(2013.05.18up  2013.05.30update)
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しろこし けんじろう【城越健次郎(清水健次郎) 1907- 2000.10.23】『失ひし笛』1938


失ひし笛

詩集『失ひし笛』

城越健次郎 第3詩集

昭和13年2月15日 椎の木社刊

[24p] 15.5×11.0cm 並製 \非売

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【参考文献】

「季」84号(2001.5)清水健次郎追悼号

目次
追悼 清水健次郎
清水さんの翻訳詩 杉山平一 4-5p
九十路の春 清水健次郎 6-8p
詩を思いつづけた生涯 矢野敏行 9-11p
最後の出会い 奥田和子 12p
追悼 小原陽子 13p
死と少女 清水健次郎さんへの追悼詩 小林重樹 14-15p
清水健次郎さんを偲んで 紫野京子 16-17p
清水健次郎さんの思いで 舟山逸子 18-19p
清水健次郎詩抄 小林重樹編 20-25p

「詩を思いつづけた生涯  清水健次郎」 矢野敏行

 清水健次郎さんは、京都府立文化芸術会館で、初めて「関西四季の会」の集まりを持った時(一九七四年)にも、遠路、淡路島からかけつけてきて下さった。その時、 リュックを背負われていて、確か、京都駅から河原町荒神口上ルにある会場まで、歩いて来たのだと仰った。そして、それ以来、清水さんは、私にとっても、『季』の会にとっても、 いつも優しく見守りつづけていて下さる、心強い先輩詩人でいて下さった。
清水さんは、すでに百田宗治の第二次「椎の木」同人としての、経歴をお持ちで、それまでに『欠伸と涙』(一九二八年)、『雪のおもてに』(一九三二年)、 『失ひし苗』(一九三八年)、『故郷の黎ふるさとのあかざ』(一九五〇年)という、四冊の詩集を上梓されていた。これから詩誌活動を始めようとする、私達にとっては、 同じ会に居て下さるというだけで、大きな安心感を与えて下さる、そのような方だった。
お会いして二年目ぐらいの頃だったろうか、その四詩集を合本にして、その後の作品をも収めた詩文集『麦笛』を出版され、それを頂いて、それまでの清水さんの詩業を、 まとめて読ませて頂く機会があった。
 二十代になったばかりの頃の処女詩集『欠伸と涙』と、二十代中ばの頃に出された『雪のおもてに』には、反骨の気の読みとれる若い青春性といったものが、 私にはとても新鮮だったし、それは、その頃六十代でいらした詩人の原像を見る思いだった。そして、三十代になられたばかりの頃の詩集『失ひし苗』に盛り込まれたウィツトの中にも、 また、詩人の原景を見る思いがして興味が深かった。
 しかし、四冊目の四十代前半に出された『故郷の黎』には、奥様やお子さんを亡くされた苦渋の経験が色濃く反映して、前三冊とは異る詩風が展開されていた。 つまり詩文集『麦笛』によって、私は、清水さんの詩人生の前半の流れを、一時に見せて頂くことになったのだった。
 そしてさらに、『麦笛』の中の散文の方では、「虹消えて」が心に残った。そこには、福丼県三国で十七年間程の教員生活を送っておられた時の教え子であった、 天折の閏秀俳人森田愛子への愛惜の情がつづられていて、書き手の側の、その当時の"若き詩人(清水健次郎)の肖像"さえもが見えて、これもまた、興味深く読ませて頂いた。 (このことは、清水さんの最後の詩集となった『吾亦紅』(一九九七年)の中にも「畠中哲夫さんへの手紙」として書かれていて、清水さんの愛惜の情の深さが知られて、それは同時に、 俳人森田愛子の貴重な資料ともなるものである。)
 そして、これらの詩集の発行年に注意してみると、四冊の詩集が出されてから後、次の『麦笛』が出るまでに、二十六年の月日が流れていることに気づく。 私達が初めて清水さんと出会ったのは、その四半世紀に及ぶ長い沈黙が終ろうとする、その頃のことだったのである。清水さんは、私達若い詩の書き手とともに、新たな詩活動の再開を、 その時、始めようと恩って下さっていたに違いなかった。
 竹中郁が、その随筆集『私のびっくり箱』の中で、“城越健次郎はいまいずこ”と、その沈黙を嘆き、やや揶揄するような文章を残しているが(城越とは、清水さんの改姓前の姓で、 この筆名で初めの頃は詩作をされている。)詩人は、着々と、次の創作への道筋を歩まれていたのである。
 その後、清水さんは『薄陽』(一九八二年)、『愛日集』(一九八八年)、『吾亦紅』(一九九七年)という三冊の詩集を上梓されている。これらの詩集には、 晩年に力を注がれていた英詩の翻訳が多く含まれ、清水さんの詩活動の一つの特徴となっている。
 そして、それぞれの詩集には、写真や絵などが挿入されていて、詩人自身の言によれば、一冊ごとがこの世での思いを留める、遺書のような体裁をなしている。 (三好達治に「これは面白いね」と言われたという『失ひし笛』も、すでに“遺書代り”として出した、とも書かれている。)文字通り、私達とともにあった清水さんの、後半の詩人生は、 この世を愛(いと)しみ、各地を旅し、絵を描き、写真を撮り、言葉として定着させるという営みの、日々であったように思われる。
 このような詩人の“詩を思いつづけた生涯”は、私に多くのことを教えてくれるし、また思わせても頂ける。有難いことだと、思う。心強い先輩詩人がいなくなったということが、今は何より、とても淋しい。

「清水健次郎さんの想い出」 舟山逸子

清水健次郎さんが逝かれた。その最期の様子を私は知らない。御子息からの一枚のはがきでその訃を知った日、茫漠とした思いにとらわれた。黒い鞄を肩からさげて、 飄々と歩いて行かれる後姿が日に浮かぶのだ。
 昭和四十九年九月、京都で開いた関西四季の会旗揚げの日、まだ二十代だつた私達の中で、既に六十歳を越えておられた最年長の清水さんは、若い生徒を見守る先生のような、 ゆったりした物腰でいらした。三国時代の三好達治のことを、杉山平一先生と「三好さんが……」と懐しそうに話し合われるのを私達は息をつめるようにして聞いていた。
 梅田の大融寺で開いていた「季」の合評会に、清水さんは遠い淡路から欠かさず参加して下さった。杉山先生がいらして、賑やかな明かるい笑い声をあげる神田寿美子さんがいらして、 静かに話される清水さんがいらっしゃると、私達の合評会はもう十分に満ち足りていたような気がする。
太融寺での合評会がなくなり、いつ頃からだろう、清水さんは御身体の不調で、遠くからの参加が無理になっていた。
淡路島のお宅に一度だけお見舞いに行ったことがある。二月の水仙の花盛りの頃だつた。本に囲まれた書斎で、いつもの通りたんたんと話され、ご病気のようには見えなかった。 お加減は悪くても、「季」にはきちんと作品を出されていた。
「季」の最初の頃、清水さんは旅の詩が多かった。あちこちを旅されていたようで、その話しぶりと同じような静かな情景詩だつた。それから訳詩だ。英語圏の様々な詩人の詩を、 私は「季」に掲る清水さんの訳で知った。こなれた日本語になっていて、英語で書れた詩が、清水さんを媒介として、日本語の詩になっていた。作者を紹介する簡潔な二、三行がいつも良かった。
清水さんにはたくさんの詩集があるが、私が一番魅かれるのは「愛日集」である。詩や散文、そして訳詩にパステル画と写真を散りばめた一冊は、 「清水健次郎」という存在をずっしりと感じさせるものだ。ここに清水さんがいる、とこの詩文集を手にするときいつも思う。写真もいい。そして、 この清水さんの写真 ――レンズで切りとった世界と、言葉で切りとる世界が全く等しいように私には思える。
「季」82号に、「木犀」という清水さんの詩がある。サティのジムノペディを聴きながら木犀の香に包まれている清水さんは静かに自分の死を見つめている。

向うの軒端にだまって立つ木犀の老樹
これから幾年の秋
私の姿が地上から消えた後も
ひとり静かに咲き続けて
その香を庭中に漂わせてくれるようにと
祈りながら私はCDの曲に耳を傾ける

 九十三歳――きっと清水さんは、向こう側の世界でサティを聴きながら、静かに私達を見守って下さっているだろう。

清水健次郎詩抄 より

  丸木橋

水に沿ひ あてどなき道ゆきゆきて
橋にあひたり橋をわたらむ  杉村けい子

はっきりしたあてがあったわけではない
尾根へ続く踏みならした道があっただけだ
滝の音が足下に聞こえるだけで
小鳥の啼声ひとつない
大きい崖崩れのところに
一本の長い杉丸太が横たえられている
何の躊躇も感じないで
その上の薄雪を払いながら渡った
渡り終わってほっとしたが
後をふり返りもしなかった
道があるからには
何かに行きつくだろう
一歩一歩高みに登る喜びを感じながら
休み休みたどり続けた
急に空がかき曇ってはげしい雪になり
たちまち道は埋まってしまった
ふりかえって見ても
降り注ぐ雪の音ばかりで何も見えない
丸木橋には雪が積っているだろう
払っても払っても降り積むだろう
                            (「季」14号)


『詩抄U』1933小伝


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