(2015.09.07up)    Back

たなかかつみ【田中克己】散文集


【回顧】 『コギト』解説                        『コギト』復刻版 (臨川書店)昭和59年より

                                田中克己

昭和三年の国立大阪高校文科は入学試験に従来の慣例を破って、数学をやめ、代りに歴史を以ってするという大英断を、新しく文部省から赴任した隈本繁吉校長が行なった。 校長は東大の史学科の出身だったから、こんな冒険をしたのであろう。全国の数学嫌いの連中が北は岩手県から、南は愛媛県から集まって、十三人に一人という難しい入学試験を通過した。
 文甲(英語を主とする)はわたしと中学の同級で、全学科平均九八点という坂井正夫が一番で、文乙(ドイツ語を主とする)は堺中学から来た松村達雄が一番、 二番は理丙から受け直した横山薫二(北杜夫の岳父)、三番はわたしと同じ中学校から受けた西川英夫で、四番は鎌田正美、わたしは五番であったが、英語の教師が全田忠蔵といい、 わたしの叔母の夫で、「親類のよしみ」で英語は五点引いておいたとのことである。

 入試の結果は新聞に出たとかで、西川英夫がわたしのところへ駈けつけて報せてくれた。さて入学したわたしたちは学校でも手を焼く猛者ぞろいであったが、 わたしは全寮制(これも新校長の発案)で二人一室ということになると、皆の敬遠する坂井正夫と同室になった。かれはキリスト者で、寮の食事を祈ってからするのはよいが、 放課後も夜も英語を音読して、復習し予習するので、わたしは「天才は努力」と悟ったが、閉口して他の室へ遊びにゆき、坂井から叱られた。しかしこの天才は当時流行した肺結核にかかって、 昭和五年に祈りながら昇天した。
 わたしは心からその死を悼むとともに、勉強はいい加減にすることとし、寮歌を勉強した。大阪高校の寮歌以外は長野県の飯田中学から来た佐藤八良というのが教えてくれ、 一高二高はもとより、北大予科の歌まで歌えるようになった。

 一年の秋、寮の入浴の時、三年生の益子輝夫先輩から、「野球部のマネージャーになれ。ならないなら湯から出さない」といわれ、喜んで今なら女の子のするマネージャーを引き受けた。
 但しこれより先、十番かで入学した保田与重郎という白ル長身の男に惹かれ、話してわたしが芥川を読んでないことを知ると「読め」というので、わたしは早速に寮の文庫の全集を毎日一冊づつ読んで卒業した。 わたしは父の文庫から鴎外・樗牛を読み、『万葉集』も読んでいたので、芥川は新しく珍しかった。その死(自殺)はあたかもわたしの高校入学の前年、すなわち昭和二年の夏のことで、 日本中を驚かせたが、わたしはそれも知らなかった。もとよりアナトール・フランスや『今昔物語』などのヨーロッパや日本の古典がそのルーツであることは知らず、軽く読みおわり、 殆ど影響を受けなかった。しかし保田がその影響を受けたことは、その後かれの発表する詩歌に顕著に見られる。

 二年生になると、全国でも珍しい温和な高校(ストライキをしなかった)というので、大演習を視察するため、近畿に来た天皇が寄ってゆかれた。わたしは感激して行幸奉迎の歌を作り、 これが当局に認められて、能筆の文甲の伊藤寿一が清書して掲げられたが、天皇はこの学校の特技ラグビーを見物されたあと、展示物の中、生物学の森田淳一教授の展覧した物を御覧になって退去された。 わたしは敷きつめた白砂の上に残った御足跡を見て、天皇も踵で歩かれるのを発見した。

 この秋、上級生の野田又夫・奥野義兼両先輩から、刊行している「璞人(ぼくじん)」を引き継ぐようにといわれ、わたしは承知して、保田と編集した。 但し誌名は松下武雄の発案で、「璞人」をやめ「R火(かぎろひ)」とした。みなペンネームを用い、保田は湯原冬美、松下は大東猛吉、中島栄次郎は「詠二」、 俳句をやる原田運治は「めぐはる」という名で寄稿し、印刷と発売はわたしが当り、保田は編集後記のほか論文、詩、歌と八方美人であった。 中島にいわせると歌は「お前が一番」ということであったが、わたしは「そうか」といっただけであった。文甲から参加したのは杉浦正一郎(三崎皎)と相野忠雄(若山隆)とで、 竹内好は参加しなかった。

 三年生になると、保田と竹内とは共産党の主刊紙「戦旗」を購読していることが、学校に知れて謹慎処分を受け、これは掲示された。この「戦旗」購読者は他にもいて、 秋、授業中に生徒課に呼び出されて警察に連行された。翌日は戦時中に自由主義者として退官された東大教授河合栄次郎博士の思想善導講座で、全校生徒は授業をやめて聴講した。 わたしは善導される思想をもたなかったので、同志の理乙の森良雄を誘って散歩に出て、帰校すると、教室も運動場もがらあきで、全校生徒は講堂にいる様子である。入ってゆくと、 文三甲竹内好が演説していた。「神聖な授業中に生徒を警察に渡した」というのが、かれの演説の要点である。わたしは大声で叫んだ「ストライキ!」。 この発言は生徒会長(これも文三乙)俣野博夫に採択されて、評決の結果は一人の反対もなく「ストライキ」となった。河合博士は「わたしの講座が原因でないか」と心配されたが、 それは無関係である。学校当局は反対に手を打って三日間の休校を発表した。

 さて、全校生徒が寮に泊ることになると、夕刊を見て父兄の中でも学校前まで心配して来る者があった。 ボート部の山本治雄がこれに応対して「心配ありません」といったが「左翼の手が廻っている」といって息子の帰宅を強請する紳士がいた。 野球部の友真久衛(ともざねひさえ)の父の判事であった。わたしと山本が「公憤」だと主張すると、二人の名を書きとって帰り、 おかげで二人は修身(倫理といったか、生徒主事佐々木喜市教授が担任)丙とあとで記帳された。

 寮では皆で歌を合唱している内、保田、竹内、松下、俣野らが内談して、このままでは犠牲者が出る。三目後にはストライキ中止ということになり、長野敏一とわたしが「再起しよう。 今度は偶発的でダメ」というと、「今ごろ何をいうか」との罵声が飛んだが、投票の結果はストライキ中止が過半であった。このとき、 病気で一年下って来て同級となった金持の肥下恒夫は非常に残念がって、わたしを驚かせた。

 「コギト」はこの肥下がいなければ事実上は成立しなかったろう。高校を無事卒業(実は学校当局が手を焼いたのである)したわれわれを待っているのは、 前代未聞の東大文学部の入学試験で、みな英語その他、学科に関係ある試験を受けた。わたしは「遼、金の歴史」と「ノルマンのイギリス侵攻」の二つを正確に書いて、 帰郷の途・西洋史のノートを浜名湖に投げ込んで、保田に眼を丸くさせた。しかし東大の講義は期待はずれであった。

 わたしたちは「R火」の復刊を考えて、既に結婚していた肥下の家に昭和七年一月に集まった。京都の西田・田辺哲学に憧れて東京に来なかった松下と中島をのぞく、 もと「R火」同人がみな集まつた。保田は「コギト」の誌名を提案した、「我考う、故に我在り」とのデカルトの言葉をもととしたこの雑誌名にはみな賛成した。 当時の文壇は社会改革をねらう左翼でなければ、無思想の文学者の集まりであると若気の至りで自慢していたのである。

 さて皆が書いて来た原稿を出すと、保田はこれをさっと一瞥して、「これはあかん」と総括した。中島(筆名沖崎猶之介)、 松下(筆名大東猛吉)の二人の論文はまだ来ていないし、肥下、相野忠雄(筆名若山隆)・杉浦正一郎(筆名三崎皎)らの小説は『コギト』の題に反するというのであろう。

 保田は『R火』時代すでに『思想』(谷川徹三先生ら主編で、 当時の思想的に最高の雑誌と考えられていた)九十九号に「好去好来の歌」に於ける言霊についての考察―上代国家成立についてのアウトライン―」という論文を応募して載せられ、 皆が一目おいていたのである。

 一月たってわたしたち東京在住の同人はまた肥下の家に集まって、書き直した原稿を提出した。保田はまた一瞥して「よかろう」といい、『コギト』創刊号はやっと成立した。

 わたしは当時流行した北川冬彦の『戦争』や安西冬衛の『軍艦茉莉』、西脇順三郎の詩などを勉強して、感心はしたが、これには無いものを書こうと思った。 中島も詩を書き「時間」というのを書いた。山内しげる(本名中田英一)は「雨」というのを書き、わたしの「呪阻」という反帝国主義の詩と三篇連載された。

 同人の義務は同人費十円(タバコのバツトが七銭、タクシーが一円の時代で、これは高額であった)を収めるほか、発送の時は袋に表て書きをすること、校正を見ることなどであるが、 いやなのは住んでいる近くの本屋に置いてもらって、売り上げ徴収することであった。わたしは阿佐谷の本屋に置きあとでこわごわ見に行くと、一冊売れているのがあり、 間違いかと思ったが、一月して集計すると六十四冊売れていた。京都・大阪方面は松下・中島が置き、特に大阪高校のある北畠の本屋では一冊必ず売れる上、 「コギトの詩人なかなかよろしい」というハガキが発行社に無名でとどいた。そのほか蒲池歓一というこれを長崎出身の詩人が、自分の雑誌(名ならびにペンネームは忘れた)でほめてくれた。

 無名のハガキを呉れたのは、のちに『コギト』の同人となる大詩人伊東静雄であったことは、本屋―住吉中学という手順を踏んで、中島とわたしが訪ねてゆくとわかった。 当時は『呂』という薄っぺらな雑誌の同人で、その『コギト』向きであることを、わたしは肥下、保田にいい、ハガキを出したが、 これは七月か八月の夏休みのわたしの帰郷中のことで、日記を探したがはっきりしない。

 『コギト』創刊号で特に評判の良かったのは、高校時代からクラスでドイツ語が一番よく出来て、 この年の東大文学部言語学科の志願者ただ二人(も一人は野上弥生子女の令息野上素一君)の服部正己が、仲良しの肥下の援助なども受けて数か月ドイツに留学して来たあと、 保田のいいつけで「ジンメルの言葉」という題で、ドイツの哲学者ゲオルク・ジムメル Georg Simmel(一九一八年歿後一九二三年に出版された)“Fragmente und Aufsätze”を訳してのせた。 これは当時の同人雑誌としては未曽有のことで、保田は編集後記で「コギト」は高踏的といわれるがと自慢している。

 肥下も保田も富豪の子孫の入る美学美術史科に入学し大西克礼教授や團伊能助教授の講義などには殆ど興味を起さず、制服角帽もつけないで、時どき登学する以外は、 読書と文士や芸術家との交友とにつとめていたので、「コギト」の創刊には一つの理想を求めたのである。一年上級の小高根太郎(筆名三浦常夫)や太宰治も同じことであったが、 肥下は太宰と同じく卒業して文学士の称号をとる必要を認めなかった点は一致している。

 余談はさておく、二号には中島(沖崎)は「批評」という題の見事な評論をかき、保田は「オプチミスム」というこれも評論をかき、わたしも「佐藤春夫小論」という題で、 後に三千人の弟子の一人となることなど予想もせず、先生の現実(日本帝国主義)にそしらぬ顔をしておいでなのをたどたどしく書いたほか「支那」という詩をかいた。 これは日本の帝国主義をひやかした傑作だったとわれながら思っていた。マルクス・ボーイということばのはやったころのことであった。
 肥下は「……Mais l’art est difficile!」というエセーを書いたほか、「速度と筆」という小説をのせ、第三号は松下(大東猛吉)の「芸術と生活」という評論がトップで、 「文学と心理学」と題した保田の評論がこれにつぎ、『コギト』の方向はこれで定まった。

 詩はわたしの「天上有事」二篇だけ、中島は休んだ。小説は肥下の「ふたつの石」。傑作ではないが、苦心の跡が見られる。

 第四号は中島(沖崎)の「創作―自然主義と浪曼主義―」という良い論文が始めに載り、松下(大東)の「芸術と生活」(二)が次に載った。 いずれも当時はもとより今の文壇にも見られない真摯な論文である。肥下は「能と目」というエセーを書き、わたしは「斑竹亭記」という詩をかき、次には中島の「業因」という詩がのった。 題の示すように今の片カナ好きの詩壇には容れられない態のものであるが、伊東など国文出のインテリには喜ばれたと思う。保田は「問答師の憂鬱」という小説をかいた。 題が示すように芥川の影響の強いものである。
 この号にはまた大阪高校文七乙の松田明が「雨あがり」という小説を書いた。彼は保田と同じく大和の産れであるが、保田が奈良盆地の南端の桜井生まれなのと違い、 帯解(いま奈良市)の産で、性質は全く異り、いまは教育者として愚かな文学などは忘れたような顔をしており、今度の『コギト』再刊でわたしが彼の旧悪をバラすと困るだろうと思う。

 第五号は七月号で、わたしは夏休みをとり、野上吉郎という新顔の小説家が目につく。これは本名石山直一。小高根太郎と同級だが、生まれながらに愛情に深い、敬虔なキリスト者で、 この間のたよりによれば、永い教育者の生活をはなれて教会のことに執心するとのことである。主の愛をわかりやすく書いてもらえればと、同信のわたしは、主に祈っていたが、 近ごろわたしの主宰する第五次『四季』に書いてくれて旧交が復活した。ただし、この世では顔を合わすにはあまりに遠い大阪にいて、 わたしの二十何年住みついた東京からはわたしが会いにゆくことはないであろう、この機会に一言しておく。小説の題は「夏」。いかにも飾りのない売れそうもない題で、彼らしいと思う。

 第六号は十月で、巻頭は保田の「アンチ・ディレッタンチズム」という評論。次は中島の「絶望の文学」、ともに面白く有益である(『コギト』はこんなに良い雑誌だったのである)。 石山氏は「無理」、小高根太郎は「慵獣」という小説を書き、わたしも「春来る海市」という小説?を書き、この機会に再読して、恥かしくてならなかった。 それに対し、肥下は「佐伯家の人びと」というのを書いている。わたしの主治医であった北杜夫は「楡家の人びと」という傑作をかいて、文庫でも出ているが、 肥下の小説への現代的評価はどうであろう。読者にまあ読んでくれたらと、祈るのみである。
 保田もこの号には「佐渡へ」という小説?を書いている。紀行でもなく小説でもないと思うがどうであろう。 特記すべきはドイツ語学にたけた服部がヰルヘルム・ディルタイWilhelm Dilthey(一八三三〜一九一一)の、“Das Erlebnis und die Dichtung”からフリードリヒ・ヘルデルリーンを訳し出しているのである。 これは『コギト』の十号までつづき、第一書房の故長谷川巳之吉社長に認められて『体験と文学』という標題で出版された。今では稀覯本である。みな大切にもっているのだと思う。

 「本号に限り特別定価三〇銭」とあり、大変な高価であって、一八一ぺージの雑誌としては当然だったのであるが、これも今の若い人々にはわかるかどうか。 編集後説はH・T・Yとあるから肥下・田中・保田がそろって書いたので、これは『コギト』としては前後に稀なことであった。

 第七号(十一月号)の巻頭は保田の論文「共同の営為」で、恰かもこれを実証するかのように、ヘンリー・ホーム Henry Home(一六九六〜一七八二)の水栗一郎訳「芸術批評学原理」序説が載った。 これは保田自身わたしに語ったことだが、服部正己との共訳で、水をのみ栗を食いながら訳したとのことであった。このスコットランド出身のケームズ卿(Lord Kames)の称号を与えられ、 ドイツのシラーやカントに強く影響した哲学者のことは、周知のことであろうが、原文は、“Element of criticism”で一七六二年の刊行で、保田も英語はわたしと同じくらい強かったことを証明する。

 しかしわたしと同じく戦争中、シンガポールで『昭南タイムズ』という英字紙を編集し、その論説を書き「マスターはこんなにイングリツシュができたのか」と編集の混血人、 インド人、薬僑をおどろかせたように読み書きは強いが、話すことはまるでダメだったろうと思う。そのうえ彼は英・米がきらいで、日本だけが好きだった。 (わたしは英仏独蘭華インドネシア語、モンゴル、マンジュなど数か国語がよめ書ける。話すことはまあまあであるが、 日本で紅毛の人を見るとWhere do you come from?と訊ねたい衝動を抑え切れない時がある)。

 閑話休題、服部は同号にア−ノルト・ツワイクArnold Zweig(一八八七〜一九六八)の『使徒Aposte』をも訳して、共同の営為に寄与している。彼は中古独逸語を専攻し、 宗教を信じず、文学も好きでなく、そのくせ『ニーベルンゲンの歌』を訳了し、のちに天理事報社から刊行した。五句節の日には各国語を会衆がみな理解したと、聖書には書いてある。 彼の遺志はスエーデン語を読み話すことであって、それはかなわなかったが、博士論文は未亡人訳了して、アメリカの偉い人に送ったら感心され、いずれ刊行されるとのことである。

 また話がそれたが、『コギト』第八号には服部のヘルデルリーンの三番目がのり、保田、松下はまたともに小説を書き、肥下も「昭和三年のこと」という小説、 中島は「アナムネーシス(anamnesis)(回想)」という題の小説を書いた。出来の善悪はいわない。こういう題をつけるところが『コギト』の特徴である。 彼の論文は谷川徹三先生に認められ、専門雑誌『思想』に三度のった。そのフィリピンで戦死後、わたしは遺稿を天理事報社にもちこんだがだめで、嘆いていたら、最近、 彼の姪御が姉と二人で自費出版するという。「序文をあなたに」というので、わたしは辞退し、天皇に哲学史を親講した野田又夫博士にたのんだ。 この人も『コギト」に日高次郎の筆名で何度か書いてくれた英独仏ラテン語ギリシヤ語べらべらの天才である。

 『コギト』第九号は昭和八年の一月号で、巻頭は松下の「作家のパトスと作品の構造」、次は中島の「二つの方向―「旅の誘い」と「善悪の彼岸」と―」という力作。 保田は「ハダの仏頭」というエセーを書いている。わたしもきびに附してシュトルム(Theodor Storm一八一七〜八八)という小詩人(マイナー・ポエト)の詩を訳してのせた。

 第十号は中島の「文学に於ける『距離』の問題―ファンタジー考―」というのが巻頭、わたしはまたも小詩人アイヘンドルフ(Joseph Eichendorff 一七八八〜一八五七)の詩を抄して訳した。 肥下は「炎天の家」、杉浦は「冬」、松田は「母」、薄井は「おしなさん」、保田は「蝸牛の角」という風に小説が連載された。巧拙はともかくこれが保田の所謂「協同の営為」であろう。 第九号の末尾には『コギト』既刊総目次がのっている。保田が一号も休まず書いているのが、これで明瞭である。はし折って書くが、第十号は昭和八年三月刊行で、 わたしは「アイヘンドルフ詩抄」と相変らず二流詩人Joseph Eichendorff(一七八八〜一八五七)の詩の抄訳をのせ、保田は「桐畑」という小説、松田明は「邂逅」、 野上吉郎(石山直一氏)は「或る教授の半日」というのを書いている。みな今のマスコミには向かないが真剣であることは認めねばなるまい。

 野上氏は卒業の年を迎え、わたしたちは大学の二回生となった。保田は四月号(十一号)に「作家の危機意識と内在の文学」という論文を巻顕にのせ、 松下は相変らず大東猛吉のペンネームで、保田につづいて「作家のパトスと愛の問題」という良い論文を書いている。 これにつづくのは「『唯物史観芸術論』の排撃と唯物史観芸術論の新建設」という勇ましい論文が載る。著者は高山茂とあるが、実名はわたしたちの同級で、東大を中退する長野敏一である。 彼はこの間、熊本の私立大学の学長をやったという功綾が認められて勲三等をもらった。戦争中は大本営につとめて「ユダヤ人の研究」をつづけ、サイパン陥落の直後、 新宿駅で遭うと、「日本はもう負けたよ」といって奥さんの生まれ故郷熊本に逃げて、戦災にも会わなかった様子である。長身の彼に一度会いたいものである。

 肥下が同号には「しのぶ」という小説を書いているが、これは横光を指向したかれの最後の小説である(未刊の一篇がもう一つある由、未亡人から聞いたが、 いま手許にはないと嘆いておられた。保田の弟子が巧みにもって行ったとのことである)。

 わたしは同号に「多摩川」という小説?を書いて、この間、大岡信氏がそれをよんで引用(わたしに無断で)しているのを見て、穴があったら入りたかった。 親から仕送りを受けている大学生が、某百貨店の店員をしていたわたしの家内と多摩川にデートにゆき、工員たちからひやかされ、恥かしがって自己批判している、 幼稚ながら極めて正直な話である。彼女は紅いベレーをかむり、わたしは制服で角帽であった。そのころ親しかった佐藤竹介(杉浦の友だち)に見せたと見えて、彼は中国へ出征して、 「赤いベレーの小説がなつかしい」と便りをよこしたあと戦死した。「命長ければ恥多し」わたくしの生涯は屈辱の連続である。わたしは更に「神々の黄昏」とハイネの詩の訳をのせた。 ハイネは後期浪曼派だったと、ブランデスGeorg Morris Cohen Brandes(一八四二〜一九二七)が「十九世紀文学主潮」(訳あり)に書いている。(わたしはゲーテより、ハイネの方が好きで、 戦後角川書店から、「ハイネ詩集」、「ハイネ恋愛誌集」というのを出し、後者は五十版を重ねたが、今は絶版となり、古本屋でも見ない)。

 ハイネもブランデス(デンマルク生まれ)もユダヤ人である点は共通だが、ハイネは大学教授になりたいあまりプロテスタントに改宗したという点は弱いが、 その間、ドイツの詩でも最高の、キリストを三位一体の神をほめる唄を作っている点は、公平に認めてやらねばならない。パリでマルクス(同じくドイツ生まれのユダヤ人)と親交があって、 マルクス主義に傾倒したとはいうが、親類や、フランス政府から金をもらってなど責めるのは、可哀想である。高山樗牛はハイネの詩を読んで何度も泣きあかしたといっているが、 それは失恋の詩に対してであって、わたしとは違う。

 わたしはこのあとも『コギト』にハイネの『ドイツ(冬物語)Deutschland,ein Winter Märchen』を訳し注をつけて『コギト』に連載し、 杜甫と同じくらい彼に傾倒したが、自己弁解とそしる人には仕方がない。ただハイネの生まれたデュッセルドルフには、記念館があるが、ハイネ大学はなかなか建たない由、 ユダヤ人だからである。これはわたしがキリスト教に改宗してから尊敬したてまつっている竹森満佐一先生のドイツからのおハガキでお教えいただいたことである。 とまれハイネが朔太郎とともに浄罪界で許されることを祈っている。

 保田は『コギト』には書かなかったが、戦後、子供の時通った日曜学校で、先生から地獄のこわさをこまごまと教えられ、キリスト教はきらいになったといい、死後、戒名を受け、 仏教徒として眠っている。これも浄罪のため煉獄ゆきである。よほど下手な説教を聞いたのだと思う。

 また余談になったが、『コギト』の第十四号は中島の「小説の二重性格とモラルの問題」が巻頭で、これはいい論文であるが、 次は保田(井原左門の筆名)の訳になるE・ソロヴィヨフの「ドストエフスキー―精神病理学者あるいは精神錯乱者として―」の訳が載っている。 岩波の『西洋人名辞典(増補版)』を検したがソロヴィヨフ Soloviyovは、一八五三年生まれ、一九〇〇年死のVladimir Sergeevichの間違いかと思う。 これは十九世紀末および二十世紀初めの反動思想に多かれ少なかれ結びつきをもたらした哲学者、文明批評家、詩人で、ロシア語のよめなかった保田は英語の短かい論文を見つけて訳したのであろう。

 同号はまたL・ファビアンの「クロオド・ドビュッシー(人と芸術)」の訳の第二回をのせる。第一回は『コギト』の第十一号にのり、 訳者松浦悦郎は「著者ファビアンについての詳細は知り得ない」といい、D.M.Vから出版された僅か百ぺージにも足りない“Claunde Debussy und sein Werk 1923”の訳だという。 前掲岩波の辞典に当ったが見当らないから、途方に暮れたが、松浦はこの年五月七日に死ぬ。死の直前見舞ったわたしに「もう駄目かも知れないぞ」と語って、答えに窮せしめた。 病名は肺結核で、この患者は死の直前まで希望を棄てないことをわたしは立原道造(その遺言は「元気になったら『四季』よりよい雑誌を作ろう」であった)その他で知っているので、 松浦のこのことばに、わたしは咳し痰を吐く、東大芸術学科美学美術史で音楽史、特にドビュッシーAchille Claude Debussy(一八六二〜一九一八年)という天才を研究した友を回想して感に耐えない。 松浦はこのフランスの音楽家の小伝をドイツ語の本で読んだのであろう。

 第十四号は彼のための追悼のぺージをさき、同人以外に文乙文甲の同級生が十四人書いた。肥下がトップで保田が最後である。わたしはそんなわけで、 令兄から頼まれ遺稿集を編んだ。シューベルトとフォスターを愛するわたしとしてはドビュッシーは喫茶店で注文して聞いたが一向にわからなかったので、 松浦のこの遺稿集編集は大変つらい仕事であったが、保田の「共同の営為」という言葉を思い出してこらえた。

 話が前後するが、伊東静雄は佐賀高校、京大国文学科卒業という全く異境から、「協同の営為」に参加して、第十五号に「病院の患者の歌」、第十六号に「新世界のキィノー」、 第十八号に「海水浴」と、今は稀覯の『わがひとに与ふる哀歌』に収める作品を書き出し、同人費も収め、「コギト」の価値を一層高めた。 保田もそれに刺激されて井原左門の別名で「ホーレン(第十八号)」「ディオティマ(第十九号、第二十二号)」などの詩を書いた。巧みなものである。

 肥下恒夫は編集に追われていながら(わたしもこのごろ『四季』を主宰しているが、同人の選定、編集、印刷、校正、同人費の受取り、雑誌の送呈に追われて、 わたしの企図する『元明の白話辞書』、訳注『五雑組』など一向に進まない)、第十七号には「使徒の群」という佳い詩を書いた。但し小説の方は全くお手あげとなったのは気の毒である。

 前掲野田又夫博士は第二十五号に「雑考」と題していいエセーを書いた。 わたしもこの号からノヴァリスNovalis本名Friedrich von Hardenberg(一七七二〜一八〇一年)の“Heinrich von Offerdingen.”1800を『青い花』との別名で訳し出した。 ドイツ語もできないのに少年若気のこわいもの知らずで、誤訳もひどいものだったが、これも長谷川巳之吉氏の目にとまり、第一書房から刊行されて、 版を重ねた(初版1500部、再版1000部※1)。これはドイツ浪曼派派の代表作と称されているもので、テキストは中島栄次郎が貸してくれた。尤もこのごろレクラム版の出ているの発見して、 やっと気が晴れた。
 わたしはその刊行のころ大阪の神官の作っている浪速中学の教諭をして、月給八十五円をもらい、従妹のまた従妹となる青い細い(このごろちょっと太り気味)柏井悠紀子と結婚して、 高師浜に家構え(家賃十二円)、『青い花』の出版された時には長男をこさえていた。従って来年は金婚ということになる。恥かしいことだが披露しておく。

 『コギト』の発行所は昭和九年六月より町名が改正されて、中野区大和町二五二となった。もとより肥下の家である。 (わたしは一昨年かそのあとを尋ねてみて、建て直しもしてないので、写真をとって肥下未亡人に送り感謝された。今もそのままなら五十年の古家ということになる。) わたしの今住んでいる家も昭和三年に建ったとかで、少し改造したが、近隣一番か二番の古家である。何とか悪銭を手に入れてパリッとした家にしたいが、恩給ぐらしの上、 色いろと物の出があってそれもかなわない。訪ねて来る人はみなわたしがその中で万巻の書に埋もれて勉強しているのを見ると悲しい顔をする。学者とはつまらないものである。

 また話がそれた。『コギト』は第二十六号より方針を変えて、同人以外にも門戸を開放した。亀井勝一郎(保田の感化で『大和古寺風物記』というのを書き、 熱心な仏教信者となり、癌の病床を見舞う友人に極楽往生を説いて当惑させた)の原稿は『青年』に就いてと題し、よく読まれた林房雄の転向小説に同感の趣をしるしている。 本庄陸男というこれも左翼から転向した作家(昭和十四年三十歳で逝去)の「添書」という小説も載る。大山定一というすぐれたドイツ文学者がトーマス・マンの「魔の山」についてのエセーをのせる。 『コギト』は変ったのである。(大山氏は「赤い」という評判で、京大でもなかなか教授になれなかったと、わたしはうろ覚えしている。まちがっていたら勘弁して下さい。)。

 第二十七号には植村鷹千代氏の「孺子の腸」というのが載っている。植村氏は東大の美学美術史で、保田や肥下と同級か。大和高取の殿様の嫡系で、世が世なれば子爵である。 保田がたのんで書いてもらったのであろう。神保光太郎という、これももと左翼の詩人の「雪崩」という詩も載る。わたしは大阪にいて東京は賑やかだなと、 仕方なく中学の教師をしているのである。

 話はあともどりするが『コギト』第二十三号にはわたしは憤起して『西康省』という日本一長い?詩を書いた。 卒業論文も書き了え(わたしは主任教授池内宏博士から「君からは教えられた」とおほめの言葉を頂戴し、この論文の概要を歴史の雑誌に発表すると、早速中国の雑誌に訳がのるということで、 たしかにわたしは大論文を書いたのである。最後を漢詩でしめくくったなど見事なものとわれながら自慢している)たあとの傑作である。

 第三十号は『独逸浪曼派特輯』と題し薄井のシュレーゲル(ドイツロマン派の主宰August Wihelm von Schlegel 一七六七〜一八四五年)の訳が巻頭、 次は肥下のティーク(Johann Ludwing Tieck 一七七三〜一八五三年)の短かい論文の訳、次いでは神保光太郎、保田、玉林憲義、興地実英先生(旧制大阪高校教授、 わたしたちはドイツ語をこの先生と安井、本庄の三先生から習ったが、学習院大学名誉教授で今なお御健在のロベルト・シンチンガーRobert Schinzinger先生はローレライをはじめ、 ドイツのリートをお教え下され楽しい授業であった)、日高次郎「島々―ヘルデルリーン考」、中島と良いエセーもしくは訳がつづき、 伊東は「わがひとに与へる哀歌」という代表作をのせている。小高根二郎君の説では「わがひと」は伊東の恩師の令嬢で、伊東の片おもいだった由である。

 次はニコライ・ハルトマン(Nicolai Hartmann一八八二〜一九五〇)の小論文を服部が訳し、大山定一氏は評論、芳賀檀が「古典の親衛隊」とのエセー、 亀井も「ハムレツトとドンキホーテ」というエセーをのせているが、これがドイツのロマン派とどんな関係があるのかわたしは再読する暇もない。 それより大切なことはこの号の末尾に框組みで「日本浪曼派広告」というのがのり、三十三号まで連載される。発起人は神保、亀井、中島、中谷孝雄、緒形隆士、保田の六人であるが、 佐藤春夫先生を首領とするこの派は加盟者五十人を越したが、いまだに復刻されず、わたしは伊東静雄から「保田さんは役人と教師は入れないといってるそうですよ」と聞いて、 もとより加入しなかった。この「広告」の筆者が保田であることは、文体から明らかである。近刊の『保田与重郎全集』にはぜひこの文を加えてもらいたいものである。

 『コギト』は次の第三十一号も特輯で、今度は詩の特輯、わたしが巻頭で、山村酉之助、伊東、中原中也、草野心平、三浦常夫、蔵原伸二郎などが顔をならべ、 保田はわたしあてに「二人の詩人」という題で、伊東とともにわたしも見込みがあるといっている。

 ここまで書いて来ると、もうシンドクなった。『コギト』は友情によって結ばれ、肥下恒夫の献身的な奉仕によって成った雑誌である。保田は毎号書き、 彼がいなければ空白のぺージも多かったろう。しかし戦後かれの書いた本をよんで、農業を志し、自作農としてわずか二反の田を耕やし、 貧に悩んだ肥下はついに自殺の途を選ばねばならなかった。死の直前、京都まで保田を訪ねて行った由だが何を語したか。保田は葬式に列したが何もいわなかった様子である。

 『コギト』の同人や寄稿者は或いは戦に倒れ(中島、増田晃、薬師寺衛、五十嵐達六郎教授)、或いは結核で死んだ(松下武雄)。長尾良は胃癌であった。 肥下の葬式に列した服部は白血病で倒れ、保田も死んでR火忌というので、わたしは列席したが、R火の話など出ないので、 中座して肥下夫人を訪ねて仏前に供え物としてR火忌のお返しを供えた。保田の死因は肺癌であったが、入院直前までタバコを吹かしていた由である。

 ※1正しい回想によっておぎなった。


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