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ふかお ひろのすけ【深尾贇之丞】墓碑


1.岐阜市太郎丸 深尾須磨子建立の墓碑(現在は存在しません)  動画

墓碑

裏面

維時大正九年八月二四日午前八時
正七位鉄道技師工学士深尾贇之丞
於岐阜市岐阜病院溘焉長逝齢纔三
十有五鳴呼悲哉            
             妻 須磨子建立

p3

p4  p5

クリックで拡大します。

p6  p8

所在地 地図


2.岐阜市太郎丸 吉祥寺内の墓所

p

(詩人逝去の後、養子となった重義氏により建立)

p4  p2

p1

所在地 地図


 【参考文献】 『深尾須磨子 :女の近代をうたう』逆井尚子著. -- ドメス出版, 2002  「塚の慟哭」44-46pより。

 贇之丞のお墓は二カ所にあった。
 そのひとつ,岐阜市太郎丸字寺下2119吉祥寺にある,土地のことばで引墓(ひきはか)と呼ばれる塚には,深尾重義(深尾家当主)の手によって,贇之丞の遺体を埋めた場所の砂と,須磨子の分骨がいっしょに納められ,表に刻まれたふたりの戒名,

  雙遮院中道自立居士
  桃光院清玉法順大姉 の文字と,裏に刻まれた,

  大正九年八月二十四日深尾贇之丞 三十五歳
  昭和四十九年三月三十一日妻須磨子 八十六歳
 それに重義を加えた,
  昭和五十年五月建立 深尾重義

 の文字が,贇之丞,須磨子,重義三人の緊密なからみを私に否応なく突きつけた。

 それからもうひとつ,岐阜市太郎丸字寺洞1927には,須磨子が建てた埋墓遺体を土葬にしたものというのがあった。
 それを小高い丘の下からふり仰いだとき,私は思わず息をのんだ。
 かなり急な斜面をびっしりおおった群小のお墓を啤睨するように,ひときわ目立つ巨体が頂上に燦然とそびえ立っていたからだ。
 折しも春の彼岸にそなえていちめんに手向けられた色とりどりの草花の何と身にしむ鮮やかさだったことか。また何とはなやぎと哀れさ,充実感と空無感をそれらはただよわせていたことか。
 この〈つわものどもが夢のあと〉をあえぎながら通りぬけ,やっと山の上にたどり着く。碑の表に刻まれた深尾贇之丞之墓の途方もなく大きな文字が,いきなり心に飛び込む。
 それだけではない。裏にまわると,そこにはびっしりと刻まれた文字があって,その奧からは須磨子のこのうえなく密度の高い悲痛な叫びがきこえてくる。

  維時大正九年八月二四日午前八時
  正七位鉄道技師工学士深尾贇之丞
  於岐阜市岐阜病院溘焉長逝齢纔三
  十有五鳴呼悲哉
           妻須磨子建立

 これらふたつの墓のうち,とくに後者の埋墓が,東京に帰ってからもずっと私の心をとらえてはなさなかったことは言うまでもない。

 深尾督(ただし:深尾家平成6年当時当主)の家で,贇之丞の従妹である早川斐子の口から,須磨子が遺産相続の処理のため,一ヵ月ほど太郎丸に滞在した折,親戚の者たちからあまりにも強い憎しみを受けたため,彼女が運ばれてきた食物に毒が入っていると言って,いっさい食べなかったという衝撃的な話をきかされてからは,なおいっそう強く。

 私はすべてを悟った。私に息をのませたあの埋墓,まばゆいまでのオブジェに凝縮されていたものこそ,須磨子の遺産相続を彼女の望んだとおりのものにし,またそれに作って戦りひろげられた凄絶なドラマを,彼女に威信をもってのりきらせた根源のものであったことを。それは夫と一妻との一体性にほかならない。

『深尾須磨子 :女の近代をうたう』逆井尚子著. -- ドメス出版, 2002  「塚の慟哭」44-46pより。

2019年、墓碑が設置場所より吉祥寺内に無縁仏として移動されていることが明らかになりました。


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