(2000.12.11up  2002.11.25update)

北園克衛の生家 詩人の家を訪ねて その2

生家 生家全景(左は倉)。


 北園克衛の生家を伊勢市朝熊(あさま)に訪れた。それが「生家跡」でなかったことはまずもって何よりであったし、そして正直のところ驚きでもあった。 観光地でもないのにかうして時間が止まってしまったやうな町をそれまで私は見たことがなかったので、感慨といふよりは一寸した興奮に陥ってしまったことを白状しなくてはなるまい。 “日本のふるさと”の風景がこのやうな姿でまだひっそりと残ってゐること。それが住民の心配りによって“遺されて”ゐることに、私は最初気づくこともなく、 ただ「ここは入って来ては行けないところぢゃないのかな」といった禁忌めいた錯覚に襲はれたのであった。

生家2

 朝熊山山麓の一町村である朝熊町は、伊勢市の南西、市街から車でほんの十分ほど山中に入った所に拓けた、近鉄線の高架を望む小さな山里である。 伊勢神宮のお膝元らしく「神宮神田」なるかしこき水田の脇をぬけてしばらくすると、 次々に現はれる家並みの、途端に古めかしく見えるのがもはや錯覚ではないことを悟った頃には、その小村を流れる小川のほとりに私の車はもう到着してゐた。

 あらためて「他所者」としての細心の注意を払ふべく覚悟を定めると、私は車を降り、見知らぬ御老人にも丁寧に御辞儀を交しながら歩き始めた。 「北園克衛」の名前はもとより、町の旧跡文化財を知らせる案内板さへどこにも見当たらない。 といふより、この小村全体を対象にして私はすでに文化財の内部を歩いてゐるといって差し支へ無いのだった。 人通りの無い、古色を帯びた家々の狭間に踏み迷ひ、私は「つげ義春」描く漫画の主人公にでもなったかの気分でおろおろと息を飲んだのである。 家並のシルエットのはるかには、初冬の朝熊山が暮れやすい午後の日差しを浴びてながながとねそべってゐた。

 これでは埒が明かないと郵便局に入り番地を尋ねた。 局員さんは「かういふことは教へるものぢゃないのだけれど」と云ひつつ気さくに応対して下さったのでホッと胸を撫で下ろす。 再びゆるやかに曲りくねった旧路と四辻を、地図を片手にうろうろ歩いてゆくと、籐編みの乳母車を止めておばあさんに見つめられる。 下校途中の子ども達は「あの人、地図を持ってるよ」とひそひそ声で通りすぎていった。やはり余所者が殆どやってくることのない地区なのであらう。 小さな里なので教へられた番地はすぐにみつかった。目指す邸宅は、まことに小ざっぱりと昔ながらの佇まひを保つ日本家屋であった。 玄関にまず目を引くのは、この土地柄でもある「笑門」の注連縄。黒塗りの倉をもち、商家であったと伝はるが、詩人の詩に親しんでゐるせゐなのか、 膝丈の石垣塀をめぐらした格子窓のある低い二階屋は、なにかしら武家屋敷のやうにも見える。さうして付近を見渡せばこの家ばかりでない、 周囲の家屋もみな「なぜ改築する必要があるのか」といった面持ちで一帯が歴史の残影の中、初冬の日差しを浴びてやすらってゐるのだった。 「伊勢江戸時代村」とも呼べる町内に“北園克衛の生家”は現存した。

生家3

ふる里の

家はみなひくく

はてしなく暗かった               「夜」(詩集「風土」)

裏からみた生家。

  隣家の庭先でおばあちゃんが野菜を洗ってゐた。 ここの人はゐないのですか、と尋ねると、詩人の兄で孤高の彫刻家だった橋本平八氏の御子息は現在豊橋にをられる由、 以前は訪ねてこられる人々を邸内へ招き入れよく案内されたといふが、 代もかはり現在のお嫁さんは、この申し分の無い古風な邸宅をただ気味悪がって「処分」したがってゐる由。 残念ながらこれが日本の第一級の芸術家に対する身内における評価であらう。 伊勢市も詩碑など建てるくらゐなら、まずこの家、そして周辺の環境をそのまま残すことにお金をかけてほしい。 しかし「橋本平八・北園克衛生家」といった表札もないながら、昔ながらの景観が現在かうして保全されてゐるといふことの意味するものは何であらう。 それがこの邑里に棲まふ人々の、古風で尋常な、奥ゆかしい生得の倫理の現はれであり、詩人の家をひとめぐりする狭い路次を歩きながら、 私はここに暮らす人々の生活を心底羨ましく思ひ、こんな地をふるさとに持った詩人の、豊かな心を思ったのだった。 おばあちゃんが相槌を打つ。

「さうでせう。いいでせう。」

その言葉に、故郷を「文化財」として誇るといふ響きが些かも感じられなかった。

永松寺山門 永松寺山門。

 生家をあとにしてさらに村のなかを歩いて行くと、かしこに梅木や南天の赤い実が目を引いた。 詩人がその郷土詩集に綴った処の、まことにわびさびた風景そのままだ。 詩集「鯤」のなかで故郷の象徴のやうに描かれた禅刹にも立ち寄った。墓地分譲のために山を拓くでなく、山門は古びるままに、庭は落葉を掃き清められて、 堂宇には賽銭箱さへ見当たらない。今も清貧を尊ぶ老僧がひっそり隠棲してゐるかのやうに。 詩人がこの地に少年時代を過ごした時と全く同じまま、このささやかな寺もあるかのやうだった。 山門の傍らに並ぶ石仏の中に、半跏思惟像がぽつねんと雨曝しになってゐた。 おそらくは詩人の記憶にもある筈の一体。ここでは見るものふれるもの全てが過去に一直線に繋がってゆくことを、腰を屈め、 はしなくも目線を合はせた仏像が私に語りかける。「然り、橋本健吉は故郷を出奔。而して未だ帰らざる」と。

半跏思惟像 半跏思惟像。 朝熊山山稜 朝熊山山稜。


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