Back

 さとう そうのすけ【佐藤惣之助】(1890年12月3日 - 1942年5月15日)


 『我が愛する詩人の伝記』 室生犀星著 より


 佐藤惣之助

 詩人佐藤惣之助は明治二十三年十二月三日、川崎市砂子の宿場脇本陣の旧家に生れ、私より一つ歳下であつた。砂子の彼の家のうしろは早くから工業地帯に変つてゐたが、野趣ある草原には小さな鮠や川蝦をうかばせる小川があり、海は近く蘆荻の沼澤地方が続いて、 佐藤はそこらで植物昆虫魚介にしたしみ、彼のいふ泥のついた娘達とも遊んだ。四歳にして釣を嗜み、十二歳で発句を学んだといふ自伝も嘘ではなからう。
 十三歳で東京に出て丁稚奉公をして働いたが、十七歳で兄の家業、荒物屋を手伝つた。その間に俳蘭西語もちよつぴり噛じり、英語も噛じり、手当り次第に本を読み独学で詩人として一家を為すに至つたのである。
 だから彼は私を訪ねる時間にも必ず懐中には何時も、一冊の書物をいれてゐた。川崎から東京に出る電車の中で読むためである。主著の二十三冊の詩集に八冊の随筆集、七冊の釣魚の書物、外に二冊の発句集をその生涯にのこした。 旅を愛し日本内地は隅から隅を歩き、琉球諸島、南洋、支那大陸、オホーツク海を遍歴し、飛行機も誰よりも先に何度も乗り込み、満洲は哈爾濱にまで二度も渡つた。
 そしてどのやうな旅行先でも、先づそこに住む女としたしむことで、彼の旅を愛する元が醗酵してゐた。異常な健康を誇る彼は先づ旅行からの帰途、静岡あたりで下車して、萩原朔太郎の令妹周子さんをもらった当時は、 彼女に電報打つて置いて旅館の一室で、旅の自慢話をし美しい妻を待ちきれずに肌をあたためる油断のならぬ男であつた。
 無頼の放蕩児ともいはれる彼は先づ女に溺れるに早く、また女ゆゑの苦衷は絶え間がなかつた。泥足の小娘から家一軒買ってくれる藝者の愛人にいたるまで、一たい此の男は僅か五十一年の生涯にどれだけ多くの女を知つたことであらう。 性は天心闊達、小肥りの脂肪質で女の前でよく足を捲つて、太股の真白いかがやきを見せて笑った。百歳まで生きてもあれほど女に愛され、自らもすすんで突き抜いて人間行状の量をかせいだ男は稀であった。

「四十にして家業を成さず、猫額の故里に呻吟すること二十年、零少なる詩銭を酒に代へて、後日釣戯に耽ける」

 といふが、それより女光景にわが生涯をかけたといふ一行を加へた方がよい。
 昭和十七年(一九四二年)五月十五日脳溢血の発作後、僅か一時間の後に長逝した。彼はふだん良く戯談に「死なば五月」などと言つたが、それが旨く当つたのである。


 田舎の女

(前略)
夕日が我々の頭に落ちてくる度に
彼の女達の肉体が一つづつ
田舎から失くなってしまって
町の色香に呑まれてゆくのだ
貧しい娘はすぐさらはれて
この世から色を失っては
深夜の月のやうに燃え失せるのだ
(後略)


 我身知らず

彼女は玉のやうに掴みどころがなかつた。
彼女はとめどもなく人を善人だと見た。
彼女はどんな人も赦し涜辱をも忍むだ。
彼女は自分を害するやうな人に近づいて、
その人が涙をこぼす瞬間へつけ入って、
やさしくその涙を拭ってやった。
彼女は殆ど抵抗をしなかつた。
彼女には三種の美しい表情があつた。
彼女は途ぞぶりぶりした事がない、
彼女はどうしたことか小さい時分から恋愛を理解した。
そして永久かと思はれる程愛情が深い。
しかし今の夫が初めであり終りであった。
嘗てそれを疑った事と否定した事がない。
彼女の夫はよほどむづかしい難題をつきつけられてゐるのだ
(抜き書)

 私は満洲に旅行した時、初めて洋服といふ物を作りそれを着用してはるばる哈爾濱まで出掛けた。黒の上下に半コートの外套、これが生涯の最初に着た最後の洋服といふものであった。
 大正十二年に震災で帰郷して春の外套(スプリング・コオト)といふものを作り、これを着用して帰京したが、佐藤惣之助はこの春の外套をたいへんに褒めてくれ、私は戯談に、では君に売らうぢやないかといふと、 是非売ってくれと言ひ気の早い惣之助は、拾圓札を四枚紙入からつまみ出した。つまり八拾圓が原価でありその半分で契約済になつたのである。私は二十幾つかある釦を一々かけたり外したりする洋服といふものに、既に懲りこりしてゐたのである。
 佐藤惣之助はそのスプリング・コオトを着て、或日一緒に飲みに出かけると新調の私の帽子をつくづく見て、いい帽子だなあ、軽くてトルコ型で、それで日本風で気に入つたなあ、幾らしたの、ふうむ、四十圓したかあ、 さうだらうな獺の毛皮だからなあ、とひねくり廻し撫で廻し冠つたり掴んだりして見てゐた。
 けれども私は売るともやるとも言はなかつた。日本橋の毛皮屋でトルコ帽の型ではあるが、いささか周囲をひろげて作り、年よりくさくないやう又トルコ帽でない作りを凝らした物で、まだ二カ月しか冠ってゐなかつた。
 けれども、次ぎに会つた時もまたつくづく私の頭の上を見上げて、いい帽子だなあ、おれも一つ張り込んで作るかなあ、併し四十圓は少し高価だなあ、釣をしに行く時に風に飛ばされないから、調法だ、全くいい帽子だと彼は褒めちぎり、 これはいよいよ佐藤に奪られることになりさうだと、私はつい酒機嫌の好さも手仰つて、そんなに良ければ潔よく進呈する、どうも僕には似合はない気がするんだといふと、佐藤惣之助はたちまち感動しやすい男だけに、底けに歓喜して手を拍いて言つた。
 呉れるか、ほんとに呉れるか、ほんとに進呈するんだ、おれはやはり中折帽子ががらにあひさうだと私は言つた。さうか呉れるか、ただで呉れるのか、それから決めなきや後で困ることになる、さうか、ただかあ、済まんなあ、 釣をしに舟で帽子がよく吹つ飛ばされて困るが、このトルコ帽なら、潮風だつてすぼつと冠つてゐりや大丈夫だ、たうとう、呉れたなあ、おれはずつと欲しかつたが、さうさう呉れって言はれないからなあ、 いや今夜の勘定はみなおれが持たう、彼はさういふと次ぎの酒場に行くまでに、もう得々として毛皮の帽子を頭にのせてゐた。
 私は頭でつかちの佐藤の古中折を臨時に頭に乗つけて、ともすれば眉のあたりにずり落もてくるのを手で抑へ悲しげに佐藤に言つた。
 君の頭は何てでつかい頭だあ、ナマズみたいな頭だなあ。
 佐藤は私の家に来ると先づ庭を一巡し、京都から持つてかへつた子供の墓碑の五輪塔を見て、これはあはれに愛すべき五輪塔だなあ、おれは子供はないがか子供を亡くしたむかしの人は、こんな供養塔をつくつて永年眺めてゐたんだなあ、 可愛想に赤ん坊の背丈くらゐしか、せいも、ないぢゃないかと、佐藤は一尺五寸くらゐの五輪塔をつくづく、眺め入つた。
 おれの庭には何も石の造形物は一つもないんだよ、がらがら庭に秋草が乱雑に咲いてゐるだけだ、縁の下には古下駄がころがつてゐるだけだ、何とか 庭を作りたいんだが棄石っないんだからねと、彼は可憐な五輪塔の頭をなでながら傍から離れなかつた。
 私は庭の石類は他人に頒けたことはないが、佐藤の役者のやうなのつぺりした顔立ちの、どうかすると鼻毛までつるつと剃らせるといふ、変につるんこの風貌がさびしくなり、私自身もこれは頒けたくないと思ひながらもつい言って了つた。
 これを持つて帰る勇気があるんならあげるがね、さうだな三貫五百目から四貫目近くあるんぢゃないかね、と、いふと、なあに四貫目くらゐならわけがないよと、佐藤は五輪塔を軽々と抱き上げて見せた。
 大丈夫持てるさ、電車まで持って行くくらゐなら訳のないこった、くれるのに決心ついたかあ、庭の物は君は大切にするからなあ、無理してあとで欲しがつても遅いよと彼はいひ、私はほかにもあるから頒けようといつた。
 これ一基あれば庭を作る目標が出来たやうなものだ、そして私と二人で縄と藁で荷作りをし、佐藤は意気揚々とそんなに重くないよと何度もいひ、表通りに少しひよろついて出て行つた。
 佐藤はちよつとした事にも、いち早く感動してすぐそれを言葉に現はしていふ男である。或る日本料理屋で飯を食つてゐる最中に、彼は私の箸づかひを見て言つた。
「君は加賀藩のサムラヒだなあ、サムラヒの子だなあ、箸を逆につかつてお膳の外側に箸の先を出してゐる。」
「お膳の中に箸を置けばお膳がよごれるからだ。」
「そこがサムラヒだといふんだよ、おれも以後それにならはう。」
 川崎町の脇本陣の次男坊であり、あんちゃんであり惣さんであり、義太夫、浄瑠璃何でもござれのしやれ者である彼は、なにかの弾みにサムラヒといふ言葉をよくつかった。祖先の敬まひが彼のふだんの言葉につい現はれるといふ見方は無理であらうか。
 詩人仲間の宴会があると人の悪い連中は佐藤をおだて上げ、君、何か一つ演つてくれんかといふと、いや、けふはだめだよ、藝人扱ひにしてくれるのは止してくれと手を振つて断つたが、次第に席が乱れて来てお酌の女達がしつこくせがむと、 突然、彼は自分の出場が避けられないことを覚ると、今までのあぐらを正座に直して、手を膝の上にきちんと置いて、でれん、でんでんと口拍子を取ると、
「あなた様にはよう分りやさんすのに、わたしが分らん顔をしてゐるのには、深いわけがあつての事……」
 と、私にわからぬ事に節をつけて、かたり出した。はじめは此方がひやひやするが、ふだん稽古を続けてゐるので一座がしんとして来る程名調子を帯びて来るのである。
「此の世すらも添はれぬのに、何であの世で添はれませう」
 といふ彼の即吟まで飛び出す程、つねに拍手の内に終るのである。一度たがをゆるめると、こんどは十代物語とか一口浄瑠璃とかを次々に演つて、ぐいぐい照れかくしに酒をあふり、これでも年季を入れたのだと賞讃に対して自家宣伝も怠らなかつた。
 彼は釣の名人であつた。海釣りである。死亡された夫人花枝さんは家で三味線を歌へ、女弟子は朝からつめかけ、佐藤はその三味線の稽古撥の音色を小耳にはさんで、二階で金にならない原稿を書いてゐた。
 花枝夫人の収入が佐藤惣之助に飯をあたヘてゐたのである。大正末期までそれが続き、花枝夫人は佐藤に収入が漸(やつ)とはいつて来た頃、縁があつたらわかい嫁さんでもお貰ひなさいと、やさしい性分の女らしく、さう遺言して亡くなられた。
 派手好みの彼が奥さんの弟子取りに小言をいはなかったのは、たくさんの川崎令嬢が集まり玄関の土間は、何時も眼もくらむ女の履物が勢揃ひをして、朝日に燦然とかがやゃいてゐたからである。
 一代の遊蕩児であり詩人であり小説家になれなかつた彼は、その燦然たる履物の上をつたつて、釣装束のゴム靴をはいて奥さんには黙つて海べに出かけて行った。彼の孤独もそこにあるし釣魚天国もそこにあつた。 萩原の妹周子さんと結婚した後の日の彼は、周子夫人をつれて釣に出かけた。さぞ年来の念願がかなうて愉しかつたであらうと思つた。

 棒きれ

わたしは棒きれといふより他に名のないものだ
なんの飾りも悪意もなく
ただ自然から力をもらつて
野山からやって来た生木の棒きれだ
(後略)


 四月

李は青と白との瞬間の花である
(後略)


 鋳掛屋

街道の伊達な居住者
日本の多くの鋳掛屋の群れは
都会から田舎を旅する野外の機械師である

四季の町から村々へ
日の帽子と古風な絆纏をつけ
道具箱と鍵の束を鳴らしながらさまよひ
どこの欅の木の下でも
又寂しい寺の門前でも
路上は即時に彼等の野外工場になってしまふ
(後略)


 佐藤の才華は行くところ絢爛とめどもなかつた。日本のいままでの詩人であれほど豊富な形容をたくはへ、つねに鮮度を失はず、惜気もなくうたひまくつた詩人は、先づ佐藤の外にはない。たとヘばその二十二冊の表題は悉く新鮮であり今から見ても、よくつけた表題だと肯づかれる。
『狂へる歌』『満月の川』『深紅の人』『荒野の娘』『季節の馬車』『華やかな散歩』とかは、その時代かぎりで古びる詩集の名前ではない、『颶風の眼』『情艶詩集』『トランシット』『西蔵美人』その他、一篇の小詩にいたるまで題意からすでに、ことばを選ぶことに才華の余裕を示してみた。
 佐藤は小説といふものが、何とかして書きたかつたのだ。これは佐藤の終生のねがひであった。
 この事を念ふたびに私はこの友への暗然たる思ひがあつた。あれほど沢山の経験を持ち言葉を持ち、異常な感覚の醇度を持つた彼は、小説といふものを綺麗に一篇ものこさずに死んだのは、よくよくの運がなかつたやうに思はれる。 若し彼がうまく小説といふ風のごとき奴に跨つて、書き捲つてゐたら必ず私の二倍くらゐの仕事をして、私の二倍くらゐの書物を積み上げてゐたことであらう。
 私は彼と会つてゐながら君が小説を書いたらコワイ、小説を書いたらどうだといふと、小説は十篇くらゐもう書いて佐藤春夫の所にやつてあるといつた。
 君は春夫に小説を見せて僕に見せんのかといふと、君とは親しすぎて批評も聞きにくいし君もいいとか悪いとかも瞭乎(はつきり)と言へないだらうと思つたから、春夫の所にやつて置いたと言つた。そんなのならもう読まないよと私は仏頂面であった。 或る日春夫の所に行き、惣之助の小説は読んだかどうかと聞くと、春夫といふ男は事文学に関すると、きふに大学教授の、しかづめらしい名調子で言つた。
 惣之助の小説は叙景叙事は巧みであるが、人間を書くには多くの手落があるんだ、二三の雑誌の人にも見てもらつたが悉くその点で批評は一致してゐると言つた。
 春夫の机の脇の棚の上に、大判の原稿の綴りが十篇つまれてゐて、それが惣之助の小説であるらしかつた。
 私はそれを見ないで戻ったが、何ケ月後かに惣之助は小説二篇を携へて来て、何処かに出してくれる雑誌があつたら出してくれといひ、私は仏頂面をゆるめてその一篇を「電気と文藝」といふ当時の文藝欄のある雑誌にのせて貰ひ、べつの一篇を「中学世界」の文藝欄にのせて貰つた。
 惣之助はそれらの纏まつた原稿料といふものを受け取るとたいへん喜んでくれた。だから私はつい春夫に頼んで見たつてだめだよ、あの男は子供の時分から大家仕立で育ってゐるから、それが邪魔になつて君の原稿をかついで廻ることが出来ないんだといつた。
 さういふ文学渡世の話になると、つるつるした佐藤惣之助の顔からきふに、さびしい風が吹いてくるやうに思はれた。間もなく佐藤の幾つかの短篇を見せてもらつたが、形容沢山でかんじんの人間といふものが坐つたきりで、動かない描写が続いてゐて、 私はしつかり人間を剥き出すやうに書く事を注意していつた。
 しかし彼の叙景叙事の文脈は素晴らしく闊達なものだつた。後年、川端康成が佐藤の散文について敬服したむねを、何かの雑誌に書いてゐたが、さういふ見抜き居合の巧みな川端康成が、佐藤の才華を見逃がさなかつたことでも、 見抜きの名人である川端の本性を私はいまも故友の知己だと感じてゐる。
 だが、その小説はその二篇を発表しただけで、あとの仕事は佐藤も何も言はないし、私も聞かないで何年かが過ぎ去り、佐藤の小説は風のごとく消え失せたのである。彼に根気がなかつたことも原因だが、 ねばり強さもなく自ら信じることも怠つたからである。それ以後小説のことは一さい口にしなかつた。私も無理に彼の才華をおだてるのが控へられた。
 彼は間もなく「赤城の子守唄」とか、「何々の何」とかいふ艶歌情志を図に乗つてうたひまくった。才華のくずれが美事にここでは当つて彼は西條八十と対照される艶歌師佐藤惣之助に早変りの姿を現はしたのである。 レコード会社は彼の家に詰めかけ、彼は二階の梯子段から片足踏み下げて呶鳴つた。
「三十分待つてくれたまへ、三十分あれば書ける。」
 彼は三聯十八行くらゐの艶歌を書いて、二階からほら行くぞと原稿紙のままで投げ出した。これが逆に小説で流行児になつてゐたら、片つ端から一週間位で書きあげてゐたことであらうと思つた。
 彼の艶歌は流行り収入は殖え、羽振りは良く小説の事はもうけろりとわすれて、才華のあるだけを短い時間のあひだにひねり出し、それの潰れるのを彼は悔いなかつた。バーで一緒に飲んでゐると彼の艶歌のレコードがかけられ、 彼はキナグサイ顔をして本人の前でああうたはれると、厚顔いささか恥ぢるねとはいふものの、才華先生は内々それほど恥ぢてはゐなかつた。
 却々うまいぢやないかと私は艶歌師佐藤を悲しげに眺め、内々、かうなつてはもはや、すくへない、佐藤の才華も減びるの時至ったかと私は暗然としてゐた。萩原朔太郎に私は佐藤もいい気になつてゐるが、あれでいいのかいと言ふと、 妹婿である佐藤に収入が殖えたといふ点で、萩原は暢気に、金が取れればいいぢやないか、佐藤のよい仕事は一段落してゐるんだからこんどは金になる原稿を書くだらうと、少しも気にしてゐないふうであつた。
 萩原や佐藤も原稿と金といふ問題では、何時もそれらに縁がなかつたから、佐藤の艶歌については些かも萩原は忠告がましいことは言はなかつた。却って佐藤が金をとることを奨励してゐるふうがあつた位だ。
 戦争がはじまり昨日の艶歌師は、たちまち今日の軍歌詩人に早変りをし、あひかはらず二階から二枚相当の原稿紙に軍歌を作成、レコード会社に手交してゐた。
 このにがにがしい早変りの役者は、懐中があたたまると酒に勢ひを馳って、生涯にない派手な暮しをしてゐたのである。一種のやけくそのやうな暴れ方と、金に眼を奪はれた軍歌や艶歌の作成は、やうやく才華燦然たる佐藤惣之助を少しづつ忘れさせて行ったのである。


 龍

買文幾年
詩人四十なり いかにあるべき
世を蹶つて起ち 闘ひつ
四十にして初めて何ものかを感ず
老怪なる電力の如きものを感ず
この木枯しの月明に
所詮老いたる妻と添寝して朽つべきか
今背ペンは氷り 紙は雪を展ぐ
文字は雑草の如く生ひ茂り
遂に行き行きてあやめもわかず
(後略)

 終戦後、私はたのまれて山村暮鳥や萩原朔太郎の詩の選詩集出版について、多くの出版書店から相談をうけたが、佐藤惣之助の詩の選集に就ては一冊もたのまれなかつたし、それを出版する本屋は一軒もなかつた。
 私は不思議さうに出版書店の数々の書物の間に、この才華けんらんの友の名のないのを見て、つひに彼の艶歌と軍歌の反古にひとしい仕事が、彼の死後の著作出版に障碍を来してゐること、その名を軽んじてゐることを残念ながら頭に置いて、せんなきことに算へた。

 私の母は目高を食べて大きくなつた

 この一行の詩もいまは誰も書ける人はゐない程、田舎の風景が乳のやうにながれ、彼を思ふとこの詩が向うからやつて来るのである。
 昭和十七年五月十二日、萩原朔太郎が死んでから四日目の、五月十五日に佐藤は或る外出先の女友達の家で、脳溢血の発作の後に亡くなつた。
 十三日の午後に佐藤は私の家に現はれ、萩原の死をつたへてくれた。私は萩原家に夕刻に行ったが、佐藤は多くの女の弔問者の間をかけ廻り、落着かない昂奮状態のまま酒ばかりあふつてゐた。
 生きのこりの潤達さと、大勢が集まつてゐる中でも自分が死友ともつとも親しかつた栄誉とから、彼のからりとした性分が手伝つて面白さうな笑ひのタネを彼方此方に撒いて歩いて、みんなが笑ふと一層面白くなつてからさわぎする。 佐藤特有のここでも才華をふるまふ役者であつた。彼は酔つてしどろになつて言つた、
 おれが死んだら彼処にゐるあの人、つまり室生犀星に一さい委してあるんだ、原稿の事、全集出版の事、家の事、何でも彼でも犀星がやってくれる事になつてゐる、だからおれはころりと参つてもさばさばして死ねるといふもんだ、
 彼は四五人先の座から、私のそばに来て坐り込んで更めてまた言つた。
 全集がだめなら選集でも出してくれ、みんな君に委せる、表紙も君の字で書いて装幀も君の好きなやうにやつてくれといひ、君はすでに酒は止めてゐるが、酒友再びかへらずといふ奴だとか言ひ、多くの客の前で私は極り悪げに畏こまつてゐたが、 全集なんてお互に出してくれる本屋があるかないかも、甚だ危ないね、その点あまり信拠しないでくれと、私は私自身の書物さへあまり売れてゐないのに、佐藤の全集なぞ誰が出版してくれるだらうと、変な事を言ひ出してくれては困ると、低い声で叱つていふと、
 わかつてゐるよ、これは親類中にちよっと触れて置くにすぎないんだ、だが、一冊くらゐは出るだらうから出してくれといひ、一冊くらゐなら出して貰ふよ、東京中を駆けずり廻つても出して貰ふよ、
と、私はこの酔つぱらひを安心させて体裁をつくろうて言つた。そして朔太郎死歿四日目にかれは、突然予言したやうに死んだのである。四日間にあふり続けた酒と、あたり構はずに馳けずり廻った重畳した疲労の怒涛が、たつた五十一歳の彼をねぢ伏せてしまつた。
 あとには怒涛が白煙を上げて立ち、私は二人の親友を同時に喪つて気のついたことは、先づ酒を止めてゐて良かつた事、何でも彼でも生きのびる事、二人の親友の死のもろさを有難く貰つて、みづからの節度とすることをまなんだ。 そして少しの悲しみもなく寧ろ冷かに私の為すべき事を思ひ描いた。戯談が本物になつた全集のことが私に憑かれた義務を強ひ、友情といふものがすがたを変へて現はれる時を自ら、選ばなければならなかつたのだ。
 私自身すら一篇の小説を書いてそれを売り、これで人生がけりになつたつて構ふものかといふ、何時ものふてぶてしい書きなぐりの暮しをしてゐるので、私や佐藤のために全集出版なぞといふ望みは、 それを抱く方が時世を知らない人間と言って良かつた位だ、自分自身が小説家としてあと何十年かをやって行ける自信なぞ、まるでなかつた。
 一篇書いてこれでお終ひ、また一篇のたくつてこんどこそどうやらお終ひ、お終ひ続けで来てゐて、最後のお終ひがどうやらこのごろらしいと私はむねを叩いて悲観してゐた。 そんな時に佐藤の全集のことを考へると面目丸潰れの自分を見るやうな気がして、多くの日はあんたんたるものだつた。
 当時、小石川に桜井書店といふ文学書の出版書店があつて、私の随筆集を出してくれてゐた。店主桜井均に佐藤惣之助の選集出版の懇請の手紙を書き、私はその返事に意外に快よく承知したといふ好意をうけとり、嬉しかつた。
 早速、周子夫人と桜井均と三人で相談をして、三巻続刊することになり、故友の信頼をやつと果すことが出来たのである。昭和十八年(佐藤死去の翌年)の三月に詩集上、下二巻を発行し、随筆集一巻を加へ、 私は装幀を自分で作り私の拙い字を書いて、世に公けにすることが出来たが、桜井書店が快諾してくれなかつたら、恐らく佐藤惣之助全集(選集)三巻はつひに今日に至つても、出版されてゐなかつたかも知れぬ。
 酔つて君に委せると当にもならぬ私を心の当にしてゐた佐藤の放言が、死といふちからを私に加へて迫つてゐたのかも知れぬ、大抵の場合役に立たない私は、惣之助の場合だけは当になつた訳だつた。佐藤は墓下にからからと笑つて日く、 いや持つべきものは友達だよ、と言ひ、何処まで好人物だか判らぬ男である。


 必死の男

わづか三尺の窓内にありて
このあめつちをつかまんと
必死の男あるなり

外にはよその子等あそび
をみなは夕前にいそがしく
世のさまのふしぎもなし

されど何故に肉を穿ち
骨を削りつくして
紙にインキをちりばめんとするや

をみなは貯金をすすめ
彼は又その魂を千切りつつ
文字を裂きて売らんとすなり
(中略)

ああ あめつち遂に何者ぞ
今の世に千年の詩文あるべしや
秋は方(まさ)に寒からんとす

 佐藤はこどもがほしかつたらしい、前の夫人花枝さん(死別)にもこどもがなかつた。あとの夫人周子さんにもこどもが出来なかつた。佐藤は何度も病院に通ひ、どうして子供が出来ないかを診て貰つたが、肉体的には異常はない、 そのため試験管だか他の方法であつたか忘れたが、佐藤は自分の精虫だか精液だかわすれたが、さういふものまで病院で試験してもらつたが異常がなかつたと、或日彼は私にそれを真面目くさつた顔付で話した。
 周子夫人もつひにこどもさんがないまま、佐藤と死別された。私はその折、ふしぎな家庭事情を発見した。
 佐藤に妹さんがあり他家に縁づいてゐたが、そのこどもさんが佐藤の遺言によって惣之助家を相続することになつてゐて、周子夫人へは雪ケ谷の自宅を譲渡する以外に、何も与へないことになつてゐた。桜井書店からの全集の印税も、 法律上では周子夫人には支払はれないことになり、他の著作物の印税の悉くは入籍してあつたこどもさんが受取る名儀になつてゐた。
 私はあれほど愛してゐたわかい周子さんに、殆ど遺産の半分も渡らぬ手筈の遺言を佐藤がしてゐたのかと、人間の愛情といふもののあさはかさを感じた。舐めるやうに愛されてゐてふたを開ければ、 世のつね人の商家のおやぢの遺言の如きものを作成してあつたといふことは、佐藤らしからぬ印象であり、払拭出来ない不愉快なものであつた。
 私はそのため桜井書店に印税の半額は周子夫人にあげてくれるやう依頼して置いたが、それはどうなつたか、私に判りやうもないし、聞くのも憂鬱だつたのでそのままになつてゐた。
 わが愛する詩人佐藤惣之助は寝るときだけ、べちやくちゃと夫人を愛してゐて、いざ遺言作成といふことを何時の間にかしてゐて、しかも、それには近頃入嫁したかどで新夫人には何にも貰へぬことにしてあったのかと、故友の心のあさはかさが、 再び私の友情にびりびりひびいた。おつちよこちよいめ、さういふところにおつちよこちよいを良く拭きとつてゐたのかと、私はくやしく悲しい眼でその後始末を小耳にはさんでゐた。
 私なら遺言なんて冗(くだ)らない物は書かずに、ムスコとムスメが、お互に掻つさらふために詰めよるのを、いまから愉しげに見て置きたかつた。一晩でも奥さんといふ名で抱いたひとを、遺言で区別することは文学者のすることではない、しかも周子夫人は五年ももつと永く一緒にゐられたのだ。
 私が萩原朗太郎の稿で書いた、例のハンドバツグでも買はうかといつて、萩原から叱られたほどの人が萩原が死んだあとでは、かういふ目にあはなければならなかつたのだ、そして最後に生きのこつた私がぶつぶつ小言をこの原稿の中に書きのこし、 皆さんにこれはどういふ訳のものでせうか、人間はかうあっていいものでせうかと愬へたいのだが、男は寝るときだけ女を愛してゐるのでせうか、この恐ろしいしかも嘘でない真実であるにしても、 この一つのことがらを叩きのめしてかからなければ、世界のごたごたを修繕することが出来ないのだ、寝たあとの後始末をしろ、ゆめとか、けむりに似たものであるための、それであるための後始末をしろと私は私自身にも、みんなの人に言ひたかつたのだ。
 若い周子夫人は佐藤家を去り、いまは萩原朔太郎の令妹のもとで暮してゐられる、詩人惣之助夫人であつたといふことすら、ゆめのやうなはなしであり、その著作の印税は勿論はいる訳のものではない、
 私は本伝記を書きながらつひに彼女と惣之助との睦まじい雪ケ谷の家の生活を思ひ、それぞれの不幸を思ふ者である。死んだ人間は何も彼もかたがついてゐるが、かたのつかないのは、生きてゐる間に思はれてゐたのが真実であるにはあつたものの、その本性がつかめない口惜しさにあることであつた。
 だが、熱情と純度の濃やかな佐藤があれほどの俗物風な事務を平然と行うてゐたかに、いまだに疑ひを私は持つてゐる。だが、しんの確かりしてゐた彼は後事を托するに足りないわかい夫人を見さだめてゐたのであらうか、人の心は測り難く、 また人間の情事のふかさをさぐる事は出来ない、私の拙文が親愛の度が極まつて故友を傷つけたことになるなら、三拝して彼の墓下に礼を行ひたいのである。

『婦人公論』(昭和33年5月号)初出、『室生犀星全集』別巻二(昭和43年1月所載。)


この文章について

【福水武彦】
『図書新聞』(昭和34年1月10日号)

「この一篇に室生さんの人間くささが、友情と信義とを傷つけることなく現れていただけに。・・・人間くささ、これが結局、この一巻の点鬼簿をつづる室生さんの持味である。」

【佐藤沙羅夫】
『婦人公論』(昭和34年7月号)

「詩史や文学史などで紹介されている惣之助の詩業の認識があまりにずさんであり、したがって、その評価が妥当でない」
「戦時中『怒れる神」など四冊の詩集を刊行しているが、これは軍部から強制されて作ったものなので、詩業に入れるべきかどうかは疑問」

【中野重治】
新潮社版『室生犀星全集』第十巻(昭39年)後記

「「伝記」に犀星が佐藤惣之助を書いていたことも記憶しておかねばならない。親しかったこの友人について、犀星は気安く、また率直に書いた。そしてそれが佐藤の後継者という個人たちの怒りを買い、 「伝記」を一冊にするとき犀星は〈佐藤惣之助〉の章を削らねばならなかった。時が解決するであろう。しかし事実は、「伝記」が怠惰な回想でなくて勉強精進に近いあるものだったことを語っている。」

【永瀬清子】
『婦人公論』「回想の男友達8」(昭和49年8月号)

「佐藤さんの死なれた後、同人たちは室生さんを唯一の頼り手と考え、あとで桜井書店から出した『惣之助おほえ帖』や全集について種々相談した。けれとも熱情的な佐藤さんびいきの同人たちと室生さんとの間にも大きなズレがあることが判明した。 最後に室生さんが「わが愛する詩人の肖像」で佐藤さんの項を書かれるに至って俄然それは表面化した。同人の中でも純情な竹中久七さんらは、室生さんの描く惣師像が愚劣そのものであり、「何が<愛する>かと怒り、 惣師が心から兄事していたのに室生さんはまるで馬鹿にしていたのだと名誉教損の訴えまでに発展した。」
「一番困ったのは純情のためとはいえ、竹中さんらがあまり猛烈に噛みついたため、佐藤さんの本はどこの出版社にも編集者にもボイコット状態になったことだ。アンソロジーの一隔にのるほか佐藤さんの本当の作品は理れてしまった。」

【中野重治】
新潮社版『室生犀星全集』別巻二(昭43年)後記

「昭和三十三年(1958)一月号の『婦人公論』から十二回連載され、翌三十四年の第十三同毎日出版文化賞をおくられた『我が愛する詩人の伝記』は佐藤惣之助の項を削除しなければならなかつた。それは、 それを収めることに対する遺族の反対にもとづいていた。しかしここまで来て、それを全集に収めることが遺族から承認されたからである。「生きたきものを」のなかで犀星は妻とみ子のことを書いている。 特にその「十二 落ちてゆくところ」その他はかつて書かれなかつた類の問題にふれている。そういう妻とも、良友でも悪友でもあり、佐藤の世話なしには手のつけようもなかつたかも知れぬ萩原朔太郎の葬式を取りしきつて四日後には死ななければならなかった詩人惣之助とも、 犀星はおくれて着いたものとして談笑するわけであろう。」


Back