(2011.10.18up  /  update)
Back

しんじ すすむ【宍道 達】『水に記す哀歌』1973


函   水に記す哀歌

詩集『水に記す哀歌』

宍道 達 第一詩集

昭和48年8月20日 中央公論事業出版(制作) 私家版

13,232p/20.0×15.2cm 上製函 400部限定 \2500


はじめに

詩人とは彼自身が何者でもない存在であることを願望する精神の所有者であるといふが、その実、彼は現実世界に現に存在して、 何事かに握齪とうろつく何者かであることをどうしよう。それ故にこそ何者でもない存在たらうと切に願望するのかも知れないが、従って、この両者の落差の間にあって彼が歌ふのは、 孤独の悲歌にほかならぬ。さればその悲歌は彼独りのものであり、他に見すべきほどのものでもあるまい。そしてまた、虚無を覗き、矛盾無常を観じ、もしくは悦楽快美を夢見る者さへも、 それらもみな、孤独の悲歌を歌ふにほかならぬのではないのか。

少年の日から詩を書き初めたが故に、おのづからに著名な詩師、詩友を得たが、いかにもがくとも脱けきることのできぬ影響を私に残したまま、師はみな故人となられた。 友もまた然り、もしくは音信絶え果てて久しい。詩集公刊を彼等から奨められたことは幾度か知れなかったが、わが才と作とを省みるとき、その拙さと愚さとに深く恥ぢた。 詩を書くこと五十年に垂んとするのに、詩の世界の堂奥はおろか、その入口にさへもまだ逢かである。かうして私は常に含羞の中に詩を書いてゐたのであった。 さればかつて詩集を編むことはゆめさら考へたことはなかった。

私は珍奇な発想、新語、造語、意表をつく語句構成を忌み退けた。わかり易い日本のことばの意味と音とを、日本の語法によって組立てて詩の世界を構築し、そこに私の、 その時々の感情や思念を抒情することを考へた。故に、私の作品は「古い手帖」の中に埋没すべきかびくさい古代詩法のものである。ただ生涯の喜びの一つは、旧制松江高等学校の三年間、 文芸部詩話会を主宰し、仲間と共に全国高校中抜群の黄金時代を出現させたことであったが、その後に、花森安治時代(評論家暮しの手帖杜)布野謙爾時代(天逝した天才的詩人、椎の木杜刊全集あり)が続くのである。今日の若い人は、私の古代詩風を嗤笑するであらうし、 私もまた彼等の作は別宇宙人の言語としか受収れぬ。日本の人間の感情や言葉がかくも断絶した。もう一つ、戦前、戦中、戦後いづれの時に於ても、 戦争讃美協力の詩のかけらさへも歌はなかったことも私の内心のひそかな喜びである。

作者を一たび離れた作品は読者にどのやうに受取られても自由であるが、誤読誤認は作者と作品とを哀しませる。私の作は現実の事実と虚構夢幻とのあはひに揺曳するその時々の抒情にほかならぬ。 例えば「晩秋」といふ作の、亡き人妻の乙女の日を私が恋うたことがあったか否か、晩秋の野路を辿ってその墓参をしたか否か、さういふ事実の有無の詮索は全く問題にならないのである。 このやうに歌はずには居られなかったその時の私の胸に溢れて来た或る一つの耐へ難い哀感は、この「晩秋」として歌ふことによって抒情の生命を得たのだと私は信じた。 私は抒情をこそ詩の生命と信じ、その抒情の手法と内容は、どらまてぃっくであり、小説的であり得ることを念願した。

今、生涯の黄昏の刻に及び、春の一日、杳に遠い日記を読み返す機会があったが、旧制中学から高校の数年間の日記は、 若い日の哀感の数々を記さぬ日の一日たりともなかったことを知らせた。日々の記録と詩の題名と幾冊と知れぬ詩のノートを照合する時 、数十年の遠い日の追憶は昨日のことのやうによみがへり、老年の感情に波立つものをさへ与へた。紅顔の日は雲烟の遠くに去り、今、老残を恥ぢながらも、 いくつかの詩篇を抄出して一つの集を編み、これをわが柩の飾とし、骨肉と共に灰となし、宇宙に飛び散らすことを想った。回顧は未来への発展を持たず、常に感傷性に充ちて、 哀惜のまなざしを過ぎ去ったものへそそぐ。浪漫的感傷は老いて尚私の本質と見える。これを読者が抒笑することを私は望みはしないが、拒むものでもない。

「水の上にその名を記せし人ここに眠る」

私の敬慕する泰西の詩人ジョンキイツの墓碑銘である。『文学界』第15号(明治27年3月)の、この詩人の悲哀の生涯におのれの思ひを仮托した平田禿木の名美文「薄命記」を読み、 あはせてこの墓碑銘を想起する時、私の胸の底からつき上げてくるものを感じるのであるが、私のこの集にあるものは、水の上に記し流す悲歌であり、わが孤独と含羞の哀歌に過ぎない。 河面に哀歌を記し流すその時、輝く明るさのなかに溢れる泪をたたへ、深い憂愁のなかに凛然としたものを示す、あのモツァルトの音楽を背景に流すなら、私のおもひはさらに足るであらう。

この詩集出版に多大な御助力を頂いた作家の杉森久英氏、俳人で中央公論事業出版杜長篠原敏之氏、(共に東大国文科同期)、装偵して下さった岩永大亮氏(旧制松江高校文甲同期、講談杜出版研究所)、 右の方々に、特記して深い感謝を捧げる。また、中央公論事業出版の甲田正一氏は、詩集刊行までの煩雑な仕事に、大変御尽力下さった。ここに敬意を表する。 一九七三・七 著者

目次

はじめに

第一部 旧制中学校時代作品抄

日なかの月
秋の虫
讃歌
淡雪の街

饐えゆく花(二篇)
五月
夕暮
風景

秋みつる日の空はさびしや

故里の
水のまち行きて
水辺に布をすすぐひとを見過し行けり

かつての日のひとに似たるにはあらずや

空はそのかみの瞳のごとく澄めども
われに言問ふものもなかりき             1926

木犀

木犀のかをりはわびし
何故ぞむかしの夢をしのびかへすは
ふるさとさむく 秋たけて
木犀の香の饐えたる家に
門標のなきはいつよりか              1926

枯柴山

枯柴山にひびくは何の声ぞ
さむざむと鳴く鳥の声なりや
心のなかにへうべうとぞひびきくる
あらはに聞ゆるものならねど
夕闇の枯柴山の小径にひびくは
われその声の魅惑に溺れ'
われそのほのかなる声の心を聞かむとす
ひびき ただよひて過ぐ
ああ そは何の声ぞ
梢に過ぐる風に聞けば
真白き冬へと急ぐ秋の声なりと
過ぎ行く秋の声なりと
過ぎ去るものは美しとか
過ぎ行くものは寂しとか
われその美しく寂し気魅惑に溺れつつあり            1926

 春

春となれば
そらがまるくふくらみ
うむうむとのびて行くとは思はぬか
谷間から出て来る牛の声までが
のんびり まう わう と村々を越える
遠い山山は畳寝からさめて
背をまるくしたまま
向ふをむいて笑ってでもゐるのか
もうすこししたら
あれは動き出して来るかもしれぬ
あいつは寝てゐるぱんたぐりゅえるかもしれないぞ
            1927

秋来るといふ雨の夜

桑の葉に
ぱら ぱらと雨の鳴る夜なり
桑畑の家はわびしければ
ぶだう酒のみて寝ぬるなり

この哀しく寂しき夜を
離れ部屋にをんなたちは集まり
何にわらひ興ずるか

くらやみに這ひよる菌類のしめり
ちちろう ちち ちちろう
伴侶(とも)よぶ虫をききて寝ぬるなり             1927


海近い町で(三篇)
水都松江

水都松江

はなやかにも憂鬱の夢のなかのごとく
ものうきつかれごころに
うつむぎ行けば
古ぼけし電線のうなりぞ
街のいらかの上を伝ひくる

いづこか役所の使丁ならむ
小指はみいでしゴム靴をはぎて
戸毎に立入りてはまたうつむき出づ

うつくしき乙女らそぞろ行けども
むかしの日は遠く去りて
嫁(ゆ)きしひとはすでにここにはあらざらむ
街角の映画広告の色目にしみて
わが思ひをかなしくせり

街の真中の大橋の桁朽ち
行人は片側を行く
ああ欄干に侍りて見れば
湖はなほ瞳のごとく輝きてありしが
わが古びし物語のぴりおどはいづこならむ        1927

水郷松江

たゆたふ水の上にあをあをとゆれてゐたが
たちまち
くづほれた街のすがた

夕暮 桐花色の大きい花がふうわりと街をおほうた
わたしは想ふ 柔肌のタ霧のなかに
古代ぶぇにすの水の色を
おらんだ幻燈にうかぶ古風なあむすてるだむの夢を
でるふとの幻を

橋が鳴る おうおうと
ひとかげはおぼろ
櫓の音は過ぎた日の物語にぴりおどを置き……

しのびよるやうに
ふなばたに流れよった月見草          1928

松江
監獄裏(二篇)

第二部 旧制松江高等学校時代作品抄 (1928-1930) 小影

小影

北堀桃園町
北堀桃園町のひと(二篇)
三味線屋

三味線屋

三味線がならべてつるされてゐた
鏡餅のやうに積み重ねられた太鼓があった
紅の 朱の緒を結び垂らした鼓があった
疲れきったやうに投げ出されてゐた

がらす張りの箱のなかに
象牙の撥(ばち)は銀杏の葉形にこっちりと光ってゐた
そこには美しいむすめがゐたが
むすめは店に出て坐らなかった
店の前を通るとぎに
高校生達はほうッといふやうなかけ声をかけて行った
夜更けなどに番頭がひとり 三味線の糸を合はせて
ぽつん ぽつん と鳴らしてゐた               1929

                       (昭和3,4年頃、松江市天神町に、この店があった。)

古風な版画

濠畔の古典的な夕空に
かうもりが飛んでゐた
木履の音が
あをぐらい水を伝って消えた
やはらかな夕やみのなかに
睡蓮のやうに白く浮出た横顔だった
喪服のやうな服を着て
けれど その瞳を忘れた           1928

春の小曲(二篇)
春日
夕暮に
窓の中のひと
海辺で

花と女(四篇)
春雨
鳴咽する少女
春(二篇)
昼の花火
春(三篇)
春宵(三篇)

山峡の村にて

山峡(やまかひ)の村にて

真昼 山峡の村を行きしとき
小径は乾草にうづもれ
かなしく古びし玩具のごときにほひただよひ
ばったの類(たぐひ) 跳ねとび
ぺん ぺん と跳ねとび

路ばたの畑に
南瓜は鍋よりもくろくふくれ
いたましく崩れし土壁に
色あせし肺結核予防のぽすたを哀しく見つ
縁側ちかきすすけたる部屋に
ひるねの女のあらはなる白き股
はへなどあまた群れとび
行き過ぎて
おもたき牛のうめきを低くききたり            1928

竹と月(二篇)
きつつき
秋の哀歌
哀歌
哀唱
むなしい日日
陶土の坂
或る風景
秋の幻

夕陽
秋のいめいぢ
初秋
梢(二篇)
睡蓮
ゆふぐれ
さくら
哀唱
あるひとに
Augenblickliche Musik
さくら(二篇)
春雨(二篇)

春雨

はるさめがひっそりとつつましやかに降ってゐる
しづくにもならないほどにけむってゐる 樹木がそのなかでじっとして
しづかに しづかにぬれそぼってゐる
樹木はくすぐるやうな雨の柔肌を味はってゐるらしい
ただ一心にぬれてたたずんでゐる
せんさいな指をくみあはせ
それを空にのばして
もっと もっと とねだってゐる
樹木の肌が
見てゐるうちにだんだんとあはいみどりを帯びてきた
          1929

ほのぼのとうすあかりする雨
屋根のかはらが白くひかる
うすむらさぎの土に雨はじんじんとしみこみ
桑の木の肌が
あはいみどりにうきでてくる
あまだれも落ちない雨
ひるま どこかで
かへるがひとりしみじみとないてゐる        1929



冬日
冷日

或る町で(二篇)

或る町で

巾広い白い道が一直線に突貫してゐた
家家はその両側でつつましく挙手の礼をしてゐた
幼児が裸でチンポコをひっぱりながらYYと駈けて行った

かなぶんぶんの羽音が街の隅でうなってゐた
電線にくもが巣をかけてゐた
ほととぎすの声が空に髪の毛を一本置いた
白百合のやうな横顔の少女が
新しく大ぎい玄関でじっときいてゐた        1929

クヌルプ
シルフ
早春
蒼き時間
おもひで
秋の水
たそがれ
初秋

夕暮
あをじろいそら
哀歌
あをみなづき
晩秋

晩秋

茜の落日は梢にやどり
りんだうの濃き藍の紫
秋は深き野菊の路を辿りて
独りわが行く
山肌に眠りたまふきみが墓

御母もいます
御祖母もいます
遠きみ祖先(をや)もみないます
きみはさびしきひとりならず
静かにやすけく眠りませ
きみが墓石のやさ肩に
山ざくら
真珠の花は散りかかれ
冬の夜の
つめたぎ雪は積むなかれ

ああ 遠く若き日に
こすもすの花垣のかげに
命かへせ 命かへせ とわが鳴咽せしきみ

ああ亡き人妻                  1935

第三部 東京帝国大学時代作品抄 (1931-1934)

蒼白い時間
しろいとり
からたち垣
浚渫船
故園の鞦韆
曇天


秋夜
冬夜
春宵
初春
或る日
地球儀

或る夕暮に
或るひとに(六篇)
布置
桃割髪
歌加留多
いさかひ
秘約
秋の夜の茶寮にて
野路にて

第四部 東大卒業以後作品抄 (1935-)

夕暮
魚(二篇)
郊外で、
川原にて

経歴
海辺の町で
春愁
濠畔にて(二篇)
望郷(五篇)
夜のおもひに

茶寮にて
妖(四篇)
古き手帖(四篇)
遠き日記
あえかのをとめ
おもひで
おもひで
故郷への遺書(五篇)
冬の松江大橋にて

冬・松江大橋の畔にて
青春遺書

いのちたそがれに(十四篇)
茶寮にて
夕暮に
夜の来る前に
たそがれ
経歴
十一月
歳月
晩秋
夕暮のなかで
秋の暮に
初冬
晩秋
とかげ

奥付


Back