(2003.04.28up / 2011.11.17update)
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あおき もじゃく【青木茂若】『雪に埋れた葡萄園』1928【国会図書館未所蔵】


雪に埋れた葡萄園

詩集 雪に埋れた葡萄園

青木茂若 第一詩集(椎之木同人叢書第二篇)

昭和2年12月15日 青木茂若 私刊
(昭和3年8月1日 椎の木社 刊)

7,6,106p 19.5×13.5cm 上製 \1.00

装幀:佐藤俊雄 限定部数不明


見返し    目次 1 2 3  4

序文……百田宗治  1  2  3

  雪に埋れた葡萄園

1 .夕暮
2 .
3 .
4 .
5 .
6 .青木
7 .城山公園
8 .市街の外
9 .垣根
10.初冬の畠
11.生き残れる蝶
12.景色
13.雪に埋れた葡萄園
14.兵士
15.童貞
16.
17.
18.夕湖
19.朝の水田

  薄暮の哀傷

20.薄暮の哀傷
21.静かな家庭
22.
23.
24.納屋
25.独り空の下に
26.秋の扇
27.
28.雪の降る季節
29.
30.暮冬の爐邊
31.生命
32.いばらの実
33.金魚

  花びらのかげ

34.夕暮
35.
36.
37.花弁のかげ
38.
39.山吹
40.冬凍る
41.現実にない海
42.沈默

  閑寂

43.閑寂
44.揺るる花
45.少女
46.松の若葉
47.高原の山峡
48.山の家
49.秋刀魚
50.
51.兵営 1  2

  青い風景

52.土曜の午後 1  2
53.五月の朝 1  2
54.五月の祈念 1  2
55.青い風景 1  2

     柴山晴美  1  2  3  4

  後記   著者  1  2  3

  奥付

※ 該書は初版奥付の上に新しく奥付紙を貼った再販本である。
「日本古書通信」988号(2011年11月号)27p 曽根博義氏「犬も歩けば近代文学資料探索(23)」に本詩集の初版に関する記述あり、該書の貼り奥付を光に透かしてみたところ、初版の奥付が浮き出した。
詩集刊行後まもなく詩人は新潟に転居したので、売れ残った本にいつまでも長野の自宅住所が印刷されてゐるのは具合が悪かったのであらうか。 (2011.11.17 補記)

初版奥付 椎之木同人叢書 第二篇 価一円
       昭和2年12月10日 印刷
       昭和2年12月15日 発行
       著者・発行者   青木茂若 長野県松本市外壽村 
       印刷者       柴橋信利 東京市外板橋町中丸 無名社
       椎の木社(東京市牛込区若松町40) 発売

再販奥付 椎之木同人叢書 第二篇 価一円
       昭和2年12月10日 印刷
       昭和3年 8月 1日 発行
       著者    青木茂若
       発行者 百田宗治
       印刷者 柴橋信利
       発行所 椎の木社(東京市牛込区若松町40)


あおき もじゃく【青木茂若】 あおきしげわか あおきしげなお あおきしげまさ あおきしげよし (1905 〜1929)

コメント:

 著者は日本アルプスに近い信濃大町の山懐に故郷を持ち、また同郷の柴山晴美を詩友に持つ、初期「椎の木」の同人である。 松本中学、松本高校理科卒。
 翌年の昭和4年には著者は没してゐるのだが、私の所蔵本には詩集刊行直前に差し出された葉書が一葉はさまれてあって、 つまりはこの本はその宛先の主の蔵書であった訳だが、この無名青年詩人の晩年の消息を知ることが出来る。
 文面を辿ると、学生時代を彼は東京に送り(そしておそらくは椎の木との関係もその時に出来)、その後郷里の大町へ帰って悶々とした日々を送った後に、 再び新潟の大学で医学への道を歩み出した、といったやうな最近の事情が知れるのであるが、精神上でもひとくぎりのつもりで出した処女詩集を残して、 果たしてその彼に迫った夭折の原因とは一体何だったのだらうか。
 学業の中途で発病、故郷での養生(結核?)が不完全なまま、再び街へ出て無理が祟ったか、病のことはひとつも窺へないから、 あるひは後書きに記されてゐる挿話、「ある少女を喪って虚無的な姿態を備へてきた」といふ心情が関係してのことではないのか、とも案じられる。
 ともあれ跋文を草する柴山晴美の第二詩集「處女地の雪」(昭和5年刊)は、この志半ばに仆れた詩人の霊に捧げられてゐる。 その柴山もあはただしくその年のうちにこの世を去ってゐるのであるから、なんとも儚い思ひをこれらの清純な抒情詩には抱かされる。

葉書     葉書


【参考】

「青木茂若への追憶」 伊藤 和 詩誌「詩人時代」第5巻2号(昭和10年2月号)より

 青木茂若に就いて書くやうに頼まれてみたが、実は今迄青木茂若が亡くなったことすら知らないでゐた程僕と彼の縁は薄かったのである。今になって、 ほう…彼が亡くなってゐたのかと人情的なさびしさが湧いてくる気持で、彼への追憶を書いてみるつもりになったが、詩人としての彼の詩が、どんな傾向のものであったかに就いては、 それもぼくは投書時代の彼を知ってゐるに過ぎないので、亡くなる間際の彼の詩がどうであったかなど慥かなことは解らないので書けない。

 大正十五年頃であったか、田中清一氏の「詩神」が創刊されてそれから後に、「詩神」の準同人に僕が加はった頃、青木茂若も共に準同人であったので、 その頃彼と交際が始まったやうに思ってゐる。その頃の彼はひどく孤独的で寂寥と云ふものを沢山詩の中に書き、僕もまたセンチで恋愛病みたいにアアとか さびしいとか書いたもので甚だこそばゆい感じがするのであるが、彼がときどき手紙で熱心に僕のアアとかさびしいとかのこそばゆい詩を励ましてくれたものであった。 そんな訳で僕にしても彼の詩が好きで、その当時の彼の詩は、云はば性格的に何かしら弱くそして善良な魂の、極めて平坦な風景の如くであり、 彼が後に出版した「雪に埋もれた葡萄園」といふ詩集などには、全くてんめんとして平坦な風景を善良な魂が愛撫し、坐ってゐる彼の体から染み出る如き寂寥を感得される。 その様にして彼はながいこと埋もれたまま、己を愛してゐると云はるべき、つまり時代とづっと離れて、それにも関らず動かうとはしない詩人であるかのやうに思はれてゐた。

 彼が亡くなったのはいつ頃なのか、そして彼の詩が詩集「雪に埋もれた葡萄園」以後どのやうな姿になってゐたか、僕はいつの間にか彼との交際もなくなって、 貧困な生活の苦悶から僕の詩も動転し、詩の限界に就いて初期のセンチメンタルを全く放棄してしまった。僕は詩をアナーキズムの主張から書いてきてゐる。だからと云って今、 青木茂若を追憶するのに、現代の詩に就いての限界云々は書くべきことでもないのであるから、昔の励ましあった気持ちからその当時の彼の詩を古本の中から見つけ出して思ふままに追憶し、 親しみの湧いてくることである。

白雲が谷の空に流れてきて流れ去る暇には
ゆふぐれの輝き星もありありと見えるが
心をゆり心をゆする暗黒を予感して
地より天への階低く
一歩をふみかけながら岸壁に面して何も考へずにゐる。

 これは「秋電のあと」と云ふ詩の中の数行である。暗然としてゐる彼の姿はセンチメタルなものではあるが、岸壁に面して何も考えずにゐるときの忽然 としてゐるときのコツ然としてゐる彼の呼吸がおのづから感じられる。彼の感情はまたおのづから独り爽快を歌ってゐる。「山岳のうた」の中では、次の如く朗らかになってゐる。

朝光は露滴くする白樺にふり
静かに沁みる山気を破る小鳥の朗らかさ

 このやうに彼の書くものは、人からみてまことに平凡きはまる物の中に朗らかであったり、さびしみを感じたりして己れ独りを愛しきってゐたので、 さう云ふ彼の人生観の如きはどこやら腹痛の如く切ないさびしさが沁みてゐる。だから「空を見ると粉雪がふって青い空も見えないこのやうなとき「古びた大きい家の中で白い宮殿の夢を見てゐる」のであったらう。 僕が青木茂若の詩に就いて知ってゐるのは、以上のことだけである。併し乍ら、青木茂若が詩人として立派であったかどうかは、詩集「雪に埋もれた葡萄園」以後は知らず以前に於ては投書時代に属する頃なので、 平凡な風景が然も親しみ易く眼前に日光に暖まってゐるのを眺める如く僕は、彼の平凡な境地を克明な感情で歌っては既に風格を成しつつあった投書時代の姿をねんごろな気持で眺めた。

 青木茂若の追憶に就いては、縁の薄い僕などよりも、もっと親しく彼の生活なり且つ亡くなる間際の彼の詩を知るものがある筈である。 なにしろ青木茂若に就いては彼が亡くなったことも知らずながいこと忘れ過ぎてゐた僕なので、追憶と云っても以上の如く断片的で甚だ当を得てゐない文になり終った。


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