(2015.06.07up)    Back

たなかかつみ【田中克己】散文集


【回顧】 堀さんと「四季」

                                  田中克己

 堀さんとの御交際は詩の雑誌「四季」を通じてである。十一号が最後になった「四季」は、その最後の編集を、昭和十九年二月六日に堀邸で行った。 編集同人に名を連ねていた私が行ってみると、堀さんのほか同人は塚山勇三君が来ているだけで、編集を手伝っていた鈴木亨、小山正孝の二君が会葬者、 来合せておられた加特力研究の吉満義彦氏が牧師とでもいうように、簡単に雑誌のお葬式はすんでしまった。情報局から時局重大につき、という理由で廃刊命令が来たので仕方がないといえば、 それまでだが、堀さんは淡々として編集を終えられたあと、津村信夫の再起不能のことを話された。その話ぶりも淡々としておいでだったので、鈍い私もはっと気がついて、 なまじっかな悲憤や慷慨のことばが出なくなってしまった。堀さんが一時危篤を伝えられた大喀血をやられたのはその翌月、津村君が死んだのがその六月末、 堀さんはまたその一週間前に軽井沢へ療養を兼ねて疎開されていた。

 次にお目にかかれたのは二十一年の四月三日、北支からの復員の御挨拶にお留守のはずのお宅へ参ると、偶然軽井沢から帰っておいでで「角川から四季がまた出るんでね」とうれしそうに話され、 私にも詩を一篇や二篇でなしに沢山書くようにと、熱心にすすめられた。当時、私は詩どころじゃないと思っていたので、御返事もいいかげんで、軽井沢からも催促のお便りをいただく始末だったが、 だんだん年もたって二十四年になると、私の方がこのときまたつぶれていた四季再刊を堀さんにお願いする方に廻ってしまった。その手紙への五月二日付の御返事は奥さんの御筆蹟だが、 四季についてのところだけ写して見よう。

「…『四季』を休刊にしてゐる事は残念に思つてゐる。去年あたり迄は角川も年刊ぐらゐにでもして続けたい様な事を言つてゐたが僕が一向に相談にのれないし、 他の仕事も随分忙がしいさうなのでこの頃は何も言はなくなつた。まだ出す気がほんとうにあるのかどうかわからない。 しかしまだ出す気があつてあなた達がさうやつてお骨を折つて下さるならば僕としては再刊に異存は勿論ない。喜んで出して頂きたい。
ただこの前『四季』をやめた第一の原因は、詩の作品がほとんど思ふやうに集まらなかつたためなのです。今度も矢野博士などの御助力で論文の方は立派なものが出来さうですが、 はたして、今、詩が思ふ様に集まるでせうか。いい詩が集まらなければ本屋に非常な負担をさせてまで詩の雑誌をやつてゆく意味はないやうに思ふが、 その点は充分お考へになつて頂きたい。そのためには三好君や丸山君に大いにのり気になつてもらはなければならないから、まづそのお二人によく御相談して頂きたい。」

 こんな御返事で三好達治氏や丸山薫氏は相談するまでもなく、いい詩の書けない私などの出る幕でなくなって、第三次の「四季」は成立しなかったが、 堀さんの「四季」に対するお考えがよく出ていると思うので、恥をしのんでここに引いて見た。文中の矢野博士は英文学者であり詩人である矢野峰人氏である。  (新潮社版『堀辰雄全集』全7巻 昭和29年9月 第4巻月報 第4号)


【資料】 原稿の元となった堀多恵子氏代筆の書簡と、ほか田中邸に残されてゐた古い書簡、および堀辰雄の告別式案内状を併せて紹介する。

昭和21年10月23日消印
奈良県桜井町来迎寺内 (桜井市桜井976) 田中克己様
信州軽井沢町追分 堀辰雄内

お見舞度々頂き有難う存じます。主人今年は仲々いつもの様に元気になれず、夏からずっと床についてをりましたが、やっと近頃になって平熱がつづくやうになりましたのでほっと致してをります。 まだ手紙なども書けませんので私代りまして失礼させて頂きました。
四季に大和通信をお書き下さいます由、主人たのしみにしてをります。 毎月でも結構でございます故、どうかお願い致しますと申してをります。
それから飛鳥新書の一つにハイネのことをお書きくださいます由、角川書店よりも御依頼致すことと存じますが、是非出してやって下さいと申してをります。よろしくお願ひ致します。
主人も元気になりましたら大和の方へ出かけがってをりますが、今度こそはすっかりよくなるまでは追分にがんばる決心をいたしました。
奥様お子様方みな様お元気でいらっしゃいませうか。随分お目にかかりませんから、お子様もさぞ大きくおなりでございませう。どうか奥様によろしくお伝へ下さいませ。 私もお叱りをかうむらない様によき看護婦になります。主人に寝つかれるとお百姓と看病でどちらへも御無沙汰がちになり、心に思ひながら大変お返事おくれおゆるし下さいませ。
どうか皆様御自愛専一に遊ばされます様祈り上げます。

  十月二十三日        堀 内

田中克己様
         森亮様の御住所御存知でございましたら角川書店の方にお知らせ頂きたくお願ひ致します。

書簡 書簡 書簡 書簡 書簡 
田中家蔵

昭和24年5月3日消印
京都市上京区大宮田尻町32西田様方 (北区大宮田尻町32) 田中克己様
長野県軽井沢町追分 堀多恵子

お手紙有難う存じました。
皆様お変りなくお過ごしのことと存じます。天沼でお目にかかったお子様ももう随分大きくおなりでございませう。月日の経つのはほんとうに早く、 私共も五年目の春を追分で迎へることになりました。いつ東京に帰れますやら、 お蔭様で主人もこの頃病気が落付いてをりますので少し気が楽でございます。でも、 もうすっかりおとなしい病人になってしまひまして食事迄食べさせてやらなければならない様な始末でございます。早く床の上に起き上れる程度にだけでもさせてやりたいと思ひますが、 いつのことになりませうか。 よく田中さんに叱られた事を思ひ出しますが、看護婦もこの頃はだいぶ上達しました。
御手紙にございました「四季」のことでございますが、主人次の様な事を申してをります。

「四季」を休刊にしてゐる事を残念に思ってゐる。去年あたり迄は角川も年刊ぐらいにでもして続けたい様な事を言っていたが僕が一向に相談にのれないし、他の仕事も随分忙しいさうなので、 この頃は何も言はなくなった。まだ出す気がほんとうにあるのかどうかわからない。しかしまだ出す気があって、あなた達がさうやってお骨を折って下さるならば、 僕としては再刊に異存は勿論ない。喜んで出して頂きたい。
ただこの前「四季」をやめた第一の原因は、詩の作品がほとんど思う様に集まらなかったためなのです。今度も矢野博士などの御助力で論文の方は立派なものが出来さうですが、はたして、 今、詩が思ふ様に集まるでせうか。いい詩が集まらなければ本屋に非常な負担をさせてまで詩の雑誌をやってゆく意味はないやうに思ふが、その点は充分お考へになって頂きたい。 そのためには三好君や丸山君に大いにのり気になってもらはなければならないから、まずそのお二人とよく御相談して頂きたい。

こんなふうに申してをります。主人の気持おわかり頂けますでせうか。早く手紙ぐらい書ける様になるといいのですけれど、咳がひどいので話をする事もやっとの様なのです。  もう一度元気になれて旅行出来るやうになりましたら京都にゆきたがってをります。又お目にかかれませう。 田中さんによく似ていらっしゃったお坊ちゃま、もうおいくつでございませうか。
奥様にどうかよろしくお伝へ下さいませ。
  五月二日                  多恵子

  田中克己様

書簡 書簡 書簡 書簡
田中家蔵

昭和26年1月4日消印
彦根市池洲町 県立短期大学内 田中克己様
軽井沢町追分 堀辰雄 多恵

葉書
  管理人蔵

昭和28年6月1日
布施市西堤町六〇七 田中克己様
東京都杉並区成宗一丁目六七 堀多恵子

葉書
葉書
  管理人蔵


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