2002.12.2up /2019.12.06update Back

四季派の外縁を散歩する   第七回

名古屋の詩人達  その2  回想 詩人高木斐瑳雄 (未亡人のアルバムから)


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【はじめに】

 先日懇意の古本屋さんから、高木斐瑳雄に関する「重大な資料」が入ったといふ報せが入りました。駆けつけて見ると、それは綴じの壊れた一冊の古い“アルバム”でした。 一寸出処が信じられない、そしてゴミとして出されたとしか考へられない様子をみつめて、ただ呆然としてゐる私の手に、店主はにこやかに微笑むと「はい」とそれを手渡してくれました。 いな、“託されて”しまったのです。今はすでに亡き夫人の遺品、プライベートな交歓の日々も綴られてゐるアルバム。そして一緒に挟まれてゐた書簡とスケッチブック。 ここに至った伝来経緯に思ひを馳せれば、これはもう、以前私が彼の詩集をテキスト化した際に、 墓前報告をしようと菩提寺を探索して叶はなかったことに対する、霊界の詩人からの再度の合図であると確信するほかはないのでした。
 来年は詩人の著作権が開放される50年忌にあたります。著作権者を訪ねて伺った先でも詳しいことは「もうわからない」と帰され、今や歴史の忘却へ委ねられんとするひとりの戦前詩人の生き様を、 はたして私などがどこまでとりあげて供養できるものなのか。まさに“託された”としか言ひ様のない、詩集といふ質量を超えたこのアルバムの原質の"重み"が意味する処の責任を、 まざまざと感じてゐるところです。

 なほ、詩人仲間の集合写真については現在名前の特定に向けて調査中です。どうか詩人の名前を御教示頂ける向きには是非とも拙アドレスまで御一報いただけますと幸甚です。


【アルバムから】

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若き日の詩人と沙登夫人(大正初年頃)

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大正11年4月1日結婚。(詩人23歳 夫人20歳)

この年の7月に処女詩集「青い嵐」を刊行。
また、9月に春山行夫、井口蕉花、佐藤一英らと詩誌「青騎士」を創刊する。

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スケッチ スケッチ

スケッチブックより(左:大正11年7月29日付   右:大正12年1月1日付)

これらの絵は裏面に「KT」の署名入りで、スケッチブックには別に「Shinichi.T」サインのものも描き足されてゐる。
「KT」・・・或は詩集「哨吶(ちゃるめら)」を出版した実弟喜代治のものである可能性も否定できないが、
未亡人遺品の一つであるところから、斐瑳雄の作品としてここに紹介した。

いづれにせよ、彼の関係した中学大学がともにキリスト教を奉ずる学校であったことは、
人道主義を標榜するホイットマンを信奉する口語詩派との繋がりとともに再検討されるべき事柄であらう。

この年2月に青騎士同人を包括するかたちで「名古屋詩人連盟」を結成、
翌年刊行の第二詩集「昧爽の花」に向けて爆発的な作詩活動を開始した。
地方詩壇の嚆矢として当時の名古屋は、全国でも一等地を抜きん出た存在であった。
次々に上京をとげる詩友を見送るうちに、彼は名古屋に残らなくてはならない己の運命を甘受し、
また地方詩壇における自らの使命についても悟るやうになったものと思はれる。


【同時代の証言 1】 伴野憲 「高木斐瑳雄論 その基礎資料として」

 思い出遠い大正十一年二月、名古屋の蒲焼町大松旅館の奥二階で生田春月、池田幸次郎、加藤武雄、福士幸次郎の諸先輩と、 当時、柳亮、中山伸の両君たちとやつていた「独立詩文学」の第二回目の文芸講演会の打合せをしている処へ、高木君と稲川勝次郎君が飛び込んで来た。
それが高木君との初対面で、彼が二十二才、わたしが二十才の時だつた。この際の温和紅顔の青年詩人の好印象は忘れ難く今でも脳裡に深い。

 詩作はわたしの方が早く(大正八年三月創刊の「曼珠沙華」をやつていた)、彼が本格的に作り始めたのは、彼が稲川君と大垣から出した詩誌「角笛」(大正十一年)からだつた。

春山行夫、井口蕉花らの創刊後間もない「赤い花」と「角笛」とが合併して、同年九月「青騎士」を創刊、新らしく齋藤光次郎、岡山東、近藤東、大山広光、佐藤一英らの顔が並んだが、 これからが高木君の爆発的な活躍期になつていて、名古屋詩壇にえんえんと火が燃え盛り始めた。


 新潮社がパツクの日本詩話会が詩誌「日本詩人」を大正十年十月に創刊し、この中で先輩詩人たちがスクラムを組み、かつ群雄割拠の様相をもつて親分顔をヒカラカシ、 子分を擁して闊歩するという大変な時があった。この堅塁に割込むには叩頭するより他に手はなく、楯突いたが最後、黙殺というだからこわい。


 高木君はそこの処、不思議にすらすらと大正十三年三月に会員の座に辷り込んでいた。もちろん、これは大正十一年に出した処女詩集「青い嵐」の実力がものを言つたのではあるが 、時と処と、彼の誠実な人柄とが一体となつてのことであり、少しの無理もない。むしろ彼にとつて平坦な道であつたと見てよい。


 続いて翌年第二詩集「昧爽の花」(金子光晴装幀)を出し、彼の確固たる地歩は新人中の新人として地に足が着いたようだつた。
それから七年後の昭和四年に第三詩集「天道祭」を出し、また近刊「黎明の林檎」を予定していたが、それは出なかつた。


 作品的に見て彼の内容、形式、レトリツクなどすべては、それらの十年間の詩業の中へ奔流のように猛烈な勢いで注入されてしまつた感があり、 それ以後は前の一大ピークを打立てたような探求も努力もなされなかつた処に、彼の安易性と脱力のあつたことは見逃せない事実のようだつた。


 前進の意見欲はあつたにはあつたが、もう作詩の上では作持そのものが創造という意味では単なる意欲の引力では引連れていけない巨大な重量のものであるということには、 彼としても相当な悩みがあったとも考えられる。


 彼のながい間の名古屋詩壇への不断の貢献という面から眺めても、それは彼が自己をよく知り尽した上での、自己そのものを名古屋詩壇のために最も適切な形で自然な状態をもつて、 これこそが本然のものとの考慮によつて自己を投げ出したのではあるまいか。


 詩の交遊関係も、過去四十年間、名古屋の詩人としては、だれよりも一番振幅が広かつた。詩人のだれでもが強い個性者であるのに、彼は寛容と広い度量でだれとでも付き合つた。
しかしながら彼とのながい付き合いの間に、彼が詩友に対して激怒したことを一度だけ見たが、彼の対人交渉に於ける真の誠実さの奥深いのを知りその時、美しいまでの恐ろしさを感じた。


「名古屋詩人連盟」(大正十二・十二創立)の機関誌「先鋒」発行、「名古屋詩人倶楽部」(大正十四・八創立)、東海詩人協会(大正十四・十創立)、(戦後昭和二十二・二創立)、 「短詩型文学連盟(戦後創立)などの結成には常に主軸として働き、かならず名古屋並びに中部日本詩壇全体のために動いた。


 また個人としては詩誌「風と家と岬」「清火天」「新生」「友情」などいつも居心地のよい発表の場を自らの発言をもつて形成した。
それらのどの時でも、中山伸君とわたしが一緒だつたし「清火天」には亡くなつた野々部逸二君がいたし、「新生」にはその他に杉本駿彦、鵜飼選吉、永瀬清子、井上淑子(当時岡田姓)らがいたし、
「友情」は高木斐瑳雄、野々部逸二、中山伸、それにわたしの四人だけのものだつた。


 一般に知られていない彼の豪華詩集「黄い扇」は、聯詩を中心にして二十二篇を収め、自書自作の和本、精を傾け念を尽した美本箱入り大判のもので、 昭和十六年夏に僅少な詩友に贈つた。これも今では戦災などでだれとだれが持つているやら、わたしの知つている所蔵者に中山伸君があるのみだ。


 高木斐瑳雄君は名古屋の老舗薬種商「伊勢久」の長男として東区中市場町に生れ、後、大津町の株式会社伊勢久商店の社長として戦後の激務に従つた。
詩作を始めた動機を彼の言によれば、彼が同志社大学在学中、有島武郎のホイツトマンの講義による啓発と、美術哲学の園頼三教授の感化などを挙げることが出来る。


 盛時の精力的な多作ぶりは大したもので、詩作するというよりは鶏の産卵に似たもので、当然作風自体にそれは現れている。「天道祭」を開いてみても五十篇の収載量でその中の「秋の唄」は次の通りだ。



 影です
やぶけた大きな葉の累積です。


 高い空です
いちぢくの赤い果実が落ちそうです。


 とりいれどきの野良が見えるでせう
雀の散弾が、演習の兵隊さんの帽子(シヤツポ)が……。


 影です
可愛い光りの子供達の慰安所です。


 お祭です
葉鶏頭の、紫苑(しをん)の遠望です。



 明るく楽しい田園の精気が溢れ、曇りのない大らかな作品は彼の気質そのもので、これは当時の詩壇としても稀有な作風として多くの注目を浴び、その手放しの明るさをわたしは「高木君は一年中ご祭礼」と、へらず口をたたいたりなどした。
 こうした作風が続き、昭和十五、六年頃、聯詩に手を染めてもみたがそれは、そうながくはやらなかつた。ところが晩年の恐らくは彼の最終作と見られる「サロン・ド・ポエツト」創刊号に載つた「寒ざらし」は、



 今日はもう昨日ではない
 足早やに去つた秋の陽射よ!
 冬枯れの木立の向ふに



 で始まる六節一篇の枯淡寂寞たるものに変貌し、贅肉削除の切々たる呼動は、だれの魂をも揺り動かして止まない詩境に突入したのだ。


 しかし残念なことに昭和二十八年九月二十六日、愛知県丹羽郡大口村の野田野山の静閑な田園に包まれた雑木林の中の自宅で亡くなつた。病名は脳溢血、病むことわずかに三日、亨年五十三才であった。


 大津町の自宅は戦災で焼かれ、いち早く住居を好むところの田園に営み、築庭に凝り、ほぼ完成に近づいた昭和二十年十一月二十日付の、わたしへの新居来遊を勧めた書簡の中に


「稲こき機の音と百舌鳥と時たま現われる山鳥の羽叩き、野鳥ののどかな音楽に明け暮れて、出勤が相当手間どり申居り……」


 とある通り、彼は徹底的な田園詩人であつた。野田野山での彼は、村人たちに敬愛され、また近くに杉浦盛雄君があつて、心ゆたかにほのぼのとした生活が九年間営まれたのであつて、彼としては満足限りないもののようであつた。


 家庭は明朗な、さと子夫人と琴瑟相和し平和安泰ではあつたが、家に子無く一抹の寂しさをただよわせた。酒は好んだが、外では適量にして乱に至らず、家で晩酌一本余という処で、女は嫌いではないという味のある微妙さを持つていた。


 詩に於ける師は一人もなく、先輩として佐藤惣之助との交遊は深く、とくに親密なものがあり、他に川路柳虹などを数えることができる。戦事中、野口米次郎との交遊が密になり、 同氏の和服着用のため苦労して白足袋を調達して送つたりなど、彼の対人的な体温のぬく味は、およそ付き合う人のだれにでも肌にしみ込んでいく風である。


 家庭どうしの付き合いだつたのでね当時わたしの結婚にわたしの両親は高木君夫妻にその月下氷人を頼込みなどしたし、わたしはよく妖しげなロジツクで詩の議論を吹つかけなどしたが、 いつもやさしい兄のように頬笑んでいて、決して反撃しようとはしなかつた。


 先輩としての彼の、名古屋並びに中部日本の詩壇に於ける数多くの貢献については、真摯篤実なるすぐれた新人の研究の仕事として心から期待するが 、また、彼と共に詩に生きた同輩たちも、改めて彼の詩業の大らかな清潔さを思い出して欲しい。


 晩年は「日本詩人クラブ」会員、「中部日本詩人連盟」顧問、「短詩型文学連盟」詩部委員長、「サロン・ド・ポエット」同人であつた。(昭和三十三年三月詩誌「詩文学」)


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松坂屋写真館にて(大正〜昭和初期)

昭和4年に第三詩集「天道祭」を刊行、
また名古屋に残った同士、野々部逸二、中山伸、伴野憲らとともに「東海詩集」1〜3集の編集に尽力した。

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薬種問屋「伊勢久商店」にて。(当時の建物は今も名古屋市東区大津通りに現存)
当家長男に生れた彼は、結局終生を名古屋から離れることはなかった。

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写真拡大(昭和10年代?)


沙登夫人の書簡1938

【沙登夫人の書簡 その1】

(封筒表面 消印名古屋13.11.26后4-8)
信州上林温泉上林ホテル桐七号 高木久一郎様 御もとに

(封筒裏面)
十一月廿六ゝ
名古屋市東区大津町一 高木さと子拝
 (鉛筆書きで)廿七日荷場到着 廿八日着信

(文面)
 いろいろ御心配かけました。今朝お手紙いただきありがたう御座いました。あの長い汽車中考へ考へ家へ七時頃つきました。御安心下さいまし。家へかへって もまだ汽車に乗ってゐるやうで大変つかれておりました。家はどうにかくらしてゐたやうです。ホーシャの會合が二十二日にあったそうで、座ふとんやら茶碗が わからず大忙しでした由、その後おできは如何ですか。
 こちらの暖かさにおどろきました。同じ内地でもこんなに気候がちがってゐるものかと不思議に思へます。
 昨日早速御注文のもの松坂やへまいりましたところ寸法が大変大きく書いてあってそんなのはない由、困ってとにかく目方を十七貫五匁と申してあふのを買っ てきました。(店員曰く、物指のない國へいってみえるのかとの事、思はずふき出しました。)
 家へかへって進之さんに相談しましたら、それではきれないだらうとの事に進之さんのお家へいってもらひジャンパーだけ買ってもらひました。大変安くして ゐたゞきました。十三円五十銭を十円五十銭にしてもらひました。
 ズボンはないそうで、進之さんの兄さんがみえまして貴方によくにた太り方の人で、これでははけないと申されましたので、また進之さんに松坂屋へ行っても らって一番大きいのとかへてもらひました。ですから柄等一定しかなくうつりがわるくお気に召しませぬか知りませぬが注文しなければいけませんそうでまあが まんして下さいまし。
 荷造りして客東で送りましたら客東は行きませんそうでもどってきましたので又小包で送りました。
 松坂やでは夜しか出せないと申しましたので家から出しました。でもあれこれしてゐましたので出荷が6時頃になりました。この手紙と一緒頃つくかと思って ゐます。
 今伊藤さんがみえましたけど丁度おひるで関戸さんがみえませんでしたので改めてもたして出すことにしました。百林と書いてくれと申してみえました。
 栄ちゃんから御礼の手紙がきてゐました。※一と太希、喜良から手紙がきてゐました。何か奥の方がごったがへしておりましたので、あとかたづけに大忙しでした。

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 昨晩伴野さんが見舞にきて下さいました。奥さんが又お里へかへってみえます由、何んですか妙な病気(にげ出したりかみそりを出したり首をつって死ぬとか 云ふ)、今まで私共に内密にしてみえたそうですけどいままで三度里へかへした原因が前のやうな事でした由、これは誰にも話してくれるなとの事でした。お話 きいて皆様がお気の毒でしやうがありませんでした。
 汽車中京都の帝大の外科の助教授といふ人とその奥さんとかと一緒に乗り合せ、いろいろお話をうかゞって一寸気楽にふるまへずつかれましたけど、千種まで きました。名刺をいただきましたので貴方の名刺をもってゐたので私も出しました。その人の名前は大澤達といふ人でした。
 すじむかひに夫婦連れか何んですか大変仲のよい人がのられあてられました。今元様がみえましたのでアンゴラ兔の申込書をとゞける事にしました。
 どうぞお大切に遊ばして早く直って下さいまし。もう一度行きたく思ひますけど思ひにまかせません。
 栄ちゃんの時の寫眞が出来てきました。お目にかけたいけどかへられるまで楽んでゐて下さい。ではお大切に。
 溝口さんによろしく、それからお春さんにも皆さんによろしく。私は元気です。安心してゆっくり養生をして下さいまし。
                 では又 さと子

                           

(解説)
三好達治に私淑したものでもあらうか、「おでき(痔疾?)」療養のために態々遠路信州上林温泉の逗留に及んだ詩人を、見舞に訪れた夫人の帰郷後の第一信である。
詩人の胖大漢は夙に有名であった。彼が場所を違へて「四季派」にあったなら、素質として丸山薫やむしろ津村信夫にかよふ詩風を育て上げたかも知れない。そ のやうに温厚で、こだわりのない育ちの良さが詩のモチベーションとして大正口語詩界に場所を得たのは、ひとへに伉儷沙登夫人との、子供は育たなかったもの の、否それ故に睦まじくも純粋な愛情に満ちた「陽だまりの生活」のおかげであったのだらうと、私には思はれる。


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姪御さんたちと?(昭和10年代?)

丸栄写真館にて

丸栄写真館にて(昭和17年?)

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くつろぎのスナップ(昭和20年代?)

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(昭和20年代?)

詩人は店舗裏の自宅が戦災に遭ったのを契機に昭和20年11月、夫人とともに、
「愛知県丹羽郡大口村大字小口野田野山28」に居を移し、家業の一線から退いた出勤生活を始めた。
当時の野田野山は草深い田舎であった。戦争からの開放と相俟って彼の詩心は再び目覚め、
遺稿詩集「寒ざらし」にまとめられる抑制の利いた抒情詩が、閑雅な田園生活からつむぎ出されることとなる。

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昭和27年、愛知県警察学校校歌選定にあたった。12月の式典にて


【同時代の証言 2】 杉浦盛雄 「名古屋地方詩史」1968

 生前彼が名鉄犬山線柏森駅への通勤道を自転車で走った。冬枯れた寒い村の小径が、葉を落して寒々とひろがった桑畑家の中をまがりくねっていた。 雑木林を抜け、田ん圃道を通り、小さい橋を渡って、狭い桑畑を抜けると、林の中に一軒だけの家がある。それが彼の家だ。伊勢湾台風で、太い松や檜の深い繁みをもぎとられた家は、 素肌にされて、広い雑木林の中にかくれていた。戦前まで<野田野山>といわれ、土地の人は、この森は狐の棲家といって敬遠していた。そんな場所に<高木邸>があることなど、 村の人以外は知らなかった。秋は早く虫の音が家を包んだ。晩秋の紅葉は遅く、夏は涼しい狐界の仙境だった。華麗な都市にあった彼が、名古屋の家が戦災に焼かれた機会を、 どうしてこのような不便な田舎の森に永住の地を選んだのか。詩人としての彼は、早くからこのような心境と環境を好んでいた。

 彼は20代から「森の野鳩」※を恋い、晩年森の住者を実現したのだ。「名古屋にいる時も暇さえあればどことなく田舎へ出て道を歩いていました。混みあう街が嫌いでしたね。 静かな孤独と瞑想を愛していました。」と、沙登未亡人はいった。(※「青い嵐」所載「雨に濡れて歌える野鳩」)

 体躯肥満。色白の豊頬にいつも微笑をたたえ、円満中正で人の面倒をみることが好きで、若い詩人の育成に専心した彼の業績は大きかった。
 私は彼の突発的な発病を村の診療所に見舞った。苦しい急迫した寝台の上の熱い顔に手をあてた。長く伸びたヒゲがこわく手にふれ、私は涙がでてどうしようもなかった。 その翌日、棺に入った彼に寄りそって中山伸、伴野憲と私たちは隣町の布袋火葬場へ彼を送った。森の小径を埋めて、萩が咲みだれていた。


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