2002.12.2up / 2008.11.05写真update Back

回想 詩人高木斐瑳雄 つづき

(未亡人のアルバムから)


告別式

【詩人の死】

昭和28年9月26日、突然襲った脳溢血により詩人は逝去した。享年五十三歳。
戒名は慈正院浄行日久居士。翌くる10月3日、生家の「伊勢久商店」にて盛大な告別式がとりおこなはれた。
二人きりの陽だまりの田園生活に自適してゐた夫人の哀しみは遺稿詩集の序文にもくわしい。
そのあっけない死は、彼が若い日に師事してゐた佐藤惣之助の最期を髣髴もさせたらう。

告別式

昭和28年10月3日「伊勢久」における告別式(写真は夫人)

告別式

参列者は長蛇の列をなした。


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【追悼】

詩人の死は東海地区の詩人達に同様の衝撃をもって迎へられた。
ほかでもない、彼は戦後混乱をはじめた詩流党派の相違を超えて、中部地区詩人の一大団結を図るべく、
名古屋生抜きの詩人中山伸・伴野憲とともに奔走、自他ともにゆるされたその人柄によって、会の中心に据えられることが予定済みであったからだ。
詩人が創刊に関った詩誌「サロン・ド・ポエート」同人たちによって、急遽、詩人の追悼会が西区馬喰町妙見寺にて催され、
衒いなく薀藉の気満ちた人柄を皆が偲んだ。しかし状況はおそらくもっと深刻な「転換期」のなかにあったのだ。

はからずも詩人の死をもってこの後、疎開先の山形からやってきた“全国区”の大詩人丸山薫を「中部日本詩人会長」に戴いたものの、
当の丸山には「地方詩壇の領袖」となるつもりはなく、古き良き時代の「名古屋詩人連盟」の夢は中山・伴野の尽力にも拘らず再興することはなかった。
高木斐瑳雄の死は、後日、名古屋詩壇における「現代詩世代交代劇」の象徴的な出来事として回想されることとなったのである。

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遺影を持つのが中山伸、隣が伴野憲か。あとは不詳(調査中)。

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追悼会風景。

沙登夫人の書簡1953

【沙登夫人の書簡 その2】

此の度の不幸に際しましては御丁重な親書に接しましてまことに有難う御座いました。生前中は格別の御親交にあづかりまして、真に光栄と喜び居りました。 亡き人に代りまして厚く御礼申しあげます。

亦昨日は御多用中にもかかわりませず御遠路わざわざおはこびいただきまして盛大な追悼会を御開き下さいまして有難う御座いました。 あの様子をお見せしたり話すことが出来ましたらと涙にくれる許りで御座います。仰せの通り展示会もいよいよと御成りました。定めてお役に立ちたかった事でせうと、 何よりも好きなことゝて残念に思ふ許りで御座います。一度参上いたしましてくさぐさの御礼申しあげたう存じ乍ら思ふにまかせず失礼申しあげて本意なく存じております。
亦そのうへ御歌まで頂戴いたしまして有難う存じました。早速佛前に供へ生前を偲びました。
皆様からやさしい人とおほめいたゞきます度に涙がせきあげてまいります。どうも有難う御座いました。厚く厚く御礼申しあげます。 いろいろのお厚い御心に對しまして申し述べますすべを知りませずたゞたゞおろおろする許りで御座います。ふつつかな私、どうぞよろしくお願ひ申しあげます。
                                          かしこ
十月二十五日  高木さと子拝

青木先生様
   御前に

未亡人

野田野山の旧居には未亡人が独り残された。

詩人との間に二子生れるも夭折。それらの憶ひ出を胸に、
晩年を愛犬や猫とともに暮らしたといふ。(昭和62年11月26日没)


【高木斐瑳雄のこと】(1999.12.24旧稿)

 私が郷土の詩人高木斐瑳雄に注目をするやうになったのは、郷里へ帰ってきて古書店の片隅で見つけた「中部日本詩集第一集(1952年刊行)」にお いて「落葉する森へゆかう」といふ戦後の作品のひとつを目にしたときからである。そこに登場する甲虫や山蜂、どんぐりといった身近に見られる自然の小景物 を道具立てにした素朴な風合ひの憧憬の牧歌は、それがとても戦後現代詩詩人達が抒情の自己批判を総ての詩人に迫ってゐた当時のものとは思はれず、アンソロ ジーに収められてゐた他のもろもろ詩人の作品群からも一種突き抜けた朗らかさでもって私を惹きつけた。それは戦前「四季」気鋭の同人の誰かの作品であると 称しても判らぬやうな、純情で美しい調べを持ってゐた。さうして作者、今では名古屋の古い詩人達の間以外ではその名も語られなくなったこの詩人が、当時す でに五十の坂を越えた小父さんであったこと、また実は大正末年に春山行夫が興したあの伝説の同人雑誌「青騎士」残党のひとりであったこと、そして彼の家業 が、春山のやうには上京しての文学修行など自由な行動を彼に許さなかったこと、それに彼は諦めをもって対し、郷里で幾たりかと文学を通じた友情を育みなが ら、その中で許された限りの誠意をつくした詩作を続け、戦後の世相が収まらぬうちに円熟を前にして志半ばで仆れたこと。さういった彼に関る一々の事柄が、 木下夕爾、渡邊修三といった経歴が似通った詩人の作品に親炙してゐた私に、彼の詩への一層の親近感を抱かせることとなった。また、それまで感嘆詞の多い詩 を私は無条件に軽蔑してゐたのだが、彼の詩の発想の根源に浅薄な思ひ上がりや「思想」の些かもないことを認めるに従って、次第にその(!)は鼻につかなく なり、のみならずやがては彼を含めた大正期の所謂ホイットマンの影響を受けた詩人達の幾人かについても、私は認識の大きい変更を迫られる事となった。その あけすけな純情や誠意は例へば千家元麿にも見られるものだった。けだし後年の伊東静雄がその千家元麿を「買って」ゐたことや、また立原道造なども名古屋の ここいらの詩人達の、いかにも彼が好きさうな友情の香りについて何か一言二言意味深なことを云ってゐたことをふとも思ひ出したりした(立原道造は恐らく中 京出身の杉浦明平から名古屋詩壇の経緯を知ったのだらう)。

高木斐瑳雄の作品には確かに感嘆符が屡々配慮なく頻出し、一篇の締めくくりも何かの「オチ」が周到に用意されてゐるといったカタルシスを生む作品は少な い。初期の作に溯るほど著しい、大正期の民衆詩派詩人には誰彼に見られたさうした傾向も、しかし後年には居住まひを正した作風、つまり完全に新しく蘇った 時代の面貌を作品の上に見せるやうになった。それは彼なりに、後輩世代の多分は面識のない新しい「椎の木」や「四季」の知的抒情派詩人達から摂取していっ たものだらうが、ここでも私はまた、大正期に出発して刻々変貌していった尾崎喜八などを思ひ合せてみるのだ。また題材について述べるならば彼が好んで採り あげたものといってはその初期の頃から、「街の生活」よりも「田園の自然それも名古屋郊外の嘱目の自然を歌ったものが多く、彼独自の感覚による譬喩によっ て、どうして知的操作も忘れてゐないぞといった細心の注意が払はれたものとして、これはもうとうから完成してゐた。

私はまづ最初に、そのやうな月並の泥に塗れてゐない、処女地を駆けめぐり、惜しげも無く感性を披露する彼の譬喩の豊潤さに中てられてしまったともいってい い。名古屋に居残った詩人達は井の中の蛙であると烙印を捺して嘯いてゐた自分がはづかしくなった。ひとつひとつの作品は「この出来栄えを見よ」と事々しく 造型を誇るやうな、極限までその光りを引き出さずにはおかないブリリアントカットのダイアモンドのやうなものでは決して無い。もっと鷹揚な、おおらかさが 作品全体、もっと云へば詩人の在り様までを温かくつつんで支配してゐるやうな、全円の光線を内に蔵したドロップカットの月光石に見立てた方がいい。私は彼 のどんな作品からも前向きな、誠実実直すぎる位な倫理的な人柄を読みとったけれども、決して堅苦しくなく、むしろ前述したやうに青春を感じさせる高踏の気 分が一切の「○○臭さ」といったものを払ひのけて爽快な明るい抒情の展望を形成してゐた。遺稿詩集「寒ざらし」の序文に未亡人がしたためられた短い回想の 文章を読みつつ、本当にこのやうな希有の詩人の存在があったものだと、今ではすっかり陣容の異なってしまった名古屋現代詩詩壇を思ひあはせて胸をつかれる 思ひがしたものである。彼の生涯の折々に去来したであらう感想のやうなもの、断片の類でもかまはぬ、一冊の散文集の纏められなかったことが私にはただ惜しまれる。

ここに彼の全詩集をまもなく訪れる五十回忌に先駆けて御霊に供することが出来ることを、郷土につながる後輩として何よりの喜びとしたい。

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個人を偲ぶ詩人の集まりと思はれる。参者氏名不詳(調査中)

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詩人の奥津城(2003年2月8日憑弔)
名古屋市中村区日比津町1-16-8 定徳寺

(2006年7月15日憑弔)

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