堀川博士より電話、3時頃来宅。 「是非入院して早く丈夫になって」と約束する。 大と本屋にゆき千円買ひコーヒー店に入る。 学生も卒業生も一人も来ず。夜、外丸に電話かけ「遊びに来い」といふ。 9月28日 ●斎藤病院に入院。 9月29日(日)  ※以下記述なし。 9月30日 10月1日 10月2日 10月3日 10月4日 10月5日 10月6日(日) 10月7日 10月8日 10月9日 10月10日 10月11日 10月12日 10月13日(日) 10月14日 10月15日 10月16日 10月17日 10月18日 10月19日 10月20日(日) 10月21日 10月22日 10月23日 10月24日 10月25日 10月26日 (※この日斎藤精神科から退院か。) 10月27日(日) 10月28日 10月29日 10月30日 10月31日 11月1日 11月2日 11月3日(日) 11月4日 11月5日 11月6日 11月7日 11月8日 11月9日 11月10日(日) 11月11日 11月12日 11月13日 11月14日 11月15日 11月16日 11月17日(日) 11月18日 11月19日 11月20日(水) 斎藤先生、田中看護婦、ゼミ(田中、荻田、熊本)、江頭彦造、林まり子にハガキかく。澄より電話(けさ大に電話してことわりし)(※不詳) 11月21日 昨晩より薬が変ったためか欝となる。ユと散歩。和田より2回電話。救世軍にユ50円やりしを感心す。 11月22日 ウツやや軽し。田中生来り卒論原稿おきゆく。(※省略) 大江満雄?より「会ひたし。浅野晃氏にもやっと会へし」と也。 11月23日(休日) 弓子2孫をつれ来る。(※省略) 自己判断ではウツ最低。ユ「さうでなし」と断言す。 願はくは狂ひしままにわれ死なん心に主イエスの救け信じて。 Amen!といひて終らんわがねがひかなふやいなやわれは知らずも。 (※省略) 「教壇に死なん」といべば「迷惑」と妻のことばにしたがひにけり。 11月24日(日) 9:00覚め、礼拝にゆけざるなりしユと11:00散歩。 14:00ごろ白鳥君より電話「semiの学生みな軌道にのってゐる。心配するな」と。 わけわからずといふユに同感。 静かなる聖日とこそ思ひしにふしぎといひて眉をひそむる。 わが瘉えん日に喜びはありとこそ思へど神にまかせまつりぬ。 大江満雄?にヱハガキかく。(※省略) 11月25日 睡眠感なきも8:00さめ、ゆるゆると9:00朝食。(※省略) 大江満雄に返事「会はぬがよし」と出す。 日ごと日ごと最低と思ふ わが神に祈るは眠り賜へとのみぞ。 近江詩人会が『天野忠詩集』くれしと也(大野出、報)。(※省略) 11月26日 睡眠感なし。(※省略) いつもの如く散歩。阿佐谷の変りゆくに夫婦とも感心す。 飯はまむ心なくして紅葉見て驚く妻にわれもうなづく。(※省略) 「今日が(※退院?)1月め」とユいふ。 11月27日 斎藤先生へ夫婦でゆく。先生にこにこしたまひ薬かへず1週間分。(※省略) ストゆゑ往復とも地下鉄。(※省略) 三省堂破産と。 11月28日 京帰り来てあと眠り10:30ユと出て三鷹田上dr.。鍼に代りおどろく。 向ひの古本屋焼けしと。恐縮しながらお茶のまされ菓子いただきて弓子。 少しやつれをり。宏弱虫、克わるく、それぞれ可愛し。(※省略) 『旧版白楽天』京に発病前とりしと。旧版の箱のみのこりをり! ユ買物に出、永きにあきれる。いつものごとく時計とにらめっこす。 11月29日 よべ「主の祈り」いへなくなり吃驚。京帰りしあと眠り、さめ、10:30より1時間ほどいつもの散歩をし、日々是新の感をいだく。頼永承氏より Christmas-card「中村忠行氏と会ひし。Mass. (※マサシューセッツ州)Arlingtonにあり」と也。(※省略) 11月30日 (※省略) 堀川邸に電話すれば「部長外出」。(※成城大学に電話し)部長に出てもらひ(学部長室)いへば、 「12月末まで(※休職)承知、既に印押した。新年(新学年?)よりは元気で」と也。(※省略) ユ冷淡な様して郵便局と税務事務所へと出てゆく。京をり苦笑するのみ。(※省略) 「人の悪を思ふな」とユ。18:00発作、ユ電話かけ、われ驚く。 12月1日(日)  ※以下記述なし。 12月2日 12月3日 12月4日 12月5日 12月6日 12月7日 12月8日(日) 12月9日 12月10日 12月11日 12月12日 12月13日 12月14日 12月15日(日) 12月16日 12月17日 12月18日 12月19日 12月20日 12月21日 ゆき子 さよなら ありがたう アーメン 骨もなく身もなくなりしXmasわが生涯の最好の時  主わが声を奪ひ給ふ Xmas前日1974.12.21 12月22日(日) 礼拝にゆく。声出ず。 わが歌ふ讃美の聲は大空に昇りて消ゆる風の如しも。 昼食駅ビル麺屋ひとり、新城博士訪問中止。佐伯へ990円払ふ。 12月23日 8:30河北病院にゆき喉頭炎の治療受く。新城博士、意外にも飯塚副手と同行してこられ卒論6冊、日本史1人を増加す。 (※省略) お土産もらひて恐縮。原田淑人先生89才にて逝去。28日青山斎場でと。(※省略) 12月24日 12月25日 斎藤先生にゆく。薬そのままとして「31日にも一度来よ」と。(※省略) 河北病院へゆく。「28日まであり」と。老飯島dr.忙しく1時間またさる。 12月26日 河北病院へ9:00ゆき12:00まで待たされる。帰りて午食。ユに診察票とってもらひ、年賀ハガキに「謹賀新年」を駅前郵便局にて押してもらふ。 12月27日 ※以下1975年1月18日まで記述なし。 12月28日 12月29日(日) 12月30日 12月31日 田中克己日記 1975 【昭和50年】  昭和50年。前年の秋に再発した精神病が寛解、半年の静養を経て年始から大学に復帰した詩人ですが、知人・同僚に癇癪を破裂させては絶交の言渡しと取り下げとを繰り返すといった状態にあったやうです。  訃報も続きます。知友・親戚(檀一雄、長沖一、松浦薫:長男の岳父)のほか、同窓では本位田昇、船越章が亡くなってゐます。  気になったのはコギト同人だった船越章の急逝(脳溢血)で、葬儀には悠紀子夫人しか行ってをりません。悠紀子夫人と従妹の間柄ですが、詩人が帝国大学進学のため大阪より上京した際、彼と同じくした下宿先の娘が悠紀子夫人であり、彼女をめぐり若き日に鍔迫り合ひをしたライバルだったと聞いてゐます。他の同窓達との温度差を感じたところです。(ドイツ渡航前に自宅で送別した成城大学同僚の「舟越君(舟越清)」は別人。)  また丸山薫が亡くなり、翌くるこの昭和50年に、第4次の『四季』は終刊します(全17号)。  抒情詩人戦犯論が渦巻いた戦後、理性的な視点で『四季』『コギト』の詩人たちを擁護し、地方(豊橋)に隠棲してからは中部詩壇の重鎮的存在に上げられ祭り上げられましたが、穏健なこの先輩に殊更親炙することは無かった為か、田中克己は追悼号に詩文を寄せてをりません。  『果樹園』について「新人出ざりしが残念」とアンケートに答へた彼でしたが、旧同人の同窓会的性格が強かったこの『四季』もまた、立原道造のやうな日本の抒情詩を代表するやうな新星詩人を輩出することがありませんでした。フォークソングやマンガが栄えたこの時代、抒情を育むべき才能が難解な現代詩を捨て、メディアを異にするサブカルチャーに魅せられ、商業主義にからめとられていった状況がありました。  そして詩人には雑誌『浪曼』の寄贈もなくなります。  私の手元にある西島寿一氏とのインタビュー音源はこの年、昭和50年のことかと思いますが、親類であり太宰治研究家でもあった彼を介して、このころ影山正治から執筆や会見の要望が何度か伝へられてゐます。ですがいづれにも応へてゐません。ことにもこの年末の12月23日、 不二歌道会より電話「林房雄の会に出席するや否や」と。「狂気しをり」といふ。小高根二郎のところきかれて教ふ。清水文雄のところもと也。「木山捷平は」といふに「死にし」といへば「ヘエー」と也。大久保某のところもきかれ「われそのため狂気」といひてすむ。  とありますが、自ら狂人と佯(いつは)ってまで、右翼結社と実態を同じくする歌道会との縁を切りたかったのでしょう。  文中「大久保某」とあるのは日本浪曼派に詳しい近代文学研究者、大久保典夫氏のことかと思ひます。田中克己が「われそのため狂気」と言よせてゐるのは、これまでの日記を見る限り、恐らく大久保氏ではなく、前述した鶴岡善久の論文を念頭に於いての発言かもしれません。「もはや日本浪曼派としての脈は無い」と思はせるつもりだったやうに、私には思はれるのです。  不二歌道会に対する年末醵金は結局この昭和50年を以て止み、保田與重郎を戴く日本主義の人脈と、思想的には全く袂を分かったのではないでしょうか。奈良在住時には本人より親しかった保田與重郎の父君の訃も二年間知らずにゐたやうです。(尚、寿一氏の娘さんの結婚式に翌51年夫婦で出席。現在人気俳優の御母堂となります。)    この年の出来事 1月 知人同僚に絶交言渡しと反省とを繰り返す。 2月 『浪曼』寄贈なくなる。 5月 三女京氏結婚。 6月 講談社の知念栄喜を介して『杜甫伝』の出版決まる。 11月 阿南惟敬死去。 12月 大東塾(不二歌道会)の年末寄附に応ずるも佯狂を以て距離を置く。 12月 中央公論社より『日本の詩歌』文庫本とする由。 昭和50年 1月 1日~昭和50年6月20日 (副題 帰国日記)つづき 1月1日 1月2日 1月3日 1月4日 1月5日(日) 1月6日 1月7日 1月8日 1月9日 1月10日 1月11日 1月12日(日) 1月13日 1月14日 1月15日 1月16日 1月17日 ※以上記述なし。 1月18日 ユと同行、斎藤先生にゆき薬ゆるくしたまふ様たのむ。帰り東豊書店にゆき大学院図書費の残り1万円余を買ふ。 ラーメンとられ、散歩かたがた大野晋『日本語をさかのぼる』を探し、阿佐谷北にて3版買ふ。 躁甚し。(※省略) 1月19日(日) よべ小便に起き寒く眠れず礼拝また休み、佐伯へ雑本抱へて売りにゆく(1,200)。 ユ12:30帰宅。昼食し地下鉄にて学士会館別館へゆく。 前川佐美雄夫妻出席まで早川夫人などと話し15:00歌会始まる。17:00まへ出て帰宅。 早川君の親友といふ佐藤安志君ら3人にて木曜夜来ると也。 1月20日 6:30さめ9:30登校。川久保の履歴書写しを教務課長とりくる。 堀川部長に届け、10:00より(※卒論)面接。せかしせかしして12:10までに前半すみ13:20より再開。 質問長く散歩に出れば小憩しをり。 17:00すむ。(※省略) 平田春一48年? 12月7日80才で逝去と未亡人より。 呉守礼氏より楊雲萍夫人成城20周年記念号の抜刷(※「中国の諺」)受取ったと。(※省略) 1月21日 7:30さめ9:30登校。10:00より面接(※省略)。 1月22日 5:00さめ(※省略)9:00成城大学。 (※卒論面接 省略) 東豊書店にゆき簡木桂君に朱介凡の『諺語』6冊(4,200)借りて帰宅。(※省略) 1月23日 (※省略) 東豊書店に昨日の払ひ4,200し登校。(※省略) 部長選挙に立会人となり池田博士(※池田勉)、山田、山崎を抜いて一位推薦となる。(※省略) 1月24日 東豊書店にゆき金払ひ、18:00早川弥比古と話す。ユ、小高根家にゆく。 1月25日 8:00ごろ出て成城大学。(※省略) 斎藤dr.。睡眠不足申上げ、水曜までの薬いただき、家へ帰りて野崎勝己氏の来るを待つ。 (鎌田女史に電話すれば「野上夫婦の間をさきし事実なし。怒りますよ」と。「怒れ、絶交」といひ返す。) 野崎氏来りて(※省略)、菓子おきて帰りゆく。 夜、佐藤君、慶応の4年生と呑屋の女主人つれて来り、わが話にアドうち20:00すぎ帰りゆく。 熱あり咳出て苦し。 1月26日(日) 6:00さめ朝食後、風邪とて臥床。鎌田女史に電話し、高山の件にての不和とりやめんといふ。一時間位かかりし由。 ユ、三鷹へゆき竹内家へゆくとて14:00まで帰らず。竹内家へ電話すれば竹内(※竹内好)出て「来ず。あれは笑話」と。ユも電話せしと。 苦しく本もよめず夜、諏訪にユ電話すれば「都氏より音沙汰なし」と也。望電話に出しと。 1月27日 佐伯へゆき本買ふ。風邪大分よくなる。(※省略) 1月28日 6:00さめ8時間ねし也。(※省略) 『四季』終刊たしかめ八木憲爾氏に電話すれば丸山氏の葬儀に「桑原武夫氏はじめ、みな異議なかりし」と。 (※省略) 依田義賢に『骨』終刊かといへば「違ふ。天野忠の授賞式に同道上京」と。(※省略) 1月29日 11:00眠り8:00さむ。斎藤dr.。(※省略)林マリ子16:00来り20:30まで話しゆく。 間に川久保より電話「水土われは休み」といへば承知と。(※省略) 1月30日 けさ5:00さめ9:30阿佐谷駅。(※登校)10:05より14:30まで(※卒論の)誤字訂正につとめ、(※省略) 疲れて帰宅。(※省略) 1月31日 5:30さめ9:30登校。(※省略) 鎌田女史より新城博士もまぜてあす10:00すぎ小沢氏と対談と、電話。 2月1日 6:00さめ10:00登校。小沢氏に続き鎌田、新城両教授来り、わが研究室にて話し「日本の民話を1時間講じ来年度はまた」となる。(※省略) 帰宅。(※省略) 19:00丸重俊より電話あり「すぐ来い」といひ『柳田国男研究』3,4たのむ。来年も天理にて時間へるらしと也。 宮崎女史に22:00電話すれば、早川弥比古君出て「母まだ帰らず」と。「『くれなゐ』ありと伝へよ」といひてすむ。 2月2日(日) 久しぶりによく眠り8:00さめて礼拝に出席。聖餐式あり602番歌はる。西荻窪まで歩き古本2冊買ひて帰宅。(※省略) 2月3日 晴。4:00尿で起きまたねて8:00さめ斎藤病院。先生ごきげんよく北杜夫氏の嬢、成城の中学部の学科に通りけふ面接と。 ユは新宿にわれは1万円持ちて東豊書店。6千円ほど買ひ、(※省略)帰れば(※省略) 角川よりHeineの印税14万円ほど入りしと也。(※省略) 2月4日 7:30ごろ起き、寒く雨降り散髪にゆかず、本の整理す。(※省略) 2月5日 5:00さめ(※省略)散髪屋にゆき帰宅。洋服着て待てば10:30稲田御夫婦、哲夫君の案内にて来り。 (※三女京氏への)サファイアの指輪と結納(※省略)を賜はる。(※省略) 12:00となりあはてて登校。(※省略) 帰りて角川より信夫全集は原稿料と(20,000-2,000)! けふ花井タヅ子より泣き乍らの電話に心配すれば姑と喧嘩せしと。ユ電話してすみしと也。 2月6日 登校。10:00より新教授、石川、野口、伊藤3氏、新助教授吉田氏通過。(※省略) 西川より「駒沢大学に知合なきや」と。「なし」と答へ調べれば古野博士がそれ也。(※省略) 2月7日 西川に電話せず。(※省略) 蔵書のcard点検などす。〒なし。 2月8日 ※記載なし。 2月9日(日) 8:00さめ礼拝にゆく。(※省略) けさの新聞に成城文芸200人採用に13倍、経済16倍と出てをりし。 2月10日 斎藤先生にゆく。北杜夫氏の令嬢、成城の中学に入りたまひしと。(※省略) 新宿まで歩き郵便箱と『唐代詩集 上(1,800)』、はもの皮など買ふ。(※省略) 諏訪母上より「(※斎藤医院退院の)快気祝受取りし。泰のteleviに出しを見し」と。 小高根太郎夫人に縁談たのむと石橋さんら4夫人見ゆ。 2月11日 よべ10:00薬のみ、ねつき早かりしも1:30さめ、あとうつらうつらして苦し。 2月12日 21:00ねて4:00さめ、登校。(※省略) 14:30すみ雲呑食ひて帰宅。 けふ病気見舞3千円を成城大学親交会より貰ひ、(※省略) 築島博士に『唐代詩集 上』快気祝としてもちゆく。 2月13日 21:00ねて1:30さめ、あと睡眠感なし。風邪申し立てて試験監督断り、 13:00『果樹園』と『祖国』の伊東静雄追悼号と竹腰清子の卒論もちて登校。(※省略) 池田博士に2冊貸し、舟越、小松崎2独逸語講師と喫茶。(※省略) 2月14日 よべ8時間眠り6:00さむ。(※省略) あす成城へゆくこととす。(※省略) 2月15日 8時間ほど眠り、成城へ10:00すぎ成績呈出。(※省略) 2月16日(日) 礼拝休む。14:00来るといふ野上弘まてば16:00来り「高山家との家裁まだ開かず。(※省略)」 美濃部知事、共産党との未解放部落問題にて3選に出ずとtelevi news。(※省略) 2月17日 7:00さめ9:00出て登校。理事長、さきに自転車泥棒で退学となりし某(180点)を入学せしめよといひに来り、学長、学部長も閉口。高校教 頭来り手落ちを認めし故、入学ときめ15:00よりの教授会にはかりて(※名前省略)教授、自転車泥棒の経験ありといひて笑ひてすむ。 「井上書店書目」来をり高価にて驚く。(※省略) 2月18日 (※省略)9:30登校。大学院修士面接。(※省略) 高田修博士と森岡博士とともに伊賀の人と知る。高田博士は少尉として召集受けしも文部次官よりの懇請にて司政官として17年末?Javaにゆき、 よかりしと。 わが(※河北省)定唐2県守備の独立大隊兵士なりしことを思出し得たり。(※省略) 小田急満員にて落第者たち無言也。(※省略) 2月19日 けふも睡眠7.30位。ユ促して斎藤dr.にゆけば満員。(※省略) 帰途東豊書店に寄れば簡木桂氏外出。 帰るまで夫人と話し2,400の借金払ひて帰宅。(※省略) 2月20日 よべ6時間ほどしか眠らず。(※省略)12:30成城着。(※省略) 2月21日 雪降り寒し。(※省略) 森明美より「魯迅の晩年」かくと。優秀なり。 2月22日 よべ8時間以上眠りし。(※省略)片山豊といふが西川鯉之亟の芸名にて週刊誌に大写真出てをり。 電話かければ出て来て「金出さず。のせてもらった」と也。 舟越清氏よりGrimmの現代語訳送り賜ふ。礼状かく。 マサシューセッツ州アーリントンの頼永承教授に便りかく。躁なり。(※省略) 2月23日(日) 8時間眠りてさめ、礼拝にゆく。(※省略) 2月24日 8時間眠りて6:00さめ9:00登校。(※省略)帰り東豊書店に寄り6万4千円、本を借る(北京大学民俗双書28冊)。 (※省略) 浅野建夫の遺著、夫人雛子より贈らる。1972年の原稿也。 2月25日 7:00さめ9:00登校。(※省略) 13:00帰宅。(※省略) 2月26日 10:00斎藤dr.。(※省略) 東豊書店にゆき(※省略)、佐伯へ寄り(※省略) 2月27日 6:30さめ、仕度して12:10の伊豆2号に乗り15:00下田着。雨降りをり。 ユ、ビニールの傘買ふ(500)。了仙寺といふへゆき見物(100×2)。 東豊書店へ土産の写真と本買ひ(700)、ラーメン食ふ(180×2)。わりあひ旨し。 また歩きて東急Hotelに着き536号室に入る(予約10,800)。夕食19:00(※省略) 室に帰り21:30われは眠りしもユ、風の音にて眠れざりしと。 2月28日 雨止みをり。6:00さめ(※省略)、ユを促して駅へゆき各駅停車にて熱海。(※省略) 11:30のひかりで東京着。新宿から代々木に引返し東豊書店にゆき、(※省略) 躁なり。(※省略) 3月1日 6:00さめまた眠り8:00起き、(※省略)登校。(※省略) 100人あまり文芸に来ることとなる。 (※省略)家の鍵あかず、出て本屋(※省略) 途中にて山住正己父子に遭ひしにニコリともせず。2度目の帰宅。 昨日また間組の爆破あり。朝鮮関係の左翼らし。日領当時の3.1暴動の日、野党の監視(金大中ら)きびしと也。 3月2日(日) 8:00さめ大あはてにて夫婦久しぶりに礼拝にゆく。(※省略) 3月3日 8:00さめ斎藤病院へ9:30着。すぐ呼ばれ『精神公害』にsignたのむ。 茂太先生「朔太郎は恐怖症」と習はれし也。新宿まで歩き11:00帰宅。 『浪曼』来ずなりしに気づく。『東方学』来り石田幹之助博士の追悼を神田喜一郎先生かかる。 われ「蘭」すすまず呆然たり。(夕方「蘭」突然すむ。200×13) 3月4日 久しぶり用なく9:00まで眠る。「艾」書きつづけ中休みに佐伯へゆけば(※省略)、帰りて「艾」すみ(21枚目)、「蘇」書きかける。今までの 本と知識と役立ちて嬉し。 けふ母より「上京する。荷物克己宅へ送った」と電話あり。元気なること也。(※省略) 3月5日 大学院の入試のためと7:00起き9:30成城大学院にゆけば9:00より試験なりしと。(※省略) 帰宅。(※弓子氏の息)孝行ユに負はれて眠り、さめてのちも乳のまず宏一郎、克次朗17:30帰り来れば機嫌よくなる。 雨降り京送りて出しあと「京先生は」と籠造りの弟子、電話かけ来る。(※省略) 3月6日 7:00起され、よべ雪積り雨となりゐるを知る。8:30出て成城大学院。修士7人のうち5人、博士6人を皆入学許可とす。 (※省略) 14:30帰る途中、高田瑞穂に「ズルイゾ」といはる。(※省略) 丸重俊より「30分後に来る」と電話(※省略)「来年は歴史教ふ」と。クビにならず宜しかったと本やって帰らす。丸、弁護士を続けゐるやうなり。 (※省略) 3月7日 朝、散歩かたがた佐伯書店にゆき店にありし『書道全集(60,000)』、『漢文学史(3,600)』、『清代刑法研究(2,100)』買ふ。計 65,200にて午后もち来り呉る。 弓子3児つれ来り、(※省略) 17:00まへ帰りゆきしあと山本秀樹来り、結婚かといへばさにあらずと。 basket club(高校の)指導しをると。もち来りし肉にて鋤焼しwhiskyのませゐれば片山(西川鯉之丞)より金子と「日曜来る」と。 (※省略) 「麻」「桑」「葵」と書きて「中国の植物と人間」46×200となる。次は「菊」なり。(※省略) 3月8日 8:20ごろ覚む。佐伯にゆけば「店主、成城へ金とりにゆきし」と。『鎌倉(130)』買ひて帰宅。 「中国の植物と人間」63×200となり、次は「棉」なり。 16:30古宮新喜と庄野龍也と来る。(※省略) 庄野酔ひ、わが入院の時心配せしと也。 21:00すぎ古宮(※省略) 家中の飯ほぼ皆平らげ去りゆく。aux revoirs! au ciel! とわれいふ。(※省略) 3月9日(日) 7:00さめ、ユ起せしは8:00 礼拝ともに休む。 朝食後、佐伯書店にゆき『翻刻江戸小咄本(3,800)』、『上方咄会本(4,600)』採る。ともに武藤禎夫氏の訓読なり。 (※省略) 19:00片山来り、ついで金子来りwhisky一盃にて平知盛を読む。22:00二人帰りゆき京まだ帰らず。 3月10日 8:00さめ9:30起床。(※省略)12:30登校。13:00よりの教授会にでる。厨川教授出席、喜ばし。 上原君「50才となりあと北鮮ゆきを残す」と元気なり。(※省略) 15:00帰宅。(※省略) 母来り、今夜ここで泊ると也。今市生よりneck-tie贈らる。「Ravine46」の「児玉実用氏の訳旨し」と。(※省略) 3月11日 暖し。よべ22:00すぎ眠り8:00覚む。大(※弟:西島大)10:00来り、青年座の入試にゆく。(※省略) 午すぎ佐伯書店にゆけば主人留守。製本たのみし5冊(10月たのみし也)返してもらふ。 礼に『一日の旅 鎌倉(55)』拾ひ上ぐ。松村達雄君へ玉川学園で同僚の「富士川英郎君へ紹介」とかく。日本の漢文学について第一人者となりし 也。(※省略) 3月12日 9:00近くまで眠り、10:00すぎに佐伯へゆけば開店。『寿星集(1,000)』以下5冊買ひ7,500。残金8,500となる。 夕方まへ美紀子、淳一をつれ来り、小学一年生と。祖父祖母よりと1万円の祝わたす。史、時々鉄瓶など器具を投げると也。 折しも西島寿美子より電話「阿佐谷にあり寿一とともに来る」と。 われ「稗」に入り109×200枚なり。19:00寿一夫妻見え、母と5人でユの飯「うましうまし」と食ふ。 22:00まへ「稲の日本史」に入って入浴。(※省略) 3月13日 朝6:00ごろさめ、眠くてたまらざるも8:10成城大学着。4時間半の監督(※第2次入試)す。 高田博士と話せば上野先輩記憶喪失にかかりしと。(※省略) 16:30帰宅。(※省略) 3月14日 6:00さめ8:10登校。経済学部二次試験の監督。(※省略) 鎌田女史まちをり飯塚副手の送別会5,000づつにて中華飯店でやらんと。(※ 省略) 東豊書店によれば『新華字典』入手不可能と。やむなく前に使ひし『王雲五綜合詞典』と変更。 『中国游芸研究(480)』買ひ、小川博氏(早大講師が買ふにて13,000余)『台湾人風俗奇譚』のcopyとわかり著者は日本人なりし。 帰れば兼清より「今中十九期生会に出よ。中村治光は来ず」と也。(※省略) 3月15日 睡眠感なく8:00起床。母そわそわして大の家の掃除にと出てゆく。 〒にいずみ教会移転新築につき寄附をと。主の賜りし物の一部をと1万円送ることとす。(※省略) 東豊書店に電話すれば夫人出て「留守。先生、声若し」と。 13:00電話すれば「香港の『華語字典(400位)』よからん。見に来よ」と。 「見ずてよし」といひ、前回古本屋にて買ひし『台湾人風俗奇譚』の書名問へば(きのふ複印見し)、 東方孝義(ペンネームならん)『台湾習俗』台北、同人研究会 昭和17年刊行と教へ呉る。 「稲」了り「大豆」了へ「小豆」に入り126×200なり。母、大より帰り来らず。 3月16日(日) 夫婦ともに眠くて礼拝休む。佐伯へゆきしも本なく、雑誌3冊買ひて帰る。 小豆の餡にてゆきとまり篠田博士で(※ママ)羊羹明代の発明と知る。但し餡、汁粉、善哉は日本人の発明ならん(『嬉遊笑覧 下』)。 京、仲人する部長へとpermaして出てゆく。めでたし。(※省略) 22:30京、川越の仲人宅より芋煎餅もちて帰宅。 3月17日 何もせず汁粉と善哉とあづき餡かくと決めをり。午食すませ12:00-13:30までtelevi映画見て14:30登校。 (※省略)代議士の女1,000万円付にて入学ときまる。(※省略) 16:00すみ佐伯に寄りしも何もなし。(※省略) 3月18日 8:00さめ9:00出て9:40着。(※省略) 入試判定会議 (※省略) 飯塚副手の仕事引きつぎを見て16:00まへとなり共に出て中華飯店へゆく。(※送別会 省略) われ一足早く出て帰宅すれば母帰りをり。鬱となりしに気づく。永き躁なりし也。(※省略) 3月19日 8:00さめ鬱なくなりしに気づく。疲れし也。10:00まへ斎藤病院へゆけば満員。但し院長不在にて代診の先生長くかかる十年闘病をいへば皆お どろき(※省略)。歩きて東豊書店へゆき『通用新辞典』といふを教科書用にと。440円也。 佐伯休みにて12:30帰宅すれば「赤川草夫(徳三郎)氏73才にて癌再発3.10 a.m.4:20永眠」と。 (※省略) 佐藤健15:30来り、市川の小学校に就職きまりしと。(※省略) 帰りぎは「金子の許嫁の祖父神道高島教の教祖」と也。(※省略) 3月20日 曇のち雨と。7:30さめ成城大学へ10:00に10分前につき卒業式に出る。(※省略) 最後に片山豊に免状授与すみて中庭の会食会場にゆけば庄野潤三夫人「龍也がいつも」と。 菜の花忌(※佐藤春夫忌)に出席とのことに伊東一族によろしくと伝言たのみ、(※省略) 帰りしに、途にてユと遭ひ、午飯くふといひて鍵苦心してあければ母をり。(※省略) 連休とて3月分給料表くれしを見れば(※省略)257,670なり。(※省略) けさ「松竹梅」の校正書しを了り、あす本局へ出せとユに命ず。篠田博士へ小豆と餅のことかく。躁なり! 3月21日 ボヤッとしてをれば午後、森三千代氏より「別れに来る」と。15:00来り、(※省略) 15:50田中ゆかりより電話「ヒルトンホテルの謝恩会に出よ」と。 すぐ中国服に着かえ17:00会場に着けば鎌田・新城2教授先着。(※省略) 21:00すみ帰宅。(※省略) (けふ赤川夫人に夫婦にてお花料5千円もちゆく。西下の時、火鉢贈りしをいまもいふ。家出の次男27才と。) 3月22日(休) 美紀子に電話(※省略)「31日に上川霊園へゆかん」ときめる。田中ゆかりより小包。(※省略) 中山八郎氏より抜刷2。佐伯へゆき8,000残りし金にて『令義解4冊(6,500)』、『植物渡来考(4,300)』、『ねこの本(850)』 他に雑誌と愚本とにて4,300の借りとなり、(※省略) 京17:00帰宅。 3月23日(日) よべ睡眠感なし。7:00起床。夫婦して礼拝にゆく。(※省略) すみて佐伯に寄りて帰宅。 京居り糕子食べる。「中国の植物」書けず。母、ずっと大宅にあり。京、稲田君より『新撰日本字典』もらひ来る。 3月24日 眠く8:00朝食して12:00まで臥床しをれば母来る。榎一郎君より保険金1,080万円におどろき来る! 「中国の植物」すすみアヅキ、エンドウ、ソラマメとなり、あとナンキンマメにて了らん。(※省略) 3月25日 8:00ごろ起床。外出せずtelevi見、「中国の植物」の「豆」すみて五葷に入りし。200×156。 けふSaudi-Arab国王、甥に殺さる。10年に足らぬ在位にて来日せし也。(※省略) 3月26日 8:00起床。寒し。外出せず。「らっきょう」にて一休みす。 増田房子氏より(※増田晃詩集)『白鳥』の再版来りし故、礼状かく。 『文芸展望』来り、竹内好の日記を武田泰淳写す。 3月27日 8:00さめfilmの焼増したのみにゆき(※省略) 篠田博士より「80才に近くなりし。牧野博士一辺倒でなし」と。 鈴木俊教授古稀記念会より「4月26日17:00市ヶ谷私学会館にて祝賀会」と。 3月28日 成城大学より来学年時間表来り、(※省略) 弓子3児つれ来り、(※省略) 3月29日 理由わからず疲労感あり何もせず。(※省略) 3月30日(日) 復活祭とて礼拝にゆく。小児受洗1人、受洗1人。(※省略) 12:00すぎ午食に天丼賜ひ、笹淵博士の訳せし218番了り、 この次わが訳せし“Lob Gott getrost mit Singen”歌ひみてよければ、 6月29日讃美歌委員会にて“The Scottish Psalter”23番の訳を吟味と。(※省略) 夜、美紀子に電話ユし、あす10:3阿佐谷駅より電話し来ることとなる。京もあす名古屋の依子の許へゆくと也。 3月31日 7:30起き、美紀子10:00に阿佐谷へ来るとのことに10:30に新幹線にのる京と前後して出。(※省略) 霊園口で降りる。淳一おしゃべりにて活溌なり。(雅子風邪とて来ず)。 先づ管理料2,100払ひ、墓に花供へ讃美歌歌ひ、小林家(※次女嫁ぎ先)の墓探しあてる(50年1月建とあり)。(※省略) 夕方、教務課長より電話「仏語の小林正教授逝去。2日午后葬儀につき2日の教授会11:00より」と。 われこの人と話せしことなかりし也。金子一郎・新藤裕美の披露宴「4.26、15:30高輪Prince Hotelにて」 と。(※省略) 4月1日 5:00ごろ一たび覚めまた眠る。(※省略) 今夕の小林教授の通夜にゆかぬこととす。 21:00まへ林叔父から電話「叔母、半身不随となりしも心配いらず」と。(※省略)21:30東京着の新幹線にて京帰宅。 4月2日 3:00さめ眠らざりし様。8:00起床。9:30出て成城堂にて『第二次世界大戦(460)』買ひ(※省略)、 教授会12:10すみ、茶のみ高田修、山田俊雄2教授と同車。(※告別式 省略) 14:30帰宅。午飯くひ、杜甫探して夕食後「薤」を見つける。夔州にてらし。 4月3日 金沢に電話かけ箱根のclass会同行をいはんとすればNHKの用にて山梨行と。(※省略) 母帰り来る(昨日寿一夫婦と芝居にゆきしと)。(※省略) 4月4日 〒なし。10:00さむ。午食を14:00摂り高円寺の散歩。古本屋、新本屋見しも買はず。加藤生に写真送る。 4月5日 8:00起され斎藤dr.。久しぶりに院長先生にお会ひし「眠し」といへば「加減して用ひよ」と。 まっすぐ帰り佐伯にて『鴎外全集36』借り来る。ユ、三鷹の京の新apartの掃除にとゆく。母もゆきし也。(※省略) 4月6日(日) 礼拝にとゆく。(※省略)  糕子食べ海苔土産にと吉祥寺「山本山」にて買ひ(3千円)稲田家へと行く。暑し。 (※省略) 婚礼初めてのことに仲人の部長へともに挨拶にゆかん、その他ゴタゴタ話して出る。(※省略) 4月7日 8:00さむ。10:00竹森先生より電話「信徒の友に詩を書け」と。 「喜んで」といへばすぐに信徒の友社から電話「18日までに40行までの詩を」と。 「雑誌送り給へ」といへば夕方速達で3冊来る。(※省略) 母来り、大その出しあと何かもって来る。(※省略) 弓子3児つれ来る。克君「バカジイチャン」と。夕方帰りゆきし。(※省略) 4月8日 母、大の許へとゆく。雨少しふり、俊子姉、三郎兄とスミ子の長女つれて来り。(※省略) 三郎兄68才なりと! 午食して去りゆく。(※省略) Vetnam,Cambodjaともに北軍に攻められ危し。衛藤長老、中国にて蒋介石を尊敬する旨云ひ、問題となりしと。(※省略) 4月9日 5:00さむ。猫うるさかりしとユ。母帰り来り、田中雅子久しぶりに来る。(※省略) 夕方より頭痛し。(※省略) 4月10日 早くさむ。和田夫人より花井夫人ちょっと変と。帝塚山の同窓会にてきいてやらんといひ花井夫人に電話して「ぜひ出よ」といへば「出る」とのことな りし。 午后semiの森、清水、津田、菊池の4人来りし故、それぞれに本貸しわが家でsemiやるといふ。(※省略) 帰りしあと金子一郎「来る」とのことにParkerの万年筆買ひにゆく(3,500)。夕食前来り佐藤のことも話しゆく。(※省略) 4月11日 朝、大塚長老より電話あり。(※省略) 10:00まへ中公事業社の児玉氏呼べば女性「原稿1時間すればとりにゆく」といひ、 11:00すぎ丸ビルの同社にゆき原稿受取り篠原先生にといへば会はせられ句集出版のこといへば2冊1函賜る。 句集『年々去来の花』は西川英夫に与ふ。あすNewZeelandへゆくと也。 帰りて篠原氏の『経路』といふをよめば松本善海1年下にて登山部なりしと。読み了り礼状かく。(※省略) 校正すましユに速達せしむ。松本紀久子夫人(※善海未亡人)に電話すれば婿出て「田中さんですね」と声にてわかりしに感心す。 夫人「28日に1周忌する。川久保のところ知らせ云々」。(※省略) 平凡社より「『唐代詩集上』?第4刷1,500部増刷」と。 4月12日 眠り半時間たらず5:00ごろさめ9:00起床。10:00すぎ斎藤dr.にゆけば満員。12:00ごろ診察受け、ユ横より色々といひ10日分の 薬いただく。 先に出て東豊書店。(※省略) 帰れば金沢君より「待合せの時間きめよ」といひ来しと。 木村宙平君より詩集来る。(東豊にて『今古紀聞(300)』買ふ。) 丸重俊より電話あり(※省略)待てば17:00ごろ来り、夕食さし時間また減りしといふに「嫁自分で見つけよ」といふ。 金子の披露宴に出る由なり。帝塚山同窓会の案内来る。 4月13日(日) 朝、金沢に電話し待合場所を阿佐谷駅改札口と改む。(※省略) 来りしと同車、新宿にて小田原までの特急券買へば金沢払ひ呉る。 紅茶車内にてのみ我は歌ひ乍ら小田原着。busまつ秋山養之助われわからざりしをはじめとし中村治光、川崎あたりのみわかる。大阪での同窓会のこ と古河修造dr.?が覚えをり。要するに45年乃至20年のブランク埋めやうなし。(※省略) 別れを告げて(※省略)、20:33の特急券買ひ車内にてcoffeeのみてふらふらと帰宅。(※省略) 4月14日 よべよく眠り、(※省略) 美紀子より「5月22日会議より中座して顔出すのみ云々」と。(※省略) 大伴道子氏より歌集。(※省略) 4月15日 5:00さめ5:30起床。7:00登校。(※省略) 8:40より中国古典の学科の説明し、(※省略) 大学院へ12:00ゆき10人余の国文 修士に名乗らせて(※省略)、帰途東豊書店にゆき店の広くなりしを見る。(※省略) 4月16日 弁当もちて大学へゆき12:00来たまひし波多野博士に教室の案内し、cake賜ふ。また1時間半待つま、成城堂へゆき『ハイジ(220)』買 ひ、(※省略) 成績表ぼつぼつとりに来し故、叱りなどす。 15:30短大にゆき高田瑞穂君に「波多野博士挨拶す」といひ、すぐ紹介すみ、ともに餡蜜食ひ帰宅。(※省略) 大伴道子氏に歌集の礼状かく。川久保20:30来り土産くれし故、松本善海の一周忌のこと話し成城のこと話し耳遠くなりしを知る。 4月17日 よべ一度覚め安定剤飲みて9:00すぎ起床。「再会」かき了へ『信徒の友』へユに速達せしめ、大に「来い」といひ、 四季社に電話すれば「最終号(※『四季』丸山薫追悼号)4月末刊、我にも呉る」と。 大、来りし故「母フラフラして危なき故、咲耶付添にて伊勢へ帰らせよ」といふ。(※省略) 福田清人名にて「阪本越郎7回忌」と。「出」の返事投函。成城へゆき4時限目すむを待ち3Dに答案返す。 16:00より教授会。(※省略) 4月18日 4:00ごろ地震。また眠剤のみ11:00までにと登学。(※省略) 川久保13:00来り、池田部長に挨拶すみ、 教室へ案内しsemi見れば3年生7~8人来をり、出身高校きけば成城一人もなし。(※省略) 大学院にゆけば誰も来ず、時間30分遅れなるに気づき(※省略) 4月19日 10:00菊池、七島、横江の3生来り、午食のsandwich食ひて帰りしあと、原の祝2万円もち来し美紀子と一寸話し、 浜松町下車「留園」探しあててゆく。(※帝塚山学院)60周年とかにて寄付金集めの東京支部会にて、 花井、和田、田中、南村、道下、桝田、藤井の7夫人と河野(5回生)、隣にゐる3人はわが漢文ならひしと。(※省略) PrinceHotelへゆき飲物おごればcake?ユへと買ひくれし故、帰りの国電で泣きゐし花井、送りしがてら(※彼女の家へ)ゆき苺出させ cake紀子にとやる。(※省略) 4月20日(日) 礼拝にゆき、すみて総会。咳出て苦しく中坐。和田道具店へ寄れば番頭ゐず主人見違えるほど年老いをり。その内に書棚をといひ、2服すひて三鷹まで 歩き、きし麺食ひ弓子宅へゆき善一郎に京への祝の礼いふ。孝行笑ひをり宏、克いつもの通り也。 三鷹より帰宅すれば母留守番しをり。ユ帰り来りし処に宮崎智慧女史、門口へと来り、上げて話しゐれば、朝日の勧誘員来り、(※省略)「帰れ」と叱 り販売所に電話かけてどなる。(※省略) 4月21日 よべ早くさめ睡眠不足。(九州大分にて地震ありし也)強いて午食まで臥床して13:30登校。4月分給料もらへば一級昇給20号俸(※省略)。 雨ひどく疲れしも東豊書店にゆき『中国のことわざ(1,350)』、『法苑珠林8冊(1.6万)』、『魯迅伝(1,250)』と買ひて帰宅。 松枝氏より『紅楼夢7』、『安西均詩集』もらひ、(※省略) 4月22日 6:00さめ7:20登校。8:40に教室にゆき遅刻認めずといひ男生6人を前に出し、1時間半近くやり昨日叱りし田中生(男生)欠席しをるを知 る。(※省略) 別府大学より来し福永武彦をthemaとせし菊永生話ありと来りしと喫茶、九州男児の悪口いひしも怒らず。(※省略) 4月23日 寒し。10:00すぎ成城へゆき、中国古典のnote類とり来る。(※省略) 4月24日 寒く雨降る。semiの唯一人の男生滝沢勉10:00来り、説教きき午食に中華饅頭食ひ傘借りてゆく。浅野晃氏の詩集の印税459来る。 4月25日 雨降り寒し。11:00阿佐谷駅。成城へ11:30着き川久保来しゆゑ新城博士に紹介せんとせしも果たさず、(※省略) 川久保の月給8,500にて驚き憂鬱となる。(※省略) 疲れて帰宅。(※省略) 4月26日 雨止む。(※省略) 14:30出て品川にて白仁(田中)洋子と一緒になりプリンスホテルにゆけば、(※省略) 披露宴始まってゐるといふに入場し花婿側の最上位に坐らされ隣には川崎市県委員長なり。 われ祝辞に遅刻のわびいひ、新藤の高島教祖の祖父15分演説す。(※省略) 帰れば花井たづ子、姑と仲直りせしと来し由。和田夫人に電話してその旨云ふ。 (けふ4,000余、講談社の戦災誌の稿料来り、佐伯『本草綱目7(4,320)』とり呉る。) 4月27日(日) 礼拝にゆく前、佐伯に払ひし、2列目に坐る。すみて602番果して試みに唱はる。603は次と。(※省略) 13:00になり川久保に電話して「ゆかう」といひ、鎌田久子嫗の意地悪をいひてゆけば松本家すでに読経はじまりをり。 松高の親友2人と荒松雄、西嶋定生、佐伯有一の3教授にして佐伯君「松本の遺稿を岩波より出す」と礼いふ。(※省略) 我が起てば皆出て夫人「その内また」といひしる坊やはいま小千谷勤務と也。4人の孫あり川久保に気の毒なり。 4月28日 だるし。五日市高校の浜久雄氏より「李太白」獲手と。(※省略) 12:30家を出て登校。(※省略) くたくたになり乍ら帰宅。「すぐ飯くはせろ」といへばユ、hysterieおこす。珍し。 4月29日 だるし。林叔父午后来るとて母、京をつれて外出。林叔父1万円の祝をおき土産に甘納豆2箱賜ひ恐縮。(※省略) 母帰来、わが顔色見て早々大宅へ逃げる。けふは天皇74才の誕生日にてElizabethⅡの来日準備を色々とtelevi報ず。 4月30日 8:30出て斎藤先生。3番目にてすみ、増田晃の母君房子訪ねんと羊羹買ひて豪徳寺下車。梅ヶ丘22-21-3訪ねしも不明。(あと帰宅して13 と判明)、ユに小包せしむ。(※省略) 5月1日 家居。教授会風邪と称して断る。(※省略) 5月2日 11:30登校。川久保を鎌田女史に紹介す。(※省略) 4年semiに「研究室利用せよ」といふ。(※省略) 飯塚陽子「披露宴に出てくれ」と待ちをり「semiもしくは担任」といへば納得して帰る。『鴎外全集』あと1冊で了りと佐伯。 5月3日 よべ喘息ひどかりしとユ。一日臥床無為。 5月4日(日) 夜半喘息にてさめ、また睡る。午食後売薬のみhoney-wineのみしあと心悸昂進、苦しくもはや薬のまざることとす。 5月5日 子どもの日、弓子いとこの葬式にて着物かりに来るといふもとりやめし。夕方までだるくて困る。 (※郵便)松山より松浦薫夫妻。増田房子氏より「体悪くしてゐる」と。 5月6日 よべ22:00まへに寝つき5:00さめて登校。早すぎし也。(※省略) 3大学院の控室にゆき(※省略)女生(早川、小川、大塚)と喫茶。堀辰 雄の話などす。 帰途、母に会ひ「帰る」とのことなりしに、われ17:00山住dr.に湿疹の薬もらひにゆき18:00となりて大より電話。 「母帰らず。きげん悪しとて心配してゐる」云々。18:30帰りしと電話あり「買物しをりし」と也。(※省略) 西川英夫より電話、大高7回生の会と。「欠席」といふ。米国Vet-namの敗北を認めしらし。田木繁氏より『杜甫(※杜甫―イロニイの旅:琳琅 閣書店)』贈らる。 5月7日 よべ睡眠感なく斎藤dr.へ夫婦でゆけば満員。(※省略) 5月8日 Elizabeth女王と公労協と私鉄st.にてテンヤワンヤなり。(※省略) 5月9日 教務へ電話し、ゆくといひしあと早昼くひて都営地下鉄に12:05ゆけば「終発までst.」と閉りをり。 川久保の向ふ側より来るを見て誘ひて帰宅。教務へ「ゆけず休講」と川久保の届けもす。 Elizabeth女王、大英航空にて京都へゆくこととなり政府の面子つぶれし。 5月10日 ちょっとさめてまた眠り10:00出て地下鉄にて淡路町(100)。桧書店にゆき『昭君』、『項羽』、『鍾馗』、『白楽天』(700×4)買いひ て帰宅。 15:00小田急にて七島生来り17:40ごろまでcardよます。semiの第1号也。 堀多恵夫人より「辰雄23回忌を5.28(水)18:00芝醍醐にて」と。(※省略) 5月11日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。604番(笹淵博士訳)歌ひ試み、旨くゆきし。佐伯に寄れば本来ず。夜、ユと話しゐる中、変となる。 Elizabeth女王、伊勢に見物にゆき無事すみし。 5月12日 登校前『四季』終刊号来る。13:30成城へゆき『民俗集刊』運ばせ、東洋文化史久しぶりにやり、(※省略) Elizabeth女王16:00羽田発。無事なりし。堀さん阪本越郎さんの忌に欠席ときめる。 5月13日 7:00さめ8:20登校。(※省略) 大学院にて謡曲「昭君」すませ、この次「白楽天」よみてthemaかへんといひ、山田君にもいふ。(※省 略) 5月14日 斎藤dr.に参れば小先生にてのろかりし。東豊書店に寄り話しゐる中、この間辞典なくせしといふ学生来り会ふ。 13:00昼食すみしところへ『信徒の友』6月号もちて佐羽研、滝口明男2氏来られ果物賜ふ。(※省略) 5月15日 10:00すぎ滝沢勉来り、午までゐてcardその他のやり方教ふ。七島生にすすめられしと也。折しも片山豊、木曽中津川よりヱハガキよこす。あ すの予習旨くゆかず。 5月16日 午前中予習やり11:00すぎ飯くひ成城へ着けば川久保「古野、白鳥2氏に会ひし」と。semi(※省略)、大学院(※省略)、 けふ『骨』来り天野忠の特集なりし。(※省略) 5月17日 母来り「この間、大酔ってゐた。24日かに咲耶と伊勢に帰る」と。やがて天沼の知合へ出てゆく。 昼食後、京出てゆき入れ違ひに孝行つれて弓子来り、舅の娘夫婦に当ることをいふ。母帰り来り、また大へと去りしあと、 覚めし孝行つれて弓子帰りゆく。(※省略) 5月18日(日) 夫婦して礼拝にゆき帰れば母来り、大のこといふ。横江生来り「中国と瓜哇」にすとて『東西洋考』よませ『仏国志』もちゆく。 楊雲萍の友来ざりし。(※省略) 0:00少し前、京帰り来り、10分前ユ外へ出てゆく。 帰りしに叱ればあやまり、薬少しもきかざりしも安静剤1服のみて眠る。 5月19日 7:00さめ、だるく臥床、12:30ユが「40年!(※辛抱した)」といひしに一打して登校。 「東洋文化史」すませれば箕輪律子聴講しをり「面白かった」と也。 7:00京呼んでさとしてすむ。(ユその前またhysterieおこせし)。7:30稲田哲夫来り、誓ひの言葉の原稿見す。われ出ず。よく眠る。 5月20日 7:00起き中国古典すませ、山田主任に研究費請求すれば納品書必要と。内田直作博士と喧嘩せしとて不機嫌なり。 (※省略) 京、小林へゆくとて哲夫より電話あり。依子「泰、喘息とて日帰りす」と電話あり。 哲夫、小林へゆけざりしと21:00すぎ帰りし京の話。 5月21日 8:00さめ9:00斎藤病院へユとゆく。9:20より診察始まり若い代診先生なり。ユ薬とる前出て帰宅。 14:00七島生来り17:00までよます。夕方咲耶大と来り、京に祝買ふと連れ出す。大叱りて母を伊勢へ咲耶つれゆくことときまる。 19:00近くなり諏訪澄来り、大とちょっと話し兄方へ泊ると。依子に電話すれば「あす泰、望つれて来る」と。 5月22日 京、早く出、ユも10:30出てゆく。camera屋に寄りて(※省略) 本屋にて『万葉の女流歌人(230)』、『宗長日記(140)』、『蘇 東坡詩選(280)』と3冊買ひ私学会館へゆけば史のほか皆来てをり。(※三女京氏の結婚式) (※仲人)関口部長夫妻に挨拶すまし稲田栄氏と話しなどし式場へ早くつく。(京の洋装意外に美しく噯啊といふ)。 3回めの館長式辞にて式すみ7階の宴会場まで歩きて上り13:50より披露宴はじまり早くすむ。(6孫かけ廻りをり)。 (※省略) 式場費われ仮払ひしあす関口部長への礼、母親にてゆくこととす。われのみ電車にて帰宅。(※省略) 5月23日 ユ9:40弁当置きて出、われ予習それまでにすまし10:30佐伯に寄り『一億人の昭和史1(820)』買ひ、 『新異国双書(7万円)』の納入書2枚書いてもらひ11:30成城大学。 池田部長「躁なりや鬱なりや」と。説明すまし川久保来て1服する間にsemiにゆけば4年生4人のみ(※省略) 大学院は鈴木休み(※省略)、講師室よりユに電話し「旨くゆきしや」と問へば「ゆきし」と。(※省略) 20:30京、松本より電話かけ来る。 5月24日 欝治り、朝一度覚めてまた眠り8:00起く。することもなく東豊書店に電話かけ琳琅閣の広告もちゆき大学院7万円と学部12万円のわが本並びに学 部用の本注文し、12:00かっきりに伊勢丹にゆけば平山生に遭ふ。(※省略) 小田急dept.にゆきて1万円の毛布買ひ、生田の林叔母見舞えへば起きをり、見舞と礼いひ茶置きcolaのみて帰り、 佐伯に寄りて『浄土三部経(330)』、『婚礼(1,200)』と買ひ、ユに『植物妖異考(4,200)』、『聖書植物考(4,200)』と稀書 の複印本とりにゆかす。(※省略) ユに美紀子より電話あり「慰めに来る」由。諏訪澄よりも我に電話あり「慰めに来る」と也。(※省略) 帝塚山学院同窓会より「森磯吉元院長5月7日逝去」と。 5月25日(日) 西部渋谷店へゆくユに先だって家を出、礼拝に出席。了りて吉祥寺の古本屋2軒を見、『中国人の考へ方(250)』買ひて帰宅。 (※省略) 20:00難波和子に電話し「林叔父の急衰を敏夫と相談せよ」といへば「御親切に!」とのことなりし! 5月26日 茫然と半日すごし12:30出て登校。成城堂にてecho20箱買ひ(※省略) (『江戸の洋学(600)』、『ようこそ女王陛下(550)』借りる。) (※省略) 19:00東豊書店簡木桂君より電話。(※省略) (小森副手にきけば水津quizeに優勝して欧羅巴にゆくこととなりしと。指つめし七島生研究室に来てをりともに驚く)。 5月27日 よべ9:00すぎ眠り7:00さめ早々成城大学へゆけば8:00にてcolaのたぐひ1本のみ中国古典すませ、(※省略) 国文学にゆけば5人しかをらず、講義できずと叱りて歌うたひ、帰りの電車にて別府より来し男生と同車。 新宿に古書展さがせしもなく、高円寺まで同車して別る。19:00雨中、簡木桂君電話かけ、来り76,130円を請求し、 わが『白楽天』1冊と性書(※ママ)2冊もち20:00まへ雨止みしに帰りゆく。(※省略) 珍しく21:00よりのtelevi映画「俺たちは天使じゃない」を夫婦して見る。(※省略) 5月28日 よべ6時間半しか眠らず9:00まへ斎藤dr.に参れば8番目。久しぶりに院長先生にお会ひし、末娘嫁ぎ云々と申し上げ、 2週間分の薬いただき、我は千駄ヶ谷駅前でcoffeeのみ東豊書店にゆき請求書かき直させ『人々文庫3冊(220×3)』、『島夷志略 (2,600)』、『高僧伝(2,200)』買ひ、12:00まへ佐伯へ寄れば本来てをらず。 家にてcard書くうち『敦煌論集(1,980)』、『台湾諺語(2,160)』のつけ落ちに気づき電話すれば呉れしと也。 15:00まへ京、哲夫来り、信州と京都のヱハガキと甘い物をとくれ稲田家へと出てゆく。(※省略) 5月29日 よく寝、5:00起き佐伯にゆき10:00外丸、菊池、横江の3人にゼミ了り昼飯に中華饅頭くはせ、ふと思ひつきて 飯塚陽子に電話、祝歌即座に「みすず刈るしなのの乙女あふみなる草津にゆくときけばうれしも」と詠じて書きとらしむ。 (※省略) 14:30出て成城堂にゆき『ひとり暮しの戦後史』、『日本古代遺跡の研究総説3版』、『法華義疏上下』買ひ教授会に出る。 (※省略) バカらしく中坐して高円寺下車。大石書店に寄りて帰宅。(※省略) 井上書店と高尾書店とより書目来、井上に藤井乙男『諺語大辞典(7,800)』とあり、 電話かけ「あす現金もちゆくゆゑとりのけたのむ」といへば「宜し」と也。 5月30日 3:00さめ安定剤1服のみしも眠れず。風呂わかし茶のみなどしはて8:00前、駅にゆけば開かずゐる佐伯にbenchにて一服してゆけばお内儀 出て来りし故『食物輸入読(※ママ) (1,500)』注文し、 8:30、1万円もちて地下鉄にて本郷三丁目。歩きてゆきしも古本屋のうち井上と琳琅閣と開かず。 9:15(※東大)文学部事務室へゆき成績証明書1通を要求、(※省略) 開きし古本屋にて本田正次『食物と生活(1,000)』買ひ、 (※省略) 井上に電話すれば「開きゐる」とゆきて待望の『諺語大辞典』入手。勇んで地下鉄にて新宿。(※省略) 登校11:30。(※省略) semiにゆけば3年5人そろひ4年は津田、横江、七島、菊池、森の5人にて清水ますみ消息不明。 (※省略) 帰宅すれば京、弓子宅へゆき2孫をつれ来しも、(※省略) また入浴して夕食旨し旨しと食ふ。 角川よりまたハイネ1万冊増版と来しのみ。本を片付け火鉢を書斎より応接へと運ぶ。(※省略) 5月31日 5:00さめ8:00川久保に電話すれば嬢出て来る。「すぐ往く」といひ行けば嬢出勤、奧さん首に縫帯し外科へと出てゆく。 成城1年限りと想へといひ、ふと思ひつきて岡正雄氏につれゆかせ、(※民族研究所の)昭和17年以来といへば、一度来いと。 新嘉坡の500弗貸しとLoebのスマトラ民俗誌のことなどいひしもダメ。Nevskiiは他人が訳せしと。 川久保と共訳には序文に名を貸すと也。バカらしくなり佐伯に戻り『堀口大学詩集(80)』と『私の外国語(150)』と買ひて帰宅。 躁きつく、堀多恵夫人に電話すれば「この間は井伏先生もお越し云々、いま矢野さんの妹の接待してゐる」と。 金沢に電話すれば不在。美紀子に電話すれば雅子出て「ママ出た。1人」と。石川喜久子に電話すれば(※省略) 万(※よろず)尽きて山際文雄君に「すぐ来い」といへば「来る」と也(13:30)。(※省略) 山際君来りて話しをれば美紀子来り、武田検事正の家族の世話にて云々と、叱りつけて山際君と19:30まで話し、 食欲なくなりしとて柏井へゆき父子にてgolf、妻は未還と。出れば父子車にて帰り来り、阿佐谷駅にて恵に会ふ。ふしぎ。 新城博士に電話にて大学院の懇親会14日18:00成城栄華飯店にてと也。 雅子・淳一(※淳一)より電話「祖父様ありがたう」と也し。けふ『東方学論集(5,000)』佐伯で見つけとりのけたのむ。 6月1日(日) 礼拝休み、戸田謙介氏にwhiskyもちゆけば奧さん留守にて新本屋へゆき『吉井勇歌集(160)』買ひ、 佐伯にて『日本の歴史別冊1(500)』買ひて帰宅。林真理子に「『堀辰雄』返せ」の電話すれば変なり。 (※省略) 丹波(※丹波鴻一郎)に電話して「雨止めばゆく」といひ15:30傘持ちて出、(※省略) 迷ひ迷ひしてゆけば長男、夫人、母上とで麻雀しをりも止め、わが話きき「Torna Surriento」録音さる。 19:00前帰らんとすれば、うどんとりくれ旨し。(※省略) 21:00すぎ帰宅。(※省略) 6月2日 よべ23:00にねつき5:30さめ、台湾関係の本を「伝記文学」のあとへ入れ、佐伯へゆき『宸記(11,500)』借り、 午食11:30旨くくひ12:30ユに払ひにゆけといひつけて出、間引き運転に時計忘れしことに気づき登校。 (※省略) Solveigの歌を東洋文化史の時間うたひ殆どすすまず。(※省略) 駅で森岡清美博士と同行、新宿までゆき誘ひて喫茶。 dutch accountにて250払ひ、 dutchwifeの説明し清瀬へ帰ると別れ、(※省略) 帰宅すれば和田夫人待ちをり頚飾り京の祝に賜ふ。21:30まで話し和田氏より電話かかりしに腰上ぐ。(※省略) 6月3日 3:00さめ眠れず。7:00出てゆき成城に8:00まへ着き、(※省略) 歌うたひて8:30となり、登校。 (※省略) 大学院へゆけば1人をり、あと立原道造やりし子、次出るとのことにあてにならずといひて、(※省略) 小田急の古本展にゆけば3人知合の本屋をり、高値に舌まきて帰る。(※省略) 小高根夫人より「恵の縁談むつかしきときく(ユ)」 6月4日 4:30さむ。(よべ21:00眠る)。電話帳整理。8:30家を出、8:50千駄谷駅に着き林眞理子父(※省略)をつれ来る。 斎藤dr.満員。13番で呼ばれ薬強くしてもらひ、林父子の呼ばれるをききて先に出、千駄谷より乗車。 東豊書店にゆき36,210個人研究費12万円の中112,340つかひ了る。(※省略) 帰宅すれば、菊池まちをり。 semi18:00ごろまでやる。夕食し入浴すませれば田中正俊君より電話 (※省略) 6月5日 雨。4:30さめ、卵焼かして食ひて、また寝(7:00-8:30)、10:10津田さゆり来るを待ち、午食せしめ、16:00まで教ふ。 佐伯へ送りかたがたゆき『バタヴィア城日記3(1,080)』来をると採り、(※省略) 津田に電話すれば「姉チマキくれず」と妹。der,des,dem,denいはす。躁なり。 『バタヴィア城日記』よみてDapperのこと、ただのりをるのみなるに安心し、「やる」といへばユ「躁」と。(※省略) 6月6日 3:00さめ(その間予習すます)また1時間半ねる。6:30覚め8:00前、川久保へゆき成城は1年限りときめつけて帰宅。 東大より成績証明書来りしを見れば、甲は和田先生2と山中先生のみ。池田先生の点わるく卒論でやっと息吹き返せし也。 佐伯へ寄り『中国古典全集』の見本と4,5冊とあす持ちゆくをたのみ、 東豊書店に寄り『林献堂先生記念集1-3(3,000)』、『中国文学論集(5,000)』、『えとのす(※ethnos)1(1,200)』、 『楽府の歴史的研究(6,500)』、『唐律疏議(6,000)』、『加藤先生支那経済史考証・上下(13,000)』と学部の本かつぎもちゆ く。 11:30ゆけば鎌田女史「やはり来年度学科独立はとりやめる」、「書籍費は48万円づつ」と。 古野博士に会ひ『成城文芸73』「松竹梅」の抜刷わたせば「名刺くれ。送るものあり」と。 けふ川久保来りしも話すことなく「高田に短大の口たのみにゆけ」といひ、短大に電話すれば「帰宅」と。 semiにゆき4年semi叱り、3年semiに「けふ来るや」といへば藤木万里子(新潟中央高)と中島しづ江と来り、 家につけば大、来りをり、本棚二つ入りしと。2生をもてなし『歌日記』と「松竹梅」とわたす。(※省略) 堀辰雄夫人より『我思古人』贈らる。「浅間山みねの煙のいつまでもゐますと君を思ひしものを(録旧作)」。 小高根夫人より電話「二郎、職を退きし」と也。 6月7日 梅雨に入る。4:00さむ(よべ10:30臥床)。8:00出てハガキ投函せしのみ。 9:00ユの治療に山住閣下への「松竹梅」抜刷托し、ユの帰宅後10:00の店開くを待ち封筒買ひて、 「松竹梅」抜刷を神田(※喜一郎)博士、神田信夫、中山八郎、松枝茂夫、本田正次博士、澄、田中正俊、森廉三、篠田統、宮本馨太郎、小野勝年、衛 藤瀋吉、榎一雄の諸氏にと包む(計13袋)。 佐伯開きをり今より成城へゆくと髭そりをり。『たべもの伝来史(1,800×0.9)』借り来る。 楽恕人氏にもこの間の馳走の礼にと包む。14:00外丸、津田2生来り、cardの採り方を外丸に教へをれば、休みに津田生質問し疲る。 2人の帰りしあと、また佐伯にゆけばお内儀をり、けふ運びしと。『おらんだ正月(70)』買ひて帰宅。(※省略) 駅に来しと比嘉夫人の声。駅までゆけば紀夫人(旧宮城姓)駆けより「先生か」と。taxiにのせて家へつれ帰り、 まづ握手し色々話す内、在京永山、鈴木といひてユに電話せしめしに永山来ると。(※省略) 駅に行けば永山「余り会ひたくなきも西川さん社長となりし云々」と、正直也も腹立ちて耐らず。 ユと妹とでtaxi呼びにゆかせしあと永山「創価学会の運動されていやになりし云々」と。入浴して日記かき了ふ。 6月8日(日) 4:00まへ覚む。(※省略)夢見し。8:00西川に電話かけ社長就任の祝の7回期生会すといへば「会社の表見てよきはしらす」と。倭に電話し理 丙の委員となれといひ、次いで関口に電話すれば「入院」と夫人。 兼清に電話し理甲と理乙ただ1人の五反井仁にとりつぎくれ、weekdayの夕食を本郷の学士会館にて4,000の会費にすと決め、本位田、原田 に電話せしあと丸へ9:30つけば次女夫婦帰りをり。(※省略) 丸、相変らず起居不自由なり。重俊つれて古本屋のぞき1,000買ひ、ユの帰るをまち飯くはしめ佐伯へつれゆく。別れて帰宅。 眠らんとせしも果さず、楊雲萍の詩集預りしといふ三井銀行員を探して電話4回せしもらちあかず、阿佐谷寮にゆけば受付、西荻窪の住宅書き呉る。 ユ眠りゐるがごときに声を荒げてものいひ帰り途にて『兵庫県人物事典3冊(700)』買ひて了る。(※省略) 6月9日 曇。4:30さめ快し(よべ9:30就床)。朝8:00までに書翰の整理すます。9:30山住閣下に参り「松風」唄はる。 佐伯へ昨日の地図の払ひしにゆく。そのあと西川の都合きき、 18日16:00学士会館分室、会費4,200として(20名の予定)倭周蔵の名にて申込む。 (※省略) 躁甚し。(※省略)12:30午食すまして出、 阿佐谷北の汚き古本屋にて『大唐の春(400)』、『二十四の瞳(70)』、『東京の中の江戸(180)』、『トニオ・クレーゲル(40)』、 『椿姫(120)』、『十五少年漂流記(?)』、『谷間の百合(?)』、『耶蘇基督(?)』買ひして金340となり、 夏のbonus90万-21万との書類みてより東洋文化史教へ、 すみて五十畑律子生を研究室に伴ひ『大唐の春』にsignして与へともに出て東宝・喫茶にて紅茶のみ、 (200×2)をわれ240与へて払はせ新宿まで同車。(※省略) 大久保まで同行、 帰り佐伯にてあす払ふとて2万円の買物し、(※省略) 20:00石川喜久子に電話すれば、(※省略) 18日の案内状かく。(※省略) 6月10日 よべよく眠り7:30出て登校。庶務で1万円借る。 (きぬた書房にて『日露会話篇(450)』、『国姓爺合戦(500)』買ひ、成城堂で『歴史読本(390)』、『佐伯今毛人(800)』、『神社 (800)』、『天満宮(950)』と買ひ小遣ひなくなりし故、庶務にて1万円借りしあと会計より呼出されゆけば大学院の研究費7万円出し也。) 庶務に1万円返却。大学院ちょっとやり喫茶せんといへば男1人、女3人来る。餡蜜われとも1人食べてすまし、東豊書店にゆけば、この間買ひし本そ のまま也。 これに『神宮文庫図書目録(7,000)』、『同善本解題(2,500)』、『英満辞典(5,000)』、『義和団(950)』外3冊たし、あす 19:00持参といふこととなる。 帰れば残金4万円をユに渡し、佐伯よりもち来し『武蔵野地理(21,500)』、『八幡信仰史(8,500)』、『天皇陵(2,300)』とを受 取りしを見、本棚二つ買ひ(9,000×2)あるに一つに詰め、あとは明日とす。 咲耶来り泊ることとなりしに色々説教す。(※省略) 6月11日 5:00さめよく眠れし也。8:00出て斎藤dr.に1人でゆき8:30つけば12番。(※省略) 帰途東豊書店によりまた本買ひ19:00残りもち来ると。午飯すまして栗田へゆき『The book of knowledge』みつけ聞けば(※省略)、七島生まちをり、tigerの箇所写さして訳し、次いで東鑑の虎の項訳し、(※省略) 「信徒の友」より竹森先生の許可得しとて28日までに400×1の詩をと。 19:00前、東豊書店の簡木桂君来り『漢字古今音義(3,600)』払ひ、他は学校払ひの本、置きゆく。 6月12日 6:00さめ眠り足りしもだるし。9:00佐伯へゆけば休み。津田さゆり来り、昼食までよます。 そのあと散髪にゆき一番街の古本屋にて文庫2冊(120)買ひて帰り、京の室より本箱もち出し大体本入れ了る。 疲れしところへ18:00滝沢生来りしに、本貸し夕食にrice-curry食はし、教へる元気もなくて帰らす。 あすsemiの会すると。(※省略) けふ写真出来、澄のとりし京の婚礼の写真もよくうつりをり。(※省略) 21:00「アリドの教へ」を作り了へ速達せしむることとす。(※省略) 6月13日 6:15起床。ユ、宏一郎の幼稚園遠足のため留守に三鷹へゆく。われ9:30に出んとすれば、咲耶駅に送りしと大来り、ともに出て北口の古本屋に ゆき『New Testament(100)』、『平清盛(190)』と『宇治拾遺(170)』と買ひ成城大学。 (※省略) semiにゆき、間の時間成城堂にゆき『折口信夫3冊(300×9)』、『被差別部落の伝承と生活(1,200)』、『薬草 (1,400)』と買ひ、大学院へゆきて(※省略)、 semi会場Lotus(1,460の会費)へ16:20ゆけば中島生をり、(※省略)4年出口をのぞき4人出、(※省略)森生と藤木生と同車帰 宅。 河出書房新社『日本現代詩大系9』全く前のままにて2,300、角川のHeineの43版も来をり。 「松竹梅」の批評来り、篠田統博士「牧野式は大嫌い」、中山八郎氏は「一服の清涼剤」と全く反対也。 6月14日 7:30さめ百瀬先輩に電話、(※省略) 宮崎智慧さんに電話して知念栄喜のこときけば「知らず」と。 (※省略) 宮崎女史、長尾夫人に電話して知念君のところわかる。電話すれば「15:00どこそこへゆきそのあと来る」と也。 滝沢君来しと思ふおとなひに「おう入れ」といへば山住閣下。「木の葉髪、女夫かたみにののしられる木石」と也。 恐縮して礼いひ「上りたまへ」とすすめしも上りたまはず。滝沢来りし故、semi教ふ。 筒井護郎より「住之江区長やめた」と。(※省略) 14:30滝沢送り出し、2孫と駅buil.2階の玩具屋にゆきrailつき汽車2組(2,500×2)買ふ。(※省略) ついで文房具屋にてcard切り(750)とcard100枚(150)と買ふ。bonus後の浪費なり。 和田、山中2夫人15:30ごろ来り、われ講談社の知念栄喜君を17:00まで待つ間話し、ともに出てゆく。 (※省略) 成城の飯店に18:00に10分前つけば大藤、佐藤、新城の3氏をり。やがて古野先生、森岡博士、築島博士とそろひしところにて古野 先生の学士院賞を祝して乾杯。おくれて立教の神島二郎氏来る。(※省略) われ1人座をもち新城博士苦い顔をす。大藤、築島、森岡、佐藤の4氏と同車。新宿にて佐藤氏と2人となり、(※省略)阿佐谷につきしは 21:30。喫茶さそひて側近問題話して別れ帰宅22:00。(※省略) 知念家へ電話すれば「まだ帰らず」と。余計な心配ばかり也。 6月15日(日) 6:00さめ、ユ見合の立会ひにゆくといふに我一人礼拝にゆく。すみて竹森先生に『信徒の友』にまた書かしてもらひしをいひ、 『主の祈り(280)』買ひ、吉祥寺の古本屋にて『台湾文芸1-13』と『太宰治(110)』と交換してのち、(※省略) busにのりて府中、京王電車にて百花園下車。河童ずし注文すれば胡瓜の入りしすしなりし。 4ケ食ひ、残り包んでもらひ500わたし巡査に途きき西武百花園園地に登りゆき、(※省略) 百瀬夫妻迎へられ、ほたるぶくろとマツムシソウと賜はり雲丹賜はる。お俊さんもう寿命若干。(※省略) 百瀬氏に高幡まで送られ特急にのり新宿着。佐伯に寄りて本買ひなどして帰宅すればユ、帰りをり。 (※省略) 川久保に電話し「満洲史」自費出版せよといひやる。(※省略) 6月16日 5:00さめ、相良徳三先生に本贈る。1:30午食すれば京、写真もち来る。(※省略) 佐伯にて『韓国の冠婚葬祭(1,080)』の払ひし、京に頼まれし遠藤周作売れば1,100にて苦笑。 (※省略) ユと新宿で別れ、成城へ13:30着き、『日本詩紀』図書館にて借り出す(中華人の所謂「河世寧」すなはち市川寛齋なりし)。 大喜びして氷のまされ、(※省略) 東洋文化史やる。律子来をり、誘ひて100円のcoffeeのませ、 歯科医へゆくといふに新宿で別れて東豊書店。(※省略) わが分は『中国婦女奴隷史稿(1,300)』のほか、 『漢学反哺集(220)』、『中国美術史(220)』、『生薬■(510)』、『王維詩(150)』にて10円出してすみし。 東中野にて下車。北口の本屋にて800円ほど買ひまた来るといふ。 けふ神田先生より「植物弱し」と。衛藤瀋吉氏より「林語堂のところ為になりし」との礼状。 京ゐず、ユ、萱草を他の店にて350にて買ひ来をり。 (※省略) 大日本愛国党員、三木首相をなぐりしとtelevi(佐藤の国民葬の前)、みなみなたるみをり。(※省略) 6月17日 よべ23:00ねつき5:00さむ。萱草を庭に植う。(双書の細目を作るdouble買ひを防ぐが為なり)。 7:30出て成城。(※省略) 10:30出て千歳船橋下車。鈴木俊さん訪ぬれば不在。古稀祝を一階の夫人に托して帰校。 (※省略) 菊永、小川、西條、湯川の4男女生とjuiceのみ(70×5)、菊永生を東中野の古本屋に誘へば定休。南口へ出てrice- curry旨くたべ(200×2)わが家へ訪ふ。 (※省略) 兼清より電話あり(※クラス会)甲4人、倭より電話、理丙7人出席、(※省略)17~18人かと。西川より電話「料理2,500と し、(※省略)」 6月18日 7:20さむ。(※省略)10:25七島生来り、昼食を間にして13:00前帰りゆく。 (西川の会のことにて学士会館に電話すれば2,500の盛食承知と。)(※省略) 宮崎智慧さん来る。この間、知念君につき連絡とりくれし也。14:20知念君に電話すれば講談社にをり「杜甫伝もちゆく。来る必要なし」と。 池田温、園田英弘2氏に「松竹梅」包む。(※省略) 佐伯にて『ドラクロワ展(150)』払ひ、16:30国鉄、新宿より地下鉄にて本郷三丁目。 赤門前にて『National Geographic Vol. 146 no.6(300)』買ひ学士会館にゆけば、 本位田、藤田来をり、会場2階にて兼清と色々相談し、来りしより4,000づつ徴収、席、料理ふやさし4,000にせよといひしに、 和田、河田、萩、福永、本位田、竹内、室、藤田、福岡、紅松、加藤、五百井、倭、鎌田、田中、兼清にて40,200と。 倭と500づつ兼清に渡して勘定すみ西川を送りて21:30まへ夫人に会ひにゆく。 お土産にwhiskyもらひ雨中、菊坂登れば谷川書店開いてをり、 『東洋倫理(100)』、『東海道五十三次表裏(700)』、『ヴィーナスの汗(300)』、『うかれ蚤(160)』、『浮世絵ものがたり (400)』、『異国漂流奇譚集(1,300)』、『厠まんだら(300)』、『江戸女の色もよう(650)』と悪書買ひ、『ほんがう』といふ自 費パンフレットもらひ名刺出せば「知ってゐる」と也。 地下鉄にて南阿佐谷へ来り帰宅。(※省略) 6月19日 朝方小便にさめ8:00再びさむ。(※省略)12:00すぎ代々木へゆき東豊書店に研究費の残り4,190をかっきりにしてもらふ。 中に『嘉靖東南平倭通録』のみ有用の書なり。 登校。金曜と思ひちがひせしことに気づきcaféのみにゆき、(※省略) 図書館にて『杜甫』借出し「ラッキョウ」了る。ついで教授会(※省略) 帰りまた東中野に下車。2冊ほど買ふ。中に『萩原朔太郎(ユリイカ特輯)』あり。 6月20日 7:00さめ9:30柏井へ「歯直してくれ」とゆけば「ダメ」と。尚子に『小泉八雲』2冊与へ「縁談の件はやく返事を」といひて帰宅。 午食すませ、ユpermaにゆきし間に500もちて高円寺の都丸書店にゆき店員に『立原道造全集』2冊とりのけたのみ電車で帰宅。 旧版の『立原全集』もちゆけば5,000で買ひくれ2冊分とほぼ同じとなる。 気をよくして『Java and Her Neighbours (1,500)』、『踏絵(270)』、『東方への私の旅(600)』、『朝鮮小説史(950)』、『東アジア民族史Ⅰ(950)』と買ひ、 そこにゐる女学生に「茶のまん」といへば兄出て来、ともに喫茶、(※省略) 都丸に売らんとせし堀、立原、三好、父、小光母の手紙入れ(和田・池内先生のハガキも入りをり)見つからず。天命なり。 昭和50年 6月21日~昭和50年12月31日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 6月21日 7:30さめ(23:30臥床)佐伯へゆけば『国語大辞典16(5,220)』、『満和辞典(4,500)』、『釈典祈雨(4,500)』と計 14,220来をり。 集英社より『白楽天』7月に2,000部増版の証明書来る。午后佐伯へ払ひにゆく。(※省略) 6月22日(日) 7:00さめ、ダルく礼拝休む。小雨ふりをり字引少しづつやる。(※省略) 庭に咲くは金絲桃(未央柳)の金色の花とあじさゐと也。阪本越郎の好きし時以来の繁花。 マリリン・モンローの「帰らざる河」2度目に見る。 午后より大掃除し立原の手紙見つかる。(※省略) 6月23日 悪夢見ゐしに7:00齋藤医院より林眞理子の電話あり! 「かきたいゆゑ学校の原稿用紙300枚を届けよ」と。おどろきてユに母親に電話すれば「けふ父親、病院へ金払ひにゆく云々」と結論をいはず。 マクワウリかき了へ南瓜にかからんとして『物類称呼』見つからざるゆゑ、滝沢のsemi10:10より12:00までやり昼食させて出しあとすぐ 出て1万円もち佐伯にて『文章規範(600)』買ひ登校。 (※省略) 五十嵐律子を電話boxにてつかまへユに「16:30公会堂まへにて待て」といはせ、 15:30茶のみてともに出、新宿にて古本屋、中山正善の『右往左往(300)』買ひ、 喫茶して地下鉄霞ヶ関より公会堂へゆき入口間違へ、17:10より公園内の肉屋にゆきmacalloniくひ1,000わたす。 (※省略) Bachの受難曲1部のみききて有楽町まで歩き、新宿にて律子に別れて帰宅。 『白楽天』の3版来をり2,700円となりをり。(※省略) (けふ美紀子来り、父の日のnecktie 1本呉る。) 6月24日 ユ、7:00におこす。あはてて登校。8:30につき中国古典45分ですませ成城堂のあくを待ち、1.4万円払ひ、また『婚姻の民俗学 (1,300)』、『日本家族制度史概説(1,100)』、岩波新書2冊と神近市子『女性の歴史』買ふ。(※省略) 帰宅すれば克次朗来てをり、一人なればをとなし。ユつれて武蔵野動物園?へとゆく。(※省略) 6月25日 7:00さむ。9:30、card100枚買ひに出る。七島生10:30来り「追分へのsemi旅行26日泊」と。 ユ11:00帰り来り「原稿用紙婦長さんにことづけし」と。七島生15:00までガンバって帰る。 (※省略) 17:00古崎ときわ女史来しゆゑ1,000円渡し『ルーベンス』を与ふ。(※省略) 6月26日 8:30さむ。10:30semiに来りし滝沢生と11:40までやり、午食とし、ともに出て我は池袋より地下鉄護国寺前で下車。12:50講談 社へゆき巨大なる建物に吃驚す。 知念栄喜氏と出て前の喫茶店で話し『杜甫伝』を会議にかけてくれといふ。 すみて市ヶ谷に出まちがって上りに乗り水道橋より引返し代々木東豊書店にて、『蔬菜栽培各論(360)』買へばなくなる。 成城へゆき教授会。(※省略) すみて大学院の会。(※省略) 帰宅。 電話かけて待たせし金子と19:30ともに夕食し、あす米寿の全盲の祖母にと祝の色紙かく。 (※省略) 平凡社より『唐代詩集上』の印税(142,500-14,250)(4版1500部✕1,900)通知あり。 昭和13年9月に成りし「漢文資料に現はれたマンジュ語」の前後かき『成城文芸』に提出することとす。躁の表示なり。 6月27日 8:00すぎ出て金子に本送る(125)。北口の本屋にて『台湾料理物語(350)』と『煙草礼讃(100)』と買ひて出勤。 川久保すでに来てをり。天気ならば野球やるとて大学院休みとせしにsemi早くやめ、大学院の時間より夕立来る。 川久保と出て、晴れしゆゑ東豊書店にゆき『台湾銀行』1冊と『長沙馬王堆一号(250)』と買ひ、喫茶代なくなり川久保を家に伴ふ。(※省略) 6月28日 8:00さむ。雨中、散髪にゆき10:30すむ。(※省略) 林眞理子より病状報告あり。 梅田恵以子女史より「夫、(※和歌山)県教育長となりし」と。 微雨のなか高円寺に散歩に出、『若き鴎外の悩み(500)』を買ひ来る。(※省略) 花井夫人、Grünewaldの翻訳たのみし北沢画伯夫人つれ来る。 (※姑)相変らずわがままいふらしく花井君に同情す。送り出して佐伯にゆき斎藤茂太先生の本を注文す。(※省略) 6月29日(日) 曇。8:00さめユ「11:00より見合」と。われも礼拝休み佐伯へ1,100払ひにゆく。 Dapperとcardとやる。ユ、小高根夫人よりおごってもらひしと16:00帰宅。 眠気なくなる。ふしぎ。 6月30日 5:00さむ。11:00昼食し登校。(※省略) 一旦帰宅せんとせしに遭ひし大学院の大塚先生泣きをり。 横に早川生つきをり2人をさそひて喫茶、泪おさめさせあす家へつれ来ることとす。(けふ鎌田女史よりも泣きつかれし。) 東豊書店へ傘とりにゆけば村上正二をり「停年となりし」と也。簡さん「あす帰化の手続にゆく」と也。 『旅行案内(250)』と『清世祖実録採要(260)』と『通礼新編(400)』とにて金なくなり、代々木八幡より地下鉄、表参道。 Daiamond Hallといふを探しまはり池辺、野口2氏に遭ひてまづゆけば鎌田と3副手とをり。まづまづすむ。 講師1時間半おくれし白鳥君を前後に小川、森岡、佐藤、田中久夫、小沢の諸講師そろふ。 20:30すみ佐藤君に案内してもらひ渋谷へ出る。 聖心へゆくしころ通ひし通りの変りにおどろき、中村書店あきゐし故、ちょっとのぞき、金なきゆゑ佐藤君茶にも誘はず帰宅。(※省略) 7月1日 涼し。風邪気味おしてゆき8:30着き、茶のみ中国古典の講義すませ、庶務課へ追分の寮の手続にゆけば空きをり。(※省略) 早川素子、大塚光2生伴ひ帰り、立原の書信見せれば大塚生、1封信とヱハガキ1枚は『全集』にのせずと発見。 礼にと大塚生に信一封やり早川生にも堀辰雄のハガキ与へ、色紙にそれぞれ「このみちを」書きて与ふ。 早川生は夫人なりしゆゑ嬢子とかく。折しも和田夫人来り、弓子よりユ、克をつれ来り、弓子宏一郎をつれ克をもつれ帰る。(※省略) 河出より9,125入金。佐伯にゆき『鴎外全集38回』受取て完結。 「わがいのち永くしありけり鴎外の文を三度とよみうるまでに」 金子光晴、喘息にて死す。79才と也。 7月2日 7:30さめ斎藤dr.へ9:30着けば11番。(※省略) 先生「診察待つ日と喜ばぬ日あり」とこぼさる。「わがまま」といひて出、2週間分の 薬いただき千駄ヶ谷に出るまでに喫茶す。 12:00帰宅。(佐伯に『鴎外全集』の払ひす) 14:00菊池生来り、美紀子来り、松浦の母上来る。 (※省略) けふは終日ダルくて弱る。 7月3日 7:00さめ眠し。(※省略) 13:00来りし外丸生のsemiしてをれば『信徒の友』社の人、わざわざお中元賜り、礼いひしのみ。 16:00よりの大学院会議のことに、ユに注意され、外丸生帰りしあと成城大学。(※省略) 小田急百貨店12階の本屋にゆき「5万分1の地図」4枚にて590払ひ、呆れて帰宅。 (※省略) 『Dapper』のnote、23冊目は1年半かかりて今夜了る。 7月4日 雨。11:40雨仕度してゆく。川久保、我と同時ごろ来り「この次は休む」と。 太平天国の管制につき本貸す。semi匆々に止め「早く4年生は下書見せよ」といふ。 清水、外丸2生『古今図書集成』のcopyとる。大学院へゆき「倭国」よみてすまし、次は来学期「呂宋」といふこととなる。 ダルくてたまらず伊藤博文(※杉山博文)さそひて小田急parcoで喫茶す。「100点を東洋史でとりし。友出来ず」と也。 祖父は絵をかき岸田劉生の書翰あまたもつ養老の名家の出」と也。 帰りて夕食しゐれば古崎といふこの間の兄「来る」と電話切りしと。 ユ、不安がる中をwhiskyちょっとあけ20:00かっきりに匆々と帰りゆく。 (けふ佐伯に『中国地方自治発達史(3,000×0.9)』来をり、他は未刊と也。竹内栄太郎君より科野の案せし同窓会の写真来り、われ立ちてを り。すぐ礼状かく。けふタバコ酒の値上げきまりしらし。) 7月5日 曇。金絲桃(ビヨウヤナギ)、アジサヰ、ギボウシ咲く。午食まへ佐伯に金払ひにゆけば、昭和48年発行の『長沢博士古稀記念論集(6,800)』 渡さる。ユ払ひにゆく。〒なし。 7月6日(日) 時々雨。久しぶりに夫婦にて礼拝にゆく。聖餐あり。すみて子供らにとユ古本買ふ。 我まづ帰る。午后、弓子夫婦3孫つれ来り、port-wine今年中十分となる。 澄よりナゴヤのキシメン多く呉る。「この間、京の家へ弓子夫婦子どもつれてゆきし」と。 関口部長さんよりユに物賜はり恐縮。 7月7日 7:00さめ、暑きに閉口。9:00清水生来り、11:30退散。疲れるも最後に東洋文化史に出てゆき30分にて切上ぐ。(※省略) 帰り東豊書店に寄り『台湾風物2冊(1,600)』買ふ。(※省略) 高円寺に下車。『春夫論(300)』買ひて帰宅。よみ了る。「1の弟子は井上靖と也。」(※省略) 7月8日 7:00起されフラフラと登校。(※省略) 「昨日わが去りしあと専攻会ありし」と。(※省略) 「カマ田、我に連絡忘れし」と信ず。大学院すませし故まっすぐ帰宅。 (※省略) 夜、やっと倦怠感とれる。(※省略) 7月9日 7:00まで眠り他出せずcard少しとりしてゐる中、10:00滝沢勉生semiに来り、呆然と教へゐる中、清水生来り、「土曜に」といひて帰 る。 滝沢、熱心なるに気の毒となる。午食まへ帰りゆく。(※省略) 7月10日 けふやや涼し。10:00七島生来り、午までsemi、13:00柏井尚子来り、娘の縁談について話しゆく。 外丸生来しも我の疲れしを見て「今度また。七島生2千円立替をり」と話して帰りゆく。 15:00すぎ登校。(※省略) 教授会。文化史は只一つのこりて文芸学科となり来年より文化史学科となる由なり。(※省略) 帰宅19:30。別に疲れてもをらず何もせずして臥床。けふ平凡社の『唐代詩集 上』5版2,500✕1,900と。(※省略) 7月11日 11:30出て登校。semiやり七島生に2千円返す。帰途森生に会ひ茶のまんといふ。(※省略) われ魯迅となれる気分となり帰宅。吉川幸次郎の「滞中記」よみいよいよその感を深くす。(※省略) 『唐代詩集 上』5刷(7月1日発行と)来る。1,900円なり。 7月12日 10:00津田小百合生来り、semi午まへまでやり帰りゆく。(※省略) 7月13日(日) 雨。ユ礼拝にゆく。午后稲田母上挨拶に見ゆ。cardちょっとやりしのみ。 7月14日 梅雨。鬱なり。外出せず。林マリ子病院より「おぢいちゃん元気?」と。(※省略) 7月15日 欝なれど試験監督の補助に11:30出て、(※省略)。 7月16日 鬱。ユ、斎藤病院に行き13:00帰宅。「林生いふこときかず」と。勝手に電話しゐると也。薬かへたまふ。 14:00外丸生来りいやいや読む(『太平御覧』)。16:00まへ去る。「美人なれば成績どうでもよし」と也。 井上源一郎氏72才で死にしと。(※省略) 7月17日 欝ややうすらぐ。暑し。夕方佐伯へゆけば本、来をらず。『国訳漢文大成』20冊にて4万円と。 北口の本屋へゆき『中国・朝鮮(900)』買ふ。(※省略) 7月18日 ユ、午まへ使に出しに平凡社より13万余来る。14:00森生来しに『魯迅伝』見せればもたずと。(※省略) 佐伯にゆき『国訳漢文大成』20冊たのめば3.8万に負けて呉る。京来て泊る。鬱ややのく。 7月19日 11:00出て成城民俗学研究所へ山田俊雄君の「庶民と漢字」といふをききにゆく。庶民の定義曖昧なり。 すみて16:00まで雑談。次は11月野口君と。研究所にtoilet出来しを喜ぶ。 新宿にてice-coffee(250!)のみ帰宅。眞野喜惣治氏より堺支局長と。嫁の音楽家なることを喜び来る。 7月20日(日) card少しやりしのみ。弓子、わが鬱見に3児つれて来る。 百瀬弘氏より電話「鈴木俊氏、癌再発。輸血にて生きてをり経堂の病院にあり」と。(※省略) 7月21日 暑さややゆるく16:00来し横江生に10冊以上本貸し、説明しをれば平凡社の知念(※知念栄喜)君より「来る」と。(※省略) 「杜甫・詩と生涯とでもして出したし。今少しまて」と。保田の父君一昨年か亡くなりしらし。20:30八王子の先へと帰りゆく。 けふ集英社より『白楽天』3版の稿料税込み540,000入金せしと。(※省略) 立原達夫君より暑中見舞。筑摩より『現代詩集』500部の印税1154円と。 7月22日 早起きし8:30成城着。(※省略) 真直ぐ帰り午飯くひ、あとtelevi見たりcardちょっとやったり勢なし。 京、夜来て泊る。哲夫軽井沢勤務が為なり。兼清より「吉村正二死去、けふ葬式」と報せ来しと也。(※省略) 7月23日 8:00さめ9:30斎藤病院へつけば満員。12:20診療「林マリ子退院さす」と也。(※省略) 家に電話すれば「松浦薫氏けさ2:30心血症で死亡」とユ。 東豊書店に寄り『太平天国(3,600✕0.9)』払ひ店主とともにラーメン食ひにゆけばおごり呉る。喫茶おごり返し帰宅。 18:30出て19:00すぎ松浦宅へゆけば枕経をよみをり。(※省略) 7月24日 7:00ごろさめ山住内科へ9:00ゆけば「水虫にて出川外科へゆけ」と。ゆけば(※省略)、4~5日分の噴きかけ薬わたさる。 12:00まへ出て成城。池田部長室にて「文芸学部文芸学科として文化史のこり、あとにて名義変更す」と。 (※省略) 教授会。(※省略) 18:20すみて帰宅。(※省略) 7月25日 百瀬弘氏より「鈴木俊氏逝去、お通夜今夜」と。(※省略) 川久保に電話し(正午)同行を約してのち午睡。 16:00ごろ花井タヅ子2嬢をつれて来る。(※省略) 夕食少しして時間となり(※通夜に)ゆく。東洋史の連中のみならず盛会なり。(※省略) 川久保とbus停にゆけば田川孝三氏と再会。今西春秋のこときけば生ける屍に近きやういひふらしをるらし。哀れなる哉や。 (※省略) 篠田統博士より中公新書『食物』いただく。 7月26日 7:00さめユと上野へゆき(切符2200×2)9:34の急行に乗り(※省略)高崎にて一旦下車(※省略)13:33追分着。 寮に到着届け別館に入れば15:00、4年みなと3年長谷川と来り、追分宿まで散歩に出れば飯田と中島と来り、出口と藤木不参と。 油屋の方へ歩き堀家の手前で堀夫人(※堀多恵子)に見つかり、ユ自動車にのせてもらふ。 われ長谷川生とあとにて参り、新寮の廊下にて茶いただく。他の学生も来しゆゑ油屋見せて3人にて早く寮へ帰る。 森生、竜胆買ひ来る。あとは菓子ももたずB館へ来て「卒論ブラ下れ」といひしあと花火を焚くと出てゆく。 7月27日(日) 7:00前に食堂にゆき朝食を横江生食はぬに気を悪くす。 「これにて別れ」といひ、ユと街道歩き沓掛にてbusに遭ひ軽井沢まで乗る(220×2)。 軽井沢の案内するつもりなりしも疲れて止め駅に出、10:50発にて小諸へ11:29着き、 そばとラーメン食ひして小海線にのり12:08発、八ヶ岳、蓼科みな見えざるに落胆しつつ4:52小淵沢着。 15:08の鈍行にて坐り18:47八王子着。われ鰻定食(1,500)食ひユ木の葉丼といふを食ふ(600)。 急行電車にて三鷹でのりかへ21:00ごろ帰宅。(※省略) 7月28日 9:00まで眠り終日在宅。(※暑中見舞 省略) 7月29日 晴。18:00家を出て松浦家へゆく。(※初七日 省略) 他に事なし。 7月30日 ユ、斎藤病院へゆき林父子に会ひしと。終日無為。 7月31日 (※省略) この4~5日極暑。 8月1日 暑し。(※暑中見舞 省略) よべ眠薬のまず。1年ぶり也。 8月2日 暑し。(※省略) 16:00七島生来り「虎」少しやり「諺」のところで参る。(※省略) 8月3日(日) 夫婦にて聖餐式にゆく。(※省略) 8月4日 暑し。鶴崎裕雄君来り(※省略) 8月5日 暑し。(※省略) 清水生来り「neuroseにて何も出来ざりし。一年留年す」と。「ゆっくりやれ」といふ。 (※省略) 高円寺へ散歩、都丸支店にて『英露辞典(350)』買ひて帰り来る。(※省略) 8月6日 暑し。(※省略) 佐伯にて『一億人の昭和史4(850)』買ひ来る。(※省略) 夜、久しぶりに雨。紀夫人より「比嘉一夫逝去、死亡広告に天満、我、永山の名貸せ」と。 永山やめ鈴木にせよといひ、(※省略) 8月7日 鈴木に電話して親友代表承知せしむ。8:00出て(※省略) 斎藤dr.すいてをり、1週間分薬もらひ東豊書店、(※省略) 12:30帰宅。(※省略) 川久保へ「夕食後散歩にゆく」と電話す。『江上波夫氏論文集』で専念すと也。 8月8日 9:30さむ。(※省略) 夕暮、増田忠氏来り長々と話し7万円置きゆく。『玉葉(1万円)』佐伯にて買ふ。(※暑中見舞 省略) 8月9日 けふも涼し。相野より「日野目先生7日逝去」と。(※省略) 8月10日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 8月11日 ユ買物へゆきし留守に美紀子来り「また地方転任なかりし公舎へ移るつもり」と。(※省略) 8月12日 やや涼し。高校野球なり。(※暑中見舞 省略) 8月13日 ユ、斎藤dr.にゆき13:15開開亭へラーメン食ひにゆき帰れば帰りをり。暑中見舞の返事かためてかき了る。 8月14日 よべ1封よけいにのみ9:00さむ。やや暑く、涼しくなりて佐伯へ本売り(1.5万)、ありし本にて 『朝鮮植物譜(2,500)』、『日本語系統論(1,800)』、『シルクロードの鹿(600)』、『江戸小咄本11種(4,000)』買ひ、の こり預けて来る。 鬱ややなほりし。前川緑氏より『麥穂』。(※省略) 眼鏡屋に行けば4年目にて「交換せよ」と。 8月15日 やや涼し。仕方なく高校野球見てをり。伊勢ジュン来り、近くの女画師のところへのcustilla家へおきゆく。(※省略) 8月16日 7:00ごろさめ午ねしゐしに(※省略) 佐伯へゆき『斎藤茂吉の生涯(2,500)』買ふ。(※省略) 8月17日(日) 礼拝休み散髪にゆく。夕方佐伯へゆき『もこの民俗学(1,900)』見つく。 8月18日 半日臥床。佐伯へゆけば本なし。帰り青樹堂書房と遭ひ戸田氏にゆき夫人にユの絵の礼をいふ。(※省略) 8月19日 無為。比嘉一夫夫人千恵子氏より弔電と花料の受取。(※省略) 鬱のかず家居。 8月20日 5:30さめユ起し、7:30斎藤dr.、No.4なり。(※省略) 帰りユと別れ東豊書店へ寄り、 『義和団関係6種(1.5万ほど)』借りしに1冊はdoubleなり。折から野原四郎氏の電話ありしに、 川久保のこといへば「国士舘大学ならいかに」とのことなりし。 暑がりつつ帰り入浴し午食し川久保にその旨いふ(中山八郎氏あたりにたのめと也)。 (※省略) 関口八太郎に電話すれば「80キロが2度の手術で55キロとなりし」と。丸のこときく。 知念栄喜氏より「編集会通った。『書き直せ』と。近々打合せに来る」と。(※省略) 『花信風8』来り「佐藤誠日月潭にあり」柳井道弘君「新学社の外郭団体」にあり。「保田母堂なくなられし」と。 夜、知念君来り、原稿用紙おき「11月ごろまで」と。21:30までゐて帰りゆく。 8月21日 8:00さめ宮本馨太郎氏より『東京』もらひゐるに気づく。台風また接近にやや涼し。 川久保夫人来りしも裸ゆゑ出ず。 8月22日 風吹き涼し。眼鏡屋にゆけば「出来をらず」と。ムッとして帰り来る。(※省略) 『杜甫』10枚訂正す。ユ、切り貼りに苦労す。(※省略) 体重計りしに40kgを越えをり。 8月23日 「眼鏡屋出来し」といふにゆきて長くかかり2.4万払ふ。弦かへれば5万円となるところなり。 ユ、画の稽古にゆく。(※省略)  けふも『杜甫』10p写す。書き直しやうなくて困惑す。 8月24日(日) 早くさめて礼拝にゆけず。終日無為。 8月25日 8:00起きて朝食中、8:30七島生来り12:00昼食のあとまで「虎」を訳さす。(※省略) 疲れて昼寝2時間、佐伯にゆけば本来てゐず。(※省略) 8月26日 涼し。京来りし故「金曜17:30新居にゆく」と約す。 佐伯へゆけば『国語辞典』来をり5,200とかに700払ひ貸借なくなる。(※省略) 『杜甫』36枚まですむ。直しやうなし。 8月27日 悪夢みて早くさむ。何も出来ず。伊勢ジュン子来る。(※省略) 夜、丸重俊来り考古学の本もちゆく。 8月28日 5:00さむ。30℃にて家中は涼し。午后芙蓉堂にゆき『八ヶ岳(350)』、『大英博物館(230)』買ふ。 主人「大学にて本買ひくれよ」と。(※省略) 8月29日 9:00さむ。午后竹森先生に電話すれば「明日讃美歌委員会」と。(※省略) 京のapartにすしと菓子もちゆき食べ了り、日暮れにふと浅野(※建夫)未亡人にゆくと思ひつき、 busにてゆき画の制作中なるを知る。晩年躁はげしくAC中(※アル中)気味なりしと。(※省略) 8月30日 9:00さむ。睡くてたまらず9:30木村繁喜君より「来訪」の電話にユ、独断にて応ず。 われムクれて「会はず」といひ12:00近く来しをユ、門前にてつかむ。菓子の交換してすませし。 (※省略) 丸重俊『柳田国男研究3-8』を2,460にてもち来り呉る。 そのあと1、29所在わからなくて参る。ボケしなり。(※省略) 8月31日(日) 64回目の誕生日。5:30さめ讃美歌原稿ユに写さしめてゆく。 礼拝すみ披露すれば10.7. 10.7ならず8.6. 8.6調とて603番直して定まる。(※省略) うちわもらひし山川(※京子)女史に礼状かき、未定の詩入れる。 広島県の某大学教授より『文藝文化』と木下夕爾との問合せ忘れし。再刻版を見たまへとかき了へ、 西川英夫に電話す。「元気」と。 9月1日 3:00さめまた寝て9:00さむ。(※省略) 知念栄喜君より「韓国で印刷する。9月中に出来上らぬか」と。「10月半ばまで待ってくれ」といひてすむ。 (※省略) 鬱なり。トボに電話すれば泰、太き声なり。 9月2日 9:00さめ10:00菊池葉子来りsemi、14:00まで。そのあと午睡し16:00さむ。 夜までに『中国の草木』の註かく。ユは『杜甫』を貼る。横山学より『琉球新報』の抜刷! 9月3日 7:00さめユを先に斎藤dr.にゆかせ10:30着けば患者多く13:10まで待たさる。(※省略) 栗田のぞきヱハガキ(100)買ひして帰宅。 山川京子氏より「あの詩、機会を見てのせる」と。(※省略) 9月4日 8:30さめ9:00より『中国の草木と人間』190枚かき了る。(※省略) 佐伯へ雑本もちゆき800にて売り600にて買ひ来しはdouble。 19:00大坂みどり嬢、叔母と来り28才なれど可愛し。19:30北沢画伯夫人石倉誠君と母とつれ来る。(※省略) 『杜甫』46枚となる。 9月5日 悪夢見て3:00さめ11:00まで再び眠る。森岡清美博士より「300×160書きあり」と。(※省略) 山住dr.にゆき「ねびえ」いひ、薬もらふ。(※省略) 9月6日 8:30起床、下痢やまず。10:00七島生来り11:30去る。(※省略) 『杜甫』55枚となる。 9月7日(日) 5:00起床。下痢やまず。夕方『杜甫』60枚となりとのみ。(※省略) 9月8日 9:30起床。下痢やまず山住dr.にゆく。(※省略) 21:00高橋重臣君来る。 9月9日 よべ3:30また薬のみ8:30高橋君起き来る。11:30まで話し500置きて帰りゆく。 ユ、荻窪へ縁談とてゆき17:00川久保来り茶も出さず話す内、帰来。 川久保、曽我部博士の斡旋にて口見つかりし様子也。(※省略) 9月10日 21:00ね、7:30さむ。斎藤dr.につけばNo.4なり。(※省略) 東豊書店に寄り『古都風物(1,010)』借り合計1.6万余借りと なる。 帰宅すればユ、うしろにをり。(※省略) 14:00花井タヅ子和田節子2夫人来訪。 10分話せしところへ滝沢勉来り、2夫人帰りし直後の17:00までよます。(※省略) 佐伯にて『熊楠全集(3,150)』の最後来りしに『鳥居龍蔵全集』注文す。『杜甫』かかず。 9月11日 弓子母子来る。(※省略) 山住dr.へ胃の薬もらひにゆく。 9月12日 暑し。(※省略) 9月13日 暑し。30℃を越す日のrecordと也。散髪にゆく。棟方志功逝去と。『杜甫』71枚目。 9月14日(日) 礼拝にゆく。(※省略)  『杜甫』78枚目。(※省略) 9月15日 9:30起床。(※省略) 9月16日 依子より老人の日の贈物つく。(※省略) televi見つづけをり。 9月17日 斎藤dr.にゆけば代診にてNo.6。(※省略) 東豊書店にゆき落丁ありし1,010の本返し1.6万払ひ、 『掌故漫拾(420)』買ひて帰りて午食。舟越君(※舟越清)より「台湾病なほりしや」と。 滝沢生来りsemiやり(※省略)、『杜甫』84枚目すむ。 9月18日 暑し。13:00七島生来り16:00までやりゆく。(※省略) けふ集英社243,000平凡社142,500入金と。(※省略) 9月19日 滝沢生来しゆゑ田中ゆかりの父に(※就職斡旋)「たのむ」とかく。 9月20日 18日間30℃を越す。林富士馬、森岡博士へハガキ。タヅさん来り姑とやりあひをり。(※省略) 9月21日(日) よべ3服のみ眠りしも7:00さめ教会へゆけず茫然として、16:00ごろより『杜甫』104枚となり。(※省略) 9月22日 5:30さめ10:00ごろ再びさめる。13:00津田小百合生来り少しだけsemiやり帰りゆく。 (※省略)  『杜甫』112枚となり(※省略)、津田生の父、飯田中学の同窓会名簿しらべ「佐藤八良若死せし」と。 9月23日 朝のうち『杜甫』やり、滝沢生来り(※省略)、西川に「関係会社にたのむ」とかき疲る。 9月24日 夫婦とも10:00さめ14:00川久保へゆく。躁となりし也。夜、『杜甫』本文すむ。 9月25日 8:00さめ9:00起く。『舊滿洲檔』東洋文庫より来る。 『信徒の友』より「10月10日までに詩を」と。(※省略) 9月26日 8:30さめ11:00新宿。(※省略 成城大学) semiにゆけば2人休み。(※省略) 川久保のすむを待ちしも講師室に来ず。弁当半分くひしを持ち帰り食ふ。(※省略) 9月27日 10:00七島生来り「虎」やり13:00帰りゆく。疲る。(※省略) 9月28日(日) ユ同窓会とて休みわれのみ礼拝にゆく。(※省略)帰りて明日の東洋文化史の予習やりをれば、 横江ゆう子『瀛涯勝覧』返却に来り。(※省略) 9月29日 9:00すぎさめ朝食、あすの古典の予習をす。(※省略) 12:30出て成城大学。(※省略) 9月30日 不眠なれど仕方なく8:10登校。(※省略) 10月1日 ユを促して8:30斎藤dr.にゆかしめ10:00来し津田小百合とsemi。 13:00近く帰りしユの買ひ来しギョウザ食はせしあと、ちょっとやり、散歩に高円寺にゆき、 黒川洋一『杜甫(750)』買ひ帰宅すれば加賀山弘来る。(※省略) 23:00までかかりて『杜甫』すむ。2章ふやせし也。 10月2日 4:00さめ7:00まで『杜甫』やり本文すむ。10:00菊池生来り起され、朝食しながらsemiやる。 11:00知念栄喜君来り原稿もちゆく。「あとがき」一週間以内に届けることを約す。 菊池生13:30まで午食ぬきにてやり紅茶沸かして帰る。われ14:00出てラーメン(200)食ひて登校。 17:30教授会すみ(※省略)19:00帰宅。(※省略) 10月3日 8:30ごろ起され『紀要』の原稿3編もち中央公論事業出版社へゆく。渡して「12月中に出してくれ」といふ。 新宿駅でsandwich(200)買ひ食べて川久保の来るを待ち、(※省略) 13:00となりsemiに出れば、 (※省略) すみて大学院。(※省略) 帰りて疲れ(※省略) 23:00再入浴、眠る。 10月4日 8:00さめ9:30散髪にゆく。〒なし。(※省略) HiltonHotel探しまはりゆけば16:10。 (※柏井光一・野崎カヨ子結婚式 省略)  カヨ子178cmにて今後もModel業勤めると也。 10月5日(日) (※省略) 『杜甫』のあとがき5枚かく。 ユの買物中、電気屋来り、televi赤を除きて出るやうにし2,800と。(※省略) 10月6日 台風一過。晴れ。午后登校。4時限目東洋文化史「Polo東漸」をやる。(※省略) ゆきがけ『杜甫』あとがき400×8を知念氏に送る。 10月7日 6:00起され7:00家を出8:20登学。(※省略) 夕食前、宮崎智慧さん来訪。 10月8日 (※省略)9:30さめ雨中斎藤dr.にゆけば21番なり。(※省略) 東豊書店にゆき『中国高等植物図鑑4(1,840)』来しを喜び採りしに『雙梅景闇叢書(4,800)』出し来る。『素女経』等5種の合本也。 『東北地方沿革及び其民族』とりかへ『清初流人開発東北史(120)』とり『中華諺海』の改訂本(1,000)とにて金なくなり帰宅。 (※省略) 『信徒の友』へ「山上の墓地」書き了へし所へ竹内好より電話 「あす後藤孝夫の泊りゐる神田学士会館へ来れ、中野清見も来る」と也。「喜んでゆく」といふ。躁なり。 10月9日 9:00『信徒の友』へ原稿「山上の墓地」速達、中公事業出版社へ書留速達すまし(※省略) 17:30学士会館へゆけば、やがて中野清見来り、高垣金三郎、竹内好と後藤とにて5人となる。 毎日新聞社の下へゆき魚くふ。高垣、後藤ともに無職と。21:30までをり5千円づつ割勘とし、 竹内と地下鉄東西線にて中野。満員の急行に乗換へて帰宅。うどん食ひ入浴して就寝。(※省略) 10月10日 7:00起き10:00七島、菊池2生来る。(※省略)12:00前に帰りゆく。昼食後かねての計画通り上川霊園にゆく。 (※省略) 帰宅17:30。暗し。(※省略) 10月11日 7:00さめ終日無為。ユ、戸田女史に画を習ひにゆく。 10月12日(日) 6:00さめ、ユ「3:00よりさめし」といふにpão焚き独りで礼拝にゆく。(※省略) 長島君誘ひて喫茶、帰りて東洋文化史の予習をす。 10月13日 8:00さめ(※省略) 神田信夫君より松村・岡田2君の動静。 12:00花井タヅ子夫人来り13:00近くなりし故1万円もちて登学。(※省略) 置き傘もちて東豊書店へゆき6,400の借金払ひ、マカートニー『中国訪問使節日記』の坂野正高訳(1,000)買ひ来る。(※省略) 10月14日 よべ睡眠感なきも7:30出て8:20成城大学。(※省略) 大学院(※省略) 茶にさそへば菊永西條2生来り駅向ふでcoffeeのみ帰る。 佐伯書店『国語大辞典』と『鳥居龍蔵全集』とで14,040と。夕食後もちゆけば40円まけ呉る。(※省略) 10月15日 けさ9:00までねて不眠回復、10:00菊池生来り(※省略)14:00前去る。西山松之助氏の論文よみ了る。 10月16日 5:00さめ(※省略)だるし。10:00津田小百合生来り(※省略)。14:30出て登校。16:00より教授会(※省略) 18:00すぎて馳走にて駅前の本屋で『日本古代語と朝鮮語(950)』買ひて帰宅。 10月17日 よべ眠れ11:00名古屋の麺食ひて登校。(※省略) 10月18日 よべもよく眠り10:00起き午食せずに民俗学研究所にゆく。(※省略) 16:30すみ雨中帰宅。(※省略) 10月19日(日) 夫婦とも10:00まで眠り礼拝休む。ユ、展覧会に絵出品せしとて忙し。14:15七島生来りほぼ読訓了る。 10月20日 よべ早く床に入りしも眠れず。朝食を床でとり12:00出て成城大学。(※省略) 佐伯にて『コヒマ(300)』買ふ。 10月21日 7:30出て8:30着校。 「中国古典」予習分やり「鮮人画家の世話す」と伊藤博文よりきき、 母の館へゆきX線とられ心電図とられ帰りて昼食(高田瑞穂に会へず)すませて山田君とちょっと話し、大学院すませて早川夫人と大塚生と喫茶。 大塚生「中村真一郎に手紙出せば、堀内(梅ヶ丘の本屋より)「田中先生によろしく。10年たてば再版出ん」」と也。中村真一郎伊豆にて病臥と也。 夜、小林生より電話「来月22日挙式する故出よ」と。45年卒業生なり。 10月22日 8:00起き9:00前出て10:00近く斎藤dr.。No.13なり。(※省略) 東豊書店に寄り本3冊ひ『京大東洋史辞典(4,050)』借りて帰途、山住閣下夫人に遭ひ「ごぶさた」といへば「いいえ、いいですよ」とのことな りし。 外丸佳代子生15:30来り3時間よませ「あす午后また来る」といひて帰る。(※省略) 10月23日 8:30さめ午食まで茫然としをり。15:00外丸生来り7:30まで「中国の結婚」の史料よます。 ともに出て家まで送り丸家へゆけば丸1人をり「立居不便にておしめしをり」と。 (※省略)「中野清見に便りせよ」といひ駆足にて19:00帰宅。気の毒なれど致し方なし。(※省略) 10月24日 11:00起き飯くふ。ユ三鷹へと出てゆき我予習にて疲る。(※省略) 10月25日 曇。9:00起き10:00散髪、11:00前に帰宅すれば小林生来る。「相手は2才年下の成城経済出の水上君」と。つれ立って万年筆屋へゆき Parker(2,500)を祝に渡す。 佐伯に寄り『北京収容所(230)』買ひ(※省略)、14:00七島生来り「中国の虎の諺」となる。17:30帰りゆく。 10月26日(日) 8:00起されユと礼拝にゆく。(※省略) 伊勢ジュン、電話して来る。 10月27日 9:00起き12:20昼食をすまして出、13:10登校。 東洋文化史すませて出、東豊書店に寄り『ワーズワース詩集(100)』買ひて帰宅。 (東豊書店にてもと聖心女子大の鴻巣博士に会ひ漢文法三個条を写さる。今は立教大にて浅野晃もうやめんと也。) (※省略) 「角川源義、肝臓癌にて死亡、58才」と。 10月28日 雨。6:30うとうと夢見てゐて起され7:30出て成城。(※省略)13:10よりの大学院入試、漢文出題は中西進氏なりし。 (※省略) 帰宅。ユ、けさ千草より「(※青木)陽生死し。今夜お通夜、あす町田の寺にて13:00より葬儀、大、咲耶も出る」由なり。われユに 「ゆけ」といふ。(※省略) 10月29日 9:00さむ。ユ、午食に糕子10本買ひて青木陽生の葬儀にゆく。(※省略) ユ帰りてきけば「妹たち泣きし」と也。咲耶、大、寿一夫婦、林敏夫夫人など列席と。 千草、ユに「生前お世話になりまして」といひし由。 憎しみも悲しみもなく弟といはれずなりし人を思ふも。 10月30日 雨。ユと12:30出て南元町の史の新宅にゆく。(※省略) 14:00出て登校。(※省略) けふ栗山博士、胃の1/3を残せしと高田君より聞く。 雨やみて佐伯に寄り『和英辞典(300)』買ふ。(※省略) 10月31日 雨。寒し。夕方川久保より電話「けふ病気したか」と。休みにてはなかりし也。(※省略) 木村三千子氏より「『骨』やめんか」と。 11月1日 晴。他出せず。13:00ユ画にゆき14:00七島生来り、下よみすむ。 17:00ユ帰宅。七島生紅茶飲みて帰りゆく。(※省略) 11月2日(日) 8:00起され朝食すまし、眠くてならず聖餐式休む。(※省略) 11月3日 よべ(※眠剤)白一つぬきて眠る。11:30大来り、12:00すぎ咲耶、幸夫かんなと2孫つれ来る。(※省略) 『自彊会報』来り「西宮重和氏(18期)同窓会長となりし」。我「吉村正二の危篤きき声をあげて慟哭した」と也。 11月4日 よべも一つぬきて3:30まで眠れず。(※省略) 津田小百合生来り「資料の訓すみ、あと下書にかかる」と喜びて帰る。(※省略) 11月5日 よべ5ケのみて眠り、14:00菊池生来るをまち、これも大体すむ。(※省略) 角川より『津村信夫全集』の書報原稿料18,000来る。(※省 略) 11月6日 雨中、久しぶりに外出。成城の学科会にゆく。蒲田女史に「ご苦労」といへば「神経使はず平気」と!(※省略) 11月7日 夜中雨降り、睡眠感なく(※省略) 登校。(※省略) 柳井道弘より詩集送らる。 11月8日 よべ睡眠感なし。11:00昼食兼用の朝食、15:00柿もちて外丸生来り「太平御覧」よませ序文なるもの60枚おきゆく。 (※省略) ユにいはせればまた「鬱」と。 11月9日(日) よべ1服足して眠れず。(※省略) 13:00すぎ外丸生来り、序論の直しわたす。(※省略) 克次朗、孝行連れて弓子来り、わが鬱見て帰りゆく。(※省略) 11月10日 10:30さめ、ね足りをり。13:00すぎ出て登校。蒲田女史より「文化史の特徴をわれにも西山氏にもたのまん」と也。「承知」といひ(※省 略) 天理より『Biblia』他。(※省略) 11月11日 3:00ごろ就眠。「休講」の電話たのみおけば中央公論事業より「再校と原稿ともち来りし」と。(※省略) 11月12日 よべよく眠り11:00起きる。昼食兼帯くひ、太田夫人(夫君の著Burma語に訳されしを見す)を迎へ話す。(※省略) 波多野博士18:30夕食すませしあと見え、うどんとる。本1冊もらふ。 (けふ『榎博士還暦記念論文集』来り、阿南君わが説を最後に引く) 11月13日 6服のんで眠る。10:30さめ滝沢生11:30来しを14:00まで教へ、昼食すまさせて帰す。16:00近く登校。 上原君(※上原和)「亀井勝一郎賞もらひし」とて柏手。小教授会にて上原君、舟越講師(※舟越清)の審査を我とし決める。Nietzscheの専 門家なり。(※省略) 11月14日 10:00起き朝食し、午食もちて12:00登校。(※省略) 14:10研究所へゆき来年度の予算と姜生の処遇につき相談受く。 帰れば知念君「19:00来る」と也。夕食すませて待てば来り、わが「あとがき書き直せ」と也。21:00八王子へと帰りゆく。 佐伯で『ニーチェ(1,000)』見つけて借りて帰る。 11月15日 10:00菊池葉子生来りて起床。その1時間して帰りしあと朝食。(※省略) 「学校より」と外丸生電話かけ来り「来よ」といへば15:30来て、ユの帰るまでをり「可で結構」との由、疲る。 加賀山文子より「集英社1,000人受けてダメなりし」由。 11月16日(日) 終日家居。披露宴へとユゆく。(※省略) 11月17日 よべ眠れず。斎藤dr.へ10:30ゆけば6番、若先生の診断(※省略) 12:10成城大学(※省略) base-up差額支給(※省略)もら ふ。(※省略) 11月18日 よく眠れて安心。8:20ごろ成城へつき(※省略) 西山博士の来訪を待つ。「赤穂の人」と也。 (※省略) 朝日新聞に「阿南惟敬君54才にて心臓病で逝去」とありし。 11月19日 終日家居。何もする気なく、夕方ちょっとsemiの予習をす。 11月20日 散髪にゆき(※省略)、夕方、中央公論事業出版社より「中国の草木」草稿の校正もち来り、新カナ旧カナにて困りゐる様子にやむを得ず新カナに直し て半分すむ。(※省略) 11月21日 登校12:00。semiすませ大学院へゆけば「中間発表は今日でなし」と。けふは寒し。 11月22日 斎藤病院へゆけば「院長(※斎藤茂太)診察」とて満員。(※省略) 早めに帰り14:00清水生来るを待つ。(※省略) 15:30出て品川まで国鉄でゆき高輪Prince Hotelへ16:00着。(※小林生披露宴 省略) 帰宅22:00。(※省略) 11月23日(日) ユ、礼拝にゆく。(※省略) われ「中国の草木」の校正了る。(※省略) 11月24日 8:30起く。滝沢生14:00来り、(※省略) 11月25日 7:00起き、8:10登校。(※省略) 菊永生と茶のみて帰宅。(※省略) 佐伯に『鳥居龍蔵全集2(8,800)』来をり、ユに払ひにゆかす。 11月26日 8:00起き、午食まであそび、ユの使ひに出しまに舟越君の『Nietzsche論』よみ、ぬきがきす。疲れたり。(※省略) 11月27日 14:00出て国鉄st.の為地下鉄にて新宿。成城へゆけば「教授会延期」とありすぐ引返し地下鉄にて帰宅。雨降る。 11月28日 11:00出て新宿まで地下鉄。売場の混雑見て登校。(※省略) 11月29日 8:30起き、髭そらず斎藤dr.にと地下鉄。ゆけば茂太先生不在とてすいてをり。11:00伊勢丹に寄り栗山博士へ御見舞と毛布(5,000) 送らす。(※省略) 本荘健男君より夫人逝去につき年賀ことわり状。この間偶然にも畑忠良大将未亡人と同車せしもそのことはいはれざりし。 滝沢生14:30来り、2時間ほどゐて章節きめさす。(※省略) 11月30日(日) st.のため礼拝にゆけず。終日家居。(※省略) 12月1日 寒し。本荘健男君にくやみ、(日置)相澤千春生に慶賀のハガキ。(※省略) 13:00出て地下鉄南阿佐谷にゆけば列をなしをり。(※省略) 七島生の質問受け、(※省略) 帰りて清水生の下書直し、(※省略) 12月2日 6:00さめ7:00地下鉄にゆき7:30登校。(※省略) 『成城文芸』(※校正)出来をり。わが「マンジュ語の漢文表記」のす。目につきし誤 植を訂正し、(※省略) 崔君(※崔吉城)を喫茶にさそひ、帰宅すれば滝沢生「今、学校。来る」と。外丸生来り注意与へゐる中、滝沢生来り、夕食して20:30帰りゆく。 (※省略) 12月3日 外出せず。丸重俊電話かけ来しゆゑ「来よ」といひ、来りしにお年玉のXmasの祝辞かき「その内Dapperの訳文送る」といふ。(※省略) 12月4日 よべ眠れず朝ちょっと眠り、(※省略) 杉山平一君、televiに出しを見れば老いたり! 京来り「7月出産」と。 滝沢生16:00来り、夕食し20:00帰りゆく。 12月5日 11:00出て11:30登校。semiに森をり「就職きまりし」と。(※省略) 帰宅すれば「千川夫人も死にし」と娘より。(※省略) 印刷屋へ年賀ハガキ500枚たのむ。 12月6日 11:50までに登校。12:00よりの部長室の会場で「民俗、人員不足」とてわれは中国民俗やるときまり、(※省略) 横江生来りしゆゑ注意す。(※省略)  (東豊書店に寄り教科書注文し『中外俗語典(1,120)』借りて帰宅。) 12月7日(日) 礼拝にゆかず。菊池、津田2生14:00来り、清書のみとなりしと喜びて帰りゆく。(※省略) 12月8日 9:00起きて13:00登校。蒲田女史、学長の挙ぐる候補者にて怨みいふ。あす4人にて相談せんといひ、東洋文化史にゆき懇々とたしなむ。(※ 省略) 依田君(※依田義賢)あて「山上の墓地」送る。末吉より1昨年の写真来る。 12月9日 7:00さめて8:10登校。2Dの遅刻とがめ、鎌田、野口、新城3氏と学科会。学長の推薦は前例なしと一致。(※省略) 寒雨の中帰宅。 知念栄喜君より17:00電話、(※省略) 来りてあとがき短くせしを渡し、夕食すすむれど食はず。(※省略) 12月10日 10:00すぎ(※省略)、横江、都丸の2生来り、(※省略) 16:00美紀子、柏井歯科へゆき今井へ寄り、われへ衣類もち来り、飯食ひゆく。 (※省略) 12月11日 11:00横江生来り、13:00帰りゆく。早めに出て教務課にゆき、(※省略) 16:00より教授会。4教授昇進、最後がわが主査の舟越君に て、 ドイツへゆく送別に助教授を、といひ皆大笑してすむ。厨川、築島2博士と同車して帰宅。 滝沢生来り、直せし下書もちゆきしと也。後期bonus(※省略)。 12月12日 6:00さめ睡眠不足なれど仕方なし。12:00出てゆき15分前に川久保の来りしと話し、semiにゆき(※省略) 佐伯にゆき『日本語大辞典(5,220)』借りて帰る。(※省略) 「不二」に5,000送ることとす。(※省略) 夕方、紀要のわが分来る。 12月13日 9:00さめユを先にゆかし髭そりてゆけば(※斎藤dr.)超満員にて30番と。 東豊書店にゆき『学生字典』1冊もらひ、陶希聖『清代州県衙門刑事審判制度及程序(480)』買ひ12:00斎藤dr.へ引返し、ユを先に帰ら す。 「不二」に5,000送りしと也。14:00近く帰宅(先生Mexicoへゆきたまひし也)。(※省略) 15:00来りし清水生叱り菊池生来しに同坐せしめて直す。(※省略) 「中国の草木」再校半分やりて20:00となる。 12月14日(日) よべ眠れず睡眠薬、ふろ、と色々手を尽くし2時間眠り6:00さむ。ユ起し礼拝休むこととし、 午まへ佐伯にゆき『外来語辞典(640)』と『国文学 日本の神々(470) 』にて10円まけてもらひ帰宅。(※省略) 後藤均平君より『ベトナム救国抗争史』賜はる。 12月15日 よべ10:00にねて8:00さめ十分眠れたり。10:00出て中央公論事業出版にゆき再校わたし、(※省略) 「50万請求せよ」といひ、 出て西川に会ひにゆき、丸のこといへば(※東京建物の)株もちをり1万2千円の配当と。成城へ12:00まへ着き、(※省略) 成城堂で2,000ほど本買ひ、(※省略) 帰宅。夕方中央公論事業出版の人来り、(※省略) 12月16日 6:20さめ7:30出てゆるゆると8:30講師室へゆき「中国古典」8:40にて閉め出し1:25やり講師室にあやまりに来しを皆ゆるす。(※ 省略)、 大学院へゆき横山に引っぱられし連中をしてものいはしむれば、皆成城より来り、中西semiの湯川久光と早川素子と2人文句つける。 すまして出れば連中、喫茶店へとゆく。菊池生に「お前、代表として意見進言せよ」といひ、帰れば、(※省略) 川久保をり本貸せと。 whiskyのませて18:00ごろ帰りゆく。(※省略) 12月17日 9:00さめ10:30山住閣下にゆき謡きき、戸田氏へ歳暮もちゆけば奧さん出て会はせず。午后散髪にゆき、 16:00ごろ来し美紀子、雅子、淳一にXmas presentとして1万円やればユと買物に出てゆく。(※省略) 12月18日 よく眠り、一日中炬燵に入りをりしも、午后出て佐伯にゆけば『鳥居龍蔵全集(8,220)』第3回来てをり。『ユリイカ(450)』、『古代朝鮮 語と日本語(1,400)』買ひて帰宅。 (※省略) 夜、丸重俊。韓国の招待につき韓国行辞退すべしといはれしと。「同行1人とともにゆけ。右翼といはれるわけなし」といふ。23:00 すぎ。 12月19日 8:00中野清見より電話「17:00阿佐谷駅出口に来い」といふ。(※省略) 16:35駅にゆけば中野清見みえず。佐伯にゆき『チリマシホ別冊2(4,200)』とり、ゆけば30分前来り、前住所の辺りをうろつきゐしと。 つれ帰り鰻丼くひてのちゆくこととし、whisky3杯のませ高円寺へと歩きそめしは19:00まへ。 丸家へつきて重俊呼び、(※お前を)右翼といふものの名をおぼえよといひ、昔の噂し、 20:35「ゲーリークーパー見る。重俊に東高円寺まで案内させよ」といひて駈足にて帰宅。21:05より映画はじまる。 12月20日 10:30弁当もちて登校。わがsemi、1人もをらず。13:00より民研で「中国の草と木」の講演す。すみて急ぎ帰れば16:00。 皆、本返却に来り、森生と滝沢生のみ返さず。(※省略) 12月21日(日) 7:40ユとともにさめ急ぎて仕度しX’masにと教会へゆけばNo.1の男子席。 すみて協会設立の祝とてX’masのlunch party。竹森先生の『ダビデ(1,000)』分かたる。(※省略) 佐伯にて『日本史辞典(3,800)』買ふ。(※省略) 名古屋の望、泰よりX’mas presentの礼の電話あり。「25時」のtelevi見る。 12月22日 7:30さめ9:00東豊書店に電話かけ、ゆきて『学生辞典』70冊、『太平天国』の川久保の残り、『隋唐五代中日関係史』60冊予約し登校。 教授要目かきて出し、ユ待てば12:00前来る。本棚組立て旨くゆかず校務員に2千円わたしてたのみ、(※省略)出て卒論4包もちてtaxi、2 千円渡す。 帰りて、(※省略) 美紀子来りX’mas eveに信濃町教会へゆくと也。(※省略) 12月23日 よべ3:00さめtoiletにゆき1服のみたし7:30起きユを起す。(※省略) 「杜甫年譜」かき了へ(3枚)、講談社に電話すれば「知念君、中谷孝雄のところへゆきをり」と。 不二歌道会より電話「林房雄の会に出席するや否や」と。「(※断るために)狂気しをり」といふ。小高根二郎のところきかれて教ふ。清水文雄のとこ ろもと也。「木山捷平は」といふに「死にし」といへば「ヘエー」と也。大久保某(※大久保典夫?)のところもきかれ「われそのため狂気」といひて すむ。(※鶴岡善久と混同してゐるか。) (※省略) 12月24日 7:30さめ9:00斎藤Dr.。14番なりしも11:00診察、2週間分の薬もらひ『兄弟関係(※斎藤茂太著書)』にdignいただき 13:00帰宅。(※省略) 12月25日 7:30さめ柏井へゆかんとすれば休みと。 知念君10:30来り、朝鮮よりの布の見本見す。年譜わたし田木繁の『杜甫』渡し地図作らせよといふ。 televi見て13:30出て栗山理一邸にゆく。痩せしも1/3の胃にてゆくと也。(※省略) 12月26日 3:00起きtoiletにゆき1服のみ8:00さむ。柏井歯科、技士休みにて来年と。 弓子3孫つれて来る。 12月27日 7:30さめ10:00までに賀状かき了る。美紀子あす来ると。京「17:00来る」と。 夜20:00詩篇23訳し了る。(『信徒の友』より1月15日までに詩をと。) 12月28日(日) 7:30起き独り礼拝にゆく。会衆少し。(※省略) (※讃美歌詠唱)605すむ。 長島君さそひて喫茶、帰れば(※お歳暮 省略) 京17:00去り、中央公論社より『日本の詩歌』文庫本とする故、履歴訂正附加せよと(1.15)。 12月29日 8:00さむ。福地邦樹より「義母の喪中、家建てた」と。卒論(※閲読)5冊目すむ。 12月30日 7:30さむ。家居。松浦母上より「喪中」と。神田信夫氏よりManju語の訂正。上川霊園より来年度地代値上と。 12月31日 7:00起きる。『農業大辞典』下見する。午后早稲田のXtianと称し子供らのための人形売りに来しを叱り帰す。 田中克己日記 1976 【昭和51年】  体を気遣ひ仕事は減らさなくてはならないはずですが、文業においてはこの昭和51年に『杜甫伝』の出版があります。  戦時中に執筆した評伝、日本評論社(東洋思想叢書)の『李太白』の評判がよく、酒飲みでもない自分に以後、李白についてお鉢が回ってくることになったと頭を掻いてゐた詩人ですが、杜甫のことは「中国では最も好きな、李白よりも書きたかった詩人」と、常々公言してをりました。 『杜甫伝』あとがき  「腹稿はすでに成っていたが」とあるのは、おそらく昭和21年の誕生日に書き了へたと日記にある200字詰492枚の原稿のことで、 これを金尾文淵堂から出すつもりだったのが倒産で頓挫、そのまま熄んでしまったのは同年に評伝『杜甫』(齋藤勇)が先に世に出てしまったことが関係してゐるかもしれません。  李白の後、白楽天、この杜甫と続いて、あと蘇東坡が四大詩人では残ってをりますが、こちらも昭和58年に研文出版から出されます。 ただし研文出版は中国関連の学術出版社ですから、装丁もすばらしいこの『杜甫伝』が一般書としては最後に売れた評伝本といふことになりましょうか。  顧みればこれまで、 筑摩書房『李白』『中國后妃伝』 集英社『白楽天』 角川書店『ハイネ恋愛詩集』 文藝春秋社『大世界史』 中央公論社『日本の詩歌』 平凡社『唐代詩集 李白』『天遊の詩人 李白』 講談社『杜甫伝』  と、大出版社からそれぞれひと通り本を出してゐるのは圧巻です。  しかし逆に言ふと、一社の専属にならなかったのは何故でしょうか。  いづれの執筆においても、漢詩文の教養の足りない戦後の読者からすると、簡古を尚ぶこの詩人らしい筆致は省略に過ぎて必ずしも読みやすいとは言ひ難く、 解説の行き届いた後発本に若い読者が移ってゆくことがあったかもしれません。 また編集担当者から恐れられ、次第に敬遠されるやうな風評の結果もあったかと、これまでの日記を読んできた者には邪推もされるところです。  『杜甫伝』の影響については、未見の木村という人物から「杜甫の真筆があるからお墨付きをいただきたい」旨の打診がしつこくあり、 直接家に訪れた本人に箱書をしてしまふのですが、怪しい現物の行方が気になります。  学校での出来事は大幅に割愛しましたが、当時日参してゐた成城大学正門前の成城堂書店、代々木の東豊書店、阿佐谷駅南口にあった佐伯書店での購入書目は欠かさず記しました。いづれの本屋・古本屋も今はなく、さる2019年東豊書店閉店のニュースに接してさびしい限りです。    この年の出来事 1月 檀一雄死去。 1月、6月 西島寿一を介して影山正治からの面会希望を聞くも無視。 3月 西島寿一との談話を録音。(4月 寿一娘千枝子の結婚式。) 3月 『杜甫伝』校了。 4月 不二歌道会よりの原稿依頼を無視。 5月 神田(※喜一郎)先生より「杜甫ばやりの白眉」とおほめ。 5月 本位田昇死去。 8月 長沖一死去。 10月 未知の人から杜甫自筆書なる書幅への表書を頼まれて応ず。 昭和51年 1月 1日~昭和51年12月31日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 7:00さめ9:00賀状来る。教へ子より206枚。親族知人より239枚。京夫婦17:00来り21:00すぎ帰りゆく。 1月2日 9:00さめ賀状帝塚山卒までかき投函にゆきしのみ。午后金子、佐藤をつれ来る。 大(※西島大)、来り「母来る。仕事出来た」とすぐ帰りゆく。檀一雄、九大病院にて癌にて死去。63才。 1月3日 8:00さめ9:00すぎ天理の高橋君に電話すれば6日来ると也。賀状成城卒業生ほぼすむ。 1月4日(日) 礼拝にゆき石田嘉子来るかと12:00帰宅。18:00ごろ東京駅より電話「今より来る」と。(※省略) 19:00まへ来る。飯くはせ丸重俊呼び21:00となりし故、宿所へと護衛せしむ。(※省略) 1月5日 9:00すぎ石田生より電話「阿佐谷駅にをり」と。ゆけばみつからず佐伯に電話かり『女訓蒙(4,100)』借りて帰ればをり。 丸重俊のこといへば悪口もいはず。14:48の新幹線にて帰阪、20:30すぎ帰宅と電話あり。 賀状成城在学生をのぞき殆どすむ。 1月6日 賀状まだ来る故、ハガキ買ひにゆく。17:00高橋重臣君来り熱海に奧さんをりと帰りゆく。 入れ違ひに寿一(※西島寿一)来り「山岸外史に会ふ。影山正治氏会ひたがりをり」と。 21:00電話すれば「娘X教の結婚式」とスガ子。佐伯で『チュチェの国(200)』買ふ。 1月7日 よべ2時間眠り9:00さむ。ユを斎藤dr.にゆかしめ13:00弓子、宏一郎をおきて来る。 夕方西島恵子来り、伊勢の赤福餅呉る。まだ賀状くる。東豊書店より紅茶呉る。 1月8日 薬よくきき9:00眠る。散髪し2,000渡す。14:00出て成城大学。17:00まで教授会かかり18:00より小教授会。 鎌田女史を大学院にとなる。(※省略) 1月9日 9:30山内工務店より(※自宅改築費)1,386,150との見積書もち来りしに目さむ。 だるく12:00欠勤の電話し、家居。(※省略) 周恩来、癌にて逝去と発表。 1月10日 よべも3服のみ9:00さむ。ユ、絵にゆく間に建設屋来るといひ17:00来る。大高名簿貸す。山本治雄より近況。(※省略) 檀一雄、癌にて死に中谷孝雄葬儀委員長となり、青山斎場に保田も出しと也。 1月11日(日) 8:00さまされ礼拝にゆく。帰りて15:00来る丸重俊まてば早く来り、明星クビにならず15日慶州・ソウルへゆくと。 帰りしあと菊永生17:00電話かけ来り「豆腐屋の前で待つ」と。1時間半、夫婦して探し出し、(※省略) 21:00すぎ帰りゆく。 1月12日 よべ1:30まで眠れず。9:00まへ大工さん来りしにさめをり、眠きなか11:00出て登校。(※教授会 省略) 疲れに疲れて帰宅。野上家またもとの通りとなるらし。 1月13日 7:00起され7:30出て登校。古典の最後をすまし『常民文化紀要』くばり了へ、(※省略) 疲れて帰宅。 大工さんたち南半分の生垣とりコンクリートの流しして「あす午后」と帰りゆく。(※省略) 1月14日 9:00さめ寒く一日家にをり。羽田(※羽田明)より「賀状ダブりをらずや」と。 肥下(※恒夫)夫人より「野田又夫氏のかきし文見たし」と。(※省略) 20:30石田カヨ子より「返事まちて云々」と泣く。折から『信徒の友』の詩かきをり、めちゃくちゃとなる。(※省略) 1月15日 寒し。9:00さめ(※省略) 「讃歌」かきユに郵便局へもちゆかす。堀多恵さん伊豆より賀状の返事。 1月16日 よくねむり9:00さむ。疲れをり。11:03阿佐谷発にのり登校。(※省略) semiにゆけば滝沢以外みなをり。(※省略) 大学院へゆけば鈴木と西川と2人をり(※省略) 鎌田、岡本2教授と雑談して帰り、東豊書店にゆけば「『古今図書集成』22万円で売りをり」と。 川久保(※悌郎)をり本買ひをり。ともに帰り森岡博士の礼状見る。 1月17日 8:00大工さん来りさむ。10:30出て登校。舟越君(※舟越清)と話し、13:00より民俗研究所の新城博士(※新城常三)の話きく。 15:00すみて帰宅。(※省略) 『鳥居龍蔵全集3(8,800)』佐伯より借り来る。(※省略) 1月18日(日) 留守番命じられ部厚き卒論3冊まづまづすます。ユ12:30帰宅。605番歌へしと。 佐伯に鳥居全集の払ひにゆき、大に遇ひ、山住閣下に「中国の草木」の抜刷はふり込み『栽培植物の起源(650)』買ふ。 1月19日 8:00さめ大工さん来る前なりし。3冊の卒論もち12:40出て成城までのtaxiを駅前で拾ふ。(※省略) 島野生より「先生のsemiはなきや」と問はれ「あり。すすめず」といひて帰宅。 けふ羽田へ抜刷送り篠田博士より「詩的」との批評もらふ。(※省略) 1月20日 7:30さまされ大工さんの来ると同時に出、9:20成城大学。神田喜一郎先生、田中正俊氏へ抜刷。 依田君(※依田義賢)には「山上の墓地つかざりしや云々」の速達出す。24名?の面接に疲れて帰宅。 田川孝三、榎一雄、松村潤3氏に抜刷包む。工事おそくまでやりをりし。 1月21日 登校9:10。9:30より面接はじめしに、(※省略) 大藤氏顔を見せ老いたり!(※省略) 帰途、森副手と同車。帰れば山住閣下より抜刷受取。神田博士より賀状の返事「80才になり」玉ひしと。 岡田英弘、池田温2氏に抜刷包む。 1月22日 7:30起きユを起し8:20登校。(※省略) 森、津田の2人わがsemiより優となり総計17人、不可1人は代筆させし(※省略)。 ついで16:00より教授会。(※省略) 1月23日 8:30覚む。大工さん来て電話あり、午食して去る。『東方学』鈴木俊さん追悼のりをるが来る。(※省略) 1月24日 8:00さむ。10:00斎藤dr.にゆけば若先生。『紀要』置き地下鉄、東豊書店にゆけば(※省略)、帰宅。 清水まゆみ15:00来り、ユ画より帰り茶出せしあと3冊本もちて帰りゆく。丸重俊20:00来り、22:30近くまで話しゆく。 「明星学院にゐたし」と也。 1月25日(日) 夫婦して礼拝にゆく。(※省略) すみて佐伯にて『野史無文(250)』買ふ。母、午后電話かけ来り「あす来る」と也。 1月26日 7:30さめる。母10:30来り元気なり。ユ電気コンロもちて送りゆく。(※省略) 榎博士より「御拙荊云々」われ大笑す。神田君より「植物好き」と。松村潤君よりも受取。 田川博士より「秬黍クロキビ日本にありや云々」。(※省略) 1月27日 7:40さめ10:30出かけbonusの端(※金額 省略)もらひ、13:30より試験監督(※省略) 東豊書店にゆき36,210の借金払ひ、佐伯に寄り『餅の博物誌(2,500)』と『朝鮮の姓(8,500)』買ひして帰宅。 1月28日 8:00さめ家居。何もせず賀状の整理などす。修士論文よむにたへず(Selebesにゆきしといふ女史)。 1月29日 6:30さめ10:00かっきり登校。字の書き直しに当る。池辺教授も同。 16:00教授会。下座に坐りtobaccoふかし17:30すみ舟越氏に来月の入試2日目のたる宿泊を勧む。 1月30日 7:00前さむ。9:40登校。10:00より16:30まで誤字訂正にとりくみ、村上進、来をるに哀れを催す、三田村院生代表つかまへれば逃げ ゆく。 夜、弓子に電話せしむれば「孝行風邪」と。克次朗出て「バアチャン」といふ。 九州の宮崎康平氏より「盲目となりしと。阿佐谷に来り『西康省』買ひ伊東氏に紹介受けし」云々、恐縮す。 竹森先生より「山上の墓地」を週報に転載すると。これも恐縮。 1月31日 7:00さめ柏井歯科へゆきかへり歩く。いつでもよしと也。佐伯にて『The American Heritage Dic.』、『宋元明日記選』にて7,550払ふ。 curtain屋来り寸法見積りゆく。 2月1日(日) 6:30さめ9:20出て夫婦にて礼拝にゆく。「山上の墓地」と605番の双方とも週報に印刷しあり。 礼拝すみて竹森先生「田中さんといふ有名詩人」と紹介さる。(※省略) 東急にてあすの菓子買ふ時、売子に「美人だな」といひ変な顔さる。 2月2日 9:00さめ12:00昼食すまし、『ポリタイア』より「檀一雄追悼号にかくや否や」との手紙見て登校。(※省略) 2月3日 7:00起され8:50登校。試験監督し出来ざるに嘆息す。後藤武君髭をはやしをり。白水副手に東北大へゆきし小熊始君危篤につき見舞金1万円を 木曜にもち来ると約し、(※省略) 帰宅11:30。築島教授より電話ありしと。18:00電話かければ登校と。夜20:00また電話あり小熊始君のことなりし。知念君より「来週校 正来る」と。 2月4日 10:00齋藤医院へゆき(6:30さむ)14番。久しぶりに茂太先生にお目にかかり「異状なし」と申上げ薬もらひ、 代々木の東豊書店に寄れば留守番。覚えなき学生。沢田瑞穂『燕趙夜譚(400)』買ひて帰宅12:10。 (※工事)応接間すみ、あす3畳の壁打ち抜くと也。(※省略) 母来り、大に叱られゐる様子、哀れ。 夜、石田カヨ子生より電話「ダメか」「ダメ、犬猫飼へ」といへば笑ふ。 2月5日 8:00さめ何もなしと字直し忘れ4:00家を出、小熊君へと1万円を白水助手に渡し、雪中教授会。(※省略) 入試3日とも8:30登校すべしと也。けふ羽田、川久保と会ひゐる筈なるも音沙汰なし。大雪となり(※省略) 2月6日 晴、道具屋入り大工休み。午まへ散髪、母来り、ユpermaにゆく。 『世界の女性史7(1,400)』贈らる。編者の中に岸辺博士の名ありて我これに書くをことはりしを憶ひ出す。 18:00知念君来り『杜甫伝』の内校見せらる。21:00めく食はずして帰りゆく。檀一雄追悼の詩を月末までに書くと返事す。 21:30川久保に電話してきけば「羽田、川崎の嬢の嫁ぎ先へと急ぎし。田中の論文わけがわからぬ云々」。 「市古宙三君、お茶の水大学学長となりし」と新聞に見ゆ。62才となり。 2月7日 大学院の修士面接とて7:00起き8:30ごろ出て9:10成城着。(※省略) セレベスにゆきTraja族しらべしといふ東京外大よりの女学生やっと及第となる。(※省略) 帰宅すれば京来てをり。垣根こはしすみ8畳塗りすみて、(※省略) けふ檀一雄の悼詩を面接の間にかきしも不十分なり。 2月8日(日) 8:00夫婦さめ礼拝にゆき(※省略)。総会、墓の設計図見せらる。寄附15万円位せんかと思ふ。(※省略) 帰れば弓子3児つれて来り、次いで史夫婦2児と来て大騒ぎとなる。克次朗帰るをいやがりしも弓子ともに出て「外に出れば直った」と也。 史、夕食し20:00までゐて帰りゆく。(※省略) 2月9日 けさ8:00さめ湯わかし茶のむ。佐伯へゆけば本来をらず。(※省略)『民族学研究』来り堀一郎博士の悼辞を中根千枝女史巻頭に書く。 2月10日 けさ7:30さめユを起す。大工ほぼ終り(※省略)、11:00ごろ知念栄喜氏来り64pまでの校正もちゆき、年譜型とり直し来週出来上る由。 採点表20:30出来上る。 2月11日 8:00さめ9:00家を出て成城大学。茶のみ試験監督の集所にゆけば築島教授も堀川教授もみな10:30出勤命ぜらしと。 (※省略) 上原教授らは50才とて3時間当りしとブツブツいふ。舟越君に「あす必ず」といひ、急行まちて新宿。 小田急百貨店の古本市にゆく。みな高くて買へず(買ひたくもなし)。帰れば弓子、克クン一人をつれて帰るところにて、応接間こさへてくれしと。 『信徒の友』3月号来りわが「讃歌」をのす。杜甫の校正をほぼ了へて入浴することとす。 2月12日 7:30さめ9:30成城着。(※省略) 西川(※英夫)に「横山薫二死し土曜13:00宝仙寺にて葬儀」とのこと伝へ山本治雄に電話すれば「も う聞こえをり(※省略)」と。 舟越君20:00さめて茶漬食ひ胃悪くして止めしも帰りゆく(※意味不明)。(※省略) 22:00山本治より電話あり「14日の横山の葬儀に夫婦して出よ」とすすめ同意せし様子也。 2月13日 晴寒し。7:30さむ。午前中に『杜甫』初校了る。(※省略) 宝仙寺は中野坂上より北なることを知る。 昼食のあと佐伯にゆき『北京好日』2冊と『薬草と家庭薬療法』とにて2,000払ふ。あすの「お花料(5,000)」を用意す。 21:00山本治雄より電話あり「明日日帰りせねばならぬゆゑ来られず」と。 2月14日 6:00さむ。丸重俊より「風邪ひきて来られず」と。 知念君10:30来り校正渡し、あとがき表紙を残すのみとなる。11:30退去(林房雄追悼会に保田来しと也)。 12:00すぎ出て地下鉄、(※省略) 中野坂上下車、宝仙寺たづぬれば信号の所なりし。(※省略) (※同級生横山薫二葬儀) 13:00よりの読経前に夫人、斎藤先生、北氏(※斎藤茂太・北杜夫)に挨拶す。(※横山薫二との関係不明) 西川13:05ごろ読経中に来り、10分ほどして昭和3年よりの友人総代の話きけば、戦争中姫路に疎開、神戸より通ひ三菱解体云々、三菱商事大阪 より東京に来て(※省略) 焼香すまし、遺族席への礼忘れてover探し、西川まち「皆に忘れられたな」といふ。 中野の大通りすぎしところにて車より降ろしてもらひ、まっすぐゆけば東中野駅の東側に出し。佐伯より西園寺一晃『青春の北京(370)』買ひて帰 宅。 2月15日(日) 8:00さめ吾礼拝にゆかず留守番し、11:00三鷹にて克次朗つれてユ、多摩墓地の西島一興17回忌、民子13回忌にと出てゆく。 われ少し本運び、午すぎ餅食ひ13:05稲田哲雄・京夫妻の来しに喜び、母の箪笥3畳へ入れ、洋服箪笥そのあとに置き、本棚一つ運ばせ2時間して 疲れ、京の午ねする間(5か月と)televi映画見しも仏蘭西語殆どわからず。 ユ17:30電話かけ来り「夕食用意せよ」とのことに京、鰻4人前買ひに出てゆく。 ユ帰り「林叔父、敏夫夫婦、千草など来り、克次朗睡りし」と。千草「ヂイチャンこわいか」ときき「こわい」と三鷹の祖父のこといひしを、ユ説明す れば黙りしと。(※意味不明) (※省略) 2月16日 6:30さめ朝食後しばらく居眠りす。小雨。全日空航空機選定に関し国会証人喚問つづく。(※省略) 都留勝利氏71才で死亡と新聞に見ゆ。 15:00すぎ川久保来り、わが思ひ出話に同じ大学の入試に「黄宗義」出しと也。(※省略) 2月17日 6:30さめ朝食後ちょっとね、9:00に出て登校。第1次入試発表(※省略) 佐伯に寄れば小学館の『日本国語大辞典20(5,220)』来をり、これにて完了とわかる。のど痛くタバコのめず。 2月18日 6:00まへさむ。9:00山住医院へゆく。佐伯休みにて斎藤dr.に直行。1時間ほどして診察。先生「横山君の時ありがたう」と。「昭和3年の 同級生、隣席に坐りゐし。大阪でも一緒になりし」といひ、いつもの薬もらふ。 帰り東豊書店に寄れば簡店主、憂鬱げにて、ラーメンとってもらひ食ふ前後、台北へ電話して旨くゆかず。 我、劉維崇『杜甫評伝(1,260)』、陳鴻年『故都風物(1,010)』買ひて帰宅。(※省略) 松枝茂夫氏より編著の『紅楼夢』来る。講談社の「世界文学全集」の1冊なり。(※省略) 2月19日 6:30さむ。10:00すぎ知念君来り、校正もちゆく。ユをして佐伯に5,220を払はしむ。風邪とてタバコ旨くなく外出せず。(※省略) ロッキード社の献金問題で自民党困りをり。片山豊(※西川鯉之亟)より21日0:40、10チャンネルで「梅の栄」踊る、見てくれとハガキ。 2月20日 6:00さめ茶のむ。8:40福地邦樹君より電話、帝塚山短大より助教授で来いと。45才でもう公立の恩給つきをりと。「行け」とすすむ。 9:00山住dr.へゆきノド洗ひ痛し。大分よくなりし。山住正己氏「1月に手術し2/3胃とりし」と。 柏井歯科へ歩き「来週また来よ」と。(※省略) 佐伯へ寄り『南京大虐殺のまぼろし(500)』買ひて帰宅。 母11:00ごろ来て大宅にしばらく居り、(※次男の住む)伊勢へ帰りたくなしと。12:00雑煮食って12:40成城大学。(※省略) 14:00より4年生の及第会議。(※省略) 山田に書斎新築のこといへば「教授会ですよ」と叱られ気を悪くし、高田君についで中坐。 「体悪し」といひふらして帰宅。母をらず。東京より去らぬつもりらし。(※省略) 『展望』に「わが師──忘れ得ぬ教師像」4.5~5枚、3月10日までに書けと。「かく」と返事。和田先生を中心にかかん。(※省略) 2月21日 5:00さめ、また眠り7:00まへ再びさめて起きる。丸重俊まてば10:30来り、1時間本の整理をし午食にうどん食はせれば、(※省略) ともに出て5千円を本代、5千円を父(※闘病中の同級生丸三郎)のタバコ代として与へて(※別れて)登学。 中西博士わが「中国の草木」よみて喜びしと云々。13:05図書館の会議室にゆけば大藤氏すでに来てをり柳田先生の鮮漢民俗学に興味ありしをい ふ。 16:30ぬけ出して17:10帰宅すれば弓子3児つれ来をり、本、大分運びあり。 夕刊に斎藤医院二階半焼、先生はじめ患者たちは無事なりしと。あすお見舞いにゆくこととす。(※省略) 2月22日(日) 3:00さめ(悪夢)尿しあと眠れず。『南京大虐殺のまぼろし』半ばよみ、また床に入りしもダメ。7:00下痢(2回)。 ユ9:00やっと覚め夫婦とも礼拝休む。斎藤医院の見舞もあすに延ばさる。14:00前、丸重俊より電話「来ずともよし」といひしに「来る」と 也。 『南京大虐殺のまぼろし』のつづきをよむ。丸生16:00まへ来り、1時間分の分類手伝ひしあと高麗川に案内すと約束して去る。 夕食後仮睡1時間半21:00さむ。珍し。 2月23日 6:30覚む。7:00すぎ朝食。9:00すぎ国鉄にて斎藤医院。「お見舞(状とも)10,000」もちゆけば先生出られ受取られ来週は奧の病室 にて治療と。 佐伯に寄れば『鳥居龍蔵全集6(8,800)』来てをり。「国文・文化史の謝恩会3.20、17:00-20:00九段下Hotel Grand Palaceにて」と。 (※省略) 昼食の前後、本の整理。0門、1門、2門、3門、まではすみさうなり。 (台湾関係とキリスト教は別置。『四季』『コギト』は小さき本棚──4畳半に置かん) 長尾忍夫人(※長尾良未亡人)に電話し「最後に檀一雄に会ひし長尾良出版記念会の日を」ときけば48.2.10? そのときうたひしは木下杢太郎の「昔の仲間」なりしと。(※省略) 2月24日 6:30さめ9:00朝食。11:00川久保邸にゆき帰りうつぎ書房に寄り『中国のバカ(400)』買ひ、昼食し13:00より15:00まで午 眠し、 本の整理1時間ほどす。『中国のバカ』よみ了る。面白かりし。 夜、3月7日わが家にて16:00より川久保歓迎会することとし、(※東洋史学科同窓生)丹波(※鴻一郎:哲郎兄)、内村(※俊雄)に連絡すむ。 2月25日 7:30覚む。9:00朝食。柏井歯科へ電話すれば「11:00来よ」と光一。(※省略) 帰りて昼食。 書斎の押入れにalbum、地図箱、学内存置書名card箱入れ了り、下段空く。 「ペペ・ル・モコ(望郷)」を昭和11年より40年ぶりにてteleviにて見る。(※省略) 2月26日 8:00さめ9:00山内工務店に電話し「金とりに来い」といへば「来る」と女の声、(※省略) ユと三井銀行阿佐谷支店にゆけば爺さん(店主?)来り、99万4千円受取り(※省略) 21:00福地邦樹君より電話「帝塚山短大国文助教授ダメなりし。45万にて高給なる故と、業績詩にて小野十三郎とかちあふ」となりし。 2月27日 7:00さむ。8:50母来る。9:10山住先生にのど癒してもらひにゆく。痛くて涙出る。 母来て一日中手伝ひくれる。(※省略) 檀一雄の追悼文かかんとして中途にて止む。 2月28日 6:30さむ。(※省略) 13:30丸重俊来り(※職場の高校から成城大学へ)入学志願あり1浪の女生1次受けしと也。 200点とれば特入300点とれば入学と教へ、応接の本払はせ一応すむ。 whiskyのませればユ帰り来り、17:00丸帰りゆくとともに佐伯。『邪馬台国と豊王国(450)』借り来る。(※省略) 2月29日(日) 6:45さむ。春暖きのふより。9:00ユ礼拝と(※絵の先生)戸田さんへの礼とに出てゆく。 われは上京以来の日記よみてすごす。 夜、寿一に電話し「(※娘)4月8日挙式」ときき「3月14日午后夫婦にて来よ」といふ。 3月1日 7:00起き(※省略)、われ日記よみteleviのロッキード事件きき15:00佐伯へ払ひにゆき、(※省略) 知念君再校19:00すぎ来り21:00去る。われ夕食殆どせず100pの校正して23:30入浴す。 3月2日 7:00前さむ。よべ0:00ね入りらし。 12:30まで校正し昼食して2時間散歩、240pまでやりしころ知念君より電話あり校正中といふ。 (※省略)知念君19:00来り「3校にす」といひ21:00すぎ、汁のみて帰りゆく。 3月3日 7:00さむ。母来り、焚火して呉る。午すぎ荻窪へ散歩。途中加藤俊彦教授宅のベル押せば、 「入試にて登学、来年定年」と。「法学部に運動せよ」といひ駅前の古本屋にて本2冊買ひて帰宅。(※省略) 3月4日 8:00さめ9:00出て登校。修士5人博士3人の面接す。(※省略) 成城堂にて『韓国史の再検討(1,400)』借りる。すみて新城博士「主任を築島博士に」と。 堀川博士と我賛成す。帰り高円寺で降り南の古本屋見て帰宅。(※省略) 19:00すぎ丸重俊来り「二次入試に(※名前省略)を」といふ。21:05帰りゆく。 3月5日 7:00さむ(3:00ごろ「田中英一来た!」と叫びしよし)。10:00川久保来り「入試の結果教へよ」と。 (※省略) 佐伯にて『馬来亜叢談(400)』買ひ雑本買ひして帰宅。(※省略) 本、大分片付きし。 3月6日 7:00さむ。9:05斎藤dr.に参れば旧病室にて御診察。(※省略) 史の官舎にゆき美紀子に会へば「4人目出来る。今4ヶ月。共済組合病院にて」と。 出版所に電話かけ美紀子、淳一とゆけば、(※省略) 9冊予約するといひ名刺わたし、(※省略) 東豊書店にゆけば簡木桂氏「教科書のうち中国語字典ちょっと変へてよきや」と。『学生辞典』(※揃ふか)あやしと也。 茂太先生『精神科の待合室(550)』といふを信濃町の古本屋にてみつけし。佐伯に寄りて14:00すぎ帰宅。 (※西島寿一の娘)西島千枝子、斎藤勉と4.8青学会館にて15:50式と。ユと2人出席せん。 けふ京来し筈にてすし置きあり、card買ひにゆき(310)16:20ユ帰宅す。(※省略) 18:00内村、丹波2君に「18:00阿佐谷出口にて待つ」と電話。 松村達雄に電話せしに「卒業生の会とてまだ帰らず(※省略)」と。躁なり。 3月7日(日) 7:00さめ夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) われ吉祥寺の本屋みて4冊ほど買ふ。(※省略) 16:00前、先づ丹波来り、ついで内村俊雄16:00かっきりに来り羊羹3本土産に買ひ呉る。 川久保の転任祝して乾杯!内村17:30出てゆく。あと20:00ユに写真とらせ2人帰るまで丹波の生涯きく。 (竹田宮と同期、塩屋温のコネにて東大東洋史入学、中央大学に哲郎入学せし。 後母の3子の1人、長男は昭和15年南昌より復員せし時生れゐしと。 大久保の500坪は相続のあと売り富士前に移りしと。(※省略)) 3月8日 6:00さむ。『望星』に「わが師和田清先生」かく。山住dr.に咽喉洗ってもらひ、(※省略) 川久保君にゆきて12:30うどん賜ふ。(※省略) 柏井歯科。(※省略) ユ、本棚買ひくれ大分本片づく。(※省略) 3月9日 6:00さむ。佐伯へ10:00ゆき『北アジア民族史2』たのみ『文芸展望』の新刊売り、 『これが中国(300)』、『道草を食べよう(390)』持ち帰る。 午后栗山(※理一)教授より快気祝としてtowl2枚来る。 17:30丸重俊より電話「13日(土)夕、先方の父と来て250万預ける」と也。(※省略) 3月10日 6:00さむ。日記よむ。寿一よりこの間の法事の写真来り、難波和子禿げをり。14日(日)14:00「ひとりで来る」と。12:00まへ午食し 成城に13:45着く。 (※教授会 省略) すみて雨傘もち電話しおきし東豊書店へゆき9,460の借り払ひ、『事物異名録1,2(4,300)』、『本草綱目拾遺 (1,080)』また借りて帰宅。 佐伯しまりをり美紀子と2孫帰るところなりし。(※税金報告 省略) 57,331返付となる。ユ大喜びしをり。 3月11日 7:00さむ。ねごと云ひし由。(※省略) 美紀子より電話「武田明氏(※民俗学者)来講の希望」と。電話番号きき丸亀へ電話すれば「集中講義に して欲し」と也。 「その旨を鎌田女史にいへ」といふ。(※省略) 佐伯にて『遙かなる信濃(550)』と重複本と交換す。 午后、飯田生呼び「中国法の女かけ」といひ本貸す。入れ違ひに旧姓麝島マリ子来り「都留純也と別居3年、あす多摩墓地への自動車運転してやる」 とのことに、ユともどもおどろき、話きき21:00送り出す。(※省略) 3月12日 6:00まへさむ。雨降りをり。昨日買ひし本棚組立つ(3,000)。9:45家を出て成城へ10:40。(※省略) 国語の試験1時間半やり築島博士と同車、鈍行にていろいろ話して帰る。(※省略) 21:00川久保より電話あり「すぐ来い」といへば岩崎夫人つれ来る。「夫と相談の上」と寄附の紙もち帰る。 3月13日 9:30出て佐伯で『花づくり(100)』買ひ、成城。(※省略) 20:30丸生、(※名前省略)夫妻つれ来る。Hamもらひし。 岩崎夫人に電話すれば嬢出て「母の祖母死にて帰郷」と。川久保に「あす来ねばダメ」といふ。 3月14日(日) 6:30さめ夫婦して礼拝休む。(※省略) 何もする気力なく(※省略) (※西島)寿一14:00来り、18:30まで自分の話を録音し保田の写真おきゆく。(※録音テープ現存。) 「この頃歌作りをり。千草を許せ」と也。(※省略) 3月15日 7:30さめユより寿一の一興叔父の子であることを証明さる。 佐伯へ鳥居龍蔵『蒙古旅行(明治44)』売りにゆけば3,000と。『満蒙歴史地理辞典(3,000)』ととりかへてもらふ。 岩崎夫人より電話「15:00までにはおいで乞ふ」といふ。 15:10夫婦で来て一緒に出、成城大学に16:25につき総務部長に会へば、 「(※寄付入学希望は)入試前日しめ切り」と。ガクンとすれば池田部長に電話し、 かからぬとて「中西博士にゆけよ」と、教務課にをりしを呼び出せば、 「ことわり(※辞退者)2人をり、そこへはめこむ」と。手を合あはせて拝み、 わが老いて物忘れユも物忘れひどきに気づき、前田部長に礼いひにゆき、(※省略) 川久保へとんでゆき前後左右の話し、互ひに老を語り19:30帰宅。 飯くひteleviを見る。差別を主は好まれぬことを知る。(※省略) 3月16日 6:30さむ。(※省略) 10:00母来り望のヱハガキ見す。うれし。主は頌むべきかな。13:00までダベり母を弄んでのち佐伯へちょっと寄 り、 『童馬山房随聞(1,200)』見つけ金沢(※金沢良雄)へ本もちゆけば留守。(※省略) 3月17日 よべ眠剤のむを忘れ(※省略) 9:30大雨の中を斎藤病院。(※省略) 先生、佐藤佐太郎90pを読まれ『日本の詩歌』を進呈すれば喜ばる。 (※薬)食後3回になり喜びて帰宅。14:00、長谷川、出口に参考書示すうち気分悪くなり、発作しつつ送り出す。 ユ、斎藤病院婦長さんに電話し「飯くはせ、胃の内をあたたかくし頓服と薬のませ」と。ユ、葛根湯をのます中、発作収まる。すぐ就寝。(※省略) 3月18日 7:00まで快寝。(12時間眠る。) 8:45山住dr.にのど洗ってもらひ『子育ての話』いただき登校。 10:10よりの判定会にて丸よりの(※名前省略)生の入学を確認せしのち、紛糾せる会議に疲れ、(※省略)成城堂で本借り佐伯に東洋文庫注文し て帰宅。 ユに外出禁止処分を受け、丸重俊呼べば16:00来りしに(※寄付入学不用となった故)250万円預ける。 阿部良助「Italiaにあり」と。(※省略) 赤川草夫の遺稿歌集。(※省略) 夜、宮崎幸三教授より電話「けふ今帰った」「お宅へ伺ふ」と答ふ。(※省略) 3月19日 7:00まへ起き、(※省略) 7:30より8:00まで軍歌集の切抜、ユ貼る。9:00山住医院にゆく。(※省略) 10:30より12:10 まで午ね。(※省略) 13:00エフ書房によれば、(※省略) 16:00散髪にゆき、(※省略) (※名前省略)嬢より丸・母と月曜来るとのことにドイツ語辞典佐伯へ買ひにゆけばなく『日本古語辞典(1,800)』買ふ。 3月20日 よべ7時間ねてさめて9:30登校。卒業式に壇上にのぼらず。 すみて卒論わたし『詩集』を一冊づつわたす。昼食Party寒く成城堂で『英語諺辞典(6,500)』と独和辞典とJanewag1冊 (1,800)と買いひ、(※省略) 『骨60』来り、集英社より「5月に会する」と。「出席」とかき、15:30出て佐伯に寄り、駅にて松崎寿和(550)買ひ謝恩会場へ16:00 前に着く。 中国服にて皆面白がりゐる中、われ薬きき来り面白くなくなり古宮に駅まで送られて帰宅。(※省略) 3月21日(日) 6:30さめ8:30出て金沢にゆき10:00bell押し夫婦ともに起き来る。11:00帰宅。川久保に電話「金沢に会へ」とすすむ。 午飯まへ舟越君へ「別れの挨拶する故来よ」といへば肯ふ。舟越君14:30来る。(※省略)  舟越君酒のまずわが詩集もちゆく。 寿一15:00来り舟越君としばらく同坐してのち舟越君帰り、寿一酒に酔ひ一睡してのち興蔵に迎へたのみ帰りゆく。 3月22日 6:30さめ、(※省略) エフ書房へゆけばArbeitの女史「一度来させよ」といひ帰宅。(※省略) 11:00丸生、(※名前省略)母子つれ来り『詩集』与へいろいろ注意し写真とりて別る。 丸に(※父親へ)「Peace」100箱もちゆかす。川久保おくれて14:00来り「残念」といひ佐伯へつれゆき我は1,700本借り、川久保家 へゆき寮歌うたふ。 帰宅後、(※省略) 金沢の次女(29才)と川久保民子(32才)とを今年中の(※見合斡旋の)懸案とすとユ。 3月23日 7:30さむ。佐伯にゆき本の整理たのむ。6,000に売れしあと7,800買ひ足す(前後2回往復)。 重俊より電話「すぐ来る」と。来しに本与へ「(※名前省略)家よりwhisky既にもらひし」ときく。(※省略) 17:00知念君来り『杜甫伝』校了。1,300✕3,000と。(※省略) 3月24日 5:30さめ9:00ごろ斎藤病院。(※省略) 東豊書店にゆき『北京街道的故事(800)』買ひ教科書そろひしときき11:00渋谷。 土産買ひbusにのり駒澤大学前下車。昼食し、宮崎幸三先生を訪ひ御夫婦の歓待を受け、麝島生14:30迎へに来し車にのり家へゆけば(※省略) 都留問題むつかしく答に困り、(※省略) 眞理子の運転にて阿佐谷着。(※省略) 夜、丸よりタバコの礼。重俊より「(※名前省略)生、特入しり をり」と。 京に番号しらべさし、「特入の恥ならず両親の恩おもへ」といふ。「4月に来る」と也。 佐伯書店19:00来り、雑本7,000にてといふに「預ける」。 3月25日 7:30さめ(※省略)、佐伯にゆき画集3冊(3,000)と『漢字の世界(720)』、『漢語詞典(2,000)』、『俗悪の思想 (750)』、『日本古代史の謎(500)』にとりかへ、 昨日の売代7,000すむ。(※省略)13:00登校すれば会議なしと。講師室で歌うたひ蜜豆を風月堂に買ひにゆけば定休日。駅ビルで汁粉買ひ (3×60)、 山中正剛教授、羽場部長室勤務と5人で食べ、前田総務部長に礼いひて東豊書店。 『辞源(5,000)』、『西域人華化考(1,440)』、『農桑輯要(470)』、『鄭成功史事研究(300)』、『元代蒙漢色目待遇考 (150)』、『産科(960)、『婦人科(900)』 買ひて茶をおごり阿佐谷駅前金子で『近世地方史研究入門(400)』、『植物と神話(1,000)』買って帰宅。(※省略) 3月26日 6:00さめる。9:00柏井歯科へゆき帰り芙蓉堂にて『芭蕉書翰集(500)』、『地名の研究(300)』、『蛮族の侵入(450)』買ひ、佐 伯へゆき、 昨日の7,000にて『平泉旅行(30)』、『山菜事典(800)』、『三国遺事訳2冊(4,000)』、『婚姻習俗語彙(2,700)』など買 ひ帰れば美紀子、雅子来てをり、 わが買ひし童話よみ、帰りしあと弓子3孫つれ来る。 ユ、名古屋より来る依子、望迎へに阿佐谷へゆきしあと、雨降りし故傘もちゆき、帰れば3孫つれだって帰り、望もの云はざるに心配すればやがて家中 かけまはる。(※省略) 3月27日 0:30さめ茶のむ。7:00ユ起き8:00依子母子起きる。望慣れる。午まへ伊勢の治子母子来り、娘の就職祝とて5,000と息子に5,000 わたす。 折から飯田生来りsemiし、狐うどんとりて食はせし也。飯田生喜んで帰りしあと弓子3孫つれ来り望と遊ぶ。(※省略) 3月28日(日) 6:30さめ(※省略) 我のみ礼拝にゆき礼拝委員に3任される。(※省略) 12:10昼食すれば依子、望をつれて史のところへゆく。14:00すぎ長尾忍女史(※長尾良夫人)2嬢つれ来る。 早大法科、学習院仏文学科入学とて字引買ひに出、フランス語、国語の字引など買ひ与へ、 トラヤへつれゆき、蜜豆あつらへてタバコ買ひにゆき、1時間して3人帰宅。依子帰宅と同時に長尾家出てゆく。(※省略) 3月29日 1:30小便4:00またさめ4:30起床。ユ8:30斎藤dr.に薬とりにゆく。母に「昼食くふ」といひ、弓子に「依子帰宅につき来よ」とい ふ。 10:00すぎ来り、母とこはせまき故ゆかしめざることとす。12:00ユ「南阿佐谷駅出口へ来い」と。 弓子とゆき母の所にて千草の話し、13:30帰れば4孫2娘まだをり。(※省略) けふわれ『Randiava(150)不詳』、『南方宗教事情とその諸問題(600)』、『東南アジアの自然をたずねて(150)』と買ひありが ね使ひ果たす。(※省略) 3月30日 6:00さめ茶わかす。丸重俊に「来よ」といへば10:30来る。本の整理たのみ昼食となり13:00了る。 14:00ごろ出て佐伯にて『南島記(700)』借り電話しおきし川久保へゆけば『柳辺紀略』やると也。 われ「応援する」といひ17:00すぎしに驚き帰宅。浅野晃氏の詩集来り礼状出す。 電気屋来り「televi10万5千円もち来る」とて古きをもちゆき1台貸してくれる。(※省略) 3月31日 6:30さめ茶わかす。大聖博美10:15来り高橋姓となると。23日のHotel New Okuraでの披露宴出席者200名近しと。 祝を夫婦して送り11:05出て万年筆屋に彼女のautoでゆけば3,500とParkerなりをり。(※省略) 佐伯へ1,000もちゆき昨日の借金払ひ、300のつりにて『娯楽大百科(200)』と子供用の本2冊買へばさらに1冊たまふ。 10:00より瓦屋さん来りをり。(※省略) televi屋来り、10万5000円の新しきものをもち来り「tape-recorder直るか否かためしてみる。呼鈴は少し待て」と。(※省 略) 4月1日 7:00さむ。10:00母来る。川久保呼び来しに『柳辺紀略』の話し、ひやかして帰らす。(※省略) 都留マリ子来ぬと思ひしに16:00来り、(※省略) 離婚書に夫婦署名捺印し、東豊書店に電話して18:00まへ (新宿までマリ子の運転にて(※省略)駅前で別る。)ゆけば二男をり『佩文韻府(28,000)』、『福恵全書(5,000)』学校払ひとし、 『伝記文学』あることいへば「欲し」といふ京大研究所助手と平凡社の岸本武士君とを家に案内。 「24輯」までと3冊わたせば1万円即金にて渡し東豊へ帰りゆく。鎌田女史つひに電話に出ず。 4月2日 6:00さむ。鎌田女史に電話せしも出ず。9:00ユ、パーマにゆく。われ佐伯にゆき『東洋文庫』2冊受取り(2,070)、 『ユリイカ(400)』買ふ。わか『神軍』『戦後吟』もとより表にのらず。(※省略) 躁やや去りしも本よめず(※省略) 昼食して丸にゆき13:10着。タバコ「Hope」が良しとて(※重俊に?)買ひにゆかす。 (※省略) 国電にて帰宅。(※省略) 東豊書店に「商売の邪魔した」と断れば「コーヒーのませよ。研究所も1部買ふ」と。 (※省略) 鎌田女史「宮川生のこと黙認せよ」と電話ありし。(※省略) 4月3日 6:00さむ。3,500もちてゆき郵便を投入、あと10分で教授会といふに鎌田女史「他の学科を見ん。ものいふな」と。(※省略) 鎌田女史、宮川生の弁解せしもきかれず、われ家庭教師となるといひてすむ。落胆して図書館にゆき(※省略) 図書館閉館まであばれて帰宅。(※省略) 宮川夫妻やって来、「1分間」といひてあげ成績見せて帰らす。(※省略) 東海教育研究所より「和田清先生」のせし『展望』来り、(※省略) 4月4日(日) 7:00さめ急ぎひげそり礼拝委員として8:10教会着。(※省略) 了りて長島君さそひ猥談せしとてたしなめらる。(※省略)駅ビルにて『食の文化史』買ひ阿佐谷着。 Pearl centre入口の古本屋にて『東南アジア(300)』、『憲法入門(80)』買ひ金ほとんど無くなりて帰宅。 (※省略)川久保に「本返せ」といへば「夕食後持ち来る」と也。来りてwhiskyのませれば時計屋へとかけてゆく。(※省略) 4月5日 6:00さめ朝食後9:00まで眠り、佐伯に寄り4,000の借金して帰宅。 島芳男氏より「青梅榎戸氏の碑文よめず」と返事。(※省略) 「中国の草木」、「桐」にて苦悶す。(※省略) 重俊来りwhisky1杯のみ、奈良漬おいて逃げゆく。美紀子「淳一batにて歯欠けこられず」といひ来し由。 4月6日 終日雨降る。午すぎ雨の間をみて佐伯にゆきしも本なし。 淳一が同僚の子の歯を折りしことわかる。母10:30より来り、泊ることとなる。(※省略) 4月7日 晴。暖し。8:00さめ9時間眠りし也。母に留守たのみ斎藤dr.。(※省略) 帰りて風呂わかし昼飯くひてのち入浴。(※省略) 母、残り物の赤飯その他もちて大の宅へ帰りゆく。(※省略)中共、鄧首相を除党。華首相任命。 4月8日 晴。(※省略) 16:00出て渋谷。(※省略) 青山会館へ17:00つき17:50よりの斎藤勉・西島千枝子(※須賀子の娘・工の母)の結婚 式に出る。 会する者山口叔母、定子を除き100人近く。讃美歌539、429を歌ふ。 すみて全員撮影、延々と披露宴つづき20:00近くなり了る。 俊郎(親戚総代として秦氏をいふ)大と同車、俊郎と渋谷で下車さし、阿佐谷交番までtaxi。 入浴、雑炊くふ。(※省略) 4月9日 21:00眠くなり(※省略) 武者小路実篤亡くなる90才。朝食のまへ眠りて9:00さむ。 寒し。終日茫然「桐」出来ず。 4月10日 23:00眠り5:30さめ朝食して眠り終日家居。大高同窓会より「年費2千円」と。 不二歌道会より「歌集に歌を」と。「桐」夏休みにやることとす。 4月11日(日) 6:30さむ。ユ礼拝にゆき会費納む。われ昼寝して無為。『今鏡』ちょっとよみしのみ。(※省略) 『馬王堆の世界』を半分よむ。 4月12日 6:00さむ。寒し。母とユと三鷹の医師へゆくとて待つ。小高根太郎に電話「神田博士亡きあとは外山軍治」といへば信用せず。 (※省略) 鬱とれずじっとしてをれば2人帰り、糕子食ひ、母ひるねして大の許へ帰りゆく。 (※省略) けふ『東洋学報(56-2,3,4)』、『民間伝承306』来り、『中国関係論説資料16』にわが「中国の諺」とりしと。 『望星』の稿料1万円来る。(※省略) 4月13日 やや暖し。家居。日記よみ『日韓語の比較』よむ。4月は毎年この通り也。 午后、弓子3孫つれ来る。(※省略) 4月14日 暖し。7:00さめ一日炬燵にをり、長尾の三、四娘(貴代・あや)より「本よまず」と礼状。 けふst.とて大高東京同窓会にゆかず。鬱也。(※省略) 4月15日 登校11:00。(※省略) 東豊書店より『中国礼俗研究』60冊来をり、ふしぎ。 東豊に電話せしに「心配いらず」と笑ふ。川久保「うって変って鬱」と。 堀川、池田2氏に挨拶して帰る。semi4年生6人3年生4人(男生2人)。成績表渡して16:00退校。(※省略) 4月16日 6:00さめ鬱々としてゐれば大来り、すぐ帰りゆく。夜「Quai河に架ける橋」見て元気回復す。 中央公論社より「『日本の詩歌24』10,000部の稿料6万円余送金した」と。 けふも鉄道その他のst.。 4月17日 8:00さめ斎藤dr.へゆけば11:00診察。鬱申上げしに「耐へたまへ」と。 帰りて鬱々たり。(※省略) 庄野生古宮生来るといふに「面会謝絶」といひ(※省略) けふ手帖みれば『中国民俗学』ちゃんと東豊書店に注文しあり。(※省略)ユも「鬱なり」と。 4月18日(日) イースターなれどゆかず。 (※省略) 午后ねてゐれば「京来る」「美紀子植木もてくる」とのことに起きて炬燵にをり。 (※省略)史夫婦帰りしあと京帰りゆく。 4月19日 無理してゆき大学院のぞけば誰もをらず崔君(※崔吉城)きくと。中国古典にゆき辞典買はせ、 「聞かぬ子は卒論にていぢめる」とかけば笑ふ。河本(塩崎)夫人来り、卒論持ち帰る。(※省略) けふ『Biblia62』来り、木村三四吾氏停年、45周年と。 4月20日 終日無為。舟越君より写真の受取来る。(※省略) 4月21日 ストつづく。〒なく、夜、あすは歩きても新宿までゆくと定めしのみ。 4月22日 7:00さめスト妥結ときき10:00まへ阿佐谷。(※省略) 11:00まへ成城着。 13:00よりsemi、すみて4年生5人をよび「猫」と「義和団」の本貸す。14:10より教授会。(※省略) 鬱ややのきし様なり。「金沢の嬢を小高根夫人世話する」と。月給21号俸にて(※省略) 4月23日 6:30さむ。ユ3:00までねられざりしと。知念君より夕方来ると。茫然としてゐれば18:00来り、見本刷1冊呉る。(※省略) ユ、金沢の2嬢の世話しをり。20:00すぎ知念君帰りしあと入浴。「Quai河」下を見る。 4月24日 7:30さめ8:30出て斎藤病院へ9:10着けば先患者にてほぼ満員、 10:30ごろ御診察、『杜甫伝』差上げ鬱といへば「来週より先生の御診察は火水」と。(※省略) 新宿まで歩いてハルクの「モロゾフ」みつけて喫茶(220×2)あすここにて金沢令嬢見合すと也。 帰り佐伯に寄れば岡不崩『萬葉集草木考(4.2万ばつ0.9)』とりてあり。もち帰りてねてをり、(※省略) 4月25日(日) よべ早くさめ眠くだるし。ユ礼拝にゆく。母12:00来り、帰り来て(※省略) 金沢令嬢の見合にゆく。 われ13:40川久保に電話し阿佐谷北口にて14:00会ひ、 中村橋行のbusにのり桜台行の電車にて松本(※善海)宅へ内村君と3人にて着けば一番早かりし。 15:55ごろ来りし僧の読経のあと焼香。われ「三位の墜地獄釋善海を救ひ玉へ」と祈る。食物出、川久保を置きて内村君と桜台にて別れ荻窪廻りの busにて帰宅。料理つめありしを食ふ。 4月26日 よべ青丸一つ足して眠り8:00さむ。10:30出て登校。(※省略)大学院にゆけば蕪木生来り、崔吉城君聴講す。 『The China Moon』貸し、田中ユカリ生を図書館につれゆき、荻田、石川の3人の卒論とって来てもらひ渡す。永久貸出しと也。 田中生自動車置場に去り、我一人喫茶(200)15:00帰宅。 ユやがて帰り来る。鬱のかず。わが詩を画にすると『信徒の友』の紹介画像ありと也。 4月27日 8:10登校。東洋史231教室一杯をり9:00よりの遅刻認めずといひ、(※省略) 図書館にゆき昭和46年以降の卒論を概ね運んでもらふ。(※省略) 15:00帰宅。(※省略) 4月28日 晴。鬱にてものいはず。午后、伊勢スミエ心配とて来り、物色々呉れる。知念栄喜君より送り状。 4月29日 11:00出て上川霊園にゆく。2年分の墓地代払ひ、花(400)供ふ。出てbus待ち(※省略)八王子に帰り15:00阿佐谷に帰る。 『杜甫伝』1冊おきあり。うれしくもなし(高田に送らず、松枝、竹内、小高根太郎にてすまさんか)。 前川佐美雄氏より歌集来り45才の我をうたふ。 4月30日 よべよく眠る。雨。鬱のかず。ユ三鷹へゆき(13:00)17:30帰るまで無為。 5月1日 よべねつき悪く睡眠感なし。〒なく無為。母来り「大も眠りをり」と。知念君に受取かけず。 5月2日(日) 礼拝に夫婦してゆき、すみて齋藤長老、長島君を見かけしあと我のみ竹内(※好)。『杜甫伝』わたし西荻窪へ出て疲る。 5月3日 ユ斎藤先生へゆき薬代へたまひ21:00より8:00まで眠る。知念君より電話ありし故「あと5冊」買上げたのむ。 外山軍治氏より『杜甫伝』の受取。(※省略) 5月4日 睡眠剤ききてふらふらする故、休講ユにいはす。松枝、前川2氏へと『杜甫伝』送らしむ。(※省略) 夜、大、母と咲耶つれ来る。 5月5日 9:00さむ。鬱也。神田(※喜一郎)先生より「杜甫ばやりの白眉」とおほめ。(※省略) 20:00すぎ咲耶、母と来て泊ると。 5月6日 久しぶりに登校。中国古典に2人女生ふえてをり。(※省略) 教授会ダルくてたまらず、早くすみて帰宅。 松枝茂夫氏より『杜甫伝』の受取。 5月7日 快晴との由、他出せず。神田信夫君より『杜甫伝』の受取。清水ますみ生来り2時間ほど本草やりゆく。 5月8日 けふも晴。川久保来り菓子呉る。ユ鬱をいふ。televi代105,000払ふ。 5月9日(日) 礼拝当番として9:30教会へゆけば(※省略)、すみて帰ればユをり。午后善一郎赤ん坊の襁褓もちて宏、克2孫つれ来る。 5月10日 9:00起され10:30家を出て登校。関本教授にsignせがまれ歌かく。(※省略) 家へ帰れば保田より受取。ドイツ留学中の齋藤典子よりたよりありGöttingenにあるらし。 5月11日 6:30起され登校8:20。(※省略) まっすぐ帰る。 (けふお茶の水高校より来し女性「先生かはってゐる」と。阪本越郎氏を知りをり。それに似たりと也。) 5月12日 7:00さめ8:30出て斎藤dr.「薬少しゆるくして玉へ」といふ。(※省略) 東豊書店に寄り『魯迅全集』と『中国語大辞典』とにて7万円としてもらひ帰宅。昼食す。物倦きも鬱やや軽し。 5月13日 よべ4:00まで眠れず。8:00ごろさめて苦しくsemi休講届けせしむれば「今日だけですか」と教務課員いひしと。 夜televi見てゐて日本刀に野本憲志生のこと思ひ出す。光祖母の買ひくれしにてスマトラで道傍に忘れ警察に届けられありし也。 おほきみのみこととおもひ人々と話せしわれの若かりし日よ 20:10入湯、出て来れば高橋(※重臣)君より電話「土曜日来たし」と。 5月14日 3:30さめ、も一度ねて悪夢。ユを促して斎藤病院にゆけば満員(※省略)。 (佐伯にて本、学校へとたのみ、『本草綱目2』とりくれる様懇願す)。 東豊にゆき、ラーメン100円食ひ、本注文す。字典5冊もちゆきし云々。帰りて茫然としてをり。 梅棹忠夫氏より国立民族学博物館のmemberになれと田中克彦氏あて。その(※住所違ひの)由かきて断る。(※省略) 斎藤dr.のお示し通り22:00までA. Hepburn見る。 5月15日 よべ仰せの通りせしに排尿もなく7:00さむ。(※省略) 川久保にゆき「老人の冷や水」の話し、糊(50)買ひて帰宅。 televiにてVolley-ballの日対Cuba女子戦見、角力見してのち夕食し一休みして探偵物見れば眼疲る。(※省略) 5月16日(日) 1:00一服足してのみ、バナナ食ひなどしてやっと眠り7:30覚む。 晴れゐる故sandwichもちて礼拝にゆき、すみて階下にてsandwich食ひ12:30八王子着。 紅茶の冷たきなきゆゑice-coffee(2×200)のみ、菊池(芝原)夫妻の2児つれ来しに遭ひ、ともに待ち場所にゆき、 busにて上川霊園の上まで上り、田中家の墓に花を入れ、竹森先生のお話の前後に讃美歌うたふ。 14:30出て八王子着。解散して阿佐谷。佐伯にて『蕎麦辞典(1,400)』買ひて帰宅。 5月17日 8:15さめ10:00出て登校。大学院にて清代以後北京の正月行事了へ、(※省略) 帰宅の途、弓子らに会ふ。『東洋学報』来る。(※省略) 5月18日 22:30就寝。6:30さめる。8:30登校。9:00より東洋史。教科書もたず話しゐる2男生咎めれば出てゆく。 (※省略)  帰宅の途、佐伯に寄れば『鳥居龍蔵全集10(8,820)』来をり、註文の分は明日学校へと。 (※省略) 夜、金沢夫妻来り、小高根夫人の世話せし数学教師を断りゆく。(※省略) 5月19日 8:00さめる。11:00出て成城学園。 駅前本屋にて『芭蕉書翰集(500)』買ひ、栄華飯店にゆけば大藤、築島2氏をり。 鎌田、西山2氏来り、新城、堀川博士のほか本多安次氏。 (※常民文化の会)20:00ごろ800払ひて築島博士と新宿まで同行。(※省略) 5月20日 23:00ねつき7:00さむ。『成城文芸75』正誤表の校正来る。 『四部叢刊・続』を東豊に注文。校正「責了」とし10:00出て成城。 (※省略) 14:15よりの教授会、議題なくて早くすみ東豊にゆけば3万円余を3月に払ひをりと。『四部叢刊』調べることとす。 (成城堂にて『大和川(980)』、東豊にて『太平天国革命(250)』、『唐律與近世刑事立法之比較研究(600)』買ふ。) 小高根太郎君より『杜甫伝』よんだと。(※省略) 京来をり哲夫来るをまち夕食してゆく。 5月21日 23:00すぎ眠り7:30電話「本位田昇死しけふ19:00より若林3丁目の本位田望宅にてお通夜」といふにさむ。 14:00清水ますみ生来り「漢薬」のゼミ。16:00帰りゆきしあと夕食し18:00出て豪徳寺より玉電、松陰神社前で下車、探しあてれば大邸 宅にて枕経真宗。夫人令息のほか重美兄、関口(※八太郎)、畠山六右衛門の諸氏をり。 焼香して父と子と聖霊のみ名を念ず(お花料1万円)。帰り関口を案内して玉電、新宿にて別る。 丸よりと菊池博士よりとより電話あり。高橋重臣君に返本880. 5月22日 7:00西川より電話「けふの葬式にゆく」と也。和田先生の御歿日は6月22日と判明。 南史一氏より「陶淵明につき一海知義教授と討論せし。判定を」と。「貴君の方、尤も」と返事。 夜、知念栄喜氏より電話「酒代受取った」と。安心。(※省略) 5月23日(日) 川久保より9:00電話、研究費について也。 坪井(※明)大阪より電話「新聞で(※訃報)見た。肥下夫人よりも相談、香奠いかが」と。「自由にせよ」と答ふ。 5月24日 8:00さめユの運動会とて三鷹へゆくを送る。弓子9:20電話かけ来り「母もう着く」といへば2児置きて出てゆきしと。 われ10:00出て登校。卒論を図書館でとり集め、午食するところへ別府大来る。(※省略) 早くやめて帰宅。佐伯で『いろはかるた(1,100)』買ふ。(※省略) 夜、業績表に著書論文の説明かきて22:00となる。 5月25日 よべ睡眠せず6:00前後ちょっと眠り6:30起き思案してのち登校。 8:10にゆき8:35より東洋史に出席cardくばり15分前にやめ、中国文芸史にてもcard渡す。ともに欠席多し。 (※省略)「6.2(水)17:00より文芸専攻新宿の会を新宿で」との通知受取る。帰宅。 藤枝Berlinより留守宅より受取ったと便りありしを知念君同封して「礼受取った」と也。 (※省略) 西川より電話「本位田の葬式にゆきし。『杜甫伝』の宣伝見た。sign某君の為してくれるや」と。「する」といふ。 5月26日 8:00さめ10:00すぎ斎藤dr.へゆく。11:40診察すみ薬変へ玉はず。(※省略) 紀伊国屋で図書card100枚(340)買ひ、佐伯に寄りて帰宅。東豊書店に寄り『四部叢刊3篇』を注文す。 5月27日 23:00眠り9:00さむ。登校。(※省略) 斎藤勇先生より「indexつけてくれたら宜し。250page多謝」と。 東豊書店に寄り『鄭成功史事研究(360)』、『匈奴史(900)』買ひ、佐伯に寄りしに何もなし。 三田村泰助博士より『黄土を拓いた人々』貰ふ。石原八束より「三好達治13回忌を29日に」と。「他用あり」と速達せん。 5月28日 9:00さむ。(※省略) 畠山六右衛門氏より「福島魚市場専務やめし」と。田井中弘氏より詩集。 清水ますみ生来り、中薬やり方教ふ。 5月29日 8:00さむ。終日宅居。無為。梅田ゑい子女史より「45才になりし」と。 5月30日(日) 9:00近くさめ夫婦とも礼拝にゆかず。13:30川久保に電話し羽田への『杜甫伝』托す。15:00帰宅。(※省略) 5月31日 9:00さめ、ユ、画かきにゆきしあと10:30阿佐谷発。暑し。大学院蕪木、重久(※重久武志)の2生のみ。(※省略) 佐伯に寄りて帰宅。京来しと也。 6月1日 よべ睡眠感なく6:40起床。8:05成城へつき出欠cardくばりつづけ1年の出席よくなり2,3,4年は殆ど皆無となる。 (※省略)東豊へゆき学部の『四部叢刊参集(※3編)』ほか『太平軍女営』注文し、 自分用に『中国親族法(150)』、『唐代の服飾(11,000)』、『中国民族及其文化論稿3冊(28,800)』、『中華人民共和国地図地名 索引(300)』、『太平天国制度初探(3,600)』、『Further papers relating to the rebellion in China (3,600)』計47,450買ふ。 斎藤晌博士より『杜甫伝』受取。伊勢煦氏より『杜甫伝』買った由。松村達雄君に電話して横山、本位田の死告げれば「大河原、鎌田(※正美)は」と のこと也。 川久保より電話「羽田(※明)山の上ホテルに泊りあす空く。会ひたし」と。相談して紀伊国屋のescalaterの上にてときむ。 6月2日 9:00さめ斎藤dr.にゆけば満員。(※省略) 13:30なる故ゆるゆると新宿へ歩き追分団子食ひて午食とし、14:05紀伊国屋書店にゆけ ば停店。 escalaterのところにて立ちをれば川久保14:30来り、羽田15:00来る。「二光」3階の中国料理にゆき知合の話をし1,900の払 ひ川久保してくれ高野に茶のみにゆき900円払ひ18:00前となりし故2君と別れ、小田急ハルク8階の中国料理にゆく。 田中久夫氏いて白鳥君来り、野口君と2人にて座をとりもつ。20:00すぎすみ、田中久夫氏に「おかげで杜甫書き了へし」といへば「皆よんだ」と 也。20:30帰宅入浴。 6月3日 8:30起き快適。10:30家を出て登校。東豊より来し本を運ぶ。午のpão早く食ひ12:30よりsemi。(※省略) 教授会 (※省略) 17:00すみて鎌田女史のかけゆくを見る。西山博士も中々の策士なり。知念君より電話「(※『杜甫伝』)推薦図書となりし」と。めでたし。 『史苑』の脱会認めらる。佐伯にて『北京の八木節(300)』、『三代の天皇と私(800)』と買ふ。 けふ学部の図書費38万円となり、まだ買へる也。 6月4日 無為。ユ美紀子に電話すれば「史、まだ転任の命なし」と。 6月5日 9:00さむ。12:30昼食し民俗研究所へゆくつもりにて出て来週とわかる。高橋重臣君より受取。関東地方梅雨入り宣言。 6月6日(日) 8:00さめ聖餐式にとゆく。快晴なり。ペンテコステなれど出席少なかりし。すみて長島君さそひて喫茶。昭和14年生といふに驚く。 帰れば庄田夫人娘をつれ来り卒論もちゆく。「田中久子まだ在米」と。そのあと史ら4人来り「転任まだきまらず」と。夕食せずして帰りゆく。 共同通信より『杜甫伝』のアンケートとりに来たしと。水曜15:00と約束、知念君にきけば「写真横顔が宜しからん」と! 6月7日 晴。9:00さめ11:50登校。研究室へゆけば田中久夫氏をり今年は月曜らし。大学院4人をり重久わが『南の星』のことよく知りをり。 早々すませて1服後2号館の中国古典にゆく。(※省略) 松村潤氏より抜刷2冊。『信徒の友』より原稿料3,000-300来る。 6月8日 よべ頓服のみ21:00就寝すぐ眠り6:30さむ。1年の東洋史にゆき、(※省略) 東豊へゆき『衛藏通志(1,800)』、『唐會要16冊(3,400)』買ふ。『島夷志略』見つからず。帰れば〒なし。(※省略) 6月9日 8:30起き10:00散髪にゆく。角川書店よりも「丸山薫の書翰見せよ」と。賀状よりなし。 14:30共同通信の松波氏camera-manとともに来り、camera終りしあとも色々質問してゆく。 6月10日 8:00さめ10:40出て11:30登校。小森副手に個人書目わたし白鳥芳郎君と話し研究室にゆけば、清水ますみ生来り下書見す。(※省略)  3Dへゆきsemi (※省略) すましてbonus袋あければ100万円引税にて86万円? ユ、金沢の嬢に世話するを叱りしもきかず。 6月11日 9:00さめ10:00清水生来しに「黄檗」よんでやり殆ど了ふ。間に昼食入りユ三鷹へゆく。本村繁喜氏より高森文夫氏に会ひ「よろしく」といは れし由。 鎌田女史より電話「考古学には芸術家と両方教へられる講師必要、戸田はダメ」と池田学部長より云はれしと。 6月12日 9:00さめ11:30pão食ひ登校。13:15より堀川博士の話きき15:00となる。帰り佐伯へ寄り『三国史記訳3冊(4,680)』借り る。 6月13日(日) 8:00さめ礼拝当番とて9:00出てゆく。(※省略) 帰宅。寒く眠し。 6月14日 8:40さめ、ユ、山住dr.にゆき朝日に(※『杜甫伝』の)書評のると聞いて来る。10:00出て髭そり忘れしに気づき引き返せばユ、金沢夫人 へとゆきをり。 午食し了へ大学院へゆけば(※省略)、研究室で茶のみ帰らんとすれば(※省略) 東豊へ寄り『日本の中の中国文化(800)』買ひ佐伯にて『ユリ イカ・魯迅(500)』買ふ。 美紀子の帰るに門ぎはで会ふ(※省略)。 6月15日 6:30起き8:00登校。2時間すます。(※省略) 6月16日 地震にて7:30さめ斎藤dr.へ9:30ゆき11:00すみ和田先生のお宅へゆけば奥様84才と。孫16人曽孫10人と承り「午食」との仰せに 早々に退出。 13:00阿佐谷、佐伯に『鳥居龍蔵全集(8,820)』来をり。Tibetやるとて中島生来り2時間して帰りゆく。寿一より「影山(※正治)氏 会ひたし」云々 6月17日 10:00登校。戸田君の非常勤講師につき学科の相談、結論出ず。12:40となりsemiにゆく。(※省略) 紀伊國屋での懇親会。鮎まづし。出んとすれば坂本、築島2教授も同行。佐藤君Rentgen放射を受くと也。来週木曜、堀川氏の分を加へて見舞に ゆくこととなる。 (けさ和田夫人より『杜甫伝』の誤訳指摘されくさる。) 6月18日 曇。山村貴美氏より2,000封入、『杜甫伝』のsign本くれと。東豊に電話してゆくといふ。 6月19日 東豊へゆき『杜甫伝』1冊山村貴美氏に送り、14:00より清水生のsemi。 23:00まへ「あす午后新城博士へゆくにつき云々」と鎌田女史にいふ。 6月20日(日) 9:00すぎさめ礼拝にゆけず。ユは展覧会と。 12:00出て吉祥寺駅内にて山本山の海苔買ひ新城家探せしもわからず。公園前駅まで戻り中国料理店より電話し、ゆきしも結論出ず。鬱々と帰り来 る。 けふ父の日と弓子電話かけ来る。 6月21日 9:20ユ胃の検査に出しあとわれ出て登校。鎌田女史つかまへて昨日新城博士に会ひし経過話す。(※省略) 疲れて帰れば宏一郎左足骨折とてユ、三鷹へゆき京をり。飯たかしさしみ食ひしところへ善一郎2孫つれユと来り、疲れてねてゆき夕食せず。 克・孝2孫はじめて我家に眠る。 6月22日 登校。鎌田・新城2氏と会はず。12:40学校を出て帰宅。川村女学院の某氏より『楊貴妃とクレオパトラ』の所在につき電話あり。 小林善一郎来り、疲れし様にてちょっと眠りて夕食せず帰りゆく。川久保来り、何かいひたげなりしもすぐ帰りゆく。 6月23日 孫たちむつかし。角川より「19版の印税三井銀行に入れし」と。桜井の栢木(※喜一)氏より『杜甫伝』注文せしと。 中央公論事業より「満洲語の訂正」校正来る。責了とす。克次朗、夕食時腹痛をいひ山住先生につれゆけば「夏カゼ」と。 6月24日 登校。ゼミの進行状態いはせてすみ、14:10より学科の会。新城教授、戸田君を学部の臨時講師に推す。 すみて15:00築島教授を案内して佐藤君の見舞にゆけば、(※省略) お見舞3万円築島氏置きわが家に寄りゆかる。 応接を見て「いよいよ善海に似たり」と也。駅まで送り佐伯に寄れば本来らずと。夜、善一郎来り、孝行を入浴さす。 畠山氏より『杜甫伝』評のりし京都新聞送らる。鎌田女史に電話すれば「戸田君ダメと池田、中西、新城3氏をしてきめし」と。 6月25日 曇時々雨。13:00飯田生来り2時間餘りすませ疲る。 共同通信社より『杜甫伝』評のりし新聞3種ほど速達あり。電話して松波氏に礼いふ。 6月26日 曇時々雨。2孫にほとほと疲る。(※省略) 雨止み孫うるさきゆゑ川久保にゆき40年間の話す。18:30となりあはてて辞去す。 善一郎2孫をつれ帰りしと。banana置きあり。思へば哀れなり。 丸重俊に電話すれば「父、変りなし。明星は改築」と。 6月27日(日) よべ寝つき悪く礼拝にゆかず。ユゆき竹森先生よそへゆかれしと。5万円墓碑代2回目寄附せしと。 大来り「母、伊勢」と。帰りしあとユ、新宿へゆきwhite shirtあつらへ斎藤(※茂太)先生へ7,000の洋酒お中元にせしと。(※省略) 6月28日 登校。栗山博士「このごろ飲む」と。「愛飲は」ときけば「月桂冠」と。鎌田、厨川2氏と話して帰宅。 6月29日 よべ睡眠感なく登校。2時限すまし11:00pão食って帰宅。(※同姓同名の)田中克己博士への誤配の吉川(※幸次郎)博士の手紙と本来る。 6月30日 雨中、10:30斎藤dr.。11:30薬もらひ東豊へゆき『杜甫伝』を田中博士に送る。(※省略) 7月1日 雨止む。11:00登校。semiやる。「来週まで来ず」と4年生。教授会、成城学園の聯帯につきて長論。15:30すみて帰宅。長野敏一より 『杜甫伝』広告の切抜来る。 7月2日 晴。11:00柏井歯科へゆき上歯きつくしめてもらふ。下は仕方なしと也。(※省略) 佐伯に寄れば『唐和辞書類集20冊』すむ。 7月3日 雨。9:00さむ。(※省略) 集英社より創立50周年とて時計。(※省略) 7月4日(日) 曇。礼拝にゆく。聖餐式あり。帰途佐伯にて『文芸春秋6月号(150)』買ひよみ了る。(※省略) 7月5日 6:00さむ。10:00家を出11:00昼食。大学院に「歳暮の行事」を課題とす。(※省略) 東豊へゆき(※省略)『金匱要略(400)』買 ふ。 史、官房の企画官となりし旨、美紀子より電話あり。木村禧一氏より「杜甫の真筆まだ表装出来ず。出来れば写真送る」と。 7月6日 6:00さめ登校。8:40より「中国古典」すまし「遣唐使」了へて東豊により『杜甫伝』五十畑夫人に送る。(※省略) 7月7日 9:30覚む。ユ三鷹へゆきわれ高円寺の古本屋めぐりせしも何もなし。栗山理一氏より受取。(※省略) 15:00散髪にゆけば満員。(※省略) 帰れば美紀子、雅子来てをり。(※省略) 大臣官房審議官に4人なりしと。 (鎌田女史より堀一郎博士母堂死なれあす葬儀と。) 7月8日 3:00ねて9:30さめ10:30出て登校。semi早くすまし堀(※一郎)家へゆかんとすれば(※省略)、(※母堂の)死顔見て花投げてすま す。(※省略) 帰校し『図書集成』の西蔵のcopyとる子を待ち帰宅。京来り、中国のタバコ「中華」2箱呉る。(※省略) 7月9日 9:30さめ昼食後13:30長谷川生来り「七草考」として「芹」ほぼすまし18:00まへ帰りゆく。千葉県生れなり。 7月10日 5:00まで睡眠感なく9:00起床。10:00出て成城。13:15より築島博士の話。8月休み、9月は平山博士(大阪美術館長)と。(※省 略) 帰り雨降りをり『中文大辞典』10冊運び終り佐伯にて『知里真志保著作集』了る(3,980)。 7月11日(日) 雨。われのみ礼拝にゆく。(※省略) 折口信夫『古代研究4(300)』を吉祥寺駅前売店にて。『文芸春秋8月号(390)』買ひ土砂降りの中を 佐伯へゆき、 『草木趣味入門(1,000)』買ひて帰る。(※省略) 「月令の植物」を守屋博士の本より拾ふ。 7月12日 曇。8:00さむ。11:30林正哉叔父の代りに東京海上火災の島谷正幸氏来り400万円の火災傷害保険に8,200払ふ。24才の青年也。(※ 省略) 13:30研究室にゆきて東豊の払ひ調べをれば、電話「大江久美子の娘より、艶叔母危篤」と。 あはてて中国古典早々にすまし、教務へ休むやもしれずといひ、鎌田女史にも「下阪するやもしれず」といひて帰宅すれば ユ、「河野咲耶に電話すれば今日小手術するも見込みなし。但し金曜まで北海道へゆく」と也。 落着き取り戻し21:00咲耶に電話して「金曜に泊るやもしれず」といひてすむ。(※省略) 近代文学館より『鷭』2冊の復刊(※復刻版)来る。 7月13日 7:00覚め8:30登校。(※省略) 東豊に寄り『康泰呉時外国伝(640)』、『徐衷 南方草木状(480)』買ひ、晴れたり小雨の中、佐伯へ寄り『明治裏面史(500)』買ふ。 『儀礼』来をり、1万円と!(※省略) 上野壮夫、浅野晃2先輩に詩集の礼かき、川久保に電話すれば中央大学より帰り「来週初めまで弘前」と。 そのあと『柳辺紀略』輪読せんと申込む。躁なり。 7月14日 川久保より電話「百瀬弘氏逝去」との声に覚む。10:30斎藤dr.。すいてをり5人目ですまし帰宅11:30。(※省略) 中村治兵衛君より「百瀬さんのお通夜19:00自宅にて」と。一昨日より年中行事と『四時纂要』の植物名採り『詩経』の半ばすむ。 中島生19日また来ると也(新唐書吐蕃伝よむ)。 17:00素麺くひ18:00の特急の出しあと川久保と会ひ特急にて高幡不動に19:00着き(※省略)、読経はじまり説教のあと焼香。 書斎に案内され中山八郎氏と中村治兵衛以外はわからず。 beerとすし、われタバコふかして出れば甥子さん自動車に拾ってくれ、高幡不動に着き20:37にのり21:30ごろ地下鉄にて帰宅。 7月15日 8:00さむ。本位田家より「香典を日本厚生保護協会に寄附した」と。京来り(※艶叔母の)病院にゆき「日曜より泊る」といふ。 (※省略) けふ教授会に出るつもりなりしも止む。 7月16日 8:00さめ午食して14:36のひかりにのり18:00すぎ大阪着。(※省略) 肥後橋の阪大病院へゆくとて紅きcarnation(1,050)買ひtaxi(400渡す)。4階西の416とて(※省略)昨日まで面会謝絶な りしと。 19:15看護婦さん来るを機に立つ。付添の女に1,000渡す。月曜手術には大江、城平の両叔父つきしと。 咲耶へゆく途、アベノ橋より電話し(※大阪高校OBか。不詳)「来てよし」といふに今川で下車、わからず電話すれば北田辺と。 夫妻に挨拶し中村幸夫死にしときき、森、浅野、横山、本位田と東京組の死亡伝へて出(タバコ貰ひ茶与ふ)、 咲耶宅へ21:00つき入浴、飯一杯食ひ羊羹置き22:00眠る。 7月17日 8:00さめpão1枚食ひ8:30タカオの3児哺育園へと預けゆくを見る。帰り来しあとすぐ出て天王寺にて光買へば10:46に指定され、その まま国鉄梅田で新大阪きき、新大阪10:30着。前の汽車の出るを見送り1服。最前車両にてガラ空き14:10着く。 佐伯へ寄り鈴江言一『孫文(1,600)』買ふ。『鳥居全集4(8,820)』受取りて帰宅。牧野徑太郎の詩集来しのみ。牧野君へ受取かく。 新城博士より電話あり、20:00すぎすれば「北京旅行せずや」と。「せず」と答ふ。 7月18日(日) 6:30起き8:30家を出、9:00より教会にをり受付つとむ。男50女85とかにて竹森先生「月に1回の礼拝にて宜しと思ふな」と叱らる。 ユ、先に帰りしと思ひ、中公文庫(480)買ひて帰宅。(※省略) 依子に「見舞なら早くゆけ」といふ。京夫婦18:00来り、夕食し21:00 哲夫帰りゆく。 CanadaにてのOlympicの入場式見ささる。 7月19日 雨降る中をユ、三鷹へゆき13:00中島生来り「新唐書吐蕃伝」よます(あとにて佐藤長の訳あることわかる)。(※省略) 7月20日 よべよく眠り斎藤dr.明日ときめ14:30来し藤木生に「猫」よんでやる。 佐伯にて『日本産動物雑話(1,500)』買ひ、雑誌売れば丁度よくなる。(※省略) 7月21日 8:30起床。髭そり10:30斎藤dr.。11:30診察受け(車中と待合室で『楡家の人々 上』読了。茂吉先生あまりかかれあらず) 12:10帰宅。『斉民要術』の草木採る。13:00ユ、克次朗つれて公園へゆき14:00すぎ長谷川生来り、(※省略) 「薺」この次にと帰り ゆく。 18:00弓子来り克次朗つれゆく。京、昂奮気味なり。(蓮田(※善明)夫人より『陣中日記』『をらびうた』賜はる) 7月22日 8:30起床。蓮田夫人へ受取かく。14:00清水生来り「朮」19:00までやりゆく。哲夫来り「けふは大丈夫と医師いひし」と京つらってゆ く。 吉川博士より(※同姓同名の)異人への便りせしとて謝罪し来らる。 7月23日 7:30さめる。五十畑夫人より『杜甫伝』の受取。小嶋樹氏より『杜甫伝』入手したしと。講談社の文庫に郭沫若『李白和杜甫』の訳上見ゆ。 京、夕食前に帰宅。Olympicのtelevi見るも面白くなし。(※省略) 7月24日 8:00すぎ覚む。暑し。ユ、画を習ひに午后出てゆく。(※省略) 『斉民要術』引き続きよむ。19:30母より貰ひし浴衣着て佐伯。後藤均平君の『ベトナム史(800)』買ひ『柳田国男と折口信夫(400)』買 ひて川久 保へゆけば「昨日弘前より帰りけふ一日ねてゐし」と也。池内一氏の逝去を知らず。 7月25日(日) 6:00さめ礼拝にゆく。(※省略) 帰りてユの出てゆくを送り裸でゐればベトナム史やるといふ越部卓生来る。 (※省略) echo5ケもち来りしも1万円冊しかなく『日本の詩歌』与へて勘弁してもらふ。 12:00哲夫来り、18:00ユおかず買ひて帰り来るをまち夕食す。Olympicのteleviくりかへし見ささる。(※省略) 7月26日 8:30さめ、11:30(昼食に素麺くふ)出て教授会、中西進博士内地留学(但し研究費・旅費不要と)、(※省略) 舟越君Bonにつき室代高しと。帰途東豊にゆき『爾雅(200)』、『抱朴子(1,540)』、『秦代初平南越考』とにて2,000もちゆきしを なくして帰宅。 (※省略) 夜、和田夫人より電話あり「渋谷の本屋(※中村書店)にて『詩集西康省』2万円なりし」と。 7月27日 8:00さむ。『斉民要術』了りとし14:00来りし丸、大橋師弟の相手す。(※省略) 18:30丸に電話し「ゆく」といひHope30箱 (2,250)もちて古本屋みつつゆき、新開店の店にて南蛮切支丹の新書(100)買へばdoubleをりし。 19:00まへ帰れば哲夫来てをり「泊る」と也。哲夫時計Citizen Quartz(30,000)買って来る。 7月28日 8:00さむ。暑し。8:30朝食。稲田夫婦は9:00朝食。(※省略) 夕方稲田夫婦買物にと出てゆく。 7月29日 8:00哲夫の電話にてさむ。京0:00入院5:58男児出産と。ユの起きて附きゆきしを知らざりし。9:00まへ哲夫入院の手続にゆき「面会時 間13:00-19:00」と電話かけ来る。稲田母上とユ阿佐谷駅にて待ち合せ14:00出てゆき16:30帰宅。安産にて稲田父上も来り、哲夫 も来しと。 われ夕食し、(※省略) 荻窪へ散歩にゆき若森書店へ寄りしあと奧の本屋にて『森本六爾(550)』みつけて買ひ来る。 ユ、依子、弓子、美紀子に電話す。(※省略) 7月30日 7:00さむ。ユ14:00すぎ京見舞にゆきすぐ帰宅。買物たのまれしと。(※省略) 哲夫来り『妊娠の前後』の本よますとのことに「2週間はダメ」と叱り帰らす。 7月31日 7:00さむ。『抱朴子』やるまへteleviの女子volley-ballの優勝を見、夕方までに3回見ささる。(※省略) 弓子、孝行つれ京 の見舞の帰りと也。 8月1日(日) 8:00さむ。暑き中をポロシャツ上着にて礼拝にゆき聖餐あり。(※省略) 帰宅後『抱朴子内篇』すみ外篇は岩波文庫になし。(※省略) 8月2日 6:00さむ。(※省略) 久礼田房子夫人より益喜博士の歌集『白霧』。(※省略) Olympic終り、夜ルネ・クレールの「巴里祭(アナ・ベ ラ)」見る。(※省略) 8月3日 冷し。午前中散髪。1,800となりし。滝沢勉、藤野一雄より『杜甫伝』買ひしと。午後美紀子来り「兄アメリカより帰り来し」と。 ロッキード事件の解決近きらし。(※省略) 「会議は踊る」のリリアン・ハーヴェー見了り(摩滅甚し)、(※省略) 8月4日 けふも涼し。8:30出て9:30ごろ斎藤先生。(※省略) 11:40東豊、簡さんをらず。しばらく待てば帰り来り、川久保27万円で『古今図 書集成』買ふらし。 ラーメンとってもらひ300払ふ。 『Marriage laws and customs of China (1,600)』Bell『Tibet(2,160)、『粵南神話傳説(1,200)』、『中国民間信仰論集(2,600)』計7,560借り る。 (※省略) 夜Marlene Dietrich「間諜X27号」見了る。 8月5日 曇。やや涼し。『古事記』ひらひをりしに(※暑中見舞 省略)、13:00ごろ西洞院夫人より電話「長沖先生が亡くなられた」と也。 (※省略) ユをして朝日、毎日買ひにゆかせればともに書きあらず。夕刊には東京新聞もかき、けさ10:25逝去と。(※省略) 夜「ある夜の出来事」見了りし時、西洞院夫人より電話あり「わが分も念仏となへてくれ」とたのむ。(※省略) 8月6日 晴。14:00飯田生来り「中国婦人の法律上の地位」よみやり18:00までゐる。(※省略) 18:30川久保にゆき(※省略) 『古今図書集成』買ふつもり也。 すぐ帰り夕食し「舞踏会の手帖」見る。野崎夫人より「南陽夫人の世話にてアベノ橋のHotelとりし」と。 西洞院夫人より「お通夜にゆきし」といふに「10日告別式にゆく」といふ。ユ依子に電話し「11日泊めよ」といふ。(※省略) 京あす16:00哲夫の迎へにて退院と也。 8月7日 雨降る。8:00起きユを河北病院にゆかしめ、(※省略) 16:00哲夫、京、健太郎と来り、赤飯と黒鯛の刺身とにてお七夜すます。『日本書 紀』上すみ中に入る。 8月8日(日) 8:00まへ起き礼拝にゆく。(※省略) 大来り、京に祝呉る。南村裕子来り、立教の英文にて勉強すと。(※省略) 夜『日本書紀』すむ。(佐伯にて『Encyclopedia Americana』見つけて8,000といふに喜びてもちかへらんとすれば不能と。なるほど大部なり。) 8月9日 雨。終日降る。(※暑中見舞 省略) 健太郎、昼までよく泣き、夜は3回位と。(※省略) 20:00哲夫来て泊る。 8月10日 晴。傘もちnoteもちして阿佐谷駅「光」の空席なしと。東京駅に着きゐし9:28発の「光」にのれば空席あり。(※暑中見舞 省略) 新設の寺町通りの地下鉄に乗り谷町9丁目で下車、蕨餅を昼食代りとし北に向へば2人づれあり妙経寺を教へらる。今一人は白髪の小高根二郎君なり し。 13:45より式はじまり経のあと藤沢桓夫、小野勇、小野十三郎、秋田実などの悼辞あり。われは守本文生と小高根君との間に坐り、後より竹中郁、 横田利平氏などと挨拶す。 山本元理事長夫人より御挨拶あり痛みいる。すみて2回生のほか南日女史、(兼頭)越智淳子、涌井千恵子などと話しゐれば帝塚山同窓会に追悼かけ と。 taxiにてアベノ橋の「よし家」にゆけばやむを得ぬとて帰りし太田(立川)、(安村)今市2夫人のほか、ここ世話してくれし椿下、武田(鍛冶 妹)、鍛冶(菊池)、西洞院、相良(前川)、柏崎(あとにて堺の包丁くれる)、山荘、辻(山尾)、吉野(中馬)、野崎、堀(和島)、南陽と12人 か、賑やかなり。 長沖さんの昇天に乾盃せしあと我、何も食はず雑炊してくれ、涌井生の18:00寄りくれしあと20:00前、散会。 田村春雄に電話すれば現職と。すぐ入浴。薬のみしに4:00さむ。 8月11日 8:00にpãoもち来てもらひ「払ひは」といへば「すみあり」と、茶代1,000と電話料100払ひ、出しあと引返せば恰も南陽夫人より電話。 礼いひて地下鉄にてナンバ近鉄名古屋行8:57発に乗る(1,880)。名古屋駅内で依子に電話、1時間してゆくといひ、 きしめん屋探しあて(190)食ひしのち地下鉄にて一社下車(120)。 大阪にてもらひし菓子2箱と依子の立替と2孫への土産(2,000✕2)わたし、望の本よめざるに心配す。 あす東京へつれゆくといひて寝さす。(澄、九州へ出張と。) 8月12日 8:00朝食し東区の徳川町の蓬左文庫へと千種より歩き10:30着き『斉民要術』の写真見せてもらひ校訂すませれば12:30。 『蓬左文庫漢籍分類目録(3,500)』買ひ礼いひて南下。Hot-coffeeとice-coffeeとりてたづねたづねして采華書林にゆけば 主人呼んでくれいろいろ話す中、明治44年生と。本2冊もらひ『思無邪小記(2,000)』のみ金とってくれる。 また千種駅に出、15:30依子のところへ帰りぬるま湯で上半身拭き、けふ澄帰りおそしとのことに急に帰るといふ。 2孫送り来しゆゑ本屋につれこみしに、望あれもいやこれもいやと、泰に850の本買はせ地下鉄へ逃げ、名古屋駅。 指定席なしとのことに16:48とかにかけこみ、席空きゐるに坐れば近鉄観光の指定席と。腹立てsilver車通りぬけ7号車の空席に坐ればあと にて指定席券100とられてすみし。(※省略) 帰宅。(※省略) 澄かえりをり「望きたへる」とのことに「むりするな」といふ。 8月13日 晴。暑し。朝速達にて「長沖先生追悼文を15日までに」と。われ「よし家」の会その他2回生に礼状かき、すみしところへ南隅夫人より電話あり。 礼重ねていふ。(※省略) 佐伯へゆけば『本草綱目11』と『鳥居龍蔵全集』にて1万円余と。 8月14日 晴。さめて朝食後「お父さんはお人好し」と長沖さんの追悼記かき、2回生への礼状書き了へて駅前郵便局。 佐伯にきのふの払ひし、川久保にゆき12:00なりて帰宅。(※省略) 8月15日(日) 8:15さめ礼拝にゆく。(※省略) 佐伯に寄り『野客陳語(150)』、『近代日本の女性像(100)』買ひて帰宅。(※省略) 八月十五日の記録映画2本見る(televiにて)。ユ疲れをり。(※暑中見舞 省略) 8月16日 8:00さめ(※省略)、南陽夫人より電話あり「追悼文さっそく書いていただいて喜んでゐる」と同窓会の伝言をいふ。 8月17日 8:00さむ。(※残暑見舞 省略) 佐伯へゆき柳田国男(角川文庫)2冊(220)買ひ、川久保に遭ふ。(※省略) 稲田哲夫来り「あす京、健 太郎を引取る」と也。 8月18日 8:00さむ。9:00駅にゆき9:40ごろ斎藤dr.、11:40御診察。薬もとのまま也。帰れば田村春雄君より「あの翌日会合ありて云々」。 (※省略) 15:30稲田母上来られ、哲夫16:00来て引揚げゆく。健太郎抱けば可愛く、新家庭に不安がりユに笑はる。 東豊にゆき7,500の借金払ひ、『儀礼鄭注(380)』買ふ。(※省略) 簡君、台湾と香港とにゆき10日ほどして帰り来ると。 ワリ勘にて午食し、川久保の『古今図書集成』を注文せしを知る。0:00までかかって「あさざ」書き了ふ。 8月19日 7:00さめ「葛」と「巻耳(※オナモミ)」かき了へ佐伯へゆき岩波新書1冊買ふ。(※省略) 長谷川生13:30来り、16:30まで「薺」半 分すむ。 フラフラとなり入浴。夜、鎌田女史より電話「考古学は関野君承知、実習は青山学院の葉君、佐藤教授は再起不能か」と也。 8月20日 9:00さむ。(※省略) 田嶋紀子、崔吉城2生より残暑見舞。(※省略) 詩経の「葛藟(※蔓草)」「芣苢(※オオバコ)」「桃」にて200字 20枚をやっと越す。 夕方佐伯へゆき『柳田国男・南方熊楠往復書翰集(1,800)』借る。佐藤元運輸政務次官(中曽根派)逮捕され自民党、三木3:反三木7の形勢と なる。 8月21日 8:00さむ。けふも暑し。裸かにて「楚」かき了へ36枚となる。(※省略) 夕食しtelevi見しのち「蔞(※はこべ)」「蕨」かき「薇」を 考へて止む。 48枚なり。依子より「母いつ来るや」にユ「ゆけず」と答ふ。 8月22日(日) 6:00さむ。当番とて早すぎるも9:00教会にゆき、了へて柳田国男『妹の力(160)』を金子にて買ひユの帰りまで戸を全部開け放つ。(※省 略) 午後暑さを忘れて「蘋」「藻」をかき58枚とすれば成城の小林氏より「相良徳三先生亡くなられあす密葬、葬儀は9月4日か」と。(※省略) 橋本登美三郎(元運輸相)つかまり、これにて全日空関係は了り、次は児玉ルートとなり。 8月23日 7:00さめ9:00ユの京へゆくを見送り『詩経』つづけ「藻」「甘棠」「白茅」にて65枚となる。清水生来り、13:00までsemiやる。 (※省略) 中国の市名表つくり直す。6:30川久保に電話し「あとでゆく」といひ飲物だけ採り8:30帰宅。 8月24日 7:30ウトウトとさめて起床。(※省略) 中国の植物つづけ88枚とす。入浴。三木内閣こはれんとし裏に田中角栄動きゐるらしく不快。 (※省略) 東京の気温35.4℃と。 8月25日 久しぶりに雨にて涼し。『詩経』つづけ105枚とし、午后になり16:30阿佐谷駅北口にゆき寺のところの古本屋で『ことばと聖書(250)』買 ひ、 金沢良雄訪ねしに無人らしく河北病院のまへの本屋へゆけば女主人われをおぼえをり。(※省略) 佐藤達夫氏にゆき母上にきけば「読書し散歩してゐる」と。「9月4日の相良徳三先生の告別式で会はん」といふ。 (※省略) 浅野亘子(堀)夫人より「長沖先生もあの会にゐられたら」とむり云ひ来る。愉快なりしらし。(※省略) 8月26日 尿催し(寒かりし)5:30起床。6:30朝食とりて床に入りしも眠れず仕事も出来ず13:00長谷川生大船より来り、女性論17:00までやら す。(※省略) 8月27日 22:00すぎねて8:00起床。ユ京のところへと10:00出てゆく。11:30午食とりに出て佐伯にて『南蛮文化渡来記(600)』買ひ、荻 窪への途、今井家に寄り久しぶりに翠母子を見、(※省略) 荻窪にて『海南小記(120)』、『雪国の春(70)』、『桃太郎の誕生(230)』、『女性と民間伝承(130)』買ふ間にラーメン平らげる (200)。 (※省略) 「萊菔(※ダイコン)」のつづきかき、「茶」に入り、115枚となる。ユ17:00帰宅。 夜、寿賀子より電話「寿一出張にて31日帰宅。本返しに伺はす」と。 丸重俊に電話し「あす来る。父、事件たのまれて出廷」と、「めでたし」といふ。 8月28日 よべ23:00就寝、、:00さめまた苦労して7:00起床。だるくて何もできず丸重俊11:30来り、本2冊やり佐伯へつれゆき1,800借り る。 (※省略) 雨止み、京に子供用寝台もちゆくを手伝ふ。 8月29日(日) よべ1服足してのみ8:30さめ礼拝休む。ユゆき、われは佐伯へ1,800払ひにゆき、帰りて『詩経』の草木122枚とせしところへ史一家来る。 17:00田中栄一来る。(※省略) 20:00ごろ帰りゆく。大江叔母いよいよ危篤らし。栄一相手に田中家のこと話してきかす。(※省略) 8月30日 雨。よべ11:30、1服足してのみ4:00起き排尿、8:30さむ。何もせず佐伯へゆき『新しい日本』そろひかと思ひ注文し、もってくれば3冊 不足とて1,000にしてくれる。 食欲なきゆゑ高円寺へ文庫本探しにゆけば見つからず。『季刊現代 日中戦争(600)』買ひ、都丸書店でReclamの『Faust1,2』買へ ば60と! (※省略) 佐藤誠「日月潭にゆく飛行機に簡木桂君と同乗」と。(※省略) 8月31日 わが65回目の誕生日。8:30さめ雨降りをり。『詩経』やり200×150となる。「15:00来る」と京より電話。16:00すぎ来り、健太 郎われに抱かる。 誕生祝に飴3袋くれし。待つ間、南の古本屋にゆき『やまとだましいの文化史(180)』買ふ。帰り戸田謙介氏に挨拶すれば「来よ」と。 一旦帰りてwhisky1本(3,000)もちゆく。(※省略) 川久保にゆき1時間して帰宅すれば京ら居らず。(※省略) 9月1日 よべ0:00すぎ1服足して熟睡、5:00起床。8:00まへ出て斎藤dr.に参ればNo.1。(※省略) 9:00一番に御診察。(※省略) 新宿まで歩き中野行に乗り東中野で下車、中野まで歩き『食の文化史(400)』買ひて帰宅。 13:00清水生来り、16:00すぎまでsemiやり4冊本もちゆく。「寿一来る」とのことにてtelevi見て仕事せず。寿一21:30来 り、『鷭2』もちゆく。 9月2日 12:00近くねて7:30さむ。ユ昼食こさえて京へゆく。われ荻窪まで歩き古本屋まはる。佐伯に継続書の刊行を云ふ。東洋文庫5種、汲古書院 『和刻本漢籍分類目録』となり。 けふは涼し。夕方も一度ゆきdoubleし本売り『大東塾三十年史(700)』買ひ戻す。寿一21:00来り『茂吉』返却、22:30退去。 9月3日 23:00ねて7:00さむ。雨ゆゑ出ず。長谷川生13:00来り、17:00すぎ帰りゆく。夜も雨降る。「詩経の草木」192×200となる。 13:30弓子母子4人来り16:00帰りゆく。 9月4日 7:30さめる。『詩経』少しやり196枚となる。12:30出て13:30着けば2号館無人。すぐ母の館へゆき高田瑞穂と話し堀川博士の隣に座 る。相良徳三先生の教へ子と也。 弔辞谷川徹三、中村哲、高田、細野百合子とありしあと履歴を上原君よみ、長男の挨拶あり。一般献花早くすまし15:30下北沢下車。 古本屋みてまはり(※省略) 帰宅。夜、佐伯へゆき『秋草と虫(1,500)』借りる。 9月5日(日) 4:00一度さめ7:30起きる。佐伯へゆき1,500返し、礼拝聖餐。(※省略) 古本屋歩き『大唐の春(350)』(※自著)見つけ買ふ。 (※省略) 9月6日 9:30さめ『詩経』200枚となりしゆゑ中止とし、佐伯に平凡社の本注文し、15:00川久保にゆき「一仕事すみし」といひて帰宅。(※省略) 夜、金沢より電話「柴山の葬儀にゆけず」と。我もゆけずといひ西川に電話、これもゆけずと也。 9月7日 7:30さめ、9:30山住女医へゆき老人の検査たのめば「木曜13:00に」と。(※省略) けふ西荻窪の本屋にて文庫柳田国男買ひしに1冊double(130)、荻窪まで歩けば古本屋休みにて和田夫人11:00より16:30までをり しと也。 9月8日 曇。8:00起床。10:30藤木生来り「猫」16:30までやる。明後日また来ると也。運動に高円寺へ出しも本買はず。(※省略) 9月9日 台風の余波にて大雨時々。山住dr.より12:30「けふの検査とりやめ」と。 直後雨止みし故、傘もちてゆき尿、心電図、採決。前二者は異状なく「血液検査の結果はあとにてしらす」と也。 夫君(※山住正己)の『子育ての書2』賜はらんとせしも佐伯に注文しありとて受取らず。(※省略) 毛沢東死し、82才と。 9月10日 9:00すぎ起き何もせず。(※省略)13:00藤木生来て「猫」大分すすむ。(※省略) 佐伯にゆき『東洋文庫』4冊受取りし。(※省略) 9月11日 雨やむ。ユに佐伯へ払ひにゆかす。午后、田中靖子、上智大2年の女をつれて来る。夜、註を入れつづけくたくたとなる。 (東豊書店に電話すれば簡木桂君「先週帰来」と。) 9月12日(日) 8:00起き礼拝休む。長沖氏の香奠返しに筆蹟入りの布来り、(※省略) 礼状かき荻窪にゆき柳田国男、文庫にて3冊買へば570なるに釣銭 330しかくれず。 雨しょぼつく故帰宅。鬱なり。(※省略) 9月13日 9:00近くまで眠る。12:30飯田生来り、藤木生来り、中島生来り、(※semi省略) 9月14日 西荻窪の古本屋見、帰りて高円寺西の古本屋見しも買はず。鬱なり。清水生「甥の家に泊り(※大阪より)」あす来ると。 9月15日(老人の日) 8:30起き9:30斎藤先生。鬱申し上げれば「こらへよ」と。 佐伯にて『鳥居龍蔵全集(8,820)』借り、昼食後高円寺の古本屋見しも買ふ気なし。清水文子18:00来り、夕食して立川の叔母の家へとゆ く。 前田正男、技術庁長官となりしを野崎そのに祝の電話すれば喜ぶ。 9月16日 築島博士より電話「洋行より無事帰国」と。 14:00出て春陽堂にゆき『国訳本草綱目2(4,700)』紛失いひ特別頒布受け、隣の東京建物訪ぬれば「西川社長17:00まで外出」と。 御茶ノ水より文庫屋へゆき柳田国男1冊(170)だけ見つけ山本書店へゆき買ふ気なくて弱る。地下鉄九段下より来りて阿佐谷へ帰る、(※省略) 9月17日 午后藤木、中島2生来り17:00までガンバられ参る。百瀬梅子夫人より香奠返しに盆賜はる。 9月18日 よべ眠れず。4:00ごろより眠りしか。フラフラしてをれば長谷川生来り、16:00までをり。ユpermaにとゆく。あすの松浦薫氏の一周忌が 為也。 田中雅子夫人より楊貴妃日本に来しとの新聞記事の切抜来る。21:00丸重俊この間の本代もち来る。栗きんとん呉る。 9月19日(日) 9:00近くまで眠り睡眠不足とり返す。礼拝ユのみゆき、竹森トヨ先生なりしと。14:00出て松浦父上の一周忌とにゆく。われ鷺の宮へ歩き2時 間半して帰宅。ユ17:10帰宅。 9月20日 10:30さめ昼食と朝食かねて食ひ13:00藤木生来りsemiやる内、鶴崎突然来り「本見に来し」と。藤木生16:30帰りゆき疲る。(※省 略) 9月21日 9:00さめ斎藤病院へゆくつもりなりしもとり止め14:00長谷川生来しに卒論の書き方教へ疲る。(※省略) 麝島マリ子に電話すれば「会ひて離婚のこといひてもよし」と。長沖夫人より追悼の刷物、(※省略) 9月22日 9:00起く(よべ3:00にさめし)。すぐ斎藤病院へゆきユ症状を説明し薬やっとかへてもらふ。12:00かっきり也。家へ帰り中島教へ 16:00帰らせ、 昼ねせんとせしも出来ず。18:00すぎ津留勝也来り夕食し、離婚状に改めて署名調印す。(※省略) 9月23日 9:00さめユ、京へ蒲団もちゆくに従ひ三鷹までbusで往復し11:00すぎ八王子着。花(300)買ひbusにのり(170×2)上川墓地。 草ぬき花供へ、帰りのbus永くまち八王子着。喫茶し阿佐谷。岩渕悦太郎『語源散策(700)』買ふ。(※省略) ユ、依子に電話すれば「トボま た喘息」と。 9月24日 8:00さめ高橋君(※高橋重臣)の来るをまち、来しに素麺くはさんとすれば難波和子来り「嫁の世話いらず」といひしと。 14:00中島生来り、(※省略) 長谷川生『南方熊楠』抄して帰りゆく。中島生は16:30帰りし。 9月25日 晴。重久より魚の粕漬呉る。清水生14:00来り、17:30帰りゆく。 9月26日(日) 睡眠感なく8:00起き、教会の当番ユをして断らしむ。12:00まで臥床。中国古典少しやりしのみにて明日登校と定む。(※省略) 9月27日 9:00さめ10:00東豊書店に電話し『学生辞典』とりにゆくといひ、ゆけば渡されしも忙しく出てゆく。 大学院女生一人、年末行事かけといひ本見せ天理教の話し、次いで戸張教授の挨拶受け、『中国古典』10冊では足らざりし。 すみて五十沢夫人と喫茶。中央線で阿佐谷南3丁目に住むといふ子見つけ、つれ帰れば磐田市出身の根塚洋子生。茶のまして帰らす。 9月28日 0:00まで眠れず。6:40起され登校。2時限すます。百瀬弘氏の同級生といふ先生が短大にありし。 片山豊より「先生お身体を大切に」と佐渡興行よりのハガキ来る。午ね2時間ほどせし。 9月29日 9:00起床(よく寝し)。昼寐し弓子孝行つれて来しを見る。(午前中散髪) 川久保より電話に「鬱甚し」と答ふ。 9月30日 10:00出て東豊へゆき借金す。11:45成城着。昼食し、午すぎsemiの写真とるときく。14:00まへ中庭にて写真。 『国語辞典』の口へんすまして教授会。(※省略) 16:00すみて帰宅。佐伯に『ネコの世界(495)』来てをり。(※省略) 10月1日 8:30さめ10:00中島生来るまでに直しをし、昼食くって帰りしあと、14:00飯田生来り原稿おきゆく。二人ともまだダメ也。(※省略) 暖きゆゑ荻窪まで散歩。echoを見つけ10ケ買ふ。 10月2日 9:00さむ。8:00ごろ電話「美紀子女子を産みし」と。ユ9:30京へと出てゆく。依子より電話「生れたか」と。夕方、長尾良の三娘本を返し に来る。 10月3日(日) 9:00さむ。礼拝聖餐式なれど休む。(※省略) 12:30ユ帰宅。13:30丸にゆきRugbyの試合見る。末嬢里帰りし赤ん坊つれをり煦美 子せわやく。 別れて電車にて阿佐谷、佐伯にて『誰も書かなかったアメリカ(300)』買ふ。(重俊、朝鮮資料2種呉れる。) 10月4日 登校。L3Dの成績わたして帰宅。 10月5日 よべ早くねて6:40起され登校。2時間すませ毎日新聞より来し本を小泉副手にわたして帰宅。竹内より『魯迅集1,2』やる。返しの著書いらず と。 夕刊に折しも武田泰淳死に64才と。木村禧一氏より蒋総統より貰ひしといふ酒1瓶賜はり杜甫の書幅の表書をと、恐縮す。 あす向ヶ丘の病院に林叔母見舞ふと電話を林叔父にす。 10月6日 斎藤病院へ9:30着。(※省略) 元の薬に返してもらひ帰宅。14:00ユと稲田登戸病院3階へ林叔母見舞ふ。 表情なくなり来診の医師にいはざりし包帯の痛みを看護婦に訴ふ。2週間位して退院と。(※省略) 東豊書店にてこの間の借金4,000を払ひ、19,640を研究費払ひとして4冊もち帰る。(※省略) 10月7日 23:00就寝、7:30さむ。10:00家を出て登校。「中国古典」の予習しをれば鎌田女史「文化史専攻」の歴史かけと原稿用紙おきゆく。(※ 省略) semiは越部卓によませてすます。次は工藤克彦「やる」と也。(※省略) 10月8日 23:00就寝、7:30さむ。ユ写生に10:00出てゆく。13:00中島、長谷川2生相継いで来り、ユも帰り来る。 (紀要「詩経の草木」の註すみ200×212枚也。) 10月9日 8:30さめ11:00家を出、成城民研へゆく。大阪市立大学教授平山敏次郎博士の柳田学解説、13:10より1時間半きき、お茶のますとのこと に帰り来る。 雨中東中野で下車、古本屋何もなく『毎日の言葉』と『日本の星』とにて540払ひ帰宅。10月22日(金)18:00ニュートーキョーにての大高 会に出席ときむ(会費5,000)。 10月10日(日) 7:30さめ礼拝にゆく。トヨ先生のお説教にて参会者少し、快晴のせいならん。東急にて靴買ひ(4,800)、近鉄dept.にてきつねうどん (230)食ひ、 busしばらく待ち神代植物公園の野草展見る。結局crocusとanemoneとを買ひ、帰りは三鷹行のbusに乗れば京の家へはゆけざりし。 (※省略) 10月11日 昨夜よりユ風邪とて8:00起き10:30出て史宅へゆく。赤ん坊の名まだきまらず。抱きゐる祖父を美紀子cameraにとりくれ、お祝はし云は れ忘れゐしを内pocketより出して渡す(10万円)。 帰りて阿佐谷で電話かければ糕子、駅ビルにありと(220)。川久保に電話し「ゆきて宜しきや」といひ「カルカン(300)」買ってゆく。 鬱直りしを云ひ、ミカン貰ひて帰宅。大高同窓会より大阪にて記念祭の出欠問ひ来る。断る。夜、篠田統博士televiに出るをユに云はれて見る。 10月12日 8:00にさめ『文芸春秋』2冊を佐伯夫人に売り(100)、『本の世界(550)』買ひ来る。(※省略) 飯田生来り、17:00までよませ 10枚の草稿おきゆく。(※省略) 10月13日 9:00さめ昭和33年成城講師時代の日記よみ、13:30来りし中島しづ江生に『中華風俗誌』のTibetの条よみやり17:00まへ退去。 10月14日 8:00さめ10:00出て成城。(※省略) 教授会はじまり3項目議して常民文化の会。わが図書費4万円、日本史9万円ときまり、(※省略) 竹内好より『魯迅文集1(2,400)』来をり。礼かき、あとわれ買ふといふ。魯迅記念会11月末に東京でありと時機を得たり。 20:00「斑鳩の白い道に」の映画見る。上原君の原作にて岸田今日子が推古天皇なり。風景と対話とかはるがはる也。 (けふ佐伯に寄り松田寿男『アジアの歴史(400)』買ふ。(※省略)) 呉濁流氏享年77才にて死すと通知来あり10.14葬儀と。台湾文芸の主宰者なり。先年訪ひしも不在なりし。諱、建田と。 10月15日 8:30さめ文化史専攻のことで日記を検する。14:00長谷川生来る。17:30(※省略)草稿おき来週水曜再来と。 史の次女、暁子と名づけしと。ほるぷ出版より印税525-52来る。 10月16日 8:30さめ朝食。日記を検す。ユ13:00画の稽古にゆき我は日記を検す。十二指膓潰瘍の1年のみ記録なし(※昭和36年7月26日~9月27 日)。 帝塚山同窓会誌来り「お父さんはお人好し」のす。 ユ、午前中、山住dr.にゆきコレステロール多しといれし由。毎日新聞の切抜(1976.10.8朝刊1面コラム「余禄」)賜はる。(※省略) 10月17日(日) 8:00起床。夫婦にて礼拝にゆく。12:00帰り日記検す。 母11:00伊勢市を出て15:00東京駅着(山本幸子市同行と)。元気にて大17:00来しと飯食ふ。大、渡欧と。 10月18日 8:15起され大阪読売文化部駒井五十二氏より「日本の短詩型文学あれこれ」を「月末までに400×4 or 4.5」との速達見て登校。 佐伯より31,500、東豊より78,600着きをり。佐伯の分を大学院に東豊の分を学部にて処置してもらふこととす。(※省略) 佐伯にて御苦労といひMussolini『Pascista革命の精神(250)』買ふ。 10月19日 よべ不眠。6:00起き7:10家を出て登校。(※省略) 11.7東洋史談話会より出欠問ひ来る。「出」と書く。帰り東豊書店に寄り4,000 あまり借金す。 10月20日 7:00まへ起き斎藤先生へ木村禧一氏より賜はりし老酒献ずれば喜ばる。14:00長谷川生来るまでゼミの下調べ。(※省略) 10月21日 8:00さめ9:30登校。3年1人来しのみ。29日又は27日会すると民研より。東豊にゆき(卒業Album買はぬ4年生多しとて写真とる)。 『西蔵通覧(2,800)』、『毛詩品物図考(1,920)』、『台湾寺庿(※寺廟)(7,200)』、『黒竜江述略(36,10)』、『中国薬 材学2冊(12,000)』研究費として買ひて帰宅。 佐伯に宮崎市定博士4冊既刊と第5冊、森廉三『中国草木考(※書誌不詳)』とを注文す。京都の出版屋とてひまかかると。宮崎博士の既刊本はみな 6,000と。 丸山薫氏の3回忌を全集発刊を機に11月7日17:00よりと。恵の結婚式の日とて断る。 10月22日 9:30さめればユ、弓子にゆきてをらず。2生へ卒論の下書直しをし、10:30長谷川生を迎へ、午ユ帰宅。素麺くはす。 13:30帰りしあと14:00出口はじめて来り「義和団」の草稿返し第2章に入り16:30帰ってもらふ。18:00よりNewTokyoにて の東京大高会へ出ることとす。 18:00かっきり着けば倭(※倭周蔵)のみ見え、toiletへゆき坐り場所やむなく真中に坐れば中西実幹事長、能勢正元の寮歌祭出席歓話など あり。 早川君隣に来り、右側が菅祝四郎、やがて坂本泉氏来り、挨拶にゆけば原田運治をり、髪が黒いので若い奴と思った云々。 菊池真一博士とも話し三火会といふのに出ぬせいとわかる。鶴見君といふもL8Aで我をおぼえをり。全寮歌を1,2,5,6と歌って散会。 能勢、大高文2平井巳之助氏の著『老根拠地(1,500)』を買って呉る。 10月23日 8:30ごろさめ草稿の直しをし午すぎとなりユ、柏井へ祝(2万円)と孫の歯の治療にゆき帰り来るまへ中島、長谷川来り、飯田来り、飯田 17:30帰りゆく。 10月24日(日) 8:30起さる。雨。ユ礼拝にゆく。われ大学院の予習をして午となる。雨止まざるも休憩に16:30散髪にゆく。新来の男子1人をり。 10月25日 7:30さめ9:00ユ、京の歯医者に留守すると出てゆく。われ10:00出て東豊の請求書見せれば足らず。16:00帰来。(※省略) 成城堂にて新書3冊と『日本語の研究法(1,300)』借りる。夜、能勢正元へ1,500帰す手紙かく。 10月26日 6:40起され7:25家を出、8:10成城。教務できけば(※大学院入試)面接だけでよしと。2時間元気にやり12:10まで待って鰻丼半分食 ひ、(※省略) 判定会に出、(※省略) そのあと文化史の会。(※省略) 帰ればユ「弓子発熱、克次朗の幼稚園のくじ引きにゆき補欠のNo.1となりし」と。 (※省略) 200×9「短詩型文学あれこれ」21:00すぎ書き了る。(佐伯に長沢規矩也『和刻本漢籍分類目録(4,000✕9)』来りをり。) 10月27日 7:30さめ10:30まで中島生教へ、13:00出て成城。大藤名誉教授の講義すむを柳田文庫で待ち、16:00近く終へて来られしに、 築島大学院常民文化主任を呼び、色々いへども「死ぬまでにしたきことあり」と「院生の講義御自宅にて」といひしもきかれず。 築島博士、大藤氏を送ってゆかる。16:20より新城、池田、鎌田と我にて来年度予算の審議、 次いで文科省へ「shamanismの共同研究」にて300万円もらふ。我もその中にて中台満蒙のshamanismを担当となる。(※省略) 佐伯に寄り『古事記の世界(150)』買ふ。(※省略) 角川より「Heine新20版8,000を11月上旬刊行」と。(便所の漏水止めに 9,280とられし!) 10月28日 7:30さめ、10:00出で成城大。semiすまし教授会。(※省略) 体悪し出れば散会となり、駅にて築島岡田2教授と会ひcoffeeさそ ひ新宿にて本学のデタラメとわが日記のこといへば吃驚さる。 10月29日 朝の中、藤木来りsemiやり午食して13:30去る。中島、長谷川2人午后来て17:00ごろ帰りゆく。 10月30日 9:10出口生来り、昼食し帰りしあと越部と工藤と来り、工藤は近世の中国やるとて太平天国以後にせよといひ、ユの茶出しゆきしあと快晴に、 16:00高円寺へ散歩につれゆき都丸支店でわれ『堀辰雄(300)』と『揚子江をさかのぼる(50)』買ひ、駅まで案内して帰る。 けふ万歩計と『帰れ自然へ11月号』来る。わが「歩兵の経験」のす。午后は小包にて板倉鞆音氏の訳詩集(3,000)と三省堂の『世界史年表 (2,500)』松村潤氏より贈らる。 (※省略) 朝、川久保『中文大辞典』見て帰りゆく。 10月31日(日) 7:30起され、教会へ9:10ゆき受付。長島君最後に来り130人。竹森先生福岡へ説教にゆかれトヨ先生のお話なりし。 佐伯にて『大南洋(100)』買ひ14:00来し中島生教ふ。萩原葉子の賞もらひし『蕁麻の家』貸しくれしね面白くなし。日記のよみ返し昭和44 年の前半までなり。 11月1日 8:30さめ10:00長谷川生来り、カブラ半分すませ、春の七草了りしとて秋の七草もやれといふ。堀辰雄、立原道造などを好きをり。 ユ、上野の「ドガ展」見にゆき16:00まへ長谷川生帰る。(※省略) 11月2日 8:15さめ9:10藤木生来り、昼食して0:30退去。散歩に出、 『原日本人の謎(300)』、『シルクロードの詩(500)』佐伯で買ひ駅地下街の本屋にてクセジュの『ヴェトナム史(480)』買ひ、 帰れば長谷川生来をり16:30までやる。 11月3日 8:00さめ斎藤dr.へ9:30つき10:40診察すむ。1分間なり。 帰り大久保まで歩き東豊書店へゆき見れば休日。新宿まで歩き帰って午食12:30に食ふ。(※省略) 14:00まへ京帰り、健太郎機嫌よくな る。 出口生来り15:00までやりゆく。(※省略) 東洋史談話会は柏井恵の結婚式の11.7(日)18:00よりと判明。 11月4日 9:00ユ、成城大学に電話すれば「文化祭の跡片付けにて休み」と。(※省略) 10:00すぎユ、母つれて美紀子の赤ん坊見にゆく。 午食まへ散歩に出て新本屋で『本の本(150)』と『古代日本と朝鮮文化(950)』と買ひ来る。雑誌なれど高し。 Ford負けCarterアメリカ大統領選にて圧勝。民主党久しぶりの勝なりと。出口生、ユの美紀子より帰りし直後13:00前来り、義和団を 17:00近くまでよます。〒なし。 11月5日 7:30さめ10:00すぎ長谷川生指導、出口も来り原稿おきゆく。長谷川生15:00退出、我もともに出て小雨降りをるに佐伯へゆき、北口へゆ き、(※省略) 議会了り電信電話国鉄みな上るとて駅の定期売場ならびをり。(※省略) 11月6日 9:00さむ。ユ、賀状もちて出てゆく。一旦帰り(※省略)、2万円東豊書店の代金としておき柏井の女たちの会に出てゆく。 日記47年まで読み了る。14:00出て東豊書店。帰るまでに『中華人民共和国分省地図集(2,240)』、『本草備要(400)』買ひ、この間 買ひし本を残金丁度にしてもらふ。 17:00帰宅。ユ帰りをり。寒し。 11月7日(日) 朝より文化史の歴史をかき15枚とす。ユ、礼拝より帰り寒かりしと。ユの出しあと14:30出て国鉄、新宿にて地下鉄にのり赤坂Prince Hotelにゆけば、式場内館、すみて本館にてしばらくまちしあと16:40より丸茂克彦と恵の結婚式。(※省略) 光一の見送り受け東洋史談話 会。 川久保、青木富太郎、市古、山本達郎と、神田、松村などと挨拶、松村潤君より石谷君の遺族につき問はれ答に窮す。 講演のまへ席を立って帰宅。ユよりも先なりし。 11月8日 7:30さめ9:30成城へゆき東豊書店来るとのことに待ちつつ2時間講義。すませれば東豊の夫人来る。 まっすぐ帰り江上波夫論叢の予約申込みBibliaの受取りユにたのみ茫然と疲れをり。 11月9日 6:30起され7:40家を出て成城。(※省略) 東豊の夫人、大学院用の本もち来りしゆゑダブりしものもち帰らし、帰り寄り見れば簡木桂氏疲れ をり。 台湾関係ほぼありとわかり『中央研究院民族学研究所集刊40高山族研究回顧云々(650)』と『産科(400)』買へば1,000として呉る。 佐伯に寄れば『Ukrainska Radianska Sotsialistychna Respublika (350)(※ウクライナソビエト社会主義共和国)』にて店前にあり。喜びて買ひ、 帰りて昼寐し元気やや出、夕食すませれば川久保来り『柳辺紀略』の訳やると也。けふ〒なし。 11月10日 8:30さめ何もせず昼寐ちょっとし午食後、炬燵いれさし藤木生来しを教へゐれば、 彦根の藤野一雄君来り「切符買ひあり今日帰る」と。「予告せよ」といひて20分ほどして帰りゆく。そのころ長谷川来り、(※semi省略) 11月11日 6:30さめまた眠り10:30出て登校。 20日すぎまでにsemiはthema提出と。ゆっくり話せといひ教授会。助手を置き副手廃止と主任会できめし由。バカなことなり。 帰り越部卓と杉山博文とともになり、杉山に江口三五(※大高同級生)きけば隣家と。coffeeと茶のませ900払ふ。 けふ中西博士より『万葉集抄訳』、小沢教授より『日本人と民話』もらふ。小畑信良閣下5.30逝去と富子夫人より。 11月12日 8:00さめ9:15藤木生来り、13:30まででほぼsemiすみ、15:00長谷川生来しもわが疲れゐるを見て「秋の七草」そこらの本よりし らべて18:00近く帰りゆく。 11月13日 8:00すぎさめ寒し。10:00出口生来り、(※省略) 帰りしあとユ、絵にゆき、われ佐伯より北口へ出、荻窪まで歩き阿佐谷に帰り、 新本にて『高砂族に捧げる(980)』買ひ読み了る。けふ大阪読売より2枚(※掲載新聞面?)来る。 11月14日(日) 雨。礼拝にゆく。トヨ先生のお説教すみ長島君と喫茶。家へ来たまへといひ、佐伯に『文芸春秋12月号』売り(※省略)15:00まで話す。(※省 略) 11月15日 8:30さめ11:00登校。大学院すまし、古典やめよの声無視してすすめ(中央公論事業出版社に電話せしに係ゐず「あす午后われゆく」とい ふ。) 11月16日 6:40起され登校。8:10の古典やり東洋文化史すまし中公事業よりの電話きき「15:00ごろゆく」といひ、差額貰ひにゆけば(※省略) 東豊にゆき『経史證類大観本草(4,320)』買ひ、佐伯にも『猫の子■■(6,500)』買ひして帰宅。 田村春雄「24日上京、会ひたし」と。20:00電話して「24日18:00ごろより山の上Hotelにゆきて待つ」といふ。 11月17日 8:00さめ斎藤dr.に10:00すぎゆき11:00すぎ診察了る。北杜夫氏との対話(※『この父にして』)は毎日より出されし由。 東豊に寄り『大観本草(4,320)』採り西友dept.、5階の本屋にて『この父にして(880)』買ひて帰宅。 中島生来り、勉強少しもしてをらず、17:00すぎ帰りゆく。(※省略) 11月18日 10:00出て図書館へゆきTibetの関係の本探せしに岩井大慧博士の1冊のみ。洋書を見よといひ中島生にいひ渡す。(※省略) (※同姓同名の)田中克己博士より定年後の就職を斡旋せよと履歴書。佐伯にて『日本の美人たち(350)』買ひ来る。 11月19日 9:30飯田来り、午食し、13:30出口来しも帰らず。17:00まで2人をりて疲る。夜、林富士馬氏に電話して田中博士のこといへば「あてに するな」と也。 11月20日 10:00起床。雨中登校。民俗研究所にゆけば木内、堀川、鎌田諸教授にて鈴木博士の「前史時代の女性」をスライドにて説明さる。岩波新書のレ ジュメなりし。 15:00中座して帰宅16:05。長谷川生まちをり「秋の七草」やり18:30夕食し、本もちて去る。(※省略) 11月21日(日) 風邪気味にて礼拝休み、ユのみゆく。美紀子より電話あり「暁子見せに来る」と。(※省略) 大あすFranceへゆくと也しも連絡なし 午后、史親子来り、暁子眼が見えるやうなりをり。 11月22日 9:00起き11:00登校。(※省略) 古本屋へゆき茶のませ中国古典暑くていい加減にすませばthemaにて3年生来る。 越部卓のVetnamに印捺し島野石塚に再考促し岡林正子が毛沢東やるといふに、ふだんのチコクとがめ17:00までかかり、 佐伯に宮崎博士『アジア史研究4冊(6,000✕4×0.9)』とりて帰る。住田泰三死にしと遺児より。 11月23日(休) 8:30さめ11:00床屋へゆけば満員。午后川久保にゆき『柳辺紀略』の訳註毎土曜にせんといふ。読売より(※「詩人のつぶやき」)原稿料 2.4万×0.9。 11月24日 田村春雄に会ふとて朝より待つ。(※省略) 16:30出て山の上Hotelへ17:00着く。田村博士新館と。新館にゆき待てば17:20春雄 帰来。 土産受取り「何食ふや」と。何も食べずといひ外へ共に出て雲呑麺(550×2)、coffeeと紅茶のみて話す。丸には療法ありと。 電話かけよといひ19:00すぎ別れて帰宅。(※省略) 佐伯に寄れば『The New Webster 1969(2,000)』2冊とつられて『日本行刑史(1,200)』とともに買ひて帰宅。 11月25日 10:30出て成城。新semiにthemaかかし、印捺し16:00よりの教授会19:30までかかり新学長、新部長選を12.9にとのことと なる。(※省略) 11月26日 9:30起床。出口みち子来り(※semi省略)、京夫婦来り哲夫ペンキ塗りし健太郎可愛くなる。ユ、画会にゆき夕食にすし置きあり。 我半分食ひ、哲夫食ひしあと帰りゆく。21:00ユ帰宅。(※省略) 11月27日 9:30起床。午后飯田来り、出来ず(下書みてわかる)。落胆。夕食せしめて帰りしあと事也。 11月28日(日) 8:00起され夫婦にて礼拝にゆく。トヨ先生のお説教也。すみて古本屋のぞきしに『終戦直後 下(480)』見つく。佐伯に寄りて帰宅。 事なく眠ったり起きたり也。畑山博氏(※岸町時代の知合詩人)夫妻より「娘の婿さがせ」と。 11月29日 9:00すぎ覚め12:00まへ成城。(※省略) すまして帰宅。寒し。母、ユキ夫につれられて夕方来り、夕食入浴して眠る。 11月30日 6:00ごろ少しウトウトし、6:30に起され7:00出て成城。2時間やり疲れて帰宅。(※省略) 母、夕方来り、今夜もここで眠ることにな る。 12月1日 中島生来り昼食して帰る。そのあと藤木生来り「猫」ほぼすむ。東豊へ来年度教科書の件にてゆき大学院をのぞき予定少なめにしてもらひ帰宅。 母来しも大宅にてね泊りすることとなる。 12月2日 9:00さめ11:00出て登校。来年度の学科と教科書の予定を教務に呈出(11月30日が締切なりし)。semiすまし4年生にはげましいひて 帰宅。(※省略) 12月3日 よべ眠れず。11:00柏井へゆき入歯たのめば来年と。尚子をり。帰りて13:00ユ、荻窪へ画にてゆきしあと、長谷川生来り、大体終る。大きな 子也。 12月4日 9:00起き不眠とりかへす。ユ画にゆきしあと母来り「我死ねばキリスト教にて」と。可笑。そこへ川久保来り『柳辺紀略』ともによむ。(※省略) けふ鎌田女史より電話「平山敏次郎君を迎へるにつき西山(※松之助)教授、大山学長にいひにゆき云々」。丸重俊くれのせいぼとかタバコ呉れて去 る。 12月5日(日) 8:00まへ起され礼拝委員としてゆく。(※省略) 帰り選挙にゆき共産党松本に投票。 12月6日 登校10:30。2時間やり帰宅。事なし。 12月7日 6:50起され7:40家を出8:40始業にまにあふ。(※省略) 守本文生氏退職後、長沖氏の後任として(※帝塚山)短大学長となりしと。 母来て泊る(家主心配しゐるらし)。信徒の友社より「1月5日までに詩を」と。 12月8日 9:00起き10:30斎藤dr.。12:00まへ御診察(※省略)、12:30帰宅。母来り、長谷川、藤木の2生来りsemi。(※省略) 12月9日 よべ2錠のみ9:30さめ11:00出て登校。semiすましあす午后2人来るときき教授会14:10より18:00までかかり池田文芸学部長、 山田大学院委員長再選。(※省略)  築島教授126枚×200もらひ大喜びせしも鎌田教授「我もすぐ」といふ。(※省略) 12月10日 9:00さめ9:30中公事業に電話し築島教授の原稿追加たのみ、(※省略)あと鎌田氏の分ありといへば金足らん、発行は12月か2月が宜しきや 云々。 月曜に学校へ来ると也(山崎克己氏)。 14:00ごろ2生来ると思ひしに来ず、鎌田semiの古沢路子、来年度我がsemiに来ると。(※省略) 12月11日 9:00起きbonusユ見にゆけば税とられ94万1千円。川久保に電話し『柳辺紀略』よみにゆく。わが参考書重きを見てこの次より常時わが家に てとのこととなる。 9:00電話、古沢よりかかり鎌田女史にsemi転電話すれば「今年の点やれぬ故2年後になる」と云はれしと。「母子にてゆけ」といひし我が言き かざりし也。 12月12日(日) 8:00すぎ起き夫婦とも礼拝にゆかず。(※省略) 鎌田女史に電話すれば「木曜に30枚わたす」と。(※省略) 12月13日 10:30出、藤木生まちしも来ず大学院出席蕪木女生1人を相手にやり中国古典20日もやるといへば喧々囂々。「男子に二言なし」といひて予定す まし、 築島博士に紀要2月刊、予定より多額なれば山田委員長にいふと。(※省略) 常民文化の会、西山博士来ず、再来年マスコミcourse独立とのこと了承。 崔吉城生の博士論文提出は宜しきも3月31日までしか滞日許可されをらず、人情論やめん云々にて17:30。 築島博士と同車、帰宅して西山博士の電話教ふ。(※お歳暮 省略) 12月14日 あさ早く出て午前中の講義すまし(中公事業の校正の残り受取る)、築島教授と同車、小田急百貨店の15階のrestrantでお茶ご馳走となり、 別れて東豊3冊1.3万円買ひ、佐伯をのぞいて帰宅。健太郎来てをり可愛し。(※お歳暮 省略) 12月15日 9:30起き朝食すまぬ内、飯田生来り、昼食して出、14:00藤木生来り17:00までをり。母来りフランスの甘い菓子を大の土産ともち来る。 (※省略) 早坂長老より19日のX’mas-partyに5分~10分のspeechをと。 12月16日 9:00すぎさめ10:30出て登校。12:30研究室の鍵わたして飯田、長谷川、藤木の3生に使用しろといひ、ゼミにそろひしに「遊びに来よ 20日以後」といひ、 早くすませて研究室に帰り鎌田女史の原稿まち14:00ゆけば「註かき了れず」「3校までわれとる。書き足してよ」といひ、駅で築島教授と同車。 下北沢で別れて帰宅。「詩経の草木1」23-101初校すます。 12月17日 8:50さめ中公事業出版社へゆき山崎克己氏不在とて「電話せよ」とことづけし地下鉄東西線にて阿佐谷。 佐伯にて『昭和流行歌史(1,350)』と『中国伝統社会と毛沢東革命(400)』と買ひて帰宅すれば母をり。昼食を大にさすとて帰りゆく。竹内 より『魯迅(2)』。 木村禧一氏より「杜甫自筆(秋来相顧尚飄逢の詩)」の写真送り来り「会ひたし」と。「上京したら電話したまへ」とハガキ書き、年賀ハガキかきそめ ア-オまですます。 12月18日 8:30さめ散髪にゆき帰りて午食。ユ、見合とて出てゆく。われ賀状かき「ニ」まで来る。(※省略) 竹内好へ『魯迅(2)』の礼状と計画。 12月19日(日) 8:00起されX’mas礼拝にゆく。2列目に坐り6人受洗。12:00よりX’mas-party何も食へず。偕老同穴をいひ14:30すみ帰 宅。 昼食す。佐伯にゆき『日本語』注文す。(※省略) 12月20日 10:00出て藤木(※省略)待ちしに12:02来り、卒論は受領されをりと。14:10までブラブラし(中公事業出版社来り、3月になるか と)、 今年度の最後の中国古典やり15:00やめ、卒論わけ了りしあと平山敏次郎の診察やる。森岡博士は来春と。 その間、鎌田、新城、西山の3者それぞれにいがみ合ふ。17:00すみ卒論もちて帰宅。 12月21日 8:30ごろまでうつらうつらし母来しを見て年賀状出しにゆき『新約聖書概説(500)』北口にて買ひ『マレーの歴史・自然文化(450)』買 ふ。(※省略) 14:00semi全員(長谷川、清水、飯田、中島、藤木、出口)紅茶もち来り、16:00帰りゆく。 19:00船越その子より章父いま入浴せんとして卒中死と! 69才なりしと。(※船越章:『コギト』同人) 12月22日 朝の間に「中国の植物」かき16:00石塚生来しを見て、ユ船越の通夜にゆく。 石塚生と話す内、岡林生呼ぶこととなり17:00ごろ薬局まで迎へにゆき、糕子買はせて帰宅。 茶菓供し「来学年おれにぶら下がれ」といひ、20:00帰りしあと出てゆけば追ひつく。「食前の散歩」といひ北口の古本屋にゆけばしめをり。 一番街の古本屋にて3冊愚本(500×3)買ひ、急ぎ帰りpão1ケ食ひ、televi21:00よりはじまりしNitro爆発の危険を見たり風 呂に点火したりする。 22:40映画の了るころ船越に電話すればその子出て「ユ今帰る」と。ユ23:00帰り来り「章はお宅を当てにしてゐる故、佐伯へ本売る世話せ よ」とその子云ひしと。 12月23日 よべ4:30~5:00小便に起き8:00覚む。9:30ユ船越の密葬へと出てゆく。10:30笠原文恵生来り、菓子もち来る。(※省略) 13:00まへ共に出て『中公文庫日本の詩歌(480)』買ひ与へ、来ケ京飯店で海老ソバ食ふ(450×2)。「旨し」と也。 別れて北口へゆき駄本買ひ、風やや寒きに川久保に「来ずや」といへば15:00来り、16:00ユ帰るまで『柳辺紀略』よむ。(※省略) ユにきけば章、1年間盲とて家居。パーキンソン病なりしも心筋梗塞で急死と。娘2人にも幸せ与へし也。 12月24日 『詩経 下』探しに登校。研究室にゆきしもなく、東豊書店に寄りX’masといひて『泰雅族』2冊買ひ、佐伯に寄りて帰宅。(※省略) 『詩経 下』廊下の本棚にあるを見付く、バカらし。「詩経の草木」31pとなる。ユ血圧高しといひて山住医院へゆき山住正己氏の本貰ひ来る。(※ 省略) 12月25日 雨。9:00さむ。「詩経の草木」45枚とし、ユは戸田女史へゆく。弓子3児をつれて来り、ユ帰り来しあと帰りゆく。 戸田氏より『民間伝承』来りし故、礼にサントリー(3,000)もちゆき18:00前まで話きく。 12月26日(日) 8:00さめ「詩経の草木」かく前に阿佐谷局へ賀状2枚投函。大高同窓会より年会費2,000。江上教授古稀記念会より「考古編」来り3冊分 16,000入金をと。 本年最後の礼拝休みし也。14:30ユ、長島家へとゆき16:30まで帰らず。(※省略) 古沢生「あす来る」と。鎌田semiより我に代らんとして叱られし也。 12月27日 7:00覚む。うがひす。10:00大橋生Cyclamenもち来る。そのあと古沢路子生来り、本返す。(※semi変更は)あきらめてご機嫌と れと云ふ。 2人帰りしあと山住dr.よりユ帰り来り、昼食12:30。「詩経の草木」国風了り小雅に入り200×89枚めに入る。 夜、丸重俊に電話すれば「考古学のあと片付け、来年も(※専任として)一本となれず再来年2人定年ゆゑそのあと」と楽観的なり。 12月28日 7:00さめる。咳しながら也。9:00山住先生にゆき咽喉洗はれ薬もらふ。 詩経のつづきを4畳半でやる。山田鷹夫より退官、弁護士となりしと。 丸重俊に電話すれば「再来年2人退職のあと継げさう」と也。石油stove焚き、炬燵に20:00までをり。 12月29日 よべ咳で苦しみ一度さめ8:30起き9:00山住Dr.にゆき咽喉洗ってもらひ薬多くもらって地下鉄にて斎藤Dr.。 先生「この間の紹興酒旨かった」と。3週間分の薬もらひ、いつもの店にてecho10ケ買ひ、東豊まで歩けば主人不在。 『台湾史事概況(500)』買ひ国鉄にて阿佐谷(80)、まっすぐ帰れば淳一来て今井へとゆく。「お年(※お年玉)5千円づつだね」といひし由。 大来り甘い物くれwine1本もちゆく。 守本文生氏より「長沖先生の代りにあと任期2年半やる」と。「詩経の草木」200×100を越す。 12月30日 晴。母来り「千草嫁にあはず同居1か月間」とのこといふ。 不要の紙もやし「盛京考」見てく。15:00ユの買物に出しあと伊勢ジュン来り、菓子もち来り話す内、ユ帰り来る。(※省略) 12月31日 よべねごといひし由。8:30覚め10:30写真屋にゆきしに閉めをり。 佐伯の隣にて電池入れfilm2箱買はさる(930)。帰りて無為。 ユ吉祥寺へ買物にゆき14:30帰り昼食す。 川久保に電話すれば「大掃除」とて来ず。(※省略) ユ盛んに仕事するも我は四畳半に石油stoveを置きて出ず。「信徒の友」の詩出来ず。 田中克己日記 1977 【昭和52年】  この年は何といっても大阪高等学校からの旧友で、中国文学研究の第一人者であった竹内好を亡くしたことが一番の出来事です。(写真は昭和36年詩人撮影のスナップ写真)  娘婿の恩師であり仲人を役めてくれ、夫人同士の交流もあった竹内好は、田中克己にとって、日本浪曼派の保田與重郎に替はり、謂はば世間に誇るべき自慢の友として一番の信頼を置いてゐた友人だっただけに、悲しみは深いものでした。 告別式では弔辞朗読中の増田渉が斃れるというハプニングも目にしてゐますが、日記にはその後遺された蔵書の整理など、後事について気を揉む姿が見受けられます。  一方で戦後大変世話になった叔父叔母が相次いで大阪で亡くなりますが、こちらは葬儀には出向いてゐません。 在版時代の日常生活は思ひ出したくないことも多く、去るもの日々に疎し、遠ざかるは縁の切れ目、といったところでしょうか。  そして念願だった杜甫の伝記を書き上げ、一般世間にアピールする業績をあらかた示し了へた詩人ですが、その成果が社会的に報ゐられる「勲章」については、 知友に先を越されたことに内心ショックを受けてゐるやうでもあります。  このさきも周りでは、西川英夫や川久保悌郎といった旧友が次々と褒章・勲章を受章してゆきます。しかし詩人は生涯叙勲とは縁がありませんでした。  学識著作からして無冠の碩学に違ひありませんでしたが、権威が落ちた博士号を頑なに取らうとしなかった詩人は、戦時中の著作のみならず病歴も禍ひしたのか、プライドが高かっただけに、内心穏やかであったとも思はれません。  毎朝、新聞はおくやみ欄から目を通すといふ晩年の詩人から、「みんな死んだね。もう何を喋っても怖い者はないね。」 といふお言葉と共に茶の間で私が何度か耳にしたのは、「勲〇等なんかだったらもらふつもりは無い」との口吻でした。  自分のことを書かれると近しい相手には直接申し立てるため、誰も昔のことを書いてくれる人が居なくなってしまったこと、 そして勲章については「そんなこと嘯いて仰言る必要なんかないのに」と心の内の承認欲求を忖度したこともありました。  さて『杜甫伝』ですが、年始早々、著者を権威と恃んでお墨付きを得ようとした好事家から“杜甫の真蹟”なるものを見せられ、うかうかと箱書をしてしまひます。 別の人間からは“蘇東坡の真蹟”も持ち込まれますが、小高根太郎に贋物と諭され、深入りすることなく済んだのは幸ひなことでした。  この年の出来事です。 1月3日 大阪の好事家が来訪。“杜甫の真蹟”の鑑定を依頼さる。 1月21日 中野清見より竹内好の入院を知らさる。 2月5日 影山正治を訪問せんとするも諦める。 2月13日 竹内好を見舞ふ。夫人より「11月入院、誰にもいはず云々」ときく。 3月3日 竹内好死去。旧友代表として後事に周旋す。3月4日通夜、3月5日密葬。10日告別式(弔辞朗読中に増田渉斃る)。 6月7日 叔父、田中城平逝去。 11月2日 依田義賢、榎一雄ら知友とならび、同窓の金沢良雄も紫綬褒章受章。 11月15日 杉山平一、新潟新聞にハリー彗星と偶得の詩について書く。 11月18日 叔母、大江艶叔母逝去。 12月25日 長部日出雄よりインタビュー打診(翌る1月4日来訪。) 昭和52年 1月 1日~昭和52年11月26日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 8:30さめ餅一つ食ひ、11:00年賀状受取る。少し少なめにて450枚位か。(※省略) 21:00よりDeanna Durbinの「オーケストラの少女」見る。ストコフスキー、アドルフ・マンジューなどの助演也。 1月2日(日) 8:30さめユをせかして教会。聖餐式あり。11:20すみて帰宅。小林(※次女一家)の5人来り、次いで(※長男)史ら5人来る。(※省略) 18:00大、孫らに1,000づつ呉れ、史の車で帰る。その後小林一家も自動車で。 大阪の木村禧一氏より電話、あす羽田へ11:00着くと。 「阿佐谷まで来て電話したまへ」と云ひしもたよりなし。「格子なき牢獄」見る。 1月3日 8:30さめ11:00年賀状の返事投函。 11:20ごろ大阪の木村禧一氏「阿佐谷駅にあり」と。迎へにゆき午飯にうどんとり数奇なる運命きく。 杜甫自筆文徴明ら賛の李白あての詩、天宝元年の作なりと。箱書かき3万円潤筆料としてもらひ、駅まで送る。 けふまた賀状21枚来り、499枚なくなる。(※省略) 1月4日 8:00さむ。10:00すぎ賀状の返事の投函にゆき70枚ハガキ買ふ。北へゆき中西進『万葉の花(430)』買ひ、 佐伯にてユに『ロートレック』買ってやる。(※省略) 森亮氏より『夢なればこそ』来る。(※省略) 1月5日 8:00さむ。寒し。郵便入れにゆき賀状また受取る。 ユ母のところへゆき帰らざる故電話すれば帰り来て、千草来てをり同居の嫁の悪口ばかりいひしと。 21:00ごろ熱海より高橋君(※高橋重臣)電話「来ませんか」。「ゆけず。今までまちをりし」といふ。森亮氏の詩文集よみ了ふ。 1月6日 8:30さむ。賀状かき了へ20枚ハガキ買ひ、11:30来るといふ京ら待つ中、美紀子、暁子をつれ来り、(※三女一家)稲田3人13:00来 り、健太郎は泣かず。 川口の山田勝久氏、李白研究家にて(34才)二松学舎を出て跡見学園講師にて「来たし」といふに「来よ」といひ、 13:00来しを迎へにゆき話すうち李白の経済生活を問ふ。川久保(※川久保悌郎)15:30ごろ来り、同席し山田君帰りしあと疲れし様にて帰り ゆく。 木村禧一氏より速達書留にて『杜甫伝』来り「何か記念にかけ」と也。(※筆蹟にお墨付き得るためか) 1月7日 8:00起き10:30トンビ着て西友にて『日本古代史の謎』、『本朝食鑑』買ひ、 北口の芙蓉堂にて『神経質を喜べ』、『薬になる植物』、『李白と杜甫 上』、『暮しの中の植物』買ひ、 ユを母の見舞にゆかしむれば神経痛でねをりと。帰り来しにまたトンビ着て高円寺へゆき『食物誌』買ひ、都丸にてサンスクリット語辞典きけば1万円 と。9,000しかなく『泉靖一と共に』買へばハンカチくれし故『玉葉索引(5,500)』買ひ一万円なくす。(※省略) 1月8日 よべ4:00さめ睡眠不足にて何も出来ず、ユの初稽古にゆくに留守。東豊書店よりせんべいくれし故、電話して礼云ふ。 1月9日(日) よべ旨く眠れ8:00起されすぐ飯くひ仕度して教会へゆけば石渡さんすでにあり寒く229人参会。 すみてすぐ帰り『俗語(700)』、『食物史(200)』買ふ。(※省略) 1月10日 よべねつき早く(23:00)、6:00さめユ、不眠とて餅やきて朝食とす。ユ9:30起きsandwich作りし故10:00出て成城。 田中久夫氏を厨川教授に紹介すれば「田中夫人は慶応にて厨川先生に習ひし」と。大学院にゆきて(※省略) ダルし。 1月11日 6:30起され朝食して登校。(※省略) 中西進氏つかまへ『万葉の花』にサインしてもらひ、あぢさゐの紫陽花でなきをいふ。 1冊卒論を査し了へて帰宅。echo新宿駅にて20箱買ふ。(※省略) 1月12日 4:00尿に起き8:00まで眠る。終日かきて「詩経の草木」158枚となりしあと卒論よみ1冊了らず。字汚く厚きばかりなり。 1月13日 7:45起され、昨日の続きの副査中途までして11:30登校。副査つづけ大学院の常民の会議。 崔吉城生、博士論文を提出と。鎌田教授よりはじめて廻しよみ4月より正査副査を大学院教授会にてきめんと也し故、semiに出、(※省略)。成城 堂にて2千円ほど本買ひ、佐伯にて1,200買ふ。 1月14日 7:00起き朝のうちに木村禧一氏にと色紙に「このみちを」の歌かき『杜甫伝』と手紙と共に一包として駅前郵便局で書留とす(750)。 柏井へゆき歯型とり直せしも、も一度やるやもしれずと。本買ひつつ帰宅。 佐伯で『本草綱目10(5,220)』受取りユにあとで払ひにゆかす。そのあと夢中に「詩経の草木」かきゐれば(※省略) 大阪の木村氏より「李白の記念物入手云々」と。 1月15日 8:00まへさめ10:00の待合せに佐伯へゆけば『文芸春秋2月号』あり300にて買ひ、本天沼2丁目の橋川時三先生に山田君に案内され、佃煮 を夫人へ、先生には『聊斎志異稿』呈し、北京に黎元洪の旧宅に住まはれ留守すすめられしも断りて四月帰国と。耳遠くなりたまひ、わが発音悪きを山 田君紹介す。王府井(※北京繁華街)のこと先生に思ひ出してもらひ、11:40辞去。 山田君に昼食供し人間関係のむつかしきを云ひ、14:00になれば川久保来る。 折しも木村氏より空送の北京の筍二個つく。同封の杜甫の詩は「望嶽」なり。 木村氏より電話あり礼云ふ。(※掛軸の)印、一はわかり他はあす検せん。(※省略) 1月16日(日) 8:00さめる。寒し。ユ風邪にて9:00まで起きず。年賀ハガキ検し(※省略)。伊勢の西島恵子年礼に来る。 夕方(※太宰治研究家の西島)寿一より電話「山岸外史瀕死」と。21:00すぎ「詩経の草木2」230枚(註とも)出来上る。 22:00西島寿一来り、山岸外史見舞ひしと。0:00帰りゆく。 1月17日 6:00さめ7:00起き来しユをせかして飯くひ、登校9:20。 飯田生の面接すませ(※省略)また面接、17:00すぎやっと了る。 帰れば母来り、ねてをり。伊藤とくより「城平叔父、第3夫人の看護受けて入院」と。 1月18日 7:20起され登校。16:30すみて(※省略)。夕食後眠る。 小高根太郎に例の印(※杜甫掛軸落款)きかんと電話すれば夫人出て「10時ごろ帰り来る。この間より知合い多く死にて云々」と也。 橋川時雄先生より礼状もらひしに「印よみたまへ」との願書(※省略)「望嶽」の印章写し書きて問ひまいらす。 1月19日 7:00すぎ起き登校。(※省略)判定に長談義、17:00となりし故、疲労申立てて退出。共同通信より「かけ」と。 東京四季の会より会合に出よとハガキ同封。失礼申立ててあとにて電話かかりしに叱りてすむ。 山際文雄君より会せんとの電話に「来よ」といひ、来しと「詩人の会はダメ」といひ22:30帰りゆきしあと疲れをり。 1月20日 10:30出て常民文化の会。西山博士(※西山松之助)欠。(※省略) 教授会、再任学長大山博士の挨拶あり。次いで雑事にて15:00すみ、sandwichくばられ新任人事中国人の教授出来、英文と平山氏みな教授 となる。(※省略) 1月21日 7:30さめ電話して柏井へ(※省略)トンビ着てゆけば、(※歯の)型とり直し来週来よと。 本屋見て佐伯へゆき4,100の本、自らもちゆく書類作れといふ。 山田君より電話、cardの手伝してもよしと。 中公事業出版より電話、(※原稿)わが分の作字と新城博士の組直しにて高くなる。鎌田女史附加分来らず。それが来れば見積書出すと也。 中野清見より電話「竹内(※竹内好)入院」と。 1月22日 中公事業より「詩経の草木」再校来る。これをすまして川久保を15:10迎へ『柳辺紀略』ちょっと読み18:30帰りゆく。 大来てをり夕食してゆく。この間丹波哲郎に会ひ鴻一郎(※実兄)のこといひしと。 1月23日(日) さめれば8:30、ユも礼拝にゆかず。杉並郵便局へ校正ユにもちゆかす。午ねし、0:00就寝。 1月24日 7:00さむ。小高根太郎に電話して「ゆく」と云へば「(※杜甫落款の)写し送れ」と。 (※省略) 夕方、ユをして竹内夫人に電話せしむれば「吉祥寺森本病院に入院。回復をまって胃潰瘍の手術。夫人は泊り込みで看護」と也。 共同通信松波氏あて「わたしのしあわせ」3枚かく。 1月25日 7:00起され8:00出て8:30登校。(※省略) すみて11:20、佐伯よりの本代と臨川よりの本にて今年度の予算つかひ切る。(※省略) 講師室にをれば山田俊雄君来り『説文解字注』贈り「巫韻■■」よめずやといへば「よめず」と。 電話して小高根太郎にゆけば「工部尚書」と。偽物とわかる。(桜草買ひて土産とす。『鉄斎研究』4冊もらふ)。 帰り鈍行にのり東豊書店にゆき『蒙漢字典(2,000)』、Morse『The International Relations of the Chinese Empire (6,200)』、『清代刑法研究(720)』、『台湾歴史札記(560)』、『沈家本刑法本(360×7+150×2)』買ひて帰宅。 (※省略) 木村氏に「偽物と判明」とかく。 1月26日 8:00さめ9:00出て(※省略)。斎藤dr.に10:30診察受け少し躁と申上げ2週間分の薬いただく。 御苑前で気が変り地下鉄南阿佐谷にて『イヌとネコ(900)』買ひ古本屋にゆき安東円秀『詩経随筆(500)』といふを買ひて帰宅。(※省略) (けふ木村氏に偽物の速達したり)。木村氏よりまた杜甫手に入れし由。 ネコに電話し「誤字訂正は2,3,4の3日間『2日来い』と皆に伝へよ」といふ。「イヌとネコ買へ」ともいふ。 1月27日 6:30ごろ健太郎の泣声で目をさまし、また寝て9:00起き午食して12:30家を出、3冊の「講」の副査誤字訂正1/3すまし、 16:30となり小森副手と研究室の事務女2人とをつれて東急parlourで喫茶。18:00帰宅。(※省略) 1月28日 ユ13:00竹内を見舞にゆき、われ15:30まで採点し、母を置きて高円寺にゆき『物類品隲(1,000)』、『中国の医学と技術 (1,000)』など買ひ都丸書店の番頭と話し電車にて帰宅。 ユ直前に帰り、名古屋の依子に竹内の病状話す。食道胃潰瘍にて胃に流動物を直接いれゐる」と也。(※省略) 1月29日 採点し、疲れて荻窪まで散歩す。 堀川博士より「副査の論文とりに来よ」と12:00電話、「ゆけず。講師室に預けよ」と答ふ。中公事業来るかと待ちし也。 1月30日(日) 夫婦にて礼拝にゆく途寒かりし。帰り吉祥寺の古本屋見てまはり何も買はず帰宅。 丸重俊より電話「大橋生と13:30来る」と。丸まづ来り「来年定年の先生あり、その後任に擬せられゐる」と。 大橋生14:30来しゆゑ採点見す。ドイツ語危しと也。二人して出てゆく。(※省略) 1月31日 登校。誰もゐず。堀川博士よりの藤井せい子の卒論とって帰宅。(※省略) 2月1日 登校せず。修士論文ちょっと見て、午后柏井へゆけば歯「も一度来よ」と也。患者多く安心す。 佐伯へ寄り『凱旋門(250)』見つく。(※省略) 2月2日 7:00さめ9:00出て登校。漢字の誤字訂正す。 出口生に専修大経済学部大学院の推薦状かき、野口・田中宣一君にといひて出、鎌田女史に途で会ふ。 (※省略)寒し。岩崎氏より令嬢今年も受験とて電話ありしと。 2月3日 7:00起され登校。9:00より修士の面接。西山、大藤、鎌田などの諸教師活躍す。14:00より教授会。(※省略) 青木母より電話「東京公演に名を貸せ」と。(※不詳) 2月4日 7:00さめ10:00登校。田中宣一君の手伝ひにて書き直しすむ。清水なすみ生、休社して来り(※紀要校正の)直しすぐすむ。16:00出て 17:00になれば越部卓来りnationalismやると。本3冊かしゆっくり考へよといふ。 2月5日 12:30よりと思ひ散髪にゆき帰れば大学院より電話。築島主任(※築島謙三)より「すぐ来い」と。ゆけば面接すみ考古学への点みな宜し。 昼食のすし食べず、出て代々木八幡より外苑前まで乗り(70)、影山氏にゆかんとせしもわからず、花屋は高き洋花ばかり也。 帰れば池の坊より「エッセーかけ」と。名古屋の国広君といふより「詩かけ」と。母風邪にてねてをり。 2月6日(日) 8:00さめ夫婦にて聖餐式にゆき、佐伯に寄りしも何もなし。 岩崎氏3人にて来り「短大受ける」と。 2月7日 無為。高田瑞穂氏より「中河与一氏より問はれし詩を」とに、宋の眞宗の「勧学篇」と答ふ。 2月8日 4:00起きまたねて8:00起き、10:00阿佐谷より登校。 小さき教室に森君、次は白水君とて楽なりしも帰り元気なく、崔吉城の博士論文もち帰り、寒くて耐らず風邪薬のむ(37.8℃)。 2月9日 熱下りしも入試監督欠勤をいはしめ何もせず。(※省略) 2月10日 けふも監督休み家居。3月23日謝恩会ABDの合同と。「出席できず」と断る。 2月11日 寒し。終日無為。ユ画の新年会へとゆく。中河与一氏よりハガキ。 (※省略) 善海の遺稿『中国村落制度の史的研究(3,800)』来る。 2月12日 ユを画にゆかしめず柏井へゆけば恵夫妻をり。「も一度来よ」となる。 2月13日(日) 礼拝当番にてゆけばpairの夫人已に来をり、(※省略) 帰り竹内見舞へば面会謝絶と。夫人をりしにあとで気づき「大切に」といひて帰れば、追かけ来し青年に「戻れ」といはれ、室に日高八郎氏をり。 早々出て夫人に「11月入院、誰にもいはず云々」ときき帰宅。 2月14日 暖き由なるも外出せず。松本夫人に出版の祝かき川久保に電話すれば「この間来りしも老女をりし」と。母(※来たことを)忘れし也。 2月15日 崔吉城博士論文批判の為、小雨の中を登校。3冊もちかへり1冊忘る。 夜、中野清見より電話「(※竹内好の病状)知ってゐるか」「昨日見舞った。序であらば来よ」といふ。 2月16日 一次入試案の為10:00登校。11:40すみ中公事業出版社に電話すれば「25日出来、書き直しありし為」と。 築島博士と同道も京王dept.13階で喫茶す。 夜、松本夫人より電話「京都の献本は羽田に相談せよ。瀧川博士には死亡の旨附記せよ」といふ。 2月17日 寒し。京、健太郎をつれてpermaかけに来る。16:00哲夫来りつれ帰る。 夜、越部卓より電話あり「土曜午后来れ」といふ。 2月18日 西川(※西川英夫)の電話にてさめ「竹内の為、桑原武夫氏ら連名にて何百万円集める」と。我見舞しをいふ。 午后柏井へゆけば光一「来週水曜来よ」と。「金曜来る」といひ帰り来る。 佐伯(※佐伯書店)、船越家へトラックにてゆき「(※船越章旧蔵書)まだ残りあり」と也。 夜、ユ諏訪(※長女依子)に電話すれば「望かぜ、澄元気にて(※恩師の)竹内家へ見舞せし」と。(夕方川久保来り元気なし。) 2月19日 晴。家居。13:00越部卓来りVetnam関係の本みな貸す。 ユは矢野次女の見合にとゆき、双方附合ふこととなりしと。 桑原武夫氏らの名にて「竹内好を扶ける会へ1万円を毎月半年」と。 2月20日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。「竹森先生『信徒の友』よみたまひし」とトヨ先生。 帰り東急dept.にて中折帽買ひ呉る(6,500)。 『文芸春秋』買ひ来りてよむ。阿部良助より「3月19日例の国文の女生と結婚」と。「めでたし」といふ。 2月21日 13:00よりの教授会を14:00と誤認。あはててゆき15分遅刻す。 卒判一次すみ16:00よりの大学院教授会にて修士博士ともに国文すむ。常民文化は修士8名?博士2名卒業。 築島博士と同車、小田急13階のparlourにゆき帰宅18:00。(※省略) 2月22日 8:00さめ9:40斎藤dr.。12:00少しまへに御診察。(※省略) 東豊書店に寄れば簡君出てゆくところにて促してラーメンとり『敦煌莫高窟藝術(400)』買ひて帰宅。 共同通信より「3,000-300」来る。(ユ竹内の会に10,000第一回振込)。 2月23日 10:40家を出て成城の民俗研究所にゆく。私学振興会より200万円来しと也。昼食くへず14:30散会。 (所長、鎌田女史、新城、我の4人にて堀さんの文庫目録校正に協力いふ。崔吉城君の博士論文は3人見てゐると也。) 2月24日 暖く、母少し元気となる。佐伯へ本注文す。(船越の本、殆どまうけなく買ひしと也)。 2月25日 暖し。午后柏井へゆかんとし財布のありかわからず。ゆけばユより「見つかりし」と電話ありしと。 河北病院の前の本屋で話しこみ『歴史公論 萬葉の時代』買ひて帰宅。 2月26日 9:30さむ。寒居。中野清見より「竹内の病気は食道癌ですでに肺に転移」と。 ユの画に出しあと14:00すぎ川久保来り『柳辺紀略』よみいろいろ話す。 佐久間象山はショウザンとよむべしと反切にて教ふ。 2月27日(日) 9:00さむ。何もせず午后高円寺まはり『唐代詩集 上(1,000)』築島博士にと思ひて買ひ帰宅。televi見ゐるのみ。(※省略) 2月28日 8:30さめ崔吉城生の論文ちょっと見て午となり、佐伯へゆき黎傑『明史(600)』買ふ。 3月1日 午まへ船越の長嬢、礼に来り「校正やりたし」と。午食さして帰りしあと何もせず。 夜になりて(※省略) 竹内のことで西川に電話せしも「まだ帰らず」と奥さん。竹内の見舞いひ「大事にしろ」との伝言たのむ。(※省略) 3月2日 10:00さめ(睡眠感なし)。〒なし。外出せず崔君の論文ほぼ了る。小泉副手より「紀要来をり」と。 3月3日 9:30さめ崔君よみ了り、中公事業出版に電話すれば山崎克己氏「請求書は2月9日辻副手宛に送りし」と。(※省略) 14:00川久保にゆく。「東洋文庫ドーソン イル汗国」出てをりしを知る。 中央大学2時限にて2.5万円と成城の少なかりしをわび、わが後任に矢沢利彦君よからん、成城高校の専任となり。 荻窪にゆくつもりなりしも寒き故やめて帰る。 (※省略) 中野清見より21:00電話「朝日の息子より竹内死去」と。西川に電話すれば「丸以外には電話さす」と。(※省略) 3月4日 よべ0:30「竹内の通夜あす18:00~21:00」と。よく眠れず悲しみつつ登校。 常民文化修士博士第2期の及第きめ、博士6名とす。 築島氏に『李白』呈せんとすれば「もらひし」と。 『紀要3』来をり執筆者に2冊づつと常民文化諸教授に1冊、その他は大学院控室に積みしまま竹内のことにて早退。 (※省略) 一寸ひるねしさめて夕食し、18:30出て竹内家。 お花代5万円呈し案内受ければ野原四郎、増田渉、筑摩の井上社長らをり、すしと茶賜はり出てtaxiにて阿佐谷。白酒(500)買ひて帰宅。あす 14:00~15:00密葬。10日は告別式と。 3月5日 10:00さめ眠り足りて快し。12:30出て西荻窪下車。歩きて竹内家につけば13:30也。 家内に入れてもらひ杉君より挨拶受け14:00より外に出て仮葬まで待つ。 寒く知合はきのふの野原氏のみなりしも15:00堀之内焼場へゆく途は松枝茂夫氏と一緒となる。楊雲萍君を怒らせし話し(尾崎秀樹来合すも焼場へ はゆかず「ご病気いかが」と也し)。 18:00近く高円寺迄taxiにのせてもらひ帰ればユ、絵。(※省略) 21:30「慶南の大学に赴任する」と崔吉城君より電話あり「また来たまへ」といふ。 3月6日(日) 熟睡し8:00起され夫婦して礼拝聖餐式。(※省略) きのふなくせし手袋の売場、東急dept.できけば「もはや蔵に入りし」と。食物買ひ、阿佐谷にて680の買って帰宅。 (※省略) 19:00すぎ筑摩の中島氏といふより「奥さんとX氏の依頼にて告別式に旧友代表として400×4の文よめ」と。「諾」といふ。 3月7日 あたたかし。呆然としてをれば川久保来り佐久間象山を「ショウザン」か「ゾウザン」か訊ぬ。『説文解字註』とり出し『康熙辞典』引き徐両切音隣と いふにて(※再度)納得せしむ。松代の人ゾウザンといふ由なり。 花井タヅ子より竹内の見舞いひ来りしに電話すれば姑出て留守、やがてまた電話あり「一度お越し」といふ。竹内、帝塚山短大へ来しをおぼえをり。 (※省略) 3月8日 竹内の日記雑文よみ外出せず。(※省略) 午后出る筈なりしも佐伯へゆけば『類書集成1,2,3,5(5,400✕4)』と『和刻本漢籍分類目録』と来り、後者は4,000✕0.9也。重 きをもち帰る。 3月9日 8:00起され斎藤dr.。満員にして今月の休み多く21日に再来といふ。「(※茂太)先生60才になりたまひし」と也。 東豊に寄り『中西諺語比較研究(480)』、『嶺南民族与嶺南文化(1,600)』、『農史研究集刊(3,600)』と出たらめに買ひ、(※省 略)帰宅。 諏訪澄父子にて(※竹内家へ)香奠もちゆきしと。 ユリイカより「竹内のことかけ」と。あすのこと(※弔辞)いひてすむ。 山本治雄「あす(※上京)案内たのむ」と電話あり。竹内夫人に電話すれば「(※弔辞の内容は)高校のことでよし」と。 3月10日 よべ書きし悼状清書もせず12:00餅くって出、千日谷会堂へ12:45つき奥に通り桑原武夫氏に挨拶す。式場へ入れば第一列に坐らされ、故人の 略歴橋川文三氏いひ、保田田中と併称され、悼辞第一の増田渉氏5分ほどして斃れ(14:00)慶応病院に運ばる。そのあと野間、我、宏、未解放部 落委員会、教へ子代表の悼辞、家族並びに代表の献花のあと一般献花。 西川、紅松、山本の姿見え社会党首など見ゐて献花。 階下に出れば後藤来り、これが最後にて奧さん増田氏見舞に慶応病院へかけゆく。 18:00学士会館に集まるとのことに中野まで国鉄。taxiにて丸宅へゆけばタバコ買ひより帰り来るところ也。山本、我に相談して見舞10万円 贈る。出てtaxi拾ひ学士会館までの払ひ(1,620)我し、ゆけば高垣、原田、西川をり、加藤まちしも来ず、室来り、銀座の高垣の顔きく料理 屋にて21:30まで高垣しゃべり、我、山本と握手して地下鉄にて南阿佐谷22:00すぎ帰宅。 餅茶づけ食ひ入浴後眠る。 3月11日 9:00さめだるし。朝食後ユの出てゆきしあと(※省略)、疲れて何もせず。(※省略) 3月12日 8:00さめ10:10登校。一度試験委員室のぞきしあと11:00よりの003教室を尾上一雄らと世界史の監督、(※省略) 東豊に寄り『熊廷弼與遼東(960)』、Bodde『Annual Customs And Festivals In Peking (燕京歳時記の訳2,800)』買って帰宅。 (※省略) 『ユリイカ(※魯迅特集号)』4冊来し故、電話してきけば「3月20日までに竹内好のこと400✕4~5」と。前に返答保留せし也。 (※省略) 夜、川久保に電話し、佐久間象山ショウザンゾウザンむしかへしをきく。 3月13日(日) 8:00さめしもユにからみ礼拝にゆかしめず。9:30佐伯へ雑誌寄附し、学校の本来てゐるも4月以後まで預りくれといひ登校。 (※省略) 島博士つかまへて新buil.地階のやかましき喫茶店にてcafé au lait(350)おごってもらふ。(※省略) 3月14日 8:00起され成城大学法学部第2次入試。(※省略) 築島先生にcoffeeの礼と『ユリイカ』魯迅特集を呈し同車して帰宅。 「白水繁彦助手、蕪木修士と2.20堀川博士の媒妁にて結婚、Graceland Col.に招聘され3月末出発」と。Iowa州Lamoni市にありと也。 『信徒の友』4月号より俳句和歌巻頭掲載なくなる。 (※省略) 21:00山本治雄より電話「3日泊りで(※関西へ遊びに)来い。伝記かいてくれ」と。 3月15日 7:00覚む。松村潤氏に抜刷と『唐代詩集 上』。堀敏一氏に抜刷。 鍛冶美佐生より(※先生は)皮肉すぎたとヱハガキ。(※省略) 後藤孝夫より、竹内夫人を訪ひ「ボート部のうた」うたひしと。 (※省略)川久保の帰りうつぎ書房にて『東南アジア(500)』買ふ。 3月16日 7:00さめ眠し。(※省略) 嶌野生来り(※卒論に)「中国料理」やると。 3月17日 雨。8:00さめ羽田へ抜刷送り11:30登校。pão食ひ、図書新聞に竹内の写真topにのりをり。12:30常民文化6人集まり(※省略) 高田君に『ユリイカ』2冊呈上すれば喜ばる。(※省略) 成城堂で『タゴール詩集(400)』買ふ。(※省略)森康三博士へ抜刷。 3月18日 9:00さめ眠く佐伯へゆき東洋文庫『モンゴル帝国6(1,000)』とり、『大阪史話(200)』、『語源散策(600 double)』など 買ふ。 松枝茂夫氏へ抜刷送る。夜、苦心惨澹『ユリイカ』に「竹内好とわたし200×11」書き好きに削れと記す。 3月19日 7:00起き9:30の入学判定会議に欠、電話せしめ、竹内夫人に電話すれば「増田渉氏の大阪の本葬より帰りし」と云々。 『ユリイカ』に電話し「かけません」といへば「ああ、さうですか」。(※省略) 19:30丸重俊来り「野口教授の東南アジア旅行に参加、都留、大元、小森らが併せて23名」と。(※省略) 3月20日(日) 7:30起され9:00教会につき(※省略)。帰宅。8:30ごろ大来て母つれ帰りしと。 3月21日 7:30起き8:30斎藤病院。副診の先生にちと躁といひ2週間分の薬たまふ。(※省略) 15:00ごろ飯田、出口、中島、長谷川恵子、藤木万 里子、清水ますみの謝礼としてrecordと菓子ともち来りしと。ユ話し17:00帰りゆくまでユ専ら話す。 長谷川・中島が『杜甫伝』にsignさし、ユと我とにてsemi写真とる。(※省略) 3月22日 散髪屋退休にて落胆。 3月23日 8:30さめ雨降りをり。卒業式にゆくをやめ家居。 12:00すぎ長谷川、藤木、飯田など「なぜ来ない」の電話あり、あやまる。 彼等のくれしtape recorder使ってみる。(※省略) 散髪す。 3月24日 8:30覚む。雨止む。神田博士神田信夫氏に抜刷。 早川生13:00前に来り「魔女」中国になきことをいひ、考へよといふ。依子より電話「来れず云々」。 3月25日 8:40覚む。(※省略) 仕事せず。船越その子来り、校正の練習すと。字引与ふ。 篠田、西宮2氏に抜刷送り佐伯にて『性(500)』買ふ。 出口生「専修大の経済学部大学院に入りし」と電話。 3月26日 9:00まへ覚む。ユどぶさらひにと大宅へゆき11:30帰宅。 川久保15:00近く来て関東学院大学いや、中央大学の方よしとのことにて『柳辺紀略』よまず帰りゆく。(※省略) 3月27日(日) 9:15さめ(睡眠感不足)、ユの礼拝にゆきしあと12:00すぎ帰るまで茫然。 14:15岡林生、迷って来り『康熙帝』1冊やる。ドイツ語中期危しと。近道教へ、佐伯にゆき『日本の民俗ゼミナール(850)』、『孟子集註 (150)』買ひて帰宅。 3月28日 8:30さむ。国鉄スト也。(※省略) 丸に電話すれば夫人「重俊喜んで南方にゆきし。午后丸在宅」と。 3月29日 午までぼやっとし、丸にゆく途、戸口にて『梵語学(1,500)』買ひHope10ケ(750)もちて丸にゆく。夫人帰るまへteleviの修理 屋来る。(※省略) 3月30日 雨。終日われは家居。松枝茂夫氏より抜刷受取。「(※『中国の自然と民俗』によって考証学の)魔の沼に入られし!」と。 3月31日 雨。終日家居。『朝鮮植物図鑑』と『牧野図鑑』とを比ぶ。神田喜一郎先生より「草木わからず云々」。 4月1日 『(※旧版)堀辰雄全集10冊』佐伯へもちゆき8,500にて買ってもらひ『謎の世紀(800)』、『保田與重郎選集5(1,500)』買って帰 る。けふは曇。 船越その子校正を習ひに来る。佐伯夫人、安すぎたと1.5万円もち来り恐縮。苑子送りかたがた買物にゆきしユの帰るをまち佐伯へ礼にゆき、 『騎馬の歴史(500)』買ひ、Schinzinger先生の『ドイツ語辞典ポケット版(2,800)』注文す。 川久保にゆけばタバコ止めしと也。神田信夫、篠田統博士(数十ヶ所訂正ありと)より抜刷の受取。鎌田女史より電話「三田村生を副手にす」と。 20:30相野忠雄より「竹内好家へ案内せよ」と。竹内夫人に電話すれば「埴谷氏らと同席するやもしれず。15:00ごろならよからん。中野清見 も来るやもしれず」と。(※省略) 4月2日 けさ8:00さめ睡眠感なし。9:30出て定期券買ふ(5,100)。登校すれば(※省略)。11:00築島さんと会ひ、(※紀要の)搬布は常勤 助手まで1冊づつ、執筆者2冊、図書館20冊。理事長、学長、総務部長、学園長に1冊づつ。大藤名誉教授1冊、経済、短大、法学部に数冊と決め、 (※他機関と)交換は名簿見てと。 (※省略)在学者の希望者には750。他よりの希望者には1,500+〒ときめる。(※省略) 14:40吉祥寺駅にゆけば相野忠雄既にあり。耳きこえずなりをる。竹内家へゆけば埴谷雄高氏と次女と筑摩書房の坊やとをり中野清見をり。 埴谷氏帰りしあと、われ夫人に「本売るときは我に云へ」といひ、中野の希望にて丸の在宅たしかめ西荻窪までbus。 ここより丸宅近くまで1,100中野払ひ、Hope買ひてゆく。丸、殆ど話さず。高円寺で2人を地下鉄に乗せ、われ歩きて帰宅。 けふ『だれも書かなかった韓国(700)』買ふ。女性の著なり。ユ、わが肖像かくと苦心す。(※省略) 4月3日(日) 8:00さめ晴曇半ばし北風ふく中を夫婦して礼拝にゆけば、(※省略)。11:20すみ、ユと西武dept.でわれは狐うどん(200)、ユはそ ば(230)、 八王子につけば13:00すぎにて13:49まで待ちて上川霊園口にて下車(230×2)。吉祥寺にて買ひし花さし、14:15のbusに乗りて 八王子着。 我は特快にて新宿、西武dept.で古本市あるかと思ひしに高円寺のまちがひとわかり『満洲物産原誌(1,200)』、『川柳愛欲史 (2,200)』買ひ、佐伯にて『日中戦争(200)』など買ふ。 4月4日 8:30さめ斎藤dr.。来週水曜までと10日分の薬もらひ、11:30史の館へゆけば雅子とアリちゃんをり暁子ねてをり。翠、松浦2軒に電話し てくれしもかからず。 2人に本代1,000づつとcastilla1箱おき東豊書店へゆき『冊府元亀(20冊6万円)』借り、『馬来亜史及東南亜史(800)』買ひ佐 伯に寄り『柳田国男(600)』買ひて帰宅。 越部卓「腎臓病の嫌疑にて入院。13日再検査して登校」と。「大事とれ」といふ。(※省略) けふ堀敏一氏より『古代の中国』賜はる。 けふ『牧野図鑑』とHpoan kyo su To-pong-sop. Sim-hak-cin-im-rok-je『Jo-sen-sik-mur-to-kam朝鮮植物図鑑』の対校す。一週間かかりし也。(※省略) 4月5日 6:30さめ8:30出て成城大学入学式にゆく。『常民文化紀要3』配りあり。(※省略) 12:15発にて生田へゆけばユ待ちをり。狐うどん(250)ざるそば(250)とりて坂を登りて林宅へゆけば叔母、玄関まで来り、 敏夫夫婦、敏夫の男児(中3)などにも会ひ帰らんとすれば寿司とりくる。 文雄は父の次弟誠太郎の次の弟にて16才にて死にしこと『歌日記』にもしるしあり。 満洲へ歌よこせし弟は誠太郎叔父なるらし。 15:30新宿にてユと別れる。『沖縄の伝統文化(450)』佐伯にて買ひ『編年体日本近代文学史(500)』買ふ。 堀敏一氏よりハガキ。わが李白・白楽天などは引かざる也。 4月6日 6:30さむ。(※省略) 9:30散歩に出て佐伯『中共出土文物展(300)』買ひ、北口にゆきしも閉りをり駅ビル新本屋にて『木馬と石牛 (1,000)』、『日本の渡来文化(980)』買ふ。 帰れば(※省略)、集英社より「白楽天5版1,000を4.20発行、累計15,500部」と。 山住Dr.に魚の目治療たのめば「外科へゆけ。閣下は面会できる」と。(※省略) 「兵隊の経験」400×5かき「ライフ・サイエンス」に速達し、(※省略) 『日本インドネシア語辞典(1,500)』、『サンスクリット読本(2,000)』買ひ、茉莉花(500)買へば堀全集の金0となる。 (※省略)川久保来り、松本の三回忌日曜ダメと。(※省略) 18:00東豊書店簡木桂君「今より『冊府元亀』18冊もちゆく」と。 18:40来りしを案内し茶のませ2万円内渡しす。(※省略) 4月7日 よべより雨。6:00さめライフ・サイエンス東京事務所に電話し、かき足してよきか大阪にきいてくれといへば電話かかり「宜し」と。 すぐ書き11:00ユに局に速達せしめ、(※省略) 佐伯に寄り『縄文時代の植物食(2,100)』借り来り、ユに払ひにゆかしむ。 『朝鮮植物図鑑』と『中国高等植物図鑑』とを校す。(※省略) (朝早く速達にて『展望』2冊来り、(※高校時代)われ竹内の演説を記憶ちがひす。St!と叫びしは我にて竹内の演説の直後なりし。) 夕方丸家に電話すれば夫人出て「重俊(※インドネシアより)帰宅、お借りした本役に立ちし」と。 和歌森太郎博士、都留大学学長として死去。享年61と夕刊。 4月8日 6:30さめまた『朝鮮植物図鑑』やり11:00新本屋に辞引買ひにゆく。『フランス語(2,500)』、『ドイツ語(2,600)シンチンゲル 先生の著なり』。 新幹線などst.。(※省略) 丸重俊より電話「すぐ来れ」といひ、来しに訊ね「BorneoのDayak族見し。Kuala Lumpurにも一度ゆきたし」と。 「マレーの果物」くれ、タバコマッチ呉れ、「来年より専任の内示、校長よりありし」と。 『Biblia』来り、西宮一民君より労作の抜刷。さっそく礼と受取かく。 4月9日 6:00さめ8:30起きる。集英社の古山登氏に「4.20増刷の時1冊著者買上送りくれ」と。(※省略) 夜、諏訪に電話すれば依子出しゆゑ「竹内のことのせし『展望』送る。子供元気か」と。 山際文雄より工部尚書杜甫の件につき云々。「既に贋物と解決。通告ずみ」といふ。 4月10日(日) 6:00さむ。8:00ユ起き(※省略 教会にて)復活祭の茶のpartyに出れば(※省略)。 13:00美紀子3児をつれ来る(史はgolfと)。 14:30南陽母子と和田夫人と来り、(※省略)16:30南阿佐谷まで送りゆけば孫らつき来り、新本屋二階にて本それぞれ1冊買ひ与ふ。 帰りて夕食しtape-recorderに暁子の泣き声と我の歌(Lorelei1番と讃美歌284番1-4)入れ、ききて老人の声なるに感心 す。 (※省略)津田左右吉『支那思想と日本(150)』買ふ。(※省略) 4月11日 8:00覚む。(※省略) 佐伯に寄り『唐代詩集上下(2,500)』にしてもらひ財布からとなる。 (※省略)  『朝鮮植物図鑑』つづけてをれば「ライフ・サイエンス」社古川昇氏より「旨くつづきし」と印税24,000-2,400。 平凡社より『唐代詩集 上』(2,200✕1,500)を5月刊行と。 (※省略) 高円寺へゆき『方言に強くなる本(350)』、都丸書店にて『韓国語の歴史(3,500)』、金関丈夫『日本民族の起源 (1,840)』買ひ、明星高校鈴木校長へと『杜甫伝(1,000)』もちて帰宅。 夜、丸重俊に電話し校長の在校きけば工事中にて毎日出勤ならんと。(※省略) 4月12日 7:00さむ。そのまへうつらうつら夢見る。川久保に電話、神田信夫君の「三藩の乱の抜刷見たし」とのことに「来たまへ」といひ探せしも見つから ずわびる。 14:00船越苑子来り校正の試験73点なりしと。2時間ほど話して帰りゆく。(※省略) 4月13日 6:00さむ。雨。8:00すぎ出て9:00前斎藤dr.。すでに9人をり。 (※省略) 東豊書店簡君に電話し午まへゆくといひ、雨ゆゑ千駄ヶ谷より国電。 ラーメンとってもらひ『冊府元亀』の残金4万円払ひ『台湾文献14-1,3(600×2)』、『仝22-1,2 (520×2)』、『中国度量衡史(1,080)』、『中国葬俗(560)』、『封建時代的淫穢(450)』、『呂后其人(230)』借りて帰宅。(※省 略) 阿部豊三郎氏より歌集『青圃抄』とどきをり。(※省略)佐藤達夫氏未亡人静江氏より「4.7a.m.7:36逝去、告別式は14日」との通知来を り。(※省略) 岡本生16:00来り17:00帰りゆく。 4月14日 7:00さむ。薬あまりきかぬらし。釜洞博士逝去。医学部長の時、講演頼まれ(森田教授の代り)料理屋へ礼としてつれゆかれし。 10:00告別式かたがた本郷あゆまんと出てゆく。御茶水より正門前まで歩き琳琅閣にMorse100でよしといへば100呉れる! 勝本正晃『法律より見たる日本文学(400)』、『元人雑劇(950)』買ひ吉祥寺につけば14:40、(※法要 省略) 築島博士と我として退 席。 東大まで歩くこととし東大正門前でicecoffeeおごり研究所にゆき池田温君と会ふ。所長と話す築島博士まち(※省略)、新宿で別れ、 佐伯に寄ればSchinzinger先生の辞引来てをり。(※省略)  阿部豊三郎氏へ歌集の評かき現金封筒かきつぶす。 4月15日 8:00さむ。竹内夫人より同窓会報につき。9:00家を出、10:00前登校。(※省略) 東豊書店『中国民間故事(490)』を選び『中国民間神話(490)』、『白鳥博士記念論文集(1,000)』見つけて買ひ来る。 新学社より印税(1,216-121)三井に払ひしと。ユ阿部豊三郎氏に現金封筒送りしと。夜、岡田温教授にprint2種包む。 4月16日 8:00さむ。『杜甫伝』と『唐代詩集』2冊もちて明星学園鈴木校長にとゆく。会議中とて待たされ「(※丸重俊氏)講師としては熱心なる故、来年 選任にす」と。 (※省略) 佐伯にて『日本の神話(800)』買ひて帰宅。(※省略) 夜、丸重俊に電話し校長と会見のこと伝ふ。 夜、『朝鮮植物図鑑』と『中国高等植物図鑑』との対比すむ。 4月17日(日) 7:00さむ。私鉄ストほぼ中止。(※教会)第4列に夫婦して並ぶ。わが訳605久しぶりに歌ふ。すみて東急にユtoiletにゆき待てど来ず先 に帰れば、 吉祥寺より0:40電話「帰りをり」と答ふ。昼寐2時間す。(※省略) 4月18日 よべ咳せしと。8:00さむ。(※省略) ユ画にゆき我は荻窪まで歩き北側にて『中国の神話(880)』買ひて帰る。足痛し。夜(※省略)の 6semiに写真包む。 4月19日 7:00さむ。9:00出て成城大学。(※省略) 教科書売りて帰宅。疲れをり。(※省略) 『江上教授古稀記念論叢2(7,000)』来をり。 4月20日 8:00すぎさめる。丹波道久より定年退職と。筑摩より「稿料10,500-1,050三井入金」と。 川久保12:30電話し来り「ゆけるや」と「私鉄ゆゑ大丈夫」といひ駅前で待てば朝新宿で買ひ来し2包もちをりbusにて中村橋。西武桜台下車。 松本家へゆけば(※松本善海)夫人令嬢迎へくれ3階の写真の前で挨拶し「(※遺著)新刊おめでたう」といへば50冊近く送りしらしく、礼状為替な ど見せらる。 16:00まへ立てば自動車で送ると。令嬢運転、夫人と2孫同乗、杉並区役所前で下車。 川久保家へゆき土産のこときけば「午前中地下鉄にて新宿で買ひ来し5,500君は2,500でよし」と。「負けた」といひて帰宅。 松本家へ電話し、来りしは安原とかいひ「蘇東坡の真蹟もつ」といふに「神田の山本書店へもちゆけ」といひてすむ。(※省略)、 4月21日 8:00さむ。9:00出て東豊書店へゆき『中国民間故事(480)』を2冊買ひ登校。(※省略) semi3年3人の女生来をり。早くすませ越 部卓に本貸しsalaryもらふ。(※省略) 5号館にて教授会。(※省略) すみて大学院の会。(※省略) そのあと常民文化の会。修士論文「良」なりし者、博士課程には入学許さずを例とす るまで長々とかかる。 寒くなりて佐伯に寄れば水上『中国古代の植物学の研究(9,000)』来をり、広大の博士論文なり。 『堀辰雄全集』と『魯迅3』よりのとりよせたのむ。松枝茂夫氏より『紅楼夢8』賜はる。 4月22日 6:00さめ、眠けれど仕方なく8:30出て登校。(※省略) 築島博士(※省略) 同行して小田急dept.13階にてまたice-coffee、1時間ほど話して別る。よき相棒を得し也。 帰り佐伯へよれば『和刻本類書集成4(5,600)』来をり、これにて了りと。(※省略) 4月23日 8:00さめ睡り足る。佐伯へ5,600払ひにゆき、母あすより横浜に泊る(きのふ大、洋行をいひ来りしと)。(※省略) 水上博士の書よみ繁文博捜に感心し、その旨篠田博士にハガキかく。(※省略) 竹内夫人照子より挨拶「花代の一部を島田療育園へ寄附した」と。 4月24日(日) 8:00さめ急ぎ飯くひ総会とて教会。すみて総会に新長老7人を選ぶ。(※省略) 長島君さそひ東急にて狐うどん食ひしあと裏なし帽買ってもらふ (3千円)。 佐伯に寄り200円の芸術史ユに買ひ疲れて横臥。 4月25日 よべより小雨。7:00さめ8:00ごろ竹内照子夫人より大高同窓会長熊野啓五郎、鎌田正美のところきく電話。苦心してしらべ返事す。 14:00船越苑子来り校正教ふ。夕食後、佐伯へ『類書6』注文にゆき『竹内好著作ノート(750)』買へば40年版にして既にもちをり! 4月26日 7:30さめ9:30出て佐伯へ『竹内ノート』と1冊つけて勘弁してもらひ東豊へゆき重久武志の教科書買ひゆっくりして登校。(※省略) 疲れてをりしもteleviみて入浴。 4月27日 8:00さめ斎藤病院。茂太先生に病歴永きを云ふ。婦長さんもあり。 東豊書店に寄り「あす集金に来よ」といふ。佐伯に寄り『本草綱目11(5,220)』受取る。(※省略) 金子一郎より「女児出生2700g」 と。 4月28日 7:30さめ10:00出て登校。尾形仂氏より挨拶受く。簡君勘定ととりに来り、副手にいひて紅茶のます。すみて(※省略)高円寺下車。『差別用 語』買ふ。(※省略) 4月29日(休) 8:00さむ。(※省略) 午まへ阿佐谷北へ散歩『敦煌学五十年(500)』買ひ読み了る。末吉栄三より校長となりしと。 『新潮』戦前分復刊につき可否とひ来る。ユ画にゆく。午すぎ京、健太郎つれ来り9kgと。可愛し。大、香港土産とて甘い物もち来りし由。 4月30日 8:00さる9:30より出て佐伯。午すみてユーゴ展をユの見にゆきしあと高円寺より阿佐谷まはり5~6冊本買ふ。 『随園食單(袁枚)』の青木博士訳が2千円と高かりし外、書くこともなし。(※省略) 5月1日(日) 7:30さむ。快晴。夫婦して礼拝にゆき3新長老の任命式。(※省略) 古本屋見などして時間とり13:00竹内家。夫人、長女もてなされ、竹内 の羽織たまはる。 あと荻窪まで歩き14:30阿佐谷。佐伯に寄り帰宅。小林善一郎孝行つれ来り、mycrofilm(※テープレコーダー?)に孝行の声入れる。 (※省略) 5月2日 9:00さむる11:00川久保にゆく。工事してをり。帰りて(『乱始末記(250)』うつぎで買ふ)昼食後荻窪へ散歩。駅前で山際文雄君に遭ひ 茶おごらす。16:00帰宅。 5月3日 快晴。9:00さめ10:00早川生来り、よます。母、河野幸夫につれられて帰り来り機嫌よし。早川生に昼食せしめしあと幸夫と中野まで同車。 地下鉄にて九段下までゆけば山本は休み。救世軍本部でtoilet借り山口書店(息子番しをり)へゆくまでに『犯姦集録(1,300)』買ひ水道 橋駅より中央線にて帰宅。 5月4日 9:00さむ。ユ三鷹の田上dr.にゆく。われ散髪(1,800)。ユ13:30帰宅。(※省略) 茂太先生の本double買ひす(500)。 あさってより預金利下げ。地下鉄など値上げと。(※省略) 5月5日 8:00さむ。雨。11:00かっきりに成城大学に着き、60周年とて高校生のband演奏後、味尾理事長、大林学園長、同窓会代表として坂田道 太氏の挨拶あり。(※省略) 午食会に出ず小田急にてice-cream(300)食べ西山博士に遭ひて帰宅。哲夫、京、健太郎15:00ごろ来り赤飯もち来る。健太郎可愛く なりし。 (※省略) 夕食まへ佐伯にゆき『崩れゆく日本語(300)』、『日本神話の起源(650)』を買ひ、うつぎで『張騫とシルクロード(350)』 と3冊買ひし也。 築島博士より12日崔君の博士論文などにつき大学院の会すと電話。 5月6日 9:30さむ。阿佐谷北歩き、大林太良『邪馬台国(380)』その他買ふ。けさ『白楽天』5版1冊もち来りくれ、2,800となりをり。 (佐伯にて竹内『魯迅文集3(2,400✕0.9)』受取る) 5月7日 7:00覚める。涼し。9:00佐伯へゆき『東アジアの古代文化1-3,5-』を注文し、『民俗の旅・柳田国男の世界(1,200)』買ふ。 14:00すぎ矢野夫人、明子と来り15日結納の場に夫婦席を約す。(※省略) 5月8日(日) 8:00さめ朝食し、ユと礼拝にゆく。すみて13:00に教会前に集ることとし(※省略)古本屋3軒見(新本屋で『エリセーエフの生涯 (400)』買ひ)、 12:40教会前にゆき福原夫人の納骨にゆくbusに13:00乗る。竹森先生の隣に坐りおしゃべりす。4:10ごろ上川霊園着。(※省略) 帰り浅川を渡りしところにて下ろしてもらひbusにて八王子駅にをれば哲夫、京、健太郎をり。 丹下健氏autoにて迎へに来られ4DKをゆっくり見せてもらふ。夫人は織原氏の長女にて兄上の披露宴に出、その死を悼む旨いふ。 書類哲夫預り八王子駅まで歩き急行に乗れば三鷹まで各駅停車也。(※省略) 5月9日 9:00さめ佐伯へゆき茂太先生の本売り『古代史疑(140)』、『江戸八百八町上下( )』、『母親(680)』買ひて帰れば母来をり林叔母に 会ふとてユ午食おきて出てゆく。 田中克己博士より毎週一回都立多摩療育園に勤むと。栢木喜一氏より定年と。「本荘健男君の講演5.17午后」と三火会より。 午后退屈し澄への竹内夫人の挨拶状転送し、阿佐谷北とDia街とにて3,000近く本買ひて帰れば難波和子より電話「母、新宿まで送った」と。 母来り、5,000余なくなりし。林叔母ダメと。ユ帰り来り母に強餅わたせば帰りゆく。 5月10日 5:30さむ。佐藤達夫君正六位勲四等瑞宝章もらひしと東京新聞。(※省略) 10:00出て3ヶ月定期買ひて登校。午食し、はじめて言語学者と なりし亀井孝教授に東洋文庫でよく見しといふ。 「中国古典」を1時間ですまし、玉川学園へゆくといふ高田瑞穂と駅までゆきplatであと1時間あるを思ひ出し、引き返し、 法学部へゆけば川井田女史『ハイネ恋愛詩集』の礼いひ、そこにゐる井上正蔵教授(※ハイネ研究者)を教へ呉る。挨拶し、中国文芸史と恋愛論してす まし、 東豊へゆけば新華字典と宋元日本交通史?とをもちゆきくれと。(※省略) 完全に躁なり。 5月11日 8:00さめ9:00出て新宿より歩き斎藤病院へ9:30着けば満員。先生1月近く御旅行とて28日分の薬いただきタバコ10ケ買ひ、東豊にゆき ラーメン食ひ、 家へと注文し『中国民法婚姻論(190)』だけ現金払ひし中野北口の古本屋にゆけば主人死にて49日と。我より1才年上也。 100まけてくれしもあり金なくなり『インパール(320)』と1冊買ひて、帰宅。(※省略) 築島博士へ電話し「あすの会費は」と問へば「5,000円。お客よりは取らず」と也。 5月12日 6:00さむ。よべ22:00すぎにねしせいか。戸田氏にゆき『民間伝承』2巻頒けてもらふ(22,000)。 7,000もちて10:00出、佐伯に寄り、忘れし包みと財布もち来させ、包みまた忘れて高円寺にて気づき引き返し包みとりて登校せんとすれば前 田総務部長と同車。 (※省略) 教授会早くすみ常民文化の会にて我よみし崔君の論文書き直しときまり、民研の監事免ぜられしあと、 出て駅前にて専修大経済学部大学院生出口路子に遭ひice-creamおごりて紀伊國屋へゆけば大藤氏はじめ考古学の西村正衛氏の来るを待たず乾 杯。 軍隊の話を西山博士と我とし21:00まへ散会。(※省略) 新宿にて築島博士とice-coffee(300×2)飲みて22:30帰宅。簡君21:00ごろ本もち来りしと。(※省略) 5月13日 6:30さむ(0:00就寝)。8:30出て登校。(※省略) 昼食後、大学院2人相手にやり、よめぬ白話をむりによまし、東宝喫茶にゆきてのち 中野の十月書房にゆく。 昨日は奥多摩墓地にゆき休みと。斎藤勇『思い出の人々(200)』買ひ、佐伯に寄り、便を見てもち来り玉へといひ、1,000の本買へば已にあ り。(※省略) 5月14日 7:00さめ9:00佐伯へゆきdoubleし本返し、代りに3冊買ひて帰る。(※省略) 13:00すぎ岡林、石塚2生来り「次のsemi多摩 動物園へゆく」ことを提議す。 帰りしあとEdel-weis(300)といふを買ひ来る。(※省略) 弓子3孫つれて来り、京、健太郎をつれ来る。(※省略) 5月15日(日) 7:00起く。雨。10:00ユと目黒三條苑の谷口元・矢野明子との結納に立会としてゆく。(※省略) 13:00散会。我まづ出て中野の古本屋 にて雑本買ひ(800)、 佐伯に雨宿りに寄り『沖縄の文学(1,000)』借りる。16:00すぎ田中正俊教授、和田夫人南隅令嬢と来り、田中君笑ひつつwhiskyのみ 20:00雨止みとて帰りゆく。 5月16日 7:00さむ。快晴。金沢に電話し「娘のせわさせよ」といふ。水曜あきをりと。 佐伯へゆき市村其三郎の『卑弥呼は神功皇后である(700)』仕方なく借り、ユにあす5,000小遣の前渡したのむ。(※省略) 船越苑子来り、2回目83点と。ユより500もらひて共に出、apartを見て別れ、北口の本屋にて娘に子供5才ときき、わが老いしを知る。 まっ直ぐ帰ればユ、母のところへせんべいもちゆきしと。展覧会に出せし画引取りにゆくなど外出勝ちなり。夜チャップリンの「殺人狂時代」を見るこ ととす。 5月17日 5:00さめユの7:00起きるをまつ。9:30出て佐伯に1,000の借金払ひ、学校への本またえらび直す。 10:00の5分前開店をまち伊勢丹にゆき敦煌展覧見る。写しにて小品ばかり。売りゐる『敦煌・シルクロード(1,800)』買ひ 隣室の「ルノアール展」見てユにと『ルノアールと印象派展(1,000)』買ひ、悠々と歩きて地下鉄丸の内線に乗り銀座にて下車。出れば日本劇場 に出、(※省略) ニュートーキョースキヤ橋の9階にゆけば35分前とて待合室にをり、10分前に7理丙?の江見正太郎来り、次いでけふの講師の本荘健男君来る(住 友工業副社長)。 握手し、(※省略) 大尉となり復員、小畑忠良・信良閣下ならびに亡夫人のこといはず。ただし以前大阪で会ひし時より愛想良くなりをり。 加藤に会へば1年間入獄と。30分遅れて高垣来し故その隣に移ればまた来しは森さんとて1回生。文3の寺村氏?に長沖一氏の葬儀に出しをいふ。 13:00すぎすみ、高垣に誘はれて喫茶。おごり呉れ、別れて東京駅まで歩き、東京建物の受付にゆけば「お約束は?」と。 「なし」といへば電話してくれ25分まちて(※西川英夫)現れしに矢野明子の披露宴、丸重俊の来年就職いひ、むりするなといひて出、(※省略) 東豊書店にゆき教科書の見本早くといひ(※省略)帰宅。(紀伊國屋で『北京の伝説(900)』買ひし) (※省略) 5月18日 8:00すぎ覚め睡眠不足とり返す。船越苑子に電話し、(※省略) 行きてnote1冊預り、本1冊(100)買ひ、ユに1,000もらひ中野に ゆき十月書房、 ついで高円寺に出、西村屋で1冊買ひ、残金10円となりて帰宅。川久保に電話すれば不在。 山際文雄に電話すれば来て悪態つき、昨日わが見しルノアールの木版画35万にて予約してありと。 母来り、夕食まで話し、大呼び(※省略)、『草苑』7周年の祝に招かれ6月19日13:00日本閣にてとのことに「礼いふため出席」と返事出す。 躁激し。 (集英社より『白楽天』5版1,000部270,000-27,000太陽神戸へ入金)と 5月19日 8:20覚む。晴。ユ10:20教会の婦人会へゆくこととなり我あとになる。11:00登校。(※省略) 原健士わがsemiに加はる。(※省略) 鈍行にて帰り中野にて十月書房にて『フロッシー(810)』、漁文堂にて『Balkan krieg(250)』買ふ。躁なり。 (※省略) 東豊にて会ひし知念女(国学院大生)卒論やはり「孟郊」やるにつき6月の実習すめば来ると。 井上靖氏『俳句とエッセイ』に好きな詩として冬衛「春」、十三郎「死」、郁「子供」とわが「偶得」とを揚ぐ。礼かく。 5月20日 6:00まへさむ(よべ10:50にねし)。8:30出て斎藤勇博士の本、電車中でちょっとよみ図書館2階で井上靖氏のadressしらべて投函 にゆき(※省略) 三倉生さそひて喫茶せんとし斎藤勇博士の本失ひしに気づく。(※省略) がっかりしてまっすぐ帰宅。 (民俗学研究会より『山形県西置賜郡小国町小玉川民俗調査報告書』もらひて礼いひ講師室にありし『The Magic of words』とり来る)。 5月21日 7:00さむ。9:30荻窪へゆく途中、加藤俊彦、堀夫人(26日より6日まで滞京と隣の老嫗)ともに留守。北側の3件見て970円雑本買ひて帰 れば11:45。 (※省略) 16:20山野井(菱川)夫人、夫と2児(一姫二太郎)つれ来り、(※省略)19:30うどんと大阪ずし、すしと3種とりて食はし嬢 眠くなりて帰りゆく。(※省略) 5月22日(日) 3:00尿でさめ白丸1ケのみ7:00さむ。15分前に教会につき3列目。(※省略) 中央線に沿って西荻窪まで歩き洋書1冊(400)買って乗 車。帰宅12:30。 14:00まへ和田夫人より「南陽夫人帰りを急ぐゆゑ玄関まで」と。15:00すぎ二夫人来り、(※省略) 阿佐谷駅まで送り、佐伯で1,000 借りて帰れば和田夫人をり。(※省略) 5月23日 5:30さむ(よべ22:00すぎ寐し)。8:45佐伯へ借金1,000返しにゆけば主人「けふ本、成城へ届ける」と。 5月24日 よべ21:00ねむくなり眠剤のまずしてねむり6:00さむ。9:30出て成城大学。(※省略) 帰宅。夕飯16:30たべ(炒飯)17:00出 て東洋文庫へゆけば、 田中正俊幹事、榎君と話しゐるは滝川政次郎博士とわかりしも話止まず、出て出席者名簿に記名して会場に入り坐ってまち 18:00より榎君、60年前の東洋文庫になるまでのMorrison文庫から話し戦後の経営難話しなどせしあと新疆の回教徒の聖地(西方英吉沙 のあたり)のこと話す。 すみて成城より直接来しといふ亀井孝氏と川久保悌郎君とを話さし、傘とりて、川久保夕食まだといふに駒込駅前で、彼は食ひ我はice- juice(200)のみ、 600の払ひ川久保し、我80円の新宿までの切符買って新宿で別れて帰宅。入浴し22:00臥床。 5月25日 8:30覚む。11:00出て佐伯にゆき書類もらひ『明代文学(200)』、『明治大正史世相篇2冊(450)』買ひ、北口へゆき墓場のところに て『日本死刑史(400)』、『日本国家の成立(300)』とdouble1冊買ひ、13:00帰宅。(※省略) 14:00船越苑子来り、活字 の号ポイントをきく。8ポ9ポ6号などの寸法しらべよといふ。 16:00母の所へゆくユと出てゆく。『アンドロメダ』いつもの如く来り、西川満氏70才となりしと。祝のハガキかく。(※省略) 5月26日 8:00さむ。10:00すぎ家を出る。1時間内に昼食し、ゼミやる3年4人、4年6人。すみて森、嶌野2生、先輩の論文見に来る。(※省略) 教授会、(※省略) すみて組合委員の選挙、ついで大学院の会。崔吉城君の論文不受理返送のこと築島博士報告。 山田委員長より書籍費現金7万円にて税込みは知らざりし云々。急行に乗り新宿へ着き南新宿に引き返し東豊書店に10万円足らず払ひすむ。 2人『新華字典』3冊買ひに来しに遭ふ。『吉林(280)』、『黒竜江民間故事(380)』買ひて早々退去。(※省略) 帰宅。 高田君より聞かれし「君看雙眼色、不語似無憂」の出典を『佩文韻府』ひきまはし21:00となるも見つからず。(※白隠禅師) 5月27日 7:30さむ。9:00まで佐伯の前で待ちしもあかず(帰りに見しも閉めをり不審)、10:00まへゆき10:10、002教室にゆき(※省略) 大学院は重久をり(※省略)10分前に止めれば「けふはごゆっくり」と大学院のgirl云ふ。15:00まで待つときめをれば石塚生来り「岡林生 明大前で待つ」と。 行けばhomeにをり2人に(※約束の)多摩動物園の閉園時間きけば16:00と。ゆくこと止め下北沢へ引き返し2人と汁粉屋に入り氷小豆 (350)など食ひて払ひし(1,000)、別れて白樺書院へゆき井上靖『西域物語(450)』、竹内実『日本のなかの中国(500)』買ひて出 れば2生「先生心配」と探しに来をり。 駅で別れて帰宅。杉山平一氏より新詩集『ぜぴゅろす』といふを貰ひ、字引ひきgr. のZephyros西風らしきとわかる。礼状かき明日投函ときめる。 5月28日 8:00さめ9:30佐伯へとゆけば閉めをり(※省略)、散髪にゆく。 『江上論叢3(※江上波夫教授古稀記念論集 歴史篇)』来り、川久保の「続満洲の馬賊考」のほか阿南君の遺稿(※「清初正藍旗改組始末考」阿南惟敬)のせをり。(※省略) 堀夫人に電話し「辰雄氏の忌に参れず。筑摩より新刊の全集いただかず」といへば「伝言きいた。差し上げられず。加藤俊彦君は専修大へゆきし」と。 午后高円寺へ散歩。雑本買ひて気持すむ。 (けふ河北病院の前にて帝塚山の教へ子に会ひ「病院へか」といはれ、あはてて「散歩」と答ふ。) 5月29日(日) 7:30起き9:10出て佐伯あきゐるをhomeより見て礼拝にゆく。聖霊降臨日とて聖餐ありしも出席者少し。11:30すみわれユと別れ東武の 下で狐うどん(200)食ひ、古本屋見まはして竹内家。次嬢下宿引き払ひとて荷物入れをり。あと友達の引越し手伝ふと出てゆく。 西荻窪まで歩き古本屋見しあと14:00帰宅。15:00小高根(※太郎)夫人より電話。「ユまだ来ず」と。「行く筈」といひ、しばらくして「今 来た」と夫人。 16:30佐伯へゆき1,000多く請求見積しゐるを訂正させ『日本古代学の始まり(700)』買ふ。ユ『鉄斎研究30』もらひ来る。 5月30日 9:00さむ。9:45ユ吉祥寺の東急へと出てゆく。われ『インパール』よみつづけ夕食後了る。(この間船越苑子来り校正のこときく。(※省 略)) 南陽嬢、和田夫人と合はずCatholicの寮に入る。そのことにて南陽美弥子夫人あす上京と。和田夫人よりユに電話あり。 5月31日 8:00覚む。10:00出る。11:00昼食すます。山田教授貸した本返すと也。(※省略)まっすぐ帰れば門口で川久保に遭ふ。本返しに来たと 也。早々帰りゆく。(※省略) 6月1日 晴。8:00さめる。終日家居。木下和郎『草の雷』寄贈。後藤孝夫「6月下旬上京の機会に中野(※清見)、竹内夫人、室、埴谷雄高とで会したし。 世話してくれ、27日予定」と也。 荒松雄教授より岩波新書『ヒンドゥー教とイスラム教』賜はる。(※省略) 和田氏より電話「南隅令嬢預かってくれ」と。「とんでもない。老齢にて。きいた半分でもご免」と断る。 6月2日 雨。8:00さめ11:00登学。すぐsandwich食ひ、semiすませ、(※省略) 16:40すみ堀川博士と三井buil.の53階の文 芸学部の会にゆく。立食にて乾杯の音頭は妹尾理事長とる。19:30すぎ出て帰宅。(※省略) 6月3日 8:00起き9:00まへユをつれて小田急出口を教へ「15:00ここにて」といふ。2時限出欠とり(※省略)14:30小田急出口にて待てば 15:00前、ユ来り、名古屋行16:00の「ひかり」、地下鉄一社にて下車。19:00まへ諏訪宅へつき夕食に持参のすし食ふ。澄20:00帰 宅。泰、望、入浴して眠る。 6月4日 7:00さめ9:00出て名古屋駅より特急、京都駅へ着きしは10:00なれど銀閣寺前行のbus動かず。 法然院へ着けば「王国維と日本学者の交流」につき中国人の学者、中国語で話しあと概略説明あり、 ついでアメリカ人Roy A. Miller教授「沙弥満誓の歌」につき米語と話し、 そのあと「狩野派の絵見せる、仏壇の前に一礼を」とのことに羽田(※羽田明)の11日上京の時、川久保と云々、 藤枝(※藤枝晃)より著作目録もらひて出、ice-teaとpão食ふうち手荷物忘れしに気づき引き返せば、吉川博士(※吉川幸次郎)、英語で挨 拶中。 われ鞄2ケに手をかけ「それは私の」と2回云はれ、やっと風呂敷包とり返し、出て銀閣寺橋にて篠田統博士に電話すれば「着てよし」と。 暑きなかたづねたづねして下池田町の邸につけば、この間胃を切り隔日に通院云々と。顔色よく「細かすぎることは却ってわるし」と也。 庭まで送られ(※省略) bus待ち京都駅より新幹線4,000払ひて光に乗り18:30ごろ(※名古屋に)着けば澄をり。この間副社長と米国へ ゆきし写真見す。21:30眠る。 6月5日(日) 7:00ごろさめ澄の覚むる10:00すぎまで待ち泰、望2孫とユ、依子とにて東山公園へゆく。それぞれの箇所にて入場料50円づつとられ4ケ所 ほど見しあと12:00となり、出て昼食。 われはpudding、他はまあまあ食ひし也。名古屋駅にて13:07発の光に乗る(5,700✕2)。東京着15:00、わが家へは16:00 まへに着く。(※省略) 6月6日 よべ21:30眠り7:00さめしもだるく9:00川久保に電話してゆき羽田の「東京へ来る」とのことしらす。11:00帰宅。(※省略) 佐伯へゆけば内儀『和刻本類書集成4.6』来をりと。もち帰り検すれば4はすでに受取りをり。 16:00これを返しにゆき6,000✕0.9払ひ、未着の注文本の表わたし鈔本『北の人(400)』買ひ来る。 南隅夫人より20:00すぎ電話「娘のことで御夫婦に心配かけた。わびにゆく云々」「その必要なし」といふ。 6月7日 7:30さめ8:00前昌三叔父より電話「城平叔父死んだ」と。香奠の送り場所問へば「たてかへる。いくらする」と。3万円と答ふ。 10:00家を出、生八つ橋1箱を講師室に、1箱を会計課へと托せし。(※省略) 16:00まへ小田急各駅にのりて帰宅。(※省略) (佐伯にて『堀辰雄全集1』4,800✕0.9受取る。) 6月8日 8:00すぎさめ斎藤病院へ10:00着き、診察12:00すぎ。先生「鬱ではありませんね」と薬かへ賜はず。 千駄谷駅前でmacaloni食ひ(300)、東豊書店。 『Law in imperial China(1,200)』、『東北通史(2,400)』、『苗族民間故事(500)』、『西蔵民間故事(440)』、『貴州民間故事(380)』、 『湖南民間故事(420)』、『新疆民間故事(390)』、『山東民間故事(330)』にて計6,060借る。(※省略) 16:30帰宅。 6月9日 6:30さむ。8:30川久保、浅草より電話「羽田あすゆっくり話したし。東方学会に出よ」と。12:00出て登校。教授会早くすみ(※省略) 本年度文部省の補助、文芸科とて鎌田女史われに100万円位の本ありやといふに、ありと東豊に電話し浙江、江蘇の地志ひと揃へを云ふ。 (22:00に家に電話し簡木桂君に書類作り鎌田女史に送れといふ。) 「詩経の草木(2)」34p-107pにて(※校正)60pまでやりて参る。 6月10日 8:00さめ10:00教育会館5階にゆきしも人影なく、ややして6階にゆけば山本達郎博士挨拶しをり。 川久保の隣に坐り、滋賀教授(※滋賀秀三)の「清法と徳川法」といふをきき、5分の休憩の間に羽田(※羽田明)に会ひ、 聖心女子大へゆくといふ故「午食の後ここにて待つ」といひ、川久保と午食。狐そば食ふ。 すみてcoffeeおごり会館へ引返し部会はじまるとのことに羽田に「松本家へゆかずや」といへば「ゆく」と。 電話すれば嬢出て「母留守なれど来てよし」と。池袋まで地下鉄。西武dept.で菓子(2,500)買へば羽田1,000出す。 ゆきて依田夫婦に会ひ、羽田の(※松本善海に)焼香するを見、茶菓出されて16:00退出。 駅にて会場の晩餐会にゆく羽田と別れ川久保と同車。(※省略) (藤枝に竹内のこと云ひしもろくに話さず貝塚博士に挨拶して相手にされず)。 6月11日 8:00さめ校正やり了ふ(11:00)。(※省略) 佐伯へゆけば『東アジアの古代文化』6冊とりくれ4,870払ふ。松本夫人より昨日の礼。 6月12日(日) 8:00起され礼拝にひとりでゆき11:20了りしあと急行にて新宿。小田急は準急で生田。紀伊國屋にゆけば最上座あきをり。 林叔父に遅刻わびお花料1万円渡す。西島側は茂子叔母来られず母、寿一夫妻、大、千草と我。(※省略) 料理一巡ののち二次会にゆくといふ大たちと別れ、母つれて帰宅。(※省略) 6月13日 8:00さめ眠くて何もせず。鎌田女史より電話、見積書は2店の必要ありと。琳琅閣へ電話すれば「現物なきも見積書速達す」と。 午后昼寐できず後藤孝夫に「26日の竹内夫人を囲む会まかす」とハガキかき投入かたがた中野の十月書房にゆく。 何もなく、帰り金子にて安田徳太郎『人間の歴史(200)』買ひて帰宅。けふ角川よりHeineの改版21版(7,000刷りしと)来る。 夜、川久保に電話し「あすの東洋文庫の会にゆけず」といふ。 6月14日 8:00覚む。11:00出て登校。琳琅閣よりの見積書、3時限すませば来り、浙江、江蘇合せて1枚とす。文書課へゆきしに係をらず、東豊書店の と合せて良き方とりたまへといひ、4時限すませれば1年の桜蔭出の子まちをり、(※省略) 欧州文化の友と3人にて喫茶。雨止むを幸ひ出て帰る。夜、川久保来り、吉田金一氏の講演ききしとprintくれ「飯まだ」と帰りゆく。 6月15日 9:00さめだるし。午后新城博士より電話、文部省への書類出てをらずと。鎌田女史に送らしたといへば部長の許に届かずと。 怒りて池田部長に相談すと。おどろきて鎌田女史に電話すれば出勤せずと民研。小沼氏にきけば昨日の書類は預りしも貼付の書類必要と。 柳田文庫より電話ありしと鎌田女史、「書類受取りをらず。あす9:30会はん」と。 東豊書店に電話すれば「書類多分普通便にて送りし。浙江地志160万円、江蘇地志165万円」と。琳琅閣より安し。 「まだ着かぬおそれあり。あす9:00とりにゆく」といふ。 けふわが文のりし『Life Science4-4』来り「ある老兵の貧しい記録」といふがのり「たのしきはゆるされてゆく天つ空」 6月16日 よべ眠りわるく悪夢みて6:00さむ。8:40東豊書店で見積書2通り3通づつ受取り鎌田教授と会ひ江蘇省地誌を申込むこととすれば浙江地志も申 請せんと。琳琅閣にそれぞれ別に送ることをたのむ。 倦くsemi出席悪くほどほどにすまして帰宅。大岡信氏より『詩への架橋』(※岩波新書)贈らる。 夕方、中野(※清見)より電話「26日学士会館に泊る。竹内夫人いかにとのことに」「も少し様子見ては」といふ。(※省略) 6月17日 8:00起さる。9:30登校。 10:00ごろ琳琅閣の見積書来し故、文書課の小沼君にもちゆけば1ケしかききをらずと、江蘇省地誌の書類清書しをり。 2ケ認められしといひ浙江省の書類わたし、(※省略) 平凡社より『唐代詩集 上』7版1,500部、印税は8.16支払ふと。 6月18日 雨。終日無為。ユ、京と西武dept.へゆきし。京・弓子にて父の日のPresentにnecktie1本呉れし。大岡信氏へ礼状。 6月19日(日) 雨。疲れて礼拝休み、下痢し、桂信子の会へ欠席いふ。(※省略) 伊勢の恵子、母のところより来り、京とわれらに物呉る。 帰りしあと史一家来り夕食す。東京を去らずと。19:00帰りゆきしあと粥くふ。 6月20日 9:00さむ。下痢やまず。17:00山住dr.にゆけば「このみちを」の歌のこといひ薬賜ふ。(※省略) (けふ午后弓子3孫をつれ来る。克次郎いぢけをり)。 6月21日 9:00さむ。下痢やまず。休講の通知し、終日無為。ユ、川久保夫人に会ひ「bonus10万円、月給11万円」と。 6月22日 9:00さむ。下痢ぎみ也。午后船越その子来る。(ユ、斎藤dr.にゆきしも薬かへたまはず也。) 6月23日 9:00さむ。曇。休講届けし呆然としてゐれば俊子姉、男孫つれ来り、離婚裁判で来しも相手にされずと。(※省略) 6月24日 雨。8:00さめ9:00休講を電話す。夜、築島博士より来年度の教授について。 6月25日 雨。夕方止む。終日無為。 6月26日(日) 久しぶりに晴。佐伯へゆきふらふらとなる。 6月27日 晴。9:00さめ眩暈す。終日家居。伊勢夫人来る。母東上誘ひしも来ずと。史、総理府参事官となりしと。 (午まへ川久保来る。百瀬氏(※百瀬弘)の一周忌にゆくと) 6月28日 晴。10:00すぎ出て登校。老人扱ひをしてもらひ昇給せしも税重く390,790+9,000=307,920 フラフラと4時限すませ、しばらく休みて阿佐谷。佐伯へゆけば宮崎市定『中国史 上(1,000)』渡さる。 6月29日 曇。在宅。桂信子より見舞状あり。不快なりしと答ふ。 6月30日 8:00さむ。11:00登校。semi3年3人(ほか原健士)に「一度来よ」といふ。疲れて帰り来る。 東豊書店にゆきしに主人6,060受取りしあと、身体検査に出てゆく。帰りて東豊に電話すれば「異状なし」と。 (山田俊雄氏、本返し『角川実用辞典』を賜ふ)。 7月1日 登校。無事すませて早く帰宅。 7月2日 寿一より退職の通知。母来り、来月父の13回忌すと。あさって西下とのこと也。散髪にゆきしのみ。 7月3日(日) 6:00母(これん(※実母))のゆめ見て覚む。礼拝にゆく。聖餐式あり。川久保に百瀬氏へのお花料托することとし電話すれば「5,000円のつ もり。いま来客中ゆゑあす来る」と。 7月4日 7:00さむ。だるきこと前日に同じ。14:30川久保来りし故、10日百瀬邸への不参いふ。そこへ矢野夫人来り媒酌人になれざるをいひ、(※省 略) 百瀬夫人梅子に3,000現金カワセとしことわり書く。(※省略) 7月5日 8:00さめ不快。下調べし阜子山住医院へ来しと寄る。登校。ふらふらと2時間やる。(※省略) 7月6日 曇。8:00さめ9:35斎藤dr.。鬱と申し薬2週間分もらひねまっすぐ帰れば12:00。臥床しをれば15:00すぎ弓子3孫つれ来り、新宿 の会へとゆき21:00前帰り来る。 7月7日 8:00起され登校。3時限のsemiやり皆に「一度来よ」といふ。教授会あり西山・亀井の諸教授さはぐ。 すみて文化史の会。文芸学部を文化史科と変へることにつき前田総務より注意受けしあと学科の会。(※省略) 7月8日 築島教授に久しぶりにて会ふ。(※省略) 疲れて帰宅。(※省略) 7月9日 だるくねてをれば早川信義氏より甘い物たまふ。(※省略) 7月10日(日) 下痢気味にてだるくて礼拝にゆかず。午后参院投票にユと前後してゆきしのみ。 7月11日 暑くだるく21:00あすの予習やっとすます。 川久保より「昨日の百瀬さんの一周忌盛会なりし。あすより弘前へ集中講義、20日ごろ帰宅」と電話。 参院選、東京都議選ともに自民党本質を明らかにす。 21:00より「Soldier-Blewアメリカ騎兵隊虐殺の記録」をやる。Vietnam撤退の記念なり。 7月12日 8:00さむ。中国古典、中国文芸史の前期最終の講義了り「あす14:30臨時教授会」の通知受取り17:00帰宅。 母より「8.20(土)11:30宝国寺(※檀那寺)にて父17回忌す」と出欠問ひ来る。 7月13日 8:30さむ。暑し。平凡社より『唐代詩集 上』7版1,500部印税165,000✕0.9を8.16払ふと。(※省略) 午后下痢腹痛し山住dr.にゆき薬貰ふ。大腸炎なり。(※省略) 7月14日 9:00起きpão食ひ下痢、13:00出て教授会。教育大より来し西山・亀井、その他教授会のでたらめをつき延々15:30となる。 講師室の2女つかまへて喫茶店へとさそへばも一人来る。夕立し、止むをまちて帰宅。百瀬夫人より礼状。 NHKの立石氏より「楊貴妃について30分radio放送を」と。21日まで返事保留たのむ。 7月15日 8:30さめ、下痢し、暑く、午后の民研に欠席いふ。(※省略) 7月16日 暑し。ユ正午まで松浦邸へゆき「あすのお花代10,000」と置きわが家の明日の一周忌欠席をわびる。 大より電話「母、伊勢にて神経痛」と。(※省略) 南隅夫人15:00ごろ来り、(※省略) 7月17日(日) 礼拝にゆき齋藤齋氏の亡くなられしこと会報に見えたれど竹森先生仰せなく宮田氏の好きしとふ602を歌はさる。 ユと東急にゆきうどん食ひ、竹内夫人に電話すれば「来てよし」と。ゆきて「いらぬ本売りし」11月にでも会せんと也。 (佐伯にて5,400ユ払ひ『和刻本類書集成』すむ)。 7月18日 涼し。10:00早川生来る。女仙をかけ魔女は中国語になしといひカードとれと教ふ。 午食にきしめん食はせ静霞堂へゆけとすすむ(「叢書集成」を買ふこととなりし由)。(※省略) 7月19日 やや涼し。13:00夏帽necktie上衣にて登校。30分以上まちて井上正蔵氏のドイツ語中期の試験補助。(※省略) 井上氏「1年はむつかしすぎるのやり20~30点が主なれど益して宜しきや」と我に問ふ故「宜し」と答へ帰宅17:00。(※省略) 7月20日 8:00さめ8:30出て斎藤dr.。11:00ごろ御診察、(※省略) まっすぐ帰り昼食し、東豊に電話、(※省略) 7月21日 無為。外出せず。午后NHK立岩氏より電話あり「あす14:00より楊貴妃の話す」といふ。 伊勢夫人より電話、食後ジュンと来り、旧姓鈴木(林)嫗来り21:00すぎ孫に促されて帰りゆく。 7月22日 鬱と躁と烈しくNHKことわりユに咬みつく。川久保来り、匆々逃げ出す。 7月23日 むし暑く家居。柏井歯科の帰りとて美紀子3孫をつれ来り、午食しアキ子泣くとて帰りゆく。 史、昇級なきも東京にのこりて満足となり(内閣国防会議参事官)。(※省略) 食後中野の十月書房にゆき『日本の詩歌』買へば700に負けてくれる。 7月24日(日) 9:00起き、ユも礼拝休む。cardやっと再びとりはじめ疲れるに呆れる。 夕食前佐伯にゆき『東アジアの古代文化8.9』2冊と雑本2冊ひ、竜胆さがしに花屋3軒歩く。 7月25日 9:00起き、(※省略)と浅野晃氏の詩集と見て13:30佐伯に『東アジアの文化』1冊注文して登学。 何も問題なくbeer出、皆のみをり。我出て西山博士と同車。何とかおせじをいはる。 けふ『堀文庫目録』のほか戸張教授(※登張正實)より『青い花』『ヒューペリオン』もらふ。 夕食後、散歩に出、船越家へ寄り20:15帰宅。(※省略) 7月26日 午前中card少しやり午后高円寺へゆき『仏典の植物(3,000)』買ふ。(※省略) 7月27日 card少しやる。32℃つづく。 7月28日 Ioa州より白水繁彦・ヒロ子夫妻よりの暑中見舞。(※省略) 11:00宮川、坂内、田村、高橋の3年semi来りしゆゑ勉強せよといふ。(※省略) 伊藤徳、大阪より電話「船越こしげは妻、尾崎嫗は妾、但し城平らはみな認知しあり。正平喪主たりしもいかにや」と。 「我は甚城の裔統にて城平叔父らの建てし墓(明石)のほか淡路に甚城の墓あり。されど我家は八王子に墓建て本家と思ひをり。思はれをり。文句な し。一度来よ」といふ。 7月29日 暑し。午后船越その子来り校正を見す。不十分也。電話かかり山田勝久(跡見学園短大講師)君より「荻窪にをり。来てよきや」と。「お越し」といへ ばその子の帰りしあと来て『王維論』見す。 茱萸を問へばグミと。わが説となへ『詩経の草木(上)』わたす。(※省略) 夜、川久保へゆけば鬱と。 7月30日 9:00起きる。card少しやり昼食後、 大来りしゆえ「宝国寺にゆかず」金もちゆきくれと云ふ。「母を抱へるな」といひしもきけざる様子。(※省略) 14:00中島、出口、藤木の3生来り水羊羹呉る。出口は恋愛中と。他に男を選ぶことを夫婦して云ふ。 7月31日(日) よべ20:00近く薬ましてのみ覚めしは11:00。朝昼兼帯食ひcard時々やる。(※省略) 8月1日 新聞にて原徹氏の義父衣笠武夫氏(※明星学園理事長)逝去の記事みつけ丸重俊に電話し11:20吉祥寺駅南口にて待合はすこととし、11:05ゆ き11:40丸生の来しに案内され12:05式始まりをり。 一般焼香し原氏に挨拶受け丸と高校へゆき同僚たちと挨拶す。 「2人定年にて講師は3人、原理事は労組担当にて評判わるく校長と社会の主任とにて決まりし」と丸生の話。 (※正教員の話)危ぶみつつ吉祥寺までbusにのり中華そばおごり(500)同車。「そのうち来る」と也。 (※省略)『民間伝承』の総目次、戸田氏より。 8月2日 9:00さめ午后たまりし暑中見舞の返事10枚近くかく。寿一「喜代助17回忌にゆく」と也。 東豊書店より『植物図譜5』入りしと。「清代小説筆記選丙のみあり甲乙くれ」といひ、あすゆくこととす。cardまた作る。 8月3日 8:00起され9:35斎藤dr.。東豊に電話し「ゆく」といひ、女の患者と話し先生の「随筆よし」と申上ぐ。躁なり。 ice-coffeeのみ国鉄にて代々木、東豊へゆき『中国高等植物図鑑5』と『清代小説筆記選甲・乙』2冊買ひ、 アメリカ人学生さそひて喫茶。「堀之内に住み20日過ぎ帰米」といふに「電話して夕方来よ」といひ、佐伯に寄り帰宅。card作る。 (※省略) 夜、丸重俊来り「日曜穂高へゆく」と也。 8月4日 9:00さめ暑き故家居。13:00京夫妻来り午食す。健太郎可愛くなりをり。諏訪望より水泳の報告と画。 講談社知念君に電話すれば『杜甫伝』売れず。郭沫若『杜甫と李白』は前に出せしを文庫にせしと也。 8月5日 8:00さむ。10:00すぎしも岡林生来らざる故、電話すれば「約束は明日」と。小山正孝より詩集。 矢野明子嬢より「9.3三條苑にて13:30」と。西川にその旨電話すれば「出席不能」と。 矢野夫人に電話「7日14:00お祝もちゆく」といへば「幸田夫妻と我々のみが招待」と。(※省略) 8月6日 9:00覚む。10:00岡林正子来り10:30石塚真弓来る。二人つれてcopyせしむ。(※省略) 勉強しなければ恋愛(岡林6年・石塚2年)もダメになるとおどかし帰らす。 夜、小林、宏一郎と孝行つれ阿佐谷の七夕見に来しもねむりかけとてすぐ帰りゆく。(※省略) 8月7日(日) 8:00まへ起き礼拝にゆく。ユ長島夫人と話す間に東急でわれうどん食ひ(230)伊勢丹にゆき合の礼服として黒の背広あつらふ(55,000) 「明日16:00以後とりに来よ」と也。 矢野家の祝に花瓶(25,000)はづみ、13:20下高井戸につき今よりゆくといひ途迷ひ13:40ごろ着き祝わたす。 明子をり「来賓は幸田夫妻(仲人)と我々のみ。1時間半ですむ」と也。 14:20別れて下高井戸の古本屋にゆけば何もなく『南方圏文化史講話(600)』ダブリを承知で買ひ、 佐伯にて『沖縄の歴史(これもダブリか)』買へば350にまけて呉る。(※省略) 8月8日 久しぶりに雨。11:00森生来りし故、本貸し「やれ」といふ。午后船越苑子来りgroupにて商売するか、係長課長ともに独身ゆゑ結婚せんか」 と。 田中正平名義にて香典返しにドイツ製花瓶来る。昨日わが買ひしチェコ製より安物にて1万円位か(十合売)。(※省略) 8月9日 9:00起き、ユ出かけて戸田画伯のmodelを向ひにたのみにゆきしと。(※省略) 16:00中野にゆき佐々城にて『阿佐谷界隈』買ひ来り、佐伯に寄れば『東アジアの古代文化別冊(890)』来をり、ユに金もちゆかしむ。 8月10日 5:00尿にさめ、また眠り8:00さむ。card今迄の分けふ中にすまん。 川久保に電話し「午后ゆく」といひ13:00ゆき『古今図書集成』並べやりしにNo.1とIndexⅡなし。 (※東豊書店に)電話せしむれば「主人不在」と。(※省略) 今日にて『詩詞曲語辞匯釈』、『南劇六十種云々』、『金元北曲云々』すまし、尾形仂氏の『小説三言』を略抄することとす。 8月11日 8:00さめ9:00より待てば11:00近く嶌野学生課長夫人につれられ島野生来り、全く勉強しをらず、本2冊貸し「今日より改心して勉強せ よ」といふ。11:30帰りゆく。 (※省略)忘れゐし『本朝食鑑2(1,100)』を青梅街道の本屋までとりにゆく。午后和田夫人来り夕食し21:00まで話しゆく。 (川久保「本そろひをり我のより冊数少なく79冊でよし」と。) 8月12日 8:00さめ山田俊雄君に電話すれば「文部省の補助今年はすみ12月ごろ来年度の申込せよ」と。 昨日より栃尾氏(※尾形氏の間違?)の『小説三言』より拾ふ。(※省略) 尾形仂氏に電話しわが『白話辞典』に「小説三言の利用許可」を乞へば「宜し」と也。 8月13日 雨、外出せず。ユ画習ひにゆく。(※省略) 8月14日(日) 雨。8:00悪夢見て覚む。ユとともに礼拝休む。中島生に電話すれば「病院の連中と旅行しゐし」と。 神風の遺族に実写見せゐるに稲垣浩邦君見て、のちほど電話すれば「64才となりし」と。「元気で!」といふ。 終日20℃代にて寒し。23:45の九大生体解剖のtelevi見て森助教授の名あるを見て0:00睡る。 8月15日 9:00さむ。(※省略) 午后弓子3孫つれ来る。夜、中島生より電話。ユ「(※見合写真)先方にわたした。結果まて」といふ。 8月16日 9:00夫婦ともさむ。小雨。午後、ユ三鷹の伊勢丹へ出来上がりし粗礼服(先々週日曜あつらへ5.5万)とりにゆき呉る。 有珠山8日噴火、地震ツヅキ大雨降ルト。(※省略) 8月17日 8:00さめ、雨中9:00まへ斎藤dr.。10番目に診察受け異状なしと申上ぐ。往復ともに地下鉄(120×2)、 本屋で堀一郎『日本のシャーマニズム(390)』買へばdouble。 8月18日 8:00さむ。雨時々降る。相変らず『小説三言』のcardとり半ばとなる。平凡社より14万円の小切手来る。雨止まず。(※省略) 雨時々激し くなる。15:00川久保にwhiskyもちゆき17:00すぎまで思出話をす。 8月19日 雨。9:00さめcard採る。佐伯へゆく。本来りをらず。card文具屋になし。 大、午まへ来り我家の3万円、弓子・京の1万円もちあす新幹線7:00に乗ると。史も雅子つれてゆき日曜帰ると也。 (※省略)22:00すぎ「西島か」との老人の電話。 8月20日 5:00さめ田村春雄君へ「保さん(※清徳保男)より熊野達六郎(※五十嵐達六郎)宛」の手紙すべてハンス・ドリーシュ『形而上学(※岩波文 庫)』清書の褒美としてもらひしを送る。(※省略) 中島生の縁談、長島夫人の世話にて来週土曜我家にてもといふこととなる。(※省略) 11:00近く島野生来り目次見す。広東料理の原本貸し「早くかけ」とすすむ。午、素麺くって帰りゆく。 田村春雄に清徳さんの熊野達六郎宛の手紙1包送る(500)。(※省略) 8月21日(日) 8:00起され、曇。礼拝に夫婦にて出る。真後ろにて良き大声で歌ふは原徹氏にて、この間の弔問の礼いはる。 東急にて狐うどん食ひ、別れてユは見合にと新宿へゆき、我はcard(280)買ひて帰宅。 15:30ユ帰り、すぐ中島しづ江生来り、荻窪の姉夫婦に相談せよといふ(よければ27日我家にて見合と也)。 『小説三言』のcard500pを越す。21:00より「制服の処女」televi。 (大16:00ごろ来り、俊三郎叔父のこと母は知らずと。) 8月22日 雨。外出せず。『小説三言』のcardすまさんとす。 夕方ユの昨日の見合不成功とわかり、中島は「土曜15:00すぎ我家にての見合」となる。(※省略) 8月23日 10:00近く起きる。ユ伊勢丹への京の買物にとゆき13:00前帰来。(※省略) 午后、雨止みしゆゑ久しぶりに佐伯へゆけば注文来をらず『現代の日本語(700)』買ひ『花洛(200)』を金子で買ひ来る。 『小説三言』のcard700pを越えあと100pなり。『東京タイムス』より「東大100年記念号に名を出す故2万円出せ」と。ことわる。 8月24日 ※記事なし。 8月25日 9:30覚む。朝食後10:30雨また振り来る。午后柏井光一に電話し、小雨の中をゆけば顎やせて処置なしと。 がっかりして『東南アジアの歴史(390)』、『日本国家の形成(280)』と文庫本買ひ、栗田にてWeber『プロテスタンティズムの倫理と資 本主義 上下(300)』買って帰宅。尾形仂氏解説の『小説三言』了りとなる。 8月26日 9:00さむ。『唐話辞書類集1』にとりかかる。20冊あり。大事業ニテ午后疲レテ25pノミ。〒なし。 佐伯へゆき『東京大学(700)』買ふ。曇時々晴なり。(※省略) 桂信子より句集。(※省略) 8月27日 9:00すぎ覚む。曇。暑苦し。(※省略) ユ、午食後、画のけいこにゆき15:15帰り来り、 15:30中島しづ江、義兄俵氏と来り、16:00長嶋夫人、中村誠氏と姉君と来る。 17:00二人先に出し、あと20分して西荻窪と三鷹へと帰りゆく。 われ佐伯にゆきエリアーデ『シャーマニズム(堀博士訳5,000)』を借り来る。京、健太郎をつれて泊りに来る。 20:00中島生より電話「2人で旨くゆきさう」と。 8月28日(日) 8:30起されねむく、夫婦ともに礼拝休む。健太郎大分賢くなる。 3channelにて横山大観のことを依田君(※依田義賢)話すに見てハガキかく。 ユ佐伯に払ひすます。夜、長島夫人より電話「中村氏断り来し」と。 (新宿街道の芳雅銅にて『本と校正(180)』と『昭和のロマン主義(400)』と買ひ来る。) 8月29日 7:30稲垣浩邦氏の電話で目をさます。「今日くる」といふに(※省略)、15:00稲垣氏より電話。 北口にをりしを呼びて連れ帰り、比島、ニューギニア、ラバウル等方々へとび最後は比島北端のアパーリにて終戦。15人死し11人残りし報道班と。 息子2人ありと。21:00すぎ駅まで送りて帰す。 中島しづ江に電話し、先方ことわりし故、写真返しかたがた来よといふ。 8月30日 9:00前さむ。cardとり尾形氏より返事。(※省略) 佐伯へ寄り北口へcard買ひにゆく。(※省略) 斎藤先生ヨーロッパコルシカへゆかれしと紀行のる。 8月31日 我が65回目の誕生日、8:00起され、 斎藤dr.9:20につけばすいてをり3番目に呼ばれ「辞引あと3年」といひ、コルシカは6月行きたまひしと。 帰り新宿まで歩き紀伊國屋にてcard200枚(280×2)買って11:00帰宅。 夜、中島生来り吊書返却、あともたのむと也。(※省略) 巨人の王選手755号のhome-run打つをtelevi。 9月1日 9:00さむ。晴。暑し。(※省略) 13:00まへ早川恭子来り『西王母』よます。(※省略) 9月2日 曇。暑し。10:30森光世来り『中國婦女在法律上之地位』ハヨメズ。(※省略) 『礼記』ナドヲ「学校ニテカリ出セ」トイヒテ午食セシメシノチ カヘス。(※省略) 講談社の杉原諄君来り20:30近くまでわが話きき『戦後吟』と『山上療養館』とを9月9日までともちゆく。 (川久保、ユの帰るまへに来て旅行(高山-松本間)せしといふ。) 9月3日 8:00さめ9:00ユはパーマ、我は散髪にゆき12:00まへ昼食して電車一つ乗り遅れ。すでに披露宴はじまり仲人幸田氏、矢野明子の文武両道 の達人なることをいふ。 すみて祝辞先頭にあてられ、故友(※大高同窓矢野昌彦)の善かりしことを云ひ、矢野長官の出棺の時、矢野死ぬ10日前のたのまれかなひ三国一の花 婿をえられしことを祝す。 あと乾杯の音頭もとらされて吃驚す。(※省略) 花聟の叔父谷口千吉監督(二度目の夫人は八千草薫とユの話)の「二度とはするな」で終りとなり料理包んでもらひhyre呼んでもらふ。(※省略) 佐伯にゆけば『堀辰雄全集2(3,320)』着きをりもち帰る。(※省略) 9月4日(日) 8:00起され9:00すぎ佐伯へ堀辰雄全集の金払ひにゆき、駅のbenchでからまれゐるところへユ来る。礼拝眠くて困る。(※省略) 16:00京、健太郎つれて来り、(※省略) 17:30金子一郎夫妻赤ん坊をつれて来る。(※省略) 9月5日 8:00さめ、島野生の来りしを指導、午食のあと早川生来り疲る。 9月6日 8:00さめcardとり午食のあと13:00越部卓来り、体やや宜しと。Vetnamと中国との関係かけといひ15:30帰りゆく。(※省略) 9月7日 暑し。石田嘉子Londonより便り(※省略)。ユ画へとゆく。夜、高橋重臣君アタミより「金曜午后来る」と。 9月8日 9:00さめ10:00すぎ山住dr.へ老人検査にゆく。血圧108~尿に異状なくRentgenと血液検査につきて月曜来よと也。 船越その子西友のArbeitやめ高円寺駅下の衣料店に働くとて来る。午食くひ13:00にと出てゆく。神田信夫氏より『中国の歴史8』賜はる。 (※省略) 9月9日 9:00さめ、(※省略)  高橋重臣君、雨中来り熱海の別荘によく来ると也。講談社、いれちがひに貸せし本返しに来る。春夫先生のヱハガキ入りゐしも返し呉る。(※省略) 9月10日 曇。家居、cardやり疲る。ユの画きしわが像「これでよし」と云はれしと。 9月11日(日) 下痢。礼拝休む。ユ13:00帰り来り、原徹氏長老式ありしと。佐伯へ本見にゆき何もなく帰ればゼンマイもち来り呉る。 9月12日 晴。8:00さむ。暑し。12:00岡林生来り14:00までsemiやる。14:00帰りゆきしあと矢野夫人(※娘の)谷口明子と来る。新婚旅 行は金沢へゆき家は下高井戸にもちしと。(※省略) 9月13日 暑し。午食後ひるねし、佐伯へゆきしも主人不在。(※省略) 9月14日 8:00起され斎藤dr.。鬱と申し上ぐ。薬変らず。帰り東豊書店により台湾より帰りし木桂氏とラーメン食ひ、 『延平世家(1,660)』借りCampbellの2冊買へばdoubleなり。返却を電話でいふ。苑子来り、話す間ひるねせんとせしもダメ。 佐伯にて『本草綱目13(5,220)』借りしをユに払ひにゆかす。(※省略) 9月15日 老人の日と。1E石川和子、物もちて来る(佐々木望と羽倉啓吉2君の名刺もち来る)。湘南高より国文専攻へと。早川生semiとて来り、(※省 略)  彼岸花二株咲きぬ幼くて死にし子と孫偲ばすために 9月16日 9:00さむ。涼し。11:00美紀子アキ子と同級生つれ来り、ややして京、健太郎つれ来る。『Biblia66』来り仙田正雄氏の追悼文を高 橋、八木2君かく。 (※省略) 中野清見君より『釣の歳時記』来る。鬱つづく。 9月17日 9:00すぎ覚む。秋となりぬ。(※省略) 和田夫人14:00来り(大その前に来り、(※実母)これんの骨、先祖代々(※の墓所)にあるらし と)、 グループよりの贈物と糕子など自分の物ともち来り、夕食までゐる。ユ、絵より帰りわが陰気なるを見てつれ出す。(※省略) 9月18日(日) よべ1:00まで眠れず。礼拝休む。ユ、西阪修展見にゆくと也。14:00すぎ帰り来り「久保も東京」と若き妻とゐしと。弓子3孫つれ来る。(※ 省略) 9月19日 9:00さむ。雨。(※省略) 今東光逝去とtelevi夕刊。 9月20日 9:00起きしも鬱。ユ9:30京と西武にて会ふと出てゆく。久しぶりに快晴なれど外出の気なく、cardやったりやらなかったり。(※省略) 9月21日 よべ睡眠感なく6:30起床。ユと斎藤dr.。5番目に診察受け薬かへたまふ。10:30出て帰宅。(※省略)大高同窓会報にて園克己氏逝去と。 9月22日 よべ23:00眠り7:30さめ12:30地下鉄にて早稲田。探しまはりて西阪修のIsrael展見る。juice御馳走となり海苔を土産とす。 今の住居は二上山の東側と。16:30帰宅。 9月23日 23:00就寝。8:30覚む。cardまたはじめ佐伯へ注文にゆく。夕方、伊勢の美大女来り和田女史来り、和田女史よりの鰻くふ。(※省略) 『朔太郎書翰集』チクマより来る。 9月24日 曇。cardとる。(※省略) ユ、けふ東京駅へ名古屋へゆきし京母子迎へにゆきし。鬱ややのきし。 9月25日(日) 夫婦とも礼拝休む。われハガキ出しかたがた一寸散歩し、ユの12:00まへ中島生の見合(小高根夫人紹介)にゆき、留守番す。 9月26日 ユ外出せずわれも家居。稲垣浩邦君よりハガキ。北川冬彦、桐山君らと集りたしと。故三島一教授論文刊行会より「5,000出せ」と。 9月27日 8:00さむ。秋晴。散髪にゆき10:00ユより1万円借り、定期買ひ登校。庶務課へゆけば8,9,10の3月分呉る。3,4限ともに早くすまし 東豊書店へdoubleし本返し、蛮語集4冊(8,000)と『利瑪竇(※マテオ・リッチ)研究論集(3,200)』買ひて帰宅。ユ、小高根家へ 見合の付添にゆきをり。 9月28日 7:00さむ。cardやらず佐伯にゆき『東アジアの古代文化』2冊来りしをとり、払ひすます。(※省略) 花井たづ子来る。 われ川久保にゆき15:00すぎ帰宅すればたづさん帰りゆく。川上恭正在外(S.S.S.R.モンコー支局)となりしと。 Indiaにてhy-jack起る。 9月29日 8:00さめ10:30佐伯に寄りて登校。semiみな来る。30分して4年を研究室に呼び旧の卒論見す。教授会。(※省略) 割合早くすみ中野の古本屋にゆき本2冊買はんとすれば財布なし。(※省略) 土曜再来をいひてとりのけたのむ。稲垣君に北川冬彦のaddress をかく。 9月30日 8:00さめ急いで飯くひ髭そり登校。(※省略) 築島博士と会ひともに帰らんといひて新著『日本人を考える』もらふ。(※省略) 成城堂にて2冊買ひ払ひて出、小田急にのれば買ひし本なし。帰宅後電話すれば「取りあり」と! (※省略) 10月1日 8:30さむ。よべよく眠りしは薬と講義の疲れとのため也。ユ出てゆきしに佐伯へ散歩し『宋代文学(250)』買ふ。 稲垣浩邦君より電話「北川さんに電話すれば元気なれど奧さん病気」と。中野の佐々木にゆき木曜とりのけたのみし本とり来る。 hy-jackけふも解決できずバングラデッシュのDeccaにありと。 10月2日(日) 聖餐にゆく。(※省略) 竹内夫人に電話すれば在宅と。14:40ごろゆけば中村君と2嬢とあり。飯くひ来しをいひHope20箱(1,500) 置きて西荻窪まで歩きて16:00まへ帰宅。 (※省略) 夜、畠山六右衛門氏、山形より電話「史にたのみ事あり」と。史の電話教へてすます。 10月3日 8:00さめ10:00来し石塚生に則天武后(新唐書)よみ、岡林生には来週月曜と約束す。13:00すぎ丸木、白水2夫人来り、16:00ごろ 帰りゆく。 hy-jackまだ10名と機手とかかへてTunisに飛びし様子也。竹内の本のことにて池田誠教授に電話せしも21:00まで未帰宅らし。 (※省略) 21:00池田温氏より電話あり「竹内の蔵書しかるべく話してみてくれ」といふ。 10月4日 9:00さむ。11:00登校のまへ成城堂に寄り吉田金一氏の『近代露清関係史』受取る。帰り佐伯休みをり。夜、天理の高橋重臣氏より「鈴木治氏 逝去」と。 10月5日 9:00さむ。斎藤dr.へ10:30着けば満院。13:00近く御診察受け近著2種承り、千駄谷駅前のレストランにてcold- coffee(150)、東豊書店近くにてまたcoffeeとpão(450)。 東豊にては『台湾的歴史与民俗(500)』買ひ南新宿より帰る。佐伯に寄り『堀辰雄全集3』月末出るといひて帰宅。田村春雄夫人(※入院中)に見 舞、西阪修夫人に礼状。(※省略) 10月6日 8:00さむ。8:30松枝茂夫氏より電話、竹内文庫につき説明す。11:00登校。(※省略) 和田夫人より麥書房より詩集出せ云々。 田中楠弥太氏より「10月23日正平博士33回忌を日比谷の精養軒で」と。「出席」と返答す。 10月7日 8:00さめ11:00登校。築島教授にHeineと、Winstedtの「マレーの歴史と民俗」訳本進呈喜ばる。院は重久休み三倉一人、すまし て蜜豆くはす。 (※省略) 斎藤茂太博士の『おんなの神経科(880)』買って読み了る。吉祥寺教会の改築に献金の標準表来る。 10月8日 8:00さむ。午食すまし中野の十月書房へゆき司馬江漢『訓蒙画解集(1,000)』と駄本1冊買ひて帰れば弓子、京、孫つれて来り、克次朗風邪 ひいてをり。(※省略) 10月9日(日) 6:30さめ8:00再びさめ礼拝の用意してゆけばうしろの方なり。すみてすうどん(180)食ひ、飴、茶買って阿佐谷へ帰り佐伯にて『明清俗語 集成4.5(11,170)』借りて来る。 ユ、見合にと出てゆき、(※省略) 10月10日 曇。ユ、船越章の多摩墓地埋葬にと出てゆく。『芸亭』高橋重臣君より贈られ仙田正雄氏(3.27告別式76才?)の追悼号なり。 14:00岡林生来り「康熙の外征」とて三藩の乱とまえがき講ず。14:30石塚生来り、ユ帰り来る。 10月11日 7:30さめる。川久保に11.4の東方学会party参加問へば「考へる」と。 田中綾子氏に電話してきけば上野の精養軒にて10月16日11:00よりと。日比谷のとききしと勘違ひせし也。 鈴木治氏10月4日逝去と長男滋男氏より通知あり。 10月12日 川久保10:30来り「東方学会partyに出る」と。Poetica社より「発見したこと」2枚20日までにと。諾の返事す。午后、船越その子 来る。 15:30出て高円寺の古本屋を一周して帰宅。甚城50年忌とて淡路にゆきしは昭和34年。成城大専任きまりし春なり。 『ユリイカ』へ20日までに2枚「我が発見」欄にかくと速達。(※省略) 10月13日 semiにと11:30着。中国古典の出欠つけpão食ひsemiに出れば「先生疲れてゐる。止めませう」と也。そのあと教授会。すみて(※省 略)17:30了りて帰宅。 10月14日 6:30さめ8:30すぎ出て2時間目、鐘鳴るまでやる。昼食後、大学院、重久生さそひて青柳で喫茶。16:30帰宅すれば母をり「死にたし」と 泣く。 建方にもゐづらき也。(※省略) 母早くねてしまふ。 10月15日 7:30さめ母、大よりの電話にていそいそと出てゆきしあと、佐伯へゆけば『東アジアの古代文化特集(980)』来てをり。 『唐話辞書類集1』のcard作りに疲る。 青木母より11月8日東中野の梅若能楽堂にての入場券3枚来し故、2枚山住閣下にもちゆく。「下手だがね」とのことなりし。 10月16日(日) 8:00起され用意して上野精養軒へは10:30着、第一着なり。 あと楠弥太氏来られ、親類以外は伊藤完夫氏と田中綾子、山田千代とならび、向側は万米老次男、稔久氏にて、淡路方言集の田中万兵衛は万米老とちが ふと。 一郎老の次男於莵丸氏は彫刻家にていまは横浜市金沢区六浦住ひと。山田千代(上に住田あや子)勤の順にて綾子さんは69才と。 城平叔父のこと覚えをり。「この間死んだ」といへば「いつ」ときかれ困りし。 霊前に供へし香奠お花料返却受け弱る。中野で下車、十月書房にて瀧川博士の『非理法権天(3,200)』買ひ10分すればユ帰り来り、けふは 605番唱はれしと。 10月17日 7:00さむ。9:00すぎユ河北病院へゆく。10:30岡林生来り、ユ12:00帰り来り、昼食せしめ14:30互ひに疲れしところにて帰りゆ く。 10月18日 川久保、登校前に来り「11月6日の東洋史談話会にゆくや」と。「ゆく」といへば彼もゆくこととなる。10:30出て11:20登校。 午食の時、顔見せしは海江田旧副手にて高田瑞穂と話しをり。(※省略) 10月19日 8:20覚む。9:30斎藤dr.。(※省略) 新宿へ歩けば紀伊國屋休み。佐伯に『東アジアの古代文化(900)』来てをり。『文芸春秋10月 号(200)』も買ひ、文具屋にてcard200枚買ひ12:00すぎユ、河北病院より鼻の治療にて帰り来る。 『ユリイカ』「われ発見せり」欄に「老年の自覚」書く。 田中稔久氏より「日曜同行誘はれしも失礼」と淡路の思出かき下さる。 10月20日 8:00まへ起きユ9:00に出てゆくに『ユリイカ』への速達たのみ、10:30出て登校。(※省略) 帰途『女が一人で生きるときの法律入門 (580)』見つけ買ふ。(※省略) 10月21日 8:30さむ。10:00ユ河北病院へゆく。12:30ユ帰り来り昼食くはす。13:20石塚生来り新唐書の則天武后よます。岡林生13:30来 り『アジア歴史辞典』ひきをり。 17:30両人帰りゆく。われ文春よむ。 10月22日 8:30さむ。ユ画にゆくとて我も13:30出て荻窪にゆき岩森南店にて『北方の古代文化(1,100)』買ひ、 阿佐谷の新本屋にて加藤繁訳註『史記平準書・漢書食貨志(200)』、『旧唐書食貨志 旧五代史食貨志(200)』、『中国食物誌(1,300)』買って帰宅。 10月23日(日) 8:00起きる。9:00すぎ出て教会。竹森先生古稀祝とて4列目。礼拝すみて記念品贈呈。(※省略) 122万円を会堂改築に予約す。 10月24日 外出せず。ユ河北病院へゆく。11:00美紀子おこわもち来り、暁子われを見て泣く。13:00岡林生来り、13:30石塚生来る。岡林「三藩の 乱」にて手を焼く。 18:00までむだ話して帰りゆく。(※省略) 竹内夫人より1月14日追悼会すと後藤より通知ありし。本の行先旨くゆきさうと(慶応に分売 と)。 10月25日 8:00すぎさめ10:00出て登校。午食殆どとらず、3、4限目すませて帰宅。観世生(※観世暁夫)と東中野まで同車、梅若の能楽堂へゆくと也。 佐伯にて『みにくい日本人(250)』買って帰宅。 10月26日 8:00覚む。10:30出て11:30成城大に到着。午食にちらし食ひ(※S.H.)の面接。鎌田ゼミにて漢文(中西博士出題)10にて300 満天の164点にて再試となる。 築島博士と民研にゆけば原稿はあす中公事業出版より取寄せるとのことに納得して同車。小田急dept.13階で喫茶ワリ勘とし、田中正平博士のこ といへば知りをりと。 田中良久氏、癌で死せしと。けさの朝刊にては「稲垣足穂、京都第一日赤にて糖尿病に肺炎併発25日am5:45死去76才」とあり。 『ユリイカ』より受取。田中稔久氏より田甚(※田中甚城)につき色々教へ来らる。 10月27日 8:30さむ。10:00出て登校。東洋史の予習しsemiにて越部の原稿直し、石塚、岡林にjuiceおごり日曜13:30家へ来よといふ。 (※省略)16:30帰宅。 『常民文化紀要』の校正34-107p了る。22:00すぎ金沢「西荻窪より成蹊大の教授つれて来る」と電話あり23:00すぎ来り、成蹊の教授 2名とwine1盃のみ23:45去り24:00「帰宅」と電話。 (秋田実氏逝去、72才と。長沖氏の同級なりし也。) 10月28日 8:00起され登校。9:30柳田文庫への校正を三田村副手にたのみ10:20東洋史。(※省略) 10月29日 8:30さめcard少しやり12:00出て東急buil.6階の学長夫妻の還暦祝賀会にとゆく。1.5万払ひ(※省略) 尾形仂、築島博士、前 田総務部長らと同席して15:30。 築島博士「かへらん」といふに出れば見失ひ、戻りても見つからず中野の漁文堂に寄りて帰宅。(※省略) 10月30日(日) 8:00起され夫婦にて礼拝にゆく。帰り東急にていつもの如く我キツネウドン食ひ、ユそのあと買物して帰宅。 午ね旨くできず。14:00近く岡林生来り、下書き直しをしへしころ石塚生来り、「則天武后」よみやる。17:00近く帰りゆく。 10月31日 9:00さめ10:30出て成城。午食して13:00となり島野生の卒論400×30を見てやりしあと、会計にて差額支給14万円余受取り、 中野の本屋によりしあと帰れば母来しあと和田夫人来をり。夕食して22:00近く夫君の電話にて帰りゆく。 けふ篠田博士『豆腐の話(500)』、『河上肇詩註(280)』成城堂にて買ふ。(※省略) 11月1日 一度排尿におき8:50起され10:30斎藤dr.。先々代50年と茂吉先生25年とにて休み多く、さ来週は月曜参るといひ薬ゆるくしていただ く。 東豊へ電話かけてゆき6,060の借金払ひ『説文段注』、『中国民間信仰論集』など1万円近く買ひて帰宅。 11月2日 8:00さめcard少しやり午食後、高円寺の古本屋。ついで地下鉄にて新中野(80)。2軒見しも買ふものなく帰宅すれば船越苑子来てをり月給 もらひしと。 依田義賢君(68才)勲章もらひteleviにも出る。金田一春彦ももらひしに『北方の古代文化』よみをれば京助博士のこと悪く書いてありふし ぎ。 榎一雄(63才)、金沢良雄(67才)も同じく紫綬褒章もらふ。依田君に「東京の祝賀会に呼べ」とかき、金沢に電話すれば「君こそ」と謙遜す! 11月3日 8:00さむ。またcardやりし13:00すぎ来し越部生にtextよんでやる間、ユは中島生の相手す。ユ孝行つれ来り、16:00越部生と出 て東中野の古本屋見しも何もなし。 中野まで歩き高円寺まで一駅乗車、佐藤書店にゆき寒くなりし為、佐伯にて文春11号買ひて帰宅。 川久保に電話すれば「あとで来る」と。時に18:00なり。川久保19:30来り、wineのまず1時間して帰りゆく。(金沢のこと浅野(※建 夫)のこと話す)。 11月4日 8:30覚む。寒し。11:00竹内夫人、長嬢と来り、午食すすめしもきかず4:00吊書の見本かかせて帰りゆく。15:30雨の中を出て地下鉄 にて駿河台下。 山本書店へ久しぶりにゆき『清代科挙考試述録』、『唐宋考試制度史』、『俗語典』と4,000ほど買ひ、落とせし1万円札を拾ってもらふ。 神保町より地下鉄にて大手町、のりかへて虎ノ門へ着けば30円とらる。 東方学会の宴会はじまるところにて、創立30年とて吉川幸次郎博士をはじめ甲斐の運行の男女(10年まで)贈り物もらひしあと吉川博士の詩をもら ふ。 乾杯瀧川博士(※瀧川政次郎)(あとにて名刺たして「訪問して宜しきや」といへば「宜し」とて名刺たまはる)、植村清二、内田吟風、岡田英弘、波 多野善大、日比野丈夫、松村潤、中村孝志の諸学者に挨拶し、吉川博士に杜甫の発刊祝申上ぐ。 食ふ気も飲む気もなく神田信夫君母上危篤とて上洛らしとききしあと川久保促せしも来ず。先に出て佐伯に『日本奥地紀行(1,000)』来るをとり て帰り、飯半杯食ふ。 川久保より電話ありし故、ユ「30分ほど前帰りし」といふ。 11月5日 8:00さめ、行火にてcard作り、ユの12:00前帰るを待ち13:00すぎユの画の稽古にゆきしあと、神田へゆき17:00まで歩きまは り、 『媛珊食譜(360)』、『備急千金要方(1,300)』を山口書店に教へられ向ひの海風書店で買ひ、『古典の花(750)』、『みそ (360)』を山田書店で買ひ、 『伊犁紀行(2,400)』を東西堂で買ひ、疲れて明治堂にて『読史備要(7,000)』買ひしを了りとし、御茶水駅より急行にて帰宅。 17:30。 この間とりし4万円は1,000余となる。 11月6日(日) 4:00ごろさめ8:30起きる。佐伯へゆきみれば『堀辰雄全集3』未着と。きのふ買ひし本のcard作り、『怯里馬赤』少しやりしところへ、 京、夫と健太郎つれ来り、(※省略) 健太郎高い高いをして気晴る。稲田家と出て行きしあと15:00川久保より電話、史学会へゆくと。 われ16:00出て17:00学士会館へつき会費3,500払ひ立食のsandwich少し食ひcoca-colaのみ、窪添慶文助手の「北魏の 尚書」なる史料不足の話きく。 (乾盃、植村清二先生「正月文春より出せし本送り給ひし」由)、青木富太郎、池田温、中島敏、(護雅夫トルコより帰りて病気と田中正俊氏の話)、 吉田金一、佐口透諸氏と話し、榎、山本、和田兄弟、神田信夫などの欠席を知る。矢沢利彦君に成城の後任むつかしといひ、20:00前会館の催促に て閉会となる。 植村先生、川久保と3人にて地下鉄。先生に近々お伺ひすといひて別れ、川久保小銭なしとて200貸す。 11月7日 9:00さめ、13:00すぎ来し石塚、岡林生2生のうち岡林生に清史よんでやる。(※省略) 和田夫人午后来り18:00までユと話しゆく。ユ、風邪ひきをり山住dr.にゆく。夕食後、川久保に「30分」といひて20:00ゆき帰れば 22:00なりしにおどろく。 11月8日 9:30さめ11:00登校。2時間すます。田中良久氏の葬儀本日と掲示あり。『成城60年志』1,000pagesを重いがりつつもち帰る。 兼清より電話「あす15:00阿佐谷駅へ来る」と。金沢受章祝の件か? 11月9日 8:00さむ。10:30石塚生来り、ついで岡林生来り、石塚生教へ午食せしめしあと石塚生欠伸せし故、岡林生と交代せしめしところへ兼清より電 話。 三井銀行前で待つと。つれ帰れば2生帰りゆく。兼清の用は19期生会し金沢の受章祝せんと也。 「西川と汝と倭を発起人にせよ」といひ駅まで送りゆく。疲れて30分午ねして夕食19:00。(※省略) 筑摩書房より「『世界の歴史』改版につき訂正カ所示せ」と速達。植村先生より『歴史と文芸の間』賜ふ。疲れて礼かけず明日のこととす。 11月10日 9:30さめ11:30登校。semiすまし教授会。故宮川助教授を4月1日付教授とす。 すみて工藤生と同車、小田急dept.、休みなれど11階の喫茶店でcaféのませわれはtea(500)。 けふ成城堂で『コロンブス航海記(300)』、『米欧回覧實記(400)』買ふ。後者は5冊にて完な。東豊に電話し『杜甫伝』とりよせたのむ。植 村先生にもちゆかんと也。 11月11日 7:50起き10:00登校。2時間すませて神田。海風書店で『媛珊食譜1,2(360×2)』買ひ、山本に行き『杜甫伝』買へば1,000にま けてくれし故『中国古代宗教研究(600)』買って地下鉄、九段下より帰宅。疲れて眠り(※省略)。 入浴中、松枝茂夫氏より電話「竹内の書翰100通以上あり出版するつもりと。赤旗の友、弁護士など誰」と。「室と江口三五ならん」といふ。 11月12日 9:00さめ10:30岡林生来り、原稿の訂正かへし、よみつづけ12:00来し石塚生をよみやる。疲れる。 11月13日(日) 8:00起さる。礼拝にゆく(※省略)、11:20すみ東急にて買物ユ、狐うどん食ひて帰宅。(※省略)13:30越部生来り、15:30すみて volley-ball日女対キューバ女を見、17:30工藤克彦来り、越部帰りゆく。工藤ともかく卒業をといひrice-curryを夕食せし め落胆して帰りゆくを見、 鎌田女史に「風邪にて房州へゆけず」と断る。 11月14日 7:00さめ9:00ごろ出て斎藤dr.。若様の診断にて薬かへたまひ2週間分薬もらふ。東豊書店にゆき10万5千円購入しあることわかりあわて る。 『清代科挙(480)』、『中国民法婚姻論(190)』買ひ、代々木。国鉄にて阿佐谷につけば雨降りをり。13:35帰宅せしに「嶌野生発熱して こられず」と。 「新ぐろりあ叢書について」の紅野敏郎の論文のりし『展望』来り、(※省略)。 11月15日 9:30さめ11:50登校。中国古典のみやりて早川の論文なほし、(※省略) まっ直ぐ帰宅。 杉山平一君よりもらひし新潟新聞のハリー彗星のこと礼かく。(※省略) 11月16日 9:30さむ。10:00森生来り、法律(結婚離婚)よます。兼清より「12.10(土)学士会館にて会費6,000にて金沢良雄の受章祝」と。 (※省略) 11月17日 9:30さむ。(よべ1丸ぬきしに)10:30出て12:00前登校。semi3年の欠2人、4年の欠3人。 11月18日 映画見了り22:00眠り8:00さむ。大急ぎで登校。講義すませて出席cardくばる。疲れてタイギにてユにいへば「風邪」と。 19:00まへ山住dr.へゆき、のど塗ってもらひ薬もらふ。 けふ昌三叔父より「お艶叔母死亡」ときき、ユに弔電と1万円の弔慰金とを電電公社へゆき送らしむ。(※省略) 11月19日 8:30さめ(※省略)、10:00石塚生来り11:00岡林生来り、午食食ひ16:30までをり。(※省略) 14:00、集英社より電話、伊藤信吉ら選にて近代詩集3冊中にわが詩入れると也。 11月20日(日) ユのみ礼拝にゆき13:00中島の見合にと新宿へゆき藤田夫人と会ひて17:00帰宅。われ無為。(※省略) 11月21日 8:00さむ。(※省略) 築島謙三教授より『ラフカディオ・ハーンの日本観』賜ふ。13:00石塚・岡林生来り、(※省略) 11月22日 8:30さめ9:30出て登校。工藤来り、今年卒論かかずと。叱れば来りて「上海」とテーマ改めてかくと。わが家へ来よといひ、4時限早めにすま せ待ちしに来ず。 帰りて17:00すぎ来り「別々に来ることとした。父教員にてシベリア送りの満洲老兵(明治45年生)」と。 夕食くはせ上海関係の本貸しはげまして帰らす。寮の電話忘れしと大分参りをり。 11月23日 8:30さむ。(※省略) 暖く元気よきに散髪にゆき帰れば母をり。「東京にゐたし」と也。ユ51:40帰り来り、昼食すましてすぐ帰りしと。 岡林・石塚生来り、前後して史、アキ子つれて来る。美紀子同窓会とて成城へゆきしと。泣きつづけて困り出てゆく。(※省略) 11月24日 9:30さめ11:00阿佐谷を出12:00成城大学。semiの時間3年生に「themaきめよ」といひ4年を叱る。14:10より教授会。つ まらず中途所用ありと帰り来る。(※省略) 11月25日 8:00起され9:00出て東洋史出欠2度とりしも遅刻か逃げしかわからず失敗す。島野生来り、草稿直さし17:00帰りゆく。 11月26日 雨降り来る。石塚と岡林2生14:00来り夕食して帰りゆく。島野生出来をりといへばやきもちやく。ふしぎなるかな女子。 昭和52年11月27日~昭和52年12月31日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 11月27日(日) 8:00起され礼拝にゆく。やや暖く、愛についてのお話。神の愛よりほかになしと也。狐うどん半杯食ひ帰りて眠く13:30工藤克彦来り「上海」 のはじめより書き出す。 タバコ10箱買ひ来りくれ、ユの買物の間に勉強すと帰りゆく。(※省略) 11月28日 8:00さめ10:00斎藤dr.。11:30診察すみ薬10日分いただく。「勝手にのみ方かへて」と若様に叱られし也。東豊書店に電話してゆ き、歯科より簡木桂氏帰り来るをまち、来年度の教科書きめ『上海食譜(250)』買ひて帰宅。 午食し14:30来し森生に「元典章」写させてよみやり、(※省略)。 11月29日 よべ4:00まで眠れず。8:00さめ苦しきも母来しを機に登校。(※省略) 帰宅。工藤生19:00来り21:00帰りゆく。(※省略) (富永牧太氏(※天理図書館)館長辞任と。青木母生結婚と)。 11月30日 10:00眠り薬多めにのみ8:00さむ。登校。(※省略) semiの時間、3年にthemaいはせ4年を呼びて書き方教へ下書山ほどもちて帰 宅。 伊勢のジュンちゃん来をり、もう卒業と16:00までをり、(※省略) 海音寺潮五郎逝去(先月末イナガキタルホ72才で死亡)。 12月1日 登校。semi、3年生のthemaきき4年生の下書もちて帰宅。夜、工藤生来る。 12月2日 よべ睡眠不足なるも登校。1年と大学院(重久のみ)。帰れば岡林生来り、18:00まへ工藤生来りともに夕食す。(※省略) 鎌田女史に電話すれば「森岡清美博士を呼ぶは堀一郎博士の遺言なれど尓の主任の時の云々」と。(※省略) 12月3日 9:30さむ。10:00森生来り、14:00までやり岡林生と入れかはりとなりまた夕食して「ほぼ出来し」と喜びて帰りゆく。(※省略) (12:30健太郎、京につれられ来り、愛嬌よく我にbananaの食ひさし呉れんとす。) 12月4日(日) 礼拝休み、ユのみゆく。佐伯休みをり、本屋ひやかし(※省略)、越部14:00来り、よくかけゐるとほめ、17:00帰りゆきしあと、また散歩 し、 (喪中の連中に皆ハガキかく。富永牧太氏にも「永年の御苦労」とかく)19:30来し工藤に夕飯くはせ21:00ごろ追出す。 12月5日 8:00さめ、10:30佐伯へゆき『堀辰雄全集3』受取る。『秘本江戸文学選』(1月刊行、日輪閣。とり呉るやうたのみ、『神仙伝 (1,500)』買ひ来る。(※省略) 15:00岡林・石塚生来り、下書おきゆかし帰らす。(※省略) 18:00工藤生「上海事変」までやり21:20帰らす。 12月6日 8:00さめ、10:30家を出て登校。試験問題提出。学歴業績表呈出。午来し岡林・石塚2生を研究室におき、卒論見本みさせ、(※省略) 帰りて18:30工藤来しゆゑ19:00より始め21:30帰らす。(※省略) けふ依田義賢氏より「今後は大学で」と。 12月7日 8:00さめ9:00出て10:30着き11:30診察。薬かへてもらひ1週間分いただく。歳暮もち来る人多し。帰りて午食12:30。 13:00より岡林生来り、石塚生来り21:30までをり。 「薄井(※薄井敏夫)夫人3月逝去」と田岡はるなより。大高名簿来り、丸弁護士名簿よりぬけをり。竹内逝去とかきあり。 12月8日 8:00さめ10:30出て登校。semiの写真とる(工藤来らず)。家へ電話し、工藤来らば帰らずといへといひ忘年会に出ることとす。 教授会もめにもめ(※省略)。鎌田女史の代りとして美学に大学院博士課程6年を4月1日より迎へんと主査副査きむ。高田修博士停年と也。 三井ビル54階忘年会。わが食ふものなく高田の大声にてしゃべるを見て逃げ帰る。工藤生風邪にて登校せざりしと也。 12月9日 8:00さめ9:30登校。昼食にはじめてsandwich平らげ、午后大学院2人そろひしを教へ、帰りて15:30現れし岡林生に注教へ、 21:00前には石塚生来り、草藁預り、(※省略) 浪中の角矢善之祐亡くなりしと子と妻より。哀れなり。 12月10日 8:30さめ森生来り、昼食し、3:30石塚生来り『旧唐書』よみやりしも、あとより岡林生来り21:30までゐる。(※省略) 金沢の紫綬褒章祝賀に出、20:30帰宅。 12月11日(日) 8:30さめ(※省略)、石塚生来り『資治通鑑』よませ新旧唐書にて則天武后のことほぼ頭に入りゐるに感心す。7:30二人退去。 冨山房より朔太郎『昭和詩集』の新装版来る。 12月12日 岡林生の註かきやり石塚生13:30来る。豊田まで乗越しせしと也。(※省略) 岡林生15:30来り、まだ書けずと。(※省略) あすの予習や り疲れなほる。 大江の叔父より喪中来り、11月18日81才で艶叔母死せしと。(※省略) 12月13日 8:00起され登校。「古典」すませれば一男生来り、鄧教授より中国語をききゐる8人の1人と。大いに励ませど芸術専攻なり。 早川、森来り、早川生その場でなほし(漢文よみゐず)、森生に4時限目すめば同行して我家へといひしも来ず。 18:30帰宅すれば森生来り、大体すむ。けふ見しbonus(※省略)なり。森生帰りしあと船越苑子来り夕食して20:00帰りゆく。(※省 略) けふ神田信夫氏より「母上亡くなられし」と。(※省略) 崔吉城君の賀状、馬山市慶南大学より来る。 12月14日 8:00さめ9:30斎藤dr.。わりあひすいてをり10:30診察。快調と申上げ、(※省略) 石塚生15:00来り『資治通鑑』よみやればよくわかる故「もはやよし、書け」といへば「家の方(※で書いた方が)よし」と帰りゆく。(※省略) 直前岡林生来り18:30すまして帰りゆく。(※省略) 12月15日 8:00起き、ユの教会へゆきしあと出て10:30登校。semiに越部卓直し、他の4年生に早く清書に帰れといひ3年に漢字教へればもうよし と。 (※省略) 教授会に10分おくれてゆけば講師の件すみ、西山博士より原稿渡さる。礼云ひ中公出版に「あすとりに来れ」と電話し講師室に預けて帰 宅。 岡林生18:00すぎ来り、直しわたし註与ふ。夕食して「やる」と帰りゆく。あとに工藤生残り誤字多くだめ也。22:00去り入浴するまへ大学院 の予習し24:00近く眠る。 12月16日 8:00さむ。9:40登校。(※省略) すみて帰らんとするところへ石塚生来り、semiの印押させ「疲れた」と也。 鎌田女史(※紀要原稿)まだ書きをらず。のせるつもりと。(けふ西山博士の原稿とりに来り、これにて了りと云ひし也)。(※省略) 佐伯に雨中寄り『華夏之光(500)』買ひ来る。久しぶり也。(けふ神田信夫氏に雨中で遇ひ母上のおくやみ云ふ。) 12月17日 8:30さめ悼み状10枚一気に書く。10:30ユ縁談でゆき14:30帰り来、史夫婦、暁子つれ来り、襟巻をユに肩蒲団を我にくれる。 rice-curryこさへしも食はず持ち帰る。。正月蒲原へゆくと也。大もEurope旅行と。(※同居の)母はいかがするか知らず。 12月18日(日) 8:00まへさめ郵便局へ8:30年賀状出しにゆけば「東京都と地方に分けよ」と也。一旦帰宅して礼拝にゆく。(※省略) 18:30岡林生来り「あと6枚清書すればよし」と。(※省略) 12月19日 9:00さめ早川生、工藤生けふ卒論提出と。工藤生、千葉県の教育訓練所に入所と。佐伯へ年賀状の帰りに寄り『シルクロードの旅(400)』買 ひ、 寒く帰り来れば石塚生電話ありしと。工藤生来り、参考書のかき方きき急ぎ帰りゆく。(※省略) ユ、山住dr.の紹介にて河北病院へゆき「心配いらずと。」(※山住)正己先生の『中江藤樹』もらひ来る。(※省略) 12月20日 8:00起され10:00登校。岡林、石塚、工藤の順にて卒論呈出、岡林・石塚2生「卒論はこぶゆゑ多摩動物園へゆかん」と。11:30講師室に て相談す。 (※省略) 卒論副査8冊分けられ2冊もちかへる。(※省略) 角川よりHeine22版2月下旬刊8,000部と。けふ井上教授と同車帰りし 也。 12月21日 8:30さめ11:00登校。野口君補講しをり。11:45石塚・岡林生来り、下北沢にてラーメン食ひ(600)明大前にて乗換へ武蔵野動物園へ つく。 入園料100円。空きをり。Lionの部分自動車にのり(200×3)鳥獣あまた見て孫に見すべしと思ふ。 出て喫茶(200×3)。また電車にて2人は明大前で下車。われは新宿までゆく(190)。明後日7人にて来ると也。(※省略) 12月22日 8:30さめ賀状かき11:00川久保へwhiskyもちゆき30分して新本屋で『モーセ(280)』買ひて帰宅。 ユの留守に電話4回かかり4回目は伊勢スミエにて新宿にありと。17:00まへまで大声で話しゆく。 集英社より電話かかりし故「写真は昭和41年発行の白楽天のをつかへ」と云ひ、出版承諾書かく。井上靖、高見順が詩人として立ち、蔵原と我とを 『近代詩集2』に10首入れると也。 12月23日 寒し。賀状かき15:30来るといふsemiまちをれば、かっきりに来り、越部卓、工藤克彦、石塚真弓、岡本正子、嶌野彩子、早川恭子、森光世と 7人そろひ、 我に手袋とwhite-shirt、ユに手袋呉る。面接日告げ「その前も一度来よ」といふ。これらの来る直前、弓子、孝行つれ来り、孝行ものいふ におどろけば3才と。京と2人にて電気カミソリ機呉る。夜、ユ依子に電話す。(れば「泰、私立はダメ」と担任にいはれしと也。※省略) 12月24日 8:00さめ9:00すぎ散髪にゆき賀状出し佐伯へ寄れば『本草綱目14(5,220)』来あり、あと1冊なり。賀状「マ」まですむ。(※省略) 19:00よりのクリスマス・イヴに弓子に電話すれば宏一郎出席と。三鷹駅まで迎へにゆき土産に天津甘栗と塩せんべい買ひてゆき、讃美歌5曲う たってユを三鷹まで送らせ我、先に帰宅。(※省略) 12月25日(日) X’masなれどダルくてわれゆかず。ユのみゆき13:00帰り来り、昼食せしめしあとまた見合に出てゆき15:30帰来。 夜、某氏(※長部日出雄)より『コギト』『日本浪曼派』保田與重郎の政治性につき電話。『青い花』につき太宰治との関係。 12月26日 ユに年末まかせ賀状午后かき了へまたcard。(※省略) 夜、Charles Chaplin昨日死去と。我あまり好かざりしもSirの称号もらひスイスにて88才と。 12月27日 寒風止む。cardとる。折しも東豊書店より歳暮つく。「あすゆく」と云ひし也。スミ子2児つれ来り「今夜父母のもとへゆく」と。 16時ごろ大橋生、短大の友つれ来る。東京海上火災に就職と也。(※省略) 『唐話辞書1』やっとすみ2に入る。 12月28日 8:00まへさめ9:00斎藤dr.。5番目ナリ。10:30すみて東豊書店へゆき来春また本納めよといひラーメン食ふ。 『法律大辞書(9,000)』、『民間動物故事(500)』、『北平叢話(600)』、『中国法制史(900)』、『中国科挙制度史話 (150)』、『The Taiping Revolution(360)』、『東南亜史研究論集(1,920)』買ひdoubleゐし本返却、金殆どなくなる。 帰れば弓子、京ともに子供つれ来をり、健太郎が尤も可愛。兼清よりこの間の会の精算書と写真来をり。(※省略) 5人帰る直前来し船越苑子「高円寺の医者の手伝ひ見つかりし」と。ユと共に出てゆく。『唐話辞書2』に入る。 大江叔父より香奠返しにふろしき。艶叔母の筆にて「まよ中に夜はふけぬらしかりがねのきこゆる空に月わたる見ゆ」としるす。(※省略) 12月29日 8:00すぎさめ餅くはさる。宮崎教授よりTeying■のアテ字とはれ特英teying特應など考へつく。徳deにてもよきか。(※不詳) 竹内好追悼につきかきし文topにのせると再校送り来る(江戸川の大宮信一郎氏より)。早速校正すます。(※省略) 船越苑子よりユに「高円寺の医院の家事手伝にて7万円もらへることになりし」と。 12月30日 9:30起く。ヲサベ(※長部日出雄)といふ人「コギトの左翼くづれ調べに4日13:30来る」と電話。 午后風邪ひき乍ら1年生来る。茅ヶ崎とのみ語りしゆゑ帰りしあと検しL1E石川和子とわかる。ユの記憶にては以前にも来し由なり。 12月31日(日) 9:00さむ。小雨降る。cardやる。夜、雨ひどくなる。 田中克己日記 1978 【昭和53年】  この年の日記は4分冊に別れてゐます。理由は、  6月28日斎藤病院に入院 → 8月6日退院。  10月9日塩入病院に再び入院 → 11月17日退院。  と、精神科病棟への二度の入院があった為です。晩年期に入り一番の危機を迎へたかと思はれる昭和53年(1978年)。  年の初めには、戦時中の徴用時に同じ釜の飯を食べた陸軍報道班の同僚から誘はれ、詩人の北川冬彦夫妻を囲んでの、会食の集ひがありました。  詩的にはまったく接点のない二人ですが、北川冬彦には昭和17年1月、快進撃を続ける日本から南方に向かふ船上で一緒だった田中克己・神保光太郎らを実名で登場させた暴露小説『悪夢』が あります。その作中に田中克己は、戦時中の日本で威張ってゐた中島健蔵が、苦々しく疎んじる無鉄砲キャラとして面白く登場します。  また春には、卒業以来気に掛けてゐた、旧友丸三郎の子息重俊氏の教員正採用も決まります。  何事もなく過ぎていった半年でしたが、4月頃より「躁」がはじまります。折角再会したその陸軍報道班同僚の姪のお見合斡旋を失言でしくじり、よほど気に病んだのか、5月に発作を起こします。  6月に入ると、このまま勤め続けることは難しいとまで勝手に思いつめて、退職の意思を固め、学生には「これが最後の講義」と宣言してしまふのです。  そして旅行も最後と覚悟してのことでしょう、新幹線に飛び乗り下阪。帰還したところを斎藤医院から入院を命じられます。  病院にて全快しないまま退院。直後から、日記の文面には「遺書」ほか、意味不明の文脈が多くなり、やがて自ら書き続けることが出来なくなってからは、悠紀子夫人が代筆し、病状の悪化と入院とに至る様子を記し続けた一冊が『瘋癲日記』と自題されて遺されることとなります。  斎藤病院の診断書には「神経症」と記載されました。一旦寛解した後、再び謹飭な筆蹟で開始されるやうになる翌年の日記(1月4日)には、 「八月より九月の瘋癲記、ユの記せしをよみ、所々のみ覚えゐるに気づく。」 とあります。また最初の発狂の時の記憶として 「数日間、意識を失う前に見た幻影は神の下にいならぶクリスト、仏陀以下いくつかの人の影であった。(芥川龍之介全集月報8(1965.03))」 といふ回想もなされてをります。  しかしながら、本人の病苦、そしてその記憶が消えてゐるのはともかくとして、実害は躁鬱症状の「躁」状態において、もっぱら当時周辺にあった家族が被ったものでした。  すなはち、近くに嫁いでゐた二女弓子さん・三女京(みやこ)さんの一家、そして親戚の船越苑子さん(船越章息女)が足繁く通ひ、サポートに当たってゐますが、 日記には、四六時中そばにあって詩人を気遣ひながら、同時にその変調に心身を摺り減らされる悠紀子夫人の苦労が赤裸々に記されてゐます。  詩人は翌年も再発に悩まされるのですが、この後、中国詩人評伝シリーズ(李白・白楽天・杜甫)の掉尾を飾る『蘇東坡』の執筆に入るのですから、その後の回復・復調を思ふと、神の御加護か感慨深いものを感じずには居られません。  途中、単位を落すぞと学生をおどかして泣かせ、代議士の親から叱られたことを苦にしてゐます。さうした心労もストレスとして悪く働いたことでしょう。代議士は大物政治家の田村元だったやうです。(※文中にもう一人表れる「田村春雄」は大高旧友で別人です)  また同年には斎藤病院に通ってゐた俳優の田宮二郎が同じ病ひによる自殺を遂げてゐます。「詩人の生涯」といふ題でその生きざまを称へた郭沫若や、モダニズム時代の先輩北園克衛、在阪時代の旧友山崎実治、5年前に伊東静雄について語り合った西垣脩も亡くなってゐます。  「Mortarity」なる長詩を書き普段から「死んだ方がマシ」を皮肉の口癖にしてゐた詩人でしたが、病中これらの訃報はどのやうに作用したものか。極度の死の恐怖に苛まれてゐたことが『瘋癲日記』には記されてゐます。そして、 「もう自分のがまんも力つきた感じ。なにもかもつかれた。(10月3日)」 「もう恥もおどろきもきえてただなさけなくなってくる。(10月4日)」  と、悠紀子夫人が悲痛な叫びを記し、限界を迎へてのことでしょう。田中家かかりつけ医の山住医院と相談して二度目の入院となりました。今度は斎藤病院から満室と断られて自宅近所の塩入病院への入院でしたが、正解だったやうです。  けだし精神科のかかりつけ医だった斎藤病院は、院長茂太も弟の北杜夫も、自ら執筆に忙しい先生であり、著名を慕って来院する患者は多けれど、旅行好きのため休診がちで、保険の利かぬ入院だったといひます。  詩人としては最初の『詩集西康省』をほめてくれた恩人、斎藤茂吉病院の2代目といふことで、殊更親愛を抱いたものですが、患者として特別視はされず、当然ですが付け届け等も迷惑だったかもしれません。  田中克己の人付き合ひに対する思ひ入れが、多分に(好くのも、好かれるのも)一方通行であった、これもまた一例であったやうに、私には見受けられます。  この年の出来事です。 1月 4日 長部日出雄から保田與重郎との交際につき取材受く。以後も来訪あり『週刊文春』に書かれる。 1月22日 稲垣浩邦(※陸軍報道部カメラマン)、長内少尉(※同撮影班長)、北川冬彦と新宿にて会食。(その後3月6日に北川冬彦邸全焼す。) 4月   「躁」はじまる。 4月28日 『近代日本文学辞典』に田中克己の項目あるも、田中冬二と記述に混同あり。 5月10日 お見合斡旋時に冗談を言い顰蹙を買ひ、以後の心労の種となる。 5月14日、5月24日、5月31日 発作起る。 6月 1日 中島栄次郎、増田晃、薬師寺衛と、亡くなった詩友への詩を書く。 6月23日 昭和33より21年間在職の退職手当を計算、教室で「これが最後の講義」と宣言。そのまま「ひかり」に乗り西下し、帰還後の28日、斎藤病院にて入院を命じらる。 7月4日、7月6日 遺言かく。 8月 6日 斎藤病院を退院。 8月 8日 学生対応につき親の代議士より電話でクレーム、以後の心労の種となる。 8月11日 日記をつけること能はず、悠紀子夫人執筆による『瘋癲日記』始まる。 8月20日 老人を見るとしきりに上官だと云って敬礼。代議士へ手紙を書こうとするも能はず。 8月26日 外出後、場所が分からなくなり代々木警察に保護され、27日斎藤茂太院長より外出と電話を禁止さる(病棟は九月まで満員と聞く。)。 9月 4日 財布もたずタクシーで学校にゆき、再びタクシーで帰るもまた家を飛び出す。交番前で暴力をふるひ、家につれ帰される。 9月 5日 同僚、築島謙三氏来訪して諭す。 9月 6日 火の消えた風呂に幾度も入ろうとする。 9月26日 知人・学生の識別を時々混同するやうになる。 10月1日 斎藤病院より診断書「神経症の為3月末日まで加療休養を要す」。提出して3月まで休養。 10月3日 「おしゃべりつづく。もう自分のがまんも力つきた感じ。なにもかもつかれた。(※悠紀子夫人代筆)」 10月4日 斎藤茂太院長に相談するも、隣家を徘徊、トイレと風呂場をいったりきたり「もう恥もおどろきもきえてただなさけなくなってくる。(※悠紀子夫人代筆)」 10月5日 「うるさくて躁やまず。ますますでたらめ多くいつも夜になると死のおそれに目の色変る。(※悠紀子夫人代筆)」 10月8日 「死にそうだ」と山住医院を呼ぶ。相談して翌朝10月9日塩入病院入院。 11月12日 野口武徳氏来訪。「来学年は休講のままにしてくれるよう」提案あるも「学校にすまない」と恥じ入る。 11月17日 塩入病院を退院。 12月24日 日記再開す。 昭和53年 1月 1日~昭和53年7月4日 25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日(日) 8:00起され、ユ風邪とてひとり礼拝にゆき帰りて賀状を見、数百枚をよりわけ返事必要のもの数十枚かく。 あとはほぼ学生と帝塚山成城の卒業生。(※省略) (大、午すぎ雨の中来り、母あす来る。11日ごろEspañaにゆくと也。) 1月2日 7:00さめ寒く、賀状の返事郵便局に出しにゆき帰りてまた書き、(※省略)。 母来り、つきあひ大切といひて帰る。あと疲れてRugbyの試合を見、何もできず。 夜、西山semiの2人(※の卒論原稿)見る。うすっぺら也。 1月3日 9:00ごろより賀状かき投函にゆき卒業生ほぼすむ。午后弓子夫婦孫、京夫婦と健太郎と来り、 やがて伊勢夫婦来りwhiskyのみ座をつとめらる。19:00みな帰り、(※省略) 1月4日 寒し。弓子また孫つれ来り餅平げゆく。長部日出雄氏来り、保田のこときき『炫火10号』もち去る。 稲垣浩邦君(※陸軍報道部カメラマン)より3回電話「22日五反田あたりで(※徴用報道班の)会せん。長内少尉、北川冬彦と我々と」と也。 1月5日 9:00さめ賀状またかき現在生のみをのこす。(※省略) 稲垣君より北川・長内の会は22日17:00より中村屋と。(※省略) 1月6日 晴。賀状と日野忠夫氏『ピエタ』と来る。上田寿蔵博士、中島(※栄次郎)の死を悼み、相良徳三先生「ヂオット」の作ありと見ゆ。礼状かく。 寒く、佐伯へゆき『津田左右吉全集』6万円といふを学校へとたのむ。 夜、アメリカ、アイオワ州Lamoniの大学にゐる白水夫妻に手紙かく。 1月7日 9:30さめ寒し。(※省略) 川久保に電話し「午后ゆく」といふ。ゆけば悲観しをり「元気出せ」といひ、帰りて昼食。 (※省略) けふ『使徒のはたらき(200)岩波文庫』買ふ。新年はじめての本買ひなり。 1月8日(日) 8:00起され風邪気味ゆゑ、ユにもすすめて聖餐式休む。午后船越その子来り、高円寺の医者の家政婦とて旨くゆくと。 1月9日 9:30さむ。寒く手冷くて何も出来ず。図書館に「『津田左右吉全集』ありや」ときけば「なし」といひしあと「2部あり」と訂正さる。 (※省略) あすの予習ほどほどにやり入浴せず。(※省略) 1月10日 9:30さめ成城へ11:00着く(佐伯へ『津田左右吉全集』不要といふ)。 中央公論社に電話(※省略)、観世明夫(※観世暁夫)に『謡曲と元曲』貸す。(※省略) 1月11日 9:00さめ10:15斎藤dr.。待つ間、金沢夫人あらはれ、ついで嬢あらはれ外へゆかんとするを婦長さんら取押さふ。 躁らしく夫人のみ呼ばれviolinもちて見えずなる。 12:00直前(※斎藤茂太)先生に呼ばれ東京新聞の入歯なしで食べる話よみしといへば「私もやらうか」と也。 (※省略) 13:00帰宅すれば弓子2孫つれ来をり。川久保君来り、大いに悲観しをり。わけいはざればわれも問はず。 1月12日 9:00さめ10:30まで炬燵にあたり登校。オランダ語やらんとせしもダメ。semiにて「休み中来よ」といひ、 越部生より本返してもらひ教授会。(※省略) すみて築島博士(※築島謙三)を誘ひて同車、1月生との由とて我より定年早き也。(※省略) 21:00室(※室清)に電話すれば「14日13:00学士会館に集まる」と。 竹内夫人(※竹内好未亡人)に電話すれば「当日阿佐谷駅のplatformで待ってくれ」と。(※省略) 1月13日 8:00前さめて登校。(※省略) 中河与一氏より宋の眞宗の「書中自有顔如玉」につき問合せ。 阿佐谷ホームにゐれば竹内夫人、中村君と来て地下鉄に乗換。 1月14日 9:30さめ、中河与一氏に「書中自有顔如玉」の『聊斎志異』の「書痴」に引かれゐることをかき、11:30出て投函。 (※省略) 学士会館、中野、室、相野、加藤、後藤と2年下の退学処分受けしとで9人となり、17:00すぎまで録音され我殆ど話せず。 それより小川町の鰻屋にゆき20:30鰻食ひ会費9千円払ひ相野と出て(※省略)、帰宅21:30。 (竹内夫人、山本書店に(※蔵書売却)見積させれば主人と番頭と来て200万円といひしと。うそでなきや。)(※省略) 1月15日(日) 晴。7:45さめ夫婦にて礼拝にゆき帰途清水夫人らと東武dept.にて狐うどん食ひ、 阿佐谷につきガード下2階の本屋にゆけば「田中先生」と主人いふ。仕方なく常用漢字、送りがなの参考書買ふ(500)。 稲田哲夫に与へんと也。けふ3、4月の陽気と伊豆激震の報あり。東京にても微震しばしば。 船越苑子来り今の部屋あけて他に移れと横川夫人にいはると、(※省略)、 1月16日 9:00さむ。寒し。母昨日(※大の所属する)青年座見にゆき疲れて電話せず寝しと。 中村治光より(※受勲の)金沢の会の写真。卒論4冊よみて疲る。(※省略) 1月17日 9:30さめ寒きゆゑ卒論を炬燵で片づけPortugal辞典なきに困る。築島博士に厨川教授の逝去伝へれば留守。 苑子来り引越せとの大屋の申出に引き延ばせといふ。(※省略) 1月18日 よべ雪降り朝も止まず。西山(※松之助)semiの副査すまし終日家居。 萩原朔太郎『日本の詩』につき印税の送り場所問ひ来る。(※省略) 1月19日 10:00さめる。散髪2,100。晴。副査すます。(※省略) 1月20日 8:00起され10:00登校。(※省略) 12:00より「日本常民文化」の相談。(※省略) 築島博士と同行、小田急にて喫茶。帰宅すぐユ帰り来り、清瀬の一軒建1,500~1,600万円と。(※省略) 1月21日 9:00起き10:30石塚・岡林2生来る。(※省略) 14:00野上弘来り、(※省略) 19:30越部卓より電話あり、(※省略) 1月22日(日) 10:00さめ、(※省略) 14:00地下鉄にて新宿(100×2)。16:30より北川冬彦氏、予定の室あけてもらひ、 17:00稲垣君(※稲垣浩邦)来り、17:20長内中尉(山一土地建物顧問)来り、(※戦時中の徴用軍属の会) ひとまづbeerとice-cream食ひ、他はbeerのむ内19:00近くなり、稲垣君、北川宅に電話すれば「1時間半まて」と。 20:00過ぎ(※北川冬彦)夫妻来り、奥さんは詩人にて北川多紀とて仲町定子ではなかりし也。 21:00となり撮影し、北川夫妻と急行にて同車、中野で乗換へ帰宅22:00。 1月23日 9:30さむ。寒し。ユ、午后大宅の母へ1.5万円もちゆく。cardいやになりし。稲垣君より礼の電話。 1月24日 9:00ごろ覚めわがsemiの早川生の卒論に目を通し、10:30出て登校。午食すまし(※省略) 帰り佐伯によれば「あす迄東急展」と。陳舜臣『敦煌の旅(1,200)』買ひて帰宅。(※省略) 1月25日 7:30起され8:00起き9:00まへゆけば9:30からと。鎌田女史の質問長く17:00となる。 工藤、越部午后すみ、岡林、石塚午前中すむ。 1月26日 8:00起され9:00登校。殆ど発言せず、いつも乍らの誤字訂正。17:00ごろ解放されて帰宅。(※省略) 宮崎康平氏よりzamboa贈りしと。筑摩より竹内の魯迅の帯送り来る。 1月27日 8:00起され登校。12:30面接すみ、優はわがsemi越部のみとし、他は総ぶるまひせしあと (※省略)、 佐伯に寄り請求書のかき直したのみ3冊ほど追加す。 1月28日 9:30さめ11:30出て成城。國分直一氏の話と思ひしに馬渕東一氏にて「東南アジアの神霊」との題にて雑談。 終りてすぐ出、代々木まで乗り東豊書店。大学院と学部の分併せてみな使ふ。(※省略) 東豊にてお茶の水大学長市古君(※市古宙三)に会ふ。老いたり矣。 『慶元条法事類(4,500)』買ひ、川久保と共にと『中山八郎記念論集』とりよせたのむ。帰りて鼻汁出、咳出る。 1月29日(日) 風邪とて礼拝休み、ユゆく。(※省略) 鎌田女史より「考古学の講師云々」。ユ12:30帰り来る。 (※省略) 「改源」にて風邪よくなる。 1月30日 10:00坂内、宮川2生来りし故、くはしく話し、坂内の「華僑」のほか宮川に「民間信仰」とthema変へさせ、16:00帰りゆく。 母来り、大の土産のchocolateもち来る。(※省略) ハイネの改版22来る。8千冊刷りしと也。 1月31日 9:00さめ、採点(中国古典)すませ、午后宮崎女史来る前に船越苑子来りしにきけば高円寺の医院薄給と。 宮崎女史(※宮崎智慧)「クロワッサン」につとめ20万円もらひゐると。(※省略) 『日本詩歌歳時記』の4月22日にわが「花のたより(『南の星』にのす)」のせし校正送り来る。 宮崎康平氏より朱欒2ケ来り、1ケ宮崎女史に進呈。 2月1日 8:00さめ10:00すぎ斎藤先生に参れば閑散。11:00まへ薬少くしてもらひ成城へ11:25つき、 誤字訂正を16:20までやり岡林・石塚が最後となる。2人と地下喫茶にゆき三瓶生のこといへば知りをり。 佐伯へ寄れば『魯迅選集4(2,160)』来をり。寒く東洋史の採点すます。小山正孝より『杜甫詩選(1)』呉る。 2月2日 7:30起され9:20登校。修士4人の面接に12:00までかかり(※省略)、13:00よりの教授会。(※省略) 池田部長辞意表明。そのあと大学院の面談。17:20新宿につき東豊にゆきdoubleれる本をいひ別本と別請求とをいひ、 『中山八郎教授頌寿記念論叢(5,000)』借りて帰宅。20:00三瓶命史来り、登山部と厨川教授を悼む話し、(※省略)。 中河与一氏より礼状と『耽美の夜』2冊贈らる。中山八郎教授の思出話よむ。 2月3日 寒し。中島来り向ひの高野さんの世話にて見合すると也。 15:00石塚来り「経済の学生の社会科実習の落第の件につき口きけ」と。 断りて三倉生16:00来り、report置き飯くひゆく。 2月4日 採点すまし川久保に電話すれば「午后外出」と。 佐伯にゆき『青春抒情詩集(400)』買ひ『ボワソナアド(280)』、『律令制の虚実(390)』買ひ、寒さの中帰り来る。 中島生の見合また失敗らし。 2月5日(日) 7:30さむ。風邪とて礼拝にゆかず。ユ帰り来り、聖餐式にわが605番うたひしと。card作りゐし。(※省略) 2月6日 6:30起され8:10成城着。(※省略 東豊書店にて)『隋唐史論集(1,500)』買ひ18:00帰宅。 けふユ、苑子つれて宮崎智慧さんにゆきしと也。 2月7日 6:30起き登校。3時間監督すます。(※省略) 築島氏とまた小田急13階にゆき、おごられ歯科医教へてもらふ。 中野で下車。武田久吉『農村の年中行事(3,500)』と文庫本『裁判の書(500!)』買ひ、 『シルクロード(1,500)』他の店で買ひ、佐伯にて『文芸春秋1.2月号』買ひて帰宅。 中島しづ江生「大阪の姉のところにゆく」と挨拶に来しと。(※省略) 天理の高橋君より電話あり「(※熱海の別荘の)温泉に入りに来い」と。「東京へ来い」といひしもきかず。 2月8日 6:00さめcardやり、午まへ美紀子暁子つれ来り、柏井歯科すみ3,000円余払ひしと。13:00餅茶漬くひて帰りゆく。暁子愛嬌つきし。 中公事業より電話 (※省略 紀要の)校正きけば「あす渡す云々」。(※省略) 2月9日 8:00さむ。寒しとわれ。cardやる。『文芸春秋1.2月号』よむ。(※省略) ユに佐伯に忘れし『シルクロードのすべて(1,300)』とりにゆかしむ。木村三千子氏へ俳句。 2月10日 8:00さむ。やや暖しとユ。郵便局へ三倉俊一の成績速達(250)しにゆきての話也。 cardやり運動に高円寺へ歩き『法律雑学のたのしみ(1,000)』西村屋で買ひ、 都丸書店にて『Van Dale's Handwoordenboek der Nederlandse taal (2,000)』買ひ、老番頭にまた服部(※服部正己)とまちがへらる。(※省略) 2月11日 よべ睡眠感なし。9:00起き、午后ユの人体dessinにゆきしあと佐伯にゆき『北方史入門』、『日本語の変遷』買ひ、 新本屋にて『帰化植物』、『中国人として育った私』、『中国神話伝説集』買ひて帰ればユも帰りをり。 夜、鎌田氏より電話「入試判定会議に出よ」と。「風邪」といひて断る。 2月12日(日) 傘もちて、われ久しぶりに礼拝にゆく。財布忘れ献金1,000をユよりもらふ。帰りてcardやりゐれば、 重久(※重久武志)より「来てよしや」と。来りしと話し、夕食くはさんとすれば逃げゆく(ユ、靴下やる)。 2月13日 6:00さめ8:00ユ起くるをまつ。cardやりユの向ひより借り来し『父萩原朔太郎』よむ。 風邪より急性肺炎となり17年5月11日逝去となり。 長尾夫人より3月19日の良君の7回忌14:15よりとなり「出席」の返事す。 散歩へ佐伯にゆき『山の辺の道(600)』売れ残りしを買ひ、『日本の神々』北口の2軒にて。 『鴎外 闘う家長』、『処刑』など買ひ、なるこ百合(200)2株買ひ来る。けふ久しぶりに日照り也。 2月14日 9:00さむ。寒し。(※省略) 川久保より電話ありし故「暖き日、『柳辺紀略』よみに来い」といふ。 2月15日 寒く小雪ちらつく。9:45斎藤dr.6人目也。先生早大にゆき500枚の答案受取り給ひしと。(※省略) タバコやにてecho20ケ買へばいつもの如くmatch5箱賜ふ。 新開の喫茶店にてcoffeeのむ(250)。雪やみしも代々木まで国鉄(60)、東豊書店にゆき華僑関係をといへば、 『南洋華僑文物論集(840)』、『新加坡史話(780)』、『越南華僑史話(3,250)』、『華僑問題研究(720)』、『東南亜之華僑2冊(2,160)』、『美国華僑史(3,250)』、『海外排華百年史(800)』、『馬来亜華僑問題資料(1,600)』、『東南亜民族的中国結縁(700)』と多く出し来り、 『中国神話研究(240)』、『中国甲午戦争之外交背景(1,500)』にて5千円払ひ、7千円ほど借りる。(※省略) 2月16日 6:00さめ外出は11:30ハガキ出しにて佐伯にゆき『明治天皇の世紀(400)』買ひて帰る。寒し。 富永牧太氏(※天理図書館時代の上司)喜寿記念会より2通「発起人となれ」と。「諾」の返事す。 母来り「大に邪魔になる故一軒かりたし。伊勢へと勢利の為2ヶ月ゆく」と。「反対」といふ。(※省略) 2月17日 8:00さむ。寒きゆゑ外出せず。ユ、午后大宅へゆき母つれ帰る。 『四季』復刻版半分を誤りてやりしを返してくれと大にいはしむればOKと。 2月18日 8:00さむ。晴。午后散髪にゆく。(※省略) 今中19期生会より以前のトキコ仙石山荘にて4月9日同窓会と。 川久保来り『柳辺紀略』よみ、嬢の不婚をなげく故、皆不幸といひ金沢の話す。 (前回は金沢と同車にて仙石にゆきし也)。今中会甲州行を理由に欠席とかく。 2月19日(日) 8:00さめ母をのこして礼拝にゆく。帰り佐伯に寄りて「何もなし」といひ、 けさ速達入りをり「思想の科学」社より「竹内好のこと3月15日までに400×10かけ」と。「應」とハガキ投函。 14:30田村※※生来り「1時間探した」と紫のcineraria呉る。(※省略) 2月20日 8:00起き10:00の卒業生及落会に出る。(※省略) 17:00近くまっすぐ帰り来る。 けふユ、母をつれて西武の中国故物展見にゆき信濃町によりしと也。(※省略) 2月21日 寒く8:00さめcardやり、『杜甫詩選2』小山君より。『竹内好回想文集』受取る。 京、健太郎つれ、弓子、克次朗・孝行つれ来り、健太郎かわゆし。(※省略) 「竹内文集も1冊ほし」とかく。(※省略) 2月22日 寒きも晴とて地下鉄にて門前仲町へゆき(200)、長谷川歯科探せしも見つからず10:00帰宅。 氏自宅に電話すれば永代2-23-αと。(※省略) ユ『竹内文集』の現金2,500(350送料)送る。1,500は諏訪澄へと也。 母、大宅へゆき、忘れ物せしとて大、久しぶりに我家へ来り、 whiskyのみ、母のこと相談すみ夕食しbeer2杯のみて5月頃阿佐谷北へ転居きまりしといふ。 長部日出雄の名、思出しくれし(棟方志功研究と)。(※省略) 2月23日 (※記載なし。) 2月24日 寒し。よべ睡眠感なく8:00さむ。終日cardやる。ユ母とともに外出。〒なし。 俊子姉より電話「三郎(※義兄)入院。咸子も入院手術、近親として立会へ」と。 2月25日 寒し。ユ、画に。母、大宅へ泊ると出てゆく。みや通信社より茶呉る。cardとり竹内の日記よむ。(※省略) 2月26日(日) だるく礼拝ユのみゆく。われcardかき昼食後card補充に外出せしのみ。竹内のため昭和18年の日記よむ。(※省略) 2月27日 晴。暖かけれど出ず。山田俊雄氏より『日本語と辞書』贈らる。礼状かき誤植いふ。 船越苑子来る。「法華経の説話を子供風にかく」と。「宮崎女史にみせよ」といふ。 2月28日 晴。8:00さむ。暖し。cardとり川久保に電話し「13:00ゆく」といふ。『柳辺紀略』やり16:00となる。 成城より来年度の時間割来る。みな午后なり。 20:00依子に電話すれば「(※仲人でもある)竹内の一周忌に1万円送りし」と。夕立。 3月1日 眠剤のむを忘れて2:00までねむれず。のみて8:00起き斎藤先生へ地下鉄にてゆき(120)10:30診察すみ、 歩きて東豊書店。7,950の借金払ひ、中山八郎氏来合せしと挨拶して帰宅。(※省略) 大宮信一郎氏より「諏訪に送った」と。午后より寒し。 3月2日 9:00まで眠る。暖きらしきも外出せずcard作る。諏訪の1万円現金封筒にて来り、 「泰、試験前高熱出せしも通りし」と也。 3月3日 8:00さむ。cardやり14:00竹内家へとゆく。(※省略) 御花料そなへ竹内夫人の、令姉、杉君などに挨拶しゐる中、ぼつぼつ弔客来りし故出て(※省略)、 母「留守に物もち来し」と笠原文恵生の署名見す。苺なりし。 夜、電話かかり「(※省略)10月名古屋で挙式、出るや」と。「夫婦して出る」といへば「夏、母と片付ける時来る」と也。(※省略) 3月4日 7:30さむ。9:30登校。(※省略) 午前中に修士(※面接)すまし最後は白鳥君の坊やにて(※省略)、庫吉、清、芳郎の4代目にて父祖のかきしものよまずと。 (※省略)午后は博士課程3人の中2人を及第とせしあと(※省略)。 (14:00長部氏来りしといふにちょっとぬけてゆけば『週刊文春』に棟方志功かき、保田、太宰、亀井などのことのせしを呉る。) 大学院会議にて及落判定すむ。(※省略) 帰れば母、大のもとへゆき4D代表より23日謝恩会の案内来をり。 丸重俊より「(※正職員)きまりし」と電話ありしと。めでたし。(※省略) 3月5日(日) 母、昨夜帰らず。8:00さめ教会へゆく。聖餐式あり。(※省略) ユと別れ『華僑経済史(750)』買ひ、佐伯へ寄れば坊や『魯迅文集6(2,160)』渡す。 3月3日にまにあはせしと也。井上靖『風濤(300)』も買ひて帰宅。card作る。 母、帰らず。弓子、孝行つれて来る。あとは皆かぜと也。 3月6日 8:00さめ朝刊に北川冬彦邸全焼(日曜午)と見しところへ稲垣浩邦君より電話。 様子見にゆくことを引受け13:00ユをゆかしめ、 我も出て佐伯に寄りしのち地下鉄にて中野へ(※省略)長谷川歯科。 (※省略) 残りし歯根と2本抜かれ40分ほどかかりし。 保険ぬきにして永久的なものをといへどもききたまはず「明日10:30来よ」と初診料800とりたまひしのみ。 築島博士すぐすみ、喫茶さそひ、地下鉄にて別れ中野まで切符買ひ(140)、 十月書房にゆき『樹下美人(350)』買ひて帰宅。 ユ直前帰り、(※省略 北川冬彦)次男の家へ移りしと掲示(※省略)と。稲垣に電話せしむ。 丸三郎より電話「重俊ありがたう」とならん。 3月7日 8:00起き10:30まへ長谷川歯科。10:30呼ばれ洗はる。「うがいしろ」と也。 飯田橋まで地下鉄、国鉄、小田急と乗りつぎて成城大へ11:40着き、(※省略) 澄より電話「Mexicoより姉妹都市として物貰ふ。それにつき天理図書館へゆく云々」。 3月8日 7:00ユより早く起きcard作り10:00すぎ川久保に電話すれば来り『柳辺紀略』よむ。 12:00すみ(※省略)、京、健太郎をつれ来る。(※省略) 丸三郎に電話し、泪声にて重俊の本職傭ひなりし礼を云はれし。 原生来り、井上靖の『楊貴妃伝(200)』買ひてよめ、新旧両唐書、資治通鑑など写せといふ。 (※省略) 中山八郎氏の会、原田運治らの会、ことわる。 3月9日 7:00さめ9:00すぎ出て10:00成城大。(※省略)3時間目体育の女先生にまかせて1時間半すませ、築島博士、「骨」の先生と同車。 佐伯にて『高松塚壁画古墳(650)』買って帰宅。(※省略) 3月10日 3:00ごろさめ6:30起き成城へ8:00すぎ着き、(※省略) 帰り築島博士よりききし『日本人とドイツ人』をよみて帰宅。(※省略) 3月11日 8:30さめcard作り10:30出て11:30成城着。 (※省略)『常民文化紀要4』出来しを知る。74pにて52万円なり。 (※省略)すみて築島博士と同車、新宿にて別れ小田急dept.にてcard200枚(280×2)買ひて帰宅。 『続魯迅雑記』贈らる。(※省略) 3月12日(日) 8:00さめしも歯なく、礼拝やすみユに献金托す。母、大の家掃除にと出てゆく。 cardやり、長部氏より「あす14:00来る」と電話。ユ12:30帰り来り、 rugby日豪戦見、volley-ball日本一見たりして午后すまし『唐話辞書類集2』やっとすむ。 3月13日 8:00すぎ覚む。寒し。追試東洋史4人来る。(※省略) 14:30長部氏来る。(※省略) 16:40保田のことを主に話きいて帰りゆく。 竹内関係の日記かきぬき。昭和20年3月まで。 3月14日 6:40さめ7:30起き9:00前地下鉄にて門前仲町の長谷川歯科。(※省略) 13:00阿佐谷。佐伯へゆけば西山博士監修の叢書来てをり2,200✕0.9払ふ。 あと竹内のため引き続き日記よむこととし昭和23年の桜井より京へ転居。Heineの角川文庫に入ることとなり、京出産の2.29まで物価とsalaryとを書きあり。 「思想の科学」に電話すれば吉田貞子氏「土曜に(※追悼原稿)とりに来る」と。 3月15日 8:00さめ9:00出て9:40斎藤dr.。。11:00まへ御診察、総入歯となりしこといふ。 東豊へ電話して歩き教科書とり(『新華字典(450)』、『婚俗志(220)』、『孫中山先生伝(220)』払ひラーメン食ひ(140)払ふ)、 『國父孫中山先生伝(1,920)』、『古代漢語上下(1,600)』、『中国史稿1(500)』、『中華民国創立史(500)』、『中国地図冊(600)』借りる(計5,100)。 成城大学ジャーナリストクラブより礼状。日記(※読み返し)彦根時代なり(昭和25年)。 船越苑子来り、湊に地面、政一郎叔父売りしを登記いまだ云々との手紙見す。 ユともども感心し対策いかがすべきやききやらんといふ。 3月16日 8:00さめ成城へ休むの電話かく。鎌田女史より「主任教授野口君と決まりし。4月9,10の新入生歓迎partyわが番」と。「9日にせん」といふ。 (※省略) 昭和26年までの日記にて疲れる。(※省略) 3月17日 8:00さめ9:40ユ、母をつれて林へゆく。われ留守して日記よみ昭和29年ごろまで竹内関係のnoteとり、とてもダメとわかる。 ユ15:00帰り来る。(11:00吉祥寺の古屋女史来り、則天武后の図のりし郭沫若もちゆく。(※省略)) 17:00林敏夫、母つれ来り、すぐ帰る。(※省略) けふユリイカより2,200稿料として小切手来る。 3月18日 暖し。越部卓、自作の版画もち来る。 思想の科学社吉田女史14:00駅より電話かけ来る。中野清見もかきし由。 21×200わたし取捨随意、題名もそちらにてと虎屋椿山にて汁粉食はせていひ、 長尾良のため散髪す。そのあと疲れをり。夕食後その旨いひてあすの七周忌欠席を(※長尾夫人に)電話せしむ。これにてすみcardやる。(※省略) 3月19日(日) 8:00起き傘もちて礼拝にゆく。棕櫚の週日なり。 東武にてわれはキツネ食ひ、上野の展覧会見にゆくユと別れ、 佐伯にて『Nomina anatomica (200)』買ひて帰宅。cardやる。 3月20日 家居。cardやりしのみ。明日、母芝増上寺へゆくとの事に、ユと上川霊園へ美紀子らを誘ふつもりなりしも復活祭の日に延ばす。 姉来り「三郎兄(※病状)よくなし」といふ。 3月21日 9:00さむ。母、増上寺へゆき京、健太郎つれ来る。いよいよ可愛くなれり。 15:00岡林正子、石塚真弓生つれ来る。(※省略)雨ひどくなりて帰りゆく。17:00過ぎ也。 3月22日 9:00さむ。card殆どせず。ユをして富永牧太氏喜寿祝(5,000)を送らしむ。 3月23日 7:45起き9:20成城着。(※省略) 卒業式Gaudeamus(日語)にて始まり乾杯の唄にて退席。 (※省略) われ成績を渡してすみ全員出席。工藤の父に挨拶受け登山に熱心にて就職の気なきを云ふ。 岡林・石塚と英文の女生、写真部の男生と喫茶。(※省略) 泰より「自転車買ふ」と礼状。 3月24日 寒さゆるむ。家居。card作りなり。(※省略) 3月25日 7:00さむ。(※省略) 川久保に電話すれば「羽田に会った」と。「午后『柳辺紀略』でゆく」といふ。 (※省略) 14:00ユ帰りしに史料多くもちて川久保にゆき16:00までやりて帰れば弓子の孫ら来ざりしと。あす上川霊園行もだめらし。 母、大に「いまさらうろちょろするな」といはれ喜びてゆきしと。 (※省略) 丸重俊来り「校長恩地氏」と。孝四郎画伯の息なり。 3月26日(日) 復活祭。ユと行きpartyの当番といふに別れて長島氏と出、東急前で別れ狐うどん(230)一人で食ひ、 古本屋見て八日市街道をへて西荻窪に出、文庫本買へばdoubleりをり。(※省略) 3月27日 9:00さむ。午、母来り、伊勢を引上げ大宅にて死ぬつもり也。 12:40出て民俗学研究所へゆく。主事に鎌田の代りに池辺なり、紀要の送り先、博士課程にただでやる、その他長々とやり16:00散会。 山田新文芸部長、わが『唐話辞書』申請の気あり。(曽良の『従行日記』重文となる)。 3月28日 9:30さめる。雨なり。午、弓子3孫つれ来り、悲観的なりと。 cardやり疲れしのみ。(※省略) 3月29日 8:00起され眠し。仕度して斎藤dr.。(※省略) echoいつもの所にて20箱買ひ、 代々木まで歩き東豊書店。八王子の先生とラーメン食ひ話し帰宅14:00。 『120回本水滸伝』と『封神演義』とにて2,500借る。長尾夫人より挨拶。 3月30日 7:30起く。11:00佐伯へゆき『藍洲公案(650)』、『東亜外交秘録(300)』買ふ。 「成城より金来し」と。 大と遭ひ、その内本とりに来てくれと佐伯にいひし。家まで来り母つれて下阪すと。(※省略) 3月31日 8:30さむ。寒し。終日家居。cardやる。(※省略) 角川よりHeine22版の印税8,000部(145,944-14,594)三井銀行に入れしと。 『日本詩歌歳時記』に収録の分1,035-104の送金ありし。 4月1日 card作り「はま」氏より「13:00ごろ伺ふ」と。駅南口にてまちたまへといふ。 (※省略) 東豊書店にて会ひし大東文化大卒の高校教師なること思出す。つれ帰り、 (※省略) 抜刷など渡してすみし。(※省略) 4月2日(日) 8:00起され礼拝にゆく。聖餐式なく284番うたはさる。礼拝欠席を久しぶりに竹森先生戒めらる。 佐伯に寄り『世界樹木辞彙(4,800✕0.9)』来てをり。帰りてcardかきをれば船越苑子来り、(※省略) 丸夫妻来て玄関に坐りこみ、煦美子の自動車で来り大通りにまちゐると。 丸夫人と探しにゆき例の入れ込みに置かせ父子3人にて話きく。 30分して帰るといふに通りまで送れば雨降り来る。(※省略) 成田飛行場、田中収賄など不快なること多し。 20:00鄧健吾氏の「敦煌実見」3channelにてやり中島健蔵陪席す。 4月3日 雨。10:30出て登校。(※省略) 山田部長司会にて2年の進級会議すみ(※省略) 寒がりつつ帰宅。(※省略) 稲垣浩邦君より電話ありしとてかけて土曜井の頭線吉祥寺出口にて会ふこととす(13:00)。北川冬彦氏火事見舞と也。 4月4日 9:00さむ。ユ三鷹の京の家へ子守にゆき16:00帰宅。(※省略) 長部氏より『週刊文春』来しゆゑ「棟方旧宅へ6日か7日案内す」といひ7日稲垣君と約束ありしを思出す。 4月5日 7:00さむ。(※省略) 16:00来りし工藤生に「経済学部の学士入学決定は18日の教授会にて」ときき、(※省略)帰りゆきしあと佐伯へゆけば 『堀辰雄全集5(4,800)』、『古典草木(4,800)』、『本草辞典(4,500)』を受取る。(※省略) 4月6日 8:00起され9:00哲夫来り9:30運送屋来るを待ち京の澳きしものをもち出す。 ユ三鷹へゆく。我、佐伯へ昨日の借り払ひにゆき星川清孝『楚辞入門(300)』買ひ来る。 母と留守しをれば雨ひどし。母86才の誕生日にて大と赤飯食ふと也。(※省略) (富永館長の祝、東京でもすると中村幸彦が世話方代表とて黙殺することとす。) 長部氏より野方の棟方志功宅へ「明日いかに」と。明日は13:00出るとて「10日また電話」となる。 古屋女史より『則天武后』返却に明日朝来ると電話。 4月7日 8:00起き晴れをるを見る。古屋女史『則天武后』5月中に出来ると礼にwine1本もち来る。 11:30午飯食ひ12:35吉祥寺へゆけば長内氏すでにをり。稲垣君も来りし故、 café長内氏におごられ見舞5千円づつとcastella4,000とせんとなり、 国立下車14:00ごろ。田畔家みつけbell押ししも応答なく、 困りし所へ次男の夫人といふ美人帰り来り「冬彦はプレハブ建てて旧地に住みをり」と。 ゆく途教へんとし、ふと気がつき電話かけてくれれば不在らし。 お見舞わたしてわが家へ招待、18:30まで歓待す。(※省略) 4月8日 7:00さむ。cardやりユ画にゆきしあと川久保きたり『柳辺紀略』よむ。(※省略) 川久保に教はり『荊楚歳時記(東洋文庫1,100)』買ひ来る。(※省略) 4月9日(日) 6:00さめ8:00成城大学。日曜とて講師室あかず。30分まちてbus来り、鄧教授と同席。いろいろ話し『唐話辞書』のこといふ。 途中一回休憩。12:00山中湖畔の忍野富士急Hotelにつき201号室に入り(※省略) 15:30文芸学部の説明を行ふ。16:00より履修の相談。夕食時わが前につきし芸術学科のL1A新仏智子偶然! わが詩「偶得」を話し、作者は我とあかし、書きしに向ふの方、正確なり。東洋史とれよといへばダメらし。 すみてアメ民の咄あり。わが最もきらひなるに全員傾聴アンコールせし。 後別懇談会にゆき船越君の紹介にてLorelai歌ふ。21:00教職員の懇談会。(※省略) 22:00近くなりて散会。(※省略) 4月10日 7:30食堂にゆきオートミール、toast紅茶注文。多くゐる不審なる人々に話しかければHawaiiよりの2世3世にて富士の晴れゐるを喜び我を入れて写真とり呉る。 (※省略) 9:00taxi呼びて富士Hotelに引返し川上氏の広告論をきく。(※省略) 10:00出発、2台目鄧君とのり5合目までゆき寒し。(※省略)16:00成城帰着。 成城堂にて『韓国の歴史(3,800)』、『日本大空襲2冊(380+280)』借りて17:00帰宅。 ユ、母を東京駅まで送りしと。まもなく「伊勢に着きし」と電話あり。 佐伯に寄り『辛亥革命見聞記(800)』、『海外旅行マナータブー集(300)』買ひ学校へと5万円ほど注文して帰宅。(※省略) 4月11日 よべ22:00眠り6:00さめ7:30出て斎藤dr.にゆけば患者多くをり(※省略)。 東豊書店3~4日前に教科書運びしと。3月29日の借り返さず『Mathews' Chinese–English Dictionary (2,100)』、『清史論叢3冊(18,900)』、『孤本元明雑劇10冊(15,000)』他2冊1,900買ひ借金4万円を超す。 佐伯に寄り『東アジアの古代文化(950)』受取り、この間の注文これもすでに運びしと。(※省略) ふと思付きて鄧健吾氏に電話すれば15:00すぎ来り『唐話辞書』のこと承知と。 『敦煌への道』賜ひwhiskyのみ、ユの出せし寿司とハモの皮食ひ、20:00送りかたがた阿佐谷の古本屋廻り佐伯と北側とにて2万円位買ひて帰りゆく。 矢沢君より「成城に口なきや」といふに「なし。東海大学あたりはいかに」といひてすむ。 4月12日 22:00就床6:00さめる。雨降りをり。正午弓子2児つれ来り、(※省略) 16:00散歩に出しも古本屋みな休み。朝鮮学校へ『韓国語の歴史』寄付にゆき「타나카(※たなか)」と書けば驚かれ電話番号きかる。 そのあと河北病院の前の本屋の夫人と話し娘の学部進学をきき『茂吉と医学(2,500)』あす午前中とりに来るといふ。 4月13日 7:30さめ睡眠不足とりかへす。8:00吉田正治君に電話すれば、柳瀬君の間違とわかり 「Mathewの華英辞典はもちをり」と。何の為に使ふやと問へば「神名」と「Wernerの辞典あり」と教ふ。 エフ書店へ10:20ゆけば未だ開かず(※省略) 帰りて辻副手より「大山学長夫人逝去。今夜自宅にてお通夜、あす14:00より密葬」と。 (※省略) 10:30よりのtelevi見て(エフ書店へ電話す)12:00すぎ『茂吉と医学』取り来る。 card少しやらんとせしに小雨の中、ユ出がけ北川冬彦の礼状わたす。 「長内、稲垣両君のところしらず。よろしく」とのことに長内邸に電話すれば夫人出て本日は帰り遅く(※省略) 稲垣君に電話すれば「けふ午前中来る」と。(※省略) 躁なり。(※省略) 尖閣列島にて日中間に問題起る。(※省略) 4月14日 また早くさめユと本棚作り、ねてゐし本、半分すむ(佐伯来り、本もちゆく)。 10:30稲垣君来り、夫人の姪の吊書もち来る。12:00まへうどん食ひ、 残りの本もちて佐伯に寄らんとせしに北川冬彦へのハガキ忘れしとて稲垣君とりにゆき、来る間に渋谷までの切符買ふ。(※省略) ハチ公前へゆきアメリカ美人と話す。稲垣君は怪しげなる老人に捕まり話しゐる内、築島博士来り、 早しとて喫茶店へゆき紹介し、パーシヴァル・山下のyesかnoかの実況を稲垣君話す。 神風の関大尉出発の状況を稲垣君話す。次いで二子玉川行のbusに乗り稲垣君廻り道し、 (※故・大山学長夫人の)焼香すまして出棺まで待たんとする築島氏を止め、ともに中野まで同車。 佐伯に寄れば皆で5,000と『最後の楽園・伝説の旅』、『海外へ流出した秘宝』にて2,200払へば『老子王弼注』賜ふ。(※省略) 中共、尖閣列島周辺に漁船を集め領有権を主張す。 4月15日 7:30さむ。ユ銀行にゆき我散髪し、佐伯に残りもちゆけば500円と。(※省略) 12:00昼食して浜松町の竜園(※留園)にゆき盛毓度氏の秘書といふが出て「病気」と。 帝塚山学院の同窓会場にゆき南大人受付にゐるをたしかめ、来賓席につかんとし、(※省略) 何も食はず会費5,000わたして出んとすれば出口まで河野追ひ来る。 神保町行の地下鉄にのり山本書店にて竹内の本のこといへば番頭、見積りせしと。 礼いひて10万円近く注文し、Sanscritの本屋見しあと山口(※書店)へゆく途、3万円程注文し、 山口へゆき茶おごり110円残りしをもちて帰宅。(※省略) 4月16日(日) 2:00起き薬のみ直し5:30覚め、礼拝休むときめしあと仮睡しをれば、 けふ13:00墓地へともにゆく筈なりし美紀子にユ、すでに中止を電話せしと。電話かけ直し「9:30阿佐谷駅ホームへ来よ」といひ、 『あしながおじさん2冊(100)』と『3年生マンガ(100)』買ひてゆけば9:40来る。 『3年生』は雅子にやり売店にて買ひし漫画(150)を淳一にやり、(※省略) (※上川霊園)墓前にて「めでにしものとやがて会ひなん」歌ひ、待合所で500の幕の内4つ分けて食ひ、(※省略) 15:00ごろ阿佐谷帰着。(※省略) 21:00睡眠不足とり返さんと眠る。 4月17日 6:00さむ。ユ歯にて柏井へゆく。河野夫人3,000円の会費返しと竜園(※留園)の菓子ともち来り、(※省略) 『浪速双書1-6』2部来しゆゑ名著出版に電話し川井氏にきけば「400部刷りしも160部しか売れず」と。(※省略) 河野夫人送りかたがた定期買はんとせば、(※省略) 昼ねできず、夜、船越姉妹呼び色々話せば喜ぶ。(※省略) 4月18日 よべ2:00さめ4:00さめ6:00朝食とり1時間午ね。10:30出て雨傘もちて登校。(※省略) 来客まつといふに講師室にゆけば長部君まちをり(※省略)、大雨の中、棟方志功の旧宅つひに見付く。 蓮尾邦弘氏とて星教育(※性教育?)相談室を開きをり。昭和9年生と。77才の母堂も出て長部君の質問に答へ茶菓饗さる。 失礼詫びて2人して出、早稲田通りに出て別れ、エフ書店『文藝春秋5月号(450)』買ひて帰宅。(※省略) 4月19日 8:00さめ山住正己氏に電話すれば「今起きたところ」との返事にて8:30お越し「成城芸術科に坊や受けさす。 われに家庭指導ささん」とのこととなりし様子にユのpermaにゆきし間に山住閣下(※父・山住克己)に会ひ「御了解をといへば」まあまあとのこと也。 (※省略)瀧川政次郎博士に電話すれば「来てよし」と。(※省略) 道尋ね尋ねしてゆけば(※省略) やっと入れてもらひ色々話せば御元気にて「山住は一中にて一番なりしもある時は我が一番」と。 「高橋喬四郎は赤なりし故、ソ連軍来りし時喜びしもcholeraにて死に、稲葉博士と我とにて葬りし」とのことに「旧名城の発見」いへば然りとカンベンし賜ふ。 (※省略) 通り途の古本屋にゆきまた駄本4冊買ひ(2,000)帰りて、(※省略)。 4月20日 6:00まへさめ8:30ユの出てゆきしあと一寸ね。9:30目覚ましの鳴るまで眠り登校11:00。(※省略) 14:10より教授会。大山学長「学園長になりし」と。(※省略) すみて2年生(新)3人の喫茶するを見て入りゆき冷たきcaféとteaとおごりて帰宅。 『出島蘭館日誌3冊(45,000)』来をり、もち帰る。(※省略) 山住dr.(※阿佐谷のかかりつけ医)、坊やつれて土日の何れかの夜、来ると也。 4月21日 3:00さめ、また1服のみ6:30覚む。ユを斎藤dr.にゆかし10:30出て11:30着く。 3時限3人出席 (※省略) (※給料支給額)少しも増へず。 築島氏さそひ(※田中正俊氏と)3人にて小田急dept.13階にゆき、教育大の攻勢説明し、(※省略) 4月22日 7:30さむ。坪井明に「浪速叢書」のことたのみ、 佐伯にゆき『内海水路誌(500)』買ひ『文芸春秋5月号』と『徳川3百藩血族総覧』とかへことし「月曜に本もちゆく」ときく。 (※省略) 山本書店の本みな我が買ふこととし、(※省略) 新本屋へゆき『帰化植物(430)』など買ひ、 帰りて内田博士の華僑問題の電話ききしうさ晴る。 松本善海の命日なるを思出し電話すれば嬢「母は出勤、あす一家にて参りにゆく」と。 川久保さそへどもきかず。遊び相手なし。 4月23日(日) 5:00さめ7:00ユ起く。(※省略)9:45教会につき(※省略)、帰宅。(※省略) 電話13:00かかり「田村、高橋2生阿佐谷にあり」と。14:00来る筈なりし也。「まあ来よ」といひ、 ユ帰るまでまづ田村生の父、田中派とのことに「角栄の国を誤りしことを知るや」といへば泣き出す。 伊藤は叱りしも平気なり。2生に本貸しブラ下ること承知せしめしは17:00なり。(※省略) 4月24日 8:00さめ9:30山住閣下にちょっといひ、瀧川博士のこと伝ふ。 東豊に電話し「ラーメン食ひにゆく」といひてゆき1万円もちてゆき、2,510+4,000払ひ、 『甲午戦争(1,500)』買ひて帰ればdoubleとわかる。(※省略) 川久保来るをまてば来りて、 「昨夜意識不明となり医師呼びし云々」。過労いましめ帰りしあと丸重俊に「夜、来れ」といひ、 16:00ごろ来りし宮川、坂内2生戒め、うどん食はせ帰りぎは丸重俊来り「高血圧」と「父とは家中話さず」といふに戒む。 「新校長は55才にて恩地氏とて恩地(※孝四郎)画伯の息子にてやはり画かく」と。(※省略) 北川冬彦氏より挨拶のprint来り、(※省略) 末吉栄三(※戦前の教へ子)に「浪速叢書」のことかき疲る。 4月25日 5:00前覚む。宮本正都君へ近況。9:30出て佐伯へ本売れば800にて買ひくれし故、 『漢書・後漢書・三国志列伝選(1,000)』と『文芸春秋と天皇(500)』とユに500の本買ひ帰宅。 ユの昨日買ひくれし本棚立て本積める。(※省略) 国・私鉄総ストとて登校せず。(※省略) 午后また出て600円もち高円寺まで歩き都丸書店でひまつぶし『世界の美女(400)』買ひ来る。 けふ9月発行の『堀辰雄全集』に我が「書翰4通のせてよきや」と問いひ来る。「よし」と答へ間違ひ訂正す。 4月26日 5:00さむ。国鉄ストつづき私鉄スト止みしも登校せず。 11:00川久保夫人来り「中央大(八王子)へゆきし」と。この間「高血圧による血行障害」と。「自重させろ」といへば「生活苦しく云々」。 午后小憩、16:00荻窪の古本屋見にゆきしに岩森のよき方の店とりこはし中。『日本の民間宗教(400)』、『キリストにならひて(200)』 買ひて、 帰り途、加藤俊彦氏を訪へば夫人「散歩に出し。恵姉も外出」と。少し待ちて出、 夜、堀夫人より「恩地母上の葬儀にゆきし」と。「美保子氏未婚、令弟明星学園高校長承知」と。 我れ「堀辰雄全集への書翰掲載承知」といひてすむ。(※省略) 4月27日 5:30さめ国鉄スト止みしときく。10:30出てsemiにゆけば(※省略)、14:10大学院会にて新任歓迎会云々、紀要200枚とし、(※省略) 南新宿下車。東豊にゆきdouble本返却、1,500もらひし故『先清法律思想與自然法(220)』、『中国近代史参考資料(1,200)』買ひ、 姪さそひ喫茶(500)、中国語の和訳を訂正してやる。大塚に住むと也。 4月28日 7:30さめ10:00出て登校。『近代日本文学辞典』(※自分の項目)見れば「本名吉之助」とあり(※田中冬二と混同)。 台湾関係の本調べ昼食食ひ12:30ゆきて無人の室にをり重久相手に講義すます。 (ゆきがけ鎌田女史に会ひしに紀要に「西山先生にはかなはないけれど努力する」ときく。哀れ也)。(※省略) 築島博士より電話「共に帰らん」と也。西山の悪人なるを云ひ、大学院の会をここにて開くこととなる。 高円寺で下車。『■俗辞典(12,500)』買ひて帰宅。 4月29日(休日) 6:30さめ9:30佐伯に寄り「けふ中野の文化centerの古本市にゆく」といひ斎藤dr.にゆけば満員。(※省略) centerにゆけば満員にて良き本もなし。例の古本屋にゆき東洋文庫『熱河日記1.2』『アイヌの民俗』にて3,500払ひて帰宅。 battera(300)買ひ来って13:30昼食とし、午ねす。(※省略) 19:00山住dr.(※息子の)正夫君つれ来る(※家庭教師)。今年度2次の国語の問題わたし「1時間半にてやってみよ」といふ。 4月30日(日) 6:30さめ、雨の中、佐伯にゆき何も買ふものなしといひて北口(※の古本屋)にゆけば休み。帰りて午ねし、 14:30稲垣浩夫妻のつれ来し黒川ルミ子嬢を見分す。16:30帰りゆくまで物云はず。和田夫人方々に我が立腹!をいひふらすらし。 川久保に容態きけば、この間中央大(八王子)へゆけば休みなりしと。むりするな老人性鬱病といへどきかず土曜『柳辺紀略』やるとなり。 5月1日 9:20さめ朝の散歩にゆけば雨降り出し『中国の旅(870)』買ひて帰宅。午ねし16:00高円寺の古本屋見にゆきしも何もなし。 夜、田村春雄に電話すれば「癒った。来月学会にゆき逢ふ」と也。(※省略) 5月2日 7:30さむ。10:30家を出て登校。3時限東洋史、4時限中国古典ともに出席少なし。まっすぐ家に帰り無為。 5月3日 7:30さむ。斎藤先生へ10:00前つき鬱病多きに気づく。順番早めによばれしも、(※省略) 『中国とつきあう法 桑原武夫等(880)』買ひて帰り、13:00帰宅。佐伯で『日本の中の朝鮮文化(2,000)』買ふ。 5月4日 2:30まで眠れず7:30さむ。11:00登校。13:00よりのsemi教室、隣室の講義つつぬけにて教務にいひにゆきかへてもらふ。 教授会。(※省略) よべの睡眠不足にてまっすぐ帰宅。(※省略) 宝文館より『安西冬衛全集2』の推薦文(『四季』より転写)の印税5,000送り来る。 5月5日 5:30さめ7:30起く。9:20出て西国分寺にて10:17に乗りかへ新松戸行の国鉄に乗りかへ東所沢にて下車。 京の地図まちがひをり11:00すぎ所沢市松郷の新居探しあてしに健太郎(※孫)不機嫌。哲夫休みをり、 11:40ごろ持参のsandwich食ひ、遊びに来し男の子と女の子とにて健太郎の機嫌よくなりしも 13:30出て14:07発の下りにて西国分寺につき15:30帰宅。佐伯にて『日清日露戦争(600)』 5月6日 7:00さむ。寒く外出せず茫然たり。(※省略) 京より電話「きのふ無事に帰りしや」と。 5月7日(日) よべ23:00ごろ寝に入り4:30覚む。東洋史の広き教室に学生どもうしろにかたまれるを怒りし夢を見て也。 炬燵に入りちょっと寝し由なれど覚えず。8:00出て斎藤dr.。「厚生大臣賞を10日受け賜ふにつき休診」と掲示あり。 4人目に入れば見覚えなきdr.にて「5月はいつも鬱」といひ薬10日分賜ふ。 午后、船越苑子来り「校正学校に一週2回通学、但し就職は保証されず」と。 5月8日 23:00薬のみ9:00さむ。一日ねむく、大来りし、(※省略) 北口歩きしあと別る(「母10日帰京」と。)。 夜、東豊簡氏より電話、3冊買いひに来しと。 5月9日 9:00さめ中国古典の予習をし11:00青木大乗展にゆくユとともに出て登校。(※省略) 『民俗学研究所紀要1』出来あり2冊もらふ。急ぎ書きし為説明不十分なり。(※省略) (西川より電話「益子輝夫氏逝去」とありしと。) 5月10日 曇。15:10の母迎へにユ出しあと稲垣浩邦君あらはれ「姪の写真返せ」と。 わけきけばUrclaya(※不詳)のIslamの第何夫人になる気なきやとわが笑談いひしを娘怒り泣きゐると。 わびてユの帰りまち写真返す。京母子、母同時に来りやがて大、母をつれゆく。悪き笑談いふに懲りたり。 5月11日 雨9:00さむ。ユ教会の当番にてゆく。健太郎まだをり。semi3年3人(※省略) 成城堂に払ひすまして帰り来る。 夜、名著出版川井純夫氏に「14万で」とかき、我も払ふといふ。(※省略) 5月12日 9:00さむ。東洋文化史の下調べしnote忘れて登校。大学院重久と杉山博文の2人相手に1時間やり、 文化史のnoteこさへしに講義の時みつからず散々なり。(※省略) 『思想の科学』に竹内好研究と思ひ出とに分け、わが文、中野清見の次にのる。(※省略) 「稲垣問題」にて憂鬱のかず。 5月13日 夫婦ともさむれば10:00近し。『思想の科学』を(※諏訪)澄に送るため袋買ひにゆき、包みてのちまた駅前の局へ出、cutして茫然としをり。 13:00高橋重臣君来りしゆゑ、富永氏の会にゆけぬこといひ、井上正蔵氏は東独派ときく。 大浜イズヒコ君の死にしことを再びききたる如く、物忘れ多きをいふ。 「15:00より渋谷で会ふ人あり」と出てゆきしあと、また茫然たり。(※省略) 5月14日(日) 晴。8:00起され礼拝にゆく。新長老の就任式あり。 すみて佐伯に寄り「春本もういらず」といひ、画展にユのゆく前に散髪。(※省略) (和田夫人より「子息来たし云々」に「止めてくれ」と叫んで電話切る。) 5月15日 鬱まだつづきしに稲垣浩邦君より「吊書返せ」の電話あり。 15:00宮川、坂内の2生来り、宮川は「シンガポールの華僑」、坂内は「関帝の信仰」ときめて、 帰らんとするところへ、古屋嫗あらはれ『則天武后』の新刊おき、ユにわが経歴話さし、帰りゆく。 『富永牧太先生論文集』来る。 5月16日 7:30さめ11:00ごろ登学。午飯のpão半分食ひて鄭先生を呼びとめ只1冊もてるドイツ語のTarfanなどを記せる本贈り、(※省略) 疲れて早くやめ帰宅の途、老女のゆくを見、追へば果たしてユなりし。(※省略) 歯をはめて夕食せしも苦悩して中途で止む。(※省略) 5月17日 7:00さめ8:30斎藤dr.にゆけば「来月初めまで茂太先生休診」、薬は前のまま10日分くれる。 帰宅し(※省略)、13:00清水和子の絵を見に行く。ものいへずユ画作の苦心話し、ヒマハリの種子送ってもらふこととなる。 (※省略)集英社の古山登氏より『白楽天』6版1,000部(2,700円と)6.30出版、印税は7.25支払と。 川久保来り「元気回復した。来週よりまた本よまんか」と。上がらず帰りゆき助かる。(※省略) 5月18日 よべ21:00すぎねて5:00さむ。ユ9:30出てゆきしあと10:00出て登学。(※省略) 教授会、学長候補選に(※省略) 雨にずぶぬれとなりて帰宅。 5月19日 8:30さめ10:00出て(※省略)、築島博士と16:00まちあはせして(※省略)、 ice-creamのみ築島博士が支払ひしを「この次は」にてすみ、帰宅。夜、澄より電話「追悼文集よくできをり」と。 トボ(※孫)はといへば泰出て来て「ハイ、ハイ」といふのみ。(※省略) テレビで「岩淵悦太郎氏(72才)死」と。昭和13年大阪高校教授、杉浦宅で会ひしことあり。 5月20日 7:30さむ。ユsandwichおき10:00出てゆく(立教同窓会)。(※省略) 12:00パン食ってゆっくりゆけば既に6~7人をり。 野口君ら来りて会議16:00まで。帰りに抜刷10部また貰ひ困る。17:00帰宅。(※省略) 5月21日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 帰り佐伯に寄り田中正俊氏編の『中国近代史』われ払ふも学校買ひにといふ。『王安石論』と鴎外買って帰宅。 15:00ごろ寿一より電話「ゆきてもよきか」と。「来よ」といへば16:00すぎ来。(※省略) 成田第一便着き、日中条約再開ときまる。 5月22日 8:00さめ呆然としをりばユ、縁談旨くゆかざりし様子。 名著出版より「お言葉通り11万いただく云々」と。第7冊も来る。 13:00すぎ徳女史(※田中徳:城平叔父の本妻)より電話、ユ迎へにゆく。17:00までしゃべりつづけ「西永福の友の家へ」と出てゆく。 山田勝久氏より「北海道教育大学に赴任、釧路に住む」と。東豊書店で会ひし人か記憶なし。 ユに聞けば辞退せし金、封一万円と。 5月23日 8:00さめ呆然として登校。入金なく鄧さん「来年より外国語必修にする」と。 3時限4時限むちゅうにやり逃げつつ代々木の東豊にゆけば「追加注文多し」と喜びをり。 『中国航運史話(280)』買ひて出、佐伯に寄れば「何も来てなし」と。 帰りて「飯くはぬ」とユに叱られ、あと計算して226,270円と。弓子、泣く子をつれて来しと。 5月24日 7:00さむ。8:00出て斎藤dr.、(※省略) 水道橋、山本(※書店)まで遠きにおどろきつつ行き 『清代科挙(480)』、『唐宋考試制度史(1,540)』、『中国思想宗教文化関係目録1976(6,500)』、『十通分類総纂(66,000)』、『清季中日韓関係資料三十種総合分類目録(14,250)』、『清季中日関係資料(54,600)』計143,370払ひ、 誠心堂に行き『出島葡館日誌(45,000)』払ひ、水道橋より折好く来し三鷹行にのりて11:00阿佐谷着。 佐伯にゆけば何もなく帰宅。 (※省略) 『不二』来りめくりゐる内、天理図書館の新城氏のこと出「早く死んだ」とあり。 本棚より植村先生の本とり出し読まんとすれば内よりハガキ(昨年10月と!)出、恐縮してわび状したたむ。 21:30またまた発作起る。 5月25日 9:00さめユと斎藤dr.。11:30見知らぬ先生にて顔を見、ユの言葉きき「今の薬でよし」と。のど乾かせ13:00帰宅。 うどん食ひ、ユの出てゆきしあと母来り「大、仕事中」と。(※省略) 5月26日 6:00さめ朝食後、教務課に風邪の届し、午すぎに佐伯にゆけば「何も来ず」と。西武へゆき地下街へゆき、 つひに『漢字百話(440)』買へば内儀「先生、お宅では和服ですか」と。驚きて帰宅。 けふ辻副手、高田君の仲人にて4月結婚の通知、(※省略) 垣根ぞひ歩める猫を殺さむとひとときにらみ行きて喜ぶ おろかなる人とは知らず物問はれただにもだしてすましけるかも 5月27日 ユ、黒田夫人に誘はれ絵に出しあと川久保に電話し「行く」といへば「30分まて」と。 うつぎ書房に寄り駄本とdouble本を1,000にて売り、川久保にゆけば「午食しをり」と。 わが発作話し「紀要を君にまづ」と渡し帰らんとするところに夫人「羽田さん(※羽田明)来る」と。 驚き喜び待ちをればまた電話し「外科の前にて待つ」と。川久保令嬢迎へにゆき現れしに真黒に焼けをり。 久しぶりと話し「17:00の汽車」とて起つを同行し地下鉄入口教へて別れ帰ればユ、画もちて帰りをり。 『草苑』100号とて部厚きが来をり。 やすらかにをれとのらしし医師の言葉守りてをれば発作おこらず。昨日と今日と暑し。(※省略) 5月28日(日) 6:00さめユ「教会へゆくな」と9:30和田賀代嫗の7回忌に出てゆく。 16:00まで茫然とし、偶々早慶戦みてをれば早稲田大勝してうれし。変らぬものなり。(※省略) 5月29日 8:30さめ、母来り、(※省略) 母去りをるを見、昼食。京、健太郎つれて来しに会ふ。 ヂイチャン云へずバアチャンのみいひしもバイバイといひ、ユとともに去る。 われ方々しめて高円寺へゆかんとせしもシンドク、家にこもりをれば電話。(※省略) 5月30日 〒教会より「寄附ふやせ」と。母来る前に大来りwhiskyのんでwineもち帰りしあと、意外にも美紀子よりと母来り、 長話し、大の愛人の名云ひて帰りゆく。夫婦にて笑ひ「あさって登校」ときめ、(※省略) 「長恨歌」見んとtelevi見をれば北京、上海、長安を語る工学博士の話。すみて入浴すませし直後、石塚より電話。 「televi見よ」といへば喜びて電話切れ、これにて安心。全快の如し(死に至る病)。 21:00咲耶より電話「大江喜代造叔父29日死にし。式30日」と。 5月31日 6:00さめユ7:00起き、わが泣きゐるを咎める。午まへ佐伯にゆき『江戸時代刑罰風俗細見(2,000)』借る。 (※省略) 18:00石塚、岡林2人あらはれ、喜び迎へ『則天武后』見せ、わが母の写真見ゐる内、発作。 ふるへをれば2生帰り、ユ、婦長さんに電話「土曜来い。それまで外出面接するな」と。 予定みなダメとなる。22:30追加のみて寝しと。 6月1日 7:00さめユのねてゐるをまたぎ茶のみゐればユ起き叱られしあとわからず。 長沖未亡人より「6月10日遺著出版」との便り見、ユ、垣を刈るをつつしみをり。 午食後、ユteleviつけ寝をり。長沖夫人に「買ふ」旨ハガキにてかく。今日は暑く日長し。 ユ16:30豆腐買ひに出、長沖夫人へのハガキもちゆく。われ終日自問自答す(鬱の証拠)。 エリ・エリ・レマ・サバクタニ。(※神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや) 夜、石塚生より電話、(※わが病気を)少しも知らず「お休み」といふ可憐!(※省略) (中島・増田・松下+薬師寺)  薬師寺衛=梅原(※母方苗字。昭和28年日記参照。本名) 倉田啓之助 1. 中島栄次郎 もう皆は忘れたが よい詩かき よい評論かいた 小さく醜くかったが人柄がよく 第二乙で三度目に召集され フィリピンにゆきマニラから一度の便り それを奥さんに見せてもらった ついで探した遺稿はかき置で 奥さんに再婚自由をいひ置いてたのまれた わたしはいやな顔したが伊東、坪井は 世話したらしいが成らなかった わたしは本を売れてよりわけて 半分は当時のわたしの勤め先 あと半分は先輩のゐた名古屋大学と いまも残ってゐるとわたしは信じる 暑い日に彼を追憶したわたしの詩は 藤沢桓夫にはほめられた 田辺哲学の彼の文は忘れられた 主よ この賢者を憐れみたまへ 2. 増田 晃 東京帝国大学文学部心理学科助教授が父だったが 彼は法学部を選び就職すると詩集『白鳥』を出した。 わたしとは朔太郎の会で遭ひ 静雄よりわたしを愛した。 出版記念会は伊福部氏が司会し 高村光太郎がその会に出た せの高い立派なおぢいさんだった 彼はそのあと召集を受け 主計将校として中支で戦死した (わたしの徴用中わが家を訪れ 結婚した旨わが妻に告げた わたしの『李太白』ももって行ったさうな) 終戦後  奥さんの消息は不明だが 母上が命日には3回小詩集を出した ある日ふと妻と母上を訪ねたが 番地を10番まちがへて会へなかった 良き母をもち良き風貌と詩才と兼ね備へながら 弱い主計隊の長として死んだ 主よ この弱き者をみ国に迎へ 強き若者といつくしみたまへ 主イエス・キリストのみ名によって祈る 6月2日 7:00前さめ、三高ボート部の歌うたふ。20℃。8:00出て佐伯夫人に長沖一氏の本注文し、 斎藤dr.に8:30入れば3人目。「袋もて来よ」と。9:30診察始まり若先生。薬に安定剤加へたまふ。 病状診断にと院長先生への植物考案し、薬待つユを残して東豊へ辿りゆく(待ちの間に近くの紅茶のむ280!) 簡さん(※病気をきき)驚き、椅子探し来り「学生盛んに来る」と。37,900払ひ、書籍費をoverす。 台湾関係の本の内「台湾」にて始まるものもて来させ14万ほどとなり「送れ」といひ、ラーメン食はず帰り、13:00午食の狐うどん食ひ、何もせず。 (※省略) televi見ず20:20青ひとつ足し寝つきし由。 6月3日 けふも晴。6:00さむ。ユけふは先起きをり。9:00柏井歯科へゆく。 われ本棚の引出し見てをれば『神軍』3版(未出版)のあとがきあり『神軍』にはさむ。19年の作なり。 ユ11:00帰り銀行へゆく。(※省略) 午食のあと高円寺まで歩き都丸へゆけば番頭をり「古本市に『神軍』2,500であり」と。 共に兵の思ひ出話し、探せば神田先生の『墨林閒話(1,380)』2版見つけ有り金殆どはたいて電車にて帰宅。 (※省略) televiで「黒人警部ローガン」見畢る。坂内生より「先生2回お休みになった」「来週きっと出る」と答ふ。 6月4日(日) 雨。6:30さむ。9:10まで待ち礼拝にゆく。(※省略) 知合少くまっすぐ東急。狐うどん(230)われ食ひ、ユすうどん(170)食ふ。ケチの最低なり。ユ16:00展覧会に画とりにゆきし留守、 『南方草木状輯注』見れば、許雲樵「和田久徳教授の世界旅行に新加坡(※シンガポール)で会ひ教へられし」と。わが後任としてやはり第一とわかる。ありがたし。 入浴後、竹内栖鳳の話きく。太田陽子(※太田静子の誤記)久しぶりに出、桜桃忌近しとわかる。 6月5日 7:00さむ。よべ4:00ねごといひしと。9:30となり文房具屋見ればしまりをり。(※省略) 佐伯によれば『堀辰雄全集8』と愚本とにて6,300と。(※省略) 少しづつ路変へて帰り、ごみ箱もち帰る。 (※省略) 徳(※田中徳)より大江叔父の葬儀にまにあひ、これにて城平・艶との縁切れしと。同感。 15:00佐伯へ金払ひにゆき、〒にて和田久徳君への包み200。帰り途かへて帰る。(※省略) 6月6日 8:10さむ。9:30出て久しぶりに登校。(※省略) 会計で19万余もらふ。研究費その他となり。(※省略) 研究室に副手より紅茶もらひ野口君と話し、和田久徳君、野口君の属しゐる学会の副会長と。用心す。 まっすぐ帰り成城堂にてHeine26版買ふ。金曜がため也。 6月7日 8:00に起され、(※斎藤病院へ)急ぎ夫婦にてゆくこととせしもユ「先にゆけ」と。9:30つけば超満員。(※省略) 茂太先生お元気の様子にさういへば「疲れとれず」と。御外遊中の話なさらず「茂吉の医学」はほめをらる。 2週間分薬たまひ、久しぶりに新宿へ歩く。(※省略) ひもじくて三越にてユはsandwich、吾はひまかかるグラタンちょっと食ひ、帰りてpão食ふ。 神田喜一郎先生より「よみし。80才をすぎし」と。ありがたく存じ、川久保へゆけばベル3度押すも応答なくたたずみをれば窓より夫人「太田へゆきし」と。 開きゐし玄関に土産おきゆるゆる帰れば夫人より「まちがへし。太田は明日」と。 (※省略) 午后の便にて朝鮮大学より祭の通知。高校への本につき便りなかりしもそちらへゆきしか。 夕食前、佐伯へゆけば主人をらず『展望』やり『弘法大師・北京故宮博物館』とり上げれば内儀200と。 昭和48年の『太陽』にて新本の如く新し。(※省略) けふ病院に帽子忘れ、ユ阿佐谷大通りの帽子屋につれゆき2,000の良き帽買ひ呉る。 入浴直後、田村春雄に電話すれば「5.31本出来しも皇太子来られし上、清徳保男氏妹急死にて云々、7月初に電話して来る。山の上ホテル」と。 「我家へ来て泊れ」といひしもきかず。 「丸は」といふに「ねたまま。但し息子月給23万、妻も決めをり」と答ふ。 6月8日 6:30さめ、(※省略) 10:30成城着。(※省略) (※成城)高校の前田先生に電話すればすぐ来らる。 若く熱心なるに感心し「わがあと次たまへ」と『常民文化紀要』呈し、(※省略) ゆるゆると出て駅にゆけば田村、高橋、荻村雅子の3人と駅前で会ひ、(※省略) 高橋、荻村の2生と下北沢下車。 高橋の指する白百合といふ喫茶店にて2人はice-creamわれはpudding食ひ(840)、帰り本屋にてHeine買い与へsignすれば店主「先生ですか」と驚く。(※省略) 田村春雄より手紙果たして来あり、皇太子のことは書かず「院長未定にて今月末か来月初め上京」と。 丸にも知らせよと。(※省略) (荻村生は成城No.1の美人なり)。 6月9日 10:30登校。図書館にゆけば台湾関係の本まだ来ずと。(※省略) 老いし(71才)英人と話す。Sumatra全島を知りをり。 日本語・馬来語を話す。(※省略) bonus表渡さる。税引き100万円を超えたり。(※省略) まっすぐ帰らんとせしに(※省略)、佐伯に寄れば2日半休みしと。田中正俊氏編の『講座中国近現代史2冊(4,200)』来をり。これと『斎藤茂吉集(100)』にて殆ど金なくなる。 ユにbonus表わたし、(※省略) 和田君より許雲樵の本は和田君の訳と。(※省略) 大伴道子氏『たれゆゑに』貰ふ。 6月10日 9:00さめ(※省略)、大伴夫人へ歌集の受取。和田君へ「成城の後任いかに」とハガキ出し、(※省略) 宮川生、折しも来り「関帝」をアジア歴史事典より写しをり、ともに読み誤字訂正、Fantaのみ富山の菓子食ふ。 この次書きはじめよといひ帰りがけあす「華僑」の坂内来ると。(※省略) 金子書店のぞけば内儀ゆゑ入りて見ゐる中、 田中元『古代日本人の世界』と雑本1,900買ひ10円のみとなりて帰宅。(※省略) ユ三井銀行より30万5千円出し三菱銀行に入れし。教会改築の第2回献金なり。(※省略) 6月11日(日) 7:20さめ9:10夫婦して出、早き便にて吉祥寺。(※省略) お説教に泪流してユにつつかる。(※省略) 出て(※省略)狐うどん、けふは旨くみな食ひし。「我は飢ゑたり永久に(※朔太郎詩句)」をしきりに思ふ。 阿佐谷にて佐伯に寄り金なく本なし。帰りて昼食し13:30坂内生来り、(※省略) 帰りしあと(※本を)よみゐる内、 「最上川逆白波の立つまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」をユ、茂吉の近況として20年冬の新聞に見ておぼえゐたるをつひに見つく。 敗戦を悲しむ歌となり。我まだ帰還せざりし日を思ひ同感せしと。ふしぎなることかな。昭和21年の春のこと也。(※省略) 6月12日 6:30さむ。9:00堀、森廉三、松村潤、松枝茂夫の4氏に抜刷出す。(※省略) 帰り佐伯に寄り『龍姿蛇姿(100)』切手にて買ふ。 (※省略) 中平、池田、西宮3氏に抜刷包み、羽田には手渡しとしてこれにて了る。ユこれもち〒へゆく。 (※省略)13:00高橋生来り「科挙」につき『古今図書集成81,82』の該当箇所示し、(※省略)16:00帰りしあと、 田村春雄の『続たわごと』よみ了へ、礼かき「丸をも見舞ふにつき日中に来れ」と4枚の手紙に書く。 (※省略) 郵便出しにゆかんと用便中17:10大地震(東京震度4)、 すみて出、郵便出しにゆき老嫗に「こわくなかりしや」と問へば「坐りゐる老爺ゐなければ」云々。 6月13日 よべ21:30ねて7:00さむ。10:00出て鈍行11:05成城着。高田瑞穂肩を叩き、休みにて西下すと。 (※省略) 鄧教授と地震の話す。2階が書斎ゆゑ圧死するかと思ひしと。(※省略) 佐伯にゆけば「何も来ず」と『生活と法律(300)』、『禁烟はつらくない(300)』、『ドガ・ロートレック(800)』買ひて出んとするところ、肩を叩かれ見れば松枝教授なり。 我家へ誘へば中国語学びにゆくと。我と同じ竹田亮老先生に習ひしに来月北京へ招かれ今より習ひにゆくと也。 帰ればユ「ドガあり」と。「とりかへにゆけ」といふ。(※省略) 郭沫若死し日本人の妻アンナ同居と。 この間、鄧さん悪口いひゐし故、天命を感ず。 6月14日 よべ22:00眠る。(※省略)6:30さむ。8:00田村生に電話すればねてゐしらしく眠き声にて「2時来る」と。 (※省略) 昨日遭ひし松枝茂夫氏よりのハガキ「郭沫若のこと北海道新聞からたのまれた」と。(※省略) 14:00田村生来り17:00まで話し(※卒論テーマ)「日清戦争の原因」ときめる。 17:30川久保来りwhisky1杯のみ『柳辺紀略』の訳を吉田金一氏と共訳とす。注は我にまかせよといふに肯ふ。 あさって東方学会に出るゆゑ羽田つれ来るなど話せしあと「Espayna語の本かせ」と。『西和辞典』と『スペイン語四週間』を貸す。嬢のためなり。 須佐嘉橘旧蔵の『聖武記』2帙は自分用にともちゆく。(※省略) 6月15日 5:00尿で起きまた眠る。8:30再び起こさる。10:00すぎ出、(※省略)11:00すぎ成城着。田村生「あかふく」呉れ、(※省略) 教授会、(※省略) 18:00三井ビルの会ある故、皆坐りゐるかと思へば大学院の会、(※省略) 我、築島教授の隣に坐り歌作りつづく。  あさま山ゆきゆきてのちけぶり立ついただきにこそのぼりきはめむ  ヨコハマのナンキン街に子らとゆく定めとなりしこともられしも  来む年は鬼にぞならむ甘き師と嗤ふ子多き我の決心  われ死なば雑書ことごとよそびとにやらじと思ふ心定めと(高垣文庫設立と)  わが友ら高きにのぼりわれさらに高きのぞみをいましいだける(部会住友ビル53階)  信濃なる千曲の川の川中に戦ひしことわが学に入る(上杉文庫)  みな月の半ばをすぎてわが愛す友は長とし「なる」とききつる(高田或は堀川)  みな月におぼれて死にし津軽人三十年(みそとし)をへて知る人もなし  「我叫了(アイスクリームド※I screamed)」いまひとたび食はむとていらだつわれが心かなしも(築島博士留守中のこと)  欧米に去りにし美術くはしくもしらべし人の前に坐れる(田中比佐夫氏) 上原君、北京旅行団作るとのことに鄧先生「美術しか見られぬ」と止める。鄧氏も自ら単独にてゆく也。 (※省略) 各駅停車、16:30小田急dept.14thの喫茶室にゆき、いつもの西側に坐らんとすればmanagerこちらへと陽のあたらぬ南側に坐らす。 ここにて我はice-cream、築島氏はice-coffeeのみ、(※省略) 阿佐谷着。 佐伯にて「ユ来しや」と問へば来しと。(『ユトリロ(800)』買ひしあと『甘えの構造(600)』買ひし也) 止む無く『西日・日英辞典(500)』、『続 悲しき戦記(文庫180)』買ひ、大学院の8万円を買はんといふ。 (この間遭ひしは松枝博士といへば驚く)(※省略) 松村君「抜刷受取りし。6月末台湾へ岡田・神田の3人でゆく」と。(※省略) 6月16日 20:00ねて8:00さむ。体重38kg。(※省略) 11:30学校へ着き(※省略) まっすぐ家に帰れば「川久保より13:30電話あり、そのあと歯科にゆきし」とユ。 川久保待たせて19:30かかり「spain語、吉田金一氏、羽田氏」のこといひ、吉田氏との連絡引受く。 川久保「3人で」といひしも「我が加はれば(※折合が悪くなった)平凡社ダメ」といひのがれし也。 ユ『甘えの構造』よみ耽る。悔みと杭州のこと云ひ、我ねむくなり21:30眠る。 6月17日 7:30起き、(※省略) ユに吉田金一氏へのハガキ投函、佐伯へ寄れといへばしぶしぶ出てゆく。 (※省略) 丸家に電話すればクミ子出て(※旅行にゆく父、三郎を)けふ上野駅に送りこれが最後と喜びてゆきしと。「我も最後」といへば大いに笑ふ。 泊りがけの旅行にゆき婚約者みつかると予言すれば大いに笑ふ。重俊の候補者同級なるに知らずと。 ユ、佐伯にて長沖一遺著(1,400)買ひ来る。筑摩より『世界の歴史6』送ったと。(※省略) 増田晃追悼の詩を作る。長沖夫人に『上方笑芸見聞録』よみしと。(※省略) 川久保20:00ごろ電話し「君とならともかく吉田さんでは。勲三等もいや」と。「自然にまかせろ」といへば「さうする」と。 20:00すぎ速達来り、あけみれば中村愿君篇『竹内好を偲ぶ会座談会(速記)』にて、我には「日本浪曼派や保田との関係かけ」とあり。 よみゆく内「ボク人」といふを(※1年先輩の)野田又夫氏より譲り受け云々とあり、引っかかり、小高根太郎に電話かけしに留守だったので、 野田又夫の電話しらべに羽田呼出せば夫人出て「今便所」と。「お孫様は」ときけば「5人」と。こちらは6人といひ、 羽田出て来て、学会でゆかず、24日が学会と、黄檗山とのことに「ゆく」といひ、野田又夫の番号きけば教へてくれ、 野田氏に電話すれば(※保田に『炫火』前誌として)『璞人』をゆづりしと。礼とて『白楽天』贈るなどいふ。 6月18日(日) ユ、われに聖日の礼拝休ませ9:15出てゆく。(※省略) ユ12:00帰り来り母のところにゆく。 われ女のtelevi(volley 日中3-0)見、『家なき子』あるや見に佐伯へゆき大林太良氏に会ひ、話したくなりしも逃げらる。 『斎藤茂吉画集(1,800)』買ひ『白楽天』2冊を金曜までにとたのむ。 20:00泰に電話し「23日にゆく。地下鉄駅まで迎へたのむ」といひ切れば、泰より電話あり、「迎へにゆけぬ」と。 「よし、よし、依子に夕食いらぬといへ」とにてすむ。 6月19日 7:00さめ眠し。(※省略) 奥出健氏より保田研究に『璞人』のこときき来る。「野田又夫、江口三五に問合せよ」といふ。 10:00和田夫人より電話「すぐ来る」と。ついで美紀子より電話「京のところへ祖母とゆく」と。 「兵庫県へ転任」と予言すれば「それききて史、苦笑す」と。(※省略) ユの貯金癖に感心す。 14:00原建士来る前13:30和田夫人来り、一寸話し、原のcard直し、15:00談炉館へ招待状もちゆき、 冷房ゆゑ熱きcoffeeとtea無代であつらへ、冷房にをり。copy『両唐書』『資治通鑑』すまして出、(※省略) 川久保へゆき(※省略)、20:00近く帰宅。(※省略) 田村春雄に「24日夜泊めよ」と電話。(※省略) 6月20日 快晴。8:30さむ。(※省略) 池田温氏より『詩経の草木』の受取。正午30℃。五日連続30℃以上。 ユ11:00出てゆく。われ昼食し、televi見つづけ18:00ユ竹内邸より電話「15分して帰る」と也。 『浪速叢書8』2冊来る。久しぶりに『唐話辞書』1pageやる。(※省略) 6月21日 7:00に起き8:30斎藤dr.。(※省略) 東豊書店まで歩くみち喫茶店。快くcafé,cocoaとにて350払ひ東豊書店。 喜び話しゐる内、有り金はたき『倫敦所見中国小説書目(1,920)』買へば『中国通俗書目・日本東京所見中国小説書目』呉る。 成城へ12:00着き(※省略)、帰宅。高橋生5分前に来をり、 『新唐書』『旧唐書』のcopyを談炉館にたのみにゆき、飲物代われ払ひcopy代1,000近きを喜びて帰る。 丸重俊来り「あす見合」と相手の名いはず中学の美術の先生。(※省略) (成城堂で付けにて『豊臣秀吉』買ひ丸生に前祝として与へ『魯迅雑記』買ひ竹内の著作みなそろふ。) ユより明日の費用2万円借りる。(※省略) 船越苑子、ユの許に来り『浪速叢書』渡せば喜び「今通ふ校正学校、事務員の空きあり」といひしと也。 6月22日 7:00さむ。(※省略) 11:05ハチ公前に(※semi生)8人待ちをりあと一人と。(※省略) 東急にて石川町下車。中華街に入り、坂内の案内にて太平楼に入り10人一卓を囲みわれは2品と2汁とり、皆満腹し、 自由時間に宮川生と関帝廟に入り写真とり、香と蝋燭とを買ひ老嫗の指図にて天公に祈願して了る。 出ればみな買物しをり。我もつられて『中草薬学(1,440)』買ひ、(※省略) 坂内、宮川2生と氷川丸へゆかんとすれば、(※省略)船中くまなく見て退出すれば、(※省略) 帰り途教ふとてわかりしところにて去る。(※省略) 四谷にて下車。信濃町で公舎探し探ししてゆけば3孫、美紀子をり。 (※土産の)素麺わたし家に電話すればユ「すぐ帰れ」と。茶のみ了へて雅子の大人となりたる(42キロ)を見、 淳一の反抗期に入れるを見てのち美紀子、暁子をつれて駅まで送る。暁子も機嫌よく100入れて釣銭20与ふれば喜ぶ。 佐伯によらず帰ればユ、飯くはず待ちをり先づ入浴をと。風呂は体ふきしのみにてすまし、夕食くひ、 杉山博文の贈り来し菓子くひ、上田敏全集を予約せんときむ(1.4万✕10)。(※省略) ユとびまはり帰り来り西下の用意す。 6月23日 よべ、薬師寺衛の詩を作り朗読せしあと眠る(23:00)。 ユ先出て克次朗つれて出しと。われ登校。(※省略) われの後任、一時重久講師とし、和田久徳を後任と決め、 総務はダメ会計もダメ庶務に54年3月31日退職するとして計算してもらひ、会計に旅費32,000もらふ。 庶務計算すみて昭和33.4.1~54.3.31退職にて21年間在職にて退職手当8,188,600。和田久徳氏の来るまで重久博士を臨時講師と決む。 この間ユ電話3回せしとて美紀子と小田急で会ふといひ、中国古典cardくばり 「けふの出席はみな満点。これが最後の講義」といへば男生突然「仰げば尊し」の歌うたふ。 16:12の「ひかり」にのる。美紀子3ヶ月にて重き荷物みなもつ。 名古屋駅につき依子出て(※省略)、 中村口からtaxiにのり1,200にて団地前につき夕食くはしてもらひ、澄いつ帰るやわからずと。孫ら眠り(22:30)、われら23:00眠る。 6月24日 名古屋駅より近鉄にのり、宇治の黄檗山万福寺にゆけば外人の講演すむを腰かけて黄檗料理2汁一菜食ひ、 小野勝年、野間光辰らと挨拶す。東洋史の3奇人曽我部博士(羽田にきけば「悠々自適」と)。 これより各殿まはるとのことにわれ先に見て浄所に入りてのち版木殿の前にて待ち、人々の来るをまちしも来ず、 やがて門前にゆけば、(※省略)皆の出て来るを見る。 小野勝年親しげに話してゆく。電車まで羽田とゆき、三条の京阪終点につきtaxi拾ひ、羽田夫人と話してのち夕食前とて退出。 新阪急に乗り(220)千里線にのりかへ、雨中ぬれて山本治雄に電話する為喫茶店に入り3度電話せしもかからず。 梅田に出、循環線にて天王寺(60)、阪和線にのりかへ上野芝で下車。手土産に1,200と200の菓子買ひ 田村邸のbell押せば「まってました」と。春雄邸に皇太子の来しは菓子屋もしりをり。 (※省略) 春雄、わが本もち来り署名さす。『戦後吟』2通あり、一通に息への署名す。 沢田四郎作氏宅にわが案内し、清徳保男の画たのみしと。(※省略) 6月25日(日) 6:00さめ爽快。春雄邸にてpãoと紅茶よばれ10:00退出。(※省略) 中川にてのりかへ(14:15)ナゴヤにつき一旦出しあと待合室をさがしまはり、(※省略) 依子、望をつれ重き荷物もちひかりの最も早きを15:13ときき他の車のりすごしこれにのり、東京駅にてtoilet探しまはり、 雨中、佐伯へにゆき電話かけさせればかからず。やむなく駅へゆけば傘いらなくなり佐伯に傘返し、 あす本売るとの『ルノアール(200)』買ひ、帰宅。(※省略) 山本治雄に3回電話せし怨みいへば「碁会所へゆきをりし」と。 6月26日 8:30さむ。日記かき了り10:10佐伯へ(※省略)山田『アジア香料史考(1.2万)』など買ふ。(※省略) 川久保午后来りユ、whisky出せしあと帰りゆく。われ令嬢の結婚予言す。(※省略) 6月27日 8:00さむ。12:00登校。3時限4時限ともに出席とりしのみ。大を呼び佐伯に本見せれば5,500くれし(成城の支払はあとまはしとす)。 6月28日※【斎藤病院 入院】 7:00さめ朝食すまし南阿佐谷より地下鉄御苑前にて東口下車。斎藤dr.に会へば入院命じらる。 仕方なくユと別れ一眠りすればユと大東をり15:00二人の帰りしあと藤塚さん(藤塚さんといふ付添さんに1,000与ふ。 竹内の奥さんに少し似し女なり)と話し、持込の黒アメ開く。 6月29日  藤塚さんに起され5:50にて眠りより覚む。血を美人婦長より採らる。朝食後、体重はかれば38キロ。 ユ来るかと時計見ればまだ9:24なり。(※省略) 3. 薬師寺衛 本名は倉田啓之助 お母さんにつれ子として入り 京大薬学部を出て軍医となり 京都師団の守るレイテ島に米軍上陸のまへ 全滅の最後の将校になって立派になしとげた わたしは母上にお目にかかって彼の写真と同じく 本当の京美人で半ば狂乱だったが 彼の詩集は東京の林富士馬に預け 戦災で失はれたとのことだったが noteが残ってゐて わたしはこれを写し わたしの発行した『果樹園』にのせた めぐみなかりし彼は今は天国にゐる あと数時間でわたしは彼に会ふ 「主よ 厚きおめぐみにてわたしたちに再会をあたへたまへ」 この祈りを主イエス・キリストによって捧げたてまつる アーメン 茂太先生来られ「よく眠ったか」と問はれ「ハイ」といひしあと、藤塚さんに食事のこときかれれば「よく食べます」と答へ、 そのあと一寸pãoとwine代りの茶のみてすむ。便意あれど尿のみ。amen! 6月30日 曇。5:00さめ8:30朝食となる。ユ電話、11:30ユ来り、昼食ののち帰りゆく。 ドリゴのセレナーデうたふ。ユは史の所にゆき帰りにここに寄る。20:20薬のむ。 7月1日 8:00朝食もて来しも食べず口にしたまま也。ユ「あす来れず」といひ遺言ききゆく(これに大の保証印あればよしと也)。 夏にノゾミ依子につき上京、方々見てまはるとともにわが遺言通り、望は 家は史夫婦の住居となり書庫たてます。喪主とてクリスチャンの送別式に招く人々はaddressの丸つきたり。 学園葬とてお花代払ひ、そのあと断りなしに西川来たり思出の会あり。参会者は皆われに怨ある人(高田と築島博士の弔問あり、懇切なり)、後悔して泣く。 病室の薄暗に藤原定子付添をユと思ひ違ひしたがやっとわかり、 (※以下妄語書き連ねあり。画像参照) ユ、入院の結果を院長先生に伺ひ早速本館2号室に入り藤沢さん立合ひ診察了りたまふころユ来り、 「前より軽い。4日以上はおきません」ときき来る。 ユ12:50帰りぎは、藤沢さんと内緒話しばらくして帰りゆく。13:20 7月2日(日) 5:15さめる。尿にゆく。朝食昼食ケンタイ(※倦怠)となる。午食に辛きものくらひいまだ痛し(0:00) 7月3日 5:30さむ。昨夜大便にゆき付添さんに迷惑かける。 11:00 (※以下妄語書き連ねあり。画像参照) 7月4日 8:00(6:15中起)覚め9:00院長先生見え「風邪です」といひ「食後の薬のむな」と仰せらる。 遺言 1.史は父のあとを継ぎ、藤井寺などの田中とは縁を切られた 2.依子は神経病だから呼んで斎藤先生の診察を受けなさい。 3.弓子は億万長者となります。昨日あげる筈だった切手は世界中探してもないものです。念の為おゆきが帰宅(紙)をすてる時は気をつけて下さい。 4.京は幸福第一デスカラカツクンと同じく遺産をあげます。 喪主 史に 1. 密葬は今夜中に行ひ遺骨をもって帰宅、おつやには別によばなくても来る人は来ます。 その席で盗難事件がありますが犯人は先ほどの3人の中の一人で自白し送検されます。 2. 史の赴任は兵庫です。南淡町賀集へ一度ゆき、ひいぢいさんと諢名のあった人と会ひ、御本家田万には丁重に挨拶しなさい。 3. 私の大切な手紙類は別置してありますから、あなたが持ってゐなさい。何百万円のものばかりです。 4. 正葬は柳田国男(兵庫県一のねっかちもの)の建てた母の館でキリスト教式に行ない、 あと呼よせてある教へ子たちを使って一応もって帰り佐伯に売りなさい。彼とは義兄弟の関係です。 5. 会葬式の中、最もよく泣くのは例の千葉です。うるさいですから別室で休ませなさい。記念写真は京のとった絵よりも克クンの画の方が宜しい。 学校葬などは総務局長相談して行へば十分まにあひます(庶務課長承知)。 6. the end 心の貧しき者を主は選みたまう 7. 伊藤(徳)が身づから来ます。これは齋主です。 昭和53年 7月 5日~昭和53年 8月11日 25.2cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 7月5日 ※田中克己訳讃美歌605(詩篇第23篇)貼付け。 7:40洗顔、体温35.8、体重38kg。そのあと院長さん来室。何ともいひたまはず。後に田中看護婦来る。 ユ11:30来り、薬貰ひゆく。ユ13:00帰宅す。郵便は高田瑞穂より「春風既遠近 吹到野人家」をはさむ(漱石の作と)ハガキもらふ。又々学長になれなかったらし。 他に國弘浩人といふ名古屋の詩人より。夕食後、己のことを「バカ愚か」と呟く(今日の気温37.4℃とて史上最高)。 7月6日 6:30起き洗面7:20(入院後はじめての気持のよき朝なり。) 9:00すぎ先生お越しになり「もはや心配いらず。退院通学は体重みてのち」と。 追悼式はすでに了解ずみの母の館、お花料はとってよろし。御香奠は一切いらない旨申しすみました。  ユキ子よ お前は雪よりも潔白で 他人の根性がわかりませんから 何事も一番の親友に相談しなさい わたしの骨は分骨し、田中家の墓と 教会の墓とに埋め分けなさい サンビ歌は284、285の二つで 先頭に600番、ついでいつもの通り行なはれます cardsは山田俊雄君承知(わたしのcardsに依ったで宜しい) 全集はチクマの井上社長にたのみなさい(筑摩破産と7/13) 損を覚悟の国の生まれです(島崎藤村、立原道造の碑のよこにわたしの碑(歌このみちを彫る)を並べて立てなさい)地元は承知 遺産はあなたが1/3、他の1男3女には迷惑がる金持がゐますが無視しなさい 「旅の空から富士山見れば」は学生に教へましたから歌はせるとす 竹森先生司会の下に厳粛に行はれます お花料の受取は史にやらし、お返しであまった分は日本キリスト教団吉祥寺教会の再建に寄付しなさい(定額30万5千円)。(※省略) 借金 佐伯に全集2つと本草綱目のつづき(学部への納本は完全にして下さい) 教会の墓地献金はあと3回とし305,000をなるべく早く納めて下さい 貸本 川久保君にあり。 私の葬式には泣く者が沢山ゐますが、あなたは伊藤とくを想像してはいけません 思へば大江の叔母はよくやってくれました 絶交 川久保悌郎君(他力本願すぎる) 江上波夫博士 羽田の奥さんのとりなしで羽田との絶交了りました 後任 後期の大学院は重久生にやらせ54年度よりは和田久徳君といふことにして下さい。 (前期の点はエンマ帖にかいてありその通りにして下さい) 恩師 みな亡くなられました 学園葬を断らないで受けなさい。(前例なく)キリスト教でもよく竹森マサカズ先生が司会をされます 一年後には築島博士、堀川博士と国文の栗山・池田・高田・山田の諸先生に案内して下さい(中西君は不遜ですから呼ばないで下さい) 讃美歌284番 祭壇の肖像画はあなたと戸田先生(※悠紀子夫人の絵の先生)とで画きなさい 実物以上に大切にされます 藤塚さんにはお世話になりましたので特別に他の看護婦の2倍さしあげて下さい。 平安なんぢにあれ アーメン 12:30ユ来り、原武夫氏(健次の父)の贈物マロン・グラッセ賜りしともち来る。 ユ「月曜に史の大阪国税局直税部長となりし」といふに「帰り美紀子に会へ」といふ。 午寝35分。骨は分骨し半分は教会の墓、のこる半分は田中家の新しい墓に埋めること。 全集の編集校訂選択は福地君(※福地邦樹)にまかせなさい。史は大阪にをりやりたくとも出来ません。 (出版社は悠紀任せ) 3. 薬師寺衛 米軍のPhilippina来襲ときき すぐ君を思った 旧姓梅原、本姓倉田啓之助 お母さんのつれ子として梅原博士なきあとを よくお育ちになり府立医科を出て応召 わたしの送った『李太白』をよみ了へたあと 軍医としてなすすべしらず逝かれました 白皙長身の美男子でしたが papaya,mangostineを食べたでせうか お母さんは残されてちょっと変になりましたが わたしの忘れていった傘は長男にとりにゆかせました あなたの詩の大部分は林富士馬宅の戦災でやけ 一部はわたしが写しました 主よ この罪咎をおゆるしになり ともに天国に呼びよせたまへ 主イエス・キリストの名のもとに願ひ奉る アーメン 7月7日 朝7:00にさめteleviの申込す。午寝1時間45分す。19:45若先生お越し。退院ゆるされず。 ユ京の家へ留守番にゆきしと16:30ごろ缶詰2ケもち来る。(※省略) ユの持ち来し『週刊文春』に長部氏(※長部日出雄)「保田と同日徴兵、3.19洗濯所で会ひ怪訝なる思ひせし」とかく。 19:15美人婦長さんお見えになり咽喉を洗って下さる由。 7月8日 よべ2:30付添さんのねごとで目をさまし便所へゆかんとすれば目をさまし薬いただく。ありがたし。6:00までねむりてさむ。7:20髭剃り了ふ。  春風 高田瑞穂氏に きみが画のノウゼンカツラ春夫邸のテラスに咲きしことは忘れず ユ、銀行、歯科にゆきしためか10:35に未現。 ひるがほの久しくなりぬ瘋癲の身はひたすらに治めんとせど ユ、消息なく午后14:30となる。可怪。ユ16:10来る。舟山逸子氏より「詩送った」と。 ユわびて帰りゆき、わが不貞を知る。(※不詳) 19:30小林さんといふ看護婦さんに扁桃腺炎とて腔内を洗ってもらふ。 7月9日(日) 2:00さめ1服。4:00さめまた眠り6:00さむ。8:30朝食了へ新聞よみ了る。9:30院長回診。新宿御苑への外出許可さる。 ユ13:30シュークリームもって来る。高田君に感謝のハガキかく。ユ・藤塚貞子さんと新宿御苑にゆき南方を思出す。 地下鉄に乗るユと別れ16:05帰院。温室の花匂はざるを再験す。  憶 亡児梓 主はみ心もてわたしの子 最愛の子をお呼びになりました 生きてゐれば死んだ子の年齢をかぞへます 弓子が生まれて3日目にわたしは手を放し 当時満2歳の子をいまも呼びつづけます 主よ み心にかなふことなら ヨブの如くわたしをなしたまへ イエス・キリストのみ名により この祈りを捧げます アーメン 田中看護婦さんに『ハイネ恋愛詩集』を約束す。 7月10日 よべ2服のまして貰ひしも眠れず参った。藤塚付添のこわいことよくわかり甘えた自分に腹が立ったのだと思ふ。 南方の草木を見るのはまだ早すぎたと思ふ。 9:30先生ご回診のあと藤塚さんと紀伊國屋へ散歩。ハイネ2冊買ひ一冊は藤塚さんに一冊は田中さんに買ふ。 cold teaのみて散歩了る。ユ13:00来りわが残飯くひ、史の(大阪)関西財務局(※ママ)への転任いひ、 怨みを晴らして16:00帰りゆく。けふ時々しぐれ降る(明日は来ずと也)。17:00夕食の飯みな食ふ。 7月11日 よべ眠りがたく婦長さんの一発にてバタンQとなる。起床7:30。昼食後、散歩に出、氷小豆(230×2)くひ、 四谷三丁目の本屋で『家庭の科学(1,450)』、『正論(450)』、『山草入門(430)』、『京都(580)』の4冊買ふ。 最後は婦長さんへと也。角力を新借のteleviで見る。夕食後、青田主任看護婦長に『京都』進呈。 7月12日 よべ2:30さめ1服呑まされ6:00覚む。(昨日よりtelevi見る)。7:30髭剃り了る。 食後1時間半散歩とて赤坂見附へ出、弁慶橋へゆく途中ドンボスコ社へ寄り2冊買ひ、teaのみて帰ればユ待ちをり。 着物、帯、下駄もち12:00来り、保険屋来ると出てゆく(『近代日本キリスト者文学論(2,000)』佐伯へ来しともち来る)。 7月13日 藤塚さんのとっておきの薬にてバタンキューと眠る。7:00前覚め洗面所へゆかんとして叱らる。 10:00散歩に出、市ヶ谷福久町にて耐え難くなり帰院11:30。 ユ来り「高田君のハガキは出さざりし」と。我の食ひ余しを一包にして帰りゆく。 夕食後、藤塚女とbusにて代々木。賑やかな喫茶店にてcoupleは2くみほど。ice teaのみ国鉄千駄ヶ谷へ廻り帰院18:15。 7月14日 よべ2:30さめ薬のまず再び寐、7:00前さめ洗顔。室内温度28℃。 増田晃君の霊前に捧げよと手紙を令妹中西すみえ様に送ることとす。ユ、共食しあすあさって自宅泊りと。 藤塚さんに有給休暇を、と願ひ出る。14:00ご回診。ユと東豊書店へゆき簡さんに辞職いふ。 (途中しるこ屋にて氷小豆食ふ。東豊書店借金なしと。わが退職を予言せしに夫婦して送りたまふ。) 『中国民間寓言(250)』と『中外交通小史(400)』買ふ。極度に吝となり可愷(※たのしむべし)。 ユ、夕食の残り食ひて去る。われテレビ見ず。婦長さんへの本「あすでよし」と也。  わが歌は古くしなれり新しき魂われに与へ賜へよ19:30 7月15日 3:00さむ。「ゆすらうめ書きし友死にわれ生きてたのしきゆめを朝夕に見つ」  総説 わたしの好き友はみな死に あとは老残の好色者ばかりである 主はお咎めにならず これらをもお迎へに来られる ジョゼフ、ジョン、ヴィヨンなど多くの姓名が わたしのリストにものってゐる 偽善者たちばかりで 心中を三回試みた気違ひ太宰治だけが 愛されるのはどうしてだらう 恩地さんといふのは姉上を見たことがある 江間章子は夏が来れば思ひ出す みな老醜であらう わたしの写真がそれを証明してゐる 主よ 芸術哲学を訳しつづけた松下武雄を 一番にお呼び下さい これらの祈りを主イエス・キリストによって 父なる神のみもとに捧げ奉る 増田晃の妹、中西すみ枝氏たずねたずねゆき般若心経読経し了り焼香して父御子みたまに彼の召天を祈る。 ユ、帰宅せしあと朝のdoctor.来たまひ「薬弱くした云々」。 午后中中西氏へ詩贈りにゆく(※不詳)〒に気がつかずまごまごす。夕食中、角力面白く、すみて田中看護婦にLorelei(※歌)教へ了る。 7月16日(日) 6:30さむ。一回も起きず爽快。腹へる。27℃とやや涼し。ひげ剃る。朝食旨かりしもpão一枚。ユ11:30来り、昼食平ぐ。 田村春雄より「少食心配」をいひ来る。わが間食を知らざる也。写真2枚やせてこわくうつりをり。 7月17日 4:00さめ5:00起き弱れども仕方なし。畑芳子氏よりの見舞もって来りしユ、疲労困憊す。 15:30共に手をとり16:00公舎につけば「おぢいちゃん」と見付けしは淳一。雅子も母のゐる方へ電話せしも不明。 4:30ごろ散髪から帰り来り美紀子平然たり!赤ん坊ヂイチャンといふに喜び、餞別(50,000)おきて自動車(450)。 4:55帰宅。(若先生「サアネ」とのみ。) 夕食二人にて食ひしあとアンパン買ひにやり、われ畑さんへ礼かきユ帰るに托す。 夕方前の本屋へゆけばハイネ着かず。とりけしよしとて『週刊文春』と『大法輪』買ひ帰室。藤塚さん本買ふ。 7月18日(※悠紀子夫人代筆) 朝9時30分頃、家に帰り藤塚さん地下鉄にて帰す。 食事を11時頃、晝食し川久保家へ電話して1時頃ゆく。 帰りて二回電話にて返事し田村、宮川、坂内生に電話。 佐伯に行こうとしたがしんどくなってゆかず。夕食、鯛の塩焼き、スープ、しじみ汁を食した後、佐伯にゆき100円にて『中国出土品』の雑誌買ひ、 帰宅後和田久徳氏に電話すればまだ五年程先があるとのことで又考へることにして8時半ねむる。 (午後一時頃、長部氏来り、電話でしかられたことに、来ってしきりにあやまり、早々に帰る) (『日本の詩歌24(480)』を買ふ。) 7月19日 5:00すぎ覚む。散歩5分(戸田氏訪へど返事なし。) 朝食不足、7:00また間食。 card作り田村生に電話かかり「勉強してかけ」といひ、 山田教授に辞職申し出づれば「月末話しあはん」と。(※省略) 佐伯に「本とりに来い」といへば(※省略)6,000に買ひ、 (※省略) 電気屋来り「あさって冷房す」と也。田中於莵弥氏、東海大学教授にして仏教学者らしきに喜ぶ。 15:00出て小田急大食堂にてユはcurry、われはsandwichとり(350)半々ならんとしてユの方大食せし。 16:00病院に帰れば藤塚女、手仕事しをり。(※省略) ユ帰りしあと藤塚女の態度気に入らず大荒れに荒れ20:00院長お越し、注射2回にて収まる。 7月20日 6:00起き8:30院長回診。おわびし回診つづけられるに平坐して拝む。主における感謝なり。 午すぎ眠り目覚むれば、16:00ユ、来りし也。昼食残りしを2人して食ひ、外出。 渋谷の大書店にて『愛誦歌集(950)』と『足ながおじさん(180)』買ひ、あすの小使ひにて喫茶、(※省略) 17:00帰院。 7月21日 荒れ、20:00までせしことよくおぼえず。藤塚氏と常に旁らにゐてをかし。16:30ユ帰る。 よべ8:00に寝、薬山ほどのまさる。(※省略) 8:00さむ。体不自由にて外出とめらる。別れの歌うたひ退院間ぢかし也。 8:30朝食、旨くなし。(※省略) 13:00回診。若き先生にて「むりするな」と也。 藤塚嫗に100円の飲物買ひにやらす。風邪とて外出許されざる也。15:45ユ来る(昼食の余り食ふ)。ユ帰りしあと眠る。 7月22日 ユ15:30来る。けふは静かなり。築島博士よりオレンジ2ケ賜ひしと。televiしばらく見、小林婦長に小林軍曹の話きけば「知らず」と。 風邪気味とて外出許されずtelevi見、20:00小林看護婦の見舞あり、有耶無耶、歌をうたはす。 7月23日(日) 聖日なり。9:00回診(院長先生に会はず)。 院長に会はせろとさわぎ(※ 走り書き読めず省略) 外出せず。藤塚を断り、人の付添を止める。 藤塚女史を解雇し武藤女史替りとなる。藤塚女史「沢山の患者の中、手こずったは汝一人」と。(※省略) 田村春雄より「少食心配」と。 7月24日 (※ この日の前後、走り書きにて読めず。) 7月25日 ユ9:00より来り12:00覚めしと。史宅へゆくとのことに代りにゆかせ、はっと気がつき電話すれば、すでに他人(※新しい付添?)が入ってゐた。 7月26日 ユ、史宅へゆきしと。電話すればすでに他人が入りをり。苦笑しつつ病室に帰り体温計れば35.6℃。フルート吹く男子見つけ「来よ」といへど来ず。 朝7:00さめ歌うたひに便所にゆく。もとより小便のみ。帰案すれば先生お越し、古希の祝には呼ぶと也。 憂ならざれど外出止め他室との会話も許されず(10:00)とのこと我は覚えず。12:00の昼食のあと付添に有給休暇を与へ、 われは『世界の歌唱歌(※不詳、『世界の歌曲集』?)』をよみうたふ。1服して東棟にゆけば音楽をやる青年あり。しばらくききて「来よ」といへど来ず。 14:00前、付添武藤女帰り来る。武藤女、歌すきにてまあまあ也。 ユよりの電話「晩来る」と。グズめ。「武藤さんゐるか」と大婦長、恰も出しあと也。行先もおぼえず。 長くねて10:00さむ。ユより電話「けふ晩飯食ってから」と。愚図愚図す。昼食後、ユに電話すれば前と同じ。 付添の武藤女、あまりせかせかとせず。ユ16:00までをり。地代の検査は昨日せしと。(ユの話にては「大阪の熱40℃となりし」と也)。 武藤女、冷■にて却って喜び最後の払ひもすませしあとグズグスゐる故、夕食出しをへし後に追帰す。明日病院の払ひと来る由。 今日は手紙類ゴチャゴチャ来りし故、婦長にやりしあと始末をしらず。いよいよ『唐話辞[彙]』の決心す。築島博士より見舞。 相野忠雄より蒲郡に集まりし。38名位かと。西川への申し込みの半分にて気の毒なり。 7月27日 4:30快く覚む。体温7:00に35.7℃。洗面、髭そりのあと歌ひ、歌の本は田中看護婦に渡せしと武藤女史の言。(※とりあげられたか。) 但し退院の日にもらふと也。築島博士へ見舞の礼状かく。ご回診なく、10:00相野忠雄に返事かく。猛暑34℃(室内29℃) 14:00見知らぬdr.お越し。わが語学の論に(※不詳)ゆき玉ひ、夕方の外出も許さる。 夕食後、武藤静子と御苑沿ひに探せしも古本屋見つからず。 (ユ「あすは来られぬ」と。聞けば4畳半つぶし書庫にする。植木のことも本多地主に交渉云々。) 7月28日 6:30さむ。十分ね足りたり。7:00まで洗面できずと。7:05顔を剃りしに1ヶ所切る。9:30bus停留所で待ち、10分ほどして来りしに乗り、渋谷終点。 大盛堂をマゴマゴしてのち見つけ6階にて『ハイネ恋愛詩集』、『世界名歌集(2版49年)』を探しあて、あと4階にて武藤女史のお伴をし、彼女は買はず。 『川上澄生の世界(1,800)』買ひ、早大正門行のbusにて帰院。入湯快適なり。昼食欲あれど食へず、はもの皮のこし残念なり。(※省略) 夕食すみて散歩し信濃町の古本屋見んとすれば休みをり。近くの新本屋にて『宮沢賢治詩集(300)』と『西條八十詩集5版(260)』買ひ、 もう金なしとの武藤女史の言に早足にて帰院。pm6:00 7月29日 6:30さむ。快眠にて朝涼。7:20茶のむ。8:15やっと飯出る。かかる空腹はおぼえなし。ユ夕食後来ると也。 南棟1号の青年と話し、やや通ずるものあり。午食12:00に了る。ユ持参の海丹が美味なりし。12:30代診先生お越し、われに引きずられ苦笑のみ。 夕の散歩許さる。16:00歌うたひ了る。ユはいつもの如く遅からんと腹も立たず。今日は33℃(屋内)。16:30ユ来り、武藤女史と3人で出、ユ四谷三丁目よりsubwayにて帰宅。 われまた昨日の本屋にて『文学界8月号(460)』、『中国故事物語(950)』、『日本語の文法を考える』など買ひ、武藤女史の呟くをききすて、慶応病院の裏口をぬけて19:10頃帰室。 大婦長「お帰り云々」。けふ川村欽吾のハガキ受手、北園克衛の死を知りたり!(※6月6日逝去) 7月30日(日) 6:20さむ。渡辺登美子・藤田幸子様に返事。笠原文恵・西阪修・川村欽吾への返事。 散歩、紅茶のあと11:57なり。(※省略) ユ16:30より夕食を二人で食ひしあと千駄木駅の売店にてハガキ20枚、エコー10袋買ひ、ユに本もたせ返す。 (竹森先生「Koreansのマルコ伝再入手」と) 感謝々々。 7月31日 よべよくね、2:00ごろ尿にゆきしあと眠る。ユに電話して10:00代々木会館前でときめ、代々木駅前のtoiletにて快便、茶のみて開館前に10:00つき、 10:10来しユと2人で東豊書店へゆき『台湾[書]店4冊(16,800)』、『新約全書(800)』、『中国風俗史(280)』買ひ、大学院向きの本とともに大学へ送らすこととす。 簡さん喜び、ラーメンはだめなれど云々にことわり切手沢山もらひて電車(80)にて千駄谷駅下車。 重き本もさほど事なくすませ入湯し、昼食出しを二人で食す。寡哉仁なり。(※巧言令色?) 御来診を待つ(ハガキ10枚買ふ)。丹波千年死にしと(7.24)。 14:20御回診の直前、ユ銀行へと去る。副院長先生お越し。おおぼら吹きて苦笑しゆかる。16:40夕食来る。15分にて半分食ふ。旨けれどあとはくちつけず。 楊雲萍教授にお祝かく。夜、石川看護婦来る。けふ我が67回目の誕生日なるも忘れをりし。(※誕生日は8月31日) 8月1日 7:00すぎ覚む。珍し(よべ睡眠薬のまず)。9:00前院長2看護婦つれて来室。「いつまでもお置き下され」に苦笑したまふ。 武藤女に楊雲萍への栄休を祝する手紙かき、9:05もちゆかす。(※省略) ユ10:30来り、坂内と宮川の論文もたす。宮川生の関帝信仰の前書マアマア也。正午すぎ気温29℃とやや涼し。 雨止むを見て茶のみ散歩。(※省略) 夕食後、10号室の患者を教訓し18:40帰宿。 8月2日 よべ8:00に寐、6:00さむ。10時間熟睡せしなり。朝食旨し。 7:10家に電話しユに「けふ帰宅」といへば武藤女、電話とり「けふ来い」と。ユに誠に相済まず12:00過ぎ忙しき中を来ると也。 梅雨晴にて一瞬一天無雲を見る。院長先生御回診に「8月6日退院」と申上ればゆるさる。 「若い者どもをはげませ」とのことにのろき晩餐(※ママ)すませし二青年と歌ひて疲る(10:15)。 10:30外出。近くの「琴」にて喫茶(650)。引返して新本屋にて『江戸雑記帳(320)』、『シルクロードのことばと言語(500)』、 『読書こぼればなし(280)』買ひて気すむ。 あとは午后5:00頃ユの来るのをまつのみ。ユ12:00来り、残飯食ひ西垣脩君の逝去を伝ふ。新聞に出てゐしと也。 庄野龍也君より「8.12来たし」と。(※暑中見舞 省略) 『花神風11号』来り「夏休みによめ」と。トンでもない話也。 13:45~14:00までひるね、珍し。富山で39.4℃、戦後第一となりしとtelevi。夕食後四谷見附まで散歩(喫茶代500)。 8月3日 6:20覚む。よべ20:00就寝ゆゑ8.20寝し也。 暑さつづき今日も30℃より始まる。冷房はよけれどユに電話「迎へに来よ」といへば「すぐ来る」と。 ユ11:10来り、院長に退院願ひにゆく。われも小林看護と話し笑はせてすむ。 工藤克彦千葉県の採用試験のため8.8上京と。 ユ、院長さんに会ひ8月6日退院許されしと也。8.6退院ときまりしと。 地下鉄にて南阿佐谷着、川久保家に赴き15:10帰宅。彼をはげましてのち忘れ物せし事をユ、承知。 川久保置きて早々帰りしと也。電話して礼いふ。山田、築島両教授とも夕刻帰るとのことなりし。 佐伯書店17:30来り、3.8万にて佐藤春夫の本、引き取ってくれる。 築島博士よは電話くれ「近々高田の慰問会やらん」といへば賛成。高田君は電話かからず。 「丸重俊、台湾見物してまだ帰らず」といふが丸(※三郎)の返事なりし。 8月4日 高田君に電話すれば高山へゆきあさって帰宅と。築島博士に高田君の返事まちといへば「7、8日宜し」と。 船越苑子に電話すれば「すぐ来る」と。山住閣下に参れば朝食前と。白髪のひげ剃り玉はず。 中川さん9:00来り、改造してくれる。観世英夫(※観世暁夫?)より電話、欠課なくせ、私の中国文芸史は100点やると約束す。 (石田)堀口嘉子女史より「晩婚いやたのし」と便り入りしpudingひと箱賜ふ。これにて斎藤病院の看護婦への土産出来し也。 17:30看護婦長回診、あさってが院長先生の日と。 8月5日 20:30就寝。5:30覚め雪隠へゆく。小のみ。朝食少したべ、アメヤ横丁 武藤女に誘はれてアメヤ横丁(9:20-11:35)「寮(つかさ)」で喫茶。武藤女の贈物考へしに「皆不好」と。 11:35帰院。墨岡先生お越し、わが漢方を説き(※判読不能省略) 19:40浅香看護長お越しいただき、やさしく訓示さる。 ユ意外に早く来り、ともなひて新本屋にて『岩波国語辞典(1,200)』付添女史に買ひ、かくすつもりが、あけて見出し喜ばる。 夕方みな留守となり20:00すぎねて6:00ごろ覚む。 8月6日(日) ※【斎藤病院 退院】  (※ただしこの日の日記以降、意味不明個所多し。) 朝涼しく、快適なり。9:00出て日曜休店の中、ただ一つ開けるタローにゆき珈琲久しぶりに飲む。旨し。 すぐ向ひの丸正で武藤女史に買物ありと。われガマンして20分して帰院。あとユの来るを待つのみ。 12:40ユ着き、昼食平げ、13:30薬剤103,000払ひ、佃煮のコブ巻き上げ、お礼院長へ5万円、 薬剤ならびに看護婦(5万円)、付添5日分にて4万910払ひてすみ。 院長先生に婦長よりsign望めば許され3冊すむ。小看護田中氏に『世界民謡』差上げ、 飯ののこりをユが食べしあと、婦長さんのsenciで院長先生御得心。(※不詳) (その前3冊の著書に、竹森先生へと著者のsignあるを返却、師喜びてsignもなさらなかった。(※意味不明) 田村※※に電話すれば中々かからず。ややして彼女の方より電話あり「書いてゐます」との事なり。 8月7日 6:30さめ竹内未亡人へ電話にて礼。 (13:00ごろ) 築島さんを地下鉄へユにゆかし、我30待てども来ぬゆゑ帰宅すれば駅にて待ちわぶと也。 我9:00~9:30まで待ちしといへば、もはや大丈夫にて、「待て」といふ内、9:50ゆけば「駅下のbenchにをりし」となり。 (※不詳)駅の前にて[立]ちゐし。電話かかりしとて駅前にて待てどくらせど来ぬをいひ、我詫まって鰻汁にて昼食し、きれいな話して(※意味不明) 2人とも微酔にて14:00帰りゆかる。 丸重俊シンガポールよりたより。のろまめ! 8月8日 よべ21:00より眠り6時さむ。母の神経痛みぎ。 10:00~11:00宮川叔子のためcopyやにつれゆき(例の名刺する家)、田村※※生に来ねばおとすと脅し、午食(このごろ4食) なり。 16:00工藤生来り、土産として田舎菓子くれる。 山住の坊や(※家庭教師に)18:20に来り、遅刻いましめれば「先生は母に10:00~11:00ときし」神経病なり。(※不詳) 気をとりも どせといひ、早寝する。 千葉県の田村代議士(三重一区松坂出身 ※三重2区の誤り、田村元。)夜、電話かけ来り、ガンガン叱られ一向わからず、謝りしも聞かず。 こちらより電話すれば、自ら「先生のsemiたりぬが也」と。「ハイハイ」といひ、すむ。教試受けると。よせともいへず、落ちることたしかなり。 8月9日 斎藤先生へゆき叱られ、大学教務より辞職願の届け書見本を呉れといへば、 総務部長に会はんとせしもその要なく見本2通を呉れ、ユとともに図書館にゐる管理人に会ひて礼いひ、 昼食を少しとり2,800払ひ、成城の和定食殆ど食へず。 ユに「待て」といひ、成城堂4,550、母上はと云へば亡くなられしと。アイヤといひてすまし、 帰れば高田(※電話で)さすがに「そんなこと(※不詳)通るか」と断言。 (※高田瑞穂宅へ)お土産beerと刺身(2,000余)もち、赤電話にて「今ゆく途わからず迎へに来い」といひて南口で待てば、 なるほどわかりにくく、田村代議士のこといへば「問題にもならず」と大様なり。うれし。 北口にてtaxi拾ひ、道、ユ教へ、阿佐谷駅南口に着きtaxi1,500払ってもらひ、佐伯に寄れば水曜休み。 入りて奧さんに聞けば(※ツケ)大した額でもなく、 戸田謙介氏にあひ「開亭主人のペンネームにてかきたし」といへば「よからう2pageにても良し」云々。 警妻会作らんといへば「わしはこわくない」といひ二日酔いとて昨日届けしことも忘れをり。 奥様には話通じ、喜び、丸重俊20:00来り『台湾地図』とknifeと長寿牌2ケを土産に呉る。 20分して帰りゆきうれしや、入浴し21:00臥床。22:00眠りし由、ユに教はる。 8月10日 7:00起き快便をし、(※以下空白) 昭和53年 8月8日~昭和53年12月 3日 副題 原爆をとりこわせ『瘋癲日記(ユ執筆)』 25.2cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 8月8日 田村※※の父代議士より※※怒りをり云々、次の電話にて本人出てわが「笑談」をまにうけてきかず。 例の如く悪きくせ。関西弁と関東弁の違ひ高田君に云って去りがけを旨くせんとす。Ahmen! 8月9日 佐伯書店にゆき4,500の払ひをし、11:00国鉄。11:30教務課と総務課の間をせき(※急き?)、併合鍵で研究室あけて貰ひ、講師室畑女史留守となり。 教務課に礼云ひ、総務課に退職願2通ただで貰ひ、成城堂はねるを見て定食(600×2)ちょっととり、 高田君に(※保護者からのクレームにつき)助け求むれば「そんなこと気にするな」と。 持ちゆきしbeer(900×6)刺身(1,200)をもち、駅南口でまっているとのことに、彼現れる間10分の永かりしこと。 Lemon(※不詳)のお返しにゆき帰りはtaxi(1,500)にて阿佐谷駅につき、佐伯の休とて返事きけず。 8月10日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆) 今日はむし暑くいやな日なり。朝、水やくのめどもちっともねむくなく便意あれども出ず、風呂と便所の間を六度もいったりきたり少しづつ出たが、 長谷川先生(歯科)に行くとだだをこねるので、築島先生にお電話すれば、先生風邪でお休みで、奥様が日曜日はやっておりませんがとのことで納得す。 川久保家に電話すると明日11時頃なら行くと云われたのを午前中待ち、来ないのを、承知だと云って夕方、重い袋さげ川久保家に行くと云うので、 ついて行き10分ばかりするともう一人で帰ったとのことで、奥様と話をしていた。私はかけ足で家に帰ると五分程遅れて、おもいおもいと帰ってきた。 留守中、京がきたと手紙と土産があった。(※省略)  水やくはききめなく、よく怒ったが、夕方食事後ねむり(7時-9時)、その後最後の薬のみ、朝5時半まで眠る。 だんだん静かになってゆくらしい。食事もわりと食べた。 8月10日 7:00、9時間の眠りよりさめ、きのふ戸田家留守なりしこと、鎌田、大藤のこといへば答へず 「そんなこと俺は某女よりききし」と。「ペンネーム承知。明日もて来い」と。 1.500の月々お礼するときめ、宿酔の戸田大人(※戸田謙介)そら返事せし。 わが[病]も「後刻一診ののち可■哉」と也。(※不詳) 「カカア殿下会長となれ」 といひしも「風呂へ入れ」と、水よりぬるゆに変へて入り、 水ブロ入り爽快なりと也。 8月11日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆) 朝9時、家を出て病院に薬取りにゆく。弓子は10時頃来てくれた。朝早くおきたので食事2時間位ねていたらしい。病院は休診日なり。 水曜日にゆくこととし、もとの薬なり。晝食事土産のサンドイッチわりにたべ、又弓子が帰るとねる。(1時半位) 8月11日 ユの眼明かぬ内、南1丁目1にあり。花籠部屋探せしにわからず参ったことに(※以下空白) 8月11日 5:00さめユ起るを待ち、1時間の散歩(5:30~6:30)し了へ爽快。西川に電話し、夕方夫婦でゆくと云へば夫人喜ばる。 8:30壁塗りとて中川さんみえらる。母に電話すれば神経痛の手当してもらひ、以後我家に来ると。 大来り「母来る」と。なるほど母ねてをり。時々我がいふことに肯く。 ユ、篠田博士(※篠田統)の「10日肺癌で逝去」と可惜。但し78歳と。喜ぶべきか否かわからず。 ユ喜びに、よし関係なしと。「前沢外科(1週に1回)一寸きいた」と。 8月12日 5:00ユの眠る間に脱去、朝鮮学校閉ぢ、大、西川満(※の家)ともにわからず、柏井に行けば、尚子をり。「お兄さん」といふに気まぐれ。 タバコありマッチなしといふにすぐもらひ、7:30帰宅。朝食くひしは午后、きけば「戸田さん原稿を投げ」(※繙読不明)夫婦して呆然とするのみ。 『民間伝承』をしらべれば(※以下繙読不明) 8月13日(日) ユを礼拝に追出したあと佐伯来り、端本と借金とで2,000呉る。喜びて飛び廻るをやめ、来し大と、神経痛といふ母の甘えたに2人とも困りゐる処へユ礼拝より帰り、 喜びで大を「談炉館Petit Palais」にゆき「田中克己のこと書く」時のために役立つといひ西島家のことはわからず給仕たちに(※以下繙 読不明) 10:30大来り、12:10ユの止むるをきかず、複写させ、ユに「よろしくと伝へよ」といひ、これが常識といへばうなづいて、 本多家にて「わかったわかった」と逃げゆく。時に13:40也。(※以下繙読不明) 八月二〇をすぎるとダメ。来る時はいい店「談炉館」で来れば(※以下繙読不明) 8月14日 朝5:00にさむ。丸家にゆき意外にも(※療養中の丸三郎)元気でともに喜び、カカア共の悪口云ひ霊山の翁草の礼云ひ「重俊呼べ」といへば出て来る。 叱り乍ら、途案内どころか色々教師のあり方おしへ、そのあと「また来い」といへば「ハイ」と答へ帰りゆく。(※以下不詳) (※悠紀子夫人代筆) 午後より川久保家にゆき丹波(※鴻一郎)と三人で土曜日に会をしたいと思ったが丹波の都合であとにのばす。四時半帰る。 8月15日(※悠紀子夫人代筆) 朝8時半家を出て病院に行く。相変らず口数多くにぎやかで歌をうたう。先生が今の薬をもう一週間くださる(高いのをおさえる)。 東豊にゆけば簡さんと(※以下不詳) 8月16日(※悠紀子夫人代筆) 起き、方々に電話してもかからず、大に電話すれば「至って元気」(※省略)10:00宮川来り、素麺食はし下書預かる。 13:00彼女クルクル舞して帰り15時ごろ三治夫人より子供自慢の電話。 夜、ユ顔色かへてドナリ、夜の散歩やめ8:30薬のみ、9:00にはいびきかきし由。ふしぎにもありがたし。 8月17日 6:00さめユのゐるところの(※以下不詳) 8月18日(※悠紀子夫人代筆) 今日は川久保10時に来り、おこって帰った。1時間ひるね。 手紙も葉書も支離滅裂で心配なり。日記も書けぬに弱り、佐伯にゆき、オヤオヤと思ひしは(※以下不詳) 『上田敏全集(12,000)』あと2巻で終りとしてくれとたのむ。 21:00より6:00まで眠り、2:30~3:30までユの眠り妨げ、6:30覚めユを叩き(※以下不詳) 8月19日 24:00にねて2:30さめ、ユに叱られながら6:30朝食とり、ユに叱責愛情のあらはれ、 ユにいはすれば「利己主義(自己中心で他人かまはず)不可思過去」と叱られ、hysterieかと心配せしも、佐伯で1,800をかりて帰る。 (※以下、悠紀子夫人代筆) 西川英夫、自動車で13:30頃来てカステラ一箱土産に一時間程してコーヒー館に案内して帰る。 16時より一時間半ひるねする。夜は22時にねて、夕方からはたいてい少しづつおちつく。 今日で中川さんも畳屋さんも終り、月曜に荷物かたづけに来ることになる。 8月20日(日) (※悠紀子夫人代筆)礼拝をやすみ、八時半頃、家を出て佐伯書店前にゆけば閉店なり。国鉄にて病院に行けば相変らず躁にしてさわがし。 先生にもの忘れと知力低下とを云えども、ただ考え込むばかりで「来週の日曜日に来い」と。 さわぎながら「ジャックと豆の木」でコーヒーのむのをガソリンスタンドの蔭で待って、東豊に行くと千駄谷駅を経て歩く。暑い日なり。 途中、老人を見るとしきりに上官だとわけのわからぬことを云ってケイレイをするので相手はただわけわからぬ如し。東豊は休み。 阿佐谷の佐伯書店で1,800返し又530買ふ。花屋でキンカン1,000、ねむり草100買ふ。風呂に入り晝食後13:50にひるね。 午前中はまだまだ躁が多い。これで躁4ヶ月つづく。いつになったら落ち着くのだろう。もうつかれた。 [といひ13:00ユの命令にねしも駄目(※ここのみ本人筆蹟)] (※悠紀子夫人代筆)なり。 いけないと云ってもだいぢなcoffeeだと云ってcoffee屋にゆき、 ずい分おそいので眼鏡屋にはしってゆき、注文した眼鏡受取る。5,500也(ふちだけ)。一番古い形はこれしかない。 19時にpetit palaisより帰り又々借金。1,700もって返しにゆき夕食むりに一膳たべた。 それから田村先生に手紙を出すと便箋2枚に書けどめちゃめちゃにて体をなさず。あきらめて22:00ねる。 8月21日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時起きる。電話の声にびっくりして飛び起きると主人が山住さんのお老人(※「山住閣下」)に掛けていた。 奥様が「まだ主人はねていますのでいづれあとで」と電話きれた。まちきれず佐伯書店に行く。 中川左官屋さん三人みえて荷物をかたづけてくれる。急いで太陽銀行に行き金を出し、中川さんに330,500、畳屋さんに45,000をはらう。 佐伯さんのかり1,200、コピー屋のコピーと茶代合計3,700なり。いくら云ってもわからないので、はらもたち泣きたいくらい。 丸夫人13時すぎ見えてうにと肉のつくだにいただく。御主人(※丸三郎)の事こぼし、これから気ばらしに娘さんの所へにげてゆくとのこと、同じ気持にしみじみ同情する。 家中、本でかたづかないが、あまりせくとつかれもひどい。そのまま早く(20時)ねかせる。 8月22日(※悠紀子夫人代筆) 午前2時におこされたので朝の薬をのませるとそのままねて5時頃おこされる。その後、洋服きて畑さんの学校出勤にあわせて九時すぎ家を出る。 心配でたまらず、ついて行こうとしたが一人でためしてみたいと行ってしまった。 電話10時にかけるとまだ見えない。中田さんがさがしてくださった。すぐ電話あり元気そうだった。 タクシーで真っすぐ、より道せず帰るよう頼んだが、タクシーで家まで来ず、 小田急口の前でとめて、金がないとて(家からは4千円もって出たのに)、もってこいと云ふが、 タクシーで家まで来るをこちらではらうと云へど、さっぱり帰ってこない。ぢいーとして家出ることも出来ず。 その内12時前、電話で「お宅にこう云う人はいますか」と運転手の声なり。2,500返してほしいと云って区役所まで来てほしいとのこと。 あわてて1萬円をくずし飛んで出て廷から入れるようにして、いそぎ帰れば(タクシー1時間待ちの金もこみ3,000円運転手に礼をする)、 (※省略)晝食は3時なり。風呂に入り相変らずぶつぶつとする。まだまだ思い込みと希望的な思い込みがなほらない。 学校で築島先生に電話した。小田急14階でお待ちかね、一緒にスープをのむ。タクシーはまたしたままわすれた。 小田急で1月分の定期(新宿-成城)を買ったつもりだが帰ればなかった。明日探す。定期券、手帖の内より拝見1ヶ月3,000也。 夜、方々に電話するがちぐはぐなり。20時ねる。 8月23日(※悠紀子夫人代筆) 明方4時半おきてごちゃごちゃ云うので朝食後の薬をのませると5時半頃またねる。6時半頃おきて一度、佐伯が休みだというのに行く。 それから11時、寿一さんが来るまで家にいる。寿一さんに葡萄とラムネいただく。ソーメンを一緒に食べ1時間半位するとつかれて落着かず。 coffee屋にゆく。花屋にて花二鉢買って帰る。寿一ちゃんは自転車で帰る。その後風呂に入り、ひるねもできず、夕食す。 19:40頃、母の家にゆき30分して出て五叉路まで来て河北の所の道を私はゆき、違う道をさっさとゆく。9時前帰宅。 主人は23時ねむるが4時頃めざめ朝の薬のむ。 8月24日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時おき散歩に出る。 帰って「旅行(近鉄)の申し込みした」とい云ふので「まだだめ」と云うと「先生の顔をつぶす」と怒り出し暴力を振るう。 後、河北のそばの本屋に2千円もってゆく。午後弓子きたり話相手がありたすかる。夕方より元気なし。鬱か。 この様子、二三日前よりあり。今日便通なしとて大あれせるがやっとあった。やれやれ。 その後は気持落着く。散歩などして学生まつが来ず。 弓子下の子を連れて来る。本かたづけしてもらうがすぐ「休め」と云っておしゃべりがたのしいらしい。 夕方5時すぎ帰る。夕方よりやや声ちいさく軽い鬱の様子。 夕食後、ねむくなり9時やすみ、明方四時頃一時目ざむ。又そのまま2時間程ねて朝七時半おきる。 8月25日(※悠紀子夫人代筆) 朝、ねむりたりて調子よく、9時半ごろ川久保さんのところにゆく。2冊買う。 10時家より電話かけて書原(区役所の前)で逢ひ、又4千円渡し(朝の薬はのませず)体重ハカリを買う。2,450円也。主人体重36キロ。 晝食後、小岩の歯科に行くとて総武線にのる。やはり歌が出るので小さい声でとたのむ。 駅に下りても蕃地もわからず名を思い出せず。やっと14:30にみつかる。3時からと云ふので私一人門前に待ち、 主人近所のそば屋に行き、3時に開き、急いでむかいに行くとまだなめこそば箸つけたばかりで600はらいてゆく。 待合所でお客と盛んに話し歌を唱うので「(※ここを紹介してくれた)築島博士の顔をつぶすな」と云うとおこる。 自分の番になりおとなしくなるが、部屋から出てくるとむりに私をおし込んで「歯をぬいてもらへ」と云ふので、 先生に「今度」とたのんで、駅まで来ると「この辺は土地が安いからここへこよう」と云ってきかないので、1人でさっさとキップを買う。 彼も100で買い、同じ電車に乗ったが阿佐谷でさがしてもいないので先に家についた。主人は丸家による為、中野で下車。 古本屋にて5,000の本たのみ、丸家わからず電話して重俊さんにむかえにきてもらひ、夕食いただきおくってもらう。 入湯して9時半ねむり薬のむ。今日は夕方も躁なり。曉方3時おきて4時薬のむ。 8月26日(※悠紀子夫人代筆) 7時半おきて静かなり。朝、太陽銀行にゆき金を出し印刷屋に名刺代2,700払へば「変な暑中見舞主人にたのまれた」と原稿をみせる。 今度からはすべて私に電話するとのことにして家に急ぎ帰れば佐伯さん来ていて古本5,000也で売る。 今日はわりに静かに晝まですごす。3時すぎ中野の十月書房に昨日の借金15,000をはらひにゆき帰ると、 「田中於菟弥さんに電話したらすぐ来い」とのことで、ゆくと出てゆくので小遣2,000もたす。 幡ヶ谷3丁目を探したが「わからない」と電話があったので「自動車ですぐ帰れば杉並区役所前でまつ」と云ったが、 耳に入らないとみえていくらまってもこないので20:30頃、田中様に電話すると 「近くのメイゾンと云う食堂より電話あったがそんな人はしらないと断ったら代々木警察に保護してある」 と云うので、急いで阿佐谷駅前の交番で場所をきいている所に大さんもきてくれて二人で自動車で行く。 躁心の主人をつれて帰りしみじみ話すと「わかった、わかった明日から気をつける」と。ねるともう24:00す 8月27日(日) (※悠紀子夫人代筆) (この日より煙草やめ) 暁方5時前よりおきてごちょごちょ1時間位話し、朝食後の薬をのみ8時半おきて急いで病院にゆく。 五六人待ち、やはりにぎやかなので婦長さんに早く入れてもらい、 (※斎藤茂太)先生にこまったことをお話すると「外出禁止、電話かけぬ」と約束させられ得心して入院せず帰る。 アイスクリームをたべ、真っすぐ帰る。その後静かなれど和田夫人見舞に来るや突然おこりだす。 「わざとおこったふりをするのだ」と云うがいつもの通りだと思う。 佐伯さんにことわりを云う。家に静かにしていれば早く良くなると思う。 8月28日 (※悠紀子夫人代筆) 朝7時半から散歩。1時間して帰る。切手と葉書買い10円もないとて他人にかり100円返すと相変らずおしゃべりやまず。 午後1時「川久保宅に行く」とて近所の鈴木さんに寄り話し、川久保さんについたのは3時頃。 電話をかけるとすぐ帰ってきたが途中で「川久保さんをなにかおこらしてなぐられた」とか云うが「思い込み」と相手にせず。 自分で電話をかけてひどく奥様にどなる。川久保さんに2,000お借りしたらしくお返しする。(※省略) ふらふらするので山住先生に行けば血圧170.大変心配されて、帰り主人に明日から外出せぬ約束させる。 まもられたら再入院せずにすむか最後の望みを托す。夜九時半ねる。 8月29日(※悠紀子夫人代筆) 4時起き風呂に入り又2時間ねむる。今日は約束よくまもりおだやか。食事もせいだしてたべる。 晝からも出ず、風呂に入っている時、山田先生より電話あり。T学生(※田村生)とのトラブルの話を御ききになったので、 ざっと(※今般の病状悪化につき)説明して後、主人電話口に出る。「大したことなし」とのことで安心したらしい。 カードはいづれ休み中にとのこと。御自身熱があるとのこと御大事にと電話を切る。 今日はやはり夕方より口かずも少しへる。夕飯は少々なり。 8月30日(※悠紀子夫人代筆) 保険の集金人に午前どなるので病院にたづねて「もう少し[(※薬を)強?]くしてほしい」と云うと 「入院するほうがよい。府中に行ってきいてみろ」と云うので電話すると「明日こい」とのことで、 電話して弓子に午前中の留守たのみ1日中やはり調子悪し。 歯科にゆくつもりで丸家に忘れた歯の薬もらひにゆき、駅近くで餃子3人前買い、たどりついたら12時すぎ。 晝たべて血圧高いので(私)やめて又レストランの前を通るとすぐ「はらへった」と云って中に入ったので、 表で待っている内に家の火元が気になって先に帰ると1時間程して電話あり。 高円寺のガードの都丸まで来いとのことで、はあはあしながらゆけども姿なし。 帰りに佐伯さんに寄っておばさんにたのんで家に帰る。 8月31日(※悠紀子夫人代筆) 今日は主人の誕生日。朝から弓子、子供二人を連れてきてくれる。 五分程して寿一ちゃんもきてくれたので、急いで府中の病院に行くと相談料1,200円也。 先生は息子さんだった。なんの助けにもならず「病院は九月まで満員」とのことで、 こんなでは主人はどうしても家で自分が守らねばならないと今さらながら決心する。 家に帰ればわりあいなごやか。やはり寿一ちゃんのおかげ。夕方佐伯さんに行くと大さんに逢い同行してくれる。 夜、コピー屋さんの御主人、本を持って家まで来て安心して帰る。夜9時すぎねる。 夜中2時頃、朝の薬を1袋のむ。トイレでとんとんと音がするのでおきてゆくと目をつむったままトイレの中でとんとんと壁をたたいているのでつれて帰ってねかす。朝の8時半おきる。 9月1日(※悠紀子夫人代筆) 朝、出かけると云うのにかぎを入れたさいふがないので夕べのcoffee屋にさがしにゆくとやはりあった。 阿佐谷駅よりタクシーで成城大学までゆく(2,400)。畑さんには逢えず1時頃八木美枝子さん来る。 お子さん二人連れて卒論を返す。駅からタクシーで重い本を成城堂で買い、東豊でラーメンを一つとってもらい、 少々のしるとめんをたべ残りは私が食べる。電話、京の声をたしかめ家に先に帰れば健ちゃん元気。 その後佐伯より電話かかり「主人今から帰る」とて安心する。やれやれ。 風呂に入りいつもの通りねむくなり、夕食はいつもの通りいやいや少食なり。 今日は秋らしいさわやかな日で大変ありがたし。丹羽家より仏事の返しあり。すぐ主人電話すると「9月24日の父の米寿の祝に上京する」と。 9月2日(※悠紀子夫人代筆) 朝食もスープとバナナだけで相変らず少なく、砂かむ様だと云う。午後、坂内生来る。本かす。 その内小林家四人見舞に来る。ぶどうと菓子土産に・・・。 小林さん心配して駅まで一緒にゆけば、一人で佐伯さんにより鉢の花とダルマスイレンと買い、すたすたと背を伸ばして帰ってきた。 宮田家具店より主人の買ったものとどく。夜は九時半ねる。ねむいらしい。 9月3日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝おそく、朝晝も急いで国電で病院に。相変らず先生の前ではおとなしいが待合室ではにぎやかで、早くしていただく。 「鬱になったらすぐしらせる様に」とのことだが、なかなか待ち遠い。 タクシーで成城に行き、急ぎ大さんに電話で、佐伯さんを学校前まで来るようたのむ。 (風月堂でココアとサンドイッチを取ったが二口たべて学校へ) 日曜のこととてどこもあかず女の用務員さんに(※研究室を)あけてもらう。 1時、佐伯さん来る。息子さんと二人で(※売却本を)かついで国電で帰るとのことで、駅まで行こうと出たが、 途中、道でへたばったのでタクシーで家まで、区役所前でおり、又、川久保家へ。家から電話して迎えに行く。 「書原」で本買って借金支払い明日ゆかねばと思い、帰ると四時。ねむいねむいとそのままねてしまう。 おきたのは12時半。夜食たべさせまたねかす。 9月4日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時。朝から3度も佐伯さんにゆき、今日は寒いのでウールの着物きせる。 佐伯さんに又学校に行こうと云ってことわられ、さいふももたずタクシーで学校にゆき会計で金かせと云ふと電話あり。 そのタクシーで帰るようにたのんだがなかなか帰らず、渡辺家に寄りおなかすいたとすいみつなどいただいて又学校へ。 島野事務長より電話あったのでタクシーで帰していただく様たのむ。 主人に渡すとつかってしまうので、佐伯書店より50,000私が受取る。40分に駅前交番につく。2,010渡し、佐伯さんで水もらい薬のます。 その前に病院にたのみ、もう少し外出しない様、水薬を大さんにとって来てもらっていたのを、家に帰り水と一緒にのます。 一日二回1ccづつなり。 それでも又学校へと家を飛び出すので、大さんにしらせ、交番前でやっとつかまえたが、 どうしてもタクシーにのると云ってきかないので、運転手に手まねで後からことわると、おこって交番の前でなぐったので、 巡査さんにたのんで中に入れてもらい、その内、大さんも来ていやがるのを家につれて帰る。 水薬もう一回のます。おじやをスプーンで口に入れてやり、おいもを半分位たべ、くず湯のみ、ねむいとて七時半頃ねて、 2時おき最後の薬のみねむる。鬱になってきたらしく泣きながら話す。夕方はきすてた薬を素直に「のましてくれ」と云う。 9月5日(※悠紀子夫人代筆) 朝8時おきる。築島先生に電話して主人を出す。「午後きてくださる」とおっしゃるのに、朝の内だと云って1冊の本を持って佐伯で1,500に売り、10枚の暑中見舞をはらってくる。 酒屋で5,000のウィスキー「先生の土産に」と取って帰る。弓子11時すぎ来てくれる。 花井たづ子さん、なにもしらずに来てくれ自家製の梅漬いただく。一緒に素麺いただくとめずらしく沢山たべてくれるが薬はいやだとのまず水薬のむ。 築島先生にこんこんと外出せぬことをいっていただき歯科は長谷川先生と教えていただく。 主人、感謝して先生をお帰しして弓子も帰りひるね1時間する。夕食時の薬ものまず八時に夜の薬のみ8時半やすむ。 いつも今日の様であることを神に祈り感謝する。 9月6日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時すぎ起床。7時すぎ朝食おじや半杯と豆腐1/4、鯛と三葉の煮物、もも1個。声ひくく鬱にうつったと思ふ。 退院後1ヶ月なり。よくしゃべるので(泣き笑ふ)、病院に電話入れると、やはり食後の薬をちゃんと飲む様に云われる。 風呂に入り(※省略)ガスの元に水が入ったとみえてつかず、それでも水の中に入ったままなので、風邪ひきになっては大変と、けんかしながら出す。 それでも、わかぬ風呂に又入ろうとする。水薬のせいか、変なことをするのでとめるとおこる。 とうとう風呂の火口まで水が入ったのかゴボンゴボンと音がして炎が高く上がるのでやめさせて、 (※再び斎藤病院に)電話をかけると「明日朝行く」というのに、又水風呂に二度も入ろうとするのでやっととめて、 その後は、うとうとした所へ京が健ちゃんを連れてきたが、ねていたので買物をたのんで帰ってきた所へおきてきて、 三十分もすると、もううるさくなったとみえて「早く帰れ」と云ふので、八百屋の角まで送る。 風呂屋は(※修理費)55,000、20回払ひ。今日はテレビをよく見た。八時半ねる。 9月7日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時半起床。朝食スープのみ国電にて「しんどい、しんどい」と云ひながら病院。章二先生(※現斎藤病院長)なり。 「今は落ち着く境い目だから急にはね上がることもあるので気をつける様に」とのこと。 学校にゆきたくなったのを止めていただいて東豊により本三冊買ひ、ラーメン少々たべてはらたてながら家に帰りおじやをたべる。 やはり外出するのはよくないらしい。すこしおこり、後は七時半からねむり夜の薬は9時にのむ。朝6時おき。 9月8日(※悠紀子夫人代筆) 昨日副院長先生にもうしばらく水薬のませ、との事にて朝1回にする。 便所に五,六回通ひ風呂に1分も入らず四回程出入りするので、はしって北口までゆき浣腸薬買ひ、するがあまり出ず。 十時のおやつと晝食わりによくたべ、朝の内1時間半程ねておき「戸田先生にゆけゆけ」と云ふ。 1時半頃出て3時に帰ればおきていて食後の薬のませそれからよくね込む。外出はせず。 9月9日(※悠紀子夫人代筆) 今日は朝食もそこそこに国電にて千駄ヶ谷下車。 おなかすいたと駅の立食いそば屋にてうどん一つたのみ二口ほどたべて病院に行くと八人位であまりおしゃべりもせず。 傘が傘立てにあり、つえにして若先生に「外出せぬ様、今が一番大切な時だ」と云はれ、 学校に行きたいのをがまんして東豊だけにより、ラーメン少し食べ家に帰る。 佐伯さんにより本500買う。あるき方もとぼとぼした感じ。ねむい様子なり。 9月10日(日) (※悠紀子夫人代筆) よくねむる様になる。 9月11日 ※記述なし。 9月12日(※悠紀子夫人代筆) 朝、電話をかけると「水薬を取りに来い」との病院の話で、弓子に電話して12時頃来てもらう。 11時頃、姑、前沢病院の帰りとて雨の中をたずねて来る。主人ねむそうな声でつっかかるので皆、洋部屋にゆかせ、 その内、弓子3人が来たので(※留守番を任せ)、忙いで国電で四谷へ行くと1時すぎなれど20人位待っていた。 薬のみいただき、老人の日に来ることにする。「段々薬もきいてきたのでもう少しの辛抱なり、けがをさせぬ様に」 と云はれるが、どんな薬のんでも足はしっかりしている。 食事ごとに1時間半はねる様になるが、いつも食堂からうごかないのでこまる。 だんだん口かずも少なくなる様だが時々大きな声を出す。 夜は八時からねて10時におきスープをのんで最後の薬のみ朝6時までねる。 9月13日(※悠紀子夫人代筆) 食後1時間半づつねる。水薬のせいか外出もせず。今日も雨なり。秋が急にきて冬物の用意に気がせく。 無口だがときどきつっかかる様でまだいらいらがあるらしい。テレビ新聞もよく見る様になった。 「おなかすいた、すいた」と云うわりにはたべないが、一日五回位にしておやつはくだもののみ。 9月14日(※悠紀子夫人代筆) 今日も雨。無口。時々わけのわからない事をきく。よくねてよくテレビ見る。 今日はつかれて夕方から私がただねむくてねていたが、一人でテレビ見て夜10時ねる。朝は7時起床。おばあさんの敬老金取りに原田様にゆきいただく。 9月15日(※悠紀子夫人代筆) 朝8時半地下鉄で病院にゆく。道もはっきりしないらしい。8人程だった。先生が 「だいぶ静かだから水薬はやめて食事の薬も1つへらし、夜は玉1個にする様に」とのこと。 帰りは渋谷へ行きたそうだったがやめる様に話すと国電で帰ることにする。花屋で球根買いそうになるがやめて帰り、 ひるねをして夜は一人で11時頃まで茶の間にいてねむくなり、玉1個にてよくねむられる。ありがたし。 9月16日(※悠紀子夫人代筆) 朝8時半おきる。おきぬけは多少おかしいことが多い。 病院に昨日行った事はすっかりわすれ幾度も「行こう、行こう」とうるさく云う。昨日の事がわからない? 午後ひるね1時間半。あとテレビ見て外出せず。雨のせい。 笠原様より結婚の招待状来る。10月22日也。佐伯さんに行くがなにも本きていなかった。しいたけ上げる。。 (※絵の先生の)戸田先生をやすむ。主人しきりに本をよんでいる。口数ほとんどなし。 黒田さんより電話(※省略) 夜、主人11時ねる。 9月17日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝8時半おきる。朝から例の通り風呂とトイレ8回。今日は1日中本とテレビ。京と健ちゃん3時頃来る。 京には落ち着いているが私には口が出にくい時がある。食事も前よりは「すいた、すいた」と云わないのは鬱のせいか。 教会にはまだまだむりと思う。夜はテレビ22:30まで見てねる。(※省略) 9月18日(※悠紀子夫人代筆) 雨。よき便あり。弓子子供連れて晝きてくれる。1日家で本、テレビ。 9月19日(※悠紀子夫人代筆) 床屋へ行けどもどうしてか休みなり。本見ながら時々「まいった、まいった」と云う。晴天なれど散歩もせず。 食事わりに進む。母、晝病院の帰りによる。夜10時にねる。 9月20日(※悠紀子夫人代筆) 朝7時起床。「病院には行かない」と云うので1人で病院に行き院長に薬をへらす様にしていただく。 帰ると11時すぎ、床屋に行きて帰らず。だんだん忘れることも少なくなる。 夕方、小林さんより電話あり、急いで中村屋にて菓子買う。明日は婦人会に出席できそうなり。もう少しのがまんがまん。 高橋生より電話「金曜の午後来宅する」とのことなり。 9月21日(※悠紀子夫人代筆) 朝、弓子に電話して来てもらうことにして婦人会に行く。12時帰ると姑もきていて皆で支那まんじゅうたべる。 留守中、山田部長先生より電話あって「3月までゆっくり休んでよい」とのこと。野原四郎先生よりお見舞の電話、 「中国にゆかれる」とのこと。又筑摩より原稿の事で電話あれどことわる。 日増しに元気になってくる様子。今日からなんとなく煙草ほしくてのむ。(この日より煙草のむ。) (※省略) 9月22日(※悠紀子夫人代筆) 変った事なし。なんとなく卒論の下書き直しをして、ひるねをする。つかれたらしい。 9月23日(※悠紀子夫人代筆) 晝から(※自分が)戸田先生の所へ(※絵を習いに)。京に20,000貸す。雨。佐伯で本買ってくると晝、 野原先生の電話を少し変な風に話すのでやはりまだまだだと心配する。 夜は10時半までねず。。 9月24日(日) (※悠紀子夫人代筆) 雨がひどいので林家に祝いに行くのをやめて、朝、弓子をたのみ教会にゆく。帰る頃には良い天気になる。 3時頃、築島先生がわざわざ訪ねてくださってはげましてくださり、 「ゼミは家でしてもよい」とのこと。心配だが主人はよろこぶ。 夜は遅くまでおきて11時にねる。調子が良いとよろこんだ。 9月25日(※悠紀子夫人代筆) 朝から散歩に出た。少々調子がよすぎるほど朝からにこにこしていた。10時すぎ柏井に歯をみてもらいにゆき姑の家により、 晝帰ると弓子が子供連れて晝食をたべさせていた。 調子が高いので食事の薬のませるが、ますます高いので3時のおやつのあと二つにしてのませる。夜はまた2つにして食後のませる。 合計5つぶになる。あすは先生の所に行き相談するつもり。 山住先生に行き血圧はかると165で、やはり急におどろいたので高い。胃もおかしいので薬いただく。 9月26日(※悠紀子夫人代筆) 朝9時すぎ病院にゆく。ずい分まって先生に昨日少し高くなった事を申し上げたけれど 「いつもの通り朝夕一錠づつでよい。あの薬はなるべくへらすつもり」とおっしゃる。 忘れることもだんだん少なくなるのは大変よいこととおっしゃる。夕方、昨年の卒業生の早川さんが梨をもってお見舞に。 福井の笠原さんと時々混同するので話がおかしくなる。 9月27日(※悠紀子夫人代筆) 午後1時すぎ坂内さんと宮川さんが来る。まずまずの調子だが時々二人を混同する。 帰るとやはり少々調子が高くてよくしゃべる。夜も10時半までおきている。1錠半のましてねる。 9月28日(※悠紀子夫人代筆) ※記述なし。 9月29日(※悠紀子夫人代筆) 野口先生と山田先生よりお電話「病院の診断書を出して今年一杯ゆっくり休む様に」とのことで、日曜に(※診断書)たのむことにする。 夕方、松浦の母上が松茸をとどけてぶどうを見舞にいただく。一日中どちらかと云うとしづかに食事すすむ。 夕方からねむく九時すぎやすむ。((※自分が)柏井にて歯をぬき赤ちゃんをみせてもらう) 9月30日(※悠紀子夫人代筆) 朝より口数多し。松茸すしを作りすだちを持って銀行にゆき、佐伯さんにすだちあげ姑に寿司とすだち渡し、柿を買い、 急ぎ帰り、京が来たので健ちゃんつれて戸田先生にゆく。 1時間程してねてしまった健ちゃんをつれて家に帰れば、京がおしゃべりの相手をしてくれて、四時すぎに松茸ごはんを持って帰る。 今日は晝も薬をのませたせいか時々こんらんする。食事は多し。9時半薬のます。明日は院長に証明書を作ってもらうこと。 10月1日(日) (※悠紀子夫人代筆) 「神経症の為3月末日まで加療休養を要す」 だんだん躁が強くなる。病院にゆけばしゃべりつづけ人まちがいをし、帰ってからもしゃべりつづけて夜はますますはげしい。 食事もあまりたべず、でたらめが多いので心配だ。先生は「老化もなく大丈夫だ」とおっしゃる。 夜は2錠のませてまたかかえて床につれてゆく。 10月2日(※悠紀子夫人代筆) 朝は6時半におきる。8時間半はねむった。朝からにぎやか。水薬のませようかと迷うがやめた。 食事もあまり進まず又また死の話(※癌の恐怖か)ばかり。又入院前にもどった様子。新聞もテレビもあまりみず夜は一錠半にて10時半にねむる。 10月3日(※悠紀子夫人代筆) やはりおしゃべりつづく。もう自分のがまんも力つきた感じ。なにもかもつかれた。 夜は五時間半ほどしかねむらず。病院に電話すると「明日薬をとりにきて」とのことなり。 10月4日(※悠紀子夫人代筆) 朝、弓子に電話してたのみ、大さんにも電話する。病院にゆけば10時半。院長先生の日なので30人位まつ。 おしゃべりと思い込み、人違いなど話すと、 今度入院の時は総合病院の内科ででなければだめで、それにはもっと良くならなければと云われ、 それでは入院することもないとあきらめ、水薬もらって帰ると弓子も主人も留守。 十分程して主人帰り、戸田先生の所にすぐ行けと云われ、かけてゆけば黒田さんもいる。 お茶いただき土曜に絵をもってゆくことにして帰ると、となりの奥様が表に主人がいてこまるからつれて帰ってくれと云われ、 おどろきつれにゆくとなぐりかかるので、家に帰るとけろっとして帰ってくる。 もう恥もおどろきもきえてただなさけなくなってくる。すぐ薬のまし、夜ももう一度のませたがきかず。ねたのは12時半すぎ。 一晩中うとうとしておきると6時半。主人はトイレと風呂場をいったりきたり、下着だけでも四組程よごす。一日中雨。 10月5日(※悠紀子夫人代筆) 雨で洗たく物山積みするがなにもするなとうるさくて躁やまず。ますますでたらめ多くいつも夜になると死のおそれに目の色変る。 食事もおちおちせず。築島先生に電話して、ただのやすみをとったことを、明日御自身でいっていただくことにする。 大さん午前中1時間程きてもらう。 10月6日(※悠紀子夫人代筆) 朝、苑ちゃんに電話してきてもらう。あめもらう。12時すぎ京きたがねている為、公園に行ってあそぶ。 10月7日(※悠紀子夫人代筆) ますますはげしく躁になり食事もあまりせず死のおそれあり。夜はことにひどい。 10月8日(日) (※悠紀子夫人代筆) 家からあまり出ず、1日中茶の間に座して、その前にすわらねば承知せず。家中なにも出来ず、風呂に四度も入らされ、 「苑ちゃんを迎えにゆけ」と云うので本多さんまでゆき、帰ると「死にそうだ」と云って山住先生を呼び、先生はおどろき、 私がいないので弓子に電話して10時半頃自動車で二人きてくれ、やっと12時すぎねかして帰る。 次の日に入院さす様、相談して、次の日、朝9時きてくれる。 10月9日(※悠紀子夫人代筆) ※【塩入病院 入院】 九時すぎ四人で斎藤先生にゆき水薬をもらい、のましたが変らず。山住先生の御世話でやっと塩入先生の所に3時すぎ入院できた。 新田さんと云うとてもよい人がついてくれて安心した。夜はとまった。 10月9日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆) とても私の手にはあまるので昨晩の相談のように朝9時、小林家の自動車で斎藤病院にゆき若先生にたのんだが、 やはり院長外国旅行などの為(※入院を)ことわられ、山住先生が八方手をつくして下さった上、塩入先生のところに入院出来たのは三時すぎ。 晝食もたべず皆へとへとになった。いやだと云う電話で又急ぎバスで行くが落ち着くらしいので家に帰った。七時すぎだった。 付添は新田さんと云って山形の人でとてもよい人だった。病院ものんびりとしてよい病院だったので安心した。 どうしても、もう一度健康を取り戻してほしいと祈った。 10月10日(※悠紀子夫人代筆) 午前中に家に帰ってすこしねむった。やっと安心したが電話がこないか心配した。あとできくと「帰りたい」と云ってきかないので注射したよし。 10月10日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆) まだ帰りたいとだだをこねているが、どうやら新田さんが上手にしてくれるので助かる。四日間は泊り込みにした。 10月11日(※悠紀子夫人代筆) もう帰りたがることもなくねている時間が長いが食事をあまりしないので心配。 10月11日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆) 病院にとまる。食事も薬もなかなかのまず。院長さんまできてくださってのます。 10月12日(※悠紀子夫人代筆) この日も夜はとまる。 10月12日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆) 今日からとまらなくてもよいとのこと。なるべく顔をみせぬ様とのことでやめる。 10月13日(※悠紀子夫人代筆) 院長先生がこちらのつき添にまかして、あまり顔を見せない様に云われて、この日よりなるべく家にいる様にする。 10月14日(※悠紀子夫人代筆) 弓子がきて色々かたづけてくれる。 10月15日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会。和田さんの家により、病院による。 10月16日 10月17日 ※記述なし。 10月18日 10月19日(※悠紀子夫人代筆) 京、きてくれる。 10月20日(※悠紀子夫人代筆) 弓子、きてくれる。 10月21日(※悠紀子夫人代筆) 病院にゆき会計をたのむ。 10月22日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会にゆき病院にゆく。「少々鬱がつよくなったので薬をかえる」とのこと。 10月23日(※悠紀子夫人代筆) 病院に会計をする。149,040円77,044円、新田さんにチョッキをあげる4,500円。 10月24日(※悠紀子夫人代筆) 越部長より「声がききたい」との電話あり。 10月25日(※悠紀子夫人代筆) 坂内生から電話で「11月でもよいか?写真を家でとる」とのこと。 10月26日(※悠紀子夫人代筆) 朝から下着を謨ってこうとしたが、京が健ちゃんと来ると云うので午後にしようと思っていた。 京から私に五千円、主人に1,000もらったので主人のはきものを買う。駅まで行ったがお金を忘れたので明日の事にして、 母宛の葉書を渡しに行って5時半に帰った。6時頃新田さんから電話「とても調子がよく明日まて」とのこと「早くゆく」と云う。 10月27日 10月28日 10月29日(日) 10月30日 10月31日 11月1日 ※記述なし。 11月2日 11月3日 11月4日 11月5日(日) 11月6日 11月7日 11月8日(※悠紀子夫人代筆) 1日帰宅。調子よし。 11月9日 ※記述なし。 11月10日(※悠紀子夫人代筆) 原生きて1時間半卒論をやる。4時帰り急いで病院に帰る道でころび眼鏡で顔を切る。 若い女性達が親切にしてくれ病院にタクシーで行き、院長先生にみていただく。たいしたことなくてよかった。 11月11日(※悠紀子夫人代筆) 病院で野口先生待ったが電話なく4時すぎ御宅に電話すれば「都合悪く明日にする」とのことで3時私宅にする。 11月12日(日) (※悠紀子夫人代筆) 2時頃主人帰宅。3時野口先生こられる。「来学年は休講のままにしてくれるように」先生の方でたのまれるが、 「学校にすまない」と主人は云う。和田先生の為にもその方がよしとの御意見なり。果物をいただく。 重久生きた。しいたけいただく。 11月13日(※悠紀子夫人代筆) 朝、便通なくいらいらしてはこまるので10時に帰院。池田先生より果物いただく(小田急より)。 11月14日(※悠紀子夫人代筆) 1日雨。風邪にて神経痛出てねている。(※本人?) 11月15日(※悠紀子夫人代筆) 主人より電話で「帰宅する」とのことで銀行により70万おろし200円のおかし2個買い、午前中病院に行き、院長先生に御目にかかれば、 「2日外泊の上、よかったら退院してもよろしい」とのことで、 午後歩いて母の家にて少しやすましてもらい(女客あり)、2時帰宅。つかれたらしい。 11月16日(※悠紀子夫人代筆) 午後、高円寺まで散歩する。あまりつかれぬ。 11月17日※【塩入病院 退院】 朝から雨なので早くタクシーで病院に行き院長先生にいろいろおききして退院する。 雨もやんだので荷物を残して歩いて帰る。これで四十日の入院はすんだがこれからが大事だと心をひきしめる。 本当によい人達だったと感謝する。金にはかえられぬ気持。九時にねる。 11月18日(※悠紀子夫人代筆) 午前中、主人散髪。2,300也。午後戸田先生に行き人形かきかけの時、主人迎えに来て新田さん荷物とどけてくれる。夜は9時すぎやすむ。 11月19日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝から本を少しかたづけて午後1時より散歩をする。荻窪までゆき甘酒のんで帰る。3時なり。夕食前に風呂に入り、9時すぎねる。 買物色々する。電話「坂内宮川生21日来宅する」と。食事はわりにすすむ。 11月20日(※悠紀子夫人代筆) 朝、起床7時。山住先生に胃の薬をもらう。午後散歩、風が強い。電話昭山秋子さんから。9時ねる。 11月21日(※悠紀子夫人代筆) 朝、起床7時すぎ。本のかたづけをしていたら10時半頃、坂内宮川生くる。晝食うどん。1時帰る。 その後母の家に散歩。1時間半して帰宅。ひるね少々。 11月22日(※悠紀子夫人代筆) 6時半起床。この頃食事3時間するとむねやけ胃のいたみを感じるので山住先生に胃の薬いただく。散歩中野までよく歩く。 11月23日(※悠紀子夫人代筆) 今日はめまいたちくらみを感じ荻窪まで歩くのにつかれる。 11月24日(※悠紀子夫人代筆) 塩入先生に朝九時半タクシーで行く。今日は外来午後とのことだったが11時に先生みえて、血圧が低いのでめまいとのこと。 体力をつけたらよくなるとのことだがカロリーの高いものは胃の力が弱いのでこまる。 帰り母の家で晝食。今日は大さんの誕生日だそうでごちそうもいただき(主人はつかれたとてほとんどたべず)家まで歩いて帰る。 11月25日(※悠紀子夫人代筆) わりに元気。胃は相変らず。朝9時半家を出て東大前の山本に行き本代すませラーメンをたべて、地下鉄で主人のみ東豊に行く。 菓子1,250もって行く。帰って2時。つかれたらしい。 11月26日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会に一人でゆく。12時半帰る。学生「今日は来ず」との電話。 11月27日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時半。やはり胃はいたい。大阪より電話、みかんと柿送るとのことをことわる。雨で散歩できず。ひるね。 午後5時、山住先生のところへ行き血圧をはかっていただく(88-50)。胃の薬十日分いただく。9時ねる。 11月28日(※悠紀子夫人代筆) 朝5時30分起床。朝食は7時。食後1時間ねる。晝食後佐伯さんまで散歩。あたたかい日。やはり胃がいたむので食事を気をつけることにする。 晩は大根人参のにつけに干魚やき、スープとほうれん草にする。佐伯さんに本売った。6,000。絵の本700買う。 年賀状500枚たのむ(6,000)。12月5日出来上りと。 11月29日(※悠紀子夫人代筆) 3年生が4人ゼミに午後から来た。 11月30日(※悠紀子夫人代筆) 午後よりゼミの写真を撮りにきた。岡林、石塚生もきて、そのあとコーヒー館にゆく。野口先生より電話あり。 今日はねにくく、風呂に10時頃入る。 12月1日(※悠紀子夫人代筆) 原生来る。散歩いやいやする。 12月2日(※悠紀子夫人代筆) 散歩に出にくく、いやいやしている所へ大さんがきて高円寺方面までつれていってくれる。この頃食事も少なく食後によくねている。 夜はいつもの様に9時から6時半頃まで。 12月3日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝11時にいやいや荻窪までゆく。帰って食事。そのあと丸夫人、花バチをもってきてくれる。2時坂内生来る。4時帰る。 朝、野口先生に電話、山田先生留守。夕、川久保さんに電話。『浪速叢書』3冊来る。 12月4日 12月5日 12月6日 12月7日 12月8日 12月9日 12月10日(日) 12月11日 12月12日 12月13日 12月14日 ※記述なし。 12月15日 12月16日 12月17日(日) 12月18日 12月19日 12月20日 12月21日 12月22日 12月23日 昭和53年12月24日~昭和53年12月31日 21.6cm×15.5cm 原稿用紙掛「博文館 文芸日記」に縦書き 12月24日(日) 八時起き九時出て三鷹の武蔵野郵便局に年賀郵便出し成城大学前の五日市街道をゆき、ユと九時四〇分会ふ。 衛藤瀋吉(※教会長老)夫妻来られ、ユに夫人「立教女学館卒(※悠紀子夫人も)」と挨拶さる。新受洗者、男2、女6、 11:30すみて菊池夫人に会ふ。長島氏とイヴに再会といひ、東急にて狐うどん(260×2)食ひ、武蔵小金井駅へゆき清瀬発所沢行のバスに乗り安松下車。 稲田家(※三女嫁ぎ先)へゆけば哲夫居り、健太郎二階へ案内して呉る。17:00前出て東所沢駅まで送られ17:23に乗り、ユと吉祥寺駅で別れ、再度イヴに出席。 (古本屋歩き『ハイネ』40で見つけしを長島氏の父上へと贈り、すぐ出て帰宅)。 坂内より返本(中に登録せぬ二冊、内一冊は和田久徳君の著書の訳なる許雲樵『康泰呉時外國傳輯註』ありて安心)。 22:30夕食入浴して就寝。17:00 12月25日 8:00さめ、母来しと讃岐うどん(依子より送り来し)食ひ、ユの外出、帰来をまち川久保にゆけば「此間は好好爺たりし」と。夫人帰りしに歯のこといひ、16:00帰宅。 弓子、克次朗、孝行2孫つれ来りをり。 成城大学より後期試験来りをり。1月16,18の二日に我が監督と。 『旧約聖書』創世記の映画テレビにて22:40まで見る。 12月26日 8:30さめ、賀状一月一日配達ダメときまりし故、駅前局で出すこととし、東豊書店に電話すればよそへかかる。自宅へ電話すれば奥さん出て「店やってます」と也。 10:00出て駅前郵便局にて年賀ハガキ投函。11:00東豊書店にゆけば店主ひとり 『中葯(※薬)大辞典(15,400)』、『抱影隔簾録(1,200)』、『漢宮春色(1,600)』、『浪史奇観(1,200)』、『株林野史(1,600)』、『濃情快史(1,700)』、『巧像艶史(1,000)』と計24,000借用、学校へと『睡虎地秦墓竹簡1-7』 11万円として貰ひしも、我買ふこととならん。 13:30駅ビルにて『言語学の誕生(320)』見つけて帰宅。 (山住閣下に遭ひ「お見舞もせで」といはれる。) ユ16:00帰宅。三鷹の隠居に肴もちゆきし也。 12月27日 7:00過ぎ覚む。賀状かきつづけ、午まへ宏一郎、克次朗来り、京も健太郎つれ来る。 ユ郵便局へ賀状と依子への金出しにゆき帰来、午飯。三鷹の二児つれ京帰るまへ賀状かき了る。 夜、戦犯裁判のテレビ見る。大東亜共栄圏を語りゐし人はおほむね忘れはてたり。(大、正月の買物とりに来りビール小瓶一本のみゆく)。 寿賀子、母の許へ寄ると也。 12月28日 8:00覚む。外出せず。『元史』書きぬく。『浪速叢書』第12冊ダブりをり。来年返却と定む。 (ユ、母をつれて田上dr.へ鍼にゆき13:00帰宅。) 餅1,700お節まだ来ず。酒屋3,280。本多さんに酒2本届けしめしと。 12月29日 尿意のため3回目に起床。7:30。田宮二郎43才自殺。斎藤病院にかかりゐしと。躁鬱症、躁の時にらし。 10:00『元史』刑法志「刑法三・姦非」すむ。次は『新元史』なり。 14:00散歩。久米邦武『米欧回覧実記2(400)』買ふ。 16:00伊勢夫人、次女をつれ来り、夕食の炒飯食ふ。 けふ午后育英社といふより人来り、『現代大阪の百人』にかけと。ユ、居留守をつかふ。(統夫よりかずのこ。) 12月30日 7:20覚む。煉丹はこび9:30中野清見より正月二日高円寺駅で待合せ丸宅へゆくこととなる。 『新元史』ちょっとやり、『東洋学報60』の1ね2合併号受取る(1,660支払へと也)。 12月31日(日) よべ眠剤きかず。0:00放尿、9:00さめる。寒くユも礼拝休み。 京、健太郎つれ来り、今夜稲田宅泊りと。14:00二人出てゆく。 角川より「ハイネ23版の印税109,188✕0.9=98,270を25日三井に入れし」と。 田中克己日記 1979 【昭和54年】  詩人の宿痾となった躁鬱神経症。前年末に退院して復帰したと思ひきや、四月に再発し、丸2カ月苦しみます。  ですが、この度は医院の指示により入院しなかったため、夫人が負った苦労はともあれ、却ってその間の記録が夫人の代筆によって詳細に残ることとなりました。  回復後にそれを読み返した本人は驚いたやうですが、病中に何度も呼んで迷惑をかけた船越苑子さんは、敬遠されたのかその後日記に現れず、 替って教へ子だった人妻や、行きつけ処として現れる喫茶店「プティ・パレ」のウェイトレス達の名前が頻出して参ります。  日課の古本屋通ひを除けば、学生ではない彼女達との語らひが愉しみだったと白状する日記となってゐて、購入本のタイトルもさうですが、 この頃より「詩人」らしい老いらくのエロスが顕れることに微笑まれます。  また気分転換も兼ねてでしょう、伊豆韮山高原のエメラルドタウンでひと夏の避暑生活を送ったり、秋には長男の嫁と共に田中家の実家がある淡路島へ墓参したり、大高同窓会にも参加してをり、病後にしてはなかなかに活動的です。  そして戦没者の追悼・鎮魂ゆゑに、永らく縁が続いてゐた大東塾とも、塾長自刃という三島由紀夫に続く衝撃的な結末を病臥中に聞いてゐるものの、 葬儀に行くことも、感想もありません。今後私的付き合ひに温度差のあった日本浪曼派の旧友たちとの交流が、どのやうに日記中に表れ記されてゆくのか、注目します。 この年の出来事 1月 闘病中に書かれた夫人の代筆日記を読み返す。出講の意向を伝へ、大学の教授会で回復の挨拶。 4月 神経症再発。塩入医院にて診察、入院はすすめられず。愁訴はげしく、日記は2カ月の間、再び悠紀子夫人代筆となる。 4月18日 餅をつまらせ救急車で河北病院に運ばれる。 5月 鬱に転じ、10日久しぶりの登校。20日一人で教会に礼拝。転地保養の計画す。 5月25日 東豊書店の階段を踏み外し、東京医大病院に運ばれるも軽症。同日、影山正治自刃。 6月1日 再び日記つけ始め、代筆期間の記録に驚く。 6月12日 戦時徴用中の態度を嫌った中島健蔵死去。 6月末~7月初 教へ子の人妻に失恋し一方的に絶交する。 7月26日~8月22日 静岡県韮山エメラルドタウンの別荘に避暑滞在。 9月 三女京氏が女児出産、産後の鬱症に気を揉む。  また詩誌『朔』より詩篇依頼、11月には歌誌『桃』同人への誘ひあるも気が向かず。 11月9日~11日 名古屋の長女宅、大阪の長男宅に泊り、大高同窓会に参加。その足で淡路島賀集の田中家親族を訪問。 11月16日 東大東洋史の同窓、川久保悌郎、丹波鴻一郎と古稀の会。 11月24日 最初の熱烈読者(石井正吉氏)現る。 昭和54年 1月 1日~昭和54年12月31日 21.6cm×15.5cm 原稿用紙掛「博文館 文芸日記」に縦書き 1月1日 元日、六時前さむ。晴。寒し。11:00賀状来り、親戚知人178枚。教へ子60枚。その他なり。 20:00賀状、親戚友人の分片付く。 1月2日 7:30覚む。教へ子の賀状の返事ちょっと書き、母の許へゆけば神経痛なほりをり、 餅くはされ12:30帰宅。14:00中島しづ枝生来り、30日の見合ことわりしと。干ふぐ置いてゆく。(※省略) 16:30大より電話「千草つれゆく」と。夕食して19:30二人ともに出てゆく。 1月3日 よべ上厠2回、9:00起き下痢。10:30賀状元日分整理了る。体重36キロ。 11:00小林一家年賀に来る。14:30稲田の3人来り、昼すぎのランチ食ひ、仲好くなり、写真とりなどして皆、母の所へと16:30出てゆく。 賀状18枚かき了へし処へユ、帰り来る。18:30。 1月4日 21:30就寝、7:00前起床。10:00午ねしをれば船越苑子来る。午食せしめしあと年賀状たのみ、(※省略) 山際文雄氏来る。福田陵太郎氏を師とし、呵呵大笑す。 つれ出してPetit Palaisへゆけばウェートレス知合らし。 (※省略) 佐伯へゆけば『松花江下游的赫哲族』製本屋見つからずと返さる。 『東アジアの古代文化』4号と14号以下取寄せたのみ、松本信弘『日本神話の研究(750)』買ひ、 新本屋へつれゆき『大和俗訓(300)』買へば家まで送らる。 後藤均平氏より漢詩と論文のりし龍渓書舎の広告送り来る。 八月より九月の瘋癲記、ユの記せしをよみ、所々のみ覚えゐるに気づく。 1月5日 6:00すぎ覚む。12:00けふ来し賀状、教へ子の分34枚片付く。『浪速叢書12』送り返す(300)。 大阪人ならず兵庫県人と育英出版社にことわりの電話す。 弓子3児をつれ来る。(※省略) 1月6日 7:00起床。暖冬。(※省略) 13:00戸田女画伯にゆくといふユに1万円借り定期使って南新宿より東豊書店にゆき、 ダブりゐし『台湾寺廟』二冊ともう一冊返す(普通なら1割とるところとなり)。 (※省略) 1年生用の『中国近代史大綱(500)』50冊、四月半ばまでにとりよせたのむ。 周済『中国民法婚姻論(190)』、『中国法律與中国社会(2,400)』< 『中国近代史大綱』も一冊買ふ。 まっすぐ帰宅。朝からの所持図書カードの整理す。 東豊にて『台湾宗教芸術(1,920)』譏嫌直しに買ひし。 19:00和田夫人より電話、花井夫人よりわが病快くなりしとききしによる。 1月7日(日) よべ23:00臥床。2:30さめ3:00またねる。 ユ風邪とて我ひとり礼拝にゆく。聖餐式あり。(※省略)喫茶して帰る。 午すぎ母来り、「孫どもに500円づつやりし」と。(※賀状省略) ユ38.5℃、京「そのうち来る」と電話あり。 1月8日 6:00起床。ユ発熱あり。7:30覚め餅焼き呉る。 9:00出て塩入医院。二人待つ間に付添さんたちに「良くなった」と云はる。10:30診察、(※省略) バスにて阿佐谷、11:00登校。庶務にて借金のこときけば月給より引きしと。3月までの定期代もらひ、 図書館にゆき事務長に『図書館だより』1-7貰ふ。 教務に「明日より休講でなし」と前沢課長に云ひ、来年度のこときけば「野口(※野口武徳)主任教授と相談してのち」と。 明日の会見とし大学院にゆき副手(堀川大学院主任教授には駅近くで会ひし)に 「常民文化に台湾関係の本入れよ。今までの雑誌類は図書館へと移す」ことたのむ。 (※省略) 1月9日 (※省略) 佐伯に寄り白鳥芳郎君の本その他すぐ買ふこととし、帰宅すれば川久保(※悌郎)来り、「市古君来る故、中央大学の講師は終り」と悲観す。 夜、ボクシング見て22:00入浴睡眠。(※省略) 1月10日 6:00さめ7:00ユ起こす。風邪やや宜しき也。9:00佐伯にゆき『東洋文庫』のダブリ3冊売り、1,500と。 『日本の年号(400)』、『正倉院(500)』買ひ昨日の注文に1.5万加へ学校へ届けさす。 昭和52年夏より斎藤病院に入院のところにて日記書けずなるところまでよむ。(※省略) 1月11日 5:00覚む。寒く風邪気味なり。9:00出て登校。池田氏(※池田勉)病気をおして最後の授業せしと。 天丼11:40来るを待ちかねる。食ひ了ってゼミ。(※省略) 教授会まつ。議題は新任講師の報告。ついで渡米報告のあと、わが全快のこと「御心配かけて」といふ。(※省略) ユ風邪より来し神経痛に呻吟す。(※省略) 1月12日 7:00さめ塵紙もやす。やや寒し。9:00出て登校。天丼たのめば680円と。 高田君(※高田瑞穂)来り「あす栗山博士(※栗山理一)の最終講義」と。 (※省略) まっすぐ帰り阿佐谷で『猩猩袴(400)』買ふ。 付添の新田さん3度目に来り、物呉れ、忘れし良き帯もち来りしと。(※省略) 1月13日 よべより雪降る。7:00起床。火おこす。10:00駅より電話かかり雪中ゆきて連れ帰れば帝塚山短大6回の(大谷)辻本治子とて、(※省略)茶を賜ふ。 池袋の60階にゆくとて11:30出てゆく。あとユ風邪引き乍ら医師にゆき戸田画伯にゆく。(※省略) 1月14日(日) 夫婦とも風邪にて礼拝休む。よべの雪積りをり。(※省略) 1月15日 6:00起き風邪やまず、10:30(※西島)寿一に電話すれば寿賀子「起こして来る」と。 待ちかねて13:30昼食すませれば自転車にて寿一来り、昼食ちょっと食ひ、保田、影山の話し、16:00帰りゆく。 けふ平凡社より『唐代詩集 上』第8版来り「3月末日1,000部の印税払ふ」と也。(※省略) 1月16日 5:00さめ火起し風邪ひどくなる。山住先生にゆき薬もらへど鼻汁、咳、くさめなど止まず。熱なきのみ。 1月17日 5:30さめ、ユの起きし6:30起床。山住医院の薬のみ無為。(※省略) 風邪いひて欠席といふ。賀状の返事まだ来り。(※省略) 1月18日 6:30さむ。咳、鼻汁など殆どなくなる。苑子来り「校正学校、定員に足らず入学金返却」の由。(※省略) 1月19日 5:30起床。(※省略) 堀多恵さんより「軽井沢に住みなれし」と賀状の返事ありしのみ。 慶光院女史より「朔太郎のこと2月中に」と。「諾」の返事す。 1月20日 5:30起床。寒し。本多さん(※植木屋)来り垣根半ばすむ。 午后、川久保にゆくといひ阿佐谷北の古本屋にゆき気持かはり、ユに断りいはしむ。 1月21日(日) 礼拝休む。本多さんに茶出す。けふまだ了らず。(※省略) 1月22日 6:30起床。(※省略) 9:00出て塩入医院。一番乗りなり。 先生10:00お越し、薬1ケ減らされ、体重36.5キロと喜ばる。 往復歩きエコー14ケ買ふ。(※省略) 昼食時、京と弓子(克君と孝行)来り、皆われのいふこときく。慶光院女史より3冊来り、葉子女史のことかかんと思ふ。 1月23日 6:00さめ、7:00ユを起し10:00出て成城大学、天丼(550)旨し。 栃尾君(※栃尾武)と話し協力乞ふ。築島博士(※築島謙三)お越し修士の副査と。入試監督3回あたりお気の毒。 試験監督しむちゃくちゃにして了ふ。 腹へり本重きに困り乍ら帰宅。 西川満氏より古稀記念出版『台湾縦貫鉄道』もらふ。 夜「イスラエルの歴史」3チャンネルにて橋口倫介君の禿げしに驚く。 1月24日 6:30起床。太安万侶(※おおのやすまろ)の墓誌、田原より発掘さる。 9:00出て卒論の面接。新城博士(※新城常三)を除く教官出席。 鎌田女史(※鎌田久子)、平山博士(※平山敏治郎)にたしなめらる。わがゼミ並びに助読了り、すぐ出て東豊にゆきしもしめをると思ひ帰宅。よる眠りにつき難し。 1月25日 家居。ユ教会の婦人会にと出てゆく。われ『誰も書かなかった韓国』よみ了り、 西川満教祖の『台湾縦貫鉄道』よみをれば鴎外のこと出てをり電話すれば「二時間他出」と。 東豊に電話すれば「夜10時まで在店なりし」と。「近くゆく」といふ。神田喜一郎先生より余寒見舞いただく。 1月26日 7:30さめ、9:30出て東豊にゆく。東大へ納本にゆくとて台湾の『六法全書(1,260)』買ひて登校の途、祖師谷大蔵にて下車。天丼(600)食ふ。旨し。 文2Dの東洋文化史の試験すまし16:00より卒論の採点。平山、新城の2博士興奮して困る。 原、坂内をわがゼミより優とし、18:00義父死にし野口君に1,500づつ弔慰金出し(来年より西山博士(※西山松之助)主任と)、西山博士に弔電等まかす。 帰れば佐伯『東アジアの古代文化』4冊もち来り、3,500なりと。 1月27日 7:30覚む。午后ユの画にゆくまへ佐伯へ3,500払ひ、のこりもたのむ。 今井家の前通り荻窪にゆく。四月の陽気とのことにてビルの前後のみ寒し。『川柳集(2,500)』買ひあと2軒みて川久保邸まで歩きしも無人。 本屋にて中公文庫の我のところ買ふ(480)。その他エコー買ひしも面白からず、ユ帰宅16:00まで茫然たり。 西川満氏より『アンドロメダ』来る。夜21:30臥床。 鬱とのユの診断なり。 1月28日(日) 7:00起床。ユ先に起きをり珍し。北畠の三菱銀行支店への強盗事件、(※省略) 終日寒く、ユも礼拝休む。長尾あや、高円寺より電話し(※省略)本返す。(※省略) 南極よりの放送にて20:00過ぐ。「鬱」と川久保に電話す。 1月29日 寒し。6:00覚む。午前中来るかと思ひし白水、丸木2夫人13:00来り、ユ詳しく病歴を話す。(※省略) 石山直一氏より船越章との交際について手紙来る。 1月30日 13:00家を出て登校。16:00よりの教授会にゆけば山田部長、汝が「中国文化史」を柳町達也氏にゆづれと。 あと田中日佐夫氏の教授昇任の審査。(※省略) 築島博士さそひコーヒーのみ20分して帰宅。 1月31日 7:30山田主任にわが減時のこといへば「栗山博士も2時間とせしことあり。野口主任よりの申出」と。 野口君に電話し、教科書注文済のこといひしもきかず「来年度の書籍代より払へ云々」。 東豊書店にいへば「ねかし構はず」と。 不機嫌瘉らずゐる中、杉山(※杉山博文)、三倉、望月(女)生、雨の中レポートもち来り(14:00)、16:00帰りゆく。 夜、(※年賀ハガキの)切手当りしをしらべるに18枚当りをり河野弘子に電話し「16枚送る」といふ。 (※省略) 『浪速叢書15』来り、あと2冊で完了らし。本多さんに6.9万払ふ。 2月1日 7:30さめ、鬱なれば四月の陽気に拘らず外出せず。大学院のレポート訂正し三人みな百をつける。 東洋史も甘い点つけ無出席を咎めず60やる。(※省略) 退職手当来年三月にて818万、年金160万円とわかる。 2月2日 7:30さめ、散歩に食後母のところへゆく。ユ柏井へゆき一時間して来り、すぐ出て帰宅すれば丸夫人より電話、「重俊のことにて伺ふ」と。 来りて「川上といふOL重俊にと堀先生(前任)より話あり。本人はつきあひをり、あす丸家へつれ来る」と。 「本人たちに任せよ」と厳重にいふ(丸、不満と)。 入浴中の丸重俊に電話し、のちほどかかりしに「己の意志通せ」といふ。(※省略) 2月3日 よべ3:00まで眠れず。丸夫人のせいなり。鬱々として終日。ユ画にゆく。採点かき入すむ。 2月4日(日) よべ21:30就寝。8:10覚む。ユ礼拝にゆき12:00帰宅まで無為。 13:00出て佐伯にゆけば『堀辰雄全集(4,320)』来りをり。200の洋書買ひ、高円寺の古本市にゆき何も買はず歩きて帰宅。機嫌直る。 2月5日 よく眠り、7:30さめ、9:00出て塩入医院。ユ説明し薬のいれ方変へらる。 バスにて阿佐谷、成城大学へ11:00すぎ着き、天丼(600)食ひに出、きれいに平げ17:00まで会議。 平山博士、田中宣一君にあやまり、をかし。 (前川佐美雄氏の古稀祝歌会16:00よりは宮崎女史に(※宮崎智慧に欠席)あやまって貰ひし。) 2月6日 よべ二度の尿にてねつき悪く、9:00さむ。 暖きゆゑ散髪にゆけば2千円なりし。午后佐伯にゆきしも買ふ本なく、原稿用紙(130)買ひ来る。 弓子母子来り、(※省略) 2月7日 9:00起床。午后散歩に出、山住閣下に遭ふ。 高円寺にて『軍歌集(100)』買ひしのみ。辻本夫人、娘つれ来り菓子呉る。(※省略) 2月8日 9:00覚む。午后荻窪へゆき『父親森鴎外(950)』買ひ来ればダブリなり。 夜、築島博士に電話し「印と署名といらずや」といへば「いらず。いれば云ふ」となり。(※省略) 2月9日 8:00起床。ユ、柏井へ抜歯にゆく。 築島博士より電話あり「印と署名といる。けふ来れずや」と。「あす正午、講師室にて」と答へ昼食13:00。 14:00出て中野まで歩き十月書房へゆけばしめをり。 国鉄にて帰り佐伯にて『道鏡(400)』買ひ『馬琴日記5』のとりよせたのむ。(※省略) 2月10日 8:30起され10:30出て成城へ11:30着く。 築島博士がハンコ押し平山氏にも押ささる。砧まで歩き天丼。旨し。 各駅にて南新宿下車。東豊へゆけば「教科書まだ来ず」と。 『中国婦人生活史』の60冊分の注文とりけせるらし。 『西漢会要(960)』と『台湾土着社会婚葬制度(2,640)』買ひて帰宅。 矢沢利彦氏より退職記念の『国分寺址巡訪』といふが来り、歌よみ地図かく。(※省略) 2月11日(日) 8:00さめユを礼拝にゆかせ弓子に「切手とりにこい」と電話す。 午后散歩をかねて川久保にゆく。20万円毎月必要、恩給13万円で足らずと。 2月12日 8:00さめ、終日無為。夜テレビに「朔太郎を語る(伊藤信吉とフィルムの葉子女史をきく)」。 2月13日 6:00さめ7:00ユを起す。10:00ともに出て、三鷹の田上博士に肩甲の痛み訴へ鍼してもらひ、茶よばれ、 弓子の許へゆき、天丼とってもらへばまづし。 克次朗の帰り来りしを見て吉祥寺まで歩けば遠し。 西荻窪までゆくつもりなりしを止め、佐伯に寄りて帰宅。 佐々木邦彦未亡人より『風景画のかなしみ』来る。(※省略) 2月14日 8:00起き終日家居。ロッキード事件のテレビ見る。可怪。〒なし。佐々木夫人へ「梓君よこせ」と書く。 2月15日 9:00さむ。ロッキード証人喚問つづく。肩午後より痛くなり、(※省略)田上博士にゆく。 北側の古本屋にて中野重治『鴎外・その側面(600)』買ひて帰宅。 2月16日 7:40起され9:30成城大学。辻本の嬢(※省略) 午食鰻丼全部食ひ、そのあと12:30より雑談すみ学科会。 東洋文化史はいらざるらしく、いよいよ辞職ときめる。 16:00出て各駅停車にのり三井ビルに17:00つきコーヒーのまさる。 17:30山田部長司会、池田栗山二氏の定年の辞あり。 ついで学長の発声にて乾盃。学長もわれを見知りをり。 築島氏に大学院の主任誰にすべきか相談受け「平山がよけれど西山にてもよし」といふ。 20:00まへぬけ出し帰宅。辻本夫人に電話「話にならず」といふ。 2月17日 9:00さむ。午后テレビ見了り、西川満氏に電話すれば「午寐中、一時間ほど」と。名告げ電話番号いへばすぐ電話かかり「来れ」と。 果物屋で道きき、ゆけば歓待さる。楊雲萍との話し、土産もらひて雨降りゐる故、船越家にゆけば姉妹夕食中。 ユに電話し傘もって来てもらへば雨止みをり。(※省略) 2月18日(日) 8:00覚め夫婦とも礼拝休む。ユ展覧会の係と14:00出てゆく。 われも14:30外出し山住正己氏に遭ひしも寒く、佐伯で堀一郎『日本のシャーマニズム(250)』買って帰宅。(※省略) 2月19日 8:00さめ9:35塩入医院につく。2番目なり。(※省略) 母の所に寄れば4月7日米寿を新宿の中華料理店にてやると也。 呼ぶ範囲でキッとなり、母の貪官に愛想つかす。 12:00帰宅。14:00坂内・宮川2生来り3月3日の謝恩会に宮川生迎へに来ると也。 『浪速叢書』来る。あと一冊にて終りなり。 2月20日 7:40起さる(よべ眠薬足す)。9:00出て成城大学。10:00より卒業生の及第判定会。 わがゼミにて高橋生、小沢講師(※から)落第、他は問題なし。 築島博士誘ひて茶のみ、石川君も同座。(※省略) 家に電話して帰り昼食食ふ。(※省略) 中越戦まだつづく。銀行強盗しきりに起る。 宮川生に電話し高橋生にいへといへば電話21:00かかり、小沢氏に電話せしも再試だめといはれしと。 「上京してたのめ」といふ。母出て云々、本人出て「小沢先生65点つけた」といはれしと。 2月21日 6:00さめ7:00ユ起す。9:30大学教務課に電話すれば「追試65点」といふことにすと。 外出せず、高野さんへユゆき19:00夕食。 2月22日 9:00さめ肩の痛みやや収まり三鷹へゆかず。 午食のあと『昭和萬葉集』来り、わが歌六首のす。見了りて中野、十月書房へゆきしも買ひたき本高くてやめ、(※省略) 玉陽書房の分店を国鉄下にみつけ問へば「12月開店」と。 「平山博士買ひをり」と。茶出して呉る。 財布の中の金はたいて『沖縄童謡集(810)』買ひ帰宅。 銀行、郵便局、信用金庫の強盗つづく。 2月23日 6:00覚む。終日雨。四月の陽気となり。買ひおきの本をよみつづく。 2月24日 7:00さめユを起す。雨降り午后晴れしゆゑ川久保に電話すれば「明日来る」と。 ユ、アスピリンの中毒にて皮膚科へゆく。 2月25日(日) 7:30起床。快晴。久しぶりにユと礼拝。 帰り長島君を誘ひて喫茶。「大分へ集中講義にゆきゐし」と。 帰りて川久保の来るを待ち、わが狂状きく。弘前大学の開学三十年に来年ゆくと也。(佐伯に本来をらず。) 2月26日 6:00さめ終日ねむし。雨中、弓子克次朗をつれ来る。ユ皮膚科へゆく。 2月27日 川久保来り、台湾の本1冊もちゆく。 2月28日 雨。植物と唐音やる気となる。午すぎ散髪にゆき(2,000)、(※省略) 3月1日 晴。寒し。よべよく眠り9:30覚む。荻村生11:30来り、昼食くひ「中国の女神」早く書き了へんといふ。(※省略) 3月2日 8:00起きる。「古野清人博士、肺炎にて逝去」と新聞に見ゆ。 天理外専の校長、天理大の学長の経歴は見えず。78歳にして去年より成城大学の大学院講師も免ぜられをり。 10日の葬儀にはゆかざることとす。「神崎清先輩74歳で逝去」と。 (高円寺の球陽書房にゆき金関丈夫『南方文化史』、『山之口獏全集1.詩集』買ひ、ダブリ本売り(1,000)、金関氏の『琉球民俗誌(1,400)』また買ふ。) 北風吹きて寒し。田村春雄博士より「食物ゆっくりかめ」と。 丸には「壁にそひて立て」と。丸夫人に電話す。(※省略) 3月3日 7:30起き9:40成城大学。大学院二次入試。一人柳田民俗学を否定する同志社出身がをり三回目と。 これを落とせと一言し、正午ユに電話(※省略)。 吉祥寺駅につけばユ待ちをり。竹内家へゆけば(※竹内好)令弟、杉君ら多くをり、お花料一万円と菓子とおき三回忌なるに気づく。 一時間して出、西荻窪まで歩き、待晨堂で我は岩波『使徒行伝』の別訳買ふ。 3月4日(日) 7:30起さる。雪少し降りをり。ユと礼拝にゆく。聖餐なり。 すみて仙台の学院長となる早坂礼吾氏の壮行会。(※省略) 永山より電話「西川英夫(※東京建物の)会長となりし。会せん。」と。 「会はよせ。寸志表せ。」といひ、金沢良雄にいひ、倭周蔵にも電話すれば留守。 (岡田俊平名誉教授逝去) 夜、『無限』に「萩原朔太郎の思い出」200×9書く。ままよ。 3月5日 慶光院女史に速達(190)(電話すれば何でもよしと也)しつつ、塩入先生。 一番に見ていただき月末の旅行もよしと也。母のところに寄れば客ゐて、おそ朝食ひ出てゆく。12:00帰宅。ひるねす。 『浪速叢書』索引来り了る。 3月6日 よく眠る。東豊書店へ電話すれば簡さんをらず。倭周蔵より電話「西川の会長、祝せざらん」と。 午食後、東豊書店へまた電話し、借金11万円払ひ 『鄂温克人(※エヴェンキ族)的原始社会形態(2,000)』と『鄂伦春(※オロチョン族)社会的発展(400)』(ともに秋浦ら著なり)買ひて帰宅。 竹内の本の正誤表を使ふ。 (ユ、大阪へ電話すれば美紀子出て「淡路へはもう行きしも同行す」と也。) ユ、名古屋へ電話すれば望出、依子出、云々。 3月7日 7:30起き起き9:30出て登校すれば「教授会は13:00」と。 思案にあまり小高根家へ行く。太郎「来年古稀」と。 11:00出て北側の古本屋にて岡田英俊の本買ふ(1,000)。衒学的なり。 祖師谷大蔵にて天丼食へば550円と安く海老一疋なり。 12:30また大学。(※省略) 鎌田女史より「三号館の(※岡田名誉教授)告別式にゆくや」と問はれ「否」といひて帰宅。 3月8日 やや寒く、一日家居。大来り、「4月7日、母の米寿を住友ビル53階にて二人5万円出し、他は母への贈物にすることとす。」 (※省略) 3月9日 暖く、朝飯のあと思はず眠り10:30さめて高円寺の球陽堂にゆけば支店とも休み。 都丸書店にて神田先生『墨林閑話(1,380)』(ダブリ)と『イギリス製世界地図帖(1,200)』買ひて帰宅。(※省略) 田村春雄君に「月末ゆく」とハガキかく。 (山住閣下に遭ひ「御長孫進学おめでたう」といひ、ユにたしなめらる。(※省略)) 3月10日 鬱となり外出せず。ユ画にゆく。 夜、西寛治氏より「興地先生と『コギト』との関係云々」、われ「忘れた」と答へ、あとにて「松下・中島関係ならん」といふ。 3月11日(日) ユが成田の同窓会にゆくに先だち、礼拝にと家を出る。北風寒し。「偶像を拝むな」との個処はなされ、出て仲通りにて天丼食ふ。旨し。 三鷹にて探しつつ弓子のところへゆく途、蜜柑4キロ(800)買ひもてゆく。宏一郎帰り来り、蜜柑食ひすぎて吐く。 小林に案内してもらひ古本屋へゆきしも何もなく14:30佐伯にゆき『韓国昔話の研究(4,000)』、『東台湾の展望(4,000)』を買ひ、 テレビ見つつ炬燵に入りをり。18:30ごろユ帰宅。鰻食はす。 3月12日 12:00ごろ榎一雄氏よりシロコゴロフのこと聞かれ、大体答へ、川久保に電話すれば在宅。昼食くひてゆきシロコゴロフ夫人の手紙ある筈と答ふ。 3月13日 けふも入試なれど雨。8:00さむ。ギリシアの学者トマソニス氏よりシロコゴロフにつき五問、「池上二良氏にわが事おそはりし」と。 榎博士に電話すれば「方々にたづねてゐるのですね」と。 川久保夫人に「ご主人帰れば電話くれ」といひ夕食後かかりし電話に出れば和田夫人! 川久保20:00すぎ電話し来り、彼も同じ手紙もらひしと也。「明日来る」と。 3月14日 よべ3:30まで眠れず8:00覚む。(※省略) 川久保13:00来り、昭和17年2月出しのシロコゴロフ夫人の手紙見せコピー呉る。 わが徴用中のこととて、彼に返事まかせ『ツングース語辞典』共訳せんといふ。そのあと散歩に出、(※省略) 今井家の前通りすごせばアリちゃんそっくりの坊やをり「母在宅」と。ベルを押せば翠出て来て「来客中」と立ちはだかる。寒ければ帰宅。 (佐伯で『ハイネ社会詩集 生田春月訳(1,500)』、新本屋で藤井乙男『諺の研究(文庫300)』買ひ、金なくなりさう) けふ昼、弓子わが様子見に来り、飯くってゆく。 3月15日 よべもよく寝、8:00覚む。(※省略) 和田夫人に電話し「来よ」といへば15:00ごろ来り18:00までをり、促して帰らす。 20:00坪井(※明)より電話かかり「銀座第一ホテルにをり。あす会へる」と。(※省略)中央公論社より速達来あり「(※『日本の詩歌』)文庫再版、書き足せ」と也。 3月16日 8:30起床。9:10出て塩入医院へゆけば診察午后と。帰宅の途、池上由岐江未亡人に寄れば歓待され11:00すぎ天丼食ひたしといへば取寄せ来り、祈りのあと食べ3人とも食べのこす。嬢、孫、見習と女ばかりをり三月で退職とか。 塩入医院へゆけば(※省略)体重またふえ41.5キロ。血圧110と。バス車庫にゆき新宿行にのりそこなひ(※省略)紀伊國屋に15:10着き、 坪井と関口まちをり。 近所の喫茶店で喫茶、われ払ひす(900)。坪井は夕方、西川と会ふとて新橋までの地下鉄教へ、我は国鉄にて阿佐谷。(※省略) 3月17日 8:00さめ、ユ郵便局へゆけば平凡社より11万×0.9=9.9万円の為替なりしと。(※省略) 夜、我は丸に電話し「立て」といふ。築島博士は「旅行中」と。豫り「27日名古屋へ来い」と。共に下阪のつもり也。 3月18日(日) よべ睡りがたく、礼拝やすみ午食してのち出発して(※上川)墓地へゆく。中央線にて阿佐谷より片道310円なり。(花300買ひもてゆく) 草まだ萌えざるをとり、讃美歌「主よみもとに近づかん」うたふ。  罪により生れしゆゑに死にし子にいつかゆるされ逢はむと祈る 花供へしのち茶のみ15:50出発、(※省略) 阿佐谷へ帰りてわれは天丼、ユはさしみ定食くふ。 3月19日 築島博士に電話せず(※大学へ)ゆき見れば、鄧教授、大丸の切符2枚賜はる。(※省略) 第2次の入試及落きまり男多し。 われ教務にゆけば野口君の配慮にて来年度火曜3、4時間にて大学院とゼミのみなるらし。(※省略) 帰りて本よみ、ユの留守に散歩に出んとすれば雨模様、11:00までteleviの映画を見、入浴せんとすれば沸騰しをり。(※省略) 東豊にゆき1.4万払ひ『蒙和辞典』かり来る。(※省略) 3月20日 6:00ひとまづ起き1時間やすみしあと船越苑子来しゆゑカード助手の件いへば「承知」と!! 散髪にゆけば月火連休と。ユ、母のもとへと苑子とつれ立ちてゆく。(※省略)  招かれてわが昇る時うたふ歌みな知りをりとうれしくなりぬ 昨日前川緑氏(※佐美雄夫人)より奈良の『花ごよみ』贈られし礼状かく。午后わが「詩経の花」とともに出しにゆけば200。 ユ「大、ふきげん也」と。「今井叔父はじめ、手のかかる人々来る故」と。 3月21日 6:30さめ散髪にゆけば皆満員、もしくはしめをり。(※省略) オダマキ3鉢買ひて帰って来れば「西川満氏より電話ありし」と。 かけ返せば特輯号する故、読後感書けと200字7枚かき11:30もちゆけば「悪日表」と『暗険殺』賜ふ。「悪日表」忘れて駆けかへり、(※省略) 川久保に電話し『ツングース辞典』共にやらんといへば、はかばかしき返事なし。(※省略) ミスユニヴァース見て醜きにガッカリ。早寝せしに眠られず。(※省略) 3月22日 6:00さめユに説教され、9:00すぎ銀行にゆきしまに金沢良雄に「本いらず」といへば嬢出て「父にいふ」と!! 西川満氏に電話し『暗険殺』の当りしこといひ、「悪日表もらひに土曜ゆく」といへば玄関嬢「先生散歩中なれども宜しからん」と。(※省略) 10:00出て杉並郵便局、(※省略) 新宿下車。(※省略) 11:30より地下鉄ホームで待てば築島博士12:05見え、ともに東京駅大丸 12階の敦煌展見る。 案内書1,600円。築島博士も買ひ喜んで見らる。14:00了り博士は昼食、我は喫茶。そのあと「百万弗」といふ喫茶店に案内され、国鉄に同 車。 新宿にて夫人待たるとのことに別れ、佐伯に寄り『日本唱歌集(200)』買って帰宅。(※省略) 3月23日 9:00出て卒業式にゆく。隣に坐りし田中宣一君に成城学園歌見せてうたふ。「GAUDEAMUS IGITUR」を合唱団うたふ。 133号室で証書授与、(※省略) まっすぐ東豊書店へと南新宿で下り、道変へて天丼食ふ。旨し。 東豊へゆき『台湾習俗(2,400×2)』借り『呉氏文集(120)』買ひて帰宅。宮川生16:15来り、茶のます。洋装なり。 住友ビル2階にて(※謝恩会)中国料理。われ少しくひ「出船の港」と王維「出関曲」うたふ。 そのあと西山博士、中国語の歌うたふ。われの詩集(中公文庫)のこと知りをり。 19:30高橋生ゼミ代表としてベルトと紙入れ呉れ、我髪にベーゼす(躁いちじるし)。 高橋生、北大の事務員となりしと。原生来ず、観世生(※観世暁夫)来をり梅若「止めたし」といふと。 帰途、平山博士に教はり昔の成城高校の話し、丹羽千年と同年卒業とよく知りをり。夫人京を去るを好まずと也。 帰りてよく眠れず、特薬のみ3時より6時まで眠る。 3月24日 雨止みをり。電話して西川満大人に会ひて『台湾習俗』進呈。また蜜賜はる。母の所へゆけば喜びをり。大、起し来る。さめをりしと。 傘借り朝鮮学校へゆけば煙草呉れ、オモニは어머니と。 河北の前の本屋にて奧さんより『晶子歌集(120)』買ひ、『昭和万葉集1』のわが歌見す。ユ画にゆきしあと、東豊に電話し西川満氏の話すれば喜ぶ。 川久保に『ソロン族の社会』のこときけば「探してみん」と。鬱なり。 ユの帰る直前、山住先生呼べば坊や呼び、(※省略) 3月25日(日) 礼拝やすみ、丸家へゆき直立不動を命じ、天丼とってもらひ(千円おく)、『刑法』1冊もらひ帰ればユをり。ユ17:00見合にゆきしあと、 原健史来り、パーカーの万年筆くれし故、線路下で夕食くはせ、プティ・パレにゆき夫人に礼いひ我は茶、彼はコーヒー飲み「水曜休みゆゑまた来る」と也。 (※省略) 帰ればユすぐ帰り来る。風呂に入り熟睡。 3月26日 6:30さめ7:00ユ起き、9:00母に傘返し葡萄酒2本もちゆけば大、起きをり。製本屋さがし見る、と。昼食前、山住dr.に風邪とてのど痛 めらる。 12:30川久保に花もちゆく。ツングース語辞典2人でやること、しぶしぶ承知す。帰れば『ソロン族の社会』見つかりしと電話あり。 夜、田村春雄君に電話し来月初めゆくと云ふ。丹波(※鴻一郎:東大同窓、哲郎の兄)に電話すれば「5月府中競馬にさそふ」と。 津村(※信夫)の嬢に電話すれば「母いま鎌倉、来月初め来れば電話す」と。20:00田村君に電話し来月初めゆくといふ(※二度記述)。 依子に「来月初めゆく」と電話。大塚敬節『漢方療法入門(340)』買ひし。 3月27日 7:00さめ、(高松)丸木夫人、竜胆の根3株もち来る。送りかたがた出て切符買ってやり代々木で下車。東豊書店へ寄り 『清人説薈(2,590)』、『神宮文庫目録(5,000)』、『台湾研究中文書目(4,400)』、『歴代楽宮制度(400)』、『中国的神話 与伝説(600)』、『刑法各論(2,250)』計12,650借り、 紀伊國屋まで歩けば『日本の詩歌』なく、南阿佐谷まで乗り戸田謙介・ミツギ御夫婦の中食のうち乗りこむ。『民間伝承』の校正中なりし。 帰れば母をり相変わらずずるし。ユを使ひ家まで送らす。 東博氏より「筑摩やめた」と『水蓼残花集』贈られ、西川満氏電話かけ来しらしといふに「明日はダメ」と伝言たのみ、大に「明日来い」といふ。 和田久徳氏に「はっきりせぬ返信」もらひ、電話すれば「承知なれど体わるく65才の定年まではダメなり」と。「それにて良し」といひ、 西川満氏に電話すれば「明日午后」といひ、夜かけ直せば「星が悪かった。来月」と。 川久保より電話「明日は来ず」と。ユ、京に電話かけ「明日泊まる」健太郎も電話に出て大喜びす。 『唐人説薈(2,590)』を裸にてもち帰る。南の本屋にても『日本の方言地図(420)』買ひ、中公文庫の『日本の詩歌』売切れ予約す。 『東方学57』来り、会費値上げして3,000と。(※省略) 田中正俊博士に電話し4月17日12:00講師室にて会ふこととす。 3月28日 よべねられず、臨時の薬のみ5:30覚む。7:00ユ起し、ユをして西川邸へ本1冊届けしめ、塩入先生にゆき薬の臨時4服もち帰る。 高田瑞穂君より「漢音、呉音、唐音の定義せよ」と。午食焼飯みな食ふ。高田君に返事かき投函にゆく。 弓子3児つれ来り、孝行の机上の物さはりしを叱る。京、健太郎つれ来り、秋元生来りしに「序文」として和洋の喪式かけと本貸し、「遅し」と脅してのち駅前にて別れ、 佐伯へゆけば『江戸小咄 上(1,170)』と『ミセスの冠婚葬祭(1,100)』買ふ。京妊娠、十月出産と。 (※省略) テレビ「楊貴妃」をやり池田温君出席す。溝口監督にて依田義賢の脚本なりし也。 木村三千子女史より「骨の会す。出よ」と。「佐々木、山前のこと思ふ」と二首かく。井上多喜三郎をおとせし也。 けふ大に「来い」といへば忙しくてダメと。母来り、わが躁を告口せし也。高田瑞穂君に返事かく(※二度記述)。 3月29日 7:00さめ爽快。健太郎なつく。(※省略) 近藤生11:30来り晝食せしゆゑ荻窪まで送りにゆく途中、堀多恵さんにゆけば「今夜帰京」と。 岩森書店に寄り花籠部屋の前を通り14:00帰宅すれば荻村生をり。(※省略) これにも途教へ佐伯で『バロック時代』ユにと買ふ。 川久保来り、鬱症状をのけ毎週一回ツングース辞典やることとす。(※省略) 堀多恵さんに電話して笑はす。「恩地校長は弟」と。 3月30日 5:00覚む。ユ7:00起き朝食作る。9:00出て門前仲町。長谷川歯科満員。11:00老先生に呼ばれ上歯なほさる(800)。 地下鉄日本橋で下車。東京駅まで歩き八重洲口でユを帰らせ西川(※英夫)訪へば「会長就任の挨拶まはり」と。 田代耕三氏も顧問となりしとて『浪速叢書』の礼いひ、丸善教はり、中根寛画伯の中国展見、天丼550食ひ了り、帰宅14:00。 宮崎女史来り、再版の歌集賜ふと。『昭和万葉集』の選をす(作者伏せてと也)。18:00匆々と逃げる(大伴道子氏を怒らせし理由いふ)。 (※省略) 丸善にて新書3冊買ふ。佐伯に電話して『神宮文庫目録』たのむ。(※省略) 3月31日 6:30さめ西川満、山住正己、克己閣下、江間章子に電話す。閣下「9:30に来る」と。ゆきて「王昭君」きかんとすればダメ。 すぐ帰り(西川満氏来り)台湾本見せ、午食し、ユ画にゆく。 戸田謙介氏訪ひ、(高円寺球陽書房にゆき新年度の研究室の本注文す。9万円余なり)、川久保にゆき「ツングース語」のハッパかけ、帰宅。 夕食して昼ね18:30より20:30まで。山住正己氏に電話すればまだ帰らず西川満氏に電話すれば「只今あなたのこと話しゐる」云々。 22:30山住正己氏より電話「ゆきてもよきや」と問へば「明日の学会の準備」云々と断らる。 4月1日(日) 7:30起きユ起す。佐伯へゆき『立原道造(800)』、『歴史を学ぶ人のために(600)』、『伝統と現代(400)』、『地名町名を守る (400)』、『ポルノグラフィ(500)』外1冊買ひ、後刻ユに払ひにゆかす。 清水文子生来り、モンブラン万年筆とペンのセット呉る。連れだって滝本にゆく(眼鏡屋にてレンズ替へさせれば18,000位と)。 滝本生喜び清水生とともに来宅。17:00ユと3人駅までゆく。滝本生喜びて帰りしと。松浦家に電話すれば「美紀子上京あす」と。眩暈して困る。 4月2日 7:00さむ。雨降りをり、タクシーで塩入先生。(※省略) 西川満邸に寄れば「伊豆へ」と。 11:00山住正己氏に会ひ、昼食後川久保呼べば来る。プティ・パレへつれゆきコピーせしむ。美紀子3人をつれ来る。 白馬印刷来り「製本承知、明日令息よこす」と。(※省略) 坪井明より手紙「わが会11日17:30よりす」と也。 4月3日 6:30起く。睡眠剤変りしため(※省略)、眩暈し立ちくらみにて弱る。 11:00姉とみつ代、早智をつれ来る。13:30千円もちて家を出、高円寺まで歩き、空きゐし店に入り雑本買ふ。『日本の方言(390)』 帰宅すれば製本屋来りをり「ヘジャ族」と他の一点もちゆく。 15:00「三郎明日入院」との噂話にタカ子とともに(※悠紀子夫人?)帰りをりし。咲耶来りしも話できず。 21:30西山主任より「経済の学生入れん」と。我賛成といふ。敦煌行の前田のこと也。山際君に『半田良平歌集』を貸す。 4月4日 7:00さめ咲耶母孫にて来り、10:10去り大、来り東京見物にハトバスにのりゆく。寐て14:00さめ、佐伯へゆき「スペイン美術展のわか見てくれ」といへば「諾」と。(※意味不詳) 高円寺にて「佐伯」の払ひすまし、丸、川久保、田村の諸氏に電話、午寝すればユ帰り来り、(※省略) ※以下筆蹟乱れ「以後不正確 夢かうつつかまぼろしか」の頭書きあり。 4月5日 4月6日 4月7日 4月8日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝食後3時間ねる。苑ちゃんに朝、電話し来てもらう。買物などたのむ。11時まで待ったが起きてこないので帰る。 午后弓子来てくれる。買物たのむ。明日自動車で迎えにきてくれるとのことで安心。 5時すぎ丸君(※重俊氏)タバコ3箱もってきてくれる。インドネシアに旅行していたとのこと。早く結婚しろと云われて帰る。 夕食後、風呂になりつかれたのかそのままねて、10時すぎおこし床に引きづって行く。 薬のまし、明方3時半、ねぼけて夢の様なことばかりで6時まですごし、それから朝9時半までねる。 4月9日(※悠紀子夫人代筆) 9時半朝食少々、朝の薬のまず、小林夫婦自動車で塩入先生までつれていってくれる。 30分位待って今日から(※薬)ゆるめにすると。 自動車にて12時家に帰り晝食少々してねむる。3時頃、熱が一度高い。風呂やめ8時半最後の薬のみ10時頃ねるが、 明方3時半起き、例の如くゆめうつつ。あれこれ探せとどなる。静かになったのは6時、次の朝9時半起きる。 4月10日(※悠紀子夫人代筆) 9時半朝食後また3時間程ねむる。川久保さんに電話かけろかけろと云うのでこまる。一日中ねる以外はしゃべっている。 川久保さんが来てもほとんど目をつぶって話しもわからず。一日中、薬のききめではっきりせず。 4月11日 川久保よびゴルヂ語の共訳を承知せしむ。山住閣下お越しペペロニヤ1鉢賜ふ。足に不自由す。 4月12日 5:30起き、朝食少々。川久保来り早々と逃げる。昼飯にスープ。 我5時に起き一度また寝、(※省略) 我はじめて大伴女史との絶交の原因を知る。(※意味不詳) 4月12日(※悠紀子夫人代筆) 昨日と同じくよくねて夕方川久保さん来てくださったが話にならず。 4月13日(※悠紀子夫人代筆) 朝、弓子タクシーで来て2人で病院につれてゆく。早すぎたので病院の芝生で日向ぼっこをする。先生は入院をすすめず。 薬一週間いただきタクシーで帰る。昼は弓子のにぎりめし。弓子のいるうちはだい分おとなしかったが、その後また電話電話と、外に出ると云ふ。 夕方、川久保さんに電話して、私と行くと云ふと川久保さんの方より来て下さるが、目ほとんどあかず、ろれつあやしく誤ばかりで閉口して帰られる。 4月14日(※悠紀子夫人代筆) 朝8時半起き、朝食後また寝る。晝食後7時までねる。夜は例の通りうるさく、おきると電話かけろかけろでこまる。 川久保さんよびこられぬと(※嘘を)云う。 4月15日(日) (※悠紀子夫人代筆) なんとなく峠を越した感じする。午前中は「電話、電話」で苦労する。 午後1時半弓子にぎり飯持って3人子供連れて来るが、子どもがうるさいと云って早々に帰る。にくまれ口きかれて弓子もさっさと帰る。 その後1時間程して4時半頃より茶の間で寝込む。 夕方も薬も飲まず寝ているが床へつれてゆくことができず、そのままねているので一緒に茶の間で寝て、 いつ起きるかと食事を待っていたが、ついに起きず朝6時まで気持ち良さそうにねむる。時々心配になって脈を調べた。 4月16日(※悠紀子夫人代筆) 朝食6時半、朝から「電話、電話」とうるさいので気をそらそうと苑ちゃんに電話して9時に来てもらい、私は銀行にゆき買物して帰る。 (※省略) 11時苑ちゃん帰る。晝食後2人眼鏡屋に行き眼鏡出来上がったのを26,000。佐伯にて本2,000と小学唱歌集(1万円)買 う。 それを山住(男)先生(※山住正己)に差上げる。西川さんより夕方電話いただく。夜8時より床に入りくずくずしたが9時半、薬を飲んでねつく。 つくづく老人になったことを感じる。夜、時々起される。 4月17日(※悠紀子夫人代筆) 朝からひるねをして11時おきる。例の通り「電話、電話」でさわぐ。夕方までこまっていたら大さん来てお祖母からの色御飯とどけてくれる。 主人たべず食欲あまりなし。夜9時ねるが又夜さわぐ。 4月18日(※悠紀子夫人代筆) 朝食後12時半までねる。苑ちゃんより電話あれどねているためことわる。 晝食に御飯いやと云って草もちやいてたべ、のどにつかえる。 あわてて山住先生にかけてゆくがお留守。本多さんの所に消防署の二人連れみつけて急ぎきてもらい、 救急車よび河北病院に行き、のどの上にくっついていたもちを取り出してホッとする。 先生に「メルシーボクー」と云えば、先生御老人にて耳遠く「もう飯食いたいと云ってるよ」と笑ふ。 おかしくて思はずふきだす。タクシーで家に帰り、弓子に留守頼み、足りなくなった一日分の薬をもらいに行き、 急ぎ帰れば弓子に酒屋の前で逢ふ。「早く帰れ」とのことで心を残して出てきたとのこと。 かけ足で帰ればねているどころか立って洋室で本を探していた。 苑ちゃんに電話したが出ずと云ふ。この時間は外に勤めているのだからと同じことを日に幾度も云わす。 それからつかれてねむる。夕飯後11時頃ねむる。 4月19日(※悠紀子夫人代筆) 朝、食事もとらず6時半頃トイレに行きそのままねむいと云って2時までねむる。 朝の薬ものまず午飯は2時すぎ。便意あり4回もトイレに行き、手助けしてをして全部出す。 三日ぶりで気持ちよくなる。風呂に入り、夕方待っている所に昨日電話のあった梅田恵以子氏来る。 (※省略) 明日の約束をして思ったよりお元気と云って帰られる。 夕飯はかるく一杯、鳥とシイタケ玉葱の煮付けとスープ。夜は8時床に入り最後の薬は9時前。 夜中、目をさまされ時計は1時半。それから1時間くだくだ云ってねる。 4月20日(※悠紀子夫人代筆) 雨しとしとと夜中よりふっている。 今日は梅田さんが10時頃こられないとのこと、主人も朝食後9時半からねむっているので断るつもりだったのでホッとする。 朝食はいつもおいしくないスープ一杯、バナナ一本、三分の一の御飯。食事後ねむりこけている。 今日は先生へ行く日。午後1時半までね、晝食後歩いて (※省略) 塩入先生まで行く。 待合室でどちらにも御早うと挨拶する。内藤さんに会う。先生はもうこれで少しづつ薬をゆるめると云われるが、まだ躁だと思う。 躁は少ししづまったがかん違い思い違いが前より多くなった。タクシーを拾い帰る。 ねむいねむいと云う。風呂に入り夜6時、夕食はわりにたべられる。9時にねるまで例の通りするさい。 夜中起されたら2時半。はらがへったと云うのでバンドケキ(※パウンドケーキ)一個たべ、 目をつぶったまま、うるさいのでいいかげんにしていると4時ねつく。 4月21日(※悠紀子夫人代筆) 朝8時起き、朝食少々の後またねむる。昨日より薬ゆるくなる。 11時までねむり(※省略)晝食少々午後、私を外出さす。 30分ほどして帰ってみると(※省略)間に合わず又大かたづけ大洗濯す。風呂に入れて又ねむくなり、 夕方7時までねむる。花井たづさんより(※省略)10月の成城の会でお目にかかるとの言づてあり。 夕食はとても静か、口数少し。(※省略) テレビ、マルコポーロを少々見る。 最後の薬9時半のみ、今夜はじめてずーっと朝までねむることが出来た。 4月22日(日) (※悠紀子夫人代筆) 日曜日、礼拝はいかれなかった。8時半頃起床。朝御飯軽く一杯。晝はスープのみ。 1時頃、苑ちゃんが来るから外出してこいと云ってうるさいので本多さんの所まで出ると、苑ちゃんに電話逢う。 苑ちゃんによくたのんで町まで行き、家に電話すると主人が出て苑ちゃんいないと云うので心配になり、 急いで家にかけつけると一人で本棚の所に立っていた。3分程して苑ちゃん帰り、ふとん綿入れなど手をかしてもらい、 夕方5時すぎ京たるの寿司買ってきて3人で食べる。 主人風呂に入り2時間ほど眠る。苑ちゃんには主人より1,000、私より3,000あげる。 主人めざめて軽く食事をして9時半薬のみねむる。 30分経ってオイオイと又大声でさけび、躁が再び起った様で、心臓が苦しい死にそうだとさけぶ。 顔をみたら熱があるらしい。7度8分あったがだまって大丈夫だと云ふ。 1時間程して追加の薬のみ12時頃ねむる。 大阪に電話して最後だと云えと叫んだが、かけなかった。 次の朝9時までねむる。こちらはねむられず、ずーっと様子をみて洋服のまま床に入った。 4月23日(※悠紀子夫人代筆) 朝食事、又12時までねむる。朝御飯かるく半杯と、なめこのみそ汁、鰈の干物、晝はスープのみ。 一日しんどいらしくねている。熱は少々。夜は8時床に入り8時半薬のむ。ねむったのは9時半。 夜中2時半、起され例の如くぶつぶつ云う。(※省略) 4月24日(※悠紀子夫人代筆) 朝9時半、例の如く苑ちゃん苑ちゃんとうわ言の様に云う。12時までねる。1時頃、京と健ちゃん来る。 京にたのみ健ちゃんと駅までゆく。帰ると京に雨にならない内に早く帰れと云う。 躁より鬱になった様子。夜9時ねる。 (別記) 朝8時半朝食はおいしくないらしい。少々御飯とおかず。苑子ちゃんを呼び、その間に風呂に入り、洗髪する。気持よさそう。 苑子ちゃん10時、バナナ100円買って来る。苑ちゃんの上着今日は赤くないとて赤い上着を出してきせてやれと云う。 苑ちゃんにたのみ三井まで行き急いで帰り苑ちゃんを勤めに出てもらう。 晝はスープと御飯。少々ねむくなった所へ京と健ちゃんが来た。寿司みやげにもらう。 主人ねむそうなので6畳に入れる。ねたようなので京にたのみ健ちゃんをつれて郵便局に行き依子に小包出す。 ゆかた二反と絹物一反。健ちゃんにバスの玩具買い、帰りに主人の夏物一反を買い、2,800。 京「まずまずの様子」で4時頃帰る。夜食6時半なれど5時頃寿司2切たべたので御飯少々なり。 4月25日(※悠紀子夫人代筆) 今日はスト。又苑ちゃんよべよべとうるさい。 どうにか一日すぎ、午後6時頃、菊地生より電話「月曜午後来る」とする。 夜、少々ねにくいので10時少し薬足す。朝7時半までねる。 (別記) ストなり。苑ちゃん苑ちゃんとうるさい。 一日中なんとなくすごす。午後ひるねからさめたらハッキリして「すまないすまない、もう苑ちゃんのことお前にまかす」と云う。 夜、ねにくいので少々薬足す。10時頃ねむりにつく。 4月26日(※悠紀子夫人代筆) 朝7時半起きる。苑ちゃん電話でよんでと云うのでかけたが今日は一日中忙しいとのこと。 一日中うとうとしている。(※省略) 苑ちゃん苑ちゃんとうるさい程なのできくと、 船越家の絶えるのが心配だから苑ちゃんに子供を産ませたいと、おかしい事を云うので少し強くたしなめたがわからない。 つくづくなにもかも力がぬけた様でしんどい。 そろそろ鬱に変ってきたらしい。夜はよくねむった。9時頃より9時間位。 4月27日(※悠紀子夫人代筆) 朝食まずまず。苑ちゃんに電話したが留守。 午食後雨が止む。晝の薬のまず塩入先生のところへ行く。(※省略) 先生今日から薬へらすとのこと。帰りあまり腹を立てるのでやはり食後の薬をやめた為だと思う。 柏井の前で、あまりうるさくおこるなら一人で帰りますと云うとにやりとする。 恵と赤ん坊と尚子さんがお茶を出してくれ10分程して恵が自動車で大川病院の前まで送ってくれた。 家につくと急にしょげて何もかもいやになった、どうにかしてくれと、急に鬱になったらしいので留守にするのが心配。 山住先生の所で急いで診てもらい胃の薬をいただく。血圧高いのは昨日ねていないせい。 私も気がつかれ、どうにかなりそう。夜風呂に入りねむいと8時頃ねる。 今日10日ぶりで15分位あるいたのでつかれたらしい。夜はおきずに9時間は眠れた。追加薬のまず。 4月28日(※悠紀子夫人代筆) 7時半起床。朝食良い方。10時頃苑ちゃん来てくれ散歩に連れ出してくれる。 苑ちゃんの家まで歩いて家にて一休みして帰り晝食後うとうとする。 まずまずの調子で一日すごし8時には床につく。9時ねむる。ずーっと朝まで9時間はねむる。 4月29日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝8時おきる。朝食あまりよくなし。弓子9児に克君と孝君と来てくれたので教会にゆく。 東急に買物して急いで阿佐谷で寿司とパンを買い帰る。皆で晝食して弓子帰る。 2時すぎ菊地生勉強に来る。卒論は西太后にかえた。本を貸し3時半帰る。(※省略) 4月30日(※悠紀子夫人代筆) 朝から目まいがする。風呂に入り又ねる。午後雨が降りそうなので散歩を半分で家に帰る。地代を夕方もって行く。 苑ちゃんにすまなかったから一度わびたいと云うのでそのうち夕飯でも一緒に食べようということにする。 津村信夫夫人より本送られる(『善光寺平』)。 5月1日(※悠紀子夫人代筆) 朝のうちは目まいがするので横になる。午後床屋まで歩く2,000也。8時半ねる。 5月2日(※悠紀子夫人代筆) 朝のうちだるい。午後散歩に母の家まで歩く。10分程やすんで帰る。血色よしと喜ばれる。 3時頃、池上さん来て下さる。わかめいただき良いお話をして下さる。力強く感じるが主人ぼんやりしたままなり。 西武より人参茶とどく。健ちゃんに会いたがる事しきりなり。 池上さんより本貸していただく(『聖霊の愛』)。 5月3日(※悠紀子夫人代筆) 朝から晝までうとうとしている。鬱、中程度。 やっと散歩に出て母の家まで行く。電話で萩原さんの会にくるのかと問う人あり、ことわる。 夜は早くねる。風呂にも入りたがらない。 5月4日(※悠紀子夫人代筆) 11時晝食して12時家を出て塩入先生に行く。あまりおとなしいので婦長さんに不思議がられる。 先生今日から薬を変えて元気を出して下さるとのこと。最後に注射して、ねむくて母の家によってもねている。 夕食後7時半頃床について最後の薬ものまないまま朝まで13時間ねてしまふ。食事はいつもの通り8分目。 寿賀子さんより電話あり。 5月5日(※悠紀子夫人代筆) 子どもの日に健ちゃん発熱でこられず。散歩に行き苑ちゃんの家に寄れど留守。 母の家に10分程いて4月分の遅れていた1,5000をあげる。相変わらず口数なし。夜はよくねむる。 5月6日(日) (※悠紀子夫人代筆) 日曜礼拝出られず。絵の会に弓子に行ってもらって持って帰ってくれる。散歩40分、風強く雨近いので急いでもどる。 相変わらず口数なく、こちらも胃がおかしくなってくる。一日中おつやにでも出ている様。夜8時半にねる。 5月7日(※悠紀子夫人代筆) 朝早く起きる。午前中はだるくねている。午後散歩40分、夜は8時半ねる。 5月8日(※悠紀子夫人代筆) 朝、本局に行き保険金もらう。厳南堂に送金する。午後散歩。相変わらず鬱なり。 5月9日(※悠紀子夫人代筆) 弓子バナナと苑ちゃんに映画のきっぷをもってくる。岸田劉生の絵葉書くれる。 学校より電話にて木曜日に登校とのこと。心配なり。 5月10日(※悠紀子夫人代筆) 朝6時、10時前登校する。京、テーブルを取りに来るとの事で待つ所へ母もくる。 健ちゃんをつれて母を駅まで送る。3時頃、会社よりパパ来る。 主人4時半帰り健ちゃんがいたので喜ぶ。夕飯を皆でたべ帰る。 久しぶりの学校でつかれたことと思ふ。月給とその他もらう。 ほなみさんの母より電話、家をみにきてくれとのこと。7月15日頃明くとのこと。 5月11日(※悠紀子夫人代筆) 午前中、苑ちゃん来る。そろそろ転職したいとのこと。午後塩入先生に行く。かわりなし。 空が怪しくなったので急ぎ帰る。 5月12日(※悠紀子夫人代筆) 久しぶりに午後、戸田先生の所でバラを画くがのらない。相変わらずねていること多し。(※省略) 夜はいつも8時半床につく。よくねむる。 5月13日(日) (※悠紀子夫人代筆) 礼拝はやすむ。弓子4時頃宏ちゃんと来る。おはぎ6つ、子供が買ったよし。散歩は荻窪まで歩く。夜は9時ね る。 5月14日(※悠紀子夫人代筆) 朝からうとうとして午後散歩、高円寺まで1時間半ほど歩く。 静岡の辻本さんより新茶いただく。一日中雨。新聞も全部よむ。 5月15日(※悠紀子夫人代筆) 一日中変った事はなし。日増しに口数も少しづつ多くなる。 5月16日(※悠紀子夫人代筆) 午後来るはずの菊地生、病気で来られぬの電話。一日中しとしとと雨。お祖母さんみえた。 散歩にもゆけぬので一日中家でテレビ。夜は8時半ねる。 5月17日(※悠紀子夫人代筆) 主人散髪する。雲の多い日。 5月18日(※悠紀子夫人代筆) 午後散歩、高円寺まで。母の家による。清水さんに電話、まだ教会はそのままなり。夜9時ねる。 だんだん明るくなってきた。 5月19日(※悠紀子夫人代筆) 京、11時半来る。新宿に行ってもらう。健ちゃんと阿佐谷中歩く。2時京、帰宅。傘2本景品にもらう。 5月20日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝、一人で教会に。午後からは変りなし。この日よりやや元気増す。 5月21日 朝、東豊書店にゆき4冊買ひしも2冊はダブリをることわかる。 夕方佐伯にゆき『日本語の系統と歴史(1,850)』、『ラッフルズ伝(1,100)東洋文庫』借り来る。 (※悠紀子夫人代筆)宮本夫人と文子さん11時来宅。寿司をとり主人1時頃帰る。 夕方3時駅まで送る。御土産、菓子新茶バラいただく。奥様は以前と同じ少女の様な気持の方なり。 5月22日 高桑純夫氏逝去と。プチ・パレ休み。佐伯へ金払ひにゆき『オルドス口碑集(800)』借り来る。 (※悠紀子夫人代筆)学生3人(男代々木)来る。2時半から4時半まで夜は9時半ねる。菊地生に葉書出す。 5月23日(※悠紀子夫人代筆) 朝9時前に出て姉の所(※俊子氏)に見舞により塩入先生の所で30分待つ。鬱の薬を少々へらす様にする。 晝食を家ですます。風呂に入りひるねする。 夜8時頃、史、突然来る。10分位して薬王寺に帰る。3日程して(※赴任地仙台へ)帰るよし。 ねつかれず又風呂に入りねる。 5月24日(※悠紀子夫人代筆) 朝9時すぎ学校にゆく。午後弓子と2人の子供が来る。 主人5時すぎ帰る。夜やはりつかれたとねつかれずもう一服多くのむ。 本の包みを東豊でまちがえて持ち帰り、奧さんが阿佐谷駅までもって来てくれて取りかえる。 5月25日(※悠紀子夫人代筆) 朝7時すぎ起床。午前中佐伯にゆき御祖母さんがよってくれた時帰ってくる。 午後、東豊に和服でゆき本買い(9,200)、おもい本を持って店の階段を落ち、 一時気がつかず東京医大病院に運ばれたと、家に2時すぎに電話あり。 急いで保険証を持って行く。たいしたことないと帰ってきたが右手と首筋が痛いので風呂もやめてねる(9時すぎ)。 5月26日(※悠紀子夫人代筆) 朝から東京医大にゆく。8時についたが9時半診療始まる。 頭部はなんにもないので外科に行けとのことで阿佐谷の前島外科に行く。 ただの頭の筋違いと右手甲のはれだけだと貼り薬もらい帰る。 晝から絵に戸田先生にゆく。夜は8時半からよくねむる。 (※西島)大さん、(※5/25自決した)影山さんの葬式の事で来るがねていて帰る。 5月27日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝一人で教会に。雷と雨で散歩もできず。痛みは少しよくなる。また少々鬱気味で食事も進まず。夜電話、荻村生明日来ると。 5月28日(※悠紀子夫人代筆) 首がまだ痛む。午後、荻村と菊地来る。 (※別荘地)伊豆の家は夏は明かず伊豆高原を探すと。 5月29日(※悠紀子夫人代筆) 京、12時来る。1時伊勢丹に1人で行き(※私は)健と砂場で遊ぶ。4時帰る。 5月30日(※悠紀子夫人代筆) 午後、秋元生来る。夜ねむりにくくもう一服のむ。朝5時半起きる。 5月31日(※悠紀子夫人代筆) 朝10時清水さんに行く。晝帰る。近藤生4時半に来る。6時半岡林と石塚生が来る。8時帰る。 風呂に入り9時にねる。今日はよくねむれるように。 6月1日 午后、母のところへゆく。大、不在。あす箱根泊りと。帰りて事なし。日記よみおどろく。 6月2日 5:30覚む。時計一つダメとわかる。正午すぎ岡林生の自動車にて石塚生と来り、天丼食ひにゆく(750×2)。 相模湖へゆくこととなり、連れ込みホテル9階の喫茶室にてダベリ16:05成城着。 東豊書店に寄りダブリ(1,600)返し『敦煌彩塑(1,920)』、『民間動物故事集(480)』、『中国動物故事集(350)』、『豊年拾穂誌民俗(520)』買ひて帰来。コマネチ見る。 6月3日(日) 5時ちょっと前覚める。6時半朝食。ペンテコステにゆく。 今月一杯はここでと竹森先生。トヨ先生の姿見えず、長島君受付をしをり。 帰り途、原さんと同行、東急までにて丸生の43才といふに感心さる。 狐うどん食ひ、店の女主人に「久しぶり」といはる。帰りに佐伯に寄り、『法顕伝・宋雲行紀(700)東洋文庫』買ふ。 川久保にゆき「勉強しろ」と叱りしこと云はれ首をすくめる。 夜、宮崎女史(※宮崎智慧)に電話、ユかけ(「後妻となれ」と夜10時に呼びしと也)製本屋の名きく。催促せねばダメの由。 川久保にいひしごとく和蘭の第2回遣使の北京への途かかんと思ふ。 (夜、『法顕伝』のダブリなること判明。)  娼婦らが下着洗ふとゐし川は湖となり人ら晝ねる。  画学生石榴の画をばのこし去り南のはてに餓え死にせしか  狂気してわれが秘蔵の書翰類抱きしままに死せし大垣(※大垣国司) 禿げしをば恥ぢてかわが家訪れることなくなりし友(芳野清)(※大垣国司の友人) 小田嶽夫氏逝去。78才と。 6月4日 3時半さめ眠れず。7時朝食後、1時間眠りし。 菊地生来り、(※別荘地)伊豆高原見に15日ゆくことにほぼきめ、 西太后やり、11時プチ・パレへつれゆきコピー(70)せしめ、14時前欠伸せし故、帰宅せしむ。 我送り出してのち佐伯にゆき東洋文庫『幽明録・遊仙窟等』ととりかへ、電車にて高円寺。 球陽書房へゆき『お稲荷さん(600)』、『福の神(600)』、『語源探索(700)』、『日本人の言語表現(250)』買へば紅茶と餡餅出され参る。 帰ればユ、柏井歯科より帰らず。待つ中、母の許へ寄りしと也。 夕方秋元潤子に電話すれば「実習休みとどけし」と。あきらめて明日は休むこととせん。 6月5日 6時前さめる。けふはゼミもなし。ユ1時半吉祥寺の清水さんにゆき、俊子姉来てすぐ帰来、4時半なり。 5時まへ球陽書房へゆき『東台湾展望』買へば千円まけて呉る(6,500)。 夜、井上正蔵テレビに出て、足ふるへをり、をかし。 6月6日 5時半さめる。10時塩入先生にゆけば水曜休診と。帰りてジュースのむ。(※省略) 西垣脩の追悼号その他『山の樹』3冊来る。 6月7日 6時さむ。10時出て登校。図書館の目録8貰ひ「中国の農諺」のせし『伝承文化2』200にて買ひにゆけば猿渡をり。 12:30からの学科会、(※省略) あと大学院の会(※省略) 中座すれば雨降り来り成城堂にて『史記を語る』買ひて傘とりにもどり高田の中座し来るに会ふ。 築島博士は無言にて眼つぶりをりし。 ユ、太田夫人に会ひ富野家令嬢、気に入りし様子と。 6月8日 6時半覚め、朝食。午飯まへ家を出、塩入医院へゆき抗鬱剤ちょっとへらし、再来週月曜まで10日分いただく。 帰り船越苑子の働くを瞥見し、尼寺前にて天丼食ふ(650)。 ユ先に帰り午食しをり。近藤安代生3時来り、5時すぎまで「外国人名辞典」写す。 更に2冊貸し、「8月伊豆のゼミ」といふに「参加す」と。「来週も来る」と去りしあと沼津行に気づく。 大東塾より影山正治氏の本葬の案内来る。 宮崎智恵氏紹介の古本屋の婦人来り、8千円もちゆく。良き製本にて「松花江下游的赫哲族」なりし。 6月9日 昼食後、球陽書房にゆけば4月初、11万円学校へ送らせし由。(※省略) 雑本買って帰宅の途、プティ・パレに寄り、2階のあかざる旨きく。 片山恒美夫人より歌集送られ困却す。歌風合はざる也。 6月10日(日) 5時さめ、一電車早く礼拝にゆく。愛についてのお話。すみて狐うどん(260)食ひ切れず。 夕方弓子夫婦来り、3児の食欲と騒がしきに往生す。(※省略) 夜、丸重俊に電話し「早く結婚しろ」といふ。 6月11日 9時半小森副手に電話「残金1万円余」と。球陽書房の分記載しあり安心。 1時半、京、健太郎をつれ来り、公園につれゆきすべり台喜ぶ。5時去りゆく。 8時、菊地生より電話「あす三島駅南口にて12時待合せ」となる。 けふ保田與重郎より本来る。(『天降言(※あもりごと)』文芸春秋社刊行、同社へ受取かく。) 6月12日 5時さむ。中島健蔵死す。汝の敵を愛せよ。 朝の中、小雨。8時半家を出る。新宿まで地下鉄(100)。ロマンスカーで小田原(850)、東海道線で三島(820)。 伊豆箱根地図買ひしに富士見ランドありエメラルドマンション見えず。 意外にも菊地父子駅頭にあり。ほなみ女と3人にて昼食。我は天丼食ひ払ひすまし、 菊地父(50才と。美男なり)のカーにて韮山をへてエメラルドタウンB2といふにきめ、(※別荘) 韮山まで送られて別れ、鉄道にて三島(190)、元箱根までバス(550)、最後の船に乗りユに芦ノ湖見せ(550)、 ケーブルに乗り早雲山(820)、登山鉄道に乗継ぎ(280)大平台下車(150)。対岳荘に入りて一泊。 6月13日 7時さめ、8時朝食すまし、払ひ(10,853)すまし、小田原まで電車(240)。途中のりつぎし新宿まで普通急行(450)。 新宿小田急百貨店大食堂で天丼食へば500円と安し。1時半帰宅。 高橋秀斉より「教子一経」との詞の出典きき来る。不明と答ふ。(※省略) 山田英雄氏の『日本書紀(600)』買ふ。午后散歩に出しに佐伯も北口も休み。『日本の方言地図(420)』買ひ来る。 金沢良雄「成蹊大学定年。講師となり弁護士開業」と。 6月14日 7:45覚む。8:30中野清見より「逢ひたし」と。正午朝日新聞前で逢ふこととす。11:00出て銀座4丁目(140)、朝日新聞きき、30分待てば中野清見来り、天丼おごり呉る(600)。喫茶店にゆきわれおごり(600)、映画見て時間つぶすと云ふに別る。 2時半阿佐谷に帰り(140)、佐伯へゆき『天皇と原子爆弾(300)』雑書2冊(700)買ひて帰宅。 西山教授より4時半電話「来年野口教授マレーへ1年留学のこと承知せよ」と也。「21日再見」いひてすむ。(※省略) 6月15日 5時半起く。眠くてたまらず9時半東豊書店に電話し『アミ語彙』のとりよせたのむ。 ユ、吉祥寺教会の改築費4回目30万5千円三菱銀行へ払ひにゆく。菊地父より電話「B2きまりし」代は未定らし。 3時前荻村生来り、少し遅れて木下生来る。木下に本貸し、先に帰らし、 荻村生つれてプティ・パレにゆきコピーすれば1枚40円にて、大判ゆゑと。400円荻村払ひ、われ茶代600払ふ。 そのあと佐伯へ雑本売りにゆき『越佐風俗』など千円買ふ。よべの睡眠不足あまりこたへず。 6月16日 5時半覚む。快適。庭の未央柳、ガクアジサイ満開。正午、川久保に電話せしむれば嬢出て取次ぎ「来よ」と。 1時前出て古本屋にて新書2冊買ひ、ゆけば「電話したかりし」と。夫人帰り3時半ともに出て喫茶。 アイスクリームおごり呉る。4時半帰宅。5時和田夫人に電話すれば「すぐ来る」と。7時半来り10時まで話す。 「帰れ」といふ処へご主人より電話3回。最後は「泊めよ」となりしも出しあと荻窪へ国鉄タクシーにて帰りしならん。 6月17日(日) 6時前さめ我は礼拝休むこととす。ユ帰り来り昼食。暑く30度に近し。4時半プティ・パレにゆきマダム京都人と知りし。 無為にて散歩し帰宅。(出る前、入歯芥入れに捨てしをユ、見つけまで大騒ぎせし。) 6月18日 6時前さむ。新聞に影山正治君正葬に参会者2千人と。大東博士なつかしく暑中見舞かく。 塩入医院へゆく。9:30より診察らしく10時すぎ呼ばれて「おかげで」といへば午の薬なくなり3週間でもよしと也。 ユに薬とらし、カード200枚買ひ、佐伯に寄れば「今日学校へ本もちゆきし」と夫人。 通りを散歩して帰ればユをり。午すぎ杉山生より電話「ハガキ見た」と。「夜来い」といふ。 6時杉山生来り「自宅授業知らざりし。重久武志も知らず。結婚せし」と。「台湾」につきレポート書くと也。 秋元生より「あす来る」と電話。「2時来い」と答ふ。 末吉栄三(※今宮中学時代の教へ子)より同窓会通知。癌年令か死にしものあり。我みた通知受けをり。 6月19日 5時さむ。涼し。10時岩崎昭弥君より「上京。午后来る」と。 森山嬢に電話し三井銀行前よりつれ来り、本貸し説教す。12時新大久保の勤め先へと帰りゆく。 岩崎昭弥君14時前、駅にゐると電話、迎へにゆき、ややして秋元生来り、秋山(旧姓徳永)夫人電話かけ来る。 岩崎君またし、秋元生のゼミやりつつ待てば3時半。秋山(※昭子)夫人来り、ユと話す。4時半岩崎君帰りゆき、 秋山夫人と話しゐれば俊子姉来り、三郎兄の病状話す。秋山夫人に『肉蒲団』進呈。8時電話すれば帰宅しをり。忙しき日なりし。 6月20日 4時さむ。8時半秋山夫人に電話すれば与へし『肉蒲団』夫、愛読せしと。ユ電話とりあげいろいろ云ふ。 10時半、高円寺球陽書房しめをり、他店にて田中英光『立原道造(800)』買ひ来り、 またプティ・パレにゆき「清史」の后妃伝の末2枚(80)コピーしてもらひ、アイスクリーム食ぶ。 ユ母のところへゆき12時半帰来。 プティ・パレにゆき「光緒本紀」コピーしてもらふ(22枚780円)。避暑に来るもの多く満員也。 ユ、1万円呉る。(※省略) 秋山夫人喜びて来週もう1冊やることとなり(※省略)ユに説教さる。 姦淫をすすむるといひ非信者のそしりを我は肯へてうけずも 6月21日 4時半さむ。9時半出て成城大学へ登校。図書館へゆけば製本機熱する為まてと。 ややして講師室に電話、ゆけば『コギト』、『日本浪曼派』をよく知る館員、(※糊製本を)やってくれ2冊出来。 (※省略) 2時10分より教授会。(※省略) 東豊書店にゆき7千円程買ふ。 『西域行程記(200)』、『西域蕃國記(200)』、『薄海蕃域記(2,000)』、『山海経箋疏(1,440)』、『清語老乞大 (1,150)』、『尼山薩蠻傳(1,200)』、『儀禮士喪禮既夕禮儀節研究(2,230)』、『逹呼爾(※ダフール)故事(1,200)』の 8冊也。(※省略) 帰り佐伯に寄り『日本の詩歌』売る故とりに来よといへば「明日午前中」と。 ユ、わが笑談と躁時期のこと詳しく説教す。 (『日本常民文化紀要5』わが編輯と出来、鎌田女史『せたがやの民俗』出来と渡さる。大学院の学生の所作なり。ともに可怪。) 8時過ぎ、長岡の菊地ほなみ生に電話すれば「(※別荘地)確保した」と。「安くならぬでもよし、早く予約金とれ」と答ふ。 東京31度6分にて一週間をこえる真夏日と。 6月22日 5時前さむ。『日本の詩歌』もち出す。10時半佐伯書房来り、6千円といひしあと1万円おきゆく。 3時まへ近藤安代生来り、マルコポーロやり煙草吸ひゆく。けふ35度と夏至にて日照時間最も長き也。 ユに千円もらひ、高円寺の球陽書房支店にゆけば開きをり。本よく売れ、主人「福の神」とわが事いひ、(※省略) 『中世南島交通貿易史(5,200)』といふを買へば雑本ただとしてくれ、護雅夫『李陵(250)』、『イエスとその弟子(250)』にて買ひ帰 れば7時。(※省略) 6月23日 5時さめ、(※省略) 暑く冷房いれる。11時川久保来り「けふ和田先生の命日」と。11時半帰りゆく。 秋元生2時来り、4時半帰りゆく。エメラルドハイツに喜んでゆくと。「日を決めよ」といふ。 6月24日(日) 4時半さむ。ユ礼拝にゆく。11時プティ・パレにゆきユの12時半帰るまでに帰宅。昼食してまたゆき、東洋大学時代の日記よみ、田中雅子に電話すれば順二郎君出「夜、電話さす(※省略)」と。 秋山夫人に電話すれば夫君出て、(※省略) ユ、大分嫉妬し、うるさし。(※省略) 6時20分(※西島)寿一より電話「来客あり、来るのおくれる」と。電話かけ直し「いやなら来るな」といふ。 テレビで植木等は東洋大学卒と。 9時寿一来り、我は保田の異人なることを云ひ、彼は10時15分去りがけに影山正治の妻への態度(※不詳)をいふ。ユうるさし。 6月25日 4時さむ。9時すぎ出て地下鉄にて新宿。45分待ちて秋山夫人に会ひ、プラザまでタクシー。 喫茶し、歩きて小田急大食堂にて天丼われ食ひ天ぷら御飯おごり、 また歩きてエトワールといふにゆき途迷ひ、地上へ出てわかり地下道にて別る。画をかく前、買物をすると也。 東豊書店へゆき赤本と『台湾歴史概述(160)』買ひ家へ電話すれど通ぜず。 帰れば歯の治療に柏井へゆきしと也。(※省略) 日中34度2分。真夏日6日連続也。 6月26日 4時さむ(昨夜より8畳にねる)。川久保に電話すれば「今日はダメ」と。ユ、苑ちゃんに電話すれば「午后来る」と。 秋元生2時来り、苑ちゃん2時半来る。我、苑ちゃんに無礼を謝し、秋元生に閑談をまじふ。(※省略) 地下鉄まで案内し、来週下書きもち来ると也。(※省略) 東豊にて『茶の文化史(320)』、『東西書肆街考察(320)』と買ふ。 6月27日 3時半さめ(よべ9時半にねる)カード2頁やる。4時半うすら明るくなる。8時出て今中同窓会へ2,500送金(名簿代)。 10時東豊書店へ『蒙日大辞典』の残金1万円払ふ。(※省略) 12時すぎ阿佐谷着、「傘もち来れ」とユに電話す。(※省略) 東豊にて『実用飲食学(150)』、『張騫的故事(170)』ほか雑書1,800と借金1万円とを払ふ。 夕方、菊地生の父よりエメラルドランドの前金払ひにつき電話あり。 6月28日 咲耶9時就床。夜明けぬ内に目をさます。(※省略) ユ、三井銀行にゆきエメラルド・ビラの前金払ひにゆく。 午后プティ・パレへお茶のみにゆきし間に中島生より「卒論かへしてくれ」と。(※省略) NHKより『昭和万葉集』のわが歌につき電話ありし。 6月29日 よべよく眠り、(※省略) 平林生来り「あがれ」といへばあがり来る。ユ帰り3人にてプティ・パレにゆき、 近藤生来るかと早く帰宅し糕子食へば近藤生「3時来る」と電話。5科目とらねばならぬ子なり。 来りしにゼミ終り5時駅まで送り、母のところへゆけばユをり。大、帰り来り、ユと出て毎日記者の本屋にゆき、 夫人と話しつつ『中国古代再発見』買ふ。も一軒、山の本屋に寄り『父・西條八十(200)』買ふ。(※省略) サミットすみ視聴率10%代と。(※省略) 6月30日 5時前さむ。雨止みをり。ユ画の稽古。 (われ午前中、川久保にゆき市村『明代の満洲』見す。満洲史研究の第一歩なり。川久保よく見ず。) 雨ときどき来り、水不足半減。(※省略) 7月1日(日) 5時前さめ礼拝に久しぶりにゆく。会費8千円収め、 (聖餐式也。竹森先生トヨ先生に代りて教会の主任牧師となられ主の復活を認めねばダメと云はれし)。(※省略) 7月2日 5時半さむ。朝焼けす。体重朝食前に計れば39キロ。秋山夫人へ失恋の詩かき、あとカード。(※省略) 塩入先生10時すぎ (※省略) 11時半帰宅。荻村生の2時来しを4時すぎまで教へ、地下鉄まで送りにゆく。(※省略) 佐伯に堀辰雄全集来てをり4,320払ふ。 7月3日 よべ雨降りしを知らず4時半さむ。午后1時、荻村生来り、3時前歯科医にゆくと去る。(※省略) 夜、中国の市名索引作る。 7月4日 9時半就床、3時尿で起きしあと眠れず。(※省略) 弓子、孝行をつれて午飯に来る。 集英社より『日本の詩』に数篇『日本の詩歌』より選びとると。(※省略) 秋元生2時来り、「葬式のこと」唐までゆき、 『古今図書集成』のコピーにプティ・パレにゆけば冷房寒く早々帰り、5時までやりて引き上げてゆく。(※省略) 7月5日 9時就寝、7時起く。9時散髪にゆく。(※省略) 苑子来てをり。昼食して去りしあとユ2時に展覧会の陳列にと出てゆく。 秋山夫人に電話して絶交となる。(※省略) 4時出て地下鉄にて銀座4丁目。道わからず迷ふうち高橋新吉展にぶつかり、ゆきみれば新吉をり。 三好氏(※三好豊一郎)といふに会ひ、話したしといふに出て喫茶。近々来るといふ。 巡査に大和田鰻店ききみつけて三好氏と別れ6時前より院講師の会。 西山博士わが好学をいひ座をさらふ。築島博士と出て地下鉄。新宿にて別れ帰宅。9時前夕食し12時までねられず。 7月6日 5時さむ。6時ユ起き、きのふの鰻食ふ。(※省略) 荻村生来り「上元」やる。20日一度木曽へ帰るとて熱心にやる。 昼食後プティ・パレへアイスクリーム食ひにゆく。午寐できずユ6時前帰り来てすし食はす。(※省略) 中央公論社より「印税151,200三井銀行阿佐谷支店へ6月末入金」との通知あり。 7月7日 9時ねて6時さめ7時起床。9時家を出、10時前登校。(※省略) 10時半よりアルバム用写真とる。(※省略) 3生と喫茶後、天丼(600)食ひ京子(※不詳)からかひ、学生課にゆき30日-1日の二泊三日のゼミ旅行届出せば旅費くれる由。(※省略) 1時民俗研究所へゆき1時半からの平山所長の柳田國男追憶をきく。木下生来てをり重久、岩崎などの大学院生も来り満員。(※省略) 鈍行にて帰宅。(※省略) 池田温教授より『敦煌戸籍帖』もらふ。(※省略) 7月8日(日) 5時半さめ7時三好豊一郎に電話すれば田中冬二氏とまちがへ変なりしも「今日は来ず」と。 雨中夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) プティ・パレにゆき氷菓喫し『日本大空襲』よみ了る。(※省略) 7月9日 5時さむ。11時白水夫人丸木夫人来り、鮎ずし食はし3時前帰りゆく。(※省略) 大岡信編集の世界文化社『文学』の訳詩集にわが訳せし杜甫数首とりしと。川久保に電話すれば4時来り、5時帰りゆく。(※省略) 7月10日 よべ早くねて7時までねむりしもだるく、午后カードちょっとやりしのみ。(※省略) ユ歯にゆきし間に秋山夫人に電話かけ「日展入選の時はしらせ」といへば「むつかしけれど入選すれば」と也。 球陽書房にゆきチェンバレン『日琉語比較文典(2,500)』買ひ来る。〒なし。 7月11日 4時半さめる。(※省略) 2時出て荻窪へゆき、買ふ本なく茶のみて帰る。2時間の散歩なり。(※省略) 伊藤月丘氏わが「春旅」を書道展にかきて出せしと切符2枚事務局より来る。 7月12日 7時さむ。ユ11時西武へ京に会ひにと昼食こさへて出てゆく。 2時秋元生来り、休みにプティ・パレへコピーにゆきて(『三才図絵』)アイスクリーム食ぶ。 (※省略) 5時秋元生帰る前ユ帰宅。餡蜜出す。 堀敏一氏より『中国律令とその展開』贈られ、早大の古賀登氏「睡虎地の秦律令」につき紹介す。昨日スカイラヴ濠洲に落ちしと也。 7月13日 7時半さむ。曇。涼し。堀敏一氏へ礼状。10時荻村雅子生ゼミに来り「上元考」宋までゆき、ハモの皮うましと食べる。(※省略) 散歩に母のところへゆき相撲のテレビ見、帰り途『中国人として育った私(400)』買って帰宅。 録音機返り来し故、ききてユにたしなめらる。(※省略) 7月14日 5時半さむ。雨降りをり。朝食7時。雨止む。9時半出て登校。重久・杉山の見込み点報告。大学院に台湾関係の本入れあり。 昼食に天丼食へば植木副手来り『常民文化紀要2.3』1冊づつ呉れし。雨中帰り来れば阜子、父の全快祝とて赤飯もち来る。(※省略) 杉山・重久2大学院生に後記出講とかく(昨日杉山の下宿に電話せしに帰郷らし)。 東豊書店に1万円余払ひ、3月の借金2万円近く請求さる。バカらし。 7月15日(日) 8時さめ礼拝休む。最後の旧建物と話ありしと。 夕方、森山女史来り『黄帝素問』の序よます。難所に至れば恰も寿一より電話、すぐ来りし故、女史帰らす。 透谷賞のこと問はる。寿賀子、母のもとへゆき電話かけ来り9時半駅にて待合すとのことに帰りゆく。 7月16日 8時さむ(よべ眠り難かりし)。寿一より電話、太宰の雑誌『青い花』とわが訳(※同名ノヴァリス訳本)の関係なり。「我より採りし」といふ。 10時川久保にゆき岡氏より「来い」との電話ありしに帰宅。川久保わが狂気を話す。滝本生よりユに反物送り返し来る。数年前にたのみし也。 (※省略) 美紀子より電話「史、一年留任」と也。 7月17日 8時さむ。下痢して臥床。(※省略) 京、健太郎より電話。夕方より雨。 7月18日 8時さむ。やはり寒し。『不二』の影山正治主宰の自決経過の特輯号来る。西川満氏より『アンドロメダ』来り、長男早大教授潤と娘婿メキシコ人の自慢とかきあり。 夜遅く岡林正子と石塚真弓来り、炬燵に入り沖縄にて焼きし皮膚痛がり、エメラルドタウンへ来るといふ。 7月19日 6時さむ。11時東豊書店へゆき借金2万40円払ひ、野原氏来るといふにラーメン食ひしあと出て成城大学。 研究室へゆけば秋元生をり、茶のみにつれてゆき、別れて帰宅。 7月20日 8時さむ。終日23度位。雨。無為。 7月21日 5時半さめ9時の朝食まで居眠りす。雨止み曇。角川書店より「ハイネ恋愛詩集24版8月末出版」と。 1時半稲田修二氏来り(※省略)。2時秋元生来り、稲田氏帰りしあと「中国の葬儀」につき6時までよませ帰りゆく。松柏を字引ひきて教へし。 7月22日(日) 6時さめ9時家を出て東京女子大にての礼拝にゆく。竹森先生の腰曲りたまふを見て吃驚、悲しむ。礼拝ここにて十ヶ月間とのこと也。 西荻窪までまた歩き天丼食ふ(600)。まづし。阿佐谷にて『二十四の瞳(200)』買ふ。3時出て青梅街道の散髪屋にゆく(2,000)。 7月23日 7時さむ。9時出て塩入医院、10時先生来られ(※省略) ユ12時帰宅。池袋より京、電話かけて来り、健太郎反抗期となりしに気づく。(※省略) 7月24日 6時さむ。昨日につづき暑く30度を越す。(※省略) 近藤生夕方電話かけ「けふにて試験すみし」と。「伊豆にて叱る」といふ。 7月25日 6時さめ、8時に出て地下鉄。成城大学へ9時すぎ着き会計へ呼ばれてゐるとゆけば2万円余ゼミ旅行の費用とくれる。 天丼注文し10時よりの教授会、歌3首つくる。 わがよはひ永くもあるか76年の周期のハレー見るべくなりぬ アメリカに半年間を学ぶ子の留年如何に会議つづくも 重病の母の看護に帰りし子たよりなくして七日となりぬ 天丼食ひ、学科会議の築島博士まち1時、飯おごり、あすより欧州への旅行の餞別とす。新宿まで同車。(※省略) 地下鉄にて。南阿佐谷、『芭蕉の恋句(320)』、『55年暦(200)』と買ひ、エコー20箱買ひて帰宅。 弓子と宏一郎と来り、(※省略)。(※省略) 菊地ほなみに電話し「あす2時にエメラルドタウンにゆく」といふ。 7月26日 6時さめ9時出て酒屋、佐伯にことわり云ひ、ユと出て戸田先生に菓子贈り、11時新宿。 切符買ひ(※省略)、急行にのり坐りて小田原に12時3分着き、まづき天丼食ひ、東海道線三島まで買ひ(410)、 タクシーまつ間に富士見ランド行き来る。 タクシー2,690円(通行料400)にて、エメラルドタウン事務所にゆけば、B2にアルバイトの学生案内し呉る。 5時頃菊地ほなみ生来り、「母あす通院とて来られず」と。 卒論の心得はなし、写真のこといへば泣く。もて来し蟹、魚ともにまづく気の毒なり。 石塚真弓へのハガキ投函たのむ。万事不行届にて困りし宿なり。 7月27日 よべ11時ごろねつき6時前さむ。涼し。ユ2時15分にプラザにゆき3時半帰り来る。 風呂入れるやうに事務所員してくれる。(アルバイトの学生たちにはダメなりし)。 テレビも直して貰ひ「紫電改の引き揚げ」見る。 戦ひはかなしかりけり海中に沈みゆきにしあともとどめず 7月28日 7時すぎ覚む。(よべ11時ごろ眠りし)。10時50分のバスにて富士見ランド、三島駅ゆきに乗り11時半着(550×2)。 本屋にゆき『静岡県名字の話(1,500)』、『世界名歌集(500)』買ひ古本屋きけば800米先にありと。 ユその間買物し、12時50分の富士見ランド行に乗り着けば2時50分までエメラルド行なく、50分程まち、満員にて帰り来る。(※省略) 7月29日(日) 5時半さめ6時半起床。9時菊地生に電話すれば「午前中来る」と。9時半プール(250)にゆき15分泳ぐ。秋山夫人へハガキ書く。 菊地生11時すぎ来、「清史」よんでやり昼食くひしあと、またよみ2時40分のバスにて帰りゆく。持参品たのむ。 はるかなる人とぞ思ふ画をかきて忙しといひたよりよこさず 7月30日 5時半さむ。菊地生来ず。3時すぎ荻村生を含み秋元・近藤生来る。プールへゆき風邪といふ荻村生以外と泳ぐ。荻村生家へ電話し150円とらる。9時就寝。 7月31日 4時さむ。5時ユを起す。7時頃みな起き10時40分で富士見ランドへゆく。みな子供染みをり無駄金をつかはすも仕方なし。 夕、タクシー(500)で帰り、プールへゆき少し泳ぎ、ユの鍵預けをらざる故、事務所で45分待ち、帰り来しに、ビール売店になく買ひ来しハニーワインを呑ます。 近藤生わりあひ働き者なるに見直す。ユ、依子に「来ぬか」のハガキ出す。 8月1日 よべ9時すぎねて5時半さめ睡眠不足とりかへす。濃霧。3チャンネル彦根城を映す。 10時50分3生を三島へ送り、駅前で別れ、『文芸春秋』買ひ古本屋教はり本町へ散歩。古本屋2軒見る。何もなし。 2時55分にのりビラに帰る。プールもう泳がず。9時前就床。 8月2日 3時半さめ6時半起きる。曇。菊地父母とほなみ生11時すぎ来り(事務室で読売見れば滝口直太朗氏逝去75才と)、 鯛くれて熱海の病院へと去りしあと、ほなみ生「西太后」を2時間ほどやり(昼食鯛の刺身食ふ。旨し)3時40分帰りゆく。 (※省略) 京都36度4分と。名古屋も東京も暑き模様、ここは涼しくてプールへゆかず。 8月3日 4時半さむ。菊地生来ぬと電話で知り10時40分にて韮山に下り(350)、長岡まで橋をわたりてゆき我は冷麦食ふ(500)。まづし。 菊地に電話すれば「龍宮城」といふ旅館にて温泉なしと。仕方なく韮山に帰り(※省略)、 帰りて韮山にて買ひし食料品の整理し、夕食くひ、テレビ見しも眠く8時半就寝。 8月4日 5時半さむ。新聞よみにゆきしのみ。ユ依子に電話し15日来ると聞く。 8月5日(日) 4時半さむ。新聞よみにゆけばアルバイトを含む職員説教されをり。菊地生来り「光緒帝」の成年までやる。(※省略) けふビラの大会とのことなりしもユ見にゆき少人数と笑ふ。 8月6日 5時半さむ。(※省略) ユ三島にゆきしと入れちがひに菊地生来り、12時半までやり(※省略)3時40分に乗りて帰る。(※省略) あとも見ずいにし子ゆゑに物おもひいついつまでも思ひてゐるも 8月7日 9時就寝。3時半さむ。雷雨なり。7時朝食。最後のバスにて来ざりし岡林・石塚2生750円のタクシーにて来る。 土産多くくれ9時家へと電話かけにゆきし時、雷雨。 8月8日 よべ12時半まで2生ユと話し、3時半私語にめざめ寝床移し8時まで眠る。 午まへ2生覚むる直前菊地生のゼミ終り「13日まで来られず」と去る。 2生、午后プールーゆき4時ごろ迎へにゆく。11日より13日まで我を預かる由なり。 8月9日 4時半さめ7時半岡林・石塚2生を起す。2人11時40分にて富士見ランドにゆき4時すぎ帰り来る。 石塚生、クイズに巧みなること発見す。 8月10日 6時さめ、2生10時に起く。午后プラザにゆきハワイの飲物を呑む(250×2)。2生ミルクティーを飲む。 (※省略) 夕食カツレツ。ユ石塚生の縁談を引受く。(※省略) 8月11日 7時半さめ2生の9時半にさめしに飯くはし、11時40分出発、三島に着き昼食1,450(バス代2,000) 本町にゆけず2時半東海道線(410×2)にて小田原、(※省略) 新宿へ5時15分着(450×2)。南阿佐谷まで地下鉄(100×2)、夕立にて濡れて帰宅。 京、5日に破水して所沢の防衛大病院に入りしと。(※省略) ユは明日見舞にゆき我こととなる礼拝にゆく。 (『ビブリア』来り(※天理図書館)八木よし子1年間ハワイ勤務と)。 8月12日(日) 5時半さむ。ユ8時出て礼拝にゆき所沢の防衛大病院にゆくと。われ10時出て郵便局、(※省略) 佐伯にて『ゾロアスター研究(5,000)』買ひ母のところへゆく。大をりともに出て西友デパート。(※省略) 一度帰りプティ・パレにゆきアイスクリーム(270)。ユ5時半帰り来り、京奇蹟的と。(※省略) 8月13日 6時すぎさむ。ユをして塩入医院にゆかしめ10時半帰り来るまでに佐伯にゆき酒屋の払ひすます。 11時出て小田急百貨店食堂にて天丼(600)食ひ、 12時11分の特急にて小田原着、東海道線にのりかへ三島に2時半つき、買物にゆかしめ本町にて喫茶して待つ。 古本屋みな休みをり。富士見ランド行に4時5分に乗り、連絡なき故タクシーにてエメラルド・ビラに着く(500)。(※省略) 8月14日 よべ10時半ねむり2時さめ6時起く。依子、泰、望3時50分来り、泳ぎにゆきしあとゲームにて900円つかひ5時半帰り来る。 泰、近眼にて怠け者、望、細く小さく、働く。 8月15日 よべ10時にね、6時起く。望7時半起き8時みな起き、富士見ランドへ2孫10時40分出てゆき、 ゲームのみして3時帰り、水泳にゆく。我見にゆけばもぐりのみしてをり。5時帰り兄弟仲よきに喜ぶ。 8月16日 6時さむ。ユの言により依子と富士見にゆく。10時40分にて依子ら韮山へとユとともに出てゆく。望手をふりて去る。 ユ5時前帰り来り、三津へバスにてゆき終点の龍宮城わかりしと。(※省略) 8月17日 6時半起く。ユ6時起きしと也。午后2時20分プラザ行にのり、奈古谷温泉にゆかんと30分坂道を降りし処にて、 親切なる青年の車にのせられ、畑毛温泉の源泉荘にゆき600円にて入湯ゆるさる。 ぬるき温泉にて神経痛に良しと也。帰りのタクシー呼べばよそへゆきエメラルド・ビラまで890円。 8月18日 6時さむ。昼食中、菊地生来り「清史光緒本紀」ならびに「后妃伝」の必要場所すむ。早く東京へ帰りたしと也。 夕立降り来り、3時40分にて帰りゆく。あさって修善寺へゆくと定む。 8月19日(日) よべ12時すぎまで眠れず4時半さむ。雨止む。9時出て川端記念館にゆけばあかず。 プラザへ出、タクシー呼び奈古谷温泉へとゆけば(840)この間畑毛温泉と思ひちがひし宿なり。 入浴料600円払ひ、ややゆっくり入る。伊豆の踊子の温泉わからずなる。歩きて原木駅前にゆき『中国(650)』買ひ、 12時22分待ち富士見ランドに着き、まづきラーメン(350×2)食ひ、(※省略) 2時すぎエメラルドタウンへ帰る。(※省略) 8月20日 10時ねて一度さめ4時起く。雨ひどかりしも小雨となる。雨止みを出て11時、韮山に着く(350×2)。 修善寺まで電車にのり(190×2)11時半着き(本預け200)絵葉書買ひ(200)不二家にて昼食。ユ龍宮城に電話かけ長岡駅で待ちゐるとわかり、駅に父電話しほなみ生1時45分来り、ホットケーキ食ふ(不二家の払1,060)。 裏の本屋にて『文芸春秋9月号(450)』と『伊豆の道祖神(980)』と買ふ。見物止め、(※省略) 4時エメラルドビラに着き、 雨激しくなる直前にB2に入る。(※省略) 8月21日 よべ12時までねられず5時半さむ。雨。ユ竜胆見にゆき掘れざることわかる。12時昼食中、菊池父母子来り、茶呉る。 あすあさって挨拶にゆかずとなる。ユあす帰京と定め植物採集をす。 8月22日 4時さめ10時40分のバスに急ぎ乗る。三島着12時前、本屋3軒にて『諸君』9月号たづねしも無し。 小田原にて特急、(※省略) 3時2分新宿着、地下鉄にのり急雨の中をいそぎ帰宅。 兼清隆二より9月15日の(※今中)19期生会の再通知「松本健次郎会ひたがりゐる」と。出席とかく。(※省略) 書原にて『コロンブス(320)』買ふ。(※省略) 8月23日 ユをしてパーマのあと京の見舞にゆかしめ、佐伯へ紙屑売り(250)、7時すぎ帰り来るまで退屈す。 京そのままにて母上健太郎をもてあます様子に日曜より我家へつれ来ることとなりし由也。(※省略) 8月24日 よべ12時頃眠り6時半さむ。(※省略) 10時千葉大哲学出の美人、駅より電話あり迎へにゆけば集英社の『日本の詩』に6篇とりしと。写真とられ『大学・八十』集おきゆく。 2時弓子3孫つれ来り、孫ら食ひ入浴し、くすぐらせて去る。(※省略) 中野重治死去77才と。 辰雄忌にわがものいひて答へざるくやしさ知りし人も死にしと (※省略) 8月25日 よべ4時半まで眠れず6時半さむ。我は一日なすなく、ユ銀行より母のところへゆき(※省略)戸田家へゆく。 謙介氏敗血症にて入院、看病に困ると也。(※省略) 8月26日(日) よべ9時にねて6時半さむ。(※省略) 2時すぎ哲夫健太郎をつれ来る。公園へつれゆき買物通りにて本買ひやる(350)。哲夫病院へと去りゆく。 三才にして何もかもわかりゐるごとく哀れにて仕事できず。 わが母の死にしときをば五才なるわれはおぼえてゐしを思ふも 酒のみてうれひ散らせしちちのみの父をおもへばかなしかりけり ユ、三鷹に電話せしに健太郎も克次朗と電話にて話す。 8月27日 10時就寝6時半さむ。8時半出て塩入医院。10時問診、2週間分の薬もらひ(11,800)、母の許へ寄りて帰宅。(※省略) 依子、写真送り来りわが事心配す。 8月28日 よべ9時すぎ眠り6時さむればユ、健太郎をつれて散歩にゆきをり。 2時すぎ秋元生来り「中国の葬礼」につき書きはじめをるを直し、史料よみやる。6時半退去。 健太郎、我にそむきユにも云ふこときかず。 母たほれ強き子として生ひ立てる三つ児のことを我は見てをり 渡辺珠雄氏より「抜刷送った」と。未知の人にして未知の問題なり。 8月29日 よべ9時就寝、2時より3時まで覚め6時起く。(※省略) 川久保より電話、午后来り、松本の土産くれテーマを語り感心す。 3時、近藤生来りしゆゑ、前書みて口述し書直しを命ず。5時半帰りゆきしあと、健太郎ぐづりユ、手を焼くも。夕食せずして眠る。 けふ渡辺氏より抜刷来る。未知無関係の分野にして送られしわけわからず。商鞅伝よむ。 8月30日 よべ9時就寝、6時さむ。 (※省略)  ユ9時すぎ健太郎つれて三鷹へゆく。(※省略) 佐伯へゆき毎日グラフの民謡集(1,200)買ひ天丼食ふ(480)。雨なれば傘もちゆきし。2時半ユ帰り、(※省略) 哲夫来りビールのみ「土曜泊りに来る。京は異状なし」となり。8時半帰りしあと健太郎咳してさむ。 強き子よ近くの友と伍をなして団地の子らと争ふといふ (※省略) 8月31日 よべ9時就寝、2時さめ排尿、あと眠れず。 弓子2児つれて来り、健太郎喜ぶ。宏一郎も来り、公園へゆきなどし、4時半眠り夜食せず。 わが68回の誕生日なり。わが注文せし鯛のたぐひ食ひ、赤飯くひてやや鬱ひらく。 (※省略) 9月1日 9時ねて6時さむ。佐伯へゆき『地獄草紙・餓鬼草紙(1,000)』、『ガリヴァ旅行記(100)』買ひ来り、秦の法律写す。 やや鬱より逃れしか。ユ、健太郎のため画かかず。戸田氏難しきらし。 「満州族の殉死」腹稿成る。筑摩書房より『世界の歴史』の印税2万円来る。10時すぎ哲夫来る。 9月2日(日) 10時すぎねて6時さめ、また8時半までねむる。ユ9時すぎ教会へ会費払ひにゆく。健太郎、哲夫を促して公園へゆく。(※省略) 2時頃、稲田修二氏来訪。孫敦子嬢の中学入学につき重ねて要請、我簡単にまた肯ふ。(※省略) けふ健太郎、目かたく9時過ぎても寝ず。 9月3日 よべ早く寝、1時さめ3時ね、7時起く。風邪にて鼻汁出るゆゑ、山住先生に参り、のど洗はれ薬5日分いただく。(※省略) 不快にて無為。健太郎、意地悪なり。(※省略) 熱36度9分。 9月4日 7時さむ。熱35度9分。一日臥床。母来り健太郎「スキ」といふ。(※省略) 堀敏一氏より抜刷来る。 パンダの雌ランラン死にしとて大騒ぎ也。 9月5日 6時さむ。9時ユ健太郎をつれて出、吉祥寺動物園にゆき11時半弓子宅へゆき1時帰来、午食はす。 2時前秋元生来り、漢代の葬儀よまし4時すぎ帰りゆく。われ東豊書店に電話し簡木桂氏の帰国わかりあす登校、大学院の教科書しらべることとす。 宮崎智慧氏より2度電話、次男茂吉の歌とり原稿料贈りしに掲載拒絶されしとの也。わが体験話し「心配いらず」と答ふ。 秋山昭子夫人、絶交らしき返事。川久保は他よりきかれしにて返答いらずと也。余計な世話やかぬこととす。(※省略) 9月6日 6時さめ、9時散髪にゆき高円寺より地下鉄10時半登校。「講義要項」もらへば大学院のテキスト『台湾の民俗』とのみ。 民俗学研究所より東豊書店に電話し12時半ゆきダブリ返し『東周婦女生活(500)』と『明代律例彙編2冊(5,600)』買ひ、 家へ電話し「京分娩、母は異常なし」ときき帰宅。近藤生まてば3時来る。(※省略)、プティ・パレにつれゆき喫茶、引き返してともに出、 佐伯にダブリ本売り(260)、『古墳と古代文化(300)』買ひて帰宅。(※省略) また弓子に電話すれば「(※健太郎)叱りておとなしくなり し」と。 直後ユ帰り来り「京は大丈夫にして9時半出産、1.2キロの未熟児」となり。(※省略) わが母の未熟児生みて亡くなりしことにはあらずされどわが孫 9月7日 6時さむ。ユ1時より京の見舞に5万円もちゆく(あとにて入院費7万円余と)。4時半プティ・パレにゆき福地夫人と話す。(※省略) ユ6時帰り来り嬰児見しと。京も見て安心の模様と。われドーソン『蒙古史』見つけ独り笑ふ。(※省略) 小さくて生れし児はも目も鼻もそろひてありとあはれといふも けふ解散、疑獄かくし也。 9月8日 ユ午前中柏井歯科とパーマにゆき、(※省略) 木下雅夫生、葡萄もちて2時すぎ来り、中日交通の参考書貸しプティ・パレにつれゆく。(※省略) 小さくてうまれし赤児乳のみて9分どほりまで生くるとうれし。 9月9日(日) 6時さむ。よべ咳ひどかりしと也。夫婦とも礼拝休み、ユ9時すぎ出て弓子の所へ健太郎つれにゆく。 我も10時半出て佐伯に寄り11時すぎ吉祥寺着。新本屋にて『懲瑟録(1,200)』、ハイネの1月版(180)買ひ、11時半ユと健太郎に会ひ昼食に苦労す。 (※省略) 西武にのり新所沢よりタクシー(350)にて防衛医大病院4階にゆき京に会はせれば健太郎はにかむ。哲夫の顔見てくっつく。 「赤坊4時半まで面会できず」とのことにあきらめて夫婦して鷺宮に出、バスにて帰宅(150×2)。(※省略) 小くて生れし孫のけなげにも生きをるといふわれも生きなむ 9月10日 8時前さめ、あはてて仕度し9時すぎ塩入医院、(※省略) われプティ・パレの福地夫人にハイネ呈しにゆき、帰れば4時前菊地生来り、呂后のこと写しゆく。 栗飯と蜜柑もち来りし故、夕食せしむ。(※省略) 京、あす退院。稲田家にて養生すると也。 川久保より電話、「今夜瀧川政次郎博士、岡正雄邸訪問、来ぬか」と、「行けず」と答ふ。 9月11日 よべ眠れず12時入浴、1時ごろ眠り7時さむ。(※省略) 川久保宅へゆき瀧川博士来られざりしときく。(※省略) 文芸春秋の戦記2つよみ、ユ促して母宅へゆけば京より電話あり、帰れば家へも電話「今夜のみ清瀬泊り」と。健太郎出て穏やかなり。 けふ橋本貫一より加賀山秀夫8月31日逝去と。よく報せてくれたと礼かく。 真面目なる男のゆゑに早く逝きわれをなげかす何ともならず 八戸の『朔』より「(※創刊8周年72号)記念号に詩一篇を9月末までに」と。珍しきことなり。(※書かれず。) 丸家に電話すればユミ子出て丸呼ぶ。変った事なしとなり。重俊入浴とてあとにて電話せよといふ。縁談についてなり。 9月12日 5時半さむ。秋晴れ。10時半秋元生来り、東周の葬儀よみ、漢代の葬儀よみやり、午食くへといへば、神経で胃悪しとて12時半帰りゆく。 (※省略) われ高円寺の球陽書房にゆき『敬語学入門(150)』やっと買ひ帰宅。ユ、「京、心配してゐる」とのことにあすともにゆくこととし、 (※省略) 去年の日記よむ。「本年度自宅ゼミ」のわけよくわかりし。 9月13日 よべ眠りにくく朝7時さむ。8時半出て吉祥寺より富士見丘下車、そばまでゆき稲田家わからず。親切な奥さんに電話かり迎へに来てもらふ。 健太郎元気にて公園へつれゆけばブランコに乗る。京に「無理せず、心配するな」といひ10時半出て帰宅。健太郎「阿佐谷にゆく」と泣く。 11時半帰宅。佐伯にて『平泉展(100)』買ふ。(※省略) けふ赤ん坊体重ふえしときく。育つかもしれず。 いつもわが葬り気にする男ぞとわれがことをば日記によみし 9月14日 よべ7時間眠り11時来し荻村生を指導。昼食せしめしあと1時、菊地生来り、すぐ帰らんとするに「まえがき」書かしむ。(※省略) われプティ・パレにゆき福地夫人と話す。客われ一人なりし。(※省略) 11時近くまでイタリア映画見る。にせもののしるし明るしいつもこの現世のことに心わずらふ 佐伯さん、ぜんまいもち来る。産婦によしと也。 9月15日 よべよく眠り8時さむ。11時菊地生来り、わが口述を筆記し「西太后のおひたち」すみ、(※省略)ともに出てプティ・パレにゆき紅茶のませ、(※省略)。 地下鉄日比谷線にのり六本木下車。繁華街ぬけ国際文化会館とて旧岩崎邸へ4時前つき、(※今宮中学同窓会) 松本健次郎見忘れ、向ふより来しに「今夜うちへ泊れ」といへば「あすの予定あり」といなさる。 伊藤登といふ淡路沼島生れの覚えなき同級生、賀集の田中といへば喜ぶ。6時すぎ開会。倭周蔵の自動車に金沢(※金沢良雄)と乗り、阿佐谷駅までのせてもらふ。 金沢、西川みな健康危しと心配なり。 9月16日(日) 8時起き、夫婦とも礼拝休む。12時前、母と大と来り、大『浪速叢書』2冊もちゆく。12時半、母の餅われに食はせしあと西武へとユ展覧会見にゆく。 われ日記よみ、プティ・パレへ氷菓(270)食ひにゆき佐伯へ昨日もらひしぜんまいの礼に『文芸春秋』もちゆき『エトノス10(500)』買ふ。 (※省略) 昭和52年の日記よみ、岡林・石塚のわれに遅くまでもたれしに感心す。8時岡林生に電話すれば「10月石塚と来る」と。(※省略) 9月17日 よべ眠れず。菊池生と京のせい也。4時菊池生あらはれ本気にていへば「自分でかく」と。越南史1冊もちゆく。(※省略) プティ・パレにゆき鬱を新米のアルバイト夫人に云ふ。 9月18日 よべよく眠り8時さむ。ユ10時前出てゆき、われ放送作家協会の30名のテレビ見る。大(※西島大)は一問一答し「晝仕事し夜は酒」と也。 12時すぎ塩入先生につれゆきし京つれて帰り来り、寝しむ。健太郎迎へに弓子ゆき駅までゆきて連れ帰る。烏山の稲田父母了解らし。 われ球陽書房にゆき茶出され『世界文学全集』2冊150にて足らず1,350円の『沖縄植物』買ひ来りし也。 けふ山住先生に老人健診受け金曜再来を云はる。血圧102-80、永生きすると也。 集英社より『日本の詩・近代詩集2』の払ひ11月5日、発行本日と通知ありし。 9月19日 8時さむ。哲夫来るまでにプティ・パレへアイスクリーム飲みに健太郎つれゆく。(※省略) 公園へゆき泥まみれとなりブランコにのりす。 哲夫、9月6日生れの女子禎子と命名せしと。 9月20日 8時さむ。9時哲夫来り健太郎つれて吉祥寺のプールにゆく。京、ユと共に和田産婦人科にゆき、(※省略) 哲夫、防衛医大病院へゆけば禎子笑ひしと也。けふ平凡社より『唐代詩集・上』9版1,500部出来上り送りし印税は12月末と也。(※省略) 9月21日 8時さむ。10時すぎ荻村生来り『図書集成』の明代地志すみ、かけよと章わけす。1時帰りしあと4時前菊池生電話かけ「来てよしや」と。 4時半来り、6時半まで清仏戦争やり帰りゆく。けふも哲夫来り、京、和田産婦人科にゆく。健太郎の世話ややして喜ぶ。 9月22日 6時さむ。9時山住先生にゆけば「今までのところは無事」と。レントゲンとらる。ユ三鷹へ健太郎つれてゆき、帰るまでにプティ・パレにゆき福地夫人と話し、佐伯にゆき「何も来ず」とのことに『周仏海日記(200)』買ひ来れば、ユ弓子に健太郎わたして帰り来る。(※省略) 京は神経苛立ち健太郎を烏山に預け哲夫もそこへ泊ることにしたしと也。 9月23日(日) 7時半起され9時家を出て東女子大へ礼拝にゆき、竹森牧師様に「おはやう」と挨拶し、よけいなりしことを知る。 新訳のマルコ伝よみ先生のお説教の旧訳により誤訳なることを知り困る。帰りバスに乗り12時前帰宅。 依子12時過ぎ見舞に来り、菊地生2時40分すぎ来り、(※省略) 4時帰りゆく。 5時哲夫と前後し弓子健太郎をつれ来る。夕食後哲夫去る。禎子に母乳やれとのことなり。 9月24日 8時さめる。10時すぎ森山女史来訪、「黄帝内経」の序よまさる。ユ11時、依子と病院へ禎子を見にゆく。佐伯へゆき注文書わたす。(※省略) 4時ユの帰る前、宏一郎と孝行と来り遊ぶ。弓子つれて去りしあと、健太郎、京の言葉ききて喜ぶ。(※省略) けふ『世界名詩集(われの李白訳のす)』とハイネ新24版と来る。 9月25日 8時起され9時出て定期買ひ登校。高田君も大学院と。(浜谷)河野婦人来り、杉山生と2人にて台湾の年中行事やり、次のゼミは木下生1人。 匆々帰りて京のもの云ひ健太郎悦ぶを見る。10時すぎまでテレビの映画見て眠れず入浴す。 9月26日 8時半さめ9時出て散髪、岩波新書2冊買ひ来る。雨模様なり。山住先生レントゲン異状なしと。 12時半出て塩入医院、2時前院長診察。薬へらし賜はず。「去年のいまごろ入院」とユ。(※省略) けふ『阿南論文集』2冊17,600振替にて送る。守本文生氏(元学長と)逝去と。(※省略) 9月27日 (※省略) 9時半雨中登校。10時半より12時まで待ち学科会。(※省略) 帰宅の途に上原教授に遭へば「軽井沢にて佐々木望君に遭ひ云々」と。 3時秋元生来り、要領よく辞引ひき漢代の葬ほぼすみ6時プティ・パレにつれゆけば夜勤に青年をり。(※省略) 日本寮歌祭に「半死半生にて欠席」と返事かく。 9月28日 よべ睡眠剤きかず。4時頃ねつき9時半さめて朝食。雨ふりをり皆外へ出ず。2時半昼食。 6時まへ史、課長をつれて来り、玄関にて松茸一籠と茶呉る。禎子生れしを知らざりし也。 健太郎も風邪にて山住医院へ6時ゆく。(※省略) 京、鬱病なること判明。寒く電気炬燵に入る。 9月29日 雨降る。8時さめ睡眠不足とり返す(よべ9時半就寝)。京やや起き健太郎きげん良し。 「殉死」の史料「康熙実録」より採り9時となる。明日も雨との由なれど夜は雨止む。 9月30日(日) 風邪気味にて7時さめ、礼拝休む。終日「康熙実録」をよむ。 夕方哲夫来り、夕食し烏山へ泊りにゆく。健太郎も風邪なれど母ややもの云ふに元気なり。 10月1日 5時さめ7時朝食。ひるねの間にユ、京母子をつれて塩入医院にゆき12時帰宅。「運動せよ」といはれしと也。 柳井道弘氏より「この道」の歌作者不明なりしとあやまり来る。 午后佐伯へゆけば本、来をらず、エコー20箱向ひで買ひ母の風邪見舞にゆけば千草をつれて咲耶帰り来る。 夜、京の見舞に咲耶1万円もちて来りしも眠剤のみて眠りしあと也。健太郎咳なほらず。(※省略) 10月2日 9時眠り7時さむ。風邪おほむねなほりしらし。(※省略) 9時出て登校。10時つき、11時すぎ来りし秋元生を図書館事務長関戸信夫君に紹介すれば、 「いま駄目。一月からでもと石川館長に相談してみん」と也。(※省略) 高田瑞穂「タバコ60本」と平気なり。 河野夫人来り杉山博文と2人して「キリスト教より仏教」といふ。 清明の墓詣りをやめ、河野夫人に本2冊貸し、木下生に読まして早めにすまし東西文化の交渉2冊貸し 「木曜学科会は教授会の後」との西山主任の話を小森副手よりきき、 野口君より中共のタバコ貰ひて東豊書店にゆき、 『中国近代史大綱(800)』1年生様に60冊とりあるとのほか教科書教はり、 お茶水大学長を定年退職せし市古宙三君に「変なところで会ひ」といひ嗤はれ退出。 また地下鉄にて川久保に寄れば「6時より母上の年忌」と。15分して帰り来る。(※省略) わが主イエスさげすむ者に笑ひもて答へしままに話しをはりぬ 10月3日 よべ、不眠。10時荻村生来り、2時菊地生来る。荻村生帰りしあと菊地生5時すぎ帰りゆく。 健太郎の前にて喫煙せざることとす。 10月4日 よべ眠剤足して9時眠り7時さめ登校。天丼食ひ、栃尾氏?の高価なる本見せてもらひ待つ中、2時20分前に秋元生来りし故、下書き直し、(※省略)  教授会3時15分にすみ学科会。 白鳥君の史学研究法問題となり鎌田女史「田中先生の病中呼びし喜んで来てゐる」と解任反対なり。 小川、小沢の2氏も問題となりしも次回の学科会といふこととなり、わが科目認められし模様。 我つらくて耐らず、成城堂にて竹内の岩波文庫(200)買ひ、東豊へはゆかず、帰宅すれば、 京の鬱をユ諭しゐる最中にて、飛火して伊藤叔母の病気、わが4月の言行、弓子の早産などユとげとげしく云ふ。(※省略) 「ルーツ」テレビにて見てユに詫び、また眠剤加ふ。 (和田女史より電話、花井、三治(渡辺)の2友に「腹の中云はず」といはれしと也)。関西式の笑談云はずと誓ふ。 10月5日 よべ不眠。京母子の出んとするところへ友より電話、(※省略) 折しも来し母とユと4人にて11時半出てゆく。 塩入先生にユ、眠剤の増し3回分210円もらひし由。京は3日分の薬もらひて帰宅せしと。 我、3時ごろ佐伯へゆき『モスコー地図(100)』とワ印(※エロ本)と買ひ、 プティ・パレへアイスクリーム食ひにゆけば福地夫人と村上夫妻とのみ。 帰りて(※省略)、和田夫人より電話「三治夫人の云ひしは能ある鷹は爪隠すとのことなりし」と。(※省略) 「ルーツ」のつづき見て9時すぎ薬のむ。(※省略) 10月6日 7時半さむ。8時20分ユ、新所沢にゆく。川久保へ10時ゆく前、 『日本語の故郷をさぐる(390)』買ひ川久保へ殉死につきシャマニズムとの関係問ひ、11時帰宅。 (※省略)プティ・パレにゆき、昼食にサンドイッチ食ひ、 村上夫妻より16日午后6時半より『吾妻鏡』の講読を承諾し帰宅。(※省略) ユ2時に帰り、(※省略) 京、防衛医大検診に異状なく稲田母上泊りたまふ由なり。(※省略) 10時55分まで「ルーツ」見了る。 10月7日(日) 7時さめ、9時すぎ雨の中出て礼拝を東京女子大で。(※省略) 12時前ゆきと同じくバスにて西荻窪。 京のこと依子より電話あり、「ルーツ」見るべく8時まで眠れず。 (小雨の2時、投票所へゆき松本善明の名かく。) (※省略) 10月8日 よべ眠剤の追加のみ9時半さむ。塩入医院へユと10時半着き、眠剤付加さる。京の薬ももらひし。 別れて母のところへ寄り、大とともに出て一旦帰宅。昼食をプティ・パレでとり帰りて茫然。 自民、社会両党ともに負けしとなり。ユ2時帰宅。京の鬱症に苦心す。 10月9日 7時さめ9時すぎ出て登校。(※省略) 4時40分までトレンガヌ(※マレーシアの州)へゆくと云ふ野口君と話し、 帰宅すれば、ユ出るところへ岡林・石塚生来る。(※省略) 開々亭にて夕食せしめ7時半、2生「木曜夕方再来」とて送りに来ればユ帰りをり。 なにゆゑに我に来しぞと問ひしときほかに無しとて二人笑ひぬ (※省略) けふ登張正実博士より『潮騒集』頂く。ノヴァーリスのこと書きあり。 10月10日 7時半さめ500円もらひユ、京のところへ漢方薬もち出し、(※省略) プティ・パレに11時半ゆき昼食、あとテレビ見て4時前来し天理教師と話せしあとユ帰り来る。 無為なる一日なりし。(※省略) 10月11日 8時さめ無為にて午前中すごし、12時半出て球陽書房にゆき大林太良『葬制の起源(680)』買ふ。 殉死にツングースなし。2時半帰来、ユ誕生日(64才)とて鯛買ふ。(※省略) 7時半われ夕食しをはれば2生来て、鯛その他旨がりて食ひ我に説教す。 (秋山夫人より便りなく二科展に落ちしらしとユの言。) (※省略) 十三年つづきし恋をこの子らに語りしことも我は忘れつ 10月12日 9時間ねて8時さめ、ユ母のところへゆきし間に川久保に電話し、来ずときめ、プティ・パレへ紅茶のみにゆき、(※省略) 川久保来る。ウィスキーのませ東洋史一の親友と念押してすむ。(※省略) 井上書店の目録来り、古本の高くなりしにおどろく。 10月13日 よべ9時眠剤のみ3時悪夢にて起き小水。あと睡眠感なく7時半起き朝食しユ、8時すぎ清瀬へゆく。 腹へりプティ・パレへゆきてパンと紅茶、村上主人「火曜用あり」と。水曜に『吾妻鏡』よむこととなる。 ユ、戸田画伯へゆきしゆゑ高円寺の丸宅へゆけば夫人 「丸、茅ヶ崎へゆきをり。今夜帰る。朝夜反対云々。重俊は交際しをるらしも室なければ云々」と。(※省略) 10月14日(日) 6時半さめ7時起き、ユ疲れしといふに一人にて9時半、東京女子大での礼拝にゆく。 禁酒禁煙はユダヤ族の断食と同じで礼拝出席、バイブル、祈りが最必要とのお話なり。 西荻窪まで往復ともに歩き古本屋のぞき、佐伯に昭和55年暦注文し、『源義経(100)』と駄本(450)と買ひて帰る。 菊地生2時半ごろ来り、5時半までをり「水曜午後来る」と也。 この世のこと皆わすれ果て老いらくをひとりでゆかばつらくあらまし。(けふ602番-笹淵博士訳-唄ふ。) 10月15日 6時半さめユの起きるをまち朝食。9時出て登校。10時前に『吉川本吾妻鏡』と吉田東伍『日本歴史地図』借出して、(※省略) 東豊書店にゆき『台湾早期歴史研究(3,500)』、『中国神明概論(3,600)』、『中薬大辞典附編(4,200)』と駄本5冊にて2万円余借り、ラーメン 食って帰宅。 3時半プティ・パレにて紅茶のみ『吾妻鏡』4ページと『読史備要』清和源氏と年表とをコピーしてもらへば代いらずと。 福地夫人の歌の師をといはれ自己推薦して帰宅す。(※省略) 10月16日 4時さめ薬足し8時半起く。9時登校。(※省略) 『猫』もちゆき京子(※不詳)に貸す。 12時前高田瑞穂来り、神経痛と。金なくサンドイッチ半分(160)食し、のこり京子にやりて大学院。 3人そろひ時間了るまでやり、ゼミは30分にてあやまり帰宅。(※省略) 帰宅後、『読史備要』にて村上夫妻の予習をす。(※省略) 10月17日 6時さめ7時朝食。9時前散髪にゆき帰れば10時荻村生来る。(※省略) 6時25分プティ・パレにゆきタバコ2本吸ひ『成城文芸』忘れ9時帰宅。(※省略) けふ村山高氏より「11月10日の同窓会に出よ。古稀記念」となり。 丸に10時前に電話せしも「あかん」とのことになりし。 (明石利代氏より西島南峰のことのりし『明星の地方歌人考』贈らる。石上露子のことのりをり礼かく。) 10月18日 よべ12時すぎ薬まして寝、6時半さむ。11月10日村山高に会ひたしと返事かく。9時40分出て登校。 天丼注文し、石川館長に秋元の実習たのめば「よし」と。(※省略) 2時10分すぎより教授会。(※省略) 学科会。池辺の大学転入につき新城反対し、わが反論に「皮肉」といひしに怒りて物云へずなり。 4時「学生待つ」と中座し、家に電話し5時10分帰宅すれば、 ややして菊地生来り、(※省略)夕食してのち帰らす。11時就寝。 10月19日 暴風の余波にて出られず(6時起く。) 中央線不通となり。午后プティ・パレに雨止みしゆゑゆき見れば休業。 (※省略) 母近々西下、ユと我との淡路行は秘密にと也。 大高同窓会より11月10日5:30-8:00の案内来る。会費5千円と也。 10月20日 荻村生1時半来り、小正月の史料またかす。5時ともに出て丸にゆき、村山高氏の手紙見せ、 直立とタバコ買ひすすむるうち、久美子に我「後妻になれ」と云ひし由にて形勢悪くなり、 古本屋見て雑本と買ひて帰宅。夕食し10時半就寝。 10月21日(日) 8時10分起され髭そってもらひ9時10分出、 西荻より歩き9時40分女子大につけば、牧師御夫妻「おはやう」といはれ、長島氏受付。(※省略) 11時すぎ出て古本屋にて『古代朝鮮(200)』、『川柳歳時記(600)』買ひユを少しまちて帰宅。 プティ・パレに紅茶のみにゆき夫人に予習用にと『源義経』渡してすぐ帰宅。 川久保に電話し『九通分類総纂』遺品として近々渡す云々、新城新三の頑固といひて4時前帰宅。(※省略) 夜7時半より9時半まで『吾妻鏡』の予習す。 10月22日 10時半ねて5時半さむ。ユ6時半起き朝食し9時出て登校。(※省略) サンド注文し猫の本京子にやり11時高田の来しと話し、大学院へゆけば重久休校と。 5分遅れて来し河野夫人と杉山に相談し、茶のみにゆく(1,050)。(※省略) 西山教授に遭へば1時間話してわが主張通りしと也。 これにて機嫌直り木下生とゼミ30分やりて5号館にて喫煙。(※省略) 各駅にて南新宿、 東豊にて茶のまされ『古今台湾文献考(1,200)』と『清史雑筆(2冊1,000)』買ひ、教科書ききて帰宅。(※省略) 10月23日 ※記述なし。 10月24日 10時半ねて7時半さむ。11時河野弘子、切手と子供用カルタとジェリーもち来り、茶のませてプティ・パレにゆき「七娘媽生」のコピーさせつつ、 昼食に我はパン食ふ。 福地夫人われの訳は見ざりし。「西垣脩氏の句集に夫人の手紙はさみありし」とはあとの話にて、(※不詳) 河野夫人と高円寺まで歩き、平山博士来し云々。 雑本にて5千円余買ふ。(佐伯にもゆき『義経記(2冊1,200)』買ふ。) (※省略) 10月25日 6時半さめ9時出て定期買ひ登校。秋元生のゼミ10時よりやり泣かす。11時55分、学科会。 わが来年度5科目ほぼ決まりしに熹ぶ。(※省略) 5時席を立ち帰れば6時半、高橋重臣君来り、 立原設計して福岡にコーヒー専門店建てしをきく(ブラジレイロ)。11時すぎ眠らせ入浴、朝5時半さむ。 10月26日 7時半、高橋君さむる前に朝食とる。8時高橋君さめ3万円もち千円おき呉る。 9時半ともに出て佐伯へゆき古本展のこときけばすでに了りしと。我また雑本買ひて高橋君と別れ、 西川満氏へのハガキ出しにゆき、あきゐしプティ・パレにゆき、 少女に本一つ与へ『義経記』を夫人にと托し、茶のみて帰宅。 午食して川久保来るをまち『九通索引(2.6万)』与へるといへば受取る。二人してもちゆけば夫人不在。 川久保サイダーのたぐひ出す。出て壽岳素子『日本語と女(320)』買ひ、またプティ・パレにゆけば、(※省略) 帰りてよみかけし『日本書紀』抄す。4枚にて9時すぐ。河野夫人よりキリスト教徒の悪行をいひ来るも返事せぬこととす。 10月27日 8時40分さむ。韓国の朴大統領暗殺されしと。 快晴。10時半ユ銀行へゆきし間にプティ・パレにゆき福地夫人の来るまでをり、本貸して帰宅。 昼食して1時前また出てプティ・パレ画会とて忙し。 たのまれて『キリシタンの里(430)』買ひ『絵画に見るキリスト』予約す。1週間はかからんと。 堀家苦心して見つけしにベル鳴らず。加藤俊彦家も同じ。 またプティ・パレにゆき福地夫人に『キリシタンの里』貸し村上氏に日蓮宗の本のよめざるところ告白し、 帰宅し、ユの買物の間に和田夫人に『帝塚山通信』コピーしろといひ、河野夫人に宗教のこと云はぬこといふ。 ユに『リュウマチと神経痛』よまし、川久保に「来週来る番」と納得せしむ。 (8時、堀多恵夫人に電話すれば「新著送る手筈」と也し)。 10月28日(日) 6時起床。ユ眠れざりしと。9時出て礼拝にゆく。(※省略) 11時30分すみ古本屋で『漢字面白事典(400)』買ひ、ユをまちて阿佐谷に帰り、佐伯に寄りてただにて旅行案内もらふ。 昼食うまく食ひ、プティ・パレにて『日本書紀』半分よみしころ10人来りしゆゑ帰宅。 夕食後、大に電話して「来い」といへば「風邪」とことはる。『日本書紀』了る。 (プティ・パレにて震度3の地震、御岳噴火などありし。) 10月29日 よべ10時就寝、3時放尿に起きまたねて6時さむ。9時半ユ京のところへ健太郎の電車もちゆく。 われプティ・パレにゆき村上夫妻の出てゆくところ見、紅茶のみ球陽書房にゆき句作り、 福地夫人に桂信子の句集呈し帰宅。和田夫人より梅田夫人のわが「第一弟子」との文もらひ、(※省略) 西垣夫人に電話して「病気にて」とわび云ふ。ユ「偽善者」と云ふ。(※不詳) 10月30日 6時半起きユを7時おこし9時出て地下鉄、10時前図書館にゆき『果樹園』の製本を内堀君(※省略)に、 歌一首と『果樹園』のダブリ3冊やる。秋元生来らず。高田君と古本屋にゆき『年中行事歳時記(350)』買って帰学。 天丼半分食ひて大学院、重久来らず、難語よませれば浜谷の方よくよめし。 5号館の紅茶3杯、杉山におごらせ、木下生も匆々にすませ、猿渡生に会へば「池辺先生(※池辺弥)お越し、菓子あり」と。 ゆきて菓子食ひ、池辺氏に殉死のこときけば「知らず」と也。 帰り普通に乗り岡田直之教授と同車。「築島博士と仲良しですね」と也。午食前後『果樹園』よみ返せば面白し。 10月31日 6時さめ6時半ユ起し、弓子より電話「孝行預れ」と。アーチェリーの為也。(※省略) 我プティ・パレにて池田女と話し、紅茶のみ『果樹園』よみつづけ12時半帰宅。 堀多恵さんの本(※『返事のない手紙』)と西垣しげ子夫人のハガキ来をり。 餅一つ食ってプティ・パレへゆき高野夫人に面白がらる。 (※省略) 5時『果樹園』よみ了り、殉死10枚とし、懐風藻となる。(※省略) 11月1日 7時半さめユを起す。ハガキ3枚投函。大呼べば来しに白川静『詩経』もち来り、大阪女子大助教授の西島南峰の箇所よみ、藤田福夫より聞きしと我が略歴をものすをコピーすともちゆく。 白川博士のおかげにて『詩経』『史記』すみ、プティ・パレへ2度ゆく。池田女、洲本の出身、(※省略) 丹波に電話すれば「12,16のどちらかに来る」と。川久保に電話すれば9時電話あり「12,16夕をあける」と。 けふ高橋君より「ダッペル(※Olfert Dapper)12月になる云々」あはててオギルビー(※John Ogilby)とハガキかく。(※不詳) 11月2日 5時さめ(よべ11時就寝)、6時ユを起し7時半朝食。(※省略) 大にゆきて借りし『詩経』返し貸せし『西島南峰云々』とり返せば母眼科へゆくとてともに出しゆゑ、別れて西川満氏訪へば歓待され「筑波大の中国語教授そのうち来訪」と菓子賜ふ。 12時午食くひ了れば荻村生来り原稿見す。ゆるゆる直し髭剃るを忘れてともに出、(※省略) 中野坂上までともに歩き、別れて(※省略) ユ、母のところへゆけば再び発熱し、大怒りをり云々。(※省略) 川久保に「殉死『詩経』すみ殷墓のことかく。今西春秋8月20日死せし云々。」(※省略) 11月3日 7時半さむ。晴れ。佐伯へゆき雑誌受取り母のところにゆき11時半までをり熱計らしむれば37.2℃なり。 (※省略) 例の雑誌屋にて『レポート論文の書き方』むりに買ひ、帰宅し、プティ・パレへゆけば来客多きに帰宅。 ユ画にゆく前またプティ・パレへゆき嬢より紅茶もらひて戸田邸の前に行けば謙介翁、草ひきをり、振り返らず。 川久保にゆけば扉開きをり応答なく、岡邸にゆき夫人に隣家より呼んでもらふ。(※省略)。 川久保の雑誌整理手伝ひしも『学芸』みつからず3度プティ・パレへゆき紅茶のみ、(※省略) 11月4日(日) 4時半さめる。(よべ11時就寝) 9時すぎねて佐伯に三島関係のバラ紙預ける。 西荻よりバスにて東女、礼拝(※省略)、またバスにて西荻より新宿へ出て(140)京王にて八王子(210)。 休日のバス表見落としタクシー拾いひて上川霊園(2,130)。 霧の中、草ぬき花供へ、488,489の2番うたひ泪出んとす。(※省略)  梓はもリンドウ欲しとこの年々思ひしわれが願ひかなへし (※梓:夭折次男) 「殉死考」殷すみてヌルハチのまへ「大金國史」となる。 バス待ちにて『松の葉(200)』、『珍本古書(430)』、『シルクロードの終着駅(390)』買ふ。 11月5日 6時半さめユ起す。8時、大に電話し「午后来い」といふ。9時出て塩入先生。(※省略) 待合室へ帰ればユ来り、われ先づ出でプティ・パレへゆき池田嬢と話す。(※省略)帰りて昼食し、 またプティ・パレへゆき2時半高円寺へゆくと出て佐伯へゆけば「父旅行中」と。(※省略) 球陽書房にて『南島史学3(1,000)』、『風媒花(200)』、『逸著聞集(300)』にて持金少くなり歩きて帰宅。 (※省略)  (池田嬢バレーボールを中学にて南陽書房の指導受けしと也、24才) 和田久徳君に電話すれば「あと3年」と。「野口君と会ひて話せ」といふ。 11月6日 7時覚む。7時半起され登校。 新城博士と握手し、西山主任より中国古典3年を2年にといはれ厳然とことわりて3年となりし。 テレビ見しといへば喜ばる。大学院、杉山来らず、講師室にて河野夫人に茶わかさす。(※省略) 木下生によまし本貸す。次は田中日佐夫教授となり、『カラコルム』貸し高田博士の本持ち帰る。 (※省略) 村上夫人、福地夫人に嫉妬しゐるを発見、『松の葉』買はすことときめる。 (※省略) 野口君「和田久徳君のこと承知」と。 11月7日 5時小便にてさめ寝られず。10時半ユ孝行を迎へにゆきしにコピー、プティ・パレへゆきパンと紅茶。 村上夫人「松の葉いらず福地夫人へ」と。12時福地夫人来り『松の葉』受取り、(※省略) 池田嬢に「もう来ず」といひ「あす来る」といひ直す。 ユ、孝行つれて三鷹へ出てゆく。 『太宗実録』1冊了り、註かき24枚にて止む。 高橋重臣君に電話すれば「(※省略) 九州へ明日ゆく。今西春秋8月死にし、保田はまだ」と也。 11月8日 8時さむ。『太宗実録』了る。やや寒し。ユ、パーマにゆき12時帰る。プティ・パレにゆけば福地夫人、本2冊返す。 紅茶1杯のみて地下鉄、(※登校)スキー嬢に日本の諺教ふ。韓国の画報も与へ教授会。(※省略) 副手来り、古宮昨日来りて庄野の結婚云ひし由、「古宮青年座か」と問へば「横浜で働くらし」と。(※省略) 築島博士に電話すれば(※省略)新しき勤め先は来週木曜いふと也。 11月9日 よべ殆ど不眠、7時ユを起し新宿駅をまはって名古屋まで6,900座席指定。(※省略) 11:00出発1:01名古屋着。依子に会ひしのち采華書林にゆき26,560買へば送り呉ると息子包む。 赤本終りといふに天理の金子にいひて『隔簾花影』作れといふ。 5時頃アパートへ帰る。澄7時帰宅。『躁うつ病』貰ふ。 11月10日 11時の近鉄特急に依子と乗る。桜井にて(※車窓から戦後寄宿した) 来迎寺見えずなりをり。 1時着。南海高島屋にて狐うどん食ひ、曽根の史宅にゆく。(※省略) 5時出て史、章子と雨中美紀子の運転にて旅館につきユをおろし、大阪クラブへつく。(※大高同窓会) 講演中にて森川平人博士と話し受付渡辺恵に7千円の会費払ひ『大高の森(5,000)』買ふ。 入場すれば村山高大人、川勝常次郎の両先輩をり、野球部の能勢その他にて部歌うたふ。 遠来とて挨拶ささる。コカコーラ2本のみしあと少し食ひ、6時半散会。 高垣、杉野、森本佐一と話し、渡清孝見つけて遺産とて土地二分せしをきく。「西島の名きくもいやなり」云々。 相野忠雄さそひタクシー拾ひ、宿屋見つけざるに罵声あびせれば怒り千円払ふ。 相野耳遠く「山本治雄の息子吹田市会議員に最高点にて当選」(※省略) 菓子もち自動車呼びて帰らす。禁煙破らす。9時すぎ就寝。入浴せず。 (犬飼孝の萬葉節、人妻故に我恋ひめやも(※大海人皇子歌)云々聞くに耐へず、我が持ち来し寮歌集にて野球部歌うたひ、全寮歌、川勝、村山2先輩と腕くみて歌ひし也。) 挨拶ささる。遠来の二人の先頭なり。高垣、諏訪の事云ひをり。3時さめて日記かく。 (車中にて殉死1枚かきしのみ) 11月11日(日) 3時さむ。7時飯くひ9時来し美紀子、雅子、暁子と出発、新神戸にゆき汽船に乗り11時出発、1時洲本着。 狐うどん食ひ1時40分の福良行バスに乗り純仁天皇陵にて下車。 賀集橋まで引返し田中万米宅にゆき土産出し、田中幹也氏(30才)に遭ひ、正平も来しと聞き、 妾腹にて田甚(※田中甚城)の正統といへば信用さる。 墓地につき美紀子に写真とらし庭を見て茶のみ、土産の羊羹食ひて福良行きの自動車呼んで貰ふ。 (田中稔久氏死去、万米も死に未亡人芦屋と)。 人形芝居の小屋につき美紀子に写真とらしてすみ、またバスにて洲本。 神戸港へ18:30着き19:13の新幹線にて3人乗らせ18:40新神戸発。(※省略) 11時帰宅。新学社より印税996来ありしのみ、12時入浴して寝る。 11月12日 8時20分覚む。塩入医院へ10時着。(※省略) 柏井歯科にて排便、光一、茶出しくれ「この次には歯なほし呉る」と也。 北口の本屋で『歴史学研究3冊(600)』買ひ、プティ・パレにゆき茶、半分のみて帰宅。 (池田嬢、独立のために金かせぐと也)。昼食して高円寺の球陽書房にゆき230円分本買ふ。同席は刑事と。 本店にゆきしも本なく「主人の碁会所通ひとめてくれ」と夫人。その通り云ひて帰宅。 けふ依子、美紀子、村山高、筒井護郎にハガキかき新学社より840円来る。 佐伯来り、地図と引きかへに詩集4千円で買ひしと。杉山生飛騨より電話「あす休む」と也。 丸に電話し助手いらずやといへば「いらず。」「歩け」といへば「歩く」と也。 11月13日 11時ねて5時小便に起き着物きて炬燵にて7時半までねるる9時出て佐伯に寄り4千円受取り登校。 靴重きゆゑ成城大学の学生に片棒かつがせ淡路の人形関係の本寄附す。大学院へ高田と共に昇り紅茶のみて、 重久、河野夫人とに中元のノート半分とらせ、杉山生、河野夫人にも電話せしと知る。 30分して5号館の食堂にて紅茶おごる。(※省略) 木下生相手に4ページやり喫茶店にゆき我はアイスクリーム食ひ、 駅前の本屋にて『中野重治詩集』買へば駅にて高田待ちをり。南の喫茶店にて彼は麦酒、我は紅茶のみ 「5時来客」といひて南阿佐谷に5分過ぎつき、あはてて帰れば浜氏6時の約束と也。(※省略) 6時15分浜氏駅より電話、迎へにゆき、西太后につきわれが第一人者なること承知さす。 「東豊書店にて逢ひ一度来り、五日市高校の夜学の教師」と。紫雲英と蒲公英とをこの次もち来ると也。 9時喜びて帰りゆく。55才の定年に近く小高根太郎とも知合と。 能勢より電話「大高野球部の会長藤沢桓夫、東京支部長安達さん(※安達遂)、村山さんは幹事長」 「東京支部の幹事、我」と安達さんより電話すぐありし。 11月14日 7時さむ。10時半佐伯へゆけば第一水曜にてしめをり。プティ・パレへゆき池田嬢に紅茶1杯たのめば価格同じ。 高野夫人、犬つれ来り、大食し大笑ひす。福地夫人と物云はず、村上夫人退出を命ぜしにより12時帰宅。 采華書林より本つき7冊ダブりをり。 午后2時森山嬢来り『黄帝眞経』の序文すませ、帰るとて高円寺まで同行。球陽書房にて別れ、 『現代地名考』買ひ『エロティカ』2冊とも本店にて買ふ。都丸書店の番頭来り、兵長となり長沙にて評判悪しと也。 6時半帰宅。「殉死考」かけてうれし。田中幹也氏に写真送り、礼いひ、采華書林に注文す。(※省略) 11月15日 よべ11時ねて5時さむ。9時すぎ采華書林のダブリ本、佐伯にもちゆけば6冊にて4千円と。 『アルバム戦後15年史(1,500)』と、画本買ひ、ユに3,000で売る。 10時半出て成城につけば高田をり注文せし天丼すでに来あり。 学科会に出て鎌田、新城のみ田中助教授昇進に賛成。他はダメといふことになり西山博士に大藤(※大藤時彦)の人事の無茶なりしを云ふ。 一時間半まつ間にスキー女子と話し登張教授に辞典にサインさし、(※省略) 築島教授と同車、 小田急14階にてアイスクリーム食ひ「もういやになったからやめる」と聞き、和田久徳君に「著書1冊を」とのハガキかく。 荻村生、夕食をはさみ、誤字訂正ほぼ終りし処にて「路こはし、薬いる」と帰りゆく。(※省略) 書原にて用たし『日本の漢語(1,900)』買ひ、よむ力なし。 11月16日 6時半さむ。10時出て地下鉄にて新宿、大久保へ出、新大久保の柏佑堂にゆけば先生ゐずと。 むかひの喫茶店に我はトースト、ユはサンド、紅茶2杯にて860円。 柏佑堂にて女医先生より二人ともに診察受け薬代2週間分9千円。 我、本棚より『占い』『北京』買ひ、ユと別れゾッキ本2冊600円買ひて帰宅。「マンジュ族の殉死」書き了ふ。 5時すぎ丹波鴻一郎より電話あり迎へにゆく。川久保も来り8時半より古稀の会。旧悪語りて楽し。 相野忠雄より礼状来る。 11月17日 よべ11時ねて6時半さむ。11時出てプティ・パレに寄れば準備中と。佐伯にゆき『日本の神話(3,900)』借り、着直し昼食して登校。野口君の「シンガポールとマレイ」談聞く。面白し。プアサに会ひ断食せしと也。 すみて5時帰宅すれば木下雅夫2分前に来しと待ちをり。ゼミを「中西交通史」とせず、もっと小さくするきあとにて良しと。 『歌日記(※西島喜代助遺稿歌集)』与へ、折から降り来し雨に本の一部もち傘貸せば感謝してゆく。(※省略) 11月18日(日) 6時半さめユ7時起きる。よべ睡眠不足との由にて我のみ礼拝。バスにて前奏始まる前に着く。(※省略) 帰宅。午ね2時間、母より電話「恵子婚約者つれて来る。夕飯くはせよ」と也。(※省略) 8時二人喜びて帰りゆき恵子帰宅の電話す。 神田夫人に電話すれば「信夫京都へ研究に」と。「神田先生82才」と。和田先生のお葬式の時の事いひ「一度お立ち寄り」といはる。 恵子に長部日出雄に「貴著1冊を」とのハガキ託せし。ヘプバーンの「旅情」見る。退屈なり。 11月19日 6時半さめユを起す。11時プティ・パレにゆき澄よりの手紙開けば「保田與重郎と竹内好」のコピーなりし。 池田嬢の愛人、我を球陽書房で見知れりといふに「一度つれ来よ」といふ。 午食すませ球陽書房に散歩にゆき『坊ちゃん(50)』、『脂肪の塊(30)』にて買ひ、都丸の番頭にまた遭ひ、 3時より会合といふに帰れば和田久徳君より「約束の著書3冊やる」云々。弓子より電話かかり「あまり元気なので心配云々」。 澄へ礼のハガキかく。5時半出て蘭3千円買ひ、地下鉄へゆけば川久保見えず。(※省略) ユ反対側にゆき見つけ来る。日比谷下車。 日生講堂にて善海の嬢、依田ゆかり、夫のピアノと老嬢?のヴァイオリンにてイタリア、ドイツの歌うたふ。川久保欠伸す。 休憩時間、松本の息子に遭へば国鉄本庁勤務と。若し。西洋人たち帰りしあとアンコールに2回出て、夫婦手をとりて去る。 あすユ、京のところへゆくと也。汚き風呂に入りて眠ることとす。11時17分。 11月20日 8時起され9時半家を出、天丼注文のあと神田信夫邸へゆけば無人。名刺はふり込み高校へゆき、 山川京子女史に『桃』同人として毎号十首のせよといへば「宜し」としぶしぶ承知。 西山主任「木曜の学科会は民俗学みな不在ゆゑやめる」と。(※省略) 中元の講義びっしりとやり、急ぎ5号館にゆけばわが中国服にみな辟易。木下生早くすみ喫茶室。「女の子からかひすぎし」と木下生あやまり呉る。 築島教授のマスコミ送別会をするにわが出席をわり込む。堀川氏も「中国服で出席」と。 出て東豊書店へゆけば阿南君の後任は田中氏と軍事研究所員名刺くれる。『南洋華人小史』もらひ『中国文化人類学(360)』買ひて帰宅。 神田君より電話ありしと。かけ返して「『阿南論集』おくれしを田中氏より12月通知」と。「清代の土葬か火葬か」といふに「ヌルハチの陵掘れ」といふ。神田先生(※喜一郎)御元気となり。 (けふ長部日出雄氏、汗かきつつ『鬼が来た』2冊もち来り、署名す。) 帰りの車中にて見ればわが『青い花』にて太宰らの『青い花』発刊とのみ。(※省略) 川久保に寄り、茶のみタバコ賜ひ『学芸』出し来しも書き増せしを見よといひてとらず。(※不詳)  (※省略) 采華書林より『中国通史6冊(4,200)』、『中国法律与中国社会(2,100)』と送料500にて6,840送れと為替来あり。 秋元生「就職(飯野海運)出来、あす午前来る」と。 11月21日 6時半さめユを7時おこし、9時采華書林へ為替出す。(※省略) 10時秋元・荻村2生つれ立って来る。秋元生の原稿をまづ見、 その帰りしあと荻村生を昼食はさんで教へ、プティ・パレにつれゆき呂太后と戚夫人の話をす。 池田嬢帰りしあと紅茶のみ了へ荻村生と別れて高円寺駅前へゆかんとし、都丸書店本店にて『近代の中国(500)』買ひ、女店員にきけば店主の妹と。 ついで球陽書房にて『エロティカ11冊(5,500)』買ひ支店にゆき『日本民族の起源(1,800)』買ひ、茶のみて早足にて帰宅。 (弓子、孝行をつれて我が様子を見に来し。) 11月22日 よべ11時臥床。3時半小便に起き4時半茶の間でねて7時半さむ。 「オランダ人の第2次朝貢路」きのふより書き使節の訳に困る(矢野博士も総督を将軍と誤る)。 斎藤茂太先生のテレビ出演を11時まで待ち教授会に出ることとす。2時登校、教授会。(※省略) 築島教授に同行さそへば「ゼミ今より」と。 「また」といひて帰宅。筒井より「病気にて失職し快癒せし云々」。依田義賢君テレビにて生涯を語る。2人に「なつかし」とヱハガキかく。 「第1次朝貢」終り第2次かける見込みつく。(※省略) 11月23日 7時半さむ(よべ11時ねし)。9時半佐伯にゆき『満洲歳時考(4,200)』借り来る。プティ・パレにゆき喫茶し午后ユの叔父叔母見舞に同行せ ず。 またプティ・パレにゆき福地夫人のアドレスかかせ年賀状600枚の印刷たのみにゆく。 けふ岡田英弘『康熙帝の手紙(360)』買ふ。佐伯の払ひすます。午后曇。 ユ5時半帰り、林叔母「またお遊びに」といひ「叔父はもっと老衰とのことに婦長に甘い物わたして帰り来し」と。夜9時林敏夫よりユに礼の電話。 11月24日 8時半さむ。11時プティ・パレにゆく。福地夫人早く来り、12時半帰宅。 「オランダ人の第2次朝貢路」ダッペルと清実録とでかき、ユ画に出てゆきしあとまた(※プティ・パレに) ゆく。 福地夫人「シンガポール」の唄は別れの歌かと嗤ふ。逵原実軍曹の作詞にて、夫君いま出張中なり。 石井正吉氏より「著書に署名ほし」と。「電話かけたまへ」と返事かく。 城西無線の主人来り、永くつづけしテレビ直らずととりかへ帰りゆけば、田中咸子「婦人労働」につき発言しをり。「深夜もよし」と也。 11月25日(日) 8時すぎさめ朝食し、夫婦つれ立って雨の中を礼拝にゆく。(※省略) 来月の聖餐式はクリスマスの日と。(※省略) 阿佐谷駅、ユと別れ佐伯にゆき『鬼の研究(200)』買ひ、プティ・パレにゆけば池田嬢をり「釣りにて鰻とれし」と。 後の客の来しを見て帰宅。昼寐1時間す。三重ノ海優勝す。川久保に励ましの電話かければ「ダメ」と。我が論文は期日にまにあひさう也。 11月26日 けさ9時間ねて8時半起き塩入先生へ9時半。(※省略) 母のもとに寄れば大も起き来り、朝食してまた寝ると也。 『大東塾三十年史』もちてプティ・パレ。客なく池田嬢一人。福地夫人は水墨画の稽古にて休みとなり。(※省略) 池田嬢、自動車免許とりに休むとのことに「一度来たまへ」といひ1時帰宅。昼食パン。 「オランダ人の第2次朝貢路」福建省終りに近く(16ページ)へとへととなる。(※省略) 夜、美紀子より「写真ついた」との電話。 田村春雄より(※電話)「在京。丸三郎は」とのことに「いふこときかず云々、この次拙宅を宿にせよ」といふ。 11月27日 よべ2時さめ薬湯のみてねられず、6時半起床。9時半出て登校。高田君、菓子と少量のパンで昼食。我は狐うどん(350)半ば食ひて大学院。(※省略) 4時半帰宅。ユ、清瀬で健太郎遊ばせしと帰宅しをり。明日もゆくと也。 大学院紀要やっと18枚(200字詰)、オランダ使節浙江省に入らんとす。(※省略) 11月28日 10時半就寝、1時まへ発汗にてさめ小便ののち論文かくこととす。但し1行かきてダメとなり山住先生の頓服薬のみて退散。ユいびきかきをり。 8時まで炬燵でねむり覚めて朝食、ユ9時前清瀬へと出てゆく。11時過ぎプティ・パレにゆき池田嬢、福地夫人に会ひパンと紅茶とりて帰宅。 荻村生来り、あと三分の一となりをり。そのあと茫然しをればユより電話あり。すぐ帰る筈のところ7時帰宅。むつかしき手術にて烏山の母妹も立会ひしと也。(※省略) 11月29日 10時半就寝、8時半さめ睡眠不足とり返す。10時出て11時登校、12時前より学科会。田中宣一講師の助教授昇任(※省略)、 阿佐谷に帰りプティ・パレにて池田、福地両女史に間に合ひパンと紅茶にてすまし帰宅すれば太田未亡人来をり、弓子、克次朗、孝行来をり。 2孫の土産もちて帰りしあと太田夫人辞去。 けふ筆談にて常民文化紀要の論文7日まで新城博士に申入る。(※省略) 佐伯で紅本6冊4千円にて取り戻し、栃尾氏にボーナスにて売ること諾され実行す(※不詳)。 『フィリピン史(2500)』佐伯に来ありし也。 11月30日 7時半起床。10時菊地生来り、ゼミやり毎日来るとの由なり。プティ・パレへゆき昼食。帰りて1時頃去る。3時半近藤生来り少し書きをり。5時半去る。 林叔父、午后5時20分逝去と電話。(※省略) 12月1日 よべ2度さめ7時半起床。10時半ユの林家へ出てゆきしあとプティ・パレにゆけば(※省略)、秋元生2時に来り、直して3時すぎ帰りゆく。 (※省略) 2時葬儀屋来りしに、花料わが家1万円、史の5千円とを供へし。(※省略) 12月2日(日) 8時半さめ9時半出て林家へゆけば佐藤輝夫教授らをり。11時より読経、親族席の末席に坐り香を三位の名に於いて焚く。 棺の中に正哉叔父入歯せずして死にをり、花を入れ釘を打つ。焼場にゆかず阿佐谷に帰りプティ・パレにて昼食す。 ユ年賀状六百枚とり来をり(7,000)、菊地生5時すぎまで来ず、もち来りし草稿直し註かかす。出来ず泣虫なり。9時すぎ「あすも来る」と帰りゆく。 「ノベルの朝貢」かけず。 12月3日 よべ11時にねて4時すぎ起床。寒し。朝食後ひるねし、ユの薬とりに塩入医院へゆきしを知らず。午後1時プティ・パレに(※省略) パン食ひ紅茶のみ帰宅せしあとユ帰り来り、柏井歯科に寄れば「この間二夫婦にてハワイへゆきし」と也。(※省略) 菊地生「3時半来る」と。「オランダの朝貢」杭州まで書く。創美社より写真返送並びに女史のとりしもの書留にて来る。 田代継男氏、今年10月15日逝去。林主計生5月31日逝去。(※省略) 3時半、菊地生来り「日清戦争」の註かき「あす5時」と約束し夕食に鰻くひてのち帰りゆく。 12月4日 10時臥床、4時さめ5時よりダッペル書く。25枚(200字)也。9時出て登校の途、神田信夫氏に遭ふ。昼食にまた天丼とり3分2食ふ。(※省略) 秩父の夜祭にゆきし重久生不眠にて出席。河野夫人果物くれんとせしを断る。ゼミ木下生、早くすませ帰宅。 千草来り、火災保険に入りしと。(※省略) けふ菊地生「風邪にて来られず、あす来る」と。 12月5日 8時ごろさめ(※省略)、「オランダの第二次朝貢」やっと25枚なるを知る。10時半近藤生来り、「モンゴルの民俗」少し書けしを直さし11時半去る。 (※省略)  田代継男遺族にお花料3千円ユに送らしむ。その前後菊地生来り、義和団よます。4時すぎ「風邪なれど書く」といって帰去。(※省略) 角川より「税込み109,368円三井に入金」との通知。プティ・パレの「らくがきノート」地図に挿みありしを発見、うれし。 12月6日 8時半さめプティ・パレにてパンと紅茶とりて登校、スキー女史にクリスマスカード送ることとす。教授会。(※省略) 4時すみクリスマスカード買ひて帰宅。(※省略) 井上正蔵教授と同車、「都立大にて山住正己氏に会ひわがことききし」と。 菊地生より音沙汰なく心配なり。 12月7日 5時さめまた眠る。3時すぎ秋元生来り、あとがきまで了る。(※省略) 蔵原惟光氏より母上の喪中と。伸二郎未亡人なり。 12月8日 8時さむ。荻村生来り、卒論片付け帰りゆく。午食せしあと、ユの画にゆきし故、プティ・パレにゆく。オギルビー来ねば仕事できず夜、高橋重臣君に電話すれば奈良にゆきしと。 (※省略) 高橋君より電話「100ページのみ何としても送る」と也。「それで結構」といふ。(※省略) 12月9日(日) よべ早くねしも1時半さめて寝られず。5時より炬燵に入り7時半ユ起し礼拝にゆかしむ。何もできず。(※省略) ダッペルの誤訳に夜、気づく。 テレビ見ていよいよ疲る。菊地生より便りなし。 12月10日 よべ眠り7時起き塩入先生へゆく前また一睡し10時すぎ塩入先生。薬ましたまふ。林俊郎より「20日2時に満中陰、かたみわけするゆゑ来よ」と。 宮本周子より「馨太郎氏4月12日歿」云々。(※省略) 12月11日 よべよく眠り7時覚む。頭動かず。11時ユ、弁当置きて出てゆく。親友たちと茶店へと出てゆきしあと、 球陽書房にゆき『日本民族(4千円)』、『ユーラシア1,2(400)』買ひて帰宅すればユの友3人喋舌りをり。「本あるな」といひて帰りゆきし。(※省略) 12月12日 よべ薬きかず朝方ちょっと眠りしのみ。家にて何もできずにをれば(※省略)、散歩に出て球陽書房ゆき何も買はず茶のみて帰る。 夕方、高橋君よりオギルビー100枚来る。送料700円也。 12月13日 けふ睡眠不足のためダウンし、(※省略) ユ、菊地生に電話し「あす午后1時来る」と。近藤生よりも電話あり「あす3時来よ」といふ。(※省略) 12月14日 よべよく眠る。近藤生3時半来り枚数少し。菊地生より「日曜午后来る」と。(※省略) 鬱とて何するも嫌なり。 12月15日 よべもよく寝、8時半さむ。ユわが薬とりに大久保へ出てゆく。久志学生、電話かけて来り「青梅街道に塾開きしも一人も申込なく借金500万円」と。 寒き中を青梅街道の見える所まで送り出す。 12月16日(日) よべ不眠。菊地生「5時来る」と電話し、書き了へとの顔しをり。誤字訂正より外なし。 12月17日 よべよくね、9時さむ。塩入先生にゆき薬かへていただく。論文かけず年賀郵便かきそむ。(※省略) 12月18日 よべもよく眠る。ユ11時家を出て三鷹の田上dr.にゆき2時すぎまで帰らず。待合せしと。われプティ・パレに2度ゆき午食すます。 依子より我が着物の仕立て上り来る。近藤生かき足し、菊地生受講届に印おさしに来る。 12月19日 (※記述なし) 12月20日 8時さむ。9時出て登校、天丼食ひ学科会に出、また1時間半まち教授会。山田君再選さる(文芸学部長)。4ゼミ皆挺出。7人分の論文副査承知。 西山氏と同車にて帰る。(※省略) 12月21日 よべ薬のまず眠る。3時ごろ森山女史来訪。「黄帝内経素問」よます。我が本、ユが彼女と兄との縁談話す内出て来てうれし(※意味不明)。 (朝、秋元生より盲腸炎にて本返せず云々) スキー女史よりクレジットカード貰ふ。夜、川久保より電話、音沙汰なきゆゑ心配と也。 12月22日 よべもよくねて8時半さむ。プティ・パレにゆきしも鬱とれず。(※省略) 夜、高橋君より電話ありし故「あれにてよし」と断る。 12月23日(日) よく寝て8時すぎ起され礼拝にゆく。前より3列目なりし。帰り長島君の自動車にて吉祥寺近鉄デパートへゆきうどん食ふ。 そのあと阿佐谷にてユと分かれプティ・パレにてパンと紅茶。 12月24日 8時すぎさめ塩入医院へ10時すぎにゆき11時半診察すみプティ・パレにゆく。池田嬢あと2回にて一応退職と也。 年賀ハガキ少し書きしのみにて茫然たり。 石井氏といふが来り『神軍』以外のわが詩集みなもちをり。潮来の人と也。署名し羊羹と立原道造の名刺とを与ふ。9時頃礼の電話かけ来し。 12月25日 8時すぎさむ。宮崎康平氏より本送ると。山川女史(※山川京子)より夫君(※山川弘至)の父逝去と。 2時前荻村生来り、貸本3冊を除き返却す。4時ごろ宮崎生来り、池内先生の本返す。物知りにて感心す。その他無為。 12月26日 8時半さむ。ユあす京のところへゆくと。石井正吉氏より礼状。プティ・パレにゆきあすにて池田嬢やめるときく。賀状かく気なく弱る。 12月27日 ユ京のところへゆくとて8時起く。8時半出てゆきしあと賀状かき駅前〒へ出しにゆきプティ・パレ。 池田嬢けふ限りとて福地女史の来るのを待ちパンと紅茶4杯。鬱なり。 伊勢煦氏より「蘇東坡」のこと我が書き忘れしを送り賜ふ。(※省略) 12月28日 9時さめ充分眠りし。池田嬢のをらぬプティ・パレにゆきパンと紅茶。何もする気なく賀状「ハ」よりを残す。 12月29日 よべもよく眠りしもだるく晝食後散髪にゆきプティ・パレに寄りて帰宅。賀状片づかず。 12月30日(日) よべよく眠る。賀状片づかず。近藤生来り、貸本返す。3冊なし。夜、丸生来り、関西へゆきしと漬物呉る。縁談そのままと。 12月31日 よく寝しも昼ねす。2時賀状終り郵便局へ出しにゆく。逝者如水矣。 田中克己日記 1980 【昭和55年】  この年、あらたに頻出するやうになる高円寺の老鋪古書店、都丸書店支店の瀬見伊三郎氏。  戦時中の南方派遣時に共通の上官を持ったことが分かり意気投合します。  退任間近の蔵書家の大学教授は、少々気難しいものの古本屋にとってはお得意様に違ひありません。  詩人も行きつけの喫茶店「プティ・パレ」が阿佐谷~高円寺の途中にあったこともあり、日課の散歩は駅前の佐伯書店だけでなく、都丸書店への往復が新たなコースとして加はりました。喫茶店にはcopy機があり、卒論学生を連れて資料複写にゆくこともあったようです。  そして古本屋といへば、この年刊行された『中国の民俗と歴史』。その発行所の研文出版は、これも懇意の漢籍古書店、神田神保町の山本書店の出版部でした。  ただし今回は学術論文集です。巻末に、評判の良かった旧作エッセイ「始皇帝の末裔」が再録されましたが、史的な考証で埋められた内容は、親しい学者から古稀記念として言祝がれたものの、並べてもらった都丸書店をはじめ、さすがに一般書のやうな捗々しい売れ行きとはならなかったやうです。  山本書店社長の山本敬太郎氏ですが、この専門書に続いて、詩人がこれまで伝記・訳詩をものしてきた李白、白楽天、杜甫の中国詩人シリーズの最後にもう一冊、単行本を書き下ろすことを慫慂します。  二人の縁については、完成まで足かけ3年掛かったといふその伝記本『蘇東坡』の「あとがき」に記されてゐます。曰く、 「うれしかったのは、差入れを許された獄中の共産党の某氏が「この本(※『李太白(昭和19年)』)は面白い」と愛読したことと、たまたま店頭を訪れたわたしに「あの(※シリーズ本19冊の)叢書では武田泰淳さんの『司馬遷』とあなたの『李太白』とが双璧ですね」と評された山本書店主山本敬太郎さんのかざりけないおことばとで、わたしはここに知己がいたかと喜んだ。」296p と、初めて書いた評伝本を玄人に評価されたことに喜び、執筆を決意したとあります。  図らずもこの一冊が東洋史学者田中克己としての掉尾を飾る著作となりました。  私生活面では、相変らず「躁」時期における取り沙汰が日記を彩ってゐます。  寛解したとて塩入医院からの薬を中止したところ、年末に路上で自転車に乗る男女(おそらく若者?)に激昂(接触でもしたのでしょうか)。翌年には近所の靴屋と喧嘩し、やはり警察署に訴へてゐます。  もっとも「この界隈で着流しで歩いてゐるのは僕だけや」と私にされた自慢話は、そのまま界隈の噂となって交番にも伝はってゐたものか、詩人の癇癪は警察署で丁重なもてなしを受けて収まってをります。  「絶交癖」も健在です。この年は、さきの瀬見さんやプティ・パレのマダム、そして親友丸三郎さんにも絶交を通告しては、その都度没交渉に耐えきれず、これまた一方的に取り下げてゐます。日記に  わたしの一番好きなのはタバコ  二はおしゃべり─することもきくことも─  三は本 と書いてゐますが、その時の気分で癇が起るものの、孤独嫌ひで人恋しさ一倍の詩人に、朋友と絶交などおいそれと出来やう筈もないのです。  現今のポリコレ基準とは程遠い40年前のこと。当時の常識・慣例に加へて、詩人ならではの奇矯な発言・行動については、躁状態のなせるところと詩人自身が自覚して記してをり、私的な日記であることを踏まへ苦笑を願ふ他ありません。  執筆中の『蘇東坡』に、各地を流浪した詩人になぞらへて、こんな一文がありますので引いておきます。 「詩のおかげで他人より苦労したというなら、あるいは詩人の本懐であるかもしれない。」262p  成城高校の山川京子氏が停職と聞いては校長を訪ねて口論、また大学では学長の不倫疑惑を本人に直接質すなど、直情径行は正に詩人の業といふべきですが、不正や権力に対する清廉さには、翌年悩まされることが起ります。  さてこの夏も避暑を思ひ立ちます。このたびの逗留先、木曽駒高原の別荘を世話してくれたのは教へ子の荻村雅子氏でした。翌年、松本での結婚式に仲人として詩人夫妻を招きますが、なんと前日に保田與重郎の訃報が・・・続きは次年解説にて。都丸書店は2020年、前年の東豊書店に続いて88年の歴史を閉じ店仕舞しましたが、荻村氏の実家は木曽平沢の地で今も名産木曽漆器のお店を今も開いてをられるやうで何よりです。  この年の出来事 1月 都丸書店支店の瀬見伊三郎氏と意気投合、佐伯書店・東豊書店と並ぶ懇意の古書店となる。 2月 プティ・パレと絶交するも旬余にして解く。中公出版に第6詩集刊行を咨るも断念。    山口書店主より『炫火』所載文コピーを貰ひ『四季』復刻版を進呈。 3月 山本書店、200部買取で『中国の民俗と歴史』』の出版を請負ふ(9月刊行)。 7月26日-8月25日 木曽高原谷口山荘にて執筆。 9月  丸三郎と絶交。二旬余にして解く。 10月 書評や売れ行きを案ず。夫婦喧嘩。 11月 塩入医院への薬依頼を止む。 11月 親友西川英夫68才藍綬褒章。12月受章祝。 12月 山川京子停職と聞き、成城高校へ諸我校長を訪ね口論。 12月 近所の路上で自転車に乗る男女に怒り、杉並警察署や区会議員に電話。また成城大学学長の不倫疑惑を本人に質す。 昭和55年 1月 1日~昭和55年12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 終日鬱。賀状多く来り、一名外国よりのわからず。 1月2日 午后2時宏一郎、孝行来り、すぐ京、健太郎つれて来り、16時去る。John Wain見てウツとれる。 1月3日 炬燵にて賀状の返事かきに苦しみし。 1月4日 午後、雨、降り出せしに、ユ外出、京より電話「来る」と。哲夫、健太郎もともに来り、(※省略) 鬱なり。20:00ごろより眠がるユをはげまし教へ子の賀状すます。 1月5日 寒し。午后、弓子夫妻3児をつれて来る。(※省略) 1月6日(日) 8:20起され礼拝にゆかず。留守番して何事もせず。(※省略) 13:00渡辺登美子生、日本着にて来り、14:00森山マリ子姉弟来ると入れちがひとなる。 送り出して佐伯(※阿佐谷駅前佐伯書店)に寄り英文Bible買ふ(500)。正月以来の初外出にて初買なり。(※省略) 1月7日 寒し。塩入先生(※精神科)にゆけば薬かへたまふ。(※省略) 帰りて12:00すぎし故、Petit Paris(プティ・パレ:喫茶店)に初行く。(※省略) ユ帰り来りしあと千草つれて母来る。(※省略) 川久保(※川久保悌郎)に電話すれば無事と。夜、タクラマカン砂漠の写真をteleviに映す。羽田博士と明君のことしきりに思ふ。(※省略) 自彊会員名簿来る。わりあひに生き残れり(但し消息なき者あり)。 1月8日 寒き中を9:30出て定期買ひ登校すれば高田君と入れちがひ(※省略) 大学院へおくれてゆけば3生そろひをり。(※省略) semiにゆけば荻村生をり、(※省略) 帰りの電車荻村生と共に各駅に乗り東豊(※代々木の東豊書店)へゆけば簡木桂主人不在。 奥さんと姪とにて茶よばれ『端午考』荻村生にと買ふ(600)。(※省略) 1月9日 8:00起き(※省略) 岩崎昭弥君より電話あり社会党本部にゐるとのことに「も少しガンバレ」といふ。 プティ・パレへゆけば村上夫人一人にて福地夫人まだ来ざる也。パンと紅茶とにて帰れば、ユ帰りをり。 1月10日 5:20さめ7:00起床。9:30出て(※省略)10:30登校。天丼あつかへ(600)学科会議(※省略) 帰らんとすればsemiの説明会と。中央線沿線でなければダメといふ。(※省略) 躁なるらし。 1月11日 7:00さめ午、ユ不在とてプティ・パレへゆきパン食ふ。村上夫人一人にてすみ、年賀状出しにゆきまたゆきて紅茶のみタバコ買ふ。 (※省略) 京に電話すれば「用あれば母呼ぶ」と也。めでたし。卒論4冊すましわがsemiの良きを喜び、(※省略) 1月12日 6:30さめ卒論5冊もちて登校。副手にわたし東豊に電話して12:30到着。教科書の取寄せたのむ。 (※省略) われ高砂族関係16万余注文し、払ひを5月とす。簡木桂喜び夜、電話すれば19:00もち来ると。 来りしにWhiskyのます。21:00帰宅。我、(※簡木桂の)自宅に電話す。夫人出て毎晩のこととておどろかずと。 1月13日(日) 礼拝休む。雪ふり、パン食ひ、14:05丸重俊来り、ユ14:00駅まで川副嬢迎へにゆき、我、丸に華僑の本2冊貸し、 外出いひてプティ・パレへゆき、福地夫人と今年初めの会話し、16:30帰宅。大雪ふりをり。 以外にも(※見合の)2人まだをり、追出してプティ・パレへやる。(※省略) John Wain見てユと喧嘩す。 1月14日 7:30さむ。9:00家を出て登校。卒論すませ、売店のcopyに忙しく失礼なるを総務課長にいひにゆけば売店長、売子と共にあやまりに来ってすむる 出て東豊にゆき店主忙しく話しもせず、中国医薬史3の借金見つけらる。16:00帰宅。(※省略) 1月15日 8:00さむ。昼食くひて13:30丸宅へユとゆき川副嬢の吊書見せ丸の吊り書を夫人書き直す。 重俊呼びて古本屋にさそへば否と。都丸にて文庫(100)買ひ、球陽書房にて1,500買ひ、石鹸を年賀にもらひ、17:00ごろ帰宅。 佐伯呼べば角力すみて来り、9,000にて雑本買ひ呉れ、茶のみ菓子もち帰る。 石井君(※ファンの石井正吉氏)より電話「詩書いてくれ」と。超特急酒1本と色紙もち来れば詩かくといひ26日19:00来ることとなる。 1月16日 6:00さめ7:30ユ起床。われ8:00さめ9:30中央線にて大久保下車(120)゜薬店へゆき薬(※漢方)買ふ(4,900)。15日分なり。 森山嬢に『京都(500)』礼として与ふ。(※省略) 帰宅すればユ帰り、京の禎子(※発育)まあまあなり。(※省略) 1月17日 4:00さめ5:30ユさむれども起きて来ず、10:00すぎ医者へゆく。 球陽書房へ電話すれば「開店」と。「本売りにゆく」といへば「どうぞ」と。 カミュの「異邦人」見る。(※省略) 高円寺の球陽書房へゆけば本支店ともにしまりをり。都丸あきし故、本見せれば3,000で買ふ。 『ロシア語4週間』、『アポリネール遺稿詩篇(2,200)』などで3,000つかひ、球陽に電話かければ本支店ともあきをり。 本店にて500買ひ、支店にて『ゲオルゲ詩集』、『中原中也詩集』買ふ。 (都丸の番頭、瀬見伊三郎、横田高明中尉、衛陽にて夜戦、流れ弾に当たりて戦死すと。) 帰りプティ・パレに寄り紅茶のみ(170)家へ帰りて昼食す。14:00荻村秋元2生来り、弓子母子来る。(※省略) 16:00まで面接の心得話しワリ勘にてプティ・パレへまたゆけば (※省略) ユ咽喉わるく、あす心電図とってもらふと。映画見了りて就寝。 1月18日 7:00さむ。寒し。足立氏より2月8日大高野球部の会行ふ。手紙日曜に来る云々。今年喜寿と夫人と代りてわれも古稀といふ。 9:30ユ山住医院へ心電図とりにゆく。プティ・パレへゆけば11:00まだしめをり。日向で10分まてば村上夫人入れてくれる。(※省略) 高円寺の球陽書房へゆけば本支店ともにしまりをり。(※以下、前日記事と重複。再録?) 都丸本店にて3,000本売り番頭に横田高明の話きき、昭南支局長たりしこといへば、兵長として中隊長の中NO.1なりしと。 大高先輩にて昭南島にて1,00円借りしこといへば遺族のところしらせと。 帰途球陽書房にて200買ひ帰宅すればユをり、昼食くひ、(※省略) 川久保呼んで将棋さし(佐伯にて3,000買ひ500円年賀の本呉る)、17:00川久保機嫌よく帰り、televiの飛行機墜落の話見て23:00就寝。 1月19日 8:00夢見てさむ。防衛庁のソ連スパイ事件がtopのnewsなり。ゾルゲ事件以来7回目なりと。 ユ眼科へゆきわれ11:00プティ・パレへゆき、12:30帰宅。13:30荒木生来り「優良」といへば喜ぶ。14:10菊地生来り16:00ま へともに出てプティ・パレへゆき20分ゐて高円寺まで同行。途中、日大生と婚約したといふ。式に2人で出てくれといふ。 都丸支店にて別れ、支店長と話し、共に喫茶店にゆき横田高明氏より始まり兵の苦しみを語り800円おごられ店へ帰り『淀川(200)』。 電話家へかけ球陽書房支店に寄り『残酷の日本史(140)』にて、途中便を漏して帰宅。入浴。(※スパイ事件の)カゾロフ大佐帰国と。 1月20日(日) 8:00起き下痢なほる。礼拝夫婦とも休む。プティ・パレへゆき高校生に丸重俊の見合の様子見しをきく。(※省略) 丸夫人より15:15前に電話「今出る」と也。丸三郎も賛成と也。(※省略) 丸重俊より「今別れました」とのみ電話。 足立さんより「手紙ついたか」との電話、「つかず。つけば電話する」と返事。(※省略) 1月21日 7:30さめ8:00簡木桂に電話すれば夫人「都立に娘きめをり」と。二人で塩入医院にゆく。(※省略) 柏井へゆけば光一君茶入れてくれユ治療してもらふ。駅前で別れecho1ケ買へば礼云はる! プティ・パレへゆき茶のみpão食って家に電話して高円寺にゆき、球陽本店にゆき店長にあひ、 横田高明少尉未亡人への手紙出しにゆくといふ支店長と別れ、プティ・パレにまたより、家に電話しユに400もって来さし帰宅。 簡木桂と丸に電話し、安達氏(※安達遂)の手紙につき丸、室と3人2月8日正午-15:00日本ビル中央日韓協会にての会に出席と決まる。(※省略) 神田信夫君より電話「Ogilby (※John Ogilby)の複写につき渡辺氏に話して返事してくれる」と。 1月22日 よべ2:00悪夢にさめユ起す。その後ウトウトし7:00さめユ起し7:30起床。(※省略) 9:10ユ京へと出てゆく。 山住先生にゆけば風邪と。のど洗はれ薬3日分、血圧124。 佐伯へ『中国学芸大辞典』売りにゆけば8,000と。雑本1,500買ひ戸田家へゆき(※ユの)画の欠席届く。(※省略) 川久保へ電話し『シロコゴロフ辞典』のこといへば「多謝、校正中」と。(※省略) 秋元生来り、飴呉れ「15:30までゐる」と。われ面接の心得話しゐる(※省略)、岡林生来り「御夫婦で来てくれ」と祝辞の予習さす。 17:00ユ帰り、19:00岡林生家へ電話し母と言ひ争ひ、住川学士来ると。(※省略) 将棋さし吾優勢のところにて打切る。(※省略) 1月23日 6:30目覚む。ユ起し7:30起床。10:00出て副査すみ(※卒論試問)午后までやる。 われ講師室にて(浜谷)河野夫人に会ひ、マッチ箱やり切手交換すれば、昼飯大学院でと。浜谷を帰し、ちらし寿司入歯にて食へず飲物のみとる。 1時間遅れにて午后。待合室にて「鎌田にかまふな」といひ、タバコ買ひにやらす。150円の「seven star」買ひ呉る。 面接室にて森岡semiきく。近江に無墓制と。彦根に墓ありしこといへば沈黙。最後に我がsemiあり。森岡・平山両博士(※平山敏治郎、森岡清美)として質問す。 われ字をほめ予定通りすむ。鎌田女史沈黙。16:00東豊に電話し17:00ゆくといひユに17:00帰るといふ。 森岡博士に20年の歴史を語り笑はす。新宿で別れ(※東豊書店)、新城博士(※新城常三)より云はれし大学院の5万円をといへば49,800円とり出しくる。(※省略) 帰宅。(※省略) 丸重俊来りし故出てプティ・パレ。(※省略) 球陽にゆけば夫人、都丸へゆけば閉店、球陽本店にて息子に会ひ、 向ひの喫茶店「オリッサ」にゆき紅茶注文。のまずらユに電話して帰宅。発作起り(21:30)入浴就寝。 1月24日 7:30起き8:00起床。11:00登校の筈なりしに11:15つけば面接了りに近く、西山主任(※西山松之助)に副査の意見書呈出。 鰻ちょっと食ひ野口教授と3人にて閑談。pão屋にてパンとcoffee tea。 ふと麥書房にゆき夫妻に歓待受け『四季とコギトの仲間』もう50枚ほど書くこととなり(堀多恵子夫人の本もらふ)。 古本屋やめ小さき出版屋となりしと。駅まで送らる。帰宅6:00 (※省略) 荻村生に電話すれば「謝恩会する」と。「会場を我家にせよ」と答ふ。 1月25日 よべ23:00にね、2:00さめて眠れず。(※省略) 成城へ11:20着きpãoとcoffeeにて450。講師室にゐれば飯用意とありと。 いらずといひ河野生の来るをまち『常民文化紀要1』進呈。本3冊貸す。 15:30までゐると高田君試験監督に来り、船越君来りしも河野生去らず皮肉をいふにもてあます。 築島博士(※築島謙三)に久しぶりに会ひ歓迎会に中国服で出るといひ「この間は愉快なりし」と常民文化の会のこといはる。 面接室にゆけど進まずユに14:30電話し帰れざるを云へば、夜行・飲食につき(※医師より)注意されしと。(※省略) 荻村・秋元優にて、菊池、近藤は良となる。小沢生に「優とれれば写真呉れ」といへば「OK」と。わが顔知るや否や危し。 ユの注意により茶のまず、皆に先だちて出れば、(※省略) 18:00帰宅。ユ塩入先生に心配さると也。 1月26日  京の終り 風邪をひいて軽い熱 医師は外出を禁止した 電話を方々にかけると うれしい返事ばかりだった わたしはうれしくなってタバコを喫った それは妻の禁止してゐる事の一つだった 最後にうれしい電話だった 石井正吉からの即興詩の依頼だった 今晩はうれしく眠ることだらう (※石井氏に書いた詩?) 8:30起き、佐伯に雑本18,500売る。小沢生に電話すれば「写真呉る」と。苑ちゃん(※船越苑子)来しに本棚代1.2万円、ユにとり返さる。(※省略) 石井氏より超特急酒(3千円?)もらひ、煎餅と軍歌集と三好達治のハガキやりしことすっかり忘れをり。 John Wayneの警察もの見てユ、先に就寝。 (大13:00来り「2週間外遊2月2日には出席。咲耶来り母をつれてゆく」と。) 1月27日(日) 午前中無為。13:00出て登校。卒論4篇とり秋元生探せば入試準備室にありと。(※省略) まっすぐ帰り南阿佐谷で電話「古本屋に電話すればすぐ来る」と。駈足で16:30帰り、30分まち来り23:00までをり狐うどんとる。(古代賁4.2万円と)。家宝の秘本(※不詳)やる。 入浴し2時間ね、4:30起床(約束をprintにてすることとす) (※不詳)。 (※都丸書店)瀬見支店長来り、4.2万円で雑本買ひ置いてゆく23:00傘1本海苔1缶与ふ。 1月28日 9:30さめ朝食。11:00東豊に電話、借金15,400。瀬見氏に電話14:00-15:00来ると。 ゼミ3生来る(菊地を除く)。論文訂正を命じすみて「仰げば尊し」合唱。15:00、3生出てゆく(瀬見氏来り本運ぶ)。 われも出て球陽書房にゆけば夫人留守。瀬見氏につかまり「あす傘返しに来る」と。小古本屋まはり雑本買ひ帰宅。17:30 1月29日 (※記述なし) 1月30日 よべ大雨。7:00さめる。ユ清瀬へゆく。瀬見氏にまた本売る。(プティ・パレにて絶交(※理由不詳)。1万円の売上なり)。 16:00ユ帰り、集英社に電話し「わが詩集出すや否や」の返事まだ故、鈴木氏(※鈴木省三)にたのめば「もはや力ないが一応話しおく」と也。 怒り出せば塩入dr.にユ電話すれば「熊倉氏に任した」と。taxiにて上井草まで380。熊倉氏の注射拒み薬かへてもらふ。相談料も含め 3,000也しと。 我先に出て母のところへゆく。(せんべい180買へば(※着物の)とんびほめらる)。すしユ買ひ来り2階の座敷にてもらふも眠れず、ユと帰宅。 瀬見氏に「本とりに来よ」といへば「先生の気持わかるが世の中は云々」。薬のみ就寝。 1月31日 8:30目ざめる。9:00散髪にゆき昼食し登校。3万円受領、14:10の教授会に出席。栃尾氏(※栃尾武)に1万円の本売り、本棚の贈与とりきむ。(※省略) 築島氏と同車、送別会にGaudeamus igitur (※学生歌)歌ふといへば「可」と。18:00帰宅。伊勢淳をり本2冊貸す。(※省略) 2月1日 6:30さむ。(※省略)9:00まへ出て登校。(※省略) 東豊へゆき14,500払ひ6万円もちて帰宅。 すぐ古本屋へと出、球陽にて売買し、都丸の支店長に横田高明夫人二三子氏の返事をよみ、500払ひ球陽堂にて250買ひ、 都丸支店で『トルキスタン(500)』買はんとし金なきに気付く。交番にゆき紛失物届かかされ電話番号もきかれ帰宅すれば咲耶をり。 ユ怒らず。ユ五叉路まで送りて帰宅。厄落としたといふ。 都丸書店に電話し、笑ひてすむ。(※省略) 2月2日 7:00さめユ起す。7:30咲耶に電話し(※省略)、8:30出て阿佐谷駅北でtaxiひろひ、 大の家の手前で待つ母と咲耶のせて市ヶ谷修道寮に着く。(※親類結婚式) Catholicにて神父(外人)の司式にて順調に進む。聖歌隊がカソ讃美歌うたふ。指輪交換、署名すみ(※省略) 我の番となり「帰れソレント(原語)」アンコール「富士山」歌。(※省略) 新郎に「上州はカカア天下」といひ4人でtaxi、大の家。明日「千草、咲耶来る」と。(※省略) 22:00ごろ眠る。 2月3日(日) 8:00起床。聖餐式にゆくこととなる。とよ先生失明に近きを知る。先生聖書をよみちがへられ、小声で直してユに叱らる。 11:30すみ近鉄百貨店にゆく途、岡林生の婚約者の家見付く。近鉄にて狐うどん食ひて阿佐谷。 佐伯に寄れば『堀辰雄全集』の残りまだ来ず雑本買ひ残り102円となり退去。(※省略) 千草来り、譏嫌よし、ふしぎなることかな。父よりの写真帖見せ、与へし物もち帰る。22:00就寝。 2月4日 4:00さめ5時起き、ユ7時起きる。入浴2回。許されて佐伯へゆき本買へば1,000と。借りてユあとにて返しにゆく。 その間、都丸支店長、吉祥寺女史、東条書店と電話し、ユ帰りしあとおとなしくなる。 17:00菊地生来り、卒論すみしといへば「白鳥君のこる」と自白す。電話して18:10帰り去る。(※省略) 2月5日 7:00起き9:00出て新宿、大久保へ10:30、待ちて柏木女先生の治療受け、待合室の『天津と華北・東北』欲しくなり、本屋さがしつつ大久保より阿佐谷。 本屋見てまはり書原にて『天津と華北・東北(1,800)』見つけて帰宅。(※省略) 都丸支店長君の『書道全集26冊』を4万円にて買取り、鉄冠茶もち来しに見せ寄りの電話にて19:00匆々と帰りゆく。 春寒をそろばんはじきふけにける 2月6日 6:30さめ8:00起く。「鮎のうた」見てよろし。9:30郵便局とカギ屋にゆき洗濯屋にゆき11:00帰り12:30昼食中、稲田さん来て(※孫入学報告 省略) ユ、丸に電話、重俊帰らず丸夫人に「電話せよ」と伝へてもらふこととなる。(※省略) 「ツングース語辞典」の表題のみかく。(※省略) 2月7日 7:00さめ起きる。ユもともに也。9:00山住医院へゆき(※省略) 「外出禁止、タバコやめよ」と也。 (※船越)苑子に電話す。苑子来りcard見せ、100わたしユと出てゆく。(※省略) プティ・パレに電話し福地夫人に「二度とゆかず、聖書にかけて」といふ。 2月8日 6:30さめ7:30起く。9:00ユ清瀬へゆきしあと、戸をしめ出て東京駅にて迷ひ、大野会場(※大高野球会)へゆけば日鮮会あり副理事長より挨拶うく。 補聴器つけし安達氏の来りしをはじめ、室清を最後に10人集り、発起人となり名誉会長に一回生の加藤竜郎氏選ばれ、幹事長に吉岡克己氏就任。 5日ごろ再会を約し一、二回生を残して解散、室と我と喫茶、室おごる。西川を訪ねて丸のこといへば「見舞に何もちゆかん」と。答へず51:30辞去。 中公出版にゆき我が第6詩集のこといへば「原稿見て」と社長と重役小倉氏の言。はうはう出て地下鉄さがしあて南阿佐谷にて下車。 書原にて2冊買ひて帰宅。ユも帰りをり、山住医院にゆき混雑の中をのど洗はる。けふは痛くなく血圧126と最高なり。(※省略) 全然仕事進まず躁はげしと思ふ。(ユの言にては夕よりやや収まると也。) (※省略) 2月9日 8:00さめユの朝食を食ひ、佐伯書店9:40来り、4万円と本買ひゆく。われ1千円もちてプティ・パレへ久しぶりにゆけば福地夫人をり。 散歩して川久保宅見れば玄関直しをり。またプティ・パレにゆき新人と福地夫人と話すをあとにて角の写真屋とわかる。 終戦3日前応召、終戦の日脱走し熱河へMongol軍の来しに応戦し逃れしといふ。 川久保に電話して「将棋さしに来ずや」といへば「校正4校とりをり、そのひまなし」と。ユ、川久保の路旁の人なることをいふ。 平野義太郎氏は満鉄の資料室長と連絡して『北方ツングースの社會構成』訳完成せしめし人なり。〒なし。 (西川に電話して栗本中公編集長のこといふ)。苑子より連絡なし。禎子(よしこ)吐きつつ物食ふとなり。三日間ほど眼いたく涙出る。(※省略) 2月10日(日) 7:30起床。9:00礼拝にと家を出る。トヨ先生1ヶ月入院とて先生元気なり。新会堂を見にゆくため早めに説教すまさる。吉祥寺へ出て会堂をのぞく。 講堂前よりせまくなった様なり。便所は男女と分けらると聞く。出て吉祥寺駅。 買物するユを待ちタバコ1本吸ふ。禁酒禁煙より礼拝出席が大事とのみ教へに従ひし也。佐伯に寄り『民俗学の話(1,000)』買ひ家にて昼食とり、 ユの荻窪へ出る前に丸に電話してゆく。途中Hope(75)1箱買ひて与へれば喜ぶ。 夫人ともども重俊に畏れて物云はず。同僚と弘前へゆきしといふに呆れかつ怒る。帰りプティ・パレに寄り電話すれば二度目にユ出て16:00より外出と。 一旦帰宅。ユの出るを待ちまたプティ・パレにゆけば「明日福地夫人来る」とboyとgirlいふ。(※省略) 帰りてteleviのVolley-ball見てゐればユ帰宅。重俊には火曜に厳重にいひわたすとのことなり。(※省略) わが生(よ)をばくはしく書かん志 われに起りぬ幸せのゆゑ。 2月11日 22:00すぎ就寝。7:30起床。(※省略) 佐伯へゆき、碁うつタバコ屋見て帰り、叱られて母の家へゆけば西島順をり「大の芝居見につれゆく。月収15万円」と。 プティ・パレにゆき福地夫人に久しぶりに会ひ「何故怒りしやわからず」と也。苑子来りcardかく。西川満邸にゆけば伊豆に避寒と。 留守番の女史にHeineをことづけ茶と菓子と賜る。 ユの買物の間に山口基(※山口書店主)来り『田中克己初期文集』(※『炫火』所載文のコピーを製本したもの)といふを出す。 おどろきて『四季』(※復刻版)進呈、うどん食はせwhiskyに危くて青梅街道まで『四季』はこびtaxiに「神保町まで」とユ云ふ。 やがて電話、夫人より礼と眼鏡なきや云々、あとにて「眼鏡出て来ん」と山口君。televiユにいはれて「北緯34°32」見る。 2月12日 7:00さめユを起す。寒さややゆるき由。9:00和田夫人呼び古稀祝を箱根でといへば「都内で」といふ。すぐ出て佐伯へゆきついで神田。 山口基に会ひわが「万葉地図(※『炫火』所載)」などのcopyもらひ、すし出され少し食ひてのち出、小学館にて鈴木省三氏を呼べば「15:00 まで帰らず」と。 山本書店にて中央アジア関係の本、大学へ来年度予算にてと注文し、地下鉄東西線に乗り中野止りゆゑ、 思ひつきHope2箱買って丸家さがし当てれば丸喜ぶ。「重俊は23:00帰宅」とのこと也。都丸支店にゆき支店長と割勘にて喫茶、帰宅。 西川、神田、和田、小高根の諸知己に『古稀記念論文集』中公事業社より出すゆゑよろしくと挨拶す。(※省略) 20:30西山博士より電話「池田氏(※池田勉)転任はダメ。了承するや」と。「了承した。本代10万円くれ。」「やる。」との問答なりし。 2月13日 5:00起き朝食後1時間眠る。10:30出て佐伯夫人に成城への納本承知させ塩入先生にゆく。先生「健康に気を付けよ」とのみ。 母の所へゆけば「今夜、大、帰国する故」と五目飯くはさる。ユの来しと入れちがひにプティ・パレへゆき福地夫人の史より1才年下なるに気づく。 石井正吉氏より京都の千枚漬「『神軍』初版入手」と。早速返事かく。(※省略) 2月14日 7:00起床。くしゃみ出て風邪やまず。小森副手に電話すれば「学部の購入(※今年度は)もはやダメ。大学院の植木さんにいふ」と也。 ユ帰らざる故、プティ・パレへゆき茶とパン採る。帰ればユ帰りをり。村山高、佐藤健、高橋重臣の諸氏よりの便りに返事かき、鼻水止まらず困る。 (※省略) 歌うたふ心も失せて鼻水をすすりてをれば来りし便り。(※省略) 2月15日 7:00さむ。風邪やや良し。ユ「遷界令と五大商」copyにともちゆく(10:00)。13:00まへ印刷屋にゆけば出来てをり「松竹梅」目の前にてやり呉れし(200)。 佐伯へ寄り支払遅れるかもしれぬといひ『国語辞典(1,000)』買ひ来る。森山さん14:30来り、漢文の予習の処すみ、ついで高野夫人来りユともども語る。 (※省略) 出て印刷所にてcopyとり金払ふ。漸次『古稀記念論文集』の準備進む。(※省略) 2月16日 熟睡7:30起床。9:30苑子来りてcard代(120)払ふ。プティ・パレへ2度ゆく。(※省略) 方々にて古本買ひ、新本買ひて1万円なくす。 『朝鮮史』『朝鮮語入門』など買ひし也。ユ、絵にゆき静物未完成にて帰り来る間、copyにゆきわが『古稀記念東洋学論文集』ほぼ写し了る。(※省略) 2月17日(日) 6:00さむ。咳つづきし由。礼拝ふたりとも休み、われ11:00ごろ母のもとへゆけば大をり「十字架パリの土産」とくれる。 もちてプティ・パレ。電話せしもユをらず。しばらくして帰ればをりパンくはしくる。旨し。(※省略) 寒くて室にこもりをり、ユも戸田先生の祝宴にゆかず。(※省略) 丸に(※電話)、西川見舞に来しと。村山高氏のことも伝ふ。 重俊の相手川副女史、橋にて会ひ「日曜デート」とききし由。めでたし。(※省略) 「中国の諺」の掲載紙見つかり大喜びす。めでたしめでたし。 2月18日 6:30起床。ユ7:30起き9:00先に出て塩入先生。タバコ2本吸ひて御診察。(※省略) 帰ればユpãoを食はす。 14:00石井正吉君来訪。京阪にて各1冊と初版の『神軍』まあたらしく函入りなるを取出して署名さす。『白楽天』見せれば漢文やりたしと。 進学にてはなく、わが詩歌を愛する也。うれしくてプティ・パレにつれゆき彼はmilk、我はteaまた飲み「そのうち歌見せる。先生お疲れ」とて別る。 夕方、山住dr.にゆき「のど赤し」と洗はれ薬もらひて帰宅。ユまことに疲れをり。(※省略) 美紀子より20:10電話、「ハッサク贈る」と也。 2月19日 6:00さめユ7:00起く。京より電話「来るに及ばず」と。 14:00山本書店の令息実君来り、わが原稿もち「中央公論事業出版社の社長と相談の上、見積りさす」と也。 よべよりの雪とけし中を帰りゆく。風邪やや宜し。 2月20日 6:00さむ。ユ7:30呼びて起す。11:00散髪にゆき帰り途に迷ふ。午飯のあとプティ・パレへゆき喫茶(220)。 高円寺にゆきしも瀬見氏見えず。買ふ本もなくただ竹岡書店に買ふ気十分と見て「その内呼ぶ」といひて帰宅。 ユの買物に出しあと瀬見氏見え、紅茶賜ひ横田二三子氏編の33回忌文集見せらる。(※省略) ユ、依子に電話すれば「風邪ひき裁縫に精出しゐる」と。 2月21日 6:30さむ。8:30出て9:30登校。天丼注文し教授会。事なくすみ竹岡書店来るを待てば13:00来り、『東方学』のそろひ8万円、あと雑本8万円にて、8万円おきゆく。 帰りてプティ・パレ。アキちゃん我のことを福地夫人に恋すると邪推しをり。昭和14年生れにて依子と同歳なり。 帰りてユの帰る待てば「尚子意識不明、柏井歯科今週休み」と也。楽天的に回復をまつとのことに帰り来しと。 夜、竹岡兄弟来り、本また売るやと菓子もち来る。「日曜午後再来」と也。8万円の残りおき去る。 2月22日 23:00と2:00とに尿に起き7:00起床。9:30出て大久保の柏裕堂に10:10ゆけば先客あり風邪薬と双方にて5,900。向ひのルノ アールにて喫茶。 風邪薬のみ、茶禁止され途端に鬱となる。ユ、母の処へゆきし留守に森亮氏の『ロセッティ小曲』届けられ恐縮。岩崎昭弥、中山八郎両氏へ返信。(※省略) 2月23日 8:00ユ起き、我れ先に起きをり。午后プティ・パレより高円寺へゆけば本少々買ひ、瀬見氏より紅茶の接待受く。 夜、森亮氏に礼状かき、(※省略) けふは『日本歌人』来しのみ。 2月24日(日) ユのみゆき我、礼拝休む。ユ、母のためひかりの切符買ひ来し。われ外出せず。竹岡書店より電話あり「売る本なし」と答へてすむ。(※省略) 20:10高橋重臣君より電話、ユきけば「禁酒。あす夕方来る」と也。我鬱にて困りをり。 2月25日 6:30起床。10:00佐伯へゆき買ふ本なくプティ・パレ。村上夫人一人にて喫茶後、帰来。 18:00高橋重臣君来り「八木と今西春秋の仲しらず」と。夕食くひ、酒医師に止められゐるとてのまず。21:30まで話し眠る。 2月26日 7:00起床。高橋君も起き来り、朝食の用意しユ、母と京宅へと出てゆく。清水さんより電話あり。高橋君、神田へと10:30出てゆく。 11:30天丼食ひにゴールド街へゆく(480)。健太郎より電話「バアチャン帰る」と也。ユ帰り「京、ウツ症」と。母にも聞こえざる声にて話せしと也。 (※省略) 22:00眠る。 2月27日 6:00覚む。晴。母来り、ユと出てゆくに先だち11:00出て東豊書店へゆき『高山族調査報告書』など16万7千円払ひ、何も買はず出て高円寺下車。 球陽書房支店にて本1冊(250)買ひプティ・パレ。すぐ出て在宅。ユ17:00帰り来り、(※省略) 夜、京、姑にはきげんよしとわかる。甘えなり。(けふ山住閣下に逢へば白眉となりたまふ)。 2月28日 眠れず。3:30入浴してのち9:00まで眠る。増田晃の妹君よりハガキありしのみ。食欲なくて困る。(※省略) 兼清より電話「伊藤登死んだ」と也。 2月29日 よく眠り午寝もせしあと鍵かけて(ユ三鷹へゆく)プティ・パレ、高円寺にて『李白』見つけ瀬見氏に贈ればユのため買ひし絵葉書500にまけ呉れる。 そのあとプティ・パレ(『銀花』の増田晃氏かきし号見つからず)。帰りて退屈しをればユ帰り、光一に電話し尚子やや意識回復らし。 3月1日 よべよく眠り7:30起され登校。10:00すぎより大学院面接。修士3人おとし博士2人通す。午食に幕の内食ひ報告会すまし雨の中を帰宅。 ユ、画の稽古しをり16:30帰宅。(※省略) 3月2日(日) ユに7:30起され礼拝にゆく。(※省略) すみて帰宅。 13:00苑子card100枚もち来る。あとcard買入立替たのむ。 尚子やうやくものいふ様になりしと也。(※省略) 来週にも見舞にゆくときむ。 3月3日 9:00さめ塩入先生にゆく途、柏井歯科へゆく。すぐ診察あり体重41キロとふえてをり。(※省略) プティ・パレへゆけば臨時休業と。ザマミロ也。 外池昇より「謝恩会23日夜」と出欠問ひ来る。出席と答ふることとす。 3月4日 7:30起されユ、京のところへと出てゆく。午、茶とpãoの為よそへゆけば例の老人も来る(※不詳)。ユに電話2回すれば健太郎出て用すむ。賢し。 弓子よりも電話、あとにて聞けば喪服のこと也。舅いよいよ絶望らし。 3月5日 6:00さむ。ユ出ず。われプティ・パレへゆけば村上夫人病気と。気をよくして高円寺。一寸本屋のぞき帰りまたプティ・パレ。寒やや退く。(※省略) 3月6日 9:00さむ。ややに暖く11:00プティ・パレへゆけば村上夫人病臥と。 福地夫人と話し高円寺。瀬見氏茶おごり呉れ、横田少尉戦死の新聞の写し見せくれ茶おごり呉る。 帰りまたプティ・パレ。(※省略) けふ皇后の喜寿とtelevi放送見る。 (苑子のcard気に入らず。一度説教せん。) 3月7日 6:30さめ11:00出てpãoと紅茶(600)。タバコ買ひ教授会に出席。(※省略)15:20帰宅。 (※省略) 夕食後、校正を見ればなってをらず、憂鬱となる。(※省略) 3月8日 近藤生より電話、卒業を喜ぶと也(8:00さむ)。雨とて外出せず。 「アンジュ族の殉死」初校すます。悒鬱なり。 3月9日(日) 雨降り夫婦ともに礼拝にゆかず。無為。 3月10日 昼食後プティ・パレへゆき氷紅茶のむ。暖し。高円寺までゆき何もせで帰り来る。 (民研へ校正速達す)。石井正吉君より「歌作った。見よ。」と電話。 3月11日 寒し。ユ清瀬へ9:00出てゆく。午食地下街にて雲呑食ふ(380)。16:30ユ帰り来る。禎子笑はずと。 3月12日 ユ、パーマにゆきし間にプティ・パレ。帰り来て昼食13:00。すみて丸宅へゆけば鍵しめをり。またプティ・パレ。 (※省略) 西山博士より電話「池辺弥氏、短大主事となりし云々(※省略)」と。 3月13日 9:00起床。ユ10:30三鷹へゆき京の見舞金ことわられしと也。 われはプティ・パレにゆき紅茶のみ帰宅。(※省略) 鬱とれず。 石井正吉君より歌来る。下手なり。田中久夫氏より『鎌倉仏教』賜はる。 3月14日 9:00さむ。雨降りをり。午后河野夫人弘子来り色々話す。最後は原田への悪口なり。 ユ送りかたがた出しあと依子より「お祖母さん来た」と。 京より電話あり、のちほどまた電話、禎子入院かと。鬱ひどし。 3月15日 9:00さむ。鬱ややのく。午后2時半、荻村・近藤・秋元生来り、時計とユへの贈物呉る。申訳なし。 4時半頃帰りゆく。可愛きsemiなりし。21:30床に入る。 3月16日(日) 8:30起床。ユと礼拝にゆく。4人の新伝道師へBible贈らる。23日がイースターと也。 京より電話、病院よりと。ユ、折しも買物にゆきをり。哀れなり。明日ゆくこととなる。 3月17日 ユ、清瀬へと9:00出るとともにbus停留所までゆき、塩入医院9:30一番にて「死にたくなった」旨申上げれば薬かへらる。 一週間分8,900払ひ出てプティ・パレ11:30。pãoとteaへゆき(※省略) 14:00またプティ・パレでteaのみ、帰り来れば健太郎より電話、ユ16:00帰ると也。 俟てば18:30帰り来り。(※省略) 近代文学館より西島南峰(※実父喜代助)につき知りたしと。 宮崎康平氏逝去。ザボン呉れし人にて62才と。 3月18日 曇。朝よりだるく散歩にゆかんとして引き返す。 佐藤誠より「花嫁来日おくれ披露宴延期」と。終日無為。 3月19日 10:30登校。(※省略) 10:00より入学選衡会聞きゐし也。(※省略) 12:00すぎ終り昼食し、栃尾君に1万円分本売り了へ、金受取る。鄧先生また北京へゆくと也。 匆々出て15:00プティ・パレへゆきて帰れば16:00すぎユ帰宅。 小林の父上の入院費用(※省略)善一郎君承知せしと也。(※省略) 3月20日 よべ4:00尿にて起き、あと寝もやらず9:00起床。(※省略) 村上正平とて新幹線にてともに話せし明大法科大学院生来る(道わからずと電話かけし)。 気持よき青年にてJohnny Walkerのみ鰻食べしあと帰りゆく。福山の出と也。 あす天気わるしとて墓参とりやむ。(※省略) 3月21日 ユ午后三鷹へゆく。われプティ・パレへゆき椅子ひっくり返して足を傷く。 悒鬱たへがたき処へ久礼田房子女史の『夢幻空花』着く。亡夫を偲びたまふ悲歌なり。 ユ16:00帰り来る。小林父上ただ死をまつのみと。 3月22日 雪降る!午后青梅街道まで散髪にゆく。(※省略) 大橋生5千円の蘭もち来る。 茶も出せず弱る。ユ帰り、尚子食をはき出し不相変夫も息子もわからずと也。 この間の我との握手は何なりしや不明。大橋生に5千円の祝贈らんかと思ふ。(※省略) 3月23日(日) 晴。9:00出て10:00前成城。泥の中を大講堂までゆき卒業式に列席。(※省略) 13:00より学科会。(※省略) 16:00出て東西線にて九段下。Grand Palace Hotelにゆき豪華なる席なれど開会おそく、また贈物もらひ20:00すぎ退席。 秋元生袋くれ花束と贈物(あけ見ればタバコセット)もちて東西線にて帰宅。 夜ねむれず0:00まで転々す。 3月24日 晴。8:00さめ9:00すぎ出て塩入先生。(※省略) 鬱いひ薬たまひ12:00帰宅。 14:00ユと柏裕堂にゆきともに診察受く。森山女史四日に来ると也。 薬調合の間に出て新宿三丁目まで歩き地下鉄にて銀座下車。すぐ近くの成城クラブにゆけば幹事川上宏氏のみ。 やがて17:00主賓来りしも開会17:30、南博氏の音頭にて乾杯。すみて閑談。 山田文芸学部長、堀川直義大学院主任の話あり。みなツーツーなるに感心す。 在学9年にて止め仏英に夫人と遊学したまふと。羨しき限なり。20:00すめば川上教授、わがためにtaxiをと。築島先生のいひつけ也と。(※省略) 21:00すぎ帰宅。茶漬食ふ。 3月25日 曇。9:00さめユにせかされて朝食し9:30吉祥寺へと出てゆく。(※省略)13:30帰り来る。 (けさ弓子より電話、舅4:30逝去と。) (※省略) 3月26日 9:00起床。朝昼兼帯の飯くふ。(※省略) 無為。外出もせず。 ユ18:00お通夜にと出てゆく。(※省略)庭のサフラン咲く。 3月27日 晴。よべよくね、12:00家を出て三鷹の小林善治翁の葬儀にゆく。親戚多く盛大なりし。 京夫妻来り、健太郎ついて来る。ユ、林・牛木の二家の婚姻につき苦労す。 3月28日 よべ健太郎の泣きにてさむ。8:00朝食。ユ健太郎つれて出るまへ、(※山本書店の)山本実氏来り、 (※著作出版に)50万円ほど(200部分)出せばよし。『中国の民俗と歴史』と仮称よしとて12:00直前去る。 (※省略) われプティ・パレへゆき帰りて茫然たり。夜、大橋智子へ5千円祝として返す。 3月29日 8:00起床。ユと柏井へゆき光一に義歯のとりかへたのめば4月15日には間に合はずと。 (※省略) われプティ・パレにゆけば福地夫人をり18:00まで勤務と。 17:00前、ユ帰りRigident 前に歯医者で買はされしと見せる。(※省略) 3月30日(日) 礼拝に夫婦にてゆき「棕櫚の日」と教はる。ユ清水赤塚2嫗と話すとてわれ氷茶のみ、ゆっくり帰りて待ちをれば13:00帰り、林氏の詫状必要と。 (※省略) (丸重俊来り、縁談ことわると。)われやや躁となり丸重俊もち来りし金沢のハクセンコウ食ふ。 けふRigident使用、歯つかへることとなる。 3月31日 8:00さむ。ユ清水さんへゆき、われ柏井歯科。(※省略) 浪速双書みな返さる。 帰宅して13:00昼食。中公事業の須藤氏へ電話し印刷よそでと了解求む。(※省略) 4月1日 雨降り寒し。夜、西氏より電話「鞦韆院落夜沈々」と「月落烏啼霜満天」の作者きき来る。『字源』引きて蘇東坡と張継と答ふ。3分しかかからず。 (川久保、関東学院大学やめさされし由)。 小高根太郎に電話し(※著作に付する)「始皇帝の末裔」に引きし「三浦常夫(※小高根太郎のペンネーム)」を本名にかへることいへば「宜し」と。 丸重俊の相手「承知、今後とも宜しく」と也。televiにて五味康祐癌に死に58才と。 4月2日 ユ相変らず謝罪文のことに関係し15:00清水嫗にて会すると。 14:00ユ出てゆきしあとプティ・パレ。阿紀ちゃんわれのことHといふ。 かまはず高円寺にゆき3冊買ひ、また2冊買ひて帰ればdouble3冊。(※省略) 4月3日 晴。昼食後プティ・パレへゆく。すぐ引返し高校野球を見る。 松本善海未亡人規久子氏より20日14:00善海の7回忌と。(※省略) 4月4日 ユ8:30出てゆく。三鷹の孝行つれて京の許へと也。午まへ宏一郎と克次朗と来り、将棋さし1,000やれば喜びて帰りゆく。 菊地生14:30来り、(※省略) 森山女史来り、(※省略) 4月5日 早く起きしも3万円もちて地下鉄、中野坂上にて3ヶ月分の定期買ひ、朝鮮の民俗の参考書とらんとす。 (途にて神田氏に会へば抜刷賜ひ、和田君承知と)。式には出ず築島氏見つけて喜び、栃尾氏と話しゐれば築島博士は学園長、学長、学部長に挨拶に来しと。(※省略) 新宿にて小田急dept.の14階にゆけば築島博士払ひ、ただにてcaféのみ玉ふ。 人に好かれる人なり。1時間して別れて南阿佐谷、川久保訪へば在宅。満洲語われより出来るやうになりしにうれし。(※省略) 4月6日(日) ユと礼拝にゆく。復活祭にて長老たち皆そろふ。(※省略) 12:10母の家につき誕生日の祝となる。(※省略) 4月7日 塩入先生にゆく。血圧125にて、(※省略) プティ・パレでpão食ひ、14:00来るかと思ひし寿一15:00来り、瀬見さんと同坐。 『女体美大系(2万円)』と引きかへに3,000の本もちゆく。『ソ連百科辞典』12万円と也。 寿一のこりて寿賀子の電話かかりあはてて帰りゆく。(※省略) 4月8日 昨日と同じく5:00にさむ。10時までに出ることとしユと共に新宿。京王特急にて11:35五日市行に乗り(※上川霊園)。 2年分の墓地代払ひ、梓と次彦の墓の前にてpão食ひ紅茶のみしてのち、讃美歌「きよき岸辺に」合唱す。(※省略) 新宿へ6:00着き都営の地下鉄にて山本書店にゆけば店主と令息とをり。電話にて吉川幸次郎氏死去と入矢義高博士よりの電話なりし。 (※省略) 高円寺にて下車。瀬見氏に会ひにゆけば8時まで営業と。「あす13:00に1.2万円もち来る」といひて早足、飯をうまがりて食ふ。 (※省略)  五味康祐の葬儀21日と。保田来るかどうか。(※省略) 4月9日 3:00さめ朝食のあと1時間眠る。13:00午餐、プティ・パレへ寄り13:00瀬見君に会ひにゆけば買付にと。 30分球陽書房にてゆき『おもろ語辞書』買ひ待てば瀬見兵長迎へに来る。ちゃんと受取くれ茶に誘へばついて来て我に払はす。 その代り『ロシア語辞典(500)』只にて呉れし。(※省略) プティ・パレにまた寄り茶のみ(250)金なくなって帰宅。 (※省略) ユ20:00美紀子に筍の礼いふ。「野麦峠」televiに見て我、築島先生の泣きしを不思議に思ふ。(※省略) 4月10日 5:00にさめ朝食くひ(※省略)、プティ・パレに11:00ゆき(※省略)、高円寺。「ココ」へゆき昆布茶注文し添へしせんべい食ひて都丸にゆけば瀬見氏ゐず。 球陽堂にゆき『甘藷の歴史』買ひ、(※省略) 都丸にゆきしに瀬見氏見えずまたプティ・パレ。お茶のみ来合せし鈴木写真店と話し、(※省略) 帰宅して10分すればユ帰り来る。 築島博士に電話して「(※「野麦峠」の)どこに泣いた」ときけば「兄貴せ負ひて死にしところ」と。われは楽しき時泣くといへば納得。 夕食して和田、神田(※和田久徳・神田信夫)2君へ電話せしも通ぜず野原四郎氏に電話して知己を謝し書簡箋の薄かりしこといへば礼すでに云ひしと也。 筒井(※筒井護郎)に電話し、羽田(※羽田明)に電話すれば(※省略)、「5月17日泊めよ」といへば「泊める」と。 (※省略) (田中冬二氏逝去、86才と。)(※省略) 4月11日 7:30さむ。神田氏に電話し和田氏への伝言托す。岡林に10:00電話し喜びの声きく。 柏井へユと同行し(※省略)11:30数男と3人で医大病院へゆく。(※省略) 数男に案内されて医大病院307号室に尚子見舞へば痛がりつつも話す。(※省略) ユと新宿で別れ山本にゆき学校への本注文し、山口基にゆき『四季』の代りに『楊貴妃とクレオパトラ』貰ひ、その内また来るといふに安心(『コギト』140見たしと也)。 山本にひき返り中華丼のこといひ『説郛(3.2万)』注文す。 (行きは白水に遭ひ、帰り山住正己氏に遭ふ。戸田先生にも遭ひ、あやまれば宜しと也。 夜、木曽の荻村家に電話すれば母出て「雅子在京」と。夏のことも承知と也。)(※省略) 川久保に寄りいろいろなぐさめる。 4月12日 7:00さめ11:00中山太陽堂夫人来り(われプティ・パレにゆき帰りし)「先生昔通り」と喜ぶ。ともにプティ・パレにゆき「また来る」といひて、ちりめんじゃこ土産としてもち来る。 13:15去りがてにして去り、帰って来れば荻村生、花とカステラもち来り、夏の別荘承知と。ともにプティ・パレにゆき紅茶のます。(※省略) 4月13日(日) 礼拝休む。プティ・パレの齋藤女来り、わが写真帖見せ『女性史』貸す。 17:00山口来り、プティ・パレにつれゆき『コギト』120号のcopyやる。 夕方、瀬見氏来り22:00まで話しゆく。馬来派遣軍の「富」なること忘れし也。 4月14日 6:00さめ11:00弓子来り台所掃除す。ユ帰りしにわれ大久保堂柏裕堂にゆき先生診察簡単、薬10日分といひしに3,200。 東豊へゆけば簡君無愛想なりしもかまはずラーメン食ふ(230)。 帰りて16:00、来る筈の山本待ちしも来ず、電話すれば「忙し」と秘書。 「我も忙し。出版とりやめ」といひスキッとし、川久保にいへば喜ぶ。 瀬見氏大雨にて来ず。19:00雨やみて来り、7万円にて本買ひゆく。入浴中木下生より電話。 4月15日 6:30さむ。授業教室写す。11:00すぎ登校、(※省略) 535のsemiにゆけば女学生3名をり(※省略)、我家へ誘へば来りて狐うどん食ひ(350×4)、21:00ユの促すまで笑ひゆく。「野麦峠」「戦場に架ける橋」見て24:00就寝。 4月16日 5:30中野清見、西川英夫、築島夫人、神田君(※に電話)。 山本の尚子嬢に「実来させよ」といへば「15:00来る」と電話。来りて行田に住む。父は牛込と。50万円もちゆき仮受取かく。 瀬見氏にゆけば『新唐詩選』2冊にて300円と。気の毒にて550円おごる。 明日尚子の手術にてユ早く出ると。健太郎より長電話のあと(川久保に数万円とられしと嘘吐く)、 田中正俊氏に「(※新著)9月10日頃出れば買ってくれ」といへば「皆にいふ」と也。(※省略) 4月17日 雨。6:00さめユ7:30柏井尚子の手術に立会ふと忙しくしをり。(※省略) 11:00登校、天丼あつらへ1/3食ふ。(※省略)高田と教授会にゆき(※省略)。 高田に同行、potageとhot-cakeにてすむ。喜んで帰り高田宅に9千円の財布忘れしと。面白く「明日夫人届けよ」といふ。 (※省略) ユ、数男の狼狽ぶり話す。中山太陽堂夫人より「木曽へ呼べ」と。 4月18日 6:30さめ登校の途、戸田家へよりみつき夫人と話し、鎌田女史の抜刷わたす。 11:00に登校、(※省略)、高田から忘れた財布受取り民研にゆけば筑摩出版社をり、「マンジュ族の殉死」の再校すまし平山と話す(『日本中性家族の研究』呉る。)。 出てpão屋、(※省略) 18:00すぎ帰り川久保の電話ありしときき電話して来りしと将棋して二歩で負ければ喜び、5千円置く。 阿南の本のこと話す。 4月19日 7:45分さむ。午食し散髪にゆく。躁やまず。瀬見氏に『天理の善本稀書(1,200)』ゆづらし『美人画』を球陽書房にて220にさせ、プティ・パレにてcaféたのみ飲まずして出る。 (※省略) 『天理の善本稀書』よみ了り瀬見氏に返本の電話して了る。 4月20日(日) 礼拝夫婦とも休み、ユ大掃除すまし川久保11:00来り、将棋さし勝ち、松本家へゆけば坊主の読経と説教(※松本善海7回忌)。護雅夫君Protestantと。 松高の同窓生1人来しのみ。西島(新潟大教授)、羽田最上席に坐り父子御霊を説教中に感ず。 すみてわれのみcoca-cola(※省略)、羽田、川久保とを我家へ案内す。 羽田『ソ連百科辞典』にフフンといひ川久保の入厠に憂いふ。旨くなだめると也。 18:30川久保、羽田を(※自宅へ)案内す。羽田家に電話す。夫人出て「承知」と。 4月21日 7:30さめ塩入先生へ9:00出て柏井歯科へよれば光一の嫁カヨ子と話す。我のことおぼえをり。 塩入先生、わが好調にあはて給ふ。帰り柏井に寄り、歯すみし。7~8万円と。 (ユ、長谷川歯科30万近くかかりしと)。 西川満に寄れば夫人出て先生伊豆の山荘と。(※省略) 4月22日 登校、3時間みな早くすまして津端生ともなひて帰り21:00までおきて帰らしめ、電話かければ2度目に本人出る。 東洋史120人となる由、宣伝力の早きに感心す。 4月23日 7:30さむ。杉山平一『詩への接近』かきしと。郵便局へゆき『無限』の2,500受取り、うつぎ書房ひやかし佐伯にゆけば留守と。 隣のしるこ屋に青年誘へば「赤軍派よりまだ左翼、公判中」と。 石竹(500)買ひ山本印刷へ寄れば主人をり、製本機150万円でも買ふと。 午食してプティ・パレに寄り茶のみ高円寺へゆき都丸に寄れば会議中と。 Cocoにて喫茶(250)、(※省略) 4月24日 7:30さむ。11:00登校、12:00文化史の会。森岡主任、平山、両田中(※田中日佐夫,田中宣一)、新城にて昨年通りの論文作成の注意くばり紅茶代1,000を出せ、購入は25万円と。 東豊へ寄れば主人外国へゆきしと。我、掌櫃的(※店主の代り)つとめて帰宅。 4月25日 7:30さめゆるゆる出てcard屋へゆけばしまりをり、10:00故、台所へまはれば夫人出てcard300円分わけくる。 11:00登校、(※省略) 神田君まてば14:00かっきりに来り、万事了解と。 すみて神田家訪問すれば大人のこして神田君去り、喜一郎先生の東京住まひとて本包来をり、神田君の去りしあと大人を笑はして帰り、 東豊に寄りまた掌櫃的つとめ、家に3回目の電話して帰宅。(※省略) 21:30ユ眩暈起し吃驚せしむ。中西夫人より増田晃のほめことばのりし『銀花』送り来る。 4月26日 佐伯へゆき本なし。Watchtower(※ものみの塔:エホバの証人)の男女来り、放々の態で逃げゆく。 午食し高円寺。竹岡の母死にしとて球陽書房留守。Cocoにて瀬見氏まてど来らず、再度プティ・パレにゆきて帰り来る。 (※省略) 瀬見氏21:00より0:00まで我が話きき帰りゆく。 4月27日(日) 9:30さむ。(※省略) 瀬見、柏井、岡林、田中正俊、神田夫人に電話かく。 菱川夫人、夫と2児つれ来り19:00ごろまでをり、子供2人の悪きに感心。将棋さし1番負く。 4月28日 8:00さむ。柏井にゆけば歯出来をり。西川満氏を訪ねビーフンよばれ『ああ野麦峠』と伊豆の別荘とをfilmにて見せらる。「うすら泪のにじむをおぼえし由」。 大の所へゆき『四季』もち朝鮮学校へゆけばわれの寄附せん本のこと忘れをり。 大毎の奥さんのところにて『ああ野麦峠(450)10版』とり鈴木写真館、プティ・パレを通って帰る。(※省略) 瀬見氏に18:00「来よ」といへば来り「老兵の記録」copyし了へしと雑本売れば3,500置き0:30まで騒ぎて帰りゆく。杉山平一氏よりハガキ。 (NHKへ「のど自慢に出してくれ」とハガキ出す)。(中野清見より電話、丸のこと訊ぬ)。(杉山平一氏より本出した、恥かし云々)。(寿一に「来い」といへば「30日午后来る」と)。 4月29日 8:30覚む。朝食後高円寺へゆき5,000の本買ひて帰宅。宏一郎来り、将棋さして負かす。くやしがって家へ帰る。宮崎幸三氏に電話し「3日14:00参る」といふ。 丹波鴻一郎に電話し「古稀の祝せよ」といふ。躁、下火の由、ユいふ。 4月30日 9:00起き文房具屋へcard(300)買ひにゆき、(※省略) 不二歌道会の長谷川塾監に(本※不詳)呉れといふ。(※省略) 杉山平一氏より『詩への接近』贈らる。わがことよく書きあり(ハガキにて礼いひしあと也)。(※省略) 5月1日 8:00さめ9:30出てユのもちしsandwich食ふ。(※省略) 学年2年生の男女二人つれて帰宅、ケムに巻く。 川久保20:00来り、我の鬱みてbeer1本平げて帰る。岡正雄氏、脳軟化症と也。(※省略) 5月2日 8:00さめ10:00佐伯へ寄りしも本なし。card屋起して登学。13:00まで待ちくたびれ235号室でLorelei教へ中国古典20分ですまし高田君にteaおごらる。 岡本敬六教授と同車。(※省略) 南新宿で下車。東豊に寄りラーメンとってもらひ食ひてのち帰宅。『近代史研究(460)』で買ふ。 夜、築島さんより電話、5月23日に会ふ予定となる。(※省略) 5月3日 8:00起き、プティ・パレにゆき(山住女医起し本の礼いふ)(原稿用紙屋起しcard100枚買ふ。) 帰りて木下生来るをまちthemaきめよといへば匈奴の研究したしと。弓子母子来り、画にゆきしユの帰るを見て帰る。 瀬見兵長「老兵の記録よみ了へし」云々。戸田邸に青木書店来るときき追出して嗤ふ。 川久保訪問。植村清二『歴史と文芸の間(360)』買ふ。 5月4日(日) 7:00さむ。9:00まへ出て佐伯にゆけばしまりをり。9:15発にて新築の教会にゆけば3列目の先頭。満員なり。(※省略) プティ・パレにゆき高円寺にゆけば古本屋休み。またプティ・パレに寄り村上亜紀子嬢つれ帰り将棋教へれば、佐藤嬢「村上夫人用あり」と呼びに来る。 またゆけば亜紀ちゃんをらず佐藤嬢「あす17:00一寸来る」と也。統夫夫妻来り尚子見舞へば好調と。(※省略) 瀬見氏呼び本売れば3千円呉る。22:30までねばりをり。 5月5日 5:00さめ9:00塩入先生へゆく途柏井に寄り一寸話し病院にゆけば女子我を避く。薬もちて柏井に渡し西川満、大、金沢をへてプティ・パレ。 ユの帰る直前帰宅。(※省略) またプティ・パレ。遠藤女来るかと思ひしに来ず(亜紀ちゃんは祖母の看病と)。 (堀内達夫より速達「先生クリスチャンでせう」に参り、もはやかけずといふ。) 遠藤郁子ちゃん来り歌うたふ。 5月6日 6:30覚め10:00佐伯へゆけば相手とならず。card100枚買ひて登校。ユの作りしsandwichみな食ひ、大学院みなをからかひ、次の東洋文化史もいい加減にて止め出欠とる。 そのあと5時限のsemi3女と木下生とにて喫茶。帰宅すれば植村先生より「本送る」云々。(※省略)  5月7日 6:00起き柏祐堂へ10:00つきすぐ診断受け薬もらふ(7,900)。Renoirでお茶のみ卵つく。帰りて花井たづ子来るを待ち、長々と話しきく(プティ・パレへ2度ゆく)。 その帰りしあと銀座より岡林生電話かけ来り、20:00まへ来り21:30まで夕食し姑舅の話し、菩提樹歌のこととなる。 (杉山平一君よりわび状来る) 5月8日 5時半さむ。朝食のあと午寝1時間。10:00出て登校。科の会に出ず。鎌田女史(※鎌田久子)『女の庶民史』ユにと呉る。はじめての著書也。 (※省略) 帰宅。プティ・パレにゆく。福地夫人笑ひつづける。和田久徳氏より抜刷と手紙。電話して「明後年の講師承知」と。 5月9日 7:00さむ。7:30朝食。10:00家を出る。雨。中国古典の時間すみ男女2生さそひ食堂にて喫茶。まづければ舟越を成城pãoに誘ひ、(※ 省略) 東豊書店にゆき『国史稿』2,3買ひ1万円くづして帰宅。プティ・パレへゆけば福地夫人をらずすぐ帰り川久保誘へば19:00来り21:30まで酒飲み将棋さす。 (※省略) 三好孝(達治の甥)より「(※出生地大阪市)西区は達治の自称」との長き手紙。(※省略) 5月10日 5:00さめ7:00朝食。10:00佐伯へゆき『シベリアの狩猟儀礼』買ひ、プティ・パレ。すぐ帰り昼食すみて高円寺の都丸支店にゆき瀬見氏とココにて喫茶。またプティ・パレ。 宏一郎と克次朗と来しに将棋さし500づつやりて帰らす。プティ・パレの福地女史に『日本の詩歌(250)』贈りて帰宅。 瀬見氏『大世界史』を4,000にて引取る。18:00木下生来り『アジア歴史辞典』の「匈奴」ひかせ夕食くはす。20:30帰りゆく。 けふ築島博士より「本すみtennisせしあと京都奈良へゆく」と。羨まし。 5月11日(日) 5:00さむ。11:00プティ・パレ。(※省略) 15:00出て国会議事堂前にて下車。Hilton Hotelにて喫茶。庄野生のこと問へば「けふは休日」と。 18:10より披露宴、わが祝詞短くて好評。成城の校歌の音頭とらさる。20:10預けものとり一番にhyreに乗り22:00帰宅。疲れたり。 5月12日 6:00起床。9:30塩入dr.へゆく。(※省略) プティ・パレ。昼食前、瀬見氏来りシロコゴロフ持つと。プティ・パレにまたゆく。 瀬見氏来り、シロコゴロフ1.3万円とりてゆく。川久保に電話し将棋しにゆき2番勝つ。(※省略) 書原にて和辻哲郎『古寺巡礼(300)』、 『京都市地図(500)』買ふ。 5月13日 4:30さむ。10:00出てcard買ひ成城大学へ11:00着きすぐ昼食。(※省略) semiに来し新生にて4人となりし歓迎会をしておごる。疲れて帰宅。 (※省略) 5月14日 8:00さめ午寝す(11:30-12:30)。プティ・パレにゆき高円寺。瀬見氏とKokoにゆく。帰りまたプティ・パレ。 〒にて『奈良中央十三人集』来り、永井聿枝はじめにのす。 5月15日 8:00前さむ。10:00出て成城へ11:00まへ着く。山本実氏も一人つれて来り、研究室の本はこぶ。代金はあとでと。我天丼を餐し、(※省略) 山本氏に天丼食ひ了りしと会ふ。のちほど神田へゆくといひ地下鉄にてゆけば実氏帰りをり、慶太郎氏も出て話す。 6万円のうち1万円で曽問吾『中国経営西域史(1万円)』買ひ、5万円もちて山口基君に会ひにゆけば不在。また地下鉄にて新宿三丁目へ出、鞄重くて困る。けふ〒なし。 5月16日 8:00さむ。ユと東京駅の中央線ホームで待合せときむ。16:36に乗り京都に18:00、Station Hotelの予約せしのち前の小食堂にて夕食。 烏丸車庫までbus、羽田邸へと御園橋下車。暗き中を訪ねたづねしてゆきwhisky1瓶呈し(※羽田明)夫妻と話し、21:30継男君の運転する車にて駅前着。狐うどん食ひてHotelに入る。 5月17日 7:30さめ駅build.にてsoupとhot cakeとり3,000の新茶もちて神田先生訪ひますれば(※新著の扉に)贈呈とかきて宜しと。 名古屋へ14:00着く。ユおくれて17:00着く。(※諏訪家泊) 5月18日(日) 7:30さめて朝食すまし10:30泰をのぞきて12:30昼食。13:55ひかりに乗り東京着16:15。阿佐谷に帰りて事なし。(内閣不信任案通り解散とわかる) 5月19日 6:30さむ。塩入dr.へ10:00ゆきユと別れ帰宅。プティ・パレで昼食。都丸支店で『星林閑話』『日鮮同祖論』買ひユの17:30帰るを待つ。 (石井正吉氏来りしに、歌下手といひ茂吉よめといふ)。けふ佐伯閉店しをり。(※省略) 5月20日 6:30さめ10:00card買ひ登校。大学院旨くゆきしも2D参りて中途で止め、semi5生と喫茶。帰宅して事なし。 5月21日 7:00さめ高橋重臣君へ礼状かく。蒲団を杉山繊維より送り来りし也。9:30山本書店より「民俗関係、市に出しもう6万円贈る」と。 プティ・パレに11:00ゆき、高円寺。都丸支店に『ロシア語Encyclopaedia』学校にと注文す(13万円と也)。午后より雨。 史、19:30来り19:30来し小林善一郎と話す。相続問題について也。(※省略)佐伯休みなれど『唐代社会文化史研究』買ふ。雑本2冊売り余りあり。(※省略) 高橋重臣君に電話し『隔簾花影』のcopyたのむ。史、善一郎と21:00出てゆく。 5月22日 7:00起く。ユ清瀬(※三女宅)へ9:30出てゆく。村上アキ嬢に追ぬかれ佐伯に寄りしも音沙汰なく11:00登校。(※省略) 疲れてpão屋にて紅茶摂りてのち阿佐谷にてcard200枚買ひて帰宅。(※省略) 5月23日 7:00覚む。木下生9:00すぎ来り、共に出て登校。(※省略) 14:00すぎ出て経堂にて小高根夫婦に遇ふ。 準急にのりかへ小田急dept.14階にて14:55より45分(※築島謙三を)待ち電話お宅にすれば出られしと。(※省略)1階の喫茶室にておごらる。 本かき玉ひ、もう一冊かきて秋より外国へゆくと也。16:30別れて帰宅。 大阪国税局直税部所得税課総務係長中山準一氏11:00ごろ孫たちの写真と海苔もち来たまひ、煎餅差上げしと也。 ユ17:00郵便局へゆき山本書店の追加6万円とり来る。田中克己とあり一度ゆかねばならず億劫なり。(成城在職20年の銀盃もらふ)。 5月24日 佐伯へ行けば神田先生の本来てをり。card200枚買ひしあと無為。夜、荻村栄氏より速達、宿世話するとらし。鬱なり。 5月25日(日) ペンテコステに偶然ゆき、すみて教会新築祝の昼食会。ユ、長島夫人と話す。我殆ど長島氏と話せず。(※省略) 東急にてchocolate買ひ鰻買ひて京のところにゆく。稲田哲夫もの云はず写真とる。健太郎友だちと遊び禎子ほぼ4ヶ月ほどとなる(体重5キロ)。 18:00出て清瀬までbus、西武に乗り中村橋でbusにのり20:30帰宅。 5月26日 林叔母、昨日12:30逝去と。下調べ途中までして18:00出てゆけば諸経中。難波、寿一と話しをり。長き経きき、 すみて丹羽ミサ子より挨拶うけて帰去。21:30帰宅。眠し。(大の香奠預かる) 5月27日 よべ0:30入浴、やっと眠る。7:00さむ。10:30登校。弁当のsandwich食ひ、(※省略) けふユ、林茂子叔母の葬式にゆき初七日やるとて帰り来しと。 高橋重臣君より「隔簾花影」1回分送られ「つづきいるや」と也。 5月28日 引きつづき鬱。ユ尚子見舞にゆきし帰り18:00まで茫然とたり。 5月29日 東洋史、口早にやり教授会。組合委員の改選あり。16:30までまち森岡博士の案内にて銀座の鰻屋へゆく。われ物いへず食ふのみ。 帰途は鎌田女史と同車。中野坂上止りに乗り21:30帰宅。けふソ連百科辞典を小森副手運び呉る。 5月30日 曇。11:00登校。中国古典の出欠とり疲れて30分にてやむ。 夜、吉岡克己氏へ大野会(※大高野球OB会)欠席を電話す。羽田夫人より夜、電話あり。東方学会欠席について也。 5月31日 鬱にて家居す。 6月1日(日) 暑し。礼拝にユのみゆく。我プティ・パレにてpãoとtea。高橋重臣君へ300円の切手同封「あといらずcopy代は」と手紙かく。(※省略) 6月2日 無為。(※省略) 20:00よりの「敦煌」をteleviにて見る。 6月3日 暑し。L2Dの授業うまくゆかず困る。木下欠席ゆゑ3年生4人連れて喫茶(1,910)。 6月4日 外出せず。公平(池上夫人)さん来りユと話し、讃美歌284番合唱し祈って去る。 羽田夫人より菓子来り、山際文雄君より『半田良平』送り返さる。『昭和万葉集』来る。 6月5日 9時半出て山際君へハガキ投函。東洋史の教科書来しといふを忘れ30分位やり、(※省略) 山本書店にゆき朝鮮本『龍飛御天歌』2冊売り、 客帰りしまで待ち校正見ることとなる。鞄軽くなりしを喜び阿佐谷でice tea飲む。山本主人より電話「1万円で買ふ」と也。(※省略) 6月6日 やや涼しく思ひてゆけば暑し。(※省略) 帰り、寄る力なく買物のユと遭ふ。(※省略) 6月7日 9:00起き朝食。散髪にゆき11:30帰宅。午食後暑くねてゐればユ13:30画習ひに戸田家にゆく。我15:15より20分プティ・パレ。 帰りて茫然としをり。(山本書店より1万円来り、高橋重臣氏より「copy代僅少ゆゑ不要」と) 6月8日(日) よべ眠りにつけず礼拝休む。ユ帰り来り、新長老の任命式ありしと。浜氏12:45来り、小高根氏渡欧と。すぐ帰りゆく。ユ夜戸田さんの会に出てゆく。 6月9日 雨。暑し。弓子来り遺産相続のことをいふ。ユともに出て母の許へゆく。鬱ややのき誠心堂へ『蘇東坡詩集(4.5万)』送付たのむ。 6月10日 曇。9:30登校。大学院早くすましL2Dもうまくゆく。但し疲れ甚し。高田瑞穂『日本近代詩史』呉る。semi4生と喫茶。(※省略) 誠心堂より『蘇東坡詩集』6冊、着きをり。 6月11日 誠心堂へ9:30送金。プティ・パレに2度ゆく。瀬見支店長留守にしてindexつきしに非ずやとの話なりし。『羅葡日対訳辞書検索(3,500)』買ふ。 6月12日 9:30出て登校。(※省略) 14:00からの教授会に出、15:00すみて大学院の会。(※省略)16:00ぬけ出し民研の21日の会に出ることをいひにゆく。 (※省略) 東豊書店に寄り『臨時台湾旧慣調査会第2部』のcopy(2万円)借り、孟森『清史講義』、『金匱要略』の外、法律書そろへて払ひ帰宅すれば法律書はみな在り。 佐伯へ寄れば天理善本『文選・白氏文集(1.6万)』とどけた由。(※省略) 6月13日 9:30出て中国古典すまし、新宿へ15:00つき15:30に近くよりいらいらせし処へユ来り、15:30のはこね号にて香安荘といふに入る(私学のHotel大改築中なりし)。 ユと入湯、背中流してもらひしあとユ喜ぶ。 6月14日 9:00出て強羅公園に入場、暑し。出てcableに2度のり桃源台よりbusにて12:30の急行までに茶のむ。 研文出版の校正すまし夕食後、佐伯へ払ひにゆく(1.6×0.9)。大平氏の告別式に聖歌うたふ。前古未曾有なり。(※6月12日大平正芳元首相逝去) 6月15日(日) 3時に目明く(21時就寝)。夫婦にて礼拝にゆき、われは狐うどん、ユはそば食ふ。(※省略) 夜やや涼し(日中30℃に近かりし也)。(※省略) 6月16日 5時さむ。9:00前出て塩入先生。薬へらし玉ひ9,900となる。喜び出てice tea駅前にてのみ(300)、プティ・パレへもゆきice tea (300)。 ユ帰り来り、午ねす。我出てまたプティ・パレ。瀬見氏に会ひに高円寺にゆけばをり、戦友会に出席、横田夫人にも会ふと。 『切支丹版羅葡日対訳辞書備考』賜ふ。礼に『生活と芸術にあらわれた日本人のからだ(3,500)』と『江戸の文学(700)』買ひ、またプティ・パレ。 (※省略) 荻村生に電話「貸別荘なく人の家にてもよきか」と。「よし。7月24日以后1ヶ月」といふ。 6月17日 よべ1服足してのみ熱帯夜(28℃)を眠り6:00さむ。9:00前出て登校。大学院河野夫人来ず却って気楽なり。2Dも質問して旨くすましsemi5人そろひしをつれて喫茶。 鎌田久子55才にて結婚しsemiに掃除手伝はせしと。感心す。(※省略) ユ、伊勢壽美江つれて清瀬へ行けば禎子物云ふやうになりしと。(※省略) 6月18日 6:00さむ。よべ28℃の熱帯夜なりしと。プティ・パレに。2度ゆき都丸支店で瀬見氏に神田先生のdouble本売り(800)『田沼時代』、『ユダヤの笑話と格言』買ひ、 球陽書房でも『折たく柴の記』買ふ。ややに鬱よりぬけし如し。山本実氏より電話あり「近々2回目の校正送る」と。(※省略) 旧制高校の訪中案内あり「長安行86万円余」と。「中島健蔵の追悼会に500人集まり委員長井上靖と!」。川久保に電話「鬱のいた」、(※省略) 6月19日 6:30さめユ9:10出しあと30分してcard屋夫人を起し100枚買ふ。登校11:00。昼食しSkeyさんと久しぶりに話す。学科会。 (※省略) 疲れて帰宅。 6月20日 7:00さめ9:50card買ひにゆき傘もって登校。(※省略) 傘さして東豊にゆき2万円の借金払ひ、(※省略) 『中国民法婚姻論(190)』、『蒙古世系(850)』、『四十年来之北京(4,050)』買ひて払ひ『韓国漢籍民俗叢書(23,500)』借り来る。 重くてプティ・パレにゆき喫茶するといひまづ鞄おき、福地夫人より冷たき紅茶のみ(300)、ユの帰るを待つ。(※省略) 夜、荻村生より電話「家のことにつき明日午后来る」と。校正すましほっとする。 6月21日 雨止む。6:30さむ。美紀子より電話「(※史氏)本省関税局監視課長(25日付)となりし」と。落胆。 ユ柏井へゆきしあと弓子より電話。佐伯へゆき『シルクロードⅡ』と『花の民俗学』買ひcard買ひ、帰りにユと会ひて忘れ物を云ふ。(※省略) 躁にて筆とるも億劫なり。(※省略) 荻村生来り2DKのところありと。ユの帰り来りしと話せしあと帰りゆく。 6月22日(日) 曇。礼拝われ休み、佐伯へゆき『鹿洲公案』、『ペルシア文化渡来考』その他買ひプティ・パレにゆきなどする。(※省略) われ選挙にゆき青木茂に投票す。午后また散歩に出、川久保に寄れば鬱と。早々出て加藤俊ちゃんの家のところより引返し木下生来るを待ち、 (※省略) 17:30来り、トルキスタン関係の本返し夕食して20:00すぎ帰りゆく。(※省略) 6月23日 曇。高円寺の都丸支店にゆき『Erotica3冊(900)(※三崎書房の雑誌)』と『蘇東坡集』と買ふ。選挙に自民党大勝。反動の世となりし也。 『中国の民俗史』の「あとがき」200×8書き了へて嬉し。 6月24日 よべよく眠り、山本実氏の来るを待ちわび10:30電話。(※省略) 佐伯へゆき『日葡辞典(1.8万×0.9)』借り来る。 14:00かっきりに山本氏来り(※新著を)『中国の草木と人間』の書題にすると。 (※校正の)のこり置いてゆく。(※著書寄贈10冊名簿にしてわたす。個人は羽田、神田先生父子、野原四郎氏、植村清二先生なり)。 夕方ユ、柏井より帰り「数男が鬱、嫁は低血圧」と也。気の毒。 6月25日 ユ、柏井へゆきしに高円寺にゆき『Le sexe de la femme(8,000)』買ふ。 往復二度プティ・パレに寄る。角川よりHeine25版6,000部7月下旬刊行と。 尚子、石和温泉療養所へと数男より電話。 6月26日 5:00さめ、ユ起し9:00出て山本実君に会ひ10冊の本を送料にと売り『今古奇観』もらひ、 東豊に借金払ひ『漢代婚姻制度』と『節令的故事』買ひ新高円寺下車。瀬見氏に8千円渡せば7千円としてくれる。 プティ・パレに寄りユに電話すれば話中。帰りてみれば和田節子、史の転任知りしと也。 ユ17:00帰宅。けふ集英社より(※『白楽天』)6版600部出すと。昨日のHeineにつづき朗報なり。(※省略) 6月27日 7:30さめ9:30地下鉄、成城へ早くつき(※省略)、『民俗研究所紀要4』5冊もらひ、(※省略) 出て神田家の呼鈴押せしも答なく、和田久徳君へと2冊郵便受けにはふり込み、 pão屋にて喫茶して涼み南阿佐谷下車。川久保家にゆき1冊与ふ。(※省略) けふ巌南堂より『石田・和田・竜・山中四先生頌寿記念史学論文集(5,000)』来る。 ユ、荻村生に電話すれば(※避暑別荘借り賃)「35万円にまけてくれし云々」。 6月28日 8:30さめ、巌南堂に5千円の払ひし、佐伯に寄りしあとプティ・パレ。(※省略) 午食後、の高円寺の都丸支店にゆき矢沢利彦『中国の布教と迫害(1,400)』見つけて買ひプティ・パレに涼みに入る。 帰宅して冷房し「蘇東坡文」の年表写す。われの書きし「蘇東坡」をいかすこととす。時に22:00なり。 6月29日(日) 8時さめれば雨。礼拝にとユ出てゆく。「蘇東坡」の書き直しし、200×22。 16:20地震あり伊東沖が震源にて震度東京4と也。(※省略) 数男、夜「尚子あす山梨病院へ入院」と電話。 6月30日 よべ2時まで眠れず。8:00起き9:30塩入dr.。好調申上げ2週間分もらふ。(※省略) 母のところへゆき小雨。毎日新聞社員の本屋にて『新島襄書簡集』買ひプティ・パレへゆく。(※省略) 帰宅すればユをり。(※省略)三鷹の2孫来り、克次朗将棋さす。宏一郎と二人つれて高円寺。 都丸にて千円札を500円札2枚にしてもらひ駅まで送りゆく。2人500円もちて喜びをり。 都丸にて『新島襄書簡集(※ママ)』と『アイヌ(1,000)』買ひてわづかになくなり「蘇東坡」の書き直し54×200となる。 疲れて出て休憩。けふ『不二』に影山正治の墓碑、保田かきしと見ゆ。 7月1日 9:30家を出、珍しく研究室で予習。大学院に20分遅れでゆけば全員出席。(※省略) ゼミ旅行は9月19,20箱根へと。17:00帰宅。疲れて「蘇東坡」やらず。televi見、ねつきわるく補助のむ。(※省略) 7月2日 3時さむ。大雨と。12:00Lilacと花Begoniaもちて丸木(高松)、白水(坂根)、宇井睦子(画をくれし。3婚と。井上)、押上(得津)の4生来り、(※省略) 15:00皆引き上げる。雨の中を出て佐伯に学校宛の本注文し、歩きて都丸支店にゆけば瀬見氏不在。 『日本語の起源(1,000)』買ひて帰宅。(※省略) 川久保に電話して躁いひ『日本語の起源』にTungus語の引用あれどシロコゴロフ引かずといふ。(※省略) 7月3日 8時さめ9:00ユ、友のところへ出てゆくを送り、card100枚買ひ登校、(※省略) 前期の点すます。 (※省略)東豊へより林語堂『蘇東坡伝(720)』と『経進東坡文集事略(2,700)』と買ひ、(※省略) プティ・パレにゆきて涼みIce coffee(330)値上げ。(※省略) 18:00ユ帰り来り、咲耶去りしあと母より電話あり。(※省略)『堀辰雄全集』10回5,200円で完結の由。 7月4日 よべ22:00ねて4:30起きる。10:00散髪にゆき(※省略)、矢野綾子氏より紅茶もらひ礼かく。 プティ・パレ値上し紅茶300となる。(※省略)17:00とりにこいと郵便局、研文出版より「あとがき」の校正なり。 暁子電話かけ「おばあちゃん」と。美紀子代り「けふ一家上京」と。薬王寺にゐるらし。 7月5日 富山鈴子に返事かき、出しにゆき散髪し、ユの戸田先生にゆくを見送りしあとプティ・パレにゆきすぐ帰宅。 (※省略)杉並郵便局より簡易書留とりに来いとの紙入りをり、ユとりにゆき研文出版の「あとがき」校正なり。すぐやり了へる。21:00早ねす。 (※記述重複) 7月6日(日) 礼拝に夫婦してゆき(※省略)、東急にて昼食し林家へ菓子(1,100)買ひて井の頭線にて(※省略)生田に止まる。 13:30につけば14:00坊さん来り、短き経よみ、すみて飲物、つまみのおかきにて満腹、物くへず17:00最先に出る。 寿一『戦後吟』もち来り我に署名さし咲耶に貸せし。(※省略) 7月7日 ユ、母のもとへゆき咲耶と話す。11:30「外で飯食へ」と。プティ・パレにゆきrice curry(520)とtea(200)。 母のところへゆかんとすれば河北病院の前で遭ひ、(※省略) 我、(※帰阪の)咲耶を駅までつれゆく。3:30に乗ることとなる。 「蘇東坡」対王安石のこと書く。200×100以上となる。(※省略)夜「女性史」すませ「silk road 第4集 幻のカラホト(※黒水城)」見る。 7月8日 7:30さめ寝足る。弁当もたず登校、12:00かっきりに外地生迎へに来、文化史の室にて重久生をまち、 杉山生、磯田生と4人にてMadam Changに案内さる。河野夫人坊やとあり、1卓5葉!すみて饅頭の小さきを食はさる。 20分ほど2Dの「女性史」すみ平常点与へsemiにゆけば1生、60点といひしと泣きをり「安心せよ」といひ、 木下来ぬに4女生相手にすまし南口の汁粉屋にてわれ餡蜜。1人飯くふ。払ひすまし津端かおると同車。 鎌田久子の結婚話に責任もてといふ。新宿でわかれて帰宅。山本実君より8月31日(※誕生日)必ず出来とのハガキ見る。 7月9日 雨。涼し。終日家居。船越苑子来りしもわれは会はず。 7月10日 佐伯へわびにゆき10:30登校。(※省略)教授会早くすみ学科会。(※省略)17:00ごろすみあす一日となりホッとす。(※省略) 7月11日 よべ睡眠不足。最後の授業に出てゆく。高田、鞄おきてあるも会へず。(※省略) ふらふらと15:00帰宅。夜、早く眠る。(※省略) 7月12日 晴れたり曇ったり。よべ早くね、9:00朝食。和田久徳君より中国のハガキにて「紀要受取った。京大へゆく」と也。外出せず無為。 夜、美紀子より電話「あす下阪、雅子のPTAにて(※木曽には)来られず」と。今井翠よりききし也。田村春雄より「昭和万葉集見し」と。 7月13日(日) ユ礼拝にゆき我ゆかず。下痢を口実とす。午后母来り元気なり。ユ送りゆく。 7月14日 塩入先生にて血圧105と低し。佐伯に寄り『立原道造全集』未着と。無為。林語堂の『蘇東坡』よむ。 夕方都丸支店にゆき『大世界史』売れ残るを見、五山きかる。わからず帰って五山しらべハガキかく。 7月15日 無為。ユ大久保へ14:00薬とりにゆき帰らず。16:00大久保の史宅より電話かけ17:30雨の中を帰り来る。30℃を越す暑さ也し。 7月16日 曇り時々雨。涼しく午、孝行つれて弓子来り、小林の内輪もめを云ふ。孝行将棋2番さす。宇井(井上)睦子より7月2日は愉快なりしと。(※省略) 7月17日 曇り。涼し。ユ、体悪しとねてをり。「蘇東坡」写し200×133となる。鈴木善幸の新内閣決定。面白くなし。 7月18日 曇。寒し。「蘇東坡」出来ず荻村雅子より速達「21日来る。5万円たてかへた。26日のため19日予約の切符買へ」と。 7月19日 7:00さむ。ユ10:30切符買ひにゆき12:30帰宅。塩尻まで9,200、15:00新宿発よりなしと。16:30高円寺まで歩き時刻表買へば信濃平坂へは20:00着くとわかる。 7月20日(日) 暑し。ユも礼拝休む。無為のところへ田中康平の後嗣田中栄太郎、万平をつれ「史訪ひしも夫婦留守なりし」と。 田中昌三叔父、十合商事の社長にて小野事件のまへに十合やめしと也。 7月21日 ユ、京のところへ克次朗・孝行の二人つれてゆく。「あす10:00来る」と荻村生より電話あり。(※省略) プティ・パレでカレー食ひ氷菓のみ620と安かりし。アキちゃん一人にてserviceす。「蘇東坡」杭州に至りしにて了る。 7月22日 暑し。荻村生来り「塩尻まで父君迎へに来る」と。ユ小包2袋こさへて〒へゆく(書留1,000×2)。14:00木下生来り「史記~後漢書」copyして帰りゆく。 ユ、けふ母に用たのまれ左右す。service性に富めるに感心す。 7月23日 曇。30℃を越す暑さ。西山博士より『江戸っ子』賜はる。(※省略)われ「蘇東坡」杭州着まで写す。あとは木曽にてとす。 7月24日 10:30ユと共に家を出、昼食後13:00より学科会に出る。(※省略)13:00より教授会、授業料値上げと。立原達夫君より暑中見舞。(※省略) 7月25日 池袋西武へ背広とりにゆく。(※省略) 夕方荻村生より電話「父出る」と代りて「あす泊りどころあり。夕食もしてもらふ。塩尻にて待つ」と也。 (※省略) 母の所にゆけば「90まで生きる」と也。 7月26日 14:00家を出、中央線にて新宿。15:00発の「あづさ」に乗り16:27塩尻につけばホームに雅子まちをり。出口にて父栄氏のhyreに乗り木曾路をゆき荻村家につく。 漆器の机など一杯にあり夕食に鮎とうなぎとすし出され、少し食ひて福島の駒王ホテルといふに案内され、0:00まで騒ぐにねられず。1:00就寝。 3度ゆめ見て叫びし由。 7月27日(日) 6:00さめ朝食7:00。宿賃は払ひあり、7:45荻村栄氏また迎へに来られ、谷口山荘へ案内さる。何もせず三沢氏といふ管理に紹介さる。夜、21:00より熟睡。 7月28日 6:00さむ。日向ぼっこす。御岳に雲かかる。16:00荻村栄氏雅子と来り、ユつれて福島へ買物にゆき18:00すぎ帰り来る。(書留小包2ケ持ち来らる)。 夜、21:00すぎより炬燵入れて熟睡。 7月29日 無為。Hotelまで散歩し、草花ユとる。 7月30日 朝より雨。ユ散歩にゆく。荻村雅子君来り、ユの郵便出しくれると也。「蘇東坡」に久しぶりにてかかる。福井県今立町上田利兵衛氏に「西湖志」見られずと書く。 7月31日 1時間歩いて買物。bus停ありhyreを呼べるらし。帰って昼食す。ユ近くの老嫗の処へゆき「駒の湯近く200円で入湯できる」ときき来る。 8月1日 午后ユと駒の湯にゆく。客ありとて入れず。郵便もちゆきしもダメ也し。東京も異常に涼しと。 8月2日 ユ福島町内にゆき買物し来る。夜、京、弓子より電話。 8月3日(日) ユと1時間ほど散歩す。御岳の煙吐くを見る。 8月4日 駒の湯の途を下りて福島にゆき喫茶(小川和祐の『伊東静雄』といふ講談社の文庫あり。帰りはbus(350×2)「シルクロード」見了る。)西山博士へハガキ。(中山夫人へ手紙投函)。 8月5日 朝、三沢管理人来り近所に売家ありと。14:00ユ車にて迎へられゆき見れば10坪ほどと。帰る直前、水の如き下痢。帰りしあと嘔吐。はじめてのこと也。 8月6日 広島原爆35周年と。節食し午后「蘇東坡」200×231までとす。依子より衣類来り、ユ電話すれば105円と。 8月7日 けふは出ず。「蘇東坡」200×258までとなる。母よりハガキ来る。 8月8日 10:00ユと三沢亨世話人を訪ぬれば宇山へゆきしと。父上日曜在宅といふに話ききたしと名刺置き、ユ農協の自動車にて買物すませ12:30帰着。 8月9日 ユ買物にゆき早く帰り来る。三沢亨との連絡とれず夫人に父君弥ときく。中山正子より「あす来る」と。 8月10日(日) けふは中山生来るとてユ9:00のbusにて福島駅へゆき12:30帰り来る。見えざりしと也。14:00中山生、駅についたと。 駒の湯通りてtaxiにて来れといひ、午食して迎へにゆけばtaxi12:00なりし。すしその他山ほどもち来り、タバコ20箱入り3箱に恐れ入る。 ユと木曽駒へと出てゆきしあと荻村生より電話、父と来り95点は未曾有といへば結婚式に呼ぶと也。 やりし中山のcreamもち帰らざるを咎めれば父君出て「ハイ、ハイ」と。18:30三沢家よりユ電話かけ歩きて帰ると也。(※省略) 「蘇東坡」300枚を越す。 8月11日 中山生、手をふりてユと9:00去る。(われよべ不眠、彼女がためか)。15:00福島駅より「奥さまにお礼を」と電話し来る。 ユ帰り開田高原へbusでゆき、そば食ひ駅にて土産与へて別れしと。21:00就寝。(伊勢スミ江より電話かかる。) 8月12日 晴。暑くなりし様なり。「蘇東坡」かきつづける。  なでしこの群れ咲きゐたる沢地をば妻とのぼりぬ浴衣を着たり。 三沢氏、米をたづさへ坊やつれ来る。creamを奥さんに、whiskyを氏にと贈り、ハガキ3枚を托す。一枚は山本実氏へ進行のこといひやりし也。  夜半すぎ流星多く見えるてう予言をききぬわれは眠らん。 8月13日 けふはここも涼し。裏山へユとゆきしのみ。「蘇東坡」書きつづけ379pにて突き当る。 8月14日 よべ眠りにくかりし。「蘇東坡」かき300枚こえし故、ユと木曽駒ゴルフ場のshopping centreにゆき買物すませ、16:09のbusに乗る。 (神田信夫君へのハガキ投函)。夕方またかき413×200となる。指疲る。20:00すぎ依子より電話「あす鈍行乗り継にて来る」と。 8月15日 ユ12:39にて福島にゆく。「蘇東坡」2冊などを母へ小包にして送る。 16:00ユ、依子、泰、望とtaxiにて着く。2孫つれて撫子沢へゆき根2ケと花多く、擬宝珠と採り来る。民宿のありか聞く人あり。(※省略) 8月16日 ユ1女2孫と木曽福島へと9:00出てゆく。食欲もなく「蘇東坡」かき465枚とせし処にて司馬光の死にてゆきづまる。16:00すぎ雨の中、4人帰り来る。 8月17日(日) 朝、雨。午、雨やむ。ユ木曽駒中腹へと2孫つれてゆく。夕立あり。帰りおそければ三沢氏に捜索たのめば泰と望の帰り来るを見てたのみ断はる。夕立はスキー場で遭ひしと。 8月18日 けさ小便のため4:00さめ、あと眠れず。炬燵いれる。 ユ、依子、泰、望と荻村家へゆき買物し、お礼のジャケツ進上せしに寝覚ノ床まで案内され名古屋行の特急券用意され、ユを送り賜はる。 われ留守番して「蘇東坡」かけざりしに、杉山博文自家用車にて来り、京の送りし甘納豆もつく。杉山「鎌田先生、大学院の一人一人に結婚いひし」と。 月曜帰るといひて、荻村父上に特急の切符名古屋までとたのむ。日曜に迎へに来らる由。 杉山生を駒の湯にゆかしめんとし道に迷ひて引返し、結局駒の湯までゆきて別れ、道迷ひしも谷口家に帰る。 ユ、よべ眠り少なかりしと。望より電話17:30ごろあり名古屋に帰りし也。(京よりの甘納豆つく)。 8月19日 ユよべ眠る。午后三沢氏へゆかんとせしに、ユ鍵もたず閉め、困り叱る。三沢氏に途であひ(幸運にも)toiletへはしごかけ開けてくれ、 三沢氏までのせてくれ飲物として茶と野菜と呉る。夫人らみな家と也。 木曽駒の3合目ゆき山魚焼かす(950)。ユの云ひし高山植物はダメ也しもキリスト者の古谷さんといふに会ひ、ユあすゆくこととなる。 8月20日 9:20本町2丁目より曲角にて下車(120×2)。古谷夫人にゆく。(※省略) 11:30出て、来しbusに乗れば津田山荘の夫婦乗りをり。 (※省略) ユ16:09centreより乗り帰り来り夕食兼帯くはす。叱れどもあやまらず。林語堂の「蘇東坡」よみ了りしのみ。(※省略) 8月21日 雨。ユ出ず。夕方われ蜂の巣をつつき大騒ぎとなる。津田山荘に電話すれば若奥さん2人来てアンモニアぬり呉る。三沢氏に電話せしもダメ。 19:30津田さんにゆき礼云ひ西瓜ご馳走となり菓子もらひ送り来たまふ。(※省略) 8月22日 また雨。午后15:00やや少きを見てユをして津田家へ寄らせれば夫人追ひ来りたまひ「散歩をともに」といひて駒の湯近くまで来れば、三沢亨氏来り、 3人をのせて福島のマーケットにて車をとむ。(※省略) ユあすbusにて福島へ同行を約す。(※省略) 夜「蘇東坡」かくも司馬温公行状にて枚数かせぎよけれど一向すすまず484枚となる。 8月23日 よべ眠れず。追加のむ。雨の少きを見て11:00津田家へゆけば(※省略)、隣家の幸田氏一家来りしに12:00となりし故帰宅。 三沢亨氏来り、(※省略) ヤマメ2匹賜はりecho6箱渡せば受取りくる。 これにて「蘇東坡」の司馬温公行状ほぼ訳して500枚を越せし処にて打切る。夜、荻村家へたのむ小包ほぼ了へ、我仕事なくなる。(※省略) 尾崎秀実の妻と怪しかりし元共産党員伊藤律帰国とてNHKに尾崎秀樹まで出る。ソ連の原潜了解を侵犯して曳航さる。 荻村家に電話再三してあすの夕食おごることとなる。 8月24日(日) 荷造りして鞄2つに包み、17:30荻村夫妻、雅子と来り、切符渡され払ひし。 木曽駒Hotelへ案内すれば「中華料理1時間かかる」とのことにスキヤキ5人分たのむ。19:30払ひすます。まづき飯なれど御岳の噴煙見えしを喜ぶ。 雅子生9月2日渡米のため上京と也。 8月25日 宇山110谷口山荘最後となる。  御岳は全貌見せぬ去るわれを送るが如く秋空のもと。  道造の思ひ出さそふ萱草を妻はもちたり庭に植えんと。 11:00津田さん迎へに来て11:20taxi。駅前にてice-cream喫し、12:42名古屋行に乗る。14:22名古屋着。ユ萱草を預けにゆく。(※省略) 諏訪宅へ地下鉄にてゆき泰の案内にて散髪。2人に本代3,000与ふ。澄、夕方帰宅。入浴し21:30就寝。 8月26日 曇。7:30起床。諏訪の自動車券にて依子hyre呼び呉れ11:31の新幹線ひかりにて帰る。昼食として赤福と飯ちょっと食ふ。佐伯、店をしめをり。 母のところへゆき木曽福島よりの書留小包1つとり来る。大もをり。 佐藤健「蔡叔奄と9.14銀座アスター津田沼賓館にて12時披露宴」と。出席の返事す。天理の方は断はる。花井たづ子へ電話。(※省略) 川久保に電話すれば「何も出来ず」と。(※省略) 集英社より『白楽天』重版印税16万×9/10来る。 8月27日 小雨。よべ眠薬のまざりしらし。ユ塩入先生へ薬とりにゆく。暑中見舞の返事かく。プティ・パレにゆき喫茶。昼食後、高円寺へゆき瀬見氏に会へばソ連『ツングース語典』あり『中国の絵画』とともに注文。あすもち来ると。夜、また出て高円寺。阿波踊しをり。(※省略) 佐伯にて『日葡辞書』注文すれば「あり」と。『永楽大典(22,500)』ユ払ひ呉る。(※省略) 8月28日 久しぶりに晴のち曇。プティ・パレにゆき福地夫人出勤を見て帰宅。高野さん転宅とて母子で挨拶に来る。(※省略) 8月29日 2:00さめ、ユの薬とりにゆきしにプティ・パレにゆき喫茶。帰れば(※省略、また)、プティ・パレにゆきプティランチ(580)。 電話して瀬見氏来りしに『ツングース、マンジュ語』辞典と『Chinesische Kunst』にて3万円出せば釣銭呉る。和歌山の名産くれ信州の土産ユわたす。 (※省略) 荻村雅子に電話し「荷物ついた、9月2日来るか」ときけば「来る」と。戸田画伯に信州土産もちゆく。(※省略) 8月30日 4:00さめ(※省略★)、8:00丸夫人に電話すれば「Mild Sevenを15:00-16:00に」と也。ユ母のもとへゆきしあと母より電話、甘きもの「克己の誕生祝」と母呉る。 川久保11:00ごろ来てわが見せし『ツングース、マンジュ語』辞典の訳やらんといへどはかばかしき返事せず。(※省略) 14:00山本実氏来るとの電話あり、その間みてプティ・パレにゆき福地夫人に会ふ。14:30山本実氏来るまでに書原ともう一軒へゆき山田俊雄の本探せしもなし。 『朝鮮史』、『木曾路・伊那』、『明治大正の民衆娯楽』、『高砂族に捧げる』、『ごはんの話』など買ふ。 山本氏来り「200部(-10部)は7,8,9日ごろ納める。定価は値上りして2,800になりし。著者には8掛け」と金置いてゆく。 「蘇東坡」よしとすでに予告しあり。瀬見伊三郎氏に忘れし風呂敷とどけ『日本の書物(600)』買ひて金なくなる。 木曽福島でユの見し山田俊雄氏の本なく、高田に電話すれば「俺ももらはず」と。山田氏に電話すれば「やった」と也。 美紀子に電話すれば「史と同道できず」云々。17:00ごろ来る由。『中国の自然と民俗』よみ了へ自ら感心す。(※省略) 8月31日(日) ユと礼拝にゆく。次の礼拝は聖餐式と。すみて東急dept.の中国物産展にゆき茉莉茶(200)、線香(200)買ひ、海老麦麺くふ(500)。 帰りてプティ・パレにゆき高円寺の古本屋にて1冊買ひ、 美紀子らの来るをまてば淳一、今井の二人とまづ来り、次いで美紀子と雅子、暁子(可愛くなれり)。すし注文し史の来ると同時に来る。(※誕生会) 20:00すぎれば史「帰らう」といひて不快。弓子より電話、経理士世話する様子なり。記念写真とれず5人帰りしあと史に怒れば我の遺伝となり。 『中国の自然と民俗』に二ケ処誤植見つく。 9月1日 22:00ねて6:00さむ。塩入先生にゆけば血圧100にて薬変へたまはず。午后高円寺へゆき球陽書房本店にて三田村『宦官(250)』見つけ、 瀬見氏棚卸しと休みをりしものぞけば入れてLeon Zolbrodのわが詩をゑらみしことのりゐる木村毅の本(※不詳)見せ呉る。 再びプティ・パレにゆき帰りて冷房し、15:00来し本棚に本入れ(9,150)、Toiletの漏水を止めさし(3,000)、写真機の直しさ せなどして日をすごす。 西垣しげ子夫人より「(※亡夫西垣脩の)散文集出す」と。内田五郎氏より兄『内田忠詩集』30回忌に出せしと。けふは暑かりし。 9月2日 曇。佐伯へゆき『北支5冊(500)』など買ひcard買ひして「蘇東坡」よみ直す。 15:00荻村雅子来り「けふは千葉県の同行者の家に泊りあす15:00成田発、2週間の旅」と。木曽の礼いひ、ユに写真とってもらふ。 (けふ西垣夫人より文集発刊と。)けふ本棚買ひ(9,150)、ねし本みなならぶ。 9月3日 7:00さむ。10:30 card買ひにゆき「2万買ふ」といふ。 プティ・パレにゆきて帰れば郵便局より不配の通知来あり、 ゆきて見れば野崎その夫人より、古希祝の本(※新著)を鍛冶、武田、山荘、南隅、椿下、辻、野崎の7人にて買ふと2,500×7、送料として1,000「送付は野崎へ」と也。落着かず。 丸へSeven Star10箱(180×10)もちてゆけば礼もいはず。これにて絶交ときめる。 都丸の瀬見さん「茶のまん」と云ふも新書(50×2)買ひて帰宅。 けふ船越苑子来る。西川名義にて「某日1万円の会せん。目的は大高60周年祝賀」となり。 西川に電話して叱れば「高垣の計画にて我も欠席」となりし。 眼鏡の弦しめてもらひ、いくらときけばただなりし。 9月4日 6:30さめユさそひて竜胆さがしに高麗へゆくこととし、(※省略)西武高麗下車。神社まで遠し。500にて『高麗神社と高麗郷』我買ひ、ユは団輪(※団扇)200買ふ。(※省略) 高麗より所沢にゆき今日のところへゆけば禎子坐れるやうになりをり。健太郎帰るをまちて出、(※省略)帰宅。鈴木正義より大阪7年にしてNHK本部へ帰りしと。 9月5日 7:00さめ9:00すぎ杉並郵便局へゆけば森亮君の『小泉八雲の文学』なりし。(※省略) 佐伯にゆき本買ふ(1,050)。プティ・パレにて小Lunch(580)。橋本貫一より「1冊買ふ」と。野口武徳君より『南島研究の歳月』来る。 9月6日 7:00さめ午后高円寺都丸支店へゆき雑本3冊買ひプティ・パレ、福地夫人をり。 藤田幸子より1冊ほしと3,000来る。(※省略) 9月7日(日) 礼拝にゆく。聖餐式あり。card買ひ本買ひて帰宅。(※省略) 午後より20:00まで弓子行方不明とて小林さはぐ。 9月8日 午まへ山本実氏の使者(※『中国の自然と民俗』)190冊持参。 午飯後、佐伯へ10冊もちゆきしにしまりをり。1冊川久保へもちゆけば丹波と古希祝すと也。 夕立ひどし。プティ・パレへ2冊もちゆき藤田幸子へ1冊。送料200と。 高円寺の都丸支店へ10冊もちゆく。重く6ガケといふ。 夜、野崎その夫人へ10冊包む。(※省略) 9月9日 6:00さめ西山松之助、豊田令枝、津田実夫妻に包む。山住dr.にゆけば休診と。正己先生へと薬局に1冊托す。 午后、東豊書店にゆき10冊預け『宋栞施顧注蘇詩4冊(2万円)』、『東坡楽府(3,000)』、『宋史紀事本末(2,880)』、『西湖詩詞選(760)』計26,640借りて帰宅。(※省略) 9月10日 7:00さむ。山田俊雄、荻村雅子、中山正子に1部づつ。午すぎプティ・パレにゆけば(※省略)。 高円寺の都丸支店へゆけば瀬見氏あはててわが本1冊棚に入れる。面白からず。 午后夕立しばしば。(※省略) 9月11日 よべ2:00さめてね6:00起床。森岡教授、橋本貫一に送本。(※省略) 神田先生より古希祝と月桂冠と本賜はる。 12:30和田・花井2夫人来り、14:00木下雅夫生来しと鉢合せ、和田夫人2,800×0.8、花井夫人3冊もちゆく。 夕方神田先生へ恐縮の礼状かく。 9月12日 風吹き晴。ユ10:00西武へと出てゆく。12:00背広もちて帰宅。 南村夫人より3,000、越智淳子夫人より5,000来る。 9月13日 6:00起床。9:30散髪にゆく。(※省略)井上正氏13:00来ると電話。(※省略) 話巧みにされ17:30送りかたがたゆき地下道にて小便、card買って帰宅。(※省略) 9月14日(日) ユのみ礼拝にゆく。10:00出て津田沼まで各駅停車に乗り11:30着けば金子も同車と。 佐藤健と蔡叔奄との披露宴にて(※省略)、金子と同車、新宿で下車。 紀伊國屋別巻にゆけば2万5千分の1の地図は関東近辺のみ、『御岳(450)』買ひて帰宅の途、ユと遭ふ。 9月15日 5:00さむ。高田瑞穂、築島、田中久夫の諸友に送る。ユ薬1週間分とり来る。 羽田、野崎そのより受取。西山博士よりも電話にて受取。 14:30田中夫人令嬢つれて来る。弓子2子と来り2冊もちゆき将棋の駒買ひ呉る。 9月16日 暑し。9:50出て松枝茂夫氏に1冊送り、card(300)、正誤表1,000copyし、 保田、田村春雄、鄧健吾、栃尾武の4氏に包む。 小高根太郎夫人、癌にて入院とユ、電話してきく。 (老人検査にて山住dr.よりコレステロール少しと云はる。わけわからず。) 午后、国鉄に乗り高円寺の都丸支店へゆき正誤表わたす。わが本並べてなし。 9月17日 諏訪へ1冊。ユ10:00吉祥寺にゆく。昼食プティ・パレのpetit lunch食ふ(580)。 筑摩書房より「堀辰雄全集10に貴文のせたし」。道下(平山)夫人3,500送り来る。 森岡博士、植村清二先生より受取。外山、西宮2氏に包む。(※省略) 金大中死刑判決の由。台風16号接近と。 9月18日 ユ、吉祥寺へclass会のことにて出ていく。われ在宅。神田信夫氏より「物送った」と。 山本実氏より「文4ヶ所の誤植みつけし」と。杉本田紀子、藤井陽子2夫人より3,000来り500づつ返却す。(※省略)台風それしらし。 夜、丸煦美子「父より」と菓子もち来る。 9月19日 5:00さむ。1時間まちがへて7:30bus乗場につきcafé店あくを見て入るなどし、 8:30塩沢生来り、津端来り、木下に電話かけさすれば姿見え9:15出発。 河口湖にて精進湖畔の富士見荘といふに着く。 青木、馬海生、白馬より来るにおくれ15:00すぎ来る。夕食後wineのみ(※省略)就寝。 9月20日 朝のま、かすかに富士見える。10:00出て本栖湖へゆき午食おごりboatに乗る。風穴といふにゆきbus1時間半待ちて新宿へ17:30着き18:00帰宅。 禎子はふやうになりしと。(※省略) 9月21日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。開始50周年とて聖餐あり。 竹森先生に正誤表おわたしすれば「御先祖は中国人」とおよみなり。(※省略) 昼食せずして帰宅、無為。(※省略) 9月22日 よべ9:00にね、けさ5:00にさむ。(※省略) (長尾)岩崎夫人より3,000、中山、津田由美夫人より受取。竹内夫人より「全集第1回のみ贈る」と。 プティ・パレにゆけば冷房入りをり寒し。「川久保君来り、この間親子3人にて日帰りの奈良行せし」と。 苑ちゃんも来をり、早々帰りゆく。(※省略) 9月23日(秋分の日) 寒く、午后来るといふ森山弟と高野嬢まちしに16:00来り式は来年3月と。(※省略) 9月24日 外出せず。炬燵にて東洋史の予習す。保田より受取。野口君よりBankokにあり、これからPataniにゆき11月に一時帰国と。 (※省略)岩崎昭弥より服部三樹子さん癌で死にしと電話。 9月25日 2:30の地震でさめ、あと眠る。11:00登校。栃尾君にほめらる。鄧さん何もいはず。 (※省略)東洋史やり疲れ、pãoの残り食ひ民研にゆけば助手嬢、婚すると。 猿渡君に茶のましてもらひ平山所長にと1冊托す。 夜、高橋重臣君より電話「10月20日午后来て泊る」と。 9月26日 雨。10:30出て登校。平山博士、肩叩きて礼いふ。 池辺・鎌田の2氏に『中国の自然と民俗』贈り、中国古典すませて帰途、小高根家へ寄れば無人。 田中久夫氏(来年より講師やめること承知)、外山軍治博士より受取。 夜、小高根太郎氏に電話すれば「来月退院まで見舞いらず」と。 9月27日 終日雨。外山軍治博士より受取。山田勝久氏中国より。無為。丸山薫を偲ぶ会18日と。高橋君の来る日なり。 9月28日(日) 夫婦にて礼拝にゆき急に墓参りときめ東急にてうどん食ひ、国鉄にて八王子。晴れたり曇ったり。 花さしあり、弓子ならんと思ふ。帰り京王線の特急。夜、何もせずに眠る。 9月29日 (※省略)ユ、咲耶に3冊送る。絵にて外出。 竹内の全集14冊と。第1冊来る。都立書房の請求書見つけしも覚えなくて困る。 9月30日 11:00登校。高田を見ず、話し相手なし。大学院重久欠席、各人に1冊づつやり河野夫人1冊買ふ。 文化史すませれば1人本欲しとて2,200にて買ってゆく。semi匆々すませ茶のみにゆく。(※省略) 帰りて無為。Iran-Irk戦争つづく。19生期会報来る。みな体わるきらしく西川96キロと。 10月1日 堀一郎先生7回忌とておちつかず。ユに当る。行けば地下鉄おそく鎌田女史とほぼ同時。 待合室で大藤氏(※大藤時彦)と握手、高田博士より「やせたな」と云はる。18:00開会50人近く集まり食事のあと指名にてみな堀さんの好学を云ふ。21:00すぎ了り地下鉄にて帰宅。茶漬食ひ、入浴、眠る。 10月2日 11:00登校。Skey女史を見る。東洋史すませ始終眠りゐし男生咎むれば「先生の本ほし」と。14:10の教授会。長引きさうにて山田部長旨くさばく。 10月3日 登校。中国古典の時間に「悠」の字出て来、妻の名といへば知りをり、くさる。印もたず定期代もらひにゆき(※省略)、 帰途、区役所前にて川久保につかまり古稀祝すとのことに来年といひて逃げる。鬱ひどし。 10月4日 山本実に電話すればゐず、(※省略)プティ・パレにゆき瀬見氏まで駈け足すれば「2冊売れた」と(嘘なり)。 帰れば弓子来り、祝3千円くれ、そのあとユ帰らしめしところへ星野夫人来り3,000置いて逃げゆく。(※省略) 10月5日(日) 礼拝にゆかず。(※省略)午后、意外にも井上(宇井睦子夫人)、得津(押上佳子夫人)あらはれ高松(丸木直子夫人)よりの電話は切りゐしためなかりしと。苦笑す。(※意味不詳) 10月6日 ユに追出されて佐伯にゆき支払ひおくれしをことわる。プティ・パレ休みと村上氏に遭ひてきく。 論文かけどもLevirate─中国における─ときめる。(※省略) 東京新聞夕刊に都立大の松井博光なる教授ゐて博引旁証を咎む。皮肉なり。 山本実氏より電話あり「見て腹立ててゐる」といふ。 (福地君より詩ののりし雑誌『海峡』来る。父君80才にて健在。彼も数へ年50才となりしと也。) 10月7日 朝、8:00起きサボることとしユに電話さす。ユ、柏井へゆき恵出産ときく。昼食後船越苑子来りユと出てゆく。女児出産と。(※省略) 『赤岡町史』近森敏夫氏の配慮にて来る。(※省略) 10月8日 午后散髪にゆけば2,300と上りをり。帰れば美紀子松茸1本もち来をり、柏井歯科へと出てゆく。 あすの登校いやなれど学科会ありて仕方なし。 10月9日 ユ、健太郎の運動会へと出てゆく。10:00出て登校。栃尾氏より読売新聞の書評printしてもらふ。この方は好意なり。(※無記名書評「読書メモ」) (※省略)帰途、東豊へゆき『范成大詩集(1,280)』買ふ。わが本は売れずと也。 近畿大の王先生にきけば「同姓婚inteliは行ふことあり」と。 新宿へ出て山本書店にゆけば父と令息の家へゆくところなり。 茶を山本敬太郎夫人に出されやむを得ず『中国の俗諺(2,500)』買ふ。 17:00すぎて帰宅。咲耶より7,000(3冊分)来る。 10月10日 鬱なり。宏一郎と孝行と来り、ユにつれられて公園へゆきしと。 克次朗来る筈なれど17:00となり「来ざれ」と電話して2孫帰りゆく。狂気中のことをユくりかへし語る。 10月11日 鬱つづく。母来りしに、ユに「出てゆけ」とどなり、母呆れて帰りゆく。 プティ・パレにゆき小雨とて帰り来る。夕食、鯛出てユ哀れなり。(※省略) ユをして竹内夫人に電話せしむれば「あす午后在宅」と。論文「中国の婚姻」について書くより外なし。  あはれなり秋ふかくしてどなられり63才迎へけるとよ。 10月12日(日) 予報とちがひ朝、雨止む。夫婦にて礼拝にゆき、東急にてわれは狐うどん(280)、ユそば(300)食ひ、 阪急dept.の満員なるを見すごし竹内家。夫人まちかまへらしく、 2嬢とも結婚、1人は筑摩の社員、一人は建築家にて千葉県に住む。夫人も九十九里の近くに土地買ひし云々。 お花料1万円置きて1時間して出る。 10月13日 8:00起き9:30出て塩入先生。血圧120-80と。3週間分の薬もらひ帰宅。竹内夫人より「沢山いただいて」と電話あり。 16:00すぎ高松(※省略)、白水2夫人来りすぐ帰りゆく。夕食の時、伊勢すみえ来り本返すと21:20まで話しゆく。 10月14日 11:00まへ登校。12:30大学院、年中行事すみ(杉山来ず)、あと冠婚葬祭やることとし、 河野夫人に正誤表かきたしわたし2D文化史。わが問に殆ど答なし。30分早くすませ台風来るとのことに帰宅。 10月15日 晴れる。ユ、画の出展を断念(鈴木氏逝去と)。プティ・パレにゆき元気なしと云はる。card買ひ、 NHKの「Turkstan」第4冊とり「第3冊も」といふ。清末までの結婚法かくことと決める。 10月16日 傘もってゆく。12:00より学科会。鎌田女史欠席きまらず。20分近くおくれて002にゆけば皆しづかにをり。 50分近くやり、Der Kongress tanzt歌ふ。杉山博文生来り6冊注文す。5冊わたす。 鄧さんに同姓婚きけば答あやふやなりし。 雨にあはず帰り地下鉄で遇ひしは宮崎県の2D沖田生、新中野で下車といふにともに出て喫茶(280×2)。 先週わが本を買ひしなり。card屋へ寄り300払ふ。 旭川の斎藤氏よりわが著の残部ありやと。『白楽天』と『杜甫伝』刊行社にあらんと答ふ。ユ、風邪と山住dr.に。 10月17日 登校。高田君、くり言いふに気づく。中国古典やり上野生に1冊与ふ。(※省略)4女子と喫茶。みなthemaいふ。 高橋重臣氏より電話「あす午后7時半来る。夕飯すまして」と也。 10月18日 ユ、同窓会へゆき我、プティ・パレで昼食。高円寺の都丸支店にゆけば「1冊も売れざるも期限まで預かる」と瀬見氏。 帰りて論文かく。(「中国の法と民俗─婚姻」とす)15枚×200。ユ17:00帰り、19:20高橋君来り富永館長老い新井女史もとのままと話す。 雑誌置き「会合、三笠宮はじめ300人を越せし」と也。22:00前後眠らせ入浴。 10月19日(日) 朝食の時「高橋マリちゃん再婚の相手見つかりし」と。ユ風邪、我下痢にて礼拝にゆかずときめしあと高橋君出てゆく。 夕方、史親子来り、飯食ふと急ぎ帰る。 10月20日 下痢また起る。紀要の原稿39×200ややに自信つく。  わがよはひ古稀としなりぬこののちのわれがさだめは神に任せて。 新学社より「千円印税として三井銀行支店に入れし」と。 10月21日 下痢なほり鬱とれて登校。大学院は「朝鮮の婚礼」。2Dも旨くゆき(※省略)、駅にて2Dにつかまり喫茶。 東豊へゆき26,640払ふ。わが本少し売れてゐると也。京よりユに「あす来てくれ」と電話あり。 10月22日 ユ出てゆく(10:00)まへ山住dr.へ下痢の薬もらひにゆき睡眠剤のこといへば「見本持って来い」とのことなりし。 「中国の婚礼法」50×200となり、寒き朝となる。(昼食プティ・パレにてbread & tea 400)。 荻村雅子にハガキかく。今中19期会へ2,00送ることとす。 10月23日 8:00家を出て杉並郵便局、9:00まであかずと気づき、成城駅前局へゆけば「まだ早し」といはれ登校。 (※省略)15:00大学院教授会。英文の1人、西山君の反対にて落す。(※省略)そのあと学科会。 平山君荒れ森岡主任困る。17:30すみて急行にて帰宅。便秘となる。 10月24日 曇。ユ14:00買物にと出てゆく。プティ・パレにゆき写真屋鈴木に会へば「満洲にて月収2,000なりし」と噴く。 帰りて論文かき200×60となる。瀬見氏より電話「増田晃につき聞きたしといふ人あり」と。 「けふ今より来よ」といへば「日曜午后瀬見氏と同道」となり。 10月25日 朝、雨。公平さん急死とてユ、旧友に電話せしあと納棺にゆき18:30会してお通夜にとゆく。 われ論文かき林俊郎より叔父「一周忌を11月30日14:00」と来しに電話して確かむ。論文60枚を越し今ひと息なり。 10月26日(日) 8:00すぎさめ、ユとともに礼拝休む。ユ12:30昼食すませ西永福の池上(公平)由紀恵夫人の葬儀に出てゆく。 13:30瀬見氏、山田清吉(元大尉、明治31年生れ)氏をつれ来る。漢口にゐしと増田晃君の歌のせし『武漢兵站』賜ひ15:00すぎまで話してゆかる。 我も本1冊贈る。(瀬見氏本代もち来りし故「年末に」といひて受取らず)。プティ・パレにゆき喫茶(300)。 佐伯にゆけば『堀辰雄全集12』来り4,600と。払ひ、card買ひて帰宅。論文69×20となる。ユ疲れてねをり。 10月27日 朝の中、雨のこる。山田清吉氏の本よみつつ論文68×200とす。都丸支店に電話し、瀬見氏留守中ゆゑ「本よんだ」の伝言たのむ。  あなあはれいくさのにはに死にしひと主イエスに祈り死にし人とも。 『人民中国』1年分2,000内山書店へ送る。 10月28日 11:00すぎ登校。大学院みな出席。重久と河野夫人と結婚(※観?)完全に反対にて大笑ひす。 L2Dも旨くやり、高田瑞穂君「新大学」へゆくとて同車、新宿で別れ地下鉄に乗れば2D沖田生隣へ坐る。 再び新中野で下車。われはpudding彼はcaféとcookie、払ひしをれば10円出す。 別れて新高円寺まで乗り瀬見氏に会ひにゆけば不在。山田氏の本の礼を番頭に伝言たのみて帰宅。(※省略) 『ことわざ処世術』買ひ面白くよむ。鍛冶初江嬢より「永生せよ」と。 10月29日 朝6:00さめ (※省略★)、午后佐伯へゆけば(※省略)、井上靖『楊貴妃』文庫にて買ひcard屋にゆき、 高峰竜胆(250)1鉢買ひてプティ・パレ。客我一人にて福地さんと話す。 帰りて「婚姻史」了り80×200.註かき余論かけば了ることとなる。めでたし。鍛冶初江嬢にハガキ投函。 10月30日 8:00さめ朝食し10:30出て登校。急行に立ったままゆく。学科会にて平山博士また怒る。 新城博士に『常民文化紀要』の原稿のこといへば「頼んだおぼえなきもののせる」と。(※省略) 教授会、評議員の選挙にて長びく。全然票なきが半分。すみて鎌田女史より「中国の産育についてかいたものは」と聞かれ「金瓶梅」と答ふ。 阿佐谷にて『木曽路(350)』買ひ、川久保夫人と遭ひ「主人お宅へ」とのことに、急ぎ帰れば瀧川博士にゆきし帰りと来てwhiskyのみゆく。 けふはわがいふことよくききたり。教会より「壮年会へ出よ」と。 10月31日 8:00さめ、10:30出てAnderson講師と名刺交換。在日15年といふ外人講師。(※省略) (登校途中、臼井名誉教授に会ひ会釈す。佐野元教授には我からす。)(※省略) semiに木下、鳥海来ず3人つれて喫茶。(※省略)帰途、駅前の本屋にて斎藤茂太『躁と鬱』買ふ。 東豊へゆけば「2冊売れた。もう1冊は我買ふ」と簡さん。国電にて帰宅。 ユ「茂太先生の本は諏訪よりとり来りし」と。不審。 11月1日 ユ、山住dr.にゆき薬もらひ来り、昼食後戸田先生にゆく。われプティ・パレにゆき茶のみ(※省略)、 夕食するところへ弓子3孫つれ来り将棋さす(克次朗、日曜学校へゆくとなり)。 けふ富山鈴子Canadaより星見えるとたよりよこす。(※省略)、塩入先生と縁切れしを喜ぶ。 11月2日(日) よべ3:00尿で起きまた眠り、7:30起され礼拝に2人してゆく。(※省略) 聖餐式あり、すみて笹淵博士に中河幹子女史の逝去告げ、衛藤瀋吉長老に本、来週もって来るといひ、阿佐谷へ帰りcard買ふ。佐伯夫人中野の市に行きをり今東光『河内風土記(250)』買ふ。 ユ、柏井へ恵の出産祝もちゆき(※省略)、我は近鉄・広島のセパ両リーグ決勝見てをり。 夜、「中国の婚姻」─中華民国民法を写して116×200とす。うれし。(※省略) 新聞に西川英夫68才藍綬褒章をもらひしと出てをり8:00電話せしも返答なし。柏井尚子よく笑ふと也。 11月3日 北風寒し。午后プティ・パレにて喫茶。 高円寺都丸支店へゆき『金槐和歌集』、『中国小説の世界(1,000)』その他買ひ、わが本買ひしといふ人に紹介さる。(※省略) 趙冰博士の『中共婚姻法』の訳にとりかかる。(※省略) 丸に電話すれば夫人「寒しとてねてをり」と。 (※省略) 衛藤博士と野口武徳君に本送る(300×2)。20:00「Turkestan」を見る。 11月4日 8:00さめ中華人民共和国の婚姻法を書き足し200×123とす。昼食後、散髪(1,300)。 カナダへの航空便買ひにゆき(100)、本送る袋(100)とcard買ひ『シャーマニズム(460)』買ひて帰宅。 夜、西川に電話す(勲章もらひし祝、丸のこといへば「この間、金沢へゆきし」と。「古稀の本出した」といへば「買ふ」とのことに「送る」といふ。) 「乃木大将と203高地」を見る。(※省略)荻村雅子に電話すれば「受取書かうと思ってゐた」と也。バカらし。 11月5日 7:30さむ。午前中「中国の婚姻─法と慣習」書き了ふ。200×142.うれしく川久保に電話し、 「13:30ゆく」といひ、ゆきてTungus語辞典ともにやらんといふ。 川久保「時々厭人症になる」と。阿南君の本、出ざるを嘆じ(けふ和田久徳君に1冊送る300と)、 佐伯へゆきて『東アジアの古代文化25』注文し、『シルクロード』来しに払ひ『空母信濃の生涯』買ふ。 プティ・パレにゆき鈴木写真館と話し、(※省略)18:00帰り『信濃』よみ了る。 (郵便屋愛場君といふが「竹内のことききに来る」と。) 三好豊一郎、豊岡保郎2氏より来信、返事かきて投函す。(※省略) 山本実君に電話し「蘇東坡つづきかく」といふ。喜びをり。 11月6日 8:00起き「虹を織る(※NHK連ドラ)」見、10:00一万円もちて出、定期券(7,140)買ひて登校、高田に『堀辰雄』やり菓子もらひ、 (※省略) 高田の帰りしを見て岡本金六教授と同車。地下鉄に乗る彼つれて喫茶(500)。東豊へゆき『黄檗洲詩集(400)』買ふ。わが本3冊売れをり。 また小田急南新宿に引返しcard買ひ、西川への本袋(120)買ひて帰宅。(※省略) けふにて「信仰の自由」討論すみ神島二郎博士結論いふ。 Reaganの当選にソ連祝電打ち、王選手中国人のままにて巨人軍の副監督となりしなり。 11月7日 7:00まへさめる。立冬と。23℃になり天気悪くなると。10:00出て登校、(※省略) 喫茶店にて『中国史 下(1,500)』津幡生より受取る。帰宅し何もできず。 けふ三笠宮の若宮、吉田茂の孫、麻生太賀吉の娘と結婚。(※省略) 11月8日 6:00起きユ9:30出てゆくを見送る。(※省略) 佐伯へ電話すれば「本来てなし」と。 大都リッチ菊池良子嬢より電話「14:00来い」といふ。(※省略) プティ・パレへ2度めにゆきPetit lunch食ひ13:40帰ればユ、昼飯くはず戸田さんへとゆく。 14:10石井昭子と2人来り「あす8:00迎へに来る9:15こだまにて一泊、自動車運転できる男とゆく」と。ユの帰る10分前にわが本2冊もちて帰りゆく。(※省略) 小高根太郎氏に電話すれば夫人出て「あす14:00ゆく」といふ。鈴木文平に1冊買はす。斎藤茂太先生にも1冊とす。 11月9日(日) 23:00眠り(※省略)9:00さむ。昼食後13:00出て小田急dept.で5千円のHam買ひ小高根家。 夫人譏嫌よく、太郎手術で心配し娘たち助けしと。出て早川医院さがし『この父にして』、『中国の歴史 中下』買ひ、 早川祖母に案内され大叔母たちに会ひ恭子の心づくしありがたく阿佐谷着。(※省略) 黄宗羲のわが家の『清史』にみつからず困る。(※省略) 11月10日 7:30さむ。ユに本投函にゆかす。母ねてゐると。田中正俊氏に電話すれば不在。大都リッチの石井昭子氏に電話し「来年まで忘れざれ」といへば「承知」と。 午飯すみしあと近江詩人会に「同人費出す。詩のせよ」と。投函かたがた佐伯へゆき鳥山喜一『中国の歴史 上』買ふ。プティ・パレにゆきて喫茶、船越苑子まだをり。三重ノ海連敗、横綱辞職らし。(※省略) 11月11日 6:30覚む。田中正俊氏に電話「月曜法学部講師室に来る」と。10:30出て登校。 昂徳社といふが来り『中国歴史地名大辞典』出す。買へと也。 図書館へつれゆき事務長に紹介すれば「漢文にて会議にかけてもダメ」と。 おどろきて講師室につれ帰り、我契約し、池田温君に紹介す(144,000)。(※省略) 尾形仂教授に1冊呈し『小説三言』に署名をといひ(※省略)、 法学部へゆき「クリスチャン」といへば284番歌はさる。(※省略) (成城堂にて『史記を語る』買ひ、わが本返本せよといふ。)岡本教授と同車、下北沢で彼は下車。 われ佐伯へゆけば本来ずと。card買ひて帰宅。(※省略)寺本和代氏より「11冊送れ」と。(※省略) 11月12日 5:00尿意にてさむ。(※省略) われcard買ひ佐伯に『天理善本双書』の注文し、長沢和俊『東西文化の交流(1,200)』買ひて帰来。 午食して高円寺、都丸支店へゆき瀬見氏に清算たのめば「夜来る」と。 『日本語の誕生(1,000)』買ひ球陽書房に寄れば「息子、平山博士宅へゆく」と。 『東西文化の交流(300)』、『戦争体験(700)』買ひてプティ・パレに寄り、(※省略)帰宅。 愛場君、西川の2,250もち来り「この間、電話したが不在なりし」といひし由。(※省略) 21:00瀬見氏より電話「来客あり、あす」と。 11月13日 1:00小便に起き5:00さめ『信徒の友』よむ。10:00出て登校、栃尾君と会ひSkeyさんと会ひ(pão食ひ了る) (※省略)教授会欠席を山田部長にことわり成城堂に教科書のこといひ『新坂古墳文化小考(360)』買ひ、 青木生と会ひ、さそひて喫茶。(※省略)南阿佐谷にて『古墳の発掘(380)』買ひ、中島健蔵見つけてよむ。我を無視せしが如し。 帰れば瀬見氏(※売れた本)5冊分8,400置きゆきしと。(※省略) 菊地ほなみ、柿もち来り2時間ほどゐて「韮山に家世話す」となり。(※省略) (藤野一雄君より『彦根の植物』贈られ礼かく。) 11月14日 2:00尿で起きまた眠り6:30さむ。9:30出る。10:30登校。 同窓会にゆき27枚表紙ます(われ再来年3月31日退職、それまでに卒論とりに来い、然らずば送料書留料1,000円よこせと)。 (※省略)14:10ゼミにゆけば4女そろひ木下の卒業アルバムとると。3枚とられワリカンにて喫茶。 (午休みに成城堂にて『中国笑話集(420)』、『中国女性史(1,200)』、『中国婚姻史(1,200)』、『使徒のはたらき(200)』、 『日本語の成立(390)』、『倭国(420)』借りる。) 別れて東豊にゆき本4冊とり『蘇詩補註(7,000)』買ひ(※省略)阿佐谷まで国鉄。 佐伯に4冊あづけcard買ひて帰宅。ユ帰りしところにて「禎子おぶひし」と。 天理より『ビブリア75』、斎藤茂太dr.より受取。牛尾三千夫氏より「田中冬二85才にて死にしを哀悼する」。 夜『続今古史観』は『初刻抽案警奇』よりとりしと伏字うつしにくたびれる。 11月15日 2:00小便に起きしあと眠れず。7:00ユを起し10:00木下雅夫に電話すれば「8:30家を出し」と母。 やがて来りcopyとりにゆく。わがcopyはダメと也。昼食しユの画に出てゆきしあと『楊貴妃伝』もちて帰りゆく。 プティ・パレにて喫茶。瀬見氏に会ひにゆけばわが本おきあり。『酉陽雑俎1(1,250)』買ひて帰宅。 (※省略)美紀子「暁子あす七五三すまして来る」と。藤野一雄君より「本買った」と。 高橋重臣君に『隔簾花影』第6回よりのcopyたのむ。 11月16日(日) 6:30さめ風邪けなり。礼拝夫婦とも休む。三越より小高根夫人の見舞返しにハンカチ来る。 ハガキ3枚買はせ高橋重臣氏へ『隔簾花影』みなcopyしてくれと 牛尾三千夫氏へ「田中冬二85才と知りあやかりたし」と。15:00ごろ暁子来り美紀子来り史来る。 淳一今井家にありと。来るまで待つと。史話さず。われ手紙類の整理す。 ユと美紀子と買物に出しあと淳一来り、将棋さして負かす。(シロコゴロフ見付かる)。月桂冠もちて帰るが17:30なり。 高見山、千代の富士(全勝)勝ち北の湖負け貴乃花負け、王さん最後のHome-run打つ。 11月17日 5:00さめ7:00起きる。9:30年賀状400枚注文。(※省略)佐伯へゆきシロコゴロフ等売り、『古川柳おちばひろひ』、『八木重吉詩集』、『江戸小咄の比較研究』、『沖縄の習俗と研究』、『漢魏六朝詩集』に2,000つけて(※自著の)売上と両方すます。 『中国歴史地名大辞典』につき電話あり12月1万円、1月5万円、のこり3月といふ。 プティ・パレにゆき帰れば伊藤とくより田中家文書。写し了へて返却にゆかす。 (※省略) 『中国歴史地名大辞典』につき昂徳社へ電話し、まだ池田温、田中正俊両教授に会はずと、叱りつける。プティ・パレにゆきし。(※省略) 11月18日 7:30さめる。10:00出て登校。11:00よりpão食ひはじめしに高田君来る。 12:40大学院にゆけば給仕ゐず(近々結婚となり)、植木眞由美副手に紅茶のましてもらふ。 堀川君かかるよき室もちゐし也。12:50入室おくれて重久武志おぼえある女つれ来る。 旧姓川本(菅野夫人)にて1時間半ききゆく。夫癌より助かりしと也。中国文学史やりて女生の出席いらずといふ。 森田晃一生『日本の詩歌』もちをり誘ひて喫茶、金曜に家に伴なふこととす。 帰りて夕食了りしところ鈴木文平夫人より「来る」と。ユ迎へにゆき、三島にて親類多く文平ともども伊豆の出身と。(※省略) 3冊買ってくれ1万円出しつり要らずといひ創価学会とあかす。(※省略) 筑摩書房より『堀辰雄全集10』(※月報文章)の印税5,591を1月6日に支払ふと。 11月19日 23:00就寝、2:00尿に起きあと『柳樽』。8:00起床。佐伯へゆけばしめをり。(※省略) 眠らんとせしに苑子来る。15:05(※プティ・パレに)ゆけば久保田夫人まちをり(※省略)息子来て「法学部に入りたし」と。英語弱しと也。家にともなひ世界史の試問し「英語やれ」といひ「文芸まづ受け、経・法みな受けよ」といふ。18:00ごろユに促され石神井の家へと帰りゆく。(※省略) 11月20日 22:30入浴して就寝7:00さめ睡眠不足とりかへす。(※省略)16:00出て佐伯へ寄れば天理の本来てをり12,600円。(※省略)成城堂へゆき中島健蔵の本借る。昼の学科会出ず。(※省略) 12:30になりし故002にゆき『アジア歴史辞典』なくなりしこといひ教科書もたざる子を記帳して60とす。 図書館2階にゆけば第2冊なくなりをり、鳥海生をり。司書叱りつければ保存用の1冊もち来る。 東豊にゆき本1冊買ひ、明大生にて道教やるといふが荻窪にすむといふ故、家へつれ来る。 高雄の生れにて在日6年、島田博士に習ふと。最低生活の由、1冊与ふれば来週火曜来ると也。 「阿南惟敬遺稿集11月17日出来11,000に価格変更、ほしきや否や」に「ほし」との返事投函たのむ。(※省略) 11月21日 よべ排尿2回、不眠。6:00起床。10:00ユ出てゆくを見送り10:30出て登校。(※省略) 阿部良助のもち来し葡萄食ひ、茶(200)のみて16:30出て、 郵便局にてハガキ買へば、森田晃一追ひつく。200やりて切符代とし、つれ帰り21:30まで話す。 巖維子より「夫病気、来られず」と1,000送り来る。(※省略) 兼清より「12月6日西川の(※叙勲の)祝す」と。 11月22日 7:00すぎさめる。(※省略) 長沢規矩也先生逝去78才と。田中夫人より「あす13:00夫の車で来る」と。 山住dr.へゆき風邪薬もらひ眠剤10日分もらふ。母より「あす大の誕生祝する」と。(※省略) 佐伯へ雑本もちゆけば300円と。(※省略) 昼食プティ・パレにゆき福地夫人と話す。(※省略) マーロンブランド見に帰り『川柳』よみす。(※省略) 高橋君より『隔簾花影』48回まで来る。 11月23日(日) 6:00さめユを礼拝にゆかし『柳樽』よむ(11:30了る)。(※省略) 15:00田中(白仁)よう子、夫と2女つれて来り、16:00までゐてキンコンカンへと案内せしむ。 別れて『禁じられた英語(1,500)』買ひて大の53才の誕生祝にゆき、(※省略) 帰宅すれば家の前に愛場君をり21:30まで竹内のこと話さす。(※省略) 11月24日 4:30さめ8:00起床。寺本和代より23,000+360来る。「川柳玄宗と楊貴妃(200×11)」書き、(※省略) プティ・パレで御隠居さんと話合ひ高円寺。瀬見氏在宅7,000で本売り『中国の俗諺』、『三国志通俗演義訳』など買ひ、球陽書房にて『仏教史概説・中国編(1,000)』買ひ『水滸伝訳』予約して帰宅。 (※省略)夕方、小林善一郎、地下鉄技師としてtelevi3に出る。ユ電話かければ「恥かし」と也しもよくやりし也。 11月25日 7:30起床。10:00家を出、高田と同時に登校。論文だれもとりに来ず。 (成城堂にて『佐千夫歌集』、『アイヌ神謡集』買ふ。)(※省略)雨降りさう故、傘もって帰り新宿にて西川に遭ふ。 書原に寄り『米英回覧実記』、『史記世家』、『こども風土記・母の手毬歌』、『星の民俗学』、『歴史手帖』買ひて帰宅。 (※省略)満洲族やりてのち川久保に電話し「阿南の本来ず」といふ。 11月26日 2:00尿にさめ、また眠り7:00さむ。(※省略) ユ昼食し13:30(※省略)小林の地面見にゆく。 われ『柳樽』一段落させて散髪にゆく(2,300)。すみて高円寺まで歩き球陽書房支店にて『水滸伝3冊』3,000渡せば500円返すと。早走りしてプティ・パレ、紅茶のみ「地図土曜に返せ」といひ帰宅。(※省略) 11月27日 よべ22:00眠剤1ケ半のまされ2:00さめ5:00起く。10:00出て佐伯に寄れば天理の3回配本『茘鏡記(14,000×0.9)』来をり。 11:00登学。試験用紙に原稿かきて教務に届すます。(※省略)教授会にゆき(※省略) 高田の後任3人、築島博士の後任山田爵の業績とりて退席。(※省略)まっすぐ帰る。 18:00黄君来り、わが家の道教と法律書写し夕食くひて帰る(21:00)。 高橋重臣君に電話すれば「(※copy代)5千円位、年末来る時渡せ」と。(※省略) 11月28日 不眠。6:00起床。7:35入浴。11:00すぎ登校。13:00bonusもらひにゆけば(※省略)。 成城堂にゆき『シルクロード辞典(5,000)』ほか7,350買ふ。(※省略)帰りまた成城堂に寄り7,000あまり払ひまた本買ひ、木下と同車。 (※省略)凌雲書房より『中国歴史地名大辞典』送ったと。ユ佐伯の払ひし、賀状5,500なりしと。(※省略) 11月29日 よべ22:00ねて7:30覚め不眠とりかへす(ユと室を別にす)。ユ母とpermaに出てゆく。西川より藍綬褒章祝ひの礼。 (※省略)高橋重臣君より「1万円でおつりが来る」云々。山本書店へ電話して「本売買は」といへば「6時まで」と。 昼食まへユの帰り来るを見てプティ・パレにゆき地図2枚返却を受く。昼食後日清戦争の資料(田村憲子のために買ひし也)をさげて出、 地下鉄新宿三丁目までのりこし(※省略)神保町までゆけば南口に(※山本書店)入口あり。山本父子見積りして3万円と。 『國色天香2冊』、『蒙古世系』、『唐詩[来]事記』買ひ、隣のゾッキや(※芳賀書店)の満員なるに岩波小売部ゆけば土曜休み。 (山本実君に促して百瀬氏の『明清社会経済史』もらひ地下鉄にて新宿三丁目下車。 紅茶(250)のみ紀伊國屋にて地図6枚(140×6)買ひ、新宿まで歩き新高円寺下車。 『日本植民地史 台湾』買へば900にまけてくれ大石書店にて『中国故事(900)』。瀬見氏と喫茶、Hot-cake1キレ食ひ、 『近松門左衛門集 下(400)』買ひ球陽書房支店にて『江戸時代の支配と生活(1,000)』買ひ『エロティカ』とりに来いといひ帰宅。(※省略) 11月30日(日) 6:00さむ。睡眠感なし。東洋大学時代の日記よむ。9:00出て吉祥寺。caféのみ(250)20分前に教会にゆく。(※省略) 古本屋2軒を見、阿佐谷に帰り昼食。ユをせかして13:00家を出てゆく。木下に電話すれば父上出て「2時間前出し」と。 大原三八雄博士来り木下夕爾をラファエル前派といふ。我反対しをれば渡部生来り東洋史のわびいひに来りし也。 大原氏追出し2生と茶のみ、木下の匈奴史の誤字なほし、(※省略) ユ、新宿より電話かけ来り、鮎もち帰る。旨し。(※省略) 12月1日 23:00臥床、5:00起床。賀状かきそむ。阿南惟敬遺稿集刊行会へ「いくら払へば送りくれるか」と問合せ状かく。 凌雲書房より『中国歴史地名大辞典』6冊着く。午后、ユと口論。例の発作おこす。 出て高円寺へゆき瀬見氏に「(※預けてある)本とり返す。8:00ごろ電話しろ」といひ帰り来れば鈴木寅蔵氏より「同人へ参加よろし」と。 (※省略) 瀬見氏来ず寿一に電話すれば「そのうち来る」と。 ユまた「死にたし」といふところへ母より電話、ユと代れば「(※母)心臓苦し」と。山住dr.にいひ出てゆきしまま帰らず。 美紀子に電話す。 (山川京子氏停職との信来り、若葉と問答し、諸我校長に後任の件にて会ふこととす)。 21:30ユ電話かけ来り、大つかまらず河北病院に入院「今夜つきそへ」といはれしと。日記より歌うつし山川女史に送ることとす。 時に真夜中なり。0:30河北病院に電話しユ呼べば「大丈夫。ねてくれ」となり。(※省略) 12月2日 4:00さむ。ユ6:00帰り来り弁当のsandwichこさへし。 10:00出て(※成城)高校へ諸我校長のところへゆけば「御先約おありですか」と受付。とたんに腹立ち、 タバコくはへ通され、受付の不当なじれば向ふも怒り出す。 名刺出し「はじめまして」といふに「20何年ゐてはじめましてはないでせう」からはじめ、 エンマ帖出し「成城教育」出しこてんこてんにやっつける。「高田、八木と宜し」と。この次ゆっくりといって出、 sandwich1ケのこして大学院。河野夫人ゐず重久活躍す。sandwich食ひながら鳴るまでやり5号館、 給仕に安田一郎の無礼とがめ、X’masの歌うたふをきき、(※省略)。 講師室へ帰れば高田をり、酒のますところへつれゆけといひて、wineのみcheeze食ひ、彼はbeer小瓶2本、 払はさず、礼いひて別れ、南阿佐谷にて冷たい水と紅茶のみ、電話すればユ帰りをり。 茶のみ入浴し、茶漬食ひて21:00就寝。(※省略)今年の歌、山川京子に送る。近江詩人会より(※詩送れば)喜んでのせると。 12月3日 6:00さめユ7:00起く。河北病院へゆきtomato juiceのみて帰り、千草来り、母退院ゆるされしと。 凌雲書房迎へにゆく。信州飯田といひ何とも知らず、すし出し(2,400)土曜1万円とりに来ると。 プティ・パレにゆき紅茶1杯のみ15:30瀬見氏来り『Erotica』3冊もち来る。三品彰英売る(差引7,000)。 川久保来り(16:30)、早々帰る。瀬見氏よりnote3冊ありしと電話。大来て「あす13:00すぎ退院さす」と。 12月4日 22:00就寝。ねむれず。2:30もう一つのみ6:00起床。賀状ソまでかく。10:00高円寺へゆき『Heine2冊(1,000)』、『日本歌謡史』などでもち金はたきプティ・パレで茶のみ12:20帰宅。ユを河北へゆかせれば「退院ささず」となりしと。 夕方ゆけば母、夕飯を食ひをり。バカらしく、ユをしてゆかしめれば眠りをりしと。(※省略) 12月5日 入浴前、風邪気味とてやめ、2枚のんでねしもダメ。風邪薬のむ。 (※省略)7:00ユ起こせば2時間しか眠れず船越でねると也。せかせば河北病院へ出てゆく。 山住先生へ一番にゆき風邪薬もらふ。帰りて『中国歴史地名大辞典』の件にて社長と話し。売りに来し男と話し「あす来い」といふ。(※省略) 山川京子氏に電話すれば「11月末付の免職来りし」と。 けふ母の所へユゆき、寿賀子ゆき、大ゆき、月曜退院と也。(※省略) 12月6日 6:00さめ7:00ユを起す。凌雲書房に電話すれば社長出て来る。10:30に販売係来り「本ひきとる」と。 プティ・パレにゆき73才の翁と話し、帰れば米山まち子まちをり。午飯くはし、本やりてsignすれば、 「古稀記念で買ってくれといへば買ひました」と。sign破り、泣き声化粧して帰る。送りゆき花屋で別れ、 キンコンカンにゆきcafé出させのまずして帰宅。16:30出て西川の会(※受章祝)にゆく。 taxi見つけて5千円渡し13人出席の連中と末席に坐り、兵隊にゆきし、西川の外套来て帰りにといふ。(※不詳) 21:00帰宅。ユと23:00まで話す。(愛場君より来信あり。) 12月7日(日) 6:00さむ。7:00入浴。礼拝にゆかず天野愛一に電話すれば高血圧216と。 (※省略)10:00また入浴。トンビ着て佐伯にゆき『考古小記(1,200)』買ひcard買ひして帰宅。 ヒゲ剃ってもらひプティ・パレ。ひるねし、阿南氏の本2冊受取り、 ユをして川久保に電話せしむれば「あす取りに来る」と。神田氏にもユをして電話せしむ。 12月8日 8:00さむ。川久保10:00来り、本もち1.1万おきゆく。プティ・パレにお茶のみにゆき、ユ12:30出て母迎へにゆきし。(※省略) 瀬見氏来て『大航海時代双書10冊』を2万円といひ、われ1万円しかわれとらず。 入湯、夕食し『戦艦大和』の著者吉田満のことteleviで見、「川柳の中国」かく。 12月9日 よべ眠剤3服。0:00すぎ眠り8:00さむ。11:00登校。(※省略) 南阿佐谷で自転車に乗る男女に怒り、(※省略)帰りて杉並警察に電話すれば相手にせず。黄さん来て夕食少々食ぶ。 (※省略) 寿一来り、signくれと。 12月10日 8:00さめ10:00高円寺へゆくつもりがプティ・パレ御老人山口氏と同席し10:00すぎ帰り、昼食後高円寺。 都丸本店で『六法全書(1,700)』さがしてもらひ(※省略)、帰りまたプティ・パレに寄り名刺をもって警察にへゆき、 (※省略)交通係長に会ふ。茶出されて帰り、電話すれば「善処する。署長にも話した」云々。 丸に電話すれば「処置なし」と。「(岡昭義)署長は大佐級」と。区会議員仁木清二郎氏に電話す。(※省略) 12月11日 6:30さむ。10:00出かけ入口にて林桂子に遭ひ2冊に署名し「俊郎の病院にもちゆく」と。(※省略) 教授会末席にてタバコ吹かし、大教授会にて山田爵、白票5賛成32票に喜び、(※省略)帰宅。 7:30婦警2人と来しと也。『叙景詩』日本文学館より来り、明治34年の西島南峰(※実父喜代助)作3首のりをり。 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko03a/bunko03a_00208/index.html  無名の封書 千成12月10日出  ガクエンチョーニスキャンダルアリ  イゼンカラツキアッテイタジョセイアリ  トツゼン フジンニシャシ  ツマノザヲ セガマレタ  ツマトシテ セケンニ ダスワケニハイカヌタグイノ ジョセイ  サイコンデキズニイルノハソノタメ  ガクチョウニナルマエニ スキャンダルヲ モミケシテイル アルダイガクインセイ(チチオヤハ ガクエンニツトメテイタ) カノジョガ フイチョーシハジメ ウワサニナッテ アワテテ フウフシテ モミケシタ  ジブンガツネニ キズヲモツノデ ガクエンナイノ スキャンダルヲミノガシテイル  タトエバ ジムショクノ ナカデ ヌスミヲ ハタライタ オトコアリ  モクゲキシャマデアッタ  ソノオトコヲ イマ アルカチョーニシテイル。 高田問題にせず。三藤学長に正午会ふこととす。(ナンバ和子より電話「その中に見舞に来る」と。寺崎浩死ぬ) 12月12日 7:30さめる。9:00すぎ警察にゆき、交通課長鈴木雄三に本やる。「看板である動かしてもよい」との由なりし。 登校10:00。学長をりときき、怪文書見せれば「承知」と。高田にパンもらひ諸我文吉に会ひにゆく。帰れば片山豊来てをり菓子呉る。 民研にゆき米山の写真わたす。(※省略)帰り町会事務所にゆき、またといひ帰れば母ねてをり。 夕食後19:30母さめて色々話す。(※省略) 12月13日 8:00さめ8:10咲耶に電話す。母と話し、ユに小包出しにゆかせプティ・パレに茶のみにゆき14:00林マリ子の来るを迎ふ。 (難波和子見舞に来る)。ゆっくり話し本やり、プティ・パレにゆき16:00佐伯へゆき『野麦峠(500)』買ひ、 card屋へ寄り町会にゆきて帰宅。〒なし。母きげんよし。「川柳」200×82となる。愛場君「あす夜来る」と。 12月14日(日) 7:00起きる。ユを残し待降第2礼拝にゆく。  光満つ主うまれましし暗き世に明るき光あふるる夜ぞ  なが魂よさめよ、もう一度人々を動かすほめうたを作れ主はかう仰せになった  空に星 地には栄光うぶ声をあげてみ子はも生れたまへり  富士の根のいただきに雲かかりをり晴れたる冬の清き朝にも  「もっと光を」といひて死にたる古への詩人をおもふ愛するわれは  わが室にこもり祈るか礼拝に来るがまことのXmasなり  ここもまだくらしされども光来(く)と思ふ日ぞこれXmasなれ  わがゆく日うたはむうたを待降の日にぞうたへり恵みあふれつ 帰宅。「15:00来る」といふ寿一をまち、「孔子の捕はれし」を『史記』で見つく。寿一来り(母への見舞とpye呉る。) わが「日記5」をよみ出す。愛場君来り、我に文章直させ1冊もちて去る。寿一も去る。 オードリーヘップバーンの「戦争と平和 前篇」televiにて見る。(中公事業出版社より靴下2足賜ふ)。(※省略) 12月15日 8:00起され、母の死に関し思はず落涙。(※省略)昼食後プティ・パレで喫茶、高円寺まで歩き都丸支店で『戦争と平和2冊(800)』で包ませ、 丸宅へ14:00つけば飯の直後と。Mild Seven3ケやり村山、田村両氏にたよりする・せよといひ駈足にて都丸支店。(※省略) 「川柳」は雪中の鯉でゆきづまる。 12月16日 8:00にさむ。宝塚(※NHK連ドラ「虹を織る」)おもしろくなかりし。9:00出て登校。(※省略)文2Dにゆき渡部にP.H.Pにかかせよ といひ握手す。 男生は「田中克己への注文」かけといふ。山中教授に本やるといふ。出て成城堂にて『シンガポール案内(950)』買ひSmith氏と遭ふ。 帰宅すれば母をらず「大のところへわが了解を得てゆきし」と。電話かけて「了解せず」といひ、大出て「今夜泊める。あすゆく」と。 弓子とともに大のもとへゆきしと也。「克己のきげんは」の電話かけ来る。(※省略)華国鋒辞職と。 12月17日 コン(※かつての浮気相手)のゆめ見ておこさる。晴。母に電話して「来よ」といひ(※省略) 11:00まへ母と大と来り、時々大の家へゆくこととなる。賀状了り〒にゆき(※省略)。 木下生14:00すぎ来り、semi指導表に署名捺印さす。プティ・パレにゆき喫茶(280)。 (山田君より『角川国語辞典』送られ電話にて礼いふ。)丸にゆき野球部歌うたひ思い出語る。西川よりThree Seven2箱もらひ、まだ残りありと。 村山高氏にハガキかかせれば極小字。田村春雄に往復かく。(※省略)駈足で帰り『寮歌集』見つけ丸に電話で歌きかす。 12月18日 0:30入浴。柿食ひて眠る。7:00さむ。丸のハガキに追加かく。母眠りしまま9:00出て速達出し、 署へゆけば受付嬢「署長、副署長、交通課長、交通係長みな会議中」と。(※省略) 三藤学長に会ひにゆけば会議中(のちほど会ひ、中国法おけといへば法学部の教授会と。『北京案内記』かせといふ) 山田部長つひに不在。鄧さんに逃げられる。毛利先生食事中。(森岡主任にわが後任、我が先づ推薦と申込む)。(※省略) 帰宅の途、杉並警察署に寄れば交通主任代理出て一巡査つけくれ町会まで同行して去る(わが本よみしとあやふや也)。 帰りて夕食せんとすれば瀬見氏シュトラッツもち来り、差額3千円もちゆく。(※省略) Skey女史、父上病気とて帰国(Canada)と。Merry X’mas Good Health to your Fatherのcard投入を船越苑子にたのむ。 『植物名の由来(980)』買ふ。   町会長 小河原正光   交通課長 鈴木雄三   署長 岡正義   係長 和久里只夫 母、わがことを父と同じくこっけいな兵隊といふ。われ激怒す。大来り、母つれゆくと也。 ユ、我が躁きつしと祈る(塩入先生の薬もらへと)。 琳琅閣の本つき17,200と。(※省略) 12月19日 ※記述なし 12月20日 7:20さむ。琳琅閣へ払ひの伝票書き込む。(※省略) 小野忍逝去と。堀川博士に病中の見舞の礼いふ。(※省略) 新城博士に『李太白』わたす。14:00より卒論分配、我に13冊わたり木下の卒論、田中宣一君にゆく。(※省略) taxiひろわす。(※省略)帰宅。(※省略) 12月21日(日) 7:30さむ。(※省略) ユと佐伯で会ひて礼拝。『女・エロス』、『西夏文字』、『太宰治』、『笑いの誕生』買ひ、帰り 『社会人の手帖』、『食前食後』、『波まくらいくたびぞ』にて1,250借り佐伯にす。 『教会40年記念集(2,000)』買ひ、(※省略) 山川京子に(※『桃』への)投稿今回限りといふ。 クリスマス 寒き日を駈けつつ着きし教会の最前列にやっと坐りぬ みめぐみとまことにみちし栄光を見る日こそこれクリスマスなれ 世のはじめありしロゴスは栄光に充つ肉体となりにけるとよ 栄光に充つ肉体はベツレヘムうまやの中に生まれましけり ロゴスとは神のみ智慧といひにけりこれが身近となりしその日ぞ 母 おろかなる老いし母をばキリストを信ずる者となすすべなきか 奇蹟待つ撃たれし如くひれ伏してアーメンと呼べ老いしかの母 神のみ子・めぐみ・まこと(救の道)の三つを見る生誕祭の喜びを祝(ほ)げ 12月22日 7:00起され「宝塚」見、Andy AndersonとMr.Smith講師にMerry Christmasと呼びし非礼をわびる。(※省略) 木下生来りしに叱り(貸した本みな返せしゆゑ2冊やる)、午食させ船橋市教委鈴木氏への推薦状もたし、ともに出て佐伯。(※省略) プティ・パレにゆき日本茶2杯(300)、ユまだ帰らずあたため了りて帰り来る。(※省略)televiで「創世記」を見、矢内原伊作の名を識る。 12月23日 7:30さむ。8:50山住先生。血圧115-70、ユ140-90、クラタ理容にゆき3千円渡せば良き札入れ呉る。(※省略) 卒論No.2を見てハラ立てる。 12月24日 8:00さむ。(※省略)ユ風邪とて〒にゆきプティ・パレにてlunch。御隠居様と話せば福地夫人、薬たまふ。 christmasの音楽流し呉る。卒論半分見て嘆息。17:00夕食とそば食ひ、〒にてけふ来しWilkins豊田みち子に賀状出せば航空便にて60円足すだけでよかりし。 うつぎにて2冊、吉祥寺にて1冊買ひ、Eve礼拝歌多く歌ふ。  ほこらかにEve.に参るとアメリカのとよだみち子に我はしるしぬ  星ひかり栄光みちてあれましぬわれらの罪を救はんがため  三人の博士らが来て拝みしに生れし嬰児(※みどりご)殺すべくなる  救ひ主生れましぬれど罪知らぬ人にはかかはりはなし  主は枯れた花はしぼめどとこしへにかはらぬみこと(約束)われら呼ばはれ Eveの茶会、早坂礼吾氏に挨拶せしもわからざりし。帰宅入浴。雑炊くふ。 12月25日 8:00さめ「虹を織る」見て出発、〒にて賀状投函。9:30発の特急にて(※省略)小田原、(※省略)来の宮にて下車。 天ぷらそば食ひ、高橋君に電話し迎へに来てもらひ1服後Meria教の美術館にゆけば休館。駅まで下りbusにのり(※熱海)市役所前で下車。 図書館を通りぬけ電話局へゆき電話帳もらひて帰り入浴。(Gelbe Sorte熱海中になしとタバコやの話) (神田先生を頌す 高橋君)   お地場 (※天理教の故郷)  わたしは若くて生意気で  岸さんがいったように  皆を一度は怒らせた  今もわたしは会ふ人みなを  一度は怒らせている  わたしの一番好きなのはタバコ  二はおしゃべり─することもきくことも─  三は本  富永牧太先生はわたしに  『蘭人治下の台湾』の  著者サイン入りをゆずってくれ  八木よし子さんは電車賃を  忘れたわたしに金を貸そうと  丹波市駅で待っていてくれた  富永先生も八木さんも  わたしを忘れたのに  高橋重臣さんはわたしを抱き  半ば酔いながら  中山正善の思い出を話す  わたしのために家を建ててくれた人  眞柱と呼ばれた人を  わたしはなつかしく悼む  わたしはいまやキリスト者  今日は主の降誕日  良き友良き先輩のために  乾杯!! 12月26日 よべ2:00さめ上厠、入浴。高橋君気づかざりし由。4:00また眠り8:00起き「虹を織る」見、10:00出て、busにて熱海駅。 (※省略)話し相手なく新宿まで無停車にて到着。南阿佐谷より帰宅。(※省略) 澄より「酉をとりと訓ずるわけを29日までに」と。南方熊楠見しもわからず。 12月27日 8:00さめ瀬見氏に諸橋『干支考』ありやときけばのちほど「あり(500)」と答ふ。(※省略) 佐伯にて『明治の御宇(600)』、『あきらめの哲学(1,000)』、『今日のハンガリー(100)』買ふ。 11:00高円寺都丸支店にゆき『干支考(500)』買ひ『The world’s mythology(3,000)』、『ヘブライ語四週間(1,000)』金とらず。 帰れば1.2万入りをり、電話して「参った」と伝へよといふ。 (プティ・パレにゆけば日本茶(270)出し、福地夫人(※省略)「良きお年を」といふ。) 八戸市の圓子哲雄氏より「中野清見存じをり、御意にそふ」と也。 昼食後、ユ山住dr.より『シンガポール案内』返却、歌はさみあり。よめず電話すれば坊や出、夫人出て「閣下お留守」と。 16:00野中タカ子広島よりのミカンもち来る。(※省略)荻村へ電話すれば(※省略) 「材料費7.5万でよし。82銀行塩尻支店(※省略)荻村漆工KK」と。 12月28日(日) 5:00さむ。9:00すぎ出て礼拝に出席。「ヨブ記」読まる。11:30すみ、 『保田與重郎論(1,500)』(※神谷忠孝著)買ふ。「中島栄次郎」といふ章をたつ。 佐伯にて一服『法華経3冊(800)』買ひせんべい買って帰宅。昼食後一眠りして船越苑子の来しに目ざむ。 (※省略)弓子3孫つれて来り、(※省略) 夜(※卒論の)「八戸の祭」260年の変遷をかく(薄場明子)をよみて疲る。 12月29日 6:00さむ(ゆめも見ずぐっすり眠る)。9:00まへ出て荻村漆工KKへ7.5万送る。(※省略) 荻村栄氏より電話「杯代1万円」と。折しも苹果来る。(※省略) 三藤学長に電話すれば「北平案内記なし」と、わが声おぼえをり。荻村雅子に電話しリンゴの礼いひ「来年結婚しろ」といふ。 午まへプティ・パレにゆき母子に挨拶、日本茶のみ帰りて昼食に炒飯少々。ユと決心して柏井へゆくとてbus(※省略)来ず、taxiひろひ(※省略)。 数男われと物いはず尚子と話す。北京天津のこと忘れゐたり。(※省略) タカ子宅へゆけばスミ子の子も2人をり1人2千円づつ5人に1万円やり、 古本屋にて『立原道造(550)』買ひまた北口にて『イエスの生涯』、『江戸』など安本買ふ。 (午まへ山住閣下に逢ひにゆき『餘花』にのりし詩よめずとてよんでもらひ「遺骨を抱いて」の「シンガポールをおとしても」を合唱す) 丸に電話し「あすゆく」といへば「村山さんより電話、田村春雄より病状しらせ、と来し」と。 「老兵」かくつもりにて原稿用紙買ひ来あり。(※省略) 梅棹忠夫の民族学の講義を3チャンネルにてきく。 丹波鴻一郎に電話すれば「古稀祝を来年8月31日(※誕生日)にす」と。 12月30日 6:30覚む。ゆめも見ざりし。7:30高橋重臣宅へ電話すれば嬢出る。「来年おめでたう。今度は旨くやってね」といふ。 10:30すぎ「echo」20箱もちて高円寺。(※省略) 丸家へゆき二息を見、丸に田村春雄宛のハガキ書かせ、 (※省略)瀬見氏に『北京案内記』たのみ、ゐあはせしX氏(※不詳)誘へば「人間ギラヒ」と。 (※省略) 帰りてまたまた(※省略)引返せば山住閣下、本返しに来たまふ。 妹(※咲耶・大)17:00来り「責任もつ」と。(※不詳)beerのみ茶のみて帰りゆく。(体重39キロ) 12月31日 よべ21:30床に入る。7:00さむ。9:00すぎ咲耶来り、 母への12月分1.5万円受取り父のわが母亡くなりし時の歌見せ、ユと新宿へ地下鉄にと出てゆく。 10:30山本書店に電話すれば実君出て「毎日10部ほど出をり。在庫なくならん」と。 柏井に出すれば数男出て「光一不在、午来れば電話す」と。 11:00川久保より電話「元気らしいね」との声に「来年もよろしく」と返答す。 内村俊雄に電話すれば内蒙古の役人らしく長々と話す。(※省略) ユ12:00一寸前に帰宅。午后〒にゆく。(※省略)そば2袋買ひ(50×2)天ぷらそば食ふ。 Beethoven第9きくこととす(21:45)。 田中克己日記 1981 【昭和56年】  10月4日、高校からの文学の盟友であり、創刊した同人誌『コギト』をホームグランドとして共に活躍した保田與重郎が肺癌のため逝去します。  昭和10年代、モダニズム・左翼文芸の退潮とすれ違ふやうに文芸復興の旗手となり、折から戦地へ駆り出される青年読者層の心をとらへて戦時期文壇の寵児と目された「日本浪曼派」の総帥です。  戦犯文学者の筆頭に挙げられるも節を枉げず、戦後社会にはびこるやうになった物欲onlyの功利主義(アメリカニズム)と、対して文壇を席巻するルサンチマンに盲いた革命思想(共産主義)と、その両者を批判し、日本古来の農に宿る皇国の理念にこそ絶対平和の礎があるとの文芸上の立場を墨守しました。  小林秀雄とならぶ昭和を代表する評論家ですが、田中克己とは、戦後は雑誌『祖国』の同人として(『日本浪曼派』の時には迎へ入れられませんでした)、生活上も住居の世話をするなど、両家はしばらく親しい間柄でした。盟友たる初めに二人が編集した大阪高校時代の同人誌『かぎろひ』が、 神田神保町の山口書店の山口基氏によって複写され、各人に手渡されたのは昨年の事でした(『田中克己初期文集』および『保田與重郎選集 巻の一(私家版)』)。  しかし昭和の詩人から挙げるべき3人に「伊東静雄、蔵原伸二郎、宮沢賢治」と、自分が外されたショックもあって、やがて保田與重郎のカリスマ性(ジャーナリズムとは無縁でしたが一目置かれる人物として周りに人が集まって来ました)――その呪縛から、詩人は逃れるやうに離れてゆきます。上京、そしてキリスト教に帰依したあとは、疎遠になった彼との宿縁を、ともすれば腐れ縁と思ひなすこともあったやうです。  通夜・密葬にゆかなかったのは、教へ子の仲人として松本で行はれる結婚式参列が事前に決まってゐたからでしたが、名古屋を経由しての帰りに弔問しませんでした。  日を開けて挙行された本葬にも「病気」を理由に欠席した詩人でしたが、盛大だった葬儀の場で自分の弔電が数百通の中から三番目に読まれ、典子夫人が主人と田中克己との関係を特別視してゐたことを知ると考へを改めます。上洛して、キリスト者でしたが般若心経を上げ、次男悠紀雄氏が東京在住と知ると、帰還後にコンタクトを取って早速会ってゐます。気後れするやうな朋友とは、本人よりその家族と仲良くなる、謂はば「お勝手口の友情」は詩人の得意技でした。  さてこの年、23年勤務してきた成城大学にて話柄がもう一つ。  本年度を以て定年退職となる詩人に「寄附入学」斡旋の依頼が舞ひ込みます(1月23日)。  1980年代にもなると存命人物の名が出て来て気を遣はざるを得ませんが、(※名A)が詩人の外戚で(※名B)が依頼者(受験生の親)と、実名を伏せました。  さらにもう一人別に(※名C)とあるのは昔の教へ子で、やはり娘を入学させたかったやうですが、こちらは受験番号を知らせて来ただけで、結果は不合格になってゐます。  親の資産によって明暗を分けた二者について、詩人は苦い思ひを味はされた筈で、2月17日の日記には「文部省より禁止されゐるや否や不明にて不快なり。いつにても止めんと思ふ。」とあります。  「寄附入学」については同僚高田瑞穂の許にも「第2次特別入学」として同様の記述あり(3月5日)、当時の私立大学の慣例として、教職員が素性を担保し相応の金額を寄付させることを条件に入学許可する定員枠が内規としてあったことが分ります。  4月23日の教授会で山田学部長からあらためて、「来年より○付やめ、来年より入試1回にいたし云々」と発言があるのは、マスコミが「裏口入学」との風評を囃し立てるやうになったからでしょう。※この年5月22日付けで文部事務次官の通知「大学入学者選抜の公正確保等について(文大大第163号)」が出てゐます。  またゼミ生を自宅に呼び、食事も供してみっちり指導するという善意も、今日では学生から「セクハラ」「アカハラ(アカデミック・ハラスメント)」と呼ばれかねない時代となりました。連泊指導したゼミ生の、親御さんからは感謝歓迎されるも、本人から一時的に距離を置かれるようになったのは、 彼女の前で無防備になりすぎた不用意のみならず、それまでの大学に漂ってゐた「古き良き時代」すなはち、「大学生=インテリゲンチャ」といふ社会的なコンセンサスが、大学に入り易くなったこの頃より失はれ、さきの「寄附入学」同様、通用しない時代に入ってきたことを表してもゐるやうです。  この年の出来事 1月 男子学生より非難文を受け取る。 1月~2月 親類より寄附入学の斡旋を依頼され苦慮。 5月 執筆中の「蘇東坡」原稿500枚に達す。    また蔵書を処分、岩森書店に伊東静雄・保田與重郎の資料等を売却、球陽書房とは絶交。    麥書房に詩集刊行計画を話す(翌年『田中克己詩集 自選自筆1932-1934』と成る)。    また西垣脩夫人と話し『山の樹』同人達に対する誤解解く。一方で伊東静雄の妹からの手紙に閉口。 6月 「躁」極まり歌唱癖・浪費癖を夫人に窘めらる。近所の靴屋と喧嘩し警察に愁訴。    都丸書店に伊東静雄・保田與重郎の葉書売却。    麥書房堀内達夫氏に所蔵の立原道造書翰2通未発表と指摘さる。    長尾良未亡人とゼミ鳥海生と3人で桜桃忌にゆく。    鳥海生の実家に一泊、歓待さる。 10月4日、保田與重郎死去。夫人より6月に書いた絶交状(草稿?)見せられるも覚えなく、翌5日松本に教へ子荻村生の結婚式に仲人として列席。   30日、保田邸を弔問。典子未亡人と話す。 11月 鷺宮在住の次男保田悠紀雄氏を訪問、のち追悼文書く(『近代風土』)。 昭和56年 1月 1日~昭和56年10月3日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 7:00さめる。9:00賀状来る。親類ユキ子宛39枚、教へ子と父兄170枚、商売17枚、親友等返事いるもの231枚(内既出約100枚)、 ユ30枚あまり書き我も書きて15:00投函にゆかす。 諏訪依子より年賀の電話ありしと。夕方弓子より電話「あす来る」と。 1月2日 8:00さむ。10:00山住邸(※山住医院)に年賀にゆけば美津子先生出て『福沢諭吉選集3』を主人(※山住正己)からと賜ふ。 閣下(※山住克己)もみな出したまはず門外にての挨拶なり。 午后3時、史2女孫つれて来り、弓子夫婦3孫つれて来り、淳一の塾より来るをまちて去る前、千草、咲耶来り、伊勢スミエ玲子つれ来る。(※省略) 小林の3孫、われと将棋さし負く。(※省略) 史、Gelbe Sorte3箱もち来る。えらいものなり。例のhairの件もその発案となり。(※不詳) 1月3日 (※省略)睡眠感なく2:00さめ5:30さめ上厠、7:00ユを起し臍あたためまた厠にゆき最後の一滴出す。16:30まで絶食。粥少々食ふ。 賀状3度来りしと。立原の手紙の件、昭和44年大学院国文科教へし時のことなるべし(手帳検) (※不詳)17:30賀状、知友親戚の分終る。 1月4日(日) 6:30起床。簡木桂(※東豊書店店主)に野原四郎の訃伝ふれば夫人、娘出てけさ帰台と。弔電打てとすすむ。 礼拝にゆく。聖餐式あり、先生数へ74才となりたまひしと。すみて東武の古本市素通りして帰宅。長島昭君、五加皮酒飲み15:00わが本もちて来る。入れ違ひに和田統夫来り、(※省略)  江間章子氏に  夏来れば尾瀬のきみをば思ひ出す我は老いたりきみもしからん(賀状)  先生(竹森牧師)は「数への74となり」たまひためなる問ひに答へましけり  地震(なゐ)ふりて獄屋にありしパウロはも獄吏と家族信者となしぬ(使徒25-34)  「主イエスをば信ずるならば救はる」とパウロはいひき「われら(ユと吾)信ずる」  この朝け感謝をもちて餅くらひ感謝にみちて食ひをへけり(昨夜下痢。カステラ。朝おもゆ) 20:00前、伊勢夫婦(※弟建夫夫婦)来訪。22:00辞去。伊勢氏、西印度のこと台湾のことくはしく話し、われに話させず。 1月5日 6:00さめ7:30ユさむ。卒論見て腹立てしところへ苑子(※船越苑子)来り、ユと話す。 重久(※重久武志)来り粕漬もち来り、博士課程修了の論文書くと匆々去る。(※省略) (※西島)寿一来る。胃潰瘍と。(※省略) 1月6日 何もせず。賀状の返事かきし。 1月7日 6:00さむ。寒し。9:00まへ山住dr.にゆく。咽喉洗ってもらひ涙出る。(※省略) 午食のあと佐伯(※古本屋)に電話すれば『シルクロード』来てありと。ゆきて払ひし、棚見れば『和漢三才図会(13,500)』あり。 3,500の借金と夫人にいひ包み呉る。(※省略) 山川京子より「亡夫(※山川弘至)立教をやめ麹町高女の講師たり。門馬先生(※校長)に教義上の苦痛から辞職を願ふ手紙のこりをり云々」。 20:00賀状399枚書きハガキなくなる。100枚買ひこれまた返事かき投函。 プティ・パレにゆく。正月夜、鎌倉へ夫婦にてゆきし由。福地夫人も来り茶菓子出す(280)。 高橋重臣氏8:20来着。whiskyのみ水炊き食ふ。マリちゃん田中マリとなりしと。 1月8日 6:00さめ9:30高橋氏と小高根(※太郎)訪問。夫人、嬢と外出とて茶を出され恐縮す。 (※成城大学)図書館へゆき「殺生石」を謡曲にて見、なすなくをり14:00の教授会(※省略)、山田爵氏の専任きまり早くすみ急いで帰る。漬物もちて渡部生来る。(※省略) 高橋氏「14:00熱海に帰りし」と電話ありし。卒論みな誤字かく。(※省略) 成城堂にて新書『神の民俗史』、『万葉群像』買ふもよむひまなし。 1月9日 6:00さめ登校。高田君最後の講義をし、ばらの花束2回もらふ。 われ卒論返却。14:40まちて12Cへゆき5人に鳥山東洋史をよまし、漢すみて餡蜜食ひにゆく。 (※省略) 瀬見氏紀州蜜柑もち来り、ユより返しに茶。そのあと大来り、栄西の『喫茶養生記』ありやと。国会図書館へゆけとすすむ。 桑原武夫氏televiに出、野田又夫氏哲学史御進講と新聞夕刊に見ゆ。(※省略) 1月10日 6:00さむ。午前中無為。(※省略)筑摩書房より『堀辰雄全集別巻2』の印税(※省略)。 午后卒論一冊見てプティ・パレで紅茶のみ高円寺へゆき瀬見氏に礼いひ『外国から来た新語辞典(500)』、『アヘン戦争と太平天国(300)』買ひて一旦帰宅。 佐伯へ欠本書付もちゆく。買ふ本なし。(※省略) 1月11日(日) 6:00さむ。ユも礼拝にゆかず。卒論見てガッカリす。(※省略) 大岡昇平『俘虜記』再読。 1月12日 6:30さむ。一休みして10:30出発、月曜の顔ぶれ珍しく話相手もなし。卒論返却後、木下の卒論とりて帰る(13:30)。 (※省略)卒論13部みな副査終りしこととなる。(※省略) 近江詩人会よりわが詩のせしを送り来り350要求さる。めでたし。(※省略) 1月13日 7:00さむ(よべ2服のむ)。10:00出て登校。12:30より大学院。杉山、重久欠席。朝鮮の婚姻すます。早くすみて帰宅。 (※省略)(※諏訪)澄より新宅の写真来り(※省略)。 1月14日 8:00前さむ。ユ10:30出てゆかんとし(三鷹)われも出て散髪。 プティ・パレにて午食。(※省略) 中村浩『植物名の由来』よむ。方言・古語を駆使して牧野博士を訂正す。 ユ、弟夫婦の土産とフランスタバコcrtier2箱もち帰る。 1月15日 9:00さむ(よべ2服のみし也)。12:30昼食、14:00すぎて教会。竹森先生御夫婦40年の布教祝となり。 森田先生記念文集を呈され奥さん花束贈呈。(※省略)寒くて帰宅。 向ひに留守中来しと堀内達夫氏より菓子と『ゆふすげびとの歌(複製)』わが「コギトの思ひ出」のりし『果樹園』と預けあり。 1月16日 けふも遅く起き9:30。寒く外出せず。10:00渡辺登美子生来る(※省略)16:00ごろまでをり「縁談せはせよ」となり28才にて共稼ぎいやとかむつかしさうなり。 ユのclass-mate吉岡(佐藤)みどりさん死に、ユあす11:30葬儀にゆくとなり。 『桃』わがうたのせて来り。武田明氏より本の受取り来る。 1月17日 8:00前起きユ、吉岡さんの葬儀にと出てゆく。12:00プティ・パレにて昼食、紅茶のみ、ユの18:00帰宅まへ愛場君来り、福島県郡山の出身とて局報見せる。 竹内、武田などに感心しをり。夕食して20:00ごろ去る。貴ノ花引退と。鈴木首相東南亜訪問。(※省略) 1月18日(日) 8:00さめ(よべ2服のむ)礼拝夫婦とも休む。われ無為。 1月19日 やや暖く午食してのち近江詩人会へ「詩の歴史」と350郵送にゆき、佐伯に寄れば『日本人と日本語』、『日本人の神さま』(計2,000)注文と渡さる。おぼえなし。 貯めこみし本よむ。あす試験監督に登校なり。Iranの米人囚解放となりしらし。 1月20日 8:00さめ何もせず12:00午食すまして出、14:30よりの東洋文化史の試験。男生わが非難をかく。16:00出て帰宅。 1月21日 8:00まへさむ。批判よみ反省すれど仕方なし。 昼食後、高円寺まで歩き現金為替袋(20)買ひ来る。高橋重臣氏より『東方学紀要』3冊来りしがためなり。(※省略) 1月22日 10:00出て準急にて成城。03教室に167人来り、助監督つきて14:15に名を書き忘れし女生にてすむ。 万才、万才となきし満点約束の男生あり(※問題を)甘くすればつけ上がることを身に沁みて感ず。帰りまた準急に立ちてのり帰宅。 神田先生(※神田喜一郎)より年賀の御返事あり。  来む年はわれが最後の教へなりよもゆるまじと堅く思へる。 (※省略) 1月23日 睡眠感なきも高橋重臣氏の便りありしゆめ見てさむ。7:30なり。登校。(※省略) 古宮生つれて小森来り、家へつれ帰れば、(※名A省略)翁来り「知合の医師の娘(※名B省略)寄附入学を」と。手続教へて返す。 古宮・小森夕食旨がりて食ひ(且つ飲み)吉祥寺の映画へと出てゆく。けふ麥書房堀内達夫君より「電話にが手」と手紙。 1月24日 ユに母のもとへ1.5万もちゆくとて、堀内君へのことわりのハガキ渡す(※内容不詳)。 午食して佐伯へゆけば天理本『杜詩 上(12,600)(※集千家註批點杜工部詩集)』来をり。 プティ・パレにゆき喫茶す。けさ増田正元の兄より「菊池眞一氏いまだ学長なりや」との問合せの電話あり。不快。 京よりも電話あり「禎子元気」となり。 1月25日(日) よべねしも風邪気味とて礼拝休み。ユ、午食はして弓子のところへ出てゆく。 我、佐伯に払ひし(12,500)、帰りて『中国通史』よむ。大学院の「東洋歌謡史」はやめて「北京の民俗」と改めんと決意。やや暢気となる。 (※省略) 木下生への質問の要領もすみて気楽となる。(「殺生石」にて大方苦労す。これも神経症なり)。 1月26日 7:00さめ9:00まへ家を出、地下鉄立って9:30成城大。10:00より卒論面接。鎌田女史多弁、ごきげん良し。 (※省略)午後もつとめ、わが副査すみしところにて切上げ、阿佐谷にて汁粉食って帰宅。 (※省略)瀬見氏より「横田少尉の奥さん上京、巣鴨にあり。会はぬか」と。忙しくて会へぬと答ふ。 (※省略)(木下、西山博士に一喝され参る)。 1月27日 7:00さめ8:50家を出10分前につき午前中ずっと坐りをり。(※省略) 12:00すまし、風邪と新城博士にことわり、出て狐うどん(500)食ひ、南阿佐谷でまた汁粉食って帰れば鳥海母子来てをり。 今のままゐることとしたと。他人の世話を焼くものでなしと痛感。 夜、天理の『東方学紀要1-3』5,500+〒400高橋氏へ送る旨かく。 1月28日 7:00さめ最後の面接。(※省略)16:00すみ新副手近くの女子選び、そのあと採点。(※省略)いやになりて帰り来れば「あす堀内氏来る」と(※翌日に記述なし)。(けふ高橋君に6千円送りしと)。 (※名A省略)へ(※名B省略)生の特別入学たのむと電話ありしと。 1月29日 8:00すぎさむ。11:00すぎ出版社来り(中国地名大辞典出さんとせし)トルコ関係の大著、護雅夫監修で出すと也。うやむや帰りしあと2D磐長谷生、英文の2人つれ来り、西山semiとせしと安心す。 無為にて落ちつかぬ日なり。 1月30日 7:00さめ9:30登校。総務部長来客中とて会へず、教授会の間に杉山の論文よみ了へ、 昼食の間に(部長との面談となりしと)山田部長に会へば「(※寄附入学希望者との)関係は」と問はれ(※省略)といふ。 「5日13:30つれ来れ。受験(※願書?)ももち来よ」とのことなりし。 卒論の点もいらずなりし様にてとまどふこと多し。(修士の面接に30分つきそふも民俗学にてよしと森岡氏の説なり) (※省略) 佐伯氏、小倉進平『南部朝鮮の方言』もち来り、わが本2冊ほしとなり。 「中国の婚姻――法と慣習」初校来をり、でき悪きも校正半分すます。 1月31日 8:00起き一休みしたあと校正すまし、12:00まへ駅前の〒へ簡易速達しにゆく。 佐伯へ小倉本の払ひにゆけば、わが本2冊と差引600円呉る。 午食後、散髪にゆき(櫛呉る)、高円寺まで歩き痔らしくて困る。瀬見氏「本一冊与へしも横田夫人来らず云々」。 プティ・パレで紅茶のみをれば(※名C省略)母子来をり「文芸4635と。娘中学へ入れたし云々」、奇遇なり。鬱とれず。 2月1日(日) 7:00すぎさめ、みぞれの中を夫婦して礼拝にゆき、天ぷらうどん(280)食ひ、阿佐谷にても買物すまして帰宅。鬱なり。 2月2日 晴。7:00さめ午食後プティ・パレにゆく。高橋重臣氏より『東方学紀要』は成城大学に寄贈とて、(※省略) 船越苑子寄りゆく。(※省略) 2月3日 曇。寒し。13:00(※名B省略)氏同伴して(※名A省略)氏来られ、5日13:30山田部長に(※省略)会ふこと承知さる。 医師の息にして大正12年生、(※省略)写真家の由なり。 東洋文芸史の採点いやいやしをへる。 2月4日 よべ22:00眠り4:00さむ。(※省略)プティ・パレで喫茶。(※省略) 美紀子に電話すれば淳一、京都大学付属中に入学(※省略)と。 (※省略)ユ、名古屋へ電話すれば望出て、いま5年何事にも熱心と。主のみ志なり。 2月5日 よべ不眠。8:00まへユ起きて驚かず。11:00出て採点呈出。(※省略) (※名B省略)氏来るまへ部長とちょっと会ひ13:30登りゆき(※省略) 300万円の寄附申込みすみ、共に帰りかければ(17日発表と)、「お茶のみませんか」といはれ「病院は戦災にてdr.3人(父兄2人)みな爆死」ときく。気の毒なり。餡蜜代払はせ別れて15:10帰宅。 (山田部長の室にわが『白楽天』おきあるを見し) 角川より文庫の払ひチェック来る。(※省略)22:00入湯、発作おこる。 2月6日 8:00さめ朝食後ゐねむりし13:00さめて夕食し、プティ・パレにゆき高円寺。瀬見氏より『地名(650)』買ひ、しるこ屋さがして高円寺銀座歩いて帰宅。何もする気なし。 2月7日 よべもよく眠り、7:00さめ、急ぎて登校。9:00修士の面接。 杉山生、案外評判わるがりしも優となる。細野生は良。哀れなり。 タバコ忘れ、杉山生と高田君(講師室に来合はす)より1本もらひ、その送別会「3月8日17:00より新宿京王プラザホテル42階富士の間にて、 会費1万円」(※省略) 帰れば田中栄太郎夫妻来をり、次男万平の結婚式に史呼ぶとなり。(※省略) 2月8日(日) 7:00さめ礼拝にゆくユと12:30吉祥寺駅にてと約し11:00すぎ出て地下の天丼食ひ12:15吉祥寺。 (※省略)清瀬へ出て京のところへ14:00着き、禎子見る。片言少し出るやうになりをり我が横になりをり。16:00出て18:30帰宅。 2月9日 7:30さめ(※省略)、午すぎプティ・パレにゆき(※名C省略)夫人来合はせしに「息子の(※受験)科名19:00知らせよ」といふ(芸術学科と電話あり)。 佐伯に寄り『富士五湖(100)』買ひcard買ひして帰宅。 「川柳と中国」の続きかく気あり。弓子来り、まだ片づかぬ様子。 17:20奥井(岡林)夫人・石塚真弓2生来り、魚屋へユ買ひにゆき夕食旨がりて食ふ。 ユの意見にては石塚、医者との見合に来しならんと。 2月10日 炬燵消えて4:00ユ起し、変へさすもあと眠れず。7:00起く。 ユ画展へ出てゆきしあと阿佐谷歩き例の2階にてしるこ食ひ帰り来る。 ユ16:00帰りてすぐ菊地ほなみ生来る。やせて眼大きくなりをり。(※省略)うれしきは木下生、津田沼高校にきまりし手紙かいたと返事の電話ありしことのみ。 鬱ややとれ「川柳と中国」の続きかきたくなりをり。(※省略) 2月11日 8:00さめユ起きるを待つ。14:30ユの杉並展にゆくを見送り、プティ・パレにて紅茶(神経性下痢2回)。福地夫人の来しを見て退去。 「蘇東坡」かきたくなりをり。ユ16:30帰宅。  本よむを好みしをとめとつぎ来て老いれば口のうるさくなりぬ(ユ、けふpermaにゆきしなり) 2月12日 ユうろうろし、午すぎ出てゆく。我プティ・パレにゆき佐伯にゆき、18:00うろちょろとユ帰り来しをどなる。 「隔簾花影」8回までよむ。つまらず(木下雅夫より就職通知ありしのみ) 2月13日 けふも下痢。炬燵にをり。蘇東坡かきたし。ユ画展へ画とりにと夕方出てゆく。 2月14日 下痢。9:00すぎ山住dr.にゆき薬もらふ。ユ、中沢恵子(武蔵野日赤)へ出産祝にゆき夕方まで帰らず。我「蘇東坡」の波にのり切れず退屈す。 夜、治子(上京中)より礼の電話あり(雨来ず)。 2月15日(日) 目をさませば9:00礼拝夫婦ともに休む。15:00chocolateもち高野郁子さんと森山泰寿君と来り、3月15日東条会館の披露宴にと案内さる。 (※省略)戸田画伯の会へと15:00まへユと3人去りしもユ、17:00会場見つからずと帰宅。 けふ「中国の婚姻──法と慣習」校正(再校)12:00し了へしも日曜とて書留出せず。 2月16日 8:00起さる。快晴。9:00すぎ駅前郵便局へ簡易書留速達出しにゆく。午后プティ・パレにゆき喫茶。高円寺にゆけば瀬見氏不在。 売本ありと伝言たのみ帰り来れば19:00ごろ電話して来り『鳥居龍蔵全集』12冊を5.5万で買ひ呉る。(※省略) 2月17日 7:40起され、あはてて仕度し8:30降る雪の中を出、9:30成城着。 ちらしずしあつらへ10:20よりの山田部長の前日の入試委員会の決定を聞く。 (※名B省略の娘)(※省略)補欠入学許さる。芸術の名簿に(※名C省略)の名見えず。(※省略) 学科会。平山博士、鎌田女史に怒り、西山博士これを調停す。12:30ちらしずし食ひ大学院の会に出ず帰宅。 雪止み夕食まへ(※名B省略)氏に電話。寄附金のことも念押す。文部省より禁止されゐるや否や不明にて不快なり。 鬱やみ、いつにても止めんと思ふ。 2月18日 6:00さめる(よべ少し眠りがたかりし)。 10:00(※名B省略)夫人より電話あり「けふ伺ひたし」と。「14:00お越し」といへば、(※名A省略)と同行、喜んで寄附入学する由。 夫婦椀もらひ、下にありし薄謝返し、嬢に祝として仏語(又は独語)辞典贈るといふ。 16:00すぎ帰りしあとプティ・パレにゆき福地夫人に(※名C省略)君ダメといふ。紅茶とパンとにて450と安し。 『満族簡史』よみ了る。(けふ『東洋学報』61来りしのみ)。 2月19日 7:00さめる。ユ起き来り、うろうろせしあと我の髭そり傷つけて出てゆく。12:00プティ・パレにゆく。 福地夫人に(※名C省略)出来のわるきをいふ。lunch食ひ、ユ鍵もたざる故帰宅。15:00出て汁粉屋さがして食ふ(350)。 card屋ゆき帰宅。ユ17:00帰宅。太田夫人、わが恋愛のこと知りをるらしと。 ユ、(※名A省略)氏に電話すれば(※省略)。不快なる一日。 2月20日 ユ12:30同窓会幹事として学芸大前へゆく。われ20分おくれて出、高田に会ひ、けふ下痢にて出席せずといふ。 高田、古稀記念論文集「大正文学」にsignして頒ちをり。4年への判定すみ、われ汁粉屋により、 ユ帰らざるを待ち、せんべい買ひにゆかす。矢野兼三閣下、老衰のため死去。84才と新聞に見ゆ。小林より「あさって200万貸せ」と電話。 2月21日 ユ、9:00母のところと銀行へ出てゆく(小林へと200万の切手作りし)。(※省略)午食後プティ・パレに寄り高円寺。 Romila Thapar『History of India(600)』、尾形仂『森鴎外の歴史小説(1,700)』買ひて帰宅。(※省略) 都丸支店瀬見氏にBuriat Mongolsの字引(1.3万円)予約す。(※Buriat-Mongolian-Russian Dictionary) 2月22日(日) ユと礼拝にゆく。竹森先生のお話殆どきかず、すみて阿佐谷へ帰り佐伯へ寄りしも本来をらず。15:00電話かかり、 小林夫婦、孝行をつれて来り借用証おき200万円の小切手もち善一郎かえり、弓子孝行もまもなく帰りゆく。 2月23日 雪降る。下痢2回。外出せず。夜、Buriat語とりにゆけずと瀬見氏に電話す。(※省略)夜「蘇東坡」の原稿検す。237枚にて了りとす。 河出書房新社より『新名将言行録中国篇』に我が呂后(『中国后妃伝』)のせたしと。「可」と答ふ。 豊橋に丸山薫詩碑建つと。一口5,000の申込みをす。 山本書店より書目来りし故『万暦武功録』と『粤閩巡視紀略』と注文す。いづれも稀本なり。売れをらずと番頭の声に喜ぶ。 武部利男逝去。53才と。李白、白楽天の訳ありしなり。ユ若しといふ。 けふPope Johanne-PauloⅡ(※ヨハネ・パウロ2世)来日。 2月24日 8:00起床。9:45高円寺まで歩きハガキ投函。瀬見氏不在。『ブリアート-露語辞典(1.3万円)』買ひて帰宅。 午后、船越苑子寄る。美紀子より電話あり「風邪ひいてゐる。そのうち来る」と。けふ「蘇東坡」500枚検し了る。 辻芙美子、東Berlinより13日出しの航空便。わが教へしLied知らざりしと。依子に電話通ずれば「3月14日上京」と。 2月25日 寒し。下痢す。pãoと粥とが朝・昼食。ユ、塩入dr.と柏井へゆき、(※省略)17:00ごろ帰宅。 教皇、広島へゆき平和message発表。山本書店より注文の『万暦武功録(16,000)』と『粤閩巡視紀略(13,600)』着く。 『山前実治全詩集(5,000)』来る。  とことはに生きんねがひの日々つよく夜はも昼はも祈りてをれり 成城大学卒業生一同より「3.23の謝恩会に出席するや」と。「出席できず」と返事かく。 2月26日 9:00すぎ山本書店、29,600送りに駅前郵便局へゆく。帰り築島謙三氏より帰国とのハガキ見る。1月の電話料1.8万に近し。 15:00伊勢母子来り、ジュン我が「年老いし」との言に泣く。18:30帰りゆく。不快なりし。Pope長崎よりRomeへ帰る。 2月27日 晴。寒し。(※省略)築島博士へ「お会ひしたし」とのハガキ出しにゆきプティ・パレ。そのまま帰り来る。 文童社へ5,000「(※山前実治の)御霊へ」と包む。天野忠より詩集。 2月28日 ユ、母のところへゆき12:00帰宅。 われユの画にゆきしあと晴れをる故、クラタ理容店へゆき(2,300)、汁粉を南で食ひ(300)て帰り来る。蘇東坡かく気あり。 3月1日(日) 7:30さめ夫婦にて礼拝にゆく。竹森先生のお説教聞えず。躁なり。帰りて15:00すぎ梅田章君の来るを待つ。(※省略) 3月2日 よべ雪降る。午后(愛場君、郵便配達に来る)出て汁粉食ひにゆき帰宅。春来りしらし。「蘇東坡」考へゐるも山本よりの催促なく書けず。 旅大市が大連と改称せし由、新聞に見ゆ。21:00すぎ塩沢生より電話、「あすはダメ。近々来よ」といふ。 3月3日 7:30さめ8:30家を出、3月分の交通費もらひて喫茶。 修士入学3名とも落第ときめ、博士2人は可、あと2人を会議にもち込む。鎌田女史折れ(※省略)と三倉(いま夫人)2人は不可となる。 鄧さん漢文出来ざりし責め負ひ、われにあやまる。をかし(けふ山田俊雄氏に(※名B省略)の礼いふ)。 暖かければ南新宿で下車。東豊書店へ久しぶりにゆき簡君より馬之驌『我國婚俗研究(1,500)』買ひ、もはや来ずときめて国鉄にて阿佐谷。 汁粉(350)食ひcard買ひて帰宅すればユ、15:30帰宅と。禎子(※省略)雛壇買ひ2歩ほど歩くやうになりしと。 『Poets School』来り、我詩巻頭へのせ700未払ひと。未解放部落を3チャンネル(※NHK教育)にてやる。 3月4日 7:30さめ雨音をきく。曇にて午后追出されてプティ・パレ助手として老女来り、鈴木写真館ものいふ。 切手60×12買ひ近江詩人会鈴木寅蔵氏に送り詩「祈り」を大野新(守山市住)氏に送る。 (※省略) 辻芙美子(東ベルリン在)へハガキ出しにゆく。帰り斎藤茂太『長男の本(780)』買ひ一銭もなくなる。 和田さんより電話「田中正俊、本受取り、よい本といひをる由」。羽田(※羽田明)のことユと話し、川久保に電話し「暖き日来よ」といふ。(※省略) 3月5日 ユ、税務署にゆき7万円余返還と決定されて12:00まへ帰宅。12:30出て成城大学へゆけば進級会議あすと。 栃尾(※栃尾武)、田中宣一2君と話し、高田の第2次特別入学(※寄附入学斡旋?)のため来りしを見て出、桜子(※甘味処)にて汁粉(400)食って帰宅。(※省略) DeGaulleと毛沢東のことteleviで写す。犯裁者むなし。(※省略) 3月6日 国鉄st.。けふ及第会(2年)にゆかず。51:00まへ塩沢生、区役所前より電話かけ来り、迎へにゆき革命の定義を書かせ、 鈴江『孫文伝』貸し「辛亥革命とせよ」といふ。利口なり。きのふより国会自民党独断とて少数野党ゴネをり。 3月7日 晴。やや暖かくプティ・パレにゆき福地夫人に好悪甚しきを云ひて高円寺。 瀬見氏不在。『中国基督教史』(佐伯好郎著4冊4万円余)たのみて大石書店にて深作光貞『海上の道他界への道(700)』買ひて帰宅。(※省略)50点位なり。(※省略) 3月8日(日) やや暖し。壮年会いやとて礼拝休む。ユ13:00まへ帰宅。我、荻窪へ散歩に出て『謡曲(岩波文庫)』探せしもなし。 「先生、本お売り下され」と岩森支店の女主人。GelbeSorteゆきに見つけしを買ひ(330)汁粉食ひて帰宅。 杉山に電話かからず(鎌田、西山らま教授の外国語出来ざるに思ひ当る)。ユ、失ひしMont Pencil清水生よりもらひしと出しくる。 具志堅championの坐より離る。(※省略)  (宮崎康平の詩碑に5千円出さんかと思ふ。荻窪の岩森にては500円にて売りゐし也)。 3月9日 よべ早くねて早くさむ。一日家居(午后より雨)。成城より時間割来り、火曜学科あり水曜3時限1年東洋史、3時限semiと。松本信広博士逝去84才と。 3月10日 朝、便まっ黒なり。ユ、山住dr.に云へばあす河北にて検査うけよ、内科小笠原dr.宛の書賜りし也。風寒く、西島治子13:30来るをまつ。 「宝国寺にきけば、これん母の骨は西島家先祖代々の墓に入り供養しゐる」と。しず江母の利己主義知りをり。苺呉れて海苔もちて帰る。 televi3月10日の大空襲を劇とす。美紀子より電話「一家水疱瘡」と。 3月11日 7:30朝飯くひ、ユ8:00河北病院に順番とりにゆく。われ9:00出て山住dr.の手紙もちて内科(副院長)小笠原先生に会ふ。「金曜レントゲン検査受けよ」と也。 午飯もちて弓子・孝行来る。土地売れざる様子。 3月12日 ユ、河北病院へ便もちゆく。午后ユ、三鷹へゆきしに我も出てプティ・パレ。ついて高円寺へゆき瀬見氏に謡の本いへば積みし中より3冊本出し来る(4,000)。 借りて帰宅。川久保より電話「来る」と。まてばすぐ来て岡正雄の呆けしをいふ(松本正の思ひ出のみ話すと也)。我、基督者の覚悟をいひ、 ユの帰るまでにwhiskyのまし、娘のこと夫人にまかせよ、学(Tungus)に励めといふ。ユ帰宅。茶と菓子を出す。 (依子、土曜同窓会のあと来り、史のところへゆくと也)。 3月13日 8:30家を出てバリウムのみRentgen検査受けて帰宅。2度にてbalium下し、パン食ひ、餅食ひ、夜飯食ふ。 染原(涌井)夫人より電話(※省略)144点でダメと。先生つてなしや」と。「つてなし。あきらめよ」と答へ憂鬱となる。 『桃』にわが歌(正月吟)2首のりをり。 3月14日 8:30家を出、河北病院の小笠原dr.に会ふ。Rentgenに異状なきも胃、小さすぎる。18日胃カメラ呑むべしと決定。 15:00泰、望土産多くもちて来る。泰15才にて高校へ進みしとなり。依子22:00着。(※省略) 3月15日(日) 7:30さめ9:00ユに京より電話かかる。(※省略) 9:00出て我は散髪。ユはperma、2孫は渋谷西武へとゆく。12:00ごろ皆集り、ユ三鷹の父上一周忌にゆき、 帰り来り、14:00写真とりてユは東条会館へ。依子らは史宅へとゆく。我14:40出て地下鉄にて四谷(120)。歩きて東条会館へ。 喫茶。ユと会ひしのち森山マリ子女史に久しぶりに会ふ。(※森山泰寿・高野郁子披露宴) 19:00了り、高野叔父上の案内にてhyre賜ひ、新宿三丁目下車。帰宅。 留守中、愛場君来しらしくパンフレット入れあり。 3月16日 よべよく眠れず0:00追加のみ7:30さむ。午后高円寺へ謡曲(4,000)の払ひにゆく。夜、高野夫人よりユに電話。堀口大学逝去と。 3月17日 よべよく眠る。外出せず、豊田(庄田)泰子・ヒッキー(田中)久子2生より退官祝にAlbum来る。(※省略) 稲田氏より昨日の見合の相手考慮中と、ユ、伊勢家へその旨いふ。 山住正己氏らの「平和と革新をめざす杉並懇話会」より「結成総会」に出欠問ひ来る。「老輩欠」と答ふ。(※省略) 3月18日 よべよく眠り7:30さめ8:30まで湯茶も飲まず10:00胃カメラのまさる。11:20まで飲食できず、本日昼夜2食のみ。稲田翁より「三石氏交際承知」と電話。 本日も無為。散歩もせず。暖し。 3月19日 よべ早くね、3:00さめて眠れず。終日無為。ユに云はれて佐伯へゆきしにしめをり、汁粉(400)食ひて帰宅。躁らしくて困る。(※省略) 3月20日 8:30出て登校。10:20より第2次入試判定。少人数とる(但し第1次の辞退50%を越す)。午食して帰り来る。(※省略) 高橋重臣君19:30かっきりに来り、酔って長男の癌いふ。22:00就寝。0:002服目のむ。 (けふ「川柳の中国」山田君より文句出、そこより引用の文字消すべしと。山田は故事かかざりし也)。 3月21日 8:00さめ8:30起く。高橋君9:00起きし朝食し10:00出てゆく。ユ、画へと出、我出んとすれば雨降り来る。山田君の字引探せしもなく、ユにきけば小林にやりしと。 3月22日(日) 7:30さむ。ユ、上野へ美展見にとゆき12:00帰宅。15:30南隅夫人母子にて来り、(※省略)帰りゆく。(※省略) 3月23日 家居。築島先生より電話、ユ居留守をいふ。夜、電話して「胃カメラのみにゆき卒業式に出ず」といふ。(※省略) 3月24日 晴。午「柳樽に見える中国」の校正来る。山田俊雄の名消し14:30「再校を」と駅前郵便局。 佐伯へ寄れば『集千家註杜工部詩集(1.4万×0.9)』来りをり、あとにてユ払ひにゆく。「常用漢字」に「朕」など出る。 3月25日 雨。7:30起き9:00河北へゆき1時間半まち小笠原dr.「異状なし」と山住dr.へ手紙かき玉ふ。 中山正子夫人より「紫大根の花咲きて思ひ出す」とハガキ。終日雨とて出ず。 3月26日 晴。暖し。午后プティ・パレにゆき帰れば美紀子3孫つれ来る。淳一に入学祝5万円やる。暁子「主の祈り」を行ってみせる。 木下来り、礼として箸と茶碗とくれ、飯くって帰る。津田沼高校新設校の由。小松副手6月結婚と。古宮ならんと臆測す。 3月27日 外出せず(よべ追加のむ)。寒し。高原弦太郎翁より転居通知(矢野蓬矢(※矢野兼三)閣下2.19逝去と)。 3月28日 晴。9:00すぎ築島博士に電話すれば「3時小田急dept.14階で」と。14:20出て丁度14階につき満員の中teaたのみて待てば築島博士来られ、 「Noelに感心した。滞仏中Vietnam人と間違へられし。貴下は客家(潮州人)そっくり」など。 われ成城の話し、おごらしてもらひ京王plazaへの途教へてもらひ、17:00前つけば栗山、池田、臼井などの名誉教授、重久をり。 17:20(※成城大学謝恩会)開会。 今井氏開会の辞。坂本浩氏の祝辞につぎ松村達雄玉川学園教授の祝辞、臼井氏の乾杯の辞などつづき、18:30ぬけ出して帰宅。(※省略) 書原の踏切より大林太良博士と同行。わが本買ひくれし也。戸田さんの通りにて別る。 3月29日(日) 8:00近くさめ夫婦とも礼拝休む。ユに叱られて佐伯にゆき『本朝食譜(4.5)』たのみ帰り来る。15:00高野夫人と森山新夫婦と来訪。(※省略) 高野仁氏と友人とよみたしと我が本代2冊(1万円!)置きゆく。「そのうち新家庭訪ぬる」こととユ。 3月30日 9:30出て登校。図書館へ『インド史』2冊返却。佐伯『支那基督教史』1-2あるを検し、講師室にて立沢みよ子氏に茶一杯もらひ卒業album一瞥して成城堂。 「教科書の注文をしろと初講の時いふ」と店主に一言して帰宅。(※省略)午后いろいろ考へて4月1日より何かやることとす。(※省略) 『満和辞典』の誤訳多きに気づく。 3月31日 Reagan大統領暗殺未遂と。寒く、あすより仕事ときめる。夜、伊勢夫妻来り、この間の見合の相手、父親ももひとつ気に入らず断りなり。 あすより仕事と思ふ。(京より「あす2児つれ来る」と電話ありし)。 4月1日 時々小雨。寒く、一日家居、Manju語の草木よむ。ユに高野さんの親友の息子の縁談にて(※省略) 鈴木寅蔵氏より「近江詩人会の会費と詩は大野氏へ送れ」と。 4月2日 同じく雨。ユ漸く池上由岐江女史の女河野明子との連絡あきらめる。(※省略) Manju語の草木かきぬきひまをつぶす。 21:00池上さんの次女よりユへ「あす午后追悼文もちて来る」と電話あり。 4月3日 ユ13:00那須ユミ子氏と会ひ、追悼文ぬきずり25枚もらひ来る。現生天国の到来を信ぜし也! ユの帰りしあと佐伯にゆき『日本神話の比較研究(1,800)』買ひ来る。そのあとManju語少しやる。 4月4日 ユ9:00permaしてclass会へと出てゆく。(※省略)プティ・パレに久しぶりに午飯くひにゆく。ユ18:00帰宅。 夜「Im Westen nichts Neues(※西部戦線異状なし)」televiにて見る。 4月5日(日) 夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 「礼拝休むな、歌大声で」とさとされる。阿佐谷までユ渡夫人と話す。別れてユは母のところへゆき、われ駅ビルにて昼食。 鰻入り玉子丼(500)なり。帰りて「巴里の屋根の下」見る。母、大と別れて独立するつもりありと。呆けし也。(※省略)(※名B省略)に「フランス語の辞書やる」と約束す。 4月6日 よべ0:00に2服目のみ9:00さむ。一日中眠く無為。『詩人学校』368来りわが3行詩「祈り」のせ残金0と。 4月7日 晴。午后ユに散歩といはれ、大林家へ太良博士に「マンジュ族の殉死」の抜刷とどけ、GelbeSorte(330)買ひ汁粉たべて帰宅。 美紀子「女子用の古衣を京にもちゆく」と。ユ「来週」といふ。 4月8日 晴。『満和辞典』ちょっとやる。眼医者へゆく。午后高円寺へゆき切手(60×10)買ふ。瀬見氏不在。プティ・パレに寄らず。「とこしえの命」詩人学校にと作る。 4月9日 晴。9:30詩人学校へ600円切手入りの原稿送る。佐伯休みをり。「筍もって美紀子来る」と電話あり。津端生より「15:30来る」と。「華僑」やめんかと。「止めざれ」といひ3冊貸す。 16:00美紀子来り「筍みな好かず」と。「淳一もう就学、教科書3年分買はされし」と。その去りしあと淳一にユ「Mammaすぐ帰る」と電話す。 (※省略)  4月10日 ユ風邪にて山住dr.にゆく。『満和辞典』みなよみユに促されて川久保に電話して訪問。満洲史のことにて筑波大学にゆき吉林大学の某氏よりの手紙見しと。 『ツングース語辞典』やらんといへば反対せず。夜、村上氏より電話「あす午后来る」と。(※省略) 宇宙連絡船Columbia号打上げ延期とて入浴。 今中十九期会へ「欠席」と通知かく。 4月11日 8:00前ゆめ見てさめる。満洲語ほとんどすませ午となり、14:00ごろ村上正平君来り、法律の話す。(※省略) 中国婚姻法のことかきしをcopyし呉るといふに喜びてプティ・パレにつれゆき500円渡しcoffee2杯のませ駅まで送る。(※省略) 4月12日(日) よべ2ケのみ茫然と7:30さめ礼拝休む。ユも風邪とて休む。午后ともに出て弓子宅へゆけば広くなりをり、(※省略)桜見つつ上水沿ひに三鷹駅へ出、 佐伯へゆけば『本朝食譜』4-5来をり(3,240)。21:50、Columbia号上る。 4月13日 京よりユに「けふ友来る」と電話、ユ、山住dr.にゆきし留守に大林太良博士訪問、「文身と他界観」ほか1篇copy賜ひ『古今図書集成』に目止めて去らる。(※省略) 集英社より「5月7日18:00より帝国ホテルにて創業55周年記念謝恩パーティー」の出欠問ひ来る。(※省略) 夜、川久保より「古稀祝を金曜18:00にする故来よ」と。拒みてもきかず。野口武徳博士より「帰りし」と電話。 4月14日 8:00さめ9:30散髪にゆき、(※省略) 詩人学校の大野新氏より「受取り清算した。今後は自分あてにて宜し」と也。 あすの「東洋史」の予習して疲る。中国の考古学の進歩は教はらざりし也。 4月15日 よべ3:00さめまた眠り8:00さめ9:30いやいや地下鉄、(※省略) 高田瑞穂来をり退職手当3,000万以下なるに感心す。講師控室にゆき鈴木(国文)と話す。 高田来り、すぐ去る。(※省略) 成城堂『フランス語辞典(上製4,000)』丁寧に包みくれしゆゑ(※名B省略)に電話すれば夫人出て「娘に伝へる」と。 (※省略)講師室にをれば(※名B省略)来り「話面白きゆゑもっとつれ来る」と。困ったことなり。 東豊書店にゆき茶のまされ『中国新昏姻琺』とりよせたのみやむを得ず北平関係の本(1,000)買ひ、阿佐谷にてしるこ食ひて帰宅。(※省略) 4月16日 雨の中を登校。Skey女史に復活祭のcardの礼いふ。semiにおくれてゆけば男生2人をり4女生の吾家に来ざりしを咎め、21日4月分のsalary渡すとの掲示見る。 (※省略) 夜、川久保より電話「あす17:30来よ。丹波(※丹波鴻一郎)も呼びし」と也。 4月17日 晴。8:00さめユ、母よりの電話にて出てゆきし。(※省略) Russia語の百科事典にてIndia Indonesiaなどよみ、ユ午食してくれしあとプティ・パレにゆき紅茶こぼして帰宅。 着かへて高円寺へゆき村上正平君にcopyの礼状出し、(※省略)瀬見氏呼びキリスト教史いらずといひ『大世界史20眠れる獅子(500)』買ひて帰宅。 17:00出て丹波出迎へに川久保ウロウロするを見てのち、(※古稀祝に)ゆきて丹波の心臓わるきをきき21:00退出。(川久保わが躁症の時のこといふ)。 4月18日 丹波を我家に案内する夢を見てさめ(3:00)また眠り7:30さむ。ユ13:00戸田画伯にゆく。15:00まへ迎へにゆきプティ・パレで喫茶。 帰り来てIndiaの歴史はやれさうもなく絶望す。咲耶の歌の先生より『詩集』来り「批評せよ」と。これもかなはず。(※省略) 日永くなる。なるこゆりふえて芽ふきをるを知る。(※省略) 東方学会の5月16日の京都の会に「出席」の返事出す。(※省略) 4月19日(日) 8:00さめ傘もちて復活祭にゆく。トヨ先生入院、けふ退院の予定と。(※省略)東急にて買物して帰宅。(※省略) 安達氏(※安達遂)より成城のOBと野球するや否や「御苦労様」といへば耳遠しとて夫人代りてすむ。 4月20日 8:00さめ、よべの大雨知らず。色々と庭の草芽ふきをり。あすの講義、出たとこ勝負ときめる。 4月21日 7:00さめ9:00出て成城、図書館にてIndia史3冊借り出し、文2の文化史早々にすませ午食、栃尾君と食ひ、尾形教授より「鴎外」について『東方学』のprintもらふ。 (※省略)大学院にゆき、ゆっくり出れば磯岡、外池と河野夫人、東洋音楽とりやめ、(※省略) 時間一杯となりL2Dにゆけば一杯をり、 「必修なれど来年きけ」といへば1人つき来り、長野高校より来し小山雅之?竹内好のこときく。親友代表といふ。武田泰淳の事も知りをり。 salaryとりにゆけばもとのまま。山中正剛君にさそはれ餡蜜くひにゆく。敬老精神となり。(380×2) 4月22日 8:00さめ11:00出て登校すれば「私鉄st.7:00までに解決せざりし故休校」と。(※省略)餡蜜くひて帰宅。昼食す。巌南堂より『東洋学報』来りしのみ。(※省略) 4月23日 8:00さむ。晴。咲耶へ『詩集』送り返す。大学講師控室へ電話してきけば、(※省略)「教授会14:10あり」と。(※省略) 12:40出て成城大学へ着き、(※省略)  14:10よりの教授会にtobaco吸はずものいはず。 「来年より○付(※寄附入学)やめ、来年より入試1回にいたし云々」山田学部長苦しげなりし。 16:00すみて駅へゆく途、栃尾氏に遭ひ桜子へ誘ひ餡蜜供し『蘇東坡集』の刊年しらべたのむ。『民間伝承320』来り、わが会費3,194円と。不明。 4月24日 8:30さめ9:00朝食。『東洋学報』払ひにゆき、佐伯に寄りプティ・パレで喫茶、帰宅。午后となりまた佐伯へ『東京大學東洋文化研究所漢籍分類目録(16,000)』注文に行く。 4月25日 終日雨。ユ、戸田画伯にゆく。われ『牧野植物図鑑』の漢名怪しきに半日かかり疲る。大学の講義いやなり。 和田久徳氏より電話「東方学会に出ず。6月沖縄にゆく」。「その内御茶ノ水大へ伺ふ」といふ。 4月26日(日) 6:00さめ6:30起床。9:30の電車にて礼拝にゆく。主の復活を信ぜぬがユダヤ教と。すみて69名にて信者総会。(※省略) 飴買って帰る。(※省略)佐伯に寄り『余は如何にして基督信徒となりし乎(200)』買ひ来りてよむ。日曜は安息日となり。 4月27日 9:30さめ(よべ23:00半服足す)朝食。ユ、医者にゆく。南村裕子「4月4日結婚、安田姓になりし」と。午后あすの予習に疲れ果つ。 森克己博士死去、77才と。咲耶より電話「手紙みた。困った」と。 4月28日 6:00旨くさめ8:30出て9:05の小田急急行にのり成城大学。教務の鈴木氏に『台北歳時記』のcopyたのめば数しらせ、費目はあとにてと。(※省略) 高田、入学試験の手当とりに来り、向ひに坐りし川田女史(われを詩人ならずや『山の樹』の同人と)(※川田靖子)と話す。仏語の講師にて玉川学園が本職と。 高田、駒沢の短大2時間となりしと喜ぶ!(※省略)16:30立沢みよ子さそひて「桜子」へゆき、われは汁粉、彼女は餡蜜食ふ。(※省略) 夜、小包として「中国の婚姻(※『日本常民文化紀要』)」の抜刷20部来り、大林太良氏に先づ1冊を献ぜんとし誤植訂正に疲る。 4月29日 8:00さむ。叙勲に勲2等瑞宝章に菊地真一(72)、澤井種雄(70)、鈴木朝英(72)、野田又夫(70)の諸先輩顔を並べをり。 勲3等瑞宝章に板倉鞆音(74)、田中楠弥太氏(70)通産行政の功労者として名見ゆ。天皇80才の誕生日とて各televi放送す。中国の人口9.8255億人! 4月30日 8:30さむ(よべ22:00前ねし)。10:30出て登校。図書館にてしらぶれば『鳥居龍蔵全集』あり。 野口君「Malaya,Singapoleにて華僑にと合はざりし」と。外人?聴講ありとて許可す。 森田晃一生、わが『李太白』手に入れしといふにsignす! semiの教室あかず講師室にて抜刷くばり、「天理の参考館4人にて見し」云々。津端生写生し来れり。出て桜子へつれゆけば津端生午食まだと握飯注文す。 他は甘党にて1,850払ふ。15:00より大雨との予報に帰り来れば降らず。杉山博文・安田(南村)裕子にハガキかく。 和田夫人、仲人せしとてうるさく電話かけ来る。21:00「大英博物館Orientの部」見了り就寝。 5月1日 よべ21:00就寝してねいらんとするに和田夫人また電話。22:00眠り3:00さむ。あとねられず8:30起床。ユ朝食くはし10:00出てゆく。 和田夫人より電話(※省略)われ「仕事中」と切り、(※省略)川久保に遭ひ「顔色悪し」と。佐伯にゆき『韓国(100)』買ひ「そのうち学校の分注文す」といふ。 八戸の圓子氏に詩集の返事かき投函かたがた山住正己氏に抜刷もちゆきプティ・パレ。(※省略)けふより暑し。 15:00すぎ高円寺へゆき『玄奘三蔵(150)』、『インドとイギリス(150)』と岩波新書『ガンジスと三日月(500)』買って帰る。 大野新氏へ「小さい庭」包む。(※省略) 夜、古宮新喜より「小松と結婚す。式には呼ばず」と。 5月2日 よべ早くねてけさ7時間してさむ。和田久徳氏に抜刷送り大野新氏に詩送る。ユ、山住dr.に和田夫人のこといひ、(※省略) 咲耶より「歌見てくれ」と。民研より「9日13:30来れ」と。 5月3日(日) よべ0:20追加のみ7:30さむ。ふらふらと礼拝にゆけば、長島君の長老認証式なし。ユ清水嫗と会ふ。帰りて昼食。 15:00来りし三郎兄、俊子姉、すみ子と也。ユの絵2枚もちて去る。(※省略) 花井夫人に長き電話し「和田夫人、思ひつめると変となる」となる。昨日けふと暑し。(けふ咲耶へ歌返送す)。 5月4日 8:30さむ。外出せず。12:00来るといふ青木生まてば鳥海生とともに来る。(※省略)青木生semi定まらず鳥海生「七夕」ときめしあと「阿片戦争」とす。 『人民中国』も来りて江青の裁判のす。 5月5日 7:30さむ。10:00より東洋史の予習、12:00和田統夫夫妻Melonとおはぎもち来る。柏井留守と。墓参りの帰りと。(※省略) 5月6日 8:00さむ。津島佑子televiに出てをり。十人並み(※省略)、2児をもちて離婚と。 10:00すぎ出て登校。鈴木さん『台北市歳時記』51冊こさへをり「午すぎのマイク学生にとりに来させよ」と。榊原副手に売ることと取寄せとたのむ。 栃尾氏『七月七日』賜ふ。(※省略)午食するとて去りしあと只一人ゐる講師に自己紹介し青山学院大の九頭見一士教授とかいてもらふ。珍しき苗字なり。 (※手当計算 省略) 阿佐谷でしるこ(300)食ひ、ユ帰らざる故プティ・パレにゆき、(※省略) ハガキ、羽田と大野新氏へかく。『詩人学校』来りわが詩トップにのり、下手なるに恐れ入る。 5月7日 眠れず0:00すぎ入浴、7:30さむ。ユ朝食くはず山住dr.帰り来り、血圧高くなしと。10:30薄雨のなかを出て登校。栃尾君に返礼の本与へ、(※省略) 尾形教授の室にてsemiせんとすれば青木と塩沢のみ。歌教へ来週より卒論の進度きくといふ。(※省略) 教授会、中西進氏帰国。 けふ全学懇親会とて山田部長ゆるゆるとやる。14:30すみて大雨の中を置き傘もちて帰宅。 5月8日 7:30さむ。よべ大雨なりしも止みて晴天。午后「台北市歳時記」の予習し佐伯へゆく。 (「阪本越郎を偲ぶ会」31日12:30より平河町海運ビル会費6,000と「出席」の返事投函)。 『東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録(1.6万×0.9)』と『シルクロード6(1,700×0.9)』と来てをり。 『日本語のしゃれ(250)』買ふ。著者鈴木常三氏は我と同年生れにて国学院出の文献民俗学者なり。広くよむ。プティ・パレにゆき喫茶。(※省略) 夜、山住dr.より「奈良嬢断り来りし故、和田さんに断ってくれ」と。ユ、和田収一君に電話すれば「面子つぶれた」と怒り長電話せし故、我出て「山住先生に云へ」と電話切る。 5月9日 6:30さむ。晴。ユ山住dr.にゆき(※省略)。都丸支店へゆき学校へ8万円ほど。われにと『帝国主義(100)』、『水滸后伝(上中下)』、『沖縄ノート』、『伝統中国の完成(200)』、『インド教』、松田寿男『アジアの歴史(300)』、『インドの現代思潮』、『騎行車行の歴史』、『インド民族史』などにて7,000買ひ、瀬見氏さそひて喫茶(『ソヴィエト百科辞典索引』くれし也)。プティ・パレにて13:00昼食す。(※省略) 和田久徳氏より「論文見た。一度来る」と。ぎょうせい社より『精選日本近代詩全集』に詩4篇のせてよきやと。 17:00桑原武夫博士のteleviききをれば和田夫人より電話あり、腹立てて「ユ不眠、病院へゆきし」といひ、 (※省略)ユ帰りて「和田節子おかしきゆゑかまふな」と。 夜、河野夫人に電話し「聴講願書出せ」といへば「先生このごろまともゆゑ宜し」と也。(※省略) 5月10日(日) 早起し夫婦にて礼拝にゆき、帰り吉祥寺の古本屋にて1万円近く本買ひ、佐伯にて3万円近く買ひして帰宅。 大林太良博士の抜刷『骨から見た日本人の起源』投函しあるを見、昼食後電話すれば来たまふ。甘いもの食ひ、茶のみたまひ一見旧知の如くなる。 double本2冊進呈、帰りゆきたまひしあと、佐伯へ寄れば主人入浴と。柏井へゆき尚子のよくなりかけを見、(※俊子義姉の)田中家へゆき女たち話すを見てtelevi。 17:30出て佐伯へ寄り12万円の本、大学へと注文し、わが買ひし本の金とりかたがた届けたまへといふ。佐伯さん18:30来られ27,750払ふ。 佐伯さんよりの買入、今永清二『近代中国革命史(800)』、小野川秀美ら『辛亥革命の研究(6,300)』、中村義『辛亥革命史研究(3,600)』、木村雅昭『インド史の社会構造(6,000)』、武部良明『漢字の用法(1,000)』、宇井伯壽『日本仏教概史(750)』、井上靖ら『中国の美術と考古(1,800)』、嶋田襄平『イスラムの国家と社会(1,400)』、鄭大聲『朝鮮食物誌(1,300)』、辻直四郎『ヴェーダ学論集(4,800)』。 夜、幸田さんより電話。われ鈴木明『その声は戦場に消えた(650)』よむ。こは北口千章堂にて買ひしなり。ユ、我を「躁」と認む。(※省略) 和田久徳氏に「一度成城大学へお出でを」とかく。 5月11日 9:00さめ朝食pão食ひをれば、和田収一氏より電話かかりし故「夫婦してゆく」といひ、羽織着て(※省略)探し探しして和田家。 和田夫人腫れし顔し、ふるへる手にユ病気と思ひ、わびつつ事情いひ収一氏と内緒の話する内、画類などもち出して見す。 12:00近くなり関東busの下井草停まで送られ、高円寺行に乗りユは天沼車庫で下車。われ終点まで乗り都丸本店のぞき瀬見夫人我を知りをり。 (※省略) 山本達郎『印度史(1,000)』買ひ支店にてまた『蘇軾(2冊1,200)』、『先史時代のインド文化(1,000)』買ひ、帰宅すればユ帰らず。 船越苑子訪ひしゆゑ、あげて茶いれさし柏井へ電話すれば尚子出て「いま着かん」と。13:00帰着。炒飯くはす。 苑子14日来て15,16両日の〒新聞とりのけ承知す。昼寝せしと16:30さめてユに山住dr.にゆかせれば、和田夫人電話かけ来て、テンカン治りし様子也。(※省略) 午后来し宮本馨太郎氏の遺著『東京都の民俗』の礼を瑞夫周子夫婦に書く。 (研文出版より松浦友久『詩語の諸相』来りし故、山本實君に受取り電話かけ「来週あたり来て(※「蘇東坡の」)かきかけ500枚見てくれ」といふ。) 5月12日 6:00さむ。7:30朝食。9:30出て登校。(※省略) 中西博士アメリカにてわが詩披露せしと。『古稀記念論文集』進呈を約す。(※省略) 出んとすれば沖田憲に遭ひ、ともにしるこ食ひ、(※省略)駅にて別れ下北沢(※省略)、池ノ上駅におりれば(※省略)タバコ屋、吉越氏店番しをり。 「まあまあお上り」と。長男ゐるを知らず大きな声出す。(※省略)出て満員の井の頭線、(※省略) 小高根太郎氏に電話すれば夫人出て「どなたですか」と。太郎とfictionかけといひ笑ふ。 5月13日 8:30さむ。(※省略)過度の喫茶店でtea(250)飲んで登校。成城堂に本注文、(※省略)石川図書館長と久しぶりに話す。 栃尾君来しに『楊貴妃とクレオパトラ』と『学芸手帖』の「西王母の歴史」copyさす。(※省略) 帰り東豊へより『古都北京(800)』、『鴉片戦爭前中英交渉文書(2,200)』、『鴉片戦爭文献彙篇6冊(1.8万)』借る。 (成城堂にてタキトウス『年代記2冊(550×2)』、『民法入門2(530)』買ひ(借金)、駅前本屋にて『インド大反乱1857年(480)』、『日本の南洋史観(380)』、『人類の創世記(1,600)』買ふ。重きカバンもち東豊へゆきし也)。 南新宿に引返し帰宅。(※省略) 夕食の時、和田夫人の愁訴つづく。(上村肇『空手富士』来る。明治43年生れと。ハガキかく)。(※省略) 5月14日 6:30起床。ユ9:30数男迎へに駅へゆく。佐伯に電話すれば「けふ学校へ本もちゆく」と。10:00依子より電話「ユ血圧高きゆゑゆかず」といふ。 数男、山住dr.にゆき「タバコ止められた」と。われ姉弟のこして出11:00登校。高田瑞穂「名誉教授任命祝酒のむ」と11:30学長室へ去る。 中西、栃尾氏と会ふ。平山博士「酎金の律」について聞く。「ちょっと待って」といひ『アジア歴史事典』しらべて返事す。(※省略) (※semi生と)桜子、(※省略)鳥海生と南新宿で下車。東豊書店に1.8万の払ひし、茶2杯出され中央線に乗り阿佐谷下車。 金子書店で『イスラム社会の性と風俗(900)』買ひ、帰宅すれば電気屋来てをり、鳥海生のsemiはじめ夕食すましてまたsemi。ついてくるのがうれし。 21:00semiすみ22:00すぎ就寝さす。われちょっとねにくかりし。 5月15日 3:30さめ放尿、またねて7:30起床。鳥海生8:30起きる。10:00ともに出て花屋の前で別れ、クラタで散髪(2,300)。11:00 帰宅。 午食13:00プティ・パレにゆき定年後画をやる伊藤氏と話し(福地女史不在)帰宅。傘もちて古本屋にて『■■の文化(350)』買ひ、 新宿にて京都往復(※切符)買ふ。(※省略)15:00ユあらはれ忘れし薬もち来る。ありがたし。「帰りて眠る」となり。 名古屋まで35才の出張の係長と話しcoffeeおごる。名古屋より下関の海産社長と話す。(※省略) 京都着。駅の案内所にて「京都第3タワーホテルに空室あり」と案内され、ゆきて717号室の鍵もらひ、(※省略) 一階の食堂にて3,000のdinner食ひ、19:30羽田に電話すれば「bus2.9に乗りて来れ」と。(※省略) 別のtaxiにてゆき羽 田父子の迎へに来ると同行、夫人出てもてなさる。母上健在と。whiskyのみ23:00次夫君の運転にてTower Hotelまでのせてもらひ23:30入室、眠剤2服のみて眠る。 5月16日 8:00まへさめ日記つける。ユに電話してけふ帰るといふ。レジにゆき払ひすます(夕食3,600室代5,500+550(チッ プ)+350(税)+電話110)。 地下道にて朝食800。17:29のひかりの5,500買ひ東山通りへゆくため地図(500)買ひ、東山通りへbus(130)10:10着く。 貝塚、小川兄弟(※貝塚茂樹・小川環樹)、日比野幹事(※日比野丈夫)などに挨拶し2列目に坐り、 Duquenne Robert(ベルギー人)の「即身成仏思想について」きき、質問時間に「郎」と「暇」の誤字訂正をす。 ついで中国科学院自然科学史研究所主任の講演「(気の概念と)中国の天文学」通訳付きできき「ハレー彗星の出現は次いつか」ときけば1986年となり。それまで生きたし。 次いで昼食。羽田(平岡氏とは大台ケ原登山のこといふ)(西田龍雄博士に西夏語のこといひ名刺もらふ)、三田村泰助(野間光辰只一人和服で来てをり。中村幸彦元気と)、佐伯富(佐中壮氏わが『悲歌』もちをりと)、山田信夫らと對食。 妙法院の国宝庫裡見、宝物殿はやめて待ち、三田村氏らと歩く途中、京都女子大でわが「聊斎志異」の話ききしといふ関学大の児玉新次郎教授の名刺もらふ。 (神田先生(※神田喜一郎)「蒲松齢はAbu(※父)といはれ、われ「蒲寿庚の末裔」と考証せし也」) 『京都市街地図(500)』、土産3ケ(3,500)にて『ßoletin (2,500)(※不詳)』買へば1,000札なくなりし也。 三田村氏に「茶おごる」といひ断られて助かりしと思ひbusに乗りて京都駅(130)。milkcoffee(80)のみ(※省略)17:29にのれば隣席の男感じ悪く(※省略)名古屋で空席に坐り独り歌ふ。20:20東京着。新聞よみpão食ふ。夕食は茶3杯(80×3)と焼売(200)なりし。 5月17日(日) 6:30さめる(よべ2服のむ)。夫婦とも礼拝休む。小雨寒し。衛藤長者に「婚姻法」(※「中国の婚姻」日本常民文化紀要抜刷)包む。ユ戸田画伯にゆく。土産を画伯に、2千円を謙介氏に贈る。 雨中1万円もちて出、封筒10枚(120)、佐伯にゆき『古書の見方・買い方(800)』、『琵琶湖水底の謎(200)』買ひ『酉陽雑俎3』催促す。うつぎ書房より『女の民俗誌(700)』買ひ「原語ある唱歌集を」といへば『世界合唱曲集(500)』探し呉る。 (※省略)帰宅。11:20なり。(※省略) 榎・貝塚両博士に「婚姻法」包む。 午后、英文『燕京歳時記』の訳す。元宮を了りしところ(20:30)和田久徳氏より電話「26日15:00成城大学へお越し」と。関学児玉教授に「婚姻法」包む。 5月18日 5:30さめ佐伯富教授に「婚姻法」包む。西田龍雄氏に「マンジュ族の殉死」「満洲語漢字」(※紀要抜刷「漢文資料にみるマンジュ語」)包む。 (※省略)佐伯にて太宰治『津軽(50)』、『豊臣秀吉(200)』買ひ、ユが描くといふカスミソウ(300)買ひ来る。 山住dr.に数男の診断結果をユがきけば「異常なし」と。 川久保に「土産あり来よ」といへば「13:00ごろ来る」と。山本實氏「16:00来る」と。川久保来り「ツングース語辞典」やる気となりし様子。15:30出てゆきしあと高円寺へ駈足。瀬見氏をらず。「来た」といひネール『父が子に語る世界歴史3冊(300×3)』、『司馬遷・史記の世界(500)』、『中共雑記(300)』、『人類学(300)』計2,000買ひ駈足にて帰宅。 16:00ちょっとして山本實氏来り「蘇東坡」500枚(※原稿)もち帰る。 (※省略)田村博士に「婚姻法」包む。ユ18:30出てゆく(吉祥寺で見合さすと也)。築島博士に「婚姻法」包む。平岡武夫先輩に同。ユ21:00帰宅。 5月19日 0:00、1服足してのみ3:30放尿に起き7:00「日本歌人」の会に出席の夢見て覚む。 堀敏一氏に「婚姻法」包む。宮崎市定先生にも同。9:30出て杉並郵便局(※省略) 10:00着き、川田靖子女史と『山の樹』の批評をし、栃尾氏より『玉造小町子壮衰書の研究』もらふ。 (※省略)「柳樽に見える中国」の校正来をり。文化史特講は空にてやり、早めにすませ宮崎博士ピシャッと扉しめる(はじめてその怒るを見し也)。 元旦すみ元宥は河野女史訳し呉る。ともに下りて入学願書に印捺し教務にゆかせれば「短大より大学院はダメ」と。マッチのあき箱与へ鴎外関係2冊貸し、2万5千円もうけしといふ。 (※省略) 「桜子」へゆき「しるこ」あつらへて飲まんとするところへ3人現はれ、名を問へば1F吉越と門馬と、も一人は仏語にてわが講義きけずと。ふと気づき吉越生に「相撲のteleviみせよ」といひ同行して池ノ上下車。 (※省略)吉越家、父母兄そろひをり。角力高見山勝つを見て喜び、すみて出れば笑子生、新宿まで送りに来る。 帰りて校正すまし抜刷30部をたのむ。(※省略) 5月20日 6:00さむ。出席表つくり著作card作る。寒し。9:30出て杉並郵便局。 (※省略) 成城堂にて野原四郎監訳『中国近代史1(2,600×0.95)』、『日本の唱歌 上(380)』買ひ、控室にて歌ふ。 (※省略) 吉越生より「貰ひ物」と茶と粽ともち来り、頒けてほぼ食ふ。 (※省略) 東豊へゆき32万円の残りをこさへてもらひ、京大中文大学院修士明清小説専攻の大木康君、わが簡さんとの対話をききをり。 学校へ栃尾君に頼まれし『聖経(2万円以上)』など9万何千円買ひ、1,000円ものこらずなる。 わがためには『笙楽理論及演奏(4,000)』、『西湖遊覧志』、『仝余(1,860)』、『Singapore(2,040)』、『湖西苗族考察調査報告 上下(9,000)』、『百越源流与文化(1,260)』、『人々文庫5冊(80+270×4)』買ひ、『三国遺事2冊』を4,000×0.7で売り大木君に「来よ」と名刺与ふ。駅まで包もってくれ「横浜へ帰る」となり。 18:30card買ひて帰宅。(※省略)豪徳寺で下車。古本屋82才と。『中国革命の先駆者(600)』買ひ、成城堂にても吉川『阮籍(200)』買ふなど躁のtopなり。 (吉越生『ハイネ恋愛詩集(170)』買ひ来りsignさす)。 21:00簡木桂に電話し『義和団文献叢編2』の混入いひ「とりかへよ」といへば「承知した」。 そのあと財布なくあはてしに畳みし蒲団の中にありとユ、予言す。 23:00すぎ眠剤のみ荒木中尉に「婚姻法」包む。 5月21日 2:00放尿に起きまた眠り5:00さめ歌うたへばユ怒る。8:00杉並郵便局に荒木氏への郵便出し、愛場君読んでもらへば「欠勤」と。 帰り只一つあけゐしChat noirに入り紅茶(250)飲む。(※省略) 登校、Skey女史にわが詩見せCanadaの地図見せ、栃尾氏に『三省堂年表』見せ、(※省略)吉川幸次郎の文庫与へ、(※省略)semi4生と古本屋へゆかんといひ、財布忘れしに気づく。紙入れに金あれば、ゆけば古本屋休み。餡蜜食はんと桜子に向かはんとし、中国料理屋見つけヤム茶のまんといへば二階の畳の間に通さる。3生食前とて喜んで団子食ひ2,000払ひ、香買ふ(200)。 2生6月中学へ教育実習と。鳥海塩沢とは新宿でsemiせんといふ。「7月の横浜も大喜びでゆく」と。 14:20までに研究室に置きし本もちゆかせ、聴講cardもちて教授会。 名誉教授の件、改正され池辺はダメとわかる。新城博士風邪にて来ず、西山博士より『歌舞伎』もらひsignさす。 「三国一」の日本人発明をいひ、聴講cardをエンマ帳に写してのち大学院教授会。何といふこともなくして了り、渋谷の店知るといふ森岡博士まちて西山、野口2博士とゆく。なるほど遠き路なり(青学通りでなし)。 鎌田、田中宣一、榊原副手と坐り、隣には慶応大学より出講の伊藤清司教授、「竹田竜児君は今東海大」と。佐藤、堀口、折口など慶応の話し、西脇順三郎のこともいふ。 内田るり子講師「吉祥寺に住む」と。島根の唄の収集家牛尾三千夫氏を識り、宮崎智恵氏をも識りをり。 左手は桐朋学園教授小木新造博士、開会の辞、平山博士のべしあと、われ音頭とりて乾盃。「大学院のためよろしく」といへば「学部も」と注意さる。 小川氏など欠席4人にて21:00ごろ了り、鎌田女史、肉の骨包ませてもちゆく。 森岡、田中2氏をさそひ、榊原副手の案内にて喫茶店へゆけば満員。笑ひつつ待ち坐りてice-creamめきしもの飲む。(※省略) 新宿のtoiletにて千代の富士のこと問へば酔漢からみ、笑ふ中年あり。 南阿佐谷に22:00着いてまた紅茶たのみ家に電話すればユ、風呂わかし呉る。 神経性の血圧とて眠り多しと。哀れなり。我は入浴0:00まで日記かく。 (榎博士より「ハレー彗星にてわが喜びしを見し」と。抜刷の礼に1980年Firenzeにての講演「Confusion Women in Theory and in Reality」送らる。意外にもわが知己なり。あす本送らん)。 けふ渡されし俸給(※省略)。 5月22日 よべ0:00まで眠れず追加のみ8:30さむ。榎一雄、伊藤清司2氏に『中国の自然と民俗』郵送と包む。 小木新造、内田るり子諸講師に包み成城へもちゆくこととす。 9:30出て戸田家訪へば画伯出て「今出し」と。駈足にて南阿佐谷で追つき「辛酉考」7×400書くこととなる。 成城へ着き(※省略)控室へゆけば築島博士より電話「会ひたし」と。「15:00小田急出口にて」と約束、宮崎博士に「この間は失礼」とわび、 「古稀記念論文集進呈する」といひ、榊原副手と食堂にゆきチャーシュー麺たのみ、もって来さす。殆ど食へず。別れて駅に出れば高田瑞穂に会ひ、さそひて「桜子」へつれゆき、われは「茶」かれはなにか食ひ、我払へば恐縮す。 東豊書店にゆき『鴉片戦争文献彙編2』とり、払ひせんとすれば1,200足りず、またといひ、中国音楽やるといふ東大修士に「家へ来よ」と名刺わたし、12:30出てecho買ひ、小田急出口へゆけば築島博士まちをり色々話し「楽しかった。鎌田女史には気をつけよ」と云はる。出てelevatorに乗り「ルネッサンス展」見ると11回で下りれば会場わからず、書籍売場にて『翻訳の世界(540)』、『アルトハイデルベルク(180)』、『朝鮮民話集(400)』にて残金300.(※省略) 急ぎ帰りて角力見る。高見山勝つ。(※省略) 角川春樹氏より『句集カエサルの地』贈られ、早速源義氏との交渉まじへ礼状かく(けふ小田急にて角川文庫3冊あるを見し)。 (けふelevatorにて亀井孝に遭ひ「飲まんか」と誘はれ「宿酔」と逃げる) (※省略) 22:00「辛酉考」5×400かき了る。(※省略) 5月23日 よべ業績card作り1:00眠り5:00小便にて起きる。ユやかましく叱る。 戸田謙介氏に「辛酉考」届けにゆく(※『民間伝承』原稿)。受取らる。 花井タヅ子氏来り、坊や(※省略)一度よこせといひ、(※省略) 佐伯にて『家族社会学(100)』、『小説帝国大学(200)』、『京都(100)』買ひ『三遂平妖伝(11,700)』受取る。(※省略) 14:00津幡かおる生来り、全然できず(※省略)、プティ・パレへつれゆき(※省略) 帰りて角力見しあと高円寺へゆき瀬見氏に大宅壮一の本探させしもなく、『討議近代詩史(700)』買ひて(※省略)、神学大学生つれ帰りハイネ見せしもわからず『使徒の友』見せればわかりしと(富山の人にて大学は出ず竹森先生に習ふと也)。21:00すぎ帰りゆく。靴ボロボロなりしとユの話なり。(※省略) 5月24日(日) 5:30さめ7:00起床、夫婦とも礼拝休む。午食し川久保に電話して「行く」といひ『日本案内記』もちて出しところへ大林博士お越し、『長屋大学』賜はる。 うれしく只一つある「詩経の草木2」の抜刷わたし茶菓供すれば飲み食ひしたまふ。うれしかりし。 (※省略) 送り出して川久保家にゆき東坡を宋人、廬山を蘆山としある刷物を訂正す。 「書原」にて『本朝二十不孝(350)』、『閉ざされた原語・日本語の世界(830)』買ひし。ふと気づき荻窪まで地下鉄、岩森書店にゆけば未亡人をり。『日本案内記』そろひしと喜び4,000くれしゆゑ、『サムエル書(1,000)』、『シルクロード謎の民(1,600)』、『娘巡礼記(700)』、『明治大正風俗語典(1,000)』買ひて金なくなりしをわが著『李白』にsignし「このみちを」書けば1,000呉れ、今夜息子と来るとなり。電話教へ「区役所前で」といへば夕食前19:00電話かかり、(※省略)我家に訪なひ伊東静雄関係一切売れば息子8万円と(いろいろ見せ『コギト』のそろひに驚きし)。 夕食せずプティ・パレにつれゆきしは『中国の自然と民俗』1冊やれば5冊6がけにて買ひくれし故、誤植表copyにゆきしなり。(※省略) 息子、中央大経済出とわかる。ユ雨傘もち来りしを理由に出て途教へ、21:00夕食し『果樹園』のハンパcardすませ、山口基のくれし『炫火』の歌その他をもcardとる。23:00入浴後、(※省略★)。 5月25日 cardかきに熱中し3:00までねられず。2:40眠剤1服追加。7:30起床、9:00すぎ山住dr.にゆき正己先生の『教壇上の文学者』いただき『中央アジア事典』呈す。 佐伯へ寄り『インドネシアの民俗』、『信長公記』買ひ、日鮮関係の本3冊600で売る。(※省略)10:00岩森書店につけば母子ともに起きず女主人出しに礼いへば娘まづきcoffee出す。1万円もちゐし故、大気にて大法螺吹き芸術院会員河盛好蔵氏に電話すれば「風邪にて面会できず」と。11:30になり地下鉄にのり小田急南新宿にて下車。新本屋通り抜け東豊にゆき借金2千円払ひ『中国近代史 上下(1,480)』、『中国近代革命史(840)』、『満文清実録研究(3,800)』、『辛亥革命先著記(680)』、戚維翰『李白研究(300)』、岑伸勉『唐史餘瀋(560)』、『百草験方(1,800)』、『呂后其人(230)』、『中國的古代社會(380)』、『沙皇俄国侵略拡張史(270)』、『英使謁見乾隆記實(訳)(640)』、『中華民族拓殖南洋史(860)』、『偽満洲国史(1,280)』、『清朝初期的八旗圏地(900)』、『林則除伝(840)』、『中国民間戯法(250)』、『老年工生(240)』、『小説三談(350)』、曾迺敦『鄭成功(140)』、『革命先烈伝(430)』、『西湖佳話(700)』、『鮮卑史(1,600)』と買ひまくり15,000の借金払ふ。 『アミ語彙』、『中共婚姻法』とりよせよといひ、ラーメン(250)食ひて出、新本屋にて、梅棹『東南アジア紀行 下(360)』、『シナ思想と日本(竹中にてなり)』、『本朝二十不孝(350)』、『閉ざされた原語・日本語の世界(830)』買ひて(※2冊は5月24日記事と混同?)傘忘れice-cream食ひて引返せばあり、南新宿より南阿佐谷につきあわてて下車。傘また忘れしに気づき引返して改札にいへば荻窪終点に電話して「あり18:00までにとりに来よ」と。思案してうつぎ書房に寄り一休みし『世界分図8ソビエト連邦(100)』、『豊臣家の人々』、『日本地名語源事典』、『沖縄語辞典』にて9,600と。 ユに電話して1万円もち来させ払ひすまし400もちて荻窪また岩森にゆき「休み月曜」とて(6,450)の本包ませ近々とりに来るといひ、帰れば「山本氏より度々電話ありし」と。われよりかければ「帰宅」と。あとにて自宅よりかけ来り「風邪ひいた。100枚よんだ云々」と。 蔵原惟光氏より『野鳥の賊』送られ、喜んで礼状かく。(※省略) (誠心堂宅に電話すれば夫人出て「申込み承る」と丁寧なり。) 5月26日 よべ眠りつき悪く『果樹園』の見なほしやり、2粒のみて2:00眠り7:00さめ9:00出て地下鉄のsilver seatにて若き女立たし「坐って下さい」といへといふ弁護士と名刺交換す。金沢良雄(※大高旧友)知りをり。 成城堂にて本買ひ10:20教室をまちがへて笑はる。学科もまちがへ教科書なしにてすます。(※省略) 和田久徳氏来り、図書館の案内してよきや関戸事務長にきけばお茶大図書館長なればよしと。すみて民俗研究所事務室につれゆき柳田文庫・堀文庫の書目ただでとり、(※省略) 駅まで重き本運んでもらひ南口へゆけば高田瑞穂とび出して来る。 向ひに坐りしは岩本章にてwhisky水割りでのむうち高田・岩本出てゆく。 向ふに山田、大山、戸張の3教授ゐる方へ移り、山田部長と鎌田と上原の3人が反対にて不名誉教授の宣言し、 佐久間、五十嵐らの方へ移り、佐久間より良きタバコもらひ「この次はわれおごる」といひ、 下りの3君と別れて各停に乗り(※ここまで飲み会と混同?)、 梅ヶ丘にてふと気がかはり麥書房へ暗き中をたづねたづねしてゆき、戸を叩けば夫人「お上がり」と。 上りて水もらひ、わが詩集(※手書き『嶺丘耿太郎詩集』)copyにて8月31日(※誕生日)跋文にして出してくれよ、「四季とコギト」は書き直すといふうち、 21:00すぎ2度ユに電話し阿佐谷にて蜜豆と瓜と買ひて帰着。23:00入浴後、丸に電話すればタバコのみ酒やめ早ね午起きと。 「木曜16:00whiskyもちゆく」といひてすむ。0:00すぎ薬のむ。(※省略) 5月27日 8:00起こせよといひしに6:00さめ7:00美紀子に電話し「金曜留守番に雅子淳一よこせ」といへば「宜し」と。 8:00岩森書店に電話し若主人に「すぐ来い」といへば14:00来る。 保田與重郎、複製『四季』(4万円と)、クラウス、その他にて16万円置き喜びて去る。 1万円もちて10:30出、成城に11:00着き、中西博士に「雄略天皇のこと」copyす。 まづまづの出来なり。昼食半分し、山中教授に「名誉教授の可たのむ」といひ、「かえ歌」与へれば喜ぶ。 (※省略)早めにすまし(「茶のみにつきあふもの手あげよ」といへば女生2人手をあぐ)待てど来ず「まただまされた」と帰らんとすれば「研究室の前にて立ちゐし」と。喜んでこの間の中国料理屋にゆき、あすの予約たのめば「先約あり」と。(※省略) 向ひの古本屋にゆけば主人82才と。娘しきりをり。(※学生に)何か買へといへど買はざるゆゑ100円の本1人1冊与へ、大急ぎで成城大へ帰らし、ゆっくり見て『春信(1,000)』など買ひ16:20文化史研究室にゆき、榊原副手さそへば在室の4年生男女つき来る。よくゆきし2階にゆきてice-cream食ひ、眺望よくなくなりしを知る。払ひすまし(1,600?)、 (けふ成城堂にて子供向きの本3冊、『江戸語の辞典』『日英韓旅行会話』など買ひ6月10日のbonusののち払はんといへば女主人「よろし」と。2万円近く借りあらん) 鈍行に榊原副手と乗り豪徳寺下車。別れて古本屋に入り『憤死』買ひ、(※省略)線路沿ひに10分矢野家に着きbell押せば庭掃除しゐし夫人出て「すぐ帰る、仏前に」といへば「孫帰りゆきしばかりにて汚し」といひしも案内してくれ(※大高旧友の故矢野昌彦に)線香あげて一礼。 茶一杯をといひ、(※近所の)西垣脩夫人に電話すればゴチャゴチャいふ故、一度切り、も一度かければ来る。 矢野夫人立会の上にて(※西垣脩の)死亡の時も知らずといへば「新聞すべてにのせし」「わたしは動転して(※先生に連絡する等)気がつかなかった云々」、「(※遺稿文集に)西垣脩の『果樹園』同人たりしことのせよ」といへば「鈴木、鎌屋(※糸屋鎌吉のことか?)、小山に任せあり」と。3悪人そろひしといへど「主人は(※先生の)悪口申しませんでした」ときかず。 これにてすみ、矢野の霊前にて大高寮歌歌ひ「京王ならば新宿まで90円」ときき「戸締りに気をつけよ」といひのこし、新本屋にて『世界の愛唱歌』見つけ、向ひの古本屋にて旗田巍『朝鮮史』買ひして、ユに「上高井戸にあり」と電話し、準急にのり明大前にて急行に乗りかへ洋弓もつ男子に矢野明子のこといひ、下車すれば新宿三丁目。改札にて「120円追加」といはれ「うっかりのりこした」といへば「引き返せ」と親切にいふ。喜びて引返し、新宿まで京王より賑やかな地下道におどろき21:00帰着。 夕食するうち「金曜美紀子暁子をつれて泊まりに来る」とのことに電話2度し、「来るに及ばず」となる。 ユ大分おとなしくなり「喜んで箱根にゆく」となり。 (※本日誤解が解けて)判明せしは鈴木亨、吉祥寺(※の自宅)に来しも(※自分が)病気とて(※夫人が)追ひ返し、西垣(※逝去)の時は小山(※正孝)電話かけ来しもまた病中なりしと。(※この日の記事「躁」の影響多し。) 5月28日 4:30放尿にさめ日記かく。そのまま寝ず7:00に美紀子に電話し「あす泊りに来ずとよし」といへば喜ぶ。 われは雅子、淳一に泊りに来さすつもりを、美紀子暁子をつれて来るつもりなりし也。 『果樹園』のcard作り、わが作多きを知り、二郎の愚なること兄とは格段なることを知る。 9:30すまし髭そり髪ととのへ曲り角の喫茶店にゆき紅茶のみてmasterと話してのち成城へゆき、榊原副手ほめ、紅茶出されしあと(※省略) 森岡博士に遭へば「12:00より民俗学研究所にて学科会。後任きめる」と。舌打ちして(※省略) 5分おくれて学科会に出ればすでにはじまり、新城氏不在。(※省略) ついで後任の件となれば「新城氏不在にては不可」と西山博士。 われ「東大とちがひ本学は20年来後任を退職者が決めるが例。田中宣一は大藤氏の指名、森岡博士は堀博士の遺言、西洋史の松君は4人の候補あげられし3人目にてありし。鎌田先生さうでせう」といへば「ハイ」と。今日はおとなし。 ついで「新城先生図書館にても見つからず」と榊原副手。忘れて帰宅せしならん。これにて後任問題は後まはしとなり、2人の(※退職)記念号いかにすべきかにてまたもめる故、来週11:30より再開と。 12:30散会。(山田部長、平山博士に後任については旧来の陋習破れといひ、平山黙って学科会にもち帰りしを西山博士痛罵す!) (※省略)4生と桜子にゆき津端ところてん、青木と我と氷小豆、鳥海は他を食ひ2,000にて釣り来る。 駅前から電話すれば応答なし、新宿へゆき(ユ、われ出しあと(※佐伯書店にて)『酉陽雑俎3』買ひ『織田家の人々』は「うつぎに返せ」と、ユそのまま置いて区役所にゆきし尚子と数男に遭ひ、別れて佐伯にゆきしと也)※意味不詳。 (桜子より電話すればユ出て、ついで丸木電話に出て「丸より14:30に帰るといへば「ダメ」といひし」)東阿佐谷(※?)より丸家探しあぐみ、紅茶のみ「電話局の通りの云々」と丸夫人(桑原武夫博士に保田との絶交せしこと速達す。成城郵便局より也)に次の次の通りなりし。丸にドナリつけ高蔵寺温泉思ひ出さず煦美子帰宅。自動車にて送ってくれプティ・パレにゆきユに「傘もて来い」といひ『中国の』2,250にて売り21:00帰宅。0:00臥床(2粒のむ)。 (※この日の記事も「躁」の影響あり意味不明多し。) 5月29日 また4:30さめて起床、朝食して居眠りさめれば14:00。 昼食し川久保に電話して来いといふ。(※省略)1日まちがへて川久保来しと色々話し「荻窪古書展にて手に入れし教授要項、半分は津田左右吉先生ならずや。滝川先生(※瀧川政次郎)に問はん」となり。 ユに滝川夫人に電話せしむれば「けふはダメ、あす13:00電話せよ」と。 (※省略)プティ・パレにつれゆき喫茶後、高円寺へ駈足にてゆき球陽に「見積りに来い、も一軒見積もらし高い方にせん」といへば「おことわり」と。「然らば絶交」といひ(※都丸書店の)瀬見氏訪へば不在。書置きして帰宅。 夕方瀬見氏に電話(※省略)、20:00瀬見氏来り『民間伝承』その他にて2万円。書庫見せれば欲しがりて28,500置きゆく(ユ知らず)。時に1時半民俗学は初号その他不足にて価つかず預りとなる。 5月30日 よべよくね、さめて9:00。散髪、前にて切らんと注文す。すみて10:00帰宅。 (※省略)滝川博士に電話すれば夫人「どうしませう、飯前なのに」と聞こえしも博士出て「14:00来よ」と。その旨川久保に云ひ、着物袴にて川久保家へと13:00出、汁粉屋からかひ川久保に30分前に着けば電話中。長きに腹立て「いい加減にしろ」といへば夫人おろおろす。15分前necktieし来り、われに怒る。はじめてのことにて驚き「それならゆくな」といひ、先立てばついて来り、うろうろ途まちがへ14:00かっきりに着き、呼鈴鳴らせば博士迎へられ、わがもちし『律令の研究』に署名賜ひ、川久保に名刺出ささる。われは博士の名刺の裏に署名せし也。 30分して別れ乞へば夫人門まで送らる。大石まで歩き1万円近く本買ひ、夫人に都丸の自転車にて送ってもらひ、小便してゆけば『民俗学』ありし。 34?足らずと。喜びて20:30送りたまへといひ、プティ・パレにゆきwhiskyのむ(280!)。 ユに電話せしあと山住閣下に滝川博士の言伝へ帰りて堀夫人(※堀多恵子)に電話すれば「俊彦と二人にてゆきしと」云々。ユ帰りて山住正己氏にあやまり川久保夫人にあやまりしあと、potageの用意してのみかけしところへ瀬見氏来り、ユを叱れば出てゆく。「あすの着物だめよ」とのすてぜりふなり。 (植村先生(※植村清二)に11:00桜台駅にて待合せ約す)。(※省略) (午、誠心堂より21,200本送り来る。ローウィ『原始社会(5,500)』、『通過儀礼(2,200)』、『華僑の本質(3,500)』、 『太平洋民族志(3,000)』、『印度古聖歌(7,500)』なり。) 伊東の妹また狂気して写真送り来り、まきらのこと云はず去年の姉の愚著(※江川ミキ著『おりおりに願う心』)2版となりしを送り来る。不快なり。 すぐ返事かき「尓ゆゑ伊東詩碑見られず」といふ。加藤姉弟も同様なり。ただ神学生三羽、主のみめぐみを祈り来りありがたし。 5月31日(日) 7:30に夫婦さめ10:00家を出てcopyし、本屋にて買ひ、10:00南阿佐谷より四谷まで地下鉄、海運clubへtaxi(400)。会 場に着けば八木幹事と夫人。 まもなく近藤東来り、大木実(わが詩の摸倣すと)、野田宇太郎、最後に小山正孝見つけ「一度来よ」とどなれば福田清人の乾杯にてわれちょっと飲み、ついで神保マイクよりはなれて故人(※阪本越郎)の詩よむ。 我「次の会あり」といへば次にあてられ故人の遺徳いひ落涙す。 用ありと退席、Hotel New Otaniのtower40階に昇りelevatorと同じだったClarence Barbara Page夫妻をlunchに招待、大いに喜ばれアメリカへゆけば来れと。 記念撮影、別れてtaxi拾ひ池袋。歩行者天国、西武百貨店のtoiletに入り、桜台下車。 植村先生に電話し、まつ間に台湾産のマンゴー(200×3)買ひてまてば先生taxiでお越し、taxiまたお拾ひになりお宅へゆけば床あげて書斎にてお話し、例の書物は箭内亙先生にてはなし「榎にきけ」と。榎に電話すれば「あす9:00文庫出勤」と。「10:00ゆく」といひ先生と代る。 (※辞去して)天丼屋に1ケ注文して松本家。夫人出て「さあさあお上がり」と。 善海の霊前に手観音経あげ、讃美歌「み国へゆくと思ひつつも」歌ふ。 (植村先生『楠木正成』、『神武天皇』、『日本案内記 上』賜ふ。) 依田君帰り来り夕食となりわれpeppermintのみつつ名歌集歌へば「のど自慢で優勝確実」と。4人合唱しゐるうち巨人広島戦見つつ依田君に「巨人負けよ」といひ、televi切れ、依田夫婦と環七通り近道教へ、本多家にて下車。 依田夫人に「家教へる」といひ扉あければユ、礼云ひcake1箱与ふ。 われ松本夫人に安着電話す。(※省略) 6月1日 4時に起き、5時半にユと口論「また入院か」と也。9:10山住dr.にゆき薬かへて貰ひ、 帰宅して三つ揃ひの背広に『蒙文聖書』、『中国の自然と人間』5冊もち阿佐谷南よりtaxi拾ひ東洋文庫に11:00着き、 挨拶に「金1千万円や5千万円位ならいつでも集めて見せる」といへば榎主事喜びて総務部長呼びて聞けば「10億必要」と。 これにてすみ、午食に天丼わり勘にてとり(650)突然「研究員にしてやる。もしわしに叛いたら即刻解雇」となり。 われAtlas Sinensis(※中国地図帳)101頁以下(※copy代)計算せしめ8万円ほどとなる。天理の5千円に比べて高きにおどろく。 出てtaxi拾ひ神田へつき雑本買ひ重がりて山本書店。若主人客と話す間、台湾人と筆談、面白くすごす。(※省略) その辺りの本とりあつむ。すみて計算して貰へば7~8万円らしく浪費癖つきしを知る。 軽き包みもち、あとは郵便と也。(※省略) 帰りて考へれば榎、鎌田重雄と仲好く共著の教科書出せし也(我は森克己を脅せし話す)。 林富士馬氏より「元気にて佐藤夫人の主治医」とハガキ。堀氏より抜刷3冊もらふ。(※省略) 面白き一日なりし。堀君にと1冊包む。硲君思ひ出し哀れとなる。植村先生に報告すれば面白がらる。 (※省略)(けふ山本より松本夫人に電話すれば(※松本善海蔵書)三田(※慶応大学)その他に大部分売り研究所に残りしは雑本。わが西康省などのみ2階にあること判明す。) けふ買ひし地図の整理すませば0:00近くなる。 6月2日 8:20さむ(ユ起こせしもダメなりし)と。9:10家を出、南阿佐谷にてユのつかまへしtaxiにのり成城着(2,000)。1時間目歌うたふ。 (※省略)大学院3人そろひ、ここにても歌謡を講じ、14:20の「東洋文化史」も大方歌と質問にて進まず。16:30榊原副手さそって中国料理屋見れば休みをり。(※省略) 榊原生が梅ヶ丘下車といふに麥書房へゆけば「あす18:00来る」と。山本とぶつかるもよし。(※省略) 6月3日 9:00さめ成城大学へ休講を届け、近藤東への手紙出し、電気屋よりラジオ付きカセット買ふ(17,000位)。 午食すまし13:00山住閣下宅にゆき老衰の候著しく「もう来ず」といへば奥様「またお越し」と。 (プティ・パレに榎への手紙のcopy2通とる)。(※省略) 17:30夕食して18:00来し麥と喧嘩し、中公事業から詩集出すこととなる。 ユ(※麥書房主人を)送りかたがた佐伯へ寄れば歯科医へゆき留守と。ユ、本もち帰る。『東洋画題総覧(欠1)』その他なり。 20:40瀬見氏来り『民俗学』6万円にて買ひ、欠1冊われもちゆくこととなる。 宮崎智恵女史にユをして電話して『日本歌人』の送付断れば「ダメ」と。 6月4日 けさ6:00さむ。昨日の日記かく。財布なく(※省略)山住dr.に(※省略) 欠勤命じられしもきかず地下鉄、小田急にて10:50着。 佐伯、都丸支店の電話かからずsemiを津端を除く3生飲茶園にて14:00まで(歌唱ふ)。 学校へ帰り教授会中途にて××周年記念号60pの漫画入れるとの原案に不賛成となへ「賛否!」といへば部長「少数と認む(挙手)」と。何が少数なるかはっきりせず次の会にて問題とせん。但し我のには諸同僚のご参加たのみ快く受け入れられし。新城博士いよいよ耳遠く、舟越君に挙手せざりしを責めれば「何に挙手するか不明なりし」と也。 東豊書店に寄り1,000円買ひ、泉康順の息子つれ帰り奇縁に驚く。 夕食して話さんとする最中、今井、井上2女より(※電話)、泉令息と青梅街道にてtaxiひろひ千鳥淵のFairmont Hotel着。21:00二人迎へて喜び喫茶。 (※省略)Der Kongresstanzt歌へば2女「しづかに」と。boy頭「会議は踊るでせう、どうぞかまはず」と。 wineのみ2女より古稀祝1,000づつもらひtaxi拾ひて帰宅。 2女、わがざれ歌、例のキノウヘミドリ式横側の即製なり。帰りて夜食入浴眠る。 6月5日 4:30さめdr.にのどぬってもらひ、佐伯へ本代返しにゆきcard屋の女主人を家につれて来る。 午后高円寺へ駈足でゆき山本實氏16:20来るをまつ。(※『蘇東坡』原稿につき)「赤壁賦を読み下しにせよ、あとは宜し」と也。 プティ・パレにつれゆきwineとbeerと650おごられ19:00すぎ帰宅。 雑本(※エロ本)買ひの癖やまず。 けふ榎より「(※川久保悌郎が古書展で入手した講義録)わからず。松井等博士の国学院の講義ならずやまにてみよ」と。バカらし。 6月6日 7:30起床、9:00山住dr.血圧125-85。薬もらひ足ぬり着物袴にて東洋文庫へゆき(taxi)3,000払へば喜び、 榎主事に会へば「只今国学院関係中」と。田中克己君は先生の仰せに従ひしと。 呆れて物云はず、天ぷらそば(500×2)おごり愛想尽して図書室のぞけば(榎は白国(※ベルギー)を知らざりし)竹田竜児みつけ(74才)誘ひ出してtaxiにて東大前で喫茶。 本郷三丁目より地下鉄にのり阿佐谷中までカバンもち、小田急展にゆくと帰る。 プティ・パレにゆき福地さんに羽織袴見せ、電話かけ往診してもらひ、帰れば158-85大したことなしと。 竹田家へ電話し鮎子さんに会ひたしといふ。入浴23:30就寝。 6月7日(日) ペンテコステ、先生の指導にて夫婦とも休む。6時より散歩、高円寺へゆき瀬見氏に「10:00来い」といへば「来る」と。 瀬見氏は9:30来り『十通』もちゆき、(※省略)鳥海さんつれてプティ・パレにゆきtoast食べ茶のみ、帰りて「七夕」やらせ18:30夕食、21:00までガンバらす。 母上に夏の宿世話たのむ。(※省略) 6月8日 6:00ユと朝食すまし8:00ともに出て我は成城、(※省略) 田中正俊10:10来る筈なるも来ざる故「ゐばるな」との手紙はさみて出、 成城駅につけば鳥海生をり。ユと2人会社にゆかせ我は東豊。最後の購入、古本屋やれとすすめ近所にて喫茶。ユ来るを待てば来り1万円呉る。一部東豊に払ひ、国鉄にて水道橋、専修大学前へゆくまで麦茶(90)買ひお茶出してもらひ火傷す。 そのまま山本書店にゆけば店主「例の原稿あす朝もて来る」といふ。色々の本借金して新宿をへて帰来。 疲れてしるこやにて氷しるこ(800)食ひて帰宅。 昼食して16:00より21:00までね、(※計画中の)詩集0(竹森)1(田中)2(中公)3(西川)4(山本治雄)5(河村)6(高橋重臣)7(藤野)8(守田)9(岩崎)10(福地)(田村春雄)と予約とるとす。あとはゆるゆる。寒気しあす2時限休講届けす。 6月9日 8:00さめ(夜半に目ざめしと)朝食し、学校へ休講の通知し、郵便局へ中公の校正、ユ出しにゆき(山住dr.8:30往診、注射したまふ(熱39℃)。夜半に遺尿せしと也)。 午ねして11:30copyとりにゆきしに河野夫人来り12:30-13:30までひるねさし、この頃講義ふまじめといふ。15:30帰りゆく。 ソノちゃん5冊送る(750)と。(※省略)東城書店に本注文す。 わがままなる一日なりし。瀬見氏23:00帰りゆく。保田・伊東のハガキもちゆく。 6月10日 1:30放尿にさめ『小学館世界原色百科事典』より、あす鳥海生と夕方来る小泉凡のこと。(※祖父八雲について)写す。(※省略) 9:00山住dr.。先生30分電話、待合室満員なり。 帰れば弓子来りユを庇ふ。ユ10:30帰り来り『小泉八雲集(新潮文庫)』新聞店にて見つけしと。 瀬見氏来り、プティ・パレにつれゆきcopyさす。帰りゆきしあと18:00近くなり、 角までゆけば小泉凡と鳥海生と来るに遭ひ、つれかへり春夫、森亮のこといへばみなありと。 (※讃美歌)284合掌して帰りゆく。22:00鳥海生入浴する。 6月11日 3:00さめそのまま眠らず6:00起し朝食後2時間鳥海生教へ、佐伯へゆき本買ひやり撫子(350)蕪(650)買って帰宅。 11:00昼食くはし瀬見氏(※都丸書店)まで歩き2,400本買ってやり、吾が本も買ふ。 (※請求)3万5千円渡され精算あとでと、家まで本送り届け、プティ・パレでcopyすます。(※ここで鳥海生辞去?) (15:00より17:30までひるね)福地さん18:00来る。京大の蘇東坡研究史を吉井氏呉る(※吉井和夫『蘇軾研究文献目録』)。 滞貨の修理すます。 筒井護郎に電話すれば「中風なほり歩けるやうになった。夫婦して来よ」と。「7月夫婦にてゆく」といふ。 けふ三井銀行に入りしbonus(※省略)本多さんよりもらひし花、ナナカマドと。 6月12日 20:00にねて4:00さむ。7:30より10:30までひるね。大雨の中山住dr.にゆき105-78血圧。ゆっくりねよといひ足のむくみに薬つけたまふ。 夜まで細き漢字よみ疲れしところへ奥井正子夫人16:00来り18:00夫待つとなりユと出てゆきユ19:30帰り20:00夕食す。 大憤慨すれど答へず柏井に電話かしらず、田中栄太郎に祝をユいひ、中山正子、高橋重臣に詩集の予約とる。 6月13日 6:00さめ8:00まへ長尾忍(※故長尾良)夫人に桜桃忌に出んと誘へば「宜し」と。 山住dr.に外出禁止を命じられ家居。プティ・パレにゆけば福地夫人ゐず。 15:30福地夫人、帰途寄る。上がれといへどきかず。 (※再度同日の記事) 雨。7:30さめ8時間ねつづけしと。9:00山住dr.、10:00瀬見氏来り『果樹園』やり、欠番プティ・パレへとりにゆく。福地夫人ゐざる故休業。 カレーライス(600×2)食ひプティ・パレへ電話しユとゆき紅茶のむ。 福地夫人に『日本の詩歌』貸す。東城書店より3万6千円(3冊だけ来る)。 15:30より19:00まで午寝。夕食し種子呉れのハガキユにかかし、東城書店へまた注文。 瀬見夫人、南3-48に住む由、うそならん。 6月14日(日) 礼拝休む。11:00鳥海生来る。うた教ふ。12:30津留来り、16:00重久来り、鳥海生のsemi出来ず。4人にて狐うどん・そば食ひしあと鳥海生とプティ・パレにcopyにゆく(1,890)。 疲れてsemiやらずカセットにて軍歌と讃美歌きく(21:30)。 6月15日 よべ2:30さめ、1時間してね、9:30さめ(ユとカヨ子と8:00pão食ひしと)。 朝食し、津留に速達し鳥海生に七夕教へ11:30昼食し、(※省略) 15:30瀬見さん来り『果樹園』(10×230)もちゆかる。 山本實来て(※『蘇東坡』原稿)20枚もち去る。(例の教養printもちゆく)。 夕食後、電話して瀬見さんにゆきほぼ1万円買ふ。帰りプティ・パレまで自動車、21:00瀬見さん来られ精算すむ。 長尾夫人より「桜桃忌は19日12:00ごろ迎へに来る」と。 中公文庫『日本の詩歌24』を「680×2,000出す」と。 6月16日 6:00さめ7:00着物を着、袴つけ8:00大通りでtaxiつかまへ成城へゆく。 途中、入歯忘れしに気づきユに電話すれども出ず。美紀子にたのむ。 (美紀子、母と弓子に電話せしと。ユ9:00現はれ入歯わたす) 2時限むちゃくちゃにやり、学長に会ひにゆき鎌田の姓のこといへば新民法では「どちらの姓を名乗りてもよし」と。 大山俊一氏より賀状来りしを云ひ、誘ひしも来ざるゆゑ1人にて中華料理食ひにゆき、成城堂の払ひきけば1.3万円と。金なくなり大学院へゆき3人によませ河野夫人より1,000借りる。 ついで4時限、これもむちゃくちゃにて歌うたひすます。 吉越生(小泉凡、わが詩集にsignさし、祖父八雲とかきしも曾祖父なりし)taxi拾ひくれ、2,100(※帰宅)。 小泉凡より礼状来りをり。中山正子より詩集買ふと。 17:30夕食して眠剤のまずねる。(山住dr.へゆき、薬ぬりたまふ)。 西山博士より『大江戸の文化』賜はる。 6月17日 4:00さむ(よべより8時間眠りし也)。眠剤のむことも忘れし也。(※省略) 9:00山住dr.へゆき足の治療受け靴屋(佐藤)と喧嘩して2階の喫茶室でice-coffeeのみ(300)警察にゆき新課長に報告し、機嫌直して登校。 昼休み高木京子夫人来り、(※省略)桜子へつれゆき汁粉おごらる。 われ本、好悪まぜて贈り再見を約す。も一度帰校。(※省略) 書原にて色々本買ひ足の治療に山住dr.へゆけば水曜午后休み、折しも鳥海生来り、きげんよく話す。賑やかにて宜し。 けふ垣内先生より便あり立原の未発表書翰は堀内(※麥書房)にゆきしと。 電話せしに不明と。「あす17:00ゆく」といひてすむ。就床22:30、鳥海カヨの入浴すみてなり。 6月18日 9:00さめ山住dr.、ついでカヨ子と出て朝茶のみ11:50よりの学科会。 すみて舞古堂(※)へゆけばかよと塩沢生とのみ。すみて払ひ(2,000)すれば津端生来る。 14:00すまし豪徳寺の古本屋にて千円買ひ、麥書房にゆき堀内さそひて家に来させれば(※所蔵の立原道造書翰)2通未発表とわかる。 プティ・パレでcopyし、帰りゆく。19:00かよ子帰り夕食すみて『果樹園』の整理す。21:30すむ。 6月19日 8:30起され散髪にゆきcopyし11:00来りし長尾良夫人と話し、カヨ子と3人にて桜桃忌にゆく。 わがもちし山岸外史の出版記念会写真かりゆきしものあり複写しさる。 弘前高校2人のあと、われ太宰の小便の話(※)し、すみて長尾夫人、木山捷平夫人の話にて逃げ出す。時に16:00なり。夕食入浴後、カヨ子宋代の七夕に入る。バカでもなし。 (※伊藤佐喜雄と太宰訪問の折、家から出しなに自宅の生垣に放尿した話。) 6月20日 9:00さむ。11:00プティ・パレへカヨつれゆき、ついでcopyにゆき(2回)山住dr.へ(※copy)投げこむ。 高円寺へゆきしも瀬見氏をらず『大唐の春(500)』売れ残りをり。帰りまたプティ・パレ、ついでユをプティ・パレにゆかせしに福地・村上両夫人話中にてダメと帰り来る。 われ3度目にゆき「一度来ることを」福地夫人約束す。 高田瑞穂へ来いといへば「ダメ」、川久保にいへば「20:00すぎ」と。ことわる。 6月21日(日) 礼拝休む。仮本1万円近くありカヨ子借りてもち帰る。『川柳雑俳集』うれし。 15:00高木京子来り、男児3人と18:00までをり。夕食くひ21:30就寝。 6月22日 寒し。よべ2:00尿に起き8:00さむ。カヨ子9:00すぎ起きる。プティ・パレにゆき午ねし、17:00さめ夜来りし創価大出の木村方彦といふ福山出身の男と話す。22:30喜んで帰りゆく。 6月23日 8:00さめ9:00カヨ子起き朝食あとにしユ、山本へ払ひにゆく。11:30高田瑞穂来る。雨止む。(山住dr.にゆく)将棋さし2度まける。 6月24日 2:00さめ6:00さめ登校10:30。3時限早くすませてヱンマ帳おきゆく(都丸へゆき製本たのみし)。 15:00帰宅。プティ・パレへゆき帰宅。(※省略) カヨ女17:00帰宅。夕食し七夕やりをり。電気屋来り直しくる。父母とわれら呼びゆく梅さんの幸のみ祈る父となりぬ。 6月25日 2時さめ7:00起き9:00カヨと共に登校。11:30より「記念論文集2冊出来る」と。 以下は座を立たされ、喫茶し12:30舞古堂にゆき500円の飯くひ、塩沢より100借りて香買ひ氷しるこ食って帰る。 カヨ子17:00すぎ帰宅「あすゆく」と家へ電話す。 6月26日 よくね、9:30さめ朝食。散髪(1,500)にゆき羽田、浅野晃に表紙かき(120 ×2)山住dr.。先生「(※息子の)正己先生よみし」と。 11:00(※鳥海生の実家に)出発、千葉行にのる。切符なくし木更津に下車。十合へゆき本買ひ、小食、切符なく420円買ひ足し亀山に着けば母上迎へに来たまふ。 22:30まで歓待、茄子旨し。父上善雄昭和7年生れ(※省略) 歌うたひ、ユ祖父上と話し、われ父上と「戦友」うたふ。カヨ笑ふのみ。21:00姉さん帰宅。あす6:00出勤と。 6月27日 7:30さむ。よべ安眠す。善雄、みつ子、孝、まつ江、みさえさん一家に歓待さる。 写真とり午食出され、孝氏帰宅を待って(※省略)盆栽見てまはる。(※省略) 出発15:30木更津発川崎行のフェリーに乗る。霧にて眺望よからず16:40着。 busにて川崎駅、南武線登戸(230×3)までのり17:30帰宅。(※省略)よく眠る。 6月28日(日) 8:30起さる。夫婦にて久しぶりに礼拝にゆき会費と献金。午ねし15:00さめ、柏井へゆき夫婦に会ひ、息子にも遭ふ。 帰り千円もちて『幻の草薙剣と楊貴妃伝説』、『シンガポール脱出』と買ひ、残金220。 一番街の古本屋にて2,100約束して帰宅。(※省略) けふ留守に大林太良博士より『熊の頭蓋の儀礼的掲揚』置きあり。牛尾、上村肇2氏に『柳樽』(※抜刷「柳樽に見える中国」)。 6月29日 8:30さむ。プティ・パレにゆき福地夫人にあふ。(※鳥海生を)Meine liebe Tochter(※我が愛する娘)と教ふ。 鳥海孝氏一同に礼状出す。山住dr.にゆき『果樹園』を呈す。ありがた迷惑の如し。 母をり神経痛と。ちょっと寄り逃げ帰る。午后苑子来る。 われ『夢声戦争日記』ほか2,100もち帰る。暑く30℃に近し。18:00かよ女帰宅。 6月30日 8:00さめ9:00出て登校。(※省略)4時限目は出欠とりしのみにてJe suis fatigue!(※私は疲れている)と書く。小泉これを訳してすみ、高田瑞穂に電話してゆき酒菓のもてなし受く。 雨中帰り浅野晃氏よりの受取り見る。(※省略) 7月1日 8:30さむ。かよ女さめ飯にpão食ひ了へ(※登校、) 1年の東洋史、康熙帝までゆく。試験せずといへば喜ぶ。(※省略) すみて汁粉(氷)くって帰宅。(※省略) 浅野晃氏より「大菩薩峠」の大傑作なることをいひ来る。川柳選するといふ林富士馬氏に『川柳』(※抜刷「柳樽に見える中国」)送る。 7月2日 雨。舞古堂へゆく前Album写真とり、皆に「家へ来い」といひ、別れて教授会。 研究室より図書館改築すると。榊原女史と各駅停車にてホテルセンチュリー地下2階にゆく(taxi380女の子払ふ)。 ガブのみ。高田、臼井、大藤、栗山名誉教授の紹介。 (※鴎外孫の)山田爵教授になれなれしく話し類さん(※鴎外子息)のことまでいふ。 早く出て榊原副手に千日草(500)送りbusにて帰宅の前電話し『岐路に立つ台湾人(200)』探し20:30帰宅。 成城堂夫妻にて『中国農村慣行調査』もち来る。ユ迎へにゆき払ふ。 7月3日 雨。荻村生「14:00来る」と電話。下痢し山住dr.にゆく。雨とて外出せず。 14:00荻村栄氏来り10月6日松本での婿入りの仲人たのまる。 「前日に出て浅間温泉に泊れ」となり。喜んでひきうける。 かよ女に川柳の「七夕」よませ猥談す。躁なり。 『宋元通鑑(3,500)』、『北京案内記(5,500!)』来り送料とも9,800と。 7月4日 終日無為(ユ、本代払ひ呉る)。田中順二郎氏よりお中元。 7月5日(日) 礼拝休む。鳥海かよ子おきて午寐のふりし、juiceぬかせしところへユ帰り来る。 長島氏の長老就任式ありし由。中元ユあて2つ来る。 かよ子水曜来ると下宿へ出てゆく。気楽となる(やはり気にせし也)(※さきの猥談?もしくはjuice勝手に飲んだこと?)。 7月6日 無為。青木生来る。 7月7日 よべ眠薬2倍のみ眠くてたまらず。地下鉄にても疲れ、小田急でころび、シルバーシート立ちくれず。 やっと3時限すまし津端生と同車。南洋の華僑とせよとすすむ。 7月27日の横浜のHotel代立替へしと也。 7月8日 11:00登校。栃尾君と語り一年の講義きくものなし。いやになりすぐ止め(※省略) かよ生より消息なし。けふ母風邪にてたほれしと。ユ、依子に電話す。10月6日のこといひたり。(※松本での披露宴出席後名古屋行) 7月9日 8:00さめ下痢。9:00山住dr.。足のきず瘉らず不快なり。14:00過ぎ登校。大学院会議はじまりをり空回りし15:00すぎ了る。(※ 省略) 帰れば、かよ生来てをり安心す。けふ大学院の会ありしこと失念、榊原副手よりの電話にあやまる。 7月10日 下痢直らず。午食の雑炊殆ど食はず。午までかよ生の史料よみ疲る。牛尾三千夫氏より古き調査記録来る。 7月11日 散髪にゆく。11:00かよ女出てゆく。13:00塩沢生来り孫文伝よりその前かきたしと本貸し、書けといふ。19:00かよ女料理より帰り来 る。 7月12日(日) 礼拝夫婦とも休む。下痢して食へず体重減る。咲耶来り歌の先生の詩集もち来る。かよ女にかまはず。高橋重臣氏よりAtlas Chineseのcopy来る。 7月13日 かよ女、国へ帰ると11:00出てゆく。ユ母のところへゆく。心配なき様子なり。山住dr.足瘉らず下痢といふもかまはれず。 ユへ京「来てくれ」とのこと也。(※省略)午、冷房して一眠りする。仕事できず。(※省略) 7月14日 ユ、京のところへゆく。山住dr.「も少し」と也。瀬見氏和歌山の土産もち来る。森明美生より「魯迅と木版画展」やりゐると。 7月15日 ユ、母のところへゆく。心配いらざるが如し。山住dr.足も少しと。鬱やや軽く本よむ。 20:30津端生、東洋文庫(※入館)につき印もらひに来ると。高橋君に「幾何なりや」と問ふ。 7月16日 6:30さめる。山住dr.も少しと。津端生来りし故、東洋文庫の印押し立替2万円わたす。 7月17日 暑し。山住dr.「も少し」と。冷房に入り本よむ。(※省略)夜、高橋重臣氏より「copy代2万円」「暑くて呼べず」と答ふ。 7月18日 暑し。冷房す。ユ画習ひにゆく。15:00プティ・パレへ久しぶりにゆく。冷房涼し。ユの画、禎子をかかんとす。 7月19日(日) 夫婦して久しぶりに礼拝に出席、長島長老がわが前に坐る。暑く34℃と。何もできず。 7月20日 山住dr.。午まへ宇井、白水2夫人来りてユと話す。我に口はさまさず。堀敏一氏より『川柳』の受取。「丸山薫詩碑を建てる会」に5,000送る。 7月21日 山住dr.2度診て下さる。伊藤とくよりこれんの戸籍写し返せ云々。けふも30℃を越す暑さなり。 7月22日 山住dr.へゆけば17:00再来せよと。 昼食後プティ・パレに田中家戸籍写しにゆき帰れば川久保来てをり、明後日成田発、北京、長春、吉林へゆくと元気なり。(※省略) 7月23日 よべ2服めのみ9:00さむ。ユ怒り出てゆく。 山住dr.にゆき帰りて(※大学へ)下痢申し立て「榊原副手に今夕の野口君の会欠席を伝へよ」といふ。事実下痢す。 (※省略)藤野一雄氏より川崎教授『湖畔の花と実』送らる。東方学会会費4,000に価上りと。 7月24日 山住dr.にゆく。やや宜しきらし。午后瀬見氏に雑本売りにゆけば2,500に買ひ呉る。プティ・パレで喫茶。けふは涼し。 (※省略)夕方また山住dr.。むりして藤野一雄氏に「礼と詩集やめた」。伊藤徳子に「copyした。甚城墓へは参った」。 夜、鳥海カヨ子より「就職にて来れず。27日桜木町にゆく」云々。 7月25日 涼し。山住dr.夜の分はユに托さる。プティ・パレにゆきしのみ。 7月26日(日) 下痢なほりしか。礼拝欠席。散髪にゆき待たさる。野口武徳氏に(※欠席の)わび状かく。 7月27日 静江母、山住dr.の帰り寄りゆく。風邪なりと。13:30出て国鉄渋谷。東急桜木町へ15:00まへつけば青木生をり。 津端、鳥海、塩沢の4生そろひ、鳥海、塩沢とtaxiにてサテライトホテルといふへつく。冷房きつく2生のbusにて来しと会ひ、関帝廟へゆき喫茶。 17:00すぎ横浜大飯店といふにゆき夕食。4人前にて4,000近くづつ払ふ(中華民国国歌合奏のtape買ふ。3,500)。 Hotelへ帰り20:00個室へ帰り隣室4人にてbeerのむをきき0:00までねられず。 7月28日 6:00さめ8:00朝食。津端のみ700の朝食くふ。2万円足らず予約金を返してもらひ、呼びしtaxiにて桜木町(660)。 340にて阿佐谷帰着。疲れてものも云へず。弓子3孫つれて来り将棋さし克次朗にも負ける。夜21:00すぎ眠る。(※省略) 7月29日 8:00さめ下痢。山住dr.にゆく。膏薬夜のみ貼れと也。プティ・パレにゆきしのみ。イギリス皇太子結婚とて終日televi。 7月30日 よく眠れど鬱。プティ・パレにゆき瀬見氏まてど来ず。福地邦樹君より詩作しをりと。 7月31日 かよ女来り、泊る。 8月1日 史、2孫つれて来る。プティ・パレへにげてゆく。暁子可愛くなりをり。 帰れば母のところへゆきしと。史はわが一番の苦手なり。かよ女素麺もちて帰りゆく。瀬見氏に電話すれば「礼金いらず」と。 8月2日(日) よくね、山住dr.。何もする気なくて困る。木下より暑中見舞。瀬見氏にゆき3冊製本してくれしを受取り『鳥居龍蔵全集索引』を礼とし、帰りプティ・パレ。俊子姉来り、スミ子入院、3児は宗教団体に預けしと。。 8月3日 弓子3孫つれて来り、克次朗わるし。帰りしあと(母のところへゆきしらし)川久保より電話。来て土産呉る。 夕立あり。(山住dr.にてほぼ宜しといはれ体重42.5kiloと計らる。) 中央公論社より文庫代1.9万入金せしと。(※省略) 8月4日 無為。暑中見舞の返事3枚かく。 8月5日 西垣脩文集(※『風狂の先達』)来る。夜、依子より衣類その他送り来しにユ電話すれば泰ら来ると。 8月6日 阿佐谷七夕祭。プティ・パレにゆく。暑中見舞の返事もかかず。 8月7日 暑中見舞の返事5枚かきプティ・パレにゆき無為。京のところへ弓子の3子泊りしと。 8月8日 外出せず。午后、京5孫と来る。禎子バカでもなきやうなり。小林夫婦来り、健太郎泊めるとつれてゆく。 8月9日(日) 9:30さむ(稲田6:00来り眠りゐると)。京、禎子を置きて三鷹吉祥寺へゆき午后おそく帰り来る。健太郎もの云はず。平仮名よめると也。 15:00稲田さめ飯食ひ17:00母のところへ寄ると出てゆく。 8月10日 プティ・パレにゆく。槙眞澄氏(太宰桜桃忌主催)より礼状。島野彩子より暑中見舞。平山博士より『民俗学の窓』贈らる。 8月11日 入浴2回。外へゆかず。愛場君「かくを止めし。あなたはドイツ浪曼派と瀬見氏よりききし」と。 鬱のかず。夜、ユ電話すれば「泰、望明日来る」となり。(※省略) 8月12日 平山敏次郎博士へ受取かき13:00来し泰、望を見る。外出せず高校野球を見る。泰あす帰り望はしばらくゐると也。 青木生より「14日14:00ごろ来る」と。 (愛場君きのふ「瀬見氏よりドイツ浪曼派とききし。もはやアジビラかかず」といひし)。堀口嘉子夫人より「学者の妻つらし」と。 8月13日 泰、望吉祥寺へゆき、弓子に世話となる。京2孫つれて来しも遅刻して会へずと。哀れなり。 小泉凡より「詩集できたか」と。高円寺へゆき瀬見氏に会ひ『サンスクリット辞典』2冊売る(1.3万)。 17:00宏一郎つれて2孫かへり、ユ18:00宏一郎つれて出20:00帰来。(※省略) 8月14日 望ぐずり夕食くはず眠る。6:00さめ(※暑中見舞 省略) 11:00泰出てゆく。14:00宏一郎迎へに来て望と出てゆく。 青木生来り、阿片戦争の史料よます。17:00までをり「先生必ず卒業さすといひし。高野山にて讃美歌4人で合唱せし。仙台の七夕には4人ともゆきし云々」。 けふ殆ど書信のとどこほりすみし。プティ・パレにゆく。母よりユに電話「克己元気な声なりし云々」。 丹波(※丹波鴻一郎)より「8月30日阿佐谷にてわが古稀祝す」と。鬱といひて拒む。 8月15日 9:00さむ。終戦記念日として3組に分かれて参拝のほか女の反戦運動あり。 望、三鷹にゆきて泊り久しぶりに夫婦のみとなる。 8月16日(日) 三鷹より京のところへゆきし望迎へに出てゆく。われプティ・パレにて紅茶注文すれば少くなりをり。 望帰り来りグズり飯食はず。依子に電話し話させばおとなしくなる(買ひ来し本の怪奇画本なるにおどろく)。 われこの間躁の時、重久、津留呼びしとなり。近ごろのこと皆忘る。不名誉教授覚悟し、築島博士の本よむ。典型的なる日本人なりしを知る。 8月17日 8:30さめ、ユ望をつれて山住dr.に診察してもらひ、朝食せず東京駅へ直行す。依子に電話すれば11:40に乗りし云々。 われ下痢2回。(『民間伝承321』に「辛酉の年」のす)。咲耶より歌集送り来り、歌になりをり。(※省略) 17:00山住dr.にゆけば血圧100越し大腸カタルと薬賜ふ。「孝道と法律」かくこととす。 8月18日 下痢。山住dr.へゆき薬もらふ。(※省略)  「孝道と法律」かかんと思ひ果さず。下痢止まず、よべより昔の雑文よみバカらし。 8月19日 下痢止まず、家居。 8月20日 やや暑し。下痢。(※省略) 松枝茂夫氏より『陶庵夢憶』もらふ。張岱なる明末清初の詩人の文集の祖なり。「植物は志村嗣生氏による」とあり。 プティ・パレにゆき西荻よりの中老の女と話す。 8月21日 下痢とまり痒み止めの薬もらひに山住dr.にゆく。午后プティ・パレにゆく。老女の番なり。 山本實氏へ「3月まで『蘇東坡』待て」とハガキ。津端生より「勉強してとりかへす」とハガキ。 8月22日 また少々下痢。ユ画にゆく。台風接近。われ『ビルマ戦記』2冊よみ牟田口中将に遭ひしこと思ひ出す。老人診察票来る。 8月23日(日) 軟便。台風北海道までゆく。14:00散髪にゆく(途中、大林博士に遭ふ)。台風被害方々にあり、東海道線、新幹線ともにとなり。 8月24日 下痢。外出せず。松枝茂夫氏へ受取ハガキ。 8月25日 時々雨。下痢やまず。弓子3孫つれ土産もち来る。 8月26日 本よむ。軟便。(※省略)televiにて「南方熊楠」見る。青木生に電話して「アヘン戦争かけ」といふ。鳥海カヨ子はつかまらず。 (集英社より『白楽天』10版500部2,700×500×0.09=121,500支払と来る)。 8月27日 『郵政』編集部より速達にて「白楽天」一首の解釈400×4かけと。(※省略) タバコ買ひにゆき佐伯に寄りしのみ。 8月28日 28℃、軟便とれず。外出せず。「死刑と孝道」とをかかんとす。鳥海生電話に出しも「来い」といへばはかばかしき返事せず。 8月29日 9:00さむ。軟便。ユ画にゆきしあと腹痛下痢。磯岡哲也生より「修士論文かきゐる」と。護・神田・岡田・松村4氏『北アジア史』。 8月30日(日) 下痢とて外出せず。鬱しをれば15:00ごろ瀬見氏来り、ゆっくり話してくれ収まる。 むりに本売り(7,000)、もち来し北海道の菓子わる口いひてくひしとユに注意さる。 8月31日 よべ1服半のみ軟便。(※省略) 中国の孝道かかんとしてかかず。プティ・パレにゆけば「お久しぶり」と。 けふ暑く冷房入れる。中山正子、誕生祝の電報くれし故20:00電話すれば全家不在らし。(健太郎より「おぢいちゃんおめでたう」の電話ありし) 9月1日 軟便のなかを中山正子に礼状。松村潤氏に礼状かく。けふ34℃也。(※省略) 20:30速達にて『郵政』の原稿400×4を10日までによこせと。 9月2日 苦心して『郵政』の係に電話して返信料つきの封筒送ってくれといふ。題も「林間に酒をあたたむ」といへば「宜し」と。 軟便承知して(土曜検査との由)プティ・パレにゆき福地夫人に腹立てさす。 瀬見氏をり『平家物語(500)』買ひ、茶のみ「ひとり娘北海道にあり」ときく。(※省略)。 9月3日 朝軟便。午后下痢。『インパール作戦』よみふける。山住dr.にゆき下痢止めの薬もらふ。台風の余波吹く。愛場君、速達の封筒配達し来る。 9月4日 軟便。昼食し16:00瀬見氏に会ひにゆき茶のまず帰り来る。『郵政』あすかくこととし、 アメリカ留学20年後の女学生のtelevi見つつ20:00すぎ荻村雅子に電話すれば「祝いらず」と。(※省略) 9月5日 8:00すぎおこされ8:30山住dr.に夫婦にてゆく。「尿に蛋白あり心臓は大丈夫」と。ユは「心臓少し弱し」と。(※省略) 午食となり卵食ひ、ユの画にゆきしあとプティ・パレにゆきcoffee(280)飲む。福地夫人機嫌直しをり。 (※省略) 夜、西山博士に野口氏への祝のこといへば「もうすんだ」と。 9月6日(日) 9:00まへ起され(よべ2服のみし)礼拝また欠。仁井田博士よみ三公八母にひっかかり『台湾外記』にあるを見る。 寒く、炬燵つけたり消したり。24日よりの登校気にしをり。(※省略) 9月7日 便よし。聡子来り、午食もち来る。外科の帰りと。11:30河野夫人来り『燕京歳時記』同英訳もち来り「七夕」のcopyさせしと。500円のcastillaもち来る。 散歩と称してプティ・パレ。けふは母子でやりをり。瀬見氏不在。『中国の自然と人間(2,200)』買ひもどす。 きのふ佐伯にて買ひもどせしとにて2冊できる。(※省略)三父八母考にて困る。(※省略) 貝塚茂樹の『中国の歴史』上中流しよみし、いよいよ困る。荻野父より10月6日の案内状。(※省略) 9月8日 河野夫人より『三国志演義』愛読、諸葛亮に関し誤2ありと電話。終日臥床。寒し。湯川博士逝去と。貝塚博士の弟なり74才と。 夜、雨。『郵政』編集長より「原稿受取りし云々」。 9月9日 寒し。山住先生へゆけば鬱とれる薬賜ふ。午后プティ・パレへ寄り瀬見氏に会ひロシア語出来る青年に遭ふ。 台湾独立を唱ふる本(300)買ひ来り半分よみしのみ。(※省略) 9月10日 よべ12:30、2服めのみ9:00さめる。大林博士、本たまふ。花井タヅ子より「長沖先生の遺稿、中央公論10月号にのりをり」と。(※省略) 9月11日 涼し。昼食。宮崎智慧さんより「来てよきや」と。青木生来り「阿片戦争」につきまづまづ書けをり。1時間半程して帰りゆきしあと宮崎さんと「同病相憐れむ」といふ。 村山高氏より「大高野球部の会へぜひ出よ」と。「ノイローゼにてゆけず」とかく。(※省略) 9月12日 22:00就寝せしもダメ、2:30また1服のみダメ。山住dr.にゆき帰りて11:00より12:00まで眠り昼食。 (荻村雅子より2人の生年月日、家族かき新宿10:00発と松本名古屋間の特急券送り来る)。 9月13日(日) ユ、画にゆきしも戸田夫人病気と。夜、荻村家へ受取りの電話ユがかける。 われこのごろかはりしと偶然会ひしプティ・パレの福地夫人いひしと。(※省略)(石川喜代子より10月24日の結婚式に出てくれぬかと)。 9月14日 よべ2服のみしもねられず4:00ごろより眠り9:00さむ。けふは晴れたれば(※省略)昼食後、高円寺郵便局へ大高名簿代3,000振替にゆく。 神田先生(※神田喜一郎)より『芸林談叢』賜はる。恐縮至極なり。(京あす父の日とて来ると)。 9月15日 よべよく眠り10:00さむ。11:00弓子3孫つれて来り、13:00京2孫と来る。禎子ヂイチャンバアチャンとやっとわかる様なりしらし。 (※省略) 石川喜代子は「24日12:40白金プリンスホテルへ来よ」と。(※省略) 9月16日 よべ2服のみ9:00さめ11:00すぎ(※山住dr.にゆき)尿、血液も採らる。(※省略) 肝臓病の疑ひあり。紀要の原稿かくこと思ひ止まる。「三父八母」のみわかり他はわからざればなり。 9月17日 眠れず、4:00ごろねつき10:00さめる。午后待てば14:00ごろ吉越笑子生来り、京大和へ旅行せし土産として奈良漬と甘味呉る。 16:00すぎ帰りゆき、日の暮れの早くなりしに気づく。 ユ山住dr.にゆけば(※自分への診断)胆嚢炎とて安静命じられ薬賜ふ。(※省略) 9月18日 青木生13:00来り、糸へんの書き方「小学校以来故かへられず」と。(※省略) 川久保より電話「羽田18:00来る。20:00つれてゆく」と。20:00電話して「胆嚢炎。来ずとよし」といふつものを「あとでゆく」とのこととなる。 20:30来りwhisky供し川久保より恨みきき、22:00池内博士夫人お見舞に来しと四谷に去る。 その際問はれ「墨汁」は漢語なることすぐわかる。 9月19日 10:00さめ朝食、ユに山住dr.に尿もちゆかせ羽田に「墨汁『中文大辞典』にみゆ」との速達出さしむ。 畑山博氏(※北区在住時代の知人)9.9逝去と。 「鑑」にカン・ガン2音あり『京大日本史辞典』は「鑑眞」に「ガンジン」とふりがなす。 14:30戸田画伯に電話かけ悠紀子呼びて昼食、外は小雨らし。17:30夕食。困り果てる。(フランスにて死刑廃止と) 9月20日(日) 8:00起され朝食、ユ礼拝にゆき我何らなすことなし。21:00羽田より電話「ハガキみた。東川徳治氏のcopy送る」と。 9月21日 山住dr.へ10:00ゆけば「大分よくなりしも入浴不可」と。鬱しをり、(※省略)今中十九期生会へ欠席通知。 村松正俊氏、老衰にて逝去と86才なり(東洋大学にて話合ひし)。(※省略)石川喜久子より電話「あす午后来る」と。 9月22日 山住dr.より電話なし。(※省略)美紀子より電話あり「史、糖尿の気あり」と。 14:00石川喜久子来り、10月24日までに体直れば出席、発言許せ、送迎のhyreいらずといふ。美しくなり物慣れしをり。 (※省略) 榊原副手より電話「25日より始業」と。山住dr.より「大分よくなりし」と電話。 9月23日 野口君へわび状と祝1万円速達せしむ。『睡虎地秦墓竹簡』一覧す。役に立たず。年号につき所功氏『日本の年号(年号法昭和54年成立)』により書くこととす。 9月24日 所功氏のおかげで困る(中国の年号の起来の調べつかず。武帝の建元、元光は怪しきなり)。 ユ「ことわれば」と平気なり。羽田より三父八母の東川徳治説、送り来る。 9月25日 8:00朝食「中国年号考」あきらめ「中国の母」かきそむ。東川徳治『中国法制大辞典』改版ありしことわかる。(※省略) 健太郎「転宅す。日本の内」と。 9月26日 10:00ユ尿もちゆきしあと山住dr.へゆき採血さる。体重41.5kilo「多分通学可」との仰せなりし。鳥海生より「書けず」と。 早川恭子生より「関野陽一氏と11.23(月)16:20明治記念館で披露」と。 9月27日(日) 早川家へ夫婦にて出席すと返事す。日中雨ふりしも暖し。終日「中国の母」かきつづけ本文36枚となる。 9月28日 よべ2服足してのみ8:00さむ。「中国の母」混雑しながら唐・金すます(51×200)。14:00青木信子生来り史料の写しみせる。汚し。あす図書館にて本借りたしと。 「14:00講師室へ来い」といふ。23:00前、予習ほぼすむ。 9月29日 8:00さめ9:00出て(※省略)定期買ひ登校。(※省略)昼食時間まで栃尾氏と話し、比類なき愛書家と感心す。 午食すまし大学院へゆけば河野夫人と磯岡生のみ。外池生ゐず。(※省略) 高田瑞穂君来り、(※省略)別れて帰宅すればユ不在。(※省略) 9月30日 登校。栃尾氏のbibliomaniaなるに感心す。11:30lunch食ひ了り、(※省略) 桜子へゆき餡蜜食ふ(380)。 ユ鍵忘れしをとりにゆく間ねころび、帰りしあと葡萄食ひ「中国の法と母」は元をとばし明に入り62枚。あと清代にて100枚に近くならん。 野口博士一向に姿見せず。仕方なし。昨日より講師室に旧姓森(マスコミの副手)来り、よくきがつく。 夜、鳥海生「あす就職にて欠席」。けふ学校へもちゆきし万年筆なくなりし。 10月1日 10:00出て11:00前登校。pão11:30食ひ了り11:50学科会。最終講義を1月9日やる。記念号の締切は10月15日など、いやなことばかりきまる。 12:30まで待ちしに誰も来ず、野口博士共著の本呉る。 12:40までに図書館へゆき野口君にともち来し『中国の自然と人間』寄付す。(※省略) 疲れて教授会、新学長に(※省略)安藤良雄教授を理事長推薦せんと。来って挨拶す。(※省略) すみて一散に帰宅。横臥しをり。台風にて今夜よりあす朝まで雨。(※省略) ユ、万年筆落ちゐしを見つけしと。これのみうれし。 10月2日 7:00さめ朝食し、9:00山住dr.、尿異常なく血圧も異常なしと。伊藤清司講師に『「花咲爺」の源流』の礼状かく。 ユの出てゆきしあと高円寺の都丸支店にゆき瀬見氏よりB.V.Boldyrev 『Kategoriâ kosvennoj prinadležnosti v tunguso-manʹčžurskih âzykah (1,000)』を買ひ、ついでに見まはして『歴史の中の日本と朝鮮』、『北京の史蹟』と『古代の朝鮮』とを買へば最後はdoubleなりし。 プティ・パレあかずユの置きしsandwich食ひ、佐伯へ注文にゆけば恰も『酉陽雑俎4』来をり。(※省略) 『巨大古墳の世紀』、『華僑(改訂版)』とを買ひ、プティ・パレあにゆけば御隠居さんをり(※省略) 帰宅の途、船越苑子に遭って留守中の郵便受のことたのむ。 『北京の史蹟』よみ了り、面白かりし。夕食まで「中国の母─法と慣習」かき直し本文200×32までゆく。あすつづきかかん。 けふ久しぶりに佐伯にゆけば東洋文庫『酉陽雑俎4』来てをり(※再出)「5もたのむ。」といひて来る。 夜、美紀子に電話し、この間のわびいひ、鳥海かよ子に電話し、来週木曜来よといふ。あまりよき返事せず。 10月3日 7:00さめ朝食、ユ銀行、山住dr.にゆく。われ懸命に「中国の法」かき唐令を了へ、ユに先だって出てプティ・パレ。 瀬見氏より『東洋学の創始者たち(800)』買へば釣銭100円なりし。帰宅。(※省略) 21:00疲れて「金の法律」あと一条を残してやめる。 昭和56年10月 4日~昭和56年12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 10月4日(日) 6:00さめ、ユの9:00礼拝にゆくを送り出し「中国の母─法と慣習」一心に書き、 ユの12:30帰り来しを見て、一休みに散髪にゆき、背広着て矢代写真館にて9日18:00出来の半身像とってもらふ(4,800)。 それよりプティ・パレ。帰来また論文かき夕食せしところ、某氏より 「保田與重郎氏けさ11:30肺癌で死去。密葬は6日大津の義仲寺で」とのことに「行けぬ」といへば、某所よりまた電話。 「保田とは」とのことに「大天才。Hölderlinで論文かき、竹内好の魯迅好みとはちがふ。我は双方の中間」といひ、 保田宅へ電話したく林富士馬に電話すれば「通夜に行った」と。 西川(※西川英夫)、丸(※丸三郎)、倭(※倭周蔵)に電話すれば「大高名簿は手元になし」と。倭、兼清のトキコの電話教へくれし故、宿直に兼清の電話きき電話すればはじめて嵯峨の電話わかる。 電話すれば男の声にて「通夜密葬にゆけぬこと承知、本葬は18日桜井で」とのことに、 ふと思ひつき16日嵯峨の霊前に参り、その日筒井(※筒井護郎)に泊めてもらふこととし 「浪中の田中」と電話すれば筒井「何だ、先生だったのか、16日午後阪急南千里にて下車。電話せよ」と。 荻村雅子よりユに「草履もて来い」との電話ありし。 ユ、6月朔わが書きし「三島由紀夫の斎主せしにつき説明せねば絶交」との手紙見せ来る。書きし覚えなし。 長尾夫人(※長尾良未亡人)は「明日ゆく」と。宮崎女史(※宮崎智恵)は「ゆかず」と。様々なり。 「元典章」「明代律例彙編」「慶元條法事類」のあと「大清律例彙輯便覧」にて終へる予定なり。 10月5日 6:00さめ朝食少し食ひ、ユの山住dr.にゆくに先だち新宿駅へ8:50着。9:00の松本行の出発を見る。ユ9:35来り9号車の指定席にのりこみ10:00発。 八王子にて売り来しsandwichにて昼食すます。ユは甲府売りの高原野菜(200)食ふ。13:00すぎ松本着。 新郎新婦迎へに来をり、下浅間のうづらの湯に案内され媒妁の辞、即座にかき一見せしむ。 2人のhyreにて出しと同時にbusにて駅近くへゆき、ユはdept.。 われは『浮世絵牌画展(1,800)』買ひ、古本屋細田書店にゆき新本(わり引き)古本にて6冊買ひ1万円以上払ひ、 bus間違へて終点まで着き親切なる老女の口ききにて中浅間まで引返し4-5軒先の下(汐)浅間うづら亭に着けばユ、帰りをり。 夕食とり荻村栄氏来らぬ故、われ入浴、ユ入浴中20:00荻村氏来り、ユはあす8:30着換にゆき、 われは尾崎ひろ子(欧州文化元副手、挨拶に来る。新宮より来しと)、有田ジュン子の2女生と9:30までに教会へhyreにてゆくこととなる。わが挨拶文、荻村氏見もせず帰りゆく。 10月6日 6:00さめ7:20にユを迎へに自動車来り、ユ高砂殿へゆく。われ、尾崎有田2生と9:30ごろ松本カソリック教会着。 10:00夫婦そろってかと思へばわれ新郎のあとにつき新婦には栄父上つき、新郎新婦のあとに坐り、 讃美歌のあとで説教、誓ひの言葉よみしあと指輪交換。新郎にはわれ新婦の指輪わたす。 ユ新郎の指輪わたし結婚成立書に2人署名捺印し、あとわれとユと同。 高砂殿なる料理屋へゆき両家それぞれ待合室にゆき13:30挙式の前に盃事あり(神主はをらず)。 記念写真とりて、われ、新郎、新婦、兼親(本家長男)夫婦、ユの順に入場。 先づ我ら夫婦起立、mykeの前にてわれ仲人挨拶し祝辞あり、従弟の文化女子大学教授荻村昭典理事「昨日3人会し、 嶌野学生会長よりわがことききをりし」旨(あとにて挨拶に来らる)。 着換と余興と壮んにて16:00すぎ終り、ユ着換へして来れば、本家の長男夫人の指図にてhyre。 2人荷物もちつき松本駅着。ホームまで荷物6ケはこび呉る。 これ只一つ嬉しき事なりし。17:13発の特急に乗れば堀川父母同車なりし。19:00すぎ名古屋着。 明日の上り切符はもはやなしとのことに、本包みユ預けにゆき、我依子、望と地下鉄、星ヶ丘まで迎へに来よとの電話せしあと星ヶ丘、 泰も来てをり2人にて自転車で荷物はこび呉れ10分ほど依子に案内され新居に着く。 澄、吐き下しとてをり。2孫に5千円の小使やり23:30眠り、ユおくれて眠る。 10月7日 6:30さめ、泰すでに登校。望、犬の散歩させしあと登校。9:15来しhyreにて名古屋駅10:00着。 土産買ひ10:33発のひかりにて、われはsandwichを昼食し13:20阿佐谷着。 ユ先に帰らし佐伯に荷物預け、よろづ屋にて原稿用紙2冊、card買ひプティ・パレにゆき福地夫人と話して帰宅。 河野弘子に「かつがれ」につき教へ、 17:00すぎ西川に電話「坪井、相野、山本(※坪井明、相野忠雄、山本治雄)ら通夜にゆきし。汝ゆかざりしは如何に」と。 「松本の仲人にゆきし。16日の本葬にもゆけず」といひてすむ。 坪井に電話すれば「香奠は各自に」と。長尾夫人は「盛大なりし云々」「嬢つれて来い」といへば「近々」と。 留守来し〒は河野夫人より「かつがれる」につき云々。大野新氏よりわが8月31日のハガキ再録の『詩人学校』。  あなたのし わがめわがため開の字の訓をとくより知りしといふも(※不詳) 10月8日 6:00さめ8:30山住dr.へゆけば(※省略)また血採らる。帰宅して身づくろひし9:30出て10:20成城大。(※省略) 昼食にpão食ひ、柳田文庫。播磨より鎌田女史を訪ねて来し柳田国男記念会会長、女史欠勤とわかり帰りゆく。 学科会に西山・新城2博士出ず、(※省略) 研究室にて待てば津端を除く3生集り塩沢生と鳥海生の下書を直し、 雨中「桜子」へつれゆきわれはしるこ。(※省略) 帰宅。(※省略) 10月9日 6:00さめ風呂に入り坪井明に「(※保田與重郎へ)御花料3万円そなへてくれ」とかき、10:00現金封筒速達す。 佐伯しめをり、よろづやにてcard買ひ(※省略)帰宅して「中国の母─法と慣習」昼食前後に200×95として疲れとりにプティ・パレ。 (※省略) 高円寺〒へ藤野一雄氏へのハガキ投函に寄り古本屋3軒にて2,900ほどの有り金100となる。 山水書房にて『よろこび』、『今日の中国』、『新しい中国の顔』買ひ、南の本屋にて駄本2冊、大石書店にて『中国人の街づくり』、『辛亥革命の思想』買ひしなり。 瀬見氏やはり不在にて「もち来てくれ」と8,000余買ひ、本店にて瀬見夫人にも5-6冊「旦那にもち来させ」と買ひ、 残りし100円にて『部落差別と八鹿高校』買ひ全くの無一文となる。(※省略) 吉本青司氏より『ローマン派の詩人たち』贈らる。わが「この道」引きをり。(※省略) 20:10高知の吉本氏に詩論見たと電話せしあと瀬見氏より電話ありし故「月曜以後お出で乞ふ」となる。 10月10日 7:00覚む。晴。9:00より「元典章」やらず専ら「業績目録」にかかり、 午食後John Wayneを久しぶりに見てのちプティ・パレ。山口翁と話合ふ。16:00帰宅。 元代にかかることとす。「業績目録」にて時間とられ「通制条格」を瞥見せしのみ。(※省略) 坪井より電話「相野香奠返されし。君もさうだったら」「預っておいてくれ」にて話すむ。 10月11日(日) 夫婦ともに礼拝休む。「中国の母─法と慣習」まだ元代に入らず。プティ・パレに茶のみに出しのみ。 10月12日 6:30起き7:00朝食。「中国の母─法と慣習」102枚とし、11:00塩沢生来るまへ瀬見氏来り『東西文明の交流』4冊をはじめ雑書数十冊にて2万円と。 塩沢生17:30来り夕食旨がって食ひ、参考書10冊もち(※省略)ともに出て瀬見氏にゆく。途中プティ・パレ。(※省略) 『東西文明の交流』6冊、『下学集』、『節用集』、『朝鮮のシャーマニズム』、『史学・松本信広先生古稀記念』、『徳川幕府と中国法』1万円と。 外側の、『(重し)』美術書2冊とにてへばり、 ユに「迎へに来よ」の電話して10分待ち、(※省略)帰りて入浴。(※省略) (※けふ保田典子夫人へ「ヤスダサンノゴセイキヨヲイタム、ワタシハ病気ニテユケマセン」と電話電報打つ。 坪井より「金着いた。相野香奠断られた。どうする」と電話あり。「きみ預れ」といふ。) 10月13日 6:00起き予習し9:30出て登校。塩沢生に会はず。最後の本棚を山中正剛教授に与へ栃尾氏より紅茶のましてもらひpão食ふ内12:15河野夫人来る。 (※省略)大学院、外池生来をり『天皇を見たか』他1冊喜びて受取る。「臘八粥」すまし12月すめば「死刑」と定む。 2時間目(※省略)私語多きを叱ればしづかとなる。大山学園長夫妻の還暦記念論文集『英米の文学と言語』賜ふ。 疲れしも荷物軽くして17:00帰宅。(※省略)21:20秀吉の朝鮮征伐の理由を考へてわからずに入浴。 荻村栄氏より電話「あす便あり物贈る。娘たちは20日成田へ帰着」と。下調べも中途にて元律一枚もかけず。 10月14日 7:00さめノート「慶長元和の役」を作る。(※省略)9:30出て登校。学園長室へ『中国の自然と民俗』を歌そへて返礼にゆけば不在。 園長秘書に渡し2時間近くを講師室ですごす。(※省略)栃尾氏を「桜子」へさそふ。(※省略)駅まで送られ重荷もちて (※省略)地下鉄荻窪までわざとのりこす。『東城書店目録』よむためなり。南阿佐谷へ戻り角のrestrantにてice tea2杯のみて終る。 ユと入れかはりとなり夕食せんとせし処へ「午后との約束にて」瀬見氏来りHulbert『The passing of Korea(2万円)』売付けらる。 (※省略) 東城書店にNo.17の注文(※省略)成城大学へ個人払ひにてといふこととす。(※省略) 20:00けふ来し漆器の机の礼を荻村家へすれば母上出、父上出て新郎新婦は20日成田着と。 われ高橋重臣君に電話すれば18日夕来て泊ると。(※省略)保田の喪主は長男瑞穂と。自殺せしは何といひしや3男らし。 (我20:00まへ出て佐伯へ暦買ひにゆけば閉めをり新本屋にて『昭和20年8月20日』など色々買ひcard3箱買ひありがね3,000円余りとなる。) 10月15日 6:00尿にてさめ讃美歌285うたふ。7:00朝食とり。 8:30山住dr.。胆嚢炎ほぼ全快と。元の隠居の応接室を使ひ、正己先生電話にて下りて来らる。血圧108-65血液採られてすむ。 登校。(大山学園長ほら吹きゐしと山田部長の説)。sandwich半分食べしところへ諸氏現はる。 栃尾氏より来年使ふと「唐詩選七言」の写しもらふ。きのふの「桜子」の返礼らし。(※省略)教授会。すみて大学院教授会。 (※省略)すみて学科会。(※省略)16:30すみてまた桜子へゆきユに電話すれば早く帰れと。 (※省略)重きカバンをもちて帰宅。杉山博文より岐阜の名産着きをり。 大高クラブより11月に『コギト』につき4枚かけと。『炫火』につき書く、野田先生(※野田又夫)にも書かせよと返事す。 (※省略)けさ西山松之助博士に『江戸』3冊にsignさし(※省略)「常民文化紀要の原稿さう忙がず」ときき、ほっと安心す。(※省略) 10月16日 7:00さむ。原稿のつづき書く。(昨日山本實氏(※山本書店)より「土曜在店、来れ」と電話ありしと也)。 9:30かきかけて森良雄の名思ひ出せず西川に電話してきき安心して10:00高円寺へゆき白川静『中国古代の民俗(580)』買ひ、家出しといふ瀬見氏まち『棟方志功』とあと1冊にて3,000円受取り2万円。 『The passing of Korea』の受取りかかし、『朝鮮の悲劇』、『川口慧海チベット日記』、『鎌田重雄中国仏教史』、『小林英夫諸国語の系統』、Bernard『En Mandchourie et en Corée(※満州と朝鮮)』、梅棹忠夫『人類学周辺』買ひしあと、雑本4冊もちて帰宅。プティ・パレ休みをり。 原稿「死んだ奴ら」(200×12)大高クラブへ送りに駅前〒へゆく。佐伯へに寄りまた本買ひ残金110円となりし故帰宅せしに豆腐屋通るを呼び止めて1籠(90)買ひて昼食す。 『日本歌人』来をり。杉山博文より岐阜の栗きんとんの送り状来をり。宮崎さんに『日本歌人40年』をほめ、 杉山のハガキ消印にて在籍と知りAdressきかんと外池昇に電話すれば母出て帰らずと。5分すればかかりて杉山博文のところしらべると。 その間、神田博士(※神田喜一郎)に『秋澗(※王惲)全集』よむとハガキかく。 10月17日 5:00さむ。6:30朝食。7:00山口基(※山口書店主)に電話すれば睡眠中と。夫人に「11:00ゆく」と伝言たのみ、 8:20原稿117×200として出発。10:10山本書店にゆけば慶太郎店主をり、わがもちゆきし本なしと。double本1,000にて買ひくれ、實氏に蘇東坡来年3月31日までに完成を約束し、長沢博士『図書学辞典』なるもの買ふ(1,500)。 山口基まで歩きて奥さんの通訳にて話す。保田の写真と色紙著書を店頭にかざりをり。 水道橋まで歩き代々木下車。東豊へ久しぶりにゆけば「心配してゐた」と。 『広陽雑記(1,000)』、『故宮四十年(540)』、『済公全伝(1,560)』、『關於唐寅的研究(840)』、『三國演義(1,650)』、『西遊記(720)』、『東華録(1,120)』と安本買ひ高橋君のため『中国地名人名辞典(9,000)』、『近代現代世界名人辞典(16,800)』と買ひ、 代々木より阿佐谷まで運び開々亭前より電話すればユ、咲耶と来り、咲耶は2人の女人迎へに駅へゆき、我は帰りてユのこさへし飯くひてのち咲耶2女人と来りしに挨拶、プティ・パレへゆけば福地夫人をり。16:00まへ帰宅。論文にかかることとす。 夕食ユ先食ひ、待てば20:00近く高橋重臣氏来訪。「6日電話せしも応答なかりし」と。 「松本へゆきゐし。保田の明日の本葬にはゆかず。(※明日は)10:00立原の書翰reprintし「gelbe Sorte買ひにゆく」と、23:00すぎまで話し、別室にて就寝。 10月18日(日) 6:00前覚め、茶飲みpotに湯満し「中国の母──法と慣習」123pでcopyのため中止。 (※省略)copy屋見つけ道造の手紙とハガキcopyすみgelbe Sorte高橋君4ケ買ひ、池袋へと地下鉄に乗る。 帰りて昼食後「元典章」なきに気づき(※省略) copy屋にゆけばあり必要箇所copyすまし 『川柳・解釈と鑑賞(1,000)』、『法における常識』金子にて買ひ帰宅。(※省略)130pまで書き、目見えなくなる。 10月19日 7:00さめ1服しつつ放尿、朝食後「元典章 上」了へ「下」に入る(134×200)。午食し散歩しあすの予習といふ予定なり。 荻村雅子の字にてHawaiiより新婚旅行の挨拶の航空便来る。食後一休みして『中国笑話』駅前新本屋にて見つける。 一旦帰りて300こさへプティ・パレ。(※省略)14:00帰宅。(※省略)風邪気味とて入浴せず。天皇も平熱35℃が36℃となりしとて休む。 10月20日 1:00さめ放尿。野口博士よりもらひし『文化人類学事典』なるもの一覧。学問の体を成さざるに落胆。3:00ごろうつらうつら夢見6:00起床。 土曜糖尿の検査すと山住dr.仰せとなり。体重45kgは病的といふが理由と。8:30立ち乍ら登校。(※省略) 4時間目私語するを叱り、copiをコーヒーと答へし男生のゐるに喜び鐘鳴るまでやり、 小泉凡さそひて桜子へゆけば、われは御膳しるこ、彼は田舎しるこ食ひ、曾祖父Hearn先生(※小泉八雲)の種子の天竺・震旦なることやらぬかといへば、それも考へゐると。 駅前にて別れれば「Dutch account(※割り勘)でなかったでしたね」と。 これにて新宿まで半分立ち半分坐りして帰宅。 長尾夫人より電話あり「(※保田與重郎の葬儀に)コギトの人見えざりし」といふに、坪井に電話すれば 「手紙出した。見てくれ。一般席にて遺族と話など出来なかった云々」。 長尾夫人に電話すれば薬師寺?東大寺?2寺の和上の次にわが弔電よまれ他は数百通と披露ありしと也。 これにて気づき栢木喜一氏あて弔歌選んでのせてくれと20首即吟、あす速達せん。 (けふ西山博士に遭へば原稿仕事、平山氏へと也。) 「元典章」かき出して135×200+note、もう2-30枚はかき、明清は『成城文芸』に「死刑論」としてのすことときむ。時に正0:00。 10月21日 4:20目をさます。小便のためなり。6:00起床。睡眠感なきも朝食後、文禄・慶長の役しらべ弁当もちゆく。旨し。 食ひ了れば10分経過しをり太閤名護屋へ出陣にて了る。ユに電話してすぐ帰るといひ、 途中125円でcopiのます喫茶店にゆき卵sand食ふ。旨きも夕食のため1片のこし425払ひて帰宅。 坪井より「山本治雄来ず。肥下夫人見つからず。弔辞は元京大総長平沢興氏、友人代表中谷孝雄、桜井市長、弔電462通の中わが分も披露されしと。 長男瑞穂は府立布施高校につとめてゐる云々、11月7日の同窓会に貴兄来られず残念」と。 松枝茂夫氏より岩波文庫『浮生六記』の訳賜はる。2氏に礼状かき「元典章」つづけることとす。(※省略) (けさ栢木喜一氏に歌のせてくれと20首速達す。『白珠』にとなり。) (けふ美紀子来り「東京にをれさう」と松茸くれしと也。) ユ、歯痛にて困りをり。 10月22日 23:00就寝6:00さむ。雨降りをり。ユ歯痛忘れて眠りをり。8:00起し(ユよべ眠剤3ケのみしと)、「中国の母」のNo.しるして登校。 (※省略)弁当「松茸飯」くひ了り10分おくれてsemiにゆけば3人をり。(坪井、松枝2氏にハガキ投函。) つれ出して桜子にゆきしるこその他食ひ、カヨつれて帰宅。ユは銀座の展覧会より帰りをり。カヨちゃん機嫌よく22:00すぎてもねず。 10月23日 入浴就寝23:00。1:30覚めて放尿5:00前さめて「中国の母」改稿。ユ7:00前出て来て(※省略)。 山住dr.へ尿2回もちゆき「ほぼ宜しきらし。来週土曜検査す」と。うれしく昼食すませて晴れし空をプティ・パレにゆき2老夫人にからかはれて喫茶後、高円寺の都丸支店にゆけば瀬見氏不在。家に電話すれば津端生来をりと。(※省略) 早足にて帰宅。英語よめざるに寒心し、中国語よんで筆記さす。夕食して「今後は卒論に専心す」と帰りゆく。 われ夕食旨く19:30より「中国の法と女」金代に来って22:00となる。あすユ、クラス会にて9:00出るとなり。 われは13:00の石川の披露宴に出ることとす。 10月24日 よべよく寝、6:30起床。ユ9:00出てゆくとて我11:00目黒行に出発と定む。(※省略)目黒着。古本屋にて文庫2冊(100)買ひ途きけばすぐそこにて白金プリンス迎賓館4階にて(※石川喜代子氏披露宴 省略)。 taxi用意してくれ阿佐谷駅まで乗り佐伯へ寄り本買って金なくなる。 ユ18:00豆腐くって帰り来り、万年筆探すところへ金沢良雄来り、 「西川とし会ふ。あす白浜にての19期生会にゆくに付き、心配なれば来し」と。この間ユ、夫人に遭ひわが胆嚢炎さはぎをいひし也。 大山俊一氏よりわが本の受取。東洋史談話会より11月8日17:30、田中正俊が話す。会費5,000と。出席せん。 荻村文彦雅子夫妻上京、また来ると。夫婦の留守に「電話何度もせし」と也。佐伯より買ひしは『四書五経(600)』なりし。 乗杉さんに東城書店より小包にて『日華大辞典』3冊28,000と『近代中国関係文献目録(23,000)』計51,000来をり。 後者は竹内実(1923-)の項は竹内好の著のりをり、返却せん。市古宙三の責任なり。 10月25日(日) 22:00入浴23:00臥床、6:00さめて「中国の母」金代つづきをかく。保田典子夫人に御都合10月30日-11月3日問合せの速達かき、 田村春雄に電話すれば1日息子の婚礼にて会へずと。筒井に電話すれば出ず。 保田夫人に都合きく手紙かき郵便局へ速達出し、ユをまちて礼拝。歌作る。  わが罪をすべてゆるして迎へます日の来るをば待ちつつあらむ。  仏となり鬼ともならむ他の教われは信ぜずみ国に生きむ。  とことはに命を支へたまふ主の父なる神にまさる神なし。  肺癌となりて死にたる與重郎この聖日にみゆるしを乞ふ。  割礼を受けし博士の野口をばあはれと思ふ死かコーランか。(※野口武徳)  勲章を見せし瑪腰(マヨール※華僑官位)張翁は烏魯木斉(※ウルムチ)雑志喜びて受く。  旧暦の端午の節句ちまきをば呉れし華僑をわれは好みぬ。  阿美といふ愛くしき子はわがために恋人として見合せしめぬ。  鹿あまた放し飼ひせし邸に住む長官はのち死刑となりぬ(カノーネン・ストラート)(※不詳)。  われは歌なれは政治と道たがへ死にし健蔵今はあはれむ。(中島健蔵)  エジプトに骨を埋めし狂ひ子をもたぬわれらは主に感謝する。(※保田與重郎) 佐伯に『中央公論』10月号とりのけたのみ帰宅してJohn Wayne見る。洗濯機、電気炬燵を電気屋もち来る。「払ひは明日」とユ。 今ごろ金沢を迎へて白浜へ古稀翁ども集まりゐるなり。われは「金」すみ「宋」に入らむ。 22:00ユ床につき我No.つけ了る。本文註ともに計200×187なり。 10月26日 6:00かっきり目さまし相良の小杉茂樹氏に『東京四季22』の受取かく。 『成城文芸』にと9:00より「明清時代の死刑─民俗と法律─」かきはじめる。 11:00すぎ大高クラブより3×400コギトのこと書き足してくれと。承知す。 午食後、散歩に出、プティ・パレをへて高円寺。 ふと丸家へ電話すれば「今起きし」と。「echo」5ケ買ひ、つけば(※丸三郎)自力で歩き、顔の死に顔なるにおどろく。 17:00出て瀬見氏に会ひ、出て16:30帰宅すれば5分おくれてユ帰り来る。(※省略) 22:20あすの1時間分了る。23:30予習了りとす。 10月27日 8:30起され9:30出て成城着。(※省略)昼食旨く食ひ、大学院にゆけば磯岡1人のみ。(※省略) 帰宅。『コギト』のことかき23:00となり疲る。肥下の自殺は昭和37年なり。 けふ高橋重臣氏より『天地』の欠号と『金瓶梅』の挿絵ともらふ。夜、電話せしも出ず。 成城堂にて『神々の明治維新』、『歪められた古代史』、『抱朴子ほか』、『邪馬台国と秦王国』、『聖書の植物』、森克己『遣唐使』借りる。(※省略) 10月28日 6:00覚む。ユ7:00起床。ユ9:00郵便局、柏井をへて京のところへと出てゆく。われ『成城文芸』にと「明清時代の死刑」よべよりの分かきつぐ。 ユの出しあと10:30成城大学、民研に『紀要』の原稿平山博士に渡し、学園長に会はんとするれば「けふは休み」と。 (※省略) 1年生出欠とる。(※省略)話しをる1女生つかまへ前に来さし、文禄の役のはじまるところで切り、ともに「桜子」へゆきしること餡蜜。 (※省略)16:30帰れば多鶴さんより『中央公論』10月号来をり。栢木氏より「歌受取った」と。 プティ・パレにゆき茶のみ帰宅。20:00、Page夫妻に英語の手紙かく。たのし。 20:00高橋重臣氏より電話「けさほどは」なりし。夕刊に「芥川比呂志61才肺結核で死」と。よく生きたり。  痩せほそり肺なくなりて死ににける若かりし日の君をわれは知りをり(慶応の学生として西垣脩とともに天沼の家に来し也)。 10月29日 6:00さめ朝飯くって11:00成城着。飯半分食って民研にゆけば平山博士行方不明、結局学科会なしとわかりSkey女史と話し12:40研究室に来し4生の下書き直す内14:00となり昼食半分急いで平ぐ。 我妻健治氏より『神皇正統記』もらひをり礼にゆけば不在。教授会早くすみ(※省略)大学院教授会。(※省略) (けさ保田夫人に電話すれば30日在宅、午后来て宜しとハガキかきしと。わが出し10分あとに速達で着きし也)。 京都の地図買へば900円。なるほど典子夫人の速達にて会ひたき様子。 (山本書店に電話、土曜13:30ごろゆくといへば實君「まちゐる」と)。 あすの「光」は9:14発にて2人2万円にては足らざりしと。(※省略)  はろばろとゆくにはあらず上洛のむづかしき世となりにけらしも。 (※省略)夜、我妻、大山俊一2氏へ礼状かく。眠けれど「明清時代の死刑」200×13までかく。22:00入浴、22:30就寝。 10月30日 尿意のため3:30覚む。そのまま6:30ユ起し朝食。「明清時代の死刑」ちょっと書き、つづき車中にてかくつもりで鞄一杯もちて出、 9:13の「光」に乗り1枚かきしのみにて昼食米原あたりにて食ひ京都駅着。 17:29の帰りの指定席買ひ市busにのれば乗換へさされ1時間1本といふに帰りのbusまでときめ保田邸着。 典子夫人まちをられ身余円融普周僉然大居士といふ位牌写真の前にて般若心経よみやる。 奈良の新薬師寺前に住むてふ老女25才の娘つれて来てをり。 典子夫人とゆっくり話したきに、明石の和上、弟子つれて来り衛生の話す。 来迎寺の和上も京都駅着といふ電話ありし故、典子夫人より『くちなし(※歌集)』もらひ受け、菓子もらひて退散。 瑞穂は布施高校へ京都より通勤、悠紀雄は鷺宮にあり建設省づとめ、直日は何とか禅士と。まほは小手指に住み、もゆらは宇治となり。 京都駅にて1時間ある故、喫茶店にてice teaあつらへ、 羽田宅へ電話すれば嬢出て「父母とも留守、私は2児の母」と。「羽田君、東洋史談話会に出よ」との伝言たのみ、 我はヱハガキ、ユはすぐき2ケ赤福とを買ひ、platformへ出て夕食に鰻飯買ってもらひ22:00阿佐谷へ帰着。 悠紀雄に電話すれば「家賃4万円の公団住宅に住み建設省へ通勤、三日病院へ2児つれゆけば與重郎喜び4日もまだ意識たしかにてまた孫喜びし」と。 「一度お越し」といひて23:00入浴後就寝。 10月31日 6:00さめ快適。留守中にいただきし神田先生の「元典章を湖南博士によまされし。全快祈る」とのおハガキに返事。 高橋重臣君にも「また来宅を」とかく。保田典子夫人には挨拶状(「悠紀雄に逢ひに来て寄れ」)。 ユ9:00すぎ柏井歯科へゆく。われ11:00ごろまで「明清時代の死刑」かき200×18とし、 ユの12:10帰りしに午食pão、すみてプティ・パレに洋服にてゆき「ご立派」とほめられ日本茶(280)呑んで、大通りへ出、 うつぎにて『岩波のむかし話し3冊(450)』、『百万人の文学(500)』買ひて出、 地下鉄のりかへて13:45山本へゆけば主人をり、實君呼んで呉る。 11万円以上にて買ひし『秦法』に雑本合せて1万円(※で売り?)(我妻教授に(※自著を)1冊贈りくれしと)。 『藍海花(500)』、『半坡遺址綜述(2,000)』、『華僑開國革命史料』、『辛亥革命』、『唐大和上東征傳』、『古代清官断案記』買ひ、 古本市にて賑はふ神田うれしく、山口書店にゆき筆談すれば『新修保田與重郎選集 巻ノ一』呉る。 『マテオ聖福音書註解』、『中国神話伝説集』など買ひ、出て地下鉄(※省略)、 新宿まで遠ければ高野のFruits Parlourにゆき満席とてまちゐれば「明いた」と。 隣の女の子さそひてjuice(600)二人とものみ払はんとすれば1,100しかもたず。 彼女に100円払はす(名刺をわたし信用させ、女の友だちの来るをまちし也)。 南阿佐谷着。川久保家へ向へば夫人と遭ひ「主人は娘と」と也。日曜の出席別々と伝言たのみ帰宅。 20:00ごろ川久保より午后の「史学会に出る」と。(※省略) けふは疲れて風邪気味。(※省略) 『孝経参釈』買ひて銭なくなりし也。 11月1日(日) 6:00さめユを6:30起し9:00出て佐伯のあきをるを見て乗車。(※省略)(※礼拝中に)歌作る。  五十年の友のためにと異経(※般若心経)をば捧げし罪をゆるしたまへよ。(※保田與重郎邸にて)  高慢をわれは悔いをりこの友に父なる神を知らしめざりき。  ガリラヤの海の青さはわがゆめに夜毎見れども生きて見ざらん。  父みこを信ずるものら切支丹26人クルスにかけぬ。  聖徒らの群には入らぬわが信の弱きを人は嗤ふなとのる。  わたくしはにせの信者と教へ子と再婚をせし上原あはれ。  み栄えをわれが祈れば聖霊のたえず居ますと幸せもてり。  歌一万つくりて地獄に堕つるをば選ぶといひし父を思ふも。  主に対し不審の者はさらばあれ神の尼にはまことほかなし。  ロザリヨも受洗の名をもいらずてふルウターの派にわれ入れたまふ。  主にありてあだ殺さむと火の雨を降らせし民の罪をゆるせよ。  主にありてともに食らひしランチョンに喜びの文よこせし老女。  道造は弥勒菩薩の像のもと痰つまらせて死にしけらしも。  比呂志はも片肺のみの十年を生きぬ何をも信じぬままに。  るり子てふいとことの間(あひ)二人の子もちしとききぬたしかならねど。(※芥川比呂志)  弔電に何と打つべき聖日の喜びをこそかげらすなやみ。  割礼を受けて日に五度アラーをば祈る教に入りにし野口。 ユのろければ古本屋かけ足にて文庫本3冊買ひ(450)、佐伯にて『中国の文学と礼俗(9,200)』、『辛亥革命(3,500)』、森岡『家族社会(1,300)』借りて帰り、ユより(※省略)前借して児島襄『天皇Ⅰ・Ⅱ』、新村『語源をさぐる』買ひに出て、 『天皇Ⅰ』をよみ、なぜ現人神となりしやを保田とともに考へて「コギトと四季」書き出す。(芥川瑠璃子に弔電打つ)。 11月2日 雨。保田のため『天皇Ⅰ』をよみ、現人神でなきことを彼自ら知りをりしを知る。面白し。 (京大の『日本史』『東洋史』の2辞典、雨中売りにゆけば5,000と。 『Nemetsko-russkii slovar(2,500) V.A.Avrorin(※ナナイ-ロシア辞書)』、黒板勝美『国史の研究各説(500)』、『Nederlands woordenboekje(※オランダ語常用6000語)』、『サイキス・タスク(※岩波文庫)』買ひ、新本屋で『天皇3(420)』買ひ、一旦帰宅。 山川京子より『桃』来る。保田を歌へども下手なり。電話すれば無人。 「コギトと四季」のため16:30までに17枚かく。「炫火」をかきしが故長くかかりし也。 近江詩人会のため「ロメオ」かき直して送ることとす。(※省略) 夜、televiの地名改悪説をきく。徹底せず、法でをるらし。 (けふ山住dr.にゆき尿検査の結果は「糖出ず、血液検査の結果は月曜判明」と。) 11月3日 6:00さめ(よべ1:30放尿にさむ) 7:00近く山川女史に『愛恋譜』下手といへば「あれは保田先生(※のことを歌ったもの)ぢゃありません」と也。ネボケ声なるもあはれ。 10:00まへ保田悠紀雄に電話し「今から行く」といへば鷺宮駅まで出てまた電話することとなる。 その通りすれば自転車にて来り、2丁目の営団住宅といふのに案内して呉れる。 奧さん(旧姓玉井)節、子はあかね11才5年、興9才3年と。あかねは典子夫人似、興はいくらか保田に似をり。 祖父(※槌三郎翁)は死んで10年、布施のわが家に来しは林叔母の娘のためなりしと。 節、わがうたをほめpiano弾いてLong long agoを歌はし11:30となり出んとすれば夫婦にて送り、 (※学生時代に下宿した)仙蔵院探しに苦労す。まはりみなapartになりをり。本殿建てかへをり。住持死にて娘の代となりしならん。 また西武の駅に出て午飯さそはれ、われは玉子そば、節も同じく、悠紀雄はわけのわからぬもの食ひdutch accountにせんといへばきかず。 白鷺通り教へてくれて別る。(あさって上洛とのことに母(※典子氏)へ「困れば我にいへ」といふ。祖父は養子、母は柏原姓にて西島家の遠縁なり。 與重郎の最後を思ひて嫁節一時落涙す。青学出身、桜井の大古墳は市に寄付し大和考古学の末永博士ら発掘せし由、みな節の話なり。) われ今から帰ると電話して歩き『ミッドウェー戦記』買ひ、タバコ買ひして家につけば宏一郎、克次朗、孝行の3孫来をり。 宏一郎は自転車にて30分かかりて来しと。(※省略)川久保に電話すれば「散髪にゆきし」と夫人。 津端カオルより電話「あす18:00来宅」と。(※省略) 夕食後はじめて新聞見れば定期叙勲に勲二等に野間光辰、仁田勇、 勲三等に関口八太郎、相野忠雄、川久保悌郎、山田鷹男、平岡武夫が旭日中綬章、 瑞宝章に田村春雄の名出てをり、川久保そのための散髪なり。 関口に電話して祝へば「大高同窓会にゆく」と。「仁公さんによろしく」と伝言たのむ。 『果樹園』のcardとり了る。22:00なり。あすは第3次『四季』のこととす。 11月4日 6:30さむ。7:30朝食。第3次『四季』のcard作り了へ9:00山住dr.、尿に糖なしと。 『コギト』創刊号、保田の小説の題「やぽん・まるち」は何語か、可怪。11:00登校すれば文化祭のあと片づけにて休みと。 民研の(※省略) 大槻夫人と話せしあと(※省略)成城堂にてまた『日本と朝鮮(1,200)』、『中国史そのしたたかな軌跡(1,800)』買ひ、高田瑞穂誘ひ出し水割りのめばまたおごりくれ(※省略)、われ「コギトと四季」かきゐると報告に梅ヶ丘下車。麥書房へゆけばしまりをり。向ひの世田谷区立図書館にて副館長に「『白楽天』と『ハイネ恋愛詩集』とをそなへよ」といひ、また無人の麥書房に「執筆中」との名刺はふりこみ、東豊書店にゆく途、9月開業の小書店にて『古川柳おちぼひろい』買ってやり階段上って文春文庫『天皇3』買ひ、東豊に文句つけ借金いくらかといへば「わからず」と。 また『詩経動植物図鑑叢書上下(5,000)』、『水経注上下(1,440)』、『東坡楽府箋(1,120)』、『清眞詞選箋釋(450)』、 『唐説斎研究(1,000)』、『岑嘉州詩校注(1,260)』『中国文人笑談(700)』、『歴代笑話選(630)』、『新笑林広記(480)』、計12,080を借り「年内に払ふゆゑ前のと合せよけ、栃尾助教授もつれ来る」といひ、両手にもちて南新宿へかへり、(※省略)南阿佐谷下車。 川久保を訪ねれば在宅、勲三等は13日文相より授与と。『ツングース語』もやる気になりをり。よく笑ふに安心し(丹波に電話して「わが家にて祝賀会せん」といへば「賛成、日は都合あり15日にせん。酒もちゆく」と也。) 18:00津端かおる生来り肉みな食ふ。Singaporeへ3月ゆかんといへば「和幸」もそれを喜ぶと也。 22:00近く本みなもちて去る。ユやかましく入浴しろといふ。 小杉茂樹氏(東京四季の会より詩をくれと。「生と死」かきて封す。)(※省略) 11月5日 よべ0:00眠り、2:00放尿に起き1時間ほどして眠り6:30覚む。朝食ののち「蘇東坡」を書く。10:00すぎ登校。 『神皇正統記』の吾妻教授に挨拶受く。「始皇帝の末裔」よまれし由。semi3人あつまり(※省略)、 鳥海カヨ誘ひて新宿にて三省堂で地図買ひしあと砂糖なしの茶のみ『シンガポール(300)』買はせ、3生と3月終りに3泊4日の旅行することとなる。 20万円でよきらし。たのしく帰ればユ佐伯に14,000払ひしと。(※省略) 「保田與重郎」の高校時代を近大の雑誌(※『近代風土』)に200×20かく。(※省略) 11月6日 雨。5:30覚む。8:30田村春雄に電話すれば「山の上ホテルに泊る。会食来れず。僕も糖尿、丸は?」となりし。(※省略) 塩沢生来り、(※省略) プティ・パレへつれゆき(※省略)別れて高円寺へゆき『王士禎(550)』と『ロシア語のすすめ』と買へば20円足らず番頭君まけてくる。 咲耶より前登志夫に会ひ「保田の葬式にはゆかざりしも令兄の弔電朗読されし」とききし由ハガキ。 (※省略)「蘇東坡」1年すみ56才となる。田村に電話し「15日17:00我家にて川久保の受勲祝す」といへば「来るつもり」と也。(※省略) 11月7日 11:00就寝。2:00小便に起きあと眠れず。高橋和巳の不十分なる『王士禎』を書き改めと思ふ。6:00さめ6:30ユ起きしに離床。 7:30二人にて出、女子医大へ9:30に着き大森女医の御診察は9:30(※省略)、 busに乗り新宿西口着11:30、われはカツカレー、ユは焼きそばくふ。(※省略)別れて12階の三省堂にゆき『シンガポール(400)』と5万分の1『小田原』買ひ、 家で一休みせしあとプティ・パレに(※省略)、呆然とteleviなどみて夜、「清代の斬首」を半分書きしのみ。 (『天皇5』買ひて5冊そろふ。現人神ではなく軍部独裁に怒るが哀れなり。)(※省略) 11月8日(日) 6:00さむ。ユ礼拝にゆく。「コギトと四季」かき保田悠紀雄に電話すれば「父は外出、母は京都」と嬢?(※省略) 麥書房に電話すれば(※省略)「あす13:00来る」と也。(※省略) 「王漁洋」の伝記かく気あり。史に電話し「同病、酒ひかへよ」といふ。子らはsportsにて外出なり。 秋の終りといふ感じ。16:00出て本郷学士会館。市古博士に「悪き本に名を貸して」といへば「覚えなし」と。 和田久徳君入院とのことに神田君にきけば「前立腺手術」と。山本博士来りしも物いはず。榎、田川、青山など文庫派来らず。 中島敏、青木富太郎ら老いて気の毒なり。20:00すぎslideの撮影すみ、われ「李鴻章伝」をよみをりしもあとつづかず。 川久保と植村先生と3人地下鉄に出、先生池袋にてお別れす。(※省略) ユ戸田先生にゆき戸田氏の管まくをききしと。 11月9日 8:00起床。よべ疲れてよくねたり。中川武男氏来り、豊後岡城主中川清兵衛の系図写しGelbe Sorte10箱呉る。(※省略) 午后麥書房来り18:00まで喜んで話ききゆく。角川に新発見の道造の手紙の報告をかけとすすむ。 20:00、保田悠紀雄に電話すれば(旧姓玉井)節出て桜井の実家へもゆきし云々、悠紀雄出て「来い」といへば「来てくれ」、四十九日にゆく云々にてまた電話すと也。 11月10日 6:00さめ、ユの6:30起きるをまち朝食し9:30すぎ出て、休む間なく(※省略)、学生課の連中をり(※省略)桜子へゆき汁粉吸ひ割り勘にして帰宅。 図書館にて前川佐美雄のところしらべ出し、投函して帰宅。(※省略) 帰りて田村春雄「あす叙勲」と。「丸に電話しろ」といふ。 風邪ひきをり20:00近く賀代女に電話すれば「(※入社試験)失敗した」と。「あす研究室にてまて」といひてすむ。風邪気らしく入浴せず。 (小杉茂樹氏より「原稿もらった薄謝送る」と。茶ならよきにと思ふ(※静岡ゆゑ?))。 11月11日 4:30放尿に起き眠りしか7:30起床。9:30出て10:30登校。(※省略) 14:00すませて榊原副手より富山の薬もらひ、(※省略) 鳥海かよ生来りし故、ともに出て小田急dept.14階にてblack teaのみ彼女はpudding。boy頭「築島先生は」と問ふ。 帰りて高見山見て、一寸『芸文類聚』の詩よんでやり、三役の勝負見れば北の湖、千代の富士ともに負ける。夕食煮魚旨がってかよ子食ひ、 volley-ballの女子見てのち、梁の帝の穿針の詩にてすむ。新嘉坡へゆくと也。 11月12日 7:00さめて起床。8:45より「明清の死刑」かく。9:30かよ子起き朝食す。10:00すぎ共に出て成城大学。Skey女史とChristmas-card交換を約し、semi4人そろふ。(※省略) 成城堂に1万円余払ひ、本500ほど買ひ教授会。(※省略)東豊に電話し払ひすまし、台湾関係1万円ほど買ひ、国電にて阿佐谷。 佐伯に2,000払ひ500ほど本買ひて帰宅。(※省略) 夕食9:00食ひ旨し。糖尿にても仕方なからん。 11月13日 6:00さめ7:30朝食。「中国の死刑」かき、昼食後小遣ひもらひ、大野由美子に投函。佐伯へゆけば「まだ来ず」と。 『冷泉家の歴史』、『高松塚古墳と渡来文化』と買ひ一旦帰宅。高円寺へゆく途中プティ・パレに寄ればmatchもなくなりをり、 高円寺にて(※省略)大石にて『地名伝説のなぞ』、『チャタレイ夫人の恋人』にて800払ひ、 都丸支店にて『Russko-mongol'skii slovar'(1,000)』、『A Short Russian Reference Grammar(600)』にて残金260円となり、 『沙翁傑作集(50)』、『日本語の表情(200)』買ひ、佐伯へゆけば『琉球語の秘密(2,340)』来てをり2冊注文して帰宅。 小杉茂樹氏より静岡の茶2包み来る。関口八太郎より受章祝の礼状来り「大高60周年に1,000人以上集まり7文乙は11名出席」と。 保田節子(※省略)「あす夕食後、都立家政駅へ迎へに来る」こととなる。 宮崎さん(※宮崎智慧)に電話せしもダメ、高鳥(※高鳥賢司)の名思出し電話番号きけば「なし」と京都局。 11月14日 『コギト』第1号のことかき、疲れてプティ・パレへもゆかず、郵便出しにゆき佐伯で本買ひ原稿用紙買ひして帰宅。ユの画にゆくと前後してプティ・パレ、(※省略) 保田(※悠紀雄)に2度電話すれば「母、歯科医」と。(※省略) ユの買ひし1,000のせんべいもち、Eroticaその他土産、静岡の茶もち、保田の写真帖と若き日の作品ともち鷺宮駅で下り、都立家政まで歩き、 迎へまてば興と悠紀雄と迎へに来る。Eroticaその他よまず、土曜の夜の交はりすすめしに節whiskyの水割りのみ、笑ひ乍らきく。 20日上洛と。遺産はいらず記念館建てるつもり。 坊が市教育委員にて末っ子が無職にて1階にをり小坊は2階住ひと。22:00まで話し鷺宮駅まで送らす。 あかね本好き、興はteleviに夢中なり。2人に鷺宮まで送らせ最後のbusにのり帰宅。一度来る。柏井歯科へ紹介たのむと。可愛き夫婦なり。 (※省略) 保田のこと大体知りをり直日と山川京子、山崎雪子のことなど皆承知。「典子さんによろしく」といひて別る。 24:00就寝。あすは「中国の死刑」かかん。留守中、川久保、田村、丹波みな電話くれ「本当か」となりし。 わが思ひ毎にたのしくこの日和いつまでつづくわれは知らずも。 ユ24:00入浴。けふ丸山薫詩碑建設の記念の詩碑のcurtain賜ふ。みな5,000円。八木憲爾多額に出し参会者100人以上と。 (冠婚葬祭1,000がけにて安くといふが来りしに、上げて茶わかさし話せばユ、焼餅やく)。(※省略) (節、我と合唱せしにいい声なり。わが子より可愛く「一度来い」といふ。) 11月15日(日) よべ0:00ね、8:00さめユも教会にゆかず。我「コギト1号」すませ、午后、午ねしをれば京より「泊りがけにて来る。けふは来ず」と池袋より。 17:00まへ田村来り、すぐ丹波whiskyもち来り、川久保正倉院見にゆきしと最後に来る(奥さん蜜柑とwhiskyもち来ゐし)。(※叙勲の祝)20:30散会。 (田村の嫁は斎藤かよとて目立ちし子なり。我、研究室に呼び説教せしことあり)。 川久保1年の滞満期間、経済は江上波夫博士がせし由、けふはじめて云ふ。 11月16日 『コギト』のことかきつづけ午となり、高円寺へ歩き古本屋2軒見て瀬見にはゆかず。(プティ・パレ、二夫人来ず女主人一人にてやりをり茶のむ)(※省略) 入浴前、保田悠紀雄に電話すれば夫人出て「本よんだか」に夫よぶ。「母上によろしく」といふ・ 11月17日 5:30さめ6:00より停電止む。9:00出て10:00着校。(※省略) 午まへ坂内秋子来り「シンガポールの華僑」の卒論もち来り、マフ ラー呉る。 職員食堂へつれゆきlunch食はし、(※省略) 大学院、河野夫人のみにて外へつれゆき我は昆布茶のみ割勘。(※省略) 16:30勤務すみし榊原副手をつれて桜子へゆきわれは汁粉、彼女は餡蜜食ひ、同車。雨少し降りをり。野口、鎌田2教授病気と。この子にも好かれたり。 帰れば(※省略)疲れて夕食後30分眠る。 11月18日 7:30さむ。(※省略)文禄の役を了へ、栃尾君さそって東豊へつれゆく。彼は借金し、われは人人文庫『東坡楽府箋』、『蘇東坡生平及其作品述評』買ひ、 南新宿へつれ戻し別れて帰宅。(※省略) 夜、蘇東坡のつづき書く。(※省略) William Holdenの「慕情」を見る。反戦映画なり。 11月19日 8:00さめ眠し。京「明日くる」と。「蘇東坡」かく。11:00登校。semi3人の書きしもの直し、学生食堂、ついでかよ女の下宿へゆく・ 誘ひて新宿へ出、14階へつれゆく。夕日美し。18:00帰宅。空腹なり。前川佐美雄より「保田の葬儀にゆきし。生きぬけ」と。 夕食後なにもせずtelevi見ながら『天皇3』よみ了る。天皇親政ならざること今と同じなりし也。 11月20日 7:30さめ、朝食ぬきにて8:00出発、ユと8:50女子医大に到着。諸検査受け12:30となりユを先に帰らせ、 (※省略) 新宿西口までbus。小田急10階の中華食堂にて海老ソバ食ひ、ユの「青木生をり」との電話に14:30帰宅し阿片戦争の史料よんでやる。 疲れをり、18:00青木生「優とる」との宣言に首かしげて見送り、京2孫つれて来をると夕食。ヨシ子、大分物わかるやうになりし(※省略)。 夜、川久保より電話「糖尿でなかりし」といへば「渡辺教授と新宿で会ひし」と。『天皇』よみつづく。 11月21日 9:00さむ。2孫ともさめ朝食。「蘇東坡」かく。午食後、プティ・パレに寄り高円寺。 『台湾島抗日秘史(600)』買ひ、瀬見氏に『[蘇]蒙辞典(6,500)』1週間売らぬやうたのんで帰宅。京帰りゆき、ユは画に出をり。 佐伯にて『歴史手帖’82(300)』来りしを受取り、50円のバカ本買ふ。 11月22日(日) ユ、礼拝にゆく。我は『天皇4』よみ了る。(※省略) 午后プティ・パレにゆき14:20来し塩沢生、(※省略) 15:30高見山の負けるを見しあと「紀伊國屋へゆく。体重48キロ」と出てゆく。 11月23日 6:00さむ。(よべ23:00就床)。昼ねできず。16:00出て早川恭子・関野陽一(※省略)のおめでたに明治記念館へゆく。(※省略) hyre案内受け130人の1人の老嫗と同車。(※省略)阿佐谷にて降り、21:00帰宅。眠し。 保田瑞穂より「香典返し送った」と。悠紀雄に電話し「一度来よ」といへば「来る」と。栢木喜一氏より「歌15首のせる」と。 咲耶より「糖尿いかに」と。伊藤徳子より「これんのあとつぎ甚城のあと我」と証明する戸籍の写し送り来る。73才と。 これん明治19年3月4日生れ、明治44年7月24日戸主となり8月29日大阪府東成区天王寺村大字天王寺507番地へ転居との戸籍簿の写し送り来る。 「昌三叔父庶子なること知らず云々」。平凡社より『唐代詩集 上』10版2,500×1,000を1月中に出すと。 11月24日 6:00さめ9:00出て10:00登校。(※省略)待てば津端生あらはれ華僑の参考書貸出に名貸し、桜子へゆき汁粉われ食ひ、(※省略) 保田瑞穂より香奠返し来る。 11月25日 10:00出て保田瑞穂へ受取かき投函。1年の日鮮関係、文禄慶長の役すませ、 まっすぐ帰りプティ・パレで茶注文すれば(瀬見氏『[蒙露]辞典(6,000)』負けてくれ茶のまんかと)紅茶もち来る。 「中国の明清時代の死刑」明代のみ了り、前半見えずあわてる。 11月26日 10:00出て11:00弁当食ひ、12:00よりの学科会にて(※省略)、28才の北海道大の博士コースの青年(※小森陽一)を高田の後任として呼ぶこと賛成(全員)、 ソ連に中学生の時ゐて二葉亭四迷の小説にロシア文学の影響つよきを論じゐる由。(※省略) 11月27日 雨、6:00さむ。佐伯へゆき本、届きをり(600)、「明代の死刑」として了り、午后まてば奥井(岡林)夫人来り、次いで津端生来り、(※省略)すぐ帰りゆく。 岡林夫人悪阻といひ乍らややにもの食ひ、狸うどん3ケとりしを食ひて20:30雨の中を関町まで帰りゆく。(※省略) 11月28日 8:00さめ、ユにいふこといはせて腹立て12:00成城大学。弁当忘れ原稿忘れしに気づく。食堂にゆき田中宣一の向ひに坐り茶入れてもらひ殆ど食はず(定食まづかりし)。 タバコも忘れし故、成城堂へ買ひにゆき民研の予算案(平山博士「服部こはかりし」と)。(※省略) 11月29日(日) 8:00さめ、ユに髭そらしめて教会にゆく。途中阿佐谷北口の夫人と同行、よくしゃべりユ、着物にてついて来れずと也。「それをいへ」といひ、帰り佐伯へ寄り150円の雑誌買へば落丁とわかる。(※省略) 14:00すぎ大と地下鉄にて申合せおくれてゆく。母のこと楽観的なれど「咲耶来をり、あす入院せしむ云々」。 林の叔父叔母の3回忌に俊男宅へtaxiにてゆけば経すみしところと。(※省略) 寿一「保田の葬儀にゆき弔電に汝が名、呼ばれし」といふ。(※省略) 鬱となりしをユ、周期といふ。 11月30日 9:30出て成城。『成城文芸』の編輯、(※省略)退職記念の原稿のこと榊原副手に問へば「知らず。西山先生でせう」とのことなりし。 これにて用すみ13:00帰宅。疲れをり。16:00大来て「母、清川病院に入院」と。山住dr.のおかげ也。 『近代風土』より「玉稿お寄せいただき採否委員会にて決定」と。「送りし覚えなし、返せ」とハガキかく。失礼なり。(※保田與重郎追悼文) 12月1日 曇。8:00起され飯くひ弁当もちて登校。2時限は鄭成功の話する。大学院河野夫人と外池生。(※省略) けふ〒なく、疲れに疲れをり。 『燕京歳時記』の漢文と東洋文庫とともになく、「ゆっくり探せ」とユの仰せなり。 12月2日 10:00登校。弁当あたため食ふ。西山博士わが原稿もちゐざる様子(履歴書と写真はあり)。民研紀要に論文はのるらし。変なことなり。(※省略) まっすぐ帰宅。 『近代風土』より原稿ありと。「返せ」といはす。(世耕正隆氏よりの依頼なる由、おぼえなし)。 12月3日 寒し。登校。semi4生のおそきを怒る。『燕京歳時記』つひに見つからず。14:00より民研にて学科会。後任のlist出せしは我のみなるも野口君、われに当る高校教師ありと。新城博士の後任は短大の『神皇正統記』にて異論なかりし。(※省略) 次の会議の決定は新城と我とをぬきてやると。新しき例を聞きし也。第一項教授会で×つけん。 12月4日 よべ2服追加にのみ10:00さめ朝食15:00pão。何もする気なし。(※省略) 12月5日 曇。午后プティ・パレへ寄り佐伯へゆきて諸侯表なかりしこといへば奧さん150まけてくれ『地名の由来』といふを買ひ来る。デタラメの本なり。 沢井孝子郎より「『近代風土』に執筆たのみしは館の手を経し。かんべんしろ」と也。(※省略) 「山住克己閣下老衰」とユの話。 12月6日(日) よべ眠剤4服のみてやっと眠り4:20さめる。何もする気なし。(※省略) ユ礼拝より12:30帰り飯出さず催促す。大高名簿と山本よりの「蘇東坡の目次」来る。(※省略) 12月7日 無為。 12月8日 登校。疲る。中西博士より『万葉長歌』2冊貰ふ。青木生、卒論下書置いて去る。(※省略) 京、禎子をつれ来る。 12月9日 禎子に別れいはれ10:30出て登校。(※省略)鳥海かよ子生の来るといふに早く帰宅。 かよ生16:30来り、出来上りし下書見す。午食せしめSingapore行やめといひ、入浴せしめて泊める。 (最終講義、新城博士とともにやるとし、われは「23年間」との題なりし)。 12月10日 鳥海生と出て登校。成城学園前駅にて彼女は帰り、我弁当温めんとすれば暖房とめてありし。semi青木生はむかひ津端生泣き、孫文のみ無事すみしも面白くなし。 教授会永々とやり次期学部長に宮崎博士なり。(※省略) 学科会、辞める教師には発言権なしとのことにて帰り来る。ユ心臓悪しと愁訴す。(※省略) 12月11日 津端生まちて15:00近く来しに1枚もかきをらず「ここにてかけ」といへば「明日もち来る」と逃げ帰る。(※省略) 津端生18:30来り20枚ほど在米華僑のことかきをり。「日曜19:00来る」と。 12月12日 津端生まちて18:00来りし20枚を直し「つづき月曜19:00もち来る」と。 12月13日(日) 礼拝休み、ユ11:00出てゆく(あとにて岡山伯母33回忌と也)。18:00まへ帰るまでいらいらして何も出来ず。(14:00午食みな下痢す)。 12月14日 Clarence B. Page夫妻よりX’mas-cardと「来よ」と。病気にてゆけずといふ。けふ来る筈の津端生「あす学校で」と電話。 12月15日 風邪下痢となる。(山住dr.血圧120-85と)。薬もらひ登校。「元気なし」といはる。(※省略) 高田来り、井上に会ひにゆきなどす。 3時間みな短くすまし最終講義とし1月早や試験すといふ。まっすぐ帰宅。津端生の原稿よむ。わけわからず。(※省略) 12月16日 登校。東洋史15分やり津端生14:15までまちしも来ず。帰り来る。(※省略) 12月17日 4生に印捺しすみ、鳥海生に就職、西川にたのまんと思ふ。(※省略) 12月18日 8:30さめ賀状100枚ほどにてすます。下痢2回。 平凡社より大沢部長と久米東洋文庫係来て『酉陽雑俎』たまひ、中国詩選に『李白』をと。最終回にしたまへといひて帰らす。 (大沢部長白髪にて45才となり)。 12月19日 下痢す。乗杉翁直腸癌とてその子も騒ぎわが家にも余波及ぶ(山住dr.診断也)。 12月20日(日) 下痢とてX’masの礼拝にゆかず。16:00すぎ出て学士会館分館へゆく途、関口と共になる。池田徹、関口と会ふは25年ぶりと喜びて座をとりもつ。 19:30すませれば20,000余、われ払はんとすれば西川、池田7千円づつ出し、池田従弟の造りし湯呑茶碗呉る。 12月21日 風邪と下痢やまず。13:00鍋焼きうどんとる(700)。15:00卒論わけ10冊あてられ、taxi遠回りして2,200とらる。(4生とも卒論出しをり)。 津端生、本の一部を返却に来しと。(松浦母上、美紀子と年末挨拶に来る)。 12月22日 下痢やまず。塩沢生「15:00来る」と電話かけ、来ざるに電話すれば父出て「15:00前出て就職きまりし」と。 菊池ほなみ1月15日挙式、笠井姓となり神戸に住むと。祝電にてカンベンしてくれといふ。 12月23日 15:00出て小田急特急に乗り小田原より東海道線にて湯河原、busに乗り旅館の部屋にゆけば寒く、ユを促して晩食代その他(※キャンセル代?)払ひ、 また小田原へ出、特急にて20:30新宿着。阿佐谷にたラーメンちょっと食ひ帰宅してユにブツブツ云はせて眠る。 12月24日 夕方、青木生来り、Morseよみしと。「貸せし本、半ばは来年返す」と。ふてぶてし。 12月25日 無為。 12月26日 富山鈴子CanadaよりX’mas-card呉る。 12月27日(日) ユも礼拝にゆかず。(※省略) 江口三五より『大高』の記事見た云々。 (孝行来り返事せざれば帰途ユに会ふ。「なぜヂイちゃんといはざりしや」と叱る)。 12月28日 津端かおる生、貸本返却に来る。戸外暖く、郵便局混む。 12月29日 塩沢生返本に来り、名古屋のきしめん食ふ。ユ外出中、川久保、苹果もち来り、この間滝川博士に挨拶にゆき、わがこといはれしと。 12月30日 大来り、「(※しず江母)正月3日間退院さす」と。青木生残りの本みな返しに来り、ユと話す。 12月31日 夕方、小林正月の料理もち来る。夜、澄より電話。『民間伝承』来り、「“Pet de nonne”(尼さんのおなら)は菓子の名」と中平解先生。 田中克己日記 1982 【昭和57年】  保田與重郎の死、自らも大学を定年退職となり、詩人もいよいよ晩年を意識するやうになります。  この年には訳出が4度目となる李白の本『天遊の詩人 李白』が平凡社より刊行され、他社本との競合が心配されましたが詩篇に絞った読みやすい内容は好評で増刷もきまります。  続いて最後の懸案だった『蘇東坡』の評伝にとりかかった詩人は、著述面の業績における大詰めを迎へます。  またこしかたを振り返り、野球部マネージャーだった彼は大阪高校野球部の回想録の編集にOB部員と共に携はり、大高同窓会「三火会」にも興味を示します。  しかし詩人として注目すべきは、これまで閲覧困難だった初期詩篇を網羅する詩集を、当時の自筆本の体裁に倣って復刻刊行したことでしょう。  『田中克己詩集 自選自筆1932-1934』、四季派関連の出版を手掛ける麥書房による刊行です。  原本は『田中克己遺稿集』といふ何とも不穏なタイトルで、昭和9年大学卒業を機に束見本(所謂“白い本”)に書き留められたノートです。表紙に寒山の詩とカールブッセの有名な「山のあなた」の一節が書かれてゐて、復刻にもそのまま写されてゐます。  希望する学者としての将来がみえないなか、しばらくの間、書き継がれていった自筆詩集なのですが、表紙に「一九三二年三月以降の愚詩百篇、他大愚詩百篇は之を載せず」とあるものの、復刻の際に来歴・解説をどこにも(宣伝栞にも)記さなかったため、一見すると統一感のない乱雑な筆蹟は、むら気な老詩人によるやっつけ仕事かと思はれたかもしれません(事実、私はさう思った)。  しかし実はさうではなく、同じく麥書房によって復刻された『四季』派のホープ立原道造の手書き詩集『ゆうすげびとの歌』と彼の最初の詩集『萱草に寄す』との関係が、この手書き詩集と『詩集西康省』との間にも、いかにも『コギト』派の詩人らしく認められる対比物として、田中克己の性向や息遣ひを感じさせる自筆詩集なのでありました。(詳しくはこちらにて。)  ベストセラー『日本の詩歌』によって興味深く紹介された初期の作品群でもあり、寄贈本の宛先についても心を砕き、あれこれの記録が残ってゐますが、とりわけ受取り返事がなかった井上靖と野田又夫とに「返却せよ」と申し入れて謝罪が入るなど、癇性の詩人の面目躍如たる出来事には微笑まされます。  井上靖に癇癪を破裂させた頃には、地下街で守衛と喧嘩し、巡査に自転車のことでからみ、妻には絶縁を、近江詩人会にも退会を申しわたさんとする始末。執筆ストレスもあるでしょうが、この頃になると行きつけの古本屋からも「あなたも変人」といはれたと記してゐる通り、有名人として誰も本気に取り合ふことがなくなってゐるやうです。他にも(省略しましたが)、房事やエロ本に関するプライベートが遠慮なく記述されることも、この前後の時期から増へてきた気がします。  また年の前半には幾度か「夢みごこち」との精神状態の愁訴がありますが、自律神経の乱れによるものでしょうか。私も大学に入学して2ヶ月ほど、 それに類する現実に霞が掛ったやうな朦朧とする感覚に悩まされてゐたことを思ひ出しました。  さて、外面的には斯様の感じで威勢が良いですが、内面では肩書を気にする正直な感想をみることができます。すなはち内輪では名誉教授に無事任命されたものの、国からの叙勲がなかったことについて、この年、羽田明・外山軍治・藤枝晃(勲3等)、坪井明(勲4等)と、同窓旧友の慶事を記しつつ釈然としない様子が日記の記述からは窺はれるのです。  保田與重郎なら勲章など「アホな」と一笑に付したことでしょう。  田中克己が、盟友であり腐れ縁とも思ひなした彼から蒙った影響は大きかったのですが、亡友に対して追悼号らしからぬ、辛辣な印象も交へた回想を書いてゐます。雑誌『近代風土』『浪曼派』の追悼号でよむことができますが、新潮社から依頼されて書いた原稿は(おそらく遺稿集『わが萬葉集』のためでしょう)、どんな言葉が手向けられてゐたのか編集会議で不採用となりました。  始めに記したやうに、詩人は交際において青春時代の友誼を重んじます(保田與重郎は同窓会と無縁でした)。その一方で相手の出自・学歴を気にして学界の年功序列にも従順でした。権威をめぐる三竦みの関係を、面白く感じます。  この年の出来事 2、3月、躁鬱転換はげしく「夢みごこち」の朦朧状態に悩む。 2月、大阪高校野球部史の編集をOB共同で開始(筑摩書房事業出版より10月刊行)。 3月、成城大学を定年退職。 5月、成城大学名誉教授となる。 4月、デビュー前の自筆詩集を復刻刊行(『田中克己詩集:自選自筆 1932-1934』)。 7月、長男史氏、東京国税庁総務部長となる。 7月、『天遊の詩人 李白』を擱筆(平凡社9月刊行、11月増刷)、続いて山本書店の依頼で蘇東坡の評伝にかかる。 8月6日弟、西島建、肝臓癌にて逝去。57才。 8月、李白について林富士馬と対談(「詩人李白の世界」『新刊展望』)。 9月、荻窪岩森書店に立原道造の書翰を売却。12月に金尾文淵堂の稀覯本を売却。 昭和57年 1月 1日~昭和57年4月23日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 下痢にて明け賀状400枚受取る。 1月2日 午后弓子夫妻3孫と京夫妻2孫と来り、(※省略) 1月3日(日) 新年の礼拝夫婦にて休む。(※省略) 史夫婦三鷹を経て18:00来り19:00帰りゆく。 1月4日 苑子来り年賀状かき午食す。11:00村上正平君来り飲み食ひして帰る。鬱のく。 1月5日 苑子賀状手伝ふ。乗杉翁入院してゴタゴタすと也。(※省略) 1月6日 (※省略) 倉橋文雄君14:30阿佐谷駅に来り、法政大学中学部の同僚とおぼえをり。(※省略) 大、母を清川病院に入れしと来り、建より便りなしと珍しく怒りをり。 プティ・パレにつれゆき只にてわれは茶、大はcokeのましてもらふ。 1月7日 8:30さめ卒論2冊見、吉越笑子より「今来る」との電話に待てば父母来り海苔呉る。 (※省略) 瀬見君来り、Nonni語辞典2,700先渡し、安藤学長は田辺の家老(3.5万石)とわかる。時計15,200買ふ。 1月8日 よべ4粒のみ9:00さむ。卒論2冊よみ寒きゆゑ出ず。 17:45山住dr.にゆく。異状なしと。(※省略) televi見て自衛隊、韓国にては米軍と協同との訓練はじめるときく。 瀬見氏意外にも電話かけて断りしに来り、Nonni語辞典もち来る。 あすはなるともなれと思ふ。 1月9日 午前中卒論よめず11:30餅食って出、研究室にて待つ内、福島えみ子あらはれ(※省略) 14:00まへ榊原生来り321に控室ありと。山本實君来り、茶のむ内、会場に呼ばれ我より話し歌3つ歌ひ今後の計画として『ツングース語辞典』『與重郎と辰雄』『蘇東坡』とかく(實君の話では(※蘇東坡の)訳よき由)。 30分にてやめまた福島山本と話す内、食堂の用意できしと。 代はる代はる頌辞唱ふ。 (出席、浅沼、石川、伊藤博之、上原和、岡本奎六、尾形仂、鎌田、川上、田中宣一、鄧、西山、野口、平山、舟越、堀川、松、毛利、森岡、山田俊雄、山中、短大池辺、我妻(新城の後任)の22人なりしか。) 7:30すみ迎へのhyreにて三鷹で新城博士下車。奥様に挨拶す。 阿佐谷まで来れば運転手香港引揚とて(※路地を)家まで花束運び呉る。 ユ花束もちて山住dr.にゆき戸田画伯にもゆく。3D生10人echo20箱呉る。木下中心に4女生「2次会する」云々。 (重久生結婚10年目と。丸重俊来をり父(※丸三郎)の病状良からずと。矢野光子来り、父(※矢野昌彦)のこといへば泣きて喜ぶ。) 1月10日(日) 晴、風吹きやみしも寒し。礼拝よき声出し。(※省略) 夫婦して角の古本屋にて安本買ひ新本屋のぞき佐伯に寄れば『酉陽雑俎5(1,710)』来をり、借りて帰宅。 保田悠紀雄に電話すればあかね出て「父母留守」と。夜電話すれば「15日夕方来る」と。 この日17:00婚礼(菊地ほなみ)と思ひつき「13:00来よ」とかけ直す。 1月11日 けふにて卒論すみ(※省略)川久保(※川久保悌郎)にゆき『酉陽雑俎5』与へ瀬見氏に電話せしむれば「20:00来る」と。 その間「秀才保田與重郎(7×200)」かき了ふ。あとは子孫と典子夫人の歌と「日本浪曼派広告」にて埋まらん。 1月12日 朝早く起き9:00出て2時限目の試験行ふ。(※省略) 4時限目またすませ学長に会ひ宇治茶。井上河内守正直の曽孫が妻(※悠紀子夫人)といふ。 その後3副手と櫻子(※甘味処)にゆき(※省略)18:30帰宅。 1月13日 6:30さめ10:00出て(※省略) 午飯すれば都留生来る。(※省略) 榊原副手さそへば「30分だけ」と汁粉屋にゆき差し向ひにてpão食ひ、 電車にて乗り合はせし日大生を小田急dept.14階につれゆき 700のませくはせEi uxunem(※不詳)教ふ。 急ぎ帰り又役所角にて川久保に遇ひプティ・パレにゆけば (※省略)、帰ればユ帰りをり。 よべ林富士馬夫人に『末摘花』引けといへば笑ひて「伝へおく」と。 ユ山住dr.にて躁止め薬くれしと。(※省略) 1月14日 成年の日の前とて早めに散髪にゆき賀代、青木に先立ち津端生来り、まちがひだられを咎め青木胃病とて帰りしあと山本書店来り華僑関係の本もちゆく。(※省略) 庄野(※庄野英二)に電話し潤三に芸術院会員への推薦たのみしとてユに叱らる。 プティ・パレに3度ゆき(※省略)茶おごらせ23日の津田沼の会に我呼べといふ。 1月15日 7:30さめ14:00までプティ・パレへcoffeeにゆき、14:00保田悠紀雄夫妻来て15:00去り16:00出て赤坂見附より taxi(500やる)にてPrince Hotel。 帰り私営業に乗りまた500(今度は喜ぶ)(※省略)16日を夫婦とも15日と間違へし也。 1月16日 7:30さめ佐伯へゆき昼食簡単にとり地下鉄にて神保町下車。 沢田瑞穂に紹介受くる前『金瓶梅考(800)』買ひわれにcard5,000枚あることをいへば彼黙していはず。 わがもちゆきし5冊の再版をいへば「實帰りて」と也。 出て地下鉄に乗る途きけば栃尾君肩叩き『金瓶梅考(800)』買はせ赤坂プリンスホテルまで案内してくれ別れゆく。 菊地ほなみ側の主賓席に坐り(※省略) 1月17日(日) 7:30さめ礼拝休み、佐伯へゆき「あす朝来てくれ」といひプティ・パレへcopyにゆき、 麥書房まてば14:10来り、『コギト』と『四季』わたし(※1月16日『コギト』昭和9年12月号と『歌集くちなし(保田典子)』の誤り)、 (※省略)「秀才保田與重郎」かき了る。 亀井昇と神田先生(※神田喜一郎)に見舞のハガキかく。23:00就床。 1月18日 7:30(当った切手は16枚)起床。佐伯10:30来り1万7千円で買ふ。 ユ10:00鳥海生と柏井歯科へゆき12:00帰り来り、(※省略) プティ・パレへつれゆけば(※省略)重久生来り、われ払ふ。 2生と帰宅。重久たらこの粕漬、本やり、瀬見さん来り鳥海生に粕(杉山生より来し一部)、ユ佐伯へゆき17:30、瀬見1,000置きゆく。 梅ヶ丘の堀内来り、「與重郎と辰雄」もちゆく。日本浪曼派とドイツ浪曼派のちがひなり。 「神田先生はお元気で寒中見舞お出しになる」と神田信夫夫人(和田先生令嬢)の返答。 21:00入浴。高田瑞穂に電話すれば返答なし。23:00眠る。 1月19日 6:30さめユ7:30起きる。 福地さんの家警官にきけば(※省略)行き見ればしめをり。100円の本さしこみ堀家の家の前通り帰宅。 (※省略) 高円寺小松崎歯科に寄れば夫人茶出し「山本と2人にてお祝に来る」と。 2軒古本屋歩き都丸書店の社長と挨拶しあひ支店にゆけば「主人などこはくない」と茶のまし呉る。帰宅17:00。 (※省略)けふ電話、滝川先生、出雲書店(バカヤローで電話切る)、堀内(出雲書店)、林マリ子。 1月20日 8:00起床9:00滝川博士(※瀧川政次郎)に電話し、佐伯へゆけば閉ぢをり、 14:20本とサントリもちて滝川邸わからず郵便屋さんに途きけば本もって案内し呉る。 (※省略) 先生出て来てsignし、仁兄とかきたまひ、次に君、あと君一つ、様3つsignしたまひ玄関まで引返せば手袋忘れし也。(※省略) 小泉長老夫人より19日17:25竹森トヨ先生逝去と。(※省略) 1月21日 4:00さめ風呂たいて入る。6:30ユを起し神田喜一郎先生の書留700×2ユ出しにゆきcopy(420)山住dr.に届けさす。 (※省略)川久保呼べば14:10来て17:00夫人の電話にて来客ありと帰る。 20:30佐伯さん呼べば「牧野博士関係」と「印度古聖歌」とに1万3千円。whiskyのみほして帰りゆく。 榊原副手、ユ13:05出しあと来て14:30帰りゆく。 1月22日 6:00さめ6:30ユを起し7:00起床。 ユ10:30鳥海生と話して柏井歯科。われプティ・パレに「老兵の記録」のcopyにゆく。(※省略) 植村先生(※植村清二)に「あす午后伺ふ」といふ。高橋重臣氏に電話(20:00)し「隔簾花影」そろひをりといふ。「夏渡米」と。(※省略) 磯貝浜子生より「大学時代の詩見たし」と。杉山博文来り、試験の予習をす。 1月23日 4:00さめ5:30起床。「文芸通信」よむ。19冊までつづきし也。 青木生11:00来りsemiやって13:00まへ出て(※省略)桜ヶ丘よりtaxi(※省略)門前までつく。 (※省略)2冊に署名もらひ、あと2冊貰ひ、タバコ(Mild Seven)1箱もらひ、(※以下翌日記述と混同、不詳) 松本辻までついて来られ松本夫人に依田君にGelbe Sorte呈し(植村先生にも)、夫人に送られて駅前で『練馬区地図』、『古代日本の航海術』買ひ(※省略)家へ16:55つき、 18:30夕食はじめしところ都留生が来て烏龍茶と『蘭嶼之旅』呉れ21:20帰りゆく。(※省略) 1月24日(日) 礼拝にゆかず、ユ帰り来れば青木生、本返しに来り、ともに出て植村先生にゆき(※省略)先生のご本に署名してもらひ「GelbeSorte」10箱さしあげ新刊本いただき(※省略) 松本宅前まで送り、すすめれど寄られず。(※以下前日記述と混同、不詳) 依田君にGelbe Sorte10本やり、夫人「その内お越し」と。 17:00帰宅。18:00夕食はじめしところへ都留生が来り謝恩会案内なかりし、その内やると。高田より26日「すみれ」にてと。 1月25日 8:00さめ9:40家を出て面接に出(署名本もちゆく)築島先生に「すみれ」で15:00会ふこととす。 新城「飛ぶ鳥あとをにごさず」と叱る。会計より呼び出しありと。 18:00面接了り急行で帰り(※省略)、瀬見に茶おごり(640)、荷物あづけ帰宅。 夕食すまし21:00瀬見来り23:15帰りゆく。 1月26日 7:00さめ9:30朝食し(※省略)12:30出て戸田家へ寄り、鎌田女史にと雑誌もらひ13:00すぎ着き、庶務にて16,498,000の退職手当書いてもらひ、会議中の大山学園長と電話で話し副手たちに連絡し、(※省略)すみれに行けば高田門前に待ちをり。 15分遅れて築島博士の来るを待ち、鞄、門衛よりとりもどし築島博士と「18:00より会ある」とのことに高田に礼いひて同車。 アメリカ人にsilver seatゆずられ礼いひ築島博士にたしなめられしもきかず。 新宿にて小田急14階にゆきJuiceおごらる。 集英社より15,000の収入〒にて来る。televi「西太后」をやりをり。 21:30堀内(麥書房)に電話す。 1月27日 4:30さめ5:00起床。ゼミの印捺す。ユ6:00起床。7:00朝食。7:50出て登校。 朝に2生すみ午食。(※省略) 19:00帰宅。 瀬見『世界言語研究 下』見せ家蔵と。ゆづらすこととす。乾杯し23:30帰りゆく。 1月28日 8:30起床。昼食して11:30家を出、(※省略)Skeyさんと話して法学部へゆき部長以下と歓談し(※省略)高田、栃尾と出て別れ、駅前で別れpaffet食ひ(※省略)、朴書店にて雑本買ひ、Michelangelo 4冊買ひ、両手に本かかへて瀬見ゐざるに(※省略) 20:00夕食、(※省略)「流転の王妃」televi。11:00眠る。 1月29日 (※省略)朝食後、採点記入了る。9:00 プティ・パレにゆけばcopy機故障と。帰りて昼食すませれば瀬見氏来り『歩兵操典』賜はり、午後の市にて匆々帰る。(※省略) 15:00鳥海生来り「あす副手の履歴書出す」といひて帰る。 18:00奥井夫人来り、食事おいしく食べヨウモク与へせんべい乾菓子の返礼とす。21:10帰りゆく。22:30せんべい食ってねむる。 1月30日 4:00さめ5:00起床。(※省略)教務に電話すれば教授会10:00と。あはててひげ剃り詩集忘れて出、(※省略)会議にゆけば昇格人事。 (※省略) 欧州文化国文と私語(Rilkeの研究家)して叱られ、中西と問答。 (※省略)14:00すみて栃尾と桜子へゆき彼は雑煮、我はしるこ(陞任祝)。 堀内にゆき原稿にルビふり茶菓出され18:00出て(※省略)吉越家へゆき、駅にて買ひし寿司出せば鍋焼きうどんふるまはれ21:00まで話し、 (※省略)笑子生に送らせ本2冊買ひ与へて南阿佐ヶ谷。(※省略)22:15就寝。 1月31日(日) 9:00さめ礼拝休み、(※省略) 丸へタバコもち、ゆけば重俊のみをり。 本やり(父母は茅ヶ崎)、(※省略)山水書房にて12,700払ひ、雑本もちて家へ来り、朝鮮本みな見(朴氏夫妻)、朝鮮の諺、年中行事を高く評価す。 佐伯へ寄り雑本買ひ三鷹へゆけば田上先生一家お留守。 小林宅へゆけば克次朗扉をあけpão食ひ帰宅。 (※プティ・パレで?)『西康省』のcopyしてもらひ、茶菓にて500、copy代1,300。 家へ電話して帰れば1分遅れてユ帰宅。ユの本1.5万。 2月1日 4:00さめ(※省略★)、ユ青色の紙とりにゆきしまに保田節夫人来り雑本もちゆく。 (※省略)節帰りゆきしあと1分してユ帰来。午食すませてプティ・パレへcopyにゆく。 佐伯にゆき2月末払ひとし『成城国語国文学論集』13冊もちゆく。 山本實「今からゆく」と電話かけ来る(16:00)。(※省略) 『西康省』の訳註のむつかしきに呆れ麥書房に電話し「このみちを」の歌と『西康省』をぬくといひホッとす。 帰宅の途、大林太良博士に会へば社会学博士の資格と。 2月2日 8:00起床。弁当もちて登学。栃尾君に会ひ弁当ちょっと食ひ、職員食堂にて小倉、津留と同席。われはコーヒー。 (※謝恩会2次会)会場を高円寺の成城大飯店と定む。 (※省略)民研にゆき、麥書房にゆき「あとがき」書き了ふ。 帰りて川久保にゆき岡茂雄翁に紹介たのめば、つれ来られ『本屋風情』に署名、八十八才の寿に出る『思ひ出の記』もたまふと。 18:00去られしあと川久保「ツングースやる」と。 19:00帰宅。大に「来い」と電話しBoxingに三原のHeavy選手権失ひしを見て喜ぶ。大にユ「来ずとよし」といひてすみ入浴就寝。 2月3日 節分、寒し。西川、池田温、大山学園長に電話す。 大山「入学試験の日、会ひて話す」と。池田おし切る。 ((※編集中の『田中克己詩集 自選自筆1932-1934』)総務部長、大山、安藤には寄贈、中山正子には買はす。高橋にはやる。彦根の河村、藤野には1万円の特製本を買はす。) 2月4日 (※記述錯綜部分省略。) 9:00すぎ出て地下鉄入口の喫茶店レナウン・ミラノで(※省略)傘忘れて出、東豊書店のあくを待ち、台湾本多量に買ひ、欠本在家ときき茶のまされ、1片のpão食ひ、別れて帰宅。 末富翁(※末富栄樹:日本ゴム協会元副会長)に家の前にて会ひ将棋さす約束す。13:00末富家にゆき碁将棋の勝負に興じ、猥本2冊夫婦ともに喜びて借る。 15:30帰宅。都丸瀬見氏に「来よ」といへば「17:00来る」と。 19:00末富家へ菓子もちゆき田上クリニック教へる。 21:15までをりて帰れば教務より1Fの欠点と「院の漢文試験問題につき来よ」と。 電話すれば教務みな帰宅と校務員の声なりし。 2月5日 3:00さめユを大への電話にてさます。8:00大来て共に出て教務へ自動車(2,850)でゆけばすみ、院の会議13:00ときき、麥書房にゆき年譜の件、我家へ10部、買ふ者と贈る者の名簿にせよといひ12:10帰学。 (※省略)院の面接、外池、西山博士にきびしくやられしも旨く答へ、蓮田保田のこと知らず。すみて講師室に行き1時間して行けば磯岡生すみしと。 つれて桜子へ汁粉くひにゆき我家へつれ帰り途教ふ。(※省略) 20:00古崎兄妹、俳人巨橋義顯『夢拾遺』おいて帰る。東豊書店より宅急便にて台湾本35,380着く。 2月6日 7:00さめpão食ひ、末富家へゆき、碁打ち、2目置きとなる。高円寺大石へゆき石川の本2冊と大林太良博士『稲作の神話』3版買ひ、本とりて帰る途中プティ・パレの女主人に遭ひて「来よ」といふ。 大林博士「火曜ちょっと寄る」と。山住家へ買ひし本2冊にsignして返却受け、かゆみ止めの散薬たまふ。 ユ戸田画伯にゆく。佐伯にゆき「本取りに来い」といひ13,000売り(4,800買ひ)差引9,000ほど残り、マコト屋でcopy(925)して帰り来り、ユの教へにて南教授の本とりにゆけばなく、『戦争体験(600)』、『歴史と人物(300)』買ひまことやにゆき香奠袋とcard買ひ(print925ユせし)、失礼咎め、中村屋で餡饅(60)買ひ礼いはれてほめ、中桝で白酒買ひ「うちのパパ」うたへば主人そしらぬ顔、帰り来る。 (※記述重複・煩瑣にて躁はげしく、以下悠紀子夫人の鉛筆書きあり) 夜、亀井昇の事がしきりに心配になり同時に自らの死と亀井昇の死とについてしきりに涙をこぼしているので大阪の川西さんに電話してみると「もうねたと」云って出ず。 11時すぎに、電話をしらべて亀井さんに電話するとしきりにうるさいので、電話すれどここも出ず。 もう最後のおなごりといってねてしまふ。明日はどうしても塩入先生(※精神科)に行こうと決心する。 泣いたりわらったり感情不安定なり。つくづくもうやりきれない気持なれど自分より(※介護)やるものなし。 今夜はねずに様子を見ることにする。 ユの愛誦歌あなうれし。 2月7日(日) 7:30起床。9:00よりFM、躁につき夫婦とも聖餐式欠席。川西奎之祐より「亀井のこと不明」と電話。 (※省略) 15:00大林太良氏来り「博士は推薦できず」と。 苑子16:00来りcardのことたのみ100枚もち帰ることにせし処へ大来り「南博士に心配いらず云々」 whiskyのみわれ白酒とwineとまぜてのみ「20日出席」といひて去る。(※省略) 2月8日 寒天8:00覚む。ユに病院行すすめ、末富翁、休日土曜はよしと。 山住dr.は「わがこと博士号で心配」と「末富さんと呼ぶたびに気をつけよむ」「喜怒哀楽で心配」と。 鳥居清君に電話し天理の笑画たのむ。快諾さる。 11:00ユの山住dr.にゆく間に弓子来り、餅焼いて食ひ13:30出て「サン・リオ」で喫茶(250)して地下鉄にのり、 山本へ行けば店主呼び、もちゆきし1万円の本とかへことし(『中国音楽史』、『平妖伝』、『十二楼 上下』、『封神演義 上下』、『長恨歌──楊貴妃伝』)貰ひ、 1万円を5,000とかへ、「お見舞」と封筒に書き山口書店にゆけば息子受取る。 すし屋で3000円、うまし。山本に入り直し何事もなく、地下鉄。 「サン・リオ」に再び寄り家に電話して帰宅。瀬見より電話なく、かけしもムダ。 (荒井平次郎より「亀井入院中、便りするな」と。) 2月9日 9:00起き花井夫人より中野駅で待ち合せ(三治、和田両夫人も出席)、佐伯氏来り雑本2,800で買ひゆく。(※省略 登校。) 会計で金もらひ、午食くひにゆき、栃尾に漢文の代行となりしを慰め、高田修博士と遭ひ、成城堂にて新本多く買ひ、 麥書房にゆけば「(※詩集に載せる)履歴書かけ」と。 出て新宿紀伊國屋にて地図2枚(300)買ひ、焼きそば食ひ、折りたたみ乍ら地下鉄(小田急に米人3人と大笑ひして歌うたふ)。 新高円寺Mrs.Koenjiより饅頭、瀬見にゆけば茶のましたまふ。滝沢の電話のこときき「まことや」にてcopyして(30)、 匂ひあらせいとう1本(100)買ひ、酒屋に白酒(500)注文し、夕食くって履歴書かき疲れて白酒のむ。 池田温氏よりもdr.だめと返事あり。 2月10日 9:00起き、ユ西武dept.へ出てゆく。(※省略) 詩歌歴かくうち脱線して履歴小説となる。午は「ピーターパン」にて野菜サンド。本屋にて2冊買ひ末富家へゆけば「薬のみゐる」と。碁将棋ともに負け、帰りて滝沢まてば来りて北海道の文学少女へとsignささる。 旨くゆきさうなり。送りてプティ・パレに寄り『北アジア学報』のcopy受取る(11,850)。 滝沢copyもちゆき我送りかたがた佐伯へゆけば水曜とて休み。 帰りて夕食中村屋で買ひし焼売食ひしあと飯一杯食ひ、入浴して中々ねつかず。 2月11日 6:00起きユの7:00さめるを待ちて朝飯食ひ、入浴して佐伯へゆき本買ひ、 13:00都留生来り「会は4月」と。 杉山博文生栗納豆もちて来る。端午の節句なるを教へ、都留生の帰りしあとプティ・パレへつれゆきcopyたのみ、茶おごらんとすれば無人。 家へゆかせてのち、佐伯へゆき『蒙古学報』かりしもすでに家にありと。 原稿用紙買ひにゆくまに杉山生、佐伯へ『蒙古学報』返却にゆく。 しるこ食ひ、杉山生菓子くひ、おごりてすませ帰宅。 朝かきしあとがき大分長くなりしを「お任せ」と麥書房に包む。 2月12日 8:00さめ10:00佐伯に寄り、南阿佐谷へとゆく途マスク買ひて駅。 各駅停車にて梅ヶ丘、堀内君わがあとがきの不明のところ直し、あとはそのまま、1万円の特製本には苦心。23日までに着くと也。 出てまた各駅にて南新宿、(※東豊書店)簡君よりブヌン・ツオウ(※台湾少数民族)のtext買ひ、借金合計4万円になるも平気なり。 大学院より電話、榊原、西山より「19日の大学院の会に出よ」とありしと。 「帰宅承知」と返事す。「四畳半ふすまの下張り」のそのまま出し文庫本買ひ、驚く。 夜食後21:00すぎ瀬見来り凶酒、握手を求め2:00帰りゆく。 2月13日 8:00起床、9:45瀬見宅へ電話すれば「失礼した。本買ひにゆく」となり。 松枝茂夫氏より「楊雲萍氏の手紙と論文預かったので送った」と。すぐ別便にて来りし故、〒にゆき航空郵便買ひ、川久保に伯父の本への署名たのみ、 汁粉食ひ、ユの画なるを見てプティ・パレにゆき「木曜来って仕事」と。鉄斎しらざるに呆れる。(※省略) 堀多恵氏より「寒くて在京、怒ってゐぬか」と電話、「会ひたし」と答ふ。 2月14日(日) 夫婦にて礼拝にゆき竹森先生にくやみ云ひ、詩集差上げるといふ。(※省略) ユと別れて角の古本屋にゆき2冊買ひ、昼食後荻窪へとゆく途、堀さん訪ぬればしめをり。加藤家の老母、訪ひ方教へくる。 (※古書店の)岩森夫人「まうけた」と。Gelbe Solbe買ひて帰宅。事なし。(※省略★)。 2月15日 8:00覚む。9:00すぎユ出てゆき我ゴミ箱出す。 滝川博士に電話すれば「あす14:00来よ」と。原田に電話して「あすは会ふのみ」と断れば「宜し」とにりし。 麥書房より電話「22日に出来上がる」と疑問点に応へしあといふ。うれし。 午食後、第一書房へ電話すれば「前金で」と。汲古書院より『敦煌律(英文)』着く。本買ふこと止めん。 15:00柏井に電話すれば「今出た、ゆく」と。 タバコ3本すふまに鳥海生来り、わがこと「祖父の如し」と。「apart変れば報ず」と。 4生への本与へ「謝恩会には出ず」と答ふ。彼女入浴後われも入浴。静矣如神。 (東洋文庫刊『Tun-Huang and Turfan documents 1』着く。ふしぎ)。 2月16日 12:00眠り5:00さむ。8:00朝食、カヨちゃん(※鳥海生)8:30起きて飯くひ10:00我出しあと帰りゆきしと。 銀座にて下車。たづねゆきニュートーキョー10階の(※大高同窓)三火会にゆけば無人。 ややにして西川、室、高垣など来り、われはねのけられて老人と若者の間に坐りMarseillesうたひなどし、 原田(『ソビエト法』わたす)の講演まへに出て銀座線にて新高円寺下車。 成田東3丁目たづねたづねして瀧川邸に14:05つき、おとなへば夫人出て菓子受取らる。 (※瀧川政次郎)わがもちし本に署名され島田正郎君への賞廻状かきたまふ。礼いひて出れば南阿佐谷なり。 しるこ(300)食ひ、帰りて一服し、まこと屋にてcopyし一休みす。夜、長尾忍氏(※長尾良未亡人)に電話すれば新潮社はわが日記欲しとなり。 (神崎清氏の『偲び草』もらひしに礼状かく。廃娼論者なりし『辻馬車』同人)。 2月17日 曇。6:20さめ、ユ7:30起く。築島博士に『唐代詩集 上』送り『六法全書』もちて高円寺へとゆく。駅前〒感じよく、(※省略) 瀬見氏に『六法全書』売れば500呉る。帰れば「明代の死刑」の校正来をり、半ばして疲れし所へ「イエスの友」2人来り、わが説教と歌とききて帰る。 (※省略) 「東京四季の会」より原稿の訂正の電話あり。雨中、苑子の来るを待つ。15:00来りcard100枚(500)を先渡しとす。 乗杉翁危く末富翁は忙しくて相手なし。16:00苑子、中公事業へと書留速達もちてゆき、本屋との結婚を喜ぶ。 二度入浴す。(酒井先生死せしと大高名簿にて知る)。 わたしは清らかな水が欲しい けがれを去り敬虔な祈りと 高らかな歌とをとなへたい 夜の静けさにさう思ふが 日中はどうだらう 怒りや昂ぶりで一杯で 夜になって悔い改める これがわたしのしきたりで 祈り了ると眠る ゆめ見ることもない死んだ子と いつかわたしが会ふことを信じてゐる 2月18日 5:00さめ7:00ユ起こしてパン食ひ、弁当もちて登校。(※省略) 昼食まに高田瑞穂に電話すれば飯食ひ了りし瞬間来り、 ともに出てwhiskyの水割りのみ、菓子くい、払ひす。23日の乾杯は彼が音頭とると。『国文学論集』に歌かきくれ、 渡辺、井上正蔵と同じく『新思潮』やりしとなり。出て階段にて別れまっすぐ帰宅。 ユ弱りをり入浴して酔さませしあと1,300の内1,000借りて福地女史に『鉄斎研究』7冊貸せば喜ばる。 まっすぐ高円寺、『北京』など,000借りてまたプティ・パレ、一杯飲み直し、竹森トヨ先生のこと思出し(※省略)、 折しも湖上社、草壁焔太氏より「新雑誌に詩かけ(3,000)」との依頼ありしなり。父と母とをかかんとす。(※省略) 2月19日 7:30さめ9:00出て登校。(※省略) 学科会、25万円を送別にもらひ、成城堂で愚本買ひ、(※省略)新高円寺下車。 山水書房にてまた愚本買ひ、瀬見氏に運搬たのみ(成城大飯店にて試食。旨く、わが北京語通ず)瀬見氏上がらず帰りゆく。 2月20日 5:00さめ7:00朝食にpão食ひ、昨日忘れし鞄とりに大学へゆき東豊へ払ひにゆくこととなる。(※省略) 依子、望15:00着き、京母子とそろひ、われ6:00出て都丸へユダヤ人の本返却。 成城大飯店にてまつ内18:40大の発議にて乾盃。孫9人、子3人、弟にて愉快なり。 都丸の瀬見氏来りて、たのみしとて10:40写真をとり散会。京母子、依子母子泊る。 (大山学園長より『Golden Treasury』2冊貸与、早く返せと也)。 2月21日(日) よべ地震あり。7:00起床。飯くひ孫らもおとなしく禎子なつく。 都留純也君へ4月10日18:00成城堂clubにての会承知と返事かく。(※省略) 12:00出て目黒の雅叙園にての西島一興たみ子23回忌と33回忌にゆく。(書原にて多量に本買ひ金なくなる)。 雨中、目黒駅より歩きしばらくまちしあと献花。寿一丁寧に挨拶す。(※省略) すみてbusにて目黒駅に着き、寿一より礼の電話。(※省略)鼻水出て困る。最終講義の礼かき始める。 2月22日 17:00京王プラザホテルで送別会。榊原副手に別れ告げる。(※省略) 新嘉坡行は4月8日16:00成田より夜の便。 4月3日は名誉教授の予餞会。みな来る。 2月23日 5:00さむ。11:00河野母子来り、わが躁鬱をいふ。むすめドイツ語とて辞典贈ると約束す(豆とカステラ呉る)。 午后まことやにゆき『Golden Treasury』のShakespeareの部のコピーすます。麥書房へ校正送る。 文化史第1回のNHKの鈴木生より仕事の案内来り「4月の会楽しみ」と也。 2月24日 5:15さむ。寒く、風邪なほらず。最終講義出席の礼、半ばすむ。磯見浜子生に麥書房の紹介す。 11:00出て中央線。地下鉄にのり学士会館へ着けば村山高主賓をはじめ皆着席。幹事吉岡克己君。 村山高氏の隣に坐り「大高野球部史(仮称)」の編集命じらる。 「歴代選手のほか応援団長にも呼びかけよ、(※省略) 昭和1桁はまとまりよく18回以下は実力あり」と。 15:00出て阿佐谷へ帰りShakespeareよろづ屋休みとて他の店にて老婆に(※copy)やらし、封筒100枚買ひ、 帰ればcopyなし。ユにゆかしむれば「包んで上げた」となり。明日とり直すこととす。 ユ封筒に住所捺し、われ署名了へる。分はあす考へん。東城書店より『紅閨春夢』来り、送料とも1,050と。 2月25日 よべ眠く、7:30目ざむ。(※省略) 午后ひるね2時間、15:00西川満氏訪ね歓待受く。 トヨ先生の追悼会13日と。堀川博士の歓迎会3月27日(※省略)と。 京、仙台行とてあすより日曜まで2孫をユ預かることとなる。(Shakespeareのcopyやり直す。よろづ屋にて(※1枚)30円也)。 あすtext学園長室へ届くることとす。 2月26日 7:30起床。村山高氏へ「名簿送れ」と書く。寒し。(※省略)15:00京、2孫つれ来り。 麥書房来り、(※詩集の)送り状見す。23日大学の諸同僚の分もち来り、我が家へは特製本4冊と。うち1冊は西川満氏、あとは我、大、史なり。 ◎は1万円の特製本、他は3,500の贈与本なり。井上靖、大岡信には我より挨拶かくこととす。 麥書房帰りしすぐあと川久保来り、伯父岡茂雄氏の署名ある『不埒軍人行状記』賜ふ。阿南陸相と善かりし也。 17:00京の去りしあと2孫ねむらず。健太郎のみ入浴す。われも入浴して日記かく。 2月27日 ユ、2孫つれて三鷹へゆく。我が校正1,000足して送りしと。24日の謝恩会欠席することとす。 16:00ユ、よし子のみ連れて帰り来る。野口武徳氏より「香奠多し、某処へ寄付せし」と。 履歴のみ送らず。『成城文芸』への寄稿の題名忘れしが為なり。『山の樹』の「芥川比呂志追悼号」来る。 2月28日(日) 礼拝休む。ユ、よし子をつれて吉祥寺へゆき11:00帰宅。(昨日22:00山口基夫人逝去との電話あり)。末富夫人より飛騨の漬物賜はる。 3月1日 寒し。佐伯休む。退職記念の餞別金の礼すむ。『北アジア学報』の「北方諸民族のレヴィレート」のcopyすむ。 大学院より3日の出席を命じ来る。 3月2日 寒し。終日雨。午后末富邸に招かれ碁将棋ともに負ける。村山高氏よりたよりなし。明日8:30までに出勤を命令し来る。 3月3日 8:40登学。3号館にて待ち寒し。12:00すぎ昼食にちらし食ひしあと、採点室にて漢文の採点。できず20点増し(※名前S省略)49となる。 帰り鎌田女史と同車(くれし菓子を畑にやる)。平山博士「東男に京女」といはれしと。「わが後任、タイ国史をやる国立研究所所員にて難航」と。 16:00帰宅。村山高氏より「高垣金三郎を入れよ」と。吉岡克己さんに頼むこととす。浅利大作氏の事もあり、わがチームは大半死亡がためなり。 苑子にたのみしcard殆ど役に立たず、仕方なし。汲古書院より『唐才子伝之研究(8,500)』来る。たのみしおぼえなし。躁のいたすところなり。 あす10:00出勤にて役すみとならん。佐伯よりたよりなし。月給50万円を越し、これが最後より2番目なり。 新潮社の某女史より「明後日1時阿佐谷駅に来る。保田與重郎のこと書け」と也。吉岡克己氏に集金たのむ。印刷は我引受けるといふ。 3月4日 10:00前、鎌田女史と院の面接に同行。3号館にて面接、12:10すみ天丼くふ。 (修士2人を落し6人合格。博士は4人とも合格。外地最高点にて杉山は2位、磯岡、細野とつづく)。 大岡、井上2氏の住所写し14:00よりの判定会。すみてまっすぐ帰る。佐伯より消息なく、丸より電話ありしといふに明後日ゆくこととなる。 夜、安達さんより電話「18日学士会館控室にて村山氏と会ふ」こととなる。 ユ、我のことを鬱といふ。これにて御奉公すみたる也。(※省略) 帝塚山の同窓会4月6日13:00山王飯店にてと。 3月5日 戸外暖しと。終日炬燵にあたり無為。巨橋義顯氏に先日の暴言のわび書く。(※省略) 今日13:10新潮社の副編集長小島女史(※小島千加子)「保田の若き日の思ひ出語れ」と。長尾忍夫人よりわがこと聞きしと也。 3月6日 雨。寒し。田中三治より「けふ5:00来る」と。亀井のことか。15:00来り、高石市の教育長その他金属関係の社長と。 なつかしげに話しゆく。亀井のことは知らず。もらひし漬物の返しにユ海苔を出す。(丸に雨中ゆき、野球部のこと殆ど我かく) (※省略) 夢みごこちつづき麥書房へ「(※詩集)23日30部もち来れ」と電話す。「払ひは月末に」とも云ふ。(※省略) 3月7日(日) 8:00起き、大に「1,2月分の看護料払へ」といへば「退院の時と思ってゐた。月曜払ふ」とのこと也。 ユと礼拝にゆけば聖餐式あり。長老みな若くなり(トヨ先生追悼会13日と)。伊勢丹にて狐うどん昼食くひ佐伯に寄らず帰宅。 気分すぐれず終日炬燵にあり。紅松に「野球部への文章かけ」とハガキ。 3月8日 9:00起き山住dr.にゆく。血圧110-80、下痢と風邪の薬もらふ。鳥海かよ子「君津郡文化財センターに就職」と。 京母子来り、三鷹へと出てゆく(ユも同行)。佐伯さん来て(※詩集)売れしと15,500置き、難物の雑本もちゆき呉る。 夜、青木生より「謝恩会に出よ」と。「病気」といひて断る。 3月9日 9:00起き無為。ユ8,500を汲古書院に送金、鳥海生に祝ひのハガキ出す。末富さんより「あす13:00来い」とさそはる。鬱とれず困る。 成城大学より23日の出欠問ひ来る。(※母入院の)清川医院「3月払ひにてよし」と大。 兼清より「4月3日のクラス会12時ニュートーキョー9階にて」といひ来る。 3月10日 8:00起き無為。ユ税務署にゆき2,000余り戻されしと。13:00末富翁と碁将棋ともに負ける。 20年の東京大空襲の日なり。夜、麥書房に電話すれば「(※詩集)22日に運ぶが学校無人でなきや」と也。 3月11日 鬱つづく。神田先生より『還暦記念論叢』いただく。蔓り「4月10日18:00より成城クラブにてわれら夫妻の会開く」と。 (※省略) 麥書房より「23日には1部見本しかできず」と電話あり、仕方なし。安達さんより「18日13:00学士会館にて」と。 3月12日 けふは無為。瀬見氏来り『コギト』と『四季』の製本屋見つけんと。都留、神田先生へ〒出す。(※省略) 『荊楚歳時記』の書入れ本見しもページ足らず、困りたり。 3月13日 ユ、竹森トヨ先生の追悼会とて出てゆく。(我と同じく明治44年、山本家に生まれ昭和5年ウィルミナ(いま大阪女学院)卒業と。わが母の後輩となり。今年1月19日死去、昭和15年吉祥寺教会牧師となり40年間教会に従事となり)。 われ久しぶりにプティ・パレにゆき、(※省略) 保田のこと書かねばと思ひつづく。 「立原道造44回忌を27日、日本橋公会堂にて」と堀内君より案内。翌日は堀川博士の送別会と会つづきなり。 汲古書院より既に売りし本の送金『8,350』を云ひ来る。入りはなく出ることばかりにて困る。楊雲萍氏への電話代も納めよ(2,800余)と。 3月14日(日) 夫婦とも礼拝休む。鬱のかず。保田の著書26冊を記す。昭和14年と17年に多く出てをり始めは昭和11年なり。自家版の『のりと考』が最後にて召集受けし也。 3月15日 8:30さめ9:00起床。朝食くふ。ユ国際電々に楊雲萍氏との電話料払ひにゆく。 われ午后15:30佐伯へ『アイヌ語辞典』2冊売りにゆき李家正文『泰西中国トイレット文化考(1,400)』買ひて帰る。 保田與重郎論すすまず。成城評議委員会より30日18:00京王プラザホテル43階スバルにての歓送会より問はれし出欠に「出」の返事投函。 汲古書院のよまずして売りし『敦煌吐魯番社会経済資料Ⅰ(8,250)』を小為替とし夕方ユに投函せしむ。 堀内達夫君より「詩集23日に1冊をと思ひしも不能」との通知あり。仕方なし。 保田の知己、朔太郎の父祖の地は河内木の本にて、保田夫人の故郷太田の隣村、肥下の実家瓜破はそのまた隣にして縁ありと思ふ。萩原密蔵国手は木の本の人なり。 3月16日 8:30さめ9:00起床。朝食のpão食ふ。神田先生の本はdoubleでなく御署名お願ひせしと判明、苦笑す。(※省略) 田中冬二の会より80才を過ぎてなほ詩を作りしこと記し来る。(※省略) 高円寺まで歩き、都丸をさけ中通り歩く。堀内達夫氏に保田典子夫人の『くちなし』返せとかく。 夕ぐれ末富夫人若き声にて「あす13:00来れ」と。ユ三鷹へゆくと也(あす9:00-10:00)。 健太郎すこやかにあれ青葉城となのる角力のごとくなれかし(けふユ電話すれば「風邪ひき休みゐる」となりし)。 3月17日 9:00起床。朝の便にて『常民文化紀要』『成城文芸』の(※校正原稿)2つ来り、責了とし午后投函たのむ。 川崎夫人より「76才をもって天寿を全うし」とのしらせ。丸といひ老友は悲し。末富家へ13:00ゆき碁将棋ともに連敗。 保田典子夫人の歌集返却を麥書房に請求、保田の3男の逝去を悼む女の歌を新潮のため書きて了らんと也。 午后の便にて牛尾三千夫氏より伯耆大山信仰につきての抜き書来る。 (※高校野球部松江遠征時に) 大山をともに見し人あるは死にあるは不随となりし年はも。 ユ16:00帰宅。直前、美紀子より京の出発日問ひ来る。 3月18日 6:30起床。ユ8:00起き朝飯くはし出てゆく。山住dr.に下痢訴へ薬もらふ。血圧105-85 11:30出て地下鉄、学士会館食堂にてpãoとteaとり(280)しあと玄関へゆけば村山、安達、吉岡克己の諸氏そろひをり。 安達氏のおごりにて昼食とbeer(吉岡氏肝臓悪しと)。すみて談話室にて我、勧誘状を作製し郵送することとなる。 15:00すみて村山氏地下鉄の方へ追抜きゆくをみて16:00帰宅。(※省略) 堀内達夫氏より中間報告あり30日に間に合ふか。 3月19日 9:00悪夢より覚む。ユ区役所へ戸籍抄本とりにゆく。昼食して登学。(※省略) 高田瑞穂に駅橋で遭ふ。久しぶりにて手帖とりもどして退出。14:30南阿佐谷着。 あすの道造44回忌は欠席と定む。縁なかりし也。(※省略) 夢みごこち直らずして仕事出来ず。(※省略) 3月20日 雨降り。ユ、画にゆく。保田典子夫人『くちなし』返り来る。平凡社より稿料112,500太陽神戸に入る。 (※省略) 佐々木望氏より「童話送った。「詩集西康省」保田より貰ひし」と。(※省略) 3月21日(日) 8:00起き礼拝にゆき12:00すぎ帰るまで待ち上川霊園へ行くこととす。 堀多恵さんより電話「伺ふ」と。「今より墓参、またの日に」とことわり新宿へ出て京王電車にて八王子。 busすぐ来りしも1時間近くかかる。梓の墓にゆき(※雨)降りてbus待つ間、taxiにのり京王八王子駅まで2,150、20分間につつきし。京王にのり新宿着、われは鍋焼きうどん(800)ユはカレーうどん(600)食ひて帰宅。 雨降りやみ。北海道にて6の地震ありしと。(※省略) 3月22日 8:00起き10:00ユの京の許へゆくを見送り1:00高円寺。散髪し、成城大飯店で焼糕子食ひ(500)帰宅。 けふ保田の炫火時代書きし『近代風土』つき、佐々木望氏の童話集来る。 16:00麥書房の堀内氏、詩集の下刷り見せ誤植一ヶ所見付く。3月末には出来さうなり。 村山高氏より「1人入金、勧誘状3通ほどくれ」と。 3月23日 6:00起床(5:00さむ)、8:00出て8:40登校。9:20特別室にゆく。 高垣名誉学長92才と。杖ついて見ゆ。諸我高校長に「(※山川京子辞職に対する抗議)その節は失礼」とわびる。 9:30着席、新城(※常三)、田中、堀川(※直義)の順なり。卒業式すみ定年教授の紹介あり、安藤学長われのことを「詩人にして飄々たり」といふ。 会議室に呼ばれしもsemi生に会ふため133教室にゆけば塩沢孝子、津端かおるの2生来ず。Album久しぶりに渡されありがた迷惑なり。 明日は帝国Hotelにて文芸4Dの会と。「ゆかず」といひ新城博士と握手し、榊原副手より2月の会の写真わたされ校門前にて小泉生(※小泉凡) より挨拶うけ、一人だけ見覚えある4Dの女生たちと写真とられ、奥井(岡林)、石塚真弓の2人に誘はれしあと、大学院の磯岡哲也とその母澄とに会ひ歌集と詩集と菓子賜はる。 奥井、石塚昼食し、われ茶がぶ飲みし、会計たのむ。まっすぐ帰宅。やれやれとなり。 佐々木望、磯岡澄夫人とにハガキかき一日了る。 (けさ健太郎電話「きのふ来れず大宮のホテルに泊りし」と也)。 3月24日 ややに寒し。朝の中、大球会(※大阪高校野球部会)の勧誘文、頭の中で書き直し、午すぎ出て高円寺でハガキ2通投函。 15:30奥井、石塚2人来り、ユ石塚の許嫁指輪見つける。奥井夫人は6月出産の由。 19:00より吉祥寺の舅の生誕祝にと奥井とともに去り、天丼食はさる。 けふも下痢せしなり。鬱の徴候とユの話。 向ひの家、葬儀の為大工呼び下駄箱作る。苑子来り、危篤の症状かたりしなり。 終日ゆめ見心地なり。忠魂碑の宗教性を認め違憲判決大阪地裁にてありしと。 3月25日 寒し。文具まことやに行き野球部史のcopy100枚(3,000)、封筒(300)、のり(350)買ひ来り午后30枚ほど封筒かく。 (※省略)『東方学』63来り、榎ゐばりをり。(けふ山住dr.に遭ひし)。 3月26日 風なく寒さややのく。午前中に大球会の呼びかけすみ、午后は物故者の遺族(日野月先生、田村春雄、清徳兄のこと、益子ウタ氏、橋本千佳子氏-国行義道氏長女)への呼びかけ書き、あす投函とす。(※省略) (けさ10:00津端かおる生来り、卒業式には出ざるも4月3日には出ると)。 3月27日 8:00さめ8:30起き、朝食後大球会の仕事すませ、午后「ツングース語」ちょっとやりプティ・パレへゆきなどしてをれば、 浜野治(旧姓三浦)氏より「発起人いや」と。すでに発表とかき投函かねて16:30出。 京王プラザホテル4階へ17:20着き、築島博士に遭ふ。18:00すぎ学長、理事長、南博教授の挨拶のあと大宅壮一未亡人の乾盃の温度とる。 大藤氏と同座にてそば食ひて帰宅(20:00)。夕食とりなほす。 (三好清明氏に「雪よりも白く」投函)。 3月28日(日) 夫婦とも礼拝休む。終日家居。「ツングース語彙」ちょっとやりしのみ。浜野治の心情よくわかる。 3月29日 30年以上会へぬ高梨フジ子(旧姓吉田)に「会ひたし」、渡辺怘氏に「浜野君に書かせよ」のハガキ書き、午后来し弓子(3孫同来、克次朗のけものとなり眠る)に投函たのむ。 「ツングース語彙」シロコゴロフを既に寫して作りをりし。 (※省略)「朔太郎忌5月9日」と『朔太郎研究会会報34』。 山口基氏より「亡夫人(サツキ)2.26逝去、3.28納骨」と。 3月30日 6:30さめ7:30起床。高校野球見たりねたりして16:30家を出、(※省略) 地下鉄にてまた京王プラザホテル43階にゆき、大藤氏既に来をるを知る。 経済学部所属の鈴木博士(『骨』の著者)と文芸学部、新城、田中、堀川の順に並び検査入院中といふ大山学園長に代り安藤学長より挨拶、代表の返事は鈴木博士し「明治生まれはこれにて了り」との安藤学長に反対せず(西山博士、明治45年生れにて来年定年なり)、われ退屈してタバコ飲む。 20:00すみhyreにて送りとどけらる。(※省略) 川久保より電話ありしと。ShirokogoroffのTungus語辞典よみゐるらし。 3月31日 6:30さめ7:00起床、朝食して8:00出、9:00まへ登校。大槻さんに詩集のことたのみ学園長室にゆく。評議員代表立会のもと解任の状と16,498,000(税込み)の手当ともらひ父兄会よりの手当をももらふ。 菓子食ひ挨拶してすみ、学長室にても一服。各課に挨拶して午食にB.lunch食ひ(600)、新宿にて茶(300)のみ帰宅。 一服して苑子のまた速記やらんかとの相談きき流し、末富家へゆき碁将棋ともに負ける。(※省略) 4月1日 よべ早くね(1服たす)23:00眠りしも6:30覚め、吉岡氏に全権委任速達す。(※省略) 午後ふたたび〒にゆき投函。(午食プティ・パレにてとり福地夫人に「詩集やる」と再び云ふ)。 (※省略)川久保訪ねShirokogoroffのTungus語辞典やるといはせ「書原」にて『奉天三十年 上下(800×2)』買ひて帰る。 退職第1日すむ。(※省略) 4月2日 8:00起床。ユ区役所にゆき聞けば「老人も保険金撮る。今年は今まで通り」と。 丸重俊来り、元校長鈴木楊一先生の小説集と京の漬物もち来る。 鎌倉の詩人日野零氏より詩集、角川書店赤塚才一氏より『達治・道造集』(※『鑑賞日本現代文学』第19巻)来り、それぞれ礼のハガキかく。(※省略) 15:00プティ・パレにゆきwineのみ(250)瀬見氏にdoubleし『東印度会社』売りにゆけば800に買ひ呉る。お礼に茶おごり帰り来る。(※省略) 4月3日 7:00さめ7:30起床。8:30朝食。東京新聞に中山太陽堂80周年の全面広告のりをり正子生を憶ふ。 無為にて待てば13:00日比野(旧姓坂)泰子2児つれ来り、ややして菱川(旧姓山野井)秀子も2児つれ来り、16:30まで4児出入りし騒ぐ。 (※省略) 4月4日(日) 7:00起き、雨止むも礼拝休み10:00杉並局へ速達出しにゆく(能勢正元へのハガキも投函)。 (※省略) 「Tungus辞典」の訳をし始める。分類はあととす。 小倉君より電話「来訪」とのことに「水曜15:00」といふ。ユにきけば「躁のとき連れ帰りし」由。 4月5日 8:00覚め下痢、腹痛す。(※省略) 宮本正都氏より「摂南大学に就任」と。彦根より3回目の転任なり。 「Tungus辞典」で目疲れ下痢はせぬも腸悪し。 夜、吉岡君に電話し、大球会の呼びかけやり直しをたのめど返事危ぶかりし。 仙台の京より電話20:00あり。 4月6日 4:00さむ。5:00起床。腹鳴る。8:00吉岡君に電話すれば「事務引受くも督促状はあなたやれ」と。「書類送り返せ」といひて仕方なしとあきらむ。 10:00麥書房に電話すれば「8日出来、9日来て発送せよ」と。「午后ゆく」といふ。 疲れしも眠れず「Tungus辞典」もやれず。(※省略) 13:00出て成城大学、(※省略) 文化史研究室のぞけば青木生、副手としてをり紅茶出してくれタバコのましてくれる(禁煙なり)。 民俗研究所にゆき茂木夫人に紅茶のましてもらひ柳田翁の話す。 帰れば畑女史より電話、(※省略) 辛島驍の息子より「けふ来る」と電話ありしにユ「あす」と返事せしと。 河野家に電話すれば娘出し故「字引買ふな」といふ。 4月7日 7:30さめ9:00起床。(※省略) 野田宇太郎全詩集刊行会より「(※出版記念会)3月20日」と「欠」の返事す。 (※省略) 吉岡氏より速達にて大球会の書類来る。 15:30辛島静志君来り眞浄寺より向丘の大谷会館にあり辛島驍博士の令息ではなしと。筍飯拝みて帰りゆく。 大球会あすやるときむ。 4月8日 大球会の書類作り投函(約半分)。14:00出て麥書房にゆき16:30印刷所より来りしを見る(※『田中克己詩集自選自筆1932-1934』)。 まあまあの出来なり。2冊もちて出、喫茶してのち小田急、地下鉄にて帰宅。 4月9日 雨止み暖し。午前中に大球会の仕事了へ佐伯にてシンチンガー『現代独和辞典』折から来ゐし配本屋にたのみ(10日位かかると也)、帰宅。 東京都知事より「去年600万以上の収入ありしゆゑ老人医療出来ず」と。 17:00近く麥書房、特製本と普及本10冊もち呉る。 大学へは午前中もちゆきくれ大槻女史くばり了へ、栃尾君より礼云はる。 17:30山住dr.にゆく。血圧125-80老人医療きかず実費とりたまへといひ1冊進呈すれば令息(※山住正己)読まんと也。 (※電話するも)西川は留守、小山正孝君も帰らず高橋君のみをり「5日熱海に来る。1万円1冊とりのこせ」と也。 4月10日 16:30麥書房来り、まだ全部ではなく正誤表刷り呉る。一盃飲みて去りしあと丸重俊17:20来り(※大学へ?)30冊ほど持ちゆけば1回より(男2)5回まで全部と、今年3名にて中に柳田、正岸(旧姓)をり、殆どわからず、20:00近く礼いひてすむ。丸、東高円寺まで同行、つひに結婚せざるらし。 4月11日(日) 7:00さむ。ユ聖餐式当番とて8:00前出てゆく。竹森先生への献本第3号(普通版)なり。 転会、信仰告白、説礼あり。3階にてイースターの茶会。竹森先生へ献本し、甥、成城高校の国語教師になりし人に紹介さる。 (※省略) 15:00瀬見氏来り特製本1万円にて買ひゆく(NO.4)「戦友」と署名し気の毒なり。新聞見れば小野勇氏死にしと也。 4月12日 8:00起床。近畿大学に銀行番号かき、山住dr.にゆく。低血圧なり。正誤表送り老人診察権なきをいふ。 〒にてNo.1神田先生(※神田喜一郎)に送る(300)。ユをして西川(※英夫)にNo.2送らしむ。 午后高円寺へとゆく途、プティ・パレに寄り福地、村上2女史にNo.5,8贈る(1万円本(※特製本))。 瀬見氏不在、わが本売れずにあり。15:00麥書房来り48万円(足らず)を受取り、のこりまたといひて去る。 「Tungus語」も進まず。上村肇氏より「静雄と与重郎」かけと。「かけず」と断りのハガキかく。 京より菓子着く(仙台市新寺小路マンションファラオ)。兼清君よりこの間の19期会の通知あり。彼も退職と。 夜、井上靖、大岡信2氏に送りのハガキかく。仙台に電話かければ健太郎出て賢し。 4月13日 7:00起床。8:00朝食、朝食、9:30出て成城大学。正誤表大槻女史にたのみ青木副手に10冊わたしてのち、高田瑞穂に1冊届け署名す。 「名誉教授はダメならん」と我いひし由。夫人娘ともに留守とて「待て」といへどきかず(※退去)。 駅前にてハムサンド(500)にcoffeeつきすまして帰宅。 村山氏より「大球会の通知御苦労」とてすみし。あす詩集1冊送ることとす。 「Tungus語」に精出すは老化防止と知る。(※省略) 池辺、宮崎2氏より礼状。「いづれ読む」とならん。古谷(旧姓森40口)夫人より「読みし」と礼状。 (けふ井上靖に特製No.2、大岡信普通No1.贈る)。 4月14日 7:00覚む。10:30紀要の校正来り、直し註にて大変。早速やり筑摩出版部に書留速達。 村山高氏に普及版送り、西川満氏に特製版No.5受付留守とて置き来る。 (※省略) 末富氏にゆき3目置いて碁打ち1番負けとして帰宅。(※省略) 4月15日 8:00よりうつらうつらしをれば8:30西川より電話「坂井正夫、田代さんに3,500送らす」と。 下痢。大雨。15:30電話小山君(※小山正孝)よりかかり「1時間半して来る」と。 大雨の中、土産もちて来り、わが本2冊にsignさし、特製本No.7喜びて持ち去る。 「21日総会」と教会より我とユに通知あり。(※省略) 21:00天皇フランス大統領ミッテラン夫妻を饗するさまをtelevi放送す。 4月16日 6:30覚め7:30朝食とる。けふ来ると思ひし花井夫人来ず。 大藤時彦氏に並製No.2、河村純一dr.にNo.7、藤野一雄君にNo.8送り「3,500送れ」とのハガキかく。 河野夫人に『シンチンガー独和辞典(2,900)』と西川満『日蓮と人』とを送る。 何もせず11:00出て地下鉄にて山王飯店にゆく。花井夫人より先に星野夫人来りをり、岩崎、久賀谷(水戸)、清水、田中、藤井、藤田、星野、南村、森田、安田、和田と12人集まり、三治、桝田、道下3夫人は仕事病気にて来られず。11冊詩集もちゆけば5万円呉れし。 料理は旨からず15:00までとのことにせかして散会。(※省略) 帰宅して食欲なく20:00茶漬食ふ。和田夫人より長い電話ユきく。 4月17日 7:00起床。朝飯食ひ軟便。外出せず。青木副手より「戸口教授詩集ほしがりをり」と。「送る」といひ「Tungus」もやらず豊田久男君より「重鎮の語源」と竹田誠伍君のclass雑誌にのせし「野球部の憶ひ出」来り「のせよ」と。(「のせる」と返事かき、未亡人にも許可を乞ふハガキかく)。 西山博士と森岡博士より受取(誤植教へらる)。 堀内君より「小山氏と仲直りした旨、電話あった」。 『浪曼』の「保田與重郎追悼号」来り、われの著書表のす。 (※省略) 夜、保田悠紀雄に電話すれば節夫人出て「本借り思ひ出してゐた云々、太田の柏原家の出が典子夫人」と。 悠紀雄も出て埒明かず(けふ17:00川久保来り『李朝実録』よみゐる。シロコゴロフの辞典はその内と)。 4月18日(日) 9:00起床。ユも遅れて覚め礼拝欠席。10:30〒へ戸口幸索教授へ1冊送り、(※省略) 「珈琲館」にて140のアメリカンコーヒーなるもの飲み封筒10(600)買ひて帰宅。 吉越笑子生「13:00来る」との電話に待てば来り声迹見す。(※省略)詩集No.99与ふ。 1時間ほどして帰りゆきしあと「Tungus」ちょっとやりしのみ。 4月19日 7:00起床。神田喜一郎先生より田中克己宛「「支那」以下熟読」と。 大岡信、登張正実氏より礼状。(※省略) 昼食後、野崎、鍛冶2女史に特製9,10を送り、瀬見氏に「20%渡す」といひて普通版の置き所かへさしプティ・パレに寄りて日本茶のみ、(※省略)。 「Tungus辞典」aまだすまず。 (保田典子夫人に「歌うましも哀歌にて気の毒」とハガキ投函「柏原のおまんさん心当りあるや」とも訊ぬ)。 (※省略) 村上氏、福地女史と来り、1万円と菓子賜ふ。あとあぢ悪きことばかり也。 4月20日 7:00起床。坂内明子へ卒論送りしが行方不明と帰り来る。 昼食後中山正子生と前田男爵とに詩集送る(中山生には1万円送れと也)。 ユ印とりに三鷹へと出しあと弓子来り、pãoもち来りしを食ふ。 義姉癌にて危篤の見舞の帰りと也。1万円の本与へる。(※省略) 松俊夫、山田俊雄2旧同僚より「詩集受取った」と。(山住教授と途で遭ひ「詩集のこと云々」と)。 4月21日 よべ22:00床につき名誉教授につき一寸考へ、西山、山田2教授の礼状来りしを吉兆と考へねつく。 6:30目ざめる。坂内秋子(※ママ)のadress間違へをりしを再送付、 石井正吉君に「詩集要るや」のハガキユに出さしむこととす。 午后ユの留守に末富家へゆき碁3目どまり将棋引分けとなる(始めてのこと也、王、双方とも敵方に入る)。 夜食すませしところへ都留生来り、写真帳くれ朝早やしと早々帰る。 22:00野崎その夫人より電話「8冊くれ」と。「特刷18冊にてもう鍛冶さんと汝とにて売切れ」と答ふ。 4月22日 6:30さめ雨音きき曇となりしも不快。河村純一先生より「茂吉より文明好き。金は別便」と。 藤田幸子夫人より礼状。川野直美より「シンチンゲル受取った」と。 昼食後、3人に詩集送りにゆく(築島博士にも同)。 そのあとプティ・パレにゆき福地、村上両夫人に礼いふ。退職の祝となり。 帰れば藤井陽子夫人より受取り。藤野一雄氏より「受取った。金送る。もう1冊女詩人に云々」。 西川満教祖よりも受取。(※省略) 戸口教授より受取。 (けさ西川(※英夫)より田代氏も買ふと。「1万円のはもうなし」と答へ「中公事業出版社長へ野球部の出版につき便宜はかれ」といへば「田代氏の知合なるも死にし」と)。 22:30石井正吉氏より「ハガキ見た。1冊づつ分けよ。28日来る」と。 4月23日 7:00さむ。「Tungus」2日間殆どやらず。ユの上野にゆくにプティ・パレにゆけば「退職のお祝ひ」と。coffeeなど値上げし若い娘を雇ふらし。 (※省略) 堀川、大藤2名誉教授より受取。 10理甲高橋宏氏より1万円を封筒に入れ「書くことなし」と。吉岡克己氏へ転送ユにたのむ。 (けふ山本みち子氏に1冊送り「藤野氏へ受取かけ」とのハガキ出す。柳田幸子夫人に1冊送る)。 昭和57年 4月24日~昭和57年12月14日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 4月24日 10:00ユをして山住dr.にゆかしめれば筑摩の校正係来て紀要の註のdoubleしを取らしむ。 太陽神戸より田代氏と拓銀より高梨不二子氏1万円! 村山氏より「詩集受取った。京の味送った」と。東洋学報来り「1,750払へ」と。 中野清見より「北京へゆき竹内と我とを思ひし」と。(※省略) 岡一郎氏より「病気にて部生活も短く書く気なし」と断り来る。昨日の1万円と同じくいやなり。 プティ・パレにゆき福地女史に物いはれしもいい加減にせしところへ鈴木写真館来り早々逃げ帰る。 夜、日記帳みつからず。ふしぎなり。 (浦和より宮崎智恵女史電話かけ来り「三鷹の家建て直し」と。「この間、保田典子夫人に会ひし」と。「歌旨し」といへば「同感」と。) 4月25日(日) 7:00さめ20分前につき讃美歌うたへず。先生の老いたまひしを嘆く。(※省略) 夜、高梨不二子氏へ礼状かく。村山氏よりちりめんじゃこ来り、竹田夫人の原稿同封しあり。 4月26日 8:00起床。頭働かず夕方までに田代氏ほか3冊送らしめ村山氏に礼状と田代氏へ送り状。高梨夫人に「白楽天要るや」など書きユに投函せしむ。 (※省略) 『アンドロメダ』来り『西川満全詩集』の礼状にわが「詩集送る」とあり。 (※省略) 夕刊に「大東塾塾長、不二歌道会主催長谷川幸男君膵臓癌で逝去66才」とあり。 4月27日 6:30起床。7:30ユを起し8:00朝食、旧姓長屋夫人よりこの間の礼の電話あり。 成城学園より「会に出よ」と! 築島博士より「講師として出講か、帰り新宿にて会はん」!と。 (※省略) 筑摩出版の白髪の人15:00来り、髭そりて会ひ、註ごまかす。(※省略) 4月28日 曇時々雨。13:30石井正吉氏来訪。特製並製1冊づつ買ひ、色紙2枚書かし、各地で買ひ求めしわが書に署名ささし14:30去る。(あとにて紙包みあければ2万円ありし)。 われすぐ末富邸へゆき碁打ち4目となりて帰宅。 前田隆一氏より受取。中山正子より「送金した」と。 (※佐々木邦彦未亡人)佐々木富子夫人へ「老病外出せず」と書きしハガキ投函を石井氏にたのみし。 弓子の「義姉癌にて入院せしが逝去」と。(※省略) 4月29日 天皇誕生日。曇時々雨。家居。「明代の死刑」のせし『成城文芸99』来り、誤植見つく。 けふ勲三等羽田明、笹渕良一博士(79才と)ら貰ふ。 4月30日 村山氏より速達にて安藤徳夫君未亡人治子(12回理丙)の原稿つき岡一郎氏の件心得たと也。 野崎その夫人より1万円同封の菓子着く。(※省略) 夜、中野清見、野崎その2氏にハガキかく。 5月1日 曇。午前中4冊送り、ハガキ2通投函。浅沼教授、山本みち子(『東京四季』同人)より受取。 太陽神戸銀行より鍛冶さんの1万円入金通知。 15:30堀内君20冊もち来り、茶ものまず、小山君喜びし話し、立原の手紙のりしといふ『達治・道造集』(※角川書店『鑑賞日本現代文学』第19巻)を検せしむ。 ユひの去りしあと帰り来り中島圭子生よりの受取来りしを見す。 5月2日(日) 6:30さめユ、聖餐式係として8:00前出てゆき我9:34に乗り礼拝にゆく。 帰り古本屋見てまはりユの13:00帰宅を待ちて昼食。 連休に任もなきもユ、けふも花描きにゆき16:00帰宅。 5月3日 8:30さめ9:00朝食。祭日なるに郵便来る(石井正吉、鍛冶初枝2氏より受取)。 ユ荒れる。夜、高橋重臣氏より電話「7日夕食して来る」と也。 (咲耶来り、母を建に会はさんとせしもきかずと)。 5月4日 曇。暖し。2回に分けて詩集送りすみ、栗田で『李白(前野直彬)100』買へばdoubleをり。(※省略) 菖蒲(100)買ひ来て入浴し、夜23℃といふに寒し。 5月5日 9:30さめ10:00朝食。プティ・パレへゆけば娘1人、客は我1人、すぐ帰り昼食せず。 末富邸へゆき碁4目にて2番勝ち将棋負けて帰る。「Tungus」ちょっとやり眼疲る。 けふ予報通り久しぶりに晴。驟雨ありし。 5月6日 よべ睡眠不足、曇。午すぎプティ・パレにゆけば福地夫人あす早出して来ると。 16:00鎌田女史より電話「病気にておくれた。けふ教授会に貴下の名誉教授提案、通りし」と。 19:00西山博士(※西山松之助)より電話「全員賛成して通りし」と。 恰も大学院の入試手当7,000三井に入りし也。 5月7日 9:00さむ。伊藤博之氏より礼状。21:00高橋重臣君来り、酔ひをり22:30まで話し、われ眠くなる。 (福地夫人14:00来り菓子くれ、本よめずと帰りゆく)。ユ、体悪しと。 5月8日 9:00さめ高橋君11:00まへ去りゆく。(※省略) ユ画にゆきしあとプティ・パレにゆき昼食。 瀬見氏来り3,500×0.8呉れる。(※詩集の)買ひ手は40才位の男なりしと。 ユ体悪しとて不快。(藤野一雄氏より「山本みち子氏の詩集送りし云々」。)(※省略) 5月9日(日) 8:30さめユの礼拝にゆくを見送る。今井翠来り「美紀子遠足の帰りに来る」と竹の子置きゆく。 51:00弓子、孝行つれて来り、1時間半して帰りゆく。 19:00美紀子より「来られず」と。熱海の高橋君より電話、詩作の年代について也。 5月10日 9:00朝食、ユ山住dr.へゆき健保満期とて10万円入る。 柏井へ歯治療にユ行きしあと太陽神戸銀行より「藤野氏より入金」と電話。 末吉栄三(※中学教へ子)より「八尾東高校長定年、関西女子短大付属高校に勤めし」と。 ユ疲れて昼ね。プティ・パレにて茶のみ帰宅。 5月11日 8:30朝食、ユ歯と銀行にゆく。(※省略) 佐伯休みをり『流れる星は生きている(中公文庫)』買ひ、echo20箱買ひしのみ。 5月12日 よべ21:00就寝。早くさめ8:00朝食。石川弘義教授より「坐右の書とす。代りに本贈る」と。 築島博士より「体を大切に」と。ユ、山住dr.、柏井歯科へゆき12:00すぎ帰り来る。 末富氏(※省略)魚もちゆき碁、将棋す。 ユ血圧やや低きも疲れとれざる様子。「Tungus辞典」やっとBに入る。 20:30坪井(※坪井明)「夫婦にて上京、勲4等もらふ」と也。 5月13日 5日間暑し。猿股一つでね、早くさむ。村山氏より上野照夫夫人の原稿来り、石川弘義教授より『石川弘義のベストセラー大百科』来る。 5月14日 「Tungus」ちょっとやりしのみ(石川氏へ受取)。夜、久しぶりに雨降り、涼しくなり電気ブトンを用ふ。 5月15日 晴。7:00前起床。「Tungus」ちょっとやり柴田美智子より受取見て高円寺。 『白川静博士古稀記念中国文史論叢(1,000)』買ひ、瀬見氏とちょっと話しプティ・パレにて茶のみ帰宅。 ユ16:00帰宅。4人にて画室満員なりしと。 5月16日(日) ユ礼拝にゆく。われは無為。午后、史来り詩集と「明代の死刑」もちゆく。夕食を美紀子買へば4,000円と。 5月17日 午前中プティ・パレにゆき山口翁と話す。体中痒くユ山住dr.より薬もらひ来る。 吉岡克己氏より原稿と入金の表来る。 5月18日 昨日の薬よくきき午すぎまで朦朧。花井夫人三治夫人とあす午后来ると電話、ユ勝手に「よし」と答ふ。 5月19日 昼食する内、花井・三治両夫人、昼食もちて来り、ユ食ふ。 詩集2冊買ひくれ、我ものいはず14:30碁打ちに末富邸へゆき4目となる。将棋も負け帰ればユ、2夫人と外出。夜、高群逸枝よむ。 5月20日 7:30起床。ユ教会の婦人会にゆく。われ石光眞清よみ「Tungus」やり、花井夫人に電話して礼いへば「姑入院」と。 (※省略) 新潮社の小島女史より「保田與重郎かけ」と。「来月20日」にといふ。 (※省略) 市井社より「雪よりも白く」のりし雑誌(※『近代風土』)来る。体重40キロ、食欲なし。 5月21日 7:30起床。「Tungus」ちょっとやり、佐伯にゆき「詩集売れず」ときく。 午后高円寺にゆき瀬見氏見当らず店内に入らず。プティ・パレにゆき歌人大学生に茶出さる。(※省略) けふ宮本馨太郎氏の本来り、『成城学園報』来り「大山学園長やめ平教授になり安藤学長、代理となりし」と。わが名誉教授のおくれもそのせいか。 5月22日 3:00さめ眠れず(よべ22:30臥眠)。江沢敏にハガキ。佐伯にゆき佐伯にゆき、3,900の本買ひ「詩集売れず」ときく。 14:00河野夫人、栃尾教授を案内して来る。「大山俊一博士重病。名誉教授まちがひなし」と。 河野夫人に1冊買はし、高見山の勝つを見る。(※省略) (国学院大学法学部教授向山寛夫博士より「杜甫ならびに2子の墓は1680年以降鞏県にあり」と。わが『杜甫伝』の「平江県の墓・子孫は娘の後裔か」と) 吉岡克己氏に順調といふ。ユ仙台に電話すれば健太郎出て京よりも長く話す。(※省略) 5月23日(日) ユゆふべ云ふこときかず。0:00前、眠剤足してのみ8:00起き礼拝にゆかず。(※省略) 「Tungus」ちょっとやりしのみ。フォークランドに英軍上陸らし。角力終り高見山9勝とて喜ぶ。 5月24日 けふは7時間半眠り「Tungus」やり、プティ・パレにゆき佐伯に寄り鶴見和子『南方熊楠』買ふ。 健康保険料年40万以上といふにおどろき、瀬見氏に「製本やめた」との電話す。(※省略) けふ午食前プティ・パレにゆき中山翁(74才)に「男女7歳にして席を同じくせず」の席の講義をすれば感心さる。 (※省略) 「杜家村」につき国学院大向山寛夫法博に「湖南に残りしは男系」とかく。(※省略) televiに東洋文庫増築の会あり、榎見え田中正俊「国庫より補助を」と訴ふ。可笑。 [5月25日](※日付不確か) 8:00起床。(※省略)われ15:00高円寺へゆき「岩波文庫」見しもなし(『米欧…記』)。 瀬見氏誘ひて喫茶。おごる。帰り裸本売る学生あり古本屋とりあはず森亮『白楽天抄(東洋文庫)400』買ひて帰る。 (※省略)(川久保に電話して「名誉教授になれたらしい」といへば「丹波と祝せん」と。早々に切らる。) 坂口允男氏より「1冊呉れ」と。 [5月26日](※日付不確か) 8:30起床。ユ歯直しに柏井へゆく。坂口氏へ1冊送りあと1冊となる。 プティ・パレにゆき嬢に茶出されしも14:00の映画見ると帰宅。 「Tungus」中止。『蘇東坡』書くか中国語辞典やるか決断つかず。 夜、宮崎部長より電話「名誉教授決定」と。礼いふ。 筑摩の松田森氏に電話し「来月野球部史まかす」と。喜びて「吉田氏と2人が係り」と。「あなた来月たのむ云々」。 5月27日 末富氏より土産もらひ、碁のこといへば工事中だめと。(※省略) 村山高氏より「出版社きめたか、写真集まったか、6月末締切にせん云々」。 5月28日 8:30起く。(※省略) 13:30戸田画伯のためユ出てゆき、われプティ・パレへ『ロシア語』もちゆく。 向山博士より「中国外貨獲得のため懸命」と。わがハガキあまりよまざりし様子。 成城大学総務課より「6月3日名誉教授の会のあと会食あるらしき様子」。 沢田四郎作博士の本よみなどして夜となり、(※省略) 5月29日 8:30さめ新見敏男氏より1万円と原稿受取り仁谷正雄氏より原稿送ったとのハガキ見てプティ・パレ。 (※省略) 15:30出て高円寺。山水書房にて『内山完造伝』買へば100円負け900円として呉る。 瀬見氏をらず悠々と歩き16:30帰宅。(※省略) 5月30日(日) 7:30起床。ユ8:00前出てゆく。9:00まへ美紀子より電話「母倒れた。見舞にゆく。金ありや」と。 (※省略) 佐伯にて『日本語と朝鮮語』買ひ、家に4版あるを見、(※省略) 美紀子16:30来りしに10万円渡し1万円はお見舞といひ、建のことも話す。(※省略) 夜、保田悠紀雄に電話し「史は役人」といふ。ペンテコステ無事すみ「Tungus」またやりたくなる。 5月31日 久しぶりにて雨。美紀子7:00出発せしならん。(※省略) プティ・パレにゆけば嬢、茶出す。「福地夫人は忙しくて土曜のみとなりし」と嬢。 神保光太郎の詩碑建立の一口1万円と。午后新城常三博士より大著『新稿社寺参詣の社会経済史的研究(2万円)』来り、篠原全一氏より『歌日記』来る。夜、史より電話「松浦母上危篤らし」と。(※省略) 6月1日 9:00起床。雨。篠原全一氏へ「酒のみに来たまへ」と受取かく。史、夜をらず娘と淳一とにて飯作ると。 今井家より「母危篤、帰らず」と。あす碁出来ざることわかり安心。 (佐伯へゆき清水安三『北京清譚(後付けなし400)』買ひ来り読み了る。桜美林大学学長のキリスト教者の一代自伝なり)。京にユ、電話す。 6月2日 8:00さめ8:30起床。(※省略) 坂口允男君より3,500円と「読んでゐる。定年まで50年勤める。堀内君の歌誌を督しをり」と。 プティ・パレにゆき山口翁と話す。「400坪以上の土地もち、ひまには九州へもゆく」と。羨ましきこと也。 15:30「流れる星は生きている」「億万長者令嬢誘拐事件(洋画)」televiで見てのち高円寺にゆき散髪。 瀬見氏に喫茶さそひしもやめ山水書房にゆき韓国人の美人の奥さんと話し山田俊雄氏編『古語辞典(600に負けくる)』買ひて帰宅。 ユ、史宅に度々電話せしも出ず。(※省略) 6月3日 0:00すぎ1服よけいに飲み、9:30さめ朝食とりしあと10:00出て10:30成城大学着。 11:25学長室へゆき堀川博士来るを待ち、名誉教授の称号受け、ついでhyreにて西洋料理店へゆき饗応受く。 堀川博士と我とも一人酒のまずbeer一口にて乾盃。宮崎新学部長乾盃の音頭とる。われタバコのまず、安藤学長(学園長代理)73キロに減りし話きく。(※省略) 13:00すみて2台の車となり、(※省略) 佐伯休み、プティ・パレにゆけばあきちゃんお祝として茶代とらず、可愛し。 (※省略) 18:00史宅に電話すれば雅子出て「ユ、今出し」と。18:30帰り来り、飯くはす。淳一剣道部にて雅子より身長大きくなりしと也。 6月4日 9:00起き朝食9:30すみプティ・パレへあきちゃんにと本2冊もちゆく。『武蔵野』奥さん喜びて受取る。 12:30昼食すまして出、(※省略)学士会館へ13:15つき、待てば吉岡君来り、わが立替18,550と。原稿もう一杯なれども少し待つこととなり安達遂氏と握手(お茶おごらる)。 山本書店へゆけば『白楽天』売切れ『中国の自然と民俗』は売れ残りをり。實君をらず、(※省略) 新高円寺下車。山水書房へゆけば主人1,200の本を1,000にして呉る。 『ちくま』来り『保田與重郎選集』を古本屋求めをり。 ユ、依子に電話すれば「建40キロとなりて退院、明日出社」と。 6月5日 3:00さめ9:00起床。11:30プティ・パレにゆけば夫人「嬢に会はざる故『武蔵野』などわたしをらず」と。 いつもの山口翁(74才)と話し12:30帰宅。 日ソvolley-ball見しあとタバコ買ひに高円寺、山水書房のぞき帰り来る。(※省略) 「西脇順三郎博士逝去88才」と。このごろ前よりありし本よみみな面白し。 6月6日(日) よべ21:30就寝、9:00近く覚め朝食、夫婦とも礼拝休む。 12:40昼食すみしところへ「田中」と栄太郎夫婦来り「とく叔母死に久美子浜松にあり」と。1時間ほどして帰る。 プティ・パレにゆきしも村上アキをらず、女子大生一人でやりをり15:00山水書房へゆき『部落の歴史と解放運動(1,000)』見つければ夫人100負け呉る。 echo1箱買ひて帰宅。18:30克次朗、孝行の2人そば饅頭もち来り、ユ1,000やれば喜びて帰る。(※省略) 6月7日 2:00眠剤追加8:30さめる。頭痛ややあり。朝食米飯。 「花井稲子逝去、喪主孝」と東京新聞、タヅさん楽になりし也。琳琅閣へ11,530振替かく。ユ出しくる。 我終日臥床、夕方、伊藤賀祐より1万円同封の現金封筒にて原稿来る。受取かく。(※省略) 6月8日 よべよくね、古本屋の広告3通来り、『狐の詩情』出をり珍し。シロコゴロフ3冊ともにあり1万何千円と様々なり。『李太白』も出をり。(※省略) 6月9日 8:30さめ無為。(※省略) 16:00伊勢すみ江夫人より電話、2時間して来り、祝返しに(潤子)博多の角帯くれ早々帰りゆく。 けふ碁呼びに来らず助かる。福地邦樹君より『海峡』来り、topに詩のせ彦根の宇田良子夫人の詩ものせ、小高根二郎「保田と岡本かの子」の恋愛かき保田の選集古本にて高価とかく論をものす。 6月10日 退職金には非ずbonus947,700成城より来る。 プティ・パレにゆき山口翁まてども来らずアキ嬢本の礼いふ。(※省略) John Wayne一昨年の6月11日死にしとて21:00より(※televi)見る。 (美紀子より電話「史、東京国税庁総務部長に内定、母は代る代る娘たち看護、東京に引取るつもり」と)。 6月11日 よべよく眠る。体重41キロ。散歩に出て末富さんに会ひ(※省略)13:30末富さんに詩集もちゆき碁将棋ともにボロ負け。ついで高円寺。 瀬見氏より『昭和20年8月20日(500)』買ひteaおごり呉る。 大石書店で『白楽天(50)』買ひ山水書房に与ふ。帰れば市井社より3,000来り、藤沢桓夫氏より「おくれた。6枚となった」との原稿来る。 (※省略) 6月12日 2:00ごろ乗杉翁つひに死すと(84才)。われわれ3:00眠剤足せしも1時間ほどしか眠れず。 9:00起床。朝食すましユより「苑子呼ばれし。5,000円を香奠に」ときき(※省略) 藤沢桓夫氏へ礼状かき投函。 苑子外に立ちをり「月曜友引にて火曜葬儀」ときく。(※省略) ユ、疲れて眠りをり。我、癌のJohn Wayne見ることとす。 6月13日(日) よべ2服のみしもねつき悪く夫婦ともに礼拝休む。午后プティ・パレにゆきアキちゃんに藤沢桓夫氏の原稿copyたのむ(30×6)。 coffeeのみ冷房に閉口して帰宅。光化学スモッグ警報出てをり。眠きも荻窪まで散歩ときむ。 岩森書店の息子、われを覚えゐて神谷忠彦『保田與重郎論(1,000)』呉る。 隣の竹中書店『日本語の起源(900)』売りをり。こは方言より起源を探らんと也。 (あすよりともあれ保田與重郎を書くつもりとなり。)(※省略) 藤沢桓夫氏に電話すれば「留守(東京の田中)伝言承知」と。 6月14日 よべも追加のみ9:00起床。9:30朝食了へ藤沢桓夫氏へ詩集出しにゆく。 途中、弓子の子3人に遭ふ。(※省略)宏一郎に1,000やれば喜ぶ。けふより梅雨入りなり。 與重郎のこと(大和の)書かんとするもよべの睡眠不足と寒さのためできず。(※省略) 21:30安達氏より電話2回「23日11:30学士会館にて村山氏と会合、決定せん」と也。 6月15日 (※省略)9:00起床。9:30朝食。11:00となる。福地邦樹君に詩集送りに高円寺南〒にゆき山水書房主人に荻窪の岩森本店に電話してもらひ(けふ休業と。支店の本とりのけおくと也)14:00帰宅。 14:00帰宅。午食し23日15:00より3,000にて苑子夕食して呉れることとなる。 成城大学より「7月1日17:30京王プラザホテル2階和食あしび」にて文芸学部懇親会に出欠問ひ来り「出席」と返事す。 保田の『炫火』時代書き200×29とせしも書き直し必要。 6月16日 よべ眠剤のみユと同床、追加の眠剤のみ9:00起床。「午后15:30より来い」との末富翁の電話受け、(※省略) 「保田與重郎」よみ直し書き直しを決意し眠くてたまらず夕食18:30とりしところへ都民銀行阿佐谷支店の市川功監査役来り「加藤貞雄と同級」といへば「私の姻戚」と。(※省略) 6月17日 よべ入浴2回。眠剤足してのみ9:00起床。プティ・パレにゆきアキ嬢「短大卒業」と1人でやりをり。(※省略) 瀬見氏留守にて(※省略)、高円寺の古本屋みな温泉へ芸者買ひにゆき、山水書房は休み。 新潮社の女史より電話ありしといふに21日出来といへば喜ぶ。(※省略) われ長尾良夫人に電話し去年の桜桃忌の話し「またおこし」といへば「来る」との挨拶。(※省略) けふ私学共済より4~5月分(178,000×2)来る。 6月18日 よべ0:00再入浴。1服眠剤足し9:30起床。朝食し11:20プティ・パレにゆき(※省略) 村上夫人から小言いはれ「福地夫人とは日本画の友、彼女の裸婦はモデル」ときき、(※省略) 愚本3冊買ひ瀬見氏より本代550もらひcoffeeおごり帰宅。14:30午食うまく食ふ。 (※省略)けふ吉祥寺教会より「月額の5倍をトヨ牧師の慰労金の半ばとしてXmas前に出せ」と。(※省略) Argentine敗戦にて大統領辞任とnews。 6月19日 9:00さめ10:00朝食とり12:30美紀子のもち来しすし食ふ。(※省略) 「建の病状ほぼ伝はりをり」とユの話。プティ・パレへ2回ゆき茶のみ福地夫人に戦中のキリスト教徒の抵抗かきし本やり、美人画の本貸す。 夜、ライシャワーの中国訪問きく。夫人は後妻にて松方公の血を引くとユ説明す。 6月20日(日) ユ礼拝にゆく。我プティ・パレに2回ゆきしのみ。保田のこと旨く書けず老いたり。 17:00弓子、孝行と来り23,24日の「夕食承知」と。われにステッキ用傘呉る。老人の日なればなり。(※省略) 6月21日 7:30我さめし直後魚屋来りユ起床、ことわる。ユ昼食時帰り来る前われ「高校生の保田」かき15:00来る新潮社の小島喜久江女史まち、(※省略) 小島女史道忘れしと14:00来り「原稿ひとまづ拝見」よければ「『コギト』時代の保田もかいてもらふ云々」、詩集1冊もち帰る。 20:00仙台より電話、ユ「22日上野発の特急でゆく」と返事す。 われ3日間の食費と小使ひと9,000もらひ23,24両日の夕食は三鷹でとす。 6月22日 8:00さめ9:00朝食、ユ昼食にさばずし買ひ来り、11:00上野へと出てゆく。 (※省略) われ高円寺。山水書房で『美人画の書き方(700)』買ひ、(※省略)帰宅。 (※省略) televiによればけふ夏至と。夕食またpão食ひしもbutter見つからず。 久々に妻ゐぬわが家なすすべもなくてテレビを全開しをり。 20:00ユ仙台より電話「butterは冷蔵庫にあり」と。 6月23日 ユのゐざること忘れ9:00すぎさめ、パンbutterなしで食ひ、高円寺で散髪し学士会館へつけば一番。 (※省略) 村山高氏と別れ山本書店へゆき蘇東坡やめるといへば、きかれず。 15:00帰宅すれば平凡社より電話。「明日来る」とのことに「14:00来れ」といひ17:00出て小林家へゆけば腕時計1時間遅れをり。 野菜食ひ、孫たちに1,000づつやる。克次朗、孝行2孫駅まで来しゆゑ200づつやれば喜ぶ。哀れなり。 20:30入浴すませしところへユより電話「弓子心配しをり云々、あす帰らずとも良きや云々」。 けふ『民研紀要』5冊と抜刷30部来る。わが略歴はのらず。新城博士よき論文かく。(※省略) 6月24日 9:00さめ9:30紅茶わかしゐる最中、安達遂先輩より電話、(※省略) 12:00出てプティ・パレにゆき喫茶。帰りて『野球部史』の刊行の辞を代作し安達遂氏に速達出し一旦帰宅。 18:00まへ高円寺へゆけば瀬見氏不在。成城大飯店にて野菜麺食ひ、店主に「あす午食くひに来る」といひ雑誌2冊貰ひ(※省略) 帰りプティ・パレへまたゆき(※省略)帰宅。20:00入浴。 (けふ平凡社来り東洋文庫『大運行発展史』もちくれ「月末再来」と。「200pにてよろしく、3冊同時に出す。大体は向ふにて選ぶも80~90首」となり)。 6月25日 よべ2服のみ22:00ねて10:00さめpão食ひしあとプティ・パレにゆけば掃除中。 成城大飯店へゆく途中、瀬見氏と話し大飯店にて焼き餃子(500)包ませ本を昨日の雑誌の礼にやり、プティ・パレにゆけば2夫人をり。(※省略) 帰宅すれば弓子をり(※省略)末富家、将棋で一番勝ちしのみ碁4目ムリとわかる。 ユ19:30帰宅。(※省略)健太郎、環境になれしも稲田哲夫帰宅0:00又は0:30と。 禎子オバアチャン云へるやうになり(※省略) 楊雲萍氏の「台湾史上的人物」ことづかりしと法政大学総長中村哲氏の小包。 6月26日 10:00近くさめ中村哲氏へ礼状かく。楊雲萍氏に礼状かき「詩集船便にて」と記す。 東豊に電話して聞けば「本局へゆけ」と也。「支那」もかまはずと。 ヘーグ国務長官辞任、米中関係に変化あるらし。(※省略) 『野球部史』大変なることわかる。(※省略) ライシャワー「原爆は一発でよしといひし」松方ハル夫人の声もきく。 6月27日(日) 9:00さむ。ユをらず。10:00朝食、11:45までtelevi見、出て高円寺へゆく途暑さに羽織足袋ぬぎに帰宅すればユ帰宅しをり。(※省略) プティ・パレにゆけば福地夫人をり。アキちゃんに茶注文せしあと家へ帰りて栗羊羹もちゆく。(※省略) 帰宅。Vietnam反戦運動televiで見る。戦死4万余その他1万名。 (※省略)ユ戸田画伯と銀座の個展にゆく。(戸田謙介氏老人無料の渋谷行busに乗り浅野晃氏宅へゆき帰りはいつも泥酔と)。 6月28日 8:00さめ眠し。(※省略)9:50山本書店に電話すれば實氏未出勤と。「来れば電話を」とたのむ。 (※省略) 山本實氏に「10枚送れ」といひ12:00プティ・パレにゆき中山君と歓談。 12:30帰り昼食後、高円寺に散歩にゆけば山水書房開きをり。『竹久夢二(600)』買ひて帰宅。(※省略) 6月29日 よべまた2服0:00すぎ眠り8:00さめ頭痛す。(※省略) 加福龍郎先輩より「発刊の辞」、山本實氏より「蘇東坡」10枚来り、No.のちがひ発見す。 訳まだ堅く売れざらん。川久保に電話すれば応答なし。加福先輩は話し中。(※省略) 13:00川久保にゆけば(※省略)この間東洋文庫にゆき榎に会ひて感心したと。久しぶりに彼の笑ひ声きき帰宅。 ちょっと休んで15:00電話に出ざる丸家へゆけば夫人も昼ね、丸の起床にひまかかる故Hope10ケ買ひにゆき思ひ出書き直す。 日蓮宗とのことに何とか入院すればと思ひしも「重俊このごろ孝行」その他をいふ故「みな死にし。ガンバレ」といひ夫人に「火事に気をつけたまへ」といひ18:00高円寺よりユに電話して帰宅。 『野球部の歴史』にて「明日14:00学士会館1階に」と安達遂氏に電話。吉岡君に同じ旨電話すれば「都合つけば出る」と。(※省略) 筑摩の松田寿氏「2日午前電話して来る」と。(※省略) 6月30日 2服のみて8:00さめ、ユにいはれて山住dr.の診察受け、脈搏125-80 「タバコやめます」といひて喜ばる。プティ・パレにゆき山口氏に『末摘花』托し、(※省略) 帰りて昼食にpão食ひ地下鉄にて学士会館。 我、最先に着き、茶おごり1時間にて編集会議了る。(※省略)また地下鉄、(※省略) 夜、禁煙もありて一向にすすまず。今夜より我は4畳半、ユは6畳と臥処入れかはる。寒きなり。 7月1日 16:00家を出て成城大学文芸学部会に招かれ17:00着き京王プラザホテル(※省略) 17:30よりの開会に最上席、高田老い、栗山「最後の仕事せよ」、山田「ツングース止めよ」などいはれて最先に出て帰宅。 茶漬半杯くふ。(※省略) 7月2日 よべ2服のみしも9:00さめ12:00プティ・パレにゆけば山口東一翁(74才)をられ『末摘花』さしあげ佐生夫人にも本2冊やり、 能勢より「原稿送りし」との電話に叱りつけ(筑摩の松田氏には「1週間まち」をたのみ) 14:00来る平凡社の人には来週水木金の3日13:00より16:00まで共にやることを約束し、(※省略 外池生)19:00ごろ阿佐谷駅より電話あり、 駈足にてゆけばwhiskyもち来る。(※省略) 7月3日 よべ23:00まへ眠剤のみ7:00さめ朝食。午すぎ田中栄太郎来り、殺虫剤ならびに噴射器呉る。そのあと末富家へゆき(13:40)碁・将棋し、 プティ・パレに福地夫人『竹久夢二』を与ふ。折あしく鈴木写真館をり、変なこととなる。帰りて野球部史の整理(※省略) 7月4日(日) よべ22:00就寝6:00覚む。(※省略)8:30杉並〒へ安達氏あて吉岡弥之助氏の第1回生写真(能勢より来りし)を速達し、(※省略) まっすぐ駅へ出、吉祥寺下車。coffeeとteaとにて時間つぶし9:30教会着。(※省略) 出て帰宅。 (佐伯にて『歴史読本8月号(350)』買ひ来る。300諸侯の維新の時の去就をしるしをり)。野球部史すみ、(※省略) 英文の泰斗斎藤勇先生(95才)狂気の孫に殺されしとtelevi、われその『杜甫』を引き『杜甫伝』送りしに礼状たまひしことあり。キリスト者なりし。 7月5日 6:00さめる。曇。朝食後8:00筑摩の松田寿氏に電話すれば「19:00に来る」と。(※省略) 楊雲萍氏へ成文出版社内にて詩集送りに杉並〒にゆく(770)。船便なれば安価なり。(※省略) プティ・パレ臨時休業といふに、山口東一氏探して歩くも見つからず番地も不確かなり。(※省略) 中野清見より『いちのへ』10号来る。巻頭にわがこと書く。(※省略) 苑子呼び小せん祖母のこときけば「こはかった」と。 禁煙のためかおちつかず(※省略) 筑摩の松田寿氏19:30来り、原稿受取り(※省略)「組み見本見せるまで7-10日まて」と去る。(※省略) 7月6日 けふはNoelの如き心地して6:00さむ。ユもすでに起きをり。8:40成城に電話し青木副手に「常民文化紀要もち来れ、公用として」といふ。 返事ハイハイとのみ。 駅前〒にて諏訪に詩集送り、ハガキ4枚買ひ、佐伯にて本150にしてもらひて帰宅。(※省略) (浜田青陵『橋と塔』見つく。裁断橋を記し中川瀬兵衛の小田原陣の時、子を失ひし云々)。(※省略) 新潮社小島女史より電話「編集会議の結果のせられずお返しす」と。保田全集出すつもりかどうか、悪口批判は喜ばず、われは史料を提供することとなりし也。 (※省略) 15:30高円寺へ散歩。川西奎之祐「一応退職61才」との手紙へ「元気で」とのハガキ投函。(※省略) 7月7日 雨降りをり。6:00覚め7:30朝食すむ。(※省略) 郭沫若の『李白と杜甫』の中、李白のところよむ(須田禎一訳)。 プティ・パレにゆき山口東一翁へとアキちゃんに「百人一首」托し帰らんとすれば、ユ恰も帰宅。 花巻の佐々木健司生より「高校の通信教育にて漢文も教へをり、花巻名産送った云々」。すぐ礼状かく。 平凡社来り、大沢氏も「7月末までに李白かく」との貴言に喜ばんと。Whiskyのみ名いはず。日記検すれば6月24日来し時も名を記さず。 「李白・酒」(※『天遊の詩人 李白』)よりはじめん。(※省略) 20:00安達氏より写真送り返さる。わが藤沢桓夫と思ひしはちがひをり。(※省略) 李白の「酒」書き直し、やっと「月下独酌1-3」すみ「冬夜酔」とせんとす。あすゆっくりとやらん。入浴21:30。ユ疲れて眠りをり 7月8日 よべよく眠り、さめて「李白・酒」書く。プティ・パレ村上夫婦にてやりをるを見、山水書房に「本注文してくれ」と云へば「いや」となり。 参って瀬見氏のゐるを見て立ち話して帰り来る。李白やっと200×41にて「酒」すみしか。 午后2人より原稿「会費は吉岡君に」とならん。(※省略)吉岡君へその旨報告す(電話にて)。 7月9日 7:00起床8:00朝食、プティ・パレにゆけば福地夫人をり。(※省略) 16:00筑摩の松田氏に「9pを10p(※10ポ活字)に組み替へるはいかに」と電話す。pageあまり少なしとのことなればなり。 変な世の中にてわが心配はみなむだ。全国区参議院比例制とすと自民党単独にて決定す。羽田明君より『中央アジア史研究』賜はる。 斎藤勇博士の孫「祖父殺害」の罪を問はれ75日入院を命じらる。キリスト者-教育者のほかわれは『杜甫』の著者として関係もつ。 7月10日 晴。「李白」一心にやり200×120とし、プティ・パレにゆき山口翁と遭ふ。福地夫人に本与へ、山口翁より荷風『四畳半』見たしと。「来週土曜午に」と約束す。 成城の照屋夫人より「青木副手には重すぎる」と『日本常民文化紀要8(1)』20冊賜ふ。西山博士画才あることを知る(茶杓を製する也)。 「朧頭」にて通すも「隴頭」と気づく。(※省略) ユあすトヨ先生追悼費出すと(5,000✕5)封筒にsignす。 7月11日(日) 7:00起床、8:00朝食すみ、西山松之助氏へ『紀要』の文につきハガキかく。出し忘れてユと1電車早く教会へゆく602番うたふ。むつかし。 すみて長島長老まち、さそひて喫茶、(※省略) 昼なにもせず眠くて困る。(※省略) 夜、諏訪澄より「詩集受取りし。トボ理科系へゆきたがるも南山大学にてはダメ」など長き電話なりし。 21:30川久保より電話あり、岩波シロコゴロフの再版を計画すと。「きみに任す」といひてすむ。 7月12日 よべ雨大いに降る。22:00眠り7:00起床、「李白」にかかる。午ひと休みにプティ・パレへ茶のみにゆき福地夫人に会ふ。山口翁けふは来ざるらし。 帰りて昼食すれば平凡社の久米旺生氏、原稿用紙多量にもち来り、暑き中を「また来る」と。 筑摩の松田氏より「あす10:00来る」と。折しも村山高氏より「60万までは出せ。君ひとりで出す必要なし。2万円は今までの費用か」と。 「あすまて。60万までは出す」とハガキかきユに投函せしむ。 けふはじめて冷房を我家にて動かす。20:30疲れて「李白」200×153にて止む。吉岡克己氏に電話してきけば(※省略)、 丸家に電話して重俊出て来し故「オヤヂ大丈夫か」ときけば「大丈夫」と。「一度来よ」といふ。(※省略) 7月13日 5:00さめ6:00朝食了る。「李白」162になりしところへ筑摩出版の松田氏来り(※野球部史)60万にては無理と。「ダメならダメといへ」と村山高氏のハガキ見せれば「再考せん」と。「早く返事してくれ」といふ(11:00)。 昼食後、高円寺まで歩き脳貧血起す。瀬見氏椅子出し相手してくれ14:00帰宅。 川久保「来て宜しきや」と電話、15:00来て「羽田の本、受取らず云々」大笑ひして去りしあと電話にて「来てをりし」と。(※省略) 7月14日 よべ22:00ごろ就寝7:00さむ。こはし。下痢す。こらへて「李白」182枚とし次は「友情」。(※省略) 末富さんより「13:30碁に来らずや」と。「ゆく」と答ふ。(※省略) 午后「李白」またやりをれば筑摩の松田氏来り「70p以上にしたく75万円はかかる。それ以下ならいや」と直言す。吉岡氏へその旨云ひ、村山氏にも電話することとす。 岩波の松前氏より「シロコゴロフ再版21日15:00川久保邸にて会ふ。(※省略)」 北沢元長老召天、今夜19:00教会にてお通夜、(※省略) 21:00村山氏に電話し「75万円いる。いま70万しか集まらず、あとわし出す」といへば「そんなこといらん。何とかする。大高の会は11月」と。 すぐ筑摩出版の松田寿氏に電話してその旨いふ。川久保に21日岩波の話すれば「その日は家内留守」と。「わが家でもよし」といふ。(※省略) 7月15日 7:00さむ。8:00朝食すみ筑摩出版の松田氏に見積書たのむ。ユ北沢佐雄旧長老の告別式にと12:30出てゆく。 われプティ・パレにゆけば福地夫人をりアキちゃんとともに我を警戒す。 帰りて「李白」つづけ220枚とす。ユ帰り来り、北沢氏昭和19年東京女子大教授として勲4等(※省略) われこの前の発病の時以来ものいひ得ず。戦中の勲章はいかがなりしならん。(※省略) 7月16日 7:00さむ。下痢。(※省略) 松田氏来り75万円の見積書くれ「10月半ばに出来上る」とのことに村山氏へ速達(200)。 佐伯へ寄り『日本における朝鮮語の研究(2,500)』買ひ、(※省略) 咲耶より建の病状しらせ来り、仕方なく見舞かき1万円送ることとす(ユにたのむ)。(※省略) 平凡社久米氏より「李白」につき聞かれ、書きゐるといへば「月曜来る」と。 7月17日 7:30起床、雨。「李白」女の部かき12:00。プティ・パレにゆき山口翁に本貸したのみて帰宅。 藤沢桓夫氏より「詩集愛読」と1万円来し。受取のハガキかき吉岡克己君にもその旨いふ。 村山高氏に藤沢氏の会費の報告す。70万円となりし也。長島長老の名「昭」と教へらる。あす来訪ならよからんに。 7月18日(日) 9:00就寝5:00覚め5:30起床、ユ風邪とのことに我一人出て礼拝にゆく。(※省略) まっすぐ帰りて昼食し、(※省略) 乗杉研寿氏の77日(※四十九日)すみしと向ひの長男猛?氏より挨拶ありしと也。 7月19日 雨。5:00さめ6:30朝食す。朝の間「李白」の原文ぬけゐしを写し、4:00久米氏、馬場英子女史(お茶大出、阪本越郎氏に習ひしと)と来り、 原詩のぬけゐしを云はれ「あと征戦と江南とにて抜きたまへ」といふ。夜、「李白」の原文ぬけすみたり。(久米氏、澄を知りたり。ふしぎ。) 仙台の荒木修氏より海苔贈らる。茨城大教授の元中尉か。問合せのハガキかき投函す。 7月20日 6:40さめ8:00朝食了る。「李白」の「女」ほぼすみ昼となり、川久保に明日のこといひ腹立つ。(※省略) 7月21日 雨。「李白」のつづきやりて時間つぶし、午后の碁将棋ことわる。三鷹の3孫来り将棋さし500円づつ小遣ひやることとし(けふより夏休みとなりし也)、 13:30川久保にゆき岩波の来し時の誤植訂正の箇所いひ、15:30まで待ちしも岩波の松島君来ざる故「まかせた」と帰宅。 19:30川久保より電話「おくれて来り、あとがきあさって渡す。700部にて5,000」と。わが予想は「300部にて1万円」と。ほぼ当りをり。 雨やみ滝本女史に遭ひ思はず物云へば「茶のみませんか」と。汁粉屋へゆき餡蜜あつらふ。岸和田へ帰るときは挨拶に来ると。(※省略) 『風日』来り、保田夫人の歌会を主催するを伝ふ。(※省略) 7月22日 曇り時々雨。李白の「憶旧遊」との最長の詩を書きをれば筑摩出版の松田寿氏来り、(※『天遊の詩人 李白』) 10月15日出版、初校わたす時30万円を先渡し、のこりは出版の時わたすとの誓約をす。これにて安心す。 プティ・パレへゆけば福地夫人は神戸と。(※省略) 帰りて昼食し髭それば、(高松)丸木夫人蓮田市より一番に来り、30分して白水(坂根)、宇井(井上睦子)、押上(得津佳子)の3夫人来り、ユのわが病歴と現況とをきき16:00宇井夫人「一人息子の弁当もちゆく」にて解散。 我は駅まで送り、佐伯にて『楊貴妃後伝』、『満鉄調査部』にて800払ふ。タバコ止め、野球部史すみてスカッとす。(※省略) ユ、母のところへゆき大の話きけば云々、(※省略) 「建、外科の手術またといひ見舞(咲耶、大、千草)に蒲団かぶりて泣いてゐる」と也。(※省略) 7月23日 7:30さめ「李白」やり了へしあと川久保より電話「あとがき」書き了へしと。 平凡社の久米氏「15:00来る」と。喜びて待てば(※省略)来り、「多すぎる3分の1削れ」と。「削りまかす」といひ、李白わたし、あと「晩年を足す。来週来たまへ」といふ。 (※省略) 安達遂氏より電話「編集後記を村山高氏にかかさん」と。賛成す。(※省略) 7月24日 よべ11:40震度4の地震ありしと。7:00さめ8:00朝食すまし村山氏へのハガキ投函にゆく。西空まっ暗なり。 (佐藤春夫夫人自宅で逝去と新聞、林富士馬君、脈とりしならん)。 12:00プティ・パレにゆき仲好しの山口翁に本貸す。帰りて無為。「李白」けさすましあとは伝記かけばよし。 福地君よりやっと(※詩集の)受取。『西康省』もちをり比べしと。(※省略) 秋川の鳥羽貞子女史より詩集のこと『東京四季』に書くと。山本みち子氏に教へられて手に入れしと。「その内電話して来よ」といふ。 7月25日(日) 雨仕度して礼拝にゆく。(※省略)まっすぐ帰り何もせず15:00千草来り、建の見舞につき何もいはず。咲耶に泊めてもらひ(※省略)となり。 京より小包来り、わが下駄などあり。 7月26日 6:00さめ7:00朝食、雨降りつづく。東京の水不足を補ふ雨なり。ユ午后西武へ喪服とりにゆき、ついでに中共展見ると。 われ茫然としてをれば福地夫人、神戸の菓子もち来り、本返すと(『山水画』)。返さずともよしといひプティ・パレにゆき茶のみ、出てゆくを見、 帰宅してユの帰るをまつ。15:00ユ帰宅。展覧会のtext「故宮」1,600と。(※省略) 7月27日 7:00さめ8:30朝食すむ。長崎の鉄砲水のこと今日も話題となり諫早の先年の水禍思出す。けふは雨止みをり。 筑摩出版の松田寿氏に電話し編集後記のこといへば「よか。初校8月10日すぎ出る云々」。高橋重臣、渡辺登美子へハガキ出しにゆく。李白の伝記書き出す。 7月28日 7:00さめ8:00朝食。「李白」の伝記すみ昼食後平凡社に電話すれば久米氏公休。馬場女史来ると。 まてば15:00来り、茶のみしあと詩集1冊与へ「pageの配分好きな様に」とたのむ。明日より蘇東坡にかかることとす。 神田喜一郎先生より頂きし『敦煌学五十年』よみ先生84~85才とわかる。(※省略) 13:30久しぶりに末富家へゆき碁将棋す。(※省略) 7月29日 8:30覚む。曇。午后「蘇東坡」1枚書き考へこむ。(※省略) 7月30日 6:00さめ7:30朝食すませ「蘇東坡」のつづき書き550枚としてのち東豊書店に電話す。簡さんわが声おぼえをり。 12:30着き楊雲萍氏の本売りしこととなり仕方なく『萬暦野獲編上中下(1,610)』、『古代清宮断案記(判官物なり)400』、佐藤武敏『長安(1,200)』、『京城古蹟考(270)』、『人人文庫』2冊など買ひて帰宅。 傘はステッキ代用となりし也。(簡さんわれを頼氏に紹介す。お茶大教授にて我その本使ひしことあり。和田久徳君のこといへば「もはや休みとなりし」と。近日挨拶せん)。 「蘇東坡」は西湖の開鑿にて564枚となる。あと医院のこと記して汴京(※開封)に帰らさん。 7月31日 6:00さめ8:00朝食すむ。山本實君へ「蘇東坡」8月中とハガキ。安達遂氏より「村山氏、編集後記は田中にたのんだ。金は関西で集まった云々」の電話。 プティ・パレへ午食してゆき山口翁に本貸し、一度帰りて高円寺。(※省略) 球陽書房本店にゆき夫人より島義『満洲雑感』、(滝川博士『非理法權天』都丸でdoubleし)、『津軽艶笑譚(200×5)』など買ひ、瀬見氏昼食にかへりがけ「和歌山へ帰省」とことわる。 またプティ・パレに寄り福地夫人に笑はる。雨時々降り梅雨明け近くなりしを知る。 けふ村山氏より「編集後記貴下にまかした。部員名簿より除きたき者あり云々」、夜、吉岡君に電話しその旨いひ(※省略) 『満洲雑感』よみ終る。工兵大佐としてUralのあなたに捕虜生活送りし也。 このごろ無戦派の活躍に腹立てをり面白かりし(沢田四郎作とはちがって面白かりし)。(※省略) 8月1日(日) 7:00さめ朝食後8:00長島昭氏に電話すれば夫人出て「けふは学生との会あり礼拝にも出ず」と。(※省略) ユ8:00出てゆく。聖餐委員なればなり。雨中9:10出て9:40教会着。(※省略)  長島夫人に「上げるものあり」といふ。詩集最後の一冊を献ぜんと也。 出て氷しるこ(450)食ひ古本屋2軒見て、外口(※書店)にては野田又夫氏わがこと書きし『ユリイカ(500)』(※1975年10月号「コギト派の人々」?)買ひ、伊藤信吉『現代詩の鑑賞』なる愚著をも買ふ。 ユ13:00帰宅。昼食後川久保に電話し「行く」といひ雨中ゆき「蘭」を『図書集成』で見、orclidなるに呆れ、川久保より岩波は護雅夫の指図にて10月金呉れると也。 秋浦『鄂倫春社会的発展』東豊にてdouble買せしを土産にもちゆき、はげまして帰宅。 蘭みれば『詩経鄭風』の箇所われぬかしをり。夜、野田又夫氏にハガキ書き「日高次郎詞兄へ」と詩集包み明日出すこととす。 (書原にて『ビルマ敗戦行記(380)』、『復讎と法律(500)』と買ひ吉祥寺で『父南方熊楠』にて金なくなる。(※省略))。 8月2日 6:00前さめ羽田へ包む。ハガキも書く。9:00羽田へ送り野田又夫氏にも送る(2氏へのハガキも投函)。 蘇東坡ちょっと書き、動悸すとて書もちて山住dr.『昭和万葉集』ならびに『中公文庫(※田中克己所載24巻)』おきあり。 同席の患者にわがこと説明しdr.に『紀要』類進呈、中国侵略を「進出」と教科書に書き、中国より文相の訪中ことわられしに正己教授に同感といひ、検査受く。 (※省略)(佐伯にゆきdoubleし滝川博士『非理法權天』他1冊を,500にて売り『旗田巍先生古稀記念論集上下(9,000)』買ひて来し也。) 成城大学に『新城博士古稀記念論集』送れと電話すれば教務の課長出て「承知」と。高田瑞穂に電話すれば夫人出て「浜松へゆき2,3日泊り来ん」と。 わが声みなにわかるらしきに我ながら感心す。プティ・パレにゆけば山口翁をりバカ話して帰り来る。『津軽艶笑譚』よみ中野清見憶ふ。(※省略) 文相訪中断られしときき「中国やるな」と感心す。次は鈴木首相の10月訪中なり。それまでに下士官どもの智慧いかがならん。田中角栄程度の訪中はなきがよき也。 8月3日 6:30覚め起きる。中国の植物検し、雨の中ユの出てゆきしを待つ。(※省略) 佐伯あかず散歩、250の紅茶のみに「朱鷺」といふへゆきアーケード下の本屋にて高群逸枝『母系制の研究(860)』買へば「田中克己先生」といはる。 (※省略) 夜、小山正孝君へ電話、(※平凡社『唐代詩集』の訳出を励まされた)おかげで「李白すみし」といふ。 (※省略) 船越苑子16万円にて佐伯へ本売りapart横川へ移ると也。 8月4日 6:00さめる。雨止みをり。朝食後、大林太良邸へ刊行物もちゆきしに就寝中か夫人の応対不十分に腹立つ。 10:00大林博士抜刷もち挨拶に寄り「これから大学へ」と逃げる。 高橋重臣君より「熱海へは呼べなかった」(※省略) 吉岡克己氏より(※『野球部史』刊行に総額)83万円の寄附ありしと。 (阿佐谷の町散歩し『歴史と現代(850)』買ひ来る。シロコゴロフ引きTungusと華北にをりしと引きをり) (※省略) 8月5日 晴。『野球部史』の編集後記の下書すませ、安達遂氏へ速達出しにゆくついでに東豊へゆかんと簡宅へ電話すれば「出し」と夫人。 (※省略) 東豊にて『南州忠烈伝(680)』、『四時纂要校釋(770)』、『島夷誌略校釋(770)』、『中国法律与中国社会(700)』、 『 蒲松齡學術討論會專刊(980)』、『王漁洋(2,700)』、『中国民族志(1,350)』、『 歴代歌詠昭君詩詞選注(700)』買ひ、ついでに『梨洲遺著彙刊上下(4,000)』、『満清野史1-8(16,000)』、『清朝開国志研究(420)』、『熊廷弼與遼東(1,200)』、『長白彙徴録(3,000)』、『台湾土著族的文化・語言分類探求(1,950)』借り、 ラーメンとってもらひしも、まづくて食へず(250)来週渡台といふに楊雲萍氏へ土産たのむといひ9日再訪といふ。帰りて「朱鷺」より電話して帰宅。 昼食すます。(※省略) プティ・パレ福地夫人をり。toast注文して食ふ。渡辺珠雄氏より「ソ連に東洋学盛ん」とらしきハガキ来る。(※省略) 渡辺珠雄氏といふ親ソ派に自民のバカと鬱憤かく。ソ連2万5千噸の潜水艦こさへし由なり。中国、台湾、韓国みな日本の(※教科書の)「進出」に怒りをり。 文部省の検定官僚みな無戦派なると、文相らは内地にゐしとのため也。 8月6日 6:00前さむ。腹悪くpão半分食ひて上厠。(※省略) 宮城県知事よりも金と原稿とる(投手なりしと)と。9:30出て高円寺。 都丸支店瀬見氏、駄本2冊4,000で買ひくれ、すぐ出て代々木東豊、楊雲萍氏への手渡したのみ、『蘇詩補註(7,350)』──帰宅後在庫とわかり電話す。『馬淵東一著作集1,2(6,800×2)』、『木村正雄先生退官記念論集(8,000)』借り来る。計5万円の借金できしなり。 『宮本常一著作集3』注文し、来れば送ると也。12:10帰宅。(都丸で『中国奇談集』、クノー『宗教及び信仰の起源』2冊500買ふ。) 麺くひ、森亮氏より『ヘリック詩集』来し故、麥書房に電話し堀内君に森亮氏へ1冊送本たのむ。(※省略) 午后退屈、涼しくならんとして佐伯へゆき『新しい中国』、『東海道昔と今』2冊500買ひ「朱鷺」へまた寄り涼みteaのみtoast2枚食ひて帰る。(※省略) 20:30鳥海カヨ子に電話せんとしをれば西島順より電話「父もう近し」と。夜23:30建、肝臓癌にて死。57才と順より電話。 8月7日 曇。6:30さむ(よべ0:30睡る)。大より電話「9:00来る」と。史、わが代理として伊勢へゆくと。我は下痢にてゆけず。ユ3女の香奠もち今夜の通夜に出、名古屋泊、月曜帰宅と予定たて、(※省略) あす16:00よりの葬儀に出ると也。14:00出て高円寺。大石にて『赤穂義人纂書』1万円で見つけ躊躇せしあと買ひ、瀬見氏探せどをらず。 成都大飯店にて麺(700)食ひ、都丸支店にまた寄り『中国女性史(800)』買ひて帰宅。 20:00かっきりに名古屋へ電話すれば依子出てユ伊勢のhotelへゆきしと。腹立つ。 けふ藤野一雄氏より「小商売大分涼し」と。(※省略) 山本實氏より「蘇東坡8月末までに」と。20:35瀬見氏より「あす出発につきけふは来られず」と。 8月8日(日) 7:00起床、8:30出て9:00喫茶(「朱鷺」で)。9:30教会へ着き上厠。(※省略) すみて長島昭博士夫婦見つけ、夫人にことわって共に出て、 豚カツrice食ひ、吉祥寺駅にともなひ「朱鷺」でまた喫茶、わが家へ伴ひ詩集最後の1冊呈し、『常民文化紀要』をも呈し、プティ・パレへ同行、 また喫茶。駅まで送る。 (※省略) 佐伯にて『伊波普猷、金田一京助(1,400)』買ひ新本屋で『ある終戦工作(440)』、『朝鮮語のすすめ(doubleゐし420)』買ひて3階にて夕食。 また「朱鷺」にて喫茶して帰宅すれば澄より「ユ19:00にのり22:00ごろ帰宅せん」との電話ありし。 眠くて弱る。ユ22:00帰宅。われ眠剤のみしあとにて赤福餅くひて眠る。  神のこと知らず死にたる弟と再び会はむ日をわれ知らず  今はすでになれがむくろはもえはてて煙となりて空にのぼりし  せは高くものはいはずに命はや終りと知りて哭きしがあはれ(礼拝中、建を)  罪はみなゆるされしこと信じ得ずつぶやきながら死にし友はも(杉浦正一郎) 8月9日 5:40さむ。8:30朝食すみ安達氏の電話きき(※省略)宮城県知事山本壮一郎君の家に電話すれば出庁と。知事室へ電話すれば「不在」と。 留守の属官に「野球部史に書かねば皆怒る」といへばこちらの電話ききてすみし。 「朱鷺」に茶のみにゆきし留守に澄より電話ありし「平凡社の久米氏知りをり」「兄君、前沢外科に入院」と。(※省略) 午すぎ三鷹の3孫来り小遣ひもらひゆく。(※省略) (※教へ子より暑中見舞 省略)それぞれに返事かきプティ・パレにゆき帰宅。ユ見舞にゆけば諏訪兄、寝たきりにて看護婦つくと。 けふ安達氏の「編集後記」「あとがき」とし、わが署名にて全然別文となりをり。(※省略) 8月10日 よべ22:00ねて5:30さむ。7:00朝食すませ東坡56才になりしところでハガキ買ひに出れば向ふより平凡社の久米氏、お茶大卒業生(馬場女史)と来る。 「朱鷺」につれて茶のませ用きけば「来週原稿もち来る」と也。出て別れ、帰宅して昼食し、川久保に電話し(※省略)川久保家。 榎の「絶対服従したら雇ふ」といひし話すれば「本当か」となりし。「書原」まで送りて逃げし故『きけわだつみの声(500)』と『珍書(800)』と買ひて帰宅。 (※省略) 浦和の渡辺珠雄氏「高島屋の食堂で知合となりし。日銀やめあと2年にて退官。中国韓国への日本人の態度危険」と。「一度遊びに来たまへ」とハガキかく。 8月11日 6:00まへ覚め8:00簡君へ電話し「10:30行く」といひ「朱鷺」にゆきしあと(吉岡君より電話「山本宮城県知事3万円送金、原稿はかけず」と。最も宜しき結果となりし也) 中央線にて代々木、簡さんより『馬淵東一選集3(6,800)』受取り『蘇詩補註(7,350)』返し、悪しとて『北京旅游冊(480)』、『崇禎長編(590)』などにてはすまず『蒙古史論叢上下(9,600)』借り来る。 10月シロコゴロフの金入れば払ふと也。(※省略) (13:40より碁将棋末富家にて2時間やり、負けつづけなり)。 (昨日は神田信夫君、けふは和田久徳君へ送本300)。 8月12日 6:00すぎ起床、東坡かく。(※省略) われ出て「書原」にゆき茶のみて帰る。(※省略) 山住dr.にゆき血圧105-80、糖尿でなきも危険ゆゑ糖分・酒ダメと先生。 (※省略) 佐伯へゆき愚本1冊買ひたきも金なく借り「売る本あり来てくれ」といふ。否ともいはず。 「朱鷺」に2度目にゆく。(※省略) 宮崎智恵さんに電話すれば「次男いま北海道、保田の原稿集めをり」と。「新潮」(※依頼原稿不掲載)のこといへば憤慨し呉る。 「東坡」揚州刺史となる。 8月13日 6:30さむ。(※省略) 佐伯に2,300払ひ1,000にて『中国のニノの悲劇(900)』と『刑法総論(100)』と買ひ、『日本医学史』と『薬学史』と買ひに来てくれといへば、(※省略) 漢籍をも含めて5万円にて買ひくれ3万円おき2万円あとにてもち来る。 途であひしは筑摩出版の松田氏にて10pほど組上りしを見せ、(※省略) 高円寺へゆき大石書店にて『中国史の散策』、『ある作戦参謀の悲劇』など買ひて1万円くづし、(※省略) 都丸支店に寄り『植村正久(300)』見つけ成都大飯店にて糕子包ませ(500)、青木書店にて『熱田裁断橋物語(1,000)』買ひ18:00すぎ帰宅。(※省略) 8月14日 晴。7:00さめ8:30川久保に電話し10:00ゆくといふ。佐伯に堀多恵さんのdouble本売り雑書4冊買ひ川久保にゆき軍に協力の点ただせば事実無根と。 (※省略) 帰り来り、東坡かくつもりとならず、(※省略) (けふ戸田謙介氏とまた会へば痩せてこの世の人とは思はれず。われもしかるか)。 ユ帰らざる故プティ・パレへゆき日本茶注文、福地女史「山口翁来りし」と。われ相手にせず。すぐ帰り「東坡」603枚とす。(※省略) 村上菊一郎君の序文あり広島の木下夕爾の弟子といふ石口敏郎君より『聴雨』といふ詩集来る「も一つ物足りず」とハガキかく。 8月15日(日) 5:00さめて入浴。敗戦記念日なり。7:20朝食了り、礼拝にゆかずと定む。(※省略) われ「東坡」恵州着628枚にて休むこととす。 朝、堀内君に電話すれば夫人出て「ねてをり」と。(※省略) 佐伯にて『喜田貞吉(1,800)』と『スマートな日本人(200)』買ひて帰宅。 12:30ユまだ帰らず、麥に再び電話すれば「まだねてをり」と。折しも起き来り「15:00来る」と。 来りて3,100を森亮氏への送本代とす。「森亮氏怒りをらん」と豪華版の限定もらひしをいふ。17:00すぎ町会ありと帰り去る。 われ散歩に出、『大和古寺風物誌(200)』を古本屋にて買ひ「書原」にて『ガリヴァ旅行記(360)』、『般若心経(300)』、『漢文入門(320)』と文庫3冊買ひ1万円くづし、 「Chat noir」にて喫茶。(けふ木下夕爾の弟子にて広島出身、村上菊一郎序文の詩集『聴雨』贈り来りし石口敏郎君に「感心せず」とハガキ、ユに投函せしむ。) (※省略) 森亮君、女づれにて来り、われ気を悪くせしとユおぼえをり、その訳詩の苦心かきし本もらひしままによまざりし也。 8月16日 5:00前さめて「東坡」書く。60才に入る。微雨。阿佐谷駅前〒に衛藤瀋吉教授への小包出しにゆき佐伯にて『ベーベル婦人解放論(600)』、 『父夏目漱石(200)』買ひ、静志堂にて『参謀辻政信(380)』、『古代国語の音韻に就いて(300)』、『語源を探る(440)』など買ひて帰宅。 昼食後、(※省略) プティ・パレにゆき山口翁と話し村上夫人に『ガリヴァ旅行記』貸して帰宅。 戸田氏にユをして電話せしむれば戸田氏出て「来てよし」と。 ゆきて宮本令息と中川理事長の要請にて『民間伝承』ゆづり渡すとのことに「酒にのまれず長生きせよ」と説教して帰り来る(中川と喧嘩すと決心)。 15:30平凡社の久米氏と馬場夫人と来り、初校見本を見せる。諏訪澄を知りをり「澄よりも宜しく」とユ伝ふ。 8月17日 よべ早くねて5:20さむ。「東坡」644枚となり、昼食すませ「朱鷺」でtea(250)。斎藤茂太先生に『古稀記念論文集(250)』とハガキと送り、 「書原」にて蘇峰『近世日本国民史世相篇(980)』、『同、義士篇(880)』買ひ、佐伯に寄り『万里の長城(600)』、太宰治『津軽(50)』、『張騫征西考(200)』、『後世への最大遺物デンマルク国の話(50)』買って帰宅。 (※省略) 山本實君に「東坡」の進行報告せんとすれば不在外出と。「24日持参」と奥さん?に伝言たのむ。(※省略) 12:00まへ山本實君より電話(※省略)「26日持ちゆく」といふ。昼食し出て高円寺、都丸にて雨宿りし(※省略)、 『大行山脉』、『東洋の新しい地図』、『露伴校訂平家物語(300)』、『ソ連所蔵名品百選展』など買ひて丸家にゆけば高校野球見てをり西川より見舞のタバコ吸ひをり。 (※省略) 早々出てまた都丸にて杉森久英『天才と狂人の間(200)』買ふ。島田清次郎の伝記にて他人事とは思へず。(※省略) 『関東大震災の思ひ出』世田谷区出し、巻頭に林二郎(下北沢の古本屋なりし元詩人)書きて送り来あり故、電話すれば耳遠く18才にて罹災と。(※省略) 山際文雄に電話すれば夫人出て「本送れば受取る」と。(※旧稿)『海南島の蘇東坡』出て来り大喜びす。 筒井護郎(※中学教へ子)に電話すれば「調停委員」と。「来て泊れ」といへば「来る」と。(※省略) 吉越笑子に電話すれば母出て「月末までイギリス、フランスに5-6日をりて帰国」と。「帰れば勉強させよ」ときつくいふ。 8月18日 7:30さむ。9:00すぎ出て阿佐谷駅前〒にて山際文雄君に返本し1万円札で釣銭1,000札で受取り「朱鷺」で喫茶して帰り来る。 青木副手より夕方来ると電話ありし由。11:00すぎまた出て「Chat noir」で喫茶。焼き糕子(280)買ひ来て昼食とす。旨し。 「朱鷺」へゆき13:30より末富家。碁将棋ともに負け16:00前帰れば望来てをり。 弓子、宏一郎もあり。望に小使ひとして用意の5,000やり小林へ泊ることとす。日曜まで滞在となり。 16:30青木正子来り、Helshinki knifeくれよとのことに与ふ。(※省略) 折から川久保来りあとがき見す。漢字多く感心せず学際的なる言葉をつかひ、云ひしも使はれるときかず、(※省略) 8月19日 4:20覚む。(※省略) 東坡63才690枚まで写しひと休み。11:00朱鷺ゆきし間に平凡社の久米氏「14:00来る」と電話ありしと。 久米氏来るまでプティ・パレのぞけば20日まで臨時休業と。「ザマ見ろ」也。 久米氏来り、意外にも座談会に平凡社より「李白」につき話せと。相手中村真一郎、大岡信、井上靖などいひしも林富士馬といひ電話かけさせれば「承知」と。酒と長寿の話を李白につきすと也。 (夕刊見れば15日福永武彦の三周忌軽井沢のCatholic教会であり中村、堀多恵さんなど出しと)。 久米氏帰りしあと佐伯へゆき雑本買ひ、また朱鷺にゆき我一人となり顔覚えられし。(※省略) 8月20日 7:00すぎ覚む。曇りて暑し。(※省略) ユ、望を池袋につれゆく。美紀子、弓子も参加と。われ書原、朱鷺と往復し「東坡」65才となる。 (国分直一『壷を祀る村(3,500)』買ふ。前に見し論文多きもCampbell師のこと載す)。 16:00筑摩の松田氏(※野球部史の)初校もち来り、(※省略) 30万を筑摩に入れることとなる。(※省略) 17:00ユ帰宅。望は史の子、弓子の子とともにのこりしと。19:00帰り来り、くしゃみ盛んにす。こは澄の遺伝なり。(※省略) 8月21日 4:00さめ野球部史の校正6:50了る。8:00朝食了る。望まだ眠りをり。 本保与吉市(八戸)の歌集『月下の籟』の受取りのハガキかく。11:00ハガキ出しにゆき山住克己閣下に遭ふ。元気なく気の毒なり。 プティ・パレに入れば山口氏来り12:00辞去。午食し望はといへば朝食兼食くって本屋へゆきしと。われも出て高円寺へゆく途中、夕立し馬橋稲荷で雨宿りし山水書房にて(※省略)W.G. Burchett『ふたたび朝鮮で』買ひ、大石にて『日本人と朝鮮人』、『青春の北京』買へば内儀茶のましくれ但馬の出と。 都丸支店に瀬見氏をらずそこらにゐし女学生(獨協大がSchinzinger先生の独和辞典買ひ、も一人は専修大の経済学部と)に茶おごり、上へ行けば瀬見氏をり、ともに喫茶。 (※省略) 望何もせず、あす13:10の小人の切符ユ買ひをり。 (都丸支店で『日本人と植物』、『元禄時代』、『人類の生活』、『考古学入門』で900)。(※省略) 8月22日(日) よべ入浴せず。21:00すぎ就寝、4:20さむ。入浴。「東坡」臨終までかき(200×735)9:00出て礼拝(ユは望つれゆくとて休む)。 吉祥寺にて時間余り喫茶(※省略)。阿佐谷駅売店にて『武蔵野(350)』買ふ。(※省略) (※讃美歌)284うたふまで『武蔵野』ときどきあけ「わが苦しみ」『POET'S SCHOOL』にと書く。 すみて金なく阿佐谷まで直行、駅下の中華料理店で炒飯(450)食ひ、佐伯へ寄りて石川達三『心に残る人々(30)』、『西方の人(70)』買ひて帰宅。(※省略) 瀬見氏に電話すれば「そのうちゆく」と、またスカさる。瀬見氏、紀州土産いろいろもち来る。 一方松田寿氏「散歩の序でに大高名簿返却に寄る」と。ユ出ず我相手す。19:00近くなりてユに「何か飯を」といへば瀬見氏「帰る」と風呂敷忘れてゆく。(※省略) 8月23日 よべよくね6:00さめ朝食8:00に了ふ。昨日作りし「わが苦しみ」『POET'S SCHOOL』にと清書す。(※省略) 9:40出て高円寺、新本屋あきをれば『昭和58年幸福暦(300)』といふを買ひ都丸支店にゆき瀬見氏に忘れ物返し、 『民族学入門』、吉川幸次郎『中国文学入門』など安き文庫本買ひR.A.ミラー『日本語とアルタイ諸語(4,000)』借り来り、朱鷺にて朝食sand食ひ11:30に出て(※省略 帰宅)。 馬場女史来て原稿もち帰りしと。日販より電話(※省略)「李白につきての対話いつ宜しきや」「林君の都合次第」といへばまもなく「27日14:00山の上ホテルにて1時間ほど」と也。 (※省略)『東京四季』来り、わが詩集出せしをのす。(※省略)鈴木猛といふ未知(小杉茂樹といふ代表以外はみな知らず)の筆なりし。 8月24日 4:20さむ。(よべ和本唐本の欠ばかりなりしを知る)。あとがき書き直し、(※省略) 朱鷺へ寄れば男子ばかり、帰って「蘇東坡のあとがき」すませ、明日の用意すみしと喜んで昼食。 12:30ユに先立ちて出、瀬見氏に4,000の借金払ひ、マリノウスキー・ブリフォールト『婚姻(800)』買ひて散髪(1,050)すませまた亀井勝一郎『風神帖(100)』買ふ。(※省略)また朱鷺にゆきて帰宅。 ユ17:00ごろ帰宅。(※省略)松浦母のこといふ。 山本書店の主人山本敬太郎なることに気づき文求堂のケイ太郎(※田中慶太郎)と字違ふことをはじめて知る。(※省略) (辻夫人塔影詩社─河井酔茗(堺出身の詩人歌人)創刊のハガキかき投函す)。(※不詳) (※省略) televi、茂吉100才忌とて茂太先生、夫人のdance-hall事件、永井ふさ子女史のことなどかくさず。(※省略) 8月25日 よべ1:00さめまた眠り4:30さむ。動悸し眩暈し10:30山住dr.、血圧128-78とわが最高なり。吐気止めの薬もらひ、 あすのため「蘇東坡」見をれば章分けあやしく山本書店主人の名、田中文求堂と混同しをり、また途中ぬかしゐることなどわかり、けふ呈出でなくてよかりし也。 神田君(※神田信夫)「年譜に昭和57年を56年としをり」と見つけ明日よりMalayaへゆくと也。(※省略) 8月26日 4:00さめ讃美歌うたふ。昨日果物たまひし末富夫人(病気とて碁将棋ゆかざりし)草むしりをり挨拶さる。 蘇東坡そろへ1:00すぎ昼食。(※省略)地下鉄大手前でのり替え次駅の神保町(※省略)、途中で『思ひ出の愛誦歌集(200)』買ひ、 山本書店へ13:00着き敬太郎店主と話さんといひ、實君も来て、坐り原稿見せれば「蘇東坡」をわれに(※書くやうに)名指しせしは實君なると判明。 よろしくといひ、出て100円の本4冊買ふ。本庄栄治郎『日本社会経済史』、『憲法と私たち』、『大阪・神戸』、『8億の友人たち』 岩波の表通り、小学館の大きくなれるに吃驚。学士会館に坐りこみ1時間あるに困る。 5分前に安達さん、かっきりに村山氏、5分おくれて吉岡君来り、村山氏原稿見せる。東京、大阪でべつべつにやる。最後までやれとのこと也。 吉岡君体わるしとて気の毒なり。酒席にゆき安達さんのおごりにてbeerのみ村山氏飛行機にのるとて15:30去る。 われまた筆談せんと思ふ。(※省略) 『侵略(880)』大手前の紀伊國屋売店で買ひ南阿佐谷へ出れば財布なし。鍵入りをり。 朱鷺の割引券その他も惜しけれど印鑑もなくせし也。 (※省略) 13:30澄来り洋菓子くれ(※省略)美紀子弓子16:00わが家にて会見せしと。Jhon Wayne見て23:00臥床。 8月27日 涼しき風ふく。6:00起床、7:00朝食。「李白」の下調べもせず本3冊もちて12:30出、地下鉄にて新御茶水、山の上ホテルへゆけば2階と。 (※省略)待てば林富士馬君来り、やがて日販の男女来り、のちほど課長来ると。14:00より録音、話うまくゆかず疲れて一休みして(beer少々のむ)歌はしてもらひ、李白は天才、杜甫は秀才といひてすみ、下にて茶おごってもらひ早々すませて林君と別れて御茶水駅より急行にて高円寺下車。(3万円-3,000)の薄謝に気をよくし瀬見氏より『中国少数民族服飾(1万)』、『Der Anfang(300)』買ひ歩いて阿佐谷。 プティ・パレにゆけばあきちゃんをり、電話かからず16:30出て帰ればユ帰りしところと開けをり。 林家へ「薄謝、林君あてになりをり」と電話すれば入浴中の林君出て3万円田中宛となりをりと。そのままといふこととす。 夜、野球部史の校正す。(※省略) 8月28日 5:00起き野球部史やり了へ、平凡社よりいひ起せし林君への送り状速達にて送り、佐伯にて雑本1冊と『新約聖書講釈(800)』買ひ、朱鷺にてice-teaのみて帰宅。感じわるし。 新書屋「書楽」にて蘇峰『家康記』3冊、『三光Ⅰ』買ふ。三光は戦犯の手記にてこれも本当かどうか怪し(昭和30年刊の再版なり)。 (※省略) 昼食後、川久保に電話すれば「15:00来い」と。高円寺へ出、山水書房にて『天皇の軍隊』、『赤光』買ひ、 大石にて茶のませざるを得ぬやう話し『茂吉の周辺(1,000)』、『私の外国語(100)』、『日本語の個性(150)』、『日本人の内と外(150)』買ひ、都丸へゆけば暑く瀬見氏忙し。 本店へゆき『飛鳥(500)』、支店へ帰り『女性のための古代史(500)』咲耶の天武天皇のため買ひて帰れば、 (※郵便)花井夫人と森亮氏(わが詩集よみをり。とりわけ「略歴」丁寧によみくれ藤沢桓夫氏と同じく笑ひ出せし由、早速礼状かく)。 東豊に電話すれば夫人出て「もうすぐ帰宅」と。台湾へゆきゐる也。 17:00松田氏来り、ボケをり。危し。筑摩出版とこれにて縁切れん。 井上靖の6月の講演televiで聞き、春夫忌に物云はざりしは我をこはがるかと思ふ。 8月29日(日) 7:00起床、ユに森亮氏と花井夫人のハガキもたして礼拝にゆかせ、われ残る。 10:00出て朱鷺にて喫茶。佐伯にて『わが生涯の物語』、『狩猟と遊牧の世界』、『騎馬民族説』買ふ。(※省略) 新書屋にて『三光(680)』買ひして、書翰箋まことやにて買へば250と。 朝、川久保に電話、(※省略 ゆきて)『日本語とアルタイ諸語』、ベルンハイム『歴史とは何ぞや』など見せ「騎馬民族き」と問へば「Tungus」でよしと。 11:00退去、(※省略)15:00まで休息、咲耶来ざらん。佐伯へゆき(※double)本とりかへ、また朱鷺に寄りて帰宅。 俗語辞典のcardとることとす。ツングースも同。四季・コギト同。 8月30日 2:00さめ、あと眠りし感なく、しかも無為。7:00起床、驟雨あり。中国俗語辞典ちょっとやり、傘もちて高円寺。 都丸支店、若さん帰りをり瀬見氏整理して相手にならず『なごやことば(50)』といふを100渡し『日本の歴史2(500)』、『プロテスタントの歴史(100)』、『日本語の純潔のために(200)』、『白衣を紅にそめて(200)』、『あの星の下に(100)』買ひてプティ・パレ。 冷い日本茶のみ、旧知の老婦人挨拶もせぬに気を悪くして帰り来る。苑子来てをり転宅の相談す。 ユ、柏井へ歯ぬいてもらひにゆく。京より「10月上京たのしみ」と。 中山夫人より誕生日祝に高価なlighter賜はる。咲耶遂に来ざる也。(※省略)20:00中山夫人に電話かからず、礼状かく。 8月31日 よべ0時近く眠剤1服足してのみ4:00さむ。大和日記のせい也。 咲耶9:30来ると電話あり、来りて歌みせ、下手といひ、保田夫人の『くちなし』貸す。東大塚山の雄略陵なることしらず「道明寺の諸部落は夙にして(※省略)ならずと」。その通りなり。 11:40帰りゆきしあと電話、三鷹の克次朗ならん。「来る」と。(※省略) 13:00、3人来り、我300づつやり、 13:30東豊書店へゆき、けふ位帰宅といふ留守番の夫人より不満たらたらと1時間きき、 『元稹(990)』、『李秀成(810)』、『王船山(530)』、『呂晩村(500)』、『顧炎武(360)』、『蒲松齢(500)』、『孔尚任(450)』、『王國維(150)』と伝記計4,290、 『台湾語入門(1,500)』、『屈原赋譯釋(350)』、『中国古典文学双刊1-3(3,000)』計4,850とを借りる。 倦怠期なるらしく困りしこと也。 (※省略)夜、高田瑞穂に電話し13日成城の講師室にて会ふこととす。 9月1日 よべ早くね、5:30覚む。8:00咲耶に電話し歌作れといふ。「保田夫人の本写して返せ」ともいふ。 佐伯にゆき『私残記(150)』、『満州事変(150)』、『差別(150)』、『京都(100)』買ひ金なくなる。 午前中、瀬見氏に本売りにゆけば300と。田中卓『海に書かれた邪馬台国(300)』買ふ。 15:00久米氏来り、挿絵相談す。われ「挿絵などやめて980円としろ」といへどきかず。「李白のみ特価1,100」と。売れざらん。酒すすめしもきかず帰りゆく わが対談全然出来ざりしを云ひ、3万円は林君には我同様小遣ひとなりしをいひて嗤ふ。日販より速記来れば直すこととす。(※省略) 16:00出て『PlayBoy』両手にもち(10キロ以上あり)山住dr.に遭ひ「あす検査お願ひ」といふ。 3度休みて佐伯へゆけば500と。『啄木詩集(50)』、池田弥三郎『話のたね(50)』買ひ2度目「朱鷺」にて休息。(※省略) Ingrid Bergman のJeanneを見て就寝23:54。 9月2日 6:00起床、尿とる。(※省略)『小説劇語辞典』やり「Tungus」やりしてすごす。8:30山住dr.、(※省略)Rentgenとり血を採りてすむ。 帰りてpão食ひ、簡氏に電話すれば夫人「店へゆきし」と。10:10東豊書店につき茶のみのまされ、『清史稿3冊(2.8万)』をはじめ、 『池北偶談 上下(1,120)』、『精華録2冊(1,730)』、『漁洋山人精華録箋注6冊(3,600)』にて王士禛すみ、 『王荊公年譜考略(650)』にて王安石、『屈原賦譯釋(350)』にて楚辞、『大唐西域記古本3種(770)』にて玄奘、 『宣和遺事.靖康傳信録(430)』にて徽宗・欽宗、明清のキリスト教関係の本3冊(480+720+240)にて重かり。朱鷺にてユに「今帰る」と電話して帰宅。 竹内好の日記につき『ちくま』にほめられしとかくがあり、珍し。但し竹内の北京の恋人の頭文字のす(大阪のbarのmadamか)。(※省略) 夜、マカロニ・ウェスタン2度目を見る。眠剤0:00足す。 9月3日 9:00起き9:45朝食すみcardやる。ユ不逞。11:00佐伯へ本売りにゆく(8,000)。喜びて『日本大雑誌3冊(2,400)』、 『黄泉の王(500)』買ひ、 「書楽」のぞけば注文の本売りをり2冊(580×2)と『京都地図』買ひて朱鷺で喫茶、12:00かっきりに帰宅。(※省略) 14:00渡辺珠雄氏より電話、駅まで迎へにゆき遂に勤め先出身学校問へず「Tungus語辞典」と「Nanai語辞典」の序文訳したまふと。 喜びてユにwineもらひしこといはず駅まで送り駅ビルの書店にて『日本の唱歌 下(480)』、『薬になる植物(500)』、『日本捕虜志2冊(320×2)』、『花の文化史(980)』買ひ、 3階の喫茶店にて紅茶(300)のみて帰宅。ユとシャガ問答す。日本名なく日本原産となり。(※省略) 9月4日 涼しくなる。2:00さめ6:00さむ。(※省略) 渡辺珠雄氏へTungus・Nanai両語辞典の序文の大意の訳たのむとハガキ。(※省略) 11:30プティ・パレにゆきアキちゃんに渡辺珠雄氏へのTungus辞典の序文2種copyしてもらひ(420)紅茶のみ、山口東一翁病気ときき探しにゆき、 (※省略)帰りて昼食すませ(※省略)、川久保訪ぬれば昼食と。またされ出て来しにきけば「眠きばかり」と。がっかりして「書原」にゆき、 『植物知識(360)』、『揚子江(360)』、『京都史跡見学(580)』、買ひて帰宅。われも眠たく床にをりしもねむれず。戸田画伯病気とてユもねてをり。 鄧健吾氏「日本へ帰化、東山姓となりし」と!一筆書く。「おめでたし」とはいへず。ふしぎなる人なり。 平凡社より速達来り、64pとなる。もて来しは愛場君なり。おだやかなかほしてをり。夜Ingrid Bergman見る。 死にしものいまだ老いずに美しくありしを見たり老いたるわれは。 9月5日(日) 6:00さめ7:00まへ朝食すみ、ユ聖餐当番と出てゆくわれ9:10出て佐伯に寄り、ゆっくりと教会。(※省略) 11:30すみて氷汁粉(450)のみて東急の古本市にゆき、『東海道五十三次(800)』買ひ、荻窪の岩森の息子に包ませ貴重書なきゆゑ「我売る」といひ、帰宅。 (※省略)高円寺へゆきたしと思ふところへ岩森より電話、息子来て立原の手紙とハガキにて2万円おき喜びて帰る。 われ出て高円寺の古本市。佐伯氏みつからず『隠語辞典(2,000)』、『魯迅の印象(500)』、『中国文学と私(1,200)』買ひ大石に寄り『東北アジア民族説話の比較研究』、笠井清『南方熊楠』買ひ、(喫茶し(280)、新本にて林芳雄の名の『生体解剖』買ふ)。 プティ・パレの村上氏の義弟?死亡、お通夜とて人々並びをり。(※省略)  Ingrid Bergmanの「ガス燈」見て23:00就寝。 9月6日 6:00前さむ。7:30朝食すむ。8:00松田氏に電話すれば話食ひちがひをり初校ひとまづ我が許へ来るとなる。老廃め。 佐伯へゆき3,000払ひ、会はず『万葉の女流歌人(250)』買へばdouble、『折口信夫の晩年』、『差別(300)』買ひ、山口東一翁三井銀行に入るを見つけ、 問へば「点滴に通ふ」と也。猪瀬氏のぞきしに静かなり。凡てすみしらし。(※省略) 9:40平凡社に電話し馬場さん呼びしも未勤、出し取次にガンガンいふ。われに校正再校の控へはひどきなり。井上靖に「詩集返せ、縁なし」とハガキ。 近江詩人会より「次号の原稿受取」と。プティ・パレにゆき村上夫人に挨拶す。 平凡社久米氏来り「300p越す。控へに意味なく再校後、直してもらふ」と。(※省略) 東京新聞(※同姓同名)田中克己氏逝去。10月1日葬儀と出てをり。一度会ひしのみ也。 久米氏より18:30電話「『李白』の挿絵に東岳泰山入れる」と也。(※省略) 良からんとは思ふも一寸づつ感覚はづれるはふしぎなり。 9月7日 8:00さめ9:00朝食了る。ユの縁談世話に怒る(京の親友にて32才の娘なり)。10:00散歩に出て140のcoffeeのみ人気なき新本屋にて 『壬申の乱(380)』、『天武朝(460)』買ひて帰宅。荒木修氏よりハガキ。(※省略) ハガキかき3種論文送る(240)。 佐伯へdoubleし本もちゆき『ロメオとジュリエット』とかへてもらひ朱鷺にて喫茶して帰宅。(※省略) 15:00松田氏来り、校正と原稿とみな置き「あさって8:00とりにくる」と。3校を安達氏にたのむこととし、(※省略) 渡辺珠雄氏より丁寧な手紙来り、わが送りし「辞典の席丈」の訳もしてくれる様子なり。 9月8日 3:30覚め『野球部史』の仕上す。夜明けまで『俗語辞典』やる。7:30朝食了る。9:30阿佐谷駅へゆく。佐伯休み。 新本屋にて『京都市街図(500)』、『西部開拓史(380)』、『抗命(320)』買ひ朱鷺にて喫茶して帰宅。 中野書店(もと三鷹)「神田に移った。(※うちにも)書翰売れ」と。(※省略)19:20馬場夫人「李白」の初校もち来る。(※省略) 9月9日 よべ22:00までにね、3:30覚む。仕方なし。『俗語辞典』やり松田、久米2氏ともに遅くなるときく。昼食後散歩に出「朱鷺」へゆきて喫茶。 新本屋にて『渡来文化(480)』買ふ。(※省略)16:00松田氏来り再校もちゆく。(※省略) 18:00前、久米氏、馬場氏来り訳に文句つける。「かえこと」わからず「交換」と直せしも「とりかへ」にて宜しかりしならん。(※省略) 9月10日 5:00まへ覚め『中国語辞典』やり(※省略)、宇宙13:30家を出る。新宿へ14:00前つき西口交番ききしあと小田急dept.、10階書籍部にて『人類史への散策(560)』、5万分一『青梅』『五日市』買ふ。上川霊園のためなり。14:40安達先輩来られしに小田急dept.14階の喫茶室へ案内す。 耳きこえざるも御自分の原稿のりしを承知、(※省略) 茶代おごってもらひ代々木まで国鉄(120)。東豊へゆけば夫人やせて目ばかりとなりをり。 『香祖筆記(440)』買ひ、茶のませてもらひ帰宅。 ユをらざるところへ電話、井上靖にて「小説かきに忙しく(※返事書けず)、詩集大切にしてゐる。返却はゆるせ」となりし。けふ野田又夫氏にも投函せし。 『抗命』『喜田貞吉』などにて腹立つところ、李白、集英社よりも出ると東京新聞に出てをり。 18:00くれしあと夕食すませれば久米氏、馬場夫人と来り「かつら」は「つたかづら」とにごり「柏」は「中国では」と入れることとす。(※省略) 9月11日 3:30さめ入浴す。大球会の段どり考へる。(※省略) 佐伯にて『古代地名発掘(800)』、『続日本の戦歴(100)』買ふ。(※省略) プティ・パレにゆきしも山口翁来ず、福地夫人にきけば村上夫妻やる気なき様子なり。(※省略)田中宣一氏よりわが去りしあとのこと、研究室のあとをつぎし也。(※省略) 9月12日(日) 5:30覚む(よべ22:00ねし)。雨降りをり。ユ9:20礼拝にとゆく。(大球会の案内いやいやかく)。『中国語辞典』大仕事になる(card一山あるを発見)。 220日の台風、静岡御前崎より甲州へ吹き、夜も騒がし。 9月13日 ねたりさめたり7:00起床、台風一過晴れをり。9:00前出て佐伯へ1万円くづしに入り『ダッタンの山』、『太宰治の思い出』、『満州雑感』にて1,990払ひ、書屋にて『シベリア強制収容所(550)』買ひ(※省略)帰宅。(※省略) 馬場女史来り校正すみし。夕方高田瑞穂に「ゆけず」と夫人に伝言たのむ。夫人わが声おぼえをり。 戸田謙介翁あす(河北病院に)入院と。咲耶より『くちなし』返却。 9月14日 5:20起床、『シベリア強制収容所』よむ。card作りて疲る。(※省略) 19:00馬場女史よりまた訂正の電話。 9月15日 7:00さむ。8:30朝食すむ。雨ひどし。午すぎ雨やみ末富家、碁2番勝ちしも3番目負けにて5目のまま、将棋もダメ。『日本ゴム協会誌9』貸し与へらる。(※省略)群馬大講師も10年つとめしと初めてきく。 宮崎さん(※宮崎智恵)の次男(※早川弥比古)より電話来ると。来りて話し始めしところ(※省略)、史、淳一美紀子と来り、気がかはりて帰りゆく。 早川次男20:30夕食すませ、わが日記と歌集とをもちて帰りゆく(山口書店に電話せしも出ず)。 9月16日 4:30さむ。8:30朝食までcardやる。朝の〒に野田又夫博士「病気し夫人も重病(※返事書けず)、本送る」と。意外なり。 『東方学64』来り、藤田亮策先生の思ひ出を諸氏語る。13:30出て高円寺へ散歩、瀬見氏見当らず、(※省略)の青年も飯くひにゆきしに、 吉川『陶淵明伝(100)』、『玄奘三蔵(100)』と新書2冊買ひしのみにてプティ・パレにゆきあきちゃんより紅茶(330)。 帰れば『シロコゴロフ』3版来りをり。(※省略) 9月17日 5:00さめ8:00朝食。10:00ユ柏井へ歯の治療にゆく。山本より10:45「實氏16:30相談したきことあり来る」と。 中野清見より「22日東京泊り、23日丸を見舞たし」と。16:00山本實氏来り「『蘇東坡』新書版にしたし」と。「安くして売れ」といふ。 平凡社の次(※の計画)は「近代詩(漢詩にても毛沢東まで入れる)」と。訳者の名も知りをり。 『文芸春秋』の『シベリア強制収容所』よみ了る。「Russian(※ロシア人)は善く、ボルシェヴィキは悪し」と也。(※省略) 9月18日 よべ22:00すぎ臥床6:00前起床、cardやり11:30プティ・パレにゆきあくを待ち12:20まで山口東一氏待ちしも来ず。(※省略) 午后、ユ戸田画伯へゆく(謙介氏河北に入院、付添ひ必要と也)。 野田又夫氏、白水社より全集出し第5巻賜はる。「島々」等「コギト派」につき書き、我を「興味あれど書かず」と、中島より「コギト派」と後世いはるるは宜しからずやといはれしと。 夜、野田氏へ礼状かき、中野には「23日午食わが家にて」とハガキかく。Monaco王妃Grace Kelly(※死去ニュース)2晩つづく。 9月19日(日) 6:00覚む。7:30朝食。ユを礼拝にゆかしめcardちょっとやりしのみ。午后も外出せず。ユ17:00野田又夫氏と中野清見への〒出しかたがた出てゆく。 (※省略) Grace Kellyの「上流社会」見る。 9月20日 6:00覚む。card少しやり、吉越笑子生の来るを待ち(※省略)、 15:00ごろ来り、タバコ菓子などくれし。われフランス語の本(浅野建夫の遺品)与へ、lighter2ケ与へて地下鉄まで送り、(※省略) 川久保に寄りシロコゴロフのprofを小文字でかきゐるを咎めしに、彼も朝日に烏拉を長春郊外とかきゐるに抗議し、あやまらせしと。(※省略) 帰宅すれば(※省略) 高橋重臣、本多、荻村の諸氏にたよりかく。荻村雅子の書かざりし木曽福島の小正月に「ツボツボ」食ひとあり、ツボツボは里芋をはじめとする七種の野薬の煮物なり。 (けふ「書原」にて文庫買ひ、金田一『日本語の特質(900)』(※省略)) 9月21日 7:00さめ10:00早川弥彦君(※早川弥比古)わが日記返却に来り、タバコもちゆく(山口基へは他の者ゆくと。わが知りゐし社長、伊賀の奥西兄君死にしと也)。 『風日』来り、典子夫人また「叱られし」と歌ひをり。 筑摩出版に電話すれば入れちがひに松田氏来り、大高名簿返却。16日には必ず間に合はすと也。(※省略) 瀬見氏に『シロコゴロフ』4,000にて売り『杜甫(2,500)』買ひ来る。西川より電話『李白』を田代氏と2人買ふと。広告見しならん。(※省略) 9月22日 7:30さめ鄧、栃尾2氏へハガキかく。敦煌よりのヱハガキの返事なり。10:00出てユと地下鉄(※省略)、新宿より京王にて八王子、(※省略) 上川霊園へ12:00着。(※省略) 墓地へゆき草ぬく。讃美歌うたひ教会の墓にトヨ先生入りをりと一礼。(※省略) 15:00阿佐谷着。 書原にて『英語発達小史(450)』、『漢字の過去と未来(430)』買ひて塩ラーメン食って帰宅。 木曽の荻村の娘6月29日生れにて清夏(さやか)とのヱハガキ来をり、入れちがひなり。 渡辺珠雄氏よりNanai語の序文の訳来をりマンジュ語とあり、不審。20:30中野清見より電話、ホテルは銀座と。(※省略) 9月23日(秋分の日) 雨。7:00さむ。11:00中野清見来り、ユすしやに電話してもち来らせ、われ2ケ食ひ、丸に電話してゆく。煦美子をらず重俊出てわがよこに坐りしを喜ぶ。 中野Hope20箱と金一封とを呈したり。16:00地下鉄まで送り、われ歩きて大石書店にゆき『元禄忠臣蔵(1,000)』、『近世における一老農の生涯(300)』、『処女の館(250)』、『流れる星は生きている(230)』、『女大学集(1,000)』買ひ、(※省略) 9月24日 曇。4:00さめ、また眠りしか7:00起床、西島治子、渡辺珠雄氏へ信かき、10:30出て投函。文房具屋にて建の(※遺品の)万年筆にインク入れてもらひ、赤鉛筆2本買ふ。 佐伯へゆき『非行の前兆』、『中国』、『しゃくし定規』など買ふ。『日本の詩歌』の文庫本200にて出てをり、これも買ひ末富氏に贈らんとす。 (※省略)  われ末富家へ『日本の詩歌』もちゆき碁将棋す。末富氏、軍属でなく商社人としてJavaにあり、もてしといひ『日本ゴム協会誌』返せと。 (※省略)平凡社より電話「馬場夫人『李白』5冊もってゆく」と。(※省略)  馬場夫人来り、5冊(9月30日発行)もち来る。 礼に『中国』と『日本地理大系近畿篇』とを与ふ。夕食後『日本ゴム協会誌』出で来る。 9月25日 7:00さむ。雨降りをり。(※省略)西川に電話すれば「『李白』を会社に送れ」と。田代氏と西川には自宅へ、野田又夫氏にも1冊包み、プティ・パレへ1冊もちゆき村上夫人に渡す。 (※省略) 東豊へゆけば借金10万円を9,900越しをり。10万円のみ渡し、また2万円余り借金として帰り来る。『授時通考辑要(290)』のみ払ひ、 『布朗族社会歴史調査(600)』、『中国少数民族(4,400)』、『順治太后外紀(800)』、『中国民族志(1,350)』、『岑参集校註(1,120)』、『王漁洋詩論之研究(1,440)』、『漁洋山人感舊集(2,400)』、『感舊集小伝拾遺(600)』計 12,710+9,960。 角力、大関強く隆の里優勝。(※省略) 9月26日(日) 7:00さむ。(※省略) 新聞に加福氏の逝去のりをり。安達、村山、吉岡諸氏、松田氏にも電話。(※省略) 美紀子松茸もちて来ると。教会夫婦とも休み、我は〒へ野田、西川、田代3氏へ『李白』出しにゆく。(※省略) 川久保にゐればユより電話「村山氏より花そまへよ」と。(※省略) 柳町の花屋に3万円の花あつらへしと。(※省略) 探し探しして市ヶ谷マンションにゆき13:00焼香、入口でまちをれば花屋とどけに来り、われに挨拶す。(※省略) 武田昌造元検事正に挨拶し、虫の悪口いひて14:30出て(※省略) 出棺送りて武田家へゆき美紀子の運転する車にて帰宅。 松茸2本くれ『李白』もちゆきしあと母宅へとユ案内す。腹立てど仕方なし。 9月27日 7:00起床、10:00松田氏来り「加福氏逝去、本文には入れられず。別刷にして配本に挿まん」と。仕方なく原稿かいて渡す。(※省略) 入れちがひに久米氏来り、刷部数1.6万、特別定価1,100円(来年1月まで)。印税率8%、支払10月16日、2月1日より定価1,400円とす。(※省略) 渡辺珠雄氏よりTungus辞典の序文を全訳しマンジュ語と直しあり。礼状かき、本一山もちて瀬見氏に売りにゆくと予告。(※省略) 瀬見氏に一山呈すれば1万円呉る。うれしく喫茶にさそひ、すみて『和露辞典(1,000)』と『荒川外来語辞典(2,800)』買ひて国鉄下を佐伯まで歩き、 佐伯にて田中宣一君解説の『年中行事覚書(150)』買ひて帰宅。(※省略) 『解釈と鑑賞』の「浪曼派特輯」よむ。中河与一氏85才にて62才の弟子歌人と再婚と朝日毎日(大きくのす)記す。(※省略) 久米氏、わが『李白』に4,000部申込すでにありと。(※省略) けさ日販の座談会速記、普通便で来しゆゑ校正、補足して速達にて送り返す。 20:30神田信夫氏へMalayaより無事帰国たしかむる電話す。夜、安達さんにも電話 (※省略) 9月28日 6:30起床、9:00西川より電話「『李白』ついた。田代氏と2,500送る」と。「野球部の追想記集買ふや」といへば「買はず」と。「然らばやる」と問答す。 山本實氏に「『李白』1.6万部出す。1冊もってゆく」といふ。(※省略) 瀬見氏に「Baedecker(※ドイツ語旅行案内書)そろひ売る、 とりに来たまへ」といへば、(※省略)  佐伯へゆき『韓国の村祭り(10,500)』借り来りしあと、15:30瀬見氏来り、 わが出せし本2.5万(Baedeckerなど旅行記と『日本医学史』等)で買ふといひ、ゆっくり18:00までをり。(※省略) 9月29日 5:00さむ。9:00ユpermaかけにゆく。(※省略) 末富氏より電話あり13:30ゆきて碁将棋ともに負く。高円寺へ散髪にゆき『歴史手帖4』と『歴史と人物・忠臣蔵の人々』本店で買ひ、支店にて『博友社ロシア語辞典(3,500)』買ひてプティ・パレにて喫茶して帰宅。(※省略) 9月30日 9:00起床、10:00朝食了る。(※省略) 東京国税庁総務部長として史、千葉県の汚職官吏のあやまりを東京新聞にのす。 渡辺珠雄氏より「また来る。ソ連人に貴君の計画話した云々」。(※省略) 北口の千章堂にて『発禁本百年』、金関博士『お月さまいくつ』買ひ、佐伯にて『失われた九州王朝』買ひ金なくなる。 武田明君より『続日本笑話』賜りしも面白くなし。 10月1日 6:00さむ。武田明氏へ「愚著贈られ迷惑、わが李白いるならいへ」との意味、手紙にてかく。四国一の民俗学者なる由。 武田氏へ投函かたがた『赤穂義人叢書』などもちてプティ・パレで喫茶後、高円寺(※省略)。瀬見氏7千円で買ひくれ、本店で本買ひ支店でも買ひ、 通りでも買ひ、大通りでこの間店主と話せし古本屋で買って打止めとしプティ・パレで喫茶して帰宅。(午食は成都大飯店で麺くふ)。 竹内好『方法としてのアジア』読み了る。大高時代の小説のせをり、保田のこともいひ、わがことはいはず。200万円の本の内容よくわかる。 松田毅一『南蛮巡礼』、『地図をつくる』、『華族』、『徳川家康』、『帰化人の安置』、『巨大古墳と倭の五王』、『古事記の証明』、『大転秘録』、『昭和の軍閥』が高円寺で買ひし本なり。ユ「歯の治療」と称して柏井へゆく。 10月2日 井上靖氏へ「(※返却の要なし)中国へやってくれ」とかき『李白』とともに〒へ出しにゆき、佐伯にて本買ひ、 (地下街で守衛と喧嘩し、巡査に自転車でからみ、佐伯で「あなたも変人」といはる。) プティ・パレにゆき(※省略) 森山夫妻12:45に来り、(※省略) 16:00まへ出てゆきしあと東豊へゆき借金払ひ、 『鑑真大和上(450)』買ひ『中國古典小説研究專集()』買ひ沢田瑞穂はもと天理大学の中文の教師なりしことわかる。 酒井美意子、夕刊に本売りたき時はイナリに祈るといふに憤慨、他の新聞に変へるやもしれずと投書(前田将軍の息女、姫路の酒井家に嫁ぎ敗戦後怪しげなることせし女なりし)。 ユ不逞、絶縁申しわたす。近江詩人会33年記念会やると。退会申し出づ。 10月3日(日) 8:30起きて朝食。ユの出てゆくを見送り、ねてをり。午后、大来り2万円返す。後期の仕事出来しと也。『李白』1冊渡せばサインせしむ。 10月4日 6:00さむ。10:00山本書店に電話すれば「實君外出」と。「午后ゆく」と伝言たのむ。台湾、北京の大使館に包み、中山正子に包む。 ユ出しにゆき、われ神田へと本もち新宿三丁目をへて神保町。山本店主に本みせればみなにて5,000と。 實君に1冊『李白』を呈すれば署名ささる。『平妖傳』買ひ、南海堂にて善海の本『中国村落制度の史的研究(帰宅してもらひゐること判明)』、 文泉堂にて『立原道造・愛の手紙』買ひ(※掲載された自分あての手紙)証拠に見せれば『コギト』copyに来ると店主荒川義雄の名刺呉る。 家へ電話してもダメ、高円寺「山水書房」月曜休みとあり大石にて新書2冊(120×2)と『古事記と天武天皇の謎』買ふ。(※省略) 林富士馬氏より『李白』受取ったと。 10月5日 疲れて鳥海生と武田昌造氏とへ『李白』包み、林富士馬氏へのハガキとともに出す。午食して瀬見氏に電話して都丸へ善海のダブリ本売り『李白』1冊進呈し、 加藤先生へ文庫本2冊と『解釈と鑑賞361』買へば1,000にまけてもらふ。疲れて帰宅。夕方、山住dr.へ『大唐の春』呈し、 VitaminCのめと(390)。 『李白』を正己先生もちて東北へと。(※省略) 10月6日 雨、7:00さめる。村山高、鍛冶初江2氏に『李白』包みカヂさんにはハガキかく。〒なし。書店にて『狂雲集(780)』買ふ。七五町に記し意味不明なり。 (※省略) 東城書店に17:10電話すれば係17:00までしかをらず(伝へおくと『醒世恒言』の訳3冊13,000ほしといひし也)。(※省略) 小高根太郎に電話すれば夫人出て呼んでくれし故野田又夫夫人病臥のこといふ。末富氏と13:30より碁将棋さし藤井博士の『諺の研究』新書版を呈せし。 文泉堂に電話すれば「金曜14:00来る」となりし。 10月7日 6:00前起床、雨降る。昨日より『平妖傳』よみをり。9:00傘もたず出て地下鉄立ちしままゆき小田急は坐る。 (※成城大学にて)神田信夫氏のありか忘れ、浅野忠允君の家がまうらなるを知る。 神田夫人に『李白』わたし、疲れて講師堂へゆかんとすれば青木生、民俗学会とかで来てをり。栃尾君まつまに高田瑞穂に電話すれば夫人「幼稚園へゆきをり、帰りに寄るならん」と。 果たして11:30来り『李白』呈し、栃尾君と、東山君まつ間「菫」へゆきて待てと。 図書館でリスト19貰ひ、新城博士記念号、わが記念号など拾ひあつむ。 栃尾君と「菫」へゆけばwhiskyの水割り2杯のまされ、高田君払ひて去る。われice-teaのませて別れ、 各停にて南新宿、東豊へゆけば酔出て苦しくtoiletに入り、台湾の棚の前にうづくまり『植物図説(6,000)』、『台湾的仏教与仏寺(1,130)』、『清代台湾之郷治(4,200)』、『客家人(1,810)』、『一視同仁の果て(1,500)』外3冊にて16,470、前回の借金と合せて3万円をもちてゆくこととなる。 茶くれしに茶碗2ケ割り、はふはふ帰宅。 内山より「11/10までに『人民中国』3年分5,000納めよ」、東城書店へ16:00電話すれば『醒世恒言(1.2万+650)』すでに送りしと。2,000の小説追加注文す。 10月8日 雨。6:30さむ。新城常三博士へ『李白』包む。(※省略)12:30吉祥寺へ禎子つれにゆき三鷹の弓子のところで遊ばし17:00連れ来る。 (※省略) (14:00雨中、杉並区役所へ文泉堂荒川義雄君迎へにゆき『コギト』の欠号大阪より注文ありしといふにプティ・パレへつれゆき(※copy)やらす。 8pなれば安く、われ茶代払ひし方高価なり。これより中央線の古本屋見てまはる由)。 『五采』来りし故、編集の久谷もと子氏へ電話し阿佐谷北の福島氏と来よといふ。「未亡人にていやいや書いてゐる」と。 諏訪澄より「友人に『李白』送れ」と。20:00名古屋にユ電話し「2冊送る」といふ。21:00京、禎子つれに来る。雨強くなると。 10月9日 9:00夫婦とも起床! 雨止む。11:30プティ・パレにゆけば山口翁まちをり。(※省略) 12:15帰宅。東方学会より総会京都でと案内あり。 羽田、武長の施設に勤む。和田博徳君、梅ヶ丘生と也。大分無職ふえたり。武田明君より『李白』くれと。 10月10日(日) ユ11:00孫ら迎へにゆくとて、われ一人礼拝に出、(※省略)すみて竹森先生に『李白』進呈。一旦帰宅しユより1,000もらひて加福邸。(※省略) 霊前にて全寮歌うたって帰り紀伊國屋へbus下車。『文化人類学への招待(430)』買ひ地図買はず東高円寺まで地下鉄。迷ひながら丸にゆき1冊渡す。 礼もいはれず暗澹として出、大石にて杉山平一『詩のこころ・美のかたち(200)』を150に負けさし無一文となりて帰宅。(※省略) 10月11日 8:00さむ。ユ、孫どものせきにてねられざりしと。午まへ飯もって弓子来り、京に姉らしくす。3孫加はり14:00まで何も出来ず。 ユつれ立って出しあと野球部史と『李白』と包む。(※省略) 東城書店より『醒世恒言(13,600)』、『剪燈新話(2,350)』来り、『日本近代詩全集』と来る。 麥書房に「杉山平一氏へ詩集送りくれ」といへば夫人「承知」と。 吉岡克己君へ2袋。安達さんへは2冊、長島祥氏へ『李白』と包む。あす出すこととす。  孫らみなさはぎてをればわが心水にはあらず生ぬるき湯ぞ。 10月12日 6:00起床、雨止む。ユを〒にゆかせれば京より「16:30に乗る(※省略)」 午后、佐伯に来てくれといひ野球部の送本2度やる。佐伯に寄れば『北方ツングース』売れたと也。(※省略) けふ野田又夫氏より受取り「読んだ」と也。杉山君へ詩集送ったとハガキ。本多夫人にも『李白』。 佐伯にて『金瓶梅(1,600)』別訳なれば買ふこととす。15:10佐伯さん来て『北支調査報告6冊』1.5万円で買とり、『李白』『華族』等で上田学而『金瓶梅』4冊を差引して呉る。 (ユ昨日67才の誕生日なりしと) 鈴木首相突然辞意表明、71才の同年にて無能なり。(※省略) 袋書了る。 10月13日 7:00まへ起き9:30川久保へ電話し、ゆくといへば(※省略)、駅前〒にて「野球部史」全部すまし『李白』を羽田へ。 川久保へゆき『北アジア学報3』出しくれしも不要といひ『李白』1冊おく。帰り「書原」にて雑本5,000近く買ひて帰宅。 鍛冶初江さんより「受取った。一度上京する」と。末富さんへ1冊もちゆき「予備役」といふ。将棋珍しく勝つ。 美紀子より電話あり、松茸もち来り『李白』の紹介くはしくしをりと。(※省略) 22:30村山高氏より電話「受取った。発送した」と也。 10月14日 6:30起く。〒へ「野球部史」の最後の便出しにゆき「書原」にて集英社の『李白(980!)(※小尾郊一)』買ひ来り、平凡社へ電話しわが『李白』なきをいふ。 「1,100円は高すぎる」云々といひしに、あとにて電話かかり「売れてゐる。安心せよ。近日久米氏来る」と。 ユ「地下鉄の本屋にては並びゐし」と。午后、中山正子夫人より『李白』の受取と蘇州へゆきゐしとヱハガキと寒山寺の碑の石刻と来り閉口。 久谷もと子氏よりも詩集。(※省略)11/14、東洋史談話会、会費5,000護君講演と。「出席」の返事す。(※省略) 花井夫人より電話「長男自動車事故にて吉林大学医院に入院、あす来られず」と。(※省略) 10月15日 6:00起床、8:00朝食。ユ展覧会とて戸田画伯に呼ばる。17:50磐長谷、中西、森田3生来り、中西維新前の志士の証文よみくれと。森田は落語やりたしとて一休よめといふ。 22:00になりて帰りゆく。中西、森田はわがsemi断りし故1年おくれしと也。 10月16日 8:00覚む。(※省略) 書原にて『李白』1冊見つけてきけば5冊のうち4冊売れしと。集英社の『李白』は積みあり。 佐伯にて『川柳雑俳集(1,500)』買ひて帰れば家にあり。(※省略) プティ・パレ山口氏待ち12:30まで待ち来しに本貸し帰宅。 15:00咲耶より電話「来る」(※省略)来て歌集の原稿見す。来ありし『新刊展望(※林富士馬と対談のす)』やり『李白』買へ「歌は旨し」といひ、 高円寺にゆき散髪し瀬見氏と会ひ杉浦正一郎『奥の細道(150)』、『玄奘三蔵の道を歩く(250)』買ひて帰宅。17:30より真っ暗となる。 21:00(※保田)悠紀雄に電話すれば玉井家出の夫人出て「ユキヲ西下、保田の小坊ちゃん恒三郎8月急死」と。妹は勝田マサ子、辻岡トシ子にてマサ子は未亡人なり。 諏訪澄子より電話、『李白』の受取なり。依子をユ呼びて話す。 10月17日(日) 6:00覚め7:20起床、晴、寒し。ユ礼拝に出しあと10:10出てcopy(誤字誤植)3枚し11:00学士会館着。tea(130)のみ305号室の会場へゆけば、 15分まへ野口医博おこし、下へ見にゆけば安達、吉岡の2氏あり。会の次第打合せ、12:00浜野、野田とで6人となり安達さん開会の辞のべしところへ村山氏来合す。 (※省略) われ次期大球会東京支部長を2年やることとす。(※省略) 15:00散会。浜野君と茶のまんといひ阿佐谷までつれ来り、(※省略) 本2冊貸し「また来る」と帰りゆく。兄と仲悪きは「兄が甘える」為となり。美少年の面影なし。(※省略) 大阪の大球会は渡辺恵が会長と。 10月18日 6:00さめうつらうつらと8:00起床、10:00松田寿氏より(※省略)「請求書は少しまて」と。(※省略)宇田良子夫人より54年刊行の詩集1冊。 成城より『成城文芸101』阪本名誉教授書きあり。(※省略)プティ・パレにゆき村上夫人、客はわれ一人にて愛想よし。 宇田夫人に「詩やめし」とハガキ投函。夕方Yami族の本一時返却を戸田謙介氏にいはれ探しまはりもちゆく。わが病中の原稿のこと云はれし。 (※省略) 中日、大洋に勝てば巨人に代りて優勝すとて名古屋大騒ぎの由。 10月19日 3:30さめて眠れず。11:00朝食。何もする気力もなし。(※省略) 『一視同仁の果て』よみ了る。 10月20日 8:00前さめて床あげる。(※省略) 末富家で碁負け将棋勝って14:30、出て東豊書店にゆき3万円もちゆき29,180払ひ8,780借金して帰宅。(※省略) 10月21日 7:00起床、佐伯へゆき5,500借り、帰れば2冊double。インク買ふ。  北平の土とならんといひしときいなまれしことわれは忘れず(橋川先生) よべ日記よみをり、彦根より富士ハウスに移りしところまでよむ。佐伯へ雑本売りにゆけば2,000余り。李家正文『遺物が語る古代史(2,000)』買ひ、 金子書房で夫人より『玄奘三蔵(1,000)』買ひ直しプティ・パレにゆき喫茶。(※省略) けふ筑摩出版より757,000(内30万支払すみ)請求。麥書房より杉山君に贈与の2,750の請求来り、前者を吉岡君へ転送。(※省略) 『星の古記録(430)』、『邪馬一国(380)』と新書高し。 10月22日 7:00覚め7:30起床、(※省略) われ『平妖傳』よみ了る(昨日、春夫訳『平妖傳』見つけし)。琳琅閣の広告来しのみ。 14:00出て高円寺、瀬見氏保田の『万葉集』(※新潮社『わが万葉集』)見す。飛鳥書房のぞき大石ものぞき本買はず帰宅。Tungus3冊すましBやっと終りに近し。 10月23日 6:00さむ。ユ8:30大に会ひに金もってゆく。(※省略) 母入院するなら他へといふつもり、大もさなりと。 プティ・パレへ11:40ゆき山口翁に本貸さんとすれば「この前見し」と。(※省略) すぐ帰りて午飯、(※省略) 10月24日(日) よべ22:00ねて4:00さむ8:30起床、ユ礼拝にゆく。鈴木内閣の後任4人立候補。(※省略) 午后出ず、(※省略) 夜、吉岡君に電話すれば金、筑摩出版にあす送る。我の立替も送ると。(※省略) 10月25日 7:30起床、11:00本局へゆき渡辺恵君に書類一切全部送る。2包にて1,500とらる。開き封とせざりし也。 書原にて永井ふさ子『愛の手紙(1,200)』買ふ。全集に入りゐる由なり。 昼食しteleviの映画見了り「散歩にゆけ」といはれ1万円もらって東豊にゆく。重なりしもの買戻してもらひ2,000ほど残る。 新宿まで歩きて地下鉄、また書原にゆく。これにて気がすむ。(※省略) (東豊で『大唐西域記』、『中国民族性研究』を「人人文庫」で買ひ500ほど払ふ)。  老いづきて恋せし人のおもひをばわれは知りたり失ひしもの。 10月26日 6:30起床、(※省略)10:00村山高氏と渡辺恵君に正誤表送る。佐伯にdouble本売り、黒板勝美『国史の研究 上(500)』買ひ来る。(※省略)  去りにしはわれが若さか革命は見ずて去りたる人のごとくに。  わが生れし辛亥の年革命の起りしことをわれ忘れゐき(宗慶齢追悼のteleviあり) 10月27日 0:00ねて7:30さむ。15℃なり。(※省略) 末富家で碁将棋早々にすまし、ユ母のところへゆきしに竹田誠伍未亡人より缶詰と『御旗かざして』貰ひ受取かく。(※省略)  歌つくり詩は作らずと決めにしもいつの誰かの定めしことか。  茂吉はも55にして恋をして苦しみつつも楽しみしらし。 10月28日 家居。夕方弓子来り、克次朗のことにて心配しをり。竹森トヨ先生の本11月に出てあと記念会と教会とより通知。中国の人口10億8710万と。 10月29日 8:00起床、10:30「書楽」にゆき『李白』減りしを見、『倭人伝を読む(460)』買ひ佐伯に寄りて帰る。(※省略) 吉岡君へのハガキ投函に高円寺へゆき、大石書店にて目加田誠『唐詩散策(1,300)』、『母の国・父の国のことば』等買ひ、瀬見氏より『北支蒙疆詳図(100)』買ひ、 プティ・パレにて喫茶、(※省略) 『平妖傳』のcardとり「ツングース語」■まで来る。(※省略) 松田寿氏来り5冊呉れしを2冊吉岡氏に送り、その旨ハガキ書く。 10月30日 6:00覚む。旧稿よみ直し「史の日記見て父には不快を感じるとあるを見し」と。エディプス反応強きなり。吾に似しかど吾より強しと思ふ。 11:00千草来り、保険やめ裁縫にて暮すと。昼食して大のところへゆく。 (プティ・パレに中山翁に会ひにゆきしに来ず。福地夫人も休み、明ちゃんsurvice、客なく廃業か。) (※省略) 15:30中沢二郎夫妻、治子と来り(※省略)、乾杯せしところへ「千草待つ」と大より電話に、眠りゐし子覚めて出てゆく。 10月31日(日) よべ1個頓服足してのみて眠り6:00さむ。ユ礼拝にゆき我休む(10:00ごろまで体調悪かりし)。12:00ユ帰り(※省略)昼食後、荻窪へゆく。 岩森支店立退きとなり2年後ビル建つと。この間の立原の手紙売れしらしかりし。帰りて佐伯に寄りて帰宅。(※省略) 11月1日 8:30起き、花井夫人「14:00来る」との電話、和田夫人より「来られず」の電話あり。 青梅街道の「書原」まで『李白』買ひにゆきしとて花井夫人15:00近く来り、16:00すぎまで花井母の死亡後、世話せしを無視されしといふ。 気の毒なるも仕方なきことなり。 送りかたがた出て、(※亡弟)建の記念のpencil直りしとて300とられ、「書楽」にて保田・棟方志功共著の『炫火頌』といふを買ふ。440円にて4月15日発刊の講談社文庫なり。 けふ「三火会16日12:00、1,500円」と通知あり出席ときむ。安達さんより我と吉岡君へ何か記念品をと電話、20:20「その必要なし」と答ふ。 11月2日 8:00覚む。『人民中国』3年分払ふ。井上靖氏より「その内機会を見て中国へ」とハガキ。昼食後高円寺、新本屋に『李白』なし。 都丸支店にて『邪馬台国(600)』買ふ。『中国展(800)』はdoubleをりし。春夫訳『平妖傳』はやめ『平妖傳』にてcardとることとす。 河野夫人より電話にて「古田房子、癌でけふ死にし」と。 11月3日 8:00覚む。秋の叙勲、中西実、勲一等。讃岐喜八、勲2等。岸田茂雄、久保亀夫、外山軍治、藤枝晃、勲3等なり。坪井が勲4等もらひしは去年なりし。 浜野治(※省略)来て貸した本返し3冊中国関係もちゆく。専門の話を大学で特別講義したき由。われ「勲2等ほし」といへば嗤ふ。 駅前へつれゆき書泉で『李白』買はせ750の本与へて別る。televiでMozartの一生を何時間もやりをり。寒くなり来る。(※省略) 11月4日 よべ2時まで眠れず。安定剤1錠足してのむ。8:00起床、16℃なるらし。ユ、母のところへゆく。(※省略) 午后、安達遂氏に事後報告。佐伯へ本売りにゆき(2,000)『日朝小辞典(1,200)』と堀三千『父との散歩(600)』と買ひて帰宅。(※省略) 11月5日 8:00さむ。ユ〒へゆき留守。8:30、400枚(×40)買ひて帰宅。10:00ユ、治子に会ひに出てゆく。堀三千夫人に読後感。 午食プティ・パレで昼食ピラフと紅茶(710)。 午后の配達にて守山の大野新氏より詩集と文集、天野忠を愛読するらし。手紙かく。 平凡社久米氏より電話「『李白』評判よき故2,000増刷する予定。直す箇所ありや」と。 「小山正孝君にきけ。わが考へにては直すところなし」と答ふ。 11月6日 8:00起床、山本書店に電話すれば實君「42Pまで校正出し、その内かためて送る。『李白』はあれほど宣伝すれば(※売れるだらう)」となり。 「木村由三郎翁逝去」と。帝塚山で我を愛せし用務員にて小母さんと二人そろひゐしも小母さんに先立たれ天寿を全うせし也。弔辞かきて投函。 プティ・パレにゆき福地夫人に『東洋画』7冊贈り山口翁まちしも来ず、午飯くひ、ユの戸田画伯に出てゆきしあと「書原」にゆき神近『トルキスタンへの旅(800)』買ふ。かなづかひ「支那」などそのまま大阪を活かせし也。 川久保(※省略)待ち、帰りしと話し満洲関係の贈られし本見る。 出て書泉へゆき『新潮』の保田與重郎論のりしを買ひ来る。我に代りてほめゐる。(※桶谷秀昭「戦後の保田与重郎」か。,) 11月7日(日) 22:00すぎ鍛冶初江氏を霊媒とする計画考へ眠り4:00さむ。 ユ聖餐当番とて8:00出てゆき我9:30出て3列目、終りトヨ先生追悼集(2,500)ユに購入せしめて帰宅。13:00近くユ帰宅。 午食し、横になりしも眠れず。 11月8日 8:00さめ8:30起床、けふ立冬と。12:30出て高円寺、大石書店に寄り1,250 の沢田瑞穂『中国の動物』を『差別』に1,000出してかへことし、都丸支店にゆき新書(100)買ひ残金150にて帰宅。 茶のむ。夜、京より電話あり。 11月9日 よべ2:00にねて(card入れ)8:00さむ。10:30card買ひにゆき(※省略)、中西進『万葉集入門』買ふ。 佐伯にゆき『妖怪談義(150)』、『長男の本(250)』買ひて帰宅。(※省略) 石井正吉君より「ハガキみた。平凡社売切れ、月末再版といひし。ノヴァーリス『青い花』もって来る。いつが宜しきや」と。 返事かき「電話せよ」といひやる。(※省略) 11月10日 6:30覚む。借金あるとの夢想ありユにきけば「なし」と。(※省略) 13:30末富邸にゆき碁5目にて勝負あり。来客申し立てて帰れば15:00滝沢(50年卒)来り、(※省略) (朔太郎の会会長、伊藤信吉と。西脇さん死にし後釜なり。我には来まじ)。(※省略) 未堂徐廷柱氏署名本の詩集『朝鮮タンポポの歌』の受取あす書くこととす。 11月11日 6:00さむ。(※省略)史8:50~9:00国税庁総務部長として「主婦の内職79万円まで無税」といふ。 (※省略) 山本實君に電話し「内校よくできをり」といふ。諏訪賢氏より退院祝。木村山次郎氏より「手紙霊前で読んでやりし」と。 夜、televiで「ソ連ブレジネフ逝去」と。(※省略)佐伯へ1冊売りにゆけば500円と。『車窓から見た自然界(300)』買ひcard買ひて帰宅。 けふ半島の詩人未堂氏に長い手紙かく。詩にふれずわが半島感なり。 11月12日 6:00さめ9:00まへ朝食了る。仕事し、午飯のあとcard買ひにゆき古本屋で『法曹漫歩(300)』買ひ来ってよむ。 本多浩君より『室生犀星文学年譜(8,800)』贈られ礼かく。(※省略)夜、丸に電話し「汝も漫歩かけ」といへば反対もせず。 本多君に礼状かく(下痢す)。 11月13日 7:30覚む。10:30山住dr.にゆき大分またさる。尿異状なし。血圧106~75、血液採られ結果水曜と。診察料1,800とらる。 11:30山田翁に会ひプティ・パレ福地夫人のブリッ子を云ひて12:00まで待ちしも来ず。 高円寺へゆき4店の古本屋まはる。都丸支店でReclamの『Heinrich von Ofterdingen(※青い花)(250)』見つけしがうれしきことなりし。 竹岡のむすこ本くれ名刺呉る。平凡社より『中国の名詩』第2回配本来り、麥書房より滝沢用の詩集来る。 11月14日(日) ユわれに飯くはし(8:00)礼拝にと9:00出てゆく。われcard買ひに出しあと高円寺へ散髪にゆく。内Mongolaにゐし憲兵といふが待ちゐてよくしゃべる。 すみて古本屋ちょっとひやかして帰宅。辞典にてこのごろ時間をつぶし15:30となり出て本郷学士会館へゆく。 岡部、京都より来をり、われを嫌ふ榎、市古など来をらず、植村先生81才とて乾杯の発声さる。ソ連寄り来し昭和26年生といふMalyavinといふ留学生(※省略)「わが家へ来い」といへば来るやうな返事す。 護雅夫博士のトルコの話は刷り物ありてよくわかり、まだ学問も発展途上国なり。老人と青年、右翼と左翼は使用語ことなる由。 すみて質問ありやといへば川久保「対日感情は」といひ「日本の軍事的援助を期待す」と日露戦争の日本をおぼえをりとなり。 20:30すみて植村先生の歩みたまふを追ひぬき(※省略)川久保と地下鉄。南阿佐谷で別れpão食ひ、柿食って就寝。(※省略) 11月15日 7:00さむ。10:00すぎ出て書原にゆき『李白』2冊あるを見(某氏の『李白』は4冊)帰り来る。 五十年となりて病むとふこのをみなわれゆるさじとにくみをあかす。ユ13:00より吉祥寺へ出てゆく。(※省略) われ讃美歌集を見て「雪よりも白く」の句ある(※実母)これん愛誦の歌を検し「521イエスよ、こころに宿りを」と探し当てる。 君津の坂井昭君より「ハガキありがたし。四季派について早くかいて下さい」と。(※省略) コーナー『思ひ出の昭南博物館』よみ了り(※省略)、 中西生18:30来り夕食し、山陽の「木米集序」よましむ。草書にして苦心惨澹す。21:30すみて再来といひて帰りゆく。 11月16日 6:30覚め7:00起床、10:00出て11:00数寄屋橋ニュートーキョー9階へゆき11:45入室。正野虎雄氏に『回想記集』1冊呈し、 浜野来り、原田来しほか知合少く、中西実氏来り勲一等の祝ひで『回想記集』呈すれば返さる。きけば津田氏も勲一等なりしと。 但し披露ありて皆柏手す。平井啓一氏(17LB)の防衛費など概論あり、浜野君と終りまできき『回想記集』の披露ささる。 早川敏一氏より挨拶あり13:45すみて浜野君と出て餡蜜くひておごり、(※省略) 山本書店へつき實君しばらく待ち、 「1,000部まで刷れ」といふ。「印税は本でもらふ」といひしもあまり欲しき本なし。(※省略) 11月17日 (※省略)0さむ!(※省略) 兼清君より19期生会の通知。末富家へ13:30より15:30までをり碁将棋。ユ吉祥寺へ買物に出ゆく。われマコトヤにcard買ひにゆく。 11月18日 9:00さめる。(※省略) 午后card買ひにゆき佐伯に2,500の借金出来る。 11月19日 9:00起床、ユ午后花井夫人に誘はれ上野へゆき序でに清水和子の画も見しと。われ太陽神戸より1万円引出し佐伯に払ひすます。(※省略) 11月20日 9:30起床、おそき朝食了へ、ユ買物へゆきしあと美紀子より電話かかり、柏井へ歯の治療にゆきし史、暁子と3人で来り、 美紀子仕度して麺くった去る。 われユの絵にゆきしあと高円寺、成都大飯店にて麺(550)、殆ど食はず瀬見氏よりソ訳中国文学史見て『三千里─日本人と朝鮮語(200)』買ひしのみにて久しぶりに山水書房にゆき富士川英郎『菅茶山と頼山陽(1,000)』買ひて帰宅。 11月21日(日) 8:30覚む。ユとともに礼拝休み、午后ユ写生にゆきわれ三鷹、竹中書店にて『最後の藩主285人(500)』買ふ。ユの曽祖父、井上河内守の像あり。 11月22日 8:30起床、〒なく事なく、ユpermaにゆきし間にまことやへcard買ひにゆきしのみ。 11月23日 けふのトヨ先生の出版記念会の時の話に苦労する。山本書店より『蘇東坡』の校正来る。 13:10出て吉祥寺教会、会堂に半ば満ち、礼拝すみて森田先生の司会にて祝賀会。 われ小声にて聞えにくかりしとユの話。トヨ先生の思ひ出ゆっくりは話せず。16:30をすみて竹森先生のお話ありてすむ褸。(※省略) 21:30校正すむ(但しあとの方、原稿なくて出来ず)。 11月24日 9:30起床、10:30朝食。昼食せず、千草来りしを見て末富家へゆき碁4目となる。帰ればユをらず、(※省略) 11月25日 8:30起床、寒くcardやり外出せず。山本の校正も出来ず。末富家より柿と林檎返礼に賜はる。 『風日』来り、保田夫人もはや救ひ難し。 11月26日 8:30起床、午后山本へ校正出しにゆく途中、印刷屋に年賀ハガキ400枚の印刷たのめば「12月4日出来5,000」と。 card買ひに『平妖伝』と『醒世恒言』と引き続きやる。中曽根内閣をtelevi報ず。 11月27日 寒く、外出せず。(※省略) 鬱となりしか下痢なほらず。 11月28日(日) 礼拝休む。下痢に近く神経ならん。cardやり石井氏に問合せのハガキす。 11月29日 8:30起床、11:00ユ平林夫人に会ひに出てゆく。午后石井正吉氏より電話「風邪ひいてゐた。2日13:00来るつもり」と。 11月30日 9:00さめ10:00朝食了。cardやり午后散歩。(※省略)戸田画伯夕方お越し、戸田謙介氏倒れ、会に代りて出席せしと。 浅野晃氏より預りの『ものぐさ手帖』とYami族の本とを改めて賜はる。 桝田夫人より電話「本買った。和田夫人と来る」と。ユ出て「縁談のことなら一人で来よ」と。 12月1日 9:00起床、末富氏「出社、けふは勝負せず」と。午后高円寺まで歩き阿佐谷でcard買ひて帰宅。(※省略) 鬱にて何をするもいやなり。(園田博光氏「逝去」と令息より) 12月2日 8:30さむ。早川君より保田のことにて11:00来ると電話。弥彦君10:00前来り、『コギト』の署名なき保田の文章を鑑定せしめ「母に新居に逢ひに来れ」と。「鬱でなければゆく」といふ。 (※省略) 14:00近く石井正吉氏来り『李白』与へ、もち来し『ハイネ恋愛詩集初版』『青い花2版』にsignし捺印せよといふに印出して捺してもらふ。33才にて未婚となり。 山本より「蘇東坡」142pまで来り、美堂正義氏より「詩集の序文くれよ」と。 橋川夫人より時雄先生10.19逝去。(※省略) 12月3日 8:00さむ。川久保、柏井歯科へゆきし帰りと寄り早々に帰りゆく。校正すまし太田三男の見合にゆくユに投函たのむ。(※省略) 林語堂の引用につき訂正したく、あす山本にゆくか電話せんと思ふ。 12月4日 校正の誤正しに山本へゆき、また一台分もち帰る。印税いらず本でもらふといへば實君喜び父呼びしも不在。 『話本小説概論』買ひて12:00すぎ帰宅。(※省略)金沢(※金沢良雄)より『本来無一物』来る。(※省略) 12月5日(日) 6:00さめ礼拝にゆく。ユより先に帰り13:00近く戻るまで待つ。けふはまだ暖し。(福地夫婦のプティ・パレにゆくに遭ふ。貧寒なる男性なりし)。 21:00彦根の藤野一雄氏より電話「7日13:30訪ぬ」と。きけば娘を訪ねに上京となり。 12月6日 5:00起床、寒く、校正すましユをして投函せしむ。村山氏より内田夫人の手紙のりし報告来る。 12月7日 7:30起床、無為。13:30藤野一雄君来る。「詩集出す」と也。嬢、船橋にて理髪の見習ひす。16:00東京駅で会ふと15:00出てゆく。 (山住dr.にゆけば95と低血圧。血圧昂進剤もらふ)。 12月8日 寒く、外出せざりしも。末富家に呼ばれて碁4目にて打ち2勝1敗。将棋にも勝つ。ふしぎなることなり。 中山正子夫人より蜜柑一箱、森山氏より鮒の甘煮。(※省略) 12月9日 寒さそのまま。13:00弓子来る。(※省略) 宇井(井上)、丸木、白水、押上(得津)、豊島(森田)智子の5人来り、(※省略) けふ浅野晃その他へハガキ3枚、弓子に投函たのむ。 12月10日 よべ不眠にて参る。詩集2冊来る。中山正子夫人へ礼状、あすにとす。 12月11日 眠剤1錠まし9:00まで眠る。中山正子夫人へ礼状かき投函かたがた散歩。佐伯にて『桃太郎の母(800)』買ひ、card買ひて帰宅。 (※省略) 木曽の荻村家より林檎来る。新学社より詩集の印税899送金したと。夜、宮崎女史より「明日来い」と。 12月12日(日) よべ1服のみ足して7:30起床、ユ礼拝にゆき(※省略)、桝田夫人の話ダメとなりし。 12月13日 よべ眠りて午前中校正すまし、午食後自分で〒、(※省略)中西生より電話、来ると。18:00夕食すみし頃来り、頼山陽よませ全然できず21:50帰す。(※省略) 12月14日 8:30さむ(眠剤飲み方かへる)。田中栄太郎より贈物来り、美紀子来る。史、毎日飲酒と。暁子を今井家へおき来しと。17:30帰りゆく。(※省略) 昭和57年12月15日~昭和57年12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 12月15日 9:00覚む。ユもおそく起きし。ものうく何もせず。午すぎ最後と碁将棋しに末富邸へゆき将棋負け碁3目となりて帰り来る。 「賀状20日までに出せ」と。アイウエとばして書く。来年よりは止めん。平凡社「中国の名詩3」として目加田誠老の75調の『詩経』来る。 12月16日 7:30さめ9:00より賀状かく。岡正雄氏老衰死と。午后高円寺へ散歩にゆく。瀬見氏をらず。地下通りて阿佐谷へ出、card買ひて帰宅。(※省略) 12月17日 8:30さめユpermaに9:30出、13:00帰り来る前、賀状かき了へ午食すませ高円寺南3丁目局へ投函、瀬見氏けふもゐず。 帰りてまた賀状片づけ阿佐谷駅前局へ投函。card買ひて帰宅。(※省略) 『喜田貞吉』よみ了る。(※省略) 桑原武夫氏の推薦で本となりしと著者。 12月18日 7:30起床(よべ眠れし)。午食後、加藤定雄への手紙出しに高円寺、(※省略)。大石、瀬見夫人より本買ひ、瀬見氏ゐざる故、今年はこれでといふ。(散髪せし也)。プティ・パレにゆき福地夫人にも別れいひて帰宅。 蘇東坡の校正し「偶得」の原文見られず、あすと止める。 12月19日(日) 7:30起床、ユ8:00に出てゆく。われ9:10出てひと電車早く礼拝にゆき、すみて(※省略)中国料理店にゆき粥くふ。(※省略) ユと遭ひて佐伯にゆき『シンガポール育ち』買へば白水(※白水繁彦)の訳なりし。帰りて雲呑くふ。(※省略) 澄より5,000(『李白』3冊代)と依子より菓子とユへの洋服来る。仙台より「物ついた」と京。 12月20日 8:00起床、9:00朝食すませ止むを得ず「蘇東坡」の校正半分やり昼食すませ13:30高円寺、瀬見氏をり。 『シルクロード西域の詩』買ひ「夜ゆく」ときき流し飛鳥書房へゆけば帰り来し店主「お茶のみませう」と一緒にゆき、 われは茶、向ふはうcoffeeのみわれおごる(兄弟にて我が家へ本買ひに来しと也)。それより大石へゆきまた本買ひ、高円寺これにてすむ。 (校正了り298pなり)。山本實君には「あす14:00もってゆく」と電話しありあり。(※省略) 夜、西川に電話すれば夫人出て「主人宴会にて未だ帰らず」と。(※省略 中西生の就職)西川にたのみたくなりし也。 (山住dr.にゆき血圧125と高し。「躁にて云々」)。(※省略) 夕食まへ瀬見氏歳暮もち来り、正月出直すと。 20:30近く西川電話くれ「あすの三火会出るや」ときけば「出ず」と。 12月21日 6:00さめ歌うたひ、ユを起し8:00朝食すみ、10:30出てまことやにてChristmas-card(200)とcard(300)買 ひ、地下鉄にて銀座。 beerhall9階の会場にゆけば話者田崎君をり(10SC元海将補)12:00まへ幹事正野虎雄君来り、会費1,500払へば9LAにて我を知りをり。(※省略) 開会直前に原田運治来り、(※省略) 話すみ地下鉄(※省略)、山本書店にゆき實君に校正渡し(責了と)、 『高山族簡史(500?)』買ひ、林語堂『蘇東坡』借り、2~3月に出版せよ、30冊著者買上げ、残りは本にてといへば實君喜ぶ。(※省略) 仙台よりの小包来り2万円を父母にと、健太郎の画など入りをり。20:00礼の電話われかけしに、わが訛りに健太郎わからずと。禎子出て「ヂイちゃん」といふ。 神田喜一郎先生の編に係る『森槐南遺稿中国詩学概説』来をり早速礼状認め、Canadaの富山鈴子にChristmas-cardかく。山口基君にもハガキかく。(※省略) 12月22日 5:00さむ(よべ1:00眠りし)。「通訳Gulmahum」探せばにありし。(※『東洋學論叢 : 石濱先生古稀記念』1958所載「通訳グルマフン」) 9:00出て神田先生、山口基への便投函。富山鈴子へ航空便、(※省略) 書泉にゆけば『李白』2冊『近代詩集』3冊『詩経』10冊積みあり。集英社の本はなし。毎日新刊300冊入ると店員我を知りをり。 (※省略) 躁の徴候甚し。(野村Touristより(※悠紀子夫人)ソウル行の件きき来し故「2月たのむ」といふ)(※省略) 園田淑郎氏に厳父博光氏の弔文かきて疲る。けふ田中角栄の訊問に「事実無根」と答ふ。右翼さはぎしと、ふしぎなり。冬至とてユ風呂にlemon入る。 12月23日 6:00さめ歌ふ(9:00とあやまりし)。9:30出て佐伯に鮭半分もちゆき家にある本2冊(850)買ひて帰宅。 野村ツーリストの会長神原藤佐尾氏に『李白』書泉にて買ひ来しを包み、また駅前へ出しにゆく。 ユSeoulにともにゆくと決心、2月26日より3泊の予定、Seoul数泊、釜山1泊ときむ。猥本をユの留守に懸命によみ、帰り来しときは方々に電話す。 深沢紅子女史の娘が佐々木望の夫人とわかり電話すれば望、通院中と。深沢女史の娘と確認し、なつかしやといふ。あとにて望より電話、新学社関係ならん盛んに上洛と。「その内来れ」といふ。 滝沢勉に電話、(※省略) 2月10日札幌より恋人上京、わが家へつれ来ると也。(※省略)佐々木望の義兄は竹内正夫氏とわかる。賀状にその旨かかん。 12月24日 5:00さめ竹内正夫氏へ賀状かく。『新潮』12月号よみ津村節子、桶谷秀昭に「会ひたし」とハガキかく(新潮社気付)。 東豊書店へゆきたしと思ひ、書原に出て5,000本買ひ14:00帰宅。ユ金呉れず書泉にて『李白(1,100)』買ひ帰宅。病気また起りさうになり、 Christmasの歌うたひつつ、すし食ひ麥書房へ金送るの電話す。(※省略)白水生に「本買った。よく出来てゐる」とほむ。(※省略) ユ22:00近く帰り3孫みなにラーメン食はし金なくなりしと。残飯くらふ。 美堂正義君に何枚いつまでかと問合せのハガキかく。(※省略) 和田マサミといふ女生より『楊貴妃とクレオパトラ』見せよと。「来よ」といひし。 (※省略) 17:00正野虎雄に本もちゆくことを約束す。 (今朝の新聞、中河与一85才、62才の弟子と結婚まへ68の夫人と60の夫とより慰謝料500万円の訴訟となりしと。老醜にして終りを飾るに足る。) (東豊にて都立大中文研究室曽士才君に自己紹介「家へ来よ」といふ。「神戸に家あり帰宅後来る」と)。 12月25日 5:00まへ起床、眠し。入浴。ユのさむるを待ち蜜柑食ふ。うまし。ユを8:40起す。その間『果樹園』よみをりし。10:00出て美堂君宛ハガキ投函。 電話しおきしに川久保にゆき、『清朝前史の研究』買へとすすむ。11:30出て帰宅。午餐toast-pão、 13:30戸田謙介邸へwine(1,500)酒(570)もちゆく。14:35帰宅。televiの西部劇見る。16:00ユ帰宅を見て家を出、(※省略) 古本屋にて『デルス・ウザーラ(100)』、『442連隊戦闘団(100)』買ひて交番にて巡査に途きき、ゆけば(※正野虎雄)黒めがねかけて待ちをり。 (※省略)伊藤朝生、佐々木喜市、全田忠蔵、酒井賢などの話す。夫人外出とて近道教へくる。 わが出しあと、岩森書店来て白鶴くれしと。電話して礼いひ「(※立原道造の手紙)谷川俊太郎に貸せ」といひて電話すむ。(※省略) 12月26日(日) 西川に電話し「三火会に出よ」といふ。(※省略) 加藤に電話すれば「手紙くれたのは君だけ。火曜は常に用あり」と。(※省略) 岩森社長に電話し「10:00ゆく。店あけよ」といひ10:10に地下鉄にのれば店あけをり。坐らして「茶かコーヒーか」と。「茶」といひタバコもらひて2本吸ひ、「来よ。本は売らず。嫁世話する」といへば、「28才(※省略)」と。わがもちゆきし金尾の本3冊7万円にて買ひ、売りたくなき良き本と喜ぶ。 2万円近く買ひ、雨の中、重たがりて歩きechoみつけて買ひ、堀さん(※堀多恵子)にゆき、隣家の呼出し押せば娘さんで出て来て「お上り」と二階に上ぐ。 タバコ1本吸ひユに電話せしめればユ出て「下歯忘れゐる」と。大笑ひとなり12:00退去(近く来ると。 (※萩原)葉子の不品行話す。dance見にゆきしはまことなりし)。「俊ちゃん留守、専修大にゆきゐる」と。 12:00出て下駄をgarrageで直しゐれば夫人追ひ来り、忘れしechoわたし呉る。よくも途わかりし也。下駄入れてもらひ近道して帰宅(12:15)。 ユに話して昼食にpão食ふ。(※省略)3度目の入浴し(※省略★)、就寝。 (史18:00来り、(※省略) 我が「松浦の養子か」との一言に参り早々帰りゆく。17:30美紀子松浦より電話してわび云ふ。) 12月27日 5:00さめ小便し日記かく。(※省略) 10:30出て佐伯へゆき本(『長沢規矩也著作集1.2』、『朝鮮の通過儀礼』)とり、 向ひのタバコ屋にてecho2ケ買ひ、老爺と話せば碁相手にならず。(※省略) 国鉄にて代々木(140)、東豊へゆき1万5千円払ひ『人々文庫』11冊買ひ、 来合せし学生に「家へ来い。『酉陽雑俎』そろひあり」といへば返答横柄なる故「失礼な」とどなる。簡さん感心し、ラーメンとりて200円払ひ、 おほむね食ひ了り出て国鉄にて高円寺、重き佐伯の本瀬見氏に預け「3日来る」と聞き、丸家。 echo2ケやり、目の前にて吸殻落すを見、探せども見つからず夫人呼べば来て見付く。 重俊に「詩集もらはず」ときき「家へとりに来い」といふ。結婚相手きまりしと也。(※省略)出て瀬見氏より預けし本とり(※省略)、 阿佐谷駅につけば(※来ると約した学生)をらず。ユに電話すれば「来てをらず」と。交番前にゆき(※省略)、学生如きに「田中だ」といひ見れば「宇田」なりし。「和田」はききちがひとわかり、途教へつつ家へ伴ひ『楊貴妃とクレオパトラ』もたせ、(※省略)ノートとる。 『アジア歴史辞典』の「楊貴妃」写し、『外国人名辞典』の「楊貴妃」写さし、『楊貴妃とクレオパトラ』の楊貴妃伝よんでやりnoteさす。 ユ18:00に夕食出し、炒飯なり。彼女みな食ひ、(※省略) (※『楊貴妃とクレオパトラ』)貸すが必ず返せと借用証かかす。 音痴にてわが「Torna a Surriento」ききをり。8:20ユの声にて帰るとてユ、突き当りまで送る。(※省略) 12月28日 よべ23:00起床、4:00さめ、6:00歌うたひ(『果樹園』よみ美堂氏の初執筆は37号「法事」といふ詩、駄作なり。)(※省略) ユと2月26日出発3月2日帰京となり(新宿野村ツーリスト)1月5日10:30新宿へゆくこととす。(※省略) 19:30竹岡に電話し『堀全集』いくらで買ふかといへば3.2万と。瀬見氏に電話してきけば3万と。佐伯に電話すれば入浴中、あす朝電話すと夫人。 12月29日 早朝目覚め(※省略)6:30離床。佐伯に8:00電話、起きず8:30再びかけしもダメ。(※省略)9:00佐伯にユかければ「10:30来る」と。 松田寿氏とかち合ふと思ひしに10:10来り正誤表もち帰る。佐伯10:30来りero本15冊7,000にてもちゆく。(※省略) ユ阿佐谷駅で切符買って待ちをり三鷹で下車。歩きて道わからずGolf場の角にチエさん(※宮崎智恵)をらず、ユ電話かけにゆけば(※省略)はさみうちとなる。 しるこ買って新宅へゆき、しるこ食ひ、茶のみ、歌集呉れ、ついで『猪鹿猿』の文庫本呉る。弥彦帰り来ればPafi(犬)の散歩を命ず。 出て薬局にてFaston(※入れ歯安定剤)買ひ、チエさんと別れ(※省略)、長島家、254番合唱す。出て山岡書房へゆき、1,800円分八王子関係の本買ひ、 駅に出て18:00阿佐谷につき金子の夫人、番とて入り『みかぐらうた ; おふでさき』、『琉球の歴史』買ふ。(※省略) 12月30日 晴。4:00さめ6:00televiつけ7:00ユを起し、pão食ひて8:00郵便局(※省略)、川久保のbell押せば今起きしところと玄関払ひ。(※省略) 餅屋来り払ひす。ユ帰れば重久武志生より「あわび」来り、原田運治への『詩集』送りにゆかす。 丸重俊にやる分は麥書房にたのむ。夫人出て「主人鬱性とは誰の言か」、笑って答へず、堀多恵さんの言なり。(※省略) 12月31日 11:00ねて8:00さめ朝食。televiに「後藤新平岩手生れ」と。ユと柏井へゆき井上河内守の写真みせ、史に見せしのち柏井の有とすと。 ラーメン4人分(350×4)とりて食ひ、出て、千章堂で980円買ひ、佐伯に本買ひ、本売るといひ23,000差引し、島本久栄氏の『塔影(※河井酔茗生誕百年)』の文章ほめるハガキかきて投函。 (※省略) 加藤俊彦に電話すれば「何か用ですか」と。「堀多恵さん」といひて切る。 田中克己日記 1983 【昭和58年】  昭和58(1983)年、田中克己は名跡『四季』の復刊に、主宰者として立ち上がりました。  堀辰雄が最初に編集した2冊のクォータリー(昭和8年)を第1次として、「四季派」と呼ばれる詩人たちが活躍した第2次(昭和9-19年:四季社版)、戦後堀辰雄が再起再興を図った第3次(昭和21-22年:角川書店版)、そして丸山薫を擁して残党の旗揚げとも呼ばれた第4次(昭和42-50年:潮流社版)と、これらに継いで9年後の復刊となる訳ですが、『四季』が第5次まであったことは現在に至るまで周知されてゐません。  理由はあります。  当初目論んだ、往年の編集同人2トップを代表に掲げる体制にならなかったこと。もう一人の編集同人神保光太郎は認知症を患ひ参加できず、前回の『四季』終刊から9年の間には、丸山薫に続いて竹中郁・田中冬二の両先輩も既に他界してゐました。  よって神保光太郎の了解を待たずに飛ばされた檄文・檄電話でしたが、“癇性の詩人”田中克己の情緒不安定は既に詩壇・文壇・出版社の知るところとなってをり、『四季』落城後に生き残った残党・遺臣たちから、思ふやうな協力をとりつけることができなかったこと、これらが出発時点での躓きでした。  一番頼りにしてゐたのは、日頃より詩人の世話に苦労する悠紀子夫人を気遣ってゐた堀多恵子夫人でしたが、堀辰雄の未亡人である彼女が同人でなく会員の身分に強いて自ら留まったのは、さうした他を見ての困惑ゆゑであったかもしれません。  殊にも現役で詩を書いてゐる、小山正孝、杉山平一、大木実の三者、そして彼等の盟友といふべき『山の樹』の同人たちを呼びこむこが出来なかったのは、『四季』の名で功績を語るためには最大の遺憾事であったといってよいでしょう。欠くべからざる実働部隊の不参加、これが前回の第4次『四季』に寄稿してくれた人たちのみならず、新規に投稿者を呼び込むこともできなかった一番の原因だと私には思はれます。  中国文学への造詣を同じくする小山正孝は、詩人とは長年良好な関係にあり、東京で身近に連絡が取れる一番の詩的盟友だった筈でした。共著となった『唐代詩集(昭和44年)』では李白・杜甫を訳し分けた二人ですが、出会った戦時中こそ、田中克己を詩歴・学識両面において華々しい先輩としてうやまったものの、戦後は活動するホームグランドを『山の樹』・『果樹園』と異にし、関西から上京して以降の詩人については、短気で度々絶交を言ひ渡す対人姿勢に呆れ、最後は愛想を尽かして歩み寄ることを止めてしまひます。  復刊に色よい返事をしない彼を、時間をかけて説得しようとせず、『山の樹』人脈から、鈴木亨、伊藤桂一、安西均等々の有力詩人たちを引き抜こうとしますが、計画に乗り気だった江頭彦造を差し向けて、 「小山正孝をのぞき十人近く同人とせよ(鈴木亨も入れる)」 といふやうな打診をしてみたところで、なびく者はありませんでした。  元帝塚山学院同僚の杉山平一も、最初は桑原武夫に「三跪九頭して同人たのむ」とまで積極的だったのに、これまた逆に説得されたものか、桑原を同人に迎へるどころか、三好達治「燈火言」の衣鉢を継いで当初投稿詩の選者となる予定だったのもどこへやら、結局雑誌への寄稿はありましたが同人とはならず、旧『四季』同人の中では遠方にあって絶交の難を逃れた唯一人の理解者として留まります。  大木実を「四季派ではない」と除外したことを後悔したとは、後に詩人から直接聞きました。  一時かかりつけ医であり当然賛成してくれると思はれた林富士馬からも断られ、『コギト』の旧友では小高根太郎と野田又夫、日本浪曼派系では浅野晃を確保しましたが、高森文夫などコネの無い人物には始めから声を掛けることをしませんでした。  日記を見ると室生朝子などは初めこそ乗り気だったやうです。ですが「室生萩原の姫君を擁した落武者の旗揚げ」と前回復刊時に称された彼女、此度は『山の樹』同人だった萩原葉子に聞き合はせをしたものか、旗揚げの状況が判ると参加を取りやめてしまひます。  同じ阿佐谷に住み、評判をとった「サヨナラダケガ人生ダ」のやうな訳詩を期待した井伏鱒二からは、「同人辞退せぬもかけぬ」と体よくいなされ、 代りに詩人が自らペンネーム「秦海人:はたかいじん」を名乗り一人二役で執筆することになりました。  結局、同人となることに同意したのは、職場や学界で尊敬措く能はず師礼を執ってきた先生と、過去の交流のなかで詩人の性分を理解してゐる同僚そして『果樹園』の旧同人。つまり田中克己個人の意向が強く反映された陣容になってしまった訳ですが、浅野晃、森亮、矢野峰人、松枝茂夫、植村清二、藤沢桓夫といった面々の協力を取り付けることが出来たことで、文学者としての主宰者のメンツは保たれました。  そして江頭彦造と、彼に呼ばれて迎へられた国友則房と、二人は立原道造の数尠い縁者でもあってみれば、四季社といふ看板を掲げたメンツもまた、辛うじて保たれたやうに思ひます。  ただしその二人とも、やっぱりといふか、のちに喧嘩別れしてしまひます。  更に『山の樹』とは別に当時、抒情詩の詩誌として『東京四季(東日本)』と『季(関西)』とがあり、第4次『四季』終刊を惜しむ後進詩人たちがそれぞれに集まってゐたのですが、田中克己は『東京四季』から、戦前『四季』投稿者で同時代人として期待した小杉茂樹を代表人物として引き抜いたものの、寄せられた詩に対する選定が厳しく(結局選詩は詩人が行った)、彼をはじめ二誌の若手詩人たちとも疎隔し、一方では足りない同人を補ふため個人的に教へ子に声を掛けたことで、一層この第5次『四季』を『四季』とは認めたがらない風評が広まることになりました。  前途多難の『四季』“最後の船出”のその後については、翌年の日記の“航海日誌”を見て参りましょう。  さて、年末の創刊号発刊に至るまでの一年ですが、別途、色々な出来事が詩人の「躁鬱の波」の中で起こってゐます。  信徒だけに配るため僅か30部きりが刷られたといふ最後の詩集となった『神聖な約束』は、教へ子の自殺に動揺したことも刊行理由にあったでしょうか。躁の時には創価学会や倫理研究所、エホバの証人と、他宗教の動向にも興味津津で、会合に首を突っ込んで相手になったりしてゐます。  もとより寂しがり屋で、話し好きな、書痴(古書狂)を自認する詩人です。退職後も蔵書の入れ替りは激しく、支払ひや外出付添ひなど、これまでにも増して雑事・対人面の全般に亘って尻拭ひに奔走する悠紀子夫人ですが、日記のなかでもとりわけ夫人が代筆した部分の記述からは、夫に振り回される苦労や、詩人と対した相手が蒙った難儀の数々が察せられます。  尤も詩人にしてみれば、中央公論社で持ち上がった半自叙伝『老兵の記録』の出版計画、名誉教授となった成城大学の紀要のために執筆した論文「清初の十王」、 そして前著『天遊の詩人 李白』の余勢を駆って東洋文庫のラインナップに並ぶ約束のもと書き上げられた『五雑俎』、 これらの原稿がことごとく編集子による判断で反故にされ、 挙句は周りの友人の誰彼もが勲章を授与されることに堪りかね、博士号取得の計画を立てるも断念せざるを得なくなるなど、 ここに来て単独個人の営為がことごとく思惑通りに進まず、威信喪失のショックはいかばかりの事であったかと察せられます。  この年、『四季』復刊を主宰しようとしたのは、人生最後に背水の陣で臨んだ挑戦ではなかったでしょうか。  この年の出来事 1月、西島大や丸家息女と喧嘩して絶交。飛鳥書房、都丸書店に大量に本売却。平凡社に『五雑俎』出版打診。 2月、大阪で大高野球部同窓会。帝塚山同窓会。 3月、日本橋公会堂で立原道造の会にて講演。吉川康子女史と知合ひ石井正吉氏とともにファンとして出入りする様になる。 3月、平凡社東洋文庫に『五雑俎』出すこと決まり執筆開始。 4月、日本近代文学館小田切進に『コギト』の再版すすめる。 4月、博士号取得の計画するも断念。 4月、教へ子の白水千鶴子自殺。 5月、鬱症状激し。戸田謙介死去。 6月、麥書房にて『神聖な約束』出版計画する。 7月、杉森久英と知合ひ彼を通じて中央公論社で「半自叙伝:老兵の記録」の出版計画起こる。 7月、小杉茂樹氏より『東京四季』に詩依頼される。 8月、木更津の愛弟子宅を訪ねて宿泊、歓待される。また仙台の三女を訪問。 8月、『成城文芸』に「清初の十王」書き始める。 8月、行きつけの喫茶店をプティ・パレからC’est beauに変更。 8月9月、躁激しく電話・訪問(辻政信宅・植村清二)繁く、創価学会や倫理研究所にも興味を示す。 10月、保田與重郎の炫火忌に出席、肥下宅に泊る。 10月、『成城文芸』に「清初の十王」掲載を断られる。 11月、『四季』復刊を志し、旧同人に連絡を開始する。出版を都丸書店の瀬見伊三郎が斡旋。 11月、中央公論社より半自叙伝の出版を断られる。保田悠紀雄や川久保悌郎に絶交申し渡す。 12月、『四季』同人固まり編集に着手、夫人は疲弊の極に陥るも年末に『四季』創刊号出来上がる。 1月 1日~11月 8日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日  12:00、108の鐘(※除夜の鐘)きき村山高氏へ50円封筒かき投函にゆく。 史宅に電話し「(※出た孫に)父母より先来よ」といひ、11:30正野(※虎雄)君来て乾杯し14:30まで笑はせ、帰りしあとすぐあと、 雅子より「15:30ゆく」と。15:10出て財布なきゆゑ警察に届けし。 3児を交番に入れ、本屋去りしあと調書かかされ、出て文章堂に3孫見にゆけば、淳一は買はず他の女児は買ふ。 われも980文章本買ひ、家へつれ帰り、史夫婦17:00来るまで3孫静かなり。 史と乾杯、管まく。ユ、美紀子より「歳暮の返し7万円。局長宅留守にて隣の実家に挨拶すませし」と。 3孫と美紀子、我と史、五色飯食ひ19:00帰りゆき19:30帰宅。と電話あり。 ユに表書かかせ賀状の返事大体すむ。22:00前入浴。日記かく(ユ、日記かきそむ)。 1月2日(日)  (※省略)礼拝にゆき、(※省略) 大来る。「お前みたいなバカない。母の通夜にゆかず。」といひて(※いへば)、本3冊もちて憤怒して帰る。 われ「絶縁。金貸さず」といひしも聞こえしや否や返答なし。 12:50ユ帰宅。弓子より「午后来る」と電話。15:00すぎ3孫来り、小遣ひ1万円やり、将棋3人とし負かす(克君、負けたといふ)。 16:00弓子夫婦来り、1万円の礼いひ、0:00より始まりし「山本五十六(televi)」見て動かず(※12時間超ワイドドラマ)。 子供は見しかど、ユ、われのteleviに遠慮して(※子供を連れて?)帰る。 かへりし直後、子供にもわかる恋愛談となり、ユに「よくぞ帰せし」とほめし電話かける。(※弓子氏宅へ?) 9:00入浴、9:30史に電話すれば「来客20人にて史ねてをり」と美紀子。(※省略) 「山本五十六」11:40すみToilet、入浴、3服のみて賀状10枚かき眠剤1服足して眠る。 1月3日 1:00眠り4:00起きて賀状のつづきかき先輩先生の賀状53枚。(※省略) 10:30馬場女史(※平凡社馬場英子)「先生宛名の誤字にてお怒りか」と。ユ「お礼受取りしか」と問へば「受取らず」と。 ユ三越dept.新宿店に電話すれば「即刻調べる」といひ11:00になるも返事なし。 11:00電話し「歳暮まだつかず。支店長あやまりによこせ」といふ。次いで瀬見氏に11:30電話かけ「すぐ来る」とのことに、まてど来ず12:05瀬見宅に電話すれば「10分前に出し」と夫人。漢詩の表装たのむ。 酒のんで酔って、堀多恵さん来るやもしれずと追返せば表装忘れて帰りゆきし。(※省略) 1月4日 9:30起き朝食11:00了る。ユをして堀夫人に電話さすれば「今週来客あり来週歯の治療、再来週来訪」と。 (※省略) 純子・阜子久しぶりに来る。阜子『李白』を3冊買ひ1冊三郎兄へ送ると。(※省略) 1月5日 3服のみ23:00就寝。(※省略) 8:00出て『和仏辞典(3,200)』買ひ、(※省略) 鶴岡君に「11:30ゆく」といふ。(※省略) 麻布領事館にtaxi(680)、女の子「池袋へゆけ」といふ。(※省略) 池袋Sun-shine-buil.5階の韓国文化会館にゆけば、(※省略) 未堂徐廷柱氏の電話番号(※省略)ソウル市冠岳区南陽1洞(※省略)と教へてくれ「この間来日、会を開きし。2-3月はSeoul」と。 1月6日 2:30尿。足立たず、下着かへて再眠。10:00さめ賀状の返事かく。(※省略) 1月7日 10:50起床。13:00家を出、山本書店に(※『蘇東坡』)150冊買ふ。寄贈者名簿送る。2.30までに仮綴とどけよ。といふ。 麥より詩集3冊来る。 1月8日 戸田(※戸田謙介)へゆき酒のみ歌うたひ14:30ユを促して帰宅。(※省略) 有金はたいて『戦争を知らぬ子らへ』、『女の歴史』、『トルコ辞典』、『日本語の世界』買ひ、 大岡信に腹立て「詩集並製No.1返せ」と書く。 1月9日(日) 22:30就寝。9:40起床。11:30瀬見に電話すれば「裏打ち承知」、「今後上官と扱はず」といふ。 1月10日 10:30起床。10:00平凡社、集英社、講談社に電話。林より電話(※省略)。飛鳥書房15:00来り、11万円本売る。22:30臥床。 1月11日 9:00起床。pão半分食ひ、馬場さん宛平凡社に1万円送る。周子4冊送り来る。『中国の自然と民俗』と『天遊の詩人 李白』送らす。 床屋へゆけば休み、都丸で9万9,700買ひ(佐伯に3,700借る)、 15:30久米氏(※久米旺生)と(※空白)氏来り、馬場夫人(※馬場英子)17:00(重俊来り、本もち署名さす)。 2人に天丼(我と(※空白)氏)、すし(久米氏と馬場夫人)、酒のみ帰りゆく。山本へ朝ゆくといふ。 1月12日  尿で起きる。(※省略)。8:50家を出て11:05山本書店着。集英社11:50、3人(氾敬、室長日置智久、佐渡拓平)来る。(※省略)。 山本は寄贈者名簿通りに送れば印税越すと。夜「送り返せ」のハガキかく。 出て『萩原朔太郎写真集』買ひ、(※省略) 山口基(※山口書店)に会ひ、くやみ云はんとすれば、ユミ子といふ娘ゐて父外出と。 近所で炒飯(480)食ひ、山口に帰れば雑本1,000足らず買ひ、残金交通費とも900残る。 正野社長に電話すれば「15日10:30来る」と。 近藤達夫より無礼なる手紙来る。「誤解経の1人」、「ひまあらば返事くれ」と。相手にせざることとす。(※省略) 1月13日 8:00さめ、7:30朝食、copyにゆき、集英社にわびの電話と各版1冊づつくれと塩沢部長にいへば「日置すでに送りし」と。 飛鳥に「早く来い」といひ午ね。(※省略) プティ・パレから飛鳥が電話、13:30来り、雑本1万円で買ふ。 ユ、丸夫人へゆく。(※省略) 丸(※三郎)の世話は長女と次女やりをり近日退院と。 16:30佐伯へゆき差引3,700の借金を17:00帰宅のユに払ひにゆかしむ。(※省略) 佐伯は装幀師病気と。実は飛鳥にたのみゐし也。吉村氏より「保田の高校時代copyとりし」と返却。 1月14日 9:00起き9:30朝食、10:30柏井歯科(※省略)。佐伯へ本売り、小包の内容が違ふので電話すれば、 中公新書『日本の詩歌』24と6とかへこ(※交換)とで、待てば若い女来り、大声で呼んだが玄関より帰り大激怒。 18:20丸に電話すれば煦美子出し故、父に重俊のこと一言も云はざりし故、絶交といふ。(※省略) 1月15日 6:00さめ7:00朝食、10:30正野社長菓子3つもち来り、4,000売る。4,000ユにやる。 残りは日曜にとりに来る。掛物はこれから交渉すると。 小高根二郎「保田ではなく亀井勝一郎かもしれぬ」と。(※不詳) 南陽生に24日の午食くはんといふ。 「中公新書『日本の詩歌』24、10冊と八木重吉と送れ」、「話のわかる男よこせ」といふ。 山本治雄には23日の会たのむといふ。(※省略) 1月16日(日) よべ眠剤のまず(※省略) 本の片づけする。(※省略) 1月17日 (※省略)8:30起床。9:00朝食、(※省略) 飛鳥書房呼び5.3万売る。昼食すませれば丸木夫人来り、 ■峻(※暉峻康隆?)の本、味噌の代りにやる。(※省略)帰宅すれば残金80円。(※省略) 木村禧一「杜甫の詩軸大切にしてゐます(※昭和52年日記参照)」 Leningrad N.Ballet団のtelevi見る。EcatherinaⅡ(※エカチェリーナ2世)の残酷性わかった。 大東幸子夫人より「22日上京会ひたし」と。その日西下といふ。 1月18日  8:30起き、業績表作り、加藤のため■の詩copy。12:10つけば一人一言と。(※省略) 原田・Xと我と3人の7回生は珍し。神原氏は来ず。帰りて野村ツーリスト支店に(※韓国旅行の)断りいふ。(※省略) 1月19日  8:00さめユ掃除、われ本運ぶ。飛鳥来り、寒山寺返却。13万6千円置き4千円は買ひにゆくこととする。 12:40午ねし、13:40堀夫人来り17:00まで加藤俊彦夫人の病気(※省略)養女高崎へ通ふと。 丁度山本書店より『中国の自然と民俗』来りし故、詩集(※差し上げ?)、色紙かかせ、「9日瀬見氏に会ひし」と。(※省略) 筑摩の中島大吉郎より『中國后妃伝』は売れしも先細りで(※再版)やめし。残部さがす」と。 多恵さんの色紙と(※小高根)太郎の色紙と入れかふ。西川より電話なし。 1月20日  9:00さめ朝食、(※省略) 実印を申請にゆき12:00すぎ帰る。(※省略) 佐伯へ本もちゆき1.3万で売り3,000借る。 麥の詩集10冊来り、25,200。堀さんにまちがへて特製本わたせしことわかりユ、あすゆくこととなる。 15:00西川より「野村ツーリスト連絡つかず」と。韓国行、寒きゆゑ止めしとユ云ふ。 末吉さんにカマボコもらひ土曜に碁将棋。平凡社の久米氏に『五雑俎』(※出版)のこと促す。(※省略) 中野清見に丸と絶交いひ、戸田謙介へゆき「陰名考」かくといひ、佐伯、ことぶきやの坊や、戸田夫婦より(※陰部の呼称)採集。川久保(※川久保悌郎)に「あすゆく」といふ。 1月21日 柏井へ歯の治療にゆく。10:30午后、千草来り、15:00川久保へゆき(※呼称)調査す。麥より詩集10冊(〒共25,200)。(※省略) 1月22日 8:00さめ金沢(※良雄)に10:30ゆき調査す。(※省略) 13:15末吉邸へ詩集もちゆく。14:20高円寺の飛鳥へゆく途、本重く大石に売る(4,000)。(※省略) 瀬見にゆき『詩篇(5,000)』買ひ成城大飯店へゆき(※省略)。 20:00筒井護郎、西村美那子大阪より電話、会ひたしと。2月22日午食に呼ぶといふ。 筒井に泊ることとなり23日山本(※治雄)に泊ることとなる。23日は村山氏の(※大高野球部の)会、夕方はclass会。 24日は帝塚山の会の午飯、そのあと広島、宮浜観光ホテルへ泊る(※実際には中止)。晩、咲耶夫婦に会ひ翌日ナゴヤ泊り。 (ほるぷ出版より「原爆」の詩掲載ゆるせと。「諾」と返事す)(※省略) 1月23日(日) (※省略) 6:00さめ6:20ユを起す。礼拝にひとりでゆく。(※省略) 1月24日 7:00起き、麥(28,200)、中公(6,584)、南陽さんあて詩集7冊中公文庫7冊送らしむ。 1月25日 夕方外出せず。入浴3回。夕方佐伯で本買ふ。中島大吉郎「copy送る」と。(※省略) 1月26日 8:30起床。風邪と称し末富さん(※囲碁将棋相手の末富栄樹)ことわり、柏井へ歯の治療受け、(※省略) 角栄裁判懲役5年罰金5億円と。 1月27日 風といひて午ねす。昌三叔父より「臥床。十合顧問として用なし」と細字。(※省略) 1月28日 8:00起床(3:00入浴)。家居。(※省略) 中曽根内閣批判の声のみ高し。日記よむ。(※省略) 1月29日 23:30就床。8:00まへさめ村山氏に電話し23日午食をといふ(ローレルクラブ都合悪し夫人に云ふ)。瀬見氏来り6万円本もちゆく。 1月30日(日) 礼拝休み14:00までにと西荻窪より歩き紅松(※一雄)家へゆく。(※省略) 1月31日 よべ3:00さめ鳥羽貞子氏より写真3日出来るとなり。石井正吉氏より「来たし」と。(※省略) 14:00瀬見氏来り、■■■関係7万円で買ひゆく。 2月1日 よべよく眠る。柏井へゆき歯一応すむ。日記よみ疲る。 2月2日 無為。下痢す。 2月3日 下痢とまる。川久保より「来たし」と。風邪いひてことわる。「金沢(良雄)入院」と。  14:00鳥羽貞子、山本みち子2女史駅にて待つと。白酒買ひて伴ひ帰る。「東京四季同人」と。「10日頃すぎても原稿よし」と。タバコと菓子賜ひ16:00写真とりて去りゆく。 2月4日 8:30さむ。(※省略) 村山高氏より「23日午食代1,000」と。 2月5日 よく眠り、(※省略)丸夫人より(※退院)全快祝来る。 2月6日(日) 7:10さむ。ユ当番として出てゆきわれ礼拝休む。無為。夜、美堂(※正義)氏より「初めて会ひしは朔太郎の会(昭和11年)」と電話あり。 2月7日 よべもよく眠る。やる気なし。徐廷柱氏より「送りし本未着」と1月27日出しの手紙来る。 2月8日 よべよく眠る。8:00起床。山本実氏より『蘇東坡』出本につき問合せ。「いらず」と答ふ。 堀多恵さんに渡せし本(※『田中克己詩集 自選自筆1932-1934』)は1万円本(※特製)かとユにとりにゆかせし由。やはり1万円本ではなかりし。 美堂正義氏の序文にて難儀す。 2月9日 鬱。下痢のかず。午后末富家へゆき碁将棋とも敗ける。鳥羽貞子氏より礼状。 2月10日 『東京四季』ならびに美堂氏へことわりの速達。(※省略) 2月11日 よべ一服足してのみ呆然としてすごす。ユ13:00すぎ出てゆき桝田紀子夫妻つれ来る。夫君能弁なり。(※省略) 滝沢修、札幌の今井恭子嬢つれ来る。(※省略) 3月26日(※省略)挙式、一席たのむと也。(※省略) 2月12日 よべも一服足す。午前中呆然(※省略) 小泉凡より「對馬にゆく」と。徐廷柱氏への12月のハガキ住所不明とて返り来る。 (鳥羽貞子氏より電話あり、体悪く『東京四季(※同人)』ことわりしといへば「お大事に」と)。 2月13日(日) よべ一服のみ足して呆然。美堂正義氏より「速達見た」と。(※省略) 奥戸武逝去、東京銀行監査役たりしと。 2月14日 よべよく眠る。いらいらしゐるところへ川久保来り令嬢(39才)の婿ほしと。(※省略)  徐廷柱氏へ手紙かけども出しにゆかず。(※省略) 金沢肺気腫。青山定雄博士逝去。あす成城Catholicで葬儀と川久保。 2月15日 よべ眠剤一服足し午前中茫然。10:30徐廷柱氏に航空便出しにゆき、銀座までゆきNew Tokyo9階につけば西川、兼清をり。(※三火会) われ訪韓止めといひ、原田の来るをまつ。経済の話わからず。(※省略) 吉本青司より小説集『虹立つ』送らる。成城より送別の会の招待状来るも心進まず。 2月16日 伊勢夫人来るとて末富邸へゆかず。16:00すぎ来り、21:20まで話しゐる。 2月17日 雪。(※省略) 平凡社と小山正孝氏より『杜甫(※『漂泊の詩人・杜甫』)』来る。訳よくできをり註は多し。 2月18日 「23日の会、大球会に合流す」と山本治雄。苑子(※船越苑子)来り、ユを木下病院につれゆく。母元気なりと。(※省略) 2月19日  寒く、家居。13:30石井正吉氏来り2冊にsignさす。詩集館たてたしと也。ユ寒き中を外出して元気。松枝茂夫氏より『笑府 下』賜はる。 2月20日(日) 礼拝われは休む。ユ元気にて17:30より戸田画伯の会へと出てゆく。(※省略) 2月21日 ユpermaにゆき10:3014:30まで帰らず午飯くへずいらいらす。大東夫人より贈物。まちがへて1万円の(※特製)本送りしらし。 2月22日 寒さややゆるむ。(※省略)  山本実氏より「(※『蘇東坡』)2冊もって来る」と。 その間、ユ大阪行8:00のひかり買ひ来る。夜ユ眩暈と。筒井より「16:00南千里駅へ来い」と。   2月23日  晴。傘もちて7:00家を出、8:00のひかり(※省略)難波まで地下鉄、 村山高氏はじめ野球部(※能勢正元・白井三郎ほか)と、山本、相野、後藤の3人にて歓迎会してもらふ(※大高同窓会)。 14:00すみ上野芝の田村邸へゆけば令息自動車にて病院へつれゆかれ春雄喜びて落涙せしと。階段まで歩きて回復しつつあるらし。 17:00天王寺。林夫人とユ、ひと電車おくれて来り、中華料理くひ1万4千円の室に泊る。林夫人、ユの肩もむ。 2月24日  9:00すぎpaoと紅茶に手11:40竹葉亭心斎橋店といふへゆく。山本実子など名わかるものわからぬものあり自己紹介す(※帝塚山同窓会)。 狐うどん特別にとりくれ、詩集にsignささる。太田夫人写真をとる。 西洞院夫人、次の本も送ると。(※省略) 16:15南千里につけば筒井まちをり。夫人ともども歓待しくる。 2月25日  9:00出て難波より近鉄にて名古屋着、地下鉄終点、歩けば依子迎ひに来る。望、泰ともにもの云はずなる。 澄20:00東京より帰り来る。よくねてtaxiにて名古屋駅。10:07に乗り帰宅。午食す。 ユ、戸田画伯(※夫人)にゆけば謙介氏、半身不随となり入院と。 2月26日 疲れて終日臥床。兼頭生より電話あり。ユ、戸田家に往来す。 2月27日(日) 終日臥床。(※省略) 2月28日 やっと筒井に礼状かく。ユ元気なり。 3月1日 雨。山本に電話すれば(※『蘇東坡』)寄贈すみしと。植村先生より病臥したまひし「本受取った」と。栃尾氏(※栃尾武)より同じく。午后末富家へ碁将棋にゆく。 松枝茂夫氏より『中国の西北角』もらひ『蘇東坡』の受取も来る。(※省略) 3月2日 終日臥床。 3月3日 山田俊雄氏より(※『蘇東坡』)「閑話休題多し」と。和田久徳氏よりも受取り。堀内達夫君15:30来り27日「立原の話せよ」と。 (※省略) 小高根太郎より「この間外遊せし」と。 3月4日 能勢正元より写真来る。午后花井タヅ子来り、姑死にてのどかとなりをり。(※省略) 3月5日 ユ、画へゆく。我、高円寺。都丸に瀬見氏をり、竹田正夫、武田昌造、新城常三、前田隆一の諸氏より受取。(※省略) 3月6日(日) 6:30さめユ、7:30出てゆく。われ眠りしか、丁度礼拝に出、竹森先生に『蘇東坡』進呈。(※省略) 21:00築島教授(※築島謙三)より「11日会ふ」と。(※成城卒業生会) 3月7日 10:30さむ。村山高、渡辺珠雄、田代耕二、能勢正元諸氏よりたより。(※省略) 「29日18:00京王プラザ43階ムーンライトで会」と通知あり。 3月8日 8:30さむ。大分元気となり礼状かく。成城大より「23日の卒業式に出るや」と。「出ず」と答ふ。(※省略) 3月9日  8:30さめ13:00出て瀬見氏に『蘇東坡』与へ、新高円寺より地下鉄、14:16山本にゆき、(※省略)敬太郎社主も出て来て漫談。 『蘇東坡』売れさうと。『コギト』写しに来し古本屋により、山口基にゆき(※細君への)悼歌2首やる。娘をり。 地下鉄にのるなどして、京王プラザの4教授送別会に出れば大藤(※時彦)氏すでにあり、高田(※瑞穂)来り、栃尾と話し、大藤の発声にて乾杯。 4教授(西山(※松之助)、■山、渡辺(※渡辺珠雄)、亀井(※亀井孝))のヨーロッパ文化の補充教授みな挨拶す。(※省略) 3月10日 雨。出て書泉にゆき雑本買ひ、佐伯へゆき売りし本買ひ戻す(3,900)。ユ、戸田夫人扶けに河北病院へゆく。(※省略) 3月11日  暖か。(※省略) 小山正孝君、高崎へ入試にて宿泊と。夫人に杜甫の訳よしとほむ。 3月12日  8:30さむ。林富士馬君に電話す。佐伯へ本もちゆき貸しとし2,600雑本買ひ、(※省略) 戸田画伯に遭ひ礼いはる。(※省略) 14:30吉越笑子来り、茶入れ菓子呉る。(※省略) 卒業まで恋愛するなとさとし、(※省略) (平凡社より『中国の名詩3(※憂愁のうた 漢~六朝 伊藤正文、一海知義訳)』来る。感心せず)。John Wayne見了る。 3月13日(日) 8:30さむ。大雨にて礼拝休む。川久保に電話して「無為」と。美紀子16:30来り18:00までをり色々のもらひものす。入学祝は本人に取りにこらせる由。 3月14日 9:30さむ。朝食し12:30出て高円寺、瀬見氏『東シナ海の道』2,300を2,000としてくれる。(※省略) 高橋重臣君Indiana大学と『芸香』来る。 平凡社久米氏に「(※『天遊の詩人 李白』)3版よせ。『五雑俎』出せ」といふ。 3月15日  8:20起され、田中久夫・羽田明2友より『蘇東坡』の良かりしとのたより見、三火会へゆき前パキスタン大使の話きく(加藤、原田、高垣の3級友あり)。 地下鉄にて高円寺下車。山川にてdouble本買ひ『ハイネ恋愛詩集(100)』に署名して瀬見氏に与へて帰宅。(※省略) 佐伯に『蘇東坡』買はして署名し(1,000×2!)、川久保にゆき(※中国)東北史万歳の乾杯し、書原にて『随園食単(文庫本360)』その他買って帰宅。 3月16日 よべ眠りがたく9:00さめ『蘇東坡』もち、安藤学長にと1冊総務部長に托し、法学部長らに13冊、大槻(森)夫人にはめこまし、午食おごり民研へゆく。(※省略) 3月17日  よべ22:00眠り9:00起床。山住dr.に躁いひにゆき「帰れソレントへ」の1節歌ひ、(※省略) 佐伯休み、北口の古本屋にゆき売買し新本屋で雑本。瀬見氏に電話し「本買ひに来よ」といひて午食後来りしに2、3万売り『高群逸枝全集』と交換す。 夕食前、笑子の母来り、(※省略) 本棚の空き一つ出来しも書庫ほぼ満つ。 夜、浜野治に「野球部旗を三火会にもちゆき正野君に托せし。次期大球会長はきみがやれ」といふ。 羽田に電話すれば「謝恩会にゆきし。元気」と也。(※省略) 3月18日 6:00起床。(※省略) 書原に寄る。佐伯けふも休みをり。午后また出て築島博士に送本。文庫1冊買ひdouble。白井三郎より先月23日の写真。(※省略) 3月19日 8:00さめ朝食し、9:30ユ、同窓会にと千葉へゆく。われプティ・パレで朝食。福地夫人をり。昼食810。高円寺へゆく。(※省略) 20:30瀬見氏来りしに2.5万売り5千円貸す(あす靖国神社参拝と)。加福竜郎氏より遺稿集(※『読史余話』)来る。戸田みつき氏に色々忠告し前田病院入院をすすむ。 3月20日(日) 6:00さむ。ユ礼拝にゆく。我佐伯にこの間二重払ひせしをいへばカカア貸しなりしと。加福氏の本の礼状、発行所にかく。八木憲爾と同じbuil.の汽船会社なり。 (※省略) 新本屋にて色々買ひ『杜甫』(※小山正孝『漂泊の詩人・杜甫』)の出てゐざるを見る。 川久保より「15:00来る」との電話きき午寝し、川久保に共著ならマンジュ学やるといふ。(※省略) 3月21日 8:30起き、佐伯休みをり書原にゆき『倭人伝を読む(830)』買ふ。昼食前高円寺へゆき(※省略)、 大石にて『聖書民俗考』、『中国美術の旅』、『天界と地獄』買ひ、帰宅前プティ・パレにて茶のみ昼食。 13:30末富氏にゆき碁将棋、『荷風と風葉(※四畳半襖の下張?)』と貸す。鳥海香代子に「来い」といひ、 高田、松本善海未亡人、紅松、小山(※小山正孝)に電話。能勢正元より「愉快なりし」と。 3月22日 3:00まで眠れず。6:00さむ。8:00出て書原にゆき『蘇東坡』注文せよと、(※省略) 9:30高円寺へゆき瀬見伊三郎君に電話し、来るを待てば2.5万円と。地下鉄に出、神保町にゆき山本主人に本みせれば2.3万と『今古奇観』を2.5万といふに負けさし2冊『蘇東坡』もち文学本の多きへゆき2冊(1,000×2)売り近くで『満洲娘娘考』買ひ、山口へゆき誘へば飯くふと、定食満員の中で食ひ、別れて、 (宇佐美斉『立原道造』、『立原道造の自然』をも文学本屋で買ひしもダメ。) 新装成りし集英社にゆけば日置さんといふがをり『白楽天』の7版承知、「中国のことは我を顧問にせよ」といへば承知。茶おごり呉れtaxiで新宿まで送り呉る。 石井正吉氏より「蘇東坡受取った。近々来る」と。『万葉花譜』高円寺で買ふ。瀬見氏、茶おごりくれ軍歌合唱す。 留守に正野氏より電話ありしといふに20:00かければ「5月に三火会で話せよとの予定」と。20:30河野生「4人にて25日午後来る。 signしてくれ」と也し。 3月23日  8:00さめ昨日の睡眠不足とりかへす。簡木桂君に電話し9:30ゆくといひ、着けば先客あり灸の本多く買ひゆく。 われ8,000余買ひ、南新宿より成城大学にゆけば卒業式と。(※省略) 西山松之助教授に退任めでたしといふ。小泉凡と森田晃一とに挨拶受け、高田瑞穂に「本返せ」といひて帰宅。(※省略) 3月24日 6:00さむ。9:00出て佐伯にゆき売りし本とりもどし、北口にて『栄花物語』、『古書街を歩く』、佐伯にて『西域列伝』、『天山の雪』、『秘本を求めて』など買ひ、佐伯に来てくれといへばすぐ来る。 雑本売り「末富氏へゆく」と電話し13:30ゆき碁将棋一盤づつやりて帰宅。15:00まへ瀬見氏「ゆきてよしや」と、「よし」といひ、 丹波鴻一郎に「近々会ふ」といふ。瀬見氏酒飲みて17:00 3,000おきゆく。(※省略) 藤沢桓夫氏より礼状来りうれし。(※省略) 3月25日 8:00さむ。8:30出て佐伯へゆき「本とりに来てくれ」といへばすぐ来て3,000!神田信夫君より「文学部長となり読み了らず」とわび状!(※省略) 午后川久保より電話「窪徳忠より池内先生奥様なくなられ千駄木町団子坂全生庵にて今夜7時より通夜あす葬儀」と。「われゆく。君お葬式に出よ」といひ、 (9:00雅子入学祝とりに来り、礼いはず帰りゆく) 書房にゆきなどして落ちつかず。河野、長友、[脇]本3夫人来りしに猥本1冊づつやり『李白』にsignし、河野に「『蘇東坡』も買へ」といふ。 16:00ともに出て(旧姓山野井)菱川秀子にゆけば待ちをり。(根津下車。山野井先生旧宅と老婆に聞き電話して迎へに来さす)。(※省略) 19:00全生庵への近道教はり礼いひて別れ、(※省略) 焼香し、夜食とて羽田の隣に坐る。喪主は宏先生の孫、一君の子、博と。 (※省略) 躁とてこわいものなし。一番に座を立ち池内夫人に千駄木駅まで送られ恐縮。(※省略) 書原あきをり『聖地の花(1980)』買ふ。帰りて粥食ひて23:00就寝。 3月26日  6:00さむ。川久保に電話し「あす羽田と話せ」といひ、書原にゆき、『立原道造集』double買ひし、『続日本笑話集』正註文し、 『ペスト大流行』、『漢語の知識』、『Dietrich』、『A.Hepburn』と雑本1冊買ひて目黒駅より都ホテル東京へゆき、(※教へ子披露宴。) (※省略) 3月27日(日) 4:30さむ。10:00佐伯に本もちゆけば300!『スペイン語入門(英語)100』買ひ書楽にて雑本3冊買ひ、(※省略) 麥書房12:10来しと国鉄にて新宿、taxi拾ひて日本橋公会堂につけば室生朝子をり、ゐばりゐる。 山田某君(※山田俊幸)司会にて(※立原道造の会)はじまり、朝子30分にて了り、われ1時間しゃべり、2次会お好み焼き川まんまで案内さる。名刺きれ2女性に「来よ」といひ、我またTorna a Surrientoうたふ。鈴木亨君の半年ゐし吉林大学は長春にあり旧の建国大学を使ふと也。 3月28日 8:00さむ。高円寺〒へ後藤宛の手紙出し、(※省略)川久保にゆけば羽田と殆ど話せず榎、山本達郎らみな来しと。窪ちゃんとききゐしと。 15:00堀内、本返却に来り、(※省略) 高円寺に出て瀬見君に来よといへば「14:00来る」と。(※省略) 16:10来り、3,000返し、わがやりし猥本の文化史改本との表題に抗議せよとすすむ。(※省略) 平凡社に電話すれば久米・馬場不在。(※省略) 小泉凡より電話「4.1夕飯くひに来る」と。 3月29日 7:30覚む。9:00佐伯へ本売りにゆき(800)、(※省略) 10:00出て11:00まで山本にをり『今古奇観』返却、 『鷗北詩話(5,000)』のほか『東京夢華録訳(5,200)』、『簷曝雑記 竹葉亭雑記』、『児女英雄伝』2冊、『高適詩集編年箋註』にてつりもらひ、 地下鉄にて新宿三丁目下車。(※省略) 12:30小田急dept.14階につけば築島博士すでにをり15分待ちしと。 lunchをワリ勘にてとり、われ食はず話し結局1,500払ひ、またと別れ帰宅。(※省略)高円寺へゆき『日々の読書』、『大谷光瑞 上下』、『折たく柴の記』買ひ、(※省略) 相野忠雄より「愉快なりし」と。角川より『竹中郁詩集』贈呈と見る。 夕食後、久米・馬場2氏来り、平凡社東洋文庫に『五雑俎』出す。1冊分は600枚(400字詰)と。喜びて乾杯。 帰りゆきしあとtelevi見て眠り11:20覚む。 3月30日 6:00さめ8:30朝食。(よべ『東方学』に「ヌルハチの十王」かくこととす)。9:40築島博士に「詩集送る」と電話す。佐伯に本売れば200。(※省略) 山本実に電話すれば「和田氏来り(※『蘇東坡』)2冊買ひし。400は売れし」と実情いふ。14:00弓子母子来るとのことに早飯。(※省略) 高円寺へゆき朔太郎売れば1.5万。本少し買ひ大石にて茶のませし老嫗明治45年生と。ユに『美人の画き方(1,000)』買ひて帰宅。 宏一郎・克次朗に将棋たやすく負く。神田信夫氏より電話「喜一郎先生全集編集に専念」と。(※省略) 和田収一君より電話「山本敬太郎に感心せし」と。(※省略) 3月31日 4:30さめ東豊、和田久徳、荒木利夫に電話すれば「結核にて入院せしも療養中」と。天野忠、依田義賢の無礼を咎む。 筒井に電話し「上京せぬか」といへば「せず」と。和田収一君に電話すれば「よみかけてをり山本書店主に感心せし」と。 (※神田神保町へゆき)少し本買ひ『シロコゴロフ』で金少なくなり、あと印税でと。親子ともに不在なりし。 市ヶ谷で地下鉄、のりすごして国鉄代々木へゆき(※東豊書店)、7万円余の借金しjuiceおごらる。重ければ一部を残して帰宅ときむ。 プティ・パレにて茶のみ『真珠』とて武田豊派の詩誌2冊来るに「下手」とかく。(※省略) 山本書店より読書感送らる。 高円寺にて瀬見に1.3万円の『満洲実録』の借金かき、(※省略) 「多爾袞(※ドルゴン)考」書き改められさうなり。(※省略) 4月1日  0:10入浴、7:30起床。8:30雨中佐伯へゆけばしめをり書楽にゆき『古代史私注』、『弥縫録』買ひ、地下街の書店にて文庫3冊買ひ、金なくなる。 昼食後、待ちて末富氏と碁将棋、(※省略) 『五雑俎』の序かき了へ本文にかからんとすれば17:00。大雨とてか小泉凡10分遅れて来る。鎌田semiとのことにわれを本semiにせよといひ、夕食くはせ出雲因幡の境土神に十三峠の佛もありと教ふ。(※省略) (川久保に「金沢Singaporeにゆきし」といへば気を悪くす)。ユ「築島博士やきもちやきし」といふ。22:00就寝。 4月2日  快晴、暖かし。8:30起床。佐伯に電話し「10:00前に来てくれ」といふ。10:20来り3,000にて買ひゆく。午睡せず、 瀬見に度々電話し、(※省略)来りしにBaedeker(※旅行案内書)2,000売り、商人なるに感心す。プティ・パレのぞけば「福地夫人やめし」と。 (※省略) 夕方、便利屋、東豊書店の本もち来り、(※省略) 復活祭献金をし、(※省略) 5月の三火会のわが話に諸先輩の来るを電話し、(※省略) 井上靖氏に電話すれば「申込み多く中々に困難なれど詩集拝見す」と。小田切進氏に『コギト』の再版すすめ、わが無欲をいひ『辻馬車』『日本浪曼派』くれといふ。「考慮せん」と也。 4月3日(日)  3:30小水にてさめ、(※省略) 羽田へ京大中国文学にて『杜甫伝』、『蘇東坡』にてはいかがにやと依頼状かく。「清初十王考」かくつもりなり。 (※省略) われ9:05まで五雑俎やりあはてて着換へ外套着て教会へゆく。(※省略)  先生に詩集の題見せれば「神聖な約束が宜し、序文かく、幾枚がよきか」と。400字2枚と申上げ快諾さる。(※省略) 古本屋にて7冊買ひ、丸井へゆけばbenchなし。やっと見付けて坐りをり。14:09調布行のbus、16:03京王八王子発のbusにて上川霊園(※墓参)。 4月4日 8:00さむ。(※省略) 佐伯・書房にゆきてのち(8万円もらふ)帰宅し10:00出て、(※省略) 東豊に払ひすまし、また3万円近く借金し、帰ればユ不在。 プティ・パレにて午食し、(※省略) 川久保に電話すれば(※省略)、川久保を訪ね、「満洲旅行の手続」をきけば書類貸し呉る。 すぐ出てcopyし、衛藤長老にたのめばよきことわかる。(※省略) 4月5日  (※省略)6:30覚む。堀多恵、瀬見伊三郎、船越宛に電話す「(※船越章より)のど自慢に申込め」と也。 小山正孝君に電話すれば出張中、2:00までに帰れば電話すると。大岡信に電話すれば徹夜にて眠りをりと。(※省略) 10:30瀬見氏来り、『Poet’s School 1-36』6,000とし、もち来し(※請求)本代3,000引き3,000呉る。(※省略) 13:09のbusにのり13:50桜丘駅につき、『世界名歌集(600)』見つけて松本邸。夫人迎へられ、令嬢も顔見せられ、(※省略) やがてわれ、のど自慢の予習としてOrganにあはせ2~3曲うたひ注意受け、一休みに紅茶賜はり、 「Solveig(※グリーグ)」うたひ「春」と「荒城の月」うたひ、出来をきけば「サアネ」と。わが耳と声とちがふことわかりしあと暇告げれば駅まで夫人送らる。 途中の古本屋でまた本買ひ阿佐谷着。婦人しか買はぬ本屋にて『路傍の石(150)』!買ひ、(※省略)帰宅。 山本より『五雑俎』と築島博士より重複と『蘇東坡』返却と〒函にあり。18:00山住dr.に血圧測ってもらへば126と。最高にて先生「宜し」と也。 (※省略) イナダケンタロウより「おじいちゃん、おばあちゃん、おげんきですか。よしこちゃんもぼくもげんきです。おかねをほんとちょきんとつかいました。いつかえをまたおくりたいとおもいます。そのえはきにとりがとまっているえにかきたいとおもいます。おばあちゃんおじいちゃん、さようなら」。 4月6日 6:00さめ(※省略)、佐伯へ本売りにゆき(2,000)、昼食、瀬見氏に本売り高円寺・市ヶ谷・神保町のルートとり山本書店へゆけば父子そろひ、『塵餘(1.5万)』その他、(※『蘇東坡』の)印税として買ふ。ゆっくり売りて再版待つとなり。帰途途中本買ひ、花買ひ、野菜買ひ、(※省略)、帰る。 禎子より電話あり幼稚園へゆくと也。保田悠紀雄(※保田與重郎次男)、坪井明に『コギト』復刻のこと了解したとなる。 4月7日 (※★省略) 6:00さむ。山本書店にハガキ出しにゆき、高田瑞穂に電話すれば「あす来る」と。 (※省略) 「清初十王考」かきをれば10分早く和田、桝田夫人来り、われ非礼を怒り、仕事つづけ、買ひしとの『蘇東坡』にsignす。 ユこれと話すうち14:10となり、末富家へ碁一番、将棋も負く。帰れば2夫人まだをり16:00出てゆく。 われ後追いて高円寺、(※省略) も一度瀬見氏確かめて帰宅。19:00山本より5.7万円余の本来る。(※省略) 瀬見氏より電話「4,000で買ふ。製本引受けた」。(※省略) 4月8日 8:30さめ(※省略)、高田10:00来り、午食にとりしすし1ケ半平らげ『大正文学の個性』呉れて早々去らんとするに、南阿佐谷へ案内せしに阿佐谷駅へと去る。 (※省略)都丸書店にゆき瀬見に会へば6,000呉る(紀州方言2冊借る)。茶のみに誘ひ軍歌うたふ。まっすぐ帰り、(※省略)  (山本実に一度来させよと敬太郎氏にいふ)。川久保に電話すればいやいや「あす午前中来る」と也。 4月9日  よべ検せしに父の亡くなる年の日記(※昭和36年7月26日-9月27日 「東京日記11」)なくユ、我焼きしと也。(※省略) 川久保に電話すれば「11:00来る」と(※省略) 川久保11:00来り激論「一期一会」と仏語つかひ、無信仰・鈴木都政にも批判なく呆れ、われより折れて12:00帰りゆく。 道造の会にて会ひし女人13:30来ると。(※省略) 午后吉川女史来る。 4月10日(日) ユ展覧会とて我のみ礼拝にゆき、竹森先生に序文のこといへば「書きあり。直して送る」と。長島長老に茶おごられ、busにて下連雀に下車。 すしやに入れば(※少ししか食べず)630なりしも、にぎり手不満らしく包丁もておどかすに「110番す」といへば内儀あやまる。 訊ねたずねして弓子にゆけば焼きそばしをり。3孫と食ひ了りしあと将棋を宏一郎とさして勝ち、(※省略)帰宅して16:30ユと殆ど同時なり。 4月11日  6:00さめ9:00山住dr.にゆけば血圧98と。高円寺まで歩き、(※省略 都丸にて)『Leonardo da Vinci(1.3万)』借りて帰宅。(※省略) 近代文学館へ\20,900『辻馬車』代として送金す。吉本青司氏に『悲歌』のcopy送り、(※省略) 丸木夫人に本(※『蘇東坡』)買へといひ白水※に「佐伯にて買へ)といひてすむ。」 ※白水千鶴子(※しらうず、旧姓坂根、青年座) 西山松之助博士退任の挨拶に電話してすむ。大人なり。(※省略) 4月12日 よべ23:00ねて6:00さむ。松本規矩子夫人に出し「Loreleiでのど自慢に出る」といへば「よからん」と。 9:30出て瀬見氏に1.3万わたし、また『岩波西洋人名辞典(1.3万)』借りて帰宅。(※省略) 近代文学館より『辻馬車(※復刻)』来り、村山氏「病気にて夏まで上京せず」と。 4月13日  よべ2:00さめ(※省略) 10:30瀬見氏に1.3万わたし300円借りて帰宅。眠れず。桜桃忌の主宰者に連絡とれる。太宰をめぐる人々のこといはんと思ふ。 (※省略) 眠らんとすれば瀬見氏来り、あげて夕方まで話す。山本実氏より電話、ヨミウリの(※『蘇東坡』短評)切抜送り呉る。 (※省略) 竹森先生より「まえがき」来り、電話にて礼いふ。(※省略)  村山氏に見舞のハガキ。(※省略) 4月14日 2:00さめ「五雑俎」にかかる(詩は今週中にすむと自信あり)。5:00眠り8:00さむ。 11:00白水※、丸木、押上、豊島、4夫人来り、昼食する内、宇井(井上)睦子夫人来る。歌うたひしも豊島夫人音痴とて同感せず。(※省略) われ書房へゆき、帰りて末富家にて碁5目にてはむり、将棋、2番惜敗す。 4月15日 2:00さめ詩集にかかる。8:30起床。朝食後出て成城大学。Skey女史に会ひ、(※省略) 高田瑞穂に会ひ一杯水うすめてwineのみ、共に出て14:00小田原駅にゆけばSkey女史すでにあり。(※省略)  小田原より新幹線に乗り換へて静岡着。 古本屋への出口おそはり、まけて貰へば店しめる。小田原にてわさび漬買ひ、ゆきがけに買ひしシューマイ食ひ、茶買ひて食ひつつ新宿へ20:00つき帰宅。 22:40丹波に電話し「退職祝せよ」といへば「古稀の祝せし」と。八木君に受取かかぬは失礼と咎めし。 4月16日  8:00さめ爽快。雨、山住dr.へゆけば血圧106.(※省略) 高田に失礼いひSkey女史に礼状かく。(※省略) 近藤達夫より千葉に転居と印刷のみ来りしを無礼咎む。西洞院文昭に無礼咎む。馬場英子夫人に「一度来よ」とハガキかく。 4月17日(日) 6:00さめ9:00礼拝に出んとせし。恰も丸木夫人より電話、ユきけば「白水のひとり息子自殺」と。、礼拝にゆき歌つくり、竹森先生にまえがきのお礼申上げ、(※省略) 一旦帰宅。 13:00出て、(※省略) 14:00Manshon Hatagaya3階の白水家へつけば納棺しあり。白水千鶴子泣くのみ。朝起きれば電燈よりぶら下りゐし、あす10時起せの遺書ありしと。狂気の沙汰なり。大の友なる白水(※胖)氏と話し、大と絶交の話し、火曜の葬儀に来られずといひ16:30丸木夫人に送られ駅へゆく、(※省略) 帰宅。藷、葛餅食ってねてしまふ。 4月18日 2:00さめれば雨止みをり。(※省略) 8:30本多さん来り、庭の松をはじめ多く切る。われ相手す。午まへ出て散髪(1,050)、都丸本店支店で本買ひ帰宅。(※省略) 4月19日 曇。8:00さめ本多さん既に来をり、9:00出て(※省略)、東西線にて12:20ビヤホールに着けば浜野、吉岡2君既に来をり(※三火会)。 遺伝子の話、鼠の実験までと(※同姓同名の)故田中克己博士のこといへば返答曖昧なりし。次は「大高の文学」を我すと。聴衆最も少なかりし。 地下の喫茶店で吉岡浜野2君と会し、大球会東京支部会を開くこと定め、(※省略) 神保町に出て山本実君に会へば-7万円余と。「本売る。来れ」といふ。 明大大学院にゆき島田博士(※島田正郎・明治大学総長)に(※省略)15:00ゆけば在室、研究室につれゆかれ、 「中国の元以後の女性に関する法」につき書き、神田君とが(※博士号の)主銓考委員と。今年中に呈出といひ、地下鉄にて帰宅。(『清朝蒙古例の研究』もらふ)。 夜、神田君に(※博士論文提出につき)大略電話、宜しくとたのむ。 4月20日 咲耶より電話。(※省略) 10:00copy(清朝世系)にゆけば長島夫人ら来り、岩波新書『日清戦争』序文よませ隔週とす。 中西博士より『柿本人麻呂』来る。昼食後、成城大学へ紀要もらひにゆく。(※省略)石川、尾形2教授と話し高田つかまらず「桜子」にて餡蜜(420)食ひ、東豊へよれば4月4日の分と併せ併,759の借金となる。 (※省略) よろしくと島田正郎博士へ紀要とハガキにてたのみ状かく。 (※省略) 4月21日 6:00起床。(※省略) 菱川夫妻来り、夫醜く、わが本革本見せ、漢名字典出せといひしも無力ならん。よき返事せず。(※省略)12:30帰りゆく。 (※省略) 4月22日 3:00さめて眠り、8:00さめ(※省略) 10:00すぎ中公事業出版社来り、麥の仮製本(※出版計画中の『神聖な約束』)につき、見積り100万円(100部)と。50万円でのページ計算せよといへば浮かぬ顔して帰りゆく。 保田悠紀雄夫人に電話すれば「今年3回忌には呼ぶ」由。 集英社日置氏14:00来ると。(※省略) 14:00集英社来り、学術書をといふ故、色々中国関係話せど無駄にて『白楽天』の7版のこといひて逃げ去る。 14:10集英社来り、学術書をといふ故、色々中国関係話せど無駄にて『白楽天』の7版のこといひて逃げ去る。(※省略) 村山高氏へ「東京支部長を浜野治にゆづりし」旨ハガキかく。 4月23日 4:00さめる。(※省略) 出て高円寺へ重き荷もち(立原関係)売れば1万2千。藤田徳太郎『声曲類纂』を2千円で売り付けられ喫茶(600)おごる。15:30帰宅。 ユの帰るころ川久保来り、わが信仰に反対しshamanismなりと。この2日間ほどの変なのはいかなることならん。わが「退職祝早くせよ」といひて帰す。(※省略) 丸木夫人より白水千鶴子離婚との電話ありし。 4月24日(日) 礼拝夫婦ともに休み、雨とて外出せず。『五雑俎考』よみ直し「五雑俎」に解説として入れんと思ふ(馬場夫人に相談せん)。 丹波に電話すれば11:30阿佐谷に来り、電子の研究しをりと。中国料理店に案内しbeerのませ、 彼はギョーザと八宝麺食ひわれはギョーザのみ。近々また会はんといふ。学習院の同窓13人と会すと也。 4月25日 快晴。(※省略) 川久保、山本実氏より朝日新聞に書評※のりしときく。 ※『蘇東坡』短評(朝日新聞・無記名子) 筆禍による死刑宣告釈放前後の詩がないのが物足りないとし「詩人としての思い入れが随所に見え、それがこの伝記の個性ともなっている。」 ※『蘇東坡』書評(図書新聞・入谷仙介)「訓読のない現代語訳を名人芸と持ち上げた後「東坡伝としては無用のおしゃべりに似るが、著者の東坡に寄せる思いがひしひしと伝わる」 (※省略) 島田正郎氏より博士論文の詮考むつかしく主査たり得ず、通過困難ならんと書簡封筒来り、腹たちしも、実力養成し「元典章」をよむこととす。 18:00吉川康子嬢(※立原の会にて面識)来り、飯出すとてユ用意に出てゆく。 学界のむつかしきを知るも仕方なし。22:00吉川嬢「原文入りの唱歌集」借りて再来を約し去る。ユ駅まで送る。 4月26日  神田信夫氏に博士論文辞退のハガキかく。滝川博士にも同。島田博士には縁なかりし旨手紙かき投函す。 4月27日  風邪気味にて微熱あり。一日臥床。渡辺珠雄氏よりnanai語のSyntax贈られる。 道造の会の時世話してくれし秋山千代子氏より写真贈らる。 中公事業出版社より詩集とりやめとて書類返しに人来り、ねまきにて受取る。鬱にて材料そろふ。 4月28日 昨日とまづ晴にて暖し。渡辺氏に礼としてシロコゴロフ(山本書店にて買ひし)送る。秋山氏に礼状かく。 televi2度白水千鶴子の自殺を告ぐ。(ユ、丸木夫人に電話すれば「昨日も見舞ひしに」とのことなりし。血統+境遇にて夫の不信を怒る資格なきを反省す)。(※省略) 久米・馬場2氏来り『五雑俎』抄とすべく400×1,500枚(2冊分)といひ、その内馬場氏に100枚位かけしところ見てもらふこととなる。 ユ不逞にて瀬見氏の面前にて叱責し、太宰忌に吉川氏と同道とりやめときむ。(「十王考」『東方学』に書くこととす)。 4月29日 (天皇誕生日) 何もせずにゐるところ「午后来る」と美紀子より電話あり。 史、風邪ひきゐる暁子とともに現はれ、物云はず「帰ろう帰ろう」に腹立て「厄介にならぬ」と絶交申し渡す。 4月30日  臥床2:00さめ、ユの枕許にゆき懇々と史の頼りにならぬことをいふ。 8:00起床。吉川康子氏に「桜桃忌欠席、そのうち来よ」、江頭彦造氏に「天野忠の詩掲載は不合理」とかく。ロシア語辞典失ひツングース語しばらく休まん。(※省略) 夕方、考へ変り『ロシア語辞典(1,600)』佐伯にて買ひ、余生を悠々と送らんと思ふ。 5月1日(日) 4:00さめ夫婦にて礼拝にゆく。白水胖に対する憎しみたへず、ゆるさじと決すれど仕方なし。※両親の離婚予定を知った息子が自殺し、ショックで妻も自殺したこと。 12:00帰宅。午食し無為にて22:00床につく。 5月2日  6:00さめ朝食後。9:00小泉外科にゆけば直腸に切れ痔ありと。(※省略) 津村昌子氏より鎌倉にをり「信夫文集」にわが文のせるがよきやと。(※省略) 島田正郎博士に本代1.2万送る。これにて絶交と定む。 (※省略) 5月2日 憲法発布の日と。6:00さめ終日家居。午寝す。 小野勝年博士より喜寿記念として発行の『雪村友梅と画僧愚中』ならびに『東大寺献物帳考証序説』贈らる。 『辻馬車』とばしよみ『神崎清の追憶』よみ了る。 5月4日  晴。6:00まへさめ、(※省略) 都丸書店にゆけば瀬見氏より「少しまて製本出来をり」と。(※省略) 渡され礼とらず。(※省略) 白水千鶴子の自殺を許さず。太宰治の桜桃忌にも出ず。9日の文芸学部の会欠席と決心す。 5月4日 晴。子供の日なり。鬱々として読書す。夜、健太郎より「仙台へいつ来るや」と。ユ「6月」と答ふ。(※省略) 5月6日  よべ不眠。不安なれど仕方なし。肥下夫人より『コギト』につき心配ありがたし、来訪の時は電話せよと。村山氏より1カ月入院と。(※省略) 5月7日  よべ眠り9:00さむ。日中無為。花井タヅ子より様子問ひ来り、白水夫人の死のことにて答ふ。 5月8日(日) よべ眠り22:00すぎ1服足してのみ7:00さむ。礼拝休むこととす。(※省略) 無為。 5月9日  鬱はげしく無為。(※省略) 夜、川久保より「会す」と。鬱いひて断はる。 5月10日  無為。左川ちか氏につき問合せ来る。関係なきなり。瀬見氏に礼いかんとして果さず。 5月11日 長島夫人10:30、2児つれて来り「日清戦争」の開戦よりよむこととす。鬱とれず弱る。 5月12日 鬱の薬のめどきかず無為。 5月13日 鬱のかず無為。 5月14日 依子より「来るか」と電話、「ユゆけず」と答ふ。 5月15日(日) 礼拝休む。無為。 5月16日(※ママ) 三火会の講演失敗、補正の話あり。(※省略) 『楚辞』来る。 5月17日  瀬見氏に14:00製本の礼として清酒一升もちゆく。そっけなく不快なり。山本実氏に「精算書送れ」と電話す。 5月18日  研文出版より79,030の請求書。野田又夫氏より云々。午后三郎兄来り、楽観的なり(67才と) 5月19日  ユ研文出版へ郵送。柏井墓地へ三郎家入るため相談にゆく(染井墓地の井上河内守(※祖先)の墳荒れをり)。 (※省略) 大谷従二氏より「コギトにのせし詩」を含む『朽ちゆく花々』送らる。われのせしと也。 5月20日 ※記述なし。 5月21日 ※記述なし。 5月22日(日) 6:00さめ夫婦にて聖霊降臨祭にとゆく。(※省略) 5月23日 (※省略) 保田の文のせし雑誌来る。 5月24日 午后意外にも重久武志ものもちて来り色々の苦労話す。(※省略) 5月25日 (※省略)千草来り、大分おとなしくなりをり。 5月26日 無為。ユ柏井歯科へゆく。戸田謙介氏危篤と也。(※省略) 5月28日  戸田翁8:20死去と。金沢に祝送らずと兼清のハガキかく。『辻馬車』瀬見氏1.5万で買ひくれしゆゑ茶おごる。 5月29日(日)  9:00さめ礼拝にゆかず。ユ、戸田謙介翁の為右往左往す。今夜18:00よりお通夜とて満員。(※省略) 5月30日 よべ睡眠感なし。(※省略) 12:00ユ、戸田家へお花料1万円もちゆく。北海道の養子女帰り来り、末弟挨拶せしと(浅野晃らしきが焼場へゆきしと)。(※省略) 5月31日  晴。暑し。佐伯にゆきしも本来ず。 あすよりは仕事をせんと思ひつつ半月すぎぬ人もすぎゆき。 6月1日 無為。 6月2日 同。 6月3日 夜、ユと戸田家へゆき霊前に礼し、夫人、養女と話して帰宅。 6月4日 この間よりの返信みなすむ。(※省略) 荻窪へ地下鉄にて往復。(※省略) (※★省略) 6月5日(日) (※★省略) 9:30起床。ユのみ礼拝にゆく。(※省略) 中山正子土産もちて来り、(※省略) 雑本悦びもち帰る。 6月6日 9:00起床。無為。(※省略) 高円寺へゆき『中国古代書籍史(1,800)』大石で買ひ瀬見氏さそひて茶のみ帰り夕立に会ふ。 6月7日 大石書店休む。瀬見君も来ず『昭和年表1979(300)』買ひ、(※省略) 6月8日 9:30電話あり10:00、3女史来り、日清開戦までゆく。長島夫人最も良く出来る。午后高円寺へゆき『理科年表』買ひ(※省略) 6月9日 9:30さむ。(※省略) 中山正子夫人より「本、汽車中でよみ残念」と。 6月10日 8:30さむ。白水胖より香典返し来る。佐伯にて『東北(150)』(※省略) 八木敏雄君より『アメリカの文学』もらひ礼かく。 6月11日 八木君へ投函。(※省略) 午后高円寺『1941年12月8日(200)』買ひ、(※省略) けふより「中国小説語彙」また始む。 6月12日(日) 8:00さめ鬚そりユと教会にゆく。竹森先生に(※詩集)8月末出来といひ、(※省略) 自民党勝ち徴兵制とならん。(※省略) 「7月ゆかん」と京に電話す。 6月13日 入梅。無為。外出せず。 6月14日 ユ区民税納む。豊島夫人に白水千鶴子のこといへば知りをり。(※省略) 6月15日 水道のなほしをユ、佐伯にたのむ。われ10:00瀬見氏に2,000の本売り、(※省略) 近代文学館より「『コギト』のreprint不能」と。 6月16日 梅雨入り。(※省略) 『鴎外屈辱の死(1,400)』買ふ。東洋大学の三浦佐久子女史より小説もらふ。 肥下光子夫人に保田の一周忌にゆくとハガキ投函。 6月17日 9:30起床。ユ、柏井・山住両医院へ出てゆく。(※省略) 6月18日 6:30さむ。(※省略) 15:30下水道屋来る。 6月19日(日) ユ礼拝にゆく。(※省略) 午后父の日とて小林宏一郎・孝行の2孫菓子もち来る。桜桃忌の由。 6月20日 6:30さむ。(※省略) われ『中国小説戯曲詞彙研究辞典』のcardかく。 6月21日  三火会にゆき福永英二の話きく。サイゴンの礼いふ。 平凡社へ電話し金曜来たまへといふ。津村家よりわが文、うたのりし『頬笑みよ返れ』2冊賜ふ。 麥書房に本出したし、津村の会にといへば「近々夕食後来る」と也。西山氏の最終講義のりし『民俗学論集』来る。敵もさるもの也。(※省略) 6月22日 夜、吉川女史来り、色気なきに感心す。わが詩よみ飯くひ「埴生の宿」うたひて去る。 6月23日  よべ眠りがたく9:00起き、石川君(※石川弘義)より『女のボディランゲージ』もらひてよみ、 16:00すぎ出て石原恭著『ことわざ 上(800)』買ひ、京王プラザの成城大学文芸学部の会にゆき、 栗山、高田、堀川3名誉教授にあひ、事務局長に大藤はじめ早く勲章請求しろといひ、 小杉茂樹君より『東京四季』に詩1篇9月10日ごろまでにと。(※省略) 6月24日 曇時々晴。よべ2:00までねられず。(※省略) 6月25日 9:00起床。10:00瀬見君へゆくまでに『背常者の系譜』、『アッチラとフン族』買ひ、(※省略)仕方なく『森鴎外 その若き時代』買ふ。けふ津村忌かとまちがへし。 6月26日(日)  (※省略) 津村信夫の会に出る。鈴木亨君司会、秀夫氏(耳きこえずなりし)の挨拶のあと、われ乾盃を指名さる。 3分間づつ話し、われアジソン氏病の死に先立つ次男の死にて悲しかりしといひ、津村君の皆に愛されしをいふ。 婿は早大出と。 2次会に出ず追分まで帰る。堀多恵夫人と同席。(※省略) われは18:40帰宅。ユ19:00帰宅。 6月27日  寒し。麥書房来り、30万円にて(※『神聖な約束』)やってみると。(※省略) 6月28日 8:00さめ辞引つくる。(※省略) 6月29日 午后晴る。昼食後、佐伯にゆき『李白』等1,300で買ひ「書房」でも買ひ階上で喫茶(300)。 6月30日 (※省略) 我14:00までプティ・パレにゆき昼食。(※省略)  「書原」にゆき雑本買ふ。 7月1日  ユ中元にと出てゆく。(※省略) 「書楽」にゆき忙てて末富氏と碁将棋みな負ける。 18:00(※平凡社)久米氏来る。馬場夫人風邪と。(※『五雑俎』)第1冊(2冊)の原稿8月末に出来と約束す。 7月2日  晴れたり曇ったり。(※省略) 猫、床下に子産みてうるさし。われcardかきをれば吉川嬢来り21:30まで話しゆく。(麥書房来り10万円(※印刷前金か)もちゆく。) 7月3日(日)  7:00さむ。小雨。礼拝休む。cardやる。(※省略) 向ひの安延家の猫、一匹の子猫この間より床下で騒ぎしをとり去る。床板はがして大損害なりしもmelon賜ふ。 7月4日  佐伯へゆき1,300本買ふ。『九大生体解剖事件』に森良雄死刑宣告ならびに告白ちょっとのる。『悪魔の飽食』2冊はハルビンの細菌部隊のことをのす。(※省略) 麥書房より「後記400×2.5送れ」と。(※省略) 山本書店に『中国人名辞典(10,000)』送れといふ。 7月5日  6:30起床。雨。cardやる。麥書房へ「あとがき」送る。(※省略) 山本書店より本来り送料とらず。(※省略) 21:30伊勢すみえ氏来る。 7月6日 雨。(※省略) 長島・富永・鳥上3夫人、日清戦争講和までよみmelon饗す。(※省略) 7月7日  浪速中学60周年に思ひ出かき郵送す。鳥海香代子へ「旧七夕ごろ泊りがけで来よ」とハガキ。山本書店より佃煮来る。西島治子より香典返し来り、中に数珠あり苦笑。(※省略) (※成城大学文芸学部の会)三貴ビル地下のRheingauといふなり。定刻、我妻、鎌田、平山、佐伯、野口、森岡(幹事)の外、上島講師の隣に座る。 西山を最後に大藤、新城、西山と我と退職出席、痔を申立て中途退席、不快なる会なりし。(※省略) 7月8日 新聞に上原和の息子死にてBibleよむ(響)と。和田夫人より三治夫人癌にて絶望と。 7月9日 雨気味にて(※省略) 吉川老嬢来り、(※省略) 「五雑俎」200×14訳す。依子より中元来る。(※省略) 7月10日(日) 礼拝にユゆかず。我2列目に坐り献金1,000。2清水嫗に会ひ長島長老夫妻に会ふ。(※省略) 7月11日 寒くて外出せず。(※省略) 午后克次朗・孝行中元持ち来りしに500ずつやる。(※省略) 7月12日 小泉外科へゆき(※痔投薬 省略) 「五雑俎」少しやりしのみ。 7月13日 涼しく曇りなり。外出せず。夕方より禁烟。(※省略) 平凡社の漢詩了る。「五雑俎」やる気なし。 7月14日 末富邸で碁将棋、負け多し。(※省略) 山田俊雄氏より『詞林逍遥』賜ふ。タバコやめし故、一気によみ了る。 7月15日 タバコのまず無為。(※省略) 7月16日 梅雨空なれど降らず。外出せず。タバコのまぬ故、仕事も出来ず。(※省略) 天野忠より詩集『古い動物』送付。 7月17日(日) 寒し。6:00起床。礼拝休み無為。花井夫人より三治夫人の句きく。瀕死を知りをり。(※省略) 7月18日 6:00前起床。眠し。(※省略) 都丸本店で『韃靼漂流記の研究(2,800)』買ひて帰宅。 7月19日 6:30覚む。10:30ユと出て渋谷。探しまはりフランス料理「シエ松尾」といふへゆく(※奥村(森田)氏送別クラス会)。 花井、和田2夫人来て三治夫人の回復できざるをいふ。(※省略) ユと別れ代々木の東豊にゆき『易程伝(950)』買ひて帰宅。 (※省略) 河村純一博士より第2歌集来る。 7月20日 (※省略)8:00起床。雨降りをり。(※省略) 書楽にて『GHQ(480)』買ひて帰る。(※省略) 7月21日 雨。8:00さめ天野忠へハガキかき、(※省略)、東豊書店へゆき『台湾宝島(1,080)』、『中国高等植物図鑑補編第一(2,980)』他1冊、(※省略)、 鳥羽貞子氏より「『四季』にかけ。物贈った」と。(※省略) 7月22日 曇。(※省略) 「五雑俎」やっと40枚に入る。高円寺へゆき大石にて『クレオパトラ(1,300)』買へばdoubleをり。 他に『見聞談叢(1,000)』、『懐旧九十年(600)』買ふ。鳥羽貞子氏より物もらひしゆゑ『東京四季』にかくと電話にて礼いふ。 7月23日 5:00覚めて起床。(※省略) われ「五雑俎」記よりも註面白く、すすむ。 7月24日(日)  7:30起さる。夫婦にて礼拝にゆき、(※省略)。別れて「外口」にて杉森久英『一癖齋放言(680)』買ひ、 (帰宅後よみて四高へ4年准卒(※飛び入学)で入りし明治45年生と知り、保田の背広で来学せしを覚えありとに、上智の田中教授の名きかんと高田瑞穂に電話すれば無人らし)。 『デルス・ウザーラ(100)』、『椿姫(180)』も買ひて帰宅。(※省略)。 7月25日  6:00すぎ覚む。佐伯にゆき『長沢規矩也全集3』受取り、(※省略)  『風日』来り、保田の文に「他人の手紙を無断で公開するな云々」。われ典子夫人に「一周忌に呼びたまへ。肥下夫人も云々」とかき10月3日なるを調べる。 (※省略) 麥書房「4日に校正見す」と。(※省略) 瀬見伊三郎氏、梅干しもち来り我と葡萄酒の乾盃し「禁煙にて苦し」といふ。(※省略) 杉森久英にね一言ハガキかく。躁なり。(※省略) 7月26日  よべ23:00までねられず。(※省略) 我は瀬見氏に本売り(4,000)、『内村鑑三』、『柏井園説教選』、福永武彦訳『パリの憂鬱』にて700買ひしこととなり、瀬見氏誘ひて喫茶(630)、12:00前帰宅。 青木信子より暑中見舞来り、鳥海嫁にやりたけれど如何か。(※省略)  李白最後までよみてやっと白鵬を求むる詩ありしを発見20:30なり。 7月27日 6:00前さむ。朝食後、山住dr.に参れば血圧98-60。尿に糖なし。「禁煙苦し」といへば「水のめ」と。(※父上の)克己閣下の老衰をいへば「心配しゐる」と。 (※省略) 「五雑俎」74枚まで書き、荘子の引用わからず栃尾君に電話すれば坊や出て留守と。(※省略) けふ午飯まへ東豊書店へゆき、劉枝萬博士『中国道教の祭りと信仰(1.8万)』、『明清伝奇選註(3,000)』、『西太后秘史演義上下(1,370)』、『百越民族史論集(840)』買ひ来しに、山本よりLaufer『中國與伊朗(※イラン)』来る。(※省略) 鳥海香代子に電話すれば母上「遊びに来よ。カヨ子はけふ木更津の友人の家に泊」と。帰れば電話さすと也。 7月28日  5:30さめる。(※省略) 眠き中、近江の詩人会長鈴木寅蔵氏より電話「創刊のことききに来る。今東京駅」と。(※省略) 待つ内、鳥海かよ子より電話、見合せよといへば「まだ23才、姉あり」と。 (※省略) 14:30鈴木氏(※省略)わが家に案内、昭和25年のPoet’s Schoolの第1回の会のこと教へ、送別会の写真見せればcopyに苦心。(※省略) (杉森久英氏会ひたしといふに電話し「明日14:00ゆく」といへば喜ぶ。)(※省略) 鳥海家へ電話すれば父君出て「家へ来よ」と。「行くが香代の姉の吊書写真欲し。入婿世話する」と答ふ。ユ心配しをり。我(※禁煙やめ)タバコまた吸ふ決心す。 手塚氏より「来れ、電話せよ」と。月曜にゆかんと思ふ。小杉茂樹氏より「『東京四季』に詩かいてくれ」と。いかにせば人は喜ぶ術を知りわれはうれしく歌作りをり。 7月29日  よべよくねて9:00起き、(※省略) 13:00出て(※省略)豪徳寺下車。 杉森久英邸へ14:20付き詩集呈し『一癖齋放言』に署名さし、タバコ3本のみし頃、思ひついて高田瑞穂呼べば喜んで来る。 杉森夫人わが放歌に感心さる。戦時中創元社にわが著書いひ反対せし評論家は中島健蔵なりしと。高田来り、La Marseillaise合唱す。 17:00タバコ置き忘れて出、矢野家に直行すれば建て直しをり。(※省略) 出て(※省略) 帰宅して(※省略)鳥海家に電話すればカヨ出し故、姉の吊り書もらひかたがたゆく、汝も来てもよしといひ、(※省略)。 7月30日  6:30覚め、(※省略) 山住dr.血圧92-60(※躁はげしく各所へ電話。省略) 吉川康子に2度電話せしに15:00まで来ず、(※自叙伝聞かせ 省略) 21:00近くなり止め曲がり角まで送りて帰宅。入浴。 7月31日(日) 5:40さめ、玉田先生(恵美第三小学校担任)の名、思ひ出す。藤田幸子夫人に「もうclass会に出ず」とハガキかく。(※省略) ユのこして礼拝にゆき、(※省略) 昼食せしあと入浴、「五雑俎」ちょちょっとやる。三鷹の3孫15:00来り、ユ連れてpoolにゆく。(※省略)  出て鈴木(山本)敬子見舞にゆく。(※省略)  、「五雑俎」ちょっとやり34℃の中を眠剤にて熟睡。 8月1日 7:00さめれば雨降りをり。朝食して「五雑俎」にかかる。(※省略) 午食してすぐ出、(※省略) 江ノ電にて鎌倉につけば小雨。手塚氏(※手塚隆義)迎へに出てをられ、taxi。夫人より「若し」といはる。手塚氏自宅にゐて一度も上京せず、白鳥清先生の未亡人は現在芳郎宅にあり。(※東洋文庫のこと 省略) 8月2日  曇。よべ熟睡し8:00すぎさめ「おしん」見る。(※省略) 研文出版より『中国の自然と民俗』玄関に来をり、請求書なし。(※仙台行き指定席満席と 省略) 昼食して神田、山本書店にて7,000以上支払ひ、(※省略) 山口基(※山口書店)に2度寄りしも外出、「『南の星』送れ」と坊やにいひ『花月草紙(70)』ただでもらひ喫茶(300)。放尿して帰宅。(※躁の記事 省略) 杉森久英氏より電話「中公へゆく。本出さす。『楊貴妃とクレオパトラ』貸せ」と。新書版包みて書留とす。 神田の文学の本屋『コギト詩集』再版すと。宜しといふ。若き店主にて1冊汚れしをもち2.5万の値をつけをり。(※省略) 川久保に電話して「来い」といへば怒って「明日来る」と。吉川嬢つひに電話なく21:00ユをして「帰っても電話するな」といはしむ。(※省略) 折しも京より電話、仙台の宿のこと聞いて来る。(※省略) 「五雑俎」すすみ天文のこと必要となり、薮田清博士の説を引く。うれし。 山口基君の長男より「南の星なし、心がける」と電話あり。 8月3日  暑し。旱天。午前中「五雑俎」やり本文100(200字詰)、註50となり昼食してすぐ瀬見氏へゆけば本2,800に買ひくれし故、夫人より『昭和文学思潮(200)』買ふ。 『コギト』同人の主なる者をあげ『日本浪曼派』をいひ『四季』には触れず。(※省略) 久しぶりにPetit Palais(※プティ・パレ)に寄り冷き茶のむ(300)。 川久保来り、(※省略)帰りぎは「躁だね」と。京より「帰りの新幹線買ふ。作並温泉に宿あり」との電話をユきく。televi「おしん」(視聴率最高、酒田に碑立ちおしん人形・おしん餅売るとtelevi)。 (※省略) わが「四季の思ひ出」と某君の萱草につきてのわが論引きしを読む。「しなのなる木曽の山路にさきゐたる萱草枯れぬわが庭暑し。」 8月4日  よべ熟睡。8:00さめ、朝食後「書楽」に久しぶりにゆき『中国の妖怪』ほか3冊買ひて帰宅。(※碁将棋 省略)  帰れば杉森氏より電話ありしと。「中央公論社へ明日同行せん。新宿小田急急行出口にて15:00待合せ」となる。 入浴し「五雑俎」書き続け、(※省略) 夜、鳥海香代子に電話し「姉さん見に夫婦で土曜ゆく」といへば「木更津まで自動車で迎へに来る」と。(※ 省略) ユ気が変って「一人でゆけ」と。 8月5日  よべも熱帯夜を熟睡、7:00起床。「おしん」見て「五雑俎」。和田博徳君より清先生の伝記送られ「詩集は兄久徳君の許にあり、転居にて(※『南の星』)荷造りの中にある筈」と、うれし。 (※省略)13:00出て、(※省略)新宿、杉森君を20分待ち13:30来しに案内され京橋、中央公論社へつけば山崎正夫君重役となりをり、 わが老兵の記録(コピー)を喜びてとり、つづきありとといひ、中公文庫(※『日本の詩歌』24)たのめばもち来りしを杉森君に贈呈、signしろに万年筆かりて書き、 杉森君用なきらしきを知りて出、(※省略) 都丸へ辿りつけば「和本も買ふ」と。(※省略) 帰宅、麥書房来り校正見す。(※省略) 21:00帰りゆく。(※省略) 8月6日  よべ10:00に扇風機かけて寝、8:00起床。「おしん」を見しあと、(※省略) 11:00家を出、(※省略)木更津に着きて報され下車。 出口に鳥海カヨ子まちをり。自動車運転して50分にて邸につき、一家ともどもnews見、姉かへらぬ内に眠る。 8月7日(日)  5:00さめ、(※省略 姉美砂江の)吊書われ書き、了りて祖父より漢文よまされ、返り点つけカヨ子によまし、序で美砂江より英文の訳たのまれスラスラ訳すればおどろく。(※省略) カヨ子の自動車に乗り、駅(※省略) 南阿佐谷着。帰ればユ「1時間早かりし」と。 (※省略) 京よりの切符速達とどけ呉る。10日10:30大宮発にて9:00家を出ることとなる。「五雑俎」やり陶朱公は(※省略)范蠡の異名 とわかり爽快。 8月8日  よべ22:30就寝。8:00さめて朝食。(※省略) 19:00西川英夫に電話すれば丸山正三郎と、讃岐喜八君の葬儀に出会ひ、わがこといひ、 「恵美第三小学校にて一年後輩、千草はクラス一番の能筆なりしときく。今中入学われ13番といへば彼は53番にて先生に意外といはれし」と。 我は13番にて玉田先生より「何番で入るかが問題だった」とガッカリされし也。 プティ・パレに昼食直後ゆき、(※省略)隣席の夫人より「いいお声」とほめられ、(※省略) (※震度4の地震あり) 8月9日  8:00起床。「おしん」を見、(※省略) 山住dr.にゆけば『立原道造展』見せらる。正己先生あとがきでわが名見つけられしと。血圧96、尿に糖なしと。 帰宅すれば (※省略) プティ・パレにゆき、(※省略) 劉炳文の諱探しに『中国人名辞典』の劉の部全部見了り見つからず『福建通志』を見るべし。 天理高校-岐阜第一高校7-0で岐阜勝つ。われはともかくユも岐阜に応援しをり。(※省略) 簡木桂の自宅に電話(※省略) 佐伯さん来て6,000円買ひゆく。 吉川老嬢に電話して絶交申渡し、(※省略) 寝んとすれば(※躁を心配した)ユ、山住dr.呼びをり。来診して血圧80-50と最低。 8月10日 よべ23:00ねて5:30さむ。3:00震度4の地震、われユを起せしと。覚えなし。(※省略)「おしん」見て9:30家を出、(※省略)  10:30新幹線盛岡行に乗れば12:50仙台着。4人迎へに来りヨシ子「ヂイチャン」と来るにおどろく。(※作並温泉 一の坊宿泊) 2児わが放屁を笑ふ中、先づ健太郎逆さまにね、孝行23:00まで漫画本よみ、了りて夫婦ねいる。(※省略) 8月11日 6:00健太郎すでに起きをり、夫婦つぎ、最後に孝行起きて(※省略) 9:50のbusに乗り仙台駅につきtaxiにてユらPhalao Manshonにゆき、 われ内田未亡人に電話して、(※省略) 内田邸につき神位(内田大人命)に三拍して野球部歌うたひ、思ひ出集忘れて出る。(※省略) 仙台駅にて地図見しもわからず、(※省略) 京taxiより「お父さん」と呼び、乗りて1分してManshon。(ユ留守番にて禎子の守に苦しみしも近所の保育園の坊や来て助かりしと)。 駅前の農政会館へゆかんとすれば「隣に夫婦の室あり」と。よく眠る。 8月12日 4:30さめ6:30出れば健太郎さめをりteleviつけ「おしん」見る。9:10山本壮一郎知事(※野球部OB)より電話「昨日はまちゐし。 けふは14:30来よ」と。 14:00ゆけば(※省略) 挨拶すまし『李白』と雑本1冊送り、吉岡君へのハガキかかせ、別れ告げれば仙台平の札入と名刺入と印刷物と賜ひ「大先輩」とわれのことかきあり。 (※省略) 駅に着けば時間あり、(※省略) 阿佐谷で下車。(※省略) 佐伯にゆきて礼いひ『敬語(500)』買ひて帰宅。 8月13日  よべ23:30臥床。6:00前さめる。(※省略) 「おしん」大震災にて源右衛門死にしところにてすみ、(※省略) 保田與重郎を偲ぶ会「炫火忌」と命名、10月1日京都のホテルで1万円の会と出欠問ひ来り「出席1名」とかく。(※省略) 坪井に電話し(※省略)「炫火忌」のこときけば「案内来ず」と。「また来い」といふに「君こそ上京せよ」といふ。けふ来し缶詰の礼を荻村家へ電話すれば、(※省略) (※肥下夫人、石井正吉、高橋重臣に『南の星』探索依頼。) 8月14日(日)  よべ22:30扇風機かけて眠り6:00前さむ。8:00すぎ鳥海家へ電話。(※省略 礼拝ののち、長島長老と上野国立博物館見学。躁の記事多し。) 半自叙伝のため『廉子遺稿』さがせしもなく吉川老嬢に電話すれば「机の上にあり」と。「また来よ」といへば喜びて「来る」と。(※省略) 8月15日  よべ22:00ね、けさ6:00まへに覚む。(※省略) 8:30山住dr.血圧120-75。「五雑俎」の見直し(※省略) ソウルの徐廷柱氏にハガキと本2冊空輸(2,000+160)。雨中にて難儀す。(※省略) 千鳥ヶ淵の戦没者慰霊堂に天皇はじめてゆき中曽根ついで「私人」として(※靖国神社)参拝。(※省略)  麥書房に電話すれば「出来し。29冊もちゆく。裏書心配いらず」と。23:00就寝。 8月16日  0:00ごろ就寝、6:00に5分前起床。(※省略) 「清初の十王」かくこととす。(※省略)  夕食後、戸田みつき女史をユと訪ね、謙介戒名の前にて般若心経となへ、あとにてきけばnihilistと。(※省略) 杉森に電話して「漢文学のNo.2」といへば「何」と。「漢文会(※界?)」といひ直せば「わかった。李白知ってゐる詩ばかり乍ら訳よかりし」とお世辞。 われ「汝は伝記作家のNo.1」といへば「おれもそう思ってゐる」と。高田瑞穂をほめれば反対せしに「人心を得る」といへばだまる。 鈴木文平に電話すれば「創価宗典」よみしや、「よみし」といへば「近々来て試験し富士市の本山に夫婦つれゆく」と。 川久保に10:00ゆき「十王考」かきをへしといへば「おれはダメ」と「20日より信州へゆく」と。(※省略) 「半自叙伝」夜かき本文18枚、註18枚となる。杉森氏の話では長くても宜しと。(※省略) 8月17日 6:00さむ。(※省略) 創価学会の聖書探せしもなく、佐伯に(※省略)とりよせ至急たのみてすむ。 8月18日 5:00起床。(※省略) 「書泉」にて本買ひ、上の「せ・ぼー」へゆく。寒きにwaitress半ば以上足出しをり。(※省略) けふ電話、高橋夫人より「ドイツにをり9月帰宅」と。われよりは丹羽、川久保、内村に会せん。「7人のこりし4人」といふ。当日午后2時にて酒茶の会と決定す。(※省略) 8月19日  5:40起床。(※省略) 佐伯にて「創価学会の本、直接注文されよ」とききて帰る。(※省略) 「五雑俎」の注の不明を正して、(※躁の記事多し。省略) 4畳半にて「半自叙伝」かかんとし『果樹園』より「田中正平」きりぬきユに貼らし28枚となる。ShubertのWien生まれにて、師サリエーリを追ひ抜きハイドン、モーツァルトに学びしと『西洋人名辞典』を写す。Wien「ヴィーン」と書きをり気をよくす。母の「うらぶれ」すまし「妣の国」のうたに入りし也。イバラを好みしとてShubertの「野心3」くはしくかく。 詩集の送り先、井上靖を先頭に長島、大塚2長老を加へて20冊の送り先決定。竹森先生には10冊おまかせときめる。0:00就寝。 8月20日 5:20覚め、ユ窓を開ければ涼しくShubertのつづくかく。朝食後9:00より大車輪にて「五雑俎」にかかる。  『不二』170の「肥下恒夫を哭す(※未確認。不詳。)」探せしもみつからず。(※省略) けさ鈴木文平に電話すれば「用便中」と。創価学会本山へ夫婦にてゆくこと9月に延期とたのむ。(※省略) 8月21日(日) よべ0時に眠り6:20さめ「おしん」最後(作者橋田壽賀子の苦心談)見る。(※省略) 「五雑俎」132枚、註95枚となる。(※省略) 吉川女史来り「Lindenbaum」教ふるところへユ帰り来りrice-curry。(※省略) 22:30「半自叙伝」44枚となる。 木下正男14:10来り、(※省略) 加瀬奉仁(のりひと)氏を紹介すと。喜びて『中国の自然と民俗』に訂正してやる。木下は『蘇東坡』ほしと。 送りて駅までゆき「セ・ボー」にゆき可愛きwaitressに名をきけば伊藤ハルミと。われの名も渡し「明日来る」といひ握手す。(※躁の記事多し。省略) われ「清初の十王」をかき22:00前眠くなる。 8月23日 5:30起き朝食すまし吉岡君(※吉岡克己)待てば11:00来り「セ・ボー(C'est beau)」らつれゆき喫茶。阿佐谷No.1伊藤ユカリ(※ママ)来り、(※省略) 外へ出れば暑く急いで帰宅すれば、(※省略) われに全寮歌うたはし帰りゆく。瀬見氏に(※省略)本3,000で売り、 球陽分店に『唐・新羅・日本(100)』、都丸支店で『スペイン語研究入門篇(300)』木下のため買ひ『ああ戦友』買ふ。(※躁の記事多し。省略) けふ『日本の原爆文学』来り、わが詩「二十四年」を76pにのす(※13巻詩歌)。 小高根太郎に電話すれば『南の星』ありと。肥下光子夫人の手紙にては「肥下の蔵書に『西康省』と『南の星』のみなし」。(※省略)  なよなよとわれにつきこしこのをみなわがなきあともひとり祈れや ユ22:00「もう呼ぶな」と就床。(※省略) 8月24日 (※省略) 0:00眠り6:20さめる。けさの準備すまし木下に電話し「明日来い」といへば眠き声して「来られず。近々ゆく。縁談は当人にまだ 会はず」と。 (※省略) 佐伯に直行すれば休み、「書房」にて1冊1,000円買ひ「C'est beau」にゆけば未だあけず。山住dr.にゆけば低血圧。(※省略) 植村先生(※植村清二)に二度目は出られ「金曜は一日空いてゐる」と「3時」と申上ぐ(※ママ)。小泉凡に電話すれば、(※省略) エホバ来り、ユ怒る。われは「あす10:00」と約束せしなり。(※躁の記事多し。省略) 8月25日 0:10塩沢に電話、母出て不審がられ父と相談して返答なし。われ危篤と思ひて眠れず、ユ眠り少なしと。 7:00朝食、7:45家を出て「C'est beau」に入り(※省略)伊藤カオル(※ママ)より釣もらって地下鉄、 小田急にのり狛江で下車。塩沢家へ電話すれば全家不在。病気でなかりしとわかり安心。(※省略) 代々木上原経由渋谷までゆき下車。17:30まで歩き(※省略)、平元(辻規子)家訪ねれば「待ってました」と。上りて父上辻政信伝のこといへば「母怒りをり」と。 杉森久英呼出し、今井翠と電話し「3姉と会ふ」こととなる。(※躁の記事多し。省略) 22:30眠る。 8月26日 8:30起き昼食し、方々へ礼の電話すまし、(※省略) 河村純一先生(※不詳)よりきのふ賜りし(※不詳)Singapore地図みれば古し。 「C'est beau」に17:00ゆけば「父は潮出版社」と伊藤みのり(※ママ)。21:00眠る。 8月27日 3:30さめ入浴し、溺れかけゐしとユ。一眠りして8:20さめ、「おしん」を見、佐伯に本600円で売り、(※省略)桜台で下車。 午飯を松本家で素麺よばれ、キク子未亡人ゐて地図かき呉れ、(※省略) 14:30先生(※植村清二)喜びて本を見せてもらへば(※省略)、 桜台3丁目のbus停留所につけば先生taxiとめられ5,000を運転手に渡され阿佐谷まで2,000足らず、ユ払ひ夕食、(※省 略)22:00就寝。 8月28日(日) 5:20さめ(※省略)、「五雑俎」にかかり佐伯に本売りにゆけば700円と。650円本買ひ、2冊「C'est beau」の娘にやり「明日も来る」といひて退去。 (※省略) 史、美紀子、暁子3人来て松浦家の手伝のあととて疲れをり。(※省略) 文泉堂に電話し『コギト詩集』再版のこといへば留守の夫人礼いふ。 8月29日 よべ「半自叙伝」かかず眠剤のまず21:30床へ入り、(※省略)  「C'est beau」にゆかず、(※省略) 麥「30日8:00ごろ(※新刊詩集)持って来る」と。 プティ・パレにゆき明子ものいはず、山住dr.血圧85、(※省略) 徐廷柱先生より「世界一の詩人」といふ。『西康省』『大陸遠望』をもっと。韓国にも来よ、と。 8月30日 晴。6:00前さむ。(※省略) 8:30に出て佐伯にゆき700円売り650円買ひ山住dr.脈搏98。(※省略) 麥書房いよいよ「夜6時」とわかり、(※省略) 「C'est beau」には270しかなく「文泉」にて『Focus(150)』買ひ残りし120にて切手4枚買ふ。全く無銭となる。帰れば1:50(※省略) 麥書房来りて(※出来上がった詩集『神聖な約束』)見るに、Milano(Mailend)をマインラントと誤植す。ユのもつ601、605と歌詞ちがひ、 22:00やっと(※電話)通ぜし吉祥寺教会、副牧師さん「明日13:00参る」といへば「伝へる」と。 8月31日 72回目の誕生日。よべ21:00ねし故5:00過ぎさめ、徐廷柱先生へのハガキと新刊『神聖な約束』包み航空便にて出すこととす。 6:00「自叙伝」の書き直しに掛る。7:00前、草壁焔太氏へ「5行詩の創始者」と礼状かく。大分前に『穴のあいた麦わら帽子』くれし也。 17:30吉川老嬢、瀬見氏と夕食くらひ20:30吉川嬢を下宿迄送り、(※省略)  吉川嬢に詩集やる。 9月1日  9:00起床。朝食くひ10:00すぎ文化女子大高校の理事長に会ひ、漢文の講師など欠員なしとのことに今井翠訪ね13:00帰宅。(※省略) 末富家へゆき碁一番、将棋にてはじめて勝つ。 川久保、羽田を迎へにゆき2人来しあと丹波、プティ・パレの村上氏に案内されて来り、(※誕生日会)酒殆ど飲まず17:00散会。 川久保は羽田を案内し、われは丹波を「C'est beau」に案内せしも伊藤嬢来ず。(※省略) 「荒野の七人」を21:00より見る。(※省略) 詩集、高梨富士子、紅松一雄、石山直一、中西義章、坂口允男の諸信者に1冊づつ野崎その夫人に2冊(1冊は鍛冶初枝嬢へと)、上原教授に2冊。 9月2日 6:00起床。7:00朝食。2,000もちて詩集を出しに駅前へゆき、「C'est beau」あかず、ことぶきやにて製本。弓子の3男に本買ひて帰宅。 (※省略) 佐伯に本もちゆけば買はず。やりて50円の本2冊50円にしてくる。(※省略) 瀬見店のぞけばつまらぬ詩みなのけあり。 (※省略) 球陽にも(※省略) 瀬見とともに来れといふ。夕食後、プティ・パレにてcopy特別にたのめば快く夫人、父の歌全部copyしくる。 (※日付末梢下に) 23:00就寝。8:10に起床。■■氏より「沖縄方言」承る。(※プティ・パレの)村上氏より厳重に注意受け(※不詳)山口東一先生のお越しまち連れ来る。 9月3日(※9月4日(日)の間違か) 8:00起され9:20家を出、西荻で降りbusでゆき20分遅刻66,605番うたひ、「(※詩集)3冊くれよ」と先生よりお話あり。 大塚、長島2氏には別に送るといふ。 (※省略) 「C’est beau」に二度ゆき、佐伯で売りし本代(5,000)残りなし。「半自叙伝」22:30までかかり23枚。 9月4日(日) 朝早くさめ散歩に出、徹夜営業の「中村屋あと」に入りsoupのみドーナツ買ひしあと5:00始発の上りにて中野へゆき北口下車、 北行すればわけのわからぬ一団あり、男2名女9名なり。今年中に69万人とするといふ。(※倫理研究所。9月6日付に重複記事) 6:00までゐて跡かたづけし会長夫婦のbykeにて去りしあと、また国鉄阿佐谷へ帰り、(※省略) 「半自叙伝」休み「五雑俎」ちょっとやりしのみ。 概ねまことやに破れ本補修に行く。(※省略) 出来上がりしを佐伯に売り「C’est beau」に花もちゆく(皆同一の赤花なり。Poinsettiaか。)。(※省略) 9月5日 中公の重役山崎氏来り「12月までに(※「五雑俎」)何枚かいてもよし」と也。(C’est beauに追ひ来りおごりくれし。) まこと屋にゆき(※詩集の)製本、夫人にしてもらひ高橋(※重臣)留守宅、紅松に送る。(※9月6日付に重複記事) 19:00ねて3:30起き、起され「おしん」見る。ラーメン高円寺で食ひ、瀬見氏に「あす10:00来い」といふ。 9月6日 3:30起き5:00の初発で中野へゆき倫理会研究所なるものに出る。男3人女6人「569万人を会員とす」と。(※重複記事) 船戸といふ詩人10:00に来るといひしも来ず。まこと屋にゆき(※詩集の)夫人に製本さす。早くて巧みなり。 高円寺でラーメン食ひにゆき15:00帰りも詩集送り(※重複記事)、19:30ねて3:30覚め(※重複記事)、倫理研究所の正会員になると。 9月7日 ユ不快とて飯くはず、瀬見氏より1万円もらひ書房で本買ひ、『陶淵明』もらひしも出来悪し。 (※C’est beauの)伊藤ゆかり(※ママ)とmanagerに電話かけ「家へ来よ」といへばうべなふ。(※省略) 神田の文泉堂へ「(※『コギト詩集』再版は)江頭彦造への承諾得よ」といふ。「自叙伝」かき19:00夜食くひて眠る。(※省略) 中山正子、紅松一雄より詩集の礼状来る。 9月8日 曇。時々雨。8:00さめ「おしん」見、佐伯とまこと屋にゆき虎屋の菓子と茶のむ。(※省略) 末富家で碁4目となる。将棋は1勝1敗。 7:30丸へとゆき途中安いすし屋ですし買ひ(※省略)、丸へもちゆき半分別けす。煦美子帰り来り、高円寺駅まで車で送りくれ瀬見氏、球陽に予約す(1万円位か)(※不詳)。夕立ひどかりしらしきも知らず20:00帰宅。夕食す。 9月9日  よべ21:30臥床。2:00はげしき咳にてさめる。杉山平一に激励文かく。(※省略) 8:30佐伯をへて山本へゆく。 時間早くあけると同時に(※山本書店に)入れば、「主人、若主人ともに不在。8,000」と。代々木に出て(※東豊書店の)女主人の留守番より本買ひ、 重きを間違へて高円寺に下車。(※省略) 瀬見氏に本預けて成城大飯店にゆき(※省略)歩きて阿佐谷へ出、(※省略) 「C’est beau」のmasterに「Shingaporeへいつゆくや」といへば「行きたけれど云々」、腹立てて文房にて本買ひ、帰宅。(※省略) 9月10日 6:00さむ。川久保に電話してゆき嬢の世話するといひ(舟越清)、「C'est beau」にゆき飯くひ鳥海香代子来しに喜び、姉の世話するといひ、(※省略) 大山俊一博士(※前成城学園学園長)脳梗塞にて急死と学校より通知あり。高田にいへば笑ひ乍ら、葬式に出ると也。 石山直一氏より「(※詩集は)竹森先生の指図にや」と、「違ふ」と答へ船越章の惨状伝ふ。 9月11日(日) 6:00さむ。のど悪し。8:00出て大友信一副牧師の説教。眠くてたまらず。(※省略) 「文房」にて中公新書26(※日本の詩歌(26) 近代詩集(中公文庫)?)注文す。木下の友に中公文庫送ることとし「文房」の本着くをまつ。 けふ母の死の直前まで「半自叙伝」かく。 9月12日 よべ21:00ね、3:00さむ。「半自叙伝」大分かき、中通りの本屋にて中公文庫買ひ500円の花買ひて「C’est beau」ゆけば只にしてくれる。 婆さん夫をSiberiaでなくし3人は兄妹と。Miss Asagaya1週間休むと。(※省略) 9月13日 早くねて4:00さめ、(※省略) C’est beauに3回ゆきこの間の弁護士に茶おごる。瀬見氏来り1.5万円本買ひ、球陽堂2万円で買ひくれ、 夕食後、ユより2,000もらひ500円の字引「C’est beau」の奥さんにやれば只となる。(※省略)  佐伯にて(※省略)本5冊にて2,000全部使ひ、帰りて「なつかしの歌うたふ」皆tempoのろくて困る。〒なし。 9月14日 6:00さめ眠り足る。(※省略)日本文化研究所長大井清氏の丁抹(※デンマーク)談をきく。(※省略) 9月15日 敬老の日。6:00さめ7:00朝食。無為。「C’est beau」に2回ゆく。(※省略) よろず屋の女子けふは見ず。鉛筆一本買ひ「C’est beau」にやる。 鍛冶さんより受取。「一度来よ。泊める」とかく。3孫来り、雨の中、祭にゆく。400づつやる。宏一郎は使はざりしと。感心。(※省略) 中山太陽堂より『70年史』来る。(※省略) 正子の夫不明、ともかく受取かく。 9月16日 ユ7:00出てゆき、7:30さめればsandwich山ほど作りあり(※)。 (※省略)「自叙伝」の整理。(※省略) ユ21:00前に食事もとらず帰り来る。 9月17日 7:00さめ7:30朝食。(※省略) 土曜とてプティ・パレにゆきしに明子嬢出ず、小母さん帰れといひ、もう二度と来ぬときめる。 15:00吉川嬢来り、鮎平げ(※省略)、鷺ノ宮まで案内200円借りる。 9月18日(日) 礼拝2人ともゆかず。8:00前さめし也。プティ・パレ、C’est beauともにゆけずなり、(※省略) 9月19日 曇。よろずやにゆけば(※省略) 『廉子歌集』(30)製本してくれる。この間C’est beauにて会ひし建築屋来る。2年後といひて帰す。(※省略) 9月20日 雨。よろずやにゆき父の歌ボール紙にて製本してもらふ。 9月21日 無為。曇。(※省略) 午后、松枝茂夫氏より『中国名詩選 上』来る。18:30高橋重臣より「あす泊めろ」と電話。 9月22日 無為。18:00すぎ夕食すませれば(※アメリカより帰国の)高橋君現はれ、 18:00高橋重臣来訪、Gelbe sorteくれ 「滞米中、日本的生活に不自由なかりしindana大学、学生4万人蔵書400万冊」。22:00まで飲みかつ話し眠る。 9月23日 7:00さめ高橋君さめて10:00都丸書店へゆくといふを送る。(※省略) 9月24日 雨時々降り、ユ画にゆき終日家居、無為無能なり。(※省略) 9月25日(日) 夫婦にて礼拝にゆきユと別れて帰宅。無為無能なり。(※省略)。 吉越夫人より「来訪せず」と。 (※省略) 9月26日 よべ眠剤1服足し7:30さむ。丸木夫人より「あさって来る」と。 9月27日 6:30さめる。(※省略) 「五雑俎」訳註の前半見つからず悒鬱なり。(※省略) 9月28日 7:00さむ。雨。15:30丸木夫人来り、焼身自殺の話長々とす。「丸木側に責任なし」と也。(※省略) 9月29日 午后雨止む。よろずやにゆき父の遺稿の製本すむ。瀬見氏15:00前来り、「五雑俎」市にて引き手なかりしと。 ユにきけば「五雑俎」の訳注、(※平凡社)馬場夫人に渡せしと。 9月29日 雨やむ。ユ平凡社に電話すれば「馬場夫人埼玉大学にて火曜に出勤」と。(※省略) 何もする気なし。(※省略) 10月1日 早くさめ11:30家を出て京都着。16:00前会場へゆき中谷孝雄氏司会にて開会。(※第一回炫火忌) 淺野晃の次に中河与一氏の話、不快なる会と(保田夫人、瑞穂をらず。 岩崎昭弥より(※岐阜の)江口三五氏の死にしことを知る) 。 「ディオティーマ(※『コギト』昭和9年3月号所載の詩)」保田全集にとおき、 近鉄にて橿原神宮前より乗り、高田よりあととまらず、天王寺で下車。河内松原へ準急に乗り下車。 探しまはり、肥下家につけば夫人まちをり、うどん屋に案内され『神軍』に署名して只にしてもらふ。 肥下夫人ぬる湯に入れてくれ蒲団2枚かけてもらひ熟睡。 (保田に肥下の(※資金と編集事務の)援護ありしこと誰もいはず。不快なりし。) 10月2日(日) 肥下夫人に駅まで送られ「一度御上京を」といふ。難波より近鉄名古屋着。地下鉄終点より電話すれば澄と望と迎へ来る。依子昼飯くはしくれ、(※省略) 19:00すぎ帰宅、夕食す。 10月3日 川久保にゆく。(※省略) 馬場夫人午まへ本文100ページ預かるといひ来る。 10月4日 よべ眠剤1服足す。(※省略) 鬱にて何もせず。馬場夫人も来らず。(※省略) ユの帰るまで孝行来り500やる。衛藤長老より「詩集受取った。「中島栄次郎」よし」と手紙来る。 10月5日 快晴。7:00さめ9:00すぎユ、柏井と河北病院へゆく。(※省略) 10月6日 秋晴つづく。8:30山住dr.。(※省略) 鈴木(山本)敬子夫人14:30来り、20:00すぎ馬場夫人来り「201p見つかっ た。12月31日は誰がきめし。3大学の講師しをり」と。苹果持ちて帰りゆく。 植村先生より「この詩はいつ出来しや」と。小川環樹見れば引きあり。 (※省略 成城文芸編集部より)「清初十王」返却さる。躁にてかき不十分なりしことを反省す。 10月7日  晴。寒し。(※省略)  植村先生に小川環樹『蘇軾』に引く詩の作年問はれしにその旨(42才)返事す。古書展の広告3冊来り、シロコゴロフ6,000と下がりをり、これも不快。 10月8日(日)(※日付ミス、10月9日の筈) 雨中を夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 美紀子2女をつれ来り、殆ど物云はず「(今井へ)帰ろ帰ろ」と。 孝行入れ違ひに来り、ユに500もらひて帰りゆく、これは可愛く不思議なり。吉川老嬢より音沙汰なく縁切れしと思ふ。(※省略) 10月9日(※日付ミス) 秋となり炬燵をつけたり消したり、何もする気なし。西武優勝してユ西友dept.にゆけば混雑せしと。 7:00さむ。日中大雨。ユ河北へゆき16:30山住dr.へゆき抗鬱剤もらひくる。「五雑俎」自信なくなる。(※省略) 10月10日 一日中秋晴れ。(※省略) televi田中角栄の有罪判決を報じ田村代議士も出て来り不快。(※10月12日の筈)  桶谷秀昭氏より『保田與重郎』贈られ迷惑す。 10月11日 抗鬱剤3回のみしも効果なく、ユふやしてもらふ。 午后晴れて鈴木文平夫妻来り、大石寺(※創価学会総本山)へそのうち誘ふと。これも迷惑なり。 10月12日 7:00さめ、ユ運動し来りしと元気にて9:30河北病院耳鼻科へとゆく。(※省略) 10月13日 午后晴。(※省略) 肥下夫人より、末孫「おぢちゃんは?」といひし由。 佐伯へゆき篠田博士『中国食物志(4,000)』買ひ、帰宅。doubleゐるに気づき再び佐伯にゆけば内儀、2,000の愚本2冊ととりかへ(1冊まことやの女店員にやる)、(※省略) 10月14日 (※省略) 吉川老嬢より音沙汰なく、手塚隆義氏より『南の星』なし、と丁寧な手紙。(※省略) 10月15日 (※日付ミス、10月16日(日)の筈) ユ礼拝にゆきわれはゆかず。13:00帰り来り平然としをり。(※省略) 10月16日(日) 曇。ユ14:30吉祥寺へと出てゆく。(※省略) 10月17日 秋晴れ。ユ6:30母のところへ投函にゆきしほか活発に動く。われは無力。 10月18日 終日雨。われ8:00起され無為。(※省略) 10月19日 8:00起さる。雨夜までやまず。13:30しぶしぶ末富家へゆき碁将棋、ともに2番づつやり惨敗。 10月20日 (※記事なし。) 10月21日 (※省略) 8:00起床。秋雨にて不快。(※省略) 浪速高校より『60年史』と角川版『大阪府』と来る。 10月22日  けふもユ散歩(雨中を)。高石の猛者(田中三治)より「村田幸三郎生存、(※省略)村田光也方にをり」と電話。 10月23日(日)  7:00さめて快く、鬱とれしが如し。ユ8:40出て荻窪まで歩いてと礼拝にゆくと。(※省略) 10月24日  7:00さめ、(※省略) 山住dr.に低血圧98-65測ってもらひタバコのむこといへば「薬は奥様に」と。 15:00庭先より出て高田等、わが売りし本のこれるを見て憂鬱すこし。(※省略) けふ小沢長老より礼状らしきもの来り、キリスト者の言むつかしきことわかる。 10月25日  晴。寒し。7:00起床。(※省略) われゆふべ再び禁煙の誓ひ立てる。(※省略) われ禁煙、苦しくも楽しくもあり、夕方、山住dr.にゆきそのこと云ふを忘れ、「鬱のきがけ」と申上げて帰宅。 (※省略) 美紀子のもち来りし松茸を夕食にし、サワラの刺身にてユ「これが中流階級」と。 10月26日  7:00起き9:30ユ柏井へ歯の治療にとゆく。我すぐ出て散髪屋、(※省略) 昼食して15:00前、郵便配達くれしをみれば村田幸三郎にて「49年より慈恵医大電気主任転任」と。喜びて電話すれば(※省略)「近々来る」と。(※省略) 10月27日  昨夜睡眠感なく、(※省略) ユわが不機嫌見て「タバコ飲め」と。控えめに飲む。(※省略) けふ池田勉博士より『半眼微笑』送らる。山本書店より『蘇東坡』送らしむることとす。 亜東書店より、注文もせぬに『中国歴史地図集』送り来り、ユ「送り返せ」と。(※省略) 10月28日 22:00就寝。(※省略) 亜東書店に電話すれば「注文せし」と。仕方なく代金為替にて送る。 10月29日 8:00さめ「おしん」見て昨日の角・中会談失敗の新聞見る。 鬱ほぼ直り、14:00吉川老嬢1月余にして現はれ喜びて話す内、ユ、花井夫人と帰り来る。(※省略) 花井夫人に吉川嬢を「後妻候補」と紹介す。 16:00花井夫人ユの炊き上げし松茸飯もちて去り、吉川嬢も17:30「銀座で会あり」と松茸飯もちゆく。 10月30日(日) よべ早くねて4:00さめ睡眠不足と家にをれば村田幸三郎より電話「16:00来訪」と。喜びて(※省略) 22:30まで話聞く。(※省略) 村山高氏より電話あり、東京のHotelにをり、我に電話せんと思ひしところと。 村山中隊長、村田小隊長とて長電話し、(※省略) 22:00前、送りかたがた国鉄の駅へゆき終夜営業の喫茶店にてcoffeeおごり(※省略)帰り来る。 10月31日  けさも早く起き、(※省略) 出て佐伯にゆけば長沢規矩也全集まだ出ずと。「書楽」移転中なり。(※省略) 11:00山住dr.にゆき、(※省略) 亘理君に2度電話せしもかからず。(※省略) 夜、亘理信一君に電話して「6日14:00ゆく」といひ、(※省略) 11月1日 7:00さめ山住dr.にゆけば98-60。(※省略) 「五雑俎」の註よみ直す。(※省略)  まこと屋へゆき(※省略) C'est beauの女老人に嫁なしといへば「それよりもっとお越し」と。(※省略) 中曽根、同期生といひて田中角栄をかばひて泣く。22:00就寝。 11月2日 6:00さめ9:30山住dr.にゆき歌うたひ、川久保へ10:00ゆき友人総代を羽田ときめる。 午飯くって瀬見にゆき(※省略)球陽書房で『太平洋の生還者(360)』買ひ、帰ってまことやでpin(120)買ふ。 「五雑俎」ちょっとやり、(※省略) 前田隆一氏より『全人的人間像の科学論』贈らる。(※省略) 11月3日 5:00さめ木下雅夫と新潮社気付桶谷秀昭にハガキかき、ユ起き来り「またそれ」と叱る。よべ22:00まへ[憤]りし也。 8:50家を出て9:30教会につき、原長老運転の自家用車にて、(※省略 上川霊園墓参)。 昼食の時、竹森先生に中公文庫の大岡信の解説のみおよみをり。紺のベレーの少女はユと申上ぐ。(※省略) 原さんにたのんで禅林寺にゆき鴎外の墓に花供へ、歩いてあるいて小林宅へゆき、(※省略)18:30帰宅。(※省略) 11月4日 8:00さめ「おしん」見、「五雑俎」やり、午出て球陽にて平山博士に会ひ誘ひて喫茶。(※省略) 都丸にて『笑辞苑』買ひ、書房にて鴎外『即興詩人』2冊買ひ、佐伯にて『中国民衆叛乱史4冊(6,300)』払ひ、(※省略) 小山正孝に電話2度すれば21:30まで帰らずと。小高根太郎、築島謙三2友に電話。 11月5日 3:00さめ眠れず御進講を考ふ。6:30起床。9:00より「五雑俎」の註、本文の番号づけやり、 林富士馬、小山正孝、竹森満佐一先生に電話し、(※省略) 吉川老嬢に電話すれば、すぐ来て夕食し、 19:30C‘est beauへつれゆき、我先き出て金達寿『古代日朝関係史入門(850)』買ひ、 まこと屋に寄り女の子からかひ、夫人に近々漢文よんでやることとなり帰宅。(※省略) 11月6日(日) 1:30さめ雨降りをり。Gelbe Sorte1本吸ふ。3:00又眠剤2服足し7:20覚む。 (以下悠紀子夫人代筆) 9時教会にゆき(※省略) 雨の中を和田静子家を探し見当たらずころんで右手をくぢき(※このため代筆か)、 (※省略) 亘理家に電話して(※省略)やっとたどりつき御夫妻にお茶、淡路名産いよかんの砂糖づけを頂き3時半辞す。 奥様は淡路の出身で田中家の事を遠い親類だと云はれる。(※省略) 帰れば手ますます痛くなり、(※省略) 夜いたみ安眠出来ず。(※省略) 小山(※正孝)に電話 11月7日(悠紀子夫人代筆 朝四時半起き、(※省略) 山住先生に行き、手に手当てをしていただく。高田先生(※高田瑞穂)に家へ来るよう電話して、(※省略) 南阿佐ヶ谷に迎へにゆけば彼は国鉄で来てゆき違う。(※省略) 高田先生5時すぎ帰りセミさんと5分程顔を合して本は売らぬといふ。セミさん6時帰る。(※省略) 11月8日 3:00さめうつらうつら、4:45おゆきを起し6:05起床さす。文房にゆき『戊辰物語』、『日本の方言地図』と岩波文庫買ふ。 8:55山住dr.にゆきNo.1。『教壇上の文学者(山住正己著)』に「田中克己入れよ」といへば(※母の主治医)「先生、申し伝へます」と。 (※省略) 『成城文芸』に「十王」かきたく、森(旧姓)に「編集委員出せ」といへば「今日は来らず、来れば連絡す」と(※省略) 11月 8日~12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 11月8日 (悠紀子夫人代筆) 朝4:30起き早々と散歩し、「書楽」で本3冊買い、(※省略) 小山正孝氏来る。「『文学館(※潮流社)』をやめて第5次『四季』をやらう」と云ったが「考へる」と云って逃げ去った。同人を見せたが返事なかった。 夜9時半ねたが12時半目ざめ薬をのみ足し3時半ねて次の日10時までねた。(夕方東豊に行き6,800の本12月までにかえす) 11月9日 (悠紀子夫人代筆) 10時に起床。川久保さん10時10分来宅。11時半まで大声で談話。すぐ高円寺の都丸、大石に行き本3冊買う。残金30円也。山住正己先生より『回想教壇上の文学者』の本をいただく。 11月10日 6:30起床。『コギト詩集』文泉堂「出さず」と電話に答ふ。(※省略) 「半自叙伝」ユのすすめで書くこととす。山住dr.にゆき血圧111。(※省略) 高田(※瑞穂)邸へ14:30着けば喜びて「待ちをりし」と。夫人と合唱し、高田の得意のかへ唄に苦笑す。 honey wine 半分のみ、彼はwhisky。17:30駅まで荷物もち呉る。「この次は汝の来る番」といへばうべなふ。 小田急dept.14階の料理店にdinner予約。 (※血液型)、美紀子B、雅子O、淳一B型。諏訪にきけば澄がB、泰O、望B、三鷹は皆O、仙台は稲田哲夫B、健太郎B、ヨシ子B、(※田中克己O、悠紀子夫人O、よって史氏依子氏弓子氏京氏はO) 11月11日 10:00さめ(※省略) 中央公論社の山崎編集長「ダメ。老兵の記録送り返す」と。われ背信をなじる。 高田に都丸より電話し「カカア(※高田の細君)がなんといっても(※君の蔵書を)売る」といひ、瀬見に電話して「早くゆけ」といひ(※不詳) C‘est beauに「吉川断りし」と云へば紅茶のます。「吊書かけ」と。 17:30早川より一歩早く小田急dept.14階の喫茶店にゆきdinnerおごられ、 寮歌歌へば注意され「もう来ず」といひ「茶太郎」にてrice-curry半分食ひ400払ひて帰宅。21:00。 11月12日 5:30までねられず10:00起床。無為。村田幸三郎来て夕食し酒のみて泊る。 11月13日(日) 晴。村田幸三郎朝飯くはず茶のんで出てゆく。我目ざめて「又来いよ」といふ。(※省略) 夫婦で礼拝にゆき、(※省略) 『利根川図志(500)』、『じゃがたら紀行(440)』買ひ、(※省略)  保田悠紀雄に電話すれば(※会に)「典子夫人来り、瑞穂は出ざりし」と。われに「話さざりしは幹事の責任」と。 「おまへが悪い。あやまりに来い」といへば「史さんは代議士に出られますよ」と。 呆れて絶交申渡し、嫁よべば入厠中と。出て来しに「あす来い」といへば「あすはPTA」と。 11月14日 3:00目ざめうつらうつら。瀬見氏に高田君の(※蔵書処分の)斡旋の電話す。 10:00東豊へゆき6,900の借金返し4万円余の借りは12月払ひとし、(※省略) 阿佐谷に帰り『南京大虐殺のまぼろし(360)』など買ひ、「佐伯」「書楽」にて18冊買ひ、(※省略)ダイコン(40)で無銭となる。 川久保呼べば19:30来り、抑留生活の「苦しみもなく家族のこともはざりし」と。 「著書はシロコゴロフのわれとの共訳のみにて勲3等もらひしは国立教員の特権」と恥ともせず。 絶交申渡す直前に酔って帰りゆく。 井上書店より『万葉植物と古代人の科学性』来る。22:40眠る。 11月15日 8:20覚む。(※省略) 三火会へゆき紅松、原田、加藤3人来り、(※省略) 東豊書店の本(4万円余12月払ひ)来る。(※省略) 石井正吉君より「小菅に転居」と。(※省略) 11月16日 22:30眠り8:30起床。中央公論社取締役山崎来り「わが半自叙伝出さず」と。原稿もちて「杉森久英と話す」と帰りゆく。 瀬見にゆき町沢直治氏(82才)つれ来る。(※省略) わが家へ「来い」といへば杖つきて来り15分ゐて茶のみて帰る。 村田幸三郎より『Don Quixote1905年版』来り、(※省略) 鳥海に「養子はダメ、孫にあとつがせ」といふ。 麥書房に電話すれば不在。小山正孝に「四季再建」いへばはかばかしき返事せず。 鳥羽貞子に電話すれば「東京四季の主宰者を先づ同人にせよ。1年かかる。」云々。 われまづ一ケ月にて出すこととし、杉山平一に電話すれば喜びて「桑原武夫に三跪九頭して同人たのむ」と。 日高次郎(野田又夫) 、小高根太郎を入れ、われと神保は名のみにて選は杉山平一にやらすこととす。発行所をわが家とし、選者は杉山平一とし、大木実を除外する。などユと相談す。 11月17日 3:30さめ(※省略) 8:00ごろ麥書房に電話し「今頃までねてゐる奴とは離婚しろ」といへば、 9:00山住dr.の診察中に怒って電話し来りしと。 『四季』の印刷製本は大阪の杉山平一君にまかせ、発行所のみわが家に置き権威を(神保老衰)保たんと考ふ。(※省略) 11月18日 22:30にね、3:00覚め歌うたひユを起す。6:00朝食、「五雑俎」ちょっとやり、『四季』のため方々に電話す。杉山平一大賛成。杉山平一と神保光太郎に往復ハガキかく。 『山の樹』の同人「小山正孝をのぞき十人近く同人とせよ」と江頭彦造にいふ(鈴木亨も入れる)。 植村清二先生に「(※実兄)直木三十五の思ひ出400字にかけ」といへば快諾さる。 林富士馬に「同人となり詩、月末までに」といふ。 杉山平一に新同人の通知し、「会員の詩の選をまかす」といふ。桑原武夫に三跪九頭すと也(※既出)。 「麥」は「出版に手を貸さず」と。夜22:00(※★省略) (末富邸に13:00ゆき将棋、よき勝負す。碁は5目といひてかへず) 鳥羽貞子氏よりわが文(※『東京四季』29「堀さん」)topにのせると校正送り来る。誤字訂正す。 11月19日 8:00起き朝食しながら「おしん」見る。第5次『四季』創立につき電話。神保杉山に往復ハガキ。 末富邸に13:00ゆき15:30帰来。夜は『四季』につき方々に電話す。 石浜恒夫が最後にて26人(うち同人費免除4人)。 同人費は2,000、四季に出すこととまづきめ、関西の杉山に詩の選択をまかす。 但し詩、同人費、会費(500)は我あてと独断し、神保と2人の連名にて勧誘状かく。 堀多恵、神保光太郎には別にハガキにて了解を求む。あとは印刷所と製本屋につき瀬見君に世話たのむ。 11月20日(日) よべねつき悪し。教会休む。(※省略) 杉森君より速達にて「(※没)原稿送る」と。 方々に電話し、高田のみOK、栗山、池田はダメ。杉山平一が思ひ返してOKとなる。 11月21日 5:30さめ6:30朝食、池田勉博士より「『四季』同人断る」と電話。9:00山住dr.にLorelei1教へ、 佐伯に寄り、東豊に3万5,650払ふ。高円寺下車。雑本10冊買ひ、『Renoir(※ルノワール)』もらひ、(※省略)帰宅。 (※省略)室生朝子より「『四季』同人になりたし」と。萩原葉子にも入れと(※返信に)同封。総計30人。 植村清二先生より「2.5枚かきし」と。(井上靖は「2号より書く」と也)。 瀬見氏より9万円以下で印刷と。 平凡社の久米さん来り、広告の件だめ「五雑俎」の原稿は「渡してから出来るまで半年かかる」とのこと。 11月22日 8:00まで熟睡。瀬見氏に電話し「印刷屋へ11:00同行」と決定。 同行すればタバコ屋兼業、タイプ印刷なれば見本もらひて、決心促し一旦帰宅。(※省略) 印刷屋にゆけば「やってみる」と。「近々いくらか前金置く」といひて出、山住dr.にゆき唱歌教へる。 夜、吉川康子にユをして電話せしむれば「借りし本みな返す」と。 11月23日  5:00起き「五雑俎」やり、(※省略) 『四季』同人に吉本青司を加へ、中山正子に「広告かけ」といふ(2万円)。 植村清二、野田又夫2氏の原稿来る。佐伯と北口の古本屋へゆき『Green ten(500)』買ふ。(※省略) 21:00福地邦樹より『四季』同人(※勧誘)杉山平一より云ひ来しと。 「30日までによき詩送れ」といへば閉口す。 11月24日 村田幸三郎より電話「汝の家にて忘年会賛成。亘理に電話す」と。(※省略) 『四季』のことやり、印刷屋へゆき2万円前渡し植村、野田2氏の原稿わたし、 (※省略) 20:30瀬見来り、0:00帰りゆく。 11月25日 8:40起き「おしん」見るも途中なり。(※省略) 小高根太郎に原稿催促し、午后久米来り、広告につき相談。「五雑俎」、抄にて2冊とすといひてきかず。 吉川康子より『神聖な約束』帰り来る。伊達温、坂口允男より原稿(坂口は2,000同封)。 伊藤桂一派は断り来る。井伏は「同人辞退せぬもかけぬ」と。われ代りに唐詩訳す。 7人の原稿出来。※(田中、植村、野田、伊達温、坂口、田中(訳)、高田)  (山住dr.と歌を合唱す。) 11月26日 8:30さめ朝食。高田瑞穂より原稿と2,000、「服部タイプ」にもちゆき、成城大飯店にて昼食。 帰って来て石井正吉来り、我に署名を強いしもきかず、米と柿もらひ詩集もちゆく。『四季』出来れば「1部買ふ」と。 服部Type、2万円返さず、あやまりて承知さす。 ユ、戸田みつき師(※夫人の絵の先生:杉並アマチュア美術連盟。1906-1996)喜寿(※祝賀)に出て帰り来る。 https://www.t-artforum.net/page_archives/artist_of_shonai/artist_detail/index.html 11月27日(日) 礼拝休む。末富氏と御将棋。よき勝負す。但し全敗。『四季』のため方々に電話す。 上原和来り、落涙す。詩集1冊返す。死児に贈りし也。 11月28日 4:00起き8:30までねる。成城大に電話し中西(※中西進)「同人承知」。 ユ、川久保の帰る時、毛利のエセー来る。四季社の印3,500であつらふ。電話を一日中かける。(※省略) (※西島)寿一来る気あり。山住正己氏30日来る。末富氏より2,000の同人費と原稿来る。 11月29日 1:00さめ6:00ユを起す。(※省略) 堀江忠道君より電話「10:00来る」と。 堀江君、悠々と昼食し李白の詩の訳してゆく。これを投稿とし、夜、ユと『四季』の編輯了り33.5pages出来、あと高橋、金井(※高橋重臣・金井寅之助)の稿待つこととす。 (高橋に電話して「金井もかく」といへば動ぜず)。(※省略) 成城の高田家へ「あす瀬見(※蔵書を)見ゆく」と。瀬見には「甘く価つけよ」といふ。(※省略) 11月30日 (悠紀子夫人代筆) 朝6時起きる。午前中手紙待ち13時淺野晃先生見える。 朝電話して「来い」と云ったよし、先生2千円出される。戸田先生宅まで御案内する。 午後4時母へ行く。朝の主人の電話で稲垣さん腹立てる。夜はだいぶしづか。 (※『四季』同人)林富士馬氏ことわる。絶交を云ひ渡す。 12月1日(※重複記事。) 13:00淺野晃来り「原稿送る」と2,000円呉れ「(※炫火忌欠席の)保田の瑞穂共産党」と。 色々話し戸田家へと去り、「井上靖が加入するならいや。(※戦時中の)中島健蔵の将官待遇」とを話して去る。 われ「電話して呼びし」と。覚えなく当惑しをり。(※以上前日のことか。) 稲垣カメラより絶交申渡さる。「南方の思ひ出気に障り電話せし」と也。 12月2日 8:30熟睡。電話の応対恐怖す。「金(キン)買はぬか」とあり。ユ銀行へゆき年金出し、  瀬見氏呼び、「『四季』の印刷必ずやる。あすでなくてもよし」と、20:00まで応対す。 (悠紀子夫人代筆)夜遅くまで原稿をうつす。 12月3日 (悠紀子夫人代筆) 山住正己先生午后1時半に見え3時帰る。3時より4時半まで留守番する。『四季』のことで一杯。 「服部コピー」に原稿渡すに瀬見さんについてもらう。今日は主人にこにこなり。 12時15分高円寺より走り帰る。明日同人表を渡すことにする。(苑ちゃんにつきあってもらった)(※省略) 12月4日(日) (悠紀子夫人代筆) 教会に行き帰り、ラーメンとスープで昼をすまし帰る。苑ちゃん同人表をかいてくれる。 主人の「老兵記」をかきうつす。(ユ代筆) 12月5日 (悠紀子夫人代筆) 「服部コピー」に「老兵記」とどけ48ベーヂにたりなければたしてくれるようにたのむ。(※省略) 夜、瀬見さんくる。11時すぎまで酒少々のむ。主人と2人でないしょ話し、 瀬見さんの170,000の高田先生の(※蔵書売却)話は17,000のこととわかる。 この頃なににでもびっくりしてゐる(ユ代筆)。 電話又先生にするが、耳がお悪くほとんどわからないのでつかれきる。 12月6日 (悠紀子夫人代筆) 朝7時半おき萩原さんに電、室生さんにも電。御二人とも同人にならぬ様子。 堀さん(東京の家)に電。「昨ドロボーに入れられて明方までねられずこれからねる。 二号にはなんとか(※執筆)出来るかも」と。「びっくりして元気なり」とのこと。 銀行にゆき(※省略) まことやでコピーと『かぎろひ』の製本をしてもらひ520円。 瀬見さんわざわざ来て「必ず24日までに『四季』出来る」とつたえてくれる。 朝9時すぎ主人、本を佐伯さんに13,000で大きな山ほど売る。 一日中「つかれた」と外出せず、夕方コピーをした(※『四季』創刊)文書を朝日、毎日、読売新聞に郵送する。 まことやのマダムから本返してもらう。少しもよんだ様子無く、主人腹立ておこってゐる。 きげんななめで23時ねる。(ユ代筆) 12月7日 (悠紀子夫人代筆) 朝9時、午前中服部タイプに行きペーヂ6ペーヂ足りないとのことで急ぎ帰る。 その前に郵便局より本荘氏に50,000円送金する(主人がぜひ返したいとのことで)。 午後、急ぎ末富氏の南方の話を、残りの部分のコピーをのりばりして持って行き、丁度足りるとのことで国鉄に乗り帰ると、主人鍵かけずいない。 ポストに四季社の名前を書いている時帰ってきて、末富さんのコピー前の方をもって行くのを私が忘れたと、がんがん怒られる。 そのため服部タイプに行き、主人とやりやって逃げてしまい、瀬見さんを呼んできたよし。 私が忘れたのではなく、先日書き写した原稿を主人はすっかり忘れて、早とちりで、 おかげでがんがんどなられてばかをみた。瀬見さんに気の毒。 タバコの代金200円を返してもらうよう電話でいろいろ頼む。つくづく悲しくなる。いつまで続くのか? 夜は9時半ねむくなる。浅野先生、石井小吉、鳥海へハガキ。 12月8日 (悠紀子夫人代筆) 今日は平凡社の馬場さんの来る日で朝から待ったがこないので一度ことわった。 末富さんのところで碁をうったが頭は『四季』の事で一杯でまけばかり。 夕方5時半馬場さん来る。「五雑俎」の中身好きな様にしてよいとのことだが、まだ手をつけること気がすすまず、カードの事も気になり出す。 馬場さん8時頃、夕飯して帰る。『四季』の製本、速達2通(藤沢・石浜)。 12月9日 (悠紀子夫人代筆) 8時すぎ目がさめる。一日中風呂で家。夕方堀さんに電話して朝十時頃おじゃますることにする。 12月10日 (悠紀子夫人代筆)  朝7時に起き、9時家を出て堀多恵さんの宅に着く。 堀さんに『東京四季』をあげる。会員になると2000円もらって、主人は荻窪の古本屋に行く。 家に帰ると瀬見さん今夜1回目の校正を持ってきてくれるとのことで、主人も安心して風呂に入り夕方まで家にいる。 夜、瀬見さん校正を持ってくる。『堀全集』主人買い戻す33,000。道造画集10,000を払う。 長崎女史見えず。吉岡克己さん電「道楽はだめだ」とのこと。 12月11日(日) (悠紀子夫人代筆)教会やすむ。午前中うとうとして躁は終わったもよう。 4時、亘理さん村田さん見える。牛肉のしゃぶしゃぶでお酒。村田さん泊る。亘理さんにうどんいただく。 12月12日 (悠紀子夫人代筆) 朝6時に起き、6時半、村田さんを起こして朝食後7時半帰られる。 主人はそれからそのまま居眠り。村田さんに1,000『四季』代もらう。 瀬見さん夜、原稿持ってきて全部直させて活字の号の違いを3人で確認する。大きい方から4、5なり。 夜9時半ねむくなってねる。1日中出る気なし。 12月13日 (悠紀子夫人代筆) 6時起床。加藤和子(詩)、室生朝子(ことわり2000円間違って入れる)。(※省略) 中山正子みかん、石井正吉氏リンゴ持ってくる。『四季』の校正出ず。 12月14日 (悠紀子夫人代筆) 1日中家にいる。木曽(※荻村雅子)よりりんご。朝礼状(北海道、河盛氏)を出す。外出せず。 12月15日 (悠紀子夫人代筆) 1日中なにもせずうとうとしてすごす。瀬見さんに電話するがはっきりせず。 ハガキに福地さんの弟さんの死去の事と中西薫さん黒豆送ったとのこと。木曽に礼状かく。 12月16日 (悠紀子夫人代筆) 1日中うとうと、外出せず。賀状10枚書く。(※省略) 福地邦樹弟の死を知る。葉書にてくやみ出す。依子より果物。高野夫人より歳暮。 12月17日 4:00起床。7:00ユ起し朝食、(※省略) 相良の小杉より『東京四季』2月に出せし後は『四季』に来さす。 詩、この度は下手なりし。母死にかけゐしも死にし故かけると也。 平凡社の広告につき瀬見氏より「活字の大小まかす」と答ふ。 12月18日(日) 7:00起床。ユ礼拝に出てゆく。われ四季の会のハガキ数枚かく。 (※『四季』創刊号)印刷中にて瀬見氏より電話あり。(※省略) 12月19日 8:00起床。「おしん」見て、選挙に田中角栄派全勝し福田・中曽根に勝ちしなど見聞す。 国民の金権に不感症となりしを知る。(※省略) 12月20日 早やくさめ、10:30出て(※省略) 銀座の三火会会場に11:30着。浜野の「匂ひの話」きく。(※省略) 浜野、吉岡2君と喫茶おごり、『四季』買への勧誘の紙わたす。(※省略) 次回には現物もちゆき現場販売ときむ。帰宅。 瀬見氏来り(※『四季』2号)初校わたす。21:00すぎまでかかりすます。川久保青森のリンゴ呉る。会はず。 12月21日 曇。(※省略) ユ10:00印刷屋にゆき(※『四季』創刊号納品)、瀬見氏に助けらる。萱といふ字なく棋はあり。(※省略) 12月22日 8:00起床。(※省略) 我、朝食後10:00出て高円寺局にて投函、小杉氏へ返事。瀬見氏に礼いふ。(※省略) 昼食後、末富氏にゆき御将棋にて負けつづけなり。山本知事に「買ってくれ」とボカして書く。 山本治雄に「買ってくれ」と書く。森開社に礼と「買ってくれ」と書く。(※省略) 12月23日 7:00覚める。曇。8:20朝食了る。10:00出て高円寺局にて投函。瀬見氏2人の従業員を供ひ、ちょっと話し本買って帰宅。 (※省略) 小杉茂樹氏より『四季』売りくれると。ユ16:00帰り来る。 12月24日 8:00さめ朝食すませ佐伯にゆき「書楽」にゆき「まこと屋」の開店まてず山住dr.。血圧105-80「薬ユとりに来る」といひて帰宅。 (※省略) 筒井護郎に賀状かく。諏訪澄より電話、わけわからず。 12月25日(日) 7:00起床。ユと礼拝にゆけば小林の3孫待ちをり。Xmas礼拝すみ竹森先生の本買ひ、(※省略) ユ『四季』を包む。われ入浴して21:00臥床。 12月26日 7:00起床。「おしん」見る。ユ印刷屋へ払ひにゆく。(※印刷代金不詳)  弓子と孝行来り、吉越笑子生来る。(同級1人をつれて)すぐ帰り行く。 苑ちゃん会員となる。花井夫人来り10冊もちゆき入会費2,000払ひて帰る。 12月27日 7:00起床。(※省略) ユ『四季』を包み郵便局へゆく。弓子これを手伝ふ。 12月28日 7:00起床、(※省略) ユの出しあと小杉茂樹君より電話、20冊覚悟と。 ユ『四季』を包み郵便局へゆく。われ無為夢想。 12月29日 7:00起床、(※省略) 山本みち子氏より1冊くれと500+160。 小杉茂樹君より電話あり20冊分+送料+同人費1,2500送らる。伊達氏より1万円(5冊分)。 平凡社久米氏より「広告見た」と。植村先生より「10冊買ふ」とお電話。 12月30日 よべ不眠、ユ代行して〒にゆく。矢野峰人先生より誤植指摘。 関口八太郎君に「自衛隊につきかけよ」とのハガキ幸ひに帰り来る。 小杉茂樹氏より「直送するな」との名を列挙。内に鳥羽女史すでに送りしとて困る。 大阪の備前芳子氏より切手60×40=2,400来る。 12月31日 21:00より7:00まで眠る。朝の中、河盛好蔵氏より「同人になるつもりなし」と怒りの手紙。 ユ郵便局へ再びゆき1万円送り返す(われ独断専行のわび状かく)。 「千草よりききし」と1冊送れと坂井春彦君(青山学院教員)より。入浴。眠し。 田中克己日記 1984 【昭和59年】  この年の出来事 1月、大高時代からの親友、丸三郎死去。(13日) 1月、中島栄次郎遺族より遺稿集出版の打診あり、野田又夫を紹介。 1月、玄関先で躓き負傷。銀座の大高同窓会に出席。 2月、『四季』同人となりし植村清二に挨拶にゆく。 2月、戦時中の同窓の上官、村山高、村田幸三郎と20年ぶりに歓談。成城大学文芸学部の会。 2月、江頭彦造より紹介の高橋渡、国友則房、同人となる。川久保悌郎と絶交(一週間で解く)。 3月、小杉茂樹、山本みち子と共に来訪。『四季』名誉同人となる。藤野一雄来訪。同人となる。 3月、肥下夫人より『コギト』復刻の話。3月、臨川書店片岡社長来訪。解題を依頼さる。 3月、高田瑞穂邸にてハイネ研究者井上正蔵と会ふ。 4月、『四季・春季号(2号)』300冊発行。(スバル社印刷代金17万4千円)。 4月、小杉茂樹、大野沢緑郎と来訪。 4月、神田喜一郎死去(10日)。 4月、創価学会の知人と日蓮正宗本山大石寺を見物。6月、勧誘を辞す。 4月、悠紀子夫人、戸田みつきのもとで詩人の肖像描く。 5月、杉山平一、山田雅彦に伴はれ来訪、対談内容が『文芸広場』10-12月号の記事となる。 6月、八ヶ岳の樅の木荘に夫人と一泊。 7月、臨川書店より『コギト』復刻。前半刊行(後半9月刊行)。 7月、肥下夫人来泊。保田與重郎のエピソードを夫人と共に聞く。 7月、痔疾発覚。 8月、『四季・終戦記念号(3号)』300冊発行。(スバル社印刷代金24万円)。誤植と評判に腐る。小杉茂樹の名誉同人も後悔す。 8月、かつてのゆきつけだった喫茶店プティ・パレ休業。 8月、伊達温来訪。臨川書房片岡社長来訪。 9月、高橋重臣来訪。 9月、長男史氏、仙台国税局長となる。 9月、『四季』いやとなり、石浜恒夫と福地邦樹とに編集を譲ることになる。 9月、牛尾三千夫に『四季』脱退勧告(一週間で解く)。 10月、京都にて第2回炫火忌。老病いひて断る。 10月、下阪一泊、中島栄次郎墓参。浪速中学教へ子同窓会。福地石浜2同人と今後の『四季』編集につき相談。翌日奈良訪問。 11月、『四季(4号)』300冊発行。(スバル社印刷代金16万円) 11月、『文学館(潮流社)』に小杉茂樹の二段組扱ひを見る。 11月、西島建(弟)の膵臓癌を知る。 11月、博士にならんと国士舘大学大学院入学につき朋友に尋ねる。 12月、高田瑞穂を訪問。来訪の川久保悌郎や高橋渡に苛々したり、栃尾武に絶交を申し渡す。夫人より躁の甚だしきを忠告さる。 12月、『五雑俎』東洋文庫原稿1,000枚余となり平凡社へ渡される。3,000部余り刷る予定。 12月、「清初の十王」、『成城文芸』にかくこととす。 1月 1日~ 7月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日(日) よべ21:00眠り6:00さむ。夫婦とも礼拝休む。賀状300-400通来りしも返礼数通のみ。 18:20中震(震度4)あり。岩崎昭弥君より会せしあとと。『四季』にかくと。 1月2日 よべ21:00就寝。7:40起床。 小杉君(※小杉茂樹)より電話「(※1冊)500にては足らずや」と。「4回全納を伝へよ」と答ふ。 午后、船戸氏菓子もち来り「瀬見氏にて『四季』買へ」といへば早々に去る。 小林一家来り、(※省略) 村田幸三郎君来り5,000投与し賜ふ。この次村山高氏に会ふと也。 高橋重臣君「熱海にあり。来ずや」と。「週末までに詩を」といへば「困る」らしき。 村田21:30帰宅、臥床。22:00睡る。 1月3日 7:40起床。午后、史一家来り、雨の中帰りゆく。賀状かけず。 1月4日 8:00起床。(※省略) 西川より「本受取った。1,000渡す」と。(※省略)  小林の3人(※孫)来り、餅食って出てゆく。 苑ちゃん来り、わが倦怠の色見て匆々去りゆく。賀状いやいや書く。 1月5日 8:00起床。寒く一日炬燵に居れば、(※省略) ユ戸田画伯にゆき「今週の土曜の稽古なし」と。印刷屋の主人亡くなりしもやりゐる様子と。 小杉氏より2,000+500来り、会員の規程見ざるらし。 福地君より「小高根二郎君重症にて入院」と、やはり気の毒なり。 「杉山平一、二郎に送らずや」とあり。あす返事ときめる。 1月6日 8:30起床。(※省略) 小杉氏に受取かき「『東京四季』の人々会員になってもらへずや」とかきユ、投函。(※省略) 山住dr.にユいけば「正己氏(※『四季』に)熱心」と也。 dr.の母上逝去にて年賀ハガキ100枚賜ひしをユ柏井光一に与へしと。 入浴後体重計れば38キロなり。 1月7日 7:20起床。(※省略) 田代耕二氏より1,000入金。礼をかく。植村先輩(※植村清二)より5,000来り「売切となるぞ」と。 1月8日(日) 6:30起床。ユと礼拝にゆく。終日賀状の返事かくのみにて了らんか。 11:00日比さん来り『四季』第2号10万以下で引受けると(活字印刷の由) 1月9日 8:00すぎ起き「おしん」見そこなふ。(※省略) 吉本青司氏より620円来る。 1月10日 7:00起床。賀状の返事かく。瀬見氏に礼いひにゆき、本買はずに帰り来る。(※省略) 白井浩司より「同人断はる」と、すすめしおぼえなく不思議。萩原康吉氏より会費2,500+切手180来る。 1月11日 よべ22:00眠り、江頭彦造氏より本来り、『山の樹』同人2人を『四季』同人にいかがと。賀状かく。(※省略) 1月12日 よべ22:00にね、賀状の返事かき13:30末富邸(※末富栄樹)へゆき惨敗21:30入浴臥床。 1月13日 7:00さめをれば丸夫人より電話「三郎けさ死にし」と。西川に電話すれば既に知りをり。今夜お通夜にゆくこととす。 11:00西川より電話あり「関口八太郎にしらす。君、お通夜に来い」といふ。山本治雄弔ひに来る由。 午食後、村山高氏より電話「丸のこと聞いた」と。「花代一万円承知」と。 また電話「大阪では香奠あつかへず貴君あて送る」と。 (※省略) 18:00前、家を出て丸家へゆけば中野清見をり。19:00までに関口、西川、山本治雄とそろひ、 法華経の誦師のあと焼香。丸夫人、重俊、次男、煦美子などすみても一度焼香。 みなすみて我等のみ寿司多く出され酒も出る。20:30すぎ別れて21:10帰宅。 1月14日 8:30すぎさめ「おしん」見ず。柏井歯科の帰りぎは11:50川久保来る。心配してくれし也。(※省略) 14:00高円寺へ往復して何ともならず。 中島栄次郎の姪といふ鈴木眞理子氏より「中島の本出す。跋などたのむ」とに「野田又夫が適任」とかく。 『四季』の会計、ユやることとなる。(※省略) 1月15日(日) 7:30起床。ユ礼拝にと出てゆく。11:30村田幸三郎より法律の相談。(※省略)  22:00入浴就寝。 1月16日 成人の日は昨日でけふ代休。8:30起床。 午前中、筒井信義君の叙勲(勲4等)祝賀会事務局より「祝送れ、祝賀会に出張するや」と、 「欠席、祝2,000で勘弁してくれ」と。(※省略)  高田瑞穂邸に入りwine出さる。駅まで送られ同人費のこといへず。(※省略) 1月17日 8:30起床。11:00出て有楽町の大高同窓会(※三火会)にゆく。 一番になのりしは古川丈吉元議員。ついで代る代る自己紹介す。(※省略) 菊地学長と久しぶりに会ふ。次回は原田運治の講義と。(吉岡君より丸の花代1万円返却受く)。 1月18日 8:00さめ「おしん」見ず。 能勢、渡辺恵、三浦の3氏より丸への香奠たまりしとて電話して(※丸家へ)11:00着き焼香。 2令息、煦美子をり「けふ初七日」と。帰れば金崎氏より1万円つきをり。 木村繁喜君より「(※『四季』)1冊見たし」と、ユをして送らしむ。 松枝茂夫氏より「『詩経』の原稿返せ」と。 石浜恒夫君より「知合に創刊号やり、あとで金崎氏とわかった云々」。 1月19日 9:00起床。雪降りをり。ユ『四季』と「丸三郎」の件にて出てゆく。外出せず無為。 小高根太郎より詩来り(同人費2,000入れあり)、小杉茂樹氏より「20日前後上京」と。 1月20日 雪やむ。8:00起床。ユ山住dr.にゆく。(正己先生に原稿をとdr.にいへと伝言たのむ) 17:00船戸君といふ文学青年来り『四季』3冊買ひしと。ユ巧みに会話して追払ふ。花もち来りしなり。 小野寺恵子氏より『四季』同人になりたしと返信料60円入れたり。 1月21日 村山高氏より速達、丸三郎への弔金。「大球会の弔金承知、弔慰金我あて送る」と也。(※省略) 1月22日(日) 雪やまず。牛尾三千夫氏へ「同人参加した」と誤解してゐしとあやまり書き、1冊送り事後承知たのむ。 小野寺恵子氏へ「会員になれ」とハガキ書く。礼拝出席少なからん。 1月23日 8:00起床。(※省略) 山住dr.にゆき「君が代考」願へば「承知」とdr.。 16:00高円寺都丸支店にゆけば瀬見氏不在。手袋左なくして帰宅。(※省略) 1月24日 7:00起床。午ごろ弓子来り、ユと出てゆく。 われ手袋さがしつつ丸家につき(※省略)、村山高、金崎2氏の弔慰金もちて丸家。 戸田画伯、ユの手かきたしと来らる。(※省略) 川勝先輩より丸への弔金、アドレスまちがへしと速達。 けさ浪中の南川より電話「おぼえてゐるか」に「おぼえなし」と答ふ(※南川正純:浪速中学昭和13年卒の教へ子)。 芦屋の織田喜久子女史「『四季』に入れてくれ」と。「近作見てのち」と答ふ。夕方この女史より良き茶もらふ。 1月25日 8:00起床。(※省略) 山住dr.にゆき躁症申したてれば薬へらし賜ふ。 午すぎ一寸眠り、村田幸三郎に村山中尉との会まかすと書く(場所はわが家)。(※省略) 1月26日 8:30覚める。「おしん」見て10:30丸宅まで行き、午食のため駈足で帰宅。 わが家の前にて倒れ、眼鏡破損、流血とめてもらひに山住dr.にゆき、薬局女史に案内され、篠原外科にゆき(※省略)レントゲンとらる。 医師の金とり主義に感心す。(※省略) 末富家へゆきはじめて将棋に勝つ。(※省略) 石浜恒夫より『遠山びこ』2冊来をり、一冊には藤沢桓夫氏の詩のりをり。これを『四季』にのせるつもりとなる。(※省略) 帰れば花井夫人来をり、詩のせしも会費出さずばダメといへば2,000呉る。(※省略) 1月27日 10:00前起床。篠原外科にゆきタバコ買ひに出る。(※省略) 兼清君より5冊分の金来をり、電話して「あすの19期生会に出る」とことづけたのむ。 1月28日 9:00起き篠原外科にゆき(※省略)、帰宅。11:00出て銀座のbeer-hallにゆく(※大高同窓会)。 兼清、倭をり金沢を最後に13人そろふ。 われ次より夫人同伴認めよといふ。大阪と合同にて鎌倉の海浜にてやると也。 5,000の会費なくし4冊わける(無料にて)。(※省略) 倭と地下鉄丸ノ内線に同乗、30万円の月収と。われ16万円といへば「よくやるな」と也。 南阿佐谷にて別れ帰宅すれば兼清の封筒より5,000出て来る。(※省略) 1月29日(日) よべ2:00に小便に起きあと眠れず。9:00起床。 小金井の阿部秀雄氏に1冊送る。岩崎昭弥君岐阜より電話「詩送る」と。 小高根太郎氏の「美女」、模倣とユ発見。 13:00秋川の浜氏(※浜久雄)「西太后出来た。見せに来る」と。15:00来り「小高根太郎君と同僚たり」と。 (その直前太郎君の「美女」はDavinciの書き直しとわかる。) 簡木桂に酒のみにゆくと出てゆく。 1月30日 8:10起床(よべよく寝る)。都留(※都留純也)に電話し高田のもち来る本さばくと簡単にきまる。19:00高田にその旨いふ。(※省略) 佐藤輝夫氏の10日締切なることをいはず「宜し」といへと。 途端に村山高氏より「上京してゐる」と。(※省略) 村田の都合にて日を定む。「我家の方よし」といへば承知と。 1月31日 雪降る。8:00起床。(※省略)  堀多恵さん・浅野晃(名誉同人とせん。切手のみ同封)、牛尾三千夫氏(1号送れと)。 京より『Forcus』10冊と柿など来る。 山本書店に「『蘇東坡』よし」と。研文出版にもほめことば来をり。気をよくす。 2月1日 起床。鬱なくなる。(※省略) 高田瑞穂「7部売った。同人やめる」と、「名誉同人となれ」といへば承知す。 小高根太郎にも「ダヴィンチありがとう。名誉同人とす。」といへば承知す。 高橋重臣君に電話すれば「3日前に送った」と。あとは福地、石浜と貴君にまかすといへば喜ぶ。 2月2日 篠原外科に400払ひ、あさって来れば全快と。 末富家にゆき「ジャバ記(※随筆「バンドンの工場」)」評判宜しといへば喜びてはなさず。 15:05来客いひ立てて帰宅。『四季』の金、岩崎、石浜、坂口、高橋4氏より来る。 2月3日 10:00起きて朝食。(※省略) 四季の会の礼かき石浜君に「詩かけ」、 高橋君に筑波図書館大学教授転任の祝かく。坂口允君には多謝。 岩崎には「インパール」の如きをかけといふ。中野清見より『正午のサイレン』署名入りにてもらふ。 ユ多恵さんに原稿の礼いふ(電話)。 日比さん(※スバル社)来り『四季』の印刷製本やると。中野区桃園と也。 2月4日 篠原外科へゆき帰り書楽・佐伯にて『堀辰雄』買ふ。nonsense。寒くて炬燵にをり。タバコへる。 2月5日(日) よべ睡眠不足なれど聖餐式にゆき、(※省略) (※故丸三郎宅へ)山内四郎のお香奠もちゆき、 吉延さんの1万円に◎つけ、中野清見の5万円、西川・山本の2万円にB、(※省略)  われStick (※みつかり)大もうけといひCの香奠返もらふ。(※省略)。 2月6日 9:00さめる。ユ(※見合斡旋で)活動的なり。中野清見君へ手紙かく。 長尾忍(※長尾良未亡人)へ3月29日の欠席かく(鬱に違ひなし)。 川村欽吾君より5,000と作品。まあまあなり。『ふーが』来り、藤野一雄と宇田良子に会員になれといはむ。 織田喜久子女史より「詩風合はず(※会員にならず)。伊東花子と往復」と。 石浜恒夫より「藤沢(※桓夫)さん(※転載)承知」と詩、別に来る。 (※省略) 夜、植村先生より「2枚書いた。送る」と。躁にてうれし。但し一日炬燵なり。(※省略) 2月7日 よべよく眠り7:00さむ。寒きも炬燵つきをり。とろとろと昼寝し『四季』会員と会ひしゆめ見る。(※省略)  辻芙美子より「(※省略)一度来る」と。 2月8日 寒し。中曽根反対の意見に首すくめ田中角栄伍長の除名ほぼ決定。 西山松之助博士に定年退職祝賀の手紙かく。「早く妻を失ひし」と也。 末富翁、碁将棋に誘ひ「勝手口開けをり」と。 2月9日 午后末富邸にゆき将棋よき勝負す。15:00帰宅、『四季』の編集す。 2月10日 平山敏次郎博士より本。午后出て植村先生にゆく。 Tender(220)(※タバコ)阿佐谷で買ひ、(※省略) 階段見れば先生の顔見ゆ。 「ナポリのポルノ(※隨筆原稿)」お書き下され、持参の先生の御著書にsignお願ひすればみな既にすみをり。 『明治村通信』いただき砂糖なしのcoffee先生に入れてもらひ恐縮。 帰りは(※省略)山住dr.に礼いひて帰宅。 Andropovソ連首相死にしと。スターリン以後は覚えなしに気づく。(※省略) 2月11日 紀元節とて休み。7:30起床。(※省略) 辻博士夫人(山尾生)、花井タヅ子夫人と同道、娘の進学につき相談。成城大が実力と答へ喜ばる。(※省略) 三田村氏(※泰助)より「羽田に抜刷もらった(「清初の殉死」?)。満文金瓶梅は湖南先生の文庫本」と。 三田村氏、湖南博士の遺族に代って天理に売込みしか。山田俊雄にハガキ。 2月12日(日) よく眠り8:30起床。ユも礼拝休む。(※省略) 新潮社の文芸辞典に「植村先生(※植村清二)入れよ、『四季』贈る」とかく。夜、雪しとしと降る。(※省略) 2月13日 7:00起きれば雪止みをり。10:00山住dr.血圧98-60と低し。タバコ殆どのまず。 ユ戸田画伯へゆきしあと『四季』の編集すます。 スバル社主日比氏来ず16:00ユに電話さすれば「今、戸田家にあり」と。 大体の組み方教へ、高橋重臣のcherry flower blossomdにsぬけをりと。大いに感心し 「4月1日の刊行承知」と。「投函ならびアンテナの修理承知」と。電気屋が本業の画伯にてその他多才なり。 彦根の藤野一雄君に「宇田良子女史と詩転載」とかく。 夜、河村純一先生に「『曲肱』の歌3号にのせる。黙諾せよ」とかく。 村山、村田2兄の迎へもととのひ、『五雑俎』の序文かくこととす。 第1冊(※天地人物事5部のうち)天・地・人にて7.31に出来ん。 けふ平凡社の東洋文庫に電話し『天遊の詩人 李白』1冊のほか文庫本5冊ほどにて久米さん「広告料払った」と也。ついで筑摩にも本2冊頼めば我を著者と知りをり「8ガケとす」と也。 瀬見氏に礼の電話すれば喜ばれ、やがて傍にをりしX君(※店員?船戸氏?)「あす午前中に来る」と也。 21:00村山さんに電話すれば「16:30東京着、電話する」と。「癌は10年もつ」といへばユ叱る。 「入学試験でHotel満員」とユの話。われ山の上ホテル、学士会館は大丈夫といふ。 『酉陽雑俎(東洋文庫)』みれば著者の伝記なく校本のみを記す。 わが『五雑俎』には著者の略伝に『和刻本五雑俎』のこと記すこととす。22:00京都の羽田に電話(※省略) 2月14日 7:00さむ。よべ震度3の地震ありしとユ。 村田より電話「16:30来る」と。「村山さんも同時刻東京着、胃癌」といへば「おれもさう」、「手術しろ」といへば「他人事と思って」と怨む。 (※省略) 山本書店より広告料にと『中国の自然と民俗』5冊来る。(※省略) 駅出口にをれば村田幸三郎少尉(※元小隊長)来り、先に家へゆかせれば村山高博士(終戦時大尉)(※元中隊長)来り、 わが家に帰れば、村田まだover-coat脱がずにをり。20年ぶりとてうれしがり村田放談。 村山氏は村田のもち来し肉くはず、ユの買ひし刺身のみ食ひ聞き手にまはり21:00品川のHotelへと退出。 わが本山ほど土産にし、父の歌集は2人とももたず。われユの夕食するころ風呂に入り垢おとす。 2月15日 尿のため6:00さめる。ユ睡りをり7:00起きてブツブツいふ。8:00朝食、8:30山住dr.にゆく。血圧98-60。 『日本の漢語』呈し、正己先生習字中とて喜ばる。御隠居(※山住克己)の米寿来年10月と。 (※省略) 書楽にて司馬遼太郎『最後の将軍(280)』買ひ(※省略)一橋・慶喜・水戸家を嗣ぎ将軍となるをよむ。(※省略)読了。 大東夫人に「夏季号に執筆を」と1冊送る。加藤和子女史に受取(2,000)と1冊。 某氏より電話、サイゴンで一緒になり、我俳句3首かきし。84才と。フィリピンより帰りしと。俳句写して贈ると。 2月16日 晴。寒し。朝食7:30とり「おしん」半分見て山住dr.へ8:30ゆき「好きな歌きらいな歌」うたひをれば先生出て来られ血圧98-60。 (※省略) 薬もらひ「好きな歌きらいな歌」うたひユに叱られる。 船戸氏遂に来ず都丸支店に「午后あきしと伝へよ」といひユにその旨云ひにゆく。 村田幸三郎より「(※省略)も一度会ひたし」とハガキ。 船戸氏来り「野村英夫論あり」と。同人としたきも26才と年少なり。髭生やし髪禿げをり。 ユの帰るをまち、ともに書楽にゆき『新潮』2月号をといへばとりよせると。 3月号には保田と最近死にしその批判者大久保某の文あり。 竹内と春夫・與重郎の北京のこと載す。これも保田をほめをり。炫火忌に出しと也。 そこへ坂口允男君の歌集『飛火野』来り見事なり。(※省略) 小川和佑の堀辰雄『その愛と死』写真多くてそれのみが取柄なり。村田に電話すれば「この次は泊めてもらふ」と。われ「語りあかさうよ(デッキの上で)」(※ラバウル小唄)歌ふ。 2月17日 7:00さむ。ユ7:30起き、画出来上がらせ10:30戸田氏へゆくに、 『四季』の「わたしの言葉」読ませスバルさんにたのむ。運搬に当たる由なればなり。 秦恒平『閑吟集』よみ了り、保田の好色を憶ふ。「君が代」は『隆達小歌』に初出と知る。(※省略) 藤野一雄君より「転載光栄」と。(※省略) (※軍属派遣時の)みどり丸乗船の小谷秀三技師より拙句  風涼しサンジャック港を船泊(は)つる  永旅に語りあふたり信濃路を  来年の桜見んとぞ誓ひたる(2602年3月3日佳辰) のせし日記のcopy来る。山口基君より丸三郎の歌のせし『炫火』のcopy来る。 次いで小包筑摩書房より『詩経』くれ、『ゾロアスター教』代金2,560と。 丸重俊に電話すれば「納骨あす」と。「49日にでもまたゆく」との由故「遺稿はその時」といひてすむ。 2月18日 7:00さめ9:30積雪の中、山住dr.、正己先生に『隆達小歌』に初出の「君が代」のこと書きて渡し、 風邪薬もらひ三位一体の歌うたひ「鼻声でせう」と薬局より風邪薬もらひて帰宅。床あげて『五雑俎』にかかることとす。 (※省略)就寝前、『五雑俎』の序の注ほぼ了る。19pなり。 序かきし李維貞は巻248に見ゆる李継貞ならんか。(※省略) 保田典子氏、遂に何の便りもなし。 ユ床を敷き呉る前、李継貞の李維貞に非ざるを知る。『福建通志』を東豊書店にて検せん。われこの本もちしも売りしらし。 2月19日(日) 7:00前起床。ユ咳しをり。 李維貞は『中国人名大辞典』にありて写し「序文」了り、「天部」の訳注することとし、ユも礼拝休む。 (※省略)  小川和佑『堀辰雄――その愛と死』よみ了る。まちがひ多し。 「天部」かきつつなれば『五雑俎』に文語まじりて困る。 わが東大時代右翼(少数)をリードせし平泉澄死す。89才と。 「悪人の命は長く善人(天才)は命短し」と自覚す。われは罪人なり。 新教の牧師の父をもてるひとつひに夫を死なせたまひし(堀多恵さんに) キリスト教は永世天国なれば也。(※省略) 夕食ののち4畳半にて『五雑俎』の訳注。不満なるもしかたなし(200×10)。 けふ丸木(高松)夫人に電話し白水千鶴子の家事不能なりしを云へば「4月に追悼会你家にて」といふ。 『五雑俎』稿あす書き直しと決定す。 2月20日 晴時々曇。7:00起き「おしん」見しあと東京建物に電話すれば西川出て「三火会にゆけず、原田によろしく」と。 「『四季』に厚見壮吉(※西川英夫の高校時代のペンネーム)の歌のす。買へ」といふ。 昼食後、高円寺の都丸支店へ本売りにゆけば2番番頭ゐて「瀬見は神田、午后6時帰る」と。 本預け、明治学院大学講師町沢氏(一高理乙にて数学の大家82才、(※省略)) 話面白く苦き茶を饅頭にて饗され「再来」と云ひて去りて帰宅。(※省略) 平凡社より『天遊の詩人 李白』1冊と東洋文庫5冊(※『酉陽雑俎』)来をり、練馬の倉庫よりとりよせし也。 辻芙美子に服部正己未亡人のこといひ、Foto-Weg-Geleit の礼かく。(※省略) 村山氏、朝の便にてハガキ 「一昨夜は歓待にあずかり有難うございました。村田君とは久しぶりで懐かしいことでした。頭の様子が変わっただけで言動は昔通りですそれにしても御令閨様に大変お手数を煩わし恐縮です。昨日晝過ぎの飛行機で帰って来ましたが早速『神聖な約束』を読み、それから「始皇帝の末裔」を面白くよみました。珍書の方は未だです。沢山本を有難う云々」とのハガキ来り、うれし。 佐伯へ崔吉城君の本の3月刊行なるを注文にゆき辻女史へのハガキ投函。(※省略) 帰りて薮内清博士の『中国の天文暦法』と藤井旭『星座図鑑』とり出す。斗の北斗にて斗宿に非ざるを証せんと也。 瀬見氏に電話「夜来れ、まだ売る本あり」といへばしぶしぶ「来る」と。21:30瀬見氏来り whisky“Old Parr”一盃のみ、村田の呉れし『Don Quixote』他2冊と昼もちゆきしとで1万円呉れて、 (※瀬見氏の故郷)紀伊の国に応神天皇の誕生伝説あること話し「夕食まだ」と帰りゆく。 手袋忘れありし故、電話すれば夫人「ありがとう」と。(※省略) 2月21日 よべ2:00排尿におき、あと眠りしや否や不明。7:00起床。(※省略) 『五雑俎』の宿題片づけ一服し、10:00に仕度し、(※省略) Beer Hallにつけば、 けふは三火会に珍しく4卓の室にて、原田と室に『四季』やり、加藤に『神聖な約束』やれば加藤参りし様子。 室は松江にもゆかず丸の死にもふれず、子なき故仕方なし。(※省略) わがもちゆきし『神聖な約束』に加藤「どうしたらよいか」「息子の霊前にそなへよ」と答ふ。(※省略) 「佐伯」「書楽」をへて帰宅。 (西山松之助博士、わが手紙に感激。2度目は中国の仏地巡礼し報告は雑誌にかくと也。)(※省略) 出て高円寺球陽堂にて『白秋詩集』買へば400にまけてくれ、(※省略) 瀬見氏に手袋渡せば礼も云はず。 『徐兄弟の10年』と『教会の改革』ともに200づつ。toiletにゆけば「顧客以外の使用禁止」の貼紙あり。(※省略) ユ、5回toiletにゆきし娘の縁談にて清水(小)嫗と長き電話かけをり。 televi見るをやめ『五雑俎』にかかりしも200×10の註にて参り入浴。 (けふ都丸支店にて大林太良教授に遭ふ。父上(元学園長)と同居と)。小杉茂樹氏に挨拶のハガキかく。 2月22日 7:00起床。寒く晴のち曇。夜は雪と。衛藤瀋吉教授「青学にゆきno necktieを赤necktieに改める」と也。 『五雑俎』起きがけにやり、疲れて外出。(※省略) (※成城大学)図書館にゆき受付女史に目録その他もらひ、講師室の畑さんへ学園長に『中国の自然と民俗』わたしたのみ、高田邸へ14:30ゆく。 夫人電話にて忙しく歌もうたへず高田相手に20数曲うたひ、(※省略)(※ともに京王プラザホテル成城大学の会) 学部長来るを待ち、宮崎学部長の司会にて平山教授の定年退職の挨拶あり、(※省略) 畑芳子女史も退職とて花束もらふ。(※省略) 平山・齋藤両博士より挨拶あり、それぞれと話せしも齋藤博士伊東静雄と我とのこと知りをり。『中国の自然と民俗』贈らん。最も早く退席、荷物係より「帽子はあなただけ」と云はる。地下鉄に坐り、怪しき新聞捨つるを南阿佐谷にて拾ひ、ユに電話し「茶漬用意しろ」と云ひて帰宅。(※省略) 大東夫人より「福地の詩は伊東そっくり。私もかく」と電話「やきもちの歌つくれ」といへば「先生昔通り」となりし。 けふ青木副手「そのうち小泉凡と来る。彼は大学院受験勉強中」と。『五雑俎』200×43となして眠剤のむ。23:00なり。 2月23日 7:00さむ。雨降りをり。山住dr.にゆき「君が代」考わたす。血圧106-90。 出て「書原」にて注文の『新潮』2月号受取り、『山家鳥虫歌(450)』、 成瀬正勝(犬山藩主pen-name雅川滉、第9次『新思潮』同人、昭和48年没、蔵書は明治村にありと)『森鴎外覚書』買ひ、(※省略) 帰宅。 花井夫人に長き電話し末富翁より「御将棋に来ずや」に「ゆく」といふ。(※省略) 16:30すませ、 我家寒しと佐伯にて買ひし英和辞典、令嬢の入学祝にと(※山住dr.に)もちゆけば(※省略)感謝さる。 戸田夫人の弟、京都大井氏より『四季』の紹介あり。秦海人の名をあぐ。(※省略) 西川満氏の『Andromeda』の「山茶花はさざんか」に「山茶はツバキ、サザンクワは茶梅」とかき、(※省略) 町沢老に「ゆく」と電話すれば女の声にて「おぢいさん」とな。「来よ」といふにゆけばのちをり「漢詩の写本よんでほしきも、けふはなし」と。『中国の自然と民俗』見せれば「艾」よめずモグサといひてもわからず鍼灸術のこといへばわかる。(※省略) 一旦我家に帰り、また出て「まことや」にゆき丸三郎歌集のcopy製本たのむ。本は成田の墓前に供へcopyは『四季』夏季号にのせんと也。 (※省略) 夜、食後丸重俊に電話し「丸三郎歌集できた、とりに来い」と云へば「あす夕」と。「夫婦にて来い」といふ。 『五雑俎』200×64となし、入浴。「后妃星」あす探すこととす。 2月24日 7:00さむ。televi見て朝食、10:00出て山住dr.。(※省略) 出て北上すれば、西川満氏にあふ。わがハガキまだ見ず。 『中国の自然と民俗』贈呈し、ツバキとサザンクワの漢名を云ひ、(※省略) 帰宅。 江頭彦造氏より高橋渡(pen-name、故中山晋平氏の女婿と)国友則房の2氏同人希望といひ来る。早速夏季号より同人とすることと決め、その旨ハガキかく。 岩崎昭弥君より「詩書く」と。世間はロサンジェルス殺人事件で騒がしく、小雨降りをり。 15:00戸田画伯にゆきユの探偵小説にくはしきに皆感心す。 「阿佐谷北の白秋邸の近くに李香蘭住みゐて隣人なりし」と画伯の話。帰宅して兼清へ礼状かく。 17:00丸重俊夫妻来り、墓と遺影の写真くれ、(※省略) copyせし丸三郎の歌集を手向けよと渡す。 『五雑俎』これより后妃集を検することとす。200×68に至って湯わかさる。 奥沢1-63-●(中山晋平方)高橋渡 小金井市本町3-1-●国友則房 2月25日(※日付ミス。日曜日の記述あり) 4:30尿を催して起床。(※省略)9:00雪の中を夫婦にて礼拝にゆく。大友副牧師司会。お説教の間、悪いながら歌つくる。(※省略) (※下連雀の小谷秀三家を訪問。) 「勲4等貰ひし」と。笠原軍医知りをり。山下将軍より本間将軍の方よろしなどききつつ、(※省略) 早速出て小林にゆき克次朗と将棋2番、1勝1敗にて克次朗喜ぶ。(※省略) 小谷氏の『歩いてきた半世紀(昭和54年4月刊行)』もらひしをよみ、夫婦喧嘩をたのしみとするらしきに感心す。(※省略) 2月26日(日) よべ入浴せず早く(21:30)ねて5:30起き、小谷秀三氏に笠原文一軍医のアドレスしらすハガキかく。9:30山住dr.(※省略)。 (※『四季』)高橋渡氏と森亮氏とに贈り、森亮氏には同人参加を呼びかく。(※省略) 『東洋学報65-1.2』来り、(※省略) われ岩波新書『星の古記録』見て「客星とは彗星か新星」と知り(※『五雑俎』の)注かき直す。 2月27日 よべ早くねて4:30早くさめ歌うたひ7:00入浴。(※省略) 河村純一先生より 「四季同人承知、(※原稿は)『近江にて』より抜け」と。 televiは(※ロス疑惑)にて大騒ぎなり。(※省略)  河村純一博士の歌を選ぶ。『五雑俎』の注かき83枚となす。 2月28日 外出せず入浴2回。『五雑俎』の注かき86枚となる。21:00より眠剤。 2月29日 7:00起き歌うたふ。朝食後入浴。 井伊文子夫人の「仏桑華」の『四季』3 (8月15日発行)転載許可を石浜恒夫にたのむハガキかく。(※省略) 大石書店にて『四季4人集』500円にて売りアンデルセン『絵のない絵本』、『梶井基次郎集』200円にて買ひ、 都丸支店にて『平家物語 上下』、『漢の武帝』、『大杉栄自叙伝』、『侏儒の言葉』買ひ球陽堂支店にて2冊(※省略) (※帰途)川久保夫人に遭ふ。「出入差止め」といひて別る。 今日の郵便にては国友則房氏より「3号より同人承知」と。辻芙美子より「服部夫人には時々会ふ」と。(※省略) 岩崎昭弥へ手紙かき「藤野・宇田夫人を会員に、河村博士3号より同人、井伊文子女史交渉中」と彦根のことかく。 『五雑俎』のためSchlegel“Uranographie chinoise(※星辰考原)”よみ直し博引に感心す。 3月1日 6:30さむ。野田又夫氏に『遠やまびこ』に書きし「至人不留行」の転載ゆるせとハガキかく。丸夫人より御挨拶によき暖簾賜はる。(※省略) 小杉茂樹氏より「会員名簿(年間きめと月々の)」。(※省略) 13:30末富邸。 (※省略) 友人に漢詩作る人あり「矗」と首めにあり音きかれしに帰りて『辞海』見れば「ソク、そびえたつ貌」と。その旨紙に書いて報告にゆき忘れしGelbe Sorteとりもどす。 『コギト1-6』の製本にまことやに行き、間を佐伯書店にて50円の文庫本6冊(アンデルセン『マッチ売りの少女』、『人魚姫』シェークスピア『ジュリアスシーザー』、太宰治『ヴィヨンの妻』、『パンドラの匣』、『晩年』)買ひ、 製本料30円!払ひ、野菜買って帰宅。小杉茂樹氏へ『四季』の経過報告のハガキかく。(※省略) 『五雑俎』の注かき98枚となる。 3月2日 晴。7:00さめ「おしん」見る。朝食後10channelに史、出(美紀子よりユに電話)、確定申告につき東京税務局総務部長として職責果す。 「にっこり笑へ」とのanouncerの注文に局員代表として苦笑す。 スバル社長日比氏より「10:30」と。(※省略) 三火会より「正野君小松ストア退職3月21日バングラデシュについて」と。(※省略) 日比氏来り、第5次『四季』のならべ方その他に助言。編集すみてユの絵について助言、茶のみ、電気みて去る。 ユは母のもとへ「来れ」とのことにゆき、我は『コギト』の製本にてまことやにゆく。 (※省略) ユ帰り来り「猫一匹危篤にて犬猫病院へ運びし」 (3,000円とられ10,000円預りしと。孫、曽孫、建にはかかる愛情なかりしと思ふ。(※義母)ふしぎなる女なり。) 16:30山住dr.にゆけば血圧128と高し。(※省略) 小杉茂樹氏へのハガキ投函。 『五雑俎』200×101にてやめる。(※省略)  宇田良子・加藤和子2夫人へ『四季』にのせたと。 山本みち子・鳥羽貞子2夫人に『夏季号8月15日』にのせると、ゆるし乞ふハガキ。 3月3日 (※夢 省略) 8:00起床。「おしん」をteleviにて見てハガキ4枚投函にゆく。 『五雑俎』やりをれば牛尾三千夫氏より出雲の菓子賜はる。(※省略) 佐伯に寄り、シェークスピア『ロミオとジュリエット』、『ハムレット』、石坂洋次郎『青い山脈』、和気朖『死を呼ぶ科学』と50円本4冊買ひ、 (※省略) 和田統夫税金用に「200万円を4月10日より30日まで貸した」旨証書かく。(※省略) televi水の江滝子の甥と称する三浦某のLos Angelesにおける殺人事件で死体の当人か否か不明にて大騒ぎしをり。 (※省略)『五雑俎』訳注117枚を越ゆ。 3月4日(日) 2:30排尿に起く。4:00まで『五雑俎』やり119枚となる。 坂口允男氏に歌集『飛火野』より選ばんとハガキかく。(※省略) 坂口君の歌は「広島原爆記念日」を採る。 笹淵友一博士・美堂正義氏を同人にせんと思ふ。笹淵博士は名誉同人なり。 夢に見しよし子のゆくてわからずていらだちてこそ別れけるかも。 石見のや鴎外出せしその歌はむつかしくして人ら愛せず――牛尾三千夫に。 礼拝に夫婦にてゆき歌作る。聖餐式あり。すみて原徹氏令嬢より無着成恭氏『詩の授業』渡さる。 皆の並びて買ふは竹森先生の『ピリピ人への手紙』にて、(※省略) ユ小清水さんと縁談の話しゐる故、 先にゆきて古本屋にて『蘇東坡詩選(500)』、露伴『運命(100)』、伊馬春部『桜桃の記(100)』と買ひ、(※省略) 帰りて無着氏へ礼状、発行所付にて書く。小野十三郎が好評、丸山薫をのぞく達治、春夫、藤村みな反響なし。 televi見、中島栄次郎の姪、鈴木眞理子氏に「便宜はかる」とハガキかく。『五雑俎』120枚のまま也。 3月5日 6:00さむ。(※省略) 「書楽」へゆき(※省略)『イノック・アーデン(150)』、蘆花『自然と人生(350)』、『不如帰(300)』、 啄木『時代閉塞の現状その他(300)』、葦平『土と兵隊・麦と兵隊(280)』、漱石『坊ちゃん(180)』にて有金殆どなくなる。 『四季』創刊号どうしても見つからず(※在庫払底)、(※省略) われtelevi見てSamarkand,Bokhara,Tashkendなど喜びて見、羽田を憶ふこと多し。(※NHK特集「シルクロード・第2部」サマルカンド・ブハラ) (※省略) 3月6日 6:00さむ。7:30朝食。吉岡克己氏に『野球部思ひ出文集』たのむ。花井タヅ子さんに『四季』創刊号1冊返してくれといふ。(※省略) 山住dr.にゆけば血圧107と低し。(※省略) 佐伯にて『黒猫(50)』、『絵のない絵本(50)』(※省略) 『群像』阪田寛夫「五十嵐日記・解題」よみをれば地震。(※五十嵐達六郎)『コギト』には入りこめず仏教と数学とを末期に学ぶと也。 国友則房君より「編集用の『四季』つきし」と。鳥羽貞子さんより2,000来る。2人とも3号の2段組なり。 国友君「『四季』の発刊を祝いて」との詩、同封ありがたけれどのせられず。水の江滝子つひにteleviに出る。三浦知良(甥)の逮捕近からん。 3月7日 6:00よりうつらうつらし(※省略)、山住dr.に8:30ゆき待ちて血圧106にて宜し。(※省略) 筑摩書房より『中華飯酒詩選』『酒中趣』来り代金2,240と。 小杉茂樹氏より「3月12日山本みち子氏を案内人に午后1時半頃来訪」と。 岐阜養老町の冨永覚粱といふ詩人より第5詩集『最後の儀式のように』来り、受取かく。(※省略)『コギト』31号見つからず。 川久保、柏井歯科の帰りに「元気かね」とききに寄る。花井夫人17:00去りゆく。(※省略) 『四季』3号の編集す。 3月8日 3:00排尿に起き、また眠り6:40起床。(※省略) 「おしん」見了り「老兵記」書き足し、10:30山住dr.へ本返却、診察、血圧126と高し。 すみて佐伯へ朝鮮語の本5冊(臨川書店東京支店)とりよせたのみ、トルストイ『光あるうち光の中を歩め』、梶井基次郎『檸檬・冬の日』2冊150円で買ひて帰宅。 (※省略) 13:30末富家へ碁将棋にゆく。(※省略) 4号のため「老兵記2」写し了る。(※小杉茂樹氏より若芽布。省略) 3月9日 6:20起床。朝食後9:00より「五雑俎」。山本みち子氏より会費1,000来る。13日小杉氏案内してくる予定なり。『戦旗』復刻刊行会より刷見本。(※省略) われ外出せず「五雑俎」の註やる。(※省略) けふ「老兵記」書き直し(※省略) 高見山来日して今年で20年目と。十両よりとりなおすや否や。 3月10日 2:15さめ「五雑俎」やる。(※省略) 鳥羽貞子氏より「12日午后用あり(※山本みち子・小杉茂樹と)駅南口の改札で待つ」と。(※省略) 坂口允男氏より「歌集より採るとのことに喜ぶ」と。(※省略) 吉岡克己氏より『野球部回想記集』送られし故、礼状かく。(※省略) 『五雑俎』162枚となる。 3月11日(日) 6:00さむ。9:00出て教会。(※省略) 佐伯にて『山椒魚その他』、シュトルム『みずうみ他』、鏡花『高野聖』など買ひて帰宅。(※省略) 小杉茂樹氏より「あす12:30阿佐谷駅南口より電話す」と。古本屋の目録見てわが本の高く売価廉かりしに気づく。(※省略) 高見山十両で勝ち、(※省略)「山河燃ゆ」を見了り、(※省略) 3月12日 4:00さめ4:30床上げ排尿。『五雑俎』やり(※省略)168枚。 相良の小杉茂樹君電話あり「ピーコックにあり」と。駈足にて迎へにゆけば「40-1探しまはりし」と。 喜びてつれ帰る途中、年齢54歳と聞き名誉同人ときむ。編集の苦労知りをり「佐々木甚一氏(弘前大学助教授)を同人にすべし、他は下手」と。 金沢文庫に長女をり、帰るとて夕食ともにせんといひしもきかず。 間に電話3本、1本は肥下夫人より「臨川書店にて『コギト』再版すると保田夫人より相談受けし」と。近代文学館にては力及ばず引き受けよといへば喜ぶ。 あと2本は貯金局より名義を四季社とするか田中克己とするかと也。「田中克己とせず四季社とせよ」といひて書類送り来ることとなる。 夜、入浴して待てば9:30日比氏来り、明日より北海道と。(※省略) 空きページに画でも入れよといひ、 20年1月海軍入隊終戦時中尉59才といふに吃驚す。(※省略) 3月13日 よべ一度排尿に起き6:00起床。『東京四季』より会員住所写す。ユ10:30歌舞伎座へと出てゆく。(※省略) われ戦記2冊よみ「五雑俎」やらず。(※省略) 19:00小杉氏より電話「『立原道造画集』ありがとう。帰宅した」と也。(※省略) 成城大学より23日の卒業式の案内来る。 3月14日 6:20覚む。(※省略) 『五雑俎』175枚とす。 (※省略) 高田瑞穂に電話、(※省略)原稿たのむと伝言たのむ。(※省略) 澤地女史『もうひとつの満洲』よみ了る。(※省略) 3月15日 6:00起床。「五雑俎」やり7:30朝食「おしん」見了る。 まことやに『コギト』の製本3冊たのみ、(※省略) 『河』60号来り、伊東静雄一家の名にくて安心す。けふ高田瑞穂に詩集(木原信輔詩集)より1篇とるとハガキかく。(※省略)森亮氏より返事なくて困る。福地邦樹には「何冊必要か」と書く。(※省略) 日比氏来り「こほろぎ」の詩、前に出すがよろしきやと、「宜し」と答ふ。ユの説説にては花井夫人の詩と。(※省略) 3月16日 2時尿に起きてまた眠り7:00起床。朝食後『五雑俎』188枚×200までやりて疲れ、石浜恒夫に「夏季号に詩を」とハガキかく。雪降りをり。 森亮君に「同人に参加してくれ」とかく。小杉茂樹氏より2号の代金2,000とどく。(※省略) 高木俊朗『戦死』よみ了る。陸幼・陸士・陸大の教育を批判しをり。 3月17日 6:00覚む。7:00朝食し「おしん」見了る。「五雑俎」ちょっとやり9:20散髪屋。 すみて書楽にて『青年』と『破戒』買ひ、佐伯にてトルストイ『結婚の幸福(100)』と『女性の解放(120)』買ひ、 まこと屋にて『コギト』の製本2冊すまし、(※省略) 森亮君へ「返答いかに」のハガキかく。 鴎外日記より田中正平関係を抜きて23:10了る。ユ眠りをり。 3月18日(日) 6:00覚める。床上げ「五雑俎」やる。(※省略) 9:00出て礼拝。(※省略)  駅前の古本屋にて『ソポクレース・アンティゴネー(50)』、荷風『つゆのあとさき』買ひて、(※上川霊園墓参。省略) 早足にて帰宅。(※省略) 3月19日 5:30起床。「五雑俎」やる。11:00まことやに『コギト』の製本にゆき、(※省略) 午食後は「老兵記」写し200×15とす。『四季』4号の為なり。 『山の樹』春季号、『国分寺めぐり3(矢沢利彦君より)』、国友則房君より『四季』創刊号返却。『健康』、『日本歌人』来り、 高田瑞穂より旧作の詩来る。『四季』3号に載せん。20:30まで「老兵記(4号分)」を写す。31枚になりて止む。21:00入浴、22:05臥床。 3月20日 よべ3:00排尿に起き6:35起床。7:00まで「五雑俎」やり(※省略) 13:30藤野一雄君来り「3号より同人承知。(※省略) 10,500円。内500は創刊号分、井伊夫人の分入れて10分送れ」と也。 三鷹の3人来り、(※省略) televiでPapua New Guinea見る。 3月21日 6:30起床。7:30「五雑俎」やりをれば朝食に呼ばる。(※三火会出席。省略) 帰宅。(※省略) 宇田良子女史よりハガキ来しに「一層よき詩を」とかく。(※省略) 若島津1人全勝。(※省略) 高田瑞穂より「26日2時来い。井上正蔵も呼ぶ」と電話あり「応」と答ふ。(※省略) 3月22日 5:45覚む。「五雑俎」やり(※省略) まこと屋にて(※『コギト』)製本2冊してもらひ、(※省略)12:00近く末富家より電話(※省略)、 『西川満全詩集』にわれ一言しをり。大野沢氏より3,000来り、(※省略) 若島津、大乃国に負け全勝なくなる。 3月23日 5:50覚める。7:00朝食、『五雑俎』難航しをれば10:30肥下夫人より電話「臨川書店在京、わが家へ来る」と。 『コギト』31号つひに見つからず。19:30日比さん(※『四季』の)校正もち来る。22:00校正すまし、(※省略) 3月24日 6:00覚む。(※省略)『四季』の会員規定を定める。「五雑俎」ちょっとやりし他は無為。 『風日』来り保田の4周忌の案内来る。「予約あり」と断る。(※省略) 夕食後、南川より電話「5月に先生呼び同窓会す」と。「ゆく」といふ。善見勉のclassなり。けふ角力若島津優勝。 televi「Lafcadio Hearn」やる。小泉凡いつ来るや。祖父一雄出て来をり。妻を檀フミ演ず。 3月25日(日)4:00一度さめ、7:30起床。9:40礼拝にゆきBibleよむ。(※省略)  三鷹の3孫来り、克次朗1勝1敗、あとは宏一郎相手にならず。 夜に臨川書店より速達『コギト』の復刻につき片岡社長29,30日来るとのこと也。「来よ、電話せよ」といふ。 3月26日 6:00前さめ『五雑俎』やる。200×96で休む。(※省略) 12:30出て成城大学(※省略) 成城堂へゆき『大森貝塚』とlighterと買ひ高田瑞穂邸。 井上正蔵君中々来ず14:15現はれ、ドイツ語われの方旨し。「『四季』同人承知、詩かく」と。18:00までゐて小田急の切符買ひ与ふ。 下北沢で降りぎは「松枝茂夫!」といふ(都立大の同僚なれば「矢野峰人先生訪はん」と)。(※省略) 3月27日 6:00覚め7:00朝食、(※省略)「五雑俎」やりをれば井上正蔵君「『四季』同人は考へさしてくれ」と。(※省略) 土浦の小林剛氏より『四季』を「師阿部英雄氏より頂いた。2号より送れ」と。 17:00出て新宿。京王プラザに着けば栗山をのぞく名誉教授みな来をり、(※成城大学の会。省略) 3月28日 よべ2度排尿し、やや眠りがたし。(※省略) 在米の石川弘義君に空便かく。(※省略) 臨川の社長「30日9:30~10:00来訪」と電話あり。 3月29日 6:30起床。「五雑俎」注やり8:00朝食。(※省略) 13:30より末富氏とよき勝負す。 夜また「五雑俎」、あひまに平凡社より電話『李白』増刷、2冊送ると。夜また「五雑俎」やる。 3月30日 7:00さめ朝食うまし。臨川書店片岡社長来るを待つ。(※省略) 10:35電話かかり駈け足にて阿佐谷駅に迎へ、来りしに『コギト』総目録見せ、印税も払ふと也。昼食にユうどん採る。すみて片岡氏を駅まで送り本屋にて『私の読書(430)』、書泉にて『星界の報告他(250)』、『自殺について他(150)』にて金なくなり、(※省略) 平凡社より『李白』3,4版1冊づつ来をり、20:30日比氏来り『李白』進上。『四季』責了とす。(※省略) 3月31日 7:20起床。朝食し年賀状など整理、保田のハガキあり。午后になりてプティ・パレに車おきて京来り、(※省略) 三鷹の3孫来り、将棋3番、 (※省略) 三鷹の親子帰りゆく。『四季』遂に来ず。船戸君来り『四季』買ふとなりし。入浴。みな(※京夫妻一家)眠る。 4月1日(日) 7:00さめ7:30子や孫起き来る。8:30京出てゆき我9:00出て礼拝。(※省略) 古本屋にて岩波文庫2冊買ひ帰れば京らまだをり。 昼食作りしをもちて出てゆく。(※省略) 夜となりし故、日比氏に電話せしむれば「日曜にて製本屋休み」と。ガクリとなり安息日なりしと思ひ直す。 けふ佐伯に長沢規矩也氏の本(7,200)来りをりし。(※省略) 4月2日 7:20起床。日比氏に電話すれば『四季』3日出来と。(※省略)15:30花井夫人来り、ユと包みをしるす。(※省略) 神保死ねば特輯号出さんと思ふ。(※省略) けふ森亮君より「同人承知」と。小野寺恵子、小林剛氏より会費来る。日比氏「あす夜(※『四季』)持参」と。 4月3日 8:30起床。(※省略) 小杉氏より電話「大野沢君をつれ来る」と。ユ外出がち也。 福地君より2万円、室生朝子さんより2,000来ゐしを見つく。(※省略) 佐伯によりゴーゴリ『外套・鼻(50)』、『敦煌の石窟芸術(100)』買ふ。 岩波文庫をそろへんと五十嵐達六郎氏に倣って考ふ。(※省略) 臨川書店片岡社長より「200×80~100の解説かけ」と原稿用紙つく。 植村先生に電話すれば「胃癌で入院、あす手術、本は送れ」と。(※省略) 21:00日比氏現はれ、誤植4ヶ所あるも(※『四季』春季号2号)美しく出来たり。17万4千円(※2号印刷代金)払ふ。 4月4日 よべ4度排尿、眠剤きかず、主に祈りて徹夜す。9:00よりユ訂正し売価500円とかきそへ 10:30来りし花井夫人に誤植訂正させ半ば出来しところにて〒にゆけば11,200とられ、(※省略 『四季』春季号(2号)送本) われ不眠いへば、ユ「躁の前兆」と。三火会の案内来る。(※省略) 津留君に10冊送らす。 (※悠紀子夫人)堀さんにもちゆけと雨中出てゆく。諏訪に10部送る。(※省略) 4月5日 7:00さめ睡眠とりかへす。(※省略) 『四季』第3号(※編集)ほぼ終る。 11:00瀬見支店へゆき(※省略)『四季』18冊8掛けにて預け、辰雄『杜甫詩ノオト(1,300)』買ひて帰宅すればdoubleをり。 小杉氏より大野沢氏と8日12:30来訪と。末富邸へゆく(1冊もちて)。碁将棋とも惜敗。『四季』500円もらふ。 牛尾三千夫氏より原稿「5月20日頃上京」と。『四季』ひとまず終り『五雑俎』巻2にかかる。 6.15中止す。三省堂の年表見つからざる故なり。 東大阪市の埜中清一氏より歌文集『相聞譜』受取る。 夜、小杉茂樹氏より小包来り、中に『生田勉青春日記』あり。よみ了る。無関係の人なり。入浴し。22:00就寝。 4月6日 7:00さめ『五雑俎』やる。 (※省略) 堀夫人より「5冊ほし」と電話きのふありし。(※省略) 昼食後「東方学会年会費」を高円寺南局に払ひにゆき都丸で岩波本、球陽でも同じく、40円もちて帰宅。 岩波本を十二畳に入れることとす。『五雑俎』300枚越え疲れし故、夜は休むこととす。 televiつまらず臨川書店のため『コギト』の解題かき始む。21:00入浴。 4月7日 7:00さめ(※省略)8:30より『五雑俎』。(※省略) 9:10山住dr.にゆく。血圧125と高し。正己先生の原稿お願ひし十日分の薬もらひて帰る。 ユ堀さんに5冊もちゆく。(※省略) 昼食後、都丸支店にゆき岩波文庫15冊買ふ(940円)。 肥下夫人より電話。臨川より(※『コギト』)128までなしと。「社長に我貸し返却せず」と答ふ。 田代耕二氏より「西川の分とともに」と1,000円送らる。小杉氏より「紙厚く送料いる」と。「明日13:00来たまへ」といふ。 (※省略) 家毎に梅咲く町に二十年 (※『コギト』解題)若山隆は相野忠雄なること思ひ出す。22:00すぎ就寝。 4月8日(日) 0:00排尿に起きまた眠りて6:00覚む。朝食すまし8:00より『五雑俎』。9:00ユ礼拝に出しあと『五雑俎』やりをれば、 俊子姉より「『霊南坂教会写真集(4,800)』を買ひ置きくれ5月にゆく」と電話あり。(※省略) 今日は虚子86才で死にし日と。 小杉茂樹・大野沢緑郎2氏13:30来り、16:00まで飲みて話す。 大野沢氏は「会津の人、終戦でソビエトの捕虜となりし」と。 臨川より速達。「『コギト』は肥下未亡人より借用、わが142-146はcopyすませ月曜返送と。解説執筆はよろしく」と也。 4月9日 4:00ユを起し8:10起床。10:00前、小杉氏より「昨日はありがたう」と。「原稿送り賜へ」といふ。 10:30よりまた『五雑俎』、梵語辞典なく一項を没とす。(※省略)  昼食後、都丸支店へゆき岩波文庫20円50円のを買ひ町沢直治翁訪ぬれば留守。帰りて汗かきしと入浴。 堀夫人来られ、祖父相良にて牧師なりしと。次号も書くと。(※お金)5冊分おきゆかる。ありがたし。 浅野晃氏より「名誉同人ありがたし」と。(※省略)   歌うたふ癖もなくなりひたすらに詩を作らんと我は思ふも。  わが歌は日本一と父のみの父のみことも思ひしらしき。  保田はも人の思ひを借りずして歌を作れず辰雄しからず。  神保の老いをかなしといひし時堀多恵さんもさなりとのりし。 『詩人学校』来り、みな下手なり。 4月10日 2:00排尿、また眠り8:00起床。朝食すまし8:40より『五雑俎』、(※省略) 大野沢君の詩(佳作なり)と、木村繁喜君より「1冊呉れ、金送る」と。駅前〒に木村君への送本にゆき、 佐伯にて『狭き門(100)』と『荒野の呼び声(50)』買って帰る。 「白秋」についての質問に朔太郎を門下より出せしと郷土詩の効用とを答ふ。(※どこにか不詳) 鈴木文平夫人来り17:00近くまで話し「22日(※創価学会の)会合に出よ」と也。恰もイースターの日なり。(※省略) 4月11日 7:30起床。朝食後『五雑俎』やる。臨川より『コギト』142-146書留にて返し来る。(※省略) 江頭彦造君より同人費と3冊欲しと4,000来る。河村純一dr.より1冊磯崎啓氏に送れ、同人希望となり。 (※省略)山田雅彦氏より振替で670円。高橋重臣君より『芸亭』23号送らる。 『四季』好評なり。但し書楽にゆきて見れば10冊そのままなり。(※省略) 川村欽吾氏より「弘前では売れざりし」と創刊号3冊返却を受く。 臨川社長より「挨拶状あり、よろしきや」と電話。袋の中にありしを見つく。ユその旨電話す。 タヅさんより電話あり。縁談の事なり。 夕食の前後「『コギト』始末記」書きだす。園玲治との小説かきし者わからず。坪井に電話すれば「違ふ」と。 小高根太郎に電話すれば「神田先生(※神田喜一郎)亡くなられし」と京都の全集出してゐる店より報せありしと也。 あす現金封筒速達にて1万円香料として送ることとす。 4月12日 2度排尿1:30より3:30までさめ8:00起床。ユを〒までゆかしむ。神田先生心不全86才と東京新聞に見ゆ。 業績、履歴はのらず学者への冷淡なることに憤る。喪主は信夫君なり。 花井夫人より51才の再婚の男(創価学会の妻離婚申し立て成立せしと)につき電話あり。(※省略) 「歳時記」で『五雑俎』ひっかかりをり。末富家へゆき碁3目で勝負あり、将棋互先にて勝負あり。 帰れば小杉氏より原稿来をり。吉本青司氏より受取り(田中克己論かきて没となりしと)。 伊達温氏より原稿、保田典子より移転通知来る。 (※服部正己未亡人)服部さの子氏より「論文の印刷ひまどりさう。『コギト』の再版うれし」と。 牛尾三千夫氏より「春季号10冊送れ、5月上京」と。20:30就寝。 4月13日 3:30排尿に一時起きまた眠り6:00覚む。(※省略) 臨川の青木氏より『コギト』の投稿の不明なるを尋ね来る。皆は知れず。(※省略)  臨川への手紙投函。 鈴木眞理子氏より「野田さんより便りなく、も一度たのんでくれ」と。 山本實氏より「植村先生のエッセーたのしく拝見」と。大野沢緑郎氏より高円寺界隈のこといひ来る。 野田又夫氏に鈴木眞理子氏の手紙転送してたのむ。『五雑俎』賈佩蘭と王建にてとまる。(※省略) 共産党のcampaに女史来りしと、手紙おきあり。 4月14日 7:00さめ朝食。疲れて何も出来ず。 11:00山住dr.にゆけば血圧108-。正己先生に「初期国定教科書の夏の歌」4ページ分をお願ひとdr.に渡す。 石浜恒夫君に「詩の新作を」と手紙かく。笹渕博士より「吉祥寺教会に戻った」と。 都留生より「(※省略)10冊配布。文体合はず」と5,000。山本みち子氏より「彦根へゆきし」と。 石山直一氏より誤植のこと。江頭彦造氏より論文のりし雑誌。(※省略) 『日本歌人』来り、小高根二郎君、病気むりしてかきし前川佐美雄論のり、『吉井勇』出版せしと広告のりをり。 都留君へ礼状かく。石山直一氏へも詫び状かく。 4月15日(日) よべ眠くて耐らず21:00寝床に入りしもねつかず(※省略)、7:00起床。朝食後、福地君へ原稿催促のハガキかく。 ユの礼拝に出てゆきしあと10:00入浴。15:35堀夫人来られ5冊2,500おきゆかる。(※省略) 船越苑子に『四季』1冊買ってもらふ。矢野母子より入金。三浦問題にて不愉快なり。 臨川より『コギト』の執筆たしかめ来る。(※省略) 夜、村田幸三郎酔って電話かけ来る。終日無為なり。 4月16日 8:00起床。(※省略) 10:30出て地下鉄にて三火会。原田、兼清の外は知人なく、(※省略) 18理乙の谷(野村ツーリスト)副社長のBrazilのinflationをきく。 14:30帰宅すればユをらず、区役所へ健保払ひにゆき山住dr.にゆくなどす。 鈴木文平夫人より「あす8:30-9:00迎へにゆく。弁当も賽銭も不要」と。(※省略) 4月18日 6:30起床。9:30鈴木文平夫人迎へに来り、大きな車にのり(創価学会)、 日蓮正宗本山大石寺前の満開の桜の前にて昼食。鈴木夫人手作りのむすび一箇と蕗わらび食ひて満腹、 広き境内を歩き、土産の茶と菓子(2,100)買ひ、入山許されず写真とり、とられたりして乗車。 鈴木宅へ案内してもらへば材木店なるに品皆無。創価学会の書と本とならべあり。 お茶のみ、また鈴木の車(今度は小型)にて家まで送らる。ユ挨拶し「年寄りしね」と。(※不詳) 18:30なり。夕食くひ21:00すぎ眠る。 留守に中島の姪より670.佐々木恵子氏より2,680。西川より19期生の案内転送。(※省略) 大東幸子夫人より「2冊受取り1冊塚本邦雄氏に呈した」と。 藤野一雄君より「5部受取り、宇田夫人に1冊呈上、井伊文子氏に電話にて掲載許可をききし」と。(※省略) 4月19日 曇。7:30起床。(※省略) ユ、末富家へゆき16:00まで帰らず。 太田夫人より広告の断り。『Ravine』、『萩原朔太郎研究会報37』、江頭彦造君より「漱石について」。 何もする気なく「あす」と思ひをり。 4月20日 よべの雨晴れ7:30起床。(※省略) 臨川社長より電話、推薦4人を指名す。ユ外出がち、我家居無為。 (※省略) (※神田喜一郎)香奠への挨拶。『健康』来り、よむ。夕食後、村田幸三郎酔って「近々来る。泊めよ」と電話あり。 ユをして植村先生に電話せしむれば令息「経過良好、2、3日で隊員、会ってよし」と也し。 4月21日 よべ早く就寝せしも0:10まちがひ電話かかり起され7:00起床せしあとも眠くて困る。(※省略) 船戸君、花もち来り、礼に『利根川図誌』などdouble本3冊贈呈。 『コギト』よみ返し恥かしくて耐らず、ユにいはすれば鬱と。(※省略) けふ大井清氏より川村欽吾君と我の私信のせし『吟詠新風』といふ(※雑誌)を送らる。(※省略) 鈴木文平夫人に電話し「明日の講演にゆけず」といへば「36才の長男の運転する車で案内しくれるつもりなりし」と。 (Mozartの演奏ききをり。ユに「雪よりも白く」の歌きけば(※讃美歌)521番なることわかる)。 4月22日(日) 7:00さめる。イースターへゆかんと着替へすませしところへ小杉茂樹氏より原稿速達来る。礼拝Easterとて満員。 すみて茶会に原長老に『四季』2号贈り、(※省略) 佐伯にて『ミケランジェロの生涯(150)』買へば、俊子姉の注文の『青山学院報』来をり、(※省略)。 4月23日 曇と晴と。7:00起床。8:00朝食、10:00下痢、ユ、わが肖像かく。 臨川書店へ(※欠号の)『コギト』31号copy送れと速達かく。(※省略) 牛尾三千夫氏より堀夫人保田夫人に会ひたき趣、迷惑す。 津村夫人より『コギト』復刊を喜ぶと。苑子にもその旨来りし由、臨川の熱心に躊躇す。 13:30岩崎昭弥君「社会党大会にて上京中」と電話。「原稿かいてくれ」とたのむ。 4月24日 22:00眠り7:00さむ。仕事できず百花一時に咲く春の到来を喜ぶのみ。 牛尾三千夫氏に「両夫人との連絡控へよ」とハガキかく。植村先生「痔の手術受け22日退院」と。 4月25日 7:00さめ朝食後、また下痢。ユ、大宅へゆき12:00帰宅。(※省略)何も出来ず。入浴す。 石井恭子夫人より「締切った」と小杉氏より聞きし也と2,500同封す。 4月26日 9:00覚む。(※省略) 13:30末富家へゆき碁将棋にゆき完敗。(※省略) 兼清より(※三火会出席)妻同伴はダメと。成城学園より合同宴の案内、欠席と答ふ。 夕刻書留にて『コギト』31号来る。20:00入浴。 4月27日よべよく眠り8:00起床。10:30、echo買ひに出る。漢方薬屋の桜満開なり。 無為にて猥本の写し(※別途ノートあり)よみ返せしのみ。 4月28日 7:00さめ朝食8:00。11時美紀子筍もち来る。ユ返しに菓子などもたせ12:30帰りゆく。 ユ戸田画伯にゆき、わが像ほぼ出来し模様。 17:00瀬見氏来り、わがdoubleし本とRimbeau3冊とにて8千円おきゆく。 4月29日(日) よべよく眠り8:00起床。ユの礼拝にゆきしあと入浴。無為の一日なり。 4月30日 7:00さめ朝食。曇なり。わが庭に花多くあり垣根なるヤマブキの花いま盛りなり。 けふも休日(連休)なれど石山直一氏より3,000来る。三火会の次の講師は古川丈吉(3文甲)と、欠席せん。 三鷹の小谷秀三氏より『大東亜戦争初期の或る記録』贈らる。戦争直後みどり丸に同乗、Sigonで別れしと記す。(※省略) 5月1日 7:00さめ朝食。終日無為。televiを見てすごす。 5月2日 7:00さめ無為。 5月3日 7:00さむ。昨日の日記なかりしを知る。 5月4日 よべ21:00就寝。9:00起きる。11:00入浴。 無為にてをれば鈴木眞理子氏より「中島の原稿みなもちをり。野田博士の序文祈り待ちゐる」と。(※省略) 平凡社より『天遊の詩人 李白』の印税(3版)30,360入金。 国友則房氏より「四季同人になり云々」2000円同封、いかがせん。 5月5日 7:00覚む。8:00朝食。下痢腹痛。平凡社より『天遊の詩人 李白』5刷来る。 臨川書店より『コギト』の誤植見せらる。菖蒲湯に二度入浴。 20:00日比氏来り、漢文読めと。邪馬台詩とあれど読めず、頭下ぐ。 5月6日(日) 7:00覚め夫婦にて礼拝にゆく。途中、臨川へ「いつまでに書くべきや」とのハガキ投函。帰りて無為。『コギト』のことかかず。 5月7日 7:00起床。(※省略) 山住dr.にゆけば満員。(※省略) 臨川の女史より「5月末までに」と。床敷けば財布出て来る。 5月8日 7:00覚め8:30朝食、午飯下痢にて絶つ。 14:30花井タヅ子夫人来り、詩2編見せしもなってないと説教す。書き直すと帰りゆく。同人としてはダメとわかりし模様。 臨川社長より「60~80枚、月末までに」と電話ありし。 5月9日 よべ20:30就寝。6:30起きる。日中鬱なりしも19:30堀多恵子夫人より「原稿送る」とのことに譏嫌直る。 5月10日 中山正子夫人より贈物。日中うつらうつらし仕事せず。ユも絵搬入にて不在。(※省略) 兼清君に19期生会欠席の電話す。 5月11日 晴。ユ、展覧会にて殆ど外出。堀夫人より原稿来る。(※省略) 『東京四季』と石井恭子氏より詩集、ともにダメなり。ユ20:30帰宅。 5月12日 7:00さめ朝食中、臨川より『コギト』140貸せと。(※省略) 11:00すぎ山住dr.にゆく。96-65血圧。(※省略) 20:30たかはししげおみ君「26日夕食に来る」と(牛尾三千夫氏の帰りしあと(※不詳)云ふ)。 5月13日(日) 一日無為。ユ展覧会に走り廻る。午后、弓子夫婦と孝行と来る。 5月14日 6:30さめ8:00朝食、下痢とて山住dr.。すいてをり。薬賜ふ。3回分なり。dr.わが下痢に同情なし。 終日家居して無為。(※省略) 5月15日 6:30覚め床上げる。 小谷秀三氏に『李白』贈る。川久保夕食すませしところへ現はれ「東北の学者と会ひし」と得意なり。 5月16日 6:30さめ床上げる。ユ7:00起床。植村清二先生に電話せしむればお休みの由、令息より。(※省略) 11:00植村先生に電話かかる。原稿もらへる由。平凡社久米氏「近々来訪」と。 岩崎昭弥君に「6月末までに原稿を」とハガキかく。 夕方山田雅彦君『文学広場』3冊もち来る。神保詩の選を(※代りに)してをり。 「21日、杉山平一君と13:00ごろ来る」となり。相野忠雄より「臨川に承知せし」と。 5月17日 7:00さめる。13:30末富家へゆき碁将棋2番づつ皆負ける。小谷秀三氏より『天遊の詩人李白』受取った。その内よむと。 5月18日 7:00すぎ覚めればユ既に起きをり。晴。9:00山住dr.にゆき薬1週間分もらふ。 10:00都丸支店あくを待ち15冊中売上げもらひ町沢氏を訪ね1冊呈して12:00帰宅。(※省略) 依子に電話して朝日毎日へ転送せし「重役となる」といへば本当にせず。(※不詳0 5月19日 (※省略) 高橋重臣君来り、21:00まで話しやまず。「筑波大学へのため往復す。三重の家売る」となり。 「天理へは坂口允男君いまだ講師として来りをり云々」。(※泊 省略) 5月20日(日) ユ、賀代女史の13回忌にゆくと。高橋君8:30出てゆく。(※省略) 鳥海香代子に電話「結婚せよ。わが葬式に出よ」といふ。 5月21日 杉山、山田2氏来訪。(※詳細記述なきも、対談が『文芸広場』57-59(10-12月号)に記事となる。 6:30起き、(※省略) 10:20山住dr.にゆく。満員なり。「ちょっと躁」と申上ぐ。(※省略) 鳥海香代子に電話し「早く相手見つけよ。我死ぬ」といふ。ユ東奔西走しをり。(※省略) 田中正太(西尾市)より会費。夜、高見山の引退の話ききて泪墜つ。 新学社に保田全集につき我に「一言させよ」と早川君と長尾の娘とに電話す。 5月22日 6:00さめ7:00すぎ朝食、無為。(※省略) 浅野晃氏に新学社のこといふ。「8月15日はその誕生日」と。わがこと尤もと。(※省略) 5月23日 山本書店に『滝山博士米寿記念論集』注文の電話す。(※省略) 夜、植村先生に電話「6月末参る」と申上ぐ。(※省略) 福地邦樹君に「転載ダメ。伊東の8月15日の詩の解説せよ」とかく。 5月24日 よべ23:00眠り、6:00さむ。10:45ユと地下鉄で待合せ、銀座より築地の「植むら」へゆく。花井夫人ややして来り(※省略)10人来り、(※省略) われ乾杯の音頭とりDer Kongress tanzt (※会議は踊る)歌ひ、躁とてたのし。(※省略) 『四季』10冊買ってくれ、土産もらひ三越にてユと別れ南阿佐谷着。 書泉にて平岡武夫訳郭沫若『歴史4品(250)』買ひて帰宅すればユ一足おくれて帰宅。(※省略)。小泉凡より「Arbeitにて来られず」と。 5月25日 6:00起き7:00鈴木夫人に電話すれば「写真出来、そのうちもってくる」」と。 10:00出て神田の天理館の楽翁展(※松平定信)みにゆき、(※省略) 山本書店にゆき店主と話し12:00(※省略) 丸家の前通り、ブザーならし夫人と話し、仏前にて同期の友の弔辞声出してよみ、野球部歌うたひしのち瀬見待ち、からかひて帰宅。(※省略) 石井恭子(『東京四季』同人)にハガキかく。 5月26日 6:00前覚める。朝食後9:00山住dr.にゆけば(※省略)血圧125と高く(※省略) 『風日』来り前田隆一男爵歌かきをり。 5月27日(日) 6:00さめ7:00朝食9:00出て礼拝にゆく。竹森先生「出ていらっしゃい」とお叱りになりおどろく。(※省略) 16:00重久来り、そわそわと帰りゆく。(※省略) 『四季』と本2冊やる。小泉にやるつもりなりしものなり。 5月28日 5:00さめユを起し、高橋に電話すれば「登校」と。「20:00電話せよ」といふ。 保田典子に「歌下手」といへば笑ふのみ。川久保起して「来よ」といへば「16:00来る」と。(※省略)日本民族は雲南より来しといふ。夜televiにてそれやる。いかにも似てをり。 臨川に電話して「『四季』に広告のせよ」といへば承知したと女の子。「片岡社長にとりつげ」と念押す。まことやに二度ゆきcopyと製本す。夫人ゐて我とは再婚せずといふ。 16:30まで川久保まちて来りしに『東北通史』の訳注やれといへばきかず。(※躁症の記事多し。省略) 5月29日 5:30さめ朝食くひ、(※省略) 山住dr.にゆき血圧98-65なるに安心す。(※省略)  川久保14:00来り「今より東洋文庫にゆく」と。 『コギト』解説200×30となり、臨川書店に電話すれば「6月2日にてもよし」と。川久保疲れて帰来。(※省略) 5月30日 6:00さむ。10:30まことやにへコピーにゆき14:00瀬見にゆけば塾へ勤める青年3.5万円のロシア語の本買ふ。Tolstoiよめとすすむ。 帰りて『コギト』の解説ちょっとやりしのみ。(※省略) 川村欽吾の速達原稿下手にて「春のオルガン」故「来年の春季号にまはす」とハガキかく。 5月30日(※悠紀子夫人代筆) 朝、山住先生に行く。まことやに行く。神田信夫氏より紅茶いただく。一日中京都の原稿(※『コギト』解説)に追はれる。54枚までゆく。くたぶれて9時にねる。 6月1日(※悠紀子夫人代筆) 朝6:30分おき8:30分山住ドクター、まことやに行き、村田になにも持ってくるなと電話。(※省略) 5:30分来る。 さしみ、鳥のつくね、その他を酒とともに食し、ねたのは10:30分。金を出したのをことわる。千鳥屋のクッキーもらう。京都に原稿送る。 6月2日 山住dr.へゆき、まことやにゆき臨川書店より広告原稿と広告料2万円来る。21:00就寝。(鈴木文平夫人来り、われらキリスト者といふ。) 6月3日(日) 5:30さめ髭そってもらひ礼拝にゆく。お説教そらに聞き讃美歌大声にて歌ふ。(※省略) 久しぶりに『五雑俎』ちょっとやり、 21:00すぎ堀さんに電話して「6月末までに田中に原稿をと伝へたまへ」といへば「承知しました」と坊やの返事あり。(※省略) 6月4日 躁にて仕事せず。10:30東豊書店にゆき『福建通誌』、『甫田県志』見しも見つからず。 『清史文讞志』、『家語等五十七種』、『蘭嶼部落文化芸術』借りて帰宅。 「五瀆」わからず羽田に電話すれば「書いてよこせ、識者に聞いてみる」と。 反対に北京の宮殿のこときかれ『北京案内記』その他教ふ。(※省略) 6月5日 7:00起床。朝食後美紀子に電話すれば史出る。「汚職するな」と戒む。入浴。ユを〒にゆかしめ植村先生に失礼わびる電話す。 6月6日 坂口允男君より原稿と1万円来る。戸田画伯にゆき山住dr.にゆきいらいらして一日すごす。 平凡社の久米氏に『五雑俎』面白くなしといへば「先生面白いから出すことになった」と反意さる。 枚数いへば返事せず。16:00またかければ200字1,000枚と。 臨川書店へかき直して解説なんとかかく。ユに速達せしむ。 6月7日 4:30さめ6:00ユ起きるまで二度入厠。(※省略)午后末富家で碁将棋ともに連敗。(※省略) 夜、小高根太郎に電話すれば「二郎去年より入院、血液病。心配いらず。編集より除きてよし」と。 そのあと日下部(※雄一)君の夫人より電話、「夫『Style』誌出せしことは知りをり。代々木にゐて『四季』出せしことは知らず」と。 長々と電話し津村も神保も知らず(75才にて逝去、北沢にapartもちをり、それにて食へると也)。(※省略) 6月8日 瀬見に電話し「日曜夜来い」といふ。20:30日比氏来り「7月1日来り編集。紙も薄くし再校出す」云々。 6月9日 12:30興地実英先生の娘(中村夫人)来ると待ち(※省略)『興地実英遺稿集』たまふ。(※省略) 15:00ごろ奥井(3才の坊やつれ来る)と石塚と来り、わが叱りに石塚改心し「結婚する」といひて帰りゆく。(※省略) 6月10日(日) 6:00さめ7:00ユさめるを待つ。礼拝休み〒なく正宗に電話すれば「23日のクラス会11人申込ありしのみ」と。(※省略) 6月11日 4:30ごろさめ6:30ユを起し10:00すぎマコトヤにゆき製本し、 山住dr.に本貸し(3部ほど献呈、売捌きたのむ。佐伯にもゆき雑本買ふ。) (※省略) 臨川に電話すれば「原稿受取りし」と。怒れば笑はる。 6月12日 7:00まで眠る。8:30山住dr.にゆけば先客あり。先生『町医三十年』来客のため読まざりしと。 まことや開くを待ち2夫人を笑はして製本4冊せしむ。(※省略) 夕方また出て『日本の詩歌(500)』書楽にて買ひ、佐伯ひやかすつもりでゆきて『蘇東坡』を矢林教授に買はせろと指図す。夕方臨川より受取り来る。 夜、小杉茂樹にハガキかく。 6月13日 2:30さめ5:30起床。10:00山住dr.、先生やむなくSnta Licia合唱したまふ。帰ればユをらず。製本にゆく。 昼食後、無為。中野清見の『正午のサイレン』よみ了る。「6:00-9:00読書の時間に充てゐる」と也。(※省略) 6月14日 8:00さめ睡眠不足とり返し、(※省略)10:00山住dr.へゆきTorna a Sorrento(※帰れソレントへ)歌ふ。 一旦帰りてまことやに製本にゆけば茶出す。まづし。製本4冊(※省略)、無条件降伏の歌8首作る。 13:00末富氏へゆき将棋の新手つかへど2番負け、碁にて辛勝。ユ来て14:00と。出れば後藤・田中2夫人をり。(※省略)、『四季』14冊もちゆき田中羚子参りし様子なり。(※省略) 6月15日 よべ0:00さっと眠り5:00さむ。10:00山住dr.にゆき歌うたひ「日曜信州にゆく」と云へば「ユよこせ」と。 まことやへゆき製本しcopy忘る。午后『五雑俎』2枚やり、(※省略) 球陽堂支店にて岩波文庫(150)、 瀬見氏にても岩波文庫(250)買ひ、金なくなりて帰宅。 ユ、山住dr.にて「大丈夫ならん」と云はれし由。老いし也。(※省略) 6月16日 よべ22:00就床。6:30覚める。『五雑俎』やる。 中の雑果屋(※不詳)で『信濃路(500)』買ひ、淋れた書店で中公文庫のわが詩のる(180)買ひして帰宅。(※省略) 夕方植村先生に電話すれば「(※原稿)承知してゐる」と。 6月17日(日) 6:00覚める。9:30出発。10:45の急行にて茅野着。「田中さん」とtaxiに呼ばれ、止むなく樅の木荘へ向ふ(3,000)。 誰もをらずユを促して八ヶ岳美術館にゆく。(※省略)つまらずユを促して下り坂を樅の木荘に向ふころ雨降り、みな待ちをりしと。 青木古書肆来りし故、逃げて2人用の室に入り夜食も浅井嬢(41才)井上早稲(東女教授 ※井上早苗?)と4人で別れて夜食す。 すみて女史ら入浴。筋向ひの室の23:00すぎまで騒ぎユ注意にゆけば止む。0:00眠りに入る。 6月18日 8:00さめ朝食、特急10:49(※省略)、14:00すぎ帰宅。 『五雑俎』やれず16:30山住dr.にゆけば第一にて土産呈すればその場であけられ、血圧105-、 帰り薬局女史に肩叩かる。(※省略) 中西進の『万葉の花』あてにならずと注す(『五雑俎』に)。 夜、京に電話すれば健太郎出、京出、よし子出て「阿佐谷のヂイチャン早くねよ」といふ。『五雑俎』やっと406枚。 6月19日 7:30起床。山住dr.、まことやにゆきしあと三火会に出れば満席なり。 「興地先生の遺稿集5,000にて買へ」『四季』も買へとすすめ3冊売る。バカらし。 『五雑俎』411枚となる。(※省略) 6月20日 6:00さめ『五雑俎』やる。9:30山住dr.下痢の旨申す。ついでまことやにて製本2冊(※省略) 躁なり。 6月21日 よべよく寝、まことにて製本し、帰りて昼休みし17:00出て紀伊國屋で『八ヶ岳』買ひて、 京王plaza尋ねたづねしてゆけば、もう会(※成城大学文芸学部の会)はじまりをり。 話し相手もなく「四季主宰」の名刺まきて退散。(※省略) 6月22日6:00前さめ、まことに製本にゆき、帰り山住dr.に寄れば108-65。末富翁に遭ふ。 『五雑俎』ちょっとやる。438×200枚。(※省略) 6月23日 6:00さむ。雨降りをり。10:00出てまことやにて3冊製本し、11:00成城着。 図書館に『四季』呈し、本を見るゆるしと目録23をもらひ12:20まで講師室にをる。中国語を稽古しをり。 わが家にも来よと台湾人にあひ、12:30より食堂にをり。 14:20まで今井、大藤、池辺、(鎌田は欠)、熊本の福粂生に寄せ書き歌かき、 エハガキ托し田中羚子に送られて高田家へゆき原稿かかす。 帰れば金井より「書けず」と。花井タヅ子まあまあの作呉る。(※省略) 夜、金井寅之助より電話「上京中書けず」と。推薦し来りしは同人とせずと答ふ。中野清見より四季社へ1万円寄附。 6月24日(日) よべ不眠。5:30起きて「紫微殿」ひくもなし。呆然として昼寝もできず。 13:00すぎ青木、戸池、小泉凡3人来り話もなく、菓子(持参)梅酒のみて退散す。(※省略) 6月25日 よべよく眠り(volley-ball韓国に快勝す)10:10まことにて製本3冊、「老兵記」みなcopyす。内儀あくびばかりしをり。 佐伯にて本買ひ書泉にても『続・松の葉(300)』買ひて帰宅。 昼食後、植村先生より電話「4枚書いてくれ」といふ。 堀夫人より「李清照(※訳詩)10篇あり」と。敗戦記念号ゆゑあとの方へのせるといへば「可」と。 津村昌子夫人より『或る遍歴から』送らる。昭和19年2月版なり。アヂサヰ切る。 6月26日 よべ眠りしおぼえなく山住dr.にゆき、薬ましてもらひ正己氏に「終戦記念号とすと伝へたまへ」とたのむ。 ついでまことやに製本にゆき、(※省略) 飯島氏来り「同人などダメ、販売手伝ふ」といひ、万巻の書ありといふ故、わが書見す。廊下の本まで見て納得し、「神田の本屋に売らさん」といひて帰る。 苑子来り、(※省略)16:30用ありと帰りゆく。森亮、国友2同人より原稿。堀さんの手紙見つかる。 6月27日 よべよく眠れ7:00覚む。10:00まことやへゆき製本す。百日草買ひ来る(200)。『東方学』の没書かき直さんと思ふ。 6月28日 7:00すぎ覚め朝食。10:30まことやへゆき『天地』を箱に入れてもらひただなりし。 今井富士雄氏より雑誌もらひし外、増田晃の戦死を語りに山田翁来り、原稿かくと也。 わが「従軍記」200×14出来上る。8月18日のことにて無條件降伏を知らざりしとかく。小林俊文が主役なり。 原稿一つも来ず困りし事也。(山口翁(※ママ)来りて「増田晃の戦死を書く」と也)。 6月29日 11:00すぎ(7:00前さめ福地より「伊東さんのことかきし」と、「速達せよ、伊東は『四季』の本流ならず」といふ。) まことやへゆき1冊製本してもらひ(30)雨の中帰り来る。『四季』の原稿来ずわが「老兵記」すむ。 臨川より速達「解説」2校まで見よ!と也。(※省略) 日々氏に「原稿渡し7月3日」とユ電話す。 6月30日 晴。7:00起き11:00まことやへゆき製本。帰って昼食。植村先生と福地君より原稿速達で来しのみ。 夜植村先生にお礼の電話す。 7月1日(日) 5:00覚む。礼拝にゆき、ユの見合につきあひに出る前、克次朗来り将棋二番、一番は負けてやる。孝行も来て弓子も来り、ユの帰りしあと買物に出てゆく。 7月2日 昨日と同じく5:00覚む。のど痛くタバコ吸へず。ユ中元の買物にゆく。 『コギト』の複製上一箱来る。(解説ユをして速達せしむ。)(※省略) われは終日家居。夜に入りタバコのみ始め下痢して入浴す。 7月3日 5:00さむ。快晴、『四季』3号編集すます。村田より「けふ来られず、19日すぎ」と電話あり。 14:00日比氏来り『四季』の掲載順を決定、pagesわからず。紙を悪くすることは承知と。(※省略) 依子より3冊売上げときしめんなど送り来る。 7月4日 7:00さめ、だるし。(※省略) 眠くてたまらず。11:00肥下夫人より電話「『コギト』復刊うれし。近々上京」と。 (※省略) 石浜君より1万円来りついで愚詩来る。(松枝博士よりは遂に来ず。向ふも怒りしならん。損ばかりなり)。 (※省略) 紀州の田木繁氏より「貴君の『杜甫』云々借用、明記せずゆるせ」と。 7月5日 6:00前覚め冷房す。9:00石浜に「1万円返す。貴稿は後回し」とハガキかきユに投函せしむ。 『五雑俎』やることとするも「紫微殿」わからず。(羽田に『三才図会』見て「五瀆」わかりしとかく。これも投函)。 臨川よりへ蘇我純之輔らの本名問ひ来る。肥下夫人にでもきかんか。(※省略) 7月6日 5:00さむ。ユ起きをり。朝涼しく気持よし。『五雑俎』にて苦労す。 13:00末富家へゆき碁と将棋、(※省略) 17:00山田雅彦君来り、19:00までねばりて写真とりゆく。そのあと夕食し風邪にて苦し。(※省略) 肥下夫人来るまで臨川の質問に答へぬこととす。 7月7日 風邪やまず。家居無為のところ肥下夫人東京駅より電話かけ来り「来る」とのことに、戸田画伯にゐるユに云ひ迎へにゆく。 来りて(16:00)22:00すぎまで話し「肥下殺せ」と(※結婚前の)保田に云はれしといふにおどろく。(※宿泊) 7月8日(日) 教会休み、8:00起き来し肥下夫人に朝食せしめ、駅までゆき、荻窪より小金井の伯父の家へと云ふ。 午后美紀子来り「史、まだ新任決まらず」と。 7月9日 咳やまず昨日けふと禁煙。肥下夫人、鷺宮より電話かけ来る。バス阿佐谷行にのれとユ。 われ臨川書店に再校(大分直せし)速達。 肥下夫人の坐りゐるを発見、ユすぐ来り、自由席にて東海道新幹線の切符買ふを見る。 18:30川久保来り「夕食最中」といへば「長生きしろ」と帰りゆく。 7月10日 6:00前さむ。咳やまず禁煙つづく。朝快晴、但し温度低し。午后苑子来り、疲れし顔しをり。〒なし。 7月11日 6:00覚む。涼しく足袋はく。昼、高円寺の都丸へゆき、(※省略) 〒なし。夜『五雑俎』よむ。 7月12日 朝、湯に入り風邪ひきしらしく苦し。タバコのめず鼻汁出る。 松枝さんより「敗戦の詩」間にあふかとハガキ。「間間に合はず」と夜電話かける。 植村先生より2号の誤植訂正指摘さる。(※省略) 川久保17:00来り「山本、中山氏らと9月に会せん、羽田、山口らにも連絡する」と。積極的なり、不審。 7月13日 雨。6:00さめる。よべ咳せしとて山住dr.にゆき薬もらひ咽喉洗はる。痛し。(※省略) 午后松枝博士より漢詩の訳来り、石浜君も復活することとす。(※省略) 7月14日 4:30起床。(※省略)  山住dr.にゆき咽喉洗はる。痛し。咳やまざるが為也。 川久保よりまた(東洋史学科昭和)8年卒の諸氏との会すといひ来る。我は欠席、勝手にしろと思ふ(会は学士会館にて昼食、数千円と)。 7月15日(日) 7:00起床。ユに断って高円寺、茶のみ帰れば瀬見氏中元もち来りしと。 肥下夫人より保田夫人に連絡「保田全集は新学社の編集にて講談社より出る」となり。 「悠紀雄夫妻には保田夫人より誤解とく」云々。(※不詳) 7月16日(日) ※15日の記事か。 7:00起床。熱35.5℃。礼拝にゆく。小清水さん病臥と。すまして帰宅。 『アダム・シャール(東洋文庫)』見れば『五雑俎』として自鳴鐘の項、原文のまま引きをり。 孝行来て、ユとともに荻窪へ出てゆく。(※省略) 7月17日 4:00さめる。7:00ユ起き朝食し、『五雑俎』「地」の部に入ることとし。(※省略) 小泉外科へゆけば「裂け痔」と。「2-3週間通へ」と薬もらふ。 昨日もらひし紀州の物の返しに瀬見氏に1升もちゆき汗かいて帰り来る。(※省略) 山田雅彦氏より杉山(※平一)氏との対談3号分送り来る。「校正送る」と。 7月18日 7:00起床。2度上厠。(※省略) 川久保より9月22日の会の案内。村田幸三郎より「19日来られず」と。(※省略) 7月19日 午后後藤晴江、田中羚子2夫人、この間の礼にと来り、花井夫人も来会す。われ困憊して殆ど話さず。 けふも下剤挿入、朝入浴す。 7月20日 大阪の石浜君へ掲載の旨かく。村田に「目出たし」とかく。終日茫然としをり。(※省略) 13:30末富氏へ碁将棋にゆく。母上墓参にて一日退院許されしと也。 7月21日 7:00さめ朝食後入浴。(※省略) 9:30山住dr.にゆく。血圧98-とやや上りをり。(※省略)佐伯にゆきしも長沢博士の本来をらず、文庫150買ひて帰宅。 『五雑俎』地部一に入り477枚までかく。けふ最後のtobacco吸ふ。 7月22日(日) 終日茫然たり。『五雑俎』ちょっとやりしと、あとは川村欽吾君より「終戦の詩」おそくてあとまはし也。 臨川より「大高名簿貸せ」と速達。福地君より「伊東讃歌」来る。 野田宇太郎、心不全にて死に、74才と東京新聞に見ゆ。(※省略) 7月23日 ※22日の記事か。 6:00さむ。礼拝休み『五雑俎』地部1やる。(※省略) 佐伯にて『蘇東坡(誰かに贈りしにてsignしあり)』と『寒村伝2冊』にて2100払ふ。 『四季』を編集せし日下部雄一君57年11月逝去とて香典返し夫人よりもらふ。われより年上にて「釈雄照」との戒名なり。 7月24日 7:00さむ。午前・午後『五雑俎』地部やる。日々氏より秦海人の歌に〇つき質問「わが作」といへばすむ。 吉田金一氏より「9月22日学士会館で7,000の会」と。日々氏より「26万円位かかる」と。仕方なし。 夜、丹波より電話「9月の会に出るや」と。「汝が出るなら出る」といへば「では出よう」となる。 7月25日 9:00さむ。臨川より「解説」再校来る。責了として送り返す。 吉田金一氏へ9月22日10:30学士会館にての会に「出席」の返事かく。 鈴木眞理子氏よりより「(※中島栄次郎遺稿集の解説執筆)野田博士承知」と。(※省略) 『五雑俎』553枚となる。 7月26日 7:00さめ『五雑俎』つづけしあと9:30小泉外科へゆけば休診。タバコまた飲むこととす。 『五雑俎』567枚。となり(※省略) 末富氏より「碁将棋あす」と電話あり。 7月27日 7:00さめ9:00すぎ散髪(2,600)。小泉外科満員ゆゑ薬のみもらふ。『五雑俎』地部二に入り573枚。 末富邸へゆくこととす。碁将棋ともに負け、また『五雑俎』やりをれば臨川より電話。 解説の最後よみてきかす。『五雑俎』583枚となる。 7月28日 よべ23:00就寝。7:00覚む。『五雑俎』587枚。となり疲る。(※省略) 7月29日(日) 6:00さむ(高石へ葬式にゆく夢を見し。林叔母をり)。夫婦にて礼拝にゆく。女長老わが知らぬ人なり。(※省略)われは佐伯に寄り『ロシア革命50年(50)』と『ソビエト人の生活(200)』と買ふ。(※省略) 帰り来て大高名簿見て概ね死にしと識る。『五雑俎』611枚。(※省略) 7月30日 6:00さむ。9:00すぎ山田雅彦氏へ校正送り、村山高、山田氏へのハガキも投函。 書泉にて『華国風味(350)』、『生体解剖(340)』買ひ、佐伯にて『私の中の日本軍(300)』買ひ、涼しき道選んで帰宅。 『生体解剖』に森良雄を林芳雄と記し巣鴨にて絞首刑の宣告受けしと也。午后苑子来り本返し、椎茸もちゆく。(※省略) 7月31日 8:00さむ。無為。(※省略) 『成城文芸』来り、西山松之助博士の座談会の記事をのす。『海峡17』来り、堀辰雄・伊東静雄のことのす。受取かく。 山住dr.にのど塗もらふ。血圧98. 21:40南川より電話、「同級集まらず、『コギト』中島の故に買ひし。日大にてドイツ語を習ひし。良き先生なりしと。比島で戦死せしも知らず。 詩吟にてわが本買ひし」と。 8月 1日~12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 8月1日 よべ23:00就寝、6:00起床。(※省略)『五雑俎』629枚とし、(※省略) 山住dr.にゆき喉洗はれ(血圧96-)薬もらひて帰宅。(※省略) 竹内好、武田泰淳の中国観甘しと『筑摩』にかきあり。日々氏より音沙汰なし。 8月2日 8:00さむ。ユをして日々氏に電話せしむれば『四季』の校正今日明日出ると。(※省略) 『五雑俎』641枚。平凡社より112,000(印税)入る。牛尾三千夫氏より5,000「10冊送れ」と。 「山住dr.一週間休診」とユ。山本七平『私の中の日本軍』よむ。 8月3日 7:00さむ。(※省略) 午后末富邸へゆき碁将棋、(※省略) 松枝茂夫氏より刷物来り安心す。 他に山田雅彦氏より受取。村田より忙しと。(※省略) 19:30日比氏『四季』の校正もち来り22:30までやり中止す。 諏訪セツ様より贈物、泰20-22日まで受験にて上京なればと。けふ弓子2児つれて来り、旅行すると。 8月4日 9:30覚む。朝食し昨日の残りの校正すませし処へ住友生命の野田好信君来り、我が話きき「また来る」と帰りゆく。ユ14:30画習ひにゆくと出てゆく。 8月5日(日) 6:00さめ、支度して礼拝にゆく。 ユ、小清水さんと連れ立ち (※省略) けふも見合と。ただ一つの趣味とする也。(※省略) われteleviでolympic見る。(※省略)書泉にひやかしに入り、藤沢桓夫の「大阪自叙伝」よみ面白し。(※省略) 8月6日 4:00尿にさめ6:30また排尿。起きて無為にてをれば日比氏来ると。午食すませし処へ来り、わが再校すみをりし故800円の定価として責了とす。(※省略) 『山の樹』来り不快。(※省略) 藤沢桓夫よみ了へ兵隊物よみて休憩す。 8月7日 7:30起床。朝食、Olympicの柔道見る。けふ立秋と。暑くて裸なり。(※省略) 午后まことやへゆき『四季』用の袋買ふ。(※省略) 『五雑俎』672枚となる。 南川正純より鍼灸術のreportと同級生の卒業写真と手紙。『コギト』復刊買ひし。(※省略)『四季』贈るべし。 竹内好の『戦後日記抄』見て(※仲人を依頼した)依子の結婚は1963年2月20日と確認す。(※省略) 8月8日 9:30さめ朝食後山住dr.、すいてをり。ご夫婦信州へゆかれしと。(※省略) 『臨川集』といふ小島樹氏の本とりて見れば王安石の研究ではなく自作の詩にて(※省略)礼状にその旨かく。 村山氏まちのいらいらのせい也。22:00すぎても村山氏より電話なし。(※省略) 8月9日 よべ23:00電話かかりユ出しも切れ、そのあと雨降りしと。6:00さむ。(※省略)佐伯で『怪談(100)』、『音楽ノート』買ひ書泉ひやかし、(※省略) 安達遂氏より電話、大球会の瀬戸忠武氏(2SC)逝去80才と(※省略)。 そこへ村山高氏より「一日まちがへた。明日18:00山の上ホテルへゆく」と。(※省略) 村田幸三郎に電話しその旨いへば神保町よりゆくと。(※省略) 8月10日 6:00さむ。(※省略) 山住dr.(※省略)16:30出て(※省略)山の上ホテルに17:40着。 まもなく村田幸三郎来る。(※大高戦友の集まり) 村山さん蘇州へゆきしと(『蘇東坡』進呈)。(※省略) 20:30まで話し飲み食ひし(※省略)帰宅21:30。疲れてすぐ眠り熟睡。 8月11日 9:00さめ、Olympicをteleviで見る。(※省略) プティ・パレの夫婦のつれ歩くに遭ひ会釈す。客なくアルバイトもなく休業の様子気の毒なり。 午食のあと『五雑俎』やり、疲れてまたteleviでOlympic見る。夕食後、(※省略) (※テレビ)「望郷」見て、(※省略) 昭和8年ごろ武蔵野館で見し也。 けふは意外にも日比氏来り、『四季終戦記念号(※3号)』300冊もちくれ、金は日曜といへば計算して(※請求書)もち来ると。 堀さんの手紙と多恵子さんの詞に誤植あってクサる。あやまり状かかん。発送は月曜とす。(※省略) 花井夫人の詩は上出来とユの話なり。〒は成城大学図書館より『図書館だより25』贈らる。 8月12日(日) 6:00さめ(※省略) ユ礼拝にゆきしもわれはゆかず。村山氏に手紙かき村田に『高石町史』と『四季』包み、 『五雑俎』ちょっとやりしのみにて『四季』の誤植、堀多恵子さんに集中せしに困る(本字を常用漢字にしをり)。 夜、「山河燃ゆ」を見て今井富士雄氏に1冊、中野清見に2冊包む。(※省略) 『インパール作戦従軍記(430)』買ふ。 8月13日 9:30さめ、飯くひしあと午食まへまで誤植訂正。わが責任は矢野博士を「蓬人」とせし。 スバル(※印刷所)の責任は漢文を全部当用漢字にせしとユの写せし堀さんの手紙の誤植となり。 花井タヅ子もタツ子としをり、急がせしせいもあれど、も早われには校正能力なしとて大阪の石浜君に事務交代を乞ふ。 けふ会田雄次『アーロン収容所(320)』買ひ、封筒買ひ、愛用の万年筆のふたなくす。 Olympicすみ日本の実力世界6位と知る。(※省略) 植村先生より10部送れと。2部はさし上げ、他は800円といへば宜しいと。 8月14日 8:30起床。(※省略) 10:00来るとタヅ子、ユ誤植訂正し、 花井夫人にもやらせれば同人費と8冊買上げにて13:00(※省略)帰りゆく。(※省略) 矢野禾積先生には蓬人と誤記せしを平あやまりあやまの5号に玉詩たまへとかく。(※省略) プティ・パレの張り紙見れば「8月中休業」と。ザマミロと也。 日々氏より電話「会計あす夜来る」と。21:00前眠剤のみ天理の高橋重臣君に電話すれば「10冊送れ。月末来る」と。まだ地面売らざる也。 8月15日 8:30起き朝食後televi見ればteenagerは終戦記念日を知らず。また『四季』発送にかかる。 (※省略) 植村先生より「10部受取った。なぜ高い」に300部ゆゑと答ふ。(※省略) 夕食後日々氏「けふ来られずあす午前来る」と。(※省略) (ユ、辻元参謀死にし報見しと。賢いけれどずるき男なりし也。) (※省略)鈴木眞理子へ『四季』送り(※中島栄次郎)生きてゐたらとかく。 8月16日 9:30起き鈴木正義、藤田夫人へのハガキ投函。 日比氏来りしに24万円(※『四季』3号印刷代金)渡す。誤植は3日間にてわかりしはずと。(※省略) 13:30出て高円寺(※都丸書店 省略) 成城大学図書館にゆけば主事1人をり、大野沢緑郎は図書館員にて友人と。『図書館だより』21-23、3冊呉れる。(※省略) 高田瑞穂邸でwhiskyのみ、バカ話して夫人に叱られるを見聞し、ともに出て(※経堂にて別る。省略) ユ、1冊は丸損せよと。 8月17日 6:00さめ、朝食後『四季』会員その他への表書きし、ユを駅前郵便局にゆかしむ。 こんな損な仕事をはじめし事を後悔す。八木憲爾の為なり。 美紀子より史の代筆として沢地久枝のエセーの終りにわが「このみち」引きあり「田中克巳」と記す。(※省略) 書泉にゆき見れば『四季』売れるやうに並べありしも1冊も売れず。背にも「終戦記念号」と入れるべかりし也。 夕方まちて出、(※省略) 佐伯にて『中国の科学文明(わが李白の訳のす)150』、『武器としての笑い』買へば金足らず。(※省略) 山住dr.へ久しぶりにゆき血圧105-と高し。「正己先生と私と同じ考へ」をいひ方変へていひ戦中派といふ。 (※省略)夜、栃尾君へ『説郛』買ってくれとたのみ植村先生に挨拶状かく。 『或る遍歴から』よむ。アヂソン病発病は昭和17年11月と。わが南方より帰りし時は黒い顔となりゐし也。 8月18日 8:30さめ最後の配本をユにもちゆかす。(※省略) 川久保、河北病院の帰りに寄りゆく。(※省略) 丸山静雄『インパール作戦従軍記』よみ了る。福永らとサイゴン支局にて終戦迎へしなり。(※省略) 9:00小杉茂樹氏より「印刷所、八王子に変へよ」と電話あり。我より若きらしく名誉同人とせしは失敗。 8月19日(日) 8:00起床。8:30朝食、礼拝休むこととす。(※省略)『五雑俎』705枚となる。 夜、ユ、依子に電話すれば「泰あす16:00乗り夕食にはまにあふ」と。 『五雑俎』708枚にて眠くなる。22:00前なり。 8月20日 よべ2:00さめ排尿、また眠り8:30起床。(※省略) 書泉に涼みかたがた入れば『四季』1冊も売れをらず。「買ふ人きまってゐるのでせう」とmanager。(※省略) 山住dr.にゆき2週間分の眠剤もらふ。血圧98-、(※省略)  あす来る筈なりし伊達温氏より電話、お茶の水にをりと。(※省略) 迎へにゆけば区役所の中にをり。 (※自宅に)つれ戻り16:00まで話し、勤め先の学校はカソリック系にて彼も信者と。 古事記の話を生徒にするはふしぎなり。16:00帰りゆく。(※省略) 18:40泰来る。夕食後も勉強す。 8月21日 よべ2:00さめ、また眠り9:30起床。朝食し昼食ぬく。泰6:30さめ7:30東北沢へと出てゆく。(※省略) 鳥羽貞子女史より「掲載ありがとう。1,000ふりこみし」と。入浴す。 夕方、泰帰るまでにタバコ買ひに駅売店にゆき帰り来る。『五雑俎』721枚となる。 臨川の片岡社長より「月末原稿料もち来る」と電話、 会ひて大阪出身の植村先生の全集、沢田四郎作博士のことなど話しみん。 石井正吉氏へ「近々来れ」と。岡田和枝様へ「京の入学当時のこと」ハガキにてかく。 8月22日 5:00さめ6:00ユを起す。6:30泰起き7:30新宿へ出てゆく。帰りはbusと。 堀夫人より電話なきゆゑ、成田東へユをして電話かけさせれば留守。 会田雄次『アーロン収容所』よむ。10:00読了。大岡昇平の『ある補充兵の戦い』にかかる。 よみ了りしころ泰帰り来り夕食。(※省略) 矢野禾積先生より「台湾での詩、西川満にきく云々」、誤植はとがめたまはず。(※省略) 昼食後、瀬見氏に会ひにゆけば「(※省略)は(※省略)ゆゑ解雇せし。手伝ひの背高き女史は夫人にてArbeit」と。 8月23日 6:30さめ泰も起床。朝飯くひ出てゆく。(※省略)今夜発busにて夜行と。 それまで映画でも見ろと小遣と東京地図と地下鉄地図とをやる。(※省略) 佐伯に(※省略)、八雲『説話(200)』(※省略)、山住dr.にゆき次号に「秋の唱歌」かき玉へといふ。血圧96- 8月24日 よべ21:00すぎね、8:00さめる。ユ名古屋に電話すれば泰未着と。新幹線の金とりて各停にのり、busにせしと。哀れなり。 堀多恵さんに誤植のあやまり状かく。 中山正子、鍛冶初枝、太田(立川)陽子に1冊づつ。猫ちゃん(藤木まり子)弁護士に片づき妊娠9カ月と。 (※省略) 泰「今帰宅」と暮れてより電話。 8月25日 6:30さむ。涼し。(※省略) 丸山薫詩碑豊橋に建ち桑原武夫氏主催にて会すと出欠問ひ来る。「欠」と答へん。 (※省略) 浅野晃氏より「夏季号受取った。暑さで参ってゐる」と。『寒色』より採ると返事かく。 (※省略) 夜、『五雑俎』732枚で力尽く。時に22:30なり。 8月26日(日) 8:00起床。朝食する。ユ9:00礼拝に出てゆく。(※省略) 午后「地部1」『五雑俎』735枚。(※省略)無為。 8月27日 よべ「真昼の決闘」見て眠れず眠剤4服のみ9:50起床。ユ歯の治療に柏井へゆく。(※省略) 『五雑俎』750枚。(※省略) 書泉に寄りしに『四季』10冊そのまま。 長谷川伸『印度洋の常陸丸(340)』買ひ来る。(※省略) 8月28日 8:00さめ、(※省略) ユ会員同人のcard作ることとす。 長谷川伸『印度洋の常陸丸』よみ了る。臨川書房片岡社長「30日10:30来訪」と電話あり。 午后、高円寺へゆき瀬見氏より『中国の自然と民俗』1,500借用書かいて帰宅。『五雑俎』762枚にて眠くなる。 8月29日 寒く、5:30さむ。午前中眠くて無為。午后都丸支店へゆけば瀬見氏をり、『中国の自然と民俗』の借り払ひ、 笹川臨風『杜甫(500)』を470円にしてもらって帰宅。(※省略) 8月30日 よべ早くね、9:30起床。10:10臨川書房片岡社長来り、稿料(16万円余)賜ふ。 石田幹之助博士の全集考慮。内藤湖南博士蔵書(既に売却)の目録につき羽田と接触と。 『コギト』解説費16万余くれ、山の上ホテルに泊りをりと。11:30退去。 『ミッドウェー戦記』よむ。(※省略) 104才の翁の『東方学』での座談よむ。(※省略) 高橋重臣君より1日(土)来訪と電話あり。片岡社長に『中国の自然と民俗』贈る。手渡すべきを忘れし也。(※省略) 8月31日 23:00睡り7:00覚む。9:20散髪にゆき、すみてまことやにて『和田清先生論文集』の製本たのむ。(※省略) 昼食後ゆばもちて13:30末富邸にゆき「けふは73才の誕生日」といひ碁将棋みな負ける。 『ミッドウェー戦記』よみさし帰宅後よみ了る。杉山平一氏より『杉山平一詩集(880)』贈らる。(※省略) 村田幸三郎より「高石へ帰り円徳寺の前の家まだあり云々」。(※省略) 9月1日 8:00起き、杉山平一氏へ「夜学生云々」。村田へ高師浜の事かき投函にゆき、まことや(小沢氏)にて製本(※省略) 台風前とて暑し。12:15島野アヤ子より祝に花賜る。森光世と合同にてけふわが誕生日と思ひしと。 ともに未婚との故、「ユ世話す。吊書と写真もって来い」と電話す。(※省略)『五雑俎』782枚で疲れる。 16:00高橋重臣君土産もちて来り、(※省略) 20:30ねるまで天理の話きく。 『コギト』復刻天理図書館に買はせよといふ。森亮氏入院中と3,000同封の手紙来る。 第2回炫火忌の案内来り、10月6日京都にて1万円の会費と。老病いひて断る。 9月2日(日) 高橋君を7:30起し、朝食くはし「書泉」つれゆけば『四季』10冊売れずに残りをり。(※礼拝 省略) 『五雑俎』ちょっとやり785枚となる。 プティ・パレ臨時休業の貼紙そのままなり。ザマアミロと思ふ。これも罪ならん。 (※日記読み返し)「Bibliaの会」は昭和24年2月20日にて矢野峰人先生「四季出せ」といはれしと見つかる。 9月3日 9:00さめる。残暑きびしく朝室内32℃なり。(※省略) プティ・パレ休みをり。うれしきは不徳か。 20:00、televiの「Silk Road」井上靖の詩にて了る。けふ日中、八王子39℃を超せしと。 9月4日 9:00さむ。美紀子より「史、仙台国税局長となりし」と。そのうちに宮城県知事(※大高OB)に紹介せんと思ふ。 山住dr.にゆき克己閣下の「米寿いつ」ときけば知らずと。(※省略) 堀夫人より電話「旅行より帰り『四季』見た。10冊とりおきくれ」とありしと。(※省略) 堀多恵子夫人にハガキかく。 9月5日 9:00さむ。急に涼し。(※省略) 山本みち子夫人より詩集『雛の影』送付。女くさく、伊藤桂一の跋、鈴木亨の装幀と。仕方なし。(※省略) 村田、江頭、牛尾3氏にハガキかく。 花井タヅ子夫人に9月15日締切といへば、太田陽子夫人にかけと云ったと。「余計なことするな」と叱る。(※省略) 山本みち子夫人に鈴木亨の装幀にては『四季』に合はずとかく。下手なり。(※省略) 山本みち子夫人に鈴木派ゆゑもありダメとかく。(※省略)和田夫人より長電話、史につきさぐり入る。 『五雑俎』813枚。毛布にて早寝することとす。 9月6日 8:00さむ(東洋大学へゆき西山博士に会ひしゆめ見る)。8:30朝食。寒く昨日と同じく足袋はく。 (※省略) まことやにて和田先生の論文製本2冊。山住先生血圧102-。正己先生に15日までにessayをと。(※省略) 「五十嵐日記・解題」再読、阪田寛夫氏にハガキかき「一度来たまへ」といひ『四季』1冊贈る。 石浜・中島・野田博士などかきをり、『コギト』に阿部稀男のpen-nameなりしこと知らされば也。ユ、Christianらしといふ。 『五雑俎』の疲れ甚だし。プティ・パレやはり休みをり。韓国の全斗渙大統領夫妻来り大騒ぎなり。 9月7日 9:00さむれども、一度排尿に起き、(※省略) 阪田寛夫氏に『四季』1冊贈りしあと、まことやにて『戦後吟』の製本たのみ、 石浜恒夫君より(※『四季』次号より)印刷製本など福地君とやると。(※省略) 9月8日 よべ21:00ね、9:00さめ爽快。下痢し朝食9:30すむ。10:30瀬見にゆけば『よみもの天皇記 中』呉る。 岩波の『ゲルマーニア(200)』、『説教の歴史(200)』買へば前者はdoubleをり。(※省略) 石浜恒夫君に「来年より(※『四季』の編集)お任せ」とかく。(※省略)  都留君より10冊分立替へ送り来り礼状かく。 風邪気味にて何もできず。ユもまた風邪なり。 9月9日(日) 22:00睡眠、8:00覚む。風邪なほる。ユ礼拝にゆく。都留へ礼状投函たのむ。 史の一家16:30来ると。弓子夫婦も来ると也。すしとりて食はすと也。無為にて待つ中、弓子whiskyもち来る。 孝行将棋挑み勝ちしあと小林来り、2孫来り、17:30史夫妻と2孫、19:00雅子来り、賑やかなり。 われ風邪か寒く、小林、史の相手し登山のこといふ。20:00帰りゆきしあとすぐ臥床。20:30就寝。 9月10日 9:00電話にて覚め、(※省略) 山本荘一郎(※宮城県)知事へ史の紹介の手紙かく。 投函かたがた代々木の東豊へゆき『大金国志(2,850)』、『傷寒論(1,260)』、『明清間耶蘇会士訳著提要(900)』計5,010円借用。 帰りて南川正純に「15日15:00来い、夕食ともにせん」とハガキかく。(南川の中島しらべはくわしく、夫人の再婚と、中島家の墓へ遺骨入りしなどかきあり、夫人天理市の山中の74才の男と再婚と。哀れなることかな。) 『妻たちの二.二六事件』読了。 9月11日 よべ23:00眠り8:00さむ。鬱とわかる。外出せず。『五雑俎』ちょっとやりしのみ。高田瑞穂より『文学史』来る。 9月12日 よふべ22:00すぎねて8:30さめる。ユ柏井歯科へゆく。12:00国友同人より電話「江頭氏と月末同訪」と。 (※省略) 瀬見にゆけば留守。3冊買ひ(450)球陽にても買ひ(300)帰宅。 高橋君より原稿来り、「『西康省』を西垣夫人ゆづらずや」と。西垣・小山・鈴木3君所持のことかく。 鳥海香代子より「自動車事故にて膵臓痛め療養中」と。(※省略) 「見舞にゆけぬ」とハガキかく。 9月13日 よべ早くねて8:00起床。鳥海香代子へ本4冊見舞に送る。(※省略)疲れをり。 末富氏より電話「けふは碁将棋なし。この間のサイボーグ(※不詳)どこにありしや云々」。『五雑俎』やりをり。 (※省略) ユ仙台(※三女)へ電話し、史の世話たのむ。ヨシ子「おぢいちゃんは」といふに出て「おやすみ」といへば「まだねず」と。 (けふ小高根、国友2同人より詩来る。(※省略) 「江頭氏とも立原のことかく」と也)。 9月14日 9:00さむ。地震あり。浅野晃氏より原稿と略歴受取る。 寒がりをれば11:00嶌野彩子生来り、(※見合の相談 省略)、タヅさん14:20来り、相手のこといひ詩おき17:00帰りゆく。 阪田寛夫君より「五十嵐さんのことよみくれ云々『四季』受取りし」と。 9月15日(敬老の日) 9:00さむ。(よべ『インパール』よみ23:00すぎ眠る)。町会長より敬老の菓子もらふ。ユ菓子と5,000静江母にもちゆく。 (※省略)南川正純阿佐谷駅にをりと。迎へにゆけばひげはやしをり。20:00までゐてユの肩もみくれ、 天丼くはし、5,000円置き『四季』2冊、1冊は大阪の産経の今沢幸君に呈す。広告とりくれんと也。(※省略) 9月16日(日) 8:45覚む。ユも礼拝休む。大野沢緑郎君に「シベリアの秋」20日までにかけと電話。(※省略) 植村先生の年譜作り疲れて臥床。角力天皇観謁。 9月17日 悪夢見て8:00さめ8:30朝食。(※省略) 植村清二先生へ年譜原稿速達。(※省略) 12:00今沢幸より「在京、そのうち産経の記者よこす」と。小杉氏より下手な詩来る。 伊藤佐喜雄のことかきし牛尾三千夫氏の歌と略伝来り、困りしものなり。(※省略) 9月18日 8:20起床。山住dr.へ尿と血液の検診にゆく。ユは全部検診(身長165cm体重39キロ)。 西川満氏より『台湾小説集』。附録に矢野峰人先生の出版目録のりをり。 牛尾三千夫氏へ、伊藤佐喜雄と『四季』は無関係かかんと思ふ。(※省略) 咲耶より歌集来る。母のこときれいに歌ひをり。(※省略) 9月19日 9:00起床。眠くて困る。よべ地震ありしことは知りをり。 牛尾三千夫氏へ『四季』脱退勧告かき、栃尾氏へ『説郛』見に図書館へそのうちゆくとハガキ。 ユ、投函に出てゆく。わが鬱の顔見るもいやと也。20:00依子より望の進学につき原さんの設立の学校のこときき来る。 9月20日 (※省略★)8:00起床。ユ望の入学のことにて(※省略)澁谷にゆく。われ 『五雑俎』訳注し848枚とし疲る。。 タバコ手持ちにて止めんと思ふ。咲耶へ「歌よし」とハガキかき投函せしむ。(※省略) 末富氏へゆき惨敗。 (※省略) 植村先生より「略歴ダメ赤字で直してけふ原稿とともに送った」と。もう『四季』いやとなる。 9月21日 9:30さめ朝食、ユ郵便局より柏井歯科にゆく。12:00植村先生より原稿と略歴着く。(※省略) 16:30山住dr.にゆけば「検診異状なし」と。(※省略) 『五雑俎』868枚。疲る。(※省略) 9月22日 よべよく眠り、9:30朝食後用意して10:00地下鉄 (※省略) ※東大東洋史学科のクラス会 学士会館にゆけば幹事の吉田金一、山本達郎博士をらる。(あとにて昭和8年卒のクラス会とわかる)。 坐りし順に話し、大阪より来し人などあり話し長く昼食後もつづく。中山八郎氏、大阪市大なりしと。 われ簡単にすませて15:00となり散会。9年生4人(※羽田明、川久保悌郎、丹波鴻一郎)喫茶店にゆく。 羽田17:00の新幹線にて帰京とのことに丹波に道案内たのみ、われ山本書店に『福建通志』さがせしもなく、成城に売りしかと思ふ。 大野沢氏より手紙。中野清見君より「西川入院、島稔死去」と。電話せしも出ず。疲れて19:30より臥床。 9月23日(日) ユ8:30朝食くはせし故、礼拝にゆかし西川に電話すれば「足痛めて入院」と、元気な声に安心す。 われ『四季』の詩つくり「母の国」を大阪へ送ることとする。(※省略) 9月24日 6:00さめ7:00朝食にpão食ひ8:00三鷹駅南口へゆき小林の車にて上川霊園。(※省略) 11:00小林家の墓へも参って出発、小林家にて天丼たのむ。13:00来り、やっと元気出て駅まで歩く。 (※省略)家につきて寒くて測れば36℃。 牛尾三千夫氏より『四季』みなもちをり。堀さんとのこと知らざりし。次に堀さんと民俗学かくと。仕方なし。 9月25日 よべ20:30ねむり8:30覚む。ユ縁談にて吉祥寺小清水さんへゆく。(※省略) 中野清見へ「西川心配いらず」とハガキかく。石浜恒夫へ「大阪の人」かく。(※省略) 速達。 書泉にて『大塩平八郎(280)』買ひ帰宅。川久保へ内緒にてタバコ吸ふこととす。(※省略) 美紀子来り仙台の公舎のこと話す。(※省略) 9月26日 7:00さめる。ユ日比氏に「今夕来い」と電話す。(※省略) 『四季』4号(秋季号)編集に苦心。(※省略) 瀬見氏へゆき『昭和史新版(200)』買ひ、話す元気もなく帰り来る。(※省略) 東豊より小包にて『福建通志』来る。6万円と。(※省略)日比氏に電話せしむれば「高円寺へゆきし」と。(※省略) 9月27日 8:00さめ朝食。(※省略) 山住dr.にゆき眠剤もらひて帰る。(※省略) 昼食後、末富家へゆき将棋・碁とも一番勝つ。肥下夫人よりさつま芋来り、画くれとユに。 小杉茂樹氏より詩の改稿。16:00日比氏来り、『四季』秋季号の原稿わたす。やれやれ(忙しと也)。 国友則房氏より詩集『冬の車』来る。1911生れと。(※省略)『五雑俎』またやり880枚にて止む。 9月28日 8:00さめ9:30朝食了る。(※省略)13:30苑子呼び、茶入れしむ。少しも面白くなし。 『福建通志』は新版にて役に立たず。 返さんと思ひしところ瀬見氏より電話「東豊書店の電話教へよ」と。偶合なり。 成城にゆき、なければ東洋文庫へ行くべからず。つまらず。 東豊に電話すれば「復刻あれよりなし」と。なるほどわが引きし『五雑俎考』の『福建通志』はこれなりし。 20:30村田幸三郎より電話「高石へゆく。汝の(※新婚当時の)新居見て来る」と。 9月29日 2:00さめ8:00さめる。日々氏に追加いへば「明日来る」と。東豊に電話し「あれでよし。12月までに払ふ」といふ。 (※省略) 午后、複製『コギト』後半来る。誤植わが解説にあり、不十分なり。(※省略) 9月30日(日) よべ眠り浅く8:00ユに起され髭そってもらひ礼拝にゆく。(※省略) 佐伯にて『戦歿農民兵士の手紙(150)』買ひて帰宅。 同書と尾崎秀樹『ゾルゲ事件』よみ了る。年表に間違ひあり、わが昭和9年3月朝日新聞入試前、東京につとめゐて下村海南の紹介にて会ひ「学芸部希望」といひ、たしなめられしこととくひちがふ(大阪本社在勤と)。 『コギト』解説よみ返せば誤あり参る。(※省略) ふるきこひ思へばかなし日記にはただこひうたをしるしたりけり。 10月1日 快晴8:00さむ。(※省略) 10:15南川より電話「10月21日同窓会、翌日法隆寺と正倉院展見て18:00新幹線」と。やむなく承知す。 ユ、日々氏に追加わたして帰り来る。12:30出て東豊書店、(※省略)本代5,000払ふ。(※省略) 築島博士より電話「10日の民俗学会に出るや」と、「民俗学きらひ、(※我は)民族学」と答ふ。 10月2日 8:00さめる。外出せず。『五雑俎』923枚。人部片づけることとす。 10月3日 8:00さめる。久しぶりに便あり。(※省略) 〒つまらぬ詩集一冊、タバコ買ひより出れば来る。暑くて夏シャツと浴衣となる。(※省略) 10月4日 7:00さむ。寒し。『五雑俎』をやり下痢し938枚となる。 13:30末富邸へゆき碁将棋ボロ負けす。疲れたる也。けふは寒く秋衣に着がへる。 南川生より21日(※同窓会のため)の切符(下りのみ)来る。(※省略) けふ京より史のことのりたる『河北新報』送り来る。 10月6日 (※10月5日記事なし) 9:00覚む。(※省略) 無為。鬱病とわかる。 20:40南川より「速達見た。ロイヤルホテル21:00」と。「朝食は?」とにpãoと答ふ。おそれ入る。 10月7日(日) 礼拝にと7:30起され600と605と歌はれ、隣の老女に(※自訳詩の)譜見せsignして与ふ。 『五雑俎』のため成城にゆく気あり。 10月8日 よべよく寝て8:00さめる。『五雑俎』よみ直し、字句訂正をする。不十分なり。 南川生より「ロイヤルホテル」が宿舎、羽衣の「新東洋」で同窓会やり20:00了る。ホテル着は21:00」とハガキ。福地、石浜二君に21:00すぎ同ホテルに来たまへとハガキかく。 南川生より電話かかりし故、中島の墓まいりたしといへば「宜し」と。22:00目見えなくなる。悲しいかな。 10月9日 8:00さむ。寒し。外出せず。『五雑俎』よみ直し、統一を計るも旨くゆかず。 10月10日 9:00まで熟睡。寒し。『五雑俎』訂正し、なかばなりて止む。 10月11日 7:00起床。10:00末富氏より電話、風邪を申し立てて断る。雨。『文芸広場』5冊来る。稿料なきなり。 午后、雨中を森文恵(旧姓笠原)2子をつれて来り四日市に開業すと。幸せさうなり。 10月12日 雨。末富氏の電話に風邪直らずと断る。『五雑俎』整理をし、くたくたとなる。(※省略) 10月13日 8:00さむ。雨止む。(※省略)13:00咲耶来り、わが憂に困って逃げゆく。 堀夫人12月まで軽井沢となり(ユ電話)。 10月14日(日) 8:00起床。髭剃ってもらひ礼拝にゆく。帰り佐伯にて『森鴎外集(150)』文庫より安し。持ち帰り、 14:00来られし中村摩利子女史の話きけばたしかに興地先生の令嬢なり。 16:00ごろまでユ仲介して話しゆき『興地実英追悼集』にお花代として5,000円渡し正野君にもゆけとすすむ。(※省略) 10月15日 山田氏よりまた(※『文芸広場』)1冊来り、15:30咲耶来り、ユと色々云ひてわがこときかず。 『日本歌人』も来り、三治氏より故夫人の写真などと手紙。不思議なり。 10月16日 7:00起床。速達にて福地邦樹君「会合承知、四季廃刊にてはいかが」と。三治氏にはユに代筆さす。 平凡社より「『唐代詩集 上』500部12月初旬増刷」と。 前田勝太郎氏より「11月に講演を。中島敏氏にことわられし故云々」、変な日なり。(※省略) 10月17日 9:00南川君よりの速達にて目ざむ。「21-22日の日程」かきあり「中島の令姪、墓へ来たまふ」と。 (※省略) 前田勝太郎氏へ「気分すぐれず」と11月の講演断り状かく。 10月18日 9:00さめ何もせず、鬱ややのきしと思ふところへ大野沢氏より第5号の原稿来り、 ついで夕方日比氏小さく組みし第4号の校正と原稿と置きゆく。われ仕方なくユと校正すまし入浴、眠ることとす。 10月19日 7:00さめ8:00まへ日々氏に電話をユをしてすれば指定通り組みしと。組みかへても宜しと也。(※省略) 18:00日比氏来り「(※活字)5号と指定しあり」と。わびて長老たちを大きくしてもらふ。 10月20日 8:00さむ。雨止む。(※省略) 護雅夫博士より『草原とオアシスの人々』もらひLevirateを突厥行ひしを認め、その旨礼状かく(いま日大教授と)。 10月21日(日) 5:00さめ6:00起床。9:30発、新幹線11:00 (※省略) 南川君今沢君出迎へに来り、taxiにて生玉前町宗恵院にゆけば中島(※中島栄次郎)の2姪あり。 (※中島栄次郎の)墓前にて大高全寮歌唱ひ、お花料(5,000)献呈、住職出られ茶菓供せらる。 16:00またtaxiにて羽衣の「新東洋」へとゆく。6人集まり一番痩せなるに体重聞けば52キロと。 わが39キロ云ひ20:00黙祷のあと散会。吉村の車にてあす法隆寺へゆくと。 ロイヤルホテルにつけば福地邦樹、石浜恒夫2君をり、『四季』正月号より印刷校正は石浜君当り見ると。 569号室に入りbathのあと室内寒く眠れず。 10月22日 8:00不眠のあと電話鳴り、朝食pão食ふ(600)。9:00すぎ今沢、南川来り、、吉村の車にて法隆寺。 若草寺院跡まで見、佐伯保正氏案内さる。中宮寺見る。ここはさびれてをり。奈良へゆき(※省略) 正倉院は28日よりと。やれやれと大阪駅へゆけば2等の切符買ひ来る。(※省略)17:30着、帰宅してすぐ眠り。 10月23日 5:00一度さめて(※省略) 山住dr.にゆけば血圧105-75と。異状なし。 南川正純より電話「中国の自然と民俗5冊買はす。金送る」と。山本に著者買上げとして注文す。 大野沢緑郎君より「(※『四季』)止めざれ」と。「止めず」と返事かく。法隆寺の佐伯保正氏に礼状。 沢森美佐子、鈴木眞理子と中島栄次郎の2姪に挨拶かく。18:30依子来る(諏訪入院中と。電話かける)。 10月24日 よべ22:00眠り7:00さめる。依子8:30起床。10:00出てゆきしあと弓子より電話。(※省略) 鬱とれしも仕事する気なし。困ったもの也。 10月25日 7:00さめる。何もする気なく山住dr.にゆけば血圧105-75。南川より「本受取った。いくら送ればよいか」 に「11,200+650」とでたらめ答ふ。依子より電話かからず、末富邸へ昆布もちゆき碁6目にて1勝。 『五雑俎』できず。 10月26日 4:00一度さめまた眠り7:50起きる。 朝食後、日比氏に電話かけさせれば「主人病気につて云々」、いよいよ大阪へ移管の必要あり。 ユ、人形の画に熱中しあはれ也。 10月27日 一度さめまた眠り7:00起床。宮本財団より『報告3』来り、受取かく。(※省略) 福地・石浜2君に5号よりの委任状投函。佐伯にて『白秋舒情詩集(200)』と『元明画集(200)』と買ひ、 袋120(まことや)買ひ帰宅。(※省略) 『五雑俎』やれず、あと一歩なるに残念也。日比氏音沙汰なし。 10月28日(日) 6:00さむ。7:00ユ起き朝食くひ、髭剃りて礼拝にゆく。(※省略) ユと別れて帰り佐伯にて『斎藤茂吉集(150)』買ふ。 あと孝行来り飲み食ひし100円やれば17:00帰りゆく。21:00美紀子、仙台へゆきしと報告に来る。 果物1箱もち来り「史、肝臓悪く医師に禁酒命じられし。(※省略)」と也。 本をdoubleしなど与ふ。あまり喜ばざらんも立話にて帰りゆく。 10月29日 5:00すぎさむ。よべteleviにて中曽根再選と決まりし様子にて不快なりし。 日比氏より音沙汰なく万事塞翁の馬なり。(※省略) 躁鬱の半ばなれど仕事できず。 中央公論社より『日本の詩歌24』4版の印税(買上げ差引)7,860三井へ入金せしと通知あり。 久しぶりに都丸支店へゆけば瀬見氏帰り来り、欲しき本みな高くて買へず。『ロシア語文献目録』もらひて退出。 10月30日 6:00さめ(※省略★) 11:00ユ地代払ひ、山住dr.にゆく。 日比氏より相変らず音沙汰なし。石井正吉氏より「1日15:00来訪」と。(※省略) ユ21:00近く帰り来り2階建て(※建替)と契約金につき「考へさせてくれ」と云はれしと。 日比氏に電話せしめれば「校正せず、来週出来る」と。 10月31日 8:00起床。無為。(※省略) 堀多恵子夫人より「11月6日午後来訪」と。 沢森美佐子(中島姪)より「墓参感謝」と。法隆寺佐伯保正師より「来泊したまへ」と。 televiにてIndiaGandhi首相暗殺、中曽根組閣など報ず。(※省略) 11月1日 石井正吉君来り、『ハイネ詩集』に署名し『四季』1冊与ふ。日比氏より「6日『四季』持参」と。 11月2日 富山の薬売り2,550払ふ。東豊書店へ「1月待て」とたのむ。(※省略) 11月3日 9:00まで眠る。ユ朝食出してpermaへゆく。定期叙勲に池田勉、坂本浩ともに勲4等、不審なり。 鈴木眞理子より墓参の礼状来る。(※省略) 日比氏来り「6日夜出来(表紙はかきかえる云々)」と。ユ堀夫人には翌日もちゆくときめる。 11月4日(日) 曇。7:30起さる。夫婦にて礼拝にゆき。長島長老に「御無沙汰」とわびれば向うも同意。(※省略) 帰宅。televi見をり。(※省略) 佐伯にて『玉台新詠集』3冊買へば100円まけてくれ1,000なくなり柿食ひしのみ。 高田の老いたるを座談会記録で発見。酒のみすぎし故ならん。 11月5日 よべ0:00眠り8:00起床。ユ静江宅(※義母)へゆく。(※省略) ユ、賀状200枚買ひくる。 南川生より『GHQ』返却『簡明鍼灸医学辞典』賜はる。 追記して「中島の戒名は秀光院殉譽榮学明教居士」と院号あり。姪たちの意を尽くせるに感心す。(※省略) 堀多恵さんの母方土屋主税は本所吉良邸の隣にて義士に同情し吉良の逃げ込みふさぎしと也。 堀さん下町っ子にて赤 穂浪士のことよく知りゐたるを知る。 11月6日 無為。午后、堀さんの帰りしあと『四季』出来上り(※4号印刷代金)16万円とらる。14:30花井夫人来り、ユと袋かく。 11月7日 午后まで無為。弓子来り、投函手伝ふ。ユ山住家へ5冊もちゆき金もらふ。 11月8日 8:00さめ歌うたひユを起す。誤植訂正せしとそのままとを同人会員にとユに表書させ、堀家へもちゆかす。無人と。 (※省略) 夕方「江頭氏つれてあす13:00阿佐谷へ来る」と国友氏より電話あり。(※省略) 阪本越郎の嬢より雑誌来り、はじめて(※野村)万[蔵]家にとつぎ4人の子の母と知る。美人なり。 11月9日 無為。山住dr.に誤植発見さる。 11月10日 8:00起きユteleviで目をさます。「心はいつもラムネ色」見、長沖さんならんと思ふ。 13:40阿佐谷駅に待ちゐる江頭氏(天沼に来訪せしことあり)と国友氏とを自宅へつれ帰り、 茶のみタバコ1本吸って快談16:00帰りゆく。江頭氏の詩は相変らず下手なり。 夜、(※テレビ)小泉八雲見て檀ふみの小泉ユキに扮し、松江の友西田の死に泪流す。 終りて眠薬のみ、あす礼拝にゆき13:30来る史夫婦とゆっくり話さんと思ふ。 けふ杉山平一氏との会談のせし雑誌(※『文芸広場』)来る。 11月11日(日) よべ眠りつきわるく(※省略)7:30起され夫婦にて礼拝にゆく。長老4人のみ。竹森先生の『カルヴィン(3,000)』入手。 (※省略)史夫婦来り、史肥え、美紀子若く美しくなりをり。 14:00ユと出てゆきしあと、瀬見氏来る(※省略) 20:00近くまでwhiskyでねばられ疲る。22:30眠ることとす。 11月12日 よべよく眠り8:00さめれば田中楠弥太氏より電話。「田中一族の会したし」と。「賛成」と返事しおく。(※省略) 山住dr.にゆき、正己氏に「音痴と音楽教育」についてかいてもらはんとすれば決然とダメ「正月の唱歌」となりし。 (※省略) 都丸支店にゆき瀬見氏より4冊の売上げもらひ5冊置き『蒙漢露辞典』と『中国の自然と民俗』2冊とを買ひ、(※省略) 日記よみ返し、『五雑俎』は400×150なりしこと発見、来年正月までかからん。 (※昭和20年代の不倫一件につき八木女史)コンの誘惑とわが無力とに彼女負けしことわかり、哀れにもあり。主のみさしづの優れたるに感心す。 (※躁記述多し 省略) 11月13日 22:00就寝。7:00さめ「心はいつもラムネ色」の秋田実の相手は武田麟太郎か藤沢桓夫か長沖か。(※省略) 代々木下車、(※東豊書店)簡君に6万円渡し、夫人われに「肥えた」と也。和服のcoat着なるためならん。 つひに『醒世恒言詞語匯釋(6,500)』2冊買ひて帰宅。 国友、大野沢、鳥羽貞子の諸氏より金入り、国友氏は稿入りをり、下手なり。(※省略) 淺野晃氏より「御苦労」とハガキ来る。 11月14日 7:00起き、(※省略)12:00昼食すませゆるゆると中野へゆき(ユ茶をもち、われ系図をもつ)道に迷ひ、 5丁目へゆき4丁目のbus停にゆけばbenchに坐りゐしが勤氏の次女にて声かけ、 すぐに近くのmanchionに案内され田中綾未亡人に会へば、けふは勤氏の命日と喜ばれ、(※省略) 中野中央街入口にて下車。引返して佐々城書房にゆけば女主人「先生」といふ。 やむなく『有朋堂文庫(1500)孝経』買ひ、「次女の婿こころがけん」と石井正吉氏を見積り吊書かかす。 長嬢は九州の某私立大学教授に嫁ぎ「この娘とつげば店しめる」と也。 ユ、書泉にて『四季』ならべゐるも(※背文字ないため)あれにては見つからずと。われも失望して(※省略) 11月15日 久しぶりに雨降る。午后碁将棋とて末富家(※省略) 帰れば南川生より2,600(6冊代)来り、健太郎よりハガキ来る。劇にてライオンとなりしと。 (※省略)明日よりは『五雑俎』やることとす。 11月16日 8:00起き、秋田実の話televiで見、ユ出る前「書泉」にゆけば一冊売れをり。『歴史手帖』注文し、 佐伯にて本買ひ(300)、市に出すと山ずみの本のこときく。(※省略) 山住dr.にゆき(※省略) 『五雑俎』やる気となりしもダメにて藤沢桓夫さんに電話すれば「略歴かく。詩2篇作りあり送る。金も送る」と也。 石浜君(※省略)「活版なら30万円、いま写植さがしゐる。詩もかく」と也。うれし。(※省略) ユと、大の生計につき色々考へ、咲耶より仕送りありときめる。 11月17日 8:00起き、ユ撲れば撲り返し来る。柏井へゆき帰り、まずきすし買ひ来り。 眠げなれば瀬見店にゆき見しに古本屋の市にて云々と瀬見夫人。 帰りてユの戸田先生にゐるにゆけば「山の麓」の英訳たのまる。(※省略) けふ『文学館(※潮流社発行の『四季』後継誌)』1.2見しに、小杉氏は二段組なり。変な世の中なるかな。 11月18日(日) よべ3:00さめ7:00起床。 雨の中をユ教会にゆき帰るまで、ゴタゴタとかきしもの見をり、『戦後吟』を宮崎女史写せしは当然と思ふ。(※省略) 11月19日 7:30起き、朝昼夜と3食米を食ふ。 川久保にゆき、東洋文庫に通ふ、ロシア語習はん、と吉田金一氏の本見せ賞せられし故、 簡字用ひゐるを難ぜしほかはさはりなく、この間の会の時と同じ鬱なる故、 山住dr.より解鬱剤もらひしもまだ全快せず。 11月20日 8:00起さる。10:00出て地下鉄、大林学長と同車。妹尾理事長の悪口いはる。途中で別れ、 (※銀座の三火会)11:00より12:00開会まで『四季』くばる。話は電気のことにてわからず。(※省略) 国鉄にて中野下車、(※佐々城書店 名省略)に婿をといへば夜、断りの電話来る。(※省略) 11月21日 8:00さめる。(※省略) 書楽にて『四季』4冊のこれるを見る。 (※省略) 西島治子来り、「膵臓癌にて建(※弟)いたしかたなし」と。(※省略) 大沢氏来り、活版30万以下はダメと。(※省略)築島博士より『日本人論の中の日本人』賜はる。 11月22日 晴。午后電話「荒木ですが駅前にをります」と。 迎へにゆけば青年にして東豊書店で逢ひしとわが筑摩版『李白』もちをりしことわかり、わが詩人なることは知らず。 茶のませ柿くはせ、芸大大学院2年と。そのうち敬愛しゐる教師と来ると也。ユに云はせれば3男なるに兄たち早逝は自殺かといふ。 (※省略) 荒木君は黄山にのぼりしと。西安・竜門にゆけとすすむ。 福地君より1万円入金し来り、石浜君印刷所あたりをりと。ともかくまかせんと思ふ。(※省略) 21:40石浜君に電話せしに「15万円にて300部、100部は大阪においてくれ」といふ。福地君と校正する由。 11月23日 7:00ユに起さる。久しぶりに『五雑俎』の見直しし、(※省略) 佐伯にゆき9,000円の本買ひユに払ひにゆかせる。 出てブラブラと中野北口へ出しに姿なく、きけば南口もありと。南口にて待てば13:00かっきりに石井正吉君来る。 中野で2件見しも買ふは我のみ。高円寺へ地下鉄にてゆき途中汁粉屋に入れば石井君おごり呉る(600円)。 高円寺の古本屋7軒見て彼も3冊ほど買ひ、我は殆ど金なくす。 ユ秋刀魚を焼かしてもてなし、彼は3杯飯旨し旨しとくひ我は半杯なり。 18:30別れ告げて出てゆく。さっぱりした男なり。30何才か、弟は既婚、子ありと。 (※省略) けふ石浜君と福地君に電話し、まづ福地に送りて校正さし、あと石浜君が見ることとなる。 高橋重臣に電話せしに「今週来客」とそっけなき返事なりし。 11月24日 3:00覚めうつらうつらす。8:30山住dr.にゆき10:00また出てまことやにてink1瓶買ひ、帰りて『五雑俎』。 (※省略) 矢野峰人先生より原稿と略歴と来り、よめざる故写し直すこととす。どうしてもよめざる箇所は麥書房に電話すれば「関係なし」と。ユ船越映子にきけば「吾妻」とわかる。 Hepburnの年よりしを見をるにアホらしく床敷き入浴ときむ。 11月25日(日) 7:00起さる。(3:00尿にゆきあとうつらうつらなりし)。夫婦にて礼拝にゆき竹森先生の説教中に、 金婚の年が明けた 彼女は19才、わたしは23才で 家主のおばさんがよく「お嬢さん」と呼びちがへた ──彼女はもう白髪だらけとなり わたしを末っ子のように世話している わたしが呼ぶと茶が出 も一度呼ぶと菓子が出る 鴬が来なくなってから久しい家である 史はも酒をたてよのいましめに耐え得るやいな父は気づかふ 帰り佐伯に寄り、本買へば昨日の借金とで8,600円の借りとなる。(※省略) 11月26日 よべ1:00眠り7:00覚む。8:30山住dr.にゆけば血圧108-85と低し。(※省略) 『五雑俎』やりメドつく。矢野峰人先生の御原稿清書し、お礼のハガキに「お伺ひしたし」とかいて投函。 11月27日 よべよく眠り6:00起床。ユ7:00までさめず。 『五雑俎』見直し(午后平凡社久米氏に電話「年内に上巻分わたす」)、本文を本字に改め文も直し200枚近くなる。 (村山高氏投函「肉もち来れ」といへば村田よりも電話、ユ「酒もち来れ」といふ)。(※省略) 都丸支店にゆき瀬見氏の苦心せるを見る。巨大なる夫人は逃げしらし。(※省略) 躁のたのしさを満喫す。 (※省略)鳥羽貞子氏に「我もpen-nameにて唄作りたし。詩も止めざれ」とかく。(※省略) 11月28日 6:00起床。寒し。6:40追分の堀辰雄夫人に電話「7日ごろ帰る。『四季』まだ見ず」と。 高橋重臣に電話し、桑原武夫氏に長々とわびかき『四季』2冊包む。(※省略) 書泉にゆき600円の本買ひ佐伯に寄り帰れば美紀子来てをり。(※同居に際し)建てましする気なしと。(※省略) 炫火忌に浅野晃氏出し。前田男爵は子のため票かせぎとユの言。 藤祥子(実母死と詩集『待つ』呉れしなり)には弔歌3首。  天にゆく日は定められけふあすも祈りて眠り朝はさめをり  この世にしうたを作れとみこころのままに日々をばすごしつつをり  わがうたをうたふ聖日身をきよめ心きよめて教会にゆく 11月29日 よべ1:00眠剤1箇追加しやっと眠りて7:00さめ、「黄海の戦」うたひ排尿。(※省略) 9:30出て佐伯、本包ませ「あとにて取りに来る」といひ寒き中を帰り来る。炬燵に入り『五雑俎』302枚より見直しす。 佐伯にゆき5,000借金して帰来。花井夫人「カボチャ」との詩もち来る。我は山住dr.にゆき「正月の歌について」もらひ来る。 タヅさん10:00来て拙作「南瓜」を示す。命じて「正月」を作らしむ。出来ず、昼食し(※省略)16:30帰りゆく。 (※省略) 佐伯に行き『支那中世医学史』、『中国美術年表』、『はじめての朝鮮語』、『遷海民』買ひ来る。 ユ曰く「今月の本代3万円」と。電話代も高からん。夜、昭和26年1月4日付の堀さんの賀状出て来る。 11月30日 ややに暖かし。よべ0:00眠り6:00さめ朝食は飯。植村先生に電話すれば「できず」と。 浅野氏に電話し、出来ざる故『寒色』よりとるといひ、山住dr.にゆきて血圧108-。(※省略) 石浜君に「藤沢桓夫より詩もらへ、自らの詩ものせよ、300部1冊300円」などこまごま指示。 『五雑俎』訂正400枚をすぎ、メドつく。(※省略)  家の為博士となれと欲りし父死にたるのちに博士欲りする。国士舘大学大学院に入ることとす。 12月1日 よべ眠剤1服のみなりし也。7:00さめ「予科練の歌」うたふ。(※省略) 高橋重臣君来り、あす石神井駅の古本屋にゆくと也。父の歌集もやらずとのことに与へて喜ばる。 堀さんの文学碑のこと了解と。けふ平凡社より『熱河日記2』来り、著書買上としてくれしらしく礼かく。 けふは吉き日なり。(※省略)  渚つ鳥島の娘をうたひしはわが若き日のあやまちなりき  お迎へにまいりましたと死にし児に手を引かれつつ天にのぼらん 12月2日(日) 早やくさめ、(※省略)山住dr.へゆき躁訴へ、(※省略) 老婆の電話かり金払はざるに腹立て喧嘩すればdr.とんで来てとりなし給ふ。 ユすぐゆきて(※省略)先生にいへば気にしたまはずと也。(※省略) この間来し芸大の荒木君、非常勤講師と早大大学院の学生とをつれ来る。 whiskyのませて乾杯し、講師の無智なるにおどろく。15:00となりて出、山住dr.の前で別れ、(※省略) 豪徳寺で下車、(※省略) 寿一の家通りし故、訪へば隣の息子の家につれゆき、孫(※工氏か)ねてをり。 炬燵にて話す。(※省略) 灯つきゐる民研(※成城大学民俗学研究所)にゆけば座談会しをり。 野口、鎌田をり三田村副手に付き添はれ図書館へと『四季』わたし「一度来い」といへば「承知」と。 灯つけゐる成城堂で新書など3冊買ひ1,400使ひ、高田(※瑞穂邸)にゆく気となり着けば夕食しをり。 すぐ了りて出て来、whiskyすすめられ酒の肴の大根平げ、すこし飲んで歌ひ、(※躁記事多し。省略) 12月3日 5:30さめ(※省略) 9:30寿一来り『四季』やり、短歌雑誌置きて去る。 15:00来るといふ外池昇来り、天皇論やると。(※省略) 「博士論文かく」といひて去る。 夕食前散歩に出、都丸支店にゆき『四季』の売上1,200もらひ本買ひ、球陽書店でも本買ひして帰宅。 (※躁記事多し。省略) 神田信夫君に「神田先生なくなられて師なし。十大王は」といへば笑ふのみ。 12月3日(※日付不審) よべ3:00眠り4:00さめ5:00起く。(※省略) 『五雑俎』の訂正やり、(※省略)  われ一休みして平凡社へ「20日原稿とりに来い」といへば喜ばれ「2人にて来る」と。 夜はつづきやり20日まちがひなしとなる。うれし。(※省略) 湖東より『せんば』送り来り、見れば詩人としてわが名あげあり。 石浜恒夫君より「(※『四季』の)印刷所、柊和典君(※六耀社)」と。 早速「別便にて10万円送る。よろしくたのむ」とのハガキかき投函せしむることとす。 12月4日 よべ20:00眠り2:50排尿に覚む。5:00まで『五雑俎』やり、989枚となる。 あと眠れず石浜恒夫に礼と今後のことかき、筑摩書房へ『李白』再版せざれば他社に交渉すと最後通牒かく。 山田雅彦君に『文芸広場』を四季同人全部と井上、大岡、安西(※井上靖、大岡信、安西均)に送りくれよと手紙かく。 11:00琳琅閣来り、わが出せし『福建通志』と『・・・・・』にて2万円位の顔し、長沢規矩也たせば22,000呉る。 鴎外の通ひしは曾祖父の店と。われ出て早速書泉にて1,500円の本買ひ佐伯にて250円の将棋買ひ、 帰りて午食し末富家。(※躁記事多し。省略) ユ、たへずわが罪と父の罪とを云ふ。 12月5日 よべ山住正己氏に電話すれば嬢出て「居留守使ふ」。断らんかと思ふ。2:00さめ『五雑俎』の見直しやることとす。 ユ4:00起き来り長欠伸しつつtea入れ呉る。時に4:00にて252枚となりをり。 神田信夫君に10枚の長手紙かき7:30となり手疲る。 12月6日 成城大学へ久しぶりにゆきSkey嬢に会ひ「ともに昼食せん」といひ、教職員堂にゆけば尾形君抜刷くれ「中村幸彦の弟子」と。 ともに栃尾君(欠)を加へて仕事せんと思ふ。高田にゆき酒と菓子出されしのみ。誘ひて新宿まで放歌高吟(※省略)。 12月7日 9:30山住dr.にゆけば薬かへると。(※省略) 急行にて成城学園。(※省略) 民研に寄り茶のみしあと図書館、(※省略) ※食堂2階の同窓会にゆき、坐りゐる男と話せば小林よく知りをり。麻雀友達にてわがことも知りをり奇遇におどろく。 出て急行にて(※省略) 帰ればteleviつまらず、川久保呼びて酒のませ天丼食ひてのち whiskyにて彼の説教ききをり。なかなか帰らず20:00瀬見君来るかといらいらす。 『四季』今西の話きかざりしが如し。飯、補ひて食ひしころ瀬見君来り、22:00近くまで話しゆく。 ユも我も眠たがりをり。(※省略)  ユも我も睡眠不足にてくたくたなれど我はたのし。(※省略) 12月8日 よべ23:00ねて(薬かへらる)5:00さむ。ユはねをり。われ床上ぐ。すでに薄明なり。瀬見氏の店にArbeitせんとの気起る。 12月9日(日) 聖日。晴。寒し。5:00さめユに注意さる。(※省略) あはてて出、(※礼拝 省略) 駈足にて退出。 『五雑俎』原稿整理すれば271-279見つからず。一休みすることとなる。 佐伯にて『東京大空襲(150)』、『ハイネ恋愛詩集(100)』あり、(※省略) ミリアム女史への手紙と高梨夫人へのハガキ見つく。ともに執拗にて(※投函)中止とせん。 17:00村山氏より電話あり「体悪く、上京今年中はせず。村田より昨日電話ありしゆゑさういった」と。 甚だ危険なり。見舞と称し昌三、肥下、田村、中西などに別れを告げ名古屋まで近鉄の計画をたてる。 そのあとテレビ見て高橋の心配わかり、木村とコン女の情交わかる。(※省略)  北海の潮のごとく雪姫のごとくあれよとわれは思へる。  先生に二度と歌集を見せまじと心に決めぬキリスト者われ。 12月10日 よべ0:00就寝6:00前さめる。9:00洋服にて成城大学に向ひ講師室にてちょっと話し茶のみ(※省略) 図書館2階にて図鑑しらべ(※省略)、大学院の控室にてまつ内、中西講師来り、握手して去る。 昼食はrice-curry(280)、出て岐阜の杉山生に「来よ」といひ、成城堂にても1冊車中用の文庫買ひ、 (※省略) 地下鉄にて本郷三丁目、東に琳琅閣の掲示あり、ゆけば2老嫗をり、われを識りをり。 注文の本積み「この間のdriverに〒へもちゆかせ明日着かん。10万円」と。 茶を催促し、笑はせてのち地下鉄にて南阿佐谷。(※躁記事多し。省略) このころより悠紀子苦痛を訴へ、眠ることとす。時に22:00なり。(※省略) 12月11日 3:00さめ春本読みつつ『五雑俎記注』の整理に入り、南博教授の退職祝賀会に「出席」の返事す。 高田も出るなるべし。学園長、学長、同窓会長、堀川氏などに会ひたければ也。  人恋し、さびしきさがに生れつき、住みにくき日をすごしつるかも。  おん母の指環ぬきしは5才にてユキ子も5才に父を亡くせし。 「1日筒井、2日肥下、3日福地・石浜に会ひ名古屋に寄らず帰宅」と決意す。(※省略)  我のみは永久の生約せられのびのび生きん苦しきはなし。 12月12日 5:30さめ朝食後9:00ユと母のところにゆき和解し、ハガキ投函。 山住dr.にゆき血圧148に蒼くなる。(※省略)  『五雑俎』やり昼食後高円寺へゆき、 山水書房にて7,000借り、(※省略) 「2世とてハングルできず母語忘れし」と泣き顔なり。 歌うたひつつ帰宅。丸へ3度電話、ユも出、河野に電話、稲留敦子夫人に電話、外池、森岡に電話す。 瀬見氏に礼いひ、琳琅閣に電話して「巳」(※名前の誤記)を咎む。  天才と神童の影のこせるをわれつつしみて謝し奉る(栃尾には絶交を申し渡す)。(※省略) 12月13日 5:30起き、9:30丸煦美子迎へに来り、和服にて乗車。 (※越谷)大袋の(※丸三郎の)墓地に参れば黒花崗岩の立派な墓碑出来をり。 (※省略) 阿佐谷駅まででよしといふに家まで送ると。書楽にて『珍籍文庫』2冊買ひ(1,000)、 (※省略) 家まで送られ、15:29帰宅。(※省略) 18:30堀多恵さんお越し「漢詩の訳直してよし。3月まで在京」と。止めしもきかれず夕食せずして帰らる。次号(2月末締切)承知と。 12月14日 よべ4時間しか眠れず山住dr.にゆけば血圧102。気をよくして高円寺、(※省略) 都丸支店にゆけば夫婦喧嘩す。7,000返却、(※省略) 金なきに気づき一旦帰宅。ユ怒りて自らまことやに赴く。 西川満氏に寄り『台湾の社会と風俗』呈し喜ばれ、『四季』に矢野先生書きゐること暴露し、「会議は踊る」ドイツ語で歌ひ、(※躁記事多し。省略)。 小高根二郎「今さら詩作る心なし。『日本歌人』が終生の作」と。哀れなり。 ユをしていはしむれば「二郎癌にてもはや覚悟しゐる」と。「見舞はんか」といへば「よせ」といふ。 12月15日 4:00小水に起き7:30朝食し、(※省略) 16:00前、ゆけば佐伯にて『長沢規矩也No.8』来をり(7,200)、受取りて『珍籍文庫』4冊を書原にて買ひ、 花井夫人来しをどなりて送り袋書かしむ。(※省略) 花井夫人17:00去り、(※省略) 石浜君に電話すれば「杉山平一氏の旧作はのせず。12月末か1月初めに出来る」と也。 1月2日は「貴君訪問せよ。福地とわれとは別処にて会はん」と也。21:00就寝、2:00覚む。 12月16日(日) 暖かくて炬燵宜し。2:00覚め賀状のつづき書く。5:00なり。少し疲れるまで書いて了る。 鍛冶さんに(※正月下阪)2日クラス会喫茶店でとたのむ。夜は肥下泊りなり。(※省略) 肥下夫人より電話「夕食せずと来よ」と。ありがたし。午餐後 (※★省略)。 12月17日 7:00前起床。台所にあり。ユより(※自身の)言動きき、躁の最高なるを識る。(※省略) 12:10昼食(山住dr.閑古鳥。喜びて歌うたひ血圧125と我として最高なるもかまはず)。 ユ買物に出、われは昼寝して起きればユゐず。終日家居。 12月18日 突然元気となり、10時間以上ね、高円寺の都丸に礼にゆき、奥さんにも会ひ、笑はる。 帰りてまた出、佐伯にて2冊100円の本買ひ、1冊おとし1冊のこる。佐伯氏店中探しくれしもなしと。 書楽にゆき本1冊買って帰り、『五雑俎』最後の巻となりすらすらすすむ。 (※『四季』編集)石浜君一人で奮闘する様子、福地は関係なし。(※省略) 斎藤茂太・北杜夫2氏の母堂84才にて逝去と、つつしみて弔意を述べる。 石浜君に電話すれば「正月海外へゆく」とて5号、年内に出来のことわかりうれし。 12月19日 4:30起きうはごとにてユを悩まし、地震は知らざりしと。10:30家を出るにふらつくは山住dr.の薬のせいにて、 有楽町のbeer-hallにてはなくなりし。知合一人も来らず、名刺交換両側とやる。(※大高同窓会) 10回文乙の田中芳男君1冊買ひくれ1冊は4回の先輩に与ふ。弁護士にていつでも電話で応対すと也。 各人自己紹介長すぎ13:30近くなり、 われ兵たりと、Schinzinger先生より習ひしIch hatt' einen Kameraden歌へば皆「よく覚えてゐた」と感心さる。 東高円寺で下車。雨中歩いて稲留邸の前通りし故button押せば坊や現れ、次いでねえや現れ「個人面接か」と。 帰宅して『五雑俎』やる。 (※躁記事多し。省略)。肥下夫人より、可愛くなりし孫抱きて迎へると。 12月20日 2:00さめ『五雑俎』4:00またさめ同。5:00金井君に長い手紙かき「Xへの手紙」として次号に出さん。 (※省略) 大阪の諸新聞に『四季』の紹介のせ呉るを喜ぶ。夜、藤沢のcarnivalに出しのち肥下宅へ泊らんとす。 『文芸広場』12月号来をり、我旨くrhythmicalに話しをり。琳琅閣より9.7万の受取来をり。 12月20日(※日付不審) 3:00覚める。ありがたし。『五雑俎』1057枚にてあと少しとせん。ユ、ブツブツわが健康を按じてゐる。 5:30より『五雑俎』人部を猛スピードでやる。また楽しからずや。只今1063枚(6:00) (※省略) 16:00前入浴し、髭すらんとしゐる所へ平凡社の2人来り、原稿「たしかに」ともちゆく。 2,000円を越して(厚め)3,000部刷る由。いくらかは手許金うるほさん、但し来年半ばすぎと也。(※省略) 平凡社久米・馬場2氏より温かい受取受け喜ぶ(※重複)。 明石の木村重夫氏(※遠地輝武とは別人。)より電話、『祖国』に共に書きしことあり。炫火忌1回にて失望と也。 夜、小杉氏より三ケ日蜜柑とともに中西薫生黒豆もらひしと。 丹波なる笹山の栗栗ならぬ黒豆たびぬあまき黒豆。 ペストをば流行せしめし主のみいつ(※御稜威)我は思ひぬ病める心に。 村田幸三郎より電話「船富光死ねり」と。笑ふ。悲しき笑ひ也。 12月21日 3:00すぎ覚め床あげ『五雑俎』やる。(※省略) 9:00より猛然と『五雑俎組下』にとりかかる。(※省略) 藤沢桓夫氏より丁寧な速達あり。(※下阪日程 省略)かくて筒井、肥下、?、中山の線にてゆけることとなる。 『文芸広場』10-12号、わがいひし通り『四季』同人みなにまかれし様子。うれし。 そこから歴史が始まるのだ。新しい若い友、たとへば大野沢君などを大切にしようと思ふ。 12月22日 晴。また3:00覚め、小便もらし乍らtoiletへゆく。ふしぎなり。 ユ、瀬見へ(※仙台へ)送りの絵本を探しにゆくと。感心なり。似た者夫婦となりし。 (※省略) 13:00和服の正装にて出、新宿より小田急急行に乗り(※省略)江の島着。 (※鎌倉をめぐり 省略)、手塚邸へつきbeer一口と銀座の鰻ご馳走になりsabrétいただき20:00辞去。阿佐谷へ隆義氏来たまふ気あり。(※省略) 木下茂といふが保田門下にて桜井で遇ひし由、ハガキ1枚に1,000字かきて会ひたしと也。(※さきの木村重夫?) 12月23日(日) 6:00さめChristmasの用意す。出て教会、(※Christmasの会 省略) 12月24日 5:30覚め『五雑俎』やる。ひしひしと寒し。 『文芸広場』、同人にゆきわたり、高橋のみよまず「花咲町のたより」よこす。没とせん。 我一人にて刊行可なり。同人日は毎月徴収するが原則とユの言、尤もなり。 田村春雄よけて電話せん。羽衣のHotelや奈良の(※空白)館にても良き也。 明日は高橋渡君来り、本文と和刻本とを平凡社とりにくる也。『五雑俎』23枚、黄山にてゆきづまる。 12月25日 1:00と3:00に起き『五雑俎』ちょっとやり、10:15高橋渡君来しにきけば上田の大学の先生と。詩の講義をし、手を震はせしあと『西康省』と『大陸遠望』見せ、昼となり、ユ炒飯を出す。 まことやへ案内し、(※省略) 『大陸遠望』のcopyして辞去。(※省略) 平凡社久米氏待てば「17:00来る」と電話あり(※省略)、東洋文庫の規定にて4,000刷るも2,500だけ勘定し0.8がけ云々、 『明刊本五雑俎』もちゆく。最も安き本なり。馬場夫人まだ仕事しをらぬことわかる。 (※省略) 22:00就寝。 (けふ〒来しは手塚さん「貴下の元気にあてられし。阿佐谷行は若葉の頃」と。中山正子に(※下阪時の)宿ことわる。咲耶に泊らん。) (高橋君、『悲歌』と『手がき詩集』もちをり、わが愛読者なることわかる。われ叱りし時、高橋君手ふるへをりし。信州上田の大学の先生となり。) 12月26日 よべ22:00ねて7:00さめ爽快なり。大声にて歌うたふ。(※省略) われまことやにて4冊製本し書泉にて駄本買ひ新潮社に『ハイネ恋愛詩集』のこと問ふハガキ書き、(※省略) (山住dr.、血圧120にて、大阪ゆき土曜まで「サアネ」と也)。(※省略) 河村純一dr.より「面白くて面白くて巻を措く能はずでした」と最大のほめことば頂く。(※躁記事多し。省略) 『五雑俎』46枚。「清初の十王」、『成城文芸』にかくこととす。 12月26日(※日付不審) 5:00さめユ叩き起こせばブツブツ云ふ故またねむらせ「清初の十王」かきはじめる。『成城文芸』編集者(※絶交を申し渡した筈の)栃尾氏に押っかぶせん。 末富邸にて碁将棋、良き勝負なり。(※省略) 安西均より詩人会につき推薦人理事より2人と。「入りたし」といひてすむ。 (※省略) バアチャンに電話、喜びをり。西島の坊主太っちょにて色気なしとユの話。(※省略) 「清初の十王」4枚×200。 12月27日 0:00さめ0:30床上げる。『五雑俎』休み「清初の十王」にかかる。 3:00また起き床上げ『五雑俎』やめ「清初の十王」にかかり10枚とす。 代善(※ヌルハチ次男)のみにて也。代善15枚にてすむ。時に5:00なり。地図つけんと思ふ。 久米氏馬場夫人と来り、意外にも『五雑俎』4冊とす。天地にて1冊とせんと、地置きゆく。嬉しくもあり、今の我には出来る也。 12月28日 6:00起床。ユ起き朝食し10:00出てまことやへ製本たのみ、中村橋より桜台、11:00植村先生にゆけば起きてをられ、 Scyler(※Schiller?)の記あり、『五雑俎』も訳ありと。笑ひながらきき、『四季』締切の紙わたし、 坊や(漫画を好むと)に送られて出、(※省略) 豊島園までゆき下車しユに電話して13:00帰宅。 福地君よりハガキ来をり、夜同君へ「2日午後ともにせん」とハガキかき、眠ることとす。我は幸せなり。(※省略) 12月29日 5:30大いに歌うたふ。ユさめず。6:00起き来りて(※省略) 高円寺都丸へゆけば瀬見氏外出。 伝言たのみて帰り、諸氏よりの便り見る。高橋渡氏は「気に入らねば除名せよ」と。(※省略) 高橋重臣君に宿ことわりて坂口允男君にたのむハガキ。天理はいやなり!(※省略) 12月30日(日) 3:00覚む。『五雑俎』やる。4:30中止。礼拝にゆかず。 一族は好色の正平のみを頼みとし [守]ちゃん兄さんは足萎えである わたしは一族の長として見舞う 藤井寺の桜は蕾であろう 叔母さんは不相変美しいであろう 子を生まないから。 わたしは言葉もなく途方にくれるだろう 教へられた帰れソレントや祖国愛 それをわたしは第2テノーで歌った 藤井寺よ半年すごした植民地よ わたしはこの街を今も愛している。 漢文よ、亡くなった先生よ! 18:00再び『五雑俎』。19:00旅装なる。20:00〒すみ、20:30入床。「阿敏(※清朝初期大臣)」しらべる。(※省略) 12月31日 3:00覚む。『五雑俎』やる。5:00疲労甚だし。10:00散髪にゆく。(※省略) 書泉にゆきて時間つぶし『大阪・神戸(530)』と『地獄の季節(200)』と買ひまことやへゆけば小沢夫人起きしところなり。(※省略)帰宅。 (※省略) 松枝茂夫氏より略歴、早速受取かきて6号分とす。昨日「先生呼ばはりすな」とのこと也しも佐賀生れにて(※手に)負へず嫌ひ也。 ユの留守「清初の十王」かき2王「Amin (※阿敏)」半ばかく。いづれ失脚の予想されし人物なり。 ユ15:00荷を重がって帰り来る。(※省略) 田中克己日記 1985 【昭和60年】  この年の出来事 1月、自宅リフォームの計画に着手。 2月、『四季(5号)』300冊発行。(カルチェ・プロ:印刷代金15万円) 3月、妹、千草逝去(13日)。 3月、大阪毎日新聞学芸部の取材を受け記事となる(12日)。 4月、『四季(6号)』300冊発行。(カルチェ・プロ:印刷代金18万円) 4月、大阪で共同編集にあたる福地邦樹と石浜恒夫との間で印刷所をめぐり不和生ず。 5月、詩稿集まらず、堀多恵子よりも『四季』に関する風聞が伝へらる。 5月、六本木国際文化会館「堀辰雄33回忌」に出席(28日)    佐多稲子、中村真一郎、室生朝子、中村真一郎、遠藤周作、伊藤信吉ほか会衆60人。多恵子夫人配布の『来し方の記』に感心す。 6月、大阪毎日新聞の取材が記事となる(6日夕刊)。 6月、『五雑俎』訳稿を持て余す。松枝茂夫に共訳を断られ、成城大学の栃尾武に打診。 7月、『四季(7号)』300冊発行。(カルチェ・プロ:印刷代金20万円) 7月、平凡社より『五雑俎』の訳文の書き直しを要請されやる気をなくす。 7月、講談社より『保田與重郎全集』の月報依頼されるも、初回を断り、結局書かれることはなかった。 7月、不和となった石浜恒夫と福地邦樹に一旦『四季』休刊の意を伝ふ。 8月、『四季』編集を江頭彦造と国友則房に打診するも断られる。 9月、石浜恒夫『四季』脱退。自身で編集を続ける決心す。 9月、印刷所を変へて『四季(8号)』220冊発行。(橋本保印刷:印刷代金11万円余) 10月、江頭彦造、高橋渡、国友則房『四季』脱退。小杉茂樹ほか寄稿者から満足ゆく原稿集まらず。 11月、朝日新聞社会部の穴吹史士に招かれ白河天体観測所でハレー彗星見、記事となる(19日)。 12月、世間を騒がせたAIDS(HIV感染)のニュースに憂ふ。 12月、栃尾武の協力得られぬことが分かり東洋文庫『五雑俎』出版計画頓挫。 12月、名誉会員を外された小杉茂樹も『四季』脱退。 1月 1日~ 3月 8日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 6:00覚め、初雑煮すます(その間「清初の十王」かきつづけAbatai(※阿巴泰:清代初期の将軍)となる。) ユ、肥下家の子らに1,000づつの袋こさへる。9:30家を出て各停にのることとす。1時間あり「清初の十王」30枚とす。 Bayan Beile(※貝勒:爵位名)なるAbataiに筆すすむ。五王なり。 村山筒井ともに不在。山本家に18:00迎へ入れられて20:00睡眠せんとして眠れず。山本(※吹田市大高OB山本治雄)スウスウ眠る。 山本の息子市会議員として良き嫁とり、可愛き女児われを見てねらむ(※にらむ)。 1月2日 よべ不眠、4:00起き、ユに電話せしに6:00起き、叱る。睡眠剤あり間に合はず。 山本夫妻起き、よくして呉る。9:00吹田駅より梅田着。9:50より阪急出口で待てど福地君来ず。 京橋を経て大東dr.邸。夫人迎へられ、短歌出すと。dr.の車で天王寺着。 (※帝塚山短大教へ子)旗屋・野崎夫人あり。やがて鍛冶姉妹、ついで山荘来り会食。 すみしころ(※浪速中学の教へ子)南川君現はれ、末沢君と羽衣の××荘、20:00まで歓談、 松原駅近くにて下車。肥下訪ぬれば案内しくれる人あり。 孫たち5人出て来、2人にお年玉用意せしも足らず5,000与ふれば喜ぶ。肥下の顔したる子あり。20:30就寝9:00眠る。 1月3日 松原より難波に出るまへ、昌三叔父訪へば11:00、下半身不随、(※省略)12:00応接室に移り、われ歌へばききをり。 13:00田中栄太郎夫妻現はれ、(※省略)仲哀天皇陵を築山にせし芝生ながめ14:00辞去。 奈良近鉄前まで送られ、下車。高畑大道町の坂口允男君の家を訪ぬれば、(※省略) わが話熱心にきく。 (※省略) 22:30わが床前に来りちょっと話し「明朝8:00」といひて眠る。 1月4日 8:00寸前さめゐれば起され、雑煮食ひ9:00出て、近鉄にて学園前中山邸に電話すればtaxiにて夫人(※中山正子)迎へに来り。 ゆけば主人をり挨拶し、茶菓よばれ、『四季』の広告料2万円もらひ、出て近鉄難波。ナゴヤ行は16:30まで売切れと1時間半呆然と待ち、。(※諏訪家に寄らず20:30名古屋経由新幹線にて) 23:30帰還。 ユ起きをり。20:00依子より電話あり。泰(※省略)受験と喜びて眠る。 1月5日 6:00さめ賀状の返事かく。桑原武夫氏よりRoma字の返書あり、さほど頑固でもなし。 ユ戸田画伯にゆき、電話してハガキかはしめ、入浴す。(※省略) 関口八太郎に電話せしに、退院、元気の由。(※省略) 1月6日(日) 6:00覚む。賀状かく。苑子玄関に来り、小林の3孫来る。(※省略) 1月7日 6:00さめ賀状かく。平凡社の仕事できず。21:00就寝。 1月8日 6:00さめ賀状かく。21:00就寝。 1月9日 6:00さめ賀状かく。南川よりマフラー送付、河内松原の仲居に悩まされしこと思ひ出す(昌三叔父たれ流しなりし)。初枝叔母の苦心思ひ出す。 1月10日 末富邸の碁将棋ことわる。 1月11日 6:00さめ賀状の残りかく。平凡社の仕事できず。(※省略)  丸家よりあす(※不詳) 11:30来よと電話。山本より便りなしと。 (※以下の記述丸家法要記事) 西川と二人のみなり。中野来ず大袋の住職と西川、重俊、丸未亡人と我と上座に坐り煦美子は姿を見せず。 野球部の歌うたひタバコ供へ1万円の香奠おく。中野清見つひに来ず15:00終宴。菓子もらひ、 『シンガポール案内』書泉で買ひ(800)、(※省略)けふも平凡社やらず。賀状も半分のこして眠ることとす。 1月12日 田中三郎(※義兄:悠紀子夫人の姉の夫)10:00死にしと。すみ子より電話。ユ阿佐谷駅にて15:30まち合せ、花代1万円渡す。けふお通夜すませ焼くこととなり。(※省略) 1月13日(日) ユ4:30電話に起き、我8:00さめる。尻痛く入厠、入浴。ユ9:10礼拝にゆく。(※省略) 11:00中野清見けふ丸家へ来しと。「来い」といふ。ユ礼拝より12:00すぎ帰宅。中野清見・金子一郎ともに来ず。(※省略) 1月14日 ※記事なし。 1月15日 成人式。(※省略) 一日炬燵にをる。誰も来ず。 1月16日 8:00さむ。「レモン色(※「心はいつもラムネ色」)」中途なりし。けふも寒し。(※省略)午后何もせず(※省略) 1月17日 寒し。13:30末富邸へゆき将棋2番、(※省略) 畠中哲夫より『達治論』。 1月18日 6:20起床。重久へ礼状かき福地へ中山の広告料2万円送ることとす。坂口允男氏より「正野君も来し」と。終日炬燵にをり。 1月19日 7:30起床。無為。 1月20日 夫婦とも礼拝にゆかず。11:00起床。 1月21日 無為。 1月22日 散髪にゆく。(※省略)ユ、咲耶と千草の見舞いにゆく。痛みて苦しみ2ヵ月しかもたずと。哀れなり。 咲耶来り、歌集(※河野咲耶歌集『藍の寂寥』)の評のりし雑誌おきゆく。 1月23日 タカ子来り、広島の話す。三郎楽に死にしといふ(14日15:00と ※記述と齟齬あり)。(※省略) 1月24日 8:00さむ。昨日まで痔に苦しむ。(※省略) 『遠やまびこ』5冊と菓子とくる。『四季』はいかがなりしや。 浅野晃氏より詩来る。(末富氏の碁将棋ことわる)。鷲沢工務店来り、(※自宅増築)見積りす399万円余也。 1月25日 8:00さむ。10:00小泉外科にゆけば切れ痔と。薬賜ふ。炬燵にをり。(※省略) 尻痛く動かず。 1月26日 尻痛く入浴3回。ユ画にゆく。『人民中国』、『日本常民文化紀要(平山教授退職記念号)』来る。けふも寒し。 1月27日(日) 尻痛し。ユ午后新宿へ嶌野彩子の見合いにゆく。美紀子より電話あり「ユ留守」といへばすむ。 1月28日 入浴2回。寒く外出せず。肥下夫人より「原稿あった」との便り、柳井君より伝へらる。『四季』来ず。(※省略) 1月29日 痔なほらず。炬燵に入りしまま也。小雪ふる。 1月30日 ユ吉祥寺へゆき3時間して帰り来る。同上、終日無為。 1月31日 寒し。尻痛し。無為。 成城文芸学部より2月21日17:30京王Plazaにて懇親会の案内来しのみ。(末富氏の碁将棋ことわる)。 2月1日 無為。竹内正夫氏未亡人より追悼集にと文。 2月2日 同上。寒くて外出せざること数十日。 2月3日(日) 礼拝、ユも風邪とて休む。無為。 2月4日 無為。川村純一氏より原稿と2,000円。(※省略) 2月5日 無為。(※省略) 福地君より『四季』のこと石浜君と柊の不誠実を怒り来る。仕方なし。 木下茂氏より、肥下夫人にわが「紹介にてゆく」と。不審。 2月6日 6:00ごろよりさめ7:00起床。21日の会に欠席通知す。14:30泰来り、17:00すぎ依子、望来る。 2月7日 泰は(※省略)学園と(※省略)大見にゆき、依子は大宮の試験場にゆく。 13:30久しぶりに末富氏へ碁将棋にゆき勝負にならず。鬱なり。(※省略) 2月8日 6:00さめ3人の出て行くを見送る。依子、望はそのまま名古屋へ帰ると也。泰は(※省略)受験と也。 Jeanne d'Arcをteleviで見て22:00入浴して眠る。 2月9日 久しぶりに雨。7:00起床。無為。(※省略) 2月10日(日) 泰10:00起床。発表見にゆく。依子よりユに電話、通りし故13日の面接の為上京すと。 南川より電話あり『四季』出来ずとあやまる。印刷屋世話せんと也。(※省略) 福地君より電話「柊印刷に行き指導し校了し20日(※『四季』5号)出来る」と。(※省略) 2月11日 7:00起床。ユ、近所へ増築の迷惑をあやまりにゆく。午后小林の3孫、泰迎へに来り、本運ぶ。 その後、史夫婦来り茶呉る。あす早朝仙台へ帰ると也。 2月12日 7:00起床。(昨日福地君より次号より「原稿我に送れ云々」)(※省略) 竹内正夫未亡人澪子へかけずとあやまり状。 2月13日 寒し。無為。 2月14日 11:00阜子24日の通知もち来る。(※省略) カルチェプロより受取り来る。末富氏へ碁将棋。 夜、依子に電話すれば望(※省略)泣きをりしと。 2月15日 7:00起床。寒し。けふはまた感冒の中、泰受験にゆきしと也。 2月16日 7:00起床。寒し。午前中無為。大野沢氏より「投稿の詩拙し」と。泰、合格通知あり。(※省略) 2月17日(日) よべ眠れず2:00眠剤足して眠り礼拝休む。ユ礼拝にゆく。無為。泰より便なし。 2月18日 外出せず。『五雑俎』もやれず。(※省略) 竹内澪子より「かけぬこと承知」と。(※省略) 水道屋来り、浴場にtoiletつけかへし也。 2月19日 外出せず炬燵にをり。ユ三鷹に画材とりにゆく。(※省略) 2月20日 雨止む。建築屋来り、本運ぶ(※『四季』到着?)。弓子に電話すれば泰、明大受けて名古屋へ帰ると也。 (※省略) 高橋渡氏より詩来り、まづし。(※省略) 2月21日 曇。時々晴れ。無為にてイライラす。ユ税務署へ申告にゆく。(※省略) 『東方学』つまらぬ論文のみにて脱会したくなる。(※省略) 22:30秀樹より「(※妹)千草あと一週間」と電話ありしと。哀れなり。 2月22日 7:00覚む。8:30大工来り、屋根こわす。千草の告別式には「大とゆけ」とユ。 夜、依子より(※子らの進路につき)云々」と電話あり、子を見るを親バカと知る。(※省略) 2月23日 晴。午后散髪に。(※省略) ユ『四季』の発送すまし呉る。タヅさん昨日手伝ひに来りし由。 南川より電話あり、印刷発送手伝はんと。礼いひて断る。 2月24日(日) 礼拝夫婦とも休み、ユ、田中三郎の49日と出てゆく。(※省略) 盛会なりし由。(※省略) 2月25日 阜子、茶持ってくる。泰来り、(※省略)、依子も来ると也。(※省略) 久米氏来り(※『五雑俎』)天部の増加をいふ。 2月26日 7:00さめ寒し。(※省略) 『四季』発送、堀夫人を除いて了る。 ユ堀夫人に原稿をといへば「3月末締切かと思った。今より外出」と也。 2月27日 依子(※省略)に送金す。(※省略) 15:30堀さんへゆく。あと産経大阪支社より電話「『四季』の経過説明せよ。来週金曜日に広告する」と也。今沢幸のつて也。 ユ18:00まで帰らず、堀さんに電話すれば「今帰りし」と。帰り来りて原稿もち来る。他にも原稿あり。 植村先生は「けふ速達した」と電話あり。ありがたし。わが詩出来ず。躁甚しきなり。 2月28日 小高根太郎よりの詩来ず、高橋重臣君「石の上の春」と改め送り来り、上村先生の文も来る。(※省略) われ秀樹に会ひたくなく、ユを(※妹千草の)お通夜または葬儀にゆかしめることとす。 末富氏へゆき将棋さし『四季』置き来る。(※省略) 3月1日 8:00起床。小高根太郎君より原稿速達来る。高田瑞穂夫人「大事とって医者呼びゐる」と。「見舞にゆけず」と謝る。 雨止み大工来て「月曜屋根全部やる」と。植村先生に電話して不審の点ききてわかる。 松枝茂夫氏に電話すれば「九州へ今から行く」と。『中国古詩選』より転載ことわりて、 本屋3軒見しも「下」なく「中」より岑参の詩を写すこととす。ものうし。(※省略) 3月2日 終日小雨。(※省略) ユ、戸田家の弟夫婦の狂気じみたるを笑ふ。我は画伯気の毒なり。 母より電話あり千草の通夜にも出ずといへば母賛成す。哀れなるかな罪の子われはの思ひふかし。(※省略) 3月3日(日) 7:00起され夫婦にて礼拝にゆく。聖餐式あり。(※省略) 書泉みれば『四季』5冊そのままなり。無為にて日暮る。 3月4日 8:00起きまことやへcopyにゆく。12:00『四季』の編集すみ「肉親」9行造り了ふ。(※省略) けふ大工、瓦運びすみし模様。阪本越郎氏の娘阪本若葉子さんより父の思ひ出、ほとんどダメなり。 松枝茂夫氏より秋の詩来る! 3月5日 8:00起さる。8:30より大工来る。田中楠弥太氏より一族の会せよと。(※省略) 3月6日 8:00起く。(※省略) 大工18:00すぎまでやり、すまして帰りゆく。 3月7日 8:00起床。『東京四季』来り、第4次『四季』の継承とわかる。不快。大工18:00すまし台所やり呉る。(※省略) 末富家へゆき、将棋3番負け、碁教へられて勝となる。 3月8日 6:00起床。(※省略) 大工工事盛んにやり鬱なり。咲耶来りてユに「千草見舞にあすゆかん」と。(※省略) 3月 9日~ 12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 3月9日 ユ9:30咲耶と阿佐谷駅にて待合せ千草に会ひにゆく。 最後の面会としらず「気分よい時また会はん」といひし由、首細くなりをりとユ12:30帰りての話。哀れなり。 夜、福地に電話すれば4月1日はむり、43ページになると。 (ハガキにて同人1万円、名誉同人よりも3千円とれと。むりといへば「詩集出す。序文かけ」と也、これは承知す。) 3月10日(日) 7:00起き礼拝夫婦とも休む。体重38キロなり。(※省略) 食欲はあり、まづきものなし。 咲耶来り、青木一族との紛糾顛末はなす。(※省略) 3月11日 朝、雪。夜、雨となる。彦根の藤野君より1万円来り、吃驚す。(※省略) フルシチョフ死にしらし。田中角栄はいかにや。  千草はも具合良き時来よといひわれが鬱なることは知らざり。  千草はももち金みなを使ひすて死なば誰かは弔ふべきや。  その子らに情ありせばしかすがに哭きはせぬかとわれはおもへる。 3月12日 7:00起され「ラムネ色」見る。寒し。電気屋来り、配線工事す。 ユに鎌倉の竹内正夫未亡人に(※遺稿集)印刷費の一部として5,000円現金封筒にて送らしむ。 雪止み雨となり夕方止む。屋根のはりかへ来て17:00帰りゆく。(※省略) (※仙台より電話)健太郎より「ぽんかん送れ」と「あす送る」といふ。あとよし子出て「けんくわするな」といふ。 3月13日( ※1月13日と記す) 今沢君のおかげでまあまあの『四季』の紹介のる。(※産経新聞) (※省略) われ年賀状の整理をす。浴室と炊事まだできず。あすは雨らし。 夜、大より電話、千草けふ15:00死に、あすお通夜と。やっと遂げし也。(※省略) 福地邦樹に電話すれば「金着いた。もう組んでゐる筈」と。妹死にしといへば「ヘエエ」と。 読まずして組に出せしらし。(※省略) 3月14日 終日雪と雨、工事人来らず。 千草のお通夜にもユゆかず。明日permaして葬式にゆくといふ(大ゆきしに孫2人ゐしのみらし)。 色々の思ひ出にて不快なり。 石山直一氏より来し金、気の毒なり。「なぜ『コギト』にかいたか」不明の由。保田とは合はざる人なり(尤も保田とあふは弟子のみ)。 諫早の同人雑誌『河』来り、これは広告のみにても金いる様なり。 大和人を憎まんとして坂口允男君を思ひ出す。ユは例外にして高橋重臣君は半大和人となりしかと思ふ。 3月15日 7:30起床。ユ千草の葬式にゆくとpermaに出てゆく。(※葬儀より)16:30帰り来り、墓地行、初七日とりやめたと也。 (※省略) 弓子より「あす9:00三鷹交番前にて待合せ上川霊園へ同行せん」と電話あり、鷲沢工務店にもその旨いふ。 3月16日 7:30起床。髭そってもらひ8:30前大工さん来しにたのみて9:00三鷹駅前にて待ち、 小林の運転し来りし車に乗り上川霊園。「永世天国」うたひ墓碑の腐りしを見る。小林夫婦仲良くて結構なり。 12:05三鷹着。12:40家に着き午食。(※省略) 大より電話、咲耶9:00帰阪と電話せしと。わが鬱見破る。声のみにてわかるらし。昨夜泣きしは老嫗1人のみなりしとユの話に哀れ一ましなり。 (※省略) 21:00電話すれば(※ぽんかん)着きし由。京、健太郎、禎子と話す。 3月17日(日) 『五雑俎』に没頭。礼拝にゆけず8:00覚む。午后より『五雑俎』に没頭し夕食となる。(※省略) 3月18日 6:30覚む。風邪なほる。10:30まことやにて住所録(900)買ふ。足弱りたり。大阪の備前芳子より『四季』脱会と。 高田瑞穂に電話すれば夫人「烏山の医院に入院させし」と。われ見舞ふ元気なしといひ慰めらる。 泰、東京の寮に入るを許されたりと。(※省略) 3月19日 9:00さむ。(※省略)大工来り、工事す。『五雑俎』出来ず。(※省略) 指定通りには出来ず能力低下か。 大工17:00去る。今月中に出来上る見込みつきしならん。(※省略) 3月20日 6:30起床。『五雑俎』ちょっとやる。仙台より『Focus』と1万円、西武の買い物card10枚来り、健太郎100米泳ぎしと。 浴室19:00までやり帰りゆく。(※省略) 末富氏の碁将棋断らん。高田いかがにや、タバコ・酒とめられゐん。 3月21日 よべ眠剤きかず。(※省略)  浴室の大工来をり。「春季の皇霊祭の日」なり。小林の3孫おはぎもち来る。 末富氏よりもおこわ賜る。母退院の祝なりと。ユ15:50帰り来り、3孫17:20帰りゆく。 『五雑俎』われ「易」にて苦労す。京に電話、(※省略) 3月22日 8:00起床。「ラムネ色(※心はいつもラムネ色)」やっと見る。長沖さん眼鏡かけをり「お父さんはお人好し」の発言はじめてあり。 書泉にゆけば1冊売れをり。(※省略)  夕方大毎より電話。27、28日のどちらか来て「(※『四季』)なぜ出したか」聞きたき由。(※省略) 福地君に電話すれば(※6号印刷代金)18万円となるらし。4月中には出すと也。(※省略) 3月23日 6:30覚む。13:00午食すまし木村へ散髪にゆく。(※省略) 鳥海かよ子より電話「シンガポール行やめた」といふ。17:00大工さん了へて帰りゆきユも帰宅。 何事もいやとなりをり。鬱なり。食欲のみあり。(※省略) 3月24日(日) 7:00起床。ユ風邪と称して礼拝にゆかず。我のみゆく。(※省略) 大相撲、土佐の朝潮、若島津に勝つ。 3月25日 6:30さむ。(※省略) ユ山住dr.にゆき(※山住克己)閣下米寿10月ときき来る。(※省略) 午后、大阪の24才の女人より電話「四季見たし」とのことに「2,000送れ、詩も書け」といへば喜ぶ。わがaddressしらせしに知りをる様子なり。 3月26日 よべよく眠る。(※省略)朝食後「ラムネ色」見てゐれば工事人来る。無為。 3月27日 けふ9:00さめる。(※省略) 工事人来りをり。(※省略) 14:30大毎学芸部の村井英雄君来り、16:00まで『四季』の歴史話し、帰りゆく。記事にすと也。 品川区立図書館より「『天遊の詩人李白』を点字にす、礼はせず」との事也。(※省略) 3月28日 7:00さめる。晴。午すぎ風呂のgasと来る。〒なし。朝晴、午より曇。 3月29日 8:00起床。床あげず。「ラムネ色」見をれば工事人もう来り仕事す。(※省略) 夜、カルチェプロへ2万円の受取かく。広告料として中西和也氏(大高23文甲liebermann waelchli & co 関西支社長)より入金ありし也と。 石浜君の手配なること判明なれど同君は19回文乙にして中々の苦心なり。 カルチェプロの外、石浜、福地2君にも報告す。 3月30日 よべ2:00さめ、のど苦しく眠剤足す。7:00起き禁烟ときめる。のど痛ければなり。曇のち晴。ユ画にゆき我Boleroきく。退屈な曲なり。 3月31日(日) 6:00覚む。『五雑俎』天部すみ地部やることとす。弓子午后来り、出張の土産くれ克次朗の入学祝もちゆく。(※省略) 4月1日 晴。7:00さめる。10:00大工来り、(※省略) 浪速中学より名簿原稿をと。(※省略) 4月2日 晴。6:30さめる。朝食、午食ともに旨く、高円寺にゆけば瀬見氏に遭ふ。『四季』ならべず売れざりと。当然なり。怒って帰り、(※省略)  17:00植村先生より「『四季』どうなったか」と。「大阪にまかせ云々」といへば叱らる。(※省略) 福地君へ植村先生のお叱りいひ「(※印刷所に)金一部前渡しせよ」とかく。 4月3日 曇。5:00覚む。6:30朝食。11:00昼食。成城の高田邸にゆけば令嫁、千歳船橋の病院を教へらる。 成城堂休みゆゑ手ぶらでゆき、14:30医師の診断に付添婦「肝臓、糖尿のほか肺炎全快せず」と。 散歩は許されcoffeeに砂糖多く入れてのむを見、(※省略) 15:30帰宅。 (※省略) 4月4日 6:00起き11:30午食し末富邸へ碁将棋にゆく。(※省略) 加藤和子夫人に受取かく。「詩出来れば見せよ」とかく。 (※省略) 垣内光生より『四季』会員になりたしと。(※省略) ユ下阪の小林夫妻の夕食の支度にゆきし。依子6日上京と。 4月5日 6:30さめ、垣内生へ『四季』の規約かく。(※省略) 石浜恒夫氏より「藤沢さん(※藤沢桓夫)かいた。杉山平一氏は締切後だった」と。 次号の広告とれると便りあり「梅田恵以子を同人にせぬか」と。(※省略) 大工さん盛んにやりをり。 依子は小林で引き受けると夕方、川久保来り、双生の兄病気と。『岩佐精一郎遺稿集』再版の書肆あり遺族知らぬかと。榎一雄の話なり。高田の話して了る。 堺の阪田恭子氏より「先日電話した。『四季』の残りくれ」と。ユ2~5送る。 書泉『四季』しまひしらしく見当たらず。佐伯で岩波文庫2冊買ひ来る。(※省略) 4月6日 21:30眠り6:00覚む。少し寒し。泰すでに入寮。(※省略) 4月7日(日) 7:00起床。8:00依子来る。大工も来り、依子にたのみて礼拝にゆく。(※省略) 依子13:00玉川学園へと出てゆく。(※省略) 4月8日 六畳間出来上りteleviも移動。(※省略) 大阪の印刷屋より12万円の受取来り、「福地君、出張校正せし」と。 4月9日 7:00起床。午晴。(※省略) 山住dr.、血圧108-68。(※省略) 都丸支店にゆき、たまたまゐし瀬見氏に『コギト』売るをいふ。(※省略) 『五雑俎』あすよりと定む。 4月10日 8:30起床。大工さん来りし也。タバコ買ひに出しのみ。無為。(※省略) 4月11日 8:30起床。ユcurtain買ひにゆく。『五雑俎』やる気あるも新しい畳の上に坐る。 末富邸に招かれ将棋3番負け碁2番勝ち帰れば『四季』6号来りをり。 誤植なく、大野沢君の詩もよく入りたり。(※省略) 依子に電話すれば「あす18:00来る」と。 4月12日 6:00起床。雨、大工来ず。17:00依子来る。入浴せず同人への封筒かく。 4月13日 7:00起床。ユ8:30堀さんへゆく。中村真一郎の『四季(※小説)』出版記念会に多恵さん出席と新聞にありし也。 (※省略) タヅさん(※発送手伝に)12:00来り、午飯くひ、16:00美紀子来り、依子と母の所へとゆく。タヅさん16:30去る。 (※省略)  胡志明(※ホーチミン)の奠平府(※奠辺府ディエンビエンフー)に勝ちしをteleviにて見す。 4月14日(日) 5:20起床。朝食のあと下痢気味にて礼拝休む。ユはゆきて12:30帰宅。無為にてすごす。 植村先生より電話あり「つづきかき玉へ」といふ。今年も国士舘大学に出講される由。 4月15日 5:50起床。『四季』送付了り、大工さんもほぼすみ安心す。但し『五雑俎』はやれず。 新潟県六日町町140常山満氏より「『四季』ほし」と。ユ2~6送る。 4月16日 5:00起床。眠くてたまらず。ユ6万円(※6号印刷代金残金)を印刷屋に送る。(※省略) 大野沢氏より3篇のりおどろきしと。福地君より10万円以下で出来ると見積書。(※省略) 4月17日 7:00起床。朝食pão。石浜、福地、国友、大野沢、小杉氏へハガキかく。弓子来る。(※省略) 高橋重臣、堀多恵子2氏へハガキ。小高根太郎氏へ表紙たのむ。 22:00石浜君より電話「印刷所変へるなら脱退す」と。一杯機嫌の様子なり。(※省略) 4月18日 8:00起床。(※省略) 我、山住dr.に鬱のきし云々といひタバコ止めしことはいはず。(※省略) 南川生、喜びの電話かけ来り、石井正吉君「石山、南川の詩よかりし。そのうち来る」と也。人さまざまなること痛感す。 13:30高円寺へゆき野田又夫訳デカルト『精神指導の規則(150)』買ひ来る。 4月19日 6:00起床。7:00朝食すれば大工さん来り、電気屋を残しみなすます。 小高根二郎より美堂正義を『四季』に入れぬかと。神田寿美子氏より『季』の杉山平一特輯送られる。(※省略) 4月20日 (※日付21日の誤記か。) 6:00起床。礼拝休むこととす。(※省略) 瀬見伊三郎君『四季』5冊分1,200呉れ『コギト』(再版)もちゆき呉る。高田の本の話す。 夜、石浜君にあやまり状かくこととす。19:00福地君より電話ありし故「石浜に負けた」といふ。了解して呉る。 4月21日(日)  (※日付誤記か。) 5:00起床。河村純一、小高根二郎、美堂正義、河野弘子、石井正吉の諸氏へ信かく。石浜恒夫君にはあやまり状かく。 4月22日 5:00起床。吉越笑子より「13:30来る」と。待てばちゃんと来り、鎌田semiにて「笑ひ」を卒論とせしと。(※省略) 藤野と坂口2君の投稿はわれのせざりしこと判明。坂口君のは和歌なりし。藤野一雄は気の毒せし。 カルチエプロより6万円の受取。 小高根太郎氏、現在地たちのき別に新築するらしく、(※『四季』表紙画)「セザンヌの自画像」よけれど、表紙画の「洗ふ女」は小さすぎてダメ也。 電話かけてその旨云へば笑ふ。 石川弘義氏、つれ子2人の娘の未亡人と再婚せしと通知あり。(※省略) 4月23日 よべ1:00小便に起きまた眠り6:00起床。雨降りをり。 南川正純へ詩ダメ、山木愛嬢にも作品ダメとかく。二人とも堺の住人なり。小杉君より詩一篇、下手なり。 4月24日 5:00起き6:00起床。 山木愛嬢より電話、入れ違ひになりし也。詩、ソネット形式に合はずといふ。 24才の四天王寺大学の卒業生と。羽田には習はざりしと。 舟山逸子氏よりまた『季』、杉山平一特輯なり。 小杉茂樹君自信作と、困ったもの也。小高根太郎氏よりダヴィンチの女像来る。 4月25日 5:00小便に起き6:00起床。 鷲沢工務店、最後とてよくやり呉れ17:00近く決算、300万円先払ひにて254万円払ふ。 明石の大久保君といふより手紙。われの読者にて神戸の古本屋に『西康省』、『大陸遠望』ある由。肥下家へ電話せしも(※訪問?)断られしと。わが『蘇東坡』、『中国の自然と民俗』買ひくれし由。大分変りし男なり。 4月26日 6:00起床。8:40山住dr.にゆき薬多くもらひ来る。(※省略) 〒堀夫人より「3月29日より追分、『四季』次号休む」と。(※省略) 河村純一先生「シンガポール秋にしたまへ。彦根へ夏来い」と。(※省略) 17:00史夫婦来り、改築見分し喜びをり。あす夫婦仙台行と。 4月27日 7:00起床。成城学園より5月20日京王プラザ5階で18:30仝学園懇親会と。 東京新聞夕刊に堀辰雄旧宅、軽井沢町に買上げと。(※省略) 4月28日(日) 8:00起床。(※省略) 夫婦ともに礼拝欠席。牛尾三千夫氏より歌稿と5,000円とわかめ、短歌雑誌の常ならん。 4月29日 天皇誕生日。8:00起床。午后、俊子姉来る。所沢郊外に(※夫君三郎の)墓作るとて上京せしと。(※省略) 堀多恵さんより辰雄33回忌を5月29日に、出欠の返事を15日までにと。(※省略) 4月30日 8:30起床。堺の阪田恭子氏よりまた投稿、下手なり。 5月1日 ユあす松田家へゆくと也。一日無為。(※省略) 5月2日 6:00起床。10:00植村先生に「5月末日までに御原稿を」と電話す。 5月3日 植村先生より原稿来る。無為。23℃なるに終日炬燵にをり。けふは憲法記念日として万国博の入園最高。 5月4日 『四季』関係のハガキかく。あすも晴のち曇と。三火会の案内ありしのみ。 5月5日(日) 子供の日と。夫婦にて礼拝にゆく。聖餐式あり。605番うたはる。竹森先生の『ローマ書の研究(450)』買って帰る。 5月6日 7:00さめ「おしん物語」を見る。坂口允男氏へ「詩くれ」とハガキかく。 13:00村田幸三郎君、地下鉄より来り、17:30までをり。(※省略) 紅松より電話「加藤定雄君(※大高OB)死に、あす前夜祭、あさって聖イグナチヨ教会(上智大学)で葬儀」と。 5月7日 3:00排尿にさめ、あと眠れず7:00起床。8:00西川に電話せしむれば無人。9:00すぎ会社に電話すれば旅行中と。秘書にて用足る。 昨日、美堂正義氏より原稿、感心せず。 『オリーザ』といふ雑誌来る。高知の吉本君が主催なり。これもつまらず。(※省略) 10:10成城大学より電話、安藤学長なくなりあす葬儀、学園葬ありと。「それに出る。案内せよ」といふ。 5月8日 5:00覚む。北海道へ古宮新喜夫妻へ挨拶。 美堂正義氏に掲載できずとハガキ。11:00出て加藤の葬儀にゆく。上智の入口の教会にて12:00よりはじまりcatholicなるに感心す。 倭周蔵、野球の後輩竹井のみにて、西川、室来られず。 (※キリスト教徒のため?)倭も戦中同時に捕縛されしと也。14:30献花すませて退出。(※省略) 中西善章より自叙伝。 5月9日 無為。風邪のため山住dr.にゆけば体温36.5℃、咽喉洗はる。 5月10日 石山直一氏へ礼状。無為。山住dr.にて血圧105-70体温夕方36.5℃、眠ることとす。 5月11日 山住dr.へゆけば血圧105-70、のど洗はれ薬もらふ。 藤野一雄君より詩かくらしき返事。 5月12日(日) 微熱あり、礼拝欠席。17:00小林夫妻2児つれて母の日祝ひに来る(すしとchocolate)。 5月13日 あさ無熱、山住dr.へゆけば血圧105-70、(※省略) 手塚隆義氏より「劉颯遣使考」賜はり上京の意なきが如し。 『日本歌人』に小高根二郎の本復祝に石浜恒夫ら会せしと。 堀多恵さんに「三十三年忌に出席、お花料は別に届く」とかく。 南川正純よりまた非詩来り、小杉茂樹氏よりもまた。 夕方より熱出て37.5℃となる。食欲もなく飯一杯くへず。 5月14日 5:30起き6:30朝食、無熱。10:00山住dr.、気管支までのど洗はれ参る。村山高氏より父母の家のこと(print)。礼かくべし。 5月15日 山住dr.に10:00参れば105-70血圧、帰りて村山高、中西善章2氏に手紙かく。 中川氏様子見に来る。午后37.5℃だるし。 5月16日 3:00排尿に起き7:00起床。10:20高円寺へゆけば瀬見氏不在。『コギト』案内わたし来る。 (※省略)  山住dr.のど塗らる。(※省略) 夜、小高根太郎氏に電話すれば画はダヴィンチの摸写と。 5月17日 5:00排尿に起きユ起こす。7:00起床。10:00堀夫人お越し、ユと長話し23日出席(夫婦で)ときめ『四季』4冊もちゆきもらふ。 山住dr.にゆけば友人と話中と、手早くのど洗はる。田中薬局大いに笑ひ、われを好くと。父的ならん。 (※省略) 『二つの顔の日本人』よみ了る。Singaporeへゆかでよかりし。20:00ユ帰宅。 5月18日 7:00起床。ユ12:00泰にと菓子郵便局にゆく。山住dr.に10:00ゆき血圧105-75、13:00午食。(※省略) 5月19日(日) 夫婦礼拝休み。我は無為。ユ、桝田・嶌野の見合立会ふ。 5月20日 ユ堀さんへお花料(2万円)もちゆく。あとにて「沢山に」との礼の電話あり。 村山高氏より「読んだ。次に自叙伝かく。巻頭に「このみちを」の歌しるす」と。(※省略) 高田瑞穂より退院(夫人も)禁酒、禁烟、禁糖にて元気なしと。坂田恭子よりも6月結婚と。 5月21日 終日家居。ユ、堀さんに(※『四季』と田中克己について)色々悪口聞えてゐると。仕方なし。 大野沢君より詩2篇、その義弟?の遺著2冊贈らる。 花井夫人できそこなひの詩もち来り、かき直しを命ずれば18:30帰りゆく。 5月22日 無為。石山直一氏より詩1篇来る。 5月23日 6:00起床。佐々木正氏(中川俊夫)『流螢』よみ了る。不十分なり。(※省略) 川久保午后来り、弘前山形へ旅行、三田村泰助の講演きくと。上がらずして帰りゆく。変な男なり。(※省略) 5月24日 ユ母のところへゆく。豆もらひにと也。我は読書。福地君より1万円と詩1篇来る。石浜とは合はざる様なり。 5月25日 6:30起床。福地君へハガキかく。原稿送ってよきか否なり。(※省略) 5月26日(日) ユ礼拝にゆき、われ休む。克次朗、父の四国の土産もち来り、ユの帰る13:00まで待たす。 5月27日 6:30起床。午前中青木秀樹より(※妹千草氏の)新茶(香奠返し)。(※省略) 俊姉より三郎兄の遺品分けに着物、襦袢、帯来る。 5月28日 9:00散髪、15:30出て(※省略)、鳥居坂下下車。国際文化会館にゆく。(堀辰雄33回忌) 堀多恵さんに会釈し、会場に一番に入ればF席の上座。向ひは伊藤信吉なり。 佐多稲子、中村真一郎、室生朝子の挨拶あり。 中村真一郎の向ひは遠藤周作と。会衆60人、20:00閉会。 『来し方の記』もらひbus新宿三丁目行にのり22:00帰宅。 5月29日 10:00起床。『来し方の記』よむ。文巧みなり。川久保より「三田村博士と同室、よろしくといはれし」と。 (※省略) 今西春秋の遺稿、羽田の整理にて東洋文庫『異域録』久米氏より送らる。 夜、福地君より電話「その中、石浜と絶縁せん」といふ。(※省略) 5月30日 6:30覚む。13:30末富家へゆき将棋勝ち碁は5目で負け。 帰れば「タヅさん16:00来る」と。来りて見せし原稿ダメ、かき直して「薔薇」とす。まあまあなり。18:30帰りゆく。 われ詩出来ず、投稿も来ず、あすしめ切って(※大阪へ)送らん。 堀多恵子さんの『来し方の記、辰雄の思い出』よむ。才媛なり。 5月31日 6:00前さめ「辰雄三十三回忌(※隨筆)」かき『四季』7号の目次作り、15:30来し南川正純の詩入れてすみ、 ユを〒に速達させにゆかす。(※省略)  高田に電話すれば学長の通夜にゆきし故、学園葬にゆかずと。彼は元学部長として交際ありしならん。 佐々木和子夫人より『流螢』の批評並びに代金受取りしと。羽田明へ「異域録」見しとハガキかく。上京中ならん。 夜、坂口君より文語の詩来る(速達)。 6月1日 坂口君へ他の作を福地君に送れとかく。(※省略) 福地君に「坂口君の作来れば」とかく。 大野沢緑郎氏より礼状。義弟の本代につきて也。ユ画にゆく。 藤野一雄君より昨日出した速達で詩来る。よからず。杉森久英、賞(※平林たい子文学賞)もらふ。 6月2日(日) 6:00起床。夫婦して礼拝にゆく。(※省略) 帰り佐伯に寄れば『長沢全集』来あらず。 藤野一雄君にことわることとす。 6月3日 7:00起き朝食後、藤野一雄君にことわりハガキかく。 午食後、高円寺へ散歩。瀬見氏に会ふ。『コギト』売れざるらし。無為。 6月4日 6:00覚む。午食後、まことやに寄り河西夫人に挨拶し、佐伯、書泉ひやかして帰り『五雑俎』やる。 6月5日 7:00さむ。入浴す。坂口君より「今号あきらめた。次号7月休みに」と。「7月末日締切」とかく。 17:00川久保へゆき漫談、茗と紅茶と出さる。『五雑俎』の苦心話す。あまり同感せず。(※省略) 6月6日 6:30起床。(※省略) 浅野晃氏『全詩集』1.2万円もち来られ、しばらく話しゆく。戸田家にも1冊渡せと也。 末富邸にゆき碁将棋す。成城大学文芸学部より6月27日18:00京王プラザ2階にて懇親会と。「出席」と返事す。 留守に船戸君といふが来しと。この間瀬見にも会ひしと也。(※昭和59年来訪者と同一人物か。) 昭和60年6月6日(木曜日) 大阪毎日新聞夕刊  “本当の詩”理解を 第五次に四季」発刊1年 【田中克己さんインタビュー】  詩ブーム、という。自費出版物も含め、毎日のようにおびただしい数の詩集が刊行され、詩の現在は活況を呈しているかに見えるが、しかしその一方で、時代を峻烈に切り開く新鮮で衝撃的な作品や詩人が登場せず、詩は混沌と、中心のない拡散した状況の中で、浮遊し、あえいでいる。  現代の日本詩はその意味で困難な状況の下にあるといえるが、こうした詩世界にくさびを打ち込むかのように昨春、ドイツ浪漫派の詩人、田中克己さん(73 東京杉並区阿佐谷南1)が、昭和詩壇に大きな影響を与えた詩誌『四季』(季刊)の第五次の発刊に踏み切り、一年を過ぎた。  堀辰雄が昭和八年に創刊以来、叙情派の確立という一つの役割を終えた『四季』が、なぜこの時期に「復刊」されたのか──。詩の現状に対する田中さんの意見を聞いた。(村井英雄) <詩はこの十年ほどで、大きく様変わりした。一定のスタイルがなくなり、よくいえば自由奔放。が、単に言葉を並べただけで、思想性も主題も技術もない作品が目立っている> 「ポエジー(詩情)がないんですね。散文を行をあけて書いているだけで、詩とはいいい難い。三好(達治)が私に“朔太郎(萩原)を読まんで詩が書けるか”といったことがあるが、今の若い人は現代詩の原点ともいうべき朔太郎や室生犀星も読解していない」 <朔太郎は口語自由詩という制約のない詩の方法の中で、独自の詩型を築きあげ、そこに朔太郎の詩人としての存在理由があった。現在の詩人の多くはそれが不明確で、過去の詩の流れからぷっつりと切れている。> 「古典を無視して書けるはずずがない。即物的というか──戦争が始まると世界が終わる、といった単純な思考しかかない。 確かに現在は状況として、核による破滅の危機に直面している。しかし、核大国の米ソは、人類を一瞬間で抹殺してはならないという常識を持っていると思う。文学は生き残ることを考えないと成立しないし、いかに生くべきかを模索するのが詩人です」 <『四季』は激動の昭和時代を背負って刊行され、詩史的には田中さんが初参加した第二次(昭和11年)が重要な意味を持っている。執筆者は井伏鱒二、萩原朔太郎、堀辰雄、立原道造、三好達治、保田与重郎、丸山薫ら。詩風は堀のフランス的、三好の日本的、丸山や立原のドイツ浪漫派風のものから成り立ち、田中さんは東洋と西洋の入り混じった清新簡潔な作品で詩の注目を集めた。この雑誌に集った人たちによって、方法的理念を提唱する主知派と、リアリズムを叫ぶプロレタリア詩派との間に、みずみずしい情感あふれた新しい叙情派が樹立された> 「戦後の『四季』は、昭和21年に堀が第三次を出したが、五号で廃刊になった。その後、矢野峰人(元東京都立て大学長)の言葉もあって、三好や丸山、堀と第四次の相談をしたが、実現しなかった。 昭和42年に丸山と神保光太郎、田中冬二が第四次を出したが、丸山の死で19号でつぶれた。今度の発刊は、若い投稿者たちに詩とはどういうものか知って欲しいと踏み切ったのです」 <第五次は特別号を除き一部300円。発行部数300部。完売して9万円。ところが印刷費は20万円。11万円の赤字。第五号の場合、矢野「影」、浅野晃「生物」、藤沢桓夫「誰かが僕を」など投稿者18人。投稿ごとに2,500百円徴収するが、名誉同人からは取らないので、この号は10人、25,000円。残りは田中さんが負担> 「自費出版詩集が汎濫しているが、定価2,500円の本300部なら75万円も地邦あれば出せる。だから水準にも達していない詩を本にして仲間うちでほめ合っている。詩仲間というのはお互いに厳しく批判しながら成長していくものです」 <激しい詩魂である。が、第五次『四季』は、創刊号を除いて売れ行きはさっぱり。投稿者や掲載詩に浪漫思潮の強いこともあって、古き良き時代の郷愁という声も> 「詩を書く人は、鋭敏でなければならない。昨年夏に終戦特集号を出したけれど、全く売れなかった。生を考える詩人なら、せめてこの日は忘れて欲しくないんですが・・・」 <本の売れ行きから、詩の将来は悲観的、という。しかしそれでも人間を信じ、愛に希望を持つ。それがポエジーだと主張する>  なお、『四季』の発売所は田中さんと石浜恒夫(大阪市住吉区墨江)、福地邦樹(東大阪市新庄)の三カ所。 6月7日 7:00高田瑞穂に電話し「27日の会にゆかん」といへば「行く」となりし。(浅野氏の「告別」を『四季』にと福地君に速達す。) 夜、福地君に電話し浅野氏のこといへば承知したと。梅田女史のことは知らずと。 6月8日 6:00起床。(※省略) ユ柏井へ女児出生の祝(2万円)と治療にゆく。 10:30肥下夫人より電話、大毎にわが談話のりしと保田夫人よりきき買求めよみしと也。 大毎学芸部村井英雄君より記事かき2部送ったと手紙あり。 羽田より『恭仁山荘善本書影』、大野沢緑郎氏より詩集もらひ受取かく。 石塚真弓15:00来り、16:00阿佐谷Homeで待つ清水嫗、ユと代々木へ見合にと出てゆく。(※省略) 一先づ断ることとす。 6月9日(日) 8:20起床。川久保に電話すれば起きをり「榎とのこだわりやめ」といへば「よし」と。 10:30福地君に電話すれば「浅野さんの詩ついた。あれいいですね」と也。ユ戸田画伯にゆく。  長き日をこもりゐ詩をば作らむとわれは思ひぬ能亨けしゆゑ。  眠れずとユキ子ひるねしわれはよるよくねうたをばおもひゐたるも。  堀多恵とよき妻をもちし辰雄をばうらやみゐるも七十すぎて。 16:00西川に電話すれば高垣と加藤の葬儀に出しと也。 田中楠弥太氏に本家綾子氏とのいきさつかきユに投函せしむ。躁の症状也。 6月10日6:30起床。 松枝茂夫氏に『五雑俎』の手助けたのめば「自分でやれ」と。 山住dr.に「ご隠居さんは」ときけば「米寿まではダメ」と。「薬は奥さんに渡した」と。帰ればなるほどあり。 10:00前なる故、佐伯にゆき春夫『日本の詩歌(150)』、『ファウスト第2部上下(100)』買ひ、まことやあくを待ち、(※躁記事多し。省略) 大毎学芸部村井英雄氏に礼状かく。 6月11日 6:30起床。たかはし(※高橋重臣)に「来訪を」と。栃尾武君に『五雑俎』共訳をとハガキかく。 (※躁記事多し。省略) 高円寺、瀬見をり辻直四郎『サンスクリット読本(1,800)』貸してくる。 午後の便にて『東洋学報60周年記念号』といふの来り、3,300円と。よむべきもの一つだけ、それもわが論文よみあらず。バカらし。 (※省略) 『二都物語』久しぶりによむ。よみづらし。『五雑俎』なまけてのこと也。仙台へ電話す。 6月12日 5:00起床。ユも起きて不きげん也。朝食後、ユ母のところへ眼鏡もってゆく。 われ朝食すまし9:30出て瀬見に賛文読本の代もちゆけば1,500にまけてくれ店開く。(※省略) 川村欽吾に『四季』やるや否やハガキにかけば、川久保「羽田より竹内の書目もらひし。東洋学報は前号払はず」し。笑ふべし。 幻太郎といふ詩人より詩集『野の鈴』来る。和歌山の梅田夫人より『四季』にかかせよと。(※省略) 6月13日 12:00小便に起き5:30起床。(※省略) 村田幸三郎に「来い」とかく。そのあと電話すれば「16日午后来る」と。興地先生の姪中村摩利子氏に電話し続遺稿集のdoubleれることをいふ。(※省略) 午后、末富氏で将棋勝ち碁負け「来週わが家で将棋を」と招けば「宜し」と。 帰れば金子一郎より「Baltmoreで交換教員しをり」と。杉山平一氏へ「同人承知せよ」とハガキ。 夕食前、丸木(高松)夫人へ電話、20:30小高根太郎に電話す。 6月14日 5:00前排尿に起く。(※省略)  『モンテ・クリスト伯』よむ。 中野清見へハガキかく。『四季』の残部もかためて送ることとす。(※省略) 岩崎昭弥へハガキ「10冊は不要か」と也。大に電話「8月の会、前に一度来よ」といへば「ウン」と也。 山住dr.にVitamin貰ひにゆく。10:30平凡社に電話すれば久米さん不在、馬場さん男児出生で休みと。 代りの御茶大出の女史に「74才にて苦労してゐる」といへば「まだ若し」と。「他の大先生は弟子にやらしてゐる」といへば苦笑す。 成城文芸講師室に電話すれば大月女史出て「栃尾先生に会へば(※『五雑俎』共訳の件)云ふ」と。(※省略) 6月15日 7:00起床。8:50栃尾君より電話「協力する。ハガキかいた。27日会ふ。心臓悪し」と。(※省略) 『モンテ・クリスト伯』よむ。倭周蔵に電話すれば家にをり「三火会に出る」と。野田又夫博士に『四季』につき了解求む。 6月16日(日) 6:00起床。『モンテ・クリスト伯』引きつづきよむ。7:00菊池眞一氏に電話し18日三火会で会ふことを約束する。 (※省略) ユ8:30礼拝の前母に寄ると出てゆく。21:42『モンテ・クリスト伯』よみ了る。(※省略) 京より菓子と稲田哲夫のことのりし雑誌と来る。 14:00村田幸三郎来り、whiskyのみ傘もちて17:00千葉へと帰りゆく。直後弓子、孝行つれて来る。(※省略) 6月17日 2:00尿でさめ眠れず7:00起床。ユ入浴しをりし。 9:00高田瑞穂に電話すれば「芥川のことかき27日渡す」と。芥川は堀さんの師なれば宜しからん。 栃尾君より「体悪く『五雑俎』につき協力できず」と。大月女史に電話すれば「肝臓悪きか、木・土来らる。いひおく」と。 「われ図書館にゆく」といひ、『レ・ミゼラブル』よみ、ユより昼寐すすめられしもできず。20:00就寝。 6月18日 4:00さめ5:00より『大岡越前守』ちょっとよみ『レ・ミゼラブル』にかかる。7:00『大岡越前守』よみ了り、書棚に入れればdoubleをり。 伊達温氏に「不満か」と。江頭彦造氏に「立原のこともかけ」とハガキかく。村田幸三郎に電話し「来月来て泊れ」といふ。 (※省略) 10:30出て(※省略)銀座へ引き返し20分待てば(※三火会)幹事来る。(※省略) 倭、われに云はれしと来り『四季』買ふ。早川君3冊買ふ。(※省略) 福永英右衛門おくれて来り、万博のアフリカ館の主事にて行幸ある故2分間で説明せねばならずおくれしと。 アフリカ連邦形成の考へありと。われ可笑しくてエチオピアは、といへばソ連圏なれど云々。 倭もつっこんだ質問してすみし故、菊池博士とice-teaのみて増田(※増田正元)の兄とのいきさつ話せばわかったと。(※省略) 15:00帰れば〒なし。(※省略) 6月19日 よべ22:00眠り5:00さむ。5:30入浴。山本市朗『北京三十五年 上下』よむ。石浜恒夫へ手紙かき投函。 雨、寒し。大に電話し「一度来い。8月の会の相談せん」といふ。 石川弘義に電話し「27日に会はん」といへば「Hawaii Univ.にせん」となりし。(※躁記事多し。省略) 11:30花井タヅ子来り、本貸し、詩かけといふ。14:30花井夫人退出。ユも出てゆく。(※省略) 6月20日 よべ20:30ね、7:00覚む。小高根太郎に電話し略歴かけとすすむ。一度来しことあり、また来ると也。 野田君より四季同人承知の手紙おとしあり。野田博士に「略歴かいてくれ」とハガキ。(※省略) 加古樹一氏より「石浜と会ふ。色紙贈る」と。13:30末富氏迎へにゆき将棋2番負ける。母上危篤にて我家の方がよしと也。 16:00散歩に出れば佐伯休み、北口休みなれど古本屋あきをり、芥川『河童(50)』、円山『18歳未満の法律(100)』買ひて帰宅。 石山直一氏に「略歴かけ」とハガキかく。「荒野の七人」23:00まで見る。 6月21日 よべ一睡もできず。尿に二度起き7:00前起床。豊田商事と投資Journal(永野会長)とでtelevi三浦、田中角栄はとりあげざり。 朝食前後『成城文芸』のわが稿「五雑俎考」探す(昭和45年11月発行なり)。(※省略) 9:00栃尾君に電話すれば「大妻へ出講」と。バカらし。 9:00出て佐伯、芥川(50)、独歩『武蔵野(100)』、『マルテの手記』と買ひ、(※省略) 「五雑俎考」のcopyすまし袋(130)買ひて帰宅。 (※省略) 16:30美紀子来る。18:00美紀子去る。碁笥くれる由。 6月22日 よべ22:00すぎねて6:30覚む。 9:40成城文芸講師室に電話すれば大月女史妊娠中とてゐず。代りの校務員われを知りをり。 栃尾君に伝言托す。『五雑俎』殆ど了りとなる。 高円寺にゆき瀬見氏に会ひ『コギト』いづれ売れるといひ、『知られざる台湾(100)』買ひ、歩きてまことやにて紙袋買ふ。 帰れば栃尾君より電話ありしと。かければ『五雑俎』の共訳諾し27日合ふと。その節原稿もちゆかん。 中野清見より「11月町長選挙、自信あり。その後class会、一戸でやらぬか。島稔はゆるしてない云々」。 石浜恒夫君より長い手紙にて「福地を信用せず。山崎女史の醜聞はききをれど信用せず云々」。 午后石浜君より立替の2万円来り、午前のハガキのあと受のハガキかき「福地君をバカにするな」との意を重ぬ。 電力のあとに出来し区民centerの図書cornerにゆき『東洋古典語典』借り来る。 21:00重久武志より電話、「あす13:30ごろ来る、叱らないでくれ」と。 6月23日(日) よべ20:00特別の薬のみて眠り1:00排尿にさめて眠れず『インパール』よみ、5:00~6:00眠る。 夫婦ともに礼拝休む。『東洋古典語典』返却にゆき『朝鮮食物史』借る。 15:00重久武志来り、姉の病気でといふのをおそくして叱る。(※不詳) 缶詰もち来り、本やる。 区民センターに本返却のついでに送り出す。もはや逢ふ気なし。桑原武夫ら『中国とつきあう法』借入。 6月24日 2:00排尿にさめ、あと眠れず6:00起床。桑原武夫、竹内好の親友として「竹内好霊」とかきしこと『中国とつきあう法』にかきあり、中野清見のかきしは止めとなりしを思ひ出す。竹内夫人やり手なり。 7:30栃尾武君に電話すれば山本書店にゆきてのち来ると。午飯必要か。10:10山本書店に電話すれば栃尾君をり「すぐ国鉄で来る」と。 11:10阿佐谷駅より電話、雨中迎へにゆけば方向オンチと。仕方なくつれ帰り、『五雑俎』の説明し、つづきやると云ふところへ平凡社の久米氏より電話「近々来る」とのことにいよいよ協力要請し、ユの注文せしすし食はす。 野口病気にて危篤と。東山(鄧)君再婚、中西も再婚したなどきく。16:00帰りゆく。 われ『シンガポールからの報告』よみ、日本人への感情よくなきを知り、鳥海らとゆかざりしをよかりしと思ふ。 岩崎昭弥より「毎号5冊でよし」と10万円来る。高木俊郎『インパール』よみ牟田口中将の恥知らずわかる。 夜televiで中蘇国境の赫哲(※ホジェン)族魚皮韃子見る。Amurに両断されをると也。 6月25日 よべ1:30入浴し、1服追加して眠りしも5:00前覚む。岩崎昭弥へ「3万円だけもらふ」と手紙かく。 10:00小高根太郎氏より「夫婦にて13:00来訪」と。(※省略) 13:30来り15:00近く帰りゆく。(※省略) 栃尾君に電話すればわが原稿見てをらぬ様子なり。人間使へぬとわかる。 20:00福地君より電話「石浜君、藤沢氏、杉山、山崎女史など入れ60pとせし」由。 6月26日 21:00ねて6:30起床。『五雑俎』やり10:30山住dr.にゆく。血圧120-。眠剤もらふ。15:30『五雑俎』休む。 大浜徹也『天皇の軍隊』よみ了る。『雲の墓標(※阿川弘之)』にかかる。海軍将校となる京大出の話なり。 20:00すぎ入浴。『定年』よみ了る。New Ginea作戦に従軍が面白く石切辺りに住ふとあり。(※不詳) 6月27日 よべ眠剤1服足して6:00前起床。『五雑俎』にかかる。 10:30散髪にゆき(2,600)、帰り同じく理髪せし末富氏に遭ひ「我家にて」といふ。母上危篤と也。 13:30末富氏来り、将棋2番碁2番みな負けなれど我家ゆゑ構はず。15:00去りゆかる。 石浜君より校正は5度を重ねてます云々の便り来る。 吉成和哉より「神様出現、先生のおかげ」と写真来る。パカらし。 16:30出て、(※省略) (※成城大学文芸学部の懇親会) 高田来り、400×13芥川の詩について呉れる。当分まにあはさん。 栃尾「顔淵は論語にあり」と。(※『五雑俎』の)つづき預けて食ふ物、飲み物に苦労す。 (宮崎学長となり戸張教授、乾杯の音頭とる) 19:10出れば高田も出て来て新宿駅まで同行「その内来よ」といへば空返事す。(※省略) 帰宅して入浴。「続・荒野の七人」見ることとす。 6月28日 よべ22:00ねて6:00覚む。阿川弘之『雲の墓標』了る。『老いは苦しみか(※全日本仏教会)』にかかる。仏教本なりし。 船戸君といふが来り売文業と、わが不機嫌をいへばすぐ去る。 高橋敷『みにくい日本人』よむ。為になる本也。夜『天皇の軍隊』よむ。 6月29日 8:30就寝。2:00覚めてうつらうつらし6:00起床。『五雑俎』にかかる。 10:10電力あとへ本返却。『中国の女たち』、『もう一つの太平洋戦争』借りて来る。14:00ユ戸田画伯にゆく。 川久保来り、勲4等の話きき、北京の地名いひ、楳山の北と、ふしぎがれば電話にて西山の一峰と。 6月30日(日) 6:00起床。『五雑俎』ちょっとやる。 ユ礼拝にゆきしあと『中国の女たち』よみをれば10:00孝行より電話「遊びに来て宜しきや」「宜し」と答へ読書了る。 11:00福地に電話すれば「7月10日出来」と。すぐ植村先生にその旨云へば「矢野峰人の詩集あり、貸す故返せ」と。 孝行来り将棋さす。(※省略)  『もう一つの太平洋戦争』よみ了る。今沢幸より電話「詩見てくれ」と。16:20孝行帰りゆく。 豊田穣『海軍特別攻撃隊』読了(21:00)。 7月1日 6:20起床。10:00本の返却にゆき2冊借りて来る。 『五雑俎』やる気あり、栃尾君と久米氏と会はせたく平凡社に電話すれば(※省略)「来週火曜馬場さんと来る」と。 栃尾氏に連絡せん。18:00連絡し「14:00来たまへ」といふ。目にゴミ入り痛くて困る。 7月2日 3:00さめ入浴。あとねむれず6:00起床。桐島洋子『さびしてアメリカ人』よむ。11:00阜子すしもって来る。 仲川マサ子氏(アメリカ)より国会図書館にある『楊貴妃とクレオパトラ』のcopyしたく許可必要と。不必要のこといはん。 『Les Misérables』よみ了る前、野田又夫氏より略歴来る。(※省略) 7月3日 7:00までユの起きるを待つ。(※省略) 本返しに電力あとへゆきまた2冊借り来る。「副館長?我に挨拶に来る」と係の婦人。 仲川マサ子氏へ「わが本役に立たず。「謡曲楊貴妃」より井上靖の小説までみた白楽天の「長恨歌」の影響なり」とはかかず、国会図書館係への印入りの紙同封す。『辻正文侍(※書誌不詳)』またよみ『アメリカ合衆国』よむ。 7月4日 5:30覚む。朝食後『アメリカ合衆国』よみ了り、黒人の差別を知る。 10:00ユ山住dr.より帰り来り(克己閣下夫妻入院と)、我図書館へゆく。 平凡社久米氏より16日に延期と。(※省略)  Donald Keene『日本人の質問』よみ了り、(※省略) 夜、栃尾君へ電話し「しかし9日来て欲しい」といへば「14:00来る」と調子宜し。 (13:30より末富氏来り、将棋2番負け碁は1勝1敗、母上危篤らし)。 7月5日 終日家居。『嫁してインドに生きる』、『人間の証明』をよむ。植村先生の『諸葛孔明』は100円で買ひ全然よみをらざるを知る。 成城大学より『成城だより』来る。政宗氏やめ理事長代ることを知る。我と同年の成城高校(※校長)、東大卒の山中宏氏が3月よりなりしと、安藤学長の病死の事もしるしあり。Skey女史退職と。 7月6日 6:00前起床。(※省略) 11:00本の返却にゆき成城大学教授といはれ「元」といひ直し、また借りて来たが高橋和巳『悲の器』にかかり滝川政次郎博士の背徳性に島田正郎が相手にせざりしかと気づく。(※省略) 7月7日(日) 5:00さめ、よべよみし会田雄次『アーロン収容所』再読。夫婦にて礼拝にゆく。 605番歌はる。作詞家として我と笹渕博士の紹介あり、詩人にして東洋史学者とあり。礼いふ。 帰りて会田雄次またよむ。(阿佐谷駅にて大に遭ひ8.18の会場まかせると也。) 午后都議選にゆく。我は長谷川(※長谷川英憲)とかく。弓子2児と来る。ユ、依子に電話して泰の音信不通をいふ。 7月8日 6:30起床。会田雄次『日本人の忘れもの』よみ了る。 午后返却かたがた区民センター図書cornerにゆき2冊返却。上坂冬子『慶州ナザレ園』、『ルポ中国Now』借り来りよむ。 『四季』(※第7号)来り、page増は我にも責任あり。金払はねばならず。(誤植あり5校と福地君との合作にては不審)。23:00就寝。 7月9日 7:00起床。ユ起きをり。花井夫人来り、袋に宛名書く。午食して帰りゆく。 我は『諸葛孔明』よみ(半ば)、『流れる星は生きている(※藤原てい)』を21:30までよみ了る(再読なり)。 7月10日 6:30起床。『四季』同人の袋書く。10:00出発、植村先生訪問。10冊代3,000もらふ。矢野峰人先生よりの来信あり、知己と思ふ。 (毎日書道会より「3篇の詩3人かき了承せよ」と。) 佐藤愛子『娘と私の時間(30)』佐伯で買ひよみ了る。 7月11日 1:00尿に起き7:00起床。在宅して読書す。『四季』同人への封筒書く。 区民センターにゆき『アメリカ人のソ連観』と『東洋古典語典』借用。30℃を越してユ困憊す。 13:30末富氏来り、碁将棋いやいや行ふ。植村先生『諸葛孔明』よみ了る。 7月12日 21:00就寝。6:00さめる。鳥羽貞子氏より500円、今沢幸より詩稿正せよと返信封筒つき。 終日坐って読書。鈴木孝夫『ことばの人間学』半ばよむ。 7月13日 7:00すぎ覚む。(※省略) 家居。中川幾郎『竹内好の文学と思想』寄贈さる。わが名あり。 江頭彦造氏より「『四季』受取った。詩と立原のこと書く。締切は8月末か」と。 夜、高橋重臣君より電話「『四季』受取った。忙しく米国へ行く前寄る」と也。 福地君より電話「(※印刷代金)21万円というを20万円にした云々。」 7月14日(日) 6:00さめ7:00起床。10:30瀬見伊三郎氏、梅干もちて来宅。12:00帰りゆく。(※省略) 会田雄次『男と女の論理』よみ了る。日中室内34℃ (※省略) 7月15日 7:00さめる。けふも30℃を超す暑さなり。藤野君よりハガキ2枚。(※省略) 笠原文一夫妻への(※中元)礼状投函。 昌三叔父の喜寿祝のハガキ速達。ユ、父の忌の会場大に任すと也。 西宮一民『古語拾遺(400)※岩波文庫』買ふ。珍しきこと也。 7月16日 6:30起床。田中栄一に礼状。今沢幸に訂正状。江頭彦造君に「『四季』締切8月末、詩か道造か」とかく。 平凡社の久米・馬場2氏15:00来り、おくれて栃尾君。わが訳むつかしく書き直すこととなる(馬場女史賛成)。不快なれど仕方なし。時代の違ひ也。 夜、富山鈴子「あす15:00阿佐谷駅」と浦和より電話あり。 7月17日 よべ0:05眠剤1ケ足し7:30起床。10:00postにゆき、あと何もせず15:00まで待てば富山夫人「新宿にあり」と。 ゆきて見付く。肥えをり。家へつれゆかんとせしに土産忘れたと果物1,000円買ふ。 ユ写真とり「Canadaへ来よ」といふに参りゐしに鎌田女史に電話してbusへゆく。女史の甥御Canadaにある由。 7月18日 8:00起き無為。末富氏来訪。将棋2番負け帰りゆかる。 夜、televiで谷崎潤一郎の話きく。『鍵』の棟方志功の画が世耕代議士国会で問題とせし由。 18万+2万の『四季』代金のことわかる。あす送らん。 7月19日 7:00起床。カルチエプロへ18万と広告料2万円の受取。高橋重臣君より詩来り、8月2日来訪。一泊の予定と。 中川幾郎氏より「竹内論の感想を」と。松枝茂夫氏より『紅楼夢20』。 講談社より女史「保田全集のはさみこみ書け」と。「第1回はいや、中ほどにしてくれ」といへば納得す。 夜、高橋重臣君より電話「8月2日来る」と。 7月20日 8:00起床。無為(五雑俎(※ダメだし)こたえたり)。 中川幾郎氏へ竹内好のことハガキかき、『四季』につき石浜・福地2君へ手紙かき、投函かたがた借り本返却にゆく。 けふは炎熱。成城民研より2冊、宮本財団より馨太郎氏の遺著。ともに受領書かけと也。 7月21日(日) 7:00前さめる。日本近代文学館事務局鎌田和也氏より『歴程』5号ありやと。関係なしと封筒内の速達にて答ふ。 無為。下痢し入浴す。33℃と暑し。ユ礼拝にゆき、(※省略)。弓子より金婚祝につき電話、ユ不要と答ふ。 7月22日 7:30起床。11:00孝行来り、13:00克次朗来る。ユ疲れて眠りをり(山住dr.より2週間分の薬もらひ来る。鬱の夜の薬止めと)。 (※省略) 国友則房氏欧州より帰りしと、新しき詩と同人費(8号分と2冊分5,000円)。 7月23日 7:00起床。無為。ユをして牛尾氏に6冊送らす(同人費とれざることわかり15冊よこせと也)。 いよいよ『四季』休刊と定む。けふも32℃。 7月24日 7:15起床。(※省略) 鈴木眞理子氏より中島の論文『作品』にて4篇見つかりしと。(※省略) 西川より電話あり『四季』休刊といへば「一度来る」と。 7月25日 仮病つかひ末富翁との碁将棋ことわる。 罰当たりしか、石浜恒夫より「印刷屋に伝へる。いつにても止める。金いればやる」と失礼な便り。 石山直一氏よりも文学は『コギト』で止めた云々。高橋重臣氏より別便で同人費届けると。33℃と暑し。 7月26日 5:30起床。けふも暑し。石浜君より誤植認めしらしきたより。内田譲吉氏より本送ったと。33℃つづく。 9:00末富氏母上逝去と。94才とか。 7月27日 6:00起床。けさも30℃。高橋渡氏より同人費。19:00ユ、末富邸のお通夜にゆき酒と砂糖もらひ来る(お花料5,000円)。 7月28日(日) 3:30覚む。7:00起床。朝食後排便入浴。 13:10末富家へ弔問にゆく。14:00出棺の時はユゆき末富氏、夫人の姑孝行なりしことを云はれしと。 7月29日 5:00起床。午後目痛く17:30木村眼科へゆき目の検査受けしのち異物入りしといへば投薬、(※省略) 牛尾三千夫氏より8号の歌、7号9冊にては不足、6冊と2号1冊送れと。高橋渡氏より同人費。 7月30日 よべ不眠。0:00眼剤さす。6:30起床。9:10木村眼科。(※省略) 7月31日 6:00起床。朝食後排便入浴。9:10木村眼科、あす休みとて2日分の薬もらふ。坂口允男氏よりまた1万円と詩。 ユ8月2日高橋重臣君来泊を知らざりし。体悪くしをり。 8月1日 6:30起床。腕時計こわれる。高田瑞穂に15:00訪問と電話す。(※暑中見舞 省略) 14:00高田邸に着き、朔太郎「乃木坂クラブ」について4枚(400字)かきくれと頼み、 (※次の)『四季』休刊号といへば「承知した」と。夫人病後とてやせをられ心配なり。 15:30出て南阿佐谷に16:50着き、(※暑中見舞 省略) 成城より名簿3冊来る。 8月2日 よべ不眠。8:00起床。(※暑中見舞 省略) 17:00山住dr.にゆけば「薬みな1服づつのめ」と。 18:00高橋重臣君来り、(※省略)「天理で印刷する。『四季』つづけよ」と無責任なこと云ふ。熱海へと20:30出てゆく。 8月3日 8:30まで眠る。(※省略) 堀夫人Canadaより便り。(※暑中見舞 省略) 8月4日(日) 6:20起床。夫婦にて礼拝にゆき。聖餐受く。(※省略) 午后、宏一郎と孝行と来る。 大野沢君に電話して石浜の失敗いふ。近々ソ連へゆくと也。(※省略) 21:00福地より電話、彼の責任なりしと。 8月5日 7:00起床。(※省略) けふも暑くて裸かでをり。 8月6日 津村秀夫(Q)逝去77才と。 8月7日 7:00起床。9:00木村歯科(※眼科の誤記)にゆく。(※省略) 山住dr.に寄る。閣下米寿怪しきと也。(※省略) 大野沢君に電話し正しきを示せと云ふ。(※省略) ユ17:00柏井へ歯にてゆき18:30帰り来る。 その前トガりて困る。福地君に7号の原稿送付せよとかく。 8月8日 7:40起床。(※省略) 14:00稲田母上、健太郎、禎子つれ来り、(※省略) 望より「学校楽し」と。(※省略) 梅田恵以子夫人よりわけのわからぬ論文と3,000来る。 8月9日 7:20起床。10:30木村歯科(※眼科の誤記)にゆく。白内障の薬くれてすみし。(※省略) 帰り山住dr.に寄りVitamin剤もらふ。梅田夫人へ書き直せとのハガキ投函。不快なること多し。 禎子中々にわがままになりしことわかる。健太郎万国博へ早朝よりつれてゆきもらひし也。 8月10日 6:30起床。(※省略) 大野沢氏に電話し「来週来てくれる」となる。 『竹内正夫教授を偲ぶ』贈らる。(※大高)佐々木恒清先生の女婿、われを半期づつ土曜2年国漢文の講師として呼びし也。 8月11日(日) 6:30起床。(よべ20:30眠る。)ユ礼拝にゆく。大雨となる。(※省略) 村田幸三郎氏来り17:30まで呑みてしゃべって帰る。(※省略) 8月12日 7:00起床。下痢。『内田譲吉詩集!』に受領のハガキかく。法蓮の住人なり。 杉山平一君より(※休刊)「承知」と。 8月13日 3:00さめれば日航の事故(※日航123便墜落事故)televiでしてをり500人以上惨死と。 7:00起床。上厠、入浴す。10:30山住dr.へゆき愁訴症といひ眠剤もらふ。美紀子桃もちて来ると電話。あとにて碁盤ももち来る。 8月14日 よべ排尿に起き6:30起床まで眠れず。『四季』5,6,7号原稿返送。 大野沢氏より「来たきも来られず云々、堀多恵さんに詩集を」と。中村マリ子(興地先生令嬢)より「涼しくなれば友と来る」とハガキ。 8月15日 5:30さむ。無為。敗戦40年記念にして(※新聞)墜落の面は無視さる。(※省略) 午后末富氏へゆき将棋3番負け碁一番負け、母上の霊前に三拝し来る。 8月16日 5:30さめ6:00起床。10:30福地君へ印刷製本2人でやらんといふハガキ投函。(※省略) 16:20村田「この間帰りてまた飲み便所で倒れし」と。「大事にせよ」と叱る。日航の騒ぎまだ収まらず。(※省略) 8月17日 6:30起床。朝食後入浴。無為。ユ画にゆく。 8月18日(日) 5:40起床。無為。ユ画をかく。夫婦礼拝を休む。 8月19日 5:50起床。日航事故の報道のみ。『東方学』来る。鍛冶さん信州へゆきしと。 3月10日頃ハレー彗星televiでみられるらし。鍛冶さんへ『四季』休刊のこととりあへずハガキ。(※省略) 8月20日 1:00さめ6:30起床。静江母より父の命日と電話あり。(※省略) 石浜恒夫にハガキ「8月末締切」と。 望に「来よ」とハガキ。 8月21日 5:00さめる。江頭彦造氏より立原の思ひ出と4,000円。 「江頭・国友2君にて『四季』編集いかに」と江頭君に問ひのハガキかく。 8月22日 20:00眠り5:00さめる。7:30福地君に電話し石浜排斥を述べる。 高砂市加古樹一君に8号不掲載をハガキでかく。(※省略) 堀夫人に追分へハガキ。 大野沢君より残暑の贈物賜る。礼状。(※省略) 午后末富氏へゆき将棋3番負け碁一番、末富氏酒好きなること初めて知る。 8月23日 5:30覚む。江頭彦造君より「編集できぬ」と。今沢幸より詩と会費3,000来る。 『山本捨三詩集』贈らる。勲三等なり。 8月24日 6:30起床。ユ、午后画の稽古、我は無為。 8月25日(日) よべ不眠。6:30起床。無為。10:00起床。昼寝せしなり。 8月26日 5:30覚む。涼しくなりをり。大野沢氏より詩、加古樹一氏より(※不掲載)憤慨。 国友則房君より江頭君との相談の結果をいひ来る。(※省略) 8月27日 ユ、仙台に電話すれば「依子けふ仙台」と。江頭彦造と国友則房2君に『四季』つづけよと手紙かく。 (※省略) 正午、高田の原稿と小杉君の詩来る。後者はのせる由なし。(※省略) 8月28日 6:00起床。ユ歯の治療その他にて出てゆく。石山直一氏より詩らしきもの来る。宜し。 ユ14:00仙台へと勇み出てゆく。19:00仙台より電話、禎子とユ。 8月29日 5:00覚める。10:10苑子来り、午飯くはし14:00帰りゆく。花井タヅ子より詩、福地君より金と今のままにてよしと。 高橋渡君より詩。石山直一氏より7号3冊くれと。19:30禎子より電話「バアちゃんあす帰る」と也。 8月30日 5:00さむ。入浴。11:00苑子来る。午飯くはし苑子去り、15:00ユと依子と帰宅(依子は荷物運びと。名古屋へ帰りゆく)。 堀夫人より編集江頭・国友2君に変ること宜しからんと。(※省略)炫火忌第3回欠席とかく。 石山直一氏に7号3冊包む。 8月31日 6:30覚む。7:00朝食。ユ船越と母へとゆく。16:00散髪にゆく。堀夫人より『堀辰雄展』もらふ。 禎子より電話「誕生祝ふ」と也。 9月1日(日) 5:30起床。堀夫人に礼状。嶌野彩子に礼状。二人そろって礼拝にゆく。(※省略) 『四季』の編集最後とてゆっくりとする。植村先生の「母」速達で来り、杉山平一は来ず。 9月2日 2:00さめねられず。田中雅子へハガキ。山住正己氏の原稿来る。暑し。 15:00船越苑子来り、弓子もついで来る。下田へゆきゐしと。『四季』につき無為。 9月3日 21:30ね、(※省略) 9:00ユをして福地君に『四季』8号原稿速達せしむ。(※省略) 9月4日 20:00ね、6:00前起床。(※省略) 栃尾君「越後湯沢にあり」と。 9月5日 6:00起床。(※省略) 区民センターで本2冊借り、まことやにて河西夫人よりパーカー万年筆にインク入れ方教はる。 9月6日 8:00起床。8:30福地君より電話あり、印刷所またたのむやもしれずといふ。50pとなりしと。 石浜恒夫君より「退会す」と。喧嘩両成敗なり。江頭彦造氏は大正2年生とわかる。『山の樹』同人なりし也。 9月7日 6:00起床。午、(※締切8月末なのに)杉山平一より詩来り、福地君へ「のせよ」と速達す(4日出し也)。 植村先生の『歴史と文芸の間』よむ。19:00高橋重臣君「アメリカから帰った。月曜夜泊めよ」と。 9月8日(日) 6:00起床。14:00まで待てば村田幸三郎氏来り、酒のみタバコのまず。(※省略)17:00近く帰りゆく。 9月9日 5:00さめ、6:10起床。丹羽文雄よみなどして時艱つぶせば15:00高橋君「けふは来られず」の電話あり。 南川正純より下手な詩、直して「とれず」といふ。(※省略) 9月10日 6:30覚める。(※省略) 南川へ次号(9号)にはのせられずと投函にゆく。『奉天三十年(クリスティー)』を再読す。(※省略) 9月11日 7:00覚める。『奉天三十年』を再読了る。白石マリ子へハガキかく。 9月12日 寒くなりフトン3枚かけてね6:00前起床。福地君と彦根の北川老にハガキ。(※省略) 竹森先生の『満洲基督教史話』よむ。(※省略) 9月13日 三浦(※和義のニュース)のせいか1:00すぎるまでねられず。5:30起床。 内広嘉子といふ6才の子なくせし詩集『まつりの日々』受領の旨かく。今沢幸の詩の添削して送る。 9月14日 20:00就寝。5:00さめ7:00起床。『四季』わが編集にてつづけること決心す。 青少年、古本屋にては(※本を)買はずとtelevi。午后『四季』の再校来る。 それをおきて図書室へ本返しにゆき「インドネシア研究会」といふをノックすれば、 李君(華僑第4世)と一女性とのみ。筆読まぜてIndnesia語少々しゃべり感心さる。 15:00帰宅。『四季』の校正すむ。(※省略) 桑原武夫氏、竹内夫人より親友代表となれといはれ断って我となりしらし(われ用意した弔辞ダメになるところ)。 位牌の字はたのまれてかきしと。(中野清見のかきしはダメとなりしなり)。 南川より電話、「『四季』やめず」といへば「喜んで応援す」と。(※省略) 兼清隆二より今中19期生会を11月2日「出席」と返事。(※省略) 福地君より21:30電話かかりし故、「編集われす」といへば喜び220部を我あて送ると。 9月15日(日) よべ不眠。「四季の人々」よみ返す。ユ礼拝にゆく。われ就寝。但し眠られず。午后克次朗菓子もち来る。 ユ母に老人の日の贈物(けふ町会より貰ふ)もちゆく。 9月16日 20:00眠り7:30起床。『四季』再校1枚を速達す。休日(老人の日)なるに〒あり。『日本歌人』など来る。 植村先生より『四季』はと問はれ「出る」といへば『諸葛孔明(11月出来中公文庫)』やるとのことなりし。 先生『四季』を気にされをり、ありがたし。われにも(※『日本の詩歌』)中公文庫2,000冊増版1.9万円入金。 9月17日 よべ不眠。7:00起床。無為にしてをれば花井夫人来り、一服して帰りゆく息子の就職は(※省略)。 9月18日 20:00就寝。7:30起床。(※省略) 午后「清初の十王」書き直す。半ばにて疲る。 野田又夫氏に「(※『中島栄次郎遺稿集』序文)かいてくれ」と、礼のハガキかく。(※省略) 9月19日 21:00臥床。(※省略) 7:30起きる。(※省略) 10:30野田又夫氏へヱハガキかき投函。 区民センター図書室にて『シンガポールからの報告』、『ルポ・アジアNow』借りて帰宅。 国友則房氏より手紙にて、江頭氏の意見にては「先づ会ってから。会合は十月上旬がよい」とのことである。 「十月第一週、阿佐谷もしくは他にて江頭・国友2氏と会はん」とハガキを国友氏に出す。そのあと同人費其の他を定めんとす。 午后末富氏来り、将棋1勝1敗、碁は勝負にならず。 午后の便にて千葉そごうの古本展にて『西康省』久しぶりに出6万円と。 福地君より電話「220冊とし、杉山君には同人として我より送る」などいふ。 9月20日 よべ22:00ね5:00覚む。国友氏にいひし10月5日は邑綰るゆゑ都合悪しのハガキ国友・江頭2氏にほうりこみ、 午后来る丸木(高松)夫人待てば教へしおぼえなき市川の大井夫人といふ(※省略)をつれ来る。(※省略) 大野沢君より「ロシア人はやはりロシア人だった」とMoskwaのヱハガキ来り、(※省略) 今朝山住dr.の診察久しぶりに受け血圧125-75、躁ややと申上ぐ。(※省略) 9月21日 5:30さめ大野沢君へのヱハガキ投函にゆく。 数男より電話、10月染井墓地の柏井次男墓へユと弓子とゆくこととなる。俊子姉も広島から来る由。(※省略) 杉山平一君の序文付の矢野敏行君より『詩集薄明より』来る。一篇ぐらゐのせて会員とせんと思ふ(5号7号を送る)。 13:30図書室へゆきしに李大人をらず。『方言辞典』よみ、 衛藤瀋吉編『されどわが満洲』、前川恵司『韓国・朝鮮人』借り来って、(※省略) 成城大学『図書館だより28』贈り呉る。『コギト』復刻版買ひをり。(※省略) 9月22日(日) よべ5:00さめ7:00起床。(※省略) 杉並区民センター図書室のぞかんとすれば、Inddesiaの会しをり。 李夫人と鈴木嬢とくたびれたOLとをり。早口にてものいひ、我が家へ来いといへば来る。 いろいろと本見せいろいろ語ればOLたち困りし様子なり。ユ疲れし顔しをり。(※躁記事多し。省略) 9月23日 5:30さむ。秋分の日とてみな休みなり。(※省略)川久保に電話すれば人参のことかきゐると。 学名書かねば誤解されるとおどかせば結局「けふ来る」と也。 14:00来り「東北の人参」といふ論文書くとのことに『本草綱目』見せ学名写させ東北漫談する。 16:00雨止むころ帰りゆく。夜、炬燵久しぶりに点ける。国友君に「すでに『四季8』に来信発表」とハガキ。 9月24日 21:00就寝。(※省略)8:00起床。10:00ユ柏井へ歯の治療にとゆく。国税調査に女来る。(※省略) 西條正『中国人として育った私(中公文庫)』よみ了る。(※省略) 岩波文庫『コーラン上(500)』買ひ来る。中下ありて欠本なりし也。(※省略) 夜、televiで「黄河」見る。(※省略) 9月25日 1:00尿で起き6:00前起床。『されどわが満洲』よみ了る。「清朝の十王」かき、すぐ止める。(※省略) 9月26日 6:20起床。茶のみしのみにて山住dr.へ8:35ゆけば(※省略) Rentgen異状なしと。(※省略) 鳥海かよ子に電話し「縁談世話する」といふ。(※省略) 9月27日 4:00さめ5:30起きれば、(※省略)  『されどわが満洲』よみ了る(※再出)。(※省略) 区民センター図書室へ返本にゆきまた2冊借り来る。 9月28日 3:00さめ排尿、(※省略)6:00起床。 小高根太郎より保田全集の装幀『コギト詩集』のを使ひ、また思ひ出書きし由。(※省略) 9月29日(日) 4:00さめ6:00起床。島尾伸三『香港市民生活見聞』読み了る。午后西園寺一晃『中国辺境をゆく』をよむ。 終日雨降る。 (ユ、鳥海かよ子に電話すれば(※省略)「高槻の男への吊書と写真送れ」といへば「ハイ」となりし由)。 (嶌野彩子にユ、男の吊書と写真送り10日見合さすと也)。 9月30日 5:00さめ6:00起床。雨止む。午后『四季』8号来る。(※印刷代金)11,1250と。 夜、同人への送本の封筒かく。植村先生にはあす15:00もちゆくと申上ぐる。(※省略) 山住閣下の米寿祝1万円差上ぐ。 10月1日 よべ4:00眠り7:00覚む。『四季』の表書かく。12:00花井夫人来り昼飯くふ。 13:30出て14:30植村先生お宅に着き10冊代3,000円いただきお話伺ひ茶よばれ 16:00出て松本善海夫人に遇ふ。ふしぎなり。17:00帰宅。 ユ不在。花井夫人も帰りしならん。(※省略) ユ鳥海かよ子の見合10日ときめる。 10月2日 よべ1:00排尿に起きまた眠り8:00前起床。ユ縁談で多忙。(※省略) 浅野晃氏の弟子鈴木敏幸君の詩集、台湾の同窓の訳あり、みな十年間にアメリカにありと。 橋本保印刷に印刷製本代11万円余送り「9号もたのむ」とかく。ユ〒、堀邸へと出てゆく。嶌野夫人より電話あり、夜ユより電話する。10日見合すと也。 (※省略) 植村先生より電話(※省略)善海未亡人に道にて遇ひしといへば「子は今何してゐる」と。息子は国鉄の技師、娘は歌うたひといへば納得さる。 松村潤君に電話して「清初の十王」いへば「神田君改築中」と。(※省略) 10月3日 3:00までねられず7:00さめる。8:00入浴。依子へ『四季』2冊。津留純也に5冊、福地邦樹君に「払ひせし」とハガキ。 浅野晃氏の弟子鈴木敏幸君の詩集の受取。(※省略) 16:00まで末富邸で碁将棋す。(※省略) 10月4日 6:00起床。(※省略) 金子民雄訳『ヘディン 人と旅』とばしよみ了る。(※省略) 藤野一雄君より小林英俊和上の追悼文にわが拙詩のせあり閉口。 河野(浜谷)夫人14:00来り16:00までをり、栃尾君『十八史略』教ふと。散髪にゆき(※省略)山住dr.にゆかんとし(※省略)血圧130-と高し。 (※省略) 21:00震度5の地震あり。高橋重臣君より「そのうち来る」と電話。 10月5日 よべ2:00ねて6:00起床。8:00高田瑞穂に「『四季』に犀星の詩のこと書いてくれ」といふ。(※省略) 12:10京より地震見舞の電話。 (※省略) 鳥海家より新米。大野沢君より「4冊くれ」と2,000、小杉茂樹氏より「6冊くれ」と2,000。 小高根太郎より5,000呉れ礼状かく。東方学会へ総会に欠席と返事かく。 10月6日(日) 4:00さめ6:00起床。終日雨と。(※省略) 礼拝にゆき弁当阿佐谷で買ひ12:00帰宅。 苑子来り、村田幸三郎13:30妹、姪と川端(※名前省略)といふ浪高3年生つれ来る。福地君に(※省略)教はれと手紙かく。 村田酔ひ15:30ユの帰宅の後帰りゆく。(※省略)  鳥海香代子20:00阿佐谷より電話かけ来り、ユ迎へにゆけば地下鉄にて来し也。見合の相手面白くなかりし様子。(※省略) 10月7日 5:00さむ。ユかよ子起し朝食くひしあと6:00阿佐谷駅まで送りゆく。9:30鳥海母上より電話「交際したし」と。 (※省略) 村田より電話「川端一家がっかりして帰阪せし」と。石山直一氏より8号まだ来ずと。国友君より「3冊送れ」と1,500円。 江頭君より「同人費代につき賛否きけ」と。牛尾三千夫氏より「3,500円入れる10冊送れ」と。 夜、嶌野と鳥海にユ電話す。夜、江頭君に「新同人だれを指すか」とハガキかく。福地君に「6号余りありや。川端(※名前省略)の進学指導たのむ」とハガキかく。 10月8日 3:00小便に起き5:00起床。垣内光女史「立原の手紙のこと中村真一郎にいひ、中村病気とて堀内君次の全集に載せるとかきし」とあり。 江頭君に5,000円の同人費はむり。名誉同人にも応援してくれる人あり、貴下の推薦する同人ありやとハガキかく。 11月10日東洋史談話会に「老衰欠席」と返事す。夕方鈴木文平の夫人安子来り「敦煌展にゆけ」といふ。(※省略) 佐伯で『日中戦争(200)』、『中国故事はなしの話(150)』など買ふ。小高根夫人「鉄斎の孫(※見合)急ぐ」と。鳥海かよ子の附合は20日と。 10月9日 3:00さめ6:00起床。7:00朝食、8:00入浴。昼食後、江頭氏よりまた4,200円来る。「新同人みつけてくれ」とハガキかきハガキ買ひにゆく。 『香港市民生活見聞』借り来りよみ了る。帝塚山短大2回生の会25日つきじ植村本店にてと幹事より電話。 10月10日 21:00ねて7:00さむ。(※省略) 10:30本返しにゆく。『中国の妖怪』、『伝統中国の完成』借り来る。 ユ11:40仲人とて吉祥寺へゆく。末富氏より、碁将棋の誘ひありしも断る。「清初の十王」いかがならん。16:00ユ帰宅。 19:40嶌野夫人より「娘まだ帰らず」と電話あり。 10月11日 7:00起床。9:00山住dr.「閣下お悪き由」、10日間の薬もらふ。 江頭、高橋渡、国友則房3人『四季』脱退の由。江頭君よりいひ来る。大野沢君も辰雄・克己の線ではかけぬ由ハガキ。 吉本君より1,100来り、同人になりたしと。ことわる(投稿はよしと)。21:00西川に電話すれば夫人「宴会。体重80キロ以上」と。 10月12日 7:00起床。江頭君へ手紙投函。吉本君へも同。11:30村田より電話「福地君あす会ってくれる」由。 嶌野彩子ことわられし由、理由は「身分ちがひ云々」。 昼食後、高円寺へゆき瀬見氏に『四季』8冊呈し古本500円に負けてくれる。一軒古書店ふえたり。(※省略) 大野沢君に進退問ふハガキかく。ユ、原田夫人と戸田先生の縁談にゆく。 10月13日(日) 6:30起床。ユ礼拝にゆく。無為。 10月14日 7:20起床。朝食後、9:00入浴。西川より電話『四季』代は11月2日の19期生会で払ふ由。 福地君より6号5冊来り、川端母子用事いはざりし由。(※省略) 村田より電話「福地君に父子にて会ひ神戸学院大学なら」といはれしと。 鳥海の相手鳥塚氏20日京王dept.で会ふときまる。 10月15日 6:30起床。無為。午飯に松茸飯。15:00苑子寄り『四季』に投稿と。(※省略) 山住dr.にて血圧128-「閣下の米寿は来年」と。「数へ年でしたまへ」と申上ぐ。(※省略) 10月16日 2:30までねられず9:00起床。高橋渡氏より8号代3,000来る。受取りと「同人やめざらめや」とハガキ。津留より売上?2,000来る。 江頭君「『四季』に立原とのこと原稿承知、高橋は脱会承知」と。午ねしボケたることわかる。20:30眠剤のむ。 10月17日 6:30起床。朝食後、垣根刈にてまいる。午ねしてゐればユ、山住dr.より帰り「薬のみすぎ」と叱る。末富家の碁将棋ことわる。 午后返本にゆき帰れば財布なくしをり。ユあとにて傘の中より探し出す。借りし本は前に読みし『されどわが満洲』と『日本語の中の外来語』。 20:00福地君より電話「やめるか」「やめず」と。 10月18日 よべ不眠。10:10より散歩30分して帰り来る。大野沢より新稿と鈴木眞理子氏より1,000来る。弓子来る。 鳥羽貞子より詩集。詞もつくると見ゆ。 10月19日 21:00就寝。8:00すぎまでねて不眠とり返しをし、10:30三鷹交番前で小林の車まち、(※染井墓地墓参)墓に花そなへてのち、 天ぷら屋日野の旧名主あとにて小林よりおごってもらひユと三鷹駅で別れて帰宅。佐伯にて『鴎外』なる雑誌あることを知る。20号200で買ひ求む。 中西薫生、9月西山博士の媒妁にて結婚し篠山に住むと也。(※省略) 10月20日(日) 8:00起床。ユ礼拝にゆき、鳥塚氏より電話あり。かよ子11:30京王dept.で(※見合)といへば承知と。(※省略) ユ帰るまで本2冊返却また2冊借り来る。(※省略) 17:50カヨちゃん「東京駅にあり」と「来よ」といへば承知す。 18:00すぎ夕食くひて「も一度わが家で」といふことにして帰らす。鳥塚母より「ことわる」と。(※省略) 10月21日 6:00起床。ユ(※禎子氏の)小学校願書の為外出。随分高いことわかる。藤井(吉原)陽子夫人よりあらためてclass会の通知あり、みな出れば14人なることしらべる。 今中自疆会より年費2,000と新名簿(3,400)と通知あり。 10月22日 8:15起床。(※省略)『四季』復刊につき承諾書と執筆表来る。 高橋渡氏より脱会致し方なしと。小杉茂樹氏より下手な詩2篇。高円寺へゆき瀬見氏に会ひ衡陽の記録もらひ『歴代名画記(800)』買ひ、 球陽にてまた『満洲その幻の国のゆくえ(400)』と『続・誰も書かなかった台湾(400)』にて金なくなり帰宅。美紀子より松茸とどけに来る。 (※省略) 10月23日 8:00さめ9:00起床。ユ 柏井へ歯の治療にゆき電気屋さん来る。(※省略) 午后ユ明星学院にゆき、弓子見舞ひ帰り来る。 堀夫人より『四季』の改革案宜しと。11月末帰宅後御来訪と。ユ戸田画伯留守の為辛苦す。 10月24日 よべ2:00までねられず眠剤追加9:30起床。ユ柏井へゆき、われ10:30山住dr.「閣下おわるき」由。 正午の便にて石山直一氏より2,000同封「投稿やめるべきか、7月に送りし詩はいかに」と。 末富氏へ久しぶりに碁将棋にゆく。神田信夫氏広州より航空便。我が問に答へず(※不詳) 20:00ユ鳥海に電話すれば「かよ子まだ帰らず」と。 10月25日 6:00起床。ユ鳥海に電話すれば「かよ子6:00帰を出し」と。9:10散髪にゆく。 11:40ユと植村にゆけば和田夫人を除く8人をり。藤田夫人『四季』9,10(※不詳)買ひ呉る。(※省略) 小杉氏より下手な詩また来る。ユ、花井夫人に電話していろいろ云ふ。 10月26日 6:00覚む。小杉茂樹氏より略歴来りしのみ、本返却また借り来る。江頭問題不快なり。 10月27日(日) 7:00起床。鳥海かよ子より男方の書類返り来る。ユ礼拝にゆく。兼清より2日の19期生会出席の確認の電話あり。 ユ、小高根夫妻立会の富岡鉄斎の孫の見合にゆき(※省略)見合ダメなりしと。 10月28日 7:20起床。朝食後、下痢。10:25京より電話「稲田11月より東京へ転任」と。ユ風邪。『人民中国』来しのみ。 10月29日 8:30覚む。(※省略) 雨中散歩す。林俊郎より「10日の法事15:00より。母は欠席」と。 山住dr.にて血圧130-。「閣下苦しみいはず」云々、正己氏岩波の仕事にて忙しと。『四季』に書いてくれ、同人費はそのままとかく。 10月30日 6:30起床。「禎子の学校、清瀬に見付けた」と京より。(※省略) 10月31日 7:00起床。(※省略) 末富家へゆき碁5目となる。花井夫人、柿もち来る。 11月1日 よべ不眠。9:00起床。午すぎ弓子餡パンもち来る。(※省略) 堀多恵さんにハガキかく。(※省略) 20:00televiでハレー彗星特輯。 11月2日 8:30起床。(※省略) 9:30岩崎昭弥「上京中、来れぬ」と。11:00出て市ヶ谷自衛隊にゆけば宿舎増築中。 金沢、西川、倭、広島、柴谷と、兼清、中村の両幹事わかり、全員10名中2名わからず。(※省略) 14:30われ早く出て帰宅。(※省略) 11月3日(日) よべ1:00就寝。7:30起さる。夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) ユ14:30より見合の立会にゆき16:30帰宅。(※省略) 福永英右衛門、勲3等もらふ。 11月4日(休日) 7:30覚む。午后ユ吉祥寺の小清水夫人にゆき16:30帰来、鳥海に160cmの薬剤師の吊書もち来る。 南川正純より応援す(20人)と詩来り、困る。 11月5日 7:20起床。南川へ応援いらず、詩のせずとハガキ。ユ従姉妹と姉と会ありと10:00出て16:30帰る。われ午食、開々亭にてラーメン (350)食ふ。 日比氏来り、煖房(10万円)の見積りす。 11月6日 7:20起床。高田瑞穂より「犀星論」と略歴。柴田忠夫『迷宮のバラード』なる詩集来る。(※省略) 鈴木文平来り「敦煌展いかずや」とまたいふ。(※省略) 11月7日 7:30起床。呆然としてをれば午前、朝日新聞社会部の穴吹史士氏より「来る」と。来りてHalley彗星見に白河へゆかんと。 やむを得ず承諾し『(※「偶得」載る)大陸遠望』貸す。午后ユ居り、末富氏来りて、碁将棋す。(※省略) 今中の名簿来る。 村田より電話あり慈恵医大やめられ西池袋に就職した由。 11月8日 6:00起床。ユ荻窪へゆきしあと、この間破談となりし男の母君、物もち来る。 杉山平一氏より(※名誉同人なのに)8号代金2,000来る。不快。朝日の穴吹氏より「12日か13日の14:00~15:00迎へに来る」と。 小杉氏よりまた下手な詩来る。川久保より東方学会にて羽田に会ひ、よろしくとたのまれたと。 11月9日 1:00排尿に起き、あと眠れず。杉山君に「詩くれ」とハガキ。 14:30(※教へ子)河野、新坂、中村、脇本4夫人来り、ユ接待す。われ元気なく困る。(※省略) 11月10日(日) 3:00ねて7:50起床。夫婦礼拝休み、ユpermaにゆき13:30出て林の叔父叔母の7回忌にとゆく。15:00前につく。 丹羽ミサ難波カズ夫妻あり。林一族と大、寿一夫妻とで仏事となる。17:00出て18:30帰宅。 11月11日 7:30乗杉氏、柿賜ふ。ユ母のもとへゆき12:00前帰宅。村田より内職たのむと。ユ来客多くわれ無為。(※省略) 福地君より電話「江頭らやめ、あと2号は出す」といふ。 11月12日 午前中無為。午后、朝日の穴吹氏より電話「迎へに来る」と。16:00来り出発、 白河でラーメンを夕食に賜はり、私設天文台(※白河天体観測所)でハレー彗星見る。斎藤(※不詳)、大野(※大野裕明)2氏の私設天文台なり。 昭和15年よりの望み果し満足し、写真を朝日の渡辺氏より多くとらる。22:00すぎ出発、家まで1:30に着く。 高橋渡氏より「『大陸遠望』論かく」と手紙。 11月13日 9:00起床。睡眠不足なり。野田又夫博士より『ロック』。牛尾三千夫氏より2,000来り8号不足と。植村先生より正月号の原稿、題なし。 疲れて日比氏の働くを見守りをり。明後日再来と。 11月14日 よべ1:00さめ9:00起床。疲れをり。(※省略) ユ、外出と電話にて忙殺さる。(穴吹氏より心配の電話かかり、再来といひしと)。 11月15日 よべ20:30ねてけさ8:00まで眠る。野田又夫、植村先生(題くれと)、後藤文子(中村)夫人にハガキかく。 11月16日 植村先生より電話、題は「雑煮餅」と。13:30来る中村夫人(興地先生の嬢)まてば工藤一郎氏つれ来り、図書館学の大学講師となりたしと。「なし」の旨答ふ。 牛尾三千夫氏に4冊送り、のこりは9号分とかく。(※省略) 11月17日(日) よべ22:00眠る。8:00さむ。ユ礼拝にゆき13:00帰り来る。穴吹氏より電話「明後日の朝日にのる。写真はのらず」と。終日無為。 11月18日 よべ22:00ね入り7:00さむ。ユ風邪と山住dr.にゆく。 11月19日 (※ハレー彗星見学の記事)朝日にのりしとて瀬見氏、堀川博士、、和田夫人より電話。ハリー彗星とかき、わが生涯をのす。恥かし。 (※省略) 夕飯後美紀子よりも電話。 11月20日 7:00起床。菊池眞一氏、大野沢氏より祝辞。ユ禎子の(※小学校)入試つきそひに12:00出てゆき17:00帰来。(※省略) 12月1日に嶌野嬢見合と。植村先生より『新版諸葛孔明』賜はる。夜、高橋君「金曜夕食くひに来る」と。 11月21日 村田より電話「西池袋より13:00来る」と。(※省略) 朝日新聞3部来る。(※省略) 村田13:00来り高石へ帰らんかと。高円寺まで歩くと。ユ送りゆく。(※省略) 11月22日 高橋重臣君まてば16:00来り、朝日のcopy呉れ同人費呉る。13号まで出せと也。19:30熱海へと帰りゆく。 11月23日 21:00ね、5:00さめ7:30起床。勤労感謝の日とて休み(※省略) 夕方思文閣出版のカタログ来る。高価なる本ばかり也。 11月24日(日) 5:00さめ7:00(※★省略)、7:30起床。ユ午后、戸田先生へmodel写生にゆき17:00帰宅。 11月25日 7:00起床。寒く無為。但しハガキ3枚かく。植村先生に『諸葛孔明』のお礼。松井盛に哀悼のハガキ。文芸春秋社へ名簿の返事。禎子電話でゐばる。 11月26日 7:00起床。夜、高橋重臣君より電話、古書展に(※自分が売った)三好達治よりのハガキ14万円にて出てをりと。(※省略) 11月27日 7:00起床。無為。ユ嶌野の見合に30日ゆくと。 11月28日 6:00起床。『四季』の原稿まてば坂口君の詩のみ来る。 夜、浅野氏に電話し、松枝氏に電話し、来ねばわれ(※既刊詩集より)選ぶといふ。松枝さん目を悪くされし由。 羽田より武長書目のこといひ来る。『満文金瓶梅』の天理にあることをしるす。他は京大にある由。武長には漢文の良き本みな入りをり。羽田へ礼状かく。 11月29日 よべ不眠。山住dr.にゆかず。石山直一氏より詩来り、花井夫人詩もち来る。半分切らんと思ふ。けふ国鉄st.にて騒然たり。 11月30日 7:00起床。10:20山住dr.にゆけば「正己先生の原稿あす」と。夜、福地邦樹に長電話す。小高根太郎より詩来る。 12月1日(日) 8:00起床。よべ4服のみし故、歩けず礼拝休む。(※省略) ユ13:00帰りすし買ひ来りしもウダウダ云ひ、信者の心得話す。 15:00昼食し、静江母のところへ1万円もちゆく。19:00帰り来り、毒づき、夕食くはす。 12月2日 8:20起床。山住正己氏の原稿まち、淺野晃氏の旧作受取る。高橋重臣氏に邪魔されて「わたしの星」といふやや長きをかき、 大高名簿来り、3,000円と。(※省略) AIDSなる新病発見さる。原因は男の同性愛と。江頭よりハガキ「9号にかかず。誤解さる。同人名簿より除け」と。狂的なる男なり。 12月3日 ユ柏井へゆき留守。川久保来り「高田瑞穂夫人逝去」と。ユの帰り来るまでをりて茶のみゆく。われおかげで鬱とれる。(※省略) 12月4日 5:00さめ6:00起床。ユ睡眠不足と。〒なし。高田に電話すれば夫人の逝去はまことと。「哀歌かけ」といふ。(※省略) 12月5日 松井盛夫人より電話、(※省略) 夜、稲田(※京氏夫君)来り、37才と。22:00哲夫、烏山の父宅へ帰りゆく。whisky大分のみしも酔はず。 12月6日 7:00起床。正午前、末富さんより「碁将棋に来る」とのことに、よべ不眠とことわる。 12月7日 『東京四季』来り、小杉を除名と決す。 12月8日(日) 礼拝夫婦とも休み、ユ10:00柏井へゆき新所沢の三郎墓地へとゆく。石140万円墓地70万円と。一族22~23人集りしと。 12月9日 ユをして山住dr.にゆかしむれば薬賜はる。(※省略) 平凡社久米氏より馬場女史と12日午后来ると電話あり。朝日新聞(※朝日書林の誤記)あす13:30来ると。 苑子より書いた物あす10:30見せると也。ユ歳暮すます。高田の夫人11月11日逝去と。 12月10日 無為。 12月11日 朝日書林荒川義雄君来り、わが机上に積みし詩集みなもちゆき呉る。書目みれば駄本ばかりなり。 苑子文集おきゆく。情なくて1万5千円の指導料の無為なることわかる。(※省略) 牛尾三千夫氏より「8,500円送った。5千円は9、10同人費、3,500円で9号10冊送れ」と也。 12月12日 寒く、13:00末富邸へゆき将棋2番、帰れば苑子来をり、文の直しせんとすれば「また来る」と帰りゆく。 平凡社の久米・馬場2氏来り、栃尾氏「主任となり忙しく(※『五雑俎』共訳の件)5年まて」といひしと。 われとの共訳を好まぬウソとわかり面白し。栃尾氏やめ他の学者にやらすと也。(※省略) 12月13日 8:00起床。年賀ハガキ出来上る(3,500)。(※省略) 荻村家より林檎1箱来る。 12月14日 7:00覚める。中野清見君より「町長選にやぶれ八戸へ帰る」と。散歩に出て苑子姉妹に遭ふ。20:00福地君に電話し、(※省略) けふより賀状かきア、イすむ。西川に電話すれば(※中野清見)八戸へ隠居の通知ありしと也。 12月15日(日) 6:00さむ(よく眠りし)。(※省略) 礼拝に夫婦してゆき副牧師の説教にて退屈す。 『対談日本語を考える(300)』中公文庫を買ひ、ユと別々に帰宅。夕方、ミカンもちて瀬見伊三郎君来る。19:00帰りゆく。 12月16日 6:30起床。花井夫人来り、午食す。牛尾三千夫氏より『神楽と神がかり』来る。小杉茂樹君に四季名誉会員より除名との通知かく。 12月17日 6:00起床。賀状ヤまですむ。Skey女史TorontoよりX'mas card賜ふ。われ賀状投函、(※省略) 村田幸三郎来り、志木の大日本印刷に勤むと。保田全集の第2冊来る。呉れしは新学社なり。(※省略) 12月18日 8:00起床。(※省略) 無為。ユ小高根太郎夫人へ電話、小清水さんへも電話。 12月19日 築島博士より本賜ふ。(※『メモワール : 「自由フランス」地下情報員は綴る 1940-44』) 牛尾三千夫氏より本と菓子。風邪と称して碁将棋にゆかず。 12月20日 7:00起床。『四季』9号初校速達来る。10:30校正了る(小杉茂樹除名)。小杉茂樹より同人辞退の由。 初校送る。牛尾三千夫氏より大著(※『神楽と神がかり』)贈られ迷惑す。とも角礼かく。 12月21日 6:00起床。(※省略) 午后散髪にゆく。X'masの歌うたふ。 12月22日(日) X'mas 5:00さめ7:00起床。(※礼拝)10:00よりはじまり先生御年寄り明らかとなる。 ユ小清水さんとすぐ帰り、われX'mas Partyに出しも話し相手なく早々帰宅。(※省略) 12月23日 6:30起床。10:10図書室へゆき方言調査。鳥海より歳暮。苑子来り、木曜来ると。 12月24日 5:00さめ7:30起床。(※省略) 12月25日 7:00起床。大野晋『日本語を考える』よむ。夜、弓子あす京の手伝ひにゆくと。次いで京「東京へ着いた」と。 12月26日 7:00起床。ユ8:30出てゆく。弓子、孝行と11:00来り庭の掃除す。ユ16:00帰宅。克次朗反抗して成績落ちしと。 12月27日 5:00さめ7:00起床。午后散歩に出る。禎子と健太郎つれて19:00京寄る。朝日新聞より寄稿代として時計くれる。 12月28日 8:00起床。11:00入浴中、苑子来り、忙しとて帰りしと。午后克次朗来り、ユ帰れば庭の竹切り500円やりしと。(※省略) 12月29日(日) 7:30起床。ユ庭掃除。佐伯『長沢規矩也9(7,200)』持ち来る。15:00史夫婦来る。homoよりAIDSなる奇病起りしと。 12月30日 3:00すぎまでねられず7:00起床。『四季』来ず。(※省略) 12月31日 7:00起床。(※省略) 11:30『四季』9着く(※220部)。送料1,300。12:30出て植村先生へ10冊もちゆき3,000賜はる。 来年にて国士館やめる。中公文庫『三国志』何万冊と売れしと。「君、地感なしだね」といはる。 苑ちゃん1冊買ひくれしと。19:30山住家へ『四季』2冊もちゆかす。 誤植、植村先生に2ヶ所、山住氏に1ヶ所あり。 田中克己日記 1986 【昭和61年】  この年の出来事 1月、『四季(9号)』220冊発行。(橋本保印刷:印刷代金13万8千円) 1月、丹波鴻一郎を石神井の自宅に訪問。 1月、高田瑞穂を成城の自宅に訪問。 2月、川久保悌郎を成田東の自宅に訪問。 2月、『四季』続ける気が失せ10号にて休刊と定む。 2月、福地邦樹の詩集序文を断り、かつ中止を勧めて懸隔を生ず。 3月、高田瑞穂を訪問。 3月、継母静江転倒し2カ月入院。 4月、叔父昌三逝去。 4月、『四季(10号)』220冊発行。(橋本保印刷:印刷代金13万4千円) 休刊の辞を載す。 6月、かつて泊った塩山温泉広友館に独りで一泊。 6月、長男史氏、総務庁人事局次長となる。長男一家との二世帯同居を考へる。 6月、入院中の植村清二を見舞ふ。 6月、手塚隆義を鎌倉の自宅に訪問。 6月、川久保悌郎来訪。 7月、市ヶ谷自衛隊会館にて同級生と西川英夫の勲三等を祝す。 8月、悠紀子夫人、三女一家と湯河原に一泊。 9月、川久保悌郎を訪問。 9月、中嶋康博初敲門。詩稿持参の来訪が始まる。 10月、植村清二を桜台の自宅に訪問。 10月、川久保悌郎来訪。 10月、高田瑞穂を訪問。 11月、再び『四季』を出す気になる。 11月、川久保悌郎来訪。訪問。 11月、高田瑞穂を訪問。 12月、大高OB関口八太郎逝去(16日)。 12月、戦友の同窓、村山高、村田幸三郎と学士会館にて会食。 12月、本天沼の自宅に松枝茂夫を訪問。 1月 1日~ 2月 7日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 よべ3:00までねられず8:30起床。賀状245枚。12:00京夫婦2孫つれて来り18:00夕食さし、2児起きて去る。 1月2日 3:00放尿6:30起床。(※省略) 本荘健男死。70才と。9:30京夫妻来り、(※省略) 苑子に『四季』の手伝たのめば「ダメ」と。13:45『四季』同人へ送本(花井夫人をのぞく)。47冊なり。 賀状6枚、中に福地あり無言。夕方賀状11枚。 1月3日 賀状一部投函。ユ10:30母へゆく。新聞社へ『四季』送ることとす。(※省略) 高田瑞穂へ電話「まあまあ元気」の由。 静江母、河野で死ぬとこきき来る。花井夫人送本17:15まで手伝ふ。(※省略) 賀状21枚と松本健次郎の『漱石研究』と来る。 1月4日 1月5日(日) (※日付誤記か。) 7:30起床。野口武徳君4日舌癌の為死去52才と。 夫婦で礼拝にゆく。聖餐式あり長老皆出席。 1月6日 よべ不眠。5:45起床。賀状の返事かく。堀川氏「勲4等不可」と。(※ハガキか電話か、誰のことか不詳) 1月7日 9:40起床。午ごろ克次朗と孝行来る。餅食ひて禎子の所へゆくと也。(※省略) 山住dr.血圧103- 1月8日 7:00起床。9:00まで賀状かく。(※省略) 本多浩より「犀星研究」と。 村田幸三郎来り「隠居す」と。14:00堀多恵夫人来訪。16:20までをられ誌代1,500おかれる。 泰来てをり16:30寮と帰りゆく。少し物云ふ。(※省略) 1月9日 眠れず2度排尿6:20起床。(※省略) 末富翁より電話あり不眠をいひて碁将棋ことわる。 大来りbeerのむ。苑子来り酌す。(※省略) 栃尾君(※栃尾武)より(※『五雑俎』)原稿帰りjam呉る。。 大野沢君10冊送れと。静江母よし子に入学祝1万円くれし也。 1月10日 よべねられず。(※省略) 7:00臥床。賀状すみて投函す。14:00苑子来り、ともに出る。(※省略) 1月11日 眠剤もらひ10:00ね3:00尿に起き7:30起床。(※省略) 苑子来り、ユと買物にと出る。(※省略) 弓子夕方来り、入浴手伝ってくれる。 1月12日(日) 5:00さむ。夫婦とも礼拝休む。 11:00川久保に電話し『北アジア学報』みつけてくれとたのむ。「あれば電話する」と也。 荒木修隊長より賀状なかりしに気づく。 川久保に2度電話し『北アジア学報3』のありなしたしかむ。「も少し時間かせ」と也。 1月13日 7:00起き川久保に『北アジア学報3』のありやときけば「しらべる」と。 丹波鴻一郎に電話すれば「在宅、駅まで迎へにゆく」と。12:30出て、(※省略)石神井に着き(※省略) 4丁目の入りこみし家なり。同級生の話して岡部をぬかす。『四季』1冊置けば山住克己氏とは有縁と。 孫1人しかをらず、また駅まで送られ阿佐谷行のbusに乗りて帰宅(16:00)。 留守中、川久保より「無かりし」と電話の返事ありしとユ。 1月14日 終夜眠れず5:00入浴5:30起床。9:00山住dr.にゆき薬もらふ。(※省略) ユここをあけて老人ホームに入らんといふ。13:00苑子来るる(※省略) 昼ねす。(3回のひるねにて8時間はねしと也) 高田瑞穂に電話かからず。(※省略) 散歩に出て幼稚園の処にてころび2人の助けにてゆけば船越映子をり家まで送りかへす。 ユと眼鏡屋にゆきあつらへば21日出来4万7千円と。ユ2万円を前金に置き古きを出し来る。ふしぎな女なり。 15:30山住dr.にゆき止血してもらふ。 1月15日 5:00まで眠れず。起床5:30。朝食後、一寸ひるねす。栃尾武君へ受取りのハガキかく。(※省略) 丸家より3周忌とて紅茶茶碗来る。(※省略) 克次朗来り昼食。せんべいみな食べユ帰り来れば漫画もちて帰りゆく。ズルくも哀れでもあり。 1月16日 5:00さる6:00ユを起す。7:00朝食すむ。高田瑞穂に電話し「1時間でゆく」といひ9:00前出て、(※省略) 高田邸へゆけば先生すでに外出の仕度してをり。たのんで仏前にゆき御花料5千円をそなへ、 共に出て駅で別れ、南阿佐谷に11:00着き、(※省略) 14:00来し船越苑子と話し、(※省略) 栃尾君より「原稿つきしや」と。いやになり平凡社のもち来しままなるは云へず。 野口君成城大学文芸学部葬23日と案内あり。 1月17日 よべ眠れて9:00起床。televi見てをり。苑子来ず。父(※船越章)よりも気の弱い娘なり。 田川市の藤井道雄といふ人、わが蘇東坡を買ってよみ「海南島の蘇東坡」見たしと。コピーすればよきも面倒になり「かんべんして下され」とハガキかく。 肥下夫人よりは「老いて旅行の元気なし」と。(※省略) 20:00すぎて福地君に電話すれば「送別の宴」と。(※省略) 1月18日 7:00覚め8:00朝食の前、福地君より電話、校正はしなかったらしく、印刷屋へ請求書催促してくれとたのむ。 (※省略) 都留より入金、丹羽みさ2千円で『四季』くれと。 1月19日(日) 6:00覚め7:00前ユを起す。(※省略)  都留へ『四季』販布の礼状かく。礼拝にゆかず夫婦ゴタゴタしてすむ。 角力に皇太子一家出る。美紀子干柿もちて来り、そわそわと帰りゆく。(※省略) 1月20日 7:00さめ8:00までに村山高氏のこと(※賀状見当たらず)能勢に連絡たのむ。(※省略) 京、禎子つれて来り、14:003人で出てゆきしあと苑子来り、ユ帰れば去る。 別置の袋の中に村山高氏の年賀ハガキあり。(※省略) 1月21日 7:30起床。「あす13:00参る」と高橋重臣君より電話。 20:00すぎ伊藤とくより電話「千草死んだ」とは知らざりし也。眼鏡屋代4万7千円払ふ。 1月22日 7:00起床。9:30ユ新宿の日栄証券へと出てゆく。11:30ユ帰宅。14:00高橋重臣君来り15:00神田へと出てゆく。 1月23日 7:00起床。昼食のあと13:30まで待ち末富邸へゆき将棋一番して負け、あとは徴用の話して17:00帰り、(※省略) 夜、宮崎幸三教授に電話して「あす14:00参る」といひ、福地君に誤植多かりしをいへば「のん気な印刷屋」と。 1月24日 終夜不眠。午になり出て探しまはれば迎へに来てくれ、つんぼとなりし教授と女医の夫人とに世話され、 斎藤晌教授を咎めしにおどろき、夫人に血圧はかられ160と。(※省略) 1月25日 昨夜20:30入床7:00ごろ覚める。終日在宅。村山高氏より「能勢よりきいて御心配下さった由だが12月初旬に風邪ひき今は元気、今年は金婚」と。 1月26日(日) よべ23:00眠り6:30起床。12:00ユに散歩すすめられて北上、柏井歯科にゆき数男夫婦と思ひ出話す。 (※省略) 今沢幸君より『四季』に5千円来り受取かく。 1月27日 (※省略)  終日家居。 1月28日 6:30さめ7:00ユを起こし8:30高田に電話し「芥川論より夫人を失ひし悲しみかけ」といへば「応。原稿返せ」と也し。 山住dr.にゆけば血圧103-、眠剤もらひて帰れば10:30。 1月29日 ユ印刷屋に(※『四季』9号印刷代金)13万8千円払ひしあと福地君より払ひすぎといひ来る。(※省略) 森岡部長より文芸学部の会2月21日にする。出欠をと。この前にてこりて欠と返事せん。(※省略) 山住dr.一家留守。閣下逝去か。 1月30日 昨日水曜にて山住先生午后休みとわかる。 1月31日 ユ11:00までをり。吉祥寺のGroupの会へとゆく。 13:00苑子のぞき来り、ユ留守といへば帰ると。絶交申し渡す。 15:00ユ帰るまでに散髪、眼鏡屋へゆき、夜20:00床に入り眠れず。 2月1日 ユ起しくれ17:00と。山住先生の朝の薬ききし也。21:00鹿野忠雄氏のヤミ族の本みつかる。 2月2日(日) 7:00さめる。共に礼拝にゆき14:00川久保に話し12:00までをりし。 2月3日 よべ不眠、ユを叱り山住dr.にゆかす。閣下危篤と。(※省略) 河村先生より原稿と5千円来る。 2月4日 起きてユにいひ東豊書店に電話してゆき7,000円の本見しも、ヤミ族の本見せしも一向興味なし。 ラーメン小2つ(300)注文し、来しあと簡君食はざる間に植村先生に電話してゆく気となり、 11:30一口たべしラーメンそのままとして新宿まで歩き(※省略) 空腹となりしも金足らず松本家へ寄らんとせば(※善海)夫人外出の途。「先生にお越し?」といはれ、仕方なく 植村先生につけば、嫁女出られ「ただいまお午」と。 ついに「私にもお握り一つを」と願へば快諾されもって来る。茶、汁つきあり食べ了りしところへ先生現はれ3冊は自分用と。まはりに雑本山ほどあり15:00までお話伺ひ帰りの車代足らずといへば,000渡され「2回目だよ」と。 松本家、も一度見しも閉じをり。(※省略) 帰宅すれば花井夫人をり。(※省略) 2月5日 よべ2:00尿に起きまたねてさめれば8:00なり。(※省略) 山本書店に「『北アジア学報』ありや」ときけば「なし」と。手塚隆義氏に電話して「ありや」ときけば「あり」と。 「3号必要」といへば「送る」と。恐縮す。 小高根太郎に『四季』やめるといへば「君が好きで始めたのだからどうぞ」と。 これで植村、花井、小高根3君の同意を得、あとは坂口、藤野の2君と、大阪にて苦労しゐる福地、この間3万円くれし岩崎昭弥にあやまれば皆ゆるしてくれんと思ふ。(※省略) 午后電話局へゆき電話帳呉れといへば届けると。帰りて20分以内に数十冊(区別け)もち来りし也。 2月6日 よべ2:00までねむれず。(※省略) 8:00起床。 川久保に電話して瀬川宅なしといへば「さよか」なり。 村田より「操典(※『歩兵操典』)もって14:00来る」と。神田で買ふと也。あやし。(※省略) 2月7日 よべ22:00よりね、7:00さめ、9:30出て東豊書店へゆけば簡、相手にせずすぐ出て帰宅。 午すぎ手塚隆義氏より『北アジア学報3』来りし故、出て印刷屋にてcopyし、(※省略)ユ出し呉る。速達書留とせし由也。 2月 8日~12月31日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 2月8日 寒く雪降りし。我外出せず。(※省略) 2月9日(日) よべも不眠8:00起床。朝食す。ユ吉祥寺へ縁談にゆき「13:00よりmodel見て画」と。(※省略) 2月10日 よべ20:00前ね5:00さめ6:00起床。(※省略) 12:30国友氏より電話「江頭よりは『自由にせよ』とありしも止めず」と。 「名誉同人とするといへば「1月号くれ。3月号には書く」となりし。 国友則房氏より「前号くれ。江頭より脱退は自由に」との便りあり。わけわからざりし。 「名誉同人にする(明治44年3月生)」といへば「それは辞退する」といふを「内規」といひてすます。 「江頭とは合はず。『山の樹』廃刊」とのこと也し。(※省略) 2月11日 2:00まで眠れず5:00、9:00と断続的に眠り、朝昼兼用の飯くひ福地君へハガキかく。(※省略) ユ昼寝し疲れをり、あはれ。17:00夕食たのむ。19:00入浴了る。 2月12日 20:00床に入り8:00まで眠り、(※省略 都丸支店に)10:10店にゆけば2号3号返しくれ『ハイネ恋愛詩集(100)』も出してくれる。 (※省略) 手塚さんに礼状かき、(※省略) 植村先生より「佐藤春夫さんのこと」来しに感心し、 方哉君を「正哉」と記しあるをいへばそれは認められしも訓はマサヤと。ユにあす清書せしめん。 『四季』つづけると福地君にハガキ出す。熱川温泉の火事にてtelevi(※省略) 2月13日 よべ不眠8:30起床。(※省略) 山住dr.血圧103-。不眠いへば薬たまふ。 国友氏より速達にて金と9号1冊をもとめ10号の詩くれる。名誉同人なるに5千円くれしは前の案を固持しゐる也。 向ひの葬儀にて苑ちゃんとびまはりをる由。(※省略) 2月14日 よべ20:00ね、7:00起床。速達にて牛尾三千夫氏より原稿。(※省略) 2月15日 よべ睡眠感なきも6:00起床。ユ画へゆき、われ留守番す。 2月16日(日) 4:00さめ8:00起床。夫婦とも風邪にて礼拝休む。午后京一家来り、(※省略) 2月17日 よべ20:00臥床9:00起床。ユ『四季』最終号にと植村先生の原稿かき直し呉る。(※省略) ユ、苑子に会へばあさって来訪と。『四季』10号にて休業と定む。 2月18日 よべ不眠。8:00起床。16:30入浴。 2月19日 19:00就寝。5:00まで眠り8:00起床。雪降りをり。午后苑子来り、しばらく居る。 福地邦樹君より、しばらくつづけるに賛成、詩集『都市小景』の序文かけと。『果樹園』にのりしと『四季』にのりし非詩集なり。困る。 平凡社より『天遊の詩人 李白』6版1,000部3月に出すと。 2月20日 5:00より9:00まで睡る。(※省略)  雪降る。福地君へハガキかかんとして果さず。 (※山住克己逝去)ユ、山住dr.へお花料1万円もちゆけば米寿祝もらひしにといはれしと。 20:00福地君より電話あり、詩集やめよといひ、『四季』休刊も承知せしむ。 2月21日 雪降りつづき寒し。講談社の辞典に「田中吉之助」とある由あやまり来る。 (※講談社→桜楓社『日本現代詩辞典』田中克己を田中冬二と混同) 2月22日 雪やむ。福地君怒って「原稿返せ」と。桑原博士に第一詩集見せ「思想なし」と返された由。 2月23日(日) 夫婦とも礼拝休む。無為。 2月24日 福地君へ原稿書留として送り返す(600)。ハガキも投函(時代を異にすとかく)。 今澤幸君よりも詩(?)来る。のせられずと返さん。 山住dr.へゆき血圧138と高し。(※省略) 克己閣下の御長寿なりしをいふ。 苑子女史来り家探しゐると。比島の大衆勝ちしらし。『東方学』来り、年間5千円と! 2月25日 晴。7:00起床。11:00花井夫人来り、ユの云ふ『四季』の会計card作り、 あとグチを16:30まできき、駅前まで同行して18:00近くユ帰り来る。 けふは『四季』の原稿来ず。福地の怒りは解けぬと判断す。 2月26日 7:00起床。石山直一氏より原稿と2千円来る。今澤幸君へ詩のせられずとかく。 マルコス一家Guamへゆきアキノ大統領となる。(※省略) 2月27日 眠くて困る上、下痢す。(※省略) 夕方、小高根太郎に電話すれば「今書きをり。速達する」と。 山住教授の文もらへば宜しとなる。 2月28日 7:00起床。昨日の不眠とり返す。花井夫人来りすぐ帰る。詩らしきものもち来る。 3月1日 7:00起床。午すぎ散髪にゆき2,600が3,000に値上りしをるに吃驚す。 財布に丁度あって安心す。高橋重臣君より詩来り、(※省略) 3月2日(日) 風邪にて下痢、礼拝休む。 3月3日 ユ銀座の展覧会にゆくとて夕食おきゆく。(※省略) 3月4日 よべ21:00臥床8:00起床。11:30目次と休刊の辞かき了へ、ユに〒へもちゆかす。福地君へ速達とせし也。 3月5日 山住dr.へゆき微熱といへば咽喉洗はる。「正己先生の文印刷となれば15部ほし」と也。 ユ銀座の展覧会の見張りにて帰宅。疲れをり。鳥羽貞子氏より『四季』8号1部ほしと。 3月6日 展覧会に花井その他来しと。20:00就寝。 3月7日 8:00起床。よべよくねる。9:00ユ柏井へゆき、ついで10:30弓子のところへ宏一郎の入学祝と弔費(※省略)ともちゆくと。 3月8日 7:00起床。苑ちゃん「風邪とて展覧会にゆけず」と。藤野一雄より同人費来る。返却せん。 3月9日(日) 7:00起床。 礼拝にゆく。老年の人の転会あり。竹森先生の声不明。すみて保土谷までbus、(※省略)  哲夫健太郎つれて迎へに来る。(※省略) 禎子の小学校見て(※省略)帰宅。 3月10日 よべ眠れず。9:00小高根夫人の電話にて覚む。福地君より『四季』の再校承知、詩集は出す。『四季』の主宰はいやと。 (※名前略)生より成城の大学院生となりしと!卒論優ならざればダメとのことはいかがなりしや。 苑子来り、しばらくわが風邪のこときき流してゆく。 『四季』の執筆号3箱(※複刻版第二版3セット)近代文学館より来る。 3月11日 7:00起床。(※省略) 福地君に『四季(※復刻)』送るとかく。ユ柏井歯科にゆく。村田幸三郎に「また来よ」とわびる。 ユ絵返りしと戸田邸にゆく。帰りおそしと迎へにゆく。けふ〒なし。 3月12日 高田瑞穂に電話しソバ食ひに誘へば「きらひ」と。家人をらず夫人の位牌に礼し、下北沢まで同車して別れ、帰ればユ不在。 (※省略) 成城大学より卒業式の出欠問ひ来る。「欠」とかく。眠し。 3月14日 7:30起床。10:00ユ〒にゆく。16:00ユ選択屋の帰り山住dr.、眠剤もらひ来る。 3月14日 8:00起床。ハレー彗星に大接近と。東方学会に5,000円送る。胃腸悪く絶食す。午后体温38.9℃あり。 ユ山住dr.にゆき薬もらひ来る。 3月15日 7:00体温36℃。大より電話「母倒れ、外出する故ユ来てくれ」と、ユ母の看病にゆく。 帰り来り、母左手を怪我せしと。(※省略) 3月16日(日) 8:10起床。夫婦とも礼拝休み、大宅へゆけば寿賀子電話ありしと来てをり。(※省略)帰宅。 ユ飯先づ食ひ、また母宅へ恨めしげにゆく。時に19:30なり。(※省略) 21:55大「姉さん寿賀子さんと15分前に帰りし」と。酒飲みきげん也。 3月17日 よべよくね、8:00朝食。すすまず。12:00昼食し13:20ユ大宅へと出てゆく。 我は13:20出てtaxi拾ひ、大宅前にて母子とユ拾ひ清川病院へ14:00ゆき、 (※診断、骨折にて篠原病院紹介され入院。看護人まにあはず)、ユやむを得ず泊ることとしまた篠原外科へゆく。 (※省略) ユ19:30いやいや出てゆく。われ入浴。 3月18日 8:00ユ帰宅。われも起き朝食し、篠原病院入口にて大と同時となる。看護人見つかり60才の老女なり。(※省略) 3月19日 7:00さめ20分して起床。(※省略) 昨日秀夫氏撮影の写真送られし津村秀夫夫人よし子氏へ礼のハガきかく。(※省略) 3月20日 8:00起床。(5月関西へユとゆくこととする。) 10:20『四季』校正を印刷屋へ送りしあと、ユ福地の詩見つけし故、速達にて送らしむ。(※省略) 3月21日 春分の日。6:30起床。朝食し9:00出て新宿より京王特急にのれば(※省略) 上川墓地の田中家の墓にゆき、「めでにしものとやがてあはなん」歌ひ、事務所に地代2年分払ひ昼食す(ユ弁当もちをり)。 (※省略) ユ16:00風呂わかし母へ土産もちゆく。 3月22日 8:00起床。14:30大阪の橋本保印刷屋より電話「1ページ白となる」と。「9号の誤植訂正する故あけとけ」といふ。 (※省略) 西川満氏糖尿病とわかり甘い物たちし由。高田と同病なり。 3月23日(日) 雨と雪とにて礼拝休む。西川満氏に見舞のハガキかく。(※省略) 角力了る。保志負けしも優勝。9:40就寝。 3月24日 よべ一睡もできず3度尿に起き9:20起床。(※省略)  11:00前『四季』10号の再校見る。(※省略) 福地君校正しをり、3校は我となり。(※省略) 3月25日 よべ20:00ねて7:00起床。(※省略) 雪やみをり。(※省略) ユ16:30帰宅。「俊子姉、姑の死にて広島へ帰る」と。 皇居、米大使館に爆弾発射されしも実害なかりしと。(※省略) マルコス米軍基地より民家へ移る。 3月26日 6:30覚む。(※省略) ユ篠原医院へゆけば母喜び「今月末隊員すれば清川病院に入る」と也。 苑子午后来り、われ風邪をいひ、うつさぬ様用心す。(※省略) 平凡社より『天遊の詩人 李白』7版1,500部4月に出す、累計23,500部とハガキ。(※省略) 3月27日 5:30さむ。7:00起床。晴なれど庭前の雪消えず。母の見舞いにゆく気なし。 大を18:00呼びbeerのませ咲耶と入院費用3等分を約束せしむ。 3月28日 21:30就寝8:00起床。 午后(※教へ子)観世暁夫より4月26日より水道橋で「楊貴妃」を演ずると案内あり。礼状かき出席できずといふ。 伊勢の治子よりハガキ2通。父と母これんの戒名示し、これんは喜代三郎の墓に納骨され戒名流光自芳信女と也。 16:00小林の2孫来り、(※省略)、(※進学)祝に寿司とり19:00まで遊んで帰りゆく。 保田夫人『風日』にIndia旅行の作をのす。全集の印税入りしか。(※省略) 伊勢の治子よりハガキ2通。父と母これんの戒名示し、これんは喜代三郎の墓に納骨され戒名流光自芳信女と也。 3月29日 6:00起床。7:00朝食後8:40出て高円寺の安理髪店にゆく。(※省略) 美紀子、ユに「あす静江母見舞いに来る」と。 3月30日 (日) 5:00さめ7:00起床。9:00出て復活祭に出、茶会に出ず。(※省略)帰宅すれば寿賀子夫人カステラもち来り。 母のこと転院し大宅へゆかざる様たのむ。悠紀子と同道し14:00出てゆく。(※省略) 『四季』の初校(表紙と植村先生の2page)おき忘れあり、明日橋本保印刷へ速達することとす。 16:00ごろ植村先生より電話あり「ボケた」といへば叱られ「10冊くれ」と也。 「国士館おやめになってもか」といへば「関係なし」と、とりつくしまもなし。 3月31日 6:30起床。9:00すぎユ『四季』3校出しにゆく。(※省略) 16:00山住dr.へゆく。我満洲引揚げのこと1冊読む。 4月1日 7:00起き8:00ユ、大に電話し、母の大宅へ帰るとの決意伝ふ。大「清川または前田病院へ入れ費用は1/3とする」と也。 (※省略) 苑子来り、ユと話し、我と出て我は都丸。 『コギト』を南川らに買はすといひ、『女が愛に生きる時(200)』買ひ、遠まはりして帰宅。(※省略) 4月2日 8:00起床。11:00ユ山住dr.へゆく。平凡社より『天遊の詩人 李白(6版)』の印税5月末払と。(※省略) 『コギト』10万2500円にて南川・今澤幸らに引き取れとかかんと思ふ。午后ユの午睡中に出て阿佐谷より高円寺都丸へゆき本買へずなりしといひ、帰り公園にて小林孝行と稲田健太郎・禎子の3孫に会ひ、前を歩く末富翁に「近々挨拶にゆく」といひて帰れば京をり。(※省略) 弓子母子先に帰宅し京母子も泊る。 4月3日 よべ23:00ねて6:30起床。喘息の健太郎起きをり。 8:00京と禎子起床。(※省略) 鳥海香代子GuamよりAirMail、「佳宴には出ず」とハガキ投函。 13:15京ら3人とユ、母の病院に寄りて三鷹へゆくと也。 『天遊の詩人 李白』6刷来る。3月20日発行也。(※省略)  17:00山住dr.へゆけば血圧140-と高く「入浴直後」といへば納得さる。(※省略) ハレー彗星8日が最も見易きも0:30ごろ南の見えるところにてと。やめることとす。(※省略) 4月4日 よべ21:00臥床。1:00覚め眠れず。(※省略) 南川に『コギト』既に買ひし故、今澤との連名の勧誘状とりけす。『李白』を代りに包む。雨模様なり。(※省略) 瀬見氏『コギト』売れず。我も売れずといひて帰り来る。 4月5日 8:30菊地眞一博士の電話で起床。藤沢桓夫の『大阪自叙伝』よみ貴君思ひ出したと也。「われも自叙伝かきをり」といふ。「三火会で会はん」と也。 東方学会に「不参加・台湾史」と返事す。(※省略)  金沢良雄より自叙伝『人生おちこち』。(※省略) 鎌田久子女史に留守にて残念と(※省略)ハガキかく。(※省略) 4月6日(日) よべ不眠。6:30起床。 金沢より自叙伝『人生おちこち』来るも戦後得意をかき兵にならず家焼けざりしをいひ勲3等の当為をいふ。不快なれど受取かかん。(※省略) 静江婆、大に説得されて清川病院へゆくつもり也と(※省略) 4月7日 8:00覚む。(※省略) 金沢良雄へ礼状。要領良き男なり。けふ北口の桜切られ杉林のみ残りと手塚隆義氏の「文求堂の思ひ出」に返事とせん。 (※省略) 山住dr.にゆけば令嬢副手。不眠確実食欲不振を申立てれば胃の薬賜ふ。ユに云はせれば「先生慣れられし」と。 それより先、母の所へゆけば咲耶リューマチで痛がる。母殆ど耳聞こえずと也。(※省略) 4月8日 よべ21:00臥床5:00さめ排尿7:00起床。8:30手塚隆義氏へ文求堂と阿佐谷の桜といづれもなくなりしこと返事かく。(※省略) 16:30入浴、鏡に映す。(※歌★省略) (※省略) 夜になりて依子より『トリノの聖骸布』贈らる。(※省略) Halley’s commetの尾見せるとのことなれど先づ臥床。21:00より8channelにて広告入りで見る。ユは眠りをり。(※省略) 4月9日 8:30起床。10:30依子へ礼状。ユ病院へゆく。(※省略) 宮崎幸三氏より「(※省略)北杜夫も松本の筈たしかめてくれ」と。たしかめずして返事せん。(※省略) 4月10日 5:30起床。(※省略) 藤野一雄君へ堀口大学(2,000)贈る。(※省略) 芸名岡田有希子てふ金の卵候補自殺とて昨日よりtelevi(18才)。 『日本歌人』来り、小高根二郎、前川の(※226事件)青年将校側なりしことを公証(※ママ考証)す。我もしかなりし也。 4月11日 5:00起床。(※省略) 20:00Halley’s commetの尾はじめて判然とteleviに見える。21:00も一度H.C.見て臥床。 4月12日 21:10臥床4:30排尿に起き9:00再びさめ朝食。(※省略) われ『四季』の休刊につき歴史日記よみ返す。会費など金の出入りのたしかめのため也。 4月13日(日) よべ21:00すぎ臥床6:00かっきり起床。風邪といふユのこして礼拝にゆく。聖餐式あり66,605唱す。後者は評判よく皆喜びて歌ふ。(※省略) 18:00ソ連の満洲・カラフト進駐をソ連側の写真にて見ささる(6チャンネル)。再映なり。(※省略) 鈴木announcerのquize見、満洲より帰りし瀕死の父を丹波哲郎とする「いのち」見て眠ることとす。(※省略) 4月14日 21:00ねて6:00前覚む。(※省略) 南川より電話「『四季』援助の法なきや」と。「厚意謝す。もはや廃刊」といふ。 大に電話すれば「清川病院院長と話しつき置いてもらふ」と。咲耶より電話ありユ出て実情を話す。時に21:00なり。(※省略) 4月15日 よべ22:00臥床すれど眠れず。0:30犬の泣く声と子供の声とし、排尿(※省略)8:30 起床。 9:30田中栄太郎の嫁富美子より電話「昌三叔父入院して昨夜死去、今晩通夜」と。現金封筒にお花料1万円入れ初枝叔母に手紙同封す。 山住dr.にゆく。こみをり。49日に『四季』まにあはざりしをあやまる。(※省略) 有斐閣より「金沢の著は献呈」と、念の入りしこと也。(※省略) 4月16日 よべ20:00臥床1:00覚め8:00起床。11:00嶌野彩子母子縁談まとまりしと報告に来るとてユ準備す。11:30花と菓子もち来り、 (※省略) われには祝辞をといへば断ることとし、ユに猛反撃くらふ(母危篤といへどダメと。危篤は1,2か月後にてはをかしと也)。 (※省略) 15:20禎子をつれて京autoにて来る。(※省略) 4月17日 5:30覚む。(※省略) 鎌田久子女史より「時々思ひ出すことあり」とハガキ。(※省略) 山住dr.に16:30ゆけば血圧130-と高し。 (※省略) 文春文庫『サンダカン八番娼館』よみ徹夜する。 4月18日 8:00起床し。入浴。(※省略) 母、月末まで入院し5月より清川へ大の伝手にてゆくと。(※省略) 4月19日 よべ21:00臥床4:30さめ6:00起床。午后藤野一雄君より『堀口大学』受取った云々。(※省略) 今夜より電気毛布使用。 4月20日(日) 22:00就寝。2:00排尿、結局不眠6:30起床。ユ教会へゆく。『八旗満洲氏族通譜』のnote検す。16:30弓子来り、(※省略) 4月21日 8:30起床。9:30ユ柏井へゆく。苑子来り、不快なり。けふ『四季』10号220冊来り、ユ発送の準備す。(※省略) これにて第5次『四季』終りなり。 4月22日 2:00までねつかず。8:30起床。(※省略) 橋本印刷(※印刷代金)134,420円と。(※省略)風邪のユを励まして『四季』10号の包装をさす。 我はマコトヤに袋買ひにゆきしのみ。植村先生より受取った。三角は三隅と。地図帖見しといへば黙さる。これにて第5次『四季』終りとなる。 4月23日 昨夜一睡もせず。7:40起床。ユ『四季』の送付すます。苑子来り、台所片付く。末富氏より『ガダルカナル』の戦闘記貸し給はる。 福地君より21冊受取りしと。わが220冊といかがなるならん。(※省略) 植村先生より金送る。熊本県三隅が正しと。われ地図にて三角を固執す。つまらぬこと也。(※省略) 4月24日 よべ不眠。6:00起床。(※省略)西川満の『Andromeda』200号となる。いやな男なるも実行力はあり。会津男なり。山住dr.へ17:00ゆき眠剤かへてもらふ。 4月25日 よべ21:00床に入りすぐね、7:30うとうとと覚め伊東を思ふ。8:30朝食。 昭和24年の日記よむ。低給料と子供たち可哀想、わがegoismはげし。西川千円の返金いらざりしと。大野沢君より「4冊分送る」と。 産経『正論』の稲葉君「ハレー彗星にてもよし、400字4枚5月10までにかけ」と。高田瑞穂より5冊の受取来る。2:40まで深夜映画見る。 4月26日(日) よべ不眠。6:30起床。午すぎ産経の『正論』4-5来る。浅野氏より休刊残念と。 国友則房氏より誤植2ヶ所、牛尾三千夫氏より「4月初めの刊行いかがなりしや」と。ユ画より帰り来り入浴。 17:30瀬見氏紀州の名産もち来る。植村先生より3,000円来る。 4月27日(※26日(日)の誤記か) 1:00さめ5:00さめて起床。ユ礼拝にゆく。(※省略) 4月28日 7:00前起床。ユ10:30〒へ『四季』10号の払ひにゆく、これにてすみなり。花井夫人来り、苑子も来る。林美佐より『四季』に5千円来り、 牛尾氏より「何時来るか」と催促、行きちがひに2冊ゆきし筈なり。『東洋学報』来り、1750払へと。 4月29日 天皇誕生日60年とてteleviうるさし。気の弱きグズなる天皇と思ふ。13:00稲田父母子5人で庭の木伐り呉る。孫たちに500円と300円やり17:30さりゆく。 4月30日 よべ不眠。福地邦樹より「27年ゐし四條畷(※高校)やめ大阪商大に専任講師となりし」と。16:30伊勢母女来る。 国友君より受取り。名誉同人とて同人費返却。河村純一氏より休刊残念。(※省略) 5月1日 8:30起床。山住dr.にゆき正己氏の「隅田川」よくかけゐしをいふ。高橋瑞穂(※高田瑞穂)より『四季』の静子哀悼評判よかりしと。 13:00末富邸へゆき将棋2番。 5月2日 2:00までねられず。(※省略)10:00藤田生より『四季』受取の電話。(※省略) 5月3日 ユ8:30反抗してknifeとりあげ我が力に負けて出てゆく。中野清見より「『四季』終刊受取った」。ユ、柏井へゆき午食の時帰り来る。 20:00就寝。 5月4日(日) 7:20起床。礼拝にゆく。聖餐式なり。すみて竹森先生の新著(670)買ふ。(※省略) 5月5日 よべ不眠。12:00高橋重臣柏餅もち来る。『四季』10号を8冊もちゆき佐伯へ寄りて筑波へ帰る。われ高円寺へゆき瀬見と話し帰り来る。 5月6日 よべよく眠る。6:00さめ14:00苑子来り、荻窪にゆくと逃げる。 5月7日 よべよく眠る。11:30大来り、(※義母静江)清川に転院すと。(※省略) われ高円寺へ往復し本買はず。(※省略) 5月8日 6:00覚む。11:00山住dr.にゆけば104-。(※省略)イギリス太子夫妻大阪着、京都御所にゆき泊ると。 堀多恵さんより『四季』休刊承知と。大野沢緑郎君より(※後記にて)認めてくれてありがたし云々。 橋本印刷より13万円余領収したと。 5月9日 よくねて6:30起床。静江母7日より清川病院に転院せし由。ユに田中順次郎の娘の婚姻祝を送らしむ(1万円)。われらは呼ばずと也。 昨日よりイギリス太子と妃とにて大騒ぎなり。(※省略) 5月10日 よべ不眠。6:00起床。14枚かき『サンケイ正論』の稲垣真澄君に訂正まかせる(「南の星」の題でcanopusかきし也)。(※省略) 5月11日(日) 6:00さむ。午、高田に電話し「学園の会にゆくや」ときけば「ゆかず」と。我もゆかずと返事す。 夕方、小林夫婦来り、昨日美紀子のもち来りし宏一郎の入学祝もちゆく。、 5月12日 0:00まで眠れず。6:00起床。無為。苑子来りし故、共に出る。(※省略) 大野沢緑郎君より廃刊残念と。 近江詩人会より出欠問ひくる。「欠」と返事かく。きのふけふとイギリス太子と妃のことにてさわがし。大騒ぎして無事なるを喜ぶ。 5月13日 7:30起床。平凡社より『天遊の詩人 李白』7版2,500部とし印税は7月末と。浪速学園より総会出欠問ひくる。「欠」と答ふ。 5月14日 6:30起床。午、『天遊の詩人 李白』7版1冊来る。午后より久しぶりに雨。 5月15日 6:30起床。午后高円寺へ散歩。(※省略) 朔太郎記念会に1万円寄付ときめる。筒井護郎正月以来入院と夫人電話に答ふ。 5月16日 2:00さめ5:00起床。苑子にユ会ひ、来りしも話さず。(※省略) NHKより「くはしき伝記かけ」と。京来りて午食して帰りゆく。 船戸君来り、ユと長々話す。カツラ忘れ禿げをり。 5月17日 2:00眠り7:00起床。(※省略) 昼食して高円寺へゆき1時間半して帰り来る。伊藤徳子よりわが著訳書3冊送り来る。 堀多恵女史追分より『山麓の四季』賜はる。平凡社より、『天遊の詩人 李白』7版1冊来る。(※重複記述) 5月18日(日) よべ不眠。4:30起床。堀夫人に礼状かく。徳にも受取かき投函。 11:30鳥海生来り、見合承知と。清水嫗、栗田夫人とともに榛沢進寿君つれ来る。(※省略)2人を追出し、われ1時間半散歩して帰宅。疲れたり。 5月19日 よべ20:00ねて2:00覚めあと眠れず。10:00ユ柏井と俊子姉とに出てゆく。昨夜鳥海母より「交際する」と電話ありし由。河野夫人14:30来り、16:30去りゆく。 5月20日 よべ20:00ねて2:00まだ眠れず6:00覚む。7:30起床。 苑子に電話し「14:00ごろ来い」といへば「ハイ」と也。14:30苑子来り、(※父)章の『コギト』への原稿copyすとしばらくをり。 5月21日 20:00ねて5:20覚む。午飯後、傘もちて散歩に出、末富夫人、苑子などに会ひ、南の古本屋2軒見て買ふ気も出ず帰宅。 石山直一氏より『四季』に1万円送り来られ受取かく(預りしと)。 5月22日 よべ不眠。(※省略)16:00花井夫人来り、大阪の母のこと話す。(※省略) 西川の勲章祝を7.12自衛隊でやる。6,000円と。 5月23日 よべ1:00小便に起きすぐ寝て7:00起床。不眠とり返す。今沢幸より受取。南川正純より2千円来り、『四季』了りとなりしならん。 苑子13:30来り、章の遺稿については月曜午后来ると也。 5月24日 不眠5:00起床。午食後高円寺へ散髪にゆく。大高同窓会へ五十嵐先生の本(1万円)予約申込む。 5月25日(日) よべ22:00眠り4:00起床。入浴す。 志村士郎なる短大教師に「一度来よ」とハガキかく。(※著書『近代詩を楽しむために』)田中冬二とまちがへて昭和57年没とふれをりあり。 Ein Märchenを引く。駅にゆきchocolate買ひ来る。9:30出て大手町まで地下鉄、(※プリンスホテル嶌野彩子嬢披露宴出席。省略) 5月26日 5:30起床。よべ鳥海母より「養子でなければダメ」と電話ありしとユ。(※省略) 苑子紅茶もちて来り「あす来る」といひて去る。 われ佐伯にて文庫本3冊(700円)買ひ来り当分これを読むこととす。静江母あす退院と也。(※省略) 5月27日 よべ21:00ねて3:30覚める。 静江母退院と也。苑子13:30来り『コギト』の章の文の題のみ写して去る。 鳥海香代子に電話すれば父出て「未だ帰らず。養子でなければダメ」と。「むつかし」といひて手を引くこととす。(※省略) 5月28日 4:;30起床。(※省略) 鍛冶初枝さんより『四季』休刊につき云々すぐ返事かく。午后京、禎子をつれ来る。物云はず可愛くなし。 けふ佐伯休み、新本は高くて買へず。 5月29日 20:00臥床4:00起床。苑子に2度遭ふ。(※省略) 文化会館にて本2冊借り来り、(※省略) 村田幸三郎に一度来いとハガキかく。 近代文学館より5万1千円余来りし也。山梨の温泉へユつれてゆかんと思ふ。福地君の詩集来る。第2詩集となり。(※省略) 5月30日 よべ20:30ねて1:00覚む。(※省略) 夜になり火曜塩山へ一泊と決心す。ユ体わるく態度も悪く困る。 5月31日 21:00ねて3:00覚む。塩山と湯河原と2泊3日とせんと思ふ。『正論7』来り、わが「南の星」のせあり。佐伯へゆき『シロコゴロフ』あるを見ゆ。 買ひて山住先生に贈らん。塩山1泊と考へ変る。(※省略) 牛尾三千夫氏より『四季』10号を10冊程欲しと3,500円入れあり。家には9冊しかあらず、その旨いひてあやまることとす。 6月1日(日) よべ21:00就寝。4:00まで眠る。火曜一人で修善寺へ入浴と決める。(※省略 礼拝)5分前の着席。聖餐式に261といふを歌ひ(※省略) 古本屋3冊買ひて阿佐谷、すし買ってもらひ、佐伯にて『シロコゴロフ』90%にて買ひ、(※省略) 18:00瀬見伊三郎氏『コギト』返しに来て22:30までwhiskyのむ。 6月2日 よべ23:00就寝。5:00起床。ユをして牛尾三千夫氏に『四季』10号9冊(これで残部なし)送らす。 13:40苑子のぞいて「隠居の散歩の友となる」と。「明日はダメ」といへば「木曜に」と。勝手な女なり。(※省略) 村田幸三郎より虎ノ門に建設中のビルの電気につき常駐とハガキ。めでたし。 6月3日 21:00ねて2:30さめ入浴。6:00起床。ユすでに起きをり。13:00の準急松本行に乗ると家を出て、(※省略) 14:23塩山につき10分余歩いて広友館に入り、金一文もなきに気づく。19:00ユに電話すればあす10:00の新宿行にのせくれると也。 (※省略) 塩山、筒井護郎と来て思ひ出あれど全然わからず。店の女主人あす10:00の急行にのせて新宿までゆかすと也。 6月4日 21:00すぎねて3:00覚めて入浴。ぬるし。広友館に13,510円の借金のこして八王子まで10:07の中央線に乗り、 京王八王子より新宿着。家に電話して苑子とユに会ふ。二人西荻へ買物にゆく。(※省略) 宮崎幸三先生の質問の詩は元末の唐琪とわかる。 6月5日 20:00ねて6:00さめる。寒し。尻痛く入浴す。ユ戸田画伯にゆき夕食の用意して帰り来る。刺身と湯豆腐くくはさんとす。 6月6日 22:00臥床2:00覚め5:00起床。(※省略)終日無為。 史、総理府の総務庁人事局次長となる。ユにいはせれば同年生のtopと。子らきらはん。 宮崎幸三氏に唐琪と答へるハガキ。人名事典になく先生の読みとニヶ所違ひあり、唐琪は元末の詩人なるもいづこより引きしや不明。(※省略) 志村士郎といふ短大教授「小川和佑に據りし」と桜楓社『日本現代詩辞典』のcopy呉る。 なるほど昭和57年9月5日に死にをり。『四季』には15号より同人と。透谷賞は31才の時貰ひしとあり。受洗は昭和37年となり。ハガキかく。 6月7日 家居。田中雅子夫人より(※省略)『四季』10号ほしとのことに花井夫人に送るやうたのむ。広友館より受領書来る。(※省略) 6月8日(日) 7:00起床。夫婦ともに礼拝休み。ユ12:30先生と荻窪へmodel描きにゆく。われ終日無為。 6月9日 苑子「あす」といひて断りに来る。終日無為。浪中の会報に末吉副委員長しをり。 6月10日 よべ21:00就寝。6:00に10分前起床。ユ柏井へゆき、苑子13:30来り『コギト』写しゐると。(※省略) 6月11日 よべ21:00就寝。2:30排尿に起きすぐ眠り6:30起床。苑子『コギト』返却。 6月12日 21:00就寝。11:00山住dr.にゆけば楊貴妃の像賜ふ。Vitamin貰はず、末富氏に遭ひ、来客といひ、碁将棋逃げ無為。 成城大学文芸学部長上原和氏より26日懇親会、先約ありと断る。 6月13日 21:00就寝。5:30起床。『南京大虐殺のまぼろし』よみ了る。(※省略) 6月14日 よべ22:00就寝。5:00覚む。10:00入浴。 浪中野球部の池田友次郎より「おぼえてゐるか、詩をくれ」と。昭和13年卒の教師なり。今澤幸君と同級なり。ハガキかく。 6月15日(日) 5:00さめ7:00起床。ユのみ礼拝にゆかし無為。15:00克次朗甘い物もち来る。将棋さし(※省略)去りし直後、弓子より電話あり。 中川幾郎の『竹内好の文学と思想』よむ。保田と同じくRomantistにして大阪の女は北京の短期間の恋人なりし也。 6月16日 午后高円寺へ散髪にゆく。池田友次郎君へハガキかく。今沢幸君と同級なり。夜吉岡克己氏に電話すれば「あす三火会にて会ふ」と也。 6月17日 よべ21:00ねて7:00覚める。ユ10:40出てゆき、われ11:00出て川久保に寄れば梅雨とて郵便受けそのまま也。 ゆっくり銀座にゆき(※三火会出席)庄野君より珍しといはる。 吉岡克己君来り、記帳し大球会支部長いへば「断る」と。それなら「止める」といへば「賛成」と。兼清と隣りて食はず飲まず14:00帰宅。(※省略) 夜きけば近代文学館より5万円余もらひ往きの切符買ひしのみにて4万何千円なくせしと。ユ眠がりをり。 6月18日 よべ不眠。山住dr.にゆけば血圧125-と我にては高し。(※省略) 苑子来をり『コギト』もちゆく。 われ岩崎昭弥に「だれに投票すべきや」問ふ手紙かき、村山高氏に「大球会東京支部なくせよ」と渡辺怘にいひ玉へとかきなどす。 NHKにアンケートかきて投函。(※省略) 福地君に「1号ありや」とかく。大阪中央図書館より1-3,6くれとのことなればなり。 6月19日 よべ20:30薬のみ5:00覚む。(※省略)『信徒の友』に西垣脩のことかきをり(1977年とあれば9年前なり)。10:00入浴。 和爾女史来り、鎌倉にて生活に困りをり、(※省略) 最後に手塚隆義氏を紹介すれば喜びて去る。 (わが家にて一泊の予定とて何ももたず、詩置きゆき見ればなってをらず、手塚さんに善処の電話すればあさって会ふとお返事ありしと21:00電話あり)。 6月20日 よべ22:00ねて2:00さめ4:00より炬燵。(※省略) 8:00手塚さんに再び電話せしむれば夫妻お留守にて家政婦「承知」と。 午前中、ユ行方不明にて不安にて花井夫人に「来てくれ」といへばユ帰宅。14:00「出る」と花井夫人来り、ゆっくり話ききユの絵見に戸田家へゆき、ユ19:00帰宅。食欲なく「癌か」と。夕食いやいや作り呉る。(※省略) 6月21日 よべ早くねて5:00さめ入浴。(※省略) 手塚隆義氏に電話すれば「(※和爾女史)大分困ってゐるやうですね」と、さほど気にされずありがたし。 6月22日(日) 4:00さめ4:30起床。5:00ユ起床。16:00すぎ史夫婦来り、史「帰ろ」といふを美紀子話を聞いてくれる。(※省略) 6月23日 不眠に近く早起き。午后苑子女史来る。和爾女史文学やめずと。(※省略) 6月24日 21:00就寝。4:00さめ5:30起床。(※省略) 入院中との植村先生心配して電話する内、嫁御出て下落合の聖母病院に糖尿病にて御入院、面会は午后2:00より4:00までと。(※省略) 6月25日 よべ22:00床に入り4:30起床。朝、山住dr.にゆき血圧120-75。 12:30午食すまし6250もらって下落合の聖母病院に御入院中の植村清二先生を見舞ふ。 先生大分お病みにて食欲なしと。桑田六郎博士に次ぐ長老と申上げる内、先生欠伸されしに気づき暇乞ひし、 傘忘れしに気づきとりにゆけば点滴中。直木三十五の弟君にて大先生と婦長に申して(※省略)、駈け足にて帰宅。躁なることわかる。 ユ、困りし時「かえろ」が史の口ぐせと教へてくれる。 村山高氏より「大球会東京支部解散を申し来りしも、渡辺能勢2君に伝へし。御自身は意見なし」と也。 6月26日 よべ20:30就寝。6:20起床。朝日さしをり。(※省略) 10:00ごろ花屋へゆき昨日買ひし花の名きけば「シランドシア」とのこと、まあまあなり。 文化会館に寄り図書閲覧cardに日付書換てもらふ。井上ひさしといふ人物の本、数冊あり。離婚騒ぎの人物なりしもよむ気もなし。ユ知りをり。 大衆作家(直木賞作家にして有名と)。(※省略) (史に入ってもらふにつき(※自宅改築)1,000万円かかると見る) 6月27日 21:00就寝。2:30排尿に起きる。あと眠れず4:00起床。6:45ユ起床。9:30薬局さん来ぬ内に山住dr.に愁訴す。(※省略) 12:20の電車にて鎌倉に13:18着き雑貨屋にて電話かければ(※手塚隆義)夫人迎へに来る。いろいろ話す(※省略)18:30帰宅。(※省略) 6月28日 2:00さめ4:30起床。(※省略) 手塚氏へのハガキ投函にゆき、(※省略)。 吉松(旧姓嶌野)夫人より新居の挨拶、式の寒かりしこと思ひ、もはや婚礼には出ずと決心す。老いしなり。 16:40集英社よりガラス器もらひ入浴すます。 6月29日(日) よべ22:00近くにねて3:45覚む。吉松彩子(嶌野)夫妻に祝ひ状かく。(※省略) ユ7:30起床。9:10礼拝にゆく。我頻尿にてゆかず。(※省略) ユ13:30産業会館の展覧会に戸田先生に会はんと出てゆく。元気なり。21:30ユ美紀子と話し吉野次官のこと云ふ。 6月30日 5:30起き排尿、雨降りをり。8:00前筒井護郎に電話すれば歩行練習しゐると。夫人声にて「田中先生」といふ。ユ9:00地代払ひに本多さんへゆく。 われ11:00山住dr.へ眠剤もらひにゆきAlt-Heidelberg歌ふ。患者たへず。14:10苑ちゃん久しぶりに来る。(※省略) 川久保君来り「清代参政考」抜刷呉れ、ユ下駄を贈る。われと同じく下駄を穿くを見ればなり。 7月1日 よべ23:00ねて5:30起床。ユ山住dr.に寄り7月分の払ひ。血圧高くないので安心し、静江母にゆき洗濯物乾し杖と眼鏡預かって帰宅。 (※省略) 内田譲吉氏奈良県立短大を定年退職と。わがその詩歌集に好評せしを感謝すと也。万葉の長歌に倣ひし詩集にて天理につとめしこと知りをり。 ユ、「ワニ女史は拝借上手」と也。 7月2日 よべ2:30までねられず、ユ6:00さめしと。われ5:00さめて7:00起く。ユ静江母へゆき(※省略) 京11:00来り、昼食くれmelon食ひ13:30帰りゆく。 平凡社不況の中『李白』の印税を太陽神戸に28万入れ呉れしと通知あり。(※省略) 国友則房氏より第6次『四季』やる参考となりしと我に責任とれと也。 7月3日 9:30起床。ユ静江母のところへゆき戸田画伯にゆく。(※省略) 丹羽美佐より10日頃初枝叔母上京、史に会ひたしと也。(※省略) 結局女の浅知恵にて経理士にゴマ化されぬやう史の名仮りたしと也。 7月4日 よべ3:00すぎね7:00起床。(※省略) 14:00田島定子より創価学会の投票依頼の長電話あり。 15:00花井夫人来り「親類づきあひしてゐる」といひ、『四季』での待遇いへば17:00ユと出てゆく。 ユ戸田画伯あす北海道行とて掴へるに苦労す。 7月5日 7:30起床。(※省略) ユ本多氏へゆく。(※省略) 150万円払ふと。わが予定の半分なり。(※省略) 7月6日(日) よべ21:00ねて5:20覚む。柳井道弘君に『春秋』に朔太郎の思ひ出かくとかき礼拝。先生と話せず木村dr.より「おしどり夫婦どうしたか」と。 (※省略) 夜、丹羽美佐、大東幸子両女史に礼状かく。 7月7日 7:30さめ入浴。televiは選挙の開票なり。(※省略) 美紀子来り、史の上手な字みせる。逃げ帰らんとするところへユ帰り来り、昼飯くひ話しゐるところへ苑子来り、入れ違ひに帰りゆく。ユ人気あり。 われは山住dr.にゆき「いのち(日曜20:00)」母子にて見てゐるときき、(※省略) 血圧135と高く、秘密の26年間契約を云ひし也。全然われダメ。(※不詳) 苑子痴漢に下着ほしてとられしなど。(※省略) 自民党大勝、中曽根三選か。 7月8日 よべ2:00排尿に起きまたねて7:20起床。(※省略) ユ原田さん(民生委員)にゆく。(※省略) 14:00花井夫人来り、17:00出てゆく。(※省略) 7月9日 よべ22:00ねて5:00前起床。和田統夫夫妻へ中元の礼かく。 村山氏より「1.安達先輩の了解を得ること、2.旗は能勢氏に送ること、3.残金は渡辺氏の所へ送ること」とあり。 一日中televiを見をり。西川きよしの10万票の夫人の寄与明らかにしてやすしは応援せざりしとわかる。(※省略) 7月10日 よべ22:00臥床7:30起床。(※省略) 初枝叔母より電話あり赤坂のプリンスホテルにをると。(※省略) 花井夫人より「田中雅子夫人に10号送る。5、6、7は汝送れ」と電話あり。20:35初枝叔母より電話あり。(※省略) 7月11日 21:00臥床1:30排尿に起きまた眠り7:00起床。(※省略) 15:00初枝叔母より「南阿佐谷出口にをり」と電話、われ駈けゆけばはるかに手を挙げわかりしと。家まで伴ふ。 同伴は姪にして和歌山大学医学部3年と。初枝叔母にユ相手し田中家の悪口いふ。われ姪相手に歌うたへば「旨し」と也。 昌三家の後継はこの子にして徳のいひし久美子でなし。(※省略) 7月12日 よべ20:00臥床、さめることなく7:20まで眠る。(※省略) 10:30出て(※省略) 市ヶ谷自衛隊会館に西川(※西川英夫)の勲3等祝をす。 西川会費を出し兼清幹事仕方なく寄付とす。会者8人、金沢出るといひしも病気と。 14:00中村治光写真をとる(われ帰れソレントをイタリア語で歌ふ)。(※省略) 不二出版より『日本学芸新聞』の復刻につき無料にて(※掲載記事復刻)許可せよと。(※省略) 7月13日(日) 5:30さめ6:00起床。安達遂氏に大球会東京支部の解散の了解求む旨手紙かく。村山高氏にその旨ハガキ。礼拝に出る。(※省略) 17:00瀬見氏来り梅干くれwhiskyのみ18:20帰りゆく(ユ海丹贈る)。(※省略) 7月14日 22:00就寝。7:20覚む。(※省略) 生駒の能勢正元へ野球部旗を送る(240)。佐伯に寄り『木曾路(200)』(※省略)。国友氏へ誤植のわび状。 佐藤方哉(53才)京王心理学教授教へ子(27才)と再婚と。(※佐藤春夫長男) 南阿の人種差別と万葉の山の辺の道のことteleviで見る。 7月15日 22:00臥床8:00起床。10:30静江母よりユに電話。 『五十嵐達六郎 : 人と業績』にかくと返事。1万円払ひ8月10日締切4枚也。 阪田寛夫「五十嵐日記・解題」よみ返す。阪田氏は阿部稀男のpen-nameにて『コギト』に書かれしことを知らず。 ユ13:30母へとゆく。母今年中と再びいふ。『成城通信』来り、ミリアム・スキー女史退職、野口君は1月死に、尾上氏名誉教授となりしと。(※省略) 7月16日 よべ2:00まで眠れず排尿後7:00起床。ユ150万円作りに奔走。(※省略)本多さんへゆく。 午后、船越苑子来る。体重40キロと!15:00去る。(※省略) 7月17日 よべ21:00臥床5:00起床。(※省略) 曽野綾子『戒老録』よみ了る。恩田氏に礼状。安達遂氏より「解散了承」と。(※省略) 本多喜一氏と(※土地借用につき)契約書交換。 7月18日 よべ21:00臥床7:30さめ8:30起床。(※省略) 成城学園より名簿2冊。(※省略) 7月19日 よべ21:00臥床8:00起床。ユ10:00母のところへゆき12:00帰宅。母元気と也。大に遇ひ、母冬までもつと也。 能勢正元より「旗受取った。三浦貢氏左半身不随」と。(※省略) 7月20日(日) 7:30起床。髭剃ってもらひ礼拝にゆく。知合は原夫人と次嬢のみ。帰宅すれば稲田一家をり。(※省略) 健太郎と将棋2番。禎子もけふは可愛し。 北の富士北尾に負け(※省略) 北尾横綱となる。 7月21日 よべ22:00眠り8:00覚める。(※省略)大高同窓会より「シンチンゲル先生の歌曲集reprintして送る。7~800円」と。2冊たのむ。 北尾のシコナ双羽黒と決定。 7月22日 よべ21:00就寝。6:40起床。(よべ和邇女史より「今夜泊めよ」と。ユ病臥と断りしと。) 『五十嵐日記(阪田寛夫)』再読。(※省略) 第三次中曽根内閣成立。 7月23日 よべ21:00眠り5:30さめて排尿また臥床して8:40起床。能勢正元君へハガキ。13:00苑子来り、(※省略) 讃美歌盛んに歌ふ。 7月24日 21:00臥床5:00覚む。曇。暑し。朔太郎のことかかねばならず。(※省略) 多田稔君よりRobert Schinzinger先生の教へたまひしドイツ語の歌集2冊来り、送料とも1,760円と。 西川満氏より台南文化協会より「文壇耆宿」の賞もらひしと(祝のハガキかく)。 昭和20年以来の日記を検す。生活困難をきはめるも逃げ道を求む。統夫夫妻mansionの管理人となり、(※省略) 7月25日 7:00さめ排尿9:00起床。 (※省略) 西川英夫にシンチンゲル先生歌謡集送りに駅前〒にゆく。 昭和20年来の日記を検す。生活困難をきはめるも逃げみちを求む。21:30入浴後就寝。 7月26日 7:00起床。涼し。(※省略) 10:00山住dr.にゆき一週間分の薬もらふ。(※省略) 日記よみ返し彦根すむ。 7月27日(日) 7:30起床。夫婦とも礼拝休む。涼し。(※省略)  日記よみ返し壮年元気なりしことわかる。 7月28日 5:30さめ7:00起床。「萩原朔太郎先生(200×9)」書き〒へゆく。(※省略) 7月29日 9:00起床。(※省略)梅雨あけて暑し。富士ハウス帝塚山学院教授の日記よむ。 夜、司馬遼太郎「昭和10年より三権の外に統帥権悪用ありし」といふを聞く。 7月30日 21:00ねて6:00覚む。初枝叔母にハガキかく。(※省略) 苑子来る。ユ4日、5日に伊豆へゆくといふ。 7月31日 0:00ねて3:00さめ又ねて7:30起床。(※省略) このごろ昔の日記よむ。若くて精力的なりし。 8月1日 20:00ねて5:00さむ。(※省略) 石井正吉君より杉山平一『夜学生』を入手、「コギト・四季」文庫造りたしと。 8月2日 よべ20:00ねて7:00起床。暑くて終日家居。柳井道弘君より「朔太郎」の受取。(※省略) 村山高氏より「東京支部解散ご苦労」と。 8月3日(日) よべ21:00ねて5:20起床。9:00出て礼拝。笹淵博士隣席。日赤の神崎院長逝去といはる。(※省略) 大より電話「咲耶来をり、悠紀子出せ」と。すぐ来るといひ、母のこと話さず。(※省略) 興地先生の娘中村マリ子氏(※省略)来て桃賜ふ。興地先生40代でなくなられしと。(※省略) 8月4日 よべ23:00眠り6:00起床。雨降りをり。ユ簡単permaにゆく。12:00すぎ京一家来り、13:30出発。湯河原の奥へゆきしと17:00電話あり。 弓子「あすの食事もちゆく」と電話かけ来る。(※省略) 8月5日 よべ22:00眠り6:00起床。食ひのこしのパン食ひて11:00孝行のもち来し午飯くひ、所載の冷房してをれば16:00弓子また鰻飯もち来る。 保田、竹内ともに癌にて死にしなり。我は無名にして長生きしをり。今夜五十嵐教授のことかかんと決心す。(※省略) 8月6日 6:00さめ「五十嵐達六郎先生の思ひ出」書き了る(200×16)。長すぎると削られることは覚悟の上である。(※省略) 書楽にて岩波文庫の『萩原朔太郎詩集(550)』買ひ、 山住dr.に糖尿の医師紹介してもらへば、丸の内の朝日生命研究所の羽倉綾子dr.に紹介していただき、 帰りて美紀子に電話すれば「留守」と。「帰ればパパの病気の医師への紹介状とりに来よ」といへば「わかった」と也。 17:00京母子と哲夫と帰り来り、一碧湖にゆきしと。美紀子つひに来ず。(※省略) 8月7日 よべ22:00ねて6:30起床。史へ羽倉女史への紹介状郵送の表紙かく。(※省略) 堺の南川より電話「また来よ」と、「老いてゆけず」と断る。 石井正吉君より「『西康省』4,000円は4万円のまちがひではないか」と往復ハガキにて問ひ来る。石神井書店広告にて見しを答ふ。 月刊『上州路』社へ(※萩原朔太郎につき)書くことなしと断る。 夜、昭和39年(※日記)躁にて斎藤病院に一時入院、その後も眠剤もらひにゆくを記すを読む。 8月8日 よべ20:00就寝。6:00さめれば(※省略) ユ柏井へ歯の治療にゆく。(※省略) 能勢より吉岡弥之助氏の病状。(※省略) 午すぎ苑子来り、ユともに出てゆく。けふ暦では立秋と。 8月9日 20:00ね、1:00さめ4:00起床。鈴木敬子へ縁談の断りいふ。夕立あり。昼食のあとユ戸田画伯にゆく。京より電話「あす午前中来る」と。 沢森芙佐子(※美佐子)氏より中島の本の序文、野田さんへ再び催促せんかと。「妹鈴木夫人と2人にて野田先生に序文たのめ」とハガキかく。 長崎は原爆の41回忌と。 8月10日(日) 6:30さめ7:00起床。8:00ユ戸田画伯にゆく。ユ、京母子来るとて礼拝休み、われのみゆく。(※省略) 礼拝より帰れば健太郎と禎子と騒ぎをり。(※省略) 8月11日 6:30起床。8:30朝食9:30山住dr.。ユ戸田画伯にゆきしに小林宏一郎物もちて来り、(※省略) 大高同窓会事務所多田稔氏より「原稿受取。刊行ほぼ順調」と。 8月12日 20:00臥床2:00さめ6:40起床。 10:00西川より電話「シンチンゲル受取った島稔の追悼文集に書いた。早大名誉教授の暉峻(※暉峻康隆)と対話す」と也。 鈴木敬子より電話、縁談せわして欲しき様子、ユにいへば花井夫人にたのむと也。バカらし。(※省略) 8月13日 20:00臥床7:20起床。ユ柏井歯科へゆく。ユ12:20帰り来り、すぐ能勢より電話「吉岡氏亡くなられし」と。 東京にては大球会より1万円お花料として献ずるといへば「そうか」となりし。(※省略) 弓子来り、(※省略) 8月14日 20:00臥床6:50起床。石井正吉君より中元。ユけふより一週間休診の山住dr.へと17:30出てゆく。 前川佐美雄夫妻へ『日本歌人』の礼状かく。 8月15日 18:00臥床2:00排尿、またねて5:30起床。けふは41回目の終戦記念日なり。やや涼し。苑子昨夜9:00月下美人もち来りしと。朝見れば萎れをり。 中曽根首相靖国神社へ参拝せず。昨年と異なり中国の抗議受け入れし也。(※省略) 8月16日 20:00臥床3:00排尿に起き7:30起床。ユ午后戸田画伯、 われは日記よみつづけ瘋癲の時のみユ代筆、父の死の前後はなく、阿佐谷に住みしところまで来る。 けふ平凡社より社の経営困難いひ来る(百科事典にて失敗せし也)。 8月17日(日) よべ21:00臥床5:00起床。夫婦で礼拝にゆく。(※省略) 14:00植村清二先生よりお電話、退院してをられ『諸葛孔明』6版になりしと。「貴君、曹植はいかに」と。われ出版社きめをらず。平凡社ダメといふ。 日記よみ返しneuroseのところ書かずユに代筆たのみし個所のみあり。斎藤茂太先生の不親切なりしことわかる。17:00入浴す。 8月18日 21:00臥床6:00前起床。(※省略) ユ13:00母のところへゆき16:00帰り来る。 8月19日 よべ2:30までねられず6:00起床。入浴す。久しぶりに雨降る。このごろ頻尿症なり。ユにいはせれば変体期の徴と也。 8月20日 20:00臥床5:00起きる。書斎の冷房すれば水落ちることユ発見、夏も終りか。末吉より残暑見舞、珍し。 8月21日 曇。暑くよべ不眠。老人健診にて山住dr.の様子伺へば旅行らし。televiは三浦と夫人の離婚を報ず。わけわからず。(※省略) わけわからぬ印刷物多く来り、鳥羽貞子女史の令息教師となり、その詩radioで放送される由。 『東京四季』来り、小杉茂樹君が首なり?!17:00入浴。 8月22日 よべ20:00就寝。7:00まで眠る。20分待たされ山住dr.。(※省略) 吉松彩子夫人より披露宴の時のわれとりし写真と夫婦のと来り、 大高同窓会『五十嵐達六郎――人と業績』刊行委員会井上庄七氏より「作業進行中」と。 正野虎雄君より「大高同窓会東京支部総会9.19、18:00国際ビル8階日本クラブにて会費7,000」と。「出」と答へん。 8月23日 よべ不眠。6:40起床。ユ戸田先生ハコネ泊りにて帰り来る。(※省略) 第4回「炫火忌」を10.4京都にて1万円と、「欠席」と返事す。 読売新聞より『文芸年鑑』の原稿往復にて、そのままにて良しと返事す。(※省略) 8月24日(日) 5:00さめ6:00起床。夫婦とも礼拝休む。16:00美紀子来り『産経正論』大蔵省の官員名簿のりをればもち帰る。(※省略) 8月25日 21:00就寝。6:00覚める。(※省略) 11:00山住dr.満員にて令嬢受付。血圧105-70あす老年検診お願ひす。 集英社より『白楽天』の改版と定価改訂につき通知。(※省略) 8月26日 21:00就寝。7:00起床。8:35より山住dr.で老人検診、「金曜来よ。いまのところ悪きところなし」と。(※省略) 16:00京、健太郎、禎子2子と禎子の友達幼稚園児つれ来り、夕食大いに食ひ大騒ぎして18:00帰りゆく。(※省略) 8月27日 6:00起床。無為なり。ユ柏井へ歯の治療にゆく。〒なし。 8月28日 4:00さめ5:00起床。(※省略) 涼しくなる。 8月29日 よべ21:00前床に入り2:00さめ、あと睡眠感なし。7:00朝食10:00山住dr.で老人検査2回目すみ、あと肝臓のみ未定と。(※省略) 11:30中山正子夫人よりMelon!受取のハガキかく。 8月30日 よべ熱く窓あけ23:00眠り5:00起床。7:00朝食。13:00昼食。『東方学』来り、若者たち若い者ばかり也。 8月31日(日) 75回目の誕生日なり。よべも熱帯夜。21:30臥床。尿に起きあと睡眠感なし。5:30起床。(※省略) ユ礼拝にゆく。われ髭そりもらひしも欠席。よべ睡眠感なれば也。終日televi見、古き日記見、22:00、Miss International見て就床。 9月1日 1:30尿に起きあと眠れず。5:00起床。11:00山住dr.にゆけば患者をらず。肝臓の検査再診と血採らる。 14:00久しぶりに苑ちゃん(※船越苑子)来り「公休なりし」と。船越の系図見せれば眼鏡必要と(46才なりと。依子は1才年上なり)。 「また」とMelon食ひて立ちしあと久しぶりに夕立。けふは防災記念日なり。 9月2日 よべ21:00ねて7:00まで眠る。小雨降りをり。午后28℃と。 成城より『名簿』2,000と。大野沢君(※大野沢緑郎)より「北欧の詩作れず」と。 ユ、柏井より歯の治療了へ18:00帰宅。 台風接近にてむし暑く眠れず2:00より起床。扇風機に当りをり。 9月3日 台風来ると。暑くて不眠。5:30起床。ユも5:00起き老人健診とて絶食。われ7:30朝食すます。 台風既に東京を過ぎしと也。大野沢氏へハガキ投函にゆけば雨降りをり。ユ入れ代りに山住dr.に検診にゆく。 9月4日 21:00就寝2:30小便に起きまたねて6:20起床。涼しくなる。9:00より残暑。 11:00山住dr.。「検診の結果まあまあ」と。血圧106-70。 15:00公園までゆきしも暑く帰り来る。今年一番の暑さにて36℃と。 宏池会代表、鈴木より宮沢に移る。 9月5日 21:00就寝、熱帯夜なりしも眠り2:30尿に起き6:00起床。 9:15ユ、山住dr.へ健診結果ききにゆく。血液の検査またと。 午后磐長谷知孝より「転社」と。 9月6日 よべ不眠。5:00起床。ユも起き来り7:00朝食。 すすめられて出て高円寺へ散髪にゆく。(※省略) 古本屋あけをらざる故、涼しき道選んで帰宅。入浴して汗ぬぐふ。 (※省略)昨日我「来月より東京新聞」と捺印す。(※省略) 大高同窓会東京支部総会(9.19 18:00会費7千円)を「用あり」と幹事正野君に電話して断る。 (※省略)ユ、戸田画伯へと出てゆき(※省略)小雨となりて帰り来る。 ボケ老人の話televiでやりをり、甚だ有益なり。夕方涼し。 9月7日(日) 21:00就寝、6:00起床。7:30朝食。9:00すぎ二人にて礼拝、聖餐式あり。(※省略) 0:20帰宅。体の汗を水で拭く。 9月8日 20:40就寝、不眠。5:00起床。ユに来れと母より電話。(※省略) 12:10ユ帰り、あまりゆくを喜ばず14:00前出てゆく。 15:00「中村橋にをり」と花井夫人(※花井タヅ子)より電話、「ひまなれば来よ」といへばユの帰宅とほぼ同じ16:00来り、次女の恋愛中の由報告し悠然たり。 (※省略) 今日は31℃か秋の花咲きそめしらし。(※省略) 9月9日 6:00前起床。14:00苑子来り、久しぶりにゆっくりし、咽喉医林dr.にゆくといふに同行し、別れて魚屋の前に出しにおどろく。 怠けて何もせず。午飯のあとのむ薬のせいか頻尿に困る。 9月10日 よべ不眠、5:00起床。7:00朝食。ユ11:00前に出てゆく。12:30昼食、televi映画見て眠ることとす。時に15:25ユは眠りをり。 20:30Raflesiaの開花せしを写す。 9月11日 3:30排尿に起きあと眠れず。5:00前起床。また排尿。(※省略) 昼食のあと14:00ユ銀座へゆき、われ留守し、歯はづしたまま駅までゆき帰り来る。 ユ17:30帰宅までtelevi見をり。21:00無為の一日暮る。 9月12日 よべ21:00臥床、5:00排尿、6:00起床。8:00朝食。 ユ、2ケの握り飯おき横浜へと出てゆく。(※省略) 敬老費5千円を(菓子別と)民生委員原田女史もち来たまひ恐縮す。都民税多額に払ひをれば当然なるも、この町に老人多きに吃驚す。 静江母の分はユ、途にて印押しもらひ来しと也。(我、印なしとて貰へざりし也)。 眠剤なく、あすは山住dr.にゆかざるを得ず。 ※このさき9月21日の日記の途中に、 「中嶋康博氏より中也とわが詩とを愛すと。旧かな旧字旧文の詩12篇送り来る。」 と書き入れて抹消してある。けだし後から書き込まれたものか。 (私からの最初の手紙について、下書きが残ってゐたので掲げます。)  拝啓  田中克己先生、はじめて御手紙を差し上げる無禮何卒お許し下さい。今迄どうしやうものか何度も何度も迷って居りましたが、先生の御宅をメモを頼りに捜し出して表札の名前を前にした時にやっぱりどうしてもこれは御手紙差し上げて、何と思はれても構はない、自分の尊敬する先生にただ存在を知ってもらひたく思ひペンをとる事に致しました。  私は地方から出て來て今一人で詩を書いてゐる非常勤の公務員をやってゐる者です。上京して三年目、25歳になります。周りに詩を語る友人もなく、もとより戰後の現代詩の歩んだ方向については少々懐疑的でもあった爲に同人雜誌に參加する事もなく、やりきれない心情で毎日の生活や詩生活を送ってゆくうちに、いつしか先生の詩を愛誦するやうになってゐました。  詩には人に及ぼす各種いろいろな作用があると思ふのですが、泣けて泣けてしかたがなかった詩といふのは自分の場合、先生の詩と中原中也の詩でした。(※「偶得」「Ein Märchen」と「渓流」)  私には先生の詩がわかるなどと思ひ上った氣持は一つもございません。ただ一世代飛び越えて自分のおぢいちゃんの世代の冷たくくぢかれた青春の歌を、この物質萬能ゆゑに同じくひしがれてゐる自分の時代の境遇に照らし合はせて読んで慰安を圖っているにすぎません。  日本になくなってしまった風景を旅する爲に、私は昔の寫眞や文章を讀みます。さうして旅行をしてゐて山深く分け入ったところでさへ捨象しなければ見るに堪へぬ現代の風景といふものに、私はあぢけない喪失感を感じてやみません。思ふにその昔、コギトの人々の所謂イロニーとはそんなものの感じ取り方ではなかったかと、勝手に解釈して泣いてゐます。  私の今ゐる上野の下町風俗資料館といふ所は、いはばそんな日本の風景からはげ落ちていった死骸のやうなものばかりで成りたってゐる資料館です。館長がいつも云はれてゐる「はたしてこの資料館が繁昌する事が良い事かどうかわからぬ」といふ言葉は、携ってゐる私どもの仕事の性格を物語って悲しい気持も致します。  自分の事ばかり書いてしまひました。實は失禮な話ですが、先日詩の辞典なるものを立ち讀みしてゐて先生の項の所に没年なぞ記してあったので本當にびっくりしてしまったのでした。さうしてハレー彗星のこと(※「偶得」)などもしきりに思ひ出して目の前が眞黑になったのでした(※『日本現代詩辞典』(1986年2月おうふう刊)に於ける田中冬二との混同)。  ところが後日、古本屋の人に、そんなことはないはずだときかされて住所をもとに先生のお宅の前まで確かめに行って、さうして以下は前述のとほり覺悟を決めて拙詩を一瞥して頂きたくペンを執った次第であります。  本當はお目にかかってなにがしかの御言葉をあふぎたくてしかたがないのですが、それもまだ失禮の事ゆゑ、今は先生の葉書の一行の御叱声なりと承りたく思ってをります。12編同封致しました。他のものも私がつくるものはみな息が続かないせゐか短いものばかりです。もし何の御言葉もないやうなものばかりでしたら来年には仕事をやめて東京を去るつもりでをります。それでも今はあこがれの詩人の目に自分の作品がふれたといふ事だけで満足のやうな氣がしてゐます。  季節の變り目、ぜひお體だけはくれぐれも御大切にされますやうに心よりお祈りしてペンを置きます。   一九八六年九月十日   中嶋康博 拝 田中克己先生 梧下 9月13日 よべ21:00眠り5:30起床。ユ起きをり。中島康博氏へ「一度電話してお越し」とハガキかく。 ユ、柏井光一に治療にゆき10:10帰宅、10:20の待合せに悠々と出てゆく。 11:30平林女史ユを訪ねて来り「上がって待て」といへどもきかず「桑原さんの安否」問ひて帰りゆく。 12:00下痢。12:30伊勢スミ江より電話、ユ、帰り来る。 9月14日(日) よべ22:50までtelevi見、8:00起床。ユ9:20礼拝にと出てゆく。我は留守電也。 ユ12:30帰宅。けふは副牧師さんの説教なりしと。televi見てすごす。 植村先生(※植村清二)より「会ひたし」との電話あり「その中参る」旨お答えす。 静江母、余命幾干(※いくばく)とユ5,000円届けにゆきての話なり。 9月15日(老人の日) 2:30排尿、6:20起床。10:00敬老の菓子一箱もらふ。 『日本歌人』来り、宮崎智慧女史第3歌集出せしらし。 小高根二郎『前川佐美雄9』『日本歌人』発禁となるを布告す。 ユ15:00すぎ静江母へ菓子もちゆく。15:30小林孝行来り、ついで弓子夫婦来り、ユの母より帰るを待ち17:30三人にて帰りゆく。 中島氏より「木曜午后来る。も一度電話す」と也。 9月16日 よべ不眠、5:00起床。6:30朝食後、下痢。止痢剤のむ。9:00山住dr.血圧130-75と高く薬加へたまふ。 正己先生に遭ひ挨拶す。本多さんに待合室で挨拶。 重久武志生より昨日出しのハガキに「義兄の失敗に連座したが幸ひ助かった」とあり「ガンバレ」と返事かく。 9月17日 よべ20:30眠り4:00ちょっとさめ、7:30起きる。睡眠不足とり返せし也。 10:20ユ、わが髭剃り出てゆく。曇なり。ユ静江母に区の菓子もちゆき柏井へ歯の治療にゆき11:55帰来。 午食し、雨水止みとなりしを知る。15:00前散歩にゆき高円寺など歩き都丸書店。 1,000円の本むりして買ひ国鉄にて帰り来る(120円)。 時に16:00、ユ、宅の前にをり。 9月18日 (※13:00-17:00 第5次『四季(9号)』、『上州路』頂く。) よべ21:00ね、3:00排尿に起き、8:20起床。 9:00に川久保(※川久保悌郎)に電話「夕方ゆく」といへば夫人「よろし」と也。ヌルハチの満文訳借らんと也。 朝日新聞南阿佐谷販売所に「10月より不要」との手紙かく。 12:30台東区立下町風俗資料館の中嶋康博君来り、我が詩集多くもちをり(『西康省』と『神聖な約束』とのみなし)。 「詩心あり、書き方しらず」とのわが教へすなほにきき、ユの戸田画伯より帰り来りしに去る。 時に16:30にて「16:00川久保へ行く」と電話かけしゆゑあはてて傘さしてゆき、「論文まだ」と「羽田(※羽田明)よりも便りなし」などいふ。「我もなり」といひ、 今西(※今西春秋)の『満文太祖実録(※滿和對譯滿洲實録)』きけば「返した」と也。売りしならん。けふは大分ひどい目にあひし也。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇東大の学食ではおかずを食べず漬物だけで飯を済ませ、浮いた金で食い詰めた友人(共産同盟の橋本君)におごってゐたといふ話。 〇『詩集西康省』は、斎藤茂吉に文面で褒められたことが何よりうれしかったといふ話。 〇太宰治を(伊藤佐喜雄と)訪問したら、献呈した『詩集西康省』が定価で売れたと喜ばれ、結局その日にその分おごってもらったという話。 〇『詩集西康省』の本文和紙が縦目で唯一残念という話。 〇村上菊一郎に連れられて日夏耿之介を訪ねた話。はじめ15分しか会はないとのことだったが先生の話が面白くて長居となり、いくつか短冊も書いてもらひ楽しかった由。献呈した『詩集西康省』の難しさうなものばかり拾って良いと云はれた由。ただしこの先生の許には敢へて深入りしなかったといふ話(古墨や硯の話に閉口した由)。 〇『詩集西康省』を褒めてくれた蓮田善明に献辞した『大陸遠望』に対し、「現地で戦ってゐる人の事が書かれてない」と叱られ、敬遠するやうになった話。 〇初見の萩原朔太郎にそっぽを向かれてガッカリしたものの恥ずかしがりの所為だと後で分かった話。 〇パノンの会ではしきりに漢詩の決まり事を訊ねて来られ、「大学での講義で皆いねむりをするので、一寸おどかしてやらうと思ってね」と、メモをとってゐた話。 〇また一緒に歩いてゐて「その先生といふのはやめてくれ」と云はれ困った話。 〇朔太郎の「父の墓を詣でて」を朗誦される。詩中の「父」をキリスト教における「父」としても理解してをられる由。 〇軍属でシンガポールに行った時、麻の背広を着てホテルのプールで泳いだりできた話。 〇出征中の留守を托した大垣国司氏の話。極度の臆病で気が変になり、欄干を薪にしたり、預けた手紙を紛失させ、あげくに精神病院でいじめ殺されてしまったこと。 〇出征中、上官に反抗的で「君を兵隊にとったのは日本の間違ひだった」と戦友に云はわれたこと。 〇神保光太郎や北川冬彦がボケてしまった話。 〇入歯を外して湯呑みに入れて話される。話が乗って来るとソファの上に胡坐をかかれ、自嘲の際には頭の頂きをペチンと叩いてみせる。 9月19日 よべ21:00ねて7:50起床。8:30朝食。10:00朝日新聞来月より断りにとゆき、帰りて軟便。 14:00苑子女史来る。ユと同道して帰りゆく。 15:50花井夫人よりユに電話あり。花嫁候補ありとのこと也しも、丁度も一人ことわりしあとにて宜しく、ユ「帰れば電話す」と申す。ユ、花井夫人に電話「探す」と也し。 9月20日 よべ不眠、5:30起床。ユ散歩に出る。11:30依子より電話「望、上京。泊めよ」と、「承知。ユに午すぎ電話せよ」といふ。 植村先生より退院祝に紅茶賜ふ。13:00ユ戸田画伯と雨中出てゆく。17:00ユ、ずいきもちて戸田画伯にゆく。 中嶋君より「弟子になりし」と礼状※。20:30植村先生に『諸葛孔明(中公文庫)』の礼申上げ、「筑摩文庫の復刻か」といへば「全然別なり」と叱らる。跋文は新潟女子の後藤均平君にして前のままなるがわが誤解の理由なり。 ※これについても手紙の草稿が残ってゐたので掲げます。  前略  先日は初対面の身ながら、長々と四時間も居座り、後で省みて實に冷汗赧顔、奥様にも大變御迷惑をかけてしまって、自分の生涯の中で最も忘れ難い一日の余韻に今はただ顫へてをります。  先生の事を私の詩の先生として改めて呼ぶことをどうかお許しください。今の自分には民俗史学はおろか日本語の勉強さへも、やうやく和歌の一からやり始めようといふ段階で、到底先生の古今廣袤にわたるお話の相手として體をなさない不足者ではありますが、先生の詩心に必死にかぢりついてゆく覺悟だけは信じてください。  先生が自ら口吟まれた朔太郎の詩(※「わが草木とならん日に」)、そして神軍の扉に書いていただいた歌一首(※ https://shiki-cogito.net/tanaka/shingun/shingun-0002.JPG)の心に、私は言葉が 見つかりませんでした。先生の笑顔が今も忘れられません。  先生が保田與重郎さんのやうな方法ではなく、まともに戰争の痛手を深く被られたことの眞實の意味を、私は絶対に忘れることができません。戰前抒情詩人の功罪等と言う問題の立て方そのものが、意味をなさない問題の立て方なのではないだらうかといふ今までの予感が、先生と會ってお話を伺ふうちに、公に向かって宣言しないところでしっかりと堅まってゆくのを感じました。さうして浮き足だつ自分にさらに勉強すべき事を思ひました。  先生に幾つかの詩をほめていただいた時は本當に夢かと思ひました。今、東京生活も三年を俟ってやうやく雲が霽れて星座が目の前に現はれたやうな、そんな心持がしてゐます。どうかこれからもいけないところや伸ばさないければならないところなど御教示をしていただけますやう心からお願ひ申し上げます。訪問のお禮の手紙ですのにお願ひをして終ってしまひました。近くまた愚作を持って參ります(あるいはあらかじめ郵送したほうがよろしいでしょうか)。學校時代のお話、詩人のお話もっと聞きたく存じます。  それでは御禮かたがたお詫びを申し上げるべく取り急ぎ手紙で失礼をいたします。お体をお大切に。不備 追而 齒の悪い事も知らずにせんべいなど買ってきたりして申し譯ありませんでした。奥様にもよろしく御鳳声下さりますよう。羊羹おいしくいただきました。 9月21日(日) よべ20:00臥床、6:00覚む。昨日の不眠とり返せし也。7:50手塚さん(※手塚隆義)より電話「諏訪神社にて待つ」と。北口天祖神社にゆけば無人、(※省略) 一旦帰宅して様子見ることとす。手塚氏より消息なく、ユ9:05に礼拝にゆく。 ユ12:40すし買ひ来り「諏訪神社は高田馬場、手塚氏女婿事務次官吉井氏の公舎」と。また「植村先生のお返しは時価5千円」と。 15:00散歩に出る。17:20中野まで歩き国鉄にて(120円)帰宅すれば、 京たち来ると電話あり。18:20来り、用意の雞、我もらひ母子3人食ひjuiceのみて帰りゆく。(禎子、本1冊もち帰る)。20:10帰宅。 健太郎より電話あり。われ入浴し「いのち」(※NHK大河ドラマ)見了り21:10就寝。 9月22日 よべ22:00眠り5:30起床。7:30望より電話、(※省略) ユ、〒にゆきわが手塚氏の詫び状出しにゆく。午食まへまた眠る。 午食後14:10中野まで国鉄(120円)、北口の本屋見る。娘番しをり積みありし本、大部並びしも何もなし。 帰りまた国鉄にて15:00前帰宅。18:00山住dr.へゆけば血圧109-75、10日分の眠剤もらふ。 19:30望、同級生副島君つれ来り、夕食し入湯し同室にて就寝す。あす8:00すぎ新宿にてもう一人と会ふと也。 9月23日 21:00臥床、5:00起床。8:40、2児朝食して出てゆく。(※省略) 史夫婦「史10月4日Swissへ一週間ゆく」とて挨拶に15:00来り、15:15去りゆく。19:40夕食すまし入浴、20:30睡眠。 9月24日 8:00まで睡眠感なし。ユ居らずと思へば起き来る。来客なく前橋より『朔太郎論』来りしのみ。 14:30出て荻窪へ散歩。足疲れて帰宅。19:00夕食す。ユ、縁談にて苦労す。秋らしくなりし。 9月25日 よべ21:30就寝、一度放尿に起きしもまた眠り7:30起床。(※省略) 14:10出て1時間高円寺を廻り帰宅。『成城教育』2冊もらふ。よむにたへず。けふ植村先生へ礼状。 9月26日 よべ不眠、7:30起床。晴をり。 12:00下町風俗資料館の中島君より電話「けふ明いてゐるか」、ダメといへば「来週月曜」にと。「その日電話せよ」といふ。 13:30昼食。14:20入浴。14:30苑子嬢来る。 9月27日 22:00臥床、8:00起床。9:00朝食し、ユ10:00昼食用のすし2本買ひ来り、10:30吉祥寺へと出てゆく。(※省略) ユ 17:30帰宅。 9月28日(日) よべ22:00就寝、7:30までねて睡眠不足とり返す8:00朝食、10:00ユ、戸田画伯へゆく。 河本律子へ「単身赴任の妻としてガンバレ」と。梁瀬和男氏へ「朔太郎の友人として」礼状かく。 午后、小林宏一郎自転車にて「父、北海道出張した」と土産の菓子もち来る。小遣ひに500円やれば「いらず」と。叱りてもちゆかす。 下痢にて(※省略) 20:00前NHKにて新城常三博士(九州大学教授と)の交通史の講義(特に伊勢詣り)あり。 9月29日 21:00就寝、6:00さめ8:00起床。朝食すまし新城博士にハガキ。小雨降りをり。 12:00前、山住dr.こみをり12:00診察。「胃腸悪し」と申上げ薬3日分賜ふ。 ユ、帰りをり「母、眠りてさめず仏壇に菓子置き来し」と。 12:30中島君より電話「来てよきか」と。ユをして「病中、来週にでも」と断らしむ。 17:00すぎユ、2回目母へとゆく。18:00魚屋来り600円払ふ。 ユ、18:30帰宅。静江母「眠るのみ」と。 9月30日 晴。6:00さめ7:00起床。8:00朝食。9:40ユ、母と柏井へ出てゆく。 手塚先生より「この間電話したことなし。上京もせず『史記』よむのみ。吉居時哉は大蔵省より国土省へ移りし云々」 大高同窓会より「正野君病気入院」とて(※省略)講師は25回文乙にて題目面白くなし。欠席とす。(※省略) ユ帰りし直後豊田夫人習志野より来訪。17:00まへ帰りゆく。 10月1日 よべ22:00臥床、7:30起床。12:30手塚さんに手紙。正野君に見舞のハガキ投函。 小雨にて植村先生訪問をとり止む。高田瑞穂に11:00電話すれば女孫「外出」と。 今日より朝日止め東京新聞となる。『成城文芸』1号ぬけて贈らる。 20:00すぎ湯わかし、高田に電話すれば出て来て「元気」と。「講談社より本出す」由。入浴し21:00就寝。 10月2日 よべ不眠、7:00起床。9:40ユ吉祥寺へ出てゆく。われ下痢。苑子来り(14:00)話しゆく。 和田統夫のadressしらす。16:00石井正吉君より「土曜午后来る」と。 (来週月曜午后中島君来ると也。植村先生へゆく日あととなる。) 花井夫人、ユの買物に出しあと電話「(悠紀子夫人の)画もらひに来る」と。 「よし」といふ。16:00なり8:00すぎ画もちて帰りゆく。 10月3日 よべ21:00床に入りしも眠れず。2:00、5:00排尿、8:30起床。 原因は運動不足なり。10:30高円寺へ散髪にゆき11:20帰宅。 植村先生へ午后ゆくこととす。13:00家を出、植村邸に着けば先生応答され入室。 カステラを令孫にと呈す。先生ごきげん悪く、関帝信仰など応答したまはず、孔明廟のことも早々にすまされ、 柳田図書につき我を叱られ珍書見せらる。国男の署名ある寄贈本なり。 LoebとHeineGeldern の “Sumatra”の民族研究所の訳は略訳なることを示され、叱られつづけにて17:00までをり。 駅につけば日暮れんとし阿佐谷では19:00に近し。 21:00入浴し悪夢の如き一日を了ることとす。(※省略) 10月4日 よべ23:00ごろより眠り5:00さめ7:00起床。ユ起きをり。8:00朝食。 8:50山住dr.にゆき老人検査の間まち、不眠症の薬とVitamin剤と10日分もらふ。 集英社に『白楽天』一部買上げと送料とを印税より引き植村先生に送ることをたのみ、 八木敏雄氏に礼、東方学会の秋季京都伏見での総会欠席をハガキ3枚にかく。 石井君来り(14:00-17:30)、「四季・コギト派」集めると。東電に入り京と同い年(※38才)と。20:30入床。 10月5日(日) 22:00臥床、6:30起床。朝食とり髭剃ってもらひ礼拝にゆく。長老概ね来り聖餐式あり。 すみて(※省略)2人して阿佐谷に帰り、南のすし屋にて鮪のすし2本買って帰宅。 入浴して尾骶骨痛めしことわかる。ユ、専ら縁談に奔走す。 夜Seolのアジア大会開会式、ついで女医の話見て眠ることとす。 中島君より「あす午后」と電話あり。 10月6日 (※13:30-17:30) 21:30臥床、7:50起床。9:00すぎユ、山住dr.と荻窪へ出てゆく。尻痛し。 山住dr.によれば老化現象と。大高同窓会へ欠「会費3,000払へ」と。 (※13:30)中島康博君来り、詩見せ18:40田端へ帰りゆく。※ ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇南方で中島健蔵に睨まれた話。将校たちを周りにおいて「最後はインド洋でドイツと決戦する」などと云ってゐた由。 〇中河与一に対する印象を戦後に大きく変えた話。 〇保田與重郎の話。二度目の出征の途次、保田兄弟と出会った時のことや帰国後、奈良で世話をしてもらった住居での苦労ほか(神社に養子に出た弟さんと仲が良かった由)。 〇キリスト教入信を知った三好達治が「それでは詩も書けまい」と云って詩人の集まりで斜め前に座ってゐたのに一言も声をかけてくれなかった話。 10月7日 21:30臥床、6:30起床。尻痛く湯沸かす。12:30昼食後1時間散歩。 高円寺までゆき雨模様なるに帰宅。(※省略) 夜、新城博士より「ハガキ見た。伊勢参り削られた」と。 10月8日 22:00臥床、2:00排尿に起き、またねて7:40起床。8:00朝食。 ユ10:00買物に出てゆく。東洋文庫の講座案内来り「火曜の18:00-20:00」と。出席できず。themaも面白きものなし。 新聞夕刊に福知山より出土の景初4年(正月のみ)銅鏡につき真贋説を記す。日本製なるらし。(※省略) 10月9日 21:00臥床、2:00起き8:00起床。下痢にて11:30山住dr.4日分の薬もらふ。 13:30苑子女史来り、14:00ユ(perma)と出てゆく。 15:30散歩に出しも尻痛く帰り来る。16:35肴屋魚もち来る(650円と)。 20:00夕食すまし20:25入浴。 10月10日(体育の日) 7:00起床。ユ9:30京の子らの運動会にゆくと也。10:30すし買ひにゆく(350×2)。12:00肴屋魚来り650円払ふ。(※省略) 10月11日 よべ20:30就床、2:00排尿、睡眠感なく8:00起床。朝食に昨日のすしの残り食ひてまた就寝、眠れず。 ユあす青梅へゆくとて準備にあけくれす。八戸の圓子哲雄氏より詩集もらふ。350部限定のNo.11と(1500円)。 10月12日(日) よべ21:00ねて4:00さめる。7:00起床。pao食べさし8:00ユ青梅へ写生に出てゆく。 17:00帰り来り水彩画かきしと也。 10月13日 よべ21:00臥床。炬燵の線はづれをり、寒くて眠れず。7:00起床。米ソIcelandで会談、決裂せしと。 ユ10:00吉祥寺へと出てゆく。われ入浴。 圓子哲雄氏へ詩集の受取をユ投函。石井正吉君より夫婦にそれぞれ礼状。18:00夕食し、19:00入浴。 10月14日 Parisにおける大角力見て21:00就寝。1:00排尿に起きまたねて6:30起床。6:20震度2の地震ありしと也。 9:00ユ柏井へ歯の治療にゆく。14:30散歩に出15:30帰宅。 禎子の画と西武の朔太郎展の入場券、D’Avinciの最後の晩餐展の切符入れあるを京送り来る。 10月15日 よべ22:00臥床、ユ、先に寝る。6:45起床。8:00朝食。ユ、史にITTの申込みすべきや否やきけば「すべし」と也。 (※省略) 林より「N.T.T.の株買へ」と電話あり。(※省略) 太田夫人の知合の娘と江川青年の見合19日にすることになりし様子也。 10月16日 よべ22:00ごろ電話2回ありしもユ眠りて出ず。6:30起きる。 9:00出てゆけば映子に遭ひ「姉、早出せし」と急ぎてかけゆく。高円寺にて散髪し、(※省略)郵便局にてはNTTの株買ひに行列しゐるを見たり(ユも見たりと)。 17:00山住dr.にゆけば「時なし草」といふをききたまひ、『牧野植物図鑑』にもなく「両性の家」かとでたらめお答へす。『ラテン語辞典』を買はんと思ふ。 10月17日 よべ2:00排尿、そのあと眠り9:00起床。ユ出てゆく。われ10:00すぎ都丸へ出てゆく。(※省略) 都丸にては夫婦をりLatin語をといへば4万5千円の『Oxford Latin Dictionary』の新本出し来りし故、1万円置き借用書かいて持ち帰る。 重くて山住先生へゆくユに「昨夜問はれし原語聞き返せ」といへば「忘れねば」といひて出てゆく。 ユ帰り「待つ患者多き故Vitamin剤のみもらひLatin語きかざりし」と。 京、来るとて待つ。松枝茂夫氏より『中国名詩選 下』贈らる。京11:30来り13:30去る。ユ共に柏井歯科へと出てゆく。 17:30山住dr.へ。『ラテン語辞典』もち置いて来る。患者多くをり。(※省略) 入浴して出て来れば植村先生より電話、『白楽天』受取ったと也。 我は「ハアハア」とのみいひ、斎藤勇博士のこといへば(『杜甫』の著者として)先生怒られず電話切らる。結局「受取った。ありがたう」なりし也。 10月18日 2:00排尿にさめ7:30起床。松枝茂夫氏へ礼状投函。寒くなる。 ユ11:30山住dr.へゆき血圧高かりしと。『ラテン語辞典』返却してもらひ12:30阿佐谷へ見合にと出てゆく。 われ『私の中の日本軍 下』よみつづく。比島戦の実況報告なり。(船越家と絶縁せんと思ふ。)『白楽天』来り、紙多くはさみあり。 ユ15:00帰り来り、花嫁候補(※省略)赤坂Prince Hotelで見合と也。19:20夕食すむ。けふより寒し。 山本七平『私の中の日本軍 下』21:30よみ了り就床することとす。 10月19日(日) 3:00排尿に起きるまで眠れず7:00起床。ユのみ礼拝にゆく。われ『白楽天13版』の2ヶ所の誤植訂正し集英社日置智久氏に送る。 村田幸三郎へ「whiskyのみに来よ」とハガキかく。ユ銀座の画展にゆき「戸田先生以外はダメ」といふ。「同期の卒業生にて静物画ばかりなりし」故と。 10月20日 (※13:30-17:30 『白楽天』頂く。) 21:00ねて7:00起床。8:00朝食。ユ9:00にと柏井歯科へ急ぎゆく。11:00入浴。冬物下着に着かえる。ユ、戸田画伯。 下町風俗研(※ママ)の中島君より「13:00来て宜しきや」と。「宜し」と答ふ。13:00すぎ中島君来り18:00すぎまでをり『白楽天』もちゆく。 苑子女史1時間ほどをりしと。我は会はずにすむ。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇立原道造の話。病院には二度見舞ひ、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の写真を持っていった。女性の姿は二回ともなかった。 〇萩原朔太郎が天国か地獄かどちらに行ったか聞いてみたら、神がかった巫女(保田與重郎から言ひ寄られたといふ歌人)が苦しみ出したといふ話。 〇動物にあまり興味がなく(むしろ植物)動物園には行かない。自身の撫で肩の風貌は中華系で、終戦後帰国するまでの間、中国服に着かへて誰からも怪しまれなかった話。私は日本人で通る顔で、名前の印象が硬い由。いつも躁の時に訪ねてきて運が良いね、鬱の時は「死んだほうがまし」の心境で誰にも会はれぬ由。 ※また訪問後に出した稚拙な礼状の下書きがあるので掲げます。 前略  本日は先生に見せずもがなの旧作などお見せしてしまって、大変失礼だったと反省しております。先生の目に今日はいつになく厳しいものが感じられた時間があったのも、もしやそのせいではなかったかと後悔しています。本当に納得のいくものでなければ発表するものではないと言う事、教えていただきました。  先生にお話ししたように、今の自分には憧れと不満とが、各々水と油のように分離してしまって、それが極端に古風を愛したり、翻ってはドロドロと感情を垂れ流しにしたりしていて、ポエジーの分裂さえ起こすこともままあるのです。憧ればかりで固められた詩は偽物と呼ばれることを怖がり、不満ばかりで書き立てられたものは汚らしい姿を負ひ目のように嫌がっています。先生に指摘されたように、私にはまだ何の苦労もなく、したがって憧れと不満の両者を貫き通すはずの「悲しみ」みたいなものに不足があるのかもしれません。今となってはそれが一つの「諦め」です。憧れを抑え、不満を矯めて、がんじがらめの詩を作ることが自分の詩の情けない理想です。その中で氣弱く笑うことだけが現代の抒情詩に許された表情なのぢゃないかとさえ考えることもあるほどです。  先生が私のことを弟子ではなく友人であると厳しく区別されたこと、今は意味は分かりませんが、頂いた白楽天の詩集とともにかみしめたいと思います。ただ先生の「萩原先生」同様、これからも「先生」と呼ばせていただく事はお許しください。先生は「躁」になったり「鬱」になったりするとの事ですが、私は一人の時はいつも「不安」です。自分のことをそのように客観的に見つめようとすると「躁」「鬱」といった極性で現れずに「本物」と「偽物」という形でグラグラ揺すぶってくるからです。季節の変わり目とかではなしに、不意にやってきて、自分を不安のどん底に叩き込んでめちゃくちゃにしてゆきます。こんな時は先生が嫌いだとおっしゃったラスコーリニコフやあるいはカラマーゾフのイワンの事なんかも解ったりします。トルストイはまだ読んではいないので、私の世界観などまだまだ身勝手なところが多いのです。  とにかく文学の事だけを考えて、この冬は籠り過ごそうと考えております。  それではまた次ができてもできなくてもお伺い致したいと思います。先生も風邪などお引きにならないよう、くれぐれもお体だけはご自愛下さりますよう、末筆ながら申し上げてペンを置きます。 10月21日 よべ21:00臥床、眠れず3:00排尿に起き7:40起床。運動不足のせい也。10:15ユ、荻窪へゆく。11:30より入浴。 ユ12:00帰宅。「静江母へ寄れば眠りゐし」と。福地君(※福地邦樹)より「中也すまし静雄を講ずれば受講者半減」と。 成城大学文芸学部より「学園棗栗七十周年記念の『成城文芸』に30枚書くや否や十月末日までに返答せよ」と。 涼しくなりけふは富士山まっ白となりし由。あすは雨のち曇と。 10月22日 20:00就寝。5:00覚める。7:30起床。雨模様。昨夕、豊島博士の講義televiでききし故、夫人(高松、坂根と同期6回生)にハガキ。 雨中出勤の末富茂樹氏に遭ひて挨拶す。『成城文芸』に1月20日までに400×30「中国近世文学の助数詞」かくこととす。 (※省略)藤枝の女詩人、原利代子氏、ハレー彗星のこと歌ひ中国へも行ってゐるに感心す。安西均君の跋にわが「ハレー彗星(偶得)」愛読のことしるしてゐる。重ねて礼状かく。 10月23日 6:00まへ起床。7:00朝食。9:00すぎハガキ投函にゆき山住dr.。あまり待たず診察、血圧106~と低し。1週間分の睡眠剤もらひ帰る。 ユ出てゆきしあと西川(※英夫)に来し長野敏一より電話「講師してをり」と。「ゆっくり来て俺とこにも泊れ」といへば「さうする」と。 林郁『満洲、その幻の国ゆえに』よみ了る。引揚者の受け入れの困難を記す。 成城大学民研より「柳田文庫特別展」と「千葉徳爾氏の特別講演」の案内来る。やる気なし。 中島君に『白楽天』返せとハガキかく※。17:00川久保に電話すれば「あす本返し かたがた来る」と。 ※この手紙への返事の下書きがあるので掲げます。頂いたハガキと共に26日(日)朝、礼拝で留守中に自宅ポストへ投函した。 拝復 二十五日(土)夜、お通知(※『白楽天』を返却せよとの手紙。本と一緒に返却したので残ってゐない。)受け取りました。先生とのお話の感動冷めやらぬうちに急ぎ書きしてしまった手紙 が、先生のお気に障ったのではないかと大変心配しております。 『白楽天』は「賀雨詩」のところまで読んでいて、今度お伺いするときには読み終えてお伺いする予定でしたけれども、直ちにお返しに上ります。 新たに書店で買うことに致します。あの手紙を読んで「そんな弱気な事でどうするか」と叱咤されている先生の面などを浮んで大変苦しみました。 もしかしたら御本をお返しした後で、出入り禁止を言い渡されるかもしれないことを思い、そしてそんな時には多分自分はきっと何も言うことができないだろうと思いますから、この手紙を書くことに致しました。  先生の『白楽天』が私にとって役に立たないと先生がおっしゃったのは本当に寂しかった。先生の温かい目で見守られているうちに私は何か大切なものを踏み外してしまったと思いました。それから手紙で人に自分の思う筋を伝えることがいかに難しいものであるかと言うことも考えました。  この手紙がそうして第二の誤解を生むことを恐れています。自分の全部を投げ出して最初に先生にお便りを差し上げたら、それは先生に通じたのでした。ところが今度の投げ出し方には弱気なところと、それを認めてもらおうとする甘えがありました。謙虚に反省しております。詩を書くときにそういうものが一番の敵なのでした。今の自分には甘えよりも良い詩を先生に見てもらうことが第一番だったのでした。  もしお伺いした折に先生ご立腹であっても、これを読んで「また来なさい」と言っていただけるように、良い詩を書くよう心を入れ替えて頑張ってゆきます。不一 10月24日 よべ眠れず2:001服のみ7:30起床。朝食後9:30ユ、戸田画伯へゆく。11:00丸木夫人より電話「田中秀子ガンの見舞にゆきゐし」と。 (※省略)(3:30川久保に電話すれば「1時間してゆく」と。)来て今西春秋の話すれど通ぜず、甘酒喜んで食べてゆく。 人参の学名知らず、満洲語の勉強すすめれば「もうおそし」と。日くれ早くあすも寒からん。 集英社より『白楽天』の稿料を太陽神戸銀行に「けふ入れし」と。筒井護郎よに「その後いかに」と見舞のハガキかく。21:00就床。 10月25日 5:00覚め7:30起床。9:00瀬見伊三郎氏(※都丸書店)に電話「借金10:00もちゆく」といふ。(※省略) 10:20瀬見の店にゆき『ラテン語-英語辞典』の払ひすまし、4冊買ひ、(※省略) 電話でたのみし佐伯さん来り、3山の本を8,000円で引取り呉る。(※省略) 神田信夫教授に電話すれば夫人出て「文庫よりまだ帰らず」と。「田中克己より電話あり北京の便りの礼」といへば「承知」と。 (川久保にきけば「岡田英弘と旨くゆかず」と。) (※省略) 20:00羽田君に近況話さんときめ電話すれば「東洋史談話会には出ず。日を改めて会はん。その機に川久保に通知す」となり。 川久保に電話すれば令嬢出て「父はいま仙台、帰ればその旨いふ」と也。 国学の四大人をユ、春満、篤胤、真淵、宣長とほぼ覚えてをり。20:40就寝。 10月26日(日) よべ22:00床につきしも眠れず2:00排尿、7:30起床。上平生つれて帰るか共に飯にくひにゆかんと考へし也。 9:00礼拝の用意す。ユ、秋津へゆく。「バザーなり」と。10:00礼拝に出る。副牧師さん説教。畑谷博子隣にあり。 すみて三鷹にゆき160円にて畑谷家にゆく。主人をり名刺もらふ。夫人つれて帰宅17:30までユを交へて話しゆく。帝塚山の短大3回生なり。 10月27日 22:00就寝。4:30覚める。8:00前、筒井に電話すれば出て来て「まだ入院中、大和の地面は売りし」と。「東京へ一度来い」といへば「ウン」と。 畑谷(上平)女史に(※省略)電話すればをり「昨日はありがたう」といひ、ハガキで「教会へ誘ってすまなかった」とかく。 15:30ユ、静江母のところへゆく「可哀想ゆゑ」と。 佐伯へゆくつもりでボロ本屋に入り岩波文庫『平家物語2冊(1,000)』と『南京大虐殺のまぼろし(300)』買ひ来る。 丹波鴻一郎に電話すれば不在。不必要な一言し幹事役になれぬことを痛感す。(※省略) (山住dr.にnude週刊誌置きあり、我かと疑はれしと。克己閣下に滝川先生の本貸せしを夫人dr.にこぼしをられしが原因とユの話)。 10月28日 (※18:30-21:10 天重御馳走になる。) よべ22:00床に入り5:00さむ。寒し。村田幸三郎に電話し「酒飲みに来い」といふ(村山高氏に会ひしも元気と)。 丹波鴻一郎に電話すれば「土曜にしてくれ」と。これも働きをり(同族会社) 村田幸三郎に電話し「酒のみに来い」といふ(村山高氏に会ひしも元気と)。田中初枝に電話すれば「史に礼したし」と。「不要。一度上京せよ」といふ。 後嗣の嬢は妹の子で異姓(杉浦でなし)との由に「一度ハガキくれ」といふ。 小高根太郎、川久保に電話せしも応答なし。中島君に「今夜来い」といへば喜んで「来る」と也。 12:00田中久夫氏に電話し「一度来たまへ」といへば「来月にでも来る。小金井に来て一年」と。 12:00の放送で文化功労章に山本達郎氏選ばれしと。高田瑞穂に電話し「会ひたいが成城きらひ」といへば「やや元気になったが淋しい」と也。 丹波鴻一郎にクラス会のこといへば「土曜でなければダメ」と。川久保に電話せしに応答なし(午后夫人留守にて2階にゐしと也)。 午すぎユに2万円もらひ、佐伯(※駅前古本屋)にゆき『和独辞典』、『漢字を食べる本』、『朝鮮の通過儀礼』、『明末農民反乱の研究』、『龍図耳録2冊』にて1.7万払ひて帰り来る。 ユ、昼食後、銀行に金出しにゆき母に足袋(西友、西武の野球勝ちし故割引と)買ひにと出てゆく。 (川久保にやっと電話通ずれば「羽田に通知せし」と也)。 途中、山住正己氏に遭へば「(※第5次)『四季』やめとなり残念」と。われ「君が代」と「日の丸」復活残念といひて別る。 昨日山住dr.より「猥褻雑誌もちこみしならずや」とユいはれしあとにて、うれしさ2倍なり。 15:30畑谷(上平)博子に電話すれば出ず。共働きか。築島謙三博士なつかしく電話すれば外出中と。子息「よろしく」と伝言たのむ。 村田幸三郎より「この間、中隊の会をし村山さんにも会った云々」。 17:15築島博士より電話「声若し」と。「入歯はづしをり、その内会はん、ただし喫茶店はいや」と答ふ。野口君と和田君とのことはわれ話しをりしらし。 小泉八雲の曽孫のこといへば「父を知りをり、母は成城出」と。 恰も悠紀子茶を買ひに出てをり(母のところへゆけば「冷蔵庫昨日掃除せし」ときれいにしてをりと。われやさしき声なりし由)。 中島君19:30来り、21:20ユに促されて帰りゆく。富山大学出にして数学好きと。頭良くアルバム見て井伏・海音寺を見分く。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇『白楽天』は君には難しすぎるとのことで文庫版の詩集を貸して頂く。 『アポリネール詩集』、『佐藤春夫詩集』、『月下の一群』、『三好達治詩集』、『堀口大学詩集』、『高橋新吉詩集』、『新編シラー詩集』 10月29日 よべ22:00前ねて2:00にさめ5:00起床。外池昇に電話すれば「3月2日14:00来る」と。小泉にかからず。 7:30築島博士にかけしも応答なし。8:00電話すれば「別居せし」と。「連絡してくれや」といへず「出来ず」と。 高田瑞穂に電話し「11:00ゆく」と云へば「来い」と。11:00高田にゆけばいよいよ老衰の気配強く、 「名誉教授室」を作らせんとが成城学園の希望にて、栗山、池田(※栗山理一、池田勉)らの老衰につかず。 帰宅すれば正野君より「退院した」と電話。次の三火会は福永英衛門の話にて、それ迄には瘉ると也。 ユ17:00すぎ帰り来り、17人集まりみな不幸と。矢野峰人先生の次男好弘氏より『歌曲集2』来り、天野忠、大野新らの詩に曲つけむちゃくちゃなり。 先生の『黙禱』回顧なる文のりをり。先生の詩の曲は好弘氏にしてこれはよろしきらし。 高田君の「老衰につき注意せよ」と嫁に電話すれば途中で切らる。ユにきけば「(※省略)遺産相続権あり嫁は無関係」と。 10月30日 よべ21:00ねて2:00排尿に起き、7:00起床。 7:30畑谷(上平)に電話し、共働きにて成蹊大に勤めると。非常識わびれば「ハガキかいた。仏教のことは奥さんにきいたでせう。結婚後15年」と。 咲耶に電話すれば「肝臓わるし。亡くなりし岑夫の金にてやっと食べをり、幸夫には命じて訪はす」となり。 9:00すぎ中島保博君(※ママ)に電話し「『白楽天』は他にやった。貸した文庫本(※鴎外訳『即興詩人』と『月下の一群』)よめ」といへば「ハイ」と。 10:00山住dr.へゆき「変な本(※エロ本など)もって来ず」といへば「すみません」と。「躁」といへば睡眠剤変へたまふ。 瀬見伊三郎君に電話し、高田の病状話し「[換]金もしくは市場出しを佐伯とともにやってくれるや」といへば、瀬見「応」と。「今夜来い」といへば「来る」と。 矢野好弘氏(峰人博士次男にハガキかく。昨日か電話せしも「鬱病」とてあやまりし也)。 11:00浅野晃氏に電話すれば「炫火忌に中谷孝雄と出し」と。中河与一、中島健蔵のこといへば「同感」と。「書け」といへば「書く、その中ゆく、奥さんによろしく」と。 伊藤徳子に「上京せずや。やむを得ねばわが家にて世話す」とハガキかく。 花井タヅ子に電話すれば「次の幹事は和田さん」と。「それなら出ぬ」といひ、ユの画の礼いへば「今、応接にかけあり。主人は何もいはねど幸せな人の絵といひし人あり」と。 苑子13:30来り、『女性対男性』やり、わが病気いへば14:30ユと荻窪へと出てゆく。 堀川博士に電話し、福永英ヱ門のこといへば「知らず」と。高田瑞穂の病状いひ「成城でよくおいてくれた」といひてすむ。 北町一郎に電話すれば「娘方にをり」と「電話(※省略)」と教へ「夜かけよ」と也。 中島康博に電話すれば(※2度目の電話)『月下の一群』よみをりと。これにも躁鬱症教へ「ジャム好きになればわが党」といふ。※ ユ、金貨のくじ01当りしとて1枚京にゆづらんとして電話せしも留守らしかりし。 瀬見夫人に「今夜酒のみに来い」といへば「8:00の片付けのあとでなければダメ」と。 7:00夕食して待ちをれば20:05分来り、サントリーウィスキーのみ0:30までゐし。梅干を土産にもち来る。 (※以下軍隊時代の回想。途中より躁による文節無き記述に変る) わが「軍隊生活で銃一発も打たざりし」を云へば「戦斗で中国兵を殺せし」と。 わが一等兵で29.50銭もらひ、ソ連越境中立条約破りしとの報に、林伍長と酒のみ一週ガヤガヤのあと、 老中隊長(荒木修少尉)保定の軍病院より帰るまで、 中尉は妻子を東北の開拓団に置き来り、「妻子がもし凌辱されをればどうする」との答へに 「日本軍もやったのだから仕方ない」と答へます。 「抵抗しなくても日本軍もやったのですから許します」と答へ、彼の法華経の太鼓打たずなりし也。 「おれも許す」が彼の答で、荒木修中隊長帰りしあとは元気なく、鹿児島出身の副官の後任となりし也。 われ憂鬱にて望都県にて平漢線の警備に当りゐし時、脱走を計画せしに、 小林は城壁よりて馬車にのり、我は前夜30分の睡眠と情報室の仕事に八路軍に脱走を計画しゐしに、10月10日は双十節の日。 Spyの少年「八路軍数万」来襲との情報もち来り、数百人と翻し、折しも着きし大同炭鉱の引上げ列車にタバコやれば、 「酒は何とかなりませんか」との礼に「なでればつけ上る」と。それは私の手に余るといひ、 20:00始まりし攻撃に西尾ら情報室も応戦し、敵の本拠の関帝廟の焼くるを見しあと列車にゆき、 「異状ありませんか」と連呼せしに応答なく、失望せしも20日除隊とて、荒木隊へゆき中隊長に申告し、 粗飯くはされ全田の大中隊の弟の入墨あると「軍隊へ来ても就職[運]動せしか」となぐられしこと忘れて、 新しき下着と新しき靴はき、他の加給品は駅前の巡警に売り、他は北京の岡田家へゆき3女と話す。 先づ入浴して下衣洗ひ、軍隊のシラミおとせしあと、次女国分節子の勤労先の課長への電話さし、 天津の数男に電話すれば、「尚子(ヒサコ)分娩におしめなし」と。 われ闇切符の売場で売人より闇切符かへplat homeへゆけば巡警にこれは何だといはれ、 「おしめ」の中国語わからずあけて見せしゆゑ「我是日本人」といへば「宜し」となり。 天津東站につけば国府軍の副委員長来信とのことに途一杯に学生をり。 われ裏を通って日本租界に入り、東海林歯科医院につけば■井盛君、東海林氏の東北にゆきし留守に開業しをる。 数男はその助けをし、朝は豆腐を食ひに誘ひ、タバコ代もくれるとなりしは、 あとにて西川、山内四郎に会ひ、西川北京在住の同窓生の名あげてくれ、 北京に帰り節子を西洋市場につれてゆき、我は岩波文庫の与謝野晶子集買ふ。節子の何買ひしは知らず。 秋の北京の好々を満喫せしも、故宮博物館に入れば「大和殿」に中国派遣日本軍の代表の署名せし机を置き、あとは八旗兵の軍服飾りあるのみ。 これにて中和殿保和殿の見学やめて、文殿閣へゆき(その前、外城で華服と靴とを買ひ、長靴は新華街1号の岡田家の内外に売りをれば、情報室長の斎藤中隊の連れし4人の将校来り「我が主張に従ふ」と。我断れば岡田少佐に「貴方は何期の先輩なりや」と問ひしも答へたまはず連中帰りゆく・・・ 10月31日 よべ全く不眠。瀬見君の0時半まで酔ひてからみしせい也。山住dr.に不眠いへば食後の薬賜ふ。(※省略) 7:00朝食とり、むりに出てタバコ屋にてハガキ5枚買ひて金くずし、代々木(160円)、東豊へゆく。 (※省略)姪をり日本語旨くなりをり。(出るまへ苑子より「縁切る」といはれし也)。他人の方[が]楽なり。 ゆっくり見てゐる内、簡君来り、11:00とて、とりしラーメン食ひ(1/4)、『近代東北区域研究資料目録(5,000)』買ひ、 ハガキ5枚をタバコ屋で買ふ。また『日本農民反乱の研究(5,000)』も買ひて代々木へゆきし也。 簡さん方、豪氏病気にてむりに会はせしと。それにしても無音は変なりし。(内原訓練所長は加藤完治とユ思ひ出す。) また来るといひ、高円寺下車。都丸の瀬見君に会へば眠りし顔しをり。 『一視同仁の果て(500)』、『トレック展(500)』買ひてより、阿佐谷に帰り、苑子と縁切る。 瀬見君来り『天皇・現人神(1,800)』にて1万円札出せば釣銭なく5,500の借用書置きwhisky呑まずユの買ひ来しすし1本を食ひ帰りゆく(紀州の梅、土産にくれし)。 畑谷博子より手紙もらひし故、我はすし旨かったと礼かく。但し教会を知りをりし故信者かと思へば仏教信者と!わがうたをいかがききけん。 中島康博、朝は公用以外は話せぬので失礼したと。われ別に気にしをらず、ただ勤め先へゆく気なしといふ。※ 太田夫人よりユキ子に電話、「22:00ごろ帰る」といへば、太田の嫁の親の知合の30才の男(東電・東大出・江川氏の息子の知合)の男の嫁世話せよ、太田夫人の嫁の親の知合と。 ユ、江川●人は原田民生委員の知合にてユすでに母にはピーコックにし会ひをりし也。(※筆迹荒く不詳)21:00薬のんでねることとす。 ※10月30日、詩人(躁)より職場に2度電話かかり、その後認めた手紙の下書きがあるので掲げます。 拝啓  先日はお食事にお呼び頂きありがとうございました。また今日は突然にお電話も頂いて恐縮しています。なにぶん役所の電話ゆえ私用の話も許されず、せっかくのお電話も簡単になってしまったことを重ね重ねお詫び申し上げます。  もとより私自身も電話で長話をするのが心苦しいたちなので、何かの時は連絡下されば先生の所へ参ります。どうか無用の心配はなさらないで下さい。今かかっている風邪を早く治してしまって、詩を一篇でも整えてしまったら、電話でご都合を確かめの上、お伺いしたいと考えております。  先生の若き日の写真には本当に感動してしまいました。今度お伺いした折にもぜひもう一度見せていただけたらと思っております。お借りした本(※文庫版の『即興詩人(鴎外訳)』『月下の一群』)も熱も引いている時に読んでいます。先生の方の体調が万全なのに、こちらがこんな体たらくで本当に申し訳なく思っております。御礼方々、近況報告まで。病中の乱筆お許し下さいませ。 11月1日 20:30臥床、7:55に起床(山住dr.の最後の手ききし也)。朝食後8:40山住dr.にゆき新薬の礼いひ躁症といへば「ユよこせ」と。 (ゆくみちゴミすてばに来し女つかまへて「自分のすてばにせよ」といへば「今日だけはおみのがしを」と也)。(※省略) 東豊書店にゆきラーメンは食はず十冊を買ふといへば「運び屋にたのみ、その費用は汝にかけず」と。 阿佐谷駅につき駅の便所にステッキ置き忘れ、ユに電話して「今帰る。すし買はうか」といへば「いらず」と。 タバコ屋に年賀ハガキ300枚の予約をし(※省略)帰宅すればユ「駅へゆき山住dr.にもゆく」と悠々たり。 美紀子に電話して「史の糖尿病に注意してくれ」といへば「承知」と相手にせず。山野井秀子に電話して「来ずや」といへば「来る」とさからはず。 ユ帰り三鷹の駅まで遺失物の電話して「なし」と!丸の形見なくせし也。根まがり竹のstik 14:00末富家へゆき謡本2冊もちゆき合唱す。16:00までをり「Ballモナカ」2ケもらひて帰宅。 高田瑞穂に電話かかり「雨中散歩が一番」といひ「『成城文芸』70周年号にも原稿すでに出して感謝されし」と。幸せな男なり。 18:35瀬見氏に電話し「5,500預りゐるや」と問へば「預りゐる」と。「11月4日は」ときけば「小企業故休まず」と。 「我向きの本を用意せよ」といへば「応」と。(山野井は「その内来る」と)。 和歌山の眞理(みち)の友教会で教祖の死を悲しみ未亡人以下灯油をかぶって死にしと。(※省略)21:00新しい眠剤のんで眠ることとす。 11月2日(日) よべ眠剤のみ23:15起きてユに風呂に入りて就床。2時より不眠に気づく。5:00起床。gas-stove使用するもわからずユに5:00つけてもらふ。 6:00televiつければユ、「利己主義」といひて小さくす。初枝叔母と兼清隆二君に挨拶状かき礼拝にゆくと決心す。 続けて能勢正元に「(2本の大高野球部旗を)寮歌祭に使へ」と指図す。みな失礼なれど理窟はあり。 無着成恭より「恵存」の署名ありし本を佐伯にともって出る。8:00犬飼孝の『万葉(マンニョウ)講座』に「秋の七草」を歌ふ「あさがほ」は何に比定せしか、怪しげなりし。 「牽牛子」とは[槿]なりと我は断ずるなり。9:00阿佐谷発の地下鉄にてゆき、 (※教会では)3列目に坐り原夫人に丸重俊の礼をいふ。知らぬうたみなうたへ快し。 東豊より本包み来り、開くれば『A Chinese English Dictionary(10,000)』以下27冊、総計29,980円買ひし。 11月3日(文化の日) 昨夜21:00床に入り6:30起床。山住dr.の往診を乞へばすぐ来られ「あす8:00来い」と。 7:00文化の日として勲4等まで多くを報ず。土光敏夫以下1,000名以上、中に福永英衛門(英二)あり。NHKを見れば「原爆記念」の催しなり。 15:00前、外池昇来り「大塚山が雄略陵」とのわが説に賛成。「宮内庁うるさし」と。神武・・・孝霊までは無根、開化より北九州にをり。 記紀ともにMärchenをのす。武内宿禰の500才説はこの説話の所為にて大和に来てのち大陸より渡来の文化を残す。猪飽、犬養は部名にてよろしきも秦(大秦)、今来などが南都北嶺に来るや、その政治力によりnara、京、大仏、唐招提寺などを造る。 佐々木青葉村先生より習ひし鑑真(カンジン)をいまはガンジン、万葉集もマンヨウシュウと変りし也。 ユ昨日往診のお礼にと20:20山住邸へゆく。 君が代国歌、朝顔は牽牛子とせず。菊は白より色づきしが多く、タンポポは全く西洋タンポポとなり、レンゲ田は施薬と代り、この10年の変り多し。 18:30竹森先生に「風邪にてあす参れず」といはしむ。中島君にも「あすはダメ」といふ。 11月4日 21:00就寝、5:00起床。教会へゆかんといへばユ止める。金曜にでもせん。 5:40入浴。東豊書店へ29,800円ひにゆく。(ユ、「我の病気で神田信夫君不信」と。) 急に『四季』やることとし田端の中島君にゆくこととす。(※第5次『四季』終刊号) 花井夫人にも「11月末まで」といふハガキかき(中島君来週来る故、同じこといふこととす)。 ユと共に高円寺、ステッキ(3,500)買ひ、都丸支店へゆき、買へるだけと思ひて買ひしも、 沢田瑞穂『宋明清小説新考(4,500)』、『イスラエルの国と人(800)』、『現代敬語辞典』など買ひて、 『中国古典小説用語』と買ひしに、重くて簡主人(※瀬見氏の誤記?)にいへば持ち来ると。 11月5日 文化史の女にてはなく東大生にて「成城大は「片仏(※堅物)・偏窟きらひ」」と太田夫人の3人の推薦に入らず。(※不詳) われ早起きして転会式すみしあと東豊書店にゆき「2冊+6冊」注文し、もち来り、(※以下不詳) 竹森先生に「あす午后お訪ねしてよきや」と承れば「まあよし」と。小清水夫人と駅で別れて帰宅。 午后来る筈の瀬見君まてば来り、9,000払ひてすみ、鮪の海苔巻と菓子出し、もち来し本は20冊。 沢田瑞穂『宋明清小説(4,000)』、『聖書1955年改訳(1,800)』、『天皇の陰謀()』、『王代敬語辞典』、『イスラエルの国と人』、『岩波新書5冊』、『クセジュ2冊』合計13冊(※省略)総計9,000-5,500なりし。われ怒らず。知らず。 whiskyのませ、小lunch出して16:30帰りゆく。デタラメ置きしも大して腹立たず。明日・・・・と決定。われ眠くteleviきかず。 けふユ、stick(3,500)高円寺の道傍にて買ってもらひ都合よし。(※省略) 11月6日 よべ21:00眠り7:30さむ。『四季』休刊せしも同人負担として再びやることと決心。 11月7日 8:30起床。入浴。苑子14:00来り、ともに佐伯にゆき■依(800日)買ふ。まことやにゆき、正野君に印刷たのむ(5,000)。 酒屋にwhiskyたのむ。 20:00までかかり『四季』再創刊。井伏さん、野田又夫、南川正純、福地(※福地邦樹)、藤沢桓夫、槮(※井上槮)、森亮、藤野一雄、坂口允男、小高根太郎、石山直一、大野沢緑郎、大東夫婦(※大東勝之助・幸子夫妻)、松枝茂夫、岩崎昭弥、岩橋節子、河村純一、花井たづ子、西村一雄(浪中卒)、都留純也21人に速達かく。 21:30瀬見に電話通じ「あす午前中来る」と。いやいやなり。高田は始め入浴。ついで「もうねた」と也。速達料5,000円。 11月8日 (※14:00-19:00) ※この日14:00-19:00に訪問するも、記事なし。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇休刊中の『四季』の11号を出す由、並びに新同人として迎えて下さる旨をきく。4回文の同人費を払ふと編集を手伝ふやうにと3千円の日当(?)を返して下さる。 〇軍歌や昔の歌謡曲を覚えろ、教へ子の養子はどうか、などと云はれる。 〇『コギト』を売却するらしく「君に売ってもよいがいくら出す」と問はれて言葉なく「だめだ、だめだ」と云はれてしまふ。 11月9日(日) 8:30さめる。下着全部びしょぬれでとりかへる。入浴。 第5次『四季』同人に手紙かきしを速達とす。11:00なり。瀬見君来り8,000にて引取りゆく。14:00也。 11月10日 8:30起床。飯食べずに山住dr.。血圧96-65、「お疲れでせう」と也。(※幼時の)寝小便のこといへば「dr.も「5年までやりし」と同調。(※省略) 21:30川久保に電話し「東北のessayかけ」と云へば「いや」と。神田信夫君に北京よりの感想ききしも「台湾と異なることなし」と。「東北の詩かけ」といへば大いに笑ふ。『清朝の十王』かくといへば笑ふのみ。 11月11日 夜2時間よりねず、5:30起床。8:30山住dr.。 9:30ゆみ子みや子哲夫来り、病院へつれゆかんとすれば杏林大学病院に電話すれば(ユが)「ボケはだめ」と断らる。 弓子の買ひ来しにて午食とす。 (10:00佐伯さん来り雑本10冊を4,800にて売り「ソヴィエト大辞典は市に出す」と。) 15:00、2女を返し、瀬見君来り、前々日買ひし本を酒のませて返し(8,000)、 川久保来、「(※松本)善海追悼」の原稿返す(わがことのみかきをり)。18:00ねこむ。 11月12日 7:00さめ久しぶりに飯くひ薬ものまずものまず8:30山住dr.。傷見てもらひ塗薬かゆみ止めもらひて帰宅。飯後の薬Vitamin剤のむ。 10:20西川より電話「金沢(※金沢良雄)虎の門病院入院危篤」と。ユをして川久保に電話せしめしに出ず。羽田のことを云ひて金沢のこと忘る。 (※省略)大野沢氏より葉書、原稿送ると。西川英夫氏の90年記念文集(※『Tokyo Tatemono 90』)来る。 16:00花井たづ氏に電話すれば原稿を持って17:30来る。10,000受取る。 20:00山田先生に電話して『成城文芸』に「金瓶梅に現れた助数詞」を書いてよいかきけば「よろしい」との返事なり。 21:00以後入浴してねむる。(橋本印刷に見積りをきかせてと葉書)。東豊に借金の金高を15,390円ときく。 11月13日 よべ22:00就寝。5:00ユに起さる。瀬見伊三郎は電話かからず。川久保は「羽田の連絡にて一日在宅」と。 9:00川久保にゆき思ひ出はなし丹波と4人のクラス会を承知せしむ。高円寺の都丸書店に『皇陵』返しにゆき1,000余の本買ひ、 帰れば弓子午飯もって来てをり洗濯し、蒲団屋に古ブトン2枚を新しくととのへ(1万円ユわたす)苑子ちゃん来り、共に出て彼女は銀座にゆき我は正野邸訪ねしも見当らず、帰宅すれば福地君より2万円と拙い詩。大野沢氏より旅行前とて「詩送りし」と。 20:00すぎ村山高氏に電話すれば「12月上京の時交渉する」と。(丸重俊の電話番号、弓子の尽力にてわかり「元気」の由)。 11月14日 (※11:00-14:00 『コギト』1借用。) よべ22:00就寝。4:30さめる。ユと共同して電話すれば丸重俊出て「元気」と。煦美子に「結婚決まった」とうそついたことを云ひ、 能勢正元に「野球部歌」うたへば感心さる。「村山さんによろしく」といひしも村山さんは「12月来る」と昨日連絡ありし也。 末富さんに本2冊貸す。「今日は(※碁将棋)都合わるし」と也。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇食が細く、寿司屋で三貫ほどしか食べずにゐたのを、プライドを傷つけられたと勘違いした板前にどやされた話。 〇先生と三女京さんの子息と3人で印刷屋まで散歩す。 11月15日 (※18:30-20:00 『コギト』2-3、『戦後吟』、『天井の花』借用。パンをお土産に頂く。) けふも4:30起床。ユを苦しめ、船越苑子来ると思ひちがひし。松枝先生にお伺ひし月末までに詩の訳たのみ(※『四季』同人費)2万円の中1万円を返却。 先生に送られてbusにて14:30帰宅。30分昼寝し、 石井正吉君迎へて本見せ、夕食を供し(17:00)、18:00いれちがひに来し中島君に本あまた見せ歌謡集1冊貸し、週2度の協力を約せしむ。(ユ、万年筆買ひ来る。4,000円と)。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇本日も道頓堀行進曲など歌ひながら、かつてバットでいろいろ壊しながら街を歩いた高校時代の事を話される。 〇モダニズム時代には、江間章子に「もし女房が死んだら僕の所へ来るか」などと冗談が云へるほど親しかった由。 また別の女詩人と小田原の三好達治を訪ねたら「そんなことで詩が書けるか」と焼きもちを焼かれた由。 11月16日(日) 5:00起床。大島三原山噴火と。礼拝休み、ユの出しあと上平(畑谷)夫人を呼ばんと思ふ。ユ、大反対なり。ヤキモチか。 弓子来り「苑子はダメ」と。ユ、家に残り、我、病ひとて「彼女来ればパーマにゆく」と。(※省略) 畑谷夫人に電話すれば「夫君いまだ帰らざるも「連絡ありし」」と。「ガンバレ」といへば「ガンバレル」と。 20:00田中初枝叔母より電話、「相続はあとまはし、税はそのあとで」と。「われ18日に下阪」と電話することとす。 11月17日 21:30臥床、2:00排尿、5:30入浴、7:00起床。山住dr.に旅行いへばさしとめらる。不満にてタズさん訪ひ贈物し、 夫婦して瀕死の母を訪ふことのムダをいひ、手をつないで江古田駅、80+160円で阿佐谷着。苑子まちをり「明日は2人、朝来る」と。(※省略) 11月18日 よべ20:00ね、5:00さむ。餡マン頭食ふ。(※省略)三火会とて散髪にゆくこととす。 広島通の死にしことなどしるせし今中会の名簿来り、苑子我が愛撫に困りをり。16:20村田幸三郎の夢見し由。 田中久夫氏来り『四季』同人になり呉れ、17:30川久保君、東洋文庫の閲覧票もち来る。羽田には電話する由。 18:30橋本印刷より「見積りつかず」と。20:00前、木下雅夫に電話すれば「12月に嫁つれて来る」と。 20:01田中初枝叔母に電話すれば、数億円もない遺産にて「大江勉は自動車も世話してくれる故」と。(※不詳) 11月19日 2:00さめ3:30入浴すませ、また眠りて6:00さむ。8:20高木(本間)尚子に電話しクラス会幹事を命ず。苑子にかからず。 賀状「ア」すむ。史に関しユと争ふ(10:00)。植村先生「再入院」と。今沢幸君より同人費来る。ともに返事かく。20:30眠る。 11月20日 6:00すぎさめ9時間眠る。8:00朝食すましユに断って苑子にゆく。不在。寒がり佐伯に寄り雑本3,800買ふ。 「11:00ごろロシア百科事典市に出すためとりに来る」と。「11:00すぎ佐伯氏来り「5万円で市に出してみる」と。「むりなければいくらでもよし」といへば安心して一服して帰りゆく。われ2度目の入浴。昼食了へて0:00なり。 4,800円で買ひ来し本よむもたのし。〒は石井正吉君より先日の晩餐の礼状。(※省略) 朔太郎かきし『浪曼』来る。 11月21日 よべ(※省略★) 12:00眠り5:00さむ。8:00朝食後、ユ、花井タヅ子に電話すれば博士出て「女房下阪」と。 苑子「喜んで会ひに来る」と。めでたし。10:00朝飯に起きれば弓子来てをり、弓子本を運び11:40となる。克次朗に船越家を嗣がさんと思ふ。 (※省略)  弓子、克次朗を船越家にやれぬと怒り15:00帰りゆく。(※省略) ユ、寒中買物に出てゆく。われ入浴すまし「助数詞」の原稿考へる。ユ、血圧156を越し疲労す。 11月22日 よべ21:00眠り5:50覚む。克次朗をして船越家を興さしめんとし、ユ、反対す。7:00起床。入浴中、船越清君と映子との見合を思ひつく。 音痴なり。 8:00田中初枝叔母に「上京せよ、宿はわが家に」といへば「来春」と頑固なり。 夜、大高同窓会よりエンジ色の帽来る。川久保より「羽田来るも来月初か」と。丹波27日は困るとの電話もききたり。 昼食後、決心して成蹊大学へゆけば畑谷女史不在。残念とかき帰宅すれば電話かかり失礼ともいはず。無縁なり。 吉祥寺まで歩き『台北(350)』、『男どき女どき』(懐中)もち帰る。遠藤商店の番頭ニコリともせず。(※省略) 11月23日(日) よべ21:30ね、5:15さむ。7:00電話すれば初枝叔母にかかり「忌明け正月上京、わが家に来り泊る」と。朗らかな声なり。 畑谷女史に憤慨状出す。ユ10:00印刷所へ「はっきり見積れ」との速達出しにゆく。われは入浴。畑谷つかまらず。重久「16:00来る」と。 13:00出て成蹊大へ畑谷に会ひにゆきしに帰宅と。歩きて吉祥寺教会の前とほり(※省略)帰宅。 ユに断りて川久保にゆき引導わたす。丹波よりも連絡あり、学士会館で会食と。(※省略) 250円の雑本買ひて帰宅。 重久生まちをり、ともに歌うたひ、天丼食はせて19:00帰りゆく。代々木の予備校で重用されをりと。(※省略) 「いのち」でハル(※大河ドラマ:泉ピン子)死ぬを見る。終日伊豆大島大噴火にて島民みな去り、桜島も噴火。 11月24日 よべ21:00就寝。5:00覚む。朝食後9:00ユ畑谷博子女史に電話すれば「13:30来る」と。12:30午飯了る。うまし。 四畳半に通すことと定む。畑谷女史13:50来り、洋菓子6ケもち17:30までをり「2週間後再来」と。こちらはご免なり。 名古屋のきしめんと昆布とを与ふ。 11月25日 (※14:00-18:30 『コギト』4-7借用、夕食御馳走になる。) よべ21:00就寝。6:00起床。睡眠十分なり。 8:00前、南川正純に電話し(※『四季』)会員10人以上と自分の同人参加を認めしむ。強引なれど仕方なし。 野田又夫氏に速達し「春季号に名文を」と。佐伯にゆけば「『コギト』6万円に売れし」と。「午ごろ来て精算する」と佐伯譏嫌よし。 ユ山住dr.にゆき「薬かへる」とききしと。21:00佐伯さん来り『コギト』揃6万円で売れしと、手数料5,000円引き雑本500円で引取りゆく。 ユ、高田瑞穂君に速達出し「文の書き直しをわれす」と決定す。 16:30山住dr.、眠剤かへたまひ、すでにユに渡せし。正己氏の『四季』にかかぬことは承知と。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇夫人、しきりに「詩を書いても詩人になんかなったらだめですよ」とおっしゃりながら夕飯の支度す。西島大さんから電話あり『コギト』原本はそちらに預けられることになった模様。 〇伊東静雄の妹君に閉口した話。 〇新宿を萩原朔太郎と歩くと、車恐怖症なので頃合ひを見計らひ「今!」と、手を引っ張って横断しなくてはならなかった話。 〇増田晃と薬師寺衛の話。 〇「西康省」は卒論を指導教官に褒められた嬉しさに一夜で成った由。 〇坂口充男さんが送って来た詩に、その場で書き直しの通知をさらさら書かれて驚く。 11月26日 寒くて炬燵に入る。5:00起床。「助数詞」かくつもりなりしも出来ず。よべの睡眠不足と寒さにて弱る。山住dr.の薬かへたまひしらし。 televi見つづけしのみにて大阪の印刷屋より電話あり「12万円位で紙わるくす」と。同情的なり。 一度入浴し、あと炬燵に入りをり。ユ、母にゆき大(※西島大)来るをまちしも来ず。21:30就床。 11月27日 4:30起床、排尿。苑子に会ひたしといひて叱らる。6:00朝食、8:00高田瑞穂に「会ひたし(同人費とりに)」といへば時間14:00ときまる。 ついでユ、花井夫人に電話すれば夫君をり小声で役に立たず。大に「午前中、または18:00以降に来よ」といへば「今日は忙し」と。 西川満氏に『アンドロメダ』受領の旨ハガキかく。11:00入浴。 12:00近く丸木(高松)直子来り、14:00ゆくこととなりし高田瑞穂に「2時間遅れる」といひ、ユとボヤクをきき(松本一彦の思ひ出はなす) 15:00出て高田家にゆけば次嬢待ち受けてくれる。夫人の写真拝みてすみ、1年分の『四季』の会費1万円もらひ、共に出てcafé店。 われは紅茶といへば彼も紅茶に砂糖多く入れ奢ってくれる。出て高円寺より歩きて帰宅。ユ、血圧高く山住dr.に警報受けしと。 松田信隆、みす子に近ごろ反抗すると(88才なり)長き電話あり。 11月28日 4:30さめる。「コチフカバニオイオコセヨウメノハナ」ニ「太政大臣ケンツクシノカミ」。 6:00ユ起き7:00朝食用意す。高田瑞穂へ礼状と受取(『四季』第11号-14号)のハガキかく。(※省略) 船越苑子・西島大とは連絡なし。広島の桧谷博敏・充代夫婦、瀬見伊三郎氏夫婦に悼み状書き12月発とせんとす。 けふ河村純一同人より同人費と歌来る。(※省略) 終日茫然。花井夫人来り「桜の木」置きゆく。 南村より詩の如きもの来り、同人費払ふ。夜、21:00就寝。(川久保より「羽田来られず」と電話ありし)。 11月29日 よべ21:00就寝。3:30排尿に起き7:30起床。『四季』の編輯をする(今沢幸の難文もわかり易くする)。 14:30高橋重臣君、熱海より電話、同人費未納、下手な詩送り来し也。克次朗の電話は今日来る由ではなしと弓子。 11月30日(日) 6:00起床。ユ、苑子のことにて嫉妬し、無音。 12月1日 晴。佐伯にゆきero本3冊1,200×3買ふ。苑子けふも来ずと。 12月2日 よべ20:30就寝。7:30さめ朝食後、初枝叔母に5,000の受取と「正月来訪、宿する」とかく。 ユくどくて、瀬見伊三郎氏の来訪(19:00)に21:15まで相手す。 (津田塾大学に電話すればMlle.Skey、Trontoに帰りHighSchoolの先生となりしと)。 12月3日 よべ21:00就床。3:00排尿また眠り7:30起床。9:30昨日電話ありし松枝茂夫氏に電話すれば話し中。 15:00前、家を出、松枝氏宅へ参れば夫人色々ともてなされ恐縮、茂夫先生『四季』巻頭の詩かき直して賜はり阿佐谷行のbus停まで送りたまひ恐縮。 (※省略) 21:30臥床。 12月4日 よべ21:00就床。7:30起床。歳暮の礼状かき、40-23の詩人(喜志邦三門下と)(※不詳)へ受取かき、 瀬見氏へ『四季』第1号届けにゆき金もたざれば真っ直ぐ帰宅。20:00眠くなり床敷いてもらふ。 12月5日 よべ21:00就寝。5:30覚め6:10起床。築島謙三氏へ謝りのハガキかく。林叔父の回忌、丹羽美佐の買ひし塩せんべい林夫婦より送り来る。 終日炬燵にをり。ユ、荻窪へ出てゆく。(※喪中挨拶 省略) 『東京四季』来り、巻頭に近く杉山平一君の詩集評と作とをのせをり。不審。 成城学園より「開園七十年に寄附を」と。いくらか堀川氏にでも聞かんとす。岡茂雄氏『閑居漫筆』よみ了る。ユ、戸田画伯にゆく。 12月6日 よべ21:30就寝。4:30起床、7:00朝食、13:00ユ、午食せしめ田中家の法事に出てゆく。俊子姉が喪主でありし。孫京都大学へ推薦決定と。めでたし。 15:00克次朗シュークリーム持って来る。 中島君より「あす来てよきや」と電話、来週月曜と返事す。我の原稿いまだかかざれば也。我は終日televi見てをり。 12月7日(日) よべ20:30就寝。7:00排尿に起き7:30朝食。ユ、荻窪にゆき12:00帰宅。15:00入浴。丹羽美佐購入、送りしは林俊郎・桂子とハガキ。 12月8日 終日無為。 12月9日 よべ21:00就寝。8:00起き、ユ、西武dept.に京と逢ひ歳暮すると也。林俊郎へハガキ投入たのむ9:30。 ユ13:00帰宅。昼食供し16:00静江母へと出てゆく。われ終日家居。(※喪中挨拶 省略) 藤沢の鈴木猛氏より『四季』続刊の由、承知。一部買ひたく手続き教へよ」とハガキ。 12月10日 6:00さめ6:30前、前川(※前川佐美雄)夫妻へ年賀状かく。寿々子嬢未婚にて挿絵かきをり。『日本歌人』に宮崎智恵氏3冊目の歌集出版と見ゆ。 12月11日 よべ21:00就寝。6:00すぎ起き、ユ、柿むきくる。9:00出て高円寺へ散歩にゆき10:00帰宅。ユ銀行へ出てゆく。 Skey先生と富山すず子とCanadaよりX’mas card。片桐昭三郎逝去と、夫人より。17:30入浴。18:00夕食。 全国方言辞典よむ。あすCanadaへ返答せん。森亮氏より1万円とどき同人ほぼすむ。 (14:00ごろ福地君より電話「『四季』原稿あつまらずや」と。「然り」といへば「1月15日締切とすべし」と)。 12月12日 よべ21:00就寝。6:30起床。Canada TrontoなるMlle.M.Skeyに返答かく。 11:00帰宅すれば「財布拾ひをり」との電話ありしとに、再び出て拾ひ主見つけ礼もいはず財布とりかへし240の切手はりて〒にまたゆきて投函。 午后16:00同じくCanada の Tomiyama夫妻にまた航空便投函をユにたのむ。 12月13日 21:00ねて7:00さめる。 12月14日(日) 終日無為。中島君「あす14:00来る」と。礼拝夫婦とも休む。 12月15日 (※14:00-17:00 『コギト』8-11借用) ユ12:00みす子さんに会ひに出てゆく。俊子姉の会なりしこと後にてわかる。 14:20中島君来り、ユの帰るまでをり、下井草の古本屋にゆくと出てゆく。 村山高氏より「24日13:00学士会館で会ひたし。返事くれ」と。 福地君より「厳父84才で亡くなられ喪中」と。初枝伯母よりも「喪中」と。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇鬱なのか元気なく、『四季』は〆切を延ばして原稿を待つと。歌も歌はず。 〇大高では成績順に出来る者が後ろに座ることになってゐて、ドイツ語が苦手で前に座ってゐた保田さんに度々忠言した由、ただし野球部マネージャーになってからは自分も前に座るようになったと。 〇(この日古本屋で嫌な目に遭ふ。) 12月16日 22:00臥床、2:00放尿に起き7:10また放尿に起き起床。村山高氏へ「24日午后1時学士会館で待つ」と返事。 終日炬燵にをり。『文芸年鑑』締切12月10日とあるもけふ返事す。 就寝後、西川より電話。「関口八太郎君逝去、葬儀は明日1時新宿大宗寺にて」と。 12月17日 7:00起床。関口へ御花料5,000包む。12:00までにモーニング着て新宿2丁目の大宗寺につけば無人。30分まちて庫裡にきけば18:00からと。 帰って西川に電話すれば、けふはお通夜にて18:00から。あすは葬儀にて13:00よりと。 ユの買物に出しあと美紀子お歳暮もち来る。ユ帰宅。美紀子も去る。淳一京大と名大受けると。雅子のことは云はず。 19:00村田より電話「村山さんに電話し24日学士会館でと云はれし」と。 12月18日 よべよくね、11:30より喪服来て大宗寺へゆけば1人の副官のみ。14:00まで待ち西川来しゆゑついてゆき坐る。西川昨日の18:00にも来しと。 一般焼香始まれば西川先に出る。われも焼香し、帰り、畠山ののり子らしきに挨拶受け、父上と同年同月同日生れと見当ちがひいふ。 15:30帰宅。何もせず。大島また噴火と騒がし。 12月19日 よべ不眠。9:30起きて朝食。ユ、ブツブツ云ふ。14:00昼食、ユ買物にゆき16:30帰宅。18:40夕食すむ。 21:00福地君に父上86才の逝去を悼む旨ハガキかく。 12月20日 22:00ね、6:00さむ。年賀状かく。半分足らずかきて駅前〒へゆけばしまりをり。本局へゆきて出す。 11:00前、木下より「あす11:00来る」と。丹波篠山の中西薫生より黒豆贈らる。 森亮氏より『口語訳ルバイヤット』賜はる。杉山平一氏より4,000来る。(※『四季』購読費) 12月21日(日) よべ不眠、礼拝に休む。ユ13:40帰り来る。17:30木下登志子をつれて雅夫来り、青学へ教習にゆき見染めしと也。 すしとり19:00二人帰りゆく。(登志子は全日空の案内嬢と)。 12月22日 よべ22:00ね、7:00さむ。年賀状かき本局へ投函にゆく。ユ買物にゆき山住dr.に薬もらひ来る。辛島夫妻Cambridgeより賀状来る。高橋睦美N.Y.よりX’mas-card来る。 12月23日 (※14:00-17:00 『コギト』返却) 6:00さめ、8:00起床。賀状出しに本局にゆきしのみ。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇自伝を書くことをあきらめたとおっしゃる。 〇東大でアジ演説を見てゐて拘留された時の話。横流しされるビラを誰から受け取ったか書けと云はれ、クラス全員の名前を書いたら「お前のクラスは全員アカか」と呆れられた由。本棚に資本論があるのを、高校時代には『戦旗』を読んでゐた筈の保田與重郎が一瞥。「ふーん」というような顔をされたといふ話。 〇保田與重郎の女性スキャンダルの件。 〇中島栄次郎の家に上がり込んでは将棋を指し、妹さんがとってくれる天丼を食べるのが楽しかった由。 〇終戦後の中国在留中の話。行き倒れの母子に人だかりが出来(警察が来るのを待ってゐた)、誰も手を出さぬゆゑ子供に銭を握らせて日本人とバレ、逃げ出したこと。 眼鏡の修理に入った店で「これが日本人にみえるかなあ」と店員全員に感心してみつめられたこと。 また引き上げの際には、必ずやこのまま東南アジアに強制労働させられると覚悟し、佐世保で無事解放されると、もらったお金でスルメを十枚ほども買ひ込んで帰宅したこと。 〇テレビをよくご覧になる由、たけし事件を御存知で(もちろん毒舌は嫌ひ)、研ナオコが不細工で可哀想だから好きと。 〇『詩集西康省』の中詩篇を桑原武夫が仏訳して共産主義詩人にみせたところ「公孫樹に寄す」を褒め、「パリにはイチョウの木が一本しかない」 といふ手紙を送って来てくれた由。 〇辻野久憲から第一書房の後任を打診されたが学生の身分であり断った。『セルパン』への寄稿が人生初の稿料だった由。 12月24日 22:00ね、2:00排尿に起き、ねられず。7:00すぎ起床。辛島夫妻と高橋睦美夫人にAie Mail出しに〒へゆく。賀状すむ。 11:00昼食、12:00学士会館へゆき13:00村山高氏来り、村田来ずと思ひ昼食(村山氏)、われ喫茶。14:20すみ待合室へゆけば村田幸三郎来る。 14:00と思ひしと。14:45われcoffeeの払ひして別れて帰宅。中山正子よりMelon呉れしと。 12月25日 8:30起床。中山正子にメロン貰ひしとて礼状かく。ユ、静江母の見舞にゆけば、金光の弟の見舞に河野の次男をして付添にゆかすつもりと也。 森山夫人より歳暮の送り状来る。 12月26日 7:30起床。豊田泰子に歳暮にちくわ賜はる。14:00高円寺に散髪にゆき、15:15帰宅。末富氏と問答す。 16:00松本善海未亡人より電話「植村先生への往復にお寄り下されたく物贈った」と也。羽田夫妻ドイツの学会に出席と。 稲荷の荷田春満(羽倉啓吉)神社は死亡か。東方学会に名なし。 12月27日 22:00臥床、8:00起床。荒木修氏への賀状不明とて返送さる。紅葉の『両人女房』よみ了る。退屈しのぎ也。 12月28日(日) 7:00起床。髭そってもらはず朝食し9:00すぎ出て(小雪とて傘もちゆき)礼拝にゆく。 竹森先生に挨拶され副牧師さんの説教。すみて帰宅。ユ、戸田画伯に呼ばれて出てゆく。(※省略) 12月29日 6:00起床。終日炬燵にをり。ユ、母のところへゆく。 12月30日 よべ2:00までねられず7:00起床。寒し。食後下痢。10:10入浴。午后、苑子女史来らず、ユ、我をおどかす。不快。 12月31日 6:00起床。ユ、午后買物にゆき将棋盤(900)見つけしとのことに買ひにゆかす(柿を3ケみつけ来る)。 (松浦康彦東京本社へ転勤と)。2:30就寝。 田中克己日記 1987 【昭和62年】  この年の出来事 1月、大高OB金沢良雄逝去(6日)。 1月、成城大学元同僚で『四季』同人の高田瑞穂逝去(10日)。 1月、紀要論文「清初の十王」完成せず発表断念。 1月、,2月、川久保悌郎来訪。 2月、『四季』終刊と決す。 2月、肥下恒夫の戦前旧宅を探し回り果たさず。 2月、夫人に離婚や老人ホームでの別居を申し立てたりする。 2月、『四季』同人河村純一逝去(25日)。 2月、近江詩人会へ脱退を申し出る。 3月、『四季(11号 終刊号)』200冊発行。(橋本保印刷:印刷代金12万9千円) 3月、東京女子医大にて診察。パーキンソン病の兆候を認む。 3月、川久保悌郎を成田東の自宅に訪問。4月、来訪。 4月、『四季』終刊に伴ひ、会員中嶋康博らの『季(関西四季の会)』への入会斡旋を杉山平一に依頼。 5月、川久保悌郎を訪問。 5月、三火会に出席。 5月、『四季』同人植村清二逝去(27日)。 6月、足を負傷。躁はなはだしく夫人日記を代筆す。 6月、北区旧宅を探し回り果たさず、井の頭線吉祥寺駅にて保護される。 6月、川久保悌郎を訪問、来訪。諄々と諭さる。 7月、彦根より藤野一雄来訪。 8月、山住医院長男死去。しばらく塩入医院より投薬を受く。 9月、南川正純来訪。 10月、高橋重臣来訪。 11月、川久保悌郎来訪。その後入院、一時面会謝絶となる。 11月、夫人と塩山温泉広友館に一泊。 11月、東洋文庫にて東洋談話会に出席。 12月、[川久保悌郎を見舞]。 12月、継母静江入院。 1月 1日~ 8月29日【75冊目】 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 6:00起床。天気予報晴と。7:00ユ、氷買ひにゆく。『コギト(※原本)』2人でもちて大宅にゆく。重し。 静江母、元気にて食ひ物もわが家よりあり。11:00出て帰り来る。 行く前すでに賀状200枚以上来てをり。あす返事かかん。 1月2日 7:30起床。年賀状の返事5-6枚かきしのみ。 13:00孝行来り、13:30克次朗来り、15:30稲田哲夫、健太郎、禎子2児つれ来り「京ケガして来られず」と。 小林夫婦来り、史夫婦2児つれ来る。我、honey wineのみ、小林、稲田とも少しのむ。 19:00史一家出、ついで小林、稲田と帰りゆく。われ入浴してをり挨拶す。 1月3日 よべ不眠、6:00起床。賀状の返事かき10:00投函。またかけば20通ばかり来り、 大藤名誉教授より「ツングース語はロシア語か」と。呆れて物もいへず、やむを得ずかく。 ただし満洲族はGoldi以外みな山東訛の華語話せしと我思ふ(康熙以後)。 1月4日(日) 7:00さむ。小林高四郎氏、死と新聞に見ゆ。ユ、風邪とてわれ1人礼拝にゆく。 清水さんなど見えず。2:30昼食。賀状の返事かき疲る。 1月5日 よべ不眠、6:30起床。11:00ユ、戸田画伯へ新年の挨拶にゆきしもやめて帰り来る。 われ賀状の返事で疲る。 1月6日 6:30起床。10:00すぎ山住dr.、血圧110-75。眠剤かへてもらふ。 ユ、戸田画伯へゆく。15:00、ハガキ買ひかたがた山住dr.にゆけば先生風邪と。 栗山博士(※栗山理一)より年賀葉書3通来る! 19:30中野清見夫人に岩手の病院の電話番号きけば「しらべる」と返事あり、 つひにかからず。(※金沢良雄逝去。新聞訃報欄貼付) 1月7日 よべ不眠、6:30起床。朝食後、川久保に電話すれば金沢良雄の死を知らず、 お通夜にさそへば鎌倉の叔母の式後、誘ひに来ると。(※省略) 金沢の家探しに出、45分探しあぐねて帰宅。 1月8日(※14:00-16:30 『コギト』12-15借用。) 7:30起床。川久保、昨夜金沢家へゆけば一族のみのお通夜なりしと。 岩崎昭弥より「同人費送った。詩は書けず」と。 中島君14:00来り、ユ、母のところへ弓子とゆく。中島君『コギト(※復刻)』もちて16:30去り、 ユ17:00帰宅。けふ賀状数枚来る。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇大阪におけるコギトの会で、誰一人詩の話をする者がなく伊東静雄が怒ってゐた話。 「コギトの詩人なかなかよろしい」と年賀状の残りに書いて来て、訪ねて行って玄関先で話をした。中に招じてもらへなかったがその後、妹さんが勤め先の中学に意味もなく訪ねて来るので困った由。 この辺りから折合ひが悪くなったものらしい。 〇『四季』を11号で終刊にする旨。淺野晃氏は全詩集を出してしまひ、 他に書いて欲しい人は音沙汰なく、『四季』はどうなったのか問合せに嫌になってしまった由。 〇夫人が本日届いた年賀状を持って来られ「栗山さんから4枚目が」と笑ってをられた。 1月9日 よべ不眠、6:00まへ起床。8:30朝食、ユ、志木市の友の葬式にと出てゆく。 1月10日 8:30起床。13:00瀬見氏来り14:00まで雑談。ユ、戸田画伯にゆく。立原の弟より賀状。返事かく。 (※高田瑞穂逝去。76才。新聞訃報欄貼付) 1月11日(日) よべ不眠、礼拝にゆかず。ユ12:35帰り来る。 15:00丸重俊来り、ユと問答し酒喜びてもちゆく。18:00ユ、夕食の支度す。 1月12日 0:00ね、7:30起床。9:30ユ、山住dr.にゆき、我あとにゆき不眠いへば、あまり心配したまはず。 藤野一雄より詩来る。下手なり。 (美紀子、明大前までhyreで夫婦を運んでくれると電話あり)。 20:00ユをして美紀子の迎へをことわらしむ。 1月13日(※『コギト』返却、『四季』原稿の詩、3篇削って提出。) よべ2度尿に起き7:30起床。11:00出て高田瑞穂の葬式にゆく。 焼香となり出て築島博士(※築島謙三)の焼香まちtaxiにて新宿。昼食おごられcaféおごり、われは紅茶(1,000)。 2:25南阿佐谷にかへれば中島君来り、詩を直してゆく。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇丁度高田さんの葬儀から帰ってこられたところ。 〇継母に告口をされ酔った父親によく殴られた。おかげで食事を楽しむ習慣がつかず食も細くなったのではないかと。 1月14日 7:00まで不眠、宮崎幸三氏より「図書集成」見たと礼状。 1月15日 7:00起床。(よべ22:30ねる)。成人の日とて〒も休む。 1月16日 よべねられず。7:00起床。(※省略) 羽衣の山口トミ嫗より87才! 17:00川久保、東洋文庫の帰途寄り明日金沢の本葬にゆくと。高田瑞穂の死は知らざりし。 1月17日 よべ20:00まへねて7:00さむ。中国の胡総書記止む、72才と。 われも『四季』やめん。高松夫人より電話「田中秀子死した」と大阪より。 3:30ユ画にゆく。木原信輔(※高田瑞穂ペンネーム)『冬眠帖』見る。下手なり(昭和45年発行)。 苦心して湯わかし入浴す。ユ帰り来り角力見れば北の富士2敗。 (※省略) ユ、「福地君にあつとぎたのめ」と。 1月18日(日) よべ不眠、4:00起床。6:30より7:00前まで一寸眠る。朝食よしてユ礼拝にゆく。 10:30京より「15:00-15:30来る」と電話、17:00京母子3人来り夕食す。18:20退去。 福地(※邦樹)君に『四季』発行者にならずやとハガキかき投函す。 1月19日 7:00さむ。30分眠りし也。8:00まへにさめ朝食。10:00駅前〒にゆき大高同窓会費(3,000)払ふ。 (※省略)午食後、13:00高田瑞穂追悼の辞かく。13:30『四季』編輯了る。 ユ13:40〒へ書留出しにゆく。 1月20日 20:00就寝、4:00と6:00放尿に起く。 11:00「保田與重郎につき4-5枚かけ」と新論社より電話、応諾す。 ユ14:30戸田氏の代講と出てゆく。大野沢君より不明の処はフィンランドとデンマークの地名人名と。 水道止まる。18:00水道出る。19:00入浴。けふ大寒と。 1月21日 よべ不眠(ユに言はせれば眠りしと)。8:30起床。11:30便秘にて苦しむ。 成城大学より10万円寄附の受取り来る。けふは寒し。 「清初の十王」かくことと決心。19:15入浴。 1月22日 よべ不眠8:30起床。睡眠感なきに非ずやと思ふ。午食後、散歩。(※省略)角力面白し。 1月23日 よべ眠れず、けさ2-3時間眠りしとユの話。8:00起床。弓子来る。(※省略) サンケイ新聞正論係稲垣眞澄氏より2月10日までに「保田のこと400×4」かけと。 野田英二郎氏インド大使、69才と。 1月24日 よべもねつき悪く、朝方眠りしとユの話。8:00覚む。山住dr.にVitamin剤もらひにゆけばユ、すでにもち去りしと。 午后ユ、戸田画伯の代理となり水彩の指導にゆく。 (山住教授より岩波新書『日本教育小史』もらふ) 1月25日(日) 8:30さめ(よべ眠れず朝かに眠る)、ユ礼拝にゆく。 15:00南川より電話、『四季』のこといへば「つづけよ」と。 1月26日(※14:00-17:00。) よべ20:00臥床、9:00まで眠る1:30山住dr.。 12:00中島君「けふ来て宜しきや」と。「用なけれど来てよし」といへば「14:00来る」と。 中島君14:30来り、ユ母へとゆく。17:00近く中島君去る。 ユ帰来、きけば我「11号にて止め」といひしと。入れちがひに福地君よりの手紙来り 、「止め」を掲げよと。12号はやることとす。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇この度の『四季』に大木実さんに声を掛けなかったことを今更に後悔の様子。 また堀多恵さんを通じて方々の不満も聞いてをり、自身の了見の狭さゆゑであると反省の由。 1月27日 よべ不眠、8:00起床。14:00すぎ咲耶来り、息子のこといひて「15:00新宿にて会ふ人あり」と出てゆく。 成城学園より「31日が締切」との手紙来る。「清初の十王」とせん。 1月28日 8:30起床。エーズさはぎ(※AIDS騒ぎ)。朝食すみ「清初の十王」かく。 『五十嵐達六郎――人と業績』着きよむ。村山高さんも書きをり、野田又夫博士会談す。 1月29日 よべ22:00就寝、7:20起床。衛藤瀋吉長老、亜細亜大学学長となりしと新聞に見ゆ。 1月30日 よべ睡眠感なく8:00起床。朝食すます。ユ外出。(※省略) われ「清初の十王」の本文かき了へ注かくこととす。本文は200字×10。 桑原博士の如く注をくはしくせんとす。14:00出て高円寺へ散髪にゆく。 すいてゐて気持よし。石山直一氏より詩来る。 夜、註できず、発表あきらめる。22:00就寝。 1月31日 2:00前起床。10:00ユ、出てゆく。11:15関口家より香典返しの茶。 2月1日(日) 夫婦にて久しぶりに礼拝出席。わが作りし605歌はれてたのし。 中野清見いかがなりしや、岩手青森ともに自民色強ければ退けられ病気となりしと思ふも夫人より何の便りもなく見送ることとす。 石山直一氏へはあす信送ることとす。(※『四季』)12号いかがにや。 2月2日 2月3日 河野夫人3階に住む3回生つれて15:00来る。肺癌にて高松宮逝去。82才と。 2月4日 比島でAquino大統領国民投票で圧倒的多数とる。 2月5日 丸宅へゆけば夫人迎へてくれ中野清見の話。『四季』けふも来ず。 夜、televiにて井伏鱒二見る。88才飄々たり。中島健蔵の仲間かと思ひしも春夫先生の弟子なりしなり。 (中村地平を思ふ。北町一郎はつまらぬ男と知る。) 2月6日 エイズの女性患者1人神戸で発見され大騒ぎとなる。 2月7日 中野清見、現在岩手県立中央病院入院中と。西川に報ず。 福地に電話すれば「(『四季』11号)初校まだ出ず。再校送る故、廃刊かきそへよ」と。賛成し、費用は我負担と決定。 2月8日(日) 午后小林の孝行と克次朗来り日暮れまでをり。保田の伝記かけず。 2月9日 『四季』終刊ときめる。 昔の日記よみ返し都留・麝島の結婚の仲人となりしこと思ひ出す。 父の友、植田安世子逝去と。televiにて貝塚茂樹博士逝去と。 夜、野田又夫博士のエッセーひるがへし「コギト」派のことかき皆死に我のみ残りしと思ふ。 2月10日 よべ不眠、保田のこと一部始終思ひ出せし也。10:00電話かかり「書けぬか」と、ユに「かけず」と答へしむ。(※省略) (※日記にて)われ御岳の麓へ蘇東坡かきにゆきし年のこと見る。18:00京母子来り、泊ると也。 2月11日 『四季』11号の校正来り、わが後記長すぎ書き直して福地君に再校たのむとわが原稿短くし39pageとする。値段も300円200冊、福地君に20冊とす。 2月12日 『日本浪曼派』予告に中島栄次郎かつがれしも保田の「政治上処置」にて一度もかかざりしこと太宰治と同じ。 2月13日 昨日は日本の憲法記念日にて騒がしく、中国は旧暦の元日にてこれも騒がし。吉凶所を変へたり。 2月14日 津村夫人より『北信濃の歌』来あり、ユ柏井へ歯にてゆく間に読み了る。鈴木亨(先生!)解説と、 年譜も鈴木の筆にて『西康省』、『南の星』の刊年記す。 2月15日(日) 夫婦とも礼拝休む。 2月16日 日記よみ返す。11:00出て散歩、大和町の肥下旧宅を探せしもわからず、仙蔵院探せば宝蔵院に突き当たりbus道路に出。 佐伯へ寄りしに本売る男あり、店主我に気づかざる故逃げ出して帰宅。 『東洋学報』68-1.2来をり、これにて学会を退会せん。 日記よみ返し昭和28年5月28日わざわざ堀夫人より電報で(※堀辰雄逝去)通知受けお花料1,000円出せしと(29日)。 堀夫人と津村夫人とに手紙かくこととす。 (西川満、女につれられて散歩するに会ふ。足不自由にて80才と。「汝も不自由」とわがステッキ指す)。 2月17日 西川(※西川英夫)に電話すれば「中野清見近日退院」と。堀夫人と津村夫人とに便りかけず。 2月18日 よべも不眠。ユに離婚申し出づ。一寸眠りて譏嫌よくなる。(※省略) 日記よみ返し、中々苦労させし田中一家に苦笑す。 2月19日 午すぎて日記よみ返し色々のこと隠しゐるに気づく。高円寺に老人ホームあり別居せんと20:00云ひ出し、ユ承知す。 福地君に電話すれば「あすあたり再校出て28日には配れん」と。みな楽観的なり。 2月20日 中島君より電話、ユをして「(※まだ)『四季』出来ず、来ざれ」といはす。 終日昔の日記よむ。恋愛初期(※『夜光雲』第7巻)焼きしとてなし。 2月21日 日記よむ。午睡17:00さめ5:00と誤解す。(※省略) 2月22日(日) 礼拝にゆかずといひユ9:00でてゆく。10:10電話かかりしも出ず。日記よむ。12:17呼鈴、出ず。 2月23日 山住dr.。3.2文芸学部の会と、ゆかずと定む。(けふも『四季』来ず)。 2月24日 ユ出てゆく、母入院一日にて10,690円と。ユキ子反抗的なり。花井夫人より電話、大阪の母上逝去と。 2月25日 9:50藤野君より電話河村dr.(※河村純一)逝去と。ユに香料1万円と弔電とをたのむ。 14:40出て野方より中野まで歩きしも大和町の肥下宅見当らず。 16:00帰り来れば同じく風邪にて河北病院へゆきしとふ川久保、ユと立ちをり、話さず入室す。 用なく(病気とのことなりし)、『けんぶん6(※研文出版広告)』来り、 わが『蘇東坡』、『中国の自然と民俗』ともに売れ残りあり。不快。鼻汁出る。 2月26日 夜、津留の送別会ことわり、近江詩人会へ(名誉)同人脱退をハガキかく。(※藤野一雄氏宛) 2月27日 夜、橋本保印刷へ電話、話中なりし故、 福地に電話すれば20冊みな知人にやりし(伊東夫人を含む)。われの精算説に同意せず。 2月28日 ユ13:00すぎ母の処へゆく。西島寿賀子来をり、弟分教会長死せしと。 3月1日(日) 礼拝休む。20:00ユをして橋本保氏に電話すれば不在。福地邦樹君も同じ。「あす中島君来る」と電話あり。 3月2日(※13:30-18:30 夕食御馳走になる。) 8:10起床。ユ、9:40出て都留に選別1万円送り、山住dr.へVitamin貰ひにゆく。 石山直一氏の詩2月28日来り、そのあと廃刊ときめる(但し印刷所に11号原稿せしは11日なりし也)。 13:00中島君来り『四季』11号の送り先の袋を16:30までかきつづけ、飯みな食ひて来週月曜来る予定といひて去る。 19:30大阪毎日より電話「帝塚山時代のこといへ」と。「いふことなし」と答へてすむ。21:30灌湯了る。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇南方派遣の際の話。神保光太郎と中島健蔵とに関する話(※北川冬彦『悪夢』に詳述)。 3月3日 高田一族満中陰すませしとのことに1万円を4子に送ることとす。 3月4日 ユ11:00塩入医院へ先生診察の日ききにゆく。神経性不眠症の療法きかんと也。 橋本保印刷の夫人「あす早く主人いつ出来るや返事す」と。 3月5日 よべ不眠。無為。 3月6日 よべ不眠。山住dr.に再度たのみ親友の女dr.を紹介すと也しも遂に書届かず。 18:00福地君より本日『四季』11号出来と電話あり。 3月7日 昨夜はよく眠る。山住dr.より親友(女子医大神経科田村敦子教授)への紹介状昨日賜りしと。『四季』200冊来る。 3月8日(日) (※日付に間違ひあり訂正。礼拝等の記事見当たらず。) 3月9日(※13:30-17:00 『四季』4冊、『悲歌』借用、『四季』11号出来上がり。) よべ21:00眠り9:00さめ10:00朝食。 13:00花井夫人の代りに中島君来り、封筒みなかき呉る(同人、高田一族をのぞく)。 中に高田一族はじめ、同人あての手紙を全部中島君入れくれ、会員として(※誌面の)半ばその詩を以てす(11号)。 10号家になく花井夫人に電話せしむれば子らのため3冊あり何とかせんと(吾家に一部もなし)。 斎藤医院に4回入院。うち一日は小金井、塩入医院に入院(49年1ケ月)、 その後山住dr.にかかる(不眠症)。(※日付に間違ひあり訂正。) 3月10日 よく眠り、12:00までひるねす。 東京女子医大へユとともにゆき田村女医よりパーキンソン病の疑ひありといはる。松本善海の病なり。 3月11日 13:00川久保にゆく。元気にて夫人もお茶菓子出してくれる。13:30退出。 3月12日 京午後母に会ひに来ると。中島君11号の表書きかいてくれ(7,000ユ返せしと) 中島君13:00より、京母子つれて来り、15:00までゐる。 禎子退屈して帰りし也。16:00山住dr.にパーキンソン病云々の書渡す。 3月13日 よべ20:00就寝7:00覚める。眠し。ユに高田君の4子女に7,500を返金せしむ。(※省略) ユ、〒へ『四季』またもちゆく。『老人のボケ』をよむ。我に症状あり。 3月14日 田村dr.の薬のまず9:00まで眠る。朝食後11:30ユ山住dr.に報告にゆく。(※省略) 午后小高根太郎氏に1万円返却。野田又夫、田中久夫にも状かき返金す。 前川門下橋本高之氏の『改版白一華』賜はる。 3月15日(日) 夫婦とも礼拝休む。14:00高円寺の散髪店へゆき10枚の券わたし手紙もらふ。(※不詳) 3月16日 弓子12:20来る。南川正純へ10冊送り7,000返送。 ユ、野田、小高根太郎、石山の3先輩に『四季』送り1万円もらひしを返しにゆく。 3月17日 女子医大12:00まで待たされ田村先生何もいはれず。薬もらへば山住dr.のと同じ。 20:00前植村先生より「『四季』なくなりて残念」と。 3月18日 『四季』廃刊につき福地、中山正子夫人などへハガキかきあやまる。 3月19日 杉山平一氏へ『四季』11号3冊送る。4,000もらひし也。ユ12:00前、上野の戸田みつぎ女史の会へと出発。 午后都留純也君より5千円来る。少しは旅費としてとってくれし也。ユ16:00帰宅。 孫どものこと便りなし。夕食の頃電話すれば正子は早稲田教育学部、淳一は名古屋と慶応のどちらかと。 3月20日 12:00京、禎子つれて来る。 14:30ユ京らと共に堀夫人に『四季』とどければ15:15高橋重臣君筑波より1万円届け来る。 高知の橋本福美氏、その父の高次氏の遺稿届けらる。早速礼状かく。 3月21日 11:00美紀子2女(KO大)つれ来る。午食、今井翠姉宅へとゆく。 杉山平一君、中島君の詩をわが作かと福地君に問ひし由。 高橋重臣君よりお見舞と5,000円賜ふ。今澤幸に10冊送る。 3月22日(日) 9:00すぎ出て礼拝。 津村信夫夫人昌子さんあて初枝さんの事かねて便りするつもりとなる。 3月23日 『四季』11号の代金若干。山住dr.へゆき女子医大の礼いふ。 3月24日 3月25日 京夫婦と禎子と来り、そのautoにて上川霊園にゆく。野田博士より「会はざること何年」と。 3月26日 3月27日 堀夫人より電話。 3月28日 橋本保印刷より『四季』11号の印刷代金12,9000と。14:00まへ高円寺へと出る。 3月29日(日) 礼拝に夫婦にてゆく。帰り来れば弓子来り、史夫婦と淳一来り、(※進学)祝10万円やる。(※省略) 史「帰る!」とまた云ひて帰りゆく。中島君、夜電話にて「あす来る」と。 3月30日(※14:00-19:00 『四季』のこり借用、佐藤春夫の文庫詩集賜ふ。夕食に天丼御馳走になる。) 7:00起床。橋本保印刷に12万9千円送る。送料660円。 午后、中島君来り『四季』もちゆき天丼食ひ「杉山平一氏へ連絡する」と。 老人ボケわれにも顕著なり。21:00入浴できず体拭く。石山直一氏より(※廃刊につき)問責状。 3月31日 石山直一氏へ「仕方なし」のハガキかく。(※書評)4月半が締め切といふ河村dr.の歌集『近江にて』一寸よむ。 4月1日 花井夫人来訪。『四季』の廃刊始終を語り長嬢就職祝にユ、物贈り15:30帰りゆく。(※省略) 4月2日 ユ、〒へゆく。『四季』の決算のためなり。 4月3日 昼食後出て高円寺、都丸夫人より雑書買ひて帰宅。大高より寄付依頼、次の三火会にゆき発議をきかん。 4月4日 河村博士の追悼文かいて藤野氏に送れと也。井伊家の藩医なりしか。 藤野氏『Poet’s School』送付やめると也。『ソウル実感録』よむのみ。 4月5日(日) 礼拝休む。終日無為。夜、杉山平一君に『四季』の残党を『季』に、とハガキかく。 福地邦樹も同とかく。本人たちはいかがにや。 4月6日 京2子つれ来り、静江母のところへつれゆく。 杉山平一氏に中島君ら『四季』会員を『季』に転会させよとたのむ。 4月7日 ユ11:00母のところへゆく。(※省略) ユ、松田みす子嫗に牛耳られて15:30帰宅。 4月8日 16:00川久保悌郎来訪。久しぶりにrestrantへゆき喫茶。 和田先生(※和田清)彼にも「一生を誤った」と2度いはれしと。 平凡社より『唐代詩集 上』12版4月末刊行と。 4月9日 富山の薬屋来り、ユ「忘れたかつぶれたかと思った」と。 13:30弓子、孝行つれて来る。坪井明・築島謙三2氏へハガキ。 4月10日 ユ10:30戸田画伯と銀座の地球堂ギャラリーへゆく。画の張り番なり。 我は日記よみ返す。受洗のところ廃棄してなし。(※思ひ違ひか。昭和37年12月23日に記述あり。) 4月11日 ユ絵の出品にて忙し。我は日記よみ返す。 4月12日(日) 久しぶりに礼拝。ユ戸田画伯の展覧会にて忙しげなり。 我これを促して都知事議員らの選挙にゆかせ、自らもゆく。 4月13日 10:00山住dr.、血圧125-65。 4月14日 8:00西川に電話し中野清見のこときく。 彦根の河村dr.の歌について書いてをれば高知の橋本明子氏より「父の本に『杜甫』『李白』あり小高根太郎氏と親交ありと思ふ云々」とハガキ。 4月15日 羽田へ今西のこと書きすます。橋本明子氏の父上の本見、橋本高之にて『不二』、『日本歌人』の同人たりしと。 河村純一dr.のことかけず。『四季』の歌は絶筆なりし。 4月16日 4月17日 佐伯で雑書1,000使ふ。 4月18日 高円寺散歩、阿佐谷に帰り『スピード時刻表(280)』買ひ来る。13:30ユ戸田画伯にゆく。 花井タヅ子夫人に電話。メガネのレンズ欠ける。 4月19日(日) 礼拝にゆく。眼鏡屋にゆけば「一週間まて1.3万円」と。 4月20日 4月21日 4月22日 何もする元気なくなり山住dr.。血圧115-85とわかる。坪井明に「退職めでたし」とハガキ。 佐伯のぞき吉行『女のかたち(150)』など気休めに買って来る。 4月23日 松本善海邸訪問。 4月24日 瀬見さん蜜柑子もちて来り、止めしかどきかず帰りゆく。 4月25日 築島博士に「5.5の会には出ず、時間と場所きめてゆっくり話さん」といへば「われは出席の返事せし」と。翌日にでもせん。 4月26日(日) 陰名方言にまたひっかかる。 4月27日(※14:00-18:00 『四季』返却。夕食御馳走になる。) 曇。寒し。6:00起床。12:30昼食。 待ちゐた中島君14:40来り、夕食たべあはてて帰りゆく。 その間、松本(※善海)未亡人紀久子氏より「待たせて…。仏前の供へ物ありがたし」とハガキ。 21:00入浴。22:00臥床。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇講義の様子をおさめたテープを聞く。 〇「君はわかってなくても、ハァ、ハァ言って聞くね」と生返事をたしなめられる。 4月28日  ユを山住dr.にゆかしむ。 4月29日  天皇誕生日。17:00電話かかり、咲耶の次男幸夫一家来る。 4月30日 16:00ユ山住dr.にゆく。我は無為。帝塚山学院東京支部会に「欠」、花井夫人に伝ふ。 5月1日 終日無為。 5月2日 曚朧として高円寺へゆき散髪、都丸の瀬見氏、新しき手伝を教育しをり。 5月3日(日) 5月4日 5月5日 午后瀬見へゆき『萩原朔太郎ノート女人考(2,200)』買ひ来る。 弓子、孝行と14:00来る。19:30ユの不服従を叱る。 5月6日 6:00さむ。7:00ユ起き来りまづき朝飯つくる。叱れどきかず。 午食11:30すませばユ、静江母より呼ばれしと出てゆく。これも不快なり。 山住dr.にゆく。 澄より電話「京、膵臓炎で入院、つきそふ」とのことにて依子とあす見舞ふこととす。 中嶋康博君より電話「杉山平一氏より同人名などいはず云々」。 5月7日 東豊書店へ払ひにゆく。『台湾土着民俗的社会与文化』、『曹廷杰(そう ていけつ)集』、『台湾礼俗語彙』、『de Beauclair』とにて金なくなる。 5月8日 ユ、堀夫人に電話すれば「ずっと追分」と也。 5月9日 礼拝にゆかんとしユに土曜ととがめらる。ユ、戸田先生へゆく。 5月10日(日) ユの教会へゆくを見送る。弓子母子、京、母の日とて物もち来る。 5月11日(※14:00-16:30 平凡社『唐代詩集 上(訳詩)』賜ふ。) 4:00起床。5:00下痢。9:30山住dr.にゆき診察投薬。 13:00高橋君(※高橋重臣)来り養老費呉る。そこへ中島君来り、わが録音きき16:30退去す。 19:00前入浴。夕食。雨、東京では降らず。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇高校時代の諢名は「骨:こつ」。後輩からは「コッチャン」と。 浪速中学教師となって「to be to be tomb(墓)」と板書して読ませ、 「ちがふ。とべとべトンボだ」と云って笑はせ、以来「とんぼ」といふ諢名がつき同窓会も「蜻蛉会」といふさう。 5月12日 12:40出て佐伯見しもなにもなし。 5月13日 佐伯見しも欲しき本なく帰り来る。 5月14日 5月15日 5月16日 三鷹の中村美智子氏より『四季』11号の代金として(※切手)40×15送り来る。中嶋君よりも1万円もらひしと、共に清算せん。 5月17日(日) 礼拝出席。3月5日井階房一永眠と。中村美智子氏受領のハガキかく。小林茂樹氏あて、これにて『四季』終りとするといふ。 5月18日 散歩に出て『日本語になった外国語(1,800)』買って来る。 講談社より「ツングース」を児童向けの雑誌にのせてよきや否と女史の言に「あの詩はむつかしすぎる」といひしもことわりきれず、仮名遣も変へるを承知す(大岡信の選)。 三火会出席。自己紹介となれば小人物たちて長々と話す。 これこそ元大蔵省の木野春夫なりし。もう三火会は出ずときむ。 杉山平一君より葉書で「中島を喜んで迎へる」とのことなりし。 科学書院へⅠ台湾、Ⅱ朝鮮、Ⅲ中国満洲 (※五万分の一地図集成?)の3部を予約す。 中嶋康博君に先方(『季』)喜んで迎へる由かいて投函。 10:00川久保にゆき「清代初期の十王」について特講。1時間して帰り来る。 5月19日 午后1時の食後、高円寺へかけ足し瀬見夫婦をねぎらふと文庫本買ひ、帰宅。(※省略) (※下町風俗資料館)中嶋君に電話すれば休みをりと。我方の電話番号いひて取次たのむ。 5月20日 4:50起床、木村三千子氏に電話したくなりユと喧嘩す(時間的に非常識と)。 藤野一雄君に7:00電話すれば起きてをり「我が言ききて今日丁度下阪する」と。 朝食後、羽田・羽倉の二京都人に電話せしも応答なし。藤枝の片桐禎子未亡人にくやみの電話。 5月21日 9:30山住dr.にゆく。帰りて重久生に「カラ手にて来れ、ジャズの面白いことわかった」といへば「大いに宜し」と也。 夜、隣の細野氏の老人けさ死に明日お通夜と。95才と。(末富邸で将棋さしゐる時、川久保来り、ユ呼び戻す) 『風日』来り、保田與重郎先生追悼号にてわが歌4首を目につかぬやう並べをり。 5月22日 『季』来をり杉山君top、次は小杉茂樹の詩にしてやや体をなしをり。 『コギト』をあけて自分のことも思ひ出したあと栢木喜一君にハガキかきたくなった。咲耶を介してわが歌よみゐしことを知りをればである。 『風日 保田與重郎先生追悼号』来をりしをよめば、保田死ぬまでに戦前戦中に匹敵する量の著書出し乍ら、私あてに送って来たのは2冊だけである。 石切へ養子に行って死んだ小坊は順三郎か。石切神社の養子となりし也。尻痛く、保田のことはこれでおしまひとす。 5月23日 4:00さめ5:00ユを起し朝食すませ方々に電話し、川久保を上げ、10:00東洋文庫へゆくと。 羽田「体を悪くし上京できず」と也し。川久保帰りに寄り匆々帰る。われ留守番、中嶋君に電話すれば不在。 5月24日(日) 3:20尿に起きる。昭南より送りゐし毎月50円は一度もユの手に入らざりしことを初めて確信す。かの主計伍長の手にせし也。 Impal作戦に辻参謀来り、牟田口師団長の意見に屈せしことわかる。 河村軍医に戦中吟を献ぜん。昭南市長たりし島根の大達閣下も死に、 その子代議士なること判明。とまれ河村軍医に歌作りて霊前に捧げんと思ふ。 田村通産相このごろteleviによく出、醜き面しをり。61才か。 昨日お通夜にユらのゆきし隣家の細野老の本葬けふすみし様子。 大木実は大正2年生にて東京電機学校卒と。大岡昇平は(※省略)、織田萬法博士は(※省略)、尾上紫舟は(※省略)、尾崎士郎は(※省略)、魚返善雄は(※省略)、小野十三郎は(※省略)、小田切秀雄は(※省略)、小栗虫太郎は(※省略)、小倉進平は(※省略)、神崎驥一は(※省略)、神崎清は(※省略)、神保光太郎は(※省略)、田中冬二は(※省略)、田中克己は明治44年生、天沼3-794に住み大阪人。東大東洋史、現職北アジア文化研究所研究員として詩人。『神軍』、『楊貴妃とクレオパトラ』、「日本を愛す(文芸2号にのす)」と既にのりをり。 杉山平一ものせ(大正3年生)、津村信夫同秀夫ならびをり。昭和18年版『現代出版文化人総覧』のボロボロなるも案外便利なると発見。 杉浦はのり、保田は見えず(※738pに 載る)。 5月25日(※15:00-19:20 散歩同伴、本7冊借用、夕食に鰻重御馳走になる。) 朝、山住dr.にゆき。(※省略)10:30本と土産もって(※省略 竹森牧師訪問)。 蒙文のBibleは神学大学に寄付するとの事にて13:00小清水さんにゆけば応接に通され篠原牧師お越しと。(※省略) ユに電話すればすぐ帰れと。(※省略)堀さんによれば閉りをり。(※省略) 15:40帰れば中嶋君をり、杉山平一氏の下(※『季』)にて詩のせると也。夕食後帰り、本を通報して夕食。 すみて18:30ともに佐伯にゆき我は佐伯にて500円近く本買ひ、本(※7冊借り)返すと記帳して我と同行。 われ400円本買ひ別れて帰宅。(※省略)  われ中島君に杉山平一氏のこといへば、まあもう知ったやう也。送りかたがた佐伯にて450使ひ140円もちて帰る。 中島君11号10冊買ひ、2,400中1,000もらひ190円となして駅で別る。(※一部重複 意味不詳。) 5月26日  よべ20:00ね5:00さむ。6:00ユを起こし新婚の心得をユに話せば納得す。杉山平一君にハガキかくこととす。 5月27日 紅松に電話して「一度来い」といへば「金もなく困る」といふ。 八木書店に電話すれば「10時までに開けることなし」と断らる。ユ「それみたか」と得意なり。 5月28日 吉岡君「今からゆく」と電話ありユともども恐縮して迎へにゆく。(※1986年8月13日の吉岡克己逝去記事と齟齬、別人か。) 飯くはせ酒のみ「大球会の東半は意味なし」といへば「わかった」と帰りゆく。 5月29日 よべねられず4:00ユを起し話す中「いろいろのplansに危しといひ躁のことばかり」と。 仕方なくハガキだしにゆく。山住dr.診察。13:30末富氏来られ将棋2番。 川久保より植村先生の死せられを告げられ(※植村清二5月27日没)、 お通夜にと松本夫人(※松本善海未亡人紀久子)に云ひ、12:00松本邸へ川久保を案内し、 13:00お宅へゆけばお通夜できると決心、神田信夫氏に電話し「榎君に伝へてくれ」といへば「応」となり。 5月30日 2:00さめ、ユを呼べども答へず、返事せざりしにと悪妻となりし。(※新聞死亡欄記事写し) 私も同じく成城大学教授を解任され名誉教授に任じられたが、どういうことになるのか不明であったが、退職手当はまあ一応食ってゆけるに十分といふので先生のやうに国士舘大学などへはゆかない。先生は但しこの名だけの学園で最後までお勤めになったとしたら悲劇である。 私は即座に仕度をして家を出てお通夜に参加することとし、親友の川久保悌郎君(旧制成城高校につとめたあと新設の弘前大学にゆき30年か居座ってゐたが、名誉教授といふので勲三等の勲章をもってゐる。私の同級生であるから聞くと「退屈してゐる、どこか無いか」と吾党の士であるが退職手当はどうやら私より少なかった。それとも私の家より立派な家に住んでゐるので電話すると「昨日の朝日新聞で知った云々」とある。)  (※以下びっしりと2頁にわたり意味取り難く省略。この日か次の日に足を負傷した模様。) 5月31日(日) (※杉山平一先生、下町風俗資料館に来訪。) 礼拝すまし、竹森先生に「月曜訪問にて宜しきや」、「13:00に来てくれ」と。 6月1日 13:00かっきりにお訪ねすれば、(※省略) 蒙文聖書差上げれば礼云はる。 (※以下 悠紀子夫人代筆) 朝、足の手当を山住先生に受け、早くより竹森先生のところに行きたく、自動車にて吉祥寺までゆき、 早すぎたので遠藤商店にゆき本をあづけ、電話をゆきにかけて清水家にて時間をつぶし、 時間をみて荷物を遠藤商店にて受取りにゆき、なかなか手まどり30分遅れて竹森先生にゆき 30分してゆきと京自動車にて迎いにきて阿佐谷まで京に送られて帰り5時よりつかれてねこむ。 6月2日 (※悠紀子夫人代筆) (※省略) 成城の国文学科の部長より電話で 3日4時に学校でお目にかかれるから返事をしてくれとのこと(高田先生の本のことなり)。 6月3日 8:00ユを起して朝食くふ。そのあとユ色々と我の非難をとばすも我はきかず。 宮崎県の高森文夫氏よりたよりあり。 第5次『四季』は11冊にて廃刊にいたし、今後詩壇より去るとの意と作さず、わび状かく。 (※以下 悠紀子夫人代筆) 朝、例の如く4時起き早くから山住先生に行きことわられて 家にて8時40分に行き足を直してもらう。ユを、ついてゆかんとおこる。 先生がもう一日家にて静養、風呂に入るなと申されるも入浴すまし、 ユをせかして先に高円寺にゆき、ユとの約束忘れて先に成城にゆく。 (※執筆者本人となり、大学で専門分野の講演の様子を記すも意味取り難く省略。) (※以下悠紀子夫人代筆) 案内されて上原部長(※上原和:文芸学部長)の部屋に行けば部長とユと待ちかね4時の約束を30分遅れる。 上原先生は高田文庫(※高田瑞穂蔵書)の事はこれから会議にかけ、どちらか話がつけば電話を■■(※不詳)にかけて、 その後は田中を中に入れず高田家と直接話合いをとてもらうことをたのみ、 帰宅の途中高田家により、丁度戻ってきた次男の嫁さんとその話をして、佛前に参り礼をして自動車にて帰り(2,900)、 食事後(寿司を買いに走る)丸家の娘に用ありと電話すれば奥様出てて 金沢の次男結腸癌の為5月7日死亡と涙ながらきき、おどろきなぐさめ、 主人電話に出て話すうち中野さん(※中野清見)が死去すると(※誤って)きき、頭がこんらんしてめちゃくちゃなことを云ふ。9時半ねる。 6月4日 (※悠紀子夫人代筆) 例の如く朝早く起き足の手当を受け、もう少し風呂をがまんしてと云はれ、 民生の原田様に老人手当の事について書類を作りに10時すぎお伺いし、 帰ってみれば、主人は入歯残し下駄ばきのまま姿なし。家中かたづけ洗濯をして待つ。京、午後くると電話あり、京着く。 二人で主人の帰りを待つがやっと4時半頃、井の頭線吉祥寺駅の事務所より電話あり「老人を保護してあるから迎いに来い」とのこと。 京と二人で急ぎ行く。顔を見るとしきりに駅員に腹を立て話も出来ないので御礼の菓子を渡してつれて吉祥寺駅から家に帰る。 主人の云ふ事によれば「朝、阿佐谷駅に行き1000円をくずして」と云うと周遊券を買えと云われてその後池袋まで、 (※北区の旧宅をさがしに行った際の事か、以下記述なし。) 6月5日 早起して山住dr.。帰宅後、急に昨日の井の頭線のこと腹立てて飯も食はずに出んとせしに弓子来り、抗議にゆくといひ弓子に説得さる。 その日限りの1000円券とりかへしても紙屑となりしと。但しpocketにはなく2枚のみ使ひ8枚はムダとなる。小銭あればこんなことんかりし也。 ユ、区役所へゆき老人福祉の手続し14:30帰宅。弓子に帰ってもらひ我、家に留まる。山住dr.に3度電話し、頭がフラフラするといひ、 名刺に「50年同居せしも他人」といひ、(※省略) 眠る(20:30)。 6月6日 5:00さめユを5:35起し、急に今日までのことユにきいて唖然(ユに毒をのまされしと妄想、散々迷惑かけしも平気)。 山住dr.に謝りにゆかんとすればユ、早すぎると (※以下 悠紀子夫人代筆) 止められ8じすぎゆき、及川さん(※看護婦?)に「30分まで待て」と云われ、ユは家にかぎをかけにゆき、 6人程客きて一番に足をみてもらい「もうほとんどよいが月曜までどこにもゆくな」とのことなり。 家に帰り高田先生の宅に急に行きたくなり、 (※夫人から)「あまりしつこくするな」と云はれ腹立てば、又ユ、三鷹に電話すると、 (※弓子氏夫君)善一郎氏が自動車にて成城までおくるから待てと云はれたが、まちきれず。 あぶないからと自動車(※taxi)にて三鷹にゆくつもりになり、 郵便局前まで歩き、急ぎ川久保氏の所え行きたくなり、行けば彼一人なり。 十分位話して高田家へゆくことをやめる様に云はれ、涼しい部屋で宏ちゃんと教科書の漢文などの話しをして、 5時半弓子と小林の運転で家まで帰り、みやげうなぎとごはんをたべ、川久保家に7時頃傘を取りにゆき、 奥様とユとは岡先生(※岡正雄)の死ぬまでのボケの事をひそひそ話し帰宅。 (岡氏は5年間のボケのすえ1年間は寝たきり老人とのこと。) 6月7日(日) 礼拝休む。(※省略) 6月8日 (※悠紀子夫人代筆) (※西島)寿一に電話して「来い」と云えば11時40分に来る。寿司三人分持って食べ、 その間にも主人は高田先生に行くといきり立ち、とめればなぐりかかり寿一ちゃんとめに入る。 すぐ気が変り色々の話しをして4時半位帰る。風呂に入り、その後うとうとして一時ねるが、 起きるとわけのわからぬことを言っておこり出す(ゆめの中の事らしい)。 私が強くおこると急におとなしくなり夕食を(寿司と汁とさしみ)すまし9時頃ねる。 電話弓子と京、明日は女子医大にゆかぬこととする。 6月9日 (※悠紀子夫人代筆) 朝7時起き久しぶりに10時間ねられて気持よし。 9時すぎドクターにゆき、どこにも出ぬように念を押される。ふらふらして家の中でもあぶない。 時間を過ぎやすい様にとリード曲のテープ、ドクターから借りて家できくが熱心になれず。 午後、相変らずどこ、ここに行きたがり、とめるとおこり出すので(特にドクターの所へゆきたがる)、 戸田先生の家に二人で行き(玄関でなくしたステッキ見つかった)、お茶をいただくが、 歯を入れずに話すのでわかりにくく、先生に歯を入れるように云われ一寸がっかりして十分で帰る。 昨日も今日も外人に奥様が若いと云われると、頭をとかしてとかローションをつけるとか自分も若いと云われたがる。 やっと夜9時昨夜と同じ薬でねる。((※躁)やっと峠をこえたらしい) 6月10日 (※悠紀子夫人代筆) 朝9時前起きる。(11時間ねる) 雨の中をドクターに行き待合所でこしかけからすべり落ち、皆に助けてもらう。 帰りて10時半頃、若い男性が来て白井三郎氏の次男とわかる。 わがことよく知りをり。今宮高入学の世話せしも今まで来られざりしと。いま明治大卒。 よべ9:00に寐て5:00前まで熟睡。涼し。足もとよろける。 浅野晃をtopにし、保田典子夫人にもかかせた『春秋』来り、柳井道弘編集、保田派の雑誌贈られしを見る。 大判にてなぜ6号より贈られしか不明なり(※第5号朔太郎特輯号に書いたから)。 栢木喜一の「折口信夫と保田與重郎」を先づよめば『春秋』春夫先生の発行なりしを続けると也。 (編集柳井道弘、編集同人は浅野晃、伊藤桂一、駒田信二、中谷孝雄、林富士馬ら保田の派のみにて発行所は大津の柳井方。頒価2,500円なるを呉れし也。題字は春夫先生、口絵は棟方志功とあって保田主宰の如く、(※以下略)。 6月11日 よべ2:00までねられず。朝4:00起床、山住dr.にゆき本返し、呼ばれて診察。 ユはのちほどと。ハガキ出しにゆく。佐伯にて本3冊(350)買って帰宅。(※省略) 6月12日 早くねて4:00さめユを起し朝食。■教礼君より(※中隊長)荒木修の名を知らずと。(※省略) 6月13日 外出せず。無為。午后花井タヅ子来り、3時間近くをり帝塚山の名簿くれる。 6月14日(日) 4:00ユに声かけて起こし6:15茶をふるまはれる。グスグスいふも蕩然なり。 6月15日(※14:00-17:00 本15冊借用。) 4:00すぎ起き、ユを起し山住dr.にゆく。「ゆっくり休め」といはる。 午后、中島君来り、杉山平一に会ひ『季』の同人になることきめしと。 16:30までをり『果樹園』その他借りてゆく。民俗学研究所より本もらふ。 瀬見君に高田瑞穂の本のこと断られしと電話。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇高森文夫さんへ『四季』11号をお送りする手紙を出すこととなる(完売と)。 6月16日 晴。9:30山住dr.。105-75の血圧にて低血圧なり。森岡清美氏に「二冊の刊本お贈りいただき恐縮」と礼状かく。 高森文夫氏へ(※から?)『四季』廃刊にて御逝去かと思ひゐしとあやまり状。 (※悠紀子夫人代筆) 石井正吉君来宅。清酒くれる。自分の詩集(※田中克己『悲歌』)おいてゆく。中島君にあげてくれとのこと4時頃帰る。 6月17日 よべ早くねて5:00覚める。ユも起き新聞まだ来ず。 6月18日 (※悠紀子夫人代筆) 朝5時起きドクターに行き朝からねて1時半末富家にてしょうぎしてかつ。気持よし。3時間して帰る。夜8時ねる。 6月19日 (※悠紀子夫人代筆) 朝5時30分起き9時半頃柏井に行き入歯のゆるみをみてもらい、 当分そのまま(ノリをつけて)使うように云われて茶の間の尚子さんと天津の昔の事をかたり、11時半頃帰る。 午後つかれてひるねする。白井(息子)より手紙くる。その内又来宅するよし。 6月20日 (※悠紀子夫人代筆) 朝5時起きる。散歩して葉書5枚もとめたがどこかえなくす。ユ戸田先生にゆく。一日中ねむい。夜8時半ねる。 6月21日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝5時すぎ起きる。9時すぎ高円寺の理髪店にゆくつもりで家を出て母の家にゆく。ユも用事で母の家に居りお茶を飲み、 二人で高円寺のガード下までゆき、理髪店までゆき、ユを家に戻す。 午後2時すぎ川久保家へ行けばじゅんじゅんとさとされる。家に帰ると弓子と小林が来て父の日の祝いをくれる(うちぎと菓子)。 夕食後ねむくて8時すぎねる。 日曜日なれど教会の事はすこしも気にならず、時計のバンドを2,000で新しくしてもらう。 (足の関節がこわばっているのが、ころぶ理由。立ちにくいのもそのせいか?) 6月22日 よべ21:00ねて6:00さめる。ユ多忙。我、午まへ母のところへゆく。大、二階へ逃げる。 高森文夫氏へハガキ。6月22日の日付にて宮崎県臼杵郡東郷町へ「(※来訪)待望せし」とかく。 6月23日 televi見て(8:00~6時間)中野の古本屋にゆけば本みな並びをり。但し分類はしてをらず。21時まへ就床。 6月24日 午后高円寺へゆくも古本屋には寄らず。丸の次男逝去と。哀れなるかな。 夕方平凡社より『唐代詩集 上』送り来り、500部増版と。 6月25日 平凡社へ「承諾」と。川久保来り、東洋文庫へ行くと。 中島君来りし故、石井正吉氏へ(※から?)の詩集わたし、半眠半醒なり。 (※正確には6月30日14:00-15:00 本借用。石井正吉氏より詩人を介して『悲歌』賜ふ。) 6月26日 家居。事なし。 6月27日~6月29日 無為。(※鬱症にて教会の事も記さず。) 7月1日~7月2日 仝上。 7月3日~7月6日  ※記事なし。 7月7日 朝5時半起きる。浜久雄氏より『西太后』賜はる。わが「訓役に立ちし」と。 彦根より藤野一雄君来り、「河村先生頓死」と。 7月8日 よべ不眠、7:00起床、ユ10:00山住dr.と柏井歯科へと出てゆき11:00帰宅。 末富夫人変となり山住dr.来診。河北病院に入院と。 夜、兼清より関野逝去と電話あり。 7月9日 京11:00来り、子供は登校と。14:00帰りゆく。われ鬱とれず。21:00ねて3:00さむ。薬のみ8:00起床。 (※7月9日投函の舟山逸子氏宛ハガキ。) 7月10日 7月11日 よべ不眠なれど、6:00起床、14:30ユ戸田画伯にゆく。われ日記よみ夕食もす。 7月12日(日) よべ21:00就寝7:00起床、ユ気分悪しと。礼拝休みみることにす。 7月13日 7月14日 7月15日 7月16日 7月17日 7月18日 7月19日(日) 21:00臥床、6:00起床、8:20朝食すませ上厠。終日家居。20:30眠ることとす。 7月20日 20:00ね、6:00起床、朝日の穴吹史士氏よりハガキ。(※省略) 杉山平一氏より著書。 7月21日 よべ22:00就寝、6:00起床、無為。山住dr.にゆけば血圧95-65と極めて低し。。 7月22日 7:00起床、(※省略) televi見るのみ。 7月23日 6:30起床、10:00山住dr.。血圧70-50。televi見る。山田俊雄教授より『詞林間話』送らる。 7月24日 6:30起床、ユょらず。7:00帰宅。散歩しゐしと。朝食まずけれど食ふ。 7月25日 4:00目をさまし7:00朝食し、8:00より湯船に点火する。8:50入浴。山田俊雄氏、高森文夫氏へ礼状かく。 7月26日(日) 三食何とかおくれて採る。ユも我も礼拝にゆかず。 7月27日(※15:00-17:45 杉山平一新刊『映像の論理・詩の論理』ほか借用。) 午ごろ中嶋君より電話「来てよしか?」、「よし」といひ待てば15:00来り、書斎で冷房つけ相手す。 (※閲覧)『四季』、『コギト』すみしと。杉山平一君の『季』同人になると。(※省略) 7月28日 よべ20:00臥床、6:30起床、11:00山住dr.へゆけば副手、我を体重計にのせ39キロと。先生脉とれば108-65と。 これにてガックリして帰宅。(※省略) 手塚隆義先生より「暑くて困る云々」。 7月29日 よべ20:00就床、7:00起床、無為。 7月30日 手塚隆義氏に返事かき投函にゆく。兼清より今中19期生の死者2人。金沢と広島通の2人と。 7月31日 8:30さめ、ユの忙しいのを放ち日記よみかへす。 8月1日 よべ20:00すぎねむり、5:00覚める。 8月2日(日) よべ22:00近く眠り、一度排尿に起き7:30また起き、ユの礼拝にゆくを見送る。 13:00ユ帰宅。けふ聖餐ありしと。われ無為。 ユ帰り昼食してのち高円寺の散髪屋にゆき(1,150)、帰宅すれども何もできず。(※省略) 山田俊雄君より『詞林間話』贈らる。むつかしき本なり。 8月3日 よべ22:00床に入り(※省略)6:20起床。9:10西川より電話「中野清見八戸へ帰宅」と。 弓子、ユの留守の間に来り、鰻とjuiceと呉れ17:00帰りゆく。諏訪より(※転居住所・電話 省略)。 8月4日 6:00起床、『一視同仁』(※加藤邦彦著『一視同仁の果て:台湾人元軍属の境遇』)をよむ。 台湾のこと色々と思出あり。11:00川久保に電話すればすぐ出て来る。「その内ゆく」といひてすます。 8月5日 (※省略) 7:00起床、10:00山住dr.休みとて高円寺へゆき瀬見氏に会ひしも話さず。 『南島におけるキリスト教(2,000)』買ひて帰宅。(※省略) 8月6日 涼し。(※省略) 広島原爆記念と中曽根首相も演説ぶつをテレビで見る。 山田俊雄氏へ『詞林間話』の礼状かく。13:30末富氏来り「夫人脳病にて新宿に入院」と。(※省略) 8月7日 よべ21:00ねて5:00すぎ起床、(※省略) 岸元首相死にみな惜しがる。可笑。 8月8日 よべ21:00ねて6:00すぎ起きる。(※暑中見舞 省略) 川久保ちょっと寄りし。 8月9日(日) 5:30起床、8:00二人にて出、吉祥寺着。清水嫗訪れ「けさ欠席」ときき教会へ(※省略) 帰宅。(※省略) 20:00日記かき眠らんとす。 8月10日(※14:00-19:40 本返却、夕食に焼肉御馳走になる。『季』43号を呈す。) よべよくね(21:00-6:00)、11:00山住dr.にゆけば患者多く、中に本多さん夫婦をり。血圧90-64と低し。 15:30中島君来り『季』に1万円出して優遇さると。祝にスキ焼くはす。 8月11日 7:00さめ気持よし。(※省略)村田幸三郎へまた連絡して「日本酒のみに来い」とハガキかく。(※省略) 8月12日 日影涼しければ散歩かたがた出しもすぐ帰宅。『一視同仁の果て』よみ台湾人の苦労しるす。 鈴木正義氏よりNHK報道局取材センター異動にて鎌倉へ転住連絡。(※省略) よべよく眠り、午すぎ散歩に出る(34℃)。都丸支店にゆけば瀬見氏北海道へ、(※省略)帰宅。 立野保男君相変らず怪しげな手紙よこし、 辻芙美子「服部(※正己)の23回忌にゆきドイツよりオーストリアをへて2週間の旅行した」と。 8月13日 12:00末富氏より電話「13:30来よ」と。ゆけば令息の夫人来をり、将棋は引分け、碁は1番さして負ける。 8月14日 21:00臥床、5:30起床、立野保男は無視することとす。丸煦美子電話に出「金沢に遺骨と遺族とあり」と。(※省略) 8月15日 5:30起きる。われ日記をよむ。 8月16日(日) 6:00さめる。ユ礼拝休むと。われは日記をよむこととす。(※省略) 夜20:00床に入りしも暑く22:00Brahmusきき眠ることとす。 8月17日 よべよく眠り6:30起床、(※省略) 我は高円寺まで来て帰宅。19:00村田幸三郎より電話、ユ概ね相手す。飲酒のためなり。 8月18日 7:30起床、〒なし。無為に午后すまし18:30夕食。石井正吉君ひまな日問ふ電話。(※省略) 8月19日 【75冊目】7:00起床、(※省略) 末富氏来訪。将棋に2番勝ち碁は問題にならず。 【76冊目】苑子と会はんとすれば「新宿の病院に入りし御隠居の付添となり阿佐谷南には来ず」とユの話。 午前中、村田幸三郎より中隊の会(河南省河津警備)、村山さんも来て一泊と(場所かいてなし)。 8月20日 【75】7:00起床、無為。日記よむのみ。 【76】散歩に出て鼻緒に足くはれて痛く帰り来る。18:00河野夫人より「一度会したし」と。「我したくなし」と断る。 8月21日 【75】無為。 【76】ユ、反抗的にて困る。(※省略★) 朔太郎生誕百年の寄付者名簿にわが名あり。 8月22日【76】7:30起床、朝食すませれば10:00。ユ14:00より戸田画伯にゆく。 8月23日(日) 【75】 夫婦にて礼拝にゆく。竹森先生より「ごきげんいかが」と。「おかげさまにて元気」と答ふ。 ユと別れて切符買へば250円にて下りとわかり、阿佐谷の切符売り場にゆけば相手にせず。 改札にゆけば「ダメ」と。憤慨して帰宅。 15:00ごろ瀬見君来り19:00までネバル。気がつけばけふは日曜にて(※古本屋)休みなりし。 【76】 よべ21:00臥床6:30起床、8:00朝食すます。9:05教会に着き竹森先生弱りをられるに気付く。 式後竹森先生(いかが)に「元気です」と答へ、ユの買物につきあはず。 切符検すれば「下りである」こと知り阿佐谷駅の改札にその旨いへば「仕方なし」と。官僚的なのに腹立て挨拶せずして帰る。 瀬見伊三郎氏来りし故、酒と肴出し『ロシア語百科事典』のこといへば 佐伯より市に出しを瀬見氏買ひしと。時に19:00なり。ユ土産に多くを与ふ。 8月24日 【76】よべよく寝て8:00さめる。9:00前、山住dr.第一番にて血圧90-65。(※省略) 12:30石井正吉君来り、わが著殆どそろひしと。色紙かかすつもりもわが顔色見て16:30帰りゆく。 弓子来をりしが夕食にて17:30退去、19:00夕食すむ。19:30入浴。 8月25日 【76】よべ21:00ねて5:30さむ。9:30山住dr.へゆけば満室。10:35診察。96-65の血圧。 13:00大、咲耶をつれて来り、すぐ逃げる。われ墓の問題で怒りゐると咲耶に云ふ。(※省略) 8月26日 【76】よべ21:00就寝5:00起床。朝食中、ユと静江母につき話しあふ。 18:00山住医院に喪の紙あり、今夜は通夜、葬儀は明日と(※長男死去)。 8月27日 【76】よべ20:00就寝7:00起床。昼食のあとタカ子来り、わがおしゃべり聞き15:00までをり。(※省略) ユ、山住家の葬儀にゆく。16:00諏訪望来る。 8月28日 【76】よべ21:00ねて7:00起床。9:20高円寺へ散髪にゆく。 瀬見君のぞきしも不在。帰宅すれば望、渋谷へゆくと出てゆく。 ユ14:00末富夫人の見舞にゆく。(ユ、山住家の葬儀にゆけばdr.顔を上げざりしと。) 8月29日 【75】北海道の古宮新喜・乃利子より残暑見舞。  帝塚山短大2回生名簿 (※カッコ内は旧姓) 石川喜久子 森田宏子(奥村) 安田明子(岸) 田中雅子(北野) 和田節子(佐々木) 太田陽子(立川) 谷信子(寺本) 野崎その 星野綾子(吉川) 藤井陽子(吉原) 藤田■子(米沢) 和田節子(佐々木) 久賀谷絢子(酒井) 椿下清子(椿下?) 桝田紀子(疋田) 道下重子(平山) 南村和子(藤野) 清水和子(本多) 今市佐恵(安村) 花井たづ子(山中) 8月19日~ 9月20日【76冊目】 25.0cm×18.0cm 縦掛ノートに縦書き 8月29日~10月17日【77冊目】 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 8月29日 【76冊目】7:30さめ8:30朝食、高円寺へ散髪にゆく(1,150円)。 瀬見伊三郎不在。まっすぐ帰り来る。(※前日と混同か) 【77冊目】散髪に高円寺にゆく(1,150円)。瀬見不在。 諏訪望来り、友だち迎へにと出てゆき夕食には帰り来る。 8月30日(日) 【76】7:20起床、8:50名古屋より電話、依子上京「今日のところへ泊る」となり。 望の出てゆきしあと昼食すればユ、戸田画伯へと出てゆく。(※省略) 【77】5:30さむ。望、友だちを東京駅に迎へると出てゆく。中山正子よりMelon2ケ来る。 夕方、史一家、小林一家、咲耶母子と集り夕食くひて22:00帰りゆく。 8月31日 【76】わが75才の誕生日なり。ユ、戸田画伯へとゆく。われ日記の整理す。(※省略) 泰、眼鏡かけをり。午后、(※同姓同名)田中克己博士の未亡人綵子氏より、わが贈りし書翰全部送り返し来る。(※省略) 【77】中山正子わが誕生日おぼえてをり「Melon送った」と。田中克己博士の未亡人よりわがハガキ返送。珍しきこと也。 9月1日(※14:00-16:00 『田中克己詩集』『狐の詩情』にサインもとむ。) 【76】 6:30起床、9:00ユ山住先生より紹介にて前沢外科のならびの歯科にゆき10:00になりても帰らず。 ゆき見れば老医にして「来ず」と云々。柏井歯科に電話すれば光一「見てない」と。 15:00近く外へ出ればユ帰り来り置き書きしたと。 13:30中島保博君来り『季』にかきしと。わが著書にサインせしめ午飯代り食ひゆく。 【77】 中島君来り、わが本見せsignせしめ葛餅くれる。15:00去る(『季』の同人となりしと)。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇機嫌あまりよくない。軍隊時代「セミ」をやらされたり、夫人から来た「また多摩川を一緒に散歩しませう」の手紙を各班に行って読まされたりの嫌な思ひ出。 9月2日 【76】6:30さめる。花井タヅ子来り、14:30より16:00まで話しゆく。 【77】6:40さめる(よべ2時半までねられず)。中山正子生より誕生祝にMelon送りしと。 午后花井タヅ子来りユ、好きなことをいふ。 9月3日 【76】7:00起床、ひるねし4時起きる。 【77】6:00さめ朝食くひ7:30山住dr.へゆけば老人健診もやる(田中“さん”といはる。はじめてなり)。 昨日荒井平治郎より亀井昇死にしとたよりあり。 9月4日 【76】蓮田市丸木直子氏より8月31日電話したが留守なりしと。長谷友孝より残暑見舞、両氏に返事かき投函。 【77】山住一家中国より帰られしとて、われ長男の喪いひてすむ。高鳥らの作りし『浅野晃歌集』来る。 9月5日 【76】奈良の中山正子氏より誕生祝にメロン送りしと、ホノルルかららしく、ともかく礼かく。 【77】ひるねし16:00起き17:20入浴。 9月6日(日) 【76】礼拝休む。ユもゆかず。山住dr.の長男自殺らしく困る。(※省略) 【77】丸木直子に返事かく。夕方散歩すずしくなりし。 9月7日 【76】弓子来り、われ山住氏避け、ユとともに塩入先生にゆく。91才になりたまひしと。 3万円の薬代払ひ、次は11日に来よと。弓子とともに阿佐谷まで歩き、疲れて帰り来る。 9月8日 【76】8時さめまた眠り10時起き朝飯くへば旧姓吉田万里子アメリカよりたより呉る。 平凡社飯塚氏といふより5冊やるのこり買へと。「案内くれよ」といふ。(※『世界名著大事典』?) 9月9日(※ズームイン朝「朝のポエム」に「巨木」映りおどろく。) 【76】(※省略)  平凡社清瀬君といふより、また「5冊進呈、残り買へ」といひ来り、不快。 9月10日 【76】 6:15起床、荒井平治郎より「亀井昇死せし」こといひ来り、「丹波も弔問せし」と、夫人に不平たらたらなり。 荒井へカンベンしろとハガキかく。 『日本現代詩大系』(※河出書房新社)といふより来しと別に、平凡社より5分1割引する故、残り注文しろと。 中小出版社の不況見るにたへたり。これは黙殺す。 山住青年(女子医大にて病死)は一家で中国旅行と関係ありと。(※省略) 前田隆一氏より保田典子発行の『雲と野(※前田隆一歌集)』来る。 【77】 東京新聞に堀辰雄氏のことのりをり。菜穂子をかく。堀夫人いかにしをられるやら音沙汰なし。 中村真一郎を辰雄のまな弟子とかく。18:00夕食(※省略)。 9月11日 【76】塩入先生へゆき薬かへたまふ。(※省略) 美紀子より「あす墓地へゆかん」と。OKと答ふ。 9月12日 【76】美紀子に電話すればあさって9時に来るとて日を変更する。論文の校つかず、いらいらす。 9月13日(日) 【76】(※悠紀子夫人代筆) 朝起きられず教会やすむ。9時すぎ南川氏より電話、阿佐谷駅で正午会い、 三人で天丼たべ家まできて3時すぎ地下鉄まで送る。 写真をとってくれる。『健康』と云う雑誌にのせた文章をみせたがるが読みもせず、夜早くねむる。 【77】 8:30まで眠り、9:00南川正純より電話「正午ごろ阿佐谷駅にて会ふ」と也。 ユも清水夫人より電話「会ひたし」と也。南川生11:15駅に来り、ユも来る。 天ぷらくはせ(3,200)て我家へつれ来り、同級生の話す。14:00本2冊買って帰宅。20:30眠ると定む。(※省略) 9月14日 【76】(※悠紀子夫人代筆) 弓子、昼のおかずなど持ってきてくれたので(※省略)、 美紀子さんより電話で老人の日に八王子につれてゆくとのことだが19日の土曜になる。夜8時ねる。 【77】 晴。よべよく眠り5:00さめる。〒へ大高同窓会費2,000払ひにゆく。京大文学部東洋史学研究室に1,200払ふ。 9月15日 【76】(※悠紀子夫人代筆) 老人の日の菓子二個持ってきてくださる。2千円区より貰ふ。 【77】 老人の日と菓子もらふ。9:00高円寺へ散髪にゆく。あつし。 夜、シンチンゲル先生への贈金2倍にせんと思ふ。 老人の日とてteleviに百才の老翁嫗出て来る。 9月16日 【76】高円寺へ散歩、雨にて何も買ふものなし。 【77】よべ3:00覚めまた7:00まで眠りしもはっきりせず。 9月17日 【76】ユ、俊姉に会ひにゆき弓子来る。留守電させて末富氏へゆき将棋3番、碁(五目)一番勝つ。(※省略) 【77】 小泉痔科へゆく。老人にて待合室一杯11:45下剤もらひて帰り来る。 ユと弓子とあり(ステッキ忘る)。ユ塩入先生に交渉にゆく。経過見ると也。 山住dr.にゆき血液とらる。糖尿の気ありと。 9月18日 【76】(※悠紀子夫人代筆) 朝、昨夜の便通薬きいて4度も便所に通い痔がいたくてたまらないので9時に小泉外科に行くが、みてくれず薬だけくれて(※省略)、 塩入先生に行き薬、夜のを足してもらい1時半帰れば、2分ごとにトイレに通い小水が出そうでそうとたえまなく通ふ。(※省略) 【77】 さかんに小尿に入厠。ユ山住dr.へ礼にゆく。ステッキ返り来りし。 9月19日 【76】(※悠紀子夫人代筆) 朝、美紀子さんにことわり山住先生に行き、話せば小水をもってこいとのことで、(※省略) 塩入先生に電話すると若い先生がカルテをしらべて今後一切の薬を止めて様子をみて それでも小水が出にくい時は月曜に病院に行くようとの返事な ので、食後食後の薬を止めると土曜の夕は小水も出やすくなる。 【77】 無為。21:00まで受験上京の望まちしも来らず臥床、望、夜行にて来し。 9月20日(日) 【76】(※悠紀子夫人代筆 ノート 終る。) 教会はやすむ。ねすぎた為、夕方にノンチャン来る。主人は夜の薬のんでねむれる。 【77】 9:00まへ起床、礼拝夫婦とも休む。午飯後中野へ散歩。国鉄にものらず。15:00望来り、大きくなりをり。 末吉より浪高の校長になれざりしとあやまり、亀井の死と荒井の入院のほか生存者いひ来りて哀れなり。 9月21日 9月22日 9月23日 9月24日 9月25日 9月26日 9月27日(日) ※記述なし。 9月28日 9月29日 9月30日 10月1日 10月2日 10月 3日~12月31日【78冊目】 [25.0cm×18.0cm] 無掛『大高随筆』ノート(大阪高等学校同窓會発行)に横書き 10月3日【78冊目】 田中淳一17:00、bykにて来り小林孝行に英語教ふ。孝行は自転車にて16:00より来り熱心なり。 兼清に「19期生会シンドイ」と断る。 10月4日(日) 7:00起床、ユ見合にて、われ金なくて礼拝休む。 10月5日 秋なり。中山正子に前田隆一氏のところきかんとし学園南(※省略)なることわかる。 坪井明に「南都案内でもかけ」とかく。瀬見伊三郎氏来り、高群逸枝『女性史研究』外にて1.7万円おきゆく。 弓子来り『杉並散歩道』おきゆく。 10月6日 【78】 雨、寒し。依子より着物。ガンかもしれぬと思ふ。石井正吉氏へ「色紙早くとりに来よ」とハガキ。 竹内癌のこと自覚しゐしと也。(※省略) 10月7日 7:55起床、正野君に「三火会の案内不要」、帝塚山短大の総会に「不参」、 新井平治郎、石井正吉氏への色紙はことわりたし(悪筆)。 スワ望に「コネなければ画壇はダメ」とかく(雕刻やりたしと也)。 11:00山住dr.にゆき鬱と申上げしに血圧125と高く、途端に快適となる。 水曜午前中診察にて患者も少なく暗き顔し玉へり。 われ梓の(※急患の)こという。今だに(※単なる風邪と診断した)女医うらむといひし。 10月8日 5:00起床、高円寺へ散歩にゆき瀬見店(※都丸書店支店)にて『ドイツとドイツ人(200)』買ふ。 (※省略)南川生より「この間来た時の写真送る。靖国に詣りし」と。 南川正純、小高根太郎夫妻、奥井夫人へ賀状(※意味不詳)。ハガキ買ひにゆけば「年賀ハガキ予約せよ」と。 ※末富家にて囲碁将棋。ユに伊勢すみ江夫人より長い電話あり。「夜かけよ」といふ。 中島君より「明日来る」と電話あり。 10月9日(※14:00-17:30 夕食に松茸御飯御馳走になる。) 6:00起床、杉野尤次郎へ「遊びに来い」と。(※省略) 痔おこりこの間の薬ぬる。 山口弘先生(弓子の小学校の担任)、長島長老夫妻、天野隆一画伯へ賀状(※意味不詳)。投函にゆき山住dr.。(※省略) ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇肥下さんの妹たちに初恋を思ったものの、 肥下さんから「田中は必ず夫婦喧嘩して俺とも仲が悪くなるから妹はやれん」と云はれた話。 10月10日 10月11日(日) 礼拝にゆく。禎子来り、泊る。 10月12日 10月13日 賀状かく。石川弘義君へ退職後もらった本の読後感礼状にとかく。 中野清見より電話、丸のこといへば困る(その内夫人に会ひに来ると)。 10月14日 下痢にて無為。雨降る中、ユ、母のところへ眼鏡もちゆく。 東洋談話会名簿来る。来月神田信夫君の満洲講義、東洋文庫であり。 高田瑞穂の本、成城買はず(「来年まはし」と也。ウソか本当か)。 10月15日 眠剤のまず臥床、3:00さめ眠剤のみ7:00起床、雨止みをり。午より台風来ると。 瀬見にゆき山住dr.にゆく。『太平洋民族誌(2,000)』、血圧105-75。 Skey嬢と喜多村夫妻とに賀状(※意味不詳)。※末富家訪問。(※省略) 中野清見より「九死に一生を得た」と丸夫人を見舞ふと云々。「止めよ、安静守れ」とかく。 岐阜の岩崎昭弥より電話「中国へ三度ゆく」と。公費なり。 「西安の始皇帝陵に参りわが代りに祈ってくれ」といへば「承知」と。 10月16日 10月17日【77】ノート ユ同窓会へゆく。弓子来りシュークリームもち来り15:00孝行来り、将棋さす。 17:35史の長男淳一来り、山田教授の本を見せ母にとわたす。 18:40まで(※家庭教師)やり帰りゆく。(※省略) 東洋史談話会11月8日会費7,000円と。話すはIndia史の坊や、我「欠席」と返事す。 10月18日(日) 桑田六郎博士逝去93才と。ユ睡眠不足と。礼拝にわれのみゆく。(※省略)  堀多恵さんに寒さの見舞「御帰京の時電話くれ」と。 末吉栄三にクラスの安否教へし礼かく。末富夫人より全快祝にtowel賜ふ。 10月19日 5:30起床、(※省略) 大野沢緑郎君へハガキ(※『四季』廃刊したが)『季』のあること報ず。(※省略) 瀬見君にゆけば「三越の古書展にゆきし」と。雑書一山預け『風月無尽(500)』買ひ来る。 南川正純より詩やめ鍼灸のことを『健康』にかくと。(※省略) 夜「延辺自治州」をteleviで見る。 ユけふ久しぶりに山住dr.にゆき「先生不愛想なりし」と。(※省略)  われ台湾の話ききに三火会にゆくこととす、躁なること明白なり。 10月20日 13:00花井夫人来り「2回生の会、和田さんまかせ」と。 「我が家にて希望者のみ」といへば「幹事和田夫人」と。16:00帰りゆくにユ買物と同行す。 10月21日 7:30起床、10:00までtelevi。野田又夫博士に「中島の姪に説得せん」と手紙かきあり。(※省略) 吉岡先輩の逝去御遺族より。Album検すればわれmanagerの昭和7年にも練習を見に来て写真に写りをり。 益子夫人に弔み状かく。瀬見氏11:00すぎ来り、(※省略)13:30までネバり(夫人より電話あり)帰りゆく。 大野沢君より近況。小高根太郎氏より「自然科学研究」と。 浅野晃氏より「病気多し」と(桜井の保田忌にはゆかざりし様子)。(※省略) 10月22日 よべ不眠。ユの7:30起きるを待ち起床、(※省略)  9:30出て高円寺、都丸本店あきしゆゑ『中央アジア俘虜記(300)』買ひ、(※省略)『日本語はどう変わるか(100)』買ひて帰宅。 ※石井正吉氏来訪。「風邪」と称して匆々去る。(※省略) 10月23日 よべ早くねて(※省略)不眠とり返し山田俊雄氏に礼状。(※省略)佐伯にて『淀君(500)』を残金440はたいて買ふ。 14:00浜谷(珍客と)、高松、豊島ともう一人にて7人分の祝(※喜寿)もち来る。16:00みな帰る。祝はチョッキなりし。 学院名簿見て来しは6回丸木、豊島、土井と河野(他に祝に参加せしは押上、宇井)とわかる。 10月24日 よべ不眠。6:00起床、雨。(※省略)出て賀状70枚(11月5日売出し)買ひ、図書2冊借りて帰る。 小林孝行14:00来り、われひるねよりさめ共にtelevi見て淳一の来るを待てば美紀子の自動車にて17:30近く来る。 史、英仏などへ課長つれて旅行と。19:30美紀子の車でと帰りゆく。20:00眠剤のみ臥床。 10月25日(日) よべ21:00ねて3:00さむ。(※省略)礼拝にゆき2列目、長老の出席少なくてすむ。 帰り連れもなく金子光晴の売りしらしき『江戸艶本を読む』買ひて切符買ひて階段で転び登張教授夫妻に遭ひ 心配され「名誉教授となりてこの始末」といひ阿佐谷の信者石渡夫人と同車、帰宅。 われ北へ散歩して杉浦正一郎の『奥の細道、曽良随行日記(100)』買ひ『禁じられた女性崇拝(600)』買ひて金なくなり帰宅。 川久保に電話(※省略)つひにかからず。ユ石渡夫人に電話しゐばる。 10月26日 5:00さめる。ユにゆふべの不満いひ、言ひ返さる。(※省略)  高橋重臣君に「一度また寄ってくれ」とハガキかく。(※省略) 久しぶりに山住dr.にゆけば血圧126-、満員つづく。(※省略) 先生混んでやや元気なり。 午食後、東豊書店(簡木桂)に電話し「近々ゆく」といふ。 弓子来り、克次朗京都へ旅行の土産呉る。(※省略)  堀多恵子夫人より「来年1月末に帰宅、その時には訪ふ」と。(※省略) 10月27日 3:00さめて起床、(※省略) 4,000もちて代々木まで電車。 10:05東豊書店にゆき『台湾風物(民国76年)』出してもらふ。巻頭に楊雲萍の名見ゆ。1,200払ふ。 ついで店中見てまはり『王漁洋』をかくため『漁洋山人感舊集』、『同精華録箋註』、『同精華録會心偶筆』にて借金して乗車。 12:00帰宅。(※省略) 阿佐谷にて買ひし『戦犯(380)』よみつづく。(ユあさってレントゲン検査受けるとなり)。(※省略) 10月28日 5:00起床、(※省略)佐伯休みにて向ひの図書室やりをり。帰ればユゐず。また図書館の本もちて返却にゆき老人関係の本2冊借用。(※省略) 文化の日用に桑原武夫氏(83才)文化勲章もらひ、草野心平(84才)も同。谷川徹三氏(93才)は文化功労賞もらふ。(※省略) 高橋重臣君より電話「31日夕方来り、熱海へ帰る」と。「帰るな」といひ「翌日聖餐」とユに注意さる。 10月29日 2:00起床、(※省略)9:00出て代々木、東豊へゆけば簡君ゐず夫人に払ひし、(※省略) 帰宅。13:30まちて山住dr.にゆく。(※省 略) 佐伯に寄り帰宅。 10月30日 4:00さめ昔の日記よむ(柏井母倒れ一家にて上京と。服部愛知大学へ転任)。5:00起床、(※省略)  ユ、レントゲン検査にて「胃に異状なくのどわるし」と帰り来る。 12:30午食くはされ出て高円寺の都丸支店へ本預けて散髪すまし、都丸支店にて2,000受取り1,400の本買ひて帰宅。(※省略) 19:30山野井生に電話して「来い」といへば「来る。夫の会社、草木の雑誌出す」と。「それ1冊もち来れ」といへば「ハイハイ」と。 ついで宮本瑞夫君に電話すれば「建物は11月末に出来るが小田原に預けある資料は3,4年後」と。 「手塚先生を主賓に呼べ。中川君は苦手」といへば「ハイハイ」と。これにて気をよくす。 10月31日 3:00覚め読書つづけ高橋重臣君の来訪を思案す。天理時代の世話日記に引き続き記すを読めばなり。 ユ9:00レントゲン検査きき「異状なし」とて喜ぶ。ついで山住dr.にゆけば「dr.笑はれし」とて我も喜ぶ。(※省略) 14:30小林孝行来る。17:40高橋重臣氏来り、来年3月定年退職と。 (孝行と淳一21:00まで勉強して去る)。高橋君も19:30去りゆく。 11月1日(日) (※省略) 礼拝に2人でゆき長島長老の禿げしに驚く。(※省略) 佐伯にて『黄河行(700)』買ひtelevi見る。(※省略) 11月2日(※『季』44号を呈す。) よべ21:00就寝。(※省略) 5:20起床。 14:00中島君『季』を持ち来る。おやつに出せし弓子持参のsandwichなど食ひ、17:00我にうながされて去る。 (川久保来り、茶わたす。あす京都へゆくと)。我、佐伯へ『加賀百万石』もちゆき700もらひ雑本2冊買ふ。(※省略) 11月3日 7:00起床、朝食くふ。新聞見れば森繁久彌勲一等もらひ、ユにいはすれば操行不良と。 ユをして美紀子に電話せしむれば「史、きのふ帰国」と。 午后出て佐伯へ本売る(7,200)。それにて1冊新本買ひ来り夕食後よみ了る。 けふ文化勲章5人の内、桑原武夫博士あり。草野心平とともなるが残念なり。あすお祝ひの手紙かかん。(※省略) 11月4日 4:00起床、桑原武夫博士へ祝賀の手紙かく内、履歴長くなる。(※省略)  ユと八王子へ出て駅ビルの十合を見、16:00すぎの梓にのり、のりこしと急行券買ひ16:42塩山着。広友館に泊る。(※省略) 11月5日 5:00起床、6:00朝風呂に入り7:00朝食、8:00(※省略) 甲府までhyreにのせ呉る。(※省略) 美術館で下ろしてもらひミレー(61才で死)見しのみ。甲府駅までのbusにのり11:55発新宿行にのり、 ハンバーガー食ひ14:00新宿着。ユと別れ阿佐谷に帰り賀状70枚受取り帰宅。(※省略) 11月6日 (※省略) けふ東京寒し。9:30出て山住dr.、血圧115-75。 佐伯をはじめ古本屋新本屋まはりしも買ふ本なく帰宅。 (※省略) 竹下内閣出来しとteleviそればかり也。(※省略) 11月7日 (※省略) 0:00さめて日記よむ。(※省略) 我15:00高円寺へ直行(250×4)本買ふ。 17:00まへ孝行来り、17:00丁度淳一来り、18:40まで英語教ふ。(※省略) 11月8日(日) 3:00さめ、(※省略) 楊雲萍老に挨拶の航空便かく。(※省略)  川久保に電話すれば夫人出て「京都行やめし」と。(※省略) 11月9日 5:30起床、12:00弓子来る。我は日記よむ。(※省略) 11月10日 0:00さめあと眠れず。(※省略) 日記よみ返す。 11月11日 5:00まへ起床、サンケイ年鑑に返答。(※省略) 清の代表詩人『王漁洋』(※の評伝執筆)やめ、成城文芸に「ヤミ族(※台湾先住民族)」かくこととす。 兼清より東京19期生の消息。我、西川ら「病人」多し。 11月12日 よべ1:00さめてねられず5:00起床、(※省略) 午後末富翁と碁将棋。碁は6目、常先(※定先)なり。〒なし。 11月13日 5:00まで眠る。(※省略) ユ柏井へ歯の治療にゆく。静江母より電話2回「やりたきものあり寄りくれ」、「いらぬ。連絡とれず」と答ふ。 論文できず不快なり。 11月14日 よべ0:00まで寝ずあとも睡眠せしや否や不明。11:00印刷屋へゆけば賀状出来をり2千円と。(※省略) 京、眼鏡かけし健太郎(小学5年也)と友とつれ来る。京15:00去りしあと2児も帰り(※省略) 孝行来り「300円貸せ」といひ古本屋へゆきしも「買ふものなし」と返金。17:00まへ淳一来る。弓子も来る。 11月15日(日) よべ早くね5:00さめる。7:30朝食、9:20出て夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 11月16日 21:00眠り3:00前さめ4:00入浴。(※省略) 19日神田へゆくこととす。 11月17日 21:00ねて4:00さむ。風呂わかす。図書館に借りし本返しにゆけば火曜日休みと。(※省略) 11月18日 7:00起床、(※省略) 11:00高円寺へ散髪にゆく。本屋みな水曜休みなり。(※省略) 高橋渡氏より詩集、比留間一成、西垣脩、糸屋鎌吉らの仲間らし。 11月19日 6:00起床、ユも起きをり。穴吹史士氏へ「週刊朝日」にかかせよと賀状。高橋渡へ詩集贈与の礼の賀状かく。 12:00出て、(※花井タヅ子氏address電話わからず訪問できず。)帰宅。(※省略) 『季』に中島君挿画と詩かきたり。こたびはあまり感心せず。新学社より稿料少々。 疲れたり。われ老いぬ詩なく史なく友なくなりぬ。 11月20日 よべ21:00就寝3:00さめ老の辛さを知る。(※省略★) わが思ふひとはとほくに眠りつつそのつまとさへともねせざらむ。 (※省略) 鎌田久子女史より電話「『常民文化』に1月10日までに」と。山田君も承知となり。「ヤミ族のこと」かかん。 11月21日 5:15(※省略) 10:00前井上皮膚科。(※省略) 11月22日(日) よべ不眠。(※省略)礼拝にゆけず。ユ礼拝にゆき13:00帰来。無為にして19:00入浴すまし臥床。 11月23日 よべよく眠り1:00起床、(※省略) あすは18:00-20:00東洋文庫にゆく心算なり。 11月24日 7:00起床、8:00朝食、10:00山住dr.。(※省略) 14:30東洋文庫へゆき30分まちて神田君(※神田信夫)の話をきく。 旧老城(※興京老城)を中心とする話なりしも文化大革命後の改築にて信じがたかりし也。 護君司会、吉田金一氏らと会ひて川久保のこときかれ弱る。 21:00帰宅。改めて夕食し眠る。 11月25日 6:30起床、7:30川久保夫人に電話すれば「生命に危険なきも大小便不時に出て面会まってくれ」と。(※省略) 11月26日 7:00さめ朝食す。ユ歯の治療にゆく。われ「ヤミ族」のこと一応心得たるも文にならず。(※省略) 瀬見氏(※予約した)『Bible』2冊もち来りたまふ。1冊3,420円と。(※省略) 11月27日 (※省略) 13:00高円寺へ。麺(700)食ひ雑本1冊買ひ、瀬見にゆけば『物類雑呼』あり700円と。買ひて帰宅。(※省略) 「ヤミ族の民俗学」の史料そろふ。 11月28日 よべ不眠。6:40起床、13:00高円寺の古本市にゆかんとすれば少雨にてとりやむ。 16:00孝行来り17:00淳一来りて教ふ。中野清見より苹果一箱来る。 11月29日(日) よべ不眠。9:15起床、ユも礼拝休む。われ『Formosa under the Dutch』よみて終日くらす。 17:30入浴18:30夕食、そのあと間食もユ許さず。 11月30日(※14:00-17:00 書 いて頂いた色紙に捺印、『青い花』再版にもサイン頂く。) 21:00ねて3:00起床、けふよりは学術論文書かんとて思ひし日より月かはらんとす。 「ヤミ族」のインドネシア語族なること書かんとなり。戸田謙介氏の遺志なり。 ユ山住dr.にゆく。(※省略) 中島君17:00帰りゆく。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇大阪のコギトの会で、自分の番となった時「中野重治とハイネ」と題して本物の詩人であることを話したら、 会後桑原武夫から「自分は公務員だから同意することはできないのだ」と云はれた由。 また伊東静雄は徴用第三団で自身が選ばれるもののやうに覚悟してゐたと。 12月1日 よべ眠りがたかりしも0:00ねて7:00さむ。中野清見へ電話すれば出て「前回祝のリンゴ」、「丸夫人にも贈りし」と。(※省略) (※省略) 孝行の英語今日17:30よりと、忘れゐしかユ電話す(来週より克次朗と)。(※省略) 淳一來ることおそく18:00来り19:00帰りゆく。 12月2日 7:00さめ、丸煦美子に電話かけ「今夜ゆく」といふ。(※省略) 東高円寺へゆき丸家探せしにわからず帰り来る。 煦美子も駅まで来りしらし、縁なかりしならん。(※省略) 12月3日 よべ眠りし。無為。(※省略) 12月4日 7:00さめる。川久保夫人にユ電話すれば「面会謝絶つづく」と。(※省略)  「ヤミ族」かき始めしも旨くゆかず。(※省略)賀状かく。 12月5日 (※省略) 無為。(※省略) 12月6日(日) 7:00起床、初雪降りをり。9:00礼拝にゆく。(※省略) 12月7日 8:50起床、11:00ユ区役所にゆき弓子来る。新竹行の日記、躁にて(※自分で読んでも)わからず。 楊雲萍氏の夫人の世話になり服の寸法とってもらひし49年9月9日(堀一郎博士の死にて霍乱せしなり)。 弓子家中の手伝ひす。16:30弓子わがユへの不平きいて呆れて帰りゆく。 12月8日 よべ19:30就寝、1:00すぎ丸重俊事件起こせしと思ひて起床、ユ7:30起床、朝食くはす。(※省略) 花井夫人14:00来り、16:00までをりわが話相手にならず。淳一17:00来り、18:30去る(孝行相手なり)。 12月9日 8:45起床、16:30まで無為。18:30川久保へ(※見舞?)、16:00ゆきし「ユ今帰りし」と夫人より。(※省略) 12月10日 午後高円寺へゆきしのみ。(※省略) 12月11日 8:30起床、(※省略) 12月12日 (※省略)不眠。依子より小包来る。瀬見氏蜜柑もち来りしにユ、wineわ贈る。 ユ、塩入医院へゆき薬もらひ来る。「壮年会A1月17日」と。70周年寄付金10万円は少なすぎかりらし。 12月13日(日) (※省略) 礼拝夫婦とも休む。 12月14日 山住dr.i薬もらひ、(※省略) 12月15日 12月16日 12月17日 19:00ねて一時さめ9:00起きる。ユ歯休みにてゆけず。われ末富さんに碁将棋ことわる。11:08、5.4の強震あり。 12月18日 終日炬燵にをり。(※省略) 12月19日 12月20日(日) 終日無為。17:30川久保夫人に電話すれば「一年入院、やや良き方へ向きし」と。 正午ユの教会から帰らぬまに史夫婦来る。 12月21日 よべ来しならんTrontのM.Skey女史とN.Y.の鈴木生よりXmascard。終日炬燵にをり。 13:30中島君岐阜へ正月帰るとて来 る。 弓子父母へ1万円づつ小遣に呉れ、丹波篠山の中西薫より黒豆呉る。仙台の恩田女史よりささかまぼこ。 12月22日 無為。賀状すむ。ユ歯痛にて不逞。弓子2人に1万円づつ呉る。(※重複記述) 12月23日 よべ不眠。9:30起床、。誰も来ず。仕事もせず。 12月24日 キリストの生まれし夜(Eve?)。8:30起床、17:30美紀子の来るをまち教会のXmas Eveにゆく。600歌はれしほか生誕の歌。 3人にて天ぷらうどん(そば)食ひ21:00阿佐谷にて別る。 12月25日 2:00 Miriam.Skey女史に手紙かく。 12月26日 淳一、克次朗を教ふ。ユ、静江母の入院につき出てゆく。京2児つれ来る。(※省略) 12月27日(日) 7:00起床、ユ「老いし」と起く。8:30克次朗来り、淳一来る。ユ、吉祥寺と母へと出てゆく。 われ入浴、11:00、2人出て「あすまた来る」と也。 12月28日 よべユ別床、20:00ね7:30起床、4月中旬の暖かさと。大高同窓会へ3,000送る。 花井夫人に鍛冶副手のこといへは「承知」と(※不詳)。ユは「来ず」と。20:00鍛冶さんに電話すれば「来られず」と。 12月29日 辛島静志教授、北京より賀状たまふ。 12月30日 健太郎来り、ユ吉祥寺まで送りゆく。川久保夫人と令嬢来り「(※正月)退院せず」と。 12月31日 終日televi見る。羽田に川久保のこと書かんと思ふ。 田中克己日記 1988 【昭和63年】  この年の出来事 1月、川久保悌郎退院。 1月、夫人に離婚を申し立てたりして躁激しく、 2月、上野界隈を徘徊して心身疲弊。杏林大学病院を診察の後、武蔵野療園病院に入院。以後、日記は8月まで夫人代筆となる。 2月、川久保悌郎、病院に見舞に訪れる。 2月、悠紀子夫人、西島寿一の娘千恵子氏を呼び指圧マッサージを受けるやうになる。 2月、江古田武蔵野療園病院に転院。 3月、西川英夫、病院に見舞に訪れる。病室でよく騒ぐと話題に。 5月、世田谷の関東中央病院に転院。 本格的にリハビリを開始す。 6月、[継母静江逝去。(11日)] 6月、関東中央病院退院。リハビリに通ひ、自宅にてマッサージも受く。 7月、長男家族との同居を前に蔵書の整理を検討。佐伯書店を再訪。 8月、中嶋康博、書庫に保管する掲載雑誌から著作目録の作成を依頼され、 9月成る。 9月、天皇発病を機に再び日記をつけ始める。 9月、川久保悌郎、見舞に訪れる。 10月、都丸書店、山本書店に蔵書整理を依頼。 10月、自宅のリフォーム工事始まり、仮寓(※阿佐谷南3-25-7)に転居。 10月、恩師Robert Schinzinger逝去(90才)。教へ子、鳥海香代子結婚。 11月、川久保悌郎を自宅に見舞ふ。 12月、長浜の武田豊逝去(80才)。 12月、クリスマス礼拝に出席。 12月、中嶋康博、詩集『夏帽子』を献呈す。 1月 1日~12月31日【78冊目】 [25.0cm×18.0cm] 無掛『大高随筆』ノート(大阪高等学校同窓會発行)に横書き 1月1日 20:00就職、2:00さめ河村只雄博士よむ。死は昭和14年? これにて決定しユに鎌田女史に「かけず」と電話せしむ。賀状150枚?来る。 1月2日 6:00さむ。9:00淳一来り、ついで克次朗来。11:30帰りしあと歯はめず高円寺丸家へ5千円もちゆく。 親類の母女来をり紹介せず。霊前にと5千円置き帰来。(※省略) 1月3日(日) よべ不眠、9:00淳一、史よりの菓子もち来る。克次朗も来り英語の勉強す(ユ礼拝休む)。 二人帰りしあと宏一郎来る。これは新宿の塾の帰りと。(※省略) 小林夫妻来りしところへユ、静江母より帰る。(※省略) 1月4日 6:00起床、ユ不眠と。山住dr.。(※省略) 1月5日 (※省略) 5:30起床、9:00淳一来り克次朗来り、われ朝食す。11:00美紀子来り、すぐ帰りゆく。 ユ、母へゆけばボケをるのみと。(※省略) 京母子来り、弓子よりの年玉もらひ本買ひしなどして16:30帰りゆく。 1月6日 よべ不眠。7:00起床、9:30山住dr.。(※省略) 1月7日 よべ19:30就床20:00薬のみて眠り5:00起床、ユ怒る。 ユ10:30まで静江のところへ。14:00吉祥寺の清水さんにゆく。 藤野一雄氏より『立春小吉』。下手也。 1月8日 3:00までねられず8:30起床、(※省略) 咲耶より電話「静江母入院せし」と。 1月9日 (※省略) ユ柏井へ歯の治療にゆく。大より「母入院」とことわりあり。 ユ「咲耶が入院させし」と。咲耶より「ユ帰れば電話せよ」と。 依子、よし子をつれ来る。咲耶三鷹へ泊りしらし。 1月10日(日) よべ不眠。礼拝休む。ユ9:00礼拝にゆく。禎子起き依子とをり。ユ礼拝より帰りしころ、咲耶を除く一族来る(史不快。2女来らず)。 大人6人、孫4人と夕食して去る。 1月11日(※ 訪問。お雑煮御馳走になる。) よべ眠り7:30起床、不眠とりかへす。 ユ13:00堀多恵夫人に電話すれば在宅。「客つづき」と。「その内ゆく」とユ。 西川英夫より電話「この間の同窓会3人のみ出席」と。中野君(※ママ 中嶋君)久しぶりに来る。 夜、伊藤徳に電話せしにかからず。丹波鴻一郎も不在。 辻芙美子『ドイツ紀行(※『ベルリン・ラプソディー』)』呉る。(※省略) 丹波電話し来しゆゑ川久保の入院を告ぐ。 けふは孝行と淳一の英語の日なれど淳一来ず中止となる。 藤野一雄『立春小吉』来る。下手なり。(※重複記述) ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇芳賀檀さんが神保さんの詩集の袋綴を切って帳面にしてゐた話。 〇堀辰雄忌の際の小山正孝さんの振舞ひに不満もちをること。 1月12日 4:30起床、(※省略) 8:00すぎ堀多恵夫人に電話すれば「主治医あり、あす来る」と。 我が頭悪きに感心す。ユに堀多恵さんの来る要なしと電話さす。 午食中、肥下夫人より電話「その中来て泊まる」と。 花井夫人いやいや14:30来り、土産もち帰る。(※省略) ユをして川久保夫人に電話せしむれば難病の由。 1月13日 5:40起床、昨日蒋経国死去。9:00山住dr.にゆき炬燵の火傷見せおどろかれ「入浴禁止、あさって来よ」と。 1月14日 (※省略) 村山高氏より令父母の遺稿来る。 1月15日 成人の日。無為。高円寺へゆき雑書1冊買ひて帰宅。ユに副牧師就任、説教いやと反対さる。 1月16日 (※省略) 山住dr.。血圧109- (※省略) 1月17日(日) 7:30覚む。ユのみ礼拝にゆかす。ユ、清川病院の母見舞にゆく。 母8人部屋に入りをり。河野次男のカンナ殆ど毎日来ると。 村山高氏「父方は播州三田」と。母上の歌多くのせをり。下手なり。20:15眠ることとす。 1月18日 4:30起床、(※省略) 昨日、坂本浩氏結核にて死亡と夕刊(80才と)。 1月19日 よべ不眠。5:20起床、午食もちて弓子来る。村山高氏へ受取かかねばならず。 17:00孝行来り、19:00まで淳一の教へ受く。(※省略) 1月20日 よべも不眠、7:30起床、(※省略) 17:30ユ川久保家に電話すれば「今日退院させし」と。 1月21日 1月22日 (※省略) ユ堀夫人に会へば「今週ダメ、来週来る」と。昔の日記よむ。 1月23日 10:00起床、21:00までユに鈍感責む。 1月24日(日) 夫婦とも礼拝休む。餅食はされしところへ堀多恵さんより電話「15:00ごろ来訪」と。 堀夫人15:00来り、17:00近くまでをられ、お花代5千円の礼いひ来らる。 (※省略) 1月25日 8:30起床、無為。川久保夫人内祝もち来る。 1月26日 1月27日 6:00起されユに不平いひ離婚申込む。また眠り11:15起く。2孫15:00より17:00まで学ぶ。 1月28日 (※省略)弓子来る。臨川より書目来り、高きにおどろく。 1月29日 1月30日 よべ7:30まで眠れず、ユに離婚申し渡す。(※省略) 川久保見舞にゆけば意外に元気なり。夫人もにこにこしてをり安心して14:00までをり、 出て高円寺へ歩き散髪すませ雑本450買ひて帰宅。(※省略) 1月31日(日) (※省略) ユ礼拝にゆく。美紀子よりわけのわからぬ電話ありし。(※省略) 2月1日 川久保見舞にゆけば案外に元気にして(※重複記述?) (※省略) 2月2日 9:30覚む。一食ぬきし也。出て上野をへて鶯谷のHotelにゆき3,500払ひ風呂と洗面所なるにおどろく。 代金一室3,500+税500なり。2時間近くゐて出、 山手線めぐり2度金落し「わたされて東京人良し」と感心せしに、あとにて2万円ぬかれゐることわかる。 衰えたるかな。帰って夕食す。2児最後の勉強す(ユ金払ふ1回2,500×?)。 世の中大いに変りわれ呆けたるなり。20:00就寝せんとす。ユ眠りをり。 2月3日 (※悠紀子夫人代筆) つかれる為か足が動きにくい。山住先生の所に弓子に助けを借りてゆくと 風邪から肺炎になると大変とレントゲンをとったがただの風邪だった。熱7.8度。家に帰り休む。 2月4日 2月5日 (※悠紀子夫人代筆) 家にてやすむ。足、動きにくい。 2月6日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、京の車で10時家を出て杏林大学病院に行き10505神経科の女医先生にみてもらへば、 足はつかれからで老衰の外には内科的な病気もないとの事で、 方々の入院先をあたって下さったが無く、三鷹まで帰り、昼食よばれ、 主人をねたままのこし、家に帰り部屋をあたためているうち 4時半頃、小林さんの自動車で帰ってきたが、すぐねかし、つかれてよくねむる。 2月7日(日) (※悠紀子夫人代筆) 朝までよくねて、足少しよくなる。 たいくつしていた時、弓子、史と美紀子さん来てくれる。にぎやかになって喜ぶ。 2月8日 (※悠紀子夫人代筆) 美紀子さんの車で弓子と4人で乗杉老婦人の入っていた病院(※武蔵野療園病院)を 苑ちゃんにきいて午後一時家を出て2時前着く。 院長さんがみてくださって入院ゆるされる。脱水と栄養不足の為、頭の血のめぐりも悪くなったとの事なり。 大部屋一カ所あり車イスで二階にあがり、やれやれと帰りつきやすむ。ぎっくり腰いたむ。 2月9日 (※悠紀子夫人代筆) この日より白鳥会より遠藤梅子さん(※付添婦)きてくれる。よい人でよかった。主人とても気に入っている。 2月10日 (※悠紀子夫人代筆) 病院に京、行ってくれる。 2月11日 (※悠紀子夫人代筆) 美紀子さんの車で朝、梅さんと3人で病院に行き、主人がおだやかになったのでおどろく。 梅さんにまかせて美紀子さんと帰る。 途中清川病院に姑を見舞ふ。だい分よわったと付添いさんが云ふ。ぎっくり腰自動車の為か又いたむ。 2月12日 (※悠紀子夫人代筆) ぎっくり腰の為前沢外科にゆく。(※省略) 2月13日(※ 電話にて3日前に入院と知る。) (※悠紀子夫人代筆) 腰痛む。梅さんが夕方きて3回分の料金渡す。よい人だが今日で終り。 2月14日(日) (※悠紀子夫人代筆) 京の自動車で季ちゃんケンちゃん禎子ちゃん6人で病院に行く。 わりにはっきりしていた。昼食6人でして、京だけ残して家に帰り4時半又病院に迎えに行く。 その間に清川病院に行く。おばあさん元気。 2月15日 (※悠紀子夫人代筆) 弓子病院に。梅さん今日からことわられる。(※省略) 末富様より(5,000)いただく。 2月16日 (※悠紀子夫人代筆) 3時頃病院に行く。夕食たべさせておとなりの人と帰る。感情があまりない。言葉わからぬ。字もよめぬ。 2月17日 (※悠紀子夫人代筆) 美紀子さんの日。3時頃川久保さん見舞って下さる。 握手のみにて言葉なしとのこと。食事もたべないし口もひらきにくい。 2月18日 (※悠紀子夫人代筆) 木曜の為、午前中(西島千恵子(※ママ、西島寿一娘:斎藤工母堂))指圧に来てくれる。 これから当分たのむことにする。わきばらから背すじに痛みうつる。 2月19日 2月20日 (※悠紀子夫人代筆) 夜食の為にずーと通ふことにする。 2月21日(日) (※ 電話にてお見舞。退院後の容態をたずねる。) ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇老人性肺炎の由。 『季』45号の最初の一篇のみ、夫人の手を介して目を通されうんうんとうなづいてをられたと聞く。 2月22日 2月23日 2月24日 2月25日 2月26日 (※悠紀子夫人代筆) 夜食に行くと前立腺が悪いとのこと。中島君と土曜に案内する約束する。 2月27日 (※悠紀子夫人代筆) 昨日禎子ちゃん来てとまる。朝より大雪の為、病院に行かれず中島君に月曜にするとことわる。 今晩は美紀子さんが来てくれるとのこと。依子、主人出張の為8時すぎ健ちゃんをつれてくる。とまる。 2月28日(日) 2月29日(※16:30-17:30 江古田武蔵野療園病院2階の6人部屋に見舞。) (※悠紀子夫人代筆) 川久保午前中カステラいただく。 夕方中島君と駅で会ひつれて行く。日々よくわかる様子。 2月中の御見舞、末富10,000、本多10,000、乗杉5,000 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇孫から贈られたラッコのぬいぐるみと寝て居る(たぬきと言ふ)。 〇入院当初、帰宅すると騒いで身体を拘束された際には、夫人も「とうとう完全にボケてしまった」と絶望したが、今は平穏に快方へと向ひゐる由。 〇実母の骨を大阪から八王子に移したいとの希望切なり。 3月1日 (※悠紀子夫人代筆) 雨で行けず。 3月2日 3月3日 3月4日 (※悠紀子夫人代筆) みどりさん美紀子さんと病院へ。元気なり。武田、松浦、今井家より見舞金いただく。 3月5日 (※悠紀子夫人代筆) 桝田、花井、咲耶氏見舞いに。桝田(海苔)、花井(みかん、プリン)、咲耶(赤福餅)、 元気で家にもどりたいと云う。 3月6日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会に。清水さんと丸井のうらによる。まだまだ自分の元気なのをありがたいと思ふ。 3月7日 (※悠紀子夫人代筆) 病院に会計する。12,100なり。 3月8日 (※悠紀子夫人代筆) 腰いたみ病院にゆかれず。 3月9日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、柏井に行き野中阜ちゃんと病院にゆき阜ちゃんに菓子もらう。主人喜ぶ。 4時までいて帰る。(※省略) 山水園か、いこいのホームに入れてあげたい。 3月10日 3月11日 (※悠紀子夫人代筆) 3時半家を出て病院に田中雅子さんに会う。お見舞と菓子こぶなどいただく。(※省略) 主人、食物をいやになると口の中に一杯にしてのみこまない様になる。(※省略)  青梅の方にキリスト教のよいホームがあるときく。 3月12日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 3月13日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会にゆかず。(※省略) 病院にさらし、運動服、靴そろう。夕飯の時、京、子供来る。主人喜ぶ。 3月14日(※15:30-16:00 江古田武蔵野療園病院に見舞。) (※悠紀子夫人代筆) 3時、村田幸三郎さんと中野で会い病院に。主人喜ぶ。 弓子が昼食の時までいて洗物を家までとどけてくれる。 3時半頃、中島君ジュースをもち見舞に来て30分程して主人つかれて帰ってくれと云う。 今日始めて足のリハビリを若い女性が来てベッドの上でしてくれる。 ベッドにすわり半身を支えなしに3分程いて足を下におろしささえて立つ。つかれる。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇小学校同級生村田幸三郎さん同席。新婚時代に住んだ高師浜の家が現存し、裏に墓地があり、引っ越してまもなく墓地の松林に首吊り死体をみた話など。 3月15日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、西川氏より電話。病院に行くと夜は皆さわぐと。京より電話。(※省略) 3月16日 (※悠紀子夫人代筆) リハビリは明日よりとのこと。(※省略) 美紀子さん夕方来る。 3月17日 (※悠紀子夫人代筆) 美紀子さんが行くからとのことでパーマに行く。1日休み。 トレーニングに朝10時から昼食まであまりすすまない顔でゆく。 3月18日 (※悠紀子夫人代筆) 雨の中を9時に出る。もうトレーニングに行っているので見にゆくと不足らしい顔でやっている。 右手右足がかたい。果実兼清様より。 3月19日 3月20日(日) (※悠紀子夫人代筆) 病院。 3月21日 (※悠紀子夫人代筆) 病院、史夫婦。 3月22日 (※悠紀子夫人代筆) 病院、となりの八十一才の方死亡、10年間病気。 3月23日 (※悠紀子夫人代筆) 弓子と東事務所へ。 3月24日 (※悠紀子夫人代筆) 朝10時戸田先生と上野へ。午後病院。西川様和田さんみえた。 帰って7時すぎ原田様からこぶ巻とカステラいただく。 3月25日 (※悠紀子夫人代筆) 朝戸田先生へカステラ1本とどけ明日の絵にはゆくと約束する。 2時家を出て病院に3時半。村田さんイチゴとシュークリームを土産に4時半まで話す。 1日中元気で歌をうたったり呼んだりして角の患者さんにどなられ、その人は熱を出してねこむ。 しきりに他人の事まで返事をしてうるさくてこまる。6時帰る。 3月26日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 3月27日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会行かず。 3月28日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 3月29日 (※悠紀子夫人代筆) 地代渡す。 3月30日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 3月31日 (※悠紀子夫人代筆) 病院にゆく前に指圧を美紀子さんと二人してもらい、 昼はうどんを3人で食べて病院に行く。今日から孝ちゃんここでとまる。 4月1日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月2日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。明日はリハビリ休みと喜ぶ。 4月3日(日) (※悠紀子夫人代筆) 教会に。イースターなり。(※省略) 病院に行く。今日はリハビリなくおだやか。 依子と京、家にて待っている。 4月4日 (※悠紀子夫人代筆) 今日で孝行は家に帰る。依子10時半宮を出てパンを買い病院に。主人喜ぶ。 午後よりテンテキあり依子に中野まで迎えをたのみ、 姉(※俊子氏)と美寿子さん見舞に。(※省略) 主人ほとんど変りなくわかり美人揃いなどと云う為、CTを写しにつれて行かれる。 依子4時頃帰り、あとで二人を中野まで送る。 4月5日 (※悠紀子夫人代筆) 病院に行く度、さわいだ話しをきかされ身がすくむ。(※省略) 福祉の小平さんが見え、 やはり家が一番で7月の息子(※史氏との同居)の住いのきまるまでおいてくださるようにしようときまる。 書類はそのままあずかることとなる。主人中野区役所に一緒に行くとわからぬことを云う。 4月6日 (※悠紀子夫人代筆) 今日のリハビリを見に行けば鉄棒を片手ににぎり歩行のくんれんをしていたが足が歩いている感じはない。 隣のベッドに川瀬さんと云うみよりない老人が来た。ワンマンらしく看護婦さんに注意をされてあぶない。 主人は何の関心もしめさない。 花井さん来てくれて二人で世話をすれば朝わるかったきげん直る。くしゃみをしてさむがる。 講談社から来た手紙みせOKを云う。食後花井さんと帰る。ごきげんでさよなら。(※省略) 4月7日 (※悠紀子夫人代筆) 10時千恵ちゃん来て12時まで指圧。午後休んでいると弓子病院に昼食時に行きよってくれる。(※省略) 3時すぎ病院に行く。隣の老人に福祉の人来て親切に話をしている。大変な仕事と感心する。 4月8日 (※悠紀子夫人代筆) 大雪におどろく。午後病院。 4月9日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月10日(日) (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月11日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月12日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月13日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月14日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月15日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月16日  (※悠紀子夫人代筆) 病院。 4月17日(日)   (※悠紀子夫人代筆) 病院。兼清氏、川久保氏(チョコレート)くださる。 4月18日(※ 江古田武蔵野療園病院に見舞。『東京四季』を呈す。) (※悠紀子夫人代筆) リハビリをいやがるので皆にはげましてもらう。 4月19日 (※悠紀子夫人代筆) 瀬見氏来る。リハビリをやるように少し元気になる。食事進むので家からのものやめる。 4月20日 (※悠紀子夫人代筆) リハビリやる。初めて入浴する。しっしんが背中に多い。 4月21日 (※悠紀子夫人代筆) 病院にリハビリする。 4月22日 (※悠紀子夫人代筆) 昼食前病院に。(※省略) 夜食前にわけのわからぬ事云うので夜食の世話をせず帰る。 弓子より電話、月曜9:30三鷹駅で会う事にする。 チイチャン(※西島千恵子氏)より電話、火曜日に2時半に指圧。 4月23日 4月24日(日) 4月25日  (※悠紀子夫人代筆) 高尾に花を見に。 4月26日 4月27日 4月28日 4月29日 (※悠紀子夫人代筆) 京、午後来る。雨。4人で病院に行く。わりに元気。4時半頃花井夫妻見舞に見える。竹の子いただく。 4月30日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月1日(日) (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月2日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月3日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月4日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月5日 (※悠紀子夫人代筆) 病院から帰り禎子あづかる。 5月6日 (※悠紀子夫人代筆) 病院に弓子いってもらう。 5月7日 (※悠紀子夫人代筆) 朝から病院に。2時から戸田先生。 5月8日(日) (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月9日 (※悠紀子夫人代筆) 母の為にドラヤキうさぎやにもとめとどける。10時病院にゆく。中島君みえる。 5月10日 (※悠紀子夫人代筆) 病院。 5月11日 (※悠紀子夫人代筆) (※省略) 肥下夫人の電話あり、阿佐谷駅に行き、二人で病院に行き(6時半-7時半)、 中野でうどん食べ家に帰り、11時半まではなし込む。 5月12日 (※悠紀子夫人代筆) 9時半、夫人と家を出て中野で別れ病院に行く。 5月13日 (※悠紀子夫人代筆) 調子よくリハビリもすすみ、婦長さんにあと2週間で退院を、と言はれる。 その前に息子か嫁と一緒で先生より話をきいてくれとのこと。 めづらしく主人に気をつけて帰れ、おやすみと云はれておどろく。7時家につく。 ※以下【78】ノートには10月9日まで記述なし。 5月14日 5月15日(日) 5月16日 5月17日 5月18日 5月19日 5月20日 5月21日 5月22日(日) 5月23日 5月24日 5月25日 5月26日 5月27日 5月28日 5月29日(日) 5月30日 5月31日 6月1日 6月2日 6月3日 6月4日 6月5日(日) 6月6日 6月7日 6月8日 6月9日(※ 転院先の世田谷の関東中央病院に見舞。) ※この日の中嶋康博メモが残ってゐたので掲げます。 リハビリに立ち会ふ。毎日の楽しみといふアイスクリーム頂く。 同室の102歳もと海軍大学の校長とかいふ人のこと。 6月10日 昭和63年6月11日 [※継母静江逝去か。] 6月12日(日) 6月13日 6月14日 6月15日 6月16日 6月17日 6月18日 6月19日(日) 6月20日 6月21日 6月22日 6月23日 6月24日 6月25日 6月26日(日) 6月27日(※ 退院。) 6月28日 6月29日 6月30日 7月1日 7月2日 7月3日(日) 7月4日 7月5日 7月6日 7月7日 7月8日 7月9日 7月10日(日) 7月11日 7月12日 7月13日 ※以下【79】ノート(~10月7日)。 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 7月14日 退院を■され歩行困難のまま2月9日以後■■まで乱■■こと云ひしを全く忘る。 本のありかをたしかめず22:30ねて3:00さめあと眠れず。7:00起床。(※乱筆甚し) 7月15日 睡眠不足、美紀子来り、夕方までをる。 7月16日 よべ20:30ねて6:00さめ、ユ相手におしゃべりす。 ユ都丸に本売り、全詩集を出せといふ。止むを得ず承知す。 雨時々降る。沖縄大井玄先生お越し。51才で70点おつけいただき、 史夫婦来りし故、あと追ひ三人の御一行を東大一般教養前近くまで送りゆき、 (※同居の為の)新築も、わが常用の二間は例外とせよとの勧告賜りし由。 7月17日(日) 雨も降り、11:30乱暴な字で竹森先生に最近の状態申上ぐ。 それまでに羽田に電話せしが、羽田夫人わがだまされの無念(※病院での方便の数々?)をききとりくれる。 羽田の病状われよりあしく再起の見込なき由。 7月18日 菊池眞一氏より28日の三火会にて久しぶりに会ひたき由。(※省略) 三首即吟をはじめにしるし三火会に出席不可能をくはしくしるす。 7月19日 (※悠紀子夫人代筆) 10時(※ヘルパー)佐藤さん来る。秋田美人で54才位、横手の人。良く語り主人気に入る。 主人にもっと高尚な人格になれと云う。4時で帰る。主人話づめ。電話6時半より7、8通かける。 7月20日 (※悠紀子夫人代筆) 弓子に河北の薬取ってとたのむが午後はだめ。神経科は本人が来なければだめと云はれる。 昼、克君孝君と5人で寿司を取ってたべる。主人の食事量多し。菊地さんよりランの花いただく。 7月21日(※『四季』借用。) (※悠紀子夫人代筆) 弓子10時来てくれたので河北に薬もらいに行こうとしたら河北はいやと云うので山住先生の薬をいただく。 午後、千いちゃん(※西島千恵子氏)来て指圧、中島君2時来て4時半帰る。四季貸す。 夜、うなぎとなすたべ今日は大便あり。朝6時にむりに風呂に入り又2時間ねむる。 夜は10時半ねる。菊地さんより手紙いただく。主人昨日礼を出す。 7月22日 3:30さめる。10:00佐藤家政婦来るが唯一の■■(※乱筆甚し) (※悠紀子夫人代筆) 朝、佐藤ヘルパーみえる。相変らず口数多し。ドライをしてもらふ(コインロッカー)。 午後2時頃和田さん、1時間遅れて桝田さん来る。和田さんにプリン岩海苔、桝田さんに虎屋の菓子もらふ。 主人、桝田さんをえらくしかって、あとで娘さんの事、出来ないのに(※見合斡旋)ひきうけてしまう。4時半帰る。 夜くたびれて早くねむるが(8時50分)おいと起こされてびしょびしょの着物シーツをかえて11時より1時までねず。 やっとねむり、又おこされたら5時すぎ又びしょびしょ。朝食は7時すぎ。 7月23日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、三輪法律事務所、坂口充男、あと手紙出す。この日より寒がり足つめたし。湯にてあたためる。 ごきげん悪く尿よごれてくる。午後、史夫婦来たる。丸茂さん来て(※同居するための)家の事、研究する。 やはりほとんど新築になるのでこれから大変なことになりそう。 尿意しきりでとりきれない。食事はまあまあ、夜ついかのピンクの玉のますとよくねるが、 朝、起き、きげん悪るくねどこはびっしょり。 天気悪るく雨が十日もつづき洗濯物の山はしってかわかしに行き、昼中ねていたので 乗杉さんより防水シートゆづりうけ弓子が来たので(うなぎその他もらう)やっとねどこをととのえる。 弓子にはさからはない。美紀子さん十分程きてトイレを持って帰る。だんだん落ちてきた様子。 7月24日(日) (※悠紀子夫人代筆) 今日は小沢先生も見えられず、尿はにごっている。明日河北さんに行くつもり。食事はまずまずふつう。 7月25日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、乗杉さんの車いすを貸していただき河北(※河北病院)にゆき9時すぎから10時までまたされ、 その間2階の看護室にゆき婦長に御目にかかり礼を云い淡輪先生(※泌尿器科)に見てもらい尿を渡す。 膀胱炎とのこと。(※省略) ぼちぼち降りそうなので急ぎ帰る。どうしても佐伯書店に行けと云うので佐伯にゆき本1,800買い帰り、 車いすをもてあます。力がないのでつかれて、家につき食事の用意。 7月26日 (※悠紀子夫人代筆) 佐藤さん10時にきてくれると良いきげんで助かる。膀胱炎の為、熱7.5位。 昼すぎアイスノンとホカロンを買ってきてもらい冷やす。尿のたび、いたがる。食事ふつう。 7月27日 (※悠紀子夫人代筆) あてにしていた中島君もこず、きげん悪いので、弓子にきてもらったが弓子も家の子供達の事でふきげん。 尿はすこし良くなったが、いたみはまだある。 弓子、主人に本の事いったががんとしてこのままにしてほしいとの事で長男との同居はすこし困難だと思う。 6時40分、鎌久先生(※鎌田久子)お見舞いに見えたが寒くてベッドより出る気なく、 御見舞(菓子)と学校の記念品(七宝カザリ時計)のみいただく。。 いよいよ二人で行かねばならないと決心する。 7月28日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、だだこねて食事せずまたねて10時朝食、その後おだやか。昼2時半宿便ほとんど出る。 花井さん電話、桝田さん他に話し有るようで安心す。一日中雨、佐伯に行きたがる。 7月29日 胆石の話televiで成人病の一signと考へよと。 森田さん佐藤さんの代りに来る。ユ(車いすににのせて)佐伯入口までゆき、『金瓶梅』4冊、 これが「天遊の詩人」庄野君あて署名入り、売れば160円とて地図1冊と代へ呉る。 健太郎誕生日とて吾1千円ユ1千円祝にやれば喜ぶ。 (※悠紀子夫人代筆) 長友さんと河野さんより果実1かご見舞に送ってくれる。夜つかれ7時半に食事の薬のみでねむる。 腸ごろごろしてゆるし。中島君に電話して明日午前中にして昼食家でしてくれとことづける。 7月30日(※11:00-16:00 『四季』返却、『山上療養館』、『白鳥』借用。お昼御馳走になる。) 弟子来る筈なり。ユ、家(※中嶋康博の下宿)に電話なしといふ。電話買へと[いへば] ウンといふ。 7月31日(日) 8月1日 (※悠紀子夫人代筆) 弓子10時きてくれる。河北病院の泌尿器科と神経と両方の薬をもらい、1時頃帰る。 弓子の話きき大変な様子、なにの力にもなれず世話かけるのみで悲しい。 弓子帰れば、わけのわからぬ事ばかり云いはらを立てている。食事あまりすすまず口がにがいらしい。 熱出て頭ひやす。(※改築の為)家を出る事気になるらしく、 荻窪の近くの家で大きな家で昔住んでいた家だと云う。 夜は早くねて3時過ぎ起きて風呂風呂とさわぐ。 8月2日 (※悠紀子夫人代筆) 朝、風呂に入れろと云うので入れる。雨降り大井さん(ヘルパー)来ると、風の中佐伯さんに行くとさわぐ。 大さん来る。10分程にて帰る。とうとう傘をさして佐伯さんまでゆく。大井さんが力つよいのでたすかる。 しきりに主人いばる。昼食少し。スイカもまずいと云う。 松本紀久子さん(※善海未亡人)より茶漬用鮭・たらこいただく。 電話3本かける。中島君3日午前中きてくれる。保健婦さんより電話、 4時ヘルパーさん帰ると急にしづかになる。 8月3日(※11:00-18:30 著作目録を作るため書庫の雑誌を転記し始める。) 土光氏逝去92才。仏式で葬儀。 我が全詩文出版のこと決定。中島君のせい也。 ※この日の中嶋康博メモが残ってゐたので掲げます。 肥下さんの奥さんは美人で有名で、独身時代の保田さんが惚れ、 奥さんに「崖から突き落とすかなにかして殺してしまへ」と、 田中先生夫妻の前で冗談で語ったことに、新婚の悠紀子夫人が不審に思った話。ほか 8月4日 (※悠紀子夫人代筆) 朝11時前、中島君電話にて来てくれる。 午前と午後かかり4.5畳の部屋の押入かたづけ昼食後、主人の詩全集作る為、作品の[リスト]を作る。 弓子午後来てくれる。鳥肉を持って留守をたのんで、 佐伯さんのとなりの家の紹介所をたずね(※建替期間中に住む)一軒家の短期借家をたのむ。 帰ると建築家より一戸建あるらしいの電話。中島君夕食後帰る。 夜9時ねて12時すぎからおしっこおしっことやかましく、がんがんうるさくとうとう3時までねられず。 もうだめだと悲観する。朝2時間ねむる。 8月5日 (※悠紀子夫人代筆) 佐藤さん来宅、おしっこのたえまない為、夜も4、5回おきると云えばビニールの袋をつるしてくれる。 その後は夜も全然おきずおしっこもしらせなくなる。口数少し。午後3時頃熱が出て氷枕する。食慾はあり。 8月6日 (※悠紀子夫人代筆) 佐藤さん来てくれる。熱は昨夜のうちに下る。 午後2時頃、留守をたのんで(※戸田みつき)先生の展覧会を下村画廊までゆき、急ぎ帰る。 道で佐藤さんに会ひ、弓子来てくれたと。夕食後帰る。おとなしく、尿を全然しらせない。 小沢博士来られ子供用の本置かる。午後京夫婦来る。ユ佐伯にゆけば『歴史手帖』夜来る故もち来ると。 ※以下9月20日まで記述なし。 8月7日(日) 8月8日 8月9日 8月10日 8月11日 8月12日 8月13日 8月14日(日) 8月15日 8月16日 8月17日 8月18日(※ 阿佐谷訪問、著作目録作成つづき。) 8月19日 8月20日 8月21日(日) 8月22日 8月23日 8月24日 8月25日 8月26日 8月27日 8月28日(日) 8月29日 8月30日 8月31日 9月1日 9月2日(※ 阿佐谷訪問、著作目録作成つづき。) 9月3日 9月4日(日) 9月5日 9月6日 9月7日 9月8日 9月9日 9月10日 9月11日(日) 9月12日 9月13日 9月14日 9月15日 9月16日 9月17日 9月18日(日) 9月19日 9月20日 4:00さめて眠らず。6:00のteleviまで待つ。天皇病気出て騒がし。われは平気。 角川より広告来り『李白(※鑑賞中国の古典)』かきし人は大学教授の某とわかる。(※筧久美子) 9月21日 9月22日 9月23日 早くさめ筧女史の『李白』の礼状やっとかく。けふは祭日にてソールのOlympic盛んにやる。 天皇の病気一休みとて方々にて見舞の署名をかく。秋の彼岸とて方々の(※叙勲の)話あるも面白からず。 ユ買物にゆき万年筆の代りとてpencil買ひ来る。食物も方々よりとり来る。 Xmas教会へゆけるやときけば「サーネ」となり。 9月24日 6:30さめる。天皇危篤つづく。佐藤さん来り、薬とりにゆく。川久保(※悌郎)午后来り、体悪しと。 よべ『日韓併合小史(※岩波新書)』よみ出し著者山辺健太郎1905年生と知る。 韓国のSeol Olympicのアメリカ、カナダなどみな黒人を雇ふとユ明かす。9:00出てゆく。弓子来り、飯くれる。 9月25日(日) ユ体いかにや。弓子来るを待ち礼拝にゆく。弓子よく世話しくれ恐れ入る。ユ16:30帰宅。説教さる。(※省略) 天皇ややよく、ふだん着のバカ者ども署名にゆく。皇族もこぞってゆく。困ったものなり。 9月26日 終日無為。入浴せんのみ。 9月27日 仝。天皇、オリンピックにてさはがし。伊藤とく女史に方法なし。(※不詳) 9月28日 天気相変らず悪く、二人の孫教へられ教ふ。 ユ、わが忘れしこと云ひおどろく(村田我が家へ来り、泊りしなど)。 中島君に電話せしむれば「明日来る」と。 9月29日(※ 著作目録作成了る。田中冬二の短冊を頂く。) 中島君来るまで病院にゆく。背高き加藤看護、力強く、神経科すみ帰り来る。 飯食へば中島君来り、田中冬二の短冊与ふれば喜び、わが短冊(※色紙)とならべて掲げると也。 目録ともに大体了り、もはや■■にする気なし。 9月30日 誰も来ず。ユ出入りす。われOlympicと天皇のことteleviで見るのみ。大分歩き、入浴す。気持よし。 10月1日 誰も来ず。本の整理決意して気持よし。 10月2日(日) 聖日礼拝に金にかける様にならん。 10月3日 佐藤さんよりあす来ると。瀬見氏午前中に来ると。8:00諏訪望来る。名古屋へ帰ると。 [10月4日] よべ眠り10:00まへ佐藤さん来り、譏嫌よし。 12:30(※都丸書店)瀬見氏来り、文庫新書みなとり、 あす山本へ売る本以外みな引取り、夕ぐれまでかかりて39万円呉る。 漢和大辞典とりに来るとのこと承知す。山本はもと古本屋にて満洲語の本売りしこと思ひ出す。 13:00出発すと山本より連絡あり、ユにキリスト教の本の始末相談せしに急ぐことなしと也。 入浴し、めかたはかりしに39キロと。ユも同じと。 10月5日 10月6日 山本より電話にて運送屋の都合にて8日本とりに来ると。ユおどろかず。 瀬見氏に電話して「残りとりに来れ」と云はんとす。 ユ、山本のもち帰りしあとよしとて「日曜に来れ」と電話し、夫人に伝へしと也。 10月7日 よべ8:00就床5:30さめ放尿、6:00より就床。 8日佐藤さんと先づ仮寓に入る。ユ同行、ベッドその他の置場を指定すると也。 10月8日 よべ8:00入床。4:00さめ6:00朝食、山本来るをまちて新居に入ることとなる。(※阿佐谷南3-25-7) ※以上【79】ノート ※以下ふたたび【78】ノート [25.0cm×18.0cm] 無掛『大高随筆』ノート(大阪高等学校同窓會発行)に横書き 10月9日(日) 史夫婦と長女(※依子)と来り、片付け呉る。われ寝しままにて憂鬱なり。 史らに天丼とり長女に買物に5,000ユ渡せば釣銭渡さず夕方帰りゆく。 10月10日 体育の日にて休みなれど誰も来ず。Schinzinger先生、横浜の病院にて逝去、90才と。 24日に学習院にて葬儀と新聞にあり。 吉祥寺教会にても平会員の某氏の葬儀ありと新聞に見ゆ。元アナウンサーなり。 10月11日 4:00さむ。ユ誕生日とて昨日ツッケンドンなりしと。 佐藤さん■はれ、我へのサービスだめ。瀬見氏■■りもりにてほぼすむ。佐藤さん16:00帰る。 10月12日 無為。 10月13日 同。 10月14日 山本(※書店)に電話すれば買上げ69万円にて17日新居へもち来ると。 10月15日 佐藤さん9:30来り、河北病院泌尿器科につれゆき呉る。 2日分の薬もらひ新居につれゆく。すぐに皆来り、荷物運び呉れしをほどく。佐藤さん16:00帰りゆく。 皆も帰る。狭きと隣のユの室とのしきりなきとは意外なりし。 10月16日(日) 7:00さめ排尿。美紀子来り、京母子来りて掃除す。 ユ家主に挨拶にゆき移転のハガキ文上手に作製、印刷を京にたのむ。 我は終始bedにあり退屈す。20:00就寝。 10月17日 午前中山本来り69万円と我好みらしき本ともち来る。午后村田幸三郎より「来たし」と電話あり気を悪くす。 10月18日 5:00さめユ起して朝食す。10:00佐藤さん来り、ユ買物にゆく。 10月19日 5:00さめ6:00朝食。村田幸三郎12:30の昼食後来り、シュークリーム呉れ匆々帰りゆく。 美紀子夕食後来り、姉の家へゆくらしくこれも匆々帰りゆく。 夕刊に大林良一(※成城大学元学長)の葬儀あす、喪主は太良と見ゆ。 けふ佐伯休みとて瀬見伊三郎も来らず。 鳥海香代子ヨーロッパに新婚旅行(10月2日挙式)し光江姓になりしと。われ式に招かれしもユ、断りしと也。 10月20日 6:00朝食、22:00まで旧宅へゆき皆の仕事しゐるを見、帰りて、(※省略) 10月21日 5:50排尿に起き天皇の病状6:00よりteleviで見る。そのあと(※省略)、 12:00寿一の娘(斎藤かず※ママ、不詳)来り、弁当食ひ、ユにマッサージすまして帰りゆく。(※省略) 10月22日 よべ0:00眠り5:00覚む。眠くなし。6:00天皇の容態につき出血ありと。眠らずに病院。ユと佐藤夫人付添、 2:00近く午食にラーメン食ふ。佐藤夫人帰りしあと瀬見氏来り、漢和辞典もち去る。 ユそのあとうるさく20:30就寝と定む(あす弟子来る由)。 10月23日(日) (※ 自宅改築の為の転居先[阿佐谷南3-25-7]を訪問。) 7:00朝食。中島君ユの買物に出しまに来り、詩集16万円にて出せしと。 仕方なく『海原にありて歌へる』等大木本2冊与へる。この次詩集もち来ると14:00まへ去りゆく。 夜、ユ電話し「28日の同窓会に出席」と。20:30睡眠せんとす。 10月24日 7:00起床。7:30朝食すます。9:30出て通院、リハビリ森安技師より受け11:00退出。 ユの作りし飯くひ肴屋のもち来し鯛のサシミ食ふ。20:00就寝。けふ630円白水社より受く。 10月25日 2:30さむ。また眠り5:30起き8:00朝食すむ。移転通知50枚受取る。誤植あり気を悪くす。 10:00佐藤夫人来り、13:00ユと3人にて出リハビリ森安先生より受け関節に包帯まかれて歩かさる。 痛みなく歩けし也。14:30帰宅。留守にゐし克次朗学校へとゆく。 Schinzinger先生の葬儀、昨日ありしを菊池氏より便りあり、礼に移転通知かくこととす。 10月26日 よべ2:00さめてまた眠り7:00起きて朝食す。ユ移転ハガキかく。またひまつぶし無くなり12:00昼食。 13:00また病院、守安先生(※ママ)のマッサージ受け、歩けるやうになり15:30帰宅。ユ戸田画伯にゆく。 17:10肴屋マグロもち来る。払はず「明日トロ」とたのむ。清水嫗より色々もらふ。 今秋又は来週の礼拝にゆけさう也。 10月27日 7:00朝食し排尿す。足立つ様になる。東洋文庫の田川氏(※田川孝三)逝去。79才と。朝鮮史の大家なり。 (※省略) ユと病院にゆき守安先生の1時間の治療受け、歩かされて早足にて廻る。明日にて了りとならん。 帰りすきゐる散髪屋に入れば丁寧にて3千円と2倍なり。 ユつれゐし野中阜子(俊姉の3女)家まで来り、(※省略) 10月28日 高橋匡四郎の■■よむ。10:10弓子来り、ユ出てゆく。金なく話もなし。 守安先生に1時半より3時まで治療受け、3:30帰宅。(※省略) 10月29日 8:00朝食すむ。10:00前佐藤さん来り、病院へゆき守安さんに世話され階段の上下を稽古してすみ、 11:45帰宅。(※省略) 川久保夫人に電話せしむれば「何事もなし」と夫人。余計な心配しゐると也。皆年よりし也。 10月30日(日) 20:00ねて2:00さめる。2時間足らず仕方なく本よむこととす。6:00朝食、礼拝にゆかず。(※省略) 禎子をつれてユ入浴にゆく。禎子おとなしく17:30母の迎へに来るまで悠紀子の膝の上に留る。 肥下夫人より電話あり土地問題で山本治雄弁護士にたのみしと。 10月31日 20:00就寝0:00さめて尿にゆく。仕方なし。禎子よく眠り愛らし。 河盛好蔵氏文化勲章をもらふ。仏文学者としての順序なり。 われ『四季』出す時たのみて1万円金もらひしとユの話なり。堺商人の出なり。 7:30起き朝食、禎子おとなし。(※省略)13:00病院にゆく。15:30帰宅。 17:50京来り、禎子をつれゆく。川久保来り、何もせず。心配いらずと也。21:00就寝。 11月1日 4:00さむ。newsは6:00からとtelevi。(※省略)10:00すぎ佐藤さん来り、ユ画にて出てゆく。 (※省略)13:00病院にゆく。(※省略) なるべく歩くことときめし。 ユの買ひし秋刀魚くへずサシミにしろといひしもきかれず。柿くはし排尿させらる。0:00一度さめ仕方なく眠る。 11月2日 7:30朝食、13:00病院、(※省略) 15:30帰宅。田中初枝叔母より電話。(※省略) 朝の便にて手塚氏鎌倉より「退院おめでたう、匈奴につき論文かきし」と。 11月3日 体育の日(※ママ)もとの明治節なり。3:00さめ(※省略)、 全国の受勲者の表のりをりしも同級生、同好生には一人もなし。(※省略) 11月4日 11月5日 7:00すぎさめる。排尿。朝食10:00寿一の娘来り、massageをユにする。 13:00出て病院。(※省略)15:30帰宅。(※省略) 11月6日(日) 3:00排尿に起きる。佐藤さん9:00すぎ来り病院にゆく。(※省略)12:00帰宅。 美紀子来てをり、(※省略) 20:30就寝。 11月7日 よべ2:00さめ5:00さむ。浴場の点火わからずユを起こして叱らる。6:00入浴。 11:00出て川久保宅へ。夫人不在、嬢もの云ふ。13:00帰宅。(※省略) 佐伯けふ月曜休業と。やる気なきかな!ユ、森安には家しらべて礼すると。 11月8日 4:30起き(※省略) 13:00河北病院へ歩けるだけ歩いてゆき森安技師のtraining14:30やめて帰宅。 村山さんよりmansionにかはり上京した時電話すれば転宅と。 佐伯けふも休み。佐藤夫人、柏井の娘のことで気を悪くし早々と退去す。夜早くねる。 11月9日 5:00さめ7:00朝食、天皇病状悪しきらしくはっきりせず。11:00美紀子花もち来り、12:00昼食。 13:00ユにつれられて森安技師の治療受くることとなる。 元東大学長茅誠司逝去。79才と。高田瑞穂の長男より狛江に越したと。(※省略) 11月10日 5:00さめ(※省略)、一興の孫(※西島千恵子氏)masasageに来る。(※省略)、13:00出て河北病院、 (※省略)15:30帰宅。televi見ていやになる。 11月11日 荒木修氏よりハガキ。(※省略)7:00朝食すまし、(※省略)11:40昼食すむ。(※省略) 11月12日 (※省略) 佐伯夫人9:00前来り、病院へゆく。(※省略)  茅誠司氏クリスチャンにて330番好みしと新聞にあり。 佐藤夫人14:00帰りゆく。草野心平死にし由、夜のteleviにて出る。 11月13日(日) よべよくね7:00前起床。草野心平は芸術院会員、文化勲章もらひしと。 宇宙法学会きのふ開会式やりしとわかる。 礼拝に夫婦とも欠席。ユに云はせればクリスマスを待つと也。(※省略) 10:00南川より電話、ユ病気しらせしと也。教会長老来るやと14:00まで在宅、来ねば佐伯まで歩き、 大岡信『折々のうた(150)』買ふ。あとは買はさず仕方なく車にて帰宅。(※省略) 11月14日 よべ0:00まで眠れず6:20さむ。新聞休み也。松田ミス子嫗12:00我が家に来り云々相談す。 13:30より森安技師にかかりねをあげ1時間にてカンベンしてもらひ15:30帰宅。 西川より「いかに」と電話、「参りをる」といひて了す。羽田君より自筆にてややよくなりしと手紙あり。(※省略) 竹内好のことかかんとするも出来ず。 11月15日 6:00さめ(※省略)13:00出て森安技師、12月23日のXmasにはまにあはすと也。15:20帰宅。(※省略) 11月16日 5:25さめ(※省略)、12:00前昼食、美紀子来り、炬燵作り出てゆく。13:00ユと病院(※省略) 15:00すみ佐伯に寄る。買ふ本なく帰宅。15:30炬燵に入る。(※省略) 中国軍に階級出来、仮想敵国はVetnamと。 11月17日 6:20さめ放尿。七夕の伝説かくこととす。竹内好の思ひ出書けずと断る。10:00寿一の娘マッサージに来る。 入れ違ひに弓子来り、13:00我を押して病院。(※省略) 15:15帰宅。角力幕下より見る。 文芸名簿に我を「詩人。主著『楊貴妃とクレオパトラ』『蘇東坡』」とす。1冊申込む。 11月18日 5:30さめ(※省略)、13:00家を出て病院。森安先生明日休診と。喜びて小雨の中傘さして15:00帰宅。 佐伯店主に遇へば雨ゆゑ休店と。80才にふさはしく仕方なし。(※省略) 11月19日 3:20さめて放尿、(※省略)  9:00前佐伯夫人来りしも森安技師休みとて用なし。 11:00われを押して旧宅へにゆき山住dr.にみてもらふ。満員なり。(※省略) 船越苑子に2度会ひしももの云はず、史夫妻来りしもものいはず14:00去る。 11月20日(日) (※省略) ユ教会へ7:40出発12:30帰宅。その間我何もせず。 京の長男健太郎来るとのことに待てば来り、茶などくれ、すぐ帰りゆく。(※省略) 11月21日 よくねて7:00直前さめ(※省略)、 13:00出発、森安氏久しぶりとてつらく年末までやると也。15:00帰宅。(※省略) 11月22日 (※省略) 早大アジア大で自己推薦にて入学させるとtelevi特報す。10:00前佐藤さん来り、(※省略)、 13:00出て、森安氏熱心にて15:30帰宅。佐藤夫人笑顔にて(※車椅子)押してくれし也。16:20帰りゆく。 (※省略) 大蔵大臣言語不明にて汚職明らか也(※リクルート事件)。20:30眠ることとす。 11月23日 3:00前起きて放尿、和田先生を憶ふ。Mongol史の最後の講義わがためになされし也。(※省略) 11月24日 6:00前起きて放尿、7:00朝食、12:00昼食すます。ユに寿一の孫娘(※ママ)massageに来る。 13:00出て森安氏にかかり15:40帰宅。(※省略) 11月25日 4:40さむ。睡眠時間7時間。(※省略)12:40出て森安氏にかかる。痛くもあり時間短くしてもらふ。 佐伯あけゐるも寄らず15:10帰宅。(※省略) 八木書店の書目見れば伊東静雄ややかき、我とコギトには項目なし。(※省略) 11月26日 よべ22:00眠り1:00前さむ。よき詩作るはずなりしもダメ再び眠ることとす。(※省略) 9:00前佐藤夫人来り、森安氏につれゆく。11:40帰宅。16:40佐藤夫人帰りゆく。 角力、千代の富士今場所優勝ときまる。われ年賀状印刷いまだにて困る。20:00入浴。 中林マリ子といふのより電話、ユでたらめの答す。 11月27日(日) (※省略)9:00朝食、ユ教会へゆかず我televi見つづけ(※省略)、克次朗来り、匆々出てゆく。 15:00京一家来り、ユ飯買ひにゆく。千代の富士負けて大騒ぎとなる。18:00京一家帰りゆく。(※省略) 11月28日 (※省略) 朝食8:55にすむ。ユ、ハガキ100枚買ひ呉る由。(※省略)13:00ユと出て河北病院。(※省略) 11月29日 (※省略) 10:30佐藤女史来てくれる。(※省略)16:00帰宅。 18:30中島君より電話「詩集おくれてわびに来る」と。「あさって来い」と答ふ。20:00昭和名曲集きく。 11月30日 (※省略) 朝食9:00髭そり竹原医師に挨拶にゆくと。寒し。10:00近く出発10:30竹原医師に会へば、 森安技師より承知と。11:15帰宅。12:00昼食、美紀子来り、史石油国へ出張と。ゆっくりしてゆく。 松村潤氏より喪中欠礼と。(※省略) 12月1日(※ 転居先を訪問。) 8:45ユに起こされ放尿、朝食、10:00寿一の娘massageに来る。 10:50兼清より電話「心配してゐる」と。「リハビリにゆく」と答ふ。 13:00出発、早くすみ佐伯に寄りしも本なく15:30帰宅。 16:00井上君(※ママ)来り、『詩集夏帽子』56pを200部12月刊行と夕食し17:30帰りゆく。処置なし。 20:30就寝。けふ金沢市の笠原医院よりお歳暮とどく。夫人の計らひ也。 12月2日 0:00排尿にてさめる。7:25またさめ排尿、ユ10:00水道ガス電気料の支払にゆく。(※省略) 「待降礼拝にゆけばよし」とユ。(※省略) 12月3日 6:50放尿で起床。8:10朝食、8:30佐藤夫人来てくれ河北まで出発、 森安先生痛く、「お母さん」と笑ひゐるユを呼ぶ。(※省略) 出て山本印刷へ賀春の印刷たのみにゆく。 夫人我をおぼえをり。ユ柏井へ歯の治療にゆき15:35まで佐藤さんをりて困る。ユ15:40帰宅。(※省略) 12月4日(日) 4:25排尿に起く。(※省略) 13:00昼食了ると15:30副牧師さんわざわざ見舞にお越し。 ユ「Xmasには必ず」と答ふ。 ユ戸田先生へお歳暮もちゆく。小林の長男来り、もの云はず。ユ17:00帰れば喜びて帰りゆく。(※省略) 12月5日 7:00さめ(※省略)、西川より「父上の喪中」と。金井寅之助夫人より金井君の喪中と。 12月6日 7:00さめ朝食、(※省略)、佐藤さん来る、けふリハビリにゆく日也。(※省略)、 12月7日 8:30朝食し、(※省略)、ユ柏井へ歯の治療にゆき帰途森安氏にお歳暮届ける。 Bellに出てゆけば「ものみの塔」の婆さん也。ことわる。(※省略)  午后肥下夫人「山本弁護士やりくれて解決」と。 松本善海未亡人「全快めでたし」と。みなユが見舞くれし人に経過報告しお歳暮送りしと也。20:00就寝す。 12月8日 3:00放尿に起き、(※省略) ユ、マッサージ受ける。寿一よりも見舞受けしとチイチャンの話也。 森安氏扱ひ更に親切なり。15:00帰宅。(※省略) 12月9日 4:20放尿に起く。(※省略) 中西義孝dr.天国へゆきし由。夫人より(ユ発見)。20:00就寝。本日無為。 12月10日 (※省略) ユに山住先生へお歳暮もちゆけといふ。(※省略) 12月11日(日) 9:30朝食すみ、下痢。家居。午すぎ出て山本印刷にゆき無為。 12月12日 ユとともに山住dr.にゆき、なくなりし坊やのこととふ。(※省略) 12月13日 佐藤夫人9:30来る。我喜びて駅前の〒にゆき(※省略)13:20病院、治療。 12月14日 (※省略) ユ、柏井へ歯の治療にゆきしあと17:00肴屋来りし故サシミ注文す。(※省略) 12月15日 9:00起床、9:20朝食すます。ユ、マッサージ(※省略)  後藤均平より植村先生3回忌に追悼文集出す。原稿かくや、1万円出すやと。仕方なし。 13:00病院15:00帰宅。 12月16日 5:00排尿、(※省略) ユ戸田画伯にゆきし。(※省略) 12月17日 0:05排尿、(※省略) 佐藤さん来り、河北病院へゆく。早くすみ11:15帰宅。 佐藤さん午食し15:00まで炬燵に入り帰りゆく。無きことなり。(※省略) 12月18日(日) 1:20排尿、(※省略) 瀬見伊三郎氏来り、whiskyもちゆく。無為にて21:00となり就寝。 12月19日 8:30排尿、起床、ユ外出し11:30帰来。佐伯に歴史手帖2冊たのみしと。(※省略)20:00就寝。 12月20日 2:15排尿に起く。(※省略) 佐藤さん来り、(※省略)13:00病院(※省略)「第一」といふ安き理髪店で並ぶ。 (※省略)これがわが Xmasの記念の散髪となる。02:00就床。 12月21日 8:18起床、朝食後無為。16:55花井夫人(孝博士の夫人)現はれ歳暮もち来る。 16:00までをり快気祝もち帰る。(※省略) 藤野一雄君より電話かかり長浜の武田豊君80才で逝去と。ユ香奠5千円送ると也。 12月22日 5:00さめ排尿、ユも起きる。(※省略)20:00すぎbedにゆく。 12月23日 2:00さめ尿、あと眠る気なし。(※省略)小林の長男presentもち来る。 12:30昼食、13:00出て森安技師の来るをまち最後のRehabilitation。16:00帰宅。 12月24日 4:00排尿に起きる。(※省略)12:00までユ、柏井にゆき帰らず佐藤さん留守してくれる。 (※省略)あすに備へて就寝とす。 12月25日(日) 2:20起きて排尿。食ひ残しのうな丼食ひ了り2:35また臥床。8:00朝食了り、石渡さんに勝手にゆくと断らす。 北口にて客待ちのtaxiにいへば喜びてゆくと。1900円にて着き、教会にて便し、了り8段目に坐る。 石渡さん中央線にて来り周回busに乗りユの隣に坐る。 久しぶりとの司会にて先生老い給ひしと感ず。12:30すみて先生に挨拶すれば喜ばる。 4階のpartyに出ず、石渡さんと出てtaxiひらう。 1680円にてすみ帰宅す。石渡さんすぐ帰りゆく。 史夫婦来り、葱数本と肉の味噌漬け呉れすぐ帰りゆく。 ユにきけば名古屋の望は史の家にゆかずわが家より出てゆきしと也。21:00眠らんとす。 12月26日 2:00放尿にさめる。(※省略) 20:00入床。 12月27日 6:30放尿、さめる。(※省略) 10:00佐藤さん来る。13:00出て病院15:25帰宅。(※省略) 12月28日 2:30放尿に起く。(※省略) ユ柏井へ歯の治療にゆく。 11:00弟子より電話、詩集出来上がりあすもち来ると(※日付誤りか)。 14:30放尿。20:00夕食しtelevi見て21:00となり就寝す。 12月29日 7:10起床、排尿、ユも起き朝食。13:30京を除く一家来り賑やかなり。 仙台にゆくとて帰りしあとbeer券忘れゐるに気づきユ、電話すれば京出て「承知」と。 12月30日(※ 転居先を訪ぬ。詩集『夏帽子』20冊を呈す。お祝に2万円賜ふ。) 2:00尿に起き7:30再び尿に起く。ユも起きて朝食用意す。 13:00中嶋康博来り、詩集おき15:30帰りゆく。史夫婦来り、17:00帰りゆく。20:00入寝。 12月31日 2:00放尿に起き7:55放尿、起床、11:20大便。10:40昼食了る。 無為にて夕食20:00食ひ了り、放尿後20:20就寝。あすの礼拝にそなふ。 田中克己日記 1989~1992 【平成元年~平成4年】 【昭和64年・平成元年】 1989年 この年の出来事 1月、天皇崩御。新元号、平成と定む(7日)。 1月、堀多恵子来訪。 1月、第5次『四季』同人、大野沢緑郎逝去(23日)。 2月、平田内蔵吉の研究家、久米建寿来訪。 3月、改築完了した自宅へ戻り、長男家族との二世帯生活始まる。 5月、第2次『四季』同人、高森文夫来訪。 8月、成城大学同僚、栗山理一逝去(19日)。80才。 11月、東洋史学科同窓、榎一雄逝去(5日)。78才。 11月、詩人、伊豆公夫(赤木健介)逝去(7日)。82才。 12月、李白研究者、寺尾剛(早大大学院)訪問。 11月、東洋史学科同窓、羽田明逝去(27日)。79才。 【平成2年】1990年 この年の出来事 1月、浅野晃逝去(29日)。88才。 3月、昭和57年以来の囲碁将棋の相手、末富栄樹氏(日本ゴム協会元副会長)と最後の対局。 3月、堀多恵子を成田東に訪問。 3月、増田晃未亡人、鈴木利子氏)来訪。 3月、中嶋康博、戦前の日記帖『夜光雲』を借用、翻刻決意す。 4月、北川冬彦逝去(12日)。89才。小高根二郎逝去(14日)。79才。 5月、音楽のアルバイト稲留氏来訪。 7月、東豊書店にゆ(最後)。 7月、『近江詩人会40年』に 「詩人学校満40周年にお祝ひの一言」を載す。 7月、前川佐美雄逝去(15日)。87才。 7月、夫婦で塩山温泉広友館に投宿。 9月、夫人と大阪へ叔母たちに会ひにゆき、教へ子、野崎その宅に泊。名古屋の長女宅にも一泊して帰還。 9月、礼拝教会をを吉祥寺教会より阿佐谷教会へ移す。 7月、浪速中学時代の教え子、筒井護郎逝去(6日)。70才。 10月、神保光太郎逝去(24日)。83才。 11月、夫人と大阪まで最後の旅行。福地邦樹宅に泊り大東勝之助未亡人幸子を訪ふ。 11月、都丸支店瀬見伊三郎来訪(最後)。 11月、西島寿一来訪(最後)。 11月、竹森満佐一(吉祥寺教会牧師)逝去(9日)。83才。 12月、福地邦樹来訪(最後)。高橋重臣来訪(最後)。 【平成3年】1991年 この年の出来事 1月、西川英夫と電話で話す。 2月、阿佐谷の清川病院に一時入院。 4月、花井多鶴子来訪(日記上最後)。 6月、夫人と共に成城大学文芸学部の会に出席(最後)。 7月、悠紀子夫人、胃癌にて河北病院入院、    癌であることを伏せられたまま、夏秋と見舞に足繁く通ふ。 8月、芳賀檀逝去(15日)。88才。 8月、鈴木利子来訪。 8月、能勢正元逝去(大阪高校同窓[24日])。 9月、日記最後の記述(22日) 12月、風邪で八王子の多摩病院に入院。 【平成4年】1992年 1月、長らく小康なるも14日急変、肺炎を併発し、翌る 1月15日、01:24逝去。16日前夜祭。 1月17日、日本基督教団阿佐谷教会にて告別式。 3月8日、悠紀子夫人逝去。10日前夜祭。11日阿佐谷教会にて告別式。 1月 1日~12月31日 [25.0cm×18.0cm] 無掛『大高随筆』ノート(大阪高等学校同窓會発行)に横書き 【昭和64年】1989年 昭和64年1月1日(日) 2:25放尿。眠り7:13起床、放尿。雨となり、餅出来をり。 7:45雑煮食ひ了る。8:20脱糞。9:10家を出、taxi拾ひ10:00まへ三治長老の背後に坐る。 牧師先生二度来しを喜ばる。帰り大、清水夫人の許に寄り菓子出されて食ふ。 太宰治の結婚式に出られし写真見せらる。taxi待ち人多く4台目に乗り13:40帰宅。 排便し入浴す。(ユ昼食を出す)。16:00なりし。 賀状1-40-8(※改築中)の分も来りをり。20:00就寝す。 1月2日 7:30起きて排尿、(※省略)17:00史一家来り、3孫に小遣わたし、去りゆくを見送る。21:00就寝。 1月3日 7:05放尿、起きる9:10昼食。13:00小林夫婦来り、食物呉る。帰りゆきしあと依子遂に来らず21:00眠る。 1月4日 3:00放尿、8:00起床、(※省略) 小林の長男次男来り正月の小遣ひわたす。21:00就寝。 1月5日 7:30起きて放尿、(※省略) 12:00昼食後、ユ戸田先生へと出てゆく。(※省略)  依子15:00来り、18:30肴屋サシミもち来る。21:00依子に告げて入眠。 1月6日 7:20小便して起床、依子も起きる。8:25朝食すむ。10:00ユ吉祥寺へと出てゆく。 依子老眼にてきけば50才と。(※省略)14:00京2子をつれて来る。依子への挨拶なり。 18:30京夫婦そろひわが夕食了る。20:30京夫婦帰りゆく。われ21:00入寝。 昭和64年1月7日 7:45放尿にさめユ、これを採る。 天皇危篤、皇族集まると也。6:33崩御と7:55発表。87才と在位、寿数、歴代最長と。明仁親王即位と。 9:30佐藤さん来る。(※省略)12:20昼食。15:00新元号、平成と定まる。 佐藤さん帰り、われteleviの裕仁崩御のみなるに感心す。 19:00放尿、あすの礼拝のため早くねんとす。 (諏訪澄より依子につき電話あり。ユ「9:00に家を出し」といふ。)  (佐藤さんにきけば小林諏訪より金もらひしと也。) (堀多恵さんより電話あり「帰宅」と。われ「追分泊りか」といふ。) 【平成元年】1989年 平成元年1月8日(日) 1:30尿。すぐ眠り7:21排尿、入浴せず朝食し、televiの明仁皇太子のこと見て朝食。 8:40出て教会。21,000の献金す。長島君喜び駅まで案内して呉る。(※省略) 昭和天皇に金かかりしことよくわかる。 1月9日 0:20尿、7:04また尿にて起きる。不眠なりし也。(※省略) 1月10日 7:45起床、放尿、(※省略)賀状の返事かくこととす。 10:00佐藤さん来り、(※省略)雑用引受け呉る。堀夫人にユ電話し伺ふといへば「あす午後来る」と。 佐藤さん16:00去りゆく。譏嫌よし。ユも同。 1月11日 よべ20:00ねて4:20放尿に起き、8:00尿に起きる。(※省略) 14:00堀夫人来り、お土産賜ひ16:00までおいで、ユ送りかたがた出てゆき帰りて税のことで電話す。 気の毒に地所に重税とユの話なり。20:0眠るとす。00:30までねられず、堀多恵さんのおかげか。 1月12日 7:50起きてす。放尿、(※省略) ユの疲れしに気づき放置して新聞よみ17:00夕食了る。 われも賀状かきに協力す。ユ入浴。新聞面白くなる。 神田信夫氏に本の京都に留りしを賀す旨かく。小野田少尉怒りゐると。面白し。(※省略) けふ寿一の娘に※詩集1冊わたし「寿一に見せよ」といへば「はい」と也。(※『夏帽子』か) 21:00すぎユ眠り、われも眠ることとす。 1月13日 よべ眠れず12:00すぎより眠り4:00まへ小便に起きる。(※省略) 1月14日 よべ不眠と思ふ。ユによれば眠りゐる由。6:00さめ7:30朝食、 10:00佐藤さん来り、(※省略) 佐伯に寄り『読書こぼれ話(100)』買ふ。(※省略) 1月15日(日) (※省略) 8:30礼拝に出発となり。(※省略)教会にて礼拝すみ成人の会へと出れば7人。 われのみ祈り出来ず恥かし。成人会会費1,000。 すみて待ちゐしユと会ひ東急dept.にて昼食。 (※省略)帰宅、歩き通して疲る。けふ『カルヴァンの信仰の手引(700)』入手。 夜になりてtelevi朝潮勝つがうれし。(※省略) 1月16日 よべよく寝7:25起床、(※省略) 14:00出て川久保宅へゆき16:30帰宅。 あすは山住dr.と戸田先生にゆくこととす。(※省略) 1月17日 5:00さめ放尿、6:30ユをおこす。 ユによれば「わが四季の続刊に夫人かきたまひし、河盛好蔵面影なしと電話し来りし由」。(※不詳) 佐藤さん来り、10:00われは山住dr.、ユは河北病院にとゆく。(※省略) 伊東花子夫人に賀状の返事かく。 1月18日 排尿に起きる。(※省略) われ賀状かき一休みしてタヅさんに電話「来てくれ。なほった」といふ。 1月19日 放尿、ね足りて好調也。7:25朝食すむ。 (昨日中島君より電話「高森君(※高森文夫)つれて土曜午后来る」と。大喜びす。) 10:00寿一の孫娘来り、ユにマッサージす。我もしてもらはん(「詩集、父にわたしたが無用」と)。 マッサージ快く500払ふ。昼食わが家でし、次は乗杉さんと。(※省略) 1月20日 3:30放尿、6:00同、起床、(※省略) 午后ユ河北病院にゆき、コルセット最後になりしと帰り来る。 夜18:30中嶋君より「高森氏荻窪にあり。13:00来訪」と電話あり。 1月21日(※ 転居先を訪問。) よべ20:00就寝3:00尿に起きる。(※省略)佐藤さん10:00来り、病院へ薬とりにゆきしと。 浅野晃氏より寒中見舞。大野沢君、結核にて入院と。(※事実は肺癌、23日逝去。) 12:00昼食了りしところへ13:00電話。ユきけば「高森氏来られず自分来る」と中嶋君。 ※この日の中嶋康博メモが残ってゐたので掲げます。 堀さんの所へ室生朝子さんが度々無心に来たといふ話。 また朝子さんが犀星の愛人に全集の印税をわけるのを拒み弟に譲らうとしたことについて、 川端康成が堀多恵さんに「あなたも堀さんにもし愛人がゐたら同じやうにするかね」と訊ねて、 多恵さんが失笑したといふ話。など。 1月22日(日) 4:30放尿に起く。(※省略)8:00出て礼拝、(※省略)  阿佐谷でユせいて柏井へゆけば「数男golf」と。(※省略) 14:00帰宅。(※省略) 夕方、瀬見伊三郎氏ひまつぶしに来り、Old Parrちょっとのみ、わが卒寿に世話すると。 京2児つれて来り、健太郎眼鏡かけをり。21:00臥床。 1月23日 よくね、8:10尿に起きる。(※省略)21:00奥村土牛「富士」を見了りねることとす。 1月24日 放尿に起きる。(※省略)9:30佐藤さん来り、(※省略) 佐伯にて『朔太郎詩集(100)』買ふ。 ユは『聖書(200)』買ひ呉る。 1月25日 3:00放尿、4:30同、5:00起床、(※省略) 村田幸三郎より「上京」と、「来い」といへば「来る」と。 1月26日 2:30尿に起く。(※省略)村田来ずとわかり、(※省略) 1月27日 3:25排尿に起く。(※省略) 午食後、ユ、通院と出てゆく。(※省略) 1月28日 2:15尿。7:50起床、放尿、(※省略) ユ、植村清二『歴史と文芸の間』買ひ呉る。20:00入床。 1月29日(日) 2:00尿。5:30放尿に起く。(※省略) 17:30京一家来り、19:30帰りゆく(禎子居残る)。(※省略) 1月30日 2:00尿に起きる。(※省略)  禎子おとなし。 18:00まで花井タヅ子夫人『四季』8冊貸し呉れ、植村先生(※の追悼文章)かけさう也。(※省略) 1月31日 4:00前、尿に起きる。(※省略) 晩年の「植村先生」7枚かき了へ、山住dr.。(※省略) 平成元年2月1日 4:20排尿、8:20起床、(※省略) 2月2日 1:30排尿、7:35起床、8:30朝食了る。10:30マッサージ了る。(※省略) 徹夜しねむれず。 2月3日 5:20排尿、『読書こぼれ話』と『楊貴妃伝』とのおかげで不眠、6:00前著了り7:30朝食す。(※省略) 2月4日 11:10排尿に起き1:50同。(※省略)10:00佐藤さん来り、河北へ薬とりにゆき呉る。16:00佐藤さん去る。 川久保来り、『四季』ありや調べるといひて去る。(※省略) 20:00就寝。 2月5日(日) 2:30排尿に起き6:07同。(※省略)9:00家を出て礼拝。わが訳せし603歌はる。13:00帰宅。 佐伯にわが買ふ本なくユ買ふ。(※省略)無為。 『四季』に植村先生の執筆、「川久保は3冊のみもてゐし」と。 残りはユのすすめにて福地君に相談することとす。21:00就寝。 2月6日 よべ1:30尿で起き、(※省略)「植村先生の執筆しらせ」と速達をユをして出さしめ昼食す。(※省略) 2月7日 1:30排尿に起き3:30同。6:10同、起床、9:00朝食。(※省略) 2月8日 7:30排尿、(※省略) 『サンケイ正論』の稲垣眞澄氏より随筆かけと。(※省略) 2月9日 3:40排尿、(※省略) 福地邦樹君より速達にて『四季』への植村清二先生の投稿のcopy着く。(※省略) 2月10日 3:00排尿、(※省略) 福地邦樹君へ礼状かく。 後藤均平君へ植村先生の『四季』の投稿のcopy速達。(※省略) 2月11日 0:45排尿に起きる。(※省略) 佐藤夫人来り、16:00まで在り。気持ちよしと、何もせず。 (※省略) 河村純一氏遺稿集、夫人より贈らる。(※省略) 2月12日(日) 0:40排尿に起きる。(※省略) 礼拝にゆく。佐伯にて『台湾霧社蜂起事件(900)』借りる。 2月13日 7:20排尿起床。寒し。11:00佐伯へ借金払ひにゆく。(※省略) 2月14日 4:55排尿。(※省略) 吉城和也に干柿の礼状かく。(※省略)  西原直廉、社長やめて死にしと。76才と。20:00臥床。 2月15日 2:30放尿に起く。(※省略) 10:00山住dr.にゆくこととす。山住先生脉計り110-と。(※省略) 2月16日 1:30放尿に起きる。(※省略) 佐藤夫人16:00すぎ去る。(※省略) 2月17日 5:30放尿。(※省略) 17:00『日本語 上』読了、20:30夕食了り就寝。 2月18日 4:50放尿で起きる。(※省略) 9:45佐藤夫人来り、(※省略) 薬とり呉る。16:00去り、譏嫌よし。(※省略) 2月19日(日) 3:20排尿。(※省略) 8:00出て礼拝にゆく。 すみて壮年会、わが隣まで講義あたり、待ちゐしユと東急をへて13:15帰宅。(※省略) 2月20日 7:25排尿、起きる。(※省略) 小林の克君来り、物云はず去る。(※省略) 2月21日 6:12排尿、起きる。(※省略) ユ河北へゆく。 11:00帰りともに山住dr.。血圧105-70、レントゲンとられ無事。 戸田先生へゆけばお手伝ひ来をり茶出される。(※省略) 吹田の久米氏(※久米建寿氏)より「23-25日在京、平田内蔵吉につき会ひたし」と速達。 ユ「ここの電話教へよ」と也。(※省略) 2月22日 2:55排尿に起きる。久米氏の件、ユの速達にて片付きしか。3:20『日本語』読了。 (※省略) 10:30山住dr.より「薬のむな」と注意。 花井夫人、御主人と2子女の結婚問題で困ることを諄々述べて退去。(※省略) 2月23日 4:40放尿に起きる8:40起床(※省略)。ユ、咲耶の見舞に15:30出てゆく。 吹田の久米氏「あす来る」と電話あり。 寿一よりハガキ来る。恰もマッサージやりもらひし也。佐藤さん16:00去る。 (※省略) あす昭和天皇大葬と。20:00就寝。 2月24日(※ 転居先を訪問。平田内蔵吉研究の久米建寿氏と同席し写真を撮って頂く。夕食を御馳走になる。) 4:45排尿。8:40起床。9:20朝食了る。同時に殯宮の霊轜出て新宿御苑へ向ふ。 12:40までteleviで大葬の来賓の拝礼見て排尿。 13:30昼食了る(大葬の神式礼も1万2千人の参会にて了る)。 吹田の明治東洋医学院の久米建寿氏来訪。中島君と迎ふ。 久米氏わが序文かきし平田内蔵吉の戦死と愛児の自殺とを告げ給ふ。 大行天皇の霊襯の儀了ると。われ21:30投襯。 2月25日 3:00前放尿(※省略) 佐藤さん16:00去る。21:00televiやめ、ねることとす。 2月26日(日) 6:45排尿に起きる。ユも起床(※省略)。 人来るとて礼拝ユのみゆくこととするもユも礼拝休む。(※省略) けふ史夫婦、京母子夫来る。 2月27日 7:00排尿、起床(※省略) 小倉脩三君より『夏目漱石』送らる。高田のsemiなりし也。 2月28日 中曽根アメリカへ帰ることを得ず。夫婦にて山住dr.。 平成元年3月1日 7:20排尿に起きる。(※省略) 20:00入浴、20:45就寝。 3月2日 5:25尿に起きる。(※省略)10:00佐藤夫人来り、 西島の千恵子来りマッサージ(平田内蔵吉の孫弟子と)。フランス人の女性来りこの次にと也。 12:15ユのマッサージすむ。12:30昼食。16:00退去。19:00夕食了る。 20:45televi霧島山の噴火映すを見て了る。21:00就寝。 3月3日 5:00排尿、起床。ユも覚める。『台湾霧社蜂起事件』よみ中村地平のことなど思ひ出す。 新嘉坡で井伏鱒二に怨み抱きし也。(※省略) 10:00出て散髪。(※省略) 佐伯に寄り海音寺潮五郎『中国英傑伝』上下2冊(100)買ひて帰宅。 (※省略) 小倉脩三へ『夏目漱石』の受取りかく。(※省略) 3月4日 3:00起きて放尿。相手は小倉君の如く高山族ならず華人なり。もしくは華化せし高山族(※意味不詳)。 寿一よりのハガキにて小山正孝、比留間一成の諸氏、わが“弟子”と称しゐる由、不審なり。 『産経正論』に書けといふ稲垣眞澄君には同調不可能なり。(※省略)  10:00佐藤夫人来る。 小倉脩三君には成城学園短大気付で礼状。高田瑞穂のこといふ。(※省略) 3月5日(日) 6:30排尿、起床。(※省略) 9:00阿佐谷駅に出て礼拝にゆく。(※省略) 中村真一郎ら編の文庫『堀辰雄(500)』買ひ来る。 家にて一口飯くふ。あと『堀辰雄』よみ了る。『四季』のことのりをり。 加藤多恵子様の地面に建ちし邸にて神保・津村らと『四季』同人として若かりし也。(※省略) 3月6日 5:00排尿に起きる。(※省略) televiで西部劇を見て茶飲む。(※省略) 3月7日 4:00放尿、起床。(※省略)  『台湾霧社蜂起事件』よみつづく。(※省略) 3月8日 2:00放尿に起く。(※省略) 小雪とてけふは外出せずと決定。(※省略) 3月9日 3:20放尿に起きる。(※省略) 10:25寿一の孫娘来りmassageすむ。痛し。 佐藤女史10:00来り山住dr.へゆき呉る。(※省略) 〒山ほど来り、大球会出られずと返事かく。兼清には「出席(19期生会)」と返事す。 『成城大学文芸学部創立三十五周年記念論文集』来る。(※省略) 3月10日 0:30放尿に起きる。(※省略) ユと山住dr.にゆく。あす休みと。床ずれの薬もらふ。 新築中の家見る。まだ出来をらず。11:30帰宅。(※省略) ベラルデ文庫、わが証言にて白鳥家より東洋文庫に入りしと館長榎君より通知あり。20:00就寝。 3月11日 5:05排尿。(※省略) 9:30佐藤夫人来る。ユ柏井へゆく。(※省略)17:15地震(震度2)。(※省略) 3月12日(日) 6:20放尿に起床。朝食すまし、8:00出発、教会へ9:20着き2列目に並ぶ。(※省略)  阿佐谷に出て佐伯あきをる故、 『毛周以後の中国(200)』、『言いたいことばかり(50)』、『敗者の条件(100)』など安本むりして買ふ。 (※省略) 野中阜子来り、俊姉の老いしを語る。 3月13日 6:40放尿、起床。(※省略) 9:40ユ河北病院へゆく。(※省略)美紀子来らず。 成城大学より3月28日京王プラザホテルで懇親会と。(※省略) ユ柏井へ歯の治療に出てゆく。(※省略) 美紀子より電話、新築について。 3月14日 1:45排尿に起く。(※省略) 兼清より 「今中19期生会は4月7日12:00-14:00会費7千円、出席者は6名の予定」と。 ユ「同行」といふ。(※省略) ユ、清川病院に入院の松浦母上の見舞にと出てゆく。 16:00美紀子来り、ユの清川病院より帰らざるに25分して出てゆく。(※省略) 3月15日 8:00放尿、起床。(※省略) 20:00就寝。 3月16日 4:20放尿、起床。(※省略) 佐藤夫人10:00来をり。(※省略) 美紀子来り、新築ほぼ了りし旧居を見、16:00山住dr.。(※省略) 3月17日 3:40放尿に起く。(※省略) 高橋義孝『男の時間』読み了る。 3月18日 4:50放尿に起きる。7:00朝食。 東京新聞に大蔵省の人事出をり、史、内閣審議官より石■審の副参事に下りしと。 13:00来り、昼食のこと電話して顧みず去る。(※省略) 3月19日(日) 7:50放尿、起床。8:20朝食了る。9:00家を出、9:40吉祥寺教会。(※省略) 佐伯にて500円本買ふ。 3月20日(※ 転居先を訪問。) 6:10覚め排尿。(※省略) 10:00佐藤女史来り上川霊園にゆかんとすれば、 ユ「寒し」と反対、佐藤女史も「別の地にゆくには会に届けいる」とて行かず。一日無為となる。 船戸君「現在は講談社に勤め記事とりに来る」と電話、「1時間在宅」と返事す。 船戸君といふが来り「鈴木が本名」と。佐藤女史16:00退去。(※省略)20:25就寝。 (※わが訪問記事なし。) 3月21日 0:55排尿に起く。(※省略) ユ、(※就職を?)船戸君にたのむことを中島康博君に電話せしと(※不詳)。(※省略) 3月22日 4:00排尿に起く。(※省略)  13:00中島康博君来り、平凡社へ船戸君の紹介にて入社喜ぶと(※意味不詳、日付も20日の誤りか)。 14:40退出(この次は(※新築成った)旧宅へ来ると。)(※省略) 3月23日 5:35排尿に起きる。8:15朝食了る。10:00、massageに来り、20分にしてすむ。 佐藤夫人来られずと代りの人10:30来る。これ一向に役に立たず、(※省略)  3月24日 5:54排尿起床。(※省略) 美紀子、暁子つれて来る。(※省略) 3月25日 4:45排尿に起きる。(※省略) 家を出て礼拝(※日付誤記か)。出席者多く第5列に並ぶ。 (※省略) 各駅停車で八王子へ着き、上川霊園に着き田中家の墓、木標腐れるを見、 ついで大の建てし静江母と喜代助の(※碑銘)赤のままなるが裏にあるを見る。(※省略) 3月26日(日) 5:253:15排尿・起床。(※省略)弓子来る。(※省略)ユ16:30帰宅。弓子も帰りゆく。(※省略) 3月27日 6:15起床。また就寝、8:00朝食し10:00起床。以下不明。 3月28日 17:00家を出、ユを待たし東急ホテル(※京王プラザホテルの誤り)42階の会場につく。(※省略) (※成城大学文芸学部懇親会)誰も我に物云はず。 飲み食ひのみし、ユの待ちゐるを気にして20:00すぎゆき(※省略)21:00帰宅。 21:30就寝となる。むだなる一日なりし。 3月29日 3:15排尿に起床。(※省略) けふ改築すみ、史、移住の計画ありと。われ来月移住と定む(史、午后顔見せる)。(※省略) 3月30日 5:30排尿に起床。(※省略) 仏夫人massageに来り、我30分あとユ12:00までやり、すみて昼食、20:00まで無為。(※省略) 3月31日 3:00排尿に起きる。(※省略) 13:30美紀子来り、電話は史と別にしてくれしと。ユと河北へ出てゆく。 14:50川久保来り、顔色悪し。ともに出て山住dr.「薬あり」と。(※省略) 平成元年4月1日 6:35排尿起床。(※省略)  4月2日(日) 3:40排尿。(※省略) 9:00出て教会。わが訳せし讃美歌うたはれ11:30出て0:30帰宅。(※省略) 4月3日  5:40さめ排尿起床。(※省略) 4月4日 5:30さめ排尿起床。(※省略) 佐藤女史の代りに背高く眼鏡かけし女史来り、ユに協力す。(※省略) 4月5日 4:10排尿に起く。(※省略) 4月6日 5:00排尿起床。(※省略)11:05massage来り、ユと代る。(※省略) 4月7日 2:15排尿4:00また排尿に起く。(※省略)  11:00出て市ヶ谷の自衛隊の会場にゆく。8人集合。兼清の幹事に感謝す。 入歯はめしためもあり全然食へずjuice呑むのみ。14:00をはり階下へゆけばユ、待ちをり。 電車にて代々木の東豊書店にゆく。(※省略) 4月8日 4:00排尿に起く。(※省略) 10:00ユ新築の搬入見にゆく。(※省略) 史一家来り、色々はたらく。20:30就寝。 4月9日(日) (※ リフォームした旧宅に入居、二世帯生活始まる。) 4:50排尿に起き、端午の節句のこと連想す。(※省略) 本日は教会にゆかず旧宅へ往復と定む。(※省略) 京一家応援に来り、9:20旧宅着。美紀子をり。11:00ユ来る。サイダーのまさる。 20:00よりteleviで「長崎市長への手紙」見る。 昭和の初め生れ仕方なく、他は天皇の責任問ひ、今後の日本につき我と同意見なり。 21:00すみて就寝。(※省略) 4月10日 6:30さめ排尿起床。(※省略) ユと出て代々木の東豊書店に7,000支払ひにゆき帰り高円寺で下車。 瀬見君「娘の処へゆきし」と。(※省略) 山住dr.。(※省略)帰りて美紀子より餅もらひ21:00放尿、就寝。 4月11日 6:40起き放尿、8:00朝食。10:00諏訪澄来り、12:00前出てゆく。(※省略) 4月12日 8:00起き10:15入厠。昼食し、 某女史の来るをまち某君と見合させしは空想にて「中島君あす来る」はまこと也。20:00就寝。 4月13日(※ 新居を訪問、本棚の整理の手伝いをす。夕食を御馳走になる。) 3:40起きて排尿。7:30同。起床。8:00朝食。10:00マッサージ。排尿。12:00昼食。 中嶋君15:00来り、飯くひゆく。20:00就寝。 4月14日 6:15起床排尿。(※省略)山住dr.にゆき血圧120-(※省略) 4月15日 鈴木といふ家政婦来り、何もせず3時間で帰りしをユに云へば「佐藤女史の話込むよりよし」と。 昼食、夕食くひ20:00就寝。 4月16日(日) (※ 『果樹園』借用す。夕食に鰻重を御馳走になる。) よべより雨。6:35起床排尿7:00さめ朝食し、 史の末っ子暁子つれて礼拝にゆく。気を使ひしも心配いらず(アクビせず)。 東豊(※東急?)dept.で昼食になりしもわれ食へず飲みしのみ15:30帰宅。 入浴し了へしところへ瀬見伊三郎氏来訪、 中嶋君来るかと待ち入浴の効なくなり「早く帰れ」と思ふに悠々と居り「7年兵やりし」と。 中島君来り喜ぶ。あげて『中国の自然と民俗』与へ、飯ともに食ふ。 神田先生よりの礼状に先生へ『古稀論叢』呈せし返礼に酒たまひしと。気を使ふはくせなりしなり。 4月17日 6:30排尿起床。(※省略) 『中国の自然と民俗』よむ。(※省略)  大高野球部大阪の会の寄書き来る。(※省略) 4月18日 1:30放尿、茶菓。6:55放尿起床。(※省略) 移転通知、村山高氏にかき、ユ14:00河北病院の途、投函。(※省略) 4月19日 7:25排尿に起く。(※省略) 山住dr.へゆき診察。足宜しきだけ。 体重少なく40キロ。血圧も70-105.。(※省略) 4月20日 8:00起床、(※省略) 美紀子、姉と荻窪へ買物にゆく。 留守に2階へ上がりしに全然non-cultureにて恐れ入る。けふ派出婦来ず。 4月21日 7:00さめる。派出婦10:00来る。(※省略)派出婦鈴木あとありと15:00退去。(※省略) 4月22日 2:30放尿に起床、6:45排尿に起床、(※省略) 4月23日(日) 4:20放尿に起きる。7:30同。諏訪望来る。(※省略)望とも共にて銀座へゆくとのことにユ途教ふ。(※省略) 4月24日 1:45排尿に起く。6:10排尿起床、(※省略) 手伝来ず。(※省略) 竹下首相辞任表明で騒がし。(※省略) 4月25日 1:30排尿に起く。6:00同。(※省略)山住dr.薬もらひ11:30帰宅。(※省略)  村田幸三郎より電話「来い」といへば「来る」と。(※省略) 4月26日 3:10排尿に起く。6:45同。(※省略)10:00よりmassage。(※省略) 4月27日 0:40排尿に起く。6:30「奥の細道」にて起床、(※省略)  10:00前鈴木女史来る。散髪にゆき、11:00ユの迎へに来るを待つ。 12:30ユ来り、出て佐伯に寄り『北京の年中行事』を買ふ。 1,000を900円にまけ100円の本孫へと呉る。(※省略) 4月28日 4:45排尿に起く。8:03同。(※省略) 4月29日(休日) 1:30排尿に起きまた眠り。8:00起床、朝食。(※省略)  暁子、吉祥寺教会へゆく。友だちあるらし。ユと2人礼拝にゆかず。 10:30暁子帰り来り、聖書わが書き置きしをユ与ふ。(※省略) 4月30日(日) 5:00排尿に起く。7:00朝食。無為にて(※省略) 平成元年5月1日 記事なし。 5月2日 6:00起き排尿(5月1日空白)。7:10朝食。(※省略) 12:30昼食了る。鈴木嬢、飯食ひにゆき帰らず。 5月3日 1:50排尿に起き川勝常次郎氏にハガキかく。7:20起床、(※省略) 松本喜久子夫人へ返事かく。(※省略) 5月4日 よべ2:00眠り8:45起床、(※省略) 松本喜久子夫人へ返事かく。 (※省略) 13:00昼食し、(※同居の)史一家と仲良くして一日了る。 5月5日 3:40排尿に起く。8:10起床、9:05朝食。無為にて昼食し(※省略) 5月6日 1:05排尿に起きる。6:30同。8:00朝食。美紀子父兄礼拝に出てゆく。 (※省略)14:00家政婦退出。無為。(※省略) 鳥羽女史より「『四季』やらずや」と。「がっかりしてゐる。無駄だった」と答ふ。 5月7日(日) 4:50排尿に起く。8:50同。10:00朝食了る(礼拝にゆかず)。(※省略)  鴎外の「舞姫」のHeroinは名士のFrauなりしと。18:00夕食20:00就寝。 5月8日 0:40排尿に起く。6:30排尿。7:40朝食すまし(※省略)  羽田夫人よりユへハガキ(羽田不治の病らし)。(※省略) 小林カナダへゆきしと宏一郎、鮭届け夕食に食ふ。 5月9日 1:05排尿に起く。6:40同。7:30朝食 (※省略)  19:00美紀子、子どもつれ上高井戸へ飯くひにゆく。20:00就寝。22:40まで寝られず。 5月10日 7:10排尿に起床、7:48朝食 (※省略) 無為にて夕食、20:00就寝。 5月11日 2:15排尿に起く。(※省略)  10:30寿一の娘斎藤千恵来りmassageしてくれる。痛し。11:30退出。昼食す。午后無為。(※省略) 5月12日 7:00排尿に起く。(※省略)  天理図書館より富永牧太氏米寿祝に会費1万円と出欠問ひ来る。欠席と答へん。(※省略) 5月13日 4:20排尿に起く。(※省略) 石渡夫人がペットもちて来訪。阿佐谷の教会員にて親しきなり。 (※省略) 就寝すれど眠れず。日中運動せざりし故なり。 5月14日(日) 4:20排尿に起く。(※省略) 10:00前、教会着。礼拝すませ駅までゆき京の家へゆく。 すし出してくれ夕立に会ひ16:00出発。 autoにて時間とり17:40帰宅。史も会ひて「40分して帰る」と健太郎に電話して帰りゆく。19:30夕食すむ。 天理の富永の米寿祝は無祝と定む。21:00就寝。(中嶋君あす14:00来ると電話) 5月15日(※ 『果樹園』返却。夕食に鰻重を御馳走になる。) 0:50放尿に起く。7:05起床、排尿。7:40朝食了る。12:00昼食。 中島君来り14:00来り、夕食し17:00去る。20:00就寝。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇鳥羽貞子氏より小杉さんが失明したと(後年静岡に訪ねて誤報と知る)。 『東京四季』を継いで主宰してくれないかとの話しあり、断ったと。 5月16日 4:30排尿に起く。(※省略) 10:00鈴木家政婦来る。12:00昼食。14:00鈴木嫗去る。(※省略) 5月17日 5:10排尿に起く。(※省略) 11:00山住dr.血圧計られ異状なし。(※省略) 5月18日 3:15排尿に起く。(※省略)  10:30斎藤千恵来り、マッサージし呉る。ユこれに次ぎ11:30までやる。(※省略) 5月19日 4:45排尿に起く。(※省略) 9:00散髪にゆき10:30帰宅、苑ちゃんをり。(※省略)。 5月20日 5:55排尿に起く。(※省略)  16:00花井夫人来訪、17:30帰りゆく。(※記事日時に錯綜あるか。) 5月21日(日) 6:50排尿に起く。(※省略) 伊藤とくより電話あり話相手欲しきらし「来い」といへどきかず。 18:00大相撲夏場所北勝海優勝。(※省略) 5月22日 5:45排尿に起く。(※省略) 無為にして19:00夕食、20:00就寝。 5月23日 記事なし。 5月24日 3:00排尿に起く。(※省略) 大高野球部の諸君の寄せ書への礼状やっとかく。 11:30ユ3友つれて帰宅。(※省略) 5月25日 6:10起床放尿、8:00朝食。10:00斎藤夫人来りマッサージ。12:30昼食了る。19:00夕食了る。 20:00中嶋君「あす夕方、飯すまし高森氏つれて来る」と電話。20:10就床。 5月26日(※18:30-21:00 高森文夫先生と待ち合せ、詩人と初対面の席に同道す。) 4:30排尿に起く。雨降りをり。8:15排尿に起く。雨止みをり。8:30朝食。9:30排便。 竹内栄太郎、兼清隆二、成城学園挨拶状かき了る(※省略) 19:00前、高森氏来訪、われより1才年上。満洲より帰り来りしと。21:00帰らる。22:00就寝。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇高森先生の抑留経験からの話。ロシア人の人の好さと政治の悪さ。 〇高森先生、極めて紳士然として常識的な話に終始し、期待したほど話柄盛り上がらず。わが入る余地もなし。 5月27日(※アルバム写真を接写して19:00返却す。) 5:50排尿に起きる。(※省略) 10:00家政婦来る。12:00昼食くひ了る。 13:00諏訪澄の兄夫婦来訪。史ともども応待す。 その帰りし直後、大来り「母の法事、増上寺にてす」と。無知文盲なり。 大、史の所で酒飲み「11月ユ法事に出る」と機嫌よく去る。19:00夕食了る。 中嶋君来り『神軍』にわが『コギト』にのせし正月号の詩見えずと(※不詳)。すぐ帰りゆく。20:30就寝。 5月28日(日) 4:30排尿に起く。(※省略) 5月29日 5:40排尿に起く。(※省略) 11:30山住dr.(※省略)手塚隆義氏より論文。(※省略) 5月30日 4:40排尿に起く。(※省略) 9:30鈴木嫗来る。(※省略) 5月31日 5:25排尿に起く。(※省略) ユ、戸田画伯病気につきあれこれと世話し了る。 成城大学文芸学部より6月22日懇親会と出欠問ひ来る。老病欠と答へん。20:00就寝。 6月(※ 著作目録を整理 したものをお渡しす。) 平成元年6月1日 3:40排尿に起く。(※省略) 『植村先生追悼』来る。(※省略) 6月2日 5:50排尿に起く。(※省略)  『追悼植村清二』よみ了る。残念なり。(※省略) 堀多恵子様より電話、増田晃君の未亡人(※鈴木利子氏)「夫のことききたし」とならん。 昔のことユ、よくおぼえをり。21:00就寝。 6月3日 4:45排尿に起く。(※省略) 成城大学文芸学部の会「老病の為欠席」とかく。 この間の会の臼井の言動にこりし也。(※3月28日「誰も我に物云はず」とあり)(※省略) 池辺短大名誉教授(※池辺弥)より『古代神社史論攷』送らる。(※省略) 20:10隣家の犬啼き止む。睡眠。 6月4日(日) 6:30排尿に起く。(※省略) 9:00出て礼拝、(※省略) 池辺教授の本よむ。大著なり。(※省略) (けふ富永牧太氏の米寿祝なるも返答もせず。八木よし子発起人なり。) 6月5日 6:40美紀子の声にて起き放尿、7:49朝食了る。(※省略) 暑し。 ユ戸田画伯にゆき15:00帰り、入院か否か未定と。(※省略) 6月6日 4:30放尿に起く。(※省略) 文芸学部懇親会に「老病の為欠席」とかく。 ユ戸田画伯の河北病院入院にかかりきり也。 鈴木嫗(50才と)とユと出てゆく。(※省略) 中国北京大騒ぎにて在留日人引揚げと。(※天安門事件) 6月7日 5:30放尿に起く。(※省略) ユ戸田画伯の見舞に出てゆく。(※省略) けふ中国北京より始まり大騒ぎ也。 6月8日 6:00排尿起床。(※省略) 10:00マッサージに来り、10:15すむ。ユ12:00すむ。(※省略)  ユ戸田画伯見舞に出る。(※省略)  6月9日 5:00排尿に起く。寒し。(※省略)  ユ戸田画伯の病室にゆくを見送る。 ユ戸田画伯の世話ゆきとどく。我の病気にてなれし也。(※省略) 中国のこと心配。 池辺先生に『中国の自然と民俗』送りこれにてわが著書なくなりし云々と山本實君より。 『蘇東坡』も残部少し云々。(※省略) 6月10日 よべ23:50までねられず(山本實君のせいか)。4:30排尿に起く。 (※省略)  史、早く起き雨中Golfとなり。(※省略) 6月11日(日) 7:58排尿に起く。 (※省略) ユ、史と増上寺の静江母忌にゆく。 (※前年逝去)  6月12日 5:45排尿起床。池辺氏へハガキかく。(※省略)能勢より電話「藤沢桓夫氏逝去、弔電でよし」と。 6月13日 排尿に起く。7:00朝食。新聞で見て藤沢氏の夫人典子(のりこ)とわかり ユと〒にゆき1万円の香奠速達で送る。電報170円。 (※省略)  (美紀子の同級生2人来る。老いてわからず。のぞきしのみ) 20:00就寝。 6月14日 5:35排尿に起く。(※省略) 10:50山住dr.(※省略) 戸田画伯2人部屋にうつされしと。(※省略) 6月15日 6:10排尿起床。(※省略)  10:00マッサージに寿一の娘来り、15分施行。家政婦も来り、掃除すむ。(※省略) 6月16日 4:30排尿に起床。(※省略) 戸田画伯に別れに河北病院へゆく。(※省略) 6月17日 7:54排尿起床。雨止みをり。(※省略) ユ銀座の個展にゆく(戸田画伯の代り)と。(※省略) 6月18日(日) 6:40起床放尿。(※省略) 父の日とて娘(弓子・京)来る。(※省略) 小林克次朗来る。史一家と京一家、小林弓子とで昼食(すし)。(※省略) 史、棟方志功画集複製もらひしなど見せる。(※省略) 6月19日 (※訪問) 5:45放尿に起床。(※省略) 中島君より「けふ来てよきか」と電話。(※省略) 16:30中島君来り、17:00夕食をともにし淺野氏の本もちて帰る。(※省略) 6月20日 23:45人声でさめ放尿、5:30放尿に起く。(※省略) 家政婦鈴木嫗来る。(※省略) ユ戸田画伯の見舞にと出てゆく。(※省略) 山住dr.血圧125-75。(※省略) 井上書店より古書目来ありしを見る。和田先生の古稀論叢高く、他は参考とせしのみ。21:00前就寝。 6月21日 2:10放尿に起く。5:57排尿起床。(※省略) (televiに長谷部日出雄君出をり。よく出るらし。 棟方志功の旧宅(野方大和町)に我案内し、礼いはず去り、あとであやまり来しが有名になる前なり。)(※省略) 6月22日 5:50起床放尿。(※省略)  千恵より電話「10:00伺ふ」と。千恵10:00すぎ来り15分間massageしてくれる。 民生委員より見舞金3,000持参。14:00ユと川久保に見舞かたがたゆく。 15:30までをり医師に不信らしきを危ぶむ。(※省略) 20:00就寝。23:15までねられず、唐県撤退の時は睡眠30分なりしこと思ひ出す。史21:00すぎ帰宅。 6月23日 3:00に5分前排尿に起き、唐県より望都県に移る前夜30分しか眠らず、しかも駈足にて2度伝令したること思出す。 「堀多恵夫人と増田晃君未亡人(※鈴木利子氏)20日すぎ来る」とのことなりしもかまはずと覚悟す。 6月24日 ■:■ 放尿に起く。(※省略)われは例の安き散髪屋にゆきユは戸田画伯見舞ふこととす。(※省略) 荒木中隊長へ挨拶かく。(※省略) 6月25日(日) 5:50排尿起床。(※省略) 10:00下井嫗来る。(※省略)  わが常居掃除してくれるに付き書斎にゆき伊東静雄についてわが語りしをよむ。13:35すみてまた坐る。 堀多恵子夫人けふも来ざるらし。14:00出て散髪屋にゆく。(※省略) 16:00帰宅。 孫piano弾きをり。(※省略) (けふ美空ひばり52才で死にしがトップ記事なり)20:40就寝。 6月26日 6:40排尿に起床。(※省略) 6月27日 0:25排尿に起く。(※省略) ユ戸田画伯と銀行にて14:25出てゆく。 (※省略)16:00山住dr.血圧125-と低し。ユ戸田画伯にはゆかざりしと。20:00放尿就寝。 6月28日 0:05排尿に起く。(※省略)炬燵つける。(※省略) 6月29日 4:50排尿起床。(※省略) 高松より「金曜来る」と。ユ「応」と答ふ。丸木夫人なり。(※省略) 6月30日 4:10放尿に起床。雨止みをり。(※省略) 9:00鈴木家政婦、伊豆北川温泉の土産もって来る。(※省略) 7月 (※ 訪問日失念。) 平成元年7月1日 5:00放尿に起床。(※省略) 今中19期生会年会費3,000ユに送らしむ。 12:00昼食後、白水(丸木)夫人来り、14:00帰りぎは花井夫人来る。 ともにお中元もち来り、返しもらひて去る。(※省略) 7月2日(日) 0:30排尿に起く。(※省略) 8:30出て9:30吉祥寺教会、副牧師さん司会506番うたはる。0:20帰宅。汗だらけ也。 (※省略) 13:30夫婦都議選に行き14:00帰宅。(※省略) 7月3日 4:20排尿に起く。(※省略)11:00都議選、社会増、自民減と決定。自民党敗北声明。(※省略) 7月4日 7:30排尿に起床。8:00朝食、9:30下井嫗来り、 ユの中嶋君への就職につき〒出しにゆきし留守働く。(※省略) 小林宏一郎漢文習ひに来る。(※省略) 7月5日 2:30排尿に起床。5:50同。(※省略) 『文芸年鑑』来る(西島大の記載もあり)。(※省略) 7月6日 1:40放尿に起く。(※省略) 7月7日 5:20排尿に起く。(※省略) 10:00外人来りマッサージ30分。12:00外人帰りゆく。昼食し無為。 弓子来りお中元と2人に1万円もち来る。(※省略) 7月8日 3:00排尿に起く。(※省略) 10:30お中元もちて山住dr.血圧125-74と血圧よし。 京より食器棚来る。下井嫗10:00来る。(※省略) 7月9日(日) 6:50排尿に起床。(※省略) 11:30震度3の震あり。ユ帰り来る(戸田画伯良好と)。album検。(※省略) 7月10日 (※訪問) 4:10放尿に起く。(※省略)9:00ユ柏井へ歯の治療にゆく。 10:20中嶋君より「けふ来たし」と電話(美紀子きく)。 (※省略) 13:45中嶋君来り、ユのすすめし就職すすまずと。 『文芸年鑑』の「電話番号訂正」と送り返すをもちて15:30出てゆく。(※省略) 7月11日 20:45排尿に起く。(※省略) 9:00下井嫗来る。(※省略) 11:00「俊姉8月帰京」とその娘野中タカ子来る。(※省略) 14:30ユ柏井へ歯の治療にゆく。(※省略) 7月12日 4:29放尿に起床。(※省略) 16:00末吉より「大阪の同級会に来ぬか」と、「ゆかず」と答へん。 村田幸三郎より「戦友会に出しも村山隊長のみよく出来あとは話にならず」と。(※省略) 7月13日 4:00放尿に起く。浪中の教へ子のいまだ便あるを検す。(※省略) 9:30ユpermaにとゆく。(※省略) 7月14日 5:55起床放尿。(※省略) Catherineさん来りmassageして話す。スマトラにゆきしと。12:00去る。(※省略) 7月15日 6:22起床放尿。(※省略) 10:00下井嫗来る。(※省略) 『昭和天皇御製』来る。(※省略) 7月16日(日) 5:20起き放尿。(※省略) ユ13:00河北病院へ見舞にゆく。18:00千代の富士優勝。(※省略) 7月17日 3:05排尿に起く。われを「昭和史」と思ふ。(※省略) 7月18日 7:00起き7:30朝食了る。(※省略) 7月19日 5:10排尿に起く。(※省略) 7月20日 1:50排尿。4:30排尿。6:30排尿。7:00起床。(※省略) 高円寺まで歩き都丸書店の瀬見氏に1,000の本見つけて挨拶す。(※省略) 7月21日 7:00起床排尿。(※省略)10:40 Catherine夫人来りmassage了る。(※省略) 7月22日 4:40排尿。(※省略) 10:00下井嫗来る。ユ歯の治療に柏井へゆく。梅雨あけ真夏日となる。(※省略) 7月23日(日) 5:30起床、放尿。(※省略) 9:30投票(田英夫・社会党)、了へて帰宅。美紀子ら明日より3日間外泊と。(※省略) televiにて選挙の結果を見、自民負けしらしことを知る。 7月24日 5:35排尿に起く。(※省略) 宇野首相の総辞職きく。爽快。15:00ユ柏井へゆく。(※省略) 7月25日 5:20さめ放尿。8:24朝食すます。9:00鈴木嫗来る。12:30昼食すます。 すぐ徒歩にて高円寺にゆき廉きbarberにて散髪(1,050)すまして 都丸書店にゆかず球陽書房にて為永春水の『淫書開好記(500)』買ふ。 (※省略) 16:30山住dr.にゆき血圧115-75と低し。(※省略) 20:00時刻表見る。22:00臥床、眠れず。 7月26日 4:00排尿に起く。7:30史、葡萄くれて出てゆく。(※省略) 成城大学より2冊来り「受取出せ」と。(※省略) 7月27日 7:00入浴して起き朝食。(※省略) 後藤均平君より収支表。社会党より礼状。(※省略) 7月28日 6:00排尿に起床。(※省略) 7月29日 2:00排尿に起く。(※省略)10:00下井嫗来る。(※省略) 7月30日(日) 6:00排尿起床。(※省略)高円寺へ傘もちてゆきしに古本屋みな休みにて汗かきて帰り来り(※省略) 7月31日 1:40排尿に起く。(※省略)高円寺行きたしと思へど果さず。(※省略) 平成元年8月1日 (※★省略)。雨降りをり。7:20起床。8:29朝食了る。 8:30鈴木嫗来り煎餅呉る。雨止まず外出できず。(※省略) 8月2日 よべねられず。5:45放尿に起く。(※省略)  山住医院にかかる(先生休暇とりをり)。高円寺へ散歩、汗だらけになりて帰宅。 (※省略) 西島寿一の娘千恵に電話、房総にをり、あす来られず、金曜Catherine夫人来ると。(※省略) 8月3日 6:20排尿に起床。(※省略) 8月4日 6:45排尿に起く。(※省略)13:00 Catherine来りmassageし呉る。15:00退出。弓子来りice-cream呉る。 (※省略) 8月5日 4:55排尿に起く。(※省略)10:00下井嫗来る。ユ外出、まもなく帰る。2階に泊りし女生徒らまだをり。 12:30v昼食了。16:00京来りbonusもらひしと2万円呉る。(※省略) 8月6日(日) 6:35起床排尿。(※省略) 帝塚山短大総会へ欠席通知。礼拝にゆき13:30帰宅。(※省略) 8月7日 7:25放尿起床。新聞休みなり。10:00ユ柏井へ歯の治療。(※省略) 8月8日 6:30放尿に起床。(※省略) 9:00鈴木嫗来る。(※省略) 藤沢桓夫未亡人より香奠は朝日新聞の某団体に寄附と。不快なり。16:30山住dr.(※省略) 8月9日 4:52放尿に起く。(※省略) 荒井平次郎より待ちし返事来り、末吉の意見にて今日の見物やりたしと。 こちらへの心得一向になし。(※省略) 8月10日 6:00排尿に起く。(※省略) 16:00massage来り、雷雨の中帰りゆく。(※省略) 8月11日 0:35放尿に起く。(※省略) 荒井平次郎に下阪とりやめとハガキかく。(※省略) 8月12日 0:40放尿に起く。(※省略) 下井嫗来る。(※省略) 東方学会退会ときむ。会費5千円にて読むところなし。 8月13日(日) 3:45放尿に起く。(※省略) 12:20昼食了る。美紀子の運転する車にて八王子の上川霊園にゆく。 大の建てし父母の墓はなし。ふしぎなる想像せしか。小林夫婦先道し、墓の草引きぬき呉る。(※省略) 8月14日 6:05排尿に起床。(※省略) ユ病院へゆく。(※省略) 8月15日 (※ 訪問、夕食御馳走になる。) 5:30放尿に起く。7:24朝食了る。8:25鈴木嫗来る。 10:30「中嶋君来る」との電話ありしと。12:15昼食了る。 18:00夕食了り18:20中嶋君帰去。20:00就寝。 8月16日 6:20排尿に起く。(※省略) 8月17日 5:00排尿に起床。(※省略) 東方学会へ会費5千円払ひ、退会申し渡す。(※省略) 14:00マッサージすみて高円寺へゆく。何も買はず瀬見店一覧。(※省略) 8月18日 2:00排尿に起く。(※省略) 13:30戸田画伯外出許され挨拶に寄らる。めでたし。 15:00(※西島)寿一来り、禿げて自転車と。ユ雨合羽与へ、われ自選詩集(特製)与ふ。喜びて去る。 末吉栄三より「そのうち来るやもしれず卒寿めでたし」と。わが気持わからぬ也。(※省略) 8月19日 0:20排尿に起く。(※省略) 伊東静雄詩集、岩波文庫で出ると新聞に見ゆ。(※省略) 栗山理一博士、本日4:30呼吸不全で逝去80才。葬式は22日円光寺でと。 8月20日(日) 2:45放尿に起く。(※省略) 19:30『文芸春秋』よみ止める。20:00就寝。 8月21日 6:50排尿に起床。(※省略) 16:30ユに1万円出させ「お花料」包む。あすの為なり。(※省略) 8月22日 3:25排尿に起く。(※省略)  11:00昼食すまし美紀子の帰宅まちて乗車、姉誘ひて円光寺で誦経きかされて帰宅。(※省略) 8月23日 1:00放尿に起く。(※省略) 山住dr.血圧105-75。 11:45高沢従姉、俊姉、柏井尚子来り、われすし陪食。(※省略) 8月24日 4:50放尿に起く。(※省略) 千恵来り、1,600円分マッサージする。20:00就寝。 8月25日 1:10放尿に起く。(※省略) 人工衛星、海王星に最接近。衛星を発見。 8月26日 2:20排尿。6:20排尿に起床。(※省略)  13:30高円寺へゆき本買へず(瀬見氏帰郷と)まっすぐ帰宅。(※省略) 8月27日(日) よべ20:30就寝、3:55排尿に起く。(※省略) 10:00雨中、川久保悌郎を訪ひ(昨日留守に来し)、 冷たきjuice飲む。ユより「雨ひどくならぬ内帰れ」と電話あり(川久保青梅街道まで送り呉る)12:30帰宅。 途中岩波文庫『伊東静雄詩集(※解説杉本秀太郎)』1冊のみあるを見付けて買ひゆく。伊東静雄「コギト同人でなき」らし。(※省略) 8月28日 5:15放尿に起く。(※省略) 8月29日 4:15放尿に起く。(※省略) 鈴木嫗来る。12:00昼食を瀬見伊三郎氏とすまし、(※省略) 戸田先生一時退院、北海道へゆかると挨拶さる。(※省略) 8月30日 4:15排尿に起く。(※省略) 丸木夫人来り、亡友のこと話して17:00去る。(※省略)  荒木修中尉へハガキかく。21:00就寝。 8月31日 わが誕生日、3:15排尿に起く。(※省略)  荒木修氏へのハガキの外に末吉栄三に上京すすめる旨書く。 村田幸三郎にも「酒飲ます。来訪を」とかく。(※省略) 中山生より中元来る。 19:40夕食了へ、早大好きで慶応きらひと宣言し早大校歌うたふ。雅子喜ぶ。 21:00浪中の連中に礼状書く。(※省略) 平成元年9月1日 7:18放尿に起く。傘寿祝の礼状かきつづけて疲る。 朝食すまし、ユに投函命じ残り礼状かきつづける。(※省略) 9月2日 3:00排尿に起く。(※省略) 10:00下井嫗来る。ユ戸田画伯にゆく。 あす北海道の娘のところに行くと也。下井嫗来る。 9月3日(日) 5:54排尿に起く。(※省略)  8:50家を出て礼拝にゆく。聖餐式あり。605歌はる。長島長老見えず小沢長老より挨拶さる。(※省略) 9月4日 6:00排尿に起く。(※省略)  14:00高円寺へゆき瀬見支店にて瀬見氏に遭ひ『誹風末摘花』を400円にしてもらふ。 20:20夕食に刺身食ひ、のこす。ユの「全快」との診断きき激怒す。 杉山平一氏より『わが敗走』もらひ二児夭折、帝塚山の講師にて窮境を脱せしをはじめて知る。 9月5日 4:40排尿に起く。もう眠れず『末摘花』よむ。7:50朝食し。、杉山平一にハガキかく。 帝塚山では映画教へしも全く話さざりし也。(※省略)  佐伯書店にゆき1,910買ひて帰宅。雨降り来る。(※省略) 9月6日 6:05起きて排尿。(※省略) 10:00鈴木嫗来る。(※省略) 福地君より「伊東夫人腰痛にて気づかざりし。 解説かきし(※解説杉本秀太郎)は桑原武夫の弟子と。」(※省略) 9月7日 0:00排尿に起床。(※省略) 9月8日 5:35放尿に起く。11:50阿佐谷駅北へゆけば俊姉、高沢嫗をり。 JRに乗り高田馬場で地下鉄に誤乗とわかり、出口よりtaxi拾ひ 12:30染井墓地へつき小光女62才で逝去とあり。水かけ花供へ石屋にゆき放尿。 taxi呼んでもらひ、雄弁にして履歴やまず阿佐谷北に着きここにて解散し13:20帰宅。 山住dr.血圧115-75、ユ風邪薬もらふ。美紀子何もとはざる様に安心す。(※省略) 9月9日 0:58排尿に起く。(※省略) 12:30出て高円寺、散髪にて毛みな剃らる(1,050)。 苦笑して帰宅の途、coffeeのみ350払ふ。 『とっておきの雑学』なるバカ本も買ひし。速水一郎、村田饒、田川卓坦より謝状もらひしと返事あり。(※省略) 9月10日(日) 7:26放尿に起く。(※省略) 9月11日 1:00さめて放尿。(※省略) 10:30ユ吉祥寺へと出てゆく。(※省略) 小金井の阿部真夫氏へハガキかく。 (※省略) けふ清端清、橋本貫一よりわがハガキ見しとハガキ。22:00就寝。 9月12日 6:00放尿に起く。14:00昼食し喫茶に出、瀬見店にゆき本買ふ。 夫人負けず。瀬見は150円を100円とし呉る。帰宅し堀辰雄のalbum見了る。(※省略) 9月13日 3:20排尿に起く。(※省略) ユ柏井へゆく。(※省略) 9月14日 4:40排尿に起く。(※省略) 9:00ユ、三越へゆく。福永英二、羽田夫妻、筒井護郎へハガキかく。 ユ12:00に帰宅。昼食さす。14:30川久保へゆく。昼食に出て不在、30分待ちて夫人と話す。 出れば帰り来るところ。「(※蔵書)売るは井上書店にせよ」といひ、出て『諸葛孔明(200)』買って帰宅。 15:30massageに寿一の娘来り、17:30帰りゆく。(※省略) 9月15日 (老人の日) 2:00排尿に起く。(※省略) 辻芙美子よりドイツにゆきしと文送り来る。 16:00弓子夫妻来り、16:30京来る。(※省略) 近々依子、京宅をへて来る由。 9月16日 4:55排尿に起く。(※省略) 10:00下井嫗来る。(※省略) 高円寺へ散歩にゆき雨中帰宅。 早乙女勝元『東京大空襲』よみ了る。22:00就寝。 9月17日(日) 5:00起床。(※省略) 千代の富士全勝優勝。(※省略) 9月18日 4:00排尿に起く。(※省略) 9月19日 7:12放尿に起く。(※省略) 荒木中尉より返事。羽田夫人より「はかばかしくない」と。 16:20山住dr.血圧136-75と高し。(※省略) 中嶋君「22日に来る」と。 9月20日 (※★省略)。8:25朝食了り排尿。9:00鈴木嫗来る。(※省略) 9月21日 4:37排尿に起く。(※省略)9:00下井嫗来る。 15:30千恵女来りてmassageする。千恵女夕方までをり。(※省略) 9月22日(※ 訪問、夕食御馳走になる。) 5:25排尿に起く。(※省略) 岡茂雄氏95才で死去と新聞にあり。(※省略) 12:30昼食了る。 14:00中島君来り、17:00夕食くふ。17:30中嶋君去る。19:30入浴す。 ※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。 〇『伊東静雄詩集』に『コギト』について言及がなく肥下がみたら怒るだらうな、と。 南方から帰還した際の会合で、哲学者の某と伊東静雄とが喧嘩しさうになった話。 9月23日 4:50排尿。6:53起床。(※省略) 18:30依子来り、ユ買物より帰り夕食。20:00すみ21:00就床。 9月24日(日) 6:10排尿に起床。(※省略) 依子11:00出てゆく(依子老眼)。(※省略) 9月25日 8:21朝食了。(※省略) 13:30依子名古屋へと去り、15:40放尿(ユ依子送りに出る)。(※省略) 9月26日 8:00鈴木嫗来る。(※省略) 17:30山住dr.。運動不足と。23:16放尿。 9月27日 6:55放尿に起く。(※省略) (※西川満の)アンドロメダ20周年の礼状投函せしむ。(※省略) 谷川徹三逝去と95才なり。 9月28日 2:35放尿に起く。(※省略) 千鶴(※千恵?)30分massageしてくれる。(※省略) 9月29日 1:40排尿。(※省略) 諏訪望、帰名と出てゆく。 10月19日の19期60周年記念会に欠席と。金沢、西原、中西義幸の喪告ぐ。(※省略) 9月30日 7:55放尿に起く。(※省略) 10:00下井嫗来り区役所へ行く。(※省略) 平成元年10月1日(日) 4:40排尿。(※省略) 8:00出発、教会にて第一列の後部に坐る。(※省略) すみて東急の喫茶店にゆき喫茶。(※省略) 毛沢東・鄧小平のことteleviで見る。(※省略) 10月2日 2:55排尿に起く。(※省略) よべ21:30増田正元の令兄より再び電話、ユ元気と答へてすみしと。(※省略) 10月3日 5:10排尿。9:00鈴木嫗来る。(※省略) 10月4日 1:54放尿に起く。(※省略) 10月5日 5:08放尿に起く。(※省略) 10:30山住dr、「河北へ老人健診にゆけ」と。(※省略) 千恵女来り、massage30分。ユを17:00までやりmelon食ひて帰る。夕食18:40すます。 10月6日 3:55眠剤のむ。8:15朝食了。8:40河北病院着。眼検ののち10:30帰宅。(※省略) 10月7日 3:22放尿。9:08朝食了。10:00下井嫗来る。(※省略) 10月8日(日) 1:20放尿に起く。(※省略)  村上正平君より電話(東海道線で同坐、成城の最終講義きき送別会にも出しとユの記憶)。(※省略) 10月9日 2:40放尿に起く。(※省略) 10月10日 1:35放尿に起く。8:30栗飯もちて鈴木嫗来るを食ふ。(※省略) 15:28東京湾が震源の地震震度3あり。 成城学園より図書館落成記念日の案内あり。神田信夫氏より『東北アジアの民族と歴史』寄贈受く。(※省略) 10月11日 1:40排尿に起く。(※省略)  神田信夫氏に礼状。けふ悠紀子の生誕とて美紀子姉妹特別の夕食設く。20:00臥床。 10月12日 7:30起床。排尿。(※省略) 15:15千鶴来りmassage20分、千鶴17:00去り夕食。20:00就寝。 10月13日 9:32起床。12:00昼食。ユ外出。18:50夕食。20:00就寝。 10月14日 4:05排尿に起く。(※省略) 9:00下井嫗来る。(※省略) 10月15日(日) 5:49放尿に起く。8:20朝食了ふ。11月11日大高同窓会総会に欠席通知かく。(※省略) 10月16日 8:25朝食すむ。9:00入浴すませ、阪本若葉子さん(※阪本越郎息女)へハガキかく。(※省略) 10月17日 雨。5:10排尿に起く。猫ゐず(猫出て来り高みに登る)。8:00朝食すます。9:00鈴木嫗来る。(※省略) 10月18日 4:20排尿に起く。(蒲松齢、山東の人にてAbuなり(Arab系))。 10:30宮本信子と光江香代子と来り、光江は新婚旅行の写真もち来り、カステラ呉る。(※省略) 10月19日 6:35排尿に起く。(※省略)  12:00花井夫人より電話「来る」と。13:00来り17:00までをり。苦労にて頭禿げをり。(※省略) 10月20日 1:15排尿。(※省略) (けふmassage来ず) 10月21日 8:04起床。9:15朝食了る。10:15下井嫗来る。(※省略) 10月22日(日) 7:05排尿に起く。浪速中学へ問合せの返事かきユ投函す。(※省略) (猫も■阮にをり。) 10月23日(※ 『コギト』、杉山平一『わが敗走』借用す。文庫本『諸葛孔明』頂く。夕食松茸御飯御馳走になる。) 3:25排尿に起く。9:06朝食すむ。9:30山住dr.にゆき 95-75が血圧なり。 ユ買物にゆく。午后来る中嶋君への用意の菓子となり。 中嶋君14:00来り、夕食まで問答し『コギト』1冊もちて17:30帰りゆく。経済的に大分楽となりらし。20:00就寝。 10月24日 4:55排尿。8:00朝食。鈴木嫗来る。(※省略) 10月25日 1:55排尿に起く。(※省略) 10月26日 4:50排尿に起く。無為にて三食し、マッサージ受け、もう止めとす。入浴もせず。 (山住dr.に薬もらひレントゲン、血圧低し)神田信夫氏の本よめず礼もかけず。20:30臥床ときむ。 10月27日 ※記述なし。 10月28日 ※記述なし。 10月29日(日) 8:30起床。12:00昼食。16:40放尿。20:00夕食し就寝。 10月30日 5:20放尿に起く。(※省略) 月原燈一郎氏9月30日死、87才と。 10月31日 2:15放尿に起く。8:00朝食。9:50山住dr.血圧120-85、尿検すみ異状なし。(※省略) 平成元年11月1日 5:40放尿。12:00昼食。19:00夕食。20:00就寝(『満文老档』なし)。 11月2日 1:05放尿。10:00下井嫗来る。(※省略) ※日付間違いあり 11月3日 2:10放尿。(※省略) 10:00散髪(※省略)。 12:00昼食。千鶴来りしもmassageさせず。18:50夕食。賀状41円と。※日付間違いあり 11月4日 1:30放尿に起く。(※省略) ユ13:00より読書会とて出てゆく。 (※省略)「なつかしの歌」きき20:30就寝。 ※日付間違いあり 11月5日(日) 7:00起きる。朝食し8:30出て教会へゆく。605歌はる。12:10帰宅。 美紀子の一族来りて仲好くしをり、われ逃げる。(※省略) 11月5日(日)   ※日付重複 7:00起き朝食。12:00昼食。ユ平家物語ききにゆく。20:00夕食し炬燵消す。 11月6日 0:45放尿に起く。(※省略) 8:30鈴木嫗来る。 11月7日 4:30放尿。(※省略) 榎一雄逝去とユ(※11月5日)。8:00朝食。 15:00川久保来り、榎君の思ひ出語り、仕事ありと帰る。 18:30夕食すまし猫ねさす。 11月8日 3:45放尿に起く。(※省略) 榎君の葬儀26日、山本さん司会と。(※省略) 伊豆公夫死とどこかにあり(※11月7日)。20:10就寝。 11月9日 よべ猫ゐず。不眠。 11月10日 けさ6:00起き朝食し12:00昼食。20:06夕食了る。眠くもなし。 11月11日 よべ不眠と思ひしが9:00起きて朝食。ユ柏井へ歯の治療にゆく。美紀子ら出てゆく。(※省略) 伊東花子夫人より文庫(※岩波文庫版詩集か)来る。下井嫗10:00来る。(※省略) 11月12日(日) よべ殆ど不眠。7:00朝食。 10:00散歩に出て佐伯にゆきユリイカ『朔太郎特集(500)』我買ひ、ユ『百人一首(100)』買ひ11:00帰宅。 (※省略) 14:30桝田より電話「母73才で亡くなりし」と。19:00夕食すませ就寝。 11月13日 1:45排尿に起く。(猫をり) 6:20起床。無為にて一日すむ。 11月14日 8:00鈴木嫗土産もちて来る。(※省略) 前川緑氏にハガキかきユと散歩に出る。 西武dept.で小便。ユ油絵の材料買ひ我は金使はず帰宅(茶900買ふ)。昼食す。 自民党国会で反撃す。(※省略) 11月15日 1:40放尿に起く。(※省略) 11:00-12:00散歩。(※省略) 11月16日 5:40排尿に起く。(※省略) ユ画をかきわれ仕方なくtelevi。10:30散歩に出る。(※省略) 15:00千恵子来りユにmassageし17:30帰りゆく。われ中野清見の『江刈村』よみ了る。(※省略) 11月17日 2:00排尿に起く。(※省略)  ユ画かき11:00高円寺へ散歩(※省略)千代の富士負ける。19:40就寝。 11月18日 1:00排尿に起く。(※省略) 10:00下井嫗chocolate多くもち来る。(※省略) 11月19日(日) 3:18放尿に起く。(※省略) 10:00ユと散歩に出、佐伯にて苦心して450。12:00昼食了る。 中島より「あす来る」と電話。『モンテクリスト伯』5冊よみ了る。18:25夕食了る。 19:00末富夫人(※囲碁将棋相手の末富栄樹の妻)倒れしとて入院。 21:10『モンテクリスト伯』よみ了へて就寝。 11月20日 (※ 『コギト2』借用す。夕食御馳走になる。) 2:35放尿。7:15起床。8:00朝食、13:00昼食すませば中嶋君来り『山の樹(※復刻)』買ひしと。賀状作って呉れると也。17:20 夕食すます。18:00中嶋君去り、われ排尿。 11月21日 5:00排尿に起く。(※省略) 7:30鈴木嫗来る。朝食す。10:00-11:30高円寺へユと散歩。 12:30昼食す。ユ戸田先生へゆく。15:00夕食すます。 (『現代韓国語』瀬見店で1万円にまけてもらふ)。 11月22日 2:15排尿。(前川佐美雄、芸術院会員となる)。(※省略)  10:00ユと散歩に出(戸田先生元気なり)、 高円寺3丁目で引返し10:50帰宅。神田信夫君に手紙投函。11:00昼食、ユまた戸田先生へゆく。 (※省略) (日銀総裁に鎌田の名なし)。 11月23日 6:10放尿に起く。(※省略) 9:55家を出、便意あり「書原」5階にて用たす。荻窪へと歩き(※省略)帰宅。 11月24日 2:00放尿に起く。3:00覚む。中島君へ賀状第一号(礼かく)。6:38起床。7:30朝食、 10:00出て区役所で小便し11:10帰宅。(※省略) 11月25日 7:00起く。ユ、正野虎雄逝去、見舞に来しとおぼえをり。三火会にて会ひし75才と。3千円の花代もちゆくこととす(28日)。 8:10朝食すむ。海雲寺を下見にユと11:00出、11:30帰宅。(※省略) 11月26日(日) 5:15排尿に起く。(※省略) 14:30出て佐伯にゆけば休み。 (※省略) 20:30『井伏鱒二』よみ了り放尿、就寝。 11月27日 1:40放尿に起く。(※省略) 12:30花井夫人来り「令息に嫁もらひし」と。 (※省略)21:45排尿に起く。(猫をり)。 11月28日 6:35排尿に起く。猫をらず史ら起く。7:40朝食了り排尿。 10:30正野君の葬儀にゆきお花料3,000呈し署名してユと帰宅。すし昼食に食ふ。 12:30鈴木嫗去る。(※省略) 11月29日 3:00排尿に起く。(猫をり)。(※省略)  10:00ユと出て高円寺。都丸支店に瀬見氏不在。ユ夫人と話し、 われ『保田全集2』見つけしも価格つけず、二人とも何も買はずに阿佐谷に帰れば猫まちをり。 12:10昼食し15:00末富夫人の見舞にユ、本多夫人とゆき、(※省略) 11月30日 4:40放尿に起く。(※省略) 10:00出て佐伯にゆき本買へず12:00帰宅。(※省略) 平成元年12月1日 2:30排尿に起く。6:00さめ(※省略)  10:30寺尾剛君(早大大学院)に電話「14:00阿佐谷駅出口で待つ」と云ふ。李白について也。(※省略)  14:20阿佐谷駅にゆけば寺尾君出口より来り、家へつれ帰り、柿出されて皆食ふ。 大学院の指導教官は松浦友久氏(※1935-2002)にてわが名知ると。 『李白(筑摩)』と『李太白(日本評論社)』ともちをり。 『李白詩魂系青山(※1988李昌志)』賜ひ、4論文置きゆく。詳しきに過ぐと思ふ。 寺尾君16:00退去。19:00夕食し、前後寺尾君の論文その他よみて詳しきに感心す。20:00就寝とす。 (※寺尾剛1993-2016 愛知淑徳大学) 12月2日 6:35覚め排尿。8:30朝食了。9:00下井嫗来る。(※省略) 12月3日(日) 3:10排尿に起く。(猫ゐず)。(※省略) 8:50出て教会。805をさきに歌はる。(※省略) 佐伯にて『中央沿線古書店ガイド、マップ』貰ひ、あすあけをれば買ひたき本見付く。 西荻窪に待晨堂といふがキリスト教の本売りをり。『讃美歌集』ユに買ひやらん。 『風日』来り、保田の満八年にて全集出しを理由に炫火忌を第6回にやりしと。20:05就寝。 12月4日 4:50排尿に起く。(※省略) 9:00山住dr.にゆき河北病院の眼科にゆき11:50やっとすみ、 佐伯に寄れば刳の間見つけし本なし。(※省略) 12月5日 3:50排尿に起く。(※省略) 7:59保田夫人へ『風日』受取かく。 8:00鈴木嫗土産もちて来る(いつものこと也)。(※省略) 18:30夕食すみ(増田裕子より喪中と)。 19:20ユ京に「4千円位の贈物を送れ(※宛先不詳)」と電話す。 (※省略) 12月6日 2:50放尿に起く。4:30同。(※★省略)。6:27起床。7:30朝食了。 ユ『讃美歌集』買ひに西荻窪へゆき11:40帰宅。昼食12:00。 大野沢君死去と(『四季』にかきしとユおぼえをり)。(※大野沢緑郎 1月23日) 18:00夕食し台湾の本よむ。20:30臥床ときむ。 12月7日 5:40排尿に起く。(※省略) 15:30千恵子massageに来り17:00去る。(※省略) ユ、大野沢夫人に5千円お花料送る。18:40入浴すまし20:00就寝。猫ゐず。 12月8日 1:10までねられず、猫も来ず。排尿に起き2:25間食。8:31排尿に起きる。 10:10朝食すむ(ユ下井嫗断れずと)。 (※省略) 20:45就寝。猫を史つれゆく。 12月9日 4:54覚む。試験問題考へこの期間教へざりしに気づく。 8:10起床放尿。朝食8:26。10:00下井嫗来る。(※省略) 12月10日(日) 3:30放尿に起床。(※省略) televiにてTibetの中共軍占領、Dalai Lama Indiaに滞在、英語話し活仏でなしことわかる(西康省もなくなりし也)。 猫2階より降り来り、ユの出せし食物くふ。 生命保険65才までとの由にて我入りをらざることユあかす。(※省略) 12月11日 2:40排尿。(※省略) 20:00就寝。 12月12日 6:38放尿に起く。(※省略) 8:20鈴木嫗来る。12:00昼食。ユ画展のため中野へゆく。(※省略) 15:20ユ戸田画伯にゆく(美紀子自動車運転)。(※省略) 12月13日 5:35放尿に起く。(※省略) 猫出入す。(大野沢夫人より「お花料受取りし。癌にて急逝」と)。 12月14日 3:55排尿に起く。(※省略) 15:30千恵massageに来る。(※省略) ユ、山住美津子女医と正己教授にお歳暮もちゆけば学習指導要領と教科書もらふ。21:00就寝。 12月15日 6:35排尿に起く。(※省略) 去年の日記(ユ代筆多し)よむ。 賀状かき「ア」9枚「イ」了り駅前にゆけば受取りをり。(※省略) 12月16日 6:24放尿起床。賀状かくも今日局休みと。10:00下井嫗来る。(※省略) 12月17日(日) 7:37排尿に起く。8:00朝食、11:30まで賀状「カ」すむ。(※省略) ユ戸田画伯展へ作品とりにゆく。 15:00「中嶋君あす来る」と電話あり。(※省略) 12月18日 (※ 訪問、13:30-14:30。) 6:40排尿に起く。9:00朝食すまし、9:30〒本局へ賀状150枚出しにゆき、のこりを書くこととす。 12:00昼食すませしあと。中嶋君来り、ユ賀状(※製作)の礼として5千円わたし茶菓を出す。 13:00退出せしあとユ、戸田画伯にゆく。(※省略) ※この日大野沢緑郎さんの訃を聞く。 12月19日 5:30放尿に起床。「キ」より賀状かく。(※省略)  8:17鈴木嫗来る。12:30昼食。ユ戸田先生の世話す。(※省略) 12月20日 放尿に5:00起く。(※省略)  ユ、戸田画伯にゆき12:00帰宅。(※省略) 成城学園の印刷物(みなよみしも面白きものなし)。(※省略) 12月21日 1:40放尿6:10放尿に起床。賀状かく。和田統夫よりお歳暮もらふ。 12:00昼食。千鶴子massageに来る。 散髪1750円、(※省略) 12月22日 6:05起床。放尿。(※省略) televi見てX’masの部分なきに失望す。 ユ柏井へ歯のためゆき完全に出来上りしと帰り来る。 18:30夕食すます。(中嶋君より年末ずっと出勤、1月2、3日に来る)と。(※省略) 12月23日 よべ不眠。ユ柏井へ歯の治療に出しあと少し眠る。下井嫗10:00来りわが眠りし間に去る。 瀬見伊三郎氏より和歌山の蜜柑一箱もらひし。(※省略) 高橋重臣君より電話「熱海にをり。来ぬか」と「ゆけず」と云へば「来る」と也。(※省略) 12月24日(日) 7:15起床。7:55朝食、 9:00礼拝にと美紀子ともども吉祥寺教会にゆく。605歌はれず11:004階にて親睦会。 (※省略) 賀状「ノ」まですまし中嶋君の印刷賀状なくなり疲れて止む。(※省略) 猫来ず22:00就寝。 12月25日 0:45放尿6:14起床。ユ柏井歯科へゆくと出て賀状投函。50枚買ひて11:00帰宅。(※省略) 17:00出て山住dr.血圧135-75。京娘つれて来りすぐ帰りゆく。(※省略) 12月26日 8:00起床放尿。9:00より賀状「ヤ」より書き了る。(※省略)  ユ柏井へ歯科にてゆく。 弓子より「来たし」と。「正月来い」と云ふ。(※省略) 12月27日 6:16放尿に起床。(※省略) 藤野一雄あて旧カナヅカヒ使用をほめハガキかく。 川久保来り「羽田(※羽田明)死んだと神田信夫君よりききし」と。羽田夫人のことユに任す。 19:00夕食。(※省略) (ユ、依子に電話し「芸大止めよ」といふ)。 12月28日 5:10起床排尿。(※省略)ユ買物に出しまに重久武志何かもちて来る。中嶋君の詩集1冊呈す。 林(※林富士馬ではなし?)来り、転任と。挨拶に何か呉る。 12月29日 6:30放尿に起床。(※省略) 13:00より外出、佐伯に『歴史手帖』とりよせたのみ、本2冊買ひ(ユも画帖買ふ)地下街歩いて帰宅。 15:30万事すまし、この日記帖も今夜のことかけば終りとなる。羽田の死、意外にてうその様なり。(※省略) 12月30日 4:20放尿に起く。5:30同。8:00出て書楽へゆき雑本買ひ11:20帰宅。12:00昼食。21:00就寝。 12月31日(日) 日記つけ忘る。書店にゆき雑本ユに買ってもらひ無為にして日暮る。水之江有義、松永希久夫2先生に賀状かく。 【平成2年】1990年 1月 1日~12月31日 21.6cm×15.5cm 「博文館 当用日記」に縦書き 1月1日 6:24起床排尿。松永希久夫、水之江有義2先生に賀状投函。賀状来る。79枚也。20:00就寝。 1月2日 (※ 訪問。筆ペンの戯れ書もち帰る。) 3:00排尿に起く。(※省略) 11:15まで賀状整理。 中嶋君14:00来り『コギト』返しまた出し来り、ユに上衣もらひて早々帰る。 けふは寒く外出せず書店にもゆかず。16:00入浴了り尻痛くなくなる。17:20再入浴。 けふは〒休み也。19:55就寝。 1月3日 3:00放尿に起く。7:55起床。8:30朝食了。賀状24枚。史宅へゆく。小林眠る。16:00散会。 1月4日 4:05放尿に起く。9:00起床。18:40夕食了。 1月5日 7:15起床。 1月6日 0:45テレビ。 1月7日(日) 5:05起床。新年礼拝にはじめて参加。先生御元気なりし。1時前帰宅。 1月8日 7:43起床。11:10帰宅。13:10西川英夫より電話、会ひたしと也。 1月9日 1月10日 1月11日 1月12日 1月13日 1月14日(日) 1月15日 1月16日 鈴木嫗来る。雪降る。外出せず終日コタツにをり。 1月17日 2:00放尿に起く。5:10同。石山直一氏と福島恵美子にハガキかく。花井夫人夕食して去る。 1月18日 1:00排尿に起く。6:18同。内村より電話「あす3時来る。道わかる」と。 正野虎雄未亡人能子女史より茶、四十九日とて賜る。 15:30斎藤女史よりマッサージ受く。 1月19日 2:00排尿に起く。7:36排尿。22:00内村君喜びて帰りゆく。 1月20日 7:17排尿に起く。12:30排尿。ユ睡る。 1月21日(日) 12:00入湯。ユ、山本重武に電話すればかからず。角力終る。 1月22日 晴のち曇。6:49起床。史らも起きて起きて外出。 山本重武の女(※むすめ)、(※省略) 近々来ると電話。山住博士より帰り来し直後に電話あり。 松枝茂夫氏より『陶淵明』(※陶淵明全集、岩波文庫上)。李白を好きと。 1月23日 寒し。6:00起床。12:15入浴了。昼食了。 1月24日 寒し。6:45放尿に起く。11:25同。14:00衆議院解散。みな万才万才といふ。 17:00ユ歯にゆき、われ放尿。20:30就寝。 1月25日 寒。6:25放尿。15:00千鶴来りマッサージする。19:00放尿。 19:30山本重武君より「あす来る」と電話あり。21:00就寝。 1月26日 寒。2:20放尿に起く。7:05同。 14:30山本重武君来り、昼食し駅まで送る。石山直一氏より「詩『四季』に」と来る。 1月27日 寒。10:20下井嫗来る(われ入浴すます)。石山直一氏へ詩の受取かく(『四季』のためと)。 -0.3度と寒かりし。刺身食ふ。 1月28日(日) 寒し。5:55放尿に起く。9:30同。朝食。12:00昼食。テレビ見る。 1月29日 寒。5:44放尿に起く。9:26放尿。高梨富士子夫人に上京すすめるハガキ投函。 12:00昼食し13:00入浴。18:50夕食了る(下痢す)。 1月30日 晴。寒。8:00放尿。(※省略) 山田俊雄教授より寒中見舞。 東京新聞夕刊に浅野晃氏急性心不全にて29日午后11時逝去と(88才)。 元共産党『日本浪曼派』となりしこともかきあり。『四季』に執筆依頼せし也。 1月31日 雪。-0.2度。2:00排尿に起く。6:39同。雪中ユ〒へ弔電(浅野夫人宛)打ちにゆく。(※省略) 平成2年2月1日 3:00排尿。9:33同。10:31朝食了。11:20放尿。13:00昼食。17:00放尿、夕食し、22:00就寝。 斎藤千鶴(※ママ。白水千鶴子と混同誤記か)来りマッサージ。 2月2日 晴。寒。6:40放尿に起床。21:00前就寝。 2月3日 寒。3:15放尿に起く。7:30同。新聞に柏井昇死し喪主妻光子葬儀5日とあり(73才と)。 10:00散髪10:30すみ11:00帰宅排尿。衆議院選挙戦はじまる。 20:20入浴了へ就寝。(昇の葬儀にユと数男とゆくと。) 2月4日(日) 曇。寒。5:40放尿。(※省略) 佐伯に『歴史手帖』来をり、まけてくれる。 (※省略) 16:20ユ、昇の葬儀に高円寺へゆく。数男も同行と。(※省略) 2月5日 (※ 訪問。) 雨。寒。3:15放尿に起く。7:20同。12:55放尿、。昼食 13:00中嶋君来り『コギト』返却、つづきもちゆく。※淺野晃さん逝去の由聞く。 (※省略) 2月6日 曇。寒。0:40放尿に起く。6:10同。8:00鈴木嫗来る。(※省略) 筒井護郎の妻より「重態」と。 2月7日 曇。寒。20:00就寝。6:16排尿に起床。12:00昼食。14:20入浴。 15:30マッサージ。21:00夕食。21:25就寝。『東洋学報』 2月8日 曇。寒。12:00放尿に起く。8:30放尿。9:00朝食了。12:00昼食。13:50放尿。 2月9日 晴。下痢。中嶋君は当分来ずと也。『四季』従って不順。(※意味不明) 2月10日 曇。寒。9:30朝食。9:55排便。小遣ひ8千円もらふ。12:00昼食。19:00夕食。入浴。就寝19:10。 2月11日(日) 晴。寒。6:20排尿に起床。(※省略) 美紀子の兄嫁の父渡辺翁81才で逝去と。 21:00までテレビ見て就床。 2月12日 曇。2:30排尿に起く。(※省略)  村山高氏の回想記くはしく、はじめに拙歌「このみちを」を引くに感謝す。(※省略) 村山高氏の本(※思い出の記:二十世紀に生きて)よみ了る。 2月13日 晴。5:25排尿に起く。10:05鈴木嫗来り。チョコレート呉る。(※省略) 2月14日 みぞれ。寒。5:28排尿に起く。(※省略) 京よりチョコレート一箱来る。(※省略) 2月15日 雨。寒。2:14排尿に起く。(※省略)11:00山住先生11:20診察「低血圧、糖あり」と。13:20昼食。 西川満氏より誕生日とてカーテン。(※省略) 15:20斎藤女史来りマッサージす。17:25斎藤女史すみ、わがやりし本もちて去る。(※省略) 2月16日 曇。寒。6:45排尿。(※省略) 雅子アメリカへゆくとて15万円やりし礼云ひに来る。20:10就床。 2月17日 晴。暖。5:14放尿。(※省略) 下井嫗買物にゆく。(※省略)史ら帰り来り20:30雅子出発と。 ユ、北杜夫よみをり、テレビにてやる。夕食し就床20:30。 2月18日(日) 晴。暖。1:20放尿に起く。(※省略) 選挙にとゆく(社会党××女史(※ママ))。 羽田亨より四十九日の花いけ。(※省略) 2月19日 晴。暖。0:17排尿。(※★省略)。社会党善戦。2:00さめテレビきく。6:25排尿に起く。 (※省略) 岡本和子女史より詩と5千円来る。ユに返却たのむ。 2月20日 雨。暖。2:15放尿。8:10鈴木嫗来る。(※省略) 村田幸三郎より村山隊長より本もらひしと。16:50放尿。地震。 松枝茂夫氏より岩波文庫『陶淵明 下』(※陶淵明全集)贈らる。21:10就寝。不眠。。 2月21日 6:28放尿。(※★省略)。8:12朝食すむ。 不眠いへば10:00高円寺へとユとゆく。古本屋あけゐるは一軒のみ『朔太郎(250)』買ひて帰宅。 村田幸三郎15:30来り、大いに語る。18:30退去。20:00就寝。 2月22日 晴。暖。5:45放尿に起く。(※省略)10:50稲田婿来る。生ユバ呉れし也。(※省略) 13:10斎藤千鶴(※ママ)来りマッサージ、この間の画本、夫会社へもちゆきしと也。 18:00千鶴去り夕食し20:00臥床。 2月23日 晴。暖。2:25放尿。(※省略) 美紀子をらず猫眠り犬尾を振る。 (※省略) 20:00テレビで「西蔵」見了り就床。 2月24日 雨。暖。23:46排尿了。6:25排尿。(※省略) 10:10下井嫗来る。羽田鈴子氏より「会ひたし」と。(※省略) ユ、藤野一雄君へハガキかく。10:00就床。 2月25日(日) 雨。暖。6:02放尿に起床。(※省略) 8:30出て吉祥寺教会着。(※省略) 女子マラソンに日本女子優勝。(※省略) 2月26日 曇。暖。3:30排尿に起く。長島君の同僚昨日9時死に27日仏葬と。可怪。 (※省略) 雅子ハリウッドよりヱハガキ。17:10山住先生、尿心配さる。水のめと。(※省略) 2月27日 曇。寒。雅子帰宅不明。0:15放尿5:00まで不眠。(※省略) 雅子時差で眠りしまま也。 8:30朝食すませし処へ雅子アメリカ土産もち来る。10:00ユ荻窪へゆき帰らす。(※省略) 「4月6日市ヶ谷で十九期生会」と。「出席」の返事す。 2月28日 晴。暖。5:05排尿に起く。(※省略) 斎藤千恵の電話かかり「あすキャッシー代りに来る」と。(※省略) 平成2年3月1日 雨。寒。0:20放尿に起く。2:00より不眠。(※省略) 鈴木嫗来り 10:30キャッシーさん来りマッサージ。(※省略) 村田幸三郎と■■■会社■教科書■■にわが詩のすと也。20:30就床。 3月2日 2:20放尿に起く。2:55まで読書。4:00放尿、ユ眠りをり。6:42排尿に起床。 (※省略) 藤野一雄君より速達『近江詩人会40年』に招待、3ページ108行を3月10日までにと。 ユ「中嶋君つれてゆけ」と。(※省略) 3月3日 曇。暖。6:25起床。朝食8:00。 下井嫗10:10来る。昼食13:00。夕食18:00.22:00就寝。(ユ不逞なり。) 3月4日(日) 雨。暖。2:10放尿に起く。(※省略) 6:30ユ起こせば3:30までねられず礼拝にゆかずと。 初枝叔母に「来い」とハガキかく。(※省略) 9:00礼拝にゆく。 12:00食品店で買物し清水嫗にゆく。元気にてあと2人老女来り、14:00出て15:00帰宅。(※省略) 3月5日 晴。暖。5:10起きて放尿。(※省略)  14:00ユと出て佐伯にて300円(2冊)の本買ひ「書楽」へゆきしも欲しき本なく帰宅。 岡本和子氏より「母のこと小説に書きをり」と手紙来し。(※省略) 3月6日 晴。暖。2:40排尿に起く。(※省略) 9:05鈴木嫗来る。(※省略) ユ、ステファノ松田信隆翁の葬儀にゆきて12:00帰宅。(※省略) 近江詩人会のこと10日締切ゆゑユと相談の上かくこととす。 3月7日 晴。暖。3:40排尿に起く。(※省略) われ『詩人学校(※近江詩人会発行)』探せしも一冊も見つからず。(※省略) われ「近江詩人会四十年」の発足かく気となる。(※省略) 3月8日 晴。暖。4:05放尿に起く。5:10起き10日締切の「近江詩人会」書き出す。 詩を、との話なりしも近江詩人会『詩人学校』の成り立ち書き藤野君に送らす(速達)。 (※省略)散歩に書楽へゆき何も買はず。帰りしも千恵子来ず、ユ電話すれば1:40来ると。 20:40就寝、ユわが狂状いふ。 3月9日 晴。暖。0:45排尿に起く。(※省略)  佐伯にて『女性と漢方(500)』、『女性学ことはじめ(200)』買ひて帰宅。(※省略) 3月10日 晴。暖。3:16放尿に起く。(※省略)11:00山住dr.へゆく。血圧105-70と低く健康と。 (先生、正己氏とドイツへゆくにつきしばらく休診とユに云ふ)。 下井嫗14:00までをり買物にゆく。われ感心して見てをり。ユ無表情。 21:00美紀子・史にかまはぬこととして就寝。 3月11日(日) 晴。暖。0:25放尿に起く。(※省略) 礼拝休み。(※省略) 高村千寿子氏に歌稿と3千円と返却。『四季』中止と書きユに投函せしむ。夕食し20:40臥床。 3月12日 晴。暖。2:25起き放尿、6:30さむ。(※省略) 高円寺へ散歩。都丸へ久しぶりにゆき、 小高根二郎の本売れしききて『聖書』たのみ構築おごりて帰宅。(※省略) 3月13日 晴。寒。7:10起床。8:00朝食、8:10鈴木嫗来る。(※省略) 3月14日 晴。暖。2:00排尿に起く。3:20就寝、5:00さめて色々思ふ。(※省略) 『伊東静雄論(現代詩読本)』よむ。昼食0:55。 高円寺都丸書店にゆき内儀に瀬見伊三郎呼んでもらひ来訪懇請。して帰宅。 夕食し21:00まで待ちしも(※来ず)瀬見と絶交と定む。ユも眠る。 3月15日 晴。暖。1:40放尿、8:00起床。10:00山住医院へゆき、 帰りて停まるに電話すれば瀬見「行く約束したか」とトボケル。「けふ来なければ絶交」と答ふ。 瀬見に(※もう一度?)「来ざれ」と電話せしあと夕食し、入浴し21:15就寝。 ユ、田中昌三未亡人にしつこく云ひしと怒るも覚えなし。 (中嶋君「転職、あす来る」と電話あり)。 3月16日 (※ 訪問。) 晴。暖。6:15起床、排尿。7:19着換へ。7:30朝食了。10:00ユ買物にと出てゆく。 12:00昼食し、歌ひつつ待てば14:30中島保博(※ママ)君来り、 ××××(※ママ)に勤め変り月給19万円の他ありと。 ハガキ印刷たのむ。18:00夕食すまして帰りゆく直前、千代の富士負く。21:00就寝。 ※「××××」は4月からの転職先、かつて錦糸町にあった株式会社アーバン(ファンシーグッズ製造)。   以降、訪問は下町風俗資料館休館日の月曜か ら週末の休日に変更する。 ※この日『田中克己遺稿集』(復刻『自筆詩集』の原本)見つける。 3月17日 晴。暖。5:10放尿に起く。猿股などぬれをりユ起こして出さす。朝食7:30、 10:00下井嫗来るまで横臥。昼食12:00。 すまして13:30末富家にゆき将棋3番負け義妹来りしとて帰宅。もうゆかずと定む。 ユ、佐伯へ性書預け「息子の買ひし」といひし由。18:00夕食、ユと老人症のことでテレビで見て就床20:30。 西川一時転宅と。電話かからず。医者の令息と同居するらし。 3月18日(日) 晴。暖。3:50放尿に起床。あと眠れず。(※省略) 佐伯にゆき660円受取る。 ユ昼食後三越へ■■展見にゆく。(※省略) 3月19日 晴。暖。5:25放尿に起く。7:20朝食。10:00ユ荻窪へと出てゆく。11:50帰宅。12:30昼食了。 14:00家を出て堀邸探しまはり16:00までユしゃべる。夫人新宅へ25日に移ると。 弓子より電話ありユ駅へと出てゆく。(※省略) 3月20日 晴。暖。3:45放尿に起く。8:00朝食すます。9:00鈴木嫗来り騒ぎて買物にゆく。 増田晃の元恋人(※妻、鈴木利子氏)より「土曜来る」と電話あり。0:15放尿に起く。 3月21日 晴。暖。5:00起床。(※省略) 瀬見伊三郎君16:00来り、売る本なしと云ふ。 17:00夕食し、ユと増田晃の思ひ出語る。「土曜増田の未亡人来る」と。 わが作品展して21:30就床。(※不詳) 3月22日 晴。暖。5:25放尿に起く。(※省略) 9:30山住医院、血圧104-75。 (※省略) 瀬見伊三郎氏『武漢兵站』もち来る。中に増田主計中尉(※増田晃)をしるす 3月23日 晴。暖。0:16放尿に起く。0:29眠る。眠れず3:30となる。 ユ眠りをり、われのみの夜となり、あすをあさってをただ思のみ(※省略) 上厠後、尻痛くて耐らず 7:50朝食すまし山住医院にゆき薬もらふ。(※省略)就寝、風邪気味なり。 3月24日 (※ 訪問。) 晴。暖。7:40さめ放尿。8:40朝食了。出て散髪屋、3人目とてやる。テッペン禿げをる発見、11:00帰宅。 (佐伯へ寄り3冊1,500円買ふ。この間660円にて買ひくれし礼と也) 増田晃の新婚いま三婚目といふ鈴木女史(※鈴木利子氏)来り、中嶋君とともに来り、16:00去る。 中嶋君夕食し増田晃伝かきあす15:00ごろ来る由也。22:15就床。(※省略) 3月25日(日)  (※ 戦前の日記帖『夜光雲』全9冊を借用、翻刻を決意す。) 晴。暖。2:10まで不眠。排尿にゆきて眠らぬこととす。(※省略) 10:40高円寺都丸へ返本にゆく。(※省略) 佐伯翁にきけば都丸の本売価500円と。礼に『流行語(500)』買ひ来り、 中嶋君来るまで小休。(※このあと記述なし) 3月26日 晴。暖。3:30放尿に起く。(※省略)  12:00昼食し高円寺へ出て都丸訪へば買出しに行きし。夫人に礼いひ国鉄に乗りて13:00帰宅。 ユ小林の長男来て「祝くれ」といひしと。寿一の見舞に出てゆく。 (高円寺の本屋にて『道造集(※岩波文庫?)』買えへば3版也し)。(※省略) 3月27日 晴。暖。3:00排尿に起く。4:00まで『武漢兵站』よみ、 増田少尉出て来る(終戦前中尉になる)。5:30起床。 (※省略) 8:15鈴木嫗来る。(※省略) ワ本(※猥褻本?)4冊もちて駅前佐伯へゆけばしめをり。 北口の古本屋にゆけば200円と。100円の本2冊買ひて帰宅。 『流行語』わからず。小林宏一郎来る。入学祝ユ与ふ。夕食し20:00就寝。 3月28日 曇。暖。6:55起き排尿。よく寐て快し。(※省略) ユ瀬見氏に電話し「11:00ゆく」と云ふ。9:30高円寺にゆけば瀬見氏をはじめ開かず。 (※瀬見氏)11:00来り、300にて『流行語』買ひくれ昼食す。 13:00近く帰りゆく。あと退屈。(※省略) 都丸書店20:00来り、22:00退出。 3月29日 曇。寒。0:10放尿に起く。あとねられず。(※省略) 8:00キャシさん来る前朝食すます。われマッサージすまし瀬見さんの『和仏辞典(1500)』もち来しと話す。 12:30キャシーさん去る。12:30瀬見氏金もちて去る。(※省略) 『果樹園』とり出して読む。(※省略) 3月30日 曇。暖。5:08さめる。 10:00すぎ都丸へゆき『独乙語辞典』と『独和辞典』と『家畜系統史』買ひて国鉄にて帰宅。 11:50都丸氏辞典2冊もち来り、すぐ帰りゆく。保田も『コギト』の再録にして役に立たず(※意味不明)。 丸重俊より弟の記念か菓子送り来る。 3月31日 雨。暖。1:25放尿に起く。(※省略) 9:15下井嫗来りはたらく。 けふ依子来り泊ると。(※省略) 依子の為、室がへす。 ユ16:00帰り来り、われ『四季(第2次)』よみ返し了る。 17:20入浴了る。夕食18:05。20:00臥床。 平成2年4月1日(日) (※ 訪問。) 晴。暖。2:35放尿に起く。(※省略) 7:15西川に電話すれば体わるく6日の会欠席と。 8:00朝食了。12:00買物して教会より帰宅。来週より受難節とユ。 (※省略) 13:00出て佐伯へ本売りにゆけば200円と。『蘇我父子』とりて帰宅。京、子づれにて来る。 中嶋君、貸出せし日記みな写して返却す。依子来り一泊す。 4月2日 曇。暖。21:00就寝、3:50排尿に起く。5:00起床。依子、ユ眠りをり。 雨降り(※省略)、依子、京宅へゆき、われ少眠なり。 丸重俊より送り状あり「金沢の弟の葬式にゆき名産送りし」と也。 17:50依子帰宅。(※省略) 4月3日 晴。暖。3:06放尿に起く。(※省略)  10:00依子去る。われに挨拶なし。ユ送りかたがた買出にゆく。(※省略) (※高校)野球16回に延長、ホームランで新田高勝つ。(※省略) テレビ模様がへし3チャンネル不快(※子ども向け番組編成に対してか)。21:00臥床。 4月4日 雨。暖。0:50排尿に起く。6:13排尿起床。ラジオつけてきく。(※省略) 4月5日 晴。暖。1:50放尿に起く。(※省略) 8:25小高根太郎に電話、元気也。 9:00山住医師、異状なく歌のおばさん不在と。(※省略)13:30千恵ちゃん来りマッサージ。14:25すむ。 和田夫人より電話、ユきき花井夫人よりわがことききしと也。 千恵ちゃん16:00去る。鈴木利子(増田晃夫人)よりハガキ。 4月6日 晴。暖。1:15放尿に起く。(※省略) 木村宙平にハガキ。伊藤信吉氏にハガキ。 12:30出発、自衛隊開館につき11:30、6人集まりて開会(今中19生期会)。 われ食へず12:00より大阪より来りし西浦義男に感心、大阪の会にも出席といふ。 14:00終り、我一人阿佐谷へ帰りユにサービスまかす。 4月7日 晴。暖。0:30排尿起床。日記きのふ思ひ出してかく。(※省略) ユと下井嫗とでベッド向きかへてくれる。兼清にハガキかく。(※省略) 4月8日(日) 曇。暖。朝食了。9:00出て礼拝にゆく。(※省略)  中公文庫『父萩原朔太郎』よみ了り葉子の苦労わかる。(※省略) 4月9日 晴。暖。3:40放尿に起く。(※省略) 「南方熊楠歿後五十年」とテレビ。7:25朝食了。 川久保に電話し「あす来い」といへば「来る」と。けふピアノひきの老嫗午后来ると。 9:00前山住dr.血圧105-75と低くなる。先生11日より10日間渡欧と。 稲留嫗来りピアノひきわれうたふ(3曲ほど)。ユ礼せず。(※省略) 鈴木利子夫人より増田のことまかせし(※まかされし?)様子。19:00夕食すます。 4月10日 晴。暖。1:05排尿に起く。(※省略) 川久保13:30来り、『聖武記』訳註すると。15:20帰りゆく。(※省略) 4月11日 晴。暖。1:30放尿に起く。(※省略) 木村繁喜君へ『四季』止めたとハガキ。 ユ戸田画伯帰京と出ゆく。(※省略) 鈴木利子夫人へもハガキかく。 4月12日 晴。暖。4:00起く。(※省略)  電話かかり千寿子(※ママ)13:30来り、われとユにマッサージし16:00帰りゆく(寿一大手術必要らし)。 川久保にゆき、『文芸春秋』買ひ来り読むところなきに呆れる。 18:00夕食後、南方熊楠を愛読す。20:00就床。 4月13日 晴。暖。2:00起く。(※省略) 北川冬彦逝去89才と。7:00朝食。ユ11:30出てゆき、肴屋来り払ふ。 兼清より川崎、雑賀が参会とハガキ。16:00ユ戸田画伯つれて帰宅。18:30夕食。20:00臥床。 4月14日 曇。暖。『五雑俎』、『南方熊楠全集』よみ了る。5:05放尿起床。 福地邦樹君より電話「小高根二郎君逝去」と。『果樹園』よみ昼食する。15:20『果樹園』よみ了る。 ユ昼寐す。18:50夕食了る。中原中也につき老女より電話あり「知らず」と答ふ。20:00就寝。 4月15日(日) 曇。暖。7:15朝食了。小高根二郎79才で死と東京新聞にあり。7:26髭剃り了る。 8:40出発。復活祭の礼拝すみ、3階にてパーティー茶のみ、出てすし食ふ。13:15帰宅。 18:00夕食。20:00就寝。 4月16日 雨。寒。2:00排尿に起く。(※省略) 14:00ピアノ弾く老嫗来り「水曜に来る」と帰りゆく(15:45)。 16:50みな帰りユ買物にゆく。(※省略) 4月17日 雨。温。7:00起き入浴。8:00朝食。9:30鈴木嫗来る。(※省略) 4月18日 雨。寒。1:15放尿に起く。(※省略) (※省略) 4月19日 曇。暖。1:30放尿。終夜不眠。朝食すませし9:20西川より電話、新しい番号兼清にききしと。体わるしと。 昼食12:00。13:30千鶴女来りマッサージ1時間やりくる。(※省略) 4月20日 雨。中(※気温)。3:35放尿。終日臥床。来客もなし。(※省略) 4月21日 雨。中(※気温)。9:30下井嫗来り役に立たず。14:00帰りゆく。無為にてねてをり。(※省略) 4月22日(日) 雨。涼。6:00放尿に起く。(※省略) 兼清へ金沢・西原・中西義章の死をしらす。みな府立浪速■■(※省略) 4月23日 晴。暖。0:54までねられず。兼清よりこの間の写真送り来る。7人なり。(※省略) 4月24日 晴。暖。朝食。(※省略) ピアノ弾きに稲留嫗来り、2,000円礼とす(3回分)。20:00夕食し就寝。 4月25日 晴。暖。6:10放尿に起床。(※省略) 4月26日 曇。暖。7:50朝食。(※省略) 13:15斎藤女史来り15:30までマッサージ。(※省略) 4月27日 曇。暖。3:40放尿。朝食し11:00出て川久保にゆけば不在。(※省略) 4月28日 晴。暖。1:06放尿に起く。(※省略) 10:00ユ同窓会に出てゆき10:30下井嫗来る。(※省略) 4月29日(日) 曇。暖。7:20放尿に起く。(※省略)  4月30日 晴。暖。2:40放尿。(※省略) 平成2年5月1日 晴。暖。4:20水飲みに起く。7:54朝食了。 8:15鈴木嫗来る。11:00鈴木嫗去り12:00昼食。19:05夕食了。(※省略) 5月2日 晴。暖。1:55放尿。(※省略)稲留嫗14:00来りピアノ弾き呉る。月給制とユの話なり。(※省略), 5月3日 曇。暖。3:05放尿。(※省略) 10:10鈴木嫗来る。(※省略) 5月4日 (※ 訪問。) 曇。暖。夕方より雨。10:15排尿(朝食すみ)。12:00昼食。17:20排尿。ユ買物にゆく。 中嶋君けふは来ず。19:00夕食了。 5月5日 雨。暖。2:25放尿。6:50放尿に起床。8:00朝食了。11:15排尿(ユ買物にゆく)。11:00同。 14:20中嶋君来訪。わが日記よませ飯くって帰る。20:00就寝。 5月6日(日) 曇。暖。6:10排尿に起く。7:45朝食排尿。10:00より礼拝、聖餐式あり、12:00西武8階にて昼食(天丼)。 14:00瀬見伊三郎氏来り、16:00までをり。20:30夕食すまし放尿就寝。 5月7日 曇。暖。2:20排尿に起く。(※省略)9:20排便、出ず痛し。11:00山住先生すみ肛門科紹介さる。1:20放尿。 5月8日 曇。温。7:44放尿に起く。(※省略)10:30出て(鈴木嫗も出る)高円寺の窪田医師にゆく。女子医大卒と。 診察受け薬もらひ山住先生への手紙託されて帰宅。(※省略) 5月9日 晴。暖。7:00起床、朝食。11:00ユ吉祥寺の清水さんへ小清水さんの縁談のことでと出てゆく。(※省略) 高円寺の肛門科の診断受けにゆき薬賜はる。18:10夕食し。20:00就床。 5月10日 晴。暖。排尿。(※省略) 9:00山住医院、尿検査あり105-75血圧。12:00昼食。 13:15斎藤女来りマッサージ1時間、ユと代る。16:00斎藤千鶴(※ママ)去る。18:35夕食了り就床。 5月11日 晴。暖。7:44起床朝食了すむ。朔太郎忌日と。 われスマトラへゆくとて毎日支局にて知る。10:00放尿。(※省略) 20:00就寝。老病也。 5月12日 晴。暖。1:40放尿。(※省略) 下井嫗来をり13:00退去。(※省略) 坂口允男より教職やめしと。0:45放尿に起く。話つづけをり、史か。 5月13日(日) 晴。暖。5:25放尿に起く。7:35朝食了。(※省略) 京一家来り、すぐ帰りゆく。(※省略) 5月14日 曇。暖。排尿。(※省略) 和島岩吉氏逝去と新聞。 10:00窪田肛門科にゆき薬少なくなる。(※省略) 野坂参三の話テレビできく。 5月15日 曇。雷雨。9:00朝食。鈴木嫗来り。(※省略) 5月16日 曇。暖。8:49朝食すむ(便通よし)。12:15斎藤女来りマッサージ。ユにも行ひ16:00去る。(※省略) 5月17日 晴。暖。2:10放尿に起く。讃美歌106歌ふ。(※省略) 山住先生にゆき血圧低しと。 大藤時彦名誉教授逝去と。87才と。21:15就寝。 5月18日 曇。暖。 9:30放尿に起く。10:00朝食、鈴木嫗来る。(※省略) 5月19日 曇。暖。2:20放尿に起く。(※省略)9:09山住dr.血圧低く糖尿少。12:00昼食。 13:30稲留嫗来り、歌はす。47とて声佳くうれし。14:30去りゆく。19:00夕食すみ、浄手。 5月20日(日) 曇。雨。 3:10放尿に起く。(※省略) 下井嫗来り(※省略)  19:00諏訪澄アメリカ旅行の土産もち来り21:00去り、ユ道案内と出てゆく。 5月21日 曇。暖。1:25放尿に起く。(※省略) 12:15斎藤千寿(※ママ)来りマッサージ我とユに行ひ15:50去りゆく(寿一見舞ふと也)。20:00就寝。 5月22日 晴。暖。8:14放尿。(山住先生にと採尿)(※省略) 5月23日 5月24日 5月25日 5月26日 ※以上記事なし。 5月27日(日) 7:59放尿に起く。あはてて礼拝にゆく。牧師先生一度倒れられ皆青くなる。 副牧師さん独身にて世話足らざるか。12:00出てすし阿佐谷にて買ひ12:40食ひ了る。(※省略) 5月28日 曇。暖。2:40放尿。6:35放尿に起く。(※省略) ユ戸田画伯にゆく。(※省略)  15:40歌の先生話して礼2,000もちて帰りゆく。(※省略) 5月29日 晴。暖。1:20放尿。(※省略) 鈴木嫗来り朝食、山住dr.にゆく。血圧やや高く尿よし。 (※省略)  ユ戸田画伯にゆく。(※省略) 5月30日 晴。暖。6:32放尿に起く。(※省略)  午後ピアノの婆さん来ず。昼食しユ、千恵子をつれて戸田画伯にゆきしを待つ。ユ帰り夕食。 5月31日 晴。暖。8:33放尿に起く。(※省略)  ユ戸田画伯にゆく。千恵モデルとなりマッサージせしらし。(※省略) 平成2年6月1日 曇。暖。6:10排尿に起く。12:00昼食。12:15放尿。18:50夕食了。 6月2日 曇。寒。5:50排尿に起く。(※省略) 6月3日(日) 晴。暖。9:15朝食すむ。ユ礼拝にゆく。(※省略) 12:30歌の先生来り、日本語で歌ふ。13:30退去。(※省略) 6月4日 晴。暖。6:06排尿。9:25排尿。朝食少々、鈴木嫗来る。(※省略) 6月5日 晴。暖。6:40排尿に起く。 6月6日 6月7日 ※記事なし。 6月8日 晴。暖。7:25放尿起床。(※省略) ユ戸田先生。(※省略)  あす高円寺の漢方屋にユつれてゆくこととす。2:30放尿。 6月9日 雨。暖。7:30起床。ユパーマに出てゆく。10:15下井嫗来る。 12:30ユ増上寺の静江母の何回忌に出てゆく。史夫婦も也。戸田画伯も出しと。(※省略) 6月10日(日) 雨。暖。4:55排尿に起く。(※省略)  16:00ユ帰り、同時に大来り、うるさし。夕食して去りゆく。21:00就寝。(※省略) 6月11日 曇。暖。7:25放尿。新聞休刊。13:00花井夫人より「来る」と。 稲留夫人来る筈なるも「おどろかず」と。(※省略) 6月12日 曇。暖。3:35放尿。8:00鈴木嫗来る。(※省略) 6月13日 雨。暖。17:30放尿に起く。23:15放尿。4:10放尿に起く。(※省略)  12:30斎藤千恵来りマッサージすむ。18:35夕食すむ。 6月14日 雨。暖。朝食、昼食すましテレビ見るのみ。ユ美紀子と買物にゆき(※省略)  21:00近くまで旧悪思ひてねられず。 6月15日 雨。暖。3:00放尿。(※省略) 赤門闘争の時、樺美智子死にしこと思出す。 (※教鞭を執った)聖心にて質問あり防大にては何もなかりしこと思出す。幸せな男也。(※省略) 6月16日 晴。暖。放尿に起く。4:05放尿に起く。ユ眠りをり。7:47朝食の粥了る。(※省略) 6月17日(日) 晴。暖。2:15放尿。(※省略) 礼拝休む。牧師様老いられしこと我に比べてよくわかる。 6月18日 晴。暖。7:30起床。10:30窪田神経科へゆきX線撮影、異状なく薬もらひて10:25帰宅。冷水のむ。 14:30まで稲留夫人のオルガンにて唱歌。(※省略) けふ畠山紀子のこと美紀子にいへば、史帰り来る。 6月19日 晴。暖。5:40放尿に起く。7:58朝食すむ。鈴木嫗来る。(※省略) 皇室その他のこと昔のままなるに感心す。(※省略) 雅子風邪と山住dr.にかかる。 6月20日 曇。暖。8:37朝食すましテレビ見る(五百井仁逝去78才と)。(※省略) 10:00山住先生。雅子の礼いひしも「孫と知らざり」と。(※省略) 台湾史かきたくなりをり。19:15夕食了り。猫帰りしを見て眠ることとす。竹内好の『戦後日記』よみ了る。 6月21日 曇。暖。9:00起床。を食了ふ。中元を京にたのまんか。三鷹の小林弓子中元もちて来る。 千恵子来りマッサージ、我すみユやりもらふ。(※省略) 竹内日記よみつづけ最後に見舞ひしを忘れをり。 6月22日 6月23日 ※記事なし。 6月24日(日)  礼拝休む。 6月25日 曇。暖。無為。よべ3:00すぎまでねられず。台湾旅行案内よむのみ。 (※省略) けふ川久保来り、早々去る。 6月26日 雨。暖。8:00鈴木嫗来る。朝食し山住先生。尿出ず血圧低し。(※省略) 台湾へゆくことはもう止める。 (※省略) 小高根太郎氏に電話して「(※君のペンネーム)三浦常夫みな忘れし」といふ。 6月27日 曇。寒。放尿に起く。(※省略) 天津にありし日を思ひ出す。20:00排尿就寝。 6月28日 曇。寒。10:10放尿に起く。(※省略) けふ皇次子結婚と。 6月29日 曇。寒。8:30朝食すまし排尿、就寝。川島紀子のことにて大騒ぎ也。秋篠宮と呼ばれると。(※省略) 6月30日 (※ 訪問。小高根二郎氏の死を知る。夕食御馳走になる。) 曇。寒。終日臥床。淺野晃氏のことかきし2冊よむ。 午后中嶋君来り、わが故日記よます。17:00夕食し18:30去る。 平成2年7月1日(日) 曇。寒。5:15起床。排尿。礼拝にゆくこととす。 8:30礼拝にと出発。竹森先生入院と。三波副牧師指揮し11:00すみ、 ユと西武にゆき中元の事しらべし清水嫗にゆかず阿佐谷に帰り、ユと別れ西川満君訪はんとせしも不能。 電信隊の広場に出て引返し阿佐谷。ユ帰り来り、美紀子に絵売て(4万円)20:00みなすみしと、 柳井道弘の詩集見れば「朔太郎自■■明大を希望」と意外也。詩集は女性的な性愛を描く。 7月2日 曇。暖。20:30就寝。10:00家を出、山住dr.にゆき紹介状もらひ河西病院(※河北病院)。 淡輪先生(※泌尿器科、淡輪邦夫)の尿検査「あさってまで良き食採れ」と。11:55帰宅。(※省略) 7月3日 曇。暖。7:40朝食すまし(※省略)  西川満氏訪へば応答なく、サインして帰宅。電話して残念といひ昼食12:00。 横になりテレビ見て増田元夫人(※鈴木利子)の往来なきに安心す。(※省略) 7月4日 雨。暖。14:40排尿に起き着がへる。ユも起く。(※省略) 9:00出て河西病院(※河北病院)、レントゲン写真撮られ排尿し、淡輪先生に診察受けず。 (※省略)清徳保男氏を思ふ。 7月5日 晴。暖。6:55放糞、硬く痛し。7:25朝食了。11:00山住女医。河北のこと申上ぐ。(※省略) 7月6日 晴。暖。放尿。(※省略) 8:40史出勤、われ臥床。秋篠宮の伊勢より大和の新婚旅行見る。(※省略) 12:00熊本の教へ子「五四万石(※菓子「肥後五十四万石」)」もちて来る。 福島恵美子来り「■原よりききをる」と。 大街道まで送りゆき「また来い」と別れ、建てましの大のところで帰り来る。(※省略) 7月7日 晴。暖。2:25さめて排尿。(※省略)10:50山住先生より帰宅。下井嫗来をり。(※省略) 7月8日(日) 晴。暖。1:05排尿。決心すむ。あす河西病院(※河北病院)へゆかん。(※省略) 大高の便り来り、9月2日3日「春夫の旅」とて潮岬へゆくと。ユ体悪しと顔色変へて反対す。 弓子が同伴と提議す。20:00就寝。あすの結果待ちなり。 7月9日 曇。暖。2:10銀河伝説にて醒む。(※不詳) 犬鳴きやむ。(※省略 病院にゆかず) 7月10日 晴。暖。3:35放尿に起く。(※省略) 鈴木嫗来り活弁、腹立つ。(※省略) ユ戸田画伯へゆく。 都留純也へ「妻千鶴子同伴来よ」とハガキかき投函。17:00山住dr.診察すみ帰宅。角力はじまる。(※省略) 7月11日 晴。暖。3:40排尿。(※省略) 16:00ユ戸田画伯にゆく。3:20放尿。 7月12日 曇。暖。6:35放尿。(※省略) 7月13日 雨。寒。12:05放尿に起く。(※省略)  東豊書店へゆき『台湾アミ族の社会組織と変化(8,000)』買ひ新宿まで歩きて帰宅。 山住dr.にゆけば血圧高くなりをり。(※省略) 7月14日 曇。雨。7:20放尿に起く。(※省略) 下井嫗来る。無為にして去る。 成城より印刷物来り電話、訂正す。21:07就寝。 7月15日(日) 晴。暖。7:00起床。(※省略) ユ戸田画伯へ出てゆく。 成城学園に電話、訂正を申込む。前川佐美雄逝去。(※関連記述なし) 7月16日 晴。暖。4:40放尿に起床。(※省略) 22:30就寝。 7月17日 晴。暖。8:10起床。(※省略)  スキーさん(※スキーは成城大学同僚の名。誤記か。)来りマッサージ。10:40すむ。(※省略)  14:00美紀子特急切符買ひて帰宅。 7月18日 ※記事なし。 7月19日 7月20日 晴。暖。ユと出て甲州へゆく。特急にて塩山に着き広友館に入る。奥の間に入れられ、夕食前入浴。 夕食まづくて困る。床敷きありユと別なり。われ先づ眠る。 翌朝また大食堂にて朝食。これまたまづし。 ユ払ひし道まちがへて塩山駅へ出、特急八王子まで。あとのりかへて帰宅。 成城大学院学生といふよりわけのわからぬ手紙来りをり。村田幸三郎より大病せしもなほりし由。 7月21日 曇。暖。6:41放尿起床。(※省略) 8:50美紀子同級生とタイへ旅行と出てゆく。不審。 9:30山住医師、低血圧。9:55帰宅。 村田幸三郎と恩田生とにハガキ。2:50排尿。 7月22日(日) 晴。暖。4:25排尿。(※省略) 7月23日 晴。暖。1:35排尿に起く。(※省略) 山住dr.にゆき10:20帰宅。河北へ尿もちゆく。 昼食後、ユ柏井へ歯の治療にゆき16:30帰宅。19:20夕食了る。臥床。。 7月24日 晴。暖。3:00排尿に起く。(※省略)  ユ柏井へ歯の治療にゆく。鈴木嫗来りよく働く。(※省略) 森亮氏より『晩国仙果』贈らる。「ルバイヤット」の新訳なり。 中川幾郎『竹内好の文学と思想』よみ了る。(※省略) 7月25日 晴。暖。2:40排尿に起く。(※省略) 15:00窪田dr.診察、ユひとりでものいひてすむ。 われ高円寺駅へ出て瀬見氏見れば一人で店番しをり。 阿佐谷へ帰れば雨となる。ユ柏井光一に歯の治療受け19:30帰宅。夕食すます。 7月26日 晴。暖。5:30排尿に起く。(※省略)  森亮氏(改訳「ルバイヤット」)へ寸感かく。 10:00スキー女史(※誤記か。)来りマッサージ。 古木春哉氏より父『鉄太郎全集』来る(高価なり)。 12:00スキ女史すむ。美紀子タイより帰来。(※省略)15:00山住医院。(※省略) 7月27日 晴。暖。4:00排尿に起く。(※省略) ユ、俊姉の送別にと松田家へゆき、(※省略) 7月28日 晴。暖。1:20排尿に起く。(※省略) ユ、体悪し。(※省略) 10:40下井嫗来る。(※省略) 7月29日(日) 晴。暖。4:45放尿に起く。(※省略)  7月30日 晴。暖。3:40放尿。(※省略)  9:00出て河北病院、待つこと永くいらいらするところ呼ばれて来週も来よと淡輪dr.。 『古木鉄太郎全集』返却と決定。(羽田、京大にて博士号とりしことわかる)。(※省略) 7月31日 晴。暖。3:20放尿。(※省略) 鈴木嫗来る。ユ柏井へゆく。(※省略) 小高根二郎につきかくこと「福地君にたのめ」と『浪曼』にハガキ。(※省略) 平成2年8月1日 晴。暖。5:45排尿に起く。手塚隆義氏に返事かく。 昼食前ユ、柏井へ歯の治療にゆく。19:00夕食了る。21:10就寝。 8月2日 晴。暖。4:50放尿に起く。(※省略)  11:00ケディさん来りマッサージす。わがあともユも。ケティ12:05去る。 午后猛暑。日比野泰子より暑中見舞。(※省略) 8月3日 晴。暖。5:00放尿に起く。(※省略) 16:55山住医院より帰宅。(※省略)  (小林の長男3:50酒の機械もち来る) 8月4日 晴。寒。4:55放尿に起く。(※省略) 8月5日(日) 晴。暑。礼拝にゆき第一列。0:46帰宅。昼食にユ買ひ来しすし食ふ。16:00地震。(※省略) 8月6日 晴。暑。5:05就床。7:40排尿。8:06朝食了。11:10河北より帰宅。古木春哉君へ礼状。12:05排尿。 8月7日 晴。暖。9:08上厠、9:32出発(けふ明皇驪官初会(※不詳)につきNHK来ると也。虚言なりし)(※省略) 8月8日 晴。寒。5:10放尿に起く。(※省略) 8月9日 晴。暖。5:05排尿。10:00山住dr.10:05吾のみ帰宅。昼食し千恵子マッサージに来てくれる。 8月10日 晴。暖。16:00まで退屈す。伊藤とくよりハガキ。つきあひなしと也。17:05入浴了。 知念栄喜君生きをり。19:05夕食了。20:15就寝。 8月11日 晴。暖。5:40起床。6:47放尿。7:34放糞。8:21同。19:30夕食了。 8月12日(日) 晴。暖。6:15起床。8:45入浴了。(※省略) 和田より中元くる。 ユ牧師先生の見舞にゆく。13:15放尿。就寝。 8月13日 晴。暖。11:15起床。(※省略) 末吉の便り見る。あすは眠らん。 夜、満洲移民の虐殺を見す。はじめてのこと也。(※民放テレビか?) 8月14日 晴。暖。6:10排尿起床。7:53排尿。朝食すむ。 8月15日 ※記載なし。 8月16日 晴。暖。斎藤千恵来り、ユとわれにマッサージにして帰る。(※省略) 21:00就床。 8月17日 晴。暖。10:15入浴了。(※省略) 17:20ユ、米買ひにプティパレーへゆく。ユ米一升買ひ来る。1,500円と。 高校野球延長14回雨の中やる。中河与一作の校歌うたひし四国の高校(※丸亀高校)勝つ。可笑。 18:25夕食了り、あと疲れたり。(チュクチ人のテレビ ※NHKスペシャル 「秘境大シベリア」) 8月18日 晴。寒。5:25放尿。(※省略) 8月19日(日) 晴。暖。8:36朝食了。史、石油のことにて出張す。ユ教会へゆく。(※省略)  ユ教会より帰り来り「先生重態」と。(※省略) 8月20日 晴。暖。5:05排尿。(※省略) 8月21日 晴。暖。8:01朝食了。(※省略) ユ11:35帰宅。荻窪にをりし也。鈴木嫗去る。(※省略) ユ戸田先生へと出てゆく。16:00山住先生へ血圧検にゆく。 8月22日 雨。暖。4:15排尿に起く。6:06同、ユ一心に介抱す。(※省略) ユ15:20柏井へ歯の治療にゆく。(※省略)休みなりしと。(※省略) 8月23日 晴。寒。7:00排尿に起く。(※省略) 8:30ユ高円寺の名医にゆく。 8月24日 ※記事なし。 8月25日 雨。暖。8:30排尿に起く。朝食し10:50山住先生。血圧低く、ユのレントゲン認めたまふ。(※省略) 手伝女帰りゆく。14:00ユ柏井へ歯の治療にゆく。(※省略) 8月26日(日) 雨。暖。5:20さむ。(※省略) 教会へ礼拝にとゆく。副牧師さんのお話下手なり。 すみて阿佐谷へ帰りユにすし買はしむ。(※省略) 8月27日 晴。寒。12:40排尿に起く。(※省略) 猫一尾ふえ美紀子あとたのみて終日出てゆく(史下阪)。 13:20昼食すみ入浴畢。美紀子以下みなをり歌ひピアノ弾く。(※省略) 8月28日 雨。暖。8:28排尿。 (※省略) 手伝さん買物に大丸へゆく。(※省略) 丸重俊より兵庫の松茸・コブもらふ。(※省略) 8月29日 晴、曇。6:30排尿に起く。(※省略)  13:00ユと高円寺都丸にゆく。『神軍(第2版)』に「署名しろ」と。喜んでして出る。 帰宅。14:40猫をらず家中留守なり。(※省略) 千恵子来り、ユと話す。 8月30日 ※記事なし。 8月31日 雨。暖。4:05腹痛、脱糞(下痢なり)。7:40入浴了る。 7:50ユにベッドより臭しと追立てられる。 山住dr.にゆけば尿出ずとぼとぼ帰り来り、天理図書館の会に「ゆけず」と返事投函す。 16:30山住女(※誤記か?)帰り去り宍戸錠などテレビ見つづける。犬啼く。 彦根市宇多良子女史より「贈物せし」と。(※省略) わが80才の誕生日。 平成2年9月1日 雨。暖。12:00昼食了る。依子予告なしに来る。長男アメリカ行を送りに来し由(※次男望氏の誤り)。 15:00排尿。依子、美紀子とよく話し、犬見にゆく。依子のところにゆき昼食(美紀子ら冷房しをり) 15:30ユ残して逃げる。わが誕生日おぼえて、お祝持ち呉る。 ユ、依子送り出し喜びてわれと同居。(※不詳)ともにテレビ見、大震災の思ひ出語る。 われも午食中に醤油をとりにいきおどろきし也。もはやかかる年令となりし也。 「ドイツ国歌」も歌はざること知らぬ辻英美子(※辻芙美子?)よりヱハガキ来る。(※省略) 9月2日(日) 礼拝にゆく。ねぼけて竹森先生へのお見舞状忘る。 9月3日 晴。寒。ユ眠りわれ起きて稲田禎子に返事かきて眠ることとす。朝5:00なり。(※省略) 山住医師へ8:00にゆく。(※省略) 鮭の土産、史よりとどく。 9月4日 晴。暖。4:10放尿に起く。(※省略) 9:00ユ戸田先生にゆく。(※省略)  10:30若き声にて「増田正元の兄茅ケ崎に住む」と。(※省略) 9月5日 曇。寒。2:35放尿に起く。ユ眠りをり。 伊藤徳子哀れなり。一生嫁がずと。聴秋(※漢詩人伊藤聴秋)の孫なり。 (※省略) あす竹森先生の見舞にゆくことを考ふ。(※省略)  美紀子不意に同意、自動車運転してもらひ先生と令嬢にお見舞いふ。 16:30花井夫人来り18:00帰りゆく。(※省略) 9月6日 晴。暖。2:30さめ(※★省略)。6:20排尿。(※省略)  わが師(竹森先生)年末までかと覚悟す。 (※省略) 千恵ちゃん来りマッサージ我にし、ユにかかり15:00近くなる。隠居のぞきしあと帰りゆく。 9月7日 曇。寒。3:45放尿に起きる。猫ねてをり。万物寂たり。6:48排尿に起く。 朝刊に「そううつ病は気分障害」と変りし由。(※省略)  このこころまことなれかし何事も忘れてさめし朝あけのこと 9月8日 晴。寒。6:50放尿起床。ユ相手にせず。8:30放尿。11:15史出発。ユ同時に帰宅。 『婦人公論』買ひ来り、銀座につれゆくと也。16:00地下鉄にて帰宅。夕食うまし。 9月9日(日) 晴。7:22放尿に起く。(※省略) 美紀子相手にせず、来しは猫と妄想のみ。ユ昼食後帰宅。恬としをり。 ともかく(※吉祥寺教会から)阿佐谷教会にゆくことのみきまる。(※省略) 9月10日 晴。暖。ユ買物にゆく。帰り来れば女性の来訪、ユ相手すれば長寿祝と。 喜びて『近江詩人会報』進呈す。何とかしてくれると也。 『帝塚山学院同窓会報』来り、我が名は見えず。忘れられし也。 富■(谷川)真佐枝生(夜学)より「長良川への遠足忘れず」と。 9月11日 晴。暖。15:30家を出て高円寺まで歩き瀬見にゆけば市場と。 『神軍』売れしか500円の洋書買ひて17:30帰宅。夕食して就床。 9月12日 晴。暖。4:48起床排尿。8:30山住先生にゆき「旅行よし」ときき10:56の新幹線ひかりに乗車。 名古屋で下車、依子に電話し「木曜に寄る」と言ひ近鉄に乗り藤井寺へ苦心して16:00頃着。 狐うどんとそば食ひ田中初枝叔母に電話すれば迎へに来り「仕度してなし」と。 徳よりの電話に「あす会ふ」といひ、奈良の野崎に宿たのみ 18:00奈良へゆき21:00着けば野崎夫人迎へをり。 夕食を野崎夫人と食ひ22:00食ひ了り13:30(※1:30?)就寝。 9月13日 曇。涼。名古屋へと近鉄に乗り15:00着。15:40依子迎へに来り、清(※澄)帰宅。夕食して20:00就寝。 9月14日 雨。涼。9:00清(※澄)に駅まで案内され11:06のこだまに乗り14:00東京着。 帰宅。鞄を依子宅に忘れしことわかる。 9月15日 曇。時々雨。老人の日とて町内より菓子2箱もらふ。 下井嫗来り13:00帰りゆく。依子宅に忘れし物返り来る。 9月16日(日) 雨。暖。5:30放尿に起く。(※省略) ユ誘ひて阿佐谷教会へゆく。まごまごするばかり也。 帰宅してユ眠りわれテレビ見つづける。史帰宅して静かなり。(※省略)  肥下夫人より「上京してゐた」と電話(再上京の時は来ると也) 9月17日 晴。暖。2:30起き4:00起き7:30起床朝食。11:00山住先生にゆく。尿、佳なり。 羽田夫人より「留守して残念」と。筒井夫人より「主人死んだ。先生のこと末吉さんよりきいた」と。 (※筒井護郎:浪速中学教へ子)肺癌による呼吸困難にて7月6日16:57死亡、 行年70才仏教にて院号もらひし由。 9月18日 雨。暖。4:00放尿に起く。(※省略) 『婦人公論』よむ。(※省略) 9月19日 雨。曇。筒井恵子夫人より「6月7日(※7月6日?)に筒井死と(電話かからざりし也)。」 9月20日 晴。暖。9:05排糞、尻痛し。筒井夫人に追悼文かく。11:10放尿。 13:30マッサージに千恵ちゃん来り、14:00すみユにかかる。 9月21日 曇。暖。2:00放尿。3:00同。植村清二『神武天皇』送りたまひし後藤均平君に礼かく。 アジアオリンピック北京で開かれをり、それを見る。(※省略) 9月22日 ※記事なし。 9月23日(日) (※ 訪問。) 曇。暖。中島保博(※ママ)君久しぶりに来り、わが旧作よませ18:30夕食して帰りゆく。 阿佐谷教会へゆくに美紀子つれゆく。ユは吉祥寺教会へ金払ひにゆきしなり。美紀子すし買ひて帰宅。 中島保博君14:30来り、すし食ひて18:30帰りゆく(※重複)。われ19:30入浴了る。20:00放尿臥床。 9月24日 曇。暖。2:40放尿に起く。(※省略) テレビでけふ北京のアジアインターナショナル見る。 9月25日 曇。暖。19:30入浴了る (夕食すみ) 。ユ羽田鈴子夫人へ便りかく。 9月26日 ※記事なし。 9月27日 晴。暖。アジアインタナショナル見る。 9月28日 晴。暖。12:45放尿。 9月29日 晴。雨。6:16起床。7:50朝食。9:31脱糞。ユ不在。昼食しアジア大会の柔道見て20:50となり臥床。 9月30日(日) 雨。暖。2:20放尿起床。(※省略) 18:55夕食了り排尿就床。0:30排尿就床。 平成2年10月1日 晴。暖。6:35排尿に起く。(※省略) (美紀子水■にて事故起し大騒ぎなり。) 京母子来る。 10月2日 晴。寒。2:00排尿に起く。7:00排尿に起く。昼食夕食すまし20:45出浴臨床。 10月3日 晴。暖。19:45夕食すます。21:40就寝。(※省略) (斎藤千恵マッサージに来る。) 10月4日 晴。暖。5:07排尿。0:05排尿。 10月5日 晴。暖。南陽美根子(※美弥子)より奈良の写真来る。 10月6日 晴。暖。南陽美弥子へ写真の礼かく。後藤均平君へも『神武天皇』の礼かく。(※重複)14:00昼食すます。 10月7日(日) 雨。暖。ユ三鷹教会へ礼拝にゆく。良き説教なしと。 依子来り泊る。あす7:00起き8:15息子に会ふと也。 10月8日 雨。暖。0:40放尿。6:30放尿起床。16:20放尿。1:35放尿。 10月9日 8:37朝食了。(※省略) 南陽美祢子より奈良の写真来る。(※重複)  われ背高く悠紀子らみな低し。南陽美祢子へ礼状かく。 10月10日 瀬見氏に電話しユと9:30出て本売りにゆく。 2万円に買ってくれ『高丘親王航海記(1200)』買ふ。帰りも歩き疲る。 10月11日 曇。寒。7:20放尿。昼食後、斎藤女史来りマッサージしてゆく。 10月12日 曇。暖。6:50放尿に起く。(※省略)  『高丘親王航海記』よみ了る。 山住医師にゆく。病気と心配さる。20:00夕食し脱糞して一日すむ。 10月13日 曇。暖。ベッドの向きを変へ14:00昼食とる。19:00夕食了る。21:00就寝。 10月14日(日) 曇。暖。6:50起床放尿。ユ不在。大高同窓会に欠席とかく。戸田画伯来り、「諏訪に連絡とれ」と。 アメリカにゐる知己に(※次男の)入学後のこと頼み呉ると也。(※省略) 依子入浴。 10月15日 曇。暖。5:15放尿。京の娘のことにて丸重俊にユたのむ。われも成城にたのまんと思ふ。 (※省略) 「前川佐美雄氏7月15日逝去」と『日本歌人』来る。 10月16日 曇。暖。4:40放尿に起く。(※省略) ユ名古屋へ電話かくる。(※省略) 17:15依子来て泊る。(※省略) 10月17日 曇。暖。5:40さめ放尿。(※省略) 10月18日 晴。暖。7:00起く。(※省略) 10:48弓子来り、依子は不在。 13:20千恵ちゃん来り昼食す。そのあとわれにマッサージし次いでユに行ふ。(※省略) 10月19日 晴。暖。5:50放尿に起く。(※省略) 依子名古屋へ帰りしらし。 10月20日 晴。暖。3:50排尿に起く。(※省略) 年賀ハガキかくこととす。 11:20出て山住医院、すぐ診察、箕輪先生(河北病院)にゆけと手紙かかる。 下井嫗買物より帰り来り、われにかまはず。ユ画を戸田先生にみてもらひしと。(※省略) 10月21日(日) 晴。暖。8:15放尿に起床。(※省略) 川久保訪問。古本屋への講義す。 帰りてステッキ便所へ忘れしを見つく。(※省略) 10月22日 曇。暖。7:58腹痛く下痢か、朝食せず。山住先生にゆく。(※省略) ユ戸田画伯の会へゆく。(※省略) 10月23日 曇。暖。1:15排尿。(※省略) 中島君に電話すれば「日曜来る」と。20:30入浴了。 10月24日 雨。暖。1:00雨。雅子の実邸こさへよと云はん。3:00さむ。(※省略) 11:00河北病院、先生に相手にされずにすむ。(※省略) 神保光太郎死去83才と。 10月25日 雨。寒。6:00放尿に起く。7:00腹痛下痢。(※省略) 10月26日 晴。暖。7:50放尿に起く。ユ朝食後出てゆく。10:30下井嫗来る。 斎藤千恵来り、マッサージ。われとユにす。 10月27日 晴。暖。10:45ユ帰宅。18:30ユをして寿一に電話せしむれば寿賀子出て不在と。 20:30入浴すますも寿一より応答なし。22:25睡眠。 10月28日(日) (※ 訪問。) 晴。寒。8:05起きて放尿。ユすでに用意して京のところへゆく。「中島君来るころには帰宅」と美紀子の話也。 11:30寿一より電話「一参してくれ、けしからん」といへば「する」と。 ユ京の家へゆき帰らず13:30美紀子昼食くはし呉る。寿一よりあやまりの電話あり。 ユ16:00帰宅。寸前中島君来り『近江詩人会50年』もちゆく。18:30夕食すみ中島君も食ふ。22:10就寝。 (※神保光太郎の訃を知る。) 10月29日 晴。暖。7:30起床放尿。(※省略)。 10月30日 雨。寒。6:45放尿に起く。10:00鈴木嫗来る。(※省略) ユ三鷹へゆく。 寿一来らず。連絡なし。(※省略) 10月31日 雨。寒。1:25排尿に起く。(※省略) 死ぬ時と地代の払ひに史を使ふこととす。 10:30山住先生にわが尿もちゆく。(※省略) 高森文夫氏より『舷灯』来る。本の題気に入らず。楊雲萍教授にハガキかく。 平成2年11月1日 曇。寒。6:25排尿に起く。史起きて出る。 8:00大阪の福地君(※福地邦樹)に電話し今夜の宿たのむ(肥下夫人はダメと)。 (※悠紀子夫人と最後の旅行) 四條畷にゆきラーメン食べ福地君に電話をユかければ鴻池新田下車と。 引返しタクシーに駅前より乗り下車すれば福地君をる。 自宅へつれゆかれ来会せし3氏を帰らせ泊めると也。 ユと一室を与へられ夕食せしあと眠る。 11月2日 曇。暖。よく眠りてさめれば鴻池新田の大島医師にゆくといひ、タクシー拾ふ。(自家用の野菜畑見す。) 行先は医師の大東邸なり。夫人をられわが講義ききしを思ひ出す。 先生と令嬢夫妻とみな外出して、お茶賜り退出。(また福地家へゆきしか。よく眠りて午后となる) 11月3日 晴。暖。新幹線へと片町線に乗り新大阪駅へ出、臨時ひかり号買ひ、 17:00発まで無為。(福地君とは片町線で別る。) 21:00帰宅。(※省略) さっそく眠りて旅の疲れいやす。 (詩集『舷灯』出発前に高森氏より貰ひしもあけるひまなし)。 20:40睡眠(あすの礼拝ユにたのむ)。 11月4日(日) 晴。暖。7:08排尿起床。8:32朝食排尿。ユ礼拝とて出てゆく。 われ静かにベッドにをりいろいろと考ふ。 17:30依子来る。18:00悠紀子礼拝より帰り来る。 けふし礼拝もとの副牧師たりし山内眞さんやり605号の讃美歌うたひし由。こはわが名訳なり。 ユ依子と話しつづく。美紀子、2匹の猫すべて機嫌よし(史の姿見えず)。 テレビ正倉院の展示見す。10:30入浴。 11月5日 晴。暖。9:00さめ9:00山住dr.へゆき、尿出ず、血圧106-75、睡眠剤もらひ帰宅。昼食し13:20排便。 ユ『四季』出すに反対。中島君「土曜に来る」と。 (※省略) 依子をらず、われ好健なり。(依子は京の家に逃げし也)。 11月6日 晴。暖。10:00鈴木嫗来り、湯の水かふ。(※省略) 美紀子不逞(依子京のところへゆきし)。(※省略) (花井タヅ子に『四季』参加をいふ。「考へる」と也)。 11月7日 晴。暖。5:15入浴。明日立冬と。(※省略)『四季』編輯す。(※不詳) 8:30ユ病院へと出てゆく。美紀子留守番す。われ8:48放尿。 9:00瀬身(※ママ)伊三郎君来り、杉山平一その他見す。(※売却する本か。) ユ帰り戸田画伯へ案内し12:00みな帰り来り、瀬身君(※ママ)一万円おきて帰りゆく。 われ昼食。孫たち布哇より帰り土産呉る。 11月8日 立冬。曇。暖。6:00起床。飯食ひ、花井タヅ子に『四季』やめ『季』に入ること云ふ。 ユ戸田画伯へ都丸案内し民俗学の本見せしと。われ『四季』(※第5次)よみ返し、多く死にしを知る。 昼食のあとユ、医師にゆく。(※省略) 16:00『四季』よみ了る。名誉同人殆ど死に誤植多かりし也。 (福地君に相談し『季』に書かんと思ふ)。その旨ハガキにかく。 (※日記帳補遺記)  84歳の竹森牧師の病状いかがにや。 美紀子の自動車にて見舞にゆく。これが今生の最後なりし。 11月9日 晴。暖。10:00入浴(朝食8:00すみ)。西島寿一来訪。 12:15までわが説教ききて帰る(美紀子の自動車で)。 12:50昼食すむ。斎藤千恵来り、マッサージすむ。16:00帰りゆきユ送る。 19:25夕食了(直前ユ、わが前非を一心に責む)。(※省略) 11月10日 晴。寒。6:20入浴了。(※省略) 10:00山住先生。血圧115-52。助手須藤さんと。 正己先生より『学校と日の丸・君が代(※岩波ブックレット)』賜はる。(※省略) 『日本歌人』来る。 11月11日(日) 晴。暖。3:00排尿。6:00ユ帰宅。7:00朝食すみ、福地邦樹へ中島と花井タヅ子を(※『季』へ)推薦ときむ。 礼拝休む。中島・花井ともに来ずとわかる。9:20入浴了る。下井嫗来り喜ぶ。千葉の女と。 12:30昼食了。13:00出て高円寺都丸へゆき本買ふ。200円まけくれアイスクリーム食べて帰宅。15:00也。 17:15竹森先生(※竹森満佐一:吉祥寺教会牧師)逝去と電話、葬儀に出るときめる。 11月12日 晴。寒。ユ10:30買物にと出てゆく。(※省略) 福地に送ることとす代筆、ユ、吾。(※省略) 11月13日 晴。寒。8:00脱糞。13:15昼食にラーメン。鈴木嫗12:00去る。(※省略) 11月14日 晴。暖。8:40起床。ユ河北病院へわが尿もちゆく。(※省略) 稲田健太郎来る。中学2年と。ユ南診察所へゆき「もっと食へ」といはれしと。(※省略) 11月15日 晴。暖。7:10放尿起床。8:15朝食了。10:20マッサージすむ。 12:40出発、竹森先生葬儀14:00。3階の会員席にてすまし 清水嫗にゆけば歓待され17:15帰宅。18:20夕食了。 11月16日 晴。暖。7:10排尿起床。12:30昼食了。山住正己教授へ(※ママ)。『文芸年鑑』平成3年版に予約注文。 11月17日 晴。寒。6:00排尿に起く。8:10朝食すまし山住教授に礼の絵をもちゆけば閉鎖。 (※省略) 依子来り、好きなこといふ。 11月18日(日) 晴。暖。 ※記載なし。 11月19日 曇。暖。依子滞在しをり。われずっと就床して何もせず。(※省略) 福地君より『柵』3冊来り「同人募集」と。わが3人の推薦はかかず(内容なってなし)。 千代の富士連勝。18:30夕食了。依子名古屋へ帰る。21:00放尿就床。 11月20日 ※記載なし。 11月21日 曇。寒。7:00放尿起床。(※省略) 11月22日 曇。寒。6:00ごろ排尿に起きる。猫も同。21:00ごろまでテレビ。(※省略) けふ『柵』来り、低度低きに安心かつ悄心。 11月23日 晴。寒。9:30起床。(※省略) 勤労感謝の日と。 20:10夕食すむ。野菜を主とし、むつかしきことわかる。 11月24日 曇。寒。8:23放尿に起く。終日テレビ見る。(※省略) 高森氏の詩よくなかりし。 (※『季』の?)同人費2万円前納をわれ立て替ふることとす(タヅさん2名)。21:00放尿臥床。 11月25日(日)  曇。寒。4:40排尿に起く。 11月26日 ※記載なし。 11月27日 晴。暖。7:10起床。ユ用ありと出てゆき16:30帰り来る。(※省略) 11月28日 雨。寒。4:25排尿に起く。ユ天沼の柏井へゆき帰らず。昼食すし食ひ、 美堂正義、吉岡克己の喪中欠礼とのハガキ2枚受取りテレビ見て18:05就寝。 11月29日 曇。寒。11:30マッサージに斎藤美紀(※ママ。初出)来る(ユ、小清水さんと会ふと)。 わがすみて「聖心へ行け」と也。 わけわからず(結局ゆかず)美紀、ユにもマッサージにをすまし戸田画伯へとゆく。 (※省略) われ昼食し山住dr.に夫君にと画本もちゆく。 ユ帰らず、聖心女子大にゆくをやめをれば岡本夫人より「詩人会に喪中、加はらず」と。(※不詳) ユ16:00帰宅。加へんと思ふ諸氏よりはたよりなくて不安也。(※省略)  11月30日 晴。暖。1:00さめ(排尿)仕方なし。6:20排尿に起床。9:00兼清より電話(ユきく)。 「吉田栄次郎死にけふ葬儀」と。80才なり(いづも屋)。 20:30臥床。けふ田中順三郎夫妻より歳暮来る。 平成2年12月1日 晴。暖。7:50排尿に起く。6:45起く。6:46猫起く。6:52排尿。12:30昼食し、手伝帰りゆく。 12月2日(日) 晴。暖。4:55放尿起床。ユわが尿もち河北病院へと出てゆく。われテレビ見て誰か来ぬかと待つ。(※省略) 夜、ユ千恵ちゃんに「あす戸田先生ダメ」と電話す。 われ終日テレビ見て無為(けふボーナス出る日と)21:00就寝。 12月3日 晴。寒。2:40放尿に起く。12:00昼食。ユ不在。 (千恵ちゃんマッサージ了へユにかかる。) 戸田先生お越し「北海道より姪御さん航空便で来る云々」断らるらし。 われテレビにて躁病なることわかり安心す。夕食にケーキ食ひ就寝。 (俊姉東京で死ぬこととなるらし)。(※省略) 12月4日 晴。寒。4:18排尿に起く。(※省略) 12月5日晴。暖。3:15放尿に起く。21:10最後の賀状かく。 12月6日 ※記載なし。 12月7日 ※記載なし。 12月8日 晴。暖。3:15放尿に起く。 12月9日(日) 曇。暖。礼拝休む(クリスマスにゆくと也)。賀状整理す。(※省略) 和島岩吉氏逝去と嬢より。 12月10日 晴。温。4:00排尿、時々さめ8:00起床。朝食一寸すまし山住先生。 帰りて用なくテレビ見、誰も来ざるに困る。 21:00北極のことくわしく見、川久保の盟友ならざるに気づく。(※不詳、不審) 長友康子、山口先生より喪中欠礼来る。礼拝にゆくこととす。 12月11日 晴。暖。6:00排尿に起き、あさのクジビキに参加することとす。もとより仕方なきこと也。(※不詳、不審) 21:45臥床(テレビ見しのみ)。 12月12日 晴。寒。4:40放尿に起く。あと眠る気なくユも本よみをり。 (※日記帳補遺記) 10:00福地邦樹来り『コギト』発刊のこと問ひ国会図書館へ去りゆく。わが思ひ出すこと多し。テレビ見て眠る。 12月13日 晴。暖。無為にして「旧かなづかひ」書かんと思ふ。復古調ばやりにて、斎藤千恵の指圧受けし也。 3:30放尿に起く。猫のためなり(あさの構へす)。(※不詳、不審) 12月14日 ※記載なし。 12月15日 ※記載なし。 12月16日(日) 晴。暖。テレビ見るのみ。何もせず。依子来り泊る。ユ和田統夫に電話すれば「被害なかりし」と。 けふ礼拝にゆかず。Xmas行事はかかさぬときめる。 午后10:35まで中央アジアの未開発高原のテレビ見る。(※NHKスペシャル 「秘境・大崑崙」) 12月17日 晴。寒。6:45放尿に起く。7:50まで柿食ひ乍らテレビ。(※省略) 12月18日 晴。寒。0:15放尿に起く。(※省略) 12月19日 晴。寒。7:10放尿起床。大高名簿(東京中心)作る。大阪の写真来る(福地より3枚)。 12月20日 晴。寒。6:15排尿に起床。21:00までテレビ見る。浜孝より歳暮来る。 「和島岩吉氏逝去」と美ちゃんより(※重複)。22:00近く就床。 12月21日  晴。寒。6:30放尿に起く。9:15また放尿。 (※日記帳補遺記)  西島一興孫斎藤千恵にマッサージしてもらひ気持よし。 12月22日 晴。寒。終日家居。家政婦昼までをり、われはテレビ見つづけ。 喪中欠礼多く受けをり。20:30臥床。24:00就寝。 12月23日(日) (※ 訪問。) 晴。暖。6:00放尿に起く。7:30出て三鷹の教会に赴く。新しく会長となりし松永博士説教さる。夜食に出ず。 菊地(笠原)敦子と3人で喫茶、4千円近くとらる。 帰れば14時にてすぐ中島君来らる。夕食くひて帰りゆく(わが日記写しをり(※不明個所を)よます)。 あすは19:00クリスマスと也。20:30放尿に起く。 ※テレビで有馬記念を一緒に観る。(※オグリキャップ引退レース) 12月24日 晴。寒。2:50放尿に起く。日中無為。18:00出て清水嫗にゆく。老齢にて血圧高しと也。 19:00生誕祭にゆき、すみて階上の集会にゆかず。 帰れば高橋重臣君「熱海へ来ぬか」と。「ゆけず」といへば「家へ来る」と也。 ユ「前にも来し」と楽観す。22:00臥床。6:00排尿に起く。 12月25日 晴。寒。5:40排尿に起きそのままをる。 11:00高橋重臣君千葉寄りの帰りとて来り、わが図書館回想だまって聞き、 木村三四吾君樟蔭大の教授といふ。16:00去り(鈴木嫗昼食して去る)、われ福地邦樹に負けしと思ふ。 ユわが山住先生に約束せし河北病院やめ南側の小医にゆくこととす。21:00すぎ臥床。 (※日記帳補遺記)   雅子、早大の卒業式(※不詳)にと礼装してゆく。背高く美人なり。建の娘来り、われ覚えなく、ユ物云ふ。 12月26日 晴。寒。9:10排尿に起く。13:30昼食了。14:45弓子来る。すぐ去る。 (※省略) 昼食後無為(テレビ見る)。 12月27日 テレビ見、無為にて一日すごす。下井嫗来り午后去る。弓子来りすぐ去る。 20:00夕食すまし臥床。眠ることとす。 (※日記帳補遺記) ユ戸田画伯の送別会にと出てゆく。 12月28日 (※ 訪問。) 晴。寒。20:00臥床。12:20排尿に起く。昼食すまし14:25排尿。ユ戸田画伯にゆく。 (※日記帳補遺記) 中島君、詩もち来る。 12月29日  晴。寒。2:20排尿に起く。21:55就床。 12月30日(日) 礼拝にゆく。副牧師説教。長老4、5人にて知合なし。ユ、清水嫗にゆかず。猫の餌とわが日記買ひくる。 ユ散歩にゆき17:00帰宅。千島帰らぬこととなりさうなり。 12月31日 晴。寒。 2:40排尿に起く。 (※日記帳補遺記) 4:10排尿。8:00起床。10:00山住dr.血圧75と低し。17:00放糞(下痢)。 【平成3年】1991年 1月 1日~1月22日 25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き 1月1日 2:40排尿に起く。(けふ中野清見君より『原始的日本人』来りしをよみ了る) 1月2日  19:30夕食し排尿して就寝。21:00。 1月3日 4:50排尿に起く。13:30昼食すませれば岩崎昭弥より電話あり。 賀状多く来り、人名帳ユ買ふと也。石塚眞弓結婚せしと。鍛冶、山荘以外には未婚なし。 19:00夕食了る。食欲なし。運動不足の為也。 1月4日 5:40起床。寒し。8:00朝食し、昔のalbum見をり。13:00昼食す。転んで腰いためる。(※省略)。 1月5日 吉成一也12:30受洗。5:45排尿に起床。9:15起床、10:00鈴木嫗来る。 11:20まであっち(※)に居りし。俊子姉ら来る。高沢嫗も共にして最後にわが室に来る。 12:00美紀子の運転にて三叉路にゆき我昼食に麺食ふ。(※省略) ユ帰り来り、(※省略)『イエス伝(3,500)』買ひ来る。 安くしてもらひしと也。竹森先生執筆す。21:30就床。2:15排尿に起く。 1月6日(日) 10:45さめユ呼べば、キャシー見に戸田先生へゆきゐしと。 11:30前沢外科へゆきRentgenとられ注射受く。(※省略) 1月7日 5:30排尿に起く。11:00山住dr.にゆき前沢外科休み。 先生のすすめるらしき河北病院にはゆかず。尿悪しと。血圧125-75し。 帰り来りて風邪気味なるに気づく。けふは誰も来ず。ユ戸田先生に寄り住所録買ひにゆかす。 次の礼拝にはゆかず。竹森先生の追悼日には申込おくれ困りしこと也。 1月8日  1:45排尿に起き不眠。(※省略) 1月9日 よべよく寝、8:00起床、12:30出て診療所へゆき注射1本。(※省略)  あすはCassy来ると也。(※省略) あすは仏人massaseに来ると也。20:20就寝。 1月10日 10:30排尿に起く。3:30排尿に起く。7:30同、尿とる。 10:00キャシー別れに来りマッサージすむ。一度帰仏また来る由。 戸田先生お越し、美紀子記念写真とる。 15:00西川英夫より電話「新築出来上らず」と。「会ふなら東京建物へ来い」と。「行けず」と答ふ。 1月11日 ■:05さめ入浴す。あと眠る気なく竹森先生のこと思ふ。(※省略)  ユ昼食ささず画の会にゆく。眞裸のmodelに驚きし由也。(※省略) 1月12日 address book書き朝食し13:20昼食。下井嫗来る(10:00)。 あすは礼拝に竹森先生の追悼会。20人位、平信者の参会許すと也。われは「無理せず」と思ふ。 (※省略) ユのnudo写生聞き、あす早起礼拝にゆくと定む。出浴、就寝。20:00 1月13日(日) 4:30放尿にゆきまた就床。(※省略) 8:30出て礼拝。 副牧師の講読説教、献金500円なく1,000円す。すみて西武8階にゆき(※省略)。 ユに1,000わたして『東京地図帳』買ひ、まっすぐ帰宅。 ユ、小屋より出る貴の里に会釈し会釈せしと。われ佐伯あきゐるに喜び本2冊(900円にしてくれしと)。 1月14日 弓子来り、すしもち来りしを美紀子もともに食ふ。 16:00弓子去り18:30夕食し20:30臥床。(井上恵子より吉野葛1箱来る。) 1月15日 (※ 訪問。) 成人の日の由。昼食までに弓子来り、長男よく次男は悪しと也。帰りしあと9:30高円寺へゆき、 都丸本店にて『近世の大阪(1,500)』買ひ、 支店のあくをまてば、瀬見伊三郎君店をあけ、わが選びし11,000円の本貸し呉る。 帰りは向ふのなじみの自動車に乗り(払ひは都丸につけるらし)帰宅。 14:00中島君来り、昼食ともにし下手な詩見る。いやいや直し才の劣りしをふびんに思ふ。(※転 職後、詩どころではなくなる。) 20:30瀬見伊三郎君寒きなりにて来り、中島君といれちがひとなる。21:30臥床。 1月16日 7:50さめ排尿し、下着かへて8:00となる。年賀ハガキ検し最下等4枚当る。美紀子に〒へゆくことたのむ。 10:00すぎ出て山住dr.。まちて血圧検査85-70と低きのみ。尿検せず。 堀多恵さん『山麓の四季』よむ。わがことは書いてなく可怪。 16:00ユ外科より帰り来り、留守中美紀子この室に来し証拠にbedに毛布ありと。 なるほどわれ気づかざりし也。 televi成熟せる女体を盛んに映しをり。猫盛んに鳴きてユより餌与へらる。 淡谷のり子老いてなほ美人なり(ユ曰く83才と)。21:30放尿就寝。 1月17日 18:00さめ19:30上厠。これかきて就床。 1月18日 8:00起床、朝食すましユ出てゆく(柏井)。 我、佐伯に電話、息子に『性の辞典』取寄せたのむ(定価1,200税込み)。18:25就床。 1月19日 2:30覚め入浴3時間。4:30も一度眠り6:30起床、排尿。 1月20日(日) 7:00起床、(※★省略)  「午后まづ河北病院にゆけ」と也。 堀辰雄2冊doubleをり佐伯に売ることとす。昨日、今年の『歴史手帖』たのみし。 河北病院にて金曜主医師宮浦博士に会へば 「来週水曜午前中淡輪博士に診察受けよ」と約し、錠剤10日分と膀胱炎の薬出され帰来す。 途中佐伯にゆき堀さんの夫人の著書その他にて2,800円払ふ。 梅棹君の解説にて和田先生の遺著中の一冊『On Dayan Khan』なり。 (※省略) 3:00さめ和田清先生の蒙古史検すれど不明。 1月21日 8:00家を出て南診療所にゆけばしめをり。ユも来ず。 9:00ユ来りしもdr.ゐず、この間のdr.でなく待合に入りをれば外の患者よび、やがて我呼び注射をし、 ユには注射せず(ふしぎ)。ユ払ひすまして出、 佐伯にゆきて本(黒川眞頼著)とりよせたのみ『歴史手帖』払ひて帰宅。(※省略) ユ居らぬゆゑ起きてteleviつける。いつも通り2Channel也。「傷害保険契約者ふえゐる」(※省略) 来客あり、「空いてゐるから大丈夫」と史方へゆきし。わが娘の一人なるも誰か不明。 史方へゆけば雅子をり、わが引く讃美歌に共鳴せず。 「かってるならわかる」と犬を呼び小屋へ入れ我に接吻せしむ。これわが戌の第一証也。 『歴史手帖』開きてユの祖、井上河内守正敏が京都所司代たりしはA.D.1758-64の6年間。 老中となり初めは主計頭たりし正就にて1617-28まで。 二度目は大和守たりし正岑にて1709-1722までなり。 私は不肖不適なるも中国戦争に応召(史、依子、弓子の一子二女と悪妻悠紀子をのこして)。 中隊長に面会の時「お名前はかねがね」との挨拶に吃驚。 「のちほど伺ってよくありますか」「よろしいです」の応答に力を得て、 すぐに荒木中隊長を訪へば「東大文学部中国文学科助手の時、拙著『李太白』を読んで感心した」と。 私は「3月10日の下町全滅、聖上も翌見舞れた」ことをあらわに述べたあと忘れられず、 駅(望都)前派遣の情報室勤務を命じられた。 「類は友を呼ぶ」とのことわざにたがはず、すぐきたのは信州(諏訪)出身の小林軍曹で、 これは5千円(※ママ)くれたあと「下士官の不法があれば云って来い」と激励した。 日本の敗戦を知ったのは私が中隊で一等早く、即日手榴弾自殺をした下士官の死骸を見にゆき、 天井に付着した肉片よりも蛔虫の死体に恥ずかしく感じ、 私もそれまでもってゐた亡国自殺の決心をやめ、天命あるまで兵として尽す決心をした。 同意したのは開封より着任の小林軍曹で、初会に「こんな戦争をしたのは汝だ」といって私を撲り、 ついで同じことをいって私に頬を出したので撲った。恐らく私と同じく火花が飛んだらう。 私は引きつづき雑務につき鳩(伝書用)斑に置かれてゐる某から手鏡を掠奪品として土産にもらひ、 大切にしまってゐたが、雑務はいよいよ多く 遂に麦を搗きに指定の地にゆくと牛は碾臼につながれて動かない。 困ってゐると農作帰途の中国夫人が声をかけて牛は動き麦は一応ひき上った。 これに気づき望都縣にゐる中隊長に会ひにゆくと、 日本の無条件降伏を知り意気悄沈してゐたが、私は逆に3月10日の東都の様子を話して安心させた。 とまれ双十節(10月10日)直前のことである。 双十節には大同炭坑に勤務してゐた男女が望都駅に到着し、 ここへ来て安心したと私の与へた加給品のタバコ「新生」を飲み、 ついで「酒をくれ」といふので私は「ダメ」と退散した。 この夜、敵の大兵が撃ちに来たが、私の通報で駅前大隊は長以下みな銃を撃ち、 更に只一門の砲弾を敵本陣の関帝廟に撃ち当て、それが燃え上がると敵は皆退却した。 私に現地除隊の令が出たのはそのすぐあとで、 私は従来上官として色々無理を聞いた西尾上等兵(新聞記者出身と)に水汲み命令を受け 「もういやだ」といふと飛びかかられ(意外だった)て1時間かかる深い井戸水を汲んで来ると 西尾は髭を剃り姿を消した。 翌日私は「報怨以仁」の張り紙を見て喜んで北京行の汽車に乗った。 副官も同車とて大隊の代表たちが見送り、 北京までに大隊本部のある保定を素通りして(列車は止ったが私たちは下りなかった)、 北京の駅につくと大出口はアメリカ軍の大隊が到着したので西口からすごすごと出て、 北京の西方にある某軍の説で一夜その家に泊り、翌日解散した。 私は妻の弟に世話した岡田尚子の家へと翌日訪れると閉じてゐる。 電話すると「門前で待て」との電電公社からの返事であった。 その間に私は新品の長靴一揃へを25両(tael)で売り、新門外の鞋屋で鞋を買った。 大した距離でもないし「裸足」で行ったのであらう。 やがて岡田課長が電電公社から帰宅するが私は平気で屋内に入り(屋は壁をめぐらしてゐた) 「湯をわかしてくれ」とたのみ庭で待つとすぐ湯がわき、 私は先づ下衣についてゐる蚤しらみを全部殺し髭を剃り落した。 その次にやったことは眼鏡屋にゆき「我要眼鏡児」ときき 「你日本人麼(※日本人ですか?)」との問ひに「對了」し答へると、 眼鏡師は階下へゆき数十人の中国人が出て来て 「若没語我們不解了(※しゃべらなきゃわからんな)」と感心した。私はこれで安心したが、 まもなく岡田翁が退社して来られると一家全部(但し私の世話で妻の弟と結婚した長女のことは口に出さず)夕食を出した。 これは旨かった。まもなく(※以下切れ) 岩崎昭弥「生い立ち」の紹介かく。   1月22日 3:00排尿に起き、内の便所に這ひゆく。 松枝天井氏(※ママ。茂夫)和田武司訳注の岩波文庫1890年(※ママ。1990年『陶淵明全集』)在庫見つける。謹呈とあり。 『笑府』よむ。必要部左側に点引く。(※省略) ユ戸田画伯にゆく。仏人のmassageの役来ると也。 (中野清見君帰還して江刈村より■月29日わが留守宅へハガキにて挨拶来る)。 ユMassageのSweden人迎へに駅へと12:30ゆく。 われその間に入浴しユの外人つれざりしに安心。15:00退浴す。 ユ下着を洗ふ。けふは手伝ひも来らぬ日也。19:00news、円高1円98.54株価。 (※以下初場所10日目相撲取組結果) 銀座鳩居堂前は全国一の高価と。多国籍軍捕虜はイラク発表せず。(※省略) 夕食に鯛のサシミ、みな食ふ。日本茶新しきを一盃飲み了る。 「アルスのクラフトチョキよく切れる」ときき了へて放尿。 1月23日(※8月23日と誤記。) 5:00尿でさめ6:00入湯。(※省略) 枕頭の書■診療所へもちゆくときむ。帰り佐伯へ売りにゆくこととす。 televi19:00よりきく。Misail攻撃11:45、arabには4発落ちしも損傷なしと。本整理し、(※省略) 1月24日 2:30さめ入浴す。本もちて礼拝にゆき竹森先生のハイネ好きをいふこととす。ハガキ見つけたし。 6:00朝食とす(ユの説)。2月2日が礼拝とユ説く。われcaféのみpão一片食ひ乍ら、 樗牛(文芸年鑑)「日清戦争義戦論」→弟子樗牛「国家主義」 内村(内村鑑三は多出)「日清戦争の義」「日露戦争非戦論」→アメリカ帝国主義。内村ルツ子の死(1912年) ひとり娘、世界大戦(1917)、アメリカ参戦「内村国家間」(※『文芸年鑑』からの抜き書きか。不詳) 1月25日 建の長女、西沢恵子来る。見覚えなくユはおぼえをり。 夜、共産ロシアでのユダヤ人もしくはFascistと呼ばれる非党員のことわかる(テレビで写す)。 成城の出版物見て建設に募金せしは我のみとわかる (現教師は出さず講師に出すもの間々ありしことわかる)。 1月26日 1月27日(日) 1月28日 1月29日 1月30日 終日家居(ユは買物にゆく)。televi見て「誤算」といふので殺人犯はじめてわかるもおそかりし(※不詳)。 東大久しぶりに野球で立教に勝つ。22:00近くまでteleviでソ連のこと見る。 1月31日  5:20排尿に起く。 平成3年2月1日 2月2日 2月3日(日) 2月4日 2月5日 2月6日 2月7日 2月8日 2月9日 2月10日(日) 2月11日 2月12日 2月13日 2月14日 2月15日 2月16日 (※阿佐谷の清川病院の6人部屋に見舞にゆく。) 2月17日(日) 2月18日 2月19日 2月20日 2月21日 2月22日 2月23日 2月24日(日) 2月25日 2月26日 2月27日 2月28日 平成3年3月1日 3月2日 3月3日(日) 3月4日 3月5日 3月6日 3月7日 3月8日 3月9日 3月10日(日) 3月11日 3月12日 3月13日 3月14日 3月15日 3月16日 3月17日(日) 3月18日 3月19日 3月20日 3月21日 3月22日 3月23日 3月24日(日) 3月25日 3月26日 3月27日 3月28日 3月29日 3月30日 3月31日(日) 平成3年4月1日 4月2日 4月3日 4月4日 4月5日 4月6日 4月7日(日) 4月8日 4月9日 4月10日 4月11日 4月12日 4月13日 4月14日(日) 4月15日~9月22日 21.6cm×15.5cm 「博文館 当用日記」に縦書き 4月15日  晴。暖。19:00夕食了(それまで無為)。(※ここより新しい日記で記述再開。) 4月16日 晴。暖。ユ12:00より画会にゆき16:00帰宅。我昼食にパン食ふ。 ゴルバチョフ来日にて騒がし。18:00夕食すまし21:00就寝。 4月17日 晴。暖。1:30放尿に起く。5:15同上。(※省略) ゴルバチョフ騒ぎどこへゆきしやら。12:00パン昼食。13:45放尿。(※省略) ゴルバチョフ夫人杉並区の医師の家に来り、5分留りて去る。(※省略) 4月18日 晴。暖。3:40放尿に起く。ソ連、ハボマイ、色丹の返還を認めぬ由。(※省略) 10:00斎藤千恵子来りマッサージすます。 『唐代詩集』を寿一氏に贈る(千鶴子(※ママ)、乗杉たづ氏へ招待されしと)。 (※省略) ゴルバチョフ海部首相と会談と。 (※★省略)16:45入浴し、(※省略) 夕刊にテレビ、ゴルバチョフ大統領のシベリア抑留者代表との会見を流す。 4月19日 曇。暖5:20排尿に起く。(※省略)ユ郵便局にて今中会費3000円、東方学会会費出してくれる。(※省略) 4月20日 晴。暖。5:00排尿に起く。(※省略) ユ活動的なり。 我テレビ見、昼食し、お手伝さん(下井嫗)の掃除に礼いふ。 (※省略) 韓国ゴルバチョフと旨くやりし由。 (※省略) 4月21日(日)  (※ 訪問。) 晴。暖。4:30放尿起床。(※省略) 中山晋平作曲の唄流す。 千曲川の源流中野の生れと「波浮の港」より「カチューシャ」などながす。 9:00礼拝にと家を出る。11:00副牧師さん司会にてすみ大清水嫗(※ママ)にゆき喜ばる。13:15帰宅。 昼食すませれば「選挙すませしや」と電話。 ついで「15:00来る」と中島君より電話。中島君『左川ちか詩集』もち来り(※思ひ出訊ね)16:45帰りゆく。 猫ベッドに終始眠りをり21:00就寝。 4月22日 晴。暖。5:15排尿に起く。(※省略) 浪中へ返信かく。 4月23日 晴。暖。1:20放尿に起く。(※省略) ユ風邪とて山住医院へゆく。(※省略) 4月24日 晴。暖。8:25朝食了。(※省略) 平凡社より『都市の詩集』来り、わが詩載す。 4月25日 晴。暖。6:15排尿に起く。8:37同。朝食。 斎藤千鶴(※ママ)来り、我にマッサージ了りてユにもし、12:00となる。 ユのマッサージ13:00了り、わが昼食13:50すます(千鶴、向ひの老女宅へとゆく)。(※省略) テレビ「三国志」やりをり。入浴やめ21:30就寝とする。 4月26日  晴。暖。5:50排尿に起く。(※省略) 4月27日  晴。暖。5:20排尿に起く。(※省略) 4月28日(日)  5:45排尿に起く。(※省略) けふは礼拝にゆかず。弓子来る。(※省略) 4月29日 雨。暖。5:35排尿に起く。(※省略) けふ勲章もらひし者列記、われはなし。10:25就寝。 4月30日  晴。暖。6:45排尿に起床。(※省略)  テレビ見てをれば川久保(※川久保悌郎)河北病院の帰りとて寄る。丹波(※丹波鴻一郎)より便りなし。 (※省略)花井多鶴子より「来る」と。17:00花井夫人来り、茶飲みて去る。(※省略) 平成3年5月1日 晴。暖。5:43排尿に起く。(※省略) 淳一東京本社勤務と。テレビ全国の大温泉の実況をゆるゆると示す。 20:00眠ることとす。(伊藤佐喜雄『日本浪曼派』よみ了る。)21:30就寝。 5月2日 晴。暖。3:20放尿に起く。(※省略)  10:30斎藤千鶴(※ママ)女史来りマッサージ、11:15すむ。 (ユにもマッサージし、昼食して)千鶴女ついで隠居へゆき、(※省略) 5月3日  曇。暖。0:30入浴。老人病人のことテレビ。16:00放尿。20:30夕食了。 5月4日  晴。暖。6:28排尿に起く。(※省略) 5月5日(日)  曇。暖。4:00排尿に起く。(※省略) 9:00礼拝にと出発。13:00帰宅。(※省略) 5月6日  晴。暖。8:00より白秋の歌をきく。(※省略) 18:00山住医院へゆく。(※省略) 5月7日  晴。暖。8:35朝食了。10:20ユ出てゆき、(※省略) 5月8日  晴。暖。8:50起床。津村信夫の著書みなあり。テレビ小一に殺されし父の話やる。 5月9日 ※記事なし。 5月10日 晴。暖。9:00老女(77才)殺されかけ助かりしと。小原容疑者逮捕さる。津村信夫の著書みなあり。(※重複)(※省略) 5月11日 曇。暖。2:10排尿に起く。(※省略) 阿佐谷散歩。 佐伯へゆき『憤死(650)(※高木俊朗)』と『歴史手帖(750)』買ひて帰宅。(※省略) 依子より母の日に新茶来る。(※省略) あす礼拝休むときめ『憤死 (※インパール作戦)』よみつつ20:35となり就寝。 5月12日(日) 晴。暖。5:45起床。排尿。(※省略) 16:00京一家来り、すぐ去る。 われ『憤死』よみつづく。角力となる。千代の富士負ける。(※省略) 5月13日  晴。暖。6:15排尿に起く。7:24朝食。山住医院より11:10帰宅。(※省略) 5月14日  曇。暖。4:45放尿に起く。(※省略) ユ画会へゆく。(※省略) 千代の富士敗し引退。 5月15日 曇。暖。5:15排尿に起く。(※省略) 藤沢桓夫さんをしのぶ会に「老衰欠席」と返事投函。 20:40夕食すませ。、史の方の便所にゆき糞尿出せば電気、史に消さる(20:40記)。 21:00阿部某の遺徳を語り不快。(※NHKニュース・21 「安倍元幹事長死去」) 5月16日 雨。暖。3:00放尿に起く。(※省略) 斎藤千枝子(※ママ)来り、我とユにマッサージす。(※省略) 5月17日 曇。暖。5:00排尿に起く。(※省略) ユ11:30吉祥寺の清水さんにと出てゆく。(※省略) 5月18日 晴。暖。7:00放尿に起床。(※省略) 鴎外の半生テレビで見る。(※省略) テレビ見直し千代の富士90キロの体重にて優勝だめなること判明。(※省略) 5月19日(日) 晴。暖。よべ不眠。(※省略) ユ9:00出て吉祥寺教会の礼拝にゆく。 われ不眠の為ゆかず。605番唱はれしと。(※省略) 5月20日 晴。暖。ユ8:50柏井へ歯の治療にゆく。 (※省略)山本治雄より文甲で会やれば乙より3名、甲無人なりしとハガキ。(※省略) 5月21日 曇。暖。5:30排尿に起く。(※省略) ユ17:00柏井へ歯の治療にゆく。われ角力をテレビにて見る。(※省略) 5月22日 曇。暖。5:00排尿に起く。(※省略) ガンジー首相(娘なり)暗殺さるとテレビ。(※省略) ユ吉祥寺の清水嫗にゆき、われ昼食。(※省略) 5月23日 曇。暖。2:10排尿に起く。(※省略) ユ、教会の婦人会にゆく。(※省略) 14:15斎藤千鶴(※ママ)来りマッサージ、千鶴子去り16:40 (※省略) 5月24日 晴。暖。7:17排尿起床。(※省略) 16:50山住女医の診察受ける。異状なく低血圧也。(※省略) 5月25日 晴。暖。3:00放尿に起く。10:00下井嫗来る。(※省略) 5月26日(日) 晴。暖。5:00放尿に起く。山本治雄へ返事かく。(※省略) テレビ角力終る。(※省略) けふ礼拝にゆく。 5月27日 雨。暖。2:30排尿に起く。(※省略) 美紀子外出。犬、小屋にをり。(※省略) 5月28日 曇。暖。4:50排尿に起く。(※省略) 5月29日 曇。暖。3:40放尿に起く。猫一匹ユと眠りをり。(※省略)  9:10手伝さん来り、ユ柏井へゆく。(美紀子北海道へ旅行) 下井嫗0:29退出、(※省略) けふ成城大学より民俗学の書2冊来る。 5月30日 晴。暖。14:30斎藤千鶴(※ママ)来りマッサージす。 明大替玉受験(※なべやかん)で大騒ぎ。温泉岳(※雲仙岳)噴火壮んなり。(※省略) 5月31日 曇。暖。5:10排尿に起く。(※省略)10:30出て散髪。(ユ柏井へゆく。)(※省略) 12:00ユ、清水嫗へゆく。(※省略) 平成3年6月1日 (※ 訪問。) 雨。暖。8:32排尿に起く。9:20朝食すむ。11:20放尿。 14:00中島君来り、話さず、詩も見せず。16:00ユの出せし飯食って去る。(※転職後、疲弊 の極にあり。) われ20:40臥床。24:20放尿に起く。 6月2日(日) 曇。暖。6:00放尿に起く。(※省略) 9:00前出て礼拝にゆく。0:22帰宅。汗みづくなり。(※省略) 6月3日 雨。寒。4:10放尿に起く。(※省略)10:00ユ柏井へ歯の治療に出てゆく。(※省略) 6月4日 曇。暖。5:56放尿に起く。(※省略) 平凡社より掲載料5千円来る。(※省略) 島原で熔岩流に死者数十名出しと也。(※省略) 6月5日 晴。暖。1:45放尿に起く。(※省略) 6月6日 晴。暖。6:30放尿に起床。(※省略) 11:30山住女医にゆき診察受け12:00帰宅。(※省略) 6月7日 曇。暖。1:15放尿に起く。(※省略) 下井嫗来る。(※省略) 6月8日 晴。暑。18:15排尿。(※省略) 6月9日(日) 晴。暖。5:00排尿に起く。7:30排便。8:00出て礼拝にゆく。長老たち見えず副牧師と牧師さんとあり。 11:00礼拝すみ西武デパートでユ、猫の魚買ひ帰宅。 けふ暑し。12:00帰着、猫犬をり。(※省略) 温泉岳また熔岩流せしむ(※ママ) ユ、胃わるきらし。20:50温泉岳の被害ひと段落か。われ眠くなる。22:10臥床。 6月10日 晴。暖。1:10放尿に起床。韓国学生、政府反対の暴動を起し、これに応ずる者多しとテレビ。(※省略) 小林弓子来り、本もち来りすぐ帰る。17:00ユ買物にゆく。18:55夕食了。22:00就寝。 6月11日 曇。暖。2:45排尿に起く。(※省略) (ディック・ミネ死す)(※省略) 16:30諏訪の次男来り、ユ駅まで送り出す。(※省略) 6月12日 晴。暖。6:45排尿に起く。(※省略)  諏訪の次男望、入谷へゆくとて寄りをり。斎藤千枝子(※ママ)のマッサージすみて日課了る。(※省略) 6月13日 曇。暑。2:40放尿に起床。(※省略) 6月14日 晴。暖。空梅雨にて無為。温泉岳の噴火つづくも空中より見るのみにて被殺者なくなる。21:00就寝。 6月15日 曇。暖。3:35放尿。雨降りをり。(※省略) 下井嫗来る。(※省略) 島原の噴火は止まざるらし。(※省略) 6月16日(日) 雨。暖。3:35排尿に起く。(※省略) 8:30出る。礼拝一番前、副牧師さん説教。斎藤牧師最後に一言。 買物してユと阿佐谷にてはぐれて帰宅。12:05。 川久保訪ぬれば不在。帰るを待ちて古本屋に売れといひ、 山本(※書店)の息子来るといひて■ユより電話ありしと。 早速立ちて17:05帰宅。19:25夕食了。21:15放尿就寝。 6月17日 曇。暖。2:40放尿に起く。(※省略) 6月18日 晴。暖。5:00放尿に起く。(※省略) 11:30山住医院、診察受け睡眠薬もらふ。 20:00夕食し、21:00放尿就寝。 6月19日 曇。暖。5:10放尿に起く。(※省略) 17:00京来りしを喜ぶ。(※省略) 6月20日 曇。暖。2:50放尿に起く。北京天津のことしきりに思ひ出す。(※省略) 6月21日 雨。暖。2:40放尿に起く。よべ不眠。(※省略) 15:00弓子来る。(※省略) 6月22日 ※記述なし。 6月23日(日) 曇。暖。6:40排尿に起く。7:40朝食。近畿地方梅雨と。 東京中華学校(四谷にありと)をテレビで見す。21:20臥床。 6月24日 雨。暖。4:55放尿に起く。(※省略) 6月25日  雨。暖。無為。人も来ず。 6月26日 曇。暖。6:00起床。(※省略) あす18:00より新宿京王プラザホテル42階(タカオ)にて宮崎学長の送別会、ユつれてゆくこととす。 6月27日 晴。暖。6:05起床。(※省略) 17:00家を出てユの案内にて成城の会にゆく。 薄酒のみ開会、山田俊雄君学長になり理事長と了解すむ。中座してユ掴へ、地下鉄南阿佐谷。 暗がりで山住女医に会ふ。猫覚えをり。 6月28日 晴。暖。8:00起床。(※省略) 山住女医にゆき薬もらひ、払ひすます。 6月29日 ※記述なし。 6月30日(日) 晴。暑。礼拝にゆく。わが訳曲600のみ歌はれ、斎藤牧師、長老を全部前列に坐らしめず。 竹森先生とは異りし也。 平成3年7月1日 欠記載。疲れし也。(ユの入院にて)。 7月2日 曇。暖。6:00起床。排尿。史一家そろひて起きをり。寒ければまたベッドに入り9:50朝食了る。 鈴木嫗来をり。毒ダミにて妻殺せし男テレビに出をり。 「こころの歌」歌ひをり。ユ税務署にゆき、われ排便(10:55)。夕食すまし入浴し22:00就床。。 7月3日 曇。暖。9:25朝食了る。成城の山田学長にゆくつもりなりしも止める。9:30排便。腹痛止る。 7月4日  雨。暖。 3:30放尿に起く。 7月5日  曇。雨。13:19排尿に起く。21:00就寝。 7月6日  雨。暖。 6:30放尿に起く。 7月7日(日) 晴。暖。7:38朝食すむ。9:00出て礼拝にゆく。けふは斎藤牧師司会。満員なり。 11:00すみ西武にて中元ユ買ひ、清水嫗にゆく。涼しき室に入り話つづく。14:15帰宅。 (昼食は清水嫗にもらひし菓子也)。 7月8日 晴。暖。2:00排尿に起く。(※省略) 南方熊楠全集よみ出す。(※省略) 7月9日 晴。暖。6:40放尿に起く。8:10朝食了。 斎藤千鶴(※ママ)女史来り、マッサージ12:50までやり呉る。(※省略) 7月10日 曇。暖。2:55排尿に起く。(※省略) 瀬見伊三郎氏来り、ユより丸善記念本もってきてくれと云ふ。 夫婦二人にて昼食し、15:00よりテレビにて角力見る。(※省略) (ユ丸善の本(※『丸善100年史』)に柏井祖父の名なきゆゑ返却となり)。 7月11日 曇。暖。7:00放尿に起く。13:20昼食了。高円寺の瀬見書店(※都丸書店)へ行けば不在。 (孫女既に来あり)。清算せずして帰宅。 (ユ、山住医師にゆき、見はなされて入院す)。 7月12日 曇。暖。4:45排尿に起く。猫、食物なく困りをり。犬も起きをり。史一家眠る。 10:00史出しあと美紀子来り「さっき見舞ったが、も一度ゆく。その時誘ふ」と也。 寿司くひ呆然と過し21:00就床。 7月13日 曇。暖。5:00起く。7:10排尿。8:30朝食(美紀子用意)。 弓子の昼食後、バナナもちユ見舞と。病院へつれゆけば、ユ元気になりをり「9日退院」と。 史も来りし也。すし買ひて帰宅。弓子にもわけ18:00帰りゆく。 われテレビ見て機嫌よし(あす礼拝休みときめる)。 夜、大阪の教へ子より電話、既婚と。「来って泊れ」といふ。仙台の教へ子よりも贈物あり。 7月14日(日) 2:40放尿に起く。(※省略) 礼拝休む。10:30排便。 ユ見舞はんと外出、散髪してゆけば日曜とて4階への登りむつかしく遠回りしてゆけばユ、元気なり。 あと九日位入院とのことに看護婦にききてエレベーターにて出、出口見つけ、すし買って帰宅。 18:30夕食にすし食ひ(昼食不明)満腹。 7月15日 曇。暖。3:40排尿に起く。中山正善の子の妻は藤沢氏とわかる。(※省略) ユ見舞にゆかんとすれば、美紀子「午前中はダメ」と叱る。 昼食前、マッサージに寿一の孫(※ママ)来り、ユの入院いへば見舞にゆきしらし。 14:00昼食すまし美紀子と河北病院605号室にゆけばユ、手術前と。 山住医院の長身の美人来をり(実習にと)。 美紀子いろいろ世話してくれる。16:00帰宅。台湾のことよむ20:00就寝。 7月16日 曇。暖。1:40放尿に起く。(※省略) 鈴木嫗来る。昼食しテレビ見、台湾の本よみ、 美紀子にユの見舞たのめばすぐにはきかず。 看護の女、既婚、二児の母と(山住医師と河北の二ヶ所で働く也)。 16:00帰宅の美紀子に「17:00ゆけ」といへば、増築のため人呼びをり中々ゆかず 「自転車に乗れば5分」と。その通りして帰り来る。われ夕食し22:00就寝。 7月17日 曇。暖。6:50起床放尿。美紀子も起きて来る。弓子来りし故、誘ひてユ見舞に通院。(※省略) ユはよべ眠らざりしと弱りをり。もちゆきし菓子を同室の孫女にゆれば喜ぶ。 ユ注射にてやや元気になりし故、弓子と出て帰宅。 弓子のあと斎藤千寿子(※ママ)ゆきしらしく美紀子はゆく気なし。 われ湯に入り弓子帰りゆく。史帰り来り、犬つれて出しに安心してテレビ見、20:20就寝。 7月18日 曇。寒。7:00前、起床放尿。美紀子まてば12:00まで動かず。 ゆきてユのやや物いふに安心し、京の来しに任せてわれ放尿にゆき、別室に逃げなどす。 やっと美紀子来しに出て、途中国鉄にてわれのみ高円寺へゆけば一部のみあけをり。 『日韓民族の原型』といふをとりて500円といふに、(※省略) 帰れば村田幸三郎よりハガキ。「御不自由なれど嫁や孫使へるだらう云々と。村山さんの入院、但し心配いらず」と。(※省略) 7月19日 曇。暖。諏訪依子来り、午后ユ見舞にゆく。眠りあかす。物云はず。 大来れば挨拶す。美紀子のこし大をわが家へ呼べば史と酒のみ21:00去る。 7月20日 曇。暖。4:30排尿に起く。隣室に依子眠りをり。 7:00再びさめ依子のわかせし湯に入り入り7:30出て8:30朝食うまし。 梅田恵以子に歌集の受取かく。10:30雨となる。 12:00出て河北病院、6階の二人病棟へゆく。ユ大分元気になりをり。 15:00孫女2人来り、美紀子に代りたのまんと帰宅。 19:20夕食了。ユのこと心配にてあすつもり礼拝にゆく也。 7月21日(日) 曇。暖。1:18放尿に起く。(※省略) 依子ユに会って(※名古屋へ)帰宅と。 礼拝休む。依子つれて河北病院にゆけば、入口は臨時と。ゆきて娘4人(※ママ)みなそろふ。 ユ、我を京のところへやるつもりなり。(※省略) 7月22日 曇。暑。0:22放尿に起く。(※省略) 10:00山住先生へゆけば満員。美紀子薬もらひ呉れ一旦帰宅。 11:00河北病院に悠紀子見舞へば元気也。13:25。美紀子と帰宅。(※省略) 7月23日 曇。暑。3:10排尿に起く。6:00起床。カステラ朝食として食ふ。 美紀子「弓子来るにつき待て」と。8:00也。弓子来り、ともに河北へゆけばユ、大分あふことわかりし様なり。 (※省略) 弓子、美紀子と話して三鷹へと帰る。あとは京まかせ也。(※省略) 7月24日 晴。暖。3:45放尿に起く。7:00淳一「519だね」(※病室)と出てゆく。 7:53美紀子、扇風機動かし呉る。9:20入浴すむ。鈴木嫗来る。(※省略) 11:45河北病院へゆく。、ユの容体良からず。美紀子かまはず「帰宅」といひ、ともに帰宅。 17:30夕食しテレビにて「三国志演義」見る。益州の攻略なり。21:10就寝。 7月25日 曇。暑。3:20放尿に起く。(※省略) 11:10マッサージすむ。暑し。猫、史方へゆきつく。 (※河北病院見舞して)14:25帰宅。入浴すます。 (成城大学名誉教授高田をはじめ多く死にしこと名簿来りてわかる)。 17:00本日了る。(夕食は食欲なきも美紀子に叱らる)。 7月26日 晴。暑。8:30起床。AIDSにつはテレビ米国に限らずと憤る。 9:49入浴すまし河北へユ見舞にゆくこととす(1,000円美紀子にもらふ)。 ユより「午後来い」と電話ありしと(※ママ)。 (※省略) 13:00暁子と河北病院へゆく。一時別室に安置されやや涼し。 依子来り、ともに出て15:20帰宅。(※省略) 7月27日 曇。暑。7:50起床。放尿す。依子も猫も起きをり。(※省略)  9:00史夫婦旅行にゆく。 依子来りしにつれて河北病院にゆけば ユ、特別室にをり「飲食を与へられず」と。(※省略) (寿一夫婦、ユを見舞しと依子の話)。 7月28日(日) (※ 訪問。) 曇。暖。天長節といはず。(※省略) 礼拝欠席。(※省略) 依子と河北病院にゆけば弓子と京と来をり。 ユ、わがままにしてをり旧の(※二人部屋の)病室へゆけば同室退院と。羨し。 13:00帰宅(途中パンなど買ってくれしき依子)。 中島君14:00来り、夕食して帰りゆく(18:00)。 19:20われ入浴し眠らんとす。(あかねや渡辺登美子生より暑中見舞い、未婚なるらし)21:10就寝。 7月29日 曇。暑。4:15排尿に起く。(※省略) けふは暑し。史の一家無人。依子一人となる。 村田幸三郎と光江香代子(妊娠中と)とに悠紀子入院を告ぐ。 依子病院にゆけばユ503号室に移り水飲んでよくなりしと(17:20也)。 史夫婦16:00帰宅。21:20入浴すませ就床。 7月30日 小雨。暖。7:00みな起きる。(※省略) 美紀子と相談、河北病院にゆくこととす。 14:00帰宅。昼食し、あとテレビ。(※省略) 21:00就寝(史、犬の散歩にゆき、われの飯くふを待ちし也)。 7月31日 曇。暑。3:00放尿に起く。(※省略) 午后まで病院にゆくなと美紀子のいひつけ。 9:30テレビ見て小憩。村田幸三郎より電話「その内来れ」といふ。 (※省略 病院より)14:00美紀子と帰宅。氷コーヒー飲む。 17:00山住医院にゆけば休診。(※省略) けふにて娘たち不在となる。21:00就寝。 平成3年8月1日 曇。暑。2:00放尿に起く。(※省略) 山住女医にゆけば血圧115-75とやや高し。(※省略) 鈴木嫗のもち来し菓子食ひ「土曜ユの見舞にゆく」といふに、やむを得ずつれて河北病院にゆき、 6人同室の手前のユ見れば大分よくなりをり。 雷雨して美紀子来ぬ内、雨止みを見て寿一の娘逃げ、悠紀子われにものいはず、美紀子来りしを待ち帰宅。 猫も犬も喜ぶ。夜食美紀子食はし、話の途中にげゆく。22:50就寝。 8月2日 曇。温。5:20排尿。(※省略) 19:00京病院より「ユ心配いらず(※来るな)」と電話し来り、史、美紀子も帰宅。われのみ鬱なりし也。 20:00夕食了。21:50就寝。 8月3日 晴。暑。5:50起床。(※省略) 10:00下井嫗来り、われ散髪、帰宅、パン食ひ下井嫗と病院へゆく。 孫来り(史の末の娘)、われと嫗と帰宅。美紀子いれちがひに病院へゆく。 後藤均平君より『采微堂雑文』贈らる。植村先生に教はりし也と。(※省略) 8月4日(日) 晴。暖。2:40放尿に起く。 後藤均平君の『采微堂雑文』よみ植村清二先生を偲ぶ。われは最終の弟子なりしなり。 礼拝に美紀子同行を申出しもその元気なし。(※省略) 孫にきけばユ、われの去りしあと5階を引き廻されしと。退院近きかと思ふ。 その節は共に吉祥寺教会の礼拝にゆかん。(※省略) 8月5日 曇。暖。6:05排尿に起く。(※省略)  後藤均平氏へ礼のハガキかく。藤野一雄君へもハガキ。 9:00京ともに悠紀子の室へゆく。直ぐに高沢の未亡人、俊子姉来る。 帰りしあと京と出てすし買ひて帰宅。(※省略) 8月6日 曇。寒。4:30放尿に起く。猫二匹をり。美紀子出て来ずわれゆけば京をり。 ユ大分ものいふも聞えしは京わかる。(※省略) あとたのみて帰宅。 村田よりわがハガキ見て「意外な悠紀子の入院、但し嫁や娘来をらん」と。その通りなれど。(※省略) 金容雲『日韓民族の原型』にて韓国人は弥勒信仰と也。日本人の阿弥陀を拝むと違ふ由。 8月7日 曇。雨。7:08放尿に起く。(※省略) 10:00山住医院へゆく。待つ必要なし。 美紀子河北へ同行しくれると。12:00前病院へ着き605号室へゆけば喜びて色々語り、大分快き様也。 出てわれのみ高円寺へゆけば古本屋休みなり。仕方なく歩いて帰宅。(※省略) 8月8日 曇。寒。2:35放尿に起く。(※省略) 11:00千恵来りマッサージ。 すみて美紀子とともにユ見舞にゆく。やや食欲ありと。退院の見込つかず、 地下までエレヴェーターに下りしのみにて見舞帰宅。(※省略) 〒『日本歌人』 8月9日 雨。寒。1:50排尿に起く。6:00同。長崎原爆の日と。(※省略) 13:00鈴木嫗とユ見舞にゆく。ややに宜しきらしく散歩ゆるされ病院外にゆく。 鈴木嫗アイスクリーム買ひくれ、ユ暑しと也。病室に帰りわれと鈴木嫗と帰宅。 けふ伊藤徳より「淡路に帰郷せし」と。(※省略) 〒伊藤徳、『アンドロメダ263』 8月10日 曇。暖。6:15放尿に起く。9:00朝食了。下井嫗来り14:00前帰りゆく(ユ見舞しと)。(※省略) われ京の姑来るとて待つ。稲田夫人、我に挨拶せず早々と帰る。 京の女子、我につき来し故500やれば喜ぶ。ユ大分よくなりしも我に喜ばず。 早々出てテレビ、高校野球見る。 美紀子夕食用意し、史の帰るを見て逃げる。猫二匹我につく。あす礼拝にゆくこととす。 8月11日(日) 曇。寒。7:28起床。(※省略) 9:20出て吉祥寺教会、第一列に恐れ入る。 けふは斎藤先生の講話にして簡にしてよくわかる。 11:30すみ案内して大清水さんへゆく(土産に大坂ずし買ふ)。 13:00出てjrにて阿佐谷、ユ見舞にゆけば機嫌よし。先に出て帰宅。(※省略) 8月12日 4:10放尿に起く。(※省略) 鈴木嫗来る。日焼けしてまっ黒なり。(※省略) 14:00(※河北病院より)京の車にて帰宅。美紀子に「依子泊る」を云ひてくれる。(※省略) 〒鈴木利子(増田晃妻) 8月13日 曇。暑。2:30排尿に起く。依子覚め美紀子は2階にてわからず。 依子「母に会ひし」といひて名古屋へ帰りゆく。 美紀子と河北病院へ午后1時半ゆき、われ一人にてユと対談。大分よくなりし也。 16:00前帰ることとし山の本売る店あきゐるゆゑ『楼蘭古城にたたずむ(1,200)』を買ひて帰宅。 羽田が近くにゐれば長沢和俊の本物か否かきけると思ふ。 19:30美紀子夕食食はして呉る。「猫は(※こちらで)飼ひゐる」とわれが与へし魚を不満気なり。 8月14日 曇。暖。8:45起床排尿。(※省略) 美紀子「午后、ユ見舞ふ。長居するな」と。(※省略) 我ひとりで病院へゆけばユ好調。15:00美紀子来り、いろいろやるを見て我出てすしを買ひ18:00帰宅。 (※省略) テレビ面白く、ユ早く帰宅すればと思ふ。〒鈴木利子。 8月15日 46年目の戦争記念日。晴。暖。6:20起床排尿。犬猫起きをり。(※省略) 斎藤千鶴子(※ママ)マッサージ。昼食すまし病院(美紀子帰宅)、 ユ機嫌よく殆ど全快の調子。喜びて15:00帰宅。 千鶴子ピアノ弾き16:00までをり「来週また」と去る。(※省略) 17:00京と孫と来り、病院へとゆく。(※省略) 中国の「黄河号」覚醒剤多量もちて入港と。 昭和天皇開戦ニ反対ナリシト、旧枢密院議長イフ。 8月16日 晴。暖。2:46排尿に起く。(※省略) 11:00すぎまでいらいらして鈴木利子夫人へハガキかく。 (美紀子病院へゆき、京母子もゆきをる筈也)13:35帰宅。(※省略) 8月17日 曇。暖。8:30朝食了。(※省略) 13:00雅子と病院へゆけば美紀子をり。 和田統夫の妻をり統夫も来しと。14:00大つれて帰宅。 夕刊に「芳賀檀15日軽井沢の病院で急性心不全のため死去。88才、『古典の親衛隊』が主著」と。 (10:20鈴木利子来る)。 8月18日(日) (※ 訪問。) 晴。暑。5:25起床排尿。朝食8:20、礼拝に出発9:00。美紀子来ず。 月額献金(2,000)とわが参会費とユの分と合せて二千円す。 帰りユにゆけばいい顔せず、美紀子の来るを待つと。 12:30美紀子来り、我より何万円を取る。 13:00中島君より「15:00来て好きか」と也。「来い」と答ふ。(※省略) 中島君15:00来り、夕食早く食ひて去る。詩見せず。 8月19日 1:15放尿に起く。8:10朝食すむ。10:30鈴木嫗来る。(※省略) 12:00鈴木嫗と病院、ユ大分快くなりしらし。(※省略) ゴルバチョフ辞任、核軍縮その他決定、ソ連に各国協力と也。(※省略) 8月20日 雨。暖。2:15放尿に起床。5:25同。猫も覚めをり。 ソ連のゴルバチョフやめヤナーエフ副大統領後任となる。 8:00腹痛下痢す。弓子来り、病院の帰りと。17:00までをる。 19:00夕食すむ。面倒なれば就床す。〒受信増田晃夫人、〒発信村山高夫人。 8月21日 曇。温。7:10排尿に起床。(史、新聞もち来る)。 10:10山住医師へゆく。血圧115-75、ユの好調も知りをらる。 (※省略 病院より)13:15鈴木嫗と帰宅。雨降りをり。(※省略) われ留守番して美紀子ユ見舞にゆく。19:00帰り「ほぼ瘉りし」と。われと同じ見方なり。 8月22日 曇。暖。5:20排尿に起く。けふは成城へゆかずと決定。(※省略) 12:00ユ見舞にゆき帰り高円寺へ出(斎藤千鶴と同行)、 瀬見で夫人より本買ひ(千鶴も買ふ)、一旦我家へ着き美紀子の旅行より帰るをまち、 千鶴をユにゆかす(ユの足細きにおどろく)。 16:30戸田画伯、北海道より電話、ユの入院知らざる也。 8月23日  曇。暖。〒発信羽田夫人へ。 8月24日 曇。暖。6:56起床排尿。8:40朝食に握り飯。10:30鈴木嫗来り、わが昼食は美紀子作ると。 そのあとユ見舞にゆく。鈴木嫗と帰宅。2千円渡す。村山高氏より通院つづけると。能勢正元死にしと。 8月25日(日) 晴。暖。9:00起床排尿。朝食すむ。礼拝休む。11:00ユ見舞。食欲あり元気也。 12:20美紀子来り、われすし買って帰宅。12:35昼食す。すし猫に与へしに顧みず22:00就寝。 8月26日 晴。暖。5:00起床。テレビ見る。(※省略)9:00出て病院にユ見舞ふ。 よべもよく眠れず食欲も少しと也。13:00美紀子来らぬ故、帰宅。(※省略) 17:00京来り、病院へゆく。(※省略)  福地(※邦樹)より『柵』9月号来り、自己の詩を巻頭にのす。好き詩なし。 8月27日 晴。暖。9:00朝食。(※省略) 美紀子ユへとゆく(われそのあと)。9:35排便。 依子、名古屋より来り、病院にゆく。13:00ユ見舞にゆく。次第に好調の様子なり。 (※省略) テレビ、スポーツを報じ百米九秒台となる(※カールルイス)。 依子『軍歌大全集』呉る。 8月28日 曇。気温中。7:30朝食にパン食ふ。依子と美紀子病院に呼ばれゐると。 我もゆけばユ、大分元気なり。(すし屋休みにて昼食なし) 帰りて美紀子に昼食と夕食もらひ20:00就寝。〒受信羽田鈴子夫人。 8月29日 曇。暖。6:00起床。排尿。猫をり。8:00朝食9:25了。 8月30日  晴。暑。9:25朝食了。(野菜の炒め)。 8月31日 雨。温。8:40朝食了。わが八十才の誕生日也。9:30排便。散髪にゆき(1,900)、 すし(390)買ひてユ見舞へば一向に喜ばず。0:30帰宅。猫犬見て休息。 平成3年9月1日(日) 晴。暖。8:30起床。美紀子、末娘をよこし礼拝にゆけと。仰せに従ひ吉祥寺教会へゆけば4列目にてよし。 斎藤牧師の司会にてこれもありがたく2:00前にすみ、勇みて阿佐谷へ帰り、 ユ見舞へば機嫌よく(※隣床の)鈴木夫人にも笑はれて帰宅。 中山正子より中元来り礼状かく。太陽堂のあとつぎ也。 テレビにて至れり尽くせりの司会(※番組不詳)しをるを見て半日すごし夜となる。 9月2日 晴。暖。よべ不眠。美紀子に云へば「山住先生にゆけ」と、「金なし」といへば千円貸しくる。 老人ばかりの先生にゆき(※省略) 血圧115-75。(※省略) 10:00出て(※河北病院へ)通院すれば(※省略)歩行出来るやうになりしと。 待合室まで歩く。金のことは「心配いらず」と也。1:30帰宅。 美紀子「入浴しろ」と。「ハイ」といひ、その気なし。今日家政婦来らず。不眠にて甘いもののみ食ふ。 9月3日 5:00排尿に起床。犬にかまひ家の四囲を一周す。 9月4日 ※記述なし。 9月5日 晴。涼。8:25朝食了。犬とたはむる。羽田夫人に近況報ず。11:00出てユ見舞ふ。 もう一人歩き出来るやう、なりをり。安心して13:05帰宅。 (マッサージせし西島寿一の娘は他の病院へとゆきマッサージ代とらず)。 美紀子出てゆき留守番し、郵便箱見などす。8:00夕食とり日記かく。(※省略) 9月6日 晴。暑。8:54朝食すみ、またまた羽田鈴子夫人に見舞かく。 美紀子投函やめよといひてこれに従ふ。 10:30出てユにゆけば一人歩きできるやうなりをり。喜びてすし買ひて帰宅。 すし半ば食ふ。山住先生よりもらひし薬を食後に服膺、「世界名曲」ききて21:20臥床。 9月7日 晴。暖。5:69(※ママ)放尿に起床。ユ見舞ふ。明日退院と。喜びて帰宅。 すし買ひ来しを食ふ。15:30放尿。美紀子ら不在。猫犬をり。 20:30阿佐谷教会に変ることとす。 9月8日(日) 雨。暖。8:25排便。痛し。美紀子と吉祥寺教会。前奏前にて4列目。(※省略) 吉祥寺駅よりユの病棟へゆく。暑し。12:08昼食さしてもらふ。0:40昼食了。13:00帰宅。 〒受信村田幸三郎。 9月9日 曇。暖。6:39排尿に起床。8:55同。ユ病院に見舞。異状なき故喜びて帰宅。 9月10日 ※記述なし。 9月11日 ※記述なし。 9月12日 ※記述なし。 9月13日 ※記述なし。 9月14日 雨。暖。9:00起され9:50朝食すまさる。ユにゆかんとすれば「早すぎる」と。 9月15日(日)  ※記述なし。 9月16日 (※ 訪問。) 曇。暖。8:00起床。朝食しユ見舞ふ。元気なり。 すぐ帰宅し呆然としをれば昼食後、弟子来り、インドへゆくと。 (※中嶋 9/20退社、ネパール・タイに遊ぶ(10/2~11/13)。) 引き止め得ず、わが体験語る。ユ見舞ひにゆくと出てゆく。 夕食前、孫の美人なるを初めて知る(史、喜ばず)。 18:00角力了りテレビやめ排尿し、ユ帰宅せざるを知る。案外なり。 (※別ページに) 史の娘、背高く美しに気付く。 (わが唯一人の弟子インドへゆくと別れに来る。)これもユにゆきしあと、 われ一人となりをれば、美紀子喜びて相手にせず。「それ見たか」との語調にて夕食作り西瓜くはす。 9月17日 ※記述なし。 9月18日 曇。暖。9:00起き排尿。朝食美紀子せし次にしてくれ、猫にやりしも食べず。10:00弓子来り、美紀子と話す。 「下部嫗(※ママ。下井嫗)来ればユにゆく」となる。 9月19日 雨。寒。7:25排尿に起き下着かへらる(美紀子の命令)。 8:30放尿放便。下井嫗来り、仕事すまし、ともにユにゆく。 一向に面白きことなく帰来(金はユ払ひしか)。日中角力のテレビ見しと雑本よみしのみ。 キャティさんよりたより来るも姓なく住所シドニーとのみ。 9月20日 雨。寒。6:00覚め7:00朝食、排便、着がへる。美紀子山住先生につれゆく。ユの見舞に下井嫗とゆく。 9月21日 晴。暖。 7:20排便。美紀子起き着替へさす(7:47)。下井嫗来るをまちユにゆかん。8:43美紀子髭そってくれる。 ユより電話「10:00すぎまで面会できず」と。元より承知也。10:00通院、ユ益々宜しき也。あと無為。 9月22日(日) (※ 最後の記述) 曇。雨。礼拝にゆく気持なく10:00まで臥床。美紀子飯くはしくる。他に来客なく(弓子来しか)、 濠洲シドニーよりベティさんのたより来る(※ママ。重複)。無為に日をすごし21:30臥床。 〒受信:ベティさん。〒発信:無為。 9月23日 ※以下記述なし。 9月24日 9月25日 9月26日 9月27日 9月28日 9月29日(日) 9月30日 平成3年10月1日 10月2日 10月3日 10月4日 10月5日 10月6日(日) 10月7日 10月8日 10月9日 10月10日 10月11日 10月12日 10月13日(日) 10月14日 10月15日 10月16日 10月17日 10月18日 10月19日 10月20日(日) 10月21日 10月22日 10月23日 10月24日 10月25日 10月26日 10月27日(日) 10月28日 10月29日 10月30日 10月31日 平成3年11月1日 11月2日 11月3日(日) 11月4日 11月5日 11月6日 11月7日 11月8日 11月9日 11月10日(日) 11月11日 11月12日 11月13日 11月14日 11月15日 11月16日 11月17日(日) (※生前最後の訪問となる。ネパール・タイ旅行(10/2~11/13)帰還後の挨拶。夫人の憔悴ぶりに不審を抱く。) 11月18日 11月19日 11月20日 11月21日 11月22日 11月23日 11月24日(日) 11月25日 11月26日 11月27日 11月28日 11月29日 11月30日 平成3年12月1日(日) 12月2日 12月3日 12月4日 12月5日 12月6日 12月7日 12月8日(日) 12月9日 12月10日 12月11日 12月12日 12月13日 12月14日 12月15日(日) 12月16日 12月17日 12月18日 12月19日 12月20日 12月21日 12月22日(日) 12月23日 12月24日 12月25日 12月26日 12月27日 12月28日 12月29日(日) 12月30日 12月31日 【平成4年】1992年 1月1日 1月2日 1月3日 1月4日 1月5日(日) 1月6日 1月7日 1月8日 1月9日 1月10日 1月11日 1月12日(日) 1月13日 1月14日 (※病状急変と連絡を受け八王子の多摩病院に見舞。1/12までは小康と。) ※この日の中嶋康博のメモ「意識を失ひかけた先生、私のことを認めて下さった。」 12月に来訪の予告の電話で風邪にて入院と聞く。その後一週間おきに電話するも回復を待って来てほしい旨を美紀子さんから聞き、見舞にゆけずこの日連絡を受け急行した。 1月15日 (※1:24逝去。PM阿佐谷へ弔問。) 1月16日 (※前夜祭。) 1月17日 (※日本基督教団阿佐谷教会にて告別式。鈴木利子、小高根太郎、新藤千恵、鈴木亨氏らと挨拶。15:30火葬場にも同行、16:30散会) 1月18日 1月19日(日) 1月20日 1月21日 1月22日 1月23日 1月24日 1月25日 (※悠紀子夫人の絶筆と思はれる書簡の下書きあり、後日御遺族より頂いたので掲げます。) 1月26日(日) 1月27日 1月28日 1月29日 1月30日 1月31日 平成4年2月1日 2月2日(日) 2月3日 2月4日 2月5日 2月6日 2月7日 2月8日 2月9日(日) 2月10日 2月11日 2月12日 2月13日 2月14日 2月15日 (※形見分けに呼ばる。堀多恵子氏同席、腕時計、筆箱、本数冊頂く。お昼御馳走になる。香奠返却さる。) 2月16日(日) 2月17日 2月18日 2月19日 2月20日 2月21日 2月22日 2月23日(日) 2月24日 2月25日 2月26日 2月27日 2月28日 2月29日 平成4年3月1日(日) 3月2日 3月3日 3月4日 3月5日 3月6日 3月7日 3月8日(日) (※悠紀子夫人危篤の報せに帰京。河北総合病院に見舞ふ。餞別3万円を賜ふ。3時間後亡くなる。) 3月9日 3月10日 (※7:00前夜祭。) 3月11日 (※14:00日本基督教団阿佐谷教会にて告別式。) 3月12日 3月13日 3月14日 3月15日(日) 3月16日 3月17日 3月18日 3月19日 (※中嶋康博引越。帰郷。) 3月20日 3月21日 3月22日(日) 3月23日 3月24日 3月25日 3月26日 3月27日 3月28日 3月29日(日) 3月30日 3月31日 平成4年4月1日 (※中嶋康博、岐阜女子大学に奉職(学事部教務課)。)