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 刊行始末記        詩作日記「夜光雲」「田中克己詩集」のこと

田中克己詩集  夜光雲

 田中先生の詩集刊行の計画が持ち上がったのは、私が先生の日記を自費出版すべく編集作業を続けてゐた頃のことである。 先生の詩業の集成については私などの出る幕ではなく、いづれきっと適切な人の手になることを信じて疑はなかったが、 「夜行雲」と題されたこのノートを何らかの形に残したいといふ思ひは、晩年の先生から無形の恩恵を蒙った者にとって半ば使命のやうなものに凝りかたまってゐた。

 そのまま印刷にかけられる完全原稿を起こすつもりで手持ちの壊れかけたワープロを使って編集しはじめたのだが、 大学ノート十冊にわたる膨大な編集量はもとより、地元の印刷屋をつかって上製本に仕上げるまでのいちいちの作業が初めてのこととは云へ難渋を極めた。 漢字にこだはったので外字は百余りも作らなくてはならなかったし、(*そのおかげで現在これをテキストとしてネット上に付すこともできない状態である) 先生に質疑を確かめてゐない部分について判読や翻訳のほとんどが手探りに近いものになった。 やうやく簡易印刷に付した450ページ分の帳合ひも一枚一枚がバラバラで、それを雑誌を製本する時に使ふ打抜きの製本技術で上製本に綴ぢてもらったのだが、 乱丁落丁の確認時には再びこんな本の作り方をしようとは思はぬ気持にふたがれたものである。 自分の詩集を拵へた時の「山の手紙社」といふ発行所名義で、最後に本の背に一枚一枚題簽を貼り付けていったがその時の感慨は一入であった。

 全詩集についてはさういふ訳で私なりの思ひもあったし、例へば平野さんから度重なる刊行への意欲をお便りでお寄せ頂いても、 私には御遺族の動静を見守りながら時機を挨ちたいといふ御返事しかできなかった。

しかし逆に御遺族も私の風変りな執心ぶりを何らかの思ひで遠くから見て下さってゐたのかもしれない。 「夜光雲」の刊行許可を頂いて編集を進めているうちに御遺族の一人、名古屋在住の長女依子さんを通じて、 発行に係はる事務については心配いりませんからといふ御言葉とともに、全詩集の刊行についての相談をお受けすることになったのである。 もとより拒む理由のある筈もなかったが、刊行計画に参加させて頂くにあたって、この時私は編集方針等で私なりに気にかかってゐることについて独見を述べさせて頂いた。 さうして御遺族はこの思ひ入れに近いやうな方針についても、全てを快く採択して下さったのである。

 まず「全詩集」と銘うった本が出ると必ず古本屋に流れて叩き売られる有様を見てゐたので、発行数については慎重に決めたい旨をお伝へし、

売れ残りが出るのは忍びないといふ長男史氏の御意向もあって具体的に300部という破格の小部数の数字が最初に決まった。 「全詩集」といふ響きも何となく嫌であった。戦争詩を削ることは御遺族ならば考へて当然のことだらうが、これについては全部を収め、 反対に戦後の拾遺詩を削って「全詩集」の看板を下ろすことを主張したのも私である。肖像写真を選ぶなら詩壇に颯爽と現れた頃の1葉を用うべし、 装丁は本を自分のキャンバスと心得てゐるやうな専門家にまかせる訳にはゆかぬ、 活字も当今の出版事情がどれだけ忠実に原本の表記に従へるものなのか甚だあやしかったのだが、 出版社を選ぶ際には絶対に譲れぬ関心事であった。これら本の出来を決定する事柄について先生の旧い知己の方々に御相談することもせず、 よくもまあ御遺族をひきづり回し独新を押し通したものである。「夜光雲」を刊行する自負に良い気になってゐたのであらう。

 ここまでわがままを云へば、自費出版を商売にする所からも見積に雑色を示されるのは当然で、 思ひがけなく第四次の「四季」を発行した潮流社が、採算を度外視してこの難計画を引き受けて下さったのは、 今考へてみると流石に御縁とばかりではすまぬ有難さが身に沁みるのである。先生の方からへそを曲げて一方的に絶縁してゐた潮流社の八木憲爾社長は、 以前自分の詩集に対しても懇切な感想を寄せて下さったことのある恩人であるのだが、実際にお会ひしてお話をお伺ひしたところ、 詩と詩人の存在に対する大きい理解に溢れるひとであり、 イッコクである先生の性情をも「詩人らしい純粋さの現れ」と懐かしげに回想され些かも意にふくむところがない。 どころか出来上がった「夜光雲」を見て頂いた上、こまごました出版についての私のこだはりについても全面的な協力を惜しまない、 田中さんの詩集ならばしっかりしたものができる筈だから是非思ったとほりにお作りなさいと過分の激励を頂戴した。 さうしてその御言葉通りに、実務に当たって下さった潮流社の内山さんと共に、用字から帯の装丁の細部にわたるまで色々とやりとりを重ねた末、 一年余を経てようやく完成を見ることになったのである。

 誰も手をつけようとしなかった詩篇「西康省」に無謀にも振られたルビ、あるひは詩中に付した見苦しい解説の数々。 また晩年の詩集「神聖な約束」の殆どを捨ててしまったこと、拾遺詩篇「虹霓」の入れ忘れ、さらには父君の作である「南の星」の序詩を間違へて採録してしまった不明等、 さしずめ天国の先生はどんな具合に怒り思し召されてゐることだらう。本といふものの出来上がつてから感ずること、 後悔ばかりであるといふのは自らの本に対する責の比ではない、平野さんの御厚意により付録として歌集部分が救はれることになったのはかへすがへすも幸ひなことであった。 ここに刊行に至るあらましを正直に記しながら寔に冷汗三斗の思ひに耐へない。

1997・3・25


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