(2023.03.28up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集
この道
(『紫珠』昭和43年1月号(紫珠発行所)10-11p) (※『紫珠』は『花影』の後継誌)
「この道やゆく人なしに秋の暮」と芭蕉がうたったのは何歳の時だったらう。生まれたのが正保元年(1644)で元禄七年(1694)「旅に病ん
でゆめは枯野をかけまはる」の句をつくって死んだといふから、調べても見ないが、芭蕉はわたしよりずっと若くて死んだのである。
このごろ新聞で見て、わたしより若い人が死ぬ(有名になって)のを、をかしく思ふやうになったが、考へて見ればわたしも老いたのである。
としよりの証拠は、これも亡くなられたわたしの元の上司(滋賀県立短期大学長、動物学者)川村多美二博士から、通勤の汽車の中で教はった。
老人の特徴は三つあって、一つはおしゃべり(とりわけ思ひ出を)、
二つはくりごと(同じことを何度もいふのである)、
三つめはど忘れ(たとへば人名地名を忘れるのである。紹介いたします、こちらは××会社の××係長といふとき、さっき名刺をもらったばかりの係
長の名を忘れて、も一度、名刺をとり出さなければならない)であるが、わたしもおしゃべりの年代に来てゐる。くりごとになるかもしれないと記憶を
はぐってみたが、少くとも「紫珠」の皆さまには申し上げたおぼえがないので、好い機会に書いてみよう。
芭蕉の「この道」はもとより秋の暮のさびしさを歌ったもので、裏街道でも王昌齢「出塞行」の「秋天曠野行人絶」や耽湋「秋日」の「古道少人行」
などと同じ趣、といふよりは芭蕉の唐詩愛好の結果、口をついて出たものであらう。
しかしわたしは違う意味の「この道」を歌った。それは
この道を泣きつつわれの行きしことわが忘れなば誰か知るらん
といふ歌で、わたしの処女詩集「西康省」(昭和十三年刊行)の冒頭に収めたところ、岡本かの子女史から「この詩集でここだけ同感しました」と、
喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからない評語を、出版記念会の席上で賜はった。
この会は十一月十三日丸ノ内の「マーブル」という喫茶店で開かれ、佐藤春夫先生、宇野浩二先生などありがたい方々の御出席をいただいたが、中で
も岡本かの子先生はこの会の直後なくなられるので、とりわけ身に沁みて聞き、三十年たった今だに忘れられないのである。
も一人ほめてくれたのは太宰治で、詩集を贈ったあと何もいって来ないので、三鷹の家へ訪問すると、机の上には画集が一冊おいてあるだけで、あと
は見廻しても何もない。「きみの詩集はこの間までここにあった。あの歌はいいな」
といってそらでいってくれた。もうなくなってゐるわけは聞かなかったが、他人にやったのかと思ってゐる中、「出よう」といってどこからか二三冊
の本を出して来て、ふところに入れ、出るとすぐ自分の家の垣根に向って小便した。わたしはびっくりしてみてゐた。「垣根にやるつもりなら家です
る。よその垣根ならともかく、自分の家のに」、といふのがわたしの理論だったやうに思ふ(自らを表はし出して今から思へばわたしの負けである)。
この歌を太宰が愛好した証拠はふしぎな機会にわたしは得た。太平洋戦争に徴用されてシンガポールへゆく洋上、仲良くなった印刷をやる青年が「田
中さん、わたしの好きな歌があって、太宰治から教はった」といひ、「この道を」と暗誦してくれた。「それはわたしの作だ」とわたしが喜んでいふ
と、この人はすぐ信用してくれ、その後わたしと一番の仲良しになった。これも昭和十七年のことだから、今から二十五年まへのことである。
さてこれは何年まへだったか、大伴さんの会があって短冊が出されると、某友が自分のことを書かずにまたこの歌を墨くろぐろと書いた。大伴さんの
そのあとのおたよりでは、岡本さんと同じく好いていただいた由である。
話ついでに、この歌の出来た前後のことを書いてみよう。
初めにいったやうに、わたしは年のせいで思ひ出ばなしがしたいのである。第一にこの歌は処女詩集「西康省」の出た昭和十三年の作ではなくて、昭
和五年、わたしが高等学校三年の秋の作である。
この年にはわたしは今の勘定では十九歳であるから、この歌はたしかに少年感傷の作にちがいない。しかしその感傷が常識とはちょっとちがふ方角に
向いてゐたことだけはいっておきたい。といふのは、この昭和五年といふ年は、翌年はじまる満州事変――それにつづく十五年間の戦争が予感されてゐ
た年である。
少年敏感といふより、「資本論」をよみ、ブハーリン(当時プラウダの主筆)をよみ、帝国主義はまづ相互間の戦ひをひき起し、その結果、被支配階
級の革命をうながすといふ理論の、少くとも前半だけがいまにも実証されようとしてゐるのを、わたしのまはりにゐる勉強家たちは、怠けもののわたし
にも教へてくれたからである。
わたしは八代集をよみ、万葉集をよみ、茂吉と「即興詩人」をよんだだけで、保田与重郎から「竜之介をよんでゐないのか」と嘲笑され、まづこれを
片づけて、
インテリの無力をつくづく思ひしらされた。この無力感と、しかもいらない知識ほど人をいらだたすものはない。
わたしはつとめて学校を休み、歩きまはった。業平が高安に住む恋人のもとへ通ったといふ竜田道を歩いて法隆寺までいったのも、そのせいである。
山畑で働いてゐる人が見えるばかりで、歩く人のないみちを、わたしは芭蕉の句を思い出しながら、季節感よりもむしろ末世感にひかれてゐた。もの
みなの亡ぶのが近いと大げさに感じてゐたのである。
さうして帰宅してから出来たのが、まへにあげた歌である。かの子女史や太宰がどういふとらへかたをしたかは、わたしにはわからない。昭和十三年
ごろには、日本の侵略はいよいよ中国本土にまで及んでゐたのである。しかもこのころになるともう日本人の敗北感や危機感はなくなりかけてゐたので
はなかったらうか。も一度この二人のひとを呼び起して感想をきいてみたい気がする。
わたしは今ごろになってこの歌を作りなほしたくなってゐる。
長い旅路でわたしの孤独感はいよいよ強くなったが、それは人間に対する孤独感で、わたしはいつもわたしのよこにゐてはげますかたのあるのを、こ
の年になっていよいよ深く信じるやうになったからである。
しかしうろおぼえの西洋人のことばでは「誰か知るらん」といふ反語、もしくは「誰も知らない」といふ句は「神ぞ知る」といふことばであらはすさ
うである。
さうとすれば、わたしのひとりごといひながら(ボヤクとわたしのくにではいふ)歩いた道は、神さまがすべてご存じである。
かう考へてわたしはこの歌を改作しないことにした。かの子さんや太宰などとは、いづれ会ったときゆっくり話しあふつもりである。
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