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かとう ちはる【加藤千晴(平治)】『詩集宣告』1942


詩集宣告

詩集 宣告

加藤千晴 第一詩集

昭和17年5月1日 現代社(京都)刊

99p 18.7×13.0cm 上製 \1.35

国立国会図書館所蔵


見返し  扉(臼井喜之助宛献呈) 扉  中扉  

   序 1  2  3  4

 津田君
 僕の詩集には、この手紙を序文にして下さい。これが最も適切だと思ふから。
いろいろと言ひたいことも多いのだが、何よりも先づ、君自身の数々の現實問
題や心の苦悩にもかかはらず、多くの心勞と時間とをこの詩集のためにさいて
くれて、全く赤手空拳、あらゆる困難とたたかってくれた君に對する感謝を述
べなければならない。だが、それをどうして筆舌に盡すことが出来よう。アメ
リカとイギリスに對する宣戰が布告されたので、僕が詩集の上梓を見合せても
よいといふ意見を電話した時の君の忠告はどんなに心を打ったことであらう。
成程、文學を机上の遊戯としないものにとっては、今こそ自分の裡に掴み取っ
た眞實を、愛する大地へ、故郷へ、投げつける時なのであらう。時代の激情は、
人々の生活に大きな嵐を生起し、人々は心の根據の荒寥におののいてゐるのだ。

加藤千晴

今は、人々は眞實に目覚めて、身輕にならねばならない時だ。
 思へば長い間、われわれは苦しい生活に喘いで来たものだ。殆んどわけの分
らない重苦しい壓迫であった。偽善と衒學に操られ、限りない虚化不實の中に、
われわれの青春と理想とを無駄にしてしまったのだ。僕も今では頭の霜を思ふ
やうになったのはさびしい。そして、そのさびしさを、今ここに得たこの貧し
い詩集が幾分なぐさめて呉れるのだ。人知れず、かれこれ二十年の間、僕は文
學を愛して来た。しかし世上の文學は商業主義に毒され、モラルを持たず、忌
むべき世相を反映する暗黒時代の中にあった。それは生活の根柢を離れ、空々
しい感傷の遊戯に過ぎなかった。僕は文學する情熱も涸れ、屡々絶望してしま
つた。そしてただ孤獨に、やるかたない精神を空しく悲歌してゐた。僕が生命
を感じ、精神の生活を知ったのは詩においてであり、詩は意志を以て深く自己
の内奥から汲まれなければならなかった。
 僕にとって、詩は最後の道であった。追ひつめられて行き當った血路であっ
た。ここにのみ僕は許され、ここにのみ僕は救はれるのだ。これは僕の運命で
あった。僕の疲れ果てた身も心も、詩の中で再び燃えた。僕の一切の不幸も詩
の中で歡喜を生んだ。何故なら詩は眞實であるからだ。それこそモラルである
ものだ。それこそ秩序への方向だ。僕の生活はそこに建てられ、この駑馬の精
神を駆るものは詩のきびしい鞭だけである。
 友よ、時代は壮絶を極める。夜が明けるのだ。嵐だ。嵐だ。長い虚妄の歴史
が過ぎて行くのだ。新しい生活のために、すべてが身悶へる。われわれの生存
の間に起りさうもないと思はれたことが現に来たのだ。われわれは生きること
が出来るし、また生きねばならない。古い幻影をかなぐり捨てて、人々は身ぐ
るみ嵐の中に立つだらう。
 このささやかな詩集が、折しもかうした転換期に生れ出ることは、僕らにと
つて深い意義を持つであらう。僕らの路は今後もなほ蕭殺として嶮しいこと
であらうが、僕らの意熟が一層高まる時、人間生活への探求の道すがら、この
詩集は思ひ出深い記念になることだらう。ほんとに長い間、僕らは堪へて来た
のだ。屈辱や悲哀にさいなまれ、生活に憧憬れ、秩序を求めて苦悩して来た。
 僕らは今、時代の偉大なる情熱を感じてゐる。秩序、秩序。このもののため
にあんなにも僕らも苦しみたたかったではないか。世路に迷ひ孤怨に日を送る
僕も、今は心貧しく生きることが樂しい。そして、黒い紙で被ったラムプの下
で、この手紙を書きながらも、殆んど涙ぐましいほどにも深い深い感動を覚え
てゐる。

  昭和十六年十二月
                      加藤千晴

目次    

T 石をたたく


 冬の歌

出て行かう 出て行かう
風の鳴つてゐるところに
窓も扉もやぶれてしまふ
行きくれて佇むものよ
くらい嵐のなかに立て

古い戸棚や抽斗のなかで
誰かがわたしを呼んでゐる
何といふ親しげな聲だらう
しかしわたしは行かねばならない
親しい聲よ 左様なら


出て行かう 出て行かう 心を決めて 別れを告げて
花も葉もない樹々でさへ
土にその根を護るものを
わたしの胸には何があらう

出て行かう 出て行かう
風の鳴つてゐるところに
あなたの胸に火をつけて
わたしの胸に火をつけて
くらい嵐のなかを行かう


 祈り 1

世の中の人たちが
私にをしへてくれたことは
みんな嘘でした
みんなつまらないことでした
神さま
私はあなただけをたよります
あなたは何も言はないから

人間に言葉を禁じて下さい
かれらの言ふことは非道いことです


その言葉が悪いゆえに
あのやうに人間がみにくく汚れ
鬼のやうなものになつたのです

神さま
人間を救つて下さい
かれらがよい言葉を言ふやうにして下さい
神さま
私のねがひをきいて下さい

 祈り 2


私が字を書き本を讀み
世間に心をゆるさぬゆえに
私の妻と私の娘は
私の偉大であることを信じながら
しつかにごはんをたべてゐる

神さま
私をゆるして下さい
そのしほらしいたましひたちに
何のよろこびも齎らさない
やくざなものをゆるして下さい
小さな燈の下で
ごはんをたべる人たちに
お菜やお魚をたべる人たちに


もつとよい日をあたへて下さい

神さま
私に弓と矢をさづけて下さい
小さな燈のまはりには
大きな闇がひろがつてゐて
あの暗い山々や谷のあたりには
どんな恐しいものがゐるか知れません

神さま
小さな燈の下にゐる
かよわいものを救つて下さい
いはれのない私の生ゆえに
私のそばでごはんをたべる人たちに
かはらぬ愛をそそいで下さい
私もかれらの幸をねがひ
はげしく泣くでありませう

 地 球


われわれがその上に棲んでゐる地球は
空に投げた鞠のやうなものだといふが
友よ こんなせつないことがあらうか

男と女が愛しあつて
こんなに世の中はにぎやかだけれど
雌のかまきりが雄のかまきりを食べるのだ

地球が一ぺんまはつたからと言つて
どうして眼をさまさなければならないのか
ああ 仕事がいそがしい 仕事がいそがしい

 哀 歌


お茶をのみ 煙草をのみ
かうして私は死ぬだらう
いつたい何杯のお茶と何本の煙草を
私はのんだことだらう
おお 悔いのために泣かねばならない

人間といふ奇妙なものに生れて
氣むづかしげに生きてゐる
いかほど心をくだいても
この愚かしさ この惨めさ
名もない昆蟲にもおよばない

かうして私が泣くときでも
誰がなぐさめてくれるといふのか
多くのものが私を嗤ひ
やさしいものは来てくれない
やさしいものは来てくれない

 石をたたく


石をたたいても
石をたたいても
どんなあとがのこるのだ
石をたたいても
石をたたいても
つかれてたふれてしまふだけだ
石はかたく
石はつれなく
つめたくむごいかたまりだ

かなしいさだめをなきながら
石をたたいてゐるものよ
そのおそろしいかたまりを
そのいぶかしいなきがらを
むなしくたたいてゐるものよ

 石


石よ

幾千年のながい嵐に

おまへは何を夢みたか

 霜 夜

霜のふるさむい夜更
眼がさめたら
おれの眼に涙があふれてる
へんにせつない夢をみたんだ
おれは夢のなかで
小説を讀んでたんだ
高雅なフランス語の小説だつたよ


男と女の別れなんだ
行つてしまふ男の靴の音を
女はだまつてきいてゐる
それがひどくせつないんだ
さう さう
こんな文句があつたわい
 Nous y vivrons la- bas,             あそこで暮らそう
 tous les deux…                    二人でともに…
おれの胸のなかで
この字がまだ鼓動してるんだ
夢といふやつは
ほんとのことよりもつとほんとだな
おれはきりぎりすのやうにせつないよ
ああ 仕方がない
ころもかたしきひとりかも寢よう

 戀慕の歌


   1

いとしいものよ
世智を捨ていのちに生きよ
いのちこそは燃えるもの
いのちこそは望むもの
ああ いとしいものよ
世智を捨ていのちに生きて
かぎりない寛容の世界に行かう
おぞましい世智の沼には
穢れと恥ぢが泡立つてゐる
いとしいものよ
その胸を その心を
世智の汚れにそめてはならない


ひたすらにいのちに生きて
ひたすらに燃えて望めよ
ためらふことなく おそれることなく
さあ いとしいものよ
眼をあげて
手をさしのべて
ひろいひろい愛の大空に
雲のやうに流れて行かう

   2

何といふみじめなことだ
あなたはそんなに遠くにゐる
私の足はうごかない
手もとどかないし
聲もきこえないらしい
それに闇がせまつてくるのだ
いとしい姿がうすれてゆく
ああ
おそろしく強いカで
この石のやうな空間をうち碎け


   3

私は愛のためにたたかふだらう
あなたの中の世の中とたたかふだらう
私はそれをほろぼさねばならない
さうしたときにこそ
あなたは私のものになるだらう
そして私をやすらかにしてくれるだらう

U 皿

 皿


皿を洗へ

けふは何をもりしや

あすはまた何をもるべき

皿を洗へ 皿を洗へ

 心 景

たちまよふは叡智の息吹
秩序の絃のふるへかそけく
翳(かげり)ふかきこの教養の朝


ゆるやかにゆるやかに生命は沸り
思慕の花いまほぐれんとして
見よ
慈愛の雲なびきたる
きよらけき理性の空に
希求の鷲の翔けりゆくを

 麥 畠

麥畠 麥畠
生きてわれ
ふたたびかかる日に逢ひぬ
五月の空の青ければ
かぐはしき風のわたれば
麥畠 光に醉ひてそよぐぞかし


委畠 麥畠
ああ とことはに
われ生きて
いつさいの苦患をはなれ
光のなかに歌はばや
み空なる鳥のごとくに
ひたぶるに
ひたぶるに 歡びの歌うたはばや

 荷 車


荷車を曳くものあり
黄昏のなかにたどたどと
軌るその音の佗びしきかな
これやこの人間の勞苦の軌り
聽かずや あはれ
かそかにも心のそこに
いともにぶくいともたゆげに軌りゆく
わが生の重き荷車の音

 花辨のごとく


こぼれ散る花辨のごとく
われ悲しみの歌をうたひぬ

光のなかに咲きかがやきし
そのかみの情熱の日を歌ひつつ
執着の床より散りて消ゆる花辨
汝 そも何を識り得しや

ああ われ夢に老いんとして
胸に散りにし花辨のいくばくなる

 鴨 川

その流れ紅燈のかずを映したれども


湛へしはただ憂悶の色ならずや
その流れ絃歌のひびきをつたふれども
身にしむはただ悲愁の風ならずや
誰か知る 鴨川の水
そもいくばくの涙と夢を流し去りしや
時は夢 情は夢と
流れてつきぬ哀怨の川
さりながら つきせぬは流れのみかは
あはれ まことも いつはりも
ただうたかたと知るや知らずや
果て知らぬ愛惜の川 堰くすべもなし


 初 秋

われ憂愁の床に覚めて
窓に初秋の知るきを見る
流離の夢をかへりみれば
わが失ひしものいくばくぞ
蟲のね嫋々と胸をうちて
人の思ひはせつなきかな
あはれ空の日の情熱は
雲の行方か 水の行方か


 生 活

われ星空の下にありて
遠き沙漠を想ひしが
わが生活は宿命の壁に
貧しき洋燈を掛けたるのみ
ひとり寂寥の爐を燃やし
われは巷に老いゆくか
ああ いづちよりいづちへ過ぐる
わが胸にとよむ潮騒

 壁

永く空しき「時」に向ひて
色あせし壁に残りたる


年ふりし汚点こそかなしけれ
記憶の滓によごれたる
わが倦み果てし心にも似て

 わが心極北に棲む

都大路をわれは往けど
女の胸にわれは眠れど
わが心極北に棲む
呼べどなほ遠くさかりて
わが心ほのかに翔くる
峻峭たる氷山のほとり
寂寥の竈は燃えたるなり

 鶯


なにゆえにわれ
かの山かげにのがれたりけん
はげしき夏の日ざかりに
生くるすべなく思ほえて
くるほしくかの山かげにのがれしに
岩間つたひて水はしり
樹々はわれをあはれむごとく
もくもくとしてうなだれたりしが
いづくにか鶯の
たからかに啼きたりけり
天日燃えてはげしき夏
あはれそも何に堪へてか
あめつちにひとりひびきし
かの鶯のたかきさへずり


わが胸をこそ搖りにけれ
かくてわれ
生きがたきをも生きたりしが
鶯よ
囁けよかし いまさらに
わがむなぬちに塒して
かなしめる心をよびて
啼けよかし 啼けよかし
あめつちもつらぬけよかし

V 宣告

 宣 告


僕らは宣告されたのだ
 「おまへは亡びる」と
何もかも明白になつてきた
僕らの一挙手一投足は
いかに間違ひだらけのものだらう
だがしかし
悠々として雲は流れる
ああ 美しい日よ
僕らはこんなにすがすがしい
さあ どんどん行かう

 毀れた玩具


窓の下に棄てられて
雨だれに朽ちようとしてゐる
毀れた玩具
重い空氣の間に摺り減つた
むざんな生活の形見である
おお 悔恨と悲憤の夢を吐いて
永劫の彼方に消えよ
その意味なき哀樂の屑

 雨

夢に疲れた私の心に
しとしとと沁み入る雨よ
過ぎゆく夏の悔恨に泣くのか
すべての夢をなげうつて
私にも泣けといざなふのか


私は疲れた
私は病んだ

雨よ 雨よ
夏のをはりのかなしい雨よ
ただしとしとと心に泌みよ
忘却のしづかな眠りのなかに
母のやうにこの身を搖れよ
私は疲れた
私は病んだ

雨よ 雨よ
しとしととけふ降る雨よ
あすからは如何に生きよう


ああ 偉人の手のやうに
この病熱の胸をやさしく撫でよ

夢に疲れた私の心に
雨よ しとしとと泌み入れよ

 夜あけ

時は私をふりすてる

歴史のやうに無感情に
おまへは操られた頁にすぎない
私は「今日」に投げ出された

街 燈

たそがれに悩む街路に
びつくりさせて街燈がつく


あをざめた心の街路にも
ぶつきらぼうに街燈がつく

 時 計

時計が止つてゐる
おそろしい

時計が動いてゐる
おそろしい

 室 内


黄昏の窓に身を焦せて
水のやうな空をあふぐ
女よ そんなにも寂しいか
硝子鉢のなかの金魚のやうに

部屋によどんだ悒傷の闇に
蒼い裸身は浮彫される
ああ どんなに歡びを希つても
海を皿には盛られようか

 星


夏の夜更に
暗い窓にならんで
世の中のことを語りあつたが
それはくだらないことだと氣がついた
暑くるしい夜空に
星がちらちらと見えたが
星はおれの胸にとびこんで来た
世の中に愛なんてあるものか
おまへも星をひとつ呑むがいい

 月明の下で

僕が月明の下を歩いたとき
人家は水底の岩のやうに
まつくろにうづくまり


すれちがふ人のさまは
魚のやうな寂しさであつた

月はあざわらふ妖婦のやうに
雲の面紗のかげから
誘惑の絲を投げちらしてゐた

僕の歩いてゐる路は
どこまで行つてもつづいてゐて
花苑のそばを行くときには
はげしく百合のにほひもした


僕は月明の下を歩き
貝殻のやうにだまつてゐる
家々の内部を想つたが
そこはみだらな吸盤であつて
うすきたない襤褸をしやぶつてゐた

きこえないやうな音樂が
水のやうな青い世界に
僕をつれて行つた
僕はそこでのびのびと泳いだ
どんな高いところへも昇つて行つた

僕は月明の下で
とうとう僕を見失つた

 雨夜の愁ひ


つめたい冬の両が
今宵あらゆるものを濡らすだらう
あらゆるものはつめたく顫へるだらう
あたたかいものは たつたひとつ
僕の寢床
今宵もまた いつものやうに
おのおのの眠りを眠るだらう
あのきよらかな少女たち
あなたたちもいつかは
天使のやうな赤んぼを生むだらう
そして赤んぼの可愛らしさは
あなたたちを氣ちがひのやうにするだらう
きよらかな少女が
天使のやうな赤んぼを生むといふのは
かくべつ變つたことではないけれども
そんなありきたりのものの道理が


このつめたい雨の夜には
僕の寢床を釜のやうに熱くするのだ
こんなすばらしい思ひだけで
僕の人生はたくさんだといふのに
蟇口のやうに自分の心をぴちんと閉めて
仔細らしく鞄をかかへて歩く男が
どうして僕でなければならぬのだらう
ああ あの路のまがりかどでは
葉の脱ちた街路樹が
凍え死なうとしてゐるだらう

しかし しかし
このつめたい冬の雨が
このあらゆるものを濡らす雨が
いつたい誰の涙だといふのだらう

 流れに寄せて


流れのそばで
娘は花を摘み
私は草の上に寢る
白い花をいつぱい盛つた
灌木の疏林のなか
春の日は
空も水も光にふくらみ
平和の歌をうたつてゐる

むかしの女よ
娘の年よりも古いむかし
この同じ流れのそばで
私たちは別れた
かりそめの
逢ひと別れをかなしんで
二人はかたく抱き合つた


そして あのとき
この流れに
おまへの流す笹舟が
いくつもいくつも消えて行つた
ああ 時は夢なるかな

花を摘んでゐる娘よ
おまへの毎日の幸福を
私はこんなにも希ふのだが
白い花が咲きみだれ


空も水もかがやいてゐる
こんなにも樂しい日が
いつまたおまへに訪れよう
ああ 流れて行く 流れて行く
あの日も この日も
行方も知らず流れて行く

そして そして
春の流れよ
おまへは何をささやくのか
かうして靜かに
いつまでも いつまでも
おまへは何をささやくのか

W 詩のよろこび


 うらぶれ

この足が敷石を踏むときでも
この手が吊革を把るときでも
どうして人の世のうらぶれに
にがい涙をとどめ得よう
ながい無爲の月日も流れて行つたが
天使のすがたは見たこともない
ああ 月の出てゐる風景でさへ
版画のやうにさびれてしまつた

 嘘


二人が結婚したとき
若い二人は
自分たちは乞食になつてもいいと言つた
そして彼らもまた 他人と同じやうに
年をとり やがて死ぬのだと考へたときに
二人は泣いた
だが それは嘘であつた
あんなにも眞實な心で二人は嘘をついたのだ

 夜


あかりを消して
寢床にはいると
部屋はまつくらになり
ひつそりとなる
そのとき
時計の音と僕の心臟だけが
かすかにひびきあふ
それらはひそひそ話をはじめる
僕をそつちのけにして
のべつにめんめんとやつてゐる
何をそんなに語りあふのか
僕にも分らない


 感 興

星を見れば
僕の心はこなごなになる

どこかの處女よ
僕を救つてくれ

幾何學の定理が
僕を絞め殺さうとするのだ

 幻 映


何處なのだらう
何時なのだらう

あなたが立つてゐる
まつたき裸身で
まつたき自由さで
恍惚としてゐる
あなただけが存在して
ただ輝きわたつてゐる
まつたき飽滿のなかに
まつたき靜寂のなかに

 詩のよろこび


あんなときでも
僕はよろこんだ
このたはけた犬め

詩のよろこびは
僕を八つ裂きにするだらう

死を夢みた野獸のやうに
僕は誰も知らないところに行かう

 宝 石


宝石を探し
青石を磨き
愛するものにささげる
人類のただひとつの情熱

夢と涙が凝固して
歡喜と陶醉に結晶した
宝石 おお 掌の星
人類のただひとつの慾望

 運 命

いつの頃か
日光が僕をあたためたとき


僕の中にひとつの植物が萌芽した
ながい年月
僕は部屋に閉ぢこもり
その不思議な植物とともに暮した
それは見事に葉を繁らせ
あでやかに花を咲かせ
時にははなはだしく匂つたりした
僕はその葉の毒にたふれ
その花の匂ひに氣を失つた
僕の涙で
その茎はふとり
その根は強くなつて行つたが
僕は弱り果てて
もう部屋を出る力もなくなつてしまつた

 心

空氣のなかに溶けこまねばならぬ
あらゆる物體に浸透して
まつしぐらに進まねばならぬ
氣が遠くなるほども際限なく
どこまでも分解しなければならぬ


どこにも達し どこにも居るために
さんらんとして碎けねばならぬ

人 生

   1

 何處かに波の音がしてゐたのかしら
あたたかい砂の上であつた おそらく宇
宙のなかにあるものは おそろしくやは
らかい時間と温度と そして僕らだけな
のだらう 僕はあなたの膝にもたれて
胸のピアノに単丁調な音階をたどつてゐた
 何度も繰りかへし 繰りかへし……
あまりの愛に言葉もなく ただ許し合ひ
あはれみ合ひ ほとんど何も感じないや
うな世界に 二人は居たのだ 何時まで
ともなく


   2

空間を區切つた壁のなかに 僕は木材
の卓に對つてゐた 窓にはさびれ果てた
景色が見えて それが恐しい遠さを示し
てゐた 僕の前には皿があつて 皿の上
には一片の肉があつた その肉の影響か
ら 重苦しいものを感じて 僕は誰かを
呼ばうとする しかし誰も居ないのだ
母も 愛する女も 彼女たちは居ないの
だが 彼女たちの眼が そのとき何處か


らか僕を觀た もう仕方がない 僕はこ
の肉を食はねばならぬ ああ愛するもの
よ 裏切られ 辱しめられて 彼女たち
は何處かへ行つてしまつたのだ このひ
どく悲しい肉片を僕に與へて──



詩集『宣告』への言葉(全)(加藤千晴詩集刊行会発行)

2004.9.19開催の「加藤千晴詩集出版記念会」に於いて、資料として配布されたものを補綴。

萩原朔太郎
君の詩の透明にして純一なる、「荷車」等なかなか傑作と存じます。

三好達治
御家集「宣告」小生共までお見せ下され深謝仕り候。一巻を貫流する詩趣詩魂、頗る同感に耐へず候。折角御精進願上侯。

伊吹武彦
いま手に取ったばかりですが、題や表紙から、何かジャンセニスト的な厳しいものを感じます。印刷もいいし、紙も当節にしては上等です。(これ が昔だつたら・・・と悔まれますが、) ご苦心の作、拝見したものや、しないのや、御精進のあと、ゆつくり拝読します。あなたを等持院のラフオルグといつてはいけませんか。

丸山 薫
貴詩「宣告」を頂きました。これは近頃めづらしく智恵の實の熟れた詩泉です。大変愛讀出来そうです。いづれ四季にも書いていだだきませう。

竹村俊郎
ご高著拝読、真摯人を撃つもの有之、感銘致され侯。益々御精進御祈り申上候

高橋新吉
詩集「宣告」御送り下され拝見しました。「石をたたく」の分だけ全部よみました。あとはその中に拝見するつもりです。あの分だけの感想を言へ ば、中々好い詩があります。 貴君の思想はキリスト教的なものではないかと思つたりしました。折角御精励の程祈ります。ちよつと御礼言上まで。金剛佐智子と云ふ女の詩人が 京都にゐますが知つてゐますか。

伊東静雄
先日は御高著と鄭重な御葉書いただいてゐながら、恰度病臥中にて、お礼も申さず甚だ失礼いたしました。只今床上にて御詩拝見いたしをるところ であります。 しかし頭脳全く生気なく、到底責任ある感想申し上げられさうにありません。只詩句の柔軟さははつきり印象いたしました。又後日、何か感ずるこ とありましたら申述べたいと存じます。 京都は大学生のときゐて、なつかしくありますが、一向に行く機会もありません。もし大阪にでもおいでの折にはお立ちより下さい。

竹中 郁
御高著拝受。有りがたう存じました。素直な表現もいいと存じました。

古田宗司
御著「宣告」拝見しました。あなた自身の言葉をさぐり当ててゐられることがわかります。しかし堂々まはりをしてゐてはいけないと思ふ。足ふみ は禁物です。 もっと前へ出なければいけません。全身で出発しなければいけません。もつと大膽でなければいかんと思ふ。

野間口鐡子(旧姓加藤)
詩集「宣告」を二冊頂戴いたしました。私の只今おつき合いしてゐる友達にもお目にかけたいと思って居ります。みんないい子持ちであり、また立 派な奥さまになつてをられてをりますので、 なかなか行ったり来たりも出来かねてゐますが、でもみんなやさしい方々ですから。
 私は兄上さまの詩集を紅薔薇の咲いた庭で、一人子供たちから離れて読み、一人涙にくれました。あれやこれやと、悲しいことや苦しいことが思 い出され、考へられ、 俗っぽい女であり母である私には、ただ可憐な千草ちやんの姿を思い浮べて泣けてくるのです。こんなつまらない私などでも母であれば、 子供たちは私の座つてゐる部屋をこよなくあたたかい處と思ひ、安心しきつて遊び、外で悲しいことがあつても、泣いて帰って告げればそれで済ん でしまふ子供。 千草ちやんはどうして居られるのかしら。外でいぢめられたらどうするのかしら。下らない愚痴をお笑い下さい。小さくして死んで行つた私のサー 坊などは、まだまだ仕合せな子供でございました。 しかし、お兄さま、よくこそ詩を書いてゐて下さいます。本当に有難うと申上げます。

佐藤春夫
御高著正に拝受御礼申しあげます。然るところ生憎と取込中にて未だ精讀致さず、不用意に管見申上てもいかがかと存じますのでさしひかへます。 そのうちゆるゆる拝読仕り度、
右拝受の御禮のみ。

京大新聞新刊紹介欄
宣告(加藤千晴)著
「宝石をさがし、宝石をみがき、愛するものにささげる、人類のただひとつの情熱」
これが加藤氏の詩だ。私は毎晩この本を枕もとに置いてねる。さうして朝のめざめに一章づつ声高く讀んでみる。何か生きることが楽しいやうだ。 (現代社発行、一円三十五銭)

千家元麿
詩集「宣告」御送り頂いて楽しく拝見して居ります。「麦畠」「鴨川」等、好い詩と思ひます。どの詩も美しく人の心を感動させる力があると思ひ ます。ゆつくり拝見したく思ひます。 御送りくださつたのを感謝します。御元気で御精進を祈ります。

田中冬二
御高著「宣告」を戴き御礼も申上げません中に日がたつて了ひました。何か小感でも併せて申上げ度思つてゐた處です。御作品中「冬の歌」「鴬」 のやうなもの、 「麦畠」のやうなものの中に、貴君の詩精神が生きてゐるセ思ひました。「皿」「時計」「夜明け」のやうな短いものは、出来不出来によつて格段 の結果を生じます。

高森文夫
貴方は小生の荒涼とした時間のなかに、まるで天恵のやうに温かく幸福な時間、この世において最も貴重な有難いものを贈って下さいました。貴方 の詩の底流をなし、肌理をこまかくし、 頑な心をも疲れた胸をも打つモラルこそ、我々世代の詩人達が失つてゐる、それ故にその恢復を願ってゐる最も貴重なもののやうに小生には思はれ ます。何卒ご自愛下さい。 そして貴方御自身のためばかりでなく、我々のためにも詩を書いて下さるやう意志して下さい。小生は衷心よりそれをお願ひする者の一人です。

杉山平一
詩集「宣告」をお送り下さいまして洵に有難うございました。お名前は何かで拝見して記憶いたしてをります。
 御序文を含めまして全編人生的な命題に向つて投げられてある熱情に持たれるものがございました。私は「祈り二」を涙ぐましい感銘を以って拝 領いたしました。 「皿」「荷車」も好きであります。「毀れた玩具」や雨の詩などもよいと存じました。自分の好みであります。
 益々お元気に静作あらんことを祈り上げてをります。

塚山勇三
貴方の詩にはどこかくらさがあることを僕は感じました。その暗さを不自然なものとは思ひませんでした。それは真実のランプが燃えて心像に生ず るかげ、 さう云つたものと思つたからです。ランプが燃えれば燃える程、かげは濃くなるからです。いま読み終ってこんなことを特につよく感じました。

入山雄一(津田賢一郎氏宛)
先日は加藤氏の詩集ありがたく拝受、毎夜枕もとにおいて、朝のめざめに一章づつよんでよろこんでおります。近ごろよき詩に接する機会が少なか つたので、よけい感心させられております。 私のこのみからは、「祈り 二」「石をたたく」「石」「皿」「麦畠」などが好きですが、ほんとにどれもこれもよい詩です。
昨夜の編輯会議で加藤氏の詩をこちらの新聞で世間に紹介することにきめておきましたから、まことに恐れ入りますが、来る二十七日 (土)午前 中に、 近作一、二(未発表のもの)十四字詰二十行か三十行、貴兄のお手もとまでもらつておいて下さいませんか。七月五日号にのせるつもりですが、 すでに竹中郁氏に頼んだのが出来る頃なので、もしそれが来たらも一号あとになるかも知れません。まづは当用のみお願ひまで
  日曜のあさ 編輯室の一隅にて

市原一郎
「宣告」の中なる愛諦の一句一句、まこと心眼をしばたたき乍らひもとくものは郷土に自分一人であることが憚りながら自負されます。海が荒れる と空に鴎の啼く声がします。 昔のことが思ひ出されてなりません。何の屈託もなげに、あの長坂の松林や、砂邱や、日本海の波打際を散歩し、相語り、絵をものせんとした事ど もが。

平田内蔵吉
留守中に頂いた貴詩集『宣告』只今有難く読ませていただきました。
「月明の下で」などよく私に解る詩です。この詩集を頂いた頃は、僕は氷の中で守備をしていたのですが、今、東京の夏の夜を静かにこの書に対し て、心澄むものがあります。
 「詩のよろこび」や、「宝石」、といふ詩も良い詩ですね。貴君の詩業の醇一を遥かに祈ってやみません。大変遅れたわけですが、ここに厚く御 礼まで。

大木 實
御高著『宣告』ご恵送くださいまして有難うぞんじました。
お葉書をいただいた昨日、丁度、丸山さんがお見えになり、お噂さなどいたしました。
 ご精進を陰ながらお祈りもうしあげます。

春山行夫
詩集『宣告』を有難う存じました。よきご精進を祈ります。

佐々木房子
 御高著わざわざ私にまでご恵贈下され、有難く御礼申し上げます。
 のびやかな気持ちで拝詣できそうな御本で、ゆるゆる味はせていただくのを楽しみにしております。兄に見せてからなど考えておりますうち、御 礼がたいへん遅くなり、お許しくださいませ。

 金剛サチ
 (上略)
 日々の生活がしっくりと詩の中にとけこんで、営みの板についた落ちつきを思はしてくれました。随分長らくこの道には御精進かと伺へます。人 の世のいろいろの面に衝突し、 純粋に立ちむかふ為には、実に大いなる精神力と何ものにもたたきのめされない清らかさが必要であると信じます。作者があくまで純粋な気持ちで 生き抜かんとしての努力は、 実に丹念にしかも血みどろの思ひを秘めた寂しさで流してゆかれる点、その人間性に敬服させられるものが多くありまして、 特に「祈り二」には幕末勤皇志士橘曙見の生活の風貌を見うけることが出来ます。とにかく「石をたたく」には、いたましいまでに作者の生活の染 み透り、そのかなしき必死のいとなみに、 闘の方策のすべてをかたむけてゐる身がまへが、澄んだフォルムの下に燃え上らんとして、燻煙を上らしてゐる感が致します。 「二、皿」 「三、宣告」「四、詩のよろこび」には、皮肉と虚無のいたいたしく作者の胸をついてゐる息吹をはつきり汲みとることが出来ます。 しかし「皿」にはまだ余裕を見ることはできます。 これは作者の必死になつて純粋なるものにすがりつかんとして更に進めど進めど、身にあまる苦悶のかずかずにやるかたなく「鶯」にもとめ「極北 に棲み」、 憂愁「初秋」 に雲水の行方を追ひ、皿を洗はんとして逡巡、洗へ洗へと我に叫んでゐるのでありませう。それが「宣告」以後になりますと、随分 ニヒルを感じることが出来ます。 「宣告」以後の詩の最後には殆んど虚無的な言葉で終止されてゐることによっても作者の心情の那辺にあるやを考へることが出来るのであります。 しかしこれは虚無の意味を充分研究してみなければなりませんが、我身をほうり出してのデカダンより来る虚無ではなくして、すべていとなみにゆ きづまり、苦しみやるかたなき時、 作者の頭には、新に柔い思出が、美しい空想が湧く。それは乳房にかへる子供のやうにわすれがたいものである。しかし一度現実の谷につき落され んとした時、 そこにそばだつは苦悶のかずかずでなければならない。純粋をまさぐらんとして到達し得ず、此處においてニヒルの世界に脱れようとするのではな からうか。 「宣告」以後の作者の行き方を、私はそんな風に考へてみるので御座います。
 しかし、しみじみと読ませてくれる作者の匂ひと味の至るところににじみ出てゐる御詩集と存じます。そのレトリックの上にて多少疑問の点もご ざいましたが、 これなどさして問題ではなからうかと存じます。(下略)

山本修二
 美しい詩集を頂戴し有難う。詩は僕には苦手ですが、御序文を読んでこの本の成り立ちを知り、そうして御詩作に向かいますと、何か非常に素直 な純粋なものが僕の心に迫り、 久しぶりで貴方とお話をしていた一時が思い出されました。

相原信作
御詩集、本日頂きました。まだ拝見していませんが、中々御真情のこもったもののようですね。
ご精進を御祈り申し上げます。

馬渕美意子
思いがけないお手紙と御本と、それにお名前も変わつていたりして、びっくりしながら御懐かしく拝見いたしておりました。十年の間には本当に 色々のことがあるもので御座いますね。
一足飛びに何を書いたらいいのか分からなくなつてしまいます。実は私、すっかりこの頃弱つていて、お手紙と、 贈ってくださいました御本とに早速直ぐにも手紙を書きましょうとおもいながら、落ち着いてそれをする時間が有りませんでした。(中略)
 御詩とお手紙で、あなたの御生活がわかるように存じます。そして批評を書けとおつしゃいますが、私は詩とゆうものに首を突っ込んでまだ三年 ぐらいにしかなりません。 それにどうしてそんな大それたことが出来るでしょう。(中略)
 私も、一旦詩に手を染めたからには、何かそのような意味で自分も無為でありたくないと思っております。またそのような所に貴方を置いて期待 いたしますことをお許しくださいまし。
 お子腰ももう学校にいらつしやるので御座いましょう。何か、遠くからでも、わかるものがあるように存じます。
 どうぞ、何よりも御父子が御健康でおありになるように祈ります。

相良徳三
 先日は詩集『宣告』御恵贈に預かり多謝仕ります。漸く小閑を得て一読しました。大変結構に存じます。特に第二部に収められた数篇が珠玉のよ うに感じられました。
 先ずは馳駆乍ら右御礼まで。

岸田国士 (大政翼賛会文化部長としての挨拶状)
 謹啓 愈愈ご隆昌の段慶賀の至乃に存じます。
早速ながら詩集『宣告』ご寄贈くださいまして有難うございました。取り敢えず御礼申し上げます。
 尚、今後とも一層ご協力の程をお願いいたします


※本ページ作成に当たり、加藤千晴詩集刊行会 齊藤智氏より資料提供を賜りました。
  厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



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