序
華嚴ノ章に底沈む如くに流れゐる生の苦しさは何に由來するものであるか。生は又息であり、意氣であり、そして生命である。さればこの重々しい魂の負荷は何に由來するものであらうか。しかもこの詩人をして、この自らの危機に、才能と興味と浮心の誘ひをしめやかに拒ましめ、よろめくかの如くに見えつつ然も確乎と踏みとどまらしめた力は、そもそも何であり、何に因するものであらうか。眞理への責任と義務をうちすてた放埒を以て、詩人らしさと思ふが如きわが國文界の世俗を、彼が潔く放下し、己の逃避を許さなかつた激しいものは、果して何であらうか。
彼がわが身を投じたのは、青空の望まれる崖下の千仞、黒潮の逆巻く斷壁、或は水沫白く玉散る瀧壺、さうしたこの世の絶景のいづれを選んだのでもない。まことに投身は詩人の尋常である。即ち彼は、己の心の奥、魂の無限の深淵へ、わが身うちの洞なす深淵にわが身を投じた。その魂の奥なる洞にふきすさぶ風の音のすさましさは、今明らかにわが耳に傳はり來る。云ふ勿れ、詩人投身の機微などと、詩人の秘密などと種へられ稚い人をあざむいてきた、かの人工狡智の技巧などと何の關係もないその事情である。けだし俗を去つた孤獨こそ、詩人の尋常の性であり、言辭を停止する詩人の生成の理であつた。
この重荷に耐へた現身の業は、今の世の聖なるものの、この世に負ふべき無償の行為である。宿命といふをさへ許さぬきびしい現實である。心の聖なるものが、かかる深い影をひく時に、かの放埒と呼ばれる世俗詩人の安易の日常性は、なほ歌へ笑へと囃す。世の阿諛と浮薄の者らは、その嬌態に魂を離れ徳を見失つた者の不幸をまざまざと示しつつ、聲を揃へて相和した。この時、詩人はただに祈つてゐたのである。私の滿足と放心と希望の思ひは、彼の祈りと冥想である。
この詩人が、しづかなる神の眞實と見たものの痛々しさを思へ。それははや嘆きでない。悲劇に對した人間の痛ましさやその姿勢でさへない。このつぶやく祈りのただなる姿よ。無を祈るもののけたたましい叫喚と果敢ない呻吟の聲よ。地形の形勢する深淵と、かの心の深淵は、ここに於て一つである。華嚴をかくも行じた文雅を私は珍重する。この自他の一如、物心の一如、内外の一如、さらに一切を一如に貫く論理を思ひ、驚きと心の痛みを味はぬものは、今日のわが徒の風雅人でない。今日、今の、生命の眞實なるもののつぶやきを、詩に於けるこの痛ましい現實と、この切ない神々の眞實を、詩の事實にうち立てたものは、彼のおごそかな誠實と懸命の成果であつた。かくて我々は、詩人の美しき魂を、今の眼前に見る。
この詩の思想が、冥想として現れ、象徴を形成する時の幽韻、祈念のつぶやきの重々しい哀切さ、息づまる苦悩と聖なる愛のほほゑみ、まことにこの詩人に於けるが如くに現はれた例は比類を知らぬ。さればしばらく、その詩體の自らな圓熟を待つ歳月の歩みを信じよう。止まらず止め得ぬものの行を信じる。ここに現はれた冥想と象徴を、土着と土俗に於て、土をなめるやうに味つた果に、前人未踏の深い思想の詩人の形成を信じよう。
私はなりゆきに安んずる生理を保ち、且つは神々の公平な恩寵を信じて疑はないのである。
嘆きでない、悲劇でさへない、これらのことばのやさしさが、わが心を痛める。それこそ我國の心をふくめて、アジアの思ひに共通する心の姿である。今日、わが日本が始めて身に泌むまでに、その歩行の一歩一歩にさへ、己がアジアに他ならないことを知り味つた今日、その心を土臺にした詩が、しかも歴史の解説の上と底を擦過する詩が、どうして生れないといふ筈があらうか。私はその生誕を信じて、今ここにそれを感得したのである。まことにアジアは、さういふ日を豫想して詩の國だつたのだ。
これを悲劇といふさへ、ことばのやさしさは、事態の重大さを擔はない。そしてこの日の今では、かかることばでいふことが一つの道徳と眞理の冒漬であるかの如く、或は同情心と人間性の缺如を示すものの如く、感じとられたではないか。ここに於て、詩と詩人の必要を私は痛感する。詩人とはかかる人々の思ひを、正確不動のことばでさし示す人の謂である。
水を離れた大魚が土をはつてゆく想像に於て、すでに心の痛みに耐へず、むしろ殘忍を思はせるほどの胸苦しさ、我身がかかる大魚となつて、乾いた土の上を、長途はひゆく姿は、惡夢以上で、地獄變相圖にさへ見ず、今それをいふ抽象のことばを知らない。生き身のこの世の相と思ひに較べる時、ことばはやさしい。それは過去のとばりに安らひうけたものであつた。
刃を以て抗する思想をすてよ。それはなほ事態の激しさと深さと重大さを知らないものの發想だ。われらの受けたものは、論理を以てしては現はし得ない。自由な、神の人に與へたことばさへ、今は表現の道具としてふさはぬ時がある。ここで神のままなるものを思へ、その詩を思へ。ことばの眞の姿とありどころを知り、詩の思想と發想を恢弘せねばならない。我らの見る惡と地獄は、言葉の刃で酬ひすることの出來ない深い變想である。刃や言葉が對抗し得る如きやさしい惡でない。アジアの同じ民らが、今日の無抵抗主義を説いた心を、ここの瞬間に肯定せよ。沈默といふ無の行為が、最も深い激しい抵抗であつたことを、我々はすでに悟つたのである。聖なるものがうけてゐる今日の待遇、道徳と眞理のうけてゐる狀態、それらは言葉や刃で抗すべき、やさしい人間的受難でない。それに耐へるべく歯をくいしばるさへいけない。静かに、歸するが如く、夢見るごとく、少しも耐へてゐないといふ形を保ち、永遠の死者の存在の、ただなるままの形であらねばならない。この新しい冥想と象徴の前景の一つを、私はこの詩篇に見る。
それは山のやうな態度である。態度といふ人工でなく、無心に据つた石の据りである。さういふ心の持方と生のあり方に於て生れる詩の美しさを、花鎭頌の章句は、ちらりちらりと見せるのである。即ちわが時代の詩の思想の、最も深くして哀切のものが、ここにその片鱗を示してゐる。
今や詩は、かつてさうあつた姿を變へた。青春の抒情から始り、或はそれを中心にして成立した幸福な時代は消滅した。詩が傷いた青春より始つた日さへ、なほ今より幸福で甘美だつたことを憶ふ。かくて私はさらに思ふ、ここにかの日の数々の思ひ出と人々を回想しつつ、アジアの冥想と象徴を、現實の生命と思念に於て、即ち生が即自に永遠な死相である實感に於て、詩の思想として形成される時が、今や確かに始つたのである。
その一端を示した詩人を人々はやはり讚美すべきだ。讚美といふ語が、痛ましい對象に於て、耐へ難い感がしても、他に何と云ふべきだらうか。
わが信に於てあるは永遠、流轉は信の世界のものでなく、現象の皮相にすぎない。しかし新しい詩の思想をかく考へ來つた者は、花鎮頌を稱へるべきである。彼の呻吟と祈念を基調とする冥想と象徴の詩は、舊い新詩時代の冥想と象徵といふ詩學觀念を革命したものである。されどかくてなほ青春は不摯s滅である。不滅不朽であつた。今この詩人の描いた冥想と象徴は、この現實に於て、この本意を實證してゐる。それは詩のなし得る、詩のみの現し得る世界とことばの眞實である。
昭和廿九年五月五日
大和國跡見茂岡北麓にて
保田與重郎
「華嚴章」(昭和26-27年)より
奥山にたぎりて落つる瀧津瀬の
玉散るばかり思ふころかな
扉に
自分の廻りに人間と呼ぶものを一つも見出し得ない日に誰が一人の詩人を見出し得よう!
人間の命数や時のながれや地球の自轉が意味のない正確さでめぐるとき一體誰が一つの愛を形相し得よう!
廓寥とした山上の湖の透明で深い不氣味なほど濃い藍色 そのやうな沈黙が生命の白熱の燃焼であるやうな日に誰が永遠の心を信じ得よう!
1
ひたすら耕し
「たがやして天に至る」と
その人はひそかに笑ひ
泥んこになつて
夕明りの中を歸つて行つた
静かな
疲れを知らないものの足取で
いつか最初の星が輝きそめ
地球の向ふの世界から無數の
やさしいほのかな光りが
またたきはじめる
「谷間に」(昭和22-28年)より
谷間に
白雲はここにやどると
何時の日かわれはおもひし
あはれ日影うすきこの谷間に
去年(こぞ)の花ことしも咲きぬ
夜は晝につぎ
山のまの蒼空みつつ
悔いもなく恥らひもなく
永劫のそのたまゆらも
やすまずいつはらず
あら玉の年のなかばを
氷雪のとざす谷間に
初夏の風ひとすぢにながれ
白き花 咲きてこぼれぬ
あはれわがいとなみに似て
白雲はここにやどると
何時の日かわれはおもひし
(昭和23.3)
伊東靜雄を哭す
久方の天道(あまぢ)はとほし
常知らぬ道の長路(ながて)は
くれぐれといかにかゆかむ
國の子のふかきかなしみ
身におひてこれの世にまし
春知れと谷のした水
たまきはる命に泌みて
さやかにも歌ひましけむ
君をしも憑(たの)みてあるに
君をしも思ひてあるに
如何にあらむ日の時にかも
渡る日の山に入るごと
照る月の雲隠るごと
黄葉(もみぢば)の過ぎて去にきと
打ち靡く春の山邊に
言はむ術(すべ)爲むすべ知らに
べにつつじにこやがもとに
うつ伏して哭(ね)のみし泣けば
おし照るや天つ日影の
静かなるおほき翳はも
(昭和28.4)
「愛戀古曲」(昭和27-28年)より
花
時くれば 花は咲き
時くれば 花は散るてふ
玉の緒の絶へなむ胸に
咲きつぐは何のおもひぞ
はつかなる花のいのちを
なげかずてきみは去(い)にけり
みよしののよしのの山の
きみや肖(に)し花のすがたに
花咲けばそこにしながめ
花散ればそこにしおもふ
うつし世にありふるこの身
いかなればかくもせつなき
いのちさへすべなきものを
われに咲く永遠(とは)の思ひや
「花鎮頌」(昭和15-20年)より
龍膽
幾山河
遠くめぐりて
ふる里の高嶺にいまも
碧むらさきの
龍膽(りんだう)の花咲き出づるらむ
ひとしれず
ひとしれず
しづかなる秋のひと日を
たまきはる命のいろの
炎なすかげにさも似て
日の神を
祈り讚めたたへ ああ
むらさきのその花匂ふ
しづかなる秋の一日(ひとひ)を
げに人の世のはかなきは
しらず ただ
空青し おお
久遠に過ぎゆくものよ
われいまかの花を摘みて
おん身にささげむ
(昭和17.9)
花鎮頌
いろはにほへど散りぬるを
えい いろはにほへど散りるをあなあはれ
日の本の倭(やまと)の國に
神ながら匂ひ耀よひ
國ぶりに薫りし花や
この夕べ
ありなしの風に散るなり
天地(あめつち)のまにまにかくも
うるはしく
あでにひらきし
さくらの花の
いま散りゆくも
天地のままなれや
いろはにほへど散りぬるを
えい いろはにほへど散りるをあなあはれ
いのちを盡して薫れる花よ
しづかにしづかに舞ひたまへ
春日の杜の八少女も
散りゆく花を髪に插せ
いろはにほへど散りぬるを
えい いろはにほへど散りるをあなあはれ
諸(もろ)びとのめでたたへにし
さくらの花の
いま人氣なきこの里に
しづかに舞ひて
散りぞゆくなる
(昭和18.4)
白雲の賦
皇神(すめかみ)の大詔(みこと)のままに
人あまたかしこに征きて
惜しみなく戰ひ
戰ひてふたたび還らず
み空ゆく月のひかりに
言問へば
雲に染め草木に伏して
命死にきと
葦の葉に夕霧たちて
北溟の風吹きおくる
寒き夕べに
雁が音は北海の孤島に
果てしつはものの
ことばを傳へぬ
「おのがじじここに死すとも
天(あめ)なるや日月のごとく
日の本の大和の國は
皇神(すめかみ)の嚴(いつ)くしき國
天地(あめつち)のたえなむ日こそ
わが國たえめ」と
皇神の大詔のままに
人あまたかしこに征きて
惜しみなく戰ひ
戰ひてふたたび還らず
うつせみは數なき身なり
かねてより命ありと
われ思はず
萱草の芒の野邊に
たち嘆き返り見すれば
弓絃葉(ゆずるは)の御井(みい)のほとりに
白雲はいゆき流れぬ
(昭和19.9)
雲よ
久方の天つ空みに
たたなづきかがよふ雲よ
美作や齋(いつき)の里の
ちちははに言もち渡れ
もののふのたけき心に
もののふのきよき心に
いとし子はここにはてぬと
愛(は)し妻に言もち渡れ
冬ごもり春去りくれば
背戸の山その山かげに
春告ぐ鳥と鳴かましと
たたなづきかがよふ雲よ
もち渡れ
魂もち渡れ
(昭和20.6)
跋
詩人柳井三千比呂氏の眞實は「美(ウルハ)しき妙」に盡きる。柳井氏ほど美事(ミゴト)なる生命(イノチ)を大切に行(コウ)してゐる人は少ない。柳井氏ほど、愛業と嚴しい詩情を事としてゐる人も少ない。
生れ乍ら詩神に馮かれて甲斐あるといふ恵まれた、身ごころ、ことごとく美し過ると思はれて、悩みさえ感じられる。わたくしは、その悩みにさえ尊敬を持つて居る。尊敬もてる詩人を畏知してゐるといふ稀有に感謝してゐる。それ程、こころを打ち、驚かさせる有難さは、生命を同じくしてゐる時期のめぐりの不思議を拜がむ。こういふ妙情な、まごころの無盡な所以に、わたくしは、柳井氏に身伏せする。柳井氏の一行一語の記記(キキ)はよく國魂に連つてゐる。柳井氏の擧身屈心、結局は國命(クヌチ)を懸けての身も、こころもの詩人であるのだ。
天地神明、よくも柳井氏の詩鏡に、光彩くださつて「花鎮頌」は、特に詩の眞實として華嚴されたのだ。
この詩集の中に、柳井夫人の深薀の微笑が、美しい力を馳けてくれてゐるのを、わたくしは歓喜とする。美加奈、伊都岐、知和岐さんも笑ひさざめいて居る様だ。元気で丈夫に育つて頂きたい。
上齋原村の、勝れた景彩は、たしかに「日本のこころ」の美事(ミゴト)だ。このすぐれた風光の中に、柳井氏御一統の普遍の、しあはせを祈期して止まない。
──驚キモ喜モ マシテ悲ミヲ盡シ得ズ──
一九五三、九、二七日畫
棟方志功
後記
1
われいつか三十路の坂を越えたり。いま深夜に目覚めて雨の音と蛙の啼聲を聞く。夜半なるや曉方なるやそれを知らず。
われ、もとより無才(むざえ)にして、金なけれどそれを得むと思はず、名を求めんとにもあらず、また人の頭(かしら)に立たんことも望まず、山鏡に炭を焼き、野良に耕し、一家を支へるにも乏しい力仕事に疲れて背戸川のほとりに眠る。いつか父母弟妹にもうとんぜられ、生家の片偶の土蔵に妻子と住む。
道あればその道をゆき、人あれば人に從ひ、師と友はおのづからわれにあるなり。かくてこの未曾有の時運に處して、なほわれは、かの莊嚴を仰ぎ、絶えざるかの呼び聲を聴く。
不生不滅の永生のすがたを思はば、わが運命の数奇なるも、わが苦患と怒りもたまゆらの明滅に似たり。かくて生命の大いなるもの、愛の無邊なるものまたおのづからわれにあるなり。
先師、萩原朔太郎に會ひしは昭和十五年の初夏なりき。その日、ヨーロツパの絶望とアジアの苦悶と、その時代の要(かなめ)に立つて、われわれの詩人がほとんど無益に燃えつづける姿をわれはみしなり。詩人は芭蕉を、その人生實感の仰ぐばかりの深さを語り給ひぬ。越えて昭和十七年の初夏、師は逝き給ひ、その年の秋、われ、學半ばにして召され、征旅につきぬ。
われそのころより詩作を試み、爾來十年、精進の念乏しきを省みて深く愧づ。
2
かの永遠なるもののうちにありて、はかなく水沫(みなは)の如きもの、かの聖なるかがやきのなかに浮びて、この微塵のごときもの、茲にわが半生の拙き詩篇を世におくり、師友に捧げん。
われはいま、われをはぐくみし、かの高く聖なるものと、かの深く多いなるものの畏さに生れいでし命のままに額づき伏す。
わが魂に光りと力を添へ給ひし保田與重郎 棟方志功兩先生の恩愛はわが現身(うつそみ)の聖なる記念にして、一日一夜も忘るときなし。いままた兩師の書と文を得て、わが貧しき詩集を莊巖す。無上なり。
伊賀上野に住む奥西保、わが身上をうつしてわが世上を憐み、土佐高知なる詩人吉村淑甫、わが請を容れて清冽光なす國風十首を贈られぬ。また東都なる詩人醫家精義堂林富士馬は昨年詩誌「プシケ」誌上に一文を草してわが詩業を鼓舞されぬ。友情肝銘のことどもなり。
これが上梓は、琉球の詩人知念榮喜、横濱に住む天池堂齋藤兼輔(劍石)兩氏の友愛と奔走によるものにして、棟方志功先生、千野子夫人の慈愛なくば期しがたく、玆に記して感恩の想ひを述べんとすれば、我が三十年の生涯に、かかる時世(ときよ)を同じくせし先輩知友、顯幽一つに現はれて、その畏情澎湃とし目眩むばかり、にわかにはしるしがたし。感銘あらたかにして冥加無盡なり。
昭和二十九年五月一日村祭りの日
美作國上齋原の草屋にて著者記
第一詩集『花鎮頌(はなしづめうた)』復刻版の刊行に寄せて
余は本年四月一日、満八十歳を迎へた。六十五歳で、保田與重郎先生が会長を勤められてゐた図書教材の出版社を定年退職した年の冬、家内が足首を骨折して寝たきりになり、以後あしかけ十年病妻と二人で過した。
平成十年一月、病妻は亡くなり、以後余は独居生活をつづけてゐる。
本年の六月二日、京都の料亭に、九十翁の幡掛先生以下、関西地区に住む諸兄姉十数人が集い、独居老人の余の傘寿の祝宴を催して下さつた。感無量であつた。
余は、その日参集の諸兄姉をはじめ、わが八十年の生涯に御芳情を頂いた方々に何か傘寿の内祝ひでもと、思ひまどふうちに余の第一詩集『花鎭頌』を復刻刊行して贈ることを思ひ立つたのである。
昭和二十九年発行のこの詩集は、余の戰中戰後十年あまりの詩篇を集めたものであるが、その中の一篇で戰中の作品である『花鎭頌』を、棟方志功先生が板刻して巻頭を飾つて下さつた。用紙は、和紙で人間国宝の阿部栄四郎氏、製本は和綴で当時第一人者といはれた上田東作氏、印刷は天地堂の斉藤兼輔氏で、氏はその後昭和四十年二月十一日、還暦を機に泉州の水間(みづま)寺で得度、五月一日比叡山横川(よかは)行院の加行に参じ、同年十月十二日、芭蕉忌を嘉辰として昭和再建後の義仲寺初代の住職になられた。
また発行所は、棟方志功先生が主宰されてゐた「日本藝業(げいごふ)院」で、日本芸術院に対して諸芸に執心する芸術家は「業(ごふ)」であり、有名無名を問はぬ芸術家の集りであつた。
敗戰、占領後、昭和二十七年に独立したわが祖国が世界に誇るべき刊行物の一つであつた。
先頃、この詩集の棟方先生の板刻だけを二枚折の豪華な屛風にして数百万円で売られてゐたと風の便りに聞いた。
さて、余はその後も草蔭の名なし詩人(うたびと)を自負して、詩作をつづけてきた。八十歳にして初心に還るおもひでこの詩集を手にされたことのない師友に贈る次第である。
本書の刊行に当たつては昭英社の富田昭子、長嶋顕信、永富弘道各氏のお世話になつた。記してお礼を申し上げる。
平成十四年盛夏 近江湖南にて
柳井道弘