(2007.02.13up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集
【回顧】 アルバム
父からわたしの貰ったものは無類の疳積もち(このごろ起りが殆どなくなった)と詩歌愛好(木下利玄、鴎外「水沫集」などを父の蔵書で読んだ)、痩身(このごろ38キロ)、 「瓢然たる歩きぶり」(還暦祝に集めた教へ子の文章の中にさう書いてあった)その他であるが他に形をもって残ってゐるのは一万首の遺詠とアルバム一冊である。 アルバムにはわたしの母との写真が貼ってあって、今の母に悪いと思って遺児のわたしに持って来たものと思ふが、いつ貰ったかおぼえてゐない。わたしも永い間もらったままにしてゐたが、 阿佐谷に来て隣に住む母のいとこ船越こせん嫗に説明してもらったので、孫になるわたしの子らのためにも説明を書きのこしたく思ふ(この性質も父から譲り受けた)。
母田中これんは明治19年兵庫県三原郡賀集村(生日不明)に生れ、大正4年10月7日、わたしの五歳の時に亡くなった。その五十年祭を今の母の首唱で、 教会で行ったのがもう8年にもなる昭和39年のことである。父田中甚四郎(甚城と改めた)母船越こしげである。
みちもせに野茨咲くらむ少女の日わが踏みなれしふるさとの道
といふ歌がのこつてゐて、大阪へ出てからの作であるが、アルバムの写真はのいばらを踏んでゐた少女時代から姶まってる。
船越こせんと二人、髷を結って写ってゐるのがそれで、年齢はほぼ同じである。母の弟妹たちにいくらか似た部分をもつてゐるのが母自身で、 「これはわたし」と船越のおばが教へたのは覚えちがひでないかと思ふほど似てゐないが、このおばも50年祭のあと亡くなったので、もう問ひ返す法もない。惜しいことをしたものである。
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母の十代の写真はまだ三、四枚あつて、みな淡路の田舎少女の姿である。珍らしいのは母の姉じょうと列んでゐる写真があり、
菊川こたまとわたしの大伯母きみが菊川きよのといふ少女を囲んでゐる。これらの名だけ船越のおばは教へて死んでしまったが、
菊川こたまはわたしの祖母(船越)こしげの母が菊川イトなので、母のいとこに当るのであらう。苗字が珍しいので、先年、
湊(いま西淡町)の菊川兼男さんから「淡路が生んだ世界的音響学者田中正平」といふ版刷を贈っていただいた時、「御親戚にこたまといふ女性見当らずや」との問合せしたが御返事は来なかった。
田中正平は鴎外の友で、これも先年、鴎外の令息於菟博士ならびに末息類氏と同座した時、類さんに申上げると、類さんは正平夫人を美人だったと覚えておいでであった。
そのことで「鴎外の友田中正平」と題して書き「果樹園」にのせたが一回で止めた。田辺尚雄さんの「明治音楽物語」の一齣のほか伊藤完夫教授の「田中正平と純正調」などの本が出てゐるので、
ごらんあればと思ふ。
じょうはわたしの母の姉で、洲本の伊藤家に嫁し、一女徳を生んだあと死んだ。徳は従ってわたしの従姉に当るが、徳の祖父伊藤重義は昭和19年100歳で死に、 祖母いとも20年9月87歳で死んだので、長命であるが徳はこの祖父祖母にただ一人の孫として可愛がられ、死水をとることとなって未婚のまま60歳を越え、伊藤家はこれで断える。 わたしの母に似て丸い眼をしてゐることだけ知ってゐるがつきあひは殆どない。伊藤重義はそんなわけで洲本市内に頌寿記念碑が立った由であるが、今どうなつてゐるか。 淡路へわたしが行ったのはただ二回でもう一度いってこんなたぐひをしらべてみたいと思ふが、なかなかそんな暇も見つからない。
菊川きよの写真はもう一枚あり、母と二人だけ並んで写ってをり、母の字で「明治36年4月写」とはっきり書いてある。母は十代を淡路で過したのである。
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わたしの母方の祖母が船越氏であることは前に記したが、娘二人を生んですぐ亡くなった様子である(没年、病名はもう誰も語れない)。祖父は昭和34年が50年祭といふので、叔父叔母、
いとことわたしも墓参りに淡路へ行ったから、亡くなったのは明治43年だらうか、命日は5月9日である。祖母が亡くなるとすぐ代りが来て、その腹の叔父が三人、叔母が一人、
この間までそろってゐたが、中の叔父が一昨年急死した。この叔父だけはわたしに「姉さん」のことを時々話してくれた。明治32年生まれで、母(19年生れ)とは年がちがってゐたからあまり信用できない。
叔母も30年生れで、「わたしがお前の母に一番よく似てゐる」といってくれるが、写真で見る母はこの叔母よりふっくらしてゐる。八つ年下の叔父を歌った母の歌がのこってゐて、
強きこといひてかへしし弟の頬の痩せおもひ涙し流る
とあり、きつい姉だったことを示してゐる。祖父も後母や腹ちがひの弟妹との間のことを心配してであらう、大阪のミッション、スクールに入学させた。ウィルミナ女学校といふのがそれで、 今は何といふか。ここを卒業したあとプール女学校といふ学校の専攻科?に入学した。明治41年12月撮影のミス・ショーのバイブル・クラスの写真といふのがのこってゐる。 母は前列の藤井さんと亀田さんとの間に坐ってゐて、皆より少しふけてゐる。数へ年23才なのだから当然であらう。母から子守歌を聞いたおぼえもないが、 昭和39年母の50年記念会を開いた時、わざわざ上京して出席した叔母が「姉は雪よりも白くといふ賛美歌をよくうたひました」と話してくれた。 この歌は今も賛美歌集に521番として残ってゐて、リフレーンの箇所が、「わがつみをあらいて、雪より白くしたまえ」といふのである。しかし母の負うた罪は何であったらう。 母はわたしのやうに洗礼を受け日々罪を悔いることはなかったやうである。 (昭和47年12月〜昭和48年3月「果樹園」202,203,204[終刊]号)