2002/11/25 update
たかぎ ひさお【高木斐瑳雄】拾遺(詩誌「日本詩人」所載分)【全文テキスト】
詩誌「日本詩人」所載 高木斐瑳雄拾遺詩篇
1.ひぢきやわかめ
わきたつた鮮緑の村のかとをりのやうに
青い騾馬車によって撒かれた水々しい正午の街を
そして、その陽炎の中をくぐってきた訪問者よ。
海の五月の花と 若葉の燕とつれて
「ひぢきやわかめ」と あやめ色の空に
ほがらかな触手をなびかせ
都市のゆるやかな街々の流れと共に
門毎に訪づれるものよ。
初めて都市の女に浴びせる太陽や
大海原の波浪をもってきたものよ、
かぎりない円ろい空のもとで……、
びくの上の海苔で かくされたすべての
濡れ羽いろの髪を 薫らせやうと。
神秘な海の底でたつのをとしごが吹く喇叭に
ゆれうごくやうに
すべての食卓の上に同じ若葉をひろげ
味覚のあたたかい沼によびよせ
海の精神をきかすものよ。
深く沈み、静かにはへるひぢきよ
かつて小魚達の乳母車であったものよ
柔かな三月の空で 麗しい別れの唄を
その波打際でうたったものよ。
海の五月の花と 若葉の燕とつれて
「ひぢきやわかめ」と あやめ色の空に
触手をなびかせ
都市のゆるやかな街々の流れと共に
門毎に訪づれるものよ。
『日本詩人』大正12年7月号
2.夏の風景画
高うたかう膨んだ海よ
屋根 屋根の上に、
耳ばたで、ぐわんぐわん騒いでゐる子供達の歓声
歓声唐黍細のあひだから
背伸びしいしい走ってゆく白帆を目で送りながら
私は 盛んな夏の風景画の中の松の木のやうに
臥せって暢気な考へにふけってゐる。
『日本詩人』大正13年10月号
3.飛魚
星のふる夜 星を釣らうと
竿竹をかついで屋根へ昇って行った子供のやうに
私は 空を飛ぶ鳥のやうに
元気に 快活に この海の世界から
思ふ存分 身体を投げて非常な希望の風に乗じ
虹のやうに駆り出す、
ああ 空気のさわやかさ かんばしさ
心臓は ために狂ひさうです、ぢき
屋根を下りなければならぬ失意が私を捕へてしまはうと
いまの このいまの飛行の華かさ 美はしさは
どんなにか私を尚一層強い 新らしい刺戟へと奮起させずにはおかない、
空気よ 高い蒼穹よ 海よ
私は おんみらに深く感謝する。
『日本詩人』大正13年10月号
4.赤い月は落ちた
高くもり上った 夜の海に
まっかい月は 落ちた
恰も すべり落ちても行ったかのやうに……
いやに冷然と 暗黒が
そのあとに続いたことか、
恐ろしいことだ
あれから 海が どうなったか
あの月の情熱は 尚一層恐ろしく
とても考へられない。
『日本詩人』大正13年10月号
5.夜明三時の唄
私はかける
歩き初めた子供の喜悦でいっぱい
やや 緩かに
夜明三時の都市(まち)からぬけて
ほがらかな 実にかんばしい
虫の露に翅を濡した野へ、
古風な印度人のやうに
私は思ふ存分東方のくにのうたを唄ふ
太陽への熱烈な望みを輝き渡らせるために。
『日本詩人』大正13年10月号
6.芒に遠い村落よ
杉林の列が その際(はな)でふと出遇って
空はいっぱい つっ立ってみえる、
百舌鳥が ケンケン なきだした、そして
頭のどこかで 哀愁がちかちかしだす。
おお 芒に遠い村落よ
『日本詩人』大正13年12月号
7.星斗巡歴
鞴(ふいご)の前に顔を赫らめた鍬治屋の少年のやうに
染物屋の砧(きぬた)の昔の中で
ことに華麗な秋の星図をくりひろげ
私は
ぎあまん張りの空の航海者のやうに
まっしぐら 星斗巡歴に出纜する
『日本詩人』大正13年12月号
8.秋の紋章
遠いそしてひらけた町の展望者である向日葵よ
日中はカーニバル祭の雲の行列に
夜は睡魔の海霧の罠にかかり
いつまでか 明朝(あす)を目的(めあて)のドンキホーテ
秋への秋への最もふさわしい旅人の紋章よ。
『日本詩人』大正13年12月号
9.午前十時の時計が鳴った
婦が化粧する間に
午前十時の時計(ぼんぼん)が鳴った。
──その間 私は
なにを考へたのであらうか?
雀は庭で、ほんとうに注意ぶかく
餌をさがしてゐる、探し求めてゐる……。
そうだ
やっと私は詩を得たといふわけだ。
『日本詩人』大正14年5月号
10.おお 烏麦は刈られてゐる
おお 烏麦は刈られてゐる。
華やかな経歴(きゃりあ)を描いたこの老将軍を葬ふのには
あまりに淋しい音だ!
けたたましい季節の年齢、若さと老いと事業!
ああ それら空をゆく風よ
──運命の手──
百姓は豊かな収穫に余念ない。
おお 烏麦は刈られてゐる。
忘れたやうな月の顔で畦は みすぼらしい養老院の背景となるのだ
名盛り惜しさが つぎつぎの畑へと浪うってゆき
夕映えいろの諦めが「深い沈黙」と応酬(こた)へる
──陶酔よ──
そこで百姓は十把一束にしたのをうづ高く積み重ねた。
『日本詩人』大正14年8月号
11.浴後
いま うち水をすました私は
八ツ手にうつる空いろをなつかしんだ
彼は可愛い婦のやうな 南天の花を抱へてゐました
ああ そこで七月の風鈴が
浴後の精神を唄ったのです。
『日本詩人』大正14年8月号
12.みたらし
小学校の退(ひ)け時をねらった辻のみたらし屋の主人(おやじ)は
商家のひ若い小憎っ子をうらやませた。
そして私はメモに一本のみたらしを書くことによって
「思ひ出」をしっかり描いたんです。
『日本詩人』大正14年8月号
13.雨と青葉
雨だよ 若葉を浸す雨だよ
それは蒲公英のやうにはしゃいだ娘っ子だよ
或は 死んだ子の笑顔でもあるよ。
ただ漠然と 一枚の青葉を噛みながら
私は私の生涯(らいふ)を考へる
悔いだよ──緑素の苦さだよ
だが 風のやうに光りのやうに、又浪のやうに
自然と明るい いのちを運ぶ雨でもあるよ。
『日本詩人』大正14年8月号
14.流れてゐる
それは──
蒲(がま)のしげみに爪立ちした百姓家の明るい窓か
樫の梢から高い空を滑って落ちた百舌鳥の一線か
素っ裸になった柿の木が土蔵に描いた影絵か
或は 稔った稲の垂穂の一本一本の素晴らしい構想か
──だが、私は
秋のミネトンカのやうに 宇宙塵の行列と一緒に
流れてゐる 流れてゐる。
『日本詩人』大正14年11月号
15.凧を見る夕暮は愉しい
凧を見る夕暮は愉しい
浴後の朗らかな精神のやうに
一日の放たれた休息が泌みじみと五体をめぐるとき
子供のあこがれが……
するする糸を伝はって昇ってゆき
ぱっと空いっぱいに拡がるのをひとり魅陶する
ああ ふるさとの空へと続いてゐる この長い
秋の夕暮の光芒(ひかり)よ!
一つ 二つ 三つ……
遥かに見はるかしてゐる凧よ! 風に応酬(いらへ)をしてゐる健気な凧よ!
私は おまへを見ることは一つの愉楽(たの)しい慰めだ。
『日本詩人』大正14年11月号
16.秋の習作(えちゅうど)の中の旅人
芒の原っぱの曲りくねった道のやうに
妙にねぢれた風向よ
見窄らしい柿の木の門をあとにしたとき、私は
ひゃうひゃうと渡る風伯(おんみ)の侶伴(みちづれ)であったのだった。
──百姓家の日向で婆さんが紡ぐ糸車にも
葉鶏頭の中へもぐりこんでいった赤ん坊の円い足にも
私は思ふ存分さわってみた
そして私のあとから気紛ぐれについてきた木の葉を
女の子の教室(へや)へ放りこんでもやった
製糸工場の広場で誰かに投げた小さい帽子を
より高く高澄の空へと投げてもやった、ね。
だが ふと変った風の異様な広がりよ
そして それに続いた 長い長い沈黙よ!
私は 涯しない空の秋の習作の中の旅人のやうに
川のほとりに落ちて夕暮の芒の唄をきいてゐる。
『日本詩人』大正14年11月号
17.竹 三題
T
ああ ふかくふかく頭をかがめ
ああ かくもひとつの心となって
雨の中に 春の雨の中にびっしょり濡れ
しかも 愉しい想ひを描く花嫁よ、竹の林よ!
そは 汝(いまし)の千万の緑なす黒髪のごとく
そは 嬌やかな汝のこころに似たり
わが かわきたるおもひの上に
汝が うるほへる唇(くち)を与へよ!
ああ この晨(あした)は讚めたたふべきかな
跫音をしのび 雨いとどふり
びっしょり濡れ ぬれて
しかも愉しい想ひを描く花嫁よ、竹の林よ!
U
水玉で飾られた竹よ 数本の竹よ!
晴れを忙ぐ空の顔を気にしながら
広場への堤の上でかさなりあって
見上げてゐる可変らしい数千の瞳
だが いまや霧はちり、谷は霽れた
そして 緑いろの階調が
さっと私の上にふりかかり
いと華やかな銅鑼が破れた青空に向って声たてたのを驚いて眺めた
おお 水玉で飾られた竹よ 数本の竹よ
私はとびあがった、そして書院へ駈け込んだ──
悦びが 私を 卿たちのやうにふるひ起たせたから。
V
竹林は静かに朝の空気をたべてゐます
微風は 時折 氷雨の跫音で忍びこみます
鶏は世紀(とき)を無数の竹の葉によって晴天にまで伝へます
竹林は静かに朝の空気を喰べてゐます。
『日本詩人』大正15年3月号
18.杉 四趣
絲杉
絲杉は いつも彼女の髪を誇る
されば太陽は斑猫(はんみょう)のやうにその影絵を彩る。
絲杉は いつも彼女の生娘を吹聴する
されば風は狂気じみた老嬢のおしゃべりをする。
絲杉は いつも彼女の野性を発揮する
されば夜陰 魔性の隕石が忍びこむのです。
鉾杉
我等山を下るとき鉾杉の畑をすぎた
鉾杉は緑いろの草っ原の薫りで
高い彼方の白い雲を眺めさした。
我等山を下るとき鉾杉の畑をすぎた
鉾杉は洗ひ晒しの衣の絣のやうに
我等の疲労(つかれ)の上に浴後の爽やかな精神を甦らした。
杉叢
陽かげの谷川にのぞんだ鬱蒼とした杉の山膚は
狭い街並の低い土塀のやう
茅蜩(ひぐらし)は旅人の心を
遠い空へと投げられた瞳から放射する。
その澄んだ眼から浮びあがったやうな夕焼の空!
君は汽車の窓を一層さびた暮色で滅入らせる
妹よ! ではしつかり手を握りあって
もう一度 去りゆく後の平原を眺めようね。
杉垣
杉垣よ、梅三月の百姓家を囲む杉垣よ!
朝の光りは新芽で君を点描する
そして君は晴天と健康と静謐の呼吸(いぶき)で僕を捕らへる。
杉垣よ、梅三月の百姓家を囲む杉垣よ!
干物をする母親の曲った背の上に
飛行す女郎蜘蛛の無数の糸だ
君は僕の眼を涙を曇らせる。
おお杉垣よ、杉垣にまもられた故郷の家よ!
風一條だって、雨一滴だって
みな君をこえて寂しい私の書斎までやってくる
すると君の緑りがどっと僕の心を染めてしまふのだ。
『日本詩人』大正15年6月号
19.革命家
炎天だ 炎天だ
都市はバブルクンドのやうに煌しいぞ
熱風にそまったその奔流、禍乱、その禍乱躍はどうだ
摩天楼の旗はコンミユニストの心臓いろで
願望はその一点から凄まじくなりはためくではないか?
恐ろしい衿持だ、有頂天だ、革命だ
素っ裸がいいや
いつまでも木蔭の風鈴のやうに唄ひたくないや
炎天だ 炎天だ
おお 俺はそこでかけまわりたいよ
前進の太鼓を ドンドンうってさ。
『日本詩人』大正15年9月号
20.耐熱強行軍
見知らぬ兵士への追悼の言葉
秣槽(まぐさおけ)に首をつっこんで水を飲む兵士を私は見た
また ずっぷり頭からその湯のやうな水を浴びた兵士を
すっかり疲労した耐熱強行軍の一隊だ
襲ふやうな黙せる射熱の包囲下である
草木のいきれと、白い街道と鬼同日葵の太陽と……
日射病はその幾人かを通過した森や木蔭に残した
ああ それにもかかわらずなほ彼等はゆく
白い砂埃をあげて、重い靴をひきづって……
私は、だが私は哀れな兵士(カムレード)の横はった木蔭へいそがう
彼等のシャーツの胸をひろげて空の風を吹き入れてやらう
そしたら恐らく慈悲深い大地の手が汗ばんだ背から
彼等の疲れた心へとつたはるに違ひない
そこで私は彼等の母のやうに鋭くあの力の行進を凝視(みつめ)るであらう
そのとき彼等は私に母親への言葉をつぎつぎに云ふであらう
「お母あさん!
いま僕はもっとも幸福です
あなたとそしてよき自然が私と共にありますから
僕はこの不名誉な犠牲を
何故もっと早くうけなかったかを残念にさへ思ってゐます」
『日本詩人』大正15年9月号
21.黙っていやう
黙っていやう だまっていやう
太陽の赤熱下では
森や 大樹のやうに……。
凡そ 健康なるもの
またいのちあるものをたらふく喰べやう
私はこのとき 最も一心不乱である。
弱いものよこい、疲れたるものよこい
私はいつも粗末な莚を用意してゐるから
私は決してあなた達にかまはない
蝉のやうにしゃべってくれてもいいし
老人のやうに沈黙の空気を深めてくれてもいい
皆々 自由にしてくれ
青空は一歩の外だ、みんな安心して語ってくれ
ああ それでいい それでいい
私はだまっていやう、だまっていやう
太陽の赤熱下では、森や 大樹のやうに……。
『日本詩人』大正15年9月号
22.蒼空
掌を甜めてゐる子供を負んで水仕事する母親を
やっと輝らしてゐる裏町の陽射!
その上には井戸の中から仰ぎみるやうな蒼空。
光りのみち溢れてゐる方で百舌鳥が啼く
それが微妙に亜鉛屋根を伝はり、
無花果の葉蔭からしのびこんで
水溜りに沼のやうな静けさを与へてゐる蒼空へ
ふかく、深く失なはれ行く姿が見えるやうな蒼空!
蒼空よ!
うつうつたる都会生活の煩しさを忘れさしてくれる蒼空
俺もだまって
仕事につくことの出来る幸ひを君に謝さう。
『日本詩人』大正15年11月終刊号
23.秋風の街で
彼は一匹の鰊をとり上げる
秋風の街で、新しい茣蓙の上で
彼は高い空からの蒼白い光りを多分に吸収させて
さて、群集にいふのだ
「再び海へ放り込めば
勇ましく望みのくにへ游いで行くのだ」と。
人生の行旅者よ 疲れたる人々よ
プラタヌスのかげの瓦斯燈のやうに
吐息する兄弟たちよ!
俺達にも そうした声が胸の奥底でするではないか
「再び海へ放り込めば
勇ましく望みのくにへ游いで行くのだ」と。
ああ 俺達は一匹の鰊のやうだ
心ある買ひ手よ(それはのぞめそうにもないが)
彼の言葉に心の眼を向けてくれ
俺達は生命を賭けてしまった
ああ、彼は彼のみは広告する、絶叫する。
『日本詩人』大正15年11月終刊号
「東海詩集」と名古屋詩壇その他
私は独楽がすきだ、手垢づれのした角のとれた、そして溝にやっと朱泥の跡を印したものを。鉄の心棒もよし世渡りした人のやう光った胴のやつを、彼が一所にじっと坐って、 うなりを発するのは野分の風や糸車の深更の挨拶のやうに好ましい。独り楽しんで廻るところに陶然たる妙音が生れる。自然の声が浮び上る。 名古屋詩壇は尾濃の平原の一端での独楽ではあるまいか。日本の東海の独楽ではあるまいか、世界の、太平洋の可愛い子供の間にのみ発見される独楽ではあるまいか。 彼は自らにして廻ひ募る一つの声を形成した、それが「東海詩集」だ。彼は刻苦詩の本質に対する研究を進めてゐる、朗読、朗詠、音読の会に、或ひは批評に一新紀元を計画してゐる。 又日本の伝統的精神に対する研究も。彼は自らにして唄ひ出した、一つの甦生であり、エポックメーキングである。彼は決して風評の如く沈静し、銷沈しはしなかったといふことを語るばかりでなく、 心ある人々に又心づかぬ人々に、静かに鋭く何物をか響かせるものを持ってゐることを確信する。
以前、名古屋は全国で東京に次ぐ多くの詩専門の雑誌を持ち、地方詩壇の権威者であったことは衆視と同様である。現今、 名古屋詩壇を代表する詩誌は「新生」・「竹」・「朱印船」の三誌である。三誌は老功なる同人を持して、名古屋誌詩壇の草分時代(大正六七年頃)よりの強の者である。 「新生」による、中山伸・伴野憲・野々部逸二、「竹」による大埜勇次・安井龍・素木若之助・「朱印船」による南晃・堀場桂三等である。新進としては 桜井光男・野々山虎・深谷延彦(以上、竹) 鵜飼選吉・永瀬清子(以上、新生)等である。「静御前」「羽衣」を発表後の佐藤一英は近く詩学講座を開くと言ってゐる、詩の寺小屋と市の大学を兼ね日本古典に依る純粋なる東洋的詩人の養成をなすといふ。 高木斐瑳雄(私は)「新生」の目つけ役、朗読、朗詠の研究の傍ら、詩批評に対する新らしい計画について熟考中である、(これは「新生」の十二月か一月号に発表する) 春山行夫は東都に研鑚、大埜勇次も又健筆横浜の寓居を払って東都に入したとか。雑誌(現在発行されてゐる)以外の古顔並びに新進を挙げるならば、斎藤光二郎、岡山東、中村恵吉、 石原政明、落合茂、田宮丙午、鈴木惣之助、堀場正夫、國立文夫、等である。
「東海詩集」はかかる状態から出版せられたと再び記そう。(十月十日、出版記念会を開く)二十九名の近作百数十篇を載せた、まさにこれ、名古屋詩壇の鳥瞰図である。 経済的不如意のために数名の人々を洩らしたことを残念に思ふものの、故、井口蕉花の遺稿を載せえられたことと巻末に細密なる名古屋詩壇史を加ふることの出来たことはその不足を補ひたるものと思ふ。 (東海詩集・一部一円二十銭・名古屋市中区矢場町五ノ五東文堂書店)次に本年度の詩集は、桜井光男の「蒼白い窓」と中山伸の「北の窓」である。 桜井光男の「蒼白い窓」は二月出版せられ非常な好評を博したやうだ。(詩藝術社発行 愛知県津島町愛宕 安井方) 中山伸の「北の窓」は十一月出版の予定である。率直で人にも世にもこびず専念詩作した老功古参な彼の詩集は必ず大きな渦紋をまき起すものと思ふ。 (新生詩人会発行、名古屋詩東区武平町四ノル河野方)
十月号の「地上楽園」の記者は地方詩運動(日本詩人)をけなして、自らの地方雑誌紹介には全く杜撰極りない紹介をしてゐる。地方雑誌の大多分はその出鱈目に驚いたに違ひない。 白鳥氏の如き地方詩壇通の部下にかかる門人あるは気の毒の次第である。
(十月五日記)
『日本詩人』大正15年11月終刊号
寺下辰夫詩集『ゆめがたみ』(交蘭社1931年刊行)所載 高木斐瑳雄拾遺詩篇
【拾遺】
白き椿の花ひとつ落ち
白き椿の花ひとつ落ち
小鳥あやふくとび交ひぬ
花々 その鮮かさを賞(め)であへり
やがてほがらかな囀り枝々に涌き立ち
正午(まひる)の唄ともなりぬ
一羽 梢にありて嘴(くち)を天(そら)に向け高く唄へり。
白き椿の花ひとつ落ち
蒲公英の花 驚き眺めいりぬ
微風の芝生の波のなかに漂へる白鳥よ、死せる白鳥よ。
誰か低く口笛のトレモロ、通りすぎる花葩!
白き椿の花ひとつ落ち
白き椿の花白痴のごとく微笑む。
(寺下辰夫『ゆめがたみ(抒情小曲集)』交蘭社1931年刊行より)
詩誌「友情」所載 高木斐瑳雄拾遺詩篇
表記は仮名遣ひの不統一などすべて原本に従った。ルビは( )内に記した。
新漢字のあるもの、明らかな誤植はこれを改めた。詩篇には頁の代はりに番号を新たに付した。すべて原文画像に就いて参照されたい。(編者識)
コメント:
四季派の外縁を散歩する「名古屋の詩人達 その1」
Memorandum :高木斐瑳雄のこと
たかぎ ひさお【高木斐瑳雄】(1899〜1953)