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おちあい しげる【落合茂】『風の中の家』1930


風の中の家

詩集 風の中の家

落合茂 詩集

昭和5年10月1日 社會詩人社(名古屋)刊

110p 上製 19.0cm×12.5cm 上製函 \1.00 限定400部


国会図書館所蔵


著者肖像

著者肖像


風の中の家 目次

  自序

  砂の上の家

1 .○
2 .醉うて歩く
3 .千歳樓と六月
4 .微かなる幻惑
5 .ゴンドラを漕ぐ人よ
6 .をんなごころ
7 .からつゆ
8 .照りつけられた横顔
9 .八月に祈る眼
10.よると共に
11.あの頃の瞳
12.ひより山
13.ジヤズと錯覚と
14.宵を好む詩人
15.朝
16.踊る四月の空
17.○
18.夏の海ですか
    朝ですね
    昼ですね
    夜ですね
19.砂の上の家
20.砂の上の家

  哀憐詩篇

21.この頃の僕
22.詩情誘死
23.人間廃業
24.えんせい
25.行く處まで行ってみろ
26.仙境抒情
27.妻よ來らずや
28.湯の山
29.○
30.失望への思慕
31.女よ
32.女よ
33.女よ
34.女よ
35.宵の月

 都會の聴音器

36.1930年よ
37.空より遙か彼方は塩のやうな白さだ
38.空気酒
39.空を踏む
40.仕事場で
41.都會をみんな一つにして呉れないか
42.彷徨ふ科学の呼吸
43.馬鹿
44.二階の窗から
45.俺は群集だ

 虚無

46.詩人
47.詩人
48.○
49.空走る狼
50.錯覚に馴れて踊れ
51.夢のテロリスト
52.武裝した蝙蝠は何処へ消えた
53.自分も見た
54.都會は何処までが都會だ


奥付

奥付


正座 静座の詩人 落合茂                山中英俊

 鈴木惣之助さん。
 昭和四十年五月十七日は、あなたの生涯にとつてこの日ほど痛恨痛哭の日はないでしよう。伴野憲さんから落合茂さん死去の連絡をうけ、私は私自身もそのあまりにも突然の訃に茫然となりましたが、まず私の頭に浮かんだのは、惣之助さん、あなたのことでした。
 あなたはこの悲報をどのように受けとめられたでしようか。あなたの心はどのようにゆさぶられたことでしようか。痛楚痛嘆するあなたが私には目に見えるようです。惣之助さん。茂さんとあなたとの交友は、思えばながい時間でした。あなた方は、あなた方の両親よりも、妻よりも、そして愛子たちよりも、もつともつとながい友情の時間を持たれたのです。茂さんだけに会つていても、いつもそこに惣之助を感じ、あなただけの時でも、あなたの背後にいつも落合茂が意識されました。
 惣之助さん。あなたの立ち姿にはもう影法師がなくなってしまつたと云っては云い過ぎでしようか。
 あなた方の友情のながさ、深さを知りすぎるほど知っている私には、云い方の不味さは別として決して云い過ぎとは思いません。それほどあなた方の友情は悠久の深さ、ながさです。
 大正が昭和と改元された頃、私はあなた方の友情の中へ割りこんでゆきました。それからあなた方の友情が二人半になつたのだとの私の思い上りを茂さんもあなた許してくれることでしよう。
 惣之助さん。茂さんの訃を耳にして、私たちの記憶のフィルムは早いスピードで逆廻転します。四十年の時間を走り去り、走り戻ります。年輪を重ねた私たちにとつてなつかしいのは過去の影像だけです。
 惣之助さん、そこにあなたは奔馬の如く、そして颯爽と登場します。茂さんが、いつもあなたの前に、背後に、そして左右に、細身のステッキを手にした瀟洒な姿を現わします。
 野人と都人、まことに対照的な、正反対な茂さんとあなたの姿です。紳士という表現は、ある意味では嫌味にとれるかも知れませんが、キザとか気どりとかの全くない青年紳士の茂さんでした。二十代からその端正で、静かで、もの柔らかな姿勢が、茂さん一生の姿勢でした。
 兄のない私ですが、もし兄というものを得るなら、茂さんのように優しい、もの分りのよい兄を持ちたいと思つたものです。然し四十年の間、茂さんもあなたも、私にとつてはよき詩兄であり、よき友兄でした。
 惣之助さん。あなたの今日までの生活は、詩に対して常に正眼に構え、四つに取組み、あなたの血も肉も、いや骨までも詩になりきつた、詩との悪戦苦闘の連続でした。
 それに反応して、茂さんはその生活の片隅にさりげなく詩がにじみ出てくるかと思うと、また生活そのものがふんわりと詩につつまれているような感じでした。
 あなたが詩に対して真向から切りこんでいく型なら、茂さんは若い頃、全く身についた似合の細身のステッキのように、その体から詩がにじみ出てくるように思われました。あなたは詩に対し青眼に構え、茂さんは正座し端座するその前に静かに茂さんの詩が生れてくるようでした。
 惣之助さん。あなたは作家であり美人であつた、故矢田津世子女史の仲田の家を憶えていますか。
 三十年ほど前の仲田は、まだ開けかかつた静かな住宅地帯でした。そこに津世子女史は、母と兄との三人で静かに住つていました。この美人の作家津世子さんを茂さんがどうも好きになつたらしいと気をもみ始めたのは惣之助さん、あなたでした。
 独身で、然も美眉秀麗な青年紳士詩人茂さんに全くうつてつけの美人作家の取り合せだと私も羨むような気持で、あなたが茂さんを誘つては仲田の家を訪問するのにいつも私は同行したものでした。然し茂さんはいつも津世子さんに対して虚心坦懐、好感を持つてはいるがそれほどつきつめた気持はなかつたらしく、自分の恋愛のように一生懸命になり、茂さんの気持を取越苦労して、二人の出会いに苦労したり、二人の会話にハラハラ気をもんだりして心を配つていた、その頃のあなたの独り相撲をほほえましく思い出しました。
 こんな過ぎ去りし淡いロマンスをここに今さらもち出したのも、私にはあなたが人知れず茂さんの身について心をくだく一面を記したかつたからです。
 あなたのどこに茂さんに対してのこんなこまかい心のくばり方があるのかと不思議に思われるほどのことをしばしば示してくれたものでした。それを私は誰れよりもよく知っているつもりです。あなたにとつて天が与えてくれたこよなき良き友人が茂さんなら、茂さんもあなたという良き友を得てお二人の幸福は羨しいかぎりです。
 茂さんと私とが青年じみた客気で独逸留学を志し計画したのは昭和初頭の頃で、私は茂さんの紹介で独逸人の家へ独逸語を習いに通い、出発の準備も整い、茂さんと私は意気軒昂、身は早やハイデルビルヒの地にあるかの如くでした。ところが双方の親が病身のため、なんとか私たちの両親の苦衷を見ぬいて一役買つて出たのもあなたでした。  その時茂さんと私が独逸行を決行していたら、その後の私たちの生活も大分変つたものになつていたでしようが、あなたの説得の前に自分の決意を翻然とひるがえした茂さんは、やはりあなたの心友だつたからでしよう。
 惣之助さん。茂さんとあなたとの友情は、第三者の目に映る仲の良さということだけではなく、目に見えない心と心とのつながり、心と心の溶合いが、えにしの糸の結び合い、まことに奇しききづなの友情でした。それだけに茂さんの死を痛み悲しむあなた、あなたの弧影は私の心を痛みつけます。落合茂さんよ、何故に忽然と消えたのか。
 惣之助さん。詩人としての落合茂、また落合茂の詩歴、足跡、その中部詩壇に対しての功績については、あなたを始め適切な方々が今後数多く草せられることでしようが、私はただ、私にとつてながい間の詩友兄友の死を、私一人としてではなく、あなたと二人でじつと噛みしめて悲しみたく、その悲しみさびしさをじつとたえていることだけが精一杯のあなたと私ではないでしようか。
 先日、中山伸さん平野信太郎さんたちと一夕、飲む機会を得、席上私も詩にとりつかれてから四十年、今は筆を折つているが、死ぬ時はやはり詩人山中で死にたいといいますと、中山、平野両氏は、よろしい僕たちで君の詩人葬をやってやる──私より年上の中山、平野両氏だが、私の方が早く死ぬものときめて下さつて──と云われ、まだまだ私の何処かに詩の匂いが残つていたのかと心うれしくなり、茂さんやあなたから詩に還れといつも叱られているのを思い出し、せめて余生は詩の生活に戻りたいと思つてみるのですが、その生活の中心に常に詩心をもち得た茂さんやあなたの立派さ、幸福さにただただ頭を下げるのみです。
 詩は、詩に対しての体当りから陣痛の苦しみを経て生れ出てくるものでしようか。
 詩は、詩を殊更意識しない、然し詩心だけがさわかにただような静かな生活の中からふんわりと生れ出てくるものでしようか。
 惣之助さん。詩に対するこの二面の姿勢を、私は茂さんとあなたとの詩生活に見てきたのでした。鈴木惣之助のひたむきな詩生活に負けないように、悠々大河のような落合茂の詩生活に溶けこむ、これが過去に於ける私の詩生活の目標努力でした。私の過去で少しばかりの詩が人の目にとめてもらえたのも、あなた方のような異質な対照的な詩人二人を、常に身近に得ていたからこそのおかげだと思つています。
 惣之助さん。あなた方二人は、詩人としての姿勢に全く相反したものがあつただけでなく、社会人としても全く違つた道を歩かれました。
 茂さんは事業家実業家としても大成されました。詩のためには自分の一生、自己の全生活を犠牲にしても省みなかつたあなたとはこの点でも対照的でした。
 事業家としても大をなした茂さんですが、あれほど欲の無い物事にこだわりのない人も珍らしいでした。
 昭和の始め、犬養内閣が生れ、緊急勅令で金輸出禁止令を出すということをある筋から知った私は、金が輸出禁止になれば金の値上りは必然だから金塊の買入をやつてやろうと計画して走り廻ったのですが、早耳筋はもうそのことを知つていて何処でも売つてくれません。
 困じ果てた私はふと茂さんの会社が金を材料に使用していることを思い出し、早速事情を茂さんにうち明けて頼みこむと、茂さんは二つ返事で応諾してくれ、会社の仕入先へ八方掛合い、大阪の大手の金塊材料問屋と話をまとめてくれました。私はそこで勅令の出る半日前というきわどい時にある量だけの金塊を買うことができました。
 勅令が出ると当時一匁五円五十銭の金が一曜十五円ほどに跳ね上がりました。茂さんのおかげで当時私は一儲けしたのですが、私がお礼にいつて出した謝礼金を、茂さんはどうしても受けとつてくれません。ただよかつたよかつたと自分のことのように喜んでくれるのでした。
 普通の人だつたらこうしたニュースをもつてゆけば自分も仲間へいれよと望むだろうし、自分の力が一役かつたことだからと謝礼も当然受取るでしようが、茂さんだけは全く違つていました。唯、友人に対しての友情親切に終始するのみでした。
 惣之助さん。こんな話をあなたにするのは始めてですが、この「茂さんらしさ」に頭を見下げた当時の感激を私は今だに忘れることができません。この「茂さんらしさ」は、あなたが一番よく知つていてくれることですが、この落合茂だけの人柄友情に、あなたも私も思えばながい間、あたたかくだきかかえられてきたものです。
 茂さんの告別式の日、午前中にいろいろ面倒をみてもらつている銀行へ借入の話でいきまずと、支店長が香奠の用意をしながらこれこれのお寺の所在を知らないかと私に聞いてきました。そのお寺は茂さんの告別式の行なわれる寺なので、私はお寺の所在を説明して、私もそのお葬式へゆかねばならないと私と茂さんとのことを話しますと、支店長は吃驚してあなたと落合さんとがそんなにながい交友関係にあつたとは少しも知らなかつた、落合さんとはロータリークラブでずつと一緒に仕事をしてきたが、あのような真面目なよい人は近頃稀な存在だ、典型的な紳士だつた、と賞めちぎり、あなたが落合さんとそんなにながい交友があつたということは、あなたに対する評価も大分上つてくれると云われ、私は大いに面目をほどこしました。
 茂さんには厄介のかけつぱなしの私ですが、その人徳ははからずもお別れの日まで、私に恩恵を与えて下さったのです。
 惣之助さん。茂さんの作品は詩集「風の中の家」以来、断片的にしか見ていません。いずれ労作全部が遺族の方やあなた方の手によつてまとめられることでしよう。そしたらその一本をいだいて、茂さんの好きだつた旅にでかけてみたいものです。おそ秋の静かな養老の宿などが茂さんの若い頃好きだつたことを思い出します。
 惣之助さん。茂さんの告別式の式場で、まずあなたの顔をみたら、あなたにどんななぐさめの言葉をかけたらよいものかとそれだけを考え考え私は参りました。しかし、あなたは私が言葉をかける前に私をなぐさめ、私の傷心をいたわるかのような態度に出てくれました。
 惣之助さん。あまりにも身近に感じていた人の死に対して、追悼の言葉というものは言葉足らずのまとまりのないものになつてしまうものだと始めて気がつきました。
 惣之助さん、茂さんの死を悼み、茂さんを偲ぶ一文を草するに当り、私は何故にあなたに話かけたのでしようか。「惣之助よ、元気でもつともつと仕事をせよ」との茂さんのあなたへの願望が、私にはつきり分つているからにほかならないからです。
 惣之助さん。落合茂はもういない。私たちの前から、一まつの涼風がすーと消えていつたようです。私たちの背後にいつもあつたあたたかいものがすーと消えていつたようです。いつも正座していた人。いつも静座していた人。その人の姿がだんだん遠くなつてゆきます。もうかすかにうしろ姿しか見えません。惣之助さん。二人で瞑目合掌いたしましよう。さようなら。

(昭和四十年十月詩誌「詩文学」)

 落合茂 略歴(日本金液株式会社々長)

急性心臓衰弱のため、昭和四十年五月十七日午前零時三十分、千種区山門前の自宅で死去した。行年六十三才。
明治三十六年名古屋市に生る。名古屋市育英学校に学ぶ。同校卒業後、先代落合兵之助氏の遺鉢を継ぎ、同社に入社。苦難の道を歩き、遂に金液ラスターを我国で初めて完成、日本の陶業界に大きく貢献した。
別途、文学を志し十七、八才頃より詩作し始む。その本格的活動は、大正十三年頃からで、詩誌「詩文庫」、詩誌「抒情詩」、詩誌第一次「社会詩人」等で気を吐いた。
その間、第一詩集「風の中の家」昭和五年刊で名を成した。戦後詩誌「サロン・ド・ポエツト」、詩誌第二次「社会誌人」(改題詩文学)に拠り、多くの詩作品、エツセイ等を精力的に発表した。
詩的系譜は、初め都会のメカニズムの究明だつたが、晩年は東洋伝来の宗教的傾向をおよび、人間形成への生命観に入つた。
なお、昭和二十八年度より名古屋短詩型文学連盟詩部審査員となり多くの後進を育成した。


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