Back (2004.11.15 up / 2011.08.08 update)
藤城村瀬先生詩碑
村瀬藤城は曾遊の地であった兵庫県城崎温泉において病ひを得、嘉永6年(1853)に客死した。
彼がこの地を愛し、何度も訪れたのは、私淑した柴野栗山がまたこの地を愛したからであった。
今も藤城の石碑は、それと知られることもなく、敬愛する先師の碑の隣にひっそりと現存してゐる。
城崎町の東山公園に詩碑を訪ねた。写真は公園入口。公園といふより山道の趣き。
もと城崎駅付近にあったといふ石碑は、道路整備の際に移動し、現在はこの坂を上がった右手にある。
石碑の由来も説明もなければ、藤城が終焉の宿の在処も、文献が失はれた今となっては定かでない。
一欄金浪與秋澄
三躡高蹤酔裡凭
烟水匹如坡老事
平山堂上憶廬陵
一欄の金浪、秋とともに澄む
三躡の高蹤、酔裡に凭る
烟水、匹如たり(あたかも〜のやうだ)、
坡老(蘇軾)の事
平山堂上、廬陵(欧陽脩の故郷)を憶ふ
此吾六年前経過所題詩也 凡
吾毎遊斯地温泉必登楼者 追慕柴博士焉 不特
為風月也 今復至此主人為礱石以求冩前詩 嗚呼
吾老矣 猶欲有後[遊] 因併書此更来之證
嘉永癸丑七月 後学邨瀬褧
此れ吾、六年前に経過して題せし所の詩なり。
凡そ吾れ斯の地の温泉に遊ぶ毎に必ず楼に登るは 柴博士を追慕し、
特(ただ)に風月の為のみにあらざる也。今、復た此に至り、主人為に礱石(すずり)以て前詩を写さんことを求む。
嗚呼、吾れ老いたり。猶ほ後遊の有らんと欲す。因りて併せて此を書し、更来の証とす。
嘉永癸丑七月 後学邨瀬褧
近くの竹野海岸に建つもうひとつの碑。こちらも栗山の事跡を留めた門人の石碑の隣につつましく控へる。
いまでは石碑からの眺望を遮るやうにマリンスポーツの民宿が占拠し、栗山が激賞した海岸の風光は失はれた。
柴野栗山が門人とともにこの地を訪れ、風景を讚め、詩を賦して遊んだことが刻まれてある。
そして隣の藤城の碑には、亡き師の詩篇が長く記憶されんことを願ふ七絶を刻む。
この詩については、さきの柴野栗山顕彰碑に係り、来歴を記した藤城自筆の墨蹟が遺され、現在岐阜市歴史博物館に所蔵されてゐる。
それによると、もと栗山の碑には雨風をふせぐ一亭が設へてあったことが知られる。
雖免嶧山野火焚
風霜氷雪亦紛々
従今建石保無缺
安築一亭庇此文
城崎諸友以吾作意 為此遂謀脩一小亭 保護博士文字 今
吾録此附驥焉 事[ ][][ ] 不獨庇[]之書也 村瀬褧
嶧山(始皇帝の称徳碑)の野火に焚かるるを免るると雖も
風霜氷雪また紛々たり
今より石を建てて無欠を保ち
一亭を安築して此の文を庇はん
城崎の諸友、吾が作意を以て、此が為に遂に一小亭を脩し、(栗山)博士の文字を保護せんことを謀る。
今、吾此を録して驥(驥尾)に附すのみ。事は[][ ][]にして独り[ ]の書を庇ふのみならざる也。 村瀬褧