(2023.03.26up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集

詩と歌と  (『白珠』昭和27年12月号14p)

 詩と歌と(白珠雜記) 田中克己

 私は詩を作り出してから、かれこれ二十年以上になるが、そのまへは歌を作ってゐた。そんなわけもあって、戦後は歌を作るやうになり、最近は「白珠」の同人にしていたゞいて喜んでゐる。しかし詩を作るときと、歌を作るときとでは、いくらか心構へがちがふやうに思ふ。

 どこが違ふか自分でもはつきりたしかめてはゐないが、少くとも詩のときは何をうたふかだけを考へればよいのに対して、歌を作るときには、そのうへにどう歌ふかを考へてゐるやうに思ふ。

 何をうたふかは共通であるけれど、歌でうたひ切れないものを詩で歌ってしまふときが多く、それはいままでの習慣といふよりは、歌の三十一字しかない小さい形式のせいのやうに思ってゐる。

 詩と歌とに共通した根底──内にあるポエジー──からさて歌うとすると、歌では連作の形でもとらないことには歌ひ切れないやうな、複雑な内容が、詩では簡單にすらすらと言へてしまふ。しかしこれも口語を用ひ、韻も必要とせず、行も字数も自由といふ、日本で特別に自由にしてもらった日本の「詩」なるもののおかげで、これらの約束の一つでも、詩に存在してるなら、歌と同じやうな苦しみにあふのであらうが、幸ひに詩人は亡それを免がれてゐる。

 しかしこれは私が歌壇にうといせいで、歌にも何ら拘束がないのだといふ人があらう。三十一文字などはもうみな問題にしてゐないし、日本短歌の永い傳統だった調子もしたがって無視してゐるのだと、云ふ人があるかと思ふ。

 しかし歌を作るときの私は、これらの点では非常に厳格である。これは、でなければ、歌を作るときの私と詩人としての私との區別がつかなくなつてしまふからでもあらう。したがって調子の邪魔になるやうなことば、たとへばP・T・A・とか講和條約成立とかいふやうなことばも使ひたがらない。 そのせいで若い人から、このまへ朝鮮をからくにと歌ったといつて叱られたが、「朝鮮」といふ語は韓國人みづからきらってゐる。吾々からは音の上だけでも不快な連想をともなふのである。こんな語を平気で三十一文字にはめこむあなたこそ不可解だと、私はやり返した。

 しかし句調のよさだけをねらって、短歌の本質からはなれてしまふのではないか、といふ詰問には、それこそ専門家らしい用意が出来てゐる。短歌の短歌たる本質は、ポエジーがあるかないかだ。ポエジーの問題なら、私は二十年以上苦労したのだと。この心構へがたたつてか、私の歌はいまのところ、二十年の友保田與重郎以外からはそっぽを向かれてゐる。意地のわるいものだと思ふ。

短歌と詩  (『日本歌人』昭和30年11,12月号8-9p)

短歌と詩  田中克己

 短歌と詩とのけじめはどこにあるのだろうか。このごろ大分あやし くなったので、このさい考へておきたい。なに三十一字が短歌で、それより短いか(これは殆ど無からうが)、長いのが詩だときめれば簡単である。しかし三好達治氏の處女詩集「測量船」のはじめに掲げてあった

  春の岬旅の終りのかもめどり

  浮きつつ遠くなりにけるかも

といふうたは、私の記憶にして誤りなければ、二行にしてもあったし、三十一音(實際はハルノミサキが六音なので三十二音)にもかかはらず、あの詩集の中のどの詩にも劣らず、純粋な詩のやうに思はせる。また歌人の方でも、昭和名歌集がたとへ編まれることがあっても、このうたをその中に編入しようとはなさらないだらうと思ふ。

 してみると短歌と詩の区別は案外につかないのではなからうか。なほこのごろの短歌雑誌では、非定型短歌の叫びがなくなったとはうらはらに、三十一文字なぞを守らねばならないなどとは、誰も考へてゐないやうに、私などには思はれる。例へば――いや例はよさう。私はあまり口調のよくない短歌はきらひなのである。

 では短歌と詩とは、どこがちがふか。馬鹿の一つおぼえのやうだが、畏友小野十三郎氏によれば、短歌的抒情を盛ったのが短歌で、詩はこれを排除したクリティックである。これは實に明快な定義だが、これをみとめても、實際からは多少むつかしいことが起りさうである。
 本當に詩はクリティックだらうか、それのみに限られてゐるか、と歌壇から居直って聞かれると、私どもはたじたじとなる。現に私なぞは、二三日前の新聞に、秋に愛誦する詩として、佐藤春夫先生の「秋くさ」といふ詩をあげたばかりである。「秋くさ」のどこがクリティックなのだ、と歌人は仰せになって然るべきだと思ふ。

  さまよひくれば秋くさの

  一つのこりて咲きにけり

  おもかげ見えてなつかしく

  たをれば、くるし、花ちりぬ

 四十を過ぎて、いけしゃあしゃあと「秋に愛誦する」もないものだと、呆れられた向もあるかと思ふが、これを作られた春夫先生は二十代、これを愛誦しはじめた私も二十代だったのである。四十の手習といって、このごろ習ひ、おぼえようとすることは「民主主義」をはじめどうも板につかない。私としては晩秋にはこの歌を口ずさみながら、はかなかった自らの青春をしのぶのが、せめてもの心やりである。

 これが今の二十代の人には気にいらないとしても、それらの人々は、やはり詩を作る方がよからう。これは何も私が詩人だからいふのではなくて、詩壇では、また詩の約束では、この春夫先生と全く反対のものが許され、いな歓迎されてゐるからである。歌壇も同じだとどこかからが聞える。しからば詩歌といはず、おしなべて抒情は否定されてゐるのだ。あとは長いのが詩で、短いのが短歌といふことにならうか。
 もっとも短歌でも連作といふ手がある。行をわけずにせいぜい三十数音までを一行にして、詩に似た何かをお作りになったら宜しからう。歌人よ、詩人に負けないで――詩人もしっかり――と私などは蝙蝠のやうに兩方に應援をしておかねばなるまい。

 追記 「日本歌人」から「短歌」の角川短歌賞の候補作品に推薦された安騎野志郎氏の歌のことが問題だが、あれは横田俊一先生のお説では、リルケの詩の影響の濃いものだといふことである。私はリルケには久しくごぶさたしてゐるので、気がつかなかったが、リルケといはずエリオットといはず、 この世紀の時には共通なメタモルフォーゼンといふ方法を、短歌でとり入れるのは、いかにも賢いやり方だと思ふ。しかし難解な藝術が、その後のまたいそがしい四半世紀に受け入れられるかどうか。いまの写真や絵本だけしか見ない少年たちが、青年になってよみ、作り、理解しようとするのは何だらうか。その頃、もいちど短歌もしくは詩歌滅亡論がまじめに論議されると思ふ。

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