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たなかかつみ【田中克己】散文集

「コギト」の思ひ出 『日本詩壇』(不二書房)138号 昭 和25年5月  14-16p

「コギト」の思ひ出

 近刊の中部日本新聞社発行、本 多秋五氏等「世界文学辞典」をひらくと「コギト」の項に、

○同人雑誌。昭和七年創刊。はじめはドイツ浪曼派、ステフアン・ゲオルゲ一派の詩運動に刺激されて、保田與重郎、田中克己、三浦常夫、松下武雄などの主として詩人によって創刊されたが、コップ解体の時期にあたる昭和八・九年のいわゆる不安の季節は、新しい文学的立場を模索する知識人達を糾合するにいたり、中途より萩原朔太郎・龜井勝一郎・芳賀檀・山岸外史・小高根二郎・伊藤信吉・伊東静雄・服部正己・森亮・立原道造・檀一雄・中河與一・告貢・横田文子・中谷孝雄などの作家達が參加して、やがてひとつの大きな流派「日本浪曼派」を形成する母体となった。保田與重郎の「戴冠詩人の第一人者」「日本の橋」などは本誌に掲載され、戦時中の民族主義、王朝文化復活の氣運に乗った。その流れは昭和十九年までつづいたが、その他にも服部正己「ニーベルンゲン」全譯、森亮「印度古詩」、伊藤信吉「魯迅」などの業績をのこした。141号まで刊行して、同人雑誌としては最も純粋かつ生命の長いものであった。

 とある。この辞典は正確ことに「およぶかぎり慎重を期したつもりであるが」「思はぬ脱漏誤謬もまぬがれてゐない」(同書序文)ことは編纂者自らも認めてゐられるので、他日この辞典の改版の際の訂正のためをも兼ねてコギト同人の一人としてこの文を草して置く。

 今から二十年以上まへの昭和三 年に馬鹿な一高校長が当時の異例であった文科の入学試験科目に数学なしという思ひ付きをした。これに応じて集まった数学の不得手な連中のより抜きが我々のクラスであったのだから、開校以来もっともロマンチックな組になったのは当然であろう。校長がこれに懲りて翌年から文科にもまた数学を課することになったのはこれまた当然である。

 余事はさておき、この連中が集まって「かぎろひ」という短歌雑誌を作った。号を重ねること十号、目出度く御卒業になったが、文学好きの癖は止みそうもない。大体は東大に集まったが、京都の田辺哲学を慕ってこれに加わらなかったのが松下武雄と中島栄次郎。東京組は肥下恒夫をトップとして保田、杉浦正一郎、相野忠夫薄井敏夫、服部正己、室C、それに田中と都合十人であったか。毎月十円づつ金を出しあって、今度は謄写版でなく、活字の雑誌を出そうということになり、名まへは合議の上、保田の提唱した「コギト」と定まった。

 これが我々の大学一年だった昭和六年の末で、実際に第一号が出たのは翌年の三月である。ドイツ浪曼派を目指したのは事実だが、ゲオルゲの詩運動を目指したというのはどうか、保田にはその氣があったか否か、筆者はまだたしかめていない。

 当時の大学生の一ヶ月の学費生活費を含めて平均五,六十円、その中からの十円は大金である。しかしもとよりこれで足りる筈がないので、不足は当時数十町歩の地をもっていた肥下が出すことと暗黙の中に定まつた(彼はいま農地改革によって残ったわづか五反の田地を耕し食っている)。

 同人の仕事はまだ外にもあっ て、出来上った雑誌を手分して小賣店にもってゆき、一ヶ月委託するのである。筆者の担当は杉並區、いやな顔する店主に頭を下げて三册五册と店頭に置いてもらう、いまの文学青年にこの思い出ありや、なしや。

 さて二号が出て一号の回収にゆくと、思いの外に賣れていた。いや実はそのまへに五册置いたところで二册となり、三册置いたところで一冊になっているのは気がついていたが、たしかに賣れているとの自信もなかったのが、七掛かの代金をもらい(なくなったのではないかといやな顔する店主もあったが)、みな発行所であった肥下の家に集まって報告する時はうれしかった。この「自由に」賣れていた本が創刊号で六十三册だったか。アララギの創刊号よりはよく賣れていたのである(齋藤茂吉先生のアララギの思い出参照)。

 辞典によれば詩人を主としたそうであるが、これはうそであろう。創刊号には保田、相野、薄井、杉浦など小説を書き、詩を書いたのは中島と田中とだけである。筆者は実ははじめ評論!を書いてもって行ったのだが、発行のおくれている間にみなの顔色を見てひっこめ、お茶にごしに詩を書いたのである。この詩で四十歳まで過すことになる覚悟などもとよりなかった。

 二号もそんなわけで筆者は詩の外に佐藤春夫論を書いた。保田、中島は論説を書き、小説は保田、薄井、肥下、室、相野が書き、ようやくコギトらしい趣が具はった。当時、同時代人として覚えているのは、早稲田の石川達三、田村泰次郎、「新三田派」の北原武夫、「麺麴」の神保光太郎、仲町貞子、みな二十代で雑誌もいつまでつづいたか。

 この頃の同人雑誌で大阪から出ているのに「呂」というのがあり、そこに伊東静雄という、いい詩を書くのがいることを見付けたのはやはり筆者だったか。コギトの評判は賣行以上に氣になったが、寄贈した百人以上のみずしらずの先輩中、お祝ひを云って寄こしたのは、寄贈創刊雑誌には必ず激励の辞をくれるという親切な(これもずっと後でわかったことだが)某先輩一人だったか。

 しかし四、五号も出すうちには見てくれてた証據に、保田、中島、松下の三評論家そろって岩波の「思想」から原稿依頼があり、この時、中島が書いたのは「詩の論理と言語」だったか、少年にしてこれほど見事な論文はそののちに知らぬ。辞典が中島をぬかしているのは、ルソン島で戦死した彼のためにも残念である。

 筆者は不本意ながら詩を書きつけていたが、三号だったかの詩を蒔田廉が雑誌でほめてくれた。うれしかった証據にいまだに忘れられない。もっとうれしかったのは、大阪方面の「配本」に当っている中島が夏休みの帰郷のとき傳へてくれた「住吉中学の先生で毎月一册本屋で買ってくれ、本屋のおやぢに田中というひとの詩がいいからしっかりやるよう云ってくれと云うてる人がある」との言葉である。

 意を決して本屋にゆき、その先生の住所と名を訊ね、中島と一緒にこわごわ訪ねてゆくと、これが「呂」の伊東静雄で、当時新婚、五、六才の年長がなんと年寄りに見えたことか。伊東はこんな縁故で「呂」がつぶれたあとコギト同人の親切一人に加はり十五号に「病院の患者の朝」をのせたをはじめとして、殆んど毎号のせた。

 これが昭和十年に出て萩原朔太郎に絶讃された「わがひとに與ふる哀歌」の諸篇である。伊東より先に高等学校の一年先輩の石山直一、小高根太郎の二人が同人に加はった。三浦常夫はこの詩、小説、評論と何でも来いの才子、美術評論家小高根太郎のペンネームである。弟二郎の加入はその一年後であったろうか。

 昭和九年に肥下を残してみな卒業(肥下は卒業の意義を認めず卒業論文を提出しなかったのである)。筆者は帰郷して教師となり、その他の同人もいま以上の就職難時代に、職の有無にかかはらず文学を忘れたような顔をする中に、肥下、保田の二人は決然「コギト」継続を主張し、編輯事務以下の雑用すべてを担任した。ただし怠け勝ちの同人への手紙ハガキの叱咤激励は功を奏せず、今度は同人ならぬシンパの寄稿を求めることなった。

 その人たちの名まへは「辞典」がわりあひ丹念に掲げてくれているが、抜けているのが桑原武夫、野田又夫、五十嵐達六郎などの卒業した高校の先生たちの外に、津村信夫、辻野久憲、中原中也、本庄陸男、緒方隆士、磯花佐知男、薬師寺衛らの故人であるのは、死ぬことは忘れられることだと思はれて悲しい。

 「コギト」への寄稿だけではいさぎよしとしない青年文学者の集まりなる「日本浪曼派」の結成の宣言が「コギト」にのり出したのは、コギトの第三十号「ドイッ浪曼派特輯号」であった。序でながら「辞典」の「日本浪曼派」の項でも編輯同人六人の中、中島栄次郎一人がぬけている。人に憎まれることのなかった中島はそれだけ忘れられ易いのかしら。

 特輯号としては、この外に第四十二号が「芭蕉特輯」号で萩原、芳賀、三好、津村、高村光太郎、小高根、中島、生島遼一、北川冬彦、龜井勝一郎、池田勉、神保、宮田戊子、岩田潔、保田が書いている。これだけの原稿を稿料なしで集め得た「コギト」を羨ましく思うのが近頃の出版界ではなかろうか。

 さてコギトはその後も病気から瘉って書き出した小説家伊藤佐喜雄、同窓の竹内好、大学を卒業した山田新之輔、池沢茂、長尾良を同人に加へて、欠刊なしに昭和十九年までつづいた。掲載された作品の代表として服部の「ニーベルンゲン」は間違なし。森亮の「印度古詩」はアラビヤ人の作なる「ルバイヤツト」であろう。 これは竹友藻風に劣らぬ名譯で、筆者自らもシンガポールで原典をひもときながら、その譯を思ひ返すのを常とした経験をもつ。ただ伊藤信吉の「魯迅」は不審である。伊藤とは筆者も萩原朔太郎を通じて知合ひではあったが、コギトに書いてもらったか否かさへ記憶せぬ(※昭和12年「魯迅に就ての感想」)。いま手許にコギトのそろいがないので或いは書かれたかも知れぬが、これをほめてもらへば伊藤自ら羞かしがろう。

 十九年戰局苛烈となると、それまでほそぼそと營業雑誌と同じく紙の配給を受けていたコギトには今後配給をとめ、現配給量を文藝日本もしくは文藝世紀に譲渡せよとの当局の指図があった。同人雑誌の本質を理解せぬこのお指図には肥下、保田以下憤慨したが仕方ない。この時、戦時下性神経衰弱に罹っていた筆者の反対を押し切って肥下は独力、印刷所の余り紙で八頁四つ折のパンフレットを出すことをつづけた。

 時に昭和十九年五月、東京へはそろそろ空襲がはじまっていて、肥下も筆者も警防団に徴用されていたのである。しかし肥下の志も空しく九月、第百四十六号に至って印刷すら燈火管制のため不可能となつた。肥下、保田、筆者そろって召集を受けたのは翌年三月、東京の半ばが燃え上る前後であり、中島の戦死はその二ヶ月後、早く死んだ松下はもとより、コギトの思ひ出を書ける人間も少くなったので、けふこれだけ書いておく。

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