2004/11/15update
Back
つぼた はなこ【壷田花子】『蹠の神』1941
詩集 『蹠の神』
壺田花子 第二詩集
昭和16年8月10日 砂子屋書房刊
134p 18.7×13.0cm 上製 函 ¥1.80
限定部数不明
「早春」 壺田花子
早くも天の一角に
春の大動脈の流れを感ずる
ごうごうと鳴る春潮の流れ
岩に散り 木の根洗ふ雪解の押しどよもす水音
朝のうちの大気は
絶えず其のやうな音を立てて
やはらかな雨あがりの光りのなかに
帯の如く流れる
「春が来たんだよ」
「春が来たんだよ」
一つかみの雛菊から 桜草へ
連翹の蕾から こぶしの枝へ──
煮られた大鍋に躍りあがる
小豆のやうだ。
少女は喜悦の窓を押し開き
更に来たる新しい幽かな愁ひを愉しむだらう。
張りつめた薄氷(うすらひ)の美しい鏡も
溶け易い愛を嘆く 泡雪も
冬の肩から静かに降りる
あとしざりに
あとしざりに 振り返りながら──。
後記
処女詩集「喪服に挿す薔薇」を出してからもう十年余にもなりませうか、折にふれては家事のひまひまに書きためたものから選び、一本にしてみました。
「天の乳房」には主として最近の作で未発表のものを集め、「水のほとり」は第一詩集以後のものが多く、以下それぞれに集めて各章に分ちました。
「あなうらを踏みしめよ」太古よりの母の母なる声が蹠から発せられるやうな、さうした時代の意識からも題に取り入れました。
私の詩を育てた故郷の海浪の響は、もはや私の耳に伝へられぬが、都会の騒音もまた潮騒の一つでせう。打寄せる波のしばらくのただよひ、それはいつか私の胸にたたへられ、
少しばかり世に耐へる事と、底なき静もりを与へます。いつの日第三の墓碑を刻み得るや、ただ、今日未曾有の戦時下にあつて、この風と、日光のなかへ、
葉がくれの花の如くつつましい気持ちで之を造ることの出来た幸ひを思ひます。
終りに同郷の先輩である尾崎一雄氏、薮田義雄氏と、山崎剛平氏の御厚情に、深い感謝の意を捧げます。
昭和十六年 壺田花子