(2014.07.10up)
四季派の外縁を散歩する 第20回
不機嫌な抒情詩 四季派の外縁の向ふ側で 小野十三郎
田舎のごった煮のイメージがある詩誌「歴程」、なかでもグループのしたたかな体臭を感じさせることで筆頭に挙げられる詩人に小野十三郎がある。 反権力反権威の姿勢を貫いた経歴によって戦後詩壇に返り咲いた。草野心平を東日本の雄とするならば、さしずめ彼などは関西に君臨して現代詩を牽引する役目を担った旧世代詩人のリーダーと思しい。 温和な四季派抒情詩人たちにとっては、謂はば敵陣の巨擘であったけれども、職場の帝塚山短期大学にあっては田中克己先生の同僚として一目置きあひ、 同じく文学部で教鞭を執られた杉山平一先生もまた尊敬を以て両者間をとりもたれた時期を持ってゐる。在野にあっては大阪文学学校の開設に関り、ながらく初代校長を務めた。
その小野十三郎の戦前刊行に係る詩集『古い世界の上に』『大阪』を入手した。興味があらたに湧いたといふのではなく、以前に較べて入手可能な価格で二冊が相次いで現れたのだ。 これもまた出会ひである。ことにも第2詩集『古い世界の上に』 (昭和9年 解放文化連盟)は、コミュニズムに親炙する内容とは凡そマッチしない、 キュートな表紙が魅力的な一冊。草野心平の装釘である。中身とマッチしないのに魅力的、といふのも変ではあるが、詩集の挿画意匠を語るとき、 私の中では佐藤惣之助の詩集『荒野の娘』のカミキリムシをあしらった函とともに、いつか手にしたいと思ってゐた詩集だった。
全体この感情過多の詩人は、詩だけでなく自著のデザインについても屈折した意識ある人であったらしい。処女詩集 『半分開いた窓』(大正年 太平洋詩人協會)のデザインはダダイズムといふか構成主義が意識されたものだが、装釘者は著者より「キタナラシクつくって呉れ」との依頼があった由、 で「出来上りがキタナ過ぎた」とぼやいたのだとか。(尾形亀之助記)
さういふ意味では意表を突いたといふより、狙ひ通りの屈折した出来栄えと言へるのだらうか。入手したもう一冊の、 有名な第3詩集『大阪』(昭和14年 赤塚書房刊)は、同じくアナーキストだった歴程同人菊岡久利の手になる実に投げやりなスケッチによる装釘が、 (意識的なのだらうが)過度なつまらなさ(笑)に仕上がってゐる。(人間性の魅力本位で行動する菊岡とはこのあと思想的立場を真反対にすることになる)
ただしかし彼の批評精神を宿した詩想はその意識的な「つまらなさ」の下で開花したのであった。戦後、彼の作品は「抒情を排した抵抗精神の顕れ」などと担がれた。 けれど私に言はせれば、彼の佳作はことごとく「不機嫌な抒情詩」と呼んだ方がしっくりする。小野十三郎が伊東静雄を回想する一文で『春のいそぎ』収録の詩篇「夏の終り」を選んで親近感を示してゐるのは、 伊東が大阪在住の同世代詩人で当時子息の担任であったなどといふ卑近な事情からではない。イロニーの「不機嫌さの質」において等しいものを感じてゐたからであって、 このたび酸性紙の香りが芳ばしい『古い世界の上に』の原本を、注意深く繙きながら感ずるところがあったのも、初期伊東静雄の新即物主義風の作品にも通ふやうな成心に満ちた措辞についてであった。
ある詩人に
あなたは眼を輝かせて
僕らの話を聞いてゐた
あなたは人一倍涙もろくてすぐに亢奮するのであつた
僕らが語らうとするもの、あなたはそれをお互ひの友愛の上でのみ読まうとした
おそらくあなたは非常に幸福だつたらう
あなたは路傍の泥酔者
のんだくれ
よりも猶悪く酔つぱらつた
あなたの誠実と熱意にもかかはらずあなたは事実その話を聞いてはゐなかつた
あなたは舌鼓をうつて飲んだのだ。僕らの話を。
『古い世界の上に』 47p
葦の地方
遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。
『大阪』 13-14p
『大阪』集中の有名な「葦の地方」といふ詩においても、イメージは全編が重苦しい。「ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され」といふ一節に、 まず読者は躓かされるだらう。ユーファウシャとは「euphausia:オキアミ」のことである。言葉が分からなくても「とうすみ蜻蛉」がアキアカネでないことは分かるのだが、 語義が分かると、腹脚をうごかして揺曳するオキアミよろしく、イトトンボがそこかしこを飛翔するイメージが、滄海と秋旻とを重ね合はせられて一層美しく伝はってくる。 あるひは晩秋に灯心蜻蛉はそぐはない。むしろ彼が忌むべきアキツシマの語源をもち、オキアミとも似つかはしい赤蜻蛉の群泳シーンに変換して読んでも面白いと思ふ。 とまれ「コギト」的な抒情詩だったら美しい一篇にシニカルな瑕瑾を混ぜるところ、彼はその反対をやって効果を上げたのであり、不機嫌の極みながらこれもまた抒情詩と呼んで差し支へないもののやうに私は思ってゐる。 抒情詩を作れぬ詩人は詩人ではない。そして詩に社会的メッセージがなければ価値なしと断ずるなら、メッセージが社会から否定された時点で作品もまた無価値になってしまふ事情は、 彼が忌んだ戦争詩だけでなく、この詩においても同様であると思ふからである。
けだし小野十三郎によって社会的現実に対する認識が投影されない抒情詩人たちの作品が否定されたこと。それに意味があったのは、躬を挺した指弾を彼が敗戦前に放ってゐたからである。 いかなる思想も遠慮なく発表できるやうになったのち、小野十三郎にかぎらない、抵抗詩人たちの戦後の詩業といふのは、なほ怨みをもって抒情詩人たちを総括糾弾した散文の詩論に較べれば、 漸次戦闘の意味を失はざるを得なくなっていったやうに私には思はれる。180度転身したジャーナリズムは、現実の彼らに充分に酬ゐたであらう。 けれど続く高度経済成長はかつての抵抗詩人たちの前衛の自負を後ろから刺したのであった。 その上に露見する共産主義国家の腐敗と恐怖に至っては、彼らは何を思ったらう。嫌気がさし再びアナーキズム的に嘯いてみせることは、戦争を体験した旧世代の抵抗詩人たちだけに許された特権であり、 謂はば見果てぬコスモポリタンの夢である。しかし彼らの薫陶を受けた団塊世代以降の現代詩詩人たちが同じいポーズを取りながらも、師匠が否定した四季派否定には頬被りをしたまま、 時に抒情詩の魅力なんぞを語る様子をみるにつけ、この上ない破廉恥を私は感ぜざるを得ない。
詩人の責任ではないところでその詩が述べる志が社会的に有効・無効に選別される「時代」がある。時代からの「お墨付き」の評価に胡坐を掻いた途端、詩人は足元を掬はれる。 それは戦前も、戦中・戦後も同じことではないだらうか。 私の中で「批評精神」とは、決して思想ではありえず、その「不機嫌さ」の真率を絶えず問ふことにつながってゐる。(2014.07.10up)