(2004.01.05up / 2019.12.06update)
Back

さかの そうし【坂野草史】『プルシヤ頌』1935


プルシヤ頌   カバー
左:本冊   右:カバー

詩集 『プルシヤ頌』

坂野草史 第一詩集

昭和10年5月10日 青樹社(京都)刊行

132p 22.1×15.5cm  並製カバー \1.00

装釘:水野勝美 150部限定

扉


プルシヤ頌 目次

表紙 カバー  題詞 中扉 中扉

序文(佐藤一英) 1  2  3

奥付

第一部

文明 1  2  3  4 
ヘブライの夢  1  2
フエニキヤの船  1 
ギリシヤ拾遺  1  2
プルシヤ頌  1  2  3
漂流記 1  2
記録  1  2  3  4

第二部

譬喩 1  2
古歌 1
背徳の頌 1  2
冬の日 1  2  3
夜のOperation 1  2
流心の唄 1
悲歌 1  2
湖畔に立ちて  1 2  3

第三部

流鼠の書 1  2
青い時間 1
午前零時 1
亜熱帯 1
白日 1
海 1
秋 1
達斯曼の朝 1
To Blank 1
Main Street 1
Sentiment 1
Fantasie 1
飢餓 1
賑わしき寂寞 1
寄港地  1  2

詩集覚書 1  2  3  4  5  6  7  8  9

作品目録 1  2  3

 奥付

挨拶状

刊行挨拶状


  東洋浪漫の仏像 坂野草史            吉田暁一郎

「当山三十世坂野春浪儀、四大不調の処、昭和二十四年八月十三日、四十一歳を以つて遷化仕候に付、生前辱知各位の御這交を拝謝し、併而謹告仕候。追而表葬の儀は、来る八月二十日十三時に執行仕候。
住蓮社行誉上人草史阿正楽春浪大和尚。
名古屋市東区松山町 寿林寺、前任坂野貫瑞法類総代、檀信徒総代」

 坂野草史が急病で逝去したのは昭和二十四年八月である。坂野の存在は名古屋詩壇のドックボンであつた。坂野はお寺の住職で中区白川町に住んでいたが、戦争疎開で松山町のへちま屋敷へ十八年頃に移つた。

 坂野は五尺程度の小柄な全身知恵のカタマリみたいな鋭いセンスの男で、赤ん坊の頃、大雪の朝、寿林寺の表門に捨られた親無し子であつた。雪の中で赤ん坊が捨られて泣いていたので当山住職の貫瑞師が拾いあげて育て大正大学までやり、あととりにさせた。

 青年期の坂野は進歩的な僧侶としてマルクス主義に信奉したこともあるが、帰一するところは東洋の心であつた。彼の文学もそこから出発した。はじめは、当時名古屋にいた杉本駿彦らと一緒に雑誌を出したり、百田宗治の「椎の木」の同人であったりして、保守的な高木斐瑳雄、中山伸らを先輩にもちながら一線を画し、更に鈴木惣之助らのアナーキーイズムの運動にも参加できず、清新な気風を、むしろ春山行夫や山中散生に近寄つた歩みとして築く仕事に没頭したようである。

 坂野草史(本名春浪)は極めて現実的な行動主義者でしかもロマンチストであり、宗教的「大乗精神」を唱え、自ら実践しており、誰の眼にも律義な理論家で規帳面で愛情深い男にみえた。事実、坂野は詩精神を体得した名古屋詩壇での、当時の第一人者だと賞讃してはばからぬ人間性の高さがどこかにあつたと思う。現在生き残りの名古屋の五十代六十代の詩人たちで坂野の悪口をいう者は独りもおらぬ。

 坂野は立派な人格者だつたと口を揃えていうその坂野が一番信頼し崇拝していたキリスト教師の金子白夢先生が齢老いてから行方が知れず、戦争たけなわの十九年頃には気が狂わんばかりに金子白夢先生の名をよび続けていたことを私はしつている。せめてこれが反戦論者坂野草史の内なる叫びだつた。

 坂野草史を私が知つたのは、東京からきたばかりの私のところへ原稿もつて見てくれと長谷雄京二がやってきて、そこで名古屋の詩人らの動向を長谷雄からきかされ、では逢おう、ということで白川町の寿林寺を訪れた。子供が二人あった。乳呑み子を抱えながら奥さんはお寺の女中の如く働いていて大きな立派な寺院であつた。そのとき詩集「プルシヤ頌」(十三年発刊)を一冊貰つた。そして私は拙著「歴史」を贈つた。

 彼の詩集は言葉のきれいな磨きのかかつたハイカラな洗練された詩集であつた。坂野を知つてから詩は言葉だ、言葉に光りと精神がなくばダメだと気付いた私である。

 その後いろいろ交際を密にしていると、佐藤一英の聯がとび出してきて、長谷雄京二が聯をやり、坂野も日本文学の帰一するところは四行の聯詩だ、古典精神だといいはじめた。私も聯をこつそりやつてみた。却々むずかしい言葉に制約をうけて無限に拡がらせていく方法で、なるほど古典研究にはいいなアと思つた。

 坂野を通じていろいろ教えられたが、東洋論をさかんにふきこんでくるのでしばらく足を止めてしまつた。

 坂野の仲間に東海中学の松波基(音楽家)現東海高校教頭=や、画家の田島康がいて毎月一回宛集つて、文化を語る会をお寺の茶室で開いた。当時岡倉天心の茶の本を中心に論議したように思う。私はこの会もしばらく休んだ。

 或日、坂野が私に「どうだ嫁さん貰わんか。文学も音楽も分る女の子だが…」といつてきた。よくきいてみると森山操子つて、ある同人雑誌に詩をかいていて、二三回顔をあわせたことのある小柄な、坂野の小柄と好一対の小柄な娘であった。

 坂野が小柄で才智ばしつた男だつたので、森山操子も頭がいいかもしれんぞと思つて研究することにして三カ月たつてから結婚を承知した。 坂野草史が生れてはじめて仲人をしたというのは私達の結婚である。犬山市針綱神社で神前結婚をした。今では中学三年生、中学二年生、六年生と三人の女の子と四年生の男の子が私にはある。つまり四人の父親になっているが、月下氷人は東洋浪漫の理論家、坂野草史である。

 私が小説を書きはじめたら、坂野は新婚早々の家へ火鉢を三個(小型)記念にやるといつて持つてきた。小説かくと家庭が崩れるから反対だともいつた。詩なら会社へでもどこへでも務めながら書けるからいいといつた。だが、私は小説をせつせと書いた。そして平野信太郎、鈴木惣之助、山中英俊、榊原などと「名古屋文学」の旗を挙げた。終戦三年目であつた。

 名古屋の戦後の文学は私たちの名古屋文学の大同団結の旗挙げから出発した。坂野は敗戦で生活的に寺院の転換期で目廻苦しい日常を送つていたが、それでも気よく参加して編集会や研究会にきて知性の高さを示した。「名古屋文学」に詩を二篇発表したが、本心は聯詩に在つたと思う。

 百聯といい、百篇の聯詩をかきたいと叫び、金子白夢、杉本駿彦、佐藤一英、小林橘川、亀山巌という先輩友人の名は坂野の口から絶えず出ていた。確かに先輩の高木や中山や鈴木を大切にしていたし、友人の私や長谷雄や杉本をかばつていたし、佐藤や金子を信じて尊敬をもつていたと思う。

 人間的な愛情の豊かな人柄でもあつたので、画家の田島康などは坂野に協力を借まなかつたようだ。寺院の方式も変えて本堂を板の間にして、テーブルと腰掛けで時代に即応した仕掛けで仏像にはドンスの幕を引き、本堂はいわゆる会場に仕組まれたりして、生活の改善と行動主義者らしい実践を行つた。坂野の聯詩は七十数篇まであって百篇に手が届かず逝去した。

 私は、彼の死後、聯詩を「与論時代」という雑誌に西尾紅二の計らいで数十篇発表した。未発表も十数篇は、私の手許にある。すべて「神の教え、仏の道」とさけんだ坂野草史の面目如躍たるものが、聯詩にはある。七十余篇の聯詩こそ彼の魂の歴史でもある。

 坂野草史は浄土宗尾張連盟の事務局長もやっていたので、宗教関係でも椎尾博士に愛されて青年宗教家としても東海地方では頭角をあらわしていたようだつた。
 坂野の詩壇的位置は、詩人より人間を主張し社会を主張し実践をしたので、中堅としていい作品をかいたということでなく、人間革命に大きな新風を東海詩壇に吹込んだ逸材だつたともいえよう。

 坂野草史の片身として遣品一ツ。私達の結婚記念に贈つてくれた小型火鉢、三個の中、二ツは戦災でなくなり、一個記念に疎開しておいたのが現在私の手もとにある。いまこの原稿はその火鉢で手を温めながら書いたものである。ああ、住蓮社行誉上人草史阿正楽春浪大和尚。(昭和三十三年三月詩誌「詩文学」)


Back