(2023.03.26up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集

立原道造のこと  (昭和30年『白珠』12月号24-25p)

 立原道造のこと  田中克己

 立原君にはじめて会ったのは、昭和十二年の夏、信州追分の油屋でのことであった。ここは中仙道の宿場で、宿は旧の脇本陣、その昔ながらの建物の中に大名のやうに堀辰雄さんがゐて、立原君もそのお小姓のやうに夏休みを利用してであらうが、控へてゐるのを、宿に着いてすぐ知った。大阪の中学に勤めてゐた私も、夏休みを利用しての上京に、三好達治氏から誘はれて、堀さんに会ふのを第一目的に、はるばる信越線で参上したのである。

 お客と仕事の多い堀さんとは、ゆっくり話すひまはなかったが、立原君とは年齢のせいもあってすぐ親しく話すやうになった。ただし彼はその春、大学を卒業したばかりで、石本建築事務所に、技師か技師補かで入所したばかりで、まだ学生らしいところはとれてゐなかったが、三つ年上の私はもう教師を三年もつとめ、妻あり、子ありといふので、さぞかし兄貴ぶった顔をしてゐたことであらう。立原君はそれを打ち消すやうに、盛んに私をいぢくった。
 たとへば、三好さんが中仙道を散歩して来るのを見ると、私を誘って道の藪の中にかくれ、おどかしませう、といふのである。苦笑しながら私も一緒に隠れ、やがて三好さんがそばへ来ると「ワッ」とかけ声をして飛び出して行った。三好さんはあまりびっくりしたやうでもなかったが、私は随分てれながら、彼について隠れながら出て行かなければならなかったのを、今もおぼゑてゐる。

 川端さんの宿、室生さんの軽井沢のお宅にも彼が案内した。さうして黙って坐ってゐる彼に並んで、私はこれらの大先生に会はなければならなくなった当惑を隠すことが出来なかった。同じく都会生れでありながら、江戸ッ子と大阪人とでは、これだけちがふのかと、何かいまいましくて、翌年故郷の大阪をはなれ、上京して行った理由にもこの時の印象が大分つよくひいてゐる。

 上京してからは、それゆゑ立原君とはかなり往来した。「四季」の編集同人としての往来以外にも、たびたび会ってゐる。年齢の近い津村信夫君よりは、もっと話しやすく、もっと手ごたへがあった。死んでから出た全集を見てはじめて気がついたことだが、彼の方でも私が所属している「コギト」──この雑誌のことはもう知ってる人も少ないと思ふが──に非常に関心をもち、いやもちすぎるほどもってゐたので、会ひたがってゐた。
 ではどんな点でときかれると、ちょっとたやすく説明しにくいが、彼は「コギト」をドイツ浪漫派のあとつぎのやうに考へ、その浪漫的といふ点では強い関心をもった。ドイツ浪漫派のあとつぎのやうに考へ、その浪漫的といふ点では強い関心をもった。ドイツ浪漫派が中世を理想化したやうに、私どもも新古今あたりを理想としてゐるやうに考へて、その点も話したがつたやうである。
 しかし少くとも私は、新古今はきらひで、立原君を失望さしたらうと思ふ。私の詩集の出版記念会に出て来た彼は、他の人がたとへお座なりでもほめてくれるのを、変な顔をして聞いてゐたが、自分の番になると、何だかわけのわからぬ云ひ方をして坐り、あとで、もっとひどい悪口をいふところだったが、あまり皆がほめるので気おくれしたといつた。

 一体、立原君の時の特徴は、誰でも気づくやうに非常に新古今的である。少くとも私の好きな万葉的ではない。

いま だれかがとほく
私の名を 呼んでゐる…ああ しかし 私は答へない
おまへ だれでもないひとに

これが彼の代表的な詩(さびしき野辺)の一齣である。こゝにあらはされるのは情緒だけである。それ以外はみな詩の世界から除外しなければならないと意識し、その通り実行してゐる。政治も社会も、現実の生活と同時に伝説さへも一応排除する。いちじるしく目につく漢字や漢語は絶対に用ひない。 七五調ではないリズムはありさうだが、これもこの淡いいはば無色透明な情緒のものに内在するのであって、ことばやその連鎖の中にあるのではない。 いくらか伊東静雄に似てゐるが、さらに純粋である。
 これが新古今的であるかどうか、一度専門家である安田章生さんに伺って見たいとも思ふが、ともかく立原君自身はかう云ってゐる。

「この宿には、もう夏からずっとゐるのは僕きり・・・さみしいといへばさうかも知れないが、ひとり炬燵にはひり、本をよんでゐれば、たのしいといふ方がいい。よんでゐるのは、藤原定家。秋の夜のかがみと見ゆる月かげは昔の空をうつすなりけり。)(いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ。)
 これが万葉の歌より、いまの僕の心に近いといへば、それは僕の心がかげ日向多く、うつくしきもの念ふことしきりだといふのだろう。万葉集とは童話のごとく面白いが、何だか身近ではない。」(昭和九年七月十五日付、小場晴夫宛。信濃追分。)

 立原君の歌に対する考へ方は、最後までかはらなかったやうに思ふが、これはもっとよく考へてみなければならないとしても、少くとも私のやうに物語的なものにもってゆかうとしたり、曲りなりにも何らかのイデオロギーを表はさうとしたりするものを、ひどくいやがってゐたことは、その作品も詩論も生活も、すべてがこれを証明する。

 彼の死は昭和十四年三月で、病名は肺結核、伊東静雄と同病である。この二人の詩人に共通のものは、しかし病気だけではない。純粋に詩人であったことがとりわけ注目に値するが、それはこの短い文章では書き表はせるはずもなかった。いつか改めてゆっくり論を書かねばならないと思ふ。これはその予告みたいなものである。

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