(2023.04.05up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集
『杜甫伝(評伝)』講談社1976.4 講談社 253p,19.9cm
「あとがき」
わたしの杜甫への関心は古い。岩波文庫で漆山又四郎氏訳註『杜甫詩選』というのを読んだのは高校か大学の時かはっきりしないが、詩を作る時には李白より杜甫の方が参考になることが多かったのはたしかである。
わたしはふとしたことから李白の専門家のようになって筑摩書房から『李白』の選訳を出し、平凡社の中国古典大系『唐代詩集 上』にも李白の訳を載せた。しかし性格からいうと豪放磊落な李白よりは憂鬱悲観的な杜甫の方が好みに合っていて、昭和二十年三月、三十九キロの痩身で丙種合格の昭和九年兵の召集に引っかかり、大行山脈の麓の唐県で五ヵ月いた。その十月、北京方面に知り合いがある五人の将校兵士には現地除隊の命令が出、わたしもそれに加えられて北京にゆき、新華街の縁戚の家に住み、ついで天津の義弟のところにゆき、二月末、太沽から米軍のL・S・Tという日本でいうなら上陸用舟艇であるが、実は一千人の日本人をのせる立派な快速の舟に乗り、三日ほどして佐世保の南風崎に着いた。
この時の感想は全く杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」であった。
そんなわけで杜甫伝をかきたく思ったが、杜甫関係の書物は手許には漆山又四郎氏の本はもう見えず、僅かに清代の代表詩人銭謙益校註の『杜工部集註』があるのみであった。そこで早速、親友小高根太郎君宅を訪ねて続国訳漢文大成『杜少陵詩集』四冊を借り受けたのである。
腹稿はすでに成っていたが、それから二十数年、わたしは杜甫の死んだ数え年五十九歳を迎えた。その記念に『成城文藝』に「杜甫の晩年」と題して、五十四歳から五十九歳の年までの六年間を書いた。
ついでに記すと杜甫伝は戦後すぐの昭和二十一年九月、英文学の泰斗斎藤勇先生が研究社からお出しになったのがある。その末尾の杜甫書誌もよく出来ており、「西洋文学との比較」でミルトン・ダンテと比べて杜甫には希望がない点、二者とちがうが、「至誠の人であり良心の人であるから」と敬愛の情をこめて選訳された。前掲鈴木虎雄博士の続国訳漢文大成本と合わせて、杜甫の霊は死後に知己を異邦に得たと思っているであろう。
その他の我が国ならびに中国における戦後の訳書論文は黒川洋一氏の筑摩書房版『杜甫』の末尾にくわしいが、福原龍造教授『杜甫』(講談社昭和四四年刊)と、小野忍・小山正孝両氏訳杜甫の部(平凡社、中国古典文学大系『唐代詩集上』所収、昭和四四年刊)、目加田誠博士『杜甫物語』(昭和四四年、社会思想社刊)がぬけており、黒川氏の著書刊行
(昭和四八年三月)前に出た土岐善麿『杜甫への途』(光風社、昭和四七年七月刊)は入ってなく、田木繁『杜甫イロニイの旅』(創樹社、昭和五〇年四月刊)はもとより入ってない。
このように詩は多くの人から愛されるので、今後も刊行を見ることであろう。但し郭沫若『李白与杜甫』(一九七一年、北京人民出版社刊)では李白に対して割合寛大であるが、杜甫の部は「杜甫的階級意識」、「杜甫的門閥観念」、「杜甫的功名欲望」、「杜甫的地主生活」、「杜甫的宗教信仰」、「杜甫酒終身」、「杜甫与厳武」、「杜甫与岑参」、「杜甫与蘇渙」(中国の新字は改めた)より成り、批林批孔(※文化大革命時の「林彪批判・孔子批判」)の時期のせいでもあろうが、杜甫にあまり同感していない。元稹の杜甫墓碑銘で、李白を杜甫の下に貶したのと全く反対である。文芸の評価とは面白いものだと感じた。わたしのこの本はどうだろう。読者の批判を待つ(杜甫全伝は聞一多と馮至とのみかと思う。わたしの詩の選択は伝記に必要かつなるべくすぐれたものをと心がけた)。
昭和五十一年三月三日
田中克己
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