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せれい くにお【世禮國男】(1897〜1950)
『阿旦のかげ』
世禮國男 第一詩集
大正11年2月15日 曙光詩社刊行
134p 菊判(218 x 152mm)上製 \1.50
大正十一年一月卅日印刷
大正十一年二月十五日発行
定価 壹圓五拾銭
印刷者 東京市麹町區飯田町五丁目廿三番地 宮本 直一
印刷所 東京市麹町區飯田町五丁目廿三番地 精藝出版合資會社
発行所 東京市牛込區~樂町一ノ十二 曙光詩社
川路柳虹序文、平戸廉吉序文
久保章様kuboa@mac.comより、この未見の沖縄詩人の詩集について、書誌情報とともに詳細な解説を賜りましたので、久保様御承諾の上、 詩人解説の項として茲に掲げさせて頂くことに致しました。あつく深謝申し上げます。ありがたうございました。(2004/11/27)
【解説】「世禮國男について」 久保章
世禮國男(せれい・くにお)は大正時代の沖縄を代表する詩人です。
大正十一年の五月末か六月初めに佐藤惣之助が沖縄を訪れ、おそらく八月ごろ帰京、十一月には『琉球諸嶋風物詩集』を出版しますが、そのなかに「遊読谷山」という一篇があります。
「遊読谷山」
丘の砂糖小屋の石の窓に
東支那海の日沒が薔薇の花を畫くのですか
畑の坂路を小さい宮古馬が
豆殻をつんで村へ歸る影がいくつもいくつも
黒い蟻のやうに日沒の薔薇の上に遊むでゐます
世禮君、濃い支那茶がのみたい時刻ですね
君の草盧はあの竹の林のあたりですか
あの煙は君の處の老婆子が豆殻を焚いてゐるのではありませんか。
詩のなかの「世禮君」が世禮國男です。当時世禮國男は沖縄本島中部読谷村は座喜味城にあった読谷小学校に教諭として勤務していました。 どうやら世禮國男は来沖した佐藤惣之助を那覇に訪ね、はるばる読谷の假寓まで案内したようです。
沖縄本島中部、太平洋にちょこんとつきでる勝連半島のすこし先に平安座島、宮城島、伊計島、濱比嘉島という四つの小さな島がしたたった滴のようによりそっています。
世禮國男は明治三十年の七月二十日、そのうちのひとつ、平安座島のまずしい漁師の子としてうまれました。
平安座小学校、与勝高等小学校と地元の小学校を優秀な成績で卒業し、首里にあった沖縄県立第一中学校(現在の首里高等学校)へ進学しました。
通常は高等小学校二年修了後上級学校へすすむところ、世禮國男は一年修了で進学しています。県立第一中学でも三年生のときには授業料免除の特待生にえらばれ級長になっていますが、
その学年の後半から辻通いがはじまり当然ながら成績も低下、四年生では特待生も級長も失格、大正四年の春、ごく平凡な成績で卒業したそうです。
ちなみに辻とは当時沖繩にあった唯一の遊廓です。辻のしくみ、風俗は沖縄独特のもので、「人情こまやかな歓楽境として、他府県に見ることのできない、
いわゆる琉球情緒ただよう遊女街として栄えてい」(『那覇市史』通史篇)ました。
戦前の沖縄には高等教育機関はなく、中等学校卒業後本土の高等学校等の上級学校へ進学するには学力はもちろん、相当な財力を必要としました。大正時代の沖縄には、
本土の高等学校、高等師範学校等の上級学校へ進学する資産を有した家は、首里那覇のごく一部の資産家をのぞいてはほとんどありませんでした。
もちろん世禮家にそのような財力はあるべくもなく、世禮國男は卒業後しばらくは雑誌記者か新聞記者をしたようですが、大正五年には小学校教員の資格をとって母校の平安座小学校の教諭となりました。
その後、伊計島の伊計小学校、読谷間切の読谷小学校、北谷間切の屋良小学校と田舎の小学校を転々としながら詩作にはげんだようです。
『阿旦のかげ』自序には、大正六年以来川路柳虹に「詩について教を仰」いだことが記されており、また、扉には 阿旦のかげ 世禮國男 第一詩集 1917―1921 とありますので、この詩集には世禮國男が沖縄の、そのまた田舎の小学校教諭時代に書いた詩がおさめられていることになります。
大正十一年二月、世禮國男は詩集『阿旦のかげ』を東京の曙光詩社から出版しました。これが沖縄近代詩の歴史上最初の個人詩集となりました。
一頁に川路柳虹の序、三頁に平戸廉吉の序、五頁に自序。詩集の出版は大正十一年ですが、川路柳虹の序には大正十年十二月、平戸廉吉の序と自序には大正十年十一月と記されています。
自序によれば、詩集「出版に就いて総ての世話を」川路柳虹が「して下すつた」とあります。
曙光詩社は川路柳虹がつくったといわれています。
当時平安座島、伊計島、読谷、北谷などでは人々は琉球語(ウチナーグチ)で毎日生活し、日本語(標準語、ヤマトグチ)を話せる人間はおそらくほとんどいなかったはずです。
そのような環境のなかでみごとな口語近代詩をものした世禮國男ですが、『阿旦のかげ』の最後には「琉歌譯二十八篇」が配されておりますし、
扉表紙には「故郷の島々に」と題して
ありや、伊計(いけ)よ離(はかれ)よ、
こりや、濱(はま)よ平安座(ひやんざ)よ、
平安座娘等(みやらび)が、蹴上ぐる
潮の花の美しさ!
という琉球語をもちいた詩が掲げられています。
このような琉歌への関心、琉球語による表現の試みは大正十一年に来沖した佐藤惣之助との出会いでつよい確信にかわったようです。
佐藤惣之助も『琉球諸嶋風物詩集』の後書のなかで「(沖縄の)友達は私が琉歌を口ずさむと科白を云つてゐるやうに笑ふ。調子と語法がへんてつもないのでつい失笑するのである。
それについては琉球本來の土地が生むだ世禮國男、上里春生の二君及び若い琉球の未來ある人人にもつと確かなものを示して貰ふ時を待たれるがよい」と書いていますし、実際、
世禮國男は『阿旦のかげ』をだした翌大正十二年三月発行の『日本詩人』に〈琉球景物詩十二篇〉という琉球語を存分にもちいた詩を発表しています。
これらの詩は佐藤惣之助の期待にこたえたものなのでしょう。
『阿旦のかげ』を出版した大正十一年、世禮國男は文部省教員検定試験に合格し、中等学校国漢科の教員資格を取得し沖縄県立農林学校の教諭になりました。
知念芳子によると「中等教員の資格は、専門学校を出ればわりあい簡単にとれるが、検定試験を受けてとるとなると非常にむずかしく、相当な勉強とそれを持続する意志力を必要とした。
沖縄ではまだ少なかったが、文検を通った教師はみなディキヤー(秀才)で努力家と定評のある人ばかりだった」(『なはをんな一代記』P224)そうです。
大正十四年に沖縄県立第二中学校(現在の那覇高等学校)教諭となった世禮國男は昭和二十年の沖縄戦までおよそ二十年間を県立二中の教諭としてすごします。 沖縄戦のときは県立二中の教頭でした。
大正十二年の〈琉球景物詩十二篇〉が世禮國男が発表した最後の詩でした。数えで二十七。
以後ぷっつりと詩作を絶った世禮國男ですが、琉歌への関心はおもろや琉球古典音楽への関心へと、いわばより一層の古典回帰へと彼をむかわせたようです。
昭和八年には世禮國男、阿波根朝松ら数人が「泊三絃同好会」をつくり、野村流音楽協会総帥の伊差川世瑞に師事、伊差川のもとで琉球古典音楽の習得にはげんだのですが、
世禮國男のめざしたものは琉球古典音楽の習得のみではなく琉球古典音楽の学理的な究明と音譜化でした。
伊差川は週に三回ほど稽古場で教えたそうですが、世禮國男はいつも先に稽古場にきて師の歌唱の採譜にとりくんでいたそうです。
世禮國男は音楽の天分にも恵まれた人物で伊差川が「何百人の弟子を教えたが、こんなにもの覚えのいい人ははじめてだ」と賞賛をおしまなかったという話がつたわっています。
昭和十年八月、伊差川世瑞世禮國男共著の『聲楽譜附工工四 上巻』が出版されました。明けて昭和十一年に中巻、十二年には下巻、十六年には続巻を出版し、
前後七年を要して一応全巻の編纂を終えました。この間昭和十二年には師の伊差川世瑞が死去していますが、全巻とも伊差川、世禮の共著として出版されております。
工工四はクンクンシーと読みます。琉球王朝時代に創始され、明治のはじめに完成された三線(サンシン。琉球の三味線)のための楽譜です。ただ、工工四はあくまで絃楽譜であって、
声楽の稽古には役立ちません。世禮國男が考案した声楽譜は「琉球古典音楽独自の発声法、呑み、掛け、当て、ネーホその他二十に及ぶ記号と点や線によって曲の歩みを記すなど微に入り細に亘っており、
符号の解読さえ修得すれば、初心者でも独習の出来る立派な教本で、古典音楽普及に大きな役割を果たしている」(大山一雄。野村流古典音楽保存会評議員)そうです。
世禮國男は『聲楽譜附工工四』全四巻のなかで二百曲近い歌唱の採譜をおこないましたが、「とくに昔節、大昔節などの難曲の採譜は普通人の成し得る業ではない。
氏のように豊かな天分と強烈な探究心の持主であったからこそ達成できた」(大山一雄)、「驚異の著述であり、その功績は不朽であり琉球古典音楽に永遠の生命を与えている」
(金城研一)と高く評価されています。
『聲楽譜附工工四』刊行と並行して、世禮國男は昭和十五年、琉球新報紙に「琉球古典音楽歌謠史論」を連載しています。
これもまた「氏の著書中の白眉」(多和田真淳)と高い評価を得ているものです。
昭和二十年、凄惨な沖縄戦直後、世禮國男が中心となって県立知念高校が創立され、世禮國男は初代校長となりました。昭和二十二年には県立コザ高等学校校長、 昭和二十四年病を得て退職、昭和二十五年の一月二十三日、生まれ島の平安座の自宅で死去。享年五十四。
参考文献
『阿旦のかげ』(大正十一年)
『世禮國男全集』(1975年)
「新沖縄文学 23」(1972年 沖縄タイムス社) 特集 世礼国男
「新沖縄文学 33」(1976年 沖縄タイムス社) 特集 「沖縄学」の先覚者群像 人と学問
『沖縄文学選』(2003年 勉誠出版)
『沖縄縣史』別巻 沖縄近代史辞典
『阿旦のかげ』表紙
『阿旦のかげ』見返し
『阿旦のかげ』著者小照と自署
『阿旦のかげ』奥付
世禮國男胸像。平安座小中学校校庭
「世礼国男先生を偲ぶ」。石碑。平安座小中学校校庭。