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やまかわ ひろし【山川弘至】『山川弘至書簡集』1991 / 『山川弘至書簡集 新版』2011
山川弘至書簡集 同新版
平成3年7月20日 桃の会刊 / 平成23年11月03日 山川弘至記念館刊
351p 17.5cm×10.7cm 並装 価格表示なし / 355p 17.5cm×10.7cm 並装 価格表示なし(頒価¥1000)
岐阜市中部第四部隊時代 昭和十八年七月〜昭和十九年四月
福知山市中部軍教育隊時代 昭和十九年五月〜昭和十九年九月
台湾18901部隊(台北)時代 昭和十九年九月〜昭和二十年一月
台湾18496部隊(屏東)時代 昭和二十年一月〜昭和二十年九月
感想文
修養録
山川弘至軍事略歴
書簡中の人名
跋(石田圭介)
をはりに(山川京子) 1 2 3 4
追ひがき(山川京子) 新版追加
【抄出】
東京都杉並区西田町一ノ七〇七 田中方 山川京子宛
岐阜中部第四部隊 石原隊
昭和19年2月8日 はがき二枚
一昨日の不寝番に立ちましたが 夜が明けて空が大へんうつくしく本当に春だなあと感じ
ました 春は曙といふ感じがしみじみといたしました 清少納言の枕草子の言葉があの時
ほどなつかしく感ぜられたことはありません そして今ころはお乳をのんでゐるのだなあ
などおもひ うれしくなつてまゐりました まだ発表はありません もうこちらも本当
に春の気分であります なにか稚拙なことをかいてしまひはづかしく存じます 国難の相
はいよいよ現実に身にしみてまゐります 泰平の世であつたら 自分は本当に宣長におと
らぬ仕事を日本の精神の血統のためにうちたてねばならぬ任務を感じてをります しかし
かかる日においてはもはや生命をもつて敵の砲弾の盾となる以外に 国を守る直接の道は
ないと考へてゐます いさぎよく武器をとつて倒れてくいないとおもひます 本当に自分
は日本の精神のためにその血統の学を樹立するために一生をささげたかつた これが自分
の日本にささげる仕事であると思つてゐました しかしそれは今日のごとき戦局の日にお
いては もはやなげうつてしまひたいと考へます 自分はいさぎよく兵器をとつて国を守
る盾になりたいとおもひます 昨今銃剣術もいささか進歩しました ゆくわいであります
とりいそぎとりあへず 諸先生によろしく
【抄出】
東京都杉並区西田町一ノ七〇七 田中方 山川京子宛
福知山市中部軍教育隊 奥山隊
昭和19年6月7日 はがき
おはがきありがたう 三好達治氏の詩 はがきをとり出して いつもいつも愛誦してゐま
す 私は友人が食後などたばこをのんでゐるときなど いつもこの詩を出してよんでゐま
す やはりうつくしい文学にうゑてゐるのだなあとおもひます そしてそれも軍務の大切
なご奉公の身では まとまつた本をよむといふやうなことよりは 仕事のをはつたあと
演習のをはつたあと 自習のをはつたあとなどに はがきや手紙のはしくれにかいてある
かうした古今のよいうたを しづかに朗読することの方が意味ふかいとおもひます それ
につけてもおたよりのたびに たれかの作がかいてあるのがのぞましい といふよりも必
要品です 私はよまねばかけません 詩にしてもうたにしてもおなじ これはずつと以
前からいひたかつたことでした
右とりあへず
【抄出】
岐阜県郡上郡八幡町常磐町 山川新輔 京子宛
広島市旭町1-1668 神笠方(隊外より仮称)
昭和19年9月7日 封書
略歴
大正五年九月十日、母の生家岐阜県郡上郡八幡町常磐町に生る。故郷は同郡高鷲村大字切立明谷なり。
家は父祖以来農にして維新前は医を兼ぬ。代々濃北の素封家たり。
幼にしてふかく文学歴史を好み、詩歌に秀づ。主として父母の感化と静寂幽邃なる濃北の
自然の影響とによるもの多大といふべし。父夙に愛郷の心ふかく、志を郷土史の研究
に寄せしかば、自から父の感化により郷土の風土と伝承とに、異常なる愛著を覚ゆるに至
れり。これ後年国学に志し、民族精神の伝承を究むる学に心を寄するの遠因すでに此所に
発せりと言ふべし。
中学に進むに至り、いよいよ国文古典に親しみ、文藝詩歌に思を寄するに至る。その志す
ところは国文学者にして文学者を兼ぬるにあり。上級に進むに随ひ、志いよいよ固く遂に
意を決して中学を卒るや、昭和十年笈を負ひて東都に遊び國學院大学に学ぶ。大学予科時
代より、漸次母校の伝統たる国学精神の学風をうけ、国書、古典、古史への愛執いよいよ
強きものあり、群書を漁り、夜を徹し、寝食を忘るるに至る。このころより、我国古代学
の最高権威にして、当代国学界の偉材なる、國學院大学教授文学博士折口信夫先生の門に
入り、次第に古代学への研究を教授さる。又生来の文藝詩歌への愛執いよいよ強く、折口
信夫博士の門に入つて和歌を学ぶに至り、その技大いに進む。昭和十一年「新万葉集」の
企あるや即ち少壮よく三首を採録せらる。蓋し以後の学問及び文藝への異常なる熱情と敬神
尊王の至誠とは、全て恩師折口信夫博士の、偉大なる感化と啓発とに発すと言ふべし。誠
に折口先生は開眼の恩師にして、また、斯道における最も大なる光明たり。
昭和十二年予科を卒へて学部国文学科に進むや、志いよいよ固く勉強また大いに進む。此
頃より母校伝統の学風は、純真多感にして究学の念に燃ゆる学徒の心をして、国学と純神
道との研究と確立とに生涯を捧げ、民族精神の危機を救はんと決意するに至り、やがて当
時の世流の滔々として欧米心酔文明開化の悪弊より尚醒めず、その害毒すでに日本文化の
うへにふかき暗影を投ずるに至れるをおもひ、切歯して慨世、憂国の志を起すに至れり。
即ち国史国文を究め国の道義を闡明し、民族精神の向ふべき道を明示する学を起すととも
に、文藝詩歌をもつて新しき国風文藝を樹立し、植民地的発想の文藝を駆逐し、世道人
心を一新し、日本文明をその正道に返さむと志すに至る。たまたま学会文壇の権威により
て、「新日本文学の会」組織され、恩師折口博士もまたこの運動に参ぜらる。即ちかね
て宿望せし気運漸く至れるを知るや、欣喜して之に参加せむとし、先づ倉田百三先生、芳賀
檀先生の門を敲くに至れり。
かくて後年「日本浪曼派」の少壮文学者たるの基は此所に定まれり。ついで中河與一先生
の著「天の夕顔」の評論を書するに至り、中河先生の着目さるるところとなり、大いにそ
の愛顧をいただくに至る。またこのころより、かねて最も日本的国風の詩人として尊敬せ
し保田與重郎先生をたづね、その啓発をうくるに至る。芳賀檀、保田與重郎の両氏はその
青春時代を通じて、常に勉強の活模範たりしなり。又中河先生の紹介により、日本浪曼派
の長老にして我国詩壇の最高峰たる萩原朔太郎先生の門に入り、生来の志望たる詩を学ぶ
に至り、心境漸くいちじるきものあり。このころより藤田徳太郎、浅野晃、中谷孝雄、田中克己、
丸山薫、神保光太郎、宮崎丈二、風巻省三、樋口清之、横井金男、今泉忠義氏ら
文壇及び思想界学会の人々を識り、我は皆に感動又折口信夫先生を通じて我国民俗学会の権
威柳田國男先生の影響を大いに蒙るに至れり。
学部国文科において学年を加ふるにつれて学問大いに進み卒業に際しては恩師折口信夫
博士、藤村作博士の指導のもとに、卒業論文を提出し、やがて昭和十五年國學院大学国文
学科卒業に当りては、優等生として学長河野省三博士より学長賞を拝受し、ついで研究室
に留り、折口博士の指導のもとに、神道及国文学の研究に精進するに至れり。
その志すところは皇国伝統の文学を究め、国民精神の根源を探り、来るべき新日本の指導
理念の根元たる、新国学を樹立せむとするにあり。折口博士の推挙により官幣大社伏見稲
荷神社奨学研究生に選抜さる。
このころより大東亜の風雲漸く急にして、支那事変はやがて大東亜戦争に拡大し、未曽有
の国難に際会するに至れり。即ちいよいよ皇国の学を究め、民族精神の確立振起に専念す
るとともに、その憂国の至情止み難く、中河與一先生の「文藝世紀」の運動に参加し、又
林富士馬、牧田益男等とともに、文芸誌「まほろば」を興し、我国正道の文藝文化を確立
挽回し既往の邪悪を打破せむと企図せり。やがて日頃書きあつめし詩篇をあんで詩集「ふるくに」
を世に問ふ。その伝統の国風のうちに、新しき世代の詩情をもり、来るべき民
族文化の開花を予言せし美麗の新風は、文壇具眼の士の着目するところとなる。ついでそ
の研究の一端たる「近世文藝復興の精神」を上梓出版して、いささか日頃の素志の一端を
世に問ふ。又久しく皇国文明の昂揚と植民地流文化の打倒のために戦ひ来れる文藝批評文
明批評の諸論文をあつめて、評論集「国風の守護」を出版せり。けだしその志は、皇国国
難の秋に当り、真によるべき民族精神の根元を世上に明示し、欧米文化の悪弊を打破せむ
との止みがたき悲願に発せり。かくて国学への志いよいよ固く、その文学者としての存在
は世間具眼の士の次第にみとむるところとなるに至れり。昭和十八年六月、中河與一先生
の媒酌により、東京開成館常務取締役田中嘉三郎女京子をめとる。
ついで同年同月召集の令を拝するや、勇躍挺身護国の志を固め、岐阜中部四部隊に入隊す。
同年十一月中隊長野村義明氏のすすめにより幹部候補生志願を決意し、受験、昭和十九年
三月甲種幹部候補生に採用さる。ついで同年五月福知山市中部軍教育隊に入隊し将校生徒
たるの修養を重ぬ。区隊長陸軍中尉迎直人なり。同年八月飛行隊に転属の命を拝し九月勇
躍任地に出征す・・・・・・
後年子孫必ずや志を振起してその決意をつぐものあらん
(最後の紙の裏に)
万が一の用心にかきました もちろんあくまで生きて本来の使命をもつて文学者としてご
奉公するのを期してゐます また信じてゐます しかしまさかのときのことも用心するのが
武人のたしなみなれば書きしるす もとより目的は後人をして我志に感じて皇道のためふ
るひ立つひとあらばと感ずるに至ればです 尚もしものときのいとなみはあくまで 神式
たるべし
仏式はかたく拒絶す
【抄出】(新版書簡集追加の一通)
東京都杉並区西田町一ノ八八 田中嘉三郎方 山川京子宛
神奈川県藤沢市南仲町二丁目 赤木方(仮称)
昭和19年11月19日 封書 ほかに「新訳古事記」※の原稿 ※『日本創世叙事詩』
拝啓 この本は題名 長詩「新訳古事記」とします 序文は折口 保田両先生よりもらひ
ます 私の序文はこのつぎの便で 月末ころ又は月初ころおくります その時神代巻全文
訳了して送りますから それでまとめて下さい もちろん 神代巻のみで打切ります 装
幀は 是が非でも 安田靱彦氏にたのんで下さい 天心先生の直門にして神話を絵にする
ことはこの人以外 今の日本人にはありません たのみます 出版屋は牧田氏がいいかと
おもひますが お前ひとりではいろいろと大へんですから このたびはお父様に相談して
お父さまの会社にたのめればとおもひますが それ以外は牧田氏がやはりいちばんとおも
ひます 今度は絶対自信をもつてゐます 一般に毎月つくつておくつてゐる短詩は まと
めて別の詩集にして下さい なるべく早くして下さい 別の詩集の方は中河先生に序文を
もらひたいと考へますが この方はもうすこし多くかいてからにしますからそのつもりで
以上
原稿は 手紙この封書 ともに四つに入れおくりました うけとつたら必ず返事を下さい(航空便にて)
【抄出】
東京都杉並区西田町一ノ七〇七 田中方 山川京子宛
東京都淀橋区東大久保1-407 青山幸吉方(仮称)
昭和20年1月9日 封書
拝啓 そののちはお元気のご様子本日の手紙で拝見いたしました 安心いたしました
ご両親様 お兄上様お姉上様 みなさまごぶしの由を拝し唯々うれしく存じます 空襲下
充分注意人事のかぎりをつくさるることを祈ります 私もこちらにて敵機グラマンの空爆
を眼前に見 今さらその威力には感じたことでしたが 完全なる防空壕といふものが如何
に必要かといふことをしみじみ感じました もつとも私はその場所より数百米はなれたと
ころで見たのであつて すぐそばに落下したわけではありません B29はさらに威力も強
きことにて充分の注意を要します みなさま方が今すこし外部に家をおうつしになつたら
ともおもひます 東京のことはいつもいつも気にかかります 又このあひだは本当に我儘
なことをいつて何ともすまない気がしますが どうかゆるして下さい そのごあなたから
の熱心な様子をよみうる手紙がついて よけいわるかつたとおもひました しかし結局止
めた方がいいのではないかとおもはれるのです
あなたはもう私の半身であるといふことが遠くはなれてますます切なく感ぜられ さめて
おもひねておもふことがとくにしきりになつてまゐりました どんなことがあつ
てもあなたの期待にそむいてはすまないとおもひます しばらくごぶさたいたして本当に
すみません そちらからは航空便は全部つくやうですが その他は全然つかないことが明
白に今までのけつかよりしてわかりました 実はここ二十日間ばかり入院中にて便をたく
することが出来ず失礼しました といつてももうすつかりよくなり ここ一週間のうちに
は退院させられることでせう 私どもの世界も病院丈は極めて慎重を極め 容易に退院は
させませんがもう大丈夫です
はじめは伝染病にあらずやと心配いたしましたが 入院して黄疸といふことが明らかとな
りました 入院前一週間ばかり熱がつづきました がもう入院後は一日も発熱もなく日に
日に快方にむかひ 唯今は静養といふ具合ですからくれぐれもご安心下さい もうくすり
も単に健胃薬丈となつたやうな次第ですからご心配なく
先日は特攻隊勇士(石腸隊)の人々を眼前に見 その元気な姿に感じました
しばらくしてその人々のレイテにおいて突つこんだ発表があり 感無量でありました
古事記ののこり木花咲耶姫より神武天皇のご出発まではまもなくおくります 序文もその
際おくりませう しばらく熱につかれて書く気がしなかつたのです しかしもう大丈夫
あの本は出来れば私の詩集ふるくにと同じ大きさの活字にし 本の大きさをもひとつ大き
い型にすれば理想です しかし之は理想であつて 要するに出版する丈でやつとであるか
ら 要は出版できる可能性といふことが一ばん大切です この節のことですから「ふるくに」
の本文の活字よりもいちだん小さい活字でもかまひません
書名は「新訳古事記」ではいささか具合がわるいと感じました 場所によつては日本書紀本
文及び一書に曰くを参照したりしましたので「日本創生叙事詩」でいいのではないでせ
うか
序文は折口 保田両先生にとおもふのですが 中河先生に相すまぬやうな気がいたしま
す 之は詩集の分を中河先生にいただくことにすればとおもふのですがこの辺が気にかか
ります
詩集の方は中河 芳賀両先生にいただきます 詩集も成丈早く出さねばとはおもひますが
今すこしたまらないとすくなすぎます
尚私の身分上 一応上長の許可がいりますし あるいは閣下に題字位はいただかねばなら
ぬかともおもひますから 正式にそちらで許可が出 下ずりが出来ましたら 出版しない
うちにこちらにおくつて下さい 無断で出すと処ばつになりますから 尚そうすれば大丈
夫許可はあることを確信いたします この点充分ご注意下さい 尚将来「文藝世紀」等に
もし私の作品等発表さるる折の紹介は絶対部隊名等を記さぬやうにして下さい 岐阜県
郡上郡八幡町 山川新輔気付としていただくやう おねがひいたします
装幀 安田氏にたのめることになれば 岡倉天心先生の直系としてまことに心づよく存じ
ます 表紙と扉は安田氏に 挿絵等もいただければ之にこしたることはありません が
ご謝礼もえらい方故 おろそかには出来ず あまり多くもおまかせは出来ぬでせう がそ
の辺はよろしく 表紙の絵はおまかせします 挿絵もおまかせいたします 天孫降りんま
ででそれ以下はまだ手をつけてゐませんが近日中に出します
尚牧田氏横井金男氏にはくれぐれもよろしくおつたへ下さるやう 切にたのみます
尚社の方のこともあなたにくはしい通知をもらひ それ丈がんばつてゐるのならあんな
ことをかいたことを いささか 相すまなく存じました しかしあまり長くもどうかと考
へますから あとしばらくはつづけてやつて その間は出来る丈一生懸命に木村氏にもよ
ろこばれるやうやりなさい 右のことおねがひいたします 私もけんとうをいのります
そして 一定の時がくれば心よくよろこばれて止められればいちばんいいでせう そこで
私のプランとして 折口先生と保田與重郎氏との対談は あなたのいつてゐられるやうに
之こそ日本文化史上 歴史的意義をもつて後世にのこるとおもひます
之は多くの人は入れぬ方がよいでせう 折口 保田両先生のみの方がよいとおもひますか
ら 題はもうすこし考へて後便にてすばらしいのをしらせます
尚芳賀檀氏に芳賀矢一博士の和歌についておもひ出をかかすことはいみふかいとおもひます
右とりあへず
只今病気入院中にて もうよくなりあと二三日で退院しますが それまでは手紙もあまり
かかず失礼しました 今友人が来てまつてゐてくれますのにあまえて 一便したしだ
いにてじゅうぶん意をつくさず 又あとよりしるします
あらためて東京のお父さま お母さまへは私が又くはしい感想など近日中にさしあげま
す 郷里の方へたよりするひまなし あなたからすぐこのたよりついたことをしらせて下
さい
手紙本日病院へ 十二月六日 十一月十四日 十一月28日 十一月二十五日 及一封 友人
がもつて来てくれました
すこしまへに十一月三十日といふのがまゐりました
この手紙の前半はその折かき えんぴつの部分は今かいたので 文意一貫せずあしからず
皆さまによろしく
なるべく郊外の方に出て空襲をさけなさい
【抄出】
東京都杉並区西田町一ノ七〇七 田中方 山川京子宛
台湾派遣18496部隊 ふちがみ隊(松本隊)
昭和20年1月21日 封書(日本創世叙事詩の序文にそへて)
自分ももはや昨今の状勢より冷静に判断して 容易に生きてかへれるとはもうおもつてゐ
ない 之は元よりはじめから覚悟することではあるが 昨今のいろいろの点から合理的に
考へても生還はなかなかきしがたい もしどんなことが勃発しても決しておどろかぬやう
に こんなことをあなたにいふのはなんだか すまなく むねがくるしい あなたの私にた
いする比類ない愛情を私は身にしみるほどしつてゐるからだ 又私たちの特別な間柄をし
つてゐるからだ しかし今は一切の歴史のながれが個のなげきやかなしみはゆるさない
序文にあるとほりが私の心境であつて他になにもない
あなたもどうかつよく充分に大事をとつてあくまで生きられよ しかしもし万一のことが
あつて敵がやつて来たりするやうなことがあつたら 立派に日本の女らしく自殺しなさい
米人の手にかかつたりけつしてしないやうに これ丈は申しておきます 之はキユウであ
らうけれども ともかく言つておきます
又もし私に万一のことあらば 只あとは充分にあなたの自由な意志で生きて下さい 私に
とらはれる必要なし(こんなことを云つても表面丈よんで怒らないやうに)再えんもけつ
してわるくもおもはぬし 又本当に良えんでしあはせになれるならその方がよいとおもひ
ます(どうかみづくさいといからぬで下さい)又私の家のため姉弟をみて下さるのも 両
親をみて下さるのもありがたいが之はけつして強要はしません とにかくお互に自重して
生きられる丈は生きてご奉公し己の皇民としてのつとめをはたしたい 犬死にはしたくな
い それ丈です
そしてもし百死に一生をえてかへつたら それこそ本当に私はあなたと二人でがんばりま
すから あなたも希望をもつて早まつたことはせぬやうに
只ざんねんなのはもしやられたら 世俗の俗物どもに私のえらさを目にものみせて てつ
ていてきに思ひしらせてやるキカイを失ふことがざんねんな丈です 以上
(欄外に)
見習士官にはなりましたからご安心を
木之花咲耶ひめ以下はやめます さきに送つたのとこの序文で全部終り
もうこちらのキヨカなどえてゐるひまもあるまいし 手はずがゆけば出版して下さい
詩集の方も牧田氏にさうだんして出して下さい
この方は中河・芳賀両先生に序文をもらふこと 詩のすくないのはやむをえない 西川満
氏には抜文をかいてもらひます
本の題名は日本創世叙事詩
跋文をあなたがかいて下さつたらありがたい ただし私の身分を出さぬこと 両先生へも
私の身分については序文においてふれぬやうに申しあげておねがひして下さい
ウラに
この書は官幣大社伏見稲荷神社に奉納します よつて扉のつぎの頁の白紙のところに(謹
しみて官幣大社稲荷神社の大前に奉納す)と印さつして下さい
順序
1、表紙
2、扉
3、謹しみて稲荷神社…
4目次
5目次
といふ順にして下さい
跋文はあなたがかいて下さい 素直気どらぬものがよろしい 女らしい 私のは多少気負
つてゐますから
詩集の方も小さくても出します
【抄出】
山口県玖珂郡神代村字坂川 池本方 山川京子宛
台湾派遣18496部隊 ふちがみ隊(松本隊)
昭和20年7月23日 封書
謹啓 お父上様にはいかがおすごしでございますか ごあんじ申しあげてをります 時局
柄たとへ比較的安全なる所にいらしたとは申せ 充分なるご注意をなさいますやう そし
て又元気なお姿にお目にかかりたいと存じます 京子はそのごも本当によくつくしてくれ
私としては只々ありがたく切ないくらい京子のことをおもふと相すまぬおもひがいたしま
す 之もひとへに お父上様 お母上様の お訓しのたまものお心づかひのかたじけなさ
故と 身にしみて感激仕つてをります もし幸にして無事故国にかへりましたならば 本
当にどんな努力をしてもこのご恩にはむくいねは申しわけないと存じてをります どんな
努力しても京子を仕合はせにしなけれは 相すまぬと今さらに
お父上 お母上お二方のお心のうへにおもひいたりますときに 切々として心にせまつて
おもふのであります 京子のこと生涯を通じてかたじけなくありがたく お二人のお志は
一生忘却仕らず 京子と二人で協力一体 必ずご期待にむくい奉り 知己の思にむくいま
ゐらせんことをちかひます どうかお体お大切に 私のかへります日まで 元気においで
下さいませ 敬白
山川弘至
田中お父上様
お母上様にはそのごはおかはりなくおすごしのことと存じます そののち私も無事すごし
てをりますからどうぞご安心下さいませ 一昨年 もう二年前になります お母様とはじ
めて中河先生のおうちでお目にかかつたのは あれから二年 心から私は お母様を神様
からいただいたことを どんなにありがたくおもひつづけてをりますことでせうか 京子
はやはりお母様の子だつたのだとおもひます 京子はあんまりよい子ですから 私はつく
づくありがたく存じます どんなにしても私は お二方のためには京子と一しよに ご恩
にむくいねばとおもひます 世に知己の恩と申す言葉がありますが このお二方のお心は
ほんとうにこのことばのとほりと存じます どんなにしてもご期待をうらぎつてはならぬ
と存じてをります どんなに遠くはなれても お二方のことはいつもいつも感謝にみちて
忘れはいたしません 京子は本当によい子で只々京子にたいしても私はすまないとおもひ
ます お二人のおこころのうちを考へますと特に切々として感謝の念にたへません 京子
にほんとにすみません 申しわけないことです しかし今度かへりましたらどんなにして
も京子は仕合せにいたします
お二方にはきつとご期待にそひます これがせめてもの私としましての道であります 本
当にお二方の前で京子も一しよにおはなしする日は もう遠くないやうな気もいたします
お母さまとはもつともつとゆつくりとおはなしいたしたいとおもひます その日のはやく
来ますやうに そのときまで どうかお体お大切に 元気でおいで下さいますやうに 切
に切にいのります
京子のやうなよい子を妻といたしました私は本当に仕合せですが 京子には本当に相すま
ぬとおもふことのみ多いこのごろです しかし私も必ず又頑張ります そして私たち一し
よにたのしくおはなし出来る日もきつとまゐりませう その日までみな様方どうかお元気
でおいでになつて下さいますやう
お母さまにはとくにお体お大切に 敬白
山川 弘至
田中お母上様
お兄上様方 お姉上様方にはいよいよお元気にごふんとうのことと拝察申しあげます ど
うぞくれぐれもお体にお気をつけ下さいまして充分ご奉公下さい
東京の兄上様にはとくに危いところ故 お体にお気をつけ下さいますやう くれぐれもお
つたへ下されたく 又藤沢の兄上様応召されしとか 大へんご苦労に存じます これで藤
沢兄上と私と二人の軍人が出来ましたこと いよいよ力づよく存じます ご武運の長久を
いのります みなさまとおわかれしてから ずい分に久しくなりましたが面会の日はもう
遠くないやうにもおもひます 京子のことほんとうにありがたくかたじけなく感謝にたへ
ず 私もかへりましたるうへは必ず必ず京子を仕合せにして 皆様のご厚志にむくい奉る
べく それのみを今よりたのしみとしてをります 面会の日をたのしみに 皆様くれぐれ
もお体お大切になし下さい とくに敵襲にたいしましては各種戦訓を活用研究されくれ
ぐれも手おちなきやうねがひます
まづは失礼のほどおわびまで
敬白
山川 弘至
兄上様 姉上様 ご一同様
京子さん お手紙ありがたく拝読いたしました 私はあなたの手紙をどんなに待つてゐる
か知れません そしてこのところもう一月半ほどもたよりがないので かなしみもしこの
ごろはいきどほりつづけてゐました そしていつもあなたのおたよりがつくと必死でよみ
ます そこからすこしでもあなたに接してゐたいとおもふからです そしてあなたの手紙
に感動したりよろこんだり 時には手紙が短かつたり 比較的平凡な生活の表面的報告で
あつたりすると 心からいきどほつたりいたします 私はあなたの文章のうちから何もの
をかかぎ出さずにはおかないからです 四月ころ来た手紙は淡々としてあなたの日常が
山口に来てからの報告として簡単にある丈だつたので とたんにどんなにふんがいしたこ
とでせう 毎晩腹を立てておもひ出しました そして長くおたよりがなかつたので 全く
がつかりしてゐました あなたの手紙が来てしばらくはいつも元気が出るのです しかし
よろこびが大きい丈に期待にはづれるとふんがいします といつても之はあなたがいけな
いのではありません 私が我ままなのですから どうか我ままな私をゆるして下さい
おもへば自分ではちつともたくさん手紙をあげないで あなたにばかりこんなことをいふ
のはすまないことです しかし之ほどに私はあなたをおもひつづけてゐるのです 之ほど
に切なく感じてゐるのです 一日もさうおもはないでゐられぬからです 同じ隊の奥さん
のある少尉の方が 横浜の奥さんからいつもいつも手紙が来ますのに あなたからはすこ
しもこなかつたので ほんとうにさびしく心配し 又いきどほりつづけてゐました しか
し昨日二度に三通もまゐりました (四月十八日 五月五日 五月十五日と三通です)と
び上るほどうれしくなりました 手紙の数もその少尉さん以外では私が部隊でいちばんで
す もちろんなかの文章の美しさ りつばさ さらにその心だてのやさしさでは あなた
に比しうるやうな人は全然ないといふことは はじめから分つてゐます それは何百人の
我隊のうちで 私の手紙の右に出るものがないのと同一です しかし度々あなたにおたよ
りしない私はあなたには申しわけありません しかし軍人のうちでは いちばん多い方で
せう 之からはもつともつとかきますからおゆるし下さい あなたがあるといふことは
他の人に比していかに私は幸でせうか 只々すべてに感謝あるのみであります 私こそ果
報がすぎてゐるやうな気がいたします 私たちの間柄はほんとうにいつも言ふやうに外面
的なところに誇りを感じてゐる世間の夫婦とは別なのですから ぜつたいに比類ない我々
の間を確信してゐます いつかあなたのいはれたやうに 本当に我々は感覚までも一しよ
なのです 信仰は申すまでもなく 衣類などにしても 今にあなたは私のいちばんすきな
きもの丈身につけるやうにもなることでせう こんなことは末の末ですけれど 私があな
たの手紙に一悲一喜することは子供のやうです
おわかりになりますか 私の生命はあの日からあなたに捧げあましてあるのですから あ
なたのためにはいつでも身命は投げ出すのですから 私たちはあの日あつい涙で二人して
誓つたことを どんなことがあつても忘れません 必ず生きてかへりますから そしてき
っときつとあなたを幸せにすることを誓ひますから それまでどんなことがあつてもまつ
てゐて下さい 私たちの若い美しい日を必ず必ず二人で築き上げませう 二人丈でちひさ
いおうちに住んで 世界をうごかすやうな仕事をしませう あなたはお手紙のうちで「い
っもいつしよにゐるご夫婦なら こんなに奥さまをうぬぼれさせるやうなことをおつしや
るでせうか」と言つていらつしやいましたが 私はいくらあなたを讃へても讃へすぎるこ
とはないとおもひますし そんなことでおもひ上つたりうぬぼれたりするやうな世上多
い浅い女だとはあなたをおもひません 私がたたへてゐるのはあなたのうつくしい精神の
比類なさなのですから 私とあなたが会つたことは神意です 神のみ心がおはす以上我々
は亡びません 必ず生きてあなたをおむかへにまゐります 私は神のみ心を地にしくみ言
もちなのですから 死ぬはずはありません 私が死ぬやうでしたら皇国の道もおしまひで
す 決して不遜の言にあらざるを確信します 私がおむかひに来るときはあなたも私たち
の結姫式の日くらい美しくよそほつておまち下さい 私のおとづれを 之こそ我々の再生
の日で 結婿式と同じことですから 我々はいちど夫婦のちぎりをしてから又 ふかい愛
情の試練といふより 神意による練成に会つたのです そして本当に大きな成長をしたの
ですから 之はすはらしいことです 折口先生の学説に所謂「いみこもり」ののちの再生
です 成長です つまりはげしいみそぎののちの大きな国生みがあるのです かの神話の
ごとく 我ら又大きな国生みをするためには この久しい「ものいみ」の生活と つらい
はげしいみそぎは 之が必要だつたのです いく多の試練をへて私もあなたも真の神なが
らの日本心になるでせう そして二人してこもる巣をさがしませう その日こそ八雲たつ
出雲八重垣の美しい自然のうちに あたらしい日の光明が二人で生み出されるでせう 私
の日本創世叙事詩は その土台です くり返しあなたに感謝します あなたが私の妻であ
ることを神明に感謝いたします 京子さん 本当にありがたう存じます ちかつて私はあ
なたの期待にそむかない ちかつて
こんどかへつたら さらに大きな我々のたたかひがまつてゐるでせう 私は今から二人し
て 之にとびかかつてゆくのをたのしみにしてゐます 二人して之をのりこえてゆくため
のいろいろの計画を考へてゐます 具体的にひとつ丈考へうることは 個人雑誌を出して
私が主宰して民族精神の指導をしたいとおもひます あなたはその経営を一さい私からま
かされて大いにやつて下さることになつてゐます 尚その日までに 古事記の訳詩は書物
に出版出来ねば あなたの骨折りで和文タイプに打つて すくなくとも数十冊をこしらへ
ておいてほしいのです ただし配布は又あらためて当局の許可を要しますが 和文タイプ
の練習をしておいていただくのも将来の役に立つかとも考へますが 今のところ出版はこ
んなんかも知れませんから又めんどうなことをおねがひしますが どうかたのみます
ただし体にも境ぐうにもこのために むりをしないやうにおねがひします くれぐれも
要するに一昨日いただいたお手紙三通が どんなに私を力づけたことか あなたの場合と
全く同一です それですのに私は時々しかおたよりせず 本当に相すまぬとおもひます
今度かへつたら 本当に二人でどうしてくらさうかと考へてゐます 私とあなたのなすべ
き第一の仕事はさつき申しましたことにつきますが 私は今度かへつたら死物狂ひで勉強
して必ずご期待にはそむきません 学位もとる覚悟です きつとやります 初志が貫徹出
来ぬ位なら生きてゐようとはおもひません 文学者として国学者として 必ず意義ある生
涯を終ります 母校の教授にもどうしてもならねばなりません いろいろと野心的なこと
ばかりかいてをかしいとお思ひかも知れませんが あなたを幸にするためには必死です
私としても
それはともかく今のことより何よりも我々があたへられた使命は実に大きいと考へます
どうしても二人でこの使命は達成せねばなりません 私がゐなくてはどうにもならぬ仕事
があることを確信します 私が死ぬやうでは日本も終りです あなたもその日のためにし
つかり勉強して下さい 田舎に行つたからとて田舎人になり切つてしまはないやうに 逼
迫した時代の人として 懸命に勉強することです 古典をよむのも結構です それはさう
としてあなたのお手紙にもありますやうに 京子さんと二人でくらす日は ちひさい家で
も二人でゐたらどんなにたのしいでせう 今からおもへはむねがをどります そこで私は
長い間ひとりのかなしみにたへて 本当につくしてくれたあなたを どうしてむくいたら
いいでせうか あなたのつくつてくれたものなら どんなまづいものでもおこげでもだま
つてがまんして食べるくらいではたりません しかし時にはいろいろ甘えてみたいとおも
ひます 冗談はさておいて 二人の家は 私の書斎 あなたの居室 台所 客間 玄関
浴場はもちたいとおもひます これはすこし若い私にはぜいたくでせうが希望です たの
しい庭もささやかなのがもちたいとおもひます 玄関は応接室をかねます 客間はすこし
本式のお客さんのときの正殿にあたります 私の室は私の趣味でかざりますが もちろん
あなたの指導をこひ又乱雑な私の居室故一さいあなたの整理を必要とします あなたの室
は一さいあなたにまかせて あなたの居室として娘時代からのあなたの習慣 躾 趣味を
そのまま生かしていただきたいとおもひますし 室の置物もあなたの子供の時からそばを
はなさなかつたものはおいて下さい あなたの居室であり 私とあなたと二人でくらす室
ですから いちばん大切な室です あなたのお父上 お母上 お姉上様以外 いくらあな
たの親しい学生時代からのお友達でも そこに入ることはゆるしません こんなことをか
くと 私もやはり平凡な男なのだなあと あなたはおおもひでせう しかし私とあなたと
今度会ふ日のことは 二人の日常の起居から初めなければ
しかし二人丈で住む家に入る前に やはりあのなつかしい杉並の家のあのお室で あのあ
なたのお室で一ケ月位はくらしてみたい あなたのお家にとつても私は大切なおむこさ
んにはちがひありませんから 二人で旅行もしなければならぬ 郡上への産土まゐり墓参
もあります 二人丈の家におちつくのはそれからです 私たち二人丈の旅行もそれらしい
ものはまだしてゐません まづ伊勢神宮に参拝し 京都奈良 大和地方一帯の古美術より
はじめ 和歌の浦 紀州一帯 須磨 明石で終りたいとおもひます
尚空襲についてですが どんなに田舎でも 防空壕の頑丈なのは必ずつくること 台湾は
特に南部は郡上の八幡 白鳥 美濃町程度のものまでほとんど全部ふつとんでしまひまし
たから
尚郡上の方へもこのことをつたへて至急防空壕をつくること 及び 出来れば小野村か山
田村方面に疎開すること 及び家財を至急高鷲に疎開さすことを是非伝言ありたし 台湾
はもうどんな田舎でも防空壕をほります 山奥の高砂族の蕃社まで敵機は銃撃してゐます
から 内地でも主要都市を終ればこの状勢は必至であることを断言して警告いたします
お父上 お母上 お兄上 お姉上様方にはどうかくれぐれもよろしく お姉上様方は無事
よい赤ちやんをおうみ下さるやう祈ります 我々にもいつか赤ちやんが出来る日がたのし
みです しかしこれは又二人が会つたときにゆつくり考へませう 私がかへるときはどう
してあなたにあいさつしませう みなの前でだきしめてせつぷんすることは どうも日本
人にははづかしい気がします 二人丈になるまでは二人ともすましてゐませう あなたを
山口の神代へおむかへにくるまへに 近くまで来て電話か何かしらせますから そしたら
お化粧してうんと一世一代きれいになつて玄関口までまつてゐて下さい 今からたのしみ
です
みな様には失礼してしまひ申しわけありません お父様はおかはりありませんか
お母様は どうしてもあなたと結婚したくなつた大きな理由はお母様でした いつかはご
いつしょにゆつくりおはなしいたし いつもご相談のお相手にもなり あまえてみたい
お母様にはどうか充分孝行して私のかへる日までお元気でゐていただいて下さい
お父様と関ケ原での面会 昨年お母様とお姉様と それに姫路の叔父様との面会 なつか
しいおもひでですが しかし又お目にかかる日もそんなに遠くはないと 確信します 今
度はすこしはお父様とお酒のお相手もしておはなしゆつくり出来るでせう
お兄さま方 お姉さま方にもくれぐれもよろしく 藤沢のお兄上は応召されしとか 二人
とも武運長久で 一夕ゆつくり話しうる日をたのしみにしてゐます
お体があまりすぐれぬ由 どうか元気になつて下さい 右とりあへず 敬具
山川 弘至
京子様
別伸
郷里の両親にもやさしくしていただいて下さる様子 本当に感しやにたへません こと
に母は休も心もよわいからどうかやさしくしてやつて下さい 清至も敏子も指導たのみま
す 敏子には時々たよりをやつて下さい
拝啓 別便にて
郡上に出す手紙も同封いたしましたから あなたから出して下さい 現今時局下緊急を要
する事柄ですから 早速速達便で送つて下さい 状況がどんなに悪化するやらわからない
只今の状勢においては すこしでもおくれると岐阜と山口の通信も不能にならぬとはいへ
ませんし至急たのみます 尚この手紙でもわかりますやうにどんな田舎といへども私の
知るかぎりでは油断出来ず 防空壕は必ずつくること 及び都市には空襲警報中は長居せ
ぬこと大切なり
あなたのおうちも皆疎開されてよかつたとおもひます
弘至
京子様
【抄出】
岐阜県郡上郡八幡町常盤町 山川新輔宛
台湾派遣18496部隊 ふちがみ隊
昭和20年7月27日着 封書
ご両親さま 弘至より
拝啓 岐阜市もB29にいよいよやられたとかききましたが敵の攻ゲキは今や中都市をね
らつてゐます しかし今月下旬あたりからは小都会をねらふでせう そうなれは八幡 美
濃町 関 白鳥などはきつとやられます 之は台湾における敵の攻撃ぶりよりみても決し
てうそではありません 現に新聞でも内地において敵の攻撃は 中小都市に向つてはじめ
られたことを報じてゐます おもふに七月中すら八幡に来ないとは 私の判断では断言し
かねますが すくなくとも八月一ぱい安全であることはぜつたいにありえない お互にあ
くまで生きぬかねばなりません それをおもへば簡単には死ねない 敵のこないうちに速
かに疎開して下さい 高鷲までゆくことはないとおもひます 清至やお父さんの仕事のこ
とも考へて近村で充分とおもひますが ともかく八幡はぜつたい不可 あんな人家の密集
した山間の町は空襲にはおあつらへ向です 又大きなのがおちたらどの位死ぬか想像する
だにおそろしい ともかくまづ第一に近村に疎開 次にどんな山間部落に行つても防空壕
はつくること 敵の爆音が近づいたら必ず待避すること 防空壕は気休めでなく本格的の
ものたること 敵の爆音が○○に入ってゐて 頭上を通過するまでは極めてキケンである
こと 以上は私の身をもつて体験したる戦訓です 申すまでもなく こちらは八幡白鳥程
度の町もやられてゐます 尚内地の攻撃は今まで焼夷弾が主で 之で大都市をすこしでも
多くやきはらふといふことにあつたやうですが 故に内地では爆弾のおそろしさといふも
のはあまり知らぬやうです 京子などもさうのやうです しかし之からの攻撃は人馬殺傷
と破壊にあることは明らかですから とくに疎開が必要であるわけで 人馬殺傷弾や爆弾
のおそろしさはとても内地ではあまり知らぬでせう 大軍事施設が忽ちにしてふつとぶさ
ま 大鉄板がひんまがり 格納庫の大鉄骨が何百米も切れて吹つとぶさま 到底口には言
へません 要するに之は爆撃後に見るのであつて 爆撃中はてんで頭を出せないのです
高雄市や 台中 台南 カギ 新竹 それに小都会もみな之でやられました 内地もかうい
ふ風の攻ゲキが焼夷弾攻ゲキに代るでせう とくに疎開を早くして下さい 焼夷弾もすぐ
そばが火になつたり 周囲が火事になれば助かりません
ともかく今は夏ですから 疎開がかんたんで 小屋がけにきのみきのままでよろしい 冬
ごもりのしたくはそのうちです 今月中を保しようしえず
清至は当世流行の陸士などに入れず あくまで高等学校の分科に入れて下さい
今日ヒコーキが出るので大いそぎでかいて之をたのむ どうかついてくれ
敏子さま
拝啓 敏子さんはお元気のやうで何より ことに中々入学のこんなんな医専に入学とは
きはめてありがたいことです 高師などに入つて学校の先生などになるよりどれ丈よいか
わかりません
今後の日本の女性はあくまで男子に代つて一切の文化的仕事につくやうになるでせう そ
の辺をおもふとあなたの立場はとくに重大です この辺をよく自覚して将来の指導的立
場になる人なるをよく知つて勉強して下さい 学校に入つたからはあくまでつまらぬ金ま
うけ根性や 就職のための学業なりと勘ちがひせぬことを銘記されたい 医専であるから
と言つて開業医根性をすてなくてはいけない 何も開業医になるのが第一ではなく あく
まで真の科学にたいする研究が第一である ◎要は学問にたいする研究心が第一である
卒業したらさらに大学にすすみうるか 母校の助教授たりうる位の成せきをあげること
金まうけや就しよくは頭においてはいけません。特に近い将来において帝国大学はじめ各
大学も 女子の医科入学を許すことは確実である やる以上はてつてい的にふかくやる方
がよろしい 中途半ぱはもつともいけない この辺を肝にしめててつていてきに異彩をは
なつた生徒としてよい教授にみとめられることです
今ひとつ医専に入つても文学的教養を失はないこと この方は京子姉さんの指導をうけな
さい 肉体の医学は又精神の医学であります ドイツのカロツサのやうに 私の著書もも
うよんでもお前にもわかりまた大いにためになります 以上
尚防空行動については とくに注意してあくまで生きぬいて下さい 之についてはお父さ
んあてにかいておきましたから これをよみなさい
七月十五日出 弘至
清至さま
今後の日本はいよいよ偉大なる指導者を必要とすること確実です おまへはあくまで自覚
して精神的な日本の指導者になつて下さい やる以上はもつともえらい人になりなさい
兄さんにまけぬやう 兄さんもお前にまけないつもりです 今は戦争のため学問も充分で
きないでせうが 将来は又必ず学問の重要な時代がくる 今からよく勉強してしつかりし
たキソをつくつておきなさい
お前はやはり将来は文科の方面にすすむのがいいとおもひます 高等学校の文科を目ざし
てがんばりなさい 当世流行の陸士などはつまらぬから止しなさい ともかく将来の日本
はいよいよ精神的指導者が必要です
尚清至もよく対空行動に注意し よくお父さんの指導をうけてキケンのないやうにして下
さい
【抄出 :最後の書簡】
山口県玖珂郡神代村坂川 池本晴雄方 山川京子宛
台湾派遣18496部隊 ふちがみ隊
昭和20年9月27日 封書
吾が幼妻に
ああ吾と吾が妻と そのおもひいかで世上多くのめをとと比すべき 吾が妻はかの日
大いなるアジアの朝を 吾がい征くその前日 にはかに嫁ぎしひとなれば
わが命汝にあたへむ
汝が命吾のものぞと
ふたりしてあつき涙に
生き死にはともにと誓ひ
新床に相抱き涙にぬれし
その夜しも大いなるすめらみくさに
吾がいゆく日の前の夜なりしを
若草の吾が妻あはれ
淡雪の白きうなじを
新雪の白きただむき
うちなでたたきまながり
股長にいねし幾夜ぞ
それの夜にわが命ちかひし
かなしき子汝と語りしことの
しくしくにおもひ出でつつ
若草の吾が妻あはれ
敷島の大和の国に
汝と吾と二人しあれば
天地のくづるるとても
あにくゆることあらめやと
新床に涙にぬれて
淡雪なす白きうなじを
かき抱き誓ひしことの
若草の吾が妻あはれ
日の本の大和男の子は
若草の妻の手はなれ
命つくるいまはのきはも
悲しかる汝ともなはむと
ひたぶるに誓ひしことの
百重波八重波へだつ
みんなみの真日照る島に
若草の吾が妻あはれ
うなかぶし汝がなかさまく
大和のひともとすすき
朝霧に夕べの雨に
門に立ちそぼち泣くらむ
百重波遠き潮路の
大和なる美(うま)し国辺に
今日も吾を祈りてあらむ
若草の吾が妻あはれ
波さわぐ夕べの潮路
うち見れば遠き国辺は
潮けむりそれとわかねど
若草の妻がふるらむ
松浦なる衣の袖の
その紅き花の模様の
目に顕(た)ちてうつつに消えぬ
若草の吾が妻あはれ
私の気持はこの詩に充分あらはれてゐるつもりですから くどいことはいひません
あなたがよりうつくしく身も心も成育されることを いつもいのつてゐるといふことを忘
れないで下さい 六月十日出の長文のお手紙を昨日いただきました 出口氏の予言的諷詠
を大へん興ふかくよんでゐます 短歌研究二月号は未着なるも一月号は到着
源氏物語を大いによんでゐます 只今若紫の巻まで読破 あなたもよほど勉強しておかぬ
と戦線の私におとりますよ かへつてから猛烈にしかられないやうに 田舎へ行つてもけ
つして田舎びないやうに しつかり高い望をもつて勉強しなさい 歌をつくつてゐますか
幹子先生にはお手紙出してゐますか よろしくおつたへして下さい あなたの詩は下手で
す 詩人の妻としては もつともつと修行を要す とにかく田舎びて世帯じみてはいけない
我々の生命はこれだけなのですから 右とくに念のため
田中様のご両親はじめみなさまによろしく さきに出した三通の手紙(五月六月中の)
到着せしや 郡上の両親のことたのみます 敏子清至もよく指導してやつて下さい とく
に敏子はたのみます どうかたのみます
現在の僕の無念はどうしてもさつして下さい そして僕の分もはげんで下さい いつかは
仇はうたねばならない もつとすぐれた天才が凡俗どものうちにまじつて それらに下
につかはれたり 又それらと調子をあはせたり 時にはそれらよりお安くみられたりして
ゐるほどの恥辱は又とあらうか しかし之も修行であるとおもつてゐますから何ともあり
ませんが 心中はさつして下さい いつかうらみははらしますから 今もその日のために
剣をといでおかねばなりません しかし私をみとめてくれる人もすくないながらあります
将校にもそれ以下にも 福知山から一しよに行つた連中にも 時々あふ人もありますが
福島君は台北にゐるのであへません 岐阜の四部隊から一しよだつた榊原見習士官 福知
山で中隊は異つたが 福知山から一しよに行つた道広見習士官等は毎日顔を合せてゐます
「国風の守護」は大へん頭のある人には共鳴されます 道広君のごとき愛読者の一人なり
氏は高等学校は保田さんの後輩です とにかく私があまりにえらすぎるのが 精神的に不
幸なのでせう
台湾軍報道部長大久保弘一大佐殿にも拙著三冊贈呈しました 大久保弘一大佐は有名な二・
二六事件の時の「兵ニ告グ」の名文を書いた 当時少佐です ご存知でせう もつとも当
時あなたは子供でしたが 僕は国大予科の一年だから そのころのあなたを想像すると可
愛らしくて仕方ありません いつまでもあなたは私の可愛い京子です この前神代の家の
方 田中家のご両親様はじめお兄上お姉上にも同封で お手紙しましたがついたでせう
か つけばよいがと気になつてゐます
あなたの方からもいくら手紙いただいても かんげいします
どうか母はいたはつてやつて下さい
私も三十になりましたが 今ごろ地方にゐたら素晴らしいことをやつてゐるでせうに
敬愛する保田さんなどはのりこえてゐたことでせう おもへば残念です 著書ももう七八
冊は出してゐるでせう 評論家として郷土でも否日本の若者に知られてゐたでせう
しかし運命はひとまづ三十にして立つべき私の力をこばみました 悔しい しかし私はあ
くまでくつしない この仇は十倍にして他日とる 必ず宣長 真淵をこえる大家になつて
みせる
あなたも地方にゐて三十才になつたわたしのエラサを胸にゑがいて自信をもつて下さい 今の
ごとき一介の私ではない それは天下の山川です
僕はぜつたいくつしない 信じて下さい そしてあなたももつとえらくなつて下さい
私はあなたがいくらえらくなつてもまけない丈 勉強しますから 今の私の之がたのみで
す
敏子は自然科学の方にすすんだから よけいに詩が必要です 金もうけのための医者根性
にならぬやうに カロツサの精神をたたきこんで下さい 私はあなたを信頼してゐる 敏
子の姉として◎敏子に最善のことをして下さることは 私を愛して下さることになるので
す かうして二人が遠くへだたつてゐる今では どうかたのみます
尚 前々回の手紙でタイプをやれなどと申しましたが あれは私の言ひあやまりでした
タイプなど勉強しなくてよろしい そのひまに古典でも読みなさい それ丈をのぞみ 前
言はつよくとりけします 古典をよみなさい
折口信夫先生によろしく 横井さん 牧田さんにも私のコトバ手紙で伝へて下さい
折口信夫著「死者の書」(小説です) 十九年春ころ発行 買へたら手に入れておいてほ
しい 青磁社刊行です
岐阜もB二九にやられたとかききましたが 内地の様子もつとくはしくしらしてほしい
とにかく空襲には待避が第一 そしてけんごな防空壕が必要なり どんな田舎に行つても
必要なり 敵はいよいよ内地にむかつて 中小都市をねらひはじめました どんな小都会
でも町と名のつくものにすまぬことを銘肝すべし 山口県へも町には空襲中は出ないやう
に どんな小都会でもそのうちきつとやられます 台湾が現にさうです 台湾はすでに村
落さへやられてゐるところもあります 内地の今の爆げきは人馬殺傷や物の破壊が主でな
く 焼夷弾が主であるから あまり爆げきのこはさをあなたは知らんでせうが こちらの
やうに大軍事施設をふつとばされたり 人馬殺傷弾をおとされたりすると この辺がよく
わかります 内地もともかく遠からずこちらと同じ状況になるでせう ともかくどんな田
舎でも油断すなです このこと郡上の方へもよくつたへて下さい
七月十五日出
山川弘至
京子さま
今日 ヒコーキが出るので 大いそぎで之をたのみます どうかぶじついてくれ