(2024.11.01up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集
萩原朔太郎先生を思ふ 『コギト』126号 昭和18年1月
萩原朔太郎先生を憶ふ
昭南島にゐた時のこと、たしか五月の終りのことだつたと思ふが、自分は海岸通りの大阪毎日新聞の昭南支局に行つた。そこには内地から送られた新聞の綴りがあつてそれを見るのが戰地にゐる人間にとつては大變な楽しみなのである。さうして何気なくくりひろげてゐる中に目についたのは萩原先生御逝去の記事であつた。
それより先にも白鳥庫吉先生、佐藤惣之助氏の御逝去のことは同盟ニュースを通じて知つてゐた。何れも亡くなられて二日とたたぬ内に知つたのであるが、萩原先生の方は無電で来なかつたので、この時はじめて知つたわけである。
この時の氣持は丸山薫氏あてにスマトラから送つた三首の歌で、拙いながら記したつもりである。
海青き南の國土(くに)にわがありて萩原大人の訃報を聞くも
海の風吹き通るとき擴げゐし新聞に見る凶(まが)のまがごと
わが來しはふるさとのひと恙なくまさきくあれと念じつつ來し
戰地で聞く内地の便りの中で、最も聞きたくないのは不幸の便りである。自分の生命のことは今更惜む気持は毛頭ない。その代り内地の人が幸せで元氣でゐることのみを念じてゐるのである。闇取引をしたり、日本人同士で喧嘩したりしてゐるといふ便りほど戰士の心を痛めるものはない。四月十八日の東京空襲も我々の心を痛ましめたが、それは直ぐと大したことがないことがわかり、その時の嬉しさつたらなかつた。しかし萩原先生の亡くなられたことだけは疑ふことが出来ず、その後すぐスマトラへ行つてからも自分は忘れることが出来なかつた。
暑苦しい部屋で机に向ひ先生のことを五枚書き六枚書きして、書き切れずに筆を措いてしまつた時の口惜しさ、お葬式に女房が代理で行つて呉れた由はずつと後の家信で知つたが、もとよりそれで満足出来る筈もなかつた。
それからまた數週して、内地からの便りがついた。その中に葉書が一枚あり、先生御自筆のものであることは疑ひなかつたから、この時の氣持も泣き笑ひであつた。
「御近況想像して美しく存じます。いつか御令関が遠方から土産を持つて見舞に来られ御厚志恐縮しました。小生の病氣その後追々悪化し、目下は病床中に絶體安靜、萬事人手を借りてゐる仕末、醫師からは重態を宣告されてゐる有様、日夜の苦惱、
床中で泣きわめいてる慘狀、御哀憫下さい。」
日附は四月二十六日、恐らく先生の御絕筆に近いものと思ふ。
しかしそれよりも尚ほ悲しかつたのは歸還後、自宅に保存されてあつた二月十日付の自分宛ての御手紙を拜讀したことであつた。先生の御病狀はこの手紙に一層よくあらはれてゐる。
「寒中御見舞ひ申上げます。
「四季」二月號の編輯後記を拝見。君を始め同人諸君に御心配をかけて居る様子で、たいへん恐縮に存じます。小生の病氣も舊冬以來大分長びいて居ますが、別に憂慮すべき状態ではなく、ただ一種の習性的な全身衰弱症で、いはば虚脱ともいふべきものです。しかし身體非常(に?)疲勞し、夜間睡眠困難で晝間も常にうとうとして居る有様で、神經衰弱のため、いつも目まひがして呼吸が苦しく、そのため一歩も外出ができません。醫者は轉地をすすめますが、今の状態では、あの壽司詰めの滿員列車に乗ることはとても恐ろしくて出来ません。訪問客と對話することも非常に苦しく、五分もすると目まひがして倒れさうになるので、用件の客にも一切逢はず、面會謝拒を続けて居ます。一日の中の大半は寝床に居て、時々炬燵にあたる外、何物も爲ずに暮して居ます。ただ睡眠薬の代用として、酒だけは毎夜床中で飲んで居ますが、それも近頃は手に入らないで困つて居ます。君の方で御都合がついたら、少々御配慮していただけると有りがたい。・・・」
この続きには小生の「楊貴妃とクレオパトラ」の讀後感を記され、透谷賞に推薦して下すつたことが記されてある。
この時、自分は既に従軍してをり、そのことをお便りする由もなかつたので、先生はかういふことを云つて来られたのであるが、愚妻は歸來この御手紙により、自分宛の配給の酒若干をお届けした由である。もちろんこれも歸還後はじめて知つた話である。
先生との御縁は實に薄かつた。始めてお目にかかつたのが、昭和十一年だつたかに先生御下阪の折、伊東靜雄、小高根二郎の二君とお話する機を持つたことだが、先生は初對面の人間には非常にはにかまれるたちゆゑ、殆どお話申上げることもなく、早々にお別れした。
昭和十三年に東京へ移住した後も、なかなか御目にかかる機會を得ず、やつとパノンの會を機會としてお話申上げることとなつたのである。この會は先生が若い詩人たちとの話の機會を持たれるために發議されたもので、丸山、津村の諸氏が助手格、自分もその中に加はつていろいろとお話を伺つたのである。
この時のエピソードも澤山あるが、いつかゆつくり書きたいと思ふ。これより一寸前のことだつたと思ふが、三好達治氏と話しながら萩原先生の詩は読んだことがないと云ふと、三好氏呆然として、「そんな詩人があつたか」と何度も何度も云ふ。實際自分が萩原先生の詩を讀み出したのは、この會で先生が好きになり出してからで、その後、「宿命」の刊行があつてやつと大體、先生の詩に通じたといふのが真相である。
これは自分にとつては却つて幸せなことだつたやうにも思ふ。先生の詩を感じ易い少年の日から讀んでゐれば、自分は恐らく先生のエピゴーネンになり畢つてゐたであらう。虚無と廢頽、これ位、少年のこころを動かす恐ろしいものはない。しかし自分はそれから免れ得たのである。
しかし虚無と廢頽といへば語弊がある。先生の詩にはその底に焼けるほど熱い心情と、眞摯さとがあつた。先生の廢頽は理想をもたぬ濁れる社会への反抗であり、生の虚無は虚禮と形式一點張りの俗人への反抗であつたのだ。
しかし少年の無智無經驗な頭脳にそのことがわかるまでには何年が必要だつたらう。そしてそれがわからぬ中に自分は詩を作らず、詩を読まぬ完全なる俗人になり畢つてゐたことであらう。
自分が南方へ從軍してゐることを知られてからの前述のお便りに「美しい」といふおことばがある。眞の愛國者であつた先生には、ほんとに皇軍の武威と、愛すべき現住民とをお見せしたかつた。先生が早くから知つてをられた大御稜威を自分は従軍してやつと眞に知り得たのである。(歸還後の第一筆としてこれを書く。)
回想の萩原朔太郎先生 『朔太郎研究會會報』6号-7号 昭和41年
(1)
晩年の朔太郎先生を存じ上げているという、或る意味では一番最後の友だちだという気持から、おして参ったわけであるが、私が先生を初めてお見かけしたのは、この歳になるとはっきりしないが、たぶんあの辻野久憲と僕とが、私は大学生で向うは四五年先輩の月給取で、一緒に銀座を散歩して、その頃のいわゆるカフェーにはいっていくと、向うの方にウェイトレスにとり囲まれている方があって、それを見たとたんに辻野君が「よそう、よそう」と言う。どういうわけかというとあそこに朔太郎先生がいるから、と聞いたような気がする。
ひょっとするとこれは反対に、萩原先生と僕が散歩していると、はいっていこうとしたら北原白秋先生がいて、朔太郎先生が「よそう、よそう」とおっしゃったのか、どうも今になってはっきりしない。辻野久憲の場合もありうることであるが、彼が朔太郎先生を僕にかげながら紹介してくれたとすれば、私が大学生であった昭和九年の筈である。
しかし本当に私にはっきりしているのは、伊藤信吉さんのこの『朔太郎年譜』にあるように、昭和十一年、先生が五十一の時の夏、大阪に参られ、これはNHK大阪放送局で、先生、佐藤惣之助先生、百田宗治さんというその頃の大詩人が、詩の座談会もしくはそれぞれ断片的なお話をなさったことがあったが、関西の詩人達が皆大喜びをして、今も憶えているが、心斉橋筋に明治屋という喫茶店があって、そこで先生達の歓迎会をした。座談の花形はもとより朔太郎先生であったと思う。
会が済んだ後、この間伊東静雄の非常に大きな伝記を書いた小高根二郎君がいて、彼が前から朔太郎先生を存じ上げていて、そして伊東静雄と二人で
「これが田中克己」と紹介してくれたわけである。
このことは、伊東さんのこの『年譜』によると、八月二十一日、従兄の萩原栄次さんの病気見舞に大阪へ行かれた時のことだと推定して書いてあるが、これは間違いで、六月の大阪放送局へ行った時だということがはっきりしている。
そんなふうにして御紹介を受けたので、私は大変喜んで、丁重におじぎをして、先生から何かお言葉があるかと思って待っていたが、先生上目づかいにホっとおじぎされ、そのまま横を向いてしまって、私は大変がっかりした。
私は昭和十一年頃には萩原先生と同じ『四季』の同人で、それから私共が毎月十円ずっ集めてやっていた『コギト』に、萩原先生がたびたび御寄稿になったのも昭和十一年の始めの頃からだったので、田中克己というやっはどういうやっか、会ってみたい話してみたいという顔をされるかと思ったら、
先生すぐ横を向いてしまわれたので、私は大変嫌われていると思って、早速家に帰ってしまった。その後は小高根君、伊東君などが先生を新世界という東京の新宿にあたる所へ御案内して、そこでどういうことがあったかは、小高根君の伊東静雄伝にわりあい詳しく書いてある。
しかし小高根君は聞かなかったかもしれないが、その時のことでひとっ憶えていることは、その後伊東静雄君に会ったところ、彼は、あれから新世界の湯わかし温泉に一緒にはいったら、「萩原朔太郎さんというのは、こえてたよ、いやらしかったよ」と言っていた。これは伊東静雄を読んでいない方にはわからないと思うが、伊東静雄というのは大変そういう言い方をする男なので、彼は最後は結核で昭和二十六年に本当に骨と皮になって亡くなったが、非常にやせていて、私もこの頃だんだんやせて今、体重三十七キロだから骨と皮ばかりだが、そういうわれわれには大変うらやましい先生が、その頃五十一才であったがまだみずみずしい体格なので、よろこんでそう言ったのだと思うが、伊東的ものの言い方であったのを憶えている。
そんなわけで、せっかく昭和十一年にお会いしながらそのまま過ぎて、昭和十三年、先生が五十三才の時、私は東京へ出てきた。それは『四季』がだんだん盛んになってきたし、大阪にいてはやっぱり詩が出来ないと思った。萩原先生はじめ東京には先生が多い。この「先生」という言葉だが、実は萩原先生とその後連れ立って歩いているとき、先生、先生と言うたびに必ずお叱りになった。「おめえおれの弟子じゃないじゃないか、萩原さんと言え」と言い直しをされるが、もう癖になっていた。初めの頃には萩原先生と言っても誰にでもっける「先生」のっもりで受けとられたのか、おとがめにならなかった。
昭和十三年に東京へ出てくるその前の十二年に、その準備に東京の形勢を見るために出てきて、去年(※1964年)まで生きていた三好達治さんのところへ一番に行った。すると大変喜んで、その頃は奥さんがいて、そのおじさんに当る佐藤春夫先生のところへ私を連れて行って、御紹介いただいたが、その後三好さんは奥さんを(※里へ)もどしてしまったものだから、私は三好さんにっくべきか、佐藤先生にっくべきか、佐藤先生の方がありがたいものだから、私は佐藤先生のお弟子の立場に立っ、しからば三好達治は、先生が憎んでいらっしゃる方の人なのだから、私はあんまりおっきあいしないようにした。こんなに早く三好さんが亡くなるとわかっていれば、やっぱりもう少しおっきあいをしておきたかった。昭和十二年には、佐藤春夫先生の可愛い姪御さんのおむこさんとしての三好さんのところへ参って、佐藤先生にもお会いしたのであった。
そうした後で、『四季』の同人達が軽井沢で会をするから、「おめえ行かねえか」と三好さんが言う。私は『四季』の方たちみんなに会えるのだからと思って「行きます」と言って、七月か八月か忘れたが約束の日に上野駅で待ち合わせた。
この会はもとより方々へ予告したのだから、『四季』の読者は五百人いるのだから、ずしぶん多勢集まるのだと思ってその用意をして行ったところ、
柱のかげにぽっんと只一人、三好達治だけがいた。私が参って二人になり、三好さんはにっこりしてうれしそうだった。まだまだ来るのだと思ったが、
誰も来やしない。予定の汽車が出そうなので二人だけで乗った。
榛名、赤城、妙義という上毛三山を私はその時初めて見た。たぶん高崎を過ぎて、それまでひるねをしていた三好さんがむっくり起きて、そして「田中、田中、おめえあの朔太郎先生の詩をどう思うか」とたづねられた。私は正直者だから、朔太郎先生の詩はまだ読んでいないと言ったら、三好さんはもうびっくりして、そういう詩人がいたかと驚いていた。
私以前、詩人たる者は全部教科書にして朔太郎の詩を読んだ。私は朔太郎の詩を読まないで詩を書きだした最初の人間なんです――そう一言私は言った。昭和十二年は先生は五十二才で、もうそれから後には先生はほとんど詩をお作りにならなかった。先生が詩を作っている間、私はちっとも先生の詩を読まなかった。そういう変ったことで三好さんをびっくりさせた憶えがある。
こうして追分の堀辰雄の宿の油屋へ行ったところ、そこには立原道造、それから深田久弥、それから河上徹太郎がおり、皆同宿していた。一度軽井沢の方へ散歩に行こうじゃないかと出かけると、室生犀星という先生もいてお目にかかる、川端康成先生もいてお目にかかる、しかし朔太郎先生はお見えにならなくて、昭和十二年にはお目にかからない。
昭和十三年、先生が五十三才のお歳の時、私は何としても東京に出ると申して、出てきた。すぐ先生にお目にかかったかどうかはっきりしないが、十三年には、先生に大変可愛がられていたお弟子、とは言えない友人に、保田与重郎という人がいて、その結婚披露宴があった時、岡本かの子、佐藤春夫、萩原朔太郎、倉田百三というような方々、丁度「新日本の会」というのができてそういう人たちが皆出て、お祝の言葉がのべられたが、この時に私は同席していた。
しかし私はまだ、先生がこの前は初対面――ともかく人間というものはすぐに信用してはいけないというお気持があったことを考えなかったものだから、こんども、向うからお話しがない限りは、こちらからお話ししなかった。そんなことで、何にもお話しなかったように憶えている。
しかし、昭和十四年になってパノンの会というのがあった。
『四季』に広告が載って、萩原朔太郎先生が詩の講義をしたい、同人も多勢出るから、『四季』の同志達は出てこい、ということであった。私は前の追分油屋の会でこりているから、もし私が行かなければ、同人の誰も来ない、来ても一人か二人、非常にさびしいのじゃないか、そういう考えがあるものだから、出かけたところが、出席は私が一番よかったが、他の人も出て、常に同人三人ぐらいは出ていたように憶えている。私の次によく出たのは神保光太郎、それから丸山薫、津村信夫。
『四季』の同人や会員を集めたわけを、先生(※は御自身)の考えを、始めにこうおっしゃった――僕は詩の研究講義会と書いておいたが、明治大学で詩の本質を何とかという講義をして、それから文化学院でもやっているが、僕の生徒達は僕の講義をちっとも感心して聞かない。本当にひとり言を言っているような気がする。それで今ここに集まってもらうのは、『四季』の同人であり読者であるから、詩が好きな人達であるに違いない。ここでいろいろと、明治大学や文化学院の講義を訂正していきたいから、君達同人は横にいて助教授のっもりで僕を助けてくれよ、それから会員諸君はどうぞ遠慮なく、後で質問して下さい。――ということであったと思う。
それから先生はとうとうとノートをお読みになる。ところが、三十分か四十分お読みになって、このへんですこし休憩するが誰か質問はないか、と言われたが、誰一人質問する者がない。それから、「丸山君、田中君、何か言うことないかい」。誰も何も言わない。先生がっかりなさった。
二回目であったか、今日は東洋の詩の話をしようと言われて、そこで東洋の詩のことは僕はあんまり知らないんで、田中君、支那の詩のことは君の専門だから、君説明してくれや、そうですか、というわけで私がやった。
私もあまり知らなかったが、支那の詩には字数すなわち音に規則があって五音なり七音なりでなければならないという、その音のこと。次にはヒョウソクというのがあって、ヒョウヒョウソクソク・ヒョウソクソクというように順序がきまっていて、ヒョウヒョウヒョウというように同じ調子の言葉ばかり使ってはいけないということ。三っ目には、支那の詩には西洋の詩のように脚韻というのがあって、最後の所は母音もしくは母音プラス子音になっているということ。
そんな程度のことを話すと、先生一生懸命にそれを感心して聞いて、そんなことは生まれて初めて聞くという顔をしていたので、私は本当に恥ずかしいやら、なんて正直な人なんだろうと思ったりした。
先生はこの時五十四才、丁度今の私と同じ歳であったが、いかに先生が私のような俗人でなかったかということを考える。先生は私などとはまるきり違っていて、五十四才のその時も本当の詩人であり、詩のことならまだ何でも勉強するという姿勢があった。
その会はそんなふうで、第一回は四月にあって、始めは萩原朔太郎先生を中心とする詩の会ということでハガキを出したが、それはめんどうくさい、
この会に名前をっけようということで、萩原先生がっけたのがパノンの会という名前である。
どういうわけでこの名前をっけたかというと、会場がパノンスという喫茶店であったから。私は不勉強で「パノンス」とは何語か知らないが、「ス」はたぶん複数の「ス」ではないかもしれないが、英語にしろ支那語にしろ、「ス」があるかないかはたいへんな違いで、学生諸君よくご存じのように、
複数の「ス」をひとっ落したばかりに、せっかくの入学試験がダメになることもある。先生はその「ス」をポンと落して、「スがっいているとめんどうくさいからな」とおっしゃった。もう嬉しくてしょうがなくて、それでパノンの会という名がっいた。
ただし、パノンの会は、その次からはパノンスが忙がしくなったし、その喫茶店のあった帝国農会というのは、日比谷に近い毎日新聞の筋向いのような所で、やっぱり先生には遠いので、お宅から近い新宿にエルテルという(これは本当にゲーテのエルテルの、あれと同じ名前で)喫茶店があって、概ねここで開くことになった。
エルテルでも、会員達が黙っていて、助教達があんまり先生をお助けしなかったことは相変らずで、それがずっと続いて、十回になって、もうこのへんで打ち切ろうと、先生がそう言って打ち切られたのは間違いない。
ただこの十回の間に、私が一番得意だったことは、先生に大変買いかぶられた。田中はおれの弟子じゃない(詩人じゃない)けれど学者だと。それから二番目に、大変キチョウメンな男だと――なにしろ全回出席で、欠席なしだから。
以後大変先生の信用を受けて、他の方にならお話しにならないことも、或いは承わったのではないかと思う。しかしこれは、この間までいた三好達治、或いはまだいる中野重治さん、そういう方の方が知っているだろうとは思うが、ともかく昭和十四年以後、私がよく知ってからの先生も、まだ本当の詩人であられた。詩はお作りにならなかったが、まだ本当の詩人であられた。と言うのは、先生はいっさい嘘をおっしゃらない。
先ほど言ったように、辻野久憲であったか、それとも先生であったか、はっきりしなかったのは、白秋先生を見かけた場合のことだったが、これははっきり憶えているのは、或る日パノンの会の後のことで、エルテルという会場を出てまっ直ぐに行くとっき当りにビヤホールがあって、行く前に先生は三十分も話をした後だから、その時間中もコーヒーだとかソーダ水ぐらいは出ていたが、何分喉が乾いてるところへ、っき当りがビヤホールだから、
先生はいろうとして、この時ははっきりと憶えているが、「田中、よそう」、「どうして」、「あそこに嫌なやっがいる」とおっしゃった。
そんなふうに、嫌な奴、好きな奴を、はっきり区別していられた。私ども、この歳になるとそんな区別はしていられない。何とかそれをかくすのだが、先生はそれをおかくしにならないで、私にでもわかるようにして、嫌いな奴はさっとお逃げになる。
そのビヤホールをもし逃げるとすると、今は赤青の信号のっいているその向うの所に、紀伊国屋という本屋があって、そのすぐ裏側は飲み屋街で、そこにオデン屋があって、そこへ私はたびたび先生のお供をした。会員の人達は会が終れば解散だが、私はまだ先生に別れられないで、何とかして先生をもっと見たいと思ってっいていく。そういう関係で、先生がお酒を飲んでからの有様もよく知っている。
萩原先生は、私たちの言葉で言えば手品、先生は魔術とか奇術とか言ったが、それが大変お好きで、私も一度「田中君、今からやるから」と言ってカードだかサイコロだか出して、おやりになるのを見せられた。
お酒を飲んだ上でやるのだから、すぐたねがわかってしまう。「先生ダメですよ」「どういうわけかな、おめえがいるから出来ないんだろう」そう言って先生は非常に赤い顔をなさる。お酒を飲んでいるから、いっそう赤い顔になる。
私は先生の魔術なるものを大いに信用してはいるけれど、保田与重郎君は、先生が陸軍病院へ慰問に行って、兵隊たちに魔術をやってなぐさめたと、
『萩原朔太郎詩抄』の跋文に書いてあるが、まあこれはうそだろうと思う。先生自身もおっしゃったが、先生が入会していた魔術の会では先生が一番下手で、やるたびにたねがわかって、そういう意味では兵隊をなぐさめたかもしれないが、さっと開くとさっと鳩がとび出すというようなことは、全然おできにならなかったのだと思う。
げんにエルテルから紀伊国屋へ行く道を、今だと大変な自動車の波だが、その当時は今の前橋駅前ぐらいのにぎやかさだったが、それを先生こわくて渡れない。それで私が手を持って先生を向う側まで御案内する。そういうふうにして先生のお腕にさわったという、なっかしい思い出のあるのは、私だけかもしれないとも思う。他の人は皆意地が悪くて、先生がまごまごしている間に先に向うへ渡ってしまって、ニヤニヤしながら眺めているような感じがある。
こんな話をしているのはまことに学術的ではないが、これは私がただひとっ憶えている先生の、学者としてじゃない、詩人としてじゃない、本当の人間として、こんな方だと見たという意味の、思い出としてお受けとり願いたい。
だんだん戦争がはげしくなって、箱根あたりには重傷者がはいって、戸山ヶ原あたりに今国立病院になっている陸軍病院ができて、そこにもどんどん負傷者がはいるという、そんな時勢になったものだから、銃後の詩人の会というのを一度やろうと、回状がまわってきた。
そこへ私も行ったが、萩原先生も行かれて、合計三、四十人ほど居たかと思うが、その席上で某君がこんな発言をした。われわれ詩人といえどもじっとしてはいられないじゃないか、そこで提案したいが、今から陸軍省へ行ってみて、まず陸軍病院の慰問を申し出よう、そしてわれわれの動きを認められた上で、もう少し日本の詩が盛んになるような方法を考えようじゃないか。
これは詩人にあるまじき政治家的発言であるが、こういう意味のことを言った。その時に先生は黙っていられたし、私も黙っていたが、二次会の酒の席上、たぶん先生が何もおっしゃらないうちに、私の方から言った――某君はけしからん、詩人としてなっていない、陸軍病院の兵隊さんを慰問したい気持は誰にもあるが、そうしたらもっと詩の活動が盛んになると言うにいたっては言語道断だ、何かためにするところがあって言っているようじゃありませんか、先生どうお考えですか。
そう私が言うと、先生は「そうだ、そうだ」と言って、非常に賛成されました。だからもし保田君が言う通り、先生が陸軍病院を慰問されたことが、もしおありだとすれば(私は知らないが)、それは魔術を見せるためであって、詩のことでおいでになったわけではないということを言っておきたい。
(2)
前に言った素人の集まりより後、萩原先生が某君になぐられたことがある。この某君は先に言った発言をした人とは違うが、やはり詩人で、先生より十ぐらい若い人で、今も元気でいるから、名前を出すことは控えるが、これが、萩原さん、あんたはこの非常時に何ということだと、先生をなぐったということを聞いて、いまだにそのうらみを忘れないでいる。
どうして先生がなぐられたかということを話そうと思って、『コギト』を拾い読みしてきたが、この中に、昭和十五年一月号の「歴史の斜視線」というのと、三月号の「能と室町幕府」というのと、二つの論文があるが、二つ共に、北条氏の方は大変悪く言っているが、室町幕府をたてた足利氏のことは、非常にいいとは言わないが、非常に文化的だということを書いている。ひよっとすると、北条氏は鎌倉だが足利氏は近い所なので、或いは郷土びいきがあったのかもしれないが、ともかくこれは大変大胆な発言である。
昭和十五年は大東亜戦争の始まる直前だから、楠正成は神様、新田義貞も神様であるのに、それらの首をかき、それらを殺した足利氏が文化的であるということは、普通の人には言えないことであった。それを先生は堂々と言って、足利氏は能を発達させたり、金閣寺、銀閣寺を造ったりしたが、北条氏はなんだ、というふうに悪く書いて、北条氏の努力したのは戦争のためだけではないかと書いたが、これこそ軍閥の悪口であって、文化人として一番強い発言であったことを、いまさらに私は気がついた。
ああ、やっぱり先生は剛毅な人であって、嘘はひとつもお書きにならない、とそう思った。萩原先生のことを、何たるざまだ、などと言った某君は、
当時こういうことは言えなかった人だ。それを萩原先生はちゃんと言っている。足利尊氏だの足利義満だのは、どこでもほめられたことがなかったが、
そういう時代に義満などをほめている。
というわけで、先生は上州気質とでも言うか、そういう強いところがあり、それと同時に、これも上州気質と言えるかもしれないが、嘘が絶対に言えなかったという、そういう人であったことを、確信をもって言うことができる。
じつは私は上州に対して、正直に言うと反感を持っていた。この歳になるまで、信越線を通ったことは二回しかないが、二回ともこの先生の故郷を素通りした。それは、先生の「郷土望景詩」を読んだときに、ふるさとの人はいかに・・・・・・というふうに、うらむ気持が非常に見えている、というふうに考えたものだから、あんな立派な先生をいじめたふるさとの人たちに会うのがこわいので、それで参らなかったのである。
しかしゆうべ泊まった宿屋の人たちが親切で、今日はまた、朔太郎詩碑の前で出会った女学生の人たちも親切で、ああ上州の人たちはみんないい人だな、と思ったが、その上東京から一時間半でこられることもわかって、こんな近い所ならまたまた参ることがあろうと思う。むづかしい話はまたの折にゆずり、今日は私が拝見した人間としての萩原先生を話したい。
人間としての萩原先生は、そんな風でたいへん勇ましいながら、またたいへん臆病であられた。臆病な時はそれをそのままお見せになるので、私も思わず失笑したこともあるが、或る日、その日は最後まで一緒だったのかもしれないが、のみ屋から新宿駅まで来ると、今でも昔通りの交番があるが、そこを通るときに、交番がこちら側で、「田中君、こっちへこい」と言って、先生反対側を通る。そのわけを伺ってみると、「おれが歩いているとどういうわけか、今日はそうじやなかったが、交番のおまわりが必ずおれを呼び込む」と言われる。
その夜のように八時か九時だと、おまわりも忙がしいから先生を呼び込むひまもないけれど、私がその時ハッと気がついたのは、先生こわがりながらもその交番をのぞきこまれる。これはおまわりに聞いたことだが、彼等の常識としては、交番を通りながら異様な格好をする者はまずつかまえろ、とそういうことになっている。
私はそれを知っていたから、こんこんと先生に申し上げた。「先生、交番の前を通る時は平気な顔をして通りなさいよ、そうすれば大丈夫ですよ」と。しかしつかまえるおまわりさんの方にももっともだと思うことが、もうひとつある。
それは、雨後に先生にお会いしたわけだが、先生は長生きされたお母さまの世話で、最後まで身なりはちゃんとしていたけれど、そのちゃんとした身なりで出かけた先生が、もう私と歩く時間になると、ハネが腰まであがっている。私もたいへん歩き方が悪くて、後に兵隊に参った時に、なんとしてもまっ直ぐに歩けないで、踵のあがる歩き方をして、それでハネをあげるのだが、私のはまず先生の半分ぐらいの高さまでである。
家内も愛想をつかしていたが先生の話をきいてからは安心して「やっぱり先生よりはましなのね」と言う。つまり先生ほど詩人じゃないということを家内も認めたというわけだが、まあそんな格好をしてお歩きになる、そのうしろ姿を見たら、おまわりさんでも「一寸、一寸」と出て呼んで、「君はどこを歩いて来たんだ」と、眠気ざましに調べたかもしれない。
そんなわけで、度々新宿の交番でご厄介になっていた頃、たいへんにこにこして、「田中君いいことがある」と言って、交番でまた呼び止められた時、名刺を出したらたいへん効果があったことを話された。
この『年譜』を見るとわかる通り、先生は明治大学の文芸科の講師をずいぶん長くしていられて、私が知合になるより前、昭和九年からのことだが、
その名刺はお作りにならなかったとみえ、その頃とうとうその「明治大学講師萩原朔太郎」という名刺を作って、おまわりさんにつかまったときにそれをさし出したら、「やあ失礼いたしました、どうぞお帰り下さい」と言われたというのであった。
戦前の大学講師はこのくらい大したものであった。今の大学は教授でもこんなつまらないもので、講義もつまらないが、交番にでもつかまって大学教授の名刺でも出したら、「おめえだろ、安保や日韓条約に反対してるのは」と言って、よけい帰してくれないかもしれない。先生のばあいの名刺の話は、これは先生から承わったうそのない話である。
昭和十六年から先生は大分体が悪くなられた。その年の正月、私が参った時、伊藤信吉さんも来ておられた。或いはこの年の半年ぐらいは人に面会なさったかと思うが、まだ面会謝絶にならなかった頃のこと、或る日私が参ったところ、奥の方から、どうもはっきりしないが、「サク」と言う声がきこえた。たしか「サクさん」でもなく「朔太郎」でもなく、「サク」と言われたらしい。
これが先生のお母さまの声だった。すると先生は「ハイ」とおっしやって、たいへん行儀よく出て行かれた。まるで七つぐらいの坊やさんが、しつけの強いお母さまによばれて行くときの、丁度そういう様子であった。私はそれをたいへんうれしく拝見した。
それより前に先生がおっしやった。いつもお母さんとてもきつくてね、おれにはあの毎日出るときには小遣をきめてしか渡さない、それから帰ってからでもへんな格好していると叱られるんだからね、とそんなふうに言って先生はお母さんをこわがっていたけれど、渡されるのが十円と言ったか、五円と言ったか、今の金にすると、散髪料なら千倍になっているのだから、大したお小遣になるが、それだけを渡されて、これ以上使ってはいけません、と言われていたわけだ。
詩は出来たが、浮世のことにはうとい方であった。「サク」とよばれて「ハイ」と答えたところなぞ、五十過ぎた人とは思えなかった。
べつに先生にお歳をきくような失礼なことをしたわけではないが、亡くなった時、新聞に五十七歳と出ているのを見て、いやそんな筈はない、新聞が先生の歳を三つ間違えたのだと思った。今になって文学史に載るようになると、新聞が間違えたのではなくて、先生が三つ若くさばをよんでいたことがわかった。
先生は最後まで恋人があったというふうに誰かが書いているが、もしかすると、私がその恋人なる方を拝見した只一人の人間かもしれない。津村は知らない、三好さんも知らない、室生さんは何と書いたか今あやふやだが、佐藤さんは知っていたらしいが、その次のこういう下っぱでは、私一人かもしれない。
先生が私に、「ぼくはあの人が好きなんだ」と言われた時、「あんな人が好きなんですか」と私はあきれ返って、「あんな人のどこがいいんですか」と私は言ったが、「聴こえちゃこまる、大きな声を出しちやこまる」と、先生が一生懸命にお止めになった。それがまるで少年の恋と同じようで、どこまでの恋であったかはわからないが、その女の人を先生は好きだったのだろうと思う。
そんなふうにして、いつまでもおつきあいが続いて、今生きていられたとしても、先生は私の父親、明治十六年生れの父親より三つお若いのだから、
生きていられても不思議はないのだが、五十七歳で亡くなられてしまった。すると私もそろそろあの世へ参って先生にまたお目にかかる日が近づいているような気がする。或いは先生のことを話すのは今日が最後でないとも限らない。大事なことは話しておきたい。
先生に最後にご面会した時のことである。「田中君、きみのおかげでひどい目に会ったよ」と言われる。きいてみると、「この間、田中だと電話がかかったから、来いと言って会ってみるとそれが新聞記者で、ずいぶんおれをゆすりやがった。」ゆすられた理由は、時局に協力しないとかいうことではなく、先生の家庭の問題についてで、新聞に載せるとか載せないとか、嫌なことを言われたという。
「田中というから通したのに」という苦情に、私は思わず失笑しながら、「先生、田中といったら鈴木の次に多い名字ですよ、それに私が電話をかけて、田中克己と言わないことがあるもんですか」と言うと、「ああそうだったな」と、大分御機嫌を直したようだった。こんなふうに、先生は或る時はゆすられ、或る時はなぐられ、という人だった。
私がシンガポールにいたとき先生からの手紙が着いた。「小生の病気も旧冬以来大分長びいておりますけれども一種の全身衰弱症で・・・・・・」というふうに書いてあって、今で言えばノイローゼにかかっていたわけで、それだとお酒は呑んだ方がいいのだが、それがもう配給になって呑めなくなった。「酒だけは毎夜床の中でのんでいますが、それも近頃は手にはいらないで困っています、君の方で御都合つけば少々御配慮していただければありがたい」というふうな手紙である。
これが昭和十七年二月十日付けで、これは私がシンガポールへ出発する前々日ぐらいで、私は大阪にいて、家内も大阪まで見送りに来ていた。家内が家に帰えるとこの手紙がきていたので、私の配給の酒を一升だか二升だか持って上ったところ、たいへんお喜びになって、すぐにはお書きになれなかったが、四月二十六日に、「お酒をありがとう、しかし病気はいよいよ悪い」という意味のハガキを、マレー派遣軍司令部あてにお出しになった。
私は、当時昭南と言ったシンガポールで、お酒を呑まないにせ詩人だという、詩人だとすればずるい奴だという、へんな評判をたてられて、島流しになってスマトラへ行くことになった。そのあかつきにはマラリヤか何かになるだろうと、決死の覚悟をした。
決死の覚悟になると何をするかというと、その頃仲のよかった毎日新聞へ行って、おれが死んだら内地の新聞におれが死んだことを載せてくれと、支局へ頼んで、その次に、一寸金を貸してくれと言って借りた、と言うのは、シンガポールの金はマレーだけに通用する日本の軍票で、それから私の行く所は旧オランダ領なので、そこの紙幣は違うから、ぼくの持っているマレー軍票をそこの紙幣と取り換えてもらった。
それに時間がすこし長くかかったので、退屈しのぎにお読みなさいと、新聞を見せられた。萩原先生が亡くなられたということを、その新聞で見たつもりなのである。見たつもりなのに、何かこの頃になって書いたものを読んでみると、その時見たのか、見なかったのか、どうもはっきりしない。
ともかく先生が亡くなられたことは、佐藤惣之助先生が亡くなられたことよりも、後で知ったような気もする。しかも、亡くなられたと知った後で、
たまっていたシンガポールあての私への手紙が、バサッと渡された中に、萩原先生からのハガキがはいっていて、その時には先生が亡くなられたのだということが、本当だという気がしなかった。
内地に帰ればまたお目にかかれるような気もしていた。しかし帰ってくると、先生は亡くなられたのだということがはっきりしてきた。そんなわけで、亡くなった日にも、葬式の日にも、知らないばかりに涙をこぼさなかった只一人の弟子、弟子にもしてもらえなかった弟子、それが私だったということを、結びの言葉として、この話を終りたい。(了)
朔太郎先生の思い出 『無限ポエトリー』昭和 54年7月
朔太郎先生とは晩年のみじかいおつきあひで、作品も亡くなられてずっと後で驚歎しつつ読んだ。しかし暗誦しているのは「父の墓に詣でて」と題した「わが草木とならん日に」を首とする数行の詩だけである。故三好達治氏は私が朔太郎の詩をよんだことがないという一言に「もうそんな詩人が出て来たのか」とびっくりされた。
わたしは春夫をよみ杢太郎をよみ、西脇順三郎をよみ、安西冬衛をよんだが、本当に朔太郎をよんだことなくして詩を作った。朔太郎先生もそれを知っていて、「君は僕の弟子ぢゃないから先生はよしてくれ」とはっきりいはれた。
詩はともかく、私は朔太郎先生との短いおつきあひ(昭和一三年から一六年までの三年余)で本当の詩人を知った。厭人的であった先生も私には遠慮せず、お得意の手品をして見せ、あまりにお下手なので私が笑ふと気を悪くして二度とお見せにならなかった。
今は「世田谷代田」と名が変っている世田谷中原のお宅へも数度伺ったが、私は物質的にも精神的にも物をもたないでいった。このことでは咎められなかったが、新宿の酒場では「君も時には金を払へよ」とはっきりおっしゃった。
わたしはただで先生のよこに坐り「娘が悪い恋愛をしてゐるので」といふ御心配をも承り、「あそこにいる女はどうだ」ときかれ、「別に」といふと「あれが僕の恋人だ」と仲居を指され、私が「先生あの人のどこがいいのですか」と驚くと「きこえる、きこえる」とあわてられた。
この二十数年、わたしは詩人としてでなく、教師として小田急に乗って通勤している。二年前やっと昔の先生のお宅の辺を探して、空地のままの崖の上がそこだろうと当てずっぽうに解釈して落胆するより思ひ出して悲しくなった。
先生のなくなられた年より、私は既に十歳も年がいってしまった。葉子さんが多分、先生のおなくなりになった年になられたのだろう。しかしテレビで見ると先生よりずっとお若い。先生の苦労性、鋭敏さ、恐怖症など葉子さんには見られないのを、私はテレビで見て安心した。「過失を父も許せかし」という例の私の暗誦詩の父密蔵先生は前橋一の名医でただ一人の息子を盲可愛がりになかったであろう。
お母さんはこわくて私の御宅訪問の時にも「朔!」と次の間からお呼びになると、先生はあわてて立ってゆかれた。私はいまは八尾市になっている木の本の出の名医を、同郷の人として(私の父方は河内の出身である)何でも見えながら朔太郎先生を甘やかされたのだと思ふ。
昭和十二年、大阪へご先祖の墓詣りにお越しになった時が、初対面だが、先生は小高根二郎君が私を紹介すると横を向かれた。迂散くさい奴だとお思いになったのだろうと私は悄然とお話することもなく、翌年からのおつきあいで友人として信用されるなど予想もしなかった。
亡くなられた日に私はシンガポールの新聞社にいて、その日のうちに御逝去を知って嘆息し、スマトラへはじめて来た内地からの便りで妻がお葬式に出てくれ、そのあと先生から御病状と配給の酒のお礼と透谷賞の候補に推したとの長いお手紙をいただいた。
シンガポールでもスマトラでもウイスキーは本場ものが山ほどあって、差上げられないことを私は残念に思った。朔太郎先生通りの詩人ぶりを発揮して皆から爪はじきされたことは知る人も多かろう。私の部下になっていたインド人の青年は私を「実行力がおありでないですね」と一言にしていい当てた。しかし私は二度の兵役で無能だったばかりに、無事七十歳になろうとしている。詩はもう作らないが詩人であるその点では確信をもっている。
編集部のおいいつけでは二月末だったこの原稿も雪の降った三月四日の夜になって書いている。誰か朔太郎先生を語る人はいないか。前橋で二回講演して私の中の朔太郎先生は空っぽになってしまった。
「過失を人もゆるせかし」、慶光院さんへの電話、「無限」への電話も通じない。もらわなくっても結構である。太宰治と話した人間もだんだん少なくなって来た。そのうちに私は櫻桃忌に出るつもりであるが、これも果せないかもしれない。「なくてぞ人は恋しかりける」。私の拙筆はこれでお許し下さらばと思ふ。(五月四日午後八時)
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