(2023.03.27up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集
春夫先生のこと (『日本歌人』昭和32年1月号16-17p)
学校生活十六年、それのあとの方とかさなる文学青年生活三十年の間に、先生と呼ぶ人は多かったが、今だにその前に出ると不勉強がこはくて身のちゞまる思ひのする先生が二人をられる。一人は東大で東洋史を教はった和田清博士、もう一人は佐藤春夫先生である。
春夫先生を師とたのむやうになったのはいつからか、だいぶ記憶力がうすれて、はっきりはしないが、保田與重郎君にすゝめられて読んだ芥川竜之介全集よりあとのことで、高校の後期であらう。はじめて読んだのも何であったかおぼえてゐないが、第一書房から出た春夫詩集は再三よんで暗誦するほどになってゐた。
「秋刀魚の歌」は少年にはわからず、「水辺月夜の歌」の「げにいやしかるわれながら、うれひは清し、君ゆゑに」の箇所や、「断章」の「さまよひくれば秋ぐさの、一つのこりて咲きにけり、おもかげ見えてなつかしく、手折ればくるし、花ちりぬ」の章句などは、口ずさんで人にもきかせたおぼえがある。
大学に入学したのは昭和六年、この年、先生は私のいま一番愛誦してゐる「魔女」といふ詩集を出された。赤いガラスの入った表紙を私はよろこび、
詩の内容はおくての自分にはよくわからないながらも、女性をこはく愛すべきものと教へられた。昔の大学生のなんと幼かったことよ(参照 石原慎太郎「太陽の季節」その他)
それでも親もとをはなれたありがたさは、毎月送って来る学資の中から、一〇円を割いて同人雑誌を出す余裕さへあった。昭和七年二月創刊のこの雑誌は堂々数十頁、題も「コギト」と保田によって命名された。そしてその第二号に、私は詩のほかに評論を執筆した。
もとより詩が文学のジャンルの中で、最も損なものだといふことは知らなかったが、実は私はもともと議論好き、評論家になるつもりがあったのである。その題は「佐藤春夫小論」とし、尊敬措くあたはざる大家を処女作の目標としたのである。
しかし何たる失敗、私のは「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」など愛誦おく能はざる先生の代表作にはふれず、ちゃうどに出はじめた長篇「武蔵野少女」のことを論じ、しかもこの作のいいところ――私は今もこの小説はきらひでない――を述べないで、文中、先生がマルクス主義心酔のあまり実際行動に入ってゆく純粋なそれゆ幼稚な少年を、同情的にやゆしておいでの箇所をとらへて、「先生は不惑の年をこえたとたんに老いられた」と論じたのである。
マルクス主義でないから老いたも変なものだが、当時、私どもは革命近きにありと信じ、資本主義の倒れる日が、私自身が不惑を越えて、五十に近くなるまで、まだ来ないなぞ、ゆめにも知らず、これにちょっとでも批判的な眼をする人を老人よばはりしたのである。
春夫先生がこんなちゃちなものをおみになったとは思はないながらも、自ら気がひけて、先生をお訪ひすることはない中に、大学卒業年が来た。大阪へ帰るとなれば、一度だけはお顔を拝見したい。ミーハー族的心臓で私は先生のお邸を訪ねた。昭和九年の春のことである。
ベルを押すとしばらくして、女中さんがあらはれた。名刺を出しお会いしたい旨申し上げると、しばらくして女中さんはまたかへって来て
「ただいまお仕事中ですが、お会ひになりたい御用件は?」
たしかにかういふ御返事だったとおもふ。御用件?全くないのである。私は冷汗をかくと同時に
「御多忙中とは存じませんでした、いづれまた」
といつて、早々に逃げ出した。この時女中さんの背中に寝てゐた赤ちゃんが、いまではもうご成人である。
勝手な話だが、私としては春夫先生を師と仰いでゐる証拠は山ほどある。広汎な東洋史学の中で台湾史を卒業論文の題目としたのは、全く「女誡扇綺譚」と「南方紀行」二冊のせゐである。
忘れもしない昭和八年、のこのこと台湾まで出かけて行って、先生の小説の生れたと信じる日月潭のほとりの、カン碧楼といふ宿に着いたとき、「佐藤春夫小説家を知ってゐるか」と、宿の女中にたづね、「さあ、わたしこのころの小説は読みませんけど」といふ答に、まんざらでもない顔をしてゐたこの女の顔を見るのもいやになった。
安平にゆき、排日でわたれないアモイの方をながめ、先生とおなじく行ったつもりになって、作った詩は私の第二詩集にある。
昭和十三年に大阪の中学の教師をやめて、再上京して出した「詩集西康省」の出版記念会には、岡本かの子、宇野浩二などの諸先生に先立って、先生は会場までお越しいただいた。開会がおくれて手持ちぶさたな時間を、先生がおいでだといふばかりに、私はまた冷汗のかき通しであった。先生のこの詩集へのおことばが何だったか、おかげで一向ぼえてゐない。
さて私が先生の弟子たることを確認したのは、昭和十七年大東亜戦争開始まもなく、徴用となって大阪で船を待つまのことだった。
先生は私の出発の挨拶に応へて
「ますらのうたびとなれば心して君死にたまふことなかれかし」
のお歌を賜しった。私はこの歌の書かれた先生のハガキを抱いて南方にゆき、死ぬかと思ふめにも会ったが、死なないで帰って来た。そのあとがいけない。私はお礼にもゆかず、お礼の手紙すら差し上げなかった。なんたる失礼か。ありがたいと存じ上げてゐることは、いつかわかってもらへると子供のやうな考へなのである。
しかし実際はお訪ねしても、先生の前へ出ると口ごもりろくなこともいなかったと思ふ。先生があとで南方へゆかれるときいて、また関口町のお宅へ伺ひながら、またお忙しい御様子に、
「お気をつけてお出でを」
と玄関先で申し上げたまま帰って来た自分である。
自分の世界の大部分が春夫先生に負うてゐることは折にふれ、われとおどろく。
中国文学も春夫訳でよまされた。このごろ贈られた竹内好「魯迅案内」岩波文庫の「阿Q小伝」の訳は増田渉さんではなく先生のお訳だと知った。これを沢山の作品の中から選び出されたとしたら、何たるかんのよさ、また訳のよさ。私には今だにおどろくことばかりである。
訳などは余業、本職の小説はと問はれれば、三十年枕頭からはなさぬのは「F・O・U」だと答へよう。感傷的ないひ方をすれば、私は死んだ子の骨とともに、谷中安規装画の版画荘版のこの本を、私の墓に埋めてもらいたいと念じてゐるのである。
私の先生に負ふところは、書いてゐる中に重荷だといふことがわかつた。物いひにも春夫的なところがあると、友だちがいふ。先生に対して眼をそらさないで物がいへるやうになったら、また一度お訪ねしたく思ふ。それが出来ないので、愈々東京がなつかしくてたまらない。
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