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やそじま みのる【八十島稔】『柘榴(句集)』1939
やそじま みのる【八十島稔】『炎日(句集)』1966
春もはや眼鏡のなかを麦の波
鶯や山ゆるやかに春の汽車
夏蝶や青き草矢のながれけり
蝶白く生れて瀑の夜明けかな
夏草や海ふところにある想ひ
向日葵の隣をのぞく暑さかな
火の山の裾野は広し女郎花
大仏の膝温かき落葉かな
ペガサスの朱馬(うま)走りけり初霙
昭和十三年初秋、經本句集「秋天」を出したが、それには特殊な意味も含まれてゐたので此の「柘榴」は私が初めて世に出す句 集とも言へる。「柘榴」といふ名も、 こだはることなくただ簡単につけた。風流陣といふ襍誌を出すに當つて風流でない私共が自ら風流陣と名づけて襍誌を生み出したやうに、此處に群がる句もそこ から初まつてゐる。 畏友北園克衞君の俳諧は現實より過去へ遡る思考の一體系で、俳句はこの體系の上に展開する文學である、といふ觀點は面白いと思ふ。 「柘榴」におさめた句は此の二三年間の私のトレエニングの所產であるが、この展開は、ほんの未だ午前よリ午後に至るまでしか達してゐない。しかし私も又こ の體系のうへで、 敢然と俳句文學の展開を激しく行なはんと希念してやまない。それを如何に展開すべきかはむしろこれからであるとなし、「柘榴」を出すことにした。
昭和十四年三月
まえがき
終戦からすでに二十余年の歳月が流れている。思えば前句集〈筑紫歳時記〉を上梓したころから、戦争の苟烈さは加わつていった 。私は風流陣十年の句舍を爆撃によって炎上され、書誌ことごとくを灰に帰した。まことに哀しき一朝一夕の夢である。それから数年、時に句座を遠ざかった私も、 ようやくその心象をたてなおし、意中の作品から百句を選らんで上梓の運びとしているが、その選句のあと、戦中や終戦直後のものも敢えて爱にまとめることとした。 無慙な街の戦渦にさまよえる日日、壕舎の暗い穴ぐらの中で、回覧板や配給所の伝言板に淡い希みを託し米塩の乏しさに堪えながら、或は疎開荷物の牛車の上で、 ポケット版の小さなノオトに、いのちのかぎり書いた句を、散文的ではあっても上梓したいと目論んだのが、この句集〈炎日〉である。そういう意味から句屑を出すことにはしのびなかったもので、 そのわづかな作もかの日の口マンとして集録したのである。
私はこの一本の発句を厳しく世に問うものではないが、戦災によって柘榴のようにひび割れた、自らの壮年期を一果のようにみつめ、飄眇として生きていたことを再び味いながら、 私は又、明日の日の思いを刻もうとしていることをお伝えしたい。
(最後に先輩知友諸彦に私の戦争の空白をしのんでいただければ幸いであることを付記する。)
モダニズム詩人から抒情詩人へと転身した八十島稔の戦中・敗戦後の百句をおさめた句集。
俳諧趣味を同じくする北園克衛とは「風流陣」廃刊後も戦後の長きにわたって親交を保ち続けた。
焼け出されて向かった細君の疎開先が岐阜県(加茂郡八百津町上飯田)とはおどろきでした。
酒蔵の大戸ひらくや鵙の声
桑の実の日の色あまた掌に溢る
芋の葉のやたら首ふる野分かな
初秋のヘボ食う山の便りかな ヘボ:蜂の子