(2024.05.20up update)
Back

たなかかつみ【田中克己】散文集

「陶淵明を好いた人」  (単行本『世界古典文学全集 第25巻 陶淵明/文心雕竜』月報3-4p 昭和43年 筑摩書房)

 亡くなった三好達治さんはいい先輩で、いつもわたしのことを気にかけて下さったが、小田原の古本屋で(というから昭和十五、六年のこと にちがいないが)見つけた明版の「資治通鑑」を送って下さった。お礼にわたしは「陶靖節先生詩」という四巻本をもって参上した。某社から「陶淵 明」を出すという予告が出ていたから、お役に立つと思ってもって参ったが、何版だったかは忘れてしまったが、景宋本すなわち宋版の写真版だったよ うに思う。(三十年近くの年月がたっていることゆえ、おゆるし願えると思うが、わたしは生来、記憶力には自信がない)その時は三好さんがどうして 陶淵明がお好きになったのか聞かなかったが、小田原かたの早川のほとりで酒を飲んでおいでのところを見ると、問う必要がないように思って、つい聞 かずじまいとなり、今となっては残念である。

 わたし自身は岩波文庫で出た故漆山又四郎先生註釈の「陶淵明」で一応は卒業したつもりになっていた。しかし中国文学史を講義していると、卒業な んて大それた話である。漆山先生の訳註は戦後絶版になっているが、故鈴木豹軒先生の「陶淵明詩解」やこれも故人となられた斯波六郎博士の「陶淵明 詩註釈」など好い註釈が出ており、一海知義氏の「陶淵明」の選註もなかなかよくできている。ただこれらの諸先生の訳や註をみな読むとどこかちがい があって、専門家でないわたしなどは当惑するばかりである。もし三好さんの本が出ていれば、吉川幸次郎博士の「陶淵明伝」のように伝記をかねた、 詩の選釈だったろうと思う。手近かにある三好さん自身の詩の選集を見ると、「山果集」に「鮒」という題の詩があり、その結句は「仮りに私は 彭沢 の令 灯火を消して月に対す」であり、また「燈下」は

書は一巻淵明集
果は一顆百目柿
客舎の夜半の静物を
馬追ひのきてめぐるかな

 というのである。「山果集」の刊行は昭和十年のことで、内容はおおむね信州の発哺あたりで得られた心象だという。三好さんが最後まで酒を好まれ たことはよく知っていたが、わたしが識りあいになるまえのこの年には、神経性心悸亢進で、酒を断ち、もしくは断とうとして、よけい陶淵明が好きに なられたのかな、などと酒を飲まないわたしは当て推量をする。

 事実をいえば、陶淵明の集中に多く見える酒の詩はわたしにはよくわからないが、酒を止める詩があり、酒の害を説き、今日こそ止めた、という箇所 など、わたしの好きなタバコから類推して、同情に耐えない。しかしどうもこのあと詩人はまた酒を飲みだしたのにちがいないと想像して、ほほ笑まし くもなる。

 三好さんとのことにも一度もどると、わたしの訪ねた時、一度は坂口安吾さんが同居しておいでで、お茶を汲んで出られたのには、勿体なくて閉口し た。二度めの時はお婆さんがいたように思う。そこでわたしの好きな陶淵明の詩の、も一つのジャンルが連想されてならない。すなわちこの酒好きで、 現世の生活にはうとく、またうとくしなければならないと考えていた陶淵明に、「子に命ず」という一首と、「子を責む」というたぐいの詩があること である。

 芥川さんが好きだった唐代の小説「杜子春伝」では、俗世をはなれる志を立てたが、子どもへの愛情のおかげで仙人になる機会を失った、という筋に なっている。この話と同じく俸禄をとるのはたやすくやめられたが、酒はきずな、子への愛はさらに強いきずなになったかに思えるのが陶淵明で、それ にくらべると妻子と別居できた三好さんは、少くとも表面的には陶淵明より強かったような気がする。ところが実は三好さんにも「涙」という詩があっ て、生まれたばかりの御長男の涙に、父としての強い愛情を歌っておいでである。強がって見せただけで、ひょっとしたら陶淵明そっくりのこの先輩の ことは、語りだせばきりがない。

 陶淵明の日本文学への影響は星川清孝博士が、その「陶淵明」の解説で、簡明に書いておいでで、大津皇子や藤原宇合(うまかい)にすでに模倣さ れ、芭蕉、漱石などみなこの詩人を愛したことが明らかにされている。さて中国ではどうだったかについては、わたしもかつて「白楽天」(集英社刊 行)で、この俗臭紛々、軽薄と考えられた詩人にして、なお陶淵明への傾倒が見られることを簡単にしるした。もとよりこれに先だつ王維、孟浩然、韋 応物、さらに大詩人杜甫、李白さえも陶詩に対しては頭を下げている。たとえば李白の「古風」の第三十一首「鄭客西入関」という詩は、「一たび桃花 源に往けば、千春、流水を隔つ」という句で終っている。陶淵明の「桃花源記」によっていることが明らかである。仙境桃花源はまた「和盧侍御通塘 曲」という詩にも詠じられているが、ここでは侍御史の盧某によって歌われている通塘という土地が、桃花源よりさらによいところだといって、お世辞 のために、桃花源を引き下げる。しかし口をついて桃花源が出るようでは、李白の陶詩愛読は疑えないこととなる。

 再び星川博士によれば、唐人の陶淵明尊崇は初唐の王績にはじまる由である。しかしすでに梁の昭明太子蕭統(「文選」の編者)が陶淵明の伝をか き、また陶淵明集の序を書いているので、李白の崇拝はかならずしも王績によったとはいえない。とまれ芭蕉が「杜詩」を左右に置いたごとく、李白の 身辺にも陶淵明集があったことと思われる。「口号贈楊徴君」という詩などは「陶令辞彭沢」という句ではじまり、楊某を陶淵明にたぐえてほめてい る。この楊某の経歴はわからないが、唐人すべてに陶淵明の伝記や性格がよく知られていたことが明らかである。また「書情贈蔡舎人雄」という詩で も、李白は崇拝する人物として謝安をあげ、それと同じく隠居していたのが、一朝、玄宗に用いられて、やむを得ず任官したが、意外にも退けられて十 年になる。もはや再び用いられる望みもないから隠居するが、今度はかの古えの桃源の地たる武陵にわたしを訪ねて下されば、お会いできると、また桃 花源を慕う気持を吐露している。同じく桃花源での再会は従甥(いとこの子)高五に贈った詩にも見える。

 わが師佐藤春夫先生の小説「李太白」では、李白は天に登ってゆくこととなっているが、李白自らの「天」は桃花源であったようである。もっと明瞭 に陶淵明崇拝を表わした李白の詩は「戯贈鄭溧陽」で、「陶令は日日酔い、五柳の春を知らず」にはじまり、その琴には弦も張らず、酒を濾すのに頭巾 を用い、清風の吹く北の窓の下で、太古の人と自らをいっていることを記し、「いずれの時か栗里(陶淵明の住まいのあった村)に到り、一見して平生 の親(常時のつきあい)たらん」といっている。酒と放埒を事とした李白にとって、陶淵明は時代を異にした知己といえよう。(成城大教授)


ちなみに文中の漢詩を以下に掲げる。


 「古風」第三十一首「鄭客西入関」

鄭客西入關、行行未能已。
白馬華山君、相逢平原里。
璧遺鎬池君、明年祖龍死。
秦人相謂曰、吾屬可去矣。
一往桃花源、千春隔流水。

 「鄭客、西のかた關に入る」
鄭客、西のかた關(函谷関)に入り、行く行く未だ已む能はず。
白馬華山の君、相ひ逢ふ平原(平舒)の里。
「璧を鎬池君(殷を討った武王に比す)に遺れ、明年、祖龍(始皇帝に比す)は死せん」と。
秦人、相ひ謂ひて曰く、吾が属(眷族)去るべしと。
一たび桃花源に往けば、千春、流水を隔つ。



 「和盧侍御通塘曲」
君誇通塘好、通塘勝耶溪。
通塘在何處、遠在尋陽西。
青蘿嫋嫋挂煙樹、白鷴處處聚沙堤。
石門中斷平湖出、百丈金潭照雲日。
何處滄浪垂釣翁、棹櫂漁歌趣非一。
相逢不相識、出沒繞通塘。
浦邊清水明素足、別有浣紗呉女郎。
行盡財K潭轉幽、疑是武陵春碧流。
秦人雞犬桃花裏、將比通塘渠見羞。
通塘不忍別、十去九遲回。
偶逢佳境心已醉、忽有一鳥從天來。
月出青山送行子、四邊苦竹秋聲起。
長吟白雪望星河、雙垂兩足揚素波。
梁鴻コ耀會稽日、寧知此中樂事多。

 「盧侍御の通塘曲に和す」
君は誇る、通塘の好きを、通塘は耶溪に勝ると。
通塘、何處にか在る、遠く尋陽の西に在り。
青蘿は嫋嫋として煙樹に挂り、白鷴は處處に沙堤に聚まる。
石門は中斷して平湖出で、百丈の金潭、雲日を照す。
何處の滄浪ならん垂釣の翁、棹櫂の漁歌、趣き一に非ざるは。
相ひ逢ふも相ひ識らず、出没には通塘を繞れり。
浦邊の清水、素足明かに、別に紗を浣ふ呉の女郎有り。
緑潭を行き盡して潭、轉(うた)た幽なり、疑ふは是れ武陵の春碧の流れかと。
秦人の雞犬、桃花の裏、將に通塘に比すれば渠(かれ:桃源郷)羞かしめられんとす。
通塘、別(わか)るるに忍びず、十たび去って九たび遲回(徘徊)。
偶ま佳境に逢ひて心は已に醉ひ、忽ち一鳥の天從り來る有り。
月は青山に出で行子を送り、四邊の苦竹、秋聲を起す。
(楚国の名曲)白雪を長吟して星河を望み、兩足を雙垂して、素波を揚ぐ。
梁鴻コ耀(が皇帝から逃れ隠棲してゐた)會稽の日、寧んぞ此中の樂事多きを知らん。



 「口號贈楊徴君」
陶令辭彭澤、梁鴻入會稽。
我尋高士傳、君與古人齊。
雲臥留丹壑、天書降紫泥。
不知楊伯起、早晚向關西。

 「口號、楊徴君に贈る」
陶令は彭澤を辭し、梁鴻は會稽に入る。
我、高士傳を尋ぬるに、君は古人と齊し。
雲臥して丹壑に留まるも、天書、(貴方を召すため)紫泥を降す。
知らず、楊伯起(楊震にも比せられる貴方よ)、早晚、關西に向ふを。



 「書情贈蔡捨人雄」
嘗高謝太傅、攜妓東山門。
楚舞醉碧雲、吳歌斷清猿。
暫因蒼生起、談笑安黎元。
余亦愛此人、丹霄冀飛翻。
遭逢聖明主、敢進興亡言。
白璧竟何辜、青蠅遂成冤。
一朝去京國、十載客梁園。
猛犬吠九關、殺人憤精魂。
皇穹雪冤枉、白日開昏氛。
太階得夔龍、桃李満中原。
倒海索明月、凌山採芳蓀。
愧無草功、虛負雨露恩。
跡謝雲臺閣、心隨天馬轅。
夫子王佐才、而今復誰論。
層飆振六翮、不日思騰鶱。
我縱五湖棹、煙濤恣崩奔。
夢釣子陵湍、英風緬猶存。
徒希客星隠、弱植不足援。
千里一廻首、萬里一長歌。
黃鶴不復來、清風奈愁何。
舟浮瀟湘月、山倒洞庭波。
投汨笑古人、臨濠得天和。
閑時田畝中、搔背牧鷄鵝。
別離解相訪、應在武陵多。

 「情を書し蔡舍人雄(舍人の蔡雄)に贈る」
かつて高しとす謝太傅(謝安)、妓を携ふ東山(幽居)の門。
(彼女達の)楚舞は碧雲に醉ひ、呉歌し清猿を斷つ。
暫く蒼生(人民)に因って起り、談笑、黎元(百姓)を安んず。
余も亦た此の人を愛し、丹霄に飛翻するを冀ふ。
聖明の主に遭逢すれば、敢て興亡の言を進ぜん。
白璧、竟に何の辜ぞ、青蠅、遂に冤を成す。
一朝、京國を去り、十載、梁園に客たり。※讒言に遭って梁の地[宮廷に擬へた皮肉]に下った
猛犬、九關に吠え、人を殺して精魂憤らしむ。
皇穹、冤枉を雪ぎ、白日、昏氛を開かば。
太階、夔龍(名臣)を得、桃李、中原に満ち。
海を倒まにして明月を索め、山を凌いで芳蓀を採らん。
(しかしながら私は)愧づ、※草の功無く虛しく雨露の恩を負ふを。※草を踏みしだいて進む
跡は雲臺の閣に謝し、心は天馬の轅に隨はん。
夫子(のあなたは)王佐の才、而今、復た誰か論ぜん。
層飆、六翮を振ひ、日ならずして騰鶱するを思ふ。
我、縱に五湖に棹さし、煙濤、恣に崩奔せん。※范蠡のやうに消え去らう
夢に子陵の湍に釣れば、(隠者厳光のごとき)英風は緬として(微かに)猶ほ存するも。
徒らに客星(厳光)は隠るるを希ふ、弱植(光武帝の懦弱)は援くるに足らず。
千里、一たび首(こうべ)を廻らして、萬里、一長歌すれど。
(仙人が乗る)黃鶴、復た來らず、清風、愁ふるを奈何んせん。
舟は瀟湘の月に浮び、山は洞庭の波に倒まとなる。
汨に投ぜる古人(世を憂ふ屈原)を笑ふ、(荘子のごとく)濠に臨んで天和を得ん。※
閑時、田畝の中、背を搔いて鷄鵝を牧さん。
別離、相ひ訪ふを解せんとならば、(我は)應に武陵に在ること多かるべし。



 「戲贈鄭溧陽」
陶令日日酔、不知五柳春。
素琴本無弦、漉酒用葛巾。
清風北窓下、自謂羲皇人。
何時到溧里、一見平生親。

 「戯れに鄭溧陽に贈る」
陶令日日酔ひ、五柳の春を知らず。
素琴、本と弦無く、酒を漉すに葛巾を用ふ。
清風北窓の下、自ら「羲皇の人」と謂ふ。
何れの時か栗里に到らん、一見、平生の親しみをなさん。

また参考に同時所載の中谷孝雄による「わが陶淵明」を掲げる。
(中谷孝雄には『陶淵明(新選詩人叢書)』南風書房, 1948.6 204p、『わが陶淵明』筑摩書房, 1974.12 281pがある。)

「わが陶淵明」   中谷孝雄

 敗戦の翌年、ニューギニアから帰還した私は、妻子が疎開していた松本市の南郊にひとまず落着くことにした。近くには薄川が流れていた。私は夕方 になるとよくその川の堤防の上を散歩した。上流には美ヶ原一帯の山塊が横たわり、夕陽を後ろから受けて影絵のようになった鳥の群れがその山塊に 向って帰ってゆくのがよく眺められた。そんなとき私はよく淵明の

山気日夕佳ク
飛鳥相与ニ還ル

 という二句を微吟するのであったが、すると忽ち、美ヶ原一帯の山塊が廬山のように見えて来たりしたものであった。私は前に、安慶という町に一日 滞在し、江を距てて終日廬山を眺めながら淵明のことを懐かしんだことがあった。しかし時あだかも戦時中のこととて、廬山の麓に今も遺ると聞く淵明 の遺跡を訪れたり、また廬山に登って遊ぶというような自由は得られなかった。

 淵明には鳥のことを詠じた詩句が少くない。既に『帰去来兮辞』にも「鳥ハ飛ブコトニ倦ンデ還ルコトヲ知ル」という句があるが、その辞とほぼ同じ ころ作ったと思われる『帰鳥』の詩のごときは全篇ことごとく鳥のことに関している。ほかにも「翩翩タル飛鳥、我ガ庭柯ニ息フ」とか「翼翼タル帰 鳥、林ニ馴レテ徘徊ス」とか「栖栖群ヲ失スルノ鳥、日暮レテ猶ヒトリ飛ブ」とか「衆鳥託スル有ルヲ喜ビ、吾モ亦吾が廬ヲ愛ス」とか、また私が前に 挙げた「山気日夕佳ク、飛鳥相与二還ル」とか、まだほかにもこの種の詩句はいろいろあるが、すべてこれらの詩句は自然界の景物として鳥を詠じてい るのではなく、密接に彼の境涯に結びつけて歌われているのである。つまり鳥に仮託して淵明自身の境涯が歌われているのであるが、私は折に触れ時に 応じてそれらの詩句を低唱微吟し、帰還者であり疎開者である私自身の困窮の境涯に慰めを見出していたのであった。

 淵明はよく固窮ということを詠じているが、私のはただの困窮であった。ところで淵明の固窮の境涯には「忘憂の物」として酒があった。「酒は静か に飲むべかりけり」と近代日本の歌人も歌ったが、淵明の酒も多くの場合、静かな独酌独飲であったようだ。「静カニ東軒ニ寄り、春醪独リ撫ス」とか 「ココニ一觴ヲ揮ヒ、陶然トシテ自ラ楽シム」とか「酒熟シテ吾自ラ酙ム」とか「杯ヲ揮と孤影ニ勧ム」とか詠じている。しかし私は一滴の酒もたしな まないので、酒中の深味を解することができないのは残念であった。

 ところで淵明が「杯ヲ揮ヒ孤影ニ勧ム」と嘆じなければならなかったのは、「言ハント欲シテ我ニ和スル者」がなかったからである。そういう彼はま た「影ニ偶ビ独リ游ブ」人でもあったが、やがて『形影神』と題する詩では形と影とに問答をさせ、神(精神)に審判をさせたりしている。この詩には 淵明の生死観がよくわれていて興味深いが、それよりも寧ろ私にはこの詩によって淵明が自己の影を相手にぶつくさいっている姿が髣髴されて面白いの である。自分の影に心をひかれることからして既にその人の孤独を物語るものであるが、淵明のように自分の影に杯を勧めたり、影を相手にぶつくさい うに至っては、もはやその孤独は救いがたい。ここで自分のことをいうのはおこがましいが、当時語るに友もない疎開地にあった私は、とかく自分の影 に心をひかれることが多かったが、ある時その影のなかに亡父の姿を発見して愕然としたことがあった。

 淵明の文章としては『帰去来兮辞』と『桃花源記』と『五柳先生伝』とが有名である。このうち『帰去来兮辞』は中学時代に暗記させられたものであ り、そのなかの語句はその後もしばしば私の好んで口ずさんだものであった。おかしな話だが、私はニューギニアへ出征の輸送船の船首に立って太平洋 の波を眺めながら、「舟、遙遙トシテ軽ク颺リ、風ハ飄飄トシテ衣ヲ吹ク」などと口ずさんだものだが、読者はさぞ苦笑されることであろう。いや、苦 笑どころか、淵明を冒瀆するものだと怒るかも知れない。

 ところで『帰去来兮辞』は、淵明の生理と詩境とを確立した大文章であり、彼は生涯この境を守って、反復同じことを歌い続けたといってもよいだろ う。その詩境は年と共に深まりこそすれ、少しの動揺もなかった。すべて大詩人といわれる人には、必ずその生涯を決定するような画期的な作品がある ものだが、淵明にとって『帰去来兮辞』は正にそういうものであった。

 かくて「心を以つて形の役となす」過去の生活から訣別して、田園の古田舎に帰った淵明は、自ら鋤を執って農耕の道にいそしむが、やがてそのよう な彼の心に、一種の理想境としての「桃花源」と一人の理想的人物としての「五柳先生」とが髣髴するようになった。しかし理想境といっても「桃花 源」はそう大して変った土地ではなく、鶏犬の声のある古田舎に過ぎないが、そこの住民が古樸質実の風を失わず老若男女共生を楽しんでいるというの が、ほかでは見られない特色である。いや、もう一つ、そこには王税がないのである。当時は乱世のこととて人民は税に苦しんでいたが、淵明が描いた 理想境には税がないのであった。どうやら淵明も税に苦しめられたらしいことはその詩にも詠まれている。

 ところで『五柳先生伝』は淵明の自画像のようにいわれているが、私が思うに、そのモデルは淵明自身にあったかも知れないが、やはりそれはかなり 理想化されており、あるがままの自分を描いたというより、かくありたいと思う自分を描いたのであろう。そのなかの一節に、「書を読むことを好めど も、甚だしく解せんことを求めず」とあるが、専門の学者にとってはいざ知らず、これはわれわれにとって最上の読書法ではないだろうか。

 淵明の文章としては、前にもいったように以上の三つが有名であり、私も前からよく読んでいたが、そのころ疎開地の無聊のなかで始めて読んだもの に『閑情の賦』がある。この作品は、美しい女性への綿綿たる思慕の情を歌ったものであり、淵明の全作品中の唯一の例外ともいうべきものである。淵 明にこの種の経験があったかどうかは知らないが、私のような小説家には、このような賦を作っている淵明に却って懐かしさが感じられるのである。こ の文章の非常に感覚的なところにも興味がある。
 いずれにせよ私は、疎開地の三年間の無聊を淵明に慰められるところが大そう多かった。私は今でも折に触れて淵明の詩文を飜くことは多いが、「甚 だしく解せんことを求め」ない私のことだから、どこまで淵明を解しているかは怪しいものであろう。(作家)



Back