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佐藤一英 書簡集  一戸謙三宛 (戦後編 1946-1974)


戦後の書簡には、佐藤一英から一戸謙三へ、何度も「会ひたい」と書いてゐる場面が目立ちます。 戦争詩を一切書かず、己を持した一戸謙三の存在が、佐藤一英にとって心強い「盟友」へと変化したことが窺はれます。
ただ一方で、兄事した福士幸次郎の弟子であった謙三に対し、なにがなし風上に立たんとするやうな文面となることもあったやうで、
つまり再三にわたって要請したにも拘らず、両者の対面が一度きり(昭和14年1月7日)で熄んでしまった理由を探すならば、 詩歴も年齢も同じなのに、会へば呑まれてしまひさうな気迫と、元中央詩人らしい友人関係を持ってゐる佐藤一英に対して、一戸謙三が気後れし、常におよび腰で臨んでゐた、 そんな抒情詩人らしい心理状態を、佐藤一英が書き送った文面だけから読み取ることもできるやうに思ひます。
ともあれ無理筋な詩学に入れ込んでも一向にへこたれない、どころか新しい文化論に挑戦する一英さんのバイタリティが、晩年まで衰へることがないのがスゴイ。
実を結ばぬ定型詩運動の広報や自家宣伝。手紙に率直に表れた、佐藤一英が演出する外連味たっぷりの“詩人らしさ”もまた、憎むことができません。

(2枚のみ確認された一戸謙三からの葉書は「佐藤一英展」を主催した一宮博物館より御提示いただきました。)



21年7月1日
その後お変りありませんか。私は終戦後、ずっと田舎に引きこもってゐますが、こんなところにも訊ねる人はあり、先日は北支から帰った平田■■君が来てくれました。たまたま御■が訪ねてくれるのや、時々当地の聯詩人たちと合作の會をやるくらゐが慰めです。 終戦後書いた聯詩発展体くろしほぶり、三十篇を収めた『乏しき木片』(萬里閣版)を出版することにし、つづいて『聯の詩学』を出すといふので、いま、これを手入れしたり書き足したりしてゐます。こんどこそは聯詩運動に花咲き実のる時を来させたいと思ひます。どうか、そのつもりで御協力下さい。 いま各地の聯詩人には各地でトウシャ版ずり、それもできなければ回覧誌で聯詩誌を出すやうにすすめてゐます。先日ナゴヤの文化大学講座へいって現代詩史論を講じ、聯の歴史観、詩観を述べてきました。六月三十日


21年7月14日
奥さんも御子さんも近くにゐらっしゃらなくては、どんなに不自由だらうとお察しします。私はその不自由にたえられなくて、田舎にゐるやうなわけで、そのお話をきくと自らの不甲斐なさを感じます。お言葉のごとくすべてがやり直しです。 振出しから。二十数年前に出した処女詩集『晴天』を再刻して出すことにしました。 四半世紀といふと長いやうですが、われわれも少し長生すれば、もうこのくらゐ仕事ができるわけですから、ゆっくり出直し、ゆっくり歩み始めませうよ。もう二三日したら、ナゴヤの聯詩人とも久々で会談するつもりです。


23年1月19日
おハガキありがたう。どうか藝術運動の活溌な展開を期待します。『北』はまだ来ません。一部お見せ下さい。小生は新春から「法隆寺物語」をはじめました。■■文学として、風変りなものができさうです。 聯詩運動を始めたとき、貴下から十年すぎたらいっしょに明治神宮に参拝しようとのお手紙をいただきましたが、戦争はそれを実現させませんでした。連思想を追求してゆくことは私生涯の■業です。いつか貴下と京都で會って話しあひたいものです。


23年4月6日
久々のお便りなつかしくうれしく拝見しました。こちらは梅すぎてこぶし、さんしょ、れんぎょう、じんちゃうげなど花時の長いものがいまさかり。すでに木曽川の桜花も咲き始めたと言っています。毎日奇怪な文学「法隆寺物語」に没頭してゐて、庭の花を眺めるきりです。この散文にかかってもう半年以上すぎましたが、200枚そこそこのものがまだ完成しません。こんな事は初めてです。これを突き抜けたら新しい世界が少しは見えてくるかと思って、辛抱強くやってゐるわけです。『浮彫』の発刊をよろこびます。地方主義運動等とは別に地方の文化が作られる時が来てゐるやうな気がしてゐます。福士さんの蒔いた種が自然に伸びる時が来たのです。高木(※恭造)、小野(※久三)、棟方(※寅雄)その他の諸氏にもよろしくお伝へ下さい。名古やなどとちがってそちらはまとまりが良く、美しい作品が期待されます。


23年5月6日
だんだん雑誌が美しくなるのを拝見するのは楽しみです。小野さんにお話し下さい。本荘可宗さんが中部日本新聞の編集委員になって一年ほど前から来て居られます。萩原へも、もう二三回やってこられました。小野さんの話をしたらなつかしがって居られました。恭造さんが弘前へうつられたのは大いに力強いですね。私は新しい秩序を国民が考へなければならぬ時にあたって、秩序の源として聯詩学を考へる事は意義深いと思ひます。社会教育と組み合はせてそちらでも新しく聯詩運動を始めて下さるやう期待します。「法隆寺物語」やっと書き上げました。これから続編を書くつもりです。


23年9月6日
親かしい御詩集(※『詩抄・第一輯 追憶帖』)を拝見して、その後、忙しさにまぎれ失礼してゐました。御詩集はこちらの聯詩人後藤美雄君が持っていって拝見してゐます。ああした詩集を見ると、全く手の届かなくなった青春をしみじみ感じさせられます。すなほな、ああした抒情が今の青年にないやうに思はれ、サッパリとした感じです。あの詩集発行の形式(※雪の社による叢書計画)も面白いと思ひました。ぜひ続けて下さい。 名古屋で詩画の個展をやることになってゐるので、近頃毎日、画ばかり描いてゐます。来月あたり上京します。東京で会ひたいものですね。


26年9月7日
人々の御詩作、なつかしくうれしく拝見。うまごやしの花は傑作ですね。さすがは純粋に詩を護る、てだれの作と感を深うしました。巻頭にかざって新参者のお手本にしたいと思ってゐます。十二行詩もお書き下さい。一、二年の後に二、三十人の十二行詩集を出したいと思ってゐます。二十世紀日本詩の典型的アンソロジイとなるでせう。名大教授の上田年夫君は三ケ年間の論集「定型詩論」をぼつぼつ発表しはじめました。
日本の詩もくずれるだけくずれて、中心をほしがりだしました。東葉の『新世紀』をご参考までにお送りいたします。九月六日


27年1月23日
正月初めから風邪気味で、とぢこもって、サルダヒコ物語といったものを構想してゐます。ここではあまり歴史にとらはれないで、空想をほしいままにしてみようと思ってゐます。政治家は百年の計をいふが、詩人は千年の計を考へてゐると言へませうか。ジァーナリストはここでは問題となりません。政治家にもなれないジァーナリストが現代、詩人の殆どです。往古の預言者こそ、我々の友です。スバラシイ夢の中に生きて下さい。桜の咲く頃には必ずゆきます。
中部聯詩社では四月か五月に「聯」を復刊することになりました。田島政義君が四月からヤヤ暇になるので。


27年8月9日
久々で貴兄の詩を読み(至上律)なつかしく、先日、サイトウ君(※斎藤光二郎)とCBC放送、朗読のときにもそれにふれました。昨日、田島君が至上律通■を持ってきて見せてくれたので「幸次郎のハガキ」も拝見しました。あの一文はむつかしく、誤解をお[ろ]し易いから、是非、福士さんの音数律論を解説するやうなものを「至上律」本誌に書いてみませんか。この事ハ、更科君(※更科源蔵)へも今日便りしました。分離か、発展かハ、批評家にまかすべきもの。私も貴兄のそれが出た後で、意見をのべたいと思ってゐます。二十年近くまへ、福士さんと幾日もつづけて夜更けまで論争した事がつい昨日の事
のやうに生々しく、よみがへってきます。こちらでも研究会はつねにやってゐますが、あんな論争はありません。なつかしいかぎりです。別便で『新詩潮』を二部お送りします。「韻について」は「詩学ノート」の最近のところから抜いたものです。ごらん下さい。旧友によろしく。八月八日


28年9月14日
短詩研究の十月号に「日本詩歌の原型と短歌の方向」と題した一文を書きました。貴君の「うまごやしの花」をかかげておきました。是非御覧下さい。こちらで高木君や貴君らの手で、聯リーフが発刊されることを期待します。十月号のは、一月号のエッセイの補追といった意味のものです。今長詩にかかってゐます。


28年10月14日
いま貴兄の五編の聯を取り出してまた読み返してゐます。いいエスプリと美しい抒情。句の屈折の面白さ。研究会で仲間のものにも発表するつもりです。こちらの中日ウィクリーに連載して貰ひませう。樫の葉は当分ナゴヤの者だけでやっていくことになりました。近々、秋の号が出ます。詩の座はおくってきましたが、意識の低いもので感心しませんネ。
千行の長詩(鏡の中の倭姫)を完成しました。(大和し美し)の姉妹編です。ひそかに福士先生に献ずる心持ちです。CBC十一月三日放送。十二行詩も是非お書きなさい。


28年10月27日
たかまつの このみねもせにかさたてて みちさかりたる あきのかのよさ 万葉集十巻
これはどうやらわがた■のりたらし。
拙作「鏡の中の倭姫」は十一月三日午後四時五分から五十分間CBCで放送することになりました。是非おきき下さい。他の友人にもよろしく。


28年11月1日
貴言のごとく崩壊の■国文化は古代を甦せることだけが救ひです。現代詩人といふ呼称は、ただ恥を表現してゐるだけの言葉。二千年あるいは二万年まへに生きよ。君は二千年二万年のちにも生きることを識らう。――これが聯詩人におくる言葉です。三田文学八月号、短詩研究三月号参照。一度会ってゆっくり、とくと話したい。来年は必ず行きませう。
「橋の下に水■めり」「ものすべてわれに親し」の二篇はつらぬき鳴るものあり。いい詩です。美しい貴作聯詩集を出して下さい。こちらでも売りますよ。


28年11月15日
先月、大島へいってきました。(波浮小学校校歌作製のため)。大いに得るところがありました。お送りした中日ウィクリに少しばかりそのことについて話してやりました。(門文庫あて)。御地へも、この暮か、来春にでも行ってみたいナと思ってゐます。ナニカきっかけができると良いですがネ。御一考下さい。
貴下の四行詩、久しぶりのお作は大変評判してゐます十二行詩も書いてみて下さい。戦後はどちらかと言へば、くろしほぶりに力を入れてゐます。


昭和28年12月5日
手市典麦の詩、懐かしく読みました。まことに、これは一つの厳しい批判のはずです。やがてその批判が利いてくるときがきませう。(欲りせむやなべて問にす。堀の水かれて虫這い穂積みな火の濁りなせど星をうけ舌をうるほす)貴書をよみ、庭に立っての偶成です。
東京では我儘な六才の倭姫に伴して老いさらぼいた猿田彦がまかり出た感じで、全く無為な十日を過ごしてきました。
春山(※行夫)、宍戸(※儀一)、保永(※貞夫)などの諸君が訪ねて来てくれました。
いちど詩の泉に浴したものは生涯その感覚を忘れない筈です。高木君は近く、また貴君の良き友となるでせう。気長にやってゆきませう。倭姫の詩を序詩のやうなつもりで、日本女性を歌うことをCBCからすすめられてゐます。
来年は日本の神話、か日本の女性を主語にした長編詩を書くかもしれません。
別便で「樫の葉」の十三号を送ります。おそらく来年度は聯詩だけの詩誌が生まれるでせう。十二月四日


28年12月14日
貴兄へ出したハガキ(※上記12月5日付)が舞ひもどってきました。同封のものです。
一枚の葉書の運命といふものを、ところどころ破れた返送紙片を手にして考へてみたことでした。言葉をどうして人に伝へるか?どうして残すか?といふところまでこの考へは進み、結局は、詩の問題に結びつきます。精神的、物質的に最も堅固な方法で、最も便利な方法で、言語を結合させるもの──詩の尊さは人々の最も身近に実利と結びついてゐるのだと思われるのに、人々はすっかりこれを忘れてゐるのでした。詩の始原的な意味がもう一度、詩人を含めた日本人に考へ直される必要がありませう。
韻は記憶の方法であるとともに堅く語と語とを結合する方法である。それは内部の■秘な生命の戸を開くごとく言葉を美しく韻(ひび)かせるばかりであるのではない。詩は最も高尚な精神のものであるとともに、最も実用的な人間らしい道具である。このことが強く主張されねばならぬでせう。
人間は言語を発明した時、すでに、この素晴らしい物質の中に美と実用とを兼ね備へてゐるものを見、詩を第一のものとして、うけとりました。まさに人間は、はじめに言葉ありて、一切を識ったのでした。詩人が伝へたいと思ふものは一つの韻の中に一切を籠(こ)めてゐるものでせう。私どもが自由詩とか、散文詩とかに絶対の信頼がおけないのは、これが真の意味の実用性さへもち合してゐないことです。――それは、その時代の極めて限られた時間に、限られた用途に役立つきりのものだからです。
今日は、今年君から送られた聯を書き取って「詩の座」に送らうと思ってゐます。彼の同人は君から学ぶものがある筈です。君の作が一層みがかれてくることを切に祈ります。君は東北地方においてただ一人詩を知ってゐる人です。君の不足がちが日常生活は、必ず詩によって充足されるでせう。君は御地において教学の指導者である誇りをつねにもってゐて下さい。この地方には斎藤光治郎君がゐます。
先日から、ときどき十年間の聯リーフを綴ぢた合本集をひもといてゐます。ここにのってゐる詩の中には、不変の言葉がいくつかあります。昨今のやうに五年か十年の流行詩を全集化する仕事を見てゐるとおかしくなります。我々の作品の全貌が公表された時、彼らは恥をはっきり識るでせう。 彼らはまだ我々が何者かも、真の詩が何かも知らないのです。
もう今年中は手紙が書けぬと思ひます。一戸兄、私は四十歳頃から人生は永く、芸術はさらに永し、と言ってゆっくり仕事をすることにして今日まで来ました。聯は生涯の仕事だと決心がついたとのお言葉ですが、まさにそれだけの価値があります。しかしいそがず、あせらず、ただひたすらに精進をつづけて下さい。君■君のご一家の御健康を祈ります。
十二月十二日、土、尾張はおだやかないい日和です。佐藤生
一戸玲太郎様


29年2月26日
新聞なつかしく拝見しました。「花」の断章も若い人のためにはいいでせう。原稿用紙十枚前後に四行詩と散文とを入れまぜた、詩的散文を書いてみませんか。四月末、御地の花の季節をあつかったもの。こちらのCBCで放送します。(薄謝呈上)。志があったら三月半頃までに原稿をお送り下さい。抒情的な甘やかなもの──若返って書いてみませんか。「季節の譜」十五分放送です。毎週放送、三月分はきまってゐます。四行詩のあるものは作曲します。旧作の聯をまぜてよろしい。既作のレンを読み返してさっそく構想執筆してみて下さい。


29年2月27日
私はいま中部詩人連盟といふものの委員長をさせられてをり、時々この辺の未知のものどもと話し合ふこともありますが、日本詩は終戦後のデタラメから少しずつ反省の時に入ってきたやうに見てゐます。
韻律、定型──といふことが日本詩の定立といふことといっしょに考へられ始めてゐます。いずれ、そちらでも気づく時が来ませう。現代史は韻文も散文もかけない不良作文家のタハ言といってもいたし方なし。金子君丸山君の全作品をこの冬読んでみてこの感深し。北川君のものなど読む気がしない。
一年の季節によって詩集を編まれる事、大サンセイ。短い散文も書いて下さい。そしてそちらの歳時記、風土記も兼ねるものとなるとさらに妙。私は木曽川詩集、イセ詩集、ナゴヤ詩集などを数人でやる計画です。


30年2月8日
時々おたよりありがたし。昨日斎藤君が来て樫の葉をいよいよ出すといってました。わたしは、この正月から日本神話を毎日五枚から十枚づつ書き、労働に入りました。三月末まで一日の余裕なしです。日本の少年子女におくる最後の贈り物になりさうです。古事記の重要な部分を四百五十枚の物語にしつつあり。これが終わったら詩夢への贈り物「二万年男」を描きます。斎藤君へ時々便りして下さい。


30年3月31日
御退職のびた由。もう一年ゆっくり、聯運動の方策御思案下さい。樫の葉はナゴヤから一冊出ました。まだ私のところへは送ってきません。月末か来月はじめ、会合をして、そのごの事相談します。「古事記」は三冊出すことにして、いま第一冊(古事記上巻)だけ四百枚を書きおへようとしてゐます。福士説、佐藤説によって大いに解釈に変更が加へられてゐます。ただ興味本位ではなく、日本民族の精神の形式のあとをしっかりつかまうとしてみました。世界名作全集の百一巻として五月刊行予定。今年いっぱいは古事記にかかることとなりませう。


30年10月16日
東京から「詩苑」といふ雑誌が出ました。早大での後輩、河合年男君の編輯発行です。抒情の恢復と韻律の構築を目指す雑誌。貴詩を送っておきました。そちらに支部でもできるやうでしたら作ってやって下さい。創刊号には十二行詩を一篇。次号にも十二行詩、これは福士さんの建碑に関して発表しました。
来春は大々的に福士さんの講読会をこちらで開きたいと思ってゐます。今からこられる準備をしておいて下さい。


30年10月26日
詩作の御精進まったく感服。いよいよ深奥をきはめられたし。「詩苑」の次号に貴作六七編、先般来お送りのものを発表と決したる由、編輯者から便りがありました。創刊号は河合君が送ったと思ひます。そちらで購読者を作ってやって下さい。福士さんの記念碑は彫刻し終りました。


30年10月31日
福士さんの碑が建つ日、私にはうれしい事が他に一つひょっくり出てきました。まつりのつるぎ(吊木)の原型が手に入ったことです。一尺足らずの樫の木の剣ですが、これがまためづらしく化石してゐるのです。明らかに化石を剣にしたのではなく、木刀が化石したもの。古代人がこれをどんなに神聖視していたかは想像にかたくない。つるぎがまつりの中心であった時代、それはおそらく農耕生活のまへでせう。かしの実を食べ漁猟をしてゐた時代、かしの木と人間との永い関係を思う。
「詩苑」ごらんになった由。力を入れてやって下さい。何とかして、いい雑誌に育てたい。韻律と抒情の恢復が、この雑誌のモットーだったと思ひます。


31年1月1日
賀正


31年3月13日
貴下の四月からの新しいお仕事を期待します。新発足を心からお祝ひ申上げます。どうやら私などよりは身分自由になられるやうですから、大いに御勉強御活[躍]下さい。四月に一度尾張へ遊びに来ませんか。第二碑が立ってゐる筈です。
私はいま福士さんの「ネンヅク」を追求した小エッセイを書き終へて「毎日」へ送り、「詩苑」の第四号に出すために一音律の十二行詩を二十数編、整理してゐます。これは十二行の詩が一行一音一韻つまり十二韻十二音で成立するかどうかの実験詩です。一音のタブーを破ってみたものです。
長文の解説をつけて発表することにしました。しかしどれだけ詩壇が理解するか、興味あるところです。一音のタブーを破る事は、仮に私が名づけてゐる地球前期人と私ども地球後期人との間にある障壁の一部でも破りたいと思ったことも大きな理由でした。或成果は■て、この狂人じみた仕事も意味があったと思ってゐます。一度会ひたい。


31年4月
いかがお暮らしにや。先日、上京したとき、御地までゆくつもりでしたが、風邪をひいたので棟方志功、平田小六両君に会ったきりにて帰郷しました。こんど小生の一音律十二行詩二十三篇を全部版画にして、棟方君が来春の国際美術展に出陳する事になりました。これはまた横田正久君に作曲され、やはり来春、演奏会が開かれるさうです。その前に昭森社から出版(多分六、七月)される事になりました。題は『詩の出発』『火と水との饗宴』『劫初の人』などが候補にのぼってゐます。聯詩人は、このほか保永貞夫、田島穂積が今年、詩集を出します。貴君の四行詩集を是非出して下さい。なほ東京では『詩苑』河合幸男君と懇談しました。河合君は一戸さんが上京、東京に住まはれるといいがと希望してゐました。貴君が学務をひかれた期に一つの忠告あり。詩以外の一切のことに手を出さぬ事。小づかひ銭も詩活動から得る事。以上。五月五日福士第二碑建立。やってきませんか。


31年5月27日(※尾張福士会より記念碑副碑竣成案内葉書)
その後如何。やっと第二碑ができました。全く一家年がかりです。これから尾張福祉会は、福士さんの研究とともに文化発祥地としての尾張の研究発表をしてゆくことになってゐます。そちらの建碑の事、急がないでおやりなさい。聯の新生面を切り開くお考へ、大いに期待してゐます。東北聯支社を作って、リーフレットでも出されては如何。


31年11月26日
問はざれば、外二篇の聯、興深く拝見。ここから何が展けてくるか、それはさらに興味あること。
私の「かごつくりのうた」(虚構の衣裳)はノートひと先づ終りました。この作品は最初、口語体の韻文で長編を書くつもりでしたが、どうかすると、散文体で発表しようかとも考へてゐます。一人の老いた かごつくりの独語の体で、ノートを七、八十章作って考へ込んでゐるのです。私の作品としても、また日本の文学としても、ちょっと類のないものになりそうです。
去年の春、「カシフヲ」(二万年まへにカシの森を出てきた男)に、とりかかりたいと思って上京したのですが、本屋が見つからぬので一先づこれを思ひとまって、例の一音符十二行詩を二十三篇書きました。これを「詩の出発」或は「火と水との饗宴」と呼んでゐますが、昭森社はまだ出版してくれません。
私がいま考へてゐる事は、尾張へ来て、十一年、ずっと考へつづけてゐたやうなものですが、人間は歴史的にまた本質的に、植物によってやっと救はれたといふことです。人間は植物をサイバイする以前から、このことに気がついてゐたやうですが、厳密には農耕生活によってこの理屈を識ったのでした。
人間は食物を植物から得たばかりではなく、道具を、住居を、さらに衣類を、火を、思想を、信仰を、人間に必要なあらゆるものをこれから得たと言へませう。おそらく人間社会に農耕生活が確立した時が平和の頂点だったでせう。
今世紀まで、いな、原子力がでてくるまでは、人間はまだまだこのことをかすかに感じ、かつての平和の原型をもとにして、平和を夢見ることができました。しかし今日では、もはや人間はこの夢を見る力を失ひかけてゐます。
戦争をいつまでさけることができるか。万一、これをさけ得たとしても、原子力は人間を変へてしまふでせう。奇怪な動物に…。私はこれに耐えられない。この気持ちが私に「詩の出発」や「かごつくり」や「カシフヲ」のやうなもの書かせてゐるのです。文明への挑戦です。
かごつくりは田舎住[ひ]にて間もなく知り合った独特なかごつくりに興味をよせて、時に彼と話し合ううちに私の中に成長してきた一仮定人物です。
ヲハリ平野は二千年以上前、このデルタに人が住むやうになった頃、樫の森と葦の沼と篠竹の原とにおほはれてゐました。古代人が最も興味深く思索したのも、この三種の植物であったと思はれます。今、日本の各地に見られる太い竹は後年支那から渡来したものかもしれませんが、そして後年のものは、聖者を住まはせたでせうが、それ以前、太古には神を住まはせ、神秘力を持ってゐました。
私は、今は、田舎の片町で籠作りをしながら人間の運命を竹とともに考へる男を[夢]想したのです。
福士さんが死ぬ近くに、米や麦のことに非常に関心を寄せてゐました。「原日本考」が続いて出てゐたら、米や麦や、或はそれ以前のカシの実のことなどを書いたらうと思ってゐます。
幸ひ、こちらには澄田正一君(名大考古学)がゐて、木曽、長良流域の原始農業の研究に専念してくれてゐますので、私は福士さんがやり残していったことをやるやうなつもりで考へたり書いたりし始めたのです。
こちらの福士記念碑はそういう点で意味深いものがある筈です。
しかしどうも思うやうに仕事がはかどりません。こんな調子だと、どうしても、もう二十年の歳月がほしいと思ひます。下の女の子が三年生、CBCへいってる次男に嫁をとり、三人の娘をまだ結婚させねばならぬので、大変です。もう十年過ぎぬと身軽にはなれません。その点、貴君は最も活動的なコンディションを与へられてゐるのですから、大いにやって下さい。
お互ひに老い込まぬやうにしませう。
両方から出会って、東京で会見しませうか。貴君に来いと言っても仲々来られぬし、私もいつそちらへ行けるか分からぬ。
昨日はナゴヤで「中部日本詩集」の第四集がでて、お祝ひの会がありました。丸山君や斎藤君が出て、六十名ぐらゐの出席だと新聞は報じてゐます。私はちかごろ外の会へは出ぬことにしてゐるのです。
この集は百四、五十名の作を集めたやうです。私は昨年も今年もくろしほぶり十二行詩と、一音律十二行詩とを一篇づつ発表しましたが、今年になって一音律詩に人々の関心が高まってきたことがわかります。しかし現代詩人が音の韻や数の意味を識るのは容易なことではないでせう。
年刊詩集を■■と詩人賞を出すことより何もやらぬこの中部詩人聯盟なるものは困った存在だと言へませうが、社会的には意味があるやうです。私は二年目に一度委員長を引き受けましたが、大体丸山君(※丸山薫)にやってもらってゐます。
福士さんの「日本音数律論」の編輯について協力をお願いします。二、三日前、民蔵さん(※福士民蔵:幸次郎長兄)からの手紙では主要論文が大分かけてゐて、私や貴兄に協力が欲しいと言ってきました。東京の連中は何をしてゐるのか!といふところですが、まあ、やってやりませう。
貴兄が知り合った大学の助教授とかと相談してプランを立ててみて下さい。
民蔵さんが持ってゐるのは、金星堂の「日本音数律論」二百枚だけらしい。あと百枚から二百枚を五六篇か七八篇の短文を集めて充当させねばならぬでせう。私の「鬼門」を批評した文なども、どこに出したものだったか、私も覚えてゐません。
福士さんが三音連続を論じた貴重な論文ですからぜひ出したいがわからぬ。
北原さんの「多麿」には主として、短歌の音数律を論じたものが連続掲載された筈です。
私は近々改造社の「日本文学講座」に出た二つの論文を送ってやることにしてゐます。
民蔵さんとレンラクをとって何かと助力して下さい。民蔵さんは詩集を出したいと言ってゐますが、これもいつでせう。しかしあまり安易なやり方ですね。私は福士さんの仕事を順位付ければやはり「原日本考」「日本音数律論」「展望」としますね。
今日は珍しく、私の家は静かで、遠くの部屋で三女が洋裁をやってゐるのと、私とだけです。いましがたスピッツをつれて私は村を一巡りしてみました。いま、こちらはとり入れ(稲)の最中です。日本で一番おそいとり入れだといはれてゐます。ここのデルタは特殊なものがあるのですね。渡辺義知もおどろかし信時潔をたまげさせた土です。
御健康を祈ります。
 十一月二十四日  佐藤一英
一戸玲太郎様


32年1月17日
(※年賀状の版画)ニハトリは子供の作です。御笑覧。年末年始子供の病気が続出、閉口しました。いま一休みのところ。今年は書初めに
釈迦牟尼佛
即是一祷樹
と書きました。カシノ木宗祖の宣言です。呵々。
この冬はシュワイツェルを少し読んでみました。東西の融和のむつかしいことをしみじみ感じました。


32年5月1日
尾張はナノハナが満開をすぎたところです。春は全く黄金の錦。
聯、百余篇発表されたのお祝ひ申し上げます。是非、今秋までに書物にして、福士詩碑にそなへて下さい。こちらでは青春詩集(主として十二行詩)を田島穂積君が出します。『昨日の柩』とするそうです。すでに私もはなむけの序を書いてやりました。
碑のための詩を送らうと思ってゐますが、まだ書けません。もう少し待って下さい。こちらの高松万葉公園の歌碑は来月立ちます。
イラコ岬には藤村の「ヤシの実」の碑がいよいよ建つとて、五月五日イラゴで相談会をやります。
私は昨年正月から今日までに校歌とか団歌といったものを八篇書かされて、短い詩を書く時を失ってゐる感じです。「老いた籠作りのうた」は、長篇にて、まだノートしたきり、しかし近々完成したい。
校歌ばやりか、来月二日には佐藤春夫氏が十三日には吉田一穂君が尾張へやってきます。
十四日から、旧友の遺作水彩画展を一宮でやります。ニ紀(※第二紀会)の井上安男君(日本で唯一の水彩画家)のもので、先日、棟方君がこちらへ来たので見せたところすっかり感心してゐました。ナゴヤ、東京でもやることになっていて、そのため私は来月中旬上京します。貴君もその頃上京しませんか。そちらまでゆくのは中々大変にて、出会ひで話し合ひ度い。
今年は、井上君の「作と人」といった文を書くために、ノートをとって、あちらこちらの人に会ってゐて、いつの間にか春がすぎようとしてゐます。いつも時間のない事をなげきながら暮らしてゐる。が、人がくれば、いつまでも話してゐる。これは福士さんがのこしていった遺産の一つ。 呵々。
どこへゆくにもスケッチブックを持って出るが、詩はあんまり書きつけないで絵を描くことが多い。
井上君の展覧会がすむだら、久々で(七年ぶり)私の詩画展をやってみるつもり。絵の道楽は少年時代から。考へたり、読みふけったり、詩作にうんじたりしたあとで、絵を描いてゐるとすっかり解放された感じがします。
そちらの詩碑が建つのは誕生日でしたか。命日でしたか。御健康を祈ります。私の家は次男が昨冬喀血しましたが大分よくなりました。
  四月三十日

こちらでは名大の助教授をしてゐる上田年夫君が音数律論を十年ばかりやってゐますが、今度初めて百枚ばかりの論文を発表しました。私の聯「知られざる恋ひも老いぬ」で始まる四行詩を詩の原型として解説したものですが、一音から二音三音と分解説明して、吉田一穂をおどろかせた労作です。今度吉田、上田、二君と私とで鼎談して、この問題を論じ合ふつもりです。日本の現代詩は早晩ひっくり返るでせう。
貴君の聯詩集の出版を待って、東京で祝賀会をやりませう。これは日本詩壇にとって大きな事件となる筈です。こちらからは五六人乗り込みます。
井上安男といふ画家は、私の小学校の同窓ですが、死んでから画を見る機会を得てびっくりしました。棟方が鉄斎以後と言われてゐますが、井上君にも通じる言葉です。
貴君の聯を初めて読んで詩壇人がびっくりする顔を浮かべてゐます。自信を持って発表して下さい。
「一の賦」が、そちらまでいってゐたのですね。大中君(※大中寅二)とは今でも手をつないでやってゐます。校歌といっても私のものは1つも校名を入れず、詩集にあめるやうな詩ばかり書いてゐます。それで嫌ならやめようと初めから約束してやるのです。
あの詩集に変な詩が1つ入ってゐます。あれは「天地壮厳」を書いてゐるときに、ひょっくり出来たものです。この集はまだまとめて出版されていません。


32年5月6日
御元気ですか。今官一君の『詩人福士幸次郎』(※弥生書房1957年4月刊)をおくられて一読したところ。今君らしいホメウタです。今井不二雄君に出版記念会をやってくれといってやりました。私は一両日中に上京。二十五、六日頃まで在京の予定です。深川の福士宅ででも、ゆっくり話合ひたい。上京しませんか。
ここ一二年はわれわれにとっても、また日本にとっても大きな転換期、展開期となるでせう。
そちらの諸君にもよろしく。
東京のレンラク先は
豊島区椎名町四ノ二〇六五 佐藤彊ツトム 電話、呼(九五)五八〇三
です。
是非上京されよ。


32年8月24日
おハガキありがたし。この夏は十七年ぶりで、ぶっ通しの休みなしの仕事をし始めて、すっかり失礼。講談社のために「ヤマトタケル物語」を三百枚書くことになり、それに没頭してゐるわけ。これなら、簡単にできると引き受けたのですが、散文で、それも少年向きのものとて、なかなか書きづらく、毎日苦戦悪闘をしてゐます。それでも九月末までには書き上げられさうな見とほしがつき、殆ど門外不出でやってゐます。この物語ではカシの木ともう一つ竹を出しましたが、このタケを出したのが救ひでした。今、タケを突っ込んで書いてゐるところです。竹林の中の不思議な老人とヤマトタケとの会見。タケルが女装の武人となるには竹が必要でした。
十月十三日の除幕式は何か運命的なものを感じます。ヤマトタケを書き上げて、ゆっくりした気持で御地を訪ねたいと思ってゐます。
準備、大変だったでせう。よくやって下さいました。皆さんにもよろしくおっしゃって下さい。


32年10月8日
福地先生詩碑除幕式への御案内いただき、ありがとう存じます。出席するつもりで準備してゐましたところ、十日程前からとうとうインフルエンザにやられ、まだすっかり離床できない状態でゐます。まだ一週間位は旅行はできさうもありません。残念ですが今回は失礼いたします。関係のみなさんによろしくお伝へ下さい。講談社の「ヤマトタケル」も、約束の月末脱稿が出来ませんでした。来春、雪解けの頃にでも一度、是非参上したいと思ってゐます。
式の目次を見ていて、詩人作曲家が■人──福士さん懇意の人ばかりで、歌曲が演奏歌唱をされる様を想像して心あたたまるものあり。
先日、講談社から万葉公園の写真をとりにきました。ヤマトタケルの物語のあとで「万葉物語」を書くことになってゐます。そのうち貴兄も一度おでかけ下さい。


33年2月25日
梅が咲き始めましたが、いかがお暮らしにや。聯詩集の出版は進んでゐますか。私の「詩の出発」はまだ出ません。今年は年初めから「万葉物語」にとりかかるつもりのところ、次男坊の肺葉切除手術その他で心おちつかず、まだ何もできません。昨日講談社員が来てさいそくされました。もうかかります。人生多事。今度私の詩碑が平野の一番高い山の上に立つことになりました。「ヤワヒの山の子らを思ふうた」といふので、信時さんの作曲で校歌にも制定されました(※矢合の子らのうた:稲沢市立国分小学校)。桜が咲くまでには除幕式がとり行はれるさうです。
私の万葉物語の完成が伸びてしまったので、御地へゆけるのはいつの日か、またわからなくなってしまひました。一度御目にかかりたいと思ひます。奥様によろしく。二月二十四日


33年5月1日消印
その後お便りがないので御病気ではないかと心配してゐます。いかがお暮らしにや。私は今頃はとっくに「万葉物語」を書きあげ、御地までも訪ねてゐる筈でしたが、今度はひどく書きしぶって、いつはてるやらわからぬ状態です。最近構想がへをして、やっと筆がすすみ始めました。大伴の家持の万葉へんさん物語といふことにして、一貫した統一ある物語とする事ができさうです。風変りな万葉読本となって、読者を面くらはすかもしれませんが、作品としては特色あるものとなる筈です。
いまナゴヤで支那五千年の歴史美術展をやってゐます。空前絶後とさへいはれてゐます。東京、京都からも見にきてゐますが、全くすばらしい。私は尾張へきて、文化の発生、文化の根元は見極めたつもりでゐましたが、これは文字通り文化の歴史を見せられます。健康にさしつかえなくばやってきませんか。私も将来書かうと思ってゐる二万年男、樫の木男の参考になりました。貴君を益するところも多いと思ひます。五月五日までです。これは一年前から準備されて行はれたもので、名大の、私の友人など病気になったくらゐ骨折って集めたものです。尾張に遊び旁々御夫妻できて下さい。
話は別ですが、正統派のアンソロジイを出す時が近づいたやうに思ひます。貴君の個人詩集はどうなりましたか。私の一音詩集は本屋で立ち往生した感じですが…。
田島穂積君の十二行詩集『昨日の柩』は校了になったやうです。聯のアンソロジイは戦争を記念するやうなものでもいいと思ってゐます。貴君からも案を出してみて下さい。万葉物語を書いてゐて、いろいろ考えるところあり、一度会談したいですな。
近況をお知らせください。
 四月二十四日  佐藤生
一戸謙三学兄


33年6月20日
元気でお暮らしのことを知ってよろこんでゐます。散文詩を書いてゐられるとのことも結構です。先日、大学の先生をしてゐる人たち、その他、七人が拙宅へ来て、久々で詩話会をいたしました。原型とヴァリエーションの問題が出ました。今日は原型を忘れたヴァリエーションの時代だと私は話したことでした。しかし、私の形式問題よりは、思想の根源的な話に、みんなが感銘してくれたようです。
現代はデカダンである。生の深い意味を、人間の長い歴史(百万年) =過去の五十万年と未来の五十万年=の見とおしの中から学びとる必要がありはしないか、と話ました。今日の危機をのりきるには、これよりほかにないではないか、とも説きました。一度、弘前の人々とも話がしたい。
私は毎日「万葉物語」の机についてゐます。ここではやはり「ヤマトタケル」で追求した「白鳥とカシの木」の意味をつっこんでゐます。万葉人とカシフヲのとの対決をやっています。百万年の歴史の中では、万葉人の問題は、現代人の問題と考えてもいいと思ひます。如何。私の想像上の人物、万年男は今後もいろいろな人物と対決していくでせう。この奇怪な、また神秘的な人間は…。


33年9月8日
おハガキありがたう。今朝、さわやかなな秋空のもとで「萬葉物語」をやっと書き終へました。まだ少々手入れをしたいので、少なくも今月いっぱいはこれにかかる筈です。どうやら今までに類のない青少年の読物を書いたやうです。重荷を下ろした気もちです。こんなにおくれたのは、途中、不慮の不幸に見舞はれ、一ケ月ばかり外の事をやってたからです。でもそのために「九つの太陽をテーマとした十三篇のソネット」をまとめあげました。これも類のない詩集となったやうです。去年から私には大変な時期になってゐるやうですが、どうやら切り抜けてゆけさうに思ってゐます。 一度会ひたいが、いつになったら会へるか。御健康を祈る。萩原の万葉公園に萩が咲き始めました。そちらの秋は早いでせう。
このところ東京の友人とも音信なし。万葉人の中にダダやシュールの詩人を見いだして苦笑してゐます。
まだ当分万葉の魅力にひかれて仕事をつづけてゆくことになりさうです。二三年は。来月脱腸の手術。十一月上京したい。


33年10月9日
貴君のハガキ三枚、最近のものがラルウス版のシャルムの間からでてきました。ヴァレリイを読み、また一戸を読む、また楽し。
田島穂積の『昨日の柩』の出版記念会が二、三日前にごく少数の人をまねいてナゴヤで行はれました。
実は十四人の会合だが、少々人が多すぎたといふくらゐ。われわれの読者は今日では少なくて結構といふ気がします。
未知の青年詩人、堀川正美(東京在二十六才)君が、『空海頌』を愛読書の一つにあげてゐるので、むしろおどろいたくらゐ。しかし生のいとなみは正しくつづいてゐるのだとは思はれる。
近々、詩集送るでせうが、半紙にでも貴君の聯を書いて送ってやって下さい。君の詩の愛読者で、また君の文学を彼は愛好してゐます。前から田島君に頼まれてゐましたが、忘れてゐました。お願ひします。中部聯詩社は近々活動を始めるらしい。東北聯詩社も動き始めて下さい。十月九日


33年10月23日
連座の記事ありがたう。あの日のこと(※昭和14年の面晤の日)を思ひ出し、詩はいいものだナと今更ら思ったことでした。
ヴァレリはやはり聯詩人にいちばん近いところにゐます。田島穂積はこれから五年か十年かけて木曽川をテーマにした二、三百行の韻文を書くと言ってゐますが、私はヴァレリの「海辺の墓地」を参考にしよ、といってゐます。ラルースの「シャルム」を買ってから、井澤義雄の「ヴァレリイの詩」を買ってきました。これは東京弥生書房の版ですが、日本で出たヴァレリイではいちばんよくヴァレリイを伝へてゐるものではないかと思ってゐます。田島君には原文を何回も読むにこした事はないとおしへてゐますが、日本にも若いヴァレリイアンがぼつ[ぼつ出]はじめました。日本の詩はここらで立ち直らねばだめになりませう。


33年10月
『日本美の再建』が、お手に入ったのはうれし(※10.17購入記録あり)。あの題目は変らぬ題目です。私は四行詩は短歌、十二行詩は長歌、万葉人がやらなかったことをやってゐるだけ。[いまに]考へることもあります。現代人は近視眼者ばかりで、詩からどんどん遠ざかりながら、それを自覚するときがありません。短歌や俳句をやってゐる人は、やせ細って、骨皮ばかりになってゐて、いつになっても生気をとりもどしません。 生の泉はどこにあるか。『日本美の再建』は「万葉以前」から生の泉を汲むことによってできることを誰も気づいていないのです。
貴兄の聯詩集の出版を期待します。来月中旬か上旬に一年ぶりに上京するつもりです。
御健康を祈る。


33年11月11日
昨日、久々でナゴヤの詩の研究会にいってきました。春に一度いったきりで、私としてはこの種の会合に出る事はめづらしいのです。『群像』八月号に出た「宝石の文学」という懸賞当選の詩篇が話題にのぼりました。『詩学』八月特輯の討論といひ、これといひ、二十代の青年が、散文詩や自由詩(現代詩と称する)ものにアイソをつかしてきてゐることが、うかがはれて興味深く思ひました。
こちらでは定型詩人が中心になって広く詩の啓蒙運動を起すことが始まりさうです。これにはすでに自由詩や散文詩を書いてゐるものを仲間に入れず、大学、学校、小中学の教師をしてゐる人々で団体を結成することになってゐます。そして、今日では、詩と称して、小中学の教科書にまで入ってきた行分け散文=作文をきびしく批判することになってゐます。かういふことなら、そちらでもできさうですが、いかが。
私、二、三日中に上京、二十日ごろまで滞在。私はまだ『詩の出発』(※昭和34年6月昭森社刊行)は見てゐません。また。


33年11月24日
聯一篇、透徹したもの。岩木山の雪はこんなかナと思ったりしてゐます。『昨日の柩』は東京でも好評でした。そちらの新聞にとりあへずお書き下さい。
吉田君(※吉田一穂)の還暦祝賀は二百五十人か三百人ぐらゐ、西脇(※順三郎)西條(※八十)その他詩壇人、多勢。二十人位、テーブルスピーチ。平均七分ぐらゐのところ、私は十五分か二十分やりました。私の話は皆が聞き耳を立てるだろうから──。
後で保永貞夫曰く、ヒイキではなく抜群のスピーチとのこと。貴君にも聞いて貰ひたかった。群小詩人どもは心胆を凍えさしたでせう。いよいよ出発です。ゴッホを見てきておどろき、他の仕事をまづおいてヴァンゴッホに対して詩を書き始めました。ついでながら保永君は講談社をひき、詩人として独立しました。


40年2月2日
お変りなきや。私はこの正月、風邪で一ケ月寝正月をしてしまったので、貴君をはるかに思ふことです。
去年はかつてない韻文長詩を二つ、十二行詩七つ、最後に同封の「半眼微笑の蛇」を一篇書きました。
みな円空仏に関連したものです。蛇は今年一月三日の「毎日新聞」夕刊に円空仏写真とともに一面全部をとって掲載されたものです。
今年は休養のつもりで、中断してゐた「詩作法」や「カトフヲ物語」を書きついだり、絵を書いてみたいと思ってゐます。
「蛇」は福士さんが残していったネンヅクの正体を突くとともに、私に背負はされてゐるツルギの正体をみづからはがすつもりで書いたものです。
こんなことに二十年の歳月を必要としたことを思ふと、感慨無量のものがあります。
幸ひ、読者から感激の手紙をもらって、さらに、後継者のことを思ふのです。
尾張平野には、春が来ようとしてゐます。白正社の日当[り]にはタンポポが咲き、空にはヒバリが鳴いてゐます。わが庭の白梅も蕾がふくらんで来ました。今月半には満開となりませう。
御地はまだ冬が去りがたいでせう。どうかお体を大切にして下さい。先日、田島瑞穂と二人で一年余り前にいただいた貴君のハガキを読み返して、 貴地貴君を思ったことです。
 二月一日 高松にて 佐藤生
一戸学兄


40年9月16日
津軽の神々 : 詩集 一戸呉六著  津軽書房 1965
久しくお便りに接しないでゐますが、お元気ですか。先日一戸呉六君から『津軽の神々』(※津軽書房)を送られ、その手紙の中に貴兄のこともあったので、なつかしくてペンをとりました。
私は今年、冬から春にかけて、軽い胃カイヨウで百日ほど臥床してゐましたが、今ではすっかり元気恢復、でも今年は詩を書くことを休んで、もっぱら休養といふことにして読書にしたしんでゐます。
二十代の始め、大分仏書を読みましたが、今年はずっと仏典、仏書に読みふけってゐます。いまは岩波版の宇井伯寿、印度哲学史、哲学研究七冊を読みすすめてゐるところ。実は去年、カシフヲの照射で、円空を見、長編の詩をいくつか書きました。今年は親鸞を見てゐたところ、だんだん深入りして、印度の古代の思想にまでわけ入ってしまひました。
もうあと百日ほども読んだら、中止することになりませう。同封しました親鸞の浄土和讃の一句、

光雲無[碍]如眞空


につかまり、ここで立ちどまって「如」をつついてゐるわけです。
ヨー[ロ]ッパでは否定音としてよりないN音が、インド、日本など東洋に於いては否定肯定を超えた発想としてあることは、重大な意味を持ってゐるやうに思ひます。宇宙的な存在としての人間の秘密は、東洋人によって始めて解明されるのではないか、と私は考へてゐます。
先年、「詩の出発」二十一番のN音詩であつかった問題はこれでした。
キリスト教の西洋思想では、どうしても開かない扉を私は開いたつもりでゐます。わかってくれる人は殆どゐないかも知れませんが、最近出入りする二十代の学生や学者が興味を持って「詩の出発」を研究し始めていますから、だんだんわかってくれるだらうと望みは失ってゐません。
詩を書かず、文章も書かず、したがって金も入らず。勝手先ではこぼしてゐますが、もう百日我慢しろといってゐます。
本を読む以外は、庭の草とりをしたり、水をうったり、二男坊の一人娘を保育園へ送り迎ひしてやったり、風呂を炊いたり、こんなことが日課で、 全くいい隠居さんのやうに見える毎日ですが、体内には烈々と燃えるものを感じてゐます。
先般も名大の印度哲学の教授と電話で話をして、不勉強なのを叱りつけたことです。
一、二ヶ月前、一晩泊りで上京、ホテルオオクラから保永君へも電話したきり、親戚にも友人にも会はずに帰宅しました。昨年書いた中部工業大学の校歌の吹き込みがあるとて、それに立ち会ひのためでした。どこへも殆ど出かけません。
保永君はじめ、友人たちは、みなきてくれるので、相手にことかきませんが、毎日青い木々と青い空とを見て暮してゐるともいへませう。
漢字の「學」といふ字はかうしたことを意味してゐると思ふのですが、孔子の論語は誤解されてゐるやうですね。
近況お知らせ下さい。奥さんによろしく。
 一九六五・九・一五  尾張高松土筆庵にて 佐藤一英
一戸謙三兄


41年9月28日
お互ひに永らく無音でしたね。今年もそちらはもう秋が深いでせう。尾張野も萩のまさかり。虫の音はやや弱まったか、空は波雲が広がりはじ[め]ています。お体いかが。私は去年始め、胃潰瘍で一ケ月ほど寝てゐました。一年全く詩を書くことをやめて、インド哲学など最後の調査をしてゐましたが、今年は五月からペンをとって七月末「終戦の歌(広島の瓦)」百十章、三百三十三行の長編韻文を書きあげました。いま「毎日」のやうに新聞の切抜帖でこれを読み返してゐるところです。やっと最後の詩だけ書いてほっとしてゐるところといった方がいいか。
同封で一部をお目にかけます。「毎日」は十回に分載しました。新聞で発表することなど考へてゐなかったが、話してみたら先方は大喜びでもらふといふのです。おそらく新聞では初めての試みだったでせう。(幸ひ好評だったらしく荷をおろした感じです。)いづれ全文を読んでもらふ時がありませう。
ここまで書いてぼんやりしてゐたら二十四、二十六台風の通過。いつか数日過ごしてしまって、今朝、秋晴れの空のもと、今秋はじめての百舌鳥の声をききました。秋深しの感じ。
中日新聞がやってきて、相手になった記事を同封します。環境を御想像下さい。ではごきげんよく。尾張土筆庵にて 一英
一戸謙三兄


42年8月3日
『終戦の歌』(ヒロシマの瓦) 刊行案内(印刷)


42年8月15日【一戸謙三ハガキ】
しばらく失礼してゐました。
「カシフヲの笑ひ」落手、ありがたう御坐いました。
近影によって御元気なやうであることを知りました。小生近来は
眼が疲れて長くは本が読めなくなりました。裏の
田圃路を散歩して野の花を見るのを慰めとしてゐます。
この地方は弘前あたりよりも三、四度も低いので三十度になることは
一週間もありません。若い友人から福士幸次郎著作集を借りて
一読しました。大方はそれまで読んだものですが立派な本になりました。


43年11月5日(※現物あり)
韻律十一月号七部別送しました。よろしく。今朝NHKで木造町の写真を見、懐かしく奇形を描き出しました。私も大分元気になり顎の文字を書いたり、聯詩合作会に出たりしています。11月号の御文、大変こちらの読者同人に感銘深かったようです。とりわけ3分もお書きください。青森県の旧聯詩人が再び執筆される時を待って待つとともに青年4人が参加される日を気長に待ちましょう。


44年2月18日【一戸謙三ハガキ】
御元気でせうか。十一月下旬とつぜん雪降り寒くなりました。起居すると氷点下六度の日もありました。
一週一回通院して血圧測定してますが、一五〇−八〇位です。 ■の詩学十部は一二月二十八日に届きました。
四行詩集『火の終』(四十一章)は一五〇〇円位の本にすると蘭繁之君から便りありました。三月頃刊行でせう。
序、跋はなく略歴を付し、扉に佐藤一英氏に献ずるとしました。韻律三月号に「三音・二音の説」六枚を書き田島君に送りました。
四月になれば転居します。線路の見える写真(※リンク)で私の右に見える小さな平家を嫁が買ひました。岩木山が見え日光が入る座敷(六間)があ ります。八十才までは生きたいと思ってます。


45年1月9日
この手紙は十月四日付、毎日新聞日曜版「下北半島」を読んで、どうしても書かなくてはをれなくなって、ペンをとりあげたわけ。こちらも急に寒くなりました。そちらは格別だと思ひます。御起居如何? 私は今年の寒さはよく越せるかどうかと危ぶまれます。いつ死んでもいい覚悟で弟子たちに、あらためて言ひのこすことをつげたりしてゐます。
貴兄とは聯詩社を始めた頃からの深いつながりで、お互ひに何もかもよくわかってゐるつもりですが、私がここでひきこもって、カシノ木文化を追求したことについては、殆どお話ししてなかったと思ひかへすのです。世界の北半球北緯三十五度線のカシノ木地帯と、人類文化の関係、これが私のテーマでした。私は偶然、日本のカシノキ文化の中心地、イセ湾に住んでゐましたから、研究には何かと好都合でした。日本は御存じの如く、南北に細長い列島ですから、カシノキ文化をはさんで南方文化、北方文化が接合してゐます。すでに中部圏の木曽にはヒノキの大森林がつき込んでゐます。これは東北にのびて秋田の杉林となり、南部のヒバ林となります。
中、西南部のカシノ木と東北の杉・ヒバの大森林、ここにひそむなぞを解かねば、日本人の正体も日本文化の正体もはっきりしますまい。
こんな事は一見、詩や詩学とは関係ないやうにも思はれますが、離すことができないものだと思ひます。文化はつねに単独で存在するものではなく、いつも複合体で表れてゐるからです。私は日本のカシノ木文化は仏教文化、道教文化、神道文化、茶の文化などと複合体となってをり、日常生活の中に顕現すると考へてゐます。おそれ山信仰もネプタも福士幸次郎も一戸謙三も棟方志功も、南部ヒバの文化としてとらへることができるのではないか、或は福士や一戸や棟方はカシノキ文化とヒバ文化との接合点でとらへられるのではないかと見てゐます。
一戸兄、弘前大学の小山内時雄さんあたりに、この話をお伝へ下さいませんか。そして貴兄彼君の周囲の若い子たちに研究班を作らして下さい。このことは作家個人の研究とはいささか領域を超えた仕事となると思ひますが、それだけに意義はまたあるでせう。
先月二十五日に韻律十月号ができました。昨日特輯十月十三日号「よいとまけの唄」ができました。いま別送します。
 では御自愛御自■を
 十月四日 佐藤一英
一戸謙三兄


45年11月9日
出し忘れてゐた手紙ですが、新聞切抜を入れて送ります。(封筒裏に)
※毎日新聞45年10月31日「東海散歩」(水野隆「連句と近代詩歌」)を同封。


46年6月25日
お手紙うれしく、『韻律』七月号に転載させてもらひました。だんだん元気におなりのご様子、実にうれし。時々新作もお送り下さい。末女万里が今夏、友人と二人で十日あまり北海道を旅する手はづでゐるやうす。帰途御地をよく見てくるようといってゐます。平田小六君の消息は御存じないでせうね。


48年10月9日
数日前、平田小六さんがひょっくり訪ねてくれました。一泊してくれたのでゆっくり話しました。昨年は寅雄さんが来てくれる。ここのところ旧友が津軽の風を運んでくれて実にうれし。詩作は続けておられませう。私もぼつぼつやってゐます。韻律は私の手を離れ、弟子たち『韻律』を発行してゐます。貴兄の事はよく識ってゐて、尊敬してゐます。時々詩や随筆を寄稿してやって下さい。
来春、書画展をやることになりましたので、時々書や画をかいて遊んでゐます。
外出は万葉公園を散歩するくらゐ。ではまた。


49年8月30日
『韻律』七月号を手にされた頃かと思ひます。巻頭言に貴君の事にふれて十二音一行詩の成立について書きました。八月号の片々にもこれを説きましたが、佐藤最後の韻律発言です。宗祇、芭蕉で確立した十七音一行詩をさらに短縮し得るか否かは、聯詩社創立からかかへてゐた課題の大きなものでした。
君は詩作を断ってゐられるとの話ですが、ここでもう一度、十二音一行詩の製作に没入して下さい。そして韻律運動の先頭に僕とくつわを並べて下さい。
数年間の毎月の『韻律』で、すでに御承知と思ひますが、私は死じたくを始めてゐます。しかし息の切れるまで詩作はたたまないつもりです。 「鏡・髪・影」を書いて以後はもっぱら十二音詩を書いてゐます。

手紙がここで切れました。実はわが家庭土筆庵(わが老夫婦の住居)は、画家次男、漣の如木館と隣してゐます。私の家敷一反歩の中に、この二つの建物アリ。寝所は別にしてゐますが食事は大方いっしょ。息子の方は中学一年の女児あり。
私の方は最後の娘(現在千葉佐倉に住居)の双生児の片われ、生後四ヶ月過ぎた女赤子をあづかってゐます。息子夫婦が助力してくれてゐますが七十才を超えた老夫婦が面倒を見てゐる状況を想像してみて下さい。
佐倉の娘は最初の出産とて、こちらでやり、一ヶ月前に双生児の片われ男児だけをつれて、夫の元へ帰ってゆきました。
娘の出産頃から、私は殆どどこへも音信しなくなり、ただ一行詩を書くだけとなりました。
考へてみると、かうした生き方、生活の姿勢は、青年時代から始められたもので、何でもないことがわかりました。
十月にはあづかり子も佐倉へかへすつもりです。そこで待ちかまへてゐるのは、私に書や画を書いてほしい人々への約束です。
聯詩社はどんなふうにのびていくか。すべて自然にまかせることにしています。摘茶とか近藤宗逸とかは新しい同人ですが、どちらも六十代で元気です。これに続くのは保永貞夫とか葛垣ふみとか二人とも五十代で才能は充分。ついで田島穂積、鏡たね、四十代の才能。しかしすべてはこれからといふ気がします。特に十二音一行詩運動に深化、先鋭化した今日ではこの感深し。

棟方虎雄君と平田小六君とがここ一年ばかりの間に一度づつ訪ねてくれました。平田君はまた近々くるとの便りあり。青森もそんなに遠いところではない心地がします。

貴君に言はれて、ずっと高血圧鎮静の薬を常用してゐます。元気でたふれるまでやりませう。
八月二十七日  佐藤一英
一戸謙三 兄



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