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たなかかつみ【田中克己】散文集



『白楽天(訳書)』集英社(漢詩大系12)1964.7354p,21.5cm上製函

 「序説」

 白居易(772-846)は字の楽天でよく知られているが、また香山居士、酔吟先生とも称した。
 中唐の代表的詩人として盛唐の李白・杜甫の前にはおよばないとしても、その名と作品とは、この二人におとらず、中外にしたしまれている。
 その生まれたのは、唐の第八代皇帝なる代宗の大歴七年正月二十日、鄭州新鄭県(いま河南省)においてであって、父、白季庚は四十四歳、母、陳氏 は十八歳だった。
 すでに兄幼文があり、このあと同じく文学で名を知られている弟行簡が生まれた。
 父の官は低く、かつ転任が多かったので、祖父白鍠の家で生まれたと見える。白鍠も県令を最後とする中級官吏にせんとうしすぎなかったが、五言詩 にたくみで、十巻の文集があったというから、詩人的才能はこの祖父と、全唐詩に八首をのこす外祖父陳潤の二人から受けたのであろう。

 かように詩人としての血統はあきらかであるが、民族上の血統は六朝の混乱のあとをひいて不明である。
 詩人みずからは楚の白勝、秦の白起の血統を受けた純粋の漢人と称したが、その高祖父と称した北斉の白建とのつながりがすでにあやしく、白建と称 する人物が高祖父であっても、北斉の尚書白建ではなかったろうと考えられる。
 ただし六朝の混乱期に華北にいた一家の出であることは、疑いないゆえ、おそらくこのころ、ここに移住した西城人の裔であろうと思われる(陳寅恪 「元白詩箋証稿」附論(甲)「白楽天之先祖及後嗣」参照)。

 しかしこのためもあろう、あきらかに蛮族たる鮮卑拓跋氏の出なる詩人元稹との親交は、文学史上もたぐいすくないものであり、文学的にも親近性が 濃く、ともに元和体と称せられる中国詩の一ジャンルを形成した。
 その特徴の一なる饒舌や卑俗はともかく、民衆にしたしませるいわゆるロマンチックな傾向は、この血統から得たのだとわたしは考えている。
 またその父母が、純粋な漢人の忌む伯父と姪との間柄であったことも、白楽天ひとりではなく、弟行簡をして詩人的素質、文学的天賦をさらに濃厚に せしめたのではないかと思わせる。

 この生まれながらの詩人は、幼にして文字を識り、文を作り、河南の乱で、家族と別れて江南におもむいた。十二、三歳のこの苦辛が、また詩人的素 質をさらに強めたことは疑いもない。十五、六歳の作がすでに優秀である(この選集にも、自ら十五歳の作と注する「江南送北客云云」、ならびに十七 歳の作という「王昭君」二首をおさめた)。

 祖父、父ともに明経科の出身で、唐代の秀才たちのきそって応ずる進士科の及第者とことなり、昇進するを得なかった。
 白楽天は家族の要請もあったろう、自らの才能も信じていたろう、このむずかしい進士科をめざし、貞元十五年、二十八歳にして、江南の州の太守崔 衍の推薦を受け、翌年、中書舎人高郢の試験官たる試験に応じて及第した。
 十七人の第者中、最年少で成績もよかった。得意おもい見るべしである。

 ついで貞元十八年には試判抜萃科の試験を受け、及第者八人中の一人となった。すでに宣城で、のちに妻の従兄となる楊虞卿との交際がはじまってい たが、この時の同じく及第した一人である元稹とは、終生の交わりをつづけることとなった。
 これより校書郎・盩厔(ちゅうしつ)県尉・集賢校理などの官を経て、憲宗の元和二年、三十六歳にして翰林学士を授けられたが、この時すでに盩厔 県尉の時に作った長恨歌の作者としての名声は世にあまねかったと思われる。

 翌年、諫官たる左拾遺に任じられると、散文の上言のほか、諷諭の意あらわな新楽府五十首を公にした。
 おのが詩人たるの天分を生かし、同時に諫官としての職分にかなうと信じたのである。
 ついで京兆府戸曹参軍に転じると、また秦中吟十首を作った。これらは当時の士民に愛誦されるとともに、多くの敵を作った。

 元和六年、母を失い、喪に服して退職したあと、元和九年、喪があけて太子左賛善大夫に任じられたが、この閑職にあきたらなかった。その不平に加 うるに、また諫書をたてまつると、越権をとがめられて、江州司馬に左遷された。
 彼を弾劾したものとしては同じく詩人なる王涯の名がつたえられているが、そのほか宮中府中に多くの敵があったろうことは、従来のの内容からも察 せられる。名声の清算としての左遷を、詩人は賢明にうけ、わたしの考えでは、これを最後として諷諭の作は影をひそめる。

 江州司馬としての任地で作った琵琶引(または琵琶行)が、また前述の諸作とならべ称せられる代表作で、彼の文学史上の地位は定まった。
 元和十三年、ようやく官界の風向きもかわり、忠州刺史となり、ついで任満ちて長安にかえると、彼は自ら請うて杭州、蘇州の刺史となる。
 地方官の勢威を愛したかとも見られるが、少年の時いた杭州、蘇州は長安、洛陽におとらぬ繁盛を見せはじめ、気なごやか、物も豊かである。地方官 としての業績はともあれ、雪月花を愛する詩人にとっては、最良の土地で、また僧や道士との交際も多かった。
 南朝四百八十寺の故蹟も詩人を楽しましめたろうが、このころから詩作の数に比して、すぐれた作がめっきりすくなくなったと、わたしは思う(この 選集の大半は、これ以前の作である。読者のとがめを得なければ幸いである)。

 親友元稹が宰相となり、必然的に、当時の政界をさわがせた牛李の党争に参加せざるを得なかったとは異なり、こののち白楽天は壮年の時とまるでち がった韜晦の生活を送る。
 敬宗の宝暦二年、蘇州刺史をやめると、五十五歳となって彼の晩年がはじまる。
 この年には弟行簡を失い、皇帝の宦官に弑逆さるるを聞き、立身出世の情にとどめをさされたであろう。
 文宗の太和三年、五十八歳にして太子賓客の閑職につくと同時に、洛陽駐在を許され、のちに河南尹に任ずることはあったが俗務を放擲して、あるい は香山居士と称し(同九年)、五十三歳にして成った白集長慶集(五十巻)の増補のみを志しているさまがあらわである。
 太和五年、元稹の死んだあとは、劉禹錫を唱和の相手とし、同八年には劉白唱和集(五巻)を編し、翌年には文集六十巻を廬山の東林寺におさめ、さ らにその翌年たる開成元年には、六十五巻に増して、洛陽の聖善寺におさめ、同四年には六十七巻の文集を蘇州の千仏堂におさめる。

 早くから七十歳で死ぬと覚悟していたが、七十一歳となった武宗の会昌二年には、刑部尚書として退職し、半俸を恩給として悠々自適の生活にはい る。
 七十四歳の時には自邸で七老会をもよおし、九老図というのをえがかせ、白氏文集七十五巻を完成する。
 これは五本にして、三本をそれぞれ前述の廬山、蘇州、洛陽の三寺におさめた、というから、前におさめたのと、とりかえたのであろう。あと二本は 甥と外孫とにそれぞれ托した。
 芸術は長く生命は短し、とは西洋の諺であるが、同じ観念から自己の作品の保存伝達を念ずること、これ以上に周到な人物は見られない。その卒した のは翌会昌六年八月で、十一月洛陽の南の竜門に葬られた。

 白楽天はその祖先があきらかでないと同じく、子孫に関しても不明である。
 つぎつぎと生まれた子は、男女を問わずみな夭折し、わずかに談氏に嫁した一女阿羅の生んだ外孫一人が、唯一の後裔であるが、これはもとより談氏 の後嗣で、白家は甥の子がついだという。しかし兄幼文、弟行簡のいずれの子かも不明で、阿新という幼名だけが知られている。ただし孟懐観察使とい う職についた甥、景受が後嗣ぎだと記するのがあるが、これもいっこうにはっきりしない。上述のごとく作品保存に専念したのも、当然だといわねばな るまい。

 白氏文集七十五巻は、かくてその大部分なる七十一巻がいまだに残っていて、彼の才能のほとんどを見ることができる。

 諸板本のうち、わが元和四年(1618)、阿波の那波道圓が、朝鮮の銅活字本から覆刻したものが、北宋板本の系統をひいて、原本の体裁をほぼ伝 えているというので、わたしもこれをもととした(民国十八年、商務印書館刊行)。
 その他にも新楽府の古鈔本である神田本(京都、神田喜一郎博士所蔵)をはじめ多くの鈔本がある。
 そのすべてに当たることは、もとより不可能であるが、できうる限り諸本に当たって校合を行なうことを望みながら、ついにこれをなし得なかったを 恥じざるを得ない。
 ただし白氏長慶集がすでに諷諭、閑適、感傷、律、詞賦その他に分類する法をとると同時に、故意に(とわたしは考える)その作のならべかえを行な い、製作年代を前後したのを、わたしはこの本ではなるべく製作年代順にならべようと試みた。
 前述の分類は後集ではすでに放棄されており、諷諭、閑適、感傷というと、いかにも整然と分かたれているようであるが、その諷諭が「意激ツクシテ 言質ナル」詩であり、閑適が「思ヒ澹ニシテ詞迂ナル」詩(与元九書)であるというような分類は、作者以外には不可能であるうえ、律は詩の内容では なく形式による分類にはいるから、そのままに採ることは無意味であると思う(但し、この稿を完了したあと花房英樹氏「白氏文集の批判的研究」を入 手、その業績を知ることおそかりしを残念に思った)。

 また詩人の生時すでに新羅、日本に詩文(の写本)が購い求められていて、作者みずからもこれを誇っているが、李白、杜甫の諸作よりはるかに愛誦 された白詩の影響力を看過することはできない。
 これに関しては専門の書があるが、常識的に日本人に愛された有名なものは、格調やや低くとも、つとめて選び入れ、これを註にしるしておいた。

 以下に参考とした書ならびに論文をあげて、学恩の一端を表わすこととする。もとよりこの外にも多くの書があって、白詩の愛好が、現在なお李白、 杜甫におとらぬことは周知のことであろう。


久保天随 『白氏詳釈』 明治四十四年 隆文館
井土霊山 『新訳白楽天詩集』 大正二年 三星社出版部
鈴木虎雄 『白楽天詩解』 大正十五年 弘文堂
水野平次 『白楽天と日本文学』 昭和五年 目黒書店
佐久節 『白楽天詩集』 三冊 昭和三-五年 国民文庫刊行会
野道明 『白詩新釈』 昭和八年 明治書院
高尾豊吉 『白楽天詩鈔』 昭和十四年 培風館
吉川幸次郎 『新唐詩選続編(岩波新書)』 昭和二十九年 岩波書店
高木正一 『白居易(中国詩人選集)』 昭和三十五年 岩波書店 
花房英樹 『白氏文集の批判的研究』 昭和三十五年 彙文堂書店
太田次男 『平安時代に於ける白居易受容の史的考察(史学三二ノ四、三三ノ一)』  
平岡武夫 『白氏文集の金沢文庫本・林家校本・宗性要文抄本・管見抄本について(神田博士記念書誌学論集)』 
花房英樹 『宋本白氏文集について(同右)』 
田中克己 『白居易とその時代(歴史教育六ノ六)』

王進珊 『人民詩人白居易』 1954 四聯出版社
王拾遺 『白居易研究』 1954 文芸聯合出版社
蘇仲翔 『白居易伝論』 1955 文芸聯合出版社
万曼 『白居易伝』 1956 湖北人民出版社
王拾遺 『白居易』 1957 上海人民出版社
褚斌傑  『白居易評伝』 1957 北京作家出版社
蘇仲翔 『元白詩選』 1957 上海古典文学出版社
陳友琴 『白居易詩評述彙編』 1958 北京科学出版社
陳寅恪 『元白詩箋証稿』 1958 上海古典文学出版社
陳友琴 『白居易』 1961 中華書局
Waley,A. 『The life and times of Po Chüi-i.』 1949.N.Y.The Macmillan Co.
 花房英樹訳 『白居易』 昭和三十四年 みすず書房 


『白楽天(訳書)』集英社(コンパクトブックス中国詩人選4)1966.7198p,17.5cm並製カバー

 「解説」より

(前略)
 ながながとしるしたが、彼の生涯は明らかであるけれど、さほど興味がない。
 杜甫の貧困、李白の飄逸にくらべると、だいぶ俗である。詩も従って「元軽白俗」と巧みにいいつくされている。
 しかし日本人にとっては、このころの中国は文化的祖国であった。
 彼が六十七歳であった開成三年(838)、帰朝した遣唐使藤原常嗣は白氏文集をもち帰ったというので位をのぼされた。これが最後の遣唐使であっ たことも奇といえば奇であるが、仁明天皇の承和六年に当たるから、その以前から彼の詩文が断片的にもたらされ、愛されたことは、
 嵯峨天皇が小野篁に「閉閣只聴朝暮鼓、上楼遙望往来船」という句を示されると、篁は「遙」を「空」にお改めになったら、さらに宜しかろうと答 え、
 これが白楽天の原作と同じだというので、天皇は大いに感心されたという逸話が事実であれば、嵯峨天皇(在位810-823)の時、すなわち白楽 天の四十歳代にすでに渡って来ていたことが証明される。開成三年にもちかえったのは元年に出来た六十五巻本であったろう。

 その後の日本文学への影響は、水野平次氏『白楽天と日本文学』(昭和五年、目黒書店)以来、諸家の説くところにつまびらかで、ハクスリーやヘミ ングウェーどころのさわぎではない。
 わたしは一昨年、集英社の「漢詩大系」に「白楽天」を執筆した縁故で、このたび改めてこの一冊を成したが、前とはなるべく趣を異にし、理解に易 いものを選んだ。
 白楽天の生涯についても中共の文学史家や片山先生のお説とだいぶ違ったかとも思うが、ここらあたりが文学史的に正しいところであろう。吉川幸次 郎博士は白楽天を「饒舌」と評された。わたしのこの本では饒舌の部分ははぶいた。白楽天への「ひいき」とでも思っていただければ幸せである(昭和 四十一年三月二十日記す)。


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