2003.05.12 up / 2009.08.18update)
藤城遺稿』テキスト訓読書き下し


昭和丁卯上梓

[序]

我が濃の文學有るや尚(ひさ)し。而して一顕一晦。昔、天長(年間)中、藤原高房有り。美濃介(みののかみ)を任 ぜらる。文武兼備にして水利を興し、妖賊を逐ふ。其の治績頗る西門豹(水利に功績あった魏の人)に類す。是れ濃人にあらずと雖も、事我州に係れば、則ち之 を濃人に屬すると雖も、亦た甚しくは不可なき也。偃戈(天下平定)以來、武欽[謠-言+系]、字を聖謨、號を梅龍なる者(武田梅龍)有り。或は高須の人と 云ひ、或は竹鼻の人と云ふ。余、唯だ其の「古方分量考序」一篇を見る。其の文、古奥而して詰屈。云ふ所の古文辭(学派)の者なり。(また)水晶山人有り。 姓を須藤。名を元[日+丙]。字を仲虎なる者。「四十六士論并評」及著述若種有りと聞く。 而して余未だ之を覩ざる也。(また)川合春川先生有り。名を孝衡、字は丈平。三禮を精究し、紀(州)藩に筮仕(ぜいし:初仕官)す。余、(以上の人々の) 各一小傳を作らんと欲す。而して未だ其の郷貫事跡、これを詳らかにするを得ず。方今、村瀬藤城先輩有り。東濃萬山中に崛起(くっき:抜群)す。少(わか) きより才名有り。既に長じて旱乾・水溢の事を幹理し、殆どこれの爲に股に[釐-里+毛](もう)なき(ほどに奔走する)に至るも顧みざる也。而して又た甚 だ詩文の著に富む。先師頼翁(頼山陽)嘗て余に語って曰く。「藤城の眼中、白紺(善悪)は分明なり。蓋し凡物に非ず」と。今果して然り。又た神田柳溪有 り。西濃において藤城に對壘す。又た江馬細香有り。大垣に在りて、詩を好み畫を嗜む。是れ女にして婦ならず。閨秀中の奇と謂ふべし。各皆、著述の傳ふるべ き者有り。而して其れ他邦に僑する者あり。曰く(梁川)星巖。曰く牧戇齋(とうさい:牧百峰)。皆京師に在り。亦た著作の千秋に足る有り。曰く後藤機(松 陰)。機は則ち云ふ所の檜より以下(とるに足らない)のみ。さきに藤城將に其の詩文鈔を刻さんとす。家岳(わが義父)篠翁(篠崎小竹)に(序文を)乞ふ。 未だ成らずして翁、仙す(逝去す)。遂に余をして承乏(役不足ながら承る)せしむ。蓋し亦た以って同國同門の誼みの故のみ。余また[檜]以下と雖も、藤城 先輩の著述の末に附せば、或は堙晦の患を免がれ、而して父母の邦を辱しめざるに庶幾(近)からんか。辭さずして之が序を作(な)す所以なり。嘉永壬子(5 年)季夏。浪華の柁木街僑居に書す。

                          美濃  後藤 機(ちかし)
 

【欄外】
致民云く原本「」の下に十字有り。恐らく衍(あやま)りなり、今削る。
 
 

我濃之有文學也尚矣。而一顕一晦焉。昔天長中。有藤原高房。任美濃介。文武兼備。興水利。逐妖賊。其 治績頗類西門豹。是雖非濃人。而事係我州。則雖屬之濃人。亦無甚不可也。偃戈以來。有武欽[謠-言+系]。字聖謨。號梅龍者。或云高須人。或云竹鼻人。余 唯見其古方分量考序一篇。其文古奥而詰屈。所云古文辭者。有水晶山人。姓須藤。名元[日+丙]。字仲虎者。聞有四十六士論并評。及著述若干種。而余未之覩 也。有川合春川先生。名孝衡。字丈平。精究三禮。筮仕紀藩。余欲各作一小傳。而未得其郷貫事跡之詳。方今有村瀬藤城先輩。崛起於東濃萬山中。自少有才名。 既長。幹理旱乾水溢之事。殆爲之至於股無[釐-里+毛]。不顧也。而又甚富詩文之著。先師頼翁嘗語余曰。藤城眼中白紺分明。蓋非凡物。今果然。又有神田柳 溪。對壘於藤城於西濃。又有江馬細香。在大垣。好詩嗜畫。是女而不婦。可謂閨秀中之奇乎矣。各皆有著述可傳者。而其僑他邦者。曰星巖。曰牧[トウ]齋。皆 在京師。亦有著作足千秋。曰後藤機。機則所云自檜以下耳。向者藤城將刻其詩文鈔。乞家岳篠翁。未成而翁仙矣。遂使余承乏。蓋亦以同國同門之誼故耳。余也雖 自[檜]以下。自附藤城先輩著述之末。或庶幾免堙晦之患。而不辱父母之邦矣乎。所以不辭而作之序也。嘉永壬子季夏。書於浪華之柁木街僑居。

                   美濃  後藤 機

【欄外】致民云。原本干下有十字。恐衍。今削。



[序]

昔時頼山陽旗幟を詞壇に樹つるや、江湖の才俊、爭って其の麾下に聚まり、後れざらんと欲する者の如し。是以って、 門下其の人に乏しからず。而して美濃の村瀬藤城、其の最も傑出したる者にして、山陽常に稱して凡物にあらざると爲す。著はす所亦た甚だ多し。而るに上梓せ る者、僅かに「二家對策」「宋詩合璧」のみ。其の詩文集の如きは則ち生前に之を刊せんと欲して果さずして沒す。後に姪(おい)雪峽、家塾を繼承す。而して 底稿亦た随って之に歸す。いくばくもなく雪峽下世す。其の二子、藍水・東山、亦た相ひ尋いで沒す。雪峽の[竹+造]室(しゅうしつ:手助け)林氏、遣筺を 守ると雖も、已に佚亡は什に六、七、而して遂に未だ之を刊行すること能はざる也。山陽門下の諸子、其の著述の世に傳はる者尠からず。獨り藤城の才學抜群に して身後の寂寞此くの如し。豈に歎くべきにあらざらんや。吾が友、林蘇陽は好學の士也。蘇陽は支家は即ち林氏の出づる所にして、頗る其の詩文の堙滅して傳 はらざるを惜む。乃ち自ら私貲を投じて諸(これ)を欹[厥+刀](きけつ:版木)に付す。一日、殘稿を攜へて來たり、余と謀り、併せて編次排印の事を嘱 す。予、之を檢するに、其の存する所の者は、「初稿」「白山遊稿」「己卯汗漫稿」三種と爲す。而して「白鴎社遊稿」「三樹柳陰稿」「庸齋稿」「東行稿」 「浴遊稿」「梅下前稿」「戊申遊稿」「梅下後稿」八種の如きは皆已に散佚せり。「二家對策」亦た僅かに其の上巻を初稿中に収め、而して下巻は已に之を逸 す。今にして之を刻せずんば、則ち其の殘餘を併せ、遂に之を全失することを恐る。是に於てか、蘇陽の舉の倍(ますます)嘉すべきを覺ゆる也。予輙ち其の請 ひに應じ、因って三稿を併せ改名して「藤城遺稿」と曰く。而して「二家對策」所載の“藤城詩文鈔序”を取り、其の首に弁す。且つ聊か刊行の由る所を記す。 以って之が序と爲すと云ふ。

     昭和丁卯(二年)菊月。柳城の僑居、清聞室に於て。  桑名、逵(おおじ)致民識す
 
 

昔時頼山陽樹旗幟于詞壇也。江湖才俊。爭聚其麾下。如欲不後者。是以。門下不乏其人。而美濃村瀬藤城 其最傑出者。山陽常稱爲非凡物。所著亦甚多。而上梓者僅二家對策宋詩合璧耳。如其詩文集則生前欲刊之。不果而沒。後姪雪峽繼承家塾。而底稿亦随歸之。無何 雪峽下世。其二子藍水東山亦相尋沒。雪峽[竹+造]室林氏雖守遣筺。已佚亡什六七。而遂未能刊行之也。山陽門下之諸子。其著述傳于世者不尠。獨藤城才學抜 群。而身後之寂寞如此。豈非可歎耶。吾友林蘇陽好學之士也。蘇陽支家。即林氏所出。頗惜其詩文堙滅不傳。乃自投私貲付諸欹[厥+?]。一日。攜殘稿來。謀 于余。併嘱編次排印之事。予檢之。其所存者。爲初稿白山遊稿己卯汗漫稿三種。而如白鴎社遊稿三樹柳陰稿庸齋稿東行稿浴遊稿梅下前稿戊申遊稿梅下後稿八種。 皆已散佚。二家對策亦僅収其上巻于初稿中。而下巻已逸之。今而不刻之。則恐併其殘餘而遂全失之。於是乎覺蘇陽之舉倍可嘉也。予輙應其請。因併三稿。改名曰 藤城遺稿。而取二家對策所載藤城詩文鈔序弁其首。且聊記刊行之所由。以爲之序云。

昭和丁卯菊月。於柳城僑居清聞室。  桑名逵致民識
 



凡例

一。先生の詩文の編を爲す者は「初稿」「白山遊稿」 「己卯汗漫稿」「白鴎社遊稿」「三樹柳陰稿」「庸齋稿」「東行稿」「浴遊稿」「梅下前稿」「戊申遊稿」「梅下後稿」是也。其の「三樹柳陰稿」の如きは、先 生丁亥(文政十年)の山 陽先生の家に寓するとき、三樹巷鴨告亭に於て爲(つく)る所なり。此れ宜しく白鴎社遊稿の 後に在るべし。而して今、校讐(校閲)先づ成る。故に之を「初稿」に次ぐとし、以って「白山遊稿」に先んず。「白山遊稿」必しも白山の詩に止まらず。偶(たまたま)巻首の字を取りて 名づく。爾後五年間、先生の家多故(多事)にして、詩文多無く、因って皆(ここに)附す。
一。「初稿」より「庸齋稿」に至るまで、皆山陽先生の評有り。之を上方に掲ぐ。「東行稿」以後は、則ち山陽先生下世せら れ、唯だ交遊の諸先生及び泰一(村瀬太乙)先生の評を得て掲げるのみ。
一。(佐藤)一齋、(菅)茶山兩先生、及び長野豐山、齊藤拙堂の諸先生の評語。多からずと雖も、一、二之を附す。
一。先生の詩文、年に随って趨向稍や變ず。後に或は之を視るに、間(まま)不 滿の意の有る者も、今皆之を収む。讀者をして履歴の一時の情状に係はる所を想ひ見せしむのみ。

                   小坂觀等識す

【欄外】
信侯(牧百峰)云ふ。先生の詩文、編目凡そ十一種作る。「初稿」云々は是なり。いかが。
又云ふ。「夏」の下、「遊京師」の三字を加へる。「所爲」は當に「所作」と改作すべし。
又云ふ。「」の下、抜字を加へる。「初稿」の 下、「下」字を加へる。
又云ふ。「以って「白山遊稿」に先んず」の一句。當に刪り去るべし。
信侯云ふ。「不滿の意」の上、「自」の字を加へる。
 
 

凡例
一。先生詩文爲編者。初稿白山遊稿己卯汗漫稿。白鴎社遊稿三樹柳陰稿庸齋稿東行稿浴遊稿梅下前稿戊申遊稿梅 下後稿是也。如其三樹柳陰稿。先生丁亥之夏。寓故山陽先生家於三樹巷鴨告亭所爲。此宜在白鴎社遊稿後。而今校讐先成。故次於之初稿。以先白山遊稿。白山 遊稿不必止白山詩。偶取巻首字名焉。爾後五年間先生家多故。詩文無多。因皆附焉。
一。從初稿至庸齋稿。皆有山陽先生評。掲之上方焉。東行稿以後。則山陽先生下世。唯得交遊諸先生及泰一先生 之評掲焉耳。
一。一齋茶山兩先生。及長野豐山齊藤拙堂諸先生評語。雖不多。而一二附之。
一。先生詩文。随年趨向稍變。後或視之。間有不滿意者。今皆収之。使讀者想見履歴所係。一時情状者已。

                   小坂觀等識

【欄外】
信侯云。作先生詩文編目凡十一種。初稿云々是也。何以。
又云。夏下。加遊京師三字。所爲。當改作所作。
又云。故下。加抜字。初稿下。加下字。
又云。以先白山遊稿一句。當刪去。
信侯云。不滿意上。加自字。
 



凡例追記

一。本書の収むる所は「初稿」「白山遊稿」「己卯汗漫稿」の三種のみ。今、古き「藤城遺稿」を更(あらた)むると 雖も、其の内部體例の如きは、則ち一に舊稿に從ひ之を改めず。
一。牧[トウ]齋の評語は、原本に小箋に貼りて以って之を書す。而して間(まま)邦語を用ふる者有り。今悉く之を改め、 他家と其の例を同うす。私意の加筆を欲せずと雖も、亦た已むを得ざるに出づ。
一。批圏する者、「初稿」「白山遊稿」即ち山陽、後藤松陰の兩家の施す所なり。原本、各々朱墨を用ふ。則ち一見之を分つ べし。今墨一つで併用して之を印す。因って山陽に於ては、「ヽ」を變じて「ヾ」と爲し、「○」を變じて「◎」と爲す。松陰の施す所は、舊に依って「ヽ」 「○」を用ふ。而して松陰之に「◎」を施す處有れば、改めて「●」を用ひ之を分つ。「己卯汗漫稿」は則ち悉く山陽の施す所に係る也。

                   逵致民識す

【本テキストにおいては下線をもって批点圏点に代ふる。山陽の場合 松 陰の場合
 
 

凡例追記
一。本書所収。初稿白山遊稿己卯汗漫稿三種耳。今雖更古藤城遺稿。如其内部體例。則一從舊稿而不改之。
一。牧[トウ]齋評語。原本貼小箋以書之。而間有用邦語者。今悉改之。與他家同其例。雖不欲私意加筆。亦出 不得已。
一。批圏者。初稿白山遊稿即山陽後藤松陰兩家所施也。原本各用朱墨。則可一見分之。今一併用墨印之。因於山 陽變 ヽ 爲 ヾ。變 ○ 爲 ◎。松陰所施。依舊用 ヽ ○。而松陰有施 ◎ 之處。改用 ● 分之。己卯汗漫稿則悉係山陽所施也。

                     逵致民識
 



目次

初稿

 詩古今體八十首 文雜體六篇

白山遊稿

 詩古今體七十六首 文雜體十八篇

己卯汗漫稿

 詩古今體四十首 文雜體十四篇
 

通計詩一百九十六首 文三十八篇
 



訓読は西部文雄著「藤城遺稿補注」(1999年私家版)に殆ど従った。 中嶋識

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