(2023.03.26up / 2023.04.06update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集

伊東静雄の詩  (『日本歌人』昭和32年2月号18-19p)

 早いもので伊東が死んでから四年に近くなる。世人は忘れたかも知れないが、日本文学史は忘れないで、昭和の詩人としては、もう必ず彼の名をあげるやうになって来てゐる。桑原武夫氏と富士正晴君共編創元選書「伊東静雄詩集」(昭和二八年刊)がこの詩人の業績を見るのには便利な本として出てゐる。

 しかし小高根二郎君の「伊東静雄」が刊行になれば、もっとこの詩人の業績は深く理解されると思ふ。君はまた「書簡から見た伊東静雄」といふのを、われわれの雑誌「果樹園」にうまずたゆまず書いてゐる。今のままならいつ書き了るかわからないほど、沢山の資料がある由である。伊東もよい祖述者をもったものと、他人事ながら感嘆せざるを得ない。

 その間わたしは古人の歌「われを知る人は君のみ、君を知る人も多くはあらじとぞ思ふ」ではないが、安心して伊東のことを述べないで来た。しかしこの三年ほど伊東のことは、忘れるひまもなかった。伊東愛媛マア子君が、わたしの学生だったこともその理由の一つである。正月、ちょっとひまになって考へることは、少年の昔とちがって、未来よりも過去の追憶の方が多い。年のせゐと笑はないで、伊東のことを語らしてもらはう。

 歴史の浅い日本の中で、たしかに伊東は一二をあらそふ巧みな詩人だと思ふ。用語の的確さは京都大学で学んだ人にふさはしいが、それよりもそのポエジーのたぐひ稀れなものであること――憂愁、悲哀、慷慨、不安――これら一聯の色彩をもった作品、しかもこの色彩の濃さ。いったいこの色彩を何色と表現すべきか、わたしにはわからないが、立原道造が色彩をもたなかったのとは、好個の反象をなしてゐると思ふ。そして神代以来の楽天国民にとって、この色彩はある程度、伊東の詩を近づきがたからしめた。

 伊東みづからもそれをみとめて、「すくない理解者」との意味の語「少き友」をその処女詩集の献辞にしるしてゐる。しかし楽天は昭和二十年前後から少くともインテリの間にはふたたび影をひそめた。伊東の詩が再認識され出したのは当然のことである。なに巷には楽天家が多いといふか。楽天の基盤は何か。無教育か、体質か。いやこんなことを論ずるのは主題ではなかった。

 少くとも伊東は厭世とはいはないまでも、楽天家ではなかった。そしてその作品には烈しい色調で世情に反撥し、批判し、慷慨してゐる。わたしなどは、ときどき親ゆづりの楽天が出、作品でも交友でも伊東に叱られることが多かった。いまごろになっても、この伊東の眼をときどき思ひ出す。そして昨年末には詩人廃業を宣言した。かうなってはもう伊東に負ふこともない。楽々とこの文章が書ける、といったら伊東はまた、「それがあんたの悪いくせですよ」と叱るかしら。

  私は強ひられる。この目が見る野や
  雲や林間に
  私の恋人を歩ますることを
  そして死んだ父よ、空中の何処で
  噴き上げられる泉の水は
  区別された一滴になるのか
  私と一緒に眺めよ
  孤高な思索を私に伝へた人!
  草食動物がするかの楽しさうな食事を

              「私は強いられる――」

 処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」の中でもまた初期の詩をあげよう。
 これは当時でも異質であったし、いまの詩にも比類を見ない。晦渋であるといへばいへるが、なんと多くを考へさせることか。これこそ詩なのだ。これこそ詩術――詩作法(アルス・ポエティカ)なのだ。

 読者はまづ「私は強いられる」といふ句につき当る。この受身の語は国語に用ひられることが少いのだ。われわれが「驚く」といふ時に、イギリス人、ドイツ人が「おどろかされる」といふ語しかもたないのに、外国語を習ってまづおどろかされる。しかもこの受身で出て来た句は、つひに強ひる主体を示さない。これに安心したとしても、「この目が見る」といふ主体性の強い語に、ふたたびつき当る。日本語ではかういふ時は「見える」といふ言語観念が当てはまるのだからである。

 「昔の私の恋人」の語も日本語としては、稀ないひ方である。「私の昔の恋人」ないし「昔の恋人」なのである。伊東の愛したヘルデルリーンの直訳調か。いな彼の計算の結果なのである。「語、ひとを驚かさずんば」といった杜甫と同じ計算を、この詩に徹した詩人は、ちゃんと行ってゐるのである。

 たちまち登場人物がかはる。聯想ではなくって、恋人の次に現れるのは死んだ父である。生きて、「裏切った」――と考へてくれといひたげな詩人の計算――恋人のあと、突如として現はれる父は、「孤高な思索を」伝へた人である。この遺産に詩人としての最大の幸福と、同じく生活人としての最大の不幸がある。

 伊東がその人であったかいなかわたしは知らない。桑原氏などによれば学校の教師としても有能だったといふのである。
 教師としての有能とは何か。生徒の敬愛を獲得することか。教員会議で黙ることか、雄弁をふるふことか――わたしにはわからない。

 閑話休題、またも受身、「噴き上げられる泉の水」「区別された一滴」――科学的にはこの方が正しいとしても、われわれは噴き上る泉の水と考へ、わかれる滴――とび散る滴として考へ、発言するにならされてゐるものを、伊東はまたかやうに計算する。
 そして読者の湧き出る想像の中で、泉のありかも、滴そのものもエキゾチックな美しさを自然ともつやうになる。

 この風景に最後に出現する菜食動物もかくて、われわれの牛、われわれの馬、羊ではなくなる。ここに草食動物といふ一般的な名詞を使用したのも、伊東の賢い計算だ。おかげで楽しい食事をするのは、牛、馬、羊・・・・ではなくて、われわれは田のあぜで中食する農民を聯想し、もしくはピクニックに出た中小市民の親子を聯想することをも妨げられない。

 「いろいろのこと思ひ出す桜かな」の句は駄句だが、いろいろのことを思ひ出させるところに、芸術のよさがあり、万人に愛される可能性がある。伊東の詩の正しい解釈はわたしのよくするところではない。しかしわしさへも伊東の詩の一解釈者とはなり得る。

 伊東はそれらの諸解釈のなかで、「さうでせうが、さういふだらうと思ってましたよ」と生前と同じく、意地のわるい笑ひ方をしてしかも喜ぶことと思ふ。

その一言  (『果樹園』昭和34年3月38号6p)

 正直なことをいふと、伊東静雄とのつきあひではずいぶん神経を使った。これは比島で戦死した中島栄次郎が、まだ生きてゐれば、同感し、かつこまごまと実例をあげてくれると思ふ。中島も私も伊東と同じく詩人でありすぎたからかもしれぬ。ただ私の一言で、反対に伊東をびっくりさせ、その運命をさだめたやうにおぼえてゐるので、神経を使ったのは、伊東の方でないかと、すまなく思ふ時がある。

 それは私が昭和十三年に上京したあと、伊東も東京に転任したくなり、運動にやって来た。どこだったか、これも小高根氏にはもうしらべがついてるだらうが、 私のいま勤めてゐる成城あたりに、蓮田善明氏のおかげでほぼ内定したのではなかったかと思ふ。伊東は上機嫌で、私と新宿を歩いてゐた。いまもある高野フルーツパーラーの前あたりで、私は急に伊東の方をふり向いて、こはい顔をしていった。「あんた東京でそんなことをいってたら、居れなくなりますよ。」伊東は急にかなしい顔をした。伊東が何をいって、私がたしなめたかは忘れたが、その時の顔だけは今もおぼえてゐる。

 伊東はこのあと大阪へ帰って、出来てゐた筈の東京転任はつひに実現しなかった。私にこはがらされて、自分でこの話をことはったのではないかと思ふ。昭和十四年から十六年までの間のことで、この期間の日記を私はもたないので、はっきりと云へない。伊東がこの時、転任してゐたら、その生涯もずいぶん変ったと思ふ。どんな風にかはったかはともかく、私は悪いことをしたと思ってゐる。

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