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わに いちたろう【和仁市太郎】詩集『暮れ行く草原の想念』1933






詩集『暮れ行く草原の想念』


昭和8年8月10日 美踏社工房出版部(高山)発行 64p 18.2×12.1cm上製・謄写版印刷150部 定価¥0.50


目次
この路/孤独/たましひ/弦月/春/夕暮/生活/馬/露/あの頃/葦/鼬鼠/土/夕顔/朴の葉/幼年時代/三ヶ月/初こひ/河鹿/学校/ 空想/酒/夜の感情/人間である/虚無を通して/六地蔵さま/貧しさ/父 壱/父 貮/二人の妹へ/友

【全文画像49mb】

【詩篇抄】



「汝の生命が形象を、汝の思想が生命を得んがためには、活躍する力を常に形成的の力たらしめよ」「流転の内に永劫を見る、生き展開する刻まれた形」ゲエテ

 お互、詩に志して、つまり詩に年期を入れてやつて来てゐるのだが、僕は時々こんなことを思ふことがある。それは主に、一つの詩を何度も「添削」してる時などにだが──「一体どうしたといふのだ。お前そんなにも凝つて、苦しんで、騒いでゐるその詩とか言ふものは、何程の価値があるのか、何程の存在理由があると言ふのか」と。そして甚だやるせない、さぶしい気持に襲はれることだ。
 かういふことは、おそらく芸術に携はる殆んどすべての人々が経験することではないかとも思ふ。そして、芸術などといふものをその儘放棄した人々もあるだらう。また反発的に芸術へ肉迫して行つた人々もあらうと思ふのである。

 和仁市太郎氏の詩集『暮れゆく草原の想念』を読んで感ずることは、作者と作品との生理的とでも言ひたいやうな関係である。
 この詩集の何処を開いてみても「和仁市太郎」が素直に、素朴に、がつちりとして居る。僕は表現の上では、極めて個人主義的な考へを持つてゐるので「暮れゆく草原の想念」のやうな異色ある詩集に接することは全くうれしい。素質のよいこの詩人が、素材に、手法に、一般の進展──吾々は常に進歩的でなければならぬ──を示す日を期待する者は、僕一人ではないであらう
              赤川草夫
昭和八年六月二日



 この路

みんなが黙つてとほるこの路
亡くなつた父もひとすぢにとほつたこの路
語つても話しても誰もわかつてくれない蒼白いこの路

初めての路でもいつか通つたやうなこの路

くれがたの芒の路で蛙が啼いてゐた。



 たましい

どんなに心が濁らうとする時でも
故里の貧しい父母のことを心に浮べる時は
私の魂は純(うつく)しくなる
暮れかかる草原を歩いて
しみじみとわが魂としたしく話をした。



 

昨夜の雨がすつきりはれて
春だなつと言ふ感じがどこにも現はれてゐた
去年の秋ここに移りすんで
誰か前の人の植えたらしい草花が
なんの手いれもしないのに今朝は芽がだいぶん伸びてゐる
私は雑巾をもつて
庭に下りて下駄などを拭いた



 

夕暮であつた
私は中央線の踏切りの側で
長い貨物列車の通過するのを待つてゐた

名古屋へ行く列車であつた
列車の後の方には馬が何頭も積まれてゐた
其処だけは窓がとつてあつて
或る馬は草を食べてゐた
或る馬は移りゆく景色に見とれてゐるらしかつた

馬は早い車の中で極めて平気でゐた。



 鼬鼠(いたち)

私のふる里では鼬鼠がでると雪が多いと言ひ伝へられてゐる

その日も薪を積んだ棚の間から
鼬鼠がやさしい瞳を出してゐた

父が
 また今年もぎゃうさん雪が降るかな
と言つて
半里もある、はる木山へ薪を背負ひに行つた。



 夕顔

その頃僕はまだ子供であつた
水の清い溪がはでとれたわさびを籠に入れて
夕暮の遊廓を戸毎に売り歩かねばならなかつた

どこかの大きい姿見の前に
ぽつかり咲いてゐた
夕顔の白さが今も忘れられない。



 朴の葉

或る日私は誰も居ない家で
先づ火をつくり
そして戸棚から玉味噌を出して
朴の木の葉で焼いて
茶づけの飯をたらふくたべた。



 河鹿

月の出た夜に河鹿は
川べりの小石の間で
まだ見ぬ父がなつかしと鳴く

月の出た夜を河原にゆくと
見知らぬひとがじつと何か聞いてることがある

河鹿が小石の間で鳴いてゐると
お月さままでききほれて
しばらく歩くのをやめるといふ

高原の夏の夜は河原にゐると
しんの底までひえてくる

河鹿は水の中でまだ見ぬ母がなつかしと鳴く。



 父 ―壹―

父は馬車挽きであつた 父は角力とりのやうな大きい身体である 若い時は村々の角力場を荒して廻つた 父は土方をした セメント一樽を無雑作にしょつては山に登り谷へ降りた

父は五十八歳である 父は人のために貧乏をした あの町の人もこの村の人も 人のよい父をだまして損をさせた また私達多数の兄妹をせをつて今まで育ててくれた

父は炭を焼いた ひとり山の小屋にこもつて味噌と塩鱒とで一ヶ月も家に帰らなかつた

父はとしをとつた 自分で書いた文字が後で人手を借りないと読めない 冬になると囲炉裏できざみ煙草を喫つて何か考へてゐる

父は酒も呑まないのに 去る九月から中風病で半身不随である

父はほとんど無学と言つていい位である 然し恐らくどんな大学者にも道徳家にもひけをとらない位の人道の実行者である 父には宗教も学問も不必要である

母と私達が父の世話になるやうになつてから本当に父は貧乏の連続であつた 世をいきどほり 人をののしることを忘れて只黙々と生活する将来の何年かを私達兄妹はどんなにしても慰さめてやりたいと思ふ

父は私達にとつて養父であるが 実父以上に思慕し 父はまた我が子と思つてゐる

親孝行したいときには親がないと言ふが 私は父の恩にむくゆる万分の一もの孝行をしたいと思いながら その万分の一もの孝行ができないのを残念に思ふ

父は中風病で今故里の雪の中で苦しんでゐる
                       昭和6年12月18日作



 父 ―貮―

父がなくなるしばらく前に
自分だち兄弟は一人一人別々に親類へあづけられる事になつた
その時自分は五里ばかり離れた
山の中の採鉱場に勤めてゐる叔父の家に養はれる事になつた
けちん坊の叔父で
学校から帰ると鉄索で運搬されてくる木炭のかけらを塵取をもつて拾ひに行かねばならなかつた
あやになつた赫土の細い路は山を縫つて鉄索場に統いてゐた

自分はどんなにその路を父母を恋ひしくて往来したか知れない
夕幕に味噌汁の香がくすぶつた社宅のまはりをとざすときなどは家のことがしのばれてならなかつた

九才の時分にはそこの二たつきの生活は本当に長いものだつた

病床の父は秋になるとめつきり衰へた

そこへ大正七年の感冒であつた
我が子を見たくてたまらなくなつた父は
十月に入るとたうとう自分だちを連れよせた
自分が父をいだき父は自分を抱擁して二ヶ月ぶりの対面が終つた

父は自分だちの顔を見ると
病状が日毎に悪くなつて十一月二十二日に遂に亡くなつた。



 二人の妹へ

みんなが苦しんで生きて行くことを知つてゐて それが真実なる人生への唯一のむちうつものと知つていながら 俺の生きて来た過去の苦しみを君たちに味はせたくないと思つてゐる

俺はどんな寂しさにも苦しさにも堪へて行く いや生きるためには堪へてゆかねばならない 然し君たちのことを思ふと実に苦しくなる

製糸工場の作業の中で 女中する台所で 妹よ 拝みたくなる 何の不平も 何の矛盾も感じず ししとして働く生活のすがた 偉(おほ)いなる姿だ 祈祷する心だ

又来る日誰かの柔順な妻になつて 無名 しかして凡々とした生活であつても 妹よ 君たちの生活は実に輝く 苦しみの中に心は潔まり 泪の中に手をとりあつて貧しさから貧しさへの生活 ああそれでいい

血と血で洗ふ醜いすがたがある かうもはらからの者が一つの心になつて慰めあつて生きてゆく それでいいではないか

俺の心ははれやかに澄んで 今こそ妹よ 苦しめ! 泣け! そして生活を内なるものに掘つてゆけ

都の秋も深くなつて俺の心は故里の空へ飛んで行く。
                          昭和六年秋


 あとがき

 一番最初にこの小著を出版するにあたつて、貧しいこの小著のために快く序文を御執筆下さつて一層の光彩をお添へ下さつた赤川草夫氏の御厚志に感謝と御礼を申し上げる。

 この詩集に収容した諸詩篇は昭和五年十一月上京より、昭和七年五月頃までの約一ヶ年半の作詩九十余篇から三十篇と、その他一篇「酒」と題する詩は、上京以前のもので結局三十一篇集録したものである。

 昭和五年の夏に、私は矢張り謄写版自刷りで『生を視つむる』といふ詩集を出したことがあつたが、三十部の限定で、色んな意味に於て、三年の後の今日ふりかへつて見ると、実に汗顔の至りである。でも、それでいいと思つて居る。この小著も決して現在満足して居るものではないが、又、数ヵ月の後に、或は数年の後に、そんな気持に襲はれることがあつたら幸福だと思つてゐる。どの方面にでもいいが絶えず動いてゐたい。静止の生活ほどと寂しいものはないと思ふ。

 この詩集は、本当は昨秋帰国する折り、まとめて故郷への唯一の土産としたかつたのだが、流浪の如き生活では、それは成就出来ないものであつた。 然しここに小さい、そして貧しいものでもあつても私の上京中の心の歩みがあり、而して、ようやくこの道程にたどりついた、私の歩みが私をめぐる心のうるはしい人々にわかつて下されば、私は実に望外の幸福である。

 六、七年になろうとする私の作詩生活に於て、直接間接に随分色々な先輩諸兄に御指導御鞭達を煩して来た。今私がそれらの先輩諸氏の御芳名を記して深く感謝すると共に、今後より飛躍への前提としたいと思ふ。

 大正十四、五年から詩や歌を無茶苦茶に訳もわからずに作りかけて、同人雑誌を出した。『一つの路』から『若芽』『山賤(やまがつ)』と、そしてその頃、詩や短歌を飛騨毎日新聞に投じて福田夕咲氏に添削をうけた。北陸タイムス紙では中山輝氏に長らく詩の批評をうけ、又現在同氏の主宰されてゐる『詩と民謡』は毎号贈られてゐる。中山氏には手紙を頂いたり、随分御世話になつた。まだ一面識もない人だが私の忘れられない恩人の一人である。

 奈良県添上郡柳生村新踏社から田中忠義氏が『新踏』といふ文芸雑誌を出されていて、それには詩、短歌、小説を載せたことがかある。不幸にして昭和六年秋、長逝されて悲痛の極みである。愛知県の師崎町の『町』は、同郷の先輩葛谷鮎彦氏の編輯で同氏の推挙で同人になり、詩と小説を載せたことがある。

 上京しては希望社の山田垂穂氏編輯の『白雲』に詩を載せ、その他日本印刷学校の『働きと教育』にも詩を載せたことがある。特に印刷学校時代では赤川草夫氏を識る機会を得た事である。今思い出せば実にはづかしい原稿を、臆面もなくもつて行つて見てもらつたことで、何度か赤川氏のお宅へお邪魔に上つたことであらう。赤川氏は解散した詩人協会の最後の年刊詩集などには作品を載せられ、どこといふ党派にも属して居られず、随つて地味ではあるが、落着いた本当の意味の詩人といふ感じを受ける。著書には詩集『通り』『宮』『雁』等がある。何れも氏独自の世界を静かに余情深く歩かれてゐる。

 赤川氏に接するやうになつて、氏の無言の言葉の中に、私の作詩態度は変化して行つたことは無論である。赤川氏ならびに氏をめぐる印刷学校の若い人々と、笹沢美明氏にシュール・レアリズムの詩論をきいた座談会も忘れられない想ひ出である。

 昨年一月より『詩信』を発行、四月まで続けて十五篇発表した。その後もつと続けて行く積りでゐたが、色々な事情で廃刊になつてしまつた。昨春、 船津では吉田由次郎君等が『草笛』を出して詩を載せた。

 今春、高山に移つて、色々な人達に会ひ、昨春より生きるためと言ふより、食ふために心の落着を失つて、作詩生活を不本意ながら中止してゐるが、 この小著を機会に飛躍したいと思つてゐる。

 赤川氏が昭和三年に出版された詩集『通り』の中に「私などがさう急いで詩集など出さなくてもよかつたかも知れないが、しかし年が流れてしまふ娘を持つた母親が、娘を縁づけてほつとする気持──それに似た気持からである。」と謙譲な言葉で言つてをられるが、私などは特にまだ若く、之からの者が、生意気のやうで心が重くなる。でも私は、親しい友達に便りでもするやうな軽い気持で、この小著を上梓することに限りない喜びを持つ。

 商売上この小著が、弊工房の印刷見本にしかならないのもよく知つてゐながら、不具な子程可愛い親馬鹿の気持である。

 どつちにしても実際今からだと思つてゐる。あはてて詩集など出さなくてもよいのであるが、之を一つの過程として今後、より以上精進を続けて行きたいと願つてゐる。

 出来得たら私は肉親を歌つた詩集を出したいと思つた。然し、それは只希望するだけであつて、結局私以外の者に何の感興もないと思つてゐる。

 最後にこの詩集の題は『暮れゆく草原の想念』をくさはらと読んでいただきたい。そうげんと読まれると何だかしつくりしないようだから……。

  昭和八年五月

     桐の花の咲く頃     美踏社工房にて         和仁市太郎


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