【対談】 田中克己×影山正治
昭和戦後の右翼重鎮、影山正治(1910 -1979)との珍しい対談。右翼と聞けば戦争中、気に食はない文士を片端から襲って鉄拳を食らはしてゐた嫌なイメージがまづ浮かぶが、 原理主義が過ぎれば体制にとっても扱ひ辛い存在となる。クーデター未遂による二度の下獄経験を持つ影山氏だが、出征した影山氏留守中の大東塾では翌る20年8月、十三名の塾生が先考とともに自刃、潰滅した大日本帝国に殉じた。この対談があった昭和35年には安保闘争があったが、反米を掲げる学生運動には理解を示してもゐた。
影山氏は“恋闕”の歌人でもあり、皇国史観の憑物が落ちて政治的信条を失ったこの時期の田中克己(カトリック改宗は昭和37年)に対しては、保守思想家・文学者としての立場から、信奉する保田與重郎の同級生を遇する慇懃な態度で臨んでゐる。
『コギト』をめぐりて 『不二』昭和35年5月号 18-24p
竹内好氏のことども
田中:「これ(と云って竹内好氏の論文「近代の超克」を出して)をお読みになりましたか」
影山:「いや、まだですが」
田中:「これは私の友人で、保田(与重郎)も同級生ですが、竹内の書いたもので、所謂戦犯を書いて居るんです。この中で竹内は、日本浪曼派だけでなく、
「文学界」もいけない、高山岩男さんたちもいけないと、全部やっつけて居るんです。 おもしろい論文ですから御参考に是非読んでやって下さい」
影山:「竹内さんと云ふ方は民族と云ふことのわかる人のやうですねー。私も、やや前からこの人には注目してゐます。是非拝見しませう。
この論文は相当反響を呼んで居るやうですが、この印刷は抜き刷りのやうですねー」
田中:「ええ、多分「日本近代思想史講座」とかの中に出てゐたと思ひます」
影山:「貴男や保田氏とは大阪高校時代の同級生だったやうですな」
田中:「さうなんです。保田も早く大人になった男で、高等学校時代にもう老成ぶってゐましたが、竹内も老成してゐましたねー。いつもにっこり笑って、
何だかわからなかったが、みんな彼の動きを注目してゐました」
影山:「あの人は支那文学でせう」
田中:「さうなんです。魯迅の専門家です」
影山:「終戦前に魯迅を書いてますねー」
田中:「書いてます。あの本を書いたぞといって、戦地へ出て行ったのを今でもはっきり覚えてゐます。そのあとから私も保田も戦地へ行ったわけですが、
二十一年の二月に私が戦地から掃って彼の家へ行きましたら、まだ帰ってませんでした。数か月遅れで保田と同じ頃帰りました。そして、その二人が、
その後全然別の方へ行ったんですから不思議なもんですなー、人間と云ふものは――」
影山:「その二人の間に貴男が立って居られるわけでせう」
田中:「さうなんです。中立と云ふやうな意味じゃなくて保田と竹内の間に立って居るのが私なんですねー。私は保田が好きで保田とはよく話しますし、竹内も好きで、よく話すんですよ。
しかし、保田と竹内が会ふと云ふやうなことは見たことがありませんねー」
影山:「竹内氏とは、つい先き頃、大阪高校時代の在京仲間の集りのとこで会はれたやうなお話でしたが――」
田中:「さうさう、実はその時、竹内から影山さんに伝言がありましてねー。まだならこれを影山さんに読んでもらってくれ。そして、自分はかう云ふものを書いて色々関心をもってゐるので、
影山さんのものを読みたいと思って居る、ついては影山さんのあの日本浪曼派についての議論ののって居る『不二』と云ふ雑誌を、議論ののって居る間だけは
送っていただきたい、
他日何らかの形でおかへしはいたしますから、とのことでしたよ。読ましてやっていただきたいですねー。塾の方へお願ひしたら、ずっと送っていただいて居るさうですが」
影山:「お送りして居るはづです。おかへしは結構ですから、さうおっしゃって下さい」
田中:「杉浦明平に対する私の関心を、本当によく見ていただいて有難かったです。明平は竹内の弟子みたいなものですからねー。明平は竹内の奥さんもよく知ってゐます。
そればかりか私の記憶では、明平は詩人立原道造の親友で堀辰雄さんの弟子といふことでしたから私は前から明平に関心を持ってゐたわけです」
影山:「さうですか。それは知りませんでした。それにしても、杉浦明平君もずいぶんあくどいことを言ったものですねー」
田中:「その点について、竹内に、杉浦明平が保田の剽窃と云ふやうなことをどんな意味で云ったんだらうときいてみましたら、あれは杉浦がまちがって居る、
と云ふ意味を竹内は云ってゐました。大体、一寸見ると剽窃かと思はれるやうなことは、古典のある世界では必ず起るべきことで、実はそれは剽窃でも何でもないんで、
前の人はこれこれこのやうに云って居る、自分もさう思ふのだと云ふことを云ふわけで、それを剽窃と云ふやうに見るのは間違ひだと自分が云ふと、竹内はその通りだと云ってゐました」
影山:「竹内氏は、日本浪曼派批判をする人々の中では、一番、からだでぢかに日本浪曼派を知って居る人じゃないですか。あの人は、
貴男や保田氏などと単に高等学校時代の同級生だったと云ふだけでなく、一時は「コギト」に若干つながってゐたのではないですか」
田中:「さうです。「コギト」の同人と云ふのが甚だあいまい至極のものでしたが、をはり頃、竹内もたしかに肥下(恒夫)のところへ同人費を納めてゐたんですから、
関係のあったことはたしかですね。筆はとりませんでしたが、彼はそのことを正直に言ってますよ。終戦後「反動コギト」などと云はれるやうになって、
彼にもたしかにマイナス作用はあったでせうが、彼はそれをかくしませんでしたね。昔から浪曼派的なところのあった男です」
影山:「あの人は、日本浪曼派――狭い意味にも広い意味にも、に対する正当な評価を、問題提起と云ふ形で段々と引き出していってくれる人じゃないかと思ひますね」
田中:「私はそれを期待して居るわけです」
影山:「竹内氏は、今、先生ですか」
田中:「都立大学の教授です。いづれ学長か 部長になる男です。いい男ですよ」
田中克己氏のことども
影山:「貴男は、例の成城大学の教授を――」
田中:「ええ、東洋大学のケンカで負けて、
斎藤晌さんたちと一緒におんだされまして、一年ばかり中途半ばでゐましたが、少し前から成城の専任教授にしてもらひました。どうぞよろしく」(笑)
影山:「そのほかにも出て居られました ね-」
田中:「聖心女子大一週一日出てゐます。」
影山:「皇太子妃殿下の母校ですね」
田中:「さうなんです。美智子妃殿下の妹さんが在学してゐましてね。いい点を取ってくれんと困るがな、と思ってゐましたら、幸ひにとてもいい点をとってくれました」
影山:『さうさう、去年の四月、皇太子殿下のご成婚の時、塾のすぐ近所の、青山学院の向ふで、田中さん、聖心女子大のきれいな娘さんたちを引率して、
御行列をお迎へして居られたじゃありませんか、いい先生ぶりでしたよ」
田中:「これはこれは(笑) もう1つ、立教大学にも一寸顔を出してゐます。こんなにして、なんとか細々と食べてゐますよ」
影山:「防衛大学の方はどうされました」
田中:「あそこは面白いんですが、なにせ横須賀の向ふでせう。通ふのに疲れはてましてねー。丁度いい後任者が見つかりましたんで、とうとうやめさせてもらひました。
その後任者と云ふのは、あの終戦の時に腹を切った阿南さんね、あの人の息子さんでして、三十七になるんです、中学の先生をしてゐたんですが、
実力がある人だから呼んであげたいと云ふ人が居りましたので、それじゃ私の後任にと云ふので阿南君を推薦してやめました」
影山:「それじゃいいことをした訳ですねー」
田中:「ええ、まあ後任者としては大変よかったですねー」
影山:「この前、浅野(晃)さんに会った時、博士の話が出ましてねー。ここ一年が博士制度の切りかへ時期だが、貴男はどうですかと云ったら、自分はその気はない、
夏目漱石じゃないが無冠の文人でゆきたい。しかし保田君などはかへって敵の意表をついて博士になって大いにあばれ廻ったら面白いのではないか。田中君などは、変り者扱ひにされて、
せっかくのあのすばらしい東洋史学者としての実力を発揮する機会を与へられずに居るのだから、軽く考へて、方便的な意味で博士になって置いたらいいと思ふ、
と云ふ意味を言って居られましたが、如何ですか」
田中:「今度私が関西の方から東京へ移って来ます時、みんな田中は学位をとりにゆくんだらうと思ってゐたやうですねー。大学の方の関係から云ってもまだ丁
度順番が来てゐないやうです。
上京してさっそく先生の所へ挨拶にゆきますと、学位をとりに来たのかと云はれましたので、いやーと云ひますと、さうかと仰ったので、しまったとも思ひましたが、めんどうでもあり、
今更博士でもあるまいと思ってゐますので、まあ今のままで行きませう。勉強が本当に面白くなりましたので、一生勉強をつづけて、できたら肩書きのない東洋史の大学者になりますよ」(笑)
影山:「東洋史は大学(東大)へ入ってから――」
田中:「さうです。三年生になってから本当に勉強する気になりました。卒業論文がこれです(と云って「清初の支那沿海」と云ふ論文を出す)大変いい点をいただきましてね。普通Bで、
Aはめったになかったんですが、Aを貰ひました。一人か二人だったやうです。この論文は、後に支那でも翻訳され、支那の学界でも相当注目されたもんです」
影山:「ほほー、そのままで進んでゐたら今頃は大博士ですなー」
田中:「さうです、さうです。しかるに誤って詩人になってしまひましたからねー(笑)日本一の詩人になるつもりでしたよ。結局この頃では詩をやめて学問に専念しようと云ふことになりましたがねー」
影山:「ほかにも支那で訳されたものがありますか」
田中:「若干あるかと思ひますが、最近わかったのでは、私の「楊貴妃伝」が台湾で田中克己原著として訳されて出てゐることですねー。無断ですが――。
見てゐますと中国では台湾でも中共地区でも人物の研究が盛んで、最近では、特に鄭成功に対する研究、表彰の書物が台湾で沢山出てゐます。中共でも鄭成功は大変尊敬されてゐます。
戦ひには敗れても降伏しない人が称揚されるんですねー。ところが日本では降伏して西を向いた方が有名になって世の中に通りがいいんですから大分ちがふですよ」
影山:「だんだん日本でも変りますよ。もう相当変って来てゐますから」
田中:「終戦後の日本の史学界では極度に伝記を軽蔑し、個人の研究を軽んじてゐますから、教科書などでも殆ど個人が出て来ないんです。豊臣秀吉さへ出て来
ないと云ふ状態だったんです。
それで入社試験などの時に、崇拝人物をきかれると非常に困ると云ふんです。歴史的必然と云ひますが、スターリンだったからかうなった、
フルシチョフだからかうなったと云ふことはありますわねー。ある程度個人が歴史を動かすと云ふことが。個人も大切ですねー。それが今の歴史学では無視されてゐるわけです。
私はそれは間違ひだと思ひますので、これからも大いに伝記を研究し、伝記を書いてゆくつもりです。あの満洲国の皇帝をしてゐた溥儀さんねー。気の毒な、悲劇の人ですよ。
溥儀さんの伝記を書きたいと思ってゐます。それから、いつか保田や影山さんの伝記も書きたいと思ってゐます」
影山:「あなた御自身を中心とした昭和文学の変遷についても、いつかまとめて書いて置いていただくといいですねー。それをどう評価するかは後世の歴史家にまかせるとして」
田中:「それは私も考へて居るんです。私はずっと日記を書いて来てゐますんで、比較的正確なことが書けるかと思ふのです」
影山:「日記と云へば、高見順が戦時中の日記を発表してゐますねー」
田中:「ちがひますねー。大きくちがひますねー。処しかたもちがふが、考へ方が非常にちがふ。それを痛感します」
影山:「今はああ云ふ考へ方や処しかたのみがまかり通って居る感じですが、当時はむしろさう云ふものは特殊で、
さうでないものが厳然としてあったことを具体的に示して置くことが必要でせうねー」
田中:「善い悪いじやーなくて、ああ云ふ人も居たんだが、しかし僕も居たんだ。高見順はああ考へ、ああ処した、田中克己はかう考へ、
かう処したと云ふことは是非明らかにして置ききたいですねー」
保田与重郎氏のことども
影山:「保田氏も去年胃の手術をしてから、
からだの調子がいいやうですが、貴男も この前盲腸の手術をされてから大分調子がいいやうで結構ですなー」
田中:「保田もガンじゃないかと云はれたんですが、私もこれはひょっとするとやられたかなと思って手術してもらったんです。結局慢性盲腸で、手術したらさっぱりしました」
影山:「血圧の方は――」
田中:「低血圧でして、百そこそこなんです。この間も浅野さんたちと何人かで集まったんですが、みんな低血圧で、普通の人なら平気で居られる問題でも、我々にはそれが強くひびくので、
常に世を憂へることになるんだらうと笑ったんです。たしかにさう云ふ点はあるやうですねー」」
田中夫人:「外から帰ってまゐりまして、「今日はやっつけてやった」などと云ふ場合は大変御機嫌がよろしいんでございますねー。
ケンカをすると血庄が上って生理的にも快的になるんでござゐませうか。普段は、それは、気が短いと申しますか神経質と申しますか、大阪の方ではイラチと申しますが、
どっしりと抑へて、じっくりと考へると云ふことが出来ないんですねー。損な性分だと思ひますが。それがケンカをすると調子がいいらしく、御機嫌で、ゆったりしてゐますんですからねー」
田中:「それはあるな。考へてからやると云ふんでなく、やって置いてから考へると云ふ方ですねー。じっとして居れないんです。非常にルーズな面と、非常にきちんとした面があるんです」
田中夫人:「なんですか、詩人はずぼらなものと云はれてゐますが、主人はそれが出来ないらしいんですねー。折り目、折り目をきちんとするのが、とてもうるさうござゐまして――。
男性的な面と、女性的な面とがきはだってゐます」
影山:「保田氏とは大分対蹠的ですなー」
田中:「さうなんです。会合のやうな場合にも、私は大体定刻の一時間も前にもう行って居るんですねー。そしてえらく待たされて、
この次からき決してこんな馬鹿なことはすまいと心に誓ふんですが、やはりいつでもそのやうなことになるんです。
ところが保田の方は必ず定刻より一時間ももっとおくれてのこのこ出て来て平気で居るんです。実際に会が始まってしばらくたった時分ですからそれで丁度いいんですねー。
保田のやうに出来ればいいなーと思ふんですが、駄目です」
影山:「あの人は万事おうようで、非常に神経のず太いところがありますからね」
田中:「無神経じゃないかと思はれるほど、ものごとを気にしませんねー。あれは平気で、どこででも、いつまででも居候の出来る男ですが、私は絶対に居候の出来ん男です」
影山:「あの調子だと、本人はいいが周囲のものが大変でせうなー」
田中:「この前の手術の時も、周囲のものはえらい心配をして色々気を使ったんですが、本人はそれほど心配してゐませんでした。それだけに周囲にゐて気をくばったり、支へたり、
抱いたり、おぎなったりしてやる人が大変なわけです。今までずっと一番大変だったのは奥さんですねー。実にあそこの奥さんはよくやりますよ。多少保田が外聞の悪いことになっても、
いつか私は保田の奥さんの淑徳に就いて書いて置きたいと思ひます。その次に苦労するのは側近の諸君です。奥西(保)にしても高鳥(賢司)にしても、みんなとてもやせてますよ」
影山:「例の五味康祐君と云ふのは、去年の手術の時、大変よく保田氏の世話をしたやうですが、相当深い関係のやうですねー」
田中:「相当深いやうです。あの時も、一番閉口したのが五味君の奥さんです。入院前と退院後、五味君の家に大分長く居たんですが、なにせ保田は寝るのが毎晩二時頃でせう、
奥さんとしてはお客さんをほって置いて寝るわけにいかない、ところが御主人は小説家だから徹夜をして昼寝ると云ふことが多い。結局奥さんはほとんど寝る時間がない。
かと云って昼寝するわけにもいかない。一晩か二晩ならいいが、それが相当長い間なんですからねー。ほとほとなげ出しかけたやうですが、よく置いてくれたと思ひます。
実によくやってくれました。入院中は看護婦さんが全く閉口したやうです。保田といふ男は、どんな場合でも苦しいと云ふことを云はないえらい男です。しかし周囲が大変です。しかし、
それで通ってゆくんですから結局えらいんでせうねー。人徳なんでせう」
影山:「軍隊へ行く前は夜起きてゐて昼寝ると云ふやうな生活だったのが、軍隊ですっかり正常な生活にもどり、復員後もしばらくはお百姓をやったりして平常な生活状が続いたやうですが、
そのうちにまたすっかり元にもどったやうですなー」
田中:「さうなんです。あの百姓仕事をして居た時分は、私も大和に居りましたが、荒地を一生懸命やってゐました。しかし今でも百姓仕事をやる気があるかど
うか聞いてみたいと思ひますよ。
あれは、自分の意見に忠実だったと云ふ点もあらうが、一種の軍隊ぼけじゃなかったかと思ひますね」
影山:「田中さんは軍隊から帰った当時どんなでしたか」
田中夫人:「それが面白いんでございますよ。見ちがへるやうに太って帰りましてねー、「おい、これからはなんでもしてやるから命令してくれ」って申しますんです。
「命令でやるのが一番楽だから、マキを割れとか、水を汲めとか、なんでも命令してくれ」と云ふんです。こちらがとまどってしまひましてねー」(笑)
影山:「やがてすっかり元にもどりましたでせう。やはり軍隊ぼけですかな」(笑)
田中:「いや色々なことがありましたが、兵隊は楽しかったですねー。今思ふと軍隊と天理教――三年ばかり天理図書館に勤めましたから、これが一番為めになりました」
影山:「高等学校時代はどうでした」
田中:「結構楽しかったです。やはり生活に張りがありました。何らかの意味で希望がありました。さう云ふ時代だったんですねー」
影山:「保田氏が左翼だったと云ふ説をなすものがありますが――」
田中:「なにせ明日にでも共産革命が来ると云ふふうに云はれてゐた時代ですからねー。私など保田からブハーリンを読むことをすすめられた方ですが、
彼は色々左翼の文献なども読んでゐたやうですし、老成ぶって「もうマルキシズムは卒業した」と云ふやうな顔をしてゐましたし、
親分肌でしたから左翼の学生連中に対しても「うん、それもさうだ」などと相づちを打ったでせうし、それに大阪高校のストライキの時、
竹内などと一緒に保田も停学処分を受けたりしましたから、当時の保田を左翼的な学生と見た人もあるでせうねー」
影山:「そのストライキは――」
田中:「当時の官僚的な校長と、学校当局の官僚主義的なやりかたに対する反抗で決して思想的なものじゃありません。保田はその中心人物の一人と間違へられたんでせう。
結局保田は左翼と云ふやうなもんじゃなかったわけです」
「コギ卜」のことその他
影山:「『コギト』は昭和七年三月の創刊でしたかなー」
田中:「さうです。もう前の年の、昭和六年の終り頃から度々集ってゐました。大学の一年生の時です」
影山:「『日本浪曼派』の創刊が昭和十年三月でしたか。『コギト』創刊の満三年後ですねー」
田中:「私は昭和九年に大学を卒業して、十年に結婚しましたから、その年です。今年が丁度銀婚式に当たりますから、満二十五年になります。」
影山:「田中さんは『日本浪曼派』の同人にはなられなかったやうですねー」
田中:「ええ、あれは保田が意見を出したんです。役人と教師は入れるなと云ふんです。当時私は大阪で中学(旧制)の教師をやってゐたんです。
「よし、それじゃ教師をやめてやる」と云ふんで、先生をやめて東京へとび出したんです。何とかなるだらうと思って出てきたんですが、全然職がなくて困りました」
影山:「あの頃に出た保田氏の『日本の橋』ややおくれて出た『戴冠詩人の御一人者』など特になつかしいでせう」
田中:「わかりにくい文章でしてねー。それがとてもなつかしいですよ」
影山:「保田氏のものでは『日本の橋』が、 まづまづ一番わかりいい文章でせう」
田中:「その一番わかりいい文章の『日本の橋』が、もう今の大学生には殆ど読めませんねー。古典になりつつあります。戦後の国語教育の結果です。
今、私は大学の二年生ぐらゐに保田の『戴冠詩人の御一人者』をすすめるのですが、読ませてみると読めません」
影山:「からだも回復したやうだし、保田氏にこれから大いにいい仕事をしてもらひたいですねー」
田中:「いづれ保田にも、日本浪曼派の問題について一言云はせる時が来ると思ひますが、弁解はせんでせう。何かいいことを云ってくれるんじゃーないかと、それを期待して居るわけです」
影山:「『コギト』の同人だった人たちの横の連絡は今でもありますか」
田中:「『コギト』の同人と云ふのが甚だあいまいなものでしたが、はっきりした人たちのうちで中島が戦死、伊東が病死と云ふやうに死んだものもありますし、
準同人でも山岸のやうに共産党の方へ行ったものもあり、肥下のやうに田舎へ引っこんでしまったものもありで、今はもう全くばらばらに分解してしまってゐます。
『コギト』をもう一度と云ふやうなことは全然望めません」
影山:「前は貴男が編輯されてゐて、貴男が東京へ移られてからは小高根二郎氏の編輯して居られる『果樹園』と云ふ雑誌ですねー、
あれは若干もとの『コギト』の血すぢをひいたもんじやないですか。最近、友人が創刊号以来の揃ひを持って来てくれまして、読ませてもらひました」
田中:「影山さんが、あの小さな『果樹園』をまとめて読んで下さったと云ふことは大変うれしいことです。保田は「何故そんなものを出すのか」と云った顔をしてゐます。
『コギト』関係の完全に分解した現在では無理もないでせうが」
影山:「渋谷の古本屋に『コギト』の揃ひが一萬五千円ほどで出てゐました相当なものですねー」
田中:「それは安い。誰れか金主を見つけて手に入れたいですね。一四八冊位あるんですから。神田あたりでは、バラの一冊で百五十円位してゐますよ。
かなり欠本のある百冊一寸のもので二萬円と云ふ礼がついてゐました。私の手もとにも百冊位はありますが」
影山:「それだけ資料的価値が高まったわけで、関心が深まってゐるわけでせう」
田中:「私は狭い意味での『日本浪曼派』のものではありませんが、広い意味での『日本浪曼派』の一人として、先ほども触れましたやうに、
日本浪曼派の問題については書いて置きたいと思ってゐます」
(右は三月十八日、田中氏宅に於て前後三時間にわたって録音したものの一部であるが、他日更に追加発表をしたいと思って居る。文責は当方にあります 編輯者)
(2017.11.26 update)。